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ヒット商品応援団日記No784(毎週更新) 2021.3.31前回のブログでコロナ禍1年今一度「正しく 恐る」という生活者・個人の認識を考えてみた。ちょうど1年になるが新型コロナウイルスと出会ったのはあの国民的コメディアン志村けんさんのコロナ死であった。この衝撃は感染症専門家あるいは政治家のどんなコメントよりも深く心に突き刺さった。幼い子供から高齢者まで、その「事実」に心動かされた。その後第一回目の緊急事態宣言が発出されるのだが、前回のブログに書いたように、感染者数という「事実」によって行動の変化が促されると。調査をしたわけではないが、多くの飲食店事業者は感染者数という事実の変化と共に来客数が変わることを実感していると思う。つまり、感染者数という「事実」による心理に基づいて行動もまた変わるということである。第2回目の緊急事態宣言発出後、その延長の是非を国会で議論されていたが、実は極めて重要なことが答弁されていた。マスメディア、特にTVメディは相変わらず無反応であったが、政府諮問委員会の尾見会長は3月5日の国会答弁で、新型コロナがいつ終息するのかを問われ、「(国民の間に)季節性インフルエンザのように不安感、恐怖心がないということが来る。その時が終息」と発言している。つまり、不安感、恐怖心という「心理」がインフルエンザのようにある意味日常の出来事として受け止められるようになったらということである。それはいつまでかと聞かれ、今年一杯から来年位かけて2年ほどと答えている。この国会答弁後に麻生財務相の記者会見で、記者に「いつまでマスクをしなければいけないのか」と記者に逆質問し、その質問の仕方が麻生さんらしく不躾であるとTVでも話題になった。記者の答えは「当分の間」と答え、麻生財務相は「政治家みたいな答えだな」と皮肉っぽくやりとりしていたが、政治記者なら尾見会長の発言を踏まえて、「あと2年近くは」と答えるぐらいのことは当然であろう。この程度の政治記者だから、国民にとって極めて大切な尾見会長の「仮説」が報道できないのだ。余計なことを書いてしまったが、前回も書いたがコロナ禍の課題はウイルスという身体的な「病気」であると同時に心理の「病気」でもあること。及びこの2つの病気は長期戦になるということが重要だ。ところで東京都は4月21日まで飲食店・カラオケ店の時短営業を延長することを決めた。感染者数は300人台で下げ止まり、増加傾向にあることからとその理由を説明しているが、緊急事態宣言の発出から3ヶ月半を超えることとなる。前回のブログでも書いたように生活者・個人は自己判断で巣ごもりからの活動を始めている。その象徴であるのが、旅行であろう。まずは近場の小さな旅であるはとバスの桜観光には多くの予約が入っており、箱根の旅館・ホテルにも賑わいを見せ始めている。こうした生活者・個人の行動変化と共に時短の対象となった飲食事業者の問題指摘が表面に出てきた。グローバルダイニングによる東京都の提訴である。大きくは2つの指摘で、1年前から指摘してされてきた特措法の改正で時短要請ではなく時短を命令できるとした憲法で保障されている「営業の自由」に反すること。更には協力金の不公平さについてであり、もう一つが特措法にある命令の出し方、グローバルダイニングがSNSで東京都を批判していることに対し「見せしめ的措置」で表現の自由に反しているのではないかという2点についてである。すでに報道されているように、午後8時までの時短営業を拒否した飲食店は2000店以上あったが、この要請に従わなかった113の店舗に都は個別の時短要請を出した。18日に時短を命じられた27店のうち26店が、グローバルダイニングの店舗。SNSで都に批判的なメッセージを投稿したことなどに対する見せしめだという判断からの提訴であった。改正特措法について国会でも論議されていたが、命令違反企業への過料の是非などばかりであったが、論議して欲しかったのは「命令」の適切な運用であり自粛協力金の「公平さ」であった。グローバルダイニングのゼストなどはその多くは数百坪の店舗であり、小さな店舗と同じ6万円の協力金の不公平さである。この問題指摘は1年近く経っているにも関わらず国会で論議されることなく改正されたことは周知の通りである。政治家がいかに現場を知らないかの象徴的事例であるが、行政が公共に反する行為に対し、権力を行使できるのはまず行政の努力をしてからであると飲食事業者だけでなく多くの生活者・個人は考えている。法律的には今回の「命令」には瑕疵はないとする法律家は多いが、生活者感情とは大きく異なる。いづれにせよ司法判断が待たれる問題である。またしても脇道に外れてしまったが、マスクをしないで済む日常にはまだまだ時間がかかるという課題である。昨年の4月第1回目の緊急事態宣言が発出されてからは、一定の間隔を空けての客席配置、あるいは来店客数の減少に合わせての食材仕入れの調整やアルバイトやパートさんたちのシフト変更・・・・・・・・政府からの各種支援制度の検討と申請。そして、実際に店舗を運営していくこととなり、場合によってはテイクアウトメニューの開発や店頭での販売の工夫など現場での1年間を経験してきたと思う。勿論、感染予防のためのアクリル板や衝立など徹底してきたことは言うまでもない。ある意味「引き算」の経営であった。2月の未来塾では困難なかで闘っている飲食専門店と商業施設を取り上げた。そこには「不要不急」の中に楽しさを見出したり、鬱屈した日常に「気分転換」と言う満足消費があった。日常をどう変えていくかという新たな価値が賑わいを創っていることがわかる。(今一度参照してほしい)競争相手はコロナであり、困難さは同業種皆同じであるが、そこに共通していることは顧客変化を見逃さない強い意志と眼を持っているかである。そして、顧客が求めていること、それは業態の転換と言った大仰な変化ではなく、日常の中に小さな変化を求めていることがわかる。この1年否応なく行ってきた引き算の経営ではなく、小さなメニューやサービスを見ていく「割り算」の経営への転換である。二分の一、4分の1、8分の1という小さな単位で見ていくことの中に顧客が求めている「変化」が見えてくる筈である。割り算とは時間帯顧客であったり、常連客であったり、勿論男性・女性あるいはファミリー・お一人様と言った属性の違い。こうした割り算の見方を変えれば自ずと「自覚」と「発想」を変えていくことになる。例えば、私の好きな弁当に焼売の崎陽軒がある。若い頃新幹線で食べて以来、時代の豊さに比例し副菜はどんどん進化してきた。その中に「あんず」がある。どのようにそのあんずを食べているのかであるが、最後の一口デザートとして食べる人もあれば、箸休めの変化として食べる人もいる。人それぞれ思いは異なるが、こんな小さな「変化」もまた崎陽軒フアンづくりに役立っていると理解している。こうした「小さなこと」への着目は危機にあっては原点に戻ることでもある。例えば、今コロナ苦境にあるはとバスは債務超過にあった時、変わるために行なったことの一つが顧客の声を聞くことであった。「お帰りBOX」という仕組みで、ドライバー・添乗員はその日あったこと、お客様が口にしたことをメモにして改善していく。その中には「休憩に出されたお茶がぬるかった」と言った小さな声に気づき改善を重ねていく。その積み重ねが再生への道へとつながったことを思い出せば十分であろう。この「小さな」変化の取り入れは持続可能なことのためであり、しかもあまりコストをかけずにできることである。しかも、顧客に一番近い現場で行うことができる。例えば、季節の花一輪をテーブルに飾ってみる。日本人は季節の変化を花によって感じることが多い、5月になればツツジ、梅雨に時期でになれば紫陽花のように。あるいは季節の祭事もアクセントとして店内に飾るのも良いかもしれない。端午の節句時期ならば鯉のぼりであったり、母の日であればカーネーションも良いかと思う。現場の人に負担をかけずにできるアイディアを採用したら良い。巣ごもり生活で失ってしまうのは人と人との会話であり、自然である。こうしたひととき和むアイディアは小売業が常に行なっているもので、こうしたことを飲食業も取り入れたら良いかと思う。ところで顧客接点である飲食業や専門店にとって注視しなければならないのは生活者・個人の「動き」である。前回のブログにも書いたが、東京都の場合緊急事態宣言というメッセージ効果ではなく、2520名という感染者数の「事実」によって自制のブレーキがかかり300名台へと減少させた。勿論、飲食事業者と生活者・個人の犠牲のもとでだが、実は生活者・個人の行動、「動き」にはこの1年少しづつ変化してきている。コロナ禍1年繰り返しブログに書いてきたことの一つが「正しく 恐る」ことであり、その「正しさ」とどのように伝えてきたかである。これ以上書かないが、極論ではあるが「恐怖」を煽ることで自粛要請をしてきた。その「煽り」を率先してきたのはTVディアであった。そのTVメディアであるが、若い世代の路上飲酒(路のみ)などを取材し放送しているが、相変わらず若者犯人・悪人説を続けている。これも繰り返し書かないが、この1年「若い世代は重症化リスクは少ない。軽症もしくは無症状者である。」と言った情報を流し続けてきた結果であり、無症状者が感染させるメカニズム、その証拠を明らかにしてはいない。第1回目の緊急事態宣言についてもどんな効果があったのか検証すら行われていない。昨年春、ロックダウンではなく「セルフダウン」を若い世代を含め国民は選んだと書いたが、感染症専門家も政府自治体も更にTVメディアも「自粛疲れ」「我慢疲れ」「慣れ」と言った言葉で説明してきているが、生活者・個人は既に自己判断で行動し始めていると理解すべき段階に来ている。簡単に言ってしまえば政府も・自自治体の首長のいうことを聞かなくなってきたと言うことである。ここ数週間人出が多いとするテーマで街頭で取材をしているが、取材に応じた多くの人は「びっくりするぐらい人出が多い」と答えている。そこには自分だけは別であるとした考え、自己判断が働いていることがわかる。「私だけは別」という人間が増えている。つまり、自己判断で行動する人たちはどんどん増加しているということだ。こうした中、緊急事態宣言が解除された3日後の今月24日、東京・銀座の居酒屋で厚労省職員23名が深夜まで宴会をしていたことがわかった。しかもアクリル板などの飛沫予防などしていない店であったと報道されている。感染リスクの高い歓送迎会や旅行などの自粛要請をしてきた厚労省職員の行動に唖然とする。また、一方東京都は改正特措法45条に基づく午後8時までの営業時間短縮命令に応じなかった4店舗について、過料を科す手続きを裁判所に通知した。対象となった店舗については公開されていないが推測するにグローバルダイニングであろう。違反していた2000数店舗全てに過料するのであれば少しの理解はできるが、4店舗だけというのは見せしめ以外の何ものでもない。法の平等性に反するものだ。そもそもこの過料については極めて悪質な飲食店へのものでその運用は慎重にすべきとの議論であったが、こうした強権的なやり方に批判は集まること必至である。混乱は更に深刻さをましていくことが予測される。感染力の強い変異型ウイルスという要因もあるが、一番の課題は生活者・個人が自己判断で行動を変え始めているということである。その兆候は既に若い世代から始まっている。ここ数ヶ月感染者の内訳を見ていくと相変わらず20代~30代が多い。昨年の秋頃であればこの世代に特徴的な軽症者の後遺症について盛んに報道されていたが、そのリスクメッセージの効果がないと見たのか、現在は後遺症キャンペーンはTVメディアではほとんど見られることはなくなった。また、若い世代ばかりか高齢者にも同じ兆候が見られ始めている。ある意味元気な高齢者であるが、ここ数ヶ月高齢者グループによる昼カラによるクラスター発生が起きている。また前回のブログにおいても触れたが、東京・大阪といった都市部が感染の中心課題であったが、諮問委員会の尾見会長の言葉によれば「染み出す」ように地方へと拡散している。その象徴としては宮城仙台や愛媛松山であるが、一方感染者は極めて少ない地方、しかも大都市に隣接する山梨や和歌山のような感染者のいない日常に戻った県もある。全て一律に行うことは意味のないこととなったということだ。こうした中、依拠すべき判断は目の前の「顧客」である。自己判断を始めた顧客の変化にいち早く気づき小さく応えることしかない。(続く)
2021.03.31
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ヒット商品応援団日記No783(毎週更新) 2021.3.21政府は約2ヶ月半ほど実施して来た緊急事態宣言を解除した。その背景には病床の改善もあるがだらだらとした宣言状態であれば効果はないとすることのようだが、実は生活者、特に若い世代にとって「解除」は既に始まっていた。東京都の場合、1月7日の宣言発出翌日には感染者数が過去最大の2520名となった。以降、対策としては飲食店の時短とテレワークの推進を行いある意味で劇的な感染減少へと向かう。その効果であるが、実効再生産数(感染の拡大)の0.2程度の引き下げが見られたとの報告があるが、基本的には飲食店経営者と生活者個人の犠牲のもとでの減少である。諮問委員会の尾身会長は、「何故減少したのか、現在下げ止まっているのか科学的根拠がわからない」「見えないところに感染源があるのではないか」と国会答弁で答えていたが、この1年間明確な根拠がないまま対策を行なって来たことの象徴的発言であろう。1年前から感染症研究者や経済学者以外に、社会心理の専門家も諮問委員会のメンバーに入れるべきであると指摘して来たが、社会行動を変えるにはその「心理」を分析することが不可欠であるとの認識からであった。この2ヶ月間都知事が「ステイホーム」といくら叫んでも「人出」は減少どころか時間経過と共に次第に増加して来ている。2月に入り、700名ほどいた感染者は半ばには500名まで減少する。この頃から夜間の人出は少ないが週末や昼間の人出は増加へと向かう。何を基準にして人出の増加と言う行動変化が起きたのか、その最大の基準は「感染者数」である。特に、感染しても無症状もしくは軽症で済む若い世代はコロナ禍からある程度自由であることからで人出増加の最大理由となる。よくメッセージが若者には届かないと感染症専門家や政治家は言うが、行動を変える言葉(内容)を持ってはいないことによる。特に、無症状者が感染のキーワードとなっていると指摘する専門家は多いが、その科学的なエビデンス・根拠を明らかにしたことはない。若い無症状者が重症化の恐れがある高齢者にうつす危険があるため自重してほしいと感染症専門家は発言するが、若い世代にとって、高齢者の犠牲にはなりたくないと考える若い世代は多い。何故なら、こうした感染の根拠が示されない現状にあっては、個々人の判断は感染者数の増減に基づいたものとなるのは至極当然のこととなる。若者犯人説の間違いは、その若者について間違った認識からで、今まで何回か指摘したので繰り返さないが、彼らは明確な根拠があれば自ら判断し行動する合理主義者である、SNSを使うデジタル世代と言われるが、決定的に足りないのが「経験」「リアルさ」であることを自覚してもいる。例えば、若い世代に人気の吉祥寺には昭和レトロなハモニカ横丁とトレンドファッションのPARCOのある街であることを思い浮かべれば十分であろう。(詳しくは昨年の夏に書いたブログ「「密」を求めて、街へ向かう若者たち 」を参照してください)桜の花見は感染の拡大に結びつくので一番の強敵であると感染症の専門家は口を揃えて言うが、花見だけではない。言葉を変えれば、行動を変えるのは「変化」への興味のことであり、季節の変化だけではない。2回目の緊急事態宣言発出以降、「人出」が増えた場所、施設はどこかを見れば明らかである。ここ1ヶ月ほど賑わいを見せているのがまず百貨店で、しかも食品売り場の混雑はコロナ禍以前と同じである。最近では北海道物産展などイベントが行われているが、その混雑度は最盛期のそれと同じである。ちなみに、百貨店協会の1月度の売り上げレポートが発表されている。緊急事態宣言により1月度の全体売り上げは前年同月比▲29.7%となっているが、その内容を見ていくと株高の反映と思われるが貴金属・宝飾品は▲10.1%、食品は▲18.9%と比較的減少幅は小さい。これは1月度の売り上げであり、2月には更に増加していると考えられる。また、百貨店やショッピングセンターなどの商業施設はもとより、人数制限なども行われる映画館やテーマパークを始めとした多くの興業施設でも感染予防対策が採られ、クラスター発生は聞いたことがない。ただ、埼玉県ではカラオケ店(昼カラ)でのクラスター発生が報告されているが、感染予防対策が採られていないことが明らかになっている。ところでここ数日感染者数が大きく増加しているのが宮城県である。現在の実効再生産数(感染の広がり)」が1.56となっているが3月7日時点では2を超えるまでに上がっている。日経新聞によれば、「宮城県と仙台市は17日、1日あたりで過去最多となる計107人が新型コロナウイルスに感染したと発表した」と。この急激な増加の背景・理由であるが、2月初旬から下旬にかけては1日の感染者数が1桁になる日も続いたことから、県は2月23日に国の「Go To イート」事業を再開させたが、その因果関係は明らかではないが、結果として感染が再拡大したと知事自ら反省していると記者会見で語っている。仙台市内繁華街である国分町で感染者が多く、いわゆるリバウンドであるが、先に解除となった大阪でもその傾向は出て来ている。但し、大阪市内ではそうしたリバウンドの傾向は出ているが、大阪府周辺の市区町村では起きてはいない。ちなみに宮城県は独自に緊急事態宣言を発出したが、このリバウンド見られる「傾向」も何がそうさせたのか、その根拠が明らかにはされていない。第一回目の緊急事態宣言の時も発出する前の3月末には感染のピークアウトを迎えていた。今回の2回目の緊急事態宣言の場合も感染ベースで言うと年末にはそのピークを迎えていたとする専門家も多い。つまり、対策は常に「後手に回る」こととなる。その反省からであると思うが、今回の政府の方針の一つが無症状者を含めたモニタリング調査によって、表には出ていない感染源を見出し対策をとる、そんな調査手法と思われる。昨年8月スタートしたアドバイザリーボードが分析するとのことだ。やっと本来の主要な活動が始まったと言うことだろう。但し、問題はその運営である。スピードが求められる調査であり、その調査結果から得られた課題解決をすぐ実行すると言うものだが、果たしてできるのかいささか疑問に思う。何故なら、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)の失敗も国にアプリ開発の専門家がいなかったことによる。更には例えば飲食店へのいくつかの給付金すら遅れ遅れになって窮状を訴えている状況下での行政運営である。既に栃木県宇都宮市で通行人に対し、この調査が行われているが、栃木県の場合陽性者はゼロであったと報告されている。サンプル対象者は600名で回収は536名と言う結果であったが、市中感染の想定からとしてはサンプル数がいかにも少なすぎる。読売新聞によれば、東京都が行なっているモニタリング調査の場合、1万4000人への抗体検査で陽性率は1・8%とのこと。問題なのは、調査における「仮説」を含めた調査設計の仕方にある。仮説次第で、その設計によって調査の成否が決まる。しかも、隠れた陽性者を発見するには膨大なサンプル数を必要とする。そして、このモニタリング調査をもとに更に深掘り調査によって「新たな感染源とそのメカニズム」が見出される。前者をPCR検査による陽性者数という定量調査とするならば、後者は保健所がおこなっている疫学調査のような定性調査と言うことができる。今まで根拠なしに感染源であるとされて来た「夜の街」「若者」「飲食店」あるいは「GoToトラベル」・・・・「花見宴会」が果たしてどうであったのかある程度明らかになると言うことだ。アドバイザリーボードではAIを駆使して行うようだが、コロナ禍1年感染源=感染のメカニズムがやっと求められて来たエビデンス・証拠が明らかにされる入り口を迎えている。このことにより、この1年「命か経済か」といった選択論議に一つの区切りをつけることができる。昨年春コロナ禍が始まった時「正しく 恐れる」という方針が掲げられていた。その「正しさ」という根拠を持った基準を手に入れることになると言うことだ。アドバイザリーボードのメンバーの一人であるIps細胞研究所の山中伸弥教授は自らのHPでその「正しさ」について、「どの情報を信じるべきか?」で次のように語っている。『私は、科学的な真実は、「神のみぞ知る」、と考えています。新型コロナウイルスだけでなく、科学一般について、真理(真実)に到達することはまずありません。私たち科学者は真理(真実)に迫ろうと生涯をかけて努力していますが、いくら頑張っても近づくことが精一杯です。真理(真実)と思ったことが、後で間違いであったことに気づくことを繰り返しています。その上で、私の個人的意見としては、医学や生物学における情報の確からしさは以下のようになります。』そして、数万とも言われるコロナ関連の論文の中から選んで掲載する基準について、山中教授は次のような考えを持って掲載されている。真理(真実)>複数のグループが査読を経た論文として公表した結果>1つの研究グループが査読を経た論文として公表した結果>査読前の論文>学術会議(学会や研究会)やメディアに対する発表>出典が不明の情報真実にどれだけ近づくことができたかと言うことであるが、キーワードは「査読」であり、どれだけ複数の専門家による検証がなされて来ているかで、検証されないまま公表される論文の多さに警鐘を鳴らしている。思い出してほしい、昨年春当時北大教授で厚労省クラスター班のメンバーであった西浦氏による数理モデルを駆使した感染モデルの件を。「このままでは42万人が死亡することになる」と提言し、マスメディア、特にTVメディアはこぞって取り上げ、結果「恐怖」を煽ることになり、「正しく 恐る」から遠く離れてしまった。その後、研究者である西浦教授はその数理モデルの間違いを説明反省している旨を語っているが、マスメディア、特にTVメディアはその「間違い」すら取り上げ報道しようとはしない。「恐怖を煽って視聴率さえ取れればそれで良いのか」と批判が出るのは当然である。2回目の緊急事態宣言以降の生活者行動を俯瞰的に見ていくとわかるが、政治家やTVメディアが考える生活者・個人の行動とは大きく異なっていることに気づく。首都圏の生活者はキャンピングブームが起ったように「密」を避けて郊外の桜の名所に出かけるであろう。花見どころか旅行を計画する人はここ数週間増えている。それを自粛疲れとか、我慢の限界といった曖昧な表現はやめにした方が良い。高齢者だけでなく、多くの生活者はワクチン摂取のタイミングを考えて旅行の計画を立てるであろう。恐らくそうした行動を見据えたように、地方32県の代表として鳥取県の平井知事はGoToトラベルの再開要請に動いている。隣りの山梨県では花見を楽しもうと知事自ら発言してもいる。こうした背景として、地方経済の疲弊を指摘するジャーナリストは多いが、気づきの無い首都圏の知事の思惑とは逆に、生活者も地方も既に「次」へと動き始めていると言うことだ。行動を左右するのは「情報」と「経験」である。この1年間学習を積んだ生活者・個人がいると言うことだ。昨年の春未来塾(1)で欧米のようなロックダウンではなく「セルフダウン」と言うキーワードを使って賢明な生活者像を書いたが、世界でも珍しい新型コロナウイルスとの闘い方である。その現場で闘っている飲食業や旅行業もそうだが、地方の疲弊度は大変さを超えている。地元に根付いた商店街には感染者をほとんど出していないにもかかわらずほとんど人通りはない状態だ。少し前に島根県知事が首都圏、特に東京都の感染対策の無策を批判した心情は共感できる。解除してもしなくても、感染の下げ止まりからのリバウンドは起きると専門家だけでなく生活者・個人も認識の少しの違いはあっても同じように感じ取っている。今回敢えて生活者・個人の行動基準の一つとして「感染者数」を取り上げてみたが、あるレベルのリバウンドがあった場合必ず行動の「ブレーキ」を自ら踏む筈であると信じている。例えば、「密」を避けて楽しむキャンピングやアウトドアスポーツ、季節の変化を楽しむには紅葉散策の高尾山ハイキング、地方に旅することはできないが百貨店の「地方物産」を楽しむ、旅行を楽しみたいがまずは近場の箱根でも、・・・・・・こうした延長線上に「次」のライフスタイル行動はある。そして、ブレーキを考えながら、賢明な消費行動をこれからも取ることであろう。死語になった「ウイズコロナ」ではあるが、このウイルスとの付き合い方、言葉を変えれば「正しく 恐る」という原点に立ち戻るということでもある。残念ながらアクセルとブレーキを交互にに踏む、そんな間闘いは続くこととなる。そして、ワクチン摂取の進行度合いにもよるが、まずは夏前には多様な消費行動が始まる。その前に、モニタリング調査により隠れた陽性者を浮かび上がらせ、感染のメカニズムを明らかにし感染予防を行うことだ。つまり、中国、韓国、台湾といった私権を制限し管理する道ではない以上、「正しく 恐る」という高い精度のセルフダウンへと向かう。(続く)
2021.03.21
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ヒット商品応援団日記No782(毎週更新) 2021.3.12.3.11東日本大震災が10年を迎えた。ここ1週間ほどNHKを始め民放各局は10年という節目として何が変わり何が変わらないのか、復旧・復興はどこまで進んだのかをレポートしていたが、取材を受ける被災者の多くは「節目」などないと答えていた。そこには今なお必死な想いが横たわっていることに気づく。「切に生きる」という言葉は、2011年文芸春秋の5月号の特集「日本人の再出発」に瀬戸内寂聴さんが病床にあって手記を寄せた文の中で使われたキーワードである。「今こそ、切に生きる」と題し、好きな道元禅師の言葉を引用して、「切に生きる」ことの勧めを説いていた。「切に生きる」とは、ひたすら生きるということである。いまこの一瞬一瞬をひたむきに生きるということである。それが被災し亡くなられた家族や多くの人達に、生きている私たちに出来ることだと。寂聴さんの言葉を借りれば、苦しい死の床にあるこの場所も自分を高めていく道場。道元はこの言葉を唱えながら亡くなったという。「はかない人生を送ってはならない。切に生きよ」、道元が死の床で弟子たちに残した最期のメッセージである。震災2ヶ月後、「人間が人間であるための故郷」というタイトルでブログを書いた。2011年当時東北三県の人口は約570万人、10年後の現在532万人(-6.6%)38万人の減少となっている。特に津波の被害が大きかった宮城県女川町(-43.3%)のように「復興」とは程遠い状態である。また、地震・津波と共に大きな被災となったのが原発事故による福島県である。原発の北側にある双葉町は今なお解除されていないが、解除地域に住民登録がある人のうち実際に住む人 31.6%(1万4375人)。今なお避難している、もしくは故郷を帰ることを諦めた人がいかに多いかがわかる。ちなみに、楢葉町59.7%(4038人)、南相馬市56%(4305人)、富岡町17.7%(1576人)、浪江町11.4%(1579人)。当時「人間が人間であるための故郷」、その故郷について次のように書いた。『福島原発事故の避難地域住民の人も、岩手や宮城の津波によって家も家族も根こそぎ奪われた人も、必ず口にする言葉に故郷がある。故郷に戻りたい、故郷を復興させたいという思いで口にするのであるが、故郷という言葉を聴くと、国民的な人気マンガ・アニメであるちびまる子ちゃんの世界が想起される。周知のさくらももこが生まれ育った静岡県清水市を舞台にした1970年代の日常を描いたものであるが、ここには日本の原風景である生活、家族、友人が生き生きと、時に切ない思いで登場している。故郷は日常そのもののなかにあるということだ。そして、その日常とは住まいがあり、仕事や学びの場所があり、そして移動する鉄道がある。がれきの山となった被災地で写真を始めとした思い出を探す光景が報じられるが、それら全て日常の思い出探しである。誰もが思うことであるが、転勤で国内外を問わず転々ととする人も多いが、やはり帰る場所、故郷があっての話しである。今回の東日本大震災は、一種の帰巣本能のように、がれきの向こう側に突如として故郷が思い出され、帰りたいと、それが故郷であった。しかし、巨大津波で根こそぎ故郷を奪われてしまった海岸線の人も、放射能汚染によって立ち入ることすら制限されている福島原発周辺の人にとっても、故郷を失ったデラシネの人となってしまう恐れがある。』震災による窮状に苦しむ住民への思いを胸に、いち早く立ち上がった多くの市町村長の行動があった。 米タイム誌は21日発表した「世界で最も影響力のある100人」に、福島原発事故での政府対応をYouTubeで厳しく批判した福島県南相馬市の桜井勝延市長。あるいは、郡山市の原市長は「国と東京電力は、郡山市民、福島県民の命を第一とし、『廃炉』を前提としたアメリカ合衆国からの支援を断ったことは言語道断であります。私は、郡山市民を代表して、さらには、福島県民として、今回の原発事故には、『廃炉』を前提として対応することとし、スリーマイル島の原発事故を経験しているアメリカ合衆国からの支援を早急に受け入れ、一刻も早く原発事故の沈静化を図るよう国及び東京電力に対し、強く要望する」と記者発表した。行政にとって地域住民が全てである。理屈ではなく、住民への思い、哲学があって初めて行政サービスが行えるということだ。どこの首長であったか忘れてしまったが、財布も持たずに着の身着のままで避難所暮らしをすることになった被災者に対し、何よりも必要となる現金、確か一時金として10万円を支給した地方自治体があった。被災地の再生にバイオマスによるエコタウン構想・・・・・・そんなことではなく、プライベートな生活が確保できる仮設住宅こそが必要であった。子ども達の健康を考え、校庭の表土を自らの判断で除去した自治体もあった。あるいは、岩手の三陸海岸沿いの孤立した集落では、行政は壊滅し、まさに住民自ら自治を行っているコミュニティがいかに多かったか。求められる日常をいかに取り戻すか、いかに新しくつくっていくか、これが生活者への、被災者への哲学である。そして、行政と共に、この故郷を取り戻す活動は震災後すぐにスタートした。震災後49日間で東北新幹線は復旧し、新青森から鹿児島までつながることとなる。これを機会に東北を元気づけるために、観光客を誘致することをマスメディアは盛んに報じるが、それはそれとして必要とは思ったが、地元の足である在来線である東北本線が少し前に復旧したことの方がうれしい話である。あるいは東北自動車道開通もそうであったが、コンビニのローソンもイオンのSCも被災地で復旧オープンさせたことの方が大きな意味を持つ。それは被災地にとって、日常に一歩、故郷に一歩近づくことであるからだ。故郷とは人がいて笑い声が聞こえる賑わいであることがわかる。故郷は単なる風景としてのそれではなく、人がいる風景のことである。震災直後はまさに自助共助公助であった。しかし、故郷は帰ることことができる場所であるが、福島を始めその故郷を失い、もしくは断念した人がいかに多いか。一方今なお故郷にとどまり「切に生きる」人たちも多い。その中で偶然TVのニュースで知った一人が福島在住の臨床医坪倉医師である。東日本大震災、中でも放射能汚染にみまわれた福島県の医療再生に今なお貢献している医師の一人である。その中心となっているのが坪倉正治氏であるが、地域医療の再生プロジェクトを立ち上げ全国から同じ志を持った医師と共に再生を目指している現場の医師である。臨床医であると同時に多くの放射能汚染に関する論文を世界に向けて発表するだけでなく、福島の地元のこともたちに「放射能とは何か」をやさしく話聞かせてくれる先生でもある。新型コロナウイルスと放射能も異なるものだが、同じ「見えない世界」である。坪倉正治氏が小学生にもわかるように語りかけることが今最も必要となっている。感染症の専門家による「講義」などではないということだ。小学生に語りかける「坪倉正治氏の放射線教室」は今もなお作家村上龍のJMMで配信されている。東京のマスメディアは決して取り上げることのない坪倉医師をニュース画面で見かけたのは、あの元オリンピック組織委員会会長森氏の女性蔑視発言の直後であった。復興五輪ということから聖火リレーの参加表明して来たが、復興とはまるで異なる運営となっている東京オリンピックには関わらない、そんなニュースであった。坪倉医師は今もなお放射能汚染と闘っており、明日も闘っていくであろう人たちの一人である。「切に生きる」人たちにとって、「復興」という冠のないオリンピックは意味のないイベントであるということだ。ところで、その原発事故の「今」について、改めて気づかされたのがNHKスペシャルの2つの番組、「徹底検証 原発マネー」及び「廃炉への道」であった。今なお、というより廃炉への道筋が不透明の中の原発事故関連の「お金」の使われ方である。新聞などを通じての報道に触れることはあったが、時々の断片的な情報であり、この廃炉・除染という困難さの全体を感じ取ることはなかなかできなかった。史上最悪規模の事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所。10年経ってやっと溶け落ちた核燃料を取り出し、処分する「廃炉」が始まろうとしている。40年ともいわれる長い時間をかけて、3つの原子炉を「廃炉」する人類史上例を見ない試みはどのような経過をたどるのか。放射能との長きにわたる闘いを、長期に渡り多角的に記録していくものだが始まりは水素爆発をきっかけにメルトダウンが起き、膨大な量の放射能がまきちらかされる。多くの原子力研究者が既にメルトダウンが起きていると指摘したにも関わらず、「メルトダウンではない」と言い張った当時の菅直人政権の官房長官の姿が思い出される。コロナ禍の1年を経験し、3.11当時の「社会」を振り返ると多くを失ったが今なお切に生きる人たちがいることを通説に感じる。そして、「現在」との比較をどうしてもしてしまう。一言で言えば、復旧・復興に向け社会が災害に向かうという緊張感のある「一体感」があった。しかし、現在はどうかと言えば、緊急事態制限発出や延長に関し、政府と東京都との間での駆け引きを見るにつけ、東日本大震災当時の住民本位である行政とのあまりに大きな違いに唖然とする。以降、防災については多くの面で学びそして進化して来た。しかし、「政治」は逆に退化し続けている。亡くなった作詞家阿久悠さんは、晩年「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、実は、人間の心ではないかと気がついた」と語り、「心が無いとわかってしまうと、とても恐くて、新しいモラルや生き方を歌い上げることはできない」と歌づくりを断念した。しかし、3.11後の光景は痛みとともに、「絆」というキーワードに表される共助の光景をも見せてくれた。大津波は自助できるものを大きく超えたものであった。更に、頼りにすべき行政機関も津波で持ち去られ、残るは生き残った人々の共助だけとなった。多くの場合こうした災害後には略奪などが横行するのだが、日本の場合は互いに助け合う共助へと向かい、世界中から賞讃された。阿久悠さんは「心が無い」時代に歌うことはできないとしたが、実は東北には心はあったのだ。今一度10年前の東日本大震災の原点に戻らなければならない。忌野清志郎が歌う「雨あがりの夜空に」の歌詞に次のようなフレーズがある。・・・・・・・・・・・・こんな夜におまえに乗れないなんてこんな夜に発車でないなんてこんなこといつまでも長くは続かない・・・・・・・Oh雨上がりの夜空にかがやくWoo雲の切れ間に散りばめたダイヤモンド・・・・・・・・・・そして、忌野清志郎は私たちに「どうしたんだHey Hey Baby」と投げかける。乱暴だが、とてつもなく優しい。「切に生きる」人たちへ、そんな応援歌が待たれている。今なお、戦いは続いているということだ。(続く)追記 テーマから言うと大津波などの画像の方がわかりやすいが、やはり胸が苦しくなり、好きな忌野清志郎の応援歌の写真を使うこととした。
2021.03.12
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ヒット商品応援団日記No781(毎週更新) 2021.3.3.「春よ、来い」(はるよ こい)は、周知のように松任谷由実が1994年10月にリリースした 曲である。多くの人が早く春が来て欲しい、そんな思いを見事に謳った名曲であろう。おもしろいことに、昭和のヒットメーカーである阿久悠さんに「春夏秋秋」という曲がある。「春夏秋冬」ではない。1992年に石川さゆりに書いた曲で、 ♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません 春夏秋秋 そんな一年 あなたと過ごしたい・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ 来ませんか 来ませんか 幸せになりに来ませんか・・・・・ 冬の時代が長かった女性を想い歌ったものだが、四季は生活の中に変化をもたらし、そこに喜怒哀楽を重ねたり、情緒を感じたり、美を見出したり、季節の変化という巡り合わせを楽しんできた。 コロナ禍の1年であったが、決して「冬冬冬冬」ばかりではなかった。ひととき春や夏そして秋、あるいは冬を折り込みながらの1年であったと思う。人によって取り戻したい「春」は異なるが、ほとんど「冬」の1年であったと思うのは中高生の学生であろう。好きなミュージシャンのライブにも行けない、友人と街歩きもできない、ほとんどの学校行事は縮小もしくは中止で、部活も思いきりできなかった。日常の学校生活の基本である人と人との接触すら制限された。そして、卒業を迎える。 2009年春、NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲「手紙」をアンジェラ・アキが歌ったことを思い出す。当時は「冬」ではなく、春夏秋冬、四季のある時代であるが、その「手紙」は悩み多き世代に向けた応援歌である。ところで当時のブログに次のようなコメントを書いた。 『アンジェラ・アキは、未来の自分に宛てた手紙なら素直になれるだろう、だから「未来の自分に手紙を書いてみよう」と呼びかける。そして、生まれたのが「手紙」という曲だ。「拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです」というアンジェラ・アキからの応援歌である。 ♪大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけれど 苦くて甘い今を生きている ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じて歩けばいいの いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど 笑顔を見せて 今を生きていこう ありのままの自分でいいじゃないか、時に疲れたら少し休もうじゃないか、とメッセージを送る「ガンバラないけどいいでしょう」を歌う吉田拓郎とどこかでつながっている。・・・・・・・・・何が起こってもおかしくない時代。今、安定・安全志向が叫ばれているが、漫才コンビ麒麟の田村裕さんによるベストセラー「ホームレス中学生」ではないが、既にそんな安定などありえない時代を生きている。』 また、卒業、NHKの全国学校音楽コンクールといえば、やはりいきものがかり のYELLを思い出す。YELLの後半歌詞に次のようなフレーズがある。 ・・・・・・・・・・ ♪サヨナラは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL いつかまためぐり逢うそのときまで 忘れはしない誇りよ 友よ 空へ 僕らが分かち合う言葉がある こころからこころへ 言葉を繋ぐ YELL ともに過ごした日々を胸に抱いて 飛び立つよ 独りで 未来(つぎ)の 空へ ところで人生の大きな節目である卒業の先には入学がある。新しい人生を歩むわけだが、その人生もよう、人もようを曲にした阿久悠さんは2002年自らの人生を石川さゆりに歌わせる。この自伝的な曲「転がる石」は次のような詞である。 ♪十五は 胸を患って 咳きこむたびに 血を吐いた 十六 父の夢こわし 軟派の道を こころざす 十七 本を読むばかり 愛することも 臆病で 十八 家出の夢をみて こっそり手紙 書きつづけ ・・・・・・ 転がる石は どこへ行く 転がる石は 坂まかせ どうせ転げて 行くのなら 親の知らない 遠い場所※ 怒りを持てば 胸破れ 昂(たかぶ)りさえも 鎮めつつ はしゃいで生きる 青春は 俺にはないと 思ってた 迷わぬけれど このままじゃ 苔にまみれた 石になる 石なら石で 思いきり 転げてみると 考えた 自らをも鼓舞する応援歌「ファイト」を歌った中島みゆきの人生歌と重なる。そして、「転がる石」の意味合いを阿久悠さんは次のように「甲子園の歌 敗れざる君たちへ」(幻戯書房刊)で書いている。 『人は誰も、心の中に多くの石を持っている。そして、出来ることなら、そのどれをも磨き上げたいと思っている。しかし、一つか二つ、人生の節目に懸命に磨き上げるのがやっとで、多くは、光沢のない石のまま持ちつづけるのである。高校野球の楽しみは、この心の中の石を、二つも三つも、あるいは全部を磨き上げたと思える少年を発見することにある。今年も、何十人もの少年が、ピカピカに磨き上げて、堂々と去って行った。たとえ、敗者であってもだ。』 歌は人生の応援歌である。多くの制限の中の1年であったが、そんな我慢の中に小さな「応援」があった筈である。阿久悠さんの言葉を借りれば、コロナ禍という苔にまみれた1年であった。そこで「石なら石で 思いきり 転げてみる」と 考えることも必要な時代である。心の中の石を見つめる良き季節を迎える。(続く)
2021.03.03
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