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ヒット商品応援団日記No336(毎週2回更新) 2009.1.28.前回、不況を超える特効薬等ないと私はブログに書いた。創業の時、お金も物も情報も何も無かった時代、あるのは情熱だけであった時代を思い起こすことから始めることが必要であるとも書いた。それから、本格的不況はこれから始まるとも。今、雇用をめぐる正規・非正規社員、あるいはワークシェアリングといった課題が論議されているが、米国における格差や貧困問題と比較し、まだまだ日本は捨てたものではないなと思う。先日、「サンデープロジェクト」に、ブッシュ政権に辛口評論をコラムに書き、オバマ新大統領のブレーンの一人であるクルーグマン教授がインタビューに答えていた。そんなこともあり、再度クルーグマンの著書「格差はつくられた」(早川書房刊)を読み直してみた。確かに、米国における金持ち優遇税制は極端である。例えば、ヘッジファンドの経営者に対しては特別な税制となっている。通常の経営者の場合は収入に対し35%の税負担をする。が、ヘッジファンドの場合は、キャピタルゲイン税率で納税し、わずか15%となる。この税率の差を同じにすれば毎年60億ドルの収入が得られ、この1/3、20億ドルはたった25人によってであるという。オバマ新大統領が就任演説で述べた、直面する危機は「一部の者の強欲と無責任の結果」としたことも分かる気がする。ところで米国と日本の消費心理を比較すると、私たちが直面している「不況心理」の違いがよく分かる。周知のように、米国での消費はほとんどがクレジットカード、しかもリボ払いである。この借金が約1400兆円あるといわれている。そして、今回の金融破綻によりカードローンが組めない、貸し渋り状態で消費に向かうにも向かえないといいうことである。日本の場合は現金決済が多く、あるいはパスモやスイカといったICカードの利用が高いように、ある意味現金主義である。しかも、金融資産は正式ではないが目減りしても1400兆円ぐらいは保有している。1400兆円の借金をしている米国生活者とは根本的に異なる。ところで、この金融資産の内、50歳以上が70%を占め、よく言われることだが、子供達への相続金額は平均1500万円となっている。この50歳以上とは団塊世代以上のシニア世代であり、お金も物も情報も何も無かった時代、映画「Always三丁目の夕日」のような時代をくぐり抜けてきた世代である。以前、このブログにも書いたことがあったが、豪華客船「飛鳥」に乗る世界一周旅行などは一部あっても、その多くは京都や奈良といった青春フィードバック、「思い出旅行」になると。つまり、それほど突出した消費は見せないものの、堅調な消費世代であると考えるべきである。この世代の多くはあと数年で年金受給者となり、今までの蓄えから即生活に困窮するような不況心理にはない。もし不安があるとすれば子や孫の未来についてである。自分達の消費は抑えても、子や孫には「何か」をしてあげたいという心理だ。今、ドコモのCMで孫に携帯をプレゼントするあの世界である。収縮する消費市場にあって、キーマン、鍵となる市場は団塊シニア世代ということだ。つまり、既に死語となってしまった6ポケットではないが、財布は団塊シニアであるが、使うのは子や孫という訳である。そのためには団塊シニアがお金を出しやすいように、例えば「孫の日」のような記念日や三世代向けのメニュー開発をすることである。「孫の日」は日本百貨店協会が10年ほど前に仕掛けた記念日であるが、百貨店だけのものではない。スーパーも、専門店も、ファミレスも、商店街も、アイディアフルに売り出しを組めば良いのだ。三世代メニューというと、ホテルや旅館と旅行会社だけのものではない。レストランや飲食店、あるいは任天堂DSのWiiなんかで三世代で遊べるゲームソフトを開発しても面白い。誰を顧客とするのか、既にシニア世代を戦略顧客としてキャンペーンを展開している企業がある。その代表は格安航空券・旅行で若者を主対象として成長してきたH.I.S.である。その戦略メニューは「インプレッソ」という添乗員同行のパッケージツアーであり、更に顧客への「安心」を提供するために世界に次々と支店をオープンさせている。京都・奈良観光の延長線上に気軽に安心していける海外ツアーをポジションしていると言えよう。旅ばかりではない。少し前に取り上げた鹿児島県阿久根市のスーパーAZのように、お年寄りのために片道100円のバスを運行し、65歳以上のお年寄りには5%のキャッシュバック、更に商品MDでは仏壇まで用意する。つまり、「お年寄りに優しい」スーパーという信頼・安心が若い世代にも共感を呼び、消費を活性させているという。少し先になるが、今年はどんなバレンタインデーになるであろうか。義理チョコから自分へのご褒美チョコへ、洋チョコから和チョコへ、と推移してきたが、このような延長線上では売上を落とし続け、不況を切り拓くことにはならない。少し視野を広げ、母の日のように祖父母の日として、「何か」をプレゼントするアイディアもある。お年寄りにふさわしいチョコはどんなチョコになるであろうか。そして、そのお返しのホワイトデーはドコモの携帯電話どころではなくなると思う。従来求められてきた家族は「親子関係」がほとんどであった。当たり前のことだが、祖母も祖父も家族の一員である。「孫の日」が祖父母から孫へのコミュニケーションだとしたら、孫から祖父母へのコミュニケーションがあってもおかしくはない。逆に、ごく自然なこととして新たな市場開拓につながる着眼だと思う。現代は関係喪失の時代である。視点を変えれば、従来からある「関係市場」の周辺に新たなギフト市場が生まれる。その鍵となるのが、やはりシニア世代である。(続く)
2009.01.28
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ヒット商品応援団日記No335(毎週2回更新) 2009.1.25.年が明け、新聞紙面はトヨタを始めとした自動車産業の赤字決算予測やリストラ策に続き、ソニーの営業赤字が2600億に、2008年度の貿易黒字は8割減、新日鉄は過去最大の減産に入り、君津高炉も休止に入ると報じた。日銀によると2008年度の経済成長率は下方修正されマイナス1.8%、2009年度はマイナス2%になるとの発表。こうした背景を映し出すかのように、昨年12月度の百貨店売上は前年同月比9.4%減と発表。いかに日本経済が米国を始めとしたグローバル経済に組み込まれているかであるが、当の米国のサブプライムローンは金利が次の段階へと上がる2009年度を目前にして、更に膨大なローン破綻、不良債権が発生するという。勿論、住宅は今なお下がり続け、あの辛口評論でブッシュ批判をしてきたクルーグマン教授はまだ適正価格まで下がっていないという。更に、回復には2年~4年かかるという。つまり、嫌な話であるが、本格的な不況はこれからだということだ。多くの人と同じように私もオバマ氏の大統領就任演説をYoutubeで見て、和訳された文章を読んだ。既に、多くのマス・メディアやブログでその評価や期待について論評されているので、その是非や私見は述べない。演説におけるシナリオ構成の、その戦略性・表現については高校・大学と詩作に励んでいたとのことだが見事と言う他ない。周知のように米国は移民の国、つまり人造国家、人工国家であり、こうした「一つになる」セレモニーイベントを指導者のみならず国民自身も求めているのだなと改めて思う。と同時に、ああ国家も、企業も、誰もが危機に直面すると原点に立ち戻るのだなと思った次第だ。しかし、現実は想像以上に困難であろう。ところで、昨年1年間で目減りしたとはいえ。日本の個人金融資産は莫大である。恐らく、正式な発表ではないが、1400兆円ぐらいはまだ保有していると思う。その個人金融資産が株式投資や消費へと回ればと、冗談のような話が一部の経済学者の間で真顔で議論されている。結論から言うと、マイナス金利政策の一つとして、個人が持っている国債や銀行預金に課税するという政策である。課税されるのであれば消費などに回るであろうという考えである。これはケインズの「一般理論」の中でパーティジョークとして扱われた理論であるが、こんなことを学者までもが冗談ではなく論議されているとはコトの深刻さを表していると思う。最近私のブログにたどり着くキーワードがタイトルとなっている「不況」と「ヒット商品」である。結論から言おう。そんな簡単なヒット商品などあろう筈はないと。過去に学ぼうにも、そんな過去はない。過去あった不況とは根底から異なる不況だ。手前味噌になってしまうが、この1年半ほど私が書いてきたブログを読めば、収縮する消費者心理に対する少しのヒントにはなる。しかし、今ヒットしている商品の成功の芽は少なくとも、5年前、10年前に蒔かれたタネによってだ。1月23日小型衛星「まいど1号」の打ち上げが成功した。これも東大阪の中小企業が技術者の心意気を見せようと2002年に協同組合として集まったその成果である。あるいは、最近注目されている1個1000円弱の「ももいちご」も同様である。徳島県佐那河内村という山間でつくられた苺であるが、山間ということから日照時間が少ない土地柄だ。逆に、生育が遅くなることによって生まれた良さを生かした桃のような苺である。品種は「あかねっ娘」だそうだが、今の苺へと品種改良を重ねるには10年という時を要したと聞く。私たちはこうした困難な時を経た成功や成果に拍手を送るのである。この1年ほどヒットした商品を見ていくと一つの傾向が分かる。数年前から言われている「隙き間市場」は、更に狭まり「ピンポイント市場」へと移行したことだ。市場規模という言い方をすると、更に「小型化」ということになるが、別の言い方をすると「より個人化した市場」である。つまり、テーマも限定し小さくした専門世界で、サイズや量も小さく、簡単便利で、価格も小さく、といった「最小戦略」「ミニマム戦略」となる。そして、こうした「小」を組み合わせれば従来のオーダーメイドやカスタムメイドといったサービス度の高い商品に近くなる。また、家族回帰、家族の絆を取り戻す動きには、小さな単位を組み合わせることによって家族単位になりえるような考え方である。もう一つが昨年春からブログで書き続けてきた「価格」という壁をどう超えるかというテーマである。その象徴例として急成長しているスーパー「OKストア」を取り上げてきた。生半可な付加価値など、低価格、価格差の前では吹き飛んでしまうとも書いてきた。OKストアと同じように、廃刊、部数を落とし続けて雑誌業界にあって、唯一部数を伸ばし利益を挙げている「おまけ付き雑誌」の宝島社についても同様である。そして、「わけあり競争」市場になり、その内容次第で物が買われる、そんな市場へと移行している。その「わけ」は単なる「こだわり」ではなく、ある意味ここまでやるのか、とことんやった結果なのか、といった常識を超えた「わけ」が購入を促進させる。オバマ新大統領もそうだが、今という時は原点に帰ることから始めることだ。創業時、新たに事業を始めた時、新商品を開発し導入した時、次々と未知の問題、初めて出会う困難さに直面したと思う。そんな覚悟からしかヒット商品は生まれない。(続く)
2009.01.25
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ヒット商品応援団日記No334(毎週2回更新) 2009.1.21.麻生首相の読み間違いから漢字教養本「読めそうで読めない間違いやすい漢字」が売れているという。人のふり見て我がふり直せではないが、私のブログでも漢字の使い方が間違っていると指摘のコメントが寄せられたことがある。確かに、こうした漢字教養本が売れていくのはこうした背景があるのだなと思った。が、同時に読み間違いは普段読んでいない、使っていないからであろうとも思った。つまり、問題は読み間違いではなく、実感のないまましゃべったり、使ったりしていることにあると。ビジネス書、マーケティング書が全く売れないのも、知識ではなく、意味ある実務、実感が伴わないためである。先日沖縄で小さな勉強会を行ってきたが、塾生に焼き鳥の移動販売をする参加者がいた。見れば分かるが、圧縮され小さくなった「オープンキッチン」で「移動する」「店舗」と思えば分かりやすい。オープンキッチンの良さを2倍3倍にする工夫、店舗の魅力を高めるためのアイディア、更に移動によって生まれる新しい市場開拓の可能性といった具合に議論してきた。このブログでも繰り返し書いてきたが、小さな単位、小さく見ていくことによって使えるアイディアが生まれてくる。3年ほど前、ベストセラーとなった「えんぴつで奥の細道」についてふれたことがあった。PCまかせでスピードを競うデジタル世界ではほとんど書くという行為はない時代だ。ましてや、鉛筆など持つことがない日常である。そうした中、書を担当された大迫閑歩さんは「紀行文を読む行為が闊歩することだとしたら、書くとは路傍の花を見ながら道草を食うようなもの」と話されていた。道草とは、ある意味自らの自由な感性を取り戻すことでもある。便利さを追求していくことは決して悪いことではないが、技術の進歩による高機能商品に囲まれた快適な生活によって失ったものもある。その最大のものが五感の喪失であろう。五感は外の世界を感知する、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚、の5つを一般的には指し示す言葉である。極論ではあるが現代は「無感社会」になりつつあるように思えて仕方が無い。無感こそが快適であるとして、人が本来持っている「野生」を無くしているように思える。この2年ほど見えない世界での情報偽装、更には金融工学というこれまた見えない世界によって引き起こされた不況下で、今生活者は籠った巣のなかで便利さを横に見ながら、今一度生活の原点に立ち戻りつつある。生活とは、読んで字の如く、生き生きと暮らすことに他ならない。つまり、五感そのものとしての暮らしである。既にブームを終え定着しつつある家庭菜園も、単なる自己防衛としてでなく、自然を自らの手で育て収穫する五感生活の一つであろう。ところで、生活を実感化させていく顧客に応えるには、提供する側も五感を引き出すようにMDあるいはマーケティングしなければならない。焼きたて、煮たばかり、蒸したて、今作ったばかりという視覚に映し出される鮮度。臭い立ち、あたかも味覚が感じとれるような商品。ファッションであれば、時代の雰囲気を表した、手に馴染む、肌に馴染む、身体にしっくりとしたスタイリング、ということになる。365日欲しい物が手に入る時代で、旬という言葉が死語になりつつある時代だ。そうであればこそ、商品達の店頭舞台は、顧客にとっての実感劇場となる。時を感じさせる、何故そうなのか安い訳・高い訳といったテーマを感じさせる、その土地・エリアならではを感じさせる、そしてその作り手ならではを感じさせる、そんな訳あり実感劇場である。(続く)
2009.01.21
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ヒット商品応援団日記No333(毎週2回更新) 2009.1.14.年末から連日、マスメディアは日比谷公園の「派遣村」の問題について報道している。派遣を製造業の調整弁に使ってきた等規制緩和の問題、あるいは広く非正規雇用の象徴として指摘されているが、そこには非正規・派遣という自由さと安定という両立の難しい本質問題が横たわっている。ただ、一方では中小の町工場では経営者も含め賃金をカットしてでも雇用を守る多くの企業は存在している。人を大事にしない組織は、いつの世でも長続きはしない。組織はぎりぎりまで人を大切にするように努力すべきであり、ましてやそのトップに立つリーダーは、強い責任と高い倫理をもって、自分の身をも含めて対処していくべきである。ここではその問題を取り上げるつもりはないが、マスメディア、特にTV報道の多くが派遣切りを情緒的に取り上げ、日本があたかも失業列島の如き状態であるとの報道がなされている。そこには嘘とはいわないが断片を取り上げあたかも全体であるかのような編集報道である。一つだけ指摘しておきたい。資産バブルの絶頂期、株価も39000円弱であった翌年、2000年の失業者数は142万人であった。以降バブルが崩壊し、少しづつ失業者は増えるが、それでも世帯収入は1997年までは若干ではあるが伸張する。そして、山一証券、拓銀が破綻し、収入も1998年から右肩下がりとなり、更に追い打ちをかけるように2001年~2002年にかけてITバブルが崩壊する。その2002年の失業者数は約360万人であった。そして、昨年11月末時点での失業者数は約250万人である。これから増えると思うが、2002年と比較し、約110万人少ない失業者、これが事実である。空、雲、傘 、というタイトルはコンサルティングやマーケティングに携わる人達が使う基本的な戦略手法である。簡単に言ってしまうと、空という市場・顧客を見上げ、雲の動きを分析・把握し、傘を持って出かけるべきか否かを決断するというものだ。私のブログを読んでいただいている読者の多くは中小企業の経営者や店長さん達である。そうした人達にとって「空」とはエリアの顧客であり、取引企業の動向である。例えば、いつも来られる常連のお客さんが最近来ない、あるいは来店頻度が少なくなったような気がする。これが「空」である。少し調べてみると、競争相手に行っているようだ、あるいは顧客が勤める企業の業績が良くない、といった問題点を認識し、例えばそれではリーズナブル価格の新商品で対抗しようという解決の方向=戦略が「雲」である。では次にどうすれば良いのかという行動、例えばユルキャラブームにのった新商品にしようかというのが「傘」という戦術である。以前、私は悲観も楽観もしてはならないと書いたことがあった。確かに、輸出企業にとっては空を見上げれば急速に真っ黒な雲が出て暴風雨となった。最早傘では間に合わない情況である。しかし、よく見ると雲の切れ間に小さな光がさしている。小さな光とは円高の恩恵を受ける輸入企業等であろう。黒い大きな雲と、所々小さな切れ間に光が差し込む、というまだら模様が日本の空である。この暗いまだら模様の空は世界中の市場と連動していることから、ほとんど予測不可能といっても過言ではない。生活者にとっても同じで、まだら模様の空での生活を「巣ごもり消費」と呼んでいる訳である。ところで、情報の時代、市場がグローバル化した時代は、変化はいきなりやってくる。暴風雨がいきなりであったと同様に、晴れもいきなりやってくる。巣ごもり消費を単純に家庭内消費、あるいは節約といった一断面だけの認識をしてはならない。巣ごもり消費はある意味大きな価値潮流として考えるべきで、前回コンセプトチェンジというテーマで書いたが、小さく差し込む光はある。例えば、最近注目されているのが若い世代の消費傾向である。元々、森岡正博氏の著書「草食系男子の恋愛学」から生まれたキーワードである。その「草食系男子」が増えている。異性と肩を並べてやさしく草を食べるような雰囲気の男性を指しており、自分からは愛を告白せず、ファンタジー系の文学を好み、メンズ化粧品に熱心で新たな市場を生んでいるという指摘だ。一方、女性はというとまさに正反対の「動物系女子」として対比され、消費においても恋愛においても積極的で、そこにも新たな消費が生まれている。時代を遡れば、1980年代には「オヤジギャル」と言われた女性達が消費をリードし、少し前までは新富裕層のキャリア女性達による「ヒトリッチ市場」があった。「動物系女子」が新たな市場を創り得るかどうかはわからないが、まだら模様の空を丁寧に見ていけば雲の切れ間の光を把握することは可能だ。「行列の裏側」のところでも書いたが、マスメディアから流される情報に一喜一憂してはならない。目の前にいる顧客・市場を見続けること、空の変化を見続けることにチャンスはある。どんな変化が起きているか、空は暴風雨なのか、でも小さな光は射しているか、雲の動きを正確に見て次の流れていく先にアイディア着眼する。そして、私の持論であるが、小さく行動してみることだ。失敗しても、小さければ、次の行動に移れる。しかも、スピードを持ってだ。(続く)
2009.01.14
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ヒット商品応援団日記No332(毎週2回更新) 2009.1.11.巣ごもり消費について、生活者は未だ冬眠には入っていない、次を産み出すためのインキュベーション状態であると書いた。東京の百貨店の初売りについて前回少し触れたが、初売りから少し間を置いて冬物バーゲンに移るのが例年のならいである。しかし、最早そんな余裕はなく、そのままバーゲンに移り、30%オフは50%オフへ、50%オフは70%オフへと、一種の投げ売り状態となっている。巣から強引に引き出そうと価格訴求を行っているが、まだ結果は出ていないが、推して知るべしであろう。百貨店を支えていた中流層がこの10数年間減少し続け、新富裕層といわれてきた外資系企業や金融業、不動産業への勤務者、あるいは専門職のキャリア女性達は周知の通り、1年ほど前から倒産・破綻・縮小し、所有株式も40%前後目減りした。インポートブランドの低迷にも表れているが、百貨店は対象顧客層を変えることに成功してはいない。私がここ1~2年間に書いたブログの多くは、生活者が巣に入る傾向や巣の中ではどんな消費が行われているかであった。先日NHKの「クローズアップ現代」で取り上げていた急成長しているスーパー「OKストア」についても、既に昨年5月に取り上げていた。勿論、エブリデーロープライスを支えているシステムと顧客に対するMDポリシーである「オネスト(正直)コンセプト」についてである。OKストアが売上を伸ばしているのは顧客支持があり、何に支持が集まっているかである。情報偽装ばかりの時代にあって、マイナス情報も含め、正直に公開することに顧客支持が集まったということだ。これが低価格の裏に潜む「訳あり消費」の本質である。生活者、顧客は生活経営者として、2年前ぐらいから変化してきた。そうした様々な変化が「価格」に一挙に集約されたのが昨年夏前からであった。当時、「どんなに良い商品を作っても、価格というハードルを超えなければならない」と書いた記憶がある。生活者は価格というハードルを、例えば外食から中食へ、そして内食へと変化させることで超えてきた。オシャレをしたいが、洋服を買うにはチョットハードルが高いという女性達は、昨年のヒット商品である「柄タイツ」に着目したということだ。巣の中ではこうした消費移動が行われている。当然、ビジネスはこうした生活者の動きに歩調を合わせなければならない。パラダイム(価値観)チェンジの時代とは、大企業より中小企業、大きな組織よりかは個人・小集団にとってチャンスがあるということだ。多くの制約条件を引き受けなければならない大組織と較べ、個人や小集団の方が自在に動くことができる。前回書いた、「今、起業の時」はそうした意味である。ところで、これからどんな消費移動が起こるであろうか。1つは過去使われていたが今では使っていないものの見直し、再生である。特に、大量生産大量販売されてきた商品によって駆逐され市場から無くなった商品、合理性という名の下にこぼれ落ちてしまった商品の再生といった方が分かりやすい。大量生産=工業化とは標準化・規格化するということであり、一定の品質の商品を安い価格で提供することである。こうした便利さを享受してきた訳だが、一方では標準外・規格外の商品は、ひどい場合は廃棄されてきた訳である。訳あり商品とはこうした標準外・規格外商品の有効利用であるが、生活を見渡せばいくらでも訳あり商品という宝の山を発見することができる。しかも、過去を遡れば更に大きな宝物を見つけることができる。リサイクルというと狭い固定的な見方になってしまうので、再生というキーワードの方が正確であろう。先週鳥取へ戦略会議に出席するために行ってきたが、1つのプランを見て欲しいということで前日知人と会うことになった。そのプランは休耕地の再生プランを元にした、単なる再生利用だけでなく、そこで作られた穀物を加工製造し最終顧客に販売提供するプランであった。アパレル業界では当たり前となっているSPAの発想で、農産品においても生産・加工・流通販売を一貫して行うプランであった。マスタープラン段階ではあるが、安心安全は言うに及ばず、健康で美味しい、しかも中国産コストと比較すると割高ではあるが、比較的ローコストで販売できる事業であった。私が書いた「人力経営」にも出ているが、渋谷109の中心ブランドであるエゴイストも韓国での生産加工であった。その代表である鬼頭一弥さんが着眼したのは、素材が良く、デザインさえ良ければ必ずヒットする、更には多様なデザインを小さな単位で回すシステム化、そんなSPAのポイントをいくつか話した。小さな訳あり商品をどう創っていくかが巣ごもり消費時代に不可欠な視座である。以前、訳あり競争の時代に入ったと書いたことがあるが、どんな訳(わけ)に着眼するかは顧客に対する哲学・思いが必要だ。例えば、ブログにも書いたが、私がユニクロを評価するのは売上の裏にある素材にまで一つのポリシーをもってやってきたことにある。今回のヒートテック素材に象徴的に表れているが、フリースのユニクロから新素材開発のユニクロへと自ら変わろうとしている。しかも、籠った巣の中に、見事に入ることができる訳ありMDだ。GAPをお手本としてきたユニクロであるが、最早独自世界の創造へと向かっている。一時期若手に経営リーダーを移譲したが、再び柳井氏がリーダーに戻ったのも巨視的に見れば時代・生活者が次なる変化を必要としているからであろう。顧客主義という哲学をもってコンセプトチェンジすることにチャンスが生まれる。(続く)
2009.01.11
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ヒット商品応援団日記No331(毎週2回更新) 2009.1.6.昨年末から新年にかけて、「明日をつくる者」あるいは「出てこい異端児」というタイトルでブログを書いてきた。一言でいうと、パラダイム変革期という価値観の衝突を担う「人」に着目した訳だが、言葉を変えれば新しいコンセプトが求められているということだ。新しい考え方、新しい目的、新しい意匠、新しい魅力となる新しい概念がビジネス現場に求められている。異端児は常に個人、あるいは少数派であるが、そうした人達によって「次」が創られる。奇しくも1/5の日経MJの特集は、そうした人物を、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」をなぞって平成の志士として取り上げていた。昨年の金融資本主義の破綻から学び実感したことは、極論を言えばいかに利益最優先のビジネスがもろくはかないかということだ。そして、利益以外に大切にしなければならない価値を思い起こさせてくれた。何のためのビジネスか、誰のためにビジネスをしているのか、今一度ビジネスを始めたときの夢や理想の大切さ、原点をである。未曾有の不況というが、そうではなく、そうした経済価値観が崩れ新しい価値観への転換に向き合うという困難さがあるだけだ。コラムニスト天野祐吉さんは、昨年までを20.9世紀と呼び、今年から本当の21世紀になったと言っているが、まさに名言である。今年の初売りも様変わりしている。高額商品のお得を福袋の売り物にしてきた百貨店は全て「お得な低価格商品」、しかも「生活必需商品」となった。その象徴例が、銀座松屋の缶詰のつめ放題という町の激安スーパーと同じ手法の売り出しだ。そして、福袋を求めた行列が話題となっているが、客数は若干増加したが売上は前年並み、もしくは5~8%の前年割れ、つまり客単価を下げた結果となっている。このままの業態やサービスを継続していく百貨店であるならば、本店といくつかの支店だけは生き残るが、あとは20.9世紀として閉店するしかない。昨年の消費の競争軸の一つが「わけあり消費」であった。どんな訳で安いのか、規格外商品であったり、賞味期限ギリギリであったり、中古商品であったり、再利用レンタルであったり、そうした訳あり内容のアイディア競争であった。しかも年末年始の海外旅行における円高ウオン安による韓国旅行が人気となっているように、生活者は正確な為替情報を踏まえたわけあり消費である。ところで、こうした小売業の売れ方について、価格価値、経済価値という表面的な見方、安くすれば売れるとした考え方だけをしてはならない。確かに、日本における内外価格差による価格価値を求める生活者は多い。しかし、「わけあり」の内容を子細に見ていくと、そこには安くあるための工夫や知恵が詰め込まれている。あるいは、小さな子のいる家庭では、少し高いが「あのおばあちゃんが作った野菜」を求めるように、安心安全を買う。小売業はアイディア業と言われるが、まさにそうした結果となっている。パラダイム(価値観)転換期のビジネスは、旧パラダイムであった施設や商品が市場から退場させられ、それらを1/10程度の価格で購入し、再販売するリサイクル業が盛んになる。しかし、新パラダイムが創造されないところでは単なるスクラップだけで、ビルドされることはない。21世紀の新パラダイムはどんな視座・着眼によってなされるか、新しい技術によって大きな転換がはかられるが、ここではそうした開発を除くと2つあると私は考えている。コンセプトチェンジという言い方をすると、私の持論であるが、1つは全てを最小単位に戻すことから始めることだ。100坪の売り場であれば、まず半分にしてみる。顧客支持という売上はどうであるか。メーカーであれば100品目の売上を見て、上位50品目を特定してみる。更に、半分にし、そうした眼をもって例えば10坪にしてみる。更に、残りの90坪を見ていく。ここで必要な眼とはビジネスの精度である。何故、顧客支持はある一定のコーナーや商品に向かうのか。私はこうした売り場や商品のことを代表売り場、代表商品と呼んでいる。パラダイム変革期には、こうした代表性すらも売上を下げていく。日本市場において、顧客の好みは多様となり、あれこれチョットづつが基本となった時代だ。そこで必要なこととして、顧客は何を「次」に求めているのかを残った資源の中で小さな単位、例えば10坪で仮説をもってトライしていく。次なる好みを探り、新たなコンセプトを見出す試みである。小さな単位であれば投資リスクも小さくなる。駄目であれば、スピードをもって自在に「次」に向かうこともできる。そうした選択肢の1つに海外市場も当然あるであろう。もう1つが全てを自前でやろうとしないことである。コラボレーションと言っても良いし、共生という言い方もできる。あるいは仕事の単位に置き換えるとシェアリングにもなる。昨年、このブログでも何回か取り上げてきたが、「垣根を越える」ことによって新しい理想とする市場に向かうということだ。従来の取引以外のところに「新しい関係」を築き、トライしてみることである。日本には古くからこうした考えによって全国至る所に朝市とか日曜市といったように市場が創られてきた。従来からの市も良いが、時代にふさわしい楽しみ方もある。確か秋田の商店街であったと思うが、「100円市」も良いと思うし、更に広げて「ワンコイン市」(100円と500円)にしても良い。あるいは、テーマパーク化という理想を目指すのも面白い。今や観光名所化したテーマパークである福岡博多天神の屋台村も最初は少数の屋台から始まった。こうした事例の延長線ではない、新しい関係づくりもある。製造業とサービス業、産官学と市民、小売業とケータリングサービス業、こんな組み合わせがあったのか、そんな関係から次のヒット商品が生まれてくる。そして、コラボレーションは日常化するであろうし、プロジェクトが日常業務となり、おそらく数年先にはこうした試みはシステムとなっていくと思う。これらを可能にするのが、実は小さな単位の現場経営である。今日ある大企業も、小さな町工場や商店であった。勿論、取引先はじめ回りの人達に助けてもらいながら今日があるのだが、今私たちが先人から学ぶとすれば、何も無かった時代にあって、あったのは夢や理想を目指そうとする強い志しを持っていたことだ。20.9世紀ではなく、21世紀とするために、全ての企業が人が起業する時を迎えている。(続く)
2009.01.06
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ヒット商品応援団日記No330(毎週2回更新) 2009.1.1.新年あけましておめでとうございます。昨年の元旦号では、「ゴドーを待ちながら」というサミエル・ベケットの戯曲のタイトルを借りて、この十数年私たちは「何」を待っていたのかと書いた。やってきてくれるかどうか分からない不確かな何か、救世主あるいは神と呼んでもかまわないが、そのゴドー(Godot)という「不確かなもの」を待った十数年であった、そう私は書いた。しかし、やってきたのは金融工学というコンピュータを駆使した先端錬金術によって産み落とされた、神ならぬ妖怪で、世界中を跳梁跋扈したあげく破綻した。しかも、妖怪を産み出した金融資本主義は概念としては破綻したが、今なおその体制・制度は崩壊してはいない。実は、妖怪を産み出したのは私たち自身の内にあると指摘してくれたのは「暴走する資本主義」を書いたロバート・B・ライシュであった。つまり、妖怪は一人ひとりの心に、脳に、消費者として、投資家として、市民として存在していたのだ。しかし、コントロールすべき市民認識が薄れ、いつしか妖怪を暴れさせてしまった。結果、投資においては年末の東証の終値8,859円が象徴するように、42.1%という戦後最大の下落率となった。消費について言えば、偽装という言葉は日常語になってしまい、最早誰も驚かなくなってしまったが、その多くは市場がグローバル化することによる内外価格差やランキング信仰に起因する。確かにこの内外価格差をシステムとしてビジネス化させた企業が多くの利益を得てきたことは事実である。情報がないところではランキングといったガイドは一つの参考情報となる。しかし、いつしか内外価格差を偽装する企業も出てきた。ガイド情報はランキング信仰へと進み、提供者はランキングを偽装することによって利益を得る。こうした偽装を消費者として体験し、学習してきた1年であった。それらをポジティブに見ていけばコントロールすべき市民として成熟させてくれたといえよう。ところで、この十数年消費あるいは社会現象として多くの回帰現象、いや単なる現象から回帰すべき何かが実体化されてきたように思える。個人化社会というバラバラとなった関係社会から、再度家族単位へと回帰し、例えば一人鍋から家族鍋へと変化した。歴史に埋もれた日本文化を掘り起こし、実感するような和回帰。その回帰ブームの代表が京都であるが、熊野古道のような古の道を歩き、宿坊に泊まるといった小さな旅まで、文化体験が進んできた。創られた自然ではなく、あるがままの自然を楽しむといった自然回帰。旭山動物園を発端に、廃園の瀬戸際であった全国各地の動物園や水族館へと足を運ぶようになった。そもそも回帰とは、行き詰まった「今」を解決すべく過去の中に、原点に未来の芽を見出す、そんな次に向かう志向である。正月元旦の新聞各紙は一面に危機が叫ばれ、次にどう進むべきかと問うている。その象徴が日経新聞で、危機に際し新たな発明・発見があったとし、「今」の起点を年表で掲載しながら、「逆境に克つ」方向を提示している。時々ユニークな編集を行っている東京ローカル紙東京新聞は「100年に一度の岐路」とし、衆院選という政治をテーマとしている。こうした新聞各紙を読んだのだが、言葉だけが踊っており今ひとつピンとこないものばかりであった。起点、100年に一度、こうした回帰すべき視座があるとすれば、日本の場合それは江戸幕府から明治維新政府へと大きく変わったことであろう。例えば、「日本語が亡びるとき」を書いた作家水村美苗氏は、明治維新による西洋文明の衝撃を受けた夏目漱石の「三四郎」を引用し、日本人の精神の証しである国語が滅び行く様に警鐘を鳴らしている。問題の根っこにある近代文明とは一体何であったのかという原点に立ち帰り始めた良き事例である。元旦各紙のピンとこない曖昧さは、起点とすべき、回帰すべき視座が明確になっていない点にある。原点に立ち帰り、対立する価値観をどう咀嚼していけば良いのか。例えば、経済でいうとグローバリズムとローカリズム、文化では英語と国語、ライフスタイルでは洋と和、地球環境では工業化とエコロジー、もっと身近なところでは公と私、・・・・今日課題となっている問題の原点は近代化を進めた明治維新にある。そして、明治維新がそうであったように価値観の衝突が起きる。既にそうした衝突はこれからの日本が目指す社会保障の考え方、中福祉中負担VS高福祉高負担、一つとってみてもそうである。政治のみならず、日常生活のマナーやルールにも現れている。多元多様な価値観の時代とは混乱・混迷の時代ということだ。「異端と正統」という表現があるが、一瞬のうちに異端が正統になり、また逆もある時代だ。年末のブログでP.ドラッカーの言葉を借りて「明日というものは、無名の人たちによって今日つくられる」と書いた。社会という舞台には未だ上がってはいないが、対立する既成価値観が衝突する中から新しい価値が孵化する、そんなビジネスの芽は至る所にあるであろう。妖怪では困るが、出てこい異端児、である。(続く)
2009.01.01
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