CAPTAINの航海日記

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2007.02.15
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テーマ: たわごと(26801)
カテゴリ: 鉄道忌避伝説
昔の地図を見ると、福島県中通りから会津若松に至るメインルートは、白河から須賀川市西部や郡山市湖南町を経由する現在の国道294号線に近いルートと、本宮から郡山市熱海町に出てそこから西は現在の国道49号線にほぼ該当するルートの二つあったんですね。
ところが、明治時代に敷かれた鉄道は、郡山から磐梯熱海に出るルート。当時福島県最大の都市だった若松と県庁所在地の福島とを結ぶルートの結節点となったことが、後の郡山の発展に寄与した部分は少なくなかったでしょう。
中通りから会津若松までの地形を見ると、鉄道が敷けそうなルートは熱海から中山峠を越えて猪苗代に出、猪苗代からは日橋川に沿って下り北側から若松に入る方法しかないことが、何となく理解できます。また、磐越西線敷設の所期の目的のひとつが信越本線に続く東京~新潟間の連絡線だったことを考えると、東京方面からだとスイッチバックする線形になってしまう本宮よりもスンナリ出入りできる郡山の方に地の利があります。
ただ、謎なのは、若松から西のルート。どうして会津若松でスイッチバックするルートになってしまったのでしょうか? 若松の真北にある喜多方をどうしても通したかった(誘致運動があった)が故のスイッチバックという話もありますが、只見線が若松の街の西端を通りぬけて会津高田~会津坂下と通っていることを考えると、最初からそのルートで行けたんじゃないかと思うんですよね。でもって、坂下からは更に真北に進んで山都で現在の磐越西線と合流すれば、特段きつい勾配もなさそうだなと思うんですけどね。
でも、そのルートだと、喜多方経由に比べて距離が長すぎるか(苦笑)直通運転に支障を来すスイッチバックという犠牲は払っても距離を短くするのが得策と、当時の鉄道関係者は考えたのでしょうか? いずれにせよ、それなりの幹線鉄道にしてはまどろっこしい線形になってしまってますね。





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Last updated  2007.02.16 01:02:37
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