2005年12月29日
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カテゴリ: 倭人の末裔
この日記は、ようちゃん2号さんの2005年12月23日の日記に触発されて書くものです。
ただし、氏の名誉のために言っておきますが、同氏の日記が当然として以下のような文章を導くとか、同氏の文章の要点はこれこれとか、そのような類の物ではありません。
以下にある内容は、私が以前に書いていたものを改めて焼き直しすると言ったほうがいいと思います。
で、何の焼き直しかと言うと、資本主義とか、企業家精神とかについて言った話です。


そもそも、洋の東西を問わず、ある社会が行き詰まりを感じたとき、原点回帰が為されます。
資本主義そのものが疑われたとき、帰るべき原点、そして古典は、アダム・スミスをおいてありません。
日本では、An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations という彼の主著を「国富論」ないし「諸国民の富」と訳すことが多いですが、これらのいずれもNatureないしCausesを含んだ訳でなかったため、そこに書かれた彼の主張を、人々が勝手に解釈しやすくしてしまいました。
「自由放任」がそれで、現在では逆に「国富論に自由放任という語は一言も出てこない云々」の方がよく言われています。
「国富論=諸国民の富」が、自由放任か否かという議論など、全く本義とはかけ離れた、関係の無い議論です。
スミスが言いたかったのは、国の富とはどういう(性質=Nature)のものか、そしてそれをもたらすもの(原因=Causes)は何かということです。私なりにここを言ってしまうと、それは「国民道徳」です。
すなわち、彼のもう一つの主著The theory of moral sentiments (「道徳感情論」ないし「道徳情操論」をあわせ読むとき、彼の主張の何たるかはより明らかになるはずです。(この点は結構言われてますね)
古来、「経済は哲学の僕」と言われて来ました。この言葉の意図するところを汲み取ろうとせず、「経済学の独立」とか、「経済を蔑視する無かれ」とかいう論がもっともらしく言われ出して現在の経済の基礎が出来上がりました。
経済学の独立、大いに結構です。経済学が尊敬を集めることもいいです。しかし、それと「哲学の僕」とは矛盾しないのです。
今の経済は「経済効果」一辺倒です。ひたすら経済指標を追い求めている。国民が経済を発展させることによって、自らの精神生活を豊かにするという視点がありません。
日本は資源乏しく、国土狭く、周りは韓国・北朝鮮・中国・ロシア・台湾等が日本との間に領土をめぐり主張の違いを見せています。
国民がこのまま、哲学無き経済に走りっぱなしでいいはずはありません。いったい何のために生きているのか、何のために住宅ローンを払っているのか、何のために自分は車が欲しいのか、その理由に自信はありますか。







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最終更新日  2005年12月29日 15時34分43秒
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