フリーページ

2016年04月16日
XML
テーマ: ニュース(100344)
カテゴリ: 社会問題
 国の交付金で運営されている国立大学は式典で国歌を斉唱するべきだという馳文科相の発言を、法政大学教授の山口二郎氏は、3月27日の東京新聞コラムで次のように批判している;




 恥ずかしいのはどちらだ。 金をやっているのだから言うことを聞けというのは、何とも品性に欠ける発想である。 大学の交付金は文科相の私財ではない。国民の税金を使わせてもらっていることへの感謝は、もっと実質的な研究、教育の成果によって具体化すればよい。大学とは、独立した研究者がものを考え、知的に自立した人間を育てる場である。

反抗と刷新は表裏一体である。旧弊に反旗を翻すのは、若い世代の役割である。 明治時代後半、維新を知る世代はいなくなり、若者は学校制度の中で立身出世のための学問に専念するようになった。

 この時、ジャーナリストの三宅雪嶺は「独立心を憎むの官吏が教育を監督し、独立心を憎むの教員が授業を担当していては」、独立心を持つ人間は育たないと慨嘆していた。そして、当時の教育が「有識有能の奴隷精神」を涵養(かんよう)すると批判した。

 せっかく18歳選挙権を実現しても、高校生の政治活動を届け出なければならないというお達しを促す県もあると報じられている。現代の教育行政を担当する官吏も、よほど奴隷精神が好きなのだろう。
(法政大教授)


2016年3月27日 東京新聞朝刊 11版 29ページ「本音のコラム-奴隷精神」から引用

 明治維新から何十年も経って、維新を体験していない世代が増えた頃、三宅雪嶺が批判したような教育体制で育った当時の若者は、みな体制順応型で「お上は批判するものではない」というような者ばかりだったようです。しかし、もし昔から日本の若者がそういう考えをもつのが普通だったとすれば、明治維新などは実現不可能だったわけで、そういう観点から、三宅雪嶺は当時の教育体制を批判したものと考えられます。その結果、三宅の批判の甲斐も無く体制順応型の国民が増えたために、その後の軍部の暴走を止めることができず、1945年8月15日の結末を迎えることになってしまったというわけです。したがって、式典でどのような歌をうたうかうたわないか、そんなことはそれぞれの大学の自主性に任せるものであって、文部科学大臣に「歌え」と言われて唯々諾々と歌い出すようになってしまえば、この先ろくなことにはならないということのようです。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年04月16日 17時24分06秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

佐原

佐原

コメント新着

捨てハン @ 潰れそうな新聞なら東京、朝日、毎日が挙がるかなぁ >全国紙は世論のありかを明らかにし、国…

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: