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書棚を整理していたらこんな本が・・・。 亡き父のカタミ? 昭和38年の本だった。 わたしが4歳の頃、父はこの本を手に取るような心境だったのだろうか・・・? 今となってはどんな想像もできるんだけど、わたしがいま「感性論哲学」を学び、娘二人は大学の哲学科を出たことは何かの無関係のような気がしない。 父は空の上でにんまりしているのかもしれない。
January 31, 2013
「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 誰かに何かを指摘されたとき、「あなたには言われたくない!」と言いたくなることがある。(面と向かって言うかどうかは別として)そう思ったそのとき、自分に突きつけられた問題から逃げた瞬間だと思う。「あなたに言われたくない!」と思ってしまったら、もう自分の問題として捉えようとしていない。誰に言われようと、どんな言い方をされようと、相手に言う資格があるかないかではなく、問題は言われる自分が言われるような何かを持っているということだと思う。相手のせいにしても、何も変わらない。言われたことに対して、何をどうするか?それだけに集中することだと思う。絶対変わる。必ず結果が付いてくる。そのままにしたら何も変わらないどころか、自信がどんどんなくなっていく。できるかできないかではなく、やるかどうか!「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 松下幸之助
May 11, 2011
誰かに何かを指摘されたとき、「あなたには言われたくない!」と言いたくなることがある。(面と向かって言うかどうかは別として)そう思ったそのとき、自分に突きつけられた問題から逃げた瞬間だと思う。あなたに言われたくない!と言う名の下に、自分の問題として捉えようとしていない。誰に言われようと、どんな言い方をされようと、相手に言う資格があるかないかではなく、問題は言われる自分が言われるような何かを持っているということだと思う。相手のせいにしても、何も変わらない。「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 松下幸之助
April 21, 2010
今日も明日も我慢じゃ、明後日は晴れない。今、笑えるから、今日の心が晴れる。いまの心が最優先。
September 25, 2009
懐かしい映画音楽を久しぶりに耳にした。ソフィアローレンとマルチェロマストロヤンニの哀しく切ない愛の物語。「ひまわり」高校時代に授業をサボって観にいった。帰ったら、、授業をサボったことがバレていて…母に大目玉。高校生ながらおとなの世界を垣間見た気がしていた。愛する意味もよくわからずに、映画の主人公に感情移入して涙した。そして、本気の恋にもあこがれた。心の奥まで響く音楽と最後のシーンの画面いっぱいに広がるひまわりが咲き乱れる様子が今も目に焼きついている。先日、とある方から聴いた言葉がある。“本気で出逢う”これは相手の根本的なところを受容しあう関係を言うと聞いた。わたしは本気でどれだけ出逢えているのだろうか。例えば…夫に対して、彼の根本的なところなのに、わたしが気に入らないからって不満としてぶつけては居なかっただろうか。もしかしたら、何かの形で吐き出しているんじゃないだろうか。本気で出逢う。そんなことを思いながら、この映画の音楽を聴いていた。
September 25, 2009
レッドクリフを観て来た。思えば、レッドクリフ Part1≪キャッチコピーは「三国志の完全映画化」「信じる心、残っているか」≫これでトニーレオンに魅せられて、それからトニーレオンの出演作を片っ端から観た。そして今回待ちに待ったPart2の公開西暦208年。「レッドクリフ Part 2 ―未来への最終決戦―」 - 赤壁 -YouTube 5分でわかる「レッドクリフ」 赤壁 redcliff 三国志 映画の中でジョン・ウー監督からのメッセージがあった。それは、レッドクリフのテーマは『勇気』『友情』そして『愛』勇気があればどんな困難にも立ち向かえ、さらに友情が加われば不可能も可能になる。『あなたは孤独じゃない』が伝えたい。この映画自体は戦いの映画なので、力と力のぶつかり合いであり、そこにはプライドや、欲、意地や、見栄や、虚栄が渦巻き、美しい部分ばかりではないが、それも隠し立てのないところで、人の心の中に確実にあるモノだろう。良くも悪くも、時代が違っても、国が違っても、言葉が違っても、人と人の求めるものに何の違いもない。そんな気になる。何千年の昔から、人間は何も変わっていないのか...?美しい部分だけでは生きられない。どろどろの部分だけでも生きられない。人としての業?そう思うと人生って、その変わりのない"人としての業"を背負いて、人生の山あり谷ありの道を肉体と言う限りある乗り物に乗ってどう生き抜くということなのだろうか。
May 2, 2009
昨夜遅く娘が交通事故に遭った。娘は東京、私たちは京都。ドラえもんでもいたら別だけど、スグにいける距離ではない。増して夜の時間だったから。娘が交通事故に遭遇なんて・・・、夢にも思っていなかったが、よくよく思えば毎日あちこちで交通事故が起きている現実を見れば、ありえない話ではない。事故の状況は、本人はまったく覚えていないそうなのだが、警察によると「信号のない交差点を横断中にタクシーとぶつかってボンネットに乗って振り落とされた」らしい。それがたんこぶ1個で済んだのは奇跡的なことと言えるのかもしれない。大事に至らなかったことで、思わず天に向けて手を合わせた。そして、生かされている。生かしていただいている。そう感じる瞬間でもあった。今日を無事過ごせるのもある意味では、見えるもの見えないものすべてがうまくかみ合って成り立っていると言えるのだろう。何事もない今日は、当たり前じゃない。そんなことを思えるのは、哀しいかなこんなことがあったときくらい。なので、書き留めておこうと思う。大きなトラブルも、何事もなく過ごせるのは当たり前ではなく、すべてがうまく整った日であり、これはなんとありがたいことだろうか。ふと心の中に浮かんだ言葉があった。謙虚と言う言葉。意味を調べてみたら、「ありのままを見る素直な心」とあった。控えめとか、でしゃばらないと言った意味合いが強い言葉のように捉えがちだと思っていたのは私だけか・・・。今回、切に切に感じたのは、自分のできる範囲を超えたとき、自分のできることの限界を感じたとき、神に祈る、天に祈る想いになる。そして、ただただ祈るのみしかないと思い知る。そこに神の領域と人の領域のラインがあり、いとも簡単にそのラインを超える出来事は起こる。「人は特別ではない。」大自然の営みの中では、人も木も花も草もかわらないひとつの生命でしかないことを思い知る。それを知ると自ずと謙虚にもなれる。何かが起こるたびに自分が何も出来ない、何も知らないということに出逢う気がしている。それは悲観的な意味ではなく、自分を知るという意味でとても意義のあることだと思っている。
March 10, 2009
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