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県道207号線・森戸海岸線を北に進むと左手にあったのが「葉山しおさい公園」の正門前広場。「葉山町指定史跡 大正天皇崩御・昭和天皇継承の地指定 昭和六十一年四月二十九日 指定第三十八号所在地 葉山町一色ニ一ニ三の一葉山御用邸付属邸の歴史この葉山しおさい公園は、葉山御用邸付属邸の跡地で、昭和62(1987)年6月3日開園し、面積は18009.28平方メートル(約5500坪)ある。ここはもと岩倉具定侯爵・金子堅太郎伯爵・井上毅子爵の各別荘を、大正6(1917)年7月にお買い上げになり、澄宮(すみのみや・現三笠宮)邸として大正8(1919)年6月に竣工されたものである。大正天皇崩御大正天皇は、葉山御用邸をこよなく愛され、最後の行幸は大正15(1926)年8月10日、付属邸で御病気ご療養のためであった。当時、たまたま本邸が関東大震災で損傷し、再建中であったため付属邸へ入られた。陛下には以来同邸においてご療養につとめられたが、同年12月25日、午前1時25分、遂に崩御(逝去)されたのである。時に御年48歳であった。昭和天皇皇位継承大正天皇が崩御(逝去)され、悲しみの中旧皇室典範第10条の定めに従って、皇太子殿下(後の昭和天皇)は直ちに葉山御用邸において天皇の位におつきになられた。新天皇陛下は、まず登極令(旧皇室令)第1条によって践祚(せんそ・皇位を受け継ぐこと)の式を行うため、剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀が12月25日午前3時15分より葉山御用邸付属邸において執り行われた。また、宮城(皇居)賢所において践祚の儀式が同じ時刻に行われた。第124代の宝祚(皇位)をつがれた新天皇陛下は、徳川侍従長、奈良侍従武官長、一木宮相以下を従え、伊藤式部長官のご先導により静かに東京に向かわれた。時に御歳26歳。尚、付属邸における剣璽渡御の儀式は皇族、政府関係者列席のもと厳かに行われた。儀式における各役割は宝剣を捧持するもの、原侍従、神璽を捧持するもの、松浦侍従、御璽国璽を捧持するもの、松井内大臣秘書官がその任に当たった。践祚の行われた部屋は昭和56(1981)年11月再建された御用邸の中へ移設されている。 平成6年3月27日 葉山町・葉山町教育委員会」「葉山しおさい公園」正門。「葉山しおさい公園入園料一般 大人 三百円 小人 百五十円(小中学生)団体(ニ十名様以上) 大人 ニ百五十円 小人 百円開園時間 午前八時三十分から 午後五時まで休園日 月曜日 祝日の翌日 年末年始」「葉山しおさい公園」。「葉山しおさい公園 案内図」。受付・管理事務所で入園券を購入。「葉山しおさい公園平面図」。「葉山しおさい博物館」に向かって進む。前方に石碑が現れた。「今上陛下即位記念 平成ニ年十一月十二日」碑。現上皇陛下のこと。そして「葉山しおさい博物館」を正面から。旧御用邸付属邸の御車寄せを移築したものである と。「葉山しおさい博物館」。「葉山町所蔵複製画展~世界の名画の複製画展示~令和6年5月28日(火) ~ 6月23日(日)場所 葉山しおさい博物館 くつろぎゾーン時間 午前8時3 0分から午後5時まで ※入園は午後4時3 0分まで休館日 6月3日(月)、1 0日(月)、1 7日(月)観覧料 無料(ただし、しおさい公園人園料が必要です。) ※人園料 高校生以上: 3 0 0円 小中学生:1 3 0円場所 葉山町立図書館 1階展示スペース時間 午前9時0 0分から午後6時まで体館日 6月3日(月) ~ 1 2日(水)、1 7日(月)観覧料 無料 問い合わせ 教育委員会生涯学習課」「入館無料」と。「ごあいさつようこそいらっしゃいました。この「葉山しおさい博物館」は昭和62年(1987) 6月に開館いたしました。館外の敷地(葉山しおさい公園)は葉山御用邸付属邸の跡地で、大正天皇崩御、昭和天皇皇位継承の地で、いわば昭和発祥の地として知られる由緒ある所です。館内の常設展示は葉山海岸を中心に、「相模湾の海の生物」をテーマにして構成してみました。とりわけ昭和天皇の御下賜標本や珍しい深海生物の展示は当館ならではのものです。生物の宝庫として世界的に知られる身近な相模湾を認識していただき、自然に親しんでいただければ幸いに存じます。 葉山しおさい博物館」受付カウンター。正面には、ヨットが展示されていた。移動して。「上皇陛下御下賜ヨット」。御下賜品(ごかしひん)とは、皇室や宮家から贈られた品物のこと。「案内パネル」が2基。「オリンピア・ヨーレ全長 5m最大幅 1m57cmマストの高さ 6m85cm一人乗り ディンギー丸みを帯びた優美な船型は、美しく典雅な雰囲気を醸し出していると言われている。」「御下賜ヨット オリンピア・ヨーレこのヨットは昭和25年7月、日本ヨット協会(現日本セーリンク連盟)が当時皇太子殿下でいらした上皇陛下に献上した「オリンビア・ヨーレ」という級式のヨットてす。ちょうど沼津御用邸附属邸にこ滞在中の皇太子殿下の元に届けられました。上皇陛下が皇太子殿下時代に沼津でお乗りになりました後、沼津御用邸の廃止に伴い、このヨットは葉山御用邸に移されました。上皇陛下は葉山の海岸においても当時皇太子妃殿下でいらした上皇后陛下とご一緒にお乗りになり、ヨットは葉山御用邸の艇庫て大切に保管されておりました。「オリンビア・ヨーレ」という級式のヨットは昭和9年ドイツて生まれ、昭和11年のベルリンオリンピックてヨット競技の一種目として採用されました。この時、日本はヨット競技としては初めて「オリンピア・ヨーレ」競技に参加しましたが、その後のオリンビックではこの級式のヨットが競技種目として採用されたことはありませんでした。平成19年3月に上皇陛下は日本セーリング連盟にこ相談の上、この「オリンビア・ヨーレ」を葉山町に御下賜になさることとなさいました。葉山町てはその後、ヨット発祥地てある葉山港の港湾管理事務所に保管・展示しておりましたが、平成22年3月に元葉山御用邸附属邸跡地の「葉山しおさい公園」に移設いたしました。 葉山町」館内には葉山周辺の海に生息する魚類、貝類、甲殻類、海藻類などが展示されていた。中でも昭和天皇御下賜標本や深海生物の展示は、当館ならではのもの。・海洋生物の系統分類・相模湾の珍しい大型生物・相模湾で使われていた漁具等も展示されていた。「無生物の形---石の造形藝術---生物(せいぶつ)とは、細胞という単位からなり、自己増殖などの生命活動を行うものと定義される。これにして無生物(むせいぶつ)とは.生命活動を行わない石や水などの物質を示す。生物の形は遺伝子により支配され、自らの意思により形成されるのに対して.無生物の形は、物理的な要因で形成される。同じ形でも、生物と無生物では全く異なる形質形成の過程を辿っている。ここに展示した「石」は、無生物である。意思のない無生物が作りだす偶然の形には不思議な魅力がある。」左から二水石膏、しのぶ石、桜石。ニ水石膏(Gypsum:ギプサム)硫酸カルシウムCaSO4を主成分とする鉱物。骨折などの患部が動かないように外からの固定する創傷処置であるギブスの語源である。しのぶ石(Dendrite:樹枝状晶)岩石の間隙に二酸化マンガンが樹枝状に結晶化したしのぶ石は、自然現象でできるフラクタルの偽化石である。かってはシダ植物(シノブは、シダ植物の古名である)の化石と考えられたことが名称の由来である。桜石(Cordierite:コーディエライト)菫青石は、Mg2Al3 (AlSi5O18)の化学組成をもつケイ酸塩鉱物である。桜石は菫青石が熱水変質により雲母化したものである。断面を桜の花の紋様に見立てた桜石の名称は江戸時代にすでに名づけられていた。「黄鉄鉱(Pyrite:パイライト)化学組成はFeS2。鉄と硫黄からなる。一般的には六面体の結晶形を示すが、八面体や十二面体などもみられる。強い衝撃を与えると火花を散らすことからギリシャ語の「火」を意味するpyrに由来する。かっては硫酸の原料として採掘されていた。鉄礬柘榴石(Almandine:アルマンディン)十二面体あるいは偏菱二十四面体などの自形結品を作り、Fe3gAl2(Si04)3で表される。変成岩、火成岩、花崗岩ペグマタイトでもっともよく見られる。」「子産石(Concretion:コンクリーション)生物起源の炭酸塩コンクリーションは、有機物中の炭素と海水中のカルシウムなどが結合し、短時間で方解石などの鉱物が沈殿して形成される。子産石は,葉山層群中から産出するコンクリーションである。かつては安産のお守りとされた。」「へそ石(Nodule:ノジュール)へそ石は、深海底に棲息していた生物の巣穴を中心に砕屑粒子の隙間が鉱物で充填されて形成された生痕化石と考えられる。へそ石の名称は,中心のくぼみを臍になぞらえてつけられた。江戸時代から知られる三浦半島の奇石のひとつである。」「Carcharocles megalodon(Agassiz,1843 )」。「Carcharocles megalodon(Agassiz,1843 ) カルカロクレス メガロドン ネズミザメ目 オトドゥス科 Emma Longhorn氏 寄贈Carcharocles megalodonは、全長16 mに達したと推定されているサメの絶滅種です。本種は、日本をはじめアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカなどの前期中新世(1800万年前)から鮮新世末(300万年前)の地層からの産出が報告されています。近代科学が発達する前の江戸時代の日本では、この化石の正体がわからず「天狗の爪石」とよばれていた時代もありました。また、中世のヨーロッパでは「舌石(Glssopetri)」とよばれていました。本化石は, 2007年にEmma Longhorn氏により葉山一色海岸に打ち上げられた状態で採集された資料であり、産出層は不明ですが、逗子層(600万年前)の基底部にあたる礫岩層からの産出と推測されています。」「オカダンゴムシ」と「ハマダンゴムシ」。「身近な外来生物オカダンゴムシオカダンゴムシ(ダンゴムシ)Armadillidium vulgareは、1943 (昭和18)年に岩本嘉兵衛によりはじめて日本列島から記録された、明治時代以前に園芸植物と共にヨーロッパから日本に移入したと考えられる外来生物です。オカダンゴムシが日本に移入したばかりの明治時代、「ダンゴムシ」の和名は、海浜域に生息する在来種のハマダンゴムシTylos granuliferusの和名として用いられ、現在オカダンゴムシと呼ばれている種類は、「テマリムシ(手毬虫)」と呼ばれていました。戦後、オカダンゴムシは急速に分布を広げ、現在では、最も身近な環境で見られる生き物のひとつとなっています。」正面に出土した丸木舟が展示されていた。正面に出土した丸木舟。「古代~中世の丸木舟(今から約1000年前)」と。「丸木舟出土当時の様子」(左)。「丸木舟出土当時の様子」(右)。「葉山町堀内発見の丸木舟昭和42年3月、堀内児童遊園(堀内510番地)に防火貯水槽工事の際、地表から約250センチの深さから発見されたものです。「丸木舟」は、側壁は残っておらず底板のみですが、残存長278センチ、最大幅57センチを測ります。表面にはノミで加工した跡が残っているほか、削りやすくするために表面を焼いた跡がよくわかります。材質はクスノキと判定されています。丸木舟が製作された年代については、放射性炭素年代測定法によリ、10世紀初頭から12世紀初頭(平安時代: BP940±104年)と測定されています。」出土した「丸木舟の底部」。「縄文時代の葉山」と「国指定史跡 長柄桜山古墳群」案内板。「縄文時代の葉山最初に葉山に人類の足跡をうかがえるようになるのは、縄文時代になってからです。1万年以上続く縄文時代は、自然環境の変化に合わせながら、狩蝋や漁撈、植物性食料の採取、また限定的ではありますが、植物の栽培や管理も行うなど、多様な生業が営まれた時代です。葉山町内では、現在繩文時代の遺跡が5か所知られています.馬の背山遺跡(木古庭)は標高約160mの丘陵上にある遺跡で、昭和32年に赤星直忠博士が担当者となって発掘調在が行われました。遺跡は5つの地点に分かれており、りんご箱一個程度の遺物が出土しています。遺物は、縄文時代早期や前期の土器が出上したほか、石鏃などの石器が見つかっています。見つかった土器の時期は断続的で量も少ないことや、住居跡などの遺構が見つかっていないことから、定住的な生活が営まれていたとは考えにくいところがあります。おそらく狩猟や堅果類などの植物性食料の採集のために、湧水の豊富な当地が一時的なキャンプ地として適していたのではないかと思われます。同様の遺跡として、正吟遺跡(上山口)や間門遺跡(上山口)があります。縄文海進(じようもんかいしん)それまで寒冷だった気候は約1万年前から温暖になり、海水面は急速に上昇していきます。約6千5百年前には現在の海水面よりも高くなり、沿岸部の葉山の低地は海の中にありました。約5千5百年前に海水面の高さは4 ~ 5mほどに達してピークを迎えます。これを縄文海進と呼んでいます。縄文時代の自然環境縄文時代の葉山の自然環境はどのようなものだったのでしようか。約9千~ 6千7百年前の三浦半島の陸上では、森や林を作る樹木が、それまで生育していたコナラやニレ、ケヤキなどを主体とする落葉広葉樹林から、シイノキ、エノキ、スギなどを主体とする照葉樹林に種類が変わります。生育する植物の種類が変わった結果、そこに棲む動物の種類が変わった結果、そこに棲む動物の種組成も変化したと考えられています。海域ては、縄文海進とよばれる世界規模の海水面の上昇がおこり、それまで陸地だったところにまで海水が浸人することにより、「おぼれ谷」とよばれる泥の干潟が形成されました。この新たに形成された環境には、ハイガイやシオヤガイなど、現在の相模湾沿岸や関東地方の海域には棲息していない特殊な軟体動物が棲息していたことが分っています。森戸川沿いでは長柄交差点近くの海抜3 m付近から、下山川沿いでは町立ー色小学校近くの海抜8m付近から、泥干潟に棲息する軟体動物の化石が記録されています。したがって、縄文海進の最高期には、現在の森戸川や下山川の流域に沿って海が陸域に浸入し、この周辺域が当時の波うちぎわ(波打ち際)付近だったと雅測されます。この時期に形成された湾は、狄い湾口をもつ入り組んだ内湾であり、現在の一色海岸や森戸海岸のような開けた砂浜の環境ではなく、ハイガイやオキシジミ.イボウミニナなどの棲息する泥干潟の環境であったと考えられます。特に内湾的な環境に依存度の高いハイガイやシオヤガイは、その後、海退期になり海水面が低下すると、棲息地となる泥干潟が消失したため、相模湾沿岸域から姿を消してしまったと考えられます。」約6千5百年前(縄文時代)の葉山の海岸線と遺跡 ※松島(1975)を参考に作成。シオヤガイ、イボウミニナ、オキシジミ、ハイガイ。下の列にハイガイ、シオヤガイ、コゲツノブエ。「三浦半島の今からおよそ6500~5500年前の縄文時代に相当する地層中からは、現在の相模湾沿岸域には生息しない生物の化石が採集されます。およそ6000年前を中心に世界的に海水面が上昇する縄文海進期には現在よりも最大で4mほど海水面が高くなり、入り組んだ谷戸の奥にまで海が入り込み、「溺れ谷」とよばれる泥干潟の環境が形成されていたと考えられています。このような場所にハイガイ、シラオガイ、シオヤガイなどに代表される現在の相模湾沿岸には生息しない南の海域に生息する種類が優占して生息していたことが化石の記録から報告されています。」「国指定史跡 長柄桜山古墳群長柄桜山占墳群は、平成11年(1999年) 3月に、逗子市と葉山町の境にある丘の上で新たに発見されました。2基とも4世紀代の前方後円墳で、現存している神奈川県内の古墳では最大級の規模を誇ります。第1号墳古墳時代前期後葉( 4世紀後葉)全長 91.3m 後円部径 52.4m くびれ部幅 24. 2m墳丘は、後円部三段、前方部二段につくられており、後円部と前方部の高低差が大きい前期古墳の特徴をもっています。後円部は左右非対称の形をしており、現在の逗子市街地が広がる田越川流域や逗子湾から望むことができる西側を整った形に作り出しています。後円部の中央からは、長さ約7m、幅約1. 6mの落ち込みが確認されました。地下に納められた木棺が長い歳月をへて腐食してつぶれたため、古墳の表面に落ち込んだ陥没坑です。部分的な断ち割り調査により、この陥没坑の真下から粘土槨(木棺を粘土で覆った構造の埋葬施設)が1基存在することを確認しています。古墳からは埴輪がたくさん出土しています。後円部を中心に立て並べられていたものと考えられます。出土した埴輪には、三角形の透かし孔が開けられた円筒埴輪や底がない壺形埴輪がみつかっています。また葬送祭祀に使われた壺や高坏などの土器も見つかっています。第2号墳 古墳時代前期後(4世紀後葉)全長 88m 後円部径54m くびれ部幅 32m第1号墳から西へ500mほど向かったところにある前方後円墳です。後円部と前方部の高低差があまりなく、前方部は第1号墳に比べると、幅が広くなっています。古墳の表面には砂岩や丘陵岩盤の泥岩を用いた装飾(葺石)が施されていました。第2号墳からも円筒埴輪と壺形埴輸が見つかっています。前方部から西側には、相模湾に浮かぶ江の島をはじめ、天気が良けれは大山や富士山を一望することができます。古墳群築造の背景古墳群周辺の同時期の遺跡は、田越川中流域に集中して見つかっています。なかでも持田遺跡で石釧と呼ばれる腕輪形石製品が出土しているほか、池子遺跡群の竪穴住居跡からは銅製の鏡や鏃などが出土しており、これらは一般のムラから出上することが稀な、外から運はれてきたものです。田越川に沿って進むと、相模湾ー東京湾間を最短で往来できることから、当時この地域は物資流通の拠点であったと考えられます。また、古墳群より南側の三浦半島相模湾沿岸には、点々とムラが見つかっており、海上交通も重要な役割を果たしたと考えられます。長柄桜山古墳群が築かれたこの地域は、当時の太平洋沿岸における物資流通の重要な拠点であったと考えられ、往来する人々が見上げる位置にある2基の古墳は、ランドマークとしての役割を果たしたと考えられています。」「高坏(たかつき)(食器や祀りの道具)」長柄桜山古墳群から出土した埴輪。長柄桜山古墳群の1号墳と2号墳。長柄桜山古墳群と同時代の遺跡分布図。「葉山しおさい公園」ポスター。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.16
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【海老名市歴史散歩】 目次「観音通り」を南に進むと左手にあったのが「大谷観音堂」。入口左には「大谷はやし連屋台収蔵庫」。「大谷立木観音」と書かれていたが・・・。この日は蓮座のみが。ネットによると本来はこの様に。改修中なのであろうか?住職が二年がかりで彫り上げたとのことであったが。「立木観音像の由来義功和尚の知り合いに霊感豊かな女性がいた。ある日のこと、お堂にお参りに来た。そして、境内に有縁無縁の観音さまがあるといいねといって立ち去った。平成十八年、境内の元の木を枯らしてしまった。枝を伐り過ぎたのである。「すまないことをした」と和尚は悔やんで、この元の木を見ると「すまん、すまん」と手を合わせて謝っていた。ある日のこと夢に立木観音が現れた。「そうだ 観音様を彫るのが元の木の供養になる」と二年かかって完成させた。その後、霊感女性の言葉を思い出した。「この立木観音は、この境内に必要だったのだ」と。不思議なご縁である。」このお地蔵さんの首から上は、復元されたものであろうか。石段の上に「大谷観音堂」。「大谷観音堂」を正面から。「大谷 如意輪観世音の由来今より八百年前、治承四年(一一八〇年)一月一九日、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じて、この地に観世音を祀り、その信仰によって授かった六人の男子は成人して、いずれも智勇兼備の武将となった。一族の知恵袋といわれた四男重茂は大谷四郎と名乗り現在の大谷中学校所在地に館を構え深く如意輪観世音を信仰して朝夕礼拝を怠らなかった。また攻守の備えを万全に施し、自ら大谷城と称した。麻子は後に尼となって堂宇を守り、当観音堂の山号を麻尼山と称した。光重は宝治二年(一ニ四八年)重直のみ渋谷の庄に残し、五人の男子と一族を引き連れて薩摩の新領地に移ったが、麻尼山如意輪観世音はその後も渋谷一族の尊信厚く、代々一族の女子が住職となった。元亀天正の頃、このお堂は小田原の北條を攻めるため相模に兵を進めた武田信玄の兵火にかかり焼け落ち、慶長年間に再建されたという。本尊如意輪観世音は奈良時代の僧行基の作と言い伝えられ、古くより安産と子育ての守り本尊として信仰され、毎月十九日の縁日には近郊近在は無論遠く甲州、武州方面からの参拝者も多かった。正面、虹梁上の竜は彫匠入神の作といわれ、夜毎に池の水を飲みに下りるので、眼に釘を打って虹梁上に止めたという。隣の十王堂の前の疣とり地蔵尊はその足元の石で疣をこすると知らぬ間に疣がなくなるというので祈願する人が多い。疣が取れたら新しい清浄な石を添えてお礼のお参りをすると言い伝えられている。左手の藪の中には、別に当時、清願寺があったが、明治の初期に廃寺となり、その建物は、中河内の吉祥寺に移されて現存している。」「大谷観音堂」。「新編相模国風土記稿」では、寺名を清眼寺、山号を摩尼山、総持院(海老名市河原口)の末寺としています。本尊を地蔵とし、観音堂があったことが記録されていて、現在はこの観音堂のみが残っています。作風から江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像が2体、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像が安置されています。また、「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっています。大谷観音堂には1.水飲み龍、2.枕返しのお地蔵様、3.のぞき小僧、4.相生の榧、5.笑う閻魔様、6.乳房のイチョウ、7.イボトリの地蔵様といった「摩尼山の七不思議」という話が伝えられています。ガラス戸の中には様々な手書きの短歌、俳句が。扁額は「摩尼山」。安置されている、江戸時代中期作と考えられる地蔵尊像、同じく江戸時代作と考えられる如意輪観音坐像、不動明王、弘法大師の写真が展示されていた。「大谷観音堂」の壁には多くの有名人の言葉が、手書きで掛け軸のごとくに。左の3本は住職の手のものであろうか?達磨の姿が。「子供を叱るな来た道じゃ年寄り笑うな行く道じゃ来た道行く道ひとり旅 みんな来た道行く道じゃこれから通るきょうの道 通りなおしのできぬ道」「子供の世話にはなりたくないが、子という字が懐かしい」。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(右)。以前はもっと色彩が豊かだったのであろう。「大谷観音堂」の正面の上部には天女の舞う姿が(左)。「掲示板」。「NHKのテレビ・ラジオで放映・放送された大谷観音堂小林義功住職の法話」の放送年月日が記載されていた。「大谷観音堂のカヤ」このカヤは二股に分かれて聳えている相生のカヤ。その傍らには銀杏の大木もあり、秋には「九里の土手」を背景に黄葉が映え、美しい光景を作り出してくれると。「かながわ名木100選大谷観音堂のカヤ 和名:カヤ(イチイ科)」幹が2本に分かれた珍しい巨木で、樹林の中にあってひときわ堂々とそびえている。「相生のカヤ」とも言われて親しまれている。樹高 20メートル胸高周囲 7. Oメートル樹齢 約400年(推定)カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。」「海老名郷土かるた 「ね」」「根を張った 相生の榧(かや)に 観音堂」。隣りにあった「えんま堂」。正面左の疣(イボ)とりの地蔵様。足元にある小さな石でイボをこすると、イボが取れるとのことであったが小石が見つからなかった。台座には「天保十三壬寅歳(1842)十二月吉日」と刻まれていた。堂内の閻魔様。近づいて笑う閻魔様の姿を。「笑う閻魔様」として親しまれている木造閻魔王坐像は寛保3年(1743年)に江戸中橋一丁目の仏師・渡部によって造立され、天保12年(1841年)に江戸浅草の仏師・舛上儀平國信が修理し、嘉永2年(1849年)に鎌倉扇谷の仏師・三橋永助も修理したことがわかっているのだと。「笑う閻魔様」。観音様の隣りにある閻魔堂には、不思議な閻魔様があります。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、ここの閻魔様は、悪いことをしてもいないのに、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけるので「笑う閻魔様」といわれ、昔から村人たちに親しまれています。江戸時代に、天保の大飢饉といって農作物がとれない年が五年も続いたことがありました。大谷に住むまずしいお百姓さんのせがれが、実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を追い出されることになりました。身におぼえのない若者は、「私はやっていません」と無実を訴えましたが、閻魔堂の前でみんなの裁きを受けることになりました。若者は閻魔様の前に進むと「本当にうそを見破って裁く閻魔様なら、私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴えました。この時、閻魔様は、大口をあけて笑い、「本当の悪人を今あぶりだしてやる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後ろにいた、いつも「正直者よ」といわれているお百姓さんの髪の毛をぢりぢりと焼きました。その男は苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶してしまいました。現在は古くなってしまって、閻魔様の木像も昔のおもかげは見られませんが、そのお顔は、やましい心を持った人が見ると怒っているように見え、心正しい人が見ると笑っているように見えると言い伝えられています。」「直司さんが書かれた話」。閻魔様は、うそをつくと舌をぬく、とよくいわれますが、悪いことをしたと疑いをかけられた人が無実を訴えると、その人に笑いかけています。江戸時代に天保大飢饉といって農作物がとれない年が◯◯・・◯れが実った稲を盗んだというので、年老いた両親といっしょに村を◯◯・・◯せん」と無実を訴えましたが焔魔堂の前でみんなの裁きを受け◯◯・・◯って裁く閻魔様なら私が稲を盗んだかどうか裁いてください」と訴え◯◯◯・・◯やる」そういうと、口から火を三メートルも吹き出しました。その炎は一番後◯◯・・◯ました。その男は、苦しみながら「盗んだのは私です」と言うと気絶して◯◯・・◯見られませんがそのお顔はやましい心を持った人が見ると怒っている◯◯・・◯っては目元口元が何となく笑っているように見えるのは不思議なことです。」「いぼとり地蔵いぼは厄介なもので、なかなか取れないまま数も増えていく。このお地蔵様の足元にある小石を一つ持って帰り、いぼをこすっていると、そのいぼが自然に取れる。取れたら新しい小石をもって御礼を申し上げて地蔵さんの前に置いておくのだといつの頃からか信じられてきた。」。「閻魔堂」と「大谷観音堂」を見る。境内の石仏。こんなアートなものも。'84 す・き・まシリーズ あ・うん 井上玲子 2001年設置 アルミニウム。アルミの芸術作品越しに「焔魔堂」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク国道467号線から小田急線線路に向かう道の右側にあった 稲荷大明神。更に近くにある泉龍寺へ。浄土宗の鉄筋コンクリート造りの寺。さらにその少し先にある本妙寺を探す。以前は手入れされていた?と思える植え込みの中に、四角いトタン屋根のお堂がポツンと建っていたが。堂の周囲には雑草が一面に生え、無住寺のようであり、何の看板も説明もないが廃寺となったか。 長後駅方面に歩くと長後豊川稲荷。『豊川稲荷』 と書かれた神額。中には白狐が二体。 そして近くには懐かしき長後公園が。私が中学2~3年生の時に通った塾がこの近くにあり、毎週1回この公園の中を歩き塾に向かっていたのであった。50年以上前の出来事であるが、公園の樹木は大きくなったが記憶に残っていた光景であった。 小田急長後駅西口広場から右に行った所に交差点がある。その角が少し小高くなっていて、『仙元塚』(富士塚とも)があった。 この塚は、宝永五年(1708)、富士山の噴火で降った火山灰を集めてつくった塚で、高さは当初、9mもあったと言われると。天保の大飢饉(1833~36)の際、村人は野の草を食べなければならぬほどの飢饉に遭い、村人の動揺を鎮め結束をはかるための信仰として「富士講」をつくり、三十三回の富士参りを始め、慶応二年(1866)大願成就の折、この塚を建てたと。つまり富士塚の跡で、「千元=せんげん=浅間」ということだろうとも。富士山の形に似た?「仙元大菩薩」と刻まれた碑が置かれていた。仙元五十年記念碑。仙元百年記念碑。 今年2016年は仙元塚建立150年に当たるのであるが・・・・今回は?綾瀬方面に向かい、『仙元塚』のある長後駅入の口交差点を右折し、藤沢市北消防署長後出張所の先を、左斜め手前に折れ100m程進むと突き当たりにあった下分の道祖神塔。(藤沢市長後394)。高台にある住宅地へ上る坂の麓に。双体神祇道祖神。年代は年代不明。周りに五輪塔の多くの残欠が。右の四角い石は?更に200mほど進むと左手に永明寺(えいみょうじ)。参道の左には梅園があり、木造山門も堂々たる構え。永明寺は山号を長福山、臨済宗円覚寺派の寺院。『永明禪寺』と刻まれた寺標。 本堂。本堂・山門共に、最近再建されたらしく、新しい造り。お地蔵様が八体 。六地蔵+子育て、延命地蔵の八地蔵。洒落た手水場。 山号の長福山と書かれた扁額。 境内は手入れされた樹木の間に、横長の木造本堂、客殿が繋がり、禅宗の寺らしく火灯窓・花頭窓(かとうまど)もあり全体的に落ち着いた雰囲気。更に歩を進め坂を上っていくと右手高い場所にあった長田(オサダ)稲荷社。 社殿。 社殿内部。
2016.11.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『法禅寺』を訪ねる。浄土宗寺院の法禅寺は、臨海山遍照院と号す。法禅寺は、明徳元年(1390)に言譽定賢が創建したと。東海三十三観音霊場31番札所。『五番 虚空蔵横丁 本宿』の石柱。「東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、 現在は虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には、毎月十三日にお参りしていました。今は毎年四月七日と十一月七日の大祭に開帳され七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露天が出店しています。」と。虚空蔵横丁を進むと正面に『養願寺』が。養願寺御本尊虚空藏菩薩は木像で空海作と傅えられる。十三詣りでも知られ、福徳智恵を授かるといわれている。また丑年寅年生れの一代守本尊でもあると。他に銅像阿弥陀如来立像が安置されているが、鎌倉時代制作と云われる善光寺式阿弥陀三尊で区文化財指定。また木造不動三尊像三躯が安置され制叱迦童子立像の面部のはぎめの墨書の名及び玉眼のあて木にはさまれていた文書から此の三尊の由緒が知られたとのこと。仏師春達により万治元年(1685)に制作されたと記され区文化財指定を受けていると。養願寺 本堂内部。品川宿の中央に位置している「品川宿本陣跡」。東海道を通る参勤交代の大名や、公家・門跡・幕府役人などの宿泊休息施設として賑わったと。入口には冠木門があり、一番奥には上段の間があったと。旅籠は2階建てですが、本陣は平屋建てで、一般の旅人は利用出来なかったと。明治元年(1868)に明治天皇の京都から東京への東幸の際に行在所となったことからこの地は聖跡公園と呼ばれているのだと。『土山町から寄贈された松』この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、四十九番目の宿場があった滋賀県甲賀郡土山町より品川区に寄贈されたもの。『八番 品川宿 本陣跡』石柱の正面には「品川宿本陣跡」、側面には「右後 北馬場を経て新馬場駅北口」と刻まれていた。江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えていた。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣があったが、中期以降は北品川宿1つだけになった。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置。公園の奥に入っていくと様々な石碑が。当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来の碑」、「聖徳の碑」、「御聖蹟の碑」、「石井鉄太郎胸像」などの記念碑が。『聖徳の碑』東京市品川聖蹟公園が開園するまでの、明治天皇品川聖蹟保存会の活動が記録された碑。『御聖蹟の碑』。明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和13年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。劣化により、銘文が読めない状態になって来ていた。『石井鉄太郎胸像』。常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和50年に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。碑文によれば、全国社会福祉協議会副会長など歴任。東京産業信用金庫(現・さわやか信用金庫)の理事長・会長として、中小企業の振興育成に当たり、その功績が認められて、藍綬褒章を始めとする数々の勲章を受けたのだと。『夜明けの像(新聞少年の像)』。山田太郎の歌「新聞少年」を想い出したのであった。♫僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と云うんだぜ♫『東海道品川宿本陣跡』「品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治5年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。」と書かれていた。『品川宿交流館(本宿お休み処)』東海道品川宿まち歩きマップが販売されていた。『稼穡稲荷社(かしょくいなりしゃ)』。品川図書館(旧日向佐土原藩島津家抱屋敷跡)の裏手にある神社。かつてこのあたりは上記の抱屋敷で、その屋敷内に祀られていたもの。御祭神は宇迦之売命(うかのみたまのかみ)。稼穡稲荷社 説明板。日向国佐土原藩の藩主島津淡路守は石高2万7千石の外様大名。佐土原藩の成立は豊臣秀吉が天正15年(1587)に島津氏15代にあたる島津貴久の子家久にこの地を与えた時、この抱屋敷は元々島津家本家の鹿児島藩(薩摩藩)藩主島津家が所有していましたが、安永9年(1780)に分家である佐土原藩8代藩主島津淡路守久柄に譲渡されたのだと。その後、屋敷は嘉永6年(1853)に佐土原藩から豊後国森藩藩主久留嶋家の家臣で医者の有冨玄説の所有となり、安政2年(1855)に南品川宿に売却したと。『稼穡稲荷のイチョウ』。「イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄それぞれ別の木となる。本樹は雄樹で、幹の囲りは4.1m、高さは23mあり、推定の樹齢は500年から600年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木である。本樹は、長い間稼穡稲荷神社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観も大変美しい木である。」と。そして目黒川に出る。朱の橋は『鎮守橋』。そして『荏原神社』の大鳥居。品川神社が東海道品川宿の北品川の鎮守であるのに対し、荏原神社は品川宿のうち南品川の鎮守であると。鳥居の先には恵比須像が置かれていた。現在は東海七福神巡りの恵比寿神を祀っている。手水舎。拝殿。荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)9月に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月に神明宮、宝治元年(1247年)6月に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っている。明治元年には、准勅祭社として定められた。神祗院からは府社の由来ありとされたと。現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、平成30年で174年を迎えたと。「荏原神社」と書かれた扁額。拝殿の見事な彫刻。拝殿欄間の彫刻。舞殿。『品川拍子(しながわびょうし)』。品川拍子は祭礼時に神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されると。社号碑には郷社の文字が。荏原神社は毎年6月初旬に行われる、海に入って神輿をかつぐ海中渡御が有名。毎年六月七日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬のきれいなところで、海中渡御を行っていると。御朱印を頂きました。そして目黒川に架かる鎮守橋。社前の目黒川に架かる鎮守橋は昭和60年の架橋。大正期から昭和初期にかけて河川改修で流れが変更されるまで、目黒川は荏原神社の北側を流れておりそれが北品川と南品川の境界(つまり品川神社と荏原神社の氏子域の境界)であったと。現在は目黒川の北岸にある荏原神社ですが、大正の終わりに河川改修工事が行われて目黒川の蛇行部が直線になるまでは、下図の如く南岸にあったのだと。この地図に「天王社」と描かれているところが荏原神社なのだと。 【http://arukitabiouen.seesaa.net/article/420361164.html】より品川橋から旧東海道を振り返る。『品川宿の今昔』。「この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。「品川橋」がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。」と。旧東海道・品川橋 全景。。品川宿は、この橋を境に北品川宿と南品川宿に分かれていたのだ。東海道五十三次では、日本橋の次の本格的な橋が品川橋。八ツ山橋は明治以降、鉄道建設のため架けられたものであると。品川橋から上流を見る。朱の鎮守橋、そして渡り終えたその先に荏原神社。『東海道 品川宿 これより南 南品川宿』。品川橋を渡ると南品川の商店街に入って行くが、商店街入口左側に建つ「城南信用金庫」の角に是より南品川宿の説明板が立っていた。「日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。」と。南品川宿の現在の地図。南品川宿を進む。こちらは未だモール化されていない。『街道松の広場』。商店街を3分程進んだ右側に街道松の広場という公園があり、入口に浜松宿から寄贈された松が植えられていた。『品川宿の松』。「この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約ハ十年の黒松です。斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。」と。『三岳』。右側「南品川一郵便局」を過ぎ、信号を渡って少し進んだ右側の「東洋鍼灸院」の壁に三岳の説明板が掲げられていた。「現在、南品川二丁目の通称「三岳」と呼ばれているところは江戸時代には二日五日市村の集落のあった処で、三岳神社の近くであったことから、そのように呼ばれるようになったとされています。」と。児童遊園入り口にあったトイレを利用する。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.22
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小田原城を後にし、二宮町の旧東海道を走りながら、以前も訪ねた寺『等覚院』を訪ねた。所在地: 二宮町山西793この写真は、前回訪れた時の写真。『本堂』。山号、梅沢山東光寺。別名、藤巻寺ともいわれる。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。境内の『六地蔵』。『鐘楼』。『歴代住職の墓』。『三猿』が刻まれた墓石。等覚院は別名、藤巻寺ともいわれ、藤の花が人気の寺。この日は既に花は完全に終わっていたが、同行の旅友Sさんは、4/29(月)に藤の花を見にこの寺を訪ねていたのであった。その時のSさんがブログにアップしためずらしい白い藤の写真。そして境内のアジサイ(紫陽花)の花を此処でも楽しんだのです。八重咲きのガクアジサイ。こちらも八重のガクアジサイ。緑色のアジサイ。そして次に訪ねたのが、中井町にある『厳島湿生公園』。ここ厳島湿生公園は県下でも稀な清水が出ている湿生地を復元し保全することを目的に整備された公園。湧出量は一日およそ2600トンにも及ぶと。駐車場にあった案内板。厳島湿生公園は、湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全しており、相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっています。湿地には、ホタル、カワセミ、ホトケドジョウなど、水辺に集まる希少な生き物が生息しており、園内を巡る木道や散策路からは、四季折々の草花など楽しむことができます。公園中央の厳島神社は、古くから地域の方々に「弁天様」と親しまれており、弁天様やホタルにまつわる民話が今も残されています。『厳島湿生公園案内図』。『花マップ』パンフレット。『厳島湿生公園 花マップ』。湿生地を巡る木道400m・休憩広場・芝生広場・東屋・トイレなどが整備されていた。アブラハヤ、シマドジョウ、ホトケドジョウ、シュレーゲルアオガエルなどの希少な生き物が確認されていると。池の上には木道がきちんと整備されていた。木橋の前方に「弁天さん」として地域の方々に親しまれている『厳島神社』の朱の鳥居が。扁額『厳島神社』。『拝殿』。「厳島神社(いつくしまじんじゃ)この神社は、文化4年(1807年)に建てられ天保11年(1840年)、安政4年(1857年)及び昭和62年(1987年)に改築された。江戸時代は「弁天様」と呼ばれたが、明治2年(1869年)厳島神社と改名された。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、祭日は4月16日であったが、現在は、蓑笠神社の祭日と同じ日に行っている。また、周囲は清水が豊富に湧き出ていて、蛍やシマドジョウなどの清く澄んだ水しかいない小動物が、今でも生息する湿原である。」 『私たち、住み替えます 成長とともに住かを変える公園の水棲動物たち』「この公園には大きくなるにつれて、住む場所を変えてゆく水棲動物がいます。ホタルやトンボの幼虫は水中で生活するので、水棲昆虫と呼ばれています。ホタルの幼虫はカワニナを、トンボの幼虫ヤゴはミジンコや蚊の幼虫、小魚などをエサとしています。彼らは、脱皮を繰り返して成長します。両方とも成虫になると空を飛びます。カエルはオタマジャクシのときは水中で生活しますが、成長して尾がなくなり四本足となって水中や陸上で生活するので、両生類と呼ばれます。」睡蓮が群生する池、しかし花の姿はまだ無かった。『中井町 厳島湿生公園 周辺あんない』。このユニークな石の彫刻は、中井町民の彫刻家・高田 大(たかだ・だい)さんの作品。タイトルは「水の妖精」。ちなみに、ここは湧き水が作り出した県下でも数少ない湿地を保全している公園で相模湾に注ぐ葛川の源流ともなっていると。池の中には、野鳥の止まり木が置かれていた。ここに止り羽を休めたり、池の魚を狙うカワセミ(翡翠)等の野鳥を、『鳥撮り』が大きなカメラを3脚に乗せてひたすら待つのであろう公園内に掲示されていた、止まり木のカワセミ(翡翠)の写真。5月にはゲンジボタル、6〜7月にはヘイケボタルの観賞を楽しむことができると。木製のベンチに座り一休み。二宮で合流された元同僚・先輩のOさんが、「近くの食品館あおば 中井町店」で寿司弁当とビールを調達して来てくれ、これを3人で楽しんだのであった。我々、車を運転しない二人は缶ビール、運転する旅友Sさんはノンアルコールビールを楽しみながら寿司弁当を平らげたのであった。Oさん、ご馳走になりました!!近くにあったキンシバイ(金糸梅)の黄色い花。「キアゲハ」の幼虫を発見。「トカゲ」も。ピンボケになりましたがこの透明な羽のトンボの名は?ルリイトトンボだったのでしょうか?数年前に別の場所で撮ったルリイトトンボの写真を紹介します。そして、ネット情報によると、毎年、この厳島湿性公園では『竹灯篭の夕べ👈リンク』が開催されていると。2019年の竹灯篭の夕べは5月25日(土)に開催されたとのこと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】より竹林整備によって出た竹を「灯篭」にして厳島湿生公園に並べ灯りをともし、その幽玄な雰囲気を楽しむイベントで、竹林再生事業の一環として平成18年度から始まり今年で14回目の開催。会場内は、灯篭の火の揺らめき、水面に映る景色などが幻想的な雰囲気を醸し出し、来場者を魅了したと。 【https://www.town.nakai.kanagawa.jp/forms/info/info.aspx?info_id=4148】よりそして帰路は、明治末から昭和初期まで稼動していた湘南軌道(しょうなんきどう)の線路跡に出来た道路を進む。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、1927年(昭和2年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て1937年(昭和12年)に廃止されたと。通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在二宮町二宮)~井ノ口村(現在中井町井ノ口)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりと。下図の赤い点線部分が軽便鉄道・湘南軌道の線路が通っていた場所。湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、現在の小田急秦野駅からは離れていたとのこと。葛川(くずかわ)沿いを二宮駅に向かって南下。そして二宮駅まで路線距離は最終的に10.0kmであったと。『湘南軌道』の歴史をウィキペディアより。・1906年(明治39年)8月1日発起人を集め湘南馬車鉄道として秦野 - 二宮間開業 (9.0km) 開業当初は馬車鉄道であった。当時の発起人は秦野市、二宮町、中井町など沿線の有力者を もって行われた。なお、発起人に名を連ねた人物には国会議員の伊達時や慶應義塾出身の 山口(旧姓高橋)喜十郎など福沢諭吉の知己を直接得ている人物が存在する。 また、伊達時および山口喜十郎は伊勢原市に存在した自由民権運動の団体「湘南社」に 深くかかわっていた。・1913年(大正2年) 2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更 2月24日 湘南軽便鉄道に改称・1918年(大正7年) 経営難により一時休止、その後経営移管され湘南軌道となる・1923年(大正12年)9月1日 関東大震災により被災・1924年(大正13年)3月 秦野駅(初代)を台町駅に改称、 秦野(2代目) - 台町間開業 (1.0km)、全通・1927年(昭和2年)4月1日 小田原急行鉄道開通・1929年(昭和4年)8月14日 乗合自動車運行開始[5][6]・1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる・1935年(昭和10年)10月9日 秦野 - 二宮間全線営業休止・1937年(昭和12年)8月25日 秦野 - 二宮間全線廃止 (-10.0km)『当時の駅・敷設・接続路線』をウィキペディアより。・路線データ (廃止時点のもの) 路線距離(営業キロ):10.0km 軌間:762mm・駅数:8駅(起終点駅含む) 複線区間:なし(全線単線) 電化区間:なし(全線非電化)・駅一覧 秦野駅※ - 台町駅 - 大竹駅 - 上井ノ口駅 - 下井ノ口駅 - 一色駅 - 中里駅 - 二宮駅 ※湘南軌道の秦野駅のあった場所は、専売公社農場(現ジャスコ秦野店)附近で、 現在の小田急秦野駅からは離れている。以下の古い写真は『湘南軌道👈リンク』からのものを利用させていただきました。『湘南軌道 二宮駅』の当時の写真。創業当初は、鉄製のレールの上を走る客車を馬に引かせる馬車鉄道であったと。『省線二宮駅構内を進行する湘南軌道の蒸気機関車。』1913年(大正2年)2月1日 利用者増加に伴い蒸気機関車に変更されたと。大正13年(1924)頃の古写真「湘南軌道株式会社・二宮本社屋」『2号機関車』。そして『下井ノ口停留所跡』。湘南軌道下井ノ口停留所付近は若干昔の名残で商店等があったが。写真を撮るOさんは二宮に50年以上お住まいだが、この湘南軌道についてはご存じなかったのであった。『一色停留所跡』。一色駅(いしきえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町一色に在った駅。『中里停留所跡』。中里駅(なかざとえき)は、現在の神奈川県中郡二宮町中里にかつて存在した湘南軌道の駅。今まで、この湘南軌道の存在については、全く知らなかった私。今回、中井町にあった『厳島湿生公園』を訪れ、その存在を知り、帰路にその路線上に出来た道路を走り、またネットで調べこのブログを書きながら大いに学ぶことが出来たのであった。
2019.06.13
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「明治郷土史料室」を後にして「神台公園(かんだいこうえん)入口」交差点まで戻る。「児童クラブ交流会」の看板が。(公財)藤沢市みらい創造財団が運営する児童クラブは基本的に小学校区ごとにあり、・児童の成長を促すこととして次の活動を行っているのだと。・児童の安全と健康を守り、豊かな心を育てる活動・遊びを通して自主性・社会性・協調性を培う活動・生活の場を提供し、生活習慣を身につける活動・家庭との日常的な連絡、情報交換・地域活動への参加など、地域の特性を生かした活動・その他、児童の健全な育成を助ける活動多くの子供達が集まっていたが。前方に「湘南藤沢徳洲会病院」。その手前を右折し、藤沢市道・明治457号線を進む。昔の街道・「大山街道」から分岐した「鎌倉江の島道」であったと。前方、路地の角にあったのが「伊勢屋の墓地」。「江戸時代、二ッ屋付近では街道を行き交う旅人相手に立場茶屋が繁盛したといいます。伊勢屋の先祖は伊勢の出身で立場茶屋を営んでいました。明治維新後は茶屋を廃業して酒屋兼雑貨を扱う店を営んでいたことが知られています。」と頂いた資料から。墓石が並ぶ。「乙磨墓」?。「明治郷土資料室」資料から「いつこより 吹来るものか秋風に 草も我身を 枯れそめにけり」「先祖代々の墓」。道路側にも墓石が並ぶ。中央に「三觜家之墓」と。三觜本家からの分家関連の墓地なのであろうか?「墓誌 三觜家先祖代々之諸精霊位」と。そして東海道・国道1号・「大山街道入口」交差点に出る。「大山街道入口」。手前にあった石碑。廻り込んだが、風化が進んで剥落が激しく文字は確認できなかった。頂いた資料には「⑤二ッ谷の辻ニッ谷はニつ家とも書きこの道筋にニ軒の家があったことから起こった地名ともいわれています。またここは北方向への大山道、南方の光明真言道場道(鎌倉江の島道)への分岐点であり、大山での帰りの信者たちが宝泉寺へ参詣し、更に江の島鎌會方面へ行く途中の休憩所として、ニ軒の立場茶屋があったからともいわれています。」そして上記の石碑は◇常光明真言道場道標(国道南側)光明真言道場と呼ばれた宝泉寺への道標で、同様のものが宝泉寺にもある。旧東海道と明真言道場道と交差する所にある。初め寛保ニ年(1741)伊予国出身の回国行者空山が立てたが、朽ちてしまったので文化六年(1809)に再建した。「常光明真言ロロ 寛保ニ壬戌三月廿一日 願主予州沙門空山 辻堂村宝泉寺」と刻まれていたと。「明治歴史資料室」の展示から。正面に「常光明真言」と。塔身石側面 願主寺州沙門空山 辻堂村宝泉寺 寛保ニ壬戌元三月廿一日塔身左側面 于時文化六巳之ハ月日再興そして正面が「大山街道」。ピンクが「田村通大山街道」と説明員の方から。この場所は「藤沢市」と「茅ヶ崎市」の境界付近。ここから「茅ヶ崎市」と。 横断歩道を渡りると、そこにも石碑が転倒した状態で放置されていた。廻り込んで。裏面、右側面にも文字が刻まれているようであった。「西国坂東秩父巡礼塔」であり享和3年(1803)高座郡用田村の人々により道中安全祈願を目的に建立されたものと。頂いた資料には正面 奉巡禮四國坂東秩父供養塔塔身右側面 あふり山 わけいる道に しおり置 つゆのことのは しるべとはなれ塔身背面 相州高座用田村 角田紋右衛門 宮原村 菊池五右衛門 菱沼村 太田口口 赤羽村 古知屋太郎衛門 同 太郎左衛門 安齏兵左衛門 城田治左衛門ニッ谷の立場:ー里塚を挟んて、四ツ谷とニッ谷の立場があった。ニッ谷の辻にある「奉巡礼西国坂東秩父供養塔」は、大山道しるべにもなており、巡礼の物道に迷って困窮した経験から、大山詣ての人々に道しるべを建てたと云われる。※道標左面の銘文(現在は、剥落判読不明の部分)すぎし年 やつがれは都路より西の国々東越道の国々の宮寺詣せしに わかれの岐をもしらで打越しことありき、あるわき道にかつりもうてしをりも侍り幾されば此里人の語り侍るには、大山詣でする人たちを委しくふたつや(ニッ谷)・小わた(小和田)を討ち過ぎ道しるべする人をやといて直格にロロロはた具儘に詣するなりむ者も有とかやしかあれど、此岐みちは細道なれば、ざして大山道と記難き海道しるべにてはべればとて、或人に一首の歌を乞得て書誌ものならし ↑この一首が、右面の和歌ネットより、在りし日の石碑の写真を。ネットより、在りし日の石碑の写真を。そしてこちらが大山道への道。そして東海道を藤沢方面に上ると「二ツ谷公民館前」交差点の先、左手にあったのが「二ッ家稲荷神社」。ニッ家稲荷は二ツ谷とも書くが、道辻に二軒家、二軒茶屋があったとも言わわたことから此の名がと。藤沢市城南1丁目3。「二ッ家稲荷神社」。そして入口左に道路を背に向けて立っていた「寛文十年(1670)庚申供養塔」。「寛文十年(1670)庚申供養塔」。塔身前面 寛文十庚戌年 奉造立庚申供養 九月吉日正面彫物 日月型 三猿像昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」。隣に「道祖神塔」。蓮弁光背型 和合ニ神立像。塔身正面 施主吉田氏権右衛門 天明元年丑年九月吉日「二ッ家稲荷神社」の「一の鳥居」。そして「ニの鳥居」。扁額「ニッ家稲荷」。「ニッ家稲荷神社歴表当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」「狛狐」(右)。「狛狐」(左)。こちらにも。こちらにも。そして「三の鳥居」と「社殿」。扁額「稲荷大明神」。二ッ家集落の鎮守社で、祭神は「保食神(うけもちのかみ)」例祭日二月一日、勧請年月日は不明。延宝七年(1679)に再建され、以降明治三十九年まで度々再建を重ねている。昭和十八年春、海軍衣料廠の拡張にあたって、神台2ー8(国道1号線反対側)より現地に移転した。これが、「寛文十年(1670)庚申供養塔」が道路に背を向けている理由であろうか。ここにも狐様が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.31
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この旅行も7日目、観光の最終日の6月25日(火)となる。ホテル『大連日航飯店』の我が部屋からの光景。右側が大連駅方面。この日もほぼ快晴、朝の陽光がビルに反射し黄金色に輝く。『長江路』沿いのビル群を我が部屋から。道路沿いにはマッサージ店やサウナがずらりと並ぶ。写真左端のレンガ色が「泰殿養生会館」。日本人経営のマッサージサロンで、技術うまいから好評と。泰式マッサージ、全身マッサージ、足裏マッサージとオイルマッサージなどがあると。そしてその右側はサウナで、どうやら怪しい?サービスの店か?そしてこの日もホテル廻りの早朝散歩に向かう。時間は6:10過ぎ。ホテルのロビーは朝の清掃中。長江路にある大連日航ホテルの斜め向かいの、民生街へ入ってすぐ左にある『宏済大舞台(こうさいだいぶたい』。京劇の公演場所で、大連京劇院による演出が行われているのだと。ここは日本が大連を租借していた時代にはもともと「天福茶園」があった場所で演劇も行われていて、1911年には保善茶園と名称を変えて、後に永善茶園と名称を変えた。当時様々な演劇がおもに日本語で行われた中に、京劇の『人面桃花』の北京語による演出もあった。1931年には大規模な改築を開始して、1933年には竣工、1934年には「宏済大舞台」として開業した。『秋田温泉』は2015年6月の新しく大連日航ホテルのすぐ横にできた24時間営業のサウナであると。しかし、秋田温泉は大連日航ホテルとは何も関係ないらしいが、なぜ「秋田」?。大連駅方面に歩を進める。火災にあった建物が。『長江路』と『天津街』の交差点。右手に大連のCRに架かる『現 勝利橋』が見えた。大連駅の東方向1キロ、ロシア風情街手前の橋、今は『勝利橋』と呼ばれている。昔の名は『日本橋』。1899年、帝政ロシアが建て、当初の名前が『ロシア橋』であったと。橋の北にはロシア官庁街(今はロシア風情街)。1905年、日露戦争勃発し、橋は一度壊されたと。そして、1907年、日本当局がこれを造り直し名前も日本橋と改名した。改造後の橋は鉄筋構造のアーチ橋で、長さは108.6m、広さは16.4m。第二次世界大戦終戦後、ここを『勝利橋』と改名された。現在は歩行者通路も別途作られ、旧橋の西側に新しい橋も作られた。『上海路』の先にある『大连艺术展览馆』をズームで。旧東清鉄道汽船本社ここは夜の散策で訪ねたのであった。高層ビル群も姿を表した。宏孚商旅酒店(手前)、摩天大楼中心(裏側)そして大連中心·裕景(右)であろう。なかなかビル名を特定するのが難しいのだ。そして『大連駅』大連駅は満州国時代に建てられた駅だが、正面から見ると東京の「上野駅」の正面玄関口にそっくり。大連駅の方が上野駅より大きいものの、建築物全体のデザインは両駅ともに非常に酷似。日露戦争で大きな損傷を受けた大連駅を新たに建造したのが日本人だと。大連駅は満州鉄道の太田宗太郎氏が上野駅を参考に設計したもの。大連駅の立地は平坦ではなく、高低差があったことから、太田宗太郎はこの高低差を活かし、自動車で駅の2階部分に直接乗り入れることができるように設計。現代の空港でも見られる設計だが、2階部分は出発、1階部分は到着と階層を分けることでスムーズな利用を実現したのだと。こうした設計が取り入れられたのは「当時の中国では大連駅が初だった」と。時間は6:30過ぎ。大連駅前から中山広場方面の高層ビル群。右に『天安国際大厦』『天安国際大厦』は地下52階、地下3階、最上階は202m。左に『インターコンチネンタル大連 (大連遠洋洲際酒店)』。大連駅のチケット売り場。『栾雪莲窗口』。切符販売・発券の速さで匠の技を持つ大連駅員「栾雪莲」さんの専用コーナーであるようだ。『南一桜进站口』は一階南駅入口。『中山路』を『中山広場』に向かって歩く。『友好広場』が前方に。ロータリーの中央の巨大な球形のモニュメントを前日に続き再び。広場のシンボルであるこの球形のオブジェは1996年に当時の大連市長の発案で作られた。これはサッカーボールではなく真珠をかたどったものであると。3120枚のガラスで構成されており、直径は15メートル、重さは117トン。この球体を支える台座は世界の人種の色(黄・白・黒・赤・茶肌)を表現し、また5大陸の友好を表しているのだと。ロータリーをグルッと廻り進む。後方に『友好大廈』『大連市内案内図』。大連市の総面積は12,574km2であり、うち旧市街区の面積は2,415km2。山地や丘陵が多く、平野や低地が少なく、地形は北から南へ傾き、北は広く、南は狭くなっている。地勢は中央から南東と北西部にある黄海と渤海へ傾き、黄海への斜面は長く緩やかである。長白山のある千山山脈は旧市街区を貫いており、地形のほとんどは山地や緩やかな低い丘陵であり、平野と低地は河川の水が海へ流れ込むところ及び山裾の谷地に点在するだけで、至るところでカルスト地形が目に付き、カルスト地形と海食地形が比較的に多いのだと。そして中山路を進み『中山広場』に到着。『旧 朝鮮銀行』。建物の歴史、詳細については『8月1日のブログ』👈リンクにアクセス願います。『中山路 1』のプレートが。中山広場の歴史建築物には『中山広場1号~10号』まで番号が付けられているのであった。下図はウィキペディアより。『朝鮮銀行 大連支店旧址』現在は『中国工商銀行中山広場支行』。ネオクラシック様式、大きなコリント式の神殿風オーダー(円柱)が目を引いたのであった。『关东银行旧址』「关东银行旧跡」とは1947年から1950年まで存在した地方銀行のことで紙幣も発行していたようです。『全国重点文物保护单位 大连中山广场近代建筑群 一 朝鲜银行大连支店旧址』ロータリーの歩道を歩く。『旧 関東逓信局』。『关东都督府 邮便电信局旧址』。『市级文物保护单位 关东都府邮便电信局旧址』。現在は大連市郵政局が使用。『武装押运』と書かれた黒、そして白の車両が2台駐車中。それにしても『武装』の文字は物騒!!民間の警備車両のようだ。中国では現金輸送車や各種護送車には武装した押运员(ヤァァ ユゥィン ユゥァン)と呼ばれる警備員が同乗し運搬物を守っていると。しかも警備員は防弾ベストにショットガン(散弾銃)やアサルトライフル(自動小銃)まで装備が許されているのだと。中山路を隔てて、『大连远洋洲际酒店(大連遠洋洲際酒店)』(左)と『大连国貿中心大廈(大連国貿中心大廈)』(右)。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。石碑が2つ。中山広場の向こうに『大連賓館・旧ヤマトホテル』が。『大連人民文化倶楽部』を横から。『旧 清国大清銀行』。『大連人民文化倶楽部』。英国バース合唱室内楽団のコンサートが行われるようであった。『大連人民文化倶楽部』。『旧 清国大清銀行』を振り返る。『旧大連市役所(現 中国工商銀行)』。更にロータリーを進む。『旧横浜正金銀行大連支店 (中国銀行遼寧省分行)』。『中山広場』を半周する。帰路は『民生街』を進む。左手に『独門衝烤魚(民生街)』。右手に『金逸国际电影城』は映画館であろうか。この付近は『浪速町』と呼ばれ、大連のなかでもっとも古い商店街であり、随一の繁華街であったと。日本人住民は浪速町を散策することを東京の銀ブラをもじって「なに(浪)ブラ」と言っていたと。正面の高層ビルは、我々が宿泊している36階建ての「大連日航飯店」。女性が『燜子』を焼いて、それを婦人と子供が食べている像。燜子(menzi)は中国東北地方は大連名物の小吃のひとつ。キャッサバ澱粉を「燜」=蓋をしてとろ火で煮込んで固めたもので、食感はワラビ餅よりすこし固め。その澱粉の塊を一口大にぶつ切りにしてから熱々の鉄板で炒め、ニンニク、醤油、酢、ごま油などで調味したスープをかけて食べるのだと。鉄板で炒める時に表面の水分が抜けるので、やらかいこんにゃくでも食べてるかのよう。 葱に香菜、ニンニク、おこげ、ごま油と香りの良いおやつだと。子供が美味しそうに。『燜子』と書かれた旗。『大連老街』と書かれているのであろうか。『悦泰街里』という大連にしてはモダンな一角。ただし、この時間の人の数は少なかった。この巨大な置物は??。『鼎(かなえ、てい)』の如きものが上部に。中国古代に使用された肉を煮る礼器。3足ないし4足 (方鼎) で,青銅製と陶製のものがあるのだと。象の背中に載っているものは船?これも舟そしてベンチ?『天津街古玩城』天津街はもともと古道具、偽物チックな真珠、安い洋服や雑貨、ちゃちなおもちゃなどが露店スタイルで売っている場所でありようだ。はんこ屋、水墨画屋、中華風の壷屋、お茶屋、茶道具屋、筆屋、珠玉屋、紅木家具屋、古切手屋、中華風雑貨屋等々・・・・・があるようだ。『民生街』と『天津街』の交差点。左手の「玉荷池 荷池湯泉」は温浴施設(スーパー銭湯・サウナ・スパ施設)。『LONGXI(龍熙) CLUB』は?重厚な銅製の扉。そして『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』に戻る。36階、総部屋数372室、148 m の高層ホテル。中国民生銀行(大連勝利橋支行)の文字も横に。時間は7:11。『日航ホテル大連 (大連日航飯店)』のフロアー配置図。そしてホテルレストランでの食事に。調理品コーナー。さすが五つ星の日航ホテルだけあって、料理の種類が豊富なのであった。いろいろ取りました。そして目玉焼きと牛ステーキも焼いてもらいました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.06
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「建長寺・半僧坊」からの帰路の散策を続ける。「天狗像」の後ろ姿を見ながら石段を下る。横から。「羽団扇(はうちわ)」を持つ天狗像を見上げる。そしてしばらく石段、坂道を下って行くと右手にあったのが「虫塚」。「やぐら」の中に墓石とその近くに石塔があった。ここ半僧坊大権現の参道にある「虫塚」は、2015年(平成25年)昆虫好きの解剖学者、養老孟司(ようろうたけし)氏が発案。 【https://books.rakuten.co.jp/rb/13217785/】より建築家・隈研吾(くまけんご)氏が設計したと。隈研吾は2020年東京オリンピック・パラリンピックの主会場の「新国立競技場」の設計者。 【https://www.nippon.com/ja/people/e00101/】より47都道府県で産する木材を大量に使用しており、都道府県の日本列島における地理的位置(方角)に合わせて然るべき所に配置している。樹木の多い周辺環境との調和も重視されている。「虫塚」と書かれた碑が立っていた。入口にはクワガタ姿のベンチがあった。夏場はこのクワガタ姿のベンチに座ると熱そう!!周囲の竹林からは数え切れないほどのタケノコがニョキニョキと。これぞ「雨後(うご)の筍(たけのこ)」。このタケノコはどうするのであろうか?そして、この山には「イノシシ」はいないのであろうか?石碑には「近代文明はおびただしい数の虫を殺してきました。それは今でも続いています。それに気づいている、ということを銘記しようと、虫塚を建立しました。塚にしたのは、すべてを言葉にすることはできないからです。養老孟司養老朝枝隈研吾挾土秀平平成二十七年六月四日」「クワガタ」。「カブトムシ」。そして途中左に折れ、寺名が気になった「回春院(かいしゅんいん)」を訪ねた。「回春」とは、「春が巡ってくる」という意味。ここから転じて「病気が回復すること」や「若返る」ことを指す言葉として用いられるようになったと。現在の日本ではもっぱら性的に「衰えた精力を取り戻すこと」の意味で使われるいるのであるが・・・・。「山門」の手前の墓地に大島渚監督の墓地があるとのことであったが・・・。石段の上に「回春院」の「山門」。寺号標石「回春院」。「山門」。「復興地蔵尊」。「本堂」前の「大覚池」。常に大亀が住すと伝えられています。「まん丸地蔵尊」。「白蓮観音菩薩」。「幽谷山 回春院」の「本堂」。「回春院」は、第二十一世玉山徳旋(ぎょくさんとくせん)の塔所。本尊は文殊菩薩。本堂前の「大覚池」には大亀がいるとの伝説があり、別名「亀池」ともいう。開祖像のほか木造韋駄天像を安置する。「回春院」の裏山は十王岩へと通じ、途中には約50穴からなる朱垂木やぐら群がある。『新編鎌倉志』によると、回春院の山の上には原田地蔵があったのだという。また、建長寺が創建される前にあったという心平寺は回春院の辺りにあったのだという。本堂前で「回春」を祈願してしばしの合掌。「本堂」の内陣。「幽谷山」と書かれた横書額が。「寺務所」。八重桜の先の「山門」を見る。カワセミ(翡翠)を発見。「わらべ地蔵尊」。「回春院」のこの日の御朱印をいただきました。これで元気が出そうです!?。鎌倉市山ノ内にある建長寺塔頭である旧玉雲庵(ぎょくうんあん)が現在の「正受庵(しょうじゅあん)」。入口にあった「庚申塔碑」。そして左に「正受庵」の案内板があった。後方の建物が「正受庵」だったのだろうか。そして再び「河村瑞賢遺跡登り口」碑があった。墓石が正面に見えて来た。正面が「河村瑞賢顕墓」。「河村瑞賢顕墓石」。「川村瑞賢顕彰之碑運業界の祖治河事業の先駆者河村瑞賢の墓石は元禄十二年獅子通顕により建立され、更に通顕の墓石は享保六年義篤によって建立されたものであり二百有余年の長い間風霜に晒されて建長寺境内塔頭金剛院跡に眠りつづけていました。自然の磨損の甚だしい所偶偶関東大震災によつて墓石は倒れ墳墓は破損されてしまいました。その惨状を見、傷心の情深き菅原時保管長猊下を中心に官財界の有志相い集い「河村瑞賢墳墓保存会」を設立し、昭和九年九月墓石等の保存工事、追憶碑を建立して河村瑞賢の優れた業績を永く後世に伝えるべくご努力なされましたが、時は流れ、国家社会の現状は変遷し更めて海運・治河事業の重要性が叫ばれて参りました。私達関係者は過去の偉大なる河村瑞賢の業績に憶いをはせ平成五年十月「河村瑞賢墳墓平成保存会」を設立し、平成六年六月十六日毎歳瑞賢忌を期して吉田正道管長猊下を大導師に拝請し、鍬入れ式等を挙行いたし境内整備等につとめて参りました。茲にその意志を確認し、永く保存に関する諸行事等をいたし祟敬顕揚の念を深くするものである。平成七年六月十六日 河村瑞賢墳墓平成保存会 」「河村瑞賢顕墓石」を後にして「奥院勝上巚地蔵尊道」に戻ると前方に紅葉シーズンの如き光景が。そして「唐門」と「方丈」の間の広場を見る。正面に「宗務本院」の玄関が見えた。再び「奥院勝上巚地蔵尊道」と刻まれた石碑。再び「唐門」を正面から見る。そして「総門」が前方に。総門を出て県道21号線まで戻ると道路脇には「從是勝上巚八町」碑が。側面には「道誌寄附 舩越講中」と刻まれていた。「総門」を振り返る。東外門があった場所は、現在は県道からの駐車場入口となっており、左手に「五山第一 建長寺」と刻まれた寺名碑があり、その左側面には「天下禅林 海東法窟」と彫られていた。「建長寺」前からバスに乗り「北鎌倉駅」に。昔聴いた「北鎌倉」👈リンク の歌を想い出したのであった。そして横須賀線、東海道線、小田急線を乗り継ぎ帰宅したのであった。この日の歩数は30577歩なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.08
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次真宗大谷派(京都 東本願寺派)の「聞稱寺(もんしょうじ)」に到着。大和市南林間6丁目9番11号。狭い参道を進んでい行く。正面に「親鸞聖人像」。お顔をズームで。掲示板。「精一杯咲くとどんな花も美しい」。残酷な現実だが、人もまた花である。 いつまでも若く美しく咲き続ける花はない。しかしだからこそ花は美しい。精一杯生きる人はやはり花のごとく美しい と最近しみじみと感じる自分がいるのだ。「本堂」浄土真宗大谷派妙香山聞称寺の支院として、平成22年2月に建立。「蓮如上人像」。お顔をズームで。小田急江ノ島線に向けて東に進む。「大和学園前」交差点角の「聖セシリア小学校・幼稚園」の校門。「大和学園前」交差点を渡った角にあった「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の校門。1929年 伊東静江により大和学園を創立。大和学園女学校開校。1930年 大和学園高等女学校に改称。1947年 大和学園中学校開校。1948年 大和学園高等女学校を大和学園女子高等学校と改称。1980年 聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校と改称。2013年 高等学校からの生徒募集を停止し、完全中高一貫校化。2020年 高等学校からの生徒募集を再開。 とウィキペディアより。交差点の名前「大和学園前」は歴史を残すためにそのままになっているのであろうか?更に進むと「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の脇門。そして小田急線の「中央林間4号踏切」を渡る。踏切を渡りながら「中央林間駅」方面を見る。「南林間駅」方面を見る。踏切を渡り左折し線路沿いの道を「中央林間駅」方面に進む。歩道には「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」のタイルが埋め込まれていた。「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」は深見神社境内にあった。「市の花 野ぎく」。「たぶの木」、「市の木 山さくら」。「天然記念物 けやき」。大津家の敷地内にあるケヤキ、特に目につく巨木(樹高25m、胸高周囲4.2m、樹齢約500年)。大和市の重要文化財(天然記念物)に指定され、「かながわの名木100選」にも選定されている。道路脇にあった「大和市の古地名」案内板。「大和という地名の起こりは、明治22年4月に下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村の4村が合併して鶴見村となったものの村名などについて紛糾し、明治24年9月に大和村と改名されたことに起因します。明治22年の市町村制の実施により、一般的には江戸時代の村名が大字となり、検地帳などに小名、一筆書きなどといわれた耕地名が小字となりました。しかし、市域では江戸時代にっくられた絵図がほとんどないことや、古くからの区画整理などの実施や近年の住居表示の実施などにより、しだいに小字が用いられなくなり、失われつつあります。聞き取り調査により地名やその他の名称を掘り起こしてみたのが右の図です。朱色が小字、黄色が地域に伝承された名称で、おおよその位置に示しています。大和市教育委員会」そして県道50号線・座間大和線下を潜る。そして150m程進むと右手角にあった「正一位伏見稲荷神社」。「稲荷大神の御神徳伏見稲荷大社は、今を遠く千ニ百七十余年の昔、稲荷大神が稲荷山の三ケ峯に御鎮座せられたのにはじまると、伝えられております。稲荷大神とは宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦木神(さだひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四之大神(しのおおかみ)の五柱を総称した御名であり、正一位稲荷五社大明神ともたたえられております。その御神徳は、世の人々からそれぞれの精神(こころ)、生命(いのち)、生活(くらし)生業(つとめ)、生産(つくり)の守護神として篤く信じられ、御神威は、心身健全、五穀豊穣、商売繁昌、福徳円満、交通安全等々に極めて著しいのであります。」朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」。「社殿」。近づいて。後にして振り返る。更に「中央林間駅」方面に進み右折し住宅街を右に折れ進む。汚水管マンホールの蓋大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。 そして「本道宣布会 皇神乃宮(はんどうせんぷかい すめかみのみや)」の一の鳥居に到着。直線的なデザインが特徴の「神明鳥居」大和市中央林間4丁目19-12。参道を進むと二の鳥居が現れた。木が鬱蒼としていたが、狛犬は無し。「境内」の「案内板」。「神明造」の「拝殿」。天照大御神をご神体とする神社。「拝殿」に近づいて。「中央林間東急スクエア」前の道を西に進む。そして「中央林間駅」東口のロータリーに到着。「大和の文化財 中央林間駅周辺」。昭和初期の林間都市林間都市は、スホーツ都市の機能を備えたものとして計画されました。クラブハウスを中心とした四面の野球グラウンドやテニスコート、ホッケー場、ラグビー場が整備されました。この企画運営には、雑誌「べースボール」の編集に携わっていた鷲沢與四ニ(衆議院議員)や田中清隆(画家)が参加しました。また、昭和初期の林間都市には吉井勇(歌人)、高木蒼梧(徘人・俳文学者)、唐木順三(文芸評論家)、龍瞻寺雄(作家)らが移り住んでいます。檀一雄作家 明治45年~昭和51年昭和26年に「真説石川五右衛門」で直木賞を、昭和51年の没後には、連作長篇「火宅の人」で読売文学賞と日本文学賞を受賞しています。昭和35年、檀の母とみは練馬区南田中の家ーー檀が昭和23年から25年まで住んでいた家ーーに、檀の長男太郎を預かっていました。ですが、太郎の通う玉川学園には遠かったことから、南田中の家を売却し、中央林間(一丁目)に家を購入、移り住みました。とみと太郎が暮らしたこの家を、檀もたいへん気に入り、よく友人たちゃ編集者を案内しては、夜おそくまでの酒宴をひらいたといいます。龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)作家 明治34年~平成4年昭和3年、雑誌「改造」創刊十周年記念の懸賞小説に「放浪時代」が当選。昭和初頭のモダンライフの反映ともいえるモダニズム文学流行の波に乗り、一躍文壇に登場。反プロレタリア文学を標傍する新興芸術派倶楽部の結成に奔走し、その中心的存在でした。また、シャボテンの栽培、研究で国際的に知られています。鷲沢興四ニに奨められ、昭和10年に中央林間(二丁目)に転居。滝山街道【古道】--------- 戦国時代の滝山城(八王子市)と玉縄城(鎌市)を短距離で結び、小田原北条氏の 領国支配上重要な道でした。巡見使道【古道】---------- 巡見使は将重の代替わりに府が派遣する調査団。天保9年、十ニ代将重家に就任の 際の巡見使が通ったといわれる。矢倉沢往遠【古道】--------- 江戸時代東海道の脇往還。港区青山なら、南足柄市矢沢一足柄峠へ至る。 大山道ともいい参詣に利用されました。「林間都市計画と小田急江ノ島線」小田原急行鉄道株式会社は、昭和2律に小田原線を開通、同4年には江ノ島線を開通しました。この鉄道建設と平行して江ノ島線沿いの約80万坪に、「林間都市」と称する都市計画がたてられ、「中央林間都市」・「南林間都市」として具体化されました。昭和16年、駅名にあった「都市」の文字がなくなり今日に至っています。都市デサインは、格子状の街路を基調とし、駅前広場を配置しています。現在も、当初のデザインは大さく改変されることなく残されています。「つきみの駅」周辺の遺跡。正面に東急東横線「中央林間駅」表示板「中央林間駅」2Fの「大阪王将」で腹こしらえ。「餃子」も。そして小田急線を利用してこの日の大和市散策を終え、「大和市の神社仏閣を巡る」を延べ3日間で完遂し帰宅の途についたのであった。この日の歩数は「23,411歩」であった。明日から再び「古都「鎌倉」を巡る」をアップさせていただきます。 ・・・もどる・・・ ・・・大和市 完・・・
2021.09.14
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「八雲神社」の「拝殿」前から境内を見る。左手に「神輿殿」、「手水舎」を見る。右手に「神楽殿」、その先には満開の桜が。満開の桜を見上げて。石鳥居の前の石段を下り正面右側にあった石碑。「なんご(古”)の(能) 茶屋の(乃) 江戸屋では(者)十七を(越)そろえて おめ(女)しを も(毛)らせる」と。クルリ棒による麦打ち作業に唄われていた南湖「麦打ち唄」👈リンク の一節であるようだ。茅ヶ崎にも昔は麦畑がたくさんありました。初夏の頃、収穫期になるとあちらこちらから脱穀のための麦を打っクルリの音とこの唄が聞かれました。刈り取った麦を、よく干してムシロに広げ、クルリで打って粒を落とします。その作業は重労働で、疲れをまぎらし、皆の調子を整えるのに歌われました。『歌詞』南湖の浜にや名所がある 波元には平島沖にゃ姥島南湖ではやる魚売り キスやキス なまキス サメのかまぼこ南湖の茶屋の江戸屋では 十七を揃えておめしをもらせるお前の声を聞きたさに 七つ八つ山越えてここまでも鎌倉殿はよい男 作り木にかんなかけた如くよ上記の解読・出典については茅ヶ崎にお住まいの我が高校時代の学友が執念で調査・解析!!ありがとうございました。そして「萬(よろず) 鐵五郎」案内板「萬 鐵五郎(一八八五 ~ 一九ニ七)萬鐵五郎は明治十八年に岩手県東和賀郡に生まれた。油彩画・水彩画・水墨画(南画)・版画に多数の作品を残した。大正八年、東京から此の地に移り住んで、南湖の海辺や柳島の風景などを描き、また文章の中にも所々に当地が出てくる。昭和二年五月一日茅ヶ崎4275番地(南湖4の5)の自宅において死去した。享年四十一才五か月。彼の芸術は日本近代洋画史上に大きな足跡を残した。南湖・柳島の地名も萬の筆によってより広く、また永く知らしめられることとなった」「八雲神社」前にあった地図、上部が東、右側が相模湾方向。北側から「八雲神社」の境内を見ながらJR茅ヶ崎駅方向に進む。ここが前回訪れた「六道の辻」。東方向を見る。北方向を見る。「サザン通り」に向かって進むと右手奥にあったのが「日本基督教団茅ヶ崎恵泉教会」。茅ヶ崎には様々な宗派の教会があるのだった。「「茅ヶ崎恵泉教会」は、1951(昭和26)年に設立された、日本キリスト教団に属するプロテスタント教会です。しかし、茅ヶ崎におけるキリスト教の歴史は、1899(明治32)年に開設された、結核サナトリウム「南湖院」でのキリスト教礼拝と日曜学校から始まります。その後、「南湖院」の関係者らを中心として、1921(大正6)年に、平塚美普教会の指導の下に、信徒団体「恵泉会」の集会と日曜学校も始められました。それらの活動が母体となって、茅ヶ崎美普教会(後に茅ヶ崎教会と改称)が生まれ、その茅ヶ崎教会から分離独立する形で、茅ヶ崎恵泉教会が設立されたのです。70年の歴史を持つ恵泉幼稚園も、かつてはこの茅ヶ崎恵泉教会の場所にあり、教会もその建物を使わせていただいておりました。1970年に現在の会堂が完成し、1979年には教育館が与えられ、現在の姿が整えられました。また1988年には、この教会の特徴の一つであるパイプオルガンが設置されました。」とHPより。掲示板。隣にあった建物が「日本基督教団茅ヶ崎教会牧師館」であっただろうか。さらに「サザン通り」に向かって進む。前回はシャッターが降りていた「茅ヶ崎サザン神社」に立ち寄る。商店街の事務所だった場所を、2008年茅ヶ崎サザンビーチで結成30周年を記念したサザンオールスターズのライブにあわせ、神社へと姿を変えたのだと。今では茅ヶ崎を代表する観光名所のひとつとなっている と。神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11−13。入口に形どられた朱の鳥居の扁額には「サザン神社」と。サーフボードには「茅ヶ崎 サザン神社」と。「茅ヶ崎サザンC」のモニュメントと「烏帽子岩」の姿も描かれていた。内部には狛犬と社殿が写真にて。壁には大きな「寄せ書きコーナー」が。反対側にも。サザンオールスターズの歌・「神の島遙か国」👈リンク。「御祈祷メニュー」(右)。「御祈祷メニュー」(左)。サーフボードには「サザンSt」と。StはStreetのことであろう。「茅ヶ崎サザン神社」を後にしてJR茅ヶ崎駅に向かって進む。そしてJR茅ヶ崎駅南口に到着。1899(明治32)年頃の茅ヶ崎駅。1887(明治20)年、官営鉄道(現・JR東海道本線)の「横浜駅」(現「桜木町駅」)から「国府津駅」間が開業し、湘南地方へと延びた。当時、駅は「東海道」の旧宿場ごとに設けられる方針だったことから、「茅ヶ崎駅」は設置されなかった。その後、茅ヶ崎・鶴嶺両村を中心に近接村の賛同も得ながら開設運動が行われ、1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業した。開業当日には多くの人が集まり、神楽、相撲、手踊り、花火などが催されたという。当時、新橋からの所要時間は約2時間。開業当初の頃の一日平均乗者数は、150~200人程度であった と。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p02.html】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンクこの日は6月9日、「旧東海道を歩く」のブログアップも完了し、新型コロナの影響で外出もままならなかったが、6月に入りやや落ち着きを取り戻したので、我が街・藤沢市の「藤沢市文化財ハイキングコース」👈リンク の内、唯一?未だ本格的に訪ねることがなく残されていた場所へのマスク付きの散策に向かったのであった。自宅近くから早朝のバスを利用して、遊行寺前で下車し「藤沢橋」がこの日のスタート地点。藤沢橋交差点手前には、「藤沢橋自動車排出ガス測定局」があった。この建物は一見すると、なまこ壁があり藤沢宿に関する施設の様に思うのだが関係なく、景観への配慮でこの様な外観となっているのであろう。「旧東海道・藤沢宿旧東海道 藤沢宿 遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡江戸 からの東海道を 進むと、東海道第六の宿、藤沢宿 内の遊行寺 橋(旧大鋸橋 ) で境川 (片瀬川 )を越えてから高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大 久保町。橋のたもとに高札場 があり、公定運賃 の定め、キリシタン禁制 など、 徳川幕府 の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島 一ノ島 居」が建てられていました。江の島弁財天の川の鳥居 で、東海道と別れて居をくぐれば、 「江の島道 」です。」初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」「東海道五十三次 藤澤宿」(隷書東海道)夜の藤沢宿の場面が描かれています。画面右側にある鳥居が江の島道の入口である江の島一ノ鳥居 、画面中央にあるのが大鋸橋 (現・遊行寺橋)です。宿場に着いた人々や客引きなど、様々な人々の様子が描かれ、当時のにぎわいが感じられます。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「東海道藤沢宿成り立ち・しくみ」案内板。「東海道分間延絵図」は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。藤沢宿 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。①藤沢御殿 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。②本陣と脇本陣 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延元22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。③問屋場 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。④見附 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。⑤高札場 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊行寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。⑥旅籠屋 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。⑦枡形 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。東海道分間延絵図。「旧東海道・藤沢宿」「江ノ島弁財天 道標」。「江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう 杉山和一、1610~1694)が寄進したと伝えられています、現在、市内外に十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう遊歩道の整備により当時の浮世絵類に描かれている江の島道入口の道標を参考として、この地に移設したものです。」「二世安楽」の文字が。正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」の文字が。広重 東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)。「画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。」「藤沢橋 交差点」。横浜方面を見る。こちらは茅ヶ崎方面の藤沢橋への下り坂。そして、藤沢橋から江の島方面に向かう国道467号線入口右にあったのが「金砂山観世音(きんささんかんのんどう)」。「金砂山観世音」寺標。「鼻黒稲荷大明神」社号標。「緒言夫れ靈驗顕著なる金砂山子育安產帶解觀世音菩薩は今を去る三百有余年前即ち寛永年間に金井清西なる者不思議の靈夢を感じて一宇を建立す參詣者常に群を成し善男善女の利盆感應を蒙ること多し其後天保年間に梶某なる者再築して一層美觀を添え慈德倍々輝けり然るに星移り物換り明治の初年に堂宇廢絕し真浄院に移轉し一堂を新築せんと欲して木材を集めしに不幸十三年の大火の災禍に罹り一燈の冷灰を化す又其後毛利觀道和尚十万の浄財に依り一堂宇を新築せられしも維持の基礎鞏固ならざりし高め綾滅に破したるは痛措に堪るず不肖常に復興の願意念頭を去らざること年あり然るに大非救世の機綠熟せしにや今回有志と相計り往昔安置の砂山に圖の如き堂宇を建立し觀音妙智力の慈德を仰ぎ又當地の舊蹟を復興し繁栄の一助にせんと欲すれども十方信者の信仰カに依らすんば竣工を期し難し故に信徒諸氏は此の車を替して浄財を寄付し起立塔像の巧德を蒙り福聚海無量現受無比樂の美果を得られんことを希ふ 大正五年七月一日 金砂山觀世音」 階段下から観音堂を見る。「観音堂」本堂の左隣に朱に塗られた「鼻黒稲荷大明神」が。実は、性病の一つ梅毒患者が治癒を目的にお参りする神社でもあったのだと。江戸時代、藤沢宿には娼妓が多数いたのだ。鼻黒とは、鼻先が膿んで真っ黒になり、その後「落ちて」無くなるとのこと。藩も厳しく取り締まりをしたそうですが、あまり効果がなかったと。境内にある「嗚呼九月一日」碑。「大正拾弐年九月壹日関東之地大震震源袮在千丹那山震幅方數十里斫地倒家減財損人其被害甚大喩之無物就中禍殃之大為帝都及金港不啻年土火其地域以揺減巨億之物貸殉難之生靈至算十數寓惨鼻之状豈忍説乎哉我藤澤之地亦在其圏中於震動最尤巍然藤澤山堂宇殆倒壊市街家屋亦大半没其姿一望凄然如臨荒墟特損生命者壹百餘名為天地暗澹鬼哭啾々日光有如無回想富時則肌膚生票戰慄不能語嗚呼逝者難追天譴易遣震災以來早既閲七星霜何人對殉難者無一片弔慰之念ロ是乎藤澤町民有志膂謀設一大法筵併建之供養碑以欲教後毘長追憶富時有所自警其擧洵美也矣予聞之賛称不措乃不吝筆勞茲録其梗概以使成其志云爾銘日一大地異揺坤軸來物貲成喪世夢始開獨憐老幼無辜殉災乃壮賛唄薦登靈臺昭和四年九月壹日藤澤山主大僧正他阿尊光」石碑背面上部の碑文は上記の如く漢文ですが、次のような内容が読み取れるのだと・大正12年9月1日に大地震があり、震源の数里四方は被害が甚大であった、・藤沢地方もその範囲内にあり、堂宇・人家は倒壊し百余名が死亡した、・その時から七年目に当たり、藤沢町民の有志が相談して慰霊祭を行い、併せてこの慰霊碑を 建立したことなど。この石碑の左側には金砂山安産子育観世音の石碑もあった。そして「藤澤橋」を渡る。下を流れるのは「境川」。赤い橋が「遊行寺橋」。江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山遊行寺の門前の橋である。現在の橋は、昭和35年に造られたPC桁橋である。「境川」石灯籠。境川というのは、かつて武蔵と相模の境ということ。こちらは「境川」の下流方向。滝川という小さな川が左手から合流。「藤澤橋」を渡り、最初の路地を右に入る。境川に合流する滝川に架かる舟玉橋を渡る。大鋸(だいぎり)2丁目の住宅街を進む。右手にあったのが「船玉神社(ふなたまじんじゃ)」。「船玉神社祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。日本武尊の奥方、女神である。船玉とは船霊のことで、船中に守護神として祭る神である。日本武尊が走水(横須賀)から房総に渡ったとき、荒れ狂う海に身を投じて日本武尊を助けたという故事から船の航行安全を守る神として崇められるようになったと。神社前の道は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。昔は江の島からこの付近まで舟が出入りしたと言われ、鎌倉三代将軍の源実朝が舟を造らせた材木を切り出した所と伝えられていますここは大鋸(だいぎり)と言う地名ですが、「大鋸(おおが)ひき」と言う職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたと言われています藤稲荷大明神(ふじいなりだいみょうじん)この道10メートル先を右折階段を登り山の上にあります。藤稲荷は大鋸の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。」船玉神社「本堂」。扁額「船玉大明神」。「内陣」。境内には小さな社もあった。その横に二宮金次郎像も。船玉神社改築記念碑。この石碑は??「船玉のみ社まえへ・・・もみぢうえる はやかんれきをむかえんと言われての心あらしふくよの中ますます そだて大木へ」 ・・・つづく・・・
2020.06.14
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県道59号線・伊東西伊豆線を国道414号に向かって更に進む。そして国道414号に出て左に折れ「浄蓮の滝」方面に南下する。国道414号の天城大橋手前から左に入り旧道「踊り子ライン」に入る。この道路は「連続雨量150mmを超えると通行止め」になるとのこと。この道を通るのは、約半世紀ぶりなのであった。青ーーードライブルートと旧天城トンネルーーー。国道414号の天城大橋から旧道に300mほど入った左手の杉林の中にひっそりと立つ「川端康成文学碑」を車窓から。1981(昭和56)年に天城山隧道に向かう旧下田街道沿いの林のなかに建てられた。二つに切り左右を少しずらしてつけた?巨大な自然石に「伊豆の踊子」の冒頭部分と川端のレリーフがはめ込まれている。小説「伊豆の踊子」の有名な冒頭。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」と作者自身の手書きの文字が刻まれていた。そして左側には、川端康成の横顔のレリーフが。砂利道の狭い遊歩道「踊り子ライン」をSさんの巧みな運転で車は進む。幸い対向車は全く来ずに進めたのであった。「旧天城トンネル」の天城側入口の手前にあった「江藤延男追慕の碑」。氏は『天城を守る会』の初代会長として、環境省の地域環境保全功労で大臣賞を受賞。『昭和の森』で定期的に自然観察会を続けるとともに、学校や地域住民への環境教育にも力を注いだ人であると。旧天城隧道北口 国内最長・最古の石造道路隧道は幅4.12m、距離445.5m。1998年9月に国の登録有形文化財、2001年には道路として初めて国の重要文化財に指定されているのだ。「天城山隧道」の文字がなんとか確認できた。「天城山隧道」案内板と石碑が。「天城山隧道日本の道100選(昭和61年8月)登録有形文化財(平成10年9月)重要文化財(平成13年6月)天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)ー天城湯ヶ島町と河津町をつなぐトンネルである。陸の弧島を嘆く南伊豆の人達の熱い思いによって、総工費10万3 , 016円の巨費を投じて明治38 ( 1905 )年に開通した。地元上河津村では1万2 , 361円余(実際には郡費補助の名目で賀茂郡が支出)を負担した。さらにトンネルまでの道路工事費も1万円余を負担した。このトンネルの完成によって北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消した。延長 446.00m有効高 3.50m幅員 3.50m 標高 708.74m 切り石巻工法工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われた。」 「重要文化財 天城山隧道この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事の一環として、明治34年(1901年)に貫通、同37年に完成した。全長約444.5m、幅員約4.1m、トンネル両端の坑門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説『伊豆の踊り子』をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成13年(2001年)6月15日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治後期を代表する道路隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。」「仁科峠、八丁池、天城峠」への案内が。「天城山隧道」の横の階段で始まる山道を登って行くのであった。トイレが設置され、その横に四阿(あずまや)と案内板が。「旧天城トンネル北口園地 自然歩道案内ここは「旧天城トンネル北ロ園地」です。トンネル周辺には、天城の豊かな自然を満喫する様々なコースがあります。これよりトンネ横を登って行くと、数々自然歩道の分岐点でもある「天城峠」へと出ます。峠を左へ行けば「八丁池」へ、右へ行けば「二本杉峠」を経て「仁科峠」へと続いています。事前計画を十分たててから利用してください。」「旧天城トンネル北口」。川端康成の小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』に登場するこの有名なこのトンネルは、正式名称を天城山隧道(あまぎさんずいどう)と称し、1904年(明治37年)に完成した。全長445.5メートル。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。1998年9月2日に国の登録有形文化財に「旧天城隧道」として登録され、2001年6月15日に登録有形文化財の登録を抹消したうえで、同日に「天城山隧道」として道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されたのだと。私とOさん二人は歩いて「旧天城トンネル」を抜ける事にしたのであった。出来れば、吉永小百合や山口百恵と一緒ならばと・・・・・。工事は石を積み上げていく「切り石巻」工法で施工されていることが確認できたのであった。伊豆の交通史上重要な役割を担ってきただけでなく、石職人たちが技術の総力を結集して造り上げた完成度の高い構造物としての価値が認められ国の重要文化財に。トンネル内には湧水が漏れ出していた。古くは近くに「氷室(ひむろ)」と呼ばれる製氷池や氷の貯蔵庫があり、氷が盛んに造られていたのだと。石積みも湧き水に濡れて。そして全長約444.5mを徒歩で抜けて「旧天城トンネル 南口園地」へ。乗用車はすれ違いの出来ない狭さであったが、幸いSさんの車も対向車も来ずに通過でき、Sさんが出口で待っていてくれた。」南口のものは「天城山隧道」の文字がはっきりと。ふと、気になって下記を調べて、ネットから「「トンネル」「随道」「洞門」「覆道」の違いについて」👈リンク はこちらを。「踊子歩道 案内図」👈リンク。「旧天城トンネル 南口」にも石碑が。「登録有形文化財 旧天城隧道この隧道(トンネル)は明治38年に築造され、川端康成作「伊豆の踊り子」のトンネルとして広く親しまれている。トンネル入口や馬蹄形をしたトンネル本体とともに総石造構造のものは珍しく重厚な構えとなっている。明治末期を代表するこのトンネルは国土の歴史的景観に寄与しているとして、平成10年9月25日有形文化財に登録された。」「登録有形文化財」プレートが埋め込まれていた。「昭和の森 寒天車道」碑。バス停「寒天橋」の横にあった日本の道100選「天城路」の碑天城路は建設省(現・国土交通省)が1986~87年に選出した「日本の道100選」のひとつ。具体的には下田から旧天城山隧道を経由して天城湯ヶ島へ向かう約19kmの区間を指すのだと。「寒天橋」は石川さゆりの名曲「天城越え」👈リンク にも登場する小さな橋。橋名の由来は、この近辺に寒天工場があったからと。そして国道414号に出て「河津七滝」近くを通過して「河津七滝ループ橋」に差し掛かる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.02.28
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「道の駅 おおすみ弥五郎伝説の里」を後にして、県道110号線から「みお街道」そして県道63号線・志布志福山線を利用して「志布志城跡」にある駐車場に到着。鹿児島県志布志市志布志町帖6380。「国指定史跡 志布志城跡」案内板。「志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基(すえもと)によって開かれた日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)の港として発達した。志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城があり、この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦(とりで)のような「山城」である。志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、建武3年(室町時代1336年)で、「志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた」という記録が残っている。志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、肝付氏ー楡井氏ー新納氏(にいろし)ー豊州家島津氏ー肝付氏ー島津氏の流れとなる。その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり現在に至っている。「志布志城」の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。志布志にこのような広大な山城が築かれたのは、この地が海上交通の要所であり、国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。」標高50m程のシラス台地の東端に内城・松尾城・高城・新城が連なっていた と。現在の航空写真と各城の位置図。前方に見える小高い山が志布志城(松尾城)跡であろう。車に戻り「続日本百名城」のスタンプの置き場の「志布志市埋蔵文化財センター」に向かって進む。坂を上って行くと、右手にあったのが志布志城跡(松尾城)入口。県道63号線から国道220号に出て右折して進む。そして「志布志市埋蔵文化財センター」に到着。 鹿児島県志布志市志布志町安楽41−6。館内の1Fには内城の復元模型や発掘調査で出土した遺物が展示されていた。「国指定天然記念物志布志市夏井海岸の火砕流堆積物太平洋に面した志布志湾の奥に位置する夏井海岸は、鹿児島県・宮崎県境にあり、50m程の垂直に近い崖が、永年の侵食によって削られ小島や岬状になり、小規模なリアス的景観となっています。夏井海岸は、日南海岸にある『鬼の洗濯岩』で有名な日南層群が基礎岩石となっていて、その上に複数の火砕流(入戸火砕流・夏井(阿多)火砕流・阿多島浜火砕流)が堆積した様子が明瞭に確認できることから、地質学上特に貴重であると評価されて、この海岸の夏井漁港から志布志港までの海岸線約2Kmの内、自然の海岸が残っている1Kmの範囲を国の天然記念物として平成24年9月19日に指定をうけました。」。複数の火砕流(入戸火砕流・夏井(阿多)火砕流・阿多島浜火砕流)が堆積した様子が明瞭に確認できる と。「倉園B遺跡 49号集石(集石炉)倉園B遺跡は志布志町内之倉にある縄文時代早期前半、今から約900万年前の遺跡です。昭和58年(1983年)に畑地の整備に伴い発掘調査が行われ、その結果4軒の竪穴建物跡と60基の集石、そして10基の連穴土抗が見つかりました。集石とは、たくさん集めた石を焼いて加熱し、その中に肉などの食物を葉で包んだものを入れ、その上から焼石や土をかぶせて、蒸し焼きにする調理施設と考えられています。連穴土抗とは、大小2つの穴をトンネルでつなぎ、大きな穴で火を焚いて、小さな穴に肉などの食物をつるして煙でいぶし、燻製を作る調理施設と考えられています。連穴土抗を使った調理では、鶏肉まるごと一羽の場合、約5~10時間もいぶせば、完全に脂が抜け見事な燻製になることが復元実験からわかっています。燻製や蒸し焼きという調理方法が縄文時代の人々の食生活をより豊かにしていたと考えられます。この49号集石は3号連穴土抗の小さな穴と連なっており・・・・調査当時、鹿児島市加栗田遺跡に続いて県内で2例目でなおかつ・・・・・の発見でした。そのため、この貴重な49号集石は52号集石・・・ました。そして約30年後、市埋蔵文化センター・・・・・・。」「志布志埋蔵文化センター企画展謎の被葬者像に迫る!「原田三号地下式横穴墓」」案内。常設展示コーナーでは、志布志市の歴史が旧石器時代から近代まで順にパネルによって解説してあり、それぞれの時代の遺物が展示されていた。旧石器時代~縄文時代弥生~古墳時代。「原田地下式横穴墓 軽石製組合せ石棺」。「原田地下式横穴墓 軽石製組合せ石棺原田地下式横穴墓は有明町原田にある古墳時代のお墓で、昭和54年(1979年)に畑の耕作中に見つかリました。地下式横穴墓とは、地面から下に穴を掘り、そこから横方向に穴を掘って、亡くなった人を葬るための部屋(玄室)を作るお墓のことで、主に宮崎県南部から大隅半島にかけてみられます。このお墓は長さ3.9m、深さ1.1mの大きさで、玄室は長さ2.2m、幅1.1 ~ 1.3mの長方形状で、天井は家の形になっています。その玄室には板状の軽石を組み合わせて作った棺がおさめられていました。その石棺は長さ1.4m、幅0.5m、高さ0.4mで、26枚の軽石板が用いられています。その棺の中には、骨盤など人の骨が見つかっており、鑑定の結果から成人女性の骨であることがわかっています。葬られた人といっしょにおさめられた副葬品は、長さ7.9mの刀子(現在の小刀)の1点たけ見つかりました。5世紀後半頃(約1500年前)のお墓と考えられています。このお墓は、直径40m以上で県内最大の円墳と言われている原田古墳のすぐそばで見つかっています。また、お墓の中心軸が原田古墳を向いており、さらに葬られた人の頭も原田古墳を向いています。このことから、それぞれのお墓に葬られた人物の関係が近かったことがうかがえます。しかし、具体的にどのような関係であったのかなど、多くの謎が残されています。」。「原田地下式横穴墓実測図」。「原田地下式横穴墓出土場所」。縦にして観る。「原田3号地下式横穴墓出土 軽石製組合式石棺板状に加工した軽石を組み合わせて作った棺です。古墳時代(5世紀の終わり頃)のものです。長さは約240 cmあります。合計31枚の板状の軽石を使用しており、総重量は約240 kgです。蓋の内側は、赤色顔料(べンガラ)が塗られています。」「棺から見つかったもの棺の中からは、成人男性(身長165 ~ 170cm)と推定される人骨、木製の鞘に入った状態の鉄剣1点、刀子(鉄製の小刀) 1点が見つかりました。なお、棺の蓋の上には、ヤリ1点と鑷子(じょうし)状鉄製品(ビンセット状の鉄製品) 1点、鉄鏃(鉄製の矢の先端) 2点が置かれていました。」「倉園B遺跡 52号集石(集石炉)」。続日本100名城「認定証」。続日本百名城「認定証 志布志城」。「日本遺産 認定証 薩摩の武士が生きた町 ~武家屋敷群「麓」を歩く~」。「短甲(前側)」。「原田3号地下式横穴墓出土 短甲(前側)丈の短い鉄製のよろいです。三角形と横長の鉄板を鋲で留めて作られており、「三角板横矧板併用鋲留短甲(さんかくいたよこはぎいたへいようびようどめたんこう)」と呼ばれています。古墳時代の、5世紀末頃(西暦480 ~ 490年頃)のものです。」「原田3号地下式横穴墓」案内パネルが並んでいた。「原田3号地下式横穴墓出土 短甲」説明パネルが中央に。「国指定史跡 志布志城跡(内城跡)志布志市志布志町の前川河口のシラス台地の先端に、内城・松尾城・高城・新城の4つの中世山城があります。この4つの山城を総称して「志布志城」と呼びます。志布志城の正確な築城年代は分かっていませんが、南北朝時代には内城と松尾城が存在していたことが分かっています。その後、高城と新城が築かれたと考えられています。建武3年(1336年)に「救仁院(くにいん)志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。この時の志布志城は、築城時期がもっとも早いと考えられている松尾城だと思われます。志布志城の内城と松尾城は当時の地形をほぼそのままにしており、南九州の中世山城として大変貴重なであるため、平成17年7月4日に国の史跡に指定されました。この模型は、志布志城の4つある城の中で中心的な城である内城がもっとも活気を呈した戦国時代後期の天正2年(1574年)正月頃、肝付方の軍衆が勢揃いした状況を想定し復元したものです。なお、居館等は想像による復元です。」航空写真からの4城(内城・松尾城・高城・新城)の位置図。「平面位置図」。「志布志城の歴史志布志城の築城者と築城年は分かっていませんが、建武3年(1336年)に、志布志城の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。その後、楡井頼仲が松尾城に入ります。しかし北朝方の勢力に敗れ志布志城を攻略され、大慈寺にて自刃します。その後、島津氏の分家である新納氏が入り、一時は島津氏久が志布志城を拠点に勢力を広げます。氏久が拠点を現在の鹿児島市に移した後は、約180年間に渡り新納氏が治めますが、島津氏内部の争いの後、天文5年(1536年)から豊州島津氏が治めることになります。その後、永禄5年(1562年)に肝付氏に攻め落とされますが、その肝付氏も伊東氏との戦いにおいて大敗し、勢力を失い、志布志城島津氏の所領となり地頭として鎌田政近が入城します。以後、この地域での島津氏の支配が安定したために、前線の拠点としての志布志城の役割は低下し、廃城に至ったと思われます。」そして巨大で且つ精巧に出来ていて素晴らしい「志布志城のジオラマ」が中央に展示されていた。「志布志市主要遺跡分布図」。続日本100名城「志布志城」のスタンプを頂きました。そして「志布志市埋蔵文化財センター」を後にして、都城市に住む旧友の御自宅に向かうべく「東九州道 都城志布志道路」の志布志ICに向かう。この区間は現在は無料区間となっていた。都城市に向かって北上する。「金御岳IC」手前を進む。そして横市ICで無料高速道路を下りて、県道31➡42➡46号線を進む。42号線から「高千穂峰(たかちほのみね)」標高1,574mを見る。手前に「新燃岳」。「霧島山」とは霧島火山群の総称で、最高峰は韓国岳だが、代表的存在の山は高千穂峰。霧島の山々には10個の火口湖があり、大小の火口との明媚な景観が印象的。そして都城市山田町山田にある旧友の御自宅に到着し、15年ぶり?の再会をし30分ほど頂いた缶コーヒーを飲みながら、懐かしく立ち話で近況を語り合ったのであった。お互いに、風貌は変わったが、声、話し方は昔のままなのであった。彼とは現役中にエジプトを一緒に旅行したのであった。そして旧友がお土産にと「黒木養鶏場直売店にわとり牧場 竹林鶏」に案内してくれた。そして多くの種類の鶏肉のお土産を頂いたのであった。店の横にあった旧山田町集落排水管マンホール蓋。豊かに実った田んぼの中に立つ、町の"かかし"キャラクター「ゆたかちゃん」のデザイン。ゆたかちゃんの胸には「YAMADA TOWN」と入っています。 「山田町」「集排」の文字入り。そして再会を約束して旧友と別れて、県道420号線を宮崎市内に向けて進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.01.02
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この日は1月14日(金)、新宿に用事があり小田急線で向かう。昨年、12月22日(水)に世田谷「豪徳寺」周辺を散策したが、時間的に「松陰神社」を訪ねるのは無理であったので、この日に訪ねることにしたのであった。この日も小田急線・豪徳寺駅で下車し世田谷線に乗り換えて「松陰神社前」駅で下車し300mほど歩いて松陰神社前に到着。 東京都世田谷区若林4丁目35−1。「松陰神社」。正面に「松陰神社」の一の鳥居。「府社 松陰神社」碑。府から幣帛(へいはく)を供進する神社。県社と同格で、官・国幣社の下位、郷社の上位にあった。「松陰神社明治十五年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱(かかえ)屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。松陰は安政三年(一八五六)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。」「松陰神社ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと) (吉田松蔭 先生)松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。明治十五年(1882)十一月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。」1世紀前の大正初期の神社社殿の様子と現在の境内の写真。「松陰神社旧鳥居柱」。「松陰神社旧鳥居柱松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松陰神社旧鳥居柱の一部(社殿向かって右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総量約2 0トン程であった。平成2 3年1 0月の新鳥居建造にあたり解体。その一部を保存した。「明治四十一年十月五十年祭典」の刻字は社殿向かって左の柱にあったものを保存の際に写し刻字したもの」「吉田松陰先生留魂の地 松陰神社」案内板。画面にタッチするとビデオで案内が始まるのであった。「境内案内図」。左手に「神楽殿」。「掲示板」。「一月 松陰先生の言葉人は唯一の心のみ 心は唯一の誠のみ」と。「お神札・お守りのご案内」。「吉田松陰先生像」。近づいて。「吉田松陰先生像 (鋳造:平成25年 ブロンズ)明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松陰神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。松陰神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。※大熊氏廣(安政3年(1856) ~昭和9年(1934) )明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21 ~ 22年滞欧しファルギ工ール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名」「手水舎」。「松陰神社道の道標」。「松陰神社道の道標旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松陰神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。明治4 5年乃木希典公により寄進。「徳富蘇峰植樹の碑」「景慕英風植樹表誠 肥後學生」と刻まれた石碑。「徳富蘇峰植樹の碑徳富蘇峰(本名猪一郎、徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。明治4 1年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。」「勝守 勝絵馬」、「志守 志絵馬」案内。「勝」「志」の文字は松陰先生直筆文字写であると。そして「社殿」。内陣。「絵馬掛所」。この絵馬にかかれている「勝」の文字は吉田松陰先生の直筆の写しとのこと。この絵馬にかかれている「志」の文字は吉田松陰先生の直筆の写しとのこと。吉田松陰の名言「一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三滿六千時を失う。」。「明治百年祭記念碑」。「松下村塾(しょうかそんじゅく)(模造)幕末に、吉田松陰が松本村(現・山口県萩市)で主宰した私塾。叔父(おじ)の玉木文之進(たまきぶんのしん)が天保十三年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こり。塾生やその門下に、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろふみ)など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材(いつざい)を輩出したことで知られています。本建物は、山口県萩の松陰神社の境内に保存されている松下村塾を模したものです。」「松下村塾松陰先生の叔父である長州藩十の玉木文之進が、天保13年(1842)萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅しましたが、その後、久保五郎左衛門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引き継ぎました。更に、松陰先生が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治2 5年( 1892 )頃まで続きました。松陰先生は、安政2年(1855) 26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)👈リンク してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになりました。しだいに塾生が増えたため、安政4年(1857) 11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰先生は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行いました。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858) 3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が塾生に教育を施したのは、僅か2年半程でありましたが、薫陶をうけた総勢90名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていきました。当神社にある模造松下村塾は、昭和13年12月に隣接する国士舘校内に松陰先生顕彰のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利藩代官屋敷の古材が使用されました。(現在でも建材の多くは当時のものが残っています。)その後、昭和16年に国士舘から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築。平成28年には維新150年記念事業の一環として約8ヶ月をかけ保存修繕工事を行いました。」「模造松下村塾の古瓦昭和13年、国士舘校内に模造松下村塾を建築するにあたり、すべての建築材料は荻で集め、詳細に模して建てられましたが、その際に使用された古瓦です。幕未期の毛利藩代官屋敷の古瓦であり、毛利家お抱え瓦職の阿川家が焼いたもので、瓦に「阿」の刻印が見られます。(現在、建物に使用している瓦は複製です)」「模造松下村塾建築当時の看板模造松下村塾が国士舘校内に建築された際「景松塾」と名付けられ、学生の修養道場として活用されました。「景松塾」標は萩松陰神社の社司市川一郎の筆と伝えられています。」「松蔭先生五十年祭記念碑」、「松蔭先生百年祭記念碑」。「松下村塾松陰先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引継ぎました。その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。松陰先生は嘉永5年(1852)23才の時は半年ほど、安政2年(1855)26才の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松陰の実家)で子弟を教育していました。この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し師弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、野村靖、山縣有朋、品川彌二郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。」「玉木正之乃碑明治十年三月(萩)に玉木家の長男として生まれる。父正誼は乃木希典の弟 母トヨは吉田松陰の姪。二代目文之進を継ぐが明治四十年正之に戻る。乃木希典大将の甥として、その葬儀の喪主をつとめるその前後の事情は渡辺洋一氏著『静寂の声』に詳しい。世田谷に昭和二年まで在住。のち故郷萩に戻り昭和二十九年二月十一日逝去永遠。画・記述は孫辻喜美子建立 平成十一年八月吉日」この松下村塾の雨戸は、この日は閉ざされていた。「松下村塾 平面図」。床の間を見る(ネット👈リンク より) ここにも「松陰先生像」が。近寄って。台座に「松陰先生像」と。社殿手前の左側には「社務所」があった。御朱印を頂きました。「松陰神社由緒御祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)神社創建 明治十五年(一八八ニ]十一月二十一日松陰先生は天保元年(一八三〇)八月四日、長州萩(現在の山口県萩市)に藩士杉家の次男として生まれました。六歳の時に吉田家を継ぎます。松陰先生は学問をすすめるうちに鎖国状態の日本の将来を案じるようになり、欧米の実情を知ろうと黒船に自らかけあい渡米を企てましたが失敗し投獄されてしまいます。出獄後に松下村塾という私塾で教鞭をとり明治維新の際に中核を担うこととなる多くの若者を指導しました。しかし安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて三十歳の生涯を終えられました。その四年後の文久三年(1863)に松下村塾門下生であった高杉晋作、伊藤博文たちの尽力により、遺骨を小塚原から長州藩の抱地であった世田谷若林の地に改葬しました。そして日本が急速に近代化への道を邁進する明治十五年十一月、松陰先生の遺志を形にするため門下生たちが墓畔に社を築き、忠魂の鎮座するところとなりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.09
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ーーがこの日・(その40)の散策ルート。「開港広場公園」と「旧英国領事館」との塀の前にあったのが「旧居留地90番地の大砲」。近づいて。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲 と。「旧居留地90番地の大砲 口径11.5cm、全長252.5cm、重量1480kg。外国人居留地90番地(現山下町90番地)に、生糸の輸出と時計の輸入に従事していたスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会(慶応元(1865)年創立)があり、明治維新の際の戌辰戦争中は武器の輸入も行っていました。昭和34年、同社跡地で建物の基礎工事中に大砲が見つかり、掘り出され、展示されておりましたが、平成15(2003)年、横浜市に寄贈されました。この大砲は、鋼鉄製の11ポンドカノン砲で、オランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲です。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12(1923)年の関東大震災の時に、地中に埋まってしまったのではないかと推察されます。明治43年に出版された書籍に、同社の「倉庫の入り口に、明治初年に武器を扱っていた記念として大砲が備え付けられていた」という記載があります。明治初期の外国人居留地の外国商館と、取扱商品並びに輸入先がわかる遺品として、貴重な資料です。」隣にあった「時計塔」。「時計塔についてこの時計灯は、右図のポールをデザインしたものです。1891年(明治24年)頃、このポールは大桟橋付近に設置されており、暴風雨の際に旗を掲げて港近くの船に信号を送っていたものです。」。「大日本五港之内横浜(日本大通りより波止場) 明治24年 神奈川県立文化資料館所蔵」。更に左側にはハナミズキの「記念植樹」碑が。「日米交流150周年記念植樹 2004年4月3日」。植樹してから18年、ハナミズキは成長が遅いようだ。そして人工の滝のようであったが。そして南側にあったのが「日本基督教会 横浜海岸教会」。「日本キリスト教会 横浜海岸教会」「横浜市認定歴史的建造物 横浜海岸教会」。日本基督教会(にほんキリストきょうかい、英語:The Church of Christ in Japan)は、慶応3年(1868年)11月に、横浜外国人居留地167番にJ.H.バラの依頼によって横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、石造りの小会堂が建設されたのが始まりという歴史ある教会・横浜海岸教会。明治5年2月2日(1872年3月10日)、横浜公会として設立した日本で最初のプロテスタント教会。明治8年7月10日に日本基督横浜海岸教会として大会堂が建てられたが、関東大震災で倒壊。現在の建物は、昭和8年、雪野元吉の設計。雪野元吉は、名古屋生まれの横浜育ちで、宮内省内匠寮勤務の後、独立し、新京忠霊塔などを設計している。終戦直後に外地で病没しているため、現存する唯一の雪野元吉設計の建物がこの横浜海岸教会となっている と。「大桟橋通り」の歩道を南に進むと左手にあったのが「近代のパン発祥の地碑」。「近代のパン発祥の地碑一八五九年、欧米諸国との貿易がはじまるや、幕府は日本大通り五番地の横浜港郵便局を中心とするこの地区に、外国人の日用食品街「お貸し長屋」を建てた。その一角で、内海兵吉は一八六〇年、フランス人にパンの製法を習って「パン屋」をはじめた。当初は「焼き饅頭」のようなものができた。だが、これが現代日本人の日常生活につづくパン食文化の始めである。パンの元祖「富田屋」として知られた。その後、イギリス人クラークのパン屋「ヨコハマベーカリー」が、登場する。ここで修行し、受けつぎ発展したのが内木彦太郎の元町「ウチキパン」で、イギリス流の山型食パンである。現代日本の日常生活に根づくパン食文化「パン屋」が始まったこの地区に、横浜市中区制九〇周年を記念し「近代のパン 発祥の地」を設置する 二〇一六年十一月 設置者 横浜市綜合パン協同組合 全国パン協同組合連合会」その先にも石碑が。「電話交換 創始之地」。昭和15年に逓信省が立てたもの。明治23年に電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、4月に東京、6月に横浜の電話交換局が設置。明治23年12月16日、横浜電話交換局と東京電話交換局(現・日本工業倶楽部会館/千代田区丸の内1-4-6)の間で、電話交換業務が開始された。東京市の加入者は155人、横浜市の加入者はわずかに42人で、電話所(公衆電話)数16。市内通話の料金は年間45円の定額制であった。米1升(1.4kg)が7銭〜8銭の時代ですからかなりの高額!!。「本町通り」を右手に進むと、「港郵便局前」交差点の角にあったのが「横浜港郵便局」。1871年4月20日(明治4年3月1日)、日本の近代郵便制度の創設とともに、横浜郵便取扱所として開設。かつては、「よこはまこうゆうびんきょく」と読んでいたが、今は、「よこはまみなとゆうびんきょく」に変更されている。神奈川県横浜市中区日本大通5-3。「本町大通り」沿いの「横浜港郵便局」の建物の壁にあった「2017(平成27)年用年賀はがき神奈川県版デザイン」の原画のようであった。1875年(明治8年)に外国郵便を日本で初めて開始したところとされており、「外国郵便創業の局」の記念碑が。「横浜郵便局開業之図(郵便報知新聞第557号) 木版画 / 明治 / 日本歌川広重(三代目)明治8年/1875年 木版画」をネットから。交差点角には2階に上がるエレベータがあり、その横に郵便ポストがある。郵便ポストといえば赤いボックスか昔からの円筒形に決まっているが、ここ横浜港郵便局前にあるポストには、「キューピットの銅像」が乗った大理石製であり、青字で「郵便は世界を結ぶ」、赤字で「POST」と刻まれていた。これは、外国郵便開始80年記念に作られたポストで、赤には塗られてはおらず、大理石の目地のままである。古いものであり、ポストの取り出し口のトビラには、昭和42年(1967年)に局名変更する前の「横浜郵便局」という名が刻まれていた。地球儀に載り、ラッパを吹くキューピット像。「港郵便局前」交差点の角にあったのが「横浜法務合同庁舎」。横断歩道を渡り「本町通り」を引き返すと右手にあったのが「横浜都市発展記念館 横浜ユーラシア文化財 旧横浜市外電話局前逓信省営繕組織の設計による建物の貴重な現存例。当初表現主義の色彩の濃い設計で建設が進められていたが、関東大震災に遭ったため現在の設計になった。外観はタイル張りと一部石張りによるシンプルな造形だが、1階のアーチの窓列やコーニスなどが特徴的である。所在地:中区日本大通12構造・規模: RC造4階、地下1階建築年代:昭和4年(1929)指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(2000) 11月設計:逓信省営繕課(担当 中山広吉)施工:安藤組」「横浜都市発展記念館 横浜ユーラシア文化財 旧横浜市外電話局」を振り返る。「大さん橋入口」交差点を右折して進むと「旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構」と「消防救急発祥之地」の石碑があった。幕末期、豚屋料理屋鉄五郎から出火、瞬く間に火は関内に広がり、外国人居留地と日本人街の大半が焼失した。通称豚屋火事。そのときすでに外国人居留地消防隊はあったがこの事件をきっかけにより防火対策、消防隊を強化。外国人居留地と日本人居留地を隔て、防火対策として建物と建物が隣接しないように区画整理された。そのため、今でも関内は道幅は広く、建物が隣接しないような街並にしたのだと「旧居留地消防隊 地下貯水槽」「消防救急発祥之地」。「昭和8年(1933)2月、日本で初めてこの地(当時の山下町消防署)に救急車が配置運用開始されました。」そして「旧居留地消防隊 地下貯水槽遺構」。奥正面には旧中消防署日本大通消防出張所のメダリオンも。「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構建造年:明治26(1893)年(推定)構造:煉瓦造(イギリス積)規模:底面3.19m×3.17m・高さ4.50m・貯水量28㎡この貯水槽は、明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。構造物としての特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十字の補強用の間仕切りにより4室に分かれていることで、役割を終えた現在でも地下水の流入により常時貯水されています。またここは、居留地消防隊が本拠地として使用した後にも、日本初の消防車(大正3(1914)年)救急車(昭和8(1933)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえます。横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜市消防局本部が置かれ、平成6(1994)年まで日本大通消防出張所として100年以上の消防の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。」ガラス越しに覗き込むと貯水槽部分を見ることができるのであった。「中消防署開設の地一九一九年(犬正八年)当地に特設消防署として第二消防署(現在の中消防署)が開設され、同年九月一日より事務を開始す」。向かいにあった建物は緑の蔦に前面は囲まれて。1階には「かをり」という喫茶店が。店先に「ホテル発祥の地」のプレートが掲示されていた。高さ1.7mのフレームに 3枚の銅版が張られていて, 「ヨコハマ・ホテル」の由来 などが記されていた。「ホテル発祥の地」。「ホテル発祥の地1860年(万延元年)、開港直後2月、横浜のホテルの元祖がこの地(居留地70番)で生誕した。この「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人が造ったもので, 内部に 食堂, ビリヤード室, 酒場を設け,数年後には, フランス人シェフの レストランや洋酒, 洋菓子の売店, ボーリング室も付設した。宿泊客のハイネは, ここで美味な料理をとれると称賛し, 他にシーボールト・ワーグマン, クラーク等の著名文化人も多数, 宿泊し 滞在した。これらの人たちを通じて最新の外国文化の受入れ窓口として 我が国の近代化に果たした役割はまことに大きい。 撰文・草間 俊郎」。横の道が「シルク通りもとの居留地内で、開港以来生糸貿易の内外商社が軒を並べていたことから、この通りを特にシルク通りと呼称されたものである。発生時期は不明。」再び横断歩道を渡り「大さん橋通り」を戻ると左手奥にあったのが「近代横浜の土木遺構この屋外展示では、横浜市域で発掘されたさまざまな土木遺構を紹介しています。1923 (大正12 )年の関東大震災によって、横浜の都心部は大きな被害を受けますが、地震で倒壊した建物の基礎や明治時代に埋設されたライフラインなどが、現在でも地中から発見されています。これらの遺構は当時の建築・土木技術の水準を伝えるものであり、近代横浜のまちづくりの歴史を物語る貴重な歴史資料といえます。*この屋外展示スペースは、株式会社三陽物産からの寄付金をもとに整備したものです。整備にあたっては、株式会社栄光より神奈川台場の石をご提供いただきました。」「当館周辺に残る歴史的建造物」MAP。「神奈川台場の石」。「神奈川台場の石神奈川台場は、勝海舟の設計により湾岸警備のための砲台として築造されましたが、1860 (万延元)年の完成後も実戦に使用されることはなく、外交使節の来航時に祝砲などを放つ砲台として利用されてきました。展示している石は2011 (平成23 )年7月の発掘調査で出土したもので、神奈川台場の東海面側石垣に用いられていた間知石(四角錐形の石)です。発見された石垣は現地で保存され、「ヒストリアレジデンス海舟」(神奈川区星野町)内の資料室で見ることができます。」「卵形下水管」。「卵形下水管2001 (平成13)年10月に、県庁前の日本大通りで発見された煉瓦造の卵形下水管です。現在の山下町一帯はかっての外国人居留地にあたり、煉瓦造の下水道網が広がっていました。下水管は明治10年代半ばに設置きれたもので、大中小3種類あるうちの「中下水」に相当し、煉瓦造のマンホール(4F常設展示室に原寸大再現模型を展示)に接続していました。一定の流速を確保するため管の断面は卵形をしており、枕木を敷きならべた上にコンクリートを巻いて敷設されていました。」「横浜市瓦斯局のガスタンク基礎」。「横浜市瓦斯局のガスタンク基礎2013年(平成25)年7月に、市立本町小学校の発掘調査で発見された煉瓦積み基礎の一部です。1872 (明治5)年に操業を開始した横浜瓦斯会社では、製造したガスを蓄えておくためのガタンク(正式名称:ガスホルダー)が4基建設されますが、この基礎は、横浜市瓦斯局時代の1906 (明治39)年に完成した4号タンクのものと思われます。円筒形のタンクを支えるため、基礎も二重の円形となっていました。」。「国内最古のガス管」。「国内最古のガス管この鋳鉄管は、2002(平成14)年1月に、市立本町小学校(中区花咲町)の校庭から出土したものです。同校の敷地は、日本で最初にガス事業を興した横浜瓦斯会社(のちに横浜瓦斯局と改称)の施設が建っていたところで、ここで製造されたガスは、地中に埋められた鋳鉄管を通って街なかのガス灯に送られていました。管の接合部分には、瓦斯会社の創業時に資材を購入したイギリスのレイドロー社(R.Laidlaw&Son)のイニシャルがあり、この管が国内最古のガス管であることを裏づけるものです。」。「近代横浜の土木遺構」。「シルク通り」を進む。前方左にあったのが「KN日本大通ビル(旧横浜三井物産ビル)(歴史的建造物)」。1911年(明治44年)竣工、1927年(昭和2年)に増築。設計は日本人初の独立設計事務所を山下町に構えたといわれる遠藤於菟による。同ビルは遠藤のモダニズム時代の総決算といえる建物であり、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルである。関東大震災で横浜の建物群が壊滅的な打撃を受けた際にも、当建物は倒壊を免れ、鉄筋コンクリート造の地震に対する有効性を印象付けたのだ と。この後「KN日本大通ビル(旧横浜三井物産ビル)(歴史的建造物)」の正面に廻り込んで。「KN日本大通りビル概要所在:横浜市中区日本大通14建築年:(竣工)明治44年(1911年)8月設計:遠藤於菟、酒井裕之助旧ビル名称:横浜三井物産ビル構造:鉄筋コンクリート造地上4階地下1階屋根付規模:1階733.02m2 2~4階756.60m2(1号倉庫連絡部含む) 屋階141.90m2 地下753.80m2 合計3,898.52m2建物の特徴戦前を代表するオフィスビル。日本で最初の全鉄筋コンクリト造の建第物です。(屋根)緩勾配寄練亜鉛引き鉄板瓦葺き、屋階塔屋部分は陸屋根 アスファルト防水コンクリート押さえ(外壁)化粧煉瓦タイル張り、腰部花崗岩張り、庇・窓周り人造石洗い出し仕上げ(基礎)フーチング基礎そして右側にあったのが「横浜情報文化センター」。「旧・横浜商工奨励館」を再利用した4階建ての旧館部分と新たに造られた12階建ての新館部分から構成される。旧館部分は、横浜らしい建築を創り出している近代建築として1999年(平成11年)2月に「横浜市認定歴史的建造物」に認定されている。「新聞少年の像」。「新聞少年の像本会は創立五十周年にあたり、新聞と新聞の個別配達網がおおくの少年を含む先人の努力によって支えられた歴史を深くかえりみ、今日の新聞販売人が明日の社会と活字文化のさらなる発展に向け、心あらたに歩む象徴としてこの像を新聞博物館の地に寄贈する。 平成十六年六月五日 社団法人 日本新聞販売協会」「横浜情報文化センター」入口。道路の向かいにあったのが「横浜地方裁判所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.24
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「雲昌寺」境内の「菊花園」を鑑賞した後は、久しぶりに「雲昌寺(うんしょうじ)」の見学を行った。神奈川県藤沢市亀井野1457。寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所四脚門の「山門」。山門に掲げられていた扁額には山号「光輝山」の白き文字が。山門を通り境内内部へそして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像塔が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像塔は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。「鐘楼」戦争で供出された鐘の音をもう一度亀井野の地にということで、富山県高岡市の老子製作所に発注し、昭和58年10月に火入れ式を行い、昭和60年に鐘楼堂が完成。移動して。「鐘」には「光輝山 雲昌寺」と。鐘は、総高さ1m76cm、総重量1,125Kg(300貫)とのこと。鐘は、平日の午前6時30分と、12月31日の除夜祭で撞かれており、その「除夜の鐘」👈リンクの音色が我が家にも届いているのである。そして「常香炉」とその先に「本堂」。徳川幕府から御朱印を賜ったということで、本堂の棟、この常香炉などに葵の紋が見られる。常香炉の脚には「夜叉」のお顔の如き姿が。珍しい装飾の石灯籠。「寺務所」。「本堂」。「本堂」手前にはボール状に仕立てた「ぼさ菊」が並んでいた。黄色の「ぼさ菊」。赤の「ぼさ菊」。「本堂」の扁額は「雲昌寺」。「内陣」。両脇の柱には「無影林中心月耀」、「不萌枝上徳蕐?」禅の言葉であろうが意味は?本尊は如意輪観音で、開基は今、『鎌倉殿の13人』の主人公の道済(北条義時)。創立は繰り返しになるが、建保年間(1213~19)頃で、もとは今田にあり瑞龍寺と号した。慶長元年(1596)災害に遭い、その頃住職宗順により亀井野に移り、寺号を雲昌寺と改めた。慶安元年(1648)徳川幕府より朱印九石を賜った と。「朱印九石を賜った」とは朱印状とともに九石の土地を頂いたと言うことか。一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当すると言われていますから、九石といえば九人を1年間食べさせることができる石高?「達磨大師像」。「釈迦如来像」であっただろうか。「本堂」内の大きな灯り。最近三代の住職の遺影。鳳凰が描かれた漆絵。天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めのとき関東の主要な地域に「禁制」を出している。藤沢では今田、亀井野、村岡、江ノ島などに出されており、ここ雲昌寺にはその「禁制」が保存されているのだ。「禁制(きんぜい)」とは、支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事項を周知させるために作成した文書である。のち木板に書かれ高札場に掲げられた。秀吉の出した禁制は三ヵ条からなっている。「相模国 禁制 今田 亀井野二ヶ所一 軍勢甲乙人等 濫妨狼藉の事、一 放火の事、一 寺家門前の輩に対し、非分の儀申し懸くる事、右の条々、堅く停止せしめおわんぬ。もし違犯の輩においては、忽ち厳科に処せられるべき者なり。天正十八年四月日○ 秀吉朱印」と。解説書によるとその内容は、一、軍勢である兵士、従者が乱暴や狼藉をなす事 一、放火する事 一、庶民や百姓に対し、無理不当な事を要求する事 これに違犯した者は直ちに厳罰に処する。というものである。これは戦場となる村人に対しての宣撫工作、人々を安心させることにあったとされる。禁制が出された3か月後、北条氏は滅亡し、徳川家康が関東に入ると、藤沢の諸村は徳川の直轄領、旗本領となった。禁制のオリジナルを一度見たいものだと思っていたが、禁制は本堂内に額に入れて展示されていた。400年以上もの文書とは思われない保存状態であった。天正十八年とは1590年、豊臣秀吉が関東地方を平定、徳川家康が江戸城に本拠を移動した年。甲冑と太鼓。装飾された和太鼓、雅楽の演奏に使用されたものであろうか。「本堂」を出て、境内を散策。木魚の上に座り眠る小坊主。肩にはネズミの姿が。ネズミは雪舟の逸話からか?「宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。これは雪舟について最もよく知られた話である。」と。「道元禅師像」であっただろうか。 境内奥にあった「聖観世音菩薩像」。 お顔をズームして「聖観世音菩薩」と。親子?で顔を見合わせながら「なむなむ」と経を詠む姿。 「十三重石塔」。十二という数は、十二因縁、十二支を意味する。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んでいると。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。「稲荷大明神」。ここにも神仏混淆の跡が。「稲荷大明神」の社殿。「本堂」裏の墓地に向かう。立派な藤棚があった。位牌堂。それまでは本堂の一部の場所を占めていたが、平成13年に位牌堂として本堂の裏手に完成した。墓地の中から位牌堂そして本堂を見る。歴代住職の墓地。「歴住大和尚之墓」。歴代住職の名が刻まれていた。現在の住職は第二十ニ世か。そしてこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時「光輝院殿瑞龍道西大居士」と。歴代住職の墓地の一角にこの寺・「雲昌寺」の開基・北条義時の供養塔があった。「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていると。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。そして下の写真は今年2022年の2月に訪ねた伊豆・『北條寺』👈リンクにあった「北条義時夫妻の墓」。右が北条義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると。後妻というと昨日も「鎌倉殿の13人」にも登場した「伊賀の方」が有名なので、彼女じゃないところが興味深いのであった。「北条義時夫妻の墓北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗揚げ以来、父 時政 兄 宗時とともに従い大功があった。鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の姉の曽孫に当たる藤原頼経を迎えて自らわ執権となり勢威を極めた後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久三年(1221年)院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子 泰時、弟 時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃し後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。これが世にいう承久の変である。義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓である。」北条義時の墓。『吾妻鏡』によれば、北条義時は、承久の変後3年、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。「鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという」👈リンク。ここ北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられていると。後妻佐伯氏娘(伊賀の方)の墓。北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られていた。藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称したと。「北条義時」像。「北条義時」は鎌倉幕府2代目執権であり、源頼朝の妻・北条政子の弟。初代将軍「源頼朝」の亡き後、2代目将軍「源頼家」や3代目将軍「源実朝」を支え、頼朝が実現しようとしていた鎌倉幕府の政治基盤を築く。政敵を徹底的に潰し、敵対するなら実父ですら失脚させるなど、冷酷な振る舞いをしていた義時は「権力のために他人を蹴落とす悪人」と呼ばれることもあった。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。その「六地蔵」が石灯籠の奥に。「六地蔵」。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.11.14
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「日帰り温泉 こごめの湯」の前にあったのが「月夜広場」。公共トイレの先に「御堂」があった。「万葉公園」マップ。「イチョウの大木」。再び「月夜広場」に戻る。廻り込むとあった三方がガラス戸の「神輿蔵」。内陣の神輿類。湯河原の祭り「湯かけ祭り」に担がれるのでしょうか、横の社殿(神輿蔵)には小さな神輿、温泉街らしく墫神輿も安置されていた。「神輿蔵」前に立っていた「養生園」碑。「養生園の碑明治38年、日本海海戦でロシアのバルティック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別莊の庭園「養生園」で英気を養いました。東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、衆と之を楽しむ。 余既に園の風勝を愛し、今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、 遂に筆を抽きて之の為に記す。石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。」そして「太子堂」。日本文化興隆の祖・聖徳太子の遺蹟を敬慕して昭和35年(1960)建立された六角形の「太子堂」。「太子堂建造の由来聖徳太子は用明天皇の第二皇子として五七四年にご誕生になりました。以下解読不可」理想郷に居住していた作家・山本有三氏撰文の「太子堂建造の由来」碑。「太子堂」。「公園寄附」碑。その左の祠には常夜燈、延宝8年(1680)造立、一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔が祀られていた。一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔。「万葉公園」の「千歳川」の清き流れ。「狸福神社(りふくじんじゃ)」には5つ連なった赤い朱の鳥居が並ぶ。「狸福神社の由来山間の地、この湯河原に一匹の雄狸が居りました。ある日の事、土地の人が狩猟の弓で狸を傷つけてしまいました。雄狸は山間を流れる河原に湯の湧き出る所を見つけ、傷を癒していると、同じように足に火傷を負った雌狸が浸かりにやって来ました。ニ匹の狸は来る日も来る日も傷を癒しに通ううちに、恋仲になり、やがて傷も治り、晴れて夫婦となりました。ニ匹はこの湯のご恩を忘れる事なく、人に化けては湯河原の温泉のすばらしさを説き、旅人の願を叶え、福をもたらす神の使いとなり、今でも湯を守り続けて居ます。」社殿前には多くのお賽銭が。狸の石仏が迎えてくれた。社殿の右側。右手前にも。左にも。「千歳川」の清き流れを再び追う。「文学の小径」碑。「声かけて ほしい椿の 蒼蕾 梅門」作者・金尾梅門は湯河原温泉をこよなく愛し、湯河原温泉の椿まつりには毎年来ていたといわれ、この句もその時に作ったものとのこと。「散歩随意」碑。碑の上部に ゆび指しの姿と、下に「散歩随意」(ご自由に散歩してください)と。「散歩随意の碑明治時代、このあたりは実業家大倉孫兵衛・和親親子が別荘を構え、その庭園がありました。日清・日露戦争のとき、陸軍省が湯河原温泉を負傷軍人の温泉療養地に指定、当時の温泉旅館が分担して将兵を引き受けました。孫兵衛は別荘の庭園を散歩用に開放し、養生園と呼ばれました。このとき和親が案内用に藤木川沿いにこの石碑を建立したとされています。以川登天毛(いつとても) 春可勢た江ぬ(はるかぜたえぬ) こ能さと耳(このさとに)遊飛転(あそびて) 幾ミ可(きみが) 与波比(よはひ) 延ふへ之(のふへし) 当時は、現在の万葉橋より川上に大倉別荘用の橋があり、その橋を渡る手前の道路側に石碑が建立されましたが、昭和30年に町立万葉公園となるとき現在の地に移設されました。」【寒い季節でも、春のような暖かいこの湯河原に、静養に来ているあなたは きっと長生きするでしょう】と。そして最奥にあった「独歩の湯」に向かって進む。「独歩の碑」。万葉公園の奥に進むと、国木田独歩の著書「湯河原ゆき」の最末尾の一節「湯河原の渓谷に向かった時は、 さながら雲深く分け入る思があった 独歩 」の碑。「独歩の碑この碑は、明治の詩人・小説家の国木田独歩の著書『湯ケ原ゆき』の最末尾の一節です。 湯ケ原の渓谷に向かった時は、 さながら霧深く分け入る思があった 独歩独歩は薄幸な人と言われますが、その人生に一点の光明を点じるのが 3回に及ぶ湯河原温泉保養の旅(明治後期)です。ここでの体験に基づく短編小説には、「湯河原より」、「恋を恋する人」、「湯河原ゆき」、「都の友へ、B生より」などがあり、共に明るく温かいロマンがあります。理由として、自然愛の深い独歩が敬愛した英国の詩人ワーズワースの詩の世界に湯河原渓谷が酷似していたこと、独歩の定宿の女性たちの情をこめた応対などが考えられます」更に進む。「独歩の湯」案内。「独歩の湯」の園内は(ちょっと写真ではわかりにくいですが)日本列島をイメージしてつくられているとのこと。「独歩の湯」案内図。「独歩の湯」は足湯を楽しむことができる施設で、様々な効能がある9個の足湯を楽しむことができるのであった。「現実の門」。「皮口(ひこう)の泉」は、肌の若返り、口に関する事に効果がある と。「平静の泉」は、心穏やかになる泉 と。「風呂桶の滝」敷地にある大きな樽からお湯がこんこんと。そして来た道を引き返す。左手奥にあったのが「熊野神社(くまのじんじゃ)」紀伊からの勧請といわれているが、時代は不明である。 湯の守護神、健康の守護神として別称「湯権現」と呼ばれている。5月の第4土・日曜日には「熊野神社例大祭」が「湯かけまつり」とあわせて開催される to。御祭神 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )、 伊弉諾神 ( いざなぎのかみ )、 伊弉冊神 ( いざなみのかみ )扁額「熊野神社」。清き流れと紅葉を楽しみながら「万葉公園」の遊歩道を進む。前方左手に休憩小屋が見えた。ライトアップされた美しい壺が置かれていた。そして前方・美しい紅葉の下に滝が見えた。「玄関テラス」下を滝に向かって進む。案内板。「惣湯テラス」。正面に2段の滝が現れた。滝を様々な方向からカメラに。観光会館脇の階段が万葉公園・独歩の湯の正式な?入口なのであった。そして観光会館脇の入口の近くに、もう一つ入口があり、こちらからも万葉公園に入れるのであった。「歌碑」。「万葉歌碑この歌は、万葉集4500首の中でただ一首、温泉が湧き出る様が詠われたもので、湯河原温泉を詠った歌と言われています(詠み人知らず)。足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の 世にもたよらに 児ろが言はなくに足柄の土肥(湯河原の古称)の川辺に噴出する温泉の湯けむりが中高に漂い揺らぐように、あの娘は私との関係を不安げには言わななかったのに心配で……と、揺れる男の恋心を深い消えゆく湯けむりに托して詠んだ景情一体の見事な恋歌です。 (注釈: 「足柄(あしがり)」はアシガラの訛り。「土肥(とひ)」は、今の真鶴・湯河原の辺り。 「湯」は、湯河原温泉。「河内(かふち)」は河淵。「世にも」は、断ジテ。 「たよら」は、タユラと同じで、ユラユラと定まらない意。「児ろ」の「ろ」は親愛の 情を表す接尾語。「言はなくに」は、言フの未然+打消しのヌの未然+体言化する 接尾語+接続助詞のニで、言ワナイノダガ。) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.20
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この日6月3日(月)の朝は5時半過ぎに目が覚め起床。天気が良かったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に今年も向かう。藤沢市と横浜市戸塚区の境を流れる「境川」の岸に植栽されているアジサイ群。「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されているのだ。「大清水境川アジサイロード」のスタート地点の「大清水橋」を渡り、車を道路脇に一時停車。下車して「大清水橋」を振り返って。さらに「大清水橋」の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明そしてこの日のアジサイの開花状況。かなりの花は咲いていたが満開にはまだ少し早かったので後日出直すこととし引き上げた。そして一昨日6月8日(土)、平塚での仕事の打ち合わせを終え、帰宅の途中に、天気も良かったので再び立ち寄ったのであった。時間は11:30過ぎ。神奈川県立藤沢清流高等学校前に車を止め散策開始。アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさあい/あづさい)」がなまったものとする説である と。ほぼ満開の「大清水あじさいロード」。紫陽花の漢字の由来は、唐の詩人、白居易(はくきょい)が招賢寺というお寺を訪れた時、お寺に咲いていた紫色の花を「紫陽花」と名付けたことから来ているのだ とネットには。しかし「紫陽花」は日本原産ですからこれは誤り?で、白楽天が詩に詠んだ花とは違うのでは??とネットには。紫色のアジサイの花に近づいて。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。●七変化(しちへんげ) :七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変える ことからついた別名●四片・四葩(よひら) :「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな) :丸く集まった装飾花の形から●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽花●八仙花(はっせんか) :「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前花(萼)の色はアントシアニンという色素によるもので、アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれている。これに補助色素(助色素)とアルミニウムのイオンが加わると、青色の花となる と。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。土壌の肥料の要素によっても変わり、窒素が多く、カリウムが少ないと紅色が強くなる とウィキペディアより。また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるのだ と。上の花との違いで、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていくのが解かるのであった。日本に自生していたガクアジサイ(額紫陽花)が母種となり、西洋にわたって品種改良されたものが世界の紫陽花の主流になったのだ と。青のガクアジサイ(額紫陽花)。紫陽花の花は、装飾花と両性花から出来ていると。まず、装飾花とは、一般的に花と認識されている部分のことを指すつまり、花びらが4~5枚あるように見えている部分のこと。一方で、両性花はガクアジサイやヤマアジサイの花房の中心部分にある、地味な花のことを指す。説明写真をネットから。ちなみに、装飾花で大きく目立つようながく片は、花粉を運ぶ昆虫を呼ぶ際に利用するために発達したといわれているのだ と。白▶️黄色▶️薄紫▶️紫▶️濃紫と開花の時の流れが一つの株で。近づいて。再び「大清水橋」方向を振り返る。ピンクの西洋アジサイ。近づいて。西洋アジサイは←が花の部分。そしてガクアジサイ。近づいて。再び濃いピンクのアジサイを。近づいて。白のガクアジサイ。まるで線香花火の如し。装飾花は薄紫になりはじめていた。一株で?紫、ピンクの花が。近づいて。「平成16年度藤沢市まづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回沢市緑と花いつぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」装飾花と両性花が同じピンク色に染まったガクアジサイ。近づいて。こちらは装飾花が両性花の後を追う。再び大清水橋を振り返って。この花は色に迷いが??2種類のアジサイが開花のピークに。ガクアジサイに近づいて。藤沢市民病院を背景に。ズームして。両性花が存在を強調して。「境川」を超えた山の上には学校の校舎が。「聖園女学院高校・中学校」。神奈川県藤沢市みその台に所在し、中高一貫教育を提供する私立カトリック系の女子中学校・高等学校である。名古屋市に本部を置く学校法人南山学園の管轄である。完全中高一貫校だったが、2024年度より高校募集を再開している。毎日の朝礼時・終礼時に祈りを捧げて聖歌を歌い、6月と9月、11月、12月、2月にミサを開く。「マリアホール」「イエスの聖心聖堂」などがある。学級は、ばら組・ゆり組・すみれ組・きく組と花の名前である。生徒数の減少により、2015年度からきく組は設置していない。各組は30 - 40名程度[13]で、中学1年生 - 中学3年生の英会話は、1組を2つに分けて少人数で授業する。英語の授業は高校1年生から習熟度別に分ける。高校2年生からは、文系理系に分かれ、選択科目も科目により習熟度別を採る とウィキペディアより。 ・・・つづく・・・
2024.06.09
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「甘縄神明宮」を後にして、次の目的地の「鎌倉文学館」に向かうと、左手に洋館の如き建物が現れた。鎌倉市長谷1-11-1。「鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)」この建物は、明治41年に横浜・戸塚出身の株仲買人・福島浪蔵氏邸として建てられ、創建当時は、現存の洋館の北側及び東北側に和風棟も建てられ、 広大な敷地には庭園が設けられていたと考えられる。大正10年に三重県桑名出身の富豪、二代目諸戸清六氏の所有となり、関東大震災にも建物は健在で、震災時の救療本部としても用いられていた。昭和11年に4男の民和氏に贈与され、戦時中は一部接収を受けたらしいが その後も諸戸邸として用い続けられた。昭和51年に所有権は諸戸産業に移り、宅地分譲が行われ、昭和55年に一部が鎌倉市に寄贈されたが、このときには和風棟はほとんど姿を消していた。 外観は、バルコニーの柱にギリシア建築の様式を取り入れ、メダリオン飾りが付けられており、ドア枠と窓枠には手の込んだ装飾が施されるなど、きわめて華麗です。また、内部も古典的な雰囲気が感じられます。この建物は、明治期の住宅建築の貴重な遺構であり、造形意匠の密度においては、鎌倉のみならず、県内でも最高のものといえます と。「鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)この建物は、関東大震災により壊滅的な被害を受けた鎌倉に残る明治期の建造物として非常に貴重な存在です。明治期の建物は、それ以降の建物と比較して外観の造形意匠が華やかなのが特徴ですが、この建物はその中でも秀逸なものとして高く評価されています。創建当時は現存の建物の北側、南側に和館があり、現在、住宅地となっている建物周辺の一帯は庭園であったと言われています。建物と背景の丘陵が調和した風景は、この地域が近代に別荘地として栄えた文化・記憶を今に伝える貴重な存在です。」2018年4月28日、国の登録有形文化財に指定されているこの「長谷子ども会館(旧諸戸邸)」が閉館したと。耐震診断の結果、劣化剥(はく)落が著しく、大地震による倒壊等の危険性が高いことが理由とのこと。屋根の下の外装も美しかった。入口玄関の上部のガラスの装飾。更に進むと左手奥に「鎌倉文学館」の入口が見えた。入口左側にはアジサイが咲き乱れていた。「鎌倉文学館」の入口。木々に囲まれた石畳の坂道を進む。4/17~7/4で特別展「作家のきもち」が開かれていた。正門の手前右側に石碑が。「長樂寺跡」碑。元禄元年三月二位ノ禪尼政子 頼朝追福ノ為 笹目ガ谷辺ニ於テ方八町ノ地ヲ卜(ぼく:選ぶ)シ七堂伽藍ヲ営ミテ長楽寺ト号す 元弘三年(1333)五月北条執権滅亡ノ際 兵火ニ罹(かか)リテ焼失セリト 此ノ地即チ其ノ遺址ニシテ 今ニ小字ヲ長楽寺ト呼ベリ」【長楽寺は、1225年3月に頼朝の妻の政子によって、頼朝の供養(くよう)のため建てられました。場所は笹目が谷(ささめがやつ)辺りで、800メートル四方の土地を選び、七堂伽藍(しちどうがらん)を建てました。その後1333年5月に、鎌倉幕府が亡んだ時、戦火で焼けてしまいました。この場所がその跡で、現在でも長楽寺という地名が残っております。】「~鎌倉の旧地名~長楽寺~ Chorakuji (現在の長谷一丁目)長楽寺は旧鎌倉町長谷の字名の一つです。当地に所在した長楽寺が地名の由来とされています。長楽寺は法然上人の弟子隆寬あるいは律宗の憲静(けんじょう)の創建といわれ、鎌倉幕府の四代執権北条経時の墓があったとされます。かなりの高僧がいた大寺院だったようです。この長楽寺跡に旧加賀藩前田家第十六代当主前田利為(としなり)によって昭和1 1年に別荘が建てられました。高台から相模湾を一望できる美しい洋館は、三島由紀夫の小説「春の雪」に登場する別荘のモデルになりました。その後は鎌倉市が譲り受け.昭和 60年に鎌倉文学館として開館し、鎌倉文士の原稿、愛用品などを収集、展示しています。」「鎌倉文学館」正門。鎌倉市長谷1丁目5−3。入館チケット売り場。正面に石積みの隧道があった。館へと向かうゆったりと豊かなスロープにある「招鶴洞(しょうかくどう)」いう洞。「招鶴洞」の名前がつくこのミニトンネルは、源頼朝が鶴を放った場所という説があると。「招鶴洞」を潜って振り返る。右手にあった「やぐら」の如き穴。左に折れまずは「バラ園」を訪ねることに。途中、青のアジサイが迎えてくれた。青の先には紫のアジサイが。そして「バラ園」へ。「バラ園鎌倉文学館のバラ園は春( 5月主旬~ 6月下旬)と、秋( 10上旬~ 11月下旬)に見ごろをむかえます。現在はおよそ180種、200株の色とりどりのバラをご覧いただくことができます。鎌倉にゆかりのある名前を持つバラを探してみませんか?鎌倉: 鎌倉にぶさわしい落ち着きをもつ花。トゲのない珍しい種類。 のこと。化粧坂: 鎌倉市扇ガ谷にある切リ通しの名。静の舞: 頼朝にとらえられた静御前は、愛する源義経を思い、鶴岡八幡宮で舞いを舞ったと 伝えられています。星月夜: 鎌倉の枕詞で、星の光が月の ように明るく見える夜のこと。流鏑馬: 鎌倉時代からある馬上から矢を射る武芸。禅: 鎌倉幕府は禅宗を庇護しました。そのため、今でも鎌倉には多くの禅寺があリます。春の雪: 淡雪のこと。三島由紀夫は小説『春の雪」を書くために、旧前田侯爵家別邸 (現・録倉文学館)を取材しました。大姫: 大姫とは長女の敬称。源頼朝の娘、大姫と婚約者、木曽義高(木曽義仲の子)の悲劇は 後世まで語リ継がれています。」既に峠は越えているようであったが、様々な色のバラが。「由比小町」淡いピンクにやや濃いめの縁取り。「ねじり草」。そして「バラ園」から「鎌倉文学館」を見る。「荒城の月」。「ブルグンド 81」はビロードがかった濃赤色。「パラダイス」。「鎌倉」、鮮明な黄色。「星光」。「プリンス ドゥ モナコ」は白から鮮紅色に変化。「1890年頃に侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として建てられたが、1910年(明治43年)に火事により失われた。現在の建物は侯爵 前田利為が1936年(昭和11年)に洋風に全面改築した建築物である。渡辺栄治が設計し、竹中工務店が施工している。戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたが、1983年に前田利建から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築をおこない、1985年(昭和60年)10月31日に開館した。2000年(平成12年)4月28日、国の登録有形文化財となった。」とウィキペディアより。3階建てであったが、3階は木造であり非公開となっていた。前庭のひだりがわ「アンジェラ」。前庭から「バラ園」方向を見る。裸婦像「Regard lointain(遠望)」、1981 H.TAKATA。近寄って。緑の先に相模湾の水平線が見えた。「鎌倉文学館」へのアプローチ。「鎌倉文学館」建物への入口。内部は一切撮影禁止であったので、頂いたパンフレットより。「バラ園」と「鎌倉文学館」。「ステンドグラス」。建物は、洋風と和風が混在する独特なデザインになっていま す。ハーフティンバーという建築様式を基調とし、半六角形の 張り出し窓や半円形欄間の飾り窓、ベランダの手摺などに洋風 デザインを取り入れています。一方、切妻屋根と深い軒出などに和風デザインが見られます。 内部全体は洋風のアールデコの様式ですが、随所に和風様式が 取り入れられています。照明やステンドグラスがすべて違うデ ザインになっているのも見どころです。展示をご覧になりなが ら、歴史ある建物もお楽しみください。 <別邸として使用されていた頃の各部屋の使用方法> 常設展示室 1…居間兼客間 常設展示室 2…食堂 常設展示室 3…配膳室 常設展示室 4…寝室 【http://kamakurabungaku.com/info/floorguide.html】より「文学都市かまくら」明治22年(1889)に横須賀線が横須賀まで開通すると、東京からの交通の便が良くなり、文学者が鎌倉を訪れるようになります。大正時代になると、多くの文学者が、鎌倉に滞在したり暮らしたりするようになりました。昭和時代に入ると、より良い創作環境を求め、さらに多くの文学者が鎌倉へ鎌倉へ移り住むようになります。鎌倉に暮らし、仲間との集い、鎌倉の自然を愛し、作品に描いた文学者たちの思いが、鎌倉を「文学都市」へと高めていきました。そして今もなお、多くの文学者が鎌倉に暮らし、活躍しています。「常設展」👈リンク 鎌倉ゆかりの文学「鎌倉文士鎌倉ペンクラブの結成、鎌倉カーニバルの発案、戦中・戦後の貸本屋鎌倉文庫の運営、そして鎌倉アカデミアへの参加など、鎌倉の文学者は市民生活ともかかわりを持ちました。「鎌倉文士」と呼ばれる文学者を紹介します。」「明治・大正・昭和の文学明治時代、夏目漱石は参禅のため、島崎藤村は旅の途中に、鎌倉を訪れました。大正時代になると、芥川龍之介や有島生馬が移り住みました。昭和に入り、東京の都市化につれ、多くの文学者が鎌倉へ移り住むようになります。明治・大正・昭和の鎌倉ゆかりの文学者を紹介します。」「古典文学鎌倉は『万葉集』をはじめ、多くの古典文学に名が記されています。また、鎌倉幕府三代将軍源実朝は和歌をたしなみ、『金槐和歌集』を編みました。主な鎌倉ゆかりの古典文学に、「徒然草」、「吾妻鏡」、「太平記」、「義経記」があります。」「昭和から現代の文学戦後には、立原正秋や渋澤龍彦らが鎌倉に住み、この地を舞台にした作品を書きました。今もなお、多くの作家が鎌倉に暮らしながら活躍しています。昭和から現代までの鎌倉ゆかりの文学と文学者を紹介します。」「施設の概要」1F:特別展示室22F:常設展示展、特別展示室13F:非公開「敷地図」。①バラ園越しの本館②ステンドグラス③半六角形の張出し窓④テラスからの眺望⑤源頼朝が鶴を放ったという故事にちなむ「招鶴洞」「バラ園」の中から「鎌倉文学館」を写した写真。「相模湾」を望む。「鎌倉文学館のしおり鎌倉文学館は、鎌倉ゆかりの文学の直筆原稿・手紙、愛用品などの文学資料を収集保存し、展示することを目的として、昭和60年(1985)に開館しました。鎌倉文学館の本館と敷地は、以前、加賀百万石藩主前田利家の系譜である旧前田侯爵家の鎌倉別邸でした。鎌倉別邸は、明治23年(1890)頃、第15代当主 前田利嗣氏が土地を手に入れ、和風建築の館を建てたことにはじまります。明治43年(1910)、館は類焼により焼失、後に、洋風に再建されます。さらに、第16代当主前田利為氏が全面改築を行い、昭和11年(1936)、今に残る洋館が完成します。第ニ次世界大戦後、デンマーク公使や佐藤栄作元首相が鎌倉別邸を借り、別荘として使用していたこともあります。また、三島由紀夫は、小説「春の雪」に登場する別荘をこの別邸をモデルに書いています。昭和58年(1983)、第17代当主 前田利建氏より鎌倉別邸の建物が鎌倉市に寄贈されます。そして、建物の外観を残しながら補修と増改築を施し、新たに収蔵庫棟を建て、鎌倉文学館として開館しました。本館の外観は、ハーフティンバーを基調とする洋風と切妻屋根と深い軒出などの和風が混在する独特なデザインです。内部も全体は洋風でアールデコの様式も見られますが、随所に和風様式が取り入れられています。」「文学者ゆかりの場所」。「文学都市かまくら 散策地図」。そして特別展「作家のきもち」2021.04.17 (土) ~ 07.04 (日)喜んだり、悲しんだり、私にちの気持ちは日々ゆれています。それは、夏目漱石や与謝野晶子、川端康成、太宰治らの作家も同じで、その気持ちを抱えながら作品を紡き出していました。本展では、手紙や日記など作家が自分の気持ちを吐露した資料から作家の素顔にふれ、彼らの文学作品をよく味わう展覧会てす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.03
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我が養蜂場のある菜園へ向かう畦道脇に、白い清々しい葉を持った植物が大きく成長しています。自宅に戻りネットで調べてみるとこの植物の名は『ハツユキソウ(初雪草)』であることが解ったのです。緑の葉縁に白い覆輪が入った葉色のコントラストが見事。中央には目立たない白い花が。葉っぱのふちの部分が白っぽくなってまるで雪がかぶったようになるので、それが名前の由来となったとのこと。この時期、夏の景色の中で、非常に涼しげに感じられる植物なのです。
2013.07.31
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この日は8月7日(金)、1ヶ月程前、東京都江東区の深川、両国地区の散策をし既にブログアップ済み👈リンクですが、この日はその東側の江東区大島周辺からJR亀戸駅までの散策に向かいました。この日も早朝の小田急線を利用し新宿駅に向かう。新宿駅から都営新宿線に乗り換え、「東大島駅」で下車。家を出てから約2時間で到着。「東大島駅」は「ひがしおおじまえき」とにごるのだと。1978年建設された駅、東京都江東区大島9丁目9。「東大島駅」のホームの窓から、「旧中川」と「東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)」に架かる「船堀橋(ふなぼりばし)」を見る。駅の出入口は川の両端(大島口・小松川口)にある。当駅は都営新宿線の急行通過駅では唯一の高架駅でもある。当駅と船堀駅の間は、極端なゼロメートル地帯である関係上、旧中川・荒川(放水路)・中川を跨ぐ高架となっている。まずは「旧中川」沿いを大島小松川公園(風の広場)に向かって進む。「旧中川」の上にある「東大島駅」を振り返る。前方右にある橋は「中川大橋」。この日は、雲一つ無い快晴、熱くなりそうであったが、帽子、マスクを着用し歩を進める。「旧中川」、「荒川」沿いにある「健康の道」案内板。「健康の道」は一周すると9530mあると。「中川大橋」を右に見ながら「大島小松川公園(風の広場)」を目指して進む。「大島小松川公園(風の広場)」案内板。東京都立大島小松川公園は、防災市街地再開発事業により、設置された公園。江東デルタ地域の東端に位置し、旧中川を挟んで江東区と江戸川区にまたがり、平常時はレクリエーションの場として利用され、災害時には20万人の 避難場所となる防災公園。スポーツ施設を中心としたスポーツ広場、わんさか広場、自由の広場、季節の広場(北側と南側)、そしてこの風の広場の五つのブロックがあるようであった。緑豊かな散策道を進む。左手にあった階段を上ると、目の前に現れたのが「旧小松川閘門(こうもん)」。閘門はロックゲートとも呼ばれるのだ。荒川と旧中川との水位差を調節して船を通行させる為の水門。小松川閘門は昭和5年(1930年)に作られ、昭和51年(1976年)には閉鎖されたのだと。最初に見た時は「こんな丘の上に水門?!」と思ったのだがこの水門は地中深く埋まっているようであった。「風の広場」の中央にある「旧小松川閘門」。風の広場のある高台は元々は平地であったが、残土処分場として土が積まれ、水路も埋立てられてしまったと。金網フェンスには雑草が絡まり、全景が見にくいのであった。堅牢な構造物。別の角度から。次の建設中の写真からするとゲート(水門)部分はほぼ埋まっていることが理解できる。全体の3割くらいしか見えていないのか??。建設中の写真をネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/0dd6a23a93e0b349c79c42f8b3bcc13d】からこれもネットから転載させて頂きました。 【http://sc2.s27.xrea.com/hobby/arakawa_komatsu/index.html】より 「旧小松川閘門(きゅうこまつがわこうもん)」この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。」そしてその横にあったのが、これも巨大なアート作品。安藤泉作 第27回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)2017「ムー大陸よりⅡ」。「現代文明をはるかに上回る文明を築いていたと言われるムー大陸は、約1万2000年前に突然太平洋の海底に沈んだとされている。悠遠太古のムー大陸からの来訪者は現代の人類社会の現状を、どう評するのであろう。」風の広場から旧中川そして小名木川合流地点を見る。遠くに「東京スカイツリー」が見えた。そして「風の広場」を後にし、来た遊歩道を引き返し「中川大橋」を渡る。左下の旧中川の川岸に見えたのが「多目的スロープ (水陸両用バス発着場)」。その先に「平成橋(へいせいばし)」。この橋は1994年は(平成6年)に開通、旧中川で分断された江戸川区と江東区の往来を容易にし、防災拠点の避難路としても重要な役割を持つとのこと。長さ105mのアーチ橋。橋の先に「江東区那珂川番所資料館」の建物が。再び「東大島駅」を「中川大橋」から見る。旧中川の川岸の公園入口。「旧中川・川の駅」。「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ江戸最初の運河・小名木川が開かれました天正18年( 1590 )江戸に城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後米・醤油・野菜など多くの物資や人がここを往復しました。沿岸はしたいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。1661年(寛文元年)中川番所ができました利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋」(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に、寛文元年( 1661 )中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備この旧中川・川の駅は、かって江戸の入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープや、カメー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。「名所江戸百景中川口」歌川広重江東区教育委員会蔵左下に番所の橋と川への石段が見られます。乗り合い船や材木の筏が行きかい、左上の新川(船堀川)にも荷船が見られます。」左下隅に中川船番所が見える。木材筏が進むのが中川(右方向が江戸湾に通じる)である。番所前には小名木川が流れる(右方向が 隅田川に通じる)。中川をはさんでその反対側は船越川となり、行徳方面へ通じる。「御江戸大絵図」( 1843年・天保14年)人文社江戸市中へ向けて直線に小名木川が流れています。隅田川を越えれば江戸初期からの経済の中心、日本橋本町周辺です。「江戸名所図会中川口」長谷川雪旦( 1836年・天保7年)江東区教育委員会蔵番所のなかには役人が着座し中川に面して穂先に覆いをかふせた10本の槍が立てかけられ、番所の目印となっていました。「水陸両用バス スカイダック」入出水場の写真がパネルに。基本的にはスカイツリーとかが出発ポイントで、ここは折り返し地点であるようだ。日の丸自動車興業(文京区)が、平成25年3月17日から定期運行(東京初)を開始した水陸両用バス「スカイダック」。ボディはアメリカ・サウスカロライナのCAMI社製で、日本の法律に適合した陸用・水上用のエンジンが別々に搭載されているのだと。 【https://05592134.at.webry.info/201305/article_5.html】より定員41名(乗務員含む)、総トン数12tで、最大速力は陸上が100km/h、水上が7kt(13km/h)。全長・全幅・全高は、11.99m・2.49m・3.71m。 【https://boatingintokyo.seesaa.net/article/387773988.html】よりそして渡って来た「中川大橋」を見上げる。再び「平成橋」を。「江東区中川船番所資料館」。大島9丁目1番15号の川っ淵にある資料館。番所のあった場所については。9丁目1番地と推定されていたが、平成7年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定した。資料館は、跡地より北に50mほど離れた場所に建てられている。資料館は、区から財団法人江東区地域振興会に管理運営を委託され、同15年3月22日に開館したのだと。①、「水運」の専門館として、区内を流れる小名木川と中川に接した場所に、江戸時代に設 置された中川番所を主軸に、関東・全国に広がる水運を利用した人・ものの交流や活動 の歴史を紹介する。②、地域に根ざした資料館として主眼を置くとともに、区内既設の資料館と連携を深め、資 料館ネットワーク化の一翼を担う。③、郷土の歴史の理解を促す資料館として、平成7年の発掘調査により所在が確認された中 川番所を、区民が郷土の歴史に親しみ、身近に感じる手がかりとする。④、釣具資料館として、区は、平成12年7月特定非営利活動法人東京釣具博物館から、和 竿など釣具の所蔵品5000点以上の寄贈を受け、これらの展示も行っている。江東区 の歴史を見ると、享保年間に刊行された釣りの本「何羨録(かせんろく)」には江東区 近辺の釣り場が詳細に案内されており、船番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの 名所であったことが記されており、釣りとの関係が窺えるのだ。開館は、原則月曜日、年末年始の休館日を除く毎日の午前9時から午後5時まで。江戸時代の中川船番所を再現した館内のジオラマ(1)を「ネット」👈リンクから。江戸時代の中川船番所を再現した館内のジオラマ(2)をネットから。【http://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam16/select1674.html】から振り返ると右手が「旧中川 川の駅」売店。「中川船番所跡」中川船番所は中川関所ともいわれ。小名木川の中川北口にあり、江戸と下総国を結ぶ通船改めの役所だった。広さは東西26間×南北17間余だった。この関所は幕府が江戸を防衛するうえで、ここを出入りする船の取り締まりが必要だった。所謂「入鉄砲に出女」の取締まりだ。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)6月本所の掘割の完成に伴い、中川口へ移った訳だが、その年代は不明な点が多い。一説には延宝七年(1679)といわれる。その後関所としての機構が確立し、5000石以上の上級旗本3人が中川御番衆を命じられ、交代で任に就いた。寛文元年の「定」によると中川関所を通る際、乗船者は笠や頭巾などの被り物を取り、屋形船などは内部が見えるように戸障子などを開け放ち、女性は確かな証文があっても通行させなかった。また人が隠れていそうな持ち物や不振を感じさせる舟は全て止めて徹底的に改めた。船番所の広さは、文政六年(1823)の記録では、東西47間×南北30間とあり、明治維新まで存続した。建物のその後は不明だが、震災で倒壊したものと思われる。「中川船番所跡中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果たしてきました。明治2年全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。平成7年に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認されました。」江戸後期の江戸図 「文政11年分間江戸大絵図」。図下方に中川が流れる(左端に江戸湾がある)。その中央に中川船番所がある。 小名木川は番所のすぐ脇の中川口から流れて隅田川へと通じる。そして小名木川沿いの「遊歩道・塩の道」を上流に向かって進む。全長約5kmの小名木川の護岸の耐震化対策を施された上部が塩の道として整備されていた。今では、川の両岸に江戸時代の石積みをイメージした護岸や和風の防護柵などが整備された塩の道という名の遊歩道が続いていたのであった。小名木川は、徳川家康が江戸入府( 1590年)後まもなく行徳の塩を江戸に運ぶために、小名木四郎兵衛に命じて掘らせたといわれます。当時の海沿いの湿地に掘られた小名木川は、内陸航路として、塩、米、食糧はもとよリ、多くの物資や人々を運ぶ舟運の動脈でした。当初、船番所を隅田川との合流点に設けて航行する船舶を監視しました(のちに船番所は旧中川との合流点に移転します)。明治期には、小名木川の舟運を利用して諸工業が発達します。沿岸にはセメント製造、化学肥料、精製糖工業、醤油製造をはじめとする大小の工場が建設されました。隅田川合流点近くにかかる、広重や北斎の浮世絵にも描かれた萬年橋の北岸には、松尾芭蕉が居を構えていました(近くに史跡展望庭園があります)。前方に最初の橋「番所橋」が姿を現した。「遊歩道・塩の道」から「番所橋」の袂に。案内図。先程訪ねた「風の広場」の階段の上の「小松川閘門」が見えた。「番所橋(ばんしょばし)」交差点。「小名木川」沿いの両側の「遊歩道・塩の道」には柳の並木が。そして所々に木製灯籠と休憩用ベンチが設置されていた。 ・・・つづく・・・
2020.08.15
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更に「大沼公園」の「島巡りの路」の散策を続ける。紅葉が始まり、大沼の水面に鏡の如く映り、これぞ絶景!水鏡・Water Mirror。「アイヌ島」のカエデの紅葉も進み。紅葉の進み方が目で解るのであった。以下、ネット情報です。(https://weathernews.jp/s/topics/201810/150095/)葉は以下の条件になると色づき始めるといわれている。1.気温が低くなる紅葉は、一般的に朝の最低気温が8℃前後(※)より低くなる日があってから、しばらくして色づき出します。※この気温はエリアによって異なります。2.日が短くなる昼間の時間が短くなることで色づき始めます。葉は、緑→黄色→赤色と変化していきますが、これは葉の中に含まれる色素の違いによるものです。・緑色の色素:葉緑素クロロフィル・黄色の色素:カロチノイド・赤色の色素:アントシアニン【用語解説】・クロロフィル 葉を緑色にしている色素のこと(葉緑素)。「クロロフィル」は光を吸収し、二酸化炭素+水を、 酸素+炭水化物に換えるためのエネルギーを供給しています。・カロチノイド 葉を黄色にする色素。光からエネルギーを吸収する役割を持ち、そのエネルギーは クロロフィルに運ばれます。・アントシアニン 葉を赤色にする色素。熟したリンゴやブドウの皮の赤い色の原因となるものです。赤く染まる葉は、秋が深まり気温が低下・日が短くなると、葉の根元と枝の間に【離層(りそう)】と呼ばれるコルクのような組織が形成されます。すると、光合成で作られた糖が枝などに届かず、日光を浴びて糖とタンパク質が化学反応し、アントシアニンという赤い色素が作られるのです。対して、黄色くなる葉はカロチノイドとクロロフィルが含まれています。季節が進み気温が下がると、クロロフィルが先に分解され、分解が遅いカロチノイドの色が際立って見えるようになり、黄色く見えるようになるのです。朝の陽光が差し込み、鮮やかさを増すのであった。先程渡った「湖月橋」が見えた。再び写真を逆さにして遊んでみました。ズームして。大沼の水面に映る紅葉の絶景をカメラでこれでもかと追う。「三密」を避けたこの島は紅葉の「準備中」。いや、「三密」でないため、「紅葉」の感染がないのか???紅葉シンメトリー・「水鏡」が終わることなく。これぞ「早起きは三文の得(徳)」!!紅葉シンメトリー・「水鏡」を楽しめる条件は、晴れの日の明け方であること。朝焼けで紅葉が映えるのです。そして風がないこと。水面が波立つと紅葉が映らない。もちろんこれらの条件が全て揃わなくても、それなりに美しい景色を見ることはできますが。ズームで。「浮島」から右手に「浮島橋」。「長島園路護岸」を渡る。「長島遠路護岸」を渡りながら「浮島」を見る。「浮島橋」を「公魚島」から見る。「北海道駒ケ岳」を「公魚島」から再び。北海道森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)である。渡島国・渡島半島のランドマークとなっている。蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれる。江戸時代の旧称は内浦岳。富士山型の紡錘状の山容から谷元旦が描いた絵画が渡島富士(おしまふじ)と呼ばれ、郷土富士となっている。「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元・北海道では単に駒ヶ岳と呼ばれると。「駒ヶ岳はかつて、富士山のような円錐形の1,700mほどの火山だったといわれています。たび重なる噴火活動を経て、寛永17年(1640年)の大噴火によって山頂部が崩壊し、火口原を取り巻く外輪山として、主峰の剣ケ峯(1,131m)、砂原岳(1,113m)、隅田盛(892m)、稜線の駒ノ背(約900m)、馬ノ背(約850m)が形成されたのです。その後、安政年間の大噴火、昭和4年の大噴火、昭和17年に中噴火を起しています。」とネットから。「最近では、平成8年と10年の小噴火が記憶に新しいです。道南きっての景勝地大沼公園も、この駒ヶ岳の噴火によってできたものです。」標高約900ⅿ「馬ノ背」までの登山道が見終えた。「公魚(わかさぎ)島」から見る、湖面に浮かぶ「流山」の紅葉はこれもこれから。紅葉の進んでいる木々をカメラで追う。青空に映えて。「公魚橋」を振り返る。大沼湖と小沼湖を周遊する遊覧船クルージングやボートの貸し出しを行っている「大沼合同遊船(株)」の建物とその手前の「西大島橋」をズームで。「大沼公園散策マップ」で現在位置を確認する。更に南下し、大沼公園広場から散策路「島巡りの路」への入り口にある「後楽橋」に向かうのであるが、「島巡りの路」の散策はここまでとして「湖月橋」に向かって湖畔に沿って戻ったのであった。「島巡りの路」の歩いた路―をズームで。暫く進み「VIEW POINT」から「湖月橋」と「金波橋」そして「北海道駒ヶ岳」を。「湖月橋」と「北海道駒ヶ岳」をズームで。「湖月橋」とその先に大沼公園の遊覧船がこの日の出番を待っていた。料金は個人で大人一人960円、。所要時間は約30分間で、大沼と小沼を回るのだと。「睡蓮」の咲く時期は、この水面も美しいのであろう。と言うことで「ネット」から。 【https://loconavi.jp/events/112242】より真っ赤な紅葉。散り紅葉も。これぞ「紅葉筵(もみじむしろ)」。紅葉が散り敷いたさまを筵(むしろ)に見立てていう言葉。まさにこの大沼には晩秋の季語「火恋し」(ひこいし)が似合う季節が到来しているのであった。これは黄葉。「逆さ駒ケ岳」を再び。「逆さ駒ケ岳」を何枚も。「剣ヶ峯」をズームで。駒ヶ岳の山頂、鋭く立ち上がる「剣ヶ峰」。更に。噴火によって形作られた現在の駒ケ岳の最高峰の姿。紅葉の見事なグラデーション。そして「島巡りの路」の散策を終え、車に戻り道道338号線を進む。左手の踏切手前から函館本線の貨物列車を。この先の踏切を渡ったところ左に、冬場にオオハクチョウやカモなどの野鳥が飛来する「白鳥台セバット」があるようだ。そして最後尾。そして次に「霊泉洞」を訪ねた。この案内板が小さいので気が付かず行き過ぎて戻る。「霊泉洞」は函館市の北部に位置する七飯町にある湧き水。大沼国定公園の中で、最大の沼である大沼の北側で湧出していた。大沼の水源の一つであると。細い獣道の如き山道を下って行くと、朽ちかけた鳥居と小さな祠があった。この「祠」周辺はパワースポットになっていると。鉄梯子の奥に湧き水の流れが見えた。湖に下る鉄梯子。湧き水の出口をはっきりと見たかったが、鉄梯子を降りるのは危険と判断して諦めたのであった。鉄梯子を降りるとこの様な光景が見られるのであったが、ネットより。 【http://www.onuma-guide.com/diaryblog/2012/08/post-153.html】より道道338号線・大沼公園線を更に進む。道道43号線に向かうT字路の先の駐車場に車を駐め、大沼の沼岸・「はまなすの浜」に徒歩で。再び「北海道駒ヶ岳」の姿を見る。「剣ヶ峰」の姿が次第に変わって見えて来た。花の見頃の7月から9月頃まで、濃いピンク色の花を咲かすハマナスの群生を見ることが出来るのだと。ズームで。険しい「剣ヶ峰」山頂の稜線が。北斗市と森町の境界の山々の姿を大沼から見る。中央右に僅かに山頂が見えた三九郎岳・標高802m 、そして左手には平坦な稜線の先には二股岳・標高826mがはっきりと。「はまなすの浜」に立っていた「北緯42度の標」。北緯42度はイタリアのローマや昨年10月末に訪ねたブルガリア・ソフィアがほぼ同じ緯度なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.06
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「永明寺別院」を後にして「柏尾通り大山道」を西に進む。「永明禅寺」の裏山に沿って進むと、左手の荒れ地の奥の高台にあったのが大きな「忠魂碑」👈リンク。「旧中川地区出身各戦役戦没者諸英霊荘厳菩提供養塔」と刻まれた石柱が「忠魂碑」の前に。「忠魂碑」の左側に「戦没者芳名碑」そして「旧中川地区出身戦没者名碑」があった。この敷地は岸井家によって寄付されたと。神奈川県横浜市泉区岡津町1574 岡津公園。「岡津公園」の前の家の表札も「岸井家」。「柏尾通り大山道柏尾通り大山道は、東海道の前不動(柏尾)から岡津の永明寺別院前の大山道道標前を経て、大山へ向かい、西田谷(にしだやと、現、桂坂)で坂道(男坂・女坂)へとつながる道です。「上り 大山道・下り かしを道」と刻まれた道標になっている地神塔は、坂の上り口に立っていましたが宅地造成のとき現在地に道されました。地神塔の立っている前の土手(現在は住宅)にあった庚申塔などは、現在、中川地区センター駐車場横にあります。また、周辺には製糸場もありました。 泉区役所」2基の庚申塔が左手に。左:駒型双体道祖神・・1813(文化10)年右:角柱型文字「地神塔」・・文字「秋葉大権現」「庚申供養■■ 巳待祭神」「桂坂公園」内を歩く。「領家西側」交差点を左折して進む。「西田・領家土地区画整理事業竣功記念之碑」が道路沿いに。その周囲の石碑群。そして左に折れて進んだ所の左手高台にも朱の鳥居の先に石碑群があった。横浜市泉区岡津町1294-3周辺の領家谷(りょうけやと)地域。正面に朱の鳥居と小さな「社」が。左手に丸彫双体道祖神・・1794(寛政6)年と石灯籠。左から角柱型文字「庚申塔」・・1859(安政6)年唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・元禄??(1688~1704)角柱型文字「庚申塔」左から角柱型文字「猿田彦大神」塔唐破風笠付角柱型聖観音立像笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+日輪月輪+三猿その後、南下した後「弥生台駅」方面への道を進む。左手にあった「老人福祉センター横浜市泉寿荘」前を通過する。横浜市泉区西が岡3丁目。そして「浄土真宗 本願寺派 西恩寺」に立ち寄る。「龍王山 西恩寺」掲示板。「本堂」。宗派は浄土真宗本願寺派に属す。通称西本願寺、又は「お西」と言われています。東京で言えば、築地本願寺と同じ宗派になると。ご本尊は阿弥陀如来。「特別養護老人ホーム恒春ノ郷」の美しい生け垣のある坂道を上って行く。そして「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」に到着。横浜市泉区中田北3丁目42-1。神社の前の河津桜も満開に近かった。見上げて。中田町御霊神社の鳥居横に石碑が建っていた。「この碑の建つ土地は大正七年に当時御霊神社総代人であり、また同碑建立世話人であった小山良作氏によって寄進されたもので、このたびの参道改修に際し嫡男小山俊雄氏の赤誠により、整備された。後世のために之を誌す。昭和五十乙卯年二月吉日 宮司 宮本忠直」と刻まれた石碑。「宮本湊(いたる)先生頌徳碑(しょうとくひ)」👈リンク。中田の子弟の教育に尽力された中田学校教師宮本湊の頌徳碑である。「御霊神社戸塚区・栄区・鎌倉市域の御霊神社と同しく鎌倉権五郎景政を祀った神社で、昔から中田のごりょう様と呼ばれていました。明治の廃仏毀釈前は宮司家の東端に実相院の不動堂や護摩堂がありました。保安林に囲まれた石段下の弁天池は村岡川(宇田川)の源流になっています。池の前の庚申塔は、区内最古のもので、地域文化財に登録されています。鳥居横には、中田の子弟の教育に尽力された宮本湊先生の頌徳碑があります。 泉区役所」「御霊神社 石鳥居」。扁額「御霊神社」。社号標「村社 御霊神社」。参道を進むと掃除中のおばあちゃんの姿が。右手にあったのが「弁天池」と「厳島神社」。「弁天池」の傍らには石碑が建ちそこに「弁天の湧水 村岡川源流」と。村岡川とは宇田川の別名。弁天池に湧いた水は流れ出て宇田川となって境川に合流し相模湾に流れ出るのだ。「弁天池」のすぐわきに「ふどうばし」がかかり、そこにも「村岡川源流」と記されていた。「手水舎」。「石造庚申塔」が左手に。泉区内で最も古い庚申塔といわれていて、横浜市指定有形文化財に指定。「横浜市指定有形文化財(石造建造物)石造庚申塔指定年月日 平成十三年十一月一日所有者 宗教法人 御霊神社所在地 横浜市泉区中田北三丁日三三六五番地時代 江戸時代 寛文六年(一六六六)在銘法量 総高一〇九・〇 cm 笠高 一八・〇cm 巾四四・〇cm 奥行き三九・〇cm 塔身高 六六・五cm 巾ニ七・〇cm 奥行きニ五・五cm 台石高 ニ四・五cm 巾五三・五cm 奥行き四七・〇cm形状 角柱笠塔婆型員数 一基この塔は、横浜市域に所在する庚申塔の中でも古く、方形の台石の上に角柱の塔身を立て、笠を置く角柱笠塔婆型で、台石の上部には、コの字形の池をめぐらし、正面の左右に円形の半島をつきだし、花立を造っている。塔身の四面には、南無河弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳をふさいだ猿、向かって左側面にはロをふさいだ猿、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされている。」平成十四年三月 横浜市教育委員会」「庚申塔(大山道道標)」。「この庚申塔は、今から百五十九年も前の嘉永六年(一八五ニ)に、根下集落の庚申信仰集団(根下講中)の人たちによって、中田東ニ丁目一六九七番地先の大山道(旧長後街道)と柏尾道(戸塚を経由せず白百合を越えて江戸方面への近道)の分岐する道端に建立されました。道路の北側に南向きで建立されましたから、「右 とつか道」、分岐の「東 かしを道」、また反対方向の「西 大山道」と、碑面の左右に記され、庚申信仰の対象物だけでなく、道案内(道標)も兼ねています・今回、今までお祀りされていた場所が開発によって鎮祭が不可能となったため、現在の根下講中及び向根下自治会の人たちが相談し、鎮守様、御霊神社参道のこの地に遷座しました。」「狛犬(右)・阿形像」。狛犬(左)・吽形像であるはずだが・・・。「社殿」。御祭神:鎌倉権五郎景政(かまくらげんごろうかげまさ) 平安時代後期の武将、相模国鎌倉の領主、後三年の役で右目を射たれながらも 奮闘した勇将、関東平氏五家(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)のひとつ「社殿」は享保11年(1726)に再興されたといいます。しかし関東大震災で倒壊し、その主要部分を再利用し翌大正13年9月に現在の本殿が再建された。さらに昭和7年に拝殿、渡殿など新築され、社殿となっている。扁額「御霊神社」。「神楽殿」。「敬神崇租(けいしんすうそ)」碑。神を敬い先祖をあがめる、 尊いものとしてあつかうこと と。「敬神崇祖」 の四文字熟語は、 第二次世界大戦(太平洋戦争)までは国語辞典に記されていたとのことですが、 戦後教育において“政教分離”のもとに、現在、国語辞典には掲載されていないと。社殿の向かって右側に境内社が並んでいた。「矢並稲荷社」「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」、石廟数基。境内社「矢並稲荷社」。扁額「矢並稲荷」。「矢並稲荷」の「社殿」。境内社「大日大聖不動社」。「???」。境内社の「日枝山王社と金比羅社」。境内社「石廟」。「御神木」。「神輿庫」横浜市最古の木造学校建築物であると。「お知らせこの建物は大正十五(一九ニ六)年六月に、中和田小学校の奉安殿(その頃の学校では、主要行事が行われるときに、講堂の正面に、天良皇后両陛下のお写真をお飾りした。また、主要行事が行われるときには、校長先生が教育勅語を奉読して子供たちに聴かせ、その情神を伝えた。お写真は普段は取り外し、教育勅語と一緒にこの泰安殿に納めて置いた)として建てられたもので、横浜市最古の木造学校建築物となりました。平成ニ十六年ニ月の大雪で、上部の楠の技か折れて瓦屋根が壊されました。先ごろ、瓦下地の木工事や高価な特注の鬼瓦や平瓦を焼いて、修理が終わったばかりです。この建物には現在お祭りの時に使う、大人用と子供用のお神輿が納められています。」「御霊神社幼児園」正門。地域の鎮守さまの「御霊神社」が、昭和43年4月に境内の続きに開園したと。帰路の参道横にあった「石塔」。これも庚申塔であろうか?「山岳信仰碑と起立講遥拝所(きりゅうこうようはいしょ)」本社鳥居前の右手に石段が山を上って行く。この石段の上り口に建つ石柱には「木曾御嶽神社」とあった。この石段を上ると起立講(きりゅうこう)の御嶽山遥拝所(おんたけさんようはいしょ)に至っる。各地に残る山岳信仰の場の一つ。遥拝所には山岳信仰碑が立ち並んでいた。向かって左に板石碑が建ち、「國常立尊」(くにとこたちのみこと)、「三笠山神社」、「御嶽山神社」、「八海山神社」と刻まれていた。その右わきに、大黒天像がありその台座には「起立講中」と刻まれていた。その右わきに板石碑が建ちそこには「神武天皇白川神社」と。起立講とは木曾の御嶽山を信仰する山岳信仰をおこなう集まり。この御嶽山遥拝所でお参りし、また木曾の御嶽山に登りお参りをしていたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.29
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「首都高速神奈川1号横羽線」の「みなとみらい出口」への高架道路の下にあったのが「西区の埋め立ての変遷」案内板があった。 神奈川県横浜市西区みなとみらい1。「西区の埋立の変遷江戸時代、現在の桜木町やみなとみらい21地区、横浜駅周辺はすべて海でした。安政6 (1859 )年東海道と開港場をつなぐ横浜道が野毛の山を切リ開いて築かれ、戸部の高台には神奈川奉行所が設けられるなど戸部・野毛の丘は開港期の横浜の発展を担う日本人の拠点となりました。開港後、文明開化が急速に進む中、明治5 (1872)年には、日本初の鉄道が品川一横浜間で仮営業を開始します(本営業は新橋ー横浜間)。鉄道敷設にあたリ、現在の高島町、桜木町周辺の土地が埋め立てられました。輸入した鉄道資機材は横浜港で陸揚げされ、横浜から建設が進められました。その後、貿易の発展に合わせ港の機能充実を図るため、英国人技師のH. S. パーマーの計画をもとに、明治29 (1896)年には船舶錨地150万坪という欧米諸国に遜色ない港が完成しました。築港に並行し京浜有志ー同の発起によりドック建設計画が進められ、明治24( 1891 )年には工場予定地の埋立が許可され、横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)が設立されました。明治30 (1897)年第ニ号ドックが竣工し、本格的に船舶修繕事業が開始されます。横浜船渠会社は倉庫事業、造船事業とその規模を拡大し、関東大震災や戦災、高度経済成長期に至る激動の時代を越えていきます。昭和40 (1965)年、当時の飛鳥田市長が6大事業の一つとして、関内駅、横浜駅周辺のニつの都心をつなぐ新市街地を創る計画を発表します。地区の埋立は昭和53 (1978)年に始まり、それにともない、横浜造船所は昭和57 (1982)年に移転し、昭和62(1987)年には埋立地はほぼ現在の形となり、みなとみらい21地区となりました。」「西区埋立変遷図」。「安政6(1859)年頃」。「明治13 (1880)ー明治19 (1886)年頃」。「明治41(1908)年頃」。「昭和38(1963)年一昭和40(1965)年頃」。「平成20(2008)年頃の航空写真」。「伊能図(大日本沿海輿地全図第93図「武蔵・相模」)」。「温故知新のみち」とは安政6年の開港以来、横浜の成長と共に大きく変貌してきた西区のまち。立ち止まってよく見てみると、積み重ねられてきた様々な西区の魅力が見えてきます。「温故知新のみち」はそんな西区の歴史資源を楽しむことができる散策ルートです。横浜開港に尽力した偉人たち、みなとまちの発展を支えた地域、西区の歴史に思いをはせながら、少しゆっくり歩いてみてください。きっと新たな発見があリます。」現在地はここ。JR根岸線のガードに向かって進む。手前に単線線路があり、踏切となっていた。この単線路は横浜市内を走る「JR高島線」であると。通る列車はほとんどが貨物列車。湾岸を突っ切るこの短絡線があることで、東海道本線の横浜駅周辺の過密ダイヤを乱すこともなく、貨物列車が旅客ホームを通過する危険性が避けられている。たぶん私と同様に多くの方が知らないと思われる路線ながら、有効に活かされているのだと。この踏切の名前は「三菱ドック踏切」。このあたりには、かつて三菱重工業横浜工場が広がっていたと。この踏切名は、この工場内にあった造船用のドック名が付けられたもの。踏切の名前が、いまはなきドック名のままというのが、横浜らしくおもしろい。JR根岸線のガード下に案内板が姿をあらわした。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門」案内板。「横浜船渠会社(三菱重工業横浜造船所)正門かってこの付近には「ハマのドック」の名で親しまれた横浜船渠(せんきよ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)の正門があり、数多くの人がこの場所を行き来しました。貨物線の「みつびしどっく踏切」という踏切名称にその名残を見ることができます。みなとみらい21地区には横浜船渠会社の遺構として、日本丸メモリアルバーク(第一号ドック)、ドックヤードガーデン(第ニ号ドック)などが残されています。現在JR根岸線が走る上部の高架は、大正7 (1918)年にニ代目横浜駅(大正4 (1915)年に現高島町駅付近に建設)と桜木町駅(初代横浜駅)の間に建設されました。昭和7(1932)年には高架を海側に増築し、空いた山側の単線は東京横浜電鉄線(東横線の前身)になりました。昭和31(1956)年には、歩道の上に高架を張り出して東京横浜電鉄線が複線化し、現在の高架の形になりました。高架に沿って走る道路は国道16号です。ここには昭和45 (1970)年まで市電が走っており、近くには電停の花咲橋や雪見橋がありました。国道を渡って行くと、戦災復興期に埋め立てられた運河である桜川(現在、桜川新道)、そして横浜船渠会社で働いた多くの人たちが利用した商店街、料亭街として賑わった歴史のある岩亀横丁へとたどり着きます。」「横浜船渠会社全景(大正11年撮影)」。「横浜実測図 明治14(1881)年」「「温故知新のみち」とは上記に同じ。」引き返して、再び「三菱ドック踏切」を渡りながら、桜木町駅方面を見る。この先で高架に合流するのであろうか。この後「みなとみらい大通り」まで戻り、「けやき通り西」交差点まで進む。左手にあったのが名知富太郎作「無限(飛翔)」。名知富太郎氏は1924(大正13)年横浜市生まれ。 作家は、航空機のエンジニアをしていた時、光と動きが現代美術に欠けていることを意識し、ドイツに渡り制作活動に入りました。作品は、リヒト・キネティック(光と動きの彫刻)と呼ばれ、ステンレスの表面が光を反射することで、動きを意識しています。また、周囲の風景をも反射させることによって、実際の色よりも美しい色を出現させています。「みなとみらい21彫刻展ヨコハマビエンナーレ'86」受賞作品。その近くにあった彫刻作品。「愛の変容」工藤健 と。ステンレス・スチールで3.6m高の作品。工藤健氏は1937(昭和12)年秋田市生まれ。 手、胸、眼、胴体、どこまでが男のもので、どれが女のものか分かりますか? 作家は、アブストラクトやキュービズムの思考と技法をもとに、人の体を再構成することで新しい人体象を作り出しています。像のまわりをゆっくり廻って鑑賞して欲しい作品です と。名知富太郎作「無限(飛翔)」越しに「横浜銀行本店営業部」を見る。ランドマークプラザ1Fの中央通路を利用して次に訪ねたのが「旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック)」。「横浜ランドマークタワー」を見上げる。「第二号船渠(ドック)」に架かる橋から「第二号船渠(ドック)」の北東側を見る。右手巨大なギターがぶら下がっていた。「Hard Rock Cafe」の看板。その奥に見えたのはヨーヨー広場にあるモニュメント「モクモクワクワクヨコハマヨーヨー」。「渠」の文字を中央にデザインした社章入りの係留ロー プを巻き上げるキャプスタン。ロープやチェーンを巻き込むのに用いる巻取り装置(係船装置)の一つ。一般に船舶の船首や船尾部に設けられる。台座の上に垂直に立てた綱巻き胴(バレル)が、中心軸とともに回転するようになっている と。英国人技師パーマーの提言に基づき、明治22年設立の「横浜船渠会社」が建設した施設で、現存最古の民営石造乾船渠。石材は、真鶴・伊豆産の小松石を用いている。ランドマークタワーの建設にあわせて、保存改修を行い、イベントスペースとして活用されている。真鶴・伊豆産の小松石を用いた「第二号船渠(ドック)」の美しい石積みの横壁。写真右側には資材運搬用に使用した と推測されるスロープも見えた。復元された2号ドックと海を仕切る「船扉」の 内側を見る。再びビル3階分に相当する9mの深さの「第二号船渠(ドック)」の最奥を見る。「さくら通り」沿いに案内板が。「横浜船渠会社と検浜市」案内板。「横浜船渠会社と横浜市横浜は開港から明治期にかけて、生糸、茶、舶来品などを取リ扱う外国貿易により発展しました。明治5 (1872)年には日本初の鉄道開業により内陸への貨客輸送が増大すると、これを契機に横浜における外国貿易はさらに活発となり、横浜港はますます重要な港となりました。出入りする船舶は海面を埋めるほどに増加し、船舶を修理するドックが必要とされるようになりました。そこで地元横浜正金銀行頭取の原六郎をはじめ、原善三郎、茂木惣兵衛、大谷嘉兵衛や浅野総一郎東京の渋沢栄一、益田孝ら名士33名が協力して横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)を設立、本格的なドックを築造し、明治29 (1896)年より船舶修理業が開始されました。明治後期には潮入りドック(明治41 (1908)年完成)、第三号ドック(明治43 (1910)年完成)の増設により、横浜船渠会社は高い修理能力をもつ大工場へと発展しました。横浜船渠会社の設立が神奈川県から認可されたのは明治24 (1891)年ですが、その2年前の明治22 (1889)年、市制施行により横浜市が誕生しました。横浜船渠会社は横浜の発展を支えた地元実業家が設立に大きく関わったこともあり、横浜市と横浜船渠会社は発展を共にした兄弟のような関係とも言われます。それは横浜市の徽章「ハママーク」にドックの「D」を加えた、通称「ハマディー」と呼ばれる社章を横浜船渠会社が使用したことにも象徴されています。横浜船渠会社は横浜の近代工業発展を支えるとともに、「ハマのドック」の愛称でその後長きにわたって横浜市民に親しまれる存在となっていきました。」。「海から臨む横浜船渠会社の様子(明治期撮影)」。「横浜市平面図(明治41(1908)年)」「「温故知新のみち」とは上記に同じ」。現在地はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.16
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国道134号を葉山公園方向に向かって進み、次の目的地の「下山口 神明社」に向かってこの石段を上って行った。まずは「下山口 神明社」の西側にあった境内社?の「稲荷神社」へ。神明鳥居(しんめいとりい)の石鳥居には「令和二年七月 下山口神明社 建立」と朱字で。神明鳥居二本の円柱の上に円柱状の笠木をのせ、下に貫を入れた直線的な鳥居。覆堂 (おおいどう)?の中には朱の社殿が鎮座。その手前にお狐様。朱の社殿に近づいて。そして奥にあったのが「下山口 神明社」。三浦郡葉山町下山口1504。手水舎。右手にあった「社務所」。陶器製?の狛犬(右)。陶器製?の狛犬(左)。社殿。御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 向津比売命(むかつひめのみこと)「下山口 神明社」は森戸大明神宮司様の兼務社で、毎年8月第3日曜日に例祭と神楽の奉仕が行われていると。社殿に近づいて。「社殿」の左側に2つの社が。右手は「御札預り所」。この社の扁額は「恵比寿天」と。格子の隙間から内陣を見る。こちらは神輿庫か?振り返ると、国道134号沿いに石仏の姿が。石仏の手前に案内柱が立っていた。「葉山町指定重要文化財 建造物 神明社の庚申塔」と。歴史を感じさせる4基の庚申塔が並んでいた。一番右の大きな庚申塔。駒型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿 ニ鶏。この時は、逆光であったので、はっきり解かる写真をネットから。造立年号(塔に刻まれている年月日) 天明元辛丑11月吉日(1781年)碑型、石質、其の他 角柱駒型、安山岩、四基群の内向って右端。大きさ及破損度 高さ172cm(台石を含まず)。幅76cm。破損無し。刻像 一面六臂人身を吊す青面金剛と、日月、二鶏、三猿、邪鬼。青面金剛は中央右手に剣を持ち、 左手はシヨケラと称する人身の頭髪を掴んで吊す。他は法輪、槍、弓、矢を持つ。 兜に蛇を巻き邪鬼の背に乗る。猿は向って右から見ざる、聴かざる、言わざるで、 左右の猿は中央に向き合っている。銘文 正面向って右に年号、同左に「願主当村五組講中」とある。塔の特徴 この塔は葉山町で一番大きい。又蛇頭の青面金剛はこの塔だけである。 かがんだ邪鬼は肉体美の出た優しい姿になっているのは面白い。三猿の左右の猿は、 中央に向き合っているが朗かに見える とこれもネットから。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿。正面に「濱里中」、右側面 「宝暦四甲戌九月吉日」(1754)。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿右側面 「安政七庚申二月吉日」(1860)唐破風笠付角柱型 青面金剛立像 三猿(三面)。斜めから。背面 不言猿。右側面 不聞猿右側 「當村惣子中」 左側 「奉造立三王廿一社」。左側面 一猿右側 「元禄十二年」と。「氏子会館 災害避難場所 葉山町」案内板。こちらが国道134号からの「下山口 神明社」への参道への石段であった、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.14
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我が養蜂場にもスズメバチが到来する季節となりました。先日の内検時も黄色スズメバチが何匹か到来していたのでこれを捕獲したことは先日のブログで報告しました。そして内検終了後、4群の巣箱の巣門には捕獲器を設置しましたが、2群分足りないので通販で申し込んだモノが一昨日到着しました。捕獲器の上部にはスリバチ状のトラップが3個あり、スズメバチが我がミツバチをくわえて帰るときに、スズメバチが上に上にと舞い上がる習性を利用して、このトラップを通過させ捕らえるのです。 このトラップを横から見た写真。スリバチを逆さにした形。オオスズメバチはこのスリバチ状のトンネルを下から上へ向かうのです。このトラップを上から見た写真です。スズメバチはこの上部が絞られた穴を通過すると、逆方向には戻れないのだとのこと。そして捕らえたスズメバチは、この上部の籠の横に付いている取り出し用スライド板を開き割り箸等で摘んで取り出すのです。前面には7mm程度の開口の金網が取り付けられており、我が働き蜂はこの網を通過出来ますが、スズメバチは体が大きいのでこの網を通過できないのです。早速養蜂場に持ち込み残っていた巣箱の巣門に取り付けました。ブロックと板にて高さを調整しました。 そして4群用のオオスズメバチトラップ。捕獲の仕掛けは全く同じですがこちらは金網ではなく、細い針金で働き蜂の通路を確保しています。今年は夏が暑かった為か、オオスズメバチの到来は未だ殆ど見かけませんがその内に到来することは間違いないでしょう。 日本には7種類ほどのスズメバチがいますが、その中で最も大きな種類がこのオオスズメバチ。体長は約3センチから5センチ近くもあります。主に地中に巣を作って、女王バチを中心に社会生活をしています。エサは、西洋ミツバチ、アシナガバチなどのハチやその他の昆虫。捕まえると肉団子にして巣に持ち帰るのです。そしてオオスズメバチが「日本で最も危険な野生生物」とさえいわれるのは、毎年何人もの人が、このハチに刺されて死亡しているからなのです。スズメバチの仲間は人間の生活域内またはそのすぐ近くに生息しているため、普通の人が被害に合う確立が高いのです。最も恐れられている毒蛇ハブや、実態以上に怖がられている熊よりも、危険性は上かもしれないとインターネットHPに書かれていました。これからの時期はオオスズメバチに十分注意しながら、養蜂そして農作業を楽しみたいと思っているのです。
2012.09.13
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先週の山の日・11日の早朝に座間市にあるひまわり畑に行って来ました。いつものように旅友のSさん宅に6:30に到着。Sさんの愛車でひまわり畑会場に。 県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の「水と緑と風広場」の駐車場に車を駐めひまわり畑会場に。春にはこの付近の相模川の東岸の堤防に幅6m、全長約1.4kmに渡って芝桜が植えられた“芝ざくらライン”を楽しめる場所なのです。相模川堤防からのひまわり畑。平成6年から遊休農地の荒廃対策として始められた座間市の花「ひまわり」が各会場で咲き誇り、ここ座間会場では45万本の「ひまわり」が楽しめると前日のNHKニュースで知ったのです。 1~1.5m高さのひまわりが咲き誇っていました。 1994年(平成6年)には「かながわの花の名所100選」にも選ばれているとのこと。 ひまわりの孫のような宿根草のルドベキア・タカオも畑の畦道端で負けじと開花中。花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成しているのです。これは、キク科の植物に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶことも。 仮設の展望台も設置されていました。 展望台からの見事な黄色の海。 ひまわり(向日葵)の名前の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことから。ただしこの動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけであると。若いヒマワリの茎の上部の葉は太陽に正対になるように動き、朝には東を向いていたのが夕方には西を向く。日没後はまもなく起きあがり、夜明け前にはふたたび東に向く。この運動はつぼみを付ける頃まで続くが、つぼみが大きくなり花が開く頃には生長が止まるため動かなくなるのだと。 ひまわり畑の中には1m幅ほどの見学通路も設けられていた。そしてその入口には「2017 Welcom to ZAMA」 と書かれたゲートが。「ひまわりのまち 座間 55万本」 のプレート。ひまわり畑は市内各地にあり、時期を変えて種まきを行っていると。見頃は、7月下旬には栗原会場(約10万本)、8月中旬にはここ座間会場(45万本)、2ヶ所合計55万本を楽しめるのだと。小田急線「相武台前駅」より座間会場までシャトルバス運行されていると。 カメラに三脚を付け、持ち上げてリモコンシャッターで撮影してみました。 「座間市ひまわりまつり」開催期間中は栗原・座間の両会場で切り花、農産物、特産品の販売を実施していると。 しかしこの日は早朝で開店前。休憩場も準備中。 一斉に背中を向けているひまわり畑。 ムクゲ(木槿)の花も。 仮設展望台下にはひまわりをあしらった各種の帽子が記念撮影用にぶら下がっていました。 帽子を借りて。 全て我々の方を向いてくれていました。 「座間なう。」 SNSやインスタグラムを意識した看板。ウェディングドレスを着て記念撮影するカップルの姿も。モデルによる撮影? 先日の台風の影響で、一部のひまわりが被害を受けていました。 フウセンカズラ(風船葛)。小さな白い花を付けていました。 ボタンクサギ。 約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。 座架依橋(ざかえばし)の下で交通整理の係員も準備中。 座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。「座間市座間(ざま)と厚木市依知(えち)を架(か)ける」ので座架依橋と。こちらは「座間市大凧」の光景が描かれていた。 相模川と圏央厚木IC。 駐車場前の相模川堤防から再び東に向くひまわりを撮影。 帰路の車窓から「ガマの穂」 。私たち日本人にとって「ひまわり」とは夏の風物詩として有名な花という認識がありますが、実をいうとひまわりは日本には元々存在しない花なのです。また、ひまわりという花は一見すると大きな一輪の花に見えますが、実は形状や機能が異なる「2種類」の花(外側の舌状花(ぜつじょうか)一枚一枚と中心部分のひとつひとつの筒状花(とうじょうか))がたくさん集まって大きなひとつの花を形成しているのです。ひまわりの色は鮮やかな黄色というイメージが強いですが、最近では黄色以外にもレモン色やオレンジ色など多種多様なカラーのひまわりも花屋などで販売されるようになって来ているのです。さて、ここのひまわりはひまわりまつり終了後はどの様になるのでしょうか?「ひまわり油」を採取するのでしょうか?気になりながら自宅への帰路を。
2017.08.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次許禰神社の角にあった『長命寺・笹田源吾供養塔』まで80mと。「戦国時代、袋井市域は徳川家康と武田勝頼の合戦の場となりました。天正6(1578)年頃には徳川方が優勢となり、遠江の武田方の城は大東町の高天神城だけとなりました。武田方は徳川方の情勢を探るため、高天神城にいた笹田源吾(篠田源五)を偵察に出しました。8月10日夜、木原村まで来ているところを徳川方に味方する木原村の住人太郎兵衛らが加わり、これを討ち取りました。徳川家康はこの手柄をたいへん喜びました。その後、平和な時代となりましたが、村には疫病や災害などの悪いことが続き、太郎兵衛にも不幸がありました。これらの災難は笹田源吾や武田と徳川の戦いにより戦没した人々の悪霊の祟りだという噂がおこり、これらの人々の悪霊を鎮めるために、地蔵が建てられました。この地蔵は現在でも丸野家の子孫の方々によって四百年間大切に祭られています。」更に旧東海道を進むと右手の水路の上にあったのが袋井市指定無形民族文化財『木原大念仏』案内板。「「木原大念仏」は 静岡県西部(遠州地方)の各地に残る「遠州大念仏」の一つ。武田信玄と徳川家康が戦った“三方ヶ原の戦い”の犠牲者を供養する目的で始まった念仏踊りで現在は宗教色は薄れて娯楽性の強い行事となっている。現在各地に70ほどの“組”があり、8月のお盆の時期に新盆の家々をめぐり, 横笛や太鼓などに合わせて念仏を唱えながら踊り死者の霊を弔う。」横には夢舞台東海道『木原』道標が。見付宿坂まで一里二町・4.1km。県道413号線合流地点手前まで進む。左手に案内板が姿を現す。『木原』「木原は 元亀三(一五七ニ)年に武田信玄 が徳川家康 を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地としてしられています。また 武田勝頼 軍の斥候(せっこう)笹田源吾 に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。地区内には 原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(武内許禰(こね)神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔 徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています。」県道413号線に戻り進むと狭い水路の上で袋井市から磐田市にはいる。これが灌漑用?水路。この付近は田園地帯が拡がっていた。磐田市中心街に向かって進む。磐田市の汚水マンホールの蓋。デザインは、磐田市岩井にある桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボ。この蓋はここから「磐田駅南」交差点方向に何枚もあったが、羽の黄色のエポキシ?が抜けてしまっているものが多かった。酉島交差点の先、右側にあったのが『曹洞宗 廣福山 全海寺』。『廣福山 全海寺下馬地蔵』。「当山は天文十一年(1542年)家康公の父広忠が曹洞宗天龍院末寺として草創開山する。」『六地蔵尊』。『手水舎』。『本堂』。扁額には『全海禅寺』と。本堂の横の御堂は改修工事中。太田川に向かって進む。そして太田川、橋の名は三ヶ野橋(みかのばし)。右の橋は現国道1号線、太田川橋。国道1号線の横には菜の花畑が拡がっていた。菜の花畑の中で写真を撮るカップルの姿が。訪ねたかったが、時間の関係で諦める。三ヶ野橋を渡り左折し旧東海道を進む。『旧東海道松並木』「東海道 は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化そ、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ケ野地内までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。 おねがい 交通規則を守って、自己防止にご協力下さい。」夢舞台東海道『三ヶ野』道標。その先が『鎌倉時代の古道』。この場所にはいくつもの道筋が穿かれ、磐田(見付)へとつづいていた。その道筋も旧東海道が整備される以前の鎌倉古道を始め、江戸時代の古道、明治の道、大正時代の道、更には「質道」、そして昭和の道、平成の道と全部で7本の道が集中していることから「三ヶ野七つ道(みかのざかななつどう)」と呼ばれているのだと。『明治の道(緑のトンネル)』碑。進んで行くと急な坂が始まった。これが『大日堂・三ヶ野七つ道』の始まり。この三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。さらに上り坂を登って行った。すると突然坂道の左側にかなりの急勾配の坂道の入口が現れた。ここが江戸古道の入口。坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だったとのこと。見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると。『三箇野 車井戸之跡』そして左には『明治の道』。昔、この辺りは水に困っており、その醫王寺によって滑車で汲み上げる井戸が掘られ、車井戸と呼ばれたと。磐田市三ケ野台の住宅街を進む。右手に『三ヶ野立場跡』。峠の茶屋の前の庭、野鳥と思いレンズを向けたが・・・・。旧東海道を左に折れ『二子塚古墳』を訪ねた。5世紀後半に造られた前方後円墳で、三ケ野台地にあり、出土品は馬形埴輪・人物埴輪で埴輪と実物がセットで発見された珍しい例だそうで、銅鏡も見つかっていると。しかし、説明書き等はみつからなかった。左手に進むと『緑ヶ丘霊園』、『善導寺』へ。『従是西見付宿』。説明用の地図も。江戸時代分間絵図に画かれた街道、榜示杭も画かれていた。『榜示杭とは!』。「榜示杭は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。 ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。 文化三年〈千八百六〉に発行された東海道分間延絵図〈おおくぼ〉に【御料榜示杭】の表示があり、その下に境界を表す記号赤丸印があります。」現在の街道の様子。『旧東海道 行人坂』。『「行人坂」のいわれ』行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・意訳しますと『ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂 と言うようになった。この資料は井原西鶴 が晩年に執筆し、元禄の初めに発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂 は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。」『行人坂』の登り終わると旧東海道は県道413号線に合流した。磐田市富士見町にある歩道橋を渡り道路の反対側に向かう。歩道橋から桜の咲く小さな丘が目の前に。ここが『「鈴ヶ森の刑場跡(三本松刑場跡)』らしいが・・・・。この刑場を有名にしたのは、あの大盗賊である日本左衛門の首がここで晒されたこと。遠州金谷の生れで美濃から相模の八か国で、五十人~六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊でしたが、江戸の火付盗賊改方に捕えられて、江戸で斬首されこの地に運ばれ晒し首になったといいます。遠州の鈴ヶ森という名前がついている刑場跡ですが、江戸の品川宿のはずれにも鈴ヶ森刑場があり以前訪ねた。どちらが先に鈴ヶ森という名前を使ったかというと、江戸の品川の鈴ヶ森と。江戸の鈴ヶ森刑場が設けられたのは、あの慶安の乱(由比正雪の乱)が起こった慶安4年(1651)に共謀者である丸橋忠弥を処刑するために設けられたのが江戸の鈴ヶ森の始まり。ということは日本左衛門が活躍したのが延享の時代ですから、慶安の乱からおよそ100年後のこと。おそらく遠州鈴ヶ森という名は、江戸の刑場を代表する鈴ヶ森の名前を拝借したのではと。しかしこんな立て札が立っていた。「此処は刑場跡ではない。見附形状跡は、昭和三十一年(1956)国道一号線改良工事により道路傍下に埋没された。此処は、見付府内に刑場が在った事を記すため、史跡碑建立の場として所有者玄妙寺が管理しているものである。 見付 本立山妙源寺」。 その7 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」の散策を続ける。「1st ふじさわ都市デザイン賞 景観部門 1991.3」。「かながわの花の名所100選海浜自然生態園及び辻堂海岸 ハマヒルガオ平成7年3月神京川県定」。「奨励賞 第37回神奈川建築コンクール」。「二十一世紀に引き継ぎたい「日本の白砂青松100選」湘南海岸昭和六十二年一月十日に「社団法人 日本の松の緑を守る会」。「湘南港 今昔」。「湘南港 今昔湘南港は、相模湾北東部にある「県指定史跡名勝、江の島」の東側に位置し、島の北方約400mの対岸は片瀬東浜海水浴場としてその名を知られています。昭和30年までは小型漁船数隻の船泊まりでしたが、海岸浸食対策として防波堤工事の実施に併せて、この防波堤を利用した2000t級観光船を対象とする観光港が計画されました。その後、昭和39年の東京オリンピックでは、ヨット競技のメインハーバーとして事業費約24億円を費やし、現在の湘南港が完成しました。」「東京オリンピック当時の湘南港」。東京オリンピックのヨットレースの写真。「=これからの湘南港=余暇時間の増大、アウトドア活動の多様化など、海洋性レクリエーションの受け皿として、マリーナ整備への要請が一段と高まってきています。そこで、ヨットの保管隻数の拡大と人々が気軽に訪れることができる開かれたマリーナをめざして、平成3年から湘南港の再整備を進めています。この湘南港は平成10年の「かながわ・ゆめ国体」のヨット競技会場として、また、大規模地震災害時の緊急物資輸送拠点として、今後ますます重要な役割が期待されています。」「現在の湘南港」。円形の「シアター」の外の周遊通路を歩く。前方にも案内板が。「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン湘南なぎさプランの対象地域は、江の島から大磯に至る約19kmです。この湘南海岸の各地域を分析し、特色ある6拠点を設定しています。 (1) 江の島・片瀬・鵠沼海岸地区 (2) 辻堂・菱沼海岸地区 (3) 茅ヶ崎中海岸地区 (4) 相模川河口周辺地区 (5) 平塚海岸地区 (6) 大磯地区この拠点地域を集中的に整備・保全することにより、周辺の地域へ面的波及をはかります。湘南なぎさプランの具体的な推進は、各事業のスケジュールなどを明確にした「湘南なぎさプラン実現プログラム」に基づき、国、県、市町、民間が各種事業の整合を図りながら、総合的に行っています・行政と民間が一体となり事業を進めていくために「湘南なぎさプラン推進協議会」を設置し、行政と地元関係者との連携をとりながら、合理的かつ効果的なプランの推進を図っています。」「湘南なぎさプラン」。「湘南なぎさプラン豊かなみどりと美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい海岸文化ゾーン・湘南。「湘南なぎさプラン」は、緑、海岸、交通、漁業など様々な問題を抱える湘南海岸地域について、21世紀を展望する長期的かつ総合的プランとして、昭和60年7月、「湘南なぎさサミット」において、神奈川県、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、大磯町及び県民の共同作品として確認されました。このプランは、自然環境の保全を基調としつつ、居住環境の整備とリゾートゾーンの整備という目標を持っています。今ある自然を良好な形で子や孫に伝えながら、様々な課題を解決していくという基本的な考え方により、いろいろな事業を進めています。県民の皆様のご理解とご協力により、「湘南なぎさプラン」を推進し、豊かな緑と美しいなぎさが生かされた快適ですごしやすい湘南海岸地域を創造していこうとするものです。」「湘南なぎさプランシンボルマーク色彩により、自然の空と海と陸を表し、さらに、水玉が3つ、順次大きくなることにより、湘南が未来に向かって躍進することを象徴しています。」「湘南海岸」。円形構造の「150インチ大画面シアター」。子供たちの校外学習で使用されている。「宇宙飛行士展示コーナー」として令和3年3月まで使用されていたのだと。当時は「茅ヶ崎市は、土井宇宙飛行士、野口宇宙飛行士という2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士を輩出しています。次代を担う子どもたちをはじめ、多くの市民の皆さんに宇宙に関する夢を育んでもらい、土井さんや野口さんに続く人が育ってくれることを願い宇宙飛行士展示コーナーを開設しました。2人の茅ヶ崎ゆかりの宇宙飛行士に関する貴重な資料や、宇宙航空研究開発機構(JAXA)提供の様々な資料を展示しています。シアターでは150インチの大画面で「STS-114ミッション」「きぼうの、その先へ~1Jミッション」「野口宇宙飛行士第22・23次長期滞在」ほかを上映しています。定期的に展示内容を更新しています。水圧で動くロボットアームやコスモキューブでも遊ぶことができます。」と。「海のフラッグ1990(平成2)年、人と海のかかわり方を試みながら21世紀に向けた新しい生活・文化づくりをさぐる海の総合イベント「サーフ '90」が開催されました。イベントの一環として新しい「海の時代」にふさわしい「大漁旗」が、粟津潔、浅葉克己、池田満寿夫、岡本太郎、斎藤寿一、日比野克彦、福田繁雄、柳原良平、U.G.サトー、渡辺豊重の各氏により制作され、また、子供たちによる一般公募から配島美穂さん(当時小学校1年生)の作品が大賞に選ばれ、同じく「大漁旗」として制作されました。」壁にかかっていた「大漁旗」。魚が渦を巻いて。福田繁雄さんの「サーフ '90」の作品。2番目の「TSUNAMI」コーナーの前にあった「神奈川県津波浸水予測図の見方」。①南関東地震現在の県・市町の長期における防災目標とする想定地震であり、海岸保全における津波防御目標です。今後50年問の発生確率: 0 ~ 5 % 発生問隔: 200 ~ 400年②神奈川県西部地震現在の地域防災計画で切迫性が指摘され津波被害についても想定される地震です。また海岸保全における津波防御目標です。今後50年間の発生確率:評価なし 発生間隔: 70年間隔③神縄・国府津ー松田断層地震小田原における歴史地震(過去の地震)との関連性について現在議論されつつある地震です。今後50年問の発生確率: 0.4 ~ 30 %発生間隔: 800 ~ 1,300年④元禄型関東地震過去、実際に発生した地震であり、想定地震の中で最大の津波被害を起こすことが予想されることから、沿岸到達図および浸水予測図を作成しました。今後50年間の発生確率: 0.0 % 発生間隔: 2,300年」藤沢市沿岸の「津波浸水予想図〔南関東地震〕」「江の島周辺」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 相模トラフ沿いの海溝型地震(西側モデル)」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。藤沢市沿岸の「津波浸水予想図 元禄関東地震タイプ」。濃い赤が5.0m~10.0mの浸水深さ。「江の島周辺の浸水深さ」。「新聞記事 スマトラ沖地震の津波被害2004年12月27日 朝日新聞 夕刊」。2004年12月26日午前7時58分(日本時間午前9時58分),インドネシア共和国スマトラ島アチェ州沖でM9.0と推定される海溝型巨大地震が発生したのであった。「津波、1000キロ以上渡る」と。津波がインドネシア、タイ、インド、スリランカをはじめインド洋沿岸に甚大な被害を及ぼした。この津波は5000km以上離れたアフリカ沿岸にも被害を及ぼし、南極の昭和基地でも水位変動が観測されたのだ。「海岸ごみ(海藻は除く)は川から7割」。川からのごみ「人工系」20%:河川から来たビン・カン・ペットボトル・プラスチック製品等の 人工系のごみ海洋発生ごみ3%:放置ゴミ 31%:海岸に来た人が直接海岸に捨てたごみ「自然系」46%様々な「人工系」のごみが展示されていた。「ゾウ×575毎年集める海岸ごみの量は2300トン。なんとゾウ575頭分の重さに匹敵します。みんなの海のために、あなたができること。目分のごみ。持ちろう。」「防砂林・湘南海岸を襲った災害・・・」第2室戸台風(昭和36年)~平成19年台風9号までの台風による砂防林の被害が説明されていた。● 第2室戸台風(昭和36年) 砂防柵が倒れ、残った苗も塩を浴び、砂を被ってしまいました。● 昭和40・41年の台風 潮害でマツの葉が全面的に赤く枯れてしまいました。● 昭和54年 台風20号 各所で防風ネットが倒壊苗が砂を被り、サイクリングロードが高波で崩落しま した。● 平成19年 台風9号 高波でサイクリングロードが崩落しましたが、砂防林には大きな被害はありま せんでした。「なぜ 国道134号の横には木がたくさん生えているの?~湘南海岸砂防林の概要~砂防林の役割神奈川県の湘南海岸では、毎年10月~ 5月頃にかけて、低気圧の通過後など、強い南西風が吹き荒れ、潮風や飛砂で、海岸地域の住宅や道路に多くの被害をもたらしています。湘南海岸砂防林は、こうした災害から暮らしを守るために育てている林です。かっては現在の国道134号が砂で埋まるほどの被害が発生していましたが、現在では、一年を通じて飛砂による通行止めはありません。砂浜の厳しい環境のなか、大きく成長した砂防林は、開発が進んだ沿岸地域において白砂青松の美しい景観に寄与する貴重な緑となっており、さらには炭酸ガスの吸収、騷音軽減、大災害時の火災延焼防止、津波被害の軽減など多様な働きが期待されています。砂防林の歴史昭和3年 昭和天皇の即位記念事業の一環として砂防林の造成に着手昭和16年~ 戦時中の松根油採取のための抜根や、終戦時の極度の燃料不足によるクロマツの 盗伐などで砂防林は荒廃した。昭和21年~ 砂防林の復旧に着手。戦後の砂防林の荒廃は、国道134号に飛砂による通行障害を もたらし、周辺の土地利用にも支障を及ほすなど影轡が大きかった。昭和36年~ 度重なる気象被害で砂防林は全面的に衰退し、地域一帯に飛砂や潮風による被害が 及んだ。相次ぐ被害を受け相次ぐ被害を受け、農林水産省、県林業試験場、 東京大学芝本農学博士らに造林、保護、育成について指導を仰ぎマツの他にトベラ、 マサキを混植、全国で初めて防風ネットを設置し3度目の砂防林整備を実施。昭和58年~ 長期的により安定した砂防林を目ざし、クロマツのほか、常緑広葉樹の混交密植に よる多層林化を目ざし、横浜国立大学宮脇教授の指導のもと、スダジイ、タブノキ、 ウバメガシ等の試験植栽を行う。※これまでに沿岸地域は開発が進み、良好に生育した砂防林は貴重なみどりとして、なぎさを 彩っています。強い砂防林をめざして 砂防林は、クロマツのほかに、十数種類の常緑広葉樹を混交させ、諸害に強い森 林を育成しています。また、防風ネット、砂防柵などの構造物と、砂浜で飛砂を 防ぐ砂草などが一体となって飛砂が道路や住宅に及ばないよう防いでいます。」「--海辺で見られる植物--」「かながわ公園マップ」。「緑の相談所 花情報《冬場の室内植物の管理》」「藤沢土木事務所 汐見台庁舎」案内。「なぎさギャラリー」の入口方向を見る。「こんな海にしたい こんな町にしたい」茅ヶ崎市立 汐見台小学校 2年生 の作品と。奥の方向を振り返って。奥正面に旧・原安三郎氏別荘「松籟荘」の85%に縮小復元された別荘玄関が見えた。通路の壁には多くの絵画も展示されていた。そして入口付近にあった「休憩場」しかし立入禁止、ソファーには使用禁止のテープが。TSUNAMI、「湘南なぎさプラン」の活動、松籟荘の歴史等、多くを学び「藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.01
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不思議なふるまいを見せる6桁の数字があります。「142857」という何気ない自然数が、単純なかけ算で、面白い現象を見せてくれるのです。■142857に、1、2、3、4、5、6を順にかけてみます。142857 × 1 = 142857142857 × 2 = 285714142857 × 3 = 428571142857 × 4 = 571428142857 × 5 = 714285142857 × 6 = 857142この計算で、どのようなことが起こっているでしょうか。それぞれの積には1、4、2、8、5、7の6つの数字しか出て来ないのです。かけ算をする順序を変えて、142857 × 1 = 142857 142857 × 3 = 428571 142857 × 2 = 285714 142857 × 6 = 857142 142857 × 4 = 571428 142857 × 5 = 714285掛け算の結果の数値は1、4、2、8、5、7の6つの数字が、上の如くに、数字がどんどん右下にずれていっているのがわかります、これを「巡回数」👈リンクと呼びます。■そして142857 × 7 = 999999 になります。8倍以上では崩れてしまうように思えるが、先頭の数を移動して末尾(一の位)に加えると保たれる。142857 × 8 = 1142856 → 先頭の1を末尾の6に加える → 142857142857 × 9 = 1285713 → 先頭の1を末尾の3に加える → 285714142857 × 10 = 1428570 → 先頭の1を末尾の0に加える → 428571142857 × 11 = 1571427 → 先頭の1を末尾の7に加える → 571428142857 × 12 = 1714284 → 先頭の1を末尾の4に加える → 714285142857 × 13 = 1857141 → 先頭の1を末尾の1に加える → 857142142857 × 14 = 1999998 → 先頭の1を末尾の8に加える → 999999142857 × 15 = 2142855 → 先頭の2を末尾の5に加える → 142857142857 × 16 = 2285712 → 先頭の2を末尾の2に加える → 285714となる。このように、一番左の桁の数を一番右の桁の数に加えるという操作を行うと、また 142857 の順序が現れる。これは、より大きい数でも成り立つ。142857 × 71 = 10142847 → 左2桁の 10 を残りの 142847 に加える → 142857142857 × 52989018 = 7569852144426 → 右から6桁ずつ 7、569852、144426 と 区切ってそれぞれを足す → 714285■142857には、さらに不思議な性質が。こんどは、142857を142と857に2等分して足してみましょう。142 + 857 = 999 と答えに9が並びます。285 + 714 = 999428 + 571 = 999571 + 428 = 999714 + 285 = 999857 + 142 = 999と、すべて和が 999 になっています。■こんどは、142857を14と28と57に3等分して足してみましょう。14 + 28 + 57 = 99 と和に9が並びます。さらに、142857を1、4、2、8、5、7に6等分して足してみましょう。9になるでしょうか。1 + 4 + 2 + 8 + 5 + 7 = 27となって、残念ながら9にはなりません。自然数を6個も足すのですから、9にならないのは自然なことかもしれません。しかし、この足し算をもう1回繰り返し、27の各位の数を足すと、2 + 7 = 9となります。142857の6等分も9に関係しています。■1/7を小数で表すと、1/7 = 0.142857142857142857…となり、142857 が繰り返し現れます。このように、同じ数字が繰り返し現れる小数を循環小数と言います。1/7 を小数で表す計算から、3/7 = 0.428571428571… = 428571/999999このことを用いると、142857 を3倍すると 428571 になる理由は、次のように説明できます。3/7 = 1/7×3 0.428571428571… = 0.142857142857…×3 428571/999999 =142857/999999×3 428571 = 142857×3 142857 の本質は1/7の循環する部分だったのです。■142857と自然数÷71÷7= 0.14285714285714・・・2÷7 = 0.28571428571428・・・3÷7 = O. 42857142857142・・・4÷7 = O. 57142857142857・・・5÷7 = 0.7142857142857・・・6÷7 = 0.85714285714285・・・7÷7 = 18÷7 = 1 . 142857142857■14287の2乗142857^2=20408122449(【^】これは「キャレット」または「ハット」という記号で【^2】は2乗を表す)最初に0を付けて桁数を合わせ2分割して加算すると020408+122449=142857 さらに2分割して加算すると999このように「2乗した数の前の部分と後ろの部分を分けて和を取ったとき、元の値に等しくなる」ような数のことも“カプレカ数”と呼びます。例えば、297 は“カプレカ数”である。297^2 = 88209 であり、これを上位の2桁 88 と下位の3桁 209 とに分けて足すと 88 + 209 = 297 となる。 この定義でのカプレカー数を小さな順に並べると、下記の如し1, 9, 45, 55, 99, 297, 703, 999, 2223, 2728, 4879, 4950, 5050, 5292, …■まとめ“142857”に1~6までの数を掛けると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”に7を掛けると、答えは999999となる1~6までの数を7で割ると、それらの答えは”142857″の循環になっている“142857”は色々な方法で連続した9を作り出すことができる ・・・END・・・
2023.07.20
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次に訪ねたのが県道209号線・観音崎通りの向かいにあった「浄土真宗 東教山乗誓寺(じょうせいじ)」。横須賀市東浦賀1丁目20−10。寺号標石「浄土真宗 東教山 乗誓寺」。「浄誓寺 寺域案内 江戸豪商墓地他案内図」。「掲示板」には、「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」が。「乗誓寺 曽我兄弟 由緒乗誓寺の開基は、了源(曽我十郎の子、河津三郎信之)。この了源は、藤原鎌足を祖とし、第十八代の末裔で、父は曽我十郎祐成、母は大磯の虎御前である。鎌倉時代、源実朝に仕え。多くの武功により恩賞として相模国平塚の地を賜り、親鸞聖人が関東教化の折、その教えに帰依し出家、了源と称し、鎌倉時代(安貞元年 一ニニ七年)平塚に阿弥陀寺を建立、親彎聖人真筆十字名号を本尊とした。この本尊は親鸞聖人の直弟子であった真仏(京都本山・仏光寺)に下附された貴重な本尊で浄誓寺に現存する。その後、室時時代(寛正六年、一四六五年)、近江(滋賀)に土一揆の争いが起こり、比叡山衆徒により大谷本願寺が破却され、越中、越前、加賀、山科、摂津、紀伊などで一向一揆が勃発した。この為に当寺の相模(平塚)の阿弥陀寺の住職空浄は、碩学(有名な学者)の誉高かったため、比叡山の衆徒に攻め入られるとの報を聞き、本尊を奉じ、平塚を逃れ、室町時代(文明元年 一四六九年)に浦賀の地に移った。その当時の浦賀は、人家もまばらてあっが、一向一揆て共に戦った全国の人々が住職・空浄を慕って浦賀の地を訪れ、特に紀州・鷺森本願寺などの門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し、江戸時代には賑わ町となった。その後、寛永十四年( 一六三七年)に西本願寺第十三代良如上人は、一向一揆て活躍したその当時の住職・空浄の功績をたたえ、この浦賀の地を訪れ、「阿弥陀寺」を改め、「東京山 乗誓寺」とう寺号を授kけた。さらに、江戸時代後期の浦賀は、浦賀奉行所をはじめ、黒船ペリー来航、咸臨丸のアメリカ渡航等、全国的に有名な地となり各地から人々が訪れた。江戸の文化を伝えたのは、乗誓寺が中心となり、政冶、経済、教育、芸術等、多くの著名人を招き、浦賀の人々の学問所として貢献した。当時の乗誓寺は、十間四面の本堂、山門、庫裡、郷学校舎、宝物殿、茶室、鐘楼堂、奥の院(阿弥陀仏)山頂水屋、日本庭園等が寺域内に存在した。尚、浄誓寺の住職は世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫である。」境内の石段・スロープを上って行った。正面に巨大な本堂が現れた。右手には石碑や案内板が。「横須賀市指定重要文化財絹本著色阿弥陀如来像」案内板。「絹本著色阿弥陀如来像」。「横須賀市指定重要文化財 絹本著色阿弥陀如来像 平成十六年一月二十六日指定本画像は浄土真宗形式の阿弥陀如来画像で方便法身尊像と通称されるものです。画面は少々損耗していますが、像容に大きな改変の形跡は無く、はぼ当初の姿を伝えています。肉身には金泥を塗り、面貎、手足の輸郭を細線で丁寧に描き、その画技は秀逸です。また、衣の線や文様に銀泥を用いているのは本画像の特色で落ち着いた趣に仕上がっています。画風から室町時代初期の制作と推測され、浄土真宗形式による阿弥陀如来画像の早い時期の作例として注目されるとともに、横須賀市域に遺るところの少ない中世絵画としても貴重です。 横須賀市教育委員会」上:「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」と下:東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺」「東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺当山の開基は、平塚入道了源なり。了源は、藤原鎌足十八代の裔、曽我兄弟十郎祐成の子。母は大磯の虎御前なり。河津三郎信之と称す。信之は、源実朝に仕えて、武功多く恩賞として平塚の庄を賜り、積年の仇敵に感ずるところありて、親鸞聖人の教えを受けて出家し、了源と名乗り、安貞元年(西暦一二二七年)平塚に一宇を建て、阿弥陀寺と称し、親鸞聖人真筆の十字尊号を以って本尊とす。歴代相続後、文明元年(西暦一四六九年)比叡山の京都西本願寺の破却を知り、当時住職の空浄は平塚をのがれ、当地東浦賀に一宇を建て、阿弥陀寺の本尊を移す。元和元年(西暦一六一五年)空覚代に再興す。寛永十四年(西暦一六三七年)良如上人御巡教の折、東教山乗誓寺と賜る。大正十二年、関東大震災により、大本堂、庫裏、鐘楼堂等倒壊しも、昭和五十年本堂を再建、同五十九年庫裏、鐘楼堂を建之す。今や、ここに堂宇漸く整うに至り之を建て報恩感謝とす。尚 当時の歴代住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫なり。 昭和六十三年 春 東教山 阿弥陀院 乗誓寺相模国 阿弥陀寺開祖平塚入道了源より 第二十四代 浦賀乗誓寺より 第十七世住職 曽我宗允 乗誓寺 寺宝」ここにも、掲示板内と同じ「乗誓寺 曽我兄弟 由緒 乗誓寺第二十七代住職 曽我宗光」が。「東教山 乗誓寺 浄土宗本願寺派 本山 京都西本願寺曽我兄弟 ゆかりの寺」「曽我兄弟・虎御前の墓~箱根」をネットから。「乗誓寺の歴史と主な宝物」。「親鸞聖人御絵伝(桃山、江戸時代)」をネットから。「一向一揆、蓮悟書状(室町時代)」。「曽我兄弟仇討八百年記念銅像」。「曽我兄弟 十郎 五郎」像。「相模国 阿弥陀寺 曽我兄弟 十郎の子 僧:了源」「曽我兄弟仇討八百年記念銅像再建安元ニ年(一一七六年十月)工藤祐経が、伊東祐親に対し、所領争いの恨みから、伊豆、伊藤南方の山麓で待ち伏せし、弓矢を射った。その矢は、河津三郎(伊藤祐靖)に当たり、兄弟の父は亡くなった。その後、母は、相模国曽我の庄(小田原市)の曽我祐信と再婚し、幼い兄弟は、曽我の庄で成長し、元服して、兄は曽我十郎祐成、第は曽我五郎時致と名のった。そして、建久四年(一一九三年五月ニ十八日)に源頼朝により、富士野で巻狩りか催されることとなり、この報を知った兄十郎(二十ニ才)、弟五郎(ニ十才)は、父の仇討ちの好機とし、臺雨の闇夜を利とし、工藤祐経を襲い、父の仇討ちの本懐を遂げた。この仇討ちは「曽我物語」として有名である。尚、乗誓寺の代々の住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我十郎の子孫である。 平成ニ十七年七月十三日 孟蘭盆会建立 銅像像再建願主 乗誓寺第二十五代住職 曽我宗光 由緒銘板寄贈者 当山 総代 木村鎮男殿 為、先祖代々供養」「本願寺と乗誓寺(鎌倉、戦国、江戸時代)●鎌倉時代(浄土真宗本願寺)開祖親鸞聖人(元仁元年一ニニ四年)開宗は、関東地方布教のため相模(平塚)に滞在していた時に曽我兄弟兄十郎の子がその教えに帰依し親鸞の弟子となり僧了源と名乗った。平塚に阿弥陀寺を創建し、初代住職となり後に浦賀に移り乗誓寺となる。親鸞聖人五老僧の一人である。●室町戦国時代は蓮如上人(㐧八代)の「一向一揆」の時代となり本願寺勢力が全国的に拡大し支配者(武士)と平民(農工商)との争いが続き「下剋上」といわれる「土一揆」(寛政六年、一四六五年)の乱となった。この争いは近江、琵琶湖で地主の比叡山(天台宗)と借地人(本願寺門徒)民衆との争いとなり、比叡山の衆徒により京都大谷本願寺がニ度にわたり破却され京都では「応仁の乱(応仁元年一四六七年)で騒然となり」◯◯◯◯「文明の乱(文明六年、一四七四年)の始まりは越前の守護大名富樫一族の争いから本願寺がその乱に巻き込まれたが、幸いに勝利した。その後長尾、畠山(能登)の戦いと続き、当時の「一向一揆」の頭領は本願寺の蓮悟(蓮如の子)(石川県金沢本泉寺住職)によって戦いの火蓋が切られた。その檄文「蓮悟書状(永正三年一五〇六年)が乗誓寺に送られて来た。この蓮悟の重要文書は乗誓寺に現存している。さらに「一向一揆」の戦いは、越前の吉崎御坊から京都郊外山科本願寺へ、さらに攝津大阪石山本願寺(現在の大阪城)へ。この決戦は織田信長との戦いで本願寺は苦戦し籠城したが敗北し◯◯◯援護を受け紀州和歌山の鷺森の本願寺を構えた。その後図らずも京都本能寺にて明智光秀の謀反により織田信長はあっけなく滅びた。次に天下を取った豊臣秀吉の時代には京都に本願寺の領地を与え西本願寺は現在に至っている。この激動の「一向一揆」時代を共に戦った本願寺㐧八代蓮如上人と平塚阿弥陀寺㐧八代空浄(学者)は京を逃れ空浄は平塚にも攻撃の手が伸びるとの報を聞き急遽浦賀に避難した。そして浦賀乗誓寺の初代となり現在に至っている。浦賀に移ってからは(文明元年、一四六九年)現在十八代平塚阿弥陀寺からは、二十七代曽我兄弟十郎の子了源から代々世襲制によって脈々と継承されている歴史がある。空浄が浦賀に移ってから数年後蓮如上人が浦賀を訪れ(文明七年、一四七五年)共に厳しい時代を無事生き伸び会えたことに感涙したと伝わっている。この時に境内に植樹された銀杏(イチョー)が、現在大樹となっている記念すべき銀杏の木である。(樹齢五百八十年)●江戸時代には徳川の天下となり平穏な全国統治によって、庶民の文化が栄えた江戸の文化は浦賀に伝わり紀州の鷺森本願寺の門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し豪商の町となった、三浦半島一の豪商宮井一族(宮与)を始めほとんどの豪商が乗誓寺の門徒となり墓地、墓石を見てもその財力を知ることが出来る江戸の文化は乗誓寺を中心として伝えられ多くの文化人を招き文化交流の場となった。また当時の浦賀港は物流の中心として栄え、西岸から見た写真には乗誓寺の本堂が威風堂々と聳え庫裡、鐘楼堂が写っている。この賑わいの町浦賀に西本願寺㐧十三代、良如上人が訪れている。」「日本庭園 鷺吟の庭当寺の「鷺吟の庭」は中国李白の詩「魚躍青池満鷺吟緑樹低」から名付けられた。・・・・・・・・・・・・・・・鷺の鳴き声という意味があるとのこと。山々に囲まれた自然豊かな庭園には日々・・・白、青サギ、クマゲラ、キツツキや種々の野鳥や、タヌキ、リスなど、動物達が訪れる自然に満ちた風情ある名園である。」観音像であろうか、台石に山号・東教山が刻まれた石仏が安置されていた。再び「乗誓寺 寺域案内 江戸豪商墓所他案内図」。そして次に訪ねたのが「宮井与右衛門の墓所」。「江戸時代の豪商墓所屋号、宮与(本家)宮井與右衛門※宮井家一族の墓所は外塀周辺にあり」と。「宮井与右衛門(宮原屋) 出身地 紀伊国有田郡滝川原村(宮原)江戸時代から明治期にかけて、「宮与」の名で浦賀屈指の干鰯問屋であった。紀州宮原から浦賀への出店がいつであったかは詳らかではないが、十八世紀半ばにはすでに浦賀を代表する問屋となっており、多くの義援金により東浦賀村の年寄役に就任した。与右衛門は代々の通り名であり、明治三十一年には四代目町長に就任し、町政にも貢献した。」「宮井家(宮与)墓所法名図」。墓所入口から、右:三代 中央:初代 左:二代の墓石と。三代当主 宮井教遵初代当主 宮井教念二代当主 宮井教誓五代当主 宮井教淳六代当主 宮井教意手代の墓。この石仏は?そして「本堂」の前に。本堂正面。本堂の内陣。本尊阿弥陀如来像 をネットから。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」。銀杏の大木の根本に石碑が二基。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」碑。「本願寺第八代蓮如上人五百回遠忌記念蓮如上人は、中世(文明年中・一四六九年)の歴史に残る、北陸一向一揆の時代に西本願寺門主となり北陸に領主に対し民衆抑圧をいさめ、争いなきよう導かれたがやむなく戦乱となる。その後・上人は幾多の労苦を重ねながら、諸国をめぐり、門信徒の教化につとめ、本願寺の中興の祖といわれている。この蓮如上人は、この浦賀の地にもご巡教にこられこの銀杏(いちょう)(樹齢約五百年)の木をお手植された記念すべき木である。 平成十年(一九九八年)遠忌記念 平成八年四月二十五日建之 寄贈者 ・・・・・・・」本堂のわきを通り、階段を登っていくと「鐘楼堂」があった。鐘楼堂の建立は梵鐘とともに昭和五十九年、京都の嵐山の近くで製作された。下からズームして。梵鐘。重量は五百貫(約二千トン)で、鐘の周囲には百八の乳頭と呼はれる突起が付いている。この乳頭の数は、人問には百八の悩みがあり、鐘を打っことにより煩悩が消え去るということに因むものといわれているのだ。境内の新緑のモミジ葉を見上げて。陽光が差し込み、新緑の葉が輝いていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.06
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都内・大崎に行った折、早めに家を出て30年(以上?)ぶりに明治神宮を訪ねました。前回訪ねたのは新宿住友三角ビルに勤務していた頃と記憶しています。新宿駅から山手線に乗り換え原宿駅で下車。 二代目となる現在の原宿駅駅舎は大正13年(1924)に竣工した木造建築で、都内で現存する木造駅舎で最も古い。建物は二階建てで、尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザイン。窓格子も歴史を感じさせ、階段に使用されている廃レールには、1950の刻印が見られると。 しかし、2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向けて、JR東日本は昨年、この原宿駅などを2020年までに建て替えることを発表したのです。原宿駅の表参道口を下りて右に進むと右手に神宮橋。神宮橋を渡って行くと下には山手線線路そして原宿駅のホームが見えた。この神宮橋は、明治神宮の鎮座に先立つ大正9年(1920)9月に完成。橋はRC構造で長さ20.4m、幅員29.1m。遠くに、代々木駅のすぐ近くに建っているドコモタワー、正式名称はNTTドコモ代々木ビル、高さ272mが顔を覗かせていた。正面に明治神宮の鳥居が見えて来た。明治神宮は大正9年(1920)11月1日に創建された、明治天皇と昭憲皇太后のご神霊をお祀りする神社。 明治神宮 案内図。南参道入口 第一鳥居。 明治神宮には8基の鳥居があるとのことで、このうち大正9年の創建以来の鳥居はこの第一鳥居(南参道鳥居)、第三鳥居(南玉垣鳥居)、北玉垣鳥居の3基。北玉垣鳥居は御本殿後方にある鳥居。この第一鳥居も平成32年(2020)の鎮座百年を機に建て替えをする計画を進めていると。鳥居をくぐってまっすぐ進んで行く。 南参道 神橋。左(西側)にある明治神宮御苑の南池から流れ出るせせらぎが神橋の下に。 「代々木」の由来が書かれていた。 『この地には昔から代々樅の大木が育ち「代々木」という地名が生まれました。 この前の名木「代々木」は昭和二十年五月の戦禍で惜しくも焼失しましたので その後植継いだものであります。』東京の真ん中にこれほどの広大な緑の空間があるのです。約70万平方メートルの境内に270種類およそ17万本の木々が植わり、50種類もの鳥たちが生息する明治神宮は、まさに大都会の中の森この森は今から100年前(大正4年)に造成された人工の森。現在では自然養成の状態に近づいていると。神域の鎮守の杜なので、参道を外れて森の奥に立ち入ることができません。よって普通の森とは少し違う生態系になり、粘菌や鳥や魚などに珍しい種類のものが生息していると。 明治神宮御苑への東口門は閉鎖されていた。南参道の右側には奉献 清酒菰樽が。全国各地の敬神の念厚き酒造会社より献納されたものであると。 左手には葡萄酒樽も。葡萄酒産地として名高いフランス共和国ブルゴーニュ地方の醸造元各社より献納されたもの。そして南参道と北参道の出合い口のところに大鳥居(第二鳥居)が。高さが12m、幅が17.1m、柱の太さが直径1.2m、重さが13Tもあり、木造の明神鳥居としては日本一の大きさなのです。 実は今ある大鳥居は二代目と。一代目の大鳥居は明治神宮が創建された大正9年に完成。この鳥居の材木は檜(ヒノキ)ですが、国産の檜ではなく台湾産。明治神宮御造営の時に台湾総督府より献木されたもので、阿里山(アーリーシャン)の西腹より伐採されたと。樹齢は1200年以上に達していたとのこと。そしてこの鳥居の材木も、東京で材木商を営む篤志家・川島康資さんが同じく台湾・阿里山の連山で標高3300メートルの丹大山(タンターシャン)の中に大木を発見、この檜は樹齢1500年を超える巨木でありこれを寄進し、昭和50年12月末に見事に完成、竣功奉告式が行われたとのこと。今年の御製(ぎょせい)。『ちはやふる 神のまもりに よりてこそ わが葦原の くにはやすけれ』天皇陛下の和歌を御製とお呼びします。これはご祭神である明治天皇の和歌。 南神門、外拝殿への新しくなった第三鳥居が見えて来た。左手に手水舎。 外人の方もお清めを。 左側に客殿。2016年に国産ヒノキで作られた明治神宮の第三鳥居が竣工。高さは約7.45mで、8基ある同神宮の鳥居では4番目の大きさと。右手に社務所。南神門。 南神門の木組みも見事。 そして扉には明治神宮の紋?。調べましたら皇室の十六弁の菊の御紋を御遠慮して、十二弁の菊の御紋を明治神宮の神社紋として昭和40年に制定されたとのこと。南神門を潜ると正面に社殿が。 五七桐(ごしちのきり・ごしちぎり)は日本国の紋章ですがこちらも御遠慮して?五三の桐。 外拝殿。通常は、ここでお参りをします。外拝殿を含む本殿は大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、空襲によって焼失。その後全国から復興資金が寄せられ、仮殿が翌昭和21年(1946)に建設された。現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、昭和33年(1958)に還座祭が行われたのだと。回廊の吊り灯篭の正面には皇室の十六弁の菊の御紋。そして底部には明治神宮の紋。吊り灯篭に灯がともった光景は美しいことまちがいなし。外拝殿の向背の下の垂木等の白が美しかった。通常は、ここでお参りをします。 外拝殿の彫刻は控えめですが美しい。こちらは皇室の十六弁の菊の御紋が彫られていた。外拝殿内部を脇より。
2017.02.09
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク63番札所:吉祥寺(きちじょうじ)62番札所:宝寿寺から国道11号線(讃岐街道)を東に向けて1.4km強を走ると63番札所:吉祥寺に到着。正面に吉祥寺の山門。インドの四天王の一人毘沙門天を本尊とするためか山門の前には一対の「象」の像が向き合っていた。山門の扁額には「密教山」と。宝寿寺から吉祥寺までの走行ルート。吉祥寺 境内配置案内図。「山門を入って左側に鐘楼、手水場があり、少し進んで右に庫裏と納経所、左に本堂、その左に大師堂である。」境内の「巡りゆく思い」と題された作品。伊予之二名島(いよの・ふたなのしま)、胴体が一つで、顔が四つの島、四国、その骨格たる石鎚山、見事な造形であると。福聚閣(ふくじゅかく)。庫裏前のお堀に浮かぶ極彩色の八角堂の福聚閣には本尊の毘沙門天を除いた六福神が祀られており、本尊の毘沙門天を合わせて七福神となる四国七福神は吉祥寺と近辺の横峰寺・宝寿寺・前神寺・西山興隆寺・極楽寺・安楽寺の6ヶ寺を巡るのだと。手水舎。水子地蔵尊。お迎え大師(左)と くぐり吉祥天女(右)くぐり吉祥天女は貧苦を取り除き、富貴財宝を授かるという。お迎え大師。くぐり吉祥天女成就石。本堂付近から目を閉じて金剛杖を持って石が置いてある場所まで歩いて行き、石に開いてある穴(直径約30cm)に金剛杖を突き通すと願いが叶うと伝わると。鐘楼。吉田真照の句碑。「有難や美阿登慕うて二十五歳」弐千回、参千回、八十八ヶ所 百回の文字が刻まれており参拝回数の記念碑か。本堂。寺伝によれば弘仁年間(810年-823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源といわれる。当初は坂元山(現在地より南へ約2kmほど登った標高368m地点 )にあったが、豊臣秀吉の四国征伐の際に焼失。詳しくは1585年(天正13年)に小早川隆景が高尾城を攻めたとき、その山中にあった当寺も兵に放火された。万治2年(1659年)に大師堂があった現在地に、坂元山にあった本尊毘沙門天坐像が移され、再建された。四国八十八ヶ所で「毘沙聞天」が本尊なのは、ここ吉祥寺だけと。持国天・増長天・広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされます。吉祥寺では「毘沙聞天」と表記する際に多聞天の「聞」の字を使っていますが、通常は「毘沙門天」と「門」の字で書くのだと。本尊・毘沙聞天像は秘仏で60年に一度だけ開帳され次回は西暦2038年とのこと。密教山 胎蔵院 吉祥寺(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)宗派 真言宗東寺派本尊 毘沙門天(毘沙聞天)(秘仏)創建 (伝)弘仁年間(810年 - 823年)開祖 (伝)空海(弘法大師)所在 愛媛県西条市氷見乙1048本尊真言 ”おん べいしら まんだや そわか”大師堂。大師堂 内部。本堂前からの境内。「念ずれば 花ひらく」、この石碑は別の寺でも見かけた。熱心な信者の奉納か?左から弘法大師千五十回、一千一百回、千百五十回遠忌報恩謝徳也。境内の桜も満開。納経所へ。お遍路の可愛らしい人形が。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。「二百回 結願の碑 大本徳森翁」の石碑。ただただ脱帽。松山真講会 40周年記念碑。-----------------------------------------------------------------------------------------------------60番札所:横峰寺(よこみねじ)吉祥寺を後にし直ぐに県道142号線の狭い山道を登っていくと左手に黒瀬湖が姿を見せた。1973年(昭和48年)完成、県下でも有数の水量豊富なダムであり、西条市の産業発展の礎となっていると。鏡のような水面には、時はに「逆さ石鎚」が映り込むと。更に上って行くと、平野林道の料金所が。石鎚森林組合が管理している有料道路(約6km)であり、往復通行料金は普通車1,850円(駐車場代含む)。12月29日より2月末日までは冬季通行止(冬季通行止期間中でもゲートは開いており自己責任で通行は可能であるが、道路修復工事の為途中までで止まることがあり要注意)と。狭い林道を更に上って行く。そして頂上駐車場に到着。吉祥寺から横峰寺までの走行ルート。山の中でWIFI信号が弱いため、往復のルートがズレていますが同じ山道なのです。眼下には瀬戸内海・西条市の臨海工業地帯が望めた。今治造船・西条工場をズームで。現役の頃、この近くにあるアサヒビール四国工場に何度か通ったことを想いだしたのであった。駐車場に車を駐め、更に横峰寺に向かって山道を上っていく。横峰寺への案内表示板。横峰寺 境内配置案内図。「山門を入り参道を進むと右に手水場があり、左に行くと庫裏・客殿・納経所が、右の石段を上がると正面に鐘楼・星供大師があって、その右に本堂が建つ。本堂の向かいの参道を進むと正面に大師堂が、その右に聖天堂がある。 シャクナゲが境内一面に咲きほこる5月上旬はそれ目当ての観光客も来て、ゴールデンウイーク期間は自動車が渋滞するほどである。」境内に入ると星月堂(納骨堂)が左手に。境内への山の斜面には シャクナゲが一面に。5月中旬には写真の如く開花し、平野林道が渋滞するほどに花見客が訪れると。客殿。境内の正面に本堂が。歓喜天堂(聖天堂)。大師堂。参道左手には多くの石仏が並んでいた。弘法大師を近くから。歴史を感じさせる多くの石仏・地蔵尊が並ぶ。鐘楼。正面に大師堂、左手に歓喜天堂(聖天堂)。本堂。「寺伝によれば役行者(役小角)が石鎚山頂で修行をしていたところ、蔵王権現が現れたのでその姿を石楠花の木に刻んで堂に安置したという。その後行基が天平年間(729年 - 748年)に、空海(弘法大師)が大同年間(806年 - 810年)に入山したと伝え、空海が入山した際に大日如来を刻み、これを本尊としたという。前神寺とともに石鈇権現の別当寺であったが、明治4年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明治13年に大峰寺の名前で復興、その後、明治42年(1909年)に元の横峰寺の名に戻される。」神社を彷彿とさせる権現造りの本堂に、神仏習合の面影が残っているのだと。大師堂とは参道を挟んで正面から向き合っていた。石鈇山 福智院 横峰寺 (いしづちざん ふくちいん よこみねじ)宗派 真言宗御室派本尊 大日如来創建 (伝)白雉2年(651年)開祖 (伝)役小角所在 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253本尊真言 ”おん あびらうんけん ばざらだどばん”星供大師像が正面に。「星供」とは仏教系統の星祭で、『宿曜経』などの説により、北斗七星・九曜・十二宮・二十八宿を供養し、除災・延命・増福を祈る法会。冬至・正月・節分などに行う行事。西日本最高峰・石鎚山系中腹にある札所は古くから遍路泣かせの難所と言われています。開祖は修験僧の開祖・役行者小角(えんぎょうじゃおづぬ)。白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠花(しゃくなげ)の木に刻んで小堂に安置しました。弘法大師が42歳の厄除け開運祈願の修行の為、この山へ登り星祭りの修行を行い、その結願の日に役行者と同じ権現様の姿を見せました。そこで大師はこの山を霊山と定め大日如来を刻み本尊として安置し第六十番札所に定められたと。星供大師像。標高750mの地でシャクナゲを背に右手に剣、左手に星供に巻物を持って立っていた。鐘楼堂。鐘楼堂を別角度から。納経所への階段を下る。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。仁王門からの参道にある手水舎。山門を見つめる旅友。手水舎前から山門をズームで。車によるお遍路の場合、山門・仁王門を潜らないケースが時々発生するのであった。納経所前から階段上の大師堂方面。大師堂を再び訪ねる。大師堂内部。「聖地巡礼 四国遍路」のポスター。「弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400kmにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。四国の険しい山道や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風景は、四国路の風物詩となっている。キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。2015年4月に日本遺産に認定された」と。再び本堂方面の境内を見る。客殿廻りの庭園を見下ろす。そして駐車場にある休憩所・売店へ。アイスクリームを楽しむ。売店の前には多くのアルミ缶製の風車がぶら下がっていた。売店の女性が一つをプレゼントしてくれました。人になれた野鳥・ヤマガラが、餌のヒマワリの種を食べに旅友Sさんの掌に。心温まる瞬間なのであった。 ・・・つづく・・・
2018.05.24
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「富士屋ホテル」の外からの鑑賞をひとまず終え、本館内部へ木製の回転ドアから入る。ドアの上には羽を広げた白い鳳凰の姿が。プラスチックの庇(ひさし)があるのが残念。庇の目的は?落下物防止用か?鳳凰の上には天使の彫刻が。回転ドアから内部に入ると、赤い絨毯の敷かれた階段下左に犬の像が。初代社長の愛犬ジャーマン・シェパード・ドックの「フワ」だと。赤の絨毯を上る。階段の最上部の両側に像が。龍の彫刻。反対側にも。龍の彫刻を振り返る。階段の奥にはサンルーム的なラウンジを建て増した部分・「サンパーラー」が。奥の「サンパーラー」にはソファを並べられてあり、ゆっくり前庭を眺められるようになっていた。こちらはフロント奥の「サンルーム」。本館1階のロビーから、2階へ通じる本館客室の階段(本館フロント前)そして、今回の改修工事により、当時のフロントカウンターとして使用された右側の場所が現在のフロントカウンターになっているのだと。正面の台の上には大理石の仏像が。この台は明治24年に完成した本館のフロントデスクカウンター。昭和5年に食堂が完成し、それに伴いフロントが移動するまで使用されていたのだと。フロントにて見学、写真撮影の了解を頂きました。受付カウンターの見事な彫刻は昭和5年製作のもの。けやきの一枚板を使用。源頼朝が「富士の巻狩り」👈リンク を興じる様子を描いているのだと。富士の巻狩りとは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。左手に富士山の姿。中央に源頼朝の姿が。柱にもいろいろな彫刻が施されていた。主役は尾長鶏(おながどり)。ヘレン・ケラー女史が昭和12年に来館した際、ホテルで飼育していた尾長鶏を可愛がってくれた。2度目に訪れた際、尾長鶏が亡くなっていたため、彼女のために事前に彫刻をほどこし、愛でられるようにしたのだと。「尾長鶏」の裏の柱の彫刻には梅の木が刻まれていた。「梅の枝と花」。日本庭園が眼前に広がるオーキッド(ティーラウンジ)の窓越しに庭園の2連の滝を見る。下段の滝。「成堂忠義書 至誠」。富士屋ホテルのサイトには「明治11年(1878年)の創業以来140有余年、建物・設備・サービスは時代とともにその姿を変えてきましたが、唯一、変わらず継承されてきたものがあります。それは、日本の心、「おもてなし」の精神です。この精神は「至誠」という社是として現在の富士屋ホテルに生きています。「この上なく誠実な事、まごころ」。時を超えて、富士箱根の自然とともに人々を魅了しつづけているのは日本精神の結晶といえる、この「至誠」。それは日本の象徴「富士」の名を冠したホテルにふさわしい、夢の結晶でもあります。」と。「達磨」「大正12年(1923年)、正造は箱根ホテル株式会社を設立し、芦ノ湖畔に箱根ホテルを建設しました。多くの財界人に出資を募り、その船出は順風満帆に思われました。しかし完成の1ヶ月後、関東大震災が箱根を襲います。箱根ホテルは見るも無残に倒壊。さらに再建した箱根ホテルも、昭和5年(1930年)の豆相地震により再び倒壊してしまいます。失意のどん底にあった正造のもとに、友人から1枚の水墨画が贈られました。そこには「不撓不屈」の精神を表す達磨の絵が描かれていました。生涯、正造の支えとなったこの絵は今も富士屋ホテルに飾られています。」と。フロント・ロビー上部にも見事な彫刻が。再びフロント横から階段を見る。こちらは入口の回転扉と赤い絨毯の敷かれた階段を見下ろす。一番奥のソファールーム。黄金の金閣寺のミニチュア。壁には様々な絵画が。珍しい形状の暖炉が中央に。ここにも温泉を楽しむ女性の姿の絵画が。そして内部は宿泊してもう一度ゆっくり見たいと思いながら、外に出て国道1号線方面に向かって「花御殿」前の坂を下る。左手には小さな池が。池にかかる朱の橋。赤い欄干の太鼓橋。その先の階段を上ると、本館の入口へ。黄色の建物は昭和35年(1960年)建築の「フォレスト・ウイング(旧フォレスト館)」。最上階には今回の改修でスパ&リラクゼーションを完備したのだと。再び「西洋館」を見上げる。こちらは、今回は訪ねなかった「別館旧御用邸 菊華荘(きっかそう)」。こちらも今回改修されたようである。 【http://barbie73.seesaa.net/article/428590156.html】より富士屋ホテル別館・旧御用邸の「菊華荘」では、数奇屋風書院造りの純日本建築とともに、四季折々の景色を楽しめる日本庭園をそのままの形で残しているのだと。 【https://heartbell.shinnan.co.jp/oyakudachi/live/15053/】よりそして駐車場の車に戻ると、パンを焼く香りが。「ベーカリー&スイーツ ピコット(PICOT)」は富士屋ホテル直営のベーカリー&スイーツのお店。クラシックカレーパンやレーズンパン、アップルパイなど人気商品が多々あると。残念ながら10:00開店とのことで諦めたのであった。 【https://twitter.com/hakonepancolle1/status/1187271402551795712】より店内の様子。 【https://www.fujiyahotel.jp/facilities/index.html】よりおいしそうな、大人気のカレーパン。 【https://tabelog.com/kanagawa/A1410/A141001/14007490/】よりそして次はいつに?と考えながら「富士屋ホテル」を後にし、この後富士山周遊ドライブに向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.09.02
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして訪ねたのが境川の手前にあった「高倉諏訪神社」。藤沢市高倉2674。「石鳥居」の扁額は「諏訪神社」。境内への階段。「諏訪神社」案内板。藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)(建御名方富命(たけみなかたとみのみこと) 八坂刀売神(やさかとめのかみ)境内社 天神社 八幡社 稲荷社 その他境内にはニ十六夜講中造立の石祠をはじめ、 数基の祠が点在します。例祭 七月ニ十七日(現在は、九月ニ十七日に近い土曜日に実施) 上高倉(旧千束村)地域の鎮守です。この高倉の諏訪神社は、江戸時代初期の寛永ニ年(一六ニ五年)、信濃国一ノ宮諏訪大社から勧請、創建されたと伝えられています。祭神の建御名方神は記紀神話によれば、大国主命の御子で事代主命(えびす様)の弟に当る神様で、諏訪湖の水の神として諏訪大社の祭神となりました。農耕の神、漁業の神、養蚕の神など御神徳の多い神様です。八坂刀売神は坂(峠)や道の神で、縁結びの神でもあり建御名方神の妃神でか、地方神話にのみ登場する神様です。拝殿正面に掲げる「諏訪神社」の奉納額は、元警視総監・法務大臣を務められた上高倉出身の秦野章氏の揮毫によるものです。また、拝殿内には江戸時代の末期、千束村で「箭泉堂(笋泉堂とも)」という筆学所を設け、周辺各村の農家の子弟に「読み・書き・算盤」に加え、「絵画」の指導もしていた師匠の矢沢保光(絵師でもあり雅号を玉秀と称した)が描き、文久三年(一ハ六三年)にこの神社に奉納した役者絵の「絵馬」五点が残されています。令和ニ年(ニ〇ニ〇年三月吉日長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会」社号標「諏訪神社」。「諏訪神社神奈川県藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地建御名方富命第一この大神様の御神徳は人間に強い力、強い身体を御与下さる神様だということが出来るのであります。「健全なる精神は健全なる身に宿る」と申しますが悲観的な気持ちを一掃してしまって強い精神、強い肉体そして強い力をもう一度振るい起し日常生活に精出す必要がありますこの人間に生きていく強さを与え下さるのがこの大神様の第一の御神徳であります。第二の御神徳は「御名方(みなかた)」から来る御神徳であります。即ちこの水の恵みがこの大神様の第二の御神徳であります。第三の御神徳はこの御名の最後の富命の富の御神徳であります。この神様は祈るものに富と仕合せを与えて下さる御神徳を持って居られます且つその祈りに叶ふだけの富を必ず与えて下さいます。第四の御神徳は開拓開墾の神徳は御父の大国主神の国造りのお働きを受けつがれたもので古事記の最初にある「この漂える国を修理固成せよ」とある祖神の最初のお言葉で心の眼を開くことそれが信仰の第一主義である正しい意味の国造りとなる。第五の御神徳は諏訪のもう一柱である八坂刀売神についての御神徳であります。この神は坂(峠)の守の神で今日の言葉でいえば交通安全の守り神だといえます。人々の希望に応えてくれる神であります。以上諏訪大神様について五つの御神徳を申し上げたのでありますがこれをつめて申しますと根本の御神徳は生命の親神様であり人々に仕合せ健康交通安全を与え下さる神様だと言えるのであります。私達は強く生きて行くために真剣に誠心をこめて祈ることです。皆様と一緒にタケミナカタトミノミコト様とヤサカトメノ神さまの御名を称えまつりその御徳にあずかるようにつとめましょう。 以上 神社庁文献より神 天神様 八幡 稲荷 境内の四方に小祠が点在している。 祭り 九月二十七日由緒 千束村寛永二年(一六ニ五年)此の地に御創建されたと伝えられる。徳川二代将軍秀忠公の頃か三代将軍家光公の時代に七ッ木村より分村当時の戸数はさだかでないが二十戸位と推定される。此の時の領主は遠藤善九郎憲次でありその知行高は七十五石であり元禄十五年(一七〇ニ年)の村高を調べると八十五石であった。村高によってみると千束村は江戸時代の村落規模としてきわめて小さかったか尚ちなみに全国の平均は四百石といわれることからいかに小さかったかが理解できる。諏訪社、村の鎮守トス、例祭七月二十七日、村持、鐘楼 寛政八年ノ鋳鐘ヲカク、一七九六年新編 相模国風土記並他の文献より」境内。「狛犬、阿像」。「狛犬、吽像」。「鐘楼」。「梵鐘」。「諏訪大明神」と。反対側には「昭和50年秋」の文字も。「梵鐘」は、戦時中に供出して長いこと堂だけであったが昭和50年に新しい梵鐘が奉納されたのだと。「神楽殿」。「拝殿」。鉄筋コンクリート製の頑丈な賽銭箱。扁額は「諏訪神社」。「拝殿 内陣」。「本殿」への扉は閉じられていた。「拝殿」前から境内を見る。「本殿」を横から。境内社の「稲荷社」。「八幡社」。「天神社」。「本殿」の左に祀られていた社。「諏訪神社」の御札が内部に。お祭りがあったのだろうか。境内の銀杏の大木。御神木なのであろう。そして「諏訪神社」を後にし、旧町田街道に向けて引き返すと、左手には「藤沢市消防団 第二十ニ分団」。その角にあった石碑。近づいて。「双体道祖神」を正面から。「双体道祖神双体道祖神像(和合ニ神像)は男女ニ神を並祀しています。日本には古来から男女ニ神や、性の象徴を具現した石像を村の境界に置くことにより、村の繁栄、豊穣を祈ると共に、外部からの邪霊、悪鬼、疫病神などが村内へ侵入することを防という呪術がありました。そのため道祖神は古くは、「塞の神」(侵入を防ぐ神)とも呼ばれていました。双体道祖神は長野県の諏訪、松本、佐久などが発祥の地とされ、江戸時代、関東地方を中心に各地に広がって行きました。現在、長野県内には四千基近い双体道祖神像が残されていると言われています。次に多いのは群馬県で約三千五百基、神奈川県は第三位で約ニ千八百基あるそうです。因みに関西方面では殆ど確認されていないとのことです。この双体道祖神は寛政七年(一七九五年)に造立されたもので、塔身の左右側面それぞれに「寛政七乙卯」・「霜月吉日」と刻まれています。なお、この道祖神像のある道は「元柏尾通大山道」と言われる道で戸塚区柏尾町から境川を「千束橋」(廃橋)で渡り、この道祖神像の横を抜け、長後天満宮の前を通り、伊勢原、大山方面へ向かう道で、江戸時代中期の宝永四年(一七〇七年)に起きた富士山の噴火(宝永噴火)以前の大山道と言われています。平成三十一年(ニ〇一九年)三月吉日長後地区郷土づくり推進会議歴史散策の会」その先右手にも石碑が一段高い場所に。高倉の庚申塔道標が二基。「笠付角柱型 日月 青面金剛立像(痕跡) 三猿(痕跡)」延享五年七月(1744)の銘があったようだ。「唐破風笠付角柱型 「奉供養庚申」 三猿(三面)」。正面に「干時延宝三乙卯天」(1675)「千束村」の文字右側面 「現世安穏」/「具一切功徳 慈眼視衆生」左側面 「福聚海無量 是故應頂礼」/「後生善處」 そして国道467号交差点を渡る。そして旧藤沢街道(八王子街道)を右に折れて進む。この先を左に曲がる。小田急線のガード下を通過。そして正面に見えて来たのが「長後 天満宮」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.09
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【海老名市歴史散歩】 目次「足折坂」を上りきり、「浅井の水」手前を左折して進むと「JR相模線」の踏切・今泉踏切があった。「今泉小学校前」交差点を直進する。更に進むと右手にあったのが「神奈川県産業技術総合研究所・KISTEC」。海老名市下今泉705−1。県道46号線・相模原茅ヶ崎線に掛かる「下今泉歩道橋」を渡る。相模大野方面を見る。厚木方面を見る。2差路の先端に道祖神があったがパスした。そして更に西の相模川方面に進み突き当りを左折すると左側にあったのが「宗珪寺(そうけいじ)」。平成20年(2008年)に圏央道建設のため海老名市河原口から現在の海老名市下今泉へ移転して来た寺であると。海老名市下今泉1丁目22−1。「山門」を正面から。山号は「天王山」。「宗珪寺」。「山門」に近づいて。扁額「天王山」。曹洞宗の寺院。「山門」を潜ると駐車場になっており、中央参道には紅白のサルスベリが開花していた。そして正面にあったのが、門の上に鐘楼堂を設けた門「鐘楼門」。2階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たず、2階部分には高欄が配置されていた。「鐘楼門」の扁額は「宗珪寺」。「鐘楼門」前の駐車場広場の壁の角には「記念灯籠建立供養塔」碑。四方を囲む壁の前には見事に灯籠が並んでいた。「禁葷酒入門」碑。そして「鐘楼門」の一階の向かって右には「仁王像(阿形)」が。別の角度から。金剛杵を右手に持って。「鐘楼門」の一階の向かって左には「仁王像(吽形)」が。角度を変えて。こちらも金剛杵を右手に持って。「仁王門」とも言える「鐘楼門」を潜る。「六地蔵」。右手にあった「手水舎」。水口の龍。右手に御堂が。扁額「覚王院」か?境内の見事な松。こちらの大木は?境内の石仏。ズームして。美しい境内の植え込み。こちらは五葉松と巨岩のコラボ。そして「本堂」。近づいて。扁額「宗珪寺」。「内陣」。「天水桶」には「51枚笹?」の紋が。こちらが客殿か。玄関の向かって右側。「本堂」横を通り、裏の墓地へ。「大般若六百巻・・・」碑。石仏が並ぶ。「馬頭観世音」碑。墓地入口。墓地。「仁王門」前から「山門」を見る。再び「仁王門」を。そして「宗珪寺」を後にして、寺の横の道を東に進む。「仁王門」、「手水舎」「本堂」の屋根を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.05
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車で移動し「鷹匠橋」を渡り、車を停めて橋の袂まで戻る。橋の名は「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。このことから市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。「鷹匠橋」から「境川」上流を見る。「境川」に架かる「大清水橋」の上流約500mの場所までは「境川」が藤沢市と横浜市の境界になっているのだが、そこから南側は藤沢市が大きく「境川」を超えて、東に広がり鎌倉市と境界を作っているのである。「鷹匠橋」から「境川」の川面を見下ろすと、亀の姿が。「ニホンイシガメ」の雌であっただろうか?体長25~30cm?。そして「境川」沿いにある「大清水境川アジサイロード」を見る。ズームして。「鷹匠橋」の欄干のデザインはスミレの花であろうか。別の場所のステンドグラス風の絵。「さかいがわ」と。ここにも4枚のステンドグラス風の絵の1枚が。藤沢市民病院を見る。その手前に国道1号・藤沢バイパスに架かる「境川大橋」。再び「境川」の上流を見る。「境川」と漢字で。ここ「境川の右岸」にも多くのアジサイが植えられていたが、数年前に、「県道451号線藤沢大和自転車道線」の拡張工事の為に抜かれてしまったのであった。そして愛車に戻り帰路に。前方に見えたのが「横浜水道境川水路橋」。神奈川県と共同で運用している寒川取水ぜきから取水し、横浜市戸塚区の小雀浄水場まで約12.4Kmの導水路の1部である。そして「花應院」の先で車を停め、再びアジサイをカメラで追う。装飾花・ガクの小さなアジサイ。こちらは鮮やかなピンク。このアジサイも白の装飾花・ガクが細かく。近づいて。紫のアジサイ。近づいて。こちらは装飾花・ガクの花びらが多いのだ。こちらの装飾花も。装飾花・ガク片が大きい。「スイセンノウ」。そして帰宅して、ご近所の白の「カシワバアジサイ」。葉の形がカシワに似ていることが、和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがある。一般のアジサイとは異なり全体の印象としては木のボリュームに比し、花が少ないのが特徴。葉には切れ込みがあり、秋には紅葉する。そしおて見事な色合いのアジサイも。近づいて。紫の装飾花のまん中にも小さな青い花が咲いているのだ。そして我が家のブルーのアジサイ。今年は例年になく花の数が多いのである。剪定の強度の影響か?近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.06.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク「西御門 八雲神社」の横には「来迎寺」の山門に向かう石段があった。そして石段左の「来迎寺」案内板の裏には石碑が置かれていた。「太平寺跡」碑「太平寺は比企尼寺にして相傳う 頼朝池禅尼の旧恩に報いんため その姪女の所望に聴き姪女を開山たらしめし所なりと 足利の代 官領(かんれい)基氏(もとうじ)の族裔(ぞくえい:子孫) 清渓尼(せいけいに)の中興する所となれるが天文中(1532?1555) 里見氏鎌倉を歯掠(しりゃく)せる時 住持(じゅうじ:住職)青岳尼(せいがくに)を奪ひて房州に去りてより遂に頽破(たいは:滅亡)せり 今の高松寺は 寛永中(1624‐1644)紀州徳川 家の家老水野氏が 其の太平寺の遺址を改修せるものなり」【太平寺は代々比企一族の尼寺でした。源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため、その姪(めい)のために建てさせたといわれています。足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である清渓尼(せいけいに)が、さらに発展させました。 しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め、青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは、とうとう廃止になりました。その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺跡に高松寺を建てたものです。現在はそれもありません。】そして石碑の前の坂を上ると正面にフェンスがあった。現在、テニスコートそしてその奥の一段高い場所が山の麓まで「太平寺跡」とのこと。「「太平寺」は禅宗の尼寺で廃絶する前は尼五山の筆頭だった。開基・開山は妙法尼。頼朝が平治の乱で永暦元年(1160)2月に捕らわれた時、平清盛の継母である池下禅尼が頼朝が亡児家盛に似ていることから助命を乞い、頼朝は流罪で済んだ。後に頼朝が池下禅尼の旧恩に報いるために姪である妙法尼の願いを聞き入れ、建立したという伝説がある。一方で史料上からは弘安6年(1283)頃と考えられている。鎌倉時代から室町時代に繁栄し、特に関東公方足利基氏の室清渓尼、持氏の娘昌泰道安、成氏の娘昌全義天と足利氏関係の女性が住持したことにより、太平寺は足利氏との関係が続いた。弘治2年(1556)、安房に勢力を持つ里見義弘が房総半島からに鎌倉に侵攻した際、義弘は尼僧、青岳尼(しょうがくに)と寺の本尊、聖観音立像を略奪して安房へと連れ去った。青岳尼は天文7年(1538)に戦死した小弓公方足利義明の娘と伝えられ、安房に連れ去られた後、義弘の命によって還俗させられ、妻になったという。こうして住持を無くした太平寺は廃寺となったが、安房へと持ち去られた聖観音像は東慶寺の蔭涼軒主の交渉によって鎌倉に戻され、現在も東慶寺にある。また旧太平寺の仏殿は現在の円覚寺舎利殿である。太平寺の旧跡には江戸初期に日蓮宗の高松寺(こうしょうじ)が建立されたが、昭和6年(1931)に宮城県栗原郡に移転したため現在は同地にはない。」とネットより。昔の「太平寺」の地図。太平寺(高松寺)は現在の西御門の来迎寺の北に位置していたことが解るのであった。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/ishibumi/118-taihei-ji-ato/118-taiheiji-takamatutera.html】よりそして坂を下り「来迎寺」への石段まで戻る。「来迎寺本堂には本尊・阿弥陀如来坐像と、南北朝時代の仏師・宅間浄宏の作と伝えられる地蔵菩薩像が安置されています。この地蔵菩薩像は、近くにあった報恩寺(廃寺)の本尊でした。本尊脇の如意輪観音像は「土紋」の装飾が鮮やかです。「土紋」は鎌倉特有の仏像装飾の技法で練った土で作った文様を貼り付け、浮き彫りに似た効果を出すものです。厄除けと安産にご利益があるとされます。 ● 宗 派:時宗藤沢山清浄光寺末 ● 山号寺号:満光山来迎寺(まんこうざん) ● 建 立:永仁元年(1293) ● 開 山:一向上人(いっこうしょうにん」鎌倉市西御門1丁目11−1「来迎寺」碑鎌倉観音第五番札所鎌倉地蔵第二番札所鎌倉十三仏第十番札所以前に戴いた「鎌倉観音第五番札所 来迎寺 如意輪観世音」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉地蔵第二番札所 来迎寺 岩上地蔵尊」の「御朱印」です。以前に戴いた「鎌倉十三仏第十番札所 来迎寺 阿弥陀如来」の「御朱印」です。そして石段の上に山門があった。「満光山」、「来迎寺」と刻まれた石碑が両側に。山門の扉には時宗の宗門「折敷に三文字」が。宗内では「隅切り三」と呼ぶのだと。そしてその先にも更に石段が。左手には二階建の「寺務所」が。更に進むと、再び「満光山」、「来迎寺」と刻まれた小さな石碑が両側に。そして「本堂」。永仁元年( 1293 )の鎌倉大地震で亡くなった村民を供養するため、一向上人によって創建された。『西御門』という地名は、源頼朝公が開いた大蔵幕府(現在の清泉小学校の校地周辺)の西門があったことからその名が付けられた と。鎌倉には来迎寺と名前の付くお寺は二か所あるのだ。もう一方の「随我山来迎寺」は材木座にあるが、両寺共に藤沢の遊行寺(清浄光寺)の末寺となっている。扁額「満光山」。「来迎寺」の「如意輪観音半跏像」を2枚ともネットから。 【https://n-raikoji.jp/about/】より鎌倉で最も美しい仏像と言われる、「如意輪観音半跏像」。宋朝様式の典型である写実的な衣紋であるが、木像の上に粘土で装飾を施す「土紋」は年代を表す特に貴重なものです。もとは源頼朝の持仏堂である法華堂から移されたものだと言われてます。かつて由比ヶ浜の長者の娘が大鷲にさらわれて亡くなってしまいました。悲しんだ長者はこの如意輪観音に娘の遺骨を納めたと言われています。 【https://kamakuratrip.com/raikouji/】よりそして墓地にあった「南無阿弥陀仏」と書かれた大きな墓碑。墓地が広がる。そして「来迎寺」を後にして、更に奥に向かって進む。途中、民家の庭には「エニシダ」が鮮やかな黄色で輝いていた。正面に見えたのが「石川邸(旧里見弴邸)」。「鎌倉の景観重要建築物 石川邸(旧里見弴邸)石川邸は、大正15年に作家里見弴の住宅として、建てられた建物です。里見弴自らが設計に携わったと言われるこの建物は、玄関ポーチ、2階バルコニーの存在が印象的で、建築家ライトの造形を取り入れたそのデザインは、当時は非常に斬新であったことが想像されます。主屋の奥には、高床式、茅葺きの屋根の茶室があり、コントラストも非常に印象的です。」石川邸(旧里見弴邸)の主屋。脇の道を入って行くと茅葺きの屋根の茶室が見えた。道を引き返すと、「来迎寺 道標」があった場所から20mほどの道路脇右にあった石碑には「呉ふくばし」と刻まれた石碑が。鎌倉市雪ノ下3丁目と西御門2丁目の境の狭い道を東に進む。「鎌倉ものがたり 西御門西御門は、かって源頼朝が御所を建てた「大蔵」(おおくら)の地の西側に位置しており、この御所には、「侍所」(さむらいどころ)「問注所」(もんちゅうじよ)「公文所」(くもんじよ)といった役所が作られ、いわゆる「鎌倉幕府」の武家政治の中心があったため、「大蔵幕府(跡)」と呼ばれています。かって御所があった場所には今、その名残を刻んだ石碑が残されており、御所を取り囲む4つの門「東御門」「西御門」「南御門」「北御門」のうち「西御門」だけが、今もこうして町名に残り、鎌倉のまちの歴史を語っています。漫画「鎌倉ものがたり」では、実際の地名「西御門」がそのまま使われて描かれており、「西御門の姫君」と呼ばれる女性が、一色先生の妻、亜紀子夫人に「鎌倉のかぐや姫伝説」を話す第10話「西御門のかぐや姫」に登場します。」「法華堂跡(源頼朝、北条義時の墓)周辺観光案内図」頼朝の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓 案内標識。そして正面に「頼朝の墓」への入口が見えた。地元の「清泉小学校史跡委員」の生徒達が制作した「白旗神社」、「源頼朝」案内板の大作。「薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡法華堂跡の東谷奥には、頼朝を補佐し幕府の土台を築いた大江広元、広元の四男である長州毛利氏の祖・毛利季光、頼朝にゆかりのある薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並びます。いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩によって整備されました。」「頼朝の墓」入口には様々な石碑、案内板が設置されていた。「法華堂跡」碑。「堂はもと頼朝の持仏(守本尊)を祀れる所にして 頼朝の薨(こう:死)後其の廟所(びょうしょ)となる 建保五年(1217)五月 和田義盛(よしもり)叛(はん:背く)して火を幕府に放てる時 将軍実朝(さねとも)の難を避けたるは此の処なり 宝治元年(1247)六月五日 三浦康村此に篭(こも)りて北条の軍を邀(げき:迎撃)へ 刀折れ矢尽きて 一族郎党五百余人と供に自尽し 満庭朱殷(しゅあん:赤黒色)に染めし処とす」【法華堂は、もと頼朝の守り本尊を祭っていましたが、頼朝の死後その墓になりました。1217年5月に、和田義盛(よしもり)が、反乱を起こし、幕府に火を放った時、将軍実朝(さねとも)が、避難したのは、この場所であります。また1247年6月5日に、 三浦康村(やすむら)がここにこもり、北条軍を迎え撃ったが、刀折れ矢尽きて一族そろって500人ばかり自殺し、庭一面を赤黒色に染めた場所でもあります。】「源頼朝公顕彰碑」石碑(平成12年(2000年)7月、源頼朝会)歌碑「君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり」「源頼朝公顕彰碑歌碑は我が国中世史の権威であり源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不出世の英雄源頼朝を讃えたものである。顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。」「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久公石塔道」碑。石鳥居越しに「白旗神社」を見る。白旗神社 由緒記一、祭 神 源 頼朝公一、例祭日 一月十三日一、由 緒 この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻の中 に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。 正治元年(1199)1月13日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍 が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。 その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け明治維新に際し寺は白旗神社に 改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。 現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造 営されたものである。持仏・・・・・守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像「白旗神社」。扁額「白旗明神」。幟「白旗大明神」が並んでいた。「源頼朝公法華堂之舊蹟」碑。「源頼朝の墓源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼしました。又、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。正治元年(1199)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪がが整備したものとされます。」島津氏は頼朝公のご落胤、子孫ということですから、自分の祖先の墓所を整備した、ということなのでしょうか。白旗神社を左手に正面石段(53段・頼朝が亡くなった年齢)を上って行った。石段の途中に石鳥居が。石鳥居の柱の前の手摺には「源頼朝の家紋」の「笹竜胆(ささりんどう)」が。石段を上り終わると正面に「頼朝の墓」があった。源頼朝墓は、 鎌倉時代の文治5年(1189)に建てた法華堂があった場所にあった。 墳墓堂とも呼ばれている。 頼朝の墓を中心とする一帯が「法華堂跡」として国の指定史跡となっているのであった。ネット情報によると「2012年2月11日正午頃、墓の相輪(塔頂部65cm)が破壊されるという事件が起こっています。犯人は鶴岡八幡宮の境内で刃渡り約19センチの包丁を隠しもっていたことから、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕になったとのこと」。現在は見事に修復されていたのであった。更に近づいて。「奉寄進」碑玉垣一圍、石燈籠兩基、水盥盤一箇 安永八年己亥ニ月 薩摩中将源重豪』「頼朝の墓」の横には「水盤」が寂しそうに。「国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。」「史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) 史跡指定年月日 平成十八年七月二十八日 石柱建設年月日 平成三十一年年ニ月一日」墓の横にあるこちらの石塔(安永8年建立)「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道」、「承薩州侯之命東都龍湖親和八十歳謹書」「安永八年己亥二月薩摩中将源重豪建之」とあります。そしてその後方には山道が続いていた。石塔に「島津豊後守忠久石塔道」とあるので島津忠久の墓へと続く道であろうがロープが張られていた。大江広元・島津忠久・毛利季光の墓所があるのであった。「希義公の土と石父義朝が平清盛の前に屈した「平治の乱(1159)」のおり、平家方に捕縛された兄頼朝は当時13才、同じ父母の下に生まれた希義は当時3才と言われていますが、其の後一度として兄弟の再会なく今日に至っています。公家政治から武家政治へ移行の戦乱の狭間、兄弟の悲哀を想い、今日互いの墓所の土と石を交換し835年の時を経て兄弟を再開させたものです。 平成6年(1994)9月25日 源頼朝公報恩会 源希義公顕彰会」「頼朝の墓」を後にして石段を下る。そして次には3人の墓に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「藤間家住宅主屋」を後にして、再び「柳島八幡宮」の横を通過し東海道線の線路に向かって柳島1丁目-2の住宅街を進む。JR東海道線の「松尾踏切」を渡る。東京駅から60K675Mと。そして「千ノ川」に架かる橋を渡る。橋の名は表示がなかった。下流側には「新湘南バイパス」が見えた。その手前は小出川への合流地点。その先には富士山が見えるはずであったが・・・・。上流側を見る。先程渡った国道1号近くの「石原橋」が遠くに見えた。そして国道1号まで出て、「下町屋」交差点を左折して、平塚方面に進む。そして50mほど進むと左手にあったのが「神明神社」。神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6−19。「神明大神鎖座地 茅ヶ埼市下町屋一丁目六番一九号(旧三九ニ番地)祭神 天照大神 大山咋命例祭日 十月一日由緒沿革往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(921〜1005)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大庭平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460〜1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。」「下町屋 神明神社」碑。「晴(清)明井戸」碑。裏面には「当地の古老が伝えるところによると神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(九ニ一~一〇〇五)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出した。名付けて「晴(清)明井戸」と称す。」と。「拝殿」に向かって進む。「拝殿」。御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、 大山咋命(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)。境内左手には「道祖神」と「厄神大権現」碑。「厄神大権現」碑。苔むした石碑も道祖神であっただろうか。こちらは社の中に鎮座。「神明神社」を後にして更に国道1号を西に進むと100mほどの左にあったのが「でかまん菓子舗」。 神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6−5。昭和26年より看板メニューである「名物でかまん」が誕生。現在、でかまんを始め和菓子や洋菓子など20種類近くの商品があると。一番大きな「でかまん」は、たて32cm☓よこ22cm で3500円/個 であると。そして更に進むと次に訪ねた「旧相模川橋脚」案内板が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.23
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次「南泉寺」を後にして、更に北に進むと右手にあったのが「第六天神社」の石鳥居。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目16-25。境内に社殿の姿はなく「一之宮北町集会所」と書かれた大きな木札のある建物のみ。これが昔の社殿であったのだろうか。そして「大山街道」まで戻り横断する。次に訪ねたのが「金刀比羅宮」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目1−20。参道左手にあったのが「第八十四代 出雲大社宮司千家尊祐氏御参拝記念」柱。参道の手前にあったのが「金毘羅会館」。「社殿」。「金刀比羅宮」を後にして「北西」方向に向かって進む。駐車場の奥に小さな神社が見えた。朱の鳥居には「正一位」と書かれていた。稲荷社であろう。神奈川県高座郡寒川町一之宮1丁目23。更に進むと「妙光寺」案内板が。「日蓮宗 妙光寺」。掲示板には「今月の聖語 仏くようの功徳莫大なり日蓮聖人御遺文 「法華証明鈔」」と。「ー功徳ー今月は春のお彼岸を迎えます。皆さんが「仏さま」と呼ばれるのはどなたですか? お釈迦さま、阿弥陀さま、薬師さま…?しかしその中でもご先祖さまを「仏さま」と呼んでいませんか。実はこの思いは先祖供養に重きを置く日本人の宗教観の表れといわれています。その「ご先祖さま」があの世で安らかに過ごせるのは、ご本仏釈尊がご先祖さまを見守り導いて下さっているからなのです。皆さまがお彼岸でご先祖さまを供養することはそのご本仏釈尊にも届いており、想像を遙かに超える大いなる功徳をご自身が積んでいることにもなるのです。 『法華証明鈔』本鈔は日蓮聖人に生涯深く帰依した南条時光氏に宛てたものです。時期は聖人が亡くなる年の2月末でした。ご自身重病の床にありながらも大病する時光氏に対し、日頃の堅固な信心を讃え、その功徳で必ずや病気は平癒すると励まされました。そのお言葉通り時光氏は見事全快し、その後90歳の長寿を全うしたのです。弘安5年(1282)聖寿61歳」正面に「山門」。題目碑「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗」。「如日山 妙光寺」。境内の「稲荷社」。扁額「正一位 稲荷大明神」。石碑と石祠。石仏。正面に「本堂」。妙光寺は、僧日念が開基となり天文元年(1532)に創建、唯常院が開山。左手に「日蓮大聖人尊像」。銅燈籠(右)。銅燈籠(左)。扁額「妙光寺」と龍の彫刻。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一二五三年)本尊 久遠の本師釈迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌」寺務所。「日蓮大聖人御幼児 善日麿之像」。日蓮大聖人は安房の国(現在の千葉県)小湊にお生まれになる。父貫名重忠・母梅菊の子として御誕生になり、幼名を善日麿と名付けられた。墓地。左手に民家の立派な門が。そして「南台畑」交差点を直進した。途中で左折して進むと右手にあったのが「車地蔵堂」。神奈川県高座郡寒川町一之宮2丁目16。寒川町一之宮車地蔵(田端生往寺持)は、木像の地蔵尊を祀ったお堂です。供車(ともくるま)地蔵とも言います。「車地蔵沿革史」によれば、堂宇の建立は、慶長2年(1597)3月15日、江戸初期に一之宮に居住していた大森菊地泰次とその家老の秋元金平によると言います。秋元は、人びとの模範となるような忠臣でしたが、あいにく嗣子がありませんでした。そのためこのままでは家が衰微すると察した主君の泰次は自らの長子、菊之丞を養子とし、併せて禄高の一部を分知してその後継としました。このことで主君に対する金平の忠誠心は益々深まりましたが、泰次もその至情を承け、安産子育地蔵尊を共に祀ったと言います。明治初年、堂宇の衰微により、本尊は日向薬師(伊勢原市)へと移管されましたが、明治27年(1894)火災により焼失したそうです。昭和11年(1936)、後裔の霊夢を契機に堂宇の再建が企てられ、また本尊も再刻され今日に至ります。講中奉納による前立の石の地蔵尊は江戸期のものです(左:1715年(正徳5年)作、右:1665年(寛文5年)作)。毎月24日の縁日には、地蔵講中による奉仕が現在も続いています と。朽ち果てた石碑。この場所に「宝篋印塔」があったのだろうか。「金量院殿菩提 (菊地泰次妻)宝篋印塔コノ地ヨリ田端生往寺ヘ遷ズ」内陣。「車地蔵堂この地蔵堂は、小田原城主大森実頼の孫菊地泰次(田端生往寺開基)が慶長ニ年(一五九七)三月建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられている。霊験あらたかな子育地蔵として江戸期には講を組織して参詣する人も多かった。」「文化財愛護シンボルマーク」。「文化財愛護シンボルマーク」は、文化財愛護運動を全国に推し進めるための旗じるしとして、昭和41年5月に定められたものです。このシンボルマークは、ひろげた両手の手のひらのパターンによって、日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう=組みもの)のイメージを表し、これを三つ重ねることにより、文化財という民族の遺産を過去、現在、未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものです。これが本物の斗栱(ときょう=組みもの)。そしてこの日の予定を全て完了し、JR寒川駅に向かって寒川町一之宮2丁目の住宅街の庭に咲く花を楽しみながら進む。山吹の花赤い八重椿の花。スノーフレーク。近づいて。先端には緑色の斑点のついた白い小さな花。ピンクの花桃赤の花桃。庭梅の花。エリカの花。そして「寒川駅」南口に到着。JR相模線で茅ヶ崎駅へ。このポスターは「これぞ日本!新倉山浅間公園で見る桜・忠霊塔・富士山の大絶景!」。そして18時前に帰宅したのであった。この日の歩数は34,438歩なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.15
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トマールのキリスト修道院の駐車場に到着しバスを降り観光開始。コンウェント通りからキリスト修道院の建物を見る。石畳の坂道をに向かって登っていく。かつて城塞だったことがよくわかるように、右手上には城壁が連なっていた。左手の広場にはキリスト修道院の見どころの大きな写真が。入口。入口前から城壁を見る。ここも世界遺産の為、現地添乗員が待ってくれていた。矢を射る狭間。キリストの修道院は、ポルトガルのトマールを支配するテンプル騎士団の城の壁の内側の丘の上にあった。城と修道院はどちらも1314年まではテンプル騎士団の本部であり、1357年以降はキリスト騎士団の本部。城は1160年に建てられた、そして、全域は今日ユネスコによって世界遺産として登録されている。案内図。城壁の上には旗が。坂道を登るツアー仲間。城壁の至る場所に狭間が。矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間であろうか?見張り塔であろうか?修道院とは思えない堅牢な城壁。城壁に造られた次の門を潜る。ポルトガル語の名称『CONVENTO DE CRISTO』。1160年に建設開始。1983年に世界遺産に登録されたと。城門をくぐると現れるキリスト修道院(Convento de Cristo)。なかなかの迫力。円堂・テンプル騎士団聖堂が前方に。城壁上部。城壁の中の門を振り返る。真っ赤なアロエの花。円堂に向かって更に階段を上がる。見事な彫刻。円堂の『南門』。南門の精細な彫刻。リスボンのジェロニモス修道院を手掛けたスペイン人建築家が1515年に建造。門は閉鎖されていて、観光客はこの門の脇から入る。 赤子を抱く女性像。可愛いエンジェルの姿が。見事な城壁を再び。南門横の鉄格子で囲まれた窓の横から入る。青色の部分がマヌエル1世時代に建設された部分。赤色がテンプル騎士団時代、緑色の部分がエンリケ航海王子の時代に建設されたことを示していると。『墓の回廊(Claustro do Cemiterio)』チケットもらって入るとすぐにで迎えるのが、ポルトガルの特有のタイル・アズレージョの壁面が印象的な「墓の回廊」と呼ばれる回廊。修道士たちの墓所とのこと。騎士や修道僧の墓地としての意味で作られたのでその名があると。この2本の柱が等ピッチで並び壁、そして屋根を支えていた。アズレージョで彩られていた。『沐浴の回廊(Claustro da Lavagem)』。そして「墓の回廊」に隣接して、それよりもさらに大きな「沐浴の回廊」が。名前の由来は、かつて修道僧たちがここで沐浴をしていたから。ここにもアズレージョが。2階部分も回廊になっていた。1426年頃から作られ、1453年に完成したと。沐浴の回廊の窓からはエリンケ航海王子の宮殿跡地が見えた。ポルトガルの至る所で聞くエリンケ王子、ここにもいたんですね。40年も住まれていたとのことです。沐浴の回廊から見える、修道院主要部。どうも鐘楼がくっついた円形の砦のような感じに見えなくもないですが、あの独特の形の建物に今から入っていきます再び『墓の回廊』鐘楼をズームで。 ・・・つづく・・・
2019.03.01
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この日は10月6日(火)、この日は旅友のSさんに誘われて、千葉にある「続日本百名城」の「本佐倉城趾」と「大多喜城」、そして帰路に東京都内にあるこれも「続日本百名城」である「品川台場」を訪ねたのであった。Sさんが早朝5:30に愛車で我が家に迎えに来てくださいました。そして国道1号を横浜方面に向かう。「横浜駅前」を通過。国道15号・第一京浜の鶴見駅近くを進む。東の空は朝の陽光にオレンジ色に染まって。京浜急行・子安駅近くの子安橋交差点付近のビルの窓も朝の陽光を反射して。時間は6:02。国道15号・多摩川に架かる六郷橋を渡る。「京急蒲田駅」前を通過。大森東交差手を右折し東京都道316号・日本橋芝浦大森線に入り京浜運河を渡る。そして「東京都臨海道路」に入る。前方に「東京ゲートブリッジ」が見えて来た。この道路を走るのは二人共初めて。「東京ゲートブリッジ(Tokyo Gate Bridge)」を渡る。「東京ゲートブリッジ」は、東京港第三航路(東京東航路)を跨ぎ中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結ぶ橋梁である。建設地が東京国際空港(羽田空港)に近く航空機の飛行ルート上にあるため、航空法により橋の高さに制限(98.1m以下)が課されている一方、東京東航路を通る大型船舶が航行可能な桁下の高さ54.6mを確保すべく、吊り橋や斜張橋ではなく、三角形に繋いだ鋼材を組み合わせて橋桁の荷重を分散するトラス構造が採用された。また、支間長は440mで、日本国内のトラス橋としては生月大橋(同400m)を上回り、港大橋(同510m)に次ぐ規模である とウィキペディアより。そして進んでいくと、道路の上に巨大な鉄骨そして金網の張られた構造物が現れた。Iphonesでネットを調べて見ると、すぐ隣が若洲ゴルフリンクスというゴルフ場があり誤ってゴルフ場から飛び出してしまうゴルフボールから走っている車を守るものなのだと。そして新木場にて右折し湾岸道路を進む。荒川、旧江戸川、江戸川を次々と渡って行き、中瀬交差点を左折し勝田台方面に向かう。京成大和田駅横の踏切を渡る。ここは、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災により、京成電車に乗っていた私がこの駅で足止めをくらい、近くの小学校の体育館にて一夜を過ごした場所なのであった。そして国道296号にて進み、千葉県佐倉市城内町にある「国立歴史民俗博物館」の近くを通過。そして漸く、最初の目的地の京成本線・「大佐倉駅」に到着。時間は9:07、我が家から約3.5時間かかったのであった。この駅に「続日本百名城」の「本佐倉場城跡」のスタンプ置き場になっていたのであった。スタンプをGET。「本佐倉城跡てくてく歩き」案内。「御城印『本左倉城』」案内。「御城印『本左倉城』」。「京成電鉄 スタンプラリー」案内。このスタンプも頂きました。「本佐倉駅」改札。無人駅かと思いましたが、1名の駅員が。ホームに成田空港行きの特急列車が停車。「名所・旧跡」紹介。「名所・旧跡紹介」部分をズームで。 ・・・つづく・・・
2020.10.24
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そして定刻7:10に成田空港を出発する。飛行機の出発時間は飛行機が動きだした時、逆に到着時間は飛行機が所定の場所に停止した時。また国内線は定刻の15分以内、国際線は30分以内の出発・到着であれば定刻運航扱いとなることを知ったのはいつであったか。JETSTAR・A320型機が並ぶ。ニューカレドニアの国際線航空会社エアカラン (Aircalin)機が上空に。そして定刻に離陸。時間は7:20。飛行機に乗るのは2019.10.31のブルガリア・ルーマニア旅行の帰路のドーハ国際空港から羽田空港への搭乗以来丸2年ぶり。九十九里浜に向かって離陸。九十九里海岸沖にはオレンジ色に光る海の姿が。ズームして。九十九里海岸上空を通過。そして太平洋に出た後は大きく右に旋回。市原市上空を通過し東京湾上空に出る。三浦半島が姿を現した。観音崎方面であろう。そして暫くは雲の上空へ。伊豆半島を横断し、三保の松原をズームで。富士市の片浜海岸~柏原海岸を見下ろす。以前、『旧東海道を歩く』👈リンク でひたすら歩いた海岸沿いの道路なのであった。伊豆半島を振り返る。駿河湾。雲の隙間から中部国際空港を見る。奈良市内を見下ろす。そして暫しウトウトして気がつくと、左下に熊本空港の姿が見えた。「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」。そしてこの日は有明海に出る。手前が坪井川そしてその先に白川。熊本港大橋の先に熊本新港の姿が。有明海上空でUターン。下に四番漁港。再び坪井川(左)と白川(右)。花岡山の頂上に立つ巨大な仏舎利塔。白亜のパゴダ様式の塔、インドのネール首相から贈られた仏舎利が宝蔵されていると。そして復旧なった熊本城天守閣。大天守(地上6階、地下1階)と小天守(地上4階、地下1階)の白く輝く屋根の姿が美しかった。2016年4月の熊本地震から5年。 地震で大きな被害を受けた熊本城天守閣が復旧を果たしていたのであった。そしてこの日の夕方に熊本城を訪ねたのであった。そして再び「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」を先ほどとは反対側の上空から見る。そして再び「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」を先ほどとは反対側の上空から見る。「パークドーム熊本」は天候に関係なくスポーツが楽しめる全天候型の施設。グラウンドはサッカーフィールドがすっぽりはいる大きさで、テニス、ゲートボール、サッカー、運動会など多彩な大会、イベントが開催可能。また、室内温水プールも完備し、県民の健康・体力つくりに役立つ生涯スポーツの拠点に。2019女子ハンドボール世界選手権大会の試合開催会場の1つ。「えがお健康スタジアム」は、3万人収容の最新の設備を誇る、県下最大の多目的競技場。くまもと未来国体、ひのくに新世紀総体、2011ねんりんピック熊本開会式の開催など感動のステージとなったと。また国際的規模のスポーツイベントにも対応する第1種公認陸上競技場で、ラグビーワールドカップ2019の試合開催会場の1つ。そして着陸し、「旅客用(ローディング) エプロン」へ。現役時代に何回となく利用した熊本空港。エプロンへ向かう。熊本空港・管制塔、高さは37m。そして乗客が飛行機から降りる前からジェット燃料の給油が始まった。この機体が10:00時発の成田空港行きになるのであろう。時間は9:14。そして飛行機を降り、通路から窓越しに利用した機体を見る。右手にあったニッポンレンタカー熊本空港カウンターに向かう。そして送迎バスで5分程離れた熊本空港営業所へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.04
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「乗誓寺」を後にして、次の目的地の「八雲神社」に向かう。東浦賀1丁目17の路地を北に向かって進むと、「八雲神社」への石段が現れた、石段の途中、左手にあった「手水舎」。石段の途中から浦賀湾沿いに建つ「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」を振り返る。築年月(築年数) 1994年6月 (築30年)建物構造 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)建物階数 地上22階総戸数 314戸右手にあったのが「東浦賀1丁目町内会館」。さらに石段を上る。石段の上に「八雲神社」の拝殿が姿を見せた。祭神は須佐男命。この社は江戸時代の建物で、当時は、大谷山満宝院八雲堂という修験の寺であったと。明治以降、神社に変わりましたが、建物はそのままで、屋根に宝珠が乗る、寺院型式の御堂建築なのであった。拝殿の向拝には、漆喰で造られている「漆喰鏝絵(しっくいこてえ)」という、見事な龍が取り付けられていた。ズームして。「向背の龍」と呼ばれるこの作品は、木彫り彫刻?と見紛う、見事な出来栄えで、全国的にも珍しい存在であると。龍頭を中心に据え、全身を丸彫に造形、ガラス玉の玉眼を嵌入する。くねる龍身はしなやかで、均整がとれているが、彩色はかなり剥落し頭部の破損部分も目立つ。「伊豆の長八」とともに、漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時、明治35年(1902)の作品。背面左端に銘文があり、「明治三十五年/左善作/四十八才」とあった。作者の「左善」とは、左官の善吉の略で、浦賀の左官職人石川善吉のことである。明治35年(1902年)48歳の時の作品であることが分かるのであった。尚、漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されていたのであった。「八雲神社祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう・厄除け人形)が出ます。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「猩々坊」👈️リンク。行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば、まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。赤く長い髪が特徴的で、衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は、想像上の動物で猿に似ているとされ、人の顔と足を持ち、人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛とされ、酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は、大きな頭と顔、黒々とした髪・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが、猩々とは共通点があまり感じられない。江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり、疱瘡神は赤色を苦手とし、「赤が病魔を払う」という俗信から、東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化、赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々、赤を基調としたお守りや風習が存在するが、八雲神社の猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり、猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に造られた。ところが何故か、明治33年(1900)以降の祭礼においては、町内引き回しが行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が、神社に保存されていた猩々坊の色を塗り直したり、髭をつけたりして修復、平成7年(1995)見事復活を果たし、現在に至っているようで大変喜ばしいことだ とネットから。「御宝珠」。寺から神社に変わった当時、屋根に乗っていた御宝珠。現在のものは、その後作り替えられた金属製であると。近づいて。「当町守護八雲神社御祭神 須佐男命此の社は江戸時代の建物です。当時は大谷山満宝院八雲堂と申して真言宗修験のお寺でした。明治初期に神社になりまして其の当時屋根に乗りし御宝珠です。東浦賀 一丁目町内会」つぎに訪ねたのが「津守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目14。「津守稲荷」と。石鳥居の先に拝殿。手水舎。拝殿。ご祭神は、社名からの推定になりますが、食物や穀物の神様で、五穀豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。宇迦之御魂命とも表記され、稲荷神と同一です。創建は江戸時代中期の文政9年と。詳しい創建の経緯などは不明ですが、津守の「津」は港を意味するもので、港を守るお稲荷様として創建されたと考えられます。誰の手によりどのように創建されたかなどは、残念ながらわからない。拝殿の彫刻が目を惹いた。右側には龍、左側には神様でしょうか。木鼻(右)、下の方の両端には亀もいた。木鼻(左)、下の方の両端には亀もいた。拝殿の内陣。ズームして。拝殿に向かって右手には、「青面金剛塔」と書かれた小さな庚申塔があった。ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)の花。咲き始めは紫色だった花は少しずつ白っぽくなり,1本の木に紫と白の2色の花が咲いているように見えます。一つの花の花期は短いのですが,次々に咲き続けるので長く2色の花を楽しむことができるのだ。観音崎通りを京急浦賀駅方向に向かって歩く。横須賀市東浦賀1丁目12−17附近。右手奥に神社の石鳥居が見えた。石鳥居の先の石段の上に朱の社殿が。正面から。「船守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目11。お狐様(右)。お狐様(左)。「船守稲荷神社」の社殿。東浦賀1に鎮座する船守稲荷神社の縁起は不明とのことだが、境内に天明5年(1785年)銘の手水鉢が奉納されて残っている。船守稲荷神社の創建は、奉行所が下田から浦賀へ移された享保5年(1720年)以降で、稲荷信仰が江戸で大流行する江戸時代後期であろう。船守は文字どおり船を守る稲荷社で、港を守る津守稲荷神社とともに港町浦賀にふさわしい名前の稲荷社。手水鉢が船守稲荷神社氏子中による奉納ならば、船守稲荷神社は天明5年(1785年)以前の創建となろう。しかし、船の前に津があるのが普通である。津守稲荷神社は文政9年(1826年)に創建されているので、船守稲荷神社の創建が津守稲荷神社の創建よりもはるかに古いことはあるまい。一方、浦賀のもう一つの稲荷社である福寿稲荷の創建も弘化4年(1847年)にまで下がるから、船守稲荷神社の創建も19世紀にまで下がる可能性もある。しかし、西叶神社の摂社である船守稲荷神社の創建が元文4年(1737年)であることから、これ以前の創建である可能性が大であろう 鳥居は朱塗りではないが社殿は朱塗りである。内部に本殿が安置されているから、おそらくは覆い屋であろう とネットから。。内部に本殿が安置されていた。そしてさらに観音崎通りを進むと、右手奥、住宅と駐車場の間の奥の山裾に赤煉瓦作りの小さなトンネル風の建造物が。「水のトンネル明治三十三年(一九〇〇)に操業を開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の二葉二丁目にあった溜め池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口です。この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要としそのために造られたものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」横須賀市のサイトに詳しい説明があった。『明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、 現在の二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。 現在は使用されていません。 旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を整備しました。 明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、 昭和に入って作成された図面に残されています。 この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、 このために整備されたものと考えられます。 この工場で初めて開発された、浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、 昭和6年(1931年)に建造された貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、 タービンの開発と導水坑の整備は更に溯ることとなるのでしょう。 当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として利用されたそうです』と。「浦賀式3連成レシプロ並びに排気タービン連動汽機」そして「観音崎通り」を「浦賀駅前」交差点まで戻り、「浦賀通り」・県道208号線を南に進む。目的地は「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵👈️リンク黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」の絵を4月16日(火)以来久しぶりに見る。ズームして。「浦賀丘入口」交差点より、「ポップサーカス横須賀公演」が行われている浦賀ドック内の特設大テントを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.07
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我が家の横の菜園の「イチゴ畑」です。イチゴの収穫の最盛期ですが、夜中にイチゴを狙って来る動物がいるのです。イチゴの畝に防鳥用の網を被せましたが、その網の目に前足を突っ込んでイチゴを引っかき出すのです。赤い実ばかりでなくまだ未熟の実も網の外に転がっているのです。そして網を破っている場所もあるのです。姿は見ていませんが、明らかに鳥ではなく、四足の動物。ハクビシン、アライグマのどちらかではないでしょうか。よって先日に、対策の追加で、「イチゴ畑」全体を四角に囲むネットフェンスを取り付けました。もちろん1ヶ所だけ中に入れるようにしました。これが功を奏して、その後の被害はなくなりました。しかし、隣に余った苗がそのまま残り、赤い実をつけた場所、ここは何の対策も施していないのですが、何故かここには来ている様子がなくイチゴの赤い実がそのまま残り大きな実に成長して収穫出来ているのです。リスクがないと面白くないのでしょうか?それとも何もされていない事を罠と考えているのでしょうか?これが理解不能、残された課題なのです。昨日の収穫物です。大きいのはそのまま食べて、小さいのは妻がジャムにしています。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧手原村の旧東海道を進む。光圓寺の直ぐ先右手に『肩かえの松』があった。旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所と言われているのだ。「肩かえの松小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。」『肩かえの松碑』の隣に『真宗大谷派 石谷山 西巌寺』寺標。『西巌寺 本堂』。本堂のみ建っていた。西巌寺は、天和3年(1683)秀岳の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。交差点を渡る。ここは栗東市『手原一丁目』交差点。交差点を渡り更に直進する。先に進むと国道1号線から名神高速道路栗東インターチェンジへの高架連絡道が横切っていた。高架を潜ると右手に『行者堂』が。1820年(文政3)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像御告げにより背負って持ち帰り、小堂を建てたのが始まり、と彫られていた。役行者(えんのぎょうじゃ)とは、7世紀後半の山岳修行者で、陰陽道、神仙術と密教を古来の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立したようだ。保守的な神道側から虚偽の罪を申告され伊豆大島へ流されたのだと。『行者堂碑』。 「ここ東海道手原 ← 上鈎 小野 →」右側面には前述の「文政3年(1820)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像を御告により背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まり、権現僧都となる。」と。左側面には「手孕(てはらみ)説話の由緒・天満神社へ大橋へ至る」と。左手に進行方向・西に向いた祠が。『行者堂』から程なく右手に『里内呉服店』が姿を現した。呉服商を営んだ家で、旧東海道に面して屋敷を構える。主屋は、接道して建つ町家で、2階を低く押さえた外観など、明治初期の町家の特徴をよくそなえていた。庇を正面から西側面に矩の手にまわし、上部に雨除けの小庇を設けるなど褄の意匠に工夫がみられるのであると。『里内呉服店』は、明治5年(1872)創業で、大正11年(1922)まで呉服店を営んでいた。この建物は国登録有形文化財となっていた。『かぎて屋 里内呉服店』案内書。「里内呉服店は、明治5年創業(1872年)~大正11年廃業(1922年)し、50年間呉服店をここ手原で営んでまいりました。平成19年(2007年)85年振りに呉服店を再開し、創業当時のままの明治町屋を生かし現代に沿った呉服店を目指し現在に至っています。「着物を着たいけれど、なかなかねえ‥・」という方はおられませんか?当店では、着物を1枚1,000円から販売しております。古い着物には独特の模様があり、着る事はもちろんですが、リメイクして洋服や小物バックのアクセントとして使用する事もできます。着物の他にも、洋服や小物や裂き織り、バックなども置いておりますので、お気軽にご来店ください。また当店で着付け教室もしております。時間等はお気軽にお問い合わせください。」木札『東海道手原村 里内呉服店』。その先には『塩屋』の蔵が。『里内呉服店』の隣に『手原醤油塩屋藤五郎』が建っていた。木札『東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎』。現在は営業していない様子であったが。店脇には『手原醤油顕彰碑』が。三代目藤五郎(幼名長之助)と四代目藤五郎(幼名菅次郎)について細かく刻まれていた。「三代目 藤五郎 幼名 長之助弘化三年(一八六四)旗本竹中主水家(代官職)生まれ。明治維新後二十七才で栗太第四区町に、明治十二年初の県会議員に当選、明治三十年栗太銀行を創設、頭取として経済、郷土の隆盛の礎を築く。醤油醸造では家訓を守り、勤倹節約を旨としながら、慈善事業や公共工事には多大な資金を投じられた。明治三五年没。四代目藤五郎幼名菅次郎文久元年(一八六ニ)生れ、三代目の弟、家業を引き継ぎますますの隆盛を極める。原料の研究に取り組まれた。大正十二年に開業された手原駅には多大な協力をされた。昭和二年没。栗太銀行最後の頭取。」「手原醤油歌あまりにおいしく、たいへん評判が良いので長文の歌がよまれた(その一部)」色如葡萄紫而滑 色はブドウの如く紫にして滑らかなり人間百食益佳良 人が食べるすべて益々おいしくなる王侯饌差美如玉 王様のごちそうもおいしくなること玉のごとし」その先に白漆喰の外壁の酒屋の蔵が。木札『東海道手原村 酒屋 塩新』直ぐ先、左手の手原赤坂会館前に明治8年創立の『厚進学校跡』碑が建っていた。先ほど見た六地蔵村を出たあたりの「修斎学校」ともう1校が合併し、現在の「葉山小学校」となっているのだ。碑の奥にはかつての学校門柱が保存され、傍らに学校門柱碑・赤坂山記念碑があった。『学校門柱碑』。「赤坂山記念碑抑 赤坂山6町7反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し、明治22年の頃、当時の現住民72名の共同名義にて仮登記。以来手原の共有山として区長管理の下に玉梅社等の協力を得て、その保安に努めて来たのである。この間明治42年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当。その後植栽を行い葉山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として、区の財政に多大の寄与をなして来た。然るに名神高速道路の開通に伴い、仝付近の開発頓に進み、昭和43年開発事業団の要請に応ずるの止むなきに至り、永年の愛着を捨て譲渡に決する。即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し、区民の福利増進施設として手原赤坂会館と命名。之を建設する。」「抑」は「そもそも」と読む事を知ったのであった。手原赤坂会館の隣に『手原稲荷神社』があった。街道沿いには『常夜燈』が。『明治天皇手原御小休所』碑。手孕(てはらみ)ベンチの手のモニュメント「手孕ベンチ伝説が歌舞伎 「源平布引滝」 に、子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な後の木曽義仲)子どもを守り育てるベンチ。(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)」『稲荷神社由緒碑』。「稲荷神社由緒里中大明神 木造男神座像 (明応9年開眼)室町時代」当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。 寛元3年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。 子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明3年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文4年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。 慶長17年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享3年(1686)と享保8年(1723)に社殿の再建あり、明治2年改築、明治9年10月村社に列す、昭和61年修復工事を施行。当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。 東海道名所記に 「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如しなり、傘松の宮と言う」 と記され江戸時代は傘松が有名であった。」『稲荷神社』の扁額が掛かる鳥居。『拝殿』。『里中大明神碑』が建つ『稲荷神社覆屋』。『明治天皇御聖跡碑』。『手原稲荷神社』前の十字路左角に『素月漢詩碑』があった。中央の碑に 『栗太八景👈リンク 手原行人 雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々 寛延3年12月 素月作』 と刻まれていた。「雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天 終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 往来故(ふる)くから有り幾年々」と。左の碑に『手原を通る旅人 雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑る万里天 終日鞭を著け痩馬は馳せ 往来故くから有り幾年々』と。『手原稲荷神社』前の石材屋の作品群。そして、この日のゴール地点の『手原駅』に向かって旧東海道を右折した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.11
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「富岡八幡宮」を後にし、深川不動尊仲見世通りに向かい進む。ここが深川不動尊仲見世通り。右手にあったのが「永代寺」。高野山 真言宗 「大栄山 永代寺 略縁起」「永代寺は、寛永四年(1627)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曽ての永代地庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折りには祈祷札を徴せられ、承応三年(1654)からは年頭独札の許可、元禄十二年(1699)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名刹を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年-1692-創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。」「本堂」。「地蔵堂」。扁額「地蔵堂」。「地蔵堂の内陣」。「絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅」がこの寺にあると。地蔵善薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦八四.〇cm、横三七.〇cm。表装は縦一七八.八cm、横五六.〇cmです。地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩座の上の蓮華座上に半跏に坐っています。また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。地蔵信仰は奈良時代未ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を特ちます。本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(一四世紀)の製作と考えられます。本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという殄しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などから絵画史上において貴重な作品といえます。」「大栄山 永代寺」を深川不動尊仲見世通りから再び。そして正面奥に「成田山 深川不動堂」の姿が。7・8月15日 10時・12時・14時に「孟蘭盆会萬燈供養」が行われると。境内案内図。 【http://www.fukagawafudou.gr.jp/guide/index.html】より「深川不動尊由来深川不動尊は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878)当地に遷座され、同14年、堂宇が建立されました。元禄(1688~1703)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。」正面に「旧本堂」成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派の寺院であり、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院である。通称は深川不動尊、深川不動堂。前本堂が東京大空襲で焼失した後、千葉県本埜村(現・印西市)の龍腹寺の堂(文久3年・1863年建立)を移築して本堂としたもので、昭和25年(1950年)に移築が完了、翌年に落慶法要が営まれた。現在は帆刈黌童作の丈八の「おねがい不動尊」が安置されている。敷地内に一歩足を踏み入れると、大きなわらじが飾ってあった。こちらは「わらじ守り」と言われていて、足腰の息災を願うお守りなんだと。「手水舎」。手水舎の奥に「深川龍神様」の祈祷場所があった。こちらは深川不動堂ならではの場所で、「龍神願い札」を水に浮かべて祈祷するとお札が水に溶けていき、お願い事が龍神様のもとへ届くと言われているのだと。そして「旧本堂」を参拝。「おねがい不動尊」を金網越しに。旧本堂の扁額「深川不動堂」。本堂の木鼻の獅子の彫刻。「旧本堂」右手に「愛玩堂」。愛玩堂ではペットの長寿延命・病気平癒・傷病平癒を祈願出来ると。また、ペット供養・人形供養も行っているようであった。旧本堂に登る階段の両脇は、制咜迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)。巨大な草鞋の後には矜羯羅童子が。お不動様の多くは、脇士(わきじ)に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた姿でお祀りされていると。これはお不動様の持つ「慈悲(じひ)」と「忿怒(ふんぬ)」を両童子を以て表しているとも云われ、矜羯羅童子が「慈悲」を、制吒迦童子が 「忿怒」を表しているのだと。境内右手「深川開運出世稲荷」成田山出世稲荷(荼枳尼天)を勧請したもの。扁額は「荼枳尼天尊」。「荼枳尼天尊」の赤い幟旗が並ぶ。「祈祷殿」。護摩木、御朱印受付所。そしてこちらが「新本堂」。外観は文字のような模様でいっぱいに飾られているが、こちらは「真言梵字壁(しんごんぼんじへき)」と言われている。不動様のご真言を古代インドの文字(サンスクリット)で書いたものだとのことだが、非常に芸術的な印象を受けるのであった。不動明王のご真言が梵字で書かれているのだと。右側の金ストライプのある黒い部分が2010年に竣工した「新本堂」。設計は玉置アトリエ。京都にある小さな設計事務所でこれ以外に特に目立つ公共的作品は見当たらないと。左側の大きな屋根を持つ部分が2017年に建てられた「翼殿」。御祈祷の申し込みやお札の受け取りにに集まる信者を風雨から守るためのの施設であると。こちらにも梵字が連なっているのであった。文字は一辺30cm程の大きさか。ひとつづつアルミで鋳造されているとのこと。奥には多種の蓮が栽培されていた。世話をする人の姿も。ここが「新本堂」の入口。数年前に訪ねた時には「新本堂」に入り、この写真を。真っ白に光り輝く静かなクリスタル回廊。1万体の五輪塔が納められている「祈りの回廊」。手水舎の先にあった「亀鯉供養之碑」。昔、深川公園には、池があったが、その池に住みついていた亀や鯉を助け出さないまま、面倒くさがって、そのまま生き埋めにしてしまったのだと。不動明王が安置されていた「古いお札納め所」。そして「深川不動堂」から深川不動尊仲見世通りを見る。大きな青銅の灯籠。明治末期の富岡八幡宮と深川公園の姿を今に伝える漆喰画。「深川公園について深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。この漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。」「深川公園」の「深川不動堂」側にあったのが「石造燈明台」。「石造燈明台」案内板。「江東区指定有形文化財(建造物) 石造燈明台 明治三十一年在銘 一基日清戦争(1894~1895)の勝利を記念して、深川不動尊の境内南東地に建てられました。明治28年(1895)12月に起工し、明治31年(1899)7月に竣工しました。高さ839.4cm、最大幅373.4cmの大きな燈明台で、内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び監督技師の佐立七次郎(1856~1922)は、工部大学校造家学科(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日本近代建築家の1人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治27年〔1894〕竣工)が現存します。外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が359点貼られています。奉納者には「団菊左時代」を築いた9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。就航当初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。平成19年度に区指定有形文化財に指定され、平成20年(2008)に現在地に移設されました。」「明治三十七八年役戦死者忠魂碑」日露戦争の慰霊碑で、題字は渋沢栄一氏によるもの。「富岡八幡宮別棟永代寺跡」碑がその脇に。江戸時代は富岡八幡宮の別当(神社を管理する寺)、永代寺がここにあったと。往時にはこのあたりが海岸線で、永代島という島の寺という意味で、永代橋の名の起こりにも通じる名刹であったと。公園では少年野球の練習が行われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.07.17
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「ビーナスライン」を「蓼科湖」に向かって下っていった。枝垂れ桜が満開出迎えてくれた。「蓼科高原」、「北八ヶ岳ロープウェイ」案内板もあった。左側にあったのが「リゾートホテル蓼科」その先に「ヤマザキショップリゾートホテル蓼科店」。そして左手に「蓼科湖(たてしなこ)」が姿を現した。「蓼科湖」は、昭和27年5月、農業用温水ため池として、また観光のメッカとして誕生した人造湖。湖畔は白樺や落葉松の林にかこまれ、南側に立てば蓼科山の山容が湖面にくっきりと映し出されると。そして右手にあった「聖光寺(しょうこうじ)」駐車場に到着しバスを下車。「蓼科山聖光寺縁起蓼科山聖光寺は 交通安全 一路安穏を専一に祈祷する道場として 、昭和四十五年七月、トヨタ自動車販売株式会社及び関係会社の発願により、山紫明水山嶺神宿の地、蓼科の郷に創建された。本尊は救苦観世音菩薩の霊像にして 日本には稀有なる尊容を示し給い 左手に胡柳を捧持し 右手に花籠を提持し給う この尊体は遥かに天竺と中国を結ぶ天山北路の駅邑湧泉の郷の龕窟に祭祀されたる観世音菩薩なり タクラマカン沙漠を往来する求法僧をはじめキャラバン隊商たちの一路安穩・交通安全の祈りを千年にわたり 一身に受け給う 旅の安全を願うは人間の常なり境内に観世音菩薩の三十三身に化身し給いて慈悲を施し給う尊像を安置す奉斎せる薬師如来は密教蘊奥の浄利 ネパール国将来佛にして 三界所有の有情非情のすべてを安楽なさしめるために 七佛薬師放香報光四十四大願を発願し給い 身心健康の功徳を衆生に施し給う当寺は奈良薬師寺に千四百年の伝統ある唯識教学を伝承する一道場であり その教学は東洋的認識論を説き 世俗にあっては世情認識を正しく得るために正常な人格を養成する修行方法論なり親世音菩薩・薬師如来の脇待尊者として唯識教学を大成したアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)大士を祭祀し 両大士の完成し給うたる教学により衆生を純真寡悪の世界に導入あらんことを願う」「聖光寺」境内案内図。寺号標石「蓼科山 聖光寺」。「山門」の左前にあった石庭内にあったのは「毘沙門天」。「毘沙門天」をズームして。「観世音菩薩三十三應化身像‥‥‥‥・以下解読不能」正面に見事な「山門」。山門は平安時代の優美さを再現し、観音様の慈悲を示現給う應化身三十三身の中、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)、優姿塞身像(うばそくしんぞう)が山門に祀られていた。「山門」の扁額は「蓼科山」。「梵天」。「帝釈天」。「格子天井」と「一路安穏」と書かれた提灯が2個。「山門」を境内側から見る。「天大将軍身像」(左)。「優姿塞身像」(右)。「山門」の先にあったのが「旧灯籠」。近づいて。前方に「太鼓橋」。「修行僧」。左手に「放生池」。観世音菩薩の化身、三十三身があちこちに。「伽留羅」。「阿修羅」。「大自在天」。「旧灯籠」、「山門」を振り返る。「本堂」に向かって「太鼓橋」を渡って桜の参道を進む。標高1200mに咲くソメイヨシノの桜はピークは過ぎていたが。本州で最も遅い「ソメイヨシノ」が見られる桜の名所とのこと。1週間前の晴天であれば(ネットから)。この日の桜を見上げて。「本堂」に向かって。右手奥には「鐘楼」が見えた。正面に「灯籠」と「本堂」が。左手に「手水舎」。その先に藁葺き屋根の「奉納殿」。「鐘楼」。「鐘楼」の「軒廻り」をズームして。独特なデザインの「斗拱(ときょう)」。「斗栱」とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称。 基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されている。 斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称される。「梵鐘」。「灯籠」に近づいて。境内の「枝垂れ桜」も満開。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.28
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この日は8月30日(水)、夕方からJR飯田橋駅近くで、4年前のブルガリア・ルーマニア旅行の旅友との飲み会があるので、早めに自宅を出て、小田急線・新宿経由で飯田橋駅まで行き飯田橋駅東口に出る。目白通りを東に向かって進む。ガード下にあった、この場所の周辺の地図。目白通りの九段下方向を見る。その先、歩道左側に石碑があった。「飯田橋 散歩路(サンポーロ)この後に訪ねた「歴史のプロムナード昔々 縄文時代の頃 このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後 海は後退し 葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は町人の町として賑わいましたが明治になって旗本屋敷の後には住む人もいなくなり一時は大変さびれました。しかし 次第に賑わいを取り戻し現在のようなビル街に変わりましたこの飯田橋散歩路に標柱を建てこの町の移りかわりを示します。」千代田区飯田橋の町を南北につらぬくメインストリート 目白通り。その歩道には「飯田橋散歩路(サンポーロ)」と称する道標を兼ねた石柱が置かれていた。設置されている標柱で私が訪ねることが出来たのは順番に以下である。●東京農業大学 開校の地◯飯田橋●日本大学開校の地●東京府立第四中学校 発祥の地●國學院大学 開校の地●日本赤十字社跡●甲武鉄道 飯田町駅●歴史のプロムナード(上記)●徽章業発祥の地・銅板A●北辰社牧場跡●台所町跡◯飯田町●東京女子医科大学 発祥の地●滝沢馬琴 硯の井戸●元飯田町跡●築土神社「東京農業大学 開校の地」標柱。千代田区飯田橋4丁目9−11。「東京農業大学 開校の地明治24年(1891)、 東京農大の原点「育英黌農業科」が、当地で産声を上げました。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚でした。明治26年(1893)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。」目白通り。目白通りは、千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道。 JR飯田橋駅前やJR目白駅前、西武池袋線の練馬駅付近を通るほか、沿道には椿山荘や東京カテドラル、日本女子大学、学習院大学、武蔵大学がある。正式名称は都道8号千代田練馬田無線(ちよだねりまたなしせん)。目白通りの反対側にあったのが「飯田橋」石碑。千代田区飯田橋3丁目6。「飯田橋江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました」その先にあったのが高層ビル「東京区政会館」。千代田区飯田橋3丁目5−1。「東京区政会館」は、東京都千代田区飯田橋三丁目に所在する超高層ビル。公益財団法人特別区協議会の事務所であるが、特別区相互の連絡調整を図るための場としての役割も担う。また、東京都立大学飯田橋キャンパスが入居する。特別区人事・厚生事務組合、東京23区清掃一部事務組合、東京都国民健康保険団体連合会、飲食店、歯科医院等が入居しているとのこと。この東京区政会館が完成する前は、千代田区九段北に旧・東京区政会館(現:特別区職員研修所)👈リンクがあったと。地下3階、地上21階、高さ97mの「東京区政会館」を見上げて。ビルの前にあったのが「發祥記念碑」國學院大學・日本大学の前身にあたる皇典講究所の元校地・飯田橋に置かれた碑。日本大学と國學院大學が1985年(昭和60年)に設置したと。「發祥記念碑明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと明治二十二年 日本法律学校(現 日本大学)明治二十三年 國学院(現 國学院大学)を開設す石碑の左側に昭和六十年十一月吉日 建立 日本大学 國学院大学」中央に球形の赤御影石碑。その隣にあったのが「日本医科大学付属第一病院記念碑」。「日本医科大学付属第一病院記念碑七十三年の歴史日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924年)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931年)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及びいりの発展に大きく貢献してきたが、平成9年9月30日(1997年)閉院した。」。千代田区飯田橋3丁目5。日本医科大学付属第一病院記念碑の碑面に刻されている写真をズームして。「千代田区町名由来板 飯田橋」。「千代田区町名由来板 飯田橋飯田橋天正十八年(1590) 、徳川家康は領主として江戸にやってきました。関東入りしてほどなく、家康は現在の飯田橋(いいだばし)周辺を視察しています。このとき案内役を買って出たのが、飯田喜兵衛(きへえ)という住人でした。喜兵衛の懇切丁寧な案内を、家康はよほど気に入ったのでしょう。視察後、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに土地の名前まで、喜兵衛にちなんで飯田町(いいだまち)とするよう命じたのです。その後、この界隈(かいわい)は武家地となったため、正式な町名をもっていませんでしたが、「飯田町」は通称として使われ続けました。明治五年(1872年)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一丁目~六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのでした。そして昭和八年(1933年)、飯田町四丁目の北側、同五丁目と六丁目などが、新たに飯田町二丁目となりました。飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治十四年(1881年)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。その後、明治二十三年(1890年)に修築されたのち、同四十一年(1908年)には鉄橋に、昭和四年(1929年)にはコンクリート製の橋に改良され、現在に至っています。その橋の名が、町名として採用されたのは、昭和四十一年(1966年)のことです。このとき、飯田町二丁目は町中をつらぬく目白通りを境に、東側が飯田橋三丁目、西側は富士見町二丁目の一部を編入して飯田橋四丁目になりました。」「「飯田橋」界隈(安政三年・一八五六)」現在地はここ。そして「日本大学 開校の地」石碑。千代田区飯田橋3丁目5。「日本大学 開校の地明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣と所長である山田顕義 により 日本法律学校が創立されました。これは、 日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。」再び「東京区政会館」を見上げて。現在位置はここ。その先にあったのが「東京府立第四中學校発祥の地」石碑千代田区飯田橋3丁目5。「東京府立第四中學校発祥の地明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にあった皇典講究所で開校しました。同所は 明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので,、明治21年(1888)に 同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて 府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ヶ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。」さらにその先に「國學院大學開校の地」石碑。「國學院大學開校の地明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。」「飯田橋3丁目」の交差点を渡り少し進むとあったのが「日本赤十字社跡記念碑」「日本赤十字社跡記念碑明治十年(一八七七)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護活動を開始しました。明治十九年(一八八六)、旧麹町区飯田町四丁目、現在のJR飯田町貨物駅のところに博愛社が病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌二十年に博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治二十七年(一八九四)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(一九一ニ)に芝に移るまでここにありました」再び横断歩道を渡り引き返したが行き過ぎ、戻って路地を左手に折れて進む。ガード手前の道を右折。進んで行くと正面に線路跡が現れた。JR水道橋駅と飯田橋駅の中間あたり、ホテルメトロポリタンとアイガーデンテラスの間のスペースに、かつての甲武鉄道の線路跡が残っていた。飯田町駅は東京側のターミナル駅で、後に国鉄の貨物駅となったが、鉄道貨物輸送の減少で平成11年に廃止になった。今は、残された線路跡がかつての鉄道の存在を伝えているのであった。明治22年、新宿~八王子間に甲武鉄道が開業し、その後に延長され、飯田町駅が開業。そこが、現在の中央線の始発駅となったとのこと。さらに、日本初の電車が運転され、その後、甲武鉄道は国有化され、昭和初期ころには飯田町駅は貨物専用駅となったとのこと。つまり、JR中央線の始まりとなった起点スポットがここであると。現在地はここ。「アイ ガーデンテラス」前から「甲武鉄道の線路跡」を振り返る。左側にあったのが「大和ハウス東京ビル」。「大和ハウス工業株式会社」グループシンボルマークはエンドレスハート。「顧客との絆、大和ハウスグループの連帯感と絆が包み込む優しいハート。メビウスの輪を想起させる造形は、絶えることのないグループの行動と、無限に続く成長・発展性を表しています。中心の正円はグループの原点であり、和を意味します。」と。「GardenAir 公開空地標示この広場及び道路は、建築基準法に基づく総合設計制度並びに同法第86条第2項の規定に基づき認定を受け設けられた公開空地で、歩行者が日常自由に進行又は利用できるものです。」1971(昭和46)年に創設された総合設計制度に基づいて、ビルやマンションの敷地に設けられた一般公衆が自由に出入りできる空間のことを「公開空地」と呼ぶ。総合設計制度は、正式には「敷地内に広い空地を有する建築物の容積率等の特例」という名称である(建築基準法第59条の2)。これは、建築物の敷地内に一定以上の公開空地を有する等の条件を満たす建築物について、容積率や各種の高さ制限を特定行政庁が緩和するという制度である。言い換えれば、容積率等をボーナスとして与えることにより、開発者に公開空地を作るように促すという制度であるということができる。この総合設計制度により作られた公開空地は、一般公衆が自由に通行できる空間でなければならず、通路や植栽を整備した快適な空間とすることが多い と。「GardenAir 公開空地」案内地図。「飯田橋アイガーデンテラス」3階テラスから甲武鉄道の線路跡を見下ろす。甲武鉄道「ゼロキロポスト」モニュメント。「1895年(明治28年)甲武鉄道始点の地」。甲武鉄道(現:中央線)年譜1889年(明治22) 新宿ーハ王子間に甲武鉄道か開業1895年(明治28) 飯田町駅か開業、始発駅となる1904年(明治37) 飯田町ー中野間か電化 御茶ノ水駅開業1906年(明治39) 国有化1933年(昭和8) 飯田町駅が旅客取扱いを廃止し貨物専用駅となる当時の「甲武鉄道飯田町駅」の写真。在りし日の甲武鉄道 航空写真 をネットから。この写真の場所にはなかった「甲武鉄道飯田町駅」石碑をネットから。探したが、残念ながら発見できず。よってこちらもネットから。「甲武鉄道飯田町駅明治22年(1889)、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で始めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川橋側にありました。」 ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.07
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四方を電流有刺鉄線に囲まれ、外の世界から完全に遮断されたアウシュビッツ絶滅収容所。その一番最果ての角そして正門から一番遠い部分にあたるその場所が、<死のブロック>と呼ばれる場所。 ナチスドイツが数千人を銃殺した「死の壁」 レンガ作りの赤い壁は、一見したところどこにでもあるような、普通のブロック状の壁。何も知らずにこの壁を見たら、おそらく私は何も感じるものはないかもしれない。何千という銃弾を受けた壁。 収容者用三段ベッド。 収容所を囲んでいる二重の有刺鉄線フェンス。鉄線には6000Vの高圧電流が流れていたと。 ヘスの絞首台。1947年、初代アウシュヴィッツ所長のルドルフ・フェルディナント・ヘス が締首刑にされた場所。 ガス室。 そして焼却炉の煙突。 ガス室内部。 天井にチクロンガスの投入口があった。 苦しみもがいた爪痕がガス室の壁の至る所に。写真を撮るのも、ブログに掲載するのも躊躇しましたが、このような悲しい事実があったことを未来に語り継ぐことが、ここを訪れた私の責務と。 焼却炉。ユダヤ人はガス殺されて遺体はこここで火葬されたと。アウシュビッツの長官は 「お前たちの出口はここの煙突しかない!」と収容者に口癖のように叫んでいたと説明が。 再びバスに乗りアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ。被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。 死の門。この門をくぐると生きて帰れない事から「死の門」と呼ばれるようになったと。 展望室に上がる。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設が。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされるのだ。ピーク時の1944年には90,000人が収容されたのだ。そのほとんどはユダヤ人と。 巨大な収容所の平面配置図。 このホームで生死の仕分けが行われたのだ。 恐怖と劣悪な環境、奴隷労働。ガイドは「想像できない光景」と表現していた。これはわずか70年近く前に、実際に人類が行ったことなのだ。日本人は、加害者として、同時に被害者として両方の立場で、戦争の悲劇を子供たちにも伝えていく責任を負っていることを痛感したのであった・・・・・・・・・。そしてバスでクラクフまで走りホテルにチェックイン後にこの日の夕食。 全員が落ち込んだ気持ちでの夕食。 スープ。 そして旨くなかった餃子のようなすいとんの様なピロシキ。 店内で歌も歌われていたが・・・・。 クラクフ旧市街にある礼拝堂の尖塔が。
2013.10.07
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この日は、いよいよベトナム縦断旅行出発の日。旅友のSさんが早朝5:30過ぎに我が家に愛車で迎えに来てくれました。そして成田空港に向けて国道1号線から横浜新道に入る。 横浜新道から湾岸線へ。 横浜ベイブリッジを順調に渡る。 羽田空港のシンボル的存在の 羽田スカイアーチ(はねだスカイアーチ)が左手に。第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁。その後ろに新旧管制塔も。東関東道に入る。 成田空港ICから新空港自動車道へ。 新空港自動車道を降り第1ターミナル北ウィングに向かう。 成田空港管制塔が目の前に。 北ウイング4階出発ロビー前の道路で車を預け、集合場所のG-6・7 に到着。時間は7:15。自宅から1時間45分で到着。今回のツアーは日本からの添乗員は同行しない。クラブツーリズム係員からこれからの流の説明を受けた後にチェックイン。ベトナム・ハノイ空港まではベトナム航空VN311便 10:00出発便。 ベトナムでは米ドルが使えるとのことで日本円を米ドルに両替。この日のレートは111.31円/ドル。 時間があるので、5Fに上がり散策。5Fからの4F国際線出発ロビーを見る。5F展望ロビーからベトナム航空機を見る。『NARITA』と刈り込まれた植栽。航空科学博物館の案内パネル。 早めの出国手続きを終え、江戸の粋と現代のモダンがミックスした個性的なショップ、北ウイング3Fにある『ASAKUSA』。 メイドインジャパンにこだわった商品展開。 歌川広重 名所江戸百景『日本橋江戸ばし』と書かれた巨大な美人画。免税店でウィスキーを購入し、22番出発ゲートで待つ。搭乗ゲートを通過時に、係員に呼び止められ脇の場所に案内される。何とそこには先程預けた我がトランクが。係員からリチューム電池がトランクに入っているから、トランクから機内持ち込み荷物に移し替えよと。トランク内のこの場所にリチューム電池があるとトランクを開ける前に教えられる。その場所に見事にあったモバイルバッテリーを取り出しリュックに移す。充電器に使われているリチウムイオン電池やリチウム電池は危険物に分類されていると。飛行中の揺れや離着陸による衝撃などにより発火したり爆発したりする危険性があるため、機内への持ち込みが制限されているのだと。特に、貨物室の下部では揺れによる衝撃がさらに大きくなると。万一、貨物室で発火してしまうと火を消し止めるのはとても難しいからであると係員の女性が丁寧に説明してくれた。そして何とか機内に。 VN311便はボーイング787-600 通称ドリームライナー。 定刻10:00に出発し、暫くすると左手の雲の合間に富士山の姿が。 琵琶湖、山科、京都の街並みが見えた。 そしてビールを。 徳山市上空を通過し九州上空へ。 遠く長崎・雲仙普賢岳が見えた。 大村湾に浮かぶ長崎空港が眼下に。 そして機内食を楽しむ。金目鯛西京焼、ご飯、温野菜添え。蓮根金平、薩摩芋甘露煮、卵焼き。フルーツ盛り合わせ、パン。 そして下界は雲に隠れ、私もビール、赤ワインも入りウトウトと。気がつくと既にハノイの上空に。 水田地帯が眼下に広がっていた。そして現地時間13時に着陸。成田空港から5時間の飛行。そして日本との時差は-2時間。 初めて降りるベトナム・ハノイ空港。 ノイバイ国際空港(ノイバイこくさいくうこう、ベトナム語: Cảng hàng không quốc tế NộiBài、英語: Noi Bai International Airport)は、ベトナム社会主義共和国の首都・ハノイ市にある国際空港。ハノイ都心部から北に約45km離れた場所に位置しており、ベトナム北部最大の空港。ベトナム航空とベトジェットエア、ジェットスター・パシフィック航空がハブ空港としている。 無事入国手続きを済ませ、 手荷物受取場へ。やはり日本と異なりかなりの時間を要したが無事に我がトランクを回収。 そして現地添乗員の待つ出口ロビーに向かう。
2017.09.08
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