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他人に「かくあるべし」を押し付けて、批判や否定を繰り返しているパターンを見てみましょう。1、能力を否定する。「あの人にできるわけがない」「失敗するに決まっている」「任せも無駄だ」「なにをやらせてもダメなやつだ。それよりも自分が片付けたほうが早い」2、人格や存在を否定する。「あの人がいなければいいのに」「生きていても価値がない人だ」「辞めてしまえ」「死んでしまえ」「産まなければよかった」3、人と比較してダメ出しをする。能力や容姿などでマイナス面をことさら強調して劣等感を意識させる。4、動作や身体的な面を取りあげて否定する。「もたもたするな」「のろま」「デブのくせに」「チビのくせに」「ブスのくせに」「ハゲのくせに」5、からかい、皮肉、蔑視の言葉。「あなたができるとは思わなかった」「あなたにしては上出来だね」「あんなみっともない容姿で平気で生きていられるものだ」「こんな簡単なこともできないの。バカじゃないの」6、無視する。仲間はずれにする。孤立させる。人間一人では生きてゆけない。周囲の人に悪評を広めて兵糧攻めにする。7、相手の意見や考え方は、聞く耳を持たない。ことごとく反発、否定する。森田理論で学習したように、上から下目線で相手を見ていると、ついこのような他人嫌悪、他人否定の言動をとってしまいます。「かくあるべし」を他人に押し付けて、他人を自分の思い通りにコントロールしようと思っている人は、いつも周囲の人と対立関係を招いてしまいます。最初は、自分が相手を非難、否定していたのですが、そのうち立場が逆転して、相手や周囲の人から同じような仕打ちをされてしまうようになります。こうなると注意や意識が内向化して、自己防衛に走らざるを得なくなるのです。次第に目の前の日常茶飯事、勉強や仕事に集中できなくなるのです。「かくあるべし」を他人に押し付けることは、簡単に強迫神経症に陥ってしまうのです。また、他人に「かくあるべし」を押し付けている人は、自分自身に対しても同様のことを行っているのです。自分という一人の人間の中で、絶えず戦闘を繰り返しているようなものです。それが精神的な葛藤や苦悩を生みだしているのです。どんな状態であっても、命のある限り、あなたに寄り添って生きていきます。いつでも私はあなたの味方です。あなたを愛しています。このように自分の中で折り合いがつけられるようになると、生きる勇気が湧いてきます。持てる能力を精一杯活かして、人生を謳歌したいと考えるようになります。これは森田理論でいう「事実本位」の生き方につながるのです。ぜひとも「事実本位」の生活態度を身につけて、味わい深い人生を歩んでいこうではありませんか。
2019.07.13
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京都の三聖病院の先代の院長であった宇佐玄雄先生は、森田療法は「自覚療法」であるといわれていました。自覚ということについて、水谷啓二先生の文章をご紹介します。この自覚とは、自分の日常生活そのものの事実、あるいはその時その場で自分が感じる感情の動きを、ごまかすことをせず、あるいは自らそれをなくしようとすることなく、ただそのままあることであります。たとえば、現在自分が恥ずかしいと感ずるならば恥ずかしいそのまま、めんどくさいと感ずるならばめんどくさいそのままにあることであります。あるいはまた、自分が自己をかえりみて、欲張りであるならば欲張りであると認め、虚栄心が強いならば虚栄心が強い、と事実の通りに認めつつ、今日のなすべき仕事は仕方なしにでもやっていくことであります。ここに、森田先生が教えられた、「自然に服従し、境遇に柔順」な生き方があります。これと反対に、勇気を出さなければならないとかいってカラ元気をつけたり、大いに努力しなければならないとかいって額は八の字のシワを寄せて、机にしがみついてみたりするのは、どうも不自然であります。不自然なことは長続きしないで、しまいには挫折することになります。挫折しますというと、「ああ俺は勇気が貧しい、ああ俺は意志が弱い」と悲観し、日常生活に対してまでも自信を失い、劣等感にもとらわれることになります。そんな、ムリな努力や力み方をする必要は一切ないのでありまして、自分自身のあるがままの事実を、あるがままに認めさえすればよいのです。もし、向上心のある人が、自分が怠けてきた事実を素直に認めるならば、「こんなことをしていてはとても一人前の人間になれそうもない」と感じて、なんだか心細くなり、力むということなしにひとりでに勉強をし、ひとりでに働くようになってきます。(2019年6月号の生活の発見誌8ページより引用)神経症の葛藤や悩み、人間関係の難しさ、生きることの苦しさは、観念や思想で作り上げた「かくあるべし」を振りかざして、事実、現実、現状を否定してしまうことにあります。私は森田理論学習によってそのことがよく分かりました。皆さんも森田理論学習をしてそのことに気づかれた人は多いでしょう。まだしっかりと理解できていない方は、理論学習でその弊害を自覚することが大切です。この自覚が症状を克服したり、生きづらさを解消するための出発点となります。自覚できれば、そこから事実に寄り添った森田実践に取り組むことが可能になるのです。事実本位の生活態度の養成は、それはそれでとても難しいものがありますが、その前に「かくあるべし」の弊害を理解しないと、その出発点にさえ立つことができないということを自覚する必要があります。
2019.07.11
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森田理論は詳しいのに、「かくあるべし」の呪縛から解放されない人がいる。そういう人を見ていると、普段の生活の中で、自分や他人を非難、否定することが常態化しているようだ。無理もない。生まれてからずっと「かくあるべし」教育を受けてきて、骨の髄まで貫徹されているのだ。その人の自己責任だとばかりは言えない面がある。また多かれ少なかれ、ついうっかり生活をしていると「かくあるべし」が表に出てしまうというのが実情なのだ。そういう態度を前面に押し出していると、自己嫌悪、自己否定、他人否定で苦しむことが頭の中で分かっていても、どうすることもできないのだ。分かっていてもできないというジレンマを抱えているのだ。自分が苦しむだけなら、自業自得だが、他人も巻き込んで険悪な雰囲気を作りだしてしまうのだから始末に負えない。この呪縛から逃れるための手法は、森田理論を学習している人は幾つも持っておられることだと思う。それを生活面に応用して、「かくあるべし」が出てきたら、どれだけ基本に立ち戻れるかが大事なところだと思う。「かくあるべし」が常態化している人も、「ああしまった。またやってしまった」と後悔して眠れない日を過ごしているのだと思う。だから非難するよりも、相手の身になって許してあげることだ。目くじらを立ててすぐに倍返しで仕返しするような人は、それこそ、その人以上に強力な「かくあるべし」を抱えているのだと思う。相手を非難、否定することからは、明るい将来を見通すことはできないのだ。今日はその中から一つだけ提案しておきたい。相手の言動に対して、腹の立つことはたくさんあると思う。その時に機械的に批判、否定したくなると思う。そんな時、自分は今相手を否定したがっているという気持ちに気づくことは可能だ。相手を否定する感情は、ネガティブでマイナス感情だから、意識しているとその感情には気づくことができるのだ。普通はその感情を基にして、売り言葉に買い言葉で対応するのだ。これは考えものだ。軽率な行動は取り消すことができなくなり、禍根を残すからだ。ここで「そのマイナス感情、ちょっと待て!!」という言葉を自分に発するのだ。このキーワードを机の前に貼り付けておく。目につけば意識付けできるようになる。原点回帰ができるのだ。そんなの無理だと思う人がいるかもしれない。確かに難しい。でも10個のうち1個や2個はできるかもしれない。ここがその後の展開を大きく左右するのだ。そして相手の理不尽極まる言動を事実のままに再現するのだ。相手は自分の行動を馬鹿にしている。あるいは無視した。批判した。肝心なことは、それがいいとか悪いとか判定するのではない。事実を忠実に再現していくだけだ。事実をありのままに認めていくのだ。そして事実を受け入れていくことができればよいのだ。受け入れていけなくても、事実に価値判断なしに寄り添っていけることになれば十分です。そういう態度の養成が「かくあるべし」を減らして、事実本位の態度に転換できる一つの方法となるのです。葛藤や苦悩は減ってきますので、ぜひ試してみてください。
2019.06.03
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森田理論学習の中で、「かくあるべし」の弊害をしっかりと頭の中に叩き込んでおくことは、事実に立脚した生活を考えるうえでとても大切なことだ。今日は「かくあるべし」思考の弊害について考えてみたい。「かくあるべし」は、観念、思索を優先する態度のことである。そのような態度は、完全主義、完璧主義。理想主義、目標達成至上主義、勝利至上主義、征服欲などに陥りやすい。そうなると、理想と現実との間にギャップが出てくる。そのギャップを埋めるために、観念や思索が主導権を持ってしまうことが、その後の展開に悪影響を及ぼしているのである。不満だらけの、事実や現実を認めることができなくなるのだ。心もとない事実や現実に対して、批判、否定、悲観、対立、無視を繰り返すようになる。そして事実や現実を観念や思索のほうに無理やり従わせようとするのだ。そのような態度を自分自身に対しても、周囲の人に対してもとっているのだ。これが神経症に陥る大きな原因の一つとなっている。自分の素直な感情、気持ちや本音はいつも踏みにじられているのだ。このような態度で、生きていきなさいと脅迫されているようなものだ。これが自分という一人の人間の中で繰り返されているのだ。こういう人は、自己信頼感、自己肯定感が持てない。人間社会の中で、仲間はずれにされるということを極端に恐れるようになる。それは、いつも自分の気持ちや本音を抑圧して、相手に合わせるという強い「かくあるべし」が影響を与えている。自分で自分を自己疎外しているのである。自分の素直な正直な気持ちに反抗することは本当につらい人生だ。精神科医の藤井英雄氏は次のように述べている。・相手が不機嫌になるのを恐れて意見をハッキリ言えなかったり、断られるのがつらいので誰かに何かを気楽に頼めなくなるだろう。何でも自分で抱え込むようになる。・何かをはじめる前から、失敗しそうだという漠然とした不安につきまとわれてしり込みしてしまう。また、恐る恐るはじめてみるとやっぱり失敗して、「ああ、やっぱり失敗した」と思ってしまう。・ちょっと批判されると、全人格を否定されたように傷つくという傾向もある。いつも人目を気にして生活をしているから、もう疲れ果てて、とにかく不幸な人生を送ることになる。(自己肯定感が高い人になる本 藤井英雄 廣済堂出版 23ページより引用)「かくあるべし」でがんじがらめになっている人の人生はみじめだ。自己嫌悪、自己否定、人格否定、周囲の人たちとも何かにつけて対立して摩擦を繰り返す。最後には大自然からもそっぽを向かれて破滅的人生を送ることになる。これが「かくあるべし」思考の弊害の一端です。皆さんも「かくあるべし」を自分や他人に向けてどんな悲惨な人生が待っていたのかをよく振り返ってみてもらいたい。それが分かれば、事実に立脚した考え方を学ぶ意気込みが強くなるはずだ。
2019.05.16
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私は、インテリア卸の会社で、受発注業務の仕事をしていた時、「仕事では1つのミスや失敗も許されない」という「かくあるべし」にとりつかれていた。毎日お得意様から電話やファックスでいただいた注文をパソコンで加工して工場に流していた。主に高級オーダーカーテン、創作のローマンシェード、舞台幕などであった。すべてに細かい仕様が指示されていて、右から左へと流せるものではなかった。やりがいがあるといえばそうだが、パソコンで制作指示を出しているため、自分の意図とは違う製品が出来上がることも多々あった。カーテン一つとっても、どの模様の生地にするのか、色調はどれにするのか、2つ山にするのか、3つ山にするのか、上部や下部の折り返しはどうするのか、ヒダ山柄合わせ、要尺計算などがある。カーテンの上部のカバーはどんな形にするのか。とにかく宮内庁御用達のような細かい仕様の注文が多かった。いきなり誰でもができるような仕事ではなく、教育や訓練を受けて、半年とか1年後になんとか一人に出来るような仕事であった。特に舞台幕では、緞帳、校章、一文字幕、袖幕、昇降機などがあってとても神経を使う。そういう仕事を毎日20から30ぐらい次から次へと処理しなければならないのだ。このような仕事をしていると、依頼者、得意先と綿密に連絡を取り合って仕事をしているにもかかわらず、行き違いが生じる。また私のように対人恐怖という神経症を抱えながら仕事をしていると、うっかりミスも発生する。後で振り返ってみるとどうしてあんなミスをしたのだろうというようなミスである。魔がさしたとしか思えないようなミスだ。最初のうちは誤発注を防ぐために、自分の処理した仕事は他の人にチェックしてもらうシステムだった。ところがベテランになってくると、人手不足もあって個人の裁量に任せられるようになる。誤発注は言い訳できない。自分の責任になる。仕事に向かうこと自体大きなプレッシャだった。私はその段階になったとき、緞帳で取り返しのつかないミスをした。寸法間違いを起こしたのだ。ある学校の卒業式や始業式に使う緞帳だった。中央に本刺繍の校章が入り、袖幕にも文字が入った高価な材料を使った緞帳だった。当然納期に間に合わない。作り直しで大損害だ。それだけではない。施主、得意先、営業マン、制作現場、仕入れ先、上司、同僚たちから容赦なく罵声を浴びせられた。私は腰が抜けたようになって、茫然自失となった。本当は被害を最小限に抑えるために、事後処理に専念しなければならなかったのだが、自分の力ではできなかった。それ以来、自分を責めて、寝つきが悪くなった。また、簡単な注文でもチェックリストをプリントアウトして、5回も6回もいろんな色のマーカーでチェックを繰り返すようになった。仕事の能率が悪くなり、残業が増えた。月曜日は特に注文が多いので、日曜出勤をして少しでも月曜日の負担を少なくするようなことをしていた。また同僚や上司の目が気になった。「能力がないのに早く会社を辞めればいいのに」と思われているのではないか。疑心暗鬼になっていたのだ。悪循環に陥っていたのだ。集談会多くの人に相談に乗ってもらっていた。その中で参考になったことは、ヒューマンエラーは必ず起きる。仕事で失敗をしたことがない人はいない。あなたは、雲一つない日本晴れのような状態を目指している。仕事をしていれば、ミスや失敗は避けられないという現実を受け入れる必要がある。そういう気持ちが持てないと、仕事をすることは苦痛になる。手につかなくなる。あなたは、あまりにも完全、完璧に気をとられている。それはあたかも完全を目指しているように見えるが、実際にはミスをした自分を、他人が馬鹿にし、否定するのではないかということに怯えているように見える。他人から自分のことを非難、軽蔑されることばかりに神経が向いている。裏を返せば、いつもちやほやされて賞賛されるような人間でなければならないと思っているのではないか。ミスや失敗をする自分を許してあげたらどうですか。本当は、ミスや失敗をして落ち込んでいる自分に、塩をぬって他人と一緒になってますます責めているようなものではないですか。一人も味方がいなくなると、生きていけなくなりますよ。どんな状況に置かれても、自分は自分を最後まで守ってあげないといけないのではないですか。かくあるべしで理想を追い求めて、ミスや失敗をする自分を否定していては何もいいことはない。起きてしまったことは、責任をとらなくてはいけない。どんなに非難されようとも、早急に、正直に実態を報告して、被害を最小限にくい止めるために努力する。後の処分は潔く受けるという態度が必要だったのだと感じました。
2019.04.01
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心屋仁之助さんが、「かくあるべし」の弊害についてわかりやすく説明されています。「自分を認める」 「そのままの自分を認める」口では言えるけど、頭ではわかるけど、なかなか出来ない事の1つだと思います。自分のこういうところが嫌い、こういうところが認められない、ああダメだと思う。そして「だから、変えたい」 「何とかしたい」と願う。これは自分と戦っている状態です。(筆者注。これは自分という1人の人間の中に、二人の人間が住みこんでいて、反目し合っている状態です。「かくあるべし」の強い人はそうなっています。)この「自分の中にいる対戦相手」が、自分の苦手な人です。自分の内側の仮想敵が、目の前に「苦手な相手」として現れるから否定したくなるのです。戦いたくなるのです。だって認めていないのですから。「お前は間違っている」 「お前は、もっとこうなれ」と、 「変えよう」とします。(筆者注。観念主義、理想主義。完全主義、完璧主義。目標達成第一主義。コントロール欲求の強い人が陥りやすいことです。現実の自分を否定して、性格改造、精神改造、肉体改造に精力をつぎ込んでいるのです。この道はいずれ行き詰まります。)目の前の相手を変えようとしている時は、相手を「否定」しています。相手を否定する、ということは「自分は正しい」 「自分の方がマシ」と考えているからです。「あなたは間違っている」でも「私は正しい」「私は正しい」でも「あなたは間違っている」この考え方が、問題を引き起こしているのです。宗教戦争も、このようにして起こり始めます。(筆者注。「かくあるべし」の強い人は、自分だけではなく、他人も観念主義、理想主義。完全主義、完璧主義。目標達成第一主義の立場から是非善悪の価値判定をしています。少しでも理想から離れていれば批判、否定するのです。相手といがみ合うようになります。)要するに「考え方」 「ものの見方」の違いです。では、どうすればいいのかというと、 「認める」ことが解決のカギになります。自分の中の「ダメな部分」 「弱い部分」は、できればなくなってほしい、消えてほしいことでしょう。つまり「見たくない」 「聞きたくない」 「触れられたくない」と否定しています。そんなとき、 「ダメな部分」 「弱い部分」を、 「ああ、弱い自分、ダメな自分、怖がっている自分がそこにいるんだな」と思うことです。 「肯定しなくていい」 「好きにならなくていい」 「変えようとしなくていい」 「ただ、そこに、いる」と、存在を確認する。無視をしない。実は、それだけでも「認める」ことになるのです。(筆者注。これが森田理論でいう事実本位、事実唯真の立場です。自分の立ち位置を、しっかりと事実、現実、現状に置いておくことです。 「こうであったらよいのに」と思う事は構いません。しかし理想の立場に自分を置いて、事実、現実、現状を上から見下ろして非難、否定することだけはなんとしても止めなければなりません。そうしないと自分も他人も自然も、その存在を否定されて、不幸になるばかりだと思います。これが森田理論が訴えたいことなのです)(人間関係が「しんどい」と思ったら読む本 心屋仁之助 中経出版 164ページ参照)
2019.03.14
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速水敏彦さんは、現代人は「仮想的有能感」を身につけている人が多いと言われている。これは、周囲の人から現実には有能と認められていないにもかかわらず、過度に自己主張を繰り返す自己中心的で、他人を軽視し、軽蔑する人のことをいう。ミスや失敗の原因を自分以外の要因として責任転嫁してしまう。また、周りの人の失敗には敏感で、その機会をとらえて、相手を批判することを通して自分の有能さを回復させたり、誇示しようとする。会社で評価されない人が、家で会社を批判したり、成績の悪い子供の親が、母親同士の集まりで学校を痛烈に批判するようなことが起きる。周囲の人を批判、否定することには際限がないが、反対に、自分が周囲の人から非難、軽蔑されることには猛烈に反発する。例えば、常識はずれの運転をしている人に注意をすると、逆上して注意した人を危険な目に合わせたりする。高速道路上で幅寄せを繰り返したり、車を停車させ、喧嘩を売るような行為をする。ここで言う仮想的有能感を持った人は、森田理論で言うと「かくあるべし」が強い人なのではなかろうか。なんでも自分の思い通りにしようとする。周りの人を自分の支配下に置き、自由自在にコントロールしようとしている。自分を中心にして世界が動いているかのように錯覚している。理想の立場に自分の身を置いて、上から下目線で他人を見下している。速水氏は、仮想的有能感を持った人は、次のような特徴があると言われている。仮想的有能感を持つ人は、本質的に自己中心的であり、自分のことだけは関心が強いが、他人のことには関心が薄い。仮想的有能感の高い人の特徴は、共感性がもてない人である。街で見知らぬ人が困っていたりしても、 「悲しみ」を共感できないので手を差し伸べるような事はない。彼らは社会的出来事に対しては極めてクールで何ら感情を持たない。仮想的有能感の高い人は、何よりも自分が弱い存在だと思われたくない。例えば、学業成績が悪い、運動競技に負けたという現実があっても、素直に自分の能力や努力の足りなさを認めるというよりは、先生の指導が悪かったとか、競技場のコンディションが悪かったと自分以外の要因に帰し、自己責任を回避するものと考えられる。その限りでは悲しみは生じない。ただ怒るだけである。仮想的有能感の高い人は、多くの苦労をしてまで目標達成を目指すとは思われない。彼らは障害に直面すると怒りを爆発させてしまい、失敗を正当化して、別の目標に移行させてしまうことが多いだろう。仮想的有能感の研究は、 「かくあるべし」の弊害ととてもよく類似している。私たち森田理論を学習しているものは、 「かくあるべし」の弊害については十分に認識しておく必要があると思う。なぜなら、「かくあるべし」という発想が葛藤や苦悩を生みだす原因となるからである。また、この点の認識が不十分であれば、 「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生き方に方向転換することは難しいからである。(他人を見下す若者たち 速水敏彦 講談社現代新書より一部引用)
2018.12.23
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イチロー選手は、記者のインタビューで「目標」というものに対する捉え方を質問されて、次のように答えている。目標を設定して、そこに到達すれば、そこで満足してしまって先に進む努力をしなくなるでしょう。満足は求めることの中にあるのです。イチロー選手は、大きな目標を持つことよりも大切なことが別にあると言っているのです。そもそも目標は大きければ大きいほど、達成は難しくなってきます。例えば、富士山ならある程度訓練をすれば、大抵の人は登れるかもしれません。ところが、エベレスト、ヨーロッパ最高峰モンブラン、アイガー北壁、マッターホルン、アラスカのマッキンリー、南米のアコンカグア、アフリカのキリマンジャロに登頂するという目標は極めて難易度が高くなります。登山の経験の豊富な人でも登頂するにあたっては、多くの困難が待ち受けています。サポーターやシェルター、キャンプ地設営、多くの物資、資金など用意周到な準備なしには挑戦することはできません。ましてや未熟な人がそのような大きな目標を持つと、途中で挫折することが多くなります。大目標が達成できないということになると、不全感が残り、ストレスがたまります。それを押しのけてでも、目標達成に向けて、闘志を奮い立たせることができる人は問題ないでしょう。しかし現実には目標達成第一主義で挫折してしまう人が圧倒的に多いのではないでしょうか。また、たとえ、大目標を達成してしまうと、次に挑戦する目標がなくなり、意欲や、やる気が減退してしまうということもあります。イチロー選手は、最初から大きな目標に照準を合わせると、モチベーションが維持できなくなるといいます。目の前の小さな目標をクリアしていくうちに、終わってみれば、最初に思い描いていた大目標に到達していたというのが実態です。だから、その時々の小さな目標を達成するための「プロセス」に全力を尽くすことが大切だと言われています。大きな目標を持って、その目標に到達するために、小さな目標を立てて努力することは、森田理論で言う「努力即幸福」の実践です。イチロー選手がマリナーズに在籍していた2004年は、マリナーズは優勝の可能性は全くなかった。ところが、その年、イチロー選手はシスラーのシーズン通算257安打の大リーグ記録を塗り替えた。プロセスを重視して貫いていれば、優勝というチームの目標の達成が不可能になっても頑張れる。何が何でも目標を達成しなければならないという目標達成第一主義では、容易に挫折してしまう。これは、上から下目線で自分の状態を見ているために、ちょっとした壁にぶち当たれば、「もう自分はダメだ。能力がない」などと自己否定してしまうために、やる気や意欲も同時に失われてしまうのだと思われる。目標達成第一主義は、 「かくあるべし」を自分に押し付けているのである。それよりは、自分の現状を自覚して、今自分にできる小さな目標に向かって努力するという態度がより重要になる。
2018.12.12
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今日は宇野千代さんの言葉を紹介したい。誰の心の中にも、自尊心と言うものは隠れている。この自尊心があるために、人と人との関係が、なんとなく、ギクシャクすることがある。自尊心というものが隠れている間は、何事も起こらないのに、一たび、ちょっとでも頭をもたげてくると、面倒なことが起こる。そのことを知っている人は、その時、ちょっと自分の自尊心をよそへ持っていく。人目のつかないところで、隠しておく。自尊心なんか持っていなかったようなふりをする。それに、うまく成功すると、人と人とのあいだには、案外、何事も起こらない。自尊心をちょっとどこかへ隠す、というのは、なんという便利なことであろうか。(宇野千代 幸福の言葉 海竜社 98ページより引用)これは森田理論で言うところの「かくあるべし」を前面に押し出したやり方であると思う。人間は一旦言い出すと、その言葉にとらわれて、途中でその誤りに気づいても引っ込みがつかなくなる。また、自分の頭で考えた理想や主義主張を相手に押し付けることがある。その結果、自分と相手の間に亀裂が生じ、人間関係が悪化の一途をたどる。理想や完全を追い求めて努力する生き方は尊い。しかし理想主義や完全主義の立場から、現実、現状、事実を否定すると葛藤や苦悩が始まる。「かくあるべし」に翻弄された人生は、苦難の人生の始まりである。ではどうすればよいのか。「かくあるべし」はこれまでの人生の中で作り上げてきたものであり、 完全にはなくすることはできない。しかし、努力することによって「かくあるべし」を減少させることができる。「かくあるべし」の弊害を理解して、そういう方向に向かっているのかどうかが重要である。その際、有効になるのが、事実をよく観察する。事実を両面感で見ることが欠かせない。ごまかしたり、隠したりしないで事実のままに具体的・赤裸々に話す。事実から出発する態度を身につける。事実に対しては、是非善悪の価値判断をしない。 「純な心」を大事に取り扱う。 「私メッセージ」の言動を身に付ける。これらは、私が森田療法理論から学んだ方法であった。これを一言で言えば、「事実本位」の生き方である。これはたえず「かくあるべし」とのせめぎ合いであり、一生をかけて取り組むべき課題であると考えている。「かくあるべし」が強くなっていると思ったら、事実本位に立ち戻れる能力を身につけることが大切なのだと思う。
2018.12.09
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法律の「法」という字は、一般的には、社会で人が守るように定められた取り決めと言う意味があります。注目したいのは、それ以外に、「ある事柄のもととなる普遍的な原理」という意味があります。その普遍的な原理をこの言葉自体が表しています。この字を分解すると、水偏(いわゆるさんずい)に「去る」になります。これは自然界のあらゆる出来事は、絶えず水のごとく変化して流れていくということではないでしょうか。この話を聞くと、鴨長明の方丈記の一節を思い出します。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。人生の中では、自然災害に遭遇したり、思わぬ事故に巻き込まれたり、大病をしたりします。その度ごとに悲観的になって生きる勇気を挫かれてしまいます。人間関係や理不尽な出来事に遭遇して、腹立たしい感情が絶えず沸き起こってきます。道端で猛犬やヘビに出会ったり、山でイノシシや熊に出会うと、生きた心地はしません。このような危険に遭遇すると恐怖心でいっぱいになります。そんなときに、その嫌な出来事や感情にいつまでもこだわる生き方は、自然の流れに反する生き方ではないでしょうか。川で流された時、必死に岩などにしがみついて、流されないようにありったけの力を振り絞っているようなものです。川の流れに沿って、川の流れに身を任す方がまだ助かる可能性が高いのではないでしょうか。世の中は自分の思い通りにならないことばかりですが、それでも大自然は大河や銀河の流れのごとく、絶えず変化し流れてゆきます。一時も同じ場所にとどまっていることはありません。「岩もあり 樹の根もあれどさらさらと たださらさらと水の流るる」という古歌があります。この古歌の意味は、岩や木の根のような煩悩やしがらみの娑婆世界にありながらその中に埋没せず、さりとて超然ともせず、空、無の境地で水が流れるように、あるがままの姿で生きるという意味です。その流れを止めようとしたり、逆らおうとしたり、無理に流れを変えようとすると苦しくなるのです。私たちはサーファーのように波を捉え、波に乗ることだけに集中して生きていければ、葛藤や苦悩は少なくなるのではないでしょうか。私たちもこのような楽な生き方を森田理論によって学び身に付けたいものだと思います。
2018.12.05
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「石にかじりついても金メダルを取らなければならない」という風に考えるのを、目標達成第一主義という。この考え方は、 「かくあるべし」の強い人が陥りやすい考え方だ。この考え方をとっている人は、周りから見てみると悲壮感にあふれている。ピリピリしていて人を寄せ付けないところがある。楽器の演奏者は、完璧な演技をしなければならない。この資格試験には絶対に合格しなければならない。このプロジェクトは絶対に成功させなければならない。などなど。完璧に出来るのが当たり前と思っているので、取り越し苦労が絶えない。ミスや失敗に怯えているので、言動がぎこちなくなり、思わぬ失敗を招きやすい。完璧にこなそうと思うが故に、ミスや失敗を招いてしまう。こういう考え方をとっていると、ミスや失敗をするとすぐに落ち込んでしまう。それと、自己嫌悪や自己否定に走り、すぐに挫折してしまう。そして、自分は何をやってもうまくできない。ダメな人間だと人格否定をしてしまう。一挙に意欲や、やる気がうせてしまい、世間の失笑をかうのである。こういう人は、オリンピックなどでメダルを獲れないと、生き恥をさらしで国に帰ることができないと深刻に悩んでしまうのだ。かくあるべしは自滅の道を突き進んでいると言える。これに対して、 「石にかじりついても金メダルをとりたい」というように考えるのを、プロセス第一主義という。金メダルを取るという大きな目標を持っている。しかし、今の技術や能力ではとても獲る事は出来ない。技術的な問題があるのか、能力的に無理なのか、様々な角度から検討を加える。そして、技術的な面に問題があれば改善をする。能力を高めるための方法が見つかれば挑戦をする。全て思い通りに事が運ぶ事はほとんどない。二歩前進して一歩後退が続くかもしれない。試行錯誤の連続である。しかしあきらめない。1段ずつ階段を上って努力を積み重ねていく。そして、うまくいけば、オリンピック代表選手に選ばれ、その次にメダルを目指すことになるのである。金メダルは最終の目標となる。プロセス第一主義とは、毎日毎日、瞬間瞬間を精一杯に生きるやり方である。結果第一主義とは、そもそも出発点が違う。自分の立ち位置が違う。プロセス第一主義とは、現実、現状、事実を素直に認めることに重きを置いている。森田理論では、目標達成至上主義は自分や他人を苦しめるばかりであるという。「かくあるべし」を少なくして事実本位に生きる「プロセス第一主義」をオススメしているのである。これを一言でいえば「努力即幸福」ということである。
2018.11.07
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誰でも歳をとれば、物忘れが多くなる。すぐに疲れやすく、体のあちこちが痛くなる。病気がちになる。根気なくなる。意欲がなくなる。性欲がなくなる。物が食べられなくなる。睡眠が浅くなる。 シミやしわが増える。顔や体形が醜くなる。目が見えなくなる。歯が抜けてくる。髪が抜けてくる。昔、簡単に出来ていた事が時間がかかるようになる。あるいはできなくなってくる。などなど、若い頃には考えられなかったような身体の衰えを感じるようになる。このような時にどうしたらよいのか、森田理論で考えてみよう。一般的には、老化による心身の変調や体力の低下に意識や注意が向いて、悲観するような人が出てきます。昔の元気だった頃と比べて、今の現状を嘆き悲しんでいるのです。「もう年寄りだから」「もう夢も希望もない」「生きていても、何の楽しみもない」「死んで楽になりたい」体が弱って病気がちになり、意欲ややる気がなくなった自分を否定することは、将来への希望を喪失してしまいます。これは「かくあるべし」が強い人にありがちなことです。元気な人は、自分を奮い立たせて、エステに通い、高額なサプリメントを買い求める人も出てきます。昔のように機敏に行動しなければならない。物忘れが激しくなり、ましてや認知症になれば夢や希望がなくなってしまう。顔や体形が醜い状態では人前に出ていく事は出来ない。体力が衰えているのに、つい無理をして頑張り後でその反動で苦しむ。このように「かくあるべし」で、衰えの目立つ体や脳の機能を、嘆き悲しんでいると、どんどん閉塞状態に落ち込んでしまう。自分に「かくあるべし」を押し付けると、体や脳の機能はどんどん失われていくので、理想と現実はどんどん乖離して、苦悩や葛藤がますます膨らんでくる。精神的にはとても辛い状況が待ち受けているのです。これらに対して、森田理論で学習したように、現状を受け入れて認め、事実に寄り添うようにしたいものです。現在の状況の中でできることに取り組んで精いっぱい生活を楽しもうではありませんか。そしてあまりにも現実離れした欲望は持たないことだ。顔や体型は努力すれば、ある程度はもとに戻せる。ヨガ、ストレッチや運動によって、体力や体の柔軟性はある程度は保てるはずだ。老眼鏡をかければ、新聞は読める。歯が抜けても入れ歯がある。無理しないで、今の自分にできる範囲のことを精一杯やっていこう。自分のできることは安易に人任せにしないで、自分で手掛けるようにする。年をとれば髪が抜ける人がほとんどだ。体の自由が利かなくなるのが普通だ。体力に合わせて動こう。無理をすることは禁物だ。できなくなった仕事は、人に依頼しよう。体調の変化を感じたら、病院で検査をして、悪いところが見つかればこまめにメンテナンスをして生活しよう。記憶力はなるべくメモする習慣をつけて、忘れてもすぐに思い出すことができるようにしよう。老いという現実、現状、事実を素直に認めて、そこから一歩でも前進するという気持ちを持ち続けることが、心身共に健康で暮らすことができる道であると思う。もう年だからとあきらめてしまうと、体力も気力も急に老け込んでしまうので要注意だ。
2018.11.06
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思想の矛盾(理想と現実のギャップで苦悩している人)を抱えている人の特徴は以下の通りである。1 、強力な「かくあるべし」を持っている。完全主義、完璧主義、理想主義の人である。強いコントロール欲求がある。目的、目標至上主義、結果第一主義の人である。すぐに是非善悪の価値評価をする人である。自己弁護、自己否定、他人否定をする人である。考え方に柔軟性がなく、硬直している。一方的な決めつけが多く、再考する余地はほとんどない。そのため、変化対応力に乏しい。状況に合わせて、臨機応変に対応することができない。「絶対に、必ず、いつも、みんな、決して」という言葉が頻繁に出てくる。2 、話す内容が非論理的で筋道が通っていない。本能的、感情的、観念的である。その時の不安や恐怖、不快感などに左右される。気分本位な言動が目立つ。3 、事実を観察したり、確かめるという態度が希薄である。事実の裏を取るという気持ちがほとんどない。過去の自分の経験で、すぐに是非善悪の価値判断を行う。人の噂や話を事実として安易に信用してしまう。4 、現実、現状、事実を悲観的、否定的に見てしまう特徴がある。坂道を転がる雪だるまのようにどんどん増悪して、身動きも出来ない状況に陥ってしまう。事実を正しく認識して、そこから打開策を探りだし、将来に明るい展望を見出すことが困難になる。人生を悲観して、生きる意欲がなくなってしまう。森田理論では、強力な「かくあるべし」を持っている人は、辛い人生が待っているという。「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生き方を身に付ける事は、自他共に幸せな人生を全うすることにつながる。
2018.11.05
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子供に「かくあるべし」を押し付けない身近な事例が見つかったので紹介してみたい。ある冬の午後、 6歳の男児が庭先で1人で遊んでいます。気温が下がり寒くなってきました。母親は、 「寒くなったので、セーターを着なさい」を言いました。でも、子供は遊びに夢中です。 「セーターはいらない」 「寒くない」と言ってそのまま遊び続けています。母親はセーターを家に取りに帰り、無理やり子供押さえつけてセーターを着させてやりました。この母親は、 「セーターを着たほうがよい」と判断し、子供に着せてやっています。「寒いだろう」 「風邪をひいてはいけない」と心配したのでしょう。しかし、子供は周りの状況については考えていませんし、状況に適した行動をとろうともしていません。母親が適切な行動を促しているのに、それに従う事はしません。こうなりますと、母親はイライラして言うことを聞かない子供をつい叱責してしまいます。そして最終的には、子供の意思とは関わりなく母親の思い通りの行動を強制しているのです。母親の身体やイライラ感はなくなりましたが、この対応は母親の「かくあるべし」を子供に押し付けている事にはならないでしょうか。では、どのような対応がよいのでしょうか。目の前の問題を解決するために、あるいは現状をより良い方向に持っていくために、 「どうすればよいか」 「何をすることができるか」を親と子供が一緒になって考え、互いに協力して解決策を探す。親だけが考えるのではなく、 「寒くなったみたいだけれど、セーターを着たほうがよくない」と子供に問いかけ、子ども自身の判断も交えて、協力して次の対応を考えるようにするのです。この対応は、母親があらかじめ「子供にセーターを着させよう」という「かくあるべし」を持ち出して、その「かくあるべし」を子供に押し付けているのではありません。それだと、親が子供に対して、一方的な忠告、話しかけ、命令、指示になってしまいます。子供には子供の意思があります。もし子供が「セーターはいらない」 「寒くない」と言うのなら、 「お母さんは、寒くなってきたからセーターを着たほうがいいと思うけど」など、私メッセージを活用して返答することです。私メッセージは、どのような行動を選択するかは相手に任せています。この場合、それでも「セーターはいらない」と子供が言うのなら、しばらくそのまま遊びを続けさせて、様子を見るしかありません。無理やり母親の「かくあるべし」を子供に押し付けることだけは差し控える必要があります。さらに気温が下がってきたら、改めて注意を促します。もしセーターを着ないまま外で遊んでいたために、風邪をひく結果になれば、子供はその経験から、気温の変化への対応を学ぶことができます。次回からは、子供も寒さに気をつけるようになるでしょう。「かくあるべし」を押し付けることは、子どもの反発を招き、親子喧嘩のもとを作るようなものです。小さい頃は、親の「かくあるべし」 に従うでしょう。しかし、思春期を迎えるころになると、今までの「かくあるべし」的対応は何倍にもなって反発を招いてしまいます。その時点で親が右往左往するのでは遅いのです。取り返しがつきません。小さい頃から、母親の意思と子供の意思が大きく乖離したときは、どうするのかについて対等の立場で話し合うことが大切なのです。双方が自分の意思を打ち出して、話し合う。歩み寄るのだという意志が必要なのです。このようなことを積み上げていけば、子どもは自分で周りの状況を判断し、自分で適切に行動する能力を身につけてきます。そして自立した大人に成長していくのです。これは親と子供の事例ですが、大人と大人の人間関係の持ち方にも応用できることです。2人の人間が寄れば、自分の考えと他人の考えは、乖離があるのは当たり前のことです。その時に「かくあるべし」を前面に押し出してしまうと、人間関係がぎくしゃくとしてうまくいかなくなります。そういう時は、一時的に自分の考えを横に置いて、相手の考えを十分に聞くことです。そして、自分の考え方との乖離状況を見極めることです。そして次に、その乖離を話し合いによって少しでも解消していくことです。交渉の過程では、私メッセージの手法が大変に役に立ちます。「かくあるべし」で相手と渡り合うと、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りのオンパレードとなります。当然人間関係は悪化してきます。ここで取り上げた手法を取り入れると、少なくとも人間関係で最悪の状況を迎える事は避けることができます。この手法が人間関係で「かくあるべし」を抑えるひとつの方法となります。森田理論はこういうところで、大いに活用し応用していくことが大事なのです。(アドラー心理学 古庄高 二瓶社 32ページ参照)
2018.11.03
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玉野井幹雄さんの言葉です。この世には、初めに、存在価値の支配する評価のない事実だけの世界があります。存在すること自体に最高の価値を認める世界、評価する以前の世界、比べない世界、雑草はないという世界、根源的な幸福感が得られる世界、生かされている恩恵の世界、神経症があってもなくてもいい世界。自分は評価に支配されていなければ、思い切ったことができる。次に、利用価値とか経済価値などの支配する評価の世界があります。役に立つか立たないか、利益になるかならないかが評価される世界、雑草があるという世界、神経症の起きる世界、 いつ評価が変わるか分からないので落ち着いていられない世界、ここでの評価は最高のもので、それ以上のものはないと思わせる世界。世間を騒がしている幸・不幸の話題の多くは、この世界の出来事である。与えられるものは当然で、自分のした事は評価してほしいという不満の多い世界。自分が評価に支配されていると恐ろしくて思い切ったことができない。(神経質にありがとう 、玉野井幹雄 白揚社 244ページより引用)玉野井さんは、人間に生まれて、人間として存在すること自体に最高の価値を認めて、事実だけが尊重される世界に生きると、ほとんどの悩みは霧散霧消すると言われています。これは自分にないものを求めるのではなく、自分に備わった能力をとことん活用し、伸ばしていくことだと思います。他人と比較して、自分の状況を正確に把握することは必要です。しかし、自分の欠点や弱みと他人の長所や強みを比較して、良いとか悪いとか価値判断をすることはほとんど意味がありません。事実を唯一のよりどころとして、目線を一歩上に上げて前進して行くのが人間の宿命というものではないでしょうか。森田理論は、すべてのものは、生まれながらに持っている存在価値を存分に発揮して、世のため人のために役立てる事を勧めているように思えます。そして、人間を苦しめている 「かくあるべし」という考え方、態度を少なくして、事実本位の態度を身につけることが、人間が本来の生き方であるということを教えてくれているように思います。
2018.11.02
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先日、沢田研二さんの「さいたまスーパーアリーナ」でのコンサートが中止になった。この会場は最大収容人数が3万7,000人であるという。これに対して、今回のイベント会社による集客数は7,000人だったようだ。沢田研二さんは所属事務所とイベンター会社から9,000人と聞いていた。収容人数からすると、同じようなものだと思うが、沢田さんは納得できなかった。沢田さんは、リハーサルでモニターを見たとき、椅子が置けるのに置いてない。また客席が潰されているブロックが6カ所ぐらいあったことに腹を立てた。沢田さんは、 「客席がスカスカな状態でやるのは酷なことだ。無理だよ。僕にも意地がある。コンサートをやるなら満員にしてくれ。無理なら断ってくれ」と、最終的に自分で中止を決めた。これに対して、テレビ報道が過熱している。賛否両論があるようだ。小倉智昭キャスターは、 「沢田さんの気持ちはよく分かるんですよ。大きな会場で客が入っていないと黒い幕で座席を全部覆うんですね。それを見ていると気の毒でならない。特に栄光のある大歌手の場合は、かなりステージに立ってショックを受けると思うんですね。主催者はもっと沢田さんの気持ちを察しなければいけなかったのではないかと思います」と同情の見解を示していた。それはそうかもしれないが、一面的な物の見方に偏りすぎていると思う。これに対して、私は森田理論で考えてみた。これは集談会で言えば、外部講師を招いたとき、外部講師が来てみれば5人ぐらいしか参加者がいない。こんなに参加者が少ないのでは講話をする意欲が湧かないので、申し訳ないが帰らせてもらうと言っているようなものではないかと思う。「僕は講話をするにあたって、時間をかけてそれなりの準備をしてきたのだ。僕にもプライドがある。バカにするのもいい加減にしろと言う気持ちなのだろう」せっかく外部講師を招くのならば、それなりの参加者を集めるべきだという気持ちがみえみえである。これは、 「講話をするからには、きちんと集客をして、少なくとも10人から15人以上の参加者を集めてもらいたい 」という、「かくあるべし」という理想主義が前面に出てきているように感じる。もっとも、実際には集談会ではそういう外部講師はいないと思う。残念に思うだろうが、参加した人に一生懸命準備した講話をするはずだ。それは小人数の参加者という事実を受け入れて、その状態でベストを尽くすという生活態度が身についているからだ。私は「かくあるべし」という思考態度を改善していない人の、講話を聞いてもよい話は聞けないような気がする。なぜなら森田理論の根幹的な部分で、理解不足を露呈しているように思えるからだ。理想通りに事が運んでいないと、現実を受け入れることができない。すぐに現実や事実をを否定してしまうのである。その不満をあからさまに行動に移すと、参加者やその日コンサート楽しみにしていた観客には多大な迷惑や損害を与えてしまう。そして信頼感を失ってしまう。また、そのような行動をとった人も、理想と現実のあまりにも大きなギャップで苦悩することになる。さらにこのような「かくあるべし」に翻弄されている人は、他の面でも生活全体が「思想の矛盾」で苦しんでいる人だと思われる。
2018.10.24
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相田みつをさんの言葉に「遠くからみている」という言葉がある。知的発達障害の人々は、年老いた両親が支援していることが多い。一方で、両親ではなく、第三者が援助していいる場合もある。一般的には、第三者が応援している方が、成功していることが多い。若い障害者夫婦が両親と同居していると、最も破綻しやすい。両親がスープの冷めない距離より、少し離れたところから見守ることができている場合が、若い夫婦の生活は最も安定している。これは両親が障害者の子供に直接援助したり、口出しが出来ないからである。親子が離れて生活しているから、共依存に陥らないのである。この状態は、両親が過度な干渉を控えて「遠くからみている」ことになる。子供の自立を助けるというのは、そういうことであろう。しかし、遠くから見ていることができるのは、見ている人自身の自律や自立がしっかりしていなければならない。相手を信じられない人は、実は自分を信じることができないでいる。佐々木正美さんは、子供を育てると言う事は、遠くから見守ることと、信じて待っていることだと思っている。育児に失敗する親は、遠くから見ていられない親なんです。僕は育てる喜びと言う事は、「待つ喜びだ」と思います。自分の子供は挫折したり、迷ったとき、親としてどれだけ待ってあげるのかは、親の最大の役割だと思っています。待つ間、親は心配しない、悩まない、苛立たないために、夫婦で待っている何年間も豊かに会話をして、両親の世界をちゃんと持つ。子供に近づきすぎずに遠くから見ている。これは、 1人ではできないことです。その間(ま)を夫婦で持たせることが大切だと思います。もちろん子供を信じられなかったら待てないですね。(相田みつをいのちのことば 佐々木正美 小学館 38ページ、 98ページより引用)パラサイトシングルという言葉がある。幾つになっても、両親と同居して、親の経済的な援助を享受しながら独身生活を謳歌している人のことである。普通は動物でも自分で生活できるようになると、親元から離れていく。伴侶を探して、子供を産み、経済的にも精神的にも親から自立して生きていくようになる。親とはたまに連絡を取り合うだけの関係になっていく。いつまでも親と一緒に生活していると、子供のほうにどうしても甘えが出てしまう。親も子供がかわいいので、必要以上にできるだけのことをしてしまう。経済的な面だけではなく、精神的な面でもいろいろと口を出すようになる。子供が親の援助を受け続け、親が子供に過剰に援助することが生きがいになってくると大変なことだ。お互いが自分の人生を生きているのではなく、お互いの自立した生き方や向上発展の目をことごとくつぶしてしまうようになるからだ。母子密着という言葉があるが、それは0歳から3歳ぐらいまでのことだ。その後は次第に距離を広げて、親は過保護、過干渉を止めて、子供の側にいるが「遠くからみている」状態に変化することが大切だと思う。
2018.10.03
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今日は「きまり・ルール・規則」と「かくあるべし」の違いについて考えてみたい。ルールには、国際法、条約、法律などがある。それを守らない国があると、守っている国から非難される。道路交通法などの法律が整備されていないと、交通は大混乱に陥る。私は以前バイクの2段階右折を知らずに、パトカーに捕まったことがある。バイクに乗るにもかかわらず、交通法規の学習を怠った私に非がある。スポーツには必ずルールがあり、それに基づいて行われている。ルールなしでボクシングを行うとどうなるか。ただの殴り合いの喧嘩になる。ルールの範囲内で相手と激しく争っているから安心して行えるのである。 日大のアメリカンフットボールのように、ルールを無視した反則は、決して許されないのである。実情に合わせてルールは変更可能である。ルールが変更されると、好むと好まざるとにかかわらず、全員がそのルールに従うこと強制される。もしルールに従わない人がいれば、糾弾される。それでも従わなければ、その組織から追放される。そんなのは、自由を奪われて、窮屈と見るのかどうか。家庭の躾や学校で行う生徒指導の多くは、 「きまり」「ルール」に基づいて、子供や生徒をその枠内に従わせようとするものである。子供にルールを教えこむ事は躾と言われている。躾にはどんなものがあるか。まず第一に、身体の安全に関する躾があります。食べて良いものといけないもの、触って良いものといけないもの、近づいて良いものといけないものなどを教えます。次に、生活習慣の躾があります。トイレの使い方、手を洗う、歯を磨く、お風呂に入るなど、日常生活の仕方を教えます。さらに、人間関係の持ち方について躾ます。挨拶をする。お礼を言う。順番を守る。喧嘩をしない。などです。家庭で決めた独自のルールもあります。家事の役割分担。小遣いの額。門限。テレビを見たり、ゲームをする時間などです。学校では、いろんな禁止事項があります。服装、髪型、身だしなみなどです。靴下の色やスカートの長さまで決められているところもあります。子供はよい悪いにかかわらず、多くのしつけを身につけながら成長しているといえます。こうしてみると、ルールや規則はわれわれの自由を拘束し、森田理論で学習する「かくあるべし」を押し付けているようにも見えます。自分の欲望ややりたい事とは相反することを強制されているように見えます。そんなことはしたくないと、ルールに反発する人もでてきます。しかし、ルールや規則には「かくあるべし」とは全く違うことがあります。基本的には、ルールや規則は、多くの人が参加して、不平や不満は持ちながらも、妥協や調整を繰り返して作り上げてきたものです。これに全員が従うことによって、社会は秩序があり安全で安心できるものになっているのです。秩序や調和が生まれて社会活動がスムーズに行われているのです。歯車に潤滑油が注がれ、ギクシャクした人間関係がなめらかになります。その集団に所属する人々は、お互いに平等です。これに対して「かくあるべし」を押し付けるという事は、支配と被支配の人間関係を生み出します。相方が自分の主張を述べ合って、歩み寄りや調整をしていくという関係ではありません。力のある者や発言力や経済力のあるものが、そうでない人を自分の意のままにコントロールしようという関係にあります。それでは本来どういう人間関係を目指すべきなのか。まず相手の事をよく観察する。相手の言い分をよく聞く。自分の言い分も相手に主張する。ここでは是非善悪の価値判断をしない。双方の意見の隔たりを確認しあう。そして後はお互いに、歩み寄りができないか、調整できないかを交渉していく。ときには自分の主張を押し通したり、別のときには相手の主張を受け入れたりする。一方的に自分の思い通りに相手をコントロールしようとするのではなく、相手とのバランスを取りながら、WIN WINの関係を探ることである。人間関係は決して自分の意のままになるものではない。常に相手と対立しやすい。いつも神経が磨り、イライラすることが多いが、調整と妥協を目指しながらなんとか平等な人間関係を作り上げていくということが人間の宿命のようなものであると思う。ここのところを森田理論で学習してものにしてほしいのである。
2018.09.26
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古田敦也さんのお話です。最近はプロ入り前の高校生が、 「身体を効率的に伝えるにはどうしたらいいのか」 「何を食べたら筋肉がつくのか」 「足が速くなるにはどのようなトレーニングがよいのか」 「球のスピードを上げるにはどうするか」といった情報を頭の中にいっぱい持っている。つまり頭でっかちになり、情報や知識で満杯なのである。これは一見するとよい事ばかりのように思えるが、そうばかりとは言えない。それは、情報や知識で頭でっかちになり、それを優先するあまり、行動や実践力が鈍ってくるからである。これは大きな問題です。実行する前から頭の中で結論が出来上がっていて、それが固定観念となっている。「どうせ無理」 「やっても意味がない」などという先入観や決めつけが強くなってくる。例えば、古田さんが若いピッチャーに、 「ここに投げてみろ。そうしたら、バッターだってひるむんだよ」 「次の球を生かすためにも、こういうことやってみろ」と言うと、表面的には「はい、はい」と頷いてはくれる。しかし、実行はしてくれない。 「そこはデータ的に打たれる確率が高いから」とか、 「それよりも、自分の得意なコースに投げた方が打ち取れる」と、実際のところは、端から決めつけているのである。(優柔決断のすすめ 古田敦也 PHP新書 6頁より引用)我々神経質者でいえば、情報や知識で頭の中は満杯になっている状態です。「かくあるべし」でいっぱいになっている状態です。情報や知識が多いと、事実や現実を軽視するようになります。その情報や知識で将来の予測をシュミレーションしているのです。現実の状況はあまり観察しようとしません。ちょっと見ただけで後は頭の中だけで、対応策を考えているのです。ですから、たとえ挑戦しても失敗する確率が高いものについては、 「エネルギーの無駄遣いになる」 「最初から失敗するとわかっているものにあえて挑戦するのは愚かなことである」などといって尻込みしてしまう。頭の中だけで納得したものだけに、手を出すようになります。しかし観念的なものは、事実には対応していません。事実の変化にも対応できません。そのためにミスや失敗が多くなります。シュミレーション通りに事が運ばないと、最後には投げやりになってしまいます。かって自動車の飛び込みセールスをしていた人が、次のように話されていました。ローラー作戦で飛び込みセールスをすると、確率的に商談に結びつくのは100分の1だそうです。99人の人にはすべて断られます。圧倒的に断られる確率が高いのです。断られ続けると、普通の人は自尊心が傷つき、ほとんど成果が出ないので、営業活動に嫌気が差すようになります。そして、断られないようなセールステクニックを身に付けたいと思うようになります。しかし、実際には仕事から逃げているのでまったく成果は上がりません。その人は、断られ続けても、 100分の1の成功のイメージをしっかりと持って仕事をされていました。断られれば断られるほど商談に結びつく確率が上がってくるのだと思っておられました。ここでは、頭の中でいろいろやりくりをするよりも、実際に面会する人を増やすということが大切だったのです。実際に失敗した営業体験を積み重ねていけば、失敗から成功の足がかりを数多く得ることになります。私も実際に飛び込み営業の仕事を9年ほどしていました。その時思ったことは、高い見込み客ばかりを狙って営業をしかけていると、成約に結びつかなかった場合のショックは計り知れないものがあります。実際にはその方が多かったかもしれません。頭の中でこの人は絶対に契約にこぎつけると思っていても、現実は非情なものがあります。そのような訪問営業活動をいつまで行っていても思っているような成果は出ません。自己嫌悪と仕事をさぼることで、窮地に追い込まれます。頭の中でシュミレーションすることをやめて、手考足考で実際に試行錯誤することが大切なのです。できるだけ数多くの見込み客に会うことが営業の基本だと思います。情報や知識はその土台の上で初めて役立つものです。私たちは情報や知識に重きを置きすぎて、あまりにも事実や現状を軽視しています。その結果、先入観や決めつけで、ますます実践・行動から遠のいているような状態ではないでしょうか。そんな生き方は自分を益々みじめにしてしまいます。
2018.05.06
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森田理論を学習していると「かくあるべし」が強すぎてはいけない。なぜなら「かくあるべし」と「現実・実際」が乖離して、そこに大きな葛藤や苦悩が生まれる。それが原因となって、最終的に神経症に陥ってしまうといわれている。例えば、人前で緊張するようなことがあってはならない。人から非難されたり、軽蔑されるような人間であってはならない。ミスや失敗、欠点や弱点はあってはならないことだ。ノルマや目標は必ず達成されなければならないものだ。睡眠時間はきちんと確保しなければならない。身体の違和感や体調不良は決してあってはならない。理不尽な事は決して見逃してはならない。このような「かくあるべし」を持っていると、必ずしも現実はそのようには動いてくれない。そうすると、現実と理想のギャップにイライラして我慢できなくなる。神経症で苦しむような人は、理想のほうに肩入れして、理想に現実を合わせようとしてくる。しかし実際には、容易に現実を変革することはできない。そこに苦悩や葛藤が生まれてくる。そのような態度で生活していると、神経症に陥り、生活自体が停滞してくる。「かくあるべし」の強い人の弊害はこういうことである。これに対して、森田理論学習をしている人で、次のような素朴な疑問を持っている人がいる。 「かくあるべし」というのは、目的や目標、希望や夢のようなものを含んでいるのではないか。それらは人間として生きていく上において欠かせないものではないのか。目的や目標に向かって努力していくというのは、とても大切なことだと思うが、森田理論ではどうしてそれを否定するのか。そういう所に引っかかっていると、かたくなに「かくあるべし」を少なくしていこうという森田理論の考え方には、素直には納得しがたい面があるというものだ。これらの質問が出た場合は、先輩会員としては、即座にその理屈を説明してあげることが必要であると思う。私なら次のように説明したいと思う。当然、人間が生きる上において、目的や目標、希望や夢は欠かせないものす。それらを餌にして食べて、明日のエネルギーを得て生きているのが人間という生き物である。森田理論に「努力即幸福」というキーワードがあるが、まさにこのような生き方のこと言っているのである。そういう意味で、あなたのいわれていることはまさに的を得た考え方である。ここで1つはっきりしていおきたいことがある。極めて重要なことだ。それはそのような目標を持った生き方をしている人の立ち位置である。その人は、一方で目的や目標、希望や夢は明確ではっきりしている。そこを目指している「今現在の自分の立ち位置」を明確に認識している。そしてそこに向かっていくための強い意志を持ち、何段階にもわたる工程表を組んでいるのである。そして実際に一歩一歩階段を登っている。困難な壁が立ち塞がっても粘り強く前進を続けていく。そのために現実、現状をとても大切にしているのだ。これに対して「かくあるべし」の強い人はどうなのか。今述べたような目的や目標、希望や夢を漠然としているかもしれないが同様に持っている。しかし、その人の立ち位置が、現実・現状にはないのである。その人の立ち位置は、自分が目指している達成地点に立っているのだ。そこから、はるか彼方下界の現実世界にいる自分を見下ろしているのである。そうなると、一歩一歩努力して目標や夢に近づこうとする努力は蚊帳の外になってしまう。努力しないで安易な方法で、目的や目標、希望や夢を手に入れたいと考えるようになるのである。そのために反社会的なことをしてでも、他人から奪い取るようなことも考えるようになる。さらに他人と比較していたらない自分を否定したり、軽蔑するようになる。自己嫌悪や自己否定で苦しむようになるのである。これでは目的や目標、希望や夢が自分を苦しめる道具になり下がっているのだ。最初の思いは同じようなものであっても、自分の立ち位置をどこに置くかによって、その後の展開は全く正反対になってしまうのである。この点の理解は、どうしても分かってもらう必要がある。それが、神経症に陥るか、あるいは意味のある生き方をすることができるかどうかの分岐点になるからである。なお、この学習をする前に、まずは基礎編の学習が大切であると考えている。学習の要点で言うと、神経症の成り立ち、神経質性格の特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りなどである。それらが終わると、応用編の学習に入る。応用編は森田理論の全体像の概要の把握から入る。その中に、 「かくあるべし」の発生と苦悩の始まりという単元がある。その中で、上記のことをしっかりと学んでほしいと思うのである。森田理論は相互の関連を重視した本当の意味での理論学習でないと役に立たないと考えている。このブログを欠かさず読んでいただいている方にはご理解いただけているのではないかと思っている。
2018.05.01
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道元禅師は座禅をするときの注意点について次のように述べています。 精神を訓練して度胸をつけよう。健康になろう。特別な問題を取り上げて思索しよう。智恵をつけよう。無念無想の状態になろう。無念無想の状態になろう。精神統一をはかろう。瞑想して特殊な心境になろう。こういう目的や思惑を持って座禅をしてはならない。 悟りを求めて座禅をすると打算になるといわれています。 つまり永遠に悟りには到達することができない。 この点、森田も同じです。症状をとろうとして行動・実践していると、症状はまったくなくならない。注意や意識がますます症状に向いてくる。つまり症状を強化してしまう。かえって症状が泥沼化してくるといわれています。ですから、行動は、症状のことは横において、行動そのものに一心不乱になることが大切だといいます。つまり「ものそのものになる」瞬間をたくさん作ることです。 でも現実問題として座禅をしていると、次から次へと雑念が浮かぶようにできています。雑念は自然現象ですからどうしようもないものです。これについてはどう考えたらよいのでしょうか。 道元禅師は、当然無念無想という事はあり得ない。次々に雑念が浮かぶのは仕方がない。雑念を思わないようにする。雑念を考えないようにするという事ではない。雑念は、そのままの状態にしておく。思い浮かんだことにとらわれないようにする。雑念は浮かぶがままにしておく。この態度が大切であるといわれています。これがポイントでといわれています。 普通は気になることに注意や意識を集中してしまいます。つまりこだわってしまいます。その結果自然な感情の変化流転は妨げられてしまいます。それが不安や不快感だったらどうでしょうか。取り除いたりはからったりしてスッキリとしようとします。流すことを忘れて、一つのことにこだわってしまいます。注意と感覚が相互に作用してどんどん増悪してしまいます。そして神経症に陥ってしまうのです。 道元禅師は、一つの雑念にこだわらず、次々に湧き起ってくる雑念にそのまま乗っかっていく態度の養成を求めているのだと思います。瞬間的に次々に湧き起こる雑念に対し、次々にこだわれば、現実には何にもこだわっていない状態となります。これは私たちが日常いつも経験している事です。たとえば飛行機にのる。新幹線にのる。高速エレベーターにのる。これを意識化すれば恐ろしくて居ても立っても居られない状態になります。そうならないのは高速移動の状態を自然に疑いもなく受け入れている。ものそのものになりきって一体化しているから混乱に陥らないのです。森田でいえば、「かくあるべし」的思考から離れて、自然を受け入れて自然に服従した生き方になっているのです。こだわりのない生き方は葛藤や苦悩が無くなるのでとても自然な生き方となります。この生き方を勧めているのだと思います。
2018.04.25
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先日の集談会で自分が受け入れられないがどうしたらよいでしょうかという質問があった。とっさの質問で上手に返答することができなかった。それが気になって後でいろいろと考えてみた。もう少し自分のどんなところが受け入れられないのかを聞いてみた方がよかったかもしれない。自分の容姿、神経質性格、親との関係、自分の生活環境、境遇、自分の弱点、ミスや失敗、他人からの理不尽な対応による自己否定などが考えられる。全部が受け入れられないのだろうか。それとも一部分が受け入れられないということなのだろうか。私の場合で考えてみると、森田の学習を始める前は自分の存在自体からして嫌だった。森田を学習して30年以上になるが、その点は少し変わってきた。私は人と比べて、自分の容姿は劣っていると思っている。神経質性格については、以前はダメな性格だと思っていたが、正確にはプラス面とマイナス面があって、一概には言えないと思うようになった。今では神経質のプラスの面を活かしていくことに力を入れている。親との関係では、父親が厳しく愛着障害を引きづっている。そのため以前は父親を憎んでいた。今は神経質性格という宝物を与えてくれたのが父親であると思うようになった。感謝できるようになった。境遇や環境については、欲を言えばキリがない。今の境遇を受け入れて、その中で運命を切り開いていくしか方法がないと思うようになった。ミスや失敗をすると、他人から軽蔑されるのではないかという気持ちは今でも続いている。私は周りの人すべての人からチヤホヤされたいという気持ちが強い。叱責や批判、無視をされると身の置き所がなくなる。こうしてみると受け入れられる部分もあるし、受け入れられない部分もあるようだ。受け入れなれない部分は、「かくあるべし」という考え方が強いことから発生していると思う。自分という1人の人間の中に、現実で苦しんでいる自分と完全や完璧主義、理想主義を持った自分が同居しているのである。周りのものを意のままにコントロールしたいという気持ちも強い。そして、「かくあるべし」という考え方が主導権を持って、けなげにも現実の世界で頑張っている自分を否定しているのである。森田理論では、 「かくあるべし」という考え方を止めて、現実の世界で四苦八苦している自分に寄り添うようにするとよいと言われている。上から下目線で自分の存在ややることなすことをいつも批判していると辛いし苦しい。これが自分で自分を受け入れられない原因だと思う。反対に、 現実、現状の世界にしっかりと足をついて、一歩一歩階段を上っているような生活になると、自己否定をすることがなくなるので、とても楽な生き方になる。この状態はどんなに未熟で不完全であっても、自分を否定しないで、そんな自分を受け入れている状態である。森田理論学習を続けている人は、その関係はよく理解されていることと思う。しかし実感としてはなかなかその様にはなっていないということだと思う。またすべての面で自分を受け入れられるようになりたいという性急さがあるのかもしれない。でも具体的に細かく見ていくと、以前と比べると、 ある程度は自分を受け入れる部分が増えてきているのではないでしょうか。これは森田理論を学習して少しは成果が出ているのだと思う。そういう点が評価できるようになって、改善できたことを喜ぶことができるようになることが大切なのではないでしょうか。一つでもその足がかりがつかめれば、前途は明るいのではないでしょうか。自分を受け入れるというのは、今すぐに一挙に自分のすべてを受け入れるという事ではなく、自分を受け入れる部分が次第に増えてくるということだと思います。ここで大切なことは、最初は「かくあるべし」の立場に重きを置いている自分の割合がほとんどだと思うのです。それが修養が進み現実や事実の立場に立てる割合が増えてくる。そしていつかその割合が逆転するときが来る。「かくあるべし」という自分が主導権を持っている状態が、現実や事実という立場に立つ自分が主導権を持つように変わってくる。その割合が51%を超えてくるようになると、どんなに問題だらけの自分であっても、自分を受け入れられるように変わっていくと思うのです。最初は51%と49%でもいいのです。ここで肝心なことは、自分の立ち位置が事実本位優位に変わってくることが大切です。そして、現実や事実の世界から、今一歩視線を上にあげて 、努力精進するという態度になれば、ますます自分を受け入れることができるのではないでしょうか。この時点では、「かくあるべし」が自分を否定したりいじめていても、「そうはいってもなあ!いつも理想どうりにはいかないよ。現実を踏まえて生活することが大事だよ」というように変わっていくのではないでしょうか。そうなれば思想の矛盾が徐々に解消されてきますので、結果として少しずつですが自分を受けいることができるようになるのだと思います。
2018.02.07
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森田先生は次のように言われている。自分は偉いと思う人は、実際には偉くない人である。自分は正直者だと言う人は、実際には不正直な人である。自分は従順であると言う人は、我儘者の証拠である。親鸞聖人は、自分は悪人だと言われたが、それは善人である。事実において善人であるのである。非常に慇懃(丁寧すぎて重々しい)な人は、必ず強情で妥協の出来ない人である。嘘だと思うならよく観察してみるとよい。人に対して、非常に慇懃な人は、他の人の、どんな場合をも無頓着に、単に自分の礼儀を全うし、独善を押し通して、融通の利かぬ人である。つまり、人に思いやりがなく、強情の人である。すなわち人は、その言葉や見かけの装いによって、そのままに判断しては、間違いの多いものであるということを注意しなければならないのであります。(森田全集第5巻 245ページより引用)これは、その人が言っていることや行動の内容が、事実や実際とは違うということです。むしろあべこべになっていると言われているのです。こういうケースはそこら中にあります。自分ほど統率能力があり、信頼されている上司はいないと思っているような人が、部下から煙たがられている場合があります。自分は優秀な営業マンであると思っている人が、会社の公金を使いこんで解雇されたりする。私はいまだかって嘘を言ったことはありませんという政治家が、平気で賄賂を授受している場合がある。弊社は一流企業ですといわれているような会社が、従業員に過酷な残業を強いるブラック企業であったりする。あるいは、談合して受注し、不良品を販売して、マスコミに叩かれたりする。自分ほど能力がある人間はいないと公言している人が、実は裏で不正を働いていたりする。これらは、理想主義や完璧主義を自分の信条にしている人によく見られる。あるいは、自分の思い通りに周囲の人をコントロールしたい人にもよく見られる。さらに、人間の都合通りに自然を作り換えたりしている人にも見られる。森田理論でいうところの、強力な「かくあるべし」を持って、事実や現実を見下している人である。権力者が一般民衆を見下して嘲笑って支配しているような光景である。そういう人は、事実や現実が理想とかけ離れているのが我慢がならないのである。常に事実や現実を馬鹿にして軽視し批判や否定を繰り返しているのだ。そして今すぐにでも、問題の多い現状を、自分の考える理想状態に変革しようとしているのです。それが不可能で、神経症を作り出しているということが分かっていない。標的にされた人はたまったものではありません。存在価値を認めたり、評価、賞賛、激励などは全くないのです。拒否、無視、批判、否定、叱責、脅迫のオンパレードで、自分たちに迫ってくるのですから怖ろしくなるのです。でも「かくあるべし」的理想主義が主導権を持って、我が物顔で抑圧してくるのでなすすべがないのです。本当は事実・現状のほうが主導権を持って、「かくあるべし」を制御するようになるとよいのです。森田理論学習の進んだ人は、そのことの弊害は身にしみて感じておられることと思います。私たちは、最初にあげたような人を反面教師として、「かくあるべし」的思考をできるだけ少なくして、事実や現状にしっかりと足をついて、生活を組み立てていく方向を目指さなくてはなりません。
2018.01.24
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第28回形外会で山野井さんが、次のような話をされている。新聞に出ていたことです。母のなくなった小学生で、その父の行跡が悪くて、その子供は、たびたび父を諫めたけれども聞き入れない。ある時父が博打をやっているところを、子供が警察に届けたので、父はそのために捕らえられた。それについて、批評家たちは、ある人は、それは人情でない。普通の子供の考え方じゃないという。また一方の人は、学校では、悪を憎むことを教えて、それがよくわかり、先生の教えを守る感心が子供だと言っています。どちらが正しいのものでしょうか。これに応えて森田先生曰く論語にこういうことがある。 「葉公が孔子に語りて曰く。我党に、身の正直を立てるものがある。その父羊を盗みて、子がこれを訴え出たと。孔子の曰く。我党の正直者は、これに異なり、父はこのために隠し、子は父のために隠す。正直と言う事は、その内にあり」と言う事である。人情から出発しなければならない。人情が道徳であり人生観であり、哲学であるのである。もし、子供が親を訴えることができたら、その子供は、低能か変質者かです。(森田全集第5巻 290ページより引用)法律は私たちが選挙で選んだ人が、社会生活を円滑に進めるために、国民みんなが守るべきルールを定めたものです。これを厳格に厳守することは大変だと思います。たとえば道路交通法です。高速道路は最大速度80キロと決められています。でも高速道路で常に80キロ制限を厳守することは難しいです。また一般道でも40キロ制限の道路はたくさんあります。どうしてここが40キロ制限なのかと思う場所は確かに存在します。実際には他の車の走行に合わせて、スピード違反状態で走行しているのではないでしょうか。警察が取り締まりをしていればほとんどの人がスピード違反で捕まってしまいます。スピード違反したとき、同乗していた家族が、身内を「あなたは交通違反をした」といって警察に通報するようなことがあるでしょうか。もしそんなことがあれば、訴えられた人は、一番信頼できる家族から裏切られるようなものですから、人間不信に陥ってしまいます。こんなことをされると、簡単に家族はバラバラに壊れてしまいます。森田先生は、法律で博打をしてはいけないと決められているから、その法律に従って、その罪を訴え出るというのは間違いだと言われています。純な心で言えば、親が子をかばい、子が親をかばうというのは、法律以前の人間としての当たり前の素直な感情です。そこから出発しないで、 「かくあるべし」 や法律や社会的ルールを持ち出して正論を展開するというのはだめだといわれているのです。親や子供が法律違反を犯していても、普通は家族の味方になって、守りたいというのが人情です。いつもその人情(自然な感情)から出発するという態度をとり続けることを勧められているのです。事実本位・物事本位の態度を身につけるためには、ここが肝心なところです。私が中学生の頃、国語の先生が黒板に間違った漢字を書いたことがあります。すると、それを見たある生徒が、 「その漢字は間違っています」と指摘したことがあります。するとその教師は突然不機嫌になり、腹いせで長い棒でその生徒の頭を小突いてしまいました。理不尽なことをされたその生徒は、そのうち泣き出して教室を出て行ってしまいました。今になって思うことは、その教師も教師ですが、その原因はその生徒にもあると思います。その生徒は国語を教えている教師が、間違った漢字を黒板に書くという事は許されないことだと思っていたのかもしれません。でも、そう思っていたとしても、先生の気持ちを思いやって見逃してあげる。それを先生から一本取ったような態度で間違いを指摘しては、先生の面目が丸つぶれです。伝えるにしても、授業が終わった後にこっそりと教えてあげるという配慮があってもよかったのではないか。この手の正義感に燃えて、相手の間違いを見つけるとすぐに指摘する人はたくさんいます。本人は痛快かもしれませんが、言われた本人は自尊心を傷つけられたような気分になります。普通の人は、間違いを正したいという気持ちが出てきた時に、同時にこんなことを指摘したら相手がどんなに不快な気持ちになるだろうという感じも同時に湧き上がってきます。その2つの気持ちがせめぎ合いを始めるのが普通だと思います。森田理論でいう、精神拮抗作用です。二つの間で右往左往して態度を決められないのです。どちらか一方に態度を決めてしまうというやり方は、のちのち収拾のつかない結果を招いてしまいます。
2018.01.15
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過去の投稿の再録です。シャロン伴野さんは「子供を伸ばす魔法の言葉」(文園社)でおもろいことを言われています。この中で「かくあるべし」を少なくするために役に立つ話があります。例えば、大切なお客さんが来ているのに、子供がぐずって泣き出したとします。 シャロン伴野さんは子どもにこう言います。 「お母さんは今、お客様と大事なお話をしているの。もし、泣きたいのなら、玄関のところにいって泣きなさい。もし、お母さんたちと一緒にいたいのだったら、泣き止みなさい。どっちがいいですか?」 子どもはしばらく考えて、どちらかを選びます。 泣きたいと思えば玄関のところに行きます。 玄関のところにいって泣いても誰も相手にしてくれませんから、つまらなくてすぐに泣き止みます。この場合自分で選んだことですので、小さな子供でも誇りを持って、再度泣き出すようなことはありません。 子供は自分でどちらがいいかを判断して選び、そして自分が下した決定を守る能力と自尊心が育ちます。選択肢は2つにすることです。 何でもかんでも自由にしなさいというと、子どもたちは右往左往します。また3つや4つでは多すぎます。集中できないのでダメです。また選択肢の中に脅しを入れてはいけません。こうしないと、ぶちますよとか、なにかをしてあげない、買ってあげない、という形の選択だと、それは強制になって子供の自由意志を尊重することにならない。このメリットは次のようなものです。 1、 親が子供に一方的に押し付けずに、自分の行動について子供自身に選ばせることによって、子供の自立心が育ちます。つまり森田でいう「かくあるべし」を子供に押し付けることを回避できる。 2つの選択肢を与えることで、目の前の出来事に集中できる。 比較検討することによって感じが高まります。 2、 どちらを選ぶかについては、当然、子供自身の頭で考えなければなりませんから、思考力も養われます。 3、 自分自身で考え、それに基づいて下した結論によって行動するので、子供自身のやる気が出てきます。モチュベーションが高まってきます。 4、 親にとって、子供がぐずったり、すねたりしなくなるので、子育てからくるストレスがなくなります。 「ダメです」「早くしなさい」「親の言うことが聞けないの」などという言葉は、子供が反発しやすく、親子げんかの原因になります。 5、 子供は自分に選択肢を与えてくれる親を尊敬し、親は子供が自分で選んだ行動に責任を持つのを見て頼もしく思いますので「信頼関係」が深まります。 親子の間でよくありがちなのは、大人が自分のイライラした感情をなんとか早く取り除いてすっきりしたいというということです。しかし、その手の行動は親子関係が悪化してゆきます。そして最後には、自分の思うようにならなくて「お前の好きなようにしろ」と放任して突き放してしまいます。そうなりますと、子供は、親の後ろ盾を無くしてしまいます。 親の後ろ盾を得られずに育った子供は、他人との信頼関係を築くことがとても困難になります。子供は他人が自分をどう扱ってくれたかにばかり神経を使うようになります。これが対人恐怖症の大きな原因に発展してゆくことがあります。 暖かい人間関係の枠外に出されることは身体的および社会的な「死の恐怖」と直結するからです。そうならないために、シャロン伴野さんの「どっちがいい」「どっちにする」という接し方は応用してみる価値があると思うのです。こういう考え方ができる人は、人間としての懐の深さを感じさせます。森田理論学習ではすでに「純な心」「私メッセージ」の人間関係への応用はすでにされている方も多いと思います。それにこの考え方を取り入れて、自分の「かくあるべし」を自分にも他人にも押し付けないという態度の養成はできないものでしょうか。
2017.11.13
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自分で自分のことを否定している人がたくさんいます。その人たちは1人の自分の中に2人の人間が住みついています。1人の人間は現実世界にいる人間です。もう1人の人間は、現実世界にいる人間を見て批判ばかりしている人間です。普通に考えると信じられないことですが、これは紛れもない事実です。神経症に陥る人は、批判ばかりしている人間が主導権を持っています。批判ばかりしている人間が親分のような立場に立ち、現実世界にいる自分を子分の様に取り扱っています。森田理論で言うところの「かくあるべし」を強力に押し付けているのです。他人と比較して見劣りしていると容赦しません。せめて他人なみに修正しないと承知しないのです。今のあなたのままでいいという考えはありません。一定の価値観の下に、それから外れると規格外として排除されるのです。また、あなたはこんなところがよくないけれども、こんな良いところもあるという見方をしません。ひとつ劣ったところがあれば、あなたの全存在を駄目だと否定してしまうのです。1つのパーツの欠陥によって、他の全ての人格を否定しているのです。これでは現実世界にいる人間にとって立つ瀬がありません。現状を踏まえて、精一杯努力してみようという気にはなりません。批判や否定されないように注意や意識を他人の言動に集中させるようになります。目の前の仕事や、やるべきことがおろそかになってきます。自分の欲望も見失ってきます。そして、人に依存するようになります。そういう行動が習慣化されてくると、抑鬱状態が続くことになります。それらを発散させるために一時的で刹那的な快楽を追い求めるようになります。ストレスの発散のつもりですが、原因が取り除かれていないために、一時的には楽になっても、さらに苦悩や葛藤を深めてしまうという結果になります。ますます、自分の気持ちや意思は抑圧されるようになります。そういう気持ちを持っていては、他人と衝突し、ますます否定されるようになるので封印してしまうのです。自分の気持ちや意思を抑えこんで、他人に合わせることばかりしているのは、野球で言えばバッティング練習をしないで、点を取られることを恐れて守備の練習ばかりしているようなものです。確かに失点は少なくなるかもしれませんが、試合に勝つことはできなくなります。そのうちゲームを楽しむことができなくなります。そういう状態に陥ってしまうと、自分の人間性に問題があるとして、 自分で自分を責めてしまうようになります。何をやってもダメな人間、生きていても仕方のない人間として現実世界で苦しんでいるにもかかわらず、火に油を注ぐようなことをしているのです。自分で自分を苦しめているのです。本来守ってあげるべき人間が反対のことをしているのです。このような「かくあるべし」の強い人間を作ったのは、決してあなたの人間性に問題があったからではありません。小さい頃からの親による「かくあるべし」的教育があなたに悪い影響を与えているのです。さらに、周囲の大人たち、学校教育や社会教育によって、強力な「かくあるべし」的教育を受け続けてきたのです。その結果、理想主義や完璧主義が骨の髄まで貫徹するような人間になってしまったのです。生まれてこの方、自分の周囲の人たちによって、洗脳されて、完全な「かくあるべし」的人間が生み出されてきたのです。そのことによって、私たちは葛藤、苦悩の道を歩きつづけることを強制されてきたのです。まるごとの自分の存在を個性として捉え、自分の感情や気持ちを素直に押し出して、のびのびと自由に生活していくことを拒んでいるのは、あなた自身の人間性の問題ではないのです。そういう井戸の中に入り込んで生きていると、どこに問題があって今の自分が苦しんでいるのか見えなくなってしまいます。井の中の蛙状態です。森田理論学習に取り組んだ人はすでにそのからくりを見破ってしまいました。これは大変な成果です。このからくりが分かったということは、半分は解決したようなものです。つぎに手をつける事は、自分を苦しめている肥大化した「かくあるべし」をいかに減らしていくかということです。基本的な方向は、 「かくあるべし」を減らして、現状や事実を起点にして生活していくようになるということです。そのような人間に変身していくことが大事です。その具体的な方法も、森田理論の中で明確に示されているように思います。このブログでも何回も取り上げました。あとは、その方向に向かって実践することです。いかに難しい壁が目の前に立ちはだかっていても、学習仲間みんなで協力して乗り越えることが大切だと思います。その目標が達成できると、「人間に生まれてきてよかった」としみじみと感じることができるようになります。気を抜くとすぐに元の木阿弥になってしまいますので、生涯学習として取り組みましょう。
2017.11.02
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先日大変落ち込んでしまいました。その夜は一睡もできませんでした。その理由を書いてみます。その日老人ホームの慰問活動に行きました。5人のグループで昔懐かしい歌謡曲を演奏しました。私はアルトサックスで参加しました。全部で5曲ぐらいありました。その中の1曲で、私がソロで吹く前奏部分で間違えてしまいました。この部分は特に指遣いが難しい部分です。演奏前には何日にもわたってこの部分を何回も練習しました。練習ではほぼ100%のできでした。感触としては、よもや間違いはしないだろうという気持ちでした。ところがいざ本番に臨むと一抹の不安がよぎったのです。そのまま突入しましたが、案の定間違えてしまいました。その後はなんとか持ち直し、最後まで無難に演奏できました。でもイントロ部分で間違えたので、全部が失敗したような気持ちになったのです。次の曲にも影響を与えるような憂鬱な気分になったのです。それに追い打ちをかけるように、リーダーがお客様の前でそのことを取り上げていやみを言うのです。私たちの出番が終わった言われるのならまだマシです。リーダーとしての「自分に恥をかかせた」という態度で叱責されました。この人はもともと完璧・ 完全主義者です。森田でいう「かくあるべし」がとても強い人です。ですから、趣味の世界だけとは言え、付き合いをするととても疲れます。ミスや失敗をする他人を1%でも許すことができないのですから、良好な人間関係が保てないのは当然のことです。他人が落ち込んで意気消沈しているのに、傷口に塩を塗りこむようなものです。あるいは私たちが前線部隊で、ミスや失敗をしながらも、四苦八苦しながら必死に頑張っているのです。それなのに指揮官が後ろから味方であるはずの我々に向かって鉄砲を打ち放しているようなものです。すると敵と戦う気持ちは一挙に失せてしまいます。まさか味方が思いもかけないことをするのですからパニックになってしまいます。ミスや失敗をホローして、落ち込んでいる仲間をかばうという気持ちはさらさら持ちあわせていない人なのです。この方は学校の先生ですが、こういう態度はきっと生徒との関係においても、そうした傾向があることが容易に想像できます。私は以前の会社で上司が私が提案したことを応援してくれて、思い切って挑戦させてくれ、失敗したときは上司が全責任をとってくれたことがあります。このときは上司が神様のように思えました。この上司の期待に応えたいと思って必死に頑張りました。上に立つ人は、あなたの事はいつも信頼している。いつもあなたの味方で暖かく見守っている。力になることがあったら何でも言ってください。 ミスや失敗があっても上司である私が全て責任を取る。だから、これはと思った事はミスや失敗を恐れずに思い切って挑戦してほしい。そういう上司の下では、安心感があり、上司の叱責を恐れることなく、自分の能力以上の業績を叩き出すことができるのではなかろうか。反対に「かくあるべし」の強い人は他人の上にたってはならないと思う。自分が葛藤や苦悩を抱えて苦しむだけならまだよい。それ以上に困ったことは、他人を傷つけて、奈落の底につき落としてしまうのである。そういう人と付き合うことは、自分自身の寿命を縮じめてしまうと思う。その後私は引退を申し入れました。ところが、今になってあの手この手で引き止めに躍起になっておられる。そこで今までのことを文章として整理して読み上げてメンバー全員で話し合いました。他のメンバーも私と同じようなことを考えていたことが分かりました。最終的にはリーダーがこれまでのことを反省し謝罪されました。今までのように演奏中にメンバーのことを叱りつけたりしないと約束しました。私も今までのことは水に流して、グループに残ることにしました。今回は意思疎通のいいきっかけになりました。雨降って地固まるような体験でした。
2017.10.14
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水谷啓二先生のお話です。現代人の大多数は、 「ただ働く」ということができなくなっている。毎日働くことが、 「給料を得るため」 「金儲けのため」 「人から褒められるため」 「自分を立派に見せるため」 「名声や地位を得るため」 「神経症を治すため」 「孤独感を紛らわせるため」といったような、 「ある目的を達成するための手段」に成り下がってしまっている。本来、働くと言う事は、人間にとっては、単なる「目的のための手段」ではない。働きたく、働かずにはおれないのは、人間の本来性であり、 「生の欲望」なのである。その証拠には、働くことのできないように、長く一室に閉じ込めて置かれるほど、人間にとって苦痛な事はない。私たち人間にとっては、 「やりたいからやる」 「働きたいから働く」のが自然であり、そこに生命力発揮の喜びがあるのである。私は時々若い人に、 「あなたはなぜ、ご飯を食べるのですか」と質問することがある。そうすると、たいてい「生きるためです」とか、 「健康保持の為です」とか答える。それは思想であり、観念的な目的論であって、事実そのものではない。事実は、 「食べたいから食べる」のである。しかも、そういう言葉も忘れて食べているのである。人間には、 「食べたい」 「働きたい」 「眠りたい」という基本的な欲望に始まって、 「良い配偶者を得たい」 「子供を心身共に健康に育てたい」 「親や兄弟を喜ばせたい」 「いろんなことを知りたい」 「自分の仕事を立派にやり遂げたい」 「苦しんでいる人々を救いたい」と言うような、人間らしいいろいろな欲望が本来あるのである。それらをひっくるめて、森田先生は、 「生の欲望」と名付けられたのである。 (慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 166ページより引用)これに対して私の感想を述べてみたい。水谷先生は、観念的に考えた目的のために働くということは問題があるといわれている。理屈ではなくただ働きたいという欲望に基づいて行動することが大切だといわれている。「生活のために仕事をする」というのは、邪道であるということになる。森田理論を厳密に解釈すれば、「生の欲望」に基づかない行動は弊害があるということなのだろう。しかし私はあえて最初の行動のとっかかりはそれでもよいと思っている。理屈があってもよいと思う。イヤイヤ仕方なしの行動であっても全く問題はない。むしろ自己内省に向かっていた注意や意識が、外に向かうようになるのでよい傾向だと思う。しかし、水谷先生が言われるように、その行動が、いつまでも目的達成の域から離れられないと、むしろ弊害のほうが大きくなってくる。例えば、神経症を治すという目的を持ち、その達成のために日常茶飯事に取り組んでいると、神経症は治らない。それどころか、ますます悪化してくる。それは、行動するたびに神経症がどう変化しているか、絶えず比較検討をしているからである。それはあたかも野菜の苗を植えて、しばらくたって根付いたかどうか、引っこ抜いて調べているようなものだ。これではいつまでたっても野菜は根を張ることができない。終いには枯れてしまう。神経症を治すために働くというか、動き回ることはハツカネズミが糸車を回し続けているようなものだ。傍から見ているとせわしなく見えるし、神経症が治らないので本人も最後には根を上げてしまう。行動はいつかの時点で、今手掛けている事柄そのものに注意や意識が向いていく必要がある。やっていることに意識が向いていないと、気づきや発見、アイデアが湧いてくるはずもなく、いつまでも意欲ややる気が高まってくることはない。それはただお使い根性の仕事になってしまう。つまり行動によって感情が生まれ、高まり、どんどん流れていくということがないのが問題なのだ。目の前の日常茶飯事に「ものそのものになりきる」ことで、症状のことは一時的に忘れていたという状態に持っていくことが大切になる。ここが森田理論のポイントである。こういうからくりを学習して、最初はイヤイヤ仕方なしにでも手を出していく。気分が苦しいながらも、我慢して行動してある程度時間が経つと、行動には弾みがついてくるはずだ。月曜日の朝、足を引きずるようにしてでも会社に行って、仕方なしにボツボツ仕事をしていると、昼過ぎにはいつの間にか仕事モードに転換していたという経験をお持ちの方は多いと思う。そうなれば、水谷先生の言われるように、症状のことはすっかり忘れていたという瞬間が訪れるはずだ。そんな体験が数多く増えてくることによって、次第に神経症は完治していくのだ。
2017.10.09
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人間は、矛盾した本性を持ち合わせて動いている。素晴らしく、燃えて生きていきたい。創造的に仕事に挑戦していきたい。意味のあることをして、社会に貢献したい。みんなの期待に応えて、業績もあげたい。そう思う一方で、楽をしたい。他人よりもうまい思いをしたい。考えるのは億劫だし、動くのは面倒だ。なんとかやらないで済まされないものかと頭をひねる。多かれ少なかれ、誰でもがこの両面を持って日々生きているのだと思う。(状況が人を動かす 藤田英夫 、毎日新聞社 175頁より引用)自分に照らし合わせて考えても、まったくその通りであると思う。これを森田理論で考えてみたい。森田理論の中心概念は、 「生の欲望の発揮」である。生の欲望の範囲は幅広いものがあると言われている。その中に、問題や課題、夢や目標に向かって努力していくというのがある。ところが、すぐに解決できない問題や課題、自分の力や能力では太刀打ちできない問題や課題に対しては、容易に挫折してしまう。オリンピック選手になりたいという夢やプロ野球選手になって活躍したいという目標は、能力のある人が、さらに時間をかけて努力精進しないと叶えられない。目の前の障壁を乗り越え続けるという事は大変しんどいことである。そのしんどさに耐えることができなくなって、夢や目標を放棄してしまうケースが後を絶たない。人間はよりよくいきたいという気持ちと、楽をしたい、うまい思いをしたい、という相反する気持ちが常に綱引きをしているようなものである。よりよくいきたいという気持ちがより強ければ、努力即幸福の状態になり、やりがいや生きがいを持つことができる。ところが、楽をしたいうまい思いをしたいという気持ちが勝てば、その瞬間は苦しみから解放されて楽になるが、結局は生きる屍となってしまう。やるべきことができなくなってしまい、暇を持て余すようになる。そうなると自然に考えることが自己内省に向かうようになる。自分の身体や心に注意や意識が向くようになる。エネルギーの使い方が外向きから内向きに変わってくるのである。また一方には、そんな自分を見て、批判したり、否定するもう1人の自分が、自分という1人の人間の中に新たに生まれてくる。そして、そうした人間がどんどん力をつけて、現実の自分を思うがままに支配するようになる。森田理論では、現実と理想のギャップが神経症を発症の原因になると考えている。そこに生まれる葛藤や苦しみや悩みは大変大きく根深いものである。なかなか解消することが困難である。森田理論では、この状態を「思想の矛盾」に陥っていると説明している。森田理論では、この思想の矛盾はなんとしてでも解消しなければならない。それはとりもなおさず、事実本位・物事本位の生活態度を体得していくことである。その方法は「純な心」「私メッセージ」を始めとして、様々に提案されている。私は「森田理論全体像」の中で、 「生の欲望の発揮」から、「かくあるべし」思考に陥って葛藤や苦悩を抱えてしまう原因をこのカラクリによって引き起こされているものと考えている。
2017.09.24
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石原加受子さんの「自分中心の生き方」は森田理論学習と重なるところがある。ではどこが違うのか。対人恐怖症、対人緊張を例にとって説明してみたい。森田療法でいう対人恐怖、対人緊張の人は、苦しみや葛藤のために実生活で支障が起きている人が多い。例えば仕事を辞めてしまう。出社拒否、登校拒否、ひきこもりになっている人もいる。また会社や学校などに顔を出していても孤立している。いじめに遭っている。予期不安を感じるとすぐに仕事を放り投げる。あるいは人間関係でトラブルが起きるとすぐに感情を爆発させてけんかをしてしまう。人間関係ですぐに破滅的な方向に向かいやすい人が多い。心の中はいつも土砂降り状態である。森田療法ではそういう人をも対象としている。症状の程度がどちらかというと重い。これに対して、石原さんの自分中心の生き方は、そこまで重症の人を念頭に置いているわけではなさそうである。人にこびる、他人の気持ちや意向を優先しながら、まがりなりに職場や学校に行けている。だがいつも自分の感情、気持ち、意向を押さえつけて、我慢している。耐えている。そんな対人関係の持ち方は苦しい。なんとかしてその重苦しい精神状態から抜け出したい。そういう人が主な対象者であると思う。神経症でも曲がりなりにも日常生活が何とか送れているのならば、石原加受子さんのたくさんの著書は参考になると思う。さて、対象者がこのように違うと対応方法が違ってくる。森田療法では当面の治癒の目標は何か。当面対人恐怖症の蟻地獄に落ちている人を地上に引き揚げることが目標になる。意識を対人関係のことばかりに向けていると精神交互作用で益々悪化してしまう。治すためには苦しいことだが、視線を対人関係一本に絞らないで、自分の普段の生活に向けてゆきましょうということになる。自己内省している意識を、生活を立て直す方向に転換させることを勧める。この考え方に素直に従う人は比較的早く治る。そのためには日常茶飯事、規則正しい生活習慣作りから始める。そして物そのものになって意識が外向きに転換することを目指している。この方向を推し進めていくと神経質者が本来持っている「生の欲望の発揮」に向かうことができる。同時に「不安と欲望」という単元を学習して、理論的にも間違いのないことを理解する。そして二度と負のスパイラルに巻き込まれないようにすることが大切だ。注意したいのは、このブログでもたびたび取り上げているように、この治り方は第一段階の治り方のことである。これに対して石原さんの「自分中心の生き方」では、対人関係の考え方を変えていくことを目標としている。まず自分の感情、気持ち、意向、希望を最大限に尊重しましょう。あなたが対人関係の中で苦しんでいるのは、他人中心の考え方、行動にあるのですよと言われている。自分の存在や意思をできる限り大切にして、それを前面に出すという生活態度を身につけることで、対人関係はとても楽になりますと言われています。それを具体的な事例を出しながら実践的に指導されています。森田理論で学習している、認識の誤り、「かくあるべし」の弊害、「純な心」の応用、「私メッセージ」応用、WINWINの交渉術などを紹介されています。森田理論学習では対人恐怖が改善できて社会に適応できるようになっても、思想の矛盾を抱えたままでは気が晴れることはないといいます。思想の矛盾を打破することで本当の意味で対人恐怖症は治すことができると言っています。石原さんの自分中心の生き方と言うのは、まさにそこでつまずいている人にとっては福音となる考え方です。森田理論学習は具体例が少なく理論学習で終わってしまうことが多い。むしろ石原さんの説明の方が具体的で事例が多く細かいのでこちらの方で学習することをお勧めする次第です。思想の矛盾の打破の理解は、具体的個別事例の研究のほうが分かりやすい。なお石原加受子さんの本は書店に行けば70冊ぐらいは出ているようですので、試しに1冊ぐらい読まれることをお勧めする。
2017.09.04
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2017年8月号の生活の発見誌に興味深い記事があった。あるがままを実現するために重要なことは「自己一致」ということです。「自己一致」とは、自己概念(そうであるべき自分)と現実経験(あるがままの自分)が一致している状態のことを言う。最近よく言われる傾聴でも、傾聴する側の基本的態度である三原則の1つで、 「自己一致」できていない人が傾聴しようとすると、 「あるがまま」を押しつけて、新たな「かくあるべし」を生むので注意が必要です。これは私たちは森田理論の学習の中の「思想の矛盾」のところで学んでいます。「自己一致」という言葉に刺激されて、私なりの解説をしてみたい。症状で苦しんでいる人は、ほとんどの人が自己が2つに分離している状態です。これは自分という1人の人間の中に、別の人格を持った2人の人間が住みついているようなものです。1人は現実の世界で悩んだり苦労したり、時にはどうしようもなくてのたうちまわっている人間です。そのために時には自暴自棄になることもあります。もう1人の自分は、地上からはほど遠く、雲の上から、そんな自分を軽蔑して見下ろしているような人間です。そんな自分を見て拒否したり、非難したり、無視したり、否定したりしている人間です。その2人の人間のうち、どちらの力が勝っているかということが、その後の展開を大きく左右します。現実に重心を置いた人間は、理想の自分がちょっかいを出してきても、おいそれとそれに従う事はありません。むしろ現実の世界に、しっかりと足をついて、そこを出発点にして上に這い上がろうとする人です。自分の容姿、性格、能力、境遇等、できることとできないことを見極めて、自分にもともと備わっている存在価値を存分に発揮しようとする人です。そういう人は「自己一致」しているので、葛藤や苦悩を抱えることがない。反対に、理想の自分に重心を置いている人は、けなげにも現実世界で必死になって生きている自分に対して、けんもほろろに扱います。そして、罵倒してしまうのです。また強引に、現実世界を捨てて、理想の世界に無理矢理自分を引っ張り上げようとするのです。まだ利用価値や存在価値が残っているのにそれを捨てて、別の新しい自分に取り替えようとしているのです。つまりポイ捨て、使い捨ての思想にはまっているのです。自分で自分を否定することほど悲しい事はありません。どんなに未熟でお粗末な自分であっても、自分は自分の最大の味方であることが大切です。森田理論では、思想の矛盾を解決するためには、雲の上にいる自分が雲の上から地上に降りてきて、現実の自分に寄り添うことが重要であると言います。これが森田理論で目指している究極の生き方です。しかし、この「自己一致」というのは、口で言うのは簡単ですが、すぐに身に付ける事は大変難しい。しかし森田理論を学習していけば、その方向に近づく事は出来る。私はその学習期間を3年と見ている。というのは、事実や現実、現状にしっかりと足をついた生き方は、森田理論の中ですでに理論化されているからだ。そのステップやそれに至る方法は、このブログの中でたびたび取り上げているとおりである。「かくあるべし」は体に纏わりついたコールタールのようなものであって、なかなか取り除く事は困難である。しかし「かくあるべし」を少なくして、 2つに分離した自分を1つに統合していくということを目指さない限り、自分の人生は苦渋に満ちた情けない終末を迎えるであろうことは間違いなさそうである。
2017.08.23
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森田先生は、 「面弱しは、気が強い」と言われている。この言葉の意味するところはどういうことだろうか。森田先生曰く。神経質の対人恐怖で、優勝欲のために、恥ずかしがってはならぬと、負け惜しみの頑張りのため、ますます劣等感を増長して「面弱し」になってしまうものである。具体的な例では、イソップ物語にキツネと葡萄の話がある。狐が葡萄の木を見つけて、葡萄を採って食べようとした。ところが、いくら飛び上がって取ろうとしても、葡萄を取ることができない。普通動物の場合は、精一杯努力してどうにもならなければ諦めてしまう。つまり、自然に服従する。ところが、人間の場合はその事実をねじ曲げようとする。イソップ物語に出てくる狐は、あの葡萄は酸っぱ過ぎて食べられるような代物ではないのかもしれない。きっとそうに違いないと思おうとした。自分が食べてみて、この葡萄は酸っぱい。食べることができない。それだったらよい。この狐は確かめもしないで、無理やり作り上げた事実を自分に押しつけて納得させようとしたのである。このようなことをしていると、能力や実力がない自分を卑下するようになる。自分自身が信頼できなくなる。自己を否定することはとても辛い。また、自己否定する人は他人を否定する人でもあり人間関係は悪化するばかりだ。自分の欠点や弱み、ミスや失敗を取り繕って、他人の目に触れさせないようにしようとする努力は、自分の思いとは反対の結果をもたらすことが多い。隠そうとすればするほど、普段は他人が見逃してくれるようなことでも、ちょっとしたきっかけで他人の注意がそこに向くようになる。それでも隠したり取り繕っててしまうと、周囲の人はそれをことさら取り上げて噂話として面白おかしく囃し立てるということになる。ふんだりけったりというのはこのことだ。そうなると、雑談の場に加わることが恐怖となる。また、他人と話をすることが恐ろしくなり、傍目から見ていると、人間関係を拒絶しているように見えてくる。自分の本心としては、人に受け入れてもらい、楽しい交流を望んでいるにもかかわらず、結果としては孤立して生きていく方が精神的に楽だと思うようになるのだ。それでも人に認めてもらいたい、評価してもらいたいという気持ちが強い人は、みんながしり込みするような大きな夢や目標に向かって努力し、成功の栄冠をつかもうとする。しかし、なかなか人が容易に達成できないような目標に到達することは難しい。仮に目標に到達できたとしても、他人から「どうしてそのエネルギーを仕事に向けてくれないのだ」などと言われて、自分の功績や成果を正当に評価してくれない。そうなればますます周囲の人との人間関係の溝が拡がってくる。「面弱し」というのは、事実を否定して 「かくあるべし」を強く持って、雲の上の方から地上を見て、あれがダメだ、これがダメだと愚痴をこぼしている人のことを言うのかもしれない。どんなに理不尽、不愉快であっても、事実をそのままに認めて受け入れて生活するという態度が大切である。そうでない人は、周囲の状況に合わせるということがなく、闇雲に自分の主義主張を周囲の人に押し付けるのである。周囲の人から見ると、 「あの人は気が強い」「堅苦しい」「息が詰まりそうだ」と受け取られる。そして、本来の人間関係である、何でも気兼ねなく話したり、ことさら隠し立てをしないで交流するということが難しくなるのだ。これと同じようなことで、森田先生は 「慇懃な人は強情な人である」とも言われている。私が忙しいのも、見境なしに、廊下に座って、無理やりに丁寧に、お辞儀をするような人は、何かにつけて、人と調和・妥協のできない人である。その人は、単に自分の礼儀さえ全うすれば、人の迷惑はどうでもよいという自然主義の結果であるから、受けた相談で、自分に少しでも都合の悪い事には、決して妥協はなく、自分を犠牲にするということは、毛頭ない。すなわち強情であるのである。特に目上の人に対して、状況や場所を無視して、自分の思いのままに勝手な振る舞いをする人は、その人に迷惑をかける人である。 「かくあるべし」が強いために、それをどこまでもやり通そうとするために、周囲との調和が図れなくなるのである。自他ともに不幸の種をふりまいていることになる。「かくあるべし」は今までに受けてきた教育によって、多かれ少なかれすべての人が持っている。森田理論では、人間は誰でも「かくあるべし」を持っている。それをすべてなくすることはできない。しかし、 「かくあるべし」を少なくして、少しづつ事実本位・物事本位の生活態度に変えていくことができる。そうすれば葛藤や苦悩は少なくなり、少なくとも神経症の蟻地獄に陥ってしまうことはないと考える。むしろ生きていく意義を見出して、人生は楽しいと思えるようになると思われる。(森田全集第5巻 280ページより引用)
2017.07.27
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神経質の人が、嫁入りをした後に、神経症がますます悪くなるようなことがある。それは自分が嫁として、良妻・賢母として、誰からも非の打ちどころがなく、完全な善人になりたいという欲望を押し通そうとして、つまり理想主義にかぶれるがために、舅姑や小姑などに対して、日常赤裸々の感情ではなく、完全な善人になりたいという欲望を押し通そうとして、強いて心を曲げてかかるから、周囲からも、かえって不自然なひねくれ者のようには見られ、自分が善人の義理を立てれば立てるほど、かえって周囲から虐待されて、反対の結果になり、その苦しみが重なり、ついに神経衰弱になるのである。これは嫁ぎ先の家族の人たちに、 「何でもよく気がついて、よく働くよい嫁だ」という評価を得ることに最大の関心を持っているためである。そうしないと、嫁ぎ先の人たちに嫌われて追い出されてしまうかもしれないという不安がそうさせるのである。森田理論ではそういう人は強い「かくあるべし」 を持っているとと言われている。「かくあるべし」を持っていると、理想と現実のギャップを埋めようとする。その際、理想を基準にして現実を何とかして理想に合わせようとするのである。そこでは理想からほど遠い現実に対して批判をしたり、拒否したり、否定したりする。本来は事実や現実を認めて、理想や目標に向かって一歩一歩努力していくことが必要なのである。森田先生はこのことを次のように言われている。およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分は少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいという風に、大胆になれば、初めて人からも愛され、 善人ともなるのである。つまり、自分で善人になろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、帰って善人になるのである。自分が「かくあるべし」の味方になって雲の上のようなところに身を置いて、現実の世界で苦しんでのたうちまわっている自分や他人を見て、拒否、無視、脅迫、否定することは一害あって一利なしである。「かくあるべし」が出てきた時は、すぐに現実、現状、事実に立ち返ることは大変難しいことであるが、それが森田理論でいうところの修養である。森田先生は修養とは、実行によって精神の働きや動きを体得することであると言われている。森田理論学習の目的の1つは、この事実唯真の世界を体得することにある。(森田全集第5巻 白揚社 205頁より1部引用)
2017.06.12
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今日は社会からの「かくあるべし」の押し付けについて考えてみたい。個人の「かくあるべし」については、森田理論学習でよく学習してきた。でもなかなか「かくあるべし」的思考から抜け出ることはできない。どうして「かくあるべし」を少なくすることが難しいのか。それは森田先生によると、教育の弊害であるといわれている。小さい時から社会の中や家庭の中で「かくあるべし」教育で洗脳されてがんじがらめになっているというのである。社会から洗脳された「かくあるべし」の押し付けはどんなものがあるのだろうか。・まず、この世は競争社会であり、他との競争に巻き込まれている。そして競争にはいつも勝たなければならない。競争に負けた人は社会から見捨てられ、落ちぶれた生活を余儀なくされる。・すべての人は、国や会社に役に立つ、能力のある有能な人間にならなければならない。・国益を守るために他国と交渉を有利に進めて勝ち残らなければならない。場合によっては戦争などの暴力に訴えてでも勝ち抜かなければならない。負けるとその国に支配される。・経済は常にプラス成長を続けなければならない。マイナス成長になると貧しくなり、自滅していく。そのためには、緩やかなインフレ基調を維持することが必要である。・消費は美徳である。物を大事にして、修理しながら末長く大事に使うというようなことはしてはならない。まだ使えるものでも、新しく便利なものができれば、すぐに買い替えるのがよい。大量消費の社会の実現こそが人間を豊かにする。社会がこのような「かくあるべし」をもち、それに沿って競争社会を作りだし、能力の有無によって人間の優劣を判定している。1990年ごろまでは、終身雇用、年功序列、護送船団方式のもとで、今よりは競争が緩やかであった。1億総中流家庭と言われていたころのことである。ところがバブルがはじけたころから、急に風向きが変わってきた。生活必需品が各家庭にほぼ行き渡り、日本では容易にものが売れなくなってきた。縮小された市場を巡って企業間競争が繰り広げられた。会社と個人は否応なしにその戦いの場に組み込まれて、勝ち組、負け組に二分された。負け組企業は拓銀、山一証券など大企業でも倒産に追い込まれた。生き残りのために企業ではM&Aが繰り返された。社名が幾度も変わる人もでてきた。個人もその激流に飲み込まれていった。個人には厳しい売上ノルマが課せられた。それを達成するために会社は戦場のようであった。にもかかわらず、ノルマを達成する会社、営業マンはごくわずかであり、それ以外の大多数の会社や社員は倒産、リストラ、出向の逆風にさらされた。過労死、自殺が問題になった。個人は他人との競争、ライバル会社との競争に勝つことだけが至上命題であった。生きるか死ぬかをかけた能力主義が大手を振るってまかり通っていった。負け犬となった人たちは転職を余儀なくされて、非正規社員として社会保険、給与も最低ランクに抑えられていった。中流家庭はどんどん少なくなり、富める者と貧しいものの二極分化が起きてきた。現在さらに輪をかけて悪化している。先進国はグローバル化、国際化の社会に突入したのである。日本では、人口減少、高齢化に見切りをつけて、大きな企業はほとんど海外展開している。自動車業界はその典型である。今や国内に胡坐をかいていては、その企業がもはや存続できなくなってきたのである。それでも外国のライバル会社との競争に負けると市場から淘汰されるので必死である。そのため情報化、IT化は世界を駆け巡るようになった。会社内の公用語は英語に切り替えている企業もでてきた。会社は、国際的に通用する能力の高い人間を求めだした。このような社会では、まず個人の存在価値を認めようなどということはどうでもよいということになる。競争に勝ち、会社に利益をもたらす人間だけが価値があるということになる。それが人間評価の最も大切な基準となる。これが学校教育、家庭教育に至るまで貫徹されているのである。森田でいうような「今のあなたのままでいい」なんて悠長なことを言っていると、真っ先に社会から見捨てられてしまう。私たちはこのような社会に飲み込まれているのである。社会による「かくあるべし」が生まれたときから骨の髄まで貫徹されているのである。その「かくあるべし」がどんなに人間の尊厳を軽んじていることか。これは神経症に苦しんできたものにとっては身につまされる話である。過労死や自殺者年間3万人という数字はそのことの表れのような気がする。人間にどんどん競争をあおるような社会の出現は、人類の将来を暗澹たるものに変えていくだろう。私は、森田理論学習をして、人間の生き方を見つめてゆくことがなかったとしたら、その誤りに気がつくことはできなかっただろうと思う。社会による「かくあるべし」の押し付けは、人間をどんどん不幸にしていくということを、これからも訴え続けてゆきたい。
2017.04.04
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スーパーマーケットの店長をやっていた人の話を伺った。スーパーには電話で商品にクレームをつけてくるお客さんがいるそうだ。野菜に虫が食った跡があった。農薬のようなものがついていた。萎れていた。腐っていた。包装が破れていた。レジの人の対応が悪かった。レジがいつもつかえている。駐車場で車を傷つけられた。自転車を倒されていた。等など。商品クレームの場合は、すぐにお客様の家を訪問して事情を聞くことにしているそうだ。そういう専門の担当者がいるそうだ。クレームになった商品の状況を確かめるためにすぐに動く。そのお店では店長がその役目だったそうだ。最初から「申し訳ありません。すぐに別の物と交換させていただきます」とは言わないそうだ。「ご迷惑をおかけしております。すぐにお宅様にお伺いさせていただき商品の確認をさせていただいてもよろしいでしょうか」と切り出すそうだ。それはあらゆるところにクレームの電話をかけて、あわよくば損害賠償をせしめようとするクレーマーという人がいるからだ。そういう人はある程度の金銭を出せばこの件は水に流してやると正々堂々と言うそうだ。一度でもそういう理不尽な要求をのんでしまえば、後々に影響するといわれる。だから本当に店側に責任のあるクレームかどうかを確かめる必要がある。それを確かめる前に早々といかにも自分に非があるようないい方をしてしまうと、その後の交渉が難航する。検査した上で店に責任がある場合は、ていねいに謝罪して別の商品と交換するそうだ。そしてサービス商品などをお渡しして赦してもらえるように対応する。しかし店側も商品を陳列するときは欠陥商品でないかどうかは丁寧にチェックしている。だから店側に責任がある場合は案外少ないそうだ。しかしお客様によっては、感情的になり「保健所に訴えてやる」と怒りまくっているお客さまもいるそうだ。「また隣近所に言いふらしてやる」と毒づく人もいるという。保健所に訴えてやるという場合は、「どうぞそうなさってください」というそうだ。そうして保健所が調査に来られれば、係の人に丁寧に説明させてもらいますという。「また隣近所に言いふらしてやる」というお客様には、「お客様の声」を書くための用紙をお渡しして、これに書いてくださいとお願いするそうだ。それに店側からのコメントをつけて、レジの近くの掲示板に貼り付けます。そうすれば近所の人だけではなく、より多くの人の目に触れることになりますというそうだ。これは従業員のためにもなる。スーパー等ではリスクマネージメントといって、クレーマー対策のマニュアル書がありそれを研修で学んで仕事に活かしているということでした。そう言えば私が以前勤めていた会社に「お客様相談室」があり、一般消費者からのクレームは、ここで初期対応をしていた。そこでは、クレームの電話に対して、まず「ご迷惑をおかけしております」「お腹立ちはよく分かります」と答えていた。その上で、クレーム内容を詳しく聞いて、関係部署に回していた。次のような言葉は禁句とされていた。1、 弊社では出荷時に十分にチェックをおこなっております。2、 出荷担当者が不慣れなもので、ミスをしたのだと思われます。3、 そういうクレームはお客様の主観的なものではないでしょうか。4、 商品の取扱説明書は十分にご覧になっておられますか。5、 弊社では今までそのようなクレームは聞いたことがありません。6、 そのようなクレームは争いのもとになるのではないでしょうか。これらは、自分の都合ばかり主張して、相手の気持ちを逆なでしているので会社の信用をなくしてしまうといわれていた。
2016.09.02
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私たち神経症で悩む人は完全主義、完璧主義の傾向があると言われている。それでは具体的に何をもって完全主義的傾向があると判断しているのであろうか。これには「自己志向的完全主義尺度」といわれるものがあるので紹介しておこう。次にあげる項目を、全く当てはまらないを1として、非常にあてはまるを6として判定する。その間にあるものは2から5まで自分の任意の程度で判断する。1、 いつも、周りの人より高い目標をもとうと思う。2、 注意深くやった仕事でも、欠点があるような気がして心配になる。3、 「失敗は成功のもと」などとは考えられない。4、 何事においても最高の水準を目指している。5、 どんなことでも完璧にやり遂げることが私のモットーである。6、 些細な失敗でも、周りの人からの評価は下がるだろう。7、 高い目標をもつ方が、自分のためになると思う。8、 何かをやり残しているようで、不安になることがある。9、 物事は常にうまくできていないと気がすまない。10、 人前で失敗することなど、とんでもないことだ。11、 簡単な課題ばかり選んでいては、ダメな人間になる。12、 納得できる仕事をするには、ひと一倍時間がかかる。13、 中途半端な出来では我慢できない。14、 自分の能力を最大限に引き出すような理想を持つべきである。15、 念には念を入れる方である。16、 できる限り、完璧であろうと努力する。17、 少しでもミスがあれば、完全に失敗したのも同然である。18、 戸締りや火の始末などは、何回も確かめないと不安である。19、 完璧にできなければ、成功とは言わない。20、 やるべきことは完璧にやらなければならない。以上、各項目ごとに1から6までの評価ができたら、次の下位検査ごとに得点を集計して平均と比べてみる。A、 完全でありたいという欲求 5,9,13,16,20 平均18.18点B、 自分に高い目標を課する傾向 1,4,7,11,14 平均20.57点C、 ミスや失敗を極度に気にする傾向 3,6,10,17,19 平均14.16点D、 自分の行動に漠然と疑いを持つ傾向 2,8,12、15、18 平均20.16点私の場合はAが20点、Bが21点、Cが28点、Dが18点だった。特筆すべきは、Cのミスや失敗を極度に気にする傾向が際立って高いことだった。一般の人の平均が14.16だから、私の28点は異常値である。これを分析してみた。私の完全主義というのは、普通とちょっと違うようだ。それは、ミスや失敗をすると、他の人から非難されたり、軽蔑されたり、無視されたりする。また弱点や欠点も他人に付け入るすきを与えてしまう。だから他人から、うしろゆびを指されないように無難なところで納めてしまおうとする。つまり、完璧を取り繕って、不完全なところを隠してしまうという傾向が強いのである。本音としては完璧でなくてもよい。でも他人から完璧でないと思われることは耐えられない苦痛がある。そこに不安や恐怖が高まるという傾向が強いということが分かった。完全主義といってもゆがんだ完全主義者なのだった。小さいミスはだれでもある。弱点や欠点も誰でもある。言葉ではよく分かっていても、それを実際には受け入れることができない。逃げたり、隠したり、取り繕ったりのオンパレードである。反対にうまく事が運んだ時は、こんなことはだれでもできることだと素直によろこぶことがない。また自分の神経質性格もマイナス面ばかりに注意や意識を向けて、感受性が強い、粘り強い、向上心があるなどの長所には全く目が向かない。そういうバランスの悪さが生きづらさをどんどん膨らませていたのだということが分かった。森田の両面観で自分を見ていかないと明るい展望は描くことができない。まずはそういう自覚を持って生きてゆこうと思っている。(ネガティブマインド 坂本真士 中公新書 97ページより引用)
2016.08.13
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森田理論は「加点主義」の考え方だろうと思う。決して「減点主義」の考え方ではない。この「主義」という言葉は「かくあるべし」につながる言葉であり、あまり好きではないが、適当な言葉がないので、そのまま使わせていただく。「加点主義」というのは、出発点は0である。何もないところから出発する。無から有を生みだすということである。希望や目標はいくら持っていてもかまわない。それを目指して、段階を踏んで努力精進を重ねていく。その時大きな壁や数多くの失敗にくじけそうになることもあるだろう。そんな時は希望や目標が達成して、幸福感に包まれ自信がみなぎる姿を想像することだ。気分転換を図ってまた再び重い腰をあげて挑戦していくことだ。森田先生によると昔富士登山では強力という仕事があったそうだ。普段は麓でお百姓さんをしている。富士登山の時期がくると、その期間だけ強力の仕事をする。山小屋等に生活物資を運ぶ仕事である。始めた当座は足腰が悲鳴をあげて、トイレでしゃがむこともできなくなるという。そこで痛くて仕事にならないからと寝込んでしまえば、仕事にはならない。ところがその痛みをこらえて仕事を続けているうちに、だんだん慣れてきて、登山のシーズンを通して仕事ができるようになる。徳川家康は「人生は重い荷物を背負って坂道を登るようなものだ」といった。「加点主義」の人は、目の前に現れた壁を乗り越えようとする強い意志を持っている。そして粘り強く努力する人である。そういう生き方が自然に身についている。それに引き換え「減点主義」はどういう人か。私の高校の「現代国語」の先生の場合、テストに○は一つもつけない。間違ったところに×だけをつける。戻された答案用紙を見ると殺風景だった。ここをもっと勉強して直せといわれているような気がした。私は勉強して正解だったところをもっと評価してもらいたいものだと思った。評価されることが励みになってさらに勉強の動機づけになるという点を分かってもらいたかった。この教師は一体生徒の人格をどう考えていたのかいまだ疑問である。「減点主義」の人はいつも100点満点の味方をしている。立ち位置が今の自分の状態にはない。頭の中で考えた、完璧な状態に置いている。そこから、不完全な現実、状態を見降ろしているのである。実際にはそういう状態にあることはほとんどないにもかかわらずである。完全、完璧以外は受け入れることはできないという固い信念を持っている。60点、70点は、100点よりも、むしろ0点に近いと思っているのである。そうなると、できたところに自信を持つことよりも、できなかったところが気になって自分を否定するようになる。100点の状態が当たり前であり、そこから現実と比較してマイナス10点、20点と引いていく考え方をとる。そういう「減点主義」の人は、生きることが苦しくなる。それは完全というのは頭の中ではあり得ても、現実の世界にはほとんどあり得ないからである。そういう人は、物事本位に向かわないで、その人の人格に問題があり、人間そのものを欠陥商品のようなものに考えて、実際そのように取り扱ってしまう。人間は人間に生れて来たことに意味があり、その存在価値を認識して、価値を高めていこうとする気持ちは持ち合わせていないようです。森田理論学習を積み重ねて、どの程度修養がすすんでいるのかを判定するには、自分や他人、物を見たとき、その人が「減点主義」で見ているのか、「加点主義」で見ているのかを検証してみれば簡単に見分けがつくのである。
2016.07.25
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私は人に頼みごとをすることが嫌いである。その心理を考えてみた。まず人に商品を買ってもらうために、セールスをすることが嫌なのだ。それは相手にお金の負担をかけるからだ。たとえば以前専門書の訪問販売の仕事をしていたが、専門書を大学の先生等に勧めることが苦痛なのである。でも仕事だから仕方なくやっていた。それもさぼりながら、かつかつクビにならない程度の仕事ぶりであった。専門書というのは必要だと思う人が買えばいいという考え方だから、販売しようという意欲は湧いてこない。深層心理としては、断られて自分の自尊心がズタズタに切り裂かれることに耐えられないのである。それから集談会等で世話役になってくださいということが言えない。また、発見会の会員になってくださいということが言えない。それらは会を維持するためには必要不可欠だということは分かっているのだが、どうしても逃げ腰になってしまう。「できません」「会員になるつもりはありません」などと断られるのがイヤなのである。だからそんな役回りは他の人にお願いしている。考えてみれば以前の会社で業務の仕事の責任者になった時もそうだった。大まかな仕事は振り分けていたが、誰かが病気で休んだ時など、他の人に仕事を振り分けることができない。振り分けてイヤな顔をされたり、あからさまに「自分の仕事で手いっぱいなのでできません」などと断られるのがたまらなく嫌なのである。だからそんな時は自分で背負いこむことが多かった。そのために夜遅くまで残業をしたり、土曜日曜日も出勤することが多かったように思う。断られると自分のプライドや自尊心が傷つく。また自分の人格がダメだと否定されるような気がする。自分は自分で守らないと生きていけないように感じるのだ。相手には相手の都合があって断っているというのは言葉では分かるのだが、どうしても受け入れることができない。これはその後心理学を勉強して、幼児期の愛着障害が影響していることは分かっている。また子どもの頃、アルコール中毒の父親に暴力を振るわれていたため、大人になって他人から見捨てられるのではないかというトラウマに襲われるのである。いわゆるアダルトチルドレンなのである。回避性人格障害、対人恐怖症というのも根は同じである。次に人に頼みごとをすることが嫌いな人は、人から頼まれ事をされるとうまく断ることができない。私は以前の会社で、次の日に有給休暇で休むことになっていた前日に、ある営業マンから次の日にやってもらいたいという仕事の依頼を受けた。「明日は用事で休むので、他の人に依頼してください」といえばよかったのに言えなかった。でも断るとその営業マンから憎まれ口をいわれるのではないかと恐れたのである。そこで表面上快く依頼を受けて、他の同僚に頼んでおいた。ところが次の日その同僚がその依頼の仕事を忘れてしまっていたのである。あとでその営業マンから烈火のごとく叱られた。彼の信頼は全く損ねてしまった。一事が万事、私は人からの依頼事項を断ることが苦手である。この心理も、相手の依頼事を断ると、相手の機嫌を損ねてしまう。あからさまに嫌味を言われることもある。少なくともよく思われることはない。仲間外れにされたり、陰でいろいろと自分の悪口を言われることがたまらなく苦痛なのである。つまり物事本位ではなく、内へ内へと注意が内向して自己防衛本能のみが膨れ上がってしまうのである。これは手段の自己目的化で精神交互作用を繰り返し、神経症が固着していく過程と全く同じ現象が起きているのである。私の知り合いに稽古ごとの師匠をされている人がいる。その人はちょっとずうずうしいと思うぐらい頼みごとをしてこられる。このあいだもコンサートのチケットを半強制的に売りつけてこられた。またよく高額な懇親会を企画しては強制的に参加依頼をされる。自分の習い事の勧誘も言葉巧みに誘われる。この人の場合は「ダメでもともと」という気持ちがあるようだ。「うまくいけば儲けもの」というような気楽な気持ちであらゆる人に声を掛けている。手あたりしだい、数打つわけだから、ある程度の成果は出されているようである。だから我々のように殺気立ったところはない。断っても「ア-、そう、残念ね。じゃ今度はお願いね」で一見落着することが多い。根に持たれないので助かっている。これから言えることは、いつも自分の気分を問題にしていると、すぐに蟻地獄に落ちてしまう。頼みごとをするのにはそれぞれ理由がある。頼まれごとをされるときもそれぞれ目的を持ってされている。その目的や目標をしっかりと見つめて行動していないと、すぐにネガティブな自己防衛の罠に落ちてしまうような気がする。
2016.07.07
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論理療法を開発したエリス・Aは、自殺願望のクライエントに「死ぬな」とは言わない。人間には生を選ぶ自由があると同じように死を選ぶ自由もあるという思想があるからである。そこで「死ぬな」というかわりに「死ぬことは君にとってどんな意味があるのか、私に分かるように説明してくれないか」と発問する。説得するよりは、まず相手の気持ちをわかろうとする。クライエントは「死ぬな」といってくれる人がいないとなると、生も死も自分の肝ひとつということがしみじみと分かってくるので、生とは何か、死とは何かを真剣に考えざるを得なくなる。死の選択に慎重になる。では相手を分かることは具体的にどんなことか。身体状況(例-病気、空腹、疲労等)、思考(例-認識歪曲、知識不足、価値観の傾向等)、感情(不快、幸福、臆病等)、行動(例-回避、積極的、自己顕示等)の4領域について、情報を集めることである。情報を集めるとは、日常の立ち居振る舞いをよく観察すること。ありきたりの会話に終始せずにときおりは相手の核心に触れる会話(相手が「よくぞきいてくれました」と思うようなこと)をすることである。(自己発見の心理学 国分康孝 講談社現代新書 70ページより引用)「かくあるべし」が強い私たちは、すぐに観念で考えた、自説を持ち出して相手を自分の意のままにコントロールしようとする。そういう人は対人関係にいつも躓いている人です。それは森田でいう「思想の矛盾」に陥るからです。そういう人が人間関係に持ち込んでいることは次のようなものです。相手を非難する、説教をする、命令する、指示する。禁止する。叱責する。これらのすべてがダメだというわけではないが、弊害が多すぎる。脅迫、強制して、相手を自分の考え方に従わせて、事がうまく進んだと思っている。自己満足すればするほど、事態は悪化していく。そういう人はアドラーのいう友好的な横の人間関係を築こうとしている人とは違う。いつも他者を自分のいいなりに支配しようとしている縦の人間関係に縛られて身動きできなくなっている人である。そういう人は少し付き合っただけですぐに分かる。そして敬遠したくなる。そして多かれ少なかれ、胸の内に沸々と反抗心が芽生えてくる。ロジャーズの来談者中心のカウンセリングの基本は、クライエントに対して、無条件の肯定、共感的理解であるという。そのためにカウンセラーに徹底した受容、再陳述、反射、明確化を求めている。我々も「かくあるべし」で相手を説得しようとした時は、「相手のことをもっと分かってからにしよう」という気持ちに立ちかえることが大切であると思う。
2016.07.06
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私はマンションの管理人をしている。毎月月末には町役場から広報などが届けられる。各戸に配布するのは私の仕事だ。2月末は新年度の「ゴミの正しい出し方」が届く。今年は変更がありガイドブックも付け加わっていた。しかし、配布部数がマンションの戸数分だけで管理室用がなかった。これがないと私の仕事に支障があるのだ。私はこれを見て資源ごみ、有害ごみ、埋め立てゴミ、大型ごみの日は早く出勤して、つきっきりで分別のし直し、整理整頓、清掃を行っているのだ。それでゴミ収集の委託業者にはとても感謝されている。そこで清掃の管理センターに電話して、どうして管理人室用がないのか聞いてみた。するとセンター長が出てきて、管理人室用がない理由をとうとうと説明された。「マンションはたくさんあるのでどこのマンションが必要で、どこのマンションが不必要なのか分からない。」「仕分けの手間がかかる」「このチラシはお金がかかっており余分な配布はしない方に本庁から言われている」「どうしても欲しいのなら清掃センターか役場の本庁窓口に予備を置いているので取りに行ってほしい」「この時期この手の電話が数多くかかり迷惑している」「もっともマンションの管理人さんのご協力は感謝申し上げている。そのせいでゴミ収集が滞りなく行われているのは管理人さんの分別収集のたまものです。」などと一方的にしゃべられた。私は「分かりました。じゃ本庁に出向いて相談してみます。」と言って電話を切ったが、釈然としない。すると、すぐに折り返し電話がかかってきて、「先程は言い過ぎて申し訳なかった。すぐに郵送でお送りします。だから本庁に出向いて今回のことを話すことは止めてほしい」等という。こんなことで住民の不満があるということを訴えられると困るのである。森田理論で考えてみた。このセンター長は、「必要戸数分以外は1部たりとも配布してはならない」という確固たる信念を持っておられるのではないだろうか。森田でいう「かくあるべし」に凝り固まっているのである。すると現実に困っている管理人さんがいるということに注意が向かなくなる。なんとかして自分の言い分を相手に押し付けることに神経を集中させる。あちこちから苦情の電話があるという現実に視点を当てれば、イライラすることは無くなるのではなかろうか。そして改善策を考える事ができるようになると思うのだ。例えば広報を配布する担当者に、余分の部数を持たせて、管理人に必要部数の有無を確認して、必要と言われれば1部だけ余分に配布するとどうだろう。するとトラブルの電話も無くなり、管理人さんも余計な時間をとらないで済む。そうなるためには、事実を「かくあるべし」、是非善悪の価値判断なしにそのままに見つめるという態度が欠かせないように思う。私も以前なら売り言葉に買い言葉で言い合いをしていた。最近は冷静になって相手の言い分を聞く(事実を確かめる)ことができているので、少しは森田的な対応ができるようになっていると思います。
2016.03.15
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先日東京で心の健康セミナーに参加しました。その時の質問で、会社の上司のパワーハラスメントにどう対応したらよいのかというのがありました。この方はパワハラでストレスだらけになっているのでしょう。どこの会社にも地位や権力を利用して部下の人格までも否定してくる上司はいます。こうした上司にどう対応したらよいのか切実な悩みです。こういう上司は部下に対して普段どのように考えているのでしょうか。「何回言えば分かるんだ、まじめに仕事をしろ」「またミスをしたのか。だからお前はダメなんだ。」「またライバル会社に取られたのか、もう会社に残れないな」「ノルマが果たせないなら、給料を減らすぞ」「またさぼっているのか、さっさと仕事をしろ」森田理論学習でいう頭の中が「かくあるべし」で固まっており、常に部下のあげ足をとっている。叱責して、尻を叩けば部下はそれなりにやる気を出すはずだと思っている。実際には部下は怖気づいて上司の顔色ばかり気にするようになり、成果に結びつかない。被害者たる部下はどう対応したらよいのか。杉本良明さんはこんなふうに提案されています。自分を安易に被害者にしてしまわないことです。自分を被害者だと考えたら、相手に対する批判は止まりません。もっと優しく言ってほしい。目上なら目上らしく振舞ってほしい、という思いがあるなら、相手に対する批判が必ず顔に出るものです。その結果、こちらの思いはたちどころに相手に分かってしまいます。これは上司が「かくあるべし」で部下に接していると同時に、部下も上司に対して「かくあるべし」で対応しているのだと思います。双方が事実本位、事実承認の立場に立てばややこしい問題には発展しない。でもこの場合は上司の態度は変えることはできないでしょう。反対に自分の場合は事実本位、事実承認の立場に変えようと思えば可能です。杉本さんは、自分をクレーム処理係だと思えばよいと言われています。上司だと思わずにお客様だと思うのです。クレーム処理係は決してお客様を非難しません。お客様が腹を立てて感情的になっているという事実を受け入れます。挑発にのらず、反発を気づかせないようにするのです。これはこびへつらえることではありません。相手の言動を価値判断しないで事実を事実として承認するということです。「はいわかりました」「確かにその通りです」「まことに申し訳ありません」事実を受け入れるようにすると、理不尽な言動を繰り返す上司を批判、拒否、無視、否定する態度に出ることが無くなります。現実、現状を価値批判することなく事実通りに見れるようになるのです。上司の態度に怒りで反応しないで、事実を価値判断なしに見ることができると、次のステップに進むことができます。例えば上司が怒っている理由について、なぜなんだろうと考えることができるようになります。すると、上司が爆発する前に、事前に対策を考えることができるようになります。これが上司の理不尽な言動に寄り添うことのメリットです。普通そういう上司には反発ばかりして寄りつく人はいなくなりますから、自分の相対的価値は高まってくるものと思われます。事実唯真という考え方は、上司との人間関係の中にも活用できるものと考えられます。(人間関係にうんざりしたときに読む本 杉本良明 日本実業出版社参照)
2016.02.10
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多くの会社にはお客様相談室というのがあります。商品の問い合わせだけではありません。業務の中心は苦情処理です。電話をしてくるお客様は、商品の不具合を指摘して大変立腹されています。また自分の発言に刺激されて益々怒りの感情が高まってきます。これに対してどう対応しているのか。「お客様、そうはおっしゃいますが使用説明書はご覧になりましたか」「弊社の商品でそのようなクレームは聞いたことがありません」最初からこんな対応ではけんかになり仕事にはなりません。お客様の苦情を逆手にとって、「でも」「しかし」と自分の考えを展開するのはダメです。火に油を注ぐようなことになります。「おっしゃることは分からないでもないのですが・・・」も同じような結果を招きます。基本的な正しい対応はなにか。どのように対応するように教育されているのか。まず激昂して、感情が爆発しているという事実を認めることです。その原因が弊社の商品の不具合によるのか。あるいはお客様の思い違いか。取り扱い方の無知や間違いによるのかはどうでもよいことなのです。まず何らかの原因でお客様が立腹されている。そのはけ口を求めて電話して発散しなければならないほどイライラしているという事実を認める。そしてその感情を受け入れてあげる。このことに注力することが重要なのです。言葉としては、「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」「まことにすみません」「お客様のお気持ちはよく分かります」「イライラされるのは無理もありません」「確かにその通りです」自分の本心でなくてもいいのです。ここで大切なことは相手を批判したり、責めたりしてはいけないということです。これは森田理論でいうと、相手の怒りの感情をあるがままに認めて、その感情に寄り添うということです。この反対は「かくあるべし」を相手に押し付けるということです。実際には、叱責、立腹、強制、強要、脅迫、拒否、無視、抑圧、否定するようになります。すると人間関係は平行線のままで交差することはありません。場合によっては修復不可能に追い込まれます。お客様に思いのすべてを吐き出させるのです。すべての思いを承認してあげるのです。すると感情的になっていた人も多少落ち着いてきます。理性的になってくるのです。すると「あなたに言ってもしようがないんだけどね」などと言い出すことがあります。その時点で初めて、原因追求の話を持ち出して、原因を特定して、対応策を探るという流れになります。その順序が反対になってはいけません。
2016.02.06
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昨日の続きです。こんな相談が寄せられた。旅行に行くために有給休暇を申請したら、会社から日にちを変更してくれないかと言われた。また申請すること自体会社の人事担当者はいい顔をしていない。これは法律に決められた国民の権利である。責任者として断固たる態度で会社に交渉してくれという。その結果次第では労働基準監督署に相談に行くという。その方は有給休暇の完全取得を希望している。その人の言い分も一理ある。どう対応したらよいものか。思案した。こういう場合はまず法律の内容を理解しないといけない。フルタイム労働者の場合は6カ月継続勤務すると、その先1年間は10日の有給休暇が発生する。1年6カ月たった時点でさらに11日の有給休暇が付け加わり、その後の1年間の有給は21日となる。2年6カ月たった時点では11日と12日の合計23日の有給が発生する。肝心なことはその時点で6カ月目に発生した10日の有給は使っていないと消えてしまうということだ。例えば5日間有給を使い、残った5日間は繰り越されることはない。その方はこの点を問題にしておられた。この方は、さらに、有給が残っていると、会社は「早く消化してください」というアナウンスをする役目があるといわれる。また消化しないで残った有給がある場合は会社が買い上げるべきだと主張される。その交渉を自分ではしたくないので、管理責任者の私が責任をもって交渉してくれということだった。気が進まなかったが立場上交渉せざるを得ない。管理会社の支店長に電話をした。まず有給休暇取得を断るということがあるのかどうか聞いてみた。するとこれは法律で決まっていることであり、会社がどうのこうのという問題ではないと言われた。会社が嫌がっているというのはその人の受け取り方の問題でしょう。その上で理解してほしいことがあるといわれる。約150名もの管理人がいる。その人たちが有給休暇をとった時、当然替わりの人を投入しないといけない。替わりの人は会社として常時4人確保している。それ以外にもとっさの場合シルバー人材センターにも依頼することがある。でもそれは限りがある。一方有給をとる人は、理由はさまざまである。病気や怪我、冠婚葬祭、旅行、スポーツ、観劇などのレジャーなどである。会社としては病気、怪我、冠婚葬祭は無条件に最優先している。これが厄介なのは突発的に発生することだ。交代要因の段取りがつかないことがある。旅行、スポーツ、観劇等のレジャーは前もって予想が立つ。だから前もって早めに予定を入れてほしい。それでもどうしてもやりくりがつかないときは、変更依頼をお願いしている。また有給休暇の買い上げは予定していない。これはどこの会社でもそうでしょうと言われた。また取得の促進をことさら推奨するようなアナウンスはしないという。だからもし有給休暇を完全消化したいということにこだわるのなら、これを考慮して会社と調整していけばよいことになる。以上を、この方に伝えたところ全く納得できる内容ではないといわれる。私が以前の会社で管理職をしていた時に困ったことは、有給休暇をとられるとすっぽり仕事の穴があき、それを課の者全員でカバーしなければならないことだった。また旅行やレジャーなどで有給をとられると、有給をとらない人の士気が下がることだった。そのためには出来るだけ全員に平等に有給をとらせる必要があった。でも会社は目一杯の業務を割り当てており、もし誰かが休めば、替わりの人がいるわけではないので、その分は他の人にかなりの負担となった。そこで私自身は普段は仕事が少ない状態にしておいて、有給をとられた人の穴埋めが効くように全体の仕事を割り振っていた。私も有給取得の考え方は、出来るだけ有給が流れないように全員が平等にとれることが一番だと思う。でもそれは建前だ。現実問題として多くの問題が発生するのだ。だから取る人はその意思を第一番に押し出してもよいが、それと同時に他の人への配慮を忘れてはならないと思う。欧米では完全取得が原則だという。でもここは日本なのだ。杓子定規に法律をタテに厳密に適応を迫るのは如何なものか。他の人との兼ね合い、仕事の忙しい時期等の調整を無視すれば会社の中でその人は浮いてしまう。その結果つまらぬところで人間関係がぎくしゃくとして仕事がやりにくくなるのである。これではかえってマイナスだと思う。これは私個人の意見であって、きっと反発される方は多いと思うが、森田の理論学習でよくいう調和、バランスという視点は欠かせないと思う。
2016.01.27
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叱ることと腹をたてて怒ることについて考えてみたい。まず腹をたてて怒るのはどんな場合か。子どもが勉強しない。動作が遅くもたもたしている。忘れ物をする。おかずを残す。ごはんをこぼす。飲物をひっくり返す。スーパーに連れていくとお菓子やおもちゃを買ってくれとせがむ。部下が自分を無視する。反抗する。ノルマをこなさない。配偶者が料理の手抜きをする。掃除をしない。洗濯をしない。親が痴呆になり粗相をする。同じことを何回も繰り返す。物が無くなったといって大騒ぎする。自分たちの悪口を隣近所に言いふらす。友人が自分のことを非難する。否定する。無視する。これらは子ども、部下、配偶者、親、友人が自分の考えているように行動してくれないのでイライラして腹を立てるのである。つい怒りとなって爆発するのである。それが高じると憎しみ恨みに変わる。そして最悪関係を断つようになる。これは「かくあるべし」から相手を見下して、コントロールしようとしているのではないか。その際、自分の気持ちを強烈に相手に伝えるために、怒りを手段として利用しているのである。でも相手の反発を招くばかりで、決して自分の思い通りに事が運ぶことはめったにない。また是非善悪の価値判断の結果、間違い、悪い、役に立たない等と判定したものを否定、攻撃して修正を迫る場合はどうか。これも相手無視したり、自分の思うがままに操ろうとしているのである。次に叱る場合はどんな場合か。子どもが信号を守らないで、赤信号で交差点を渡ろうとする。一旦停止を無視する。スピード出し過ぎて無謀運転をする。無駄遣いばかりをする。物を盗む。レストランで大騒ぎをする。違法ドラッグに手を出す。お菓子ばかりを食べてごはんを食べない。物を平気で道路に投げ捨てる。約束を平気で破る。など。私は親、先生、上司が部下等を叱ることは、必要な場合があると思う。かえって叱れない親、先生、上司はダメだと思う。その理由は、相手に寄り添っていないからである。相手に関わろうとしていない。無関心な態度だからである。自分の保身ばかりを考えている。そういう人を子ども、生徒、部下は軽蔑していると思う。親が子どもを叱る場合は、ルール、規範、しきたりを端から無視する。放っておくと子どもに生命の危機がせまる。放っておくと人に迷惑をかける。将来に禍根を残す。叱る場合は、こんなことをするとこんな不具合や問題点が発生する可能性が高いと知らせることである。将来高い確率で問題が起こると予想される事実を説明しているのである。あるいは相手に考えさせるきっかけ作りをしているのである。叱ることは相手の人格を責めているのではない。またそうであってはならない。事柄、行動を責めているのである。相手のことを考えているのである。叱ることで相手から逆恨みをされ、自分が非難されたり危害を加えられることになるかもしれないというリスクを冒しながらも相手の身になっているのである。あとになってみればあの忠告が役に立ったと感謝されるようなものである。でも叱るにあたっては、もともと相手との信頼関係がないと効果は半減する。普通人を育てるためには褒めることが一番だといわれる。それを基本としつつも、叱るということも加味して子育て、部下の教育にあたる方がよいと思う。
2016.01.22
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元中学校の校長の関根正明さんはこんな話もされている。C君が小学生の頃給食を残すととても叱られた。偏食してはいけないとか、感謝して食べなければいけないとか、いろいろ説教も聞いた。だから嫌いなものでも我慢して食べた。その日もそうだった。全部食べたものから校庭にでて遊んでいいことになっていたので、ぼくは校庭にでようとして靴箱のところに行った。すると担任の先生が、「こら、C男、お前だろ、これ残したのは」といって、給食のお盆とお皿をぼくの胸に突きつけた。「ぼくではありません。ぼく知りません」と言ったが、先生は「いや、お前に違いない。魚の皮、嫌いなのはお前じゃないか」「先生はみんなのことよく知っているのだ」という。ぼくは泣きたくなった。先生は「さあ、食べろ」「先生の目がごまかせるとでも思っているのか」と言って僕の胸に押し付けた。僕は食べないとぶたれると思って、皿にあったものを無理矢理食べた。僕はきたない魚を食べされられた件は決して忘れないだろう。(「叱り方 うまい先生 下手な先生」関根正明 学陽書房 182ページより引用)担任の先生はどうして先入観で犯人を決めつけるのだろうか。どんなに見え見えの凶悪犯人だって、弁護人を立てて、犯人の言い分を聞くではないか。またきちんとした証拠をあげて犯人を特定しているではないか。また状況証拠だけで死刑に追い込まれることはまずない。それは防犯カメラなどの確たる証拠がないと冤罪になる可能性が残されているからである。それぐらい事実の重みは大きい。この担任の先生の場合は、あらゆる場面で、事実を軽視していることであろう。また、家庭でも、教師仲間でも、友人関係でも事実をよく確かめないで、先入観で決めつけを行っていることだろう。その結果本当の事実との間で常にミスマッチを起こしているだろう。その結果人間関係は悪化しているだろうと思う。事実をどこまでも重視する森田理論を是非学習してもらいたいものである。C君の場合。C君は先生の先入観による決めつけはとても我慢がならないことだろう。でもそんな理不尽極まることが連続して起こり、絶えず生命の危険にさらされたり、不快な気分にされられるのが現実である。それへの基本的な対応としては、事実を認めるということだ。理不尽極まる暴挙を決して許さないという「かくあるべし」や是非善悪の価値判定の前にまずはその事実を認めて、事実は事実として認めてしまうことだ。そうすると激しい怒りは無くなる。そして担任の先生はどうしてそのような先入観で決めつけを行うのだろうかと考えるようになる。先生の人格の問題だったら対応方法を考えるようになる。そしたら親に話してPTAで対応してもらうようにした方がいいかもしれない。また食べ終わったあと「先生、魚は嫌いだったけど全部食べました」と報告するようになるかもしれない。事実を受けてすぐかっとなって自暴自棄になるのでは何にもならない。事実を認めてしまえば、腹が立つ前に次に同じようなケースに備えて対応策を立てられるのである。
2016.01.21
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関根正明さんと言う元中学校の校長先生の話です。K子さんという中学生の生徒が、小学5年生の時、先生から受けた対応がいまだに許せないという。K子さんにはこんな体験がありました。昼休み、トイレのそばで2年生らしい女の子がシクシク泣いていたそうだ。「どうしたの」と聞いても、何も言わずシクシク泣いている。「どこかイタイのだったら、オネエサンが保健室に連れて行ってあげるから」と言っても何も言わずにシクシク泣いている。その子は両手で両目をふさいでいて、顔がわからないものだから、私は両手で、その子の両手をつかんで、「ドレドレ」という感じでその子の手を離そうと思った。ところが、その子どういうわけだか、とてもがんこで、手をギュッとかたくして顔から離さない。私も少しがんこになって「どうしたのよ」と強い声で言ってしまった。とたんにその子、大きな声でウエーンと泣きだした。そのとき、運悪くとても短気で、女の子でもぶつというD先生が通りかかった。D先生は、いきなり、「こら、2年生をなぜ泣かすのか」と言うと、私の頭をゴツンとぶった。D先生は、「ちょっと来い」と私のそでを引っ張って、その2年生には、やさしい声で「どうした、何をされたんだ」と聞きながら、私と一緒に職員室に連れて行った。職員室でK子さんがどんなに理由を説明してもD先生は聞いてくれなかったという。担任もやってきて、「いじめたのなら早くあやまってしまいなさい」などという。おまけに、他の先生に「この子は、強情なところがあって」とか、「勝ち気だから扱いにくい」などと言っている。私は「もういいです。私が泣かしました」と言って、私も泣いてしまいました。この件は、Kさんは今でもシャクにさわるという。私の言うことをアタマから疑っていた担任の先生も憎らしい。だから卒業してからも、小学校なんかには一度も行っていない。(「叱り方 うまい先生 下手な先生」関根正明 学陽書房 175ページより引用)この件について、D先生はなんとも思っていないかもしれないが、K子さんにとってはとてもつらい体験だった。そして先生なんて信頼できない。大人なんて信頼できないという気持ちになったことだろう。Kさんにとっては、その時の真実を無視された。D先生は自分勝手な先入観、決めつけで私を悪者扱いした。私の言い分もよく聞いて、信じてもらいたかった。証拠もないのに私を責めることはどうしても許せないという気持ちになった。これを森田理論で考えてみよう。まず先生の対応について。先生は児童と比べると体力、経験、立場的に圧倒的に優位にある。先生は児童を教育していくという使命感から、上から下目線で児童に接する機会が多くなる。これは森田で言えば「かくあるべし」の押し付けにつながりやすい。ここは先生は十分に気をつける必要がある。児童の言い分を聞こうとしない。事実を確かめようともしない。先入観でいじめがあったに違いないと決めつけてKさんを責めている。こういう先生がいることは残念で仕方がない。教師はそういう間違いを犯しやすい存在なのだということにもっと注意を払うべきなのではないだろうか。その際森田理論学習理論が役に立つと思う。次にKさんの対応について。Kさんはきっと教師の理不尽極まる言動を許せないと思っている。Kさんはまだ小さいからよく分からないかもしれいが、世の中には理不尽極まる悲惨な出来事は数限りなくある。先日のスキーバスの事故だってそうだ。森田理論でいうと、教師の理不尽極まる言動も実際の出来事であるということを認めていくことしかない。教師を許せない。仕返しをしてやりたい。あんな奴早く死ねばいいのにと思うことは、自分も「かくあるべし」に振り回されているということである。つまり、教師ともあろうものが、決して理不尽な言動をとってはならない。教師は私たち児童、生徒のよき理解者であるべきだという「かくあるべし」にとらわれているのである。「かくあるべし」にとらわれているから、怒り、腹立たしさ、憎しみが出てきているのだ。それはトラウマとなり、今後大人になっても増悪することはあっても小さくなることはない。ではKさんのとるべき態度はなにか。事実を事実として認めていくことだ。自分の言い分を聞いてもらえず、先入観で自分が悪者扱いされたという事実を認めて受け入れていくことだ。事実を受け入れると打開策が見つかるかもしれない。先生に真実を知ってもらうにはどうしたらよかったのだろうか。その時誰か見ている人はいなかっただろうか。どう考えてもわからなかったら、客観的に話の分かる人に相談してみる。関根先生のような先生、教育委員会、児童相談所、お父さん、お母さん、PTAの役員さん等に相談してみる。また今度このような状況に遭遇したときは、どう対応したら良いか考えてみる。いろんなアイデアが浮かんで来るだろう。二度と紛らわしい行動はしないようになるのではなかろうか。つまりここでいいたいのは、事実を受け入れて、事実に従うという態度になればその後の展開が180度違ったものになるということだ。すぐに怒り狂うということは無くなってくると思うのだがどうでしょうか。
2016.01.20
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正月にこんなことがあった。娘夫婦が小学校一年と保育園児の男の子2人ずれでやってきた夕食を囲んでいた時のこと。小学校一年生の子が私宛にくれた年賀状の話になった。私が「絵はうまく描けていたが、字がくちゃくちゃだった」と口を滑らせた。不用意な発言だったと思ったが後の祭りである。すると娘が途端に不機嫌になり「一生懸命書いたのだから、そんなことを言わなくてもいいじゃないの」と怒りだした。急に気まずくなった。これをあとでどうすればよかったのか娘の立場になって考えてみた。娘の言葉はあなたメッセージだと思う。私の言動を決して許さない。表面的な面だけではなく、私の人格否定までするのだから途端にその場の雰囲気は悪くなる。これは私が娘を小さい時からそのように育ててきたので、自業自得という面がある。さて、これを私メッセージを使ってみたらどうだろうか。「お父さんはそう言うけど、光ちゃんは一生懸命書いたのよ。褒めてあげて欲しかった」「私はおじいちゃんに年賀状を出そうという気持ちが起きたことがうれしかったわ」こう言われば、「すまん。おじいちゃんの配慮が足りなかった。これからは気をつける」といえたかもしれない。もう一つ、娘には「かくあるべし」が強いのではないかと思う。小学校1年生の子どもを非難するようなことを言ってはいけない。どんな場合でも叱りつけてはいけない。よいところを見つけて褒めていかねばならない等。「かくあるべし」にとらわれていると現実はとても我慢がならなくなる。許せないのである。その態度は自然に相手を自分の思うがままにコントロールしようとすることにつながる。そこに待っているのは自分と相手のいがみ合いである。反面「かくあるべし」ではなく、事実を価値判断しないで、事実だけを受け取るようにしたらどうなるだろうか。ここでおじいちゃんの言動を価値判断なしにまず認める。するとおじいちゃんを拒否したり、無視したり、抑圧したり、批判することは無くなるように思う。そして次にどうしておじいちゃんがそんな行動をとったのだろうか。おじいちゃんはよく不用意な発言をすることがある。私もそれで傷ついたことがたくさんあった。私だけではなく、会社や親戚、友人関係でもそんなことをしているかもしれない。あとでそれとなくこんなことがあったと話してみてあげよう。それが今後の為になるかもしれない。そういうように展開していくのではないだろうか。私は腹が立ったり、相手を非難したくなった時は、一呼吸おいて、そこに「かくあるべし」はないか、是非善悪の価値判断をしてはいないかと自己内省することができるようになった。これは森田理論学習のたまものである。森田理論を学んでいなかったらとてもそんなことは思いつかない。これは誰でもその気になれは生活に活用できるようになれると思っている。
2016.01.12
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「かくあるべし」という思考方法をとる人は、他人や物事を受容するよりも、変革意識の強い人だと思います。改革、革命意識が強い。それは一面問題意識の強い人でもある。強い生の欲望を持っている人だともいえる。でも、そういう人は、どちらかというと相手の話をよく聞くことが苦手である。相手を受容し、共感、友愛、共存、妥協、協力的な関係になることが苦手である。どちらかというと支配欲、権力欲、コントロール欲求が前面に出て、他人と対立することが多くなる。勝つか負けるか、支配するか支配されるかという関係になりやすい。アドラーが言うところのタテの関係になりやすい。しかしその思いは空回りすることが多い。無理矢理自分の思うように相手を動かそうとすると思想の矛盾で苦しむようになる。人間関係でいつもつまずいて気まずい思いをするようになる。人間関係がうまくいかないのは、支配欲求が強すぎて、それが表面化しているからである。そういう人は人間関係のコントロール欲求だけでは終わらない。恐怖や不安な感情も自分の意思の力でねじ伏せようとする。自分自身でさえも理想の自分像を掲げて自己改造を試みるようになる。でもうまくいかなくて自己嫌悪、自己否定に陥ってしまう。さらに天然自然も自分たちの意のままに作り変えようとする。さらに、「かくあるべし」思考をする人は、頭の中で完全、完璧、理想の状態をイメージして、そこから現実をみる傾向が強い人でもある。自分の持っている素質、容姿、性格、境遇等は常に完璧を求める。自分の持っている能力は当たり前だと思う。自分になくて相手にあるものがよく見える。ないものねだりをするようになる。あるもの、持っている、そなわった能力を活かすという気持ちになれない。ないものを獲得して、完全、完璧、理想の自分を目指そうと努力する。そういう完全欲は自分に向けられるだけではすまない。不快な感情も不安や違和感が一つもない100%爽快な状況を求める。他人の欠点や弱みは絶対に許せなくなる。見逃すことがない。完全を押しつけて当然と思っている。生の欲望が強い。問題意識が強くて、変革意識が強いということは一面ではいいことだと思う。また完全、完璧、理想を追い求めることも、一面では素晴らしいことであると思う。しかしそれが極端になると、他人の気持ちを思いやることなく、やりたい放題になる。すぐに相手を自分の意のままに操ろうとする。完全主義が強いと、不完全なところにばかり注意が向いていく。本来なすべきことがおろそかになる。その結果いつもうつ状態を抱えて気が晴れない。そうした状況から抜け出すにはどうしたらよいのだろう。まず私たち神経質者はそういう傾向が強く表れやすいということはしっかりと自覚しておく必要がある。そして相手を受容し、共感、友愛、共存、妥協、協力的な関係を作り上げる方面にこそ全力で取り組んでゆかねばならない。そうしないとバランス、調和がとれないのである。調和がとれないと窮屈な欲求不満だらけの生き方になる。完全主義についても、その方向で努力していくことは必要な場合がある。でもそれに固執すればむしろ弊害の方が大きい。だから、ほどほど、60%で折り合いをつける生き方を身につけていく方向性に舵を切りなおさなければならない。その方がよほど意味がある生き方ができる。その方に注意を向けることによって、バランス、調和をとっていく道を探っていくべきであろう。森田でよくいうバランス、調和を取り戻す必要があるのである。森田先生の言われる精神拮抗作用の考え方はしっかりと身につけたいものである。
2015.11.30
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先日マンションに放置自転車があった。交番に電話した。するとすぐに警察官が駆けつけた。警察官はすぐに本署に無線連絡をとられた。盗難届は出ていないということだった。盗難届が出ていないものは持って帰れない。警察の役目はこれで終わりだというのだ。そして役場に電話して引き取ってもらいなさいと言われた。すぐに役場に電話した。受け付けの人が出てきた。「20日ぐらい前から、当マンション内に放置自転車があります。警察の人が役場に引き取ってもらい処理してくださいと言われました。」受付の人は担当部署にまわしますと言われた。都市整備課に回された。一通りまた同じ話をした。すると担当が違います。建設課に回しますのでしばらくお待ちくださいという。しばらくして建設課の人が出てきた。「どうしたんですか」という。私は何度も電話をたらいまわしにされてイライラしていた。でも冷静になってまた一から話をした。すると建設課の人が次のように言われた。「その自転車はどこにあったのですか」「当マンションの出入り口にありました」「公道ではないのですか」「はいそうです」「それでしたら役場では持ち帰ることはしません」「大型ごみの日にお金を支払って処理してください」等という。「でも警察の人が役場に電話してくださいと言われました」「それは警察官の認識が間違っているのです」等という。私はますます頭に血が上ってしました。一発触発のような状態であった。でもここで森田が役に立った。アドラーの「他人を自分の思い通りに支配しようとしていませんか」という言葉が脳裏に浮かんだ。もし相手を自分のいいなりにしようとしていると、人間関係は険悪になりますよということだった。確かに私は放置自転車が目障りで、役場に自転車を処理させようとしていた。でも役場の対応が、自分が想像していたよりも悪かったので腹が立った。普通なら皮肉の一言でも言わないと高ぶった気持ちは収まらないところだ。でもそうしたところで一時的には怒りを発散できても、あとで後悔することになる。それより相手の言い分を、良い悪いと価値批判しないで、よく相手の話を聞いて理解することに専念した方がよい。腹が立ったのは立ったままにしておく。怒りや腹立ちは決してすぐに反応して行動しないこと。時間がたってまだ腹が立っていれば、よく対策を立てて感情的にならずに対応すること。自分の言い分と相手の対応、言いたいことを客観的に第3者の立場から見ること。すると冷静になれる。これが相手を自分のいいなりにしようとする態度から脱却できる方法ではないのか。今回の事件では、役場の人の言い方についてはカチンと来たが、筋は通っている。あの自転車を公道に持っていって、「公道に放置自転車があります」と電話をすればすぐに役場の人が飛んできて、無償で自転車を撤去してくれることが分かった。貴重なことが学習できたのである。自分が他人を意のままにコントロールしようとしていたら、相手と喧嘩になり、イライラはますます増悪していただろうと思った。
2015.11.27
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プロ野球観戦に「かくあるべし」を持ち込むとどうなるのか。自分の贔屓のチームを応援している人も多いと思います。そういう人の中には贔屓のチームが勝てばうれしい。球場やテレビで観戦していたのに、スポーツ番組が始まるとすぐにチャンネルをあわせる。それもいろんなチャンネルをみる。あくる日になると新聞でスポーツ欄から見る。なかには駅でスポーツ新聞を買い求めて見る人もいる。野球三昧とはこのことか。ところが反対に負けると大変なことになる。しかも連敗すると目も当てられない。まずすぐに機嫌が悪くなる。家族や仕事仲間にあたり散らす。その日のスポーツ番組は一切見ない。スポーツ番組が始まるとすぐにチャンネルを変える。なかにはテレビ自体を見ないという人もいる。あくる日の新聞のスポーツ欄は見ないようにしている。なかには新聞自体見ないという人もいる。そしてにわか解説者になって監督の采配、打たれたピッチャーや打てなかったバッターの批判を繰り返す。それでもこのイライラ感や不快感はとれない。そしてしばらくは贔屓のチームの試合は見ないようにする。すると入れ込んでいない分、勝っても負けて不快感やストレスが少なくて済むのである。でも心の中ではいつも気にかかっている。野球依存症にかかっているようなものだから、一生抜け出すことはできない。こうゆう現象はなぜ起こるだろう。私は「かくあるべし」が関係していると思う。贔屓のチームがあるということは仕方のないことです。好き嫌いは自然現象ですからどうすることもできません。でも贔屓のチームが絶対に勝たなければならない。先発ピッチ―はせめて6回か7回は2点、3点以内に抑えなければならない。セットアッパーや抑えのピッチャーは抑えるのが当然だ。ホームランバッターは全打席ホームランを打ってほしい。ホームランが打てない選手はチャンスでヒットを打たなければ承知しない。こう考えているとその期待は半分以上はつねに裏切られる。現実と理想のギャップでイライラしたり腹が立って仕方ないのである。自分の一人相撲で苦の種を作り出しているのである。だいたいレギュラー選手で年間450以上打席に立つが、ホームランはよく打っても40本ぐらいのものだ。15打席で1本のホームランが打てればホームラン王になれる可能性がある。4試合に1本も打てればよいのだ。ホームランの確率としては1割以下である。それでもホームラン王になれる可能性のあるスポーツなのだ。逆に言うと、いくらホームランバッターであっても冷静に考えれば9割はホームランは打てないのだ。そこで打つ確率は非常に少ないという前提であわよくばホームランを打ってほしいと期待するのか。あるいは当然ホームランを打ってもらわないと自分の気がすまないと考えるのか。その違いは大きい。チャンスで2割そこそこのキャッチャーに打席が回ってきた。確率から言えば10回に8回は凡打に倒れている選手である。その選手に絶対タイムリーを打たないと私が許さない。と入れあげてしまうのか。確率は極めて少ない。でもピッチャーがピンチに動揺して暴投することもある。あるいは手元が狂って打ち頃の球を投げることだってある。さてこの場面そんな状況にならないかなと期待してみる。ここで仮にタイムリーを打てばこの上ない喜びになる。でも打てなくても、悔しいけれども想定の範囲と納得できるのではないだろうか。つまりデーターを見ると野球はそもそも成功確率の少ないスポーツなのである。その成功確率は3割以下である。それを前提にして、失敗してももともと、成功すればラッキーという気持ちで観戦すればそれほど私生活に大きな影響を及ぼすとは考えにくいのである。
2015.06.01
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