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第62回佐倉市民花火大会(佐倉花火フェスタ2023)を楽しんだ翌朝8月6日(日)、6時前に起床し、「ウィシュトンホテルユーカリ」の我が部屋からの「ユーカリが丘」駅北口を見下ろす。正面にショッピングモール「ユーカリプラザ (YOU!PLA)」。右側には発車を待つ「山万ユーカリが丘線」の電車車輌。広場には2体の像が。佐倉市在住・久保浩 氏 作、女性像「歡び 水の燦き」(右)、男性像「歡び 森の耀き」(左)。1982年(昭和57年)11月2日 - ユーカリが丘駅 - (女子大駅) - 中学校駅間開業。1983年(昭和58年)9月22日 - 中学校駅 - (井野駅) - 公園駅間開業により全線開業。 環状運転開始。1992年(平成4年)12月3日 - 地区センター駅開業路線距離(営業キロ):4.1 km駅数:6駅(ユーカリが丘駅・地区センター駅・公園駅はそれぞれ1駅として計上)車輌:3両編成帰路は、京成本線、横須賀線を利用して新橋駅で下車し、前回訪ねることが出来なかった新橋周辺の汐留・築地・明石地区の名所、遺跡、神社等を巡ったのであった。JR新橋駅にあった壁画。「吉岡堅二作 くじゃく窓」。ズームして。JR新橋駅の地下ホームへと降りる通路に飾られたステンドグラス。烏森改札から入って右奥へ進んだところにあった。新橋駅の地下ホーム開業を記念したもので、制作のためのガラスは欧州から直接取り寄せられ、完成まで約1年の月日が費やされたという。「この作品は、日本の伝統的な美しさと気品をたたえる孔雀と明治5年汽笛一声の由緒ある新橋駅に因み鉄道の力強さを表現する機関車を題材に制作されました。左側の機関車は新橋-横浜間を運転した1号機の正面像で往時の姿をそのまま伝えています。右側の動輪はE102号機のもので、現在、青梅鉄道公園に保存されているものです。パリのノートルダム寺院のバラ窓に想を得て描かれたことから「くじゃく窓」と命名されました。」とネットから。孔雀は日本の伝統的な美しさと気品を表しているのであった。そして「ゆりかもめ 新橋駅」に向かって進む。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を見上げる。「汐留タワー」の上層部にザ ロイヤルパークホテル アイコニック 東京汐留、下層部に資生堂汐留オフィスが入る。高さ172m、最上階38階。「日本テレビタワー」が建物外部四隅に柱を露出させた理由は、容積率緩和措置を受けるため。その他、地上2階の受付前フロアを自由通路とすることによっても容積率緩和措置を受けているとのこと。高さ169m、最上階32階。前回訪ねた「亀の噴水」を再び。港区東新橋1丁目8。幸運を呼ぶ動物とされているアカウミガメの学名『Caretta Caretta』から名付けられた『カレッタ汐留』のシンボルとして親しまれている噴水。中国出身の世界的現代美術のアーティスト蔡國強(ツァイグォチャン)により、風水思想を元に巨大な自然石を都市に持ち込むことで自然とのつながりを体感させようとするもの。噴水は10時~22時の毎正時ごとに約20分間行われる と。「カレッタ汐留」。「カレッタ汐留」は、さまざまな種類の飲食店やショップのほか、日本初の広告ミュージアム「アドミュージアム東京」、「大同生命ミュージカルシアター 電通四季劇場[海]」といった文化施設を併設した複合商業施設。46階の展望スペースでは、無料で地上約200mからの東京湾のナイスビューを一望でき、同フロアのレストランでは昼も夜も景色を眺めながら食事を楽しめると。港区東新橋1丁目8−2。大同生命ミュージカルシアター 「電通四季劇場[海] 」の看板。首都圏における劇団四季の常設専用劇場。浜松町の四季劇場にも近く、さながら" リトル・ブロードウェイ" とも称すべき劇場文化ゾーン。劇場の客席は2階層約1200席。2階客席が、1階中央近くまでせり出し、ステージの躍動感、感動がじかに伝わってくる舞台設計となっている と。港区東新橋1丁目8−2 カレッタ汐留 1階。「朝露童子/Child of The Morning Dew [B2F]」作者:藪内佐斗司「亀の噴水」越しに「カレッタ汐留」を振り返る。右手奥に「日本テレビタワー」。港区東新橋1丁目6−1。北玄関脇の正面に「案内板」が。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」。港区東新橋1丁目2−5。「江戸時代の仙台藩上屋敷跡ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷跡であることが確認された場所である。江戸時代、全国の大名は江戸に藩主や家臣団が住む藩邸を設けており、初代仙台藩主伊達政宗の時代には、外桜田(日比谷公園)や愛宕下(新橋五・六丁目)などに屋敷があった。この地には、寛永十八年(一六四一)、下屋敷が設けられ、延宝四年(一六七六)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。屋敷の東北部から汐留川(仙台川ともいう)に接するかたちで大きな舟入場が発見されている。下屋敷時代は、藩の物資の集積場・倉庫の役割を担っていたので多くの物資の出入りがあったと考えられる。 仙台市 日本テレビ」「伊達家芝上屋敷絵図亨保~天明(1716~1788)頃のもの。」仙台藩上屋敷全体が描かれた唯一のもので、発掘調査で大小2つの池や遣り水跡が見つかった。絵図の右手は汐留川、浜御殿、海へと続く。さらにズームして。再び、建物外部四隅に柱を露出させた「日本テレビタワー」を近くから見上げる。日テレタワーのゼロスタジオから、正面玄関に続く階段を見る。上方にあったのが「宮崎駿の日テレ大時計」。港区東新橋1丁目6−1。正面に見えたのが「汐留シティセンター」。2003年1月23日に竣工した、地上43階 地下4階のオフィスビル。建物中層から高層部にかけては深いエメラルドグリーンのガラスを一面に貼り、優美な曲線を描いた外観が未来的なイメージを創出し、低層部は新橋停車場跡との調和を考えて花崗岩に覆われたクラシカルなデザインとなっている。1階ロビーには、ダイナミックで斬新なデザインのレリーフ、油絵、彫刻などを視覚的に配している。そして日本テレビ本社にある「宮崎駿の日テレ大時計」の前に。宮崎駿監督が手がけた、からくり時計として、日テレ観光の目玉のひとつでもある。幅が16m、高さが12mもあり、1228枚の銅板を一枚一枚加工して作られている と。この大時計が設置されたのが2006年。企画から6年をかけて、日テレとスタジオジプリが作りあげた。デザインは、少しハウルの城に近いものがあるとのこと。これは、宮崎監督が大時計のデザインを手がけた時期と、『ハウルの動く城』の製作時期が近かったため、似たようなイメージになったのではないかと。反対側の緑地の先には「ゆりかもめ」が。「宮崎駿の日テレ大時計宮﨑駿監督(みやざきはやお)がデザインした大時計。仕掛けが溢れる美しい時計が時を刻んでいます。」「宮崎駿の日テレ大時計 演出スケジュール演出スケジュール月~金:12:00、13:00、15:00、18:00、20:00土・日:10:00、12:00、13:00、15:00、18:00、20:00※毎回、およそ3分前から演出が始まります。」。「日テレ屋日テレキャラクターショップ「日テレ屋」では、大時計をデザインした宮堝駿監督をはじめとする「スタジオジプリ」グッズを多く取り揃えて皆様をお待ちしております。大時計をご覧いただいた記念にぜひお立ち寄りください!」時計版の右に鍛冶屋一族。時計版の左に鐘一族。からくりが作動すると、彼らが動き出すのであった。左斜めから見る。この烏脚のデザインは、ほんとうにハウルの城と似ているのであった。「宮崎駿の日テレ大時計」👈の仕掛け用の歯車を見る。そして次に「汐留シティセンター」を見る。港区東新橋1丁目5−2。「汐留タワー」と「日本テレビタワー」を振り返る。次に「電通本社ビル」を訪ねた。安田侃「妙夢」。六本木の東京ミッドタウンにも、色違いの「妙夢」が展示されている と。港区東新橋1丁目8−1。広々としたエントランスを歩く。カレッタ汐留46・47階にはレストランと地上200mの展望台があり、お台場などの湾岸エリアや勝どき・晴海エリアが眺められるとのことで向かう。カレッタ汐留 46F シャトルエレベーター前にあったのが「関根伸夫 / 豊穣の海 “The Fertile Sea“」。高層階レストランフロアのエレベーター前に設置された作品。1970年代前後の日本でものに加工をせずそのまま提示することで新たな芸術表現を試みた「もの派」を代表する作家関根伸夫の作品。関根は「公共空間を活性化させるアート」として環境美術に精力的に取り組んでいる。タイトルは三島由紀夫の小説から転用したもの。枯山水をテーマに波紋や波、山、円錐を配置した石庭を表現している。台湾産の大理石、緑色蛇紋岩を使用している。カレッタ汐留 46階展望スペースの壁の装飾。近づいて。LEDの色が変化。カレッタ汐留 46階展望スペースからの展望を楽しむ。「東海道貨物線支線 東京市場駅跡」。「浜離宮恩賜庭園」の先の「豊海」方向の眺望。「浜離宮恩賜庭園」。東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭。園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。中央区築地5丁目のビル街。写真右手が浜離宮恩賜庭園を囲んでいる「築地川」。昭和時代の地図をネットから。汐留から貨物線が築地市場へと通じているのであった。国鉄東京市場駅は東京都中央卸売市場築地市場内にあり、カープした屋根の水産物卸売場に直接貨車を横付けできるようになっていました。貨物線は昭和62年(1987)に廃線となりました。そんな「築地市場」は豊洲移転のため、平成30年(2018)10月6日に最終営業日を迎えましたが、築地場外市場はこれまで通りに残されることになりました。エレベーターホール。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.02
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紫の「弁慶藤」を後にして、「社務所」前に咲く純白の「義経藤」を訪ねた。 例年の見ごろは5月に入ってからであるが、今年は開花が早く、「弁慶藤」と同様に満開であった。白房花が1m近くに。鯉のぼりと「義経藤」のコラボをカメラで追う。 繰り返しになるが源平の合戦において、平家は赤旗、源氏は白旗が旗印であった。平家一門が滅んだ後、源頼朝は白旗を源氏嫡流の旗と定め、余人の使用を許さなくなったのだ。もちろん、義経は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。よって白のこの藤は「義経藤」と。白色の藤の花言葉は「可憐」、「懐かしい思い出」と。優美な紫の藤に比べて、白い藤は純粋無垢な少女のようだ と。「懐かしい思い出」はその純真無垢な幼い頃の姿を重ね合わせているのであろう。朝の陽光が射し込む中で、しばし純白の「可憐」な花をカメラで追ったのであった。巨大な白い瀑布の如くに。石灯籠と弁慶松。白の花房を垂らす藤棚の姿は、実に幻想的なのであった。折しも、クマンバチの姿が。ここにも。「義経の藤」と「鯉のぼり」とのコラボ。 ズームして。移動して。・滝のように流れ落ちる純白の花房が、境内を静かな光で満たしている・一つ一つの小花が連なり、繊細なレースの幕のように揺れている・新緑の緑と対比して、白の清らかさがいっそう際立つ・頭上から降り注ぐような花の重なりが、幻想的な空間を生み出す・陽光を受けてほのかに透け、柔らかな輝きを放つ・古木の幹と対照的に、花はひたすら優美でやさしい印象を与える・風にそよぐたび、白い波がゆっくりと流れるように動く・神域にふさわしい、静謐で気品ある美しさを感じさせるそして再び境内で泳ぐ「鯉のぼり」を追う。100本以上の鯉のぼりが春の風に揺れて。 「祓所、神楽舞台 」と「鯉のぼり」とのコラボ。徐々に寒さが増してくる10月の終わりに藤沢市重要無形民俗文化財である湯立神楽が行われる場所である。 「令和八年度 丙午歳」の巨大な絵馬。・中央の童子が黒馬にまたがり、色鮮やかな吹き流しを高く掲げて躍動している・周囲には白・茶・黒の馬が駆け巡り、画面全体に勢いと広がりを生む・天に昇る雲と流れる線が、疾走感と神話的な世界観を強調している・赤い太陽が画面上部に据えられ、祝祭性と力強い生命感を象徴する・馬たちのたてがみや脚の動きが細やかに描かれ、今にも飛び出すような迫力がある・「令和八年 丙午歳」の文字が、干支にちなむ特別な意味合いを添えている・藤沢・白旗神社の名が記され、地域の信仰と結びついた縁起物としての趣を持つ・全体として、勇壮さと吉祥性が融合した、力強く華やかな絵馬である そして巨大な鳥居と馬に乗る「源義経公」騎馬像を見る。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。廻り込んで。さらに。「源義経騎馬像」。 「武蔵丸弁慶像」とともに。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。 「御典橋」を渡る。橋の欄干にも金色の鯉のぼりが。赤の鯉のぼり。「御典橋」を渡って大鳥居を振り返って。「御典橋」。「白旗川」の擁壁の上には、過去12年の巨大絵馬が並べられて展示されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.05.14
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この日の学習のテーマの一つは『六合枡から、五合、四合、三合……を得るにはどうすればよいか』と。我が住む地域の名は「六会」、この「六合」の言葉に親近感を覚えるのです。 昔の米屋さんや造り酒屋さんでは六合升というものがあって、それがあると一合から六合まですべてをはかることができると。様々な大きさの枡。「枡」👈️リンク サイズ一覧。6合枡のサイズは抜けているが、内寸125.5☓125.5☓68.6=1080ml程度であろうか。表にないのは、6合枡はあまりポピュラーな枡ではなっかったのであろうか。昔の酒屋さんは、目盛りがついていない6合升を使い、酒樽から1合、2合、3合、4合、5合、6合を正確にくみ出していたのです。このような升を6合万能升と呼びます。6合は升1杯分だからよいとして、ほかの量についてはどのように量っていたのでしようか?その方法を考えてみましよう。酒樽から6合升で酒をくみ出すのは1回限りとしますが、6合升から酒樽へ酒を戻したり、お客さんの容器に酒を注ぐことは何回行ってもよいものとします。●3合の量り方これは簡単です。6合升を、水の部分が三角柱になる。すなわち下図1️⃣のように傾ければ、6合のちょうど半分の3合となります。●1合の量り方6合升を2️⃣のように、水面が底面の対角線と上面の1点を通る三角形となるように傾けると、容器に残る量はちょうど1合になります。この量がちょうど1合であることは3️⃣のようにして確かめられます。1️⃣の3合は三角柱になっていますが、2️⃣は高さと底面が1️⃣の三角形と同じ三角錐(さんかくすい)だから、3合の1/3で1合ということになります。下図の如く、6合升を2️⃣のように、水面が底面の対角線と上面の1点を通る三角形となるように傾ける。2️⃣は高さと底面が1️⃣の三角形と同じ。 三角錐(さんかくすい)だから、3合の1/3で1合ということになります。この量がちょうど1合であることは3️⃣のようにして確かめられます。三角柱水の容積=S(底面積)☓h(高さ)=3合(6合の半分)。テレビの画面。三角錐水の容積=1/3☓S(底面積)☓h(高さ)=1/3☓3合=1合。5合と2合の量り方ます6合升いつばいに酒をくみ、2️⃣の状態になるまでお客さんの容器に酒を注げば、升に残るのは1合。つまリお客さんの容器には5合入ったことになります(4️⃣)。同じようにして1️⃣のように6合の半分の3合くんでから、2️⃣の状態になるまでお客さんの容器に酒を注げば、2合がくみ出せます(5️⃣)。4️⃣:5合の量り方5️⃣:2合の量り方テレビの画面。2合、5合の場合。4合の量り方4合を量るのは少し手間がかかります。まず、6合升いつばいに酒をくみ出し、升に3合だけ残るまでお客さんの容器に酒を注ぎます。この時点で、お客さんの容器には3合の酒が入っています。次に、升に1合が残るように酒樽へ酒を戻し、残った1合をお客さんの容器に注げば、合計で4合が量れたことになります。昔は、一度樽から汲み出した酒を、客の前で元に戻す事に抵抗はなかったのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2024.09.26
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク洲鼻通りを江ノ電江の島駅方面に歩き、龍口寺前まで辿り着く。 門に向かって歩いていくと左側には処刑場の跡「龍ノ口刑場跡」。日蓮上人だけでなく、蒙古襲来(元寇)の際、モンゴル帝国皇帝フビライの命を受け、元からはるばるやって来た5人の使者を斬首刑にしたのもこの辺りだとのこと。湘南モノレールの湘南江の島駅前の江の島道を北へ、しばらく行くと、龍ノ口刑場で処刑された罪人の霊を弔うために建てられた寺院 常立寺 があるのです。龍口寺は日蓮聖人の弟子が「龍ノ口法難の霊跡」として建立したのが始まり。仁王門前で妻と待ち合わせて合流。仁王門の扁額には「龍乃口」の文字が。しばらくまつと、14時過ぎに国道467号線の藤沢方面から、先導する神戸町(ごうどまち)のお囃子が漸く到着し前を通る。 紫の和傘とお囃子の楽器を乗せた車を曳く氏子の老人。 大太鼓も後を続く。 その後ろには八坂神社の神輿を先導する白装束の神官。猿田彦も頑張って。 そして漸く八坂神社の神輿が見えて来た。 海から上がり、お色直しで赤い飾り綱、黄金の飾りも付け直して再登場。 龍口寺前の交差点を通過直後にピピーと言う笛の音と共に、神輿と担ぎ手が道路脇に見事な素早さで。 そこをゆっくりと江ノ電が通過。 神輿の通過する道路は、車両通行止めになっていますが、江ノ電だけは停めないようです。そしてその先に小動神社(こゆるぎじんじゃ)の神輿が待っていた。ここから2つの神輿による合同渡御になるのです。 毎年参加している氏子&群衆は慣れたもので、一瞬のうちに電車の通過する線路が開かれるのです。そして電車が通過すると再びあっという間に神輿の周りは埋め尽くされ元に戻るのです。もともとの腰越の地元は、五町からなっており、それぞれの町ごとに以下の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれていたのです。濱上町:源義経と辨慶神戸町:八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政土橋町:源頼朝と御所五郎丸下町:神功皇后と武内宿禰、応神天皇中原町:須佐男命 古くは、人形を載せた万灯山車や2段の高欄を持つ山車が上記の如く5台あったが、その後焼失したり、江ノ電の架線を避けるために低くしたりなどし、当時の山車は姿を消し、現在は、3ヵ町が持つのみとなっていると。人形は、明治期に作られたものもあるとする説もあると。 こちらは土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の山車も待機中。 中原町祭典寺務所とその前には小さな神輿が出番を待っていた。 江ノ電が来ないときは線路上は歩行者天国状態。 土橋町の「源頼朝と御所五郎丸」の旧丸座幕(富士の巻狩り図)。丸座幕とは、昔、山車の大唐破風屋根の上の丸座に張った幕のこと。中原町の山車。須佐之男命は日本神話に登場する海原の神。 腰越、神戸川に架かる神戸橋より江の島が見えた。 ゆるキャラも登場。 神戸町の「八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政」の山車。江ノ電の線路を離れ海岸に向かう道の両側には様々な出店が。道路脇には商店街店主や個人からの「寄付」が貼り付けてありました。 神戸町のお囃子の出陣式。 道路のゴミを片付けてくれている義経一行も私のカメラにポーズを。 先頭を歩き先導する猿田彦の手には、旗が付いた鉾を持ち、一本歯の高歯の下駄を履いて頑張っていた。 そして漸く目の前に合流した八坂神社と小動神社の神輿が目の前に。 天王祭は江の島八坂神社の神輿が年に一度、対岸の小動神社の神輿と行き会う祭り。江ノ島の八坂神社の神様が女神様で小動神社の神様が男神様、年一度の逢瀬を楽しまれるのだとも言われています。 小動神社で神事が行われた後、再び2つの神輿による合同渡御が龍口寺まで行われます。そして、龍口寺前で別れてそれぞれの神社に戻って行きとのことですが、今年の見学もここまでに。そして134号線に出て江の島を眺めながら、小田急線江の島駅に妻と向かう。突然右手に仏の姿が刻まれた石碑が建っていた。 右から「夢告の井戸」それとも左から「戸井の告夢」? 調べてみるとこんな説明が。『謎多き井戸なので詳しいことはわかりませんが、平安時代にかの弘法大師様が江の島岩屋洞窟で修業された際に関連があるようです。 平安から数百年を経た江戸期。東海道も整備され、治安も安定したので庶民は気軽に旅にでられるようになりました。江戸から江の島までは約2日間。 鎌倉~江の島~大山は大人気のコースだったようです。江戸期の記録によれば、 「片瀬浜の夢告げの井戸は弘法大師のお告げにより湧きいでし清水。その水面に月光を浮かべ、目を洗えば眼病にご利益がある」とのこと 』と。 【http://kamakura-tabi.com/2015/12/09/424/】より転載。よって右から「夢告の井戸」。そして小田急線で家路に。電光掲示板には、江ノ電は小動神社天王祭に伴う混雑のため16時10分〜17時00分頃まで一時運休。藤沢〜江ノ島間、稲村ヶ崎〜鎌倉間で折り返し運転との予告表示が。
2016.07.31
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そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」を後にし、帰路のトンネルを出た直後の右側にあった「龍寶寺」に立ち寄った。前回訪ねたのは、昨年6月9日で約1年ぶり。鎌倉市植木129。「龍宝寺●宗派 曹洞宗●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺●建立 16世紀中頃●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)●開基 北条綱成(ほうじょうつなしげ)玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。宗派 曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏開山 泰絮宗栄大和尚開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実山門 江戸時代元禄年間造鐘楼堂 設計 大岡 実面山瑞方禅師の銘文記す一、玉縄北条氏の供養塔一、新井白石公の碑一、金比羅宮一、子育地蔵尊堂一、福徳稲荷堂(天保年間造)一、弁天堂一、道祖神一、玉縄ふるさと館一、旧石井家住宅(国重要文化財) 歴史民俗資料館(鎌倉市指定)「山門」の扁額は「陽谷山」。寺号標「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」。「三界萬霊寺」碑。「禁葷酒(きんくんしゅ)」碑。「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。「葷=くん」とは、酒や、ニラ、葱 の様に 強い香りのするものを意味している。ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強くくさい野菜、これらの五つの野菜を五葷と言うのだそうです。五葷は、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると考えられ禁止されたようです。「禁葷酒入山門」(この場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。石畳の参道を進む。右手にあったのが「玉縄歴史館」👈リンク。ここは、後日ゆっくり訪ねたのであった。その先、右手にあったのが「子育地蔵堂」。「子育地蔵尊」。團野功雄の歌碑。「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國 功雄」。裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。更に参道を進む。左手には石碑群があった。2基の庚申塔と馬頭観音と銘がある石塔が立っていた。「道祖神碑」。「力石」であろうか。「文字庚申塔碑」(左)そして左手には「芍薬園」があったが、ここも「日比谷花壇大船フラワーセンター」と同様に花のピークは終わっていた。参道の奥の小さな社は「福徳稲荷堂」。そして正面の石段上に「本堂」。鹿の姿がある石灯籠。「回向柱」。「本堂」「本堂」の扁額「龍寶寺」。内部から住職の読経の声が聞こえてきていた。法要が行われていたが3名のみが着席。これもコロナ対策であろう。家族でのご先祖への供養もコロナ禍でままならないのである。「本堂」横にあったのが「玉縄北条氏供養塔」。「玉縄北条氏供養塔永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に移設しました。この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐにまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。」「本堂」横にも「火灯窓」が。「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。裏山への石段もあり、山頂には三代・北条綱成、氏繁、氏勝の墓所もあると知ったのでこの墓所も訪ねた。龍宝寺裏山には、龍宝寺四世の良順和尚によって、元和年間から寛永5年頃(1615年から1628年)に建てられた玉縄城主:北条綱成、氏繁、氏勝の墓といわれる石塔が並んでいた。中央に北条綱成:瑞光院殿實州宗心大居士右に北条氏繁:龍寶寺殿応大栄公大居士左に北条氏勝:上嶽寺殿角翁良牛大居士 裏山の墓地から戻り、本堂を振り返る。「寺務所」であろうか?参道の裏の細道の奥には「日本ミツバチ」の巣箱があったが、蜂の出入りは全く無かった。芍薬畑の隅には花菖蒲が咲いていた。純白の花菖蒲。そして竹林の先にあった「鐘楼」。「欅(けやき)一本造」と。鐘をズームで。反対側から。竹林の下には「旧石井家住宅」の姿が。そして参道を戻り「玉縄幼稚園」手前の細道を右に入るとあったのが「新井白石之碑」。「新井白石」の知行一千石のうち二百石分が「龍寶寺」の門前にあったことから、「新井白石」と「龍寶寺」僧との間に親交が生じ、享保11年(1726年)にこの石碑が建てられたと。「新井白石之碑」。碑文は室鳩巣(むろきゅうそう・室直清)の撰文といわれるが、風化によって全く読めない。「新井白石之碑」の横にあった「金比羅宮」。正面から。「内陣」。「金比羅宮」の脇の細い坂道を上って行く。右手に石仏、石塔、石碑が並んでいた。「越元童子」、「元禄十一戊寅十一月十六日」の文字が。様々な石碑が並ぶ。五輪塔と宝篋印塔。「大絶餓鬼会為當山門前捕虜収容所病疫者諸精霊菩提供養塔 當山」とある。戦時中は山門前に捕虜収容所があり、そこで病死した捕虜の菩提をここ龍宝寺が弔って来ているのだと。そしてこの後に訪ねた「旧石井家住宅(重文)」。元禄期に建てられた農家(名主)。参道から。「センダン」の木で、別名は”金鈴子(きんれいし)や“千珠(せんだま)"と呼ばれています。「センダン」と書かれた札。「栴檀は双葉より芳し」(センダンは苗の段階から良い香りがするように、才覚のある人物は幼少時からそれを発揮するという意味)で知られるが、本来これは熱帯アジア産のビャクダン(白檀)を語ったもの。センダンの枝葉や材には香りがないのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.22
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【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次県道44号線・伊勢原藤沢線沿いの「南部文化福祉会館」の角の松戸橋交差点を右折した場所にあったのが「松戸橋跡」碑。神奈川県高座郡寒川町一之宮5。「松戸橋」碑。かつては「松戸橋」があり、川が流れていたが、今は川は埋められているようであった。「南部文化福祉会館」の駐車場を囲む垣根に埋もれるような場所に、高さ1メートル程度の小型の石碑も建っていた。「寒川町南部教育発祥の地この地付近は江戸時代大山街道の 宿場として大いににぎわい明治六年 (一八七三年)に至りこの地に博習学舎が設けられ明治九年一之宮学校と改称された 現在の一之宮小学校の前身であり寒川町南部の教育発祥の地である」元、「松戸橋」の袂には寒川町立「南部文化福祉会館」があった。「南部文化福祉会館」は、公民館と老人福祉センターとの複合施設で、教育文化活動の学習の場として、また高齢者の健康増進、生きがいの創造の場として広く町民の教育文化の向上、増進に資することを目的として設置された二つの機能をもつ施設。この日は「南部文化福祉会館」は休館していた。7月10日に開催される「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin寒川」のポスター。2022年6月4日(土曜日)に行われた「鎌倉殿の13人 スペシャルトークin茅ヶ崎」👈リンクに旅友と一緒に参加したのであった。出演は梶原景時を演じている中村獅童さん。そしてこの寒川町の催しにも旅友と応募したのであったが「応募多数の場合は、抽選のうえ、当落結果を2022年6月27日頃に返信はがきで結果を発送予定」とのことであるが競争率が高そうなのである。そして先日、落選通知が届いたのであった。現在位置。敷地内には「湘南エコウェーブ」と書かれた「EV(電気自動車)」があった。茅ヶ崎市・藤沢市・寒川町の2市1町により地球温暖化防止対策を推進するための「湘南エコウェーブ」プロジェクトによる、「EV(電気自動車)ネットワークプロジェクト」の一環として、2市1町で湘南をイメージした統一デザインのラッピングを施しているとのこと。そして「南部文化福祉会館」の先の住宅街の路地を右折して進むと朱の鳥居が姿を現した。稲荷神社であっただろうか。社に近づいて。そしてその裏にあったのが「両替子育地蔵尊」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目。立派な屋根の社であった。「両替子育地蔵尊」柱。社に近づいて。「案内板」等が設置されていないので由緒等は不明である。内陣には「子育地蔵」が納められていた。道路を隔てたその前にも社があった。正面から。「妙法大神」と刻まれた石碑があったが。次に訪ねたのが「花川用水」。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目4−30。50cm幅程度の水路には水量豊かな流れがあった。「花川用水」👈リンク 案内板。ピンク色の地図は江戸時代のものと思われる「花川用水絵図」。絵図は残念ながら判読できず。説明文の内容を下記します。「花川用水は、基幹用水路として、江戸時代から利用されています。当時は、宮山村地内に設けられた大柳堰(現在のクリーンセンター付近と考えられている)から目久尻川の水を取り、宮山村以下、小谷村、大蔵村、岡田村、中瀬村、大曲村、一之宮村、田端村と茅ヶ崎市内の萩園村の九ケ村に供給していました。そのため九ケ村用水とも呼ばれていました。用水を利用するにあたって、施設の管理・運営、利害を調整した用水組合があり、江戸時代では用水を分流する堰をめぐって用水組合内部で争いが多く起こっています。当時、用水の確保がいかに重要だったかがうかがえます。その後、昭和15年(1940)に相模川左岸用水路の一部として再編されましたが、現在も基幹用水路として利用されており、町内の多くの水田に用水を供給しています。」「花川用水と用水組合」👈リンク をネットから。その横には三猿が陽刻された板碑型「庚申塔」があった。三猿の上に文字が刻んであったが風化していて読めません。右端の文字はかろうじて「寛文四甲辰 四月吉日」と読めた。家綱の治世1664年造立とかなり古い「庚申塔」なのであった。中央にはネットによれば阿弥陀の心呪「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」だとのこと。「オン ア ミリ タ テイ セイ カ ラ ウーン」は真言宗などで唱えられる阿弥陀如来の御真言であると。オンは帰依、ア ミリタは徳の不滅、テイ セイは無量の光、カ ラは捨てない、ウーンは徳を表す言葉であるとネットから。三猿をズームして。「道祖神」碑も並んでいた。「花川用水」の先の東側の林の中にあったのが「入沢家弁財天堂」。入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立されたのだと。神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目5。「入沢家弁財天堂」を正面から。「入沢家弁財天堂寒川町指定重要文化財第十五号昭和六十三(一九八八)年八月二十六日指定この建物は、財宝をもたらす幸福の神といわれる弁財天を祀るためのお堂である。総欅造で随所に彫刻を飾り化粧面漆塗とするなど近世の装飾性豊かな建築の特徴をよく示していると共に、この地域に於ける建築水準を理解する上での基準的な建物として貴重である。堂内に保存されていた棟札から天明二(一七八二)年の建立と推定される。」昭和63年(1988)8月26日、一之宮の入沢家弁財天堂が町指定重要文化財第15号になりました。写真はこれを報じる「#広報さむかわ」。入沢家は江戸時代、江戸で薬種問屋を営むなどした豪農で、この弁財天堂は同家の敷地内にあります。内部に残された棟札から天明2年(1782)以前の建立と推定されています。 【https://twitter.com/samu-archives/status/1430678993284440064】よりそして「花川用水」に沿って南に進む。道路脇左側にあった「双体道祖神」 、 享保2年(1717)と。以前はここに「西町自治会館」があったようだがこの時は空き地になっていた。神奈川県高座郡寒川町田端907。そして次の目的地の「万部寺」に到着。神奈川県高座郡寒川町 805。題目碑「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗圓妙山 萬部寺」。ここにも新しそうな題目碑「南無妙法蓮華経」。「黨山は明暦元年(一六五五)七月江戸谷中瑞輪寺第六世圓妙院日桂上人が故郷の地、田端部落に隠退し郷士たりし木内與兵門慰吉定(上人の父)を教化改宗し萬部庵を建立す。萬部寺の始めなり。日桂上人は、九才にして、伯父日遼師について得度剃髪し、字を休應と号し、十三才にして下総の里檀林に学び、更に、三十六才寛永七年身延山二十六世智見院日暹に学び、延山未、出羽ノ國普廣山寺に入り、零落類破したるを再建立、後に甲州小室の徳栄山妙法寺に入山し在山十七年五十四才の時寺日遼遷化により六月瑞輪寺六世として入山す。後に、延宝元年(一六七三)七月廿三日遷化す。法壽八十一才なり。第二祖 正覺院日勇上人法華経読誦壹萬部を成就す第三祖 善通院日順上人元禄八年五月十五日身延山第三十一世一圓院日脱上人より寺号公称の 奠定大曼茶羅を授與され、圓妙山萬部寺と称し今日に至る。」「妙經二萬部」碑。「円妙山万部寺」の掲示板。「今月(2022年6月)の聖語」「何ぞ煩(わずら)わしく他の処を求めんや」と。=失敗は貴重な宝もの=誰でもしくじることはあるものです。ごめんなさいですむものならその場で解決できます。でも長い人生においては、簡単に一件落着とはいかず、落ち込んでしまうこともあります。そんな時、あなたはどうしますか。思い出したくもない。さっさと忘れてすっきりしたい。それも悪くはないでしょう。ただそれでは真の解決にはなりません。現実から逃避しても一時しのぎにしかなりません。それよりも、貴重な体験と見てはどうでしょう。失敗の原因を探り活かすことです。原因が分かれば失敗を繰り返さずにすむ方策が見つかるでしょう。自分一人で抱え込まず、時には同僚や先輩あるいは頼れる人に相談することも必要でしょう。こうすれば将来の自分、そして今後の人生をより良いものにできるはずです。失敗は今在る自分の姿を見つめるチャンスなのです。日蓮聖人ご遺文『守護国家論』『立正安国論』と共に聖人初期の代表的な著述で、末法の時代における衆生救済と国家の安泰は法華経のみに限られることを説き明かしています。正元元年(1259) 聖寿38歳「万部寺」の「山門」。正面に「本堂」。「寺務所」。日蓮聖人像。台座には「立正安國」と。ズームして。さらに。「本堂」の扁額「円妙山」。内陣。槇(まき)の生け垣の新緑が美しい住宅街を進む。芍薬畑が拡がっていた。切り花として出荷したのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.07.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次南品川宿を青物横丁方面に向かって歩く。しながわ百景:『天妙国寺(てんみょうこくじ)の山門と無縁仏 天妙国寺の墓地』参道を進むと、正面に朱の四脚門形式の天妙国寺山門が。山号の『鳳凰山』が扁額に。現在は、顕本法華宗の別格山。境内には、品川の象徴として愛着を受けた五重塔があった。慶長19(1614)年8月28日、台風のため倒壊。哀惜する郷民の意をくみ、寛永11(1634)年、三代将軍家光により再建されたが、元禄15(1702)年2月の大火により類焼し、現在に至っていると。広々とした境内の正面に建つ本堂が。寄棟造り屋根、唐破風付流れ向拝。創建時、「妙法蓮華経」により「国家安穏」を祈る精舎として、「妙国寺」と名づけたと。徳川将軍家との繋がりが深い寺院であると。弘安8年(1285年)、日蓮の直弟子の天目上人の創建と伝えられる古刹。徳川歴代将軍が宿舎にしたことで徳川家とのゆかりが深い。本堂は18世紀中ごろに再建されたもので、堂々たるたたずまいを見せていた。歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」の墓があることで知られる。ほかにも桃中軒雲右衛門、お祭り佐七、伊藤一刀斎などの墓があるとのこと。中央は龍と、琴を奏でる婦人の透かし彫り像が。鐘楼。そして徳光和夫らが青物横丁をぶらり散策していた『松岡畳店』。建物は1915(大正4)に建てられた、二階が低い中二階の形式。江戸時代には道を挟んだ向こう側は海だったと。「畳松岡」は右から左に書く看板が歴史を感じさせてくれたのであった。品川区南品川で安永8年(1779年)から営業して、仙台藩下屋敷のお抱え職人から今七代目の畳屋であると。『居酒屋 えいちゃん』旧東海道沿いにある人気の酒場のようだ。大正時代創業の鮮魚店「魚長」を改装。原点は魚屋さんとあって、魚介のつまみは安くて旨いものばかりだと。夜であれば暖簾をくぐって・・・・。マンションの入口部分に、「不老門」と刻まれた石碑が。「不老門」の石碑を両手で丁寧に撫でては来たが、効果は如何に?右手に「諏方神社(すわじんじゃ)」と刻まれた石柱が。その奥に諏方神社の鳥居、社殿が見えた。『関宿の街道松』。「街道松をつなぐ」事業として、旧東海道周辺に街道を往来する旅人のための道標であった「街道松」を植えて歴史を感じるまちなみを整備し、また、各宿場まちとの交流を深めることを目的とし、平成5年から旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会が行っていると。これまでにも11カ所の宿場(浜松宿、三島宿、土山宿、保土ヶ谷宿、袋井宿、大磯宿、御油宿、枚方宿、坂之下宿、関宿、亀山宿)から街道松を譲り受け、植樹したと。左手に『江戸幕府御用宿 釜屋跡』。「南品川 には旅人 が休息をする「建場茶屋 」が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤 で江戸 に入る大名が、旅装束 から江戸屋敷 に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。中でも品川寺 門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。慶応三年(一八六七)には「幕府御用宿 」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。同年十月二十一日、新選組副長・土方歳三 と副長助勤・井上源三郎 が、新入隊士や故郷の支援者達、計三十一名で休息した記録が残されております。また、慶応 四年正月十二日~二十三日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組 の「品川屯所 」となっておりました。この品川の地で、幕末 の風を感じて下されば幸いです。」と書かれていた。釜屋跡の碑の右手、マンション(ガーデンホーム南品川)の南側に「保土ヶ谷の松」が。この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として東海道が取り持つ縁で四番目の宿場があった神奈川県保土ヶ谷宿から寄贈されたもの。そして右手に『品川寺(ほんせんじ)』。「しながわでら」ではなく「ほんせんじ」。江戸三十三箇所観音霊場の第31番が品川寺。寺伝では大同年間(806年〜810年)に空海(弘法大師)開山??という古刹。しかし空海(弘法大師)は江戸のこの地まで来たのであろうか?長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌が伽藍を建立。銅造地蔵菩薩坐像は、江戸六地蔵の第一番。しながわ百景:『品川寺 品川寺の江戸六地蔵 品川寺の梵鐘』。山門脇には江戸六地蔵に数えられる大きな『地蔵尊(江戸時代の六地蔵の1つ)』が鎮座。この地蔵菩薩座像は、今から約300年前の宝永五年(1708年)江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって浄財が集められ、神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され寄進されたもの。青銅作りでその座高は2m75cmもあると。この地蔵菩薩座像は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置され、「江戸六地蔵」と呼ばれた。品川寺にはその第一番、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されていた。また菩薩像の全身と台座には、造立のために喜捨した人々の名前が刻まれていると。なお、江戸六地蔵の所在地と街道は以下の如くと。第一番 品川寺(品川) 東海道 日本橋~京都・三条大橋第二番 東禅寺(浅草) 奥州街道 日本橋~福島・白河市第三番 太宗寺(新宿) 甲州街道 日本橋~長野県・下諏訪第四番 真性寺(巣鴨) 中仙道 日本橋~滋賀県・草津市第五番 霊巌寺(深川) 水戸街道 足立区・千住~水戸市第六番 永代寺(深川) 千葉街道 船橋市~千葉市東海七福神の毘沙門天の寺でもある。品川の沿道には由緒ある社寺が多く古くから七福神が祀られ「七難即滅 七福即生」の故事により参詣も多く,昭和7年に品川が大東京に編入された記念として東海七福新詣を定められたと。山門。前回訪ねた時は、葬儀が行われていたため、境内には入らなかったのであった。この日は本堂は改修工事中。太田道灌の創建時には大円寺(金華山普門院大円寺)と称してたが、承応元年(1652年)に弘尊上人が再興して品川寺(金華山普門院品川寺)となったと。本尊は二体あり、厨子(ずし)の中に安置されている水月観世音菩薩(聖観世音菩薩:秘仏)は弘法大師作とされ、品川の地をおさめていた太田道灌(おおたどうかん)の念持仏。本尊の両脇には、弘法大師坐像、不動明王像。そのほかには、薬師如来像、日光月光菩薩像、十二神将、大黒天・白菊観音像、東海七福神の毘沙門天も安置。『品川寺のイチョウ』。樹齢600年のイチョウの大木は品川区の天然記念物に指定。幹回り5.35m、樹高25m。神変大菩薩像(しんぺんだいぼさつぞう)役行者(えんのぎょうじゃ)。飛鳥時代から奈良時代の呪術者(じゅじゅつしゃ)で、本名は役小角(えんのおづぬ)。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖とされる。山野を駆け巡って御修行されたことに由来し、足腰の弱い方を救って下さると。弘法大師像。弁天堂(べんてんどう)。弁財天像を安置。金生七福神(かのうしちふくじん)。右に弁財天、左に毘沙門天。稲荷堂のすぐ横にある梵鐘。この梵鐘は明暦3年(1657年)9月18日の銘がある梵鐘(国の重要美術品)で、4代将軍・徳川家綱の寄進とされ、パリ万博に出品する名目でヨーロッパに渡った1867年以降一度行方不明となり、それがなんとジュネーブにあるアリアナ美術館に所蔵されていたと。徳川3代の将軍、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の供養のために、弘尊上人の発願で京・三条の鋳物師(いものし)・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)が鋳造したもの。品川寺の隣にしながわ百景:『海雲寺(かいうんじ)と千躰荒神(せんたいこうじん)。』右手に『海雲寺』山門。山門前には「開運 千躰荒神王霊場」と刻まれた石碑が。山門の屋根の上で、獅子が逆立ちしていた。『平蔵地蔵』平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものである。当初青物横丁にあったが、1900年(明治33年)10月京急本線建設に伴い当寺に移された。そしてその後ろには『荒神像(こうじんぞう)』が。電燈講が昭和二年(1927)に建立。鐘楼。『烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)』。「烏枢沙摩明王」とは、大乗仏教、金剛乗仏教(密教)における尊格「明王」の一人。人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられると。『力石』。「いつの頃からか、この力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べ(ちからくらべ)に大正の中頃まで、使われていた。当時門前には大勢の漁師や親船から積み荷を小舟に写し取る瀬取(せどり)(沖仲仕)がいて、この石をを何個持ち上げられるか、もと本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。力つきて放り出した大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時、静けさを破る心地よい響きであった。」と。「この石はその当時からこの場所にあり、元気な若者の汗が染み込んだものです。石にふれてお元気を出してください。文字は寄せ文字家元・立花右近師匠の奉納揮毫です。」とも。千躰荒神堂。海雲寺は、頂いた略縁起によると、建長3年(1251)僧不山によって開基。当初は臨済宗で庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺境内にあった。慶長元年(1596)海晏寺五世の分外祖耕大和尚を開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)に寺号を改め「海雲寺」となった。…とある。鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っており、こちらの方が有名で、春秋の大祭時には露店が軒を連ね大いに賑わうのだそうだ。千躰荒神堂の天井の纏の羽目板。海雲寺は「火除け」の祈願寺。堂の天井の纏の羽目板とか随所に火除けに関するものが。千躰三宝大荒神王。『荒神王』と書かれた扁額。『えんの行者』像。近くのパン屋で買ったカレーパンを千躰荒神堂の前にあった木造ベンチで楽しむ。荒神王は台所やかまどの神様。本質的には火の神で火災除けの神。『筆塚 』。橘右近揮毫のもの。『十四番 千躰荒神 南そして右 青物横丁 ジュネーヴ平和通り』石柱。『ジュネーヴ平和通り』は品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーヴ市(スイス)から、"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られた。この通りは都道だが、同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられたと。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.23
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして漸く「藤沢市」と「大和市」の市境・「大和市」側に建つ曹洞宗の寺「雲栄山 宗昌寺」に到着。ここから漸く「大和市」に入ったのであった。大和市福田1544。寺号標「曹洞宗 宗昌寺」。「本堂」。本尊は元禄14年( 1701年)銘の釈辺如来座像。慶安元年(1648年)に北条氏直の家臣・鈴木宗昌によって建立された寺。扁額「宗昌寺」。「本堂 内陣」。「萬霊殿」、永代供養塔であろうか。「地蔵堂」。大小の地蔵尊が。そして「宗昌寺」を後にすると「大和市」の「汚水マンホール蓋」に気がつく。大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。「宗昌寺」の裏手を北に向かって進んで行くと「飯都社奮趾(飯戸明神跡)」👈リンク と刻まれた石碑(左)があった。明治四十二年(1909)、正面:飯都社奮趾 明治四十二年 一月建立「飯都社」とは廃寺となった「飯戸明神」のことであるとのこと。そして庚申塔(右)天明三年(1783)正面:庚申塔 右面:維時天明三癸卯□ 左面:[ ]久保邑講中更に北上し左折して西に進み「引地川」に架かる「福田橋」を渡る。途中、農道横にあった産直野菜販売所。現在はイチゴを販売しているようであったが、店頭には日向ぼっこのオバチャン達の姿が。民家の庭の桜も咲きだして。そして前方に見えて来たのが「福田山 蓮慶寺(れんけいじ)」。大和市福田1279。「山門」。寺号標石「福田山 蓮慶寺」。「本堂」。真言宗大覚寺派の寺。「福田開拓九人衆の一人で、修験者とも医者ともいわれる小林大玄は、諸国を出歩き、やがて帰宅しなくなった。大玄の妻・イトはこれを悲しみ、山に籠って村人に危害を加えるようになる。困った村人は花見の宴を催してイトに毒酒を飲ませ、亡き者としたが、やがてイトの怨霊に悩まされるようになる。そこでイトの霊を慰めるため村人は鎌倉の建長寺から姥像を勧請し、一堂を建立してこれを安置したと伝えられる。その後この像は子供の百日咳などに霊験あらたかであるとして崇敬されるようになった。」とウィキペディアより。「寺務所」。境内の隅には石仏が。二体の石仏が仲良く並んでいた。左側に「唐破風笠付角柱 庚申塔」寛文9年(1669)9月地蔵菩薩(合掌)・一猿?(痕跡)右側面「爲庚申供養之也 寛文九己酉天 九月吉日」左側面「請願成就皆領満足 願主 廿[五人]」そして右側には「文字庚申塔」。裏側から見る。「市指定重要文化財(有第十号 木造優婆尊尼(うばそんに)坐像 案内板指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高四〇・八cm構造は寄木造で、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)、肉身部は漆箔(しつぱく)、衣部は彩色となっています。髪を中央で左右に分けて長くたらし、ロ・両眼とも大きく開く一種の憤怒相(ふんどそう)であり、歯や舌も克明に刻んでいます。露出した胸部には肋骨と、しなびて垂れさがった乳房が写実的に表現され、面部とともに妖しげな老婆の雰囲気を巧みに表しています。右手は膝上で握り第二指のみ伸ばし、左手はスカーフのような布を持っています。造像時期を示す銘文などは残されていませんが、作風から室町時代後期に造像されたものと考えられます。また、福田地区にはこの像にまつわる「姥山」(うばやま)伝説が残されています。平成九年三月 大和市教育委員会」「木造優婆尊尼坐像」をネットより。 【http://www.city.yamato.lg.jp/bunnka/hyakka/art_archives_bunkazai_18.html】より「慰霊五輪塔」👈リンク正面から右塔より「海軍二相空特幹普通科練習生殉職者諸霊」「海軍六期飛整予備学生戦死者二十七名之霊」「昭和十八年二月八日遭難龍田丸一四八一名之霊」裏面:「施主 名誉住職 渡辺全龍 平成十二年三月吉日」「篤志者 高橋和殿(檀家) 金拾万円也 六期追浜会有志殿」「施主 渡辺全龍(龍田丸船長 木村庄平 次男)」大東亜戦争で戦没、殉職された方々の慰霊のための五輪塔であり、平成12年3月に建立された。・右手の五輪塔は、第二相模野海軍航空隊における普通科練習生殉職者の慰霊塔である。 この航空隊は昭和18年に開隊した航空整備員の教育訓練部隊である。なお、刻字中、特幹と あるがこれは陸軍の特別幹部候補生のことと思われる。なぜここに書かれているか不明である。 蓮慶寺の住職によって建立された。・中央は、飛行機整備予備学生の戦没者の方々の慰霊塔である。第六期は、追浜海軍航空隊 に昭和18年頃に入隊されたものと思われる。・左手は、昭和18年2月8日に沈没した龍田丸の乗員の慰霊塔である。龍田丸は昭和5年に就役した 日本郵船の遠洋客船で、太平洋戦争中は海軍に徴用され、トラック島への兵員輸送中、米潜水艦 ターポンの魚雷攻撃により撃沈され、乗組員198名、乗船員1283名の計1481名全員が死亡した。 碑文から判断すると、住職は龍田丸船長の次男であると ネットより。塔高175cm、台石10cm。「本堂」を斜めから。そして「蓮慶寺」の横にあったのが「山王社」。ここも「蓮慶寺」の境内なのであろう。大和市福田1279.小さな「社殿」。「内陣」。「石祠」。「山王社」の社殿前から「蓮慶寺」の屋根、墓地を見る。更に北に向かって進むと、民家の屋敷の中にも神社が。子供の頃は、我が実家の屋敷内にも神社があったことを想い出したのであった。そして東海道新幹線のガード下を通過。「第2引地Bv 42K718M」の表示プレート。 Bvとは「架道橋」のこと。BはBridgeの略。鉄道が道路を渡る橋である。高架式の鉄道でよく見られるほか、地平を走る鉄道でも道路が線路の下を通っている場合は、架道橋と呼ばれるのだと。逆に道路が鉄道を渡る橋は跨線橋(Bo)であるが、これは道路橋の範疇である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.11
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郡山から福島に向かう途中にある二本松城に立ち寄る。二本松は子供が小さい頃、夏休みを利用して大規模年金保養基地『グリーンピア二本松』を利用したことを想いだしたのであった。現在では二本松市に払い下げられ『スカイピアあだたら』として利用されているとのこと。二本松城は、日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれている城。 現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築されたとのこと。 二本松城跡は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡。築城は畠山満泰が応永21年(1414)にこの地に居を構えたと。天正14年(1586)に伊達政宗により畠山氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の奥州仕置以後は会津領に組み入れられ、蒲生・上杉の支城として城代が置かれたと。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封し、以後、二本松藩の居城として明治維新に至ったのだ。入り口の箕輪門と戊辰戦争・少年隊の銅像が印象的 。二本松少年隊とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。 少年兵母像。二本松少年隊群像の傍らに、藩主丹羽氏の家紋「直違紋(すじかいもん)」の肩印を万感の思いで縫い付ける母の像が建つ。モデルは13歳で銃弾に倒れた岡山篤次郎の母で、屍を探し易いよう「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と縫い付けているとのこと。 この階段を上ると箕輪門があり城内へ。しかし時間が無く中に入らず。 「霞が城」の石垣は見事。本丸跡からは二本松市が見下ろせるとのことであったが。 100名城スタンプは、ここから少し離れた二本松市歴史資料館に。 裸婦像。二本松は菊人形で有名、こちらも時間が無く諦める。10月4~6日は提灯祭り。 福島県重要無形民俗文化財「二本松の提灯祭り」
2013.10.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昨年12月4日に旧東海道の国府津から箱根旧街道の始点の『三枚橋』まで旅友のSさんと二人で歩いて来ました。この日の旧東海道のルートです。JR国府津駅から海沿いを歩き、酒匂川を渡り」小田原城近くの小田原宿を通過し、小田急線に沿って箱根湯本駅手前の三枚橋までのルート。JR国府津駅を9時にスタート。旧東海道の国道1号線には『国府津・曽我の里散策コース』と書かれた支柱が。国府津駅から曽我丘陵を尾根づたいに「曽我の里」へ。菅原道真. 公を祀った「菅原神社」や「中河原梅林」の中にある曽我兄弟ゆ. かりの「瑞雲寺」などを通ります。天気の良い日は、富士山や足柄. 平野が一望でき、爽快な気分を味わえるコースであると。『国府津駅前』交差点を右折して小田原方面に。左側に相模湾が姿を現す。左手に『御勧堂(おすすめどう)』南側は全部太平洋。ここは親鸞聖人草庵の旧跡で聖人が7年間、民衆を教化されその後 弟子の顕智坊に譲り上洛されたのだ。石碑の裏側。親鸞聖人が、布教のために、ここ国府津にとどまっていた時に、民衆を教化した庵室跡親鸞聖人御草庵之旧跡『親鸞聖人7ヵ年御旧跡真宗大谷派真楽寺』の石碑。もともとは天台宗のお寺でしたが、親鸞聖人の教えにより真宗に改修しました。「真楽寺」という名前も親鸞聖人がつけました。切支丹禁制下に、観音像だと偽っていたマリア像がある。『帰命堂』。中には親鸞が指で字をなぞった帰命石があるそうです。『本堂』。『鐘楼』。細い木の奥にあるのが『真樂寺のボダイジュ』。新編相模国風土記稿(1830~1841年編纂)にも当時の菩提樹の記述があり《親鸞手植のものと云、囲7尺》とあり、当時は幹回り2.1mの大樹で、単幹であった事が分かるが、幕末の頃、真楽寺で火災があり損傷しその後、蘖(ひこばえ)が生え、成長したものが現在の菩提樹だとのこと。この木が親鸞上人の植えたものかどうかはっきりしないが、樹齢370年位と推定されており、植え継がれたものと考えられる。次に釼持山(けんじさん)『法秀寺(ほうしゅうじ)』を訪ねる。小田原市国府津2-9-4にある日蓮宗の寺。境内にある神社。『本堂』。開創は永禄7年(1564)。開基壇徒釼持佐右門の父大蔵(法号法秀)が深く法華経を信仰し、別邸を挙げて寺を建立しようとし、永昌院日運上人に願い開山したと。本尊は一塔両尊四士。『水子供養』『永昌院日運上人像』。洞に安置された石仏。日蓮宗の寺ですが火灯窓・花頭窓(かとうまど)が。『森戸川』に架かる『親木橋』『森戸川』と奥に『西湘バイパス』が。曽我梅林方面への道には東海道本線が。西湘バイパス『国府津IC』。そしてその奥に相模湾が拡がる。日本橋から79Km。左手に『山近記念総合病院』。「一里塚」というバス停。続いて「ガスト」を過ぎた所に、民家の塀前に説明板のみ立っている『東海道小八幡の一里塚』このあたりは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所です。慶長9年・・・小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とあると。『八幡神社』入口。次の「宮の前バス停」の傍に三寶寺があった。街道際に『弘法大師筆跡 利劔名号 安置』と刻まれた大きな石碑が建っていた。八幡山神明院『三寶寺』境内の銀杏の大木は全て葉を落としていた。三寶寺『本堂』。三つの寶とは、一つは「佛」、一つは「法」、一つは「僧」の「ぶつぽうそう」のこと。佛教の信仰の基本はこの三つの寶に帰依することから始まると。「佛とは明るく・法とは正しく・僧とは仲良く」みんなで明るく、正しく、仲良く日々を生きていこうという教えの寺なのだと。見事な彫刻。破風の彫刻も見事。『茶枳尼天(だきにてん)』吒枳尼信仰は、空海によって、日本に持ち込まれたと。日本においては、吒枳尼天(だきにてん)と呼ばれ、密教の教主である大日如来 (だいにちにょら い)の化身とまで呼ばれるまで崇(あが)めら、白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、稲荷神(御饌津神 (みけつかみ))と同一視されていると。『六地蔵』。手水舎。蓮の花の中に水場が。『鐘楼』。『三寶寺梵鐘 黄鐘』。平成の本堂大改築への礎となった建造物(棟梁、内田定春氏)。昭和六十二年春落慶、鐘の音調は129ヘルツの黄鐘調、重量:二百貫、外口:二尺八寸、鋳造:昭和六十二年二月二十日京都唐渡町鋳匠岩澤宗徹師、形態は井上三綱画伯の作品「黄鐘調」のレリーフが鋳込まれた美術梵鐘。徒然草に「およそ鐘の音は黄鐘の調べなるべし、其の無常の調子祇園舎の無常院の声なり」とあると。母親が低い声で子守歌を唱いながら赤ん坊を寝かしつけるあの音程を黄鐘調といい、元々東洋の雅楽の音程で「すべての生きとし生けるものが平和に幸せになりますように」との願いを込め銘文「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」が鋳込まれ制作されたものであると。『南無阿弥陀仏』と刻まれた石碑。『小田原邪宗門』道路脇の看板にあった、「てらカフェ」、11時からOPENと。銀杏の大木の乳根も見事な大きさ。 ・・・旧東海道を歩く(大磯~国府津)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.08
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『旧東海道を歩く』 目次延べ 区間👈リンク ブログ 年月日 移動年月日👈リンク 日数 通過宿----------------------------------------------------------------------------------------------1. 日本橋➡品川宿 その1~その7 2018.02.15 日本橋 品川宿 品川宿(周辺散策) その1~その8 2019.01.092. 品川宿➡川崎宿 その1~その8 2018.10.26 品川宿 川崎宿3. 川崎宿➡保土ヶ谷宿 その1~その8 2018.11.05 川崎宿 神奈川宿 保土ヶ谷宿4. 保土ヶ谷宿➡藤沢宿 その1~その7 2018.11.14 保土ヶ谷宿 戸塚宿 藤沢宿5. 藤沢宿➡大磯宿 その1~その10 2018.11.20 藤沢宿 平塚宿 大磯宿6. 大磯宿➡国府津 その1~その8 2018.12.01 大磯宿7. 国府津➡小田原 その1~その9 2018.12.04 小田原宿8. 小田原宿➡箱根宿 その1~その5 2016.05.07 小田原宿 箱根宿9. 箱根宿➡三島宿 その1~その12 2019.01.04 箱根宿 三島宿10. 三島宿➡原宿 その1~その11 2019.01.16 三島宿 沼津宿 原宿11. 原宿➡富士 その1~その7 2019.01.28 原宿 吉原宿12. 富士➡興津宿 その1~その9 2019.03.08 蒲原宿 由比宿 興津宿13. 興津宿➡安倍川 その1~その12 2019.03.15 興津宿 江尻宿 府中宿14. 安倍川➡藤枝宿 その1~その10 2019.03.20 鞠子宿 岡部宿 藤枝宿15. 藤枝宿➡金谷宿 その1~その9 2019.03.27 藤枝宿 嶋田宿 金谷宿16. 金谷宿➡掛川宿 その1~その14 2019.04.03 金谷宿 日坂宿 掛川宿17. 掛川宿➡見付宿 その1~その12 2019.04.09 掛川宿 袋井宿 見付宿18. 見付宿➡浜松宿 その1~その13 2019.05.23 見付宿 浜松宿19. 浜松宿➡新居宿 その1~その6 2019.05.24 浜松宿 舞阪宿 新居宿20. 新居宿➡二川宿 その1~その13 2019.09.25 2019.09.24 新居宿 白須賀宿 二川宿21. 二川宿➡御油宿 その1~その9 2019.09.26 吉田宿 御油宿 22. 御油宿➡岡崎宿 その1~その10 2019.10.15 2019.10.14 御油宿 赤坂宿 藤川宿 岡崎宿23. 岡崎宿➡豊明 その1~その21 2019.10.16 岡崎宿 池鯉鮒宿24 豊明~桑名宿 その1~その14 2019.11.23 2019.11.22 鳴海宿 宮宿 桑名宿25. 桑名宿➡四日市宿 その1~その12 2019.11.24 桑名宿 四日市宿26. 四日市宿➡加佐登 その1~その12 2020.01.20 2020.01.19 四日市宿 石薬師宿27. 加佐登➡関宿 その1~その15 2020.01.21 庄野宿 亀山宿 関宿28. 関宿➡土山宿 その1~その17 2020.02.21 2020.02.20 関宿 坂下宿 土山宿29. 土山宿➡水口宿 その1~その13 2020.02.22 土山宿 水口宿30. 水口宿➡手原 その1~その19 2020.03.21 2020.03.20 石部宿 31. 手原➡大津宿 その1~その19 2020.03.22 草津宿 大津宿32. 大津宿➡京都三条 その1~その11 2020.03.23 大津宿 京都三条大橋
2019.04.01
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「福厳寺」を後にして、次の目的地の小田原市中町3丁目11にある「本久寺」に向かって住宅街を南に進む。この日・10月6日(日)の「熊野神社 祭禮 連合渡御」の「早苗會」のポスター。ここにも「令和六年度 熊野神社例大祭」案内。小田原市中町3丁目9−35横の横断歩道を直進する。北に進むと「山王海岸」まで400mほどの場所。左手にあったのが「中町第一公園」。小田原市中町3丁目15−9。そしてスマホの案内に従い「本久寺」入口に到着。題目碑「南無妙法蓮華経」。正面に「本久寺」の「山門」。左手に「本久寺北辰殿」の「山門」。「本久寺」の「山門」は四脚門形式。斜めから妻面を。円柱の本柱上に横使いの冠木。出三つ斗を挟んで妻虹梁。頭貫虹梁と軒桁の間の龍の欄間彫刻を見る。扁額は「六條」。山門をくぐると、砂利敷の広い境内。奥に「本堂」が見えた。「本堂」に近づいて。入母屋造り屋根平入り、切り妻屋根妻入り付け向拝。法光山本久寺(ほんきゅうじ)は、中町3丁目にある日蓮宗の寺院。武藤治部少輔清康(法久禅門)が日蓮宗に帰依し、邸宅内に法華堂を建立、正応2年に武藤清康が逝去した際法華堂を改め法久寺と号したと本尊は三宝の諸尊と祖師像。開山は日満(元応元年・1319没)、開基は法久(法名:法久寺殿蓮秀一儀)、中興は日澄(永正7年・1510、駿府・安立寺にて死去)。京都本圀寺日傳の命により、本山六光山本圀寺の山寺号と法久の字を組み合わせて法光山本久寺と改号した と。扁額「法光山」。「本堂」前、右手に「宝篋印塔」と石碑。「宝篋印塔」に近づいて。「法光山縁起」碑。「法光山本久寺は往昔この地に住む大織冠鎌足公三十一世の孫武藤治部少輔清康入道法久禅門邸内に一法華堂として生まれた。時あたかも北條執権時頼のころで、清康しばしば鎌倉にあつて日蓮聖人の辻説法を聴聞しひそかに帰依した 聖人やがて宗法弘通の路次清康の邸に寓居あり 清康心酔帰依の余り改宗し自邸に小堂を営み法華堂と呼び 駿州より豊後房日満上人を招いて法華の法筵を開いたたまたま佐渡において阿佛房日得上人入寂され日満上人佐渡に赴かれて後、日朗上人の上足大法房日善上人(当山二世)発願この地に大堂を建立 清康また東西六十間南北百間に及ぶ田園を寄進し 弘安五年(一二八二)九月 日朗上人導師のもとに開堂供養の大法会を厳修した正応二年(一二八九)三月二日清康卆去してその法名法久寺殿蓮秀一儀の二字をとって法華堂を法久寺と号した それより五十有余年後本山大光山本圀寺の鎌倉より京都へ移るに当りその功により 本山の山寺号の二字を配し法光山本久寺と改め「六條」の別号を許され 自来法灯相伝えて七百年法運常に揺ぎないものとなった。なお寺内には今もなお開基清康の守り本尊たる北辰妙見大菩薩を勧請している」「溺死者追悼紀年碑」は解読不能。本堂前の左手には「日蓮大菩薩」碑。近づいて。さらに。境内・「本久寺」の「山門」の手前の西側には「妙見菩薩」を祀る「北辰殿」があった。手水舎。「北辰殿」は入母屋造り屋根、千鳥破風付き平入り。唐破風軒流れ向拝。身舎に対して向拝が大きなバランス。手前の石灯籠?は台座のみ。見事な彫刻。扁額「北辰殿」。「本久寺稲荷社」。正面から。「成貞法尼詠歌碑夕闇の 道にたどらむ 桜狩(さくらがり) 数へて帰る 花のひかりに遊ふや実能 道而當度良武 桜狩 嘉蘇部轉可弊流 花乃悲閑理耳」と我がブログの先生が、この写真から解読して下さいました。境内にあった墓石。歴史を感じさせる墓石が並ぶ。「奉唱首題萬部供羪」碑。妙法蓮華経を一萬部唱えた供養に建立したものか?_ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.23
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そして片瀬諏訪神社の参道入口に到着。参道の両脇には多くの出店屋台が出ており、子供達や家族連れで賑わっていた。諏訪大明神の幟も。ウィキペディアによると『創建は養老7年(723年)。信濃国の諏訪大社を勧請しており、他郷へ御分霊した中で最古のものであるとされる。下社は弘仁3年(812年)に宮畑の地より鯨骨の湖畔に移転、上社は天長3年(826年)に諏訪ケ谷より浪合の山腹に移転している。1873年(明治6年)には、村社に列せられた。下社の社殿は1941年(昭和16年)に改築されたもので、同時に社務所も新築されている。また、上社における一間社流造の社殿は昭和天皇御在位六十年奉祝事業として完成したものである』と。たこ焼きの出店屋台。諏訪神社の一ノ鳥居。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)。一の鳥居の柱の下の見事な彫刻。一の鳥居を潜る。こちらは広島焼き?懐かしき射的。諏訪神社の仮設社殿?は神輿の到着を待っていた。拝殿への二の鳥居が前方に。手前両脇には大きな石灯籠が。拝殿前には「茅の輪くぐり」の長い行列が。茅の輪くぐりとは、参道の鳥居などの結界内に、茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというものです。 日本神話のスサノオノミコトに由来するといわれ、唱え詞を唱えながら8の字に3度くぐり抜けます。そして狛犬も大きな口を開けて。静かに茅の輪くぐりの順番を待つ人々、これぞ日本の姿。「諏訪神社」と書かれた大きな提灯。諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とここ片瀬の諏訪神社のみといわれていると。片瀬諏訪神社の創立は、養老7年(723)に諏訪大社の分霊を勧請したのが始まりで、両社は別の地にあったが、上社は天長3年(826)に、下社は弘仁3年(612)に現在地に移された。社殿は、元弘3年・元徳4年(1333)に新田義貞の鎌倉攻めにより類焼し、安永7年(1778)に改修された。その後、甘糟豊太郎・三郎・四郎の三兄弟が社殿を造営・整備した。ご利益:古くは狩猟の神として崇められてきたが、のち農耕神、武神として信仰されていると。仮設社殿の内部には黄金色の獅子が。山車が境内に入ってくるにはまだまだ時間があるので、引き揚げることに。帰路に境内から一の鳥居を見る。仮面売り場。綿菓子も。江ノ電バスの「諏訪神社前」駅を通過。ここが『片瀬諏訪神社例大祭』の花掛場。いまだ神輿は国道上で賑やかに。最後尾にはパトカーが。そして左手には改装した湘南モノレール・湘南江の島駅が。昨年2018年12月1日に新駅ビルとして竣工し正式に運用を開始。そしてこちらは江ノ電江ノ島駅。江ノ電江ノ島駅前の車両進入禁止柵に、可愛らしい雀(すずめ)が今年も留まっていました。季節ごとに衣替えをしているのです。そして江ノ電・江ノ島駅に到着。ところで江ノ島電鉄、通称・江ノ電での駅名は「江ノ島駅」湘南モノレールは「湘南江の島駅」小田急線は「片瀬江ノ島駅」ところが、島を渡る弁天橋のたもとの標識には『江の島』しかし神社は「江島神社」。と「ノ」も「の」も無し。江の島の属する我が藤沢市は昭和44年(1969)4月1日を以って「江の島」と表記する事に統一しており住居表示の他、市の管理する施設、出版物すべてに「江の島」の名が使われているのです。当然、藤沢観光協会のパンフレット等もすべて「江の島」です。島内の色々な物にも「江の島」の名が使われています。それにしても、いつも「ノ」、「の」の使い方が難しいのです。江ノ電・江ノ島駅改札口。江ノ電江ノ島駅には、石井彰英氏という方が寄贈された湘南の風景を表現したジオラマが。ジオラマは、江ノ島駅の藤沢駅方面行のホームの改札寄りに置かれていた。江ノ電のHPには、「このジオラマは、平成10年11月11日に当社(江ノ電)が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの『江ノ電の運転士になりたい』という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです」と書かれています。鎌倉行きの電車が到着。そして藤沢行きの電車に乗り帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2019.09.20
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次そして「善徳寺」に到着。大和市上草柳3-10-5寺号標石「真言東本願寺 休息霊場 草柳山善徳寺」。真宗大谷派の寺院なのであった。「市指定重要有形文化財(有第十ニ号)銅造誕生釈迦仏立像指定年月日 昭和五十六年八月一日形状 像高 10cm生まれるとすぐ七歩歩み、「天上天下、唯我独尊」(この世界の中で、自分より尊い者はない)と言ったと伝えられる釈迦の像です。左手の肘から先と、両足の膝から下あたりが欠失し、肌も荒いですが、量感たくましく、きわめて力強い仏像です室町時代(十五世紀)の鋳造と考えられます。言い伝えによれば、善徳寺本堂を建立するために村人総出で山をくずし、地ならししていると土の中からこの仏像が堀り出されたと伝えられています。平成九年三月 大和市教育委員会」広い境内の奥に「善徳寺六道殿」と見事に手入れされた「カイヅカイブキ(貝塚伊吹)」の生垣。ズームして。誰かのお腹の如し。「善徳寺六道殿」を正面から。蟇股の後ろに扁額。蟇股とは横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになったと。念の為扁額「善徳寺六道殿」を斜めから。「内陣」を見る。見事な精細な「欄間彫刻」。見事な精細な「欄間彫刻」。そして見事な組造りの詰組(つめぐみ)構造の「鐘楼」。そして寛政8年(1796年)作の「梵鐘」。太平洋戦争当時、多くの寺は金属不足の為に梵鐘を国に供出した。その殆どは帰って来なかったが、善徳寺の梵鐘は潰されずに無事に帰って来たのだと。中央には「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」の文字が。「人知を越えた智慧の光明をそなえた阿弥陀如来に帰命し奉る」の意。阿弥陀仏の特に光明のすぐれていることを表す名号で、九字名号と言われると。こちらには「南无阿弥陀佛」「手水舎」。「鐘楼」の見事な詰組(つめぐみ)。「水盤」には「浄水」と。「手水舎」の先に広い「墓地」が広がっていた。「戦没台湾少年之慰霊碑」「太平洋戦争 戦没台湾少年の慰霊碑」。「戦没台湾少年之慰霊碑太平洋戦争の末期この地に「高座海軍工廠」👈リンク 在り十三才より二十才までの台湾本島少年八千余名海軍工員として故郷を遠く離れ気候風土その他の悪環境を克服し困苦缺乏に耐え連日の空襲に悩みつつも良くその責務を完うせりされど病床に斃れ或いは爆撃により最期を遂げたる者数多し 遺骨は故郷に還れと夢に描きし故郷の土を踏み懐かしの肉親との再会をも叶わず異郷に散華せる少年を想ふ時十八年後の今日涙また新なり。これ等の霊魂に対し安らかなるご冥福とかかる悲惨事の再び起らぬ永遠の平和を祈り之を建つ 昭和三十八年十一月 神奈川県平塚市富士見町十番十八号 元 高座海軍工廠 海軍技手 早川金次 坂本光吉 謹書」「本堂」を背景に石仏を。台座には「戦没者 檀信徒 慰霊位」と。「本堂」。本尊は阿弥陀如来像。慶長18年( 1613 )正慶坊善徳により開山されたという浄土真宗の寺。「本堂」正面の見事な龍の欄間彫刻。木鼻(右)。 「木鼻」の出現は、「平重衡の南都焼打ち」にあって荒廃した「東大寺」を見事に再建した高僧「俊乗坊重源」が、中国から持ち帰った建築技法の「貫」が採用された鎌倉時代から。貫という技法は建築を格段強固にし構造そのものが大きく変革を遂げた。木鼻とは「木の先端」という意味の「木端(きばな)」が転じて「木鼻」に書き換えられたもの。頭貫などの水平材(横木)が柱から突き出した部分に施された彫刻などの装飾をいうとネットから。木鼻(左)。「本堂」の見事な詰組(つめぐみ)。斜めから。「本堂 内陣」。本尊の阿弥陀如来像であろうか。本堂の外柱の下にも見事な金属彫刻が。「本堂」前から「善徳寺六道殿」を見る。横壁には花頭窓が並んでいた。「本堂」と墓地を仕切る壁には「沢柳山善徳寺之由来沿革史」石版が。ひたすら漢字のみの長文で。こちらは「善徳寺本堂沿革歴」。ひたすら漢字のみの長文で。丸に横向きの三本線をあしらった「横三引両」紋が寺紋なのであろうか。墓地の珍しい赤い墓石。赤色御影石であろうか?巨大な「本堂の屋根」。そして巨大な「善徳寺六道殿の屋根」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.09
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そして昨夜の宴のアルコールが効いて爆睡。そして4月16日(木)早朝の「兵どもが夢の跡」。 そして早朝の温泉へ。く温泉ご利用の時間について>タ 1 5 : 0 0 ~ 2 4 : 0 0朝 6 : 0 0 ~ 9 : 0 09 : 0 0 以降清掃が人ります。宜しくお願い致します。」 「洗面脱衣所」。「温泉成分、禁忌症及び入浴上の注意事項掲示証1.温泉利用施設名 ○○○健康保険組合 仙石高原ビラ2.源泉名 大涌谷温泉 蒸気造成混合泉 2号線(仙石原方面)、3号線(強羅方面)3.泉質 酸性一カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉 (旧泉質名 酸性一含塩化土類一石膏泉)4.泉音 源泉 60.6℃ 使用位置 40℃5.温泉の成分 知覚的試験 微白濁微硫化水素臭 pH 2.1 電気伝導率 0.364 S/m 蒸発残留物 1.236 g/kg 成分総計 1.278 g/kg以下 略」 浴槽は独り占め。「洗い場」。そしてこの日の朝食。この期間のオプション料理。フロント前にあったお土産品。「栗しぐれ」。 そして精算を終えて、仙石高原ビラを後にすることに。正面玄関。「仙石高原ビラ」入口。「仙石高原ビラ」の建物。反対側から。旅友の女性三人で。そして昨日は雲に隠れて見えなかった富士山の勇姿を愛でに乙女峠に車を進める。「乙女トンネル」。 「乙女トンネル」を出る。 左手奥にあったのが「FUJIMI CAFE」。この前の路肩に車を駐める。 そして御殿場の街越しに「富士山」の勇姿を。 ズームして。手前の雲が右方向に動いていた。まだまだ残雪が。さらに山頂をズームして。さらに山頂をズームして。そして引き返して、芦ノ湖に沿って南進し、「箱根町港」に到着。運よく、ここからも富士山の勇姿が見えた。海賊船・ビクトリーが「桃源台港」に向かって出航。フォトスポットから。富士山を入れて。ズームして。「海賊船」もズームして。 箱根駒ヶ岳ロープウェイの駒ヶ岳山頂駅をズームして。海賊船「ロワイヤルII」。昨日訪ねた「山のホテル」と「箱根遊船SORAKAZE」。 「箱根関所周辺散策図」。 「箱根駅伝ミュージアム」。 「東京箱根間往復大学駅伝往路ゴール」記念碑。裏面には「東京箱根間往復大学駅伝復路スタート」と。正月の風物詩である箱根駅伝の往路フィニッシュ地点&復路スタート地点は記念碑だけだが、過去の歴史や未来へと繋がるバトンまでも感じられるのであった。路面には「東京箱根間往復大学駅伝競走 START FINISH」ラインが埋め込まれていた。 選手たちは、前方の「箱根関所南」交差点を右折し、このゴールに走り込むのであった。箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)の5区(山登り)は、小田原中継所からここ箱根・芦ノ湖までの20.8km。標高約874mの最高地点まで約16kmを駆け上がり、その後約4.5km下る「山上り」の過酷なコースで、箱根駅伝公式サイトによると、往路の最終区間として勝敗を分ける最も重要な区間とされている と。 「箱根町港」。芦ノ湖の遊覧船(海賊船)の発着の港。快晴であれば(ネットから)。右側の朱の鳥居が「箱根神社」。芦ノ湖・元箱根湾に建つ平和の鳥居。昭和27年にサンフランシスコ平和条約締結を記念して建てられた。扁額には吉田茂元首相が記した「平和」の文字があるが、湖側を向いているので陸側から見ることはできない。 大きな石碑。「パウル・シュミット(1872 - 1935)の碑パウル・シュミットは1895年、24才の時に来日したドイツ人てす。40年間箱根に暮らし、ドイツのライカカメラを扱うエルンスト・ライツ社の代理店を営み活躍、母国から功労賞を受けました。箱根をこよなく愛し、芦ノ湖の湖畔に「赤門」と呼はれた最初の別荘を建てました。内外人に箱根の美を紹介した先駆者てあり、また大変な親日家で、日本通としてドイツ大使代々の相談役でもありました。恵まれない方々に匿名で金品を贈るなど、その優しい人柄は箱根の人々から大変親しまれました。1935年、出張先の上海て死亡。享年63才でした。その遺徳を偲び、永く顕彰するために、この碑を建立しました。建立: 1936年5月 箱根DMO (一般財団法人箱根町観光協会)」 「Paul Schmidt」。 近づいて。芦ノ湖畔のパウル・シュミット氏 をネットから。そして最後に、前日は姿を現さなっか富士山に会いに「大観山展望台」へ再び。裾野に雲はあるものの、見事な白き山頂を現せて、芦ノ湖と共に迎えてくれたのであった。 ズームして。エピローグを迎えた桜の樹とのコラボ。移動して。左:駒ヶ岳 右:二子山。・手前には笹の穂が揺れ、高原の風がそのまま見えるような静かな動きを。・眼下には深い青の芦ノ湖が広がり、入り組んだ岸がやわらかく光を受けていた。・その向こうには幾重にも連なる山々が、淡く重なりながら遠近を描く。・そして中央に、空の青を背にして白く浮かぶ富士山の勇姿。・空は高く澄み、わずかな雲が、広がりの中の余白をつくる のであった。ダイヤモンド富士ならぬパール富士??芦ノ湖には、遊覧船、海賊船の姿が。いつまでも、佇んでいたい空間と時間なのであった。そして帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・FIN・・・
2026.05.12
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10月31日(土)に種まきした空豆が発芽しました。 種まきして12日目です。最初に根っこが出来、その後に発芽するのです。 本葉が出揃って、3~4枚になるまでこのポットで育てます。種まきが早く、あまり苗が大きく育ってしまうと寒冷期に凍害を受けてしまうのです。 同時に播いたスナックエンドウも発芽しています。 1個のポットに3粒づつ播きましたがほぼそろって発芽してくれました。 こちらも本葉2~3枚程度の幼苗で越冬させ、4~6月頃に収穫をするのです。スナップエンドウも空豆と同様に幼苗の頃が最も耐寒性が強いので(大きくなると弱くなる)、越冬するときに苗が大きくなりすぎないように種まき時期に注意する必要があるのです。
2015.11.11
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先週の3連休を利用して、我が家の横(next)の農園(N農園)のイチゴの定植を行いました。イチゴは収穫後半の時期から、『ランナー』というツル状で地上をはい、先端の芽が根を出して生長して繁殖する茎が出てくるのです。芽が出た先端部分の下に、土を入れたポットを置いたり、勝手に地面に着地したりして、子株は増えます。 根を張った子株からも、どんどんランナーは伸びます。普通はこの2番目以降の子株を使うのです。理由は、1番目の子株は育ちすぎてる事と、親株の病気を引き継ぎ易い為なのです。 【http://jasaga.or.jp/ichigo/saijiki/growth】よりランナーが地面を這い、ここで根を張っていました。 これを切り落とし、移植し苗を生長させておいたのです。秋が深まるにつれ、成長も順調で緑の新しい葉が大きくなってきました。これを新しい畝を作り、定植したのです。切り残したランナーと反対側に花が咲くので、ランナーの反対側を畝の縁の近くになる様に植えると、実が成った時に畝の外側に垂れ下がってくれるので、実が土で汚れなくて済むのですが、ランナーが既に枯れ落ちている苗もあり、なかなか判別が難しいのです。肥料は堆肥、鶏糞、米糠を少しずつ。肥料は多すぎても良くないのです。特に窒素分が多いと葉や茎はとても大きくるのですが、肝心の実の太り方が悪くなってしまうのです。全部で5柵の植え付けを行いました。イチゴは冬の間、葉や株が小さくなりますが、冬の寒さに耐え、2月下旬頃から徐々に葉が立ってきて大きく成長し始めるのです。来年の春、4月下旬頃には花が咲き出し我がB(BEE)農園のミツバチ達が放花するのです。いちごを栽培するにあたってミツバチが欠かせないのです。ミツバチがいちごの花の受粉を手伝ってくれてはじめて綺麗な形のいちごが出来るのです。昨年撮影の訪花したミツバチの姿です。
2012.10.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『小田原城』の道路標識も見えて来た。右手に『東海道 小田原宿』の標柱。東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。そして『小田原城址江戸口見付跡』。この江戸口見付は江戸からの東海道の外郭入口として位置しており、現在は史跡標柱と小さな公園だけとなっていた。当時は土塁と矢来によってで喰違が形成され江戸から入る場合、まず右手に折れ曲がり木戸をくぐって左に折れ曲ると右手には番所が置かれていたのだと。江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場がここ小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていたと。『江戸口見付跡』「小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。」公園内には老松が存在感を。『江戸口見付跡』。江戸時代末期の小田原城の地図。現在地と小田原城の総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁の様子が理解できるのであった。浜町歩道橋上より旧東海道国府津方面を振り返る。浜町歩道橋上より旧東海道小田原方面を見る。そして歩道橋の反対側には『江戸口見付並びに一里塚』。「見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を 通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双コウとなりしに、今隻コウとなれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一コウは海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭 村の里コウに続けり」とされている。」『江戸口見付並一里塚址』。『善照寺』を訪ねる。大きな松の向うに本堂の屋根が見えた。『本堂』。真宗大谷派の寺。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。そして更に奥の『蓮上院土塁』を訪ねる。説明板には『天正18(1590)年秀吉の小田原攻めの際に築かれた総構の一部、この土塁に対峙したのは徳川家康・・・。』と書かれていた。『蓮上院土塁』の間にあった窪地。『太平洋戦争の爆弾着弾跡』。太平洋戦争中の空襲による爆弾の着弾跡が残っているのだと。旧東海道・国道1号線に戻る途中の交差点は『七枚橋(しちまいばし)』。この地名は、「文化十四丑年類焼録」(1817年)に初めて見られると。橋は、抹香町から大新馬場に通づる道路と護摩堂川(ごまどうがわ:小田原城三の丸の水を排水するために設けられた水路で、現在ではみられない)とが交差するところに、7枚の切石を並べてかけられていたそうです。この橋の名が、後にはこの付近の地名になったのだと。『十王町・抹香町』十王町は、小田原城絵図の一つである「万治図」(1660年)に初めて地名が見られると。この地名の由来は、この地が教徳寺の門前で同寺に十王像(死者のさまよい行く世界でその者の生前の罪を裁く10人の王をいい、その像)が安置されていたからと。 また、この付近の武家地を含んで「抹香町」ともいったと。この地名は、小田原城絵図に表示がなく、明治以後の記録にはじめて見られると。 この地名の由来は、近くに十王堂(閻魔堂(えんまどう))や寺が多く、線香のけむりが絶えなかったことによると。旧東海道の名所案内表示板。『鍋町』。鍋町は、その範囲がはっきりしていませんが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町です。小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))から、町には鋳物師が数多く住んでいたと。そのため、鍋町と呼ばれるようになったと。旧東海道・国道1号線の新宿(しんしく)交差点を横切り直進すると旧東海道は右に曲がっていた。新宿町は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。『小田原 かまぼこ通り』に入る。海からの恵みと箱根丹沢水系の良質な水が、小田原名物のかまぼこを生みました。船方村と呼ばれた旧街道筋には、かまぼこの本店が軒をかまえ「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。通りには、かまぼこだけでなく干物屋や鰹節屋、料亭、飲食店など、約30店舗が軒を連ねています。多くの蒲鉾屋が並ぶ。『万町(よろっちょう)』。町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継所(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。右手に『小田原おでん本店』。茶室を備える上品な店内で、小田原の食材を使用した各種のおでんを提供している。おでん会席やランチメニューもあるとのこと。再び小田原名所の案内板。青物町に向かって旧東海道を進む。『下の問屋場跡』。この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたご)が十一軒ほどあった。『高梨町』この歴史がありそうな食堂で昼食。レバニラ炒め定食を注文。『小田原宿 脇本陣古清水旅館』小田原宿の清水本陣では、代々弟が脇本陣を経営していた。明治維新後も旅館業を経営し、近年まで古清水旅館を営んでいたが、宿泊者数の減少から店をしまい、現在は高齢者住宅を経営している。その高齢者住宅「プラージュ古清水」の2階には、「古清水旅館資料館」がある。古清水旅館は第二次大戦の小田原空襲により焼けてしまったと。「8月15日の小田原空襲1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町ニ・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。今から62年前にあった小田原空襲の記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。 2007 (平成19) 年8月15日 戦時下の小田原地方を記録する会 古清水旅館 館主 清水伊十良」『宮前町(みやのまえちょう』。小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。『小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡』清水金左衛門本陣は、江戸時代は大名の宿泊所として役目を果たし、明治になっても明治天皇が5回も泊まられたと。「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡小田原宿は、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて9番目の宿です。箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きく、本陣、脇本陣、高札場、問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわたり宿泊しています。清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。 平成29年3月 小田原市教育委員会 」『明治天皇宮ノ前行在所跡』明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、この事蹟を記念し、本陣跡の土地365.92m2を整備した上、石碑が建てられた。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑は小松自然石で、明治天皇が宿泊した由来が刻まれ、事業碑は本小松石で明治天皇聖跡小田原保存会の事業が刻んであります。「小田原市指定史跡 (昭和32年3月30日指定)明治天皇宮ノ前行在所跡 (旧清水金左衛門本陣跡) (所在地) 小田原市本町3-5-25明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)十月八日の御東行を際を初めとして五回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和十五年二月に整備工事を着手し、昭和十五年十月に落成しました。 小田原市教育委員会」 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次県道261号線(磐田細江線)の天竜川に架かる『天竜川橋』を磐田市側から見る。この『天竜川橋』には歩道が無いため、更に上流に向かい歩き、国道1号線(浜松バイパス)に架かる『新新天竜川橋』に向かう。『新新天竜川橋』の歩道を歩き、天竜川を渡る。天竜川に架かる橋としては、最下流から6番目の位置にある。国道1号の新天竜川橋付近は近隣の地域でも屈指の渋滞ポイントであり、渋滞が慢性的に発生し、問題となっていた。また、新天竜川橋には歩道(自転車歩行者道)が無かったため、天竜川を横断するためには路側帯を通行するしかなく、非常に危険な状態であった。この2点の解消を主な目的として、新天竜川橋の拡幅工事が1995年(平成7年)に開始された。総事業費は約460億円。1995年(平成7年)より、従来の片側2車線の計4車線道路から片側4車線の計8車線道路への拡幅工事(新天拡幅)を行い、下り専用橋として供用を開始した。橋長は912 m。日本橋から249.2m地点を通過。日本橋から京都・三条大橋までの旧東海道の距離は、いろいろな数字があるが、126里6町1間(495.5km)の数字もあり(https://350ml.net/labo/tokaido/kyori.html)495.2/2=249.75kmであり、この先550mが中間点。隣の『天竜川橋』の手前側の磐田市部分は塗装更新済みであるが、浜松市側は未だであり白への変色が目立つのであった。そして橋上で浜松市東区中野町に入る。原付は『流出して下さい』の表示に違和感あり。天竜川に架かる橋の上の表現としては気になったのであった。そして中間地点を通過し『250km』地点に到達。ようやく旧東海道の前半線を制覇し、後半戦に入ったが、しかし未だに静岡県を脱出できないのであった。『新新天竜川橋』をほぼ渡り終わり、道路下にある小さな公園への階段を降りる。『東海道案内板』。『「東海道」江戸と京のどまんなか 浜松市東区中野町マップ』。堤防の下の道を進むと、六所神社、旧東海道 船橋 木橋跡に行けるとの案内が。『天竜川橋』の浜松市側からの入口を見る。そして、中野町マップに従い、堤防の下の砂利道を進む。暫く進むと左手に堤防上の道・県道314号線に上がる階段があり、ここから六所神社の境内裏側に入れたのであった。県道314号線沿いにあった大きな石碑を見上げる。『六所神社(ろくしょじんじゃ)』の境内に入り、鳥居の外にいったん出て六所神社を撮影。『六所神社』社殿。三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祀られている。神社名 六所神社鎮座地 浜松市天竜区春野町領家327御祭神 天兒屋根命 大日靈貴命 譽田別命 中筒男命 大山袛命 武甕槌命御由緒 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す 境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に 遷座せし上下神社を合祀 大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり 第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月 社殿他皆改築す。そして再び鳥居をくぐり境内の外に出ると、左手の階段横にあったのが『船橋 木橋 跡』。「江戸時代の天竜川には江戸防衛の理由から橋が架けられていませんでした。東海道の蓬莱は、この上流にある「池田の渡し」の渡船で行われていました。明治元年、天皇御東幸の際には、舟を並べ、板を敷いた仮設の舟橋が2日間だけ架けられました。その後同7年には本流の舟橋と(中)州の木橋からなる最初の橋がこの場所に完成し、街道の往来は格段に便利になりました。しかし舟橋は洪水により度々流されたので同9年に完全な木橋に架け替えられました。この「天竜橋」は昭和8年に現在の鉄橋ができるまで使用されました。」往時の『天竜橋』の写真。この後屋敷を訪ねた金原明善が明治11年3月に完成したのが幅3.6m、長さ約1160mの木橋「天竜橋」昭和初期の天竜橋と後方天龍川橋(天竜川文庫所蔵)。堤防上を走る県道314号線からかっての『天竜橋』があった方向の天竜川を見る。川面に面する場所に、何か柱と案内板が写っていたのでネットで調べてみると下の写真の如き『量水標』であったようだ。『量水標』とは川の水位を目で観測するための装置とのこと。『水天宮寄付』と刻まれた石碑。『船橋之碑』『明治大帝玉座跡』碑。中野町六所神社北側天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の石柱が建っていた。明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明治11年11月1日に天竜川堤防修築のため設立された「治河協力社」の建物内で休憩した。その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬を下賜された。建物は明治25年に焼失したが、明治31年、建物跡前面に「玉座迹」が建碑された。また、明治天皇巡幸の地として「明治大帝御聖蹟」が昭和3年に建てられた。『明治天皇玉座迹の碑』史跡 明治天皇 中野町御休所跡所在地 浜松市東区中野町説明 明治十一年、北陸東海巡幸の際十一月一日、当所でご休憩された。 御座所は金原明善の設立に係る治河協力社の建物内で明善夫妻を御謁見された 当時の建物は明治二十五年十月消失し建物跡の前面に玉座迹の碑を建立した。」『明治天皇玉座迹の碑』前から天竜川下流を見る。遠くに東海道本線の鉄橋が見えた。『天竜川木橋跡』、『舟橋跡』の2本の標柱があった。対岸の豊田町(現磐田市)側に『天竜川橋跡碑』があったが、実際に木橋があった場所がここということになる。『金刀比羅神 水天宮』石碑。水運の安全を守る「金刀比羅神」と暴れ天竜川を恐れての水難除けの「水天宮」の石碑『賀陽宮(かやのみや)殿下参拝祈念』碑。賀陽宮は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家である。六所神社の前のT字路には様々な石碑、案内板が。「六所神社」下にある「旧東海道」説明板。「ここ中野町は、東海道のちょうどまん中であることからその名前がついたと伝えられています。 十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、「舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。 この辺りは、川越しの旅人や商いをする人、天竜川をなりわりの場とする人々で活気があふれていました。」『中ノ町道路元標』。足元にある標石は「道路元標」と呼ばれ、市町村の起終点を示したもの。 大正九年施行の旧道路法により、各市町村に一箇所の設置が定められた。ここにある「中ノ町道路元標」は中ノ町村の起点を示すもので、 当時の規格に忠実に作らている。 市町村の数と同じ1万2244基が設置されたが、全国に現存するものは1600基ほどと言われ、静岡県内ではおそらく唯一の、たいへん貴重なものであると。『旧東海道』。六所神社を背にして、真っ直ぐ延びる旧東海道を西に向かう。右手空き地に案内板が。『中野町銀行 跡』。「中野町は、江戸時代には東海道筋の川越しの集落として、多くの旅人たちで賑わいました。また、明治から大正時代には、天竜川の船運を利用した木材や鉱石の流通基地として隆盛を極めました。明治15年、この場所で「竜西社」が結成され2年後に「中野町銀行」が誕生した。その後、西遠銀行と合併し、遠州銀行を経て、今の静岡銀行に吸収された。昭和49年まで建物があり、現在は地面に埋もれたレンガに、かすかに当時の面影を見ることができます」同じく右手にに大きな『天竜川橋紀功碑』が。『天竜川橋紀功碑』「天竜川に橋を架ける作業に功績のあった浅野茂平の業績を刻んだ石碑である。浅野茂平は、明治元年の明治天皇東行に際して天竜川に舟橋を架けて安全な渡河に功績を残したほか、明治7年には舟橋を再度完成させ、天竜川を挟んだ東西流通の活性化に大きく貢献した。その功績は今も語り継がれている。石碑は明治27年に建てられた。」『中町(なかちょう)通り』と書かれた木柱と『伊豆石の蔵』案内板。『伊豆石の蔵』。「この蔵は、明治時代に伊豆半島から切り出された伊豆石で造られた蔵です。江戸時代より、天竜川流域は船運を利用した交易で、伊豆や江戸と繋がっていました。伊豆で採れた石は、火に強い建築材料として、蔵や塀に使われました。これらの建造物は、掛塚をはじめ天竜川筋のまちや、浜松市内にも数多く残っており、当時の交易や繁栄の名残を今に伝えています。この蔵の壁の石は流れるような縞模様や海を思わせる緑が美しく、数ある伊豆石の蔵の中でも大変秀逸で貴重なものです。」『東橋』と書かれた木柱のある信号のない交差点。『東橋(ひがしばし)』。『東橋跡』「かつてここを流れる小川には、土橋が架かっていました。 中野町村では一番東の橋であり、東海道を往来する旅人は、皆この橋を渡りました。明治後期から、中野町は天竜川の船運による木材の集積地として栄えました。 堤防沿いには19軒の製材所が建ち、ここから東の横町に至る通りには、旅館・芸者置屋・小料理屋・洋食屋・玉突き・カフェーなどの店が軒を連ねていました。この東橋が、中野町繁華街への入り口でもあったわけです」 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.06.13
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「北条中学校」手前で、北条地区を案内していただける地元役員の方と合流しバスはUターンする。一面の田園が拡がる。事前に北条地区の案内書をOBの方から見せていただく。「歴史と文化の香るまち北条 越後北条城山圖」。「歴史のまち北条 ~越後毛利氏と北条城~毛利氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣大江広元(おおえひろもと)の子・季光(すえみつ)が相模国毛利荘(神奈川県)を譲り受け、毛利氏を名のったことから始まります宝治合戦(ほうじのかっせん)でその一族は北条氏に滅ぼされました。この時、本拠地の相模国毛利荘などは没収されましたが、佐橋荘と安芸国(あきのくに)吉田荘は領地として認められ、季光の子経光(つねみつ)が南条に移り住んでいたことから、北条(きたじょう)が越後毛利発祥の地になりました。また、西国最大の戦国大名となった毛利元就は、遠隔地の領地を維持するために安芸国吉田荘に土着した一族の末裔(まつえい)です。経光の長男基親(もとちか)は北条毛利(きたじょうもうり)となり、その子時元を初代城主に迎えた北城は戦国の時代まで続きました。城主の中でも、上杉謙信の重臣として上野国厩橋(うまやばし・現前橋市)に派遣さた北条高広(きたじょうたかひろ)と、御館の乱(おたてのらん)に関わったその子北条景広は、鬼丹後としてともに有名です。北条城は、この御館の乱で景広を最後に約300年間の歴史に幕を閉じました。「石仏のまち北条北条のまちを歩いてみませんか、きっとあなたはたくさんの石仏に出会います。ほほえみかける石仏、歴史を刻む石仏、そのお顔やお姿、そしてそこに彫られた文字は遠い先人たちの暮らしの証です。北条は道祖神の宝庫です(13基)。男女神が肩を抱き合い、お酒を酌み交わす姿はいとおしいばかりでなく、素朴な祈りの心がにじんでいます。盲人米山検校(けんぎょう)の話をご存じですか。検校は宝暦の飢饉(1755 )のとき、私たちの祖先を救ってくれました。出身地杉平には墓があり、十二の木と大角間(おおがくま)にはお礼の塔が建っています。廃村した鷹之巣には「祖霊之碑」があります。この碑は先祖の眠る山河が私たちの心のふるさとであることを教えてくれます。」「北条マップ」。ズームして。「北条の宝物」。「北条小唄👈リンク春はうれしや城山ざくら 唄に流れる 唄に流れる 斧の音(北条城跡)思い出します縦貫道路 可愛いあの娘の 可愛いあの娘の 片えくぼ(縦貫道路)丘のほとけをおぼろに染めて さくら参道は さくら参道は 七曲がり(入定上人遺蹟)夏の涼みは長鳥川よ 闇に浮かんだ 闇に浮かんだ 豆木橋(専称寺の豆木門)とけた情けも大師のふしぎ 千とせ塩ふく 千とせ塩ふく 法の水(弘法の塩水井戸)検校米山困窮塚の むかし語りも むかし語りも 草の底(米山検校)秋は十五夜祇園の拍子 火防係の 火防係の 意気姿(北条の十五夜祭り)想いこがれてトンネル抜けて 逢いに来たぞや 逢いに来たぞや 月あかり(畔屋~山澗トンネル)」手に手結んで大杉さんに なんの願いを なんの願いを かけたやら(中村の大杉)肩を並べて金倉スキー 日本海まで 日本海まで ひと息に(金倉滑降)恋のかよい路吹雪にくれて 広田恋しや 広田恋しや 湯のけむり(広田鉱泉)雪にうもれた愛宕の山に 恋のスロープ 恋のスロープ 花が咲く(愛宕山)「北条の伝承料理丹後のやきもち さしみコンニヤク 手打ちそば北条には、古くから伝わる数々の伝承料理があります。それは、自然の素材を慈(いつく)しみ調理された心温まるおふくろの味です。」。そして最初に案内していただいたのが「佐橋神社(さはしじんじゃ)」。バスを下りると、こんな物がありました。右に曲がって、もう少し上れと言うことのようです。「毛利氏の城館址(じょうかんし)と佐橋神社鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の居館があった。子孫は各地に分散。ここに残った一族は南条氏といい、上杉氏に仕える。慶長3年(1598)廃城。天和3年(1683)、城跡保護のために神社が建てられ、慶應元年(1865)佐橋神社と改称。」参道を進む。モミジの黄葉。ズームして。石灯籠。土塁跡のような土盛りを、神社の周りで見かけた。「毛利元就ルーツの地」碑。佐橋神社は、佐橋庄の荘園居館のあった場所で、ここを拠点に7が村に及ぶ広大な領地を経営し現在の「鯖石」の語源になりました。鎌倉時代、源頼朝の重臣、大江広元の孫にあたる毛利経光がこの丘に移り住み、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地になったことでも知られています。「三本の矢」の故事をのこした毛利元就ルーツの地であり、学問を好む風土は江戸時代の教育者藍澤南城(あいざわなんじょう)にも引き継がれました。「毛利氏略系図(戦国時代まで)」をネットから「鎌倉殿の13人」で「政所別当 大江広元」役は栗原英雄さん。大江広元は北条親子に次ぐNo.3の座につき、「承久の乱」では大江広元の嫡男だった大江親広は後鳥羽上皇に呼び出され官軍側となり、大江広元と大江親広は親子で戦うことになったのだ。生涯を通じて鎌倉幕府に尽くして幕府の発展を支えた大江広元だが、1225年(元仁2年/嘉禄元年)に激しい下痢を伴う病気を患い、亡くなったと。墓所は源頼朝の墓の近くにありますが、現在の神奈川県鎌倉市にある明王院(みょうおういん)の裏山にある、「五重塔が大江広元の墓所」👈リンク と考えられているのだ。「佐橋神社」の拝殿。近づいて。扁額「佐橋神社」。木鼻の彫刻。神楽殿。毎年恒例の春季大祭時にこの神楽殿で行われている「子供神楽」の写真をネットから。境内の石祠。『毛利氏供養塔』。建立された関修さんは、仕事の関係で福島県いわき市に移住されたとのこと。供養塔の後ろに見える建物は、「ごぼう庵」。「毛利氏供養塔建立の趣意この地は大正十二年まで関修家の居住地であった。往昔、東隣高台に毛利氏の城館があったことから、屋号を「城」といい先祖以来毛利氏の霊牌を奉祀してきた。毛利氏は大江広元の四男季光が毛利庄(神奈川県厚木市)に住む毛利家を称したことにより誕生した。宝治元年鎌倉で三浦氏の乱が起こり、毛利の一族が族滅した。偶然にも季光の四男の経光が生き残った。経光は毛利庄から佐橋庄へ下向し、東隣高台に居館を構い、佐橋庄(柏崎市)と吉田庄(広島県安芸高田市)を支配した。経光の子孫は当地南条から北条、安田、石曽根、善根へ分流し、越後毛利氏を形成した。また毛利元就、同輝元らが出た西国毛利氏の先祖は、経光の四男時親である。兼ねてから関修は毛利氏とゆかりの南条の歴史的価値が永く伝え継がれることを願うとともに、毛利一族の供養を宿願してきた。このたび、知友関喜四郎氏の協力を得て旧宅地を整備し、毛利氏供養塔の建立を志した次第である。 合掌 平成二十四年十一月二十六日 建立者 関 修 施工者 関 喜四郎 撰文 関 久」「墓誌」。毛利経光の戒名は「盛生院法榮佑徳信士」と。竹林前にも案内板が。「妙姫庵跡(みょうきあんあと)弘化元年(1844)、藍澤南城の妹佐和47才が出家して玄妙と名のり、妙姫庵を開いた。玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂とよばれた。昭和46年(1971)以後に仙宗が小出に去り、廃庵となる。」墓地には無縫塔が並ぶ。関氏の墓地。「先祖 関儀右庄門」と刻まれた碑。多くの石仏が刻まれた石塔。ここにも歴史を感じさせる石碑、石仏。「大乗妙典供養塔」と。衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」を一千回以上、独誦したときの記念に建てた石碑であると。「城址殉難者碑」。「城址殉難者碑明治31年(1898)、妙姫庵3代山岸貞順が建てた。同18年(1885)佐橋神社境内から出土した頭骨を埋葬したものである。大正12年(1913)、地元の旧家関周三郎は山口県毛利公爵家にこの頭骨は毛利経光のものではないかと照会している。」大きな墓石、塔婆には「大姉 廿七回 追善供養」の文字が。「祖先累代法塔」「童女」の供養塔・石仏が並ぶ。廃寺の本堂を移築して「ごぼう庵」と名づけてお茶を飲ませてくれる店と。ネットには休業中ともあったが。店の前には、多くの盆栽が置かれていた。「ごぼう庵」店主の趣味なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.31
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「下山口 神明社」を後にして、次の目的地の、「葉山御用邸」に裏にある「大浜海岸」を目指す。国道134号を南に進み、振り返ると、「葉山御用邸」の塀と巨木の植栽が正面に。ズームして。神奈川県三浦郡葉山町にあるこの「葉山御用邸」は、明治時代の1894年(明治27年)、近代のお雇い外国人でドイツの医学者:エルヴィン・フォン・ベルツ博士の勧めにより、比較的温暖で風光明媚な葉山の地に『葉山御用邸』を着工。若かりし嘉仁親王(後の大正天皇)の保養地として用いられ、1926年(大正15年)の最期もこの地で迎えられました。1971年(昭和46年)に建物が焼失(葉山御用邸放火事件)したが、1981年(昭和56年)に再建された。相模湾に面する海岸沿いにあるため景色がよく、江の島や湘南、天気が良いときは富士山も眺めることができます。すぐ近くに葉山公園があり、憩いの場になっています。上皇陛下・上皇后美智子さまは、葉山御用邸裏の「小磯の鼻」をご散策されるのがお好きとのこと。「葉山御用邸」の広さ(土地)は95,796.46m2 建物(延べ面積)は3,625.70m2とのこと。土地は約▢310m、建物は▢60mということになる。この「葉山御用邸」前の国道134号は「葉山公園通り」と呼ばれているのだ。「葉山御用邸」の塀に沿って歩き「大浜海岸」に出る。右手に朱色に塗られた欄干の橋を見る。欄干に近づかないように仮設設備のある橋を渡る。「下山川」の河口と相模湾を望む。こちらは「葉山御用邸」側。臨御橋の改修工事用の為にクラウドファンディングが行われ、目標金額の2億円を達成したが、臨御橋の改修の実施には、橋の状態調査、工法の選定、原材料費や労務単価等の高騰の影響により、その準備に当初の想定を上回る時間と費用を要する見込みであり、見直しを実施中であると。再び「下山川」の上流方向を。「臨御橋(りんぎょばし)」と。臨御橋は、御用邸の中を流れる2級河川である下山川の河口付近に設置されている長さ33メートル、幅4メートルのコンクリート製の橋です。欄干が赤く塗られていることから、地元では「赤橋」とも呼ばれ、一色海岸と長者ヶ崎・大浜海岸を結ぶ連絡橋として町民や観光客の散策に使われています。現在の形になる前は木造の橋として設置されていたそうですが、老朽化や台風等による破損を繰り返し、昭和43年に葉山町施工のコンクリート橋に改修され、現在に至ります と。潮位があがり2つに分かれた「長者ヶ崎」を振り返る。「小磯の鼻」。「葉山御用邸」の裏にあり、海に向かってこんもり芝生の丘になっている場所。大浜海岸と一色海岸を隔てるように海に伸びた抜群のロケーションで、ピクニックをしたりヨガをしてみるのもおすすめの場所 と。岬の先端は葉山スコリアと呼ばれる岩場になっていて、磯遊びもできる場所。皇宮警護官の小屋もあった。「小磯の鼻」の岩場の上に朱の鳥居と石祠があった。海の守り神が祀られているのであろう。「一色の洗濯岩」を見る。お立ち台の先が「一色の洗濯岩」の名勝になる。地質は、新第三紀の葉山層群(三浦半島で最も古い地層)で砂泥互層(一部はスコリア)となっている。侵食の違いで洗濯板のように見えることで「洗濯岩」とも言われている。「小磯の鼻」から「葉山御用邸」を。警備用の皇宮警護官の姿も。ご苦労さまです。「小磯の鼻」の岩場を振り返る。「一色海岸小磯の防波堤」の先端から。「一色海岸」。三浦郡葉山町一色にある「ライオンズマンション葉山マリンビュー」をズームして、天気が良ければ、「ライオンズマンション葉山マリンビュー」の後方に「富士山」の勇姿が見えるのだが。写真はネットから。そして「葉山御用邸」の北側の「しおかぜこみち」を国道134号に向かって戻る。この附近はコンリートの壁が続いていた。そしてその先にはツタ(蔦)に覆われた壁が続いていた。そいて、国道134号と交わる県道207号線まで.戻り「葉山御用邸前」交差点に向かって進む。右手にあったのが、「葉山御用邸」の北側の通用門。「皇宮護衛官募集」ポスター。「募集 皇宮警察」ポスター。警察庁の付属機関である皇宮警察本部に所属する国家公務員として、皇居や御用地を守る「警護」、皇室の方々を守る「護衛」、これらの活動を支える「警務」の三部門があるとネットから。道路の左手にあったのが「神奈川県葉山警察署」。三浦郡葉山町一色2034。前方に大きな交差点が。この交差点で、県道207号線が国道134号に繋がっているのだ。「葉山御用邸前」と。横断歩道を渡り、「葉山御用邸正門」を見る。三浦郡葉山町一色2038。そしてその先にあった「恩光碑」。三浦郡葉山町下山口1439。「恩光碑」を見上げる。明治・大正・昭和時代の皇太子殿下の葉山行啓がなされたことを奉祝して葉山町が建立した「恩光碑」。「この碑は、明治・大正・昭和時代の皇太子殿下の葉山行啓を奉祝して、昭和十一年に葉山町が建立したものです。中央剣型塔で「恩光碑」の碑文は枢密院顧問官金子堅太郎の揮毫、設計は彫刻家青柳利男の謹作、撰文は吉田増蔵博士で、その揮毫は松平直亮伯爵によるものです。」この鳥は鶴??「我葉山町 明治以来亘千三朝荐沗 皇太子殿下行啓而明治之朝以ニ十六年ニ月三日 大正之◯以ニ秊六月ニ十九日昭和之朝以九年六月六日竝始仰 鶴駕臺臨焉頃者胥謀樹銅表以諗恩榮之辱於永世云爾」水かきがないので鶴の姿か?「昭和十一年一月 葉山町謹建之」そして「恩光碑」の手前にあった色彩豊かなマンホール蓋。「明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡るヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています」 と再びネットから。「葉山御用邸」正門の「皇室警護官」の姿を。そして横断歩道を渡り、青い欄干の橋に向かって戻る。国道134号・下山川に架かる橋。「下山橋」と。欄干にはヨットの姿が。近づいて。「下山川」の下流側を見る。相模湾の見える位置まで移動して。海岸に最も近い臨御橋(りんぎょばし)まで2本の橋があるようだ。「葉山御用邸」の正門前を通過。県道207号線まで戻ると「関東ふれあいの道 ④佐島・大楠山のみち」案内板。関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は梅の木平(東京都八王子市)を起終点に東京、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉、神奈川の1都6県を時計回りに巡る160コース、トータル1,803kmの自然歩道です。神奈川県内には17コースがあります。豊かな自然に触れ、名所や史跡を訪ねながら歩いてみませんか。」④佐島・大楠山のみち三浦半島最高蜂の大楠山は登り約1時間、標高242m。比較的容易に登れるコースですが、最後の階段はちょっと頑張り、下りたあとはひたすら国道の歩道を歩きます。「関東ふれあいの道佐島・大楠山のみち長者ヶ崎 1.0km」。そして県道207号線を北上し、「一色海岸」京急バス停前を通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.15
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「蓮池辨財天社」を後にして、来た道を戻り、「小田原城北入口」を出て「お城通り」の坂道を下る。小田原市の汚水マンホール蓋。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋。江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。 右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。 また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と連携して流域下水道事業を進めています。 「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。 そんな想いが詰まったデザイン蓋。「お城通り」の歩道のタイル絵を追う。周辺案内図「学校法人 新名学園 旭丘高等学校」過去の名称 裁縫手芸編物伝習所 新名女子高等学校 旭丘女子高等学校国公私立の別 私立学校設置者 学校法人新名学園設立年月日 1902年創立者 新名 百刀(にいな もと)共学・別学 男女共学課程 全日制課程単位制・学年制 単位制設置学科 普通科・総合学科学期 3学期制「弁財天通り」に入り南西方向に進むと、前方に旧地名碑が立っていた。「弁財天」碑。「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」別の説明では、この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「弁財天曲輪」として初めて見られます。この地は、武家地ですが、江戸時代初めは、「弁財天曲輪」と呼ばれていました。元禄10年(1697)、後期大久保氏(大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間の大久保氏のこと)が藩主になった頃、蓮池の南側にある「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、こを単に「弁財天」と呼ぶようになりました。幕末には、この地に6.7軒ほどの中堅藩士の屋敷があり、二宮尊徳はここに住んでいた三幣又左衛門を「弁財天の旦(だんな)」と呼んでいました。なお、ここが藩主付きの女性の隠居所となったときもあります と。右手に、広い緑地広場が現れた。この場所に「蓮池」、そこに浮かぶ小島の中には「弁財天」があったのだと。小田原城案内図小田原城天守閣へのルートが示されていた。「小田原城の北を守る蓮池」案内板。近づいて。「小田原城の北を守る蓮池この付近には、その昔「蓮池」と呼ばれた天然の池が広がっていました。南禅寺(京都市)の東嶺智旺(とうれいちおう)は、「明淑禄(めいしゅくろく)」(天文20年4月26日記)に小田原城の周りに「三方有大池焉(三方に大池がある)」と記しており、「蓮池」はその一部と考えられています。蓮池の中島にはニ代北条氏綱が移した江ノ島(藤沢市)の弁財天があり、「蓮池弁財天」として小田原城の鎖守でありました(『北条五代記』)。現在「蓮池弁財天」は、御用米曲輪北東土塁に祀られています。四代北条氏政は、永禄4年(1561)の長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)の武田信玄を蓮池で迎え撃っており(『謙信公御年譜』巻七、「深沢城矢文」)、戦国時代には小田原の城北側の重要な防衛戦であったと考えられます。江戸時代になると、南側の御用米曲輪との間を堀で区画したL字型の弁財天曲輪(勘定所曲輪)・焔硝曲輪が整備されます(図2)。これにより、弁財天曲輪からの侵入者に対しては城内から横矢(側面攻撃)を仕掛けられる状況を作り、防御力を強化しています。弁財天曲輪からは幸(裏門)橋を渡り、小田原城の搦手口(裏門ロ)へと至りますが、大手口(馬出門・銅門)が将軍家用であったのに対し、裏門ロは多くの小田原藩士に利用されました。」「文久図」に描かれた蓮池、その中央に「弁財天」。そして赤線------が「幸田門(口)」から「幸(裏門)橋」を通って小田原城の搦手口(裏門ロ)へと至るルート。さらに「小田原城正規 登城ルート(正面入口)」案内板。小田原城天守閣をズームして見る。「史跡 小田原城址」碑。江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところ。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪があったと。「弁財天曲輪跡」案内板。「弁財天曲輪跡江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。」「御用邸の雪(小田原)」横浜開港資料館所蔵20世紀初頭の本丸遠景の写真で、右手樹叢が鉄門付近にあたる。正面の門が二の丸裏門 と。案内板の更新をお願いいたします。タイル絵「小田原城 弁財天通り」「旧蓮池」方向を振り返る。弁財天曲輪、そして蓮池という天然堀も、小田原城の北側で重要な役割を担っていた。弁財天曲輪跡の説明板にもある通り、戦国時代に上杉謙信や武田信玄が攻め寄せた時には、この付近が激戦地となったようです。北条氏が居城としていた頃の小田原城は、ここから少し離れた八幡山を中核とする城でしたが、範囲はこの付近の平野部にまで広がっていたのであろう。近世城郭として再生された小田原城に八幡山は含まれませんが、かつて激戦地となったこの場所は城に取り込まれ、江戸時代を通して明治の廃城まで役割を果たしたのだ。素通りしてしまいそうな区画であったが、設置されている説明板のおかげで足を止めることができたのであった。お掘端通りに出て、ここを左折すると、右手にあったのが「幸田門跡」。近づいて。「幸田門阯紀年碑」。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁 指定 昭和13年8月8日この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は三の丸の土塁が残されている数少ない場所です。」この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原城を守り抜きました。」小田原城絵図(文久図)より、 幕末の「幸田口」はこんな感じだった と。記念碑の周りは小さな公園として公開されており、幸田門に繋がる「三の丸土塁」は遊歩道として公開されていた。奥に向かって進んで行った。「小田原城 三ノ丸土塁跡」を東に進む。「小田原郵便局」裏まで進むと、急な木製階段が設置されていた。木製の如く見える石段を下った。その先にあったのが「小田原郵便局」。「小田原郵便局」脇の案内板。近づいて。石段を再び上り引き返す。近づいて。小田原郵便局裏手に残る三の丸堀の石垣と土塁。この辺りは市街化したにもかかわらず現存しているのであった。さらに進む。三の丸北東角の土塁。かつては隅櫓が設けられていた。どんな経緯があったのかわからないが、こんな市街化した場所で土塁や石垣が良好に残っているのは奇跡。こういった遺構を見つけるのも城巡りの醍醐味でもある。草刈りも行われていた。三の丸北東角から幸田口門跡に向かって延びる「小田原城 三ノ丸土塁跡」をかつては右が三の丸で左に水堀があったのだろう。さらに「小田原城 三ノ丸土塁跡」を引き返す。前方に「お堀端通り」が見えて来た。大きな犬を連れて、「小田原城 三ノ丸土塁跡」を散歩する御夫婦の姿も。「小田原城 三ノ丸土塁跡」を後にして「お堀端通り」交差点まで戻り、二の丸東堀方向にさらに進む。「現在地」はここ。「二の丸東堀」案内板。「二の丸東堀」案内板。「二の丸東堀小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。」文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城明治36年頃の二の丸東堀。二の丸東堀に架かる「学橋(まなびばし)」。「学橋」の後方に「二の丸隅櫓」その後方に「馬出門」。この石碑は???ネットで調べてみましたが???再び「学橋」を。この橋は城が現役の時はありませんでしたが、今では城址公園入口のシンボル的な存在。かつては公園内に小学校があったとのこと。通学に利用されたことから学橋と名付けられたと。現在の学橋は昭和24(1949)年に再建されたものであると。「二の丸東堀」に沿って進むと。御幸の浜海岸まで徒歩9分、600mと。「御用所(ごようしょ)」碑のひらがな面。「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」別の説明では地名の由来は、この地にの御用所があったためです。御用所は、はじめ箱根ロ門の東隣りにありましたが、その後、三の丸の旧渡辺屋敷跡に移されました。幕府には母屋を囲んで、敷地内に6棟の建物が見られました。なお、この御用所の敷地は、1840坪(6072平方メートル)あまりでした。現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっている。石碑の目の前には小田原ハローワークがあった。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があった。小田原ハローワークの前の休憩用ベンチ。中央には水が流れるようであったが、この日は・・・。小田原城案内図と周辺案内図。「現在地」はここ。「小田原城案内図」。「小田原城御用邸跡小田原城本丸・ニの丸地区は、明治維新・版籍奉還の後、旧陸軍の所管となり、明治33年(1900)1月に御用邸を建設するため地鎮祭をとり行い、翌年の明治34年(1901)1月に竣工しました。しかし、大正12年(1923) 9月1日に関東大震災により全壊し、昭和5年(1930)に廃止されました。御用邸には、小田原が気候温暖で風光明媚なことから多くの皇族が訪れ、小田原の行事に数多く参加され、町民との交流も活発に行われました。」「小田原邸園散歩(周辺案内図)」。「学橋」。今年の7月にはこの「学橋」👈️リンクを渡り、「小田原城 二の丸広場」を訪ねたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.02
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右手にあったのが「造船博物館 深海生物館」と書かれた看板。別の看板「戸田造船郷土資料博物館 駿河湾深海生物館」👈️リンク。戸田造船郷土資料博物館は、戸田御浜岬の先端に位置し、幕末にロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された、日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の造船資料や日露友好の歴史を紹介しています。また、併設の駿河湾深海生物館では、沼津市戸田地区ならではの、深海魚について楽しく学べる展示を行っています。「友愛の広場」碑。木々に囲まれた静かな場所だ。左奥が博物館。「戸田造船郷土資料館の収蔵品が「近代産業遺産」に認定されました経済産業省では平成19年11月、地域の活性化を進めるに当たっては、それを担う地域の方々が「過去」を知り、それを受け継ぐ「今」に自信を持ち、その自信を「未来」に向かう活力につなげていくことが大切と考え、わが国近代産業遺産の発展に尽くした先人達の歩みをその遺構等の中に留める各地の近代化産業遺産について、産業史・地域史のストーリーを軸とする33の近代化産業遺産群にとりまとめました。造船・炭鉱・製糸・貿易など、全国約450箇所の産業遺産が認定を受け、近代化産業遺産が有する価値の普及や地域活性化に向けた活用が期待されています。 戸田造船郷土資料博物館は、近代造船の礎となった洋式船建造技術を伝える収蔵品が評価され、ストーリー1の「海防を目的とした近代黎明期の技術導入の経緯を物語る遺産群」の中に選ばれました。同じ遺産群には伊豆の国市の韮山反射炉も含まれています。認定を受けた収蔵品( 4点)・ディアナ号の模型 一九七〇年の大阪万博でソ連館に展示されていた模型で、旧ソ連政府がディアナ号の設計図から 忠実に再現したもの。万博終了後寄贈された。・ヘダ号設計図 この設計図はヘダ号の建造に携わった船大工・石原藤蔵の家に残されていたもの。 設計図も経験もない洋式船の建造、しかも言葉も通じない中で、苦労して描き上げた。・大工道具 へダ号建造時使用された大鋸や墨壺、製図用定規等。・ヘダ号模型 このヘダ号の模型は、ディアナ号模型と同じ縮尺で作られ、その大きさの違いがひと目で わかるようになっている。 沼津市戸田造船郷土資料博物館」休館日:毎週水曜日 と。入口のドアには「休館日」と。よって「館内の展示品」をネットから。「ディアナ号模型この模型は大阪万博(1970年)でソ連館に展示されていたものですが、万博後、当時展示品の少なかったこの博物館を心配し、旧ソ連大使のご厚意で寄贈されたものです。戸田とロシアの深い絆を感じます。」「ヘダ号設計図この設計図はヘダ号の建造に携わった船大工・石原藤蔵の家に残されていたものです。設計図も経験もない洋式船の建造、しかも言葉も通じない中で、苦労して描き上げた設計図です。ロシアと日本の通訳がオランダ語で会話し、それぞれの言語に翻訳して伝えるという手間のかかる作業を重ね、協力し合って造り上げました。この「ヘダ号」の模型も、1/ 48の模型である。ディアナ号が全長53m余りあるのに比べ、ヘダ号は約24.5mである。このヘダ号の模型は、大阪に住む個人が製作し、博物館に寄贈されたものだという。ディアナ号模型と同じ縮尺で作られ、その大きさの違いがひと目でわかるようになっている。「大工道具大工道具の中でも、ロシア人が特に興味を示したのは墨壺でした。ロシア人はまっすぐな線を引くのに長い棒を用いていましたが、紐を引っ張ってぴんとはじくときれいな直線が引ける墨壺に大変感心したそうです。墨(すみつぼ)。・ヘダ号模型 このヘダ号の模型は、大阪に住む個人の方が製作し、博物館に寄贈されたものです。 ディアナ号模型と同じ縮尺で作られ、その大きさの違いがひと目でわかるようになって います。「休館日」の為、屋外の展示品を追いかける。「近代造船の先駆者 上田寅吉 顕彰碑」。戸田号造船の船大工の棟梁から官営横須賀造船所の工場長まで上り詰めた、上田寅吉の顕彰碑。「上田寅吉氏傅氏ハ我國西洋型造船術ノ鼻祖ナリ 文政六年参月拾日戸田村字大中島参百拾八番地ニ生シ安政元年本村ニ於テ露艦建造ノ時世話掛トナリ 後幕命ニ依リ長崎ニ趣キテ造船術ヲ和蘭人ニ學ブ 文久年中榎本武揚氏肥田濱五郎氏等幕命ヲ奉シテ和蘭ヘ留學スルニ方 随行シテ造船術ヲ修メ戌辰之後軍艦開陽丸ニ乗リテ函館ヘ走ル 明治参年海軍省ニ出仕シ横須賀造船所ニ在勤シテ大工士トナリ數多ノ戦艦ヲ製シ名聲ヲ轟カセリ 後職ヲ罷メ明治弐拾参年九月拾弐日卒 又享年六拾有八氏資性温厚一意帝國造船界ノ發展ヲ念ヒ常ニ後輩ヲ賛導シテ渝ラス其ノ勲績洵ニ不朽ナリト謂可シ 昭和八年七月」「錨」。「日ソ友愛の像 塑者 堤 達男」。錨を手に、遠く友愛の海を見晴らしているのだろうか。2人の青年は、船の錨を中央に手を重ねていた。これはディアナ号とヘダ号の物語を表すと共に、「海は世界をつなぐ、友愛のきずなである」という、山田三郎村長の思いが表現されているように感じたのであった。ズームして。1854年11月、ニコライ一世の命を受けたロシア使節(全権使節)エフィム・プチャーチンはディアナ号で下田に入港。しかし安政の大地震に見舞われディアナ号が破損。修復へと戸田に向かうも結局ディアナ号は沈没。そのディアナ号の代船として日本の船大工が結集しロシア人と共にわずか3か月ほどで、日本初の洋式帆船「ヘダ号」を作り、このことが日本のその後の近代造船の始まりになったといいます。安政の大地震に際し自らの被害もありながら、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人を救助し、船医が看護したともいいます。また一方でデァイナ号が沈んだ際には周囲の村人たちがロシア人乗船員たち500余名を救助したそうです。まさに友愛の絆です。プチャーチンは後年、日露修好通商条約の締結(1858年)にも来日していますが、日本とロシアの友好の礎がこの「ヘダ号」にあったといえます。プチャーチンには1881年(明治14年)、日露友好に貢献した功績により日本政府から勲一等旭日章が贈られています。」「日ソ友愛の像 塑者 堤 達男海は世界をつなぐ、友愛のきずなである。孤立した島から、大陸から人はこのきずなによって結ばれ それぞれの文化を高め文明を築いて生きた 幕末の頃 プチャーチン提督の乗艦ディアナ号が遭難するや戸田の人々はこれを助け露国人と共に協力して代艦戸田号を建造した。友愛の灯はこの時 あかあか と二つの国を映したのだ 爾来幾星霜世相はどのように変ろうとも二つの国の人々の心の奥底に友愛の灯は決して消え失せることはないであろう 村長 山田三郎 謹書」石碑の裏側には「日本最初の洋型造船に燈火を掲げた人々」。「ロシア軍艦 ディアナ号の錨」。「ロシア軍艦 ディアナ号の錨全長 4.78m巾 3.235m重量 約4t」近づいて。「ヨコズナイワシ👈️リンク深海のトップレデター 戸田に降臨!」全長122センチメートルから253センチメートル。体重14.8キログラムから24.9キログラム、36.5キログラムの例がある。水深2000メートル以上の深海に生息する全長2メートル超の硬骨魚類7種のうち、深海固有種はヨコヅナイワシとムネダラのみであったが、ヨコヅナイワシはムネダラの最大記録を上回ったため、深海固有種として世界最大の硬骨魚類であることが明らかになった と。「慰靈碑」を訪ねた。「慰靈碑」に近づいて。「慰靈碑👈️リンク昭和四十年十月七日未明マリアナ諸島マグリカン島を襲った台風九号により同島周辺に待機中のかつお漁船第三金比羅丸 第三永盛丸及び第十一弁天丸はその中心に入り風速七〇メートル 気圧九一五ミリメートル以下と云う言語に絶する風浪の為第三金比羅丸及び第三永盛丸は沈没第十一弁天丸は同西岸にて沈没す 遭難の報伝わるや多数の僚船を始め米軍機自衛隊機 護衛艦巡視船等が出動され海難史上未憎悪の大捜索も空しく乗組員一一六名中四十ニ名が救助され七四名は船と運命を共にした。茲に殉職船員の冥福を祈り之を建立す。 昭和四十一年四月三日 建之」こちらが「駿河湾深海生物館」。そあいて「諸口神社(もろくちじんじゃ)」を訪ねた。「諸口神社祭神 橘姫命例祭日 四月四日由緒 当社の創建由緒等詳ならざれども増訂豆州志稿によれば、延 喜式神名帳伊豆国那賀郡 二十二座の内国玉姫命神社にて伊豆 国神階帳従四位上もろき姫の明 神に座すとなす。 もろき姫、国玉姫、橘姫は同一神 でもあろうか現称諸口はもろきと同 語にて古来当社を 辨天と称し 女 神なること明らかなり。航海及漁業 者の守護神とし崇敬あつく海上安全 大漁満足を祈願し諸船この沖を通 過すると言う。 応永八年三月(一四〇二)再建、明治十二 年八月村社に列す。 現社殿は昭和二十八年四月改築社宝 応永八年三月吉日棟札 鰐口 武蔵国吉見郡久米田郷施主等敬白 諸口大明神 応永八年辛己霜月十五日とあり(日本金石年表に見える) 註 延喜式内とは醍醐天皇の朝廷延喜年間(九〇一~九二七)撰 修の延喜式神名帳所載の 神社の意にて単に式内社又は式社 とも言う。」「「ふるさとの自然100選」選定の森当神社の森は私達の身近にある自然を見直しふるさとの自然を見直しふるさとの自然に愛着と関心を持ってもらうため静岡県が昭和59年度に行った「ふるさとの自然(お宮の森・お寺の森)100選に選定された森です。みんなで大切に育てましょう。 昭和60年3月 沼津市」。社殿に近づいて。扁額「村社 諸口神社 陸軍中将南部辰丙書」と。振り返ると、参道が戸田湾の海に向かって。正面に朱の鳥居が。「延喜式内諸口神社」碑。「本殿」を横から。塔婆?「南無多寶如来 願似此功徳 普及於一切」と。これは、回向文(えこうもん)と呼ばれ、「願わくは此の功徳を以(も)って、普(あまね)く一切に及ぼす」と。富士山の勇姿を再び。「御浜岬」先端を廻り込んで。前方に「戸田漁港」のある戸田の入江・戸田湾が拡がっていた。真っ赤な鳥居が砂浜のすぐ前に立ち、目の前の海との色合いのコントラストがなんとも美しい光景。再び砂浜から「諸口神社」の参道を見る。鳥居から戸田湾を望む。見上げて。「小舟ヶ浜」と。「イヌマキの森」案内板。戸田の港は、御浜岬によって波から守られた天然の良港です。目の前に広がるイヌマキの森も港を守る重要な役割を果たしてきたと考えられています。フィリピン海プレートの沈み込みによってできた駿河湾は大きな地震が繰り返されてきた場所でもあります。樹齢100年を超える大きなイヌマキもあるこの森は、こうした地震によって発生した何度もの津波に耐えた優秀な防災林でもあるのです。この森は「御浜岬のイヌマキ群生地」として静岡県の天然記念物に指定されています。「イヌマキの森」。「戸田湾」の「戸田漁港」方向を望む。「戸田湾」には多くの貨物船、漁船が停泊していた。「御浜岬」の付け根近くを。山の斜面にはロッジ風の建物が。「旧戸田村指定・天然記念物 根上りの松」。御浜岬(砂嘴)の大半はクロマツで覆われ、ところどころに幹囲3mを超える巨木が散見される。この松もその1本。海側から見ると根上がり状態に見えることから、「根上りの松」と呼ばれている。林の縁に立ち、半独立木であるため、林のマツに比べ、幅広で重量感のある樹冠を戴いているのであった。海岸を歩きながら、「戸田漁港」・「戸田峠」方向を見る。「御浜岬公園」の恐竜姿の遊具・滑り台。再び入江に向かって。多くの漁船が並ぶ。小さな神社もあった。防波堤の先端から光沢のあるエメラルドグリーンとエメラルドブルーが現れその先に富士山が見る事ができた。。防波堤から見る海は透明度抜群の天然の水族館。晴天に恵まれインスタ映え間違え無し。こちらはネットから。戸田湾の防波堤、そして富士山を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2025.04.24
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第2展示室は、『中世』。平安時代から安土桃山時代までの日本文化と生活を貴族や武士、庶民といった様々な階層の立場から探っています。テーマは:「王朝文化」「東国と西国」「大名と一揆」「民衆の生活と文化」「大航海時代のなかの日本」「印刷文化」で構成されていました。上から見た平安京。平安京の下辺にある東寺は、今も当時のままの位置にあるのです。京都の街並を復元した模型。今にも人物が動き出しそうでした。上空から見た鎌倉。鎌倉は、自然地形を利用した城塞都市で、一方が海岸、3方が山に囲まれ、稜線には切岸、主要道路の接点には切通しを設けて防御を固めたのだ。縦(南北)に走る広い道は若宮大路。さすが攻めにくい土地であることを今更ながら再認識したのであった。第3展示室は、『近世』江戸幕府の基盤を支えた農民の姿や村の情景、庶民のたくましく旺盛な情念と活躍の姿。また、世界的な巨大都市として繁栄した江戸の町を精密な模型で示していました。テーマは:「国際社会のなかの近世日本」「都市の時代」「ひとともののの流れ」「村から見える近代」の4テーマ。江戸橋広小路模型図、日本橋江戸橋周辺の家並みと日本橋川。江戸の街並み。細かいところまで信じられないほどよくできてました。一里塚の道標。江戸幕府が整備した街道の一里塚には道標があるが、これらのほとんどは私的に建てられたものがほとんどとは意外であった。江戸時代の旅籠の実物大セットも展示され、室内の模様も垣間見ることが出来るようになっていた。2階で働く女中の姿の影絵に感激。この時代の農村風景を描いた屏風 四季農耕図屏風。福岡秋月(あきづき)藩の御用絵師だった斉藤秋圃(しゅうほ)による、農村生活を描いた屏風絵とのこと。春夏秋冬の農作業や祭礼などの風景が細かく見事に描かれていたのであった。懐かしき日本の農村の原風景。
2010.05.30
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青森・五所川原市のホテルに宿泊し、この日も早朝散歩。訪ねた場所はホテルから徒歩5分の『つがる克雪ドーム』。この津軽半島地域は、積雪寒冷地域に位置し、全国的にも有数の豪雪地域。冬期間の屋外での諸活動に大きな制約を受けるのです。また、本地域は人口の減少や若者の流出が続いている地域であり、定住・雇用の促進や地域産業の振興を図るための積極的な施策の展開が求められているのです。これらのことから、「つがる克雪ドーム」は年間を通じて利用可能なスポーツ・レクリエーション施設であり、また、産業立地環境整備の観点から多目的な機能を備えた克雪型・半島地域中核拠点施設であるとの 説明書。遠くには、未だ頂上付近に雪が残っている岩木山が。標高1,625m。円錐形の山容から津軽富士とも呼ばれているのです。津軽平野のどこからでも見ることができる独立峰で青森県の最高峰。我がデジカメの最大ズームで。山岳信仰の山であり、山頂には岩木山神社奥宮があるとのこと。山には津軽岩木スカイラインが通り、自動車で8合目まで行くことができると。つがる克雪ドームの正面。日光の透過性と軽量で雪が付着しにくく滑雪しやすいテフロン膜の採用で、昼間の自然光による明るさの確保と、屋根の重量の軽減を計っているのである。ドームの裏側からの見事な曲線美。厳酷の冬を耐えるだけでなく、暖かな春への期待感や四季を通じて、豊かな自然と融和できる施設づくりが、「つがる克雪ドーム」のコンセプトとのこと。楕円形を基本とした平面形態と優美な曲線は地吹雪や風対策を考慮した結果と。しかしながら、冬場の長期にわたる積雪の影響かかなりのサビが発生していた。天候の良い日には屋根を開放することで、すばらしい自然を享受しながら多くのスポーツができるとのこと。開閉用の車輪が通過するレール。設計会社のHPにはドーム屋根が開放された時の想像図が。『http://www.at-ph.co.jp/_ph/ph-3-keireki-frame.html』それにしても『克雪』とは私には新鮮な言葉。克雪(こくせつ)というのは「雪に克(か)つ」、つまり雪に負けないっていうこと。豪雪地帯の人々は、いろいろな工夫や努力をして、きびしい冬をのりこえていることが少しは理解できたのであった。
2011.06.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先日、鎌倉に行った帰りに、藤沢駅北口から徒歩にて遊行寺方面に向かって散策しました。藤沢駅北口。 北口から柳通りに出て歩を進める。駅北口柳道りと書かれた案内塔。 「稲毛屋旅館」(昭和10年頃)の写真が掲示されていた。そしてもう一枚、「角若松旅館(昭和10年頃)」の写真も。 懐かしい写真を見て、帰宅して昔の藤沢駅北口付近の写真が無いかをネットで探すと何枚かの写真や資料がありましたので紹介します。まずは昭和初期の藤沢駅周辺図。そうなんです、昔は江ノ電藤沢駅は地上の独立した木造駅舎だったのです。 【http://tsunesan.sub.jp/tsunesan/wp-content/uploads/2016/01/MapBig.jpg】より。そして昭和49年当時の藤沢北口駅舎とのこと。藤沢駅は、橋上駅舎化されるまでは、北口と南口と駅舎で分かれていた。北口駅舎は藤沢駅の表玄関の役目を果していたのだ。橋上駅舎は昭和55年に完成し、これに合わせて南北自由通路も開通したのだ。 昭和35年当時の北口広場。写真の一番右に稲毛屋旅館、そしてその左に角若松旅館。いずれも遊行通りの入り口の左右に。これらの写真を見ると、懐かしく想い出される光景。 【http://www.enopo.jp/index.php/fujisawa-guide/fujisawakonjyaku/1159-2-76147350.html】より転載。『藤沢やなぎ小唄』 の歌詞の刻まれた銘鈑。しかし島倉千代子が歌っていたというこの歌は聴いた記憶がない。 そして安藤広重作「東海道五十三次 藤澤」 の浮世絵も道路脇に。ここには遊行寺の名で知られている清浄光寺がある。画面のむかって右上方の森の中に見えるのがこの遊行寺。遊行寺は時宗の寺で,一遍上人より4世の僧呑海が開いた寺といわれ,一般の信仰を集めていた。また画面中央に見える鳥居は,江の島弁財天の第一の鳥居。ここから江ノ島道を利用し江ノ島に行くので,その入り口に第一の鳥居が建てられているのだ。ここは江ノ島弁財天参詣と物見遊山、そして大山詣で非常に賑わった場所。 「遊行通り」と刻まれた銘鈑が収まった標柱。道路左手には「レディオ湘南」 放送局。 その前にはトランスボックスの表面に描かれた遊行寺、そしてやや細い?大銀杏。 こちらは梅の花?、大きな常香炉と本堂。更に遊行通りを藤沢橋方面に向かって歩いていくと右手に庚申堂が。「江戸時代、道教の影響を受けて人間の肉体には「三尸蟲」(さんしのむし)というものが巣くっていて、寝ている間に天に昇り、その人の罪を天帝に密告し、それによって人の寿命が決められるとされていた。その為、六十日に一度めぐってくる庚申の夜には、誰もが眠らず徹夜して、「三尸蟲」が抜け出さないように見張る庚申待の信仰が生まれました。」のだと。この庚申堂のご本尊は市指定有形民俗文化財・木造青面金剛立像とのこと。残念ながら境内内部には入れなかった。 境内には、脇の路地に面した所(赤い鳥居の手前)に様々な「庚申供養塔」が連なっていた。 再び遊行寺の絵、時宗(開祖・一遍上人)の紋・折敷に三(おしきにさん)の紋が描かれていた。 旧東海道・藤沢宿の江の島道・江の島弁財天道標説明版。 遊行通り先のロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標が。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えられ、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されているとのこと。 正面上部の梵字(サンスクリット文字)は、弁財天の種子(しゅじ)「ソ」と刻まれているのだと。種子(しゅじ)とは密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。そしてその下に「ゑ能し満道」の文字。 横には「一切衆生」の文字。この世に生を受けたすべての生き物。特に人間を言うと。 そして反対側には「二世安楽」 の文字が。二世の願によって得られる果報。仏の慈悲によって二世にわたって安楽を得ることと。
2016.08.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に「大坂」を上り終えた先が現東海道の国道1号線の合流点。『大坂松並木』「大坂」では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂に。現在の「大坂」になるまでは数回の改修がおこなわれたと。江戸時代の3代将軍徳川家光のとき、日照りが続いたので歩行者のために街道筋に松を植えさせたと。その当時の名残が道路の中央部に今も残っているのだと。「旧東海道 大坂松並木」の標柱にあった案内の浮世絵。江戸時代のこの辺りは松の間に富士山が見える松並木だったと。坂の下には戸塚宿と思われる家並みが見える。大坂の上から江戸に向かいながら戸塚宿を見下ろしている様子を描いたものと。よって、この浮世絵に富士山の姿はなし。『東海道 六 五十三次 戸塚』本図は、戸塚の宿を過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。そしてこの絵の左側には急な『大坂松並木』を上る旅人の姿、そして右側には丹沢山塊とその奥に白き富士山の雄姿が。『汲沢(ぐみざわ)町第二歩道橋』の文字が。昔は松並木であったが現在は広葉樹の並木が続いていた。この辺りは戸塚山と呼ばれた丘の上。下に戸塚の街並みが見えた。この辺が前述の浮世絵に描かれた場所か。道路脇に区画された石碑が。『東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の有名な場面「戸塚山中道行の場」はここ・・・。勘平のモデルは浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂に伝えた使者の一人菅野三平。しかし、お軽と勘平は実在の人物ではないのだと。『お軽勘平の碑建設実行委員会』と刻まれた石碑横には「落人を見るかや野辺に若草の‥」の碑があり、この「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を解説したもののようだ。「落人」はWikipediaには「合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉」しか記載がない。しかし、goo国語辞書には「歌舞伎舞踊「道行旅路の花聟(はなむこ)」(↼リンク)の通称」との記載もある。「落人」解説碑からはこの「お軽勘平(↼リンク)戸塚山中道行の場の碑」を知ることは直ぐに諦めたが、帰ってからWebで調べると、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名な「戸塚山中道行の場」の場面の舞台なのだという。『日本橋から46Km』と。湘南江の島を描いた大型トラックが我々横を通過。『原宿一里塚跡』。原宿一里塚は11番目の一里塚であるが、国道1号線では日本橋から46Km余りの地点になる。手前の10番目の一里塚跡は戸塚宿元町にあり、次の12番目の一里塚跡は遊行寺坂にある。『浅間神社入口』の標柱。浅間神社は永禄年間(1558年〜1570年)に創建されたといわれている。その頃、富士信仰が盛んであり、それで村内の安全を祈願して勧請されたとされる。東海道に沿って小道と参道が続いているが、参道の両側には常緑高木でブナ科のスダジイの大木が連なる。驚くほど太い木もあり、樹齢600年を越えていると言われているのが納得できる。原宿一里塚はちょうど浅間神社の横の東海道にある。旅人は一里塚ではなく、ここの神社に立ち寄って庚申塔を拝み、休んだのかも知れない。『庚申塔』。境内には巨木が。『スダジイ』であると。普通、シイ(椎)という場合にはこの『スダジイ』であると。公園樹、街路樹、庭木などとして植栽される。果実はアク抜き不要で食用となるのだと。木材は木炭やシイタケ栽培のホダ木になる。また、タンニンに富む樹皮を黄八丈の黒色部の染料に用いられていると。拝殿。朱色の鳥居と石祠。階段横には老木が続く。『大運寺』相模風土記によれば、1596年の創建。 山号は唐澤山、芝増上寺の末寺で浄土宗の寺。六地蔵。将棋を指す僧侶の姿か?宗祖の法然像。『月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』と法然上人の歌。「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」と。月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。すなわち、念仏さえすればよいのです」と。『手水舎』。『本堂』。ご本尊は木造阿弥陀如来立像で、両脇侍には、木造勢至菩薩立像と木造観音菩薩坐像。阿弥陀如来立像は、作風、構造から南北朝時代の作とされ、宋元風の影響が認められる。像高は146.0センチ、光背高が196.0センチ、台座高が63.0センチ。寄木造、玉眼、肉身部は漆箔、着衣部の彩色は剥落している。上品下生の来迎印を結ぶと。『法然上人御幼名 せいし丸さま』『二宮金次郎之像』。更に原宿方面に歩を進める。日本橋まで(から)48Km。藤沢市との境界にある影取町を通過。『道祖神』。台座には「仲町」と刻まれていた。日本橋まで(から)49Km。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を見附宿方面に更に進む。日本橋からの距離は243.4km。『三本松御旅所』。「御旅所は神輿巡航の際、神輿が休む場所です。見付天神裸祭や祇園祭の神輿はこの御旅所まで渡御し、御神酒の献上や祝詞の奏上が行われます。また裸祭の道中練りもここで折り返します。 」『三本松橋 別名なみだ橋』かつてこの先の街道筋に遠州鈴ヶ森(三本松)刑場があり、罪人を見送る縁者がここで涙を流し見送ったのであろう。見付東坂上にある大正4年(1915年)建立の『秋葉山 常夜燈』。この灯篭は大正時代に建てられたものだが信仰の厚さが見受けられます。見付東坂を下る。左手に『東海道と愛宕山』の案内板が。「見付宿を一望できる愛宕山には、愛宕神社が鎮座し火防の神として人々の信仰を集めました」とあります。この付近は秋葉神社といい、愛宕神社といい火防に関する神様が信仰を集めるようです。『愛宕神社』への階段を登る。『愛宕神社』社殿。社殿の左側、山の上に石碑が見えたので更に道なき斜面を登る。『阿多古山一里塚跡』の石碑。磐田市指定史跡 『阿多古山一里塚』「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東海道の整備を進め、慶長9年(1604)には1里塚に距離の目安として小山(塚)を築きました。これが一里塚で、磐田市内には宮之一色と見付にありました。見付の一里塚は、愛宕神社が鎮座する愛宕山にあったことから、愛宕神社の旧名から「阿多古山一里塚」と呼ばれます。一里塚は5間(9m)至宝の土台に高さ2~3mの円形の小山を築き、塚の上には榎や松などを植えました。明治時代に也多くは壊されてしまいましたが、阿多古山一里塚は見付地区の財産として街道の両側に残され、昭和42年11月3日に旧磐田市の史跡に指定されました。阿多古山一里塚は、江戸から62番目にあたり、北の一里塚には、椎、南の一里塚には松が植えられたと言われています。」愛宕神社の境内からは、見付宿の宿場町を眼下に見ることが出来た。愛宕神社をあとにし見附宿中心に向かう。ここには川があったのでしょうか?橋がモニュメントとして架けられていた。道路右手奥に『見付天神社』の石鳥居が正式には矢奈比賣神社で、「裸祭り」が8月の中旬に行われると。この神社は訪ねず、ここからの写真のみ。『祈 幸せをもたらす元号でありますように』と店の窓に早くも『令和』の元号が。現代版道標も。旧東海道『見付宿場通り』を更に進む。『見付宿史跡』案内図。 【http://www.asa1.net/siseki-meguri/mituke/index.html】より。整備された歩道には見付を代表する「見付宿」の当時の姿や磐田市の花、鳥などがタイルに埋め込まれていて見事。かなり道路は広く旧道とは思えないのであった。『見附十七小路』という表示も歩道路面に。寺院・神社・史跡等の位置が記されており、史跡巡りには便利であろう。「小路の奥に明治中頃にできた浜松市始審裁判所見付出張所(後の法務局)があったことから小路の名称となりました。現在は住宅地となり、その面影はありません。」『JA遠州中央 見付支店』が右手に。その前に『東海道・見付宿』の当時の地図が。『東海道分間絵図』道中図(どうちゅうず)は、江戸時代に作成された陸路や海路を記した絵地図で、今日の道路地図と観光案内を組み合わせた要素を持つ。元禄3年(1690)に遠近道印(おちこちどういん)が「見返り美人図」で知られる菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)と共に製作した「東海道分間絵図」は、代表的な道中図のひとつであり、1/12,000の実測図上に河川や橋梁・宿場町・一里塚名所旧跡などが師宣の絵によって詳細に描かれている。江戸時代に描かれた見付宿/東京国立博物館所蔵。『東海道見付宿案内板』こちらは現代の地図のようであった。『天神の木 東坂梅塚』。梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして植えたものだといわれていると。鎌倉時代の話であると。『丸中 大橋商店』屋号丸中は江戸時代に浜松にて中兵衛という米屋を営んでいたことに由来。明治10(1877)年に酒屋を始め、現在四代目。店の裏には今でも当時のトロッコが働くと。『曹洞宗 宣光寺』。地蔵堂内には日本三代地蔵の一つとされる高さ1.4mもある平安時代作の木彫り座像「延命地蔵菩薩」があると。この地蔵は、徳川家康が追っ手から逃れるために見付の街に火を放った時、幼児の姿になって、やけどを負いながらも火を消して回ったという言い伝えがあり、身がわり地蔵さんとも呼ばれていると。そのほか、境内には、徳川家康寄進の梵鐘もあると。『地蔵小路』。「小路の奥手には延命地蔵をご本尊とする宣光寺があります。昔からお地蔵ご開帳の日には大変なにぎわいを見せていたことから地蔵小路とよばれてきました。」今之浦川に架かる橋が前方に。『今之浦川』、火の見櫓であろう。鉄骨造 (アングル),櫓型,4本脚,むくり屋根,銅板葺きの火の見 櫓の頭頂部とユニークな形状。『中川橋』。『大見寺』の案内板と『東海道見付宿』石碑。旧『寺小路』と刻まれた石碑。見事な灯籠。山門。『大見寺の文化財』。「見付端城(みつけはじょう)中世には、境内に今川氏によって築かれた城がありました。江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれています。現在もこの土塁の一部が西と南にわずかに残っています。良純法親王供養塔(墓)法親王は、107代後陽成天皇の第八皇子で、万治2年(1659)頃縁あって見付に滞在しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられた。鳥人・幸吉の墓岡山県出身で江戸時代中頃に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。晩年、見付で暮らしたといわれている」大見寺の境内の桜も満開。『三界万霊供養塔』。本堂。『日照山 光明院 大見寺』『日照山』と書かれた扁額。『浄土宗歌 月かげの いたらぬ里は なけれども 心にぞすむ』。芍薬の花も終わりか。様々な石碑、石仏が境内に。境内社。境内から山門を見る。見付十七小路 『寺小路』。「大見寺に通じることが小路名称の由来です。また大見寺境内には、三代将軍徳川家光の休憩所「御茶屋御殿」があったことから「御殿小路」ともよばれていました。」 静岡銀行前に『問屋場跡』。残念ながら説明案内板は見当たらなかった。『御証文屋敷、安間平治弥邸跡』「平次弥は本名弥平次。名は禮、字は伯啓、号は九渕と称し、漢字の素質があって詩文もよくした。徳川家康から代官に任命され、甲州武田軍を退去させた功績で家康に平次弥と改名させられ、名字帯刀を許されて、見付に住むように申しつけられた。庭には清水が湧出し年中枯れる事が無く、之を家康に薦めたので「御清水」というようになった。家康の休息場として利用されたといい、今も清水が中川に流れ込んでいる。町名もこれにあやかって、清水町という。安間家には代官からの証文が残され、「御証文屋敷」と呼ばれていた。」更に旧街道を進む。反対車線側にも隠れるように。『遠州見付宿 脇本陣跡』。説明案内板はここにもなし。『酒の無いよな極楽よりも落ちて地獄の鬼とのむ』と。懐かしい手押し井戸ポンプの姿が。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.29
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『旅順口日俄战争遺址 东鸡冠山北堡垒(とうけいかんざんきたほるい)』と刻まれた日露戦争遺跡碑。帝政ロシアは1898年に旅順を租借し、旅順の東側の半永久的な防御線として1900年に中国人労働者を使役して堡塁を建設。堡塁は周囲496メートル、面積9900平方メートルの不規則な五角形で、天然の岩にコンクリートと石、そして泥土で覆って造られた。内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻、側防窖室が配置された。堡塁の周囲は堀があり、堀の外の斜面には高圧電流が流れる鉄条網が架設されていた。日露戦争において、1904年8月21日の第1回旅順総攻撃の際に日本軍第11師団(四国兵団)による堡塁の攻略が始まった。第11師団は鉄条網の突破に成功して内堀に入ったが、土砂に覆われた側防窖室からの近接攻撃により大損害を受けた。その後、数度に渡って坑道を掘り、堡塁の爆破を試みた。12月15日には日本軍が発射した28センチ榴弾砲弾が命中し、守備隊の指揮官コンドラチェンコ少将が戦死した。その後、12月18日に堡塁の正面で2.3トンのダイナマイトを爆破させ、これに乗じて占領。日本軍は、この堡塁を突破するために約8,000人の死者を出したのだと。東鶏冠山北堡塁入口には『北堡塁』と刻まれた岩が。ここは撮影スポットになっているようであった。現地ガイドの案内に従い堡塁の横を歩いて行く。『暗堡通道入口』碑。岩に覆われたトンネルの如き通路、その先には階段が。しかしこの入口にはネットフェンスが。擁壁が倒れているようであった。そして再び階段を上っていく。暗渠土塁の壁にあった日本の城にある「狭間」のような穴・砲眼が。『暗堡』碑。右手の壁には銃弾の跡が無数に。日本軍の砲撃の弾痕跡であろう。ここからロシア軍は反撃し抵抗したのであろう。反撃用砲眼が大きく外から破壊されていた。女性の横顔の様な形が見えるのだとの説明板。なるほど!!。名前は『玛格丽』・マーガレットと呼ばれているようであった。落ち込んだ表情、大きな波状の髪、深い凹んだ目、尖った鼻、丸いあごは、ヨーロッパの美女のシルエットのように見えるのであった。『側防暗堡』碑。大きく破壊された暗堡の壁。『側防暗堡入口』フェンスに保護されて安全面からか立ち入り禁止に。『側防暗堡入口』碑。『日軍爆破口』東鶏冠山が陥ちたのは203高地占領後の12月18日であったと。第1回攻撃では砲撃の後突撃というという攻撃法であったが、それでは味方の損害が大きい上敵方には損害が殆どなかったのだと。そのため途中より攻撃法が変え、堡塁近くまで密かに坑道を掘り進めて要塞を攻撃するというというものに作戦を変えて行ったのだと添乗員から。『日军爆破口』 ここが日本軍が2.3トンのダイナマイト爆弾を仕掛けて破壊し、突破した場所。この爆破よって日本軍がこの堡塁を陥落させるきっかけになった(突破口となった)のだと。今はのどかで緑深い山に、生々しい弾痕や爆破口がある。百年前の死闘が目に浮かぶ場所。『遊覧通道』碑。 1916年に建立された『東鶏冠山記念碑』が立っていた。正面に「東鶏冠山北堡塁」と刻まれていた、満州戦跡保存会の石銘板台座の碑文には「明治三十七年八月以来第十一師團ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ 同年十二月十八日占領ス 陸軍大将男爵鮫島重雄碑名ヲ書ス 大正五年十月 満洲戦蹟保存會」と。ロシア軍大砲が並んでいた。『俄军炮阵地(ロシア軍大砲陣地)』「1898年、ロシアが強制的に旅順大連を租借した後、ここに重砲陣地を築き、旅順西北方向に対する火力網となった。1904年10月、日本軍の二個師団が東鶏冠山北堡塁に向かって猛烈な攻撃を行い、19日間の内、重砲砲撃と爆発によってトーチカを落とした。」兵舎のエリアに入って行く。士兵宿舎。電話室指揮部入口が前方に。指揮部指揮部内部。更に進む。兵舎のキッチン、応急処置場所。コントラチェンコ戦死の石碑コントラチェンコ戦死の場所の紹介1904年 日露戦争が勃発後、日本軍は東鶏冠山北堡塁を奪い取るため、129日の攻守戦を展開した。12月15日の20時ごろ、ロシア陸軍防御司令官であるコントラチェインコ少将は堡塁の指揮部に来て軍事会議を行う。日本軍はこの情報を知ると、すぐに重砲(280mm榴弾砲)を激しい攻撃をし、指揮部は一枚の砲弾に命中され、コントラチェンコ少将が殺された。戦後、日本軍はその寛大な度合いと顕著な戦績を誇示するため、ここに「コントラチェンコ少将の戦死の場所」という石碑を建てられた。ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ。日本・ロシア双方から、「日露戦争に於けるロシア軍屈指の名将」と高く評価されている。戦死した場所には日露戦争終戦後その死を惜しんだ日本側によってこの祈念碑が建てられたのだと。下の写真はウィキペディアより。 『堡塁正門』碑。そして坂を下り、先程の入口に向かって戻る。この窪んだ場所は?そして再び『北堡塁』と刻まれた場所に戻ったのであった。バスに乗り、東鶏冠山を下る。前方に見えたのが『白玉山(はくぎょくさん)』であろうか。港を見下ろす標高130mの小山で、山頂にある展望台からは軍港として利用されている旅順港を一望することができる。山頂部に立つ高さ66.8mの白玉山塔は旅順のシンボル的存在で、東郷平八郎と乃木希典により立てられ、当初は表忠塔と名づけられたが後に改名された。そして『鸡冠山路』から『新城大街』への交差点の角にあったのが『东鸡冠山景区』と赤く刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.08.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道307号線を渡って水口町元町(作坂町)の旧東海道を進む。作坂町には本陣や脇本陣が置かれた。先に進むと、左手に『水口宿本陣跡』があった。消火栓格納箱ほこの位置には不釣り合いなのでは。「東海道水口宿水口は道によって開け、道のよって発展した所です。 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(一五八五)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。 関ヶ原合戦翌年の慶長六年(一六○一)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、 直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。 このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(一八四三)の記録によれば、家数六九二(うち旅籠屋四十一)を数え、この地に小規模ながらも水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。 また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。」『水口宿本陣跡』。この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。 本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。 本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。」竹垣の間を入って行くと明治天皇聖跡碑・明治天皇行在所御旧跡碑・水口宿本陣跡碑などが建っている。『明治天皇聖跡碑』。『明治天皇行在所御旧跡碑』。『明治天皇聖跡碑』前から竹垣を見る。古城山(水口岡山城址)を望む。右手に仏壇・仏具の店『ぬし又本店』。左手に『桔梗屋文七』」という古いたたずまいが今も残る商家。ネットで調べてみると、明治38年(1905年)から続くクリーニング店であった。正面には,水口宿の三筋の東口が見えた。Y字路の中央に『高札場跡』があり、小さな高札が復元されていた。水口宿は三筋の通りがあり、ここで二筋に分かれ、右が北通りで、左が中央通りであると。ここでは東海道道標が示す中央通りを進んで行くこととする。「高札場跡「お達し」を公示する掲示板でまちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に設置されました。水口宿では、作坂町と旅龍町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。特に寛永一七年(一六ニニ)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、密告への賞金制度等が掲示されました。」『秋葉神社』(左)と『秋葉山常夜燈』(右)。『三筋の町』道は3本に分かれますが、旧東海道は真ん中の道。左側が『旧東海道』。『高札場』の裏には電話BOXと『作坂町集会所』。石橋駅まで続く旧東海道には古い家がかなり残っていた。旅籠屋『匠』は現在『ダイニングカフェ タクミヤ』。旧宿場町のカフェらしい店構え。連子格子の建物には郵便ポストが。右手の連子格子の旧家は『望田法律事務所』。連子格子は紅殻(べんがら)の赤。そしてこの先は五差路に。旧東海道は右側を進む。五差路を振り返る。五差路から直ぐ右手に『旅籠町の曳山蔵』があった。旅籠町は、慶長6年(1601)作坂町と共に伝馬町に指定された。水口の曳山は享保20年(1735)に9基の曳山が巡行し、その後、一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したといわれている。『曳山蔵 旅籠町』更に進むと、また石柱が右手前方に。『東海道五十次水口宿 葛籠町』石柱。その奥に『祠』も。『問屋場跡』。「問屋場跡問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。 水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。」「御菓子匠 一味屋」に立ち寄る。『東海道水口宿 一味屋』石碑。この店は文政年間創業で170年の老舗とのこと。店の内部。店内には『広重 東海道五十三次 水口』が掲げられていた。『忍術もなか』を購入しました。甲賀忍者の秘術を記した巻物を意匠した、小豆餡の最中で近江米や十勝産小豆などの厳選された材料を使っていて美味しかったのであった。そして更に進むと右手にあったのが『休憩所』が。『休憩所』内部。『祠』。『水口の曳山のからくり時計』と『大池町』。斜めから。『からくり時計』。別の場所から。「からくり人形は午前9時・正午・午後3時・午後6時に動きます。」「曳山の由来江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。」横断歩道を渡り更に旧東海道を進む。左手に『いまむら呉服店』。『ふぐ料理 池田屋』。右手の民家前には小さな『祠』と『常夜燈』が。『虫籠窓(むしこまど)』の旧家。『水口曳山まつり』4月20日に開催されると。『伴町』石柱。『水口本町郵便局』が右手に。更に進む。『平町』。雨も次第に激しくなって来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.20
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我がブログも、昨日16:20過ぎにアクセス回数が400万回を通過いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。300万回通過時から延べ430日になります。300万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』とし日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。--------------------------------------------------------------------------------------------------「立待岬」からの帰路、一方通行の狭い下り坂を進み「妙心寺」近くに車を駐めて進んで行く。「妙心寺」の裏山にあったのが「碧血碑(へきけつひ)」。時間も17:05を過ぎ、周囲も暗くなって来たのでカメラのピントがあいにくく。題字は、箱館戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の筆と言われているが、定かではないと。台座約4m、高さ約4mのオベリクス型の石碑で、明治2年(1869)5月函館市内で政府軍と、旧徳川家臣の戦いで戦死した旧徳川家臣の方々を葬った墓碑である。石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運び明治8年(1875)5月に建立したものである。「碧血碑箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはしめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は, 7回忌にあたる明治8 ( 1875 )年、大鳥圭介や榎本武揚らの協員を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は。戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは.、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。なお、碧血とは「義に殉して流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」「旧幕府軍戦死者への鎮魂ー碧血碑」。鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争は、函館が最後の舞台となり、1869(明治2)年5月、五稜郭の開城でその幕を閉じた。この戦いによる官軍の戦死者は靖国神社をはじめ各地の招魂社(護国神社)へ手厚くまつられているが、旧幕府脱走軍の陣没者は賊軍の汚名を受けて弔う人もいなかった。この碑は1875(明治8)年5月の7回忌に、箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助をはじめ、北関東から東北各地で戦死した旧幕府脱走軍約800人の霊を弔うために、東京の碧血会により建立されたもので、伊豆産の石を使って東京霊岸島で造られ、海路函館へ運ばれた。四角い石の祠の上に「碧血碑」と刻まれた碑が建てられている。題字は箱館戦争当時、陸軍奉行だった大鳥圭介の書といわれているが定かではない。 「碧血」とは「義に殉じて流した武士の血は3年経つと碧に変る」という中国の故事(荘子・外篇)による。さらに、台座裏側には建立の由来を記した次のような碑文(上記 碑文(台座裏)参照)が刻まれている。明治辰己(しんし)実に此の事あり石を山上に立て以てその志を表す函館にも、函館碧血会ができ、柳川熊吉や旧会津藩の人々が中心になって、毎年慰霊祭を行っていた。昔は毎年定まった日に催されていなかったが、近年は毎年6月25日(千代ヶ岡の決戦の日で、千代ヶ岡陣屋の守将中島三郎助父子らが討死した旧暦の5月16日にあたる)には碑前祭が行われている。「碧血碑」の下にあったのが「榎本武揚」案内柱。「榎本武揚」「宮路助三郎宮路助三郎は、戊辰戦争時に遊撃隊に所属して小田原で奮戦し、その後は仙台・庄内へ転戦したが、新政府軍に捕縛され江戸で投獄された。1872(明治5)年に函館へ渡り、海運業を営んだ。「碧血碑」建立工事の責任者を東京の碧血会から託され、柳川熊吉や大岡助右衛門らの協力のもとで石碑建立を成し遂げた。この後、1881(明治14)年に自費で実行寺、称名寺、浄玄寺などに仮埋葬されていた旧幕府軍戦死者の遺骨を、碧血碑へ移葬した。1886(明治19)年に上京して鉄道の軌道布設工事請負いをしたが、翌年に病没した。」「柳川熊吉 下記」「大鳥圭介1832(天保3)年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。1858(安政5)年に尼崎藩に出仕、その後1859(安政6)年に蕃書調所へ出仕した。1861(文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。1865(元治2)年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867(慶応3)年に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府陸軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。1868(明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、1872(明治5)年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧問官などを歴任した。1911(明治44)年に78歳で没した。」「柳川熊吉1825(文政8)年江戸生まれ。1856(安政3)年、侠客として箱郎へ渡り、柳川鍋を商売として生活。箱館戦争終結後に旧幕府軍戦死者の遺体が函館市内に放置された惨状に堪えられずに、大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと遺体の回収に尽力し、実行寺・称名寺・浄玄寺に仮埋葬した。その接。碧血碑建立の発起人の一人として工事に協力し、碧血碑の管理人を務めたが、1913(大正2)年に死去した。享年89歳。」その奥にあったのが「柳川熊吉翁之寿碑」。碑文の表には、下記のごとく刻まれていると。柳川翁之壽碑前逓信大臣正三位勲一等 伯爵林 董篆額翁名熊吉姓野村後有故改柳川江戸人少属侠客新門辰五郎夙有名始来北海為函館奉行堀織部正所知侠名愈顕戊辰之役東軍来據函館也受巨師榎本武揚君之親信蓋曩榎本君年十六七以在奉行織部君之家之時有面識故也後東軍之敗于五稜郭也遺骸横野而無復顧也者翁深惻之與當山十六世日隆師相謀収葬之於谷地頭之西丘而歳時祀焉後有志者建石題曰碧血碑翁今茲齢八十八猶矍鑠因欲傳翁之義擧于不朽今記其梗概建諸血碑之傍云大正二年癸丑六月日蓮宗一乗山實行寺十九世 權僧正望月日謙誌羽陰 龍湖 石川重友書石工 吉田辰己刻碑文の訓読は、「前逓信大臣・正三位・勲一等・伯爵林董篆額す。翁の名は熊吉、姓は野村にして、後に故有りて柳川と改む。江戸の人なり。少(わか)くして侠客の新門辰五郎に属し、夙(つと)に名有り。始めて北海に来るや、函館奉行堀織部正の知る所と為り、侠名愈(いよ)いよ顕われり。戊辰之役、東軍の来りて函館に拠(よ)るや、巨帥榎本武揚君の親信を受く。蓋(けだ)し曩(さき)に榎本君年十六、七、奉行織部君の家に在りし時、面識有るを以ての故なり。後東軍の五稜郭に敗るるや、遺骸野に横たわり、復之を顧る者無し。翁深く之を惻(いた)み、当山十六世日隆師と相謀り、収めて之れを谷地頭の西丘に葬り、而して歳時焉(これ)を祀(まつ)れり。後に有志の者、石を建て題して碧血碑と曰う。翁は今茲(ことし)齢八十八、猶矍鑠(かくしゃく)たり。因りて翁の義挙を不朽に伝えんと欲し、今其の梗概(こうがい)を記し、諸(これ)を血碑の傍らに建つと云う。」とネットから。「柳川熊吉翁の碑柳川熊吉は、安政3(1856)に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供拾に貢献した。明冶2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。」案内板の傍にあった墓石ですが、これも函館戦争に因んだものであろうか?そしてこの日も、コロナのことを考え、スーパーで食料を調達してホテルの部屋での宴を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.18
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は6月2日、車でJR大船駅の西側を訪ねた。「玉縄首塚」。鎌倉市岡本2丁目3。1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となった。この戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は、里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれている。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれる。「六地蔵」。「甘糟榎」下の「怨親平等(おんしんびょうどう)」と記された石碑「玉縄首塚由来今を距(へだて)る四百四十余年 大永六年(1526)十一月十二日南総の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち府内に乱入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)豪士大船甘糟(あまかす)渡内の福原両氏と供に里見の軍勢を此処戸部川畔に邀撃(ようげき:迎撃)し合戦数合之を潰走(かいそう:壊滅)せしめ鎌府を兵火より護る この合戦に於て甘糟氏以下三十有五人は戦禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その数を知らず干伐収(おさまり)て後城主氏時彼我の首級を交易(交換)し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷関(郷里)死守の霊を慰の怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 経云我観一切普皆平等」【今から473年前の1526年11月12日に、南房総の武将里見義弘(さとみよしひろ)が鎌倉を攻め落とそうと進軍し、鶴岡八幡宮に火を放ち鎌倉内に乱入しました。このことを知った当時の玉縄城主北條氏時(うじとき:早雲の孫)は、大船甘糟(あまかす)と渡内福原の両軍と協力して里見の軍勢をこの戸部川辺にて迎え撃ち、合戦すること数回にして敵を打ち破り鎌倉を守りました。この合戦において甘糟氏以下35人は戦死し、福原氏は傷を負い、里見軍の死者は数がわからないほどでした。戦闘が終わった時、城主の氏時は敵と味方の首を互いに交換し、これらを葬(ほうむ)り塚を築いて塔を建てました。そして郷里を死守した霊を慰めると共に、怨親(おんしん:敵味方)平等という考え方の例としました。これを玉縄首塚とよんでいます。 経云我観一切普皆平等(お経には、すべての人は敵味方なく皆絶対平等であると説いております)。】「馬頭観音」碑。後ろ側にも、古い石碑と五輪塔。「玉縄首塚碑(文政8年(1825年)銘)鎌倉郡玉縄首塚碑」。「鎌倉郡玉繩首冢碑記 西城小姓番士兼編修 間宮士信撰 從五位下大隅守戸川惠 書并題額室町氏季世関東擾亂、北條左京大夫諱氏綱據小田原城、使弟左馬助氏時守玉繩城、當是時也敵國相侵攻伐是務、房國有里見氏絶海屡冦、大永六年十一月十二日房冦放火焚八幡祠、城兵逆戰于戸部川上斬馘甚衆、城兵亦死者三十五人、氏時便以房人首級換吾兵三十五首、爲合豬築冢、後人號曰首冢或呼甘糟冢、甘糟氏葢死者之長也、大永距今三百餘載、物換星移土人亦咸不知其由也、郡人甘糟?・原等奉先思孝追遠弗措将謀樹碑、其孫裔存者聞之各戮力舎財、會有地志編纂之擧、余掌其事乃遣朝岡泰任・村井量令等採索焉、自鎌倉迄藤澤、甘糟等爲之指導途、過家側因説樹碑之課、且爪二生請銘於余、余祖宗亦爲北條氏之義不可辭也、乃係以銘、銘曰赴危殉難 甘喪其元 妖氣一霽 城壘得完 戸部之水 村岡之原 毅魄安在 惟一杯存春草空緑 秋霜自繁 歴載三百 緜務子孫 文政八年歳次乙酉冬十一月建 廣瀬群寉刻」。「戸部橋」を渡る。下を流れる川は「柏尾川(かしおがわ)」。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川(ひらどながやがわ)と瀬谷区から流れる阿久和川(あくわがわ)が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは神奈川県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは神奈川県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ、藤沢市川名で境川に合流する。下流になる藤沢方面を見る。「柏尾川」。大船駅方面を見る。正面にJR東海道本線の線路、踏切が見えた。そして「戸部橋」を渡り、直ぐ右折すると左手にあったのが「鹽釜神社(しおがまじんじゃ)」。鎌倉市台1丁目5−15石鳥居の扁額「塩釜神社」。「鹽釜神社」碑。「鹽釜神社」は、江戸時代末期の頃に仙台公に仕えた当地の娘が、帰郷した際に崇敬していた鹽竈神社(宮城県塩竃市)の分霊を祀ったことに始まるという。延命長寿・産業開発・海上守護・安産守護の神として信仰されている。社前を流れる柏尾川の対岸には玉縄首塚があって、8月の玉縄首塚まつりの際には社前に露店が並び賑わう。かつては、鶴岡八幡宮や長谷寺とともに、新年に使う生活用品などを売るため歳の市も開催されていたのだという。「社殿」。「社殿」は大正十二年の建立で、石造りの鳥居は昭和十四年に建立されている。また現在、この「鹽釜神社」は岩瀬にある稲荷神社の兼務社になっている。狛犬(阿形)。狛犬(吽形)。「鳥居寄附芳名」碑。「表題 海軍中将 東郷吉太郎書」の文字が刻まれていた。蟇股の龍の見事な彫刻。木鼻(右)には獅子の姿が。木鼻(左)。「鹽竈神社御祭神竝御由緒鹽竈神社の御祭神は塩土老翁神(しおづちのおぢのかみ)(別宮)武甕槌神(たけみかづちのかみ)(左宮)経津主神(ふつぬしのかみ)(右宮)の三神を御奉祀する。延命長壽・産業開發海上守護・安産守護の神・武徳の神として御神徳髙く広く崇敬尊信せらる。例祭 七月十日」社の内陣は提灯がともされており、赤く染まった空間の中に御神体が安置されていた。それは思いがけない綺麗な色彩を輝かせていた。「鹽竈神社」の「本殿」を斜めから。そして次に訪ねたのが「黙仙寺」。鎌倉市岡本1丁目4−11909年(明治42年)、濱地八郎という人物が、自ら信仰する金剛経を広めるため、永平寺管長日置黙仙禅師を開山に迎え、静岡県にあった祐昌寺という寺を移した と。大船観音建立の中心だった高階瓏仙は黙仙寺の二世。右手に「無我相山」、「金剛経道場黙仙寺」と刻まれた石碑が。入り口の石段左にあった「十三重塔多層塔」。石段を上って行くと右手に石碑が。この石碑には?禅の言葉であろうか?「毎日晨朝(まいにちじんちょう) 諸入禅定(しょにゅう?ぜんじょう) 六道遊化(ろくどうゆけ) 抜苦与楽(ばっくよらく)」ではないかと先生から。「子育地蔵尊」碑。「曹洞宗 無我相山 黙仙寺(むがそうざん もくせんじ)」。山号はこの地の山名である無我相山、寺号は開山者の黙仙禅師の名に由来である。現在大船観音寺が管理されているようであった。座禅場であろうか。「座禅会」、「金剛道会本部」の大きな木札が。更に本堂に向かって樹木に覆われる急な石段を上る。右側に三体の地蔵尊。三体の地蔵尊と観音様もその先に。大きな石塔。上って来た石段を振り返る。「西国三十三番霊場 巡拝記念」碑。「梁宗和尚塔」と刻まれた石碑。「本堂」はシャッターで閉ざされていた。開山 :日置黙仙開基 :浜地八郎本尊 :釈迦牟尼仏大船観音が第二次世界大戦等により、未完成であったのを昭和29年にこの黙仙寺の二世住職で永平寺管長であった高階瓏仙(たかしなろうせん)禅師が中心となって完成に漕ぎ着けたのだと。大船駅近くのマンション「ガーデンアソシエ」。眼下には大船駅が見えた。「黙仙寺墓園」入口の碑。「菩薩像」と「本堂」の裏手を見る。歴代の上人の墓碑であろう。「當山二世玉瓏堂仙大和尚」墓碑。横には「大舩観音完成の禪師」碑。歴代上人「墓誌」。「歴住塔」。「開基塔」。「大松坊無我相菩薩」と刻まれていた。「黙仙寺」の墓園を見る。この「黙仙寺」の近くの山の上には「大船観音寺」👈リンク があったが、ここは子供の頃から何回も訪ねているので、この日はスルーしたのであった。そして次に訪ねたのが「玉泉寺」。鎌倉市玉縄3丁目687「真言宗 聖天山 歓喜院 玉泉寺」の「本堂」。「玉泉寺」は、江戸時代に小林若狭という人物が建立した。山号の「聖天山」は、背後の山に聖天の祠があったことによるという。秘仏本尊の不動明王像は、胎内に小さなお不動さまを抱えていることから、「胎内不動」と呼ばれ、この胎内の像は願行上人が作ったものとされている。願行は泉涌寺派の法燈を鎌倉に植えつけた僧(泉涌寺第六世)で、大山寺の鉄造不動明王像(国重文)を鋳造したことで知られている と。「本堂」の扁額。境内の稲荷社。「 修行大師像( 弘法大師空海)」「本堂」裏の墓地。「六地蔵尊」。「武将のお墓」寺院の裏のやぐらには、小林若狭の父とその家臣一族数十名が葬られていた。布袋様に似ているが・・・。地蔵様の首がなく、抱えているように見えたが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.26
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『鎌倉散策 目次』👈リンク7月6日(火)、この日は梅雨の真っ只中、天気予報で雨が降りそうもない天気であるとのことで、急遽「古都「鎌倉」を巡る」の8回目に向かう。小田急線、東海道線、横須賀線を乗り継いで自宅から40分弱で「鎌倉駅」に到着。「若宮大路」の「鎌倉駅交差点」を渡る。「日本の桜名所100 若宮大路」碑。若宮大路は日本さくらの会の百選に入っていないが、昭和48年に朝日新聞が選定した「日本の桜 名所100」であるようだ。若宮大路の段葛は「日本の桜名所100選」に認定されており、鎌倉でも最も人気のある桜の名所。時季になると両側の桜並木が見事なトンネルをつくり、夜には両側の提灯がライトアップされ昼間とは違う表情を見せる。段葛とは鶴岡八幡宮の参道である若宮大路の中央を通る、二の鳥居から三の鳥居までの約500mの歩道のことを指す。「安産子育 産女霊神 長慶山 大巧寺」👈リンク 入口。長慶山 正覚院 大巧寺 (ちょうけいざん しょうがくいん だいぎょうじ) はJR鎌倉駅にほど近い、若宮大路に面している。産女霊神(うぶめれいじん、うぶすめれいじん)を祀る安産祈願の寺で、「おんめさま」と呼ばれている。「大巧寺」前から「鶴岡八幡宮・二の鳥居」を見る。そして反対の国道134号・「滑川」交差点方面。「国指定史跡 若宮大路若宮大路は寿永元年(1182)、源頼朝によって造られた鶴岡八幡宮の参詣道です。中世鎌倉の都市づくりの中心とされた鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に至るまで一直線に造られ、都市づくりの基軸線となりました。『吾妻鏡』によれば、頼朝は日頃鶴岡八幡宮の参道を造りたいと願っていましたが、妻北条政子の安産祈願として道造りを始めました。頼朝自らが指揮し、北条時政以下の御家人たちが土石を運んだといわれています。現在は県道となり、鎌倉のメインストリートとしての役割を果たしています。車道の両側には松並木が整備され、往時をしのばせてくれます。ニノ烏居以北の道路中央の一段高い道は段葛と呼ばれ、国指定史跡鶴岡八幡宮境内の一部です。ーノ烏居は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。」「若宮大路」を海岸に向かって進むと左手にあったのが「鎌倉中央食品市場」。歴史を感じさせる「鎌倉市農協連即売所」の看板があった。「鎌倉市農協連即売所」は鎌倉市内と横浜市長尾台町の農家が、自分たちで生産した農作物を、自ら販売している農作物直売所。組合員は、現在23軒で4班に分かれ、交替で出店していると。販売時間は、各班や農家によっても異なるが、この日は朝7過ぎ頃までには販売準備がほぼ整っていた。閉店は野菜が無くなるか日没くらいまでであると。休みは1月1日から4日までの4日間のみであると。鎌倉市小町1丁目13−10。既に準備も完了し、お客さんの姿も。様々なトマトが並んでいた。そして更に進むと前方にJR横須賀線のガードが。「下馬」交差点を左折し「えんめいじはし」を渡る。「延命寺橋」。下を流れる川は「滑川」。鎌倉駅方向を見る。こちらは下流側。前々日の豪雨で水位がかなり上がった事が解るのであった。そして「延命寺」に到着。鎌倉市材木座1丁目1−3。「本尊 阿弥陀如来」碑。「本堂」。専蓮社昌誉能公上人(せんれんじゃしょうよのうこうしょうにん)を開山として、鎌倉時代の執権北条時頼の夫人が建てたと伝えられている。ここにまつられている地蔵像「身代わり地蔵」は、双六(すごろく)の勝負で旗色の悪かった夫人を救ったといわれていると。また、この延命寺は仇討ちで有名な赤穂四十七士の一人、岡崎八十右衛門の子が出家して住職になったという言い伝えがあるのだと。本堂には中央に御本尊である阿弥陀如来坐像と聖観世音菩薩立像、右に弥陀三尊・両大師、左に身代り地蔵尊がある。鎌倉三十三観音第11番・鎌倉二十四地蔵第23番。以前頂いた「鎌倉三十三観音第11番 聖観世音」の御朱印。以前頂いた「鎌倉二十四地蔵第23番 身代り地蔵尊」の御朱印。寺務所。「善き事はゆっくり動く」と。「本堂」の鎖樋と天水桶。墓地。本堂裏手墓地に「古狸塚」という碑があった。江戸時代の終わりごろ、この寺に住みついた狸がよく人に慣れており、酒好きな和尚のために酒を買いに行ったりして可愛がられていたと。狸が死ぬと葬って碑をたて供養したと伝えられており、狸の墓というのは珍しいもの。「延命寺」を後にして、振り返って「本堂」の屋根を見る。県道311号線・鎌倉葉山線の踏切手前のビルの敷地内にあった小さな社。右手に「馬頭観世音菩薩」碑と「三界萬霊塔」碑。そしてJR横須賀線の踏切を渡ると左手の大きな槇の木の下には石像が。「金子サト記念碑」。松木立の下には、おかっぱ髪にスカート、あるいは半ズボンの3人が足元にしがみついた観音像が。鎌倉市大町1丁目1。昭和36年(1961年)のこの事故は不幸な出来事であったが、「身代わりサト像」ではなく、「子護りサト像」であるとしている と。最下部には「慈得院妙玄日里神女」と戒名であろうか?「因縁故金子サトさんは明治二十五年十二月二十五日誕生生前、大変子ども好きでした 奇しくもこの場所で幼稚園の園児を乗せた相模鉄道観光バスのために事故死したしかし、このサトさんに追突したバスはそのために急停車をし橋げたへの激突を危うくまぬがれ園児たちからは一人の負傷者も出なかった思えばこのサトさんの死が子どもたちを護ったのであるそこで、生前愛した玄海男のボクシング教室の練習生一同が報恩供養と かつは二度とこうした事故のないことを願ってここに子護りサト像を建立したのである昭和三十九年五月二十五日 三周忌に当り」そして「若宮大路」まで戻ると左手にあったのが「下馬」碑。「往昔鶴岡社参ノ武人ハ此ノ辺 ニテ馬ヨリ下リ 徒歩ニテ詣デタルニ因リ 下馬ノ称アリ 今ニ地名トシテ存ス 此ノ 地点ハ 鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々(しばしば)戦場ノ 巷(ちまた)トナリシコト古書 ニ見ユ 尚ホ文永八年(1271) 九月十二日 日蓮聖人 名越 ノ小庵ヨリ竜口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上 鶴岡ニ向ヒ 八幡大菩薩 神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顕(あら)ハシyタマヘト大音声アリシハ 下馬橋附近ナリト伝ヘラル」【昔は、鶴岡八幡宮に参る武士 はこの辺で馬より降りて歩い たため、下馬の名前が付きました。現在でもその名前が残っています。この地点は鎌倉の重要な位置にあり、しばしば戦場になったことが古い書物に書かれています。なお 1271年9月12日に、日蓮聖人 (にちれんしょうにん)が名越 (なごえ)の家より竜口(たつの くち)の刑場に送られる途 中、鶴岡神社に向い「八幡大 菩薩、神ならば仏法のため霊 験(れいけん:神のしるし)を現 (あら)わし給え」と大声で願 をかけたのは、この下馬橋付 近と伝えられています。】鎌倉市大町1丁目1。「下馬」交差点の角にあった「湘南信用金庫 鎌倉営業部」ビルを振り返る。横断歩道を渡ると下馬交差点脇の南西角にあった若宮大路が平成5年に都市景観大賞を取った記念碑。植栽に隠れていた案内文を笹の葉を掻き分けて。「治承4年(1180年)鎌倉に入った源頼朝はこの地を政治の中心地として、鎌倉幕府150年の基礎を築き、翌々年、八幡宮と由比ヶ浜を結ぶ道を一直線に改修しました。それが若宮大路の始まりだといわれています。大路の中央部は「段葛」と呼ばれる一段高い参詣道となっており、頼朝が妻政子の安産祈祷のため造った貴重なものです。また、ここ下馬交差点は、かっては下ノ下馬と呼ばれ駒留があった場所で、参拝者は皆ここで馬から下りたといわれます。中世の都市計画によりつくられた若宮大路は、時代の推移とともに改修・補修が行われ、今なお古都鎌倉のシンボルロードとして生き続けています。若宮大路とその周辺地区は、神奈川県の「うるおいあるみちづくり事業」や鎌倉市の「洋風建築物保存事業」などにより、優れた都市景観が形成されていることが評価され、平成5年度の都市景観大賞を受賞しました。」「若宮大路古絵図」。そして前方に「琵琶橋」が姿を現した。鎌倉市由比ガ浜2丁目1。「琵琶橋」と。こちらには「びわばし」と。「琵琶橋」案内ボード。「若宮大路の二の鳥居から一の鳥居までの間は琵琶小路とよばれ、橋の名はこれにちなんで名付けられたという。昭和30年頃までは擬宝珠のついた朱塗りの橋であった。琵琶小路の由来は道筋に弁財天をまつる祠がありこのため道が曲がっていたが、その曲がり具合が琵琶の曲線に似ていたことによるとする説と弁財天が琵琶を抱いていたからとする説とがある。なお、祠は鶴岡八幡宮の池の傍らに移され、道をまっすぐにしたと伝わる。琵琶橋は若宮大路を横切って滑川に注ぐ佐助川に架かり、鶴岡八幡宮参道を維持する上で古来から重要な箇所である。また和田合戦の舞台の一つになったという伝承から軍略上の拠点箇所でもあったと考えられる。」鎌倉十橋のひとつであるという事実には一言も触れていないのであった。下を流れる川は「滑川」に注ぐ「佐助川」。「琵琶橋」を振り返る。ひっそりと茂みの奥に隠れる様に佇む「標柱」には「十橋之一琵琶橋」と刻まれていた。そして「由比ヶ浜歩道橋」交差点手前の道路の反対側にあった石碑。「浜の大鳥居跡」。若宮大路の南端に建てられた鶴岡八幡宮の「一の鳥居」は、「浜鳥居」と呼ばれていた。最初の「一の鳥居」は、1180年(治承4年)、源頼朝が由比若宮(鶴岡若宮)を現在地に遷座したときに創建されたとされ、その後、再建が繰り返されてきたものと考えられている。1990年(平成2年)の発掘調査によって発見された柱痕は、戦国時代に北条氏康によって造立された鳥居のものである可能性が高いという。この柱痕の発見によって創建当初の鳥居は、現在の「一の鳥居」より鶴岡八幡宮よりにあったものと考えられている。鎌倉市由比ガ浜2丁目2。「浜の大鳥居跡」碑。「鶴岡八幡宮参道(若宮大路)の最も南側に立つ鳥居は「浜鳥居」と呼ばれ治承4(1180)年の建立以来数次の再建を繰り返す。鳥居柱痕の年代は供出遺物等によって戦国期と推察され、天文22(1553)年北条氏康により造立された大鳥居のものである可能性が高い。快元僧都記などによれば、天文4年安養院の僧玉運が瑞夢から浜の鳥居再建を発願し上総国峯上で得た用材を海路運搬して準備を進めたと云う。本遺構は現在の鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の北方約180mに位置し、特異な構造であるとともに、旧浜鳥居の位置が推定できる点でも重要である。」「発見された柱痕調査:平成2年2月、発掘調査により発見。規模:直径約160cm、地中深度は不明。構造:芯材、中周材(8個)、外周材(17個)からなる 寄木造の鳥居柱痕。各材は契(ちぎり)技法により結合される。 また地表下160cmで南北方向に梁材を通す。材質:本体部 ヒノキ材 ・ 結合材 ケヤキ材」「鎌倉女学院中学校・高等学校」の正門を見る。道路を挟んだ反対側にはもう一つの鳥居柱痕が発見された場所があり、現在ではタイルでかたどられていて発掘された場所がわかるようになっていた。「鎌倉女学院中学校・高等学校」の正門前の「陸奥桜(むつざくら)」。「鎌倉女学院校地は、明治期を代表する外交官陸奥宗光氏の長男、陸奥広吉氏の別荘跡地で、一九〇四年に陸奥家より鎌倉女学院に寄贈された土地です。ニ〇〇四年に新校舎完成時に大島桜を植樹いたしました。今後長く鎌倉女学院の発展を見続けていただけるよう、陸奥家のご了解をいただき、『陸奥桜』と命名しました。」そして現在の「鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)」を見る。左手に「神奈川県鎌倉警察署」。鎌倉市由比ガ浜2丁目11−26。その先にあったのが「日米海底通信の史跡」。場所はNTT東日本鎌倉支店跡地。この場所はひと昔前、「ゆかり荘」というNTT鎌倉職員クラブがあったと。その「ゆかり荘」の前身は、旧電電公社・関東電気通信局鎌倉電信中継所。鎌倉市由比ガ浜2丁目11。その台座の横に「日米海底通信の沿革」という青銅板が、これはかなり腐食が進んでいる場所もあって読みにくかったが・・・。明治39年 8月 1日 川崎を陸揚地として通信開始明治39年12月14日 東京越中島に陸揚地変更昭和 6年 5月16日 鎌倉に陸揚地変更 海底電信中継所設置昭和18年 4月30日 鎌倉電信中継〇〇止 日米海底通信◯止「1906年(明治39年)、日露戦争が終わって、ポーツマス条約が結ばれた翌年ですが、米国は既に、サンフランシスコ-ホノルル-ミッドウェー-グアム-マニラ-上海間の太平洋横断海底通信線を布設していました。だから、日本とグアムを結ぶ通信線ができれば、日本-米国間の通信も可能になるということで、グアム線の工事は日本-父島間が日本、父島-グアム間が米国の分担で行われました。日本-父島間は、深海でもあり、潮の流れも速くて難工事だったとか。開通当初の1906年から25年間は、日本側の中継所はまずは川崎、その後東京・越中島へ。水位差が大きく、通信線の切断事故が相次いだことから、最終的に、鎌倉・材木座の滑川右岸に移されました。このような経緯から、厳密には鎌倉が日本の海底通信発祥の地ではないのですが、今もこの記念碑は残されています。」とネット情報から。そして「鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)」。国の重要文化財に指定されている。最初は1180年(治承4年)源頼朝により建てられた。地震や火災により幾度も建て替えられ、現在のものは約350年前の1668年(寛文8年)、江戸幕府第4代将軍、徳川家綱によりそれまでの木造ではなく、備前国犬島産の御影石(花崗岩の石材名)によって造られた。明神鳥居の典型といわれ、高さ8.5m、柱の太さは92cm。「二の鳥居」と「三の鳥居」も家綱の寄進によって建て替えられたが、1923年(大正12年)の関東大震災によって三つとも倒潰。この「一の鳥居」だけが1936年(昭和11年)に再建された。元の材料を最大限に活用し、補足材料は徳川家綱と同じく備前犬島に求めるなど当初の美観を損なわない苦心があったことが知られています。鎌倉駅を背にして左側柱の上部(旧材部分)に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれている。『吾妻鏡』によれば、1241年(仁治2年)4月3日、大地震が発生し、大鳥居内の拝殿が流出したとある。道路を渡って中央から「鶴岡八幡宮」に向かって。鎌倉市由比ガ浜2丁目14。左側柱の上部(旧材部分)に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれていた。「一ノ鳥居治承4年(1180)に源頼朝公が建立し、後に再建され、現在の石造の鳥居は寛文8年( 1668 )のものである。典型的な明神鳥居で規模も全国有数で、昭和25年( 1950 )国の重要文化財に指定されている。徳川二代将軍秀忠の夫人が篤く信仰していた八幡大神が夢に現れ、「備前国(岡山県)の犬島にある石で一ノ鳥居を造れ」というお告げがあり、徳川三代将軍家光の誕生を見たとされ、その御礼に家光の子徳川四代将軍家綱が長い年月を経て完成させたものである。石材(花崗岩)は海路で鎌倉まで運ばれ、鶴岡八幡宮三基の鳥居が初めて石造で建てられたのであった。その後関東大震災により全て倒壊折損し、この大鳥居のみ修理再建された。他二基(二ノ鳥居・三ノ.島居)の部材は、公歌碑等として遣存している。」「鶴岡八幡宮國寶大鳥居重修の記此の大鳥居は一之鳥居ともいひ治承四年十二月源頼朝の創建にかゝり壽永元年夫人政子築造の段葛と共に若宮大路の偉観たり爾来武門武将により再建修理を行ふこと数次寛文八年徳川家綱祖母崇源院の大願を承け備前犬島産花崗岩を以て此の鳥居を始め第二第三の鳥居を再興せり就中この大鳥居は夙に我が國石鳥居の範と仰がれ明治丗七年八月國寶に指定せらる然るに大正十二年関東大震災の際柱下部を残して悉く顛落大破せり即ち文部省に請い復舊の速ならむことを計りしが昭和九年文部省技師阪谷良之進同嘱託大岡實に依り稍く重修の設計成り同十一年三月国庫補助並に東京上田ちた近田三郎両名の獻資を以て工を起し同年八月其の功を竣えたり本工事は神奈川縣知事半井清監督の下に施工し専ら古法を尊び舊材の再用を旨とし補足材は之を犬島に求め東西柱上部笠木及貫中部同東部西沓石北側の七個を加へたる外苟も舊觀の美を損せさらしむるに力めたり昭和十一年九月一日 國幣中社鶴岡八幡宮宮司中島正國」ハマオモト(別名ハマユウ)の白い花。そして「若宮大路」の海岸方面を望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.07.21
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『鎌倉散策 目次』👈リンクそして前方に「五重塔」が見えて来た。周囲の木々と調和し見事な景観。明治43年(1910)に建立。神奈川建築物百選の一つ。五重塔は、この世と私たち人間を形作っている5つの要素、すなわち「地・水・火・風・空」を表していると。初層の上部には彫刻師永田伊助作の日蓮大聖人御一代記が奉納されている。神奈川県でただひとつの「純木造の五重塔」であると。神奈川県には3つの五重塔があるが他の2つ(川崎・香林寺と川崎大師平間寺)は鉄筋コンクリート造。龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔。「五重塔仏教の開祖であるお釈迦さまが亡くなられた時、その御遺体は荼毘(火葬)に付され、その遺骨(御仏舎利という)は八つに分骨されて、その当時、インドで主流の八部族に渡された。そして、八つの部族は塔を建立し、それぞれに頂いた御仏舎利を、その中に安置してお祀りした。この塔のことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)で「ストゥーパ」という。このストゥーパが五重塔の起源であり、法要で供養する卒塔婆の語源である。五重の塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である「地」「水」「火」「風」「空」の五大を意味する。龍ロ寺の五重塔は明治四十三年(一九一〇)竣工、欅造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師・永田伊助の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。「神奈川建築物百選」にも選定されている剛健優美な五重塔である。」屋根の一辺は4.5m、高さは約30m。塔は、縁がなく基壇上に建つ。一層部は中央間桟唐戸、脇間連子窓、中備えは三間とも彫刻を施す。見事な組物と彫刻。組物は三手先組物。中備えの彫刻は龍ノ口の法難を素材にしたものと。「五重塔」から「本堂」への石段を下る。遠く前方に相模湾の水平線が見えた。振り返って。塔建設の発願は、のちに日蓮宗管長となる龍口寺第四代、藤原日迦上人(1837~1916)。近くに「五重宝塔初重銅瓦寄附 川崎 最初牡丹餅講」、「五重宝塔二重目銅瓦寄附 橘結社中」、「五重宝塔寄附 新橋片瀬講」などと記された碑が置かれていることからも分かるように、造塔にあたっては、多くの檀信徒の寄進がなされた。碑にある「牡丹餅」というのは、日蓮が鎌倉幕府に捕らえられ、斬首のために刑場であった龍ノ口へ連行される途中、「桟敷の尼」が黒胡麻の牡丹餅を捧げ、奇跡的に処刑を免れたという故事(龍口法難)にちなんだもの。「本堂」の屋根を見る。日蓮宗の寺紋である井桁橘が頂部に。石段を下りた場所から「五重塔」を見上げる。五重塔の最上階の垂木のみが放射状であることがその階下の垂木との比較で解るのであった。「本堂」の横には湧水の小さな池があった。そして「本堂」前脇には上屋のかかった堂の中に石仏が。「浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」。側には、“さぁ、菩薩さまをお洗い下さい”とばかりに水桶とタワシの山が!。『浄行菩薩』とは法華経に出現する菩薩様で、水が垢や穢れを清めるがごとく、煩悩(苦しみのもと)の汚泥を洗い注いでくださる水徳をお持ちの菩薩様とのこと。そして「本堂」を正面から。天保3年(1832)建立。欅造り銅版葺。間口12間・奥行き15間。神奈川県の代表的な木造大建築物。藤沢市片瀬3丁目13−37。「内陣」。「四月八日は、お釈迦様の誕生日です。仏像に甘茶をかけて下さい。」この日は四月六日。龍口寺本堂内に安置された龍ノ口刑場の「敷皮石」。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「南無妙法蓮華経」の御朱印です。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「妙法」の御朱印です。以前戴いた「寂光山 龍口寺」の「藤沢七福神」の「毘沙門天王」の御朱印です。「本堂」前から「山門」方向の境内を見る。「百度石」。「日蓮大聖人像」。ズームして。左手には数珠と立正安国論の巻物を持っています。お顔を更に。砲弾の如きものも。境内から出て来たものであろうか。台石の上に、竹の根元を模した碑と自然石?と共に置かれている。 背後に石碑が置いてあるが、由来等一切不明である。 砲弾長約54㎝、直径20㎝。竹の碑には「奉納 大正二年九月十二日 横濱市野毛町三丁目百□□・・・」と刻まれている。「鐘楼」と内部に「延寿の鐘」。龍ノ口法難七百年記念事業として、千葉県の中山法華経寺の鐘楼が移築されたと。700貫(2.6t)の梵鐘は新たに鋳造され、「延寿の鐘」として、毎朝妙音を響かせていると。「延寿の鐘」の下部には4種類の龍のレリーフが施されていた。境内の歌碑。「日蓮聖人像」と「五重塔」を振り返る。「鐘楼」も入れて。「大書院」。欅造り瓦葺。昭和初期、信州松代(まつしろ)の蚕糸業で財を成した窪田家の建物だったものを昭和10年に移築したとのことである。二つの石碑。「日本海軍大東亜戦争戦没者 慰霊碑」。日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。昭和62年4月8日建立。「日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 南無妙法蓮華経 慰霊碑 龍口十三世 日宣(花押)維時 昭和六十二年四月吉日 海交会 龍口寺大本願人 秦野秀雄 建之」「追悼の辞」碑。「追悼の辞大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 御英霊に捧ぐ 祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 奉賛者 元法務大臣 秦野章 元参議院議員 藤井裕久 衆議院議員 田中慶秋 立正山光妙寺 柴山宣哲主要慰霊行事 一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで 熊野原妙光寺 田中栄海 亀井野法泉寺 酒井光雄 愛国歌手 渡辺はま子一 南太平洋方面慰霊祭施行 昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで 世話人 海交会 元海軍中尉 山北林 謹書 元海軍少尉 米本八百重(碑面裏) 昭和六十二年四月八日建之 (以下奉賛者名は略)」「大書院」前から「本堂」を見る。「大書院」入口。藤沢市片瀬3丁目13−37。扁額は「寂光山」。「龍口会館」。龍口寺が運営する葬儀会館。藤沢市片瀬3丁目13。そしてここ龍口寺で行われる「龍口法難会」は、9月11日~13日。特に盛り上がりをみせるのは12日の夜に行われる「万灯練り供養」👈リンクなのである。この祭りには今まで何回も妻と出かけており、ブログにもアップしているので上記👈リンクにアクセスして見てください。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.04.26
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三階への階段を上る。一番隅にあった「孔雀の間」を訪ねた。部屋の入り口の踏み込み部分には、飛び石風に配した輪切りの木が置かれ、その下には、コルクが敷かれていました。床の間のつくりは自由で閑寂な造りの「草」の構えと言われています。床柱には、桜の皮付き丸太が使われています。ここの書院は付書院(出書院)といって、縁側に出窓を張り出させ、障子と欄間を入れ、◯板を設けるものです。書院障子は組子細工が施されています。なお、縁側の左にある板戸は、団体旅行など宿泊したお客さんたちが隣の客室と行き来できるように付けられたものだそうです。「孔雀の間」。座卓の彫刻。書院障子は組子細工が施されているのだと。床の間の掛け軸。「幸田露伴句碑「春霞 邦の辺だては 奈かりけ梨(春霞 邦のへだてはなかりけり) 露伴」「幸田露伴は、慶応三年(一八六七)江戸(現東京都)下谷三枚橋横町に生まれ、「風流仏」、「五重塔」、「運命」、「いさなとり」等数々の名作を残した明治の文豪である。露伴は伊豆を愛し、善きものが生り出る(伊豆)ところとして度々この地を訪れ、戦中戦後のいたみを養った。この句はその頃詠まれたといわれる。戦後第一回国会の参議院において露伴の死を悼み、山本勇造(有三)議員が追悼演説の中でこの句を引用し氏の功績を讃えた。このたび伊東市新庁舎の建設を記念して刻碑したものである。・・・以下略・・・。」「幸田露伴句碑(市内人原町・伊東市役所内)明治から昭和初期に活躍しまし露伴は伊豆には度々訪れていて、特に伊東温泉や南伊豆の下賀茂温泉にはよく訪れています。伊東の松林館(現在・和田湯会館前の玖須美財産区師場)は露伴の嫁の実家と親類にあたり、伊東を訪れた際、この松林館弋月荘(現・は東京ガス保養所)という松林館別館に滞在しています。戦後は、露伴に会いに、尾崎士郎などの文人たちが、松林館を訪れたことでしよう。」こちらが、伊東市役所の北側庭園にあるその石碑。 【https://4travel.jp/travelogue/11225702】より拓本された石碑をズームで。 【https://4travel.jp/travelogue/11225702】より縁側前から「松川」、「いでゆ橋」を見る。歴史を感じさせる箪笥。木目が美しい箪笥であったが「桐箪笥」?なのであろうか。当時の文化・生活の薫りが今に伝わってくるかのよう。ガラスに映った自分の姿が邪魔なのであるが。箪笥は棹(さお)という語を使って数える。和箪笥には、両脇に棹通し金具がつけられており、長持と同様に、棹を通して持ち運べるようになっている。これが箪笥の数え方「棹」の由来である と。ガラスも美しき葉の姿が。「客室と廊下白熱灯と使い込まれた木が生み出静寂さを感どる場所ここは昭和13年(1938)に竣工し、当時は新館と呼ばれていました。この新館は、創業者の稲葉安太郎が、田中萬作(一階)、森田信良(ニ階)、山本増刪(三階)の地元で腕の良い棟梁に各階を担当させ、競わせたといわれている部分てす。白熱灯と使い込まれた木が生み山す静寂な雰囲気が漂う、廊下と雁行する一戸建風の客室は当時の面影を残しています。鶴の間の入リ口には、ビャクシンを用いた肘木と呼ばれる変木、燕の聞の飾リ窓には、鶴と帆かけ舟の意匠を見ることがてさます。廊下の幅木には城ヶ崎海岸で多く見られるビャクシンが使われています。雁行・・鳥の雁が空を飛ぶ行列のように、斜めに並んでいる様子変木・・奇木ともいい、枝や幹の変わったものをアクセントに使っている。 東海館では、客室入口のほか、階段の親柱などに見られる。雁行・・鳥の雁が空を飛ぶ行列のように、斜めに並んでいる様子手前に「燕の間」の「飾り窓」。奥の「千鳥の間」の「飾り窓」。「肘木」と呼ばれる変木・奇木。この部屋は隣の「鶴の間」。床の間の掛け軸の書には力強く『彫鐫』(ちょうせん)と書かれており意味は、木・石・金属などに模様を彫り込むと言う意味であると。地元の書家「福山翠琴」氏の作品であると。「3階 案内図」そして「大広間」へ。~東海館の見どころが凝縮された場所~竣工当時120畳の広さを誇っていた大広間で、銘木、書院障子の組子細工、彫刻など東海館の見どころが凝縮されている場所と言えるでしょう。床の間には高級輸入材の槐(エンジュ)の床柱に相手柱に同じく高級輸入材の黒檀を使用しています。書院障子や欄間の組子は細かく、桟の一つ一つは面取りされています。格子の形の格天井(ごうてんじょう)には、かなり幹の太い神代杉の杢板が使われています。欄間の彫刻や舞台脇の孔雀の彫刻も見事です。神代杉・・有史以前に火山爆発などで地中に埋もれた杉で、高級で貴重な杉材といわれる。 また東海館の天井板は木目の美しい板(杢板)で、天城産の神代杉といわれている。120畳の大広間には多くの芸者さんが!大広間を独占し、芸者衆の前に胡座をかき、しばし「宴」を楽しんだのであった。「雅の宴」の雰囲気や三味線の音さえ聞こえて来たのであった。右手の芸子さんの本物からお酌を受けたいのであったが・・・。「お座敷宴席の風景東海館大広間では芸妓の踊り三味線で毎夜華やかな宴が催されていました。お膳は当時使用したもので表面には東海道五十三次が描かれています。どうぞ空席にお座りになりお座敷文化の風情を体感ください。「芸姑さん」!!には触れないようお願いいたします。」と。「伊東温泉 雅の宴」と。「雅の宴」というのがここ東海館の代表的な舞で、イベントがある時には人形ではなく、本物の芸子さんが舞いを踊ってくれたのだと。3階の大広間。昭和13年の増築の際には3階建ての各階の造作を名の知られた3人の棟梁に競作させています。当然、腕の見せ合いのような状態となり、客間ごとの建具、欄間や障子の桟、階段の手すりなどが和風建築の博物館の如くに。大きな「床の間」。掛け軸には「みかんの花咲く丘」👈リンク 歌碑の拓本が。「みかんの花が咲いている思い出の道丘の道はるかに見える青い海お船が遠くかすんでる」拓本を取った石碑は、県道19号線・伊東大仁線の亀石峠に向かう途中の展望広場に設置されているようだ。 【http://douyou.jp/?p=3290】より格子の形の格天井(ごうてんじょう)には、かなり幹の太い神代杉の杢板が使われていると。杢目は木目と同じ読みなので、混乱しそうですが。木目とは、木から出る目の総称。つまり、「柾目」「板目」「杢目」を一括して言う言葉。「杢」の字は木工の合字であり、和製漢字であると。舞台の彫刻、レトロな照明、釘隠し、銘木、書院障子の格子細工など見所いっぱいの大広間。大広間に掲げられていた絵画であったが・・・。一段上がった舞台に上がることも出来たのであった。舞台脇の孔雀の彫刻も見事(右)。舞台脇の孔雀の彫刻も見事(左)。そして「望楼」への急な階段。正面から。手摺に掴まりながら階段を上る。板敷の望楼内部までたどり着いた。右手に上って来た階段が。見えているドーム型の塔は東海館の親戚?が経営していた「いな葉」👈リンクという別棟の旅館。この「いな葉」も近年廃業したのだが、そのまま「ケイズハウス」という日本各地の観光地で外国人向けの安い宿チェーンのひとつとして営業。こちらも構造や意匠は「東海館」とほとんど同じなので、安く泊まれる文化財であるが・・・。ドームをズームして。「初島」の姿をズームで。右手に「伊東市役所」とその左に、この後訪ねた「佛現寺」の「永代供養塔」をズームで。そして「東海館」の見学を終わり、1階まで下りて「喫茶室」で食事をとる。シンプルな干物定食を。そして「東海館」の外に出て見学した2、3階を見上げて。なまこ壁風の竹塀を再び。玄関を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.06.19
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「常顕寺」を後にして、次に訪ねたのが「東海道」沿いに入口のあった「呑海寺(どんかいじ)」。小田原市東町3丁目12−38。「臨済宗・大徳寺派(京都) 呑海寺」と。「稲荷山 呑海寺」の「掲示板」。「目をつむれば ご恩を 受けし 人ばかり 南無 ー」と。「小田原市仏教界のポスターに朝比奈作品『宇宙のなりたち』を採用していただきました。今後、1年間小田原市全部のお寺に掲示予定です。二宮の愚尚庵/庵主・吏珀さんのコーディネートです。」とネットには。「仏の十戎一、ものの命をたっとぶ ニ、人の物をば盗るまい 三、不義や猥らはするまい四、嘘やそしりはいうまい 五、酒やなんかに溺れぬ 六、みんな仲良くまるなれ七、人の咎(とが)をいうまい八、物や骨折りは惜しまぬ九、腹立ち癇癪をたてまい十、み仏あがめてやむまい」「長寿の心得 人の世は山坂多い旅の道年齢が六十に迎えがきたら還暦六十才 とんでもないよと追い辺せ古稀七十才 まだまだ早いとつっぱなせ喜寿七七才 せくな老樂これからよ傘寿八十才 なんのまだまだ役に立つ米寿八八才 もう少しお米を食べてから卒寿九十才 年齢に卒業はない筈よ自寿九九才 百才のお祝いが済むまでは茶寿百八才 まだまだお茶が飲み足らん皇寿百十一才 そろそろゆずろうか日本一」「内観法 白隠禅師一 我がこの気海丹田 腰脚足心まさにこれ 我が本来の面目 面目何の鼻孔かある 自分の相はこの中にある一 我がこの気海丹田まさにこれ 我が本分の家郷 家郷何の消息かある 本当の我家である一 我がこの気海丹田まさにこれ 我が唯心の淨土 淨上何の荘厳かある 心の中にこそ淨土がある一 我がこの気海丹田まさにこれ 我が己身の弥陀 弥陀何の法をか説く 我こそ阿弥陀そのものである我らと衆生と みな共に仏道を成ぜんことを」この文章は、身体の丹田や気海を本来の自己に結びつける禅的な思想を表現しています。以下に、それぞれの部分の意味を簡単に解釈します。一、丹田や気海など、体の中心を意識することで、「本来の面目(=本質的な自分)」に触れる ことができる、と述べています。そこには単なる物質的な顔や鼻孔(具体的な形)ではなく、 もっと深い意味の「本来の面目」があるとしています。一、丹田に意識を集中することは、自分自身の「本分」や「家郷(生まれ育った原点)」に立ち 戻ることと同義である、としています。その「家郷」は、具体的な地理的な場所や形では なく、心の奥底の帰るべき場所を意味しています。一、丹田を中心とする心身の在り方そのものが、仏教でいう「浄土」(心の清らかな境地)で あると述べています。その浄土は見た目や装飾ではなく、自分自身の内にある、清らかで 満たされた状態であると示唆しています。一、丹田に意識を向けることで、自分の中に「弥陀(阿弥陀如来)」を見出すことができると 述べています。阿弥陀如来が「法」を説く存在であるように、自らの内なる阿弥陀が真理を 説く必要もなく、自分の中にすでにすべてが備わっている、という自己充足の境地を表して います。全体を通して、この文章は自己の内面や丹田を通じた心身の在り方への洞察を、禅的な視点から深く表現しているといえるでしょう と。参道を進む。山門には「臨済宗 稲荷山 呑海寺」と。住宅街の狭い参道の正面に本堂。六地蔵。本堂。臨済宗大徳寺派の寺。寄棟造り屋根、平入り、流れ向拝。開山は蓂穏和尚(大永7年〔1527〕没)で、中興は菊徑和尚、本尊は釈迦如来像。境内に白玉稲荷があり、北条氏綱が大漁祈願のため祀ったとの伝承がある。扁額「松濤」か?梵鐘が吊されていた。御本尊の『釈迦如来』。祠の中の石仏。小さな石仏。呑海寺境内社・「白玉稲荷神社」。無縁塚。石仏は緑の衣に覆われて。「呑海寺」を後にして、次の史跡を訪ねるべく、再び東海道を渡る。「小田原市立 山王小学校」と。その脇にあったのが「上杉龍若丸(たつわかまる) 墓」と。左手にあったのが「上杉龍若丸 墓」。移動して。「上杉龍若丸墓関東管領平井城主、山内上杉憲政の嫡男、龍若丸(十一才又は十三才)は天文二十年(一五五一)平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣六人とともに、小田原に出向いてきた。氏康は、龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門 に首を刎ねることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。龍若を惨殺した神尾治部右衛門は、癩病にかかり、まもなく死亡した。これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。(五輪塔六基中、中央最大が龍若の墓、他は従臣の墓)群馬県藤岡市西平井平井城址保存会 領主 古谷登」「若葉映ゆ 鎌倉小田原 上杉の 史跡訪ねて 往時偲べり」「悲運なる 若者なれど 小田原の 市民に護られ 眠れ安らかに」と。「上杉神社」?と書かれていたか。神社の内陣。五輪塔七基中、後方中央最大が龍若の墓、他は従臣の墓 と。歴史上の有名人にはよくあることだが、龍若丸が北条の手に落ちるまでのいきさつや、死因についても処刑もしくは逃亡の末の自刃など様々な説がある。伊豆市妙高山最勝禅院にも龍若丸の墓があるとのこと。その直ぐ先にあったのが「小田原市立 山王小学校」の「正門」。「上杉龍若丸墓」と向かい合うが如き場所にあったのが「戎神社(えびすじんじゃ)」。「小田原市立 山王小学校」方向に向かって建っていた。「戎社(えびすやしろ)この戎社には大友皇子が奉ってある。大友皇子は天智天皇の第一皇子として生まれ、六七一年太政大臣となり弘文天皇と名を改め天皇の御位に付かれた。が天智天皇の死後天皇の弟の大海人皇子(後日の天武天皇なり)と、皇位継承をめぐる爭が起り、六七二年壬申の乱となる。その戦で破れ大友皇子は自害して果てた。その亡き皇子の霊を奉るべく皇子の随士であった小澤伊豫掾外三名は皇子の神像を彫刻せしに、憚る所あって鯛及飯等を添えて蛭子の像と称えて、摂津の國、西の宮の神官吉井陸奥守へ任して、西の宮の神宮へ勧請し、四名はその神主となりて世襲せしが、明治維新の革命に至り廃す。戎社の御神体は座像七寸。日の神及び船玉神を相殿す。寛保二年(一七四二)免許状もあり。宝暦十一年九月(一七六一)松林地六反三畝十歩。領主小田原侯、大久保大蔵大輔忠友御寄附とあり、その地は網一色村に跨れりと。今この地は浜元町四百二十二番地である。その前は網一色村の八幡神社境内にあり、今も八幡神社を戎の森と呼ぶ。(以上は新編相模風土記より)明治元年の神仏分離令が出て最後に神主を勤めたのが小澤數馬であると共に、一ニ〇〇年の歴史を綴った戎社である。」その奥の民家の庭にも小さな朱の社が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.11.15
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我が趣味の菜園に来るキジ・雉です。この日は、5月5日(火)の9時前。毎年この時期に我が菜園を訪ねて来るのです。オスの雉の後ろにメスの雉も一緒に。キジ・雉はオスとメスで色が異なり、オスは金属光沢のある美しい緑色や青緑色、メスは枯れ草のような薄褐色(淡褐色・茶褐色)をしているのです。日本の国鳥であり、オスは目の周りが赤い肉垂で、長くて黒い帯模様のある尾羽が特徴的。野生のキジの寿命は5〜7年程度だとネットから。昨年と同じ雄のキジ・雉君か??オスがこちらに。この日の写真は私のiphone14で。これがズームの限界。・オス: 全身が暗緑色で、首から頭部は青緑色。日光に当たると非常に派手なメ タリックグリーンに輝く。・メス: 全体的に茶褐色で、黒っぽい斑点がある(保護色)。地面を突きながら虫を探しながら?進む。メスのキジ・雉。単独で地面に巣を作って卵を温める際、天敵に見つからないための保護色である と。そして数日後、家族で?中央がメスの子供でしょうか?この時期に既に子供が?以下、ネットから日本の国鳥であるこのキジ・雉は、鳥類には珍しく「一夫多妻制」の繁殖システムを持っている。多くの鳥類が「一夫一妻」で協力して子育てをするのに対し、キジは1羽のオスが複数のメスを縄張りに囲い込む特徴がある。繁殖の仕組みと特徴ハーレムの形成: 1羽のオスが自分の縄張り(テリトリー)を作り、その中に数羽のメスを引き込んで暮らします。ケッコーという大声: オスは春になると「ケッコー」と激しく鳴き、羽を激しく羽ばたかせる「母衣打ち(ほろうち)」をして縄張りを主張し、メスにアピールします。育児はメスのワンオペ: オスは交尾が終わると子育てには一切協力しません。メスが単独で営巣、抱卵、育雛(いくすう)のすべてを担います。実態は「乱婚」に近い: 近年の研究では、厳格な一夫多妻というよりも、メス側も複数のオスの縄張りを自由に移動して交尾する「多夫多妻(乱婚)」に近い実態があることも分かっていますと。よって、上の写真は2匹の妻か!?そしてこの日は昨日・5月13日。この日は、菜園の様子を写真撮影する為にデジカメを持っていました。単独で、急ぎ足で歩くオスの雉。いつもの?同一の雉なのかは判りません。茂みに入り、雑草の若葉を食べていたのでしょうか?私の存在が判っているようでした。デジカメでズームして。キジ の美しさは、ただ派手なだけではなく、日本の里山に溶け込む「気品」と「野性」の両方を備えているところにあるのでは。・深い緑に輝く胸羽が、まるで漆を塗ったように艶やか・光の角度によって、首元が青紫や瑠璃色に変化して見える・真紅の顔の肉垂れが、勇ましさと威厳を感じさせる・長く伸びた尾羽が、静かな風景の中で優雅な線を描く・羽の一枚一枚に細かな文様が入り、日本の工芸品のような繊細さを持つ・草むらに立つ姿には、武士のような凛々しさがある・春の野に響く「ケーン」という声が、生命力を感じさせる・派手でありながら、どこか自然に溶け込む和の美しさがある写真の雄のキジは特に色彩が鮮やかで、・瑠璃色の首・深緑の胴・銅色の羽模様・真紅の顔が絶妙に調和し、日本画から抜け出してきたような美しさを見せてくれるのであった。わずかに羽を拡げて。雉は周囲より高い場所で鳴くようです。高い場所から存在感を示しているのでしょう。そして、日本の国鳥は、正式には「キジ(日本雉)」です。ここでいうキジは、特に日本固有亜種のキジ(学名 Phasianus versicolor)を指します。以下 ネットから・なぜ国鳥になったのかキジが国鳥に選ばれたのは、1947年(昭和22年)。戦後、日本鳥学会が「日本を代表する鳥」を選定し、これが広く定着しました。選ばれた主な理由は次の通りです。① 日本固有の鳥であるキジは日本列島に古くから生息し、日本文化と深く結びついていました。特に本州・四国・九州にいる緑色の美しいキジは、日本固有亜種です。② 古代から親しまれてきた『古事記』や『日本書紀』、和歌などにも登場します。桃太郎の家来としても有名で、日本人にとって非常に親しみ深い鳥でした。③ 姿が美しく勇ましい・雄の鮮やかな緑色・長い尾羽・力強い姿が、日本を象徴する鳥にふさわしいと考えられました。④ 全国に広く分布している山野や里山など、日本各地で見られ、「日本の自然」を象徴する存在でもありました。⑤ 狩猟鳥としての歴史古くから食用・狩猟対象としても利用され、人々の生活とも関わりが深かったことも理由の一つです。ただし「法律上の国鳥」ではない実は、日本には法律で定められた正式な「国鳥」はありません。キジは、・日本鳥学会の選定・社会的慣習によって「国鳥」として定着した存在です。これは、国花(桜・菊)国蝶(オオムラサキ) などと似た位置づけです。キジと日本文化桃太郎 犬・猿・キジの家来として有名です。和歌・文学春や里山を象徴する鳥として古くから詠まれました。「ケーン」という鳴き声繁殖期の雄の鳴き声は、日本の原風景の一つとも言われます と。 ・・・END・・・
2026.05.14
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時間に余裕があるとのことで、知覧特攻平和会館へ立ち寄りました。バスから降りると、知覧茶をPRする急須と湯飲みの大きなオブジェが。 知覧平和公園内 施設案内板。知覧特攻平和会館、陸上競技場、多目的球場、サッカー場、庭球場、弓道場、相撲場、武道館等各種施設がありました。敷地内に入ると、先ず目に付くのは特攻隊員像と飛行機が。この飛行機は航空自衛隊初等練習機『T-3』。航空自衛隊防府北基地で長年活躍し、平成17年に用途廃止され、知覧町が借り受けたものであると。一式戦闘機「隼」。一式戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。太平洋戦争における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機(零戦(ぜろせん))に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。これは実物ではなく復元模型とのこと。 特攻銅像「とこしえに」。像の解説板には「特攻機は、ついに帰ってきませんでした。国を思い、父母を思い永遠の平和を願いながら 勇士は征ったに違いありません。御霊のとこしえにやすらかならんことを祈りつつ りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて開聞の南に消えた勇士よ」母の像「やすらかに」。像の解説板には「特攻隊の若い命は、ついに帰らず出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿この晴れ姿をせめて母上に一目最後の別れとお礼を一言胸も張り裂けそうな、その心情は母もまた同じであったろう今ここに立つ母の姿とこしえに母を 共にやすらかに母の温かいみ胸で御霊のやすらかならんことを世界の平和を祈念して」 巨大な石灯籠。 特攻隊の歌の石碑。一 ああ薩南の此の地より 敵撃滅の命を受け まなじり決し若人が 翔び立つ姿尊しや その名特別攻撃隊 こちらの石灯籠の前の碑には「散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり」と。増田利雄軍曹 飛行第105戦隊 21歳の歌とのこと。知覧特攻平和会館。 知覧は、太平洋戦争末期の沖縄戦において、陸軍の特攻基地が置かれた町。この特攻平和会館は、その当時、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示。当時の真情を後世に正しく伝え、世界恒久の平和に寄与するもの。二度と悲劇が繰り返されぬよう、戦争の悲惨さ、平和・命の尊さを教えてくれたであった。 館内は撮影禁止。特攻隊員の写真と手紙が出撃順に展示されていた。皆若い。若いゆえに手紙の内容は、母親へ宛てたものが多いが皆達筆。先日のニュースでは、遺族も高齢化し、手紙、遺書をこの平和会館に寄贈する人が多くなって来たと。 しかし、遺された写真の中で、少なくとも悲愴な様子をしている隊員は見当たらないのであった。子犬を抱いたり遊びに興じたり・・。出撃前の瞬間に微笑みを浮かべている者すらいるのです。しかしその裏で知覧特攻平和会館の展示は悲哀に満ちていたのです。特攻隊員と遺族の慟哭が聞こえてきたのです。そしてロビーには知覧飛行場の歴史を紹介する映像(CG)や陶板絵画(知覧鎮魂の賦)、映画「月光の夏」で知られるフッペルのピアノ等が展示されていた。三角兵舎。特攻隊員の寝床。 敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してあったと。ここは暗く狭く、寂しいところ。 特攻兵の中には、この寝床でガタガタ震えたり、泣いたりしていた人も居たのだと。特攻平和観音堂。特攻で無くなった1,036名の慰霊のために建てられた。特攻の母・トメさんの尽力もあったと。私も合掌。ミュージアム知覧。南薩摩の歴史と民族を多角的に紹介している博物館。音や映像で楽しむシアターや武家屋敷の調度品や古文書を展示しているギャラリーなどがあるとのこと。「帰るなき機をあやつりて征きしはや 開聞よ 母よ さらば さらばと」(飛び立つ直前に詠んだ辞世の句)。特攻隊員は開聞岳方面へ飛び立つのだと。ホタル「石碑」 。特攻隊員から母親のように慕われた女性が、軍の指定食堂「富屋食堂」の女将「鳥濱トメ」。6月6日、宮川三郎軍曹はトメに言った。「俺はホタルになって、おばちゃんに会いに来るから、宮川来たかと追わないでくれよ。」と・・目に涙を溜め・・・。 トメと家族は送り出した。そしてその夜、本当に一匹のホタルが富屋食堂に舞い込んで来た。トメは叫んだ。「このホタルは宮川三郎さんですよ。同期の桜を歌って下さい。」と。出撃を待つ特攻隊員、トメや娘達も、泣きながら同期の桜を歌ったのだと。そしてこの日が、ほぼ最後の沖縄特攻作戦となったのだと。旧陸軍戦闘指揮所跡には「映画 ホタル ロケ地」の案内板が。2007年に元東京都知事の石原慎太郎が「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画を製作総指揮。その記念にか、このような石碑が建てられていた。「短い青春を 懸命に生き抜き 散っていった特攻隊の若者たちが 「お母さん」と呼んで慕った富屋食堂の女主人 鳥濱トメさんは、折節にこの世に現れ 人々を救う菩薩でした。」 と刻まれていた。平和会館の前庭にある平和の鐘。コミュニティセンター知覧文化会館。 戦後70年。日本人は過去の「戦争の真実」を見つめ、国を守ること、平和を守ること、生きることと死ぬこと、そして他国との交わりを真剣に考えなければならないのである。我々はここ「知覧からの手紙」の真意をしっかり胸に受け止め、子供達にそして世界に伝えていかねばならないと。 そして酷暑の中、今日は長崎に原爆が落とされた日そして70年目の終戦記念日が近付いて来たのである。
2015.08.09
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次に秩父市山田にある秩父四番札所・高谷山(こうこくさん)金昌寺(きんしょうじ)に向かう。途中車の前方に武甲山(ぶこうざん・ぶこうさん)の姿が現れる。明治時代よりセメントの原料として採掘が進められ。1940年(昭和15年)に秩父石灰工業が操業を開始して以降、山姿が変貌するほど大規模な採掘が進められ、とくに北斜面で山体の崩壊が著しいのである。山頂は雲に隠れていた。そして金昌寺に到着。正面の仁王門は秩父札所でも数少ない八脚門朱塗の桜門作り、江戸中期の建築で、草葺入母屋作りの屋根が大きく周囲を圧しており、二階正面には「高谷山」の額をかかげ、左右の金剛力士は身の丈七尺。楼上には西国三十三番の本尊など多数の石仏を安置。 仁王門手前の六地蔵。 開運稲荷大神。伏見稲荷の分祀と言われ、室町時代から五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などを祈念して祀られていると。秩父札所の中で屈指の仁王門には2mほどの大草鞋がかけられていた。 木造りでは札所一番の大きさを誇る身の丈7尺(212cm)の仁王像(阿像) 吽像。 一歩足を境内に踏み入れるや、石仏の洪水攻めで、参道は言うに及ばず観音堂下の路傍、奥の院の崖下など現存1319体の石仏はただ壮観の一語に尽きるのであった。 十一面観音像の御堂の手前の右側の細長い祠に石仏が並んでいた。 一番奥の三体の仏様。 本堂への石段の右に建つ建物。 円窓の先には観音様のお顔が。 御堂の中の十一面観音像。 十一面観音像手前左には酒樽の羅漢が。この人物像は酒樽の上に座っていたのです。しかし徳利を持ち、頭上に大きな盃をかざした人で、地蔵さんではないのだと。実はこの地方の名主がモデルと。この名主が代官所で酒の失敗をし、以来禁酒の願をかけ、観音様の功徳によって、ついにその目的を果たし、盃を頭上にかざした姿は、酒断ち祈願の石仏であると。杯を頭から被って「もう飲みません。」という意味らしい。酒は、飲みすぎると失敗が多いと言う事を後世に戒めた像なのだと。私も他人事ではないと反省しきり!!??人物が腰かけている酒樽は、実は、中が空洞になっており、樽の下の部分には、穴があいてるのだと。もしかしたら、その昔は、この酒樽の部分に水を流して、樽の下にある穴から水を流していたのかも知れないのだと。境内の山の法面には、地蔵、阿弥陀、羅漢、観音、不動、十三仏等々数え切れない数の石仏が。 本堂手前の参道にも両側に石仏がずらっと。向こうに見えるのが本堂。 金昌寺の縁起図が本堂横の壁に。『荒木丹下 悪人荒木丹下を観世音菩薩が娘巡礼に身を変えて改心させ大善人とならしめた上思議な霊験なり』 と。『昔、この地に荒木丹下という男が住んでいた。ある時、一人の巡礼が食物を乞うのに立腹して、神国の米を仏に供えるいわれがあるものかと、巡礼に対して乱暴した。ところが、巡礼は少しもひるまず、仏の慈悲について語り、前非を悔いた丹下は篤く観音に帰依するようになった。そして、行基の作とされる高篠の観音を当地に移して、観音堂を建立した』と。 本堂へ右折するところに有る亀之子地蔵尊。古くは、十一面観音像の脇に池があり、池のほとりに安置されていて、亀の口から噴水が池に注ぎ、当時としては、珍しい石仏であったと。大正十年の現在の所に安置されたと。 本堂。正式な名は高谷山 金昌寺(こうこくさん きんしょうじ)。 「施無畏」と書かれた扁額が掲げられていた。施無畏者とは、無畏を施す者という意味で、一切の畏れを無くしてくれる,つまり、私たちの不安や心配ごと、恐怖心というものを取り除いていくれる者とのこと。本堂の回廊右手に、有名な子育て観音像がやさしいまなざしを投げかけていた。 子育て観音像、別名マリア観音と。膝に抱く赤子に豊かな乳房を含ませようとする姿の母親。満足そうな笑みとやさしいまなざしは、見る者の心を和ませるのであった。「秩父札所連合会」公式サイトによると、実は「寄進者の吉野屋半左衛門が、金昌寺のご本尊の霊験で子どもを授かったものの、その後子供と妻を相次いでで失った為、生前の母子の姿を形にして建立・供養した観音像」だと。慈愛に満ちた恍惚の顔の姿。 金昌寺のこの慈母観音を有名にしたのは、乳飲み子がむしゃぶりつく乳房の豊満さ と。母は、飲みやすいように右手でしっかりと乳房を持ち上げ、その児は、両乳首を親指と人差し指でつまんで飲もうとする、そのリアルな造形が、真に「慈母」を感じさせてくれるのであった。 境内の山の上方には六角堂が。 六角堂の横には、昔、ロッキード事件で有名な、荒船清十郎氏のお墓も有るのだと。オビンズル尊の像。頭の痛い人はオビンズル様の頭を、足の悪い人は足を撫でるとよくなると。石仏群をズームで。柔和な顔立ちに心惹かれたのであった。 金昌寺の住職は千体の石仏安置を発願したところ全国から3800体も集まったと。その後裏山の土砂の流出などでその数は減ったが、現在でも1300体以上の観音、地蔵、羅漢像が並べられているのだと。石仏を寄進したのは江戸が7割で、その他北陸、山陰、山陽などからも集まり、中には紀州家や越前家などの大名の奥女中からの寄進が30体ほどあったと。こちらは如意輪観音?石仏。 仁王門を境内より。仁王門の2階桜上にも多くの羅漢像が安置されていることが解ったのであった。 羅漢とは、釈迦の弟子で釈迦の教えを守り、尊敬される境地に至った者。社務所で御朱印を頂きました。中央に『新木大悲殿』の文字が。前述の如く、金昌寺の本尊である十一面観音は娘巡礼に変化し、荒木丹下という悪党を改心させたことから、金昌寺は別名「新木寺」と呼ばれていると。荒木観音の別当寺となる金昌寺は「東新木」という地名の場所にあったと。二人占めの金昌寺を後にし進むと、再び武甲山のはげ山の姿が。 そして「道の駅 ちちぶ」に立ち寄る。 羊山公園 芝桜の丘 のポスター。 百花蜂蜜がここでも売られていた。 「秩父で採りました!」と。奥秩父名物「岩魚すし」。「金色の岩魚すし」と呼ばれる贅沢な押し寿司。キメの細かい岩魚、淡白ながらもしっかりと深みのある味わいで、美味しいのだと。そして少し早いがここで昼食。秩父食堂の名物、 秩父名物わらじかつ丼と蕎麦のセットで1,100円を注文。豚ロースをたたいて薄くのばし、衣をつけて揚げたあと、あまじょっぱいタレがかけてあると。あまじょっぱいタレも旨くて、タレのしみたご飯まで気づけば蕎麦と共に、二人とも完食。「つゆだく」をお願いすればよかったと・・・、だが、秩父だけに「後の祭り」。
2017.08.09
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九品仏浄真寺 中央の三仏堂(阿弥陀堂)本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されています。元禄11〜12年に建立された三仏堂は、安政・大正の地震で被害を受け、その都度修復をしたが、昭和58年に大修復工事が行われ、創建当時の姿を取り戻した。3つの御堂の9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)といい、この九品の仏から通称「九品仏」と呼ばれている。このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にしかないそうです。まずは左から下品阿弥陀堂(げぼんあみだどう)。下品上生、下品中生、下品下生と書かれたそれぞれの扁額が。下品仏(げぼんぶつ)三体。下品仏は右手が胸の前、左手が膝の上の来迎印。来迎印は右手を上げて左手を下げてともに手の平を前に向け、それぞれの手の親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。信者の臨終に際して、阿弥陀如来が西方極楽浄土から迎えに来る時の印相であると。右手の人差し指を曲げた中央の「下品上生」仏。阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。 人差指 中指 薬指向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。下品阿弥陀堂から本堂方面を見る。本堂への道。本堂と三仏堂(阿弥陀堂)の間の庭の紅葉。真ん中の堂が上品阿弥陀堂。上品上生仏。両手の手のひらを上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形である。これは仏が思惟(瞑想)に入っていることを指す印相の定印。上品下生仏。阿弥陀如来の定印は密教では法界定印とされるが、浄土教などでの場合は同じように両手を重ねて親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作るものもある。阿弥陀如来の印相には沢山のバリエーションがあると。上品中生仏。阿育王塔(あしょかおうとう)。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの右側の堂が中品阿弥陀堂。中品上生仏。中品は両手が胸の前にあります。(説法印)説法印は両手を胸の高さまで上げ、親指と人差し指(または中指、薬指)で輪を作る。日本での作例としては、京都・広隆寺講堂本尊像、法華寺像などがあるが、比較的珍しい印相。当麻曼荼羅の中尊像もこの印相であると。中品下生仏は修復工事中でいらっしゃらなかった。3ヶ年の修繕の旅に出ているのだ。入口の総門には2014年~2034年の20年間で「平成九品佛大修繕事業」大勧進が行われている旨の巨大な立札が置かれていたのであった。中品中生仏は友の中品下生仏がいないため、チョット淋しそう。左に「開山廟」の説明板と中央に「一者女人泰産供養塔」。『開山歴代上人御廟』。『開山歴代上人御廟』入口付近の見事な紅葉。本堂に向かって歩く。河口慧海師碑。慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建立したと。「和」と刻まれた球状の石碑。平和の塔(へいわのとう)であると。台座には「超世無倫(ちょうせむりん=世に並ぶ者がない)」と刻まれていた。昭和四十年(1965)建立と。紅葉に緑も交じりこれも絶景。本堂前の花供養塔。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。本堂手前の紅葉にも緑が。本堂横の紅葉。九品仏浄真寺 本堂本尊は釈迦如来坐像。浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。本堂には珂碩上人(かせきしょうにん)自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれる本堂は、元禄十一年(1698)に三仏堂とともに完成。本堂は、浄土(彼岸(ひがん))の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(えど:現世、此岸(しがん))を表しているのだと。本堂から上品阿弥陀堂。本堂右手の枯山水庭園。本堂前の地蔵菩薩その先に下品阿弥陀堂が。銀杏の木の」葉はおちているが銀杏がまだ落ちずに。本堂前の地蔵菩薩。仏の足跡をかたどった仏足石。本堂を銀杏の樹の前から振り返る。天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つの歌碑が『掃きよせて 落ち葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)であると。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。幹周:4. 4m、樹高:17. 9mであると。『東京都天然記念物 九品仏のイチョウ』。まだ頑張って銀杏(ぎんなん)を拾っているオバチャン二人。 ・・・つづく・・・
2018.12.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次今日から『旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)』のブログアップを再開します。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★戸塚宿の散策を続ける。真宗本願寺派『 善了寺』を旧東海道から。『産婦人科 内科 伊東医院』この建物は、2003年横浜市より「横浜市認定歴史的建造物」に指定されている。創業は江戸時代末期。創業時は漢方医で吉田大橋際で開業、婦人の血の道の治療で名が通っていました。明治17年祖父の代に現在地に移り関東大震災後の大正14年に現在の建物になったと。現在の副院長・伊東均先生で五代目の医療継承となっていると。JR戸塚駅近くのビルの壁にはユニークな絵が。旧東海道に面した大パネルはスポーツと浮世絵のコラージュ。これは、広重の東海道五十三次 袋井宿。ここ袋井宿は江戸からも京からも27番目にあたる、東海道の中間の宿場。街道のところどころにある休憩所の様子が描かれている。掛川宿。画面左側から来る僧侶(絵には入っていない)に敬意を払い、頭を下げて挨拶をしている人々の様子。この辺りは凧あげが盛んで、空には凧があがっている。箱根宿。東海道五十三次の中で、最も標高が高いところに置かれた宿場。その様子が絵にも表れている。険しい山々は東海道で一、二を争う難所。『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の藤沢宿側』が左側に。そして右側には『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の保土ヶ谷宿側』のそれぞれの説明ボードが。『思い出の戸塚大踏切』踏切はJR東海道線、横須賀線など1日計約800本の列車が通過。ピークの午前7時台には1時間のうち遮断機が下りているのは57分間に及んでいたと。地元住民は50年ほど前から改善を求めて来ていたのだと。左上から右に。★昭和14年「大踏切が開くのを待つ箱根駅伝走者」★昭和26年「西口から見た大踏切」★昭和28年「大踏切周辺」★昭和30年代「戸塚駅東口」★昭和36年「大踏切東側」★昭和45年「戸塚駅東口」★平成15年「東口から見た大踏切」★平成27年「大踏切閉鎖の瞬間」:戸塚アンダーパス完成、戸塚大踏切閉鎖平成26年1月竣工した戸塚駅東口歩道橋を渡る。“開かずの踏切”として知られるJR戸塚駅(横浜市戸塚区)北側の踏切に2014年に完成した歩道橋「戸塚大踏切デッキ」。デッキは、幅約8メートル、長さ約80メートルで、同踏切の真上に整備された。東口歩道橋より戸塚駅ホームを見る。そして戸塚駅の西口に出る。『内田本陣跡』本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があった。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったと。本陣を営んだのは郷の有力者であり、近隣の牛頭天王社(八坂神社)を勧請した内田家。明治の郵便事業創設の際、全国の有力者の家を郵便局にしたが、戸塚郵便局はかつて内田家の郵便局に始まるとされその権勢を知ることが出来るのだと。『脇本陣跡』脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用された。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に 供することができた。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもある。 戸塚宿には3軒の脇本陣があったのだと。『戸塚宿 澤邊本陣跡』。澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ。本陣創設時の当主、「澤邊宗三」は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者であると。『明治天皇戸塚行在所址』の碑も立っていた。『羽黒神社』羽黒神社の石鳥居には「大正三年」銘があり、関東大震災(大正12年(1923年))の10年前に建てられている。関東大震災で倒壊しなかった石鳥居であると。『羽黒神社社殿』戸塚に鎮座する羽黒神社は八坂神社とともに戸塚宿の鎮守。澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を勧請し祀ったのが始まりと。その後、澤邊家は戸塚本陣となっており、戸塚宿澤邊本陣跡奥に鎮座している。羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、稲荷社があり、2基の庚申塔が建てられていた。戸塚消防署交差点の先右手にあったのが『海蔵院』。鎌倉円覚寺の末寺で、南北朝期の創建。現本堂は昭和61年に再建され、本尊釈迦牟尼如来を中心に、十一面観音像、正観音像、開山方外宏遠像、もちあがり地蔵を安置。他に山門(木造)鐘楼堂(昭和37年に再鋳)がある。旧東海道(旧国道1号線)沿で、戸塚消防所脇の坂を上がった左手の少し高台にあった。道路から上がってくると、自然で緑も残り、落ち着いた雰囲気のする場所にあるお寺。山門の横に遍照金剛と刻まれた木食観正碑(文政4年、1821年)がある。山門の上部には左甚五郎作と言い伝えられている竜の彫刻がある。墓地には、俳人志行の墓(寛政5年、1793年)、旅の途中戸塚宿で没した藩士の墓などがある。臨済宗圓覚寺派。その先右手には『八坂神社』。戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建。その後元禄3年(1688)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたと。『お札まき』解説板。お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りあ、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です と。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたと。『八坂神社の由来』元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるがいつしか社殿敗壊と真躰の神器は草もうの中に散在し止むなく地中深く埋め祭祀を歟くこと弐百年に及んだ。内田氏の末葉内田佐衛門尉源政利これを憂い元禄元年矢部村庄司河原氏の霊夢により土壊を起し神躰を得てその一再興をはかり祭祀を行った。明治初年、八坂社を改め更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した。祭典は七月七日拾四日まで行事は七月十四日無病息災を祈願して行われる。お札まきは町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち、原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。拝殿。神楽殿か?道路わきの食堂で昼食。時間は12:40。カツカレーを楽しむ。『冨塚八幡宮』。石鳥居を潜る。源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。明治6年(1873年)に郷社に列した。境内裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる古墳があり、これを「富塚」(富塚古墳も参照)と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。また、全国の戸塚姓・富塚姓の祖先とされる戸塚(富塚)一族が平安時代にこの地に住んでいたことから、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としている。氏子地域は戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の4区(昭和44年(1969年)までの戸塚区域)。拝殿への長い階段には神主の姿が。神輿庫には宮神輿が納められていた。この宮神輿は1843年に造られたもの。『拝殿』。現在の本殿は1843年、拝殿は1934年に造営されたと。『稲荷大明神』。『上方見付跡』江戸方見附から、約2.2km距離にある戸塚宿京方の出入り口。現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。五十三次 戸塚の浮世絵は色あせて。『大六天神社』。戸塚宿の上方見付を過ぎたところに第六天神社があった。第六天神社とは元々は第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが明治になって神仏分離の際に、多くの第六天神社ではその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が変更されたと。『扁額』。上方見付を出た大坂下には庚申塚があり、多くの庚申塔が並んでいた。日光東照宮でおなじみの見猿聞か猿言わ猿の「三猿」が彫られています。かつて、この辺りには、坂を上れず立ち往生した車の後押しする仕事があったとか。大坂台交差点。『おおさか(大坂)』石碑。坂の途中にあった横浜市が設置した石の標識。「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳にも引き合いに出されたほど東海道でもよく知られた場所である。昔は一番坂、二番坂の二つの急な坂が並んだ道であったが、昭和の初めに改修され、なだらかな一つの坂になったと。 ・・・その3 ・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日軽蒲原第二発電所を見ながら、更に旧東海道を進むと左手には『蒲原の名所、旧跡』が写真で説明されていた。訪ね損なった『源義経硯水(よしつねすずりみず)』の案内を写真撮影。「1174年(承安4年)に源義経が東に下る時に菩提所の涌き水を使って蒲原神社へ奉納する文と愛知県矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫に文を書きました。送られた文を読んだ浄瑠璃姫は源義経を慕い矢矧から奥州に下る途中に病で倒れこの地で亡くなりました。その時以来涌き水が義経硯水と言われるようになりました。1654年(承応3年)に供養塔が建てられました。その後1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ参詣者が絶えなかったとのことですが旅人が持ち去ってしまいました。現在の地蔵尊はのちに再建されたものです。」『歴史国道』説明。歴史国道とは、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路のこと。この時に歩いている道、東海道 岩渕間宿〜蒲原宿〜由比宿(静岡県富士市 - 静岡市清水区)も歴史国道の一つであると。清水区蒲原二丁目の住宅街を歩く。すると左手奥にあったのが『渡邉家土蔵(三階文庫)わたなべけどぞう(さんかいぶんこ)』「木屋(きや)の土蔵市指定文化財(「渡邊家土蔵(わたなべけどぞう)(三階文庫)(さんかいぶんこ)」 渡邊家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。また、材木を商っていたことから、「木屋」という屋号で呼ばれていました。 「渡邊家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具(しほうよろび)」(四方転(しほうころび))という耐震性に優れた技法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札(むなふだ)から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、市内最古の土蔵であると考えられます。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されています。 」入口右手にあったのが『木屋稲荷』。木屋稲荷は渡邊金璙(かねよし)が天保9年(1838)に家神社として石祠を造ったと。現在は木屋江戸資料館として公開。運良くこの渡邊家の奥様(館長)が出て来て下さり、正面の入口の南京錠を解いて「木屋の土蔵」内部を案内して下さいました。「中の構造は、二重の梁や隠し階段等の工夫が凝らしてあり建築物としても大変貴重な資料として関係者の熱い視線を浴びているものです。合計23本の通し柱で各階で一寸(3cm)ずつ内側に傾いています。」写真は頂いたパンフレットより転載させていただきました。「この蔵は安政の大地震(1854年)にも耐え貴重な当時の所蔵品や資料を現在に残しています。」『渡邉家の歴代当主』の説明。蔵1回は『木屋江戸資料館』として公開中。資料館内に展示されていた長久保赤水の制作した日本地図。「伊能忠敬の「伊能図」がつくられる四十二年前に緯度と日本版の経線(京都を標準にした等間隔の南北線)を記したかなり精巧な日本地図があった。それが『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)、世に云われた「赤水図」である。この「赤水図」は大阪の出版社によって世に流布され、当時のベストセラーとなり旅人に愛用された。これより四十二年の後、黒船が来航する江戸時代末期に幕命でつくらせた「伊能図」は国家機密とされ、江戸時代には一般人は見ることが叶わなかった。ゆえに、江戸時代中期から明治時代まで広く世に使われたのは「赤水図」だった。幕末の志士吉田松陰も「赤水図」を携えて仙台まで旅し、長州(山口県)への岐路、茨城県高萩市赤浜にある長久保赤水の墓に参詣している。また、かの医学者シーボルトもヨーロッパに持ち出し紹介しており、現在もイギリスのケンブリッジ大学やドイツの博物館など数か所に収められていることを東京大学大学院教授馬場章氏が近年発見している。」と。江戸時代後期に蒲原宿で問屋職を務めた渡辺金璙は、膨大な数の日記や記録を残しており、それがために当時の蒲原宿の様子が現在に伝わっているという貴重な文書を所蔵していると。奥様・館長の渡辺和子さんは説明がわかりやすくて話が面白く、大変勉強になった。地図を広げて『東海道の移り変わり』⬅リンクを熱く説明してくださった。最近では、テレビで活躍中の磯田 道史氏がこの蔵を訪ねて来たと。そして更に旧街道を進む。『一国之十六番 岩戸山』と刻まれた石碑。『龍雲寺』。街道がやや左に折れるところに岩戸山の石柱があり、その脇を入って行くと臨済宗妙心寺派の岩戸山龍雲寺があった。『六地蔵』。『本堂』。承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となった。この事件で殺された甚太夫の槍の穂先が残っていると。本堂に掛かる『岩戸山』の扁額。永代供養墓の『涅槃佛』。『聖観音菩薩』。蒲原宿 道標。懐かしい風景。いつの日かモール化を。『馬頭観音』。『「馬頭観音」供養石塔の由来』「かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。 江戸時代、このあたりから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいますた。 この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、昨年11月、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。 そこで、往時の人々の馬に寄せるあたたかい心を偲びその場所に新たに安置して、お祀りすることにいたしました。」『日蓮宗 佛護山 東漸寺』入口。旧八幡町と旧天王町の境目あたりには佛護山東漸寺が。『山門』。明治14年(1881)の題目碑があるので日蓮宗系の寺。元弘元年(1331年)開祖の日蓮宗の古刹。元は西より御殿屋敷付近にあったが、家光上洛時増改築のため現在地に移転した。本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となったと。『本堂』。「東漸寺は、日蓮上人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創と言われ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)に創建された。はじめはもっと西の御殿跡辺りにありましたが、3代将軍家光の上洛の際に、御殿屋敷を建て替えるために現在地に移転した。境内には推定樹齢400年のイヌマキ、木屋の渡邊利左衛門の起立した文政11年(1828)の法界塔がある。」『手水舎』。桜の樹の後ろに立派な鐘楼が。寺の建造物は安政の大地震(1855年)で悉く倒壊したので、すべてそれ以降のものであると。また、数度火災に見舞われているとも。鐘楼の前には木屋の渡辺利左衛門の起立した法界塔が。『渡邉利左衛門起立の法界塔』説明板。利左衛門周玞(かねのり)が法華経一部、6万9,384文字を一石に一字づつ書写し、それを礎石として利左衛門金璙(かねよし)が文政11年(1828)に起立したと。南妙法蓮華経と刻まれた日目上人 慰霊碑。日蓮大聖人の仏法は、二祖日興上人・三祖日目上人と相伝されたのだと。『なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)』なまこ壁に近寄って。「当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請(ぜいたくふしん)ともいわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟(よせむね)の屋根とが相俟(あいま)って、重厚感(じゅうこうかん)があふれています。 」『八坂神社』入口。『商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)』。「当家は、昭和まで続いた「果堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中にはいると柱がなく広々した「床の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん城の階段があって、二階に通じています。」「店の間」。『問屋場跡』「問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折りの馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が毎月15日交代で詰めて宿の経営にあたっていた。」『椙守稲荷神社(すぎもりいなりじんじゃ)』。この神社は御殿山南麓に鎮座。参道脇には御殿山への遊歩道案内があり、ここから約10分位で「狼煙場」と呼ばれる頂上に到着出来るようです。入口や参道途中の鳥居には「椙守神社」と書かれていましたが、社殿には「椙守稲荷神社」と書いてあることがカメラズームで確認できましたので、明らかに稲荷神社と思われます。車が停まってないともっと良かったが・・・。問屋場跡の前の小川を左に沿って行くと『蒲原夜之雪』記念碑が建っていた。夜之雪記念碑には碑と共に広重の絵と案内板が掲示されていた。「夜之雪記念碑」と「蒲原夜之雪」「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(一八三ニ)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。 昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。」 広重の「蒲原夜之雪」「歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて、「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次 の旅を体験した。実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬(ごりょうば)二頭を献上する年中行事の一つであった。 その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に制作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物(やくもの)”と称され、中でも最高傑作といわれている。 錦絵に使用する越前奉書紙の地色を巧みに生かした夜之雪、二人の駕籠屋(かごや)と一人の按摩(あんま)を配した里の情景など、抒情(じょじょう)豊かに構成された名作との評価が高い。 」『東海道五十三次夜之雪(蒲原) 安藤広重』雪道の坂を下る人は番傘を半開きにして杖を突き、足には雪下駄で、慎重な足取り。背を丸めて坂を上る人々の先頭の菅笠に合羽の男は、小田原提灯で足元を照らしている。完成度の高い構図、ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感人間と自然との調和した描写は、地名を超越した普遍的な風景画として強い印象を。旧街道の建物を楽しみながら更に進む。『旅籠 和泉屋(鈴木家)』。自販機は片付けたいと我儘にも。「当家は、江戸時代「和泉屋(いずみや)」という上旅籠(じょうはたご)でした。天保年間(一八三〇~四四)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。 今に残る二階の櫛形(くしがた)の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。 弘化二年(一八四五)の「蒲原宿商売調帳(かんばらじゅくしょうばいしらべちょう)に、「和泉屋間口間数(いずみやまぐちけんすう)六・一」とあり、現在は鈴木家四・一間、お休み処ニ間のニ軒に仕切られています。 」蒲原宿『本陣跡』「本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間(ま)がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣(たきほんじん))もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされていました。 」 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に白須賀宿を二川宿に向かって歩を進める。右手に『庚申堂』入口鳥居が。天和元年(1681)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は、天保十二年(1841)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。境内には、見ざる、聞かざる、言わざるの三匹の猿の陶像があります。須弥壇(しゅみだん)の上には厨子が固く扉を閉ざしています。この厨子は六十年に一度開帳される秘仏で、地域では今もこれを守っています。以前は尼僧がいたが、今は無住であると。この地方最大の庚申堂。庚申堂前には庚申信仰による「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹がいたが白須賀の庚申堂には実はもう一匹猿がいるのだと。論語(孔子)の「礼にあらざるもの視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ、行うことなかれ(=せざる)」、または、庚申信仰(庚申の夜は身を慎んで徹夜し女性を避ける)の「同衾せざる」から来ているのだと。『見ざる』。庚申信仰とは、60日又は60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる、夜籠もりを中心にする信仰行事。庚申さまといっても、猿と結びついたのは後のこと。『言わざる、聞かざる』。右手にあった『火除け地跡』碑。火除地(ひよけち)とは、火事での延焼防止のために設けられた防火地帯。江戸幕府は多発する火事に悩んだが、1657年の明暦(めいれき)大火後に設置。江戸城用の火除明地、一般市街地には広道(ひろみち)・広小路(ひろこうじ)、広道に土手を築いた火除土手として設置された。町医者『玄斎堂』跡。跡見花蹊の遠い親戚にあたる遠江の医師 「跡見玄山」がこの地で開業医した院であると。民家の美しい『マンビテラ』の花。キョウチクトウ科の花で花色は赤紫やピンク、白などがポピュラー。葉は硬めで鈍い光沢があり、特徴的なシワが。夢舞台東海道道標『境宿』。ここに一軒の茶屋があり、だんごにそてつの餡を入れた餅を柏の葉で包んで売っていた。これを「さるが番場の勝和餅」といい、広重や北斎の浮世絵にも名物として登場すると。売っている店を歩きながら探したが見つからなかった。二川宿の本陣に出ている店で売っているようであったが。『白須賀マップ』を再び。ここが西から来ると『白須賀宿』の入口。『高札建場跡』碑。安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場』 広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。従って、二川宿まではまだかなりある。この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の不自由な女性)である。『成林寺』入口。『法華宗 久松山 成林寺』の『本堂』。湖西市境宿にある法華宗陣門流の寺院で、開山当初は久成坊と呼ばれていた。境宿村の開創もこのころだろうと。これより『白須賀宿』、二川宿まで5.8km。県道173号線と旧東海道との合流地点。県道173号に合流した所左手に『村社 笠子神社』が。かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響でこの地に移されたと。国道1号と合流し、この先で「愛知県豊橋市」に入る。今年になって箱根西坂を下り三島宿を通って白須賀宿まで静岡県内22の宿場を歩いてきたが静岡は長かった。あと21宿歩くとその先が三条大橋だ。『境橋』かっては遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境をなした境川に架かる橋。現在は静岡県と愛知県の県境。長~~~い静岡県の旧東海道歩きを克服し愛知県に漸く入る。この先に国道1号線。畑の中にポツンと一体の仏像が。この場所で交通事故等があったのであろうか?国道1号線と合流。国道1号線を暫く歩くと右側に『一里山の一里塚(東細谷一里塚)』。右には地蔵菩薩が二体と供養塔が。一里塚正面には,秋葉社と地蔵尊の祠があった。豊橋では、一里山の一里塚と言っているが、地名をとって『東細谷一里塚』とも呼ばれている。「豊橋市指定史跡 一里山の一里塚 昭和五十年十一月八日指定慶長九年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には木陰の休所ともなった。江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一里塚があったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末期頃にはまったく滅失してしまった。現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺跡の一つである。」『秋葉神社』『津嶋神社』の祠の内部を格子の間から。この写真撮影前に、足元の石に引っかかり、バランスを崩し転倒。左足の脛(すね)を擦りむいたが僅かの出血で大事に至らなかったのであった。まだ小さいがキャベツ畑は拡がっていた。この付近の小石混じりの赤土は、小石に保温効果がありキャベツ栽培に向いているのだと二川宿の土産売り場のオバちゃんからこの後に。畑の中の林の中に『豊清神社』があるのだろう。豊橋市豊清町茶屋ノ下の歩道橋が前方に。この近くに昔は茶屋があったのだろう。歩道が工事中とのことで、一車線規制の車道を歩く。ファミリーマートでトイレ休憩し、アイスクリームを楽しむ。そして負傷した脛の手当を自分で。更に二川宿に向かって進む。右手の新幹線線路と併行して国道1号線を進む。旧東海道はこの先『二川南ガード』を右に曲がるのであった。新幹線ガード下を潜る。新幹線ガードを振り返り、旅友の姿を確認。『梅田川』に架かる『筋違(すじかい)橋』を渡る。『梅田川』。愛知県豊橋市・静岡県湖西市を流れる本流の二級河川。そして梅田川の先に見えるのが山頂に岩肌を晒す奇岩・『立岩』が見えた。再び振り返ると、新幹線の線路が浜名湖に向かて続いていた。そして更に東海道線の線路を渡る。踏切を渡り終わり線路沿いに進むと貨物列車が通過。そして前方に『二川宿』の姿が目に飛び込んで来た。東海道三十三番目の宿場、『二川宿』。見付跡など宿場口を示す建造物は残っていないものの、まっすぐに伸びる旧街道と街道沿いの軒の並びに往時を偲ぶことができるのであった。交差点の角に『二川宿案内所』の建物・『川口屋』が。時間は14:44。ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されていた。また、往時の写真なども展示されているので、二川宿に入るとまず立ち寄ってみると良い。川口屋の角に、『二川一里塚跡』が。江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進む。最初に訪ねたのが、以前訪ねることが出来なかった知立市にある『八橋山 無量寿寺』。旧東海道の来迎寺町の『元禄の道標』のある交差点を右折し真っ直ぐ進むと『八橋日吉山王社(日吉神社) 』が正面に見えて来た。名鉄三河線 三河八橋駅南410mの場所にあるカキツバタで有名な無量寿寺の門前社と神宮寺の関係にある南向きの神社。南側からの道路が神社正面で左右に分かれるY字路になっていて左側は三河八橋駅、右は駐車場方面に至る。そしてY字路正面の左手は『八橋日吉山王社』、右手には『八橋山 無量寿寺』の参道が並ぶ。写真左側が『八橋日吉山王社(日吉神社)』の参道入口、右前に日吉神社神社石柱。入口には『邨社日吉神社』の社号標が建っていた。正面に地蔵尊。そして『八橋日吉山王社(日吉神社)』の石鳥居と奥に拝殿。『三河新四国総開帳』と書かれた幟が。三河新四国霊場会では札所再興五十五周年記念今年の三月一日より六月十〇日まで『三河新四国霊場の総開帳』が行われている様であった。開帳とは、ふだんは閉じてある厨子(ずし) の扉を、特定日に限って開き、中の秘仏を一般の人に拝ませること・開龕 (かいがん) ,啓龕 (けいがん) ,開扉 (かいひ) 、隠すべきものを人目にさらすこと。右手には無量寿寺の奥にある『八橋かきつばた園』の案内塔が。『無量寿寺』の参道右前に『八橋舊蹟』の石柱が。『知立市 観光めぐり』案内板。『新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」案内板』。★スタート : 無量壽寺→かきつばた園→明治用水緑道遊歩道→東海道松並木→本陣跡→山車蔵 →知立古城址→ゴール 知立神社★全長 : 5.6キロメートル★所要時間 : 2時間程度『無量寿寺』の参道の左側に園内案内図。『無量寿寺』「名勝八橋の中心となる寺で現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の 慶雲元年(704)の創立としており、当時は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと 申します。延喜2年(902)山号寺号を八橋山無量寺に改めているので、このころいまの地へ 移されたと伝えられ、その後無量寿寺と改められ現在に至っています。」『かきつばた園』「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」 平安時代の歌人在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて歌を詠んだ八橋は、 伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地です。敷地13,000㎡の庭園内には 3万本が生息し、5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見所で、 多くの人々を魅了します。」 配置案内図。『八橋日吉山王社(日吉神社)』の境内『八橋日吉山王社(日吉神社)』の手水舎。『御大典紀年』の木。『八橋日吉山王社(日吉神社)』拝殿。 この神社は名鉄三河線・三河八橋駅の南西約500mに鎮座。平安時代の歌人・在原業平の伝説で有名な無量寿寺西に隣接しており、無量寿寺には伝説に由来する業平竹やヒトモトススキなどが植えてあり、又、八橋かきつばた園には3万本のカキツバタが植えられているといわれ、花の時節にはさぞかし壮観だろうと思われた。このカキツバタは知立市の市花でもあり、愛知県の県花ともなっていいるのだと。参道から境内は非常に綺麗に整備され、整えられていた。拝殿前には岡崎狛犬がいたが、吽は子狛が親の前脚を両手で持ち上げている珍しい意匠。拝殿は入母屋造り、本殿は流造で建立。その他多数の境内社が合社の形で祀られていた。御祭神:大山咋尊祭礼日:5月15日により近い日曜日(5月の第2又は第3日曜日)境内社:八坂神社、八朔社、神明社、白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、 弁財天、天神社由緒:創立は慶雲元年(704)、神宮寺である無量寿寺の開祖、密園法師が寺創建に際し、守護神として境内に勧請安置されたと言われています。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕、社務所の右にある合社の左の旗立ての石の支柱に「慶應3年(1867)八橋山朴仙(無量寿寺第八世和尚の名)」とあります。明治元年(1868)神仏分離令により境内に境界を設け、町内の氏子が氏神としてお祀りしてきて、現在に至りました。代々、全住民輪番で毎夜御灯明を灯し続けていると。境内には、芭蕉の「かきつばた 我に発句のおもひ有り」の古い句碑や、荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた亀甲碑(八橋古碑)が。扁額『日吉山王社』。『拝殿』内部。流造りの『本殿』参道左に『授札所』。『境内社』の八坂神社、八朔社、神明社『境内社』白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、弁財天、天神社。その奥にY字路左側の道路によりの『脇鳥居』、その先に本殿左側の『脇末社殿』に至る。『脇鳥居』。脇鳥居から入って左側に豊川陀枳尼眞天の『稲荷連鳥居』。拝殿前に戻ると参道右に『知立市八橋史跡保存館』。そして『無量壽寺』の参道を進む。境内に入るとすぐ正面に『芭蕉句碑】 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定』が。「芭蕉句碑 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定 かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 麦穂なみよる 閏ひの里 知足 芭蕉が『野ざらし紀行』を終えた翌年の貞享二年(1685)四月に鳴海の俳人下郷知足の家を 訪れ、その時に開かれた俳席での作といわれる。 芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしのであろうか。 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とある。 三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである。」『八橋古碑 市指定文化財(建造物) 昭和40年1月指定』芭蕉句碑の傍にあり、亀の上に石碑が乗っていた。「八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れるた。この碑は、岡崎藩に仕えた儒者、秋本嵎夷その門人国分伯機・由良不淰により寛保二年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事弄王孫歌」と題され、八橋と業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀型の碑の台を亀趺(きふ)といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では「亀甲碑」と呼ばれる。」この石碑は『八橋由緒記』。全て漢文で記載されていて内容は???これは全てひらがなで『ひともとすすき』。芭蕉句碑の後にあったが、根本から刈り込まれていた。「ひともとすすき謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。八橋の一もとすゝき穂にいでて はるばる来むる人まねくらんと「三河名勝絵図」にはあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。」『卍 三河新四国 第四番・無量寿寺』『本堂』無量寿寺の創建は慶雲元年(704)、密園法師によって開かれたのが始まりと伝えられている。当初は現在の豊田市駒場町にあり真言宗と天台宗を兼学した東海山慶雲寺と称していましたが弘仁12年(821)に現在の寺号である無量寿寺改称し、延喜2年(902)に現在に移り、山号を八橋山に改称しています。その後、真言宗の学頭として寺運が隆盛しますが衰退し、文安5年(1448)に禅源大済禅師が再興、さらに宝永8年(1711)に臨済宗に改宗。文化2年(1805)、方巌売茶が中興の祖となり境内整備に努め現在の庭園もこの時期に作庭されています。寺宝が多く方巌売茶竹製笈が愛知県指定文化財に指定されている他、杜若姫供養塔、亀甲碑(八橋古碑)、芭蕉連句碑、売茶翁墨跡、売茶翁長線、業平八橋図が知立市指定文化財に指定されています。又、境内一帯が「八橋伝説地」として愛知県指定史跡に指定されています。『本堂』内部。『南無大師 遍照金剛』の文字が。「八橋山 無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が弘仁3年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。寺宝 売茶翁茶筅 県文化財 墨跡 市文化財 長線 市文化財業平八橋図 市文化財その他にも多くの宝物がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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「甲斐善光寺」を後にし、次の訪問地である「続日本百名城」に指定されている「要害山城跡」に向かって進む。綺麗に刈り込まれたカイズカイブキ(貝塚伊吹)の並木の中を進む。昔、我が家の生け垣もこのカイズカイブキ(貝塚伊吹)でしたが、幹や太い枝近くまで深く剪定すると、徒長枝が出、その葉が針葉になってしまい見栄えが悪くなってしまったのです。幼葉に返るため、この現象を「先祖返り」と言うとのこと。加齢と共に剪定作業がシンドクなったので、現在はアルミフェンスに。県道6号線の車窓から甲府の街並みを眼下に見る。「愛宕トンネル」を通過。「武田」交差点を右折し、県道31号線・「武田通り」を「武田神社」に向かって北上。正面に見えたのが「武田神社」の鳥居。ここ「武田神社」👈リンク は以前、数回訪ねた事があるので今回は訪ねなかった。このT字路を左折し、「要害山城跡」に向かって進む。こその先左手にあったのが「西曲輪南馬出・馬埋葬跡」案内板。 「西曲輪南馬出・馬埋葬跡この場所は、武田氏館(躑躅が崎館)の西曲輪南桝形虎口に伴う馬出である。馬出とは、虎ロの前に築いて人馬の出入を知られぬようにした防御施設である。地籍図では「コ」の字状地割りが確認できる。発掘調査では、四肢を折り曲げ、北枕西向に埋葬された馬骨が完全な形で出土した。戦国期の馬を伝える貴重な資料である。」「武田氏館跡曲輪配置図」。そしてその向かいにあったのが「西曲輪南側虎口」。「西曲輪南側虎口」前の外堀。そして県道31号線の坂道を更に登って行った。そして「要害山(ようがいざん)」参道入口に到着。「相川」に架かる橋を渡る。「積翠寺(せきすいじ)温泉(要害)信玄の隠し湯の一つと伝えられるこの温泉は、要害山麓の閑静な山あいにニ軒の温泉旅館で営まれています。尾根を隔てて西方の養朝沢にあるのを古湯坊、東方の要害山入口に位置するのを要害といいます。泉温は15 ~ 20度と低温ですが、緑ばんを含み、リュウマチや神経痛などに効果があるといわれています。周辺には、豊かな緑に加えて要害城跡や積翠寺など武田家をめぐる史跡もあり、森林浴や歴史散策の格好の場となっています。」そして車を降りると、左手にあったのが「史跡 要害山」碑。「史跡要害山マップ」「要害山要害城は、永正17年(1520)武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館(現在の武田社)に対して、緊急時に立てこもる詰の城として役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・整備されました。城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎ロ(ますがたこぐち)や郭(くるわ)が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀(たてぼり)や堀切(ほりきり)を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。南東尾根上には支城の熊城(くまじよう)があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪堀(うねじようたてぼり)が特徴的です。また、ふもとには根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が置かれました。要害城は、熊城とともに遺構の保存状態がきわめて良く、記録が豊富に残されているなど、戦国期の山城の様相を今日に伝える貴重な山城です。」「山梨百名山 要害山(770m)」。山頂への路には、「要害城」に関係する様々な遺跡があるようであった。2017/1/31をもって閉館した「積翠寺温泉(要害)」。「積翠寺温泉 要害」と刻まれた石碑も寂しく。「要害山」山頂を目指そうと考えていたが、山道は整備されておらず、草ぼうぼうであったためやむなく諦めたのであった。そして車に乗り込み、坂を下り次の訪問地の「積翠寺(せきすいじ)」へ。「積翠寺」入口には石灯籠とその先に参道が。ここには「山門」があったのだろうか。「武田信玄和漢連句八ノ宮良純親王墨跡・硯箱・煙草盆積翠寺は、臨済宗妙心寺派の末寺で要害城の南麗に位置し、古くは石水寺と書いた。山号は万松山、本尊は釈迦如来を安置する。寺伝では開山を行基、中興開山を夢窓国師の弟子竺峰とする。また、武田信玄の誕生した寺とも言われ、境内には産湯井戸や産湯天神がある。天文15年(1546)信玄は、後奈良天皇の勅使として甲斐におもむいた三条西大納言実澄・四辻中納言季遠と東光寺鳳栖、法泉寺湖月らを加えた十数名を当寺に迎え和漢連句を催した。この時の一巻が当寺に寄進され寺宝として現存している。和漢連句は、五・七・五の和句と呼ばれる和歌と漢句と呼ばれる五言の漢詩を続けた連歌の一種であり、当時流行した知的な遊びであった。信玄が京都文化を積極的に移入したことや、武芸とともに文芸にも関心があっただけでなく和歌や漢詩の優れた作者であったことを示す貴重な史料である。良純親王は後陽成天皇の第八皇子であるため八ノ宮とも呼ばれた。寛永20年(1643)罪を得て甲州湯村に配流され、ついで下積翠寺町興因寺に移って12年、さらに三珠町の薬王寺に5年を過ごしたのち許されて帰洛した。興因寺にいた時、積翠寺にもたびたび訪れられたことから、日常愛用された硯箱と煙草盆が当寺に伝わっている。また、消息(手紙)・和歌・色紙など親王自筆の墨跡が一括されて保存されており、親王の往時がしのばれる遺品である。」積翠寺周辺の案内地図。参道には見事な赤松の老木が剪定を終えて。正面に「寺務所」。「鐘楼」。「長寿鐘」と書かれた木札が。本堂の隣には「不動堂」があり、不動尊、武田信玄像などが祀られていて、毎年4月には不動尊祭りが行われているそうだ。「積翠寺由緒当寺は臨済宗妙心寺末にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元年(1521)、福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり。堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻二卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聠句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。」となんとか読めたのであった。「武田不動尊 信玄公像 毘沙門天 堂」石碑。信玄公像。不動明王ご真言「南莫三曼多 嚩日囉赧戦拏 摩訶路灑拏 薩破咤也吽怛羅他憾含(のうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん)」「信玄公産湯の井戸大永元年(1521年)飯田河原の合戦の時、信虎夫人(大井夫人)は戦乱を避け当寺に留りて信玄を出生したのである。その時産湯に使った井戸です。」「本堂」と「寺務所」。「本堂」。宗派は臨済宗妙心寺派で、山号は万松山。本尊は釈迦如来。扁額は「萬松山」。「本堂」の屋根には「武田菱」が輝いていた。そして駐車場?横には「産湯天神」の石祠が並んでいた。別の場所にあったものをここに移設したのであろう。「産湯天神」の石祠前から、眼下に広がる甲府市の街並みを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・.000
2020.09.15
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「野辺山駅」を後にして再び国道141号線・佐久甲州街道を北上し、「龍岡城」を目指して進む。野辺山高原サラダ街道から男山( 1,851m)が正面に。小海町(ここは標高1020m)に入る。左に曲がり進むと「松原湖」方面へ。前方右手にあったのが「佐久総合病院 小海分院」。「佐久穂町役場」入口前を通過。「高野町」交差点を右折し、県道437号線の千曲川に架かる「栄橋」を渡る。南佐久の千曲川の清流・千曲川に架かるこの橋は、全長86.6mの鉄筋コンクリートローゼ桁橋で、昭和初期に長野県に赴任した若い技術者によって設計され、竣工は1938年(昭和13年)と記録されている。美しい曲線を見せる橋の橋台にはレトロな装飾柱が立っていて、当時の人々の、橋への思いを知ることができるのだ。 2013年(平成25年)に補修工事が行われ、この橋の記念講演が開かれたといいます。 土木学会選奨の「土木遺産」 となっている。そして県道2号線・川上佐久線を北上する。正面に、「浅間山」の姿が現れた。左手には「稲荷山公園 コスモタワー」が見えた。このコスモタワーは高さ35メートルの展望台で、109段の階段を上り切ると佐久地方を一望できると。また、からくり時計の機能を備えており、決まった時間になるといつもとは違ったコスモタワーを見ることができるのだと。こちらが「コスモタワー」の全景であるとネットから。 【https://www.wikiwand.com/ja/%E8%87%BC%E7%94%B0%E7%94%BA】よりそして「龍岡城跡五稜郭」の案内表示が。「龍岡城跡五稜郭」と「日本で一番海から遠い地点」案内板が。1996年(平成8年)に茨城県つくば市の「地図と測量の科学館」で催された「なんでも相談コーナー夏休み相談会」において筑波大学の学生から「海からもっとも遠い地点はどこですか?」という質問がなされた。この問題に答えるために国土地理院によって調査が行われ、その結果長野県佐久市田口字榊山209-1(北緯36度10分35.87秒東経138度34分51.35秒座標: 北緯36度10分35.87秒 東経138度34分51.35秒、標高約1,200メートル)の地点が海から最も遠い地点として特定されたのだと。回り込み「五稜郭 であいの館」の入口門の前を通過。「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」案内柱。そして駐車場に車を駐め、「五稜郭 であいの館」の中へ入る。続日本100名城スタンプとパネル展示や資料、発掘品が展示されていた。入館は無料。ここでパンフレットや地図を頂きました。「五稜郭 龍岡城」ジオラマ。手前がこの後に場内入った表門。「松平乗謨(大給 恒 おぎゅうゆずる 1839~1910)公年譜大給松平家の第11代目。改名前は松平乗謨(まつだいら のりかた)。家督相続後、三河(いまの愛知県)にあった居所を信濃(いまの長野県)に移し、龍岡城(五稜郭)を築いた。江戸幕府では大番頭、若年寄、陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などを歴任し活躍した。明治に入って名前を大給恒と改め、新政権で活躍。メダル取調御用掛であった際には世界の勲章について研究し、後に「文化勲章以外の勲章は大給によって作られた」とまで言われた。1877年の西南戦争の際に傷病兵を敵味方分け隔てなく救済する必要性を感じ佐野常民と共に博愛社を設立し、副総裁に就任した。」大給松平氏の系譜。以下ウィキペディアより。「大給藩大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた松平真次は、大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって摂津国・河内国・丹波国などで1万石を加増され、1万6000石の大名となった。宝永元年(1704年)、第3代藩主・松平乗真の代に、近畿地方など領地1万2000石に代り、信濃国佐久郡田野口に同石高の領地が与えられた。また乗真は、大給が山間にあって交通の便も悪く手狭となったことを理由とし、正徳元年(1711年)4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。奥殿藩奥殿移転後も、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から凶作となり、そのために藩内で暴動が起こった。このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。乗利の跡を継いだ松平乗謨(のりかた)のもとで幕末期を迎える。幼少より学問を好んだ乗謨は、海陸御備向を経て、文久3年(1863年)1月に大番頭に、同年8月には若年寄に抜擢された。文久3年(1863年)、乗謨は信濃国への陣屋移転・新築許可を江戸幕府から得る。奥殿藩の領地の大部分があった信濃国佐久郡田野口への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである。幕末の国内情勢緊迫の中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される手狭な奥殿から退避する意味もあったという。なお、三河国の領民の多くはこの移転に反対して、嘆願書を差し出すなど騒動が生じている。田野口藩(龍岡藩)信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる。西洋の築城術に関心を寄せていた乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)とすることを計画、元治元年(1863年)より田野口村で築城を開始した。田野口陣屋(龍岡城)は、函館の五稜郭とともに日本に2例のみの星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが[5]、城郭としては未完成のまま明治維新を迎えたという。藩政においてはいちはやくフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った。乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行、慶応2年(1866年)に老中・陸軍総裁に任じられ、江戸幕府を支えるために奔走した。慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が蕃松院(佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。なお、乗謨は明治維新後に大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名、日本赤十字社の前身である博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した。明治17年(1884年)に子爵、明治40年(1907年)に伯爵に昇った。」世界かんがい施設遺産「五郎兵衛用水」ポスター。2018年に世界かんがい施設遺産になった「五郎兵衛用水」は、江戸初期に完成した全長約20㎞の灌漑用水。「龍岡藩主・大給恒の生涯(1839~1910)」のタイトルがあった写真入りの年表。三河奥殿藩の第7代藩主・松平乗利の長男として江戸藩邸で生まれた。幼少から聡明な人だったと。1863年大給松平氏最後の藩主である松平乗謨は、三河国奥殿藩藩の分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋の新築許可を江戸幕府から得た。松平乗謨は、江戸幕府の軍備の遅れを憂い、西洋式の火砲、築城技術を熱心に学んだ。1907年の69歳の時、伯爵に叙され、1910年、旭日桐花大綬章を贈られているのだと。「五稜郭ゆかりのまち 函館市」と「ゆかりのまち 岡崎市」「岡崎市との結びつき三河藩主松平乗謨(のちの大給恒)が、元治元年(1864年)田野口に龍岡城を築城した縁により、昭和5 8年7月「ゆかりのまち」として臼田町と協定を結び、以後物産でも交流を深めています。」和凧「臼田町 五稜郭と松平乗謨」。「臼田町」とあるのは、現在、龍岡城址がある「佐久市田口」は、市町村合以前は「臼田町田口」だったからであろう。「信州 佐久日本に二つしかない 龍岡城五稜郭」桜のポスター。「龍岡城五稜郭 表門」と「五稜郭御殿平面図」。「大手御門弐拾分壱正面之図」。当時そして現在の「龍岡城 五稜郭 」の写真と図面。「龍岡城五稜郭俯瞰図」。龍岡城五稜郭は周辺を治めていた田野口藩の藩主・松平乗謨(のりかた)が1867年(慶応3年)に築造。西洋技術を用いた星形城郭の「五稜郭」と称されるのは函館と共通する一方、面積は4分の1程度にとどまり、戦乱の舞台ともならなかったため知名度もいまひとつ劣るのだが。明治時代の「歴代賞勲局正副総裁(長官)一覧」賞勲局(しょうくんきょく)は、内閣府の内部部局のひとつ。勲章・褒章など栄典に関する事務を所管する。大給恒は伊藤博文、西園寺公望他の下で副総裁を勤めていたと。「自ら図案を創る大給恒は世界各国の勲章制度を研究、その結果「日本の勲章はあくまで日本古来の伝統をもとにしなけれはならない」とし、外国の勲章にはない独特の図案の考案に自ら筆をとり苦心を重ねた。」当時の写真。和凧「星の町臼田 五稜郭と松平乗謨」紅葉時のドローン写真。右手に「龍岡城(五稜郭)竣工図」続日本百名城の「龍岡城 認定証」。「田口村村役場鬼瓦」のタイトルがあった古い鬼瓦の展示品。かつての「田口村村役場」の正面玄関にあった鬼瓦と紹介されていた。龍岡城五稜郭の瓦五稜郭の御台所の瓦。大給松平家の蔦の紋が入っている。続日本百名城「129 龍岡城」のスタンプを頂きました。「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」の内部見学を終え、外に出て振り返る。こちらが「五稜郭 龍岡城」表門入口。右手に「大給恒(おぎゅうゆずる)」の胸像が。近づいて。佐野常民と共に日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献した。佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、大給恒は「日赤の母」と呼ばれていると。「本城は文久三年旧龍岡藩主松平乗謨(後名伯爵大給恒)其の居城として九月工を起し慶応二年十二月竣工、我国に於ける欧式築城中五稜型の典型である。 明治四年廃藩とともに廃城となり建造物は撤去せられ其の一部が小学校舎として使用されている。塁壕に破壊せられたる所あるを以って修理を加え其の旧規を存す。注意一、塁壕を破損せざること。一、工作物、樹木等を損傷せざること。一、其の現状を変更せざること。」「史跡 龍岡城址」石碑と前方に「大手門橋」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.05
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「五稜郭」近くで昼食を楽しんだ後は、車で北上し「四稜郭(しりょうかく)跡」を訪ねた。「四稜郭」は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。「史跡四稜郭の保存について旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結しを後、四稜郭はななり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和九年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはしめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和四十四年度から四十七年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成十ニ年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。この貴重な国民的財産てある史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。一、土塁等に登らないこと一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと一、火気を使用しないこと一、ゴミは捨てないで特ち帰ること「大島圭介」掲示塔。「大島圭介 1832~19111832 (天保3 )年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。1858 (安政5 )年に尼崎藩に出仕、その後1859 (安政6 )年に蕃書調所へ出仕した。1861 (文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。1865 (元治2 )年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867 (慶応3 )年に伝習隊創設に参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。1868 (明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。東京で投獄、1872(明治5 )年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧間官などを歴任した。1911(明治4 4 )年に78歳で没した。「大鳥圭介訳「築城典刑」四稜郭は、蝶が羽を広げたような四稜の突角を有する形からその名が付けられたもので、西洋式築城法に基づく砲台の形状からみて、設計者は蘭学に通じた大鳥圭介とする見方が多い。しかしながら、大鳥圭介訳本の「築城典刑」の中には、四稜郭に類似した洋式台場の絵図は見られるものの、具体的なものは含まれてはいない。大鳥圭介が蘭学書をもとに四稜郭を設計した可能性は低いと推定される。「ジュール・ブリュネ 1838~19111838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に幕府の要請で、フランス軍事爾問団の副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練を指導した。その後、1868(明治元)年10月に、カズヌーブ、マルラン、フォルタン、フッフィエなどのフランス人下士官と共に旧幕府軍に加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では。海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。1869(明治2)年、旧幕府軍が敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、フランスに帰還した。帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、1911年に73歳で没した。」「フランス軍事顧問団と旧幕府脱走軍士官」前列左からニ人目がJ.ブリュネ、同三人目は蝦夷地仮政権副総裁松平太郎。後列に左からカズメープ、マルラン、一人おいてフィルタンらのフランス軍人が旧幕府説走軍の士官とともに写る。「フランス・ベルフォールの城塞」ジュール・ブリュネの出身地フランス・ベルフォールは「美しい要塞」の地のとおり、典型的な洋式要塞が存在する州であり、築城学を学ぶ最適な環境を持ち合わせていた。また、大島圭介はブリュネに対して「年命は若いが度量学築城学に長ぜり」と高く評価をしていることからみて、ブリュネが七重峠下台場と四稜郭についての設計、築造指導を行っていた可能性が高いと推定される。」「旧幕府軍、神山東照宮北側に四稜郭を急造1869 (明治2 )年、新政府軍による攻撃へ対応するため、旧幕府軍は五稜郭の土塁強化を始めとして重要守備拠点となる各地に台場(砲台)の設置を進めた。主戦場となる函館近郊を一望でき、同時に五稜郭および鎮守府である東照宮を防御する目的で、神山東照宮の北側1kmの丘陵上に洋式築城法による砲台が急造された。同年4月下旬から脱走軍兵士200名と付近の住民約100名を動員し、昼夜兼行の工事により短期間で築造したとされる。陸軍奉行大鳥圭介の『南柯紀行』に「神山の小堡築造未だ成功せざれども」「神山の砲台」などと記されている。同年6月初旬(旧5月)、新政府軍の攻撃に備えて、松岡四郎次郎隊が完成前の四稜郭の守備に配置された。6月20日(旧5月11日)の新政府軍総攻撃に守備隊は奮戦したが、多数の死傷者を生じたため撤退を決定し、五稜郭へと後退して四稜郭は僅か半日ほどで陥落した。」「箱館戦争図幅(四稜郭・東照宮の図)岡山藩士で箱館戦争に従車した兵士、水原久雄によって描かれた四稜郭・東照宮(権現台場)の図で、新政府軍箱館総攻撃時に岡山藩士は福山藩士とともに四稜郭での戦闘に従事していたとされる。」「四稜郭」の土塁内部を東側から見る。規模は東西約100m、南北約70m、周りには幅5.4m、高さ3mの土塁が巡らされ、土塁の周辺には幅2.7mの、深さ0.9mの空濠が掘られていた。別の角度から「稜突出部」。人の気配はなく我々のみか。南西にある入口右にあった「史跡 四稜郭」碑。南西にあるここが「四稜郭」入口。前方に堀、土塁が。「史跡 四稜郭」案内板。「史跡 四稜郭昭和九年一月ニ十ニ日史跡指定明治ニ年(一ハ六九)春、五稜郭にたてこもる旧募府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩斜面台地にも洋式の台場を急造した。これが四稜郭である。四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空濠をめぐらし、郭内(面積約ニ三○○平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約ニ〇〇名と付近の村民(赤川・神山・鍛治村)約一〇〇名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。明治ニ年五月十一日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱定軍は四稜郭の防御に勤めたが、新政府軍には福山藩兵も加わりさらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。五月十ハ日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。」そしてこの日の最後に「立待岬」に向かう。箱館市電「宝来・谷地頭線」。「ロマンス坂」を下って来た。ここが路面電車の終点「谷地頭駅」。谷地頭温泉から宝来町に繋がる坂道を「ロマンス坂」と言う。世界的にも珍しい坂で940mの長い坂道が左や左に曲がりながら続くのだ。ここには路面電車が通っており、「ロマンス坂」の下り坂は電車の運転手も緊張するのだと。「立待岬」への下り坂に入る。前方に津軽海峡が姿を現す。駐車場に車を駐め散策開始。残念ながら日没は函館山の断崖に隠れて。時間は16:28。この日の日没時間は16:48なので函館山の影に夕日が隠れているのであった。函館山の断崖の黒と夕焼けのオレンジとコラボ。その先には「松前半島」の姿が。この日に周遊した「亀田半島」を見る。津軽海峡の先には下北半島の姿が。「立待岬」👈リンク 碑。「森昌子」の名の刻まれた石碑は見当たらなかったが・・・。「立待岬」案内板。「立待岬この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第ニ次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。 函館市」「函館山散策コース案内図」。「箱館海峡ライオンズクラブ創立30周年記念」&「箱館海峡LC・藤沢湘南LC姉妹提携記念」石碑石碑の正面には「かつて「はまなす」が群生した立待岬は、厳しい気候風土にさらされ、枯れ果ててしまいました。私達は、1985年から植栽を続けいつしか「はまなす公園」と親しまれるようになりました。函館海峡ライオンズクラブは、結成30周年を記念して、スポンサークラブや姉妹友好クラブと共に「はまなすの咲く岬」を完成し再現することができました。この地を訪れる人々に、憩い楽しんで頂ければ望外の喜びであります。」と。「ライオンズ「はまなす」公園」碑と東屋。夕日に染められた「五稜郭タワー」を見る。手前にはNTT函館千歳ビルの通信用鉄塔。「与謝野 寛・晶子の歌碑」。「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 寛」「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 晶子」「此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊した時の詠草の中から選んだもので、歌の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木石川一、図書裡岡田健蔵である。昭和三十二年八月十五日建立計画 図書裡会賛助 棒二森屋」「与謝野寛・晶子の歌碑昭和31年( 1956年)、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年( 1957年)同会は棒ニ森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年( 1931年)に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。」ここにも歌碑が。函館市出身の書家・中村朝山の句碑「海峡や 波音ちかく 朧月」。歌碑の裏側。俳誌「蝦夷野」主宰した中村舟路の歌碑であるようだ。「芭蕉道統系譜 立机免許師範 海睴庵 中村舟路」の文字が。もう一つの歌碑は「烏賊つりの 父の灯見分け 子の立てり 竹堂」と。「赤壁」「さいかち」「葦牙」「河」の同人、七飯町出身の俳人庭田竹堂の句碑であると。津軽海峡をはさんで下北・津軽半島を彼方に望む。夜はイカつりの漁火を間近に眺められるロマンティックな場所でもあるという。「立待岬」の岩場には釣り人の姿が。道路を面して反対側に「消防碑」。「殉職者」の文字も。「函館山」山頂の鉄塔群とロープウェイ駅。遠く「北海道駒ヶ岳」も見えた。なにかと啄木の面倒をみた義弟の歌人宮崎郁雨の一族の墓もあった。「宮崎郁雨と影ニの歌碑宮崎郁雨の歌碑宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年( 1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年( 1906年)に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年( 1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年( 1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年( 1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年( 1968年)に函館図書裡会が健立した。砂山影ニの歌碑砂山影ニ(本名、中野寅雄)は、大正7年( 1918年)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影ニは、大正10年( 1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年( 1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。」「蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ 酒はひとりし 飲むものならず」。「蹣跚」とは「足もとがよろめくさま」。砂山影ニの歌碑「わがいのち 海峡の浪の間に 消ゆる日を 想ふ~~岬に立ちて」「石川啄木一族の墓道路沿いでは最も高い位置に石川啄木の奥様と家族のお墓が。東京で亡くなった啄木の遺骨は、奥様の希望で、ここ函館に埋葬され、のちに啄木を慕う人々により、市街と海を望む場所に、一家のお墓が建てられたのだと。啄木の死後、妻の実家があったこの地に改葬されたのだと。「石川啄木一族の墓明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月後の後を追うかのようにこの世を去った。大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。」「啄木一族墓」「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」啄木の最初の歌集『一握の砂』の冒頭に収録された一首。 青森県の大間町大間崎にある石川啄木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されているのだと。大間は函館の対岸だが、啄木一族の墓碑がここにあることから、こちらにもあるのだろう。眼下に住吉町の海岸そして住吉漁港を望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.12.17
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そして、この日の主目的である埼玉県の「続日本100名城」の一つ「杉山城跡」の駐車場に到着し散策開始。埼玉県比企郡嵐山町杉山605。「杉山城跡 大手口案内」。市野川左岸の山の上に築かれた山城である。築城主は不明。地元豪族の金子主水の築城によるとの伝承はあるが、文献資料にはあらわれない。従来、縄張りが極めて緻密で巧妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきた。この縄張りを主とする城郭史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題」と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化している。2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(119番)に選定された。「杉山城跡保存会」の幟。「杉山城跡 大手口」に向けて坂道を上って行った。「杉山城跡」案内板。この先道路の左側には「嵐山町立玉ノ岡中学校」があった。そして右側の高台には「杉山城」の遺構が姿を現した。ここを右手に。案内に従い進む。そして大きな「大手口」前の広場に到着。「杉山城跡」案内板が前方に。「国指定史跡 比企城館跡群杉山城跡 --戦国期山城の最高傑作--杉山城の概要杉山城跡は鎌倉街道を見下ろす丘陵上につくられています。傾斜が急な切岸(きりぎし)、各郭(くるわ)にめぐらされた横堀(よこぼり)と屏風(びようぶ)のように連続する折れ、さまざまな形態の虎ロ(こぐち)などが複雑に組み合わされていて、高度な築城技術の粋を集めたこの城は、実戦のための城としての風格をもち、戦国期山城の最高傑作と高い評価を得ています。城郭研究者やお城好き、歴史ファンの方々が県外からも訪れる隠れた観光スポットです。これまで築城年代や築城者が不明でしたが、国指定文化財にむけた発掘調査で出土した土器などから1 5世紀末から1 6世紀はじめ頃であることがわかり、さらに"杉山の陣"についての古河公方・足利高基の古文書も発見され、関東中が戦乱となった長享・永正の乱において関東管領・山内上杉憲房が扇谷上杉氏に対抗するために築城したということがわかってきました。未だ、城郭の発掘調査が完了していないため、現在、保存整備計画も同時に計画中です。新たな発見、整備にご期待ください。国指定史跡 比企城館跡群杉山城跡 指定 平成20年3月28日 時代 戦国時代( 1520年代ころ) 築城者 上杉憲房(関東管領山内上杉氏) 嵐山町大字中窪513ほか」「杉山城跡 縄張図」。「出郭(でぐるわ)大手の前に配置された郭をいい、北側には低い上塁が見られます。一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板の部分には発掘調査によって溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に進入できないような工夫がされています。」昭和30年代に描かれた「杉山城址図」。平成に描かれた「杉山城址図」。そして、「比企城館跡群 杉山城跡」、パンフレットを頂く。「大手(出郭)」に向かって進む。「大手(出郭)」案内。ここにも「杉山城跡この城跡は、戦国時代の城と推定される典型的な山城です。総面積は、約八へクタールに及び、山の高低差を巧みに利用して十あまりの郭を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内で屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出」や「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢がかり」の多用はその典型とされるものです。また、城の立地についても、北方に越畑城・高見城と連絡し、西方全体に鉱倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して、杉山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要狹点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水(もんど)の居城と伝えています。この城跡は、すべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき、利用、見学をしていただくようお願いいたします。」「現在位置」。「大手口」に向かって上って行く。「大手口大手口は、左側へ細い通路を登ると外郭に入れますが、正面には高い土塁が立ちはだかっており、左側は深い空堀がL字形にめぐって左方からの横矢掛かりが仕掛けられています。また、防御だけでなく城内から反撃に転じることも想定して、右側にあるニ重の土塁奥の空堀道と、その右方にある馬出しに伏兵をひそませておくことができるようになっています。」現在地。「大手口横矢掛かり イメージイラスト図横矢掛かりとは?虎ロや土塁に近づく敵を横から弓矢で射るために設けられた工夫で、郭の塁線を突出させることで死角を無くすことができます。」左側は深いL字形の空堀。その奥下に「積善寺」の墓地が見えた。前方に「外郭 馬出郭口」が見えて来た。「外郭 馬出郭口外郭から南三の郭へ向かうには、馬出郭と呼ばれる小さな平場を通りますが、こには空堀がありますので、本来は木橋を架けて渡らなければなりません。この木橋は、敵の侵入に際しては、すぐに切り落とせるような簡易なものだったはずです。この橋にも斜め上の南三の郭側からの強力な横矢が仕掛けられています。」「堀に架かる木橋のイメージ 左は馬出郭」右手上に木橋があったのだ。「馬出郭」「馬出郭馬出郭は、南三の郭と大手の間に位置する、堀で囲まれた小さな空間です。南三の郭南虎口に向かい登っていくと左側の土塁が張り出しており、横矢掛かりが設置され、防御の工夫を見ることができます。」「馬出とは?虎ロ(門)前方に配置され堀で区画された小さな郭をいいます。攻撃の際には一気に攻めだすために兵を招集したり、守りの際には敵の攻撃から虎口を守るために兵の出入りを援護したりできるように造られた場所です。」更に坂道を上って行く。「南三の郭」。「南三⇒南ニへの食い違い虎口」。「食い違い虎口南三の郭と南ニの郭の間の虎ロは、左右の土塁が平行にずれている虎ロ(食い違い虎ロと言います)になっています。これも横矢掛りの変形で、敵の直線的な侵入を妨げ、ニの郭内部を見えにくくする工夫です。」「食い違い虎ロ敵が侵入する際に直線で進入できないよう土塁を平行にずらして防御し、方向転換させ行動を制限させるように工夫している虎口をいいます。杉山城跡では、ここ1箇所だけに見られる虎ロです。」そし「南ニの郭」の前方の丘に「本郭」が姿を現した。ここが「南ニの郭」。左手が「井戸郭」方面への堀。堀を歩きながら「本郭」方面に廻り込んで行った。左側の丘の上が「本郭」。歩いて来た「大手口」方面を振り返る。「東ニの郭」方向を見る。そして「本郭」に辿り着く。「本郭」。「本郭」の正面方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.31
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【海老名市歴史散歩】 目次「浄光寺」を後にして、再び産業道路に出て「運動公園入口」交差点を渡る。交差点の角にニ社が鎮座していた。左手前は「稲荷社」で右奥が「山王社」。海老名市中新田5丁目20−7。「稲荷社」。内陣には石祠と狐様の姿が。そして「山王社」。内陣。産業道路の歩道脇にあった「道祖神」。そして次の目的地の「東林寺」に向かって海老名市今里3丁目の住宅街を東に進む。道路脇にあった比較的新しい石仏。県道43号線に合流した角にあった「道祖神」碑。「昭和四十六年四月吉日 道祖神 今里下講中」と。「今里」交差点を通過し「東光寺」に向かって更に北に進む。県道43号線・藤沢厚木線を北上して行くと「禅宗 東林寺」と書かれた案内板が。左手に入ると「東林寺」の本堂が見えた。「郷土かるた 「か」」「唐金の 如来静かに 東林寺」。「海老名市指定重要文化財 大日如来坐像東林寺は、臨済宗鎌倉円覚寺末寺で、鎌倉扇ケ谷にありましたが、天正十三年(一五八五)、禅師の芳菊により、当地に移転再建されたと伝えられています。本尊の大日如来は、密教の最高位の仏で、宇宙そのものをあらわし、諸仏の王とされています。仏像は、高さ四六・五センチの銅造、中は空洞で、冥想に人って思惟(心で深く考える)する法界定印を結んだ像となっています。像容は、鎌倉時代の特徴を伝えますが、天文四年(一五三五)の銘文があることから、室町時代に製作されたと考えられます。」二つの御堂があった。この御堂の名は?「内陣」。こちらは地蔵堂か。地蔵尊が2体。歴史を感じさせる石碑が並ぶ。「手水舎」。「冥加」とは気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵。また、思いがけない幸せの事 と。「本堂」。臨済宗円覚寺派寺院の東林寺は、明徳山と号す。東林寺の創建年代等は不詳ながら、芳菊禅師(元和5年1619年寂)が天正13年(1585)鎌倉扇ヶ谷から当地へ移転して開山、慶安2年(1649)には寺領7石2斗の御朱印状を受領したといいます。本尊:大日如来像海老名市今里3-10。扁額「明徳山」。「東林寺」を後にして県道43号線・藤沢厚木線を更に北に進む。神奈中「神社前」バス停の先に石鳥居が見えて来た。「今里正八幡宮」の石鳥居。「拝殿」は屋根の塗替え工事中であった。海老名市今里1-3「鐘楼」には鐘の姿はなかった。神楽殿。「今里正八幡宮」の創建年代等は不詳ながら、相州高座郡渋谷庄の長山本六之蒸吉家が、延宝9年(1681)に金幣を献上、今里村の鎮守社だったと。「正八幡宮由緒所在地 海老名市今里一七四番地祭神 應仁天皇(誉田別命(ほんだわけのみこと)) (仲哀天皇の第三子、母は神功皇后)」由緒 古は渋谷庄長山本六之蒸吉家の守護神であったが延宝九年(一六八一)相州 高座郡渋谷在今里村の総鎮守となる。宝物 金幣 延宝九年山本六之蒸吉家 献上 大正十四年八月改築大祭 四月二十日」七福神の大黒天と恵比寿天が拝殿横に。「境内社」は「稲荷社」であろうか。内陣。「正八幡宮」を後にして、東に向かって進む。左手遠くに「海老名プライムタワー」が見えたのでズームで。海老名市今里1丁目6近くにある「大谷南側」交差点を横断して進む。そして次のT字路を右折して「地蔵尊」を訪ねたが・・・。地図の表示場所には石だけが転がっていたが「地蔵尊」の姿は見つからなかった。そして引き返して、T字路の信号を右折した。前回の散策時にも、ここまで下って来た「清水坂」を再び上る。かなり急坂であったが前方に案内柱が。「清水坂この坂は,かつての坂の上りぐちの左手から清水が湧き出て、一坪(3.3平方メートル)ほどの泉が清冽な水を湛えていたのが、坂の名の由来といわれています。」その奥に石碑群が。「角柱型道祖神」。側面には「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建之 大谷杉久保講中」と。隣には「山状角柱型 道祖神」。側面には「大正九年(1920)十一月建設」と。その横には「舟形光背型 双体道祖神像」が辛うじて。モルタルで補強されたのであろうか。右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」と。更にその先にも「庚申塔」が。唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛像 邪鬼(?) 三猿。「清水坂」案内柱と「双体道祖神」と「青面金剛像」を見る。「清水坂」を上って行った。そして「清水坂」を上りきる。この道は県道407号線・杉久保座間線。更にこの道を進んで行くと、正面に東名高速道路が現れ、そのコンクリート壁には杉久保小学校のみなさんの絵が!!東名高速の下を潜って行った。このトンネルも県道407号線の一部。そしてトンネルを潜り終えると、右手に前回訪ねた「不動明王」が。更に進み「釜坂川(かまさかがわ)」に架かる橋を渡った。「釜坂川」。橋の名は「釜坂橋」。更に進み「リエイトS・D 海老名杉久保店」を左に見ながら坂を上って行くと路地の角にあった石碑群。墓地であろうか。「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑が並ぶ。海老名市杉久保北2丁目16−25近く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.11.24
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「婚約数(betrothed numbers)」とは、「異なる 2 つの自然数の組で、1 と自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数」のことをいう。「友愛数」では、約数に「1」を含めたが、「婚約数」は「1」を含めないで上のような関係が成り立つ組み合わせ。「準友愛数(quasi-amicable numbers)」とも呼ばれる。昔の数学の世界においては、偶数が女性を奇数が男性を表すものと考えられていた。これによると、偶数同士又は奇数同士からなる友愛数は、まさに同性同士の関係によるものなので、「友愛」という用語が用いられた。一方で、偶数と奇数からなる婚約数は、まさに異性同士の関係である。ただし、友愛数のように「自分自身を除いた約数の和が他方に等しい」というわけではなく、「1」も除かれていることから、「結婚」ではなく、その前の段階ということで、「婚約」という名称が用いられた。一番小さな婚約数は「48と75」で、以下の通りに確認できる。48の(1と自分自身以外の)約数 : 2, 3,4, 6,8, 12, 16, 24 その和は7575の(1と自分自身以外の)約数 : 3, 5, 15, 25 その和は48婚約数も多数存在しているが、小さいほうから10組ほど挙げると以下の通りになっている。(48、75)、(140、195)、(1050、1925)、(1575、1648)、(2024、2295)、(5775、6128)(8892、16587)、(9504、20735)、(62744、75495)、(186615、206504)・・・これらの例は、全て偶数と奇数の組み合わせによるものである。定義異なる2つの自然数 n, m の組が婚約数であるとはσ1(n) = σ1(m) = n + m + 1 となることである。ここで、σ1(n) 、σ1(m) は約数関数である と難しい!!。婚約数の未解決問題婚約数についても、未解決問題が存在する、それは、・「婚約数は無数に存在するのか、有限なのか」、・「偶数同士又は奇数同士の婚約数の組は存在するのか」という問題である。
2022.09.01
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