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ヒット商品応援団日記No802毎週更新) 2022.1.3明けましておめでとうございます。年末年始の帰省をはじめとした移動もこれまでのコロナ学習を踏まえての行動と思うがコロナ禍以前の7~8割ほどの日常に戻ってきrている。風景としては久しぶりの賑わい・混雑が東京の街をはじめ、空港でも新幹線の駅でも、高速道路でも見られた。一方、コロナウイルスの感染は増加傾向となっており、NHKによると12月29日確認された感染者数は全国で501人。東京では76人、、大阪では61人。その大阪ではオミクロン株の市中感染も始まり、依然としてコロナ禍が続いている年末年始となった。その新たに変異したオミクロン株の感染は欧米では一桁どころか二桁以上の猛威となっており、この先日本でも同じような感染になるのではといった予測が報道されている。日本で感染された患者の症状は欧米からの情報と同様無症状もしくは軽症者がほとんどで重傷者は見られてはいない。感染が拡大してからでないとわからないが、オミクロン株のウイルスは季節性インフルエンザと同じような「風邪」の一種になるとした仮説が専門家からも出てきている。いずれにせよ、今年もまたコロナ禍と向き合わなければならないということだ。ところでこの念頭にあたり、コロナ禍とどう向き合うかその「基本」について書いてみたい。昨年の未来塾ではコロナ禍によって覆い隠れてしまっていたバブル崩壊以降の失われた30年と言われる社会経済の停滞にどう向かうべきかをテーマとしてきた。読んでいただいた読者は着目した「昭和」、しかも30年代にどんな「出来事」があったかを思い起こして、この年頭の「基本」を共に学んでほしい。かなり前になるが、私はある企業のコンサルテーションを担当したことがあった。その企業は事業本部制をとっており、私が担当した事業本部は赤字状態が続く事業の再生がテーマであったが、もう1社他の事業本部を担当したのがマッキンぜーの日本支社であった。コンサルテーションと言っても「現場」に入り込んでの共同ワークであることから互いにどんな「考え方」、そのビジネスフレームであるかを確認することがあった。そのマッキンゼー社のフレームは次のようなものであった。「空・雨・傘」と呼ばれるフレームワークで、空を見上げて、どんな状態かを判断し、傘を持っていくべきかどうか、・・・・そんなイラストまじりの図解が添えられた極めてわかりやすいビジネス手法であった。少し理屈っぽく説明するとすれば、「空」は現状の認識で市場・顧客認識が中心となる分析である。コロナ禍に即して言えば、例えば緊急事態宣言が解除されてもそれまでの顧客数は戻っていない、そんな認識になる。「雨」はその現状分析で、その理由の抽出である。メニューなのか、価格なのか、その要因など問題につながる要点を整理する。「傘」は文字通り解決方法で土砂降りの雨であれば「休む」ことも必要になるし、小雨であれば折りたたみ傘を持って出かけるということになる。一方、私が提案したのは「問題点と市場機会」という「方法」で、「空」と「雨」が問題点抽出の主内容となっており、「傘」はまさに市場機会と同じである。ただ、特徴的なのが次のような整理の仕方をして本質に迫る方法である。例えば、問題点と市場機会を左右に分けて主要な要点を次のように列記する。 問題点 市場機会・常連客の来店が減少 サブスクではないが回数特典案 上記のような一般論では解決にはならないが、この方法の良いところは「問題点こそ市場機械になる」という整理法・発想である。 もう少し先に進めるとすれば「常連客」のタイプ分けをしてその代表的な常連客に回数減少の理由を「聞く」 ことを通して解決の着眼を探るということになる。 こうした方法は自らの思考の整理のためで、思い込みなどを排除することに役立つものとしてある。結果、出てくる着眼点は考え及ばなかったアイディアが出てくる場合もある。 ところで今年も複数の新聞元旦号を斜め読みした。その中で日経新聞が時代の危機にあるとして、「資本主義 創り直す」というテーマで一面で提言していた。その中で北欧の各国を事例に挙げ、学ぶべき点として、「フレキシビリティ」(柔軟さ0の必要を説いていた。世界のマクロ経済を論じ力はないが、失われた30年の日本においてもその「危機」は誰もが実感しているところである。 コロナ禍はまだまだ続くと描いたが、問題はウイルスが収束してもその後遺症、肉体的な病気としての後遺症だけでなく、人間心理に深く浸透したリスク心理が残っている。欧米においては1日数十万人ものオミクロン株による感染者を出しても、マスク着用もせず、飲食店の規制も限定的な国が多い。国民性の違いと専門家はコメントするが、危機心理、危機への認識が日本の場合と決定的に異なるからである。一言で言えば、ウイルスとの共存を図る欧米に対し、「ゼロリスク」を求める日本との「違い」である。昨年11月末からの訪日外国人の入国規制、いわゆる水際政策に賛成する国民は70%近くに及んでいる。コロナ禍支援の給付金について 現金あるいはクーポンと言った論議があったが、自治体も含めて圧倒的に「現金」への支持であった。一昨年の現金による給付につては70%近くが貯蓄に回ったとの検証結果があるが、今回もかなりのパーセンテージで貯蓄に回るであろう。そして、現預金などの金融資産は2000兆円にまで膨れ上がっている。しかも、株式への投資はわずかで、金利もつかない銀行預金もしくはせいぜい国債の購入である。つまり、どれだけ「リスク」を小さくするかというリスク心理からである。極論ではあるが「ゼロリスク」心理が根深く浸透したということだ。こうしたゼロリスク心理は実は若い世代にも異なる形で浸透している。 昨年夏コロナ禍がピークに達した時、東京都はワクチン接種には懐疑的であると勝手に決めつけて予約なしで接種できる計画を実行したことがあった。結果、 若い世代を中心にした長い行列が隣の原宿にまで及び話題になったことがあった。・・・・・・・つまり、危機を前にして若い世代の心理がワクチン接種へとリスク回避に向かっていることを見誤った結果である。こうしたリスク回避は若い世代にとって「合理的」であるということである。私がタイトルのように「第二の創業」あるいは「復活」という言葉を使ったのも、危機は着実に迫っていると感じるからである。特に、コロナ禍の波が直接押し寄せた飲食業や観光産業はこれからも危機の只中にいるであろう。生活者心理、消費者心理がゼロリスクを求めるリスク社会にあって、どう行動したら良いのか、敢えて冷静に問題点を整理し、しかも柔軟に経営して欲しいと願ったからである。ここ2回ほどの未来塾で「昭和という時代」に着目したのも、明日に向かった先人達の事例を学ぶことにしたのも、この危機をどう向き合うか着眼して欲しかったからである。戦う相手は誰か、いや戦う相手は顧客心理、まずはゼロリスク心理であり、事業変更についても、コンセプト変更についても柔軟に対応することが不可欠である。危機の時代は何があっても不思議ではないということだ。昭和30年代は何も無かった時代であったが、今もなお共通していることは「やりたいことをやる」ことに尽きる。その思い、行動が閉じこもったリスク心理の扉を開けてくれるに違いない。昨年の未来塾の最後に大谷翔平を取り上げた。大谷が戦ったのは「既成」という心理であった。周知のように「二刀流」は無理であるとし、どちらかに専念すべきとした既成との戦いであった。その戦いは2度の手術を経ての戦いで、今年もその戦いは続く。ところでゼロリスク心理との戦いであるが、例えば昨年LCCピーチの「旅ガチャ」人気も良き成功事例の一つであろう。ガチャのカプセル自動販売機で5000円を支払うと、北海道や沖縄など指定された目的地への航空券が購入できるという販促策である。どこに行けるかわからないが、沖縄であれば大当たりと言った「遊び心」が閉じられたリスク心理をこじ開けたということだ。前述の思考整理に即していうならば、「空」は曇りでありながら時に小雨も降るが陽もさす、そんな天気であるが「雨」は次第に止みはじめてもいる。まだ「傘」の必要な時間もあるが、陽のさすところには紛れもなく「日常」がある。そんな陽を受けるにはリスク回避という心理の扉を開ける工夫をすることだ。ブログの読者は理解されていると思うが、市場認識の間違いはこの2年間至る所で見られた。特に若い世代の市場には新しい芽も出てきており、当たり前のことだがその心理は時間経過と共に変化する。若い世代、特にミレニアム世代は次の市場の主役に躍り出ると未来塾で書いたが、つまり陽がさし込む市場になるということだ。そうした意味を踏まえ、年頭の画像にはLCCピーチの5000円ガチャの画像を掲載した。(続く)
2022.01.03
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ヒット商品応援団日記No801毎週更新) 2021.19「下山からの風景」に学ぶ 緊急事態宣言が全面的に解除され日常を取り戻しつつある。しかし、コロナ禍以前に戻ることなど誰も考えてはいない。自重しながら慎重に日常の生活行動へと向かっている。その理由のほとんどが第五波と呼ばれた感染拡大、東京の場合8月に入り連日5000人台の感染者を出したが、お盆明けから急激に減少へと向かった、つまり、減少理由が不明のままであることによる。こうした劇的な減少を海外メディアはワクチン接種とマスク着用が要因(英国ガーディアン紙)、挙げ句の果てには韓国メディアでは虚偽の報告がなされているとまで報じている。最近では京都大学の上久保靖彦特定教授のグループ研究では日本人は早期から新型コロナウイルスに感染し抗体を持っていたとし、”国民集団免疫説”プレジデントオンライン)に依るものだとする論文が出されている。つまり、「ウイルス側」に減少理由があるという説である。これまでの感染症専門家による人流抑制策など根底から検証されることが問われる論文である。何れにせよ、新型コロナウイルスの本質に更に迫って欲しい。ところで本論に戻るが、前回の未来塾で投げかけたのはバブル崩壊以降の社会・経済の停滞と言う問題がコロナ禍によって大きく表舞台に出てきたことを指摘した。そして、着目すべきは昭和、特に30年代を軸に学びを進めてきた。今回もバブル期前までの無名の人々の挑戦、どんな「時代の敵」と戦ってきたかを辿ってみた。第二の創業期を迎えるコロナ禍によって大きな被害を受けたが、同時に多くのこともまた学んだ。エコノミストによれば、政府系金融機関などの無担保無利子融資残高は30兆円に及ぶと試算している。簡単に言えば大きな借金を背負っての「日常」に向かっての再出発である。私の言葉では第二の創業期を迎えたと言うことだ。特にホテル・旅館などの観光産業、飲食業と裾野の関連企業が当てはまると言えよう。まず創業期を思い返すことから始めよう。創業期にはあったものは「何か」を思い起こすことから始める。「夢」といった大きなこともさることながら、ああもしたい、こうもしたい、どれだけできたであろうか、振り返ってみることだ。大切にしてきたことは何か、それはどのように変化してきたか、と言うことでもある。描いてきた「ビジネス」はどこまで達成できたか、できなかったことは何か。このコロナ禍によって業態の転換を図った企業も多い。例えば、ワタミのように居酒屋業態から焼肉業態への転換もあるだろうし、テイクアウト業態のさらなる拡大に向かった飲食店もあるだろう。チェーン展開している外食企業においては多くの休業店舗を再スタートさせることであろう。いずれにせよ、新たな「考え」によってビジネスがスタートする。その時検討すべきが時代を超えたコンセプト、時代を取り入れたコンセプト、何を残し、何を変えていくのかという課題である。今から3年ほど前になるが未来塾「コンセプト再考」でいくつか事例を踏まえて学んだことがあった。その中の一つに元祖カツカレーの老舗「王ろじ」を挙げたことがあった。創業1921年(大正10年)老舗とんかつ「王ろじ」のカツカレーである。その大正10年と言えば、その2年後には関東大震災が起きた時期である。東京新宿にあるとんかつ専門店で、その店名「王ろじ」の由来は「路地の王様」とのこと。場所は新宿三丁目の伊勢丹本店裏に当たるのだが、まだ伊勢丹本店が移転しオープンする前で、大規模な商業施設も少なく、まさに路地裏の店であった。当時の新宿三丁目は宿場町内藤新宿の面影を残した賑わいのある街であった。新宿通りが表通りで、「王ろじ」はその裏通りに当たり、まさに路地裏のとんかつの王様であった。その「王ろじ」も競争市場にあって今なお存続している最大理由は変化する時代にあって、「何を残し」、「何を変えていくのか」という避けて通れない課題である。この課題は「人」がビジネスを継承していく場合真っ先に答えを出さなければならない。ビジネス規模によっても答えを出す手続きなど異なるが、実はビジネスをビジネスとして存在させているのは「顧客」「市場」であり、コンセプトの最大の支持者であることを忘れがちである。株主や取引先、あるいは従業員もその「答え」の関係者ではあるが、顧客にとって「何を残して欲しいか」、「何を変えて欲しいか」が一番重要なことである。そうしたコンセプトの世界を表現したのが、店頭看板の写真である。顧客主義に立ち返るコンセプト再考緊急事態宣言が全面解除となったが、飲食業界も観光産業も一様に顧客が戻ってくれるかどうか不安だと言う。つまり、単なる躊躇しているだけでなく、今までの行動とは異なる行動へと変わってしまったのではないかと言う心配である。確かに100%元のように戻ることはない。忘年会や新年会が以前と同じように行われるかと言えば、多人数の会食は少なくなるであろう。従業員などのワクチン接種など安心環境の整備は必要となるが、、やはり新しい魅力が必要となる。前述のホテルにおける快眠の新しいコンセプトではないが、新しいメニューの提案での再スタートが望まれる。2部屋をnagomルームにしたように「小さな」メニューアクションと言うことである。まず「点」を打ってみると言うことだ。繰り返しになるが、商品は最大のメディア、情報発信力となる。ホテルの事例のように1部屋、2部屋から始めると言うことだが、飲食業の場合はどうか。写真は「王ろじ」のカツカレーである。私が知ることになってかなりの時間が経つが、この盛りつけは美味しくインスタ映えもする。面白いことにカレー好きにはあまり好評価にはなっていないようだ。その一番の理由がカレールーの量が少ないと言うことのようである。私はこうした顧客評価を否定はしないが、カレールーの少なさにはこだわる必要はないと考えている。何故なら「王ろじ」はとんかつ専門店として「カツ」の美味しさを売る店で、カレーを売る店ではないと言うことである。老舗が変化する時代を潜り抜けるには「何を残し何を取り入れるか」であり、とんかつ専門店としての顧客支持を大切にしたいということで、たっぷりとしたカレールーを食べたいと思う人はカレー専門店に行けば良い。このように新メニューで変化をつけられなければ、「盛り付け」のアイディアで再スタートを切れば良い。つまり、今一度「誰を顧客とするのか」、コンセプトを再考するということだ。競争力とは新しい価値を生み出すこと失われた30年、先進国中成長できない国と言われ、結果賃金も上がらない日本、・・・・・「安定」という現状維持意識が蔓延する日本が指摘されてきたが、バブル崩壊以降グローバル競争市場にあって新たな産業を生み出すことができなかったことによる。バブル期の1980年代、例えば造船産業は世界シェアー50%を超え、半導体も世界をリードするポジションであった。この産業変化については未来塾「転換期から学ぶ」で取り上げてきた、今一度読み返していただければと思う。今回いくつか取り上げた事例に共通することは「新しい価値創造」と言えるであろう。既成にとらわれない、一見非常識に見える、・・・・・・こうした挑戦が生まれないのは何故かである。その新しい価値創造は「人」によってなされてきた。どんな働き方であったのか、次のような総労働時間を見ていくとわかる。最新のデータでは平成20年9月のリーマンショックの影響により景気が悪化し、所定 内・所定外労働時間がともに減少した。しかし、平成21年度には初めて1800時間を下回り、その傾向は続いていると推計されている。つまり、2400時間を超えて働いていた「昭和」と比べ、平成・令和の時代は600時間も少ない労働時間である。現在の若い世代にとって「昭和」はブラック企業が活躍した時代であると解釈するかもしれない。短絡的に考えれば昭和の高度経済成長期は遅れた「ブラックの時代」であると考えても不思議ではないということだ。一見すると長時間労働の代表のように思える業態に24時間営業がある。飲食業とコンビニである。その飲食業、具体的にはファストフード店である牛丼大手の「すき家」が確か7〜8年前に閉店する店が続出したことがあった。背景は人材不足という理由からである。「すき家」の店舗運営の特徴はアルバイトによるワンオペ(一人運営)で、その労働環境の厳しさが指摘されていた。このワンオペを可能にしたのが調理ロボットなどの機械化であった。その後賃金を含めた労働環境が改善され営業店舗も増え、業績は回復したことは周知の通りである。その労働環境、ある意味働き方を変えて行った外食、深夜営業店に立ち食い蕎麦の「富士そば」がある。東京に生活していれば知らない人はいない24時間営業の立ち食いそば店である。富士そばではその経営方針として「従業員の生活が第一」としている。勿論、アルバイトも多く実働現場の主体となっている。そして、従業員であるアルバイトにもボーナスや退職金が出る、そんな仕組みが取り入れられている会社である。ブラック企業が横行する中、従業員こそ財産であり、内部留保は「人」であると。そして、1990年代後半債務超過で傾いたあの「はとバス」の再生を手がけた宮端氏と同様、富士そばの創業者丹道夫氏も『商いのコツは「儲」という字に隠れている』と指摘する。ご自身が「人を信じる者」(信 者)、従業員、顧客を信じるという信者であるという。日本の雇用形態に非正規雇用がある。この非正規雇用と言う経営を取り入れてきた企業に「ロフト」という会社がある。確か10数年年前になるかと思うが、生活雑貨専門店のロフトは全パート社員を正社員とする思い切った制度の導入を図っている。その背景には、毎年1700名ほどのパート従業員を募集しても退職者も1700人。しかも、1年未満の退職者は75%にも及んでいた。ロフトの場合は「同一労働同一賃金」より更に進めた勤務時間を選択できる制度で、週20時間以上(職務によっては32時間以上)の勤務が可能となり、子育てなどの両立が可能となり、いわゆるワークライフバランスが取れた人事制度となっている。しかも、時給についてもベースアップが実施されている。こうした人手不足対応という側面もさることながら、ロフトの場合商品数が30万点を超えており、商品に精通することが必要で、ノウハウや売場作りなどのアイディアが現場に求められ、人材の定着が売り上げに直接的に結びつく。つまり、キャリアを積むということは「考える人材」に成長するということであり、この成長に比例するように売り上げもまた伸びるということであった。富士そばもロフトも業態こそ違え「人材」を人手ではなく「人財」として制度化した点にある。私の言葉で言えば「人力経営」と言うことになる。生産性の根本は「考える力」のことである失われた30年論議と共に、その停滞の一つの象徴として欧米諸国との比較の上で「労働生産性の低さ」が指摘されている。しかし、よく考えればわかることだが、世界でいち早く生産性の向上に向かった企業があった。周知のトヨタ自動車における「カイゼン」である。お手本は既にあり、製造業だけでなく、大企業だけでもなく、全国の企業はそのカイゼンを取り入れていた。私が16年前に取材した和菓子の叶匠寿庵においても既に取り入れていたことを思い出す。カイゼンの最も大きな特徴は、現場で労働に従事している人を中心としたボトムアップにある。カイゼンを会社全体の「運動」として位置付ける企業が多かったと記憶している。前述の事例として「すき家」と「富士そば」「ロフト」を取り上げたが、これも時代に沿ったカイゼンであると理解している。すき家の場合、調理器具などの機械・ロボットなどによる省力化をベースとした現場経営であるのに対し、富士そばやロフトは人を生かす「人力」による現場経営となるが、この2つの経営は対立する別個のものではない。労働環境そのものをカイゼンすることにおいて共通しており、つまり目的は生産性を上げていると言うことだ。特に現場の生産性を上げるための工夫として行われているのが、富士そばである。現在も行われていると思うが、店長にはオリジナルメニューを開発する権限が任されており、新メニューも生まれている。例えば、かなり前になるが2つの定番メニューを合わせた「カツ丼カレー」を食べたことがあった。食べた感想であるが、他のセットメニューの方がいいなと言うのが当時の率直な感想であった。つまり、現場の従業員の力、やる気、発想力を引き出す小さな仕組みということである。ボトムアップのための一つの方法であるが、カイゼンの根底には「考える力」があることがわかる。勿論、結果カイゼンによって総労働時間の短縮が生まれたことも事実であるが、最も重要なことは「考える力」を根底においた経営を構築するということに尽きる。デジタル化、IT活用、更にはAIの活用もこの考える力をどれだけ引き出せるかである。単なる人手であればロボットを使えば良いのだ。こうした人手に頼った経営は終わりにしなければならないということだ。「考える力」とは現場ならではの課題である。今から20年ほど前、「力」ブームが起こったことがあった。現場で「力」をどう引き出すかという試みであったが今日まで継続されたシステムとして運営されている企業はほとんど聞いたことがない。どの企業も停滞した市場を開拓する取り組みをしていると思うが、第二の創業を掲げる無印良品は中期計画の中で「地域事業部制」を取り入れると発表されている。その地域事業部制とは住民や行政と交流・連携をしながら生活圏への出店を推進して、地域密着型の事業モデルを確立するとある。かなり前から「食品」への取り組み、特に店舗によっては生鮮食品にも取り組んでいることの延長線上にあるものであると理解しているが、その根底には「考える力」が不可欠となる。良品計画の歴史を見ていくとわかるが、1990年代デベロッパーの要請により大規模スペースに品揃えの拡大。結果、多大な在庫を抱えて経営が窮地に陥った時期があった。こうした規模を追い求めた経営から、「地域」という小さなコミュニティへビジネスを目指すという。例えば、道の駅への出店もテーマに上がっているようだが、どんな地域貢献を行うのかその「考える力」を見てみたい。「離れ世代」が明日を創っていくコロナ禍の1年8ヶ月考えることのほとんどがどのように感染を防ぐかであった。それは同時に政治も行政も、TVなどでコメントする感染症の専門家も、医療従事者も、いや社会に生活するほとんどの人々の価値観、生き様すらコロナ禍を通じ見えてしまった。その中で最も誤解、いや偏見で間違えてしまったのが若い世代、もう少し正確にいうとミレニアム世代の行動であろう。所謂、感染の拡大の中心人物は「若い世代」とした犯人説である。コロナ初期段階の「罹っても軽症もしくは無症状」という情報を背景に、その行動力、行動範囲の大きさから感染を拡大させたであろうという説である。確かに感染者の半数近くが30歳代以下というデータが示されているが、その「行動」によって拡大したという根拠は一定程度確認されているが、少ない事象で全体がそうである、犯人とすることにはならない。マスメディアTVメディアの報道はそうした少ない事象を報道することによって若い世代があたかも犯人であるかのような「イメージ」が作られていく。コロナ禍の初期、感染犯人説の一人に「パチンコ店」が挙げられ一斉に非難したが、実はクラスターは起きてはいなかった。TVメディア自身が風評を撒き散らした事例である。そして、コロナに関する情報が若い世代には伝わっていないのではないかと言った議論が巻き起こる。ワイドショー的感染症の情報は伝わることはないが、少なくともネット上の感染情報については十分得ている。ただSNSによる誤った「仲間内情報」もあり、それは「大人」も同様である。1年以上前から誤った「若い世代理解」についてブログを通じ次のように指摘をしてきた。『今や欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達は、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯を始めとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「~なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』今回の衆院選挙でも明らかになったが、若い世代の「政治離れ」もこの「離れ世代」に付け加えなければいけないであろう。ところで、何故、「離れ」なのかである。戦後日本の社会経済を登山に例え、バブル期までを登山、バブル崩壊以降を下山としたが、そうした日本を創ってきたのは「大人達」である。極論を言えば反発こそないが、どこかよそよそしい社会、鬱屈した社会であったと思う。かなり前になるが流行語大賞にもなったKY語に社会的注目が集まったことがあった。KY語とは「仲間言葉」である。前回の未来塾でジブリ作品「となりのトトロ」を引用したが、その中で子供たちにしか見ることができないトトロの話に触れたが、このトトロをKY語であると理解すれば間違いはない。実は、今年8月上旬東京では感染者が激増し、連日5000人台となり、入院できない自宅療養者が激増する。在宅療養者からも死亡する患者が続出し、医療崩壊が叫ばれた。当時、もうひとつ社会の話題となったのが「路上飲み」で連日新宿や新橋などの若い世代の飲酒が報じられた。しかし、お盆休み明けからこの路上飲みは激減し8月末には大学の再開もあってほとんどいなくなった。この危機的状況にいち早く反応したのがこの「若い世代」であった。つまり、自らリスクを回避する行動へと向かったということである。実は「伝わらない」のは伝えることをしてこなかったという「大人」の責任であり、政治のリーダー、特にマスコミ・TVメディアの考え違いにある。「大人」のロジックと方法では伝わらないということである。感染のメカニズムを含め「若い世代」は正確にコトの事態を理解している。その証左であると思うが、8月末ワクチン接種には消極的であると勝手に決めつけられた若い世代が予約不要の渋谷区のワクチン接種会場に多くの若者が殺到し、300人以上の列を成したことが報じられた。この行列に慌てた東京都は翌日からは抽選方式に変更したがそれでも隣の原宿駅まで行列は伸びた。若い世代こそ、感染症というコトの本質、正しく恐るををよく理解しているという証左である。実は「伝わらない」のは伝えることをしてこなかったという「大人」の責任であり、政治のリーダー、特にマスコミ・TVメディアの考え違いにある。「大人」のロジックと方法では伝わらないということである。感染のメカニズムを含め「若い世代」は正確にコトの事態を理解していると考えることが必要である。それは昨年3月以降の報道を始めメディアを通じて流される情報・内容の変化、若い世代にとっては情報の「いい加減さ=実感を持ち得ない理屈だけの言葉」に「大人」は気づいていないという断絶があるということだ。ロックダウン論議を含め、人流抑制が感染防止には不可欠であると感染症の専門家は提言し続けてきた。8月のお盆休み以降人流は増加しているにもかかわらず、反比例するように感染者は激減した。真逆の結果について納得できる根拠、科学的な理由は聞いたことがない。若い世代にとってコロナウイルスの本質は季節性インフルエンザとまではいかないが、彼らにとって「恐怖」としてのパンデミックではない既知のウイルスに近い認識を持っている。しかし、感染しても入院できない状況になり、そうしたリスクが迫ってきたと感じれば、即回避へと向かう極めて合理的な思考を持った世代である。[離れ世代」が主役になる日前回の未来塾で「新しい生き方」が生まれた地雷としてミレニアム世代におけるFIREというのは文字通りFinancial Independence『経済的自立』とRetire Earlyという『早期退職』のグループについてその合理的生き方について書いた。「離れ世代」が唯一執着したことの一つとして「貯蓄」を挙げてきたが株価の上昇という時代背景を踏まえた貯蓄の進化系である。この新しい生き方に触れた時思い出したのはフランスの経済学者トマ・ピケティが書き世界的なベストセラーになった『21世紀の資本』であった。恥ずかしい話であるが当時翻訳本を店頭で手にしたが、あまりの膨大なページ数から購入はしなかった。その内容であるが、経済専門家による解釈によれば、資本収益率は経済成長率よりも大きい。資本から得られる収益率が経済成長率を上回れば上回るほど、それだけ富は資本家へ蓄積される。そして、富が公平に再分配されないことによって、貧困が社会や経済の不安定を引き起こすという内容である。ピケティの研究の出発点は、米国でトップ1%所得者の所得割合が最近になり急速に上がったことを示した点に着目したことにある。出版後「1%の諸劇」という言葉と共に多くの人に知られるようになった。ミレニアム世代、特にFIREグループは平易にいうならば「お金がお金を生む、その生産性の方が労働することより高い」と実感しているのだと感じたからであった。私が合理主義者と呼ぶ理由である。但し、若い世代が全てFIREグループのような価値観を持っているわけではない。その本質は多くの人が指摘するように変化ではなく、安定を求める世代である。「昭和」が「貧しくても夢があった」という幸福感との比較で言えば、「そこそこの豊かさと安定があれば」という価値観であろう。ビートたけしの「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」になぞって言うならば、「令和時代、離れ仲間と渡れば怖くない」となるのであろうか。ある専門家の指摘によれば、10数年後競争力のない産業だけの日本になり、国内の仕事は減少し、中国に出稼ぎに出かけることになるであろうと。それもまた「合理主義的思考」の結果なのであろうか。そんな日本は望まないが、いずれにせよ、近未来離れ世代が日本の主役になる。この世代、無名の人々がどんな合理的な「コト起こし」を始めるか、下山の途中からはまだその芽には出会っていない。コト起こしとは「既成」と戦うことでもある。その戦いの中には仲間内部の衝突もあるであろう。一つのアイディアが具体化するにはある意味戦いの連続となる。ミレニアム世代やその下のZ世代も衝突を嫌う優しい世代である。離れ世代が時代の主役になるとは、それまでの気のいい、愛想のいい、そんな人間から変わらなければならないということである。彼らが一番嫌う「協調」や「妥協」も是とすることもある。それまでの仲間社会も変化して行くこととなる。仲間と言うより新しい「コミュニティ」が作られると言うことだ。新しい考え、新しい価値観による共同体を目指すこととなる。いずれにせよ「大人」という重しが社会からなくなって行く時、「離れ世代」はその仲間社会から離れ、次のコミュニティ社会へと変化して行くこととなる。私の知らないところでコト起こし登山途中であることを期待したい。ところで今年の新語・流行語大賞が「リアル二刀流、ショータイム」に決まった。この1年間重苦しいコロナ禍にあって大谷翔平の活躍に一喜一憂した。 スポーツ紙を含め多くのことが語られてきたが、大谷翔平(27才)」はまさにミレニアム世代の一人である。少し前までは二刀流の危うさを指摘しどちらかに集中すべきとの論議が日本では圧倒的であった。シーズンを終え日本に戻ってきての記者会見で、その二刀流について米国の方が好意的に受け入れてくれたと語っていた。2度の手術、挫折を乗り越えての活躍であったが、「既成」との戦いが続いていることがわかる。米国ア・リーグのMVP受賞よりもチーム・エンゼルスが勝つことに喜びを感じているとも語っている。私の理解ではチームとは大谷翔平にとってのコミュニティであり、最早「離れ世代」ではなくなったと言うことだ。そして、来季に向け「既成」との戦いが始まっていると語っている。(続く)
2021.12.19
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ヒット商品応援団日記No801毎週更新) 2021.12.15今回の未来塾は「下山からの風景(2)」として、昭和における「コト起こし事例」をテーマとした。前回に続き「昭和」が教えてくれたベンチャーの事例である。バブル崩壊以降失われた30年と言われているが、この停滞打開のためのヒントになればとの考えから取り上げてみた。 下山からの風景(2) 「コト起こしを学ぶ」「昭和」が教えてくれたベンチャー。創業、ブランド、非常識、顧客主義・・・。無名の人たちの挑戦、そして大谷翔平。前回の未来塾「下山から見える風景」では「昭和30年代」に着目した。それは1年8ヶ月にわたるコロナ禍によって、バブル崩壊以降経済成長することなく、新しい価値観、停滞からの脱却が求められていることを浮かび上がらせてくれた。その象徴として昭和30年代がどんな時代であったか、当時を描いたジブリ作品「となりのトトロ」と映画「ALWAYS三丁目の夕日」を踏まえ、「貧しくても夢があった」時代にどんな出来事が起きていたかを自動車のホンダ、創業者本田宗一郎の言葉を引用しその「夢」を少しだけ辿ってみた。そのなかで当時はベンチャーなどという言葉はなかったが、まさに新しくコトを起こすベンチャーであった。今回は私自身の拙い経験を含め、「今」というこの時代の「コト起こしの意味」を学ぶこととする。そして、嬉しいことに、二刀流大谷翔平が米国アッリーグのMYPに輝いたが、何よりも2度の手術・挫折を経て「規制」と戦ってくれたことにある。この活躍は末尾に書き加えたが是非ご一読いただきたい。無名の人たちによって創られた「昭和」ところで2000年代に入り、書店の店頭にはビジネス書、経営に関する書籍はほとん見られなくなった。現実ビジネスの方がどの書物より先に進んでしまった理由からであるが、実はビジネスの師である P.ドラッカーの書籍を再読している。周知のように日本の経営者にも大きな影響を与えた人物であるがその著書「マネジメント・フロンティア」の中で「明日をつく者」という表現がある。 「明日というのは、無名の人たちによって今日つくられる。」 政治家でなく、官僚でもなく、勤勉に働く普通の人たちによって、変化を受け止め、多く の困難さ、破局を乗越えてきたという主旨である。P.ドラッカーは、この普通の人たちの力を引き出し活性させるマネジメントを確立した人物だ。そのマネジメン トとは、組織中心の産業社会にあって、人が幸せになる方法をそのビジネスの根底に置くことによって、単に利益を得るための経営技術ではないとした。その組織とは、自らを社会生態学者と呼んだように、企業ばかりか、例えば病院経営やボランティア組織の運営についても言及している。ある意味、今日をどう生きるかという指針であった。前回「昭和」をテーマとしたのも、この貧しい無名の人たちによって創られた成長であることを指摘したかったからである。そうした意味を踏まえ、今起ってい激変、コロナによって痛んだ社会経済をどう立て直すか、いやどう生きてゆけば良いのか、まさに無名の人たちの着眼の一つを提示してみたい。前回はコトを起こす代表事例としてホンダの創業者本田宗一郎を取り上げたが、今回は昭和という時代における「無名」の人たちのコト起こし事例とその意味を学ぶこととする。「ブランド」との出会いブランド価値、無形の資産ブランドという考えがビジネスに導入されてきた背景には、同じ機能を持つ商品がA社では100なのに、何故B社では120なのかという、その違いの根底に、誰もが持つ心理的価値に着眼してきたことにある。その心理的価 値とは何かであるが、その何かがブランド間の競争軸となる。 かなり前になるが、地域の名称を商標として登録できることから、雨後のタケノコのように 夥しい地域ブランドが生まれた。しかし、その呼称はさておき、その根底にある心理価値としての「何か」が無形の資産となるのだが。ところが地域ブランドの際立つ特徴となっているのか明確にされないままの呼称ブランドがいかに多いか周知の通りである。私が初めて「ブランド」の世界に携わったのが米国サンキスト社の日本市場におけるマーケティング・企画面であった。周知のようにカ リフォルニア及びアリゾナの約6500の生産農家から構成されている世界で最も歴史のある柑橘類生産出荷団体である。いわば巨大な農協団体のような組織であるが、米国政府の農産品の輸出促進戦略を背景に卓越したマーケティング、ブランド戦略を現場実務で体験した。実は日米間の貿易収支が赤字(米国にとって)」となったことを契機に1972年に日米貿易交渉が始まる。既にレモンという農産品はサンキスト社から輸入されており、日本市場に進出し、瀬戸内海沿岸にあるレモン農家は窮地に陥っていた時期でもあった。そのサンキスト社のブランド戦略であるが、冒頭のレモンの写真には「印字」されてはいないが、当時は食べても健康被害にはならないインクで「SUNKIST」とブランド名が印字されていた。農水省からその安全性について指摘を受け、後にその印字はなくなったが、商品に直接ブランド名を印字することなど、少なくとも日本の農家には発想すら無かった。実際の広告物は手元にはないが、雑誌を中心に冒頭のレモンの写真のように印字された商品の広告で、大きくSUNKISTのロゴが入ったものであった。そして、「栄養と料理」といった雑誌を始め、レモンの主要な成分ビタミンCの効能について徹底した健康訴求・レシピ訴求を行い、新しいライフスタイルの創造を目指した。このレモンのある生活によって創られたサンキストブランドの「先」には米や牛肉と共にオレンジの輸入拡大があった。日米両政府の交渉内容については詳細はわからなかったが、サンキスト社は佐賀県の園芸連のみかんとサンキスト社のバレンシアオレンジを使った100%のオレンジジュースの開発へ向かっていた。その商品開発にも携わったのだが、商品開発における嗜好テストの結果が興味あるものであった。佐賀県のみかんとサンキスト社のオレンジのブレンド比率を変えた5種類の飲み比べテストであったが、一番高評価であったのがみかん25%、オレンジ75%の比率であった。この時感じたことは、従来の延長線上の味でもダメで、かといって全く新しい味でもダメだという味覚における事実であった。このオレンジジュース商品は静岡県と首都圏でテスト販売されたが、極めて高い販売結果を残した。しかし、日米間の輸入枠交渉によって全国発売できる程のオレンジの輸入量が確保できないことから本格販売はできなかった。ブランドが持つ心理効果は極めて大きく、レモンによって得られた鮮度、瑞々しさ、爽やかさ、そして何よりも身体に良いという健康効果、新しいライフスタイル・・・・・その波及効果としてオレンジについても期待をうらぎることはないであろうという、つまり未来期待値という心理効果を創造することができた。ブランドの心理効果をイメージ戦略として考えがちであるが、実は実体験の積み重ねによって創られたものである。つまり、ブランドは顧客によって創られ育てられるという基本を学んだ。そして、商品は最大のメディアであり、そのメディアによってブランド価値が形成される。よく間違えることだが、ブランド価値は「デザイン」によるもので、パッケージデザインで決まるという考えであるが、そうした商品は継続されることなく一過性で終わる。「ブランド」と呼ばれる商品は、継続、つまり顧客によって愛され育てられて初めてブランドとなるということだ。「京都ブランド」が教えてくれたこと日本人のライフスタイルを研究していくとその「原型」は江戸時代にあることがわかる。身近なことでは隅田川の花火大会を始め日々の生活に色濃く残っていることは実感されることと思う。ブランド実務についてはサンキスト社であったが、江戸時代も実は「ブランド」はあった。「消費」が広く庶民にまで浸透し、元禄文化と呼ばれるような成熟社会が江戸にはあったことを想起すれば十分であろう。江戸時代の商人は、いわば流通としての手数料商売であった。しかし、天保の時代(1830年代)頃から、商人自ら 物を作り、それまでの流通経路とは異なる市場形成が始まる。今日のユニクロや渋谷109のブランドが既成流通と異なる「中抜き」を行った いわゆるSPAのようなものである。理屈っぽくいうと、商業資本の産業資本への転換である。 よく江戸時代は封建社会というが、実はこの「封」という閉じた市場を壊した中心が「京都ブランド」であった。この 京都ブランドの先駆けとなった商品が「京紅」であった。従来の京紅の生産流通ルートは 現在の山形県で生産さた紅花を日本海の海上交通を経て、工業都市京都で加工・製造され、京都ブランドとして全国に販売さていた。ところが1800年頃、近江商人(柳屋五郎三郎)は山形から紅花の種を仕入、現在のさいたま市付近で栽培 し、最大の消費地である江戸の日本橋で製造販売する。柳屋はイコール 京都ブランドであり、江戸の人達は喜んでこの「下物(くだりもの)」を買った。従来の流通時間 経費は半減し、近江商人が大きな財をなしたことは周知の通りである。 京紅だけでなく、従来上方で製造さていた清酒も同様に全国へと生産地を広げて いくこととなる。醤油、絹織物、こうした商品は江戸周辺地域で製造さていく。そして、製造地域は東北へと広がっていく。従来海上交通に決まっていた商品は陸上交通を使うようになる。こうして「下物」としてのブランドが広がって、偽ブランドが既に この時代に出てくることとなる。特に、貴重な絹製品、生糸の製造については、卓越した技術 に模造品が生じていく。今日のブランド偽造、産地偽装、この源流は江戸時代から始ったということだ。 ただ江戸時代では盲目的なブランド信仰といったことではなく、遊び心と偽造という 卓越した模倣技術を黙認していたということであった。例えば、ランキング という格付けは江戸時代の大相撲を始めなんでもかんでもランキングをつけて遊んでいた。今日、偽造、偽装ばかりが事件となっているが、江戸のように自らの体験・ 評価に格付けなされていたということだ。ブランドは本当に好きな人たちの ものである。好きで好きでたまらないという顧客の創造、このブランドの原則に立ち戻ることだ。 もう一つ学ぶことがあるとすれば江戸時代の閉じられた「封」がどのように壊れていったか、それは近江商人のような「革新者」によってである。江戸時代の身分制度に「士農工商」があるが、物を生産しない手数料商売の「商」はある意味蔑まれた存在であった。今もそうだが、江戸時代にあっても革新者によって「時代」は創られるということだ。革新者シャネル旧来の時代が持っている既成の慣習、モラル、価値観、大きくは文化と徹底して戦った革新者の一人にシャネルがいる。87歳の生涯を終えるまでの歴史を調べると、いかに多く戦い、そして非難され挫折を味わったかがわかる。その戦いの歴史をまとめると次のようになる。・1910年頃、マリーンセーター類を売り始めたシャネルは、着手の女として彼女自身が真先に 試して着ていた。そして、自分のものになりきっていないものは、決して売ることはなかった。それは、アーティストが生涯に一つのテーマを追及するのによく似ている。丈の長いスカート時代にパンツスタイルを生み、男っぽいと言われながら、水夫風スタイルを自ら取り入れた革新者であり、肌を焼く習慣がなかった時代に黒く肌を焼き、マリンスタイルで登場した。そして自分がいいと思えば決して捨て去ることはなかった。スポーツウェアをスマートに、それらをタウン ウェア化させたシャネルはこのように言っている。“私はスポーツウェアを創ったが、他の女性たちの為に創ったのではない。私自身がスポーツをし、そのために創ったまでのこと”。勿論、 アクセサリーの分野でも彼女のセンスを貫き通した。“日焼けした真っ黒な肌に真っ白なイヤ リング、それが私のセンス”。そして、シャネルのマリンルックは徐々に流行する。またヨーロッパ女性の憧れであった英国のウェントシンスター公爵との恋愛が大きく社会の眼に触れることとなり、恋多き女性と話題になる。・1920年代、シャネルは単なるクチュールから、ロシアバレエのメセナになり、社会的地位を手 に入れることとなる。この頃、シャネルは香水の分野でも、その革新的チャレンジをしていた。 過去の“においを消す香水”ではなく、“清潔な上にいい匂いがする香水”、つまり基本は 清潔、それからエレガンスであった。そして、調香師エルネスト・ポーと出会い、「No.5」 「No.22」が生まれるのである。コンセプトは“新しい時代の匂いを取り入れること”とし、どこ にでもつけていける香水を創ったのである。その後、ジャスミン、ローズ、スズラン…といった植物を調合してでき上がったのが、この「No.5」と「No.22」であった。「No.5」が売り出された のは、1921年、ネーミングも簡潔そのものであり、ビンのフォルム、ロゴマークも従来の甘さや 文学性を排除した、シャネルの新しい時代感覚そのものの明快なデザインであった。・1939年、第2次世界大戦が始まると、シャネルは香水とアクセサリーの部門を残してクチュー ルの店を閉める。15年後、再びシャネルは挑戦する。そして、戦後シャネルのコレクションに 対し、次のような批評が殺到する。「1930年代の服の亡霊」「田舎でしか着ない服」と酷評 される。・1954年、既にパリモード界はクリスチャンディオールの時代となっていた。これらのモードに猛然と反撃したのがシャネルだった。カムバックする舞台はパリではなく、アメリカ。それがシャネルスーツであった。エレガントで、シック。かつ、時代のもつ生活に適合する機能をもったスー ツであった。そして、アメリカは「シャネルルック」という言葉でこのスーツを評した。シャネルは “モードではなく、私はスタイルを創りだしたのです”と語った。・1971年1月、87歳の生涯を終える生前、“シーズン毎に変わっていくモードと違って、スタイル は残る”としたシャネルには、そのスタイルを引き継ぐ人々がいた。そして、1987年、カール・ラガーフェルドが参加する。“シャネルを賞賛するあまり、シャネルの服の発展を拒否するのは 危険である。”シャネルの最大の功績は、時代の要請に沿って服を創ったことにあり、シャネルスタイルを尊重しながらも、残すべきもの、変えていくべきものをラガーフェルドは明快に認識している。顧問就任時にこうも語っている。“シャネルは一つのアイディアの見本だが、そ れは抽象的ではない。生活全てのアイディアである。ファッションとスタイルのシャネルのコンセプトは一人の女性のため、彼女のパーソナルな服と毎日の生活のためのものなのだ。シャ ネルのコンセプトは象牙の塔のものではなく、ライフ=生活のためのもの”こうしてシャネル・ コンセプトはカール・ラガーフェルドに引き継がれていく。ところで「ハングリーであれ、愚かであれ」という言葉が大好きであったアップル社創業メンバ ーの一人スティーブ・ジョブズは、2005年スタンフォード大学の卒業講演で次のよう に語っている。 「自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ。自分が素晴しい と信じた仕事をする。それしかない。そして、素晴しい仕事をしたいと思うなら、進むべき道はただ一つ。好きなことを仕事にすることだ。」 勿論、好きなことを仕事とするとはスティーブ・ジョブズのいくどとなく経験した挫折を思い浮かべれば、その覚悟と執念に共感する人は多い。 シャネルもスティーブ・ジョブズも同じ生き様であることがわかる。シャネルの服は高額ではあるが、モードではなく、あくまでも生活に根差した服である。シャネルフアンの多くはシャネルのそうした「生き方」「既成と戦う姿」に共感する女性は多い。ある意味、シャネルの服を買うとは生き様を着ているかのようである。非常識経営と言われて今から12年ほど前に鹿児島阿久根市のAZスーパーセンターをブログで取り上げたことがあった。きっかけは買い物に困っている高齢者のために100円バスを運行していたことを知ったからであった。阿久根市は人口22,300人ほどのごく普通の過疎の地方都市で高齢化率も極めて高い。異色の非常識経営として業界に紹介されたスーパーであるがその名の通りAからZまで仏壇から車まで販売する、近くにコンビニがないからと24時間営業を行い、中山間部のお年寄りのために自ら100円バスを運行する。結果、阿久根市は勿論のこと周辺市場の顧客開発をも可能とし経営として成立させた。単なる効率を第一義とした業態とは正反対のビジネスである。同じ考えで経営を成立させた業態の一つにジョイフル本田というホームセンターを思い出す。ジョイフル本田はいわゆるDIYを中心とした郊外型のホームセンターであるが、一般の小売業から見ると死に筋商品を山のように品揃えをしている。例えば、ネジ、釘、ビス類の種類が豊富でしかも全てバラ売りである。他の企業が排除した商品をきちんと品揃えすることによって結果として死に筋を売れ筋へと蘇らせているのである。5円のビスをバラ売りすることによって”あそこなら必ずある”という独自な「目的来店性」を創造している。POSは判断を誤らせると言い、”昨日100個売れたからといって今日100個仕入れても、今度は300個欲しいというお客さんが来るかもしれない。だいたいPOSは売っていない商品のデータは絶対出してこない。AZスーパーセンターは鹿児島の片田舎に、売り場面積2万平方メートルもある巨大スーパーである。取り扱う商品の種類も多様で無いものないスーパーであるが、実はその品揃えは丁寧な緻密さにある。例えば醤油ひとつとっても日本全国網羅した醤油が品揃えされていると聞く。5円のビスをバラ売りするジョイフル本田と同じ「非効率経営」である。今も同じ仕組みで運営されているか確認はしていないが、売り場の担当者が販売だけでなく仕入れも担当している、つまり「顧客」がわかっているからだ。同じ仕組みで成功しているのが周知のディスカウンターのドン・キホーテがある。つまり、人をどう生かすか、人力経営の良きモデルである。コトを起こせば新たな顧客が生まれるこうした「既成」を超えた市場の開発は顧客の求めていた「何か」を見事に捉え、解決策を提示したからに他ならない。マーケティングで言うところのプロブレム イコール オポチュニティ、問題点こそ新たな市場開発となると言う意味だが、それは大仰に構えたことでは無い。ちょうど今から20数年年近く前になるが、不眠症が社会的な話題になることがあった。NHKでは不眠のメカニズム、体内時計などの解説が番組放送されたり、日経新聞も快眠のための解決策としては日常的には「マクラ」による解決策としては70%の生活者が実行しているなど大きな話題となっていた時期があった。こうしたことを背景に私が経験した拙いテスト計画を一部レポートすることとする。実は「快眠」をテーマとしたプロジェクトによるもので、2003年から快眠をテーマとした共同学習を踏まえたテスト計画で以下のような内容であった。○テスト計画の舞台地方都市県庁所在地の中心部にあるビジネスホテル。シティホテルを含め大手ホテル6社が競争している極めて激しい市場。○テスト計画のホテル25階建、客室数280、/23階フロア全体がレディースフロアとなっており、その17部屋の内2部屋を「nagomi room(なごみ)」としてテストを行った。○コンセプト&キーワード「nagomi room」、”ぐっすり眠ってキレイになる”健美同源から一歩先の眠美同源のルームとして。○2005年2月1日〜1年間○ターゲット30〜50歳のワーキングウーマン○価格8500円(税込)」、9000円’是込)*実はホテル業界は使用ルーム面積比で室料が決められており、テストとなったnagomi roomは通常のルーム面積より大きく高い価格となっていたため、部屋の回転率が悪かった部屋であった。○快眠のためのアイテムベッドについては既存のベッドを使用したが、プロジェクト参加企業からコンセプトに沿って次のようなアイテム商品の提供を受けた。・加湿器セット ・スチームフットスパ ・フェイシャルスチーマー&マイナスイオンドライヤー ・ジャストパジャマ ・リラックスティー&天然水 ・ホテルオリジナルマクラ ・マットレス○リラックス&ビューティ8つのプログラム1、乾燥地がちなお部屋にまず加湿器2、スッピンになってモード転換3、ぬるめの半身浴で疲れとストレスをオフ4、着心地の良いパジャマを着てリラックス5、リラックスティーの香りに包まれながら6、プチエステを楽しむ7、足の疲れを取る8、快適な寝具で朝までぐっすり単なる商品説明ではなく、「リラックス&ビューティ」をプログラムとして顧客提案した。○コミュニケーションホテルのHP上でスペシャルルームとして告知。こうしたテスト計画であったが、快眠ルームnagomi によって新たな顧客が生まれた。nagomi ルーム2部屋によって次のような利用顧客の変化が生まれた。・nagomi ルームの変化/新規顧客79%アップ リピート客11.3%アップ・客室の稼働変化/nagomi ルーム2部屋57.2%アップ レディースフロア17部屋15.2%アップ ホテル全体250部屋13.3%アップ稼働率の悪かった2部屋をnagomi ルームに変えることによってレディースフロアのみならずホテル全体の稼働率が高まり経営に大きく寄与する結果が得られた。ホテル予約はnagomiから埋まり、ホテル全体へと広がったことがわかる。「新たなコトを起こせば新たな顧客が生まれる」良き事例を経験した。そして、その新たなコトは小さくても構わないと言うことである。このことはホテルのみならず、ショッピングセンターにおいても、街づくりにおいても活性化策の基本である。まず点を打つ、次に線を引いてみる、最後は勿論面となるのだが、なかなか面には至らない。前述のブランドのように失敗や挫折もあり、途中で修正することが必要となる。問題なのは最初に打った「点」を忘れないことだ。私の言葉で言えば「点」とはコンセプトのことである。なお、テストに参加し商品の無料提供に対してはnagomiルーム利用顧客へのアンケート照査結果及びテスト結果の成果についてレポートを行った。なおその後のホテルサイドとの取引については個別なものとして2社間で行ってもらうこととした。(後半に続く)
2021.12.15
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ヒット商品応援団日記No800毎週更新) 2021.12.11今年も日経MJによるヒット商品番付が発表された。そこで敢えてコロナ禍2年間のヒット商品番付を併記したが、コロナ禍=巣ごもり需要からどんな変化が生まれているかを観ていく必要があると感じたからであった。つまり、ライフスタイル変化がどのあたりに現れているかで、2022年以降の変化の芽となり得るかどうかに着目したかったからである。2021年東横綱 Z世代、 西横綱 大谷翔平東大関 東京五輪・パラリンピック、西大関 サステナブル商品 東関脇 シン・エヴァンゲリオン劇場版、西関脇 イカゲーム東小結 ゴルフ、 西小結 冷食エコノミー2020年東横綱 鬼滅の刃、 西横綱 オンラインツール東大関 おうち料理、 西大関 フードデリバリー東関脇 あつまれ どうぶつの森、西関脇 アウトドア東小結 有料ライブ配信、 西小結 プレイステーション5コロナ禍の1年10ヶ月、巣ごもり需要という大きな括りとは大きく異なる消費行動があるとすれば東西横綱のZ世代と 大谷翔平である。次回の未来塾で大谷翔平(ミレニアム世代)については取り上げているのでここでは大きくは触れないこととする。というのも周知のZ世代の上の世代がミレニアム世代で、ある意味対極とは言わないまでも極めて異なる価値観を持つ世代であるからだ。ミレニアム世代についてはかなり以前から多くのことに興味関心を持たない「欲望喪失世代」、私の言葉で言えば「離れ世代」であるのに対し、Z世代はデジタルネイティブと呼称され、周知のTikTokを流行らせた世代である。ちなみにTokは2018年第一四半期、App Storeのアプリダウンロード数で世界一になり、世界的な流行になったアプリである。つまり、上の世代とは異なりグローバルな世界を日常としてきた世代と言っても過言ではない。この消費旺盛さに着眼したのがguをはじめとしたアパレル企業で世界的な潮流となっているジェンダーレス商品へと一斉に取り組みはじめた。わかりやすく言えば、その嗜好は体のラインが強調されがちなレディース服を着るのが苦手で、ダボっとした大きめのサイズ感で、かつオシャレにも見える男女兼用できる服と言ったら理解できるかと思う。アパレリ企業だけでなく、無印良品でも、2019年から性別や年齢、体形に関係なく着用できるサイズ感の服を売りにした「MUJI Labo」の服が展開されている。また、デジタルネイティブ世代と言われてきたように、SDGsにも理解共感する世代である。西大関 サステナブル商品にも出てきているが、それまでのエコロジーから更に地球規模の運動への取り組みで、Z世代のが地球市民あることがわかる。ところで20年と21年を比較し変化があるとすれば、巣ごもり需要の進化であろう。その象徴として挙げられているのが西小結 冷食エコノミーである。レトルト商品・冷凍食品の需要からの進化で、レトルト商品はご当地カレーのように多様な楽しみ方へと変化し、冷凍食品は自販機にまでその販路が広がってきたと言う進化である。こうした「広がり」はそれまでのメニューに「ちょい足し」して別の楽しみ方ができる調味料の新たな需要へと繋がっていく。あるいは既存のメニュー、袋麺やコンビニ商品を別のメニューへとアレンジし変えていくアイディア料理にまで広がっていく。例えば、袋麺の塩ラーメンを使ったカルボナーラのように。クックパッドでも各部門でアイディアコンテストを行っているが、その受賞メニューを見ていくと従来の調味料を味噌に変えたりして「味変」を楽しむと言った工夫・アイディアが多い。つまり、既にあるものを「変化」させて楽しむ巣ごもり消費である。食品メーカーもどんな食べられ方をしているか調査していく必要に迫られていると言うことだ。よく言われてきたことだが、ここでも「モノ消費」から「コト消費」への進化の広がり、調理を遊ぶと言った進化である。また、流通の側も新たな変化を見せている。例えば、先日成城石井の店で買い物をしたが、行われていたのはシンガポールフェアであった。全国ご当地フェアなどが人気となっているが、旅気分にひたれるテーマにシンガポールとはさすが成城石井だなと感心した。こうした消費変化に対し、「外食産業」も当然巣ごもり消費を超える進化、新しい価値あるメニュー提供をしなけれならないと言うことだ。巣ごもり消費における年末年始の旅行需要についてだが、昨年と比較し旅行したいという意向を示している生活者は減少しており、コロナ感染がおさまっているにもかかわらず、コロナ禍以前と比較し遠く及ばない。12才未満のワクチン非接種人口を引いた2回接種人口は90%近くにまで進んでいるが、ワクチン効果が減少していることから感染がまだまだ続くとの認識が生活者に広く浸透している。結果、2年前のような旅行へと向かう生活者はまだまだ少ないと予測される。昨年と同様、安心安全にこだわり、行先・移動手段・宿泊先を選択・する、自宅から近いところに車で移動、近しい家族と少人数で1泊2日が主流となっるであろう。感染防止を最優先 した「新常態の安近短」という潮流である。勿論、GOtoトラベルの再開が年明けの1月末に予定されている背景もあるが、まだまだ2年前の需要には遠く及ばない、いや新たなコンセプト、新たな価値に基づいた旅行メニューが求められていると考えるべきで、従来の「あり方」では「新常識」には合致しないと言うことだ。例えば新しい価値あるメニューの一つがキャンピングブームを踏まえた「グランピング」であろう。ここでも顧客・生活者は変わっているのに、まだまだ提供する観光産業が変っていないと言うことである。最新の家計調査報告を見てもわかるが、8月~10月の消費支出は減少のままである。リベンジ消費などど盛んに消費を促す言葉が流されているが、従来の商品・サービスを求めることではない。支出は減少しているが、貯蓄はその分増えている。将来への不安という要因もあるが、新しい価値ある商品・サービスの創造が徹底的に足らないと言うことの結果である。今、百貨店の正月おせちに話題が集まっているが、年末年始の旅行をやめた代わりの「代替消費」であり、新しい価値観による消費ではない。次回の未来塾ではZ世代の上の世代であるミレニアム世代を中心に「コト起こし」の可能性について分析を行っている。この世代は欲望喪失とでも表現したくなるように消費という舞台に登場してこなかった世代である。自動車をはじめ、TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たないまるで欲望を喪失したかのような世代で、私は「離れ世代」と呼んでいる。しかし、その「離れ」の一つであるアルコール離れについて大きく変わりはじめている。特に大阪での事例であるが、新しいメニュ~業態が生まれ行列ができる飲食店が数多く登場している。勿論、アルコールに新しい価値を見出したのではなく、「仲間と集うスタイル消費」が創られ、そこにアルコールもあるという飲食業態である。先月2年ぶりに大阪の街を歩いたが、そうした飲食店には若い世代が今なお行列ができており、街の賑わい復活の「核」となっている。(続く)
2021.12.11
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ヒット商品応援団日記No799毎週更新) 2021.11.232年ぶりに大阪の街を歩いてきた。コロナ禍以前と比較し衰退どころか活況を見せている店や街とコロナ禍が鎮静化しても以前の賑わいを取り戻せない店や街、3日間という短い期間ではあったが大阪の友人と共に歩いたレポートである。まず道頓堀の街、特に南側の法善寺横丁界隈を歩いた。4年前も何回となく歩いたが、当時はインバウンドビジネス、もっと端的に言うならば、中国をはじめとした外国人観光客で溢れかえった街である。飲食店だけでなく、関空と難波を結ぶ南海電車の運賃収入が対前年比130%を超えるほどであった。そして、訪日観光客の足は黒門市場にも及び、賑わいというより、混雑で歩きにくいそんな状態であった。そんな街であったが、訪日外国人の姿はほとんど目にすることはなかった。戎橋の撮影スポットで写真を撮る日本人の若い世代はいるものの、それも以前とはくらべようもない少なさであった。友人の話であるが、ここ数年キタ(梅田周辺)の開発が進み賑わいのある街となっているが、ミナミ(難波周辺)はほとんど変化はないとのこと。道頓堀はまだ人通りはあるが、路地に一歩入ると、ほとんど人のいない街となっていた。そんな法善寺横丁近くの鍬焼きを食べさせる店に3年ぶりに入ったが、6時半にもかかわらず私一人であった。1時間ほどしてサラリーマン風の二人連れ客が来店したが、店は閑散としたままであった。女将さんに話を聞いたが、緊急事態宣言が解除しても以前のような賑わいがない街になってしまったと。周辺には何軒かシャッターの降りた空き店舗について聞いたが、中国の投資家が物件を買い漁っているとの話であった。一方、翌日は梅田の駅前ビル、その地下街の飲食店で食事をした。冒頭の写真がその居酒屋であるが、6時半ほどからの飲食であったが、7時過ぎには写真のような漢籍状態となっていた。友人の話ではコロナ禍の最中であったが、通りを隔てた空き物件を取得し繁盛しているとのこと。この一等地である駅前ビルの地下食堂街でもシャッター通りとなっているところが数カ所あり、前日の法善寺横丁界隈の空き店舗状態と変わらない光景がそこにはあった。キタとミナミという街の違いよりも、活況と衰退、いわば明暗、まだら模様のような街へと変貌しているということであった。その理由であるが、キタの駅前ビルの地下飲食店街で活況を見せている居酒屋にそのヒントの一つがあった。2年前に訪れた時もそうであったが、なかなか美味しい料理を出す店であったが、最初に出された「突き出し」に驚かされた。それは3切れではあったが、中トロのマグロであった。勿論、味は申し分なく美味しかったが、全体として「クオリティ」が高くなった感がした。コロナ禍という苦境を乗り越えるには従来通りのやり方では顧客を取り戻せないということであろう。また、活況を見せる店にはもう一つの理由があることがわかる。コロナ禍以前、3年ほど前になると思うが、大阪駅ビルにおける三越伊勢丹の撤退それに伴うニューアルした商業施設ルクアイーレについてである。覚えていらるだろうか、特にルクアイーレ地下の飲食街バルチカで行列ができた2店について。名物洋風おでんとワインが楽しめる店「赤白」と海鮮が安いだけの店「魚屋スタンド ふじ子」である。共に「安さ」を楽しめる店であるが、顧客層は異なるが、その安さがライフスタイルを定着させている点にある。デフレ時代の成功事例として、100円ショップから始まり、ユニクロ・gu、ニトリ、アウトレット、訳あり商品群、・・・・・・・・飲食業界もデフレは無縁ではない。しかも、メニューにおけるクオリティアップを踏まえた「スタンダード」が求められているということであろう。コロナ禍以前の価格・メニューでは顧客を取り戻せないということだ。そして、思い切って従来のスタンダード、常識を変えることができた店は逆に成長できる時代を迎えたということである。ちょうど米国ア・リーグのMVPに大谷小片が満票で選ばれたとうに、つまりそれまでの常識を変えることができるかどうかである。また、阪神百貨店の地下にあった立ち食いのフードコートがリニューアルしたとのことで観てきた。イカ焼きという名物メニューで大阪の人間であれば知らない人はいないちょい飲み・立ち食いスナックパークであるが、その4店が別の場所に移設してしまった。移設は本館の建て替えのためであるとのことだが、移設した場所には徒歩5分ほどかかり、以前のような大阪らしい一種の猥雑さがまるでない、極めてつまらないスナックパークとなっていた、午前中ということもあって閑散としていたが、名物イカ焼きだけには行列ができていたが、なんとも言えない感慨を持った。それは感染拡大の感染源の一つとして指摘されたフードコートのリニューアルであり、「密」を避けるために各店が間仕切りされた店作りとなっている。しかし、もう少し蜜を裂けながらも気軽に立ち食いできる雰囲気ができたはずである。これもまたコロナ禍によってつくられた否応のない「現実」なのであろう。実は一箇所観ておきたい商業施設があった。それは3月にリニューアルオープンした心斎橋パルコの心斎橋ネオン食堂街で東京渋谷のパルコと同じレトロ・横丁コンセプトによるテーマパークである。3年前に大阪空堀の人気店「その田」が出店しているとのことで時間があればどんなMD編集をしているかを実感したかったが次回とした。というのも東京渋谷パルコのMDは失敗したと思うが、大阪の場合は「その田」をはじめ「赤白」「魚屋スタンド」「立呑み処 七津屋」など以前取り上げた店が出店していることからある程度わかっているので、ただ若い世代の賑わい・人出を観てみたかったというのが本音であった。今回大阪の街を歩いて感じたことは、活況を見せる店と衰退・閉店した店とがまだら模様のように偏在している光景であった。こうしたまだら模様と化した街は2008年のリーマンショック後のデフレの大波が押し寄せたヒット商品群の光景を思い出した。2009年のヒット商品には激安ジーンズが西の横綱にランクされ、規格外商品(訳あり商品)」が本格的に広く市場化した年であった。勿論、デフレ経済は今なお続いており、生活者のライフスタイルに定着しているのだが、今回のコロナ禍によって否応なく勝者と敗者が生まれたという印象であった。東京においても更に「安い」価格で勝負に出てきた飲食店があるが、顧客を呼び戻すには一つの方法であろう。今までの消費心理は京都に残る生活の知恵、ハレの日とケの日の生活価値観によく似ていた。ケの日、つまり普段は「始末」して暮らし、ハレの日はパッと華やかに。そうしたメリハリのある生活習慣が、食=台所に深く浸透している。「しまつ」とは単なる節約ではなく、モノの効用として使い切ること、生かし切ることである。今風で言うならばコストパフォーマンスという意味で、コスパ型ライフスタイルと言っても間違いではない。このコスパライフスタイルがまだら模様の街を創っている。特にそのパフォーマンスが一段とクオリティアップしているということである。ハレの日への切り替えはまだまだ先ということだ。ちなみに2009年以降3年間ののヒット商品版付は以下の通りである。2009年東横綱 エコカー、 西横綱 激安ジーンズ東大関 フリー、 西大関 LED東関脇 規格外野菜、西関脇 餃子の王将東小結 下取り、 西小結 ツィッター2010年東横綱 スマートフォン、 西横綱 羽田空港東大関 エコポイント、 西大関 3D東関脇 猛暑特需、西関脇 LED電球東小結 200円台牛丼、 西小結 坂本龍馬2011年東横綱 アップル、 西横綱 節電商品東大関 アンドロイド端末、 西大関 なでしこジャパン東関脇 フェイスブック、西関脇 有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)東小結 ミラーイース&デミオ、 西小結 九州新幹線&JR博多シティこうしたデフレの進行と共に外食産業ではある意味大きな事件が起きたことを思い出す。その一つがファミリーレストランである。1970年代ホテル並みの料理&サービスを手の届く価格で提供するという業態は、すかいらーくを先頭に全国へと広がった。その後、多様な外食産業、特に回転寿司などとの競争のなかで、リーマンショック後不採算店をスクラップしてきた。すかいらーく500店、デニーズ200店、ロイヤルホスト100店大手3社で800店が撤退する。そして、このデフレの波を乗り越えたのが新規メニューの導入で、私が今回大阪で感じた「クオリティアップ」であった。デニーズやロイヤルホストは初めて2000円台のステーキメニューを出し、顧客単価も1000円台にまで戻し本来の安定経営を行なっている。これも、顧客需要に見合った規模へと再編・縮小した結果ということだ。東京をはじめとした外食チェーンの動向については把握してはいないが、撤退縮小が進んでいるとのニュースは届いてはいる。「食べに出かける」という強い動機付が必要となっているということである。大きなパフォーマンスは必要ないが、例えば「突き出し」の事例ではないが、小さな驚きが求められているということだ。大阪の場合、アルコール離れ世代と言われてきた若い世代が飲食の現場に戻ってきており、街再編という消費の主役になっていた。次回の未来塾ではもう少し俯瞰的にコロナ禍によって露わになった日本の「今」を分析し、何が課題となっているかをレポートしていくつもりである。(続く)
2021.11.23
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ヒット商品応援団日記No798毎週更新) 2021.10.10今回の未来塾は緊急事態宣言が解除され、1年8ヶ月のコロナ禍を通し、どんな価値観の転換が起きているか、その先にあるウイズコロナ、コロナとどう向き合っていくのかを戦後の時代変化を踏まえ考えてみた。特に、バブル崩壊以降大きな時代潮流である「昭和」、特に昭和30年代に注目し、その価値観変化を学ぶこととした。「コロナ禍の風景」から学ぶコロナ禍によって失ってしまったのは人と人との関係でその変容してしまったことの回復であった。その象徴として「温もり」をキーワードに挙げた。それは仕事の関係のみならず、日々の買い物や飲食など社会生活全般に及ぶ変容であった。そして、、こうした人間関係の変容は教育の場における教師と生徒の場合も同様で、「距離」を取ることがいわば強制的された1年8ヶ月であった。昭和30年代に注目が集まったのもこの「距離」のない、手を伸ばせば触ることのできた時代であったからである。ソーシャルディスタンス、社会的距離を取ることを半ば強制され、会いたくても会えない時間が長く続いた。その象徴が小学校における給食の「黙食」であろう。お喋りしながらの給食は生徒にとって一番楽しい時間であった。アクリル板越しの会話、大人の場合でも同様で仕事を終えての同僚との一杯も無い関係が続いた。休日ともなれば、ゴルフやジョギングなど「密」を避けたオープンエアーなスポーツを選ぶ。移動も自家用車を利用したり、公共交通の場合でも混雑を避けての時間帯に移動する。そうした中ワクチン接種も進み、経口治療薬の開発も間近のようだ。コロナ禍の出口、ウイズコロナという日常が戻ることとなるが、1年8ヶ月前の「日常」ではない。見えない変化ではあるが、仮説を含め考えてみたい。新しい「生き方」が生まれた コロナ禍の1年8ヶ月は否応なくそれまでの「考え」を今一度内省する時間でもあった。人との関係を取るとは自身の心の内へ内へとそれまでの「考え」を問い直し事へと向かう。それは世代を含め育った環境、働く状況によって、100人いれば100通りの答えとなる。そうした100通りの中に特筆すべき新しく生まれた「人生」がある。その一つはテレワークによってオフィスに出社しなくても済むことから住まいを郊外に移す「動き」である。この動きは当初は都心から少し離れた郊外マンションなどへの移転であったが、現在は東京の三多摩のように過疎化が進む地域への移住である。青梅市のように移住への支援もあり、都心の高い家賃より少々不便でも自然を満喫できるところへの移住である。東日本大震災における原発事故の時は、地方への「避難」であったが、今回のコロナ禍ではネット環境が整備されていれば「田舎暮らし」も楽しめる生き方である。但し、都心にも出かけることができる距離であることが条件である。ちなみに青梅駅から東京駅までの所要時間はJRの快速で1時間半ほどの近さである。もう一つの人生が『FIRE』と呼ばれるグループである。FIREというのは文字通りFinancial Independence『経済的自立』とRetire Early『早期退職』の造語である。株高を背景に『FIRE』は裾野を広げており、企業・仕事に縛られることなく、自由なライフスタイルを楽しむ、そんな生き方である。若い世代の価値観について貯蓄好きな合理主義者であるとブログにも書いてきたが、コロナ禍によって生まれた進化系で、その代表的な世代がミレニアム世代である。ミレニアル世代は、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義されている。現在25歳から40歳を迎える世代で、以前日経新聞が「under30」と呼び、草食世代と揶揄された世代のことである。ちなみに消費において注目されているZET世代はミレニアム世代の下の世代である。 こうした2つの新しい「動き」はいわば登山途中の風景である。昭和が「貧しくても夢があった」時代との比較で言えば、「豊かで自由がある」時代となる。ある意味、個人化社会が進化した一つの風景であろう。こうした傾向は既に社会に広がっている。例えば、上司からの飲み会は断るが仲間とは行くようなことだが、それは会社組織だけではない。例えば、働き盛りの世代、それも既婚男性が仕事を終え自宅にストレートに戻らずに一種の「自由時間」を楽しんでいる人物を「フラリーマン」と呼んでいる。これはNHKが少し前にこのフラリーマンの姿を「おはよう日本」で放送したことから流行った言葉である。都市においては夫婦共稼ぎは当たり前となり、夕食までの時間を好きな時間として使う、フラリーマンが増えているという。書店や、家電量販店、ゲームセンター、あるいはバッティングセンター…。「自分の時間が欲しい」「仕事のストレスを解消したい」それぞれの思いを抱えながら、夜の街をふらふらと漂う男性たちのことを指してのことである。実はこうした傾向はすでに数年前から起こっていて、深夜高速道路のSAで停めた車内で一人ギターを弾いたり、一人BARでジャズを聴いたり、勿論前述のサラリーマンの聖地で仲間と飲酒することもあるのだが、単なる時間つぶしでは全くない。逆に、「個人」に一度戻ってみたいとした「時間」である。 求められているのはこの時代の「人生観」 こうした社会現象は個人化社会から生まれたものだが、求められているのは個々人の「生き方」「働き方」である。企業運営においてはワークライフバランスをとりながら、リーダーへの求心力が求められる、一方テレワークのようにコロナ禍は逆に「拡散」を進めていくこととなった。それまでは企業の持つ目標を共有するために、職場単位のパーティを行ったり、社内運動会といったイベントを行い「気持ち」を一つにすると、つまり求心力を目指す企業運営が行われてきた。創業者がリーダーでいるソフトバンクやユニクロ、あるいは楽天のような企業はリーダー自身が「求心力」となるが、コロナ禍では「集まること」「心を一つにすること」が不可能となってしまった。冒頭でコロナ禍で失ったのは「温もり」であったと書いたが、企業も社員との温もりを失ったということである。ワクチン接種を2回済ませても、時間の経過と共に十分な抗体が維持できない場合もあり、3回目の接種が検討されている。つまり、以前のようなビジネススタイルには戻らないということだ。新しい「働き方」、生き方が個々人にも企業にも求められているということである。しかも、AIはどんどん進み、単なる「人手」を必要としない時代がすぐそこまで来ている。 江戸時代成熟した元禄バブルを経て、「浮世」という人生観を手に入れた江戸の人達と同じように、平成から令和の時代においても江戸の浮世のような新しい人生観が求められることとなる。アニメ「となりのトトロ」における「子供にしか会うことができない不思議な生き物」が何であるのかという「問い」である。またその「子供」は誰なのかという問いでもあるが、『FIRE』と呼ばれるグループなのか、ライフスタイルをより合瓜的に送ろうとする移住する人たちなのか、おそらくもっと自由に合理的に生きようとする人もまた出てくるであろう。そうした中、サントリーの新浪剛史社長が、「45歳定年制」の導入について提言したことが話題となっている。「定年」という言葉は年功序列制から生まれたものであまり良い表現ではないが、その本質は「このままの働き方では企業も個人も共に成長が望めない」ということに他ならない。 実は江戸時代における「浮世」には「自由な生き方」という人生観が中心となっている。浮世と言うと何かふわふわとしたいい加減な生き方を思い浮かべがちであるが、実は真逆な人生観である。江戸の人たちは「人間一生 物見遊山」と考えていた。生まれてきたのは、あちらこちら見聞を広め、友人を作り死んでいけば良い」とした人生観で、そこには「自由」を楽しむ人生と言うことである。但し、そこにはそうした生き方を貫く覚悟があった。例えば、江戸時代の最大の楽しみはお伊勢参りをはじめとした旅行であった。商家の旦那衆のようにお金を使った豪勢な旅行もあれば、ヒッチハイクのような旅、旅籠で働きながらお金を貯めて旅を続けると言った自由な旅もあった。こうした旅に不可欠なのが「通行手形」で日本全国旅することができた時代である。この通行手形には「私が死んだらありあわせの所に埋めてください、亡骸を送り戻す必要はありません。」と書かれているものが多かった。生きるも死ぬも自分の判断、他人のせいにはしない。「物見遊山という自由な生き方」とはこうした明快な人生観である。いずれにせよ、令和の時代の「浮世」が求められているということだ。「温もり」食堂という「生活文化」最も日常を感じさせてくれるのは「食」である。家計調査の支出を見ても分かるように、長引く巣ごもり生活の「食」は仕事を持つ場合は「デリバリー」を利用したり、子供のいる家庭では3度の食事を作ることに苦労した。当然、冷凍食品やレトルト食品などの利用が加速する。しかも、変化をつけるためにご当地のレトルト食品が人気で都心にあるアンテナショップに多くの人が訪れている。こうした現象は「外食」への規制によるものであるが、それは極めて自然な心理的反応である。そうした中、巣ごもり生活の一番のヒット商品はホットプレートで、その簡便さと共に「手作り」の楽しさに共感したからである。また、キャンピング人気で使われるキッチン用品も人気だ。100円ショップのダイソーもアウトドア商品が充実されており、手軽に室内のテーブル上で料理できるグッズがよく売れている。特に、ソロキャンプ用のキンチン用品の活用など単身者には好評のようだ。求められているのが「手作り」の楽しさであり、外食の基本中の基本、外食の存在理由である「温もり料理」であることは間違いない。一方、コロナ禍によって時短営業や酒類の提供ができないことから「外食」、特にチェーンビジネスは大きな痛手を被っている。回転寿司のスシローのように本業である回転寿司業態の他に駅などでの小型持ち帰り店舗による売り上げが貢献し業績は好調である。こうした好調な外食はマクドナルトを筆頭にごく一部であって、多くのチェーンビジネスは非採算店舗の閉鎖によってなんとか生き延びているのが現状である。ところで「温もり」を感じさせてくれる業態と言えば、なんと言っても家族で切り盛りしているような「食堂」であろう。家庭の味、おふくろの味、なぜか懐かしさを感じてしまうのが食堂である。チェーンストアに押され、特に後継者がいないことからどんどん少なくなっているのが現状である。そうした中、青森には「100年食堂」と呼ばれる大衆食堂が数多くある。地域の人たちが100年かけて育てた食堂である。店の人たちだけでなく、顧客もまた受け継いで行くもので、そうした感じる「何か」を生活文化と呼ぶ。実はここ数年沖縄に行っていないが、1990年代後半からは沖縄の街の横丁路地裏歩きを目的に年に数回は訪れていた。そのきっかけになったのは観光客が必ず訪れる牧志公設市場から先、市場本通り奥を歩いた時、2人のお年寄り、おばあおじいの会話を聞いた時であった。まるで会話内容が分からない、単なる方言の分かりにくさでは全く無い外国に来ている感がした。国際通りという観光客向けのお土産通りから一歩路地に入るとそこには「沖縄」があった。その不思議な生活に魅せられた。その不思議さはライブハウスにおける琉球民謡とOldaysというある意味異質な音楽の魅力もあって那覇を中心に北は嘉手納、南は糸満。観光の島であることから一通りの観光地にも行ってみた。その観光地も沖縄らしさがあって北は巨大なジンベエサメのいる美ら海水族館、南は琉球の創世神話に登場する「斎場御嶽(せーふぁうたき)」のように奇妙な観光地にも興味があった。しかし、中でも一番こころ動かされたのは沖縄の「食」であった。その食は至る所にある「食堂」で、沖縄の人たちの胃袋を満たしていた。都市にある天ぷらやうなぎ、あるいはとんかつといった専門店はほとんどなく、食堂には沖縄そばをはじめゴーヤなどのチャンプルー類といった炒め物があって、どの店にも必ず「ポークたまご」というメニューがあった。その多くは焼いたSPAMと目玉焼きといった単純なものである。中でも「ちゃんぽん」というメニューがあって、勿論長崎ちゃんぽんではなく、SPAMの入った野菜炒めを沖縄そばのスープで蒸し煮したものに卵をとじた物をライスに載せたものである。一時期このちゃんぽんを食べ歩いたが、ある時ふと思ったのは食堂は沖縄のファストフードなのだと。行列など全くしない沖縄人の気質に沿った早い、うまい、安い、しかも米軍文化をも取り入れたまさにゴチャ混ぜ文化、チャンプルー文化の象徴であると変な納得をしたことがあった。そして、その生活文化の中心には必ず「あるもの」がある。それは使命感であり、それまで精進してきたこだわりで、もう少しビジネス的に言うならば、ポリシーとコンセプトということになる。使命感やこだわりは必ず「表」に出てくるものである。いや、表に出てこないものには使命感もこだわりもないということだ。「外見」は一番外側の「中身」であり、それは一つの「スタイル」となって、私たちに迫ってくる筈である。「文化」は極めて感覚的な言葉である。ある人にとっては感じ取れるが、別の人にとっては異なる。そんな「感覚」が長く続いていくが、継承されていくには様式化されていくことが必要となる。そんな様式化された「食」の一つが幕の内弁当であろう。江戸時代の芝居文化から生まれたと言われているが、コロナ禍の初期東京歌舞伎座前の弁当店「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じ廃業したことが話題となった。これも芝居観劇には欠かせない、芝居好きが育てた一つの「様式」「スタイル」として続いたものである。コロナ禍の1年8ヶ月は間違いなくこの「文化」を思い起こさせるものと考える。それは温もりを感じさせてくれるメニューであり、スタイルであり、それまでの「日常」を想起させてくれるものだ。「旬」への気づきそして、文化と共に気付かされるのが久方忘れていた季節・旬であろう。日常の取り戻しの第一歩は季節であり、旬である。人と人との距離だけでなく、コロナウイルスによって季節との距離もまた大きく遠ざかってしまった。本来二十四節気は中国の暦であるが、日本ではそうした旧暦は既に暦としてはないが、ある意味季節を感じさせてくれる「季語」のような役割を果たしてくれている。そして、季節の気候に即して、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。このように季節と生活とが一体となった生活歳時が行われてきた。こうした歳時が残っているのは京都が代表的な街であるが、地方にもこうした歳時は前述の季節の地産地消「津軽百年食堂」にも当てはまる。これからの消費行動を考えていくと、この季節・旬を求めたものとなるが、まずは「過去」の消費を辿ることから始まるであろう。思い出消費としての旬である。周知のように季節の境目がなくなり、「旬」が」いつであったか思い出す時代となった。更に、物流を始め冷凍あるいは冷蔵技術の発達によって、1年中旬を体感できるようになった。ある意味「旬」は思い出の中にしか存在しなくなっている。その思い出を辿ることができるのは「老舗」である。つまり、「文化食」ということになる。思い出を辿る旅緊急事態宣言解除によってこれ方したことは何かと多くの調査が行われているが、この1年8ヶ月失ってしまった旅行と人に会いにいくと6割状が人が答えている。ワクチン接種も2回済ませた人も60%になり、Gotoトラベルなど支援をしなくても若い世代もシニア世代も旅行の目的や内容は異なるものの「旅」へと向かう。江戸時代の旅は通行手形を必要としたが、コロナ禍においてはワクチン接種書と陰性証明書となる。この1年8ヶ月会いたくても会えなかった両親や父母、あるいは仲間との出会いの旅、故郷を訪ねる旅が始まる。勿論、「温もり」を求めての旅であるが、実は1年8ヶ月という「過去」を辿る旅である。恐らく大きくは「思い出」を辿る旅がこれから始まる。これから始まる旅は100人いれば100の旅がある。登山・下山という視座で旅行を見ていくと、若い世代にとっての思い出旅行は新しい、面白い、珍しい旅行、そんな登山の旅行となる。シニア世代の場合はどうかと言えば下山の旅行、私の言葉で言えば「人生旅行」となる。若い世代、その象徴としてミレニアム世代をあげたが、感染症の専門家あるいは行政もマスメディア特にTVメディアは間違った理解をしてきた。1年以上前から指摘をしてきたので繰り返し書くことはしないが、今回の急激な感染者の減少にも大きく関わっていると考えている。多くの感染症専門家もこの減少理由をまともに答えることができないでいる。9月28日のブログで次のようにその減少理由を書いた。『今回の第五波においては「8月上旬感染者数が5000人を超え、入院できない状態、自宅療養者が急増、入院すらできない状態」というシグナルによって強く「行動の自制」が働いた結果であると。もう一つの理由があるとすれば、高齢者へのワクチン接種効果により感染者が減少しているという事実であろう。つまり、生活者・個人はこれまで1年8ヶ月の学習から明確に行動を抑制したり、緩めたりしているということだ。つまり「シグナル」に反応してハンマー&ダンスを自身で行った結果であるということである。』その生活者・個人の中心にはこの若い世代、ミレニアム世代も含まれている。リスクある行動を強く「自制」に向かわせた証拠としてお盆以降渋谷や新宿歌舞伎町の「路上飲み」は無くなっていく。その後東京都は予約無しでもワクチン摂取ができるとし先着順という考えられない計画を実施する。結果、深夜から並ぶ若者が出る始末。翌日は抽選方式に変更するのだが、隣の駅の原宿にまで行列が続く。・・・・・こうした若い世代の行動に対し、誰一人まともなコメントをする人物・メディアはいない。さて本題に戻るが、「新しい、面白い、珍しい旅行」に向かうと書いたが、私の言葉で表現するならば、「都市観光」旅行となる。宣言が解除され「東京」いう街は動き始める。そこには「変化」が次々と起こるであろう、その変化を求めての旅である。友人・仲間を連れ立って街へと出かけるのだ。その中には昭和レトロな喫茶店でクリームソーダを飲むこともあるだろう。おしゃれ欲求も動き始め、やっとファッション関連商品の消費も活況を見せるであろう。オンライン授業から以前のような対面授業も始まり、同時にアルバイトにも精を出すであろう。ミレニアム世代は草食世代と揶揄された世代である。情報にも精通し、注意深く社会を見るであろう。つまりリスクある行動はこれからもとらないということだ。これが登山途中の若い世代のハンマー&ダンスであり、「日常」の取り戻しである。さてシニア世代の旅を「人生旅行」と呼んだ。今一度下山途中の尾根からこれまでの登山を振り返る、そんな旅行である。シニア世代がよく聞いた歌手井上陽水に「人生が二度あれば」という曲がある。亡き父を想い「次なる人生を楽しんでもらいたかった」とする曲である。二度目の人生を送ることはできないが、記憶を辿り追来県する旅もある。ある意味、人生を振り返り追想するする旅である。やり残したことはないか、少しでもこれからできることはないか、と考える修行の旅と言えなくはない。ところで周知のように厳しい修行を行うことで功徳を得るとされる修験道によって開かれている四国遍路。空海の修行の足跡を巡る巡礼の旅には10万人とも20万人とも言われ、そのうち歩き遍路が約5~6千人、マイカーが約3万人から4万人、残りの11万人ほどが巡拝バスによると推測されている。若い時代と比べ体力は落ち自由奔放に動くことはできないが、少なくとも思い出旅行はできる。65歳以上の高齢者のワクチン摂取率が報告されているが、9月末現在2回目の接種済みはどの地域も90%前後で、東京都の場合は86.82%である。「自制」を解き、慎重に旅へと向かう。この世代の特徴は小学校の時に体験した給食世代と言われるように、「空腹」を実感してきたことから「食」への執着は大きい。そうしたことから「食」の思い出を辿ることとなる。まずは近くにある馴染みの「食堂」に足が向かうであろう。夢中になれた時代「昭和」という時代を一言で語るとすれば、それは夢中になれた時代であったと言えよう。その夢中さとは生きることに必死であった。「何」も持たない荒廃した日本もまた生きるに必死であった。なかでもエネルギー源を持たない日本にとって石油メジャーが支配する産油国とのパイプを作ることはまさに必死であった。昭和28年出光は石油を国有化し英国と抗争中のイランへ日章丸を極秘裏に差し向けガソリン、軽油約2万2千キロℓを輸入する。後に日章丸事件と呼ばれるように画期的なことであった。今回取り上げたホンダは創業者本田宗一郎はまだ創業8年バイクの販売で急成長している時のインタビューで次のように答えていた。「乏しい金を有効に活かすためには、まず何より、時を稼ぐこと」「うちのセールスマンは、給料を出さないお客さんなんです。このセールスマンを育てるには、品物を育てなければならぬということです」「エンジン屋はエンジンばかり、オートバイ屋だからおまえはオートバイしかできないというような考え方が、そもそも間違っているんだ」と。(「東洋経済新報」1954年11月13日号より)まさに「物づくり日本」の原点・ポリシーを語っている。その後のホンダの成長は周知の通りである。前述のように国産ジェット機の開発販売という「夢」は今もなお継承されているということだ。成長と共に、人も増え、組織も複雑化する。更に技術革新という専門化が進み、しかも創造性が全てに問われる時代となった。そんな転換期にあって、ホンダには「となりのトトロ」における「子供にしか会うことができない不思議な生き物トトロ」が住んでいるということだ。つまり、「トトロ」は今もなお生きているということである。少し飛躍してしまうが、コロナ禍によって苦しんでいる多くの企業、いや生活者・個人にもトトロはいるということである。作詞家阿久悠は「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と語り歌づくりを断念したが、「昭和」に住むトトロは世代を超えて、企業に、街に、生活者のこころの中に脈々と住み続けている。今回のコロナ危機はそうしたトトロの存在を広く表舞台へと浮かび上がらせてくれた。
2021.10.10
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ヒット商品応援団日記No798毎週更新) 2021.10.8今回の未来塾は緊急事態宣言が解除され、1年8ヶ月のコロナ禍を通し、どんな価値観の転換が起きているか。その先にあるウイズコロナ、コロナとどう向き合っていくのかを戦後の時代変化を踏まえ考えてみた。特に、バブリ崩壊以降大きな時代潮流である「昭和」、特に昭和30年代に注目し、その価値観変化を学ぶこととした。コロナ禍を超える(1)「下山から見える風景」価値観の転換が迫られる時代のコロナ危機。注目される「昭和30年代」の意味。失われたものを求めて1年8ヶ月前、「未知」のウイルス、新型コロナウイルスという感染症に向き合ったが、それは「未知」であるが故、疑問への答えは留保してきた。留保と言うより、疑問を心の中に押し殺していったと言うのが本音であろう。そして、コロナ禍を経験して、多くの経験の中、問題・課題があらわになった。生活実感から見ていくと、給付金支給の混乱と遅れに見られたように、いかにIT化、デジタル化・システム化があらゆるところで遅れていたか。国民皆保険という誇るべき制度を持ち病床数も世界で有数の医療を持っていると言われてきた日本であるが、残念ながら感染症には対応できなかったこと。こうしたことは個々の専門家にその評価を任せることとし、私の専門分野はやはり「消費」を中心とした生活者のライフスタイル変化にある。感染症によって失った生活実感の第一は、人と会うことができなくなったことである。その象徴がソーシャルデイスタンス、人との距離を保つことであり、不要不急といった行動の制限となった。テレワーク、リモートによる会議といったビジネス変容から始まり、「多人数による会食」の制限、・・・・・・・つまり、人間が本来持っていた人と人との「つながり」、単なる通信としての繋がりではなく、人が持つ「温もり」の交感を失ってしまったことであろう。しかも、強制としてのそれだけではなく、「自制」によるものであり、自らの精神世界に大きな影響を及ぼした。その精神世界であるが、2018年のベストセラーに「漫画 君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著)があった。80年前の児童小説の漫画化である。10年ほど前からエンディングテーマである「終活」が静かなブームになり、最近ではTV番組「ポツンと一軒家」のような人生コンセプトに注目が集まる時代となっている。不確かな時代、不安の時代にあっては、世代に関係なく「どう生きたら良いのか」という人生の時代になったということである。背景にあるのは個人化社会が進めば進むほど、「生き方」が求められるということだ。コロナ禍が始まって1年半、ワクチン接種も50%を超えるまで進んできた。一方、デルタ株という新たな敵によって7月下旬以降感染が急激に拡大し8月13日には5300名を超える。しかし、お盆休み以降「人流」は増加しているのに感染者は急激に減少する。人流の増加が感染拡大を促すと言っていた感染症の専門家は誰一人真逆の結果である減少理由を説明することができないでいる。私に言わせれば、ワクチン効果もあるが、最大の理由は個々人の「自制」によるもので、その自制を促したのは感染者数と共に「膨大な自宅療養者数」、そのシグナルによるものである。「セルフダウン」という自己管理を再び始めたということだ。そこでこれからはタイトルにある「下山から見える風景」として、まだまだ続くある意味でポストコロナ・ウイズコロナのライフスタイル変化を見据えた分析の第一歩を踏み出すこととした。「下山」という視座 タイトルにある「下山」とは作家五木寛之の「下山の思想」からのものである。「下山」とは戦後日本の時代変化を表現したもので、簡略化して言えば、荒廃した日本から周知のように成長を果たし、今日に至っている時代の変化を「登山」に喩えて今はどんな時代にいるのかを俯瞰して見せた著作である。五木寛之はその著書の冒頭で「いま 未曾有の時代が始まろうとしている」と書き、いや既に始まっているとも書いている。私の言葉で表現するとすれば、「いま またパラダイムチェンジ(価値観の転換)が始まろうとしている」と言うことになる。実はこの「パラダイムチェンジ」と言うキーワードが社会へと広く浸透したのは1990年代初頭のバブル崩壊後であった。今回のコロナ禍はバブル崩壊に匹敵するようなものではないと思うが、少なくとも価値観の転換を促したことは事実であろう。今回のテーマは「下山」から見える生活者の風景、戦後の成長結果を「成熟」として見ていくならば、ある意味停滞、いや立ち止まったままの社会経済にあって、「次」への着眼を見出せるのではないかと言う仮説のもとでのテーマ設定である。コロナ禍によって疲弊したのは日本の社会経済ばかりでなく、一人ひとりのこころが壊れてしまう寸前の状態にいる。壊れてしまった飲食事業、観光産業、・・・・・・・・そうした社会経済の前に、まずは一人ひとり生活者個人の「こころ」を立て直さなければならない。つまり、医療をはじめ多くの「危機」が指摘されてきたが、実はコロナとの戦い方を改めて問い直すことが問われている。どのように危機に立ち向かうかを下山という視座で乗り越えるという試みである。下山とは既に登山を終え山を降り日常に向かう途中のことである。登山途中にも多くの危機に出くわし乗り越えてきた。下山とはその危機に立ち向かう知恵や経験に学ぼうということである。 「過去のなかに未来を見る”過去に向かう「遠いまなざし」という。人間だけに見られる表情であろう。”と、三木成夫はその著書「胎児の世界」(中公新書)の「まえがき」に書いている。記憶とは回想とは無縁の場で、「生命」の深層の出来事で、遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえってくると。三木成夫は人類の生命記憶、胎児の世界を書いたものであるが、数十億年という生命誕生の過去を遡ることはできないが、人は時に立ち止まり、過去へと想いは向かうものである。ところで2005年度の日本アカデミー賞を受賞した映画に「ALWAYS三丁目の夕日」があった。西岸良平さんのコミックを原作にした昭和30年代の東京を舞台にした映画である。ここに描かれている生活風景は単なるノスタルジックな想いを想起させるだけではない。そこには物質的には貧しくても豊かな生活、母性・父性が描かれ忘れてしまった優しさがあり、そうした心象風景で泣かせる映画である。おそらく潜在的には既にあったものと思うが、昭和回帰という回想としての社会現象が一斉に表へと出てきたその先駆けの一つであった。そして、もう一つが冒頭の画像、宮崎駿監督のジブリ作品「となりのトトロ」であろう。ストーリーは「ALWAYS三丁目の夕日」とは異なるが、同じ昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジーアニメである。田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ・メイ姉妹と、子どもの時にしか会えないと言われる不思議な生き物・トトロとの交流を描いた作品である。ジブリ作品の中では初期のアニメ映画であるが、大ヒット作となる「千と千尋の神隠し」(観客動員数2350万人)や「もののけ姫」(1420万人)などと比較すると、わずか80万人であった。しかし、同じ昭和30年代と言う「時代」をテーマとし、そこに生きる人間を描いた点は共通している。「となりのトトロ」における子供にしか会うことができない不思議な生き物トトロとは「大人」が失ってしまった「何か」のことであり、宮崎駿監督の言葉に変えれば工業化、都市化、世界化・・・・・・・経済成長という豊かさと引き換えに失ってしまった「何か」のことである。つまり、今なお大きな潮流となっている昭和レトロ、その中心である昭和30年代の「何か」を描こうとしたかである。それは、「となりのトトロ」をはじめとした初期作品には以降のジブリ作品の「原型」がある。多くの映画制作がそうであるように、時代の変化と共に観客が求める「多様なテーマ」を取り入れていくこととなる。それは危機の時に常に言われる「創業の精神に立ち返る」ではないが、企業の場合も同様実は立ち返るべき「何か」が語られているからだ。 昭和30年代という時代昭和という元号の時代は戦前からであるが、昭和レトロのように広く使われるようになったのは戦後であり、平成の時代との比較において使われ、特にバブル崩壊の意味を問う場合が多かった。バブル崩壊以降は失われた30年とも言われるように戦後昭和の高度経済成長期と比べ平成は低成長期・沈滞の時代と言われる。そんな表現をされる戦後昭和の活力、物質的には貧しくても多くの人が生き生きとした時代の象徴として「昭和30年代」があった。つまり、敗戦、荒廃した社会経済、勿論そうした混乱の中生活する人々の「こころ」はどうであったか。まさに日本の登山が始まった時期であった。1965年11月からのいざなぎ景気と比較される2002年からの平成景気との違いは数字上だけでなく、例えば昭和のいざなぎ景気時代は「Always三丁目の夕日」のような集団就職の時代と就職氷河期を終えた売り手市場の平成就職時代との比較。いや、そもそも比較の前提であるが、昭和の団塊世代は大学卒は全体の15%で中高卒が85%であったのに対し、平成・令和の今はほとんど短大を含め大学全入時代である。年々給料が増えていった1億総中流時代の団塊世代に対し、安定を求める平成・令和の若者の幸福感とは決定的に異なる。昭和30年代とは貧しさを脱却するためのスタートの時期であり、それは以降の競争社会の幕開きの時期でもあった。後に「格差」という言葉が生まれてくるが、昭和30年代には格差も何もない、多くの人が等しくスタートラインに立った競争であった。それは人も企業も同様で、自動車のホンダもソニーも皆町工場であった。「Always三丁目の夕日」の舞台も東京下町の町工場、自転車工場に集団就職する「金の卵」と受け入れる暖かい家族の物語であるが、実は自動車工場への就職であるとばかり思って上京したのだが、自転車工場であったという互いの勘違いから物語は始まる映画である。ところで町工場からスタートしたホンダは創業者の夢であったビジネスジェット機まで開発販売するまでになった。その世界企業の土台となったのがスーパーカブというまったく新しい使い勝手とスタイリングのバイクであった。このスーパーカブの開発も昭和30年代、1957年であった。今日の名だたる企業の多くはこの時代に生まれた。その誕生の本質はベンチャーであり、今でいうところのワークライフバランスとは真逆の生き方であった。町工場から始まったホンダは、社長も社員もなく昼夜なく、油まみれで働いた時代であった。創業者本田宗一郎は社員を家族と思い、社員もまた宗一郎を「オヤジ」と呼んだ、日本全国小さな家族が至る所にあった。それはまさに「Always三丁目の夕日」が描いた世界である。実の家族と共に、もう一つの「家族」があったということだ。そして、この時代こそ「登山」の時代であり、企業も生活者も皆ベンチャーの一員であった。後に成長と共に、「家族経営」からの脱却と揶揄されたが、今日のベンチャー企業同様ある面では労働分配率は大きく、社長も社員も報酬面でもそれほど大きくはなかった。 昭和を駆け抜けた 「時代おくれ」ところであのヒットメーカーである作詞家阿久悠は亡くなる前のインタビューに答えて、昭和と平成の時代の違いについて次のように語っている。「昭和という時代は私を超えた何かがあった時代です。平成は私そのものの時代です」と。「私を超えた何か」を志しと言っても間違いではないと思うが、時代が求めた大いなる何か、と考えることができる。。一方、「私そのもの」とは個人価値、私がそう思うことを第一義の価値とする時代のことであろう。阿久悠が作詞した中に「時代おくれ」という曲がある。1986年に河島英五が歌った曲である。「・・・はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、人の心を見つめ続ける時代おくれの男になりたい」というフレーズは、50代以上の人だと、あの歌かと思い起こすことだろう。昭和という時代を走ってきて、今立ち止まって振り返り、何か大切なことを無くしてしまったのではないかと、自問し探しに出るような内容の曲である。昭和男の素の世界、寡黙でシャイな男の姿であるが、ごく普通の人間模様を描いた曲である。晩年、阿久悠は「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念する。歌が痩せていくとは、心が痩せていくということである。また、昭和の匂いのする俳優と言えば、やはり高倉健となる。「網走番外地」などの任侠映画から「幸福の黄色いハンカチ」を転換点に「鉄道員」や遺作となった「あなたへ」を通底するものがあるとすれば、それは「時代との向き合い方が不器用で寡黙な男」となる。全てが過剰な時代であるが故に、この寡黙さのなかにざわめく言葉、無くしかけているものに気づかされる。それを昭和という時代おくれを通し、日本人とか男といったアイデンティティを、いや「生き様」といった生ききる人生を想起させてくれた俳優の一人である。まさに「時代おくれの一人」であった。 記憶の再生産 もう一つの昭和30年代 記憶を呼び起こしてくれるものは東京という都市においても至る所で見ることができる。今なお再開発の途上にある都市であるが、戦後の商店街の歴史を見ていくとわかるが、その誕生は上野アメ横のように闇市という市場からのスタートがほとんどである。サラリーマンの街新橋にも闇市はあり、駅前の再開発によって収容先となったのが駅前ビルである。吉祥寺のように駅北口の一角、ハモニカ横丁などはその昭和の世界を逆に集積することによって若者の観光地になり、また新宿西口の思い出横丁も戦後の市場跡の名残である。現在はコロナ禍によるインバウンド需要がないため外国人観光客はほとんどいないが、それまではまさにインバウンド観光地の一つであった。実は記憶の中にしかない上野駅を見ていくと、その「記憶」のもつ意味が見えてくる。昭和30年代「金の卵」たちが夜行列車に乗って上京した駅が上野駅であった。北海道新幹線開業に向けた再開発で旧上野駅の雰囲気を一部残しながらも、明るい都市型ショッピングセンターを併設した駅へと変わっていく。実はこの上野駅を舞台にあのミュージシャン中島みゆきが「ホームにて」という曲を書いている。実は大ヒットした「わかれうた」のB面に入っていた歌であるが、中島みゆきフアンには良く知られた歌である。 ふるさとへ 向かう最終に乗れる人は 急ぎなさいとやさしい やさしい声の 駅長が街なかに 叫ぶ・・・・・・・・・・”“・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う走りだせば 間に合うだろうかざり荷物を ふり捨てて街に 街に挨拶を振り向けば ドアは閉まる 中島みゆきの出身地は北海道で、上京し降り立ったであろう上野駅を舞台にした歌であると思う。こころの機微を歌う中島みゆきのことだから、「故郷に帰ろう、でも・・・」と迷い躊躇する気持ちを歌ったもので、やさしい駅長さんを通じて”乗れる人は 急ぎなさい(がんばりなさい)”という応援歌である。東京は多くの地方出身者の寄せ集め都市である。故郷を後にしたが、失くしたわけではない。そんなこころの中にある「故郷」の応援歌は数多くヒットした。時代おくれのシニア世代も、こころの中でこうした応援歌を口ずさんでいる。豊かさと引き換えにした「何か」 バブル崩壊後の1990年代、戦後の経済成長によって得られた「豊かさ」とは何であったのか、そんな議論が社会に提示されたことがあった。例えば、それまで生きるために必要であった「食」が家計支出に占める比率、既に死語となってしまったエンゲル係数が支出の50%を大きく下回り、レジャーやファッションといった支出が大きくなった。その「食」の変化であるが、1990年代ダイエットブームによって大きく変化していく。ある意味でそうした支出を豊かさの表現であるとした時期があった。昭和30年代の「空腹」を満たす食から、痩せてスマートになるための食への価値観の転換であった。「豊かさ」の意味合いもまた変化してきたということだ。ちなみに、学校給食が本格的に始まったのは昭和31年であった。団塊の世代にとっては懐かしいコッペパンと脱脂粉乳、それに時々出される鯨肉の竜田揚げ・・・・・今食べるとなると決して美味しいとは言えない給食であるが、貧しくても「空腹」を満たしてくれた食であった。少し前こうした変化を未来塾で「転換期から学ぶ」と言うテーマで「モノ不足から健康時代へ」として描いたことがあった。そうした「変化」の事例として、1日あたりのカロリー摂取量の推移を調べたことがあった。グラフはその時のもので「健康」と言う新しい価値へと転換したことを見事に表している。つまり、豊かさ、幸福感は大きく転換したということである。しかし、数年前から「昭和レトロ」というテーマが静かなブームとなっている。最近ではリニューアルした西武園ゆうえんちは「昭和の熱気あふれる1日の遊び方」という昭和コンセプトの遊園地である。中にある商店街は「夕日の丘商店街」とネーミングされ、まさに映画「ALWAYS三丁目の夕日」の世界となっている。あるいはこれも静かなブームの一つとなっているのが、喫茶店である。勿論、当時のメニューであるクリームソーダにプリン、軽食にはナポリタンといった具合である。10年ほど前から若い世代の一種の観光地にもなっている吉祥寺だが、最近はカフェブームが起きていると書いたことがあった。この吉祥寺に詳しい知人に聞いたところ昭和レトロな喫茶店にも若い世代の行列ができているとのこと。聞いてみると吉祥寺駅南口近くの喫茶店「ゆりあぺむぺる」。宮沢賢治の詩集『春と修羅』に登場する名前からつけた喫茶店である。変化の激しい吉祥寺にあって、実は1976年にオープンして以来ずっと変わらずこの場所にあり、地元の人に愛されている老舗喫茶店である。勿論、クリームソーダも人気のようだが、他にもチキンカレーなどフードメニューもあるとのこと。余談になるが、吉祥寺が魅力ある街であるのは新旧の店が個々の魅力を発揮集積しているからに他ならない。ハモニカ横丁の飲食街のみならず、古くから地元住民に愛されてきたメンチカツの精肉店「サトウ」や孤独のグルメにも紹介されたユニークな喫茶店「カヤシマ」など「ゆりあぺむぺる」もそうした個性溢れる店の一つである。「昭和」は記憶だけでなく東京の街の至る所に残っている。(後半に続く)
2021.10.08
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ヒット商品応援団日記No797毎週更新) 2021.9.26.首都圏をはじめとした感染者数が急激に減少している。この理由についてやっとTVメディアも感染症専門家に質問するが「まとも」な答えを行い得る専門家はほとんど皆無である。8月のお盆休み以降人流は増えているのに感染者数は逆に減少に向かっている、その理由を問うているのだが、これまで人流の増減は感染者数の増減とパラレルな関係にあるとし、人流抑制の対策をとってきたが、まるで逆の現象が現れてしまった「事実」に誰も答えられないのが現状となっている。唯一答えようとしていたのは東京都のモニタリング会議で繁華街における夜間の滞留人口が減少しているからであると。これも何故夜間人口が減少したのか、その理由を説明してはいない。私は数ヶ月前から生活者・個人は政府自治体による緊急事態宣言による行動抑制にはあまり影響を受けず、独自なシグナルに反応していると指摘をしてきた。そのシグナルであるが今年の正月明け第3波の場合は「感染者数が初めて2500名に及んだ」というシグナルであり、第四波の時は大阪における感染者の急増により「自宅療養者に死者が出た」という事実、今回の第五波においては「8月上旬感染者数が5000人を超え、入院できない状態、自宅療養者が急増、入院すらできない状態」というシグナルによって強く「行動の自制」が働いた結果であると。もう一つの理由があるとすれば、高齢者へのワクチン接種効果により感染者が減少しているという事実であろう。つまり、生活者・個人はこれまで1年8ヶ月の学習から明確に行動を抑制したり、緩めたりしているということだ。つまり「シグナル」に反応してハンマー&ダンスを自身で行った結果であるということである。その「ハンマー」という自制行動の一つの「数字」として5月の百貨店売り上げ・客数はあまり良い表現ではないが、次のように見事なくらい減少している。『8月の売上高は前月同月比15.9ポイントダウンし11.7%減、入店客数も是年同月比17.4ポイントダウンの13.8%減』こうした減少はコロナによるだけでなく、大雨という自然現象もあってのことだが、百貨店だけでなくSC(ショッピングセンター)も前年同月比▲11.6%と大きく減少となっている。昨年4月第一波の緊急事態宣言の時の消費の落ち込みほどではないが、生活者・個人が「自制」した生活行動はこうした消費結果を生んでいるということだ。こうした現象は規制の対象となった飲食店においても如実に現れている。現在は自民党の総裁選に話題が移ってほとんど報道されていないが、毎日新聞によれば、8月上旬都心の繁華街で計500店を目視調査すると、4割超は時短営業をしていなかった。またそのほとんどが酒類を提供していると報じている。つまり、居酒屋や飲食店も独自な判断によって8時以降営業したり、休業したり、ハンマー&ダンスを行っているということである。しかも、こうした繁華街において大きなクラスターが発生したという事実はない。何故こうしたことが起きているかはこの1年8ヶ月間違ったアナウンス・報道に惑わされてきたことからである意味自己責任において判断・行動しているということである。例えば、感染者が急増し始めた8月上旬、あの8割おじさんこと京大の西浦教授は「東京だけで1万人を超える」との試算を発表している。現実はその半分であったが、多くの「学者」の予測はほとんどが外れている。狼少年ではないが、こうした予測を信じて行動変容することなどほとんどないであろう。生活者・個人の判断基準があるとすれば臨床という現場を持った感染症の専門家・医師の発言だけである。来院する患者の行動履歴など感染防止に役立つ発言には耳を傾けるということだ。既に緊急事態宣言延長の期限が迫っている。全面解除に至るかどうかわからないが、旅行代理店や観光業者は報道されている通り既に動きはじめている。その中心はワクチン摂取者を主対象とした特典付きの10月以降の「旅行」である。またシルバーウイーク期間では首都圏の近場、箱根や鎌倉・湘南、日光あるいは高尾山などへの行楽、マイカーによる移動が中心となっていて高速道路は渋滞j状態となっている。しかし、ある意味リスクを回避した慎重な行動となっている。つまり、近場でオープンエアーな場所へ自家用車で移動するという自己防衛に基づいた慎重な「楽しみ方」である。コロナ禍1年8ヶ月ハンマーばかりの日々であったが、やっとダンスができるようになったということである。政府は飲食店や大規模イベント、あるいはライブハウスなどでの実証実験が計画されていると報道されている。これは1年8ヶ月時短や人数制限、飲酒規制など多くの感染防止の規制策が実施されてきたが、その効果の検証が明確な数値を持って行われてこなかった。本来であれば保健所に集められて膨大な感染者の行動履歴や濃厚接触者との関連などビッグデータ解析が行えたはずであった。しかし、周知のように保健所を介在させるシステムのため対応が不可能になり、重要な情報を得ることができなかった。この実証実験はやって欲しいが、どのように感染するのかしないのか、ワクチン効果はどの程度なのか、その明確なデータを持った「根拠」を示してほしい。その根拠が不鮮明であることから多くの生活者・個人の納得が得られないのだ。政府自治体のコミュニケーション不足や説明力の無さはこうした「根拠」がないことによる。その表れと思うが、第一波から第五波まで一度も反省を含めた総括がなされていない。更に言うならば、分科会も同じで科学的な根拠は感染症という病気に関するものだけで、ウイルスの感染とは「人」が運ぶことから生活者・個人のコロナに対する「意識と行動の変化」をデータを持って明らかにすることが不可欠であった、しかし、こうした分析はほとんどなされないままの1年8ヶ月であった。せいぜい公開されたのは「人流」という名のもとで繁華街や観光地の人出情報だけである。勿論、人流と感染との相関関係は明らかにされないままであったが。ところで「日常」に向かって生活者・個人は行動を始めていると書いたが、今回のシルバーウイークの楽しみ方を見ても分かるように慎重である。ただ日常の中心を占めている「食」は変化していくあろう。極論であるが、デリバリーとテイクアウトあるいは冷凍食品やレトルト食品といった食生活から、今までの「普通」に戻るということである。例えば、久しぶりに朝食には干物に白いごはん、豆腐のみそ汁、漬けもの、といった食生活である。ハレとケという言い方をすればケに戻るということであり、普通回帰とでも呼びたくなるような日常である。コロナ禍1年8ヶ月、直接規制の対象となった2つの業種、飲食と旅行から普通回帰が始まるということだ。そして、蕎麦好きであれば新そばを求めて少し足を伸ばすであろう。また、サンマは今年も高いが、ブータン産の松茸は安く手に入るので松茸ご飯を作る家庭もあるだろう。日常とは「旬」を食べることであり、余裕を持って季節に向き合えるということだ。飲食店を始め旅館やホテルの顧客の迎え方にもお得の提供もあるが、季節の花などをテーブルに一輪添えることだ。これもまた日常のサービスであったはずである。アクリル板があっても、席と席との間隔が離れていても、入り口では消毒液を用意したり、・・・・・・・・・つまり、感染防止は万全にしながら以前のように心が届くサービスを心がけるということだ。日常を取り戻す第一歩は季節の旬から始まる。(続く)
2021.09.26
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ヒット商品応援団日記No796(毎週更新) 2021.9.2この1週間東京の感染者数は減少へと向かった。勿論1日3000人台と言う高い水準で医療は逼迫しているのだが、首都圏の実効再生産数は東京の場合は0.9を切り、埼玉、千葉、神奈川も0.9台となった。(東洋経済オンラインによる) 一方、逆に地方の感染者数は増加し、逆の現象となっているが、当たり前のことで、お盆休み期間中首都圏から地方へ帰省した結果に過ぎない。この期間都心繁華街の夜間の人出は減少したと報告されている。このことも当たり前のことで、多くの人は地方に出かけており、繁華街で夜遊びする人が少なくなるのは至極当たり前のことである。そして、この1週間ほど都心の夜間の人出が増加してきたと言う。つまり夏休みを終え、「日常」に戻ったと言うことだ。前回のブログで「新たな戦い方」が問われていると書いた。その背景であるが、今流行しているデルタ株は従来のウイルスアルファ株とは異なる変異株として認識を新たにして対応することが必要であるとの理解からだ。私の理解の多くはiPS細胞研究所の山中伸弥教授が公開してくれているHPによるものだが、そのデルタ株の研究内容が公開されている。このデルタ株についてはその感染力について、従来株とのウイルス量の比較において1000倍とも1200倍とも報道されているが、山中教授はインドで発生したデルタ株の簡単な歴史と共に、イギリスにおける感染リスク評価と共に次のようにコメントしてくれています。『アメリカCDCの内部文書によると、1人の感染者が何人に感染させるかという基本再生産数(R0)は、新型コロナウイルスの従来型は2~3程度であったのに対して、デルタ変異は5~9と、水痘並みに高くなっているとしています(図3)。この内部文書はワシントンポストが入手し7月29日に報道しました。アルファ変異は従来型の1.5倍、デルタ変異はアルファ変異の2倍の感染力と推定されていますので、この5~9というR0の推定値は妥当と考えられます。私が知る限り、人類が経験した呼吸器疾患のウイルスで、最大の感染力です。』そして、こうした感染の強いデルタ株についてのワクチン効果についても触れており、効果がかなり半減されるのではとした報道についても『これらは客観的な検証は受けていないデータであり、さらなる評価が必要です。しかし、これらのデータに基づき、イスラエルでは60歳以上の国民を対象に3回目接種 が開始されました。』ともコメントしている。「査読」と言う複数の研究者の眼を通した成果であるかどうかを見極めることも必要であるとも指摘してくれている。さてその感染力の対象となっているのが、若い世代である。その世代に対し予約なしでもワクチン摂取できるとし、渋谷の摂取会場には午前1時には先頭集団ができ、後は密なる行列ができるといった「失態」を犯している。行節を作って並んだが摂取できない若い女性はインタビューに答えて「こんな状態になるなんて私でもわかること」と吐き捨てるように言っていたのが印象的であった。そして、行列に並んだ多くの若い世代の多くは「早く接種したい」「予約したくてもできない状況」と答えていた。翌日今度は先着順ではなく、抽選方式にしたとしたが、今度はその行列はt隣の駅原宿まで伸び3500人にも及んだと報道されている。東京都の発表ではワクチン接種を望まない人が20%もいることからこんな行列になるとは思わなかったとコメントしている。TVメディアもネット上のワクチン非接種理由のコメントばかりに焦点を絞り込んでいるが他の調査でも70%近くの若い世代はワクチン接種を望んでいると報告されている。ここでも「調査」の何を読み取りどう対策をすべきかを見極めることが問われている。少し前になるが、飲食店の時短及び飲酒の制限について聞かれた都知事は「90%を超えるお店が都の要請にしたがっている」と答え失笑を買ったことがある。その後複数の新聞社やTV局の調査では新宿歌舞伎町や新橋・渋谷の飲食街を調べたところ50%以上の店はコロナ前の「営業」を行っていたと報告されている。昨年夏頃からの「若者悪者説」に対し、何度となく反論してきたが、今回のデルタ株との戦いについては極めてセンセティブに反応している。それは感染が急拡大し身近なところで感染者が出てきたことにある。しかも、入院できずに自宅療養の状態が迫っていると感じとったたと思う。その背景には従来のイギリス株の場合無症状もしくは軽症で済むといった理解が次から次へとくつされる事態が起こっているからだ。それはここ1ヶ月ほど報道される重傷者や死者に若い世代が増えてきたことへの反応である。そして、これまでのような自由な行動を行うにはワクチンが必要であると考えた結果が渋谷のようなワクチン接種の行列を作ったと言うことだ。今年5月には高齢者がワクチン摂取の供給不足で行えない状況、混乱した事態が生まれたが、高齢者の場合の行列は肺炎というという身近で「命」に関わることからであったが、若い世代のそれは「自由な行動」を求めてのことからである。不安なくもっと自由に遊びたい、新しい、面白い、珍しいものを求める自由な日常の取り戻しである。ネット上のワクチンデマに惑わされる若い世代と言った極めて間違った認識、偏見で若い世代を見てはならないということだ。山中教授がコメントしてくれているように、デルタ株の感染力の凄まじさ、いや恐ろしさにいち早く反応しているのが「若い世代」であると認識しなければならない。「若者悪者説」どころか「若者先駆者説」と言っても良いぐらいである。また、若い世代でも10代以下、特に小児にも感染が広がっている。ある小児科医は「初めての感染症」として取り組まなければならないと警告すらしている。感染はいわゆる「家庭内感染」であるが、母親から子だけでなく、子から母親へも感染するといった状況も生まれているようだ。これも感染力の強さということになるのだろうが、まさに「市中感染」状況とはこうした現実のことを指してのことだ。小児は免疫力が強くほとんど感染しないものとされていた。しかし、今回第五波ではこうした認識を変えなければならなくなった。東京の保健所は既にパンク状態で疫学調査も限定的にしか行えない。つまり、誰でも小児でもがいつでも知らず知らず感染してしまう環境にいるということだ。ただここ1ヶ月ほどの感染を見ていくとわかるのが学校以外の場所での感染である。例えば、小学校などの感染防止対策は実は徹底している。黙食はいうに及ばす、生徒間のディスタンスを十分取り、換気も・・・・・これらは周知の通りである。ところが、学校は夏休みになり、感染場所は学習塾などのクラスター発生による実態を見ても分かるように、学校以外の所での感染が見られるのが実態である。こうした事例でも分かるように勝手な決めつけをしてはならないということだ。保健所の疫学調査は十分ではないが、ここ数ヶ月感染経路における「飲食店」はどんどん少なくなっている。感染源=飲食店という理解は感染が会話などによる飛沫及びエアロゾル感染と言われてきた。しかし、長崎大学の森内教授のような研究者からは「空気感染が主な感染経路」という指摘も出されている。その背景であるが、ウイルス量が桁違いに多いことからだが、「換気」を特に十分にすることが必要との指摘である。この空気感染は飲食店に限らず蜜な空間全てに当てはまることで、抜本的な対策変更が必要とされるということだ。但し、これら議論も論争中であり、確定的なことではない。あくまでも「可能性」ということである。しかし、従来のアルファ株とは異なるウイルス理解が求められていることだけは事実である。こうした背景には今回の第五波はそれまでの感染とは異なる結果をもたらしているからである。第4波までは欧米を始め世界の各国と比較して日本は感染率も低く、重症化率も低く死者数も少ないことから東アジア諸国と共にその謎を「ファクターX」と呼ばれてきた。そのファクターXの提言は周知のiPS細胞研究所の山中伸弥教授であるが、その研究は多くの研究者に引き継がれており、その中の研究の一つが「BCGワクチン」と「交差免疫」の存在なのではないかという仮説である。いずれにせよ、今夏の第五波がそれまでの感染とは異なるものと認識されているからである。ところで世界はどういう状況なのか見回してみるとこのデルタ株の本質の一つが見えてくる。感染者数や死者数は報道の通りであるが、デルタ株がもたらした「事実」を考えてみることとする。東京五輪は多くの国民の反対を押し切っての開催であったが、日本人選手の活躍によってその後の調査では約60%の人が「よかった」と評価していたが、政権への評価・内閣支持率は下がりっぱなしである。前評判・目論見とは全く異なる「結果」が生まれている。まず評価の指標の一つとして、東京五輪の開会式の視聴人数は全国で7061万7000人と推計されている。NHK総合の視聴率では、番組平均個人視聴率が40.0%、同世帯視聴率が56.4%だった。一方、米国で五輪のテレビ放送を担うNBCによると、23日に行われた東京五輪開会式の視聴者数は1700万人で、近年の歴代大会と比べ大幅に減少した。ちなみに、2018年平昌冬季五輪が2830万人、16年リオデジャネイロ夏季五輪が2650万人、12年ロンドン夏季五輪が過去最多の4070万人、08年北京夏季五輪が3490万人だった。分科会の尾見会長に言われるまでもなく、異常事態の中での大会であることがわかるであろう。これは日本だけでなく世界中がそうであるということだ。かつてNBCテレビの経営者は、コロナ禍の東京五輪は史上最高の売り上げを記録すると豪語したが、その目論見は外れ、NBCはスポンサーとの間で補償交渉に入ったと米国メディアは伝えている。というのも1990年代以降のTV広告業界はスポンサーとの間で視聴人数(視聴率)」に対する実績に対し支払う実績主義が慣行となっており、実績が予測に届かなかったらその差額は補償する契約となっている。低迷し続けるオリンピックイベントはコロナ禍によって日本だけでなく世界中に広がっているということを思い知らされる。新型コロナウイルスが初めて感染が確認された時の標語が「正しく 恐る」であった。その「正しさ」は感染症研究者ばかりでなく、飲食事業者を始め多くの事業者、社会を構成する学校などの組織はもとより一人ひとりの生活者・個人にとっての「正しさ」の再認識が必要となっている。デルタ株によってそれまでの「正しさ」も変わらなければならないということだ。その正しさであるが、これまで感染を拡大させる犯人とされてきた「若い世代」がマスコミ、特にTVメディアの認識とは真逆であることが、東京渋谷におけるワクチン接種の行列がある意味「危機」を先行して表している。政府分科会の尾見会長は国会で「異常事態の中での東京五輪はあり得ない」と発言し、更にこの8月国会でパラリンピックの開会式にIOCのバッハ会長来日に関し「今人々に外出を自粛するように要請しているのに、何故来日するのか、挨拶であればオンラインで済むじゃないか。・・・・・・・・」いささか科学者でない感情的な発言であるが、国民感情を代弁した発言であろう。その東京五輪の評価の物差しの一つである世界の評価、どれだけ関心を持って迎えてくれたか、それはNBCテレビの無残な視聴者数の結果を見れば明らかだ。尾見会長が言うように「異常事態の中での東京五輪はあり得ない」その通りの結果となったと言うことだ。1年半ほど前に新型コロナウイルスの正体がわからないまま日々の行動を自制してきた。そして、1年半行動の変容を促した「恐怖心」はその後の学習体験と共に次第に薄まってきた。1年半前の恐怖心は未知への恐怖であり、あの8割おじさんこと西浦教授の「このままでは42万人もの人が死ぬ」と言う預言者めいた発言に象徴された。「その後西浦教授はその誤りエオを認めている)しかし、今抱えている恐怖は膨大に膨れ上がった「自宅療養者」である。ワクチン接種が進み重症患者が少なくなってきたが、自宅で療養中の人が8月25日時点で11万8035人になったと公表されている。ちなみに東京都では前週比で2800人余り増え、2万5045人となったと。パンク状態の保健所にも連絡が取れず亡くなる感染者が続出している。つまり、入院するどころか医師にも診てもらえずに亡くなるという恐怖である。ワクチン接種に渋谷に行列を作った若い世代は敏感にそうした「恐怖」を感じていると私は思っている。都知事はこのデルタ株について「災害級」と表現したが、このまま「恐怖」を放置したらそれは「人災」になる。(続く)
2021.09.02
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ヒット商品応援団日記No795(毎週更新) 2021.8.17東京都のモニタリング会議で、専門家は「かつてないほどの速度で感染拡大が進み、制御不能な状況で、災害レベルで感染が猛威を振るう非常事態だ」と指摘し、「災害時と同様 自分の身は自分で守る行動が必要な段階」との認識を示した。多くの報道がなされているように、感染が急速に拡大し8月5日には過去最多の5042人の感染が確認された。そして、自宅療養者は2万人を超え、大阪と同じように自宅で亡くなる人も出始め、医療逼迫を超えて破綻へと向かいつつある。この急速な感染拡大の少し前8月2日には「入院は重症者や重症化のおそれが強い人などに限る」との政府発表があったが、与党の中からも反発があり、中等症も原則入院とするとした修正を行いその方針が2転3転する迷走ぶりとなった。また、これも報道されているが、大阪の阪神百貨店あるいは東京では新宿伊勢丹でクラスターと思われる多くの感染者が出る状況も生まれ、休業もしくは入場制限を行う状態にまで至っている。これは政府分科会の尾見会長からの提言として大型商業施設への入場制限をすべきとの提言に沿ったもので既に百貨店などでは各々入場などの制限が実施されている。さてこうした迷走・混乱はデルタ株と言う変異株への認識と対応が遅れたことに起因しているのだが、このデルタ株は既に「市中感染状態」になっていると言うことを表していると言うことだ。日経新聞によれば新宿伊勢丹の場合8月4日までの1週間に、店舗で働く従業員計81人が新型コロナウイルスに感染した。感染者のフロア別の人数分布を見ると分かるのだが地下の食品売り場が極端に多く、上の階のフロアに行けば行くほど感染者は少なくなる。つまりフロアへの集客人数にある意味比例した感染者数となっている。つまり、いつでも何処でも罹患すると言うことである。また、大阪では阪神梅田本店にコロナ・クラスターが発生している。これも伊勢丹同様デパ地下に感染者が多く7月26日以降に従業員の感染が拡大。今月8日までに計145人となり現在休業となっている。大阪の人には周知のことだが、このデパ地下には「スナックパーク」と言ういわば立ち食いできるスペースがあり、冒頭の写真のようにちょい飲みもできる名物スポットが人気となっている。当然、マスク無しの飲食ということになる。こうした阪神百貨店のようなデパ地下もあるが、試食を始めイートインのスペース・コーナーを設定した専門店も多い。今年の春の緊急事態宣言の時に大型商業施設・百貨店に対し、ハイブランド・ラグジュアリーブランドなどの売り場に対し、「生活必需品」ではないことを理由に規制の対象とし食品は生活必需品ということで制限の対象外とした。当時、ブログにも書いたが、流通の実態、現実を知らない机上のプラン、世間受けするような規制で、感染防止対策としての合理性はほとんどないと指摘をしたが、その通りの「結果」となった。そこで出てきたのが、前述の「災害時と同様 自分の身は自分で守る行動が必要な段階」である。こうした発言は感染症専門家の立場からの警鐘であれば許されるかもしれないが、政治行政の場合、責任放棄であり、決して許されるものではない。この「災害」というキーワードを聞いた時、とてつもない違和感を感じた。それはコロナとの戦い方であり、昨年5月ブログ「連帯してコロナと戦う 」(2020.4.16)に次のように書いたことを思い出した。『東日本大震災の時もそうであったが、「現場」で新しい新型コロナウイルスとの戦いが始まっている。医療現場もそうであるが、マスクや医療用具の製造などメーカーは自主的に動き始めている。助け合いの精神が具体的行動となって社会の表面に出てきたということである。「できること」から始めてみようということである。その良き事例としてあのサッカーのレジェンドキングカズはHP上で「都市封鎖をしなくたって、被害を小さく食い止められた。やはり日本人は素晴らしい」。そう記憶されるように。力を発揮するなら今、そうとらえて僕はできることをする。ロックダウンでなく「セルフ・ロックダウン」でいくよ、と発信している。そして、「自分たちを信じる。僕たちのモラル、秩序と連帯、日本のアイデンティティーで乗り切ってみせる。そんな見本を示せたらいいね。」とも。恐怖と強制による行動変容ではなく、キングカズが発言しているように、今からできることから始めるということに尽きる。人との接触を80%無くすとは、一律ではなく、一人一人異なっていいじゃないかということである。どんな結果が待っているかはわからない。しかし、それが今の日本を映し出しているということだ。東日本大震災の時に生まれたのが「絆」であった。今回の新型コロナウイルス災害では「連帯」がコミュニティのキーワードとなって欲しいものである。』こうした「自制」をベースに拡大防止策を徹底する動きは自治体も同様にあった。ちょうど同じ時期に病院にクラスターが発生し、閉鎖という措置をとって苦境を乗り超えたのが和歌山県であった。初期対応の手腕が高く評価された仁坂吉伸知事が感染源となっている「大阪」との関係を自分の言葉で本音のメッセージを公開していた。よくメッセージが届かない、危機感が共有できないなどと発言する専門家や首長が多いが公開された発言の一部を抜粋しておくが、こうしたメッセージのt届け方もある。(知事からのメッセージ 令和2年4月27日)『それにしても、うらみ節みたいになりますが、和歌山県で主として当局の努力で感染の爆発をかろうじて抑え込んでいるのに、全国の大都市の惨状は目を覆うばかりになってしまって、大阪との関係が切っても切れない和歌山県としては本当に困ってしまいます。したがって感染防止のために大事なことは、大阪を中心とする県外からの感染流入の防止ですので、大都市などで前から行っている感染源となりやすい業種、施設の営業自粛の法的措置だけでは足りませんから、県外から人が来そうな施設に対して県外の人は皆断って下さいという自粛要請も行っていますし、24日にはゴールデンウィークを控え、県外から今年ばかりは是非来ないで下さいという呼びかけも行いました。この部分は、法律的権限もありませんし、一部は、法律上は営業を継続すべき、すなわち自粛要請をするのはとんでもないという業種、施設になっているものもありますが、和歌山の位置付けと、今大阪など県外で感染が荒れ狂っている状況からあえてそういう措置をとっているわけです。 しかし、考えてみますと、コロナさえなければ、それらはどうぞ来て下さいとプロモーションを熱心にしてきた産業が多く、私が就任以来心血を注いで振興に力を入れ、色々な手を打って育ててきた産業ばかりなのであります。そう言う意味で自分で自分を痛めつけているようにつらい時期であります。 だからどうしても、なんで日本中こんなになってしまったんだとうらみ節を言いたくなるわけです。大都市をはじめ、感染が著しく進んだ地域のトップの人は、それぞれの都道府県民にもっと自粛をしてくれ、感染が進むのは、自粛をしてくれないからだと強調されますし、マスコミの報道もそればかりですし、政府の対策も、このところは特にそればかりになっているように見えますが、私は本当にそうかと思っています。感染が拡がるにまかせてしまったのは、半分は人々の油断した行動だとしても、半分は当局の努力が足りなかったからではないでしょうか。 大都市のようにこんなに毎日何十人も、百人以上も新規感染者が出てきたら、完璧な抑え込みは到底出来ないけれど、それでも抑え込み努力は続けなければいけない、あきらめてしまっては、もう爆発しかないと思います。また、感染者への対応にしても、その人の安全を守るためと感染を更に増やさないために、出来ることならした方が良い対応ということがあるはずだと私は思います。 そのいずれも、国には感染症対策の専門家が居るはずなのに、感染症対策の当局の対応についてアドバイスをしているかというとあまりなく、あっても後手に回り、言っていることは、別に専門知識が無くても政治家が考えつきそうな人々の行動の自粛ばかりを言っていて、それがメディアでとても大きく報じられる、それが現状のようで、私も思わずうらみ節を言いたくなるのです。そう言えば最近は疫学的調査というちょっと難しい専門用語も政府からも聞こえてきません。それこそ、和歌山県でまだ必死に展開している辛い作業なのですが。専門家は主として医学と医療の専門家ではないのでしょうか。その本当の専門分野で我々を導いてくれることがないのでしょうか。 私は、感染症についての学はありませんが、県のトップとして必死で対策に取り組み、数少ないかも知れないが、実態をつぶさに見て、一つ一つ対応を考えて頑張ってきた経験から、この病気と当局の行うべき対応を段階別に次のように整理できると思います。』この発言の後半には感染状況の段階をA~Gの7段階に分けてわかりやすく説明をしてくれています。文中にあるように地方の首長の「うらみぶし」として、その心情を吐露している。私の理解は「うらみぶし」とは県民への連帯、共に戦おうとの呼びかけに他ならないと思っている。知事も県民も同じ人間であり、共に苦しみもがいている生き様を共有しているということだ。この行政のあり方は首都圏に接している山梨県知事にも似通っているところがある。山梨県の感染防止戦略については何回か書いたので繰り返さないが、例えば防止の主人公は飲食業であり、規制の対象としてのそれではない。防止のためにはとことん行政は支援する考え方に徹するものであるが、和歌山県と同じ「共に戦う」スタンスである。私はそうした行政を県民と共に戦う一種の「県民運動」であると感じた。規制の対象ではなく、共に戦うことであり、考え方の根本として真逆である。それは県民の自発性を信じることであり、県民もまた首長を信じる、そんな良き関係・信頼関係が創られているということだ。このブログを書いている途中で緊急事態宣言の9月12日までの期間延長とエリア拡大を検討していると報道された。周知のように東京の場合は新規感染者が4000名台と高止まりし、埼玉、千葉、神奈川、大阪、沖縄も同様の傾向を示していることと、その他の地方にも感染が拡大している背景からだ。そして、東京の場合は結果として自宅療養者が急増し、連日マスコミ、特にTVメディアがその対策について報じている。政府分科会の尾見会長が言うように感染が収まる理由が見出せないと言う「打つ手がない」状況だが、それでも緊急事態宣言を延長せざるを得ない、と言うことからであろう。既にかなり前から生活者個人は「自己判断」によって自らの行動をし始めていると書いた。繰り返し書くことはしないが、その行動を変えた「シグナル」は例えば第一回目の緊急事態宣言が発出された時は「未知のウイルスへの恐怖」であった。そして、ウイルスへの学習も進み、第三波の正月明けの感染者数が初めて2500名を超えた時、大阪では4月自宅療養者が急増し亡くなる方が続出し、1医療破綻の実態」を感じた時、そして今回東京でも自宅療養者の急増に一種の「恐怖」を感じる事態へと至っている。これは緊急事態宣言が「日常化」してしまい、「シグナル」は緊急事態宣言ではないと言うことの証明である。ただこれは私の推測であるが、この夏のお盆休み・規制については地方への感染拡大はあると思うが、実は長崎、佐賀、福岡、広島に大雨特別警報が発令され、行動抑制が働いたのではないかと言う私見である。但し、8月末になれば大学をはじめ多くの学校で授業も始まり、若い世代の行動が活発になる。その結果は9月上旬~中旬に出てくると予測される。政府の唯一の感染拡大防止策であるワクチン接種の効果は出てこない。話を元に戻すが、今回の急激な感染拡大の理解の仕方であるが、周知のようにデルタ株と言うウイルス量の多い、つまり感染力の強いウイルスである。ある意味新たなウイルスとの戦い方となるが、政府行政からは指針となるものすら出てきてはいない。分科会の尾見会長の「今までの行動を半分にしてください」と言う呼びかけに対し、小池都知事は具体的に「今までの買い物は3日に1回にしてください」と記者会見でコメントしていた。その報道を聞いて、あるスーパーの店長は「何を今頃言っているんだ。1年も前から買い物の回数は減って3日に1回となっているのに」と呟いていたのが印象的であった。生活現場を知らない政治家が迷走するのは当然であるが、今必要とされているのは「新たなウイルスとの戦い方」である。政治家にとって「パフォーマンス」もメッセージであるとしても、それだけではない。今回は敢えて和歌山県知事の長文のメッセージを引用させてもらった。過剰な情報が行き交う時代に一見時代遅れのように感じるかもしれないが、この長文もまたメッセージである。特にタイトルとなっている「うらみぶし」がなんとも言えず知事の人柄を感じた次第であるが、和歌山県のHPを覗くのも「新たな戦い方」の参考の一つになるかと思う。(続く)
2021.08.17
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ヒット商品応援団日記No794(毎週更新) 2021.8.3昨年の夏GoToトラベルがスタートし、観光産業は活況を見せていた。TVメディアは「お得な旅」の特集を競って報道していた。ただ夏休みの旅行については読売新聞の調査であったと思うが、旅行はしないとした自制する生活者が60%を超えていたと記憶している。今もTVメディアに出演している感染症の専門家の一人はGoToトラベルを「社会的な実験」と呼んでいた。ちなみにGo To Eatキャンペーンは10月1日よりスタートした。さて、今年の夏はどのようなコロナ禍を迎えているかを比較してみると現在の状況が浮かび上がってくる。・2020年7月30日の感染者数(東京);463人、・2021年7月31日の感染者数(東京);4058人、今年の夏はGoToトラベルに代わって東京五輪における日本選手の活躍がTVメディアを賑わしている。ところでGo To Eatの対象であった飲食店は周知の通り、廃業と休業、あるいは時短要請に従わない営業店が急増している。(日経新聞をはじめいくつかのメディアが調査をしているが、少なくとも都心繁華街の飲食店は50~70%の店が時短要請に従わない従来営業を行なっていると。)ちなみに、時短要請には従わず、東京都に対し提訴しているグローバルダイニングは2021年1~6月期の決算を発表している。その内容だが、売上高が前年同期比92・3%増の47億円、純利益が5億円の黒字で、前年同期は9億円の赤字で大きく改善したとのこと。これは今年は緊急事態宣言下、まん延防止等重点措置の中でも営業を続けた結果だと話した。協力金を得ながら赤字の多い飲食業界にあって、この黒字決算をどう受け止めるか業界のみならず、政府・東京都も考えるべき事例であろう。また、昨年と比較し大きく変わったのがワクチン接種である。医療従事者から始まり、高齢者への接種は東京では71.94%(2回目接種・7月28日時点)と進んでおり、感染者の内訳にも高齢者の比率が大きく下げている。高齢者本人のワクチン接種もさることながら、高齢者のクラスター発生が多かった介護施設の従事者や医療従事者がワクチン接種を済ませたことが大きな要因となっている。なお、ワクチン供給がストップしている問題については前々回のブログ「不安から不信へ」を参照ください。また、昨年の新型コロナウイルスの変異種であるデルタ株が猛威を奮っているが、従来型と比較し、感染スピードが極めて早いという特徴を持っている。(なお、毒性の比較論文についてはほとんど発表されてはいない)こうした状況を踏まえ、政府分科会の尾見会長は国会で「強い対策を打ってみんなが危機感を共有しない限り、この傾向はしばらく続く」と指摘した。「人々に危機感を共有してもらえるメッセージと、感染状況にふさわしい効果的な対策を打つこと(が必要)だ」とも語りた。つまり、コロナ禍1年半、最早従来のような「考え」のもとでは生活者・個人の自制に頼った政策は意味を持たないという指摘である。ある報道番組の渋谷に集まる若い世代へのインタビューで「政府は東京五輪というお祭りを進めているが、自分たちもこの夏を楽しみたい」と発言していた。渋谷周辺はセンター街を始め、路上飲みのグループが多数集まり、東京の繁華街はパーティだらけとなっている。つまり、若い世代にとって東京五輪には興味はなく、路上パーティの方が楽しいとした見事な「すれ違い構図」となっている。尾見会長が言う「危機感の共有」どころの話ではないと言うことだ。政府は8月2日から首都圏3県、大阪府を加え緊急事態宣言を発出した。若い世代のみならず多くの人はそのメッセージ効果は無いと感じているが、期間は8月31日までの期間(延長)となった。この期間延長はワクチン効果による感染拡大を止める効果を狙ってのことと想定されるが、果たしてそのような結果が得られるか疑問に思う専門家は多い。ただ、この1年半で現場医療は治療の精度は上がり亡くなる患者は極めて少なくなっている。問題なのは病院やホテルへの収容が追いつかない、つまり自宅療養と言う感染者が膨大に膨れ上がり、東京の場合自宅両両者は既に1万人を超え、病院などへの調整患者を含めると2万人を超える現状となっている。ちょうどこのブログを書いている最中に政府から医療体制の方針転換についての発表があった。既に報道されているので詳細は新聞記事をみて欲しいが、重傷者及び重症化のリスクの高い患者以外は自宅療養を基本とすると言うものであった。自宅療養をサポートするためのオンライン診療や酸素吸入器具などを用意するとのことだが、以前から指摘されていたことばかりで医療逼迫を前に「付け焼き刃」策としか思えない方針に感じる。例えば、東京や大阪でも民間で行われている訪問診療はあるが、そうしたケースは極めて少なく、課題なのは自宅療養者への訪問診療のシステム化である。特に民間の町医者の人たちの力を借りての制度化・システム化である。初期の頃の新型コロナウイルスの医療とは異なり、重症化しても救命治癒できる経験を積んできた現場医療がある。ただ人工呼吸器やエクモの装着は患者本人の意識はないところで行われるため、遺書を書いて臨む患者も多いと言われている。今、直面している課題は重症化させないための医療、中等症患者への対応であり、今回の政府方針は少なくとも半年以上前、第三波の時に提示すべきで、あまりにも唐突過ぎたもので大きな混乱を生じさせている。ところで、あの「8割おじさん」で知られている京都大の西浦教授は強いメッセージとして、大阪のような医療破綻する前に「東京五輪の中止」しかないとSNS上で発言している。勿論、法改正の問題もあるが都内はロックダウン、外出禁止要請をと発言している。海外メディアも、例えばニューヨーク・タイムズは、「感染者が過去最多の東京で、オリンピックのバブルは維持できるのか」という見出しで、「安心で安全な大会という約束が試されている」と報じている。ところで今回の第五波のピークはどの程度の感染者数になるか、ピークアウトはいつごろになるか、と言うことである。それはどのような感染者の「山」を描くかと言うこと、つまり拡大期と鎮静化は同じような山を描くか過去4回の経験則でわかっている。具体的に言うと、第五波のピークを8月初旬とすると、拡大期は6月半ばから2ヶ月ほどかかっており、同じように鎮静化するには2ヶ月ほどかかるとすれば、ある程度沈静化した「日常」に戻る時期は10月になると言う予測が成り立つ。つまり、今回の第五波を終えるにはかなりの時間がかかると言うことである。勿論、高齢者以外の世代へのワクチン接種がどの程度のスピードなのかによる。こうした社会現象の1年前との比較で一番大きな「違い」は生活者・個人の「心理」である。マスコミの常套句として、コロナ疲れや慣れという表現を使っているが、1年前を思い起こせばどうであっただろうか。当時は「自粛警察」がキーワードとなっていた。営業を続けるパチンコ店などを取り上げメディアはこぞって非難していた。その背景にはコロナウイルスへの「恐怖」があってのことだが、例えば夏休み・帰省に際しては「県外の方、ご遠慮ください」といったことが地方の街の至る所で散見されていた。1年後、最早「恐怖」は無いといっても過言では無い。但し、大阪のように自宅療養者の中から死者が続出するといった事態、医療崩壊の寸前と言った状況には東京の場合至っていないため、「恐怖」はほとんど無いと言っても過言では無い。「心理」は情報によって大きく左右される。しかも、養老孟司さんの「バカの壁」ではないが、人間は自分にとって都合の良い「情報」しか信じようとは思わない。それは政治家だけでなく、生活者・個人も同様である。今、その「心理」を支配しているのは東京五輪である。つまり、日本選手の活躍によって、恐怖はかき消され、冒頭写真のように新国立競技場前のモニュメントは記念撮影スポットとなり、順番待ち時間は数十分と言う有様である。また、トライアスロンの競技では、お台場周辺の沿道には多くの観客が殺到する状態となっていた。いくら「不要不急」の行動は謹んでくださいなどと言っても意味をなさない。問題なのは、オリンピック終了後の状況である。つまり8月8日に終え、以降感染状況はどうなるかである。私の場合、東洋経済オンラインのデータを参考としているのでそのデータによると、東京の実効再生産数は1.74、全国は1.77となっている。この実効再生算数の結果が東京の場合4000人前後の感染者となって現れていると言うことだ。多くの実効再生産数の計算は2週間前のデータを元にしているので、その頃の人流は夏休みに入る頃であり、ちょうど増加し始めた頃である。専門家ではないのでピークアウトの時期やその感染者数を予測はできないが、政府分科会の尾見会長の言に従えば人流が減る要素はないとするならば、このまま感染拡大が減少することはない。いずれにせよ今年の夏休みは「ない」と言うことだ。しかも、感染の山は大きく、長く続くこととなる。東京五輪の熱狂が覚めたお盆休み明けの頃どんな「心理」となっているかである。前回のブログにも書いたが、ワクチン接種を済ませた高齢者は旅行を始め飲酒などの会食に向かうであろう。グローバルダイニングの決算事例ではないが、アルコールを取り扱い通常営業する飲食店は更に増加し、感染した自宅療養者は更に増加し・・・・・・・つまり、世代や置かれた環境の違いからまさに混沌とした「社会」が想定される。こうした混乱に対し、ワクチン接種しか打つ手がない政府・行政であるが、公的接種から除外されていたアストラゼネカ製のワクチン摂取がどこまで浸透するか、ある意味政権の命運がかかっているといえよう。またコロナの恐怖から離れた心理はどこへ向かうか、東京五輪によってもたらされた「楽観バイアス」を持ち出すまでもなく、自分都合の行動は激しくなる。特に若い世代に対して再び矛先を向けているが、ワクチン接種を勧めても聞く耳を持つ人は少ないであろう。それは高齢者が肺炎の恐ろしさを身近に実感しているのに対し、若い世代は今もなお軽症もしくは無症状だから大丈夫と言った認識のままであり、わざわざワクチン接種をする合理的な理由が見出せないとする。おそらく9月になっても大学の授業はオンラインのままであろうし、緊急事態宣言が終了してもまんえん防止策へと向かうこととなり、・・・・・・・・悪いシナリオであるが、夜8時以降通常営業している飲食店に集まり、あるいは自宅を会場としたミニコンパなどが常態化するであろう。感染は減少することなく、自宅療養者は更に膨れ上がっていく。2年目の夏を迎え、コロナ恐怖の受け止め方の違いが個々人によって明確に異なってきたと言うことである。9月以降のビジネス・マーケティングの課題はそうした個々人の心理に即したものとなる。「巣ごもり生活」からどう抜け出すかで、そのキーワードの根底は前回のブログのタイトルのように「失ったものの取り戻し」となる。この1年半失ったものは「何か」を考えることだ。前回のブログでは大きな潮流として過去に遡る「思い出消費」について書いた。「思い出」を通し、それまでの日常を取り戻すことであるが、「昭和レトロ」のように過去へも遡っていくであろう。次回は「恐怖」から解き放たれた心理について詳しく書いてみることとする。(続く)
2021.08.03
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ヒット商品応援団日記No793(毎週更新) 2021.7.17.東京都に対し4回目の緊急事態宣言が発出された。今回は6週間、8月22日までとのこと。オリンピック開催、夏休み、帰省と言う「移動」が激しくなる期間に対し、移動を封じ込める意図であるが、果たして封じ込めることが可能となるのであろうか、甚だ疑問に思える。案の定東京では感染者が1000人を超え拡大基調に変わりはない。半年前の1月2回目の緊急事態宣言発出の時は2000名を超える新規感染者数に驚き、首都圏の人たちは「自制」へと向かい、以降感染者数は減少へと向かうこととなった。3回目の緊急事態宣言の時はいち早く2回目の緊急事態宣言解除に踏み切った大阪がイギリス型によって急激な感染の拡大によりある意味医療崩壊寸前、自宅待機療養者から死者が出る状態となった。結果府民の「自制」によって感染拡大は収束へと向かう。一方、こうした状況を首都圏の住民はニュースを通じ横目で見ながら自制へと向かう。このように「自制」を促す「シグナル」が必ずあり、それは1年余りのコロナ禍と言う学習によって生まれたものだ。よく緊急事態宣言発出のメッセージ性について議論されるが、「緊急」は既に日常になっており、生活者・個人が各人こうした「シグナル」を受け止め行動へと反映させていると言うことである。国会では分科会の尾見会長は感染対策に触れ「もはや行動制限による対策は終えなければならない」とはyすげんしている。私の言葉で言えば、国民も事業者も「自制」に頼った対策から科学的なサイエンステクノロジーによる対策への転換を提言していた。しかし、こんなことは1年以上前から指摘されてきたことで、今更という感がしてならないが、前回のブログにも書いたように「不安から不信へと」、社会心理は変化している。特に、「不信」については、ここ1週間ほどのコロナ担当相である西村発言騒動のようにその度合いを強めることとなった。ところで2回目の時の宣言の規制のテーマは飛沫感染を背景とした「飲食業」であった。3回目は集客の核となる大型商業施設をはじめとした「人流」であった。そして今回4回目ののテーマは「酒類」の禁止となっている。繰り返し言われてきたことは、そのエビデンス・根拠は何かと言う指摘であったが、今回初めて酒類の禁止のエビデンスが厚労省の「アドバイザリーボード」によるレポートで、飲酒を伴う会食に複数回参加すると感染しやすくなると言う分析結果からであると。このレポートは国立感染症研究所の分析結果を踏まえたもので、陽性者の過去2週間の行動を分析したところ、飲酒付きの会食に2回以上参加した人は、参加が1回か0回の人に比べて約5倍、感染しやすかったと言う内容である。この調査は都内の医療機関で新型コロナの検査を受けた人を対象に、3月30日から6月8日の期間で調査したとのこと。調査期間は分かったが、対象となったサンプル数はどれほどなのか。抽出法は、そのサンプルの年齢や属性は。感染源と思われる飲酒時間は、利用した店の業態は。喚起の状況は・・・・・・これだけの「情報」は最低でも必要で、発表された内容では調査の体をなしておらず、これがエビデンスになることは常識的にはあり得ない。公開されたレポートから読み取れることは、飲酒の回数が多ければ多いほど感染率は高くなる、と言う至極当たり前のことしかわからない。飲酒回数を減らせば済むことで、一律に「飲酒禁止」することではない。政治家が良く使う手であるが、自らの正当性をわかりやすく理解してもらうために必ず「敵」を作る手法である。ここ半年ほどの感染者の内訳は若い世代が半数を超えている他、感染経路の内訳としては「会食」は10%未満で、一番多いのが家庭内感染、次に多いのが職場。・・・・・・問題なのは半数以上が「経路不明」である。もし調査をしてエビデンスとして活用するのであれば、以前から何回も書いてきたが、日本の感染者約80万人、全てを対象とするのが無理であれば東京の18万人弱の感染者の分析をすべきである。つまり、「不明」のままではなく、何故不明なのか、答えたくない理由は何か、そして再度記憶を辿って答えてもらう。例えば、鳥取県の保健所がスーパースプレッダーを探し追跡しているように感染者の行動履歴を細かく追跡することである。そして、保健所のデータが手書きでデジタル化していないため「データ化」できないと言うことだが、今からでも「手書き情報」を入力する方法もある。民間の調査会社に依頼すれば少なくとも1ヶ月以内にまともな「分析結果」が得られる。感染経路を探ると言うことは、感染のメカニズム、飲食事業者も、利用する生活者・個人にとっても、具体的な「行動」として感染防止に向かうことができる。場合によっては、「どんな飲酒スタイルであれば感染を減らすことができるか」と言うことがわかるはずである。現在テストケースとして新宿歌舞伎町の飲食店を舞台に抗原検査をした陰性顧客による飲酒が行われていると聞いている。これも遅すぎることではあるが、飲食事業者も生活者個人も共に納得できる方策が求められていると言うことだ。ましてやワクチン接種が進んでいる中、先行するシニア世代が集い飲酒できるそんなテストケースも始めたら良い。分科会の尾見会長ではないが、「自制」に頼った対策からの脱却である。さて、少し前に消費はワクチン接種を終えた高齢者から始まると書いた。その通りの動きが随所で見られるようになったが、旅行需要の「数字」については東京五輪が無観客となったことからJR各社、航空雨各社の予約状況の把握が出てはいない。受け皿となる旅行会社やホテル旅館ではワクチン接種に対する「特典付き」メニューが用意されているようだ。昨年夏はPCR検査付メニューが旅行者にとって必須のものであったが、今年の夏以降はワクチン接種済がキーワードになる。勿論、ワクチン接種がアレルギーによって難しい人もいて差別してはならないが、「特典」であれば大いに活用したら良いかと思う。実は今回のコロナ禍によって失ってしまった最大のものは「人との触れ合い」であった。特に高齢者の場合、コロナ禍にあって最初で最大の衝撃はなんといっても志村けんさんの死であった。それは入院後わずか7日ほどで亡くなる、しかも死に目にも会えず、自宅に戻ったのは骨壺であったと言うことであった。日本人の死亡原因の1位は周知のガンである。ガンの場合、進行性の場合でも少なくとも1ヶ月以上の余裕はあり、会いたい人と会うことはできる。末期癌の場合でも家族旅行もできる。しかし、新型コロナウイルスの場合はそうしたことができない感染症の病である。また、会いたいのは「人間」だけではない。ある意味終活の旅とでも表現したくなるような「旅」である。人生も終わりに近くなり、それまでの人生、仕事という言わば修行の「思い出」を辿る旅。若い頃の旅は「修学旅行」であったが、時代の経過と共に変わった街並や風景、変わらぬ場所や店もあったり、そんな修行時代を追憶する旅となる。修行の日々を辿る旅であることから、100人いれば100通りの旅となる。パック旅行ではなく、行き帰りの交通、いやそれ自体もフリーなチケット購入となり、例えば修行中に食べた店を探し、そこで食べるラーメン一杯が嬉しいのだ。「修学」には若い頃やりたくてもできなかったことへの思いが込められている。それが遊びであったり趣味や学びの世界もあるだろう。コロナ禍はそうした失ってしまったことの大切さを気付かせてくれた。失ったものを「思い出」の中から、再度探し出し出会う旅ということである。JRのチケットでロングセラー商品が青春18切符であり、元気なシニア世代には格好の旅が可能となる。また、昨年から人気となっているJR西日本の夜行列車「ウエストエクスプレス銀河」も更に人気となる。「昭和」を満喫できる旅ということだ。こうした「思い出」の中にある消費は勿論高齢者だけのものではない。若い世代、中学生の「思い出消費」の代表商品があの「揚げパン」である。学校給食で出されていたあの揚げパンである。その復活を作ったのがコンビニで一時期ヒット商品となったことはよく知られたことである。ある意味「リバイバル」「復興」「復刻」といった着眼が今後の消費舞台に上がると思う。団塊の世代であれば、ファッションであればヴァンジャケットやKENT、リーバイス。車好きであれば中古のスカイラインGTRやセリカ。音楽であれば吉田拓郎や井上陽水。昭和レトロは時代のトレンドであるが、昭和を生きた高齢者にとって、思い出の中の昭和は昭和らしい「昭和」の世界である。昭和そのもので、例えばスパイスカレー全盛の現在にあってジャガイモやニンジン・玉ねぎがごろごろと入ったカレーライスとなる。こうしたことを指摘するのも2008年のリーマンショック後に現れた多くのヒット商品である。コロナ禍という不安の時代から生まれたもの、それは巣ごもり消費といった大きな潮流を超えて、それまで大切にしてきたことは何か、不安がなくなった後取り戻したいものは何か、・・・・・・・つまり、過去をはじめとした回帰現象が多発する。ちなみに2009年のヒット商品は経MJが行った2009年度のヒット商品番付では次の通りであった。東横綱 エコカー、 西横綱 激安ジーンズ東大関 フリー、 西大関 LED東関脇 規格外野菜、西関脇 餃子の王将東小結 下取り、 西小結 ツィッター東西前頭 アタックNeo、ドラクエ9、ファストファッション、フィッツ、韓国旅行、仏像、新型インフル対策グッズ、ウーノ フォグバー、お弁当、THIS IS IT、戦国BASARA、ランニング&サイクリング、PEN E-P1、ザ・ビートルズリマスター盤CD、ベイブレード、ダウニー、山崎豊子、1Q84、ポメラ、けいおん!、シニア・ビューティ、蒸気レスIH炊飯器、粉もん、ハイボール、sweet、LABII日本総本店、い・ろ・は・す、ノート、デフレ時代の特徴と共に、実は回帰傾向が顕著に出た一年であった。しかも、2009年の特徴は、数年前までの団塊シニア中心の回帰型消費が若い世代にも拡大してきたことにある。復刻、リバイバル、レトロ、こうしたキーワードがあてはまる商品が前頭に並んでいる。花王の白髪染め「ブローネ」を始めとした「シニア・ビューティ」をテーマとした青春フィードバック商品群。1986年に登場したあのドラクエの「ドラクエ9」は出荷本数は優に400万本を超えた。若い世代にとって温故知新であるサントリー角の「ハイボール」。私にとって、知らなかったヒット商品の一つであったのが、現代版ベーゴマの「ベイブレード」で、1998年夏の発売以来1100万個売り上げたお化け商品である。この延長線上に、東京台場に等身大立像で登場した「機動戦士ガンダム」や神戸の「鉄人28号」に話題が集まった。あるいは、オリンパスの一眼レフ「PEN E-P1」もレトロデザインで一種の復刻版カメラだ。売れない音楽業界で売れたのが「ザ・ビートルズ リマスター版CD」であり、同様に売れない出版業界で売れたのが山崎豊子の「不毛地帯」「沈まぬ太陽」で共に100万部を超えた。こうしたヒット商品はリーマンショック翌年の2009年のヒット商品である。今年のヒット商品はシニア世代による旅行関連商品、リアル昭和商品、・・・・・・こうした先行市場から消費市場は進展していくであろう。そして、「西武園ゆうえんち」のコンセプトは「昭和レトロ」で、「生きた昭和の熱気溢れる1日」がテーマとなっている。その背景であるが、昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が描く世界である。ソーシャルデイスタンス、人と人との距離をとることを余儀なくされたコロナ禍。失ってしまったのは「人の温もり」「父性や母性」、あるいは「友情」であった。そんな「温もり」を感じさせてくれる商品やサービスに注目が集まるであろう。ちなみに、冒頭の写真は『ALWAYS 三丁目の夕日』のラストシーンである。(続く)
2021.07.17
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ヒット商品応援団日記No792(毎週更新) 2021.7.1.緊急事態宣言が解除されたが、1月の緊急事態宣言以降まんえん防止措置を含めるとほとんど半年の間規制された「日常」を送ることとなった。多くの人が感じていることは、緊急でもなんでもなく、規制された日常を送ってきたということであろう。今回の政府分科会が解除に向かった背景の要因として、「もはや限界」といった生活者心理を挙げていた。その「心理」はこの1年以上多くの学習を経た結果であることを忘れている。少し前までは感染の増加を「慣れ」とか、「緩み」といった表現をする感染症専門家やコメンテーターがいたが、そうではなく明確な物差しを持って認識し行動していることがわかる。それは「規制」の中に楽しさを見出す「気分転換」と言う満足消費、ライフスタイル変化がこの1年半随所で現れてきている。私の言葉で言うと、自らが判断し行動する「セルフダウン」を実行してきたということである。例えば、何度となくブログにも書いてきたが、「密」を避けてのキャンピングに象徴される「楽しみ方」であるが、実はその根底でつながっているのがワクチンフィーバーである。ワクチンについては、昨年秋以降多くの感染症専門家はその有効性や副作用について疑問と不安を持って各国の接種推移を見るにとどまってきた。それは1970年代以降、いくつかのワクチン接種において集団訴訟が起きたことが起因している。厚労省も感染症専門家もある意味で及び腰てあった。しかし、今年に入り、三回目の緊急事態宣言がが発出され、海外でも多くのロックダウンの中ワクチン接種が本格化する。こうした情報から敏感に受け止めたのが「高齢者」であった。勿論、重症化率の高い世代であり、ワクチン予約における多くの自治体での混乱・行列騒ぎが起きたことは周知の通りである。政府も自治体も、感染症専門家も一様に驚く顛末となった。ある意味見事なくらい高齢者の「危機心理」が行動へと向かわせたということである。そこには感染の「危機」をいくらメッセージしても届かなかったにもかかわらず行動へと向かわせたのはワクチンのエビデンス。証拠を感じ取ったからに他ならない。政治家よりも、感染症専門家よりも、実は高齢者の方が接種の必要を「実感」できたということである。(ワクチンのエビデンスについては前回のブログを参照して欲しい。)そして、この危機心理の裏側にはそれまでの日常を取り戻したい、自制してきたことから解放されたい、つまり「自由」を手に入れたいという強い欲求からであるということだ。家族にも、孫にも、友人にも会いたい、楽しい、そんな自由な時間を手に入れたいという思いである。このことは戦う相手がウイルスという見えない敵に対しどれだけ「感じ取れるか」がポイントであると同時に、それら行動の裏側には自由を求める心理への理解が必要であるということだ。これも若い世代にメッセージが届かないとマスメディアも政治家も言うが、つまり実感し得る言葉も内容も持っていないことによる。このことも昨年の夏以降若い世代を感染拡大の犯人とした説が広く流布した時ブログに書いたので今一度読んで欲しい。(「密」を求めて、街へ向かう若者たち 2020.7.26.)ところで5月のGW以降緊急事態宣言が延長されたにもかかわらず街中の人出は逆に増えている。都知事をはじめ感染症専門家は一様に人流増加に警鐘を鳴らすが、何故真逆の「増加」現象が生まれているのか。多くのコメンテーターは「我慢の限界」などと言うが、そうではなく自ら認識した上での行動結果であると言うことである。ある意味、節度を持った行動結果であり、宣言解除後ここ1週間ほど減少傾向に向かっていた感染者数は再び増加傾向を見せる。多くの政治家、感染症専門家は「リバウンド」と言う表現を使うが、生活者・個人にとってみれば「自制」した行動の結果ということだ。6月20日には延長された宣言が解除され、引き続きまんえん防止措置へと移行したが、この「規制」がどんな変化を街にもたらしたか、その「心理」を見ていくと政治家や東京都の思惑とはまるで異なる心理が見えてくる。まず、解除にもかかわらず時短や飲酒の規制が続く飲食事業者の変化であるが、東京都の規制通りに、夜7時までのお酒の提供、人数は2人、滞在時間は90分を守る店もあるが、これでは経営できないとした飲食店が増加し、コロナ禍以前の通常営業に戻る店すら数多くでてきた。その背景には協力金がなかなか支払われないという経営の事情もあることはいうまでもない。実は面白いことに、こうした飲食店もあるが、東京都の規制を逆手にとった「セール」「キャンペーン」を行う店まで出てきている。例えば、「制限時間90分、飲み放題。ただし7時まで」といった具合である。まさに「昼飲み」促進キャンペーンであり、通常営業に戻した店を始め、満席状態になっている。今回の規制に際しては東京都独自の感染防止策であるコロナ防止リーダー事業など条件をつけてのアルコール解禁であるが、こうした背景には山梨県や千葉市をはじめとした感染防止対策の成功事例がある。実はこうした成功事例の背景には、飲食事業者はもとより利用する生活者・個人の納得・協力によって成立している。行政による「管理」ではなく、事業者・生活者による「防止運動」によって実行されてきたことによる成功事例である。その運動は、行政の職員が現場に入り、席の間隔や換気の相談にものり、アクリル板などの設置支援も行う。行政はサポート役であって管理するのは利用者の理解を得て飲食事業者自らが行うということで東京都のような昔ながらのお役所仕事とは真逆な現場主義によるものである。東京五輪開幕まで1ヶ月を切った。開催内容が少しづつ明らかになるにつれ、感染下の東京で行う「オリンピック」の矛盾、いや明らかに間違った「考え」に基づくものばかりが明らかになった。まず多くの観客を集めたイベント・パブリックビューイングであるが、多くの都民からの反発により代々木公園会場はワクチン接種会場へと変更することとなった。以降、ほとんどのパブリックビューイングイベントは中止となったことは周知の通りである。こうした「世論」を踏まえ、オリンピック組織委員会からは各競技会場の観客人数案が提示され、その是非についても多くの議論が巻き起こった。特に、会場内での飲酒、五輪貴族と呼ばれる大会関係者用のラウンジでの飲酒についても検討されているとのことであったが、これも街中の飲食店が飲酒は7時まで利用は2名といった「制限」をしているのに、オリンピックは「特別」なのかといった非難が巻き起こる。即日撤回されたが、スポンサーとして当事者であるアサヒビールはその「特別」には与しないとの提言を組織委員会に申し入れたとコメントしていたが、これも至極当然のことである。また、こうしたオリンピックイベントの問題と共に、夜間の競技時間についても埼玉、千葉の両知事から8時までの時短制限を都民に強いているのに9時以降の競技はやめて欲しいとの要請を組織委員会にしている。これも至極当然のことで・・・・・・・・・・つまり、コロナ禍の1年半、延期を決めてから1年3ヶ月、組織委員会は今までの「計画」のまま行おうとしてきたということである。常識として、これまでの大会とは異なった「コロナ禍のオリンピック」として行われなければならない筈であった。この「コロナ禍のオリンピック」において一番大切にしなければいけないのが「安全安心」である。しかし、これも報道によればウガンダ選手団9名の内2名が陽性であったことがわかった。大会規則として選手団はワクチン接種を含め十分検査をしての入国である。まずワクチン接種で100%安全が担保されたわけでないということだ。また成田の検疫で見つかったものの、濃厚接触者の特定や隔離方法については明確な「方法」を持っていないことが明らかになった。「バブル方式」という完全に隔離されているから安全という「神話」は崩れ始めている。これもオリンピックの特例で通常であれば2週間の隔離であるがわずか3日で済むという。その後、南米で行われているサッカーの大会「コパ・アメリカ」ではバブル方式、しかも無観客試合にもかかわらず選手スタッフ140名ほどの感染者がでているとCNNは報じている。世界に目を転ずれば、南米やアフリカ、あるいは英国ですら感染は拡大傾向にある。つまり、「パンデミック」、今なお感染爆発は進行中であると言う認識である。また、選手団とは別に入国するメディア関係者や大会関係者・オリンピックファミリーの約5万人の「行動」である。これも決められたホテルなどでの食事が難しい場合、例外として街中の「個室」のあるレストランや居酒屋などの飲食を認めるという。メディア関係者などは「バブル」の中の選手達の取材が中心となり、大会期間中バブルを行き来する人間である。つまり穴だらけの「バブル」であるということだ。外国人にとって、本場本物の日本食を食べることは来日の目的の一つとなっている。また、ここ数年日本のコンビニも大人気である。本来であれば、こうした庶民の日常を満喫させてあげたいが、やはり厳格に行動を規制しなければならないということだ。このように多くの都民、いや国民が怒っているのは「オリンピックは特別」「別枠」という考え方であり、しかも大会間近になって詳細が明らかになるに従って、多くの矛盾、一貫性の無さに対してである。コロナウイルスは「人」を選ばない、と言われ続けてきた1年半である。昨年から怒りの先は政治家による銀座での深夜にわたる会食であり、感染対策の中心である厚労省官僚の送別会であり、全て「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と言う点にある。こうした「不信」の中での東京五輪である。開催間近になればオリンピックムードは高まると推進する組織委員会はコメントするが、そんな状況ではない。今回の東京五輪のスポンサー一覧を見てもわかるようにトヨタ自動車を始め日本を代表する企業ばかりである。各企業は東京五輪に「寄付」しているわけではない。しかし、パブリックビューイングイベントや会場内ラウンジでの「飲食」への非難に際し、例えばアサヒビールは飲食中止の提言を自らしている。理屈に合わないことことは重々承知しており、そのまま進めれば不買運動こそ起こらないとは思うもののブランドイメージは大きく損ない、消費にも影響が出てくることは間違いない。一覧に名前を連ねている企業の多くはTVCMを放映しているが、「オリンピック・ブランド」を使ってのキャンペーンなど行ってはいない。せいぜい東京五輪のマークと自社ロゴを並べているに過ぎない。つまり、本来ならば夢や希望溢れる祭典として社会の注目となるオリンピックが、逆に「そこまでしてやるのか」と言うネガティブな目に晒されてしまっていると言うことだ。単純化して言うならば、多大な投資をしたにもかかわらず消費が高まるどころかマイナスに作用しかねないと判断していると言うことである。それは従来進めてきた東京五輪の「コンテンツ」を全く新しい視点、パンデミックを踏まえた視点で編集し直さなければならなかったにもかかわらず、「そのまま」押し通した結果から生まれたものだ。しかも、1年延期によってスポンサー各社は確か追加拠出額の合計は約220億円に上り、組織委の収入に組み込まれた筈である。参加したスポンサー企業が一様に注視しているのが生活者心理であり、その心理が「ネガティブ」なものの延長線上にスポンサー企業にまで及ぶのではないかと言う危惧である。しかし、心配は無用である。組織委員会への非難の先にスポンサー企業へと向かうほど無理解な生活者ではない。アサヒビールの事例ように、スポンサーも大変だなという思いであろう。さらに言うならば、ウイルスの被害者である企業、観光産業である近畿日本ツーリストなどの苦境に思いは及ぶ。おそらく大会終了後、後始末としてスポンサー契約に応えることができなかった内容への「返済」が始まるであろう。企業としては株主に対する当然の説明として追求することとなる。しかし、そうであっても生活者は誰よりもスポンサー企業を非難しないであろう。そこにはある意味で賢明な生活者個人がいると言うことだ。今どんな社会の「心理」が起こりつつあるのか。それは一言で言えば、1年前の「未知」への不安から、コロナ禍によって起こった多くの現象の裏にあること、不信が「見えてきた」ことにある。その不信心理の第一はやはり「東京五輪は「特別扱い」と言うことであろう。その象徴が撤回されたが五輪会場内での飲酒であり、多くの飲食店が時短で飲酒は7時までと言う制限とはまるで違うのではないかと言う批判である。しかも夜間の滞留人口が多く感染の要因となっているとして外出を控えるように要請されているが、バスケットボールやサッカーなどの競技では夜9時以降の外^むもあり国民に言っていることとはまるで違うのではないかと言う批判もある。また、東京五輪の有観客制限についても「会場への規制も会場規模の50%未満、1万人以内」ぬ見られるように、「行動の制限」が大きく緩和されたイベントである、つまり自由に行動しても良いとした「シグナル」として受け止める人も多い。つまり、こうした多くの「特別」「別枠」に対し、今まで国民に「言ってきたこととやっていることとは違うじゃないか」と言う感情を生んでいる。しかも、組織委員会はJR東日本各社へ深夜運行の特別ダイヤを要請していると言う。もう一つの不信の要因が実はワクチンの供給である。遅れに遅れたワクチン供給の目処が立ち、やっと順調に接種が進行してきた。しかし、接種の目標1日100万回、あるいは職場での接種など接種の多様化により供給が複雑化し管理ができなくなり、職域などでの接種予約をストップせざるを得なくなった。しかもファイザー製ワクチンは7月以降減少すると言う。唯一の時代の空気転換を促す「ワクチン」が赤信号となったことで、未接種の世代には不安が残ったままとなる。ちょうど6月30日の東京都の新規感染者数は714人となり直近7日間の平均は500人を超えて、508人となった。ちなみに人から人への感染の目安である実効再生産数は1.15と高いままである。7月11日にはまんえん防止措置の期限となり、延長もしくは緊急事態宣言の発出する議論がされ始めている。当然東京五輪の無観客開催が議論となるが、会場内にはIOC関係者のみが観客となる。当然日本人が見ることができないのに何故IOC関係者だけが観客となるのかと言う非難が巻き起こるであろう。組織委員会はIOCに自制を求めてもおそらく聞く耳を持たないであろう。ここでもIOCの本質が見えてくる。不信はIOCだけにとどまらず政権へと向かうであろう。また、東京都始めまんえん防止措置が延長された場合、アルコール飲酒は全面禁止なることが予測される。結果どうなるのか、容易に起こりうる現象が目に浮かぶ。飲食事業者の反発はもとより、アルコールは勿論のこと深夜に及ぶ営業店はさらに増加するであろう。路上飲みも増えるであろう。あるいは東京近郊都市の居酒屋は満席状態になるであろう。つまり、不信は深刻化し、小さなトラブルが至る所で起きる予感がしてならない。いわゆる社会不安である。(続く)
2021.07.01
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ヒット商品応援団日記No791(毎週更新) 2021.6.13.3年半ほど前に未来塾で「生活文化の時代へ」というタイトルでブログを書いたことがあった。副題として「成熟時代の消費を考える」、つまりモノ充足を終えた時代、成熟した時代の消費傾向である「生活文化価値」をテーマとしたことがあった。前回のブログ「人流・考」においても少し触れたが、大型商業施設特に百貨店における「生活必需品」論議の中で、なんとも古くさい生活必需品という言葉が出てきた。既にほとんど死語となった言葉・概念であるが、そうした言葉を使えば使うほど生活実感からは離れていく。結果、不要不急と言った言葉同様不毛な論議になるだけである。実は1990年代初頭のバブル崩壊、次に大きな変化であった2008年のリーマンショックを経て、「消費」の世界、特に生活消費・日常消費に一つの「変化」が現れてきた時期に書いたブログであった。その消費は、表通りではなく、横丁・路地裏と言った「裏通り文化」の魅力であった。その火付け役はテレビ朝日の番組「『ちい散歩』で、以降散歩ブームが起こるのだが、実は「知らない町」「知らない人々」、そこで営まれている「生活」がいかに知っているようで知らなかったかを教えてくれた番組であった。つまり、表通り以外にもいかに多くの「魅力」があることを教えてくれ、しかも2000年代前半にあったような業界人だけが集まる「隠れ家」ブームではなく、誰でもが日常利用する「魅力」の再発見であり、後に話題となったTV東京の「孤独のグルメ」のような日常の「豊かさ」である。この豊かさの担い手である飲食業がコロナ禍にあって危機的状況にあることは周知の通りである。前々回のブログで「なんとか倒れないでほしい」と願ったのはこの「豊かさ」を失わないでほしいとの思いであった。一見倒産件数はそれほど多くはないように見えるが、周知のように倒産には法的倒産と私的倒産の2つがあり、飲食業の多くは経営規模が小さな個人事業主が極めて多い。結果、表立って公表される倒産は少なく、私的倒産あるいはその前段階での「廃業」が多い業種である。しかも、タイミング的には政府系あるいは民間金融機関からの借入が1年経過し、返済が始まる時期である。飲食業界の18団体が10日、都内で「外食崩壊寸前、事業者の声」と題した緊急記者会見を行い、「資金面、精神面で我慢の限界がきております」と訴えたのもこうした背景からであった。このことは個々の飲食店の経営危機ではあるが、その根底には食文化の危機であると認識すべきである。「食」はライフスタイルを構成する分野、衣食住遊休知美などの中で一番「変化」が起きる分野である。生活するうえでの「豊かさ」も「食」、特に外食へとダイレクトに反映する。生きるため、必要に迫られた食の時代ではない。私の仕事の中心は商業施設のコンセプトづくりであるが、そのコンセプトの大半を占めているのが「食」であった。時代変化を辿っていくとわかるのだが、例えば1980年代はライフスタイルのコアな部分にはファッションがあり、性差や年齢差、民族差など境目のない情報の時代が特徴であった。そして、バブル崩壊後はそれまでの価値観が大きく崩れある意味で失われた20年、30年とも言われる時代を迎えた。それでも「食」への変化は進み、それまでの海外の変化を取り入れてきたものから、逆に海外へと輸出する時代・日本ブームを迎え、国内においても「食」への認識は変わっていく。それは特別な日の「食」ではなく、ごく当たり前である日常の「食」への再認識で、ハレとケという言い方をするならば「ケ」の日の食である。「豊かさ」はこうした日々の日常の中にある。この日常を壊したのがコロナ禍であるが、これに代わるフード宅配サービスが急成長しているが、これは日常食であっても日常食文化ではない。Uber Eatsや出前館は忙しい年生活者にとっては必要なサービスではあるが、そこには「文化」はない。今から3年半ほど前になるが、久しぶりに大阪らしい味、元祖きつねうどんの店「うさみ亭マツバヤ」で食事をしたことがあった。明治26年(1893年という老舗で大阪ではよく知られた店であるが、まさに「うどん」という日常食の店である。元祖きつねうどんも好きだが、一番好きだったのが冒頭写真の「おじやうどん」である。うどんもいいがおいしい出汁を含んだおじやご飯も欲しいと言った大阪らしい欲張りメニューである。今も価格は変わらないと思うが、おじやうどんは780円、エビの天ぷらをトッピングしても1000円でお釣りがあった。元祖きつねうどんも、甘辛く炊いた揚げを「かけうどん」とは別に出していたが、客はその揚げをうどんに乗せて食べているのを見て、それなら最初から揚げを乗せたらという。ある意味、顧客から教わったメニューであるが、「文化」はそうした顧客とのキャッチボールから生まれ磨かれる。成熟した時代とは成熟した生活者・個人がいるということである。コロナ禍によって音楽業界を始め飲食業界と同じように苦境を強いられているが、同じように成熟した顧客はいる。コロナ禍によってライブ演奏ができなくなり、ネット配信をはじめたミュージシャンもいたが、やはり代替サービスでしかない。1990年代から2000年代に入り、ネット配信サービスが主流となり、それまでのCD販売による経営は成立しなくなった。その窮地を救ったのが顧客を前にした「ライブ」であった。つまり、「音楽好き」な顧客、成熟した顧客によって「次」の世界へと転換することができた。それを可能にしたのが「文化」ということだ。飲食業もまた同様に成熟した顧客は間違いなく存在している。そうした顧客がまた通えるまで倒れないで欲しい。(続く)
2021.06.13
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ヒット商品応援団日記No790(毎週更新) 2021.6.6「人流」という聞き慣れない言葉が突如感染症の専門家や政治家の口から発せられた。しかも、感染拡大の防止策として「人流を止める」ことの必要性から使われたものだが、欧米のようなロックダウン(都市封鎖)という防止策の言葉を使えない日本、私権の制限を極力少なくする日本において、ロックダウンの代用語の意味から使われたものと推測できる。この人流抑制の効果としては明確なエビデンス(科学的根拠)はないと分科会の尾見会長が国会で述べているように、その効果に疑問を持つ人は多い。事実、英国をはじめヨーロッパ各国で感染が鎮静化したのはワクチンであって、ロックダウンではないことは実証されている。ところでその「人流」であるが、若いJR頃東海道線の途中駅に大型商業施設が造られる計画があり、消費を目的とした生活者の「動き」、人流がどのように変化していくかをスタディしたことがあった。その前提となる人の流入・流出の移動情報については神奈川県庁にあることを突き止め何回か県庁に足を運んだことがあった。このように都市開発・都市設計を行う場合に使われてきた言葉で、マーケティングの世界では古くからある「概念」である。ビジネスマンであれば多くの人が知る話ではあるが、大阪阪急グループの創業者である小林一三は昭和4年梅田の阪急百貨店をつくるにあたり最上階に豪華な食堂を置き、清潔で安くて美味しいをモット-にしたターミナル型の百貨店経営を行い大人気となった。特に、食堂のライスカレ-が名物料理となり、集客のコアとなる。後に商業施設をつくるマーケッターは最上階に「人」を集め、下の階へと移動を促す「人流」のことをシャワー効果と呼んで商業施設づくりの基本の一つとなった。その小林一三は阪急電車の活性化策としてあの「宝塚」をつくったことも知られているように、「賑わい」こそが商売の原点であることを生涯にわたって生きた経営者であった。こうした発想は屋上に遊園地やミニ動物園、あるいは催事場と言った集客のコアとなる装置をつくることへと向かう。またこうしたタテ型の人の移動動線の進化と共に、実はその阪急百貨店はタテ型と共にヨコ型の動線をつくる試みを行い大きな成果を挙げている。そのヨコ型とはフロアの隅・角にカフェやレストランを造り、ヨコ動線の動きを新たにつくったことによる。つまり、タテ・ヨコの動線を組み合わせることによって回遊性を促進させる。つまり、百貨店の滞在時間を長くさせればさせるほど消費・売り上げは伸びるという結果を得ることとなった。これはモノ消費から、楽しみ消費への変化に即したものであることは言うまでもないことである。こうした回遊性、つまり楽しさ消費への着眼は商業施設だけでなく、「街」づくりにも現れている。戦後の東京の賑わいには「闇市」を出発点としている場合が多い。例えば、新橋も、新宿もそうであるが、古くからの「賑わい」を残しながら再開発した街がほとんどである。サラリーマンの街新橋は闇市で商売していたバラック造りの路面店は駅前ビルに収容され、新宿の場合は西口にある思い出横丁に当時の雰囲気が残され今も賑わいを見せている。その代表的な街が人気の吉祥寺であろう。人気のコアとなっているのが、駅前のハモニカ横丁であり、コンセプト的にいうならば昭和レトロとなる。こうしたOLD NEW、古が新しい都市・街づくりは最近ではリニューアルした渋谷パルコの地下レストランや渋谷宮下公園跡地の開発から生まれた渋谷横丁につながっている。これらはレトロコンセプトであるが、その先駆けとなったのは秋葉原・アキバや竹下通りなど時代を映し出した「テーマ」への共感であり、人流はテーマによって創られるということである。詳しくは拙著「未来の消滅都市」(電子書籍版)」を一読いただければと思う。「人流」を止めるとは物理的な移動を止めることと共に、テーマを壊し無化させることによって可能となる。しかし、テーマは生活者・個人の心の奥にあり、つまり記憶に刻まれており簡単に無化させることはできない。少し前に、東京都知事は移動を抑制するためにJR東日本に対し、ラッシュ時の運行本数を減らす要請をしたことがあった。結果は、減らしたダイヤの前後は今まで以上に混み合い、抑制効果はあられずすぐに元のダイヤに戻した。このように物理的に移動抑制する難しいということであり、東京の場合GW以降感染者は減少傾向となっているが、昼夜の人流は増えている。特に今までのやり方では若い世代において賑わいを求める心理を変えることはできないということだ。今東京五輪に向かって、IOC、政府、東京都が開催へと突き進んでいる。バブル方式というバブルの中に選手団を閉じ込め感染の拡大は起こらない方式であるという。確かに理屈上は可能かもしれないが、選手以外の五輪関係者は極めて多く、いまだに推定の人数すら明らかにされていない。更に観客を入れての大会を想定しているようだが、全国からどれだけの観客が東京に集まるかである。ちなみに東京五輪の販売済みチケットの払戻枚数が約81万枚と発表されているが、その内何人の入場を進めるかであるが、観客制限を50%としても40万人が東京に集まることとなる。よくプロ野球や Jリーグの観客数を持ち出しクラスターの発生がないことを発言するコメンテーターがいるが、比較にならない人数とその移動の距離と広がりである。問題なのは全国から東京に集まり、観戦し、勿論街中で飲食もし、場合によっては他の観光地へと向かうこととなる。しかも、夏休みの期間、お盆休みの期間とも重なる、言わば「人流」が最も激しくなる時期である。今まで、人流抑制を目的としてきた政府や自治体、勿論感染症の専門家もであるが、東京五輪の場合の人流は別なのであろうか。今回の緊急事態宣言においても大型商業施設、特に百貨店の休業要請があったが、人流抑制という視点から言えば、地下の食品売り場を休業させた方が物理的効果は大きい。宝飾品やラグジュアリーブランドの休業など人流抑制にはほとんど効果はない。そんなことは百貨店を利用している生活者にとっては至極当たり前のことである。代々木公園に予定されていた東京五輪のパブリックビューイングが世論の反対から急遽ワクチン接種会場に変ったが、吉祥寺の井の頭公園など他の地域のイベント会場は進めると思われる。人流を抑制すると言ってきた都知事をはじめ感染症の専門家はどんな判断をしているのか、明確なエビデンス・科学的根拠が問われている。昨年の夏以降繰り返し求められてきたことは、全ての判断の「根拠・エビデンス」を明らかにしてほしいということだけである。今なお若い世代を感染源とした「悪者説」の論者がいるが、彼らこそ合理的な思考を持つ世代であり、明確な論拠を持って語りかければ十分納得するはずである。6月5日現在全国の感染者数は約75万人。少なくとも感染経路の詳細は別にしても「何が」感染防止策に有効であるかビッグデータが教えてくれるはずであった。しかし、保健所のデータが手書きでデジタル化されていないことから「データ」として活用されることができなかった。前回ワクチン接種について書いたが、その有効性がいくつかの研究によって科学的根拠を持って実証されてきている。結果、多くの国民は理解納得している。つまり、見えないウイルスとの戦いには、エビデンス・根拠が人の心を動かし行動変容へと向かわせる。「人流」抑制にどれだけの意味・効果があるのか、このこともまたエビデンス・根拠が問われているということだ。(続く)
2021.06.06
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ヒット商品応援団日記No789(毎週更新) 2021.5.30.ワクチン接種が加速している。やっとワクチン供給がスムーズになったこともあるが、新型コロナウイルスとの戦いの「先」が見えてきたことだ。その「先」とは、季節性インフルエンザと同じような「時」、日常が来ると言う意味である。そうした明日を確実にしてくれたのが横浜市大の山中教授グループによるワクチン効果の実証研究結果である。ファイザー製のワクチンの「有効性」についてで、変異型ウイルスにも中和抗体ができ、しかもその持続が半年だけでなく、1年間持続効果が見られたと言う実証結果である。多くの人が求めていたワクチンによる戦い方の意味、そのエビデンス(根拠・証拠)を明らかにしてくれたことである。この1年半近く、TVメディアに出演してきた感染症の専門家がただの一人も「答える」ことができなかったエビデンスを初めて明らかにしてくれた。飲食業における飛沫感染といった状況証拠としてのエビデンスではなく、「科学」によるエビデンスである。これまでの「出口戦略」から始まった「感染防止か経済か」「コロナゼロ」「人流による感染防止策」・・・・・全てが無用とは言わないが、生活者・個人のコロナに対する向き合い方を根底から変えることへと向かうであろう。ワクチン接種は医療従事者から始まり高齢者へと進んできたが、残念ながらコロナとの共存と言う「日常」を手に入れるにはまだまだ時間がかかる。三回目の緊急事態宣言が6月20日まで延長されることとなったが、これも東京五輪の日程を見据えたものであることは明白で、こうしたことを含めほとんどの国民は宣言の根拠・合理性の無さに矛盾を感じている。唯一「先」を見させてくれているのがワクチンで、生活者個人だけでなく、今多大な犠牲を強いられている飲食事業者や観光産業にとっても同様である。生活者・個人にとっては感染発症のリスクが少なくなる「自己防衛」であり、事業者にとっても集団免疫が形成されることによる「社会防衛」と言う2つの防衛策となる。少し前になるが愛知でコロナ患者を診ている臨床医が東京五輪の開催について聞かれて答えていたのは「東京がイスラエルのようなワクチン接種状況であれば開催しても良いとは思うが、そうでなければ中止すべきである」と。ちなみにイスラエルの接種率は62.5%で、東京都の高齢者の第一回目の摂取率はわずか6.6%である。(NHK特設サイトより)今心配なことは宣言延長によってほとんどの飲食事業者の心が折れてしまうことにある。古いデータで恐縮であるが4月末の日経新聞によれば、3回目の緊急事態宣言を要請した東京、大阪、京都、兵庫の4都府県で、時短営業に応じた飲食店への協力金の支払いに差が出ていると言う。2回目の当初の宣言中の支給率は東京や大阪、京都が4~5割台の一方、兵庫は9割に上る、と。遅れは店の経営に影響することは当然であるが、自治体は審査を担う人員を増やすなど対応を急いでいると報じられているが、少なくとも「根拠なき」要請に対し協力をしてきた店である。またこの心配の延長線上には、もはや協力できないとした飲食店、特にアルコールを扱う居酒屋が増えていくことにある。勿論営業時間もである。当然東京都は違反企業として「命令」の措置を出すであろうし裁判所から「過料」が課せられることとなる。第二波の時にはあのグローバルダイニングのように裁判に訴える段階から、無数の飲食店が営業し、逆に多くの客が集まり、それこそ「密」を作ることとなる。つまり、行き場を失った若い世代が路上飲みからそうした「店」へと向かうと言うことだ。こうした情報はSNSを通じあっという間に広がる。ある意味で「混乱」が蔓延していくと言うことだ。前回「根拠なき抑制は破綻する」と書いた。それは何度となくロックダウン(都市封鎖)」した欧米諸国が感染者減少に向かったのは明らかにワクチン効果であった。つまり、強制力を持ったロックダウン、「人流」を強制的に止めても感染拡大を一旦は減少に向かわせても根本解決にはならないと言うことが世界的に実証されてきた。あの感染対策の優等生と言われた台湾は一挙にワクチン接種へと向かったように。その「人流」抑制であるが、東京の場合GW以降繁華街の人流は夜間だけでなく昼間も減るどころではなく増加傾向を示している。しかし、感染者は減少へと向かっている。人流が増えれば、つまり賑わいのあるところに出かけて行けば感染は拡大するはずなのにここ2週間ほど「減少」していると言う「事実」である。感染症の専門家は行動と感染・発症には2週間ほどの時間差があると言うが、この真逆の結果に対しどのような分析がなされるのか聞きたいものである。「人流」と「感染」の相関を単なる推測ではなく、根拠あるものとして明らかにして欲しいと言うことだ。人流、つまり人の行動変容はつとめて社会心理が働いていることを明らかにして欲しいと言うことである。人流が増えてきたことを単に「慣れてきた」からと言ったど素人のような物差しで人流増加を決めつけてはならないと言うことだ。この1年半、コロナとの戦いと言う学習経験を積んだ生活者・個人、更に言えば飲食店などの事業者の心理変化を分析の大きな変数として組み込まない限り間違った判断となる。こんなことを言う前に、GWの人流は昨年以上に増加しているのに、感染者数は減少しているのはなぜか。この人流は「都市」におけるもので、今回の第三波の特徴は全国への拡大、地方都市への拡大である。この拡大の主要な要因はどこにあるのか。GWによる地方都市への「移動」、例えばその象徴では無いかと思うのがあの「沖縄」であろう。観光産業以外に生きるっすべを持たない県である。こうした人流こそ分析の対象とすべきで、例えば鳥取県のようにスーパースプレッダーと言う感染拡大者の発見のために従来の疫学調査以上の追跡を行い、とことん感染源を追い求め隔離すると言う方法が取られている。結果、感染者が少ないのは当然の帰結となる。以前にも採り上げたが山梨県の感染撲滅の活動や、千葉市での認証事業活動、あるいは福井県なども同じような感染源をどう潰していくのかと言う「現場主義」こそが問われていると言うことだ。根拠のない人流抑止策から、感染現場に再び戻り、どう抑止していくのかが問われている。こうした現場主義こそがワクチン接種と並行して行うことだ。無症状者による感染という課題について、若い世代に再び注目が集まっているが、高齢者だけでなく、若い世代にも早急にワクチン接種すべきであろう。例えば、今尚、重傷病棟が逼迫している大阪などについては今以上の接種拡大策、若い世代への接種を戦略的に行うことだ。っp坂府知事も第二波の解除が早すぎたとして大きな批判を受けたと聞いているが、東京都のようなパフォーマンスとしての見回り他ではなく、行政も現場に入り事業者とt共に抑止を行い、良い実績を挙げた飲食事業者に対しては山梨県のように「認証」し、時短などの規制も緩和していく方法を取り入れていくと聞いている。規模の大きなとしては難しいと思いがちであるが、「小さな単位」で実効していけば良いのだ。商店街単位、飲食ビル単位、・・・・・・キタ・ミナミ単位のように。「認証」とは行政が一方的行うものでは成立しない。認証の主体は事業者であって、行政はサポート役・黒子である。もし、すべきことがあるとすれば、「認証」の精度を上げ、事業者と共に生活者・個人の信頼を勝ち取ることだ。ワクチン接種が順調に行けば今年中には若い世代にも行われるであろう。しかし、例え集団免疫が得られたとしてもウイルスがなくなるわけではない。今、イギリス株の次にインド株に気をつけなければと報道されているが、ウイルスは常に変化していくものである。東京墨田区ではこのインド株の検出について力を入れ着実に対策を講じている。勿論、民間の分析企業と組んでのことだが、一番重要な東京都自身が検出数が極端に少ないのはそうした外部企業と連携する方法を持たないからである。横道に逸れてしまったが、つまりウイルス対策はこれからも継続されていくと言うことだ。一方消費者の側もきちんとした認証を受け止める正しい判断が求められていくこととなる。ある意味で1年半前までの「選択眼」に戻ると言うことだ。街を歩けば廃業店舗が目につくようになっているが、それまで、特に飲食事業者はなんとか倒れないで欲しい。(続く)
2021.05.30
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ヒット商品応援団日記No788(毎週更新) 2021.5.16.3回目の緊急事態宣言、GW期間を挟んだ短期集中を目的とした感染拡大対応策を終え、5月末までの延長が実施されている。大阪における感染が拡大し医療崩壊が深刻化しつつあることは知事会見を始め報道の通りであろう。この緊急事態宣言の狙いは「短期集中」と共に「人流」を止めることにあった。しかし、宣言のエリアは愛知、福岡、北海道、岡山、広島へと更に拡大し、まんえん防止策の地域も同じように拡大、つまり「全国」へと広が理、宣言及びまんえん防止措置エリアを入れると全国の43%に及ぶに至っている。こうした中、政府と自治体との間の「考え」の違いが具体的な防止策の問題として露呈している。その一つが東京都の防止策で、例えば演劇やプロ野球などは人数制限など限定的に緩和するが、映画館や美術館が休業、と言ったように支離滅裂な「考え」が露呈している。「人流」を抑制することが目的であるが、何故演劇は緩和で、映画館は休業なのか、その根拠が説明されないまま押し通す始末である。そうした行政、東京都の「考え」を推測してとのことと思うが、生活必需品以外は休業との要請に対し、高島屋を始め東京都のほとんどの百貨店は、宝飾品・美術品あるいはゴルフ用品などを除外した商品を「生活必需品」とし、ほとんどのフロアで営業を再開している。極論を言えば東京都の「考え」とは異なる自己判断によるビジネスを始めたと言うことである。実は日本百貨店教会の売り上げなどの公開情報では1月からの緊急事態宣言が解除された3月の売り上げは21.8%増と18か月ぶりのプラスとなった。前年の新型コロナウイルス感染拡大による臨時休業や時短営業の反動に加え、緊急事態宣言の解除や、各社が企画し た会員向け施策等が寄与したことによる。こうした消費の回復傾向は家計調査にも明確にでている。3月の二人世帯以上の消費支出は6.2%で、1月は▲6.1%、2月は▲6.6%である。当たり前のことであるが、緊急事態宣言の発出は「消費」に多大な影響を及ぼしているということである。生活必需品の見直しは百貨店経営が危機的な状況になりつつあるあると言うことを表していると言うことだ。飲食店がテイクアウトへを取り入れたのと根っこは同じである。前々回のブログでGWにおける生活者・個人の行動、特に不要不急の代表的な「旅行」について取り上げた。繰り返し書くことはしないが、コロナ禍の1年、学習した人達は感染していないエリア、あるいは感染しにくい移動の方法で、旅行を楽しんでいる。つまり、都心の夜の人出は減ってはいるが、昼間の人流は減るどころではなく、逆に増加しているということである。菅総理のコメントに都心の人流は減少したとあるが、これも当たり前のことでGW期間中に夜の繁華街に出かけることなど極めて少ない。横浜のみなとみらい地区のように周辺の観光地には多くの人出が見られ「分散化」しているだけである。学習してきた生活者・個人はある意味自己判断で動きは始めたということだ。その背景は分科会の尾見会長が言うように、「人流」抑制には感染を減少させる根拠がないと言うことからである。生活者のこうした反応は今回の百貨店の判断対応と見事に付合している。それは「生活必需品」の解釈として、百貨店として「必需」は何かを明確に示し売り場を作ったと言うことである。1970年代百貨店は貧しかった戦後日本が経済成長を果たし「豊かさ」を手に入れつつあった時代の代表的な流通であった。それは以降生活にとって豊かであるための「必需」商品、必要な業態であった。それは百貨店にとって「当たり前」のことである。問題は「人流」抑制ではなく、「感染」防止に更に努力すると言う判断である。周知のように百貨店は感染者が出た事実に対してはHPにその都度公開し併せて対策も講じている。勿論、結果としてクラスター発生を起こしてはいない。制限付きの観客を入れたピロ野球がクラスターを発生させた日ハムとは対照的である。周知のようにこうした感染対策は飲食事業者など1年間を通じて行ってきた。時短営業は勿論のこと、今回の措置であるアルコール禁止であっても、例えばビールを売り物にしているビールバーはノンアルコールを出して営業している。飛沫感染対策として、アクリル板の設置から始まり、席数の制限、換気扇の設置・・・・・・・今度「人流」のための休業措置。おそらく6月には破綻する飲食店は続出するであろう。それでもランチ営業やデリバリー活用で商売していく店もあるかもしれない。しかし、こうした「不公平さ」は歴然として明らかになった。人流を止めるなら鉄道など公共交通を止めるしかない。実は東京都の要請でJR東日本が鉄道本数を減らす減便を行なったが、減便の前後の車両はスシ詰め状態でそれこそ感染を拡大する危険な「密」状態を生み出し、結果元のダイヤに戻した。そんなことは当たり前のことで、次なる施策は何かと言えば、再度テレワークの推進となる。そのテレワークの実施実態は都のHPに掲載されているが、都の担当者による聞き取り調査でその実行は大企業やIT関連企業は可能であるが、補助金を出されても運営するのは「人」であり、仕事のやり方を含めてゼロスタートするしかないのだ。そんな「改革」が一朝一夕でできるはずがない。ビジネス現場を知らない行政のやりがちなことで「実効性」はまるでない。(今回は取り上げないが、「改革」を進め定r企業は多数に登っている。行政に言われるまでもなく生き残ろために必死に取り組んでいる。)少し前の3月になるが、感染拡大防止と経済社会活動の両立を図るための取組として、「コロナリーダー事業」として、東京都感染拡大防止ガイドラインやガイドブックを策定し、対策に取り組んでいる店舗等で感染拡大防止徹底宣言ステッカーを掲示してもらうなど、感染拡大防止の取組を推進していた。スタート当初から協力金の条件に過ぎない事業と考えられていたが、その実効性は現在どうであったのか。アルコールの禁止によって飲食店はどんな状況になっているのか。マスコミ、特にTVメディアは「その後」を追跡しようとはしない。泥縄という言葉があるが、全ての対策は縄のない泥まみれとなっている。今、飲食店を支えているのは、常連客による「飲食」である。顧客によって救われているということだ。しかし、残念ながら長続きはしない現実がある。この「人流」抑制は感染拡大防止のための「手段」であった。その背景には病床の確保、新規感染者を減少させる、特に重傷者に対する救命のためであった。緊急事態宣言の実施については、政府は大きな方針を提示するにとどまり、都道府県知事による「実行」に任せることが明確になった。理屈上は「現場」を熟知している知事に権限と責任を任せることはその通りであると思う。その良き事例と思われるのが東京と大阪の「違い」である。既に報道されているので繰り返しはしないが、大阪の場合周知のように自宅待機者から亡くなる感染者が出ているように医療破綻の危機にある。こうした背景から「人流」を止めることはやむなしとする世論が大阪の場合は形成され、例えば百貨店の大阪高島屋は今まで通りの「休業」要請を引き受けている。一方、東京の場合日本橋高島屋は前述のようにほとんどのフロアは営業する道を選んだ。その理由の一つは東京の場合の病床の逼迫は大阪ほどではないという理由からだ。社会的存在である百貨店はその危機的状況にある「社会」を考えてのことだ。ある意味、生活者個人が「自己判断」して行動変容を決めることと同じである。「ヒット商品応援団」という名の通り、必ず「ヒット」するには根拠がある、勿論、逆に廃れることにも根拠がある。この10年ほど、街の「変化」を観察し実感し、その根拠を分析してきた。例えば、あの秋葉原が「アキバ」になり世界中から「オタク」の聖地として賑わいを創ることができたのも明確な「根拠」があった。あるいは、今や若い世代の好きな街に一つとなっている吉祥寺も、ライフスタイルの変kに追いつかない大型商業施設が次から次へと撤退した街であった。しかし、そうした状況下にあって若い世代は駅前の古びた一角、昭和の匂いのする飲食街「ハモニカ横町」に「新しさ」を感じ賑わいを見せることとなった。一方、東京にも寂れた商店街は数多くあり、シャッター通りから古びた住居が立ち並ぶ通りへと変貌する、ちょうど過疎となった中山間地のように人の手が入らない場所が猪などの棲み家になると言った変化を観察してきた。つまり、あまり大仰なことを言う気はないが、豊かさを追い求める「商業」の本質を少しだけ学んだ。商業は生活そのものであり、商業なき生活などあり得ないと言うことだ。(その根拠については拙著「未来の消滅都市論」電子書籍版を参照してください)」今回の「人流」を止める作戦は見事なくらい失敗したと言うことだ。それは欧米のような法的強制力持たない日本という理由だけでなく、個々人、個々の企業がそれぞれ自制する判断、セルフダウンする能力を持ち合わせているということだ。東京の場合第三波における感染者が2400人を超える2という「シグナル」であり、大阪の場合は病床に収容できない状態、医療崩壊寸前状態という「シグナル」、そうしたシグナルによって「行動変容」するということだ。感染症の専門家は「人流」を止めることが唯一の切り札のようにいうが、それは教科書の世界で、現実は一人ひとりの心の中の「自制」を働かせる「鍵」を探すことに他ならない。「自制」とは自らの「自由」を制限することであり、個々人、個々の企業ごとに持っている。政治家も行政も、その「自由」を語らなければならないということだ。コロナとの戦いとは「自由」を取り戻すための戦いであるということである。ワクチン接種がゲームチェンジャーであると言われるが、自由を取り戻す入り口、その鍵であるということだ。ところで大阪府民の多くはは今回の宣言の延長、厳しい制限のままの延長について支持しているという。勿論、病床が逼迫し医療の破綻を感じているからである。日本における死亡数は年間約137万人。周知のように死因1位は癌であり癌にかかる人は2020年の予測値で約101万7000人。医療崩壊は早期発見、入院、手術・治療という高度な医療を受けることができなくなる。ある意味で「医療を受ける自由」がコロナによって奪われるということだ。そうした現実に対し一定の行動制限は「やむを得ない」と感じたからであろう。そして、大阪府の場合、昨年1月武漢からの中国人観光客のバスツアーで感染が発生したことを覚えているだろうか。中国人バスガイドと運転手が罹患したのだが、厚労省をはじめ大阪府も個人のプライバシーを守りながら「情報公開」している。つまりこの1年半近く府民と情報を共有してきたという背景がある。宣言の開始後、都の職員が盛んに新宿歌舞伎町や渋谷センター街に出かけ、路上飲みを止めるよう注意して回っているが、それはTVカメラを意識してのパフォーマンスで若い世代の行動を変えることはできない。若い性こそ自制すべき「根拠」、その合理性を求めているのだ。注意された若者は都の職員に向かって「義務ばかりで、何一つ権利はないのはどうしてか」と言っていたが、路上飲みはやめた方が良いとは思うが、心の奥底には「自由」を希求する気持ちがひしひしと感じる。政治家、行政は理屈に合わない、非合理な、公平性を欠いた「義務」を押し付けるのではなく、「自由」を取り戻す戦いの先頭に立つことこそが求められているということだ。例えば、山梨県のように感染対策を飲食事業者と住民とが共通した目標を持った「実行性」のある取り組みが行われている。私の言葉で言うと、事業者・住民が共に「自由を取り戻す」運動のようなもので、行政がそうした目標を持って取り組みを現場でサポートする仕組みとなっている。感染対策の鍵は「ワクチン」であると、しかも横浜市大の山中教授の研究から変異型ウイルスにもワクチン効果があると「根拠」を持った成果が発表された。こうした朗報もあるが、まだまだコロナとの戦いは半ばである。(続く)
2021.05.16
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ヒット商品応援団日記No787(毎週更新) 2021.5.9.米ワシントン・ポスト(電子版)は5日のコラムで、日本政府に対し東京五輪を中止するよう促した。その中でIOCのバッハ会長を「ぼったくり男爵」と呼び、新型コロナウイルス禍で開催を強要していると主張。「地方行脚で食料を食い尽くす王族」に例え、「開催国を食い物にする悪癖がある」と非難した。コラムは大会開催を前進させている主要因は「金だ」と指摘。IOCは収益を得るための施設建設やイベント開催を義務付け「収益のほとんどを自分たちのものにし、費用は全て開催国に押し付けている」と強調した。その上で、日本政府は五輪中止で「損切り」をすべきだと訴えた報道である。実は日本ではあまり報道されてはいないが、五輪に否定的な報道は米国で相次いでおり、ニューヨーク・タイムズ紙は4月、コロナ禍の五輪開催は最悪のタイミングで「一大感染イベント」になる可能性があると指摘。サンフランシスコ・クロニクル紙は5月3日、世界で新型コロナの影響が長期化する中、東京五輪は「開催されるべきではない」との記事を掲載している。そのバッハ会長は日本における緊急事態宣言と東京五輪開催は別問題だとして顰蹙を買ったが、まさにワシントンポストの指摘そのものの指摘に合致したコメント、自分さえ良ければとした考えでである。日本でもいくつかの世論調査が実施されているが、例えば共同通信社の全国電話世論調査では、今夏開催するべきだとした人の割合は24・5%、再延期するべきだは32・8%、中止は39・2%で、いずれも3月の前回調査の23・2%、33・8%、39・8%から横ばいだった。つまり、再度延期すべき及び中止を考える人は72%と圧倒的にコロナ対策重視に世論は向かっている。実は5年半ほど前に「ノンコンセプト・オリンピック」というタイトルでオリンピックが変質してしまったことについてコメントしたことがあった。ちょうどオリンピックのエンブレム盗用問題が新国立競技場のゼロ見直しに続き使用中止となり、またもや再度公募するとの発表があった時期である。記憶を辿れば、新国立競技場についてはその膨大な建設費について「何故」と思う人が大多数であった。1000兆円を超える債務をもつ日本にあっても、それでも意味ある費用であれば納得したことと思う。 そして、私は次のようにブログに書いた。『ところでそのコンセプトであるが、2020東京オリンピックがどんなコンセプトを持ってIOCに提案したかを語る専門家はほとんどいない。実は、そのキーワードは「スポーツ・フォー・トゥモロー」となっている。この「スポーツ・フォー・トゥモロー」を実行すると宣言したことで、日本の方針をIOCが高く評価し、それが招致決定の決め手になった。そして同時に東京五輪の実施にあたって、この「スポーツ・フォー・トゥモロー」の実行が求められるという経緯になっている。この経緯などについては作家村上龍が主催しているJMMに投稿し広く知られている米国在住の冷泉彰彦氏は、そのキーワードについて、3つのスポーツ貢献を果たしていくというものであったと指摘をしている。(詳しくは2014年8.5.のNewsweekの「コラム&ブログ」をご一読ください。)ところで、その貢献を簡略化するとすれば、1)青年海外協力隊などの活動として、途上国などに日本のスポーツ振興のノウハウや施設を普及させる。2)日本のスポーツ文化と世界の最先端のノウハウを融合した高度なスポーツマネジメントに関する国際的な人材育成を行う。3)そして、今盛んに行われているアンチ・ドーピング活動を国際的に支援する。調べた範囲は限られているが、概略は以上のようで、「スポーツを通じた未来への社会貢献」という意味合いについて、その社会貢献世界については誰もが納得理解し得るものだ。しかし、この方針はメッセージ性はあっても地味であるため、オリンピックのもつイベント性、お祭りというエンターテイメント溢れるビジネス世界とは異なるものである。よくロンドンオリンピックは成功したと言われているが、その成功のためには英国が抱えている多様な社会矛盾を視野に入れた一種の社会運動としてスポーツを位置付け、その目標にロンドンオリンピックを置いたことによる。つまり、お金をかけないコンパクトオリンピックもそうであるが、「オリンピックは儲かる」という転換点となったロサンジェルスオリンピック以降の反省、いきすぎた商業主義としてのオリンピックの反省を踏まえたものであった。周知のサッカー界においても同様で、汚職にまみれたFIFAの改革にも繋がる課題である。ある意味世界的なスポーツビジネスの潮流を踏まえたコンセプト、方針であった。これがロンドンオリンピックであり、東京オリンピックのポリシーであったと。こうしたポリシー・コンセプトを詰め、祭典というエンターテイメント世界との折り合いをつけるという進化の努力がまるで見られない。』更に記憶を辿れば、招致決定前の世論調査では、招致に賛成の日本国民はせいぜい50%程度で、マドリード78%、イスタンブール73%、と比較し一番低かった。こうした土壌からの東京五輪への取組であった。しかし、「コロナ禍」によって、当初の東日本大震災からの「復興五輪」から「コロナに打ち勝つ五輪」へと変質した。東日本大震災からの復興を五輪というスポーツを通じて広く世界に見ていただこうという趣旨であった筈である。それは1964年の東京オリンピックが戦争によって荒廃した日本の復興を同じように見てもらう趣旨と重なる。意味あるオリンピックは何かとはこうした社会に向けた「意味」のことである。ちょうど高度成長期の時期であり、その後の日本の大きな転換を後押しするスポーツイベントであった。長くスポーツを担当した新聞記者であった友人はこうしたオリンピックの変質を次のようにSNSを通じまとめてくれている。『私は、当面の問題は別にして、「五輪」がすでに重症の制度疲労を起こしていると思います。その1。開催誘致はロビー活動という舞台に、多額の裏金がバラまかれるという疑惑です。致命的な暗部でしょう。スポーツマンシップを知らないIOC委員が増えているようです。その2。テレビ放映権など、スポンサーが五輪の会期や聖火リレーまでも牛耳っている現実です。日本の猛暑、多湿の時期に開くなんて、だれも歓迎しません。これって、米TVネットワークの注文というのが暗黙の了解事項。挙げ句、マラソンコースはいつの間にか北海道へ。その3。五輪は、すっかり「ショー」になり、バラエティ番組化してきました。背景はアスリートのプロ化。今更、大昔のアマチュア至上主義に戻る必要はなく、スポーツが注目され、スポーツ環境が良くなるのであれば、ショーアップも少しは我慢してもいいですが。以上、野球に例えるなら、3アウトでチェンジ。東京五輪は今年は中止、五輪の真の姿を真剣に考えませんか。いずれ、出直し五輪を東北のどこかで開きましょう。コロナ禍という「災い転じて福となす」という格言通りに。これ蛇足。来年の北京冬季五輪はどうなるの?』コロナ禍によってオリンピックの「制度疲労」という本質が隠されてしまった。いや、逆にコロナ禍によって本質的な問題が炙り出されたと言った方が正確であろう。先日マラソンのテストマッチが札幌で行われたが、テスト当日の午後まんえん防止を政府へと申請すると鈴木知事から発表があった。札幌市民の多くはかなり以前から感染者が急増し早く手を打つべきであり、テストマッチどころではないと報道されている。また、その前にオリンピック開催に向けて医療体制の整備として看護協会に500名ほどの看護師派遣を要請し、コロナ対応で緊急事態にある医療に対し、それどころではないとする反発が湧き上がっている。こうした「反発」は東京五輪の内容がいまだに明らかにされないことによる。勿論、観客を入れるのか否か、無観客なのか、あるいは中止なのか、オリンピックの本質に関わる全体像がいまだに決められないことによる。政府も東京都も、その決断をする前になんとか感染者数を抑えなければという理由からで、バッハ会長の来日前に緊急事態宣言の期間を「短期集中」としたことは容易に感じ取れることだ。しかし、その緊急事態宣言は延長され、そのバッハ会長の来日は無くなるという顛末である。オリンピックによって振り回される構図がさらに明確になったということだ。ところで少し前になるが、小池東京都知事が東京五輪中止を言い出し、それで国民の支持を取り付け、国政に転出するという報道があった。東京五輪の1年延期を主導したのは安倍前総理だが、それは長年の天敵である小池都知事と手を組んでの行動だった。その流れから現職の菅総理が小池都知事と手を組み、IOC(国際五輪委員会)に働きかければという報道もある。つまり、東京五輪は「政局化」してしまったということだ。小池都知事にとって東京五輪は単なる主催都市の責任者ということであり、極論ではあるがオリンピックへの思い入れは無い。元組織委員会の森氏との確執を見れば分かることで、世論が「中止」に向かっていくならば、そのタイミングを見計って中止発言をするのではとメディアは待ち構えている。一方、菅総理にとっても少し前の訪米に際し、バイデン大統領からは「開催を支持する」ではなく、「開催の努力を支持する」と発言し、菅総理がバイデン大統領を東京五輪に招待することもなかったとする専門家もいる。つまり、菅総理も小池都知事も「同床異夢」ではあるが、共に「中止」へと向かう可能性はあるということだ。ただ東京五輪開催はIOCにとっては大前提であり、無観客開催であっても実行するであろう。放映権料というお金になるからであり、ワシントンポストが日本は「損切り」を選んだら良いのではと言っているのも、日本の収入は観客からの収入で、無観客であれば約900億円の収入が無くなる、つまり損切りを促すのはこうした背景からである。その損切りは訪日外国人観光客によるインバウンドビジネス含まれない。東京五輪をチャンスにと東京には多くのホテルが建設され、多大な投資の回収が見込めない状況となっている。また誰も試算しないが、建設された多くの諸施設は採算にあう施設もあるが、経済の復活次第ではあるがその多くは赤字になるであろう。豊洲市場の開発で莫大な赤字事業に加えて、東京五輪の負の遺産を抱え込むこととなる。社会貢献すべきスポーツ、東京五輪が果たすべきどんな「意味」があるのか? 「社会」とは生活者のことであり、事業を営む人たちのことであり、その人たちがコロナ禍によって苦しんでいる。特に前回も書いたが大阪の医療は既に崩壊しつつあると言っても過言では無い。収容できない感染者は自宅待機ということになり、亡くなる方も多数出てきた。既に隣県である和歌山などに分散収容しており、更に心ある医師や看護師は自発的に手弁当で大阪の現場に集まっていると聞く。コロナ患者を受け入れている病院だけでなく、府内の町医者も側面からも後方からも支援に回っている。ある意味、全国、いや日本社会が大阪支援に向かっているということだ。そんなコロナ禍で東京五輪の「意味」が問われているということである。バッハ会長の言うように、理屈上は日本のコロナ状況とオリンピックは別問題として考えることも成立はする。しかし、平和を標榜するオリンピックの隣でコロナ禍で亡くなる人がいるとしたら、その平和の祭典の意味は何なのか明確に宣言すべきでる。もしそれができないまま開催されるのであれば、私の友人が指摘するように「制度疲労」のまま、歴史に汚点を残すオリンピックになる。(続く)
2021.05.09
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ヒット商品応援団日記No786(毎週更新) 2021.5.2.ヒット商品応援団の主要なテーマは周知の通り「賑わい」で、その理由がどこにあるかを観察し分析することであった。そして、この1年コロナ禍によって賑わいがどのような「変化」を、街に、商業施設に、生活者心理に生み出してきたかを明らかにすることであった。コロナ禍にあってよく使われる言葉に「不要不急」がある。不要不急の外出は控えて欲しいといった要請が盛んに使われてきたが、3回目の緊急事態宣言では「人流」という聞き慣れない言葉が飛び交っている。人流を止めないと感染防止ができないという理由からだが、この1年感染の主たる原因は「飛沫感染」であることがエビデンス、主に状況証拠の積み重ねでわかってきた。今回の緊急事態宣言においてはこの飲食店を中心とした飛沫感染に的を絞っただけでは感染拡大を防止できないということからであった。但し、政府分科会の尾見会長をはじめその「根拠」、エビデンス(証拠)はないという。ある感染症の専門家は100年前のペストの流行以来感染防止には人の移動を止めることが一番であるからと感染症学の教科書のような言説を披瀝する。結果、欧米のような都市封鎖まではいかないが、百貨店や家電量販店をはじめ生活必需品以外の流通の多くに休業要請、もしくは時短営業要請が今行われている。さて、どんな「変化」がこのGWに起きているかである。まず不要不急の「人流」と言えば「旅行」となる。既にこのブログでも少し触れたが29日の新幹線の自由席の乗車率は東海道新幹線の下りで最大60%などと目立った混雑は起きてはいない。ただ、JR各社によればゴールデンウィークの指定席の予約状況は4月15日時点で去年の2.5倍を超えていると。また全日空によると、ゴールデンウィークの予約数は、去年と比べおよそ7.5倍と大幅に増加している。3回目の「宣言」発表前後での予約のキャンセルも7%にとどまったとも。つまり、不要不急の旅行は昨年の緊急事態宣言の時と比較し明確に増加しているということである。注視すべきは何故「増加」したかである。多くのコメンテーターは自粛疲れ解消とか我慢の限界を口にするが、表向きはそうした表現があったとしても裏側には昨年とは異なる生活者が見えてくる。それはいうまでも無く1年間コロナ学習をしてきた「生活者」の顔である。そして、昨年との比較ばかりが報道されているが、実はコロナ禍以前2年前と比較してどうかである。正確なデータではないが、昨年の2~3倍の増加ではあるが、2年前と比較し約20%弱にとどまっているという事実を踏まえなければならない。つまり、ある意味徐々に旅行へと踏み出したということであろう。ちなみにJTBの調査によれば、旅行に「行く」は10・3%で、例年の4人に1人から今年は10人に1人まで減少。「行く」と回答した10・3%を年代別にみると、男女とも若い世代をほど高く旅行日数は「1泊」が39・2%で最多。3泊までの旅行が8割以上で、旅行に行っても日数は控えめだ。ちなみに、例年報道されるGW期間中の高速道路の混雑情報はほとんど話題になってはいないが、やはり渋滞は起きているようだ。こうした不要不急の代表となっている「旅行」を見ても分かるように、移動に使う新幹線や航空機でのクラスター発生は無く、感染拡大地域を外せば安全であると。例えば感染が治った沖縄には観光客は多いという。那覇には松山という新宿歌舞伎町のような繁華街があるがそうしたエリアを避ければリゾートライフを満喫できるということだ。そして、連休前には都内のPCR検査ショップには長蛇の列が伸びていた。移動の前に少しの安心を得るためであるが、これが昨年のGWとの違いであろう。また、首都圏の知事が都と県の境を越えないでと盛んに自粛要請するが、GW期間中ばらつきはあるもののまんえん防止策の取られていないエリアへと見事なくらい「移動」している。例えば、首都圏郊外にある大型ショッピングモールなどへ出かけ映画を楽しんだり食事をしたり半日ほどの時間を過ごす。この1年キャンピングブームが加熱気味になっているが、周辺のキャンプ場は何処も満杯状況である。また、昨年の秋以降賑わいどころか混雑しているハイキングの高尾山であるが、緊急事態宣言発出前の駆け込み登山がひどい混雑であったと報道されていたが、期間中もケーブルカーや観光リフトの営業は続けており、「密」を避けたオープンエアな場所には賑わいを見せると思われる。また、「密」になることが想定される例えば観光地横浜の人気スポット「カップヌードルミュージアム」などは入館者の制限やアトラクションの一部休止など多くの措置が取られている。そして、桜木町とみなとみらいを結ぶロープウェイが開業し赤レンガ倉庫一帯は賑わいを見せるであろう。つまり、情報の時代であり、スマホで検索すればいくらでも楽しめる「場所」を探すことはできる。ところでこうした「賑わい」の中心は若い世代であるが、巣ごもり生活という一種の「自己隔離」を余儀なくされてきた高齢者はワクチン接種に殺到している。原因はワクチンの供給量が少ないためだが、公平平等を原則としたため、人口の少ない地方の市町村ではほとんど混乱は起きず、一方都市部では電話は繋がらず、HP上での予約サイトにもアクセスが殺到しシステムダウンを起こすなど一部地域の市庁舎には高齢者が押し掛けると言った混乱が見られた。重症化率、死亡率の高い高齢者にとってワクチンは不安や恐怖を解消してくれる唯一のものだからだ。政府も自治体も、高齢者の心理がどれほどであるかを推し量ることができなかったということだ。例えば、名古屋市の場合コールセンターに125回線を準備し、1日5000件の対応を想定していたが、実際には22日だけで、およそ1万5000件がかかってきたという。こうしたことは高齢者心理だけでなく、例えば東京都の場合、若い世代の感染率が高く、人出も多くその実態をつかみかねてのことから、渋谷などの街頭でヒアリング調査を行なっている。何故「出かけるのか」などの質問を友人同士など複数の若い世代を中心にした調査とのことだが、コロナ禍でしかも人出が多い渋谷などの街頭で「まとも」な答え、本音を引き出すことなどあり得ない。調査の手法であれば、複数人ではなく、個別のパーソナルインタビュー。あるいは深層心理を探るデプスインタビューなどが考えられるが、素人の東京都職員がインタビューしてもまともな答えなど得られるはずはない。これも政治における「やってる感」を演出する、パフォーマンスであると言われても仕方がない。若い世代を弁護するわけではないが、1年前には路上での飲酒など一切なかった。単純な話お酒を売る居酒屋での酒の販売を禁止したからである。この若い世代のパーソナリティについては「消費」という側面からかなり前から分析したことがある。昨年の夏この世代を悪者化する報道があったとき、詳しく分析結果をブログに書いたが、いわゆる「草食世代」と呼ばれた世代で「離れ世代」と呼んだことがった。車離れ、恋愛離れ、アルコール離れ、・・・・・・趣味と実益を兼ねた貯金を常に考える合理主義者である。彼らの「合理」に答えてあげることが感染防止に役立つということだ。その「合理」には当然のことであるが、感染のメカニズム、そのエビデンス、証拠がある。例えば、飲食の際の飛沫が感染源であると言われているが、それはあくまでも状況証拠でその状況の積み重ねでカッコ付きのエビデンスとしている。カッコ付きのカッコを外して欲しいという意見もあるが、状況とは具体的であり、どんな街のどんな飲食店でどんな人たちで何時間ぐらい・・・・・・・・そうしたことを明らかにすることである。思い起こせば、そうした具体的な事例が公開されたのは1年2ヶ月ほど前の大阪梅田のライブハウスでのクラスター発生で、どんな環境で何人ぐらいの客で、・・・・・・かなりの状況が明らかになった。こうした「事実」をもとにエビデンスが明らかになっていくと思っていたが、何故できなかったのか。それはこうした「状況」情報を集めていくのがいわゆる保健所による疫学調査であった。しかし、実態はこの「状況」情報はペーパーで行われており、・・・・・・これ以上言わなくも分かると思うが、デジタル化しておけば膨大な情報の解析、つまりビッグデーター解析に基づくより明確な証拠になり得たということだ。現在、約58万程の感染者の感染状況が明確になったということである。これはクラスター発生の追跡だけでなく、生活者にとっても事業者にとっても意味ある対策、特に若い世代にとっても合理的な「答え」となる。今となっては死んだ子の年齢を数えることになってしまうが、今も苦労している保健所、現場の情報が生かされることにつながる筈である。情報の活かし方が決定的に間違っていたということである。根拠がないまま対策がなされるということは後手後手になるのは必然であり、生活者は勿論感染防止の最前線となっている飲食店はじめ多くの事業者に犠牲を強いることに終始する。今回の「人流」を止めることによる感染拡大防止策は解除の目標が示されないことから今回の緊急事態宣言の成功・失敗といった論議もない。ビジネスの世界で言えば破綻に向かうということだ。唯一免れることができるとすれば、ワクチン接種のスピード以外にない。俯瞰的に見れば、前回書いたように夏には旅行を始め高齢者の移動は活発化する。人流の中心は若い世代を含め高齢者が一挙に増加する。そして、新たな賑わいを含め、多様で小さな賑わいが都市部でも地方でも見られるようになる。日本経済の立て直しの先頭に高齢者がなるであろう。高齢者が求めていることは、何よりも子や孫と会うことである。三世代旅行をはじめ孫へのプレゼントなど大きな消費が生まれる。例えば、コースにもよるが37万円~80っ万円という|JR東日本の豪華寝台列車「四季島」2021年夏季出発分の申し込み受付開始 が開始するが、こうした旅行商品に申し込みは殺到するであろう。またインバウンド需要のない苦労している百貨店も活況を見せるであろう。ワクチン接種によって消費都市は復活し、次第に地方へ波及していくであろう。そして、地方への波及のパスポートにはPCR検査証明ではなく、ワクチン接種証明書になる。安心へのエビデンス・証拠はワクチンということである。今年のGWはおそるおそるの移動であったが、本格的なコロナとの共生、季節性インフルエンザと同じような「日常」、小さな賑わいは高齢者市場から始まるということだ。(続く)
2021.05.02
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ヒット商品応援団日記No785(毎週更新) 2021.4.21.2回目の緊急事態宣言の解除から数週間で「まん延防止等重点措置」(以降「まん延防止」)が10都道府県に広がった。特に心配なのは大阪で連日1000名を超える感染者が出ており、重症者病棟が満床状態となり医療危機に直面している。ips細胞研究所の山中伸弥教授のHPには人工呼吸やECMOを必要とする重症患者の状況を集計・公開されている。(東京と大阪の推移グラフ)その焦点はイギリス型の変異ウイルスで感染力が強いことは感染者数の右肩上がりのグラフを見てもよくわかる。そしてこの二人の知事に共通していることは、「より強い防止=抑制策」の実施で、吉村知事はその防止策の事例として百貨店やUSJ(ユニバーサルジャパン)」の休業要請を挙げている。小池都知事の場合は、そこまでの踏み込みはしていないが、「東京には来ないでください」「買い物は3日に1回」といった生活行動の抑制を要請している。1年前の緊急事態宣言発出後の「いつか来た道」を思い起こさせる。この1年不便さを超えた「我慢」はなんのためであったのか。生活者・個人にとっては行動の「自由」を得るためのものであり、多大な犠牲を払った飲食事業者にとっては時短という制限から解放されるいわば「営業の自由」を手に入れるためであった。ところで先日興味ある発表があった。それはJR6社の2021年GWの指定席予約状況の発表で、対前年240%、対前々年19%とのこと。昨年のGWの予約の240%についてTVメディアはほとんど取り上げていないが、不要不急の象徴でもある「旅行」に出掛ける生活者は増えているという事実である。そして、予測するにGW期間中には蔓延防止の対象となっていない近場の観光地、鎌倉や箱根などには多くの人が訪れるであろう。前回のブログで「自己判断で動き始めた 」と生活者の行動について触れたが、まさに生活者は既に動き始めているということである。勿論、最近の旅行商品にはPCR検査付のものも多くなっており、本格的には前回書いたように夏前から本格的な旅行が始まる。この件については星野リゾートの星野さんも米国のようにワクチン接種を済ませて旅行を楽しんでもらいたいと発言しているが、このGWはその先駆けであると言える。また、感染が治っている地方の知事からは県内旅行を推進してほしいとの要望を取り上げたが、その本質は都市と地方との「違い」が明らかになったということでもある。その象徴として山梨県の感染防止策の成功例が盛んに取り上げられていたが、2つの問題が横たわっている。新型コロナウイルスという感染症は「都市の病気」であるということと、山梨県のように飲食店・消費者・行政が一体となって一つの「運動」として実施されている点にある。東京都の場合はその人口だけでなく飲食店などの規模の大きさから「出来ない」こととして、全て現場の飲食店におけるコロナリーダーのように任せるやり方、悪く言えば悪しき役所仕事にしてしまっている。つまり、行政の「あり方」、リーダーの認識の違いが明確になったということである。ちなみに成功している山梨県の飲食店への休業要請個別解除方式や“やまなしグリーン・ゾーン認証制度”などは実は昨年5月の知事会見から始まっている。東京・大阪でやっと始まった現場への「見回り隊」と根本的に異なるのは、「個別」に対し丁寧に職員が対応している点にある。勿論、アクリル板などの補助はを始め休業や時短などの解除も個別に行っており、現場の納得を得ながらの感染防止対策である。今、後手に回ったという非難を避けるために政治・行政は「先手」「先手」の合唱となっている。大阪も東京も見廻り隊にさける職員がいないため外部に委託ししかも委託会社はあっるバイト墓所を行っている次第である。どれだけ実効性があるのか極めて疑問である。しかも、アクリル板の製造メーカーには注文が殺到しているという。この1年間何をしてきたのか誰もが感じているところだ。また東京都知事はエッセンシャルワーカー以外は「東京に来ないでください」とテレワークの推進を訴えているが、相変わらず抽象的な言葉ばかりで、これもお願いだけでテレワークの実施率などは都のHPで公開されているの見られたら良いかと思うが、企業の規模の違いはあるが平均週3日以上が53.5%とのこと。また対象外となっているエッセンシャルワーカーはその裾野は広く内閣官房によれば全国では約2725万人に及んでいる。つまり医療関係者や小売業従事者などどこまでという線引きは極めて難しいということである。こうしたエッセンシャルワーカーを含め約300万人弱が東京に通勤していると言われているが、具体的なことは明言していない。そもそも「東京に来ないでください」とは東京が感染源であることを自ら認めていることになる。昨年夏当時の菅官房長官から「東京問題」、あるいは埼玉県知事からは「東京由来」と言われ否定してきた都知事の言う言葉ではない。政府分科会の尾見会長からは東京からの感染拡大を「滲み出す」と繰り返し指摘されてきたが、都市と地方と言う視点に立てば、東京・大阪と言う「密」な地域・都市は感染防止策を徹底して欲しいと生活者は求めている。そして、今大阪発の変異ウイルスが東京にも広がってきていると言うことだ。そして、今回の第4波と言われる感染の拡大の特徴は従来の20代~30代と言う若い世代に加えて10代にも広がっていると言われている。東京も大阪も10代対策についてはクラブ活動の自粛やオンライン授業などによりすでに手が打たれている。しかし、新規感染者の半数を占める若い世代に対しどのような対策を用意すべきか明らかにされてはいない。せいぜい路上での飲酒をやめてほしいとのメッセージだけで、大多数を占める若い世代へのメッセージは相変わらず皆無である。彼らの日常的な飲み会は仲間内の住まいマンションやアパートや最近増えているのが飲み物や食べ物の持ち込み可能なレンタルスペースなどでの小さなホームパーティ・宅飲みを開いており、渋谷などでの路飲みは極めて少なく実質的なメッセージにはなってはいない。それほどまでに飲みたいのかのかなど馬鹿なことを発言するコメンテーターもいるが、彼らもまた仲間との「居場所」を求めての行動である。しかも路上と言うオープンエアーな場所では感染リスクは小さいと言う理屈からである。繰り返し言うが、彼らは大人以上に合理的な価値観を持っている。感染のリスクについても明確な「根拠」「証拠」を欲しがっていると言うことである。身近な友人に感染者はいなく、感染リスクその若い世代にも多い後遺症にrついても「実感」出来ないことから、行動を変えるには至らないと言うことだ。感染症の専門家は急速に収束に向かっている英国の事例を出して、その主たる要因は2つあってワクチン接種とロックダウンであると。前者については根拠を踏まえ納得できるが後者については日本に置き換えることはできない。英国の場合感染者数は約439万人、死者数は127,260人である。3度のロックダウンを国民が受け売れたのもこの死者数=恐怖と悲しみによって可能となったことを忘れてはならない。ちなみに日本の場合、死者数は4月17日時点で9,581人である。しかも、日本の憲法では営業の自由、行動の自由、個人の権利は保証されている。だから例えば強制ではなく要請、要請に応えたら保証金ではなく協力金となる。簡単に英国のようにロックダウンなどとは言えないということである。もし英国のような人流を根本的に止める強制力のあるロックダウンをしたのならば、ロックダウン法を新たにつくらなければならないということだ。そして、変異型ウイルスの恐怖を必要以上発言する感染症の専門家も出てきているが、養老孟司さんの「馬鹿の壁」ではないが、例えばテレビの情報だけで「わかっている」と思い込む人々、しかも若い世代はその情報源であるTVをほとんど視聴しない。その本質は自戒を込めて言うが、「人は欲しい情報しか手に入れようとはしない」と言うことである。養老さんは現代人は「身体」を忘れてきたとも言っているが、私の言葉に置き換えるとそれは「実感」となる。前回のブログにも書いたことだが、生活者・個人は「自己判断で動き始めた 」と。その根拠は東京の場合は過去なかった1日2500人を超す感染者の数字という事実に起因すると。1年前は志村けんさんのコロナ死であったが、1年間のコロナ学習の結果がこの感染者数であったと言うことだ。変異型ウイルスという実感の無い「恐怖」によって行動の抑制はできないと言うことである。既に多くの人はこの1年我慢を自己への要請を重ね限界に来ている。抑制という緊張は限界を超えてきている。高齢者は季節性インフルエンザを含め肺炎球菌など感染症の恐ろしさを実感している。しかし、若い世代にはそうした経験はない。新型コロナウイルスに罹患しても軽症か無症状で済むという「情報」のままである。求められているのは、自己判断のための実感し得るだけの「根拠」「証拠」を明らかにすることに尽きる。少し前に自民党の二階幹事長は民放のテレビ番組で、番組司会者から「中止の選択肢もあるのか」と問われた二階氏。すると、「当然だ。オリンピックでこの感染病をまん延させたら、何のためのオリンピックか分からない」「その時の(感染状況)の判断で良い」と答えたという。この発言が話題となっているが、多くの生活者・個人は至極当然のことと思っているであろう。その主催都市である東京の知事は「東京には来ないでください」と発言している。選手以外でも大会関係者だけで3万人ほどとなるがその関係者にも「東京に来ないでください」と言わないのだろうか。そもそも「東京には来ないでください」ではなく、「東京からは出ないでください」が正しいのではないか。昨年夏お盆休みの帰省に対し、地方からは「東京からは来ないでください」との声が上がった。帰省に対し、自粛警察といった嫌な動き見られたことを思い出す。大阪も東京も「まん延防止」ではなく、緊急事態宣言の発出を政府に求める方向であると報道されている。「いつか来た道」の再現である。いや昨年の春以上の「抑制」は日本の社会経済全体に及ぶであろう。この1年生活者・個人と飲食事業など特定事業者のセルフダウンによってワクチンの普及までの時間稼ぎとしてなんとか持ちこたえてきた。最近使われる言葉に「人流」がある。簡単に言えば、「人出」をなくすことであり、もっと極端に言えば「移動」の抑制である。しかし、前回のブログにも書いたが既に生活者・個人は「自己判断で動き始めている」。このギャップ、都市と地方とのギャップ、間近に迫った東京五輪への賛否の開き、・・・・・・・・。1年前は新型コロナウイルスという「未知」への恐怖によるセルフダウンであったが、変異型ウイルスは行動抑制につながる「未知」となり得るのであろうか。日本の場合、英国のように死者が10数万人に及び恐怖によって行動が変わるとは思えない。ここでも変異型ウイルスの恐ろしさの実態、根拠、証拠、実感できる事実がない現在、感染症の収束には移動しないで家に篭るのが一番であるといった感染症の教科書のような言説によって行動が変わることはない。少なくともこの1年間の学習経験してきた生活者・個人を前にした実感ある「ことば」、更なるセルフダウンを促す自己規範が待たれる。1年前は「8割おじさん」と言われた西浦教授は、その後数理モデルによれば「このままでは42万人が死ぬことになる」との発言からその信頼は失われた。唯一実感あることばとして聞く相手がいるとすれば、現場の医療を支える医師たちの「ことば」であろう。「人流」を止めることしか方法がないのであろうか。大阪のUSJ(ユニバーサルジャパン)でクラスター発生したのであろうか、感染対策についてはかなり厳しく行われている。2つのテーマパークにはシステムの違いはあるものの個人情報が登録されており、感染があればいつでも追跡できるシステムとなっている。入場者数の制限はあるもののそれでも楽しめるものとなっている。レストランでの飲食についてはマスク飲食の厳守とはなっていないが、更に厳しくするのであれば飲食はクローズすれば良い。また梅田の阪急百貨店はどうであろうか。東京もそうであるが大型所業施設における感染対策はこれもかなり厳しく行われている。1年前パチンコ店の行列を盛んにTVメディアは感染拡大につながると批判してきた。しかし、パチンコ店でのクラスター発生はほとんどなかった。犯人探しばかりで、第一回目の緊急事態宣言によってどれだけの効果があったのか。確かに感染者数は減少したが、その根拠はなんであったのか。犠牲を払った結果について政治家だけでなく、感染症の専門家と言われる誰一人として触れることはない。宣言の解除後、東京の場合であれば都知事の「夜の街発言」によってまた悪者探しが始まる。新宿区長は夜の街の現場に入り分かったことは、例えばホストと顧客との間の感染ではなく、狭いアパートやマンションに数名のホスト同居がクラスター発生の主たる原因であることがわかった。・・・・・・・この1年何をしてきたのか。大阪吉村知事の発言に新たな悪者として挙げた大型商業施設である百貨店協会やショッピングセンター協会は共に反発している。人流・人出の目的となっているこうした商業施設を休業すれば人は移動しないと言う理屈からだ。つまり、「公共」の名の下に「我慢」してくれというわけだ。その公共とは何かと言うことだが、山梨県のように事業者・消費者にとって感染防止に努力しさえすれば「自由」を手に入れることが出来る。花見も飲酒も自由に出来る「公共」「である。営業の自由、私権の尊重に基づく感染防止策である。現実問題として、既に手遅れという状態に立ち至っており、緊急事態宣言の発出に際し100歩譲ったとしてもその休業補償は飲食業における1日6万円以上の協力金と同じレベルにならなければならない。大型商業施設への保証・協力金は莫大なものになるであろう。考えるまでもなく、これは税金である。生活者・個人、特に若い世代はTVメディアのよって創られた「世間」と言われる情報の嘘を敏感に感じ取ってきた。「人流」ということばで抑制を図ったとしても、ある意味巧みに楽しさを見出すであろう。そこには新たな環境のもとでの暮らし方を探る賢明な生活者・個人がいる。変わらなければならないのは、政治、行政、感染症の専門家、そしてTVディアである。こうした学習をしない懲りない人たちと生活者・個人、特に若い世代とのギャップは更に大きくなる。(続く)
2021.04.21
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ヒット商品応援団日記No784(毎週更新) 2021.3.31前回のブログでコロナ禍1年今一度「正しく 恐る」という生活者・個人の認識を考えてみた。ちょうど1年になるが新型コロナウイルスと出会ったのはあの国民的コメディアン志村けんさんのコロナ死であった。この衝撃は感染症専門家あるいは政治家のどんなコメントよりも深く心に突き刺さった。幼い子供から高齢者まで、その「事実」に心動かされた。その後第一回目の緊急事態宣言が発出されるのだが、前回のブログに書いたように、感染者数という「事実」によって行動の変化が促されると。調査をしたわけではないが、多くの飲食店事業者は感染者数という事実の変化と共に来客数が変わることを実感していると思う。つまり、感染者数という「事実」による心理に基づいて行動もまた変わるということである。第2回目の緊急事態宣言発出後、その延長の是非を国会で議論されていたが、実は極めて重要なことが答弁されていた。マスメディア、特にTVメディは相変わらず無反応であったが、政府諮問委員会の尾見会長は3月5日の国会答弁で、新型コロナがいつ終息するのかを問われ、「(国民の間に)季節性インフルエンザのように不安感、恐怖心がないということが来る。その時が終息」と発言している。つまり、不安感、恐怖心という「心理」がインフルエンザのようにある意味日常の出来事として受け止められるようになったらということである。それはいつまでかと聞かれ、今年一杯から来年位かけて2年ほどと答えている。この国会答弁後に麻生財務相の記者会見で、記者に「いつまでマスクをしなければいけないのか」と記者に逆質問し、その質問の仕方が麻生さんらしく不躾であるとTVでも話題になった。記者の答えは「当分の間」と答え、麻生財務相は「政治家みたいな答えだな」と皮肉っぽくやりとりしていたが、政治記者なら尾見会長の発言を踏まえて、「あと2年近くは」と答えるぐらいのことは当然であろう。この程度の政治記者だから、国民にとって極めて大切な尾見会長の「仮説」が報道できないのだ。余計なことを書いてしまったが、前回も書いたがコロナ禍の課題はウイルスという身体的な「病気」であると同時に心理の「病気」でもあること。及びこの2つの病気は長期戦になるということが重要だ。ところで東京都は4月21日まで飲食店・カラオケ店の時短営業を延長することを決めた。感染者数は300人台で下げ止まり、増加傾向にあることからとその理由を説明しているが、緊急事態宣言の発出から3ヶ月半を超えることとなる。前回のブログでも書いたように生活者・個人は自己判断で巣ごもりからの活動を始めている。その象徴であるのが、旅行であろう。まずは近場の小さな旅であるはとバスの桜観光には多くの予約が入っており、箱根の旅館・ホテルにも賑わいを見せ始めている。こうした生活者・個人の行動変化と共に時短の対象となった飲食事業者の問題指摘が表面に出てきた。グローバルダイニングによる東京都の提訴である。大きくは2つの指摘で、1年前から指摘してされてきた特措法の改正で時短要請ではなく時短を命令できるとした憲法で保障されている「営業の自由」に反すること。更には協力金の不公平さについてであり、もう一つが特措法にある命令の出し方、グローバルダイニングがSNSで東京都を批判していることに対し「見せしめ的措置」で表現の自由に反しているのではないかという2点についてである。すでに報道されているように、午後8時までの時短営業を拒否した飲食店は2000店以上あったが、この要請に従わなかった113の店舗に都は個別の時短要請を出した。18日に時短を命じられた27店のうち26店が、グローバルダイニングの店舗。SNSで都に批判的なメッセージを投稿したことなどに対する見せしめだという判断からの提訴であった。改正特措法について国会でも論議されていたが、命令違反企業への過料の是非などばかりであったが、論議して欲しかったのは「命令」の適切な運用であり自粛協力金の「公平さ」であった。グローバルダイニングのゼストなどはその多くは数百坪の店舗であり、小さな店舗と同じ6万円の協力金の不公平さである。この問題指摘は1年近く経っているにも関わらず国会で論議されることなく改正されたことは周知の通りである。政治家がいかに現場を知らないかの象徴的事例であるが、行政が公共に反する行為に対し、権力を行使できるのはまず行政の努力をしてからであると飲食事業者だけでなく多くの生活者・個人は考えている。法律的には今回の「命令」には瑕疵はないとする法律家は多いが、生活者感情とは大きく異なる。いづれにせよ司法判断が待たれる問題である。またしても脇道に外れてしまったが、マスクをしないで済む日常にはまだまだ時間がかかるという課題である。昨年の4月第1回目の緊急事態宣言が発出されてからは、一定の間隔を空けての客席配置、あるいは来店客数の減少に合わせての食材仕入れの調整やアルバイトやパートさんたちのシフト変更・・・・・・・・政府からの各種支援制度の検討と申請。そして、実際に店舗を運営していくこととなり、場合によってはテイクアウトメニューの開発や店頭での販売の工夫など現場での1年間を経験してきたと思う。勿論、感染予防のためのアクリル板や衝立など徹底してきたことは言うまでもない。ある意味「引き算」の経営であった。2月の未来塾では困難なかで闘っている飲食専門店と商業施設を取り上げた。そこには「不要不急」の中に楽しさを見出したり、鬱屈した日常に「気分転換」と言う満足消費があった。日常をどう変えていくかという新たな価値が賑わいを創っていることがわかる。(今一度参照してほしい)競争相手はコロナであり、困難さは同業種皆同じであるが、そこに共通していることは顧客変化を見逃さない強い意志と眼を持っているかである。そして、顧客が求めていること、それは業態の転換と言った大仰な変化ではなく、日常の中に小さな変化を求めていることがわかる。この1年否応なく行ってきた引き算の経営ではなく、小さなメニューやサービスを見ていく「割り算」の経営への転換である。二分の一、4分の1、8分の1という小さな単位で見ていくことの中に顧客が求めている「変化」が見えてくる筈である。割り算とは時間帯顧客であったり、常連客であったり、勿論男性・女性あるいはファミリー・お一人様と言った属性の違い。こうした割り算の見方を変えれば自ずと「自覚」と「発想」を変えていくことになる。例えば、私の好きな弁当に焼売の崎陽軒がある。若い頃新幹線で食べて以来、時代の豊さに比例し副菜はどんどん進化してきた。その中に「あんず」がある。どのようにそのあんずを食べているのかであるが、最後の一口デザートとして食べる人もあれば、箸休めの変化として食べる人もいる。人それぞれ思いは異なるが、こんな小さな「変化」もまた崎陽軒フアンづくりに役立っていると理解している。こうした「小さなこと」への着目は危機にあっては原点に戻ることでもある。例えば、今コロナ苦境にあるはとバスは債務超過にあった時、変わるために行なったことの一つが顧客の声を聞くことであった。「お帰りBOX」という仕組みで、ドライバー・添乗員はその日あったこと、お客様が口にしたことをメモにして改善していく。その中には「休憩に出されたお茶がぬるかった」と言った小さな声に気づき改善を重ねていく。その積み重ねが再生への道へとつながったことを思い出せば十分であろう。この「小さな」変化の取り入れは持続可能なことのためであり、しかもあまりコストをかけずにできることである。しかも、顧客に一番近い現場で行うことができる。例えば、季節の花一輪をテーブルに飾ってみる。日本人は季節の変化を花によって感じることが多い、5月になればツツジ、梅雨に時期でになれば紫陽花のように。あるいは季節の祭事もアクセントとして店内に飾るのも良いかもしれない。端午の節句時期ならば鯉のぼりであったり、母の日であればカーネーションも良いかと思う。現場の人に負担をかけずにできるアイディアを採用したら良い。巣ごもり生活で失ってしまうのは人と人との会話であり、自然である。こうしたひととき和むアイディアは小売業が常に行なっているもので、こうしたことを飲食業も取り入れたら良いかと思う。ところで顧客接点である飲食業や専門店にとって注視しなければならないのは生活者・個人の「動き」である。前回のブログにも書いたが、東京都の場合緊急事態宣言というメッセージ効果ではなく、2520名という感染者数の「事実」によって自制のブレーキがかかり300名台へと減少させた。勿論、飲食事業者と生活者・個人の犠牲のもとでだが、実は生活者・個人の行動、「動き」にはこの1年少しづつ変化してきている。コロナ禍1年繰り返しブログに書いてきたことの一つが「正しく 恐る」ことであり、その「正しさ」とどのように伝えてきたかである。これ以上書かないが、極論ではあるが「恐怖」を煽ることで自粛要請をしてきた。その「煽り」を率先してきたのはTVディアであった。そのTVメディアであるが、若い世代の路上飲酒(路のみ)などを取材し放送しているが、相変わらず若者犯人・悪人説を続けている。これも繰り返し書かないが、この1年「若い世代は重症化リスクは少ない。軽症もしくは無症状者である。」と言った情報を流し続けてきた結果であり、無症状者が感染させるメカニズム、その証拠を明らかにしてはいない。第1回目の緊急事態宣言についてもどんな効果があったのか検証すら行われていない。昨年春、ロックダウンではなく「セルフダウン」を若い世代を含め国民は選んだと書いたが、感染症専門家も政府自治体も更にTVメディアも「自粛疲れ」「我慢疲れ」「慣れ」と言った言葉で説明してきているが、生活者・個人は既に自己判断で行動し始めていると理解すべき段階に来ている。簡単に言ってしまえば政府も・自自治体の首長のいうことを聞かなくなってきたと言うことである。ここ数週間人出が多いとするテーマで街頭で取材をしているが、取材に応じた多くの人は「びっくりするぐらい人出が多い」と答えている。そこには自分だけは別であるとした考え、自己判断が働いていることがわかる。「私だけは別」という人間が増えている。つまり、自己判断で行動する人たちはどんどん増加しているということだ。こうした中、緊急事態宣言が解除された3日後の今月24日、東京・銀座の居酒屋で厚労省職員23名が深夜まで宴会をしていたことがわかった。しかもアクリル板などの飛沫予防などしていない店であったと報道されている。感染リスクの高い歓送迎会や旅行などの自粛要請をしてきた厚労省職員の行動に唖然とする。また、一方東京都は改正特措法45条に基づく午後8時までの営業時間短縮命令に応じなかった4店舗について、過料を科す手続きを裁判所に通知した。対象となった店舗については公開されていないが推測するにグローバルダイニングであろう。違反していた2000数店舗全てに過料するのであれば少しの理解はできるが、4店舗だけというのは見せしめ以外の何ものでもない。法の平等性に反するものだ。そもそもこの過料については極めて悪質な飲食店へのものでその運用は慎重にすべきとの議論であったが、こうした強権的なやり方に批判は集まること必至である。混乱は更に深刻さをましていくことが予測される。感染力の強い変異型ウイルスという要因もあるが、一番の課題は生活者・個人が自己判断で行動を変え始めているということである。その兆候は既に若い世代から始まっている。ここ数ヶ月感染者の内訳を見ていくと相変わらず20代~30代が多い。昨年の秋頃であればこの世代に特徴的な軽症者の後遺症について盛んに報道されていたが、そのリスクメッセージの効果がないと見たのか、現在は後遺症キャンペーンはTVメディアではほとんど見られることはなくなった。また、若い世代ばかりか高齢者にも同じ兆候が見られ始めている。ある意味元気な高齢者であるが、ここ数ヶ月高齢者グループによる昼カラによるクラスター発生が起きている。また前回のブログにおいても触れたが、東京・大阪といった都市部が感染の中心課題であったが、諮問委員会の尾見会長の言葉によれば「染み出す」ように地方へと拡散している。その象徴としては宮城仙台や愛媛松山であるが、一方感染者は極めて少ない地方、しかも大都市に隣接する山梨や和歌山のような感染者のいない日常に戻った県もある。全て一律に行うことは意味のないこととなったということだ。こうした中、依拠すべき判断は目の前の「顧客」である。自己判断を始めた顧客の変化にいち早く気づき小さく応えることしかない。(続く)
2021.03.31
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ヒット商品応援団日記No783(毎週更新) 2021.3.21政府は約2ヶ月半ほど実施して来た緊急事態宣言を解除した。その背景には病床の改善もあるがだらだらとした宣言状態であれば効果はないとすることのようだが、実は生活者、特に若い世代にとって「解除」は既に始まっていた。東京都の場合、1月7日の宣言発出翌日には感染者数が過去最大の2520名となった。以降、対策としては飲食店の時短とテレワークの推進を行いある意味で劇的な感染減少へと向かう。その効果であるが、実効再生産数(感染の拡大)の0.2程度の引き下げが見られたとの報告があるが、基本的には飲食店経営者と生活者個人の犠牲のもとでの減少である。諮問委員会の尾身会長は、「何故減少したのか、現在下げ止まっているのか科学的根拠がわからない」「見えないところに感染源があるのではないか」と国会答弁で答えていたが、この1年間明確な根拠がないまま対策を行なって来たことの象徴的発言であろう。1年前から感染症研究者や経済学者以外に、社会心理の専門家も諮問委員会のメンバーに入れるべきであると指摘して来たが、社会行動を変えるにはその「心理」を分析することが不可欠であるとの認識からであった。この2ヶ月間都知事が「ステイホーム」といくら叫んでも「人出」は減少どころか時間経過と共に次第に増加して来ている。2月に入り、700名ほどいた感染者は半ばには500名まで減少する。この頃から夜間の人出は少ないが週末や昼間の人出は増加へと向かう。何を基準にして人出の増加と言う行動変化が起きたのか、その最大の基準は「感染者数」である。特に、感染しても無症状もしくは軽症で済む若い世代はコロナ禍からある程度自由であることからで人出増加の最大理由となる。よくメッセージが若者には届かないと感染症専門家や政治家は言うが、行動を変える言葉(内容)を持ってはいないことによる。特に、無症状者が感染のキーワードとなっていると指摘する専門家は多いが、その科学的なエビデンス・根拠を明らかにしたことはない。若い無症状者が重症化の恐れがある高齢者にうつす危険があるため自重してほしいと感染症専門家は発言するが、若い世代にとって、高齢者の犠牲にはなりたくないと考える若い世代は多い。何故なら、こうした感染の根拠が示されない現状にあっては、個々人の判断は感染者数の増減に基づいたものとなるのは至極当然のこととなる。若者犯人説の間違いは、その若者について間違った認識からで、今まで何回か指摘したので繰り返さないが、彼らは明確な根拠があれば自ら判断し行動する合理主義者である、SNSを使うデジタル世代と言われるが、決定的に足りないのが「経験」「リアルさ」であることを自覚してもいる。例えば、若い世代に人気の吉祥寺には昭和レトロなハモニカ横丁とトレンドファッションのPARCOのある街であることを思い浮かべれば十分であろう。(詳しくは昨年の夏に書いたブログ「「密」を求めて、街へ向かう若者たち 」を参照してください)桜の花見は感染の拡大に結びつくので一番の強敵であると感染症の専門家は口を揃えて言うが、花見だけではない。言葉を変えれば、行動を変えるのは「変化」への興味のことであり、季節の変化だけではない。2回目の緊急事態宣言発出以降、「人出」が増えた場所、施設はどこかを見れば明らかである。ここ1ヶ月ほど賑わいを見せているのがまず百貨店で、しかも食品売り場の混雑はコロナ禍以前と同じである。最近では北海道物産展などイベントが行われているが、その混雑度は最盛期のそれと同じである。ちなみに、百貨店協会の1月度の売り上げレポートが発表されている。緊急事態宣言により1月度の全体売り上げは前年同月比▲29.7%となっているが、その内容を見ていくと株高の反映と思われるが貴金属・宝飾品は▲10.1%、食品は▲18.9%と比較的減少幅は小さい。これは1月度の売り上げであり、2月には更に増加していると考えられる。また、百貨店やショッピングセンターなどの商業施設はもとより、人数制限なども行われる映画館やテーマパークを始めとした多くの興業施設でも感染予防対策が採られ、クラスター発生は聞いたことがない。ただ、埼玉県ではカラオケ店(昼カラ)でのクラスター発生が報告されているが、感染予防対策が採られていないことが明らかになっている。ところでここ数日感染者数が大きく増加しているのが宮城県である。現在の実効再生産数(感染の広がり)」が1.56となっているが3月7日時点では2を超えるまでに上がっている。日経新聞によれば、「宮城県と仙台市は17日、1日あたりで過去最多となる計107人が新型コロナウイルスに感染したと発表した」と。この急激な増加の背景・理由であるが、2月初旬から下旬にかけては1日の感染者数が1桁になる日も続いたことから、県は2月23日に国の「Go To イート」事業を再開させたが、その因果関係は明らかではないが、結果として感染が再拡大したと知事自ら反省していると記者会見で語っている。仙台市内繁華街である国分町で感染者が多く、いわゆるリバウンドであるが、先に解除となった大阪でもその傾向は出て来ている。但し、大阪市内ではそうしたリバウンドの傾向は出ているが、大阪府周辺の市区町村では起きてはいない。ちなみに宮城県は独自に緊急事態宣言を発出したが、このリバウンド見られる「傾向」も何がそうさせたのか、その根拠が明らかにはされていない。第一回目の緊急事態宣言の時も発出する前の3月末には感染のピークアウトを迎えていた。今回の2回目の緊急事態宣言の場合も感染ベースで言うと年末にはそのピークを迎えていたとする専門家も多い。つまり、対策は常に「後手に回る」こととなる。その反省からであると思うが、今回の政府の方針の一つが無症状者を含めたモニタリング調査によって、表には出ていない感染源を見出し対策をとる、そんな調査手法と思われる。昨年8月スタートしたアドバイザリーボードが分析するとのことだ。やっと本来の主要な活動が始まったと言うことだろう。但し、問題はその運営である。スピードが求められる調査であり、その調査結果から得られた課題解決をすぐ実行すると言うものだが、果たしてできるのかいささか疑問に思う。何故なら、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)の失敗も国にアプリ開発の専門家がいなかったことによる。更には例えば飲食店へのいくつかの給付金すら遅れ遅れになって窮状を訴えている状況下での行政運営である。既に栃木県宇都宮市で通行人に対し、この調査が行われているが、栃木県の場合陽性者はゼロであったと報告されている。サンプル対象者は600名で回収は536名と言う結果であったが、市中感染の想定からとしてはサンプル数がいかにも少なすぎる。読売新聞によれば、東京都が行なっているモニタリング調査の場合、1万4000人への抗体検査で陽性率は1・8%とのこと。問題なのは、調査における「仮説」を含めた調査設計の仕方にある。仮説次第で、その設計によって調査の成否が決まる。しかも、隠れた陽性者を発見するには膨大なサンプル数を必要とする。そして、このモニタリング調査をもとに更に深掘り調査によって「新たな感染源とそのメカニズム」が見出される。前者をPCR検査による陽性者数という定量調査とするならば、後者は保健所がおこなっている疫学調査のような定性調査と言うことができる。今まで根拠なしに感染源であるとされて来た「夜の街」「若者」「飲食店」あるいは「GoToトラベル」・・・・「花見宴会」が果たしてどうであったのかある程度明らかになると言うことだ。アドバイザリーボードではAIを駆使して行うようだが、コロナ禍1年感染源=感染のメカニズムがやっと求められて来たエビデンス・証拠が明らかにされる入り口を迎えている。このことにより、この1年「命か経済か」といった選択論議に一つの区切りをつけることができる。昨年春コロナ禍が始まった時「正しく 恐れる」という方針が掲げられていた。その「正しさ」という根拠を持った基準を手に入れることになると言うことだ。アドバイザリーボードのメンバーの一人であるIps細胞研究所の山中伸弥教授は自らのHPでその「正しさ」について、「どの情報を信じるべきか?」で次のように語っている。『私は、科学的な真実は、「神のみぞ知る」、と考えています。新型コロナウイルスだけでなく、科学一般について、真理(真実)に到達することはまずありません。私たち科学者は真理(真実)に迫ろうと生涯をかけて努力していますが、いくら頑張っても近づくことが精一杯です。真理(真実)と思ったことが、後で間違いであったことに気づくことを繰り返しています。その上で、私の個人的意見としては、医学や生物学における情報の確からしさは以下のようになります。』そして、数万とも言われるコロナ関連の論文の中から選んで掲載する基準について、山中教授は次のような考えを持って掲載されている。真理(真実)>複数のグループが査読を経た論文として公表した結果>1つの研究グループが査読を経た論文として公表した結果>査読前の論文>学術会議(学会や研究会)やメディアに対する発表>出典が不明の情報真実にどれだけ近づくことができたかと言うことであるが、キーワードは「査読」であり、どれだけ複数の専門家による検証がなされて来ているかで、検証されないまま公表される論文の多さに警鐘を鳴らしている。思い出してほしい、昨年春当時北大教授で厚労省クラスター班のメンバーであった西浦氏による数理モデルを駆使した感染モデルの件を。「このままでは42万人が死亡することになる」と提言し、マスメディア、特にTVメディアはこぞって取り上げ、結果「恐怖」を煽ることになり、「正しく 恐る」から遠く離れてしまった。その後、研究者である西浦教授はその数理モデルの間違いを説明反省している旨を語っているが、マスメディア、特にTVメディアはその「間違い」すら取り上げ報道しようとはしない。「恐怖を煽って視聴率さえ取れればそれで良いのか」と批判が出るのは当然である。2回目の緊急事態宣言以降の生活者行動を俯瞰的に見ていくとわかるが、政治家やTVメディアが考える生活者・個人の行動とは大きく異なっていることに気づく。首都圏の生活者はキャンピングブームが起ったように「密」を避けて郊外の桜の名所に出かけるであろう。花見どころか旅行を計画する人はここ数週間増えている。それを自粛疲れとか、我慢の限界といった曖昧な表現はやめにした方が良い。高齢者だけでなく、多くの生活者はワクチン摂取のタイミングを考えて旅行の計画を立てるであろう。恐らくそうした行動を見据えたように、地方32県の代表として鳥取県の平井知事はGoToトラベルの再開要請に動いている。隣りの山梨県では花見を楽しもうと知事自ら発言してもいる。こうした背景として、地方経済の疲弊を指摘するジャーナリストは多いが、気づきの無い首都圏の知事の思惑とは逆に、生活者も地方も既に「次」へと動き始めていると言うことだ。行動を左右するのは「情報」と「経験」である。この1年間学習を積んだ生活者・個人がいると言うことだ。昨年の春未来塾(1)で欧米のようなロックダウンではなく「セルフダウン」と言うキーワードを使って賢明な生活者像を書いたが、世界でも珍しい新型コロナウイルスとの闘い方である。その現場で闘っている飲食業や旅行業もそうだが、地方の疲弊度は大変さを超えている。地元に根付いた商店街には感染者をほとんど出していないにもかかわらずほとんど人通りはない状態だ。少し前に島根県知事が首都圏、特に東京都の感染対策の無策を批判した心情は共感できる。解除してもしなくても、感染の下げ止まりからのリバウンドは起きると専門家だけでなく生活者・個人も認識の少しの違いはあっても同じように感じ取っている。今回敢えて生活者・個人の行動基準の一つとして「感染者数」を取り上げてみたが、あるレベルのリバウンドがあった場合必ず行動の「ブレーキ」を自ら踏む筈であると信じている。例えば、「密」を避けて楽しむキャンピングやアウトドアスポーツ、季節の変化を楽しむには紅葉散策の高尾山ハイキング、地方に旅することはできないが百貨店の「地方物産」を楽しむ、旅行を楽しみたいがまずは近場の箱根でも、・・・・・・こうした延長線上に「次」のライフスタイル行動はある。そして、ブレーキを考えながら、賢明な消費行動をこれからも取ることであろう。死語になった「ウイズコロナ」ではあるが、このウイルスとの付き合い方、言葉を変えれば「正しく 恐る」という原点に立ち戻るということでもある。残念ながらアクセルとブレーキを交互にに踏む、そんな間闘いは続くこととなる。そして、ワクチン摂取の進行度合いにもよるが、まずは夏前には多様な消費行動が始まる。その前に、モニタリング調査により隠れた陽性者を浮かび上がらせ、感染のメカニズムを明らかにし感染予防を行うことだ。つまり、中国、韓国、台湾といった私権を制限し管理する道ではない以上、「正しく 恐る」という高い精度のセルフダウンへと向かう。(続く)
2021.03.21
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ヒット商品応援団日記No782(毎週更新) 2021.3.12.3.11東日本大震災が10年を迎えた。ここ1週間ほどNHKを始め民放各局は10年という節目として何が変わり何が変わらないのか、復旧・復興はどこまで進んだのかをレポートしていたが、取材を受ける被災者の多くは「節目」などないと答えていた。そこには今なお必死な想いが横たわっていることに気づく。「切に生きる」という言葉は、2011年文芸春秋の5月号の特集「日本人の再出発」に瀬戸内寂聴さんが病床にあって手記を寄せた文の中で使われたキーワードである。「今こそ、切に生きる」と題し、好きな道元禅師の言葉を引用して、「切に生きる」ことの勧めを説いていた。「切に生きる」とは、ひたすら生きるということである。いまこの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。それが被災し亡くなられた家族や多くの人達に、生きている私たちに出来ることだと。寂聴さんの言葉を借りれば、苦しい死の床にあるこの場所も自分を高めていく道場。道元はこの言葉を唱えながら亡くなったという。「はかない人生を送ってはならない。切に生きよ」、道元が死の床で弟子たちに残した最期のメッセージである。震災2ヶ月後、「人間が人間であるための故郷」というタイトルでブログを書いた。2011年当時東北三県の人口は約570万人、10年後の現在532万人(-6.6%)38万人の減少となっている。特に津波の被害が大きかった宮城県女川町(-43.3%)のように「復興」とは程遠い状態である。また、地震・津波と共に大きな被災となったのが原発事故による福島県である。原発の北側にある双葉町は今なお解除されていないが、解除地域に住民登録がある人のうち実際に住む人 31.6%(1万4375人)。今なお避難している、もしくは故郷を帰ることを諦めた人がいかに多いかがわかる。ちなみに、楢葉町59.7%(4038人)、南相馬市56%(4305人)、富岡町17.7%(1576人)、浪江町11.4%(1579人)。当時「人間が人間であるための故郷」、その故郷について次のように書いた。『福島原発事故の避難地域住民の人も、岩手や宮城の津波によって家も家族も根こそぎ奪われた人も、必ず口にする言葉に故郷がある。故郷に戻りたい、故郷を復興させたいという思いで口にするのであるが、故郷という言葉を聴くと、国民的な人気マンガ・アニメであるちびまる子ちゃんの世界が想起される。周知のさくらももこが生まれ育った静岡県清水市を舞台にした1970年代の日常を描いたものであるが、ここには日本の原風景である生活、家族、友人が生き生きと、時に切ない思いで登場している。故郷は日常そのもののなかにあるということだ。そして、その日常とは住まいがあり、仕事や学びの場所があり、そして移動する鉄道がある。がれきの山となった被災地で写真を始めとした思い出を探す光景が報じられるが、それら全て日常の思い出探しである。誰もが思うことであるが、転勤で国内外を問わず転々ととする人も多いが、やはり帰る場所、故郷があっての話しである。今回の東日本大震災は、一種の帰巣本能のように、がれきの向こう側に突如として故郷が思い出され、帰りたいと、それが故郷であった。しかし、巨大津波で根こそぎ故郷を奪われてしまった海岸線の人も、放射能汚染によって立ち入ることすら制限されている福島原発周辺の人にとっても、故郷を失ったデラシネの人となってしまう恐れがある。』震災による窮状に苦しむ住民への思いを胸に、いち早く立ち上がった多くの市町村長の行動があった。 米タイム誌は21日発表した「世界で最も影響力のある100人」に、福島原発事故での政府対応をYouTubeで厳しく批判した福島県南相馬市の桜井勝延市長。あるいは、郡山市の原市長は「国と東京電力は、郡山市民、福島県民の命を第一とし、『廃炉』を前提としたアメリカ合衆国からの支援を断ったことは言語道断であります。私は、郡山市民を代表して、さらには、福島県民として、今回の原発事故には、『廃炉』を前提として対応することとし、スリーマイル島の原発事故を経験しているアメリカ合衆国からの支援を早急に受け入れ、一刻も早く原発事故の沈静化を図るよう国及び東京電力に対し、強く要望する」と記者発表した。行政にとって地域住民が全てである。理屈ではなく、住民への思い、哲学があって初めて行政サービスが行えるということだ。どこの首長であったか忘れてしまったが、財布も持たずに着の身着のままで避難所暮らしをすることになった被災者に対し、何よりも必要となる現金、確か一時金として10万円を支給した地方自治体があった。被災地の再生にバイオマスによるエコタウン構想・・・・・・そんなことではなく、プライベートな生活が確保できる仮設住宅こそが必要であった。子ども達の健康を考え、校庭の表土を自らの判断で除去した自治体もあった。あるいは、岩手の三陸海岸沿いの孤立した集落では、行政は壊滅し、まさに住民自ら自治を行っているコミュニティがいかに多かったか。求められる日常をいかに取り戻すか、いかに新しくつくっていくか、これが生活者への、被災者への哲学である。そして、行政と共に、この故郷を取り戻す活動は震災後すぐにスタートした。震災後49日間で東北新幹線は復旧し、新青森から鹿児島までつながることとなる。これを機会に東北を元気づけるために、観光客を誘致することをマスメディアは盛んに報じるが、それはそれとして必要とは思ったが、地元の足である在来線である東北本線が少し前に復旧したことの方がうれしい話である。あるいは東北自動車道開通もそうであったが、コンビニのローソンもイオンのSCも被災地で復旧オープンさせたことの方が大きな意味を持つ。それは被災地にとって、日常に一歩、故郷に一歩近づくことであるからだ。故郷とは人がいて笑い声が聞こえる賑わいであることがわかる。故郷は単なる風景としてのそれではなく、人がいる風景のことである。震災直後はまさに自助共助公助であった。しかし、故郷は帰ることことができる場所であるが、福島を始めその故郷を失い、もしくは断念した人がいかに多いか。一方今なお故郷にとどまり「切に生きる」人たちも多い。その中で偶然TVのニュースで知った一人が福島在住の臨床医坪倉医師である。東日本大震災、中でも放射能汚染にみまわれた福島県の医療再生に今なお貢献している医師の一人である。その中心となっているのが坪倉正治氏であるが、地域医療の再生プロジェクトを立ち上げ全国から同じ志を持った医師と共に再生を目指している現場の医師である。臨床医であると同時に多くの放射能汚染に関する論文を世界に向けて発表するだけでなく、福島の地元のこともたちに「放射能とは何か」をやさしく話聞かせてくれる先生でもある。新型コロナウイルスと放射能も異なるものだが、同じ「見えない世界」である。坪倉正治氏が小学生にもわかるように語りかけることが今最も必要となっている。感染症の専門家による「講義」などではないということだ。小学生に語りかける「坪倉正治氏の放射線教室」は今もなお作家村上龍のJMMで配信されている。東京のマスメディアは決して取り上げることのない坪倉医師をニュース画面で見かけたのは、あの元オリンピック組織委員会会長森氏の女性蔑視発言の直後であった。復興五輪ということから聖火リレーの参加表明して来たが、復興とはまるで異なる運営となっている東京オリンピックには関わらない、そんなニュースであった。坪倉医師は今もなお放射能汚染と闘っており、明日も闘っていくであろう人たちの一人である。「切に生きる」人たちにとって、「復興」という冠のないオリンピックは意味のないイベントであるということだ。ところで、その原発事故の「今」について、改めて気づかされたのがNHKスペシャルの2つの番組、「徹底検証 原発マネー」及び「廃炉への道」であった。今なお、というより廃炉への道筋が不透明の中の原発事故関連の「お金」の使われ方である。新聞などを通じての報道に触れることはあったが、時々の断片的な情報であり、この廃炉・除染という困難さの全体を感じ取ることはなかなかできなかった。史上最悪規模の事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所。10年経ってやっと溶け落ちた核燃料を取り出し、処分する「廃炉」が始まろうとしている。40年ともいわれる長い時間をかけて、3つの原子炉を「廃炉」する人類史上例を見ない試みはどのような経過をたどるのか。放射能との長きにわたる闘いを、長期に渡り多角的に記録していくものだが始まりは水素爆発をきっかけにメルトダウンが起き、膨大な量の放射能がまきちらかされる。多くの原子力研究者が既にメルトダウンが起きていると指摘したにも関わらず、「メルトダウンではない」と言い張った当時の菅直人政権の官房長官の姿が思い出される。コロナ禍の1年を経験し、3.11当時の「社会」を振り返ると多くを失ったが今なお切に生きる人たちがいることを通説に感じる。そして、「現在」との比較をどうしてもしてしまう。一言で言えば、復旧・復興に向け社会が災害に向かうという緊張感のある「一体感」があった。しかし、現在はどうかと言えば、緊急事態制限発出や延長に関し、政府と東京都との間での駆け引きを見るにつけ、東日本大震災当時の住民本位である行政とのあまりに大きな違いに唖然とする。以降、防災については多くの面で学びそして進化して来た。しかし、「政治」は逆に退化し続けている。亡くなった作詞家阿久悠さんは、晩年「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念した。しかし、3.11後の光景は痛みとともに、「絆」というキーワードに表される共助の光景をも見せてくれた。大津波は自助できるものを大きく超えたものであった。更に、頼りにすべき行政機関も津波で持ち去られ、残るは生き残った人々の共助だけとなった。多くの場合こうした災害後には略奪などが横行するのだが、日本の場合は互いに助け合う共助へと向かい、世界中から賞讃された。阿久悠さんは「心が無い」時代に歌うことはできないとしたが、実は東北には心はあったのだ。今一度10年前の東日本大震災の原点に戻らなければならない。忌野清志郎が歌う「雨あがりの夜空に」の歌詞に次のようなフレーズがある。・・・・・・・・・・・・こんな夜におまえに乗れないなんてこんな夜に発車でないなんてこんなこといつまでも長くは続かない・・・・・・・Oh雨上がりの夜空にかがやくWoo雲の切れ間に散りばめたダイヤモンド・・・・・・・・・・そして、忌野清志郎は私たちに「どうしたんだHey Hey Baby」と投げかける。乱暴だが、とてつもなく優しい。「切に生きる」人たちへ、そんな応援歌が待たれている。今なお、戦いは続いているということだ。(続く)追記 テーマから言うと大津波などの画像の方がわかりやすいが、やはり胸が苦しくなり、好きな忌野清志郎の応援歌の写真を使うこととした。
2021.03.12
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ヒット商品応援団日記No781(毎週更新) 2021.3.3.「春よ、来い」(はるよ こい)は、周知のように松任谷由実が1994年10月にリリースした 曲である。多くの人が早く春が来て欲しい、そんな思いを見事に謳った名曲であろう。おもしろいことに、昭和のヒットメーカーである阿久悠さんに「春夏秋秋」という曲がある。「春夏秋冬」ではない。1992年に石川さゆりに書いた曲で、 ♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません 春夏秋秋 そんな一年 あなたと過ごしたい・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ 来ませんか 来ませんか 幸せになりに来ませんか・・・・・ 冬の時代が長かった女性を想い歌ったものだが、四季は生活の中に変化をもたらし、そこに喜怒哀楽を重ねたり、情緒を感じたり、美を見出したり、季節の変化という巡り合わせを楽しんできた。 コロナ禍の1年であったが、決して「冬冬冬冬」ばかりではなかった。ひととき春や夏そして秋、あるいは冬を折り込みながらの1年であったと思う。人によって取り戻したい「春」は異なるが、ほとんど「冬」の1年であったと思うのは中高生の学生であろう。好きなミュージシャンのライブにも行けない、友人と街歩きもできない、ほとんどの学校行事は縮小もしくは中止で、部活も思いきりできなかった。日常の学校生活の基本である人と人との接触すら制限された。そして、卒業を迎える。 2009年春、NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲「手紙」をアンジェラ・アキが歌ったことを思い出す。当時は「冬」ではなく、春夏秋冬、四季のある時代であるが、その「手紙」は悩み多き世代に向けた応援歌である。ところで当時のブログに次のようなコメントを書いた。 『アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。 ♪大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど 苦くて甘い今を生きている ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じて歩けばいいの いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど 笑顔を見せて 今を生きていこう ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う吉田拓郎とどこかでつながっている。・・・・・・・・・何が起こってもおかしくない時代。今、安定・安全志向が叫ばれているが、漫才コンビ麒麟の田村裕さんによるベストセラー「ホームレス中学生」ではないが、既にそんな安定などありえない時代を生きている。』 また、卒業、NHKの全国学校音楽コンクールといえば、やはりいきものがかり のYELLを思い出す。YELLの後半歌詞に次のようなフレーズがある。 ・・・・・・・・・・ ♪サヨナラは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL いつかまためぐり逢うそのときまで 忘れはしない誇りよ 友よ 空へ 僕らが分かち合う言葉がある こころからこころへ 言葉を繋ぐ YELL ともに過ごした日々を胸に抱いて 飛び立つよ 独りで 未来(つぎ)の 空へ ところで人生の大きな節目である卒業の先には入学がある。新しい人生を歩むわけだが、その人生もよう、人もようを曲にした阿久悠さんは2002年自らの人生を石川さゆりに歌わせる。この自伝的な曲「転がる石」は次のような詞である。 ♪十五は 胸を患って 咳きこむたびに 血を吐いた 十六 父の夢こわし 軟派の道を こころざす 十七 本を読むばかり 愛することも 臆病で 十八 家出の夢をみて こっそり手紙 書きつづけ ・・・・・・ 転がる石は どこへ行く 転がる石は 坂まかせ どうせ転げて 行くのなら 親の知らない 遠い場所※ 怒りを持てば 胸破れ 昂(たかぶ)りさえも 鎮めつつ はしゃいで生きる 青春は 俺にはないと 思ってた 迷わぬけれど このままじゃ 苔にまみれた 石になる 石なら石で 思いきり 転げてみると 考えた 自らをも鼓舞する応援歌「ファイト」を歌った中島みゆきの人生歌と重なる。そして、「転がる石」の意味合いを阿久悠さんは次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で書いている。 『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』 歌は人生の応援歌である。多くの制限の中の1年であったが、そんな我慢の中に小さな「応援」があった筈である。阿久悠さんの言葉を借りれば、コロナ禍という苔にまみれた1年であった。そこで「石なら石で 思いきり 転げてみる」と 考えることも必要な時代である。心の中の石を見つめる良き季節を迎える。(続く)
2021.03.03
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ヒット商品応援団日記No780(毎週更新) 2021.2.23.前回のブログ未来塾もそうであったが、テーマは不要不急の中に「何」を見出すかと言うコロナ禍の「時代」をどう受け止めるかであった。既に昨年夏に書いたブログでは4月ー6月における家計支出の実態を見ればわかるように旅行や外食あるいはファッションといった不要不急の支出がいかに大きかったか、つまり大きく言えば日本経済の根幹を成しているのは「不要不急」であったと言うことである。前回の飲食事業を対象としたのも飲食の「何」を求めて店に足を向けているかを個別事例を少し分析してみた。まず求められているのが不安などの心をひととき解きははなってくれる「何か」であり、飲食が持つライブ感、しずる感であった。デリバリーと言う方法を否定はしないが、求められているのは飲食店が顧客の前で調理する、採れたての素材、焼き立て、煮立て、炊き立て、・・・・・・・そうした「感」を求めて顧客は店を訪れる。顧客と店をつなぐものは何かということである。つまり、「不要不急」消費とは、それまであった日常を立ち止まって考えてみる。季節らしさ、多くの行事の意味、人との何気ない会話・雑談、あるいは挨拶ですら大切であったことを失って初めて気づかされたと言うことだ。「回帰」と言う言葉がある。過去に回帰する、家族に回帰する、あるいは地域に回帰する、・・・・・多くの使われ方をするが、コロナ禍の1年を経験し、危機の中で「何」に回帰していくのかと言うことである。それまでの「らしさ」を少しでも取り戻すために、例えば巣ごもり生活の気分転換を図るためのこだわり調理道具が売れたり、以前のようにライブイベントに行きたいがライブ配信で我慢する、大きな声で声援を送りたいが無観客試合のTV画面に向かって応援する・・・・・・こうしたもどかしい1年を経験して来た。人は多くを失った時、立ち止まり「何か」に向かう。1990年代初頭のバブル崩壊の時はどうであったか以前未来塾で取り上げたことがあった。その中でレポートしたことだが、今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあると言うのが持論であり、不要不急と言えば元禄時代を思い浮かべる。元禄バブルと言われるように庶民文化が大きく花開いた時代であるが、実は江戸時代には好況期(元禄、明和・安永、文化・文政)は3回、不況期(享保、寛政、天保)も3回あった。この江戸初期は信長・秀吉による規制緩和の延長線上に経済を置いた政策、特に新田開発が盛んに行われ、昭和30年代の「もはや戦後は終わった」ではないが、戦後の高度成長期と良く似ていた時代であった。この経済成長の先にあの元禄時代(1688年~)がある。浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、といった江戸文化・庶民文化を代表するアーチストを輩出した時代だ。まさに不要不急の江戸文化を創ったと言っても過言ではない。ところで元禄期の後半には鉱山資源は枯渇し、不況期に突入する。幕府の財政は逼迫し、元禄という過剰消費時代の改革に当たったのが、周知の8代将軍の徳川吉宗であった。享保の改革と言われているが、倹約令によって消費を抑え、海外との貿易を制限する。当時の米価は旗本・御家人の収入の単位であったが、貨幣経済が全国に流通し、市場は競争市場となり、米価も下落し続ける。下落する米価は旗本・御家人の収入を減らし困窮する者まで出てくる。長屋で浪人が傘張りの内職をしているシーンが映画にも出てくるが、職に就くことができない武士も続出する。吉宗はこの元凶である米価を安定させ、財政支出を抑え健全化をはかる改革を行う。この改革途中にも多くの困難があった。享保17年には大凶作となり、餓死者が約百万人に及び、また江戸市内ではコロリ(コレラ)が大流行する。翌年行われたのが両国での鎮魂の花火であった。その花火が名物となり、川開きの日に今もなお行われているのである。こうした江戸時代の庶民心理を言い表した言葉が「浮世」であった。浮世とは今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。江戸の文化は庶民の文化であったと書いたが、それは寄せ集め人間達が江戸に集まってプロジェクトを作り、浮世と言う「新しい、面白い、珍しい」こと創りに向かったことによる。それは1980年代の昭和の漫画が1990年代には平成のコミックと呼ばれ、オタクも一般名詞になったのとよく似ている。そして、浮世絵がヨーロッパに知られるきっかけになったのは、当時輸出していた陶器やお茶の包装紙に使われ、一部のアーチストの目に止まったことによる。同じように、アニメやコミックも単なるコンテンツとしてだけではなく、他のメディアとコラボレーションしたり、ゲームやフィギュアにまで多くの商品としてMDされるのと同じである。浮世絵もアニメやコミックもそれ自体垣根を超えた強烈なメディアとなって江戸の文化、クールジャパンのインフラを創ってくれているということである。バブル崩壊前後の庶民文化を見ていくと、それまで隠れていた「何か」が面へと一斉に出て来たと言うことであろう。浮世絵もアニメもコミックも、いわばマイナーなアンダーグランド文化から生まれた産物である。そして、庶民文化とは長屋文化、別な表現を使うとすれば、表ではない横丁路地裏文化ということである。さてこうしたコロナ禍によってどんなライフスタイル転換を余儀なくされているか前回の未来塾で一つの仮説を論じてみた。一言で言えば「感」の取り戻しである。実感、共感、感動、ライブ感、生身、温もり、肌感、生きてる感じ、・・・・・こうした「感」をどう取り戻すかであった。真っ先に思い浮かべるのがミュージシャンの活動であろう。この10数年音楽のデジタル化インターネット配信によって周知のように音楽業界も大きく変わって来た。CDは売れなくなり、ライブイベント収入によって経営はかろうじて成立して来た。しかし、「密」を避けることからライブイベントの多くは自粛へと向かった。ミュージシャンも音楽業界も、演奏のライブ配信によってなんとか異なる道を探ろうとして来た。それは目の前で作ってくれる出来立てのラーメンではなく、出前館によるデリバリーされたラーメンを食べるのと同じである。これは顧客が求めているのは心揺さぶられる「感」であって、インターネットを介した「感」ではない。この2つの感の違いは「作り手(ミュージシャン)」と「受けて(観客・フアン)」とが繋がっていないことによる。つまり、繋がっている感じがないことが大きな違いを生んでいると言うことだ。出来もしないことを書くようだが、例えば人気のミュージシャン「ゆず」のスタートは路上ライブからであった。周知のように横浜伊勢崎町での路上ライブであるが、スタート当初は足を止めてくれり客はほとんどいないライブであったが、次第に聴きに来る客は増え、1年後には7500人が集まったと言われている。ちょうど秋葉原の雑居ビルでスタートしたAKB48と同じである。回帰という言葉を使うならば「原点回帰」と言うことだ。また、不要不急の代表的なものの一つがスポーツである。日本においても無観客試合や観客の人数を制限したりしていくつかの試みが行われている。ドイツのサッカーの場合無観客試合+TV中継を行っているが、サポーターはどんどん少なくなり本来のサッカーの原点から大きく後退してしまっていると言われている。放映権料が一定程度収入として得られることを優先、つまり経済を優勢することによってフアン離れが起きていると言うことである。一昨年のラグビーのワールドカップの盛り上がりは選手たちの活躍もあるが、そのプレーへの応援が力となり、一体感こそが感動を生みと成功へと向かわせたことを思い起こす。さて「回帰」は多くのところで広がりつつある。例えば、昨年の夏感染拡大を気遣って帰省自粛が行われた。この時社会現象として現れたのが東京のアンテナショップを訪れる人たちが多くみられた。故郷へ帰ることはできないが、少しでも故郷を思い出させてくれるモノを買い求めてのことであった。これもコロナ禍が生み出した故郷回帰である。また、苦境であった百貨店にも多くの人が出かけるようになり賑わいを見せている。中でも食品を中心とした地方物産展が好評である。旅行はできないがせめても地方の美味いものを食べたい、ひととき旅気分をということだ。これも日常回帰の一つであろう。ところでもうすぐ3.11東日本大震災を迎えるが、その年の流行語大賞は「絆」であった。10年経った今、復旧はなし得ても復興はまだ遠い。ただいくら遠くても故郷回帰という原点は絆によって繋がっているということだ。また、テレワークという自宅での就業を余儀なくされ、昨年春頃まではストれるからDVなどが煮えられたが、コロナウイルスを避けての遊びなどが盛ん位みられるように為った。ブログにも採算書いて来たことだが、オープンエアでのキャンプや紅葉ハイキング、あるいは鎌倉や箱根と言った近場の小旅行が盛んに行われた。ある意味、今また「家族一緒」の日常に立ち戻ったと言っても過言ではない。コロナ禍と言う危機を経験し、立ち止まり、足元を見て、次へと冷静に向かおうとしている。バブル崩壊の時のような大きなパラダイム転換はないが、やはり多くの「回帰」がみられるようになった。不要不急、感の取り戻し、と言えばもうすぐ桜の季節である。今年の花見という江戸時代から続く最大イベントは宴会抜きのものになりそうだが、それもまた良しということだ。(続く)
2021.02.23
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ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.14.「5つの飲食事例」に学ぶ今回取り上げた事例はわずかで、他の飲食事業者に全て当てはまるものではない。ただ今回の事例はコロナ禍にオープンした飲食事業、もしくはオープンして3年に満たない事業であり、ある意味正面からコロナ禍に立ち向かった事業事例である。そして、立ち向かい方もそうであるが、業態ごと、専門分野ならではのアイディアや知恵を見出すことができる。そして、小売業はアイディア業であると言われてきたが、事業の根底には揺るぎない信念のようなものが見えてくる。ウイルスという見えない敵との戦いであればこそ、信念といういささか精神論的ではあるが、事業を支える姿が見えてくる。「不安」が横溢する心理市場昨年夏未来塾では「もう一つのウイルス」と言うタイトルで、「自粛警察」をはじめとした社会現象を取り上げたことがあった。周知のようにそれら心の奥底に潜むウイルスは続いており、今や「マスク警察」から更に「不織布マスク警察」へと。こうした過敏な反応は一種のヒステリー現象・社会病理に近いものとなっている。あのIps細胞研究所の山中教授は昨年春HP開設に際し、情報発信については「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」を基本に発信していくと述べ、HPの情報もその都度改訂・修正されている。実は不安を作り出すのは「情報」であり、しかも「不確かな情報」に因ることが多い。勿論、不確かどころか全くのデマ情報とまでは言わないが、憶測、推測、個人的な思い込み、・・・・・こうしたことから「うわさ」が生まれる。うわさはうわさへと伝播拡散することはSNS社会にあっては周知の通りで、そのうわさを根拠にマスメディア、特にTVメディアは取り上げあたかも事実であるかのように伝わることとなる。その象徴例が昨年春のパチンコ店の取り上げ方で、まるでクラスター発生源であるかの如きであった。しかし大きなクラスターは一度も起きてはいないのが「事実」である。後にメディアの責任を痛感したと述べたのはジャーナリストの大谷昭宏氏だけで、TV局・番組が訂正したことは聞いたことがない。同じように、東京由来のウイルスと言われた新宿歌舞伎町は確かに感染者が多かったことは事実であるが、都知事は「夜の街」が感染源であるかの如き発言を繰り返し、ここでも「悪者」である根拠を検証することなくそのまま報道する。(詳しくは未来塾にて新宿区長の発言を含め経緯を書いているので参照していただきたい)」次に悪者となったのが明確な根拠がないまま移動をすれば感染は拡大すると言った一般論からの推測によるGotoトラベル感染拡大説である。次に取り上げられたのは感染者数の割合が多く行動範囲の大きな「若者」感染源説である。(詳しくはブログ「伝わらない時代の伝え方」を参考としてください。若い世代の行動を消費面から分析しています。)こうした不確かな情報発信はTV局が自前の取材スタッフで全てをまかなうことができないと言う事情があるからである。その情報の見極めは「その確かな根拠は?」と問えば、自ずと答えが出る。よく情報リテラシーの議論が出るが、情報の活用能力の前に「その情報の根拠」を問うことから始めることだ。気分を変えるアイディア残念ながら不安・ストレスは増幅することはあってもなくなることはない。感染防止のための努力は勿論のことであるが、今必要なことは「ポリシー」「信念」であり、目指すべき飲食の在り方、私の言葉で言えば時代に即した「コンセプト」を明確にすることに尽きる。時代に向き合う姿は顧客に一定の「安心感」を与えることができる。昔からある「お任せ」と言う安心感である。これらは「専門世界」「プロ」ならではの「確かさ」を提供することである。変わらぬ安定感、いつもの味、いつものスタイル、明るさ、こうして生まれる満足の提供ということだ。つまり、自店の世界に引き込む、創ろうとする雰囲気を最大限表現することが重要となる。それが「ひととき」という短い時間であっても、不安の無い時間を創るということにつながる。今回の事例でいうと、大阪「ミクり」のテーマ「二十四節気」の世界に入り込んでもらうということである。二十四節気と言えば、夏至や冬至、あるいは立春や立夏などを思い浮かべるが、24の季節を表す名前がつけられている暦の世界だ。ある意味旧暦の季節に想いを巡らす暮らしの世界がテーマであり、そのメニューとなった古の文化を食べることとなる。そのようにひととき不安から離れた時間を過ごしてもらうということである。「挽肉と米」の場合も、店づくり・空間づくりの世界観を感じさせてくれるが、なんといっても目の前で焼いてくれるハンバーグである。焼く匂い、音、立ち上る煙さえ、美味しさのシズル感を掻き立ててくれる。しかも次から次へと食べ終わった頃を見はらかったかのように熱々のハンバーグが届く。食べ方も自由自在自分の世界に没頭させてくれる時間だ。どちらもその満足感は異なるが、ひととき不安とは無縁の時間を過ごさせてくれる。「若い世代」の居場所づくり昨年夏「密を求めて若者は街へと向かう」といういささか刺激的なタイトルでブログを書いた。今になって感染拡大のあたかも犯人のように「若者」を見立てる「大人」(主にTVメディア報道)の言説が盛んに見られるようになった。(詳しくはブログを参照していただきたい。)1967年「書を捨てよ、町へ出よう」と呼び掛けたのは寺山修司であった。寺山が主催した天井桟敷の舞台は新宿花園神社であったが、現在の舞台は渋谷へと変わった。今までの鬱屈した生活から「自由」に何にでもひととき変われる」街へと向かうという心情にそれほどの違いはない。そこには私の持論であるが、「新しい、面白い、珍しい」何かが常にあり、欲望を刺激するのが「都市」がもつ魅力ということだ。ところで2015年の国勢調査によれば、地方では過疎化高齢化が深まり、都市においては人口流入に歯止めが効かず単身世帯が増加している。ちなみに東京23区の場合、単身世帯は過半数を占めている。また、東京における人口流入増加は仕事を求めた若い世代とともに学生によるところが大きく、学生数は約260万人に及んでいる。高齢化ばかりが話題となっているが、東京はやはり「若者」の街である。「密」の中心に若い世代がいるということである。東京という街の歴史を調べていくとわかるのだが、日本で初めて「都市化」が進められたのが江戸であった。周知のように中央集権国家の礎はここから始まっている。また、この都市化は新たな商業を発展させ、元禄に代表されるような消費都市の萌芽を見せる。消費都市とは「不要不急」によって成立する。そして、この魅力は幕府が開かれた当初江戸は40万人都市であったが、地方から江戸を目指す人は多く、120万~140万人にまで膨れ上がる。つまり、江戸も今も人を惹き寄せるのは「新しい、面白い、珍しい」を求めた結果である。話が横道に外れてしまったが、「新しい、面白い、珍しい」が日々起きている街が渋谷であり、事例の渋谷横丁もその一つとなっている。ここ数年渋谷は連続した再開発によって街の様相は高層ビルによって一変した。それら高層ビルにも多くの専門店などが入っているが、「大人の街」コンセプトによってテナント編集されているせいか、若い世代にとっては敷居の高さ、入りにくさを感じてしまうものとなっている。ラフな格好で気軽に使える店は少ない。そうした中の渋谷にあって、安い価格で飲み食べることのできる渋谷横丁は「居心地の良い」居場所になっている。それは閉じられたビル内の飲食店ではなく、通りに面した店づくりは入り易い居場所となっている。ところで界隈性というキーワードがある。賑わい、活気ある雰囲気、なぜか心地よい・・・・・・・そこには効率とか生産性とか、ある意味「〇〇すべき」といったベキ論に押し潰されそうになる日常からひととき解放してくれる、そんな雰囲気が満ち溢れる街のことを指すキーワードである。組織ではなく個人として出会い交流できる街、異なる価値観を持つ多様な人と出会える、そんな街が渋谷である。勿論、過去には薬物に手を出したり、援助交際といった「大人」の罠に囚われたことがあったが、現在そうしたことはほとんど聞いたことがない。もう一つの事例として取り上げた日比谷オクロジの場合であるが、JR東日本の高架下ということからも「隠れ家」というコンセプトは理に叶ったものである。その隠れ家であるが、「ワインと天ぷら」と言った新しい組み合わせメニューをメインとした専門店など従来の銀座にはない「新しさ」を感じることができる。出店する業種もさることながら、まず超えなければならないのが前述の「銀座価格」である。銀座にある老舗飲食店も顧客によって育てられ今日があり、そこに文化もある。新しい銀座の「居場所」として、「育てがいのある専門店は何か」を今一度考えてみることも必要であろう。価格の壁を超える「満足感」誰を主要な顧客とするか、そのための業態やメニューによって全て異なるが、価格を決める一つの指標となるのが今までにない「満足感」である。5つの事例を通して学ぶべきは、1年近い巣ごもり生活で求められているのが「新しい、面白い、珍しい」メニューであり、サービススタイルであり、手頃な価格であることがわかる。巣ごもりという「鬱屈感」をひととき解放してくれるという満足感である。とにかく「気分」を変えてくれる店ということになる。今回取り上げた店や商業施設は、デリバリー・宅配といったスタイルの店ではない。例えば、「挽肉と米」の店を考えてもわかるっように単なる「焼きたて」ではなく、焼き上げるまでの音や朦々として煙すらも満足感に繋がっている。シズル感と言って仕舞えばそれで終わってしまうが、こうした「感」を取り戻したいということだ。デリバリーの出前館のCMに熱々のままのラーメンデリバリーが描かれているが、湯切りした麺を丼に入れる・・・・・・・こうした「ライブ感」を味わうことはできない。ただ熱いだけのラーメンの味気なさの違いである。実はコロナ禍が起きるまでは、こだわり、わけあり、と言ったキーワードによってメニューが編集されてきた。その結果としての「価格」であった。ミシュランの星を獲得した店も、少し前までは成長を見せていたチェーン店も、等しく苦境に立たされている。「移動」が抑制されていることから、観光産業もさることながら駅弁の代表的な企業である焼売弁当の崎陽軒は売り上げは前年比4割であると報道されている。また、昨年4月歌舞伎座前の弁当屋「木挽町辨松」が152年の歴史を閉じて廃業へと向かった時感じたことだが、伝統を引き継ぐ食文化すらもコロナ禍の前では無力であった。しかし、そうした中で小さくても光る飲食店はあり、顧客は強く支持していることも事実である。新しい満足感による再編「食」はライフスタイルの中心である。この1年コロナ禍によって食の原点を今一度思い起こさせてくれた感がしてならない。パラダイムチェンジという言葉がある。過去の価値観を大きく変え、全く異なる世界・価値観世界を指す言葉であるが、今回のコロナ禍がもたらしたことは、パラダイムチェンジではなく、「食」とは何か、飲食業とは何か、を問い直させたということであろう。巣ごもり生活の中にあっても、不安やストレスが充満したこころがひととき和み、思わず美味しかったと呟きたくなる、そんな「飲食」が求められているということだ。ある意味当たり前のことであり、原点に帰ることである。顧客支持はどこにあるのか、どこにあったのかを今一度見直してみるということである。時間が経ち、スタッフが多くなればなるほど、この「原点」から離れてしまいがちである。あのユニクロは創業感謝祭や新規店オープンには牛乳とアンパンを今なお来店顧客に配っている。それは創業時、オープンした時に配った「想い」を忘れないためである。創業の精神に常に立ち返るということだ。ところでその満足感であるが、「巣ごもり」という閉じられた世界から解放してくれるものはなにかと言えば、「ライブ感」「シズル感」「季節感」「鮮度」・・・・・・つまり実感ということである。「密」であることを禁じられた中、「散」となった個々人が実感できる「何か」を取り戻したいということであろう。コロナ禍の1年間、生活者はウイルスを避けながら、日常を楽しむ工夫をしてきた。例えば、キャンピング需要は更に大きくなり、ジョギングを始めハイキングなどオープンエアな環境に身を置く傾向が強く出てきた。自然を感じ取る、季節・花々・気温・匂い・風・・・・・・・今まであった「らしさ」を取り戻したいということであろう。思い出して欲しい、1980年代消費を活性させたのは「鮮度」であった。旬を素材に、採れたて、焼きたて、煮立て、調理したて、、出来立ての美味しさを求めたことを。現在はそんな鮮度を「実感」してもらうことを主眼としたサービス業態が求められている。それは名店の鍋セットから始まり、焼き台を含めた「焼き鳥セット」や「焼肉セット」までが人気となっているのが「巣ごもり」消費である。つまり、いつの時代も「ライブ感」を提供するということだ。「不要不急」を楽しむ時代今回は飲食事業に的を絞ってコロナとの向き合い方を学んできたが、その裏側には顧客自身の変化が見え隠れしている。昨年春巣ごもり消費の代表的なものとして「ゲーム」需要に触れたことがあった。そのゲーム需要の中心に任天堂やSONYがあるのだが、SONYのプレイステーション5は製造が追い付かないほどで決算にも大きく貢献し経常利益は1兆円を超えると発表されている。最近では新しいSNS「クラブハウス」も夜8時以降出歩くことができないことから、音声のみの会話だけだがそのライブ感から世界中で人気となっている。これは人に会えない時代の不要不急の楽しみ方の一つであろう。クラブハウスの会話の本誌yしは一種の無駄話である。コロナ禍以前がそうであった日常の無駄話、友人関係だけでなく著名人との話もできることから、コロナ禍から生まれた「不要不急」なSNSである。昨年4月に実施されたテレワークが次第に元の出社状態に戻ってしまったのも、人間関係の中にこの「無駄」が必要であったということだ。命をながらえるための必需消費だけでは生きてはいけなくなっている。無駄を含めた選択消費の時代であることを強く気づかせてくれた事例は多い。つまり、コロナ禍にあっても戦後間もない頃の生きるための必需消費の時代には後戻りできないと言うことである。団塊の世代以上の高齢者は必需消費の時代を経験していて我慢することはできるが、若い世代にとってはまさにコロナ禍は未経験、実感を得ることができない時代ということだ。不要不急という言葉は、「大人」の言葉であり、若い世代にとっては意味を持ち得ない言葉になっているということである。ライフスタイル変化の兆しコロナ禍の1年、見えてきたのは「無駄」をどう遊ぶか楽しむか、そんなライフスタイルである。よくコロナに慣れてしまった緩みと言った表現をTVメディアは使うが、それは生活者自身が自制、セルフダウンの仕方を学んできた結果であることを忘れている。「不要不急」を悪の根源であるかのような言説を採る専門家や政治家は多くいるが、何をしても自由だということではない。生活者はどうしたら感染を防止しながら「楽しめる」かをウイルスの知識を踏まえて判断し、行動している。生活者はこうした学習情報を持ち、既にTVメディアのいい加減さに気づき始めている。少なくとも今回取り上げた専門店や商業施設は、こうした賢明な生活者によって支えられていることだけは事実である。先日厚労省は2回目の抗体検査の結果を発表した。その抗体保有率は東京0.91%(前回0.10%)、大阪0.58%(同0.17%)、宮城0.14%(同0.03%)だった。新たに対象に加えた愛知は0.54%、福岡は0.19%。その評価であるが、どの地域も1%以下の低さである。英国などの抗体保有率は20%を超えているが、何故日本は低いのかと言う疑問が起きる。昨年春ips細胞研究所の山中教授が日本人の感染率の低さの理由を指摘をした「ファクターX」が1年経っても解明されていない。いずれにせよ1日も早いワクチン接種が待たれるが、少なくとも生活者は感染防止をしながら少しでも「不要不急」を楽しんでいるかがわかる。昨年5月コロナ禍の出口論、ウイズコロナの論議が盛んであったが、消費の面からは答えの一つとして不要不急の楽しみ方が浮かび上がって来た。「不要不急を楽しむ」などと言うと、また感染の犯人、悪者にされそうだが、全く逆で生活者は極めて注意深く楽しむ術を身につけ始めている。またここ数週間の感染者の減少傾向は若い世代の感染が減少したことによるもので、今なお感染者が多いのは介護施設や病院でのクラスター発生に依るものが多い。今、一番我慢しているのは若い世代であり、細心の注意を払って、不要不急を楽しんでいる。バイトのシフトの合間に、多くの友人と会い騒ぎたいが、特別仲の良い友人と二人だけで昼間に会う。オランダでは若者による暴動すら起きていると報道されているが、日本の「若者」は消費の表舞台には出てこないとして5~6年前、「草食男子」などと揶揄された世代である。真面目で大人しい世代であり、身近な仲間や関係先、勤め先やバイト先には感染の迷惑をかけない気配りのある世代である。そして、あたかも合理主義を旨としたデジタル世代であるかのように見る「大人」が多いが、そうではなくてアナログ世界に関心を持ち遊ぶ世代である。実は吉祥寺を若い世代の街として観光地化した大きな要因の一つが昭和の匂いがするレトロなハモニカ横丁であることを「大人」は知らない。(詳しくは「街から学ぶ 吉祥寺編」を一読ください。)」若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。
2021.02.17
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ヒット商品応援団日記No779(毎週更新) 2021.2.14.今回の未来塾は2回目の緊急事態宣言が発出され、時短営業と言う苦境に立たされている「飲食事業」を事例として取り上げてみた。1年近く巣ごもり生活が続いているが、そうした中にあって外出する顧客はいる。感染防止は当然図られている「飲食店」であるが、そうした顧客を惹きつける工夫やアイディアが随所に見られる。今回はそうsした魅力を5つの事例を通して学ぶこととした。 コロナ禍から学ぶ(4)「コロナ禍の飲食事業事例」「不要不急」の中に楽しさを見出す。「気分転換」と言う満足消費。ライフスタイル変化の兆しが見え始めた。再び落ち込む消費再び緊急事態宣言が発出され、飲食事業者を中心に更に時短営業が延長されることになった。昨年の4月には既に生活行動の範囲がご近所エリアへと萎んでしまうとブログに書いたが、昨年の夏以降生活行動は徐々に広がりを見せてきた。しかし、年明け早々の第3波に続き緊急事態宣言の発出によって再び小さくなった。TVメディアは「人出」を昨年の4月の時と比較し増加していると報じているが、昨年4月は食品スーパーやドラッグストア以外はほとんど自粛している状況と比較し増加していると解説しているが、そんなことは当たり前で今回の時短要請は「限定的」であり、ウイルスの正体もこの1年で「未知」から「既知」へと変わり、行動もそうした中で変化するのは当然のことだ。第一回目の緊急事態宣言が発出された昨年5月の家計調査の結果について未来塾(2)で次のように書いた。『コロナ禍5月の消費について家計調査の結果が報告されている。二人以上世帯の消費支出は調査が開始された2001年以降最低の消費支出(対前年比)▲16.2となった。ちなみに4月は▲11.1、3月は▲6.0である。緊急事態が発令された最中であり、例年であれば旅行に出かけ、外食にも支出するのが常であったが、当然であるが大きなマイナス支出となっている。ちなみに、旅行関連で言うと、パック旅行▲ 95.4、宿泊料▲ 97.6、食事代▲ 55.8、飲酒代▲ 88.4、となっている。更には映画や・演劇、文化施設や遊園地などの利用もマイナス▲ 94.8~▲ 96.7と大幅な減少となっている。勿論、外出自粛などから衣料や化粧品の支出も大きく減少していることは言うまでもない。』この消費における結果が戦後最悪の4-6月GDP27.8%減に大きく反映していることとなった。7月以降11月までの消費についても持ち直す傾向は見せるものの依然として低水準となっている。推測するに感染の悪化の端緒となった12月はまだしも、年が明けた1月以降は全国へと感染拡大が広がり昨年5月と同様の結果、特に飲食事業の悪化は言うまでもない。この1年コロナ禍によって失われた消費のほとんどがいわゆる「不要不急」の支出であることがわかる。しかも、都市経済を支えているのが、この不要不急による支出であるということだ。「情報」の根拠が問われている時代今回言うまでもなく過剰な情報の中での「事例」を取り上げることとした。コロナ禍でなければ私自身が街を歩き会話しながら感じたままを「ことば」にしてきたが、2回目の緊急事態宣言下にあって、友人・知人の力を借りて事例から学ぶこととした。その理由は特にTVメディアの情報にあるのだが、根拠を明示しないまま放送することによる悪しきイメージ定着によって、本来認識すべき「正しく 恐る」ができないような状況が生まれてしまったからである。まさに実際に経験する、実感こそが必要な「時」であると考え友人たちの体験を借りて事例を学ぶこととした。渦中の飲食業がどんな生き方、工夫アイディアを駆使しているかを広く公開したかったからである。苦境の中にあって、飲食業はどんな頑張りを見せているか5つの事例を通して学ぶこととした。気分を変えてくれる消費ところで首都圏近郊の駅に隣接する中規模SC(ショッピングセンター)の売り上げについて、専門店として出店している友人から次のようなレポートが届いている。『緊急事態宣言で再び飲食店は時短営業で、重飲食:71%、軽飲食:75%と青息吐息状態。では中食で食物販が良いのかというと、103%でカバーできていない。どこに消えているのか館内だけでは見えてきませんが、多分、出前館やUberEatsなどのデリバリーと、ネットスーパーやAmazon freshなどです。来館者数が、平日で89%、土日は81%と戻らず家から出ていないのが顕著です。たまプラーザ東急は10月頃の“平時”でも18:00閉店でしたしある意味「保守・品行方正」のエリアなので、人出が少ないのでしょう。例外的に極端に良いのがミスタードーナツで、1/8からの限定商品がバカ当たりで開店前から連日30~50人並び途絶えません。』このレポートからもわかるように行動範囲も時間も狭まり、つまり首都圏近郊のサラリーマン家庭の主婦層は外出を自粛していることから結果消費も落ち込んでいることが実感できる。既に昨年春のブログには「非接触型」ビジネス、デリバリーサービスや宅配サービスなどの需要が一般化しているが、それは「我慢」のなかのサービス需要であって本音の需要ではない。その証拠ではないが、面白いことにミスタードーナツ の季節商品キャンペーンには多くの人が集まり、行列ができている。巣ごもり生活にあっても新しい、面白い、珍しいといったそれこそ不要不急なスイーツに人が集まっているという象徴例であろう。「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考える生活者がいかに多いかがわかる。ミスタードーナツ のキャンペーン商品の事例は不安な中にあってひととき「気分」を変えてくれる商品であり行列してでも買い物したいということだ。今回の未来塾はこうした「小さな楽しみ」を提供している飲食店に焦点を当てて、どんな楽しみ着眼をしているかを学ぶこととする。また、本来であれば首都圏だけでなく、大阪まで広く取材し、その実感を踏まえたスタディとしたいのだが、緊急事態宣言の発出もあり、友人・知人の力を借りてのレポートとした。ハンバーグ専門店「肉と米」の場合実はコロナ禍真っ只中の昨年6月に東京吉祥寺東急百貨店裏にオープンした焼きたてにこだわったハンバーグ専門店である。数年前からカフェを始め新しい専門店がオープンしているとのことであったが、「新しい、面白い、珍しい」大好き人間である友人が出かけて経験した店で今なお人気の絶えない店となっている。冒頭写真のように焼き立てのハンバーグが網の上に届き、宮城米の羽釜ご飯と味噌汁が届き、目の前の炭火で焼かれたハンバーグが食べ終わる頃をみはらかって合計3個が食べられる。勿論、ハンバーグはそのままでもよし、大根おろしもよし、食べる醤油もあり、・・・・・・・・このボリュームの挽肉と米 定食 が1300円(税込)と言う。タイミングよくサービスしてくれる珍しい専門店で味やボリューム以上の満足感を提供してくれる店である。また友人は店づくりについても次のようにコメントしてくれている。 『味もおいしいのですが、何より演出に心を惹かれるお店だと感じます。エンターテインメント性が高く、ハワイに昔からある観光客向けのステーキハウス「田中オブ東京」を思い出しました。』円形の20席ほどの店だが1日200人ほとの顧客が来店すると言う。向かい合わせのテーブル席ではなく、円形のレイアウトによる席作りは感染防止のことも考えてのことと思う。また行列ができて密になってしまうことから、ウェイティング名簿制を導入している。名簿を書くことができる時間は、インスタをご確認のこと。営業時間は11;00 〜15;00、17;00 〜21;00 (時短営業になり現在は20;00まで。なお売り切れ次第で終了となる。コンセプトである焼き立てハンバーグを丁寧にをサービスしてくれる一方、水や箸休めなどはセルフスタイルをとっており、そのメリハリのついたスタイルも満足度を高めることとなっている。この「挽肉と米」の場合はレストラン業態にあって、テイクアウトなどの方法を採らず、ある意味専門店の「王道」の生き方を貫いたと言うことであろう。結果、コンセプト通りの味、価格、サービス、そして何よりももてなす雰囲気・スタイルの「満足感」を提供していると言うことである。鬱屈した日常から離れ、ひととき満足が得られたと言うことだ。ちなみに友人の話では近々渋谷に2号店をオープンさせるとのこと。ダイニング&カフェ「ミクリ」の場合大阪市西区土佐堀にある和食の店である。レトロな倉庫を改装したそうで、店内はコンクリート打ちっぱなしの壁を全面白く塗装している。一方で、無垢材のテーブル、椅子が「和」の雰囲気を演出していて、落ち着いた空間となっている。友人の話によると「経営者は奈良県出身のデザイナーらしく、料理は吉野杉の板に乗って出てくる。先付の一品と、その日のメニュー、二十四節気を説明するカード(横13センチ、縦6・5センチ)が最初に登場する。主菜と8種類の料理は、山海の珍味ならぬ“山の恵み、海の幸せ”を感じさせる。カードに二十四節気を愛でる短い文章が添えられている。1年の二十四節気の最初は1月の「小寒」。年神様と一緒にいただくおせち料理がコンセプトだった。」と話してくれた。都市生活の中で失ってしまったものの一つが自然で、その中でも「四季」は生活の節目を感じさせてくれる重要なものの一つである。友人はこれまでに、二十四節気のうち、八種類を連続していただいたとのこと。「二十四節気」達成という楽しみ方、季節を巡る楽しさは顧客の回数化を図ることもあり、見事な戦略となっている。そうした季節を巡る小さな楽しみ方には、勿論感染防止も万全である。「入店時には、スタッフが体温を測ってくれて、もちろんマスク厳守。座席は透明のアクリル板で、一人ずつ仕切っている。そういう設備面とともに、店の雰囲気が“コロナ禍”を遠ざけているように思わせてくれる」とのこと。季節感を味わってもらうことと安心感とがうまく調和させた店づくりである。テイクアウト専門店「おみそ善」の場合多くの飲食店がテイクアウトメニューをつくり、デリバリー事業者に委託したり、あるいはテイクアウト分野に進出したり、従来の業態からの転換を図る飲食事業者が急増している。昨年春のブログにも書いたが、店舗をいわばメニュー製造の工場として機能させ、テイクアウトだけでなくネット通販や移動販売などを活用するといった業態である。あるいは非接触業態である自販機の活用も広がっている。但し、例えば数年前に話題となった神奈川相模原にある「レトロ自販機」も進化している。「タイヤ交換の待ち時間に楽しんでほしい」と言う顧客要望から始まった自販機であるが、うどん・そば、ラーメン、ハンバーガー、トースト、ポップコーンなど調理機能が付いた自販機のほか、ご当地アイス、ポッキー、駄菓子、玩具付きお菓子、焼き鳥などのビッグ缶、瓶コーラ、タイの清涼飲料水など、テーマに分けて計27台を店舗の一角に設けた仮設小屋に並べる。駄菓子の自販機は、同じ商品が並ばないように工夫。選ぶ楽しさを演出するため、10円~30円の商品を売るための工夫もしており、つまり自販機による「楽しさ」の提供へと進化している。自販機ですら止まることなくテーマを磨くことが必要であると言うことだ。こうした業態の変更は店内飲食の売り上げ減少を補填する意味合いがほとんであるが、大阪肥後橋の「おみそ善」はテイクアウト専門店として2年ほど前にオープンした飲食店である。「おみそ善」に学ぶべきはテイクアウト業態の基本、専門店としての明確なコンセプト、その魅力が顧客を惹き付けると言う基本である。「コンセト」と言う言葉の理解であるが、一般的な言葉・概念で使われてきたが、新たな市場機会と言う着眼の意味をテクニカルだけの理解だけではない。現実ビジネスを考えれば、その着眼はある意味思い込みを超えた生き様である。でなければ事業の「持続」などあり得ない。「コンセプト」とはそうしたビジネス世界のことば・キーワードとしてあることを忘れてはならない。このおみそ善は関西を中心に東京やNY、中国で「美と健康」をテーマにしたヘアサロン、エステ、ジムなど50店舗以上を展開する『ウノプリールグループ』の新規事業である。勿論、コンセプトは「美と健康」であり、味噌汁の効能に着目した専門店で味噌汁が11種類(各390円)をメインにおにぎりや淡簡単な副菜が用意されている。大阪肥後橋という立地はビジネス街ということから営業時間も朝8時からで「朝食セット」や「特製弁当」も用意されている。友人が食べたのは写真の「粕汁」で大阪らしい季節の汁とのこと。友人はその時のことを次のようにコメントしてくれている。『この店を知ったのは、関西のあるTV番組だった。仲のよさそうな兄弟2人が“味噌汁道”を究めようとする姿を映し出していた。TV放映されると、しばらくはお客さんが殺到する場合が多く、ほとぼりが冷めるころに行ってみた。すごく寒い日だったので、粕汁があればいいな、と思っていたら、ありがたいことに発砲スチロールのお椀のテイクアウトで470円だった。 店の注文カウンターはアルバイトの女性が立ち、少し奥の厨房で兄弟がテキパキと働いているのが見える。粕汁は、出汁の旨さが口の中いっぱいに広がり、軽いお椀がズッシリ感じられるほどの具沢山だった。店の前の路上の腰掛石に座って、熱いうちにいただく。 お椀を返しに行くと、厨房から「お味、いかがでしたか?」と声が聞こえる。ただ、美味しかったよ、では味がないと思い、「コイモが入っていたらもっと点数が上がるかな」と答えた。もちろん、クレームではないつもりである。返事は「はい、なるほど」と元気な声だった。続けて、テレビで見たよ、と告げた。「いろいろな番組に出していただいてます」と、笑顔が見えた。 コロナ禍と戦う姿勢でもなく、悲壮感も見せず、恨みがましいセリフも出ず、街角の汁物屋さんはほんわか湯気の中である。』コロナ禍の都市空間利用の新たな取り組み2020年は多くの商業施設、専門店が休業や廃業の瀬戸際に晒された1年であったが、実は昨年コロナ禍にあって注目する2つの商業施設が誕生している。新型コロナウイルスの感染拡大によってオープンが延期されてきた商業施設の一つは渋谷の宮下公園跡地の開発で7月28日新たな商業施設「MIYASHITA PARK(ミヤシタパーク)」である。東京以外の人には馴染みのない場所・宮下公園であるが、JR渋谷駅から原宿寄りに徒歩3分にある公園でホームレスが集まる場所として知られた一等地の公園である。もう一つがJR有楽町駅と新橋駅との間の高架下開発でJRの京浜東北線や新幹線の高架下でこれまた銀座と日比谷に挟まれた一等地の空間である。まずMIYASHITA PARKであるが、大きくはスケート場やボルダリングウォールに加え、多目的運動施設を新設された区立宮下公園。もう一つが渋谷には極めて少なかったホテル。そして、注目されているのが商業施設で、この3つの空間によって構成されている。簡単に言ってしまえば、ショップなどの商業施設の上に公園があり、原宿寄りにホテルがあるという構図である。公園と商業施設、そしてホテルといった組み合わせは珍しいことではなく、公園とまでは言わなくても屋上緑化はかなり前から都市空間のつくり方としてはありがちなことで、実は賑わいを産み出し注目されているのは他にある。賑わいを生む「渋谷横丁」北海道から九州・沖縄まで地域のソウルフードや力士めし、喫茶スナックと多彩なアーティストのパフォーマンスが楽しめる全19店舗の飲食街である。写真と次のようなMAPクォ見ればどんな賑わい作りであるか理解できるかと思う。そして、写真は商業施設の HPからのものだが、「24時間」と明記されているように珍しい営業時間となっている。但し、今回の緊急事態宣言の発出により朝8時から夜8時までとなっている。リニューアルした渋谷PARCO地下のレストラン街、少し前の虎ノ門ヒルズの虎ノ門横丁、それらの原型は吉祥寺のハモニカ横丁にあるのだが、昭和の匂いのするレトロな「街づくり」であり、若い世代にとってはOLD NEW古が新しい世界である。それまでの渋谷は「大人の街」へと脱皮するかのように高層ビルによる商業開発であったが、この渋谷横丁は若い世代の新しい人気スポットとなった。渋谷に生まれた裏通り文化であり、経験したことのない全国の「食」をあれこれ楽しめる安価な路地裏歩きである。例えば、北陸食市のメニューであるが、イカの漬け丼999円、金沢のソールフードであるオムライスの上にフライをのせたハントンライス999円。東北食市であれば盛岡冷麺799円、牛タンカレー1299円と言ったように若い世代の懐を考えたメニュー価格となっている。何故、横丁路地裏に賑わいが「都市」に生まれたのか、勿論それには大きな理由がある。もっと明確にいうならば、「賑わい」の孵化装置・インキュベーションの一つとして横丁路地裏があるということである。別な表現をするならば、「表通り」と共に「裏通り」に生まれてくる「何か」、それへの期待が生活者、特に若者に生まれてきたということである。その「何か」を総称するならば「文化」となる。6年ほど前になるがそうした「裏通り」についてその象徴として秋葉原、アキバについて次のように書いたことがあった。『秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使って対比させてみた。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質な欲望が交差する街、実はそれが秋葉原の魅力である。』(未来塾4 街から学ぶ 秋葉原編)周知のように秋葉原にあった神田青果市場跡地の再開発に端を発した街秋葉原の変化を「2つの異質が交差する街」と位置付けてみた。再開発で誕生した高層ビルの裏側にある古びたビルからAKB48が生まれたのは偶然ではない。そして、オタクと呼ばれる熱狂的なフアンを生み、次第にマス化し、後に秋葉原駅北口の高架下にAKB劇場が新設されることとなる。裏通りから、表通りへと進化したということである。新しいフードコート業態1カ所で多様な飲食を楽しめる場としてフードコートが造られてきた。特に郊外のSCには必ずフードコートがある。10数年前までは1社に全てを任せる方式であったが、より顧客の好みに合わせた専門飲食店、例えば洋食やうなぎ、あるいは人気ラーメン店などを組み合わせるようになる。週末などはファミリーで満席状態を見せる業態となっている。渋谷横丁を見ていくとわかるが、横丁という賑わいスタイルを採っているがメニューとしては全国のご当地飲食メニューから選べるようになっており、一種フードコート的である。そして、こうした専門店でしか食べることができない多様なメニューを集積することによって賑わいは加速する。また、現在は緊急事態宣言が発出されいることから朝8時から夜8時までとなっているが、本来は24時間営業となっている。これも若い世代が集まる大きな要因となっていることは確かである。残された唯一の超一等地の開発ところで9月にJR有楽町駅から新橋駅間の内山下町橋高架下に誕生したのが商業空間「日比谷 OKUROJI(ヒビヤ オクロジ)」である。銀座と日比谷に挟まれた京浜東北線や山手線、東海道線の高架下といったほうがわかりやすい。それまでは倉庫や駐車場などに使用されていた空間で、誰もがその活用について不思議に思われてきた空間である。その空間300メートルに飲食店を中心に36店舗のテナントが入った商業施設である。「オクロジ」というネーミングに表されているように、コンセプトは奥まった空間に「大人」のセンスを満たす商業施設となっている。新しい大人の「隠れ家」を目指す商業施設であるが、渋谷の宮下パークとは異なるコンセプト&ターゲットである。 「ヒビヤオクロジ」のコンセプトを最も良く表現しているのは新橋寄りにあるBarや焼き鳥、ラーメンなどのフードコートなどのある「ナイトゾーン」であろう。宮下パークと比較するとよくわかるが、「渋谷横丁」がナイトゾーンに該当する。周知のように銀座はコロナ禍にあって空き店舗のビルが増え、更に大通りに面したビルにも空き店舗が増えるといった状況が生まれている。2020年の基準地価が発表されたが、訪日客の激減により大都市繁華街の地価下落は激しい。中でも銀座2丁目も5.1%下落し、9年ぶりのマイナスとなったように「賑わい」は回復基調にはない。果たして、銀座における「大人の隠れ家」が成立するにはどんな専門店を編集したら良いのかという課題がある。それはGINZA SIXにおける大量閉店に見られるように、銀座における「集客」が大きく落ち込み売り上げに満たない専門店が続出している。周知のようにGINZA SIXはインバウンド需要が大きいということもあるが、「銀座」というブランド価値が落ち込んでいるということである。こうした中での「価格戦略」の立て方ということとなる。例えば、飲食ゾーンにあるうなぎ専門店、ひつまぶしの名店が出店しているが、その価格は果たして成立するのかという課題でもある。銀座には老舗のうなぎ専門店、竹葉亭や野田岩など数十店あり、若い頃から食べてきた敷居の低い竹葉亭などは鰻丼などは3500円程度でサラリーマンでも食べられる価格帯である。一方、オクロジ「うな富士」のうなぎ丼は4300円と少々高い価格設定となっている。ところで、オクロジには「うな富士」とは異なるユニークな飲食店は出店している。それは大阪で人気の居酒屋「天ぷらとワインの店」大塩(おおしお)で、その入りやすい店づくりに表れているようにランチも1000円以下で食べられる設定となっている。大阪ではサラリーマンが通う梅田の駅前第3ビルの地下飲食街にありよく知られた飲食店である。「隠れ家」というキーワードがメディアに登場したのは2000年代初頭で、東京霞町近辺の路地裏にある飲食店にTVや芸能関係者が利用したことから始まっている。そして、実は知る人ぞ知る「隠れ家」は高い価格によって決まるわけではない。例えば、サラリーマンの街新橋には居酒屋「大露地(おおろじ)」に代表されるように多くの知る人ぞ知る名店がある。そうした名店に仲間入りするには、「銀座価格」を超えた「何か」が必要だということである。つまり、隠れ家とは継続して利用する、いわば常連客の店のことである。店の雰囲気、メニューの好み、店のスタッフサービス、そして何よりも回数利用できる「価格設定」が重要なポイントとなっている。顧客が回数を重ねるに従って、次第に「文化」も生まれてくる。新しい銀座文化の一つになるには「価格を超えた」飲食店の集積を目指すということだ。実はこの試みを難しくさせているのが、このコロナ禍である。「隠れ家」は自由に行き交う中で、同じ楽しみを共有しえる「仲間」が集う場のことである。つまり、新しい大人の居場所づくりということだ。(後半へ続く)
2021.02.14
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ヒット商品応援団日記No778(毎週更新) 2021.2.11.インターネット時代がスタートした当初、流される情報は玉石混交と言われた。極端なことを言えば、嘘もあれば事実もあるということであった。実はインターネット上の情報のみならず、いわゆる地上波メディア、特にTVメディアは「嘘」ではないが、本質をついていない情報ばかりを流す時代となっている。勉強不足と言えば優しい表現になるが、現在のメディアは「無知」と言っても過言ではない。冒頭の写真とコメントは私の友人が送ってくれたものだが、今話題となっているオリパラ組織委員会会長である森会長に関する「報道」についてである。元新聞記者である友人は次のようにコメントしてくれている。「東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長の「女性蔑視」発言が尾を引いています。森会長を擁護するつもりは全くありませんが、五輪そのものが、もともと「男」だけの世界だったといえます。そう、かのクーベルタン男爵からして。1896(明治29)年の第1回アテネ五輪は、8競技とされますが、女性の参加はありません。クーベルタン自身が望まなかったから、という説さえあります。さっそく、異論が出て、第2回パリ五輪から女子選手が出場。今では、柔道、レスリング、サッカー、マラソン、アイスホッケーなど、男子のものと思われていた競技も女子が活躍しています。スポーツ自体が長く「男社会」でした。それが大きく変化していることを、森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」元スポーツ担当記者である友人の指摘である。日本のスポーツは昔から「運動部」と言われてきたように明治時代の富国強兵のための肉体を鍛錬するための「運動」をスタートとしている。記者であった友人は新聞社における「運動部」という名称が嫌で嫌でしょうがなかったと語っていた。そうした歴史を踏まえた論議がまるでなされていないのが日本の報道、特にTVメディアの取り扱いである。オリンピックも時代の変化と共に常に変わって来ており、男女平等もその一つである。友人が不思議に思ったついでに私からもさらに大きな不思議がある。それは「男女差別」という認識についてある。数日後に未来塾でコロナ禍の「事例研究」の中の「若者感染悪者説」で「男女平等」に関する不思議さを次のように書いた。『若い世代の特徴を草食男子と呼んだが、実は肉食女子と言うキーワードも併せて使われていた。この表現が流行った時、思わず江戸時代と同じだなと思ったことがあった。江戸の人口は当初は武士階級が半分で残りがいわゆる庶民であった。次第に元禄時代のように人口が増え庶民文化が花開くようになるのだが、当時の「女性」のポジションとしては圧倒的に「女性優位」であった。今の若い世代は「三行半(みくだりはん)を叩きつける」と言った表現の意味合いを知らないと思うが、昭和の世代は男性が女性に対し使う言葉で「縁を切る」「結婚を破棄する」「愛想が尽きた」と言った意味で使われると理解しているが、実は全く逆のことであった。「三行半」は女性が男性からもぎ取っていくもので、離婚し再婚する女性が極めて多かった社会と言われている。この背景には女性の人口が少なかったこともあって、女性が男性を選ぶ時代であった。江戸時代は男女の区別はなく平等で、例えば大工の仕事にも女性が就いたり、逆に髪結の仕事に男性が就いたりし、育児を含めた家事分担はどちらがやっても構わない、そんなパートナーシップのあるライフスタイルであった。ただ武士階級は「家制度」があり、上級武士になればなるほど「格」とか「血筋」「歴史」によって男女格差が決められていた。何故こうした江戸時代のライフスタイルを持ち出したかと言うと、これからの時代に向き合うには過去の因習に捉われない、区別をしない、多様性や個別性に素直に応えることが問われており、若い世代、特に「肉食女子」と呼ばれた女性に期待をしたい。若者犯人説、不要不急悪者説、古くは夜の街・歌舞伎町悪者説、そして飲食事業悪者説など、危機の時には必ず「悪者」を創り上げる。こうした手法は政治家が特に使う常套手段であるが、危機の時こそ感情に押し流されることなく、理性的に科学の根拠を持って向かわなければならない。生活者はこうした認識でいるのだが、特にマスコミ、TVメディアは相変わらず「悪者」「犯人」探しが仕事であるかのように考えている。ある意味で、もう一つのウイルス、差別や偏見を撒き散らしているのはTVメディアと言っても過言ではない。』無症状もしくは軽症で済んでしまう若い世代をあたかも「悪者」であるかのように言う、政治家やTVメディアに対してその間違いを指摘したかったことからこのようなブログを書いた。情報リテラシーが言われて時間が経つが、実は今問われているのは情報の「根拠」である。元大統領であったトランプによる「フェイクニュース」事件をこの1年間FOXニュースとCNNミュース両方の視点による情報を見て来た。両陣営から発する情報の違いだけでなく、何故その違いの「根拠」を問わないのかであった。ただ、救いなのは米国の場合はその根拠を見極める努力はしていると思う。5年前の日本の報道は、間違ってもトランプは大統領になることはないと報道していた。それはCNNをはじめとした情報ソースを根拠としていたわけで、決定的に間違った報道を行ってきたと言う事実がある。今回の森会長の女性蔑視発言も「男女差別」と断言するコメントがTVメディアに多いが、いわば伝言ゲームのように拡散している。森会長の発言を全文を読む限り、発言の背景に日本における「男社会」「スポーツ村社会」が残ってのことだと感じるが、メディアの常であるが「女性は会議を長引かせわきまえない」と言った断片を切り取って報道することの弊害は海外メディアへと伝わり、その報道が日本のメディアは反復するように報道する。伝言ゲームと言ったのはこうした「伝播」は、「うわさ」が広がる社会心理と同様で、友人と同様森会長を擁護する気はないが、事実からどんどん離れ本質を見失ってしまうこととなる。ネット上では「私はわきまえない」と言った投稿が相次いでいる。その「わきまえる」とは物事の道理をよく知っている。心得ていることで、常に感情で反発するのではなく、「事実」に立ち返ることが必要となっていると言うことである。「物事の道理」と言うならば、森会長は7年も会長職についており、今始まったことではない。友人が言っているように「森会長は理解できていない、あるいは理解したくない、ただ、それだけじゃあないですか。」。つまり、適任ではないと今になってやっとメディアが言い始めたと言うことである。森会長のスポーツ界における出身はラグビー」にあるのだが、一昨年のラグビーW杯を日本に招致した功績があるとしたスポーツジャーナリストは多い。確かにそうした一面はあるかとは思う。ただラグビーをやって来た友人に言わせると、若くして亡くなってしまった平尾誠二さんの情熱によるところが大きいと言う。“ミスターラグビー”と言われた平尾さんは周知のように、大学選手権3連覇、日本選手権7連覇と輝かしい実績を残してきた。その独創的なプレーと卓越したリーダーシップが人々を魅了した。しかし、日本代表の監督に就任して3年、勝てないことを理由に辞任に追い込まれる。監督時代にはそれまで少なかった外国出身の選手を次々と起用。日本代表のキャプテンにも、初めて外国出身の選手をすえる。つまり、あの「ワンチーム」の礎を作ったと言うことである。しかし、そのラグビーW杯を見ることなく末期癌で亡くなるのだが、平尾さんのラグビーに憧れ自らのラグビー競技に打ち込んだips細胞研究所の山中教授は平尾さんが綴った本の一節を今でも苦しい時読み返すとインタビューに答えている。『“人間は生まれながらに理不尽を背負っている。大切なのは、なんとか理不尽な状況に打ち克って、理想の人生にできるかぎり近づこうと努力すること。その過程にこそ生きることの醍醐味というか喜びもある。”』日本のスポーツ界もやっと次のステージへと向かおうとしている。森会長の辞任ばかりを話題としているがそうではない。これからも理不尽なことは起こるであろう。山中教授は「目の前に障害があったら、それを突破するというのも戦略だけど、あえてそこは通らずに避けて、パスをするなりキックをするなり、そういう手もあるやろうと。」とも語っている。つまり、長い戦いがこれから始まると言うことである。パスもよし、キックもよし・・・・・・・・頑張れ肉食女子。(続く)
2021.02.11
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ヒット商品応援団日記No777(毎週更新) 2021.1.17.2回目の緊急事態宣言が発出されても街の「人出」は大きくは減少してはいないという。朝の通勤電車の混み合いも大きくは減少してはいない。そこで再び政治家もマスコミも使い始めていのが「不要不急」の外出行動は自粛して欲しいという使われ方である。昨年4月1回目の発出の時に使われ、当時も不要不急とは「何か」という議論が起きたことを思い出す。新型コロナウイルスにはまさに未知のウイルスであり、3月末には身近な存在であった志村けんさんがあっという間になくなったことから「恐ろしい病気」であることから、「不要不急」の外出とは、生きるための「食材」や生活に必要な薬や消耗品」を購入するドラッグストア以外の外出は自粛することとなった。第一波の感染のピークは終えてはいたがこうした自粛行動によって感染は減少へと向かった。前回のブログで4月の時のウイルスと比較し、「未知」から「既知」のものへと変化したと書いた。5月に入り緊急事態宣言は延長されたものの、大型商業施設の営業時間も、スポーツや映画や演劇など文化施設も制限はあるものの次第に制限は解除されてきた。つまり、100%ではないが、「不要不急」から「日常」へと意識は変わってきた。その意識はGoToトラベルによって「旅行」という最も不要不急な行動へと向かったことは周知の通りである。勿論、意識の奥底には新型コロナウイルスへの「恐れ」はあるものの時間経過と共に意識事態は変わっていく。それはこの1年間の生活者の感染予防をしながら、生活を楽しむ知恵や工夫によくあらわれている。そのライフスタイルについてが昨年12月のブログ「ヒット商品版付を読み解く」を見て欲しい。こうした意識の変化は常に時間の経過と共に必ず起きる。その変化をよく「慣れ」と表現されるが、ある意味コロナ禍における生活者の「日常」の構築のことである。戦後の物が乏しい時代には「不要不急」などという言葉はなかった。当時あったのは今や死語となったエンゲル係数で、生活費に占める消費支出の「食費」の比率であった。つまり、生きていくための「食」の比率が豊かさの基準であった。いや豊かさと言うより、生きるための必需消費であったと言うことである。日本の消費は当時から教育支出が高いのが特徴であるが、次第にお洒落や旅行といった「楽しみ」消費へと変化していく。高い価格を払ってでも痩せるダイエットもそうした消費の代表的な物であろう。それも選択消費と呼んでいるが、不要不急とはこの選択消費のことである。コロナ禍で生活者が行動変容したのは「密」を避けて楽しむ変容であろう。例えばオープンエアな環境での楽しみ方で、キャンピング人気であり、観光気分も味わう紅葉ハイキングなどによく反映されている。つまり、不要不急の行動であっても、そこにはウイルスへの学習による変化があるということである。そして、この選択消費・楽しみ消費が実は都市経済を支えている。簡単に言って仕舞えば、「消費」することが生産であると言う意味である。サプライチェーンという難しいことを言うまでもなく、消費は単に買わないと言うことではない。買わないことによって生産・流通する事業者に直接つながっていることは昨年の一斉休校により学校給食がなくなったことが、このサプライチェーンによって経済が成立していることがあからさまになった。給食用の食材が納入できなくなったと言うことである。葉物野菜などは廃棄処分せざるを得なくなったと言うことである。これは都市と地方という対比でも表現できる。このことは単に「食」の問題ではなく、不要不急の代表的な「旅行」がそうである。今回の緊急事態宣言によって飲食業だけでなく、都市周辺地方の観光地には都市観光顧客は自粛しほとんど行くことはなくなった。勿論、観光地だけでなく、移動の交通事業者は言うまでもない。前回のブログで「情報」は立場立場で手前勝手に解釈するものであると書いた。しかも、民主主義の良いところでもあるのだが、「感情」で判断してしまい冷静に科学的な知見をもとに発言すべきところを間違えてしまう恐れがある。その代表的な言葉が「不要不急」である。この一言で全てをある意味判断の遮断をしてしまう言葉として使われかねない。今回の緊急事態宣言は飲食店の時短要請を中心とした限定的なものであるが、夜8時以降の自粛だけではなく、昼のランチも控えて欲しいと言った発言がなされ飲食事業者は混乱困惑している。つまり、夜営業もランチ営業も自粛して欲しいと言った方針転換と受け止められている。極論言えば、店内飲食はやめて弁当販売しか方法はなくなるということだ。そして、都知事からは不要不急の外出を自粛要請。わかりやすく言えば表現は悪いが、ソフト・ロックダウンである。昨年、3月都知事によるロックダウン発言で翌日スーパーの棚からお米やレトルト商品がなくなっていたことを思い出せば十分であろう。来週から国会が始まり特措法の改正が論議されることとなるが、補償と共に罰則規定も論議されるようだ。よくよく考えれば、営業時間の短縮といった要請は営業の自由を制限していることであり、「要請」とは言え私権の制限要請でもある。同じように「不要不急」における「何を」不要不急とするのかは個々人の判断によるものである。4月の時にブログには「セルフダウン」という言葉によって自主的な判断のもとで感染防止努力をすべきで、日本人にはそれが可能であると書いたことがあった。その源はあのサッカーのレジェンド三浦知良さんのHPでの発言「セルフロックダウン」であった。自らの判断で自身を規制するということである。第一波の感染を防ぎ得た要因の一つがこの国民一人ひとりによるセルフダウンであったと私は考えている。この不要不急・自粛については「高齢者」は既にライフスタイルを変えている。重傷者や亡くなった高齢者については報道されているが、実は大多数の高齢者は自制、いやある意味で「密」を避けての「自己隔離」している。外出も今更言われるまでもなく、必要最低限のことしか行ってはいない。自分で自分を守る方法はやはり経験から熟知しているということだ。ましてや多くの高齢者は持病を持っており、「肺炎」には極めて注意している病気である。一定の年齢になれば肺炎球菌のワクチンや季節性インフルエンザのワクチン摂取も行っている。特に、誤嚥性肺炎など食事にも注意している。つまり、既に十分自己管理・自己隔離しているということである。新型コロナウイルスによって亡くなる高齢者の多くは高齢施設や院内感染が多いと聞いている。死者や重傷者を低く抑えるには、この高齢者の自己管理・自己隔離を徹底した方が的確な政策となる。但し、増え続けている家庭内感染を徹底的に防止することが必要となる。ある意味、家庭内隔離である。日本の医療体制の不備・高度治療の後れについては再三再四指摘されている。その実態について、あの山中伸弥教授のHPで「ICU等病床数と新型コロナウイルス重症患者数の国際比較」がなされ、欧米各国はICU等病床の20%から80%を新型コロナウイルス重症患者の治療に使用されており、日本はわずか5%にとどまっていると。この実情・後れを考えるならば、高齢者の「自己隔離」と言う方法が必要であることがわかる。ところで感染拡大のポイントとなっている若い世代、30代以下にとってこの「不要不急」と言う言葉はおそらく全く通じないことは確実である。高齢者にとって不要不急とは「我慢」することであり、戦後の乏しい物資の中で育った経験が残っており理解することはできる。しかし、彼らにとって既に豊かな時代に生まれており、例えば仲間との「会食(パーティ)」のような「不要不急」の行動が楽しみであり、コミュニケーションとしては成立はしない。前回も書いたが行動を抑止する「実感」ある言葉ではない。最近祖父母などに罹患させないために行動を自粛して欲しいと言っても罹患の実感もない。あるのはバイト先に迷惑がかかる、あるいは勤務先に迷惑がかかる、と言った方が彼らにとって、実感できないまでも理解はしてくれる。バイト先に感染者が出たとなった場合、例えばSNSで投稿されたらどんな事態が生まれるかそれこそ実感を持つことは間違いない。また、新型コロナウイルスの恐ろしさについて後遺症の恐ろしさを伝え始めているが、こうした恐怖戦略も実感を得るまでには至らない。身近なところにそうした後遺症で悩む同世代はほとんどいないからだ。前回指摘したように、「伝える方法を持つこともなく、しかも伝えるべき内容」も決定的に間違えている。彼らをまた「悪者」にしてはならないと言うことだ。悪いのは前回も書いたが、「大人」である。つまり、「不要不急」と言ったわかったような、わからないような言葉では誰も聞こうとはしないであろう。中小の飲食事業者もそうだが、大手の居酒屋チェーンモンテローザは「居酒屋にとって20時までの営業では店舗の運営は困難として、都内61店舗を閉店すると発表している。あるいはイタリアンのレストランチェーンサイゼリアの名物社長は記者会見の席上「ランチも控えて欲しい」との政府発言に対し、「ふざけるな」と語気を荒げる場面も見られるほどである。また、紅虎餃子房で知られている際コーポレーションの中島社長も中小事業者だけでなく大手チェーンも極めて厳しい状況にあると報道陣に投げかけている。日本の飲食店、67万店。働く人、440万人。東京都の場合飲食店は約8万店と言われている。産業規模から言うと、飲食サービス市場は約32兆円。ちなみに不要不急の代表的なビジネスである「旅行」産業は約23兆円と言われ、その内3兆円がインバウンドビジネスであり、既にその3兆円は消えて無くなり、更に旅行自粛は強まり、20兆円はどこまで落ち込むか極めて心配である。そして、倒産・失業者は春にかけて増えていく心配が高まる。不要不急などと言った言葉ではなく、「我慢」して欲しい。「会食」ではなく、仲間とのパーティは少しの間我慢して欲しい、そのように言葉を変えることから始め、科学的知見を持って感染拡大を防止すべきではある。飲食サービス事業の感染メカニズムの科学的知見が得られないのであれば、これは推測する域を出ないが、感染源の状況証拠を風評被害を起こさないことを前提に公開すべきである。こうしたエビデンス・証拠を持って、「我慢」の1ヶ月として欲しいとメッセージを送るべきである。飲食事業者も、若い世代も、共に「悪者」にしてはならない。悪者は「大人」である。(続く)
2021.01.17
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ヒット商品応援団日記No776(毎週更新) 2021.1.12.2回目の緊急事態宣が発出された。その背景の一つが昨年末から年明けに急速に感染者が増え、病床が逼迫してきたからと発表されている。何故、これほどまでに急速なのかは感染症の専門家の分析を待たなければならないが、年末に向けたクリスマスを含めたイベントでの感染によるものではないかとも。また、長野や宮崎といった地方の感染者の急増は「帰省」によるものであるとも報道されている。しかし、この帰省については夏のお盆帰省と同程度の移動であったことから、何故これほどまでの急増したのかという疑問に答えることはできない。ある感染症の専門家は季節性インフルエンザの流行と同様、寒い気候、しかも乾燥した環境がウイルスには増殖の好条件であるからという説明にある程度納得できる理屈ではある。世論調査の多くは政府の緊急事態宣言の発出が遅れたとし、支持率も急落している結果となっている。その責は政府が負わなければならないが、昨年末までに各地方の知事からの要請は皆無であった。各都道府県の責も当然ある。つまり、政治行政が混乱しており、ある意味リーダー不在状況になっているということだ。TV番組のコメンテーターはドイツのメルケル首相のようなリーダーシップを求める声があるが、批判のための批判であって解決の芽にすらならない。混乱の本質・問題は大きくは2つある。一つは特措法を変えていくことと、昨年4月以降の第一波、第二波において「何故感染が減少に向かったのか」その根拠・エビデンスを明らかにすることにある。同じことを繰り返しても意味のないことから、このブログの主旨に戻ることとする。ところで今回のテーマは2回目の発令にもかかわらず、夜の街の人出は減少したが、昼間の人出にはその傾向が見えないといった報道がなされている。その報道の内容となっているのが、「危機感が伝わらない」というものである。前回の年頭のブログにも書いたが、伝わらないのは当たり前のことで、特に伝えたい相手の20代~30代に対し、伝えるメディアも伝える内容もまるで見当違いであることによる。TVのワイドショー番組でいくら「危機」を叫んでも、届くのは高齢の視聴者だけで、結果人出は減ることはない。考え違いが甚だしいということだ。以前流行語大賞に選ばれた言葉の一つに「KY語」(空気が読めない)があった。翌年ローマ字式略語約400語を収めたミニ辞典「KY式日本語」が発売された。その中に納められたキーワードの1位はKY、上位にはJK(女子高生)やHK(話変わるけど)といった言葉遊びが中心となっている。面白い言葉では、ATM、銀行の自動支払機ではなく(アホな父ちゃんもういらへん)の略語やCB、コールバックや転換社債ではなく(超微妙)の略語で若者が多用する言葉らしさに溢れている。勿論、その多くは数年後には使われることなく死語となっているように、時代の変化と共に「仲間こどば」は変わっていく。この「仲間ことば」でコミュニケーションすれば良いのではと短絡的に考えてはならない。例えば、昨年菅総理がニコ動を使っての記者会見をしたことがあった。菅総理の最初の言葉が笑いながら「ガースーです」と挨拶したことへの批判が集中した。つまり、こんな危機にあるのに「ガースーなんて」常識がない、不謹慎であるという声であった。そもそもニコ動を使って既存のマスメディアにも流したこと自体に問題があったのだが、周知のようにニコ動は画面上に視聴者が入力したコメントを字幕として表示し、自分のコメントと一緒に表示される。このことにより他の人たちと感想を共有でき,あたかも一緒に見て いるかのように感じられる動画である。画面に「ガースー」というコメントが一斉に流れ、思わず菅総理も「ガースーです」と挨拶したわけである。非難した政治部記者も専門家もニコ動の仕組みを知らない無知を曝け出したこともあり、非難は急速に萎んでしまったが、実はこの「仲間ことば」によるコミュニケーションの無理解については今なお続いている。また、昨年若い世代に人気があり、流行語大賞にもノミネートされた「フワちゃん」を東京都知事が都庁に呼んだことがあった。パフォーマンスの長けた小池知事のやり方であるが、若い世代にも会話しているという映像をテレビメディアに撮らせ流させる。つまり、若い世代とのコミュニケーションを深めるのではなく、「やっている」ことを視聴者に見せる手法であって、「仲間ことば」の無理解においては同様である。その感染拡大の中心として名指しされている若い世代であるが、前回若い世代に決定的に足りないのは「経験」「実感」であると書いた。実は価値観から言うと、極めて合理的な思考を持っていることがわかる。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、とまるで欲望を喪失したかのように見える世代であるが、彼らの関心事の中心にあるのは「貯蓄」である。安定を求めながら、将来不安を少なくするためであり、例えば女性とデートする場合でも「ワリカン」であったり、デート場所はホテルなどのレストランではなく自宅とかで近くのコンビニで飲み物や食べ物を買って好きなDVDを観たりする。あるいは上司に誘われても飲みにいくことは極力避ける。仲間内の合コンも居酒屋ではなく、仲間の自宅で行うパーティにしたり、コストパフォーマンスを考えた行動をとることが多い。確かPayPayのCMであったと思うが、ワリカンアプリを使って楽しめるものであったと思う。1円単位でシェアーしてその金額は支払い者に送金するという合理性である。自分達は新型コロナウイルスにかかっても軽症もしくは無症状であり、未知のウイルスという怖さはすでに無い。こうした彼らのライフスタイルやその行動を子細にに見てていくならば、飲食店だけに時短要請をしてもその効果は半減するということだ。この時代のコミュニケーションの難しさはKY語という言葉によくあらわれている。「空気読めない」という意味だが、その「空気」とは何かである。言葉になかなか表しにくい微妙な世界、見えざる世界、こうした世界を感じ取ることが必要な時代に生きている、そんな時代の最初の流行語であった。善と悪、YesとNo、好きと嫌い、美しいと醜い、こうした分かりやすさだけを追い求めた二元論的世界、デジタル世界では見えてこない世界を「空気」と呼んだのである。つまり、伝わらない時代にいるということである。こうした時代にあってヒントをくれた人物を思い出す。広告批評という雑誌を長く続けたコラムニスト天野祐吉さんである。まだ元気に活動されていた天野さんは「言葉の元気学」というブログの中で「広告批評」で若いコピーライターの卵100人に「からだことば」のテストを行い、その結果について次のようにコメントされていた。 ・「顔が立つ」/正解率54.9%/回答例 目立つ 、化粧のノリがいい ・「舌を巻く」/正解率42.3%/回答例 キスがうまい、言いくるめる、珍味、 ・「あごを出す」/正解率35.2%/回答例 イノキの真似をする、生意気な態度をとる体にまつわることばについて、「無知」「国語の再勉強」というのではそれで全てが終わってしまう。天野さんは”「舌を巻く」なんていうのは、これからは「キスがうまい」というイミに使ってもいいんじゃないかと思うぐらい面白いですね。(どうせ、半数以上の若者は本来のイミを知らないんだし、そのことにいまさら舌をまいても仕方がないしね)と、書かれている。「いいか、わるいか」ではなく、「素敵か、素敵じゃないか」「カッコイイか、ワルいか」を感じ取れる世界、それでいて若い世代にも分かるような「大人のことば」が問われているということだ。天野さんのように「キスがうまい」と、大人への扉を開けてあげる知恵やアイディアが若い世代とのコミュニケーションを成立させる。何故なら、彼らは十分すぎるほどの自己表現メディアを持っているからだ。天野さんが活躍していた時代から更に固有な解釈から生まれる「表現」を持っている。つまり、「ことば」を持っているということだ。昨年「香水」で大ヒットした 瑛人のように、楽譜は読めないが人の心を打つ楽曲ができるように。コロナ禍の一年、ストレスが極度に積み重なり、ある意味社会全体がヒステリー状態に向かいつつある。昨年は自粛警察を始め社会現象として誹謗中傷やデマが奔出し始めている。こうした芽はTVメディアによる恐怖の刷り込みによるものであるが、未知のウイルスから既知のウイルスへと変ってきた。その変化の中心が若い世代である。当初の「正しく 恐る」は、その正しさが偏った「正しさ」として報道されたことによって「既知」となった。若い世代は軽症もしくは無症状という情報によるものである。その通りであると感染症の専門家も認めることだが、「社会」は一人で生きていけるものではない。多くの関係の中で生きていくことは周知のことではあるが、彼らにそのことを伝える「ことば」を持っていない。「仲間」に一番近くにいる大人の人物にはある程度聞く耳は持っている。前回青山学院駅伝監督の原さんの事例を出したが、原監督に言われるまでもなく、学生・選手は感染者が出ればどんな「事態」になるかよく理解している。つまり、箱根駅伝には出場できないという事態である。こうした事態は身近な問題として実感できることである。飲食店やコンビニでバイトをしている学生であれば、感染したらバイトができなくなるだけでなく、その店は休業状態になるということは容易に想像できる。会社勤めであれば同じように社内の「仲間」も濃厚接触者として仕事に就くことはできなくなる。身近にいる「大人」が繰り返し会話することしかない。政治家のリーダーシップを問うコメンテーターが多いが、政治家は一番遠い大人である。こうした若い世代も高齢者も同じように新型コロナウイルスの恐ろしさを感じたのは志村けんさんの死であった。身近な存在で実感できる恐ろしさであったということだ。しかし、若い世代にとって、時間の経過と共に「実感世界」は消えていく。マスメディアが世界の感染情報を伝えれば伝えるほど「日本は大丈夫。若い世代が重症化することは極めて少ない」という思い込みは加速していく。例えば、感染が急激に加速している英国における死者の88%が高齢者であるといった情報が報道されている。情報は常に自分勝手に解釈するものである。また、今回緊急事態宣言によって飲食事業者への時短要請がポイントとなっているが、要請に従わない店も従う店の多くも、その根底には「実感」の無さがある。従業員も来店顧客も、いずれの場合にも周辺には感染者はいない。近隣の飲食店にも感染によって休業となった店もほとんどない。前回のブログにも書いたが、欧米の感染者数と比較し、日本の場合は極めて少ない。しかも、第一波第二波共にクラスターという小集団感染が主体であった。今回の第三波は市中感染状態から考えていくと「感染者」や「感染飲食店」と出会うことになるかもしれない。新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)のダウンロードすうは約2310万人、陽性登録件数はわずか6929件である。この接触者数の少なさを見てもわかるように極めて少ない。実感するには程遠い存在なのが新型コロナウイルスである。実は昨年夏に「もう一つのウイルス」として誹謗中傷・デマを取り上げることがあったが、感染者が急増するにしたがってこの人間心理に潜む厄介なウイルスが再び活動し始めている。このウイルス拡散も、実は時代の唯一の見極めは「実感」できるか否かである。実感から離れたとき誹謗中傷・デマが生まれ拡散する。過剰な情報が行き交う時代にあって、唯一の判断指針となるのは「実感」できるか否かである。(続く)
2021.01.12
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ヒット商品応援団日記No775(毎週更新) 2021.1.3.新年明けましておめでとうございます。年末31日の新型コロナウイルス感染者が東京では過去最多の1337名となり、マスメディア、特にTVメディアは元旦早々大仰に取り扱っている。それほど驚くことではないと思うが、TVメディアのように「驚かせない」と視聴率ビジネスにならないため仕方がないことだとは思うが、どこか違うと言う思いからこんなブログを書くこととなった。昨年12月のブログ「ヒット商品番付を読み解く」にも書いたが、コロナ禍に暮れた1年間であった。2020年1月元日産自動車会長のカルロスゴーンの逃亡劇から始まった年は1月末には終わり、世界中のマスメディアは新型コロナウイルスの感染記事で埋め尽くされる。2月に入り3711人の乗員乗客を乗せたダイヤモンドプリンセス号内で新型コロナウイルス感染症の集団発生がら以降単なる情報としてのそれではなく、身近な日常生活に浸透することとなった。正月早々重苦しい問題を書くことになるが、タイトルの「登山の思想を考える」とは、作家五木寛之が書いた「下山の思想」にある「下山」のもう一方である「登山」の思想を考えてみたいと考えたからである。何故、今「登山」なのか、それは時代をこれから登っていく若い世代について考えてみたいと思ったからである。五木寛之は日本の今、成熟した日本を山を下る下山から見える景色と捉え、その時代の生き方を慧眼を持って書いたものである。そこまでの知恵には遠く及ばないが、もう一つの道「登山」について気になって仕方がなかったからである。昨年後半盛んにマスメディアが報じたことの一つが、「若い世代」にはコロナ危機が伝わらないという一種の非難であった。その裏側には新型コロナウイルスの恐ろしさへの無理解があり、感染しても無症状もしくは軽傷者がほとんどであることから、感染拡大に加担しているのではないかという疑義から生まれている。実は「伝わらない」のは伝えることをしてこなかったという「大人」の責任であり、政治のリーダー、特にマスコミ・TVメディアの考え違いにある。「大人」のロジックと方法では伝わらないということである。感染のメカニズムを含め「若い世代」は正確にコトの事態を理解していると考えることが必要と私は考える。それは昨年3月以降の報道を始めメディアを通じて流される情報・内容の変化、若い世代にとっては情報の「いい加減さ=実感を持ち得ない理屈だけの言葉」に「大人」は気づいていないという断絶があるということだ。季節性インフルエンザとまではいかないが、彼らにとって「恐怖」としてのパンデミックではない既知のウイルスに近い認識を持っている。私は消費を通し、この若い世代を常に注視し分析してきた。今から10年ほど前になるが、この世代について次のようにブログに書いたことがあった。『今や欲望むき出しのアニマル世代(under30)は草食世代と呼ばれ、肉食女子、女子会という消費牽引役の女性達は、境目を軽々と超えてしまう「オヤジギャル」の迫力には遠く及ばない。私が以前ネーミングしたのが「20歳の老人」であったが、達観、諦観、という言葉が似合う世代である。消費の現象面では「離れ世代」と呼べるであろう。TV離れ、車離れ、オシャレ離れ、海外旅行離れ、恋愛離れ、結婚離れ、・・・・・・執着する「何か」を持たない、欲望を喪失しているかのように見える世代である。唯一離さないのが携帯を始めとした「コミュニケーションツールや場」である。「新語・流行語大賞」のTOP10に入った「~なう」というツイッター用語に見られる常時接続世界もこの世代の特徴であるが、これも深い関係を結ぶための接続ではなく、私が「だよね世代」と名付けたように軽い相づちを打つようなそんな関係である。例えば、居酒屋にも行くが、酔うためではなく、人との関係を結ぶ軽いつきあいとしてである。だから、今や居酒屋のドリンクメニューの中心はノンアルコールドリンクになろうとしている。』この若い世代が集中しているのが東京である。自粛要請が盛んに報じられた昨年11月~12月の時期、渋谷をはじめとした場所の「人出」調査をみても増加しており、新規感染者と人出は相関していることがわかる。11月医療崩壊の危機にあった札幌・旭川や大阪市は営業時間短縮やGoToトラベルの中止により感染拡大は治りつつある。しかし、東京の場合政府も知事もいくら自粛してほしい旨をアナウンスしても「人出」は減少することなく増加の傾向すら見せていた。既に検証活動に入っていると思うが、札幌はススキノの飲食街(ほとんどが飲食ビル)に対し休業あるいは営業時短要請をしており、この結果が感染者の減少につながっていると報告されている。ただしススキノの飲食街はゴーストタウン化しており、1/3が廃業・倒産状態であるという事実もまた忘れてはならない。(旭川の場合は主に病院クラスターの発生によるもので収束しつつあるとのことのこと。)同じような対策を採っている大阪の場合は高齢者の人口比率が高く、重症者が多いことから医療危機が叫ばれたが、元々専門家会議など対策の論議は全て情報公開されており、府市民の理解賛同も多く、若い世代への抑制もある程度うまくいきつつあり、若い世代の新規感染者も減少傾向にある。大阪の場合飲食店の時短は夜9時までだが、大阪の友人によればススキノと同様大阪の銀座と呼ばれている北新地では既に3割ほどの店が廃業状態でありここでも大きな痛みがあるとのこと。問題は増加傾向すら見せている東京で、地方への感染流出の源をどうするかである。つまり、「登山」途上の若い世代にどうメッセージを送るかである。大人の下山発想ではなく、「登山」と感染防止ということをどれだけ明確にできるかということである。それは厚労省も感染の専門家も特にTVメディアは今までの「情報」の内容や出し方の反省の上で対応すべきであろう。前述のブログで二十歳の老人とネーミングしたのも、若い世代にとって決定的に足りないことは「経験」という実感であった。当たり前のことであるが、情報的には老人の如くであるが、実感できるものは周りにはほとんどないのが現実である。昨年末の累計感染者数は約22万人、死者数は約3300人。若い世代20~34才人口は約2035万人。周りを見ても感染者はほとんどいない、ましてや亡くなった人はTVのニュースで見るだけで実感がない世界であるということだ。ましてやこれまで報道されてきた情報、若い世代のほとんどは軽症もしくは無症状であると。さらに言うならばこれまで報道されてきた情報、例えば春先報道されてきた「このままでは42万人の死者が出る」と言った厚労省クラスター班の西浦教授の報告も数理モデルとはいえ、あまりにも現実感のない情報であったことを彼らは熟知している。(後日西浦教授は訂正のコメントを出してはいるが、マスメディアはそのことすら報道することはない。)つまり、コロナ禍は現実感が決定的に乏しい出来事ということだ。もっと簡単に言えば、「他人事」ということである。何故大人と若者という図式でコトの本質に迫ろうとするのかは、現実社会は人口のみならず圧倒的に大人世界・大人的情報に埋め尽くされているからである。唯一大人の世界から離れることができたのはエンターテインメント・娯楽の世界であろう。メディア、特にTVメディアは既成としての大人の世界でしかない。もっとわかりやすく言えば、高齢者を視聴者にした番組ばかりである。既成のTV番組でいくら「自粛」「自省」を促しても、そこには若い世代はいない。メッセージが届くはずもないということだ。ただひたすら高齢者に恐怖を煽ることだけに終始することとなる。その若い世代はネットによる情報収集ということにもなるが、ネットの世界においても例えばYahooニュースは中高年世代であり、それより下の世代は既成の「ニュース」に興味を感じることはない。新聞情報などは論外である。情報は「仲間内」での情報交換、SNSによる入手がほとんどとなる。ちなみに最新の日本におけるSNSユーザー数は以下となっている。LINE 8,600万人YouTube 6,500万人Twitter 4,500万人Instagram 3,300万人Facebook 2,600万人ところで何故「人出」が減らないのか、その理由は大きくは2つある。一つは昨年夏にいささか刺激的なるなタイトルだが「密を求めて街に向かう若者達」にも次のように書いた。『「バランス」が取れた誰とでもうまく付き合うゆるい関係、空気の読める仲間社会を指し「だよね世代」と私は呼んでいたが、もっとわかりやすく言えばスマホの無料通話ソフトLINEの一番の愛用者である。そもそもLINEは「だよね」という差し障りの無い世界、空気感の交換のような道具である。オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。他者と競い合うような強い自己主張はない。結果、大きな消費ブームを起こすことはなく、そこそこ消費になる。そして、学生から社会へと、いわゆる競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく勝者敗者の関係、あるいは上下関係や得意先関係といった複雑な社会を生きる時、そうした仲間内関係から外れることを恐れ、逆にそれを求めて街へ出る。今のコロナ禍の表現をするならば、「密」な関係を求めて、東京へ、街へ、出かけるのである。』つまり、街は仲間と集い合う心地よい居場所であるということだ。その居場所には、常に新しい、面白い、珍しい「変化」があり、刺激を与えてくれる魅力的な場所ということである。下山、登山の例えで言うならば、街は登山途中の休憩場所であると同時に都市の持つエネルギーを補給する場所ということでもある。それは今に始まったことではなく、1990年代から始まっており、東京ディズニーランドと共に渋谷109が修学旅行先に選ばれたように、都市観光化は始まっている。東京都は緊急事態宣言として5月末「東京アラート」を発動し、7色のレインボーカラーのレインボーブリッジを赤に点灯した。結果、どういうことが起きたか、お台場には見物客が多数集まり、つまり皮肉なことに東京の新たな観光スポットになってしまったということだ。コロナ禍によって密を避け入場者の制限はあるものの、スポーツや文化イベントは数え切れないほど開催されている。東京の人口は約1400万人弱と言われているが、鉄道や道路によって繋がっており、埼玉、神奈川、千葉を含めれば3500万人となり、日本の人口の約30%を占める巨大都市である。昨年春の未来塾の第一回目に「正しく、恐る」をテーマとしたが、この若い世代にとって「正しく」の認識は「感染しにくい、感染しても軽症で済む」と言うのが彼らの基本認識である。世界に蔓延する感染者数についても1日数万人というニュースが毎日報道されるが、日本の場合増加する第三波の感染者数は全国では昨年末1日3600人、死者数59人という情報との比較をすれば一桁少ない数字であり、彼らにとって「正しい」事実ということになる。また彼らを受け入れる都市商業、特に飛沫感染が多いとされる飲食店はどのような認識でいるかである。厚労省の専門家会議においても明確な根拠、科学的な分析に基づくものはないが、営業時間の短縮によって感染拡大は防止できるとされている。その飲食店については、東京の場合政府の緊急事態宣言に基づき、昨年4月11日以降居酒屋を含む飲食店、料理店、喫茶店などは営業時間の短縮として5時から20時までの間の営業とされた。以降、東京独自に飲食店の時短要請を行うこととなる。勿論、感染拡大防止協力金が一定程度支払われるのだが、正確なデータは公表されていないので分からないが、次第に要請に協力する飲食店は減少していくこととなる。12月に入り、全国知事会議では神奈川では協力してくれる飲食店は2割ほどで、東京も同程度と考えられており、その実効性が問われる事態となっている。つまり、若い世代にとっても、一方の飲食店側にとっても、「感染」の明確な根拠がないまま「要請」という名において各々の行動が中途半端になされている、今、政治においては特措法の改正へと向かっており、休業などの保証の制度化は必要ではあるが、問題の本質は休業にせよ、時短にせよ、どれだけの感染防止に役立ったかというエビデンス・根拠を明らかにすることである。特措法だけでなく、さらに悪化すれば再度緊急事態宣言が発出すべきとの意見もあるが、飲食店だけでなく日本経済はそれこそ壊滅的な打撃を受けることは間違いない。ジャーナリストは口癖のように「危機管理は最悪のことを想定して」と言う。そのこと自体は一般論として間違ってはいないが、「最悪の事態」を英国や仏、米国NYの事例を持ち出し、「最悪」と言う恐怖を刷り込むことへと向かっているように見える。しかも、欧米のように強制力を持ったロックダウンをすべきとの意見も出てきている。ロックダウンすれば一時的には感染が防止されるとは思うが、今まで何回ロックダウンしてきたかである。ロックダウンは魔法の杖ではない。日本の「大人」、特に高齢者には効き目があるかもしれないが、若い世代にとっては効果は期待できないと私は考える。昨年一年問題と感じてきたことはコロナ禍に関する「情報」の扱い方であった。新聞報道はまだ客観的な冷静さを保持していたが、TVの情報の伝え方はある意味異常である。視聴者の興味関心に応えることは必要ではあるが、コロナ禍の情報を一部TVメディアはエンターテイメント・娯楽にしてしまったことである。民法TV局は視聴率商売とはいえ、時に「脅し」に似た情報を流し、時にワクチンのような「安心」の情報を流す。「危機」をテーマとするならば、危機を娯楽にしてはならないと言うことだ。さて、その若い世代とどう付き合うかであるが、良きサジェッション事例がある。今年も沿道での観戦はできないが、正月恒例の箱根駅伝が開催されている。今年は苦戦しているが、駅伝の常勝チームに導いた青山学院大学陸上部監督原晋氏はいくつかのインタビューにその「つきあい方」について答えている。実は原監督が就任した当時は全くの弱小チームで「自立的に成長していく」という理想としては程遠い状態であったと。そこで「僕は組織のトップに君臨する指導者として、細かなことまで手取り足取り指示出しし、ときには厳しいことも言いました。」つまり、今日で言うところの教える・ティーチングの手法を採ったと答えています。結果、辞めていく学生も多かったとも。しかし、徐々に力をつけていくに従って、「教えること」は少なくなり、選手達の自主運営に向かって行く。そして、次に行ったことは長期的な未来志向へと移っていく。その未来志向とは「この組織は何のために存在するのか」「10年後、20年後に自分たちはどのような姿を目指すのか」といった長期的なビジョンをメンバーと十分に共有することでると答えている。これは今日で言うところのコーチングの手法である。また今回のコロナ対策についても多くのスポーツ施設や寮が閉鎖される中、陸上部の寮を続け練習も行なってきた。原監督は当時の3月下旬3つの選択肢を考えている。(1)閉寮(2)一部を残し運営(3)全員で乗り切る」。そして「練習は公共交通機関を使わず、走って通うので不特定多数との接触はない。食事の確保も可能」とし、(3)の決断を下したとも。と言うのも監督就任時から徹底した「自己管理」を行い、16年間感染症の流行は一度もなかったとも。コロナ禍にあってティーチングとコーチングという方法を考えていくことも必要ではあるが、原監督を始め多くのリーダーは一人ひとりの選手を信じて対話していると考える。リーダーに求めることの第一は「信じる力」を持ちえるかどうかである。そして、その対話は「何故なのか」その理由・根拠を明確に伝えることしかない。強制力を持った特措法が議論され始めているが、休業や時短への補償などについては議論すべきであるが違反者への罰則という強制はしてはならない、正月2日、首都圏の4知事は政府に対して緊急事態宣言の発出を求めるとの報道があった。どの程度の規模となるのか検討されていくと思うが、その前にやることは「大人」が若い世代、登山途中の世代を信じることだ。問われているのは「若い世代」ではなく、「大人」自身ということだ。そして、昨年春の緊急事態宣言によってどんな効果があったのか、大型商業施設の時短や休業を始めスポーツや文化イベントの自粛などどんな効果が得られたのか。時差出勤やテレワークの効果はどうであったのか。そして、飲食店などではどうであったか。北海道札幌、大阪などは感染の減少もしくは増加の歯止めがが見られている。そうした工夫や知恵、方法について4知事はどう受け止めてきたのか。厚労省専門家会議は感染の中心は20代~50代とし、その対策が急務であると訴えている。「答え」が得られないままであれば、「人出」が減少することはない。未知のウイルスから、既知のウイルスへと向かい、密を避ける日常を送ってきた。この1年間多くの経験を積み自らセルフダウンしてきた生活者がいることを忘れてはならない。(続く)
2021.01.03
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ヒット商品応援団日記No774(毎週更新) 2020.12.13.今年も日経MJによるヒット商品番付が発表された。次のような番付であるが、ほとんどの人が納得というより、興味を引くようなヒット商品はない。ヒット商品は消費を通じて「時代」の変化、ライフスタイルの変化を感じることができる一つとなっているが、今年は「コロナ禍」一色である。読み解く必要などないと言うのが本音ではあるが、それでもコロナ禍一色の意味、特に今なお感染拡大から生まれる「変化」について考えることとする。東横綱 鬼滅の刃、 西横綱 オンラインツール東大関 おうち料理、 西大関 フードデリバリー東関脇 あつまれ どうぶつの森、西関脇 アウトドア東小結 有料ライブ配信、 西小結 プレイステーション5東の横綱にはアニメ映画「鬼滅の刃」がランクされている。その興業成績は宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」を抜く勢いとなっているが、TVメディアはコロナ一色となった情報の中で、唯一異なるエンターテインメントとしてこぞって取り上げ、動員観客数を押し上げた。そして、密な空間である映画館でも喋ることのない映画鑑賞の場合感染リスクは少ないと言うことから、コロナ禍にあって唯一の外出しての楽しみとなった。いわば巣ごもり生活の反動である。他にも巣ごもり消費として「あつまれ どうぶつの森」や「プレイステーション5」といったゲームも入っているが、いずれの場合も「楽しさ」は特定の映画やゲームに集中することとなった。面白いことに観客動員数は2152万人とのことだが、GoToトラベルの利用客数は宿泊数のデータであるが5260万人泊となっている。支援制限として7泊以内となっているので半数としても2600万人程度は旅行したことになる。映画館との単純比較はできないが、「移動人数」ではそれほどの違いはない。ただ、旅行にしろ通勤移動にしろ、移動の最中に感染しクラスターが発生したと言う情報はない。問題は移動先での会食などの行動において感染リスクが発生すると分析されているが、生活者はそうしたことをよくわきまえて行動していると言えるであろう。ところで2008年にもリーマンショックにより日本の社会経済が大きく揺さぶられた。日経MJはこの年のヒット商品番付は横綱に「ユニクロ・H&M」と「セブンプレミアム・トップバリュー」で大関には「低価格小型パソコン」がランクされ、まさにデフレが加速している様子が番付に現れていた。そうした生活消費を自己防衛型と呼んだが、ほとんどのヒット商品は価格価値に主眼を置いた商品ばかりであった。「お買い得」「買いやすい価格」、あるいは前頭の「パナソニックの電球型蛍光灯」のように、商品自体は高めの価格であるが、耐久時間が長いことから結果安くなる、「費用対効果」を見極めた価格着眼によるヒット商品であった。そして、それら消費特徴を私は「外から内へ、ハレからケへ」と読み解いた。例えば、「外食」から「内食」への変化であり、その内食は親子料理を楽しむ「調理玩具」がヒットしたりしていた。今年のコロナ禍での変化である内職は大関に入っているように時間に余裕のある人は少し手の込んだ「おうち料理」になり、余裕のない人の場合には「フードデリバリー」となる。このフードデリバリー市場は5000億となっているが、宅配料金が高いため今後の競争市場においてはデリバリー価格が課題となる。それはワクチンが開発され集団免疫状態になるまでにはあと1年以上かかる。問題はそれ以降生き延びることができるサービス事業になり得るのかと言う課題である。しかもそうしたデリバリービジネスが成立するのは都市部のみであるという限定市場における価格競争である。ライフスタイル全般として言えることは、多人数での会食、パーティなどが自粛され、「ハレの日」はほとんど無い「ケの日」ばかりとなった。ケの日の消費がどんな変化を見せるかである。既に年末年始の消費としては豪華なおせち料理に予約が入っていたり、東京の場合熱海や箱根の温泉旅館には家族での宿泊予約が多く満室状態であると聞いている。但し、年末の帰省旅行については、JTBによる意識調査では「旅行に行く」と答えた人は14.8%で前年と比較し5.2ポイント減少しているとのこと。勿論、帰省する人の半数以上は自家用車での帰省を考えており、これも感染リスクを考えてのこととなっている。ここでも巣ごもり正月を迎えることになりそうである。オンラインツールが西の横綱に入っているが、テレワークを始め学生の講義がオンライン授業へと変化したこともあり、不可欠は道具となった。私も専用カメラやマイクをネット上で入手しようとしたが、4月頃はほとんどの商品が品切れであった。こうした直接的なツールだけでなく、自宅をオフィスに変えるためのデスクなどがニトリやホームセンターなどで盛んに買われるようになった。しかし、家族のいる簡易オフィスであり、快適な環境とは言えないことから、次第に従来のオフィスへの通勤が復活したのが現実である。ただ感染が家庭内及び職場内に持ちこまれており、前回のブログにも書いたが、厚労省のアドバイザリーボードのレポートによれば、20代~50代という日本の社会経済の中心世代が主要感染源となっていることから考えると、テレワークのあり方も再度考えることが必要かもしれない。このオンラインによるコミュニケーションは東日本大震災の時実感した「絆」、一種の連帯の証のような人間関係が生まれたが、コロナ禍においては「ソーシャルディスタンス」という言葉が示すように「個」の経験を強いられることとなった。ネットでつながっていても「個」は個であり一人である。孤立からの脱却として、いつもはサラリーマンの街新橋の馴染みの店で一杯やっていたのが、オンライン飲み会へと変化した。勿論、つまらなさ、物足りなさを感じるが、それでも集団ではなく個であることの自覚も生まれる。仕事の仕方、生き方を問い直すきっかけになったことは事実であろう。実は「親鸞」という小説を書いたあの作家五木寛之はPRESIDENT Online(プレジデントオンライン)のインタビューに答えて、今は平安末期の混乱混沌の時代に似ていると。そして、今こそ必要とされているのに何故宗教家が出てこないのかとも。ウイルスによって分断されてしまった「個」を孤立させてはならないという意味である。前回のブログにも書いたが、完全失業者数は215万人へと急増し、更に自殺者も急増しており、大きな社会問題化しつつある。それは、引きこもりといった社会問題とともに、ウイルスによる分断によって生まれた「孤立」である。社会における制度として解決すべき問題でもあるが、やはり身近な課題としては「どうコミュニケーション」をとるかである。東日本大震災の時に生まれた「絆」と同じように、ネット活用であれ、日常の接触機会であれ、ひとこと声をかけることの大切さが実感される時を迎えている。関脇には「アウトドア」が入っており、巣ごもりというある意味鬱屈した生活からひととき解放される時間が求められてのことである。それは「密」を避けながら楽しさを求めるという生活者の知恵である。その代表的な楽しさがキャンピングであり、キャンプ場はもとよりキャンピングカー市場も活況を見せている。それは従来型のキャンピングからホテル仕様のサービスを満喫できるグランピングや最近話題となっているソロキャンプまで多様な楽しみ方の広がりを見せている。実はこのアウトドア市場は数年前から静かなブームになっており、コロナ禍が追い風となったということだ。こうした市場だけでなく、アウトドア志向はカジュアル衣料からキャンプ飯人気、オープンカフェといった街並みと一体となった店舗、ホテル・旅館選びの基準の一つに露天風呂が入っていたり、あるいは自然を楽しむハイキング人気はこれからも続き、日常的にはジョギングまで都市生活に欠けている自然との呼吸が求められていると言えよう。ところでコロナウイルスのクラスターが発生した東京湾の屋形船であるが、隅田川からレインボーブリッジまでの周遊コースなどには観光客が戻りつつある。また、水の都大阪でも円形ボートを川面に浮かべゆったりとした時間を楽しむ「水上ピクニック」が人気になっている。少し前のブログにも書いたが、これからは「水辺」が更に注目されるであろう。自然災害をはじめ災害列島と呼べるほどの日本にあって、常に求められてきたのが「日常」であった。コロナ禍にあっても求められるのは早く元の日常に戻りたいという願いである。生活者一人ひとり異なる日常であるが、このウイルスは「移動」という最も社会経済、いや生きることにおいて必要不可欠なこと、その大切さを実感させた。その代表的な「事件」は小中高の一斉休校であった。子を持つ母親は保育所など預ける場所を探すといった苦労はあった。消費という面からは不評であった安部のマスクに見られるようにマスク不足が深刻化した。周知のように中国に依存していたことであったが、数ヶ月後には国内メーカーも生産しはじめ今や誰でもが手に入る安価なものとなった。そして、一斉休校によって当然のことであるが、学校給食はなくなり、食材を納入してきた生産者は行き場のない商品を持って途方に暮れていた。それは休業や自担要請のあった飲食店に納入してきた生産者も同様であった。しかし、そうした行き場のない商品は次第に過不足なく流通し今日に至っている。元の日常に100%戻ってはいないが、少なくともかなりの消費は戻ってきた。それは日常消費を支えるスーパーやコンビニといった流通事業者、あるいは「移動」を支える交通事業者や物流事業者によって、ある程度の「日常」を取り戻すことができたと言えるであろう。医療従事者と共に、こうした社会のインフラを支える企業や人たちにこそ「横綱」を与えたいと思うが如何であろうか。(続く)
2020.12.13
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ヒット商品応援団日記No773(毎週更新) 2020.12.6.新型コロナウイルス対策を助言する厚生労働省の専門家組織「アドバイザリーボード」は11月24日に会合を開き、1人の感染者が何人に感染させたかを示す「実効再生産数」が直近で大阪、京都、兵庫で「2」を超えていることを明らかにした。関西エリアについては心配な状況に至っているが、但し全国平均では11月27日現在1.17と逆に減少傾向にあり、更に最近では全国平均も東京都も1以下となり、どうらやピークは超えたようだ。ここ数週間感染者の増加に伴いGoToキャンペーンの是非についてマスメディア、特にTVメディアは過剰なまでにキャンペーン中断を含め過熱報道が続いている。1ヶ月ほど前まではGoToキャンペーンの「お得さ」を競っていたTVメディアが医療崩壊の危機を煽り真逆の報道をするようになった。私が第三波において心配してきたのは陽性者数の増加よりも「実効再生産数」の推移であった。3月から始まった第一派、第二派と異なり「市中感染」が始まった唯一の指標との認識によるものである。周知のようにそれまでのクラスター(感染小集団)」潰しといった対策では防疫できなくなったからである。その証明ではないが、「感染経路不明」が半数前後になり、「家庭内」と「職場」という「外」から持ち込まれた感染経路を足し算すれば90%もの感染者が「不明」であるという事実。既に市中感染状態になっているということであった。さてこうした状況を踏まえどう考えることが必要なのかについて整理することとする。実は3回にわたって未来塾ではできる限り客観的な事実であろうと思われることを整理してきた。例えば、第一回目;「正しく、恐る」その原点に立ち返る、 副題としてファクターXと言う仮説、恐怖後遺症の行方。ちょうど緊急事態宣言が出された1ヶ月後の社会の変化を以下のように書いた。『最近の研究などから専門家会議によって行われた多くのシュミレーション、「このままであれば42万人が死亡する」といった恫喝・脅しとも取れる発表に対し、その数理モデル計算式が誤りではないかとの他の専門家からの指摘も出てきた。現実はシュミレーションとは大きく異なり、感染者数も死亡者数もある意味世界でも不思議であると注目されているほど少ない。一時期、専門家会議メンバーは「米国NYのようになる、地獄になる」と発言し恐怖を増幅させていたが、これもそんな現実は起こっていないことは周知の通りである。この専門家会議のシュミレーションを鵜呑みにした感染症の大学教授が盛んにTV番組で煽り立てる発言をしていたが、現実は全く異なる展開となっている。専門家会議や鵜呑みにした某大学教授の責任を問う声もあるが、未来塾はその任にはない。』そして、できる限り「事実」として認識されている情報、特に江戸時代からの「公衆衛生」についてどんな歴史的推移を経てきたかを整理してみた。「江戸時代のコレラ」「エコシステムによって清潔に保たれた都市江戸」「銭湯という清潔習慣」、そして、最近の事実として「新型コロナウイルスと季節性インフルエンザ」「マスクの効用」。実はこうした公衆衛生について日本の歴史の一部を整理したのも、iPS細胞研究所の山中伸弥教授が提唱されたウイルスの正体に迫る「ファクターX」という着眼からであった。それは山中教授が言うように「正しく 恐る」ことの認識を保つためであり、恐怖を煽ることでは決してない。逆に有害ですらあると言うことからであった。その内容を再録すると、ファクターXの候補・感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果・マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識・ハグや握手、大声での会話などが少ない生活文化・日本人の遺伝的要因・BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響・2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響・ウイルスの遺伝子変異の影響さて上記の疑問について感染症研究者はどれだけ解明できたであろうか。冒頭の画像は山中教授が発信しているHPの最新情報で「日本の状況」について極めて簡潔に整理した図である。研究論文や海外の情報をわかりやすく「日本の今」として整理してくれたものである。つまみ食いのような断片情報ばかりのTVメディアとはある意味で対極にある。ところで、生活者における態度変容であるが、そこには生活の知恵とでも言うべき変化が見られるようになった。例えば、三密を避けるような工夫、「オープンエア」な環境の生活への取り入れが積極的になされてきた。アウトドアスポーツを始めキャンピング人気はさらに高まり、それを象徴するかのように今年11月の三連休では秋の紅葉狩りを兼ねて東京高尾山には観光客が押し寄せたと言う変化である。勿論こうした傾向は今なお続いている。また、マスク着用については飛沫防止効果などその後の理化学研究所などの研究によって大いに効果があるとの結果が発表された。そして、マスク警察といった問題は若干見られるものの多くの生活者は着用されている。また、本質の問題であるが、日本人には過去異なるコロナタイプの抗体ができていることによる免疫によって重症化率、死亡率の低さにつながっているのではないかとの仮説も発表されている。冒頭の山中教授による整理「交差免疫」に該当する研究である。そして、今一度生活者の態度変容、心理変化の「今」にあって、何を解決すべきか見直しをすることとする。新型コロナウイルスが急速に感染が拡大した3月に言われいていた接頭語の一つが「未知のウイルスだから」であった。わからない感染病に対し、的確な対応が取れないと言うことであった。拡大しつつある混乱状態にあっては理解できることではあるが、「実施」したことに対する「検証」をしないことでは決してない。ビジネスに携わる多くの人間は、当たり前のことであるが、「結果」に対する反省・見直しは不可欠なものとなっている。それは「次」に向かうために必要なことであるからだ。それは医療の現場にあっては、重傷者や死者の数が少ないことによく現れている。現場の医師や看護士の皆さんの未知のウイルスとの戦いに勝ちつつあること、その結果を表しているからだ。医療の現場が日々の検証を通し戦ってきていることに対し、自粛という言葉は好きではないが、ロックダインではなくセルフダウンという方法をとった生活の戦い方の今、その心理の今はどうであるのか、その視点で多くの政策が行われてきた、その結果検証を考えることが問われている。3月「未知」であったウイルス認識と行動変化はどうであったかということである。つまり、今回課題となっているGoToキャンペーンの是非論も飲食店などへの時短要請の効果論も、ウイルス拡大とのエビデンス(根拠・証明)を明らかにすることこそが「次」に進むことへとつながる。まず3月以降国民一人ひとりに課せられた「目標」であるが、「接触を80%」削減と言う目標であった。それは4月6日の緊急事態宣言の発出となって、具体的には「三密」の削減とされ、まず不要不急の外出を自粛という制限となった。そして、学校の休校をはじめデパートなど多くの人が集まる商業施設や店舗の休業や営業時間の制限、スポーツや文化などのイベントの中止、それら要請という名の制限はどれだけの効果があったのだろうか?この目標に沿って企業ではテレワークが進められ、中小企業を含め実施率はどれだけであったのだろうか。あるいは時差出勤はどうであったか。こうした目標とそれを達成するための諸計画が実施された。地域の違いは若干あるにせよ基本は全国一律の実施であった。しかし、当初から新型コロナウイルスは「都市の病気」であると言われてきた。「密」とはビジネス集積度のことであり、その象徴が朝のラッシュであろう。つまり、感染リスクが高いということである。また、既に効果が無かったと言われている小中高の一斉休校はどうであったのであろうか。既にわかっていることだが、感染のピークは緊急事態宣言の発出以前の3月末であったことがわかっている。だからと言って効果が無かったとは言えないが、求められているのはそのエビデンス(根拠となる証拠)である。その結果である4月ー6月のGDPの落ち込み年率28.1%という大きな「痛み」のメカニズムの解明である。それこそが「次」に向かう為に必要な「痛み」の代償となるものである。また、政府の持続化給付金や地方への交付金によって表面的には大きな痛みとなっては現象してきてはいないように見えた。しかし、企業倒産数はそれほど大きくないように見えるがその倍以上の廃業があることをはあまり報じられてはいない。また、コロナ禍による失業者数は7万人台とそれほど大きな問題ではないように見えるが、10月の完全失業者数は200万人を優に超えている。更に悪いことは自殺者が急増している事実がある。ちなみに警察庁の統計によると、自殺者は10月だけで2,153人に達し、4カ月連続で増加し続けている。日本の自殺者は10月までに1万7,000人を超えており、10月の自殺者数は前年比600人増加した。特に女性の自殺者は80%以上も急増し、全体の3分の1を占めるようになっている。今回菅総理の記者会見で、ひとり親家庭への特別給付金を実施するとの表明があったが、いわゆる弱者への救済が待たれている状況だ。こうしたエビデンスなき政府の政策にあって8月にスタートしたのが前述の山中教授も参加しているAI アドバイザリーボードであろう。その会議の内容であるが、これまで行ってきたクラスター対策等による休業要請、外出自粛、三 密対策等の感染症対策による効果を、 AIシミュレーション等を活用して、分析し、より効果的な感染防止・拡大抑止策を大所高所の立場から検討・提言すると言うものである。先日記者会見によって報告がなされたが、ほとんどのマスメディアは取り上げてはいない。厚労省のHPにはアドバイザリーボードのレポートが掲載されているので一読されたらと思う。ここでも急速な感染の拡大について提言がなされているが、注目すべきは「多様化するクラスターに対する対応が急務」という点である。つまり、市中感染の対応をどうするかということである。確か記者会見で言われていたことは「20代~50代が家庭内・職場内に持ち込んで感染している」ということであった。つまり、行動範囲も広く行動量も多い若い世代・中心世代がウイルスを家庭・職場に持ち込んでいるという仮説である。無症状、軽症である「若い世代」が感染源になっているという仮説である。東京都におけるGoToトラベルの発着を65歳以上の高齢者及び基礎疾患を持っている人を自粛という除外、こうした「政治決着」とは相反するものである。「移動」の抑制よりも、飲食店など感染場所への制限こそが求められているということでもある。あまり良い表現ではないが、6月の第二波における感染拡大が新宿歌舞伎町という「面」での感染源であったのに対し、今回の第三波は飲食店などの「点」へと拡散している状況と言えるであろう。勿論、これまでも痛んできた飲食店経営に対しては今まで以上の保証・協力金が必要となる。特に大阪や札幌については財政難ということから政府支援が急務であろう。一方、この元気な中心世代は「中心」であることからビジネスに観光にと移動は激しくウイルスを「全国」へと広げることとなる。「点」の分散である。どこでも、いつでも感染するリスクはあるということである。東京では「密」を避けるために忘年会は控えるように通達され、時短営業をするまでもなく、繁華街の飲食店がガラガラである。あるいはテレワークを実施してきた企業が順次元の通常就業に戻ってきたが、再度テレワークに戻ることを検討しているようだ。マスメディアが言うほどビジネスをスムーズに行い効率面でも良い結果が得られたと言うことはなかったと言うことである。マスメディアはここでも断片的にうまくいっているケースだけを取り上げて報道してきた。実はテレワークは部分的に残しながら、出社することとうまく組み合わせて運営すると言う当たり前のことから、朝のラッシュアワーは激減しないと言うことである。また、東京都の人口が流入を流出が上まったと東京離れを報道していたが、神奈川の相模原や埼玉の武蔵浦和などへの転居が主流で、コロナ禍が治ったらまた都心に戻ると言うことだ。その現れではないが、都心のタワーマンションの売れ行きは好調である。ただし、最寄り駅から離れたような物件は苦戦していることも事実であるが。さてこうした元気な中心世代が感染の中心になってしまった状況をどうすべきかである。まずGoToトラベルは東京・大阪・札幌・名古屋といった都市圏では発着とも一定期間中断すべきであろう。キャンペーン期間を6月まで延長するとの情報も出ているようだが、そうしたいわゆる「延長策」である。確かに沖縄や北海道の知人に聞いてもGoToトラベルの支援によって明るさが見えてきたと口々に指摘する声が多いことも事実である。医療崩壊を止めるのか、経済再生か、といった二者択一の論議こそ不毛である。両方必要であり、生活していくことが「コロナと共に生きる」ことであると言うことだ。「ロックダウン」ではなく「セルフダウン」を選んだ日本であり、個人の自制に頼ることも必要ではあるが、既に東京の企業では忘年会を中止としているように、企業も個人も十分弁えている。少し前になるが青山学院大学の陸上監督の原晋氏はコロナ感染に触れ「いまだかって季節性インフルエンザの寮生活で蔓延を起こしたことはない」と述べ、それは部員一人ひとりが自己管理を徹底しているからと答えていた。これが「セルフダウン」である。企業のリーダー、大学の教授、原監督のようなスポーツ団体のリーダー、さらには街のクラブ活動の指導者、多くの人が属する組織単位にあって、いわば「大人」が率先してコミュニケーションし、共に自己管理・自制していくことである。こうした市中感染対策として、クラスター対策に変わる方法の一つが接触確認アプリ「COCOA(ココア)」であった。厚労省の発表ではダウンロード数は12月3日現在約2101万件となっている。日本におけるスマホの保有率は85%ほどと高く、SNSの中のLINEの場合クティブユーザー数は8,400万人。感染者発見と言う防止策には6000万件ほど必要であると言われてきたが、LINEまでは行かないにせよ導入半年後で2000万件はあまりにも少なすぎる。それはOSバージョン上の制約があり、スマホ保有者が全てダウンロードできるわけではない。更に、どれだけ感染防止効果があったかで、陽性者登録件数は12月3日現在わずか3546件となっており、積極的な普及拡大には役立つ実績ではない。つまり、制約と共に積極的に普及を促す「実績」もなく、6000万件という目標はほとんど無理だと言うことだ。「セルフダウン」という自己管理の基本に今一度立ち返ってみることが必要ということだ。マスメディア、特にTVメディアの情報に振り回されてなならない。なぜ繰り返し言うのも、一つひとつの番組が「医療崩壊」の事例を取り上げたとすると、他局の番組も同じテーマを取り上げ、しかも異なる時間帯でも取り上げられる。一つの「事実」は極度に拡大・増幅され、視聴者を圧迫することとなる。3月4月頃の未知のウイルスであるが故の「恐怖」は今なお心の中に刷り込まれ残っている。それは高齢者ほど強く、10代20代の若い世代にとって、まずTVメディアを見ないこともあって、それほどの恐怖は感じない。厚労省からの詳細データを目にしてはいないが、接触確認アプリ「COCOAの普及を含め、この世代が自己管理に向かうことが、感染防止に一番役立つことであることは誰もがわかっているはずである。ところが政治家は彼らとコミュニケーションする術を持ってはいない。前述の青学の陸上部監督の原さんのように、「信頼関係」が築かれているリーダーによってのみ若い世代は彼ら流の「自己管理」へと向かう。その信頼関係とはまず若い世代を信頼することだ。これはコミュニケーションの大原則である。人は信じられていると感じた時、初めて変わることができる。(続く)
2020.12.06
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ヒット商品応援団日記No772(毎週更新) 2020.10.1.2000年前後から電話で「オレオレ」と身内を装って銀行口座に振り込ませた事件が多発したことがあった。後に振り込め詐欺と名称が変わるのだが、その後も詐欺事件は続き、身内などに「なりすます」ことによる犯罪であることは変わらない。いつの時代も「危機」はあり、コロナ禍においても多様な詐欺が多発している。その象徴の一つは周知の個人事業主などを支援する持続化給付金詐欺である。実は「不正受給をしてしまった」といった相談が、全国の警察や消費生活センターに相次いで寄せられているという。つまり個人事業主になりすましてコロナ禍に便乗した詐欺である。また、「ドコモ口座」を端緒にゆうちょ銀行をはじめとした不正引き出し事件も起きている。1年前「二段階認証」を知らなかった7payのお粗末なセキュリティが問題になっばかりである。「IDとパスワード」さえ漏洩しなければ守ることができると勝手に思い込んでいたそれまでの「常識」はすでに非常識になってしまっている。「利用者の利便性、簡単さを向上するため」という理由から二段階認証を行わなかったことによる。7payの場合、「パスワードリセット」のリクエストを送り、パスワードのリセットメールから本人になりすまして悪用するという仕掛けであった。こうした「リセット機能」を使う方法もあるが、コロナ禍が始まった春ごろから盛んに「フィッシングメール」が届くようになった。有名企業を装った電子メールを送信し、偽装されたURLをクリックさせることで、個人情報を取得しようとするオンライン詐欺のことであるが、私のところにもAmazonや楽天といった誰でもが使うサイトを語ってパスワードなどを入手する手口である。使い慣れた信用のあるAmazonや楽天になりすまして情報を入手する詐欺である。ところで今から8年ほど前に「パソコン遠隔操作事件」が起きたことを覚えているであろうか。あの電子掲示板「2ちゃんねる」を介して他者のパソコン(PC)を遠隔操作し、これを踏み台として襲撃や殺人などの犯罪予告を行った事件である。犯人に仕立て上げられ誤認逮捕されたのは5人で、事件に使用されたプログラムはコンピューターウイルスと呼ばれた事件である。真犯人とされた人物は逮捕・保釈後、全て事実であったと告白をし、10年の求刑で現在も収監されている事件である。昨年秋に起きた7PAY事件以降多発しているサイバー犯罪は、「パソコン遠隔操作事件」のような高度なサイバー犯罪からは程遠い「使いやすい」からという安直な判断によるなりすまし事件である。一方、首都圏及び大阪では「ガス点検」を装った強盗・強盗致傷事件が多発している。ガス会社を装ったこれもなりすましによる強盗事件であるが、冒頭の振り込め詐欺事件におけるメンバーがコロナ禍によって在宅している老人世帯を狙った犯行とのこと。犯人は若い世代によるもので「#闇バイト」に応募した犯行でこれまた極めて安直な動機による。コロナ禍による失業、あるいはアルバイトの解雇という背景からであるが、Googleで「闇バイト」で検索すると約2800万件弱にも及んでいる。Twitterなどには警察の広告が掲出されているが、全てを網羅することはできない。これまでの犯罪としての詐欺事件と言えば、マルチ商法をはじめ儲けたいといった欲望を背景にしたが違法な犯罪が大半を占めていた。勿論、表立っての違法性は隠してのことで、先日逮捕されたジャパンライフのように「安心」のために「桜を見る会」のように政治家や有名人を広告塔にするといった手法によるものであった。信用と言う心理の隙間を狙った犯罪であるが、今起こっている犯罪は情報の時代、そのテクノロジーの隙間から生まれたものである。多くの犯罪研究者・専門家が指摘することは、嫌な言葉であるが「時代」を見事なくらい映し出している。20数年前になるが、その専門家の一人は犯罪を企てる組織や人物はこれも嫌な言葉であるが、まさにマーケティングを行なっていると。犯罪によって利益を得るための着眼や方法を常に探し回っているということである。凶悪犯罪は減少はしているものの刑法犯全体としては増加傾向にある。その刑法犯の代表がインターネットにおける「情報犯罪」、いわゆるサイバー犯罪、更にはSNSを使ったものであろう。犯罪は「個人」には見えないところで行われ、犯人にたどり着くことが難しい。しかも、最近の傾向としては、ある程度の専門知識を持つ者であれば犯罪に走ることが可能であるからだ。犯罪者もまたマーケティングを行なっていると書いたが、もっとストレートな表現をすれば「お金」はどこに集まっているかである。日本で言うならば、「人」で言うならば高齢者の預貯金であり、企業であれば金融機関であり、その先には国がある。持続化給付金などは国であり、金曜機関や決済機関と言うことになる。しかも、デジタル化はこれからもどんどん進んでいく。「人」の判断を超えて「システム」のよってお金は流通していく時代である。政府はデジタル庁を創設し、まずは行政のデジタル化を進めていく方針とのことだが、セキュリティと言う自己防衛市場が急務となっている。1年前の5月に衝撃を受けた川崎殺傷事件が起きた。ブログにも取り上げた事件だが、そこには「ひきこもり」をはじめ、いじめ、孤立、家庭内暴力、80 50問題、中高年引きこもり61万人、・・・・・・少子高齢社会のが抱えた歪みから生まれた象徴的な事件であった。その川崎殺傷事件の犯人についてであるが、中高年となった「子供」がたどった時代を考えるとまず思い浮かぶのは「就職氷河期世代」である。バブル崩壊によって就職口が閉ざされた世代であり、さらに1990年代多くの神話が崩壊した時代を生きてきた世代でもある。ベストセラーとなった田村裕(漫才コンビ・麒麟)の自叙伝「ホームレス中学生」の舞台となった時代である。「ホームレス中学生」はフィクションである「一杯のかけそば」を想起させる内容であるが、兄姉3人と亡き母との絆の実話である。時代のリアリティそのもので、リストラに遭った父から「もうこの家に住むことはできなくなりました。解散!」という一言から兄姉バラバラ、公園でのホームレス生活が始まる。当たり前にあった日常、当たり前のこととしてあった家族の絆はいとも簡単に崩れる時代である。作者の田村裕さんは、この「当たり前にあったこと」の大切さを亡き母との思い出を追想しながら、感謝の気持ちを書いていくという実話だ。明日は分からないという日常、不安を超えた恐怖に近い感情は家族・絆へと向かい、その心のありようが読者の心を打ったのだと思う。「個人」という視点に立って考えれば、未知の「挫折」を数多く体験した世代である。今起きている詐欺事件も1990年代のバブル崩壊の時の時代に似た「不安」が社会の底流となっている。コロナ禍による倒産・廃業企業が増え失業者も同じように増え続けている。また、8月に入り厚労省の発表では自殺者が増加していると言う。7月の家計調査の結果も前年同月比マイナス7.6%の減少と消費の低迷状態は変わらない。更に、先日全国の基準地価が発表され、銀座や浅草など観光地の地価が大きく下落したと報じされている。こうした不安材料を秤のようだが、世界的なコロナ不況にあって2020年4~6月期は自動車メーカーが軒並み巨額赤字を計上したが、トヨタだけは1588億円の最終黒字となったと報告されている。トヨタらしい底力のありようを見る想いであるが、消費現場である街の商店街には活気が戻ってきている。例えば、何度となく取り上げてきた吉祥寺の街や古くからある十条商店街など賑わいは戻ってきている。そうした町場の商店街の回復には必ず中心となる店が存在している。精肉店さとうのメンチカツ人気もそうであるし、十条銀座商店街の鶏肉店鳥大のチキンボール人気も健在のようだ、見えない不安が蔓延する時代にあって、今まで通り、いつもの日常を提供してくれる店がいち早く復活していると言うことだ。衛生管理を含めたコロナ対策は当然であるが、それまで培ってきた信用が不安を取り除いてくれていると言うことだ。時間差はあっsても顧客は必ず戻ってくる、それはトヨタの業績にも通じる者であり、つまり「底力」と言うことになる。あるいは大阪の友人からの情報であるが、西田辺駅前のローソンと隣に併設されたバー「のぶちゃんマン」がコラボした業態「コンビニ❎バー」が人気となっているとのこと。コンビニでおつまみ買って、一杯」というわけである。ちょい飲みには格好の業態でありそうで無かった点が人気の秘訣のようだ。これもまた、コロナ禍から生まれた小さな業態ということができる。不安を背景にこれからも犯罪は発生するが、自己防衛に走る生活者の不安を解決するのもまた商業ということである。これから先、「コロナ禍から学ぶ」として東京・大阪の元気な商業を取材していく予定である。(続く)
2020.10.01
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ヒット商品応援団日記No771(毎週更新) 2020.9.20.ことごとく予測が外れる事実にマスメディア、特にTVメディアは謝罪と反省を繰り返している。先日偶然であったが、TBSの情報番組「Nスタ」を見る機会があった番組でウイークデーの午後夕方の番組である。その中でメインアナウンサーである井上貴博が視聴者に対し、これまでの放送内容に間違いがあったことに対し反省のコメントを伝えていた。新型コロナウイルスについての短いコメントであったが、「2週間後には死者が4万人に及ぶ。あるいはGoToトラベルによってウイルスが全国に拡散する。といった情報を伝えてきたが、間違いであった」とした反省の弁であった。「2週間後には死者が4万人に及ぶ」は周知のクラスター班であった元北海度大学西浦教授による数理モデルに基づくものだが、その後西浦氏は訂正のコメントを寄せているが、こうしたことは報道されてこなかった。また、GoToトラベルによるウイルス拡散説についてもTVメディアや感染症専門家はこぞってその悲惨な結果を予測していた。結果どうであったかであるが、Go To トラベルを利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表されている。そして、明らかに新型コロナウイルスによるクラスター感染が確認された事例は10件に満たないものであった。Nスタはこうした「事実」を背景にした反省の弁であったが、まだまだ少なくなってはいるが、こうした事実を避けて構成する番組もあるようだ。感染が広がった3月には、パチンコ店がクラスター発生の元凶であるが如き報道がなされたことがあったが、こうした報道の反省は半年近くになってなされる始末である。こうしたことを裏付けるように菅新政権に対する支持率などの世論調査が行われたが、多くの専門家の予測を大きく裏切り、周知のように新聞各紙のほとんどが60%以上で日経新聞に至っては74%の支持となっている。(朝日新聞6+5%、毎日新聞64%、共同通信66%、日経新聞74%)実はこうした新政権への世論調査結果の前に、安倍全総理が辞めるに至った背景に世論形成のポイントがある。潰瘍性大腸炎という難病による辞任であり、失政による辞任ではないことが以降の世論形成に作用している。辞任表明後の世論調査では内閣支持率はそれまでの不支持から支持へと大きく変化した。また、次なる総理候補として菅氏、石破氏、岸田氏の3人が候補となったが、その時の世論調査にはこれも大方の予想に反し、菅氏への支持が多い気かった。安倍政権の継承を掲げた菅氏への支持であり、党内野党として政権を批判してきた石破氏には後継者には当たらないという生活者のヒュかである。そして、結果として地方で強いと言われた石破氏を大きく話した総裁選であった。多くの評論家やコメンテーターが「世論」がなんであるかを見ずそれまでの「政治」に依拠した意見によるもので大きく予測は外れることとなる。つまり、こうした経過を見てもわかるように、「世論」は病気辞任による無念ささなど安倍氏への道場と一sた感情で世論が形成され、菅氏への期待は「叩き上げ」「有言実行」といったそれまでの安倍政権にはなかった新しさに期待感情をもったということである。ある意味、世論調査とは人気投票であり、多くのジャーナリストはその「人気」がどういうことであるのか見誤ってきたし、今もその傾向は続いているということだ。勿論、今後菅政権のぁつどうしだいではこれまで支持してきた「感情」が逆転へと向かうということでもある。ところでこれまでのGo To トラベルの利用内容であるが、1泊3~5万円といった高級ホテルや旅館利用が多く、このキャンペーンを機会に安く泊まる理由が多く、1万円以下のホテルや旅館は少ないとのこと。これはデフレ時代にあって、金額が高い方が「お得感」が得られるからで、1万円以下の施設は独自に回数利用の「お得」を計画すれば良いということである。例えば、、近くの飲食店などとこたぼレーションし、更なる「お得」を創れば良いうということである。あるいは思い切ってそれまでのコンセプトを変えることも必要であろう。言いフル尽くされてきたコンセプトである「泊食分離」もあれば立地がロードサイドであればファミリー向けの格安ロッジといった業態もあるかもしれない。いずれにせよこの機会にアイディア・知恵をもってやってみることだ。このGo To トラベル利用が今一つとなっているのは前回の未来塾にも書いたが、旅行する側も受入側もまだまだ恐怖心が残っており、萎縮しているからである。それは確か7月上旬に行われた読売新聞による調査で明らかになっていたので、この夏の帰省も激減するであろうことは予測できたことである。このGo To トラベルが意味するしていることは、「ウイズコロナ」「コロナとの共生」といったことの具体的な「行動」であり、対象となった旅行先は紛れもなく「地方活性」の呼び水としての意味を担っている。それは今までの訪日外国人観光客を対象とした「観光」ではないということである。3月のブログにも書いたことだが、これまではインバウンドバブルであったとし、観光魅力の「原点」に立ち帰ることだと。私の言葉で言えば数年前から描いてきたことだが、全国各地にある「横丁路地裏」観光である。表通りの名所観光ではなく、まだまだ知られてはいないその土地ならではの小さな魅力を観光という表舞台に上げることであると。それは日本人すら知らない魅力で、その魅力に数年前からフランスの観光客をはじめ路地裏にある小さな観光が実は日本固有のテーマになっているということである。別な言葉でいえば外国観光客の「日本オタク」のような楽しみ方である。今、出かけることに躊躇している都内のシニア世代は盛んに銀座周辺にある地方のアンテナショップ巡りが再燃している。こうした変化を見てもわかるように地方にはまだまだ宝物が眠っているということである。ちょうど19日からの44連休の最中であるが、8月の帰省期間とは異なって多くの人が移動しはじめている。日本航空と全日空によれば、19日からの4連休では初日(19日)と最終日(22日)の予約数が8万人を超え、日本航空で去年のおよそ7割、全日空で去年のおよそ5割まで戻ってきているとのこと。新幹線の利用客も、去年の2割あまりにとどまったお盆期間に比べ徐々に回復し、JR東日本の新幹線の指定席予約状況は17日時点で去年の5割を上回っているとのこと。10月からは除外されてきた東京都もTo トラベルに参加できるようになり、こうっした「移動」もさらに活性化されていくであろう。但し、この4連休の移動を見てもわかるように、生活者は極めて慎重であることがわかる。周知のようにトラベル事業は新型コロナウイルスの感染拡大で需要が激減した観光業界の支援策として7月22日に始ま利、宿泊旅行で7300万人分、日帰り旅行で4800万人分の予算を確保している事業である。先日の記者会見では「Go To トラベル」を利用した宿泊者が8月末までに1339万人に達したと発表した。この数字を見て成功・失敗の論議は不要である。何故なら、当初の「正しく 恐る」という命題に対し、その「正しさ」がかなり分かりはじめ、自らの判断で行動しはじめたからである。多くの誤報道や過剰な恐怖心を煽る情報を経験しながら、ロックダウンではなく、セルフダウンという自律した個人へと戻りはじめたということである。こうしたコロナ禍の顧客を前にしているということである。先日、あるショッピングセンターの顧問の方と話す機会があった。主に出店しているテナントの動向についてであるが、政府からの助成はもとより、金融機関からの借入も膨らみさらなる苦境に立たされているとのことであった。そこでお話ししたのは、今もお元気と思うがヨーカドーの創設者である伊藤雅俊さんが常々話されていた言葉、「小売業は小さな商いで、小さなアイディア業である」を話をした。営業時間を短縮したり、シフトの編成を変え人件費を抑制したり、・・・・・・こうしたことも必要ではある。しかし、社会の変化に即したアイディア商売も必要で、菅総理の地元である横濱橋商店街では菅総理が99代ということから、99円、990円、の売り出しを組んでいる。一見つまらないアイディアのように見えるが、そうした小さなアイディアの積み重ねの中から、一つか二つヒットするものが出てくる。かってビジネスの師であったP.ドラッカーは次にようにその著書に書いていた。未来は分からない。未来は現在とは違う。未来を知る方法は2つしかない。すでに起こったことの帰結を見る。自分で未来をつくる。つまり、自分で未来をつくらないのであれば、「すでに起こったことの帰結を見る」という方法をもとに予測していくしかない。「既に起こった帰結」とは、次々と起こる変化、消費の変化はもとより社会の変化を観察すること。そして、それら変化は一時的なものではなく、大きな潮流としての変化、生活価値観の変化であることを検証する。更に、この変化は意味あるもの、つまり重要なことであると認識した時、その市場機会をもたらすものであるかどうかを問うこと。今回のコロナ禍に置き換えていうならば、顧客の中に「未来」をみるということしかない。敢えて、アイディア業であるとしたのもとにかく小さな試み、小さな売り出しを組んで実行することにある。例えば東京十条の商店街に「鳥大」という鳥肉専門店がある。1日1万個売る「チキンボール(1個十円)」が人気の行列店であるが、取材に「ほぼ90%元に戻った」と答えていた。顧客の中に1個10円のチキンボールに「未来」が見えたということである。旅行に関していうならば、Go To トラベルから除外されていた東京が10月から参加することとなった。例えば、苦境のバス業界であるが、1990年代後半倒産の危機のあったはとバスは宮端さんという良き経営者を迎えて再生したのだが、それは現場による再生であった。その再生については10年ほど前に「100-1=0、マニュアルという罠 」というタイトルでブログに書いたことがあった。(是非gポチドクください)その再生着眼の一つが顧客情報の収集と活用であった。ドライバーや添乗員がその日あったお客さまの小さな声、本音をメモし、それを「お帰りボックス」に毎回入れる。そうした小さな声を集め以降多くのヒットメニューを生み出すこととなる。これも顧客の中に未来を見て、次々とアイディアメニューが生まれ再生した良き事例である。東京除外が外され、はとバスはどんな変化を見せるのか注目したい。(続く)
2020.09.20
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ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.6.文化の無い「時代経験」さて戦後のモノ不足を経て、1990年代初頭のバブル崩壊を受け、以降「豊さとは何か」が問われてきた。当時は「失われた20年」などと豊かさ論議が盛んであったが、「豊かさ」を見極めることなくこの春まで経過して来た、そんな感がしてならない。思い返せば、バブル崩壊は日本社会・経済全てに対し変わることを命じられたいわば「人生」を見つめ直す時代であった。2008年のリーマンショックについては、年越し派遣村に代表されたように、「雇用」の持つ意味が問い直された。2011年3,11東日本大震災は災害日本列島に立ち向かう人と人の「絆」の大切さを実感させた。コロナ禍が始まって6ヶ月が経過した。ウイルスは人が運ぶことから、ソーシャルディスタンス、三密、といった言葉が表しているように人と人との「距離」をとることを否応なくしいられて来た。しかも、距離をとるだけでなく、「移動」の抑制をもである。クラスターの発生は東京では「江戸」を感じさせる屋台船の宴会からであり、大阪では梅田のライブハウスであった。以降、距離をとること、移動を自制する生活となり、多くの文化イベントが休止、あるいは縮小することとなった。それは歌舞伎のような伝統芸能から、プロ野球に代表されるスポーツイベントまで。更に日常においては学生たちのクラブ活動にまで及んだ。つまり、文化イベントに「空白」が生じたということである。その象徴が周知の甲子園を目指す高校野球の中止であり、縮小であった。こうしたメディアの舞台に出てくるようなイベントだけが「文化」ではない。文化の本質は日常当たり前のこととして取り入れて来たものにその意味がある。私の言葉で言えば、「生活文化」ということになる。「文化」は継続・継承されてこそ文化となるところで今年の夏は各地で行われる予定の「祭り」のほとんどが中止となった。隅田川の花火は勿論のこと、「密」を避けるために花火師の勇姿によって全国各地でゲリラ的に行われた。また、夏の風物詩にもなった高校野球は各地方単位での試合となったが、春の選抜高校野球が1試合だけではあるが、甲子園で交流試合が行われた。ウイズコロナとかコロナとの共生、理屈っぽく言えば「出口戦略」として、できることからやってみようということである。未知のウイルスとは言え、かなりわかって来た。このブログのスタートとして、「正しく 恐る」、その「正しく」がかなりわかって来たからだ。マスメディア、特にTVメディアは競うように「自論」を放映している。3~4月ごろのメディアの論調は「未知」であることから送り手も受け手も間違いがあっても許されることではあった。あのWHOですら当初はマスク着用の効果はないとしていたが、今や着用を勧めている。「コロナ禍から学ぶ」の第一回でも述べたが、パチンコ店が自主休業しないことを理由に、あるいは県をまたがってパチンコをやりにきた顧客へのインタビューで、あたかも「犯罪行為」であるかのように扱った。確かに、自粛休業要請に従わなかったパチンコ店もあったが、感染者のクラスター発生は起きていなかった。あるいはイタリアや米国NYの医療崩壊を繰り返し放映し、結果として視聴者に「恐怖」を与えて来たTVメディアはやっとその愚に気付き始め、軌道修正し始めて来た。しかし、エンターテイメント、つまり娯楽要素を盛り込むことは否定はしないが、モーニングショーにレギュラー出演している感染症の大学教授はなんと芸能プラダクションである旧ナベプロに所属す る始末である。変わり身の速さ、ある意味いい加減さはTVメディアの本質でもあるが、「コロナ禍」をエンターテイメント化する視線には抵抗がある。いや抵抗と言うより、娯楽として提供されるコロナ情報を信じることができるかである。何故こうしたことを取り上げるかと言えば、TVによる娯楽番組も一つの「文化」である。しかし、こんな情報番組という冠を持った「娯楽番組」はコロナ禍が収束した後まで継続・継承して欲しくはないものである。一言で言えば番組の責任者であるプロデューサーの社会的責任とまでは言わないがその見識を疑う。コロナウイルスを使った単なる視聴率稼ぎだけの番組であると言うことだ。英国の覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)は、新型コロナウイルスのパンデミックと闘う医療従事者らをたたえる新作を発表し作品は現在、英国内の病院に展示されていると言う。コロナ禍を娯楽的視点から放送する日本の情報番組とは真逆のあり方である。「散」の結果はGDP 27.8%減内閣府は4~6月期の国内総生産(GDP)の速報値を発表した。季節調整値)の速報値は、物価の変動を除いた実質で前期比7・8%減、この状態が1年続いた場合の年率換算は27・8%減となり、リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17・8%減を上回る戦後最悪のマイナス成長を記録した。新型コロナウイルス感染拡大を受けた緊急事態宣言で個人消費が大きく落ち込み、世界的な感染拡大により輸出も急減して内外需ともに総崩れだった。ちなみに、米国の4- 6月期の実質GDP(国内総生産)成長率(季節調整済み、速報値)は、前期比年率32.9%減と大 幅低下したとのこと(図表1)。また、欧州連合(EU)の実質域内総生産(GDP、速報値)は、前期比で12・1%減となった。年率換算では40・3%減で、前期(13・6%減)に記録した過去最大の落ち込みからさらに悪化したと。米国や欧州との違いであるが、ロックダウン(都市封鎖)」しなかった日本は「自粛」というセルフダウンを採ったことの差であると多くの経済アナリストは指摘しているが、私もその通りであると思う。そして、以降の見通しはどうかということだが、GDPの50%以上を占める個人消費であるが、夏休み・帰省といった経済活性の状況を見てもわかるように、新幹線や航空機利用も報道の通り前年比20〜40%程度となっている。この先大きくV字回復することはないと考えるアナリストは多い。年末に向けた経済成長としてはL字状態、つまり「散」のままであれば横這い状態というのがアナリストの見方である。こうした推移を見ていくと当然であるが、「いつ」収束するのかということになる。多くの感染症研究者は今回のコロナ禍の収束にはかなりの時間を必要とするであろうとレポートしている。その収束には周知のようにワクチンと治療薬を必要とするとのことで長期にわたるウイズコロナ、コロナとの付き合いが必要となる。その収束イメージであるが、季節性インフルエンザを思い浮かべればそれに近いとする専門家は多い。つまり、流行期の前にワクチン摂取を行い、それでもかかってしまった場合は医師の処方によりタミフルなどのよる治療楽をしてもらうと言うイメージである。勿論、季節性インフルエンザとは異なる質の悪いウイルスであるが、ある意味日常となった生活者の対策である。季節性インフルエンザがそうであったように、ウイルスとの共存・付き合い方をイメージしれば良いかもしれない。さて、このイメージに即して、「日常」となるまでどうすべきかである。その答えはすでに多くの分野で工夫・アイディアを持って実施されている。その第一は、「蜜」を前提とした発送・考え方から一旦離れてみることだ。結論から言えば、「散」で成立する術を模索し、その精度を上げていくことから始めるということである。また、既にテレワークやリモートによる仕事の進め方についても、週に1日、あるいは2週間に1日ぐらいは出社し、会議などを行うといった「密」と「散」との組み合わせによる方法も取り入れられているようだ。つまり、「散」では得られないリアル感、空気感、一体感といった「刺激」の採り入れである。収束という「出口」に向かう時のc長期戦略は「散」と「密」の組み合わせということになる。不要不急という概念を変えていくことから始める長期化に対するスタートはまずこれまで刷り込まれた「恐怖」を自ら払拭することから始めることである。3月時点の新型コロナウイルスの恐怖理解から脱しつつある。その恐怖の裏側にあるのが「不要不急」という自粛の理屈である。この抑制理由から離れていくことこそが重要となる。そのためには今一度「自粛」とは何かに向き合うことだ。過去持っていた目標ではない。生きるために必要なことだけでは生きてゆけないという自覚から始まるであろう。言葉を変えて言うならば、我慢していくと言う自覚であり、それは「いつまで」とした自覚でもある。これまで陽性者、感染者などのデータについては公開されて来た。毎日発表される情報のみに多い・少ないと言ったコメントしか報道されてこなかった。自粛とは極めて抑制心理の問題であり、「正しく 恐る」と言うその「正しさ」の理解と共に恐怖の呪縛から解き放たれていく。結果、その心理から「行動」は生まれていく。この未来塾で分析したいことの第一は「コロナ禍」での消費である。それは生活者の心理状態を反映されたものであり、「今」どんな「心理」にあるかを明らかにすることにある。ここ数十年小売業は天候が不順で雨が多い月の売り上げや気温の変動で冷たいものが売れたりアタタライものが売れたり、そんな分析を行って来た。そうした分析をもとに仕入れや人員配置を行なって来たのだが、このコロナ禍にあってそうした分析は未だかってみたことはない。今回、恐怖心りのほとんどを占める感染者数情報とそれが生活者に与える行動変容を見ていくこととする。勿論、正確な分析ではなく、ある意味仮設としての分析で、多分に私自身の感によるものも含まれている。そして、出来うるならば「不要不急」心理がどのような行動変容となって現れて来たかを解く一歩としたい。ところで次のグラフは公開されている全国における感染者数のグラフである。2月から始まったコロナ禍であるが、まず中国武漢に住む日本人の帰国第一便は2月12日であった。2月20日にはあの700名以上の感染者を出したクルーズ船が横浜港に帰港した時期である。次第に感染は広がり3月末には感染のピークを迎える。ちょうどコメディアンの志村けんさんが亡くなった時期である。そして、感染の山が下に入った4月7日に緊急事態宣言が発出され、次第に感染は落ち着いていくグラフとなっている。この間生活者心理に大きな影響を与えたのは新型コロナウイルスの「恐ろしさ」を実感したのは志村けん散の死であり、生活を一変させたのが3月2日から始まった小中高の臨時休校であろう。他にもコロナ禍は世界の最大課題であることを実感させたのは3月24日に発表された東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決定であろう。また、東京ローカルのことだが、3月23日の記者会見で、小池都知事ははっきりと都市の封鎖、いわゆるロックダウンなど、強力な措置をとらざるを得ない状況が出てくる可能性があると発言している。勿論、都知事のそのような権限などないのだが、発言の翌日都内のスーパーの棚からラーメンやレトルト食品など巣ごもり商品を買い求める人が押し寄せパニック状態となった。この背景には連日イタリアや米国NYなどの逼迫した医療現場が報道され、最悪の心理状態にあったことによる。こうした心理から緊急事態宣言の沿って、移動の自粛を始めとしたロックダウンではないセルフダウンが可能となったと言うことだ。一旦収束に見えたコロナ禍は前述のようにウイルスの変異を伴った新たな発生源が東京新宿で起きることとなる。より詳しいデータは上記の8月の分科会で示された発症日による感染グラフである。これをみてもわかるように死んだ子の年を数えるようだと表現したように6月後半から次第に感染の拡大が始まっていることがわかる。繰り返し言うが、新宿歌舞伎町に働く人たちを責めることではない。あくまでも東京都、政治の責任による結果である。生活者心理・不安の山はまた上がり始める。新たなウイルスの発生・拡大については前述の通りであるが、ただ3月4月の頃の心理とはその後の情報によって次第に異なったものとなる。生活者の行動は次第に広がっていく。それまで控えていた百貨店への購買や飲食店利用をはじめ、巣ごもりしながら行動範囲を広げていくこととなる。それは2月以降のコロナ経験に基づくものと言える。その基準となるのは唯一の物差しとなる「感染者数」である。実は判断となる物差しは感染者数しかないと言う現実があったからである。もっともらしい感染症の研究者のコメントはあっても生活実感とはかけ離れたものであった。なぜなら、4月にかけて「米国NYのような悲惨状態になる」「2週間後には死者は数万人に及ぶ」といったコメントはTVメディアを通じ繰り返し繰り返し刷り込まれたものが残っていたからである。これは広告業界では常識となっていることだが、記憶は情報の「回数」によって決まっていく。つまり、回数が多ければ多いほど記憶に強く残ると言うことである。ところで消費という視点でみていくと、6月ごろから徐々に必需消費から選択消費へと向かっていく。ちょうど全国レベルでの制限解除に付合する。それまで閑散としていた通勤電車はいつものように混雑し始める。数ヶ月ぶりの飲み会もまた始まる。それは第一波の収束といった安堵感でもあった。医療現場では冬場に起きるであろう第二波に備えることが盛んに言われていた。実はこうした中、見えないところで新たな感染、東京由来と言われる変異したウイルスが新宿歌舞伎町で広がっていたと言うことである。その感染の広がりはグラフをみてもわかるように6月後半から7月にかけて伸びていくのがわかる。そして、7月中旬から、本格的な夏休みへと向かって急速に拡大していく。ちょうどGO TOトラベルがスタートした時期である。前回の未来塾で読売新聞による調査にも60数%の人は旅行には躊躇していると言う結果であった。「恐怖」がまだまだ心理の中心を占めていたと言うことであった。そして、残念ながら観光地の中心でもある沖縄で感染が拡大し、医療崩壊の危機に落ちるのだが報道の通りである。「差別」というもう一つのウイルスこうして8月の帰省へと向かうのだが、報道されているように帰省する人は例年と比較し極めて少ない結果となっている。移動の抑制は顕著に出たのだが、その心理はどう見るべきなのか、帰省先と帰省を考えている人との間にできた空気感を実感し、何が行動を抑制させたのか明確にすることが必要であろう。その空気感とは「コロナ差別」であり、帰省先の地方の受け止め方は「コロナを持ち込んで欲しくない」と言うものであり、帰省する側も帰省先実家に迷惑をかけたくない、そんな空気であろう。そうした空気を象徴したのが「帰省警察」と言うキーワードである。自粛警察から始まり、マスク警察、帰省警察と社会正義の仮面を被った心ない差別である。以前、差別の奥底には恐怖があると書いたことがあったが、新型コロナウイルスはいわば現代における穢れ(ケガレ)と考えれば分かりやすい。「感染」を外から持ち込まれた不確かなもの、それらを異物として不浄なものとして除去する、共同体から排除するムラ意識の現れということである。それは都市と地方ということの違いによって生まれるものではない。実は、「ムラ」は地方に残っているのではなく、都市の中にも存在している。ムラを世間とか仲間という小集団に置き換えればいくらでも経験して来ている。例えば、子供たちの間にある(大人社会にもあるが)「いじめ」を思い起こせば十分であろう。転校生などへのいじめに際し、今は無視・相手にしないといった方法が中心となっているが、私が小学生の頃は「バイキン」と呼んで排除して来たが、今は「コロナ」と呼んでいると聞いている。理屈っぽく言うならば、いじめといった差別は、仲間や世間といった共同体を維持する上で必要な祭祀の一つとなっているということである。特に人為が及ばない出来事に対し、大いなる神に祈り、穢れを除去するためのお祓いをする。新型コロナウイルスの場合に当てはめれば、ある意味PCR検査は感染の有無を計るものであると同時に、仲間や世間といった共同体に対し安全安心を得るための一種のお祓いでもある。ただこうした共同体の運営に際し、緊急事態宣言以降多くの人が自粛・自制する、私の言葉で言えば「セルフダウン」することによって感染抑制ができた。ロックダウンといった国家による「強制」ではなく、一人ひとりがある意味自主的に行動した国は日本以外ないのではないかと思う。これを称して「同調圧力」の強い国民という表現をする専門家もいるが、「同調」には自粛警察といった排除の論理が潜んでいることも事実である。この「同調」感がどのような場所に発生しているか、どの程度強い同調であるかを見極めることも必要となってくる。例えば集団クラスターが発生した島根の立正大淞南高校や天理大ラグビーにおいても犯人探しは勿論のこと誹謗中傷どころか、天理大の学生であるだけで地域の飲食店アルバイトは辞めてほしいといった「差別」が起きている。ファクターXを生かしきれなかった日本このコロナ禍をテーマとしたのも、このパンデミックがもたらす激変もさることながら、第一回目に取り上げたIPS細胞研究所の山中教授の提言「ファクターX」に理解共感したからでもあった。その後、後を追うように東アジアの国々と欧米諸国とではその感染者数、死亡者数が極端に少ないことが報道されはじめた。そして、経済への影響も東アジア諸国と欧米諸国とではこれも極めて軽微であったこともわかって来た。しかし、その東アジア諸国の中、中国、韓国、台湾の中で、ロックダウンしなかった日本が一番経済への影響・損失が大きかった。それは何故なのか?答えは明確で、「自粛要請」を過度にさせてしまったことによる。勿論、過剰自粛に走らせてしまったのは「恐怖」で、マスメディア、特にTVメディアによる過剰な放送によるところが大きい。恐怖は誰もが持つものである。それが未知であればあるほど大きいのだが、それを増幅させるのが「情報」である。私のブログの多くは山中教授のHP「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」に依拠している。TV曲の情報番組にとって、デマ情報とは言わないが、断片情報をつなぎ合わせて一つの「物語」を作る事ぐらい簡単である。また、政府の対応も「過剰」であったと思う。それはやっと論議が始まったが感染症の見直しである。現在2類相当と言われながら、それ以上に厳しい1類に近い考え方で実施されて来た。その象徴がクラスター班の旧北大教授の西浦氏による度重なる記者会見・メッセージである。「自粛」を強制させるが如き恐怖を煽る発言が多く、そのほとんどが大きく外れていたことは明白である。ただ、数理モデルの学者としての誠実さは、後にYouTibeにおける山中教授との対談でわかり、少しは納得したのだが、机上の数理モデルであったとは言え、これも過剰な情報であった。ただ、全てが「過剰」であったということではない。前述の帰省警察ではないが、東京からウイルスを持ち込まないで欲しいといった「気持ち」は「東京差別」として移動を極端にまで抑制させている。その象徴がGO TOキャンペーンにおける東京外しである。先日東京の情報番組に関西のMC辛坊治郎が「何故、東京の人間は外されて怒らないのか。同じ税金を使っているのに」と発言していたが、東京都民としては第二波の震源地であることの負い目と今なお感染者数が高止まり状態でありウイルス拡散の可能性は今なお大きいということによる。こうした心理も過剰な恐怖心が今なお残っているからである。そして、「差別」というウイルスはデマ情報も併せて持ち込んでいることも忘れてはならない。「感染者が〇〇店を利用していた」「従業員からも感染者が出た」・・・・・・・・こうしたデマ情報は残念ながらSNSには広く流布されている。「人間由来」のウイルス対策ところで、保育園や介護施設の人たちへに無料でPCR検査を行う世田谷区の計画については賛成である旨書いたが、問題は検査結果後の運営にある。以前行われた抗体検査によれば、東京都における陽性率は0.1%であり、世田谷区の保育士などのエッセンシャルワーカー2万人に対し実施した場合、20人の陽性者が出てくる計算になる。その後の運営であるが、「安心」を求めて行った検査によって、「噂」「デマ」が飛び交うことは必至である。残念ながら、もう一つのウイルスが蔓延する可能性があるということだ。当然、世田谷区は対策を講じることと思うが、噂の連鎖というウイルス感染が起きた場合、陽性者を出した保育園から預けた子供を引き取るような事態が生まれかねないということだ。「安心」を求めて、逆に「不安」に落ち入る、そんな心理社会に入ってしまったということである。安全で有効なワクチンや治療薬が開発されていない現在、心の奥底に潜むもう一つのウイルス退治こそ経済復活の鍵になるということである。そして、このウイルスは紛れもない「人間由来」のものである。この「人間由来」のウイルスを封じ込めるにはただ一つしかない。それは世間・仲間という「社会」の空気を一変させることである。それまで1人の感染者も出すことなかった岩手県から初めて感染者を出した。そのことがわかったと時、匿名の県民は一斉に感染した社員が所属する企業に電話やメールで誹謗中傷や非難が殺到した。しかし、その後達増知事は「県民は自分もコロナに感染する可能性があると共感をもっていただきたい」と表明した。これを契機にその企業への共感、大変でしたね、頑張ってくださいという声が多数届けられたという。リーダーの一言で、県民の「空気」が変わったということである。人間由来のウイルスはその社会のリーダーの声によって変わるということである。
2020.09.06
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ヒット商品応援団日記No770(毎週更新) 2020.9.3.新型コロナウイルスの感染から7ヶ月が経過し、大分その本質がわかって来た。そして、消費傾向も同時に明確になって来た。ただ、消費を阻む「もう一つのウイルス」もまは伝播している。このウイルスを封じ込めることもまた重要な課題となっている。 東京高円寺のライブハウスに貼られた自粛警察/東京新聞より コロナ禍から学ぶ(3)「もう一つのウイルス」「密」から「散」へコロナ共存への視座。そして、止まないもう一つのウイルス。3ヶ月ほど前に東京で起こっていたことが地方都市へと拡散している。大阪、愛知、福岡、・・・・・・若い世代、飲食街を震源地に、家庭へ職場へと感染の拡大パターンも同じで、まるでウイルスは新幹線で運ばれているかのようだと発言する専門家もいるほどである。しかも、最近のウイルスのゲノム分析によれば、2月頃のウイルスを武漢型、3月から4月に持ち込まれたのが欧州型、そして今回の第二波のウイルス分析でわかったのが5月から6月にかけて流行り始めたウイルスで、それまでとは異なる遺伝子が変異しているとの分析結果が報告されている。変異したウイルスの傾向は無症状者や軽症者が多い結果を生んでいて、弱毒化の可能性があるとも。また、この変異したウイルスは5月の連休明けから6月にかけて東京新宿を中心に発生し、そのウイルスが人を介し地方へと拡大していったとの結果も。死んだ子の年を数えるようだが、緊急事態宣言が解除され、感染源として東京歌舞伎町、夜の街、ホストクラブなどが都知事の発言もあって一斉にTVメディアは集中して取り上げるようになった。ちょうどその頃、新宿区長はホストクラブの店に問題があるのではなく、まだ売れていないホストの住まいは小さな部屋に数名が同居して暮らしていることにあって、その発生の密な環境に問題があるのではないかと指摘をしていた。ここ数週間注目されている高校や大学のスポーツクラブにおける寮生活の集団感染と同じである。ところで新宿歌舞伎町には約240店ほどのホストクラブはあるが、その中でも良く知られたローランドのような成功者はごく一部で、ほとんどのホストは固定給のないリスキーな職業である。ちなみに、新宿歌舞伎町にはホストクラブやキャバクラ、ガールズバーなど約3000軒が密集する街である。後にPCR検査が行われるのだが、その結果は驚くべきものでなんと陽性率は30%を超えていた。その集団検査は歌舞伎町で働く人々を対象とした検査結果である。また、7月末ごろから感染が広がった沖縄では県独自の緊急事態宣言が発せられ危機的状況にあると言う。その感染源であるが、那覇の中心繁華街松山の飲食街を訪れた東京からのホストやキャバクラ従業員の団体であるとの専門家の指摘もある。東京由来、東京問題と言われ嫌な顔をして来た都知事であるが、新宿歌舞伎町で働く人たちには責任はないが、1000名程度の無料PCR検査ではなく、歌舞伎町の街自体の休業要請を行うといったピンポイント施策が必要であった。勿論、保証をつけての休業要請のことだが、東京都をはじめとした政治の責任は極めて大きい。こうしたことを書くのも感染者に罪はなく、誰でも感染しえる病気であることを踏まえ、課題は人と人との距離、いわゆるソーシャルディスタンスと言う課題である。つまり、社会経済を徐々に戻していくには「密」をいかに解決できるかと言う難題である。実はこの「密」を別な言葉に替えて表現するならば、それは「賑わい」と言うことになる。未来塾で取り上げて来た多くの商店街や街のテーマそのものである。今回のコロナ禍が始まった最初のブログには「移動抑制」は消費の抑制へと直接影響すると書いたが、その結果は私の想像を超える惨憺たる「消費」となった。進行する「密」から「散」へテレワーク、時差出勤、更には懇親を兼ねた社員同士の会食・集まりなど密になるあり方など多くの企業は対策を実践して来た。それは概念的に言うならば、「密」から「散」への転換であった。こうしたビジネス移動の制限によって経済の影響は多大であった。その代表的な影響の一つが通勤・通学など移動の制限による損失は、例えばJR東日本の4ー6月の決算発表では最終的な損益が1553億円の赤字になるとのことで、四半期決算としては、過去最大の赤字幅になるとのこと。更に。コロナ後の鉄道運賃として「時間帯別運賃」の制度化も検討されていると言う。ラッシュの解消と共に、収益の改善も意図されてのことだと言われている。また、密になることを改善すべく席数を減らしたりした飲食店などの諸施設の赤字は言うまでもない。そして、時間帯別料金ではないが、満席状態になる昼のランチ時には通常料金とし、午後1時半過ぎになると安くランチが食べられるようにする、そんな「散」を取り入れた飲食店も出て来ている。また、コロナ禍の最中と言うこともあり、具体的な動きは見られないが、中国武漢の都市封鎖によって明らかになったことはサプライチェーンの寸断であった。それは自動車産業だけでなく、他の製造業は勿論であるが、多くの食品輸入も中国依存からの脱却・リスク分散も企業経営の主要課題となった。国内化も含め今までのグローバルビジネスとは異なる組み立ても視野に入ってくるであろう。これも密から散への転換といえよう。実は蜜を語るには「東京一極集中」を見ていけばその功罪を含め問題は明らかになる。蜜であることによって得られることの第一は集中することによるコスト効率の高さにある。店舗経営に従事された経験のある人間であれば、限られたスペースでどれだけの売り上げをあげられるか、その売り上げは家賃に見合うものであるか、と言う課題である。飲食店であれば「席数」であり、物販であれば棚の数であり、例えばドンキホーテではないが熱帯雨林陳列ではないがその陳列量となる。現状、ソーシャルディスタンス・密から散へとコロナ対策上進めてはいるが、「散」による経営で収支が取れるかと言う難題である。つまり、コロナ収束の時期とも関連するが、業態にもよるが経営の根本を変えなければならないと言うことである。赤字をどれだけ減らせるか、といった経営から、収支に見合う経営への転換ということである。簡単に言ってしまえば、従来100坪で行われていた経営を50坪で成立させることであり、人であれば100人で行っていた経営を50人で行うということである。そこにはITは勿論ロボットの活用もあるであろうし、今までとは異なるネットワークの組み方による高い効率、高い生産性の経営ということになるであろう。つまり、「時間」「空間」「人」を分散させて、「新しい価値を創造できるかということになる。今までの延長線上では経営は成立し得ないということからの「発想」である。残念ながら、そうした新しい発想によるビジネスは未だ出現してはいない。ゼロリスク幻想からの脱却前回にも書いたが、「出口戦略」は各都道府県単位で既に始まっている。実は2ヶ月ほど前には「自粛、制限を緩めると感染は拡大する。命と経済どちらが大切なのか」と言った短絡した議論が行われていたが、緊急事態宣言による経済のダメージがいかに大きいかを実感するに従って中途半端なまま論議を終えてしまった。ウイズコロナ、コロナとの共存と言ったキャッチフレーズだけで理解したつもりでいるが、「移動」が活発化すれば当然ウイルスも移動する。こうした社会経済活動に際し、PCR検査を条件とし、現在の検査数の数十倍以上にすべきであるという意見がある。その背景にはあれほどひどい状況であった米国ニューヨークの事例を持ち出してその封じ込めに成功していると。誰でもいつでも何回でも無料で行える検査システムであることは良いことではあるが、陽性者の接触者を追跡する3000名ものメンバーがあってのことであり、更に言えば今なおオープンテラスでの飲食は行えているが、店内での飲食は禁止されているという強い制限下にあるように複合的な対策によるものである。単にPCR検査を増やせば封じ込めるということではない。更に言えば、以前から指摘されていたことだがPCR検査の精度は70%程度で偽陽性が30%近くあるということもあり、絶対ではないということである。現時点での検査ではPCR検査と抗原検査しかないため、必要ではあるが、その限界をわきまえて活用するということだ。例えば、新宿歌舞伎町のように地域を限定した集団検査や世田谷区で計画されているエッセンシャルワーカー、例えば高齢者施設のスタッフや保育士など限定した検査のように活用するのは良い方法ではある。ただ、世田谷区の計画がニューヨークをモデルにしており、「誰でもどこでもいつでも無料」を目指すとのことだが、「安心」を求めての検査であれば、税金ではなく自費で行うべきであろう。また、保健所や病院における体制を含め段階的限定的にお行うべきと考える。つまり、PCR検査は感染防止の目的ではなく、手段であるということだ。こうした状況は、ある意味ゼロリスクはない、そんな不確かな社会に生きているということであり、そのことを理解しなければならない時代に生きているということである。残念ながら、リスクある行動や場所を避ける努力はしても誰でもかかりえる病気であるという自覚こそが個々人に問われている。変容する「街」東京では度々取り上げられる街の一つに吉祥寺がある。”何故、緊急事態宣言の最中にあって、東京吉祥寺に人が集まるのか”という話題で、いくつかの理由がある。その一つは井の頭公園に代表されるように、「光」と「風」を感じられる街だからだ。それは単に公園や動物園、あるいはジブリ美術館があるだけではない。超高層の建物に囲まれただけの街ではないと言うことだ。勿論他にも東京の湾岸に新しく開発された地域、私の言葉で言えば水辺の街、都心から十数分で暮らせる便利な都市リゾートのような街だからである。以前から人気の街である二子玉川も多摩川のリバーサイドであり、都心まで十数分の住宅街である。そこに共通することは「自然」を感じることができる街であると言うことだ。単に都心から地方への「散」ではなく、閉じられた空間・地域という密から、自然を実感できる空間・地域「散」への変化と言った方が的確であろう。本来であれば活況を見せてもおかしくないのが、屋形船である。周知のように東京で大規模なクラスター発生により、未だ復活途上となっているが、屋形船とは異なる東京ウオータータクシー利用なんかもこれから流行っていくであろう。大阪は水の都と言われて来たが、東京も東京湾に流れ込む河口の湿地帯を造成してできた街である。このように密から散への着眼の一つがこうした自然ということになる。一方、都心部の商業地域もここ数年再開発によって大きく変貌して来た。その象徴の一つが渋谷の街であろう。少し前に渋谷PARCOを中心に少し書いたが以前の面影はまるでない街となった。各通信キャリアによる街の移動調査では夏休みということもあって、減少することはない。毎年、夏になると中高生を中心に原宿や渋谷に集まる。こうした傾向は1990年代半ばから始まっていて、例えば渋谷109と東京ディズニーランドは「都市観光」の定番であった。前回のブログで若い世代が感染源となっていることに対し、『「密」を求めて、街へ向かう若者たち 』というテーマで、若者には届かないコミュニケーションについて書いた。その密とは、常に変化し続ける新しい、面白い、珍しい出来事が密となった都市を自由に遊ぶことで、私はそうした行動を「都市商業観光」と呼んだ。新しい、面白い、珍しいとは生活への「刺激」である。若い世代、特に中高生にとって「都市の魅力」とは学校や家庭とは異なる刺激が溢れる場所であり、規則などに縛られることのない自由な劇場ということになる。面白いことに原宿を歩くとわかるのだが、その多くは3~4名の友人グループであるが、中には母親と思しき「大人」同伴の女の子もいる。いわば、保護者同伴の都市観光である。コロナ禍ということから本格的な街歩きをしていないのだが、ドコモなどの通信キャリアによる移動データでは若干の人出の減少はあるものの、若い世代にとってはコロナ禍は「大人」と比較し減少傾向はそれほど大きくはないようだ。勿論、感染しても軽症、もしくは無症状の場合が多く、重症化率が低いことがその背景にあることは言うまでもない。「ハレ」と「ケ」と言う視座本格的な感染が拡大し、外出自粛や休業要請など対策が実施されてから約5ヶ月が経過した。その5ヶ月間の「消費」を見ていくといくつかの傾向が見えて来た。前回の未来塾で5月度の家計調査結果について書いたのだが、まずその全体消費の落ち込みの激しさにあり、現実の飲食店における売り上げの極端な減少や観光関連事業者の悲鳴のような状況を表した数字であった。ところで6月の家計調査結果は前年同月比1.2%の減少であった。6月までの消費の推移は以下である。3月から始まったコロナ禍の激しさはグラフを見ればわかる。6月に入り消費は持ち直しているかのように見えるが、この3ヶ月間の抑制から少しの解放・反動と見るのが正解であろう。5月ど同じように主要品ものの増減についてレポートされているので是非見られたらと思う。一言で言えば、飲食代や移動に関する交通費などは同じように減少はしているが、5月度と比較し、その減少幅は若干小さくはなっている。こうした「減少」の根底にはどんな価値観の変化があるのかを見極める視座の一つが生活の中にある「ハレ」と「ケ」のウエイトであり、どんな消費態度となって現れて来たかである。言うまでもなく「ハレ」の日の消費は特別な日として少し晴れやかなものとして、費用もかける消費のことである。例えば、多くの記念日、正月や誕生日や卒業、あるいは結婚記念日などもハレの日の消費と位置付けられる。一方、ケの日の消費は日常消費のことで、つつましい消費のことである。こうした視座はより具体的な消費品目を分析することが必要ではあるが、今回はハレの日の流通として百貨店、ケの日の流通としてスーパーを対比させて考えてみた。その目線としては百貨店は1980年代までは生活者のライフスタイルをリードしていく存在であったが、バブル崩壊後、SC(ショッピングセンター)という専門店を編集した業態にその座を譲って来たが、その規模を祝ししたとは言え百貨店顧客は存在する。コロナ禍にあって休館・休業した百貨店もあったが、再開後の6月度の売り上げは前年同月比-19.1%であった。このマイナスについて百貨店協会は「依然厳しい動向ではあるが、減少幅は前月(65.6% 減)から大きく(46.5ポイント)改善し、業績持ち直しの局面に転換してきた。」と期待感を持って評価している。勿論、インバウンド需要がほとんど無い状態での売り上げであり、比較にはならないが、通常の消費に近い状態まで回復して来たと言える。その消費の中心は既存固定客であり、「購買動向の特徴としては、食料品や衛生用品など生 活必需品の好調さに加えて、ラグジュアリーブランドや宝飾品など一部高額商材にも動きが 見られた。」としている。つまり、「戻って来てはいる」が、ブランド品や宝飾品はまだまだ「一部」であるということである。「ハレの日」とは気持ちが晴れる日、気分が華やぐ日のための心理消費である。そんな心理には至ってはいないということである。ブランド品、ブランド商材、は極めて情報に左右される商品であり、世の中がコロナ、コロナの合唱にあって「そんな気分」にはなれないということである。更に広げていけば「こだわり」を楽しめる状態には無いということでもある。少し前までの「こだわり」による少し高い価格設定でも売れていたものが急激に売れなくなっている。わけありの変容わずか数ヶ月前まで「わけあり」は消費者にとって大きな選択理由となっていた。「わけあり」は低価格の理由・わけの代名詞となっていたが、安さの理由・わけはもはや選択理由の第一ではなくなって来た。コロナ禍はその低価格は選択理由の常識にすらなったということである。常識という言葉を使ったが、「当たり前」という表現の方が当てはまるかと思う。大きなマーケットではないが、「訳あって、高い」としたこだわりは選択理由の一つであった。いわゆる「こだわり」商品である。全ての諸品であるとは言えないが、「こだわり商品」は次第に売れなくなって来ている。それは単に価格が「高い」という理由だけではない。一言で言えば、経済的というより心理的な「余裕」「ゆとり」がない状態に置かれていると言った方が適切であろう。今、ネット通販を含め、50%オフセールが消費の活性を図っている。10数年ほど前、消費者の価格心理についてあのインテリアのニトリの似鳥社長は「20%程度の安さでは安いと感じなくなっている。最低でも30%ぐらいの安さでなければ」と語っていたが、今や50%程度の安さでなけれな顧客にとって魅力的には映らないということであろう。ちなみに、そのニトリはテレワークを巧みに取り入れ簡単にオフィス機能を自宅にもたらせるようなマーケティングを行って来た。休館しなかったこともあって好調な売り上げとなっている。ところであの「こだわり食材」のディーン&デルーカが苦境にある。コロナ禍による客数減少から4月米連邦破産法11条の適用を申請、つまり経営破綻したと報じられた。負債額は約5億ドル(約540億円)で、日本法人についてはライセンスを取得していることから営業は継続している。。そのディーン&デルーカは1977年にマンハッタンのソーホーで最初の店舗をオープンして以来、高級食材のセレクトショップとして、ニューヨークの食文化に多大な影響を及ぼしてきた、ディーン&デルーカ。日本でも、女性を中心に絶大なる人気を誇るブランドだ。 もともと本家のディーン&デルーカは、希少価値の高い食料品を米国に輸入し、食のブームを巻き起こしてきた立役者でもあった。例えば、当時米国ではあまり知られていなかった、バルサミコ酢である。日本でディーン&デルーカを運営している ウェルカムは「今後も、創業者のジョエル・ディーン(Joel Dean)とジョルジオ・デルーカ(Giorgio Deluca)が大切にしてきた想いでもある『美しき良質な食はわたしたちの心を豊かにし、生き方さえ変えてくれるきっかけを与えてくれる』という思想のもと、これからも毎日の食するよろこびをお客様へお伝えしていくために、優れた食材のつくり手を守り継続的に安定した取り組みを続けながら、 毎日のくらしに寄り沿うマーケットストアやカフェの運営を通して、『食するよろこび』の場をひろげて参ります」とコメントしている。その後、TV東京のWBSに出演しMCの村上龍との対談で売り上げは伸びず、いわゆる「こだわり」のあり方を再検討しているとし、オリジナル商品の味噌汁の話をしていた。どんな再生「こだわりコンセプト」が生まれるか分からないが、これまでのディーン&デルーカのこだわり・希少性では限界があるということは事実である。実はこだわり度も規模も異なるスーパー業態の成城石井は好調な売り上げを上げている。5月の月次事業データによると、全店売上高は前年同月比9.0%増となったと。総店舗数135店。既存店は、売上高1.3%増、客数2.3%増、客単価1.0%減であったとも。一般的なスーパーはそのほとんどは「巣ごもり消費」によって増収増益である。それは単なる食材購入だけでなく、「自分流」の味の捜索を目指して調理道具などの周辺商品の購入も広がっている。成城石井はその名の通り高級住宅街である成城学園前駅の目の前にあった、輸入食材に特徴をもあせたスーパーであった。隣駅の住民であった私の場合、ハレの日の食材を買い求めた店で、例えばすき焼き用牛肉などは全て100g1000円以上の肉ばかりで、刺身用マグロも本マグロのみと言った具合でどれも高価な食材を扱っていた。他にはない特徴あるMDによって多くのSCに出店することになるのだが、その急成長に在庫管理を含め経営体制が追いつかず一時期危機にあったことがあった。勿論、現在は惣菜工場を含め自社工場による供給が行われコロナ禍にあっても順調に売り上げを伸ばしている。この2社を比較したのは顧客層の設定の仕方、 ディーン&デルーカと成城石井のブランド戦略の違いにある。ディーン&デルーカのブランド戦略は一種の「観光地化」戦略に現れている。周知のロゴ入りのトートバッグとマグカップ、鍋敷き等のグッズである。いわゆる富裕層のお気に入りの「食」を取り入れたいとした女性たちの憧れのライフスタイル創造を目指したというわけである。一方、成城石井の場合はデフレ時代の価格帯を守りながら小さな違い、個性ある食材を自社工場でつくる方向を選んだ。顧客設定としてかなり幅広く設定されているということである。つまり、ハレの日のディーン&デルーカに対し、成城石井の場合はケの日の消費の中のこだわり食材を目指したということであろう。選択消費の行方という視座「必需消費」とは生きて行くことに必要な消費、食品や住宅などの消費のことで、選択消費とは心豊かに生活するための消費で、「文化消費」のようなものを指している。映画や音楽の鑑賞などもそうだが、オシャレのための消費なんかも当てはまる消費である。ある意味で、「豊かさ」の象徴であるような消費である。ところでそんな消費を象徴するような発表があった。それはアパレル大手のワールドの発表で、今年度中に国内の358店舗を閉店すると。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、売り上げが激減し収益が一段と悪化しているためだ。200人程度の希望退職者も募り、構造改革を進め、収益改善を急ぐというものであった。 廃止するブランドは「ハッシュアッシュ・サンカンシオン(HUSHUSH 3CAN4ON)」「アクアガール(AQUAGIRL)」「オゾック(OZOC)」「アナトリエ(ANATELIER)」などで、いずれもSC・ファッションビル販路のブランド。これらの20年3月期業績は赤字で、「今後の黒字化のめどが立たない」(同社)ことから終了を決めた。閉鎖358店のうち、ブランド終了に伴うものは214店で、残りの144店は継続ブランドの低収益店が対象。中には異なるブランド同士の店舗統合なども含まれる。「現在の収支が黒字であっても、立地の将来性や条件の妥当性などを総合的に検討し、継続か閉鎖か決めていく」と言った内容であった。敢えて、ワールドを事例として持ち出したのもアパレルファッション市場はその流通のあり方を含め構造的な問題を孕んでいるからで、昨年10月のブログでもう一つの大手企業であるオンワード樫山の100店舗もの撤退に触れて次のように書いたことがあった。『10数年前ショッピンセンターのデベロッパーに「困った時のワールド頼み」と言われ、持っているブランド専門店を出店した婦人服大手である。結果、ワールドは数年前広げすぎた経営を再建するために数百店舗を撤退するというリストラを行っている。未だ再建途中であると思うが、そのワールドが他社のブランドも扱うアウトレット店の第1号をさいたま市西区にオープンさせたと報じられた。実はアパレル業界では年に100万トンとも言われる在庫の廃棄が問題になっている。市場に余った服をブランドの垣根を越えて安く販売するのがアウトレットである。ワールドがこうした市場に進出するとのことだが、周知のようにフリマが数年前から急成長し、つまり個人間ネット取引が進み、2018年の市場規模は20兆円にも及んでいる。更に言うならば、1980年代から1990年代にかけて一時代を創ったビギグループのブランド市場は2000年台以降縮小し続けてきた。そのビギグループも三井物産の傘下に入り、生き残りの道を海外に求めた動きも見られる。 つまり、市場が根底から変わりはじめたということである。市場とは顧客のことであり、顧客が更に変わりはじめたと言うことだ。ちょうど1年前の未来塾「コンセプト再考 その良き事例から学ぶ(1)」で新業態店「WORKMAN Plus(ワークマンプラス)」1号店を取り上げたことがあった。周知のように苦戦するアパレル業界にあって一人高業績を挙げている企業である。この新業態店のコンセプトを次のように未来塾で書いた。』この時のブログのタイトルは「デフレが加速する、顧客が変わる 」であった。こうした構造的な問題を抱えている最中のコロナ禍である。「不要不急」 という言葉が、3月以降盛んにマスメディアを通じ流されて来たが、単に「生きる」ためだけの消費が必要であると言外に込められていた。そのために日本とは比べようが無いほどの外国におけるロックダウンの様子が繰り返しマスメディアを通じ流されて来た。本来の「正しく 恐る」という原則が、「正しく」がどんどん曲解されていく。周知の自粛警察から始まり、最近ではマスク警察や帰省警察まで横行するようになった。こうしたマスコミが報じることの危うさは繰り返すが、あのips細胞研究所の山中伸弥教授の指摘する通りである。そんな心理状況にあって「オシャレ」を楽しむ舞台もなければ、時代の空気感も無い。極論を言えば今は「不要」であると感じている。唯一売れているのは若い世代に対するブランドguであろう。小さなトレンドを創り、中高校生のお小遣いでも買えるリーズナブルなファストファッションということだ。ハレとケという表現をするならば、デフレの時代にふさわしいケの日を楽しむ選択できる商品となる。そのguが化粧品市場にも進出すると言う。これも同じコンセプトによる新市場の開発ということだ。不安な時代の気分消費ブランドの本質は心理価値にある。以前、世界の主要ブランドのその「心理」について分析したことがある。あのシャネルは「時代の変化とともにあるシャネルの生きざま」への共感ブランドであり、ティファニーは「時代と共にある美」を追求し続けるブランドである。他にも、ロレックスやソニーのブランド創造の歴史を分析したことがあったが、全てのブランドに共通していることはブランドは「顧客がつくるものである」ということに尽きる。不安な時代ではブランドは成立しないと考えてしまいがちであるが、それはビジネスマンの態度では無い。ところで「気分消費」という言葉がある。いや正しくはそうした言葉を使っているのは私ぐらいであるが、「不安」が横溢する時代にどうすればそうした「気分」を変えることができるかを考えて来たからである。ともすると暗くなりネガティブ発想に陥りやすい中にあって、少しでも明るい気分になってもらうことが極めて重要な時代となっている。まず気分を決める価格という第一ハードルを少し下げ、これならチョット使ってみようか、という気分を創ることから始めることだ。夏休みの過ごし方・遊び方を見てもわかるように、安近短の本質は、全てを「小」という単位に起き直してみることにある。これなら買えるという小さな価格、サービスであれば1時間を30分に、更に10分にする。あるいは顧客接点の現場では、気分醸成のための小さな笑顔、心地よい一言、こうした何気ない小さな気遣いが気分づくりには欠かせない。こうした小さなサービスの原則と共に、店頭の雰囲気づくりも以前にも増して重要となっている。かなり前になるが、「こころに効く商品」というタイトルで「こどもびいる」を取り上げたことがあった。福岡のもんじゃ鉄板焼「下町屋」が飲料「ガラナ」のラベルに「こどもびいる」に張り替えて出したところ、人気メニューになり全国に広がった、あのヒット商品である。チョットお洒落に、クスッと笑える癒し商品である。一種の遊び心によるものであるが、理屈っぽい、肩肘張った表現は受けない時代だ。現場ではこうした発想が重要であるが、残念ながら心に効くものは何かといえば、ワクチンであり有効な治療薬ということになる。ただ、大阪大学の宮坂名誉教授による人工抗体の開発が進んでいる。山中伸弥教授のHPで知ったのだが、日本における免疫の第一人者であり、感染者の血液から採取したリンパ液などから抗体を抽出し、製造するものだが、問題なのは2週間程度の持続性しかないということのようだ。ただ、それでも重症化を防ぐには有効な治療薬になるという。山中教授が提言しているように、日本の「知」を挙げ総力で戦っていく一つということだ。(後半へ続く)
2020.09.03
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ヒット商品応援団日記No769(毎週更新) 2020.7.26.コロナ禍以前の原宿表参道新型コロナウイルスの感染が拡大し続けている。その震源地は若い世代で次第に中高年世代へと広がっていると報道されている。緊急事態宣言が解除されてから約2ヶ月半近く経つが、一旦治った感染はその後東京新宿から始まり、全国へと広がり始めている。前回の未来塾で5月の家計調査結果についてレポートしたが、今の調査方法に変えてから初めての激しい消費の落ち込みが示されていた。特に観光産業関連は軒並み前年比90数%の落ち込みとなっており、その時にも書いたが政府は持続化給付金が切れる前に計画されていたGOTOキャンペーンを前倒しで行うことを決めたのではないかと。ほとんどのメディア、特にTVメディアは消費実態、その「数値」の意味については報じない。その極端な落ち込みによる企業破綻、倒産についても同様で、5月の倒産件数は314件で56年ぶりの低水準であったこともあって経済の危機についての関心はなく、記事にすることはなかった。実は倒産件数が少なかったのは、裁判所もコロナ禍によって業務が縮小されており、つまり受付なかったということによるものであった。こうしたことを報じたのは唯一日経新聞ぐらいで、TVのワイドショーなどで取り上げられることはなかった。ところが7月に入り、やっと知っている中堅企業が続々とその破綻が明らかになってきた。例えば、主にSC(ショッピングセンター)などに出店していた「すし常」やエゴイストと共に渋谷109を代表すっるブランドであった「セシルマクビー」の破綻、更にはファッションであれば「ナチュラルビューティー」も事業を廃止した。その背景にはファストファッションの台頭やネット通販業態への転換など多くの要因はあるが、消費増税の壁の先に出現したコロナ禍が破綻に追い込んだことは間違いない。家計調査にも出ているが化粧品やファッション衣料はまるで売れてはいない。勿論、外出自粛によって着ていく場所、街という舞台を失っているからである。ただ面白いことに化粧品について唯一売れているのがマスクからでも見えるアイラインなどは好調であると。このようにコロナ禍にあって売れている商品もある。また業績は低迷している手芸のユザワヤは都心部の店舗を撤退させてきたが、手作りマスク需要から活況を見せている、そんな事例も見られる。こうした事例はある意味で例外であり、残念ながら、メディアの舞台に上がることのない中小零細企業の破綻は進行している。私は何事かを決めつけるやり方として、あまり「世代論」が好きではない。俗に言う「今の若者は」と言う言い方に象徴されるのだが、今から10数年前に社会現象となった若い世代のコミュニケーション、KYについてブログに書いたことがあった。それは2007年の流行語大賞の一つに選ばれた言葉、KY(空気が読めないに当時の若い世代の時代感覚のようなものを感じたからであった。当時次のようにその「意味」を書いたことがあった。『KY語の発生はコミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきたと考えられている。既に死語となったドッグイヤーを更に上回るスピードであらゆるものが動く時代に即したコミュニケーションスタイルである。特に、ケータイのメールなどで使われており、絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。「返信」を相互に繰り返すだけであると指摘する専門家もいる。もう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊である。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側」に異なる世界の人間を必要とし、その延長線上には「いじめ」がある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっている。誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するということだ。KY語は現代における記号であると認識した方が分かりやすい。記号はある社会集団が一つの制度として取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことだ。この「しるし」と「意味」との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は「あいまい」というより、一種の「でたらめさ」と言った方が分かりやすい。』更に、若い世代の常用語である「かっわいい~ぃ」も「私ってかわいいでしょ」という「聞き手」を求め、認めて欲しい記号として読み解くべきだとも書いた。以降、多くの社会現象、例えば渋谷スクランブル交差点に集まるバレンタインイベントも、「聞き手」と言う仲間を求めて集まる出来事であることからわかるかと思う。記号、つまり絵文字やスタンプを使った即時のやりとりは「反応」という「自動機械」の潤滑油となる。そこには個性はなく入れ替え可能と言うことである。むしろコミュニケーションに遅れが生じると「意識」や「考え」の働きを目ざとく見つけられて叩かれる。それを恐れるから意識や考えを極端なまでに抑制する、「自動機械」に埋没したがる。その結果、今時の若い世代は、文脈を分析して「他者に対して想像力を働かせる」ことができなくなってしまった。私はそうしたコミュニケーションをあいづちを打つだけの「だよねコミュニケーションであると名付けることにしたことがあった。ところで新型コロナウイルスについて置き換えるならば、最近東京都が言い始めた「感染をしない、うつさない」と言う標語、他者への想像力は働かないと言うことである。勿論、悪気があってのことではない。「大人」がいくら社会的責任の意味を説いてもコミュニケーションは成立しないと言うことだ。自分がうつってしまうかも、という不安はあっても、コロナ禍が始まった3月以降、若い世代の感染者は軽傷者がほとんどであるとの認識が強くあり、街中で行われる多くのインタビューには”自分はうつらない、大丈夫」とだけ答え、他者にうつす危険性についてはほとんど答えがないのはこうした理由からである。ところでこの若い世代の消費について少しだけ分析したことがあった。それは日経新聞が「under30」という名称で若い世代の価値観、欲望喪失世代として指摘をしたことがきっかけであった。ちょうど「草食世代」などといったキーワードが流行った時代である。そのライフスタイル特徴と言えば、車離れ、アルコール離れ、ゴルフ離れ、結婚離れ、社会離れ、政治離れ、・・・・多くの「離れ現象」が見られた。一方で「オタク」という超マニヤックな行動を見せる世代が社会の舞台に出て来てもいた。周知のようにオタクは過剰、過激さをその特徴としているが、このunder30はオタクの対極にある「バランス」や「ゆるさ」への志向をはかってきたグループ世代で、外見は気のいい優しい「人物」である。「バランス」が取れた誰とでもうまく付き合うゆるい関係、空気の読める仲間社会を指し「だよね世代」と私は呼んでいたが、もっとわかりやすく言えばスマホの無料通話ソフトLINEの一番の愛用者である。そもそもLINEは「だよね」という差し障りの無い世界、空気感の交換のような道具である。オシャレも、食も、旅も、一様に平均的一般的な世界に準じることとなる。他者と競い合うような強い自己主張はない。結果、大きな消費ブームを起こすことはなく、そこそこ消費になる。そして、学生から社会へと、いわゆる競争世界に身を置き、それまで友達といったゆるいフラットな世界から否応なく勝者敗者の関係、あるいは上下関係や得意先関係といった複雑な社会を生きる時、そうした仲間内関係から外れることを恐れ、逆にそれを求めて街へ出る。今のコロナ禍の表現をするならば、「密」な関係を求めて、東京へ、街へ、出かけるのである。未来塾の第一回目には「正しく、恐る」をテーマとしたが、この若い世代にとって「正しさ」の認識は「かかりにくい、かかっても軽症で済む」と言うのが彼らの認識である。そして、その「正しさ」を大人の論理で強制するのではなく、まず「聞き手」になることから始めると言うことである。感染症の専門家も、特にTVメディアも伝え方が根底から間違えていると言うことだ。その聞き手とは言うまでもなく「現場」であり、大学も、職場も、夜の街・ホストクラブの大人達である。東京アラートに際し、レインボーブリッジを赤く染めたら、お台場には見物客が多数集まり、つまり東京の新たな観光スポットになってしまった失敗を思い起こすべきである。「正しく、恐る」その正しさが一切伝わっていない証明そのものである。ロックダウンではなく、セルフダウンを選んだ日本は、まずすべきは「大人」が聞き手になるということだ。(続く)
2020.07.26
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ヒット商品応援団日記No768(毎週更新) 2020.7,19コロナ禍以前の築地場外市場「日常の取り戻し」を学ぶ不安を抱えながらの「日常」危機からの脱却は「自由時間」の取り戻し、その中でも生活に即して言うならば「日常の取り戻し」となる。多くの自然災害は勿論のこと、コロナ禍も同様である。2008年のリーマンショックによる大不況の時は「年越し派遣村」に見られるように非正規労働者の失業が目に見える危機であった。2011年の東日本大震災の時は大津波によって町全体を失い、福島原発事故では放射能汚染によって住むことができない故郷を失うといったことを生み出した。どの危機も失うものは異なっていても、取り戻したいと願うことの第一は「日常の取り戻し」であった。その日常の中には個々人全て異なるものであるが、共通していることは、危機の先に「自由時間」を持てることにあった。好きな仕事ができる自由、子供との時間、家族との旅行や外食、実家への里帰り、・・・・・・・個々人の年齢や環境によって大切にする時間の使い方は異なる。その自由こそが日常の本質となっている。ライフスタイルの本質はこの日常にあるということを再認識させた。今回のコロナ禍の特徴は、「ウイズコロナ」「コロナとの共存」といった言葉に代表されるように、ワクチンや治療薬が開発されるまでの「長期間」不安を押し殺したままの日常になるということである。それは事業を行う人も生活者も同じ思いとなっている。リーマンショック後では特に事業者にとって「事業の立て直し」が社会の主テーマとなり、東日本大震災後では生活者も事業者も「街・故郷の復旧・復興」が主テーマとなった。同じ日常の取り戻しでも危機のあり方によって異なる。非接触業態へと向かう消費コロナ禍はこの日常を「移動自粛」によって失ってしまったということである。このブログは「消費」が大きなテーマとなっおり、3月からの3ヶ月間はスーパーなど日常生活に必要な商業施設以外は百貨店をはじめほとんどの商店は休業状態となった。楽しみを求めて多くの人が集まるイベントや娯楽施設は勿論のこと、街の人通りはゴーストタウン化したことは周知の通りである。そのゴーストタウンが象徴するように、ネット通販や宅配ビジネスといった非接触流通が生活を補完するものとして好調に推移している。また以前からシニア世代の必須業態となっている移動販売が再び注目されている。数年前から地方の山間部のみならず、都市近郊のスーパーなどの無い空白地帯の必需業態となっている。また、周知のようにフードデリバリーに人気が集まっている。更にキッチンカーによる移動レストラン業態も生まれている。しかし、こうした業態がコロナ感染が収束した後まで持続していくかどうか、確かなことは言えないが宅配ピザのように固有の流通となり得るかは提供するフードメニューの魅力、他にはない魅力によるであろう。非接触の反対は接触であり、簡単に言ってしまえば「賑わい」のことである。コロナへの不安心理の変化はこの賑わいの復活度合いを見ていけばわかる。渋谷や新宿など逐の移動データが発表されているが、これも不安心理を見ていく一つの指標となる。働き方変化のゆくえそして、コロナ禍で売れたものは何かといえば、まず巣ごもり消費の定番、つまり内食の食材であり、子供たちであればゲームとなる。また、在宅勤務・テレワークに必要とされる商品である。周知のように新たなパソコン、あるいはWebカメラといったテレワーク必需品である。更に付帯的なものとしてエアコンといった在宅環境整備商品である。こうしたテレワークの経験はコロナ禍が収束した後もそのまま継続するという企業が多いという調査結果もあるが、テレワークだけで「先」を見据えた合理的なビジネススタイルになり得ることはない。満員電車の通勤に戻りたくはない、地方で仕事をしたいと願う人が増えてくると考える専門家もいるが、逆で長時間通勤から仕事場により近いところに住まいを移すことの方に向かうであろう。都心に近い江東区など湾岸エリアが一大居住地帯となっており、更には都心まで十数分の川崎市武蔵小杉などのタワーマンション人気を見てもわかるように通勤時間の短縮が数年前からのテーマとなっている。東京一極集中はコロナ禍によって解決されるのではないか、地方移転が始まるのではないかと考える専門家もいるが、逆に都市集中化はこれからも進むと私は考えている。何故なら、仕事はどんどん専門職化、個人化していくと思うが、それだけでビジネスは成立はしない。仕事はチーム単位で行われ、しかもグローバル化し競争によって高度化すればするほど、「外」からの刺激を必要とし、「人」との直接的なリアルな議論などの刺激が必要とされその専門性は磨かれ高められていく。そんな専門集団を束ねていくのが経営リーダーの役割であり、「人」を束ねる理念・ヴィジョンこそが不可欠となっていく。こうした働き方については、AIの時代を含め別途考えてみるつもりであるが、結論から言えば、AI以上、ロボット以上の働き方が問われる時代に既になっているということである。「危機後」に現れた過去のヒット商品 ここ数週間私のブログを訪れる人が増加している。おそらく過去「何」が売れ、その背景には「何」があったのかをブログ化しているのは私のブログぐらいしかないからと思われる。出口戦略としてどんな「消費」に動くのか、そのための情報収集ということからであろう。 ■リーマンショック後のヒット商品の傾向 日経MJによる「2008年ヒット商品番付」を踏まえたものでは、まず注視すべきは自己防衛型商品であった。これはリーマン・ショックに端を発した金融危機により、更に生活全体への危機対応へと進んできたと言える。その象徴例が、商品版付にも顕著に出てきている。 横綱 ユニクロ・H&M セブンプレミアム・トップバリュー大関 低価格小型パソコン WiiFit関脇 ブルーレイ パルックボールプレミアクイック小結 円高還元セール マックのプレミアムローストコーヒー 東西の横綱には「ユニクロ・H&M」と「PB商品」、大関は「低価格小型PC」と「任天堂DSのwiifit」、関脇には「ブルーレイ」と「パナソニックの電球型蛍光灯」と続く。東芝のDVDレコーダー「ブルーレイ」が入ったのは、HD-DVDレコーダーの市場からの撤退によってシェアーが伸びたもので、それ以外は全て低価格価値に主眼を置いた商品ばかりである。「お買い得」「買いやすい価格」、あるいは「パナソニックの電球型蛍光灯」のように、商品自体は高めの価格であるが、耐久時間が長いことから結果安くなる、「費用対効果」を見極めた価格着眼によるヒット商品である。そうした自己防衛市場への消費移動を整理し、キーワード化してみると次のようになった。 1、外から内へ、ハレからケへこの時にも「外食」から「内食」への傾向が顕著に出てきている。しかも、中国冷凍餃子事件により、冷凍食品から手作り料理へと移動が起こり、前頭に入っているような「熱いまま急っと瞬冷凍」といった冷蔵庫が売れたり、前頭に入っている親子料理の「調理玩具」がヒットするといった具合である。ライフスタイル的に見ていくと、ハレからケへの移動、非日常から日常への消費移動となる。遊びも「任天堂DSのwiifit」、あるいは「ブルーレイ」といった家庭内充実商品・巣ごもり商品が売れている。そして、特に都市ではミニホームパーティがますます盛んになっていくのだが、今回のリモート飲み会にも通じるものである。2、エブリデーロープライスリーマンショック後の消費の中心に「消費価格」があった。この時生まれたキーワードが「わけあり商品」である。この「わけあり商品」は小売業態のみならず、サービス業態のホテル・旅館まで広く行き渡り、デフレのキーワードにもなったことは周知の通りである。消費は収入と不可分の関係にあるが収入が一向に増えない中での消費である。ユニクロを筆頭に価格破壊企業が大きく躍進した節目の出来事となった。以降、このデフレ克服が最大テーマとなり、現在は好調の日本マクドナルドも1000円バーガーを発売したり価格戦略の迷走をもたらすこととなった。あるいは大手ファミレス3社ガスト、デニーズ、ロイヤルホストも合計500店舗を閉鎖し、立て直しに入ることとなる。3、個族から家族へ個人化社会の進行は1990年代から始まっていたが、次第に家族単位のあり方が変化していく。その象徴が単身世帯の増加で、単身的ライフスタイルである夫婦二人家族を含めると50%を超えるまでになっていた。このリーマンショックという不況危機はこのバラバラとなった個族を再び家族へと引き戻していく。後に触れる東日本大震災の時にも家族回帰が見られたが、危機は生き方としての家族へと向かわせるということであろう。今回のコロナ禍では在宅勤務ということもあり、ウイークデーの昼間に公園で子供を遊ばせる父親の姿が多く見られたが、夫婦共に家族認識を新たにしたと言えなくはない。4、小さなアイディア、小さなうれしい日経MJと同じように年度のヒット商品を発表している三井住友グループのSMBCコンサルティングは今年の横綱は該当なしとなっている。社会的注目を集めるような商品力と実績を集めた商品はなかったとし、「横綱不在時代の幕開けか?」とコメントしている。日本は既に不況期に入っているという認識は同じであるが、日経MJはヒット商品が小粒になったと指摘、SMBCは消費支出の選択と集中が始まると指摘している。私に言わせれば、両社共に、生活価値観(パラダイム)がどのように変わりつつあるか、その過渡期の断面を指摘いると思う。例えば、外食から内食への移動では、内食について言えばヒット商品は小粒になり、納豆の「金のつぶ」のように改良型商品がヒットする。しかし、外食が全て無くなる訳ではない。回数は減るが、ハレの日には家族そろってお気に入りの店を選択して使うことになる。つまり、中途半端な外食には足を向けないということ傾向が見られた。今回のコロナ禍では移動抑制・外出自粛ということから「外食」に向かうことは心理的に制限され、緊急事態制限解除後も以前のような「外食」には戻ってはいない。その背景にはまだまだ刷り込まれた「恐怖」が残っており、以前のような外食には繋がってはいない。 また、この時代の大きな潮流であるダイエット・健康・美容のジャンルにはヒット商品は生まれてはいない。勿論、誰もが関心はあるのだが、心理的な余裕がない状態であった。今回のコロナ禍においては「免疫力」をつけるための食品など若干話題になったが、その程度の免疫ではコロナには勝てないことが分かって今や話題にもならない状態となっている。コロナ禍は命に関わることであり、その恐怖はダイエット・健康・美容といったそれまでの関心事を一掃してしまったということである。 ■3.11東日本大震災後のヒット商品の傾向 実は2011年上半期には東西横綱に該当するヒット商品はないとした日経MJであるが、年度の横綱をはじめ主要なヒット商品は以下となっている。 横綱 アップル、 節電商品大関 アンドロイド端末、なでしこジャパン関脇 フェイスブック、有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)小結 ミラーイース&デミオ、 九州新幹線&JR博多シティ 2011年度の新語流行語大賞、あるいは世相を表す恒例の一文字「絆」も東日本大震災に関連したものばかりであった。つまり、ライフスタイル価値観そのものへ変化を促すほどの大きな衝撃であったということだ。西の横綱に節電商品が入っているが、例えば扇風機を代表とした節電ツールや暑さを工夫した涼感衣料が売れただけではなく、暖房こたつや軽くて暖かいダウンが売れエネルギー認識が強まることとなった。震災時に電話が通じない状態のなかで家族と連絡を取り合ったFacebookといった情報サイトの活用。震災復興の応援ファンドにツイッターが使われたこと等、スマートフォンやタブレット端末も震災との関連で大きく需要を伸ばすこととなった。震災から9ヶ月経った年末商戦では、百貨店を始めほとんどの流通のテーマは世相を表す「絆」ではないが、人と人とを結びつける商品や場づくりとなった。阪神淡路大震災の時と同様に、東日本大震災後婚約指輪が大きく需要を伸ばした。こうした消費は一つの象徴であるが、母の日ギフトや誕生日ギフトなどいわゆる記念日消費に注目が集まった。あるいは家族や友人といった複数の人間が一つ鍋を挟んだ食事は、家庭でも居酒屋でも日常風景となった。こうした傾向、「絆消費」は一過性のものではなく、以降も続くこととなる。そして、「国民総幸福量」の国、ブータンの国王夫妻の来日は、人と人との絆、その精神世界にこそ幸せがあることを再確認させてくれた。 今回のコロナ禍においては、人との接触の「8割削減」が一つの指針となり、絆という「密」な関係を難しくさせてしまった。しかし、緊急事態解除によって、この「関係」の取り戻しが始まっている。東京をはじめとした首都圏では移動の緩和とともに感染者が増えているが、これもある程度は想定内のことであろう。この日常の取り戻しにあって、旅行と生活文化の2つを取り上げたが、遊びとしての旅行もあるが、今年の夏は実家への「帰省」が多くなるであろう。これも一つの絆の取り戻しである。文化のある日常生活については、やはり「外食」による取り戻しが中心となるであろう。前回取り上げた大阪の串カツ、「二度漬け禁止」という文化は同じソースを使うことから、つまり感染の恐れがある配慮からソースを個々にかけて食べることとなった。コロナ禍が収束するまで少しの間、二度漬け文化はおやすみというわけである。江戸前寿司の「久兵衛」が巻き寿司やチラシ寿司の宅配を始めたという事例について書いたが、元々巻き寿司などは自宅へのお土産としてあったものだが、コロナ収束後も継続して行うかどうかはわからない。しかし、本業は顧客の前で握り、それをすぐ口へと運ぶのが江戸前寿司の約束事であるから、そうした文化が損なわれるのであれば継続はしないであろう。こうした事例はまだまだ文化の域には達してはいないが、ホテルなどでの「ブッフェスタイル」なんかも復活するであろう。あれこれ好きなものを少しづつ食べるスタイルであるが、これも今まであった日常スタイルの取り戻しである。こうした日常のスタイルの取り戻しの中の一番は、なんといっても、調理場とカウンターとが仕切られた飛沫防止の透明シートであろう。特に、町中華の場合など、調理場の匂い、炒める音、・・・・・全てが町中華文化である。味もさることながら、文化とはこうしたこと全体のことである。この全体を取り戻して、初めてコロナ禍は収束したということになる。そして、個々の店舗、個々の事業によってその文化は異なるが、ここでも課題となるのが「何」を残し、「何」を代わりになるものとするかである。大仰にいうならば「ブランドの継承」にもつながることであり、顧客を魅きつける「何か」である。ちょっと唐突かもしれないが、あのシャネルが残した「何か」は「生きざま」、どのように変化し続ける時代を生き切ったか、その魅力である。それがシャネスのデザイン、スタイルに継承されているということである。文化とはそうしたものであり、この文化を失うことは継承することはできないということである。何を残し、何を代えていくのか、これも店舗の事業の生き方であり、顧客を魅きつける本質はここにあることを忘れてはならない。 調査開始以来最悪の5月の消費支出 コロナ禍5月の消費について家計調査の結果が報告されている。二人以上世帯の消費支出は調査が開始された2001年以降最低の消費支出(対前年比)▲16.2となった。ちなみに4月は▲11.1、3月は▲6.0である。緊急事態が発令された最中であり、例年であれば旅行に出かけ、外食にも支出するのが常であったが、当然であるが大きなマイナス支出となっている。ちなみに、旅行関連で言うと、パック旅行▲ 95.4、宿泊料▲ 97.6、食事代▲ 55.8、飲酒代▲ 88.4、となっている。更には映画や・演劇、文化施設や遊園地などの利用もマイナス▲ 94.8〜▲ 96.7と大幅な減少となっている。勿論、外出自粛などから衣料や化粧品の支出も大きく減少していることは言うまでもない。また巣ごもり消費として取り上げたゲームソフトなどについてはプラスの105.6%と最大の伸びとなっている。言うまでもないが、必需商品となったマスクなどの消耗品は179.5%となっている。これが「外出自粛」「休業要請」の結果ということだ。(家計調査の付帯資料として「消費行動に大きな影響が見られた主な品目」が出ているので是非一読されたらと思う。) ところで6月末で消費増税軽減のためのポイント還元が終了した。駆け込み需要があるのではないかとの報道もあったが、マスメディアの無知による誤報道となり、ほとんど駆け込み消費はなかった。そんなことは当たり前の事で、ボーナスの減額どころか減給更には失職すらあり得る中での消費にあっては「駆け込み」などあり得ない。「巣ごもり消費」は「消費氷河期」へと向かいつつあるのだ。この氷河期という表現は「何も買わない」ということだ。必要最低限の日常消費は行うが、それ以上のことには消費しないということである。ある意味、「消費の原点回帰」とでも表現したくなる生きるための消費態度のことである。 それは感染症の専門家に言われるまでもなく、長期間の戦いになるということを多くの人は自覚しているからである。最低でも今年一杯、来年の春ぐらいまで心の隅に「恐怖」を抱えながらである。それは例えば東京吉祥寺の町が以前のような賑わいを取り戻したかのように一見見えるが、賑わいそのものを楽しめるところまでは至ってはいない。有効なワクチンや治療薬が使えるまでは誰もが仕方がないと覚悟している。ただ、そんな中で、カラフルでユニークな手作りマスクやクッキングパパのような手作り料理をインスタグラムにアップするなど「巣ごもり遊び」の心があふれているので深刻ではない。こうした遊び心があるかぎり、「出口」戦略の中心となる消費は持ち直すであろう。 こうした消費心理の一端を明確にした調査結果が出てきている。読売新聞社が7月3~5日に実施した全国世論調査で、この夏の旅行について聞くと、「都道府県をまたいで旅行する」が12%、都道府県をまたがず「近場へ旅行する」が15%で、「旅行は控える」が67%に上った。政府は、観光需要を喚起するため、旅行費用の半額を補助する「Go To キャンペーン」事業を8月上旬にも開始する方針を前倒しにしだが、国民の間では依然慎重な人が多い結果となっている。これは新型コロナウイルスへの「恐怖」が残っているだけでなく、収入の減少や先行きの就業不安などが影響しているからであろう。こうした複雑な心理状況にあるということだ。ところでまだ推測の域を出ないが、政治の世界では解散風が吹き始めている。あまり解散の争点論議はなされていないが、「消費税の減税」になるのではないと思っている。その背景であるが、ドイツ政府は新型コロナウイルスによる経済への打撃を緩和するため、日本の消費税にあたる付加価値税を7月から引き下げる方針を閣議決定した。減税は7月1日から年末までの限定措置となり、税率を現在の19%から16%、食料品など生活必需品に適用する軽減税率は7%から5%へと引き下げるという減税案である。つまり、日本経済の中心となっている消費の立て直しを図る「消費税減税」の是非を問う選挙である。 混乱・とまどいはこれからも続く 今、東京を中心とした感染が拡大している。第二波なのか、第一波の延長なのか、専門家の間でも意見が異なっており、その対策も今だに提示されていない。1日50人単位であった感染者が、ある週から100名単位となり、その翌週には200名単位・・・・・そんな週単位の拡大が続いている。6月19日の東京アラート解除後、ほとんどの制限が解除され東京の街には人出が見られるようになった。移動の制限がなくなれば当然感染は広がることは多くの人は仕方のないことだとわかってはいるが、「大丈夫であろうか」という心配する声も多い。ましてや、新宿のホストクラブなどの集団検査の数値も含まれており、明確な指標がない状況が不安を増幅させることとなっている。つまり、こうした極めて不確かな状況がこれからも続くということである。 移動の活性化を図る「GOTOキャンペーン」が前倒しでスタートする。当然のように時期尚早論が湧き上がっている。前述の読売新聞の調査結果のように生活者は極めて慎重である。新宿や池袋といった感染者を多く出している場所にはホストクラブなどの店への休業補償や PCR検査による陽性者への見舞金など「部分的な封じ込め」が行われるであろう。つまり、生活者にとって行動の「自制」を行う「基準」が得られないままプロ野球観戦やライブイベント、更には旅行へと出かけるということである。混乱と戸惑いの中の日常ということになる。結果どういうことが起きるかである。新宿歌舞伎町に代表される夜の街イメージは池袋どころか新橋、六本木・・・・・感染ウイルスと同じように周辺の街々に広がっていく。東京は一大消費都市である。観光地など地方へ移動による消費が起きない限り、嫌な言葉であるが多くの事業者は耐えきれず「破綻」していくであろう。マーケティングやビジネス経験のある人間であれば前述の5月の家計調査の結果を見れば理解できる、いやぞっとしてしまったであろう。そして、こうした混乱と戸惑いは受け止める「地方」も同様で、感染を持ち込んでほしくないとする「東京差別」と観光復興したいという思いが錯綜する。多くの死者を出した九州から甲信地方にかけての豪雨は「令和2年7月豪雨災害」となった。九州北部豪雨、西日本豪雨、続けざまに起きる豪雨災害であるが、「50年に一度」「想定外」といった言葉が死語になるほどの災害が続き、想定内の災害が起きたと理解しなければならなくなった。嫌な表現であるが、日常と災害とが隣り合わせになった時代を迎えているということであろう。まるで「コロナ禍」と同じように「苦しい夏」を迎える。
2020.07.19
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ヒット商品応援団日記No768(毎週更新) 2020.7,13 コロナ禍から学ぶ(2)「日常」の取り戻しセルフダウンからセルフフリーへ、危機に現れるヒット商品。そして、2つのテーマ、「観光」と「生活文化」2ヶ月ほど前にこの危機をとにかく生き延びて欲しいとの思いから、歴史からその知恵を学んで欲しいとブログに書いたことがあった。それは公的支援を受けることは勿論だが、例えば飲食店が店内飲食を中断し、テイクアウトの弁当店を行うこと によって少しでも売り上げの補填をして経営を持続させていくといったことであった。 しかし、こうした「持続」を断念する老舗が数多く出て来た。その象徴が東京歌舞伎座前の弁当店「木挽町辨松(こびきちょうべんまつ)」の廃業であろう。152年の歴史を持つ弁当店で、歌舞伎座や新橋演舞場などの役者さんや観劇用弁当として愛され続けた老舗である。廃業のきっかけは新型コロナウイルスによる売り上げ減少が大きく影響したようだ。大阪でも今年創業100年を迎える「づぼらや」が9月には店を閉じるとの発表があった。大阪の人には馴染みのある店で、復活した新世界のランドマークにもなっている店である。「食い倒れの街大阪」を代表してきた老舗で、安い値段で気ままに、ずぼらにフグを食べてほしいという願いが店名になったと聞いている。この2つの老舗共に、アフターコロナ、つまり「明日」が見えてこなかったということであろう。こうした現象は巣ごもり消費が続く中、先が見えないことからの廃業で、いわゆる経営破綻・倒産としてのそれではなく、ある時を持って店を閉める幕引きである。ところでやっと新型コロナウイルスとの次なる戦い、「出口」戦略が始まった。新しい「生活様式」という感染を防ぐ一つのガイドラインが提示されているが、そのまま生活に組み込まれることはない。その意味するところは前回書いたように「ロックダウンではなく、セルフダウン」、つまり個々人の「自制」されたライフスタイルとなる。そして、誰もが数ヶ月前の生活とは「どこか違う」ものになるであろうと予感している。それはテレワークと言った単純な「違い」ではない。今テレワークが注目されているのは、業種にもよるが専門職化の辿る道の一つであり、ある意味フリーランス化でもある。いずれ働き方の変化については取り上げてみるつもりである。そして、この「出口」戦略は周知のようにベトナムとの往来が始まり、7月にはEUや台湾との間でも往来が解禁される見通しとなった。時期尚早との判断もあるが、国内のみならず限定的ではあるが世界との移動が始まっている。検証すべきコロナ禍4ヶ月間の意味 「出口」戦略とは当然「入り口」があっての出口で、その入り口は大きく言えば外出自粛と休業要請、つまり移動抑制である。マーケティングを専門とする私にとって、「何事」かを実施すれば、必ずその結果が得られ、それは妥当であったかという検証が必要とされる。出口とはその検証に基づいて行われるべきである。そして、今見極めなければならないと考えていることは、今回のコロナ禍によって、例えば1990年代初頭のバブル崩壊による大きな価値観の変化と同様のことが起きるかどうか、あるいはその後の2008年のリーマンショック、更には2011年3.11東日本大震災後のように、「今まであった生活」を取り戻すような一種の「生活回帰」のようか変化となるのか、その変化が目指す「先」は何であるのかということの見極めである。勿論、後者の場合でも数ヶ月前の生活とは当然変わってくるのだが、前回の未来塾にも書いたがiPS細胞研究所の山中伸弥教授が提言しているような新しい視点「ファクターX」には、この日本人固有のライフスタイルが他国と比較しその致死率や感染率の低さの原因の一つが潜んでいるのではないかという意味も含まれている。例えば、中国武漢での感染を拡大させた原因の一つとして中国武漢での伝統の大宴会にあったと報じられているが、これは中国における直ばしで食べる大皿料理の文化である。少なくとも日本の場合は円卓の場合は少なく、しかも大皿であっても取り箸が用意され、直ばしということはほとんどない。現在、スーパーなどでの惣菜売り場はほとんどが個包装になっており、過剰なまでの売り方となっている。感染のメカニズムが今だに接触・飛沫感染と言った抽象レベルのものであり、例えば飛沫感染の具体的なメカニズム、発症数日前のウイルス量が多いという報告はされているが、その防止策と言えば医師が使うような仰々しいフェースシールドの着用といった具合である。こうした日常生活においてもっと簡便に生かされる「知見」が求められているのだが、やっと「ファクターX」という視点を含めた新型コロナウイルス制圧を目的としたタスクフォースが5月末スタートした。日本における知性が結集し、連帯して戦うということである。 移動抑制の検証こそが安心産業である観光の一番の担保となる 新型コロナ対策として、旧専門家会議から「8割削減」が提言されてきた。人との接触を8割減らすということで、10のポイントが公表され今日に至っている。この中には周知のテレワークの推進をといったオンラインの活用によってであるが、介護現場のように業種や職種によっては「接触」しないことには先に進めないものも数多くある。この「8割削減」の延長線で「新たな生活様式」が提言されている。例えば、・公園はすいた時間、場所を選ぶ・すれ違うときは距離をとる・食事は大皿を避けて、料理は個々に・対面ではなく横並びで座る・毎朝、家族で検温するといったものだが、この間4ヶ月半近くにもなるが、この「8割削減」によってどれだけ感染防止に役立ったかその明確な「根拠」は今だに明らかにされてはいない。生活者の多くは季節性インフルエンザの対策の延長線上で自衛するだけとなっている。すでに感染の背景の大きな要素となる移動におけるデータはGoogleやドコモ、あるいは各鉄道会社の乗降データがあり、感染防止の効果がシュミレーションできるはずである。この「8割削減」は欧米のような都市封鎖(ロックダウン)」できない日本をその代わりのものとして目標化されたものであることが後に分かってきている。ちなみに移動自粛による経済損失については観光バス業界やタクシー業界の苦境は報道されているが、交通産業全体としての損失はほとんど報道されてはいない。専門家の試算の一つでは全国の公共交通事業の損失は年間最小3.5兆円〜最大8.3兆円の減収になると。経営面での医療崩壊が心配されているが、8月には交通崩壊の危機がやってくるという専門家の分析もある。 ところで8月以降観光産業の復興を目的とした「GO TOキャンペーン」が予定されている。これも「出口」戦略の一つであるが、「どれだけの自粛による行動削減」によって、感染が防止されたかと言った数字が必要とされ、その数字を基にした根拠によって、観光という移動における「安心」が担保される。例えば、大阪のUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)」が段階的にオープンされたが、こうした行動の抑制・自制がどの程度感染抑止効果があったかなど検証する視点を持って再開されたことと思う。旧政府専門家会議ではこうした課題に全く答えていないが、大阪府にも独自な専門家会議がある。今回は詳しくは取り上げないが、第二回の会議の議事録がHP上に公開されている。「大阪の第1波の感染状況と今後の方向性」と「K値による大阪のCOVID-19感染状況の解析」には、「自粛」によって感染がどれだけ防止できたかといった視点で分析がなされている。 つまり、今までなかった視点での「検証」である。その中で多くの移動や休業といった自粛要請は感染防止には効果がなかったと指摘する専門家もいる。「過剰な自粛」は不要であったという指摘である。大阪府民にもわかるように分析されたものだが、是非一読されたらと思う。ところで観光という行動の広がりと感染の広がりとの関係をぜひ検証して欲しいものである。こうした多くの人が理解できる根拠ある検証が観光という安心産業を再開させ活性化させるものとなる。そして、この先には何があるかと言えば、USJに即して言うならば行動の広がりは近畿圏となり、更には日本全国へと、そしてかなり先にはなると思うが、世界・インバウンドビジネスも視野に入っていくであろう。こうしたUSJの試みは一つの移動モデル、安心観光モデルとなり東京をはじめとした他の都市観光の良き指標となる。 政府専門家会議が廃止され、新たな組織ができることとなった 6月24日、以上のような発表が政府専門家会議の記者会見と並行して行われ「廃止」が発表された。専門家会議には事前に政府から知らされていたようだが、一番大事な国民へのメッセージであるリスクコミュニケーションがうまくなされていないことが今回の記者会見でも明らかになった。専門家会議の座長は政府との役割分担が明確になされず、危機感から「前のめり」になってしまい政策があたかも専門家によって決定されているかのように見えてしまった」と発言。この発言は、厚労省クラスター班の北大西浦教授の発言である「このままだと42万人が亡くなる」「指数関数的な感染の爆発的広がり」といったショッキングな発言が数多く流されてきた。こうした発言のほとんどがクラスター班と専門家会議両者による記者会見であったことを踏まえてのことであった。つまり多くの感染症の専門家がネット上を含め様々な発言がなされ、特にTVメディアの番組出演を通しこの西浦発言を援用して恐怖を煽るようなことすら生まれた。しかも、こうした発言はことごとく現実とは異なる結果となっていることは周知の通りである。その象徴例が、感染のピークは3月末、4月1日ごろと推定されているにもかかわらず、旧専門家会議の提言を受けての緊急事態宣言の発令は、その後1週間経ってからであった。欧米のコロナとの戦い、特に病院崩壊が繰り返しTVメディアを通じ放映され、今まで何回も書いてきたが、不安どころか「恐怖」へと向かわせてしまった。しかし、日本における現実は旧専門家会議が提言してきたことの本質にはことごとく異なったものとなってきている。報道するメディア、特にTVメディアの報道が大きかったと思うが、手弁当で提言してきた旧専門家会議だけにその責任を問うことはしないが、「何故、予測がことごとく間違ってしまったのか」「本当に休業自粛は必要であったのか」「外出自粛はどの程度感染防止に効果があったのか」を明確にして欲しかった。接触及び飛沫感染が主たることであることから、「密」という概念で予防を説明してきた功績はあり、国民にとってわかりやすく取り入れられてきた。しかし、今問われているのは「出口」戦略であり、情報公開という意味で大阪の専門家会議とは雲泥の違いとなっている。 出口戦略の最大テーマは、「恐怖イメージ」からの解放である ロックダウン(都市封鎖)」、つまり移動を極端に制限することが、宿主を次から次へと変えて増殖・感染するウイルスの生命のあり方に対する一つの方法であることは多くの生活者は理解していると思う。勿論、季節性インフルエンザの延長線上の経験値・実感ではあるが、「ウイルスをうつす・罹患」させるのは接触であることは十分理解している。その接触であるが、接触のためには近づく、つまり「移動」が全ての前提となる。 緊急事態宣言の最中話題となったのは、他県を跨がる「移動」であった。例えば、他県ナンバーの車には規制をかけるべきであると移動先の地域住民の声を借りて声高にコメントする「専門家」や「行政」も出てきた。その象徴がパチンコ店に対してであったが、補償を行い自粛した方が良かったと思うが、このパチンコ店で大きなクラスターという感染集団が発生したとの報道は一切ない。同じようにコロナ疎開と呼ばれたように首都圏周辺の観光地は「首都圏のお客様は、今はご遠慮いただきたい」としたコメントが行政から出され、TVメディアを中心に繰り返し報道されてきた。これらはいわゆる「自粛警査」と同じように、主に TVメディアによって創り上げられた「恐怖」イメージが根底にある。ところが緊急事態宣言が解除され、6月19日以降は他県にまたがる移動は構わないとなっているが、当の観光地や行政は観光を含めた移動の解除=ウエルカムメッセージを出してはいない。地方の学生の帰省を自粛して欲しいと、故郷の産品を送った自治体はその後学生にどうメッセージを送っているのか、明確にすべきことの一つである。繰り返しになるが、それら根底には繰り返し刷り込まれた「恐怖」が今なお残っているということである。その鎖を解き放したのが大阪府でありUSJであった。観光というより、「楽しみ」を取り戻す、鬱屈した我慢の時間からの解放、自由時間を好きに使えるという「日常回帰」の第一歩である。そのためには大阪府の知事が言うように、感染源を追跡できるシステムと十分な病床の用意という「担保」によって、「安心」へ一歩進むことができるということである。 問題なのは「移動先」の施設や観光地である。前々回ブログに書いたようにこれまでの数年はインバウンドバブルであったことを受け止め、観光の原点に今一度立ち返るということだ。良く考えてみればわかるように、国内旅行の需要は既に20兆円を超える産業になっており、インバウンド需要は5兆円弱となっている。まずは足元の国内観光から始めることである。これは飲食でも同じで、「おなじみさん」「御近所さん」に再び来店していただくということである。USJの場合は、年間パスポート顧客で、大阪府民がその対象となっているが、これが「出口」戦略の基本であろう。東京でも6月13日から「はとバス」が再開している。初めの1週間は2階建てのオープンバスを使った1時間ほどの東京観光のみだが、徐々に運行コースを増やしていくとのこと。これも「出口」戦略の基本と言えよう。また、中止となった春のセンバツがこの8月1試合のみではあるが甲子園球場で行われることとなった。選手たちにとって嬉しい復活であるが、高校野球フアンのみならず多くの人にとっても、季節遅れの選抜ではあるが甲子園という「大舞台」のドラマはうれしいいつもの「日常」となる。 「三密」の考え方 「移動自粛」からの解放と共に、もう一つの課題が「三密」である。密閉、密集、密接は、経営の基本である「坪効率」という指標の壁となっており、デフレ時代の経営を更に苦しくさせている。その蜜の根幹にあるのが、「ソーシャルディスタンス」である。飛沫感染を防ぐ距離・空間を必要とするとのことだが、まず経営を成立させる経済性・生産性から言えば、客数を倍もしくは1.5倍ほど必要となる。つまり、従来の「考え方」の延長線上では経営は成立しない。そこで生まれた発想が、飲食店の場合店舗を「調理工場」とする経営で、テイクアウトやチルド化したり、冷凍化してネットを活用とした販売である。既に多くの飲食店はこうした方法を取り始めている。但し、こうした手法を取り得ない大型飲食店舗、例えばファミリーレストランの場合は店舗を閉鎖して採算の取れる店舗のみの営業となる。つまり、大型店舗に見合うテイクアウト売り上げが望めないという理由からである。その象徴がジョイフルで先日200店舗閉鎖という報道があったが、こうした背景からであろう。但し、ガストのように以前からテイクアウトや宅配を積極的に実践しており、売り上げ減少の歯止めになっていると思われる。また、ファミレスではないが、ドライブスルー業態やテイクアウトを充実させてきた日本マクドナルドなどは逆に大きく売り上げを伸ばし好調である。ちなみに4月のマクドナルド全店の売上高は前年同月比6.7%増。 こうした様々な工夫が採られている中、2つの異なる業態が出てきている。その象徴例が2つの寿司店の生き方である。周知のように寿司は日本を代表する食文化であるが、あの名店「銀座久兵衛」の場合伝統的なお客を前にした「握り」を食べさせるのは店舗内として、少々時間が経っても食べられる巻き寿司やちらし寿司はテイクアウトにするといった2つの作戦をとっている。一方、非接触型業態である回転寿司はどうかというと、結果は同じように苦戦している。ちなみに大手のスシローの4月の売り上げは客単価は増えたものの客数は大きく減少し、既存店売上高は44.4%減、既存店客数54.7%減、既存店客単価22.7%増となった。全店売上高は、42.0%減とのこと。 今、大阪の専門家会議ではこうした接触における「密」と言う概念、「ソーシャルデスタンス」の視点ではなく、問題なのは具体的な密なる感染接点であり、この防疫こそが重要であるという。極論を言えば、一般的な密なる空間・距離を問題にするのではなく、接触するウイルスとの接点、例えば手洗いの励行や飛沫を飛ばさないマスク着用さえすれば十分。つまり、ソーシャルデスタンスなどではなく、感染の接点にこそ注意すべきであるという研究結果が報告されている。ある意味、季節性インフルエンザの自衛と同じように手洗い・マスク、うがいといった習慣と同じであるという説である。こうした仮説が多くの事例で検証されるのであれば、これまで言われてきた2mという「距離を置く」という自衛は過剰であり、不要になるということである。感染者数の比較は意味がない 更にいうならば、日本全国にあって特に東京における感染者数が極端に多くなっている。今までのPCR検査対象を濃厚接触者から広げ症状のない人を含めたので感染者数が増えたとの説明であるが、その詳細についてはほとんど報道されていない。その象徴例として、夜の街、新宿、歌舞伎町、ホストクラブ、・・・・・こうした陽性者の説明がなされているが、PCR検査数増加についての報道は極めて少ない。おそらく唯一と思うが、読売新聞では次のように報道されている。『東京都新宿区は、区内在住の新型コロナウイルス感染者を対象に、1人当たり10万円の見舞金を支給する方針を固めた。感染すれば本人だけでなく家族も就労などが制限されるため、生活を支援したい考えだ。区は保健所の調査で、感染者本人と濃厚接触者の家族が、仕事を休まざるを得なくなって生活が困窮している状況を把握。収入が減って苦しくなった家計を助けることにした。」つまり、狙いはホストクラブなど働く人の検査を促進するための「協力金」の意味であり、ある時点から新宿の感染者が増加した背景の一因となっている。感染者の多くはこうした街から出ていることは既に2ヶ月前からわかっていたことである。緊急事態宣言解除以降、ほとんどの店は営業してきている。すべてが後手後手になってしまった結果である。そして、連日報道されているが、新宿における感染者の急増についてであるが、このように発見された感染者数を足し上げていく「数字」にどれだけの意味があるのか疑問に思う人は多い。つまり、今までの症状が出たり、家族などの濃厚接触者に対する検査数と現在行われている検査数から得られた感染者数とではその「意味」は異なる。つまり、4月ごろの感染者数と現在とでは異なるということである。極論ではあるが、感染者数の推移グラフにはまるで意味をなさないということである。ただし、全国の自治体も同様のことをやっているのか不明ではあるが、すくなくとも東京都の「数字」はそのような内容となっている。そうした意味において、特に感染ピークを迎えた4月との比較は全く意味をなさない。さらに悪いことには、東京アラートという数値を基にした危険信号がない状態にあってはこの「感染者数」が一種のアラート、警戒信号になっているという事実である。目に見えないウイルスの状況は唯一「感染者数」しかないということである。TVメディアを中心としたこの間の報道は、新宿歌舞伎町へと視点を移し、今ではホストクラブやキャバクラ関連の従業員・顧客の感染者へと変わってきた。このホストクラブ関連の関係者への集団PCR検査による感染者数の増加ということだが、これも大阪の事例を持ち出してしまうが、大阪においても梅田のライブハウスにおいてクラスターが発生したが、見事にウイルスを閉じ込めた。その成功には行政(府・市、保健所)による努力によるものだが、何よりも大きかったことはライブハウスのオーナーを説得して店名を公表し、ライブイブハウスの顧客に呼びかけ検査を受けさせてきたことによると聞いている。クラスター発生は3月上旬で、今東京新宿のホストクラブなどで行われている事態を見るといかに遅れているかがわかる。しかも、大阪梅田のライブハウスでは行政の勧めもあって店を閉めライブ配信を行なったとも聞いている。必要なことは、感染のメカニズムをわかりやすく情報公開し協力を得ることしかない。ちなみに抑え込みに成功しつつある米国ニューヨークでは経済再会のために、誰でも気軽にPCR検査が受けられる仕組みが用意されている。住まいや勤務先近くの検査場所はマップ化され多くの人が検査を受けている。勿論、無料である。新宿や池袋とは大きな違いである。オープンエアはこれからも続く既に生活者の知恵から「オープンエア」を求める行動が多く見られるようになった。東京で言うならば、公園の散歩はもとより、河川敷でのジョギングやゴルフ練習、テニス練習、あるいはキャンピング、登山やハイキングなども復活するであろう。実は緊急事態宣言が解除されて一番の賑わいを見せたのが吉祥寺の街であった。最近はおしゃれなカフェも増え、今までのハモニカ横丁のレトロ観光からさらに進化してきている。こうした背景もあるが、なんと言っても近くには写真の井の頭公園やミニ動物園など散策するには格好の町であると多くの人には映ったことと思う。都市空間にあって、閉じられた街ではなく、まさに街全体がオープンエアとなっていると言うことだ。こうした傾向は個店の作り方にも採用されるであろう。前々回の未来塾「老朽化から学ぶ」でも書いたが、横浜桜木町ぴおシティの立ち飲み飲食街や大阪駅前ビルの地下飲食街でも取り上げたが、出入り自由な感覚、道草を楽しむにはこうした場の作り方はコロナ共生時代にはふさわしいものである。また、コロナ禍が収束した後もこうしたオープンエアな店づくりは継続していく。移動のところで少し触れたが、今年の夏の移動・旅行についてはこうした自然を求めた旅行が中心となる。既に予約が入り始めているようだが、交通機関も従来通りのダイヤ編成へとシフトした。もてなし側もこの「自然」をたっぷり味わってもらうメニューが必要となっている。巣ごもり生活で一番失ってしまったのがこの自然で、しかもその季節の「旬」である。夏の風物詩と言えば花火大会と夏祭りであるが、恐らく大規模イベントということで実施されないであろう。ただ、そうしたイベントではない夏らしさがメニューを飾ることとなる。インバウンドバブルでオーバーツーリズムとなっていた京都も日本人観光客は戻ってくる。どんな「京都」でもてなすか、少し前に書いたように原点に立ち返った京都観光で、今までの「なんちゃって京都」ではなく、本物の京都、いわゆる名所観光地のそれではない京都散策を目指すべきであると思う。日本観光の原点は京都にあると考えているのだが、私の友人がブログで紹介しているが、京都の町筋に残っているかすかな史跡を辿り思いを巡らす歴史散歩、そんな「大人の修学旅行」「大人の京都」も原点の一つであると思う。また、唯一生活の中に「四季」が残っているのも京都であり、祇園祭の山鉾巡行は中止となったが、せめてハモなどの旬でもてなして欲しいものである。観光という移動を不安視するTV番組のコメンテーターもいるが、今回セルフダウンを選んだほとんどの生活者はこの観光についても賢明な判断をするであろう。セルフダウンからセルフフリーである。勿論、慎重に楽しみを求めた行動となる。他県をまたがる移動が解除され一挙に移動が起こり、感染が爆発する恐れがあるといったコメンテーターもいるが、それほど無知な生活者はいない。セルフダウンと同じように自制したセルフフリーである。できること、まずは元気な声社会を定点観測したわけではないが、今やマスク社会となった。アベノマスクに話題が集まった時には既にマスク不足から手作りマスクが盛んに行われはじめていたとブログにも書いた。以降、ロフトなどにはカラフルでお洒落なマスクが数多く販売されるようになった。間違いなく今年のヒット商品になるであろう。このマスク社会はコミュニケーションにも大きく影響を及ぼしている。その影響とは「表情」が見えないことにある。子育てをした経験のあるお母さんならよく知っていることだが、言葉を理解できない赤ちゃんはお母さんの表情から多くのことを学び受け止めている。この表情コミュニケーションが取りにくくなってしまったということである。特に飲食店などの場合、誰も暗い、陰気な店など利用したくはない。コロナ禍であれば尚更である。前回大阪の心意気、「負けへんで」をキャッチフレーズにした道頓堀の商店のように店頭でその「意気込み」を語ることである。現在は「負けへんで」の次なるキャンペーン「やったるで」が始まっている。店側が元気であることが、何よりも大切である。亡くなられてずいぶん時間が経つが、コラムニスト天野祐吉さんは「ことばの元気学」で”ことばは音だ”と次のように語ってくれていた。『やっぱり,言葉は音ですよね。音を失ったら、言葉は半分死んでしまう、とぼくは思っています。言葉は何万年も昔から音とともにあったわけで、文字が生まれたのは、ほんの昨日のことですから。』物理的な「密」ではない顧客との密こそが求められている。顧客の間で言葉でさわりあう、つながりあう、という訳である。言葉も触覚のうちであると私も思うが、さわりあう、つながりあう、という基本の感覚が今一番求められていると思う。言葉でさわりあうとは、例えばあいさつであり、対話ということになる。互いにさわりあう「あいさつ」とはどういうことであるか。顧客は今回のコロナ禍について十分理解している。そして、こころの片隅に少しの不安を持って来店する。その時大切なことは衛生管理の見える化は勿論であるが、その不安をひとときなくしてくれるのは店側の元気な声と明るい笑顔である。セルフフリーという生活様式「セルフフリー」という言葉を使ったが、これはセルフダウンの延長線上にある言葉として私が作った造語である。その意味するところは「自粛」という鎖を解き放つ、今までのように心を自由に解き放つことがコロナ禍における心理市場の原則となる。一部の感染症の専門家は主にTVメディアを通じ、一挙に行動するとまた感染の第二波が起こると発言し、今なお「不安」を煽る発言を行なっている。しかし、サッカーのキングカズが「セルフダウン」を選ぶと発言し、日本人の戦後民主主義のもとで培われてきた国民性を信じるとした「成果」、感染を押し留め致死率も低くさせてきた「一人」であるとの自覚は多くの日本人が共有していることである。また、今回政府が行った抗体検査も欧米のそれと比較しても極めて低く、感染しにくい「何か」、iPS細胞研究所の山中教授が提言しているようにファクターXの解明こそが「出口」戦略、第二波を防ぐ道であることの理解も進んでいる。勿論、こうした中でのセルフフリーである。他府県にまたがる移動の規制解除が始まったが、十分自制された行動をとっている。今までできなかった実家の帰省であったり、延び延びになっていたビジネスであったり、一人ひとり賢明な行動となっていると推測される。自らの壁を少しづつ開け放つ「セルフフリー」へと向かったということである。公共交通機関の予約も少しづつ回復し、観光地であれば旅館・ホテルの予約も同様となっている。また、JR東日本は、新型コロナウイルスの影響で減少する需要の回復に向け、東北や北陸など全方面で運賃を含む新幹線や在来線特急の料金を半額にするキャンペーンを実施する。期間は8月20日から来年3月31日まで。営業エリアの全域で長期間にわたるキャンペーンを行うとの発表があったが、これもセルフフリーの切符になるであろう。また、卑小なことかもしれないが、自粛警察の次に「マスク警察」が現れている。周りに誰もいなければマスクを外すのは当たり前で、それを咎める風評が出始めている。「正しく 恐る」、その正しい理解がないままマスクすることが全て良しとした誤った「雰囲気」が社会を覆っている。卑小なことと書いたが、実はリスクコミュニケーションとして大切なことである。勿論、当たり前のことだが満員電車の中では着用した方が良いとは思うが、アレルギーなどから着用できない場合もある。セルフフリーとは地震のことでもあるが、他者を気遣う想像力を働かすことでもある。まだまだ、刷り込まれた「恐怖心理」が残っている社会ということである。未知のウイルスということもあり、その「正しさ」も変化していく。山中伸弥教授が明らかにしてくれているように、根拠ある情報から不確定な情報までコミュニケーションされているが、生活者と一番身近にいる自治体のリーダーには「正しい」リスクコミュニケーションこそが「出口」戦略の重要なキーワードとなっている。信用と信頼があらゆる選択の物差しへ自然災害の多い日本にあって、少なくとの江戸時代以降3つの助け合いが復活の原則となってきた。周知の自助、共助、公助である。自然災害においては人々を助けた最大の助けは「共助」であった。そのわかりやすい事例は2011年の東日本大震災で、周知の「絆」がその時のキーワードであった。勿論、東北地域の残るコミュニティの存在が前提としたものだが、今回のコロナ禍は異なると指摘する専門家もいる。コロナ禍の市民の受け止め方と対応についてはそのコミュニティの「在り方」の違いが大きく作用していることがわかる。その違いは東京と大阪によく出ている。前者が「寄せ集めの都市」であり、後者は「浪速の文化が残る都市」、コミュニティのない都市とまだまだ少しは残る都市の違いということである。人は「未知」に向かい合う時、何かを支えにする。今回の疾病は「共助」ではなく、防疫や治療に奮闘する医療スタッフへの「感謝」であろう。周知のように日本は小子高齢社会の只中にある。コロナ禍にあって議論はされてはいないが、公立病院の統廃合の真っ最中である。勿論、増大する医療費を押し留める厚労行政であるが、今年の初めには厚労省は診療実績が少ない病院の統合を検討しているとの発表があった。その統廃合のリスト化が話題になったが、全国440の公立病院の内、統廃合の対象となったのは約30%と言われている。一方、医療機関とは少し異なるが保健所も統廃合が続いている。全国の保健所は平成4年には852か所あったが、平成の大合併などの行政改革によって統廃合され、今年4月には469か所とほぼ半減している。周知のように保健所を中心とした「帰国者・接触者相談センター」に電話してもなかなか通じない状態が問題となったのはこうした背景からである。ここ1ヶ月ほど医療機関や保健所への尊敬・感謝の気持ちはやっと芽生えてきてはいるが、4月段階ではある意味非難の中心であった。なんとか持ち堪えてきたのは使命感だけであろう。そうした実情に真っ先に支援の手をさしのべたのは大阪府・市であった。それも財政が苦しいことから、例えば府民・市民に防護服が足りないので不要の雨がっぱなどあったら提供してほしい、そんな生活者の力を借りることによって乗り越えてきた。東京都とは大きな違いがこのあたりにもあることがわかる。今、やっと医療機関などに差し入れ弁当を始め支援が広がってきてはいるが、こうした現実を踏まえてのことである。リスクコミュニケーションとは「リスク」を情報公開、つまり正直に正確に伝えることから始めなければならないということである。こうした「支援」は救いを求める中小企業、特に飲食店への支援となって広がってきている。個人向けのいわゆる多様な「ファンド」となった支援である。注目すべきは銀行各社のファンドではなく、一般市民が小口で支援するものが数多く現れてきた。その多くは「前払い方式」が多く、運転資金としての利用が多い。そして、ファンドの返礼には数ヶ月先の「飲食利用」という仕組みが多くなっている。あるいはファンドという形式はとらないが、消費が減少する中で、余剰となった生産物などを今までとは異なる流通によって支援する、いわば生産移動、在庫移動を図る支援の動きも出てきた。ある意味で、コミュニティが無くなった都市における「共助」のあり方の一つとなっている。実はこうした多くの支援の根底には信用・信頼がある。この信用信頼については少し前に書いたブログ、生き延びる知恵、老舗の生き方から学んでほしいと書いたので繰り返さないが、この「信用・信頼」もまた日本固有の商業文化ということだ。(後半へ続く)」
2020.07.17
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ヒット商品応援団日記No767(毎週更新) 2020.5.31,緊急事態宣言を終え、首都圏を含め段階的に社会経済を取り戻す「出口」戦略が始まった。その「出口」には2月から始まったコロナ禍の評価と、それらを踏まえた「次」の日常のあり方を模索し行動することにある。 この4ヶ月間は厚労省・専門家会議からの一方的な「要請」に従ってきたが、それら要請は感染症という疫学からの根拠によるものであった。そして、政府はやっと諮問委員会の組織に拡大し4名の経済学者を有識者として加え「出口」の指針を社会経済からの視点を踏まえたものへと進めてきた。 やっとという感がするのだが、この間観光産業や飲食業、あるいはスポーツや文化イベント業界は経営の悪化は勿論のこと倒産・失業が急速に増加してきている。休業などへの支援事業や給付金の支給など、困窮する事業者や生活者にはほとんどが届いていない状況となっている。こうしたニュースは日々報道されているのでここでは書き留めることはしない。 さて本題に戻るが、これから「出口」とすべき「行動」をどうしたら良いのか、それはとりもなおさずこれから長い付き合いとなるコロナウイルスとの付き合い方、共存のあり方でもあるからだ。そのためには本当に専門家いぎが行ってきた対策で良いのか、それは疫学的な意味だけでなく、生活者が取り入れることのできる物でなければならないということである。 まず専門家会議が予測してきたシュミレーションは尽く外れてきた。その象徴が「このままでは42万人が死ぬ」というまるで予言者のような発言であったが、死者数は700名台で人口比で言うと極めて少ない国となっている。韓国、台湾、タイなども同様で、欧米と比較スレな数十倍どころか数百倍の少なさである。新型コロナウイルスへの対応が遅れ、PCR検査も少ない日本が何故少ないのか逆に世界の注目を集めている状況でもある。ある感染症学者に言わせると、「結果、オーライでいいじゃないか」と。そんな非科学的な考えの感染症学者がいるとは驚きであるが、少なくとも「出口」をどうすべきか、今わかっている「事実」をもとに考えていくことが必要である。 「正しく」理解、そのための第一歩 今、何が正しいのか、新型コロナウイルスの正体は明らかにはなっていない。唯一、国民が疑問に思うことや、専門性の高いことの理解う促すために最新の情報を公開してくれている。専門家会議がよく使う言葉に、実効再生産数がある。人にどれだけ移したか、その感染度合いを図る指標で、1未満であると感染は縮小にあり、1以上であると拡大にあると言うもので世界各国で「出口」を考えるうえで使われる指標である。山中教授は日本の各都市からデータを取り寄せ、自ら計算し、各地域の感染状況を報告してくれている。残念なことに東京はデータが不備であったことからグラフ化されてはいないが、少なくとも国民の多くの理解に応えてくれている。新規感染者の増減で一喜一憂するのではなく、どんな感染状にいるのかを「正しく」理解する第一歩となっている。 こうした理解をしているのだが、最大の疑問は何故日本は各国と異なり、感染者数、死亡者数が少ないのか、その理由についてである。それは「結果オーライ」ではなく、どんな「出口」を目指していくのか、一人ひとりのこれからの行動に直接つながっていくからである。 ちなみに、山中教授はわかっていないことをファクターXと呼び、次のように提示してくれている。 ファクターXの候補 ・感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果 ・マスク着用や毎日の入浴などの高い衛生意識 ・ハグや握手、大声での会話などが少ない生活文化 ・日本人の遺伝的要因 ・BCG接種など、何らかの公衆衛生政策の影響 ・2020年1月までの、何らかのウイルス感染の影響 ・ウイルスの遺伝子変異の影響 極めてわかりやすい疑問点である。本来専門家会議が答えるべきことであるが、やむにやまれず提言してくれていると言うことだろう。山中教授もマスク着用などの生活習慣があることを挙げており、世界に誇れる国民皆保険や高い医療技術も致死率を下げていることは生活実感からもわかる。ちなみにマスクの着用は100年前のスペイン風邪が流行ったときに着用され、以降生活習慣化している。前述の免疫学者多田富雄さんは多くの対談をしているのだが、その中で免疫をわかりやすく解き明かしてくれている。例えば、私たちは海外へ出かけ、その土地の水や食べ物によって下痢など体調を崩したことがあったと思う。勿論、現地の人にとっては何の問題もないのだが、それは図の左にある「自然免疫」が備わっているからであると。今回の新型コロナウイルスについても何らかの自然免疫を促すようなものがあるのではないかと言うことである。実は、こうした自然免疫との関係は明らかにしてはいないが、あの山中教授もそうした何かを「日本の感染拡大が欧米に比べて緩やかなのは、絶対に何か理由があるはずだ」と指摘。その理由をファクターXと呼んでいるが、感染症研究者ではないことから具体的には語っていない。これは勝手な推測であるが、日本人の多くには何らかの遺伝子が備わっているのではないか、つまり自然免疫が備わっていると言う仮説である。何故、こうしたことに言及するのは、医療の世界ではワクチンや治療薬の開発に役立つこととともに、私たちの生活行動のあり方に一つの「視点」を与えてくれるからである。つまり、「出口」への取組につながるからである。注)東京新聞の解説では次のように解説している。「獲得免疫とは、感染した病原体を特異的に見分け、それを記憶することで、同じ病原体に出会った時に効果的に病原体を排除できる仕組みです。適応免疫とも呼ばれます。自然免疫に比べると、応答までにかかる時間は長く、数日かかります。」緊急事態宣言が解除され、全国で「出口」と言う入り口がスタートした専門家会議からコロナとの共存を図るための「生活様式」が提示されている。とにかくあれもこれもと、大きなお世話であるようなことまで事細かなものだが、内容については具体的なものはほとんどない。当たり前のことだが、唯一確認しなければと思うことは「出来る限り接触」を避けることであろう。ソーシャルデイスタンス、あるいは三密・・・・・・そんなこと言われるまでもなく、何十年もの間季節性インフルエンザで経験してきたことを横文字を使ったり、欧米で使われている言葉を持ち込んだりしているだけである。写真を見ていただきたい。緊急事態宣言中の東京の通勤風景である。2mの距離ではないが、少なくとも「密」な距離ではなく、ごく自然に一つの間隔をとって歩いていることがわかる。しかも、なんと全員がマスク着用である。専門家会議に言われるまでもなく、よくわきまえた「大人」の行動をとっている。こうしたことを話すと、休業要請に従わないパチンコ屋とその開店を待つ行列を非難するTVメディアのコメンテーターがいる。できれば一定期間休業して欲しいとは思うが、行列を作る人たちの多くは「ギャンブル依存症」であり、しかも両替換金と言う違法ギャンブルは黙認されたままである。そして、一番重要なことは、パチンコ屋で大きな感染クラスターが発生したかである。そうした事実を踏まえないで非難することは「自粛警察」と何ら変わらない。また、出来る限り外出を控えるようにとのことだが、これも山中教授が公開しているのだが、Googleが行っている世界各国の「移動」データについてもロックダウン(都市封鎖)した都市よりも東京の方が移動は小さい。移動についても十分わきまえた行動を一人ひとりとっていることがわかる。緊急事態宣言下にも、生活者の賢明さが生まれていた「巣ごもり」要請は守りつつ、専門家会議が提示した感染のリスクが大きい「三密」を巧み避ける懸命さは生活の至る所で見せていた。それは理屈と言うより、東京の場合は屋形船であり、大阪の場合はライブハウスのクラスター発生を実感したことによる。そうした「密」の逆は何か、それは「オープンエア」であると誰もが考える。公園の散歩やキャンプ好きであれば家族とのバーベキュー。ジョギング好きであれな、東京の場合多摩川の土手沿いのコストなる。休みの日には河川敷のゴルフ練習場もテニスコートもいっぱいとなる。こうした光景をTV曲のコメンテーターはさも心配そうに「自粛」を勧める。まるで「自粛警察」の応援団の如き有様である。この傾向は街中の飲食店にそのまま取り入れられていく。少し前に大阪梅田や横浜桜木町の「立ち飲み」居酒屋を取り上げたことがあったが、オープンエアの店づくりは今後さらに広がっていく。閉じられた空間ではなく、外の空間と一体のような店づくりである。居酒屋は勿論カフェも食の物販も同様である。ある意味「屋台」感覚の新しい店づくりとなる。冬場はどうするのかと言う横槍が入りそうだが、博多天神の屋台村を参考にすれば良い。既にこうした試みは佐賀県では「ナイトテラス」として一つの実験が始まっている。これは店前の歩道をテラスとして使う許可を与えての実験である。経営の指標が変わってきた飲食店の場合、坪効率と言う判断指標がある。経営者であれば熟知しているものだが、「三密」を避けることから、従来の坪効率の考え方を変える必要が生まれる。顧客同士、あるいはスタッフとの間の距離を広くとることが必要であり、結果客数は従来と比較し半分以下となる。同じ売り上げを目指すとなると客単価を上げることしかない。もしくは賃料を下げてもらうことしかない。出口を目指しすた^としているが、恐怖後遺症は残っており、今までと同じような客数も期待できない。この緊急事態宣言中、多くの飲食店は一斉に「弁当販売」を始めた。ある天ぷら専門店は、お弁当屋さんになってしまったと嘆いていたが、生き延びるためには必要なことであった。勿論、弁当販売だけでは経営は成立しない。例えば、飲食チェーン店の場合、これから先の生き延びる道は「テイクアウト」や「通販」と言う方法で新たな売り上げ・利益を得ていく方法しかない。その事例は、定食チェーンの「大戸屋」における冷凍食品の通販事業である。このように他の流通チャネルとのコラボレーションや提携によって経営を維持させていこうと言う試みである。もう一つの試みが、人件費を削減する試みで、「セルフスタイル」の導入である。人によるサービスを減らし、賃料と共に重い負担となっている人件費を、顧客自身によってサーブしてもらう仕組みへの転換である。例えば、居酒屋であればビールサーバーを用意し顧客自身にやってもらうとか、あるいは調理の多くをロボットで行うなど、人件費を抑えた経営となる。こうした試み以外に専門店としてどう生き延びりかである。先日、東京美々卯6店舗が廃業することを決めたと報道された。少し前には152年の歴史ある歌舞伎座前の弁当店「木挽町辨松」が廃業となった。こうした老舗だけではなく、街中のある中華屋さんも蕎麦屋さんも「文化」はある。特に、寿司店などはどうすべきか悩むところであろう。江戸前寿司の場合、握ってくれる職人に相対して、すぐに食べる、そんな文化である。天ぷら然り、焼き鳥も同じである。顧客は味だけでなく、文化をも楽しんでいるのだ。しかし、そんな文化を少しの間止めることも必要である。職人も顧客も「仕方がない」ものとして理解するであろう。全国で「出口」を目指した活動が始まった。当分の間、「恐怖」の後遺症は残っており、不安は依然として心の片隅にある。散々煽って来たTVメディア、特にワイドショーは次に秋冬の季節インフルエンザが心配であると視点をずらし不安を増幅させている。そうした中、「セルフダウン」という成熟した賢明な市民は浮かれることもなく日常に戻っていく。そもそも「自粛」には明確な物差しなどない。一人ひとりの判断に任せられていると言うこと以外にはない。私のブログには過去のヒット商品をはじめ検索する人が多くなっている。次の「出口」模索していることがひしひしと伝わってくる。1980年代、1990年代初頭のバブル崩壊後、大きな転換期には必ず新たな「何か」によって新たな需要をつくって来た。それは、新しい、面白い、珍しい、「何か」であった。今回の「出口」に必要なことは何かである。まだその次なる「芽」を見ることはできない。しかし、間違いなく「外」からの着眼ではなく、足元にある「内」に眠る何かであろう。1ヶ月前のブログに観光産業、インバウンド事業について少し書いたが、それは「バブル」であったと言う認識からのスタートであると。それは単なる原点回帰としての「何か」ではなく、もう少し奥にある「何か」である。見過ごされて来た何か、当たり前であった何か、小さすぎて大事に思ってこなかった何か、つまり、日常の中に埋もれさせて来たものを今一度表へとテーマにしてみると言うことである。インバウンド的な見方に立てば、日本人がある意味「無視」して来たことに、多くの海外の人たちが「クールジャパン」としてアニメやコミックが世界の表舞台に上がったように。それは地方の観光地にも必ずあると私は確信している。今は入国制限されているが、次第にコロナ禍は鎮静化していくであろう。いつになるかそれはわからない。しかし、生き延びれた時、その「何か」は多くの人を魅了するはずである。観光は文字通り平和産業である。その最大の障害が実は「不安」であり「恐怖心」である。いつまで恐怖が残るかそれはわからない。3.11東日本大震災の時もそうであったが、その後の「余震」によって恐怖心が蘇って来た。今回のコロナ禍も新たな感染者報道によって同様の恐怖心が蘇るであろう。そして、原発事故によってもたらされた放射能汚染。汚染された福島は「怖い」という風評が至る所で起こったことがあった。これもまた同じようにコロナ汚染の巣であるかのように東京人を見る差別があり、しかもコロナと最前線で戦っている「病院」があたかも感染の巣であるかのような根拠のない「うわさ」が流布されている。結果、地域住民の病院利用者が激減し、病院経営が苦しくなっていると日本医師会はその窮状を訴えている。これも「恐怖心」からである。出口を前にして「正しく 恐る」という原点に立ち返ることが、今問われていると言うことだ。
2020.05.31
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ヒット商品応援団日記No765(毎週更新) 2020.5.10.『虎列刺退治』(東京都公文書館所蔵)。「虎列刺の奇薬」として、梅酢の効果を紹介している コロナ禍から学ぶ(1)「正しく、恐る」 その原点に立ち返るファクターXと言う仮説、 恐怖後遺症の行方。4月7日緊急事態宣言が発令され、街も、生活も、働き方も一変した。その根幹にあるのは「移動」の制限であり、それはウイルスは人によって運ばれるということからであった。既に、2月11日のブログで「移動抑制が消費を直接低下させる 」というテーマで、しかも昨年12月からの季節性インフルエンザの流行は予測を大きく下回る感染であることが報告されているとも。これは1月後半からの新型コロナウイルスに対する自己防衛によるところが大きいと分析する医師も多いと書いた。つまり、海外から持ち込まれるウイルスの防疫強化以前に既に生活者の「自己防衛」は1月末から始まっているという指摘であった。そして、実はのちにわかったことだが、感染のピーク4月1日はちょうど新型コロナウイルスによって急死した志村けんさんと同じ時期であった。その間感染の拡大に対し、政府も専門家会議も感染対策は遅れに遅れたと指摘されてもやむおえないであろう。既に1月23日には中国の武漢は封鎖されていた。また、最近の研究などから専門家会議によって行われた多くのシュミレーション、「このままであれば42万人が死亡する」といった恫喝・脅しとも取れる発表に対し、その数理モデル計算式が誤りではないかとの他の専門家からの指摘も出てきた。現実はシュミレーションとは大きく異なり、感染者数も死亡者数もある意味世界でも不思議であると注目されているほど少ない。一時期、専門家会議メンバーは「米国NYのようになる、地獄になる」と発言し恐怖を増幅させていたが、これもそんな現実は起こっていないことは周知の通りである。この専門家会議のシュミレーションを鵜呑みにした感染症の大学教授が盛んにTV番組で煽り立てる発言をしていたが、現実は全く異なる展開となっている。専門家会議や鵜呑みにした某大学教授の責任を問う声もあるが、未来塾はその任にはない。それではその「現実」はどうであるのか、緊急事態宣言後1ヶ月半ほど経ち5月25日全面解除となった。その後新たに分かったことが数多く出てきている。例えば、マスクの効用についてWHOは否定的であったが、その後の動物実験ではうつさないだけでなくうつされない効果が得られたとの研究結果も出てきた。今回は専門家会議が提言した新型コロナとの付き合い方、その生活様式をどのように受け止めたら良いのかを考えてみた。公衆衛生の始まり ところで少し前に「不確かな時代の不安」をテーマにブログを書いたことがあった。それは江戸時代の台風・水害などの災害対策についてであったが、次のようにも書いた。 『江戸時代における最大の不安は疾病や病気であった。周知のように最初に隅田川の川開きに打ち上げられた花火は京保18年が最初であった。この年の前年には100万人もの餓死者が出るほどの大凶作で、しかも江戸市内でころり(コレラ)が流行し多くの死者が出た年であった。八代将軍吉宗は多くの死者の魂を供養するために水神祭が開かれ、その時に打ち上げられた花火が今日まで続いている。弔いの花火であったが、ひと時華やかな打ち上げ花火を観て不安を打ち消すというこれも江戸の知恵であった。』 このコレラが日本にもたらされたのは文政5(1822)年で中国(清)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられている。しかし、この時には江戸には本格的な感染拡大はしなかったと言われている。当時の花火大会も一種の「お祓い」の意味もあり、それまでの疫病に対しては全て祈禱によって行われていた。このコレラが猛威をふるったのは江戸から明治へと移行する開国の時期であった。安政5(1858)年。感染源はペリー艦隊に属していた米国艦船ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出たと言われている。そして、江戸の死者数は約10万人とも、28万人や30万人に及んだとも言われている。 日本に衛生観念を植え付けたコレラ 実はコレラの流行まで、日本国内に医学的な感染症対策はほとんどなかった。加持祈禱(かじきとう)に頼り、疫病退散のお札を戸口に貼って家に閉じこもったり、病気を追い払おうと太鼓や鐘を打ち鳴らしたりしたという非科学的なものであった。例えば、今も続いているのが、おばあちゃんの聖地、巣鴨とげぬき地蔵尊のある高岩寺は本尊の姿を刷った御影(おみかげ)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどして、病気平癒に効験があるとされている。医師緒方洪庵や長崎のオランダ医師ポンペの治療法が一定の効果をみせたこともあり、江戸幕府は文久2年に洋書調所に命じて『疫毒預防説(えきどくよぼうせつ)』を刊行させている。オランダ医師のフロインコプスが記した『衛生全書』の抄訳本で、「身体と衣服を清潔に保つ」「室内の空気循環をよくする」「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨している。今日の感染症対策にも通じるものであることがわかる。幕末の1858(安政5)年、安政の五カ国条約が調印されたこの年にコレラの乱が起きる。海外からもたらされた病であることから、当時の攘夷思想に拍車をかけたといえよう。また、コレラは感染すると、激しい嘔吐、下痢が突然始まり、全身痙攣をきたす病であった。瞬 く間に死に至るため、幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺」「虎狼痢」「暴瀉 病 」と よばれた。 清潔な町江戸はエコシステムによってつくられた 120万人という世界で類を見ない都市であった江戸では、その高度技術の象徴として流れる上水道を取り上げたことがあったが、下水道もまた衛生管理されたものであった。例えば、トイレの糞尿は河川に流すことなど禁止されており、定期的に糞尿は汲み取られ近隣の田畑の肥料として使われていた。それら糞尿は農家に売られ町の財源となり道路の補修などに使われていた。他にもゴミ捨ては禁止され汚水をつくらない対策が講じられていた。これが江戸社会が極めて優れたエコシステムであることの一つの例となっている。ちなみに、ゴミの不法投棄を一掃するため、明暦元年(1655年)に「全てのゴミは隅田川の河口の永代島(えいたいじま)に捨てる」というルールを発布している。面白いことに、江戸の街は東京湾の埋め立てによってつくられたものだが、ゴミの分別もきちんとなされ、埋め立て用のゴミ、燃料用のゴミ、堆肥用のゴミ、に分けられゴミひとつない清潔な町が造られていた。当時の大都市ロンドンなどと比較した資料を見てもわかるように、糞尿に塗れたロンドンとは大違いであった。銭湯という清潔習慣 日本は火山列島であり、至る所で温泉があり、日本書紀にも記述されている。その効用は泉質により多様であるが、治療をはじめ広く健康のための入浴が行われてきた。江戸時代には市内で広く銭湯として日常のライフスタイルの重要な一つとなっていた。上水道の水は飲料の他に銭湯にも使われていた。当時の江戸の町は土埃の多い町であったことから、仕事前に朝風呂、仕事終わりに夕風呂と少なくとも2回は入ったようで、1日に何回も銭湯を使っていた。入浴料金は大人8文(約120円)、子ども6文(約90円)とそば1杯の値段の半分とリーズナブルな料金であった。さらにお風呂好きにはうれしいことに「羽書(はがき)」というフリーパスもあり、1ヶ月148文(約2200円)で何度でも入浴することができる仕組みさえ出来ていた。江戸市民のライフスタイル上、欠かせない習慣となり、町も身体も清潔なものとなっていた。 ところで、感染症の歴史であるが、明治17(1884)年、結核菌の発見でも知られるドイツのコッホによって、コレラがコレラ菌による伝染病であることが突き止められ、その後、パンデミックなどの大流行が見られることはなくなりました。ペニシリンをはじめとした治療薬が次々と発見され、原因や対処法が判明してきた現在でも、コレラは全滅したわけではない。人類はウイルスや細菌との戦いの歴史だと言われてきたが、ウイルスや細菌と共存した歴史でもあるということである。 昭和から平成の時代へ 江戸時代からいきなり昭和の時代に移ってしまうが、戦後の荒廃した時代の生活は「雑菌」と「ウイルス」の中の生活、今で言うところの雑菌やウイルスとの「共生」であった。食べ物すらも衛生的とは言えない環境にあって、生きるとはそうした共生そのものであった。今、テーマとなっている「免疫」をテーマとした研究者、いや私にとっては作家である多田富雄さんの著書「免疫の意味論」を読んだ記憶がある。覚えているのは免疫の科学的知見ではなく、生活するうえで”ああそんなことなのか”と経験に即した意味論であった。戦後の不潔な環境ではそれなりに打ち勝つために免疫が自然と高まるという理解であった。というのも1990年代当時問題となっていた過剰な「清潔」「無菌社会」に対する一つの警鐘となった記憶であった。清潔の考えが極端に振れた社会で、同じように「健康」がダイエットにとってかわり、必要カロリーに満たないという現象が起きた。共に、豊かであるが故の奇妙な変換が起きた時代であった。そうした変換のキーワードは何かといえば、「過剰」ということになる。こうした豊かさを背景に、一部生活者はタクシーがわりの救急車を使ったり、病院の待合室がサロン化するといった現象も見られるようになる。こうした意識は今回の新型コロナウイルスのような「未知」に対しても過剰に反応することとなる。その過剰さの先が「恐怖」である。 そして、一方では2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)、09年には新型インフルエンザが流行したが、パンデミックのような大きな流行が起こらなかったことから、リスク対策が行われず今回の新型コロナウイルスを迎えることになる。特に、受け入れる病院、あるいは保健所もそうであるが、行革の対象となり、医療現場は削減したまま今回のコロナ禍を迎えることとなった。医療危機が叫ばれているが、その背景はこうした経緯がある。ただ問題なのは行革は単なる施設や人員の削減だけではなく、ITなどを駆使したシステムでなくてはならない。しかし、特別給付金のマイナンバーカードによる給付に見られたように、ITによるシステムがいかに遅れているかが露呈した。自宅での就労、リモートワークはまだまだ一部であり、学校の休校に伴うオンライン授業も同様である。それは大学においても同様で授業を始めた途端サーバーがダウンしてしまう、そんなITとは名ばかりの実情が次々と社会の面へと出てきた。新型コロナウイルスの迎え方ところで1月末にはいち早く生活者は認識いていたと書いた。その背景であるが、周知のように季節インフルエンザは例年より早く昨年11月ごろから流行り始めていた。昨年の12月にはマスク姿の人たちが街中に多く見られるようになった。しかも、グラフを見てもわかるように、季節インフルエンザの罹患者は例年より極めて少なくなっている。(東京都)赤い線が今年の罹患者のグラフである。多くの人は今年のインフルエンザは軽かったなというのが印象であったと思う。ちなみに全国ののインフル患者数は昨年は1210万人であったのに対し、今年は729万人と減少している。何故、季節性インフルエンザは減少したのか。季節性インフルエンザに代わるように新型コロナウイルスの感染が始まるのだが、その際、生活者のマスク着用や手洗い・うがいといった日常の感染対策は新型コロナウイルス感染を防御し得たのかどうか、実はこうした疑問点について専門家会議も明確な答えられてはいない。極論を言えば、「疫学」という専門研究の世界だけの知見であって、生活者のライフスタイルをどう変えて行ったら良いのかという視点が決定的に欠けている。つまり、専門家会議の提案する「生活様式」が素直に受け止められないのはこうしたことに起因している。こうした季節性インフルエンザの実態を踏まえ、多くの感染症研究者は単なる季節性インフルエンザの延長線上で新型コロナウイルスを受け止めていた。しかし、冒頭に書いたように既に中国の感染実態に触れ、勿論一部の研究者や医師の間では感染対策をどうすべきかと言った声は1月には上がっていた。コロナの正体が少しづつわかってきた新型コロナウイルスの対策を始めその情報のほとんどは政府専門家会議(現在は諮問委員会)のメンバーによるものであった。しかし、海外の情報を始め感染症以外の科学者からの発言が多く見られるようになった。そうした発言の中で、新型コロナウイルスと戦っている現場の医療従事者を始め、多くの国民の支持を得てきたのがあのiPS細胞研究所の山中伸弥教授である。ノーベル賞の受賞研究者ではあるが、多くの国民にとっては難病患者のために努力し続けている誠実で真摯な人物であると理解している。情報の時代、つまり過剰な新型コロナウイルス情報に対し、科学者の目で冷静に「今」わかっている新型コロナウイルスの正体を「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」したうえで、「5つの提言」をHPを通じて投げかけてくれている。国民が求めていることは新型コロナウイルスとは何かという本質である山中伸弥教授の発言によって、新型コロナウイルスの姿が少しづつわかってきた。これは政府専門家会議による広報では得られない多面的、多様な情報である。それは本来「正しく、恐る」という理解であるはずの理解を促すべきところを、「恐怖」によって移動の自粛を行う戦略を採ったことへの疑義であると私は受け止めている。山中教授は異なるコロナ理解、つまり冷静に理性的に確認できる「事実」を「正しく」伝えることが重要で、その姿勢が多くの国民の理解を得つつある。専門家会議によるコロナ対策、クラスターという小集団対策、ある意味もぐらたたき戦略は、一方でコロナの「恐怖」を提示することによってある時までは成立してきた。それはもぐらたたきが可能であった時期までである。既に3月に入り欧米に観光で出かけた観光客が帰国した頃から、主に都市における市中感染が始まっている。これは専門家会議も認めていることだが、PCR検査体制を抑制したこともあり、この感染の防疫の対策を持ち得なかった。残ったのは「恐怖」だけであった。それも何による恐怖なのかという具体性のない、漠たる恐怖であった。現段階で分かったこと、その証拠が正しい可能性が高いかどうかを冷静に整理してくれている。ここには理性を持って新型コロナウイルスに向き合う態度がある。マスメディア、特に「刺激」ばかりを追い求めてきたTVメディアの態度とは真逆である。こうした「証拠」に基づいた提言こそが必要であり、恐怖による行動変容は一時期的に表面的な自粛が行われても、同時に人と人との間に憎しみや争いを生むことになる。恐怖による行動変容ところで社会心理学を持ち出すまでもなく、行動の変容を促すには恐怖と強制が効果的であると言われている。そして、恐怖は憎悪を産み、分断・差別を促す。憎むべきウイルスは次第にルールを逸脱する人間へと変わっていく。少し前になるが、ゼミやサークルの懇親会で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生した京都産業大の学生に対し、抗議や意見の電話やメールが数百件寄せられているとの報道があった。抗議どころかあるTV番組のコメンテーターはウイルスを撒き散らした学生にはまともな治療を受けさせるなと暴言を吐く始末である。あるいは同じ番組であるが、今度は外出の自粛要請の休日に禁止されている区域に潮干狩りをしているとの報道を踏まえてと思うが、感染症学の教授が「二週間後はニューヨークになってる。地獄になってる」と発言したのには驚きを越えてこの人物は大学教授なのか、教育者としての知性・人間性を疑ってしまった。ニューヨークのようになってはならないと発言するのであればわかるが、それにしても「地獄」などといった言葉は間違っても使ってはならない。つまり、恐怖心をただ煽っただけで、しかも専門分野の教授の発言であるからだ、「自粛」を促すには恐怖と強制が常套手段であると書いたが、「2週間後にはニュ-ヨークになる」「地獄になってる」といった恐怖を煽るようなTVコメンテーターの発言も現実・事実がそのように推移しなくなったことから、その刺激的な発言もトーンダウンしてきた。一方私権を制限することが法的にもできない日本においては「強制」できない現実から「自粛警察」といったキーワードが流行る嫌な現象が生まれている。『自粛警察』とは、例えばクラスター感染のシンボリックな場所・施設となったライブハウスへの中傷で、東京高円寺の街では休業中の店舗などに休業を促す張り紙をしたり、張り紙に文言を書き込んだりすることを指すとされる。他にも居酒屋など休業要請を指定されてはいない店舗への嫌がらせも出てくる状況が生まれている。私に言わせれば、「正義」の仮面をかぶった一種の嫌がらせであるが、憎むべき敵であるコロナウイルスが休業していない店舗にすり替えられての行為が至る所で見られるようになった。「恐怖」はこうした中傷をはじめとした差別を連れてきている。その象徴が『自粛警察』である。また、カラオケについてもあたかも密=クラスターの発生源であるかのような発言をするコメンテーターもいて、勝手なイメージが一人歩きする。ロックダウンではなく、セルフダウン東日本大震災の時もそうであったが、「現場」で新しい新型コロナウイルスとの戦いが始まっている。医療現場もそうであるが、マスクや医療用具の製造などメーカーは自主的に動き始めている。助け合いの精神が具体的行動となって社会の表面に出てきたということである。「できること」から始めてみようということである。その良き事例としてあのサッカーのレジェンド「キングカズ」はHP上で「都市封鎖をしなくたって、被害を小さく食い止められた。やはり日本人は素晴らしい」。そう記憶されるように。力を発揮するなら今、そうとらえて僕はできることをする。ロックダウンでなく「セルフ・ダウン」でいくよ、と発信している。そして、「自分たちを信じる。僕たちのモラル、秩序と連帯、日本のアイデンティティーで乗り切ってみせる。そんな見本を示せたらいいね。」とも。恐怖と強制による行動変容ではなく、キングカズが発言しているように、今からできることから始めるということに尽きる。人との接触を80%無くすとは、一律ではなく、一人一人異なっていいじゃないかということである。どんな結果が待っているかはわからない。しかし、それが今の日本を映し出しているということだ。東日本大震災の時に生まれたのが「絆」であった。今回の新型コロナウイルス災害では「連帯」がコミュニティのキーワードとなって欲しいものである。大阪らしい戦い方一足先にコロナ禍からの出口戦略に組み出した大阪は知事を中心に大阪らしい戦い方を見せてくれている。それはコロナ禍が始まって以降大阪が行ってきた対策はどこよりも的確でスピードのあるものであった。中国観光客のバスガイドが感染したことを踏まえ、徹底的にその行動履歴を明らかにして感染拡大を防ぐ行動をとった。その後、周知の和歌山県で起きた院内集団感染拡大に対しても、和歌県の要請を受けてPCR検査を肩代わりする、つまり近隣県とのネットワークも果たしている。更に、ライブハウスで感染クラスターが明らかになったときもライブハウス参加者に呼びかけ、つまりここでも情報公開を行ってきている。更には早い段階で軽症感染者や重症感染者など症状に応じた「トリアージ」の考え方を取り入れ、病院崩壊を防ぐ対策をとってきている。また、病床確保にも動いており、十三にはコロナ専門病院も用意している。・・・・・・・こうした情報公開と準備を踏まえたうえでの「出口」の提示であるということである。大阪府民が支持するのも当然であろう。少なくともPCR検査を含め東京都とは違いデータの収集分析はシステマチックになされている。勿論、他県も同様であるが、東京が正確なデータで「出口」を示せないのに対し、大阪はかなり先へ進んでいる。東京の場合、ロードマップという工程表を提示しているが、4段階のうち、第一段階は進めたとしても、第二段階、第三段階などどんな「目標・数値」が達成できれば次の段階へ進めると言ったことが明確になっていないこと。つまり、数字での判断ではなく、「成り行きまかせ」で、いつになったら「出口」となるのか各業種ごと不明であるという点が大阪と大きな違いとなっている。こうした対策に呼応するように府民も戦っていることがわかる。それは商売の街・大阪の戦い方によく出ている。東京が休業協力金を出すことができるという財政に余裕があるのに対し、大阪の場合余裕はない。当然戦い方も異なり、府民の「協力」しか武器はないということである。その武器は何か、大阪らしさ、大阪のアイデンティティに依拠した戦い方である。そのキャッチフレーズは「負けへんで」。臨時休業の告知だけではつまらない、「どうせ耐えるなら楽しく」やろうじゃないかということだ。きっかけはお好み焼きのチェーン店「千房」で、「負けへんで 絶対ひっくり返したる」と書かれたポスターである。お好み焼きのコテにひっかけた、ウイットのある大阪らしい表現である。今やギンザセブンにも出店している串カツの「だるま」は、ソースの二度ずけ禁止」にかけ「負けへんで コロナの流行は禁止やで」と。そして、「二度ずけ禁止」という大阪文化は少しの間お預けして、かけるボトルソースを用意し、少しでも感染予防になればと工夫が凝らされている。この「負けへんで」死rーずの延長線上に営業再開のポスターが作られている。大阪の友人にお願いしてその大阪らしい「心意気」、商人文化を撮ってもらっtあ一部である。(後半へ続く)
2020.05.29
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ヒット商品応援団日記No765(毎週更新) 2020.5.10.新型コロナウイルスの衝撃がピークを迎えたのは志村けんさんが亡くなった時であった。後に専門家会議が発表した諸データの中に期しくも感染数のピークであったことがわかった。時代の空気は恐怖によって張り詰めたピリピリとしたものであった。緊急事態宣言はその後に発令されたが、外出と休業自粛の中で新型コロナウイルスに向き合うことによってその正体は徐々にわかるようになってきた。つまり、理性を取り戻し、感情ではなく理解しようとし始めたと言うことである。ところでツイッター誕生の時に言われてきたことだが、その「つぶやき」は即時性、同時性にあり、「本音」であると。しかし、同時に感情剥き出しの言葉でもある。周知のように、「ツイート」と呼ばれる280文字(日本語、中国語、韓国語は全角140文字)以内のメッセージや画像、動画、URLを投稿できるパーソナルメディアである。その効用は大いに認めるものであるが、同時にその限界もまたある。生活者は明確には意識化されてはいないが、そのメッセージの短さに反応するだけになってしまう。つまり、次第に感情任せになり、深く考える理性判断へと向かうことが少なくなってしまった。その答えが「いいね」の一言に象徴される。どんな「いいね」なのか、「悪いね」はないのか、あるいは「どちらでもない」こころの揺れ動きは表現できなくなっていく。実は、そうした心理の環境の中で、「空気」は作られていく。若い頃、広告というコミュニケーションを通じて目標とする「イメージ像」を創ることに携わってきた経験がある。外資系企業ということから多くのコミュニケーションの方法を学んだ。その一つがリーチ(到達の広がり)とフリークエンシー(回数・頻度)」というメディアの基本活用について出会った。単純化していうと、リーチという伝えたい視聴者の広がりとフリークエンシーという視聴頻度の関係で、どんなメッセージをどの視聴者層にどの程度の頻度で伝えれば、どんな効果(消費行動)につながるかという理論である。現在は大手広告会社によって、より効率の良い効果的なメディアミックスについて考えられている。横道に逸れてしまったが、こうしたメッセージを送る基本には「頻度」という回数多く送ることで、俗な言葉で言えば「刷り込み」である。そして、このツイッターの時代はスピードが最大特徴であるが、反面深い理解を求めるメディアではない。それは「反応」であり、感情のコミュニケーションということになる。繰り返し断片的な映像やメッセージによって恐怖は深刻化していく。今回のコロナ禍の場合、ウイルスの「恐怖」が徹底的にTVメディアを中心に刷り込みが行われてきた。その結果については前回のブログで「自粛警察」に触れ、差別や偏見が広く蔓延し、一つの空気感を創ることへと繋がってきた。その象徴は専門家会議・西浦教授による「このままだと42万人が死ぬことになる」発言であった。繰り返し、その功罪については書くことはしないが、このコロナ恐怖は次第に他の恐怖へと、抽象的な恐怖から身近な恐怖へと変化してきた。それは第一段階の小中高の一斉休校であり、社会・経済への影響がどれだけ甚大なものであるか実感することとなる。次に4月7日の緊急事態宣言による外出自粛という移動制限と休業要請であった。結果、家計はもとより対象となった飲食店をはじめ不安を通り越した恐怖に近い心理へと変化してきた。そうした恐怖を煽るような無自覚な報道から、次第に客観的俯瞰的なものへと変化してきた、その変化の中心には東日本大震災の時と同じように「現場」で苦労している医療スタッフへの感謝と支援があることは言うまでもない。そして、この心理変化に大きな役割を果たしてくれたのが何回か取り上げてきたあのiPS細胞研究所の山中教授であった。「正しく恐れる」という感染症の基本認識が、その「正しく」が実は極めておかしな現実にはそぐわない結果になっていたことがわかってきたからだ。前回のブログで専門家会議がやっと公開したデータによれば感染のピークは緊急事態宣言の前であったことなど予測と現実がまるで異なるものであることがわかった。そして、感染の実態理解に不可欠である実効再生産数(1人の感染者が他者にどれだけうつしたか)の数値が緊急事態宣言の根拠にはなっていないことなど何のための専門家会議であるが極めて疑念を抱かせるものであった。そうした誰もが疑念に思えるテーマを実は山中教授はそのHPで試算してくれている。勿論、その計算式を明確に公開し、試算していることは言うまでもない。「問題提起のために、専門外ではありますがあえて計算してみました。」とあるが、大阪をはじめ京都などの指標となる数値が計算されている。また、もう一つ重要なことがわかりやすく説明されている。それは「The Hammer and the Dance」についてで、日本のコロナ対策の基本方針としていることを西村大臣から発表されているが、勿論専門家会議の主要メンバーである西浦教授の考えであることは言うまでもない。おそらくこの理論に沿って緊急事態宣言の解除、「出口戦略」が作られるものと思う。これはロックダウン(都市封鎖)支持派のテキストとして広く読まれているが、西浦モデルはこの考えに沿ったものだ。ロックダウンという言葉を使わないで、三密を踏まえて「接触率80%減」を目指すという目標設定をしたというわけだ。しかし、実はこの理論とは全く異なる「現実・結果」が日本では進んでいる。つまり、「ハンマーなしでダンス」を目指すということである。こうした西浦モデルの背景は山中教授によって丸裸にされたと私は理解する。何回も言うが、専門家会議の立てた理論は現実によって破綻宣告されており、そうしたことが徐々に広がりつつある。TVメディアも5月3日TBSの「サンデーモーニング」ではレギュラーコメンテーターである寺島実郎氏は西浦教授の発言を指して「恫喝するような対策は許さない」と語気を強めてコメントしていた。あるいはTBSの午後の帯番組「Nスタ」でもゲストコメンテーターである中部大学教授細川昌彦氏も専門家会議のクラスター戦略に沿ったPCR検査の絞り込みよって生まれた多くの問題に対し、更には正確なデータ不備について、その象徴である東京都の実態について厳しく指摘をしていた。こうした「空気」を更に変えたのが大阪府知事による「出口戦略」の発表であろう。これはわかりやすい数値目標、つまり府民にとって努力可能なものとして提示したものである。大阪の場合、遡って見てもわかるように、中国観光客のバスガイドが感染したことを踏まえ、徹底的にその行動履歴を明らかにして感染拡大を防ぐ行動をとった。その後周知の和歌山県で起きた院内集団感染感染拡大に対しても、和歌県の要請を受けてPCR検査を肩代わりする、つまり近隣県とのネットワークも果たしている。更に、ライブハウスで感染クラスターが明らかになったときもライブハウス参加者に呼びかけ、つまりここでも情報公開を行ってきている。更には早い段階で病床確保にも動いており、十三にはコロナ専門病院も用意している。・・・・・・・こうした情報公開と準備を踏まえたうえでの「出口」の提示であるということである。大阪府民が支持するのも当然であろう。少なくともPCR検査を含め東京都とは違いデータの収集分析はシステマチックになされている。勿論、他県も同様であるが、東京が正確なデータで「出口」を示せないのに対し、大阪はかなり先へ進んでいる。こうした「出口」を示す大阪に対し、東京都はロードマップによって感染収束の道筋を示すと記者会見で都知事は説明している。何故ロードマップなのか、それはPCR検査の収集管理が統一されたシステムによって行われてこなかったことによる。例えば、新規の検査者と既存感染者の2回目3回目の検査とが混在してしまっていたり、検査結果と検査日の日数のズレなどがあったり、・・・・・・・・保健所の職員の人たちも苦労しているのだが、今なお手書き情報で収集しているといった超アナログな状態であると聞いている。こうした情報収集の結果から不確かなものとなり、例えば「陽性率」のような重要な指標が出せないでいる状態である。都知事は大阪と比較し東京の規模は大きいからと説明するが、東京都の人口は1395万人、大阪府は882万人である。何倍もの規模ではない。東京都民は新規感染者数のグラフを示されるだけで、感染がどのように拡大しているのか、それとも収束に向かっているのか一つの指標である実効再生産数の数値などはタイムリーに示されないままである。これでは「出口」を数値で提示し、目標とすることはできないということである。大阪は財政に余裕がなく府民の協力を得るしかなく、東京は財政的に余力があり休業補償などへの協力金が用意できることからと、その違いを説明する専門家もいる。こうした違いの象徴ではないが、大阪府が新型コロナウイルスと向き合う医療現場のスタッフを支援する目的で創設した基金への寄付額が10億円を突破したと報じられている。これは入院患者の治療にあたる医師など医療従事者に一律20万円を支給するとのこと。府民・都民の「出口」の受け止め方であるが、やはりリーダーシップの違いにあるとするのが常識であろう。さて、出口戦略というからには当然「入り口」があったはずである。勿論入り口は緊急事態宣言である。大きくは外出自粛という移動制限であり、その移動先である対象となる業種の休業要請となる。この宣言が出されたのは1ヶ月少し前の4月7日であった。その入り口の根拠となるのが、周知の三密を避ける行動、「接触80%減」という西浦モデルであった。しかし、宣言を行う前に感染のピークとなっており、感染力となる実効再生産数も既に東京は0.5、大阪も0.7と感染収束に向かっている数値であった。何故、緊急事態宣言なのか。宣言など出す必要があったのかという疑義である。特に実効再生産数については専門家会議からはその数式も素データも提示されていないが、前述の通り、山中伸弥教授がすでに試算し公開してくれている。大阪の吉村知事もこの実効再生産数の数値を目標としたかったようだが、そのデータ根拠が既に発表されている政府の数値と異なることもあって出口戦略に組み込まなかったようだ。最終的には政府の責任となるが、その根拠をつくった専門家会議の責任は極めて大きい。こうした背景から専門家会議主導のコロナ対策から、大阪をはじめとした各地域のリーダーシップによる「出口」への空気が一挙に変わりはじめた。TV局もそうしたことに反応し、面白いことに「2週間後は東京もニューヨークの惨状になる。地獄になる!」と予言した感染症の大学教授も、「脅し・恫喝」から「心配」へと発言のトーンも変化しはじめた。そして、特定警戒都道府県以外の地方はそれまでの規制解除が始まった。そうした動きを加速させたのが、ドイツや韓国など各国の解除である。解除された地域で感染者が拡大するのではないかという心配はあるが、国民は今までもそうであるがこれからもその懸命さで乗り越えるであろう。その象徴としてサッカーのキングカズの提言である「ロックダウンではなく、セルフダウン」を裏付けるようなデータ「Google行動解析」によって確認されている。これも山中教授のHPにて公開してくれている。ロックダウン、都市封鎖をした各国との比較で「日本は欧米よりは緩やかな制限により、最初の危機を乗り越えようとしていることがわかる。」とコメントしている。ここにも「正しく、恐れる」賢明な成熟した日本人がいることが見て取れる。また、5月8日の深夜厚労省は記者会見で、新型コロナウイルスのPCR検査について、新たな相談の目安を公表し、「37度5分以上の発熱が4日以上」とした表記を取りやめたとのこと。数ヶ月前から検査の抑制理由を、医療崩壊につながることからと専門家会議も説明してきたが、ここでもやっと検査方針の転換を認め始めた。指定感染症という法律の付けの問題もあるが、相談窓口に保健所の「帰国者・接触者相談センター」とした制度設計自体が既に破綻してきている。既に、江戸川区においては独自にドライブスルー方式のPCR検査センターが実働に入っている。この厚労省のガイドラインの方針転換についても、それまで「検査の抑制は医療崩壊につながる」とTV番組などでコメントしてきた感染症の大学教授達は今後どんなコメントをするのであろうか。こうした時代の空気を受けて、恐怖から「出口」に向かっていく。大阪における「出口」戦略は、今後起こるであろう第2波、第3波の「入り口」にもつながるものであり、大阪の動きからも学ぶべきあろう。(続く)
2020.05.10
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ヒット商品応援団日記No764(毎週更新) 2020.5.3.ポストコロナ、あるいはコロナ後の世界といったキーワードが政治・経済をはじめ多くの分野で盛んに使われるようになった。いつの時代も予測好きはいるのだが、コロナ禍は現在進行中であり、少なくともまだまだ続く。そして聞こえてくるのは悲鳴しかなく、特に中小零細の飲食業の人たちの悲痛な声ばかりである。そうしたことを踏まえ、前回のブログでは「生き延びる知恵」を働かせて欲しいと書いた。ここ数日やっと日本経済への影響がリーマンショック以上の深刻さであることが報じられてきた。コロナ感染によって失われる命どころではない深刻なさが差し迫ってきていることにマスメディアもやっと気づき始めた。ところで、「自粛」を促すには恐怖と強制が常套手段であると書いたが、「2週間後にはニュークになる」「地獄になってる」といった恐怖を煽るようなTVコメンテーターの発言も事実がそのように推移しなくなったことからその刺激的な発言もトーンダウンしてきた。一方私権を制限することが法的にもできない日本においては「強制」できない現実から「自粛警察」といったキーワードが流行る嫌な現象が生まれている。『自粛警察』とは、例えばクラスター感染のシンボリックな場所・施設となったライブハウスへの中傷で、営業中の店舗などに休業を促す張り紙をしたり、張り紙に文言を書き込んだりすることを指すとされる。他にも居酒屋など休業要請を指定されてはいない店舗への嫌がらせも出てくる状況が生まれている。私に言わせれば、「正義」の仮面をかぶった一種の嫌がらせであるが、憎むべき敵であるコロナウイルスが休業していない店舗にすり替えられての行為が至る所で見られるようになった。「恐怖」はこうした中傷をはじめとした差別を連れてきている。その象徴が『自粛警察』である。こうした社会が生まれないように、新型コロナウイルスに関する「情報」を今確認できる事実に基づき、理性的に抑制的に伝えたいと発言しているあのiPS細胞研究所の山中教授医のHPを敢えてブログに書きリンクまでした。過剰な情報の中で、「何を」信用したら良いのかという直面する課題に対してである。山中教授の最新のHPの中に「新型コロナウィルス感染症対策に関する、研究者・臨床家から報道機関への要望書」が提言されており、その中で米国NYの医療従事者の自死に触れ「このウィルスは未知であるがゆえに、 人々の不安や分断を引き起こし、感染者に対する差別や偏見が高まっています。特に、もっとも感染リスクの高い医療従 事者が、差別や偏見を受けるという残念な状況も起きています。」と報道機関に向けて書かれている。差別や偏見を助長している一つに報道があり、その根底には未知のウイルスであるが故の「不安」と「恐怖」がある。特にTV番組がそうであるのだが、ワイドショーという名前がそうであるように「ショー」という演出を否定はしないが、過剰なまでの表現・発言が多い。先日もテレビ朝日「モーニングショー」で”東京都の新型コロナウイルス感染者数が39人だったことについて、「(すべて)民間(医療機関)の検査の件数。土日は行政機関の(検査をしている)ところが休みになる」と発言したことについて、誤りだったして謝罪した。”多くの生活者が極度に敏感な中での誤りは極めて重大である。自覚なきTV番組はいずれ淘汰されるであろう。ところで来週の5月6日には緊急事態宣言が発令されて1ヶ月になる。専門家会議や日本医師会は延長する可能性を示唆し、安倍首相もその方向で検討に入っていると報じられている。前述のテレビ朝日の誤報道ではないが、緊急事態宣言の発令の時、安倍首相は以下のようにその背景・根拠を記者会見で説明している。「東京都では感染者の累計が1,000人を超えました。足元では5日で2倍になるペースで感染者が増加を続けており、このペースで感染拡大が続けば、2週間後には1万人、1か月後には8万人を超えることとなります。」さて感染の現実はどう推移してきたかである。毎日のように感染者数は報道されてはいるが、東京都の感染者数は4000名ほどで後数日で8万人に至るであろうか。感染症専門家でなくても到底至らないことは自明である。政府は専門家会議の提言を受けての発令であるが、その専門家会議の提言の根拠が示されていないため一定の理解はあっても実感し得るものではない。未知のウイルスであることから予測は当らないとする意見もあるが、現実はまるで異なる結果となっている。何故、そうした誤差とは言い難い結果となっているのかまるで理解しがたい。多くの国民が自ら「自粛」した結果であるという意見もあるが、果たしてそれで納得できるであろうか。少し前のブログにも書いたが、「理屈」では納得はしない。行動の変容を促すには強制と恐怖であると指摘をしてきた。勿論日本は私権を制限することはできないことから「自粛」という方向を打ち出し、私も賛成するものであるが、「恐怖」を根拠とした政策には同意できない。その根拠であるが、専門家会議のメンバーである西浦教授の説明によれば(YouTube)、感染拡大の数理モデルにはドイツにおける感染率、実効再生産数1.7を使ったとのこと。実はこの数理モデルの鍵はこの一人の感染者が他者何人にうつすかという変数の設定にあることがわかる。実は今回専門家会議からの説明でやっとこの鍵となる数値が出てきた。その中で注目すべき驚くべき内容が明らかにされた。確か3月中旬時点での感染率、実効再生産数1.7を使ったとのことであったが、やっとこの現実データが明らかになった。ちなみに4月10日時点での全国庭訓では0.71、東京においてはなんと0.53であったという驚くべき事実であった。しかも、安倍首相が緊急事態宣言を発令されたのは4月7日である。実効再生産数は1以下であれば収束に向かい、1以上であれば感染拡大に向かう値される指標であるが、発令の時にはある意味収束に向かっていた時期であった。この実効再生産数は日本の場合、算出するのに時間がかかっているとのことであるが、安倍首相の発令時に説明した理由にあった感染拡大の数しがまるで異なる結果になったのはある意味当たり前のことである。もう一つ出てきたデータが感染者がいつ発症したかというデータである。TV報道においても繰り返し確認されているが、PCR検査によって確認された日と実際に発症した日にはほぼ2週間ほどの違いがあると。今回やっと発症日という正確なデータが公開されている。このデータ(グラフ)を見てさらに驚いたのは感染のピークは4月1日であったということである。緊急事態宣言の1週間前であったということである。そして、そのピーク時はあの志村けんさんが亡くなった日(3月29日)とほぼ重なっていることに気づく。当時の衝撃について次のようにブログに書いた。『前回のブログでTV番組出演し感染の恐ろしさを繰り返し話しても伝わりはしないと指摘をしてきた。感染学の講義、つまり「理屈」では人を動かすことはできないということである。数日前に亡くなったコメディアンの志村けんさんの「事実」の方が衝撃的なメッセージとなっている。感染後わずか6日後に亡くなってしまうその恐ろしさ、最後の別れすらできない感染病のつらさ。それらは極めて強いメッセージとして心に突き刺さる。いみじくも政府の専門家会議の主要メンバーが国民に「伝えられなかった」と反省の弁を述べていたが、その通りで志村けんさんの「死」の方が何百倍も伝わったということである。』専門家会議の提言を踏まえ緊急事態宣言が1ヶ月jほど延長されることになると思うが、コロナ危機の出口戦略についてまるで見出すことができていない専門家会議だけの方針では不十分と言うより経済の専門家の意見をも取り入れなくてはならない。続々と倒産件数・失業者数が増えてきている。企業破綻は即家計破綻であり、社会のシステムをも壊し始めている。その破綻を防ぐ一つの示唆をあのiPS細胞研究所の山中伸弥教授はその更新された一番新しいHPで明確に次のように提言してくれている。有効再生産数(Rt)が経済活動再開の指標『武漢での1月から3月までの有効再生産数(Rt)に関する論文を紹介し、アメリカの経済活動再開を決めるための指標として、CDCが全米および各州のRtを毎週発表することの重要性を主張している。活動を徐々に再開してもRtが1を超えないかを確認してく必要があると主張している。科学的根拠に基づいた透明性の高い政策決定が求められる。』つまり、多くの感染ウイルスがそうであるように、今回も長期化していく。問われているのはその「出口戦略」で、経済抜きではあり得ない。専門家会議の提言にある「新たな生活様式」は単なる戦術レベルの話で、問われているのは社会経済全体への「指標」となるものではない。「三密」を否定はしないが、必要なのは長期に渡ってウイルスと付き合っていく「物差し」である。慶應大学病院や最近では神戸市立医療センター中央市民病院において「抗体検査」が行われている。同病院のチームによれば、4月7日の緊急事態宣言が出る前に、既に2.7%に当たる約4万1千人に感染歴があったことになるという。何故、感染しているのに発症しないのかと言う「免疫」の問題である。ある意味ウイルスと共生していくことになると思うが、その根幹となる「免疫」の解明である。専門家会議も「クラスター対策班」から、「免疫解明班」にシフトした方が良いかと思う。ところでここ数年個人においても企業においても、ある意味「三密」が求められてきた経緯がある。例えば、「気合わせ会」といった小さな飲み会に会社から援助金が出たり、全社レベルにおいても運動会のようなイベントが行われ職場単位で競争したり、・・・・・こうした個人単位、専門部署単位の仕事の壁からひととき離れた時間や場所が求められてきたことによる。つまり、既にテレワークなどと言わなくても現実は先に進んでいるのだ。「自粛」と言うキーワードに変わるものがあるとすれば、それは「自制」であろう。更に、個々人、個々の企業、個々の団体、が自制すると言うことだが、その自制の中にアイディアもまた生まれる。コロナ禍の震源と揶揄されたライブハウスがネットを使った「ライブ配信」をはじめたように。飲食では店頭での弁当販売からチルド商品や冷凍食品にしてネット通販を始めているように。つまり、新しい業態の可能性を探っている。これらは「自制」の模索から生まれたものだ。言うまでもなく、この「自制」とは顧客との関係におけることで、「自粛警察」とは真逆のことである。サッカーのキングカズが提言しているように、ロックダウンではなく、「セルフダウン」の意味と同じである。自ら律した行動を取ろうと言うことだ。現場的に言えば、「自制」の先に出口が見出せると言うことである。(続く)型コロナウイルス感染症対策専門家会議https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000627254.pdf
2020.05.03
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ヒット商品応援団日記No763(毎週更新) 2020.4.16。このブログを始めて15年経つが、始めた動機の一つが周知のP、ドラッカーであった。ある意味、ビジネスの古典になった師であるが、次々と起こる変化に対し常に冷静に真摯に向き合った師であった。その変化は一時期的なものではなく、本質に根ざした変化であるかを根拠を持って問い、そのことに意味と重要性があるのであれば、その変化がもたらしてくれる機会を活用すること、そんな着眼を教えてくれた師であった。今から6年前には未来塾として「町」の変化を観察し、どんな変化が出てきているのかをレポートしてきた。以来39回続けているが、その第一回目は「人通りの絶えた町・浅草」であった。本来であれば、街を歩き観察したいのだが、勿論自粛することにしている。人はどんな思いで、魅力を感じ集まるのか、つまり「賑わい」はどのように生まれているのかを観察してきた。実は今回の新型コロナウイルス感染の発生源とされる三密(「密閉」「密集」「密接」)と「賑わい」はほぼ重なる街・場所であり、人を惹き付けるテーマを抑制する戦いが求められている。緊急事態宣言後、東京都は休業要請の業種を発表した。その週末どんな変化が起きていたかメディアはレポートしている。本来であれば、私自身が街を歩き観察したいのだが、公開されている情報を整理すると以下のようになる。・大型商業施設である百貨店やショッピングセンラーが一部フロアを残し、臨時休館したこともあって、当然ではあるがゴーストタウン化した。特に都心部の百貨店の場合は全館休業としたため人通りはほとんどない状態となった。また周辺の専門店もシャッターを下ろし、東京をはじめとした都市は今まで見たことのない光景であったと。またスマホによる地域別データ(ビッグデータ)によると4月7日の渋谷などでは以前と比較し70%減であった。・一方、生活圏である都心近郊の商店街あるいはホームセンターには家族連れの人が押し寄せいつも以上の賑わいを見せていたと。以前レポートした砂町銀座商店街や戸越銀座商店街、あるいは吉祥寺の街などが取り上げられていたが、こうした三密の無いと思われる近郊住宅街の業種は通常営業しており、混雑していた。先日のブログにも書いたが、百貨店とは異なり2月のスーパーマーケットの売り上げは前年比大きくプラスとなっており、業種によって全く異なる結果となっている。・これは報道によるものでその実態は確認してはいないが、三密からは外れたアウトドア場所、近所の公園や別荘、あるいはキャンプ場などは家族連れの賑わいがあった。近所のスーパー以外の移動にはほとんどが乗用車による移動で、休業要請から外れた近県のパチンコ店は賑わっているという報道もあった。つまり、三密という自粛要請にはある程度応えてはいるが、移動手段や場所は変わっても逆に集中してしまい「賑わい」が生まれているという皮肉な現実があった。東京都は食品スーパーには買い物の代表を一人にして欲しいとの要請を出す始末となっている。どうしてこうした現象が起きるのかは、後ほど述べるが、政府や諮問機関である専門家会議からの情報に沿って、ある意味素直に生活者は行動していることがわかる。その象徴が「三密」で、予想外の賑わいも生活者個々人の理解によって生まれたものである。賑わいを観察してきた私にとって、予想外でも何でもない。こうした移動を更に抑制するために個々人の行動を変えて欲しいとのメッセージが盛んに発せられるようになった。政府の諮問機関である専門家会議の感染シュミレーションに基づき人との接触を80%削減、最低でも70%削減して欲しいというものであった。このシュミレーションを作成した北海道大学の西浦教授自身もSNSに出演しそのシュミレーションを説明している。新型コロナウイルスを封じ込めるためのものであるが、感染症における感染のメカニズムが理解できない上に、そのシュミレーションの「根拠」が何であるのか、数理モデルの根拠がまるでわからない。結果、この1週間主にTVメディアはどうしたら接触人数を減らすことができるか、その論議に終始している状態である。つまり、その根拠が「わからない」ということ、しかも実感できないということである。前回も少し触れたが、「理屈」では人の行動は変わらないということである。確か都知事は危機感からであると思うが、「ロックダウン」(都市封鎖)することになると発言した途端、その夜からスーパーに都民が押し寄せ、翌日のスーパーの棚にはほとんど商品は残ってはいなかった。米、インスタントラーメン、パスタ、レトルト食品、・・・・・・巣ごもり生活用の商品である。こうしたパニックが起きたのも、繰り返し放送されるパリやニューヨークのロックダウンした街の光景を見せられての行動である。ところで社会心理学を持ち出すまでもなく、行動の変容を促すには恐怖と強制が効果的であると言われている。そして、恐怖は憎悪を産み、分断・差別を促す。憎むべきウイルスは次第にルールを逸脱する人間へと変わっていく。少し前になるが、ゼミやサークルの懇親会で新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が発生した京都産業大に対し、抗議や意見の電話やメールが数百件寄せられているとの報道があった。抗議どころかあるTV番組のコメンテーターはウイルスを撒き散らした学生にはまともな治療を受けさせるなと暴言を吐く始末である。あるいは同じ番組であるが、今度は外出の自粛要請の休日に禁止されている区域に潮干狩りをしているとの報道を踏まえてと思うが、感染症学の教授が「二週間後はニューヨークになってる。地獄になってる」と発言したのには驚きを越えてこの人物は大学教授なのか、教育者としての知性・人間性を疑ってしまった。ニューヨークのようになってはならないと発言するのであればわかるが、それにしても「地獄」などといった言葉は間違っても使ってはならない。つまり、恐怖心をただ煽っただけで、しかも専門分野の教授の発言であるからだ、新型コロナウイルスを「敵」としながら、恐怖と強制に従わない人たちを差別どころか次第に敵とみなしていく。社会の決めたルールを守らない人間は社会の敵であると。恐ろしいのはそうした「恐怖」「脅し」が蔓延していく社会である。そこには寛容もなく、連帯もなく、ただ憎悪だけである。実は前回京都大学iPS細胞研究所の山中教授のHP「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」を取り上げたが、そのHPには新型コロナウイルス感染の対策としての提言の他にわかりやすく「ウイルの正体」について書かれたページがある。その中に「証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」https://www.covid19-yamanaka.com/cont7/main.htmlというページがある。証拠(エビデンス)の強さによる情報分類証拠(エビデンス)の強さによる情報分類」過剰な情報が錯綜し混乱状態にある中で、見事に「情報」の整理・分類をしてくれている。例えば、「証拠(エビデンス)があり、正しい可能性が高い情報」~「正しい可能性があるが、さらなる証拠(エビデンス)が必要な情報」~「正しいかもしれないが、さらなる証拠(エビデンス)が必要な情報」~「証拠(エビデンス)の乏しい情報」、このように分類してくれている。現段階で分かったこと、その証拠が正しい可能性が高いかどうかを冷静に整理してくれている。ここには理性を持って新型コロナウイルスに向き合う態度がある。マスメディア、特に「刺激」ばかりを追い求めてきたTVメディアの態度とは真逆である。こうした「証拠」に基づいた提言こそが必要であり、恐怖による行動変容は一時期的に「表面的な自粛が行われても、同時に人と人との間に憎しみや争いを生むことになる。東日本大震災の時もそうであったが、「現場」で新しい新型コロナウイルスとの戦いが始まっている。医療現場もそうであるが、マスクや医療用具の製造などメーカーは自主的に動き始めている。助け合いの精神が具体的行動となって社会の表面に出てきたということである。「できること」から始めてみようということである。その良き事例としてあのサッカーのレジェンドキングカズはHP上で「都市封鎖をしなくたって、被害を小さく食い止められた。やはり日本人は素晴らしい」。そう記憶されるように。力を発揮するなら今、そうとらえて僕はできることをする。ロックダウンでなく「セルフ・ロックダウン」でいくよ、と発信している。そして、「自分たちを信じる。僕たちのモラル、秩序と連帯、日本のアイデンティティーで乗り切ってみせる。そんな見本を示せたらいいね。」とも。恐怖と強制による行動変容ではなく、キングカズが発言しているように、今からできることから始めるということに尽きる。人との接触を80%無くすとは、一律ではなく、一人一人異なっていいじゃないかということである。どんな結果が待っているかはわからない。しかし、それが今の日本を映し出しているということだ。東日本大震災の時に生まれたのが「絆」であった。今回の新型コロナウイルス災害では「連帯」がコミュニティのキーワードとなって欲しいものである。こうした戦い方を可能にするにはやはり休業補償であることは言うまでもない。医療というという現場と連帯するには今回休業要請のあった業種の人たちである。特に中小・個人営業の飲食店で、家賃と人件費という固定費への補償である。その多くは日銭商売となっており、それら固定費の支払いは待ったなしである。求められているのはスピードで、例えば福岡における支援のように家賃への補助も一つの方法である。各自治体のやり方に任せることだ。これから補正予算案が国会で論議されることになっているが、その中の地方に交付される資金が1兆円予定されているようであるが、それこそ最低でも5兆円にまで増額し支援すべきであろう。なぜなら、嫌なことではあるが、長い戦いになるからである。また、公明党の山口代表は安倍首相に一律10万円給付すべきとの提案をしたと報道されている。できれば更に消費税を今年の秋から2年ほど凍結したら良いかと思う。つまり、新型コロナウイルスによって亡くなる人をこれ以上出してはならないと同時に、嫌な言葉であるが、ビジネス現場で自殺者を出してはならないということである。医療・命と経済という二者択一的発想ではなく、両方の世界で戦うこと、ここに「連帯」の道がある。東日本大震災の時は絆をキーワードに国民は復興特別税を引き受けたが、今回は財源として国債の発行も良いかと思うが、「感染防止連隊税」のような法律も良いかと思う。いずれにせよ東日本大震災の時と同じように連帯して戦うということだ。連帯は理屈ではなく、現場で戦う人たちとの共感によってのみつくることができる。どれだけの長期戦になるかわからないが、であればこそ連帯した戦い方しかない。(続く)証拠(エビデンス)の強さによる情報分類
2020.04.16
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ヒット商品応援団日記No762(毎週更新) 2020.4.5。1ヶ月半ほど前に「人通りの絶えた街へ」というタイトルでブログを書いた。その通り街の風景は日本のみならず世界へと広がっている。しかも、感染者の多いイタリアやスペイン、フランス、特に危機的状況にある米国のニューヨークは一瞬の内にゴーストタウン化した。そして、今回の新型コロナウイルス感染が及ぼす社会・経済への影響を考えるにあたり、2008年のリーマンショックや2011年の東日本大震災を一つの事例としてブログを書いてきた。しかし、事態は1990年代初頭のバブル崩壊によるパラダイム転換(価値観の転換)を促した視点が必要であるとも書いた。その最大理由はバブル崩壊によってそれまでの多くの価値観が崩壊したが、当時言われていたのは「神話」の崩壊であった。上がることはあっても下がることはないとした不動産神話、重厚長大であるが故の揺るがない大企業神話、決して潰れることはないと信じられてきた銀行・金融神話、・・・・・・・・・神話とは「こころ」のなせるものである。情緒的な表現になるが、神話崩壊とは「こころ」が壊れてしまったということだ。壊れたこころをどのように立て直すのかが平成の時代の最大テーマであった。生活者は勿論のこと、大企業も、中小企業も、街場の商店も。今一度、未来塾の「バブル崩壊から学ぶ」を読んでいただきたいが、学びの根底にあったのが、実は「過剰」であった。例えば、バブル崩壊後日本の産業を立て直すために多くの製造業は中国を目指し、国内産業の空洞化が叫ばれたが、同時に部品メーカーも続々と中国に渡った。いわゆるグローバル産業化である。今回の感染源である中国湖北省の壊滅的感染爆発によってサプライチェーンが切断され経済がストップしてしまったことは周知の通りである。こうした事態を懸念し既に数年前からリスク分散、チャイナプラスワンの必要を指摘した専門家も少しはいたが、日本の社会経済潮流はグローバル化の道を歩んできた。ところで、2~3年前からブログに訪日外国人市場、インバウンド市場、特に京都観光の実情を書いてきたが、いわゆるオーバーツーリズムのコントロールは議論されないままであった。観光産業におけるグローバル化という課題である。結果どうなったか、中国観光客のみならず、多くの訪日観光ビジネスは今壊滅的打撃を受けている。ウイルスの感染を防ぐために人の「移動」は極端に規制される。このインバウンドビジネスは今年開催予定であった東京オリンピックが後押しし、過剰な期待が生まれ、結果設備投資が行われきた。オーバーツーリズムとは過剰観光のことである。しかも、観光産業の中心顧客であった日本人シニア層へのシフト変更もうまくはいかない。それは新型コロナウイルス感染における致死率が高齢者ほど高いという事実があり、残念ながらコロナショックが終息しない限り好きな旅行には行かないであろう。つまり、この3年ほどの観光産業の好景気は「バブル」であったと理解し、3年以前に今一度戻ってみるということである。その時、観光ビジネスの「見え方」も変わってくるということだ。その見え方の物差しに「過剰」であったかどうかということである。例えば京都で言うならば、インバウンド顧客を第一とするならばインバウンドバブルによってほとんどの市場は無くなった、つまり混雑を嫌った日本人観光客を第二の顧客として再び顧客を再び呼び戻すこと。それでも経営ができなければ第三の顧客として地元京都や関西圏の近隣顧客に京都観光の深掘りを実践してみると言うことである。足元を見つめ直し、新たな「京都」を発見あるいは創造してみると言うことである。例えば、この「京都」を東京の「浅草」や「築地場外市場」に置き換えても同じである。別な表現をすれば、過去培ってきた顧客の「信頼」はどうであったかを今一度見つめ直すと言うことである。極論を言えば、”あなた(店)であれば、お任せます”ということ、安心という信頼が築けていたかと言うことになる。最も商売の原点がどうであったかと言うことだ。ところで商売するうえで接触感染を防ぐことは大事である。デリバリービジネスやネット通販、あるいは高齢者向けの買物代行などの急成長はそれなりの理由は当然である。しかし、今回のコロナショックは最低でも1年間は続く。店舗を構える業態の場合、入店したらアルコール消毒液を使うことは勿論、安心のためのサービスは不可欠である。飲食店であればテイクアウトを始めたり、物販であればセルフスタイル導入も考えても良いかと思う。また、顧客同士の接触を少なくするための「距離」、ソーシャルディスタンシングを考えた席のレイアウトをはじめとした店内レイアウトの変更も必要になるであろう。これはウイルスという見えない敵と戦っていることを顧客の目に見えるようにする。つまり、自己防衛のための「見える化」である。しかし、どんな乗り越える工夫や手段を講じようが、基本は顧客との「信頼」があるかどうか、どの程度の信頼であったかどうかを見つめ直すことも必要であろう。さて、ここ数週間小売現場で売れているのは生活必需品のみである。しかも、嗜好性の高い選択消費である商品はほとんど売れてはいない。選択的商品の中で唯一売れているのは人との接触のない自然相手のキャンプ関連商品、アウトドア商品のみである。勿論、人と人との接触のない散歩以外の「遊び」である。生活者の楽しみは換気の良い「アウトドア」「自然相手」と言うことになる。また、別荘地へのコロナ避難も始まっている。このように生活者の心は遊びは自粛され、内側へ内側へと向かう。向かわせているのは勿論不安であり、その不安はいつになったら終息するのかと言うことに尽きる。多くの疫学の専門家によれば「長期戦」になるであろうと報告されている。また、東京・大阪といった大都市において「都市封鎖」といった議論も行われている。そうならないための「自粛要請」が行われているが、その程度の要請でも飲食などの特定業種の売上は通常のせいぜい20~30%程度であろう。人件費も家賃にもならない状況である。シンクタンクの第一生命経済研究所は先月30日、新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めるため東京都でロックダウン(都市封鎖)が行われた場合、1カ月で実質GDP(国内総生産)が5兆1000億円減少するとの試算を公表した。試算は、4月1日から大型連休前の同24日まで、企業が平日の出勤を日曜日並みに抑えたとの仮定に基づいて実施した。封鎖の対象が埼玉、千葉、神奈川の3県を含む南関東全域に拡大された場合、減少額は8兆9000億円に達するという。そして、緊急事態宣言という国民の主権、特に移動を制限する法律が議論されている。その移動先である流通業に対する要請であるが、例えば今回東京では臨時休館した百貨店や渋谷109のようにより強い要請である。問題なのはそうした「要請」「指導」に対する休業補償である。それは事業主とそこに働く従業員への補償であるが、報道されているような感染防止と経済のバランスといった「一般論」ではない。これは推測はあるが、政府もこうした丁寧な補償という実質的な支援を考えて欲しい。前回ブログで書いたようにこれも「現場」への支援であり、特に経営体力の無い中小零細企業への支援である。この現場の力無くしては危機を超えることはできない。「思い切った、前例に囚われない支援」とは医療現場、ビジネス現場への直接的で具体的な支援である。今起こっている危機に対し、あの山中伸弥教授は以下のような5づの提言を投げかけてくれている。提言1 今すぐ強力な対策を開始する提言2 感染者の症状に応じた受入れ体制の整備提言3 徹底的な検査(提言2の実行が前提)提言4 国民への協力要請と適切な補償提言5 ワクチンと治療薬の開発に集中投資を詳細はHPを読まれたら良いかと思うが、提言4については「国民に対して長期戦への対応協力を要請するべきです。休業等への補償、給与や雇用の保証が必須です。」と明言されている。あまりにも進まない「現場支援」を求めての提言である。前回のブログでTV番組出演し感染の恐ろしさを繰り返し話しても伝わりはしないと指摘をしてきた。感染学の講義、つまり「理屈」では人を動かすことはできないということである。数日前に亡くなったコメディアンの志村けんさんの「事実」の方が衝撃的なメッセージとなっている。感染後わずか6日後に亡くなってしまうその恐ろしさ、最後の別れすらできない感染病のつらさ。それらは極めて強いメッセージとして心に突き刺さる。いみじくも政府の専門家会議の主要メンバーが国民に「伝えられなかった」と反省の弁を述べていたが、その通りで志村けんさんの「死」の方が何百倍も伝わったということである。2週間ほど前にSNSに流されたデマ情報によって、トイレットペーパーが店頭から無くなったことがあった。周知のデマによるパニックであるが、大手のスーパーがやったことはすぐさま大量のトイレットペーパーを山積みして販売した。つまり、目の前に十分商品はあると「実感」することによってのみ不安は解消される。マスクについてはどうであるかと言えば、使い捨てではなく洗って再利用できる布製のマスクを全世帯に2枚宅配するという。それは決して悪いことではないが、少し前に6億枚が3月中に流通されるとアナウンスされたが、その6億枚はどこに行ったのか、医療関係者や福祉関連の施設に優先的に回したと言われていると説明される。つまり、既にマスクにおいてもパニック買いが起こっており、膨大な量のマスクが必要になってしまっているということである。緊急事態宣言などが発表されればそれこそ生活者にはマスクは手に入らないことになる。そこで再利用可能な布製になったということであろう。すべてが後手後手になってしまっているということである。しかも、WHOは布製マスクは効果がないので推奨しないと断言している。費用は200億円以上だというが、少しでも安心材料となる抗体の有無がわかるIgG/IgM 抗体検査キットなどに使った方が良いとする医療専門家も多い。小さな子供を持つ主婦は手製の布製のマスクを作っている。しかも、効果が薄いからとマスクの内側にポケットを作って、そこにティシュペーパーやペーパータオルを入れて少しでも効果を高める工夫がなされているのが現実である。コロナショックによる業績不振から新卒学生の内定の取り消しや非正規社員の雇い止めも始まっている。既に報道されているように観光産業であるホテル、旅行会社、次いで観光地の飲食店や土産物店。更にはアパレルファッション業界にも大不況の波は押し寄せてくるであろう。また、トヨタが自動車需要縮小を見越して減産態勢に入ったように、製造業である自動車や家電へと広がっていくであろう。そして、4月1日現在で、倒産は13件隣、弁護士一任などの法的手続き準備中は17件で、合計30件が経営破綻している。これはまだ始まったばかりであり、日本の産業全体に押し寄せてくる。まずは公的な助成金など支援策は全て活用することは言うまでもない。ただ、東京都の場合中小企業支援には多くの申し込みがあり、総額は1300億円近くになったとのこと。当初事業予算の5倍ほどとなり再度検討するという。つまり、それほどの運転資金需要が生まれているということである。こうした喫緊の課題に対応すると同時に、中期的な視野からのビジネス・商売も考えていく「時」となっている。それはバブル崩壊によって多くの価値観が壊れ、そして生まれてきたように、コロナと戦いながら考えていくとうことである。その視点にはやはりこれから目指すべき新たな「信頼」を考えていくということに尽きる。その信頼とは、顧客との信頼であり、働く人との信頼であり、更には仕入れ先もあれな支払先もあるであろう。そうした信頼とは広く「社会」に向けた信頼ということになる。振り返れば、世界に誇れる日本の第一は何かと言えば、「老舗大国」としての日本である。生き延びる知恵を老舗から学ぶということでもある。創業578年、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている世界最古の宮大工の会社がある。その金剛組の最大の危機は明治維新で、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れ、寺社仏閣からの仕事依頼が激減した時だと言われている。有名な話では国宝に指定されている興福寺の五重塔が売りに出され薪にされようとしたほどの混乱した時代であった。更に試練は以降も続き、米国発の昭和恐慌の頃、三十七代目はご先祖様に申し訳ないと割腹自殺を遂げている。また、数年前にも経営危機があり、同じ大阪の高松建設が支援に動いたと聞いている。今回のコロナショックによって米国の新規失業保険申請件数が発表され、664万8000件という圧倒的な過去最大の数字が出たと報道されている。これは米国の失業数が爆発的に増えていることを意味し、この状況が数ヶ月続くとアメリカの失業率が世界恐慌時のレベルにまで到達することになるとも。そんな苦難の時代を乗り越えさせてきた金剛組であるが。何がそこまで駆り立てるのか、守り、継承させていくものは何か、老舗に学ぶ点はそこにある。何故、生き延びることができたのか、それは金剛組の仕事そのものにあると思う。宮大工という仕事はその表面からはできの善し悪しは分からない。200年後、300年後に建物を解体した時、初めてその技がわかるというものだ。見えない技、これが伝統と言えるのかも知れないが、見えないものであることを信じられる社会・風土、顧客が日本にあればこそ、世界最古の会社の存続を可能にしたということだ。金剛組という会社は特殊な事例かもしれないが、他にも生き延びる術を知った老舗はいくらでもある。私が一時期よく行った鳥取に、明治元年創業の「ふろしきまんじゅう」という老舗の和菓子がある。賞味期限は3日という生菓子で、田舎まんじゅうとあるが品のある極めて美味しいお菓子である。鳥取県人、和菓子業界の人にとってはよく知られた商品と思うが、東京の人間にとってはほとんど知られてはいない商品だ。ところで企業理念には「変わらぬこと。変えないこと」とある。変化の時代にあって、まさに逆行したような在り方である。いや、逆行というより、そうした競争至上主義的世界から超然としたビジネスとしてあるといった方が正解であろう。人はその世界をオンリーワンとか、固有、他に真似のできないオリジナル商品と呼称されるが、学ぶべきは「変わらぬこと。変えないこと」というポリシーにある。それは「変わらない何が」に顧客は支持し、つまり永く信頼を得てきたのかということでもある。ところで企業経営における基本であるが、「有用性」という視座に立てば、まず「有るもの」を見直し、使い回したり、転用したり、知恵を駆使して生き延びる。「有るもの」、それは技術であったり、人材であったり、お金では買えない信用信頼・暖簾であったりする。勿論、こうした無形のものの前に、有形の土地や建物、設備といった資産の活用も前提としてある。つまり、生き延びるための重要な戦略は、変えるべきことと、継続すべき、守るべき何かを明確にすることから始まる。老舗にはそうした考えを元に引き継がれてきたということである。日本の観光産業を一種のバブルであったとしたのもこうした理由からである。4月4日東京の新型コロナウイルス感染者が118人に及んだと発表された。恐らく近い内に緊急事態宣言が行われ、感染度合いの大きい大都市や繁華街が一定期間「制限」されることになるであろう。企業も生活者も「不自由」な活動となる。これからも混乱・パニックは起きる。企業も生活者も生き延びるための試練を迎えるということだ。(続く)
2020.04.05
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ヒット商品応援団日記No761(毎週更新) 2020.3.25。前回ブログのタイトルは「パニック前夜」であった。そのパニックは日本国内から世界へ、「移動の抑制・制限」にとどまらず、「金融・株式市場」のパニックへと伝播し、周知のようにリーマンショックの時以上の株が投げ売りされている。私のブログに「巣ごもり生活」というキーワードでアクセスする人が増えているが、これは10%の消費増税が実施され、消費経済が大きく落ち込んだ背景を踏まえた予測であった。その消費増税の実際は、駆け込み需要もそれほどみられず、昨年10月以降は周知の通りGDPはマイナス成長となった。ところで、「巣ごもり」といった少しの消費抑制程度の危機どころではなくなった。1990年代初頭のバブル崩壊の時に使われた「氷河期」というキーワードを前回のブログに書いた。その氷河期が表す意味は、就職時期に重なった世代がどの企業も採用を減らし就職できない若い世代が一挙に増えたことを言い表した言葉であった。以降、就職できない若い世代をフリーターといった言葉や、後に正規・非正規労働といった働き方自体を変えることになった。つまり、単なる就職難といったことが起きつつあることを指摘したのではない。つまり、これまでの価値観を変えなければならないフェーズに向かっていると理解すべきである。一般論ではあるが、経済ショックは主に需要ショック、供給ショック、金融ショックの3つがある。この一年ほど起きた「事件」に沿って理解するとすれば、例えば需要ショックは増税等によって消費や設備投資が減少し経済が低迷すること、供給ショックは今回の新型コロナウイルスの震源地である中国湖北省周辺にある工場などの供給がストップあるいは製造能力の毀損によって経済が低迷すること、金融ショックは金融機関の破綻等によって経済が低迷することを指す。今回は新型コロナウイルスの感染拡大によって工場の生産能力低下、供給網や交通網の遮断、小売り店舗の一部閉鎖などが起こったこと、つまりサプライチェーンの機能不全である。そして、今回の金融コロナショックである。そもそも中央銀行による利下げは需要ショックに対処する金融政策なので(FRBが緊急利下げを行ったところで感染拡大を抑制(供給能力を回復)できるわけではない)、株式市場が「売り」で反応しても不思議ではない。つまり、3つのショックが日本のみならず、世界中で起きているという理解である。ところでバブル崩壊によって「何が」起きたか今一度考えて見ることが必要である。まず社会現象として初めて現れてきたのが「リストラ」であった。リストラの舞台については後にベストセラーとなった麒麟の田村が書いた「ホームレス中学生」を思い起こしてもらえれば十分であろう。残業がなくなり「父帰る」というキーワードとともに、外食が減り、味噌・醤油といった内食需要が高まった時代である。現在の夫婦共稼ぎ時代で置き換えれば、半調理済食品やレトルト食品や冷凍食品になる。この内食傾向はスーパーマーケットの売り上げが前年比プラスであったのに対し、百貨店の場合は周知のように大きくマイナス成長であった。また、「リーズナブル」という言葉とともに、「価格」の再考が始まる。これは後にデフレ経済へと向かっていくのだが、注視すべきは流通の変化で百貨店からSC(ショッピングセンター)への転換と通販の勃興である。今回のコロナショックは百貨店の主要な2大顧客であるインバウンド需要と株式投資などの主要メンバーである個人投資家の消費が減少し、百貨店は更に苦境に陥るということである。この2大顧客は勿論のこと観光・旅行産業の中心顧客であり、コロナショックは直撃していることは言うまでもない。ところで新型コロナウイルス感染症に関する中小企業・小規模事業者の資金繰りについて中小企業金融相談窓口が開設されている。梶山経済産業大臣は、新型コロナウイルスに関する国などの支援窓口への相談件数が、驚くことに6万件近くに上っていることを明らかにした。その内の、9割が資金繰りの相談だということ。いかに経営体力がない状態に陥っているかがわかる。観光や飲食だけでなく、製造業を含む幅広い業種に影響が広がっている。政府はすでに支援策を打ち出したが、中小企業の手元資金は1カ月分程度とされる。1ヶ月ほど前のブログに「移動抑制は消費経済に直接影響する」と書いた。2月の東海道新幹線の利用者は前年同月比8%減だったが、3月に入って落ち込み幅が拡大。1日~9日の利用者は前年同期比56%減となり、東日本大震災が発生した2011年3月の落ち込み幅(20%減)を大きく上回った。「2月後半からここまでになるとは予想していなかった」と報道されている。国連の国際民間航空機関(ICAO)は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴うキャンセルの増加で、世界の航空会社の売上高が今年第1・四半期に40億ドル━50億ドル減少する可能性があるとの試算を示している。ICAOは声明で、キャンセルは規模でも地域的な広がりの面でも2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行時を上回っており、航空業界に与える影響もSARSより大きいとみられると指摘している。ちなみにICAOによると、70の航空会社が中国に就航する国際線の運航をすべて停止し、これとは別に50社が減便している。これにより、中国に就航する国際線の直行便の旅客輸送能力は80%落ち込み、中国の航空会社は40%減少したとも。そして、この報道を追いかけるように日本のANA海外便の大幅な減少どころか国内便需要も大きく落ち始めている。ちなみにANA、JALともに3月の予約数は前年比で約4割減少とのこと。消費氷河期とは単なる抑制した「巣ごもり生活」ではなく、残念ながら多くの凍死と言う倒産企業を産み、リストラされる労働者もまた続出する社会のことである。フリーター、アルバイト、非正規労働者にとどまらず正規労働者も解雇される時代ということである。ちょうど30年前のバブル崩壊後の風景に近い。やっと与野党の政治家からコロナショック対策の発言が見られるようになった。そして、思い切った政策が必要であるとも。そして、論調の多くは2つに分かれる。1つは一定期間消費税を凍結、つまり消費税をゼロにして消費を活性させる案である。もう一つが子育て世代とか、生活困窮者といった従来の考えから離れ直接全ての個人生活者へ例えば5万円あるいは商品券を給付するという案である。共に、凍える生活者の財布を少しでも楽にする大胆な財政政策である。従来のキャッシュレスによるポイント還元などとは根底から異なるもので、こうした政策の進展と共に、「移動の抑制」緩和を徐々に進めていくことである。例えば、小中高の一斉休校のように「一斉」ではなく、感染者のいない地域、市町村では既に始まっているように通常の学校生活をスタートさせる。スポーツ・文化イベントもその規模やクラスター感染が起こる条件などを精査し、ガイドラインを作り徐々に緩和していくということである。ある意味、新型コロナウイルスと徐々に折り合いをつけていく方法である。その司令塔は現場である地域であり、独自な組織を持って対応していく「大阪」のような方法も一つであろう。マスメディア、特にTVメディアによるPCR検査拡充の是非論議はもう終わりにすべきである。「不安」解消のためにはPCR検査が必要である、一方陽性反応が出れば入院させる病床が不足する、といった論議である。事態はそれどころではなくなってきている。また、大学の感染学の講義であるかのような解説も無用とは言わないがもっとわかりやすく番組構成されるべきである。ウイルス感染における「パンデミック(世界大流行)」程度はまだしも、オーバーシュート(感染爆発)やクラスター(感染者の塊・小集団)あるいは(ロックダウン(外出制限・封鎖)といった用語は使わないことだ。分からなければ、それだけ「不安」を煽るだけになってしまうということである。ウイルスと戦っている現場の医師や看護士にとって「講義」のような世界とは全く無縁のところで頑張っている。思い起こすのは9年前の東日本大震災、中でも放射能汚染にみまわれた福島県の医療再生に今なお貢献している医師達がいる。その中心となっているのが坪倉正治氏で地域医療の再生プロジェクトを立ち上げ全国から同じ志を持った医師と共に再生を目指している現場の医師である。臨床医であると同時に多くの放射能汚染に関する論文を世界に向けて発表するだけでなく、福島の地元のこともたちに「放射能とは何か」をやさしく話聞かせてくれる先生でもある。ウイルスも放射能も異なるものだが、同じ「見えない世界」である。坪倉正治氏が小学生にもわかるように語りかけることが今最も必要となっている。「講義」などではないということだ。小学生に語りかける「坪倉正治氏の放射線教室」は作家村上龍のJMMで配信されている。残念なことではあるが、これから先間違いなく凍死者、凍死企業が続出する。その前に、どんな言葉で語りかけるべきか、講義などではないことだけは確かである。こうした危機にあっては「現場」によってのみ乗り越えることができる。阪神淡路震災の時はボランティア元年と言われ、しかも瓦礫に埋もれた人の救出にはトリアージ的な判断が消防隊員は考え行動していたし、ちょうど同じ時期に起こった地下鉄サリン事件の時はバタバタと倒れる人たちのために聖路加病院はサリン被災者を受け入れるために病室どころかフロアを収容病棟にして危機を乗り越えた。そして、東日本大震災の時には、行政も病院も被災する中で、全国から多くの支援を行ってきた。それら全て「現場」によって為し得たことである。今回の新型コロナウイルス感染による超えなければならない目標はどれだけ死者を少なくするかであるが、もう一つ超えるべきはこの災害による自殺者をどれだけ少なくするかである。厚労省のデータではないが、リーマンショックによる自殺者は8000名と言われている。東京オリンピック2020が1年程度延期になったと報道されているが、TV番組はその裏事情や裏話など感染学の講義と共に終始している。今回の「危機」をエンターティメント・娯楽にしてはならないということである。(続く)
2020.03.25
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ヒット商品応援団日記No760(毎週更新) 2020.3.20。気になって仕方がなかった大阪「駅前ビル」2015年にJR大阪駅ビルから三越伊勢丹が撤退しその跡に「ルクア イーレ(LUCUA 1100)」が誕生し、以降地下のバルチカなど注目を集め売り上げや集客など順調に推移してきている。こうしたJR大阪駅を中心に阪急電鉄による阪急三番街のリニューアルや阪急百貨店梅田店のリニューアルなど矢継ぎ早の開発からポツンと取り残され老朽化した大阪駅前ビル1〜4号舘の存在が気になって仕方がなかった。というのも1970年代半ば大阪のクライアントを担当し、定期的に大阪に行くこととなった。当時は闇市の跡地を大阪駅前ビルへと開発が進行中でまだまだ戦後の闇市的雰囲気を色濃く残した時代であった。ちなみに駅前ビルの完成は以下のようなスケジュールで写真は駅前第1ビルである。1970年4月 - 第1ビルが完成。1976年11月 - 第2ビルが完成。1979年9月 - 第3ビルが完成1981年8月 - 第4ビルが完成実は大阪のクライアントの担当者から大阪らしいところに行きましょうと誘われたのが鶴橋の焼肉「鶴一」と梅田の阪神百貨店の地下1階とJR大阪駅とを結ぶ地下道にあった老舗串カツ店「松葉」であった。これは余談であるが、この「松葉」で串カツの二度漬け禁止という大阪マナーを学んだことを覚えている。地下道の街ところで大阪に住む人間であれば駅前ビルの梅田における位置関係は当たり前のこととして熟知しているが、そうでない人間にとってはわかりずらさがある。そこでイラストの図解を見ていただくと良いかと想う。数字の1、2、3、4 は各駅前ビルの位置を表している。阪神百貨店の北側(上)にはJR大阪駅があり、図の右側には阪急百貨店があり阪急電車の梅田駅がある。大阪は梅田(キタ)と難波(ミナミ)という2つの性格の異なる都市拠点のある街だが、その梅田の中心地を担ってきたのが、4つの駅前ビルであった。もう一つの特徴は南北にJRの大阪駅と北新地駅があり、東西には各々の地下鉄が通っており各駅前ビルには複合ビルとして多くのオフィスがあり多様な企業が入居している一大ビジネス拠点となっている。イラストの図を見てもわかるように、このビジネス拠点を南北東西に巡らせているのが「地下道」である。難波(ミナミ)にも地下道はあるが、これほど広域にわたる地下道は梅田のここしかない。老朽ビルの特徴の第一はその薄暗さ駅前ビル地下街を象徴する写真であるが、横浜桜木町ぴおシティと同様一目瞭然薄暗い通路となっている。そして、老朽化は多くの商店街がそうであるようにシャッターを下ろした通りが随所に見られる。この地下商店街は南北東西とを結ぶ大きな地下通路のいわば枝分かれした通路となっており、大通りの横丁路地裏のような存在となっている。ただオフィスビルの地下飲食街ということから人気のある飲食店は今なお数多い。若い頃であったが、2号館のトンテキの店やグリル北斗星には食べに行ったことがあるが、大阪らしくボリュームのあるメニューばかりでここ20数年ほど食べに行くことは無かった。ただ2年ほど前になるが1号館にあるサラリーマンの居酒屋の聖地と言われる「福寿」という店に行った程度の利用であった。しかし、この老朽化した駅前ビル、地下の飲食街で小さな変化が出ているという話を聞き、その友人に案内してもらい観察をした。その変化とはシャッター通り化しつつある飲食街に「立ち呑み」「昼呑み」の居酒屋が流行っており、新規出店している場所もあるとのこと。アルコール離れは若い世代の場合かなり以前から大きな潮流となっており熟知していたが、「酒を飲む」業態が人を集めていることに興味を持った。というのもこうした脱アルコールの潮流に対し、新しい「場」をつくることによって、結果アルコールをメニューとして成功している事例が見られてきたことによる。それは同じ大阪の駅ビルルクアイーレ地下バルチカの「紅白」という洋風居酒屋である。このバルチカについては何回か未来塾で取り上げたのでその内容について繰り返さないが、実はもう少し年齢が上になる世代の新しい「飲酒業態」の芽が生まれているとの「感」がしたからである。老朽化し、しかもあまり目的を持って通行もしていないようなビルの地下飲食街にどんな「芽」があるのか興味を持った。情報の時代ならではの人気店については未来塾で「<差分>が生み出す第三の世界」というテーマで競争市場下の現在について分析をしたことがあった。簡単に言えばどのように「違い」をつくり提供していくかという事例分析である。情報の時代ならではの話題の店づくりとして、次の整理を行ったことがあった。1、迷い店 2、狭小店 3、遠い店 4、まさか店 5、人による「差」 以上の違いづくり整理であるが、1〜4ではそれぞれ従来のマイナスをプラスに転換した業態である。例えば、「迷い店」とはわかりにくさをゲーム感覚で面白さに変えた店として差別化を図った事例である。この前提となるのは、その違いを違いとして理解してもらうためには「低価格」という入り口が前提となっていることは言うまでもない。低価格立ち呑みパークの出現大阪の呑ん兵衛であれば周知のことであるが、以前から駅前ビルの地下を始め数店の立ち呑み店があり、おばんざいなどの肴も美味しく人気の店となっていた店がある。例えば、その中の徳田酒店は大阪駅ビルルクアイーレの地下飲食街バルチカの増床の際にも出店している。ここ数年こうした「立ち呑み」「昼呑み」スタイルで、価格が安いだけでなく、肴もうまい店が出店し始めている。この写真は駅前第2ビル地下にある居酒屋通りで、徳田酒店同様の人気店で明治創業の竹内酒造という老舗立ち呑み店を挟んでメニューの異なる大衆呑み処が集まっている。ちなみに鉄板焼き、おばんざい、焼肉といったメニューの呑み処である。この3店舗の通りを挟んで反対側に新規オープンした「どんがめ」というこれも大衆居酒屋が人気となっている。観察したのは昨年11月にオープン1週間ということもあって満席状態で賑わいを見せていた。こうした小さな立ち呑みパークもあるが、駅前ビル地下街は南北及び東西にある駅を結ぶ地下道に賑わいを見せる居酒屋も多い。例えば、上にある写真の「七津屋」のような店々である。各店を観察していたところ、案内をしてくれた友人の後輩が写真の七津屋の代表であったので、立ち話ではあったが最近の駅前ビル飲食街について話を聞くことができた。各店メニューは安いことが前提となっており、それは日常的に回数を重ねられる価格であるという。また、経営的には駅前ビルは再開発ビルである、全体の運営会社はあるが賃料については月坪2、3万円から5万円までバラバラで、それは地権者の数が多く、そうした賃料の差が生まれているとのこと。安い賃料であれば、安い価格でサービスできると話されていた。写真は立ち食い焼肉酒場の店頭メニュー看板であるが、焼肉一切れ50円からとなっている。人気となっている立ち呑み処、大衆酒場に共通していることはとにかく安いということであった。2年ほど前に第1ビルの地下にある福寿という酒造メーカーの直営店で飲んだことがあった。大阪のサラリーマンにとっては知らない人はいないほど飲兵衛の聖地となっている居酒屋であるが、その福寿と比較しひと回り安い店であった。また、今から5年ほど前になるが、東京の居酒屋で300円前後のつまみが人気となったことがあった。それらは単なる安さだけでわずか2〜3年で飽きられ撤退したことがあったが、2店ほどしか飲食しなかったが、数段美味しい肴・メニューであった。オープンエアの店々「老朽化」から学ぶ「老朽化」は、道路も、橋も、ビルも、街も造られた構造物は全て不可避なものとしてある。大都市においては再開発事業が進んでおり、成熟時代の山登りに例えるならば「登山」となる。一方再開発から外れた地域は老朽化したままとなっている「下山」の場所となっている。今回は一時期輝いていた商業ビルの生かされ方に焦点を当て、老朽ビルにあってその賑わいの理由・魅力について考えてみた。今回観察したのは首都圏横浜桜木町と大阪駅前ビルという1970年代の都市商業の象徴であったビルである。その老朽化した商業ビルの「今」、その新しい賑わいの芽が生まれていることに着眼した。再開発から取り残された地域、街については東京谷根千や吉祥寺ハモニカ横丁などこれまで取り上げてきたが、複合商業ビルは今回初めてである。それは大きな構造物であり、スクラップし再生するには地権者や利用企業・テナント、更には周辺住民の賛同を得るには多くの時間とコストが必要となる。そうした困難の中で、シャッター通り化しつつある場所に、新規出店する店舗と顧客がつくるビジネス、いや新しい商売のスタイルを見ることができた。これも「下山」の発想から見える新しい芽・風景であった。その芽には老朽化ならではの商売と共に、新しい事業にも共通する工夫・アイディアもあった。東京谷根千や吉祥寺ハモニカ横丁をレトロパークと私は呼んだが、誰もが知る観光地となったのは周知の通りである。これらは OLD NEW、「古が新しい」とした新市場である。都市の中心も、時代と共に変化していく開発から取り残された横丁路地裏に新しい「何か」が生まれていると10年ほど前から指摘をしてきた。言葉を変えれば、表から裏への注目でもあった。その着眼のスタートは東京秋葉原という街であった。秋葉原がアニメなどのオタクの街、アキバとして世界の注目を集めていること、その後駅近くの雑居ビルをスタートにしたAKB48の誕生と活躍については初期の未来塾で取り上げてきたので参照して欲しい。実は今回改めて認識しなければならなかったのは、時代の変化とは街の「中心」が変わることであり、それまでの中心を担ってきた多くの「商業」は老朽化していく。それは横浜の中心であった桜木町の変化であり、大阪の駅前ビルにあった中心がJR大阪駅周辺や阪急梅田駅周辺の開発によって、それまで駅前ビルが担っていた中心は移動し変化していく。このことは「街」だけでなく、小さな単位で考えていけば商店街の中心の変化にも適用できるし、SC(ショッピングセンター)においても同様である。もっと具体的に言えば、実は中心から外れた「周辺」にも新たな変化の芽も生まれるということである。「作用」があると、必ず「反作用」も生まれる日本の商業を考えていくと、2000年の大規模小売店舗法の廃止により、それまでの中小商店街が廃れシャッター通り化していくことはこれまで数多く論議されてきた。そこで生まれたのが「町おこし」であったが、決定的に欠けていたのが新たに生まれた「中心」(大きなSCなど)に人が集まっていくことへの販売促進策といった対応策だけであった。今や更に小売業は進化し、ネット通販などへと消費の「中心」が移動していく。実は、中心から外れたところにも「変化」は生まれているということの認識が決定的に欠けていたということである。原理的には、「作用=中心の移動」があると「反作用=外れた中にも変化」が必ず生まれるということである。横浜の中心が桜木町から横浜駅やみなとみらい地区へと移動し、大阪駅前ビルからJR大阪駅や阪急梅田駅へと移動したことによって、外れた周辺にどんな新しい「変化」が生まれてきたかである。つまり、どんな反作用が生まれたかである。大規模再開発が進む渋谷にも、「反作用」が生まれている今回の未来塾は渋谷の大規模再開発について書くことが目的ではない。再開発のシュッような目的はオフィス需要を満たすことを踏まえ「大型ビルの建設」「渋谷駅の改良」「歩行者動線の整備」の3つが目的となっている。表向きはこうした背景からであるが、次々と高層ビルが建てられ、どこにでもある、ある意味「つまらない街」へと向かっている感がしてならない。同じようなビル群、中に入る商業・専門店もどこにでもある店ばかりである。チョット変わった店かなと思えば、店名と少しのメニューを変えただけの従来からある専門店が並ぶ。せいぜい違いがあるとすれば「ここだけ」という限定商品があるだけである。写真はスクランブル交差点から見上げた230メートルの超高層ビルスクランブルスクエアである。実はこうした高層ビルに象徴される「作用」に対し、「反作用」が渋谷にも現れ始めている。学生時代から渋谷を見てきた人間にとって「渋谷らしさ」を感じる場所もまだまだ数多くあり、道玄坂の百軒店辺りにはこれから「反作用」が生まれてくるかもしれない。ころで昨年11月渋谷パルコがリニューアルオープンした。1973年以降若者文化の発信地と言われてきたパルコであるが、それまでのトレンドファッションの物販のみならず、パルコ劇場やミュージアムに象徴されるように「文化」を販売する場でもあった。リニューアルによってどんな変化が見られるか、年が明けて落ち着いてから見て回ったのだが、今一つ面白さはなかった。唯一面白いなと思ったのは地下にある飲食街であった。「食・音楽・カルチャー」をコンセプトにした飲食店と物販店が混在した レストランフロアとなっている。いわゆる飲食街であるがフロアのネーミングが「CHAOS KITCHEN(カオスキッチン)」となっているが、どこが魅力を感じるカオス(混沌)なのか今ひとつわからない。唯一特徴的なのが「立ち食い店」が3店ほどあるということであろう。うどん、天ぷら、クラフトビール、という業種である。また、「真さか」という居酒屋もあるがパルコならではの居酒屋とは思えない。唯一行列ができていたのが博多で人気の「極味や」という鉄板焼きハンバーグ店だけであった。ただ写真を見てもわかるように、「レトロ」な雰囲気で、一種わい雑な賑わい感を創り出そういうことであろう。吉祥寺のハモニカ横丁や新宿西口の思い出横町を感じさせる通りとなっている。また、右側の写真を見てもわかるように酒瓶やビールなどのケースを店頭に置いた立ち呑みスタイルの店づくりになっているが、桜木町ぴおシティや大阪駅前ビルと比較しても今一つこなされてはいない。更にMDの内容を見る限り、パルコが持っていた新しい「文化」には程遠い。パルコらしい「文化」と言えば、これから起こるであろう食糧難がら世界で注目されている「昆虫食」のレストランであろう。ただ、昆虫を食する文化がどこまで日本で広がるかは極めて疑問である。しかも価格が極めて高いという難点を感じざるを得ない。ただ現時点で言えることは、渋谷スクランブル交差点から見える高層ビル群に対する「反作用」であることは間違いない。ただ、桜木町のぴおシティや大阪駅前ビルで見てきたように、「反作用」の世界が十分消化されていないことは言うまでもない。但し、桜木町のぴおシティや大阪駅前ビルの賑わいが渋谷パルコ地下レストランにないのは、総じて価格が高いということにある。行列のできているハンバーグ店の価格はグラムにもよるが1000円〜1600円程度で若い女性にとって楽しめる価格帯ではある。高価格の象徴例ではないが、串カツのメニュー価格はコースで3500円=4000円で、大阪ジャンジャン横丁で人気となった「だるま」のGINZA SIX銀座店のそれと同じような価格帯となっている。東京という「市場」はそのパイの大きさから経営に見合った集客は可能であると言われてきた。しかし、その集客となる顧客は誰なのか、渋谷パルコというブランド価値を踏まえたとしても、長続きするとは思えない。Newパルコが提案するとすればデフレ時代の若い世代に向けた「食文化」である。「道草」を求めてもう15年ほど前になるか、ベストセラー「えんぴつで奥の細道」にふれブログに書いたことがあった。「えんぴつで奥の細道」の書を担当された大迫閑歩さんは”紀行文を読む行為が闊歩することだとしたら、書くとは路傍の花を見ながら道草を食うようなもの”と話されている。けだし名言で、今までは道草など排除してビジネス、いや人生を歩んできたと思う。過剰な情報に翻弄されながら、しかもスピードに追われ極度な緊張を強いられる時代だ。当時身体にたまった老廃物を排出する健康法として「デドックス」というキーワードが流行ったことがあった。そのデドックスというキーワードを使って、「こころのデドックス」の必要性をブログに書いたことがあった。人によってその老廃物が、衝突を繰り返す人間関係であったり、極端な場合はいじめであったり、そんな老廃物に囲まれていると感じた時、ひとときそんなこころを解き放してくれるもの、それが道草であるという指摘であった。その後、「フラリーマン」というキーワードが注目されたことがあったが、共稼ぎの若い夫婦のうち、旦那だけが仕事を終え自宅に直行することなく、書店に立ち寄ったり、バッテングセンターでボールを打ったり、そんな時間の過ごし方をフラリーマンとネーミングしたのだが、今回観察した横浜桜木町のぴおシティも大阪駅前ビルにも多くのフラリーマンを見かけた。テクノロジーの進化、そのスピードはこれからも更に速いものとなっていく。AIは働き方を変え、それまでのキャリアの意味も変わっていくであろう。ましてやグローバル化した時代であり、その変化は目まぐるしい。こうした時代を考えると、この道草マーケットは縮小どころか、増大していくであろう。2つの老朽化したビルの飲食街に人が集まるのも、リニューアルした渋谷パルコの地下レストラン街も道草のための路地裏横丁である。渋谷パルコのフロアネーミング、コンセプトであると理解しているが、カオス(混沌)キッチンというネーミングは正確ではない。いや、コンセプト・MDのこなし方が上滑りしており、単なるレトロトレンドに終わっている。若い世代にとっても、道草は必要である。つまり、若い世代にとっての立ち呑みも、立ち食いも、店づくりも、勿論価格も、それは東京吉祥寺のハモニカ横丁もそうであるが、大阪駅ビルルクアイーレのバルチカに学ぶべきであろう。もし渋谷パルコが若い世代の「文化」の発信地になり得るとすれば、スタイルとしての「レトロ」だけでなく、過去の「何に」新しさを感じて欲しいのか、過去の「何に」面白さを感じて欲しいのか、デフレ時代の先を見据えたコンセプトの再考をすべきということであろう。それが渋谷パルコの目指す「反作用」となる。人間臭さを求めて道草はひとときこころを解放してくれる時間であるが、どんな「場」がふさわしいかと言えば、構えた窮屈な場・空間ではなく、少々だらしなくしても構わない、そんな場である。道草もそうだが、一見無駄に見える時間が必要な時代である。例えば、商品開発など次に向かう方針やアイディアを持ち寄った会議があるとしよう。物事を整理し議論してもなかなかこれというアイディアは出てこないものである。逆に、休憩時間などでの雑談の中から面白いアイディアが生まれることが多い。ところで歴代の漫画発行部数のNo. 1は周知の「ワンピース」で1997年以降4億6000万部となっている。「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を巡る海洋冒険ロマンで、夢への冒険・仲間たちとの友情といったテーマを掲げたストーリーである。昨年のラグビーW杯における日本チームの「ワンチーム」というスローガンと重ね合わせることができる「人」がつくる世界への「思い」をテーマとしている。勿論そうにはなってはいない現実があるのだが、そうした「人間」を見つめ直したい、そんな欲求があることがわかる。のびのびとさせてくれる、多くの規制から一旦離れ自由になれる世界が求められているということである。今、静かなブームとなっているのが「食堂」である。大手飲食チェーンによって次々と町から無くなってきているが、ほとんどが家族経営で高齢化が進み、結果後継者がいないことによる廃業である。しかし、食堂の魅力を「家庭の味」「おふくろの味」に喩えることがあるが、少々盛り付けはガサツであるが、手早く、手作りで、しかも安い定食を求めての人気である。そこには「人」の作る味があるからだ。立ち呑み店の多くはセルフスタイルが多く、そこには「人」が介在しないと勝手に思いがちであるが、古びたのれんをくぐれば「いらっしゃい」の声がかかる。メニューは全て短冊に手書きで書かれており、その多さに迷ってしまうほどである。そんな人間臭い店に人は通ってくる。回数多く利用できる安さとクオリティを求めて老朽化したビルに生まれていたのは、特別な時、特別な場所、特別な飲食・メニューではなかった。いわば「ハレの日」の食ではなく、徹底した「ケの日」の利用でとにかく安い。5年ほど前、東京の居酒屋でセルフスタイルで、つまみや肴は1品300円という価格設定でかなり流行ったことがあった。しかし、今やほとんどそうした業態は無くなっている。その理由は「価格」だけを追い求めてしまい、つまみや肴のクオリティは二の次であった。つまり、回数多く利用したくなる「クオリティ」ではなかったと顧客がわかってしまったといういうことである。写真は大阪駅前ビルの立ち食い焼肉のメニュー写真であるが、1切れ50園からとある。少々読みづらいが上はらみは1切れ220円、ハート50円、和牛A5カルビ1切れ180円となっている。ちなみに大阪駅ビル地下のバルチカの若者の人気店「コウハク」のメニュー洋風おでんは180円である。グラスワインは平均400円前後となっている。数年前、西武新宿駅近くの立ち食い焼肉店が話題となったことがあったが、価格は半額〜2/3程度という安さである。実はなるほどなと思ったのは横浜桜木町ぴおシティのセンベロパークの価格も老舗の「すずらん」に見られるようにつまみや肴、ドリンクはほぼ300円前後であった。そして、「ケの日」の特徴である回数多く利用できる「業種」も多彩である。数年前に新規オープンした中華の「風来坊」はウイークデーにもかかわらず午後3時には満ほぼ員状態であったと書いたが、この店も当然価格は安い。レモンサワー300円、酎ハイ250円となっており、実は肴の中華料理は本格的なものばかりである。チャーシュー350円、ピリ辛麻婆豆腐400円、玉子炒飯350円となっている。価格だけを見れば、極端に安いということではない。デフレ時代としては「普通」の価格帯となっている。ただ、どの居酒屋もクオリティは数段高くなっていることは間違いない。そのクオリティにはアイディア溢れるものもあって一つの集客のコアになっている。デフレ時代の進化系の特徴の一つである。出入り自由なオープンエアの店づくり桜木町ぴおシティも、大阪駅前ビルも、渋谷パルコも、少し前に未来塾でレポートした大阪駅ビルルクアイーレの「バルチカ」も、各店舗の多くはそのスタイルは別にして外の通りから店内が見えるオープンエアなものとなっている。日常回数利用を促進することが目的であり、その前提となる「分かりやすさ」が明快になっていることである。スタイルとしては、屋台、(角打ち)のれん、・・・・・・つまり閉じられた店ではなく、気軽に手軽に入ることができる店づくりである。特に、どんなメニューをどのぐらい安く提供してくれるのか、更に言うならば中にいる顧客はどんな顧客が来ているのか、どんな雰囲気なのか、通りかかっただけで「すべて」がわかる店である。今回はできる限り多くの店舗のフェースや通りの写真を掲載したが、肖像権のこともあって通行する人たちが途絶えた時の写真となっている。実際にはもっと賑わいのある通りであることをお断りしておく。上の写真も大阪駅前ビルの飲食店であるが、通りと店舗の境目がほとんどない、そんな店づくりとなっている。店主に聞いたら、管理会社からの要請でもう少しセットバックすることになると話されていた。日常の回数利用の業態は、何の店なのか、例えばのれんひとつとっても「分かりやすさ」を表現する方法となっている。デフレ時代の回数ビジネスの基本であるということだ。老朽化を新しさに変える今回も山歩きの比喩を借りて、再開発ビル=登山、老朽ビル=下山、2つの歩き方を考えてみた。建造物である限り「安全」であることを前提とするが、リニューアルした渋谷パルコのレストラン街は2つの老朽化したビル(横丁路地裏)の雰囲気・界隈性に共通するものが多くある。それを渋谷の大規模再開発という、つまり登山という「作用」に対する「反作用」の事例として位置付けをしてみた。顧客視点に立てば、「老朽化」「過去」を借景とした世界もまた必要としているということである。勿論、経済のことを考えれば賃料も安く済み、その分メニューの「クオリティ」を上げ、しかも価格を抑えることが可能となる。オープンエアの店舗スタイルであれば、店舗の初期投資も軽く済む。ある意味、デフレ時代のビジネスの基本であるということである。4年ほど前、高級素材のフレンチをリーズナブルに提供した「俺の」業態は、今老朽ビルの飲食街で数多く見ることができた。デフレもまた進化しているということだ。「時代」が求める一つの豊かさ2年半ほど前に、未来塾において「転換期から学ぶ」というテーマでレポートしてきた。所謂「パラダイム転換(価値観の転換)」についてであるが、第一回目ではグローバル化する時代にあって「変わらないことの意味」を問うてみたことがあった。今回は身近で具体的な「老朽化」という変わらないことの一つを取り上げたということでもある。「老朽化」に変わらないことの意味を問い、その商業の賑わいの理由を抽出してみた。そこには、古の持つ新しさ、道草という自由感、人間臭さ、明確なデフレ価格、費用を抑えた店づくり、分かりやすいオープンエア、屋台風小店舗、立ち食い、・・・・・・・少し前まではどこにでもあった消費文化。今やスピード第一のグローバル化した時代、しかも生活がどんどん同質化していく社会にあって、ひととき「豊かな時間」を求めた、そこに賑わいがあった。金太郎飴のように均質化した高層ビル群ばかりのつまらない街に、老朽ビルの一角に妙に人間臭いおもしろい賑わいを見ることができた。これもまたデフレ時代の楽しみ方の一つとなっている。つまり、「時代」が求める豊かさの一つということだ。
2020.03.20
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今回取り上げたのは1970年代の高度経済成長期に造られた複合商業ビルに新しい顧客市場の「芽」、すでにあるものを生かし直すビジネスの「芽」への着眼である。今回は首都圏横浜と大阪2つの事例を取り上げ、どんな芽であるかを学ぶこととした。横浜桜木町ぴおシティ地下フロア 消費税10%時代の迎え方(8)「老朽化」から学ぶ老朽化する街。老朽化が生み出す新しい「芽」、 デフレを楽しむ時代への着眼。戦後75年高度経済成長期に造られ整備された多くのインフラ、道路橋、トンネル、河川、下水道、港湾等の老朽化が眼に見えるようになった。そのきっかけになったのは、やはり2012年に起きた笹子トンネル天井板落下事故であろう。9名が亡くなった痛ましい事故だが、実は同トンネルの完成は1975年。完成から37年後という、供用開始から50年に満たない時点のことだった。こうしたインフラを更新する費用は今後50年で総額450兆円、年に9兆円を必要とするとの試算もある。その更新手法として、広域化、ソフト化(民営化・リースなど)、集約化(統廃合)、共用化、多機能化の5つが考えられている。例えば、少子化による小学校の統廃合によって必要のなくなった校舎をハム工場などに変えていくといったソフト化の事例は今までも数多く見られた。あるいはこうした行政が行う領域のインフラばかりか、「老朽化」は街を歩けば至る所で見られる。こうした老朽化する建物を新たな価値観を持たせたリノベーションは数年前から町おこしなどに数多く活用されてきた。今から5年ほど前になるが、東京の谷根千(谷中、根岸、千駄木)という地域の再生をテーマにして取り上げたことがあった。そして、この地域をレトロパークと名前をつけたが、その象徴の一つが解体予定だった築50年以上の木造アパート『萩荘』のリノベーションであった。若いアーティストのためのギャラリーやアトリエ、美容室、設計事務所などが入居する建物で、HAGI CAFEという素敵なカフェがあり、訪れた観光客の良き休憩場所となっていた。今回取り上げたのは1970年代の高度経済成長期に造られた複合商業ビルに新しい顧客市場の「芽」、すでにあるものを生かし直すビジネスの「芽」への着眼である。今回は首都圏横浜と大阪2つの事例を取り上げ、どんな芽であるかを学ぶこととした。「新しさ」の意味再考 1980年代の生活価値の一つに「鮮度」が求められたことがあった。新しい、面白い、珍しい、そうした価値の一つだが、生活の中に鮮度という変化を求めた時代である。今までとは違う、他人のものとは違う、そうした「違い」が差別化というキーワードと共に、ビジネス・マーケティングの重要なファクターとなった。例えば、鮮度を求めて、とれたての魚ならば漁師町で食べるのが一番といった時代であった。商業ビルも同じで、その新しさに期待を持って行列した時代である。しかし、よくよく考えれば構造物の鮮度であればオープン当日が一番鮮度があることとなる。翌日からは古くなっていくことに思い至るに多くの時間は要しない。勿論、「新しさ」を求めるマーケットは多くの生活領域に存在している。しかし、自動車で言えば、確か1990年代には新車販売数を中古車販売数が超え、次第に古い中古車はビンテージカーとしてコレクションとして当時の価格を上回る価格で取引されるようになる。あるいは最近であれば、一時期ブームとなった熟成肉、熟成魚などを見てもわかるように鮮度の意味が変わってきた。大きな時代潮流という視点に立てば、バブル期までの昭和時代の雰囲気を「昭和レトロ」として再現することすら全国各地で行われてきたことは周知の通りである。それらは過去を懐かしむ団塊世代もいれば、その過去に「新しさ」を感じる若い世代もいる、こうした一見相反する街の一つが吉祥寺であろう。写真を見てもわかるように、駅前一等地にあるハモニカ横丁という昭和を感じさせる飲食街と共に、周辺にはパルコをはじめとしてオシャレなトレンドショッピングが楽しめる街並みが形成され観光地となっている。港の街、横浜桜木町の変化首都圏に生活の場のある人間にとって横浜桜木町と言えば「みなとみらい」のある街を思い浮かべるであろう。JR京浜東北・根岸線でいうと、横浜駅の次の駅が桜木町駅で、次の駅は神奈川県庁などのある関内、更にその次の駅には中華街の最寄り駅となる石川町、つまりみなと横浜の中心市街地である。そして、周知のように横浜は明治以降日本を代表する貿易港である。ちなみに、日本で初めての鉄道の開通は初代汐留(新橋)と初代横浜(桜木町)を結ぶものであったことはあまり知られてはいない。このことが示しているように、桜木町は港横浜を象徴する街であることがわかる。首都圏に住む人間にとって桜木町駅というとJR線と東急東横線の2つの駅があり、2004年みなとみらい地区や元町中華街へ東急電鉄が運行するようになり、東急東横線の桜木町駅は無くなることとなる。JR京浜東北・根岸線の桜木町駅と横浜市営地下鉄の桜木町駅の乗降客数は若干減少したものの依然として賑わいのある駅となっている。この駅前に建てられたのが、写真の「ぴおシティ」である。このぴおシティの前身である桜木町ゴールデンセンターは1968年に建造された商業ビルである。1976年には横浜市営地下鉄桜木町駅が開業、桜木町ゴールデンセンターの地下2階フロアと直結する。そして、1981年三菱地所が桜木町ゴールデンセンターの89%の権利を取得。1982年4月の改装を機に、「ぴおシティ」の愛称が付けられ今日に至る。オフィスとショッピング街の複合施設であるが、2004年10月にサテライト横浜(会員制の競輪場車券売り場)、2010年2月にはジョイホース横浜(会員制の場外馬券売り場)が開場する。こうした場外馬券売り場などが誘致されたのも桜木町の辿ってきた歴史がある。それは港町、つまり港湾事業の歴史でもある。戦中戦後の横浜港は人力による荷役作業が中心であった。多くの荷役労働者によって街が成立してきた歴史がある。1955年横浜港は米軍の接収が解除され、1957年に職業安定所と寄せ場(日雇労働者に仕事を斡旋する場所)が移転し寿町がドヤ街として発展する。寿町は、東京の山谷、大阪のあいりん地区とならぶ三大ドヤ街で、物流の進化とともに港湾労働が荷役労働からコンテナ輸送へと変わっても、桜木町周辺、特に野毛あたりには当時の雰囲気が残る街である。勿論、山谷やあいりん地区のドヤ街・簡易宿泊所は訪日外国人・バックパッカーの宿泊場所へと変化を見せているが、横浜寿町にはそうした変化はまだ見られていない。ぴおシティの写真を見てもわかるように、建造されて52年老朽化を感じさせる商業ビルであるが、その西側一帯にある横浜の古い街並を象徴するかのように風景となっている。みなとみらい線によって、横浜中心街が一変するところで、桜木町駅の反対・東側には「横浜みなとみらい地区」が開発される。千葉の幕張と同じように首都圏の新都心として位置づけられ、高層オフィスビルや国際会議場、ホテル、あるいは古い赤レンガ倉庫を改造した飲食施設やイベント会場など新都心にふさわしい「都市開発」が今なお造られ続けている。写真はJR桜木町駅から見たみなとみらい地区の写真である。こうした横浜みなとみらい地区とは異なる未開発のぴおシティ・野毛地区は昭和の匂いのする労働者の街であった。桜木町駅を境に、東側の海側には横浜みなとみらい地区〜元町中華街という横浜の表玄関・大通りであるのに対し、西側にはぴおシティ・野毛地区があって横浜の裏、横丁路地裏と言える地域となっている。「町の良さ」の一つは、こうした再開発による新しさと開発されずに残った古き時代とが入り混じったところの「おもしろさ」であろう。ところでみなとみらい線によって大きく横浜の街は変わっていくのだが、その元町中華街に繋がる変化は都市観光の一つのモデルでもあった。当時の変化を次のようにブログに書いたことがあった。『横浜中華街の最大特徴の第一はその中国料理店の「集積密度」にある。東西南北の牌楼で囲まれた概ね 500m四方の広さの中に、 中国料理店を中心に 600 店以上が立地し、年間の来街者は 2 千万人以上と言われている。観光地として全国から顧客を集めているが、東日本大震災のあった3月には最寄駅である元町・中華街駅の利用客は月間70万人まで落ち込んだが5月には100万人 を上回る利用客にまで戻している。こうした「底力」は「集積密度の高さ=選択肢の多様さ」とともに、みなとみらい地区など観光スポットが多数あり、観光地として「面」の回遊性が用意されているからである。こうした背景から、リピーター、何回も楽しみに来てみたいという期待値を醸成させている。』老朽ビルぴおシティの地下街こうした都市観光から外れたのが今回テーマとしたぴおシティを入り口とした野毛地区さらにその先には昔の繁華街伊勢佐木町地区がある。JR桜木町駅の西口(南改札)を降りるとその先には「野毛ちかみち」「地下鉄連絡口」の表示があり、地下をくぐるとぴおシティの地下飲食街につながっている。後述するがビルの地下街というより野毛地区に向かい「地下道」といった方がわかりやすい。また、まっすぐ降りていくと広場があって横浜市営地下鉄の改札になるのだが、ぴおシティは左側にビルの入り口があり、横丁・路地裏と言った感じである。入り口をくぐると写真のような地下2階のフロア になるのだが、古い地下道に店舗があると言った飲食店街である。この薄暗い地下道を進むと今回目的となる飲食店街になる。全部で19店舗の内蕎麦店や寿司店もあるが、所謂居酒屋は13店舗に及んでいる。それら店舗には椅子もあるが、基本的には「立ち呑み」で「昼のみ」「せんべろ」酒屋が軒を連ねている。その集積度からこれはテーマパークになっているなと感じた。そして、観察したのは金曜日の午後3時すぎであったが、既に「宴会」は始まっていた。 同じような飲食のテーマパークには月島の「もんじゃストリート」があり、町おこしの成功事例として知られているが、月島もんじゃストリートも同様、メニューには各店特徴を持たせている。一般的な居酒屋は一件もない。面白いことにこうした競争が集客を促している。その象徴かと思うが、「風来坊」という中華を肴にした立ち呑み居酒屋で数年前に新規オープンし、観察した日もほぼ満席状態であった。 今またせんべろパーク人気テーマパークと簡単に言ってしまうが、それほど簡単に顧客を集客できるものではない。「テーマ」は魅力ある何か、その言葉、キーワードで語られることが多いが、実は「実感」そのものである。よく昭和レトロなどとコンセプトを語る専門家がいるが、コンセプトとは実感そのものことであることを分かってはいない。テーマパークの事例として取り上げられる月島もんじゃストリートも、熊本の黒川温泉も、至る所でコンセプトが実感できる。ぴおシティの「せんべろパーク」は勿論「せんべろ」とネーミングできる要素が明確になっている。まずは気軽手軽に立ち寄れる「オープンエア」の店づくりのスタイル、しかも立ち呑みである。そのオープンエアのオープンは、価格もメニューもわかりやすい、つまり「オープン」なものとなっている。「立ち食い」というと立ち食いそばを想い浮かべるが、気軽さ・手軽さは同じであっても、更にこだわりはあっても基本胃袋を満たす立ち食いそばとは根底から異なる。つまり、食欲ではなく、ひととき「こころ」を満たしてくれる、自由にしてくれる私の場であり、至福の時間ということとなる。そして、そのためにはデフレ時代を踏まえれば回数多く利用するにはやはり「低価格」ということになる。老舗の「すずらん」は店頭で食券を買い求めてオーダーする仕組みで、食券は1枚は300円となっている。そして、ほとんどのメニュー、ドリンクも肴も300円となっている。写真のせんべろセットもそうした「わかりやすさ」のためのものだが、多くの顧客は好みの注文をして「こころ」を満たす。顧客が「店」をつくる 地下2階のせんべろパークも顧客がつくったテーマパークであるが、もう一つぴおシティには「顧客がつくった店」がもう一軒ある。それは地下1階のフロアにある店で「フードワンダー」というグロッサリーの店である。事前に調べ閑散としていると勝手に思い込んでいたが、まるで逆の光景を目にした。ちょうど3時過ぎの買い物時間ということもあり、地元の主婦と思える人でレジには行列ができていた。周辺のみなとみらい地区には成城石井やディスカウンターであるスーパー OK、あるいは JR桜木町駅にはCIALに北野エースが出店しており、野毛地区の奥にある京急日出町駅には京急ストアがある。フードワンダーは小型スーパー的な業態であるが価格もリーズナブルなものとなっている。同じフロアには100円ショップのダイソーも大きな面積で入っており、ぴおシティ全体が日常利用しかも安価なデフレ業態の店舗で構成されていることがわかる。よく生き残るためにはと表現をするが、顧客が「生き残らせる」ことである。ぴおシティにはそうして「生き残った」店ばかりで、しかもせんべろフロアにはメニューの異なる立ち呑み店がここ数年の間に新規出店しており、テーマパークのテーマ性がより強くなっている。つまり、「商売になる」ということである。いつ解体してもおかしくない老朽ビルも、時間経過と共に顧客支持を得た「魅力」によって新しい価値を生み出す良き事例が生まれている。顧客によって育まれ熟成した生活文化と言えなくはない。(続く)
2020.03.18
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ヒット商品応援団日記No759(毎週更新) 2020.3.5.新型コロナウイルス感染及び昨年の消費増税による消費縮小についてブログを書き始めたのは2月11日であった。その時のタイトルは「移動抑制が消費を直接低下させる 」で、マスク着用はそれほどの効果はないとされているが、昨年12月からの季節インフルエンザの流行は予測を下回る感染であることが報告されている。これは1月後半からの新型コロナウイルスに対する自己防衛によるところが大きいと分析する医師も多いと書いた。つまり、「自己防衛」は1月末から既に始まっているという指摘であった。そして、2月23日には「人通りの絶えた街へ 」というタイトルで、賑わいは街から亡くなったと指摘をした。小中高の一斉休校が始まる10日以上前の指摘であった。誰もが心配するのは新型肺炎が本格的に市中感染した時、まさにパンデミック状態となるのだが、「移動抑制」は移動することなく「冬眠」状態となる。つまり、氷河期時代の冬眠生活である、と指摘もした。「見えないこと」「不確かなこと」への不安・恐怖はとうとうトイレットペーパー騒動へと向かった。周知のようniSNSへのデマ情報に端を発したそうであるが、鳥取米子の生協職員の投稿であるが、発生源はどこにあるのか少し調べれば誰が投稿したのかわかってしまうことからHPに謝罪文が掲載されるといった始末である。一人のデマは数人の同調者に拡散されるのだが、その「同調」はマスメディア、特にTVメディアによって増幅拡散する。トイレットペーパーのない棚が繰り返し放映されることによって、デマとわかっている人間も無くなっては困ると考え、行列を作ってしまう。行列は更に行列を生み,TVメディアが更に増幅させる。TVメディアはメーカーの工場現場を取材し、在庫は十分あると放映するのだが、消費心理がまるで理解してはいない。前回の指摘をしたのだが、「理屈」では消費行動を変えることにはかなりの時間を要すると。「空の棚」を払拭するには、トイレットペーパーが十分に積まれた棚」を繰り返し放送することである。そして、スポーツ・文化イベントの自粛要請と共に、小中高の一斉休校が始まったが、「移動抑制」は移動することなく「冬眠」状態となる。つまり、氷河期時代の冬眠生活である。この冬眠生活については2008年9月のリーマンショック、2011年3月の東日本大震災という災害時の消費生活を思い浮かべればどんな冬眠生活なのか容易に想像することができる。例えば日本大震災の時には「電力不足」から飲食店では営業時間の縮小・限定が行われたが、今回は移動抑制による「人手不足」と「顧客不足」による時間限定営業もしくは臨時休業の違いだけである。鎌倉市では職員の「夫婦共働き世帯」が多く、出庁できずに行政サービスに支障が出る状態となっている。少し古いデータであるが夫婦共働き世帯は48.8%で、約半数が小中高の一斉休校による生活変更を余儀なくされている。売れているものは何か、過去2回の「災害」と同じで、レトルト食品、冷凍食品、缶詰、お米、・・・・・・つまり、数週間の冬眠生活を送る日持ちするものとなっている。さて、本題であるが、数週間程度の冬眠生活で治るかどうかである。リーマンショックから生まれたのが「わけあり」でデフレ生活ウを一変させた。東日本大震災においては、やはり自家発電への傾向が生まれソーラーパネルの設置や電気自動車といった自己防衛消費の傾向が強まった。前回も少し書いたが、消費心理の真ん中には何が問題であるか、その「正確さ」がある。それは何よりも新型コロナウイルスが「未知」のウイルルであるからだ。わからない、不確かさ、に対して不安が起きるのは至極当然のことである。しかも、生死に関わることであれば尚更の事で、うわさ・風評の素となる。NHKによれば、感染が疑われる人からの電話相談に応じる専用窓口「帰国者・接触者相談センター」に寄せられた相談は、2月26日までの10日間に少なくとも全国で8万3000件余りに上っていると報道されている。そして、今なお、電話相談が相次いでいるという。恐らく相談センタ^や保健所も人的に対応できない状態、パンク状態になっており、不安を確かめる「正確さ」を得ることができない状態になっている。この「正確さ」を自己防衛的に確認できるのが「PCR検査」しかない状況となっている。しかし、現実はかかりつけの担当医が保健所などに検査の要請をしても実施してもらえない。こうした事例がTV報道されることによって「不安」は増幅し、このままであれば「恐怖」へと向かっていく。今、この新型コロナウイルスに関する正体の「正確さ」は6万件近くの中国における感染データがWHOから発表されている。Report of the WHO-China Joint Mission on Coronavirus Disease 2019 (COVID-19)その中で、約80%が軽症で、感染ルートのほとんどが家庭内感染であること(感染の起こった344のクラスタ/感染小集団のうち、78~85%は家庭内の感染だった)。しかも、子供から大人に感染した事例はないとも(18歳以下の子供の感染率は低く、すべて家庭内で親から感染したものだ。逆に子供から親に感染したケースは報告されていない)。他にも中国各地の地域差について書かれており、発生源である武漢については感染爆発しているが他の地域、上海や北京では武漢のような爆発的感染はしていないとも。従来の季節インフルエンザとは異なるウイルスであり、固定概念を捨てなければならないということである。日本の感染症の専門委員がスタディしているようにクラスターという感染小集団の事例の概要が報告されている。北海道ではそのクラスター(若い世代)が雪まつりや展示会を通じた感染であったと推測され、大阪京橋のライブハウスについても大阪市が調査報告されているようにライブ参加者の中の小集団が自宅に戻り家庭内感染していることがわかっている。中国ほどの正確な疫学データではないが感染ルートのスタディはなされつつある。これらの情報だけでも小中高の一斉休校は愚策であることがわかる。従来の季節インフルエンザの発想から離れることが必要で、クラスター感染が起きている北海道や市川市、和歌山市あるいは相模原市は休校にしたら良いとは思うが、全国一斉ではない。生活者の不安を少しでも減らすことであれば、まず自己防衛の一つとして「マスク・消毒液」を全国隅々に早急に行き渡らせることである。ドラックストアの棚に置かれたトイレットペーパーと同じようにマスクと消毒液を棚に十分置いておくことである。繰り返し言うが、理屈で解決できることではないということだ。もし感染拡大を防ぐには、感染のクラスター小集団の「場」となっている、あるいは想定される「場」を「休止」することが第一であろう。屋形船、スポーツジム、ライブハウス、カラオケ、・・・・・・こうした場の衛生管理はもとより、休業期間に対しては政府は経済保証すべきとなる。但し、問題なのは「いつまで」という期間の設定である。本来であれば、精度は低いとはいえPCR検査による疫学データがないため期間設定ができないということである。このことは不安心理をストップさせることができないだけでなく、その先には東京オリンピックの開催ができるかどうかという問題まで行き着く。その前に、3月中旬までの順延・休止となっている東京ディズニーリゾートを始め、プロ野球やJリーグ、・・・・・多くのイベントや美術館などの諸施設はそのまま休止を続けるのか、それとも再開するのかという判断である。いや、東京オリンピックだけでなく、WHOが発表した感染国として注意すべき国々、韓国、イタリア、イランと共に日本も加わったことにある。クルーズ船における防疫の失敗から始まり、「感染国」というイメージが世界に流布されている。推測するに、米国トランプ大統領は日本への渡航&入国制限をかけることになるであろう。そうなった時、中国だけでなく米国も加わった場合の「経済」である。単なるインバウンドビジネスの減少だけでなく、両国との貿易は日本の貿易総額の22%を優に超え、リーマンショックどころの話ではない。(中国11.6%、米国10.6%/2017年)一部の経済アナリストは昨年の10月ー12月に続いて、1月ー3月のGDPはマイナスになると予測されているが、4月から元に戻ることはない。前回「人通りの絶えた街へ」消費氷河期を迎えると書いたが、その先に何が起こるかと言えば、凍死企業、凍死者が至る所に現れてくる。つまり、「日本経済崩壊」に向かうということだ。今どんな時かと言えば、パニック前夜としか言いようがない。繰り返し言うが、後手後手になってしまった対策を指摘することは容易いが、今は「正確さ」こそが危機をおり超える道である。PCR検査が広く担当医から民間企業に依頼できない理由を明らかにすること、そのできない理由にその後の入院など医療体制を組みことができないパンク状態になる実態、少ない疫学デーアではあるが中国のデータをベースに日本国内の感染実態を明確にした対策を立案すること、地域によっては小中高の休校を解除し通常の授業に戻すこと、クラスターと言う小集団の感染源が想定されたら休止・休業の要請をすること、勿論休止・休業に当たっての経済損失は一定額を政府保証すること、そして、マスメディアを含め従来の季節インフルエンザとは異なる対策を講じなければならないと言う意識転換をし、「正確」に事実をアナウンスしなければならない。その正確さとは科学としての疫学における正確さと共に生活者心理の正確さに基づくものであることは言うまでもない。電車内で咳をした女性への暴言を吐いた乗客に対し、それを見ていた乗客との間で喧嘩が始まった様子がスマホで撮られ報道されていた。トイレットペーパー騒動もそうだが、新型コロナウイルス感染の不安は一種のヒステリー状態を起こしているわかりやすい事例である。ある意味、パニック前夜にあると言うことだ。不安をヒステリー状態に向かわせるのも「情報」であり、特に過剰なTV報道による不安の増幅こそ元凶の一つであり、抑制的に正確な情報公開こそが危機を超える唯一の方法である。(続く)
2020.03.05
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