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2012.01.26
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カテゴリ: 医療_糖尿病
私にとって、自分の病気とは、「初対面の人には普通は言わないような、家庭の事情」みたいな位置づけにある。同病の人が皆そういうわけではないと思うのだが、少なくとも私にとってはそうだ。

たとえば、初対面の人には、普通、
「いや、実はダンナに浮気されて離婚訴訟中なんです」
というようなことは言わないと思う。

そのこと自体は、誰にだって起こりえることで、何も恥ずべきことではない。
でも、やっぱり初対面の人に、さらっと言うことではないと思うし、大勢の人の集まりでわいわいがやがや賑やかに楽しくやっているところに話すことでもないと思う。そういう場で、いきなり「で、訴訟どうなってんの」とは聞かれたくないし、どちらかといえば、気心知れた何人かの友達と、じっくり話せるような集まりで、頃合を見計らって、しかも、できればこちらから話を切り出すまでは知らぬ振りしておいてほしいな、という類いのものである。

これは、ひとつには、現在も進行中の問題(病気は大きく進行はしていないが)だということがあると思う。すでに治ってしまった病気なら、過去のこととしてもっと距離を置いて話せるのかもしれないが。それに、病気のことを告白するとなると、ある程度これまでの経過を話すことになるのだが、この約30年の間にはいろいろなことがあり、話しているうちにその当時の気持ちが蘇って来て、冷静に話し続けていられる自信がない。

また、人に会っている時は十中八九、飲食を伴っている時であり、楽しい食のひとときに、食事の管理(制限)に直結する自分の病気のことを話すのは、その楽しさに水をさすようなもので非常に気が引ける。

さらには、糖尿病だと言うことによって、周りの反応が一様でなく、それに個々に対応するのが正直「気疲れする」ということもある。大学生になったばかりの数年間は、初めて親の庇護から離れて自分の病気と初めて一人で向き合う形になり、周囲に自分の病気を分かってもらいたいと言う気負いと周囲の反応とのあまりのギャップに打ちひしがれる日々だった。でも、考えてみればそれは当然だ。10代後半から20代前半なんて、病気なんかとは一番無縁の時期、一番無理が利く時期なのだから。40代になった今こそ、親や義理の親が糖尿病になったとか、自分が糖尿病になったとか、そんなことで「えー、甘いもん食べ過ぎたんじゃないのー」みたいな無神経な反応はめっきり減ったが、それでも、では本当に私が何を食べるべきなのかを簡単に説明するのは難しいし、理解してもらうのも難しい。インスリン注射を打つようになってからは食べる量によってインスリンの量を増減できるようになったので食の付き合いのストレスは大幅に減ったが、でも、相手が気を遣って用意してくれたものが、実はほとんど食べられなかった、ということになったりすると、相手が気を遣ってくれたばかりに申し訳なく、それなら知らないでいてくれた方がいいかな、と思ったりするのである。あーめんどくさ。

そんなわけで、私はずっと、よっぽどのことがない限り、自分の病気のことを言わないで過ごしていた。

それがどうしてカミングアウトする気になったか。

大きなきっかけは、ルナを妊娠したことだった。

糖尿病患者は妊娠中、いつもより厳しい血糖値のコントロールをしなければならない。これはあくまで感覚による数字だが、普段が75%程度の管理レベルで良いとすると、限りなく100%に、つまり、糖尿病でない人と同じぐらいに近づけなければならない。

これはかなりつらい。夏の部活の強化合宿を、10ヶ月間ほどずっと毎日続けるようなものである。

初めての妊娠、初めての厳しい血糖値管理、つわりの時期は、食べ物の量に合わせてインスリン注射を打ったはいいが、結局気持ち悪くて全部食べられず、つじつまを合わせるために糖分のあるジュースを慌てて飲んだりと、まさに毎日が血糖値の上下に支配されているような気分だった。つわりの時期が終わって、皆に妊娠が分かったら分かったで、周囲の祝福ムードとのギャップが次第に苦痛になって来た。要するに自分に余裕がなかったのである。「妊娠中は食欲が出てたくさん食べたくなっちゃうよねー」と言う、何の悪気もない言葉にもついていけず、逆に非常に傷ついたりした。

そこで、いっそのこと、「自分は病気を持ちながらの妊娠で、本当に大変なんです」ということを世間一般に公表してしまった方が気持ち的に楽になれるのではないかと思ったのである。容疑者が次第に追い詰められ、「隠しとおせなくなって」自供に至ったみたいな感じである(ほんとか)。

結果的には、自分が相手に実際に会った時に告白するというステップが、ブログの記事をあらかじめ読んでもらうことによって省略されたことが大きな前進だった。それでも先ほど話したように、心の痛みを多少伴うものでもあって、達観したというわけではまったくないのだが、黙ってそのままにしているより、話せることは話した方が、少しでも理解につながると思って、話したい気持ちや状況になった時は話すようにしている。





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最終更新日  2012.01.27 10:14:27


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