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井形慶子さんがイギリスのこんな夫婦を紹介されている。3人の子どもを抱える働き盛りの父親が週3日しか働かないというのだ。彼は30歳でフルタイムの仕事を辞めて以来、50歳になるまでこのスタイルで生活している。彼の普段の生活は月曜日から水曜日までは配管工として働きます。木曜日と金曜日は家にいて、朝から晩まで家の改装をします。土曜日は子どもたちと過ごす日にしています。一緒に公園や海に出かけて一日中遊ぶ。そして日曜日は休息日です。でもたいていは午後から妻と二人で庭仕事をしたり、ガーデンセンターや栽培所にみんなで出かけ、庭作りのための草花の苗を物色します。元々彼は毎日早朝から6時まで配管工として工事現場で働いていました。そんな彼が30歳になった時、2軒長屋を700万円で買いました。その家は70坪の庭園がありました。しかしべットルームが3つしかなく、室内はまるで廃墟のように荒れ果てていた。すぐに改装しなければならないような状況だったそうです。でも増改築にかけられる費用は全くなかった。そのために彼は配管工の仕事を減らして家の改装に取り組むことにしたのです。たしかに収入はかなりダウンしましたが、妻がフルタイムで働いていたし、食べていくことに困らなかったし、不安や心配は全くなかったという。家の改装の材料は主にゴミ処理施設で子どもたちと一緒に探したという。イギリスのゴミ処理場というのは欲しかったアイテムがタダで手に入る住民のトレードセンターの役割を持っているという。彼は、ここに30回近く通って鉄柵、庭用のアイアンテーブルや蛇口まで調達したという。子どもたちも実によく手伝ってくれた。彼らは父親が一生懸命家を作っている姿を見て自然に協力するようになったのだと思われます。子どもに「勉強しろ」というよりも、よほど教育的な効果があるのではないでしょうか。彼らは30坪の庭を売って改装資金を作りました。残った40坪の庭には家庭菜園を作り、新鮮な野菜を自給自足しました。そして現在、この廃墟だった家は見違えるほど美しい住宅に変わりました。1階、2階の庭に面した部分は増築を重ね、改装後の部屋数は全部で10部屋に増えました。外壁を取り壊し、床を継ぎ足す困難な仕事を含めて、プロの業者に依頼したなら2000万円はかかる仕事を、彼は妻や子どもたちに助けられながら一人でやり遂げたのです。最近プロの鑑定士に査定を依頼したところ5500万円の評価をされたそうです。マイペースで暮らしてきた結果、理想の家が出来上がり、しかも改装費の800万円を差し引いても購入価格の約7倍にも価値が上がっていたのです。何よりも自分たちの生活の為に時間を使うという生活スタイルがとてつもない精神の安定と充実感をもたらしていたのではないかと思われます。こういう人生の考え方というのはとても好感が持てます。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫 26ページ引用)
2016.05.17
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熊本地震の余震はまだ続いている。その恐怖たるや想像を絶するものがある。私は今まで2014年3月の伊予灘地震で震度4から5程度しか経験がない。それでも相当揺れて右往左往した。余震も何回も発生して精神的に消耗した。今回の地震でマグニチュード6と7はその破壊力に16倍の差があることをはじめて知った。その7程度の地震が熊本では2回も発生したという。聞くところによると、震度5以上では人々は恐怖を感じ、物につかまらないと歩くことができなくなる。震度6では家具が倒れ、耐震性の低い建物は倒壊する。高層マンションでは上の階に行くほど大きく揺れるそうだ。眺めがよいなどと喜んでばかりはいられないようである。熊本ではマンションの2階部分が1階部分に崩れ落ちたところがありましたが、取り壊すしか手がないという。ローンを抱えたままどうすればいいのだろうか。私は現在マンションの4階に住んでいる。自分の出来る対策は出来るだけとることにした。まず縦長の家具は横向きに変えた。絵などの額縁を沢山飾っていたが落ちたときのことを考えて取り外した。窓ガラスには飛散防止用フィルムを張った。パソコンのプリンターは上から下に降ろした。いざという時の為にヘルメットを用意した。緊急食料と水を用意した。また防災グッズも一通りそろえた。家の中に地震が起きたときここに逃げたら比較的安心という場所を2カ所確保した。海に近いので津波が来た時は12階に上がることにしている。極めつけは、ほとんどの家具、テレビ、冷蔵庫などを壁に固定した。これには、ポール突っ張り式、ベルトやチェーン、固定金具を使った。その他、家具の下にストッパーやマットを敷いた。とりつける時に注意しなければならないことがあった。金具やベルト、チェーンをとりつける時、下地が石膏ボードというところがある。石膏ボード自体にビスをもんでもスカスカである。石膏ボードをとりつける時は間柱を探し出して、確実に木の部分にビスをもむことである。それを検知するためにプッシュピンという道具がある。1000円ぐらいだった。これは間柱の通っている位置を簡単に見つけてくれるので大変助かった。そこに金具を取り付けた。コンクリートの壁は職人さんに依頼しないとビスが止まらない。ドリルで穴をあけ、そこに鉛のようなものを打ち込みそこにビスをもむことになる。これは騒音問題も発生するので未だ手つかずである。でもこれである程度は安心して眠ることができるようになった。まだの人は是非家具の固定の対策を早急に立ててみてはいかがでしょうか。なにしろ命にかかわることなので早急に対策を立てることが必要だと思います。
2016.05.14
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こんな川柳がある。「ストレスを減らせと医者が無茶をいう」日本人の実態をよく表現している。でもストレスを減らすことはできない。それは過度の目標管理主義、成果主義でがんじがらめに縛りあげられているからである。こんな働き方は一見合理的で、正しい価値観のように見える。でも働いている人の心と身体の障害を招くような経済合理主義が正しいやり方だろうか。資本主義の今の世の中だからこそ正当化できる価値観ではないのか。NHKの番組に「プロジョクトX」というのがあった。今はもうない。この番組は面白かった。困難を乗り越えて大きな成果をもたらした人たちの奮闘物語だった。ところがよく考えると潤いのある生活、健康管理、家庭団欒はほったらかしという人が多かった。大きな成果を上げたことは素晴らしいが、生活を犠牲にし、心身の不調を招き、家族との交流を断つことに何の意味があるのかという多数の投書によって打ちきりに至ったという話を聞いた。こんな話もある。日本人が海外の新興国で現地の人を雇って仕事をしていた。すると現地の人はあまり熱心に働かない。その日の食べ物にありつけばOKというような働きぶりだ。そこで現地の人にこう忠告した。「まじめに働かないと、将来豊かな生活はできませんよ」現地の人は日本人に尋ねた。「それはどういう生活なのか」日本人曰く。「それは将来一日中自分のやりたいことをして何不自由なく暮らしていくことです。たとえばヤシの木陰でのんびりくつろぎながら、泳いだり魚釣りを楽しむような生活です」それに対して現地の人は、「自分たちは今まさにそんな生活をして暮らしているのだ」これに対して日本人は返答できなかったそうです。今多くの日本人は朝から夜遅くまで働いている。また土曜日、日曜日まで出勤している人もいる。お金がかかる生活のためである。豊かな生活、住宅ローンの返済、子どもの教育等が重くのしかかっているのである。そんな生活を続けていると心身、家庭、子供の将来もうまくいかない。まして自分の生きがいも持てないのはなんとなく分かっている。仮にガツガツ稼がなくても生活できるようになると、精神的に楽になる。家庭も会話が増えて協力的で和やかになる。子どもたちとの接触も増えてくる。なにより子どもたちが将来に希望が持てるようになる。そんな生活を実現することはできないものだろうか。たとえば、釣りバカ日誌の浜チャン的な生き方を目指すのはどうだろう。浜チャンは仕事で会社に貢献することはあまり考えていない。出張に行けば釣りに出かけたりしている。谷敬ふんする課長にいつも叱られている。また三国連太郎が演じる鈴木建設の社長は普段は堅物だが、本音は遊び心いっぱいの人物だ。おせっかいながら、こんな会社はつぶれてしまのではないかと思う。でもノルマにがんじがらめになって働いている会社員からすればうらやましい。私はこれを参考にして表面的には愛社精神を前面に出しておいて、実際の仕事では出来るだけ手を抜くことをお勧めしたい。今の働き方は大いに問題があるのだから罪悪感に苦しむことはないと思う。リストラされない程度に最低限に働くことをモットーとすることだ。ボーナスが人より少なくてもいい。昇格しなくてもよい。月給鳥という鳥になって生活費を稼いでくる程度に働く。残業はしないで定時にはしっかりと退社する。サービス残業は適当なところできりあげる。出世は望まない。出来るだけ平社員でおられるように気をつける。会社のプロジェクトなどにはすすんで手をあげない。何かにかこつけてウソの申請をして有給休暇を出来るだけ多くとる。仕事中は何かにつけてさぼることを考える。そうしないと心も体も持たない。家族がバラバラになってしまう。そういう態度で働くことを基本姿勢として持つことだ。けしからん奴だと思われるかもしれないが、そんなことは百も承知だ。でもそうしないで定年前にむざむざつぶれてしまう人を多く見てきた。考えて見れば、私もノルマのある訪問営業をしていたとき、最低ランクの仕事しかしていなかった。さぼってばかりだった。それはそれで苦しかったが、今考えればそれで心身の健康を維持していたのだ。次の会社でも気持ちは仕事には向いていなかった。その分仕事以外のことにはいろいろと挑戦して楽しんでいた。その方面で生きがいが持てたからこそ、なんとか生きてこられたのだ。あれやこれで定年近くまで勤めていたのだ。頑張って課長、部長等になった人もいたが、成績が上がらず、出向や早期退職に追い込まれた人を何人も見てきた。そんな働きぶりで、結婚したい人は、自分一人では家族を養えないことを宣言した方がよい。夫婦共稼ぎを提案する。そのかわり家事や育児は協力して半分ずつにすることを約束する。そのほうが家族関係はうまくいく。住まいも車も電化製品も十分なものは準備できないことを分かってもらう。そのかわりゆとりある生活、心の底から楽しめる家庭づくりを目指す。ささやかなたのしみいっぱいの生活を目指す。そもそも江戸時代の人の仕事ぶりを見ていると面白い。職人などの仕事は3時ごろにはもう終わっているのだ。帰ってから自分の身の回りの生活のことをしていた。早くから晩酌等を楽しんでいた。武士なども城の外に出ると釣りをしたり、花見をしたり、参拝したり、おいしいものを食べに行ったりしている。つまり仕事と遊びは渾然一体となっていた。また子どもに家督を譲ると隠居と称してのんびり好きなことばかりやっていた。そんな生活がかつての日本人に存在したのである。またこのブログで最近よく紹介しているイギリス人の生活もこれに近い。ちゃらんぽらんなようなように見える働きぶりは時間がゆっくりと流れる。四季折々の生活の中で自然と一体化した人間本来の活き活きした生活を楽しむことができる。我々は苦しんでのたうち回るために生れてきたのではない。人生を楽しみ、人々と仲よく楽しむために生れてきたのである。人生は遊びだと高らかに宣言したいものである。
2016.05.13
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日本のことわざに「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのがある。食べ物でもお金でも必要以上にあるというのは問題が生じることが多い。美味しいからといって食べすぎれば、肥満や生活習慣病になる。腹八分目の食生活がちょうどよいのと同じだ。お金があり過ぎれば東京都知事のように湯水のように使う生活になりやすい。少し不足するくらいの収入だと、やりくり算段をする必要がある。いろいろと創意工夫するようになる。つまり人間力が働くようになるのである。イギリスでは「アッパーエグゼクティブ」と呼ばれている上層階級の最低ラインが年収2万5000ポンドといわれている。日本円で約400万円。23%の税金を引くと約300万円となる。大手企業の重役や政府の要人でさえ5万ポンド、日本円で約800万円。ちなみに大卒の初年度の年収は1万2500ポンド、何と約160万円という安さである。大衆紙「The Daily Mirror」2013年4月の発表によると、2012年のケースワーカーの年収は112万円、シェフの年収は182万円となっており、一般庶民の1ヵ月の手取りは2人の合計で24万円程度と言うのが実態です。イギリス人の給料はECの中でも最低のラインであることはあまり日本では報じられていない。英語を教えて生計をたてている在日イギリス人はこういった。「ロンドンにもどった時、シティの証券マンになったケンブリッジ大学の同窓生に会ったんだ。ところが彼はいばって「僕の年収は300万円もある」って言うんだ。ショックだったね。日本で年収300万といえば30代の大卒の専門職ではあり得ない、とても安い給料だ」イギリスの不動産は日本より安くても、食べ物や服など生活必需品の価格はそれほど変わらない。いくら福祉大国の恩恵で教育や医療が無料だったとしても生活はギリギリだ。だから夫一人の収入だけでは暮らしてゆけない。イギリスでは夫婦二人の稼ぎが必要になるのだ。家事は夫婦で分担しているのが普通だ。それがイギリスという国の実情なのだ。これを貧しい国と見るか、あるいは人間力の発揮できる生き方の出来る国と見るか大いに見解の分かれるところである。私は後者の見方をしている。イギリスでは生活費が十分にないので贅沢はできない。家や家具、車、海外旅行、欲しいものをなんでも手に入れながら、なおかつゆとりのある生活を続けるということは考えられない。不要不急なものは買わない。買う時は家族で相談して時間をかけて選ぶ。そして自分たちの持ち物は大事に使う。壊れれば修理して使う。外食はあまりしない。自分たちで作って食べる。物を買う時は慎重に吟味する。多少不便でも我慢して使う。そのかわりガツガツ働かなくてもよい。サービス残業などはないので男性でも5時には家に帰る。夫婦や子どもとの接触する時間を大事にする。イギリスでは時間はゆっくりと流れる。自然の中に身を置いて自然と一体化した生活を送っている。生活の中でささやかな小さな楽しみを沢山作りだしている。日本人は大量消費、物質的豊かさ中心のせわしない生活を送っている。恵まれているわりには精神を病み、身体疾患で悩んでいる人が多い。学校でのいじめは外国にはあまりないそうだ。また日本で自殺者3万人というのは意味がわからないと言う。日本とイギリスのどちらの生活がより人間らしいかと聞かれれば、イギリスの方だという人は多いのではなかろうか。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫参照)
2016.05.12
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昔、イギリスのテレビで「TOKYO HOUSE-東京ハウス」というドキュメンタリー番組が放映された。その内容は中流階級のイギリス人一家が4人1ヶ月間、東京に暮らし、日本人と同じ生活を送る姿を追ったものでした。住まいはファミリータイプマンションが用意されました。この一家にはそれぞれ番組制作スタッフから日本での仕事も与えられました。イギリスでホテルのポーターだった夫は建設現場で働き、パートタイムの事務員をしていた妻は専業主婦に。息子は日本の高校に通う学生になったのです。1週間で変化が起きました。まず、イギリスで妻と二人で家事にあたっていた夫は、仕事が終わり同僚に誘われ飲みに行く毎日に、帰宅は10時過ぎが当たり前になってきました。彼は家に帰っても「疲れた」を連発し、食事もそこそこに寝室に引きこもって一人テレビを見るようになったのです。近所の夫婦を見て、男がそれほど生活を助けなくても日本では家庭生活が成り立つと感じたのも理由の一つなのです。ところがどれだけゴロゴロしていても彼の慢性疲労は募るばかりでした。同じく、主婦になった妻も予想外のストレスに見舞われていました。狭いマンションの中で夫の分まで一手に家事を引き受け、誰も訪ねてこない家で家事の楽しさを失っていく姿は壮絶でした。変わり果てた妻は、日本の高校に通う息子が帰ってくると靴の脱ぎ方から始まり、えんえんと小言を言うようになりました。一家の夕食もぎこちなくなります。用意した夕食を子どもが食べないというと、妻はついに怒鳴って息子の頭をたたきます。夫はそんな姿をテレビを見ながら「やれやれ」とつぶやきます。やがて夕食の席から息子は消えました。イギリスではいつも家族と夕食を食べていた息子は、学校から帰るとすぐに出かけて友達と遊び歩くようになったのです。出演した夫婦は家庭崩壊の危機を感じて、夫は残業や接待を断りながら、早くイギリスに帰りたいと撮影クルーに真剣に訴えていました。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫 144ページより引用)この話は笑いごとではありません。日本の多くの家庭そのものの生活ぶりです。我々はその渦中にいるのでどこに問題があるのか全く分かりません。この話はまるで狭いケージの中に押し込められ、最低限の餌と水を与えられ、卵を生み続けるニワトリを連想させます。統計をとられ、生産能力が落ちてくると、有無を言わされず廃鶏として殺処分されるのです。ケージで飼われていたニワトリはケージから出されるとどうすると思いますか。自由を得て好きなところに飛んで行って餌をついばむようなことを連想する人はあまいようです。自由を得たニワトリ同士がけんかを始めるというのです。つまり精神的にはかなりのストレスがたまり、それを発散しないではやりきれない状況に追い込まれているのだと思われます。そういうニワトリを解剖してみると内臓は荒れ果て、筋肉はやせ細っているということです。当然ですね。運動不足、ストレスだらけだからです。日本人はウサギ小屋に住んでいると外国人は言います。まさに家は、テレビを見て、シャワーを浴びてごろ寝するだけの場所です。その証拠に家に中に何日も押し込められているとイライラして気が狂いそうになります。家族が家事や子育てを分担し協力し合う場所ではありません。あなたお金を稼ぐ人、勉強だけをする人、私家事、育児をする人などに分かれています。役割をきちんと果たすことだけを求められて、生活場面で協力し合うことはあまりありません。また家での暮らしが生活の中心ではありません。仕事や勉強など外での生活が中心であり、家庭はそのための手段になっています。けっして家族の構成員がお互いを思いやったり、お互いの絆を深めて、日常生活を楽しむ場ではありません。家族構成員がバラバラに行動し、お互いに無関心で没交渉が建前になっています。つまり家族は「烏合の衆」の集まりであり、孤独で気にくわないことがあると、いつまでも根に持っていがみ合う存在になっているのです。日本人はそのストレスを衝動買い、アルコール、ギャンブル、グルメ、娯楽などで帳尻を合わせているのではないでしょうか。悪循環のスパイラルにはまっているのです。そこでいくらお金を使って発散してもその時だけのものです。永遠に気が晴れることはないでしょう。人生とはそんなものだとあきらめてさえいます。そのうちもっと強い刺激を与えないとストレスは解消できなくなります。これは本末転倒ではないでしょうか。森田理論を深めて学習している人は、すでにそのことに気がついていると思っています。
2016.05.04
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ゴールデンウィークが始まった。先日用事があり広島と岡山間を高速道路で往復した。山陽自動車道である。距離は往復400キロ程度。途中福山、吉備サービスステンションで休憩をとった。眠い時は少し仮眠をとると違う。でも正直言って大変疲れた。帰るとすぐに横になって仮眠をとった。私は普段はあまり高速道路で運転はしていない。普通車でも80キロから90キロぐらいのスピードだと恐怖感はあまりなかった。ところが100キロ以上のスピードになると少し不安であった。100キロ以上のスピードだと、遅い車を追い越す必要がでてくる。その時は加速する必要があるのでとても神経を使う。それとトンネルが多いいのは閉口する。明るいところから急に暗い所に入ると不意打ちを食らったようなものだ。入った瞬間異空間に入ったように感じる。横の壁に車がぶつかるのではないかという不安を感じる。特に2キロから3キロの長いトンネルは憂うつであった。車幅の真ん中を走行することを心がけて慎重に運転している。トンネル内は80キロぐらいが精一杯だ。それ以上になると神経がとても疲れる。ライトも点けたり消したりするので忙しい。インターなどで車が合流する時も気を使う。私は他の車が合流しやすいように、車線変更したり、スピードを緩めたりしている。それからトラックにはとても気を使う。それも100キロぐらいでスピードを出して追い越しをかけるトラックは要注意だ。トラックが後ろから迫って来た時は、出来る限り車線変更するようにしている。それはトラックの運転手の人が教えてくれたのだ。トラックは車線いっぱいに走行する。2階に運転席があるようなものである。どこの運転手も勤務は超多忙でついウトウトする時がよくあると言っていた。また夜の運転はとても気を使う。視界が昼間の運転とは雲泥の差がある。さらに雨が降っていると最悪だ。水しぶきがまき散らされて、霧がかかったような状態になる。車線もよく見えない。そういう時は、前の車の通行した後を追って見込み運転をすることとなる。自分の目で確かめたところを走行したわけではないのでとても疲れる。こうしてみると雨の夜の高速運転はよほどのことがない限り止めた方が無難である。今回は途中車両火災事故があり、40分程度通行を止められた。イライラした。そもそも車の運転での移動は、人間の神経をすり減らし、環境を汚染し、高速代やガソリン代がかかり過ぎてあまりお勧めできるものではないようである。でも6月にはイベントで伊勢志摩まで行くことになっている。片道6時間かかるらしい。憂うつである。くれぐれも交通事故で命を落とすことだけは避けたいものである。
2016.05.03
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日本という国はここ50年で取り返しがつかないほど悪くなってしまった。それはすべての人がお金に振り回される生活を余儀なくさせられてしまったことだ。お金が潤沢に入ってこないと生活が立ちゆかない仕組みが出来上がってしまったのだ。日本人はお金を獲得するために日夜長時間労働に従事せざるを得ない。あるいは休日返上のサービス残業などである。そこから離脱することは許されない。人間がお金に隷属させられる時代に完全に移行したのだ。もしドロップアウトを望めば死しか残されてはいない。つまり生活の中での喜び、楽しみ、生きがいを喪失してきたのだ。この急激な変化がここ50年間で起きたことだ。何百年間も、何千年もかけて作り上げてきた日本人の生活、伝統が一挙に破壊された。もうもとへは戻れない大変革であった。これは改悪といわずしてなんと言おうか。50年前の生活を振り返ってみよう。50年前の生活はどこの家も自給自足が基本であった。ご飯はかまどで炊いていた。その材料は山から調達していた。その材料を使って風呂も炊いていた。そこで出来た炭はこたつで暖房に使っていた。そのために、山はきれいに手入れされていた。山では炭焼きもしていた。山はマツタケなどのきのこ、ゼンマイ、タラの芽などの山菜、筍などがたくさん生えていた。田圃は牛馬で田起こしをしていた。田植えは5軒ぐらいでチームを作り共同作業で行っていた。全戸の田植えが終わると、泥落としという催し物があった。美味しいものをたくさん作って懇親会を開いて親睦を深めていたのだ。田圃の畦には大豆、小豆などの豆を植えていた。これで味噌、しょうゆ、豆腐などを作っていたのだ。田圃の周りの草はきれいに刈り取られて牛馬の餌になっていた。牛馬を飼っていたのでたい肥も十分に調達できていた。どこまでも自然循環が貫徹されていた。畑には季節ごとにさまざまな野菜を作っていた。百姓と言われるぐらい種類も多かった。少量多品種栽培が基本だった。それを使って加工食品もふんだんに作っていた。うめ、柿、栗、竹なども植えられて食料となっていた。季節の花がそこらじゅうに咲き誇っていた。タンパク質は主にニワトリ、川で捕れる川魚が中心であった。刺身は祭や正月に限られていた。家はかやぶきであった。葺き替えには近所の人が手伝いに来ていた。家族が生活していくためには、隣近所の人たちとの協力関係が欠かせなかった。水の管理、河川の管理、山の管理、共同の農作業など多くの面で助け合っていたのである。当時はテレビはなかった。農作業の節目のお祭りや催事が娯楽であった。また自然相手に魚釣り、季節ごとの花、季節の恵みが楽しみそのものであった。そうした生活の中で苦しいながらも活き活きとした生を紡いできたのだ。50年後、それらは苦しい、きつい、しんどい、面倒、きたないということでどんどん駆逐されていった。価値観が変わったのだ。物欲、快適、便利、清潔、快楽等を追い求める方がより価値があるとみんなが思ったのだ。その変化は驚くばかりである。電気、ガス、下水道、テレビ、乗用車、洗濯機、冷蔵庫、農機具、瓦の屋根などが完全に田舎に定着した。農機具を使いこなすための耕地整理も行われた。その結果、今や里山は荒れ放題。田畑は牛馬がいなくなり化学肥料だらけ。農業は生活のためではなく儲けの手段となった。農作物の産地化が進められ、単一作物しか作らなくなった。野菜を作っても猪が掘り返す。夜は熊もでるのでうかつに外出できなくなった。食べ物は今や近くの大型ショッピングセンターに頼ってばかりである。なかには農家でも弁当の宅配に頼っている人もいるありさまだ。また地域の絆はほとんどなくなった。それどころか、田舎で生活できなくなった人が都会に出てゆき、地域としての維持管理が出来ない「限界集落」があちこちに出来てしまった。つまり田舎では毎日お金がないと生活できない仕組みが完全に出来上がってしまったのだ。そのお金を儲けるために自分の生活の楽しみ、生きがいを引き換えにせざるを得ない状況に陥ってしまったのだ。その変化は真綿で自分の首を絞めるように静かに無意識のうちに行われたのだ。田舎がこんな状態だから、都会暮らしの人はそれ以上にお金に振り回された生活に陥っている。その代表としてコンビニの全国展開がある。コンビニは24時間営業である。食料を始め最低限の生活必需品はすべて手に入る。便利で快適で手っ取り早い。でもコンビニに頼った生活は、本来の日常生活の創意工夫や楽しみを奪い、人々のかかわりを分断し、拝金主義を代表とする人間のロボット化を確立した象徴として見えてしまう。イギリスには日本のコンビニにあたるものはいまだないという。生活重視のイギリスにコンビニが全国展開するようになった時は、もはや人類全体の心の危機ではなかろうか。世界中に覇気のない、無気力な人間と、いつもイライラしてすぐに暴力を振るう人間を大量に生み出すようになることだろう。
2016.04.27
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イギリス人で日本人の妻と国際結婚した人が東京に20年暮らしている。その彼が次のように言う。たえず目に見えないスピードに背中を押され、もっと新しいもの、もっと珍しいこと、もっと便利な暮らしを手に入れるために働き続ける。家に帰る頃には疲労困憊してベッドに倒れこみ、泥のように眠る。街を歩く自分の視線はたえず何かを探してキョロキョロと落ちつきがない。つまり、彼はイギリス人であるのに、東京の中で物欲に走り、働くか、寝るか、買うかの毎日を送っているという。そんな彼でもイギリスに帰るとピタリと妙な心臓の高鳴りが止まるという。まずイギリスでは日本のような人をせき立てる感じがしない。世の中のペースはまるで止まったかのようにゆるやかなので走る必要がない。そこで見る街の景色は子どもの頃とさして変わっていない。そこで次第に我に返っていくわけだよ。たとえば、あんなに家族との時間を削ってまで働く必要はなかったな。毎日の生活が送れるだけの収入があればそれでいいんだとかね。日本では僕は何かにとりつかれていて、イギリスに帰るとその魔法が解けていく気がするんだ。ところが、そんなペースもいったん日本に帰ってくると、元の木阿弥になってしまう。ただがむしゃらに働き、欲しいものをむさぼるように買い、手に入れていく。そのために全員がいっせいに競争し、走り続ける。イギリスではこんな現象を「ラットレース」と呼ぶ。こんなレースに、彼は日本に戻るなり自動的に組み込まれてしまうのだ。再び走り始めると、一人取り残されないようにどこまでも頑張り続けなければならない。そんな暮らしの中で息切れしている人が多いからこそ、そのストレスが物を買う行為につながっていくのだ。短絡的に、衝動的に抑えきれない物欲にかられ、いつまでも本質は満たされない。イギリスの美しい街並みを眺めていると、連なる家々に深い伝統や歴史を感じる。また田舎の民宿に泊まると古いながらも丹念に手をかけた飾られた客室に、日本の我が家はどうだったのかと思い返す。生活習慣にしてもそうだ。日本は給料が高く、イギリスは安い。日本食は健康的でイギリスの料理はハイカロリー、しかも大味で美味しくない。日本のシャワーは水圧が強く爽快で、イギリスは水が少ししか出ないため体を洗うのに時間がかかる。一つ一つのポイントを比較してみると日本の方が優れているように思える。でもどちらの国で暮らしたいかというと迷うことなくイギリスだ。心豊かな暮らしが出来るのは間違いなくイギリスの方であると断言できる。その日本も戦前までは農業が発達し、歴史があり、物がなく、質素な暮らしを続けてきた。日本の環境は今のイギリスにとてもよく似ていた。でも今や小さなアメリカだ。かつての日本には素晴らしい伝統があったのに、人びとはそれを忘れ去ってしまっている。だから今の日本の家や暮らしの中には何もないんだ。(古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家 井形慶子 大和書房より引用)
2016.04.26
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先日田舎に帰省した。この季節山は一斉に芽吹き華やかになる。今の時期はハナミズキ、牡丹桜、山つつじが満開である。実に気持ちがいい。ところが心が痛いのは松の木がほとんど枯れ果ててしまっていることだ。枯れ木だらけになり見るも無残だ。私の田舎は赤松が多く日本一の松茸の産地だった。今は松が枯れてほとんど生えてこない。だから山に行く人自体いなくなった。原因は松くい虫の運ぶセンチュウのせいだと言われている。でも松くい虫は昔からいた。松自体に体力がなくて病気を追いかえすだけの力がなくなっているのだと思う。これは山を放置し手入れを怠った人間の仕業だったのだ。人間にはガン細胞が毎日数千単位でできている。それを食いつくす体力がなくなるとガン細胞が増殖して最後には命を落としかねなくなる。それと同じ現象が里山で起きている。その結果、我が田舎では、山の木をすべて切り倒して檜を植えることになっている。すべて国の全額補助金を使っての事業となる。だから誰も反対する人はいない。でもこれは一種の対症療法だ。これで里山を利用して生活するという道は完全に息の根をとめられることになる。山からたきぎやマキ、炭を調達することは永遠に閉ざされてしまう。つまり完全に貨幣経済の流れに人間の生活が飲みこまれてしまうということを意味しているのだ。人間が貨幣経済に飲み込まれてしまうことは、資本の論理がすみずみまで貫徹されてしまう。それは人間の活き活きとした生きる喜びを感じさせてくれる生活を拒否してしまうことになる。日々の生活の営みの中で生を満喫して、他者との交流を心ゆくまで楽しむことはできなくなってしまう。人間に生れてきてよかったという感動を味わう道は永遠に閉ざされてしまう。多くの人間はどうにもならない慢性の抑うつ感に襲われて、なんとか生命だけを維持する存在になり下がってしまった。人間が生きるとはこんなものだと多くの人が思っている。食べられるだけで十分ではないか。あまり贅沢を言ってはいけないと思っている。本当は別の生き方もあるのに、井の中の蛙状態だから思いもよらないのである。人間はこんなに愚かな存在だったのだろうか。これはここ50年で起きた取り返しのつかない大変革だったのである。1990年代にインターネットが普及してからは、その速度を急に加速してきた。金まみれ、物欲まみれの生活は人類の将来を破滅に向かわせているように思えてならない。
2016.04.25
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みなさんは家の中にものがあふれかえっているということはありませんか。実は私もそうです。タンスや本箱、引き出しや机の上にものがあふれています。私の場合服、カバンや靴、本、CDやカセット、慰問活動で使う小道具、小物類、ファイルや書類などでいっぱいです。最近はどの部屋も満杯で余分な収納場所はもはや存在しません。そこで一部屋をつぶして天井まで届く収納場所を作りました。ホームセンターで材料を買って裁断してもらい、電動ドリルを借りてなんとか出来あがりました。自分でも満足できるものができました。これである程度のゆとりはできました。でも考えてみると、これからまたどんどんとため込むとすぐに満杯になるのは目に見えています。そこで思いきって本、CD、小物類、ファイルや書類、領収書類の処分に手をつけました。その時これはとっておくと後で役に立つのではないかと思うものもたくさんありました。それで思い切りがつかないので、処分するものと残すものの基準を作りました。これから先6カ月から1年以内で使用する予定のあるものだけを残すようにしました。本はもう2度と見ることはないという本は資源ゴミに出しました。CDやビデオテープももう2度と見ないだろうと思うものは思い切って資源ゴミに出しました。クリアファイル、その他ファイルもまだ使えるものがたくさんありましたが、処分しました。後資料や書類、カタログ類ですが意外に古いものがたくさん出てきました。これらは田舎に持ち帰り焼却することにしております。古い領収書類も同じです。電化製品の取扱説明書なども不要なものは焼却です。年賀状も何年も前のものはすべて処分します。後あと使わなくなった小物類、薬、化粧品類ですが思いきって処分しました。意外にたくさんあります。家電製品で不要なものは近くのリサイクル店に電話するとすぐに引き取りに来てくれました。今後はカセットテープや着ることのなくなった服を思い切って処分したいと思っています。今後は毎月場所を決めて、1時間ぐらい時間をとり、処分品の選別をしてゆきたいと考えています。そして絶えずため込まないように気を配ってゆきたいと思います。森田理論学習で嫌な感情はため込まないで流していくことを学びました。しかし自分の持ち物は後生大事にため込んでおりました。シンプルライフを望んでいながら実態は反対になっていたのです。これではかけ声だけになってしまいます。一貫性がありません。反省しています。これからは入ってきた同じ量のものは吐き出すようにしてゆきたいと考えています。
2016.04.20
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昨夜から緊急地震速報がで続けています。携帯の警報音を聞くと恐ろしくなります。被災地は大きな被害がでています。今夜から大雨になるようです。被災地の方々には言葉もありません。広島でも本震の時は震度3でした。めったにないので動揺して、テーブルの下に隠れました。昨夜はほとんど寝ることができませんでした。念のためにヘルメットをかぶっています。家具の固定はある程度していますが本格的に見直そうと思っています。
2016.04.16
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これから定年退職を迎える人は是非森田理論を活用してもらいたいことが2つある。一つは退職した途端に緊張感を一挙に緩めないということだ。ソフトランディングを心がけましょうということだ。仕事をしていた時は、基本的には毎日が緊張状態にある。きちんとした身なりをして、毎日決まった時間に家を出ていた。ところが定年退職した途端に、ネクタイをしめたりスーツを着ることはなくなる。夜更かしをして朝起きる時間もまちまちになる。寝たいだけ寝るので朝が遅くなる。その上昼間ウトウトするとすぐに昼寝をする。口が寂しくなるのでお菓子を間断なく食べている。仕事をしないので暇を持て余すようになる。マージャンや将棋、囲碁などのネットゲームにはまっている人もいる。テレビを一日中つけている人もいるそうだ。外出するのは食材を調達したり、買い物、趣味のパチンコや軽いスポーツなどである。このように生活が緊張状態から弛緩状態に急激に変化しやすいのだ。これはまずいい。森田先生は、風邪をひくというのは、外で寒い思いをして家に帰った時、こたつにもぐりこんで転寝のようなことをするときに起きるといわれています。緊張した糸がプツリと切れて、急に弛緩状態になった時に風邪などが忍び込んでくるのである。精神状態が緊張感がなくなることが問題なのだ。弛緩状態になることが悪いのではなく、その変化を急激に起こすことが問題なのである。このようなときは、まず服を着替えたり、郵便物を開封してみたり、鞄の中の持ち物を見たり、熱帯魚や観葉植物の手入れをしたりする。つまり緊張状態を徐々に緩めていくことが大切なのである。こたつに入ってゆっくりするのは、食事を済ませ、風呂から上がってからにするとよいのである。定年退職してほっとして急に緊張状態を弛緩状態に移行してはならない。定年後仕事をしない人は、出来れば定年前からしてみたいこと、やりたいことを20個ぐらい用意しておくとよい。それらに手をつけているうちに次第に生活が落ち着いてくるのではなかろうか。もう一つ是非応用してもらいたいのは配偶者との関係である。これは森田理論の「不即不離」を応用してもらいたい。よく定年退職後はずっと二人で過ごすという人がいる。朝から晩まで何をするのも一緒である。買い物にも一緒に行く。こういうのは「濡れ落ち葉」状態というそうだ。くっついて離そうと思っても離れない状態だ。どちらかというと共依存状態だ。お互いの世話をすることによって自分の生きがいや居場所を確保しているのである。それがなくなると生きがいを無くしてしまう。こういう人間関係はほほえましいようであるが、破綻しやすい。こういう状態で世間とのつながりを断ち老老介護状態に陥るとさらに危ない。そのうち介護不能に陥ると途端に生きることを放棄してしまう人もいる。また配偶者が亡くなってしまうと、生きる目的を失ってすぐにあとを追って亡くなる人も多い。森田では人間関係のコツは「不即不離」にあるという。夫婦の関係でも例外ではない。あまりにもひっつきすぎてはいけないし、また全く無視して離れ過ぎてもいけないという。ひっついたり離れたりが自由に臨機応変にできることを目指しているのが森田理論だ。だから定年退職後は夫婦がそれぞれ自分たちの好きなことを自由にのびのびとやっていく。基本的にはそれぞれの道で生活していく。でも細かいところでは助け合って協力していく場面は多い。そういうところではお互いに助け合っていく。そういう方向を目指していく。これから定年退職を迎える人は、是非とも森田理論を応用して活用してもらいたいものだ。
2016.04.09
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よくテレビで日本体育大学の「集団行動」というのがある。大勢の学生がきびきびと動く。交差しても隣の人とぶっつかることはない。これとよく似たようなもので、マーチングバンドがある。学生や県警音楽隊等の、楽器を演奏しながらの寸分たがわぬ行進には興奮を禁じ得ない。一服の芸術作品を見るようである。これらは誰かがプログラムを組み、カリスマ指導者がいて、強力なリーダーシップのもとで全員が努力精進した結果である。みんなで協力して一つの作品を作ろうという気持ちがないとなかなかできることではない。でもこれは、もう一面で人間も鍛え上げれば機械やロボットのように正確に動くことが出来るということを証明しているようにも思う。これと同じようなものに軍隊の行進がある。上官がいて全員に同じ服を着させて、同じような行動をとらせる。全体が一糸乱れぬ行動を要求される。足の挙げ方、手の振り方、顔の向きまで統一される。普通では考えられない統制力が要求される。これらは普通の人間には難しいかもしれない。それは普通の人は、人から一方的に指示、命令されて動くことに反抗するからである。自分で好きなように自由に行動したいという欲求を持っているからである。つまり人間には気があるのである。普通の人間は意味のある生き方をしたいと思うと同時に、さぼりたい、楽をしたい、もっと楽しみたいと思っている。つまり機械やロボットのような論理では人間は思い通りに動いてはくれないのである。人間性を無視して指示、命令、強制などで人を動かそうとすると無理が出てくるのではなかろうか。私たちは森田理論学習の「かくあるべし」でそのことを学んだ。その一つを自動車の組み立てラインで見た。そこではベルトコンベアーの上をゆっくりとこれから組み立てられる自動車が動いていた。組み立てに必要な部材は横の方からロボットアームによって運ばれて所定の位置に取り付けられる。人間はネジを締めたり、他の部分との連結作業をしていた。ロボットと人間の共同作業だった。どちらかというと、人間が機械やロボットに合わせているような感じだ。ラインの途中で仕事が遅れてくると、その部分の警告灯がくるくる回り、けたたましい警報音が鳴る。するとすぐにお助けマンといわれる人がやってきて仕事を手伝う。決してラインを止めてその人にゆっくりやらせるということはない。ガイドに「あの人たちはどれほどの期間同じ仕事をしているのか」と聞いてみた。すると最低2年であると言われた。精神障害を発症することはないのかと疑問が湧いた。自動車は日本の基幹産業である。でもそこで働く人たちの労働環境は厳しいものがあるのではなかろうか。人間が人間らしく働いているとはとても感じられなかったが、世間ではこれが当たり前のことなのだろうか。
2016.04.08
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このたび我が家のマンションの漏水事故である程度の保険金が出た。これに少し足してキッチンなどの取り換え工事をすることになった。私の家では、なんとかキッチン取り換え代を60万円に以内に抑えたいという希望があった。私はあちこちのショールーム、ホームセンター、リフォーム業者を回り、またインターネットで調べ上げた。その結果は、本体はスタンダードなもので20万円から25万ぐらい。本体取り付け費5万から7万円ぐらいだった。標準小売価格は60万円から120万円ぐらいだったが、5、6社あるメーカーが割引合戦を繰り広げており、普通は6割から7割引きにもなっている。つまり標準小売価格はあってないようなものだ。こんな仮の値段をつけて、大幅値引きをしているかのように見せるやり方は、消費者を愚弄している事にはならないのだろうか。高価なものは、食洗器標準装備、IH電磁調理器標準装備が多かった。なかには上の棚から食器などの出し入れが自動になっている物もあった。その他の費用としては、既存のキッチンの解体や廃棄費用が5万から10万円ぐらいかかる。さらに給水、排水、電気、ガス、ダクトの移設、取り付け、切り替え工事に10万から13万円ぐらいかかる。次に、キッチン周りの壁の下地とパネル材料と工賃が10万から15万ぐらいかかる。その他キッチンの周りの床工事、マンションのエレベーター、共用廊下、室内の養生、駐車代、現場管理費など5万から10万円ほどかかる。これらの費用はキッチン取り換え工事には必ず必要となる。以上をまとめると、最低60万から最高90万と読んだ。そして5カ所の業者に見積もり依頼した。すると62万、87万、90万、100万、110万と出た。その差は48万にもなる。もし1社だけからのみ見積もりを取っていたとすると、その業者のいいなりになるところだった。数社から見積もりを取ることの大切さをつくづく感じた。違いを明らかにして比較検討することがとても大切なのである。細かい違いはきりがないほど多かった。私はあまり資金がないので、手抜きは困るが、最低限の物でもかまわないと伝えていた。ところが実際には、お客様の意向は無視して、自分たちの売りたいものをいろいろと提示してくる業者が多かった。こういう高額商品を売る時は、まずお客様の予算、要望、現場を確認することが必要なのではなかろうか。またどの程度の暮らし向きをしているのかは、居室内に入るとすぐに分かりそうな気もするのだが。予算にはゆとりのありそうな人かどうか。予算よりも品質や機能面の充実を求めている人なのかどうか。私の場合は品質や機能面よりも予算重視なのだから、そこに焦点を合わせた見積もりを出す必要があるのではないか。そうすると成約に近づきやすい。そういう気持ちで仕事をしていると他でもいい結果を招きやすいと思う。実際には最低入札業社の実績や評判を聞いて決定した。その最終決定の過程で、キッチンパネルのグレードアップ、グリルの片面焼きから両面焼きへの変更、コンセントの追加などで5万円ぐらいアップになった。多少はこちらの要望を追加して割高にはなったが、とても満足している。あとは工事日を待つばかりとなった。
2016.03.11
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元プロ野球選手の清原和博さんが薬物使用の常習犯として逮捕された。一部報道によると現役選手の頃から手を出していたとも言われている。清原さんに限らず芸能人、スポーツ選手、ミュージシャンの薬物違反による逮捕は枚挙にいとまがない。人気商売としての彼らには我々が考えられないほどのストレスがあるのだろう。また彼らには、有名人であるがゆえに絶えずさまざまな誘惑が付きまとっているのだと思う。依存症のきっかけはちょっとした好奇心、癒しや刺激を求めてのことだったのかもしれない。それが自分の期待以上の癒し効果、刺激効果、快楽があったためにどんどんのめり込んでいったのでしょう。覚せい剤の使用が法に触れることは誰でも知っている。でもある程度の限界を超えるともう後戻りはできない。薬物を断った時の離脱症状(薬が切れるとイライラしたりする)と耐性現象(少量ではかっての快感が得られないこと)によって、使用頻度と使用量がどんどん増えて蟻地獄に落ちていく。これは雪道で制御不能になった車を運転しているようなものだ。自分は関わらないようにしようとしても、脳の快楽中枢に強固な喜びの感覚が固着しているので自分の意思のコントロールが効かなくなっているのです。これは欲望の暴走の始まりである。依存症には、アルコール、薬物、ギャンブル、爆買い、摂食障害、ネットゲーム、性犯罪、株のデイトレード、FX投資など様々あります。すべて欲望の暴走が起こっています。森田理論では、普通、欲望の暴走は、不安や恐怖が制御機能として働いて、歯止めがかかるのだといいます。精神拮抗作用というのはこのことを言っています。でも、実際には制御機能がうまく働かないという人は多いのかもしれません。こうなると、基本的に自分の力だけでなんとか抜け出そうとすることは不可能だと思います。しかるべき人の援助を受ける必要があります。そのためには、自分ではどうにもならない事態に陥っていることを認めることが必要です。その上で、同じ体験を持つ自助グループに参加して、体験を交流し、励ましたり、助け合うことが必要だと思います。その他、医師、カウンセリング、その他援助者の力を借りることは大切だと思います。そして運よく蟻地獄から這い出した後は、もう絶対に誘惑には負けないために、その手の人とは付き合わない。そのような場所には近づかないことを厳守することが重要になると思います。次に依存症と神経症の関係を見てみよう。神経症は自分の気になる不安や恐怖に振り回されて、それらを取り除こうと格闘しているうちに、蟻地獄に堕ち込んで身動きができなくなった状態です。そういう人は、その苦しさから少しでも逃れるために、刹那的で、刺激的な欲望を追い求めるという傾向があるのではないでしょうか。何かにのめり込んでいないと不安や恐怖に押しつぶされて自己崩壊を起こしそうになるからです。つまり、一方では不安や恐怖へのやりくりによって神経症に陥って苦しみます。もう一方では、その痛みを癒すために、例えばアルコール、薬物、ギャンブル、爆買い、摂食障害、ネットゲーム、性犯罪、株のデイトレード、FX投資などにのめり込み依存症に落ち込む場合がある。つまり神経症で依存症というのは2重の苦しみを抱えている人と言えます。本来不安と欲望はうまくバランスをとることが必要です。神経症で依存症に陥っている人は、両方に針が振り切れてしまい、大変な苦しみを抱えている人なのです。現実には、神経症で苦しむ人は、不安に取りつかれるときは不安以外に眼中に無くなってしまう。ところが、その苦しみから逃れようとして、刹那的な快楽的刺激に手をつけると、今度は底なし沼にはまってしまって逃れられなくなるのかもしれません。こういう方はどうすればよいのか。依存症の人は、依存症を複数かけもちという人はあまり聞きません。ということは、自分の依存している分野の自助組織はそれぞれに存在していますので、その自助組織に参加して、とりあえず、蟻地獄から這い出すことが大切だと思います。そのあとは是非森田理論学習もしていただきたいと思います。特に、不安はなくしていけない。不安の裏には必ず欲望がある。不安は欲望の暴走を制御する役割を持っている。不安と欲望はサーカスの綱渡りのように常にバランスを意識しないといけない。生の欲望の発揮についてよく学習して実践に取り組む。等ということを、よく理解していただき、生活の中で活かしていただきたいものだと思います。神経症と依存症の両方で苦しんでいる人にとって、不安と欲望の単元はとても重要な単元です。
2016.02.12
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ブログをはじめて明日で丸3年になります。3年で6万人のアクセスを目標にしておりましたが、本日で節目の20万アクセスに達しました。閲覧者の皆様にはとても感謝しております。また個人的にメールや手紙などでご意見、ご感想などお寄せくださった皆様に対しましても厚くお礼申しあげます。ここまでほぼ毎日投稿することができましたのは皆様方のご支援のお陰です。今年は延べ30万アクセスを目指してみたいと思っています。それなりの努力をしないと達成できないかもしれません。今後も森田理論の魅力を私なりにお伝えしてゆきたいと思っております。よろしくお願いいたします。
2016.01.04
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広島護国神社での初詣です。今年は暖かく人出も多かったです。ちなみにこの神社は広島カープが優勝祈願する神社です。今年は大型スーパーの新春売り出しの呼び込みで、私たちに声がかかりました。今回は4人で行きました。赤い帽子が私です。大勢の買い物客でごった返していました。終わった後、豪華料理をごちそうになり、温泉に入ってただ今帰宅しました。1月はあと2回の出演予定ががあります。
2016.01.02
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読者のみなさまへ明けましておめでとうございます。今年一年がみなさまにとりまして、輝かしい年になりますように祈念申し上げます。また私のブログを読んでいただきましてありがとうございます。読んでもらっているということが、励みになり丸3年間続けることができました。今年もさらに森田理論を深めてゆきたいと思っています。森田理論をご存じない方に広くその素晴らしさを知っていただきたいと思って始めたブログではありましたが、一番多くの収穫を得たのは自分自身でした。今後はそれをさらに還元したいと思っています。「森田理論は今一歩掘り進めば、その奥にとてつもない豊かな鉱脈が眠っている」これが私の実感です。森田理論のどこを、どのように掘り進んでいくのか。試行錯誤しながら、今年も私の新たな挑戦が始まります。今日はこれから初詣にいきます。明日は大型スーパーでの獅子舞、チンドン屋の初売り宣伝興業に行きます。この写真は我が家から見た初日の出。7時46分です。生駒山によく似た山から昇ってきます。夏至の頃は、この写真の左端よりさらに左から5時30分ごろに昇ってきます。考えて見れば2時間15分も違うのですね。ここでも諸行無常、変化流転を感じます。
2016.01.01
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来シーズンも黒田博樹投手の雄姿がマツダスタジアムで見れること。私の母校広島県立世羅高等学校が、明日京都で行われる全国高等学校駅伝競走大会に出場できること。男子は優勝、女子は5位以内を目指しています。かなり確率は高そうです。ぜひ優勝して元気をもらいたいものです。今年も友人と冬の味覚「牡蠣祭り」を盛大に行うことができること。写真の牡蠣は小で1個95円です。8センチから10センチあります。大は120円です。それより大きな特大の牡蠣もあります。牡蠣は焼牡蠣が一番おいしいと思います。
2015.12.19
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私はマンションに住んでいる。私の家で先週土曜日に水漏れ事故が発生した。最初はキッチンの床に水がしみていた。蛇口の下のU字管の不具合だろうと安易に考えていた。でもそのうちリビングの絨毯に水が浮いてきた。知り合いが業者に頼むとすぐに来てくれた。ちょっと見ただけで配管の不具合による漏水事故だとすぐに判断された。多額の修復費用が発生する重大な事故だと言われた。その被害は私の家だけではなく階下に及んでいるはずだと言われた。それからすぐに漏水診断の業者を手配してきてもらった。その業者は、給水配管と温水配管の2つを水圧計で診断された。すると温水配管に異常値が出た。とりあえず、温水配管はバルブを閉めて復旧工事までは使用不可とすることになった。今週の月曜日、温水配管のどこから漏水が起きているか位置を特定する作業が行われた。その業者は凄腕の持ち主だと知り合いの業者が話していたがまさに神業であった。温水給湯は室外の給湯機からキッチン、風呂、トイレなど壁の中に銅管として張りめぐらされている。難工事だと思った。その業者の見立ては漏水状況から判断してキッチン周りの銅管のピンホールと判断された。そして水圧ポンプなどを使ってたちどころのうちに損害個所を見つけられた。そして損害個所の銅線の交換修理が短時間のうちに滞りなく終わった。私はその見事な仕事ぶりに感心した。よくテレビで神の手を持つ外科医などが紹介される。その人も一歩も引けをとらない仕事ぶりであった。以前読んだ本に稲盛和夫氏が柔道で一本背負いが得意な人は相手が極端に警戒する。でもその警戒をかいくぐって技を決めることができる技を磨きあげることができることが大事なのだと言われていた。これが仕事の切れ味というものだろう。私も神経症の人の症状を的確に判断する能力と解放の為の援助方法を見つけて切れ味鋭い援助者になりたいと思った次第である。また対人恐怖の人はこういう仕事につけば葛藤が少なくて、お客さんからは感謝されて、とてもやりがいが持てるのではないかと感じた。それからもう一つ勉強になったことがあった。火災保険のことである。漏水事故は火災保険でもカバーされるということだった。これには2つあって、マンション自体が加入している火災保険と私が個人で加入している火災保険がある。マンションの火災保険は、破損個所の診断と階下の被害を保障してくれる。自宅の漏水個所の復旧、居室内の復旧修理工事は個人の火災保険を使用するということだった。個人の火災保険に加入していなかったらすべて自腹で修理することになる。私は運よく共済の火災保険に加入していた。但し家具や布団などの保険にまでは加入していなかった。でも躯体部分の修理は保険が出るので助かった。生命保険、医療保険、障害保険、自動車保険、火災保険、地震保険は万が一に備えて加入しておくべきだと感じた。また保険というのは、業者と保険会社が双方で折り合いをつけて損害賠償が行われるというのも初めて知った。実害だけを領収書をもらって請求するというものではないのである。そこには当然過不足が生じる。それが保険というものなのだそうだ。私はファイナンシャルプランナーとして「保険とリスク」の学習をしてきたのだが、その道の専門家になろうとすると実務がとても大切なのだと感じました。そうでないとクライアントに対してなんの役にも立たない。
2015.12.16
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本の紹介です。伊丹仁朗医師の「絶対あきらめないガン治療・30の可能性」(三五館)という本です。ちなみに伊丹医師は、週刊現代によると「日本のガン治療の名医100人」に選ばれておられる方である。現在ガン治療は手術、放射線治療、抗がん剤治療が中心である。それらは初期治療として行われるが、その後再発予防、再発治療はほとんど行われていない。ホスピスに送られると安楽死を勧めている状況にある。本格的な治療は行われていない。もしお医者さん自身がガンにかかった時、自分の治療法としてそんな治療を望むだろうか。そのような患者に寄り添わないありきたりの治療だけで満足するのだろうか。多分ガンに良いとされる最善の治療法を試してガンを克服したいと思うだろう。ガンになると多くの人はお医者さんにすべてを任せてしまう。私はガンにかかると三大治療を受けるか、安保先生の免疫療法に頼って、ダメならあきらめて死ぬしかないなと思っていた。この本を読んで、それは間違いだということがよく分かった。ガン治療法としてそれ以外にも30もの道があることが分かったのだ。自分に合ったものを伊丹先生の援助を受けて自分で選ぶことが大切だということがよく分かった。この本を読むと目から鱗である。私の印象深かったところを紹介してみよう。まず84ページの温熱療法である。ガン細胞は熱に弱い。ただ問題はこの治療器を設置している拠点病院が全国で16か所しかないそうだ。次に152ページの高濃度のビタミンCの点滴である。この中の過酸化水素がガンを攻撃するそうだ。144ページには丸山ワクチンの紹介がある。これはコラーゲン繊維を増殖させてガンを閉じ込めてしまうというものだ。その他にも自家ワクチンと樹状細胞療法、漢方薬、歩く気功も紹介されている。そして生きがいを持ってガンに立ち向かうということを勧めておられる。生きがい療法ユニオンの活動である。伊丹先生は患者のガンを治したいという目線に立たれたお医者さんである。そのためには現代の医療の問題点を余すところなく指摘されている。良いとされる療法はほとんど現地に出向いてその効果を確かめられている。そして治療に取り入れられている。このやり方は森田正馬先生のやり方と同じである。私のイメージとしては、現代に生き返ったシュバィツァー博士のようだと思っています。ぜひガンにかかっておられる方はもちろんのこと、今は健康だという人もぜひ読むことをお勧めしたい本である。ちなみに伊丹先生は森田療法にもとてもよく精通しておられる。かってガン患者とモンブラン登頂に挑戦されたのも、森田理論でいう「生の欲望の発揮」であった。
2015.12.09
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12月5日6日に心の健康セミナーで高知県に行きました。ホテルから太平洋を望む。肌がつるつるになる温泉とカツオのたたきが最高でした。
2015.12.07
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私は台風接近時にバスで渡りました。とても怖かったです。
2015.12.02
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昨日田舎に帰って近所の人と話をした。仕事をやめた後は自分の食べる野菜やそば等を作り、自給生活を楽しみたいという夢を語った。今すぐには帰れないので、とりあえずジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモ等を植えたいと言った。そんなことをすると、自分が食べる前にイノシシに食べられてしまうといわれた。だから田舎の人でも、イモ類を作る人はいなくなっていると言われた。最近は山からイノシシ、鹿、たぬき、熊が出て来るようになったという。熊が出ているから注意するようにという有線放送がたびたびあると言われた。イノシシは夜になると群れになってそこら中の田畑を走り回る。だから夜になると外出することは控えているという。それよりももっと深刻な問題があるという。講中という隣近所の自助組織があるが、14軒のうち5軒は空き家である。住人が亡くなって全くの空き家が2軒。私のように子どもが都会に住んでいて時々帰っている家が3件。現在住人のいる9軒も高齢化している。そのうち高齢のお年寄りの一人暮らしが2軒。あとの家は老夫婦はいるが、地域の共同作業に出られなくなっている家も2軒ある。限界集落の予備軍になっているのである。そう言えば、見聞きするいたるところが限界集落予備軍なのである。松茸がよく生えた山は、今は荒れ放題で足の踏み場がない。またスズメバチ、蝮等の危険生物がたくさんいるので足を踏み入れることができない。今や稲作は営農集団や個人の農業経営者が手広く引き受けて作っている。小作料は1反につき0.7袋だそうだ。1反というのは10m掛け100mの面積である。それの小作料が21キロの米だという。1割程度だ。それは3反一区画で耕地整理されている土地が対象だ。耕地整理されていない土地などは、大型機械が使えないために耕作放棄地となっている。今年は始めて、小作料は無しでも田圃を作ってほしいという人が現れたそうだ。この傾向は今後ますます加速するだろうといわれていた。ましてや田圃を売ってほしいという人は全くいない。ただでもいらないという。固定資産税がかかる。移転登記が面倒で金がかかるからである。このような状態がつつけば、水利施設の共同作業、河川や田圃の畦の草刈りはできなくなってしまう。まともな田圃でも耕作放棄地の予備軍になってしまう。現在稲作を引き受けている営農集団や個人の農業経営者もTPPで米の自由化が決まり将来に絶望的だそうだ。米なんか作るものではないという人もいる。八方ふさがりで先が見えない。今なんとか生活できている人は、兼業農家で年金がある程度はいる人である。若いころ職人や土木作業員等をしていた人は年金も少なく、米は安く、体は弱っているために仕事はできない。大体仕事自体があまりないのだ。こんな人に夢を持って生きてゆきましょうということ自体無理があると思えて仕方がない。私が話を聞いた方は元公務員で年金で生活は成り立っている。米作りは営農集団に任せている。1町余りの田圃で30キロの米を7袋もらっている。裏にはニワトリ、ウコッケイなどを放し飼いにしている。野菜はカラスよけ、霜よけでハウスの中で作っている。梅干し、ラッキョウ、ブドウ酒、干し柿、燻製、ピザなどを作っていた。80歳を超えているが冗談やユーモアがあり、夫婦ともに元気であった。日々の生活を楽しんでおられるのがよく分かった。ただだんだんと足腰は弱っているようであった。
2015.11.23
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私は田舎をこよなく愛しています。私の田舎は広島県世羅台地です。なしやブドウなどの果物と花街道、高校駅伝で売り出しています。地域おこしが成功しています。私は花が好きなので、チュウリップ、ダリア、ポピー、ラベンダー、ユリ、芝桜、ヒマワリ畑を見に行きます。この写真はチュウリップ祭りのひとこまです。
2015.11.22
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今日は人間の宿命について考えてみたい。辞書によると、宿命とは、生まれる前から決まっていて、人の力ではどうすることもできない運命だとある。グレートサムシングによって運命づけられた人間の宿命とは何か。私はこう思う。人間は自分という生命体を維持し、できるだけ生きながらえさせるという宿命を負っているのではないか。その目的達成のためには、何が重要であるか。自分が生き残るためには、基本的に他人のことや自然環境の維持などを考える余裕はあまりないのかもしれない。こういうと何をしてもいいのかといわれるような気がする。決してそういうことを言っているのではない。自分中心に視点をおいて、満足できる基本となる考え方を分かってもらいたいのだ。自分という生命体を維持し、生き残らせるためには生半可な取り組みでは絵にかいた餅になってしまうのだ。常に自分の欲望の充足のための、たゆまぬ努力が不可欠となる。欲望についてはマズローの欲望の5段階説を思い出してほしい。まずは衣食住への欲望。安全確保への欲望。温かい人間に囲まれていたいという欲望。他人に認められたいという欲望。自己実現の欲望。その他、もっと人生を楽しみたいという欲求。自由でいたいという欲求などもある。これらの欲望の充足に真剣に取り組まないと、宿命に沿って生きていくことにはならないと思う。ところが、ご存じのように欲望の充足には目の前に必ず大きな障害が待ち構えている。一つは欲望には必ず「不安」がつきまとうことだ。あまりにも不安への対応にばかり傾斜してしまうと、すぐに神経症に陥ることは森田理論で学んだ。手段の自己目的化が起きてしまうのだ。欲望の充足を忘れて、ミイラとりがミイラになるようなものだ。これは本末転倒である。欲望を忘れ去っていることがとても大きな問題である。だから人間はどんなに不安につきまとわれようとも、欲望から目を離してはならないのだと思う。また不安をすべて取り除いてから、欲望に目を向けるのではなく、不安を抱えたまま欲望の充足に邁進することだ。さらに不安と欲望のバランスを取りながら注意深く前進することができれば言うことはない。これは森田理論学習で学んだ通りである。もう一つには、欲望の達成には、大なり小なり目の前に障壁やハードルが立ちふさがっていることだ。障壁やハードルを乗り越えることに、早々にくじけてあきらめてしまうと、もはや人間らしく生きることはできなくなってしまう。闘いを中止して、本来の目標を、指を咥えて見るようになるとどうなるか。たちまち何もすることがなくなり、暇を持て余し、退屈になる。生きていても面白く無くなる。意識は常に内向的になり、自己否定するようになる。よいことは何も起こってはこない。だからどんなに大きな障壁に行く手を妨げられようとも、簡単にあきらめたり、逃避してはならないということだ。一時的に後退することはあってもかまわないが、やがて起き上って前向きに生きていく以外に道はないのだ。それが人間に宿命づけられた生き方である。どうにもならないときは頭を使うことだ。突破口は必ず見つかると思いましょう。あまりに大きな目標は、達成可能な小さな目標に設定を変えなければならない。また自分ひとりで乗り越えられないときは、人の力を借りようではないか。今現在、無理なときは、時が熟すまで待とうではないか。今までのやり方では無理なときは、発想をかえたり、やり方を見直そうではないか。とにかく前に向かって生きていくしか、私たちに与えられた道はないのだという意識をしっかりと自覚しようではありませんか。人間に生まれたからには、この2つの基本的な姿勢だけは絶対に崩してはならないと思う。基本をしっかりと守っていれば、あとは臨機応変に対応すればよいのだと思う。少々のことは自由にしてもよいだろう。宿命に沿って生活する生き方は、とても魅力的な生き方に見えて仕方がない。
2015.11.14
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私は来年5月のメンタルケア心理専門士の資格取得の試験を受けてみようと思っている。その際、今まで学習した森田理論をフル活用してみようと思っている。まず試験の内容をきちんと把握する。挑戦する相手をよく観察するということである。試験範囲は、精神医科学諸論、応用生活心理学、面接技法、各種心理療法、精神予防政策学。これにメンタルケア心理士試験の試験範囲が加わる。学科試験50問。これには正誤選択、択一選択、穴埋め記述、用語解説等がある。次に1600字の課題レポートがある。聞いたことのないような課題が出される。二次試験として口頭試問による実技試験がある。これに対して私の学習の進め方は次のようになる。まずそれぞれにテキストがある。私は通信教育なので、そのテキストに沿った講義のDVDがある。まずは、テキストとDVDを見ながら学習する。それが終わると、各科目別に与えられた問題やレポートを提出する。さらに模擬試験、補修問題、修了試験のためのレポートや問題を仕上げて提出する。すべてが基準点に達すると修了証が授与される。これが受験資格の一つなのである。次に受験対策問題集を買ってやってみる。試験問題に取り上げられた部分を、テキストの該当場所に目立つように印をつけていく。ここまでは11月、12月、1月までに終わらせたい。次にテキストごとに重要な部分を私なりにまとめをしていく。知識を定着させていくのだ。次にPCMレコーダーに重要なテキストの内容を吹き込む。声に出して読むことを重視するようにする。これを外出時に聴くようにする。さらに暗記する事項が多いいので、重要な部分の暗記帳を作る。次に「境界性人格障害の特徴を答えなさい」というような問題が出るので、一問一答方式で幾つも問題を作り、繰返して学習したい。そして暗記していく。さらに最近はパソコンばかりで手書することがない。パソコンでは、どんなに難しい漢字でもすぐに表記してくれる。試験は自分で書かないといけない。普段書きなれていないので、なかなか書けない。例えば、投影法、不定愁訴、遊戯療法、産褥期精神病、注意欠陥多動性障害などという言葉がすらすらと書けなければ話にならない。漢字の書き取りはとても大切である。また言葉は正確でないと不正解になってしまう。例えばセクシャルハラスメントは間違いで、正しくはセクシュアルハラスメントが正しい。ロジャースでなくて、ロジャーズが正しい。注意したい。森田の活用であるが、まずは神経質性格を活かしてコツコツ粘り強く取り組むことだ。学習時間は早朝1時間。昼休憩30分。夜1時間を予定している。休日は3時間から5時間は学習時間を確保したい。基本的には5月の試験まで続ける。好きなアルコールは曜日を決めて抑えなければならない。毎月の達成目標を立てて進捗状況をチェックしていく。食らいついたら離さないというのが神経質の特徴である。最後までやり抜きたい。第2に五感のフル活用である。目で見るだけではなく、耳で聞く、声を出して読む。手で書きながら覚えることを徹底したい。記憶の定着を図るにはテキストを見るだけでは心もとない。五感すべてを使う。第3に分からないことは自分一人で抱え込まずに、受験専門校にどんどん質問して援助してもらう。第4にリズム感を意識したい。高い緊張感が5月まで継続することは考えづらい。緊張と弛緩は絶えず繰返しているのだから、その波に乗ることを意識したい。特に試験の20日ぐらい前は、いったん弛緩状態にして緊張感を落してみたい。そして試験当日に向かってモチュベーションを高めていくという方法を取り入れてみたい。何しろ100人の受験生のうち80人は不合格になる試験である。いい加減な態度では合格は難しいだろう。できることはなんでも挑戦してみる。他人の受験勉強の5倍程度の学習と努力を続けないと目標の達成は難しいと考えている。ちなみに私のような60歳以上の受験者及び合格者はそれぞれ全体の1%だという。でも今まで社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー(CFP)、メンタルケア心理士等へ挑戦し合格してきた経緯からすると決して無謀な挑戦ではないと考えている。楽しんで走り抜けたいと思っている。
2015.11.08
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土曜日は趣味の会の発表会に行ってきた。私は江戸寿獅子という「獅子舞」を披露した。獅子頭は5キロぐらいあるので、5分も抱えて舞うととても手がだるくなる。今回始めてあまりよいとは言えないが脇の下にゴムボールを抱えることにしたのでとても楽であった。発表会で一番驚いたのは、ガンが脳にまで転移して余命いくばくもないといわれていた人が、2時間も電車を乗り継いで一人で来られたことだった。体重は大分減少されていたが、脳の障害は全く分からなかった。その方はひょっとこ踊りを披露された。面をつけて、赤いふんどし姿で場内を練り歩かれた。とても滑稽で面白かった。その方は高知のしばてん踊り。浪曲奇術。どじょう掬いなどもされる。それも玄人はだしである。私はその方に影響を受けていろいろと教えてもらった。私はその方のひょっとこ踊りを見て、自分でもやってみたいと思った。この方は重いガンにもかかわらず、生き長らえておられるのはあくなき「一人一芸」のたまものではないかと思った。森田的生き方をされているのである。日曜日は、仲間とともに地域の祭りと老人ホームの慰問活動に行った。私はアルトサックスをふいている。いつものことだが、イベントの出演にあたっては、本番を想定して全員で念入りに予行演習を行っている。個人でも寸暇を惜しんで猛練習をする。練習段階では100%の出来になるまで持っていく。ところが残念ながら、本番で練習の成果を100%出せるかというと必ずしもそうではない。実際のところ80%の出来というのが正直なところである。以前の私は完全主義的なところがあったので、ミスタッチをしたりすると自分を責めていた。自分の演奏技術の未熟さを嘆き、自分嫌悪に陥っていたのである。ところが今では森田理論学習のおかげで、本番は80%の出来で十分だと思えるようになってきた。もし間違えても、そこで一旦中止して、入りやすいところから合流すればOKだと思えるようになってきた。そこは仲間が支えてくれるので大きな穴が開くようなことはないのだ。みんなで観客に手ごたえのある演奏をお届けできればいいのではないかと考えることができるようになった。すると必要以上に緊張することがなくなってきたようだ。みんなと演奏を楽しめるようになってきた。自分を責めることが少なくなってきた。反対に85%、90%、95%の出来になると、自分もまんざらではないと自分を褒めてあげることができるようになってきた。森田ではよく60%の出来で十分だということを言われる。この考えで大事なことは、できない40%のことでくよくよ悩むことではない。コツコツと努力して達成できた60%に焦点をあててプラスの評価していくことである。そういう意味で森田理論は減点主義ではなく、加点主義の考えをとっているのだと思う。
2015.11.02
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このたびメンタルケア心理士試験を受けた。なんとか一発合格できた。20問の学科試験と論文試験が2問あった。学科試験は20問のうち15問正解。5問は間違いだった。学科試験で厄介だったのは、5つの選択肢のうち間違いはいくつあるのかというふうに聞いてくることだった。今まで受けた資格試験は「次の選択肢のうち間違いは何番か。あるいは正しいのは何番か」という質問だった。メンタルケア心理士の試験では、選択肢の全部を正確に理解していないと、その問題は間違いと判定されてしまう。仮に4つの選択肢の○×が分かっても正解にはならないのだ。細かいことばかり聞かれるので相当の学習が必要だった。簡単な気持ちでは合格までに至らない。75%の正解率で偏差値59パーセントだったというから、半分以上正解を得ることはいかに難しかったかということだろう。論文試験は400字で記入する問題が2つあった。こちらは80%の出来だった。この次にメンタルケア心理専門士の試験が来年5月にある。こちらがメインである。この資格はカウンセラーとして開業したり、ボランティアでいろんなところで教えたりできる道が開けるそうだ。私には森田理論という専門分野を持っているのでさらに挑戦してみようと思う。森田を深耕するためには、他の心理療法やカウンセリングの基礎知識を身につけないと、井の中の蛙になり孤立してしまうと考えたからだ。こちらはかなりハードルが高い。学科試験50問。1600字の課題レポート。さらに二次試験として口頭試問がある。合格率は20%くらいだそうだ。すでに準備を開始した。本来は臨床心理士を目指したいのだが、60歳を過ぎてからの挑戦はハードルが高すぎる。臨床心理士は大学院卒が対象だから私のようなものが手軽に挑戦することはできない。この資格ならマイナーな資格ではあるが、幅広く臨床心理学を学べるのがよい。森田理論を深めるには、心理学、精神医学、精神解剖学、発達心理学、心理療法、検査学、面接技法、カウセリング技術、精神予防等幅広く学習することを痛感したので役に立つ講座である。あくまでも基礎学問をきちんと学習したうえで、森田理論を深めてゆきたいと思うのである。いずれにしても残された人生は、森田理論による神経症からの解放にささげてゆこうと思っている。
2015.10.26
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平野啓一郎氏は「分人」という考え方を提唱されている。いろんな個性を持っている人同士がコミュニケーションを図ろうとすれば、どうしてもその人向けの人格にならないと、コミュニケーションがうまくいきません。会社で上司、同僚、部下と会話する時、あるいは家で親や子どもに話をする時、それぞれに対応を変えています。それは別にキャラを演じるとかではなく、自然とそうなっているのです。人間というのは個人として分けられない存在と考えられてきましたが、実は対人関係ごとに分けられる存在ではないのか、というのが、私が提唱している考え方です。人間というのは、いろんな人との出会いを通じ、相互作用の中で、あの人といる時はこんな感じで、別の人といる時の自分はこんな感じ、というふうに分けられるのだと思います。そうすると例えば学校でいじめられたりしても、分けられないとなると、いじめられる自分にも責任があるのではないかと思ってしまう。自分は本質的にいじめられるような人間なんじゃないかと考えられる。しかし、それは学校という場所の、いじめる子供との関係性の中での分人であり、家族と一緒にいる時の分人は、もっと快活に笑ったりできる。そんなふうに、自分というものを、分けて考えるようになれば、生き方が変わってきます。やはり、生きていくためには、この世の中が好きか、自分が好きか、どちらかが好きじゃないと難しいと思います。しかし、単に自分を好きになれと言われても、よほどナルシストでない限り、なかなか自分のことを好きと思えないでしょう。いやなところもあるし、特に人生がうまくいっていない時は、自分を好きになりなさいと言われても、何をどう考えればいいか分かりません。しかし、あの人といる時の自分は案外饒舌にしゃべったりして笑顔も出るなとか、あの人といる時の自分は好きだけど、別の人といる時の自分は好きじゃないとか、そういう考え方はできると思うんです。そういう中で、自分の好きな「分人」が一つあれば、それを足場にして生きていけばいいのではないでしょうか。個人は、環境や対人関係ごとに分化していく。つまり、「分人化」します。仕事がうまくいっていない場合でも、インターネットの世界での趣味のサイトでは快活になれる、というふうに考えられることができる。人生のリスクを分散させるために、いくつかの「分人」を自分の中に抱えておけば、こっちがダメならあっちがあるというふうに、もっと気楽に生きていけます。この考え方に対して私の感想です。現役の時仕事人間の人がいます。そういう人が定年退職すると、途方にくれます。仕事以外に何もすることがないからです。テレビを見る。奥さんの買い物のお伴をする。ゴルフを始める。魚釣りを始める。突然始めようとしてもうまくゆきません。現役の時から仕事だけではなく、人間関係、趣味、地域社会とのつながりなどバランスを意識して生活していくことが必要なのではないでしょうか。また会社の上司部下という人間関係の中だけで生活している人もいます。仕事は利害関係が絡んでいるので、容易に対立関係に陥ります。そういう井の中の蛙のような人間関係はストレスの温床となりやすいと思います。仕事以外の人間関係を沢山持っておけば精神的に挫折することから防げることができるのではないでしょうか。(助けてとはいえない NHKクローズアップ現代取材班 文藝春秋 222ページより一部引用)
2015.10.25
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ラグビー日本代表の快進撃が止まらない。世界ランク3位の南アフリカ代表に劇的に勝利し、強豪サモアにも完勝した。10日スコットランドがサモアに負け、日本がアメリカに勝てばW杯では初の8強が決まる。これは日本代表監督エディー・ジョーンズ監督の力が大きい。この人なしでは成し遂げることはできなかった。エディ監督は母親が日本人だ。父親はオーストラリア人。選手としては身体が小さく活躍できなかった。ところが監督になってすぐに頭角をあらわす。前オーストラリア監督である。オファーは数限りなくあるが、すべて断って日本代表監督、ヘッドコーチの道を選んだ。エディ監督はいう。日本人は世界と比べると身体が小さい。当たり負けをする。また闘争心がひ弱だ。相手にけがをさせることを嫌う。ラグビーは勝つか負けるかの闘いなんだ。勇気を持って戦わないと自分がケガをする。まずは意識改革をおこなった。それから俊敏性スタミナをつけるためにとにかく練習漬けにした。日本人は真面目だし、コツコツと一つのことに取り組むというのが長所だという。その長所を伸ばさないと勝ち目はないという。ダッシュも死に物狂いでとり組ませる。練習は朝は6時代から夜7時まで続く。外国では取り入れていなかった指導である。日本ラグビーは何度強力タックルでつぶされても、俊敏性を活かして、早いパス回しを繰り出してトライを奪う戦法だ。作戦会議では、自分が方針をある程度しゃべったあとは退席する。そして各ポジションのリーダーたちにその先の作戦について考えさせる。それを実行させる。自分の考えと合っていると賞賛して選手達を褒める。厳しいけれどもやさしい。それは普段のたち振る舞いを見ているとすぐに分かる。小柄ながら、人なっこい表情で、ちょっと話をしてみたくなるような人柄である。実際の試合では監督は見ことしかできないのだという。個々の選手にはよく声をかけて回る。スキンシップを欠かさない。あとミスや失敗をわざとしかけて数多くの経験をさせる。例えば変形ボールを使った練習などである。その他たくさんの逆境をしかける。日本人コーチの場合はミスや失敗はご法度だ。そのたびごとに選手は叱責されて、改善を求められる。なかなか貴重な経験としてプラスに活きてこない。エディ監督の場合はミスや失敗は数多く経験する必要がある。それが宝になるという。またそれは乗り越えていくべきものだという考え方である。それとエディ監督は目標設定が高く、それに至る工程をとても綿密に組んでいるそうだ。誰も世界3位の南アフリカに勝てるとは思っていなかっただろう。でもエディ監督の「勝利までの細かいプランニング」「目標達成へのこだわり」を体験した選手たちは、ギリギリの闘いの中で必ず勝利するんだという決意で臨んだという。このエディ監督の組織論はあらゆるところで分析して活用できるだろう。しかし、すでにエディ監督はこの大会後の退任が決定している。
2015.10.10
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10月4日甲子園球場で行われた阪神対広島のプロ野球中継を見た。阪神は藤浪投手。藤浪投手は甲子園で負けなし。しかも最多勝をかけての登板である。阪神がこの試合に勝てばCS出場が決まる。甲子園球場には多くの阪神ファンが詰めかけていた。どう見ても阪神有利に思えた。広島のピッチャーは黒田だった。黒田にとってはこれ以上ない逆境のマウンドだった。しかし実際には最高級の芸術作品を見せられた思いだった。黒田のストレートは140キロ台前半である。ストレートだけで見ると、プロのピッチャーとしては並みの投手である。ストレートで勝負できるピッチャーではない。ツーシーム、カットボール、スライダーでほとんどのボールに変化をつける。でも変化球で握りが変則であるにもかかわらずコントロールが素晴らしい。多分8割以上は狙ったところに投げていた。変化する球を内角、外角にきっちりと投げ分けられるのだ。内角ぎりぎりに変化球を投げてもデットボールはない。だから相手打者を見ながら投球の組み立てができる。つまり常に勝負ができているのだ。見ている人にとってはたまらない緊迫感がある。黒田投手はどんな困難な状況でも逃げない。ホームランバッターに対しても果敢に勝負を挑んでいく。だからヒットはよく打たれる。でも点は取られない。取られても最小失点で逃げ切ることが多い。私が注目したのは4回裏阪神の攻撃で先頭打者福留の場面である。この後はホームランバッターゴメス、マートンと続く。2ストライク3ボールになった。どうするのかと見守った。しびれる場面だ。黒田は真ん中にスライダーを投げた。結果は運よくセカンドゴロになった。この場面絶対避けたいのはフォアボールだ。ストライク勝負しかない。黒田は、ヒットは覚悟したのではないか。でもヒットを打たれて出られるのと、ボール気味の球を投げてフォアボールで塁に出られるのとは気持ちの面で格段の違いがある。百戦錬磨の勝負師の顔を見た気がした。また藤浪投手との3回の黒田の打席でどきもを抜いた。藤浪は打者黒田に対してファールで粘られて13球も投げさせられたのである。簡単に打ちとれず何度も苦笑いをしていた藤浪投手が印象に残る。これが広島ナインを奮い立たせたのではないだろうか。緒方監督は8回で黒田を降板させようとしたが、先日ヤクルト戦で球数を投げていた大瀬良、中崎を休ませたいと言って志願して9回のマウンドに上がっていったという。結果としては2本のヒットを打たれて降板した。今年黒田が日本のプロ野球のピッチャーに与えた影響はとても大きいものがある。男黒田ここにあり。40歳での11勝は日本プロ野球最多タイになるそうだ。今シーズンは2570球を投げたという。勇気を与える芸術作品に乾杯!!!
2015.10.05
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私たちは大きくなって苦しいことがあって親と言い合いになることがあります。そんな時「産んでくれと頼んだのではない」「どうして許可も得ないで勝手に産んだのだ」「勝手に産んでまともに育てることもできないでそれでも親の資格があるのか」「こんな親のもとで生まれたくなかった」「自分が八つ当たりするのは親のせいだ。責任をとれ」等という事があります。これは本人も生きることがつらく、思うようにいかなくてイライラしているのでしょうが、親もかなしくなってしまいます。世界で一番子どもの幸せを願っているのに、なんでそんなことを言われなくてはならないのか。人間はもともと苦労を背負って生きていく動物だと思います。四苦八苦という言葉があります。四苦とは「生老病死」のことです。八苦とは生老病死以外に、愛する人と別れる苦しみ、怨み憎む人と出会う苦しみ、求めるものが得られない苦しみ、存在を構成する物質的・精神的五つの要素に執着する苦しみといわれています。生きることは問題だらけ、理不尽だらけ、自分の思うようにならないことだらけです。それが普通の状態です。森田先生も「浜の真砂は尽きるとも世に苦労の種は尽きまじ」といわれていたように思います。災難、トラブル、問題を引き受けないで、不平不満ばかり言っているという事は、発想が間違っていると思います。夜と霧のフランクルはこう言っています。「人間は人生から問いかけられている存在」である。私たちは、生きるというのはあくまでも自分の意思の問題であり、あたかも自分の内部から湧いてくるように考えがちですが、実際はそうではない。フランクルは、「自分の欲望や願望達成中心の生き方」「自己中心的生き方」は間違いだと言っています。他人、境遇、運命に対して自分の要求を突き付けるのではなく、「人生からの呼びかけにこたえていく生き方」「自分に与えられた存在意義を認識して使命中心の生き方」への転換を提唱しています。自分の人生に与えられているミッション(使命)を全うすることが肝心なのだと言っています。まさにコペルニクス的発想の転換です。そう考えると目の前に次から次へと立ち現れる災難、トラブル、問題は決して忌み嫌って憎んで排除する相手ではありません。グレートサムシング(偉大なるこの世の創造主)より我々が活き活きと生きるために餌を与えられているようなものです。それに真摯に立ち向かってゆけばよいのです。注意点としては、将来に明るい展望が開けるもの。真の意味で人の役に立つことは積極的に手を出してゆけばよい。問題解決に当たっては人と協力したり、他人の力を借りる。それ以外のことは、森田でよくいうように謙虚な姿勢で受け入れていく。服従していく。その二つを区別する知恵を育てていくことが大切だと思います。
2015.09.16
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さあここまで説明したところで、次の課題に移りましょう。課題は2点あります。1、無意識化した行動に、安易に意識化の介入を許さないためにはどうしたらよいのか。2、認知の誤りや強い片寄りのある無意識化した自動思考をどう修正してゆけばよいのか。まず一番目。これは大リーグマーリンズのイチロー選手が参考になります。ご存じのようにイチロー選手はルーティーンを大事にします。決まった時間に決められた行動を淡々とこなしていくというものです。球場へ出かけるまでの過ごし方。球場入りしてからの準備。バッターボックスに向かうしぐさ。すべてが流れるような動きで無駄がありません。すると意識が出る幕が少なくなるのです。次から次へと行動することによって、一つ一つ湧き起ってくる感情にかかわっていられないという状況を作り出しているのです。考える時間を作らないで、次々と身体を動かしていくやり方です。これは森田理論でいうと感情は操作できない。しかし行動することによって新しい感情を作り出すことができる。次から次へと行動すると一つ一つの感情にこだわっておれなくなる。一つの感情だけにとらわれるという事がなくなってくるのです。100%ではありませんがかなりの効果が望めます。それから先日、楽器の演奏のところで説明しましたが、120%身体に覚え込ませて無意識的に身体が反応するという状態を作り上げるという事です。少々意識化が起きても、無意識化の力関係が相対的に強くなっているのだと思います。意識化に振り回されることが少なくなっているのです。そういう状態になると、例え動揺することがあっても、高確率で高いパフォーマンスが出せるようになるのです。これはそういう経験を持っているとすぐに理解できます。それの繰り返しでやがて自信も生まれてきます。仕事で誰にも負けないという専門性を身につけると、対人関係の苦しみは少なくなるという人もいます。これもそのことと関連があると思います。その他、呼吸法、ヨガ、アロマセラピー、マインドフルネス、自律訓練法なども効果があるといわれています。次に2番目の問題です。これは神経症の人が陥りやすいところです。認識の片寄りや誤りは自分では気がつきにくい。集談会などで他の人の力を借りることです。第三者には比較的他人の認知のゆがみは気がつきやすいものです。具体的な修正方法は過去の投稿を参考にしてください。検索のところに「認知の誤り」「認識の誤り」「認知の片寄り」等というキーワードを入れていただければでてきます。
2015.09.14
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次に意識化とは何かについてみてゆきましよう。意識化というのは前頭葉に精神機能中枢というものがあります。この脳の働きを活用しています。動物にはありません。人間だけが高度に発達しています。その存在により文化や文明が発展してきました。比較したり、検討したり、思索したり、意思や計画性、創造性などもこの部分で司っています。さらに眼窩前頭皮質というものがあります。これは欲望が暴走しようとするときに、それに制御をかける役割を持っています。幼児期には未発達ですが、成長するにつれて次第に機能するようになります。詳しくは本年度5月9日に投稿していますのでご覧ください。これも意識化の役割です。意識化するというのは、簡単にいえばそのものに注意を向けるという事です。そこに注意を固定してこだわるということになります。ああでもない、こうでもないと試行錯誤をするのです。初めて経験すること、始めて遭遇する出来事には誰でも自然に注意が向きます。また、うまくいくかどうかわからないようなものに対しても注意が向きます。さらに、私たちが問題にしている不安、恐怖、違和感、不快感に対しても注意が向きます。実践行動が少なく、観念の世界にどっぷりつかって生活しているような人は意識化が起こりやすいといえます。また、完全主義、完璧主義、理想主義的思考方法をとる人も現実とのアンマッチで苦しみ、意識化が起こりやすい人といえます。森田では「かくあるべし」的思考をする人です。意識化の特徴としては、隙間があればどこでも入り込んでゆきます。例えばゴルフで何も考えずに練習してきたとおりにプレーしていたとします。その段階ではスムーズにいつもの成績が残せています。ところが、誰かが「ナイスプレー」といったとたんに、変に意識化が起こることがあります。「どこがよいのだろうか」と意識的にフォームのチェックを始める。「さらに精度を高めていこう」等と考えだすと途端に調子を崩してしまう事があります。30センチのパターでもこれを沈めると優勝というような意識化が起きるとなんでもないミスを連発するようになるのです。意識化の特徴と仕組みについて整理してみました。
2015.09.13
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神経症は不安をことさら意識化して、とらわれを強化、増悪している状態だと思います。意識化と無意識化について私の理解していることを書いてみたい。まず無意識化ということについて考察してみたい。ここでは2つの重要な側面があると思う。まず無意識化した行動はなにかという事です。例えば、自動車や自転車の運転、クロールの泳ぎ方、パソコンのキータッチ、箸の使い方、楽器の演奏などは、最初は失敗を繰り返しながら、意識して一つ一つ指や身体に覚え込ませていきます。最初は最大限の注意を向けて意識が前面に出た状態で取り組んでゆきます。練習をくり返すと、やがて自分のものになります。そうしたことが無意識にできる能力を獲得したのです。一旦身につけてしまうと、無意識的行動が可能になります。体得した無意識的行動は確実に脳に記憶されます。意識が指示を出さなくても事がスムーズに運んでいきます。こんな例もあります。酔っぱらって前後不覚になっても鞄をしっかりと抱えて、自宅に戻っていることもあります。これも意識の介入がないにもかかわらず、無意識に脳が働いてくれるおかげで事なきを得ているのだと思います。無意識というのは私たちの生活の中でより多くのことを迅速に処理することに役に立っています。しかし一旦無意識的行動の能力を身に付けたのにもかかわらず、何かのきっかけでとらわれて、意識がしゃしゃり出てきて、その行動の意味やよしあしの検討を始めてしまうと問題が起きます。無意識的行動は無意識に行っているからこそうまくいっているのです。そのままにしておく方が無難です。しかし厄介なことに意識化は常に無意識化の領域に入り込むことを狙っています。また意識化と無意識化の力関係を見ると意識化の方が力を持っています。無意識化というのは常に、意識化に介入されやすく、従属されやすいのです。よく不安に生活が乗っ取られてしまったといいますが、このことを言っているのです。次にもう一つ押さえておきたいことがあります。認知行動療法でよくいわれる自動思考という事です。自動思考というのは、ある出来事に遭遇したときに、その人にとってどのような感情が湧き起ってくるかという事です。人によっては全く正反対に受け取ることがよくあります。例えばのどが渇いているとします。目の前のコップに水が半分あります。ある人はまだ半分も残っていると楽観的に受け止めます。ところが物事を悲観的にみる習性の人は、もう半分しか残っていない。どうしようと思案します。このように同じ出来事を見ても人によって受け止め方は様々です。このように極端に片寄った考え方は問題を起こします。特に神経質な人は考えることが無茶でおおげさ、論理的に飛躍する。マイナス思考、ネガティブ思考に大きく片寄っている。事実をよく確認しないで、先入観や決めつけが多い。完全主義、完璧主義、理想主義的な思考方法をとりやすい。つまり認知の仕方に誤りや片寄りがあるのです。これは本人の持って生まれた性格、資質などもあるでしょう。また親、学校、社会などからの接し方、教育の影響もあるでしょう。でもそういうゆがんだ無意識的な考え方は、決断や実際の行動に大きな影響を及ぼしています。認知の仕方がゆがんでいると問題が発生しやすい。そういうゆがんだ無意識的な考え方は修正していく必要があると思います。まとめると、同じ無意識であっても無意識的行動は意識化しない方がよい。むしろ意識化を無意識化できるようになるとよい。ネガティブで悲観的な自動思考は意識化して修正した方がよいということになります。無意識化については以上の2点を抑えておくことが大切だと思います。意識化については明日考えてみたいと思います。
2015.09.12
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行動には意識的行動と無意識的行動があります。例えば、車の運転を考えてみると、これは初心者でない限りは無意識的行動です。ブレーキ、アクセル、ウィンカーの操作などは人と会話しながら、あるいは別のことを考えながらでも正確に行っている。問題もなく外部の変化に対応している。とっさの出来事に適応できている。ここに意識が出てきてこの操作が良い悪いと検討を始めるとたいへん危険である。無意識的行動が意識化によってかき乱されるからである。為末大さんも同じことを言われている。為末さんは日本代表のハードルの選手だった。為末さん曰く。「高いレベルで競技を行うと、意識的にどうこうしてやろうというのは役に立たないどころか、むしろ自然な動きを阻害する。自分の身体に任せてしまった方がうまくいく。右足を出して体重を移して、なんて考えてはいない。身体はひたすらに自動的に同時に複合的に動いている。」つまり為末さんがハードルを飛ぶという事は、無意識的行動を目指しているという事なのです。この時意識がしゃしゃり出てくると途端に調子が狂うというのだ。私は人前でアルトサックスの演奏する機会が多い。へたくそなのだが、それでも10年以上活動していると感じることがある。出演日、演奏曲が決まる。それに向けて猛練習をする。1曲を30回から50回以上も練習する。それ以前にも300回とか500回以上も練習している曲である。それでも過去の練習の積み重ねは、今回の出演に向けては60パーセントぐらいしか役に立たない。肝心なのは今回の30回から50回の練習なのである。特に指使いの難しい部分はゆっくり念入りに行う。練習を続けると、指が自然に動いてくれるようになる。譜面なしでもスムーズに演奏できるようになる。録音してあとで聞いても心地よい。これまでくれば第一段階はクリアである。ところがここで気を抜くと大変な落とし穴が待っている。常に本番を意識して緊張感を持続しないといけない。日程にゆとりがあれば一旦緊張を緩める。そして3日ぐらい前からまた徐々に緊張感を高めて、当日に向けてモチュベーションを最高の状態に持っていく。当日は出かける前は、持ち物のチェックリストを見て忘れ物がないようにする。こんなところでつまらぬトラブルを抱えてはならない。本番会場ではぎりぎりまで指使いを確認する。うまく演奏できるだろうか。間違って恥をかかないだろうか。とても緊張感が高まる。逃げられるものなら逃げ出したい気持ちにもなる。でも命まで取られることはないのだ。柔軟体操や深呼吸を繰返す。それでも身体が震える。講話をする時は全くそんな追いつめられた気持ちにはならないのだが、細かい指使いが要求される楽器演奏は全く違う。でももうやるしかない。清水の舞台から飛び降りるような気分で舞台に上がる。毎回こんな気持ちなのである。でも不思議なことに、演奏の中止になるような大失敗をしたことはないのである。細かいミスタッチはよくある。100%の出来は考えていない。80%から90%の出来でよしと思っている。練習によって身体が自然に動くのだろう。前頭葉の意識の命令が無くても、指が自動的に動いてくれるのだ。難しい個所もなんとかスムーズにこなせているのである。常識的に考えると、意識が働かないと、とんでもない間違いだらけの演奏になるような気がする。でもこれは間違いだ。楽器演奏は、脳の命令系統が違うのだと思っている。前頭葉の精神機能中枢を通さずに、体験による記憶と前頭葉の運動機能中枢が指先に指示を出しているのだと思う。このときに前頭葉の精神機能中枢の意識がしゃしゃり出てきてはまずい。その方が危険なのである。少しでもキータッチの不安が頭をよぎるとちょっとしたパニックになる。これは意識が無意識の中に割り込んでいるのである。この原因の多くは練習不足で、指先が助けてくれる状態になっていないのである。するとほとんどミスタッチをしてしまう。不安、恐怖、不快感は前頭葉の精神機能中枢でああでもない、こうでもないと考えることで、どんどんと大きくなる。神経症から解放されるというのは、意識化された不安などを、無意識化するということかもしれない。森田理論学習をしているとそのことがよく理解できるのである。あす以降さらに説明してみたい。
2015.09.11
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「生きがいの本質」の著者飯田史彦さん、精神科医の水島広子さん、船井総合研究所の創始者の船井幸雄さんたちの考え方には共通点があるように感じている。人間が死んだりしてもそれで終わりではないという考え方だ。身体はこの世に存在はしなくなるが、魂とでもいうべきものはなくなることはないのではないか。私もこの考え方を支持している。もちろん科学的に証明はされていない。だからなんとバカなことを言い出すのだという方も多い。船井さんもなんと非科学的なことを言うのかと、仕事の業績にも影響を与えたといわれている。しかし、そういう仮説のもとに生きていくという事は、生きていくことをより深く味わう事ができるようになる。人生を意味のあるものにすることができるように思う。私は次のような仮説を立てている。私たちは生まれる前にグレートサムシング(偉大なこの世の創造主)と契約してきたのではないか。その契約には、あなたは銀河系の太陽系第三惑星の地球に行ってもらう。あなたの性別、容姿、性格、健康状態はこうなっている。こういう教育を受けて、こんな仕事をするようになる。生まれてくる時代は1900年代から2000年代。その時代の社会環境、自然環境、経済環境はこうだ。国は日本だ。両親、親族、配偶者となる人はこういう人たちだ。生存中あなたはこんな事件に巻き込まれる。こんな病気になる。そしてあなたが当面する課題、問題はこういうものだ。そして最後に、亡くなってこちらに戻ってくるのは何歳とします。その中で課題や問題に対して、どのように対応していったのかを査定させてもらいます。間違ったことやミスや失敗はいくらしてもかまいません。ミスや失敗はむしろ貴重な経験として査定ポイントが加算されます。肝心なことはあなたの進んでいる方向性です。その査定はもちろん今後のあなたの処遇に反映します。以上が今回の大まかな契約内容です。この統一契約書にサインをしますか。それとも止めておきますか。私たちは、幾つもの選択肢の中から、熟慮を重ねた末に統一契約書にサインした。そして記憶を一切リセットされてこの世に生まれてきた。このように考えると、「自分の考えている事や意思や心」と「自分の身体」は別物と考えるのが自然なのではないか。この世ではこの2つは一心同体のようであるが、本来は別々のものなのではないか。決して自分の考え方一つで自由自在に扱っていいものとは違うのではないか。そう考えると、あれがダメだ。これが気にくわないといってる場合ではない。身体はこの世で管理を任されているものなのだ。管理人のようなものだ。どう管理していくかはあなたの腕の見せ所である。きちんと管理をしていくと身体は心身ともに健康体となる。身体が喜んでくれる。自分の存在価値を認めてくれて、いたわり、励まし、いつも味方になって見守ってくれるので精神的にとても安定している。自由に誰に気兼ねをすることもなく行動することができる。一旦は離ればなれになるけれども、またいつかどこかでペアを組んでもっと人生を謳歌しましようね。魂と身体がともにお互いを尊敬し、助け合って離れがたくなっているのである。反対にいい加減に扱っていくと、心身ともに不健康になる。元々備えていた潜在能力を引き出すことができなくなり、宝の持ち腐れとなる。自分の意思と身体が反目を繰返しているのである。そんな状態では、最後に魂が身体から遊離する時どうなるか。魂はやれやれやっとこの欠点だらけ、弱みだらけの身体とおさらばできる。この世に来ても一つもいいことはなかった。反対に身体の方は、二度とこの人(この魂)とペアを組みたくない。憎んでも憎みきれない相手だった。顔も見たくない。感謝の気持ちは全く湧いてこない。清々したわ。このような仮説を立てて、この世での生き方の方向性を見定めていくことのメリットは多い。逆にこの考え方が間違いであったとしても弊害はまったくない。みなさんはどう思われますか。
2015.09.08
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「こだわり」と「とらわれ」の違いについて考えてみた。共通点のあるような言葉でありながら、その本質はかなり違うと気がついたからである。私たちの問題にしている「とらわれ」がより深く理解できるようになるかもしれない。「こだわり」を持っている人は頑固であるというイメージがある。人の言う事はあまり聞かない。融通が効かない。言い出したら梃子でも動かない。わが道をどこまでも突き進む。一途に自分の信じた道を貫く強さがある。うんちくを人に語り出すと止まらない。自分の持ち物については気にいったものをずっと使い続ける。健康志向にこだわっている人もいる。食事の内容、体を動かすこと、睡眠、ストレスの発散、趣味、温かい人間関係の構築などに気を配っている。特に食べ物については、無農薬、遺伝子組み換え食品、生産地、消費期限を気にする。そして食事のバランス、サプリメントにこだわる人もいる。生活習慣病にはいつも関心を持ってチェックしている。長寿そのものよりも、心身の健康年齢の延命を心がけている。特にがん等の難病、認知症等を警戒している。つまりこだわりのある人は、その内容を重視しているのである。さらに自分が主体性を持って自分の所有物や身の回りの人に接しているのである。それだけに「こだわり」のある人は味がある。芯の強さを感じるのである。つぎに「とらわれる」人の特徴はなんだろう。目先のことに「とらわれる」という言葉がある。ちょっとしたこと、とるに足らないようなことに簡単に「とらわれる」のである。これは心配性の性格を持っている我々に当てはまることである。とらわれる人は、不安や不快感を流せないで、いつまでも抱え込んでしまう人である。どうにもならないこと、気になることに注意を集中させて、不安や不快感をできるだけ早く無くそうとする。それ以外のことに目が行き届かなくなり、生活が後退する。観念上の悪循環が始まる。つまり自分の生活が不安や不快感に乗っ取られた状態である。不安や不快感が頭に浮かんできて、なんとか取り除くように自分に迫り、その不安を解消するために手あたりしだい何かしないではいられない。強迫観念で自分を追い込み、強迫行為をするようになるのである。ちょっとでも頭が痛い、腹の調子がおかしい。すぐに何か命にかかわる重大な病気にかかっているのではないかと気にする。そして病院にかかり薬を処方してもらう。私ものどにものが引っかかったような不快感が気になり大学病院に行ったことがある。診察した先生は、「この病院は開業医の紹介状が必要です。あなたのような一限の患者さんが直接来院するのは手順が違う」と言われた。事実のどの痛みはヒステリー球という精神的なストレスが原因でしょうと言われた。紹介状が無いので高い料金を請求されて、すぐに追い返されてしまった。考えてみれば、大学病院は命にかかわるような人が来るような病院だ。でも私はガンになったのではないかと気が動転して、一番信頼のおける病院でよく見てもらおうと思ったのである。これがとらわれの悪循環に取りつかれた人の特徴である。やることなすことが極端で、後先のことを考えないで短絡的である。不安や不快感に対して対症療法で簡単に応急処置をとろうとするのである。健康でいたいという気持ちが強いが、不快感や病気が発生したときに、その原因を特定して誰かに取り除いてもらおうという気持ちが強い。「こだわり」を持っている人のように、自分の立場を明確にして人や物事に対しているのではない。主体性に欠ける人である。「とらわれる」人は不安や不快な気分を気にしているのである。安易に気分本位の行動をとっている人なのである。その時の気分に翻弄されるばかりであるから、不安定なのである。
2015.09.02
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大阪府高槻市の駐車場で、寝屋川市立中木田中学1年の平田奈津美さん(13)が遺体で見つかった。同じく星野凌斗君(12)も遺体で見つかった。防犯カメラの解析の結果早期の犯人検挙につながった。残忍な事件である。犯人に対しては許せない気持ちが強い。でも私は一つの疑問が頭から離れない。平田さんは夜中から夜明けにかけて寝屋川駅前の商店街を動き回っている。そして雨が降るのに野宿をするつもりだったという。小さいテントを持ち歩いていたという。過去にも何回も野宿をしていたようである。ということは家に居づらい理由があったのではないだろうか。家にいるよりも真夜中野外で過ごす方がよほど気が楽だという気持ちがあったのではないか。まだあどけなさの残る子どもである。かわいそうでならない。しかし、こういう子どもの予備軍は大勢いるのではないか。高槻の事件は氷山の一角ではないのか。現代は、子どもが親の対応によってまともに育たないケースはどんどん増えているのではないか。このブログでも子どもと親の触れ合いについてはたびたび投稿してきた。乳幼児の母親とのスキンシップ。しつけの心構え。幼児期からの子どものネガティブな感情の対応方法。過保護、過干渉、放任がいかに子どもの心の発達に悪影響を与えていることか。等などである。子どもを育てようとする人は、人を育て教育していくための訓練を受ける必要があるのではないか。検定試験制度を設けて、合格者のみに子育ての資格を付与する等のてあてをとる必要があるのではないか。さらに子育ての情報交換や原理原則を学ぶ自助グループ活動を全国に広める必要があるのではないか。子どもを持つ親は税金を支払うのと同じように、それを強制的に義務付ける必要があるのではないか。精神疾患、パーソナリティ障害、アダルトチルドレンなど精神的トラウマを背負ってしまうと、その子どもは一生重荷を背負わされるのである。その苦労は身にしみて感じている。反対に子育てが順調に進むとこんなに楽しいことはないのである。子どもも親もどちらにとってもプラスとなるのである。
2015.08.22
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私たちは、腸内細菌はよくないものと考えてはいないだろうか。特に大腸菌のようなものはなければいいのにと思ってしまいます。人間の腸内には約3万種、1000兆個の細菌が住み着いていると聞くと唖然としてしまう。無菌状態だったらもっと元気になるような気がする。でもそれは間違いだ。現実には腸内細菌の助けがないと私たちは健康に生きてはいけないのだ。まず食物繊維を分解してくれるのは腸内細菌です。私たちが自力で消化できるのはデンプンやグリコーゲンだけだそうです。腸内細菌が分解してくれるからこそ栄養分として体内に吸収できるのです。つぎに腸内細菌が十分にないとビタミンKの不足という事態が引き起こされます。ビタミンKは血液凝固作用があります。これがないと出血が止まらなくなるのです。これは腸内細菌によって供給されているのだそうです。また腸が正常な形状を保つためにも腸内細菌が重要な役割を果たしていることが分かっています。腸内細菌のないマウスを観察すると、盲腸が大きく膨れたような状態になり、放置すると死んでしまうのだそうです。さらにセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン、GABA等の神経伝達物質は腸の中で作られています。たんぱく質を材料にして腸内細菌が作り出したビタミンが加わることによって作り出されているのです。腸の中で腸内細菌の働きを借りてその前駆体は造られているのです。脳はそれを使って最終の組み立てをしているようなものです。またセロトニンの90%は腸にあります。脳にあるのはたったの2%です。腸は腸内細菌とセットになって消化、免疫等体の健康維持はもちろんのこと、メンタルにかかわる神経伝達物質の製造にもかかわっているのです。ですから腸内細菌を排除するのではなく、上手にバランスをとって共生するということが基本にならないといけません。そういう意味では内因性精神疾患を抱える人は腸の働きがよくない。さらに食事のバランスの崩れが、腸内細菌のバランスの崩れに及んでいるのかもしれません。
2015.08.03
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プロフェッショナルという番組で瀬戸内海の小島で時計の修理をしている人の話があった。この人は50年間この仕事に携わってきた。その間時計は安いクォーツ時計が主流となった。使い捨ての状況で仕事は激減した。確かな技術はあるのに、修理の仕事がなくなったのである。生活は切り詰めざるを得なかった。また島の若者は島での生活をあきらめて都会に出て行った。そういういう誘惑にかられた事もあった。ところが、自分の住んでいる古い街並みが観光案内として紹介されたとき、時計職人として紹介された。それからボツボツと仕事が舞い込むようになった。今は全国から修理依頼が舞い込み1年待ちという状況である。使い捨て時代とはいえ思い出の深い時計は修理して使いたいという人がいたのである。そんななかで大阪の人からの依頼があった。オメガの時計だった。その人は自営の仕事が軌道に乗った時にその時計を買い、以来大事に使ってきた。ところが突然脳梗塞をおこし半身不随になった。時を同じくしてこの時計が動かなくなった。修理依頼の手紙には、もし治らない場合は捨ててくださいと書いてあった。真意を確かめるため、電話をしてみると、この時計が治って戻ってくれば自分の病気も快方に向かうのではないかという希望を持っておられることが分かった。この時計はさびだらけであったが、心臓部は修理可能であった。この時計が修理されて戻ってきたとき、その喜びようは大変なものだった。数は少なくても、思い出の時計を持っている人は、なんとしても元に戻したいという気持ちは強いものを持っているのだ。そういう人の願いを叶えてあげる仕事は尊いことではないのか。一生時計修理にかかわる決意を固めておられる。私はこの番組を見て思った。対人恐怖で仕事もうまくいかない。人にも迷惑をかけてきた。自分も生きづらさを抱えて毎日つらい人生を過ごしてきた。そういう人は私をはじめとして全国にはたくさんおられるのではないか。そのために森田理論が役に立つことは分かっているが、世間には認知されていない。でもこの時計職人のように、いつか少なからず支持を集める時が来るのではないか。それまでは森田を信じて、神経症克服の道を極めておくことが大切なのではないか。私にはそれこそが、世の中に役に立つ仕事として、生きてきた証を残せる唯一の道ではないのかと思った次第です。
2015.07.27
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神経質者は大学受験、国家試験等で基準点をクリアして合格する人が多いようです。これは神経質性格をつぶさに検討してみれば明らかなことです。第一に粘り強い。すっぽんのように食いついたらめったなことではあきらめない。合格するまで執着するからです。分析的、論理的な思考ができる。文章を読んで間違いか正解かを目ざとく見つけ出す能力があります。推敲を重ねて、文章を書くような問題は得意です。小さいことが気になるので、いろんなことをよく覚えてしまうのです。また反復して完全に記憶してしまおうという気持ちも強いようです。また好奇心旺盛ですから問題を解くための努力を惜しみません。神経質者はこういう課題や目標の完遂にはたぐいまれな力を発揮するのです。ただそういう方面はすぐれた特徴がありますが、対人折衝能力、統率力、身体能力の発揮は見るべき特徴が少ないということは自覚しておいてください。それを前提にして、今日はさらに自分の経験から資格試験の合格を勝ち取るためのノウハウをお教えしましょう。私のとった資格は、社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー等です。まずは、受験に詳しい資格専門校、名物講師を発掘することです。自分ひとりで取り組もうとすると範囲が広すぎる。独りよがりの自己満足的な取り組みになってしまう。一人で学習するのは、経費はかかりませんが、いつまでたっても合格には程遠いと思います。受験専門校は確かに合格のためのノウハウを蓄積しています。例えば社会保険労務士は、労働白書、厚生白書の中から一般常識なる分野がありますが、分厚い白書のどこから出題される可能性が高いか自分ではまったく見当がつきません。受験専門校では、他社の模擬試験の問題や過去問を見て来年度の出題範囲をいくつかに絞って模擬試験をしているのです。それがだいたい当たっているのです。これを利用しない手はありません。次に、資格試験は覚えることがたくさんあります。覚えるには、反復繰り返しが一番です。100回繰り返すぐらいの気持ちが大切です。注意を引くためには、テキストの脇に実際の問題を張りつけて一緒に学習することです。資格試験はひっかけ問題が多いです。それを防ぐためにも有効です。それは全員を合格させてあげようとするよりも、いかにして合格者を絞るかというところに力を入れているからです。合格率10%ということは90%の人は不合格となってしまうのです。次に五感をフル活用することです。だいたいは目で見て学習する人が多いようです。これだけでは不十分です。耳や手や体、仲間を使うことも考えてみましょう。講師の講話内容は録音しておく。移動中等ではその録音を聞く。見たり聴いたりするだけではなく、実際にノート等に書き出して整理する。手を動かして覚えるのです。模擬試験などを実際に受けて予行演習をしてみる。学習仲間と交流して情報や刺激を受ける。資格試験で勝つためには五感のフル活用が大切なのです。学習時間は朝に力を入れたほうがよいと思います。夜は12時までには寝て、朝少し早目に起きて学習する。朝の学習はとても効率がよいのです。後は隙間時間を利用することです。待ち合わせ時間、昼時間、通勤時間もちりと積もれば大きな時間となります。資格試験の合格はどれだけ時間をかけて勉強してきたかということです。例えば社会保険労務士試験では合格ラインは1000時間と聞いたことがあります。それを各科目に割り振ると1科目100時間になります。理解したかどうかというのは計測するのが難しいですが、時間は毎日パソコンで管理すれば簡単です。それが試験では確かな自信となってきます。ここまでやっても残念ながら1年目不合格という人は30%から40%はいます。でもあきらめなければいずれ必ず合格の栄冠をつかむことができることができます。振り返ってみると大学受験や資格試験は、神経質性格をいかんなく活用していくこと。さらに森田で学習したように、分からないことは謙虚になって詳しい人から教わること。自分たちのするどい感受性、つまり五感をいかんなく活用していくこと。これらを心がけて挑戦していくとうまくいく確率は高まってゆきます。
2015.06.15
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私たちの心の中には、どうなりたいとか、どんなことをしたいとか、何が欲しいといった欲求や願望があります。それを実現して幸福になれる人もいますが、やはり、人生そう甘くはないわけで、たいていは思い通りにならずにつらい思いをします。「なりたい自分」になれないし、「欲しいもの」は手に入らない。こうして、「生の欲望の発揮」の努力を中止してしまうと、「かくあるべし」という厄介なものがのさばってきます。現実と理想のギャップに苦しみ出します。心の中は不満だらけになります。最後には、「こんな人生になんの意味があるのだろうか」「ただ苦しいだけではないか」「人間は苦しむために生きているのだろうか」等と悲観的に考えるようになります。だいたい苦難や災難は一つ起こってくると次から次へと連鎖してたて続けに起こることが多いものです。たとえば、リストラで仕事を失い、経済的困窮がもとで奥さんと子供が実家に帰ってしまう。そうした心労とストレスによってうつ病になり、そのうえ両親も病気で介護が必要になるといったようなことです。この問題に対して、「夜と霧」を書いた精神科医のフランクルは、それは認識の仕方が間違っていると指摘しています。つまり、「人生の意味」は、私たちがそれを追い求めるのに先立って、常に人生のほうから送り届けられている。私たち人間がなすべき事は、生きる意味はあるのかと「人生を問う」ことではなくて、人生の様々な状況に直面しながら、その都度「人生から問われていること」に対して全力で答えていくこと、ただそれだけだというのです。これはほっとさせられる考え方です。人間はそもそも「人生とは何か」と問う存在なのではなく、「人生から生き方を問われている存在」である。この視点に立つと、人間が「人生に意味があるかどうかを問う」という態度は傲慢且つ不謹慎であるということになると思います。したがって、人間にできること、しなければならないことは、人生の様々な状況に直面しながら、その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で答えていくということである。そうして自分の人生に与えられている「使命」を全うすることにある。もう一度言いますと、フランクルは「人間は常に人生から問いかけられている存在」だと言いました。フランクルは、ここにこそ人間の本来あるべきあり方があると考えました。これは森田でいうと自分に与えられた運命をそのまま受け入れて、目の前に与えられた困難で悲惨な問題点や課題などに対して誠心誠意立ち向かっていくことだと思います。その努力の過程の中に生きる意味は隠されているのだということだと思います。こういう考え方ができるようになると、ずいぶん楽に生きていけるのだろうと思います。(100分de名著 フランクル夜と霧 諸富祥彦 NHK出版より一部引用)
2015.06.10
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この日曜日は、田舎に帰り隣近所の人全員で行う川の草刈りに参加した。草といっても葦のような硬い草である。全員草刈り機を持って集まった。川の中の作業なので足場が悪い。川の中は雨上がりで水かさがあり、長靴の中にまで水が入ってきた。気持ちが悪かった。休憩時間に草刈り機の替刃の話で盛り上がった。替刃はずっと使っていると摩耗して草が切れなくなる。葦のような草は難儀をする。やわらかい草なら少々切れないときはエンジンをふかして馬力をあげて作業する。でも音はやかましいし、さらに燃料が早く無くなる。そこで替刃を新しいものに交換したり、ヤスリをかけて目立てをする。替刃はホームセンターや農協で売っている。1000円ぐらいから3000円ぐらいまでの幅がある。私は1000円ぐらいの安い替刃を買って切れなくなったら交換していた。ところが安い替刃はすぐに摩耗して使えなくなる。隣近所の人の多くは3000円ぐらいの替刃を使っていた。私は1000円の替刃が3枚買えるのでその方が安上がりではないだろうかと思っていた。でもそれは誤った考え方であったことがよく分かった。3000円の替刃は耐久性に優れていて、さらにヤスリで時々目立てをすれば10倍ぐらい長持ちがするそうだ。農家の人は刃がダメになったらすぐに買い替えるようなことはしていないのである。農家にはほとんどの家に電動や手動のヤスリ機があるそうだ。ヤスリをかけて新品同様にして使っているのだ。私は親しい人にヤスリ機を見せてもらった。その方は2種類のヤスリを持っていた。いずれも電気を使ってグラインダーのようなものが回るものだ。一つは固定式、一つは非固定式であった。その方は実際に実演して見せてくださった。その人が言われるには替刃をよく観察してみなさいと言われた。替刃を何種類も持ってきて言われるには、いろんな形状の替刃がある。種類が一つではないのだ。少なくとも形状が違うものが3種類はあることに気がついた。それぞれにヤスリのかけ方は違うのである。掛ける位置、ヤスリの角度に注意を払う必要がある。時間的には1枚の替刃を研ぐのに10分ぐらいであった。替刃の先は本当によく工夫されていることに気がついた。石にぶっつかった時刃自体に衝撃を与えない工夫等もされているそうだ。替刃は見ているとほんとに面白いものだ。こんなことにも感動すら覚える。私はいろんなことを教わった。替刃で物の性を尽くすということはこのことだと思いました。知らないこととはいえ、私のようにすぐに使い捨てにして新しいものと取り換えるというのは、まだまだ森田の初心者だった。農家の人は自然に森田が言っている物の性を尽くすという実践をされていたのだ。1枚当たりは少し割高でも刃を研いで丁寧に再生してできるだけ長く使うということ。そしてもう一つ感心したのは、もっと替刃を観察して、どうしてこういう形状になっているのか関心を持って見るということだった。いくつかの替刃を見ていると刃先の形状が違う。それは草の種類や草刈り場の状況に応じて作られているのだ。10羽ひとからげのような大雑把な見方では進歩発展はないのである。ものそのものになって眺めていると、どんどん疑問がわいてくる。疑問を詳しい人に尋ねると理屈が分かってくる。すると嬉しくなる。さらに関心が高まってくるのだ。草刈りも奥が深いし面白みがあるのである。さらに刈った草を集めて有機肥料を作り畑にまけば土地が肥えてくる。その方が言うには、有機肥料作りも楽しいし奥が深いそうである。そういえば野菜作りも近所では有名な人だ。玉ねぎなどの野菜もおすそ分けしていただいた。このように、ちょっとした関心を膨らませれば楽しみが大きく花開いてくるのである。これを見過ごしていては、草刈りのたのしみは無くなり、苦痛だけが増してくる。私のような都会暮らしのものにも親切に対応していただいた農家の方に感謝した次第です。
2015.06.09
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サッカーの監督が試合中に大声で選手に何か言っているような光景をよく目にします。でもあれは指示をしているのではないそうです。試合中にそんなことをするようではとても勝負に勝つことはできない。確かに試合中に、選手が監督の指示を気にしているようでは試合には集中できません。あれは監督自身のイライラ、ストレスを発散しているのだそうです。つまり胸のわだかまりを大声を出して発散しているのだそうです。精神衛生上大変効果があるそうです。だからストレス対策として大声出すことは、老廃物を体外に排出することと同じことになるのです。これに倣い、私たちもストレス発散のために大声を出して、胸のつかえを吐き出すようにしてみたらいかがでしょうか。でも毎日の生活の中で、大声を出してストレス発散する機会はあまりありません。どうしたらよいのか。私は以前ベートーベンの第九合唱団に加わって歓喜の大合唱を経験しました。思いっきり声をだして確かにストレス発散にもなります。またオーケストラと共演できて感動もあります。数千人の人との合唱はとても力強く、人間の底しれない力を感じました。みなさんも機会があれば1回挑戦してみてください。1回歌詞を覚えれば家の中でも伴奏に合わせて歌えるようになります。歌っている時には同時に思考することはできません。歌うことに専念することしかできません。つまり不安や恐怖、不快な感情から一旦解放されることになるのです。その他では手っ取り早いところでは、カラオケです。You Tubeの動画サイトではほとんどの曲が用意されていますので、別にカラオケルームに行く必要はないかもしれません。パソコンで再生して歌えばよいのです。うまく歌えなければ歌手の歌声に合わせて歌えばよいのです。私のような音痴なものでも手順を踏めばなんとか楽しめるようになります。コツとしては録音機を使うことです。お勧めはPCM録音機です。鮮明にダイレクト録音ができます。プロが歌唱しているものをYou Tubeからダイレクトに録音して、小節ごとにリピート機能を使って、歌い方が分からないところを繰り返し聞いてみることです。私はこれで「奥飛騨慕情」「夢追い酒」「君がすべてさ」「二人酒」「博多時雨」「還暦祝い唄」等を練習しました。毎日アルトサックスの練習もしています。最近はそれ以外に、カラオケを30分練習しています。歌詞も一番だけはすべて暗譜しました。バイクでの通勤途中はもっぱら暗譜したカラオケを順番に歌っています。楽しいです。多少なりともストレスの軽減に役立っていると思っています。また1年に2、3回あると予想されるカラオケの機会には、逃げずに歌ってみたいと思っております。あの音痴な人がと、みんなをびっくりさせてみようと思っています。
2015.05.31
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宇野千代さんの「幸福の言葉」(海竜社)より、森田理論に関連する言葉をご紹介します。8ページ「人間とは動く動物である。生きることは動くことである。生きている限り毎日、体を動かさねばならない。頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。」手考足考のことですね。だれでもやればいいなと思うことはいくらでもあります。でも思うだけで手を出さないのは、思わなかったことと同じです。思うだけでは能力があるとは言わない。小さな思いつきをメモ等に残してきちんとキャッチしておくこと。そしてできるかできないにかかわらずストックを増やしていくこと。そういうことができる人は能力がある人です。さらにできるところから手をつけることができる人は進歩発展してゆける。水谷啓二先生は、われわれ神経質者は風雲に乗じて成功を遂げるタイプではない。平凡なことを軽視しないで毎日の日常茶飯事に丁寧に取り組む。そういう生活を1年2年と続けるとその人はもはや平凡な人ではない。「平凡に徹した非凡な人になれる」と言われています。42ページ小説家である私は、毎日、だまって机の前に座ります。「小説は誰にでも書ける。それは毎日、ちょっとの時間でも、机の前に座ることである」これは私が作った格言なのですが、昨日は座ったが、今日は座らない、というのではなく、毎日、座っている中に、何か書ける、という教えなのです。倉田百三氏は、森田先生に、神経症がきつくて、作品を書こうという気が起こらないときでも、とにかく筆を持ちなさいと言われた。そんな状態で書いた「冬鶯」という作品は、あとから見直しても上等の作品であったという。53ページ「人間というものは、最後のどん詰まりになっても、一握りのしあわせにでも、しがみついて、生きていられるものなのです。その幸せとは何か。それは、自分にできる仕事があるということである。」私はこの「仕事」という言葉を、家事、育児、日常茶飯事、雑事、課題、夢、目標、問題点に読み変えてもよいのではないかと思います。98ページ誰の心の中にも、自尊心というものは隠れている。この自尊心があるために人と人の関係が、何となく、ぎくしゃくすることがある。自尊心というものが隠れている間は、何事も起こらないのに、一たび、ちょっとで頭をもたげてくると、面倒なことが起こる。そのことを知っている人は、そのとき、ちょっと自分の自尊心をよそへ持って行く。人の目のつかないところへ、隠しておく。自尊心なんか持っていなかったような振りをする。それにうまく成功すると、人と人との間には、案外、何事も起こらない。自尊心をちょっとどこかに隠す。というのは、何という便利なことであろうか。プライドをちょっと隠すと、言葉はやさしく顔はおだやかになる。私はここでいう「自尊心」「プライド」は、森田理論でいう「かくあるべし」であると思う。「かくあるべし」「プライド」を隠すにはどうしたらよいのか。これは一言でいうと事実本位・物事本位の生活をすることである。そのためには、事実をよく観察する。事実を具体的、赤裸々に話す。事実を両面観で見る。事実を是非善悪で価値判断しない。事実を受け入れ、事実に服従する。純な心を実践する。私メッセージの体得。等々の学習と体得が必要であると思う。これらについては数多く投稿してきた。気になる人はキーワード検索で学習してみてほしい。195ページ「幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人がいる」大きな幸福を求めていると、さらに大きな幸福が欲しくなる。無限にエスカレートしていく。そして幸福を追い求めること自体が人生の目標になってしまう。幸福を追い求めているのに、しだいに心は幸福から離れていく。しまいには疲れ果てて、むなしさ、空虚感でいたたまれなくなる。ささやかな小さな幸福が喜べる人は、自分のまわりに小さな幸福のかけらが数多く集まってくる。そういう人は小さな幸せに満足している。十分に楽しんでいる。大きな幸せが一つあるよりは、小さな幸せを数多く味わう方が自分の性に合っていると考えている。人生のだいご味はそこにあると感じている。そのためにこまめに手を出し、足を出している。
2015.05.25
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2010年内閣府が発表した全国実態調査の引きこもりの成人は70万人、その予備軍は150万人以上に上るそうだ。色々原因が考えられるが、一つは教育の荒廃が挙げられるだろう。岡田尊司の「子供が自立できる教育」から探ってみよう。岡田氏の思春期外来に20代の男性が訪れた。彼は有名大学の大学院生だ。大学院での研究テーマは、今花形とされているもので、その研究室に進めたということは、大学時代も成績優秀で、難関の大学院入試を突破できたということである。現在、修士課程の2年目で、修士論文に取り組んでいるという。検査の結果、知能指数、言語理解、動作記憶、知覚統合や処理速度はいずれもすぐれていて、バランスがとれていた。だが現実には、非常に困った問題に直面していた。それは修士論文が書けないということだった。一体何をどう書いたらよいのか分からない。それ以外にも人前でプレゼンテーションをしたり、スピーチしたりするのが極度に苦手だった。知識や言葉はあふれるほどあるのに、それを生きた言葉として他人に伝えることができないのだ。これでは大学院を卒業することはできない。仮に卒業できても指導教官として学生を指導することができない。岡田氏は、この青年の抱えている問題は、統合能力、つまり情報を組織化、系統化する能力に問題があるという。統合機能は、認知機能の一つだが、非常に高次な情報処理能力である。統合機能が弱いと、手際良くまとまりのある話をしたり、文章を書いたりすることが苦手になる。自由度が高いほど、書いたり、しゃべったりすることが難しくなる。このような発達障害ともいえる人は近年増加傾向にあるという。それが足かせとなり、劣等感にもなり、自己嫌悪、自己否定となって自立を拒んでいるのである。統合機能の発達を促し、その能力を高めるためにはどうしたらよいのか。それには子どもの頃に、いろんな子どもたちと雑多な遊びを数多く経験させることがとても重要である。例えば自然の中で自由に遊ぶこと。友達とブランコやトランポリン。ボール遊びや鬼ごっこなどである。多様な感覚や情報、知覚と運動の両方の要素、予測できない要素がたくさん盛り込まれれば、それは統合機能のよい訓練になると言われる。今の子どもは塾通い、おけいこ事は熱心だが、こうした遊びは苦手である。第一遊ぶ場所がない。外は危険がいっぱいである。勢い、テレビを見る、ネットケームなどで室内で一人で遊ぶことが増えてくる。これらが統合機能を衰退させている。統合機能を鍛えるにはそれ以外にもいろいろある。学校教育では「聞く」「読む」「書く」「話す」のモードを個別に使うのではなく、聞きながら書く、声に出して読む。会話する(聞きながら話す)、書きながら説明する等、いくつかのモードを併用しながら学習した方が統合能力の訓練になる。次に作文、レポート等を書くということである。文章を書くということは、非常にすぐれた統合能力の訓練なのだ。でもマークシート方式の試験が主流になってからおろそかにされてきた。さらに、自分の意見を発表したり、討論をしたりすることである。この場合も、ただ自分の主張をするだけではなく、相手の反応に対して答えるという相互的なかけ合いや対話、議論を学ぶことが、より高度な統合能力を鍛える。自己主張するだけではなく、対立を克服するという部分が重要なのである。最後に、チームワークの必要な集団の中で活動し、協調やリーダーシップを学ぶことが挙げられる。これは、自分の考えや葛藤だけではなく、集団の意思や対立を統合していく能力を鍛える。これらは現代の家庭教育、学校教育、社会教育ではあまり重要視されていないものである。自立した人間を作り上げるという本来の教育目標からすれば、決して避けてはならない項目である。(子供が自立できる教育 岡田尊司 小学館文庫 32ページより一部引用)
2015.05.22
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ブログの閲覧者が延10万人を超えることができました。熱心な読者の方に大変感謝しております。モチュベーションの維持に役立ちました。投稿によって自分自身、森田理論を大いに深めることができました。ちなみにブログ開設して2年5ヶ月目です。5年で10万人を目標としていたので少し驚いています。5年間、2500投稿、10万アクセスの目標をこのたび変更しました。新しい目標は5年間、2200投稿、40万アクセスの達成です。このままのペースですと、ほぼ問題なく達成可能と思います。あと2年7カ月はなんとか頑張りたいと思います。その後の新たな目標として、投稿記事を整理してみることです。4冊目のテキストにまとめたいと思っています。さらに将来的には森田理論学習を系統的に学ぶ学習会を主催できたらと考えています。ただ今の段階ではまだまだ雲をつかむような段階です。森田理論が役立つ人は1000万人はくだらないのではないかと思います。というのは、少なくても神経質性格を持っている人は、日本人の10人に1人はおられると考えているからです。もっともっと多いかもしれません。そういう意味でもっと森田を身近なものにしていく必要があります。本来は、森田は学校教育の中で、選択科目として取り入れていくことが有効ではないかと考えています。それによって多くの神経質者が人生観を見直すことができて、実り多いい人生へと踏み出すことが可能になります。これほど素晴らしい授業はないではありませんか。日本が世界に先駆けて心の教育を先導できる能力と下地は十分持っていると思っています。そのためには森田を知らない人や、森田と聞いただけで毛嫌いしている人にもっともっとその潜在価値を知らせてあげたいと思っております。今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。
2015.05.11
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広島カープの黒田投手はアメリカでは100球制限をうけていたという。つまりシーズンを通して中4日で投げ続けることを求められていたのである。シーズンを通して働いたということが大きな意味があるそうだ。大リーグでの黒田投手は勝ち負けが拮抗していた。いつも勝ちが負けを優先していたわけではない。それでも大リーグでの評価が大きかったのは、シーズンを通してローテンションを守ったからだ。6回投げて2点以内に抑えられれば勝ち投手並みの最高評価をされていたのである。それを続けたので20億円の評価が与えられたのである。我々でいえば1年365日、日常茶飯事を丁寧にこなしているようなものである。そのためには1回あたり15球から20球以内に収めないとならない。無駄球を投げる余裕はない。すべてストライクでの真っ向勝負である。でも大リーガーは力がある。ストレートにはめっぽう強い。力まかせにストレートを投げこめば簡単にホームランを打たれてしまう。そこで手元で変化するツーシームを覚えた。これがなかったら今の自分は無いとまで言っている。またバックドア、フロントドアと呼ばれるボールからストライクになるボールも覚えた。20億の評価がある選手だからヒットを打たれないかというとそんなことはない。たまには打たれる。でも黒田選手は曰く。目標は6回投げて2失点以内に抑えて、試合を作っていくということが自分に課せられた仕事である。ヒットはあまり打たれたくはないが、塁上をうめられても逃げずにストライク勝負して、できるだけ0点に抑えること。これが僕に与えられた仕事だ。投球を見ていると百戦錬磨の勝負師という感じである。困難な状況でも決して逃げない。しかもきわめて冷静である。失敗して点を取られることもあるが、困難に立ち向かう姿勢は共感を覚える。予期不安があるとすぐに逃げまくっている私にとっては、実に勇気がでてくる。
2015.04.20
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