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<日本で一番長い歌> 団旗の思い出はたくさんあります。本来旗手隊長が持つべき団旗ですが、顔がふけているのと、体が大きいという理由で特別に旗を持つことになりました。 さて、箱根駅伝と同じように、大学の応援団が一堂に会するのが東日本学生相撲大会です。国技館の二階席は各大学の応援団でびっしりと埋まります。いっせいに大団旗が揚がった雄姿は、まだ目に焼きついています。 団旗に揚げ方には色々な作法があります。学歌斉唱の後フレフレ農大と言う時、団旗を地面と水平になるまで下げます。前にもいった通り、団旗は全身を使って揚げ下げします。団旗を下げる時は息が出来ません。団旗の棒が腹に食い込み息を吸うことが出来ないのです。 もう一つ国家斉唱の時も団旗を下げる事になっています。 いよいよ相撲大会が始まり、国家斉唱「君が代」の唄い出しです。各大学の団旗がいっせいに下がります。やはりうちの大学の旗は特別大きい様です。そして厚い。二階から垂らした旗は一階のフロアーにとどきます。 その時です。突然今まで感じたことの無い重みを旗先に感じます。「グァ~!せ、せんぱい、誰か引っ張ってます.......!」「な、なに~」先輩が覗き込むと、なんと子供が旗につる下がって遊んでいます。先輩は顔色を変えて一階まで走ります。........その間息も出来ないで、まるでマグロの一本釣り状態です。 そしてようやく異常な重さはなくなりました。................... 国家斉唱が終わり、ゆっくりと団旗を揚げます。その頃にはすでに意識朦朧。旗を垂直に立て大きく深呼吸をし、無事だった事に感謝しました。 私の中では、「君が代」は日本で一番長い歌です。
February 28, 2006
<あこがれの大団旗> 応援団と言えば大きな旗がトレードマークです。団旗(だんき)と言いますが,小、中、大と種類があります。特に大団旗は各大学応援団のシンボルであり、心のより所でもあります。 1年生は、旗はおろか箱にも触れません。基本的に2年生が管理し、組み立てから分解、箱もピカピカに磨きます。ジュラルミンのケースは指の跡一つも残さないように白手袋をはめ、なめるように磨きこみます。 団旗の棒もただものではありません。木製ですが、すでに日本ではこの木は手に入らないとの事で、万が一折れようものなら一大事です。槍先まで付けると7.5m。物干し竿を片方から持ち上げるのも大変なのに、一握りもある黒塗りの木の棒を持つのだからそれだけでも大変です。ましてやそれに旗が付きます。 旗の大きさは12畳半。6畳一間で生活しているのに、倍の大きさの旗を持つのですから、気持ちがいいと言えば気持ちがいいです。 大団旗を揚げる事が出来るのは、旗手隊長です。普通は4年生の副団長が旗手隊長を兼務します。「タイカク」と呼ばれる体を包むように装着する、厚い皮で出来た団旗をはめこむベルトをつけ、体全体を使って旗を揚げます。 ですから旗手隊長は半端な体力と根性では勤まりません。体重も85キロ以上、いや90キロ以上は必要かもしれません。1度揚げれば、よほどの事が無い限り旗を降ろす事はありません。それが応援団の心意気であり、大学の名誉でもあります。 大団旗を揚げる時は、旗手の両側に2人の団員が補佐につきます。不測の事態にに備える事と、団旗を守る為です。
February 27, 2006
<悲しきLPレコード> 下宿から少し離れた所に、米や雑貨、レコードなどを売る店がありました。商品にはポイントが付いていて、貯まると好きな物と交換出来ます。半年かかり、やっとの思いでポイントを集め、念願の「中島みゆき」のLPレコード手に入れました。 割らないように大切に抱えて帰り、レコードプレイヤーにかけます。「時代」「あざみじょうのララバイ」「化粧」等々。中島みゆきの世界が広がります。「化粧」などは、後に「桜田淳子」なども唄いましたが、やはり、「せつなさ」と言う点では「みゆき」でしょう。 当時、会社勤めのOLの間で、夜、数人で集まり灯りを消して、酒を飲みながら中島みゆきの「化粧」を聞き、泣き明かすパーティーがあると聞きました。....? 考えて見れば、この頃好んで聞いた、中島みゆき、井上揚水、加藤登紀子などは今でも活躍し、頂点を維持し続けている事は、私にとってとても嬉しい事です。 さて、その夜は遅くまでLPレコードを聞き、夜更かしをしてしまい、次の日私は朝寝坊。あわてて飛び起き大学へ。..........いつもだったらしっかりカーテンを閉めていくのですが。 夕方帰った私は、自分の目を疑いました。窓際に置かれたレコードプレイヤーの上には、無残に姿を変えた、大切な大切な中島みゆきのLPがあります。 1日中お日様の光を浴びたのでしょうか、ベロベロに波打っています。おそるおそるプレイヤーにのせ、針をおとします。.............聞こえてくるのは、それはそれは悲しい歌。もともとビブラートのキツイ中島みゆきの声が、さらに波打っています。 「ばかだね~ばかだね~ばかのくせにああ~......」こんなに悲しい歌を聴いたのは初めてです。
February 26, 2006
今日は朝から法事でした。 4時過ぎに帰り、続いてお通夜でした。 1日黒服でした。なぜこんなに続くのでしょうか? ...............................................<今日の良い話> 長男がエジプト旅行から無事帰ってきました。
February 25, 2006
<応援団の不思議な成人式> 応援団に入ってから色々な体験をしましたが、印象的だったのは、成人式の伝統行事です。残念ながらと言うか、おかげさまでと言うか、私の当たりの成人式にはこの行事は廃止されました。最後にこの行事を体験した1年生となりました。 それは今から30年も前、寒い寒い1月14日。翌日成人式を迎える先輩達は朝からそわそわ。今夜行なわれる成人式の恒例行事の為でした。 何も知らない私は、不安と期待でドキドキ。ところが突然先輩から「今から急いでフンドシを用意しろ!」と言う指示です。まごまごしているとバスタオルにひもを付ければ良いとの事で、一生懸命仮のフンドシを作りました。「フンドシを付けて、体操着で夜8時集合」.......暗くなるのを待ちます。さて、先輩の指示を聞いてびっくり。目が点になりました。.......「今から明治神宮まで走る。午前0時に参拝」........何時にスタートしたか覚えていませんが、我々は渋谷の明治神宮をめざして世田谷の桜ヶ丘を出発しました。 夜もふけていますし、世田谷通りもあまり混んではいません。渋谷駅まではバスで行く事はありましたが、それでもかなり時間がかかります。それを寒い夜中に走るのですから驚きです。4年の幹部は車に乗って後をついてきます。ノロノロ走ると竹刀でケツを叩かれます。それよりきついのは、おめでたい行事と言う事で酒を飲まされます。.....走りながら酒を飲むのですから大変です。 なんとか全員無事に神宮正門に到着。しかし良く見れば正門はしっかり閉まっています。考えて見れば当然です。真夜中に開いているはずもありません。苦しい思いをして、何の為にここまで走って来たのかと思う間も無く「よし、全員フンドシになれ」との指示。 結局、明治神宮の正門で、ふんどし一丁になり、一升瓶で酒のラッパ飲みををしている集合写真を撮り帰ってきました。.....(何の意味があるんじゃい!) ありがたい事に、帰りはタクシーです。ちなみに明けた1月15日は私の誕生日でした。.............今思えば良き体験です。
February 24, 2006
<おじさん変わった趣味ね> いつもはワイワイガヤガヤ仲間と飲んでいるのですが、たまには一人で飲みに行く事もありました。.......決してアバンチュールを求めてではありません。 その日、ぷらっと入った小さなスナック。時間が早かったせいか、客は私一人。お店のママはまだ来てないようで、年の頃なら20代前半、若い女の子が開店の準備をしていました。当時はウィスキーの全盛期、どこのスナックでもダルマ(サントリーオールド)の瓶がボトルキープでぎっしり並んでいるのが定番で、この店も同じ様な雰囲気です。 「ウィスキーの水割り」と一言注文をし、あとはタバコに火をつけ、ゆっくりふかします。カラカラと氷がぶつかる音がして、水割りが出てきます。「おまちどうさま」.......めったに聞けない女の子の優しい声です。(至福の時) すると突然女の子は言いました。「おじさん変わった趣味ね」.......。最初は何を言っているのか分らなかったのですが、よくよく聞いてみると私の格好が気になった様です。格好といってもいつものガクラン(学生服)姿なのですが彼女には、学生服を着る趣味のおやじに見えた様です。 たしかに私はふけて見えますが、かなりのショックです。そこで、すかさず学生証を見せました。すると「へー手がこんでるわねー」.........もうどうでもいいと思いました。 口には出さなかったのですが、「あんたの方が、オレより絶対年上だ!」と心で叫びながら、その場はおやじで通しました。.....ちょっと寂しい夜でした。
February 23, 2006
<喫茶店ヴァーンス> 「もっちゃん」には色々な事を教わりました。まずは喫茶店通いです。恥ずかしながら、当時私の田舎には喫茶店なるものは殆どありませんでした。三島に出ると「純喫茶なにがし」とか目にする事はありましたが、田舎では「喫茶店に出入りする高校生は不良だ。」という風潮があり、私自身も喫茶店とは男女がいちゃいちゃする所とかってに想像していたので、もっちゃんに手を引かれての東京喫茶店デビューとなったわけです。 大学から通りを挟んだ向え側、世田谷通り沿いにある喫茶店「ヴァーンス」は私達の心のオアシスであり、ある時は応援団の仮本部の様な役割も引き受けてくれました。 最初、慣れない私は、ぎこちなく椅子に座り、「なぜここに座ってお茶を飲まなければいけないのか?、自動販売機があるじゃないか!」などと訳の分らない事を考えながら、もっちゃんに付き合っていました。 しかし、慣れてくればこっちの物です。私は「ナポリタン」を知ってしまいました。ナポリタンにライス大盛り。これは私の定番です。炭水化物をおかずに、炭水化物をたべる。私の食生活の基本でした。 最近はこの田舎にもイタリアンレストランが林立し、ちょっとしたパスタ戦争が起きています。新しい店が出来る度に食べに行くのですが、やはりあの時のナポリタンの味がしみついている様で、べたべたしたケッチャップの感触が忘れられません。
February 22, 2006
<もっちゃん登場> 4年間の応援団生活を語る上で、絶対に欠かす事の出来ない人物が「もっちゃん」です。 彼の登場は鮮烈です。浅黒い顔に角のとがった色付きメガネ、口にはショップ〔ショートホープ〕を粋にくわえ、エイトビートのリズムをとりながら歩いて来ます。絵に描いた様なツッパリ君です。 話をしてみると、なんと同郷、静岡は清水の出身。ツッパリと思いきや、なかなかの硬派で、自分のポリシーを明確に持っています。少々小柄ですが、「山椒は小粒でピリリと辛い」まるで、「清水のコマサ」といったところです。......<本人が読んでいると思うので、これ位持ち上げておけば>........... とにかく応援団名物「でこぼこコンビ」が完成しました。これから二人で4年間様々な伝説を作っていく事になろうとは思いもしませんでした。 私は夢や理想に走り易い傾向にあります。「もっちゃん」は私の思いつく突飛な発想を、或る時は具現化し、或る時は抑え、調整役として活躍してくれました。 正直、私よりもはるかに応援団に適した人材だと思っていました。4年生になると共に団長、副団長。他大学の応援団との付き合いもあります。そこで担当分け、「もっちゃん」は国士舘、拓大、etc.私は青学、学習院 etc.彼は頑張ってくれました。 「一生の友」と言いますが、「もっちゃん」こそ私にとっての一生の友と勝手に思っています。彼も今、地域で頑張っています。私も遅れをとらぬよう地域おこしのライバルとして頑張りたいと思っています。
February 21, 2006
<デビューは石焼きいも> 応援団生活も何とか半年を過ぎ(色々ありすぎましたが)初めての収穫祭を迎えます。農大の収穫祭は、都内では有名で、宣伝パレードはバスを連ね都内の何箇所かで応援団がリーダー公開をし、大根踊りを披露し野菜を無料配布します。とにかく主婦層の圧倒的な支持を頂きました。 学内には数え切れない程の模擬店が立ち並び、身動き出来ないほどのお客様で賑わいます。やはり人気は野菜や花の即売、叩き売り。買い物カゴを抱えた主婦の目はキラキラ輝いています。 さて、宣伝パレードも一段落した応援団は、学内の一等地に陣取りふんぞり返っています。ご祝儀でもらった酒を樽に移し、一合升の角に塩を盛り、一杯いくらかで売っていた様な気がします。でもほとんどは通りすがりの体育部の部員に飲ませていました。今では当然禁止ですがそんな事の出来る時代でした。 私は応援団恒例の石焼いもの販売係り。白ジャージに軍手、顔には炭を塗られ首から「石焼いも」と書いたプラカードを下げ、とにかく大声を張り上げてお客を集めます。朝から「いしやーきいも、おいも」と叫び続けます。 当然、声は一日持ちません。夕方には話も出来ないほどです。.......これも応援団の修行の一つ。声がかれる度にノドが強くなり、いい声が出るようになるとの事。.............ホンマカイナ? とにかくキャンパスのど真ん中で叫んでいるのだから充分に目立ちます。おかげさまで、大学の先生方や各体育部の先輩にも顔を覚えてもらう事が出来ました。
February 20, 2006
<挨拶は大事です。> 応援団1年坊の仕事の中に、団室の掃除があります。当番制ですが一人しかいないので、毎日です。5時に目覚ましをかけ、起きるとガクランに着替え大学に走ります。 応援団への近道は、大学の裏門から寮食をぬけ学内キャンパスを突っ切るのが一番早く、毎日そのコースをとっていました。ある日、ふとした思い付きで「たまには正門から入ろう」と正門玄関に向って走っていくと、こんな早朝なのに一人の老人がタケボウキで玄関をはいています。 考えて見れば私も掃除に来たので、ちょっと嬉しくなり「おはようございます。ご苦労様です。」と大きな声で挨拶しました。.......たしか「オッス」とは言わなかった様な気がします。けっこう使い分けていました。 老人はびっくりした様子でしたが、私も先を急いでいたので、そのまま走り去ってしまいました。 その日の夕方、大学の応援団顧問の先生方との顔合わせの宴席があり、私も先輩のお付でついて行きました。宴も始まり酒が行き渡った頃、突然上座の中央に座っていた老人が声を上げました。「おい、そこの学生。」そう言って私を指差します。私はびっくりして立ち上がりました。すると「そうだ君だ君だ。朝挨拶をしてくれたのは。」私もよく見ると確かに朝玄関を掃除していた老人です。 老人いわく、「私は20年間、毎朝、正門の掃除をしているが、今日、はじめて学生からご苦労様と言われた。それが嬉しい。」偶然にでも今夜ここで会おうとは思わなかったとの事。.........この時こそ「挨拶」は、しておくものだと思った事はありません。 ちなみに、この老人は大学の理事長。まさか理事長が毎朝正門を自分で掃除しているなどとは夢にも思いませんでした。......でも理事長の顔を知らなかったのもチョッとまずかったかもしれません。
February 19, 2006
友人の告別式に行ってきました。 47歳は若すぎます。とても優秀な人物でした。 彼が作った曲が鳴り響く中、たくさんの友に送られて、 天国、イエスのもとに旅立ちました。
February 18, 2006
<そして誰もいなくなった> 合宿休みが数日あり、アパート(下宿)でボーっと体を休めていると、下宿のおばさんが走って来ます。「応援団から電話だよ。」......「いったいなんだろう」と電話に出てみると、それは、2年の先輩からでした。 「オッス」と答えるとなぜか先輩はやさしい声で、「あら、杉山君いたの」と言う。また「オッス」と言うと、「わるいけど、今から団室に来てくれい?」...... あまりにもいつもと話し方が違うので、逆にドキドキしながら大学まで走りました。 応援団に着くと何やらバタバタする気配です。ようやく事情がわかったのは暫くたっての事でした。同級生の集団退団。(当時の言い方では、みんなで「フケ」た。分り易く言えば集団脱走です。 私だけ一人とり残されたのでしょうか。先輩からも聞かれたのですが、正直言ってこんな計画があるのは知りませんでした。この事実に直面し、同じ釜の飯を食って、同じ苦しみや痛みを感じた仲間が、何も言わずに行ってしまった事が、当時の私にとって一番辛かった事です。 あちらこちら手をつくして彼らを探しましたが、なかなか消息が掴めず、そのうち、OBや4年生の中で何らかの決着がついた様で、この問題は一段落しました。 でもよく考えれば、応援団の1年は私一人。一人になったから、甘くなる様な事もなく、また新入生勧誘からやり直しです。
February 17, 2006
<恐怖の夏合宿> 学園祭(収穫祭)をひかえ、その準備の為の夏合宿が始まりました。場所は九州福岡、志賀島(しかのしま)。「漢倭奴国王」の金印の発見された島です。 福岡から橋一本で結ばれた、小さな島なので、当然逃げ出す事などできません。朝練習は6時開始、でもこれは4年の幹部の話で、3年生はその1時間前、2年生はそのまた1時間前、1年坊に至ってはまたまた1時間前なので3時起床。(ニワトリだって寝ています。) 春合宿も凄かったのですが、夏合宿はそれ以上。朝飯前に島1週のランニング。途中は、ダッシュにうさぎ跳び、腕立て伏せは当たり前。合宿所の民宿に着く頃にはもうボロボロ。寝不足と疲労で食欲もわきません。.......でも食べないと体がもたないので、むりやり口に押し込みます。 昼は炎天下で、上半身はだかで応援のリーダー練習。皆の息が合わないと、腕立て伏せが何度でも。........海に入っていいと言うので喜んでいると、腰下まで入った所で大根おどりの練習。波より上に足が出ないと先輩のケリが跳んで来ます。 夜は10時消灯。でもこれは、あくまでも予定です。3年生は4年生に呼び出され、気合が足れないと怒られ、次に3年生は2年生を呼び出し気合をいれ、当然1年も気合を入れられます。そうこうする間に夜中の1時をまわり、布団に入るのは2時近く。3時には起床なので、寝る間もありません。 我ながら、良くこんな合宿に耐えたなと思います。しかしこれも応援団の伝統らしく、この試練を乗り越えて、はじめて一人前の応援団員となれるのだそうです。(ほんまかいな?) 3時に起きて、朝練の準備をしてから先輩の来るまでの間、浜辺の岩の上でぼんやりと本土の灯りを見つめるのが日課でした。誰も口をききません。しゃべる気力もありません。中には涙を流し泣いている奴もいます。無理も無いでしょう、柔道の練習で充分にしぼられてきたつもりの自分でも、さすがにこの合宿はキツイものでした。 なんとか生き延びて、夢にまで見た東京へ戻ったのですが、事件はその後起こりました。
February 16, 2006
<はじめての雪だるま> 東京でのアパート生活が始まって、しばらくした頃、朝目がさめると、1面の銀世界でした。ちょっとオーバーかもしれませんが、静岡で生まれ育った私にとっては、かなりの驚きです。 東京は寒いとは聞いていましたが、こんなに雪が降る所だとは思いませんでした。もちろん静岡でも雪が降ることはありますが、めったに積もる事はありません。確か私が小学校の頃、雪が積もった事があり、その時は、学校の授業を途中で中止し、全校生徒で外に出て雪合戦をやったほどです。それ位、雪は珍しいものだったのです。 さっそく外に飛び出し、雪だるま作りです。良く見ると雪は5センチしか積もっていません。木の上や石の上の雪も集め、雪だるまを作ります。ある程度の塊を作りころかして行くと、土が付いているので、でろでろの雪だるまができます。 ふと気配を感じ振り返ると、近所のこども達が集まり不思議そうにみています。「おじさん、なにやってるの?」.....「おじさんじゃない!」と言いながらせっせと雪だるまを作ります。その内、こども達も雪だるまに目を付けたり鼻を付けたり。みんなの力で雪だるまは完成しました。 日陰の雪は数日はもちましたが、でろでろの雪だるまはいつのまにか、消えてしまいました。でも、こども達とは仲良しになりました。 昔からそうなんですが、若い女性にはモテないんですが、こどもと年寄りには、非常にモテる私です。
February 15, 2006
<経堂辰己寿司> オバQ線(小田急線)沿いの小さな駅「経堂」は、各駅停車と準急しか止まらない静かな駅でした。最近ではオシャレな街として人気を集めていますが、当時、私の中では、乾いた北風の中に破れた新聞紙が舞う様なイメージの駅でした。 けれども夕暮れ時になると、細い通りのあちこちに赤提灯がともり、わいわいガヤガヤ学生達で賑わいます。経堂農大通りは、夜になると原宿です。 そんな駅の線路沿いの脇道を行くと、我等が「辰己寿司」があります。のれんをくぐると意気のいい声が飛んできます。「へイラッシャイ」頭にきりりとハチマキをまいて、べらんめー調の威勢のいい言葉が飛び交います。 ここのおやっさん(大将)は、ちゃきちゃきの山梨県人。威勢といい、気風といい、どこから見ても江戸っ子です。気に入らない客は追い出されます。 学生時代色々な方々にお世話になりましたが、特に辰己寿司さんには一方ならぬお世話になりました。まずは卒業単位です。当時このお寿司屋さんにはたくさんの大学教授が通っていました。一緒に飲んでいれば自然と仲良しになります。タバコの火を着けたり、お酌をしたり。.....人生魚心あれば水心....おかげさまで、かなりの単位を頂きました。............古き良き時代の話です。 辰己寿司に関してのエピソードはたくさんあるのですが、それは追々書くとして貧乏学生が、のべつ寿司屋に通えるはずもなく、運良く行けてもせいぜい食べれるのはカッパ巻き、良くて納豆巻き程度です。納豆巻きを食べれた日には、わざと「ヒゲ」に付け、帰りの夜道をペロペロ舐めながら、ひとり歩くのも、楽しみと言えば楽しみでした。
February 14, 2006
<鈴木君ありがとう>......今日から見出しを付ける事にしました。 私が卒業出来たのは、鈴木君のおかげです。感謝でいっぱいです。4年間ひたすら私の出席をとり続けてくれました。最初の授業からだったので、筆跡は完璧です。また、教室の両側から回ってくる2枚の出席簿をチェックし、2重書きをくい止めてくれたのも彼でした。 彼とは、杉山、鈴木で出席番号の1番違い、おまけに同郷静岡県人。びっくりするほど優しい人間です。「実はオレ、応援団に入ったんで、なかなか授業に出られないと思うんだ。」と話すと、「それじゃオレが出席とってやる。」と言ってくれ、そしてそれから4年間、ほとんど休まずに出席をとり続けてくれました。 もちろんテストの時もノートを借してもらいます。借れておいて言うのもなんですが、とても字が上手で良く読めません。それでも感謝、感謝です。 今は違いますが、その頃はまだ、コンピュータも普及しておらず、大学教授もアバウトで、試験の出題はだいたい2問。それも1問は毎年変わらず、その1問が出来れば、優良可の可はくれたものです。体育系の部の間では、密かに「テストの傾向と対策」なるコピーがでまわり、授業に出れない可愛そうな学生の心強いみかたとなっていました。 そんなわけで、「可なりに優秀な学生」が誕生していきました。考えて見れば私も4年間で何時間授業に出たでしょうか。大学には皆勤賞なみに行っていたのですが、授業料を出席時間で割ると、時間当たり数十万円になるのではと思います。 とにかく、鈴木君のおかげで、無事4年間で卒業できたのは間違いありません。あらためて、深く感謝申し上げます。
February 13, 2006
応援団の掟(心得)と言うのでしょうか、色々あるのですが、中には癖になってしまうものもあります。 卒業しても何年か直らなかったのは、タバコを吸おうとする人がいると、つい火を着けてしまう癖です。先輩がタバコをくわえるやいなや、走っていって「オッス」と言いながら火を着けます。これもまた気が付かなかったら大変です。即ケリが飛んできます。 そんな訳で、いつもピリピリ。優しい先輩はよくタバコを吸う振りをします。そのたび、後輩はバタバタ。....たのしい学生生活です。 火を着けるのにもコツがあります。当時は100円ライターなどありませんでしたので、マッチを使いました。マッチの箱から2本のマッチ棒を出した状態で持っています。2本出すのは1本目で着け損ねたときに、すぐ次が着けられる様にする為です。もう少し高度なテクニックになると、火を着けたとき、最初に出るイオウ臭いガスを出し終わってから火を差し出します。ここまで出来る様になれば一人前です。 チョッといい事もありました。当時世間では、「ゆかいなロンドン、たのしいロンドン、ハワイ、ハワイ」が大流行。先輩のお供をして、行く事もありました。もちろん楽しんでいるのは先輩ばかりで、我々後輩は、背筋をのばして不動の状態で、ただただ先輩のタバコの火の番です。 そんなわけで、これと言った仕事も無いので、お店の女の子がタバコをくわえると、ついつい反射的に火を着けてしまいます。これは女の子に大ウケで、気が付けば先輩よりずーっとモテています。当然ケリはもらいますが、そういう時はあまり痛くありません。
February 12, 2006
応援団の暗黙の掟に、「酒に酔ってはいけない」というのがあります。 応援団の大事な仕事の中に、体育系の各部の納会に招待され、最後に「フレフレ農大」そして大根踊りで締める。というのがあります。ですからどんなに飲まされても、酔うことは許されません。.......酔わない様にするのも訓練です。 「今日は無礼講だから、じゃんじゃん飲め飲め」と先輩が言います。これは嘘です。詐欺です。まやかしです。.....気持ち良く、ほろ酔いになった頃、突然先輩の態度が変わり、「おめーら、気ー抜いてんじゃねーよ」とボコボコ。不思議なもので、なんども経験する内に、酔わなくなって来るから不思議です。 先輩はいつも怖いわけではありません。たまには本当に飲ませてくれる事もありました。厳しい練習が終わって、のどがカラカラのとき、2年の先輩達に誘われ1年坊はぞろぞろついて行きました。とある居酒屋で、小さな歓迎会を開いてくれたのです。 その時の生ビールの美味かった事。高校時代は結構まじめで、タバコは吸いませんでしたが、隠れて酒は飲んでました。でも生ビールのうまさを知ったのはこの時です。今の大ジョッキよりはるかにでかいジョッキ(我々はホームランジョッキと呼んでいた)で、かけつけ4杯まで飲んだのは覚えていますが、後はハッキリしません。 次の日、朝目が覚めると、やけに窮屈です。それに空が狭い。高村幸太郎の「智恵子抄」の一節、「東京の空は狭い」などとつぶやきながら、ふと周りをを見ると、なんとそこはアパートの近くの、50センチ巾の側溝の中。運良く水が無かったので命拾いをしましたが、それから馬鹿飲みはピタリとやめました。
February 11, 2006
応援団といえば付ものは「オッス」です。これを漢字で書くと「押忍」となります。もじどうり「押し、しのぶ」事です。......「我慢して呑み込む」と言っても良いかもしれません。 基本的に応援団の1年坊主は、「押忍」しか言ってはいけません。先輩から何を言われても「押忍」。YESも押忍、NOも押忍、もちろんNOはありえません。全て押し忍ぶのです。今の世の中では考えられない事ですが、これを守るのも応援団の伝統です。 普通の体育部ならば、実力と技さえあれば競技の中で、先輩を投げ飛ばす事も出来るのですが、(実際柔道部の時はそうしてきたのですが)応援団はそうはいきません。禅寺と一緒でとにかく先に入った人の勝ち。どんなに不条理でも、納得できなくても、先輩の言葉には逆らえない掟です。 思い出せば、不思議な掟は色々ありました。学内で先輩を見つけたらその場に直立し大きな声でオッスと叫びます。もちろん先輩に聞こえる様に。そして先輩が通り過ぎるまで、立ち続け、見えなくなりそうなところで「失礼します」と叫ぶ。そして全力でその場を走り去るのです。.......もし先輩に気付かず通り過ぎたりすれば、「シカ」としていたと言う事で、ぶっとばされます。 まあこれも応援団精神を鍛える為の1つの訓練だったのでしょう。ほとんどコメディーに近い事ばかりだったのですが、その当時は、学内を歩くのもドキドキものでした。 最初は違和感のあった「オッス」でしたが、慣れてくると色々発見もあります。殆どオッスだけの会話でしたが、オッスの語尾を多少上げる事により、疑問文にすることが出来るのです。例えば先輩が「新宿のコーラが飲みてーな!」とおっしゃった時、....「コーラなんかどこで買ってもおんなじだろう」と思っても、オッスと言う。しかしその時、語尾を若干上げる事により、なんと言ったか確認する事ができます。.........苦しさの中にも楽しみがあります。
February 10, 2006
先輩達の態度が豹変するまで、そんなに時間はかかりませんでした。今まで和気あいあいとして、飯をご馳走になったり、遊びに連れていってもらったりしていたのですが、ある日を境に突然変わったのです。 それは春の新入生歓迎合宿でした。ゴールデンウィークを利用して、鎌倉の学生会館で行なわれるもので、毎年恒例の行事です。大学を離れ、隔離された環境のなかで、いよいよ魔の1週間の始まりです。 今まで、浮かれて、ボーッとしていた新入団員は、この時に嫌と言うほど応援団精神を叩き込まれます。「よその国と違い日本は徴兵制の無いよい国だ。」などと気楽に思っていた私ですが、まさか4年間徴兵並の体験をするとは、夢にも思っていませんでした。 合宿初日から朝5時起床。砂浜でマラソン数時間。ダッシュ、遅れると腕立て伏せ100回、続けてうさぎ跳び。遅れると容赦なく竹刀の嵐。もしかしてサディストの集団に入ってしまったのか?と考えることもありました。 応援団は息の合った動作が肝心と、何度も何度も整列の練習。右向け右、左向け左。ドリフターズではありませんが、こんな事もできない奴がいます。その度に先輩からケツに蹴りをもらいます。連帯責任のたいへんさを痛感しました。 ちなみに、我応援団の訓練礼式(整列や動作等)は自衛隊と同じです。これが役に立ったのは、田舎に帰って、途中から地域の消防団に入った時、すぐに先頭を歩く事ができたことでしょうか。
February 9, 2006
本当は自炊の予定でした。田舎から米を半俵かついで来たのに半年過ぎても減りません。 鍋釜揃えて飯を炊いたのは3日間。まさしく三日坊主。しかし、料理は嫌いではありません。今でも何種類かの鍋料理は自分で作ります。言い訳になるかもしれませんが、学内にある学生食堂が4年間の私の食生活を支えてくれたのでした。 カレーライス80円、Aランチ130円、生野菜100円等々。当時としても魅力的な価格でした。学内には、食堂らしきものが3つありました。学生協がやっているスパゲティとカレーの店、チョッと高級なレストラン「鍬」それと私の行きつけの「寮食」。影では「ブタめし」と呼ばれ、美味くないので評判の様でしたが、私にとっては、楽しい食卓でした。 最初は無愛想なおばちゃん達でしたが、私があまりにも美味そうに食べるので、いつしか仲良しになり、団長をやるころにはファンクラブを作ってくれました。 寮食で500円食べるのは大変なことです。カレーライスが一皿80円ですから、かなりの量を食べなければなりません。そんなにお金はなかったのですが、おばさんがそーっと色々な物を出してくれたので、有難く頂きなだら500円分位は食べていたと思います。 そんな訳で、気が付けば100キロを超えていました。
February 8, 2006
学生生活も始まり、応援団活動も始まりました。最初は新入生の勧誘です。前にも話した通り私は入学試験の時の入団なので、先輩達と一緒に勧誘にまわります。 体育系のどこの部も、必死で勧誘活動をしています。私も学内を歩いていると、「いい身体してるな、柔道部に入らないか。とか、ボディービル部に入らないか。」と声をかけられます。まるで自衛隊の勧誘です。 応援団の2年の先輩もどうやら勧誘人数のノルマがあるようで、必死の形相で探しています。目を付けるのは、やはり突っ張っている奴。あぶない様な奴です。 粋がって歩いている奴を見つけると団室(応援団の本部)に引っ張り込んで、優しくお話をして入団していただきます。 そんな訳で、あれよあれよの内に、同学年は十数人となりました。さすがに突っ張ったような奴が多かったのですが、高校時代に体育系の部活をやっていた人間は殆どいなかった様に記憶しています。 小学生の時憧れた、学生生活とはまったく違う生活が始まりました。中学、高校と柔道部。ずーと坊主頭で、大学に行ったら長髪にでもしようと密かに思っていたのですが、またまた坊主に学生服。しかし「ヒゲ」だけは伸ばして良いとの事で、18才からヒゲをはやしはじめました。以来50才に至る今日までこのヒゲとは長~い付き合いをしています。
February 7, 2006
大学まで歩いて15分。世田谷の閑静な住宅地に6畳1間のアパートを借れました。正確に言えば親に借れて頂きました。大家のおばさんは、とても優しい人で、昔、かまやつひろしの歌にあった「おばさん酒持ってやってくる」を地でやっている様な人でした。 初めて父と大家さんに挨拶に行った時、おばさんはとても驚いた様でした。後で分ったのですが、おばさんのご主人は戦争で亡くなったとの事、そのご主人が私の父にそっくりだった様です。 そんな訳で、東京のアパート暮らしの4年間は、たいへん恵まれる事となりました。 風呂は当然銭湯です。お風呂屋さんまでは20分以上かかります。でも、これもまた楽しい。愛用の下駄でカラコロ、カラコロ。途中で仲間を拾いながら歩きます。 運がいいと、テレビドラマの撮影に出くわす事もあります。実はお風呂屋さんの横は、警察の音楽学校?(記憶が怪しい)で、パトカーや装甲車が止まっていました。なんとそこは、「太陽にほえろ」の七曲署の撮影現場だったのです。 おかげさまで、「ゴリさん」や「山さん」は電信柱の影からちょくちょく見る事が出来ました。
February 6, 2006
彼には私と同じ体育系、それも格闘技系の匂いがする。案の定、話をしてみれば彼は相撲部に入るとの事、私も応援団だと言うとすぐに意気投合。彼の身の上話を聞いた。 彼は新潟県出身、現役入学、しかし歳は2才上だった。当然タバコもOK。話によると、なんと2つの高校に通ったらしい。最初通った高校では、俗に言う「番長」をやっていたとの事。ところが、3年の時、子分が問題を起し、その責任をとって高校を退学したそうだ。 普通ならそれで諦めるところだが、彼は隣の県の高校に入学しなおし1年からやり直して、無事卒業、そして大学入学となったとの事だった。 縁というものは不思議な物で、彼とは、学生番号の1番違い、10人づつのクラス分けでも、同じクラス。担当の助教授に言わせると最悪のクラスの誕生との事だった。 予想どうり、なかなかの猛者だ。彼のおかげで、普通ではぜったい経験できない、ハチャメチャな大学生活を送る事になろうとは、その時は思いもしなかった。
February 5, 2006
入学式の後はオリエンテーション。新入生はバスに乗せられ数時間、ついた所は富士農場。見渡す限りに広がる牧草地、のどかに牛が歩いています。 農業大学とは言いながら、すでに当時から実際に農家の後継ぎだという人間は少なく、初めて牛を見たとか、初めて鎌に触ったなどという都会育ちが多かったようです。 田舎人としては都会人に、なめられてはいかんとばかり、広い宿泊室の真中で、座布団を5枚敷いて、どっかりとあぐらをかきました。 まあ元々身長178センチ、体重95キロ、柔道2段ですから、なめられる心配も無いのですが。 ところが、ふと気付くと後ろにいやな気配が。......振り返るとそこに、なんと座布団を10枚敷いて、おまけにタバコをぶかぶかふかしている奴がいます。 一応まだ未成年なので、公然とタバコを吸うなど思いもよらなかったのですが、正直あっ気にとられました。 これが、我学生時代最大の友となる人物との出会いです。 実は私もふけ顔をしているのですが、彼はどう見ても親父です。私から見れば小柄ですが、体重は100キロは楽に越えているでしょう。座布団の上であぐらをかく姿は、まさに牢名主です。 さすがに全国には、色々な人間がいるなあ...と感じた瞬間です。
February 4, 2006
あこがれの学生生活の始まりです。入学式は大講堂。厳かに始まりました。ところが他の大学とチョッと違ったのは、入学式終了と同時に入団式が始まります。 実は農大の応援団は全学制をとっているので、入学と同時に全員応援団になるのです。ですので、なんと入学金に応援団の団費(会費)が入っているのです。 応援団長は、正式には常任委員長、団員の事をクラス幹事と言います。 入団式はまず、応援団幹事によるリーダー公開(演技披露)から始まり、学歌、応援歌の歌唱指導、そしてメインは「農大名物、青山ほとり」通称「大根おどり」の振り付け指導。......とにかくびっくりしました。 特に、リーダー公開の中で、始めてみた本物の「大根おどり」の迫力、そして団長の真っ白な羽織袴、高下駄をはいて、腕を組む姿には、オーラを感じました。 「苦しき時の父となり~オース。悲しき時の母となり~オース。楽しき時の友となる~オース。いざ唄わんかな踊らんかな、農大名物青山ほとり~。」で始まる大根おどりは、いつまでも農大生の心の拠り所となるのです。
February 3, 2006
伯父が亡くなりました。元中学校の校長を歴任し、何年か前に薫五等瑞宝章をいただいた伯父です。 柔道を愛し、ユーモアもある豪快な人物です。昨日今日と二日間、通夜葬儀に参列してきました。 残念です。
February 2, 2006
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