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体罰批判の声は高く、体罰が発生する「土壌」についての分析もなされている。たとえば、 スポーツ強豪校の勝利至上主義や、体罰を受けた側が振るう側に回る暴力の連鎖、内面の成長より表面的な規律正しさを重視する教育 など、重要な指摘は多い。
しかし、そうした「正しい批判」にもかかわらず、体罰事件は繰り返される。背景の一つに、体罰批判を「タテマエ」としては受け入れつつも、 「ホンネ」の部分ではそれを容認する人びとの態度 があるように思う。
桜宮高校の事件を受けて産経新聞社などが実施した体罰に関する世論調査(13年)では「場合によっては仕方ない」が57・9%で「一切認めるべきではない」の40・3%を上回った。ここでは、体罰の完全禁止を「現実的ではない」と見なす生活者の視点が示されている。
ただ、人びとが何を「体罰」だと思っているかは、さまざまでありうる。「場合によっては仕方ない」と容認する人も、けがや死亡につながるような体罰まで肯定するわけではないだろう。体罰容認派の念頭には、次のような現場主義的な問いがあるのかもしれない。「暴力を振るう生徒を押さえつけて制止させる場合も体罰になるのか」「宿題を忘れて正座させるのもだめなのか」
実は、これには既に答えがある。文部科学省は認められる「懲戒」と禁止されるべき「体罰」の境界を、参考事例付きで解説しているのだ (学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例)。 それによれば、暴力制止のケースは「正当行為」として認められる(=体罰ではない)が、正座は生徒が苦痛を訴えた後も続けさせれば体罰になる。
体罰を肯定・否定する以前に、「何が体罰にあたるか」を知識として共有しておく必要がある。 すべての教師・指導者は、非常勤やボランティアで指導に携わる者も含めて「教育現場で何が許されないのか」を研修によって学ぶこと が徹底されるべきだろう。
とはいえ現実には「何が体罰か」の境界は常に曖昧でありうる。曖昧さを前提にして、その都度対応するしかない。だから、研修以上に重要なのは、教師・親が「体罰」に関して持っている個々の考えを率直に話し合える関係・場をつくることだ。
職員会議やPTAで、私たちは「体罰」について語り合えるだろうか? 「ホンネ」の意見を言いつつ信頼関係を維持・形成していけるだろうか? 「体罰は悪い」。それがいかに正しくとも、 正論を繰り返すだけでは「ホンネ」としての体罰容認論は残り続ける。
過半数が体罰を受容するこの社会 で、大人である私たちが変わっていくために、異なる意見を持つ人との対話を通じて自らを見つめなおす機会が求められる。
(関西学院大学准教授)
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