2006年09月20日
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カテゴリ: 倭人の末裔
最近、さるところで飲み会があって、「このごろ、介護疲れによる悲惨な事件のニュースが多いが、自分はそのことについて書くので、ぜひブログを見てくれ」ということを言っておいた。
「増田吉彦 で、グーグルで検索してくれたら出てくる」と、宣伝もしておいた。
それぐらいやらないと、なかなか腰を上げないので、自分への強制的仕掛けでもある。
以下、その文章。
悲劇というのは、ほかでもない。介護に疲れた家人が、要介護の者を殺してしまう、という事件である。
このようなことが起こるのは、介護を、あくまでも被介護者の立場に立って考えるのが正しいとされ、その正義の実行のため世の中が一つの力学にのみ動いていることによる。
つまりは、介護の方向性の誤りによる悲劇である。
しかし、さらにその根底を探ってみると、自分は「優しい、正義の人である」という、そして何より、そう思われたい、いい子になりたいという、甘い願望がある。
もし、介護人が倒れたら、介護される側も倒れる。すなわち、介護人ができること、それがその家でできる世界最高の介護である。
そのことを忘れて、介護される側の言葉や、パフォーマンス、すなわち、被介護者の持っている「道具」に翻弄され、介護そのものができなくなってしまうのである。
ここで道具と言っているのは、旧ソ連のある心理学者が、「もし我々の道具が金槌だけだったら、すべの問題は釘に見えることだろう」と言っていることろの「道具」である。もし、被介護者が、痛がる、嫌がるというという手段で自分の立場を良くしようという手を覚えていたら、そこから、地獄が始まるということだ。
人は、その能力の限界を知り、その上でより上を目指すのでなければ、もとより進歩向上は望めない。介護者が、その時点での最高のパフォーマンスをしているなら、それ以上のことは無理である。そこからさらに上というのは、そこを踏まえてその次の機会ということになる。そして、そのときには被介護者の方も、多少なりとも、多くの場合はより悪い状態へと変化しているのである。
一番大事なことは、むしろ被介護者の精神状態である。介護を受ける側が、より良い状態のイメージを描けるかどうかにかかっているのに、多くの場合は、あらゆる原因が介護者一人の肩にかかっているのである。
この元凶は、介護が「安全・安楽・安心」などという、おおよそ、人間の生を無視した言葉で表現されているということである。そしてその原因は、介護と終末医療とが、混同されているということであり、その背景には、儒教的力学が作り上げた正しい人間像に沿いたいという気持ちがある。
すなわち、優しい人と人から思われたい、言われたい、介護をやっていると認められたいということである。
優しければ正義であり、総ての人の賛同が得られ、異端は悪として攻撃される。
そして、この先も、決して介護疲れによる殺人、いじめ、虐待は止むことが無いであろう。
介護者とはその人の生を手助けする者のことである。人の生とは、行為・行動・思考であり、休息ではない。その様はしばしば戦いとも表現される。共に戦う戦友の名が介護者(ヘルパー)である。
然るに今、介護者が身内であると否とを問わず、介護が、人をより弱くし、優しさの名の下に、人の思考・行動をさまたげている。そして時には、介護者の勝手な解釈や、自己投影がその人の生に覆いかぶさっている。
ここまで、介護の一般論と、施設内介護の場合、家庭での肉親による介護の場合と、ごちゃ混ぜにして書いてしまった。
少し整理したい。
表題も数回変えているが、これはいつものように、書いている内に内容に一貫性が無くなって来たためである。
一番大事なことは、この介護の闇、すなわち 介護される側の悲劇 介護する側の悲劇 を防ぐにはどうしたらよいかということである。
ここまで、何か吐き出すように書きなぐってしまったが、次回は日付を変えて、「介護の闇その二」を書くことにする。





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最終更新日  2006年10月17日 20時25分54秒
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