全5件 (5件中 1-5件目)
1
日本版LOHASについて 2006.1.29.先週、7ヶ月ぶりに休みを取り好きな沖縄へ出かけた。勝手気ままな自由な旅であるが、今回はこのブログで知り合った「ママさん起業家を目指す」ハルミさんが住む糸満に出向いた。20数年前に南部観光の途中にチョット立ち寄った程度の記憶しかない糸満であり、ほとんど未知の町である。ハルミさんは小さなコト起こしの場として、糸満の公設市場の中にコミュニティカフェを創るという。このコト起こしに興味を持ったからである。新年号のブログで私は次のように書いた。”・・・・・・これからは「コミュニティの思い」が全面に出てくるであろう。1000兆円を超える債務を負った国も地方も、その責任という問題は別として、初めて「自立」を促されている。コミュニティとは何百年、何十年と時代の変化を受けながらなお受け継がれてきた文化によって形成された1つの共同体である。国も地方自治体も、勿論企業もコミュニティに「思い」を立脚させる時、「次」の新しい日本が生まれてくると思う。”こうしたコミュニティの「思い」を同じくする”まちづくり市民会議”の方々と約2時間程話し合った。糸満も全国の地方都市と同じように過疎化が進んでいる人口6万弱の町である。国土交通省の昨年12月の発表では、国土の53%が実は過疎地になっている。そして、2000もの集落が消滅の危機にあり、地域社会の崩壊が始まっているとの発表であった。農地は放棄され荒れ地となり、国ばかりでなく地方も財政は逼迫し、孤立したお年寄りに手を差し伸べることができない状況へと進んでいる。そこにはお年寄りがお年寄りを相互に助け合う動きや地域通貨を使っての相互扶助活動が進んでいる。逆に、都市部では相次ぐ子供や女性といった弱者への凶悪犯罪が立て続けに起きている。そして、地域ぐるみで守ろうと住民が立ち上がろうとしている。さて、新しいコミュニティ活動であるが、私はそうした活動の根底には「愛」があると考えている。人への愛、生まれ育った地域への愛、身体の一部となっている生活文化への愛、町の風景、歴史を形作ってきた先人達・・・失ってしまった「愛」を取り戻す動きが至る所で芽生え始めていると思う。人口6万弱程の糸満は過疎地の一つのモデルでそうした「愛」あるコミュニティ活動が今始まろうとしている。わずか2時間半程の滞在であり分かったふりはできないが、人通りが途絶え閑散とした公設市場になにか懐かしい空気感を感じた。このブログで何回も都市生活者が失ってしまった「自然・健康」「家族・絆」「歴史・文化」の取り戻しについて触れ、商品開発の着眼点となることを指摘してきた。今、糸満から戻り、どんなイメージで糸満を描くか考えてみた。昨年12月京都新聞の「提言」には京都の新しい観光着眼として、その生活文化を「千年の生活景色」と表現したが、糸満の町を「海洋王国の生活景色」と呼んでみた。海洋王国糸満である。このイメージには間違った歴史観によって形成されてきた「島国日本」を覆す、自由に自在に海を渡り交流してきた自由都市日本、その玄関糸満というイメージである。確か先々週の「アエラ」に”LOHASは名古屋に学べ”といった記事が載ったので読んでみたが読むに耐えない内容であった。また、今月の「ソトコト」の特集は「ロハス大予言2006!」の巻頭に沖縄長寿特集が組まれていた。都市生活者のアートなライフスタイル感性でエコロジー等をくくってみせた点については評価できるが、しかし従来の発想から一歩も出ていない記事であると思う。日本版LOHASはこの糸満や鳥取米子、また新年号にて書いた「野の葡萄」の母体である福岡県岡垣町、・・・・・・誰も知らなかった小さなコミュニティに日本版LOHASが生まれ始めている。
2006.01.29
コメント(0)
「情報の罠」つづき 2006.1.22.先日の番外編「情報の罠」を書いた翌日米国からの輸入牛肉に特定危険部位があろうことか入っていたと報じ政府は全面的に輸入をストップした。数ヶ月前、このブログで何回か多くの不安に囲まれ自己防衛的になっている心理市場について書いた。昨年からの耐震偽装という「住まい」への不安、相次ぐ「幼い子供」に対する凶悪犯罪への不安、ライブドア事件に見られる「投資」への不安、勿論「社会保障」への不安や大きな債務を持ってしまった「国」への不安、結果としての増税への不安、そして今回のBSEという「食」への不安。生活者心理は「内側」へ、「納得」を求め、「情報」だけでなく自ら「体験」することの中にしか不安解決の「生活」を見いだせない状況へと進みつつある。今、こうした「不安」を生活現場、小売り現場で解決していくことが一層求められてくる。「食」を例にするならば、地産地消から更に「内側」に進むのかといった課題であるが、私はやはり何十年、何百年とコミュニティで育てられたところへと一旦戻ることになると思う。先人達の知恵、おばあの経験に学ぶということである。勿論、ただ古いものを古いまま提供することではない。「今」という消費スタイルに作り直すということである。こうした「不安」解決市場として健康をテーマとするならば、周知の通りサプリメント市場は急成長しており1兆円を超えている。昨年話題となったコエンザイムQ10等は話題になったとたんに含有表示記載に満たない商品が一斉に市場に出回った。つまり、不安心理につけ込んで、情報はいかようにも操作でき商売になるという罠にはまりやすい時代にいるということである。例えば、今回のライブドア事件に関し多くのブログに様々な意見が公開されているが、ほりえもんの「出る杭は打たれる」と言った同情論コメントは論外として、糸井重里さんはこうした状況を次のようにコメントしている。"なんというか、非常に誤解されやすい言い方なのですが、こういう時期に「額に汗して働く」という価値観に、逃げ込んではいけないと思うのです。「額に汗して働く」というのは、価値あることです。しかし、それは目的ではないのだと思うのです。額に汗すること、努力すること、地道にやっていくこと。それらは、姿勢としての美しさを持っています。ですが、くりかえすけれど、それは目的じゃない。1+1が2になるということに、ほっとしていたり甘えていたりしていては、夢も希望もありゃしないのだと思うのです。前に、農業の現場に取材に行ったときに、自然薯をつくっている農家の方が、「こんなに小っちゃい種イモから、こーんなに長い自然薯ができてさ。高く売れるんだもんなー。だーから百姓は儲かるんだよ」と笑いました。農家は損ばかりしてて、辛い仕事ばかりで、という声ばかり聞いていたぼくらは、この笑い声につられて大笑いしました。なにも考えずに、目の前の土を耕すことの尊さに満足していたら、笑えるもんじゃないと思いました。前々から、よく「ほぼ日」で書いてきました。『多忙は怠惰の隠れみのである』という言葉を。どこに狩りに行くかを真剣に考えるからこそ、獲物も手に入るし、たのしみの時間もつくれるのです。”「ほぼ日刊イトイ新聞」http://www.1101.com/home.html」長い引用になってしまったが、新しい試み、ベンチャーマインドを大切にしたいと考える糸井さんの意見に私は賛成である。「ほりえもん」に対し、一罰百戒的なマスコミに出てくる識者の論調は相も変わらずで、「二者択一」的「二項対立」的論議ばかりで、高度情報化社会におけるビジネスの在り方の本質をついているとは思わない。(前号の番外編をお読みいただきたい)勿論、ルールを逸脱したほりえもんは社会的に指弾されると思う。既にライブドア株を買った個人株主も株価急落という形で「自己責任」を引き受けている。糸井流に言うならば、ほりえもんは何時の日からか種イモを植えないで「長い自然薯」だけを手に入れる罠にはまってしまったと思う。しかし、パラダイムが大きく変わろうとしている今、ベンチャーと言おうが言うまいが新しい試みは続けていかなければならない。私はそうかたくなに信じている。そして、どんな種イモを植えたらよいのか、時間を惜しんで考え抜いている多くの起業家を応援したいと思う。
2006.01.22
コメント(0)
情報の罠 2006.1.20.新年号で様々な価値観が衝突する混乱の年になるだろうと書いたが、年が明けて2週間ほどで大きな事件が起きた。1月16日ライブドアに対し東京地検特捜による家宅捜索、そして18日には株価が急落し東京証券取引所の売買停止措置が講じられた。新年号においても書いたが二宮尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と。こうした事件の背景には2000年前後に様々な法律の改定が行われ、その盲点から生まれてきたと言っても過言ではない。耐震偽造事件については1999年の建築基準法の改正による建築審査の民間委託から始まり、今回のライブドア事件の背景ともなっている一つに時価会計基準の導入を始めとした商法の改正がある。私は金融や建築のプロでもないのでそれらの「法律」や「法解釈」についてコメントできないが、両事件に共通しているのが「情報の操作」であり、その情報が経営を大きくもし、またダメージを与える社会にいるという事実である。「情報」の本質はあらゆる「壁」を超えて変化を与える、ということに極まると思う。国境、人種、性別、年齢、勿論企業間という壁もである。そして、情報はIT技術の進化により驚異的なスピードをもって個人を直撃する、そうした社会のただ中に私達はいる。耐震偽装事件、ライブドア事件に共通していることは、この「情報操作」によるものと私は考えている。そして、問題は情報にあるのではなく、情報の本質を踏まえた情報発信者のモラルと情報操作を許さない仕組みにある。私はこの2つの事件に接し真っ先に思い起こしたのが米国のエンロン事件であった。思い起こして欲しい、エンロン社は1985年に石油や天然ガスのパイプラインを運営する企業として発足。規制緩和の流れに乗って電力、天然ガスなどエネルギー関連製品をインターネットで取引する企業として急成長し、2000年には売上高を1000億ドル台に乗せ、全米7位の大企業に成長した。しかし、財務担当副社長が作った二つの投資組合(ファンド)での資産運用に失敗したうえ、巨額の簿外債務があることが発覚し、市場の信認が失墜。2001年12月、簿外債務を含めて債務総額が400億ドルを超える米史上最大の倒産劇を演じた。当時東大教授の田中直毅さんは次のように指摘していた。「資本主義制度は政府から離れて「公」の秩序を持ったことによって経済を新しい段階に引き上げた。株式の公開は英語ではコーイング・パブリック(公となる)と表記する。広く投資家から資金の調達することは「公」の秩序に入ることなのである。投資家の目線でのみ、証券発行者、会計監査人、そして金融仲介業者に臨む監視機関が不可欠となるのはこのためである。米国のSEC(証券取引委員会)は3300名近い人員でこの監視業務にあたってきたが、「エンロン」から明らかなようにインフラストラクチャの整備に関して欠陥があったということになろう。処分とともに、どのような新しい基準が注入されるのかに注目せざるをえない。」田中直毅さんは明確に株式公開とは”「公」の秩序に入ること”であると指摘してくれていた。ライブドア株は地検の家宅捜索翌日急落し1日で時価総額1500億円を失ったとメディアは報じた。株式分割を繰り返し個人株主が60%を占めていたライブドアにとって個人株主が大きく売りに走ったことはある意味で致命的である。ほりえもんキャラクターはまさに個人を狙った一種のブランド戦略で私が「小泉ブランド戦略」で指摘したことと同じである。まだまだ日本の資本主義、株式市場は未成熟で投資ではなく、預金に代わる投機的な意味合い程度でしかない単なる「自己責任ご都合主義市場」の世界となっている。そこに見えるのは偽計、風説、偽装、粉飾、といった情報操作によって右往左往する個人である。法は常に「現実」の後追いとなる。当然であるが「グレーゾーン」はあらゆるところで生まれてくる。しかし、法の裏には確固たる倫理がある。「公」の秩序とはそうした世界だと私は考える。
2006.01.20
コメント(0)
格差社会におけるコンセプトワーク 2006.1.15,新年号で異なる価値観がぶつかり合う混迷・混乱の年になるだろうと書いた。以前このブログで公開した新旧価値観対比を再度見ていただきたい。一つひとつの価値観の衝突、変化、推移について書くとなるとそれだけで一冊の本になるぐらいのテーマである。私が指摘したいのは振り子のように揺れ動きながら時間の差はあれ、新しい価値観へとシフトしていくであろうとの仮説である。その時のコミュニケーションをYes or No、善・悪、正・誤、勝ち組・負け組といった二者択一的議論にしてはならないということもまた指摘してきた。ある意味で格差社会とはこうした価値観の衝突社会でもある。既にデータを含め公開してきたが、格差は都市と地方、産業間、企業間、世代間、個人間、富の格差ばかりでなく、私流で言うならば「知」の格差、「情報」使用の格差、意識レベルで言うならば「意欲」の格差/ニート等、センスレベルで言うと「美的」格差、あらゆるジャンルで格差が出てきている。このブログで昨年秋から顧客の特定化、つまり誰をお客様とするかが極めて重要な時代になっていることを繰り返し指摘してきた。お客様が見えないという意味で”見えざる市場”というキーワードを使ってきたが、この「見えざる市場」は「格差」と「心理」の2つによって顧客特定化の困難さを倍加させている。成功しているのは「ピンポイントマーケティング&マーチャンダイジング」である。顧客を絞り込み、更に絞り込み、商品もこれでもかという位こだわってみせ、テーマとしても更に一歩進めるということである。その良い例として挙げたのが「野の葡萄」であった。この自然食レストランのコンセプトを私流に解説するならば、「More Healthy(モア・ヘルシー)」ということになる。次のメニューを見ていただければ理解いただけると思う。例えば、○血液サラサラメニュー/ほうれん草と人参の変わり豆腐、鯵のみかんマリネ、・・・・○免疫力アップメニュー/大根まるごと煮、根菜いっぱいミネストローネ・・・・・○お肌きれいメニュー/豚ばらと大豆の煮込み、若鶏と根菜のトマト煮・・・・・○自家製スモークメニュー/ほうれん草ウインナー、わかめソーセージ・・・・・○ご飯/大根と油揚げの炊き込みご飯、八穀米のご飯、・・・・・○飲み物/よもぎ茶、びわ茶、柿の葉茶、どくだみ茶、・・・・・・・これらメニューはほんの一部である。まるで日本版ベジタリアンのメニューではないかと思う位であるが、ちゃんと肉や魚のメニューも豊富にあり、時代の興味テーマである「血液サラサラ」「免疫力アップ」、勿論「ダイエットメニュー」もある。敢て、格差社会におけるコンセプトワークというテーマに「野の葡萄」のメニューを出したかと言うと、新年号にも書いたが様々な価値観が衝突する混迷、混乱の時代、次の時代への過渡期にあり、「ここまでやるのか」という位のピンポイントマーケティング&マーチャンダイジングをしないと「顧客に届かない」ということを伝えたかったからである。単なるオーガニックな自然食レストランを超えた「野の葡萄」を良き参考例として出したが、全てのジャンルにおいても同様である。健康をテーマにしたコンセプトはモア・ヘルシーとなり、ダイエットであればモア・ダイエット、美容であればモア・ビューティとなる。サービス業であればモア・コンフォートがコンセプトになる。こうしたコンセプトワークは「格差」のどこを狙って「モア」とするかである。一度担当している商品やサービスのコンセプトに「モア」をつけて考えてみると新しいアイディアが生まれてくると思うがいかがであろうか?
2006.01.15
コメント(0)
商品開発への着眼 2006.1.8,今年からはあまり気負わずに時々の気づきをこの日記に書こうと思う。タイトルにあるように商品開発の着眼点について再度その考え方を整理してみたいと思う。次の項目は私が以前いた会社でヒット商品の要因を整理したものである。1,リミティッド/限定性 、時、場、個数、対象者限定、生産過程の限定2,プレ・アクション / 先行性、前倒し先取性、日本で初めて、××で初めて3,オンリー /唯一性、独自性、特徴、オリジナリティー、4,キーパーソン /カリスマ性、 熱意ある、心をもって、汗をかく個人、5,ライブ& ショー /劇場性 、感動、実感、体験学習、今を生きる6,ハッピー&ヒーリング/至福感 、幸福感、癒し、充足感、安心感7,コレクション/ 愛玩性、愛用 、 回数性、リピート率、ストックカルチャー8,パーソナル/個人向けユース 、手軽なデザイン、大きさ、価格9,ニュース&ジャーナル/事件性、話題性、注目度、口コミ10数年前までは「限定」と言えばその希少性に心を動かされたものだが、最近ではなんでもかんでも限定ばやりで、最早人を引きつける力を無くしている。先行性についてもしかりである。江戸時代には今日の価格でいうと20万もする初鰹を誰よりも早く食べることが粋であったが、今日都市においては「旬」は既にない。オンリーも同様で1年も経たないうちにすぐに類似商品が登場する。既にお気づきと思うが、上記9つの項目を複数併せ持った商品や業態が注目を浴びている。年末に紹介した「野の葡萄」もこうした着眼点を数多く有している飲食業態の一つである。都市には健康ブームで数多くの自然食レストランがあるが、メニュー全てにこだわりがあるものの「こだわり」を超えた世界ができている。おそらく代表である小役丸秀一さんの農作物や生産者、お客様への「思い」がそうさせているのだと思う。企業理念を見ていただくと分かるが、「夢を語り続ける企業」を目指していくという。つまり、私達は上記のようなともすれば「テクニック」としての着眼ではなく、開発者自身がとことん「楽しめる」商品開発という原則を忘れてしまっていたと思う。全て商品開発の根底には変えていくことへの「夢」があり、それ自体が楽しみとしてあったのだ。生活者の潜在意識にある言いようのない不安を超えるもの、閉ざされてしまいがちな心の扉を開けてくれるもの、それはとことん楽しんでいる雰囲気にあると気づかされたのが「野の葡萄」であった。そう言えば、PCという衝撃的な世界を創り、今iPodで旧来のスタイルを変えたあのスティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の2005年の卒業講演で次のように話している。”自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ。自分が素晴らしいと信じる仕事をやる。それしかない。そして、素晴らしい仕事をしたいと思うなら、進むべき道はただ一つ。好きなことを仕事にすることだ。”その仕事とは、大小あるいはジャンルを問わず「好き」を追い求めていくことだと思う。確か、このブログでも団塊世代にふれて、”次々と起業していくであろう”と書いた。そして、好きなことを追い続ける団塊世代からユニークな商品が産まれてくると思っているが、さていかがであろうか?
2006.01.08
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1