ウクライナの栄光は滅びず 自由も然り
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ!
(ウクライナ国歌『ウクライナの栄光は滅びず』・訳詞より)
【無条件降伏の日】と歴史認識(概観?)
日本は――西側の国か、それとも東側の国か?
地球儀を見れば明らかに、日本はもっとも東側にある国だ。
つまり日本という国は、東側の国となる。
だからどうした、と思いつつ。
20数年前、札幌である後期高齢者の方(男性)と、この方の庭先で約2時間、立ち話でなく座り話をしたことがあった。
『えっ、占守島の守備隊の戦車隊員だったんですか?』
訪問先の隣家の主人が、庭から私の方を観察していたので、ちょっと気になって挨拶した。
『ここに座れよ』煙草を悠然と吸いながら、私に命じた。面白い人物と直感で思った私は、煙草を取り出し庭石に座った。
その日が8月15日の【終戦記念日】だった。
私が先に言った。
『今日は終戦記念日ですね』
後期高齢者の彼が答えた。
『終戦記念日? 無条件降伏の日だろうに!』
やはり面白い人物だった。私が訊いた。
『敗戦の時はどこにいたのです?』
老人がニヤッとして答えた。
『千島列島の東端。占守島で戦車に乗っていたんだ』
私の好奇心が血圧とともにぐいっと高まり、質問の嵐を投げた。
そして、
『よくご無事で――』と言うと、
『浜にソ連軍が上陸し戦闘となっていると――奥にいた戦車隊が出動した。だがね、私の戦車が沼地に嵌り、動けなくなったのだよ。6時間後かな脱出したのは。浜に行ったら、戦闘は終わっていてね。皆、ソ連兵に降伏していたのさ』と老人が言った。
その時、家から奥様が出て来て、
『あなた電話よ。○○さんから』と。
『じゃあな』と言って、老人は急ぎ家に。
消化不良だったが、否、これからが肝心の質問があるんだ、と思ったが、仕方ないと諦め庭から出た私。また話を聞きに来るぞ。
結局、この老人との再会はなかった。‶面白い"は、人物像もさることながら、老人の‶千島列島東端の
占守島
戦争体験″に変わっていた。この十数年後、小説のネタ取材に訪問したが、老人は いなかった
。残念! 時すでに遅し。
老人の御霊に黙祷の祈り。
【
占守島の戦い
】
玉音放送から3日後、ソ連が千島列島
占守島に攻め込んだ。
ソ連のスターリン。北海道半分(留萌~釧路ライン)の占領を目論んだ。
その端緒となったのが、
占守島の戦いだった。18日~21日の間。
(続く)
【追記】
靖国神社の存在と異議。
戦後77年経った今、明治政府が「官軍犠牲者」を祀る軍の管理する国営神社として造った「靖国神社」。大日本帝国の侵略戦争の歴史とともに「終戦の日」77回目の今日も、靖国参拝する反日カルト教団と手を組んでいた自民党議員ら。
もういい加減に「英霊」を開放したら、と言いたい。新生日本国憲法下の民主主義国家となった日本国なんだから。
国立戦没者追悼墓苑とし、すべての戦没犠牲者名を刻んだ碑(沖縄の平和の礎のように。米国のように)をつくれ!
宗教の自由、信仰の自由、これを無視するな。
せめて、戦没者遺族に選択させたら――先祖代々のお墓に入れ、祀るか否かを!
ん? 納骨? 遺骨が無いじゃないか!
私事:卒業した大学構内にツタが絡まっていないチャペルがあった。2階の壁に、学徒出陣で戦没者となった学生たちの姓名が記されていた。ずらっと。多分、今日も牧師(神学部教授たち)が悔いた追悼の祈りをしたことだろう。
【追記2】
「旧統一教会」「勝共連合」と蜜月関係の自民党議員たち。
はっきり言って、彼らは《売国奴》と言えそう。言えるのか――! 言える!