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ヒット商品応援団日記No353(毎週2回更新) 2009.3.29.タイトルの「拝啓 旅立つ君へ」は、3月26日(金)の夜7時30分から放送されたNHKの番組タイトルである。私は7時からのニュースを見終わった後、チャンネルを変えずそのままにしていたが、アンジェラ・アキという名前を耳にして、実はそのまま1時間15分もの間見てしまった。アンジェラ・アキの「手紙」という曲は以前から耳にしていたが、この曲がNHKの全国学校音楽コンクールの課題曲であることを実は知らなかった。この曲を受け止める若い中学生のこころの世界が、あの夜回り先生こと水谷修さんがネット上に開設した掲示板「春不遠(はるとおからじ)」と重なって見えた。アンジェラ・アキと中学生との交流を描いたドキュメンタリー番組であるが、いじめや友人との確執、担当教師との溝、悪グループへの誘惑、誰もが一度は通る世界であるとはいえ、アンジェラ・アキの創った「手紙」に共感する中学生に、団塊世代である私もああ同じだなと印象深く最後まで見てしまった。アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。「大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど苦くて甘い今を生きている・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は自分の声を信じて歩けばいいのいつの時代も悲しみを避けては通れないけれど笑顔を見せて 今を生きていこう」ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う吉田拓郎とどこかでつながっている。情報の時代という凄まじいスピードに、生き方までもがからめとられてしまう時代にいる。過剰さは情報やモノばかりではない。生き方までもが知らず知らずの内に過剰になってしまう。少し前にも書いたが、足し算ばかりの過剰な生き方から引き算の生き方へと変化し始めている。引いてもなお残る自分、そんな自分を見出す時代だ。何が起こってもおかしくない時代。今、安定・安全志向が叫ばれているが、漫才コンビ麒麟の田村裕さんによるベストセラー「ホームレス中学生」ではないが、既にそんな安定などありえない時代を生きている。リストラに遭った父から、「もうこの家に住むことはできなくなりました。解散!」という一言から兄姉バラバラ、公園でのホームレス生活が始まる。当たり前にあった日常、当たり前のこととしてあった家族の絆はいとも簡単に崩れる時代である。そんな時代にあって、「人生って捨てたもんじゃないよ!」というのが水谷修先生の口癖だそうだが、中学生と較べ少しだけ休む術と楽しいこともあることを経験している大人も、実は小さな夢を追いかけようとしている。3年ほど前、このブログにも書いた記憶があるが、団塊世代が消費市場に現れるとすれば、それは子供の頃貧しくて果たせなかった夢を果たすことにお金と時間を使うであろうと。20年近く前に団塊世代の消費傾向を調査したことがあったが、子育てを終えたら何をしたいかと聞いたところ、その多くは少年・少女期に思い、果たせなかったことをしたいと答えていた。その中には、パン屋さん、あるいは花屋さん、コックさんというのもあった。先日、京都で新聞記者をやりながら田舎暮らしをしている友人と久しぶりに会った。日本一美しい里山といわれている旧美山町での暮らしであるが、記者を辞めたら近くの水田を借りて米づくりをするという。ある意味、田舎暮らしを小さなビジネスにしてみたいという小さな夢である。私がやっている沖縄の起業塾にも同じようなメンバーがいる。子育てを終え、夫婦二人で大好きな沖縄北部に移り住み、おそらく沖縄では初めての焼き鳥の移動販売をしているメンバーである。焼きたてを食べる食習慣のない沖縄では多くの困難さがあるのではと質問したら、焼き鳥が好きでどうしてもやりたかったと笑って答えてくれた。これも小さな夢へのトライだ。5~6年前に盛んにいわれてきた団塊世代の消費市場である旅行と趣味。勿論、それなりの市場を形成しているが、それのみの楽しみだけであれば単なる老人市場だ。60歳にして人生を変えてしまうような、心震わせる失望や喜びを経験したいとする人も多い。それは「好き」を仕事として生きてみたいということである。団塊世代も、アンジェラ・アキのいう「未来の自分に手紙を書き始めた」ということだ。15歳の中学生も、60歳の団塊世代も、未来を描き旅立つことにおいて同じである。(続く)
2009.03.29
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ヒット商品応援団日記No352(毎週2回更新) 2009.3.25.昨日は午後出かけていたのでWBCの勝利の瞬間、イチローの決勝打を見ることができなかった。ただ街に行き交う人達は一様に携帯を観ながら一喜一憂していて、WBCというイベントへの関心の高さを感じた。スポーツは筋書きのないドラマであると言われるが、まさにその通りのドラマを見せてくれた。前回、気分消費にどのように向かい合うかで、「夢を形にする試みこそ、気分消費の時代の最もふさわしいヒット商品の在り方であろう」と書いたが、今回のWBCの連覇は多くの人にとって心に効くヒット商品であったと思う。勝利後のインタビューで、イチローは「苦しく、つらく、そしてこころが痛んだ。でも笑顔を届けられて最高」と答えていた。その顔は野球が好きで好きでたまらない「野球小僧」そのものであった。夢中になって日が暮れるまでボールを追いかけていた少年の頃を思い起こさせてくれた。そして、「神様が降りてきて」あのヒットを打たせてくれたと語っていたが、野球小僧の神様が打たせてくれたのだと思う。昨晩、もう一人の一郎が記者会見を行っていた。周知の公設第一秘書の政治資金規制法違反の起訴を受けての会見であるが、なんでもあり、魑魅魍魎の政界を40年生き抜いてきたあの強面の小沢一郎が涙目であった。その前に行われた検察による起訴内容についても詳細は相変わらず分からないままであり、何故この時期に逮捕、強制捜査したのか、これは国策捜査ではないかという疑問が残っての会見であった。小沢一郎VS検察、あるいは民主党VS自公政権という図式で語られてばかりいるが、そこからは知りたい真偽のほどはわからないままである。秘書逮捕から3週間、「関係者によると」という不確かな情報、膨大なマスメディア報道によって、「小沢=ダーティイメージ」が形成されてきたことだけは事実であろう。しかし、これほど素直に本音をさらけ出した政治家も珍しい。涙目の小沢一郎、弱々しく見えた小沢一郎について、もう一人のイチローの「苦しく、つらく、そしてこころが痛んだ。」というイチローの顔が何か重なって見えた。WBCのイチローにとって、自らを見てもらう一番はフアン、日本国民に対してであった。第一ラウンドの最終戦韓国との試合に負け、日本を後にする時、記者の質問に「直接、日本のフアンに自分のプレーを見てもらう最後の試合であり、悔しい」と語っていた。多くのスポーツ紙はイチローのふがいなさを書いていたが、誰のためにプレーするのか、誰に見てもらいたいのか、極めて明快であった。もう一人の一郎も、記者の民主党代表を続投していく理由は何かという質問に、「それは国民の判断にゆだねたい」と明快に答えていた。イチローの方は決勝打と2連覇という笑顔で終わったが、一方の一郎はこれからも裁判という長い「苦しく、つらく、そしてこころが痛む」時間を迎え、笑顔で終えることができるかどうか分からない。プロ野球選手とプロ政治家とを単純に一緒にしてはならないと思うが、1日に二人のイチローの姿が奇妙に重なって見えた。二人のイチローに共通していることは、誰に向かって答えているか、ある意味顧客は誰かと言うことに素直であったことであろう。記者でも、検察でもなく、相対するチーム、与党政権でもなく、テレビ画面の向こう側にいる不特定多数の国民であろう。もし私たちが学ぶとすれば、顧客を信じない限り、顧客もまた信じてくれないという原則である。イチローがチャンスの時に打てず韓国に負けたとき、ここぞとばかりにスポーツ紙はイチローのふがいなさを記事にした。一郎についても、「関係者によると」という不確かな情報を3週間にわたって流し続けた大手新聞社、TV局。ある意味過剰な商業主義、過剰な視聴率主義、こうした過剰さを売るしかない既存メディアの情報に、最早右往左往しない国民へと成熟しつつあると思う。過剰情報時代の体験学習を経た、大人の生活者がいるということだ。(続く)
2009.03.25
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ヒット商品応援団日記No351(毎週2回更新) 2009.3.22.パソコンに向かってブログに何を書くか思案していたが、そう言えば14年前の3月20日オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた日であることを思い出した。当時、勤務先が渋谷であったが、朝8時過ぎから警察車両がサイレンをならしひっきりなしに走り回り、それだけでも異様な光景であった。続々と伝えられるニュースにTVの前に釘付けであった。何が起きたのかまるで分からない、不確かさへの恐怖感がよぎったことを今でも鮮烈に覚えている。その2年後に同じように想像しえない事件、神戸の「酒鬼薔薇聖斗事件」が起きる。今になって思うと、まさに「不安の時代」の序章であった。当時起こっていた社会現象の裏側には、バブル崩壊後の大企業神話を始めとした従来の価値観がことごとく崩壊していたことがある。ちょうどそんな時期に当たっている。山一証券や拓銀の破綻といった金融神話、終身雇用という安心神話からいつ首になるかもわからない契約労働へ。更には、インターネットという新しい時代の幕開けが象徴するように、楽天市場を先頭にITベンチャーやユニクロ等デフレ企業が続々と生まれた時期でもある。街にはコギャルと呼ばれた少女達が漂流し、家庭までもが崩壊する、そんなカオスの時代であった。つまり、カオス、混沌の象徴として2つの事件があったということである。今日起きている様々な事件・事象の予兆としてあった。昨年秋のリーマンショック以降こうした鬱屈した空気は雇用不安という新たな要素が加わり、その度合いを強めている。ところで、今回の高速道路通行料1000円で乗り放題に多くの家族連れが利用しているのも、ガソリンも安くなったし1000円ならチョット出かけてみようかという気分転換を求めていたからであろう。気分を変えたい、ひととき何かに癒されたい、少しでも気分良くしたい、ばか騒ぎはいやだがチョットだけ騒いでみたい、そんな気分の時代にいる。東京でも例年より早い桜の季節になった。お花見には多くの人が桜を愛でに出かけるであろう。動物園や水族館といった小動物の愛くるしさを観に、あるいは路地裏散策にも出かけるであろう。こうした安近短の小さな気分転換の旅は旅消費だけのことではない。今や暗い気分消費の時代の真っただ中にいる。少し整理してみると次のような時代である。1、知識集約型ビジネス→精神労働、こころの疲労、こころの強化、2、圧倒的なビジネススピード→生活リズムの喪失、仕事と生活のモードチェンジの難しさ、3、個人契約労働化の浸透→見えないストレス、自己解決、非正規労働、4、金融資本主義の破綻→波及するリストラ、成果主義のいきづまり、1990年代に起きた旧来価値観の混乱を第一次パラダイム変化とするならば、今日の混沌は格差という問題が表面化しているように、その深刻さの度合いを増している。更に、今年に入り倒産件数や失業者数が増加の一途を辿っている。不安の時代の先は不信の時代である。全てが信じられない時代の入り口にいるということだ。ともすると暗くなりネガティブ発想に陥りやすい中にあって、少しでも明るい気分になってもらうことが極めて重要な時代となった。まず気分を決める価格という第一ハードルを少し下げ、これならチョット使ってみようか、という気分を創ることから始めることだ。既に始まっているが、これからのビジネス潮流である安近短の本質は、全てを「小」という単位に起き直してみることにある。これなら買えるという小さな価格、サービスであれば1時間を30分に、更に10分にする。あるいは顧客接点の現場では、気分醸成のための小さな笑顔、心地よい一言、こうした何気ない小さな気遣いが気分づくりには欠かせない。こうした小さなサービスの原則と共に、店頭の雰囲気づくりも以前にも増して重要となった。もし販促の予算があるとすれば、顧客に楽しさを提供できるようなゲーム感覚のある計画となる。以前、「こころに効く商品」というタイトルで「こどもびいる」を取り上げたことがあった。福岡のもんじゃ鉄板焼「下町屋」が飲料「ガラナ」のラベルに「こどもびいる」に張り替えて出したところ、人気メニューになり全国に広がった、あのヒット商品である。チョットお洒落に、クスッと笑える癒し商品である。一種の遊び心によるものであるが、理屈っぽい、肩肘張った表現は受けない時代だ。ところで東大阪の中小企業が共同で開発し、打ち上げに成功した小型人工衛星の名前は「まいど1号」である。何か、冗談でつけたような名前であるが、シンボルキャラクターを募集したり、開発ニュースを随時流したり、応援する勝手サイトも生まれた。公式サイトSOHLAには「夢を打ち上げるんやない。夢で打ち上げるんや」とある。重苦しい気分の時代であればこそ、夢で打ち上げる、そんな夢にふさわしいネーミングとなっている。こうした夢を形にする試みこそ、気分消費の時代の最もふさわしいヒット商品の在り方であろう。(続く)
2009.03.22
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ヒット商品応援団日記No350(毎週2回更新) 2009.3.18.マスメディアの興味は政治の世界では西松建設事件、消費においては「わけあり商品」という2つに集中しているようだ。いわゆるメディア・サーカスであるが、政治については分からないが、消費についてはマスメディアが取り上げる頃は既にブームが終わろうとしていると考えた方が良い。私が最初に「わけあり商品」に着目したのは昨年の5月で、確か通販における「たらこの切れ小」人気であり、その典型的な事例として7月にエブリデーロープライスのOKストアをブログに取り上げていた。他にもフードバンク等かなり多くの事例を書いてきたが、特に流通の変化は生活者のライフスタイル変化を見事に映し出している。こうした変化は1年以上前から起こっていたということだ。敢えてブームであるというのも、周知のようにわけあり商品は以前から人気商品として存在していた。欠けたせんべいやケーキの切れ端、あるいは曲がったきゅうり等の規格外野菜はサラダやカット野菜にして食べていた。ブームの本質は、一過性と共にわけあり該当商品の裾野を広げたということにある。ちょうど今がピークでこれからは落ちていくことは間違いない。商品にもよるが、ブームに乗る顧客層は15~20%ぐらいはあり、そうした市場を開発することも必要ではある。しかし、マーケットの特徴をよくわきまえて導入し、しかも短期間で終わるので在庫を持たないことが鉄則である。つまり、今からわけあり市場に参入しても遅いということだ。情報化社会という言葉を私もよく使うが、情報は絶えず生起し続けるものである。マスメディアから流されてくる情報は、時間が経っても変化しないものとして認識しなければならない。つまり、顧客は常に変化し続けているのに、情報は「変化しないもの」としてあるということである。私が目の前の顧客こそ一番の情報であり、そのことによって変わるのだ、と繰り返し言うのもこうした理由からである。もう一点付け加えるとすれば、「不況=わけあり商品の安さ」という短絡的な図式で報道していることである。勿論、価格の安さという側面は持つが、注視すべきは「わけあり」にある。何故安いのか、何故高いのか、という「何故」という認識を顧客が持ったという点にある。そこには短絡的な情報に左右されない成熟さがあるということだ。2年前に、私は劇場型コミュニケーションは終わったと認識し、ブログにも書いた。あっと驚かせる、猫だましのようなコミュニケーションは終わったという意味である。早口で多弁な騒々しい時代から、寡黙で訥弁であるが心にしみ込んでくるような静かな時代へと変わったということだ。軽くなってしまった言葉から、本来言葉が持っている意味を取り戻すということである。こうした変化を未だに理解しえないのがマスメディア、特にTV局とそれらを扱う広告会社であろう。数ヶ月前に「TVが消えてなくなる日」というタイトルでブログを書いたが、その後に週刊東洋経済の1/31号に詳しく内情が書かれていた。読まれた方も多いと思うが、今回の金融破綻を引き金とした未曾有の不況により広告は激減している。広告宣伝費の上位から言うと、1位トヨタ、2位ソニー、3位HONDA、4位日産、・・・・・赤字決算~人員削減を発表した企業ばかりである。しかも、TVの視聴率は下がり続け、若い世代にとっては携帯が必須メディアとなっている。特に若い世代のTV離れが激しく、年代順の使用メディアでいうと、携帯>PC(パソコン)>TVという順になる。現在のTVのコア視聴者はシニア層、65歳以上であろう。しかし、民放各局は騒々しいバラエティ番組と取材力を持たない報道番組ばかりでシニア層からも更にそっぽを向かれていくであろう。シニア層に的を絞ったNHKが安定した視聴率を稼いでいるのと対照的である。恐らく、民放キー各局の間での統合再編が早晩起きると予測される。さて本題に戻るが、わけあり狂想曲という騒々しさからどう変化し始めているかという課題である。前回取り上げた築地野口屋のように価格の高いわけあり商品も、従来型の安いわけあり商品も、家計というさいふを考えながらバランスよく取り入れていくこととなる。日常、普通の世界へと向かうということだ。いや、生活者は既にそうした日常にいると考えた方がよい。私はよくハレとケという言い方をするが、価格の高いわけあり商品も安い商品も既にケとして普段使いしているということである。過去の情報消費体験から、わけあり狂想曲を横目で見ながら、自らの体感消費を経て、日常化しているということだ。こうした価格を軸としたわけあり商品市場と共に、もう一つの新しいコラボレーション市場が生まれてくると予感している。従来のコラボレーションの多くは企業間の取り組みであった。私が新しいコラボレーションと呼ぶのは、生産者&流通(供給者)と生活者(消費・受益者)のコラボレーションである。価格の面でいうと、その負担を互いに持ち合う関係づくりと言える。このブログでも取り上げたことがあるが、例えば有機米生産者と顧客を流通が結びつけ、3者が互いにその有機米というコスト増を分担し合う新しいコラボレーションである。理屈っぽくいうと、安心の共有とコスト増の分散ネットワークということである。そのためには相互に顔の見える小さな関係が必要であり、そうした小さな安心単位が更にネットワーク化されていくであろう。わけあり商品市場もこうしたコラボレーション型のネットワークシステムへと向かっていくと思う。そして、こうした動きは新しいコミュニティ創成への入り口になるであろう。(続く)
2009.03.18
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ヒット商品応援団日記No349(毎週2回更新) 2009.3.15.前回、”ロマンだけでは飯は食えない。ロマン無しではお客に響かない。価格を超えるもの、それは自らの思いが映し出された商品ということだ”と書いた。顧客への強い思いは必ず商品に映し出される、出来上がった商品は自画像の如くであるという意味である。そして、必ず顧客に届くと。では、果たしてそんな顧客の心に響く商品は、不況下の価格引き下げ競争にあって果たして可能であるかというテーマについて考えてみたい。以前、女性ならば知っているmina(ミナ)というブランドのデザイナー皆川明氏についてブログに書いたことがあった。若い頃、北欧を旅して出会った1着のコートに魅せられデザイナーを志し、アルバイトをしながら時を経ても着あきない服をつくりたいとブランドminaを創る。私が興味を持ったのは知人の女性がミナフアンであったことからであったが、その頃のminaはまだ皆川氏1人で手作りしていた時代であった。シンプルでかわいい、しかしトレンドに流されない強い個性をもった服である。次第に人気が出て、スタッフが増え専門店へとminaブランドが流通していく。恐らく皆川氏が一番心配したのが、スタッフが増え規模が拡大することによって本当に作りたい服が出来るだろうかという懸念であったと思う。服への思いが顧客に伝わらないのではないか、そんな懸念があった筈である。一般的な表現になってしまうが、手作り時代と比較し、女性達に響くデザイン品質が落ちてしまいはしないかということだ。顧客が期待する価値、次回もまた使いたい、買いたいと強く動機づけるもの、それは作り手の強い思いである。それは、皆川氏のようなファッションデザイナー固有の世界だけでなく、極論を言えば商店街のお惣菜屋さんも同じである。顧客の役に立ちたい、と思う気持ちは同じだ。しかし、原材料や作り手の人件費、家賃等、そうした原価や経費を考えるとギリギリこの価格でとなる。一方、例えばトイレットペーパーのような装置産業、量産によってしか利益が望めない商品もある。思いがあっても、競争相手との違い、柔らかさとか香りといった程度では新たな需要を創り得る創造性のある商品ではない。結果、価格競争となる市場もある。顧客にとって、その程度の違いは価格差にはならないという訳だ。勿論、トイレットペーパー市場が全く異なる新たな市場を創りえない訳ではないが、現時点では価格差が一番の競争力であろう。専門的には価格弾力性が発揮する市場か否かによる。価格の変化と需要の変化について古くからある物差しであるが、一般的にはトイレットペーパーのような生活必需品の場合は価格弾力性は小さく、ファッションのような趣味や嗜好性の高い商品の場合は弾力性が大きいとされる。今、収入は下がりこれからも増えることが期待できない生活経営にあっては、趣味や嗜好性の高い商品から順次家計から外される。1年前の日経MJの調査も買い控えする一番目の商品はファッションと外食であった。そして、今外食から家庭内食へと変化し、その内容ですら「訳あり商品」の安さに着目するようになった。例えば、精肉で言えば牛肉から豚肉へ、更に鶏肉へと変化し、しかもひき肉の需要が増すという結果となっている。つまり、従来の価格弾力性の決定要因として言われてきた「他の何かに替えること」の出来ない生活必需品にまで価格が大きな要因を占めるに至ったということだ。私はこうした変化を「消費移動」と表現してきた。牛肉から豚肉といったモノ移動もあれば、家族で外食したつもりでホームパーティといった「○○したつもり消費」も生まれてきた。しかも、牛肉のすきやきパーティが豚しゃぶパーティになってきたということである。ファッションで言うと、服を買ったつもりで、柄タイツでオシャレするということとなる。夢、ロマン、そんな思いを価格としてどう表現すべきかが、必需品・嗜好品を問わずあらゆる商品に突きつけられた課題である。嗜好品としてのブランドも旧来のブランド価値論を変えざるを得ない。前回、東京で豆腐の引き売りをしている築地野口屋を取り上げたが、スーパーに卸すのではなく、何故引き売りなのかに一つの答えがある。顧客のすぐ近くに出向き、ふれあい、対話するということだ。何故、一丁350円もするのか、そこには精進料理を踏まえた通常の3倍もの大豆を使った濃厚な豆乳によって作られた豆腐。そうしたこだわりを超えた商品づくりであり、野口代表の食への思いが込められた商品だからだ。ある意味、引き売りは伝導活動のようなものである。1年以上前に、オーガニック野菜を使ったスイーツのポタジェを取り上げたが、オーナーシェフの柿沢さんは百貨店への出店に際し食育をテーマにセミナーを開くことを条件にしたと聞いている。これも食育への思いを伝える一種の伝道活動であろう。皆川氏によるminaも流通を広げ拡大への道を選んでいないのも、服への思いが届く範囲にしたいためであろう。顧客への思いとは、顧客の未来を思い描き、それを商品やサービスを通じて伝えることにある。”ロマンだけでは飯は食えない。ロマン無しではお客に響かない”。そんな時代にあって、価格を超えるもの、私はそれを価格の表裏の意味で「未来品質」と名前をつけてみた。顧客のどんな未来を思い描くかによって、商品コンセプト、業態の在り方、提供すべきサービス、そして価格が決まる。今まで以上に顧客の気持ちに踏み込まなければならない。顧客はそうした思いが込められた未来に対し価格という判断を下す。情報に右往左往する消費体験を経て、やっと成熟した大人の時代に入り始めた。生活経済的には極めて困難な時代であればこそ、顧客の未来を思い描き、ロマン、いや哲学を語らなければならない時代になった。(続く)
2009.03.15
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ヒット商品応援団日記No348(毎週2回更新) 2009.3.11.前回、「顧客が求めるもの」というテーマに沿って、FOODEXJAPANの感想をブログに書いた。その最後のところで、顧客が変わる、その価値観が変わるということは私たちも変わりなさいということであると。どう変わるかは、目の前の顧客と一緒に、とも書いた。ちょうど1年前何が起こっていたかを思い起こして欲しい。中国冷凍餃子事件と共に、小麦関連商品の高騰、追い討ちをかけるようにガソリンの高騰、こうした資源輸入国であることを痛切に実感したのが生活者である。そして、当たり前のことであるが、一斉に自己防衛消費へと向い根底から変わったのだ。以降、昨年5月に私が取り上げたエブリデーロープライスのOKストアを筆頭に価格を軸にあらゆる分野の商品再編が進行した。その象徴が、最近ではユニクロのディスカウント業態であるgu.が発売する990円の激安ジーンズであり、定額給付金狙いのH.I.S.の韓国ツアー2泊3日12,000円、更には全日空のシニア割引国内全路線片道9000円。恐らく、地デジ促進に伴う薄型テレビなどこれからも続々と激安商品が市場に現れる。既に、価格維持のお手本であった飲料自販機ですら100円を割り込むものまで出てきた。何か生き残るだけが経営目標であるかのような様相を見せている。これからの体力勝負は財務力が市場に勝ち残るために重要であるとした経済専門誌のコメントがこれから盛んになると思う。が、そうではない。経営を継続させていくためには、確かに必要なことではあるが、それだけでは必要十分なことではない。こうした低価格商品市場を成立させる背景を円高ということを除くと2つに大別できる。1つはユニクロやニトリのように戦略(SPA等)に基づいたシステムとして実行する場合と、もう一つが100円以下の飲料自販機に象徴されるような過剰在庫処分、もしくは規格外商品・賞味期限まじかな「訳あり商品」に着眼することによる低価格化である。前者と後者を併せ持ったのが、流通のOKストアやザ・プライスである。1990年代後半、価格破壊というキーワードと共にデフレの旗を立てた企業が市場をリードした。これは推測ではあるが、第二次価格破壊が始まる。いや、既に始まっていると言った方が正確であろう。さて、こうした第二次価格破壊が進む市場をどう考えるかであるが、こうした傾向は都市市場において顕著になる。というのもこうした低価格戦略が意味を持ち成立するのは、市場がコンパクトに一定規模存在する都市においてであろう。このブログを読まれる地方の方にとって、どれだけ価格を軸に激しい競争が繰り広げられているか実感できないかもしれない。例えば、スーパーでは集客の目玉に豆腐があるが、一丁50円以下の商品が店頭に並ぶ。ところが、ここ2年ほど急成長している豆腐屋がある。住宅街を小さなリヤカーで引き売りする築地野口屋(http://www.table-mono.co.jp/2008/shiru/teiban.html)である。濃厚な味で他の豆腐とは全く違う豆腐で一丁350円とかなり高い価格である。リヤカーを引く人にもよるが、1日20万円近くを売り上げる時もあるという。実は、こうした市場が混在しているのが、東京市場である。この築地野口屋の代表である野口博明氏の食への思いは深い。禅宗の寺に生まれ、幼少の頃はその厳しさに疑念を抱いたという。しかし、年を重ねることを経て、その禅の考えを商品に託したという。ある意味、生きざまが商品になったということだ。引き売りというまるで昭和の時代に戻ったようなスタイルであるが、これも顧客とふれあうためだという。私が住む祖師ケ谷大蔵にも週2~3回懐かしいラッパを吹いて回ってくる。私が取材して書いた「人力経営」に出てくる経営リーダーも全く同じである。ユニーク、常識はずれ、前例なし、そこまでやるか、そんな形容がふさわしい経営リーダーであるが、皆創業そのものに強い思いがある。福岡県岡垣町の「野の葡萄」には、創業時に植えた葡萄の樹が今でも大切に育てられ、その40年以上の巨木を真ん中にレストランがつくられている。また、創業明治元年の桑野造船を引き継いだ古川宗寿氏はボートが好きで好きでたまらない人物である。今年の年賀状には、「今も変わらず琵琶湖を渡ってのボート通勤をしています」と書かれていた。この古川氏の持論が「ロマンだけでは飯は食えない。ロマン無しではお客に響かない」である。価格を超えるもの、それは自らの思いが映し出された商品ということだ。(続く)
2009.03.11
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ヒット商品応援団日記No347(毎週2回更新) 2009.3.8.先日十数年ぶりに国際食品・飲料展(FOODEXJAPAN2009)を幕張メッセまで見に行った。周知のように食品や飲料のバイヤーに向けた展示会であるが、昔見に行った当時の規模と比較すると大きくなり時代は変わったなと思った。日本をはじめ世界59の国と地域から2,393社が出展したとのことだが、その規模の割には「次」の食の在り方が鮮明になってはいなかった。中国冷凍餃子事件や産地偽装といった生活者の食の不安に対し、自然、エコロジー、有機、環境に優しい・・・・一般論としての今や常識・標準となったことしか提案されていない。外食チェーンや大規模飲食のバイヤーを主対象とした展示会であることから、安心・安全、あるいはその管理といったシステムあるいは技術については個別問題として表には出せないことなのかもしれないが、FOODEXJAPAN自体もその取り組みが見えない展示会との印象を持った。心理化する市場は、その心理が過敏な神経症の様相を見せ始めている時である。商品展示も良いが、その商品がどのように生産、製造されたものであるのか、その過程を安心・安全というオネスト(正直)コンセプトの眼で展示してもらいたかった。十数年前と較べて変わったなという印象を強く持ったのが、地方の商品展示ゾーンの活況さである。地方がおもしろいというのが私の持論であるが、多くのバイヤーがこのゾーンに詰めかけていた。出展者の多くは地方自治体の外郭団体主催のもとでの出店が多かったが、以前から注目してきた平田牧場も出店していた。平田牧場は山形県酒田の養豚事業者であるが、その直営飲食店として東京初出店がコレド日本橋であった。価格は少々高いが昼のランチ時間にはいつも行列ができる隠れた話題店である。食のSPAのような業態で、自分たちが生産した豚肉を美味しく食べてもらうために、豚かつは敢えて塩で食べてもらうことを勧めていた。豚かつ以外のメニュー全てが素材重視の生産者ならではのものとなっている。こうした生産者自らがメニューを作り、直接消費者に向き合う食のSPAといった試みは平田牧場以外にもかなり多く見られるようになった。私が以前取材した福岡県岡垣町の「野の葡萄」もそうであるが、安心・安全を含め、いわゆる生産者ならではの「訳あり消費」の先駆者の一人であろう。この延長線上に、今注目されている農家レストランなどがある。今、流通の在り方が再度変わろうとしている。1990年代半ば「中抜き」(問屋といった仲介事業者を抜いた流通という意味)というキーワードと共に、今で言うところのPB(プライベートブランド)やSPA(製造小売業)が日本にも本格的に導入された。これを第一次段階とすると、今第二次段階へと進んできたように思える。それは2000年初頭からのインターネットの急速な普及である。いわゆるネット通販であるが、生産者も製造事業者も流通も、ネットメディアを介して直接顧客に向き合うことが可能となったことによる。もう一つが従来の食品や日用品はスーパーで買い求める在り方が根底から崩れたことによる。周知のように100円ショップでは生鮮品さえ販売されている。低価格という顧客価値観を軸に異なる業種・業態の参入が激しい。昨年夏オープンしたセブン&アイグループのディスカウントスーパー業態「ザ・プライス」を導入する必要性に迫られたのはこうした背景からである。そして、この「ザ・プライス」は2009年予定されていた計画の倍の20店を出店するという。今、従来には無かったような分野・領域にまでこうした変化の波が押し寄せている。最近では大手流通のイオン(ジャスコ)は島根の漁協と組んで直接魚を仕入れ近畿圏で販売するようになった。一方、中抜きされた問屋は異業種企業を組み合わせた新しいメニューづくりをプロデュースするような動きも見られる。こうした激変する時代にあって、顧客の眼は生活不況から内側へ内側へ、価格が一番という物差しへと向かっていく。こうした消費傾向が1年近く続いている訳であるが、低迷する外食チェーンにあって勿論元気な企業も多い。例えば、餃子の王将では手作りにこだわり、店長にメニューづくりなどの権限を移譲した現場経営に徹し、成長を続けている。私も知っている若い経営者であるが、鳥取の居酒屋チェーンはメニューを絞り込み、結果オペレーションの手間が省かれ、しかも鳥取で半加工し東京に送ることで大幅な経費を削減し、低価格で提供している。若者向きの業態であるが、いつ行っても満席状態である。顧客は誰であるか、その顧客は何を求めているか、そのためには何をすれば良いのか、ビジネスの原則に立ち戻ることだ。結果、どんな業態が求められているのか再編の入り口にいる。残念ながら不況はその震度を更に高めていく。私はブログにも書いてきたが、顧客は昨年春頃から大きく変わり始めた。顧客の価値観が変われば、私たちも変わりなさいということである。よくパラダイムチェンジというが、モノづくりも、その流通も、根底から変わることを要請される時代となった。どんな顧客主義を採るのか、そんな競争の直中にいる。つまり、生産であれ、流通であれ、自在に動くことが必要だ。地方の山間の多くは限界集落化し、そのほとんどがお年寄りである。しかし、そんなお年寄りに牛乳1本から配達する代行サービスが喜ばれている。勿論、ビジネスとして30%の手数料をいただく購入代行&宅配サービスである。決して顧客がいない訳ではない。目の前にいる顧客によって、再編が進んでいくということだ。(続く)
2009.03.08
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ヒット商品応援団日記No346(毎週2回更新) 2009.3.4.今や一般的なキーワードになっている「自己防衛市場」をこのブログで取り上げたのはスタートしたばかりの2005年8月であった。その時、私は次のように書いていた。「食においてはBSEから始まり鳥インフルエンザ、多発する少年犯罪、どうなるか分からない老後生活・・・多くの不安という壁に囲まれて生活をしており、全ての行動が自己防衛的自己納得的なものとなっている。」そして、そのブログを書いた1年後、夕張市の財政破綻を受けて、2006年11月には次のように私は書いていた。「一方、日常生活の無駄・無理削減の創意工夫、知恵やアイディアが更に求められるようになる。自家菜園、手作り料理、手作り生活、こうしたセルフスタイルが生まれてくる。ある意味でホームリサイクルといった考え方から、そのための道具などに注目が集まる。また、手作りといった時間のないOLにとっては、全てが『小単位』の購入となる。これは単なる食の物販といった世界だけでなく、サービスの小単位化も生まれてくる。今流行の岩盤浴やマッサージのような時間サービスばかりでなく、部分サービスのような小単位化が出てくる。そうした、小単位のモノやサービスを賢く組み合わせて生活する、自己防衛的生活へと向かっていく。」言葉としては「巣ごもり」というキーワードで表現されているが、まさに今日の姿そのものである。BSEを中国冷凍餃子事件、少年犯罪を秋葉原無差別殺傷事件、老後不安を消えた年金、夕張市の破綻をリーマンショック、これらの言葉に置き換えても消費市場の在り方はまるで変わらない。いや、事態はもっと深刻になっているということだ。ところで、ちょうど1年前、一昨年流行ったKY語社会の意味について次のようにブログに書いた。「KY語は現代における記号であると認識した方が分かりやすい。記号はある社会集団が一つの制度として取り決めた『しるしと意味の組み合わせ』のことだ。この『しるし』と『意味』との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は『あいまい』というより、一種の『でたらめさ』と言った方が分かりやすい。」そして、KY語社会の意味について、更に次のようにも書いた。「言葉を使うとは常に『過剰』と『過少』との間で揺れ動くものだ。『外』へと向けた過剰情報、サプライズの時代を経て、KY語が広く流布している『今』という時代は、過少、『内』に籠った言語感覚の時代なのかもしれない。・・・・・・若い世代においても同じで、学校給食の揚げパンを例に挙げ『思い出消費』について書いたことがあった。思い出を聞いてくれる『商品』、思い出を丁寧に聞いてくれる『聞き手』を欲求している時代ということであろう。『かっわいい~ぃ現象』も『私ってかわいいでしょ』という『聞き手』を求め、認めて欲しい記号として読み解くべきだ。」残念ながら、このブログを書いた3ヶ月後、こうした「聞き手」をネット上に求めたが、結果バカにされ居場所を失い凶行に及んだのがあの秋葉原無差別殺傷事件であった。凶行に及んだ加藤容疑者のケータイに残された書き込みはまさにネット世界という虚構の社会集団だけに通用するKY語であった。まるで、聞き手のいない掲示板にもう一人の自分が聞き手になって話しているかのようである。つまり、2台の携帯による自己内会話だ。私は10年ほど前から消費市場は心理化しているとの認識のもとで多くの企画を立案してきたが、今や経済は顧客心理によって動くことは当たり前となった。その極端な顕在市場が依存症市場である。特に、都市市場において顕著であるが、携帯依存は言うに及ばず、占い、サプリメント、アルコール、ギャンブル、各種の薬物、・・・・これら依存症の背景にはバラバラとなった個人化社会が起因している。依存は荒んだ心理が身体にまで及んだ生体反応であると思う。つまり、時代が産んだ一種の病理現象だ。地方には形を変えているとは思うが、東京新宿歌舞伎町の早朝ホストクラブには出勤前の若い女性達で一杯である。表向きにはストレス発散ということだが、今やホスト通いが日常化し、ホストクラブ依存症と呼んでもおかしくない情況である。心理化した市場は、神経症的な過敏な傾向を見せ始めている。モンスターペアレントやキレルという言葉が象徴しているように、単なる過敏を超えた異常な現象まで現れてきた。周知のように自殺者は年間3万人を超えたままで、東京に住んでいると分かるが、電車が遅延するほとんどが人身事故で、そのほとんどが自殺者によるである。対象が見えない恐れの感覚、漠とした不安が集団的失意に向かう時、それこそが危機となる。社会に蔓延しているヒーロー待望、カリスマ願望、当の米国より高いオバマ人気などはそうした失意の表れであろう。残念ながら、経済の悪化を追いかけるように、社会不安が覆い尽くす。癒しや和みなどといったキーワードでは、最早解決できないところまできてしまった。依存という異常消費をも自己防衛しなければならない、そんな時代の入り口に来ていると思う。売る側は少しでも多くを売りたい、だから依存顧客をヘビーユーザーと言う。しかし、そんな売って終わりのビジネスではなく、売ることから始めるビジネスの原則、顧客を思いやる本来の顧客主義に立ち帰らなければならない。それには、まず当の顧客の聞き手になることだ。以前、取り上げた鹿児島阿久根市のA・Zスーパーセンターの商品MDは顧客に聞くことから始めている。結果、仏壇を品揃えしたり、車まで売り、醤油に至っては地場醤油など200種にも至ったと聞いている。そして、何よりも大切なことは、依存につけこんではならない。売らないことも商業者としての義務、そんな時代の入り口に来ている。前回書いたが、新しい和魂洋才による「もう一つのニッポン」を創らなければならない。(続く)
2009.03.04
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ヒット商品応援団日記No345(毎週2回更新) 2009.3.1.ここ数回、映画「おくりびと」や小説「悼む人」、更には吉田拓郎の最後の全国ツアーに先駆けたアルバム「ガンバラないでいいでしょう」について書いた。一見なんの脈絡もないように見える3つの映画、小説、曲であるが、私の眼からは共通して見えてくる潮流がある。「おくりびと」では、死を忌み嫌い隠してきた社会の皮膜をはがし、実は身じかな日常であることを気づかせてくれた。ともするとタブーとしてきた死への認識を根底からくつがえし、その奥にある日本人の死生観を表に出してくれた。「悼む人」では過剰な情報社会の中で、「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのかを気づかせてくれ、実は裏側に潜む情報へと向かわせてくれた。「ガンバラないでいいでしょう」は、頑張らないことの大切さ、自分を責め傷つけることはやめにしようじゃないか、あるがままに生きてもいいんじゃないか、そんなメッセージを送ってくれた。過剰な生き方、生き急ぐのはやめにしようじゃないか、というメッセージだ。あるいは今年の元旦のブログに作家水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」を引用し、日本人の精神の証しである国語が亡びゆく様に警鐘を鳴らしていると書いた。そして、その亡びゆく問題の根っこにある近代文明とは一体何であったのかという原点に立ち帰り始めたとも。混乱、混迷が深まる時代にあって、起点とすべき、回帰すべき視座が明確になっていない点に対し、日本とは何か、日本人とは何か一つの潮流が見え始めている。例えば、経済でいうとグローバリズムとローカリズム、地球環境では工業化とエコロジー、文化では英語と国語、ライフスタイルでは洋と和、もっと身近なところでは公と私、それら全て近代化によって生まれた課題だ。今、起きている潮流を消費という側面で見ていくと、この十数年、手に入れた物的豊かさは知らず知らずの内に実は過剰へと向かっていた。そんなことへの見直しが企業ばかりか生活においても始まっているということだ。生活経済の危機をきっかけに、モノの過剰さを削ぎ落とし、更に削ぎ落とすことによってコトの本質が見えてきたということである。手に入れた便利さというモノの豊かさとは逆に、失ってしまった何かを探しに出かけ始めた、それを私たちは回帰現象と呼んできた訳である。ここでは繰り返し書くことはしないが、消費面では記憶を辿る「思い出消費」ということとなる。近代化とは極論ではあるが、全てを量に置き換えて合理化し数値化していくことであり、あらゆるものを工業として考えていくことであった。もっと極端に言えば、0と1に分けて考えるデジタル発想ということだ。つまり、理屈っぽく言うならそうした発想、価値観からこぼれ落ちてゆくことの大きさに気づき始めたということである。しかし、例えば合理化という生産性から外れた日本の農業に若い世代がチャレンジし始めているのも、こうした生産性ではかることができない大切さに気づきはじめたということだ。農業の工業化をはかる米国などと比較して生産性の低い日本農業であるが、生産性を超える「何か」を見出してくれると思う。食は命を育むことであり、中国冷凍餃子事件は広く裏側にある生命観を思い起こさせた。自己防衛策として、家庭菜園や農家レストラン、あるいは農業体験へと向かわせた。それは「悼む人」のように裏側に潜む情報へと向かわせ、「おくりびと」における死生観にもつながるものである。まだ仮説の段階であるが、いままでの「何か」を探しに出かけた回帰現象は徐々に終わっていくと思う。例えば、2000年前後の頃から古民家ブームをスタートに和カフェや和菓子といった和スタイルがブームになり、癒しというキーワードが流行った。ある意味、単なるトレンドとしての「和」は終えようとしている。それはいみじくも和の本質へと深化し、日本とは、日本人とは何かが「おくりびと」ではないが、日常の中のものとして自覚され始めたからだ。表層をなぞっただけの漢字検定や漢字をテーマとしたバラエティ番組もブームとして終えるであろう。和ブームを終え、また洋へとライフスタイルが振れるかというとそうではない。以前、土鍋という和道具に着目すべきとブログに書いたことがあった。土鍋は炊く、煮る、焼く、蒸す、毎日多様な使い方ができる合理的な極めて生産性の高い生活道具である。しかも、和であることの最大特徴である旬素材を使った炊き込みご飯といった季節を楽しむ、和道具の知恵を使ったライフスタイルへの着眼だ。一昨年のヒット商品であった湯たんぽもその優しい暖かさと省エネ=低コストからであったが、これも古来からの頭寒足熱という理にかなったものだ。こうした次なる芽は日常の当たり前の生活の中に生まれつつある。過剰なものを削ぎ落としながら、足下に眠っている知恵を使った「新しい和魂洋才」のライフスタイルが創造されていくであろう。私は、それを「もう一つのニッポン」と呼んでいる。(続く)
2009.03.01
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