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2022年07月02日
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テーマ: ニュース(100336)
カテゴリ: ニュース
元小学校教員で現在は「沖縄戦」の歴史を研究している牛島貞満(68)氏は、最近、自民・公明・維新の議員が主張する「軍備拡大」について、6月19日の「しんぶん赤旗」で、次のよう批判している;



<本吉真希記者>


 武力による解決は、再び沖縄を戦場にする恐れがあります。ウクライナへのロシア軍の侵略から日本の軍事力拡大や核兵器による抑止力をと声高に叫ぶ人もいます。

 牛島さんは 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓 に基づき「国同士の意見の相違は対話で解決すべきです」と訴えます。

 「 軍備を拡大して危うい戦争への道に進むのか、それとも外交や経済的結びつきを強め共存し合う努力をするのか。 ウクライナの悲劇を日本や東アジアに持ち込まないために、いま沖縄戦から学び、真剣に考えるときです」
<4面につづく>


 沖縄は戦時中、国体護持(天皇制存続)と本土決戦の時間稼ぎのための戦場にされました。元小学校教員の牛島貞満さんは、2004年ごろから「牛島満と沖縄戦」をテーマに授業を始め、いまは講演活動をしています。

 授業では当時24歳の安里要江(あさと・としえ)さんの証言を紹介します。大本営は1944年3月、沖縄を中心とした南西諸島に第32軍を創設し、主に中国戦線から部隊を移駐しました。安里さんは「沖縄を守りに来たと思った」-。しかし、それは幻想でした。

 米軍は45年3月26日に慶良間(けらま)諸島に、4月1日には本島に上陸。安里さんは生後6ヵ月だった娘の和子さんをおぶい、本島中部から家族ら20人で南部へ逃げました。米軍の容赦ない艦砲射撃に次々と家族の命が奪われました。安里さんは避難できる壕(ごう)を見つけて、日本兵に願い出ました。

 「この子たちだけでもいいから、防空壕の中に避難させてくださいませんか」

 兵士は安里さんの話を遮り「ばかやろう! 君たちがこんなところをうろうろするから戦(いくさ)はここまで追い込まれているんだ。出て行け、出て行け」と追い払いました。

 やっと入れた轟(とどろき)の壕では、日本兵に「子どもを泣かすな」と銃剣で脅されました。「それが一番の恐ろしさでした」。栄養不足で母乳が出なくなり、和子さんは安里さんの手の中で息を引き取りました。

 その後、安里さんたちは米軍の捕虜に。一緒に逃げた20人のうち11人が沖縄戦で命を落としました。

◆小学生が調査

 牛島さんは、祖父が命じた第32軍の「南部撤退」が多大な住民犠牲を招いたと考えています。撤退の通り道にある長嶺小学校(豊見城市)で「牛島満と沖縄戦」の授業をしてきました。6年生が2004年、学区域の犠牲者を月別に調べました。撤退開始(5月27日)直後の6月に、犠牲者全体の約70%(218人)が集中していました。

 同小学校の授業では祖父母の沖縄戦体験を聞き取ったAさんの発表がありました。

 「当時おばあちゃんは10歳で(家族が砲弾で次々亡くなる中)1歳の弟をおんぶしながら逃げ回り(大きな木の下に)隠れました。そして、おんぶしていた弟を背中から下ろしてみると、顔がなくなっていて、下半身だけがあったそうです」

 牛島さんは砲弾の破片を手に説明します。

 「もし砲弾が30センチ前方を飛んでいたら、当時10歳のおばあさんも弟と一緒に即死でした。その場合、おばあさんの子も孫のAさんもこの世に存在しません。人が住んでいるところが戦場になるということは、こういうことなのです。生きるか死ぬかは紙一重です」

◆無意味な突撃

 牛島司令官は6月19日、最南端の摩文仁(糸満市)の司令部壕で「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と命令し、3日後に自決しました。「命令を受けた南部の日本軍兵士たちは数百人単位で米軍に斬り込むなど、なくさずに済んだ命を落としていきました。戦闘は6月23日には終わらなかったのです」

 捕虜になることを禁じた「戦陣訓」(41年)と「最後まで敢闘し」の牛島司令官の命令によって無意味な突撃が頻発したのでした。

◆首里司令部壕の公開を

 沖縄の日本兵の戦闘は天皇が終戦を伝えた8月15日以降も続きました。9月7日、沖縄の日本軍は降伏調印し、沖縄戦は終結。戦死者は日米で20万人を超え、うち沖縄県民は12万人超に上りました。

 皇民化教育で「悠久の大義に生きる」=天皇のために死ぬことが徹底されました。牛島さんは「正反対の考え方が『命どぅ宝』(命こそ宝)だ」と強調します。

「軍隊は住民を守らない」は沖縄の住民が身をもって得た教訓です。 それは「軍事作戦と機密を優先する軍隊の普遍的性質かもしれない」と牛島さん。

 「かつて日本は、いまと同様に声高の論議に乗せられて、中国大陸に軍を派遣。欧米列強の経済封鎖に対抗するため、米英に勝ち目のない戦争を仕掛けました。その結果、大きな犠牲と惨禍と沖縄に地上戦をもたらしました。こうした事実と沖縄戦の実態を発信することは、アジア諸国との平和と共存につながると考えます」

「ドイツがヨーロッパの政治の中心にいるのは、ナチスの戦争犯罪を反省し、過ちを後世に伝える努力をし続けているからです」

 首里城(那覇市)の地下には、司令官らが南部撤退を議論し決定した全長約1キロの司令部壕が埋もれています。牛島さんは戦争と平和を学ぶ重要な場として保存・公開を提案します。「過ちを後世に伝える責任は戦後世代の私たちにあります」


2022年6月19日 「しんぶん赤旗」 日曜版 1,4ページ 「人の暮らす所が戦場に」から引用

 ドイツがナチスの戦争犯罪を反省し、過ちを後世に伝える努力をし続けているのは立派です。それに比べて日本では十分な反省が行なわれなったのは、GHQのトップであったマッカーサーが「天皇を処刑すると、一般国民の反感を買うことになり、戦後処理に余分な経費と時間を費やす危険がある」と判断して、天皇を免責したためと考えられます。天皇を免責したということは、対中国侵略戦争や太平洋戦争を遂行した軍以外の政府の要職にあったブレーンが、戦後少しの間「公職追放」の期間があったとは言え、ほどなく戦後の政治に復活し、岸信介から宮沢喜一まで、かつて満州国を支えた人材が戦後の日本を背負って立っていたわけで、これでは「侵略戦争の反省」が出来なかったのは無理もない話でした。これらの人々が世を去った今こそ、明治維新以来の「侵略の70数年」を反省する好機だと思います。





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最終更新日  2022年07月02日 01時00分07秒


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