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次に訪ねたのが「山のホテル」👈️リンク。駐車場に車を駐める。目的はホテル周辺の庭園に咲くシャクナゲの花とツツジの花。 駐車場傍の濃いピンクの「シャクナゲ」の花が満開で迎えてくれた。 近づいて。「庭園」に向かって進む。新緑の木々の先には芦ノ湖が垣間見えた。ホテル前の「庭園」のツツジの花を見たかったが、未だ10日以上?早かった。 「庭園」内の散策路を歩く。実際には7本ありますが、 岩﨑男爵の別邸時代から 「三本杉」と呼ばれています。見る角度によって大きな3本の杉に見えるのでしょうか ・・・。「庭園散策マップ」をネットから。 この光景を見たかったが。(写真はネットから)。本日、2026年5月3日(日)の開花状況です。(山のホテルHPより)ネットから。これも本日の光景と。咲き始めている株もあったが。「安藤楢六翁之像」。 「碑文 当社の前身小田原急行鉄道は昭和二年に開業、その後、一時期戦時統合製作により西南各私鉄とともに東京急行電鉄を形成するに至ったが、二十三年六月分離独立し、新たに小田急電鉄として発足した。戦後の荒廃と混迷のなお続く同年十二月、新生小田急の初代社長に就任した安藤楢六翁は、労使一体を経営の根本理念に掲げ、疲弊した鉄道を復興した沿線地域社会の便益向上に腐心されたが、当時の時代環境を考えるとその苦心は筆舌に尽くせぬものがあったと推察できる。爾来、翁は五十九年一月逝去されるまで三十五年余に亘り代表取り締役として社運の興隆を導かれたが、中でも箱根湯本乗り入れに始まる一連の施策により、箱根の一貫輸送ルートを確立して経営基盤を強化し、また第二の操業と目された新宿西口の総合開発を完成して事業多角化の基礎を固め今日の布石としたのは、小田急中興の祖と仰がれる翁ならではの経論であったといえる。現在の社業の伸長と沿線の発展を見るとき往時を顧みて無量の感慨を覚えるが、翁の偉業を更に大きく実らせて次代に引き継ぐのが我々小田急グループ全社員の責務であろう。 ここに故翁の遺徳を偲ぶと共に将来へ向けて一層の飛躍を期する記念として建立するものである。 平成二年九月十四日 小田急電鉄株式会社 取締役社長 利光達三 撰 製作 日本芸術会員 北村治禧」 「見南山荘(けんなんさんそう)の石碑」 「見南山荘」とは、大漢和辞典の編纂者 で、漢学者の諸橋轍次氏につけても らった別邸の名前。碑には1938年、諸橋氏が別邸に赴いて 講義をしたときの模様が詠まれ、芦ノ湖の景観の素晴らしさなどが記されている と。しかし全て漢字の文字のみで。「庭園」越しの「芦ノ湖」を振り返って。 「「山のホテル」のシャクナゲ園」案内板。 男爵が日本で初めて輸入し、ホテルが守り続けた貴重なシャクナゲ」 「シャクナゲ園の歴史この地は、岩﨑小彌太男爵の別邸でした。1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太夫妻がこの地に別荘を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。なかでも、当シャクナゲ園の「ゴーマー・ウォータラー」は、日本で最初に輸入された「西洋シャクナゲ」と文献に記されていて、歴史的な価値が非常に高いシャクナゲです。シャクナゲ園には、現在、他では親培されていない貴重な古品種や日本原産のシャクナゲなどが植えられています。そして、その大半は、男爵別邸時代に植えられ、現在大株になっています。希少品種を多く含んた、約40品種300株1948年(昭和23年)、この地に「山のホテル」がオープンしてからは、ホテルがこの庭園を大切に守り続けてきました。2015年からはツツジ・シャクナゲの維持・再生を目的とした、「山のホテル庭園プロジェクト」がスタートし、品種調査や接ぎ木による希少品種の再生・育成などに取り組んでいます。その結果、2021年現在、約40品種300株のシャクナゲの存在が判明しました。明治時代の品種を含むツツジとシャクナゲ、この貴重な「園芸文化」を、山のホテルは訪れるお客様へのおもてなしとして後世に受け継いていきたいと考えています。」 ■海外のシャクナゲ西洋シャクナゲ(園芸品種)1800年代後半、欧米で人気を博したシャクナゲは次々と交配され、数多くの西洋シャクナゲが生まれました。これを1910年頃(明治時代末期)に日本で初めて輸入したのが、岩﨑彌之助男爵、小彌太男爵父子です。昭和初期に日本でも人気が高くなり、日本名がつけられましたが、それらは、現在はほとんど栽培されていません。当シャクナゲ園には、ゴーマー・ウォータラー(大華殿)など、現在では栽培が少なくなった古品種が多数植えられています。野生種もともとはアジアに原産が多いシャクナゲは欧米に渡り観賞花木として好まれました。ポンティクムは、岩﨑彌之助男爵の霊廟前にも日本への導入初期に2本が植えられ、当シャクナゲ園にも存在します。また、当園に30株以上ある、中国原産のフォーチュネイは、かつてはシャクナゲの接木繁殖の台木としても使用された、香りの良いシャクナゲてす。■日本のシャクナゲ野生種日本にも古くからシャクナゲが自生していました。当園に約50株ある大株のキョウマルシャクナゲは、環境省の絶減危惧種に選定されています。また、伊豆半島固有のシャクナゲ、アマギシャクナゲなど貴重な地域のシャクナゲが植えられているのも特徴です。■カルミアカルミアは、ツツジ科の植物てすが、シャクナゲではありません。当園には、カルミア・ラティフォリアが50株近く育っています。1915年(大正4年)に日本に導入され、アメリカシャクナゲの名で販売されていた歴史があり、当園でも別邸時代に植えられたと思われます。このような大株が多数保存されているのは全国的にも珍しいことです。「カルミア・ラティフォリア」。 「カルミアカルミアは、ツツジ科の植物ですが、シャクナゲではありません。当園には、カルミア・ラティフォリアが50株近く育っています。1915年(大正4年)に日本に導入され、アメリカシャクナゲの名で販売されていた歴史があり、当園でも別邸時代に植えられたと思われます。このような大株が多数保存されているのは全国的にも珍しいことです。」 階段を上って行く。「キョウマルシャクナゲ」であっただろうか!? 「ヒカゲツツジ / ひかげつつじ / 日陰躑躅」であっただろうか? ヒカゲツツジの開花は4~5月。花は直径3~5センチほどで淡い黄色を帯び、独特の雰囲気を持つ。日陰では蛍光色のようにも見え、自生地では水辺の景を照らすことから「サワテラシ」との別名を持つ。花冠は五つに裂け、雄しべは10本あり、花糸には柔らかな毛が密生する。花が控え目であることや、黄色系統のツツジが珍しいことから、和風庭園に重用され、鉢植えとして栽培されることもある。山間の水辺を再現したような庭で石組みの近くに植えたり、日照条件の悪い大木の足元に植えたりと使い勝手が良いとされるが、長期にわたって栽培するのは難しい と。濃いピンクのシャクナゲ。「ノバ・ゼンフラ花は暗紅赤色の大輪、濃色のブロッチが逆三角形に入る。戦前から戦後にかけての赤色の代表品種で、耐寒性が強い。現在は生産されていない希少な品種。オランダで1902年に作出された。」 「ノバ・ゼンフラ」。 近づいて。こちらも「キョウマルシャクナゲ」か。 「ミツバツツジ」。 箱根・芦ノ湖畔の「小田急 山のホテル」は、三菱の創業者岩崎彌太郎の甥、岩崎小彌太男爵の別邸跡地(1911年建築)に1948年オープンしたクラシックリゾートです。現在は赤い三角屋根が特徴のモダンな建物で、2015年にリニューアルされた全客室が、ツツジやシャクナゲで有名な庭園や芦ノ湖に面しています。ズームして。このピンクのツツジは開花直前。ツツジ庭園の植栽もダルマの如き刈り込みに。この周辺の桜はエピローグへと。「ヤマザクラ」も多くの葉が出て。 「山のホテルでは、庭園を守る活動を年間通じて行っています。歴史ある庭園です1911年(明治44年)三菱4代目社長岩崎小彌太男爵がこの地に別邸を建てました。男爵の別邸時代から変わることなく咲きるツツジとシャクナゲ。珍しい古品種を含む美しい庭園を後世に残すために、ホテルでは専任の5人のスタッフを中心に、年間を通して樹木の世話をしています。お客様の笑顔が励みですグリーンアドバイザー 大橋明雄この庭園は、後世に継承すべき宝です。ツツジやシャクナゲが咲く2週問程のお客さまの笑顔を励みに、1年かけて美しい庭園を維持していくことが使命と感じています。ツツジ園の年間手入れ■来年の美しい姿をつくる刈込み6月には刈り込みが行われます。男爵別邸時代から続く美しい玉仕立ての樹形を作る大切な作業です。刈り込んた部分から枝分かれして花芽がつくため、たくさんの花を咲かせるためにも刈り込む深さに長年こだわったり、重要な作業なのです。来年の花芽がつく直前、2 ~ 3日で庭園内の株すべてを一気に行います。■咲き終えた株に、お礼肥で栄養補給次の年も美しく咲いてもらうために、開花後、栄養を使い切ったツツジの根元に肥料を与えます。美しい花を咲かせてくれたツツジへ、お礼の気持ちを込めた「お礼肥」は、社員総出で行います。ー株ー株、株の周りに20 ~ 30カ所の穴を掘り、丁寧に施した追肥は、次の花芽を育てる栄養分となります。■年間を通して行われる剪定作業また、根元の剪定は1年をとおして、こまめに行います。枝が込み合っていると風通しが悪くなり、苔やカビがつくなどして、木が弱ってしまうのです。ー枝ー枝見極めて丈夫な株を作ります。大きな株になると2人で1日かかるほど。庭園内すべての株を剪定するには2 ~ 3年かかり、終わるとまた、元に戻って一巡します。■落葉清掃や雪下ろし株を虫や病気から守るために殺虫・消毒作業や除草も欠かせません。秋は落ち葉の除去、冬は雪からの保護が大事な作業になります。積もるような雪が降るときは、何度も降っている最中の雪下ろし。熊手のようなスタッフ手製の道具で行います。積もったままにしておくと、雪の重みで枝が折れてしまうのです。シャクナゲ園の年間手入れ■花が咲き終わったら花柄摘み花が咲き終わった6月中旬に、次の芽吹きが良くなるように、枝に残っている花柄を高い脚立に乗って、ひとつひとつ手で摘み取ります。■ありがとうのお礼肥ツツジ同様、咲き終わった株元に、お礼の気持ちをこめて肥料を与えて栄養補給をします。もちろん、年間数回の消毒も大切な作業です。■冬を迎える前に防風ネット樹齢100年を超える老木が多いので、冬の強風で枝が折れないように暖かくなる春まで、老木の周りを防風ネットで囲います。■独自の道具で雪下ろし雪が積もったときは、スタッフ手製の道具で枝をゆすって、雪下ろしをします。枝を傷つけないようにゴムホースをつけてあります。」 歴史ある庭園のツツジ。これは「ソメイヨシノ」か? ズームして。「山のホテル」のツツジ園約70品種3000株のツツジ1911年(明治44年)三菱4代目社長岩﨑小彌太男爵がこの地に別邸を建て、ツツジとシャクナゲの庭園を造りました。1948年(昭和23年)、「山のホテル」が開業してからは、この庭園を大切に守り、受け継いできました。しかし、長い間に品種名がわからなくなったものも多く、2016年から5年にわたる調査の結果、2021年現在、約70品種3000株が存在することが判明しました。また不明なものも多く、今後も品種数は増えそうです。様々なツツジの花が写真入りで紹介されていた。 ☆希少品種瀟酒なチャペルの前にはローズガーデンがあった。チャペルのすぐ前のホテルの敷地内にあるローズガーデン。石貼りのバージンロードの先に佇むガゼボを囲むのは、色とりどりに咲き誇るたくさんのバラ。広い空と芦ノ湖の爽やかな空気に包まれ、小鳥のさえずりや、緑の木々がふたりを祝福するセレモニーは、リゾートウエディングならではの開放感 と。中世ヨーロッパの古城の片隅に佇む小さな礼拝堂をイメージしたチャペル。ホテルの庭園内にあるチャペルは、その大きな扉を湖に向かって開かれ、湖畔からのさわやかな風と庭園いっぱいに溢れる光を取り込みます。親族や親しい友人に囲まれたアットホームな挙式は、約40名様の参列が可能です。ゲストや家族の笑顔に包まれて永遠の誓いを と。聖母マリア像。チャペルの内部。芦ノ湖を背景としたバージンロードとガゼボ。ガゼボ(Gazebo)とは、西洋の庭園や公園によく見られる、屋根と柱で構成された壁のない休憩所や東屋(あずまや)のこと と。花桃の花であっただろうか?「ユキヤナギ」。 チャペルを振り返って。旅友4人を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.05.04
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この日は4月15日(水)、卒業した会社の健康保険組合の温泉保養所が箱根・仙石原にありこれまで何回となく利用したが、今年の8月末にて閉鎖されるとのことで、訪ねることに。総勢5人での今回の旅、茅ヶ崎にある焼肉屋「あっこちゃんち」👈️リンク を経営する奥様は我が小、中学校の同級生、そして一緒に経営に参加されている女性、そして海外旅行の旅友の女性は千葉県八千代市から、そしていつもの会社の先輩旅友の総計5名で2台の車で仙石原に向かうことに。一緒に経営に参加されている女性のご主人も参加される予定でしたが、仕事の都合で残念ながら不参加となってしまいました。待ち合わせ場所は、JR茅ヶ崎駅北口の「天丼てんや」前に9:30に。 そして車2台に分乗し、国道134号線を走り相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。 そして「西湘バイパス」へ。「橘料金所」を通過。 そして「早川IC」から箱根方面に向かって「旧箱根新道」へ。「箱根新道」 は「箱根の山は天下の嶮」と謳われた箱根峠の交通を改善する為、箱根湯本~宮ノ下~芦ノ湖畔を経由する現道に代わって昭和37(1962)年に開通した国道1号線のバイパス道路(有料道路かつ自動車専用道路)。当初は20年後の昭和57(1982)年の無料開放を予定していたが諸般の事情から度々延期となり、平成22(2010)年に実施された約1年間の無料化社会実験を経て、開通から50年近く経った平成23(2011)年7月26日をもって漸く恒久無料解放を迎えた。無料の自専道と聞くと、現代では新直轄方式の高速道路等を想像しがちだが、箱根新道は開通時期が古い上に全長14kmで約780mもの高低差を克服している事から、最小半径30mの急カーブと8%の急勾配が連続する難路(参考:国道33号線の三坂峠は12kmで620mの高低差)。なお、箱根新道が無料開放となる直前の通行料金は普通車で250円であった。 箱根新道の料金所と箱根PA跡。 イチコクの国道標識。 最小半径54mのヘアピンカーブ。そして「芦ノ湖大観IC」から「大観山展望台」に向かう。 途中、道路沿いにあった「天閣台」に立ち寄る。 「富士山」の姿は雲にほぼ隠れていた。 天気が良ければ。ネットから。ヤマザクラの花。「ミツバツツジ」であっただろうか!? 近づいて。花に近づいて。「ツクシンボ」。「大観山の展望」碑。 「天閣台」碑。 「イタドリ」の新芽。イタドリの新芽は鮮やかな赤色をしているので、とても目立つのであった。そして「大観山展望台」に到着。 満開の「マメザクラ」の花が迎えてくれた。 本州中部の地域に分布し、富士山、箱根、八ヶ岳などの山地が多く、火山地域に新生した種であると考えられている。南関東から中部にかけて分布する変種としてのマメザクラ、北陸から近畿地方に分布するキンキマメザクラ、北関東に分布するブコウマメザクラという3つに分けられる。また、富士山麓一体に多く植わっている品種をフジザクラ、箱根近辺のものはハコネザクラとも呼ばれている。「マメ」という名の通り樹高は大きくなく、花や葉も小ぶりであることから名づけられた。その特徴から、庭木としても好まれている。一般的な桜よりも寒さに強く、マイナス20度にも耐える。3月から5月にかけて開花する。淡紅色から白色の直径20~25ミリの花をつけ、5枚の花弁が下向きに咲く。見ごろとなるのは3月下旬から4月中旬頃で、神奈川県の恩賜箱根公園、箱根強羅公園や京都府のわち山野草の森などでマメザクラを鑑賞できる と。移動して。「アネスト岩田 スカイラウンジ」を見上げて。箱根大観山にあり、1階のフードコートや2階のラウンジから360°の絶景を眺めながらくつろげる。向かいの大観山駐車場は箱根随一の景勝地として名高く、眼下に広がる芦ノ湖と雄大にそびえ立つ富士山が圧巻。箱根ターンパイクは2018年2月22日、同社が運営する「箱根ターンパイク」のネーミングライツ(命名権)をアネスト岩田(本社・神奈川県横浜市)が取得したと発表。これにより、箱根ターンパイクは2018年3月1日より新名称「アネスト岩田 ターンパイク箱根」となったのであった。 芦ノ湖そして富士山の勇姿!??「芦ノ湖」。 富士山をズームして。天気が良ければ富士山の勇姿がこの光景にて。ネットから。箱根駒ヶ岳ロープウェー 駒ヶ岳頂上駅を見る。芦ノ湖畔と箱根で2番目に標高が高い駒ヶ岳(標高1,356m)を結ぶ「箱根 駒ヶ岳ロープウェー」。約7分の空中散歩でたどり着く山頂からは、芦ノ湖や箱根外輪山はもとより、富士山、相模湾、駿河湾、そして遠くは横浜ランドマークタワーや東京スカイツリーまで望むことができる360度絶景のパノラマスポット。箱根の絶景が楽しめる山頂展望広場は2025年4月25日に「箱根駒ヶ岳 芦ノソラ」としてリニューアルオープンした。「富士箱根伊豆国立公園 日本景勝百選地 箱根大観山 標高 1011M」と。 「芦ノ湖」の「箱根町港」方向をズームして。 満開の「マメザクラ」を振り返って。 「箱根ジオパーク 案内板箱根の地形が一望できる絶景ポイント「大観山」」。 天気が良ければ。大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山。「箱根火山の形成モデル①40 ~ 23 万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。②約23 ~ 13 万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな噴火が 起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。目の前に広がる風景で 外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。③13 ~ 8 万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。④8 ~ 4 万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。⑤約4 万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが駒ケ岳や 二子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。」 1人で!?「箱根ブランコ」に乗る旅友。 「箱根のぶらんこ」は、大切な人と一緒に、大観山で素敵な想い出を作って欲しいという願いからっくられた「2人乗りプランコ」です。この大観山では、毎年「結婚の絆プロジェクト」として、多数の応募から選ばれたライダーカップルが結婚式を挙げており、2人の愛を誓う「幸せのブランコ」として期待されています。また、プランコの部材は、主に小田原産のヒノキやアネスト岩田ターンパイク箱根沿線の木材を使用し、今後も箱根の自然を大切に守りながら共存するというSDGsの精神にも則った「地産地消の木製プランコ」でもあります。」と。 「箱根のぶらんこ「箱根のぶらんこ」は、大切な人と一緒にこの大観山で素敵な思い出を作ってしい、という願いから作られた「二人乗りブランコ」です。毎年一組のカップルがこの場所で挙式し、ブランコの前に愛を誓う「幸せのブランコ」であり、前に小田原産のヒノキを使った「地産地消の木製ブランコ」でもあります。雄大な富士山と芦ノ湖を背景に思い出の一枚を残してください。」 「アネスト岩田スカイラウンジ」に向かって歩道橋を渡る。この場所からの眺望写真には山々の名前が記入されていた。 南アルプスの山々そして愛鷹山。駒ヶ岳方向。二子山そして丹沢山地方向。そして「アネスト岩田スカイラウンジ」を訪ねた。館内図。フードコートからのこの日の眺望。これも、ネットから。館内の「星の国」では「湘南ゴールド」や「竹の子・筍」が販売されていた。 「湘南ゴールド」は、神奈川県が12年かけて開発した黄色い小ぶりの柑橘で、3月から4月上旬が旬です。レモンのような見た目ですが、糖度12度前後と甘く、爽やかな香りとバランスの良い酸味が特徴。皮がむきやすく、そのまま食べるのはもちろん、加工品にも人気。再び富士山を見たが・・・。ネットから。 ・・・つづく・・・
2026.05.03
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この日は4月23日(木)、湘南台へ腰痛のリハビリ治療に向かいました。バスで湘南台駅東口に到着。リハビリ治療の整体院は西口にあるため、湘南台駅地下広場を通過。この場所は、広い空間になっており、時折イベントなどが行われるなどしていますが、普段はやや薄暗く、ただ広いだけという状態。その空間がもったいないということで2022年に立ち上がったのが、「湘南台アートスクエアプロジェクト」。この日も一面真っ赤な壁画が展示されていました。壁画は幅25m。湘南台在住の画家・廣田雷風さんが「郷土に捧げる讃歌」をテーマに描いたとのこと。ネットで調べてみると、廣田氏は、国内外で壁画の実績を持つ画家で、我が高校の3年先輩であるようだ。1日に16万人が利用する、湘南地域北の玄関口・湘南台駅。人々の心の拠り所となるような、わくわくする空間・心豊かになる空間を創り出したい と。全長25mの壁画を左側から。右側から。「郷土に捧げる讃歌」をテーマとした壁画は、鮮やかな赤色の上にピアノの鍵盤の上を勢いよく走り抜ける自転車や、奏でられた音をイメージした粒子が彩られており、思わず入り込みたくなってしまう風景が広がっているのであった。近づいて。最も右側の画面。■ 右端部分(音符と羽のモチーフ)・真紅の背景 ・画面全体を覆う強烈な赤は、生命力・情熱・郷土への熱い想いを象徴 ・見る者の心拍を高めるような「躍動の場」を作っている・鍵盤(ピアノ)の連なり ・下部に広がる鍵盤は「音楽=人の営み・文化」の土台 ・白黒にとどまらず色彩豊かな鍵盤 → 多様な個性・地域の多彩な人々を表現・浮遊する立体的な小片(ブロック) ・音の粒・記憶・人々の営みの断片が空間に舞っているよう ・町の歴史や日常の断片が「音」として昇華されている印象・羽のついた音符 ・音楽が「自由に飛び立つ」イメージ ・湘南台という地域から文化が外へ広がる象徴 ・音そのものに生命が宿っているような表現・音符の黒と模様のコントラスト ・黒い音符の中に細かな模様 → 内面の豊かさ、見えない感情や記憶の層 ・外見はシンプルでも、内側には複雑な物語があることを示唆・空間の奥行き ・背景の赤の中に点在する要素が遠近感を生み、「音の宇宙」のような広がり ・まるで音が空間を満たしていく様子その左の画面。■ 楽譜(開かれた本)のモチーフ・大きく開かれた楽譜 ・知識・記録・伝承の象徴 ・郷土の歴史や文化が「音楽」という形で記されているイメージ ・本が開かれている → 誰にでも開かれた文化・共有される記憶・楽譜の中の多様な描写 ・単なる五線譜ではなく、楽器・音符・人物的な要素が混在 ・音楽が「単なる音」ではなく、生活・感情・物語そのものを表す・細かく描き込まれた線や色 ・一つ一つが異なる表情を持つ → 個々の人生や出来事 ・それらが重なり「一つの楽譜=地域の歴史」になる・本を包む黒い形 ・本が大切に守られているような印象 ・記憶や文化を包み込む「器」や「時間の層」を象徴・周囲に舞う立体的な小片 ・先ほどの右端と連続し、音や記憶が楽譜から溢れ出している ・記録されたものが、再び空間に解き放たれている動き・下部のカラフルな鍵盤 ・楽譜(知識・記録)と鍵盤(実践・演奏)の関係 ・「記録 → 演奏 → 広がり」という循環を表現右側から順番に。■ 騎馬の人物(物語の中心)・黒い馬にまたがる人物 ・力強く前へ進む姿 → 時代や歴史を運ぶ存在 ・馬は「移動・伝達・時間の流れ」の象徴 ・郷土の文化を未来へ運ぶ“担い手”・人物の装い(やや寓意的) ・現実の人物というより「象徴的な存在」 ・芸術家・旅人・伝承者など、複合的な意味を持つ ・「文化を運ぶ者」「物語を紡ぐ者」・進行方向(右→左) ・右側(音の発生・拡散)から、中央へと移動 ・音や文化が「形ある物語」として展開される流れ■ 周囲のモチーフ(音と自然の融合)・空を舞う鳥たち ・自由・希望・広がり ・音楽や文化が空へ羽ばたく象徴 ・地域から世界へという視点・浮遊する楽器(ギター・ハープなど) ・音楽の多様性 ・西洋楽器も含まれる → 湘南台の“開かれた文化” ・音楽が国境やジャンルを超えることを示す・ハート型のハープ(左側) ・音楽と感情(愛・共感)の結びつき ・郷土への愛を直接的に象徴・細かな粒子(音の断片) ・鍵盤から生まれた音が空間に広がっている ・人々の記憶・日常・歴史の断片が混ざり合う■ 左上の雲に乗る街(重要な象徴)・雲の上の建物群 ・理想郷・記憶の中の街・郷土そのもの ・湘南台(あるいは心の中の故郷)を象徴・雲という表現 ・現実と夢の中間 ・郷土が「心の中にある存在」であることを示唆■ 下部の鍵盤との関係・鍵盤=現実の生活・日常の基盤・その上を馬が進む →👉 日常の中から物語が生まれ、運ばれていくズームして。■ 鳥(飛翔する存在)・大きく羽ばたく鳥(中央上) ・力強い翼の広がり → 解放・飛翔・希望 ・羽の筆致が荒々しく、勢いそのものを感じさせる ・単なる鳥ではなく「魂」や「意思」の象徴にも見える・色彩の混ざり(赤・黄・黒) ・炎のような色合い → 情熱・生命力 ・郷土への想いが燃え上がり、空へ昇っていく印象・下方の白い鳥 ・軽やかで柔らかい表現 → 純粋さ・平和・祈り ・上の鳥との対比で「力強さと優しさ」の二面性・小さく散る鳥や断片 ・群れというより、個々に自由に飛ぶ存在 ・人々の思いや夢がそれぞれの方向へ広がる様子■ 背景の赤と筆致・荒々しく流れる筆の動き ・風や空気の流れを感じさせる ・静止画でありながら「動き」を強く表現・赤一色ではない深み ・微妙な色の重なり → 時間の蓄積・感情の層 ・単なる背景ではなく「感情の空間」■ 下部の小さな花のようなモチーフ・地上に近い位置の小花 ・日常・生活・ささやかな営み ・鳥(理想・飛翔)との対比で「地上と空」の関係その下部。■ 楽器群(音楽の多様性)・ギター(黄) ・親しみやすさ・日常の音楽 ・個人の表現、弾き語りのような身近な文化・小型弦楽器(青:ウクレレ風) ・湘南らしい軽やかさ・海辺の空気感 ・明るく開放的な地域性の象徴・弦楽器(緑:マンドリン系) ・西洋音楽の伝統 ・歴史や異文化とのつながり・太鼓(右) ・日本的なリズム・祭り・共同体 ・郷土の伝統文化の象徴・笛(細長い楽器) ・風・自然・祈り ・見えないものを音にする役割■ 楽器の配置の意味 ・宙に浮かぶ配置 → 👉 音楽がジャンルや形式に縛られない自由な存在・西洋楽器+和楽器の共存 👉 湘南台の「開かれた文化」と「伝統の共存」■ 鳥との関係・楽器の上を鳥が飛ぶ構図 ・音楽が「空へ運ばれる」イメージ ・楽器 → 音 → 鳥 → 空 という流れが視覚的に明確■ 浮遊する立体片(色ブロック)・音の粒・記憶・感情の断片・楽器から生まれた音が視覚化されたもの・多色であること → 多様な人々・出来事■ 下部の鍵盤(再確認)・白黒+色付き鍵盤 ・単調ではない「個性の集合」・鍵盤が画面の土台 👉 すべての音楽はここから生まれる■ 二人の人物(最重要モチーフ)・二人で一頭の馬に乗る構図 ・個人ではなく「関係性」の象徴 ・親子・師弟・仲間など、文化の継承を表す・前の人物(導く存在) ・進行方向を見据える → 先導者・経験者 ・文化・歴史を知る側・後ろの人物(寄り添う存在) ・花をまとい、やや柔らかい印象 ・次世代・受け継ぐ側 ・支え合いながら進む姿・二人の距離の近さ ・単なる同行ではなく「一体感」 ・知識・文化が“人から人へ直接伝わる”ことを強調■ 衣装と表現・やや道化・旅人のような装い ・現実の特定人物ではなく「象徴的存在」 ・芸術家・語り部・巡礼者のイメージ・色彩の細かな点描的表現 ・無数の色で構成 → 多様な経験・記憶の集合体 ・人そのものが「文化の集積」であることを示す■ 馬(非常に重要)・重厚な黒い馬 ・時間・歴史・大地の力 ・人を運ぶ「基盤」・装飾的な鞍・体の模様 ・単なる動物ではなく「文化そのものを背負う存在」 ・馬=郷土・歴史そのものとも読める・前へ踏み出す脚 ・停滞ではなく前進 ・文化は常に動き続けるもの■ 周囲との関係・下の鍵盤 ・日常の上に文化の旅が成り立つ ・音楽が「土台」であることを再確認・周囲に舞う粒子 ・人の動きとともに音や記憶が広がる ・二人が文化を“運びながら拡散している”・背後の鳥 ・この二人の動きが、やがて飛翔(広がり)へつながる次の左側。■ グランドピアノ(起点の象徴)・黒いグランドピアノ ・音楽の源・創造の出発点 ・重厚な黒 → 伝統・深み・時間の蓄積・譜面台に置かれた楽譜 ・ここで初めて「音が形になる」瞬間 ・右側の楽譜(先ほど)へとつながる“起源”・ピアノが単独で置かれている ・演奏者は描かれていない → 👉 音楽そのものが主役であるという思想■ 周囲に広がる楽器群・管楽器・弦楽器・打楽器の混在 ・音楽のあらゆるジャンルの共存 ・クラシックから民俗・現代までの広がり・放射状に広がる配置 ・ピアノから音が生まれ、世界へ拡散する構図 ・中心(ピアノ)→外(社会・地域)への流れ・楽器が浮遊している ・固定されたものではなく、自由に広がる文化 ・音楽が人々の手に渡り、各所で奏でられることを示唆■ 雲の上に浮かぶ街・白い雲の上に乗る街並み ・現実の町でありながら「記憶・理想・心象風景」 ・郷土(湘南台)が、単なる場所ではなく“心の中の故郷”として描かれている・雲の柔らかさ ・包み込むような存在 → 安心・帰属・母体 ・人々を支える“見えない基盤”(郷土の温かさ)■ 中央の櫓・舞台(祭りの象徴)・中央の高い構造物(櫓・舞台) ・祭り・集い・共同体の中心 ・音楽や芸能が生まれる場・上に立つ人物像 ・指導者・象徴的存在・精神の核 ・文化をまとめる存在■ 両側に広がる人々・大勢の人々の群れ ・年齢や役割の異なる人々 ・地域社会そのもの・整列・集合している様子 ・共同体としてのまとまり ・音楽や祭りが人を一つにする力■ 旗・装飾・色とりどりの旗 ・多様性・祝祭・誇り ・各人・各文化の個性・上向きの構図 ・活気・高揚感 ・祝祭のエネルギーが空へ向かう■ 下部の楽器との関係・楽器(地上)→ 街(雲上) 👉 音楽が人々を集め、共同体を形成する・楽器が散らばっているのに対し 街はまとまっている 👉 個の表現が集まって「社会」になる■ グランドピアノ(創造の源)・堂々と中央に置かれた黒いピアノ ・すべての物語の“起点” ・重厚な黒 → 歴史・伝統・普遍性 ・動かない存在でありながら、最も強いエネルギーを持つ・正面に書かれた文字 ・「…Fujisawa」と読める表記 ・郷土(藤沢・湘南台)と音楽の直接的な結びつき ・この壁画が“地域に捧げられた作品”である証■ 楽譜(創造の瞬間)・譜面台に開かれた楽譜 ・まだ演奏される前の「可能性」 ・音がこれから生まれる直前の状態・細密な描き込み ・単なる音符ではなく、色や形が混在 ・音楽=感情・記憶・出来事の集合体■ 下方の粒子(音の発生)・鍵盤の下から噴き出すような色の粒 ・音が“物質化”して広がる瞬間 ・創造のエネルギーが爆発するイメージ・色の多様性 ・一つの音から無数の表現が生まれる ・人それぞれの感じ方・文化の多様性■ 周囲の楽器との関係・クラリネット・トランペット・太鼓など ・ピアノから生まれた音が、他の楽器へ受け渡される ・個から全体へ、中心から広がる構図・放射状の配置 ・明確に「中心=ピアノ」であることを強調 ・音楽の源泉としての位置づけ■ 背景の赤(再解釈) ・この場面では特に 👉 “創造の熱”を強く感じさせる ・音楽が生まれる瞬間の「高揚」「集中」「情熱」■ 全体表現(構造と意味)・一面の深い赤 ・情熱・生命・郷土への強い想いを象徴 ・画面全体を「音と感情の空間」として包み込む・下部を貫く鍵盤 ・すべての物語の土台 ・日常・人々の営み・音の発生源・中央に広がる音楽の世界 ・ピアノから生まれた音が、楽器・人・空へと広がる ・音が「形」「物語」「空間」へ変化していく流れ・人・動物・乗り物(馬・自転車) ・音や文化を運ぶ存在 ・郷土の時間の流れや人の営みを象徴・空に舞う鳥と音の粒 ・音楽や想いが自由に広がる様子 ・地域から世界へという開放性・雲の上の街(共同体) ・郷土そのものの象徴 ・音楽によって結ばれた理想の社会・左側の樹木と人の流れ ・自然・時間・成長 ・日常の中で文化が育まれていく様子■ 三人のサイクリスト・横一列に並んで走る三人 ・個ではなく「連帯・共同」の象徴 ・同じ方向へ進む意志の共有・前傾姿勢の動き ・風を切るようなスピード感 ・躍動・前進・未来志向・人物の色彩表現(多色の重なり) ・一人一人が異なる色を持つ → 個性の違い ・しかし重なり合い、調和している → 共生■ 自転車というモチーフ・馬(前の場面)との対比 ・馬=歴史・伝統 ・自転車=現代・日常・自立 👉 時代の流れを示す重要な転換点・自力で進む乗り物 ・人の力で未来を切り開く象徴 ・文化の担い手が「主体的」であること■ 車輪の表現・円が幾重にも重なる描写 ・動きの軌跡を視覚化 ・時間の連続性・リズム(音楽的要素)・色の渦のような回転 ・音の波・振動のイメージ ・音楽と運動が一体化■ 上空の鳥との関係・サイクリストの上を飛ぶ鳥 ・地上(人の営み)と空(理想・自由)の連続性 ・人の動きがやがて飛翔へつながる■ 下部の鍵盤との関係・鍵盤の上を走る構図 👉 日常の中で音楽が息づいている・音楽は特別なものではなく 👉 生活そのもののリズム■ 楽器でできた樹木(極めて象徴的)・木全体が楽器(ヴァイオリン等)で構成 ・音楽そのものが“生命体”として表現されている ・一本の木=一つの文化・郷土の象徴・幹から枝へ広がる構造 ・幹:基盤・歴史・大地 ・枝:広がり・発展 ・葉(楽器):多様な表現・人々の活動■ 幹(根源)・しっかりとした太い幹 ・郷土の歴史・時間の積み重ね ・見えない“根”を感じさせる安定感・色の重なり ・長い年月の蓄積 ・一つではない、多層的な文化■ 枝葉(楽器の集合)・同じ形でありながら微妙に異なる楽器 ・個性の違い ・同じ文化の中にある多様性・密集した配置 ・豊かさ・実り・充実 ・音楽文化が成熟している状態■ 周囲に浮かぶ楽器・樹木から離れて漂う楽器 ・木から“生まれた”音楽が外へ広がる ・生命が増殖していくイメージ■ 下部の粒子(根のイメージ)・鍵盤の上に広がる色の粒 ・根が土に広がるような表現 ・音楽の源が大地(日常)に根ざしているズームして。■ 音符の象徴(中央上)・大きく描かれた音符(ト音記号・音符の形) ・音楽そのものの“記号化された象徴” ・見えない音を「見える形」にした中心的存在・小さな破片で構成された音符 ・一つの音が無数の要素(人・記憶・出来事)で成り立つ ・音楽=集合体であることを表現■ 浮遊する楽器群・太鼓・笛・弦楽器・鍵盤系などの混在 ・ジャンルや国境を越えた音楽の多様性 ・湘南台の開放的な文化性・宙に浮く配置 ・音楽が固定されない自由な存在 ・人の手を離れて広がるイメージ■ 鍵盤(下部)・色とりどりの鍵盤 ・白黒にとどまらない → 個性・多様性 ・すべての音の出発点・少し歪んだ形状 ・完全ではない“人間的なリズム” ・音楽が生きていることを感じさせる■ 空間に広がる粒子・色の破片・点の集合 ・音の振動・リズム・空気の揺らぎ ・音楽が空間を満たしていく様子・密度の高い分布 ・静寂ではなく「満ちた空間」 ・音が鳴り続けている状態■ 左上の雲状の塊・ぼんやりした白いかたまり ・音の集積・記憶の塊 ・まだ形を持たない“音の源”にも見える浮遊する楽器群をズームして。真紅の世界に広がる鍵盤から音が生まれ、楽器や人を通じて受け継がれ、やがて鳥のように空へ舞い上がる。郷土の記憶と人の営みが重なり、一つの大きなハーモニーとなる壁画なのであった。様々なポスターも貼られていた。「藤沢市展 公募」ポスター。 「お寺オペラ 5月15日 龍口寺」ポスター。 「みらい子どもフェスタ 2026」ポスター「こどもオペラ ブレーメンの音楽隊」ポスター。 「郷土史『わが住む街』第76号 原稿募集中!!」 ・・・おわり・・・ ・・・おわり・・・
2026.05.02
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この日は4月26日(日)、我が菜園の状況です。まずは実家の裏の墓地の周辺です。兄がやらなくなった畑の部分を借りて、「小作人」としてやっています。周囲には大きな農家の畑が拡がっていますので、荒らしておけないのです。 黄色の花は、ブロッコリーの脇芽の花です。右側には、種から育てた黒スイカの幼苗を移植し、ビニトン内で育てています。ブロッコリーの脇芽の花は我がミツバチが大好きな花なのです。周囲は「茶の樹」で囲まれています。私が幼い頃は、この新芽の茶葉を摘み取り、自宅で新茶を作っていました。スイカの種を購入し、種まきして育てたものを定植しています。スイカ栽培のビニトンを反対側から。そして手前はイチゴ。イチゴの赤くなった実がハクビシン等にやられないように、ネットで覆っていますが・・??。ピンクの花のさくイチゴです。四季なりイチゴ「ピンクパンダ」?。4月から10月まで、真夏の気温が上がる時期を除いて長い期間収穫を楽しめるおすすめ品種。バラのような鮮やかな赤い八重咲きの花が咲き、咲いた花はちゃんと実になる、家庭菜園で育てやすい品種で、プランターで育てることもできるとのことです!花に近づいて。そして「アスパラガス」。「ニンニク」。「タマネギ」。「ソラマメ」。上部には、まだ花が次々に開いています。そしてこちらは、自宅から自転車で5分ほどの場所にある菜園。ここも実家の畑を維持管理しているのです。ここでミツバチを飼育している養蜂の畑なのです。こちらでも、スイカ、カボチャ、メロンを育てています。メロンの接ぎ木苗のみ購入しました。他は種から育てています。ビニトンの周囲にブロッコリー等の廃菜を敷いています。この後栽培している麦を敷く予定です。反対側から。奥の青いネットの先に、ミツバチの巣箱を並べています。スイカの苗も順調に育っています。そしてこちらは「トウモロコシ」。 このトウモロコシも野鳥、ハクビシン、アライグマ対策がこれから必要なのです。こちらは「ズッキーニ」。 「ソラマメ(空豆)」。 収穫間近になって来ました。「空豆」の収穫時期は5月〜6月頃で、「サヤが下を向き、表面に光沢が出て、サヤの縫合線(横の筋)が黒く色づく」頃が最適です。ミツバチの巣箱。越冬用の砂糖水を入れたペットボトルがそのままになっています。こちらの畑でも「アスパラガス」を育てています。新芽が次々と。収穫しました。こちらは、敷き藁用の小麦です。そろそろ、抜いてスイカ栽培場所の周囲に敷きたいと思っています。そして「ニンジン(人参)」。近づいて。こちらは「ネギ」。 なかなか大きくなりませんが、気温の上昇とともに成長するでしょう。「ジャガイモ」。キタアカリ、インカの目覚めを育てています。既に先日、芽かきをして3本仕立てにしています。芽欠きした苗も植えておくと、ジャガイモが付くとのテレビ情報から植えて育てていますが、上手くジャガイモが付くか??お楽しみ!!近づいて。こちらは「サトイモ(里芋)」。地温の確保と草むしり対策で黒マルチを敷いて育てています。芽が出て来ました。我が菜園からの風景です。高層ビルは日本大学生物資源科学部の本館。昨年末に植えた正月用の「葉牡丹」が今頃になって元気に育っています。 そして我が養蜂場のある畑にもクリムソンクローバの種をまき、育てています。我がミツバチです。こちらは、「芽キャベツ」の花でしょうか!?ここにも我がミツバチが。ズームして。カメラで追いかけて。自宅の横の菜園では、トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、イチゴ等を育てていますが長くなりましたので、別の日にアップさせていただきます。 ・・・おわり・・・
2026.05.01
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速くも、今年も1年の1/3が過ぎ、今日は5月1日(金)。この日は4月20日(月)、今年も我が家の裏の農家の畑には一面に「クリムソンクローバ」の赤い花が開花中。花の姿から「ストロベリーキャンドル」とも呼ばれています。クリムソンクローバは観賞用として楽しむほかに、土壌を豊かにするための緑肥としても利用されています。緑肥とは、育てた植物をシーズンが過ぎた後に取り除かずに、そのまま土にすき込んでその後に植える野菜の肥料にするというものです。クリムソンクローバはマメ科植物に属するため、根に根粒菌が共生しています。根粒菌は、空気中の窒素を土壌中に固定して植物が吸収しやすい形に変える働きをもっています。つまり、クリムソンクローバを植えると根粒菌によって土が豊かになり、さらに緑肥として利用することで次に育てる野菜に肥料分が提供されることになります。畑のクリムソンクローバを抜いて根っこを見てみると、根っこに数ミリメートルの瘤(こぶ)のようなものがいっぱいくっついています。写真はネットから。これは根粒と呼ばれる器官で、この中に根粒菌(バクテリアの一種)という土壌微生物が住んでいます。根粒菌は大気中の窒素をアンモニアに変換し(窒素固定といいます)、植物の生育に欠かせない窒素を大豆に供給する働きをしています。化学肥料のアンモニアは1000気圧という超高圧、500℃という高温のもとで窒素と水素の化学反応で工業的に作られますが、莫大なエネルギーを費やします。根粒菌はこの反応を常温常圧でいとも簡単にやってしまう、まさに自然が創造した「超すぐれもの」なのです。クローバーに限らずマメ科植物(大豆、エンドウ、なども仲間なのです!)は、根粒菌と共生して窒素固定しています。自然界は不思議なのです。写真はネットから。本来は多年草ですが、暑さには弱いため日本では一年草として扱われているようです。真っ赤なイチゴの果実に似た花穂を数多く枝先につけています。ストロベリーキャンドルの他にもストロベリートーチ、ベニバナツメグサ、オランダレンゲなどの別名を持つとのこと。別の方向にカメラを向けて。クリムソンクローバの赤い花は実は集合花です。クリムソンクローバを直訳すると「炎のツメクサ」とのことですが、この名前は花がまるで燃える松明(トーチ)のように見えることに由来していると言われています。あまり知られていませんが、クリムゾンクローバは栄養価が高く、飼料として優秀ですが、実は食べられるらしい。花は蜜があるので、エディブルフラワーとしてサラダにしたり、お茶できるようです。葉は炒め物、スープにできるようです。私はTRYしたことはありませんが。また、牧草として家畜のえさにされたり、犬や猫、小動物用のおやつに乾燥させたものが販売されたりしているとのこと。以下、2枚の写真はネットから。そして我がミツバチ!?も発見。花に蜜を多く持っているので、我がミツバチ!?やハナアブといった受粉する虫を呼ぶことができます。開花すると多くの我がミツバチが訪花しているのです。巣箱の近くで栽培しているイチゴはすべてこのミツバチで受粉して実を付けることができるのです。そして我がミツバチが、たくさんの蜜を集めて欲しいのです😁😁。我がセイヨウミツバチです。日本大学生物資源科学部の本館を背景に。ズームして。そして花が終わる前に、そのままの姿で大型トラクターで耕運されてしまうのです。神奈川県道403号菖蒲沢戸塚線を歩く。この白い花は「ハナミズキ」。 以前は、赤いハナミズキの花も咲いていたが、赤いハナミズキの樹のみほんとんど枯れてしまったのである。ズームして。昔の写真です。ハナミズキは、ミズキ科の落葉高木です。ハナミズキの花は、桜が終わった頃に咲き始めます。横に枝を広げるような樹形が美しく、その先に空に浮かぶようにピンクや白の花を咲かせる姿は見事です。秋には真赤な実と紅葉で、人の目を楽しませてくれる、四季を通して美しい花木。ハナミズキは、百年ほど前に東京からワシントンD.C. へ桜を贈った返礼として日本に贈られた木で、日米友好のシンボル。そして、一青窈さんの名曲『ハナミズキ』。この楽曲には、ただのラブソングとは異なり、深い祈りと別れへの想いが込められています。実はこの歌詞は、2001年のアメリカ同時多発テロの際に、ニューヨークにいた友人からのメールをきっかけに生まれたと言われています。テロで急に命を奪われた「君」へ捧げる鎮魂歌。続くはずだった人生が終わった「君」の無念さを思う気持ちが伝わって来るのです。ハナミズキ👈️リンク作詞:ー青窈作曲:マシコタツロウ編曲:武部聡志発売日: 2004/02/11♪♪空を押し上げて手を伸ばす君五月のことどうか来てほしい水際まで来てほしいつぼみをあげよう庭のハナミズキ薄紅色の可愛い君のね果てない夢がちゃんと終わりますように君と好きな人が百年続きますように夏は暑過ぎて僕から気持ちは重すぎて一緒にわたるにはきっと船が沈んじゃうどうぞゆきなさいお先にゆきなさい僕の我儘がいつか実を結び果てない波がちゃんと止まりますように君と好きな人が百年続きますようにひらり蝶々を追いかけて白い帆を揚けて母の日になればミズキの、贈って下さい待たなくてもいいよ知らなくてもいいよ薄紅色の可愛い君のね果てない夢がちゃんと終わりますように君と好きな人が百年続きますように僕の我悒がいつか実を結び果てない波がちゃんと止まりますように君と好きな人が百年続きますように君と好きな人が百年続きますように♪♪以下、ネットから。「歌詞には、亡くなった人への思いや、愛する人を見送る覚悟が込められています。「意味が怖い」と感じる方もいるようですが、歌詞の背景や表現が分かれば「そういうことだったのか」と納得できるはず。ここでは、印象的なフレーズの意味を丁寧に考察していきます。導入“空を押し上げて~”“空を押し上げて手を伸ばす君 5月のこと”新緑の時期、若葉が空に向かってぐんと伸びていくようなイメージ。空に向かって何かを掴もうとしている「君」は、夢を追いかける姿、あるいは別れた誰かに手を伸ばす姿にも見えます。5月はハナミズキが咲き、明るい光と爽やかな風が感じられる季節。でも、導入部分は別れや祈りのような感情も感じられます。切実に会いたい“どうか来てほしい”“どうか来てほしい水際まで来てほしい”“どうか来てほしい”から、強い願いと切実な思いが伝わります。再会や、もう一度会いたいという願いかもしれません。水際は境界線のような場所で、生と死、現実と夢、此岸と彼岸を分ける象徴にもとれる表現です。もう会えない存在に呼び掛けているようにも感じますね。愛情を感じる“つぼみをあげよう”“つぼみをあげよう庭のハナミズキ”相手への愛情表現が感じられるフレーズ。咲き誇る花ではなく、未完成の「つぼみ」を送るのは、未来や希望、祈りにも受け取れます。ちなみに、ハナミズキは贈り物としても人気で、「永続する愛」「君と一緒にいたい」といった花言葉を持ちます。夢が終わることを願うサビ“薄紅色の可愛い君のね果てない夢がちゃんと終わりますように君と好きな人が百年続きますように”品種にもよりますが、ハナミズキは薄紅色の花を咲かせます。まるでハナミズキのような君の夢が「終わること」を願っています。ここのポイントが、夢が「叶う」のではなく「終わる」ということ。夢が叶う・叶わないに関係なく、夢まで歩み続けた過程が報われるように願っているのではないでしょうか。君と好きな人の幸せを心から願う、深くて優しい愛が伝わるサビです。自分はここに残る“夏は暑すぎて~”“夏は暑すぎて僕から気持ちは重すぎて一緒にわたるにはきっと船が沈んじゃう“夏は命の炎を象徴し、あなたへの想いが強すぎる自分を表現しています。“一緒にわたる”という表現は、「死後の世界に共に行く」「後を追う」という意味にも読み取れます。でも、“船が沈んじゃう”とあるように、無理に一緒に行けば、どちらも沈んでしまい、魂が救われないのではないでしょうか。だからこそ、自分はここに残ると決めて、相手を安心して旅立たせたいという想いが込められているようです。別れの言葉“どうぞゆきなさい”“どうぞゆきなさいお先にゆきなさい”まさに別れの言葉。死別の苦しみの中でも、愛する人の魂が安らかに旅立てるようにと祈りを込めた言葉です。「どうか成仏して」「安心して行っていいよ」と、故人に許しと安心を与えるやさしい言葉にも感じられます。 ・・・完・・・
2026.05.01
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再び隅田川を下る屋形船を見る。「お相撲双六」。 相撲取りを題材とした双六。右下の「明日の取組」を振り出しにして、さいころを振って指定されたコマに進み、中央の「晴れの横綱土俵入」まで進むと上がりになる。六の「物言ひ」では、奇数を出せば八の「勝名乗」へ進めるが、偶数を出すと振り出しに戻されてしまう。「TOKYO CRUISE 水上バス【龍馬】」👈️リンクが多くの観光客を乗せて、「両国橋」に向かって。 「ためだし」。 「芥子」葛飾北斎。「青で塗りつぶされた背景は空を連想させ、涼風に芥子が揺らいでいるかのように見える。きわめてモダンでやかな色彩から、近代の画家の手になったといってもうなずけるようなー図である。」 「さまた」。 「「新板浮絵三囲牛御前両社之図」 葛飾北斎浮絵(遠近感を強調した絵)の手法で、三囲(みめぐり)神社と牛御前をひとつの画面に収めている。三囲う神社の鳥居は向島堤の下にあり、その頂きだけが土手から覗くのが面白く、向島の桜とともに、江戸名所のひとつであった。」。「そとむそう」。「「板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」葛飾北齋」。 「夏の両国の賑わいを描いたこの作品は、北斎が春朗と名乗っていた頃のもので、春朗期浮絵の佳作として知られる。画面斜めに両岸をとらえ、川面と空の広々とした空間を表出している。川面では船から花火があげられ、橋上には蟻ほどの大きさで多くの人出が描かれている。橋のたもとに目を転じると様々な小屋が並び、そぞろ歩く人々が細かく描き込まれ、その賑わいが今にも聞こえるようである。」 「うちがけ」。 「あおりかけ」。 「絵本田川 両岸一覧 狂歌絵本三冊[新柳橋の白雨・御竹蔵の虹] 葛飾北斎」 「ふいのタ立に柳橋を急ぐ人々。対岸の幕府の御竹蔵辺には、虹の影がさしてきそうな気配。」 後方の「隅田川橋梁(総武本線)」を振り返って。 前方の「両国橋」。 「うけなげ」。 「絵本隅田川 両岸一覧 狂歌絵本三冊 [首尾松の釣舟・椎木のタ蝉] 葛飾北斎千歌園序文 美しさ松は千とせを延あかり 延あかり見る舟のたをやめ仝詠 時またき見あくる椎の青空に ところ定めす蟬のしくるゝ」。 「浅草近くの名所「首尾の松」を跳めつつ釣りを楽しむ人々の舟。夕刻の弾の声も聞こえる。」 「「富嶽三十六景 御厩河岸より両国橋タ陽見」葛飾北斎」 「両国橋の上流にあった、御厩河岸之渡(おう(ん)まやがしのわたし)の船のそはばから眺めた両国橋の図。いろいろな人が船にっており、何人かは夕焼けの風景を肌めているようだ。題名の通り、西の空をタ日が赤く染め、両國橋も、小さく見える富士山も影のように表現されている。しかし注意して見ると、橋の上には人の頭の影がたくさんあり、橋のまわりにも屋形船が浮いている。花火が上がるのを、今や遅しと待っているところであろう。」 「かたすかし」。 「隅田川テラス案内図◆両国橋【橋長】164. 5m【幅員】24. 0m 【構造】3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋両国橋の名は、武蔵と下総のニ国を結ぶ橋であることからこう呼ばれましたが、正式にはただの"大橋"でした。しかし、新大橋などもつくられたため両国橋が正式の名となりました。明暦の火事(1657)では、橋がなく逃げられずに多数の死者が出たため、大火の後にこの橋が架けられました。回向院は、その人々を弔うために建てられ、後に勧進相撲が催されることとなったのです。現在の橋は、昭和7年(1932)に完成しました。◆両国花火資料館江戸の夏の風物詩である隅田川花火大会の歴史や技術の変遷を紹介する資料館です。小さなスペースに、江戸・明治時代の花火大会を描いた錦絵などが展示されています。大正時代と現在の打ち上げ筒の現物もあり、その違いには一驚します。ビデオも常時放映されており、花火製作の工程もよくわかります。(開館:正午~午後4時木~土曜日 ただし7・8月は毎日開館)」 「両国橋」に近づいて。 「隅田川テラス」から歩いて来た「隅田川橋梁(総武本線)」方向を振り返って。 「現在地」はここ。ズームして。そして「両国橋」親柱の上には「巨大な球体(石造り)」👈リンク の飾りが設けられ、バルコニーは土俵(両国国技館から)をイメージしたデザイン。近づいて。「地球儀」をイメージしているとも。道路の反対側にあった「表忠碑」をズームして。 「表忠碑」に近づいて。日露戦役の大きな碑。揮毫は元帥公爵大山巌。戦没者弔魂祭兼凱旋軍人歓迎会」(海軍中将榎本武揚委員長)により明治四十年元旦建立。「両国橋と百本杭両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。」「明治廿ニ年春狂言「忍宵恋曲物」百本杭の場」 新富座豊原国周筆(国立国会図書館所蔵)。「両国百本杭」、「仁山智水帖」より。「両国橋交差点」の角にあったのが焼き肉レストラン「もゝんじゃ」。巨大な「猪(いのしし)」がどーんと出迎えてくれる店構え。「江戸の味もゝんじゃ享保三年(一七一八)創業の猪料理店てす。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四っ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」ど総称しました。現在は、この「もゝんじゃ」を店名にしていますが、正式には「もゝんじゃの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。もとは漢方の薬屋てしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となリ、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や披露回復に効果があリ、肉食が禁じられた江戸時代ても、「山くじら」と称して食べられていました。猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿剌し、鯉汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。」「しし鍋」(ネットから) 。「両国橋」交差点を渡り 両国駅に向かって進む。「両国駅」改札手前にあった「JR両国駅」の模型。両国駅と駅前を再現したプラレールが展示されていた。西口改札の先、上にあった「満員御礼」の垂れ幕。国技館で開催される大相撲の本場所中にお客さんが満員になると下ろされる垂れ幕。 「総武線」のホームから「ちゃんこ江戸沢」の看板を見る。横綱の化粧まわしを模した大きな看板。 そして、この後、元同僚、お世話になった協力会社の社長と3人で品川・港南口で久しぶりに再会し、楽しい宴を。 ・・・もどる・・・ ・・・千秋楽・・・
2026.04.30
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「東京名勝之圖 両國橋 歌川房種」。 「中央に描かれる西洋型木橋の両国橋は、この錦絵が指られた年に架けられたものである。伝統的な弧を描く橋から平らな橋となり、その上を人力車や馬車がさっそうと走っている。橋のたもとにはガス灯が立ち、電信局と思われる西洋館の大きな屋根も見える。しかし川には江戸時代のままの船が住来しており、多くの人は着物姿である.西洋の文化と日本の伝統文化が混在している、明治時代初期ならではの風景である。」 「ちょうながけ」。自分の右(左)足のつま先を相手の右(左)足のかかとに内側から掛けて手前に引き、上体を反らして相手を横か後ろにひねり倒して勝ちます。 足を掛ける形が材木の荒削りに使う「手斧(ちょうな)」に似ているところが名前の由来。「両国水神祭タ涼之図」楊州周延水神祭の様子とそれを見物する人々を描いたもの。水面には竜宮城や龍、魚介類など様々な浮き物がひしめいている。画面奥では船上でのはしご乗りが行われている。隅田川の水神祭は、八代将軍徳川吉宗が飢饉での死者の慰雲と悪疫退散を祈願して行ったことに由来する。」 「水神祭の様子とそれを見物する人々を描いたもの。水面には竜宮城や龍、魚介類など様々な浮き物がひしめいている。画面奥では船上でのはしご乗りが行われている。隅田川の水神祭は、八代将軍徳川吉宗が飢饉での死者の慰雲と悪疫退散を祈願して行ったことに由来する。」 「つつきけかえし」。 現在地は両国橋まで250m。「とあし(外足)」。「とあし(外足)」は片手で相手の脚を外側から取って押し出す足取り。 「東京名所 両國河ひらきの図 蕾斎(歌川 芳豊)」 「明治31年(1898 )に制作された石版画であるが、屋形舟に乗る女性の姿や、「水菓子」と赤い提灯を高く掲げた物売りの舟など、風俗は江戸時代とほとんど変わらない。しかし物売りの舟の上に、ラベルを貼ったガラス瓶がたくさん置かれているところが新しい。右上の囲みの中に描かれているのは、同じ隅田川に架かる吾妻橋。この吾妻橋は、隅田川で最初に架けられた鉄骨の橋で、当時おおいに話題となったものである。」 「こづまとり」 「東都名所 隅田川堤の花 同向嶋名所一覧」歌川広重(初代) 安政元年(1854)」 「画面手前に墨田川西岸(現・台東区側)、奥に東岸(現・墨田区側)が描かれる。西岸には待乳山聖天(まつちやましようてん)・山谷堀・今戸橋が見える。東岸では桜が咲き誇っており、その奥には長命寺・三囲神社・牛島神社など向島の名刹が描かれる。」 「けかえし」。 「やぐら」。 「東京開化三十六景 両国之大花火」 歌川広重 。「江戸時代から描かれてきた名所が、文明開化を迎えてどのように変わったのか、絵で特徴を表したシリーズものの錦絵のうちのひとつ。両国の花火の賑わい振りは、江戸時代も明治時代も大差は無いが、この絵では浴衣姿の人とともに、帽子を被って洋服を着た男性が描かれている。花火を見物する人の姿に、着実に文明開化はおとずれている。」 「両国川開の花火 揚州周延」。 「両国花火の日に、屋形舟を繰り出した女性たちを描く。右側の大きな舟は「明治丸」という名前で、時代を反映している。舟に書かれたり、幔幕(まんまく)に染められた「福」の字は、この錦絵の板元の福田熊次郎を示す印である。描かれた女性はいずれも品が良く、丁寧な波の表現や落ち着いた色彩とあいまって、賑やかな花火を描いた錦絵としては全体に上品な印象を与える。」 「つきやぐら」。 「両国大花火夕涼之景」豊原国周・井上探景 「両国花火を画題としながらも、美人画としても成り立つ錦絵である。さらに3枚ー続きの画面であるが、1枚だけでも十分楽しむことができる。とくに中央の女性は、虫かごを手に持ち、簪(かんざし)に風鈴の飾りを付けており、可愛らしい感じがする。3人の背後には、沢山の人を乗せた舟が浮かび、花火が上がっている。遠くには、明治時代を象徴するように、西洋風な建物の屋根が見えている。」 「かわづがけ」。 「まがいつきだし」。 前方に「両国橋」。 「両国橋(りょうごくばし)は、隅田川にかかる橋で、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは武蔵国下総国の国境にあったことから、両国橋と呼ばれる」と。 「東京名所美人揃 隅田川の花見」歌川広重(三代)。「新橋芸者2人がこれから花見に興じようと舟を下りるところ。上部には、花見に欠かせない目鬘(めかすら)・都鳥のオモチャ・桜餅・桜花が描かれている。」 「こしくじき」。 「勧進相撲土俵入之図」不知火雲龍。 「すくいなげ」。 「東京名所之内 両国大相撲国技館之図」明治43年(1910)。 「明治42年(1909)に建てられた最初の国技館は、大相撲興業の常設館として回向院鏡内(現・両国シティコア付近)に建設された。設計は東京駅などを手がけた辰野金吾らによるもので、日本初のドーム式円形建築は「大鉄傘」とうたわれた。画面上部に描かれているのは、横綱常陸山谷右エ門(ひたちやまたにえもん)と梅ヶ谷藤太郎(うめがたにとうたろう)である。2人は「梅・常陸」として競い合い、相撲界の黄金時代を築いた。」 「たぐり」。「大相撲双六」平田岐良。 「相撲取りを題材とした双六。右下の「明日の取組」を振り出しにして、さいころを振って指定されたコマに進み、中央の「晴れの横綱土俵入」まで進むと上がりになる。六の「物言ひ」では、奇数を出せば八の「勝名乗」へ進めるが、偶数を出すと振り出しに戻されてしまう。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.29
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「両国駅西口」を左に見ながら、「国技館通り」沿いの歩道を南に進む。 右手にあったのが「両国駅西口喫煙所」。このガラス張りの喫煙所は、「北斎アート」がデザインされた屋外型の喫煙スペース。西口の公衆トイレ向かいに位置し、2021年12月に設置された。葛飾北斎の「冨嶽三十六景」をモチーフにしたデザインが特徴で、周辺の観光や国技館利用時に便利なスポット と。 「すみだ✕アート✕福祉みんな北齋プロジェクト小さなひとも大きなひとも。外国のひとも日本のひとも。障がいのあるひともないひとも。たばこを吸うひとも吸わないひとも。みんな違うから、違いがあるから、おもしろい。時空を超え、あらゆるものを自由に描いた葛飾北斎。北齋が生きたすみだでは漫画家しりあがり寿氏とともに、障がい者アートでひととひとをつなぐ「みんな北齋プロジェクト」をすすめています。」 「両国西口公衆トイレ」前にあったのが、相撲力士をイメージさせる外形の「両国観光案内」地図。 「横綱手形のモニュメント」。 近づいて。元横綱鶴竜関のご協力のもと、手形レリーフをJR両国駅前のモニュメント台座に設置した。レリーフに手を当てて大きさを比べてみてください と。六角形の台座には横綱の手形が。第69代横綱・「白鵬 横綱在位 平成19年~令和3年」。第71代横綱・「鶴竜 横綱在位 平成26年~令和3年」。第73代横綱・「照ノ富士 横綱在位 令和3年~令和7年」。第70代横綱 日馬富士の手形は何故かなかったが・・・???「総武線」のガードを潜り、「両国駅西口」交差点の右側にあったのが「ちゃんこ霧島 両国本店」。東京都墨田区両国2-13-7。元大関・霧島(陸奥親方)が創業した陸奥部屋直伝の本格ちゃんこ鍋店。鶏ガラと豚骨ベースの秘伝「霧島味(醤油・味噌・塩のブレンド)」が特徴で、両国駅近くの本店は連日賑わう人気店 と。「ちゃんこ霧島」や「ジンギスカン霧島」を運営する株式会社霧島の代表取締役は、進藤 晴彦(しんどう はるひこ)氏。元大関霧島(陸奥部屋)の監修による本格的なちゃんこ鍋を提供しており、東京都内(両国・御徒町・新橋など)に店舗を展開中。優勝額「優勝 大関 霧島一博関 平成三年一月場所」もあった。 ガード下には「神輿庫 両武会」があった。 そして隅田川に向かって歩くと「一の橋通り」沿いにあったのが「中村部屋」👈️リンク。 東京都墨田区両国1丁目18−7。師匠 中村雅継(なかむら) 〈委員〉しこ名 関脇 嘉風(よしかぜ)本名 大西雅継生年月日 昭和57年3月19日生出身地 大分県生涯戦歴 649勝642敗30休受賞歴 優勝0回/殊勲賞2回/敢闘賞4回/技能賞4回「隅田川テラス入口」に向かって進む。隅田川テラスは、隅田川の両岸約47kmのうち約28kmに整備された遊歩道で、浅草や両国、中央区エリアなど多くの橋の階段・スロープからアクセス可能。主要な入口は、JR浅草橋駅(徒歩5分)、蔵前駅(A1出口から徒歩10分)、森下駅(徒歩5分)周辺にあり、スカイツリーを望む散策が楽しめます と。「隅田川」テラス入口」。 そして「隅田川橋梁(総武本線)」を見る。総武本線を両国駅から御茶ノ水駅まで延長するために隅田川に架けられた橋(1932(昭和7))で、両国駅と浅草橋駅の間に位置している。■橋の概要上部構造は3径間で隅田川を渡り、連続プレートガーダーのうち側径間(1径間目・3径間目)にヒンジを設けたゲルバー桁を基本としている。さらに、中央径間にはアーチ部材を組み合わせたランガー桁を採用し、本橋の外観上の特徴となっている。ランガー桁は、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つで、日本では本橋に初めて採用された。・種別 - 鋼鉄道橋・形式 - 3径間ゲルバー下路式ランガー桁・橋長 - 172m・支間 - 38m + 96m + 38m・線数 - 複線・活荷重 - KS-15・鋼重 - 1,365t・着工 - 1931年2月・竣工 - 1932年3月(昭和7年)・施主 - 鉄道省・橋梁設計 - 田中豊・橋桁製作 - 横河橋梁製作所 と。そして下流側に見えたのが「両国橋」。 流れる川は「隅田川」。 「小型キャビンクルーザー(ウォークアラウンド型)」が上流に向かって。隅田川左岸防潮堤に『隅田川テラスギャラリー』が。上流に向かい「隅田川橋梁(総武本線)」下を潜ると大きな錦絵が現れた。歌川国虎 「江戸両国橋夕涼大花火之図」。「両国橋の西側から、花火の夜の賑わいを描いたもの。この絵の一番の特徴は、なんといっても西詰(にしづめ)に広がる茶店と、そこに集う人々の活気に満ちた描写である。画面向かって左には「水菓子(みすがし)」という赤い行灯(あんどん)を置いて、西瓜、瓜、梨等の果物が売られている。画面中央には、半月型の西瓜をほおばる少年の姿もみえる。このほか、飴売り、水売りなど、さまざまな店の様子がわかっておもしろい。」 隅田川の「主な潮位記録■A. P. (Arakawa Peilの略)明治6年10月、現在の中央区新川ニ丁目地先の隅田川に設置された霊岸島量水標の最低潮位をもって定められた水位を基準とした高さの表示方法です。」 ▼A.P. +5.02m 伊勢湾台風級が来た場合 昭和34年9月(名古屋)▼A.P. +4.21m 高潮 大正6年9月▼A.P. +3.55m 台風20号 昭和54年10月▼A.P. +3.15m 台風15号 平成13年9月 (キティ台風) (昭和24年9月)「豊国三代「東都両國川開之圖」」 「隅田川の西岸から、芸者が舟に乗り込もうとしている。岸に寄っている屋形舟には、既に数人の女性達が乗って、何か話しかけているようだ。画面に向かって左からは、提灯を下げた女性と料理の皿を持った女性もやってくる。田川に舟を浮かべて、料理を食べながら花火を楽しむのは、江戸の夏における最高の楽しみであった。両国橋の下の舟に、作者の名前「歌川」の文字を入れた提灯が下がっている。」 「喜多川重政 両國橋納涼圖 享和3年(1803)頃」 「両国橋は万治2年(1659)に完成した(寛文元年(1661) の説もある)。当初は「大橋」と名付けられていたが、のちに新大橋か架橋されたため、俗名であった両国橋が正式な名称となった。詞書によると、とても暑い日は隅田川に船を浮かべて涼む人達がとても多く、陸地と水面との境が分からない程の賑わいであったという。」 再び総武本線が通過する「隅田川橋梁(総武本線)」を見る。屋形船が橋の下を通過。そして隅田川テラスには、手摺に刻まれた「相撲の四十八手」が紹介されていた。「くじきだおし」。相撲の「四十八手(しじゅうはって)」における「くじきだおし」は、日本相撲協会が定める現代の「決まり手八十二手」には含まれない、江戸時代から伝わる古風な四十八手の一つ。 技術的には、相手の差し手を抱え込み、上手から前へ攻めて(あるいは捻って)倒す技を指します と。「のぼりがけ」。 「ひさごまわし」。 「しきこまた」。 「しぎのはがえし」。 「きぬかつぎ」。 「橋本貞秀 東都両國夏景色」。 「花火で賑わう両国橋界隈の様子を、西側から大胆に湾曲した構図で描く。橋に向かって右側、つまり下流側に大きく花火と煙が上がっている。上流には遠く筑波山を望む。壮大な光景となっているが、見る者が最も驚かされるのは橋の上をびっしりと埋め尽くす人の頭と、川面を覆うおびただしい数の船であろう。手前に広がる西岸の水茶屋(みずぢゃや)の前も人であふれかえっている。両国花火の大混雑は、今も昔も変わらない。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.28
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「相撲博物館」の見学を終え、外に出て再び「櫓太鼓」を見上げる。高さ約16m(ビル4階相当)の鉄骨製の櫓の上で、呼び出しが太鼓を打つ伝統的な演出。開場を告げる「寄せ太鼓」や、その日の相撲終了後に打たれる「跳ね太鼓(はねだいこ)」が有名で、相撲興行のシンボルとして親しまれている。・櫓(やぐら)の概要: 国技館の北西の角に設置された、鉄骨製のやぐら。太鼓を打つ場所は 約2.1m四方。第二次世界大戦後、櫓は本場所ごとにヒノキの丸太を組み、 縄で結ぶようにしていたが、平成7年(1995年)5月1日、両国国技館の 櫓はエレベーターの付いた鉄骨製のものとなった・役割: 江戸時代からの「公許興行(幕府の許可を得た興行)」の証であり、現在はその日の開催を 伝える役割を持つ。・太鼓の種類: ・寄せ太鼓: 開場と同時に打たれる。相撲が始まることを知らせる。 ・跳ね太鼓: 結びの一番が終わった後に打たれる。その日の興行が無事に終了したことを 伝える。・演奏者: 相撲の呼び出し と。2025年5月23日(金)に高校時代の3年のクラス仲間4人で「大相撲・五月場所」👈️リンク の13日目の観戦に両国国技館に行った時の「櫓太鼓」の写真。・前場所優勝の大関大の里は、この場所が綱取りのかかる場所だった。 ・その大の里は、初日からの13連勝を果たし、13日目に幕内最高優勝を決めた。13日目での 優勝決定は2015年1月場所の白鵬以来のことである。大関の13日目優勝決定は、 2012年1月場所の把瑠都以来、日本出身力士となると、1996年9月場所の貴乃花以来である。 ・大の里は、2021年9月場所・2021年11月場所の照ノ富士以来となる連覇を達成した。 ・大の里は場所後の5月28日に第75代横綱に昇進した。初土俵から所要13場所での昇進は、 横綱が番付上の地位として明文化された明治42年以降で最速。 「両国国技館」正門を内側から見る。 「両国国技館」の「館内入口 メイン・エントランス」。 扁額「國技館」。誰の書なのであろうか?敷地内にあった2社の「稲荷神社」を訪ねた。力士たちの開運、出世そして、興行の成功祈願や勝利祈願に祀られたものだと言われています。両社とも、国技館の移転のたびに遷座して来たのだ と。左:豊國稲荷神社。扁額「豊國稲荷神社」。 「豊國稲荷神社」。名前から、豊臣秀吉を連想する人も多いが、ここは秀吉とは直接の関係はない。この神社は、相撲茶屋や案内所など、興行を支える人たちが、商売繁盛と興行の成功を願って祀ったもの。「国技館が、豊かに栄えるように」その願いが「豊国」という名に込められている。春に神社を彩る代表的な花木「ハナカイドウ(花海棠)」であっただろうか。そしてこちらは右:出世稲荷神社。こちらは、日本相撲協会が、力士たちの出世と開運を願って祀った神社。番付が上がる、勝ち星を重ねる、怪我なく土俵に立ち続ける。力士にとっての「出世」を、静かに見守る存在。中央に巨石を刳り抜いた手水鉢・御手洗。奉納者の地域、名前が刻まれていた。まるで双子のように、同じ石鳥居、狛狐、社殿が並んでいた。再び「櫓太鼓」👈️リンク頂部を見上げて。「両国国技館」正面入口の右、櫓の横に「御製記念碑」が設置されていた。昭和天皇の御製「ひさしくも みざりしすまひ ひとびとと 手をたたきつつ 見るがたのしさ」.昭和天皇が初めて蔵前に行幸した際に詠んだ御製歌 と。「昭和三十年五月、天皇陛下親しく蔵前国技館に行幸 はじめて国民と共に本場所を観覧あらせられた。陛下は終戦時國民を想い、「五内為ニ裂ク」と仰せられた。又日常国民の上に御心の安まる間とてもない。然るに御観覧中は椅子を進められ、拍手を送られ大衆も之に和するという光景を現出したのであった。天皇が一般国民と一つになって我國の國技たる相撲を御覧になった和やかな情景は戦前には見られないことであった。陛下がかくもお喜びになったことが新聞・ラジオ・テレビジョンによって傳えられるや國民全体はまた心の底から喜んだのである。これは其時の御製であって翌年正月初めて發表せられたものである。我國相撲道の發展興隆期して待つべく大日本相撲協會の光榮まことに大なりと言うべきである。昭和三十一年九月十五日 大麻唯男 謹識」 昭和三十年五月場所の「天覧相撲」の写真をネットから。 「さざれ石」。 「国歌君が代に詠まれているさざれ石この石は学名を石灰質角礫岩と云う。石灰質の石が雨水に溶解し其石灰分をふくんだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下にて小石を集結して次第に大きくなる。やがてその石が地上に出て国歌に詠まれているの如く、千代八千代 年をへてさざれ石が巌となりて苔のむすと云う景観実に目出度い石である。全国至る処石灰質の山に産する石であるが特にこの石は国家発祥の地と云われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので其集結過程の状態はが此の石を一見してよく知ることが出来る。繁栄と団結、平和と長寿の象徴を讃歌しためでたい石であります。」 「太鼓櫓」を真下から見上げて。 先ほど訪ねた「相撲博物館」への入口。 「ヤマザクラ」であっただろうか? 移動して。幹が根本から数多くに分岐して。入口の警備員詰め所。二階席入口への石段。「両国国技館」を出て、「国技館通り」沿いの西側の遊歩道から「櫓太鼓」を再び見上げて。 「櫓太鼓」の手前に「忠臣蔵 俵星玄蕃の道場跡」案内板。 そして引き返すと、「両国駅広小路」案内板があった。JR両国駅西口イベント広場、かつての両国広小路を蘇らせたように、 人々が集い賑わう場にしたいと命名した と。 「両国駅」西口を見る。国技館と江戸東京博物館が駅西口を出てですぐの場所にあり、ちゃんこ鍋で有名な店も多い両国駅。改札は東西二箇所あるが、大きいのは歴史感じさせる駅舎が残る西側(浅草橋寄り)の出口で、改札手前には横綱の全身を描いた大きな絵が飾られていた。改札前はかなりのスペースもあり、外に出てすぐの場所右の角に「力相撲」の石像が置かれていた。 「旧安田庭園」、「両国船着場」案内図。 近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.27
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「力士の歴史古墳時代、褌(ふんどし)を身につけた現代の力士のようなかっこうをした人物装飾が「力士」の最も古い例。平安時代の相撲節(すまいのせち)になると、全国から「相撲人(すまいびと)」という競技者が集められる。一番の実力者は「最手(ほて)」、それに次ぐ者を「腋(わき、脇・最手腋とも)」と呼んだ。中世中期頃には相撲を生業とする「相撲取(すもうとり)」がみられ、江戸時代中期に「力士(りきし)」と呼ばれるようになった。」 「立行司」と「軍配」。 「立行司 28代 木村庄之助山形県鶴岡市出身、1938年(昭和13)初土俵、20代木村庄之助の元に入門、養子となる。1991年(平成3)に庄之助襲名。相撲の故実にも詳しかった。」 「8代 式守錦太夫使用の軍配」 「8代 式守錦太夫使用の軍配 1966年(昭和41 )1962年に錦太夫を襲名している。」 「8代 式守錦太夫使用の軍配」 「8代 式守錦太夫使用の軍配 1963年(昭和38)8代式守錦太夫は後の28代庄之助」 ロサンゼルス巡業 パンフレット 1976年(昭和51 ) 6月「輪島」と「北の湖」の写真とサイン。 「ロサンゼルス巡業パンフレット1976年(昭和51) 6月サインはロサンゼルスで寄贈者の知人が幕内力士に求めたもの。この後、ホノルルでも巡業が催された。」 「ロンドン公演記念 ステッカーとカード」。 葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪浦』に会場と力士を配す。「ROYAL ALBERT HALLCREAT WAVE OF SUMO IN LONDONThe Great Wave, the most recognisable Japanese artwork in the world, was created by Hokusai at around seventy, after nearly sixty years of painting.This special edition commemorates the 2025 Sumo Tournament at the Royal Albert Hall, blending heritage with celebration.Scan to discover more」 【ロイヤル・アルバート・ホールロンドンにおける相撲の大波「神奈川沖浪裏(グレート・ウェーブ)」は、世界で最もよく知られている日本美術作品であり、葛飾北斎が約70歳の頃、ほぼ60年に及ぶ画業の末に制作したものです。】「ロンドン公演記念 ステッカーとカード 2025年(令和7)ロンドン公演を記念して会場のロイヤル・アルバート・ホールで販売されたもの。葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪浦』に会場と力士を配す。大相撲と北斎の人気で、販売開始後、すぐに完売した。」 「立行司 20代 木村庄之助栃木県鹿沼市出身、1886 (明治19)初上俵、1933年(昭和8 )に庄之助襲名。優れた見識で、行司の名誉称号「松翁」の名乗りを許された。」 「奮闘努力(ふんとうどりょく)」。 「奮闘努力(ふんとうどりょく) 20 代木村庄之助 書1933~1940年(昭和8~15)頃」 「関脇 天竜 三郎(てんりゅう さぶろう)」 「関脇 天竜 三郎(てんりゅう さぶろう)静岡県浜松市出身、1928年(昭和3)」新入幕。大関争いに加わるなど幕内上位で活躍。1932年に相撲界の改革を訴え相撲協会を脱退。戦後は相撲解説者をつとめた。 「国技之精華(こくぎのせいか) 天竜三郎 書」。「国技之精華(こくぎのせいか)」 天竜三郎 書1930~1937年(昭和5~12)頃「国技」相撲が優れていること、華やかであることを示す言葉。」 下部に「美いくさの華 1940年(昭和15)」 「美いくさの華 1940年(昭和15)当時、中国で働いていた寄贈者の父が、同年10月5日に杭州神社で催された巡業の際、当時横綱の男女ノ川、大関前田山(後横綱)ら幕内力士にサインを貰ったもの。「美いくさ」とは、「皇軍」と同義で、兵士を敬う語。」 「力士寄せ書き1933~1934年(昭和8~9)頃寄贈者の母が所有していた色紙。双葉山はじめ当時の幕内力士のサイン。双葉山が横綱に昇進するのは1937年(昭和12)だが、この寄せ書きはそれ以前、前頭時代のものと思われる。」 「34代 横綱 男女ノ川 登三 (みなのがわとうぞう)茨城県つくば市出身、1936年(昭和11)横綱昇進。2m近い長身で怪力。引退後に、衆院選出馬や私立探偵だった時期があるなど、話題となった。」 「寿 男女ノ川登三 書 1936~1942年(昭和11~17)頃」。 「新規収蔵資料のご紹介当館では、毎年多くの皆様から相撲に関する貴重な資料をご寄贈いただいております。今回は2022 ~2025年(令和4 ~ 7 )までに収蔵した資料を初公開いたします。大相撲の歴史・文化を感じながら、ご覧いただけましたら幸いです。ご寄贈いただいた皆様には、厚くお礼申し上げます。」 「相撲博物館」の奥から入口方向を振り返って。 入口を見る。入口の先の床には実物大の「土俵」が描かれていた。 「国技館来館記念」のスタンプをいただきました。日にちが入ってほしいのであった。そして、「相撲博物館」の向かいには「公益財団法人 日本相撲協会」👈️リンク があった。「日本相撲協会は実は公益法人。「日本の伝統で国技である相撲を維持・発展させる」ことを目的として、1925年以来財団法人としていたところを2014年に公益財団法人に移行しました。実際は興行という営利及び職業目的の相撲をメインで行う団体なのですが、若い世代への相撲の普及、相撲教習所・国技館・相撲博物館などの維持運営を事業の柱とすることを建前として公益財団法人として認められています。八百長や暴力問題でしばしば相撲協会が取沙汰されるのは、公益法人として疑問に思う人が多いからというのが根本にあったりします。他にも各部屋を通して協会に登録されている力士・行司・床山を育成する形で相撲の伝統と秩序を守っています。協会を構成している協会員は年寄・力士・行司・呼出・床山・若者頭・世話人など。そのうち運営を行っているのは外部からの数名と「年寄」と呼ばれる親方たちで構成される理事会です。年寄は現役時代に活躍した実力者でないと年寄名跡は襲名できないことが殆どなので理事は有名な元力士ばかり。」とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.26
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「武家相撲絵巻(模本)」👈️リンク。平安初期の皇位継承の逸話と伝わる伴能雄(善男)と紀名虎による相撲、平安末期の巻き狩りで行われた河津三郎祐泰と俣野五郎景久による相撲が描かれている。作者 :三村晴山、井上昆得、岩崎信盈模、原本:狩野山雪筆時代世紀:江戸時代・天保11年(1840)、原本:江戸時代・17世紀「河津心をかへて思ひけるは、さすかまたのはすまふの大番つとめに都にのほり三年の間都にてすまふになれ、一度もふかくをとらぬもの也、其故に院内の御目にかゝり、日本一番の名をえたるすまふ也、今こゝもとにて物の手もなくまかさん事は、かへりていひかひなし、とおもへは、ニ度めにはさしより、左右のかひなをつかんてさう人のうへにをしかけ、ひさをつかせて入にけり」 「以前もかちたるすまふを御ろん候間、今度は まん中にて片手をもつてうち申したり、いまた御ふしんや候へき、御覧しつるか人々、といふ」 「右相撲圖、在前者能雄・名虎之事、在御者河津・俣野之事也、東泰院前門主為所進将軍家、使 先君山雪始圖之 永納識」 「以前もかちたるすまふを御ろん候間、今度は まん中にて片手をもつてうち申したり、いまた御ふしんや候へき、御覧しつるか人々、といふ右相撲図、在前者能雄・名虎之事、在御者河津・俣野之事也、東泰院前門主為所進将軍家、使 先君山雪始図之 永納識」 「大意河津は「さすが俣野は都に上り、三年間一度も負けず、日本一の名を得た相撲取りである。今ここで簡単に負かせるのは、もったいない」と思い、二度目には差し寄って、両腕を掴んで見物人の方に押しかけ、膝をつかせた。俣野は「木の根につまずいて負けた。もう一度取ろう」と言った。大庭景義(俣野の兄、相模国の武将)が「確かに木の根がある。真ん中で勝負したまえ」、伊東祐親(河津の父、伊豆国の武将)も「河津の膝は少しぐらついているように見えた。木の根につまずいたなら恨みもあろう。出あいなされ」と言うと、河津は前に出てきた。俣野も出ようとしたところ、一族の者が「いかに取っても勝てないだろう。二度目の負けになるぞ」と言った。俣野が「河津は力は強いが、相撲の故実は知らない」と言い捨ててなおも出ようとしたので、一族の者は、色々な手を教え、取組が始まった。俣野は教えの通りつま先を立て、腕を上げ、隙あらばと狙った。河津は相撲はこれが初めてだったので、歩み寄り、右腕を伸ばし、俣野のまわしを引き寄せて目より高く上げ、片手で地面に打ち付けた。俣野は起き上がり、「相撲に負けるは常の習い、おまえの片手技は何だ」と言えば、河津は「先ほどの勝った相撲でもおまえが意見を言ったので、今度は真ん中で片手てやったのだ。未だに疑いがあるのか。御覧になったか皆さん」と言った。右の相撲図の前半は能雄・名虎、後半は河津・俣野の取組である。東泰院前門主(東本願寺十三代法主宣如)が(徳川)将軍家に進呈するため、先君の山雪に命じ図を描かせた。 永納識」 「相撲の神様野見宿祢神社」■野見宿祢とは 『日本書紀」に登場する相撲の神様。出雲国(島根県)出身と伝えられています。垂仁天皇7年7月7日、天皇の前で大和国(奈良県)に住んでいたという剛勇・當麻蹶速(たいまのけはや)と相撲を取って勝ちました。この対戦は相撲の起源説話として広く知られ、勝った宿禰はのちに相撲の神様として祀られるようになりました。宿禰は蹶速の領地を賜り、長く垂仁天皇に仕え、埴輪を考案したという逸話もあります。埴輪づくりや古墳の造営に携わった古代の豪族・土師氏は宿禰の後裔といわれています。「大日本史略図会野見宿禰清涼殿の南庭に於て當麻の蹶速を蹴殺す安達吟光画明治18年( 1885 )」(ネットから) 「野見宿祢神社 授与所■野見宿禰神社東京都墨田区亀沢にあり、野見宿禰を祀っています。明治18年( 1885 )、高砂浦五郎をはじめとする相撲関係者の尽力により津軽藩の上屋敷跡地に創建されました。その後、大正12年( 1923 )の関東大震災や昭和20年( 1945 )の東京大空襲により全焼しますが、28年に再建されます。再建の際には、日本相撲協会により歴代横綱記念碑も建てられました。東京での大相撲本場所開催前には、日本相撲協会の理事長・審判部長らが出席して例祭が行われ、新横綱の奉納土俵入りは話題を呼んでいます。大阪府高槻市の野見神社や鳥取市の大野見宿禰命神社(おおのみのすくねのみこと)をはじめとする各地の神社でも宿禰は祀られています。また奈良県桜井市・兵庫県たつの市・島根県松江市などには宿禰の墓と伝わる地があります。」 相撲博物館展示室で、野見宿禰神社の御守・御札を授与していました。相撲とは「案内画面」。 「相撲の文化」の案内画面。 「相撲の歴史」の案内画面。 「神話 相撲の起源とされる国譲りの神話天照大神(あまてらすおおみかみ)が大国主命(おおくにぬしのみこと)に支配地・葦原中国(あしはらのなかっくに、日本のこと)を譲るようにと、建御雷神(たけみかづちのかみ)と天烏船神(あめのとりふねのかみ)を派遣。大国主命の子・建御名方神(たけみなかたのかみ)は、出雲国稲佐浜(島根県出雲市)でのカ競(ちからくらべ)を提案し、建御雷神が勝利。葦原中国は天照大神のものとなった。」 「神話 相撲の神・野見宿禰の誕生神話大和国當麻(奈良県葛城市)に住む當麻蹶速(たいまのけはや)はとても力が強く、より強い者を探し求めていた。それを聞いた垂仁(すいにん)天皇は、出雲国で強者と言われていた野見宿禰(のみのすくね)を探し出し、蹶速と御前で戦わせることとした。宿禰は蹶速のあばら骨や腰の骨を折って殺し、勝利。勝った宿禰には蹶速の領地が与えられ、垂仁天皇に仕えることとなった。勝った宿禰は現在、相撲の神様として祀られている。」 テレビでは、「大相撲ロンドン公演・ロンドン観光の様子」についても放映されていた。 2025年10月15日〜19日に英国ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、34年ぶりとなる大相撲ロンドン公演が開催されたのであった。「ロンドン公演2025年(令和7 ) 10月15日から19日までの5日間にわたって、ロイヤル・アルバートホールで開催されました。連日盛況だった公演の様子、力士たちが訪れたロンドンの風景などを紹介いたします。」 「豊昇龍」と「大の里」のロンドン公演のポスター。近づいて。「豊昇龍」。「大の里」。「ロンドン公演」の会場は「ロイヤル・アルバート・ホール」👈️リンク ここは昨年・2025年6月9日に「アイルランド旅行」に帰路に立ち寄ったのであった。 「土俵築(どひょうつき) 2025年(令和7 ) 10月13日10月11日のイベント終了後から設営が始まり、土俵築は呼出し8人に現地スタッフを加えて行われた。イギリス中部の土11トンを使用した。」 「土俵築」。 ネットから。バッキンガム宮殿前にて。「バッキンガム宮殿 2025年(令和7 ) 10月14日出羽海親方(元小城乃花)や豊昇龍をはじめとする関取、関係者による記念撮影。」 ウェストミンスター橋の近くでホットドッグを買った豊昇龍が、大の里に分けて一緒にほおばる。「ウェストミンスター橋の近くで 2025年(令和7 ) 10月14日ホットドッグを買った豊昇龍が、大の里に分けて一緒にほおばる。」 ネットから。寄せ太鼓。「寄せ太鼓 2025年(令和7)10月15日呼出し啓輔(けいすけ)が会場の外で太鼓を叩いて、初日の開場を知らせた。」 ロイヤル・アルバート・ホール前にて。「大相撲ロンドン公演」は、2025年10月15日から5日間開催された。前回は1991年の開催でしたが、日本文化への関心の高まりもあり、34年ぶりの公演が実現した。ネットから。今回の公演では、大の里・豊昇龍の両横綱を筆頭とする幕内力士のほか、親方・行司・呼出・床山といった裏方まで総勢120名が渡英し、日本の伝統文化を総力で届ける形を取った。「ロイヤル・アルバート・ホール前にて 2025年(令和7) 10月15日ロンドン公演は1991年(平成3 )以来、34年ぶり。初日となる10月15日に会場の前で記念撮影。」 協会ごあいさつ。「協会ごあいさつ 2025年(令和7)10月15日初日の取組前に一同勢揃いで、八角理事長(元横綱北勝海)があいさつ。相撲は、日本の神事、文化であることを紹介した。」 「幕内土俵入り」。 「幕内土俵入りロンドン公演のチケットは完売し、5日間満員御礼となった。ロイヤル・アルバート・ホールは、1871年の開場で、コンサートやスポーツなどが行われる。」 スタンフォードプリッジの見学ツアーに参加した伯桜鵬(左)と藤ノ川(右)。「スタンフォード・プリッジ 2025年(令和7 ) 10月16日サッカー、イングランド・プレミアリーグに属するチェルシーの本拠地であるスタンフォード・プリッジの見学ツアーに、伯桜鵬(左)と藤ノ川が参加した。」 5日間の日程で行われた大相撲の海外公演は19日、千秋楽を迎えた。優勝争いは、それぞれ4連勝していた大の里と豊昇龍による横綱どうしの対戦となり、豊昇龍が「送り出し」で勝って優勝を決めると、会場は相撲ファンの大きな歓声に包まれた。表彰式。トロフィーを手にする豊昇龍。表彰式。「表彰式 2025年(令和7 ) 10月19日優勝は豊昇龍、殊勲賞を翔猿、敢闘賞を高安、技能賞を宇良が受賞した。宇良は観客の投票によるオーディエンス賞にも選ばれた。」 閉会式。「閉会式 2025年(令和7) 10月19日大の里が一団を代表して、英語でお礼を述べたのち、全員が四方に礼をして手を振った。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.25
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入ると正面・北側の展示コーナーをさらに追って。まずは「北の湖敏満の着物」。 「北の湖敏満の着物 三保ヶ関国秋 画北の湖が師匠・三保ヶ関(大関・増位山)から贈られた。三保ヶ関は北の湖や増位山(長男)・北天佑の両大関をはじめ多くの関取を育て、趣味の絵もニ科展に入選する腕前だった。」 「若乃花像」。 「若乃花像(立合いの一瞬の姿) 石井鶴三 作 1959年(昭和34)1958年度「第1回報知新開社年間最優秀力士賞」として制作。石井は、若乃花の立ち合いの気合いと弾力のある精悍な持ち味を出すことに苦心したという。」 「栃錦像」。 「栃錦像(仕切にはいる一瞬の姿) 石井鶴三 作 1961年(昭和36)1959年度「第2回報知新開社年冏最優秀力士賞」として制作。銅像を見た栃錦は、これまで自分も知らなかったくらい厳しい表情をしていると語った。」 「相撲(一)」。 「相撲(一) 石井鶴三 画 1959年(昭和34 )1958年(昭和33)十一月場所千秋楽、朝汐(当時大関、のち46代横綱)と若乃花(45代横綱)の取組を描いている。勝った朝汐は4回目の優勝を遂げた。」 「石井鶴三」氏。 「石井鶴三自身の作品である水彩画「相撲(ニ枚蹴り)」や彫刻「上手投げ決まる」とともに写っている。好角家で、横綱審議委員や相撲博物館館長を務めた。」 「出羽海部屋の風景 前田青邨 画」 「髷結い」。 「くつろぎ」。 「風呂」。 「出羽之海部屋 前田青邨 画 1963年(昭和38) 秋土俵祭や稽古、風呂、髷結いなど相撲部屋での生活風景を描いている。『洞窟の頼朝』(重要文化財)をはじめ数々の作品を残した日本画の前田青邨(1885 ~ 1977)は、年寄出羽海(元出羽ノ花)と知り合いで、出羽海部屋を訪れて下絵を描いた。」 「栃河童の横綱土俵り 火野葦平 画・書」 火野葦平が記した色紙「栃河童(とちがっぱ)の土俵入り」(1959年)。栃錦に対し「前頭のころからずっとあなたのヒイキでした」と書いている。「栃河童の横綱土俵り 火野葦平 画・書 1959年(昭和34 )火野葦平( 1907 ~ 1960 )は、福岡県北九州市出身の小説家。代表作に『麦と兵隊』『花と竜』がある。1959年(昭和34 )七月場所、長らく応援していた栃錦が優勝を決めた際に記した色紙である。」 「おさるのすまひとり 前田青邨・安田靫彦画 1920年(大正9)前田青邨(1885 ~ 1977)と安田靫彦(1884 ~ 1978)、二人の日本画家による合作。干支にちなんで猿を題材に、横綱土俵入りを描いている。ニ人とも大相撲とのつながりが深い。」 さらに北側の展示コーナーを追う。「角カ図 富岡鉄斎 画」。 「角カ図 富岡鉄斎 画 1920年(大正9 )頃富岡鉄斎(1837 ~ 1924)は、京都市出身の日本画家、儒学者で、最後の文人画家といわれる。江戸時代後期の随筆と松尾芭蕉の句「裸身て あらそふものや 月と風」を記し、取組の絵を描いたもの。」 「寿 双葉山定次 書」 「寿 双葉山定次 書 1937 ~ 1945年(昭和12 ~ 20 )頃慶事を代表する文字である寿は、力士が書くことが多い。」 「右:双葉山定次 手形 上:双葉山定次使用の太刀拵(こしらえ)」 「双葉山定次 手形」 「双葉山定次使用の太刀拵(こしらえ) 1937~1945年(昭和12~20)頃横綱は太刀持ち、露払いを従えて土俵入りを行う。鞘の蒔絵には桐の紋があしらわれている。」 「3 5代横綱双葉山定次本名 穐吉定次(1912 ~ 1968)部屋 立浪→双葉山道場出身地 大分県宇佐市初土俵 昭和2年(1927)三月場所新横綱 昭和13年(1938)一月場所最終場所 昭和20年(1945)十一月場所幕内成績 276勝68敗1分32休 優勝12回未だに破られていない69連勝のほか、全勝優勝8回など数々の記録を残した昭和を代表する力士。時津風部屋を創設したほか、相撲協会の理事長として活躍した。」 「常陸山谷右衛門使用の締め込み 明治時代後期~大正時代常陸山から栃木山にゆずられ、師弟ニ代で使用した。栃木山は引退後に記念に保存していたが、1953年(昭和28)に後の相撲博物館初代館長・酒井忠正(1893 ~1971)に贈呈した。」 左:「大砲万右衛門・常陸山谷右衛門手形」 右:「而有威不猛(いありてたけからず) 常陸山谷右術門 書」「大砲万右衛門・常陸山谷右衛門手形 1900年(明治33)」 「大砲万右衛門・ 常陸山谷右衛門手形 1900年(明治33)直前の五月場所、大砲は大関、常陸山は関脇で、のちにともに横綱に昇進した。中指の先から手首まで、大砲は約21.5 cm、常陸山は約20.5 cm。」 「而有威不猛(いありてたけからず) 常陸山谷右術門 書」。 「而有威不猛(いありてたけからず) 常陸山谷右術門 書 明治~大正時代威厳はあるが、荒々しくないの意。『論語』で、中国の思想家・孔子(BC552 ~BC479)の人柄を弟子たちが評したもの」。 「常陸山谷右衛門使用のシルクハット & ステッキ」。 「常陸山谷右衛門使用のステッキ 明治~大正時代常陸山はステッキを愛用した。このステッキは、常陸山の大麻唯男(1889~1950、後の国務大臣)へ結婚記念として贈ったもの。1944年(昭和19)に大麻から常陸山の遺弟子、年寄藤島(31代横綱常ノ花)に譲られた。」 「常陸山谷右衛門使用のシルクハット」。 「常陸山谷右衛門使用のシルクハット 1907年(明治40)ニューヨークの帽子メーカ—Dunlap社製。ルーズベルト大統領謁見に備えて渡米後にあつらえた。ケースにはランドホテルなどのステッカーが貼られている。」 ステッキを持つ「常陸山谷右衛門」。 「1 9代横綱常陸山谷右衛門本名 市毛 谷(右衛門) (1874 ~1922)部屋 入間川→出羽海→中村(大阪)→出羽海出身地 茨城県水戸市初土俵 明治25年(1892) 六月場所 序ノロ新横綱 明治37年( 1904 ) 一月場所最終場所 大正3年( 1914 ) 五月場所幕内成績 150勝15敗22分 2預 131休 優勝1回梅ヶ谷(2代)と明治後期の大相撲を支え、角聖といわれた大横綱。出羽海部屋で、横綱大錦、栃木山、常ノ花をはじめ、多くの力士を育てた。」 「相撲人の図」 「相撲人の図 黙堂 画 1830年(文政13 )絵の上には、野見宿禰と當麻蹶速の対戦、行司の始まりともいわれる志賀清林(しがせいりん)について記してある。」 「人皇十一代垂仁天皇七年出雲國野見宿稱大和國・・・・・」 行司の始まりともいわれる「志賀清林(しがせいりん)」図。 「相撲人の図 狩野養信(かのうおさのぶ) 画?」 「相撲人の図」に近づいて。 「相撲人(すまいびと)の図 狩野養信(かのうおさのぶ) 画? 江戸時代後期当時の廻しである犢鼻褌(とうさぎ)を、相撲長が直す場面はよく描かれている。狩野養信(1796 ~ 1846)は、江戸時代の御用絵師狩野派に属す。養信の作、あるいは模写であろうか。」 「相撲節会(すまいのせちえ)734年(天平6)、聖武天皇が相撲を天覧したのが始まりで、793年(延暦12)、桓武天皇の天覧以降恒例行事となった。各地に相撲使(部領使)を派遣して優秀な相撲人を集め、本番である召合のほかに、左右それぞれの取組順を決める内取、召合翌日の抜出(選抜戦)など、1カ月近くの行司があった。平安時代末期には、武家の台頭などによって衰退し、1174年(承安4)を最後に行われなくなった。当時、土俵はないが、足の裏以外が地面につくと負けとなり,相撲のルールの原型ができた。また、各地の奉納行事にも影響を与え、相撲が全国に広がる要素となった。」 「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図 恵所 画」 「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図 恵所 画」 「野見宿禰と當麻蹶速対戦の図 恵所 画 1885年(明治18)墨田区亀沢にある野見宿禰神社は、この絵が描かれた1885年の創建。当時は高砂部屋があった場所で、新横綱は昇進後の東京場所前に横綱土俵入りを奉納する。」 「野見宿禰(のみすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の取組『日本書紀』垂仁天皇を7年7月7日に、無敵を誇っていた大和の當麻蹶速に対し、垂仁天皇が出雲の野見宿禰を召し出して取り組ませると、宿禰は蹶速の腰骨を折って勝利した。垂仁天皇に仕えた野見宿禰は、のちに埴輸を創始したとの話があるとともに、相撲の神として尊崇された。墨田区亀沢の野見宿禰神社をはじめとして、各地に野見宿禰を祀った神社がある。」 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2026.04.24
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再び「両国国技館」前の「国技館櫓太鼓」を見上げる。櫓太鼓(やぐらだいこ)とは、その名の通り櫓の上で叩く太鼓のこと。両国国技館の櫓は高さ5丈3尺・16m、ビル4階ほど。底面は一辺3mほどの正方形で、これが垂直に伸びている。櫓のてっぺん、太鼓を打つ場所が2.1m四方しかない。 ここに呼び出しが2人入るのだから、狭い狭い。平成7年5月からこの鉄骨製の櫓が使われている。 それまでは檜を80本くらい使って、それぞれを縄で結わえて築いていたのだ。今でも地方場所ではそうしている と。 だから櫓には「攀じ登る」という形になっていた。ここ両国のはエレベーターがついている。鉄骨製の櫓は戦前の両国国技館にもあった。 昭和12年1月、国技館のわきに相撲協会の事務所ができたとき、その屋上に設けられた。朝の「寄せ太鼓」は開場(午前 08:30)の前後15分間の合計30分、朝の街の空気を切り裂く生太鼓の音は素晴らしいのである と。「国技館切符売場」と「中央入口」。 移動して。右側「切符売り場」。 近づいて。左側「切符売場」。 「大相撲五月場所2026.5/10(SUN)~5/24(SUN)完売御礼」と。 「ヤマザクラ」も開花中。近づいて。「ヤマザクラ バラ科」。 「相撲博物館」入口を見る。 「芸術と相撲展」が開催されていた。 写真撮影可と。「宝富士引退 桐山襲名 披露大相撲」 ポスター。令和8年5月31日(日) 於両国国技館。「相撲図」 「相撲図 山本芳翠画 明治時代山本芳翠(1850 ~ 1906)は、本場フランスで学んだ西洋画法を日本に伝えた洋画界の先駆者。代表作品として重要文化財「裸婦」がある。本作は、1884年(明治17)3月10日に芝・延遼館で開催された明治天皇の天覧相撲における熱戦をモチーフに描いた作品。皇室とも関係の深い芳翠はフランスから帰国した1887年(明治20)以降に手がけたものと思われる。土俵上で対峙するのは、直前に昇進した15代横綱・梅ヶ谷藤太郎(初代)と幕内・大達羽左衛門(最高位・大関)。ニ度の水入りを経て引き分けとなったこの大一番は、当時、沈滞していた相撲人気を大いに高めることとなった。」 入って左側・西面の展示。横綱の美しい化粧廻し3点セット。左は50代横綱・佐田の山、右は46代横綱・朝潮の化粧まわし。この右の化粧廻し、白黒のグラデーションが全て手作業での刺繍でたいへん素晴らしい!!「50代横綱 佐田の山晋松」 ・化粧廻し。風神図。「5 0代横綱佐田の山晋松本名 佐々田→市川晋松(1938 ~ 2017)部屋 出羽海出身地 長崎県南松浦郡新上五島町初土俵 昭和31年(1956)一月場所新横綱 昭和40年(1965)三月場所最終場所 昭和43年(1968)三月場所幕内成績 435勝164敗52休 優勝6回 殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞1回突っ張り、右四つからの寄り、投げを得意とした。化粧廻しは、日本画家の前田青邨(1885 ~ 1977)の風神雷神が原画である。」 「佐田の山前田青邨(まえだせいそん)の風神雷神(三つ揃い)SadanoyamaーFujin and Raijin by Maeda Seison (Mitsuzoroi)佐田の山の横綱昇進のタイミングで贈られた三つ揃い。文化勲章受章の日本画家・前田青邨が描いた風神と雷神が原画となっている。刺繍職人の関谷登美治によって色鮮やかで、精巧な刺繍が施されている」 「佐田の山晋松(さだのやま・しんまつ)本名は市川晋松。第50代横綱。昭和13 (1938)年2月18日生まれ、長崎県出身。同31 (56)年1月、初土俵を踏む。同40 (65)年3月場所、新横綱。同43 (68)年3月場所での引退後は、出羽海部屋を継承。日本相撲協会の理事長3期目からは名跡を「境川」に変えて部屋を譲り、協会運営に専念した。平成29 (2017)年、79歳で死去。優勝6回。現役時代は182センチ、129キロ」 雷神図。近づいて。風神図。「佐田の山晋松 横綱土俵入り」。 「佐田の山晋松 松田光博 画 1977年(昭和52)松田光時の彫刻の代表作として、茨城県稲敷市立歴火民俗資料館の屋外に立つ同市出・・・・・」 「出羽錦忠雄出羽錦(1925 ~ 2005)は、東京都墨田区出身の関脇。重い腰を生かし、39歳まで現役を務めた。NHKの相撲解説者としても活躍した。」 「栃木山守也使用の化粧廻し(写真)松林桂月(1876 ~ 1963)による松竹梅の水墨画を貼付した化粧廻し。」 「27代横綱 栃木山守也小柄なら筋力が強く無類の強さを見せた。大正15年(1926)から昭34年(1959)に亡くなるまでの師匠。栃錦らを育てた。」「松林桂月 画「松竹梅」 化粧廻し三つ揃い」 「4 6代横綱朝潮太郎本名 米川文敏(1929 ~ 1988)部屋 高砂出身地 鹿児島県大島郡徳之島町初土俵 昭和23年(1948)十月場所新横綱 昭和34年(1959)五月場所最終場所 昭和36年(1961)十一月場所幕内成績 431勝248敗86休 優勝5回 殊勲賞4回相手をはさみつけての寄りを得意とし、三月場所に強く「大阪太郎」といわれた。化粧廻しは、日本画家松林桂月(1876 ~1963 )の龍の水墨画を刺繍したもの。」 「松林桂月 画「松竹梅」 化粧廻し三つ揃い」化粧廻しの原画は、日本画家松林桂月(けいげつ、1876 ~ 1963 )。中央に霊龍、左右に波を配し、神龍昇天を意図したもので、刺繍で水墨画が巧みに表現されている。左:波。中央:霊龍。右:波。「朝潮太郎 久保 守」 画 1965年(昭和40) 久保守(1905~1992)は、北海道札幌市出身で、兄はプロレタリア劇作家の久保栄。梅原龍三郎を師匠とし、長らく東京芸術大学で指導した。」 「朝青龍明徳(あさしようりゅうあきのり)横綱推挙式の記念写真 2003年(平成15 ) 1月31日横綱昇進直後の朝青龍は、横綱朝潮の化粧廻しを締めた。立ているのは、左から闘牙(太刀持ら)、朝青龍(横綱)、高見盛(露払い)。座っているのは、32代式守伊之助(のら31代木村庄之助)、呼出し康夫。」 西側・北側の展示コーナー。そして北側の展示コーナーへ。「27代木村庄之助使用の装束「能装束群蝶文」 若松華瑶(初代)作 1967年(昭和42 )」 「27代木村庄之助使用の装束 「能装束群蝶文」 若松華瑶(初代)作 1967年(昭和42) 染色図案家・若松華瑶(初代、1895 ~ 1974 )は、 多くの装求を制作し、行司に贈呈した。」横綱・大乃国の化粧廻し三点セット。菖蒲と富士山と牡丹かな、日本画のように美しい!!「62代横綱大乃国 康(おおのくにやすし)本名 青木康(1962 ~ )部屋 花籠→放駒出身地 北海道河西郡芽室町初土俵 昭和53年(1978)三月場所新横綱 昭和62年(1987)十一月場所最終場所 平成3年(1991)七月場所幕内成績 426勝228敗105休 優勝2回 殊勲賞5回 敢闘賞2回体重200瓸を越える大きな体で、右四つからの寄りや上手投げを得意とした。化粧廻しは、日本画家片岡球子(1905 ~2008)による富士山、菖蒲、牡丹が原画。」 「菖蒲」。 「富士山」。 「牡丹」。 「62代横綱 大乃国 康(おおのくにやすし)」 。「大乃国 康 松田光博画 1989年(平成元)松田光博(1925 ~ 2003 )は、石井鶴三の最後の弟子で、師匠同様に影刻や絵画の作品を制作した。」 「高見山ー輪島」戦。 「高見山一輪島 関野準一郎 画 1979年(昭和54 )関野準一郎(1914 ~ 1988)は、青森市出身の版画家。高見山は、輪島との対戦を19勝24敗とし、金星を7個獲得した。」 「千代の富士横綱土俵入り 松田光博画 1985年(昭和60)」 「千代の富士横綱土俵入り 松田光博画 1985年(昭和60)松田光博(1925 ~ 2003)は、東京都港区出身の彫刻家、洋画家。日本相撲協会依頼の横綱肖像画を長らく手がけた。このリトグラフは、松田光博石版画集「横綱千代の富士」のうちの一つ。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.23
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この日は4月6日(月)、神田での仕事が終わり、両国散歩に向かう。神田駅から山手線に乗り、秋葉原で総武線に乗り換える。そして浅草橋の次の両国駅に到着。西口改札に向かうと右側にあったのが「両国ステーションギャラリー 3番線臨時ホーム入口」。両国駅開業 111 周年を迎えた2015 年 4 月 5 日(日)、房総方面への長距離列車の発車ホームとして利用された3番線の通路が「両国ステーションギャラリー」として生まれ変わった。「両国ステーションギャラリー」は、展示パネルを多数掲示し、房総の玄関口としての両国駅の歴史を身近に味わっていただけるスペース と。1 オープン日 2015 年 4 月 5 日(日)※4 月 5 日(日)は開業 111 周年(1904 年 4 月 5 日開業)2 両国ステーションギャラリーのオープン時間 10 時~17 時3 展示物「両国駅歴史展」として全44枚のパネルを展示。 表紙・プロローグ等 3枚 両国駅の歴史 10枚 両国駅周辺の歴史 10枚 なつかしの列車 21枚改札外コンコースに設けられたこのギャラリーでは、「両国駅歴史展」と題し、全44枚のパネル展示が行われています。内容は、駅の誕生から現在までを紹介する「両国駅の歴史」や、駅周辺の町並みの変遷を伝える「両国駅周辺の歴史」、さらに懐かしい列車の姿を収めた写真も楽しめたのであった。鉄道ファンはもちろん、地域の歴史に触れたい方にもおすすめのスポット。これより先は、撮影禁止と。展示パネルの一例をネットから。両国橋駅、両国駅の歴史が説明されていた。1904年(明治37年)4月5日:総武鉄道本所 - 当駅間開通時に伴い、総武鉄道のターミナル駅両国橋駅として開業した と。JR両国駅の西口改札に向かうと「ようこそ!」とばかりにまず出迎えてくれたのは、横綱の優勝額と、歴代横綱のサイン入り手形の並ぶショーケース。「第56代横綱 若乃花幹士関 昭和五十三年十一月場所 優勝」 と。 左:「関脇 三重ノ海五郎関 昭和五十年十一月場所 優勝」 右:「横綱 千代の富士貢関 昭和六十年十一月場所 優勝」左:「第67代横綱 武蔵丸光洋関 平成十四年五月場所 優勝」右:「第69代横綱 白鵬翔関 平成十九年十一月場所 優勝」下部には歴代横綱のサイン入り手形が並ぶ。「第35代横綱 双葉山定次」 左から「第73代横綱 照ノ富士春雄」 「第74代横綱 豊昇龍智勝」 「第75代横綱 大の里泰輝」 「第73代横綱 照ノ富士春雄」のサイン入り手形に近づいて。「第73代横綱照ノ富士春雄TERUNOFUJI Haruoモンゴル出身1991年生まれ身長/体重 192cm 180kg初土俵 平成25年5月場所最終場所 令和7年1月場所幕内成績 366勝207敗197休優勝回数 10回横綱在位 21場所」「第74代横綱豊昇龍智勝HOSHORYU Tomokatsuモンゴル出身1999年生まれ身長/体重 188cm 150kg初土俵 平成30年1月場所最終場所 幕内成績 優勝回数 横綱在位 」「第75代横綱 大の里泰輝 ONOSATO Daiki 石川県出身 2000年生まれ 身長/体重 192cm 187kg 初上表 令和5年5月場所 最終場所 幕内成績 優勝回数 横綱在位 」 「横綱と背比べ」。改札手前には「満員御礼」の垂れ幕とその下に実物大の「土俵」が。 JR両国駅・西口改札を振り返る。ズームして。「満員御礼」の垂れ幕。 「歌川国郷『両国大相撲繁栄之図』嘉永6年(1853)10月」 山門の内外に溢れる観客、相撲茶屋、贔屓(ひいき)から贈られたや酒樽など、大相撲開催に賑わう回向院とその周辺が見事に描かれている。相撲の街、両国を象徴する作品である。「橋本(歌川)貞秀『東都両国ばし夏景色』安政6年(1859年)」 この作品は、橋本貞秀〔文化4年(1807)~明治11年(1878)以後〕の作品で、両国橋付近の川開花火の様子が描かれている。橋の上には、見物人がひしめき合い、川面には大小の屋形船が多数出ている。空には、菊花型の花火が上がり、船上の仕掛け花火と対をなしている。仕掛けは、立花火だが、回転する噴出しではない。橋本貞秀は、画号を五雲亭と称し、三世豊国の門下で、幕末に大きな業績を残した浮世絵師である。特に、横浜を画材にした作品を多く残しており、横浜浮世絵師の第一人者として目され、その描写の正確さをもって、「空とぶ絵師」と評されている。代表作としては、「東海道名所之内横浜風景」や「神奈川横浜新開港図」などがある。花火が描かれた幕末の浮世絵は、比較的数多くあるが、そのなかでも有名な作品の一つ。「力相撲像」は、JR総武本線「両国駅」の西口改札口出てすぐ右手にあった。近づいて。よく見てみると「力相撲」というよりは、可愛らしいお相撲さんが相撲を取っているという感じ。さりげなくコンビニの前に設置されていた。現在地はここ。右手にあったのが「両国国技館」。両国国技館は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブでも使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。なお「両国国技館」という呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館󠄁と表記している。 右手にあったのが「隅田川橋梁総武本線 浅草橋~両国間東京都台東区昭和7年開業 延長170.8m我が国最初のランガー桁鉄道橋である。構造は支間38m + 96m + 38mの3径間で中央スパンがランガー桁、両側径間はともに下路鈑桁をアーチのはね出し桁にのせた架け違い構造である。設計は復興局にあって震災復興事業として隅田川に架かる多くの橋を設計した田中豊博士によるもので、スレンダーな橋はほかの道路橋ともよく調和し、設計者の景観に対する造詣の深さが偲ばれる。」と。後に訪ねた「隅田川橋梁」。 そして「江戸東京博物館」案内板。 「両国国技館」の東側奥にあるのが「江戸東京博物館」。 ソメイヨシノが満開で迎えてくれた。ズームして。「江戸東京博物館」の正面全景。ここにもソメイヨシノが。この日、毎週月曜日は休館日と!!令和4年度から約4年間、大規模改修工事のため休館していた、東京・両国にある東京都江戸東京博物館が、2026 (令和8)年3月31日にリニューアルオープンを迎えたのであったが・・・。「江戸東京博物館」の動く歩道への入口も閉まっていた。 「江戸東京博物館」断面図。 1階西側アプローチ。正面から。1階西側アプローチには、鳥居をモチーフとした24本の連続するモニュメンタルなオブジェを設置。ここに投影される映像は奥に進むにつれて現代から江戸へと段階的に切り替わる仕様となっており、来館者が日常から離れ、江戸の世界に入るための導入として位置付けられる と。またの日に!!と諦めて、更に進むと右側にあったのが「両国ポンプ所」案内板。「ここは東京都下水道局の両国ポンプ所です!ー浸水からまちを守っています両国ポンプ所のやくわりまちに降った雨は下水道管へ流れます。下水道管は自然に流れるように少し傾いています。両国ホンプ所に流れついた雨水は、ポンプで汲み上げ「隅田川」へ放流することで、まちを浸水から守っています。」 「2026.3.31 えどはく リニューアル」と。 引き返して、再びソメイヨシノの花を見上げて。そして「両国国技館」の「力士・協会員入口」。両国国技館の地下駐車場は駐車台数が限られていることから、車で乗り入れできるのは大関以上のみ と。そのため、ほとんどの力士はこの門の前で車を降りて、歩いて行きます。この日は閑散としていたが、本場所の人気力士が入場する午後2時頃になるとカメラを持ったファンが殺到するのだ と。久しぶりに「相撲博物館」を訪ねることとした。「相撲博物館開館中 入場無料 10:00~16:30芸術と相撲2026年1月11日(日)ー4月14日(火)(前明: 1/11~2 /16、後明: 2/19~4/14)」と。新年にあわせ、収蔵品の中から芸術作品を精選して紹介する「芸術と相撲」を開催いたします。狩野山雪、山本芳翠、石井鶴三の作品をはじめ、松林桂月や片岡球子による原画の横綱化粧廻し三つ揃いなど、相撲と芸術が交わる豊かな表現世界をご紹介しま魂相撲文化が育んできた美と精神を、芸術作品を通してご鑑賞いたたける機会となれば幸いです。また近年新たに収蔵した資料、ロンドン公演の様子もご紹介いたします。 と。前方には「国技館櫓太鼓」が。 その手前にあった案内板。「忠臣蔵俵星玄蕃の道場跡Site of Tawaraboshi Gemba's stable宝蔵院流の槍の名手、俵星玄蕃 は忠臣蔵に登場する架空の人物で、彼の道場は、本所横網町のこの辺りにあったとされています。上杉の家老 ・千坂兵部が二百五十石の高禄で、吉良家に召抱えようとしますが、赤穂浪士 の世を忍ぶ苦心に同情を寄せた玄蕃はこれを断りました。屋台の夜なき蕎麦屋「当たり屋十助 」に姿を変えて吉良邸を探っていた赤穂浪士 ・杉野十平次の前で、「のうそば屋、お前には用の無いことじゃが、まさかの時に役に立つかも知れぬぞ見ておくがよい」と、槍の技を披露しました。討入り当夜、助太刀に駆けつけると、杉野に会い、たいへん驚き、吉良邸外の守りを固め、本懐成就に協力したとされます。」と。 歌川国芳による浮世絵「誠忠義士伝 角野重平次次房(せいちゅうぎしでん すみのじゅうへいじつぐふさ)」。 「国技館櫓太鼓」手前の反対側にあった石製のベンチ。近づいて。「北斎漫画」が描かれていた。 「北斎『北斎漫画』(部分)世界的に有名な絵手本で、海外では「ホクサイ・スケッチ」として親しまれでいます。全十五冊、総図数は約三千九百図にのぼり、人間や自然、神仏妖怪など、ありとあらゆるものが描かれていて、「絵の百科事典」と呼ぶにふさわし内容です。 令和二年三月 墨田区」 左から葛飾北斎『北斎漫画』十一編の一部と。「まえすもう二ばんどり つまどり相手の体の横につくようにして、前に泳いだ相手のつま先を取って、後ろに引き上げて相手を倒して勝つ事を言います。技の名前はつま先の「つま」からきています。」 「ちからおび 志めこみのかたち がくやとりまわし志むる」 「中々のすもうとりくみ」 「三役立合」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.22
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自宅に戻る途中で、「地神の森公園」の空き地に車を駐め、日大藤沢校内の桜を愛でに向かう。小田急線「六会日大前駅2号踏切」を渡る。 藤沢駅方面を見る。線路沿いにも桜並木が。六会日大前駅方面を見る。そして日大藤沢校内にある一般道の桜並木を楽しむ。校内MAPと現在地。「総合グランド」越しに「日本大学生物資源科学部 本館」を見る。左側には桜並木が残っていたが、右手の桜の木は、以前の強風時の倒木で何本かが倒れた為多くを伐採したのであった。「日本大学生物資源科学部 本館」をズームして。左手前方には「日本大学藤沢高等学校 日本大学藤沢中学校」の校舎が見えた。さらに、この左側奥には「日本大学藤沢小学校」もあるのだ。 「日本大学生物資源科学部 本館」に向かう桜並木を見る。「総合グランド」のメインスタンドの後方にある桜並木。本館そしてメインスタンド、メイントラックとのコラボ。バックストレート、第3コーナー方向を見る。そしてこちらが「日本大学藤沢高等学校、藤沢中学校、藤沢小学校」の校門。ズームして。そして「日本大学藤沢高等学校、藤沢中学校、藤沢小学校」の校門前からの桜並木。以前は、一般解放されていたが、最近は一般人は立入禁止の桜並木。満開の桜並木をズームして。さらに。次々と。「日本大学 生物資源科学部」の表示。 バックストレート、小田急線方向を。そして小田急線の踏切方向に引き返して。再び桜並木、メインスタンド、メイントラックを見る。前方に小田急線「六会日大前駅2号踏切」。 「桜並木」、「メインスタンド」 、「メイントラック」。 桜並木の右側は、「日本大学藤沢高等学校の野球グランド」。 ソメイヨシノの花に近づいて。「胴吹き桜(どうぶきざくら)」も頑張って。ソメイヨシノの老木の切り株。中心部が空洞になっていたような姿で。今年の日大藤沢の桜並木とも1年のお別れ。ズームして。踏切を通過する小田急線の電車。「六会日大前駅」方面を。再び藤沢駅方面を。ズームして。最後に、地元の神社のある「地神社の森公園」のソメイヨシノの花を。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.04.21
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「引地川」を横断する高圧線用鉄塔を背に。対岸・左岸のソメイヨシノ。左岸には湿性植物や藤棚、ツツジの丘、桜並木などがあり、四季折々の植物や昆虫、野鳥等を観察することができるのだ。ソメイヨシノのトンネルの下を引き返す。「引地川」に近づいて。 「天神橋」の上方で「引地川」を斜めに横切る高圧線。 「芝生の広場」には船や魚・・海をイメージした複合遊具が。 さらに「芝生の広場」を進む。 ここが「桜のトンネル」のスタート&ゴール地点。 そして「引地川」に架かる「天神橋」へ。 右岸のこの先は「遊水地」と。 「大庭遊水地この公園は遊水地で、大雨の時は川の水が浸入してきます。その際、危険なため回転灯、電光掲示板、放送等によりお知らせしますので、すみやかに園外へ避難して下さい。また、浸水時は、水が完全に引くまで園内に立ち入ってはいけません。」 左:「てんじんばし」。 右:「ひきじがわ」。 天神橋の相撲カエル。軍配をもつ行司見合って見合って~。はっけよい!のこった!のこった!決まり手は、浴びせ倒し!!白星を挙げたカエルは、どこから出したか扇子を持っての、高笑い・ワッハッハ。負けたカエルは、座り込んでは頭を抱えてムンクの叫び。橋の中央から、微妙に姿は異なりますが対称的な姿で順番に。これらの作品の作者は?欄干上に金属製の蛙作品が等間隔に並んでいたのであった。「引地川」の下流側を見る。そしてここは1ヶ月以上前に「河津桜」が咲いていた「芝生の広場」。 水管橋、青いパイプは浄水配管であろうか。再び「引地川」の下流方向を。ズームして。水管橋の空気抜き弁。奥の山の上にはゴルフ場・芙蓉カントリー倶楽部(藤沢市大庭2320)がある。広場のキッチンカーに近寄って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.20
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次に訪ねたのが「引地川親水公園」にある桜並木。駐車場に入るまで、渋滞が続いていたが何とか20分ほど待って駐車場に。藤沢市大庭6510。 広場には数台キッチンカーが出店中。引地川親水公園は、引地川沿いの右岸と左岸にまたがり、右岸には大庭スポーツ広場球技場や多目的広場、複合遊具、ドッグパークなどがある。左岸には湿性植物園やフジ棚があり、四季折々の植物や昆虫、野鳥等を観察することができる。右岸と左岸の遊歩道には多くのカワヅザクラやソメイヨシノが植栽され、サクラの開花時期には花見客で大変賑わうのであった。 公園右岸(第一駐車場・球技場・多目的広場・ドッグパーク)は引地川大庭遊水池の機能により、引地川の水位が上昇した際は緊急的に閉鎖となるのだ。ソメイヨシノの桜の花のトンネルを「引地川」の右岸を上流に向かって歩く。 「天神橋」を振り返って。 対岸・左岸にも桜並木が。ソメイヨシノの桜の下には、多くの方々が、テントを設置したりして桜を楽しんでいた。「ソメイヨシノ染井吉野。落葉高木。葉の出る前に淡紅色で一重の花を枝いっぱいにつけます。花色は満開にちかづくにつれ淡くなります。バラ科」 東側の丘の上には「東京ガスネットワーク湘南導管ネットワークセンター」の「球形ガスタンク」の姿が。移動してズーム。見事な桜のトンネルの中を歩く。ほぼ満開。この樹の枝先は八部咲きか。「引地川」の川面を背景に。 「大庭桜並木藤沢東ロータリークラブ創立25周年記念植樹平成13年2月13日」と。 花びらの中央はピンクに染まって。左側の山の上には「大庭城址公園」があるのだ。大庭城山は室町時代中頃に本格的な築城がなされ、小田原北条氏の時代に廃城になったと伝えられている。 大庭城址公園は、城址としての歴史性とともに緑の山として古くから住民に親しまれてきた公園。現在も周囲を多くの樹木に囲まれ、緑豊かな公園であるとともに公園の中央区域には多くのサクラが植栽され、開花時期には花見客で大変賑わう。 園内ではフジ棚や約110本のバラが植栽されたバラ園など四季折々の植物が楽しめ、藤沢市制50周年記念として市民から足型を募集した足型の丘や、チビッ子冒険広場(遊具)、館址広場などがあり、藤沢市の指定緊急避難場所(大規模火災)にも指定されている。 切断されたソメイヨシノの巨木の切り株の姿が。倒木の可能性から切断されたものか?比較的新しい断面であったが。左岸側を再び。■ 1. 桜のトンネルがつくる包まれる空間・両側から枝が大きく張り出し、道を覆うように咲く・歩く人を優しく包み込む「桜の回廊」が形成されているのであった■ 2. 視線の奥へと続く遠近の美・一直線に伸びる遊歩道が、桜の連なりとともに遠くへ消えていく・奥行きのある構図が、どこまでも続く春を感じさせる■ 3. 淡紅色が織りなす柔らかな天井・頭上に広がる薄桃色の花が、空をやさしく覆う・曇り空と溶け合い、全体が穏やかな光に包まれている■ 4. 幹と枝の力強さとの対比・太くうねる幹と、繊細な花の対比が印象的・長い年月を経た樹の風格が、景観に深みを与えている■ 5. 人の営みと調和する風景・散策する人々が、桜並木の中に自然に溶け込む・日常と非日常がやわらかく重なり合う空間■ 6. 川辺ならではの開放感・片側に広がる草地と川の気配が、視界に抜けを与える・閉じすぎない構成が、のびやかな春の広がりを生む■ 7. 満開直前〜盛りの“静かな華やぎ”・花は密でありながらも、色調が控えめで落ち着いている・賑やかさよりも、穏やかな美しさが際立つ■ 8. 歩くことで完成する風景・立ち止まるよりも、歩き進むことで変化を楽しめる・一歩ごとに異なる桜の重なりが現れる「体験する景観」■ 9. 空と地をつなぐ春の帯・頭上の桜、足元の緑、中央の道が三層を成す・自然と人の動線が一体となった美しい構成対岸にも見事な桜のトンネルの姿が。上流側の次の橋「大庭鷹匠橋」まで歩こうとしていたが、距離があるので引き返す。 左に「増水注意」案内板。 「川の急な増水に注意!!晴天時でも、上流で大雨になったり、上流にある農業用の堰の放流により、川の水が急に増えることがあります。」と。 再び花びらに近づいて。可憐に咲く「花海棠(ハナカイドウ)」の姿も。 ■ 1. 濃淡のある紅色の花・つぼみは濃い紅色、開くと淡いピンクへ変化・一枝の中で色のグラデーションが楽しめる■ 2. 下向きに咲く優雅な姿・細い花柄で花が垂れるように咲く・「うつむく美しさ」がハナカイドウ最大の魅力■ 3. 半八重〜八重のふんわりした花形・花弁が重なり、ややボリュームのある形・ソメイヨシノよりも丸みがあり華やか■ 4. 赤みを帯びた若葉との調和・花と同時に出る葉が、やや赤みを帯びている・ピンクの花との相性が非常に良い■ 5. 枝ぶりのしなやかさ・細く弓なりに伸びる枝に、花が連なって付く・風に揺れると、まるで花が連なって流れるように見える■ 6. 桜とは異なる“しっとりした華やぎ”・桜が「空間を染める美」なら、・ハナカイドウは「一枝ごとの装飾的な美」中国では「海棠花」とも呼ばれ、美人の形容として知られている とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.19
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「柳橋」を渡り、上流側の「オオシマザクラ」を。 この先は一方通行・進入禁止の道。「引地川」の下流に向かって進む。「オオシマザクラ」を堤防側から見る。 「レインボータウン わくわくMAP」。 オススメスポット。ここは「引地川桜並木・引地川緑道」。 「オオシマザクラ」を裏から。「引地川」は緩やかにカーブして。 このオオシマザクラも川面を覗き込んで。カーブをズームして。その先を。「サルノコシカケ」。サルノコシカケが発生するということは、樹木内部は菌糸が大量に繁茂している事が考えられます。大きさからして、残念ですがソメイヨシノを助ける術はないのでは。放置すれば倒木の危険があるのでは と。 川面を覗き込む枝をカメラで覗き込んで。川面に我が身・花を映すが如くに。老木が懸命に花を付けて。再びソメイヨシノとオオシマザクラのコラボを。オオシマザクラを追う。■ 1. 白の純度が際立つ花景・ほとんど無垢に近い白が、群れとなって枝を覆う・淡い空の色や背景と溶け合い、清澄な印象を生む■ 2. 花と葉が織りなす春の調和・白い花の間にのぞく若葉の緑が、生命の息吹を添える・静の白と動の緑が同時に現れる、オオシマザクラ特有の景■ 3. 枝垂れるような枝と花の連なり・太い幹から伸びた枝が、しなやかに弧を描きながら広がる・花が連なり、流れるようなリズムをつくっている■ 4. 花の密集がつくる“白い層”・無数の花が重なり合い、ひとつの塊として視界を満たす・遠目には雪のよう、近づけば一輪一輪の精緻さが現れる■ 5. 光を受けた柔らかな陰影・日差しが花弁を透かし、白の中に微かな陰影を生む・幹の黒との対比が、花の明るさを一層引き立てる■ 6. 古木の力強さと花の繊細さの対比・黒く太い幹が、長い時間を刻んできた重みを感じさせる・その上に咲く花の軽やかさが、対照的な美を形づくる■ 7. 風景の中に広がる“静かな華やぎ”・派手な色ではなく、白の重なりで空間全体を明るくする・主張しすぎず、それでいて圧倒的な存在感を放つ■ 8. 春の深まりを告げる成熟した美・満開と若葉が同居し、「春の盛り」を静かに語る・移ろいの途中にある、最も豊かな時間が写し取られている桜の樹には管理銘板が付けられていた。再びソメイヨシノを。ズームして。開花が進むと、花びらの中央がしだいにピンク色に染まってくると。「ヤマブキ(山吹)」であっただろうか。ここにも「胴吹き桜」。衰えつつあっても力を振り絞って『どっこい生きている』その姿を毎年見るたびに感動するのだ。しかし「胴吹き桜」は幹の途中に芽を吹くことから名付けられたのであろう、もう少し夢のある表現はないのだろうか。可愛らしくもあるし、力を込めて一生懸命に花を開こうとする、けな気な、がんばりやさんのイメージを表現した言葉に!! と。■ 可愛らしさ+けなげさ「木のぬくもりに抱かれて咲く、小さな勇気の花」「幹のすき間から顔をのぞかせた、やさしい春の使者」「こっそり咲いたのに、いちばん心に届く花」■ がんばりや・力強さ「大地の力をそのまま受けて咲く、いのちの一輪」「枝でなくても咲いてみせる――そんな意志を宿した花」「幹の奥から押し上げられた、静かな情熱の開花」■ 少し詩的に(やや格調)「幹に寄り添い、なお光を求めてひらく、ひそやかな志」「老いた幹に若き春が芽吹く――命の継ぎ目に咲く花」「時を重ねた幹に宿る、あらたな春の息吹」■ やや親しみやすく「こんなところから?と思う場所で、いちばん一生懸命に咲いている」「誰にも気づかれなくても、ちゃんと咲こうとする花」「小さいのに、いちばん強い桜」「けなげ桜」!! 「胴吹きの 花は吐息の ように咲き」・・・詠み人しらず「蘖/ひこばえ」と思っていたが・・・。「蘖/ひこばえ」は切り株や根元からの若芽を言うらしい。ネットで調べてみると、「太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。なお、樹木ではないが、刈り取った稲の株から生える、稲の蘖に相当する芽を「穭(ひつじ)」と呼ぶのだと。さらに下流に向かって進む。桜の関する言葉にいろいろあるのだ。・初桜(はつざくら):その年にはじめて咲いた桜の花・桜狩(さくらがり):「狩る」とは何かを求めること。桜を求めて貼るの山里をたずね、 鑑賞すること・夢見草(ゆめみぐさ):桜の別名。美しさにうっとり見惚れてついた呼び名・花筏(はないかだ):水面に花が散る様子を筏に見立てていう・夜桜(よざくら) :夜の桜の花・花明かり(はなあかり):夜、満開の桜の周囲がほのかに明るく感じられること・花吹雪(はなふぶき) :散り落ちる桜。「落下」「花の塵」「花屑」ともいう・花筵(はなむしろ):花びらを敷物に見立て、その上に座ること・花嵐(はなあらし):桜の花が咲くころに吹く強い風のこと。また、風で桜の花びらが 盛んに散ること。・花冷え(はなびえ):桜の花が咲く季節に一時的に寒くなること・花曇り(はなぐもり):桜の花が咲くころの、曇りがちな天気のことそう!この日は「花曇り」?!カーブミラーに映る桜の花を。こちらも。そして「円行大橋」が見えて来た。 「円行大橋」から「引地川」の上流方向を。白鷺(しらさぎ)の飛ぶ姿が。慌ててズームして。マンスリー マンション ビル·「エスタテラ湘南台プラザタワー」の姿が。階 数: 地上25階、地下1階高 さ: 82.5m竣 工: 2002年9月そして車に戻り「円行大橋」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.18
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この日は3月30日(土)、テレビのニュースで各地で桜が満開を迎えていると。地元の桜並木を車で訪ねた。自宅から車で10分ほどの引地川沿いの桜並木は八部咲き。この付近の引地川の堤防上の道路の手摺。桜の花の姿が打ち抜かれていました。川沿いの道を上流に向かって進む。ズームして。ソメイヨシノの花に近づいて。上流側は緩やかに蛇行して。ズームして。白い桜とソメイヨシノとのコラボ。少しずつズームして。白い桜はオオシマザクラか?「オオシマザクラ」で、日本に自生する桜野生種の1つで、真っ白な花を咲かせる日本の固有種。オオシマザクラは交雑しやすいため、多くのサクラ栽培種の原種となっている。例えば、明治初期に誕生した有名なソメイヨシノは親品種(おやひんしゅ)にあたり、オオシマザクラとエドヒガンの雑種1代といわれているのだ。親品種とは、新しい品種(F1品種など)を作り出すために交配(掛け合わせ)に使われる、元となる品種のこと。正面から対岸のオオシマザクラとソメイヨシノの親子?の姿を。対岸のソメイヨシノをカメラで追う。ズームして。可憐な花・ソメイヨシノ。川面を覗き込むように伸びる枝も満開に。しかしその先の老木3本には花も葉もなく。ソメイヨシノの寿命は一般的に60年〜80年と言われ、樹齢50年を過ぎると老朽化が進みやすい傾向があるとのこと。急激な成長と病気の弱さが原因で幹が空洞化しやすいためだが、適切な剪定や施肥、樹木医によるメンテナンスを行えば100年以上、あるいはそれ以上の長寿も可能であり、手入れ次第で寿命は大きく延びるのだ と。振り返って。古い桜の老木の幹から、枝を通さず直接花が咲く現象やその花は、「胴吹き(どうぶき)」、または「胴吹き桜(どうぶきざくら)」、「胴咲き桜(どうざきざくら)」と呼ばれます。 特徴や由来:・老木のサイン: 主にソメイヨシノなどの老木に見られる現象で、枝の光合成能力が衰えたり、 養分が幹の先端まで届きにくくなったりした際に、幹の眠っていた芽が 生き残るために咲かせるものと言われています。・力強さ :花束のように可愛らしく咲く一方で、懸命に生きようとする力強さを感じ させるため、その姿が好まれています。・開花の兆し: ソメイヨシノの場合、通常の枝よりも早く咲くことが多く、周囲の花が散った 後も幹に残り続けることもありますと ネットから。枝にズームして。■ 1. 淡い白に溶けるような花弁・ほとんど白に近い淡紅色が、光を受けて透けるように広がる・花弁の縁がわずかに波打ち、やわらかな空気をまとっている■ 2. 中心に宿る紅の気配・花の中心にほんのりと差す紅色が、静かな生命の鼓動を感じさせる・白との対比が、奥行きと品格を生み出している■ 3. 集まり咲くことで生まれる華やぎ・一輪ではなく、幾つもの花が寄り添うことで、雲のような密度をつくる・枝先にまとまって咲く姿が、春の到来を一気に感じさせる■ 4. つぼみから満開への連続性・まだ硬い薄紅のつぼみが、これからの時間を予感させる・開花と未開花が同居し、移ろいの瞬間を写し出している■ 5. 背景とのやわらかな対比・青空と古木の枝の間に浮かぶことで、花の軽やかさが際立つ・背景のぼけが、主役である花の繊細さを引き立てている■ 6. 儚さを含んだ完成美・満開でありながら、すぐに散ることを知る美しさ・「今この瞬間」だけに存在する、静かな緊張感が漂っている■ 7. 春の光を受けた透明感・日差しが花弁を透過し、やわらかな輝きを生む・影さえも淡く、全体が光の中に溶け込んでいる対岸をさらに。花見の宴を4人の高齢者が。この辺りは満開に近い。ズームして。打ち抜かれ桜の花の隙間から。川面に向かって伸びる枝を追う。そして上流側にあった「柳橋」に到着。 橋の名は漢字で「柳橋」。 「橋名板」だが、明治以降の近代橋には、”漢字”と”ひらがな”の二つのパターンで設置されているのだ。そして、時代が進むにつれて、”橋名の漢字”、”橋名のひらがな”、”竣工年月日”、”渡る河の名称”等の四つのパターンが多くなってきている。橋が架かる道路の起点側右手に「漢字河川名」、左手に「漢字橋名」、終点側にはそれぞれ「ひらがな」でと。よってこの道路・「湘南台272号線」は道路名からも判るように、左側・湘南台方向がこの道の起点側であることが判るのであった。そしてもう1つのタイプでは、道路の終点側左に「ひらがな橋名」、右側に「竣工年月日」が書かれているようだ。「やなぎばし」 「引地川」。「引地川」の由来引地川の名前の由来は様々の説がありますが、その一つとして、「土地が川の流れによって押し出される」 という意味があると云われています。この川がかつてよく洪水や氾濫を起こし、土地をけずるように流れていたことが想像されます。昔から川の周辺には人が集まり田畑を耕し集落ができます。その住民はそれぞれの地区を流れる川に名前をつけていました。引地川でも同様に長後(ちょうご)では「長後川」、 下土棚(しもつちだな)では「土棚川」、鵠沼(くげぬま)では「堀川」など、かつては村によって呼称が違っていたようです。「引地川」という名前で統一されたのは、河川管理が必要となった近代になってからですと ネットから。 「引地川」の正式名称「引地川」の読み方ですが、「ひきち」「ひきぢ」「ひきじ」と読まれています。「川」の部分は殆どが「がわ」と濁音で読まれます。引地川には上流から河口まで約80本以上の橋が架けられていますが、橋の銘板に記されている名称が統一していません。上流では「ひきち」、下流では「ひきじ」と読むのが一般的なようです。近年、河川の行政管理にともない引地川の読み方が統一され、公的には「ひきじがわ」と読みます。と。「引地川」の水源引地川の水源は、大和市上草柳の谷戸(国道246号線笹山(篠山)高架橋付近)を水源としています。水源は、付近の森林より谷戸の地下へと流れ、自然湧水として「大池」「小池」の調整池を経て、引地川に流れ込んでいます。戦後昭和20年代までは大和も主な産業が農業で、引地川流域ではあちこちで稲作・畑作が行われていました。昭和30年代に入り、高度成長経済を迎えると、大和の人口は急激に増え、それに伴う上水道の確保が急務となりこの水源地に「上草柳浄水場」が建設されました。この浄水場は近年まで上水道として利用されていましたが、水源地の吐水量が年々減少し、やがてはポンプを使わないと揚水できないまでに水量が減り、 平成4年頃に上水道としての運用を休止しています。現在は神奈川県企業庁が管理し、緊急用の上水道として管理されています。周辺は「泉の森」として公園整備されており、年間16万人の人々が訪れます と。オオシマザクラをズームして。■ 1. 花と同時に展開する葉・花の中に黄緑色の若葉がはっきり混じっている・ソメイヨシノは「花が先・葉は後」ですが、 → オオシマザクラは「花と葉がほぼ同時」■ 2. 花色がほぼ純白・全体として白が強く、ピンク味がほとんどない・中心部の紅も弱い → ソメイヨシノよりも白いのはオオシマザクラの典型さらにズームして。■ 3. 花の密度とボリューム・枝いっぱいにやや大きめの花が密集して咲く・一つ一つの花がしっかり開いてい → オオシマザクラは花がやや大きく、豪華に見える■ 4. 樹形と枝ぶり・古木で、横に大きく広がる枝・花が塊状に見えるほどの開花 → 公園などに植えられるオオシマザクラに多い姿■ 5. 葉の色と質感・若葉が明るい緑でやや厚みがある印象 → オオシマザクラは葉が比較的大きくしっかりしているこの白い桜・大島桜は計画的に植えたものか?それとも混じってしまった?ぞれともソメイヨシノの先祖返りいや親返り??道路を隔てた上流側にもオオシマザクラが!! ・・・つづく・・・
2026.04.17
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昼飲み仲間との再会を約束して、帰路に。新宿駅に向かって歩く。新宿東宝ビルの8階テラスに設置されたゴジラへッドを振り返って。初期の映画の設定と同じ大きさになるようにゴジラヘッドが設置されていてるのだ と。「ゴジラヘッド」の高さは12m と。そして進むと「巨大猫」が話題となっている「クロス新宿ビジョン」が。以前は「新宿アルタ」のアルタビジョンと並ぶ好立地であり、新宿東口駅前広場から裸眼3D映像が見られることで話題になり、現在まで人気が続いている、クロス新宿ビジョン。「新宿あるた」があった頃の地図をネットから 。解体中の「旧新宿アルタ」。 在りし日の「新宿アルタ」。メディアでも話題になっている「クロス新宿ビジョン(通称:新宿東口の猫)」の秘密。実は、特殊な3Dメガネなどをかけているわけではなく、「画面の形」と「目の錯覚」を巧みに利用しているのだ。通常の看板は平面ですが、あのビジョンはビルの角に合わせて「L字型(湾曲)」になっている。ここが最大のポイント。(写真はネットから)。平面のディスプレイを2つ並べると、どうしても角に「つなぎ目(ベゼル)」の黒い線が入ってしまいますが、最新のLED技術で角を丸く湾曲させることで、継ぎ目のない滑らかな映像を表示できるので だと。これにより、猫が角を回り込むような動きをしても違和感がなく、リアリティが生まれる と。この猫は、どこから見ても立体に見えるわけではありません。「新宿駅東口広場」という特定の場所から見た時に、最も立体的に見えるように、あらかじめ映像を歪ませて作ってあるのです。これを「アナモルフォーシス(錯視)」👈️リンクと言います。正面から見ると普通の映像ですが、斜め下から見ると、計算された歪みが解消され、きれいな3Dの猫が現れるというわけ。約8.16(高さ)×18.96m(幅)、150m2超級では国内唯一の4K相当、6mmピッチの大型ビジョン。カメレオン??の姿も。カメレオンは周囲の環境に合わせて保護色(緑や茶)になりますが、主な理由は敵から隠れることより、光の強さ(温度調節)や気分(感情)の変化によるものです。皮膚内の色素細胞とグアニン結晶を動かして、怒りや興奮、メスへのアピールとして劇的に色を変えるのだ。そして再び「クロス新宿ビジョン」に映し出される3Dの巨大な猫(三毛猫)。この猫の愛称は??三毛猫のモデルは、フリーランスの作家で猫に関する著書も多い佐竹茉莉子が飼っていた三毛猫で、23歳まで生きた『ナツコ』で「わが道を行く気性の激しい猫」であったというが。桜の花に囲まれて。猫好きには至極のプレミアムなプレゼント。そして再び「モード学園コクーンタワービル」を。 「コブシ(辛夷)」であっただろうか?ルミネエスト新宿前広場(アルタ、歌舞伎町方面出口脇)にあった「馬水槽」。構造:総高 262.cm 給水柱径 80.0cm 大水槽 高さ 100.0cm 幅 152.5cm 奥行き 48.0cm馬水槽は、馬車が全盛であった19世紀のヨーロッパで、町の辻々に設けられ、馬や犬猫などの水飲み場として使用された。新宿駅東口広場に建つこの馬水槽は、イギリス・ロンドンにあったもので、東京の上水道を整備した土木技術者で東京帝国大学教授をつとめた中島鋭司(1858~1925)が、明治34年(1901)から翌年にかけてヨーロッパを視察した際に、ロンドン水槽協会から寄贈されたものである。その後海路日本に運ばれ、明治39年(1906)に東京市役所(現東京国際フォーラム)向かいに設置された。大正7年(1918)には麹町の東京市水道局の前に移されたが、この頃までは実際に給水され、御者が馬車から馬を外して休息させる姿が見られたという。しかし、関東大震災と第二次世界大戦で破損したため、昭和32年(1957)に淀橋浄水場(現新宿副都心地区)に移して保存され、さらに昭和39年(1964)9月に新宿駅東口ステーションビル(現ルミネエスト)が完成した際に、モニュメント「みんなの泉」として現在の場所に設置された。正面の大きな水槽は馬用で、獅子頭の蛇口から給水される。この水槽の下には犬猫用の小さな水槽があり、また反対側には人間用の水飲み場も設けられている。「新宿区指定有形文化財(工芸品) 馬水槽 昭和六十一年六月六日十九世紀のイギリスで、当時主要な交通手段であった馬に水を供給するために市街に設置された。正面の大きな水槽が馬の水飲み、その下の小さな水槽は犬や猫のための水飲みである。また反対側には人のために水飲みもある。ロンドン水槽協会から東京市が寄贈を受けたもので、明治三十九年(一九○六)に当時の東京市役所(現在の東京国際フォーラム)前に設置され、昭和三十九年(一九六四)九月に現在地に新宿駅東口ステーションビル(現ルミネエスト)が完成した際に、モニュメント「みんなの泉」として現在の場所に移設された。交通運搬や都市水道発展の歴史を物語る文化財である。」「みんなの泉この塔は、明治三十九年ロンドン水槽協会から東京市 に贈られたもので、上部が馬、下部が犬、猫、裏側が人間の水飲場となっておりますが、元来動物愛護の目的で造られたものです。当時東京市役所前に置かれ、その後淀橋浄水場に移され、今回更に、新宿民衆駅完成を記念してこの場に移設されました。ロンドン近郊には今なおこの種のものが残っており市民に親しまれております。このたび、みんなの泉と命名され、この地に永久に残ることになりました。 昭和三十九年九月」「みらいおん東京新宿ライオンズクラブが設置するライオン像みらいおんの口に紙幣や硬貨を募金投入していただきますと吠えて御礼申し上げます」と。 台石 「愛称『みらいおん』」 「心の絆・ライオンひろば」。「新宿駅東口の案内図」は、お疲れさん!!この四角錐の塔は?そして再び大ガードに向かって引き返す。「旧青梅街道(西口方面)」新宿区新宿3丁目38。そして「大ガード」を潜り、「新宿西口 思い出横丁」を訪ねた。 「新宿西口商店街」 は、東京都新宿区西新宿1丁目(新宿駅西口)にある商店街である。別名として思い出横丁、やきとり横丁のほか、かつての俗称ションベン横丁が知られているのだ。空襲の跡がまだ生々しい1946年頃にできた闇市にそのルーツを持つ。かつては小田急百貨店新宿店まで広がり、300軒ほどの店舗が立ち並んでいたという。やきとり屋やもつ焼き屋などの居酒屋、金券ショップや定食屋が多い。中に入ると、昭和を思わせる小規模な飲食店が所狭しと並んでいるのであった。1999年11月24日には大きな火災が発生し、70店舗中28店舗が全半焼したのであったが。今ではゴールデン街と並んで、年齢・国籍を問わず観光名所としても人気のスポット。「岐阜屋」。老舗中華料理店。横丁には醤油の香ばしい匂いが漂い、狭い路地の両側にはカウンターのみの小さな飲食店が軒を連ねているのであった。店頭のテーブルで昼飲みを楽しむ方々。「第二宝来家」。 思い出横丁の線路側にあるこじんまりとしたもつ焼き屋。反対側の入口にも。「NTTドコモ代々木ビル」が見えた。NTTドコモ代々木ビルは、東京都渋谷区千駄ヶ谷にあるNTTドコモの超高層ビル。通称ドコモタワー。新宿駅の南側及び代々木駅の東側に位置する。「思い出横丁」の看板の下に店の名前がズラリと。記念撮影する外国人の女性が。 ズームして。真ん中の路地へと入る。立ち並ぶ店鋪が路地を挟んで寄り添うように向かい合うこの小さな路地は、2人がすれ違うのもやっと。右に「ひなどり4号店」。 「もつ焼ウッチャン」 。「カブト」。蒲焼きに限らず希少部位まで、鰻の美味しいところを余すことなく提供してくれる店 と。欧米人?の姿も。「思い出横丁」を後にして、北方向・新宿大ガード方向を見る。モード学園コクーンタワービルを東側から。 コクーンタワーの根元にある球形の建築物。逆三角形の窓が多数設けられていた。講義だけでなくファッションショーや試写会等が行える多目的ホールらしい。そして小田急線の急行に乗車し、帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.04.16
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「青梅街道」を歌舞伎町に向かって進む。左側にあったのが寺号標石「日蓮宗 常圓寺」。新宿区西新宿7-12-5。石碑横の満開近いソメイヨシノ。参道を見る。「便々館湖鯉鮒狂歌碑(べんべんかんこりふきょうかひ)」。 「新宿区指定史跡便々館湖鯉鮒狂歌碑所在地 新宿区西新宿七丁日十ニ番五号指定年月日 昭和六十一年十月三日江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(一七四九~一八一八)は、本名を大久保正武といい、牛込山伏町に住んだ。初めは福隣堂巨立と号したが、のちに便々館湖鯉鮒と改めた。この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作である、三度たく 米さへこはし やはらかしおもふ ままには ならぬ 世の中 が刻まれている。碑は湖鯉鮒の死の翌年、文政ニ年(一八一九)に、狂歌仲間であった大田南畝(蜀山人)によって揮毫された。なお、湖鯉鮒の墓地は袋町の光照寺にあり、新宿区登録史蹟となっている。 平成三十年三月 新宿区教育委員会」 【「毎日三度炊くご飯ですら、硬かったり柔らかかったり(思い通りに)いかない。世の中もまた、すべて思うままにはならないものだ」という、日常の些細な失敗を風刺した世渡りの心得を詠んだもの】と。正面に山門。題目碑・「南無妙法蓮華経」。 「常圓寺」。 「祖師堂」 「本堂」。水戸光圀公寄進の像立本尊が安置されている と。 本堂から見た風景、枝垂桜と山門の向こうに高層ビルが。新宿区の指定史跡 筒井政憲の墓「新宿区指定史跡筒井政憲の墓所在地 新宿区西新宿七丁日十ニ番五号指定年月日 平成十一年一月八日江戸時後期の幕臣筒井政憲(一七七八~一八五九)の墓。政憲は、昌平坂学問所に学ぶ頃から頭角を顕し、その後幕臣として栄進し、長崎奉行を経て文政四年(一八ニ一)には江戸南町奉行となり、約ニ〇年にわたり江戸の行政を預かり、金銀貨の改鋳・都市防災対策・担馬出石藩仙石家騒動の審理・天保飢饉時の物価対案などの施策により、名泰行と評された。弘化年間(一八四四~四八)以後、老中阿部正弘のもと外交政策の立案にあたり、嘉永三年(一八五〇)七十ニ歳の時には、武蔵・相模・伊豆・安房・上総・下総の六ヶ国の海岸防備を検分した。また、嘉永六年には長崎に来航したロシア艦隊の司令長官プチャーチンと会談。翌年大目付と異国人応接御用を仰付けられ、下田で日露和親条約を締結した際には、川路聖謨亜希良と共に全権をつとめた。またこの間、昌平坂学問所の御用も兼務し続けるなど、儒者としても活動し、「武蔵国風土記之内御府内之部」などの編纂にも関与した。江戸時代後期の内政・外交史上の重要な人物である。 平成十一年三月 新宿区教育委員会」 そしてこちらは「辰野家墓所」。 辰野金吾夫妻の墓。墓石側面。明治19年(1886)、辰野金吾建築事務所を設立。二年後には日本銀行本店の設計者に選定され、その後も日銀の各支店をはじめ全国規模で建築設計の仕事を展開ていく。明治36年(1903)には、東京駅中央停車場の設計を依頼され、大正3年(1914)竣工。大阪市中央公会堂・日本生命保険九州支店等、各地に辰野が手掛け、文化財に指定された建築作品が残されている。国会議事堂建設でコンペの開催を主張し、大正8年(1919)の第一次審査では審査員を務めているが、当時大流行したスペインかぜに罹患し、同年3月25日に死去。享年64歳。「新宿区指定史跡辰野金吾の墓所在地 新宿区西新宿七丁日十三番(常円寺)指定年月日 令和四年十一月四日明治時代を代表する建築家・辰野金吾(一八五四~一九一九)の墓で、辰野家墓所にある。辰野金吾は、嘉永七年八月二十二日に唐津藩(現在の佐賀県)の下級武士の次男として生まれた。明治元年(一八六八)に叔父・辰野宗安の養子となり、同六年(一八七三)工部省工学寮(のちの工部大学校)の第一期生として入学、建築家のジョサイア・コンドルから建築を学び、同十二年に首席で卒業した。翌年から三年間イギリスに留学して西洋建築を学び、帰国後は工部大学校で建築に関するすべての講座を担当した。明治三十一年(一八九八)に帝国大学工科大学長となった後、同三十五(一九○二)年に退官し、辰野葛西事務所(東京)や、辰野片岡事務所(大阪)を開設し、重要文化財に指定されている日本銀行本店本館や東京駅丸の内駅舎をはじめとする日本近代建築史上重要な作品を手掛けた。また、建築学会会長なども歴任し、日本の近代建築の発展の礎を築いた。辰野家は常圓寺の檀家であり、金吾は庫裡や客殿(ともに現存しない)の設計も手掛けるなど、同寺との縁が深かった。 令和五年二月二十八日 新宿区教育委員会」 「晩年の辰野博士」(写真はネットから)。日本銀行本店、東京駅などの設計者として知られ、「日本近代建築の父」と称されているのが辰野金吾である。嘉永7年(1854)肥前国唐津藩の下級武士・姫松家の次男に生まれ、明治元年(1868)に叔父の辰野宗安の養子となる。明治6年(1873)、工部省工学寮(現在の東大工学部)へ入学。工学寮は明治10年(1877)に工部大学校と改称し、辰野はこの年教授として着任したジョサイア・コンドルに学び、明治12年(1879)に造家学科を首席で卒業する。翌年より官費でロンドン等へ留学し、帰国後、コンドルの後任として工部大学校教授に就任している。 常圓寺の「山門」を振り返って。 ソメイヨシノか?「山門脇の枝垂れ桜」。 ズームして。枝垂れ桜を再び。移動して。さらに。そしてこちらは青梅街道沿いにあった「日蓮宗 常泉院」の本堂。常圓寺の西隣りにある常泉院は日蓮宗寺院、寛文年間に日得上人が創建した。福聚山と号す。ここには、左手に子を抱き右手に宝珠(一般には蓮華である)を持った木造素木造りの鬼子母神像が祀られている。この像は、江戸時代からしばしば出開帳がおこなわれ、成子の子育鬼子母神として信仰を集めたものである。新宿区西新宿7-12-5。扁額「常泉院」。 「常泉院浄行堂と鬼子母神堂」。 「浄行堂」。正面に「浄行ぼさつさま」。 「鬼子母神堂」。「東京モード学園・コクーンタワー」が大きく見えた。 新宿大ガードに向かって歩く。新宿大ガードは、東京都新宿区新宿と同区西新宿の境界線上に存在するガード(架道橋・鉄道橋)。正式名称は青梅街道架道橋(おうめかいどうかどうきょう)。単に大ガードと呼ぶ場合もある。線路上を200メートルほど南側に進むと角筈ガードが存在する。「新宿大ガード西」交差点を渡る。 右手に進むとJR新宿駅方向。その先右手にあったのが「新宿西口 思い出横丁」の案内板。 そして「新宿大ガード」を潜り進むと「歌舞伎町」交差点に到着。 「ドン.キホーテ」手前を左折。 「セントラルロード」 歌舞伎町セントラルロード(通称:ゴジラロード)は、新宿東宝ビル(旧コマ劇場跡地)へ続く、靖国通りから北へ延びるメインストリート。2015年の新宿東宝ビル完成とゴジラヘッド設置を機に、多くの観光客や若者で賑わうエリアとなったのだと。正面に新宿東宝ビル。新宿東宝ビル(英: SHINJUKU TOHO BLDG.)は、東京都新宿区歌舞伎町1丁目の新宿コマ劇場および新宿東宝会館(新宿プラザ劇場)の跡地に、東宝が建設した複合インテリジェントビル。低層部にはキーテナントとして「TOHOシネマズ新宿」が入居している。8階に設置された実物大のゴジラヘッドが特徴で、歌舞伎町のランドマークとなっている。2015年4月17日に開業した。 そしてこの日の昼飲みの場所は正面のプレーンシティ新宿ビル B1Fにある「焼き鳥とおでん 個室居酒屋 二刀流」。 店の内部(ネットから)。3時間飲み放題♪自慢の料理&酒130品の食べ放題飲み放題コースを利用。大人気の炙り肉寿司や炭火でじっくり焼き上げた焼き鳥、さらには黄金の割り下を使用したすき焼きなど、人気料理を楽しむことができたのであった。料理。おでんや前菜、焼き鳥盛り合わせなど多彩な品々に加え、肉寿司やチャーハン、デザートまで揃った充実のコース。総勢13人の飲み会であった。近況報告、体調の話、病気の話、介護の話・・・・で3時間があっという間に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.15
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「中央通り」を新宿駅方向に向かい、「新宿住友ビル」手前の石段を下り、エスカレーターで 「新宿住友ビル」の1階を目指す。 「新宿住友ビル」の1階は屋根付きの巨大な「新宿住友ビル三角広場」に到着。「1974年に竣工した新宿住友ビルは、国内初の200メートル越え高層ビルとして観光名所になり、多くの人が訪れていましたが、現在では高層ビルが珍しくなくなり、西新宿周辺は観光・にぎわいの場ではなく、オフィス街としてのイメージが強くなっていきました天候に左右されず、常ににぎわいを生むため、ガラス屋根で覆われた広場を作ろうという案が出たのは、今から20年以上前のことです。当時、公開空地は屋外とする制約があったため思うように計画は進みませんでしたが、東日本大震災で多くの帰宅困難者が発生したことをきっかけに、防災拠点として活用するためにも屋根付きの空地をつくることが認められました。広場のデザインについては、広さを確保するために柱をなくすとともに、天井からは青空が見えるよう、トラス構造ではなくビーム(梁)にするという工夫をしています。また、ビル周辺の土地の高低差による回遊性の悪さを改善するため、広場の1階と2階をつなぐエレベーター・エスカレーターを設置しました。「有事の防災、平時のにぎわい」という考え方から生まれたこの広場には、帰宅困難者2850人のための備蓄が3日分準備されており、年に1回防災訓練を実施しています。平時はオフィス利用者やイベント参加者で平日・休日ともににぎわいが創出されており、イベント会場としての利用が無い日は、広場に人工芝とテーブル・椅子を設置することで、人々に憩いの場を提供しています。今回の工事は、古くなったビルを壊すのではなく、必要な箇所をリニューアルすることで、より多くの人にとって利用しやすい場所になるという良い先行事例になったのではないでしようか。私たちは、三角広場をふらっと立ち寄ってもらえる場所にすることを目指しています。まちのにぎわいの核として人の流れを生み出すことで、新宿住友ビルと三角広場だけではなく、まち全体のにぎわいにつなげていきたいと思います。」 「新宿住友ビル」フロアー案内。 私も20代から30代の7年間?このビル内に勤務していたのであった。私が勤務していた21階は現在は「第一生命保険」が入っているようであった。7階にも勤務したこともあったが、この案内には7階の表示がなぜかないのであった。 新宿住友ビル(通称:三角ビル)のイベントスペース「三角広場」に太田道灌ゆかりの黒猫の「玉ちゃん像」があった。「玉ちゃんこの黒猫の玉ちゃんは、同じ新宿区内の落合南長崎駅近くにある自性院(じしょういん)の太田道灌ゆかりの黒猫をモチーフに、新宿住友ビルが竣工した1974年に世界的に有名な彫刻家の流政之により制作された。もう50年近くこの西新宿の地の変貌ぶりを見守っています。ちなみに”恋の招き猫”として知られる、銀座四丁目の交差点の角にひっそりと佇む2体のネコ(ごろべいとのんき)の石像「コイコリン」も流政之の作品であるのだ と。「人にいのちあれば、ねこにもいのちあり江戸の里をひらきし太田道灌この地の北でいくさに敗れあわやいのちを失わん時一匹のねこあらわれ逃げ道をあんないいのちをとりとめ江戸を開いたなれどこのかくれた江戸の恩ねこもねこなるゆえに名ものこらぬはふびん江戸のいゝたま玉ちゃんと名づけのちのちまでの江戸のまもりとすつくりびと 淀 政之ねこの生れ 文明往年」 「三角広場」に向かって進む。 「三角広場」配置案内図。三角広場 :2600m2三角広場東 : 350m2三角広場西: 300m2 屋根構造図。三角広場 :2600m2 を見る。ネットから。564インチ4K巨大ビジョン。この日は、ストリートピアノの演奏が行われていた。「三角ピアノどなたでもご自由に演奏してください。~三角ピアノの歩み~新宿住友ビルは、日本で初めて高さ200mを超えた高層ビルで、その印象的な形状から「三角ビル」の愛称で親しまれてきました。2020年新宿の新たな賑わい拠点として、ここ「三角広場」が誕生しました。このピアノは1974年のビル竣工時から旧「住友ホール」にて活躍していました。その居場所を三角広場に変え、西新宿の賑わいとともに、これからも皆さまに愛され続けて行くことを願っております。人工芝で覆われた広場も、「旧淀橋浄水場蝶型弁 」の展示コーナー。「東京水道発祥の地首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活をささえる水の確保に大変な努力がはらわれてきた。すでに300年も前の江戸時代初期(1654年)、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から多摩川の水が市中に引かれた。時は変って明治となり、首都が東京に移されるや、発展する都市に不可欠な近代水道の建設が急務となった。そして、明治28年(1890年)、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に84万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈でん・ろ過のうえ、200万人の市民に浄水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区へ給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。以後、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年(1965年)東村山浄水場にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地は、新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変ることとなった。ここに展示されているものは、内径1,000ミリメートル蝶型弁といい、かつて淀橋浄水場で使用されていたものである。東京は、今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか200キロメートルも離れた利根川上流にまで求めている。ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をまかなうため、満々と水をたたえた浄水場のあったことを、想いおこしていただき、あわせて大都市における水がいかに大切なものであり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただければ、はなはだ幸いです。 1974.4 元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一」 そして新宿住友ビルの中に入って上を見上げる。ビル自体が三角形の形をしており、ビル中心部が4階から52階まで吹き抜け構造。昔、利用したエレベーター乗り場。7階にいた時は、ここを利用。全天候型アトリウム空間「新宿住友ビル三角広場」の「三角広場東」の様子。「新宿住友ビル」を後にして、「議事堂通り」を北方向に歩く。「新宿センタービル」とユニークな形の「モード学園コクーンタワー」を見る。 「東京都庁第一本庁舎」と「新宿住友ビル」を振り返って。「京王プラザホテル本館」。新宿で最も古い高層ビルは、1971年に開業したこの「京王プラザホテル本館」。地上47階・高さ170mで、それまで日本一だった霞が関ビルを抜いて、当時の日本最高層ビルとして誕生した。西新宿の超高層ビル街の先駆けとなった歴史的な建物である と。 「モード学園コクーンタワー」をズームして。モード学園コクーンタワーは、学校法人モード学園の東京校新校舎として計画された。建物は、203m、50階の高層部とそれに寄り添う形で隣り合う卵型の低層部からなり、用途は学校、ホール、店舗、駐車場となっている。高層部には、ファッション系、医療・福祉系、IT・デジタルコンテンツ系と3つの異なる学校が入り、学生約1万人を収容する。特徴的な外装は、ファッションの素材であるシルクを作りだす“繭=COCOON”をイメージし、その形状は、創造する若者を包み込み、触発させるインキュベーター空間を表す。低層部には2つのホールが入り、授業のない夜間や祝祭日には一般にも開放され、文化交流施設として都市に貢献している と。「新宿三井ビル」前から「新宿住友ビル」、「東京都庁第一本庁舎」を振り返る。 左:新宿野村ビル かつては野村不動産ホールディングス及び野村不動産の本社ビルあった。 新宿野村ビル、または単に野村ビルと呼ばれる。右:損保ジャパン本社ビル 1976年5月、西新宿の青梅街道沿いに安田火災海上本社ビルとして開業。 その後の安田火災の経営統合によって、ビル名称も変更を遂げ、2020年に現名称となった。 損害保険ジャパンおよびその持株会社であるSOMPOホールディングス等が本社を置く。「新宿警察署裏」交差点。 新宿警察署裏交差点の円形構造物は「西新宿サインリング」と呼ばれる、直径約54m、高さ15mの真円状信号機・照明・ゲートを兼ねた構造物。1991年に設置され、9〜10個の信号機が円環状に配置された特徴的な外観は、映画『君の名は。』の聖地としても知られています と。交差点を渡って、再び「モード学園コクーンタワー」を。「新宿アイランドタワー」正面入口の前の広場にあった、ひときわ目立つ「LOVEのオブジェ」。アメリカの作家ロバート・インディアナが手がけたこのオブジェは、様々なテレビドラマにも登場している有名スポット。オブジェの「V」と「E」の間を身体を触れずに通り抜けることができるとその恋が実るなど、いくつかの恋愛の噂がささやかれている と。広場の中でもひと際目をひく存在感と作品に込められた明解な愛のメッセージは、恋人たちの待ち合わせ場所や大切な告白シーンにぴったりではないでしょうか と。その先にあったのが「新宿調理師専門学校」。 「料理を通じて世界とつながる人間の創造活動」をイメージした絵画作品なのであろう。「東急歌舞伎タワー」 新宿区歌舞伎町1丁目29−1建築設計は久米設計、外装デザイン担当として指名コンペで永山事務所が選ばれたが、このビルで求められたのは歌舞伎町のイメージを変えるような、エンターテインメント性のある、人目を引く華やかさだった。かつて歌舞伎町にあった噴水をオマージュしつつ、さらに以前、戦後の意気消沈した国民を元気づけるため、娯楽を呼び込み活気を取り戻そうとした人々の思いなど、歴史的なコンテクストを丁寧にすくい上げ、活気や賑やかさが湧き上がる、巨大な噴水のイメージでデザインされた。ガラスは折板のような波形に嵌められており、見る角度によってキラキラと反射する。水の飛沫を表現した大きめドットによるグラデーションと、下側の窓でより淡グラデーションのアーチも細かなドットがプリントされているのだが、屋外側(第1面)に耐候性のあるセラミックプリントを施した。屋外側にプリントできたことで、写真のようにガラスに光が反射してもグラデーションが見えているのが分かる と。そして左にあったのが「警視庁新宿警察署」。 新宿警察署は、警視庁が管轄する警察署の一つ。第四方面本部所属。署員数700名以上。日本最大の警察署。署長は警視正。 新宿区の西部を管轄している。その管轄には日本一の歓楽街・歌舞伎町や、一日平均70万人以上が行き交う新宿駅などが含まれている。警視庁警察署でも群を抜いて警察官の人数が多い と。青梅街道にある「新宿警察署前」交差点を渡る。 再び「損保ジャパン本社ビル」。新宿には形の凝ったビルが多い印象ですが最も新宿らしいビルはこちらではないでしょうか。八の字のように広がっている滑らかな曲線は他ではあまり見かけません。安田火災ビルといっていた頃には、私も勤務場所が近かったので、高層階にあった美術館でゴッホの「ひまわり」の連作の一つを見に行きました。 ゴッホの「ひまわり」。1987年3月30日、安田火災海上保険(現:損保ジャパン日本興亜)がゴッホの名画「ひまわり」を58億円で落札した。「ひまわり」は、ロンドンで行われたクリスティーズ(世界最古の歴史を持つ美術品のオークション)の競売で落札され、当時の絵画取引の最高値であったマンテーニャの「三博士の礼拝」(19億500万円)を大きく上回る価格となった。自社美術館に目玉となる作品が欲しいと考えていた、安田生命社長の後藤康男氏は、直近の部下だった阿部肇氏に「ひまわり」を競り落とすことを指示。 落札価格として当初用意したのは2, 000万ポンドで、事前調査ではほぼ落札確定の見込みでしたが、オーストラリアのライバルが2,100万ポンドを用意しているという情報が直前に入るなど、落札まではさまざまな駆け引きがあった。事前情報を受けて、阿部氏は自己判断で上乗せし、上限額を2,300万ポンドに設定。「2, 300万ポンドまでは任せる。腕を組んでいる限り勝負。腕を解いたら降りる合図」と落札の代理人へ伝えていたと。オークション当日、会場ではすぐさま1,000万ポンドを超え、安田火災が用意した上限額まで迫る。上限まで後50万ポンドまで競り上がった時点でライバルは首を振り、ついに2,250万ポンド(約53億円)で「ひまわり」は日本海を渡ることになった。1980年代の日本はバブル経済に沸き、海外の美術品を買い集めていたが、バブル崩壊後は逆に売りに出された。しかし、「ひまわり」は今も損保ジャパン日本興亜美術館にあって存在感を示し、「ひまわり」購入以前は年間3万人程度の入館者数でしたが、現在では20万人を超える入館者数を維持し、バブル時代の輝きを残している と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.14
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芝生広場の奥にあった「エコギャラリー新宿」を訪ねた。 「「エコギャラリー新宿」とは、新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設の愛称です。多くの地域団体や事業者、行政、学校等と連携しながら市民参画型の「協働」による公共施設運営にチャレンジしています。具体的には、地域に密着した地域をつなぐ共同事業や中小企業に向けた総合講座、子ども向けイベントなどを開催、運営しています。 「区民ギャラリー」、「環境学習情報センター」があり、文化、学習活動の成果の展示や環境に関するイベント、講座などが行われています。」と。「日本中高生折り紙連盟展覧会」が行われていた。 「2026年3月27日~ 2026年3月29日日本中高生折り紙連盟展覧会2F展示室AB」で実施中と。 2Fの展示室会場へ。展示作品を見る。巨大な「イセエビ」の作品。2025年駒場東邦文化祭にて折り研が展示物として制作した。毎年本作のような巨大作品を部員一同協力して折っている。 と。・ティラノザウルス・ギガノトサウルス・〇〇◯ザウルス・ヴェロキラプトル・シノサウロプテリクス・ティラノザウルス全身骨格・ブラキオザウルス全身骨格・ステゴザウルス全身骨格右から・雪の女王・弓をひく天使・水瓶座・ザキュバス・雷神・ヒマワリ・チリクワガタ・???・星街すいせい・コーカサスオオカブト・実物大カブトムシ折り紙を体験中の子供達の姿が。これは〇〇エビ?・クラゲ。体験コーナー。・あじさい折り・リオレウス「新宿エコワン・グランプリ」受賞者紹介。令和6(2024) 大賞養蜂作業を通して生涯者の自信とやる気を作り出し、自然環境の保全に努める~しんじゅQualityみつばちプロジェクト新宿区障害者福祉事業所等ネットワーク障害のある人達が、働くことを通じて社会とつながることを目的に構成された団体で、新宿区内3か所の養蜂場でミツバチを飼育しています。障害特性に合わせ作業分担し、ミツバチの飼育、はちみつの採取、瓶詰め等を行ない。「新宿しQハニー」として福祉ショップふらっと新宿など7か所の常設展ほかイベントで販売しています。 また、「伊勢丹新宿店」や「文明堂東京」、「新宿プリンスホテル】など、区内の企業でも取り扱っていただいています。伊勢丹オフィスビル屋上の養蜂場で取されたはちみつは、伊勢丹ブランド「MIELはちみつ」として販売されています。また、伊勢丹新宿店に出店している、和菓子、洋菓子店などで活用され、コラボフェも開催しています。近年は、区内の保育園、大学、新宿まちフェスなどで養蜂教室も開催しており、新宿の逸品として「ふるさと納税返礼品」に選出されました。都市型養蜂を通して、都会の緑の保全や環境問題を考えるきっかけを作るとともに、企業、各種学校などと共同でこの活動を広げながら、障害のある人達の仕事として根付くように、そして遣り甲斐や生きがいにつながるように努めていきたいです。」 そして「エコギャラリー新宿」を後にして、新宿中央公園の芝生広場を歩く。正面に、東京都庁第一&第二本庁舎を見る。「平和の鐘」👈️リンク が12時を知らせていた。昭和62(1987)年8月6日発展する新宿と地球の平和を願うシンボルとして、新宿中央公園芝生の広場に設置。高さ10メートルのステンレス製で、コンピューター制御により、12個のカリヨン(組み鐘)が1日4回(10時、12時、15時、17時)奏で、人びとに平和を語りかけます。2本の支柱によって支えられた球体は地球を表し、支柱は地球の平和を願う強い意志の芽を、また、前後の鋭い角柱は発展していく人びとの強い意志と力を表現しています。 芝生広場の店・「狩猟クラフト工房しかつの屋」。鹿の皮であっただろうか?再び東京都庁第一本庁舎を見る。満開近い桜越しに。ズームして。多くの若者達の姿が。大きな笑い声がいたるところから。そして再び「公園通り」に架かる「公園北歩道橋」を渡る。前方の歩道橋は「虹の橋」。 案内地図。「現在地」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.13
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そして「拝殿」へ。昭和9(1934)年築。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根や精巧な木彫りの装飾が施された社殿は、文化的価値が高く、東京都の重要文化財に指定。創建されたのは応永10(1403)年。中野区の中野長者橋などの地名の由来で、商売や開拓で成功し、「中野長者」と呼ばれたと言い伝えられている鈴木九郎が、故郷・紀州の熊野三山より12の神様、十二所権現を勧請して神社を建てたとされる。当初は「十二所(じゅうにしょ)」と呼ばれていたが、呼びやすいように「十二社(じゅうにそう)」となったのだとか。これらの青銅灯籠は、江戸時代から明治時代にかけて寄進されたもの。社紋の三つ巴(力の循環・調和・守護)が。※三氏族=ヤマト族・出雲族・ツクヨミ秦氏勾玉=霊力。魂・生命・神秘天地人の調和・過去現在未来の循環気の流れ、宇宙の循環、陰陽のバランス厄災を祓う、場を清める と。 そして、最頂部には、後ほど説明する「八咫烏(やたがらす)」の姿が。狛犬(右)。阿形のお顔に近づいて。拝殿前狛犬1804年生まれ、口を大きく開けている頭に宝珠。外向きの力、始まり、陽の気。「熊野神社の文化財③新宿区指定有形文化財 絵画七人役者図絵馬(しちにんやくしゃずえま) 指定年月日 平成五年三月五日安永ニ年(一七七三)四月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられています。板地着色で、縦一三六cm、横一八〇cm。図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役署の扮装姿と十ニ支の動物が描かれています。図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に十ニ代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。この絵馬の作者一筆齊文調は、江戸時中期、明和から寛政にかけて、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。新宿区指定有形文化財 歴史資料式三番奉納額 指定年月日 平成五年三月五日上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内にニ枚が掲げられています。向って右側は宝暦十四年(一七六四)に九代目市村羽左衛門が、左側は弘化四年(一八四七)に十ニ代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦九〇・七cm、横三一・四cmあります。図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、十一月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演じられた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門自身が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。」 七人役者図絵馬(しちにんやくしゃずえま)式三番奉納額。熊野神社社号額には「一品幟仁親王」の文字。有栖川幟仁(ありすがわのみやたかひと)は明治期の皇族で、神祇事務総督・皇典講究所総裁を務めた人物。公武合体政策のヒロイン和宮の婚約者だったことで有名な熾仁(たるひと)は幟仁の子息。 拝殿内にある狛犬は、お顔こそよく見えないが、右が金色の体で緑の髪色、左は銀色の体で紫の髪色。拝殿前から正面左側の青銅灯籠、狛犬を見る。吽形(うんぎょう)口を閉じた狛犬像。内向きの力、終わり、陰の気2本の角のある狛犬。境内を振り返って。「拝殿・本殿」の右、北側の案内図。 「大田南畝の水鉢」案内碑。この奥です と。境内社。本社殿向かって右側にあった弁天社。移動して。朱の欄干の橋が架かっていたが、江戸時代に、境内には、かつて高さ三丈の大きな滝「萩の滝」があった。また慶長11年(1606)に用水池として大小ふたつの十二社池が造られた。さらに、江戸時代には付近に沢山の茶店ができ緑豊かな景勝地として栄えました。最盛期には茶屋や料亭が百軒もあったと。明治時代になると滝や十二社池は淀橋浄水場の造成とともになくなった。淀橋浄水場も昭和40年(1965)には移転・廃止され、今の高層ビル街とへ変わった。住友三角ビル一階には、当時の水道管が展示されているのだ。社殿に近づいて。弁財天が祀られているのであろう。弁天社の後ろにあった「こひづか」碑。これは昭和16年7月に十二社池の小池の水質が悪化して、鯉が大量死した時に建立されたものだそうです。 「太白堂桃隣句碑」。「白桃や雫も落ず水の色」。 「御即位記念碑」。 こちらは「倉稲魂」碑。 「弁天社」の左側にあった石碑。 「延命陀羅尼 二千一百萬選 読誦碑」と。百万遍もさることながら、二千百万遍とは途方もない回数!!百万遍の場合は、一定期間内に例えば「南無阿弥陀仏」の6字を一人で百万回唱えるか、同時に10人で10万回唱えるなどですが、2,100万回となると210人で10万回ずつだったのでしょうか。あるいは、百万遍を21回やり遂げたとか? 弁天池の名残の風景。「清水長雄胸像」👈️リンク。 近づいて。 「あなたは明治33年(1900)10月山梨県北巨摩郡明野村に生を享けられ、幼少より叡智衆にすぐれ人を卆いる徳望は齢十有九歳にして早くも明野村青年団長の選ばれ、次で立憲青年党を組織してその充実を図り、青年の政治意欲を鼓吹されましたが、このことはまたあなたの今日を約束づけるものでありました。大正10年(1921)あなたは公務員を志して群馬県庁に奉職されましたのを第一歩として、内務省、兵庫県、警視庁、商工省、及び軍需省の各要職に歴任、往くところ可ならざるはなき名声を博し、その精勤は報いられて、正五位勲五等に叙せられました。昭和20年(1945)官を辞して金属回収統制株式会社代表取締役に就任されました。あなたは、政府の方針に従い全国戦災跡地の整理と十億に及ぶ債務の整理に努力せられ戦後の復興に大なる貢献をいたされました。昭和22年(1947)推されて東京都議会議員に立候補されました。あなたは政治に対する関心と熱意に加えて、多年官界民間にあって蓄積された才腕と人徳は衆望翁然とあつまり見事に当選。爾来蛟龍の雲雨を得たるごとく、忽ちにして都政界の重鎮となられ、議長、副議長、委員長、都議会自由民主党政務調査会々長、同幹事長、その他各種と正の枢機に参画されまた全国都道府県議会議長会々長等の要職にも就かれ、この間欧米各国を歴訪されること二回。つぶさに行政制度の調査オリンピック大会東京招致の要請等に努力せられ、東京都はもとより全国の地方自治行政の発展に貢献されるとともに地元新宿区の繁栄のため終始尽力され、遂に新宿副都心の計画に成功する等、その功労まことに大なるものがありました。またあなたは全国知事会、全国都道府県議会議長等、地方六団体の財政確立対策協議会委員として常にその職責完遂に努力されておりますが、議長として在任中、政府の昭和34年度地方税財政措置策定の過程においては、その代表として地方自治財政確保のため寝食を忘れてこれが貫徹に邁進され、遂に目的を達成せしめました功績は地方六団体が感謝状を贈って衷心よりその心労を多といたしたところであります。この度、議長を辞せられるに当り東京都議会はあなたの偉大な功績に報ゆるに胸像一基を贈り、深甚なる感謝の意を表します 昭和35年(1960)3月 清水長雄殿 東京都議会議長 内田道治」 「元都議会議長従四位勲三等清水長雄先生は東京都政に参与して地方自治行政に盡瘁すること実に二十有余年に及ぶ。偶々副都心の議起るや、時の安井誠一郎知事に献言し、百年の計策を以てその構想をを進め、遂に副都心の実現を見るに至れり。茲に先生の懿徳を敬慕する有志相議り、地を十二社神苑内に求めて、先生の壽像を清水邸より此所に移し、また新に顕彰之碑を刻し、以て新都心の發展、曠古の繁栄を祈念するもの也。昭和甲寅(1974 年) 季春 東龍太郎謹書 」「贈 清水長雄先生 東京都議會 1959,6」と。「本殿」の右側にあったのが「角筈胡桃下稲荷社」。 昔ここら辺は角筈村と呼ばれていたのであった。これは末社の「角筈胡桃下稲荷神社(つのはずくるみがしたいなりじんじゃ)」。前掛けを付けた「狛狐」と横に「角筈 胡桃下稲荷神社」碑。お稲荷様の、あの前掛けには、どんな意味があるのでしょうか?こんな書き込みがネットには。『稲荷(宇迦之御魂大神)というのは元々は稲の守り神です。それがお米がお金の代わりとして流通することによってお金、すなわち商売繁盛の神様に変わってきました。 古代より信仰の山であった麓に稲の神様を祀ったのは秦氏で、それが信仰を集め今の伏見稲荷に変わっていきます。 では稲の天敵は何か?鳥ではありません。鼠なのです。鼠は稲を食い荒らし、お米にしても食べてしまいます。 その鼠の天敵として日本中に生存していたのが狐です。 その狐が稲の神様、宇迦之御魂大神の使い、神使となったのがお稲荷さんと狐の関係です。 では赤の問題です。 この場合、赤というより朱で考えた方が判りやすいと思います。 古代において朱とは貴重なものでした。古墳においても石棺の中に朱が多く使われていれば、それだけ身分が高いと考えられています。 古代の神社、お寺は全て国家の枠組みの一つでありました。 ですから朱を用いることが可能だったのです。 その中でも養蚕、機織などの技術で中央に力を持っていた秦一族が伏見稲荷の元となる神社を建築した際に鳥居に権力の象徴として朱を用いたと考えられています。 すなわち朱の鳥居は魔除けであると同じに秦氏の権力の象徴でもあったと考えられています。 ですから朱、すなわち赤が今でも継がれているのです。 次に前掛けですが、お地蔵様が発端と考えられます。お地蔵様は赤ちゃん、子供を守る神様です。それから涎掛け見たいな感じとして前掛けがつけられるようになったと思われます。 その延長線上にあるのが神使である狐に前掛けするようになったのではないでしょうか? 正直いいまして狛犬でも前掛けはされていますが、少ないです。狛犬は前掛けをすることは可能ですが、しにくいですし、似合う狛犬は少ないとも思います。あのイカツイ顔に前掛けは・・・。 そのてん、狐は首がスラッとして前掛けはしやすいですし、中には「おまえ、怖いぞ」という顔した狐もいますが、狛犬よりは抵抗は少ないと思います。 これがお稲荷様の狐の前掛けと色の意味だと思います』と。 稲荷社に近づいて。「能勢熹門賛碑」。 「滝津冷々一千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」 「蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の俤 山陽堂竹友」十二社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑である と。「大鳥神社」。熊野神社の末社。縁結びや開運出世のパワースポットである と。■主祭神・ヤマトタケルノミコト(英雄神)・オオトリノムラジノオヤガミ(ヤマトタケルの子孫氏族の祖神氏神)・タケミカヅチノミコト(武神・雷神・剣神)大鳥神社の社殿に向かって右側に阿形(あぎょう)(頭部に角を持たない獅子)、左側に吽形(うんぎょう)(頭部に一角(いっかく)を有する狛犬)があった。狛犬(右)。「新宿区登録有形民俗文化財熊野神社の狛犬所在地 新宿区西新宿ニ丁目十一番ニ号 熊野神社登録年月日 令和四年十一月四日享保十ニ年(一七ニ七)に奉納された一対の石造狛犬で、区内に現存する狛犬としては比較的古い時代に造立されたものである。この狛犬は熊野神社の境内社・大鳥神社の社殿に向かって、右側に阿形(頭部に角を持たない獅子)が、左側に吽形(頭部に一角を有する狛犬)が安置されている。狛犬と台座は一つの石材から彫り出されており、腹の下はくりぬかずに残され、享保十ニ年九月の年紀と角筈村上町の百姓店衆講中という奉納者銘が刻まれている。総高は、阿形が一一ニ・五センチ、吽形が一一三・五センチで、安山岩製である。享保年間(一七一六~一七三六)には、十ニ社熊野神社周辺が江戸西郊の景勝地として知られるようになった。狛犬は、この時期に地元の講中より奉納されており、姿の珍しさとともに貴重である。令和五年ニ月ニ十八日 新宿区教育委員会」 狛犬(右)。腹の下はくりぬかずに残されて。阿形像、お顔に近づいて。狛犬(左)。吽形像、お顔に近づいて。前脚の間に刻まれた奉納年月・享保十ニ年九月吉日の年紀。大田南畆(おおたなんぽ)の水鉢。近づいて。「熊野神社の文化財④新宿区指定有形文化財 工芸品大田南畆(おおたなんぽ)の水鉢指定年月日 昭和五十九年十一月ニ日文政三年(一八二〇)三月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畆(蜀山人 しょくさんじん))(一七四九~一八二三)の書による銘文が刻まれています。外部は幅一五〇cm、高さ六〇cm、奥行六四cm。内部の鉢の部分は幅一二六cm、深さ二三cm、奥行四〇cmあります。銘文は次のとおりです。正面 :熊野三山 十二叢祠 洋洋神徳 監於斯池 大田 覃 印 印右側面:「文政三年庚辰」暮春左側面:奉納 淀橋」 正面:熊野三山 十二叢祠 洋洋神徳 監於斯池 大田 覃 印 印移動して。「本殿」を見上げて。 振り返って社務所を横から見る。再び「十二社熊野神社」の拝殿を見上げて。手前の提灯には社紋「三つ巴」、奥の提灯は「八咫烏(ヤタガラス)」。熊野神社の「八咫烏(ヤタガラス)」は、神武天皇を大和へ導いたとされる3本足の神鳥で、太陽の化身・導きの神として信仰されています。熊野三山(本宮、那智、速玉)の使いであり、交通安全、開運、大願成就のご利益があるとされ、日本サッカー協会のシンボルマークでも有名。ボールをゴールに導くように、との願いが込められているのでしょう。日本サッカー協会のシンボルマーク。「拝殿」前の青銅灯籠の上部にも「八咫烏(ヤタガラス)」の姿が。そして脇門・東神門を境内から。脇門・東神門前から拝殿を。そして「十二社熊野神社」を後にして、再び「新宿中央公園」の「芝生ひろば」へ。 あっという間に、満開の桜の下には花見客の姿が増えていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.12
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そして、新宿 熊野神社(十二社)を訪ねた。新宿中央公園の西端から、熊野神社(十二社)の拝殿脇に入ることが出来る東神門があった。「十二社熊野神社の文化財住所 新宿区西新宿2ー11ー2電話番号 03 (3343) 5521熊野神社は、室町時代の応永年間(1394 ~ 1428)に、中野長者鈴木九郎が、故鄕である紀州熊野の十ニ所権現をうつし祠ったものと伝えられ、そのためにこのあたりは十ニ社と呼ばれるようになりました。また、周辺にはかつて池や滝があり、江戸時杙中期より江戸西郊の景勝地として有名でした。ミニ博物館「十ニ社熊野神社の文化財」では、熊野神社に伝えられる江戸時代以来の文化財や、かつての十ニ社の風景などを紹介しています。ぜひ、ご覧下さい。※社務所にて、解説パンフレットを配付しています。」 「十二社熊野神社の文化財」。「新宿中央公園」からの脇門(側門)にあった「御社 熊野神社」柱。 東神門は「屋根付き冠木門(切妻造)」。脇門(東神門)から境内に入り、「十二社通り」沿いにある入口まで歩く。 ここにも「社号標石 熊野神社」そして朱の石灯籠(左)。 近づいて。朱の石灯籠(右)。ここにも「十二社熊野神社の文化財」案内板。 石畳の坂道の表参道を上って行った。そして満開の桜と平成6(1994)年に建てられた表石鳥居。表石鳥居越しに境内を見る。移動して見上げて。右手にあった石碑群。「纏の碑」、第九區 と。江戸消防第九区による平成7(1995)年5月の建立。10種の纏の絵が刻まれていた。 「十弐社碑江都之勝躁於東南而西北則寂矣蓋以其高燥乏水也河渠不通舟楫欠便遊跡従寡屠肆従陋所以属寂如茲境丘壑錯互原野平叙始而幽邃終而暢達且挟一大池以開生面東南豈有数与猶不躁者何以都人取便利与酔飽而真愛景致者少也人以為恨然予則謂是騒流韻士所適雑踏攪趣酔顚破景安得披襟逞雅興焉夫桜華凝芳而人過香積国嘉木滴緑而身入清涼地虫声沸月則観一乗雪光照丘則浄六塵乃騒客来游而可酔可噓堪□堪賞四時佳景東南有幾我恐或躁曷恨矣今記其槩表之勝状悉実非予筆可悉也嘉永辛亥春三月 負笈道人撰丘山分地胗位置属天工池蓄千秋雨松吟両岸風 静軒居士 日本書堂憲斎源文彭書」。『十二社の碑江都(こうと)の勝(しょう)、東南に躁(そう)にして、西北は則ち寂(さび)し。蓋(けだ)し、其(そ)の高燥(こうそう)にして水の乏しきを以(もっ)てなり。河渠(かきょ)通ぜず、舟楫(しゅうしゅう)便を欠き、遊跡(ゆうせき)従って寡(すくな)く、屠肆(とし)従って陋(せま)し。寂しきに属つく所以(ゆえん)なり。』【十二社の碑江戸の景勝地は、東南ではにぎやかに栄えているが、西北では寂れている。土地が高く乾燥していて、水が少ないからだろう。川や水路が通じていないので船の便も悪く、従って行楽地は少なく、料理屋も狭苦しい。だから寂れてしまうのである。】『茲(この)境の如きは、丘壑(きゅうがく)錯互(さくご)し、原野平叙(へいじょ)なり。始まりて幽邃(ゆうすい)、終わりて暢達(ちょうたつ)。且つ一大池を挟み、以て生面(せいめん)を開く。東南、豈(あ)に数有らんや。猶(な)お躁ならざるは何ぞや。都人、便利と酔飽(すいほう)を取りて、真に景致(けいち)を愛する者少なきを以ってなり。人、以て恨みと為(な)す。』【この十二社のあたりは、小高い土地が入り組んでいて、広々とした平地もある。静かで深い木立を抜けると、のびやかに広がった場所に出る。しかも、中には大きな池があるなど、変化に富んだ魅力がある。東南の地にだってそんなにはない景勝の地だ。それなのに栄えていないのはどうしてか。江戸の人々が交通の便と飲食ばかりを重視していて、風景のすばらしさを心から愛している者は少ないからである。心ある人々は、これを残念に思っている。】 『然(しか)れども、予(よ)則(すなわ)ち謂(い)わん、是(こ)れ騒流(そうりゅう)韻士(いんし)の適する所なり、と。雑踏は趣(おもむき)を攪(みだ)し、酔顚(すいてん)は景を破る。安(いず)くんぞ襟(えり)を披(ひら)き雅興(がきょう)を逞(たくま)しくするを得ん。』【しかし、私に言わせれば、こここそが、風流人が出かけるにはぴったりのところなのだ。人出が多いと雰囲気はぶち壊しになるし、酔っ払いは風景の邪魔になる。くつろいだ素直な気持ちになって自然を心から楽しむことなど、どうしてできるだろうか。】 『夫(そ)れ、桜華は芳(ほう)を凝らして、人(ひと)香積(こうしゃく)の国に過(よ)ぎり、嘉木(かぼく)は緑を滴(したた)らせて、身(み)清涼の地に入る。虫声(ちゅうせい)月に沸けば則ち一乗(いちじょう)を観(み)、雪光(せっこう)丘を照らせば則ち六塵(りくじん)を浄(きよ)む。乃(すなわち)騒客(そうきゃく)来游(らいゆう)して酔うべく噓(うそぶ)くべく、□すに堪たえ賞すに堪う。四時の佳景、東南に幾(いくばく)も有り。我は恐る、或(ある)いは躁なるも曷(なん)ぞ恨みん。』【それにひきかえこの地は、桜の花が咲き誇る季節には、人々は仏の国に来たような気分になるし、したたるような新緑のころには、清涼感を体全体で味わえる。明月に照らされて虫の鳴き声に耳を澄ませば、悟りの境地を垣間見ることができるし、丘が雪で銀色に輝くのを目にすると、あらゆる煩悩が消え失せていく。そんなわけだから、風流人が訪れて、酒を飲み清浄な空気を満喫することができる。□するにも充分だし、詩歌にうたうにもふさわしい。四季折々の景勝の地は、東南にいくつもある。そちらの方がにぎやかだといって、何を残念に思うことがあろうか。】『今、其の槩(がい)を記して之を表す。勝状(しょうじょう)悉(ことごと)く実なり。予が筆に非(あら)ずんば悉(つく)すべきなり。嘉永辛亥春三月、負笈道人撰(せん)す。』【今、だいたいのところを記してこの文章を作った。景色の描写は、すべて実際のとおりである。私のつたない文章でなければ、もっと詳しく描けるだろう。嘉永4年(1851)春三月、負笈道人が起草した。】『丘山(きゅうざん) 地胗を分かち位置は天工に属す池は千秋(せんしゅう)の雨を蓄え松は両岸の風を吟(ぎん)ず 静軒居士 日本書堂 憲斎 源文彭書す。』【いくつもの丘が起伏して、(「地胗」については不明)その配置は造化の妙を見ているよう。池は降る雨をたたえていつも涸れず、岸を吹く風に松の葉ずれが響いている。 寺門静軒 日本書堂の中川憲斎が清書した。】「熊野神社の文化財①新宿区指定史跡十二社(じゅうにそう)の碑指定年月日 昭和五十九年十一月二日ここ十ニ社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永四年(一八五一)三月に建てられました。高さニ一〇cm、幅一一九cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記』の著者寺門静軒(てらかどせいけん)と中野宝仙寺の僧侶負笈(ふきゅう)道人により、西郊の名所として有名になった十ニ社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による詩が刻まれており、字数はニ六ニ字あります。また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数はニ八六字に及びます。なお、書中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。」 「御即位記念神楽殿改築碑」十二社碑の後にある碑で、大正4(1915)年9月の建立。「昭和三年 御大典記念侍従武官長陸軍大将奈良武次書」 高さ: 約400.0cm年代:昭和7年(1932)昭和7年(1932)9月に淀橋町青年団が建立。昭和3年の昭和天皇即位の大礼を記念したもの。かつては、新宿駅南口の陸橋脇、現在のフラッグスビルの前に建てられていたもので、近年熊野神社境内に移された。侍従武官長陸軍大将奈良武次の書。「神徳日新道自通」碑 (表)神徳日新道自通 従一位侯爵源通久書[印][印](裏)姓名字別いろは順(※氏名多数につき、これを省略)明治四十年十一月建之」 「神の徳(恵み)は日々新しくなり、正しい道(誠の心)を歩めば、自ずと神の道は開かれる」といった、神道的な精神性や信仰のあり方を示す言葉?参道左手に「神輿蔵」。 「熊野神社の文化財②神輿蔵神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。普通は木製黒漆で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台には二本の棒を貫きます。神社祭礼の神輿は、通常この棒を肩でかつぐ形です。この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。宮神輿は、昭和三年(一九二八)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。」 ガラス戸越しに神輿を写す。「栃木県指定無形文化財 神輿師 小川政次 作」か? 「東京 元浅草南部屋五郎右エ門 謹作」 ズームして。別の神輿を。十二社熊野神社の例大祭時の写真をネットから。江戸と東京のコラボ!!神輿蔵前から境内を望む。「神楽殿」。 「社務所」。 移動して「拝殿」を。 「拝殿」を正面から。 近づいて。「しだれ桜」。 「奉納 しだれ桜令和七年四月二十一日 植樹」と。 「島川玄丈人壽兆碑鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4年(1807)に造られたもの構造・寸法:高さ 100.0cm紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝う文章が刻まれる。撰文は紀州藩士川合衡、鐫は鈴木佛肩。自然石型。」 『江戸城之未剏也、太田道灌始居此地方、天下雲擾、以俊傑資張雄山東、麾下多名士、島川氏之先近貞事之爲行人、道灌罹禍其衆墳、近貞耕于之以没身、逮天正建牙開府于此、近貞子孫屏處秩父、七世有近保者生近富、病而盲、以善九鍼術、出入高貴門、受業者盖二千餘人、鍼術有杉山・島川二流者、自近富始矣、以技仕吾 先公于紀邸、無子養姪草玄爲嗣、草玄好軒岐學、襲父祿爲侍醫、島川氏本姓藤、藤氏別族有木氏、故稱木草玄、字草玄、自號曰玄丈人、爲人慷慨好揚人美、然有一言不合義者、不肯少假借、爲有病者請治、常先貧者、後富者、好讀漆園氏書、屋後小樓扁曰、小壺天、退食日居其中、以避人事、余毎祇役来于江戸、與丈人及金世雄・藤世輔・紀大亮・沼伯經・榊子禮・菊博甫、以文雅爲交、今茲丁卯復来、則丈人年適六十、先是世雄・世輔・大亮既即世、乃與伯經諸子、題丈人峰圖爲壽、丈人亦自作詩五章言志、一日開筵、延余輩酒酣、且言曰、老將知而耄及之、大丈夫雖不能傳朱騎馬也、享生食肉六十年、樂亦是矣、余將擇不食之地、爲長夜室、諸君今日以余爲死于此葬于此、而今而後、余雖生也、游魂行尸耳、喜怒哀樂、日夜相代乎前、余又如何議論是非、日夜聚訟乎前、余又何辨、古人亦有豫爲塚壙、引客坐飲塚中賦詩、或荷閃相隨者、自玄通之士、觀之則死生一致、到處青山、皆吾俘仭、爲塚與荷閃、均皆爲煩安得以此為達余也、固分溝壑、自填欲首足形、與附烏鳶、飽衽蟻、一任所遇、非所以豫爲慮焉、然狐死丘首仁也、人之樂思、平生所游憩、寧謂百歳之後、無復神游者哉、魚山之歎、襄陽之泣、使人於邑、吾以不才、死而不朽、豈可庶幾哉、幸有二三兄弟、在敢即圖之、余聞之、歎其達位、亦哀其情、乃従丈人、相地于西郊、得三山祀傍、是又古武野之域、所謂樓堂里、距此不太遠云、營爲玄丈人壽兆、略記其世系、髪樂石覿、以銘、銘曰、有山嵂捧 名曰丈人 有人山立 爲德有鄰 術資醫國 志存濟民 乘變游化 葆光頤眞 挫鋭解紛 和出天鈞 生全其器 卜兆恃俘 偉矣曠懷 以見風淳 好謙居退 足克終身文化四年冬十一月南至紀藩 川合衡襄平撰 武蔵 左潤書 賀瑛之書額 鈴木佛肩鐫*堂 不鮮明の字 末画「亅」にも見える。』■ 書き下し文(全文)江戸城の未だ剏(はじ)まらざるや、太田道灌、始めて此の地方に居す。天下雲擾し、俊傑の資を以て雄を山東に張り、麾下に名士多し。島川氏の先、近貞これに事え、行人と為る。道灌禍に罹りて其の衆散ず、近貞これに耕して以て身を没す。天正に逮び、建牙して此に府を開くに及び、近貞の子孫、秩父に屏処す。七世にして近保なる者あり、近富を生む。病みて盲するも、九鍼の術に善く、高貴の門に出入し、受業の者蓋し二千余人。鍼術に杉山・島川の二流ありて、近富より始まる。技を以て吾が先公に仕え紀邸に在り。子無く、姪の草玄を養いて嗣と為す。草玄、軒岐の学を好み、父の禄を襲ぎて侍医と為る。島川氏本姓藤、藤氏の別族に木氏あり、故に木草玄と称す。字は草玄、自ら号して玄丈人と曰う。人と為り慷慨にして人の美を揚ぐるを好む。然れども一言義に合わざる者あれば、少しも仮借するを肯んぜず。病ある者の為に治を請えば、常に貧者を先にし富者を後にす。漆園氏の書を好み、屋後の小楼に扁して「小壺天」と曰い、退食の後、日に其の中に居りて以て人事を避く。余、毎に祇役して江戸に来たるごとに、丈人および金世雄・藤世輔・紀大亮・沼伯経・榊子礼・菊博甫と、文雅を以て交わる。今茲丁卯、復た来たれば、則ち丈人の年、適(まさ)に六十。先是、世雄・世輔・大亮既に即世し、乃ち伯経諸子と与に、丈人峰図に題して寿と為す。丈人も亦た自ら詩五章を作りて志を言う。一日、筵を開き、余輩を延き、酒酣にして且つ言いて曰く、「老は将に至らんとし、耄すでにこれに及ぶ。大丈夫、朱騎馬を伝うる能わずと雖も、生を享け肉を食らうこと六十年、楽しみ亦たこれに足れり。余、将に食わざるの地を択びて長夜の室と為さん。諸君、今日、余を以て此に死し此に葬ると為せ。今より以後、余、生くと雖も游魂行尸のみ。喜怒哀楽、日夜相代わりて前に在り。余また如何ぞ是非を議論し、日夜前に聚訟せんや。余また何をか弁ぜん。古人また予め塚壙を為り、客を引きて塚中に坐し飲みて詩を賦す者あり。或いは荷担して相従う者あり。自ら通達の士なり。これを観れば則ち死生一致し、到る処青山、皆吾が葬る所なり。塚と荷担と、均しく皆煩なり。安んぞ此を以て余に達せしめんや。固より溝壑に分ち、自ら填めて首足の形を欲し、烏鳶に附して飽かしむるは、遇う所に一任すべし。予め慮る所以にあらず。然れども狐の死して丘に首するは仁なり。人の楽しみ思うは、平生遊憩する所なり。寧ろ百歳の後、復た神遊する無からんや。魚山の歎、襄陽の泣、人をして邑々たらしむ。吾、不才を以て死して不朽たらんこと、豈に庶幾すべけんや。幸いに二三の兄弟有り、在りて敢えて即ちこれを図る。」余これを聞き、その達観を歎じ、またその情を哀しむ。乃ち丈人に従い、西郊に相地し、三山祀の傍を得る。これまた古の武野の域、いわゆる楼堂里にして、此より太だ遠からずと云う。玄丈人の寿兆を営み、その世系を略記し、石に勒して以て銘と為す。銘に曰く、有山嵂として捧ぐ、名づけて丈人と曰う。人あり山のごとく立ち、徳の隣り有り。術は医国に資し、志は済民に存す。変に乗じて游化し、光を葆ち真を頤う。鋭を挫き紛を解き、和は天鈞より出ず。生、その器を全うし、兆を卜して俘に恃る。偉なるかな曠懐、以て風淳を見す。謙を好み退に居りて、克く終身す。文化四年冬十一月南至紀藩 川合衡襄平 撰武蔵 左潤 書賀瑛之 書額鈴木佛肩 鐫■ 全文の意味江戸城がまだ築かれていなかったころ、太田道灌がこの地に居を構えた。当時は天下が乱れ、道灌はその才覚によって関東に勢力を広げ、多くの優れた人材を配下に抱えていた。島川氏の祖である近貞もこれに仕えた人物である。やがて道灌が不運に遭い、その勢力が散じたのち、近貞はこの地で農業に従事し、一生を終えた。その後、時代が下り天正年間に至って、政権がこの地に置かれるようになると、近貞の子孫は秩父へ退いて暮らすようになった。七代後、近保という人物が現れ、その子に近富が生まれた。近富は病によって失明したが、鍼術に優れ、貴人の家にも出入りし、多くの弟子を育て、その数は二千人を超えた。鍼術には杉山流と島川流の二流があるが、その一つである島川流は近富に始まるものである。彼はその技術によって紀州家に仕えた。近富には子がなかったため、甥の草玄を養子として家を継がせた。草玄は医学(軒岐の学)を好み、父の禄を継いで侍医となった。島川氏はもとは藤原姓であり、その分流に木氏があることから、彼は木草玄とも称した。字は草玄、号を玄丈人という。その人柄は気概に富み、人の長所を称えることを好んだが、義に反することに対しては決して妥協しなかった。病人の治療にあたっては、常に貧しい者を先にし、富める者を後にした。荘子の書を好み、家の裏に「小壺天」と名付けた小楼を設け、食後にはそこにこもって世俗の煩わしさを避けていた。筆者は江戸に来るたびに、玄丈人や金世雄・藤世輔・紀大亮・沼伯経・榊子礼・菊博甫らと、文芸を通じて交わりを結んだ。ある年(丁卯の年)に再び訪れたとき、玄丈人はちょうど六十歳であった。それ以前に、親しい友人の何人かはすでに亡くなっていたため、伯経らとともに玄丈人の図に題して長寿を祝った。玄丈人自身もまた詩を作って自らの志を述べた。ある日、宴席を開いて人々を招き、酒もたけなわとなったとき、彼は次のように語った。「人はやがて老いに至る。私は六十年生き、食を楽しんできたが、それで十分である。これからは食を断つ場所、すなわち死後の住まい(墓)を定めようと思う。諸君は今日、私がここで死に、ここに葬られるものと思ってよい。これから先、私は生きていても魂の抜けたような存在にすぎない。日々の喜怒哀楽が目の前に現れても、それについて論じたり争ったりする気はない。古人の中には、生前に墓を造り、そこに客を招いて詩を作り酒を飲んだ者もいる。そうした達観した人々の考えによれば、生と死は一つであり、どこでも死に場所となりうる。墓の形式など本質ではない。本来、人は野に葬られ、自然に任されるものであって、前もってあれこれ思い煩う必要はない。しかし、狐が死ぬときに故郷に頭を向けるように、人もまた生前に親しんだ場所を思うものである。百年後にもなお、その地に心が遊ぶことはないとは言えまい。昔の人が特定の地に思いを寄せて嘆いたように、私もまたそうした情を持たないわけではない。私は不才であり、死後に名を残すことなど望めないが、幸いに志を同じくする友がいるので、この計画を実現したいと思う。」筆者はこの言葉を聞き、その達観に感嘆するとともに、人としての情の深さに心を打たれた。そこで玄丈人に従い、西の郊外に場所を選び、三山の祠のそばに墓所を定めた。そこはかつて武蔵野の一部であり、「楼堂里」と呼ばれた場所で、ここからそれほど遠くないところである。こうして玄丈人の生前墓を築き、その系譜を簡略に記し、石に刻んで銘とした。(以下、銘文はその徳をたたえる詩である)■ 一言での要約玄丈人という医者の生涯と人格を記し、彼が貧者を優先して人を救い、道家的な達観によって生死を一体と見ながらも人情を失わず、自ら生前に墓を定めたその思想と生き方を称えた碑文である。「手水舎」。 「さくら手水舎暖かくなる季節に境内に咲く桜と社殿を那智黒で描きました」。 那智石でアートの手水舎。この日は、さくら仕様となっていた。「拝殿」を斜めから。600年以上前から鎮座する神社の主祭神は、商売繁盛と厄除けの神である櫛御気野大神(クシミケヌノオオカミ、別名 須佐之男大神=スサノオノオオカミ)と、家内安全や縁結びを司る伊邪奈美大神(イザナミノオオカミ)。 絵馬。表面:開運。裏面:祈願。「新宿ミニ博物館」。新宿ミニ博物館の第4号館。熊野神社に伝えられる江戸時代以来の文化財や、池や滝のある江戸西郊の景勝地として文人墨客に愛され、昭和戦後まで花街があった十二社の風景等を紹介している。①十二社と熊野神社の歴史「角筈村熊野十ニ所権現社(『江戸名所図会』より)」 「十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394 ~ 1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十ニ所権現をうつし祠ったものと伝えられます〔ー説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永祿(1532 ~ 69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます〕。鈴木家は、紀州藤杙で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十ニ所権現すべてを祀ったといいます。この十ニ所が、昭和45年(1970 )までこの地の町名であった十ニ社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祠る相(双)殿形式で十ニの社を祠った十ニ相《双)殿からきたという説もあります。江戸時杙の文献にはこの他、十ニ處・十ニ荘・十ニ叢・十ニ層などの記述が見られます。神社は、江戸時代には熊野十ニ所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716 ~ 35)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐乏男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。」 「江戸時代以来、西郊の景勝地として賑わった十ニ社には、かつては大小2つの池と、いくつかの滝がありました。十ニ社の池十ニ社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西、十ニ社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。大池は、南北126間・東西8 ~ 26間とされ、湧水があったようです。十ニ社の中池、上の溜池と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜、1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。池の周囲には享保年間(1716 ~35)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。明治時代以後は、大さな料亭ができ花柳界として知らるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968) 7月に埋立てられました。小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。大池を分水したもので、南北50間・東西7~16間ありました。昭和初期より一部の埋め立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941) 7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。十ニ社の滝熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩りをそえていました。記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。①大滝「江戸名所図会」「江戸砂子」などに熊野の滝・萩の滝と記きれた滝で、高さ三丈・幅ー丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の「怪談乳房榎」の中で、この滝を登場させています。しかし明治25年(1892)頃、淀橋浄水場の工事に伴い埋立てられました。②小滝「江戸土産」に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。③熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側の斜面にあったものと思われます。④大池のイチョウ脇にあったニつの滝古老の話によるもので、大池の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2つあったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。⑤十ニ社にちなんだ十ニの滝古老の話で、かつては十ニの滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902 ~1963 )まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。」 「十二社菖蒲の図」。 「角筈村熊野神社絵図面(明治初年頃、国立国会図書館蔵)」 「十ニ社大池の舟遊び(「淀橋誌考」) 「十ニ荘(江戸名所図会より) ニ代歌川広重 文久2年 (1862)」。 ③熊野神社の文化財熊野神社には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち、十ニ社の碑・水鉢・七人役者図絵馬・式三番奉納額の4点は、新宿区指定文化財に指定され、それぞれに説明板を設けてありますが、この他にもつぎのような文化財があります。 ①狛犬 ②島川玄丈人壽兆碑 ③能勢嘉門賛碑 ④延命陀羅尼ニ十一百万遍読誦碑 ⑤絵馬・奉納額他「①狛犬本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。」 「②島川玄丈人壽兆碑紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4年(1807)に造られたものです。」 ③能勢嘉門賛碑「滝津冷々ー千尺 松樹森々十ニ層 司馬乃屋嘉門」「蜂の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の俤 山陽堂竹友」十ニ社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。④延命陀羅尼ニ十一百万遍読誦碑元治元年(1864)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てた記念碑で、神仏習合の時代を物語る資料です。⑤絵馬・奉納額(社殿内、拝観はご遠慮下さい。)熊野三山絵馬 明和6年( 1769)奉納など ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.11
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淀橋浄水場時代に建てられた六角堂(洋風東屋)を見上げて。浄水場操業当時の施設等の遺構はほぼすべて消滅しており、この六角堂と富士見台は唯一の現存する遺構とのこと。新宿区地域文化財。(認定日 平成25年3月25日 )。「旧淀橋浄水場六角堂 新宿区立新宿中央公園」案内板。 「旧淀橋浄水場六角堂 新宿区立新宿中央公園六角堂は、旧淀橋浄水場の洋風四阿で、階段を上がった先にある富士見台と呼ばれる築山上にあります。建てられた時期は、明治39年から昭和2年の間と考えられています。公園整備の際に、当時の地盤をそのまま残し、浄水場時代の記念物として保存しました。今では、浄水場があった当時の施設等はほとんど無くなり、この六角堂は現存する貴重な施設であることから、平成25年3月に新宿区の『地域文化財』に認定されました。(※地域文化財・・・地域の身近な文化財や近現代の文化財を対象としたもので 平成23年4月から始まった新たな文化財制度です。)「当時の淀橋浄水場を訪れた見学者は、ここから場内を眺めながら説明を受けたり、休憩したりしていました。」と。 「六角堂の足元にはレンガを用いた飛び石があります。これは淀橋浄水場に使われていたレンガを再利用したものです。」と。「富士見台この丘は公園の最高所(標高 東京湾中等位+45米)で、はるか西空に秀麗富士を仰ぐ展望台である。なお ここにある六角堂は淀橋浄水場時代のものを補修してそのまま残したまた通路の飛び石は浄水場の壁に使われていた明治30年頃の古い煉瓦である。」 「浄水場から副都心へ東京の多くの家庭にきれいな水を提供し続けた淀橋浄水場は、新宿副都心計画の中で移転が決まり、昭和40年、60年以上にわたる歴史に幕を閉じました。跡地には現在、新宿中央公園や日本屈指の高層ビル群が立ち並んでいます。」 「昭和36年当時の淀橋浄水場」、赤い丸が六角堂。「造成直後の新宿副都心」 (赤い丸が六角、緑の線が現在の新宿中央公園の位置です)テーブルも六角形!!「公園大橋」を渡ってさらに南に進む。 「公園大橋」。左:東京都庁第一本庁舎右:東京都庁第二本庁舎東京都庁第一本庁舎をズームして。東京都庁第二本庁舎をズームして。再び「新宿区立新宿中央公園案内図」 「現在地」はここ。 近づいて。遊歩道の左にあった桜を追う。近づいて。「ちびっこ広場」には多くの遊具が。 プラ製、カーブ付きの滑り台。こちらはRC製の巨大な滑り台。クジラのお腹の中に。「南通り」の先にも枝垂れ桜が咲いていた。 ズームして。引き返して。多くの親子連れの姿が。この建物は?「赤ちゃん休憩室」授乳とオムツ替えができます。~ご利用時間~10:30~16:00」と。 引き返して再び「公園大橋」を渡りながら「東京都庁第一本庁舎」を見上げて。 燮(やわらぎ) 。太陽に向かって手を伸ばす親子の姿が表現されたブロンズ像。アート制作:佐藤健次郎「燮(やわらぎ)やわらぎ。ゆっくりと溶け合う。母と子の間の温い火のように、めぐりあう心と心をあえかに煖(あたた)めあおう」 「きずな広場」まで戻る。 先ほどはブルーシートだけであったが、既に多くの花見仲間の姿が。桜をズームして。「新宿区と友好提携を結んでいる長野県高遠町(現在は長野県伊那市)から寄贈されたタカトオコヒガンザクラ(高遠小彼岸桜)は濃いピンク色で非常にきれいに咲きます。」とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.10
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「芝生広場」から階段を下りて「ファンモアタイムひろば」へ。旧「水の広場」は新宿中央公園のネーミングライツ・パートナーが決定し「ファンモアタイムひろば」の愛称に変わったのだと。 「BUNGEE BUNGEEバンジートランポリン」 「ファンモアタイムひろば」からJR新宿駅方面を望む。ズームして。「Teals遊びがいっぱい!ふわふわアクレチックスライダー!」 廻り込んで。「ナイアガラの滝」。 落差5m・幅38mで、1982年(昭和57年)に完成。「ファンモアタイム広場(水の広場)」の象徴的な施設。豪快な水しぶきが観る者を魅了。「ウォーターバルーン」。巨大ボールの中に入って水上をフワフワ歩いたり寝転んだりして楽しめるのであった。直径1.5m程度であったか。廻り込んで。さらに南に向かって進む。「はしめまして♪名前ははなるんだよ!新エリア「花のもり」オープンを記念してうまれたキャラクター「はなるん」。お団子が大好きで、よくはなのもりでかくれんぼをしているよ!あたまにのせているのは、富士見台「六角堂」風のぼうしだよ。」と。 「TAMIYA RC PARK」。 3/28(土)・3/29(日)の2日間、会場には『タミヤRCアスレチックサーキット』が設置されタミヤRCカーを楽しむことが出来る。期間中はタミヤの様々なRCカーの体験走行はもちろん、自慢のタミヤRCカーを持込んで走行する事ができるとのこと。チップを敷き詰めたレーシングサーキット。ズームして。様々なハードルが設置されていた。「ワークショップ&ショッピングゾーン」。 「眺望の森」。 「大久保つつじ キリシマツツジ品種・「本霧島」「八重霧島」「大久保つつじ キリシマツツジ品種・「本霧島」「八重霧島」現在の大久保から百人町の辺りは、かつてツツジの名所でした。これは、江戸時代に鉄砲百人組の与力・同心が屋敷の庭で育てていたツツジが評判となり、見物客で賑わうようになったのが始まりだど言われています。明治20年代の最盛期には、花が70種類、数は1万株を超え、ツツジの多くが日比谷公園に移され、周辺の開発も進み、次第にツツジは見られなくなりました。大正時代に残ったツツジの一部は、館林市の茂林寺や箱服根の小涌園等に移されました。ここに、植栽しているのは、大正4年に群馬県立つつじが岡公園に植えられた「大久し保のつつじ園」由来の原木から、平成17年に舞馬県館林市のご厚意によりいただいた枝を、挿し木によって育てたツツジ、「大久保つつじ」です。 平成20年4月 新宿区」 花が咲くと(ネットから)。「写真工業発祥の地」と。明治35年~昭和38年の間操業していた、六桜社(現コニカミノルタ)の写真感光材製造工場の跡。新宿区地域文化財。(認定日 平成23年10月3日 ) 「写真工業発祥の地この地は、明治三十五年五月、小西本店(現・コニカミノルタ)が写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラ の製造も始め、写真フィルム の国産化にも成功した。その後、昭和三十八年、新宿副都心建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎はこの地で築かれたものである。 昭和五十八年五月一日 新宿区設置」 「東洋一の寫眞工場 六櫻社全景」と(ネットから)。1902年(明治35年)- 小西屋六兵衛店が東京淀橋に工場「六桜社」を設置、写真乾板、印画紙の製造を開始(現:新宿区西新宿、1963年(昭和38年)まで操業)と。 その先に紫の花が。「ムラサキハナナ(紫花菜)」 「チューリップ」。 「ムスカリ」も。 様々な花が咲き乱れる花壇。ズームして。「銀世界の梅」。 「「銀世界の梅」について江戸時代、新宿角筈(現在の新宿パワークタークビル敷地内)に「梅屋敷銀世界」と呼ばれた梅林がありました。「銀世界」とは、梅林に咲く白梅の様子から名がつけられたもので、多くの人々に親しまれていました。明治になり土地の所有者が東京瓦斯株式会社となり、多くの梅が都立芝公園に移植されました。その後、東京都庁の西新宿への移転を記念して、地元「西新宿をよくする会」の発意で、芝公園の梅の木から育てた苗木を新宿中央公園に植樹することとなり、平成三年十二月、銀世界の梅が角筈の地に里帰りしました。 新宿区みどり公園課」 様々なところに花壇が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.09
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「新宿中央公園」交差点横の歩道橋に向かう。歩道橋を渡り新宿中央公園へ。新宿パークタワーが左手奥に。西新宿にある地下5階、地上52階、高さ235mの超高層ビル。オフィスをはじめ、ホテル、ショップや多目的ホール、レストランなどを擁する複合施設。日本を代表する建築家、丹下 健三氏設計による高さの異なる三連のブロックからなるこのユニークな外観は、北側へ向かって階段状に低くすることにより、公園との一体感を与えている と。写真はネットから。塔の最上部は、独特な三角屋根。右手奥の左側に見えたのが「新宿グリーンタワービル」。東京都新宿区西新宿6丁目14−1。その左に「セントラルパークタワー ラ・トゥール新宿」。 「公園北歩道橋」を渡り、新宿中央公園内に入る。桜・「染井吉野」の花がほぼ満開。 多くの花見客がブルーシートの上で飲食を楽しんでいた。「新宿区立新宿中央公園案内図」。現在のマップ(Googleマップ)に淀橋浄水場があった場所を着色(ネットから)。淀橋浄水場(1898-1965)があったころのカラー化された写真。(ネットから)現在は東村山浄水場に機能を移転しているとこと。右手前方にあったのが「スターバックス新宿中央公園 SHUKNOVA店」。 新宿中央公園内にあるスターバックスコーヒー。店は、公園の中でもハイアットリージェンシー近くに位置し、飲食店等が入る建物の『シュクノバ(SHUKUNOVA)』の1階にあった。芝生広場の目の前に位置し、緑が見える絶好のロケーション。自然の中にあっても調和する茶色を基調とした建物で、店はガラス張りなので店内からも公園の緑が見えるようになっていた。正面、右手の曲線状の建物は5つ星ホテル「ヒルトン東京」。その左に「住友不動産新宿オークタワー」。 振り返って。手前:新宿第一生命ビルディング中央:東京都庁第一本庁舎「TOKYO outside Festival」案内。3月28日(土)・29日(日)の2日間、新宿中央公園に120社超が集結、家族で遊べる 「TOKYO outside Festival 2026」 が開催中であった。 「会場マップ」。日時:2026年3月28日(土)9:30~17:00本イベントでは、単なる展示販売ではなく、実際に体を動かし、食べ、作り、触れることでアウトドアの楽しさを体感できる。新宿という大都市の中心にありながら、公園の開放感の中で幅広い世代が一日中過ごせるイベントだ。会場では、ツリーイングやボルダリング、スラックラインといった人気アクティビティを体験できるほか、子どもたちに人気のバンジートランポリンや大型エア遊具も登場する。さらに、自分で釣った魚をその場で焼いて味わう 「キャッチ&イート」 体験など、遊びと食育を結びつける企画も用意されているとのこと。芝生広場で行われていた「ツリーマスタークライミングアカデミー ロープを使った木登り「ツリーイング」。料金:一人 50分 2000円参加方法:当日予約制その先のソメイヨシノは八部咲か。ズームして。さらに。「久遠の像」👈️りんく。新宿中央公園にあるこの「久遠の像」は、1978年に彫刻家・山本豊市が制作した太田道灌の「山吹の里」伝説を題材にしたブロンズ像。若い道灌が少女から山吹の一枝を受け取る名場面を表現している と。 少女(紅皿)が扇子の上に山吹の花枝を載せ差し出しています。意味が通じていない太田道灌は引き気味の姿で。この場面は、古歌に基づいているのだと。● 山吹の和歌「七重八重 花は咲けども山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき」 「太田道灌が、あるとき供を連れず一人馬に乗って狩りに行ったが、途中ひどい雨に遭い、ある藁屋の戸を叩いて蓑を借りようとした。すると、その家の娘が出てきて、八重山吹の一枝を差し出した。娘はそれなり一言も発せず、道灌は花を見ていてもどういう意味か一向に判断が付かない。さすが英雄道灌も、この時ばかりは心の中が千々に乱れて、まるでもつれて解けぬ糸のようであった」と。また別のネットでは「山吹の里 新宿区の伝説今からおよそ550年あまり昔、東京が江戸と呼ばれていた頃のこと。ということは、徳川家康が江戸に幕府を開く100年も前のことなんじゃが、その頃の江戸はまだ住む人も少なく、雑木林や荒れ野のつづく寂しい村じゃった。扇谷(おおぎがやつ)上杉家に仕える太田持資(もちすけ)・道灌という武士が、今の皇居のある所に、小さな城を築いていた。そのころ京都では、応仁の乱という大きな戦さが何年も続いていたんじゃ。ほぼ10年もの激しい戦さで、京都の町はほぼ全滅したということなんじゃが、ここ武蔵野の辺りでも、あちらこちらに城を構えた武将たちが、互いに争い、小さな戦さをくり返していた。そんなある日のこと、持資は何人かの家来を連れて鷹狩りに出かけた。鷹匠が馬に乗り、手に鷹をとまらせ、犬を連れて、殿に従った。いつものように江戸城から馬場下へ出て、高田村(今の高田馬場)の辺りで狩りをしていた。獲物を求めて高い空を舞う鷹を見ていると、持資は日ごろの疲れを忘れた。持資の心はのびのびと空へ広がっていく思いだった。いつのまにか時が過ぎて、日暮れ近くになったのだろうか。辺りが薄暗くなってきた。「さて、そろそろ帰るとしようか」家来に声をかける間もなく、ポツリポツリと大粒の雨が落ちてきた。雨はたちまち激しくなる。持資と家来は、どこか木陰でもないかと辺りを見回した。すると、向こうの林の外れに小さなわら屋根が見えた。軒下に駆け込んだ家来が、「申し!」と声をかけた。すると、ひとりの娘が出てきた。あばら家に似合わぬ美しい娘だった。持資は言った。「急な雨で、雨具の用意もなく困っている。すまんが、蓑を貸して下さらぬか」すると、娘は黙って家の中へ消えた。と思うと、しばらくして裏庭から折り取ってきたらしい小枝を持って現れた。そして、静かに持資の前に差し出した。濡れた緑の葉の間に、黄色い花が美しい。山吹の枝だった。黙って恥ずかしそうにうつむいている娘と、山吹の枝を見比べて、持資はとまどった。 (この娘は口がきけないのだろうか。それとも何か勘違いしているのだろうか)持資は腑に落ちないまま、にわか雨のやむのを待って城へ帰った。城でそのことを話すと、中村治部少輔重頼(なかむらじぶのしょうゆうしげより)という家来が言った。和歌にくわしい、年とった家来だった。「殿、むかし、醍醐天皇の皇子、兼明親王が小倉の山荘に住んでおられた時に詠まれた歌に、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」 という歌がございます。 『後拾遺和歌集』にも載っている有名な歌でございます。 『山吹は美しい花を咲かせるけれど実のひとつもならないかなしい花だ』というその歌の『実のひとつだになき』という言葉にかけて、その娘は『お貸しする蓑ひとつない貧しい暮らしでございます。どうぞ、お許し下さいませ』という気持ちをこめて、山吹の枝を差し出したのでございましょう。田舎にはめずらしい学問のある娘とみえまする」「そうであったのか」持資は、深く自分の無知を恥じた。その賢く、美しい娘は、応仁の乱の難をさけて、京都から武蔵野に逃れてきて住みついた武士の娘だった。武士にはふたりの娘があって、太田持資に山吹の枝を差し出したのは、姉娘の紅皿(べにざら)であった。このことがあってから、持資は武道だけでなく学問にも励んだ。そして、強い武将であると同時に、心も豊かな人間になろうと心がけた。のちに、頭を剃って、太田道灌と名乗るようになったが、紅皿を江戸城に呼んで、歌の友として、一生、親しい交わりを続けたということじゃ。 (おしまい)」 と。 「久遠の像この像は江戸城を築いた太田道灌が武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります。 一九七八年四月」近づいて。●髪(かみ) ・凛とした佇まいで髪をかき上げる女性のブロンズ像。 ・アート制作:渡辺弘行公園内案内板。満開の桜の下には、様々な色の場所予約!!シートが敷かれていた。まんかいのに近づいて。さらに。●絆(きずな)東京新宿ライオンズクラブ、東京新都心ライオンズクラブが寄贈。彫刻家・三澤憲司(1945~)の作品。移動して。2体で1作品のようであった。ネットから。彫刻家・三澤憲司(1945~)の作品。東京新宿ライオンズクラブ、東京新都心ライオンズクラブが寄贈。人間と自然、地域社会と人々というテーマを「絆」という形で表現した。三澤は長野県長野市の生まれ。多摩美術大学油絵科で学ぶ。文化庁芸術家在外研修員としてニューヨークのイサム・ノグチのスタジオで研修。ハーバード大学から客員芸術家として招かれる。石と金属、自然と人工といった異質の物質による巨大な立体造形を得意とする と。さらに桜花をズームして。さらに。「東京都庁第一本庁舎」。 多くの出店店舗のテントが芝生広場に並んでいた。「瞭(りょう)東京西北ロータリークラブの20周年記念で制作されたブロンズ像。日展の理事を務めた彫刻家・分部順治(1911~1995)の作品。日本芸術院賞受賞作。東京西北ロータリークラブ20周年を記念して制作され、新宿中央公園に寄進されたもの。」 「新宿第一生命ビルディング」、ホテル「Hyatt Regency Tokyo」を背景に。 近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.08
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この日は3月28日(土)、午後から新宿歌舞伎町入口にて、元同僚13人での恒例の飲み会に参加しました。前日のテレビでは、新宿中央公園の桜が満開をむかえているとのことでしたので、久しぶりに訪ねてみようと早めに家を出発。小田急線急行に湘南台から乗車し、運能く座席を確保でき、新宿駅に到着。工事中の通路を案内板に従い進み、新宿駅西口交番前に。東京都庁・中央公園方面への案内に従い進む。この通路は、50年以上前の1975年から7年間?ほど我が社の本社事務所が新宿住友ビル内にあったので通い慣れた懐かしい道なのであった。新宿駅西口ロータリーは工事用フェンスに囲まれていた。旧小田急百貨店跡地にて、小田急電鉄、東京メトロ、東急不動産の3者が事業主体となる「新宿駅西口地区開発計画」が進んでいるのだ。本計画は新宿グランドターミナルの実現に向けた基盤整備等を整備方針としており、駅とまちの連携を強化する重層的な歩行者ネットワークもあわせて整備中 と。新宿駅周辺で計画されている再開発の完成予想図。現地看板を撮影。左側の「新宿駅西口地区開発計画」(地上48階、高さ259m)は2029年度、右側の「(仮称)新宿駅西南口地区開発事業 南街区」(地上37階、高さ225m)は2028年度、中央の「(仮称)新宿駅西南口地区開発事業 北街区」(地上19階、高さ110m)は2040年代に完成する予定となっている。この中で左側の「新宿駅西口地区開発計画」では既存建物の解体工事が始まっているのだ(写真はネットから)。東京都庁・中央公園方向への地下道を進む。右の壁にあったのが「スバルビル 新宿の目」👈️リンク。 新宿駅西口の旧スバルビル(現小田急ビル)地下にある「新宿の目」は、彫刻家・宮下芳子が1969年に制作した高さ3.4m、幅10mの巨大なパブリックアート。ネオンが点灯し瞳が動く仕掛けで、西口の象徴的な待ち合わせ場所・ランドマークとして長年親しまれていたのだ。 「新宿の目」の主なポイント・特徴: アクリル製で、瞳と目頭がゆっくりと回転する。・作者の想い: 「怪物的バイタリティを持つ新宿を、どう表現すればよいか」と考え、 時の流れや思想の動きを見つめる“目”として制作された。・場所: 新宿駅西口地下広場、小田急ハルク前。・復活点灯: 2018年のビル解体後も残され、2025年年末~2026年年始など期間限定で 点灯している と。点灯すると(ネットから)。地下通路を直進。写真左側、柱の奥には歩く歩道がありますが、都庁方面に動くのは8時~10時だけで、10時~19時は新宿駅方面に動いていたのであった。時間は10:26過ぎ。動く歩道入口(ネットから)。「東京モード学園・コクーンタワー」を見上げる。設計: 丹下健三・都市・建築設計研究所・地上高: 204 m・階数: 50・開業: 2008年10月東京モード学園が運営する専門学校の校舎。繭(コクーン)ような外観が特徴の高層ビル。この名前とビルの形状は、「創造する若者を包み込み、触発させる」という思いを込め、イメージしたもの。専門学校は東京モード学園、HAL東京および首都医校で、合計でおよそ1万人もの学生が通学しているのだ と。通路を進むと、地上の景色が姿を現した。正面に私が通った住友三角ビル、右手に新宿三井ビル。新宿三井ビル。階数 地上55階・地下3階・塔屋3階高さ 223.6m竣工 1974年10月新宿住友三角ビル。階数 地上52階・地下4階高さ 210.3 m竣工 1974年3月6日石畳の通路を進む。地図が汚れていたが、現在地はここ。手前の新宿センタービル、その奥の東京モード学園ビルを振り返って。ズームして。・繭(コクーン)形状 ・名前の通り「繭=成長する場」を象徴 ・学生がここで学び、社会へ羽ばたく意味を込める・斜め格子の外骨格 ・外側に見える白い斜め格子(ダイアグリッド構造) ・デザイン性と耐震性を両立 ・柱を減らし、内部空間を広く確保・中央の楕円形開口(オーバル) ・外観の象徴的な“目”のような部分 ・内部の吹き抜けや採光に関係・学校専用の超高層ビル ・一般オフィスではなく「教育施設のみ」で構成 ・高層学校としては世界的にも珍しいそして左手前方には「東京都庁第一本庁舎 」が見えて来た。 カメラを回転して。そして右手に現れたのが新宿住友ビル。西新宿高層ビル街の草分け的存在で、完成当時日本一の高さを誇り、オフィスだけではなく、飲食物販・スポーツ・カルチャーなど複合商業ビルとして企画されたことが画期的だった。また、新宿住友ビルは日本の高層ビルでは初めて200mの高さを超えたビルであり、この新宿住友ビルを皮切りに、以降、新宿を始め、東京各地、神奈川県横浜市、大阪府大阪市、愛知県名古屋市などに200m級の高層ビルが建つようになった。西新宿はオフィス街であることから、平日に比べて休日は人が少ない。このため、ビルの足元の広い空間である「三角広場」に大屋根を設け、天候によらずイベントができる場を作ろうという構想を20年ほど前から住友不動産は練ってきたが、規制が多く、実現しなかった。しかし、東日本大震災の発生を機に、災害時の一時滞在施設としても使えることから、空間の屋内化に向けた規制緩和が進んだのであった。西新宿はオフィス街であることから、平日に比べて休日は人が少ない。このため、ビルの足元の広い空間である「三角広場」に大屋根を設け、天候によらずイベントができる場を作ろうという構想を20年ほど前から住友不動産は練ってきたが、規制が多く、実現しなかった。しかし、東日本大震災の発生を機に、災害時の一時滞在施設としても使えることから、空間の屋内化に向けた規制緩和が進んだ。それを受け、同社は国家戦略特区の枠組みを活用し特定街区の都市計画を変更することで、ビルの機能更新・設備リニューアルに併せて、「国際会議場施設(新宿住友ホール)」と日本最大級の「全天候型屋内アトリウム広場」を新たに整備する方針を決定。2017年9月に改修に着手し、2020年6月1日にMICE施設・新宿住友ホールや全天候型イベントスペース「三角広場」が開業した。2021年度グッドデザイン賞受賞。整備された三角広場は、地震などの有事が起こった際には帰宅困難者の一時滞在施設として2,850名を受け入れるほか、建物改修工事によって、制振補強による耐震性強化など、BCP性能やターミナルシティにおける防災対応力が高められた。そのほか、地下1階 - 地上2階に新たに導入された「ショップ&レストラン」は、新規出店および高層階からの移転を含め全26店舗が出店している と。そして再び東京都庁第一本庁舎 。階数 地上48階、地下3階高さ 243.4m(軒高:241.9m)竣工 1990年12月設計: 丹下健三・都市・建築設計研究所新宿住友三角ビルの西側にあったのが「桜・太閤千代しだれ」。 「太閤千代しだれこの桜は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催したことで知られる京都の「總本山醍醐寺」が鄭重に保全してきた、樹齢約百七十年と言われる「太閤しだれ桜」の子孫樹です。桜の成長につれて魅せる厳かで優雅な姿が、後々まで、訪れる皆様の心を癒すと共に、花を慈しみながら人と人とが交わる、日本の良き歴史、文化を感じていただける機会となれば幸いです。ニ〇ニニ年三月 住友不動産株式会社」 住友ビル入口に向かって右側、出雲大社分祠と向かい合うようなところに「恋弁天」。出雲大社があったので、縁結びの御利益が期待できるのであろう。 しかし、出雲大社とは少し離れていて、 よく見ないと抽象的なオブジェにしか見えません。ここでお願いをするといいのでしょうか。特にお参りしているような人は見かけなかったが。「恋弁天恋はみづもの 水あれば心は狂い 花が咲くその昔よりこの地は沼や池 水ゆたかなる里水をもとめて ひと あつまりさかえしといういらい弁天をおき 水をまつるゆえに 新宿の弁天たちは恋には 水をささぬとの 伝えつくりびと 流政之うまれどし 一九七五年」 出雲大社 新宿住友ビル分祠。近づいて。【住 所】 東京都新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル1F外敷地内 Mapion【御祭神】 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 龍蛇神(りゅうじゃじん)【創 建】 平成8年(1996年)「新宿住友ビル 出雲大社御祭神 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 龍蛇神(りゅうじゃじん)御由緒一九九六年五月、出雲大社東京分司よりご縁を頂き、 この地を鎮守頂いておりましたが、二〇二〇年六月、 新宿住友ビルの第二の竣工に伴い、大社宮の装いも 新たに設え直し、ご鎮座頂きました。御祭神の大国主大神は、縁結びの神として広く知られておりますが、私たちがお互いの幸福のために、素らしいご縁で結ばれるようにと愛情を注いでくださる幸福の神「だいこくさま」として多くの方に親しまれています。また、龍蛇神は、全国八百万の神々が出雲地方にお集まりになる「神在月」に、神々の先導役をお仕えされる御使神で、水に住む龍は火難除け、水難除け、地に住む蛇は土地の災難除けの守護神として信仰さ れています。ここ、新宿住友ビルでは、この二柱の神により、この土地の安全と、ここに働き、集う皆さまの幸せのご縁を結んで頂いております。礼拝作法 出雲大社では「二拝四拍手一拝」にて拝礼します。」再び「東京都庁第一本庁舎」を見上げて。 こちらは「左:HYASTT REGENCY TOKYO 右:新宿第一生命ビルディング」 「■HYASTT REGENCY TOKYO 階数 地下4 - 地上28階レストラン数 3軒部屋数 746室シングル数 68室ダブル数 363室ツイン数 236室スイート数 18室開業 1980年(昭和55年)9月15日■新宿第一生命ビルディング」階数 地上26階・地下4階、塔屋2階高さ 117.10 m竣工 1980年(昭和55年)8月新宿住友三角ビルを振り返って。左手に見えたのが「新宿アイランドタワー」。階数: 44地上高: 189 m開業: 1995年新宿駅方面を振り返って。右側に京王プラザホテル。 高さ :本館178m、南館138m 階数 :地下3階 - 地上47(本館)階 部屋数 : 1,438室 開業 : 1971年6月5日京王プラザホテルは、西新宿の超高層ビル群で最初に建設され、当時としては世界一の超高層ホテルとして建てられた。計画時には新宿は国際ホテルに適さないと危惧されたが、開業5年目には黒字を計上し、1980年(昭和55年)11月1日には地上35階・地下3階の南館を開業しているのだ と。HYASTT REGENCY TOKYO 前のパンジーの花壇。 そして中央通りを進んで「新宿中央公園前」交差点に到着。 ・・・つづく・・・
2026.04.07
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この日は3月22日(日)、春分の日(3月20日頃)も過ぎて、大分春めいて来ました。我が家の庭の花々も一斉に咲きだして来ましたのでカメラに納めました。まずは、各種の水仙(スイセン)の花。「キブサズイセン(黄房水仙)」 フサザキスイセンの黄色の品種。キブサスイセン(黄房水仙、学名:Narcissus tazetta cv. odoru)とは、タゼッタ(原種)の園芸品種で、ヒガンバナ科スイセン属の耐寒性多年草(球根植物)。英名では、グランドソレドール(Grand soleildor)と呼ばれます。原種のタゼッタ(tazetta)とは、地中海沿岸やシシリー島、コルシカ島原産で、古い時代に中国を経由して日本に渡来し、1茎に多数の花を咲かせる房水仙で、花には芳香があります。散形花序に、黄色い花弁と、濃黄色或いは帯橙黄色の副花冠を持つ花を咲かせます。黄房水仙(odoru)はタゼッタ(tazetta)の特徴を持ち、丈夫な茎に3~20個の花を咲かせます。花に芳香があります。花弁は広がりますが、反り返りません。秋~春に開花します とネットから。「八重咲水仙」。 「八重咲水仙マンマミーア。まだまだ少ない黄色花弁にピンク副花冠の八重品種。」 と。「ラッパ咲き水仙(トランペット咲き)」。 「ラッパ咲き水仙(トランペット咲き) 黄色花+オレンジ色の副花冠(カップ)を持つ園芸品種。・花は1茎に1輪(単花)・外側の花びら(花被片)は淡い黄色・中央のラッパ状部分が 👉 濃いオレンジ色でフリル状・ラッパ部分が比較的大きく、存在感がある「白花の大杯咲き水仙(だいはいざき)白花の大杯咲き水仙(だいはいざき)は、スイセンの園芸品種群の一つで、花弁が白く、副冠(中央のラッパ状の部分)が花弁の長さの3分の1以上ある大杯咲き(Large-cupped)のものを指します。このタイプは非常に洗練された美しさがあり、特に純白の品種や、白地に副冠が黄色、ピンク、オレンジ色になる品種が人気です。花の特徴: 花弁が白、副冠がイエロー~オレンジ~白。ラッパ水仙よりも副冠が短く、小杯水仙よりも長い。」 「小杯咲き水仙(しょうはいざき)/ディビジョン3」。 「八重咲き水仙(ディビジョン4:Double Daffodil)の中でも、黄色一色の“ポンポン咲きタイプ”」特徴(リップ・ヴァン・ウィンクル系)・花弁が細く、やや乱れた野性的な八重・コンパクトで庭植えで増えやすい・一般的な八重(バラのような整形)とは違い 👉 星が崩れたような独特の形「小型のラッパ咲き水仙(ミニ水仙系)トランペット咲き(ディビジョン1)系のミニチュア品種」 ・花がやや小ぶり・1茎1花(単花)・花びらとカップがほぼ同じ黄色(同色系)・カップは比較的しっかりしたラッパ形・全体にコンパクトで庭向き「ニワウメ(庭梅)」 バラ科・サクラ属、英名:Bush cherry、。・樹高 約1m前後で止まる低木・実 直径1cm弱の小さな実がなる ニワウメはサクランボのような小さな実をつけます・ 花の様子 ピンクの5弁花 雄しべが長く目立つ 枝に沿って密に咲く・枝に沿ってたくさんのうすピンク色の花をつける。 庭桜(にわざくら)に形がよく似ているが庭桜は八重で庭梅は一重なので区別できる。 花弁は5つ。・花が梅に似ていて、かつ、 庭木としてよく植えられていたことから、この名前になったらしい。・7月頃に、 ふよふよの丸い実がなる。食べられるらしい。 「ゆすらうめ」の実によく似ている。 「ゆすらうめ」の方が早く実がなる。「クリスマスローズ(ヘレボルス)」・花がややうつむいて咲く・色は白〜淡いグリーン系・花びらのように見える部分は実は萼(がく)・葉は厚く、光沢がありギザギザ(鋸歯)・冬〜早春に開花「ヒヤシンス(八重咲き・フリンジ咲き系)」。・穂状に花が密集して咲く・花は1つ1つが筒状で先が開く・葉は肉厚で帯状・春に香りが強い・花弁が細くねじれたり裂けたりしている・ふわっとしたフリンジ(切れ込み)状・紫〜白のグラデーションこちらも同じ品種か!?近づいて。「プリムラ」。 白いプリムラは、冬から春の庭を彩る清楚で華やかな花です。代表的な白い品種には、ジュリアン「シルク」、マラコイデス、シネンシスなどがあり、寒さに強く1〜6月まで開花します。日当たりと風通しの良い場所を好み、多湿を避けて管理することで長期間楽しめます。「ムスカリ(グレープヒヤシンス)」。 ・小さな花がぶどうの房のように密集・色は鮮やかな青紫・細長い葉が株元に広がる・早春に咲く球根植物そして「ユキヤナギ(雪柳、学名: Spiraea thunbergii)」。 「ユキヤナギ」は春、枝垂れた枝先の長い穂に、たくさんの花を咲かせてひときわ目を引き、花壇や公園によく植えられている植物。近年は、‘フジノ・ピンク’などの花弁の外側がピンクの品種が植えられることも多く、白一色だったユキヤナギにも色幅がふえた。「ユキヤナギ」の和名は、葉がヤナギに似て、白い多数の花が、雪をかぶったように見えることからつけられた。庭木としてだけではなく、切り花としてもよく利用される。強健で、生育も非常に旺盛なので、花後に地際から刈り込んでも、秋までに新梢が1m以上伸び、翌年もよく開花する。なお、関東地方以西の本州、四国、九州の川岸の岩場などに生えるユキヤナギを見かけるが、もともとは栽培されていたものが野生化したものともいわれている。近づいて。そしてこちらは自宅横の菜園で咲く「ブロッコリー」の花。 近づいて。我が趣味の養蜂・西洋ミツバチも訪花中。そして栽培中の「スナップエンドウ」。 白い花を付け始めました。あと2週間もすれば収穫が可能では?ブロッコリーの花とスナップエンドウとのコラボ。そしてイチゴ栽培の畝。移動して。既に実を付けている株も。そして我がミツバチの姿も。そして自宅横のわが菜園の姿を。トマト、キュウリ等の栽培用のマルチ敷の苗床も準備済みです。こちらにはナス、ピーマンを。種を蒔き、ヒーターにて加温中のビニールトンネルで発芽苗を育てています。スイカ、カボチャ、ズッキーニ、トウモロコシも発芽し、生育中です。 ・・・おわり・・・
2026.04.06
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「山中城跡」の見学ツアーを終わり、横断歩道を渡り、「山中城跡案内所・売店」の裏の旧東海道を歩く。 「箱根旧街道腰巻地区の石畳復元・整備腰巻地区の石畳復元・整備箱根旧街道は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四六mの箱根峠を越える箱根八里(約三二km)の区間である。この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八(一六八〇)頃には石畳の道に改修された。三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」約三五〇mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成六年度(一九九四)に復元・整備した。発掘調査の結果、石畳は幅二間(約三・ハm)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置されていた。基礎は作らずにローム層の土の上に敷き並べたもので、石材はこの付近で採石したと思われる、偏平に剥離する安山岩を用いていた。調査の成果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約六〇mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約二九〇mの間は、江戸時代の石に加え神奈川県根府川町で採石した偏平に剥離する安山岩を補填した。また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二か所作った。 令和三年三月 三島市教育委員会 箱根八里街道観光推進協議会」 箱根旧東海道の復元された石畳を見る。箱根旧東海道の復元された石畳を歩く。「箱根八里記念碑石畳を少し下って、右下へ階段がある右角に箱根八里記念碑(司馬遼太郎)が建っていた。」 「幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が 谷を埋める わが箱根にこそ」 司馬遼太郎更に杉並木、石畳の坂を下る。国道1号旧道に向かって進む。そしてバスの待つ駐車場に戻り帰路に。箱根峠出入り口を通過し、箱根新道へと。前方正面に「駒ヶ岳」の姿が。 「芦ノ湖」の姿も。再び「駒ヶ岳」の姿を。箱根駒ヶ岳(標高1,356m)は、箱根カルデラ中央に位置し、箱根園からロープウェーで約7分で頂上へアクセスできる絶景スポット。360度の大パノラマで富士山や芦ノ湖を一望でき、頂上にはパワースポットの「箱根元宮」が鎮座する。 箱根新道からの車窓風景をズームして。湯元元箱根線の上部を走る。ホテル南風荘を眼下に。「ホテル おかだ」。「箱根湯本ホテル」。 そして「鈴廣かまぼこ博物館」の駐車場にバスを駐め、お土産休憩。ピンクの桜が迎えてくれた。「鈴廣かまぼこ博物館」。見上げて。土産店「鈴廣かまぼこの里」に向かう。「創業 慶應元年 蒲鉾 鈴廣」。 店内を散策。「あんかけがんも箸がすっと入るほど柔らかく、すり身らしい魚の旨みとなめらかな舌触りはまさに口福。さらに美味しくなった 出汁あんと一緒にどうぞ。」 「小田原ひもの、うまいもの こゆるぎ屋」。 干物を土産に購入しました。「石のすり鉢」。 「石のすり鉢この石は魚の身を摺るすり鉢です。石は御影石、杵は桜を使っています。水に晒した魚の身を叩き、包丁で細かく刻んで石𦥑に移し、4人がかりで1時間以上も杵を回して摺りつぶす、というのがかつてのかまぼこづくりでした。近代的な設備と衛生的な環境の現代の工場にあっても、石臼と杵のコンビは変わりません。」 「桜そば桜そばは、国産の桜葉の塩漬け粉末をそばに練り込んだ、春の季節限定(主に2月〜4月)の華やかな薄ピンク色の蕎麦です。桜餅のような爽やかな香りと、ほんのりとした塩気が特徴で、冷やして食べると風味がいっそう引き立ちます。」 特徴とポイント・香り: 桜の葉(クマリン)由来の甘くさわやかな香りが鼻に抜けます。・風味: 更科粉などの白いそば粉を使用し、見た目の美しさと上品な味わいを追求しています。・旬: 桜の開花時期に合わせて提供され、春の訪れを感じさせる一品です と。「海のすふれ江戸時代、卵は今と比べものにならないほどの高級食材とされていました。弥次さん、喜多さんで知られる『東海道中膝栗毛』には「たまごふわふわ」という料理が登場します。この「たまごふわふわ」は将軍徳川家の祝宴料理にもなった由緒正しいセレブ料理。江戸の頃から蒲鉾づくりをなりわいにしている鈴廣が、この江戸の高級料理「たまごふわふわ」をヒントにふんわり食感の玉子焼きをつくりました。創業当初からつくり続けている伊達巻づくりの製法を活かし、伊達巻にはない新たな食感が生まれました。すり身のうまみとスフレのような食感がお楽しみいただけるスウィーツ感覚の玉子焼きです。」と。 広い店内を歩き回る。「海鮮お好み」。 春めき桜、ソメイヨシノ、大漁桜。かまぼこの里ではさまざまな桜を楽しめるのであった。なかでもかまぼこの里で人気なのが「大漁桜」。「大漁桜」か。「そばと板わさ 美藏」。 「タイリョウザクラ 大漁桜」。網代中学・多賀中学校長を務め、桜の育種家としても有名だった角田晴彦が、1965年(昭和40年)頃にオオシマザクラ(大島桜)とカンザクラ(寒桜)から作出した品種。基本的な開花時期は3月下旬だが、温暖な地域・年では2月下旬頃から咲くこともある。春先の漁の時期に咲くことや、紅が混ざった淡いピンクの花弁が「桜鯛」(春に獲れる真鯛のこと)の色に似ていることなどから、「タイリョウザクラ(大漁桜)」と名付けられた。原木は網代漁港の網干場にあったが、1998年(平成10年)頃に漁業関係者が阿治古神社へと寄贈し、本殿脇に2本植栽された。花弁が美しく、潮風にも強いということで、日本花の会の推奨品種・配布対象品種にも選ばれているため、日本全国各地で植栽されている。 岩に抱かれた水甕は、静かに春を受け止めている。その縁を、淡紅の花びらが幾重にも重なり、まるで時の流れがそっと留められたかのごとくに。一枚一枚は軽やかなはずの桜の花びらが、ここでは水と石に寄り添い、やわらかな絨毯となって、無言のうちに季節の移ろいを語りかけてくる。水面は深く、静かに空を映し、その周囲に散り敷く花は、「咲く」という瞬間の華やぎではなく、「散る」ことで完成する美を教えている。音もなく降り積もる花びらは、風の記憶、春の余韻、そして命の儚さそのもの!!。そして西湘バイパスを利用して、ほぼ予定時間に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.04.05
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「物見台」から「障子堀」を見下ろす。後北条の特長が良く現れている堀で、上から見ると、空堀の中に衝立障子のような掘り残し(障壁)があることから名付けられました。一列の畝堀も障子堀です。移動して。ズームして。「土塁山中城のどの曲輪も土塁でで囲まれている。石垣を使う以前の戦国野代の城は全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠すか(人・馬・槍等)によって上塁の構築が考えられた。土塁の傾料はに堀に対して急で、内部には緩やかである。このように自然の谷が眼下に追っている所は、土塁も重厚なものでなく、土留程度のものである。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」引き返して、元西櫓跡まで戻り、北側の散策道を歩き、山中城の西櫓(にしやぐら)の障子堀に向かって歩く。「障子堀跡」案内に従って進む。 そして「西櫓の障子堀」前に到着。堀の底を格子状(ワッフル状)に仕切る構造で、敵の侵入を止めて殲滅する防御機能を持つ。深い空堀に土の障壁が残る「土の城」の代表格で、美しい景観が保存されている。 山中城の障子堀の特徴・構造: 空堀の内部に仕切り(畝)を設け、障子の桟のように区切った構造。・防御力: 敵が堀に落ちると抜け出しにくく、仕切りに阻まれて移動が制限されるため、 城側からの狙い撃ちが容易。・見た目: 網目状の構造がベルギーワッフルのように見えることから、 現代では「ワッフル堀」とも呼ばれ、写真映えするスポットとして知られる。・規格: 高さ約1.8m、幅8~9m、斜度は55度と非常に急で、深いところはでは 深さ9mに達する。・北条流: 山中城は北条氏康が築いた小田原城の防衛拠点であり、北条氏特有の 「畝堀(うねぼり)」や「障子堀」を多用した堅城「西の丸堀西ノ丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西ノ丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、掘の末端は谷に連なっている。西櫓と西ノ丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより愎雑にしている。このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 正面に「見晴台」。 「西櫓の架橋西櫓の曲輪を囲む約八二メートルの西櫓堀は、ほば九メートル間隔に作られた八本の畝によって、九区画に区切られている。第九区画に隣接する一段高い平担面から四本の柱穴が検出され、この場所に西櫓へ渡る橋が架けられていた事が推定された。日本大学宮脇研究室では、右図のような橋の復元図を示されている。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 この先に「西櫓の架橋」が架かっていたのであろうか。 再び「「国指定史跡山中城跡 (昭和九年一月二二日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(一五六〇年代)小田原防備のために創築したものである。やがて天正十七年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲物の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲物(くるわ)の造成法、架橋や上の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わな山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「国指定史跡 山中城跡案内図」 この日は残念ながら、右手の富士山の姿の頂上付近は雲に隠れて。ネットから。そして再び「元西櫓跡」まで引き返す。 その先に「溜池ここは溜池(貯水池)の跡である。山田川の支流の谷がここまで延びてきていたものを盛土によって仕切り、人工土手を作って深い堀としたものである。この溜池へ本丸・北ノ丸等の堀水が集まり、また広大な西ノ丸の自然傾斜による排水も、元西櫓の排水も流入するしくみである。深さ四メートル以上発掘したが、池底には達しなかった。山城の生命は、水の確保にあるといわれるが、貯水への異常な努力をうかがうことができる。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」「溜池」。 そして「元西櫓」。 「元西櫓この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた六四〇平方メートルの小曲輪である。当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。曲輪内は堀を掘った土を一メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。しかもロームプロッグは溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。 平成十二年 三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」「二の丸橋」を見る。 幾箇所かで目にした、『国指定跡・山中城跡』の案内図。それぞれに現在位置が記してあり、この場所は、『二の丸』と『西の丸』の中間になる『元西櫓』付近。掘割と、その上に架かる木橋の光景。紹介した案内図には、『二の丸橋』と記してあった。発掘調査の結果、再建された橋のようであった。廻り込んで。(ネットから)「掘割」を見る。 「二の丸虎口と架橋二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁から、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となっている。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えてこちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ四・五m)に突き当たり、右折して曲輪に入るようになっていた。また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が検出された。橋脚の幅は南北四・三m、東西一・七mで、柱の直径は二〇~三〇cmであった。復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。 平成十三年 三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」「二の丸」が前方に。 「箱井戸跡」。「箱井戸跡ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(7~8月頃)には観光客の目を楽しませている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 水面は静かに。そして「山中公民館」前に。 次に「宗閑寺(そうかんじ)」を訪ねた。豊臣秀吉による小田原攻めの背景です。小田原征伐の大義名分は、惣無事令(そうぶじれい)に後北条家が違反したこととされ、後陽成天皇は秀吉に討伐の勅書を発しなかったものの、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ戦いとされます。豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄などの主力が約17万人、長宗我部元親等の水郡が約1万人、前田利家、上杉景勝などの北方隊が約3万5千人とされます。山中城守備軍は約4,000人、主な武将は城主・松田康長、援将・北条氏勝、他間宮康俊、松田康郷、蔭山氏広等でした。攻める豊臣軍は、約6万8千人とされます、その内訳は、右軍の池田輝政ら1万8千余、豊臣秀次らの約2万弱、左軍の徳川家康の約3万人です。間宮康俊の法名に因む『宗閑寺』の本堂光景。「宗閑寺と武将の墓東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の未寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女お久の方と伝えられている。ここには山中城落域の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと貯んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田石兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輸城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿天叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 墓石、墓碑が並ぶ。本堂の左手には、北条軍と豊臣軍の武将の墓が並んでいた。左側奥に北条軍の墓碑、右側奥に豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑。「津田親之墓銘」と。陸軍軍人の墓石。宗閑寺にある津田親之(つだちかゆき)の墓には、「去私奉公、能成其私、棄旧謀新、其新孔宜、徳之流行、連於置郵、業之永伝」という銘文が刻まれていた。この碑文は、幕末から明治期に飛脚問屋の再興や業務近代化に尽力した親之の功績と徳を称えた漢文の詩。 間宮康俊の法名に因む『宗閑寺』は、静岡市の華陽院(けよういん)の了的上人(後の芝増上寺十四世上人)が開山しました。元和6年(1620年)に双方の武将・兵たちの菩提を弔うため、山中城三ノ丸跡に建立されました。やがて荒廃したお寺が再建されたのは、明治時代です。一柳直末の子孫の子爵が墓を整備し直し、今日に至っています。「宗閑寺と武将の墓東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女、お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。」玉垣で囲まれた一柳直末の事蹟を刻んだ石碑。「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅門」と刻まれていた。 『一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての、豊臣臣下の武将で大名でした。秀吉の信頼が厚かった人とされます。豊公記では、直末討死の報告を聞き『直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった』と嘆き、3日間ほど口をきかなかったと伝わります。一番右側が山中城の城主であった松田康長の墓石。左側に見える、三基の五輪塔の台座になっている檀主間宮三郎兵衛尉正次による石碑文によれば、『北條氏直幕下忠臣□ 普光院殿武月宗閑潔公居士 間宮豊前守源康俊七十三歳 圓誉宗覚居士 康俊舎弟監物天正十八庚寅年三月廾九日依山中落城為秀吉公討死 教誉宗円居士 監物嫡源十郎そして群馬・箕輪城主多米長定』と記されている と。後北条方の三基の墓。左側から上州箕輪城主・多米出羽守長定墓、長谷川志摩守平近秀墓、追沼帯刀先生氏雅墓。基壇の上に設けられた、立派な墓の光景。墓碑の左右には、石灯篭が置かれていた。消えかかっていた墓碑の文字は読み取れなかった。正面右側にある山中城主の松田直長墓。直長は秀植とも称し、氏康の諱を貰い康秀、康長とも称したとされます。松田直長(1562~1657年)は、小田原征伐の際の山中城の戦いで戦死した父・康長の跡を継いだ、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。後北条氏に仕えた後、江戸幕府旗本となった と。城主松田右兵衛の墓石の最上部には✖の印が確認できた。隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではないとのことであるが、クルス紋ではないかと。かつては敵味方に分かれて戦った北条軍、豊臣軍の将兵が眠る『宗閑寺』の墓地の光景。創建には、北条軍の山中城主の松田直長とその娘のお久の方が尽力し、関東大震災で荒れ果てていたお寺の整備には、岱崎出丸の攻防戦で亡くなった豊臣軍の一柳直末の子孫に当たる、一柳子爵が尽力されたのだ と。そして「史蹟・山中城趾記念之碑」。『従二位勲一等・松室到書』の落款が。『松室 致(まつむろ・いたす:1852~1931年)』は、司法官僚で政治家。検事総長、司法大臣を務めた と。そして「旧東海道」の石畳を南に向かって歩く。 道幅は当時のまま復元したと。そしてその先にあったのが「芝切地蔵」。 「芝切地蔵(しばきりじぞう)その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人か泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に「私を地蔵尊として祭って下さい。そして芝塚を積んで、私の故郷の常陸が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげます。」と、言い残したという。 村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年七月一九日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝者に売られるようになった。この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝人が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。 平成七年十ニ月 三島市教育委員会」 見上げて。扁額「芝切地蔵堂」。 見事な彫刻。木鼻(左)。木鼻(右)。移動して。境内にあった芝を積み上げた「芝塚」。 「南無阿弥陀仏」の六字名号塔:阿弥陀如来の名号(名前)である「南無阿弥陀仏」の6文字を彫り込んだ自然石の石塔。六字名号塔とも呼ばれ、阿弥陀様への帰依を意味します。歴史と目的: 江戸時代に盛んになった「四十八夜念仏」などの記念や、供養のために建立された。 街道沿いなどに建てられ、巡礼者や旅人の安全を願う役割も果たした と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.04
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「江川邸」を後にして伊豆縦貫自動車道を北上、「三島塚原IC」で右手に「伊豆フルーツパーク」を見ながら国道1号を、この日の最後の訪問地「山中城跡」に向かって進む。 国道1号・笹原山中バイパスの急カーブから「三島スカイウォーク」を見る。 国道1号旧道に入ると、手に見えたのが「ドラゴンキャッスル」。 三島の新名所「ドラゴンキャッスル」は、大人も子どもも楽しめる全6階層に分かれた天空タワーアスレチック。絶景を満喫しながらアクティビティを楽しめ、富士山や駿河湾などが一望できる最上階の展望デッキもオススメ!上に行けば行くほど、アクティビティの難易度が上がる仕組みになっており、子どもはもちろん、大人が真剣に楽しむことができる、まるで大人のジャングルジム と。「山中城跡」の駐車場の手前に到着。バスの中から 空堀を見る。「国指定史跡・日本百名城 山中城跡」 「山中城跡」の案内をしていただいた、赤いユニフォーム姿の4人のボランティアの方が迎えてくれた。 そして4Grに分かれて散策開始。「史跡 日本百名城 山中城跡」 明瞭な案内地図をネットから。工事のお知らせ。ワッフル状の障子堀が綺麗に見える西櫓付近が、工事のため令和8年3月末まで一部通行止めになっていた。ただし溜池のある方向から回り込むことができるので、障子堀の見学にはそこまで支障はなかったのであった。「国指定史跡山中城跡 (昭和九年一月二二日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(一五六〇年代)小田原防備のために創築したものである。やがて天正十七年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲物の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲物(くるわ)の造成法、架橋や上の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わな山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」「三の丸堀」に向かって進む。 「三の丸堀三の丸の曲輪(きるわ)の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。城内の各曲輸を囲む堀は、域の縄張りに従って掘り割った損り、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約一ハ〇m、最大幅約三〇m、深さは約八mを測る。 平成ハ年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「三の丸堀」の右側の斜面の上は、現在は住宅地となっていた。「三の丸堀」の先の小さな広場にも「三の丸堀」案内板が立っていた。 「三の丸堀」 を振り返って。その先にあったのが「田尻の池」。 「田尻の池東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この地は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約一四八平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「二の丸跡」、「西の丸跡」に向かって進む。 「西の丸跡」に向かって進む。 近づいて。右奥に進むと後に訪ねた「宗閑寺」へと。 斜面の上が「元西櫓」。 「元西櫓下の堀」。 「元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり上塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、四百年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「二の丸」を見上げて。 「土橋土橋は城(曲輪)の虎ロ(入り口)の前を通路だけ残してその左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる十塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこのニつの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 西の丸畝堀(東側)。空堀の堀底に土手を掘って、直交に区画したものが畝堀(うねぼり)。敵が攻め込むためには、畝の道上の部分を歩く必要があり、それには、一列になって進むしかなく、守備側はその手前を重点的に守ればよいので非常に効率的な防御が可能となっているのだ と。ズームして。さらに。アルミ梯子のある場所は、土砂崩れの工事中の場所であっただろうか!?そして「西の丸」に到着。 「西の丸西の丸は三四〇〇m2の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので、ここを中心に曲輸の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。曲輸は全体に東へ傾料して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「西の丸 見張台」を見る。 「西の丸見張台西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅周にするために、ロームブロック一と黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。標高は約五ハ〇mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通報上の重要な拠点であったことが推定できる。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会」 「山中城 堀立柱建物跡」を望む。 山中城物見台から富士山を望む。天気が良ければ(ネットから)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.03
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展示室をさらに進み「江川家の至宝」👈️リンクを鑑賞する「宿場への助成」。 江川家関連の江戸町絵図。◯に江川?の文字が。南側には「つがるゑっ中」の文字が 。「つがるゑっ中」とは、「弘前藩主・津軽越中守の上屋敷」のことか?詳細は不明。 近づいて。「江川」の文字が。 江川太郎左衛門屋敷跡。ネットから。「江川太郎左衛門屋敷跡前江川太郎左衛門は、伊豆韮山を木拠地とした幕府の世襲代官て、太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍(一八〇一~五五)てす。彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に西洋戦術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸内に数カ所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれてます。この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐て遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。」 江川家の東京の菩提寺「本法寺」。江川坦庵(太郎左衛門)は幕末に海防の先駆者として、韮山に反射炉を設置し、大砲を鋳造した砲術家として、在世の時代から日本全国に名を轟かせた人物としてよく知られています。江川太郎左衛門は、韮山代官として駿河、伊豆、甲州、武州、相模にわたる天領を支配した豪族でしたが、江戸に出府の機会が多く、本所南割下水、津軽藩公の屋敷の前に役宅と屋敷がありました。江川太郎左衛門の菩提所は、韮山の本立寺ですが、小西法縁の縁(ゆかり)もあって江戸出府のさいに生じた法要その他の儀式、江戸詰めの臣下の葬儀は、浅草本法寺がすべてを執り仕切っていました。そのようなことから、江川家の墓所が本法寺にあることは当然であり、五塔の下には、江川家の親族や臣下の霊が納められています。代官として有能な江川太郎左衛門は、また蘭学者、軍学者、外交官、教育者、芸術家でもあり、剣客としても神道無念流の免許皆伝の腕前をもった一流の人でした。このように多芸、多能な先覚者でもあることもあってその交際も広く、ちょっと数えても渡選華山、高島秋帆、谷文晃、土田士豊、桂小五郎、高野長英、佐久間象山、間宮林蔵、ジョン満次郎その他多くの優れた人々の名をあげることができます。「江川太郎左衛門 終焉の地」。 ネットから。幕末の韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)は、静岡県伊豆の国市の江川邸(重要文化財)を本拠としながら、江戸の両国(現在の墨田区緑町公園周辺)に屋敷を構えていました。36代英龍は、この地で安政2年(1855年)に55歳で没したとされ、周囲は海防技術の研究所や下田開港の拠点として機能していました。「火伏せの曼荼羅弘長二年(一二六二)、江川家を訪れた日蓮上人が火防のため棟札にしたためたものです。そのご利益二より火災に遭わず現在に至っています。棟札を木版で摺ったもののコピーです。」 「大和源氏宇野氏略系図大和源氏(宇野氏)の血を引く江川家は、清和源氏の流れを汲み、大和国(奈良県五條市)宇野庄を拠点としていた。約850年前の保元の乱(1156年)以降、伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市)へ定着し、江戸時代には世襲代官として名を馳せた家系。特に幕末の江川英龍(坦庵)は韮山反射炉建設や海防で知られる大和源氏宇野氏~伊豆江川家 略系譜(主要人物)・源頼親(大和源氏の祖、源満仲の次男)・…(宇野氏)・宇野親弘(保元の乱で敗れ、伊豆へ下向、江川氏の祖となる)・…・江川英長(江戸幕府の代官として活躍)・…・江川英毅(文人・風流人、江川英龍の父)・江川英龍(坦庵、幕末の代官、反射炉建設) ・江川家は「江川氏秘記」という家伝系図を伝えており、宇野氏から韮山の地で代官を 世襲するまでの流れが系譜化されている と。江川家系図。「江川氏略系図」 「江川家略史」江川家の祖先は源満仲の次男宇野頼親といわれる。 ■平安時代 6代 宇野七郎親治 保元の乱(一一五六)にて崇徳上皇のもと参戦、敗れる 9代 宇野太郎親信 従者13人と伊豆国八牧郷に。源頼朝に従い戦功あり。 10代 宇野太郎治信 9代同様頼朝に仕え選考あり、よって江川荘を賜る。■鎌倉時代 15代 宇野右衛門英治 北条時頼に造酒を献上、時頼大いにその美味を賞す。 16代 英親(英久と改める)弘長元年(一二六一)日蓮聖人伊東に流罪のとき、深くその教養を 信じ帰依する。弘長2年聖人、江川家に遊び、たまたま家屋修復の英親に自筆の 防火妙符となる棟札を贈る。法名を日久と言う。■室町時代 21代 英信 姓を江川に改める。 23代 英住 北条早雲伊豆進出に際し、早雲の配下となる。■戦国時代 26代 英元 北条早雲に造酒を進献する。早雲これを江川酒と名付ける。 27代 英吉 豊臣秀吉の小田原攻めに対し、韮山城を守る。■江戸時代 28代 英長 徳川家康の配下となり、韮山城の開城に尽力。慶長元年、代官になる。 30代 英利 明暦の大火(一六五七)で江戸城焼失のおり、江川家の棟木を献上。 35代 英毅 支配治内の殖産に功績。布衣を申しつけられる。 歴史、法華経に精通し、多くの文化人と交流、測量、天文学に長け、坦庵の 名声は英毅の遺伝という。 36代 英龍(坦庵) 業績は別置 37代 英敏 英龍の残した反射炉を完成。若くして亡くなる。■明治時代 38代 英武 最後の代官。韮山県知事を勧め、その後岩倉使節団で渡米。 土木工学を修めて帰国後、丹那トンネルの献策などを行う。 県立韮山高校の前身である私立伊豆学校初代校長として 地方文化の育成に尽くす。■昭和時代 39代 英文 東京大学法学部教授を務め、国際私法学体系の確立に貢献した。 40代 英晴 株式会社東芝代表取締役副社長を務め、半導体技術開発に貢献した。■平成時代 41代 滉二 東京大学医科学研究所教授を務めた。がん免疫学の基礎研究と臨床応用を行う。 42代 洋 一級建築士。東京都内に建築事務所。壁に「坦庵公書「忍」」 手前右に「「井桁菊」の家紋」 「坦庵公書「忍」」江川坦庵(えがわ たんなん)公が座右の銘とした「忍」の一字。この「忍」はただ耐え忍んで我慢することではなく、大きな志をなすために物事に動じない精神の涵養であり、チャンスを逃さず大きく飛躍するための準備とエネルギーを蓄えることである と。「「井桁菊」の家紋」に近づいて。「馬印馬印は江戸時代の軍隊の標識として使われました。展示しているものは慶応元年(1865)の進発(長州征伐、のときに使われたものです。つけられた「井桁菊」の家紋は徳川家康に賜ったものです。家康が北条(江川邸から西の場所)で鷹狩りに来たとき、江川酒を献上しました。その時、咲いていた野菊を摘んで、「これを家紋にせよ」と言われました。この時から江川家の家紋となりました。」 「奥儀誓詞佐久間象山(吉田松陰の先生)が書いた奥儀誓詞(ちゃんと学ぶことを誓いますという誓約書)。英龍は佐久間象山の先生でもあるのだ」と。 さらに進む。韮山反射炉👈️リンク の写真。■ 基本情報 静岡県伊豆の国市にある西洋式製鉄炉 幕末に建設された日本唯一現存の反射炉 2015年、世界遺産 👉 明治日本の産業革命遺産 に登録■ 建設の背景 主導者:江川英龍 ペリー来航(1853年)による危機感から 海防強化(大砲製造)が目的■ 反射炉とは 炉の天井で炎を反射させて鉄を溶かす仕組み 鉄に直接火を当てないため不純物が少ない 高品質の鋳鉄(大砲)を製造可能■ 構造の特徴 写真のように4本の煙突(双炉式) 炉体は石と耐火レンガで構築 内部に溶解炉+鋳型設置空間 外側は鉄骨で補強(後世の補修も含む)■ 技術的な意義 日本初の本格的西洋製鉄技術の導入 佐賀藩の反射炉技術を参考に改良 幕府直轄事業として建設■ 製造されたもの 主に青銅・鉄製の大砲 江戸湾防備(品川台場など)に使用■ 歴史的役割 幕末の「開国と防衛」の象徴 日本の近代工業化の出発点の一つ 武士の時代から技術国家への転換点江戸時代末期(1853年以降)に江川英龍(韮山代官)が建設した品川台場・第三台場👈️リンク幕末の1853(嘉永6)年、アメリカのペリー提督が率いる4隻の軍艦が浦賀沖に突然姿をあらわした。日本の歴史の大転換点となった「黒船来航」。ペリーは、鎖国を長く続けていた日本に開国を強く迫った。あわてた江戸幕府は江戸湾の防備強化のため、大砲をそなえた砲台場を海上に築くことを決断。砲台場は「御台場」と呼ばれ、その1つが現在のこの台場公園。・海に突き出した五角形に近い台形状・石垣で囲まれている・中が公園(樹木がある)・奥に見える建物 ・👉 フジテレビ本社ビル・韮山反射炉 → 大砲を作る場所・お台場 → その大砲を置く場所品川第三台場の北西側にある「レインボーブリッジ」。 ●上中央の肖像画 ・江川英龍の肖像 ・烏帽子姿 → 武士・官人としての正装 ・公的立場を示す公式的な肖像 ●右の掛け軸 ・「韮山代官 江川太郎左衛門」の書● 左の木札(高札) ・江戸時代の法令掲示板 ・村民・領民への通達●中央の衣装 ・陣羽織(じんばおり) ・武士が戦陣で着る上着 ・指揮官クラスの装備●下部 ・武具・道具 ・鉄砲・槍・箱類上:「江川太郎左衛門源英龍先生像」 下:江川英龍が残した自画像の1枚 英龍自身をデフォルメして、大きな目と鼻の特徴をそのまま描いた自画像である 。 どの絵もこの特徴が表現されている。英龍は1855(安政2) 年1月16日に没する 。 57(同4)年1月16日 、英龍の3回忌に合わせ 、外国掛・ 岩瀬忠震 (1817〜61年)が江戸の画家松本亀岳に描かせ 、自身で賛を入れたものがある 。 やはり 、同じ志を持って外国に対峙しようと 頑張った姿を描き、残したかった のではないか。振り返って。正面から。マリナー号退帆のときに英龍が着用した蜀江錦。(中国の蜀で生産された錦織物)の野袴.2種類の銃が並ぶ。左:ゲベール銃 👉 フランス系の前装式銃 有効射程:約300m 口径:約18mm 火縄銃より大幅に性能向上 幕末の西洋式歩兵装備の基礎 👉 近代軍事の入口右: シャープス銃 👉 アメリカ製の後装式銃 全長:約120cm 口径:約14mm 弾を後ろから装填できる 連射性・命中精度が高い 👉 当時としては最先端兵器「雷管式・ゲベール銃(後方に展示) 全長139crn・口径18mm 江川家 蔵ゲべール銃は、1777年にオランダが軍用式銃いとして採用した先込式の銃で、幕末日本に数多く輸入された。また、国内でも輸入品をコピーした倣製ゲべール銃が大量に生産されている。発火方式は本来燧石式だが、安政年間(1854 ~ 1859)以降は、ほとんどが雷管式に改造されている。ゲべール銃は銃身内部に溝(ライフル)がなく、丸形弾薬を使用しているため、命中率はあまり高くない。こうした銃で角打ちの小さな的を射抜くには、かなりの腕前を要したと考えられる。」以下ネットから燧石式(フリントロック)👈️リンク は17世紀に火縄式から進化した摩擦点火方式、雷管式(パーカッション)👈️リンク は19世紀に発明された衝撃点火方式です。燧石式は火石で火花を散らし火薬に着火しますが、雷管式は雷汞(らいこう)の衝撃発火を利用するため、雨風に強く確実に点火できるのが最大の特徴「シャープス銃(前方に展示) 全長120crn・口径14mm 江川家 蔵江川家に伝来した元込式銃。この小銃の銃床には「壬申百七十六番」という刻印がなされているが、これは明治5年(壬申年)に取り調べを受けたことを示すものである。また、銃身の刻印によって、1859年以降に製造・輸入されたものであることがわかる。」「奉納 八幡大神御寶前」 角打扁額小銃の訓練標的には丸と角があった。これは江川家家臣の奉納角打の結果を扁額にして奉納したもの。こちらも同じ。「江川家の帝王学江川家36代当主で9代目山代官でもあった江川英龍は、絵を谷文晁、詩を大窪詩仏、書を市河米庵に学びました。英龍の家族についての芸術記録は祖父・英征公が竹花入れの制作、雅号を寿梁と言い、「蛭島連」の俳諧組織を作りました。英征公の妻も花盟の俳号で多くの投句をしております。英龍公が水戸斉昭に琴の演奏を命ぜられたとき、祖母の琴を思い出して演奏したという逸話が残っています。子息・英毅公はたくさんの雅号を持ちましたが、俳号はなく、金次郎の名で投句をしております。英毅公は書を残し、天文学に長けていました。英龍公と早世した兄・英虎公合作で数学の問題集を作りました。英龍公の妻・北条越は翠雲の雅号を持ち、書、画を残しました。子どもたちも父から書画の手ほどきを受け、作品を残しています。江川家の子女は藩校や寺子屋では学ばなかったので、家庭教育において読み書きなどを行っていましたが、代官という身分で行き届いた教育がどれだけできたかということになります。英武公が岩倉使節団に加わってアメリカ留学を果たします。そのとき、同行したのが森田留蔵です。森田家は代々江川家に仕えた手代ですが、江川家の執事のような役割も担っていたようです。江川家の当主が江戸参府するとき残した記録はすべて代々の森田家が記録しています。身の回りの世話、幼児教育を森田家が行っていたことがうかがい知れます。 展示期間:令和7年12月18日~令和8年3月17日」 松鷹図 江川英龍(坦庵)。妻の越(翠雲)の鷹はやさしい鷹。英龍の鷹は雄々しく描かれています。英龍公はサクラを良く描きました。サクラは雛屏風でご確認ください。「翠雲(北条越)画「桜に鷹」 英龍公は妻である北条越に書画の手ほどきをしました。越は雅号を「翠雲」と名乗り、書画ともに作品が残っています。」 「江川睦 画「波上双鶴図」荒波の上を舞う二羽の鶴を描いた掛幅。本作は完成品で、制作の過程をうかがわせる習画も伝わっています。仕上げにあたっては、父・英龍公の添削を受けて完成したとされています。波の白さと鶴の気配が静かに迫る一幅です。」 と。「榊原三幾書」 「榊原三幾書英瀧公の長女・はのち三幾を名東り榊原鏡次郎の許に嫁ぎました。鏡次郎は韮山塾の門人となり、江川家に親しく出人りしていた関係で、榊原に嫁いだ後にも書を残しました。」 各種のテレビ放送ドラマの撮影の場となった「江川邸」。「江川邸」は、江戸時代の代官屋敷として知られ、NHK大河ドラマ『篤姫』『西郷どん』のロケ地として有名。約400年以上前の建物が残る貴重な屋敷で、荘厳な主屋や土間が歴史ドラマの撮影に頻繁に利用されて来た と。 一番奥の部屋・韮山塾の座敷👈️リンク。様々な展示品が所狭しと並ぶ。上:「大砲製造の様子重要文化財江川家住宅(江川宅)には、英龍が反射炉について研究を重ねた文献や図面、建造経過を記した日記、写真などの多数の史料が残されおり、それらは国の重要文化財に指定されています。」 下:「世界遺産 韮山反射炉 幕末の万能人! 江川英龍」 「同時代人の坦庵評福沢諭吉は「福翁自伝」に「江川太郎左衞門と云ふ人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ている」という話を兄から聞いて「私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着て敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。」「一冬通したことがあるが、是れも十五六歳の頃、唯人に負けぬ気で遣ったので、身体も丈夫であったと思われる」と書いています。勝海舟は『氷川清話』のなかで「嘉永・安政の頃に、海防の為に尽力したことは、誰でも知っているだろう」と書いています。」 右:江川太郎左衛門英龍の業績👈️リンク中央:江川英龍をめぐる人脈やエピソード 江川文庫所蔵の資料からは、江戸幕府の旗本で、世襲代官を勤めていた江川家の日常が 読み取れます。 中でも、第三十六代当主・江川英龍は、黒船来航、欧米による開国要求に直面した 時代にあり、探究心や、改革心をもって、積極的に幕政に関わり、近代日本の礎となる 様々な功績を残していることがわかるのであった。 江川英龍を中心にした江川家を巡る人脈の一部をあげるだけでも、その多彩さに 驚かされます。左 :韮山塾 坦庵は代官としての職務を全うする傍ら、藺書を読み解き、海防政策の研究にも力を 注いでいました。 アヘン戦争で大国「清」がイギリスに敗れるなど対外危機が高まる中、幾度となく 海防の重要性や西洋式砲術の導入を幕府に進言しています。また、自ら西洋式砲術を 学ぶため、先駆者であった高島秋帆に師事し、免許皆伝を受けるまでに至ります。 さらに、その知識や技術を広く普及するために坦庵は江川邸内に「韮山塾」を開講。 全国から集まった入門者の中には、佐久問象山のような幕末を代表する知識人も いました。また、坦庵の死後は、江戸の芝新銀座大小砲習練場に「縄武館」と 呼ばれる塾が設けられ、韮山塾出身の坦庵の高弟が、維新から明治時代にかけて 活躍した黒田清、大山巌らに教授しています 坦庵の知識・技術はこうして受け継がれ、韮山塾の門をくぐった多くの門人たちが、 明治日本の近代化に寄与しました。動乱の幕末期、日本の未来を見つめ、本気で 日本の未来を考えた場所「韮山塾」が、ここ江川邸にあります と。「一方長城」。「水府烈公所贈 坦庵江川君之語録為令嗣春緑君雅属 古梅巌谷修」と。水戸藩主・徳川斉昭が江川英龍を『一方を守る長城のような人物』と称えた言葉を、後に書として残したもの」と。「一方長城」は実は👉江川英龍が担った「関東・江戸湾防衛」そのものを指しているとも読めます。つまり・品川台場・韮山反射炉・海防政策👉 これら全部を含めて「江戸を守る長城」=江川英龍 という評価。江川邸の主屋内部(上段・座敷)から表門を見る。「ディアナ号とへダ号安政元年(一八五四)十一月、マグニチュード8クラスの巨大地震が日本をを襲いました。「安政の大地震」です。折しも下田では、ロシア使節プチャーチンと日本側との間で、日露和親条約締結のための交渉が行われていました。地震に伴う津波によって、下田の町と湊は壊滅し、プチャーチンの乗艦ディアナ号も船底を損傷。修理のために曳航する途中で沈没してしまいます。プチャーチン以下乗組員数百名は助かりましたが、ロシアに帰るための代船が必要となりました。幕府の命を受け、この代船建造の指揮を執ったのが、韮山代官江川英龍でした。船の建造は、戸田村(現沼津市戸田)で行われました。ロシア人の設計に基づき、日本の船大工たちが協力して造り上げたのが、ニ本マストのスクーナーでした。この、日本初の本格的洋式帆船は、建造地の名を取って「へダ号」と名付けられました。※写真はディアナ号の模型。※べイステージ下田所蔵。」 上:入門起證文 幕末の伊豆韮山代官・江川英龍(担庵)が、兵学者・高嶋秋帆から砲術を学ぶ際に 提出した起請文。 弟子入りするにあたり、教えを守ること、秘密を漏らさないことなどを神仏に誓う書面。下:奥義誓詞 江川邸(静岡県伊豆の国市)は、幕末の韮山代官・江川英龍(太郎左衛門)が砲術や 軍学の教えを広めた拠点であり、高嶋流砲術に関連する「奥義誓詞(門弟が誓いを 立てる文書)」などの資料が伝えられています。江川英龍は幕府の海防強化のため、 芝新銭座調練場などで高嶋流をはじめとする西洋砲術を指導しました。 韮山代官・江川英龍は、高嶋秋帆から西洋砲術を学び、その普及に努めた と。再び「棟札箱と日蓮の曼荼羅楝札箱と日蓮の曼陀屋根裏の一番高い所に取り付けられている木箱は「棟札箱」と呼ばれています。その中には、弘長ニ年(一ニ六ニ)に江川邸を訪れた日蓮上人直筆の曼荼羅(南妙法蓮華経の題目の周囲に神仏の名前を配したもの)が棟札として納められています。この棟札の霊験によって、江川邸はこれまでに一度も火災にあったことがない、と伝えられています。」 「江川邸と火伏のお札江川邸は、母屋・書院・仏間・門・蔵など多くの建物が、国の重要文化財に指定されています。また、江川邸の敷地一帯は韮山役所跡として史跡に指定されています。江川家は、9代親信の時、大和国から伊豆国八牧郷(現在の場所)に移り住みました。16代英親(日久)の時、伊東に配流された日蓮の信徒となり、真言宗から日蓮宗に転じました。この時、母屋改築のため日蓮より自筆の曼陀羅が火伏のお礼として贈られました。そのおかげで、江川邸は火事にあわず現在に至っています。この火伏のお札の震験は、江戸時代に広く知られており、明暦年間い(1655 ~ 1657)、火災にあった江戸城の修復の際には、棟木1本を献上しました。また、このお札の版木が作られ、無料で頒布されました。」 再び土間に降り、竃(かまど)、大砲を見る。「森林(もり)づくり伊豆の會」の作品・竹灯籠。「里はまだ 夜深し 富士の あさひ影」 再び「パン祖の碑」。 「パン祖の碑江川英龍は、天保十三(一八四ニ)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵粮として乾パンを製造しました。このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては、画期的なことでした。昭和二十七年(一九五ニ)、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パン祖の碑」を建立して功績をたたえました。パン祖江川坦庵先生邸 蘇峰正敬書江川坦庵先生ハ、維新期ノ先覚者ナリ。材ハ文武を兼ネ、識ハ東西ニ通ジ、百藝皆該ヌ。乃チ製麺麭ノ術モ亦、本邦ノ開祖ナリ。 昭和後学 蘇峰正敬識 」 「役所跡」役人が執務した建物のあった場所。「役所跡韮山代官所の役人が執務した建物の跡地。江川邸の周辺には、役人たちの住む長屋や番人小屋、厠、牢屋など様々な建物があり、代官役所として一体的に機能していました。維新後の明治時代の中頃まで、韮山県庁→足柄県韮山支庁→静岡県韮山出張所として地方行政を担っいました。」 そして「裏門」。 「博打の木」の横にある門は「裏門」。「裏門裏門は、文政六年(一八ニ三) も建築です。ただし門扉はずっと古く、豊臣秀吉の軍勢が韮山城を包囲した天正十八年(一五九〇)当時のものだといわれています。門扉に残る多数の穴は、激しい戦闘の様子を物語る、鉄砲玉や矢じりの痕だとされています。また、寛政四年(一七九ニ)に当地を訪れた老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山の美しさに感嘆し、御用絵師として谷文晁に命じて、それを絵に描かせたという逸話も伝えられてます。」 老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.02
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式台(しきだい)越しに「中の口」の展示を見るために靴を脱ぎ上がる。 「江川家案内」、「江川家」平面図。 「江川住宅平面図(現在)」 1 全体構造の特徴この平面図は、江川邸の典型的な「土間中心型農政官邸」の構造を示しています。主な特徴は次の通り。・中央に広い 土間(どま)・土間の周囲に 畳敷きの居室・奥に 公式・接客空間・横に 台所や作業空間つまり行政・生活・作業が一体化した屋敷となっています。2 中央の「土間」図の中央にある大きな空間が土間。役割・炊事・作業・荷物搬入・家人や農民の出入り特徴・地面が土のまま・天井が高い・太い梁で構成・江川邸の土間は特に大きく、 代官所の実務拠点として使われました。3 台所土間の一部にかまど(竈)が描かれています。これは・薪で炊飯・大量の食事を作るためのものです。江川家は家族だけでなく・役人・家臣・使用人が多く住んでいたため、大規模な台所設備が必要でした。4 畳の部屋(座敷)図面には・十八帖・十帖・八帖・六帖・四帖などの畳数が書かれています。役割は次のように分かれます。表向き(公式空間)・大広間・来客接待・役人の会議奥向き(生活空間)・江川家族の居室・寝室・私的空間江川家は幕府代官だったため、屋敷には公式の応接空間が必要でした。5 「式台」図の入口側には式台(しきだい)があります。式台とは武家屋敷の正式な玄関です。特徴・身分の高い客が上がる場所・武士の礼法に基づく入口つまり代官屋敷としての格式を示す場所。6 江川邸の歴史的意味江川家は・江戸幕府の 韮山代官・伊豆・相模などを支配・砲術や海防政策にも関与特に有名なのは江川英龍(えがわ ひでたつ / 太郎左衛門)です。功績・韮山反射炉建設・西洋砲術導入・黒船来航時の海防政策つまりこの屋敷は幕末日本の近代化の拠点の一つでもありました。7 この平面図のポイント① 土間の巨大さ② 梁組の構造③ 武家玄関(式台)④ 大広間の畳配置⑤ 台所の竈これらを見ると「行政+武家+農村」の生活が一体化した屋敷であることが分かるのであった。「江川邸」に関する基礎知識◇国による指定◇1.建物 ①主屋=重要文化財(昭和33年指定) ②書院・仏間・東蔵 等計12棟=重要文化財(平成5年指定) →これらの建物群を総称して 「重要文化財江川家住宅」と呼ぶ。2.土地 ①敷地及び周辺地=史跡(平成16年指定) 江戸時代を通じて、幕府韮山代官役所としての役割を担い、 明治維新後も韮山県庁・足柄県韮山支所・静岡県韮山出張所等、 明治時代半ば頃まで伊豆地方の中心的行政機関であったことから、 「史跡韮山役所跡」に指定された。 指定面積は、約28,900平方メートルにおよぶ。 ②仏間 ※非公開 江戸時代末期の建物。茅葺。 仏間と呼ばれているが、主屋南側の別棟になっていて、 渡り廊下でつながっている。 桁行4間半(約8.2m)、梁間3間(約5.5m) ③表門・裏門・土塀・板塀 表門は幕末期、裏門は**文政6年(1823)**の建物。 表門は3間1戸の薬医門。 裏門からは、正面に富士山を望む。 ④土蔵(東蔵・南米蔵・北米蔵・武器庫) 西蔵は幕末期、東蔵は慶応3年(1867)、 南北米蔵は明治初期の建築。 ※東蔵は非公開。 西蔵・武器庫の内部は非公開。 南北米蔵は内部も展示スペースとして公開。 ⑤鎮守社 ※非公開 主屋南西側の山腹に鎮座し、 天神と八幡神を祀っている。 江戸時代中期の建物。茅葺。 ⑥内庭 主屋南側に池を配した庭園がある。 いわゆる「韮山竹」の生育地もこの庭の一角にある。 通常は非公開だが、 年に2度、新緑と紅葉の時期に期間限定で公開している。◇建物の概要◇1.主屋 ①主屋全体 桁行13間(南北、約24m)、梁間10間(東西、約18m)、棟高約12m。 原型となる建物は、およそ400年前に建てられたと推定されている(ただし、柱や梁 などの部材には室町時代に遡るものもある)。その後、何度か大規模な改造・修築が 行われ、現在の形となった。 ②主屋内部 北西部の土間は7間四方(49坪、約161㎡)の広さがある。土間の南側には式台と 中の口・台所があり、東側に塾の間・玄関・使者の間・控えの間がある。 さらに、主屋南側(非公開)には時計の間・九重の間・茶の間・納戸がある。2.付属の建物 ①書院 ※非公開 江戸時代後期に建てられたと思われる。 西側で主屋と接続している。 桁行7間(約12.9m)、梁間4間(約7.3m)、寄棟造、茅葺。伝江川英龍自画像江川英龍(享和元年<1801>~安政2年<1855>)徳川幕府の代官でありながら、鎖国の日本において海防を建議、世界遺産の韮山反射炉を建設、品川台場を建築、日本初の洋式帆船ヘダ号の建造を指揮、パン祖ともいわれる。「坦庵公と一緒に撮影しませんか? 邸内でしたらどこでも持ち出し撮影できます。 使い終わりましたら、もとへ戻してください。」 「西蔵西蔵は木で造られた蔵。幕末に建てられた肥料蔵とのことで、特徴は四方の壁がやや内側に倒れるように傾斜した「四方転び」と呼はれる造りです。そのため、正面から見ると将棋の駒のように見えるので、「駒蔵」とも呼はれるようですが、何よりも揺れに強い耐震構造の蔵です」と。南側への連絡口か?この鉄製容器は?様々な写真や絵画の展示が。江川太郎左衛門栄龍の似顔絵。ハンドタオル 坦庵の書・江川家の家訓「忍」。坦庵の書・江川家の家訓「忍」。「江川コレクション EGAWA COLLECTION」👈️リンク が並ぶ。 「江川栄龍をめぐる人脈やエピソード」。 「重要文化財指定書江川家関係写真 四百六十一点」 「高札(こうさつ)高札は、幕府や藩が法令や禁止事項をこのような板に墨で書き民衆に知らせるものである。基本的なものは、正徳元年(一七一一)に出された親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、キリシタン札、火つけ札などである。これらの札は、幕府や藩の権威を示すものであり、高札場といわれる一段高くした掲示台を作り、屋根をつけ柵で囲い、村の出入り口や交差点など人目につきやすい場所に建て、その維持管理は村の責任とされた。なお、当時は字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも名主など村役人の仕事であった。ここに展示してあるものは正物元年に掲示されたもので、長い間、風雨にさらされていあたが、墨が防腐剤の役目をして文字の書かれた部分だけ浮き出ている。」「高札場」に掲げられた「定」の写し書きが並ぶ。上部 「定一 毒薬ならびに似薬種売買の事禁止す もし違犯の者あるはその罪重かるべし たとひ同類といふとも申し告げざるの 罪をゆるされずと御褒美下さるべき事一 似せ金銀売買一切に停止す もし似せ金銀 あるは金座銀〔つば〕相あらためくし はつしの金銀も是又金座銀座へつかはし 相改むべき事 惣じて似せ物すべからざる事一 寛永の新銭、金子、売買に四貫文、売分に二貫文たるべし 御料私領共に半貢収納等にも御定の如くたるべき事一 新銭の事銭座の外一切鋳出すべからざる事一 新作のたし〔か〕ならざる書物商売ならざる事一 諸職人、ひそかに作料、手間賃等高直に すべからず、諸商売物或は不当に買直し〔?〕をし或はいい合せて高直にすべから ざる事一 何事によらず諸約をなし徒党を結ぶべからざる事右条々これを相守べし もし相背くにおいては罪科に行はるべきものな也 正徳元年五月日 奉行 」 意味は『定一 毒薬や、薬に似せた偽物の薬を売買することを禁止する。もし違反した者がいれば、 重い罪に処する。 たとえ仲間であっても、違反者を見つけたのに役所へ届け出ない者は罪を免れない。 逆に、届け出た者には褒美を与える。一 偽金や偽銀の売買はすべて禁止する。 偽物と思われる金銀があれば 江戸の 金座・銀座(貨幣検査機関) に送って 調べさせること。疑わしい金銀も同様に検査すること。 とにかく 偽物は作ってはならない。一 寛永通宝などの銭や金貨の交換比率は幕府の定めたレートで行うこと。 幕府領でも大名領でも年貢の納入などはすべて幕府の定めた貨幣基準で行うこと。一 新しい銭は銭座(幕府の鋳造所)以外では絶対に作ってはいけない。一 内容が確かでない新作の本を商売として売ってはならない。一 職人が勝手に作業料や手間賃を値上げしてはいけない。 商人が買い占め、価格のつり上げ、談合をしてはならない。一 どんなことでも、人々が結託してグループを作り、価格や商売を操作してはいけない。以上の条文を守ること。もし違反すれば、法によって処罰する。 正徳元年(1711)年五月日 奉行』「定」 「定一 蒲原より 吉原迄 人足賃銭 荷物壱駄 百五拾五文 乗懸荷人共 同断 から尻馬壱疋 百文附 あふつけハから尻に同じ 重き荷物ハ本駄賃銭同 □べし夜 通し急に通る □ハから尻に 乗共本駄賃を同じ□べし 人足壱人 七拾四文 由比迄 荷物壱駄 四拾四文 乗懸荷人共 同断 から尻馬壱疋 三拾文 人足壱人 弐拾弐文 泊々にて木賃銭 主人壱人 三拾五文 召仕壱人 拾七文 馬 壱疋 三拾五文右之通過取之若於相背ハ可為曲事者也 正徳元年六月 奉行」 『定蒲原宿から吉原宿までの料金 荷物1駄(馬1頭分の荷) 運賃 155文 人が馬に乗る場合や荷物を載せる場合も料金は 同じ(155文) 荷物を積まない馬(空馬)料金 100文 追加規定 「あふつけ」(馬の横につける軽い荷)料金は 空馬と同じ 重い荷物は通常の駄賃(155文)と同じ料金 夜通しの急ぎ輸送の場合 空馬に乗った場合でも本駄賃(155文)を取ってよい 人夫1人の運搬賃 74文蒲原から由比まで(1宿分) 荷物1駄 44文 人が乗る場合も 44文 空馬 30文 人夫 22文宿泊料金 ※木賃=素泊まり宿 旅人 35文 従者 17文 馬の宿泊 35文以上の料金を守ること。もし違反して高く取った場合は処罰する。正徳元年(1711)6月 奉行』富士川の渡し船(渡船)の料金を定めた江戸時代の公告。現代語の意味富士川の渡し船について今年(巳年)7月から、次の卯年6月までの 10年間 渡船の料金を 4割増し とする。その料金は次の通り。渡るもの 料金(1文=20〜30円くらい)旅人 40文荷物(1駄) 40文手荷物 40文老人 20文馬1頭 20文そして右の通り料金を取ること。もしこれに違反する者があれば処罰する。年代最後に 天明五年巳六月 とあるので 1785年(江戸時代中期)の公告。この高札の意味これは富士川の渡し場の「公定料金表」です。江戸時代、川には橋が少なく、東海道、中山道などでは 渡し船が重要な交通手段でした。そのため幕府が料金の取り立て方法を決めて、高札場に掲示しました。なぜ「四割増」か当時よくある理由は・川の氾濫対策・渡船場の修理・人夫の賃金上昇・川の流路変化などで、期間限定の値上げをすることがありました。この高札は「10年間だけ料金を4割上げる」という告示。実は富士川は東海道最大の難所江戸時代、東海道では三大難所・箱根・大井川・富士川と言われることもありました。特に富士川は流れが速い、増水が多いため、渡船制度が重要でした。「定一 人たるもの 五倫之道 正しくすべき事、一 鰥寡・孤独・廃疾のあわれものを 憫むべき事、一 人を殺し、家を焼き、財を盗む等之悪業、あるましく事、〇〇 太政官」 各文の意味① 人たるもの 五倫之道 正しくすべき事意味人は、五倫(ごりん)の道を正しく守ること。五倫とは(儒教の基本道徳)・父子の親(親子は愛情をもつ)・君臣の義(主君と家臣は義を守る)・夫婦の別(夫婦はそれぞれの役割を守る)・長幼の序(年長者を敬う)・朋友の信(友人同士は信義を守る)👉 要するに 社会の基本的な人間関係を正しく守れという意味。② 鰥寡・孤独・廃疾のあわれものを憫むべき事鰥(かん):妻を亡くした男寡(か):夫を亡くした女孤独(こどく):身寄りのない人廃疾(はいしつ):身体に障害や病気を持つ人憫む(あわれむ):思いやる・助ける意味👉弱い立場の人や困っている人を思いやり、助けること。③ 人を殺し、家を焼き、財を盗む等之悪業、あるましく事意味人を殺すこと 家に火をつけること 財産を盗むことなどの悪事をしてはならない。つまり👉 犯罪の禁止全体の意味(まとめ)この高札は、非常に簡潔に言うと明治政府の三つの基本道徳・人間関係の道徳(五倫)を守れ・弱い人を助けよ・犯罪をするな という内容。最後の「太政官」とは太政官明治初期の日本の最高政府機関で、現在で言えば内閣+中央官庁にあたる組織。この高札の歴史的意味江戸時代の高札は主に・キリシタン禁止・一揆禁止・治安規定などでしたが、明治政府の高札は・儒教道徳・社会秩序・国民道徳を教えるものになったのだと。妻籠宿の高札場の写真当時の面影を残す板張りと囲炉裏のある台所。「先代の生き柱現在は腐食してきたので新しいものと交換してあるが、古いものは写真で分かるが土間から下が痩せ細くなっており時代の経過を感じることができる。建てるうえで力学的にには必須の柱ではないが歴史と伝統を物語る存在として、大切にされていた。」と。「奉差上一札之事 略右之もの儀御吟味筋被為在人牢被仰付罷在候所病気ニ付出牢療養之儀嘆願候所願之通郷宿江御下被成下置難有仕合奉在候然ル上者親類組合之者共附添罷在療養差加全快次第御届可奉申上候親類組合村役人一同連印預證文泰差上候所如件元治元子年十年 略」 意味は『この書付を差し上げます(正式な申請・誓約書)』この者は取り調べ中で、牢に入れられておりますが病気のため、牢を出て療養したいと願い出たところ願い通り、郷宿(地元の宿)へ下げ置かれ(出牢許可され)ありがたく存じますその上は、親類や組合の者が付き添って療養させます全快次第、必ず届け出ます親類・組合・村役人が連名で保証書を提出します以上の通り元治元年(1864年)十月』この文書は👉「病気の罪人を一時的に牢から出す代わりに、親類と村が連帯保証する制度」を示しています。・「風躰」のよくない者を差し押さえ届書・牢抜捕縛再牢抜人引渡し請書 元治元年(一八六四)・韮山の牢屋「35代当主・8代韮山代官英毅公の時の役所勤務規則一 役所出勤の者は元〆手代を除いて当番を極め、当番は朝五っ時(午前八時) に役所の人口などの〆切り木を外すこと。 旦し役所の鍵は当番が預かり、七っ時(午後四時)に退出する時翌日の当番へわたすこと一 各は出勤したら帳面に自分の名前を書き、押印すること 但し病気や都合で出勤できない場合は、その旨を当番に断りの手紙を出し、当番は そのことを記載しておくこと一 四つ半時(午前十一時)に食事のために退席するので、その時は当番が居残りとなって 処々の戸締まり、湯呑所の者へよくよく確認してから退出すること 九つ半時(午後一時)に出勤し、七つ時(午後四時)に退出すること。 もっともその日の仕事によって変わることもある 但し翌日の当番は居残り戸締まりをして、湯呑所へ届け退出すること 当番でないときの出退勤も同様にすること一 七つ時退出する前、当番は日記・御用留・廻状留・文通留等その日の勤務内容を 記載した帳面を提出すること 但し御用繁多の時は夜分に持ち帰って仕事をするように。一 夜中に急御用状が到来したり、そのほか急ぎの仕事が入ったりした場合、 元〆と当番に知らせ、郷宿(村から役所へ取り次ぎの場所)、そのほかへも通知すべし 但し当番は名札を役所の入口へ掛けて置くこと一 夜中は役所内の戸締まりを怠りなく心がけ、火の元等に気をつけ、 出役部屋においては乱雑にならないようにして無用の者等の出入は禁止 部屋待の者共には注意するように一 諸帳面・箪笥のは元〆役が預かること。一 紙の遣い払いは自分用の詰所の箪笥に人れて置いて、鍵は当番が預かり 入用にしたがってその時々に差し出すこと、退出時には鎖をかけ錠をすること 但し遣い払い帳を仕立ること、毎月未に勘定をすること一 湯呑所に郷宿のほか他所の村役人を入れないこと 但し、これとわかるよう入口へ建札をすること一 出張から戻った時は勘定仕上げ、三日以内に提出すること 但し、帰着後すぐにできない事情がある場合は理由を言って延長もできる 卯 三月」 「巳御年貢皆済目録」 「巳御年貢皆済目録弘化三年(一八四六)皆済(かいさい)とは「みなすんだこと」、即ち完納の証明で、年貢(悦金)の内訳が記されている。代官所より村に当てられたものである。」嘉永3年(1850)代官江川氏手付・手代一覧※手付 幕府から御家人を派遣。給与は幕府から支給。代官の下で事務を行う。 手代 身分は農民・町人。代官の下で収税、その他雑務を行った。 書役 書類の記録・整理を行う。手代見習い的地位。「韮山県の領域」 「代官の仕事江戸時代の代官は、幕府・諸藩の直轄領を支配する地方官で、幕府の場合は勘定奉行に所属し、旗本が任せられました。年貢の徴収、司法検察を主務に天領の民政の安定にあたりました。江川氏の管轄地域・・・預り地を含め最大約10万石役所 韮山役所・・・伊豆の国市韮山・・・伊豆、駿河国の内駿東郡・富士郡を管轄 江戸役所・・・江戸本所、のち芝新銭座(港区浜松町)・・・ 武蔵(東京都・埼玉県、神奈川県東部) 相模(神奈川県)・甲斐仙梨県)を管轄出張陣屋・・・三島陣屋(享和の頃まで定詰手代1人、のち韮山からの出役)(谷村【山梨県都留市】屋・松岡【富士市】屋も置かれたことがある)」 ◯年貢の徴収、輸送管理◯浦方の管理 浦方分一取立盻味 廻船入津・遭難船の吟味◯街道の管理 嘉永3年「支配御用留」によると東海道藤沢宿・箱根宿・三島宿・原宿・ 吉原宿の管理、 甲州道中日野宿・八王子宿・駒木野小仏宿・小原宿・与瀬宿・吉野宿・ 関野宿の管理 関所の管理運営(武州多摩郡駒木野・小仏関所)◯伊豆七島の管理◯河川・湊の管理 河川の普請等勘定奉行へ意見を付けて具申 ◯湊明台の管理 川奈・石廊崎◯御林の管理 天城山・富士山・箱根山・田中山御林等◯事件の犯人探索、裁判◯牢屋の管理 韮山牢 「史跡韮山役所跡空中写真(中央の建物は重要文化財・江川家住宅)」 韮山役所跡は戦国時代から明治時代中頃まで、地方政治の中心となった場所です。江戸時代に代官を務めた江川氏は、中世から続く古い家柄で、戦国時代には、戦国大名北条氏に仕え、後に徳川家康に仕えました。江川氏は、韮山と江戸に役所を設け、伊豆・駿河・相模・武蔵、時には甲斐にまでまたがる最大10万石ほどの幕府の土地を、江戸時代を通じて支配してきたのです(天領支配)。このように長期間地域支配と行政の中心となった場所は、全国的にもまれです。国重要文化財(建造物)の江川家住宅、国重要文化財の韮山代官江川家関係資料(歴史資料)、江川家関係写真(歴史資料)などが現在まで保存されています。江川邸とその一帯の敷地は、平成16年(2004)9月「韮山役所跡」として国の史跡に指定されました。「韮山代官支配関係図」。韮山県の概要廃藩置県「前」の1868年に、明治政府によって設置された最先端の県。しかし、3年後に第1次府県統合によって廃止される。代官所(=県庁)は、現在の " 伊豆の国市韮山韮山1 " に置かれた(韮山の中の韮山!)初代知事は本で初めてパンを焼いた男 "江川英龍"の五男、「江川英武」 「韮山県は、慶応4年(1868年)に駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄するために明治政府よって設置された県。管轄範囲は現在の静岡県、神奈川県、埼玉県、山梨県、東京都多摩地域にあたる。」 廃藩置県から神奈川県域の確定まで1871年の廃藩置県直後、神奈川県域には小田原・荻野山中・六浦・神奈川の4つの行政区分がありました。その後、韮山県が誕生したいっぽうで、11月には4行政区が神奈川と足柄の2県に集約。さらに、府県統合で足柄の旧相模国地域が神奈川県に編入、多摩3郡が東京へ移管されるなどして現在の神奈川県域が誕生したのだと。1871年(明治4)年9月 小田原県と神奈川県の2県に⏬️1871年(明治4)年11月14日 足柄県と神奈川県に大別される1871年(明治4)年11月14日の第一次府県統合により神奈川・六郷・韮山・小田原・萩野山中県を廃止し、神奈川県と足柄県を設置された。高座郡の藤沢宿は当初足柄県に入っていたが、高座郡は外人遊歩区域内のため、神奈川県に編入された。また、11月県知事を県令と改称し、初代県令に陸奥宗光(むつむねみつ)がなった。1876年(明治9)年4月18日 足柄県の旧相模国域が神奈川県に編入される。1893年(明治26)年4月1日 三多摩が東京へ移管され現在の姿に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.04.01
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「願成願寺」を後にして、再び「狩野川」を渡り、「いちご街道」を東に進む。車窓から富士山の姿を。この先を右折して、県道136号線・反射炉・富士見ロードを南下する。そして次の目的地の「江川邸 駐車場」に到着。静岡県伊豆の国市韮山山木733−2 「ようこそ、歴史とのかけはし韮山へ」江川太郎左衛門英龍の似顔絵が。 この肖像画は、英龍の絵の師のひとりであった大國士豊が描いた英龍の姿であると(写真はネットから)。江川太郎左衛門英龍👈️リンク の肖像写真をネットから。バスを降りると、説明員のボランティアの方が迎えてくれた。江川邸観光案内所・公衆トイレ。正面から。「江川家菩提寺江川太郎左衛門・江川家代々の墓碑日蓮宗本山 大成山 本立寺」👈️リンク 案内板。 徒歩5分 と。以前に訪ねた寺、詳細は👈️リンクにて。そして忘れられないベンチを。2022年2月18日(金)、会社の先輩二人と一緒にこの場所を訪ねたが、一人がこの場所で心筋梗塞で倒れたのであった。私が救急車を呼び、それまでこのベンチで救急車の到着を今や遅しと待ったのであった。車で10分ほどの「順天堂大学医学部附属静岡病院」に運ばれ、直ちに「カテーテル手術・カテーテル・インターベンション(PCI)」が行われ、一命を取り留めたのであった。現在も薬を服用中、定期通院中であるがお元気に過ごされているのだ。 「担庵公思索の道」案内板。「坦庵公思索の道」という愛称は、平成 26 年度道路愛称選定事業 で、市民から応募のあった路線、愛称名から決定した。 江川邸から反射炉までを結ぶ古い山沿いの道(根方道)の一部で、旧 韮山町時代から、「坦庵思索の路」として親しまれていた。伊豆の山の西麓に位置し、韮山反射炉👈️リンクと江川邸を結ぶ南北の道で、水田、畑などの 農地や集落地及び丘陵の間を通る、自然豊かな2.7Kmのルートである。江川坦庵公はこの道を通って反射炉まで通った。江川家の菩提寺である本立寺には坦庵の墓がある。江川太郎左衛門 享和元年(1801年)~安政2年(1855年)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官であった。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。号の坦庵の呼び名で知られている。近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。赤のラインが「坦庵公思索の道」。そして「江川邸」正面へ。韮山反射炉を建設した江川太郎左信門英龍(担庵)が暮らした家てあり、韮山代官所としても使われた。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されている。案内幟「江川邸 重要文化財江川住宅 江川太郎左衛門英龍の生家」。「重要文化財 江川家住宅江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現在の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁・静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍(担庵)は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等を進めたことで知られている。昭和42年(1967)に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。江川家住宅宅地 11837平方米同 主屋 552平方米同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等」チケット売り場。「江川邸」配置案内図。 「表門」前に到着。右側が「枡形」であったと。 韮山反射炉を建設させた江川太郎左衛門英龍(坦庵)が暮らした家であり、韮山代官所としても使われました。室町時代に建てられたと言われる主屋のほか、書院、仏間、蔵、門、塀、神社などが国の重要文化財に指定されているとのこと。「表門」。 近づいて。表門は、屋根の中心がやや前側に偏っている薬医門。前後4本の柱のうち、前方の2本がやや太い本柱。後方の控柱2本は中心よりも奥に遠く建てられ、正面から見るとその特徴が分かりにくいのですが、四脚門と比べると来訪者にとっては門の奥への誘いを強く感じさせる設計であった。右手に黒の板塀が続く。この日のボランティア説明員の方。「表門・主屋」と。 表門は元禄9年(1696)建築、文政6年(1823)修復の薬医(やくい)門。主屋は552㎡あり桁行13間(約24m)梁間10間(約18m)棟高約12m。室町時代創建部分と江戸時代初期修築部分が含まれる。近年銅板に葺替えられる前は瓦葺屋根だった。手前に北条早雲が植えた伝承もある豇豆(きささげ)の古木。主屋正面。江川家の屋敷で、入母屋造平屋建銅板葺(元は茅葺)、梁間10間、桁行13間の規模を誇る。柱や梁などの部材の中には、室町時代にまで遡るものもあり、前身となった建物から転用されたことをうかがわせる。北西角に7間四方の大きな土間があり、現在も使われている竈が設置されている。土間は天井が張られていないため、棟高約 12メートルの大屋根を支える、小屋組の架構を一望することができる。 ズームして。1️⃣ 入母屋造(いりもやづくり)屋根の上部が 切妻屋根(三角形)下部が 寄棟屋根(四方に流れる)👉 日本の伝統建築で寺院・城・大名屋敷・名家住宅に多い格式の高い屋根形式。特徴・正面に大きな三角の破風ができる・屋根が大きく威厳がある・武家屋敷・庄屋住宅に多い中央に大きな破風(三角部分)が見えた。2️⃣ 平屋建2階のない 一階建ての建物しかし江川家の主屋は実際には内部に・屋根裏(中二階)・広大な小屋組を持つ 非常に大きな平屋です。江戸時代の豪農・代官屋敷に典型的な形式。主屋を見上げる旅友。紅かなめ。5月になれば(写真はネットから)。主屋前を右手に向かって進む。けやき。そして前方に「井戸」が現れた。「江川家の井戸江戸期以前に掘られ、名水が出、生活用とともに醸造にも使用されたと言われる井戸てす。下の写真は、明治時代の状況がよく残されており、はね釣瓶(竹の弾力を利用したもの)に時代の特長の見られます。なお、江戸時代の当家の家紋(井桁に菊)からもこの外戸の価値の高さが推測されます。」 伊豆石(伊豆地方産の凝灰岩)で組まれている。江川家は、中世から江戸時代初頭にかけて「江川」と呼ばれる酒を造っており、この井戸の水も酒造に使われていたと伝えられている。近代にいたるまで飲料水や生活用水として使われており、はね釣つる瓶べで水を汲んでいた。江戸時代の江川家の家紋(井桁に菊)。「徳川家康が伊豆北条の郷を順(巡)見したとき、ニ十八代太郎左衛門英長が江川酒と白餅を献上した。ご賞味あそばされ、『井水清く軽く、酒に叶(適)い、養老酒ともいうべし』と賞賛され、自ら河原の野菊を折って、これから『井の内に菊を家紋とせよ』と言われたという。菊紋を見て連想するのは天皇家の「十六八重表菊」紋。しかし、「十六八重表菊」紋が公式に皇室の紋と定られたのは、明治2年(1869) 8月25日の太政官布告から。江川家の「井桁に菊」紋も十六弁表菊ですが、八重菊ではありません。しかも、江戸時代は徳川家の葵紋には使用制限がありましたが、菊紋の使用は自由。「井桁に菊」紋を使う前の江川家の家紋は「五三の桐」紋だったのだ と」。天皇家の「十六八重表菊」紋。「パン祖江川坦庵先生邸」の碑 と。三十六代江川英龍は、1842年(天保13年)、韮山屋敷で、兵が携行する乾パンを製造した。碑は、パン食が普及していない時代においては画期的なこととして、静岡県パン協同組合によって建立されたもの。 裏門。敷地の北側に位置する裏門は、切妻造桟瓦葺の薬医門で、小屋裏に文政6年(1823)銘の棟札を収める。寛政5年(1793)、時の老中松平定信が伊豆に巡検に訪れた際に江川邸に立ち寄り、この裏門から真正面に見える富士山の美しさに感銘を受け、御用絵師として伴っていた谷文晁に、裏門を通して見た富士山を描かせた、というエピソードが伝えられている。平成5年(1993)に重要文化財に追加指定された。 書庫。北米蔵・南米蔵。ズームして。明治25年(1892)に建築された米蔵。南米蔵は明治25年(1892)、北米蔵は大正8年(1919)の建築でほとんどが板張りの壁ですが、上部には白漆喰が使われ、瓦屋根との間には風通しの隙間が見られます。現在は、展示スペースになっていて、江川担庵ゆかりの鉄砲や大砲の砲弾などが展示されている と。「武器庫さらに隣りは、上半分が白漆喰壁。幕末に造られ、小銃や彈丸、大砲の砲弾のほか、火薬の原料になる硝石や松脂なども保管されていた武器庫。この武器庫こそ、韮山反射炉を造り、西洋砲術の導入に積極的だったいかにも江川邸らしい蔵」と。 土間入口からいよいよ中へ。「江川住宅平面図(現在)」。主屋に入ると50坪(約162㎡)という広さの土間があり、竃(かまど)が据えられていた。現在、この竃(かまど)に火が入るのは、「具足開き(1月初め)」と「お会式(11月中旬)」の時など数えるほどと。4月12日のパンの記念日に因んで、パン祖のパンを再現して焼く時にも使用している と。見上げて。高い屋根までの吹き抜け。国指定重要文化財「江川家住宅(江川邸)」は、その江川家の住宅で、韮山役所は、その敷地内に設けられていた。1600年頃に建てられたもので、部分的には、より古い中世の建築部材も使われており、改築や増築が加えられ現在に至っている。ちょうな(手斧、釿)の跡が残る部材もあった。江戸時代に使用された駕籠。1️⃣ 網代(あじろ)張り 側面が竹や木を編んだ 網代模様になっていた。 これは軽量、通気性のため と。2️⃣ 小さな出入口 正面には小さな戸があり、ここから乗り降りします 内部は.畳または座布団、横座りになります。3️⃣ 屋根付き 上部に屋根があるため雨、日差しを防ぎます。江川邸主屋の屋根裏構造(小屋組) を見上げて。江川家住宅の最大の見どころの一つで、非常に特徴的な構造。現在の江川邸の屋根は銅葺き。しかし、これは元々茅葺きだった屋根を改修したもの。広さ50坪の土間に足を踏み入れて上を見上げると、桁に梁、束柱、束柱同士を繋ぐ無数の貫の遥か上に、屋根の傾斜を形作り茅を支える垂木などが丸見え。■ この構造の名前これは一般に「合掌組(がっしょうぐみ)」系の大規模小屋組または「梁組(はりぐみ)」と呼ばれる屋根構造です。江川邸の場合は特に 巨大民家型の小屋組として有名です。■ 構造① 無数の梁(はり)横に何段も走る太い木材が 梁 です。役割・屋根の重さを支える・建物の強度を保つ江川邸では梁が 格子状に何重にも組まれています。② 縦材(束・柱)梁の間に立つ柱は束(つか)と呼ばれます。役割・上の梁を支える・屋根荷重を分散③ 茅葺屋根の裏側一番上に見える黄金色の部分これは茅葺屋根の裏側です。厚さは50〜60cmほどあります。■ 江川邸の屋根裏の特徴この屋根裏は普通の民家とは違います。特徴は① とても高い 屋根裏の高さ 約10m近い空間② 巨大な梁 太さ 30〜40cm の梁が使われています。③ 煙で燻された木材 囲炉裏の煙で防虫、防腐効果が生まれます。そのため梁が黒く光る色になっています。■ なぜこんな巨大な屋根裏なのか理由は3つ。① 茅葺屋根が重い 茅葺は1㎡で約40〜50kgあるため強い構造が必要。② 大家族と役所機能 江川家は韮山代官でした。 役人、使用人、来客 多人数が出入りするため建物が巨大。③ 湿気対策屋根裏を大きくすると、空気が循環、茅が長持ちします。■ 実は日本最大級の民家江川邸主屋は延床面積 約700㎡屋根面積 約1000㎡近い といわれる👉 関東最大級の古民家 であると。土間の東側。窯場。「パン焼き窯と鉄鍋」 「パン焼き窯と鉄鍋天保13年(1842)4月12日、江川英龍の命により、邸内に築かれた窯で初めてのパンが焼かれました。当時の日本にはパン食が普及しておらず、長崎出身のオランダ商館用にのみ製造されていました。英龍が焼かせたのは、柔らかいパンではなく、長期保存が可能な乾パンでした。これは、英龍がパンを平時の食糧としてではなく、戦争時に兵が携行することを目的としていたからです。ここにあるのはパン焼き窯を形作っていた伊豆石の一部です。本来は、上に乗せてある鉄鍋が入る、もっと大きな物だったと考えられます。初めてのパンが焼かれた4月12日は、現在は「パンの日」として親しまれています。」「パン焼き窯(想像図)」。 「パン祖」幻の幕末レシピ」👈️リンク。 「日本で最初にパンを作った伊豆國代官、江川英龍でござる」。 江戸後期の1842年、兵糧用に初めてパンを焼き、「日本のパン祖」と呼ばれる韮山代官江川英龍(ひでたつ)(1801〜55年)がその前年、全く異なるパンの製法を記したメモが静岡県伊豆の国市の江川邸で見つかった。「パン祖のパン」は保存や携行に優れた硬い仕上がりだが、メモを基に地元の業者が再現した181年前の「幻のパン祖のパン」はふっくらとしていてこしょうが利いた「食卓で楽しめるパン」だった。(渡辺陽太郎)メモは五月二十六日、江川家の資料を整理していた江川文庫学芸員の橋本敬之さん(70)が見つけた。一八四一(天保十二)年の記述があった。うち数ページにパンのレシピがあり、橋本さんは目を奪われた。材料に粗びきこしょうと記されていたため、「兵糧パンと全く違う」。下記の内容が書かれていると。パンの製法に関する部分👈️リンク を抜粋して示す。『図のごとき大きさにいたし、厚さは焼ナベに油を引き、此位にて狐色に焼き申し候ー パンの法 西洋人の兵糧麦粉 百六十目砂糖 四十目玉子 五ツ右三味 水にてこね、焼なべにて焼く又の法麦粉 百六十目醴(あまざけ) 五勺 是は饅頭の本(もと)に相成り候品砂糖 二十目 又の法麦粉 百六十目醴 五勺水 適量右はいづれも製方手重にて宜しからず、支配極め山人村方にては麦粉水にてこね図のごとくまるめおし平め、ぬく灰にて焼、塩けを付度候得者程よく塩水にてねる。此法一番手軽候て実用に相成ル。麦粉ト認候者、小麦之粉御座候、此度励二郎江書状遣度候得共、御取箇調中大取込は難及、其儀下□□御申伝御座候いたし候度候、早々、以上十月廿五日 太郎左衛門忠兵衛様追而兼松繁蔵態々罷越、先頃一条与程永々申訳いたし候、正存に申進忝候図のパンの大きさ長径66mm✕短径55mm厚さ10mm』大砲の模型。窯の横に幕府に献上された「ペリーの大砲」。アメリカ製のボートホーウィッスル砲車(上陸舟艇用の小型砲車)と砲弾が展示されていた。砲身は複製 と。ボートホーウィッスル砲 (砲車)安政元年にペリーから幕府に贈られた現物とのこと(砲身は近年のレプリカ)。ボートホーウィッスル砲は上陸用舟艇の備砲で、砲車に載せれば陸戦にも使える。江川英龍は1年で倣製に成功した。壬申四月(明治5年)に足柄県から還納兵器の伺書が海軍省に出されている。「旧韮山県権知事江川英武預り大砲還納方件」足柄県(旧韮山県)には安政元(寅)年、米国使節渡来の節に献納され先々代江川英龍に預けられた「ボードホウイツスル 一挺 車台共」「 榴弾 十四 」「散弾 十七」と、フランス製の砲と砲弾やその他の野戦砲や小銃があると伝える内容。この時期、新政府は旧政府時代からの全国の銃砲を調査し、還納という名目で政府に差し出させていた。維新後、38代江川英武が韮山県の権知事となったが、明治4年から兵部省留学生として米国に約8年間留学。ちなみに韮山県はやたら広かった。こちらは、青銅製二十九ドイム型𦥑砲(模型) と。正面に木札がぶら下がっていた。伊東に居住していた日蓮聖人をお迎えした際に聖人より贈られた直筆の「火伏せの護符」を納めた棟札箱が見られます。ピンポイントライトが当てられた〇部分にある箱。その箱に入っているのは 日蓮聖人直筆の曼陀羅(南無妙法蓮華経の題目の周囲に神仏の名前を配したもの)です。弘長1年(1261年) 流罪により伊東に居住していた日蓮聖人を16代英親が数日間江川家に迎え真言宗から日蓮宗に改宗し供養を尽くします。その時、江川家は家の修築を行っており聖人から「この旧家がなお繁栄するように」と曼陀羅が贈られ、棟札として箱に納め屋根裏に設置したのだそうです。そのご利益により、近所で火災があっても江川邸は一度も火災に遭ったことがなく、700年以上無事に保たれていると伝えられています。このお札のご利益は江戸時代に広く知られるようになり、明暦年間(1655年~1657年)に火災にあった江戸城修復の際には江川家から棟木を1本献上しこのお札の版木が作られ、無料で配布されたそうです。こちら左がその版木で作られたお札 と。日蓮上人が幕府に捕まって伊東のまな板岩の上に置き去りにされ殺されかけた時、それを助けたのが土地の漁師で、陰で支えたのが江川さんでした。そのお礼と言ってこのお札を置いていったのだそうです。「行き柱生き柱とは江川氏がこの地に移り住んできた時に、生えていたけやきの木をそのまま柱として利用したとされる柱。」と。「生き柱」土間の隅には「生き柱」の札が提げられ、注連縄が掛けられた柱が立っていましたが、これは、住宅を建てる前からあった欅を切り倒さす、そのまま柱として利用したという意味。しかし、少し難れたところにある「生き柱の柱根」の説明によれば「昭和三十五年の発掘で、掘っ立て柱であることがわかった。」と書かれていましたので、実は「生き柱」ではなかったようです。近づいて。屋根は大きくても、出来るだけ軽く組み、風通しを良くし、揺れにも強い和小屋組みの工法。柱と梁材を固定する三角形の木製楔。真上を見上げて。棟高約 12 メートルの大屋根を支える、小屋組の架構。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.31
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至る場所に五百羅漢が。池と石橋。「五百羅漢」を追う。右手に「宝物館」。「五百羅漢」とは仏陀に付き従った500人の弟子。またはそれをかたどった像のこと。私に似た五百羅漢を探すが・・・。この付近の五百羅漢は眼鏡をかけている方が多かったが。知人に似ている!!そして仲良く夫婦で並んで。十三重塔。「五百羅漢」を更にカメラで追う。この後に訪ねた「守山八幡宮」の舞殿が隣奥に見えた。そして「足利茶々丸公方御墓」を訪ねた。左手には、俳人石田波郷の句碑があった。「寂かにて 願成就院 梅雨はれぬ」。「足利茶々丸公方御墓」。足利茶々丸👈️リンク は堀越公方足利政知の子。父の死後に一族間で内紛を起こして家督を相続するが、1493年(明応2年)、北条早雲が伊豆に攻め入った際、願成就院に逃げ込んで自害したと伝えられている。堀越公方家はここで滅亡した。ただし、近年の研究では、伊豆から追放され、1498年(明応7年)、甲斐国で自害したとされている と。「茶々丸」は幼名であり、元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱は伝わっていないとされる。「成就院九成居士」と刻まれていた。出来たばかりの?五百羅漢。この場所は工房であっただろうか。以前は希望すれば、指導の下、自分でこの「五百羅漢」を作成でき、境内に奉納できたようであったが現在は??斜面にこれでもかと。「永代供養廟」。「大御堂」(右)と「宝物館」(左)を横から。「洗心庭」。「枯山水庭園 洗心庭中央の右手に阿弥陀如来に見立てた大きな不動石を配し五石の石組をし刈入の木と自然な木を調和させ優しいやわらかな雰囲気をかもしだす庭園です。白雲上の仏樣たちを想像するなど見る人それぞれの心でこの庭を鑑賞してください。」そして境内の見学を終え、無縁仏塚越しに山門を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.30
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「願成就院」の散策を続ける。「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(左側)。近寄って(右側)。運慶作の仏像5体の国宝を所蔵する願成就院の「大御堂」に入る。新住職の「小崎弘慶(こうけい)」が迎えてくれた。2025年11月、前住職の小崎祥道さんが名誉住職となり、次女の弘慶(こうけい)さんが新住職に就いたのだ。国宝五体が鎮座する内陣を「ネット」👈リンク から。大御堂にお祀りする運慶作、国宝五身區の仏像群をネットから。阿彌陀如来坐像国宝・運慶作・1186年(文治2年) 像高142.0cm力強い体軀で、圧倒的な重量感にあふれている。深く刻み込まれた流れるような衣文も流石運慶と思わせる。縵網相の説法印を結び、激動の時代を生き抜かなければならない当時の武士や民衆を救おうという強い意志を感じさせます。不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像国宝・運慶作・1186年(文治二年)像高 不動明王 137.2cm、羂索をとる左手を、利剣を握る右手と同じ高さに上げた逞しく若々しい上半身、玉眼の両眼をかっと見開き、眉毛をつり上げた眼光鋭い忿怒の形相の不動明王が、左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子を、右前に手に宝棒を持ち、眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな制吒迦童子を伴って悪に立ち向かう頼もしいお姿は、様々な難儀、災厄から人々を守ろうとされる強い法力を感じさせます。矜羯羅童子立像(こんがらどうじりゅうぞう)・74.4cm。制吒迦童子立像(せいたかどうじりゅうぞう)・83.5cm。毘沙門天立像国宝・運慶作・1186年(文治2年)・像高148.2cm二匹の邪鬼を踏みつけて、玉眼入りで眼光鋭く一点を凝視して立つ雄渾なお姿には、躍動感、緊張感が巧みに表現されていて、運慶が出合ったであろう東国の若武者のイメージが彷彿としてきます。守護神として、尚武招福の仏様として、東国武士や民衆に崇められてきたことを感じさせます。ズームして。本堂の本尊、阿彌陀如来坐像。県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高86.8cm 玉眼入り 願成就院・本堂蔵十三世紀初頭の作風から、時政公の供養のために、1215年(建保三年) 12月に二代執権北條義時公が建立した南新御堂本尊阿彌陀三尊の中尊であるとされています。地蔵菩薩坐像(通称:北條政子地蔵)県指定文化財・鎌倉前期・慶派作(作者不詳)・像高51.6cm 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵像座に「寛喜の銘文」が残り、政子七回忌頃の作で、北条泰時が願成就院に奉納したかと思われています。北條時政公肖像制作年代・作者不詳 玉眼入り 願成就院・宝物館蔵唯一の北條時政公の肖像であります。2025年11月10日、38年ぶりに新住職が就任する「晋山(しんざん)式」があった。晋山式は、新住職を檀信徒(だんしんと)や地域の人たちに報告し披露する儀式。この日朝、寺院前の門前通りから高野山真言宗の各寺院の住職らが読経をしながら」列をつくって寺院内に入った。時政公の墓前で読経した後、本堂に入り式典が行われた と。本堂の本尊、阿彌陀如来に祈りを捧げる新住職の御姿。右が、英スコットランド出身の小崎キースさん英国の企業で働いていた新住職・淳子さんと、ロンドンのレストランで知り合った。2人は交際するようになったが、淳子さんはいずれ帰国し寺を継ぐことを決めていた。2012年、2人は願成就院で仏前結婚。キースさんは日本での生活に不安もあったが、仏教の教えを素直に受け入れられた と。そして「大御堂」を出て、「第御堂」前から参道、山門を見る。 境内の庭園を見る。移動して。「浅草と願成就院伊豆の大仁を愛する浅草の住人高坂公一 和田長敬 大塚金太郎の三氏がゆくりなくも当韮山の願成就院を訪れ荒廃せる堂内に国宝の御佛を拝するに及び痛恨の念に暫し去りやらず茲に護持の一念発起して浅草の人々の協力を求める篤信の人雷おこし主人穂苅氏を講元に仰ぎ昭和三十年九月浅山講を創立爾来講費頓に加わりて本年講費壱阡七百名を算する事となる此の信仰の結果は昭和三十七年二月願成講倉島講元天山講真鍋講元との共同発願に依り不燃建築の護持大御堂を建立し重要文化財なる御佛の数々を未来永劫に安置し得る大業を了し終りぬ本碑に願成就院が浅草人に依り復興の端緒となりたるを刻して記念となす梅が香の千代に伝へむこの御霊」。「浅山講五十回団参記念之碑歳月の過ぎゆくは矢の如しというが、浅山講五十年の歩みもまた夢のようである。創講者の一人である故高坂公一氏は、昭和ニ十九年の晩秋、友人の和田長敬・大塚金太郎の両氏と初めて願成就院を訪れ、荒廃せる堂内にみ佛を拝観したときのことを後の手記に書き残している。「阿弥陀如来の慈顔溢れる結構さと、不動明王・毘沙門天の眼光炯炯としてあたりを威圧するが如き尊厳さを拝し、平伏合掌したのが、私どもの胸の中に今でも強い印象となって残っている。浅草に帰った私たちは、国宝護持の目的をもって上條貢先生(元台東区長・都議会議長)と相談して浅草の浅と韮山の山をとり浅山講という信仰団体を創立することにした。講元には篤信家の常磐堂雷おこし社長徳刈恒一氏の就任をお願いした。第一回団参には約八百名の参加者があった。」創講から八年後、昭和三十七年ニ月、悲願であった不燃建築の新大御堂の建立が、同志との共同発願により達成され、願成就院復興の端緒となる。尊きみ佛護持顕彰の創講の精神は、ニ代目穂刈幸雄講元、三代目穂刈敬子講元に継承され、歴代副講元・世話人・支部長衆の尽力によって毎年団參が継続実施され、本年五十四回目を迎える。本碑に浅草と願成就院の因縁深きことを刻して記念とする。 合掌。」茅葺の本堂。願成就院創建六百周年にあたり、1789年(寛政元年)に建立。時政供養のために1215年(建保三年)にできた南新御堂の後身堂である。二百三十年の風雲に耐えて本日に伝えられています。ズームして。水原秋桜子句碑。「時政が ふるさとにのこす 露の墓」。水原秋桜子(1892~1981)は昭和37年の修善寺来遊の途次願成就院を訪れている。句に詠む時政は源頼朝の正室北条政子の父。晩年は失脚して韮山に隠棲した。人生のはかなさが感じられる句である。鐘楼。ズームして。六地蔵を再び。正面に「北条時政公御墓」。「北条時政公御墓」碑。この碑には「北條時政公 没八〇〇年忌供養として造立北條時政公(一一三八年生、一ニ一五年没 享年七十八歳)は、願成就院の創健者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。時政公は、この地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の一人で、伊豆国府在庁官人であった。一一六〇年十四歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。激動する歴史の中、娘政子が流人頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。一一八〇年八月十七日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では、頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府草創期の最重要人物の一人である。」と。「北条時政公御墓」1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方(後妻)と共謀して将軍源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、子の北条義時と娘の北条政子によって出家させられ、伊豆国追放となった。伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではないが、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で亡くなったのだと。「大日本六十余将の「北条時政」。画:歌川芳虎」。「桓武天皇の後胤上総介直方より五代の孫北条四郎大夫時家が嫡子にして始め四郎と号す 右兵衛佐頼朝伊豆国へ流罪て伊東が館に在しが祐親害心あるにより密に北条が館に遁る時政頼朝が潜竜の気あるを知て息女政子を以て娶せ源氏再興心力をつくし山木判官を討ち石橋山の戦ひには嫡子宗時討死す 賴朝天下を得たまひし后外戚と殊旧功あるを以て自然威権北条氏に帰し子孫繁栄の基をひらく 是時政が遠謀によるところなり 春亭京鶴記」原文の意味(現代語訳)・北条時政は、 桓武天皇の後裔である上総介平直方の五代の子孫で、北条四郎大夫時家の嫡男として生まれ、 若い頃は「四郎」と名乗った。・源頼朝が伊豆国へ流罪となり、伊東祐親の館にいたが、祐親が頼朝を害そうとしたため、 密かに 北条氏の館へ逃れた。・時政は頼朝に将来大人物になる気配(潜竜の気)があると見抜き、自分の娘 政子を頼朝に 嫁がせた。 そして 源氏再興のために力を尽くし、まず 山木判官(山木兼隆)を討った。・しかし 石橋山の戦いでは、時政の嫡男 宗時が討死した。 その後、頼朝が天下を取ると、時政は 外戚(将軍の妻の父)となり、さらに古くからの 功績もあったため、自然と大きな権力は 北条氏のもとに集まった。・そして子孫繁栄の基礎が築かれたのは、時政の遠大な計略によるものである。2022年、三NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主人公の父親・「北條時政」を演じた「坂東彌十郎」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.29
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「めんたいパーク」を後にして、狩野川に架かる「松原橋」を渡る。 そして次の目的地の「願成願院」前に到着。前方奥に「願成就院」の「山門」が見えた。山門の少し手前にある石標「國寶旗挙不動尊」碑。ここ静岡県伊豆の国市にある願成就院(がんじょうじゅいん)に安置されている、国宝の「不動明王・矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子三尊立像」が「国宝旗挙(はたあげ)不動尊」として知られています。 この不動明王は、文治5年(1189年)に源頼朝の奥州藤原氏討伐の際、北条時政が戦勝を祈願して運慶に造らせたものと言われています。源頼朝の挙兵に因み、旗挙不動尊と称されています。 願成就院の国宝不動明王(国宝旗挙不動尊)の特長・作: 鎌倉時代の仏師・運慶(運慶の初期の傑作とされる)。・上人特徴: 三尊形式(不動明王を中心に、矜羯羅童子、制吒迦童子の両脇侍を従える)。 力強い表情やポーズが特徴で、国宝に指定されています。・所在地: 静岡県伊豆の国市寺家。・拝観: 通常公開されており、運慶の国宝仏像が5体安置されている宝物館で拝観できます。 なお、この不動明王が祀られている本堂には、源頼朝の帰依を受けた仏師運慶が制作した他の国宝仏像も安置されています。奥州討伐の旗挙げということでしょう、ちなみに願成就院から国道を挟んで反対方面に伊豆滝山不動尊があり、こちらも旗挙げ不動尊と呼ばれているようですただ、こっちは文覚上人が頼朝に源氏再興の挙兵を勧めたとされる場所で、1180年ころの話ではないかと思われます。ある空き地の前でバスを降り散策開始。「国指定史跡 願成就院跡」碑。「国指定史跡 願成就院跡願成就院は鎌倉時代初期、北条時政によって創建された寺院てす。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」文治5年(1189)6月6日条には、源頼朝の奥州平泉攻めの成功を祈願して建立された、と書かれています。また、大御堂に安置されている国宝の仏像群のうち、四体から胎内銘札がみつかっていますが、そこには北条時政と仏師運慶の名前をみることができます。時政の死後も、子の義時、孫の泰時によって、「南新御堂」や「北塔」などの建立があり、伽藍が整えられていきました。当時の願成就院の姿は、発掘調査によって明らかになっています。昭和36年から現在まで、境内やその周辺20ヶ所以上で発掘調査が行われ、建物の礎石や雨落ち溝の一部がみつかっています。とくにこの一帯は、発掘調査によって、基壇や大量の瓦がみつかっている場所で、承元元年(1207)に時政が建立した「南塔」の遺構と推定されています。また、周辺の地形測量によって広大な池の存在も想定されています。鎌倉時代の願成就院は、西側の守山を背景にして、池の周囲に堂や塔が建ちならぶ「臨池伽藍」と呼ばれる様式の寺院でした。臨池伽藍は、浄土の世界を御堂や庭園の姿であらわす、当時を代表する寺院様式です。」「国指定史跡 願成就院跡」がここ一帯であると。山門前の左側には多くの石碑が並んでいた。「願成就院」の山門。「高野山 真言宗 天守君山 願成就院」と。「北条時政公開基 奥州征討戦勝祈願 願成就院」天守君山 願成就院(高野山真言宗)の創建について鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と近年発見された国立歴史民俗博物館本『転法輪抄』の「伊豆堂供養表白」により、願成就院が北条時政によって造営され、文治五年(1189)六月六日に立柱上棟の法要が営まれて、本尊阿弥陀三尊と不動・多聞(毘沙門天)の形像が安置され、源頼朝と後白河法皇の長寿と天下泰平、そして北条氏の繁栄と奥州藤原氏征討の成功を祈っていることが明白になった。今日大御堂にお祀りする国宝の運慶作5驅の仏像は正に創建時の形像である。伽藍の営作は、ニ代義時、三代泰時までの40年間に及び北条氏の氏寺として栄えた。前面に池が広がる浄土様式の庭園をもつ大規模な臨池伽藍寺院であり平泉の毛越寺を模したと言われている。昭和48年に守山(後山)東斜面と 内及び東側隣接地が「史跡願成就院跡」として国指定史跡に指定されている。」山門を潜ると参道左側に多くの無縁仏が。近づいて。六地蔵。赤白のおみくじだるまが至るところに。「願成就院略縁起当山は、山号を天守君山と称し、阿弥陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺である。創建は、鎌倉時代初頭の文治5年(1189)に遡る。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。幕府の事績を伝える「吾妻鏡」には、時政公が大御堂と南塔を建立し、二代執権北条義時公が亡父時政公の供養として南新御堂を建立、三代執権北条泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが記されており、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたる。貞応元年(1222)には「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷より下されており、この地に、守山を借景として、中之島のある池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が、北条氏の氏寺として造営されていたのである。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和48年、境内を中心に周辺一部地域を含めて「願成就院跡」として国指定史跡となる。鎌倉時代の伽藍は、15世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の堀越御所(北条時政館跡)攻めの兵火で焼失するが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊き御仏像を拝観すると、幕府最大の権力者北条氏とこの寺の盛時を偲ぶことができよう。本尊阿弥陀如来・不動明王・矜羯羅童子・制吒加童子・毘沙門天の五体の仏像は、文治2年(1186)の造像で、運慶30代半ばの謹作、日本彫刻史上、運慶様式の成立を考える上で大きな意義を有する尊像とされ、造像銘札4枚と共に重要文化財の指定を受ける。境内には、北条時政公と足利茶々丸公(堀越御所2代公方)の墓所があり、両公の菩提寺である。運慶作五仏、胎内銘板四枚は平成二十五年に国宝に指定される。」 境内の「五百羅漢(ごひゃくらかん)」の表情が楽しいのであった。右手に「弘法大師御像」。 「大御堂」への参道には巨大な石灯籠が。近寄って(右側)。近寄って(左側)。「運慶謹作仏像五体 附五輪形木札四枚国宝指定記念之碑平成二十五年六月十九日指定」 「大御堂」。いただいたパンフレット。表紙には「地蔵菩薩坐像(通称:北条政子地蔵)」。 「願成就院の歴史と仏像の意義当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅又は韮山駅より徒歩で十五分程の守山を背にしたところにある。寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(七二九)五月十五日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の事蹟を伝える「吾妻鏡」の記録から、文冶五年(一一八九)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、ニ代執権北条義時公・三代執権北条泰時公の三代にわたり、約半世紀の歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄をきわめた。その伽藍構成は奥州平泉に藤原三代の偉業として伝えられる。中尊寺・毛越寺・無量光院三寺院の中の毛越寺を模したもので、山門入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋をって参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。しかしこうした繁栄もやがて十五世紀末には兵火にみまわれ、しだいに衰運に向かった。室町時代延徳三年(一四九一)ニ代堀越公方・足利茶々丸公が北条早雲に攻め滅ぼされた際、多くの堂塔が灰塵に帰し、さらに時移り、戦国時代の末、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めの折、韮山城攻撃の際、再び火に見舞われ、ますます寺運は衰えた。江戸時代宝暦三年(一七五三)寺の荒廃をなげいた北条美濃守氏貞が仏像等の修理を行い復興に努めた。現在の本堂は寛政元年(一七八九)に仮本堂として建立されたものである。昭和三十年以降、東京浅草人を中心として、当山の貴重な文化財の護持顕彰を目的に浅山講・大倉願成講・天山講・京山講などの講社が相次いで組織され、その浄業として大御堂が再建され、再び今日の興隆をみるにいたった。寺の創建時より大御堂にお祀りされてきた本尊阿弥陀如来坐像、不動明王立像及矜羯羅・制吒迦童子立像、毘沙門天像の五体の尊像は、胎内に納められていた四枚の五輪塔姿形銘札によって、文治二年(一一八六)にこの寺の開基である北條時政公の発願によって運慶が謹作した仏像であることが明らかになった。運慶三十五才頃とされ、鎌倉幕府の成立に関わった東日本に現存する最古の運慶仏である。この仏像群の特徴である豊かな量感と写実を踏まえた力強い作風は、前代の仏像には見られなかった新しい造形と、運慶の秀でた彫技を伝えるものとされ、運慶自づからが初めて世に問うた極めて意欲的で革新的な挑戦作であるとされている。正に運慶様式、鎌倉彫刻様式の成立を示す日本文化史上、日本彫刻史上大きな意義を有する若き運慶の傑作であり、代表作の一つであるとされ、国宝に指定される。また、現在の願成就院境内を中心に、裏山を含めた一帯は、平泉の毛越寺や京都の浄瑠璃寺など、全国で七カ所残る「浄止様式」と呼ばれる藤原時代特有の寺院様式の貴重な遺構とされ、「願成就院跡」の名称で国の史跡に指定されている。寺宝国宝●阿弥陀如来坐像 鎌倉初期・寄木造・像高一四三・五センチ 運慶作 大御堂本尊・堂々として量感豊かな体躯男性的でたのもしく、しかも限りない慈悲に あふれた面相は神秘的な威厳を具え、一種名状しがたい霊感にうたれる尊像である。国宝 ●毘沙門天像 鎌倉初期・寄木造・像高一四七センチ 運慶作 重い鎧を身につけ、右脚を一歩踏み出し、あばれまわる二匹の邪鬼をしつかりと 踏みつけて立つ、活動的な姿がきわめて巧みに表現された王眼嵌入の像。国宝●不動明王像 鎌倉初期・寄木造・像高一三六・五センチ 運慶作 上半身裸形、両肩がはって胸あつく、腰の太いたくましい力強い体躯、仏敵や邪悪に 立ち向う激しい怒りあらわに出し、除災招福の力にあふれた王眼嵌入の像国宝●矜羯羅童子像(こんがらどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高七八センチ 運慶作 不動明王像の向って右に立っ脇侍、純粋無垢な小女を思わせる可憐な姿で、丸々とした 体つき、裳の表現など、きわめて巧みな玉眼嵌入の像。国宝●制旺迦童子像(せいたかどうじ) 鎌倉初期・寄木造・像高八二・六センチ 運慶作 不動明王像の向って左に立っ脇侍、額に八の字のしわをよせ、ロをへの字に曲げ、左足を 踏み出し、上半身をのりだした力強さがきわめて巧みに表現された玉眼嵌入の像。重要美術品●政子地蔵菩薩像 鎌倉初期・寄木造・像高五一・五センチ 嘉禄元年七月十一日に没した尼将軍政子の七回忌追福菩提のために、三代執権北条泰時公が 奉納したもので、そのひきしまった姿に、生前の政子を巧みに表現した洗練された像。国宝●塔婆形銘札四枚 鎌倉初期 毘沙門天像・不動三尊像の胎内より発見された造像銘札で、文治二年(一一八六)五月三日 北条時政公が発願した仏像を運慶が作りはじめたことが記され、運慶に関する重要資料。その他、阿弥陀如来坐像・北条時政公肖像・古文書 等。史蹟○北条時政公御墓○足利茶々丸公方御墓○北条時政公建立 南の塔 跡「五輪塔形木札四枚・国宝附 木札 (大)二枚は、不動明王と毘沙門天像に、木札(小)二枚は、矜羯羅・制吒迦の二童子像に納められていた。四枚共に梵字で宝篋印陀羅尼が記されていて、不動明王・毘沙門天像の二枚には、壺形の舎利容器が納められていた小円孔を穿ち、舎利が納められていたことがわかります。また、四枚共に造像記が記されていて、文治二年五月三日から造り始めたこと、擅越は時政、巧師は勾当運慶と記し、銘文執筆者は南無観音であると記されています。」 衿羯羅・制タ迦二童子から取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)そして再び大御堂の扁額「大御堂」。 法華経(観音経)👈️リンク の偈文の冒頭部分が書かれた垂れ幕が。第25章「観世音菩薩普門品」に含まれる 「観音経の偈(げ)」と呼ばれる部分最上部が写っていないが。「世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音 具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説 聞名及見身心念不空過 能滅諸有苦 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没 或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊 或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害 若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去 雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦 具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂禮 爾時持地菩薩即従座起前白佛言世尊若有衆生聞是観世音菩薩自在之業普門示現神通力者当知是人功徳不少佛説是普門品時衆中八萬四千衆生皆発無等等阿耨多羅三藐三菩提心」 ・とても尊いお姿をされていたお釈迦様へ 私(無尽意菩薩)は尋ねました。 「あの菩薩(仏弟子)を、どのような理由で観音様と呼ばれるのでしょうか」 ・とても尊いお姿をされていたお釈迦様は偈の形で無尽意菩薩へお答えになられました。 「お前は観音菩薩が、様々な場所に赴いて人々の願いに応じている姿をよく聞きなさい。」 ・菩薩の弘い誓い(本願)は、海のように深く、とてつもなく長い間考え抜いても、まったく 想像の及ぶところではない。 数え切れないほど多くの仏の側で学び、清らかな真の心で本願を建てられたのだ。・私(釈迦)はお前に、簡略して観音菩薩について話をしよう。 観音菩薩の名前を聞き、姿を見て、心に常に想念しつづけるならば、様々な苦難災難は なくなるだそう。・たとえ人に害意を持たれて、火の燃え盛る穴へ突き落とされても、観音菩薩のお力を念じれば、 火の穴は池へと変わるだろう。・大海原を漂っている中で、龍や魚、諸々も死霊に襲われても、観音菩薩のお力を念じ続ければ、 荒波にのまれることはない。・高い山の峰から人に突き落とされても、観音菩薩の力を念じ続ければ、太陽のように空へ 浮いていられるだろう。・また悪人に襲われて、金剛山より転がり落ちることになっても、観音菩薩のお力を念じれば、 ほんのちょっとの傷も負うことはない。・また盗賊や山賊などの犯罪者に囲まれて、刀で切りつけられても、観音菩薩のお力を 念じれば、すぐに慈しみの心をおこし、憎しみの心がなくなるだろう。・また権力者の不当な処罰を受け、極刑により命が終わろうとしても、観音菩薩のお力を 念じれば、刀がことごとく折れてしまうであろう。・また囚われて手枷足枷をつけられ、鎖で縛られても、観音菩薩のお力を念じれば、スッと 束縛から解放されるのである。・呪いの言葉や様々な毒薬によって命を脅かそうと思っているものにたいしても、観音菩薩の お力を念じれば、かえって本人が様々な苦しみあうだろう。・悪い魔物や毒龍、様々な死霊に遭っても、観音菩薩のお力を念じれば、危害を加えられる ことはない。・もし凶暴な動物たちに取り囲まれ、牙や爪が鋭く恐ろしいものであっても、観音菩薩の お力を念じれば、ものすごい速さで八方に逃げていくだろう。・毒蛇や毒虫のように、毒気が火のように燃えていても観音菩薩のお力を念じれば、 称名とともに自ら向きを変え去っていくだろう。・雷鳴が鳴りひびき、稲妻が走り、雹が降り、大雨になっても、観音菩薩のお力を念じれば、 すぐに消えてしまうだろう。・人々は困難や災厄にあって、無限の苦しみにあっても、観音菩薩の妙なる知恵の力は、 世の中の苦しみから救うことができるのだ。・神通力を備え、限りない智慧と方便を駆使し、大宇宙にある諸々の国々に、姿を現します。・様々な苦しみの世界、地獄界、餓鬼界、畜生界、生老病死の苦しみも、全て消滅させる ことができます。・真理を観ており、清らかに観つめ、広大な智慧をもって観ることができ、慈悲にあふれて すべての人を観ている。 観音菩薩を常に念じ、尊びなさい。・無垢で清らかな光をもち、智慧の太陽は、もろもろも苦しみの闇を破り、災いの風火を 消し去り、すべての世界を照らすだろう。・慈悲の「悲」の元である「戒」は雷のように震え、「悲」の心は妙なる大雲のようであり、 甘露の法雨をそそぎ、煩悩の炎を滅するだろう。・言い争いは裁判所をへて、戦いの中で恐怖をいただいても、観音菩薩のお力を念じれば、 人々の怨みはすべてなくなるのだ。・観音菩薩の妙なる声は、木々の間を通り抜ける風のようであり、海の潮の満ち引きの ようであり、世界中のすべての音に勝っています。 だから常に念じなさい。・僅かな時間も疑いを生じてはいけません。 観音菩薩の清らかなお力は、さまざまな苦悩や死の縁の際に、大きな拠り所となるのだ。・すべての功徳をそなえ、慈悲の眼差しをすべての人々へ注ぎ、幸福の集まりは海のように 無限である。 このような理由だから、まさに礼拝しなさい。・お釈迦様の話がおわると、地蔵菩薩(持地菩薩)が立ち上がって進み出て、お釈迦様へ 申し上げた。・お釈迦様、もし人々が観音経に説かれる自由自在の衆生済度の働き、人々の機根に合わせて 現れる神通力を聞いたならば、知ることになるでしょう。聞いた人の功徳は計り知れない ことを。・お釈迦様が観音経をとき終えた時、そこに集まった8万4千の人々は、皆この上ない悟りの 心を起こしたのだった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.28
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「かんなみ仏の里美術館」を後にして、昼食の場所「めんたいパーク伊豆」に向かって「国道136号・伊豆中央道」を進む。 「天城連山」を左に見ながら進む。 前方に「伊豆わさびミュージアム」が姿を現した。 そして左折して「かねふくめんたいパーク伊豆」に到着。 静岡県田方郡函南町塚本753−1。めんたいパークは明太子の老舗かねふくが運営する明太子専門テーマパーク。来て楽しい、知って楽しい、食べて楽しい。無料で見学できる明太子工場に、できたて明太子の直売店、つぶつぶランドやフードコーナーなど。家族連れやカップルでも、大人から子供まで楽しめる場所 と。「かねふくめんたいパーク伊豆」へのルートマップ。施設屋上に鎮座した“15メートルのタラピヨちゃん”。駐車場から見上げると、かなりの迫力。しかし、丸々していて、よく見ると表情がかわいいのであった。バスを降り「めんたいパーク」に向かって進む。 富士山が見えるフォットスポット。「タラピヨ」(左)と明太子の研究に勤しむ「タラコン博士」(右)。名前の「タラコン」は、明太子の原料である「タラ(たらこ)」と、親しみやすい博士キャラクターという設定から、「コン」は「〜コン(知識・コントなど)」や、博士らしいキャラクター性をイメージして名付けられたと。窓ガラスにも「タラピヨ」と「タラコン博士」の姿が。まずは「フードコーナー」ヘ向かい昼食を。メニューサンプルが並ぶ。FOOD MENU。「鬼盛り!めんたい丼」を注文。 近づいて。「鬼盛り!めんたい丼の美味しい食べ方鬼盛り!めんたい丼とは明太子を思う存分楽しんで頂きたいという想いから、塩分を抑え、旨味やコクを引き立てた、めんたい丼特製の明太子をたつぷり乗せました。別添の旨味たつぷりのタレをかけてお召し上がりください。・まずは! そのままで明太子の味、つぶつぶ感をお楽しみください。・そして! 海苔をかけ風味をアップ!・最後に! 明太子の旨味をさらに引き立てる秘伝のタレをかけて。」 旅友は明太パスタを。工場直売!できたて明太子ショップ。様々な商品が並んでいた。「おうちで明太子」を食べよう♪」。オンライン注文も可能と。「いか明太しゅうまい」、「明太もつ鍋」。 「Mentai park IZU」全国の「めんたいパーク」のパンフレットが並ぶ。 「かねふく 明太子ふりかけ」を頂きました。 そして隣にあった「道の駅 伊豆ゲートウェイ函南」を訪ねた。2014年度(平成26年度)制定の重点道の駅「伊豆道の駅ネットワーク」の一つであり、川の駅(塚本地区MIZBEステーション、旧・狩野川塚本地区河川防災ステーション)が隣接する道の駅である。PFI事業で運営されている道の駅であり、PFI事業者の加和太建設グループが、開業から15年間管理運営を行う。2019年(平成31年)4月27日に川の駅施設がオープンしている。なお、川の駅駐車場を伊豆中央道から伊豆縦貫道沼津方面への道の駅駐車場として案内しており、道の駅施設と川の駅施設は展望歩道橋により連絡されている。MAP「Welcome to Shizuoka」。 「現在地」に近づいて。「みどころ Sightseeinng Spots1️⃣かんなみ仏の里美術館2️⃣反射炉3️⃣だるま山高原4️⃣日本サイクルスポーツセンター」 「伊豆半島ユネスコ世界ジオパークへようこそ南から来た火山の贈りもの伊豆半島まるごとミュージアムlzu Peninsula is the National and cultual Museum本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かっては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前のできごとです。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ半島が形作られています。海と陸の記憶を刻み込んだこの伊豆半島で、大地からの恵みである美しい景色や食、温泉、文化といった、たくさんの「贈りもの」を楽しんでみませんか?」 地図に近づいて。伊豆半島のおもなみどころ。■海の時代・城山・ユウスゲ公園・竜宮城・堂ヶ島天窓洞・千貫門■衝突とその後の時代・細野高原・走り湯・浄蓮の滝・戸田・御浜岬・河津七滝・楽寿園・白滝公園・大室山・玄岳・柿田川湧水群・鮎壺の滝オラッチェソフトクリームスタンド。学校給食で愛されている「丹那牛乳」らしく、学校をモチーフに売り場をリニューアル。実際に学校で使用されていた廃材を活用した店。丹那3.6牛乳函南町の山あいにある標高250mの小さな盆地、丹那(たんな)地域は140年以上続く「酪農の里」。豊かな自然の中でのびのび育った乳牛からとれた牛乳は、しっかり濃くて栄養豊かな味わい。函南町や県東部での学校給食でも飲まれるほど地域で長年愛されるブランド牛乳。乳脂肪分3.6%以上の新鮮な成分無調整牛乳 と。「蛇口ヨーグルト」!「物産販売所 いずもん」では丹那牛乳やソフトクリームなどを味わうことができますが、メニューの中に「蛇口ヨーグルト」という聞き覚えのない単語を発見。空のカップを渡され、売店の外にある大きな丹那牛乳パックの謎の穴をのぞくと、中に蛇口が…!蛇口をひねるとよく冷えた液体が出てきました。ミルクの風味がしっかりありながら、すっきりと飲みやすく喉越しさわやかなドリンクヨーグルト。「物産販売所 いずもん」(ネットから)。店内を散策。「伊豆ゲートウェイ函南 案内板」 函南町観光マップ。近づいて。そしてヤマモト食品・「伊豆わさびミュージアム」へ向かう。 「三島の老舗わさび屋・山本食品が運営するわさびミュージアムです。伊豆の代表的な名産品である「わさび濆」の製造過程を見学できたり、わさびの辛さを体験できるトンネルがあったりと、わさびの魅力を楽しく学べます。お土産も豊富に取り扱っており、短い時間でも子供から大人まで存分に楽しめます。」と。 「わさびトンネル」入口。 トンネルの中に入ると、不思議なことにわさびはないのにあのツーンとした香りが…。思わず鼻をつまみたくなる刺激です。ガラス窓から顔を覗かせれば、「ツーンとキタァァァ」などのセリフといっしょに、写真を撮ることができます。トンネルを抜けるとその先に現れるのは、「わさび田」。畳石式のわさび田が室内で栽培された、日本初で唯一の場所 と。本来であれば天城の山深い場所にある畳石式わさび田が、室内で見れるのは貴重!栽培されているわさびを、間近で見ることができたのであった。反対側には。「触ってわかる!わさびのおろし板の違い」 「古くから使われてきたわさびおろし「鮫皮」 上等でキメの細かいおろし器具(山葵おろし器)として使用します。江戸時代の宮大工がサメの皮をやすりとして使用していた事から着想を得たとされており、この時に使用されるサメは、板鰓類(ばんさいるい)と呼ばれる種類のカスザメの皮が使用されています。」 「これが鮫皮です。まず、触ってみてください。上から下、下から上。手触りが違いませんか?これが鮫皮の特徴。細かくランダムな凹凸がわさびを細かく摺り出します。だから、昔からわさびは鮫皮。円を描くように摺るのは、様々な方向で当てて、より細かくするためです。」 「木わさび用おろし板鋼鮫"Steel Shark" wasabi grater本わさびの歴史とともに、古くから使われてきた「鮫皮」(さめかわ)。これまではわさびをおろすのに「鮫皮」が最もおいしく仕上がる道具とされてきました。鋼鮫(はがねざめ)は、この「鮫皮」を超える味わいを実現した「本わさび導用」のおろし板です。最上級の辛味と香りを引き出すポイントの「ねばり」を出すため、日本の町工場の技術を駆使し、何度も試作を繰り返して完成しました。わさびをすりおろす際に技術を必要とせずおいしくすりおろすことができる「鋼鮫」。世界に向け本わさびの味わいを次のステージへと押し上げる役目を果たしてゆく秀品です。触れてみて、「上下・左右・斜め」と、どの方向から撫でてみてもザラザラ感を感じられるのが鋼鮫。「目」が一定の方向に向かっているのではなく、どの方向でも均一なため、ねばりを出し、辛味と香りを引き立たせることが町工場の技術により可能になりました。」「そして、これが鋼鮫わさび屋が本気でつくったおろし板。まずは触ってみてください。実は、このおろし板の秘密はこの”盤面”の模様にあります。よく見てください。この盤面がミソなんです。縦でも、横でも、斜めせも。あらゆる方向からわさびをとらえ、より細かく、なめらかに摺りあげます。」 「わさび漬け」の販売コーナー。「わさびのガニ芽」。「わさび ソフトクリーム」ポスター。「わさび ソフトクリーム」を購入し、楽しみました。牛のベンチ。そしてバスに戻るために引き返す。マスコットキャラクター「マモリくん」と記念写真コーナー。「マモリくん」顔出しパネル。「マモリくん」。マモリくんは狩野川に古くから住む、カッパの姿をした神様。狩野川とその地域を守ってくれています。泳ぎが得意なのはもちろん、実はとても足が早く、静岡県内のご当地キャラが競った「快足王グランプリ」では見事優勝した と。再び、めんたいパーク屋上の立派な明太モニュメント「15メートルのタラピヨちゃん」を。 移動して。 ・・・つづく・・・ ・・・もどる・・・
2026.03.27
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24体の仏像群の鑑賞を終えエントランスロビーへ。桜の花が迎えてくれた。そして「かんなみ仏の里美術館」の庭園を鑑賞。 「いにしえより仏の信仰がつづく函南町桑原区の自然と人の営みが映しだされた庭です。春はヤマザクラと周辺の山々に多く自生するハコネザクラ、夏は箱根山原生林を代表するヒメシャラと敷地の中で移植したサルスベリ、秋冬には桑原区から寄付されたシダレモミジとツバキが庭を彩ります。緑豊かな木々と山裾からの湧水を引き入れた流れの間を縫う園路を回遊する、ラウンジに腰をおちつけてじっくり眺めるなど、様々にお楽しみいただける庭です。」 奥にも桜の花が。小さな花びらの桜。「米桜」と。 豆桜(マメザクラ)とも言い、富士・伊豆箱根に咲く自然種の桜でバラ科の低中木です。2mぐらいの高さの木の細い枝に可愛い小さなピンクの花をびっしりとつけていました。とても可愛いらしい桜であった。さらに近づいて。こちらは「シダレモミジ」であったか?そして「ヒメシャラ」と。ここ函南町(静岡県)の町木は、町制施行10周年を記念して1973年に制定された「ヒメシャラ」。箱根山原生林の代表的な樹木であり、夏に白い可憐な花を咲かせ、樹皮が滑らかで美しいのが特徴。サルスベリに似ていますが、サルスベリはミソハギ科サルスベリ属の木ですが、ヒメシャラはツバキ科ナツツバキ属の木で似ているところはありますが全く別の種類。樹形にしても、サルスベリは小高木で幹は良く曲がり、枝を長く伸ばしますが、ヒメシャラは高木で直立して縦長の樹形になりますし、樹皮は橙色で美しく、シラカバ、アオギリとともに「三大美幹木」と呼ばれているのだ と。 これが函南町(静岡県)の町木「ヒメシャラ」の花(ネットから)。 そして「かんなみ仏の里美術館」の隣・東側にあった「熊野神社」を訪ねた。 石鳥居の扁額「熊野神社」。 石段の上に本殿の姿が。左手に「手水場」。 右手には石碑が並んでいた。「江戸時代のくらしを伝える石造物塞の神(道祖神) 単体・丸彫りの伊豆型道祖神。集落の入口に祀られ外から入ってくる 悪弊から村人を守る神としての信仰がありました。順札供養塔 享保十三年(一七ニ八)、西国・秩父・板東番霊場を巡った菅沼與右衛門、中村重兵衛が 建立したものです。庚申供養塔 二基 左から二番目の石塔は「青面金剛明王」と刻む文字塔(寛政二庚申年=一七七二建立)。 左端は三猿を刻む刻像塔となっています。 平成二十九年十一月吉日 桑原区史跡保存委員会」 塞の神(道祖神)。風雪の耐えている単体・丸彫りの伊豆型道祖神 と。「伊豆型道祖神は、単体道祖神の変形で、坐像が丸彫されている特徴があります。研究者たちによって、伊豆に見られる道祖神は他の地域の道祖神とは違うことから、”伊豆型”と呼んで区別するようになったようです。石工が伊豆石の石材の特性から生み出したものかもしれません。伊豆東部と中部を中心に、東は小田原・西は富士市・北は裾野市・南は東伊豆町の範囲に分布しています。」 と。順札供養塔享保十三年(一七ニ八)、西国・秩父・板東番霊場を巡った菅沼與右衛門、中村重兵衛が建立。庚申供養塔。「青面金剛明王」と刻む文字塔(寛政二庚申年=一七七二建立)。庚申供養塔。左端は三猿を刻む刻像塔。本殿に向かって参道を進む。「熊野神社(くまのじんじゃ)桑原の氏神「熊野権現」として古来より村人の厚い尊崇を受けてきました。創建時期は不詳。村人からは『うぶすなさま」「おぶつなさま」と呼ばれ、「宮講」という講が結ばれていた。祭神は伊弉諾命(イザナギノミコト)・伊弉冊命(イザナミノミコト)を祀る。伊弉諾命、伊弉冊命は熊野大神と呼ばれ、本社は紀州熊野大神である。本地仏の阿弥陀如来が神の姿となって権化したものといわれ、桑原ではかって阿弥陀如来を安置していたといわれる平清寺と一体のものとして、厚く信仰されてきた。熊野神社は町内に桑原、上沢、日守(下)に順次、狩野川、来光川の側に鎮座している。山岳信仰や山地での生業に関わる神社としての崇敬が厚かったのでしょう。又、境内地に宝永四年ニ月十七日、境界紛争功労者の石碑「桒里四君表」を建立し故人の遺徳を偲ぶ。ニ月十七日に例大祭が執り行われていたが、近年、ニ月第ニ日曜日に変更され、桑村小学校児童による浦安の舞が奉納されている。 文化庁ー文化遺産を活かした地域活性化事業 平成ニ十八年三月吉日 桑原区・桑原区史跡保存委員会」本殿。見事な彫刻。神輿舎。内部の神輿。「淡島神社」 婦人病に霊験があるとされ、針供養なども行われます。桑里四君表。熊野神社境内の社殿東側にある石塔は、明治18年に再建されたもの。元は宝暦二年に、桑原村の秣場への入会を争った際に、当時の村役人四人が苦労して勝訴した功績を後世に長く伝えるために建てられたもの。桑原・廃平清寺跡・唯念名号塔。唯念上人が地元の人に請われて彫った「南無阿弥陀仏」の六字名号塔が残ります。「伝廃小筥根山平清寺址(こはこねさんへいじあと)「地誌調」(明治十八年戸長役場編)によれば、明冶の初め迄桑原には薬師堂・阿弥陀堂のニつのお堂が有りました。江戸時代の様子を伝える「増訂豆洲志稿」によれば、薬師堂は柿生土の白山の南側に在り、平安時代に創建さ・れた小筥根山新光寺の在ったところと言われます。阿弥陀堂は「廃平清寺」として記されており、熊野神社の斜め後方に在ったと伝えられています。桑原の古文書によれば平清寺は龍泉寺や徳現寺と共に新光寺の塔頭の一つてあり、堂内には阿弥陀如来、子安延命地蔵菩薩・聖観世音菩薩等の諸仏像か安置されてきたということです。廃平清寺址とされる地の隣のお宅には「子安延命地蔵尊平清寺」と刻んた版木(函南町指定有形文化財)が伝えられ、また近くには平清寺住職のものという卵塔一基(宝永六年寂)も有り、この地が平清寺址であることを色濃く物語っています。小筥根山新光寺の塔頭はたくさんあったと「小筥根山縁起并序」は伝えますが、その所在地が推測されるのは廃平清寺のみとなっています。桑原の昔を知る貴重な旧跡の一つと言えるでしよう。安政四年(一八五七)八月ニ十四日唯念行者の名号塔を小筥根山平清寺の前へ建立し、唯念行者が来て開眼供養をしたと森年代記は伝える。その後長源寺境内に立つが、平成二十八年六月にこの地に建立されました。 平成ニ十八年六月吉日 桑原区史跡保存委員会」 「伝平清寺址」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.26
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「薬師如来坐像」の後ろに「十二神将立像」が並んでいた。 「十二神将立像」と「薬師如来坐像」。いただいた「パンフレット」の「十二神将立像」の写真。 十二神将立像 静岡県指定有形文化財本体像髙 91.5cm~105.4cm本尊薬師如来像に随侍していた十二神将立像。当初は鎌倉時代初期にに制作されましたが、時代の変遷とともに傷んだり壊れたりした時に造り直しているため、鎌倉時代初期から江戸時代初期まで、制作年代の異なる像で構成されています。近年の解体修理によって、表面に塗られた後世の厚い彩色が除去され、本来の像容や構造がよく分かるようになりました。いずれの像もヒノキ材の一木割矧造(未神将像のみ内刳りを施さない)、玉眼が嵌入されています。像高は1メートル前後と大型品で、十二体が揃っていることも貴重です。斜めからの写真。①毘羯羅大将(びからたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・十二神将の中でも武勇を象徴する守護神 ・薬師如来の誓願を守る軍神表情 ・眉を強く寄せた怒りの表情(忿怒相) ・眼は大きく見開き、魔を威嚇する鋭い視線 ・口を引き締めた厳格な武神の顔貌 👉 悪鬼・疫神を威圧するための表情頭部の特徴 ・頭上に獣面(鬼面)状の装飾が載る ・武将の甲冑風の冠飾 ・髪は炎状に立ち上がる表現 👉 武神・守護神としての威力を示す身体・姿勢 ・右腕を強く振り上げる戦闘姿勢 ・左腕を胸前に引き寄せる構え ・腰をひねる躍動的な姿勢 👉 敵に飛びかかる瞬間の動き甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風の装束 ・胴には装飾文様が彫刻される ・腰から長い天衣(布)が左右に翻る 👉 戦闘の動きを強調する造形足元 ・岩座(いわざ)風の台座 ・一歩踏み出す姿 👉 邪悪な存在を踏み鎮める象徴十二支 ・亥(い)方角 ・北北西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を討つ武神造形の見どころ(この像の特徴) ・躍動感のある腰のひねり ・鎧の細かい彫刻 ・武神像らしい力強い体躯 ・翻る衣の動き 👉 平安彫刻に特徴的な武神表現②招杜羅大将(しょうとらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る武神(軍神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護神で、それぞれが七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を大きく吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・目を見開き、強い威圧感を持つ表情 ・口を固く結び、悪鬼を威嚇する武神の顔貌 👉 病魔・邪鬼を退散させるための表情頭部の特徴 ・頭頂に炎状に立ち上がる髪(火焔形の髻) ・その上に十二支を表す小動物像頭上の動物 ・犬(戌) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 戌神将 を表す。身体・姿勢 ・右手に武器(棍棒状の武具)を掲げる姿 ・左手を腰に当てた威圧的な立ち姿 ・上半身をやや前に出す攻撃的姿勢 👉 敵を討つ直前の構え武器 ・棍棒(こんぼう)状の武器 ・邪鬼を打ち砕く象徴的武具甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風装束 ・胸甲には文様装飾が施される ・腰からは翻る布(天衣) 👉 動きを強調する表現足元 ・岩座(いわざ)状の台座 ・片足を踏み出す姿勢 👉 邪悪な存在を踏み鎮める象徴十二支 ・戌(いぬ)方角 ・西北西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ武神この像の造形的見どころ ・腰に手を当てた堂々とした武将姿 ・強く踏み出す脚の安定した重心 ・武器を掲げる力強い腕の動き ・頭上の十二支像(犬)👉 武神像としての威厳と迫力が強調されている。③真達羅大将(しんだらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守護する武神(護法神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護神で、各神将が七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・大きく見開かれた鋭い目 ・引き締まった口元 👉 魔物や疫神を威嚇する武神の厳しい表情頭部の特徴 ・頭頂に小さな十二支の動物像頭上の動物 ・鶏(酉) 👉 十二神将は十二支を象徴するため この像は 酉神将 を表す。身体・姿勢 ・右腕を大きく振り上げる動作 ・左手を腰に当てた姿勢 ・左足を高く上げた躍動的な踏み込み姿 👉 戦闘中の一瞬を捉えたような力強い動き武器 ・振り上げた右手には武器を持っていた可能性が高い (現在は失われていると考えられる) 👉 武神像では槍・剣などが持たれることが多い甲冑・衣装 ・武将のような甲冑姿 ・胸甲には装飾文様 ・腰布や衣が左右に翻る 👉 激しい動きを表す彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出し、敵を踏みつけるような姿 👉 邪鬼降伏を象徴十二支 ・酉(とり)方角 ・西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ軍神この像の造形的見どころ ・左脚を大きく上げた大胆な躍動姿勢 ・腰に手を当てた武将的威厳 ・胸甲の細かな彫刻 ・頭上の十二支(鶏) 👉 十二神将の中でも特に動きの強い像④摩虎羅大将(まこらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の教えを守る武神(護法神) ・十二神将は薬師経に説かれる守護軍で、各神将が七千の眷属を率いるとされる。表情 ・口を大きく開いた激しい忿怒相(ふんぬそう) ・眉を吊り上げた険しい表情 ・魔物を威圧する迫力ある武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を威嚇する怒りの表現頭部の特徴 ・頭上に王冠状の冠飾 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・猿(申) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 申神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を大きく構えた戦闘姿勢 ・右拳を振り上げるような構え ・左腕を胸前に構える 👉 敵に打ちかかる直前の動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある 👉 十二神将像では武器が失われる例も多い甲冑・衣装 ・武将のような甲冑風装束 ・胴部には筋肉を強調した造形 ・腰布や衣が左右に流れる 👉 激しい動きを表す彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・左足を踏み出した前進姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・申(さる)方角 ・西南西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を討つ守護神この像の造形的見どころ ・両腕を大きく構えた格闘的ポーズ ・強く踏み出した脚の安定した重心 ・激しい怒りを表す開口表情 ・頭上の十二支像(猿) 👉 十二神将の中でも戦闘性を強く表現した像三叉戟(さんさげき)を持っていたのであろうと。⑤波夷羅大将(はいらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれる守護軍で、それぞれ七千の眷属を率いるとされる。表情 ・口を大きく開いた忿怒相(ふんぬそう) ・歯を見せた激しい怒りの表情 ・眉を吊り上げた威圧的な顔貌 👉 魔物・疫鬼を威嚇する武神の表情頭部の特徴 ・頭頂部に炎状に立ち上がる髪(火焔形の髻) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・羊(未) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 未神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を前方に構えた格闘的姿勢 ・右手は拳を握り、攻撃の構え ・左手は掌を開き、相手を押さえるような動作 👉 敵に対して身構える瞬間を表す武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には簡潔な装飾 ・両袖の衣が左右に大きく翻る 👉 動きと躍動感を強調する彫刻表現足元 ・岩座(岩形台座) ・両足で踏みしめる安定した姿 👉 邪鬼を鎮める象徴十二支 ・未(ひつじ)方角 ・南南西象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退ける守護神この像の造形的見どころ ・腹部を前に出した力強い体躯 ・大きく開いた口の激しい忿怒表情 ・翻る長い袖の衣表現 ・頭上の十二支像(羊) 👉 十二神将の中でも豪快な動きと怒りを強く表す像⑥因達羅大将(いんだらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、各神将は七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・他の神将に比べてやや穏やかな忿怒相 ・口を閉じた引き締まった表情 ・眼差しは鋭く、威厳ある武神の顔貌 👉 激しい怒りよりも威圧的な威厳を感じさせる表情頭部の特徴 ・頭上に髻(もとどり)状の髪形 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・馬(午) 👉 十二神将は十二支を象徴するため この像は 午神将 を表す。身体・姿勢 ・直立に近い堂々とした立姿 ・右腕を自然に下げる姿勢 ・左手を腰に当てる構え 👉 武将の威厳ある立ち姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腰甲に装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像らしい重厚な装備足元 ・岩座(岩形台座) ・両足で安定して立つ姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・午(うま)方角 ・南象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を鎮める守護神この像の造形的見どころ ・十二神将の中では比較的静かな姿勢 ・武将のような堂々とした体躯 ・細かい甲冑の彫刻 ・頭上の十二支像(馬) 👉 十二神将の中でも威厳を強く感じさせる像⑦珊底羅大将(さんてらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、各神将は七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・眉を吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・目を鋭く見開き、魔物を威圧する表情 ・口を固く結んだ武神らしい厳しい顔貌 👉 邪鬼や疫神を退ける威嚇の表情頭部の特徴 ・頭頂に炎のように立ち上がる髪(火焔形の髻) ・両側に張り出した角状の髪飾り ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・蛇(巳) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 巳神将 を表す。身体・姿勢 ・右手を軽く握り、戦闘の構え ・左手を腰に当てた武将的姿勢 ・上半身をややひねった躍動的立姿 👉 敵に対して身構える瞬間を表現武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 動きを強調する衣の表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏みしめる姿 👉 邪鬼降伏の象徴十二支 ・巳(へび)方角 ・南南東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病の原因となる鬼神を退散させる守護神⑧頞儞羅大将(あにらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・薬師如来の誓願を守る護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれる守護軍で、各神将は七千の眷属を率いるとされる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・口を引き結んだ厳しい表情 ・強い意思を感じさせる武神の威厳ある顔貌 👉 邪鬼や疫神を威圧する守護神の表情頭部の特徴 ・頭頂に髻(もとどり)状に立つ髪形 ・その上に十二支を象徴する小動物頭上の動物 ・龍(辰) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 辰神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を胸前で交差させた独特の構え ・右手を下方に差し出す動作 ・左脚を踏み出した力強い立姿 👉 敵を制する瞬間を思わせる動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には唐草風装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 動きを強調する衣表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出した姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・辰(たつ)方角 ・東南東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を討つ守護神⑨安底羅大将(あんてらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・『薬師経』では十二神将がそれぞれ七千の眷属を率い、薬師如来の誓願を守護すると 説かれる。表情 ・眉を強く寄せた忿怒相(ふんぬそう) ・口を開き歯を見せる威嚇の表情 ・目を大きく見開いた迫力ある武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を退散させるための威圧的な表情頭部の特徴 ・武将のような兜状の冠を着けた姿 ・頭頂部に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・兎(卯) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 卯神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を前方に構えた戦闘姿勢 ・右手は拳を握り攻撃の構え ・左手も前方に出し敵を制する姿 👉 敵と対峙する瞬間の姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に簡潔な装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像としての重厚な装備足元 ・岩座(岩形台座) ・両足を踏みしめた安定した姿勢 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・卯(うさぎ)方角 ・東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神⑩迷企羅大将(めきらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、それぞれが七千の眷属を率いる守護軍とされる。表情 ・眉を吊り上げた忿怒相(ふんぬそう) ・口を大きく開き歯を見せる威嚇の表情 ・魔物を退ける迫力ある武神の顔貌👉 邪鬼や疫神を威圧する守護神の表情頭部の特徴 ・武将のような兜状の冠を着けた姿 ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・虎(寅) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 寅神将 を表す。身体・姿勢 ・右手を胸前に当てる構え ・左腕を下げた安定した姿勢 ・左脚を前に出した堂々とした立姿 👉 武将のような落ち着いた構え武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に装飾文様 ・腰から長く垂れる布(天衣) 👉 武神像としての重厚な装束足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏み出した姿勢👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・寅(とら)方角 ・東北東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神⑪伐折羅大将(ばさらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・仏法を守護する護法武神 ・十二神将は『薬師経』に説かれ、それぞれが七千の眷属を率いる守護軍とされる。 ※「伐折羅」はサンスクリット語 Vajra(ヴァジュラ) に由来し、 金剛・雷霆の力を象徴する武神名である。表情 ・眉を強く吊り上げた激しい忿怒相(ふんぬそう) ・鋭く見開かれた目 ・口を固く結んだ威圧的な武神の顔貌 👉 邪鬼や疫神を威嚇する守護神の表情頭部の特徴 ・頭上に火焔状に立ち上がる髪(火焔髻) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・牛(丑) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴し この像は 丑神将 を表す。身体・姿勢 ・右腕を高く振り上げた攻撃的姿勢 ・左手を腰に当てる武将的構え ・体をひねった躍動的な立姿 👉 敵を討とうとする瞬間の動き武器 ・現在は武器を持たない姿 ・もとは武器を持っていた可能性が高い (伐折羅の名から金剛杵などを持つ場合が多い)甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲には簡潔な装飾文様 ・腰から翻る布(天衣) 👉 武神としての動きを強調する造形足元 ・岩座(岩形台座) ・片足を踏み出した姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・丑(うし)方角 ・北北東象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を打ち破る守護神⑫宮毘羅大将(くびらたいしょう)基本位置づけ ・薬師如来を守護する十二神将の一尊 ・十二神将の中でも先頭に立つ守護武神とされることが多い。 ・『薬師経』では十二神将がそれぞれ七千の眷属を率い、薬師如来の誓願を守護すると説かれる。表情 ・口を固く結んだ威厳ある忿怒相 ・眉を寄せた鋭い眼差し ・激しい怒りというより静かな威圧感を持つ武神の顔貌 👉 敵を威圧し退散させる守護神の表情頭部の特徴 ・頭上に立ち上がる髪(火焔状の髻) ・両側に張り出した耳状の装飾(または髪飾り) ・その上に十二支を象徴する小動物像頭上の動物 ・鼠(子) 👉 十二神将はそれぞれ十二支を象徴するため この像は 子神将 を表す。身体・姿勢 ・両腕を左右に構えた力強い姿勢 ・腰に力を入れた武将的構え ・左脚をやや踏み出した安定した立姿 👉 敵と対峙する瞬間の姿武器 ・現在は武器を持たない姿 ・本来は武器を持っていた可能性がある甲冑・衣装 ・武将風の甲冑装束 ・胸甲・腹甲に装飾文様 ・袖の大きく翻る衣 👉 武神像らしい動きを表す衣表現足元 ・岩座(岩形台座) ・足を踏みしめた姿 👉 邪鬼を踏み鎮める象徴十二支 ・子(ね)方角 ・北象徴する役割 ・疫病退散 ・邪鬼降伏 ・仏法守護 薬師信仰では 👉 病をもたらす鬼神を退散させる守護神十二神将は本来・剣・槍・斧・戟など様々な武器を持ちます。しかし多くの像では武器が失われています。そのため美術館では👉 武器の例として展示したこともあったとのこと。①毘羯羅大将(びからたいしょう)の頭部・両側に張り出す翼状の髪・上に乗る動物 という特徴。頭頂の小像は・丸い体・前方に短い口・小さな耳👉 猪(いのしし)③真達羅大将(しんだらたいしょう)の頭部。頭上の動物頭頂部の小像を見ると・細い首・小さな頭・上に立つ冠状の部分これは👉 鶏(酉)⑦珊底羅大将(さんてらたいしょう)の頭部・頭上を見ると・長くうねる形・とぐろ状の曲線細長い頭部これは👉 蛇(巳)⑩迷企羅大将(めきらたいしょう)の頭部。兜状の冠最大の特徴は武将の兜のような冠。迷企羅大将は十二神将の中でも兜を着けた武将型の表現で軍神的な姿になることが多い。この像も鉢金状の兜上に十二支像という構造。頭頂部を見ると ・耳が立つ ・小型の四足動物 👉 虎(寅)十二神将「頭部識別表」と「薬師如来を中心とした十二神将の円形配置図」 (頭上の十二支像と頭部造形から識別する一覧)十二支 神将名 頭上の動物 頭部・髪型の特徴 表情の傾向 子 宮毘羅大将 鼠 兜状の冠、丸い小動物威 厳ある忿怒 丑 伐折羅大将 牛 火焔状の髪、角のような張り出し 激しい忿怒 寅 迷企羅大将 虎 武将兜型の頭部 戦闘的表情 卯 安底羅大将 兎 兜状頭部、小型動物 強い忿怒 辰 頞儞羅大将 龍 髻状の頭頂装飾 威厳型 巳 珊底羅大将 蛇 炎状の髪+蛇が巻く 強い忿怒 午 因達羅大将 馬 武将兜、穏やかな髪型 威厳型 未 波夷羅大将 羊 炎状の髪、小型動物 忿怒相 申 摩虎羅大将 猿 丸顔動物、髪が大きく張る 忿怒 酉 真達羅大将 鶏 冠状装飾+鶏 忿怒 戌 招杜羅大将 犬 火焔状髪+犬 強い忿怒 亥 毘羯羅大将 猪 丸い体の動物、張る髪 吽形が多い「その他の所蔵品」聖観音像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代聖観音とは聖観音(しょうかんのん)は観音菩薩の基本形(原初形)であり、多くの変化観音の原型となる存在です。観音菩薩の役割 ・人々の苦しみを救う ・慈悲を象徴する菩薩造形の特徴① 端正な顔立ち ・穏やかな表情 ・細く切れ長の目 ・優しい微笑 👉 平安仏の典型的な静かな慈悲の表情② 宝冠(ほうかん)頭部には菩薩の宝冠が付く。観音像では通常、中央に阿弥陀仏の化仏が表される。③ 印相(手の形)右手 ・施無畏印(せむいいん)意味 👉 「恐れることはない」左手 ・与願印(よがんいん)意味 👉 「願いをかなえる」姿勢 ・直立する安定した姿 ・両足を揃えた立像 ・細身で流れるような体 👉 平安仏特有の 優雅な均衡美衣文(衣の表現)衣の線は ・細く ・流れるように ・簡潔 👉 平安仏の特徴である 穏やかな衣文表現台座 ・蓮華座(れんげざ)意味 蓮は ・清浄 ・仏の世界 を象徴する。仏像史的特徴この像は ・平安後期の作風 ・穏やかな表情 ・細身の体形を持つ。これは定朝様式の影響 を感じさせる造形。地蔵菩薩像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代地蔵菩薩とは地蔵菩薩は ・六道の衆生を救う菩薩 ・特に ・子供 ・旅人 ・死者を守る仏として信仰されます。名前の意味 地蔵 = 大地のようにすべてを包み支える存在造形の特徴① 僧形(そうぎょう) 地蔵菩薩は観音菩薩などと違い ・宝冠をつけない ・僧侶の姿になります。この像も ・剃髪頭 ・僧衣という特徴を持ちます。② 印相(手の形)右手 ・施無畏印(せむいいん)意味 👉 「恐れることはない」左手 ・宝珠(ほうじゅ)を持つ形宝珠の意味 👉 願いをかなえる智慧の象徴 (この像では宝珠は失われている可能性)姿勢 ・直立する安定した姿 ・両足をそろえる ・重心の安定 👉 平安仏の特徴である 静かな安定感衣文(衣の表現)衣の線は ・細く流れる ・自然な曲線 👉 平安時代の柔らかい衣文表現台座 ・蓮華座(れんげざ)蓮の意味 ・汚れた泥の中から咲く清浄な花 ・仏の世界仏像史的特徴この像は ・細身の体 ・穏やかな表情 ・簡潔な衣文などから👉 平安後期の様式と考えられます。定朝様式の影響を受けた落ち着いた仏像表現。不動明王像南町指定有形文化財木造/室町時代以降不動明王とは不動明王は ・大日如来の化身 ・真言密教の守護尊役割 ・煩悩を断つ ・悪魔を降伏させる ・修行者を守護する名前の意味 不動 = 動じない悟りの心造形の特徴① 忿怒相(ふんぬそう) ・眉を吊り上げる ・厳しい表情 ・怒りの顔 👉 煩悩を断ち切る力を象徴② 持物右手宝剣(ほうけん)意味 ・煩悩を断つ智慧の剣左手羂索(けんさく)意味 ・悪人を縛り救済する縄姿勢 ・左脚を前に踏み出す ・力強い立姿 👉 修行者を守る守護者の姿火焔光背背後には火焔(かえん)光背があります。意味 ・煩悩を焼き尽くす智慧の炎この像では ・赤く大きく広がる炎 ・強い躍動感が特徴です。髪型不動明王の典型弁髪(べんぱつ) ・左側に垂れる髪 👉 インドの修行者の姿足元 ・岩座意味 👉 動かない悟り(不動)仏像史的特徴この像は ・やや写実的な体形 ・力強い火焔 ・動きのある姿などから👉 室町時代以降の作風 と考えられます。毘沙門天像静岡県指定有形文化財 木造/平安時代毘沙門天とは毘沙門天は ・四天王の一尊(多聞天) ・北方を守護する神役割 ・仏法を守護する ・財宝を司る ・戦勝の神日本では👉 武士からの信仰が非常に強い仏 として知られます。造形の特徴① 武神の姿この像は ・兜を着ける ・鎧を着る ・武人の姿 で表されます。これは👉 仏法を守る守護神 を意味します。② 踏みつける邪鬼足元にいるのは邪鬼(じゃき)意味 ・煩悩 ・悪👉 仏の力が悪を制圧している象徴。③ 腰の構え ・右手を上げる ・左手を腰に当てるこれは👉 武神の威圧的な姿勢 を示しています。本来の持物毘沙門天の典型は右手 ・宝棒(ほうぼう)左手 ・宝塔(ほうとう)宝塔の意味👉 仏の財宝(仏法)表情この像は ・厳しい顔 ・眉を寄せる ・強い目👉 武神としての威厳 を表しています。平安時代の特徴この像は ・比較的静かな姿勢 ・装飾は控えめ ・顔が穏やかなどから👉 平安仏の武神像 と考えられます。空海上人像函南町指定有形文化財 木造/江戸時代以降空海とは空海(774–835)は ・真言宗の開祖密教を日本に伝えた僧代表的な功績 ・高野山開創 ・東寺の密教道場 ・書家(日本三筆)宗教的には👉 弘法大師(こうぼうだいし) という尊称で呼ばれます。造形の特徴① 僧形の姿空海像は ・剃髪頭 ・僧衣という姿で表されます。この像も👉 修行僧の姿 です。② 坐像この像は坐像であり ・膝を折る ・静かに座る👉 瞑想・説法の姿 を示します。③ 手の形両手は ・胸の前に置く ・衣を持つ形これは👉 祈念・説法姿 に近い表現です。表情顔の特徴 ・穏やかな眼 ・静かな口元 ・落ち着いた顔👉 高僧の精神性 を表しています。江戸時代の特徴この像には江戸彫刻の特徴があります。 ・写実的な顔 ・丸い顔立ち ・彩色の痕跡江戸時代には弘法大師信仰が非常に広まりました。弘法大師信仰江戸時代には ・四国八十八ヶ所巡礼 ・大師講などが全国に広まりました。そのため👉 弘法大師像が多く作られました。経巻(きょうかん)上人像南町指定有形文化財 木造/江戸時代以降経巻上人とは「経巻上人」という名称は、特定の有名僧を指す場合もありますが、多くの場合は ・経典を書写する僧 ・経典を守護する僧 ・寺院の学僧などを象徴的に表す呼称です。つまり👉 経典を守り伝える僧を意味します。造形の特徴① 坐像(ざぞう)像は ・床に座る姿 ・安定した姿勢これは👉 読経・説法の姿 を示します。② 経巻像の前には巻物状の経典が置かれています。意味 ・仏の教え ・仏法の伝承③ 僧形特徴 ・剃髪 ・僧衣 ・袈裟👉 僧侶の正式な姿表情顔の特徴 ・年齢を感じさせる顔 ・穏やかな眼少し口を開く👉 説法する僧の姿 を表しています。彩色衣には ・赤 ・青 ・白の彩色が残っています。江戸時代の仏像は👉 彩色が比較的豊か です。台座台座の前面には唐草文様の金具 が付いています。これは ・江戸時代の仏像台座 ・寺院家具風の装飾の特徴です。仏像としての位置この像は仏(如来)、菩薩、明王、天部とは異なり👉 祖師像・僧像 です。つまり実在の僧侶を表す像 になります。「仏像展示室」を出て、記念スタンプをもらう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.25
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そして、「資料展示室」を後にして「仏像展示室」に移動して、仏像を鑑賞する。以下の写真もパンフレット&ネットから。「かんなみ仏の里美術館」のこの「仏像展示室」には、薬師如来坐像をはじめ、阿弥陀三尊像、十二神将像など計24体の仏像群が展示されていた。 まずは、■像の名称 ・薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう) 「 かんなみ仏の里美術館」の代表的な仏像の一つで、静岡県指定有形文化財。■時代 ・制作時期は、作風からみて平安時代中期、11世紀半ばごろと推定されています。■材質と造り ・榧(かや)材を用いた、一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)。 ・これは大きな木から像の主要部を彫り出し、内部を割って刳り、再びはぎ合わせる技法で、 平安期の木彫仏に多く見られる。■大きさ ・像高110.0センチメートル。実物は、写真で見る以上に量感があり、正面性の強い 落ち着いた存在感をもっていた。 ・写真の奥に並んでいるのは十二神将 ・役割:薬師如来の護衛、病魔の退散、信者の守護つまりこの展示は薬師如来+十二神将という薬師浄土の完全な守護体系になっていた。■この仏さまは何を司るのか ・薬師如来は、一般に病気平癒・身体健全・苦しみの除去を願う仏として信仰された。 ・「医王如来」とも呼ばれ、人々の心身の苦しみを癒やす存在として親しまれて来た。 ・この像も、もともと地域の人々に「お薬師さん」として大切に守られて来た。■もともとの安置場所 ・この像は、函南町桑原の桑原薬師堂に伝わってきた仏像群の中心的存在。 ・現在は保存と公開のためこの美術館に移されているが、もとは地域の堂で信仰されていた、 生活に近い仏さまでしあった。■顔立ちの特徴 ・公式解説では、「円満な顔立ち」がこの像の年代を考える手がかりの一つとされている。 ・実際に写真でも、厳しさ一辺倒ではなく、静かで包み込むような表情が感じられる。 ・眉・目・口の表現は強すぎず、全体として穏やかで端正。■体つきの特徴 ・解説では、「堂々としながらも丸みを帯びた体つき」と。 ・胸や腹部にはしっかりした厚みがあり、ただ痩せた禁欲的な仏ではなく、内に充実し 力をたたえた像として表されている。■衣の表現(衣文) ・衣のひだは、細密に彫り込みすぎず、簡略ながらよくまとまった衣文表現と 説明されていた。 ・写真でも、胸から腹、脚へ流れる線がすっきりしており、装飾性よりも像全体の安定感を 大切にした作りに見えた。■迫力の理由 ・公式には、顔面の彫りの鋭さ、衣文の簡潔さ、胸腹部の厚みが、この像に迫力を 与えていると説明されている。 ・つまりこの像の魅力は、豪華さではなく、簡潔なのに強いという点にある。■手のかたち ・右手を上げ、左手を膝の上に置き薬壺(やっこ)を持つ。 ・薬師如来像の本来の形・薬壺を持つ表現がみられ、この像は現在の姿として、 静かに衆生に向き合う落ち着いた印象を与えていた。■この像の美術史的なおもしろさ ・平安中期の仏像らしく、後の時代の写実性よりも、正面性・安定感・精神性が 重視されている。 ・そのため、横や斜めからの動きより、正面から拝したときの荘厳さが際立つタイプの 仏像といえます。 ・これは、公式解説にある「堂々」「円満」「迫力」という評価からもうかがえる。■信仰史の面で大切な点 ・桑原の仏像群は、明治の廃仏毀釈の時期にも、地域の人々によって別の寺へ移される などして守られて来た。 ・その後、新たに建てられた桑原薬師堂に納められ👈️リンク、今日まで伝えられています。 ・この薬師如来坐像は、単なる古美術品ではなく、地域住民の信仰と保護の歴史そのものを 背負う像。■ 左手の薬壺(やっこ) ・左手の掌の上に、丸い蓋付きの小さな壺を載せている。 ・これは薬師如来を示す最大の特徴で、万病を治す霊薬を象徴。 ・薬壺は ・病気 ・苦しみ ・煩悩 を治す「仏の医薬」を意味する。 ・このため薬師如来は医王如来(いおうにょらい)とも呼ばれる。■右手の印相(施無畏印) ・右手を胸の前で上げ、掌を正面に向けています。 ・これは施無畏印(せむいいん) ・意味 ・「恐れることはない」 ・「安心しなさい」 ・病や死への恐怖から人々を救う姿。■ 平安仏の特徴(体つき) ・胸と腹に厚みのある量感 ・肩幅が広く堂々とした姿 ・膝の張りが大きい → 平安中期仏像の特徴■ 顔の特徴(定朝様以前の古様) ・丸く豊かな顔 ・半眼の静かな表情 ・厚い唇 ・どっしりした頬 ・→ 威厳と慈悲を兼ねた表情■ 衣の表現(衣文) ・胸から腹へ流れるなめらかな衣文線 ・膝前の衣が波状に整然と並ぶ ・線は細かすぎず大きく整理されている ・→ 平安彫刻らしい安定したリズム■薬師如来の信仰薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏であり主な功徳 ・病気平癒 ・延命長寿 ・災厄除け ・現世利益特に日本では疫病除けの仏として広く信仰された。正面と横から比較できる合成写真をネットから。■印相(最重要) この像の印相は来迎印(らいごういん)。 ・右手:胸前に上げる ・左手:膝の前で掌を上に これは極楽浄土から衆生を迎えに来る姿を表す印。 阿弥陀像では典型的な表現で、「迎えに来る仏」を象徴します。■正面観の特徴 正面から見ると ・頬が張った顔 ・強い眼差し ・胸の厚い体 が目立ちます。 これは鎌倉初期の慶派仏像の特徴。 この三尊像は奈良仏師 実慶(じっけい)の作とされ、 慶派の力強い写実表現がよく現れています。■横顔の特徴(この写真の見どころ) 横から見ると、非常に重要な特徴が分かる。 ① 顎の張り ・顎が前に出る ・口角が引き締まる 👉 慶派の写実性 ② 鼻筋 ・鼻梁が高く直線的 👉 鎌倉彫刻の特徴 ③ 目の形 ・切れ長の眼 ・強い視線 👉 運慶系の表情 ④胸の造形 横から見ると胸のふくらみが大きい これは、生命感を強く表す慶派の造形。 平安仏は ・平面的 ・静的 ですが 鎌倉仏は ・立体的 ・力強い のが特徴。 ⑤衣の流れ 右肩から流れる衣文は ・太く深い彫り ・大きな曲線 慶派彫刻は布の重量感を表現していた。 ⑥地髪(螺髪) 頭の螺髪は ・ふくらみが強い ・大粒 これも鎌倉彫刻の特徴です。 ⑦体型 体型は ・やや細身 ・胴が締まる これは慶派の中でも運慶の作風に近いと指摘されている。 ⑧制作年代 この三尊像の制作は12世紀末〜13世紀初頭と考えられています。 つまり 鎌倉彫刻の初期名品です。 ⑨この像の大きな魅力 この阿弥陀像の魅力は 正面と横顔の両方が美しいこと。 平安仏は「正面鑑賞」ですが 慶派仏は三次元彫刻なのです。 ⑩見方のコツ 美術館で見るときは ・ 横顔 ・顎 ・胸の厚み ・衣の流れ を見ると慶派彫刻の凄さが分かるのだ と。「阿弥陀如来及両脇侍像」国指定重要文化財。■ 像の構成 ・中央 阿弥陀如来坐像 ・向かって右 観音菩薩立像 ・向かって左 勢至菩薩立像 この三体で阿弥陀三尊(あみださんぞん)を構成。■ 阿弥陀如来とは ・西方極楽浄土の教主 ・名号「南無阿弥陀仏」を唱える者を救う仏 ・死後に極楽浄土へ導く 日本では平安時代以降に最も信仰された仏。■ 阿弥陀如来坐像の特徴 印相 ・両手で来迎印(らいごういん) ・極楽から迎えに来る姿 表情 ・静かで慈悲深い半眼 ・やや面長の穏やかな顔 体つき ・胸が厚く安定した量感 ・正面性が強い■蓮華座(れんげざ) ・阿弥陀は大きな蓮華座に坐る ・蓮は仏教で 清浄・悟りを象徴 泥の中から咲く花であるため煩悩の世界から悟りが生まれる意味を持つ。■ 観音菩薩(向かって右) 役割 ・阿弥陀の慈悲を表す菩薩 特徴 ・穏やかな立像 ・宝冠を戴く ・優しい表情 阿弥陀が救う人を慈悲で導く役目■ 勢至菩薩(向かって左) 役割 ・阿弥陀の智慧を象徴 特徴 ・宝冠を戴く ・落ち着いた立像 観音が慈悲なら勢至は智慧■ 阿弥陀三尊の意味 三体はそれぞれ 仏 象徴 阿弥陀如来 救済の主体 観音菩薩 慈悲 勢至菩薩 智慧つまり慈悲と智慧による救いを表す。■銘:中尊像の首柄内面に「大仏師実慶」、両脇侍像(観音菩薩・勢至菩薩)の頭部内面に 「仏師実慶」。■ 来迎思想 阿弥陀信仰の特徴は 来迎(らいごう) 死の瞬間に阿弥陀と菩薩が現れ 信者を極楽浄土へ迎えに来る という思想。 この三尊像はその世界観を示している。■制作時代の特徴(平安彫刻) ・この像の特徴安定した姿勢 ・なめらかな衣文 ・穏やかな顔 ・正面性の強い構成 これは平安仏像の典型的様式です。■もとの安置場所 この三尊像は 函南町 桑原薬師堂👈️リンク に伝来した仏像群の一部です。 周囲には ・薬師如来 ・十二神将 などがあり地域の仏教信仰の中心であった。■美術史的な価値 この三尊像は ・保存状態が良い ・三尊が揃って伝わる ・平安仏の様式が明確 なため 国指定重要文化財になっています。■鑑賞ポイント 見るときは ① 阿弥陀の穏やかな顔 ② 大きな蓮華座 ③ 両脇侍の静かな立ち姿 ④ 三体の左右対称のバランス を観察すると平安仏像の美しさがよく分かります と。(左)阿弥陀如来及両脇侍像(重要文化財)、(右)薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財)パンフレットから。阿弥陀如来の印相■ 印相名 来迎印(らいごういん) より正確には上品下生印(じょうぼんげしょういん)と考えられます。 手の形 右手 ・胸の前で上げる ・親指と中指で輪を作る 👉 来迎印の上手 左手 ・膝の前で掌を上に向ける ・親指と人差し指で輪を作る 👉 来迎印の下手 来迎印の意味 来迎とは「迎えに来る」という意味。 つまりこの印相は阿弥陀如来が極楽浄土から人を迎えに来る姿を表しています。 九品来迎との関係 浄土教では極楽往生は九つの段階(九品)に分けられます。 階級 意味 上品 高い徳の人 中品 普通の修行者 下品 罪深い人でも救われるその中の上品下生という段階を表す印相です。「桑原薬師堂(くわはらやくしどう)」。静岡県田方郡函南町桑原592静岡県田方郡函南町原にある、山号を「深谷山」と称する、1504年創建の曹洞宗寺院である「長源寺」の裏山にある薬師堂。「かんなみ仏の里美術館」が出来るまで、鎌角時代の実慶作とされる、国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像(正式には時代が異なるため、阿弥陀如来像と両脇侍像)をはじめ、静岡県指定有形文化財の薬師如来坐像や十ニ神将立像など、24体の貴重な仏像たちが安置されていたお堂。長い間地元の人々の手により大切に守られてきたが、2008年に町に寄贈されたのを機に、現在は2012年4月にオープンした「かんなみ仏の里美術館」に移されており、堂内には無い。在りし日の「桑原薬師堂」内。在りし日の「桑原薬師堂」内の正面に「薬師如来坐像」。 手前の日光菩薩像、月光菩薩像は現在でも「桑原薬師堂」に安置されているのであろうか? 在りし日の「桑原薬師堂」内の「阿弥陀三尊像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.24
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そして「御殿場JCT」から新東名高速道路に入り、「長泉沼津IC」から「東駿河湾環状道路」で「大場・函南IC」まで進み、「県道141号線・清水函南停車場線」にて東に進む。 そしてこの日の最初の訪問地「かんなみ仏の里美術館」に到着。 「函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守られてきました。これら仏像群の散逸を防ぎ、後世に保存継承していくための施設として、明治30年代後半に桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が、桑原区から函南町に寄付されました。寄付された仏像群には、国指定重要文化財の阿弥陀如来及両脇侍像(略称・阿弥陀三尊像)の他に、静岡県指定有形文化財(薬師如来坐像、毘沙門天立像、聖観音立像、地蔵菩薩立像、十二神将立像)があり、その中にも全国的に貴重な文化財が含まれています。町民の財産である貴重な文化財を、後世に保存継承するとともに、多くの方々が鑑賞し、学ぶことができる施設として「かんなみ仏の里美術館」が設置されました。里人の心に守られてきた仏像群が、皆さまのご来場をお待ちしています。」とHPから。平成24年4月14日に開館した「かんなみ仏の里美術館」全景。四角錐の特徴ある屋根が美しいのであった。「函南町 仏の里 桑原」案内図。『 里人の厚い信仰が守った、文化財の数々 』廃仏毀釈の嵐に遭遇したのは、函南の寺や仏たちだけではなかったが、当地も御多分に漏れなかった。厚き信仰の里人たちは、寺は隠せないが、せめて仏像だけでもと隠し持つ努力を惜しまなかった。日本全土に根付いた仏教の力は、政治家たちが思うほどひ弱な信仰精神ではなかった一時期、寺から避難させられた仏たちも、後に陽の目を見て人前に出る事が出来るようになった函南の仏たちも手厚く扱われ、「かんなみ仏の里美術館」に収められ、人々の目を楽しませている。』とネットから。「かんなみ 仏の里美術館 周辺案内図」。 「現在の函南町桑原を含む北東部一円は小筥根(こはこね)と呼ばれ、平安時代に筥根権現(箱根、函根)の神領となり、天平宝字元年(757)に筥根権現を開いた萬巻上人の菩提寺・小筥根山新光寺(廃寺)があった。上人が死去した後に、弟子たちが上人の愛した桑原の地(小筥根)に七堂伽藍の大寺を建てたものである。駒ケ岳山頂の元宮から万巻上人が芦ノ湖湖畔に現在の箱根神社の場所に箱根三所権現と金剛王院東福寺を創建したとは言え、標高が高く芦ノ湖から吹きすさぶ寒気も厳しく、冬場では氷点下となり厳しい修行環境だったに違いない。万巻上人は山岳宗教を信奉する修験者団体の取りまとめ役として朝廷から箱根山へ派遣され、自らも厳しい神仏混淆の荒修行を重ねていたものの、歳を重ねるごとに弟子たちの勧めもあり、厳寒の箱根山芦ノ湖畔に比し、箱根の南の低地に位置する小筥根(函南桑原)は数段暖かい(年間平均気温16℃内外)、箱根権現の神領であった同里山へ足を運ぶことが多くなったと思われる緑濃い里山に囲まれ、来光川の流れ下る谷間に茅葺の農家が散在し、村々の老若男女とも顔馴染みとなった万巻上人は次第に閑静な当地へ通うことが多くなって行き、時には赤子を背負う母子の姿を観じて、上人が青年期に離別した母親を思慕したかも知れない。荒ぶる山岳修行の末の開眼、山岳霊峰には不可能な田畑を耕し、土に足が付いた暮らしの奥深さ、万巻上人が最後に見つめた小筥根の里山の平和な姿だったかも知れない。弟子たちも上人が小筥根を深く愛されていることを熟知しており、当時としては驚異的年齢の97才で大往生した上人の心情をおもんばかり、桑原の地に七堂伽藍の大寺を建立し、その後都の一流仏師に仏像を作らせ万巻上人の弟子たちにより永く供養が続けられた。数多くの修験者達の参拝もうでも当然あった筈だ廃寺となった理由や時期は明らかでは無いが、仏像の状態が比較的良好であることから、火災や地震による本堂大倒壊では無く、老朽化や政治的変遷等により廃寺を余儀なくされたと思われる。長源寺裏手にある薬師堂(桑原地区の住民が維持管理して来た)の入口から来光川沿いに北西300mほど離れた水田の中に礎石が残されている。いずれにせよ、万巻上人が生前小筥根を愛したように地元住人も上人への尊崇と崇愛の念が強く、新光寺の廃寺後、誰とも無しに無為自然に仏像の安置維持管理と奉仕に努めて来たのである。南東約300mにある長源寺裏手に位置する桑原薬師堂の中に仏像を安置し、戦火など万難を乗り越え仏像群(全24体)を無事に守り抜いて来た桑原地区の住人の強い信仰心に敬意を抱かざるを得ない。そのおかげで戦後には仏像は県重要文化財などの遺産登録がなされ、2012年4月には「かんなみ仏の里美術館」が落成、万巻上人没後、実に約1200年ならんとする前に新光寺の仏像は国宝として国民の委託に応えるべく保存に相応しい安置場所へお戻りになったのである。これまでの桑原の先人達の御苦労に頭を下げたい。おそらく今後新しく創設された「かんなみ仏の里美術館」に人々の注目の的が集まると予測されるが、私は全く違った切り口により、更に函南桑原の歴史を追及したいと考えている。」とネットから。 入口・庭 案内。バスを振り返って。かんなみ仏の里美術館入口に向かって進む。葉が完全に落ちたもみじの樹。もみじ(カエデ)の種は「翼果(よくか)」と呼ばれ、2枚の羽を持ったプロペラのような形をしています。初夏に成長し、茶色く乾いて枝から落ちる際、くるくると回転して滞空時間を延ばし、風に乗って遠くへ飛ぶことで子孫を広げる仕組みです。この仕組みは自然界の小さなヘリコプターとも言えるのだ。小さなヘリコプターをズームして。さらにズームした画像をネットから。ここが「かんなみ仏の里美術館」の入口。「かんなみ仏の里美術館」 「フロアマップ」。 まずは、「資料展示室」に案内される。 「資料展示室」への通路にも様々な展示、関連本が。「かんなみ仏の里美術館で、図書の出張展示「出張図書館in仏の里」を開催します。町立図書館の蔵書の中から、美術館で読んでほしい、手に取ってほしい本を選んで展示します。普段は図書館へ行かない人も、美術館を訪れる機会がない人も、本を片手に美術館で過ごす時間を楽しんでみませんか。図書の展示スペースへの入場は無料です。お気軽にご来館ください。」 と。「かんなみで、逢いましょう」と展示物の十二神将の姿が。そして「資料展示室」の内部に案内される。これから先は、写真撮影禁止とのことであったので、以下の写真はネットから。「当館では二十四体の仏像群を鑑賞していただく仏像展示室とともに、 無料で入場できる資料展示室を設けています。資料展示室では、仏像の種類や役割、その特徴などを学ぶことができる「仏像鑑賞図鑑」を常設展示しています。」 「仏の里美術館の仏像の由来右:「聖観音像」、「地蔵菩薩像」、「不動明王像」、「毘沙門天像」 正面:「阿弥陀如来とそのグループ」 「薬師如来坐像」と「十二神将立像」説明案内。 「阿弥陀如来とそのグループ」(右)。中尊:阿弥陀如来(あみだにょらい) 極楽浄土の教主。人々の死後を救う仏。印相(手の形)は定印(じょういん)や 来迎印(らいごういん)が代表的。左脇侍:観音菩薩(かんのんぼさつ) 阿弥陀如来の「慈悲」を体現し、人々を苦しみから救い出す役割を持つ。右脇侍:勢至菩薩(せいしぼさつ) 阿弥陀如来の「智慧」を体現し、人々を正しい方向へ導く役割を持つ 「阿弥陀如来とそのグループ」(左)。慶派の系図。実慶は、奈良興福寺を本拠とした奈良仏師「慶派」に属した仏師で、建久(1190~1198年)の末頃に桑原の阿弥陀三尊像を、承元四年(1210年)修禅寺大日如来像の造立にたずさわりました。その製作期間から考えると、当時関東に在住し、仏像の需要に応じた活動をしていたと想定されている。「慶派」は、多くの功績を築いた康慶・運慶父子から、一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことからそう呼ばれている。実慶は康慶の弟子で運慶と同年代と推測され、その中でも卓越した技術と力強い作風の「運慶」と絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られている。代表的な慶派の仏像(国宝・重文)ズームして。「阿弥陀如来」、「観音菩薩」、「勢至菩薩」。ズームして。「薬師如来」と「十二神将」。 「仏像の由来・聖観音像、地蔵菩薩像、不動明王像、毘沙門天像、・聖観音菩薩・地蔵菩薩立像、毘沙門天像立像の特徴・経巻上人、空海上人」頂いたパンフレット・表を開いて。「かんなみ仏の里の美術館」 「薬師如来坐像」 「十二神将立像」。十二神将立像は、平安時代末~鎌倉時代初期の仏像群で、薬師如来と薬師三尊を守護する武神として配置されたものです。薬師信仰では、薬師如来が人々の病苦を救う際に、その誓願を守護し悪鬼を退けるのが十二神将。■十二神将立像の位置づけ ・薬師如来の眷属(けんぞく)である守護神。 ・それぞれ 7000の眷属を率いる武将とされる。 ・薬師如来の 十二の大願を守る存在。 ・後世には十二支(干支)と結び付けられ、方位や年を守る神ともされた。 ・甲冑をまとい、武器を持つ姿で表されることが多い。 ・多くの寺院では 薬師如来の周囲を取り囲むように配置される。■十二神将(各神将の説明)を左上から右に順に。◯毘羯羅大将(びから)・怒りの表情を持つ勇猛な守護神。・悪鬼を威嚇し退散させる役割。・十二神将の中でも迫力のある姿が多い。・十二支では 子に配されることが多い。・方位では 北を守護する神将。◯招杜羅大将(しょうとら)・邪悪な鬼神を招き寄せて退治する力を象徴。・戦闘的なポーズで表現されることが多い。・強い守護力を示す武神。・十二支では 丑に配されることが多い。・方位では 北北東(丑の方)を守護。◯真達羅大将(しんだら)・軍の統率を象徴する神将。・堂々とした姿で表される。・敵を威圧する守護神。・十二支では 寅に配されることが多い。・方位では 東北東(寅の方)を守る。◯摩虎羅大将(まこら)・名は「マカラ(海の怪物)」に由来するとされる。・強大な力を象徴する神将。・重厚な武将の姿で表されることが多い。・十二支では 卯に配されることが多い。・方位では 東を守護。◯波夷羅大将(はいら)・邪悪な存在を退ける役目を持つ神将。・躍動的な動きを示す姿で表されることが多い。・戦闘的な表情が特徴。・十二支では 辰に配されることが多い。・方位では 東南東(辰の方)を守る。◯因達羅大将(いんだら)・名はインド神話の神 **インドラ(帝釈天)**に由来。・雷や天の力を象徴する勇猛な神将。・強い攻撃力を示す姿で表される。・十二支では 巳に配されることが多い。・方位では 南南東(巳の方)を守護。◯珊底羅大将(さんてら)・軍勢の秩序を保つ役割を持つ守護神。・威厳ある武人として表現される。・武器を持ち堂々と立つ姿が多い。・十二支では 午に配されることが多い。・方位では南を守る。◯頞儞羅大将(あにら)・風や速さに関係する名を持つ神将。・敵陣へ素早く攻め入る武神。・活動的な姿勢で表されることが多い。・十二支では 未に配されることが多い。・方位では 南南西(未の方)を守護。◯安底羅大将(あんてら)・堅固な防御を象徴する守護神。・戦列を整え軍勢を守る役割。・落ち着いた武将の姿で表されることが多い。・十二支では 申に配されることが多い。・方位では 西南西(申の方)を守る。◯迷企羅大将(めきら)・俊敏で機敏な戦士として表される神将。・敵を追撃する役割を持つとされる。・強い守護力を象徴。・十二支では 酉に配されることが多い。・方位では 西を守護。◯伐折羅大将(ばさら)・名はサンスクリットの「ヴァジュラ(雷・金剛)」に由来。・金剛杵などの武器を持つ勇猛な守護神。・邪悪なものを打ち砕く象徴。・十二支では 戌に配されることが多い。・方位では 西北西(戌の方)を守る。◯宮毘羅大将(くびら)・十二神将の筆頭格とされることが多い。・軍勢を率いる将軍的存在。・病魔や悪鬼を打ち払う力を象徴する。・十二支では 亥(い)に配されることが多い。・方位では 北北西(亥の方)を守護。十二神将立像 静岡県指定有形文化財本体像髙 91.5cm~105.4cm本尊薬師如来像に随侍していた十二神将立像。当初は鎌倉時代初期にに制作されましたが、時代の変遷とともに傷んだり壊れたりした時に造り直しているため、鎌倉時代初期から江戸時代初期まで、制作年代の異なる像で構成されています。近年の解体修理によって、表面に塗られた後世の厚い彩色が除去され、本来の像容や構造がよく分かるようになりました。いずれの像もヒノキ材の一木割矧造(未神将像のみ内刳りを施さない)、玉眼が嵌入されています。像高は1メートル前後と大型品で、十二体が揃っていることも貴重です。頂いたパンフレット・裏を開いて。「十二神将立像」。 薬師如来坐像。「薬師如来坐像静岡県指定有形文化財 本体像高 110.0cm薬師如来坐像は、頭部から体幹部を針葉樹の一材から彫出し、頭は耳の後ろで割離し内刳を施し、体幹部は背中と像底から内刳を施しています。面奥が深く胸から腹部に厚みをもたせ重量感があるが、面相は頬や顎にふくよかな円みがみられることから、制作年代は平安時代中期(十一世紀前半)と推測されます。」 「桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ」 「桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守れらてきました。これら仏像群の散逸を防ぎ、後世に保存継承していくための施設として明治30年代後半に桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。 2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が桑原区から函南町に寄付されました。そして町民の財産である貴重な文化財を後世に保存継承するとともに、多くの方々が鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」を設置しました。」 「桑原「阿弥陀三尊像」を造った實慶と慶派「慶派」は、平安末期以降に新しく栄えた仏師工房です。一門の仏師たちの名前の多くに「慶」の字が付くことから、そう呼ばれています。卓越した技術と力強い作風の「運慶」と、絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られています。鎌倉幕府の成立て権力を得た東国武士は、運慶ら奈良仏師の作る写実的で力強い作風を好んだとされ、すぐれた仏像のほとんどが近畿地方に集中する中、関東地方でも慶派の仏像が何体も作られました。實慶は、桑原「阿弥陀三尊像」の他、修褝寺「大日如来像」の造像にも携わっています。その制作期間から考えると、当時関東に在住して活動していたと考えられます。康慶の弟子で連慶とは同年代と推測されます。」 「阿弥陀如来及両脇侍像」 「阿弥陀如来及両脇侍像 国指定重要文化財中尊像 本体像高 89.1cm 台座全高 84.7cm阿弥陀如来及両脇侍像は、檜材一木割矧造。奈良興福寺を本拠とした仏師工房「慶派」の実慶作で、写実的で力強い表現に優れ、はつらっとした作風には鎌倉時代初期の慶派の特色が表現されています。頬が張り、ロ角を引き締めて強い眼差しで前方を凝視する若々しい面貌(顔のかたち)や、やや細身の胴で締まった体型、ふくらみをもたせた地髪部の形状は慶派を代表する仏師運慶の作品に近づくものとされ、高く評価されています。」 以前に配布していたパンフレットの写真 をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.23
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この日は3月9日(月)、会員登録している「藤沢地名の会 創立40周年記念」の特別企画のバスツアー「早春の伊豆を満喫しよう かんなみ仏の里美術館から江川邸へ」に参加しました。 「コースの概ねの時間」 ・7:30 藤沢駅南口 OPA(オーパ)前 出発 午前7時15分集合・9:55 かんなみ仏の里美術館(函南町) 廃仏毀釈を守り抜いた桑原地区の慶派仏師他 24体の仏像群・11:15 めんたいパーク伊豆&道の駅『函南ゲートウェイ』 試食・見学/昼食・12:30 願成就院(伊豆の国市) 北条時政が建立した願成就院と運慶が東国で手がけた最初の仏像 5体・13:30 江川家住宅(伊豆の国市) 台場の築造、韮山反射炉を手がけた韮山代官江川英龍と「江川邸」(重要文化財)・14:50 山中城址公園(三島市) 北条氏が対豊臣用として要塞化した山城。小田原征伐の緒戦に落城。・16:20 小田原 鈴廣 休憩 ・18:00 藤沢駅南口 到着 頃見学場所の位置図案内。パンフレット。実は当初は2月9日(月)開催のツアーであったが、前日の2月8日(日)の関東地域の積雪でこの日の朝は、高速道路は通行止め、一般道路も大渋滞が発生しているとのことで、ほぼ参加予定者全員が藤沢駅南口に集合したが、急遽延期となったのであった。出発予定時間の7:30にバスは出発、参加者は35名であった。バスは圏央道の「さがみ縦貫道路」を走り、相模川に沿って北上する。東海道新幹線・相模川橋梁そして奥に大山の姿を見る。「さがみ縦貫道路」は、神奈川県の茅ヶ崎市から相模原市を結ぶ全長約34kmの自動車専用道路(国道468号)。首都圏中央連絡自動車道(圏央道)👈️リンクの神奈川県区間を構成し、東名・中央・関越自動車道を相互に接続、地域経済の活性化や渋滞緩和に貢献しているのだ。「海老名南JCT」から「新東名高速道路」に入り「伊勢原JCT」から「東名高速道路」へ。「大井松田IC」を通過。富士山が見えて来る場所であったが、山頂は雲に隠れて。 左手に「山北町」が見えた。 そして足柄SA・EXPASA足柄でトイレ休憩。EXPASA(エクスパーサ)は、NEXCO中日本が展開する「サービスエリアの概念を超える」商業施設。食事、買い物、くつろぎの場として目的地となることを目指しており、地域特産品や人気店、コンビニなどが充実している。施設名の由来はExceed(超越する)、Excelsior(向上する)の「EX」と、PA(パーキングエリア)/SA(サービスエリア)👈️リンク を組み合わせたものとのこと。富士山の勇姿をズームして。雲の合間から富士山の山頂が現れた。休憩する車の台数は比較的少なかった。時間は8:40。再びズームして。EXPASA足柄👈️リンク の案内図。店内に入る。 トンカツの店「さぼてん」。赤富士の写真が展示されていた。再び外に出てズーム。山頂を。山頂右側。山頂左側は雲に隠れて。宝永火口の上部をズームして。「金太郎ドッグ」の看板。「金太郎ドッグ」は金太郎の焼印がついたかわいいパンを使用し、パンに挟んだフランクは皮はパリッと中はジューシーで肉の旨味をダイレクトに味わうことが出来ます と。これでもかと富士の勇姿を。そして出発時間9:10前にこの日の観光バスに戻る。この日の観光バスは江ノ島電鉄(株)のラッピングバス。シーキャンドルやビーチ、サーフィン、眺望する富士山など、江の島の魅力を散りばめたイラストが車両側面に描かれており、片方は昼、もう片方は夕暮れから夜をイメージ。ウィズコロナ、ポストコロナを念頭に1日を通して楽しめる場所であることを表現した と。市や市観光協会は例年、地方に赴く「観光キャラバン」を実施しており、PR活動の一環としてラッピング車両を運行。初代の老朽化に伴い、同社が所有する7台の貸し切りバスの1台を2代目としてデビューさせることにした。 「(初代のデザインよりも)時間的広がりを表現したコロナ禍でも相応しい装い」と同社担当者。鈴木恒夫市長はコメントで「『走る観光宣伝』として様々な場所を走ることで、選ばれ続ける観光地として多くの方に認識していただければ」と期待した と。「いつでもおいでヨ。」としていた元々のキャッチコピーも「いつでもたのしい!」に変更。右側の写真(ネットから)。後方部の写真(ネットから)。後方には藤沢市のマスコットキャラクター、「ふじキュン」と市の観光ホームページに誘導する二次元バーコードを添えた と。 ・・・つづく・・・
2026.03.22
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さらに、「道の駅 湘南ちがさき」を散策する。「釜揚げしらす」。「つけうお屋」コーナー。「魚介類漬物」のシミズ水産は、魚漬け専門会社として1970年創業以来ひとすじ【ギンダラみりん】をはじめ、日本国内はもとより世界各国から輸入された持続可能な魚介類を、みりん本漬け、味噌本漬け、粕本漬け等、に製造加工し日本国内はもとより海外においても大変親しまれております と。 Choice!CHIGASAKI特設コーナー👈️リンク。「茅ヶ崎市民が選んだ茅ヶ崎名物です!」 「えぼしの雫(しずく)」 茅ヶ崎の海でとれた魚にこだわって作った魚醤「茅ヶ崎ナンプラーえぼしの雫」を開発!道の駅湘南ちがさきにて常設販売。茅ヶ崎市南湖の寿司職人・小又学さんが開発した魚醤「茅ヶ崎ナンプラーえぼしの雫」。 茅ヶ崎の風物詩である地引網でとれた小魚を中心に、相模湾の魚と塩だけで作られている。塩や醤油代わりに、お出汁代わりに、隠し味として・・・エスニック料理だけでなく、和・洋・中どんな料理も美味しくさせる万能調味料。卵かけご飯に、パスタに、炒め物や煮物に、ちょっと加えるだけで旨味がワンランクアップ。しかも素材は魚と塩のみなので安心・安全。子育て中のママさんや保育士さんからも、「赤ちゃんの離乳食にも安心して使えます」とお墨付きをいただいているとか!2025年にオープンしたここ「道の駅湘南ちがさき」にて常設販売中!菊の家・湘南クーヘン・湘南の月「湘南寒川産はち福はちみつ。神奈川にある相模国一之宮寒川神社は全国唯一の八方除けの守護神して約1600年の歴史を持つ神社です。その寒川神社のお膝元で採れた100%国産のハチミツです。八方除の「八」末広がりで縁起の良い「八」ミッバチの「蜂」そしてたくさんの「福」が訪れるようにとの想いで「はち福はちみつ」と名付けました。」 野菜の種コーナー。再びアイスクリームの「Plenty’s」。再び野菜コーナー。私も栽培中の「ロマネスコ」。 ロマネスコ(伊: Broccolo Romanesco)はアブラナ科アブラナ属の一年生植物。カリフラワーの一種である。フラクタル👈️リンク 形態のつぼみが特徴の野菜。ロマネスコのこの花蕾(からい)の部分は一つ一つは円錐形をしています。よくよく見ると円錐形が螺旋(らせん)を描くように配列にされています。円錐形の花蕾が螺旋状にどんどん増殖していって、最終的に出来上がったロマネスコ全体の形は、小さな花蕾と同じ形をしています。これがフラクタル構造!!写真はネットから。海鮮丼ちらし。鮮魚も売られていた。そして2Fのフードコートスペースへ。「和洋中キッチン 茅ヶ崎 なんどき牧場」と「網元 ゆうまん丸食堂」 なんどき牧場:湘南名物 茅ヶ崎メンチ を中心に神奈川産の肉や採れたて野菜を活かした料理で 湘南の食を彩ります。ゆうまん丸食堂:茅ヶ崎市南湖にある人気の海鮮料理店「ゆうまん丸食堂」。 地元の漁師さんが営むお店で、朝獲れの新鮮な魚を仕入れて提供してくれる。 漁師さんの”目”で厳選された海鮮は、それはもう、言うまでもなく旨い。 茅ケ崎名物・生シラスがたっぷりのった「生シラス丼」や、見た目の インパクトにただただ驚くばかりの「舟盛り定食」などが大人気。 そんな茅ケ崎の名店が、道の駅 湘南ちがさきのフードコートで気軽に 食べられる と。 舟盛り定食、定食、丼物。海鮮丼を楽しむ客が多かった。舟盛り定食。地魚を含む7~8種類のネタが並んで。「生しらすと釜揚げしらすの2色丼」。そしてこちらは「和洋中キッチン 茅ヶ崎 なんどき牧場」。ズームして。様々な定食、単品が。そして2Fフードコートのベランダから国道134号&駐車場方向を。手前の円形のグラウンドは「ドッグラン(小型犬用)」と。 ズームして。新湘南バイパスに架かる「湘南ベルブリッジ」。 2Fエスカレーター前から「お会計」を見る。 1Fに下りて。そして国道134号脇に出て。振り返って。「道の駅 湘南ちがさき Shonan Chigasaki」。 「Shounan」ではなく「Shonan」!■SHO(ヘボン式)・現在の主流: 日本の道路標識(案内標識など)は、外国人にも分かりやすい「ヘボン式」で 表記することが原則となっています。・特徴: 長音(伸ばす音)の「う」を省略し、SHOと記載します(例:小学校=SHOGAKKO)。・背景: パスポートや国際的な場でも、SHOが推奨されています と。 歩道を廻り込んで。斜めからズームして。引き返して。円形のグラウンド「ドッグラン」を地上から。無料で利用可。足洗い施設も完備。10㎏以下の小型犬専用 と。「ドライブマップ 道の駅「湘南茅ヶ崎」」。車で5分、10分の範囲を。現在地はここ。「道の駅 湘南ちがさき エリアマップ」。国道134号に出るには、上りと下りで異なるのであった。私の帰路は、下りで「柳島」交差点を右折する必要があることを確認。 上空からの写真をネットから。そして愛車に戻り、新湘南バイパスを利用して帰路へと。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.03.21
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この日は3月7日(土)、平塚での仕事の打ち合わせの帰路に昨年オープンした「道の駅 湘南ちがさき」に立ち寄る。「道の駅 湘南ちがさき」は新湘南バイパス「茅ヶ崎海岸IC」からすぐ、湘南エリア初となる道の駅。2025年7月7日オープンの館内では、地元のグルメや農産物などを豊富に販売。ここでしか手に入らない限定のお土産もあり、湘南の風と、茅ヶ崎の魅力をまるごとお持ち帰りできます と。住所:神奈川県茅ヶ崎市柳島1546番1号国道134号の「道の駅 湘南ちがさき」は、神奈川県では2020年(令和2年)6月26日に開駅した道の駅足柄・金太郎のふるさと以来5番目の道の駅で、茅ヶ崎市および湘南としては初の道の駅である。敷地面積は14,960 m2。2016年(平成28年)3月に策定された道の駅基本計画では2020年東京オリンピック開催前の2019年(令和元年)7月のオープンを予定していたが、用地買収の遅れに加え、前市長の服部信明の急逝、新型コロナウイルスの影響で予算も市民生活を守るために支出配分を見直され、2022年(令和4年)から2025年(令和7年)に延期となったのだ と。「国道134号」と「鉄砲道」に挟まれた場所で、敷地面積は1万4,970㎡で、普通車160台、大型車28台を収容できる駐車場を完備駐車場 と。駐車場の広さが判る写真をネットから。混雑する駐車場の最奥・国道134号に近い場所になんとか駐車できた。「STOP迷惑駐車次の様な行為は、道の駅を利用する方々の迷感となりますのでご遠慮ください。・道の駅以外の施設を目的とした利用・宿泊目的の長時間利用・レジャー目的の利用・違法改造車両の立入・ゴミの不法投棄 など以下略・・・」 「道の駅 湘南ちがさき」の建物に向かって進む。「道の駅 湘南ちがさき」配置案内図。交流広場にはキッチンカーが数台。山形芋煮、十和田牛バラ焼き丼、わかめの唐揚げ、唐揚げ・・ と。交差点前から、「道の駅 湘南ちがさき」見る。海に浮かぶ船をイメージした設計である と。金属と大きなガラスが印象的な外観は、デザイン性の高さだけでなく、年間の一次エネルギー消費量をゼロに近づけることを目指した建築物ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)に限りなく近い建築物として、茅ヶ崎市で初のNearly ZEB認証を受けている。ロケーションは新湘南バイパス茅ヶ崎ICからすぐ、海沿いを走る絶好のシーサイドルート国道134号沿いという交通至便な場所。海に行く人にとってもドライブを楽しむ人にとっても立ち寄りやすいのが魅力 と。「道の駅 湘南ちがさき 来場者祝 100万人達成2026.02.18」と。 大和市在住の清水渚さん(4)が2月18日、昨年7月7日に開業した「道の駅 湘南ちがさき」(茅ヶ崎市柳島)の来場者100万人目となった。当日はセレモニーが行われ、渚さんと父・祐介さん(30)、母・希さん(30)、妹・漣さん(2)に記念品が贈呈された。清水さん一家が施設の入り口をくぐったところ、道の駅の「駅長」を務める茅ヶ崎市の佐藤光市長が「おめでとうございます」と声をかけた。その後交流広場でセレモニーが行われ、「Choice! CHIGASAKI」認定商品などの名産品と、茅ヶ崎アロハシャツが手渡された とネットから。様々な観光用パンフレットが置かれていた。様々なポスターも。そして「道の駅 湘南ちがさき」の1F入口。「営業時間のご案内1F■直売所 9:00~18:00■フレンディーズドライブイン 11:00~19:00■ホノルル食堂 平日 9:00~19:00(L.O.18:30) 土日祝 9:00~19:00(L.O.18:30) 「L.O.」は主に飲食店での「ラストオーダー(Last Order)」の略称2 F■田中水産ゆうまん丸 11:00~19:00(L.O.18:30) 茅ヶ崎 なんどき牧場 11:00~19:00(L.O.18:30)■ニコとモク 平日 9:00~19:00(L.O.18:30) 土日祝 8:00~19:00(L.O.18:30)」 マスコットキャラクター。近づいて。アイスクリーム屋さんのPlenty'sさんの店頭に立つ『マイキー』。「Plenty's」。茅ヶ崎生まれのアイスクリーム「プレンティーズ」が道の駅にニューオープン! 人気のアイスクリームとソフトクリームの両方が楽しめるスタイルの店舗です。ここでしか味わえないフレーバーも多数ご用意しています と。 野菜販売コーナー。かまぼこ類のコーナー。塩辛コーナー。 ・・・つづく・・・
2026.03.20
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この日は3月3日(火)、夜、全国で「皆既月食」が起こりました。しかしながらこの日の夜は低気圧が本州の南を東進し、広範囲で雨や雪の降る天気となり北海道・中国・四国・九州・沖縄の一部地域でのみ晴れて、月食を見ることができたが、我が家では雨となり、久々の「皆既月蝕」は見ることが出来なかった。月食は、太陽・地球・月が一直線に並び、満月が地球の影に入り込むことで、月が暗くなったり、欠けたりして見える天体現象なのです。2022年11月8日の皆既月蝕👈️リンク について、ブログにアップしていますので、併せて御覧ください。よって、今回は「月食」について再び学ぶブログになってしまいました。 以下の写真は、ネットからのものがほとんどです。ところで、月食で月が欠ける様子と、ふだん見ている月の満ち欠けは何が違うのでしょうか?月は、太陽の光を反射することで見えるようになるので、太陽の光が当たっていない(影になった)部分は、地球から見ることができません。月に当たる太陽の光は一定なので、地球に昼と夜ができるのと同じように、月も明るい部分と暗い部分にわかれます。月は約1ヶ月かけて地球の周りを公転しています。このとき、地球から月が見える方向が変化するため、明るい部分と暗い部分の形が変化するのです。これが月の満ち欠けです。図のように月が地球を太陽と挟む位置に存在するならば、観測者からは月はきれいな丸い形をした満月として見ることができます。そこから少しずつ太陽と地球に挟まれる位置に月が移動していくにつれて、観測者からは月は少しずつ欠けていくように見えていくことになります。これが月の満ち欠けが起こる仕組みです。月齢(げつれい)とは、月の満ち欠けの状態を表す数値です。月齢は、地球から月が全く見えない「新月(しんげつ)」(「朔(さく)」とも呼ばれます)を0として、新月の翌日の月を1、その次の日の月を2……という具合に数えていきます。新月から数えて3日目の月、すなわち「月齢3」の月は「三日月(みかづき)」、新月から15日目前後の「月齢15」の月は「満月(まんげつ)」や「望(ぼう)」と呼ばれます。新月から始まった月齢は、新月→三日月→上弦の月(月齢7)→満月→下弦の月(月齢22)……と徐々に姿を変えながら、月齢29の三十日月(みそかづき)までを1サイクルとします。三十日月の翌日に再び月齢は0に戻り、新月の日がやってきます。月食の種類・皆既月食 (Total Eclipse): 👈️リンク 月が地球の濃い影(本影)に完全に隠れる。 皆既月食では月が赤銅色(赤っぽい色)に見えます。・部分月食 (Partial Eclipse): 月の一部だけが本影に入る。・半影月食 (Penumbral Eclipse): 月が地球の薄い影(半影)に入る。 肉眼では少し暗いかなと感じる程度。日食と異なり、地球上の月食が見える場所であれば、どこでも同じように欠けた月を観察できます。私の住む湘南地域の場所からは「月食のすべてが」見えるはずであったが。 「半影食」と「部分色」の状況。・半影食:月が地球の薄い影(半影)に入る天文現象です。本影に入る月食と異なり、 月面がわずかに暗くなる程度で、肉眼ではほとんど判別しにくい 「ぼんやりとした」月食です。満月の夜に起き、肉眼や双眼鏡で観察すると、 月の一部が薄暗く見えることがあります。 太陽・地球・月が一直線に並ぶ際に発生。地球の「本影(濃い影)」に入らず、 外側の薄い「半影」のみに月が通過する現象。 満月が少し暗く(灰色っぽく)見える程度。欠けたようには見えず、注意しないと 気付かないことが多い。・部分色:太陽・地球・月が一直線に並んだ際、満月の一部が地球の濃い影(本影)に入り込み、 欠けて見える天文現象。 月全体が隠れる「皆既食」とは異なり、月の一部が暗く黒ずんで見えるのが特徴。 地球が太陽と月の間に入ることで、地球の影が月の一部に落ちる。 見た目には月が欠けている、あるいは「かじられた」ように見える。 年に2回ほど発生する。2026年3月3日(火)夜、日本全国で皆既月食が見られる予定であった。18:50頃に欠け始め、20:04頃から皆既食、20:33頃に最大、21:03頃に皆既食が終わる見込みであった。月食の様子。今回の皆既月食では、皆既月食は約1時間にわたって継続します。部分食の始まりから終わりまでの全行程は3時間半に及びます と。ところが、この日の天気予報では九州南部を除いて天候が悪く、皆既月蝕は見えなかったのであった。鹿児島県、宮崎県南部、高知県南部では見えたと。宮崎に住む友人が皆既月蝕👈️リンクの写真を送ってくれました。皆既月食で月が赤銅色(赤黒い色)に見えるのは、地球の大気を通過した太陽の赤い光だけが屈折して月に届くため。大気中で青い光は散乱して消え、赤い光は散乱されずに通過・到達する「レイリー散乱」という現象で、夕焼けが赤い仕組みと同じとのこと。皆既月蝕が赤く見える仕組み。皆既月食が赤く見えるのは、地球の影に入った月を「大気を通過した太陽の赤い光」が照らすためです。地球の大気が、青い光を散乱させて取り除き、赤い光だけを通過・屈折させて影の中に送り込むため、夕焼けと同じ原理で赤銅色(しゃくどういろ)に輝きます。夕方になると太陽の光が地表に届くまでの距離が長くなります。そうすると、波長の短い青い光は散乱されきってしまいますが、波長の長い赤やオレンジの光は散乱されにくいため地表に届きます。これが朝焼けや夕焼けが見られる理由です。5度どのズレで貴重現象に。月食は、地球から見みて月が太陽の反対側にあるとき、つまり満月のときにおきます。日食は、地球から見て月と太陽が同方向にあるとき、つまり新月のときにおきます。ただし、満月と新月のときに毎回おきるわけではありません。これは地球が太陽の周を公転している面に対たいして、月が地球の周りをまわっている面が5度どほど傾いて、必ず一直線になるわけではないためです。この傾がなければ、満月・新月のときには毎回、月食・日食がおきることになっていたはずです。実際は月食・日食がおこるための一直線の状態になるチャンスはおよそ半年に1回となっています。月食の写真を並べると地球の影(赤い点線)が浮かび上がる と。月ごとの満月の呼び方は以下のごとしと。この日を含めて、その後の皆既月食の予定表。次回の皆既月食は、2029年1月1日・元旦(月)の0:07月皆既月食開始と。除夜の鐘を聴いた直後に、皆既月蝕が始まるのだ。その次の1月1日・元旦(月)の皆既月蝕は2048年1月1日と。 年月日 種類 部分始 皆既 食の最大 皆既終 部分終 食時間ただし2048年01月01日の皆既月蝕は昼間 と。皆既月食が昼間に起きる場合、日本では月が地平線の下にあるため、残念ながら直接観測することはできません。皆既月食は「夜」の地域でしか見られず、昼間は太陽の光が強すぎるため、欠けている月を確認することも困難です。2022年5月16日などの例では、海外で見られる皆既月食が日本では昼間となり、観測できませんでした と。 ・・・おわり・・・
2026.03.19
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「藤沢敵御方供養塔」を後にして、「大イチョウ」、「遊行寺宝物館」を望む。 「遊行寺墓苑案内所」。入口の「観音像」。近づいて。そして、再び葉を完全に落とした大イチョウの老木。・幹の肥大とこぶ状の隆起:長年の更新剪定や自重による癒合の痕跡。老木の証です。・四方に張り出す太枝:風当たりの強い境内でもバランスを保つ“構造体”。・細枝の密度:来春の芽吹きを支える生理的な備え。落葉した今は、成長の履歴がそのまま可視化されているのであった。葉を落とした姿は終わりではなく、黄金の季節を知る者には、この“裸木の威容”の美しさも格別なのであった。① 幹の瘤(こぶ)状の隆起幹全体に見える丸い膨らみは、🔹 更新剪定の痕🔹 癒合組織(カルス)の発達🔹 長年の成長による形成層の盛り上がり老齢イチョウに典型的な姿。長寿木ほど、幹は滑らかではなくなります。それは衰えではなく、生存の歴史。② 下部の突起(乳柱状)縄のすぐ上に垂れ下がるような突起が見えた。これは🔹 乳(ちち)/乳柱(にゅうちゅう)イチョウの老木に見られる現象で、空気中の水分を吸収将来的に地面へ達すれば支柱根になる可能性がありるのだ。イチョウの強い生命力の象徴なのであった。①この黒い部分は何か?これは🔹 幹の空洞・腐朽部を保護するための被覆材です。老木になると、・枝の落下痕、震災・強風被害・内部腐朽(心材腐れ)が起こります。その開口部を・防水・雨水侵入防止・腐朽進行抑制のために覆っているのだと。② なぜ完全に塞がないのか?中央に小さな開口?が見えた。これは・内部の通気・湿気の排出・内部状態の点検? のためであろう。完全密閉は逆効果になるのであろう。③ 老木管理の現代的考え方かつては・コンクリート充填などが行われましたが、現在は「樹は空洞でも生きられる」という考え方が主流。重要なのは、外周の形成層が健全かどうかである と。見る限り、外周はしっかり残っているのであった。④ これは“弱さ”ではない空洞は・老木の証・長寿の勲章 でもあった。イチョウは特に・腐朽に強い・萌芽力が強い 樹種であるとのこと。黒い部分の姿は、「下に根を張り、更に上を目指して伸びていけと指さしている」が如くに。私の脳の「空洞」もこうありたいと感じたのであった!! そして境内入口の左にあった「売店・いもと」を。 「創業明治 遊行寺銘菓全国菓子大博覧会金賞受賞和菓子一つ火 菓匠 いもと」 「賞状」。 「全国菓子大博覧会会長賞栗入り饅頭栗の里」 「一つ火、栗の里」をネットから。 そして最後に訪ねた「遊行寺宝物館」に白壁に映る美しい木の枝を。 ポスター「特別展 遊行寺の什宝 令和8年1月1日(木)~2月18日(水)開催日 土・日・月・祭日)」 「明治天皇 御膳水」明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。 移動して。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。そして「遊行寺宝物館」の入口左にあったのが「江の島道入口鳥居の沓石」。 近づいて。寸 法 縦・横 最大85㎝×85㎝ 高さ 約50㎝岩を八角形に、そして支柱穴を刳り貫いたものであろう。「藤沢市指定重要文化財(歴史資料) 令和三年(ニ〇ニ一)ニ月一日指定江の島道入口鳥居の沓石(くついし)もと旧東海道から分かれて南下する江の島道の入口(藤沢一丁目。遊行寺橋西詰)にあった江島神社の一の鳥居の沓石です。文政六年(一八ニ三)に建てられた青銅製鳥居(ニ代目。初代は明和六年・一七六九建立)が、明治十三年(一八八〇 )十一月の藤沢宿大火で焼損し、翌明治十四年四月に木造(木柱銅板巻き)として再建(三代目)された鳥居の沓石であることが、側面に刻まれた銘文からわかります。鳥居は明治三十年頃に撤去されましたが、沓石は残され、大正末期の道路拡幅時に妨げありとして、藤沢宿の人々が清浄光寺(遊行寺)へ運んだと伝わります。浮世絵に描かれるニ代目鳥居の次の鳥居の沓石で、藤沢宿のシンボル的構造物の実物資料です。 令和四年(ニ〇二二)三月 藤沢市教育委員会」 歌川広重 「東海道五拾三次 藤沢」(狂歌入東海道)。「遊行寺宝物館」を正面から。以前の写真から。 そして、入館チケット・500円を購入し館内へ。「ご挨拶正中2年(1325)遊行四代呑海上人は、江島弁財天窟に17日間参籠し、白蓮が生える地を居とせよと神託をうけた後に藤澤山(とうたくさん)中に白蓮を見つけます。そして実兄である相模国俣野荘地頭・俣野五郎景平の帰依を受けて当地に清浄光寺(遊行寺)を建立し止住したのです。以降、歴代遊行上人が法灯相続後に入山した事から、遊行上人の寺「遊行寺」と呼はれるのです。さて、寺宗は宗祖一遍上人が、熊野証誠殿大権現(くまのしよううてんだいごんげん)から神託を受けた時を立教開宗としています。その本地は阿弥陀仏であることから、遊行寺には阿弥陀仏にまつわる品々が収められています。その一つが、阿弥陀仏が教主となる西方極楽浄土の様子を説き、念仏をすすめる経典「阿弥陀経」てす。その最たる品が弘法大師筆とされる蝶鳥経(ちょうとりきょう)と称された装飾阿弥陀経です。色紙に金字で書かれた経文の上下には蝶や鳥が舞い、見返しには紺紙に金彩で楽浄土が描かれる逸品です。その阿弥陀経が説く念仏を交代で行なう順番表「一期不断念仏結番(いちごふだんねんぶつけちばん)」は宗祖一遍上人自筆の品です。阿弥陀仏を敬い礼讃する姿勢は武家や公家、宮家まで魅了し、宮家から遊行上人となった十ニ代尊観上人の登場にも繋がります。その縁で納められた絵画が「後醍醐天皇御像」です。遊行寺には、阿弥陀仏と結縁(けちえん)する為に、経典をはじめ、絵画や工芸品彫刻などが多数奉納されたのてす。このたびは、遊行寺に伝わる絵画・工芸・経典・典籍・文書なとを一堂に公開します。時宗美術と称賛される遊行寺の什宝を、展示室にてお楽しみ下さい。 令和8年1月吉日 遊行寺宝物館」 「一遍上人像」が迎えてくれた。展示室内は写真撮影禁止であったので、以下の写真、説明書きは全てネットから、転記させていただきました。この日の展示物のリストも詳細は不明ですので、この日に展示されていなかったものもあるかと思います。「展示室」の様子。 「遊行寺の什宝正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海上人は、江の島弁財天に十七日間参籠し、白蓮が生える地を居とせよと神託をうけた後に藤澤山中に白蓮を見つけます。そして実兄である相模国俣野荘地頭・俣野五郎景平の帰依を受けて当地に清浄光寺(遊行寺)を建立し止住したのです。以降、歴代遊行上人が法灯相続後に入山した事から、遊行上人の寺「遊行寺」と呼ばれるのです。さて、時宗は宗祖一遍上人が、熊野証誠殿大権現から神託を受けた時を立教開宗としています。その本地は阿弥陀仏であることから、遊行寺には阿弥陀仏にまつわる品々が収められています。その一つが、阿弥陀仏が教主となる西方極楽浄土の様子を説き、念仏をすすめる経典「阿弥陀経」です。その最たる品が弘法大師筆とされる蝶鳥経と称された装飾阿弥陀経です。色紙に金字で書かれた経文の上下には蝶や鳥が舞い、見返しには紺紙に金彩で極楽浄土が描かれる逸品です。その阿弥陀経が説く念仏を交代で行なう順番表「一期不断念仏結番」は宗祖一遍上人自筆の品です。阿弥陀仏を敬い礼讃する姿勢は武家や公家、宮家までも魅了し、宮家から遊行上人となった十二代尊観上人の登場にも繋がります。その縁で納められた絵画が「後醍醐天皇御像」です。遊行寺には、阿弥陀仏と結縁する為に、経典をはじめ、絵画や工芸品・彫刻などが多数奉納されたのです。このたびは、遊行寺に伝わる絵画・工芸・経典・典籍・文書などを一堂に公開します。時宗美術と称賛される遊行寺の什宝を、展示室にてお楽しみ下さい。」 ■ 展示されている指定文化財 ■・重要文化財 絹本著色 後醍醐天皇御像 南北朝時代・重要文化財 絹本著色 一向上人像 室町時代・重要美術品 色紙金字阿弥陀経(蝶鳥経) 平安時代・神奈川県指定重要文化財 絹本著色 一遍上人像 南北朝時代・神奈川県指定重要文化財 紙本着色 一遍上人縁起絵 第一巻 南北朝時代・神奈川県指定重要文化財 絹本着色 二河白道図 南北朝時代・藤沢市指定重要文化財 絹本着色 真教上人像 室町時代・藤沢市指定重要文化財 紙本墨書 増壹阿含経 第三十六(善光朱印経) 奈良時代●「絹本著色後醍醐天皇御像・時代 日本 南北朝・解説明治33年(1900)4月7日指定/縦94.2㎝、横40.2㎝/後醍醐天皇が礼服の上に袈裟をかけ、頭に王冠を着け、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴をとり、礼盤の上に坐す図像です。この御影は、おそらく後醍醐天皇が伝法勧請(密教の秘法を授ける儀式)を受ける姿を表したものと考えられ、数多い天皇肖像画のなかでも異色のものといえます。制作は南北朝から室町時代にかかる頃とみられ、応永3年(1396)醍醐寺の杲尊から遊行12代尊観に渡されたものと伝えられています。画面上辺の伊勢(天照皇大神)、八幡、春日の三神名号は、この三社託宣思想(三社のお告げを尊ぶ思想)の盛んとなる室町時代に入ってから貼られたものとも考えられます。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦94.2㎝、横40.2㎝・分類 文化財 国 国指定重要文化財(絵画)」 「絹本著色一遍上人絵伝・時代 日本 鎌倉・解説昭和27年(1952)3月29日指定/各巻縦38.2㎝/原本にある通り「一遍聖絵」の名で知られています。時宗の宗祖・一遍の生涯をまとめた全12巻、48段の絵巻物です。起草者は一遍の弟と伝える聖戒、4人の公家が詞書(文章)を清書し、円伊を中心とした絵師が絵を担当して正安元年(1299)に完成しました。一遍は念仏の修行・布教のために全国を遊行しており、全巻を通して鎌倉時代の各地の情景が描かれています。絵は、全体的に見て一遍の行動だけでなく、その場面をとりまく風景が重視され、現実感あふれる画面構成となっています。我が国美術史上の傑作として名高いもので国宝に指定されています。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)サイズ 各巻縦38.2㎝分類 文化財 国 国宝(絵画)」 ●「絹本著色一向上人像・時代 日本 鎌倉・解説 昭和34年(1959)6月27日指定/縦70.1㎝、横26.6㎝/一向を描いた肖像画と伝えられて います。一向は一遍と同時期に念仏を勧め、全国を遊行した人です。画像は、上人が白の 衲衣に袖なしの阿弥衣をまとい、首から輪袈裟をかけ、素足で腰をかがめて、胸前で両手を 組んでいます。顔立ちは目鼻がはっきりとしていて、毛髪や髭をたくわえています。 この容姿は他の一向上人像と比べると大きく異なるので、ここに描かれているのは 一向の弟子の2代礼智阿とする説もあります。所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦70.1㎝、横26.6㎝・分類 文化財 国 国指定重要文化財(絵画)」 ●「絹本著色二河白道図・時代 日本 南北朝・解説 昭和28年(1953)12月22日指定/縦114.4cm、横52.5㎝/二河白道とは唐の善導大師が 経典の中に説いた教えで、本図はこれを図示したものです。画面右手に立つのは釈迦、 左手は阿弥陀で、両方の足下を一筋の白い直線が結んでいます。白線の上下は水の河・ 火の河で、この「二河」が、釈迦の立つこの世と、阿弥陀の立つ浄土を大きく隔てています。 人が阿弥陀のいる彼岸に渡るには、白く狭い一本道しかありません。この絵は、欲深い心を 表す水の河や、怒り憎む心を表す火の河に落ちずに、清浄な心で真ん中の「白道」を進めば、 浄土に着くことができる、と説いているのです。下辺に描かれている人物はこの世で 合掌する善導です。南北朝時代、14世紀の作と考えられています。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦114.4cm、横52.5㎝・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画)」ズームして。これも「絹本著色二河白道図」。 ■ 1. 主題(何を描いた図か) 浄土教の根本教えである 👉 「念仏によって極楽往生できる」ことを視覚化した図 中国・唐代の高僧 **善導(ぜんどう)**の説いた教えを絵にしたもの■ 2. 画面構成(場面の構造) ● 左:白衣の仏(阿弥陀如来) 白い衣をまとい、迎えに来る姿 👉 極楽浄土の象徴 ● 右:菩薩(観音菩薩) 合掌または導く姿 👉 救済の導き手(来迎) ● 中央:僧(往生を願う人) 小さく描かれた人物 👉 私たち人間そのもの ● 二つの川(最重要) この図の核心です。 ・火の川(右側) 燃え盛る炎 👉 怒り・瞋恚(しんに)・地獄の苦しみ ・水の川(左側) 激流・波 👉 欲望・貪り・迷い ● 白い道(白道) 二つの川の間に細く続く道 👉 念仏の道(南無阿弥陀仏)■ 3. 教え(意味の核心) この図の意味は極めて明快です: 👉 人は ・欲(=水の河) ・怒り(=火の河) に挟まれて生きているしかし 👉 ただ一つの道がある → 阿弥陀仏を信じて念仏する道(白道) と。「紙本著色 一遍上人縁起絵(甲本) 第二巻四段 弘安五年(1282) 相模國瀧口にて利益の場面(左は江の島) 南北朝時代」 江の島徒渉の様子。干潮のとき、片瀬の浜から江の島に徒渉出来るようになったのは、鎌倉時代に入ってからのことだといわれる。「遊行上人絵巻」が描かれたのが鎌倉時代の末といわれているから、この場面は江の島徒渉のかなり早い時期の描写ということがいえよう。(「一遍上人縁起絵(甲本)」清浄光寺蔵)●「絹本著色一遍上人像・時代 日本 南北朝・解説 平成7年(1995)2月14日指定/縦57.1cm、横24.3cm/鎌倉時代の作と推定される 一遍の肖像画です。阿弥衣を着け、手に念仏札を持って口を開く立ち姿で、念仏を 称えながら念仏札を人々に配ろうとする様子を描いています。 遊行・賦算(ふさん・念仏札配り)・称名に生きた一遍の特色を表現しています。 左半分に蓮台と天蓋を配し、中に一遍流の六字名号を金字で付し、上部右側の色紙形には 六字無生頌を書いていますが、後半の2行は絹の欠損のため判読できません。 彩色は口唇に朱を入れる他は墨色を主体に描かれ、画面上下には牡丹の描表装を施して います。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦57.1cm、横24.3cm・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画)」●「紙本墨画淡彩一遍上人像・時代 日本 室町・解 平成7年(1995)2月14日指定/縦51.0cm、横30.5cm/室町時代の作と推定される 一遍の肖像画です。右半分に「南無阿弥陀仏」の六字名号を墨書し、上部左側に 「六字之中 本無生死 一声之間 即証無生(ろくじのうち もとせいしなし いっせいのあいだ すなわちむしょうをさとる)」の六字無生頌(ろくじむしょうじゅ)を 書いています。この頌は一遍が悟りを得たことを表した詩です。一遍は阿弥衣を着け、 手に数珠を下げ念仏札を持って、口を開いて立っています。なお、「一遍聖絵」の最後の 場面で、没後に兵庫の御影堂に祀られた一遍立像が描かれていますが、現存する一遍画像の 古作も同様にみな立像です。・所有管理者:清浄光寺(遊行寺)・サイズ 縦51.0cm、横30.5cm・分類 文化財 県 県指定重要文化財(絵画) 」●「紙本墨画淡彩 一遍上人像 」👈️リンク 南北朝時代の作。念仏札をさし出す図柄の古い例として優れた作品。62.5×31.0㎝画面上部には「佛こそ いのちと身との あるしなれ 我ふるまいも わがこころかは 南無阿弥陀仏」という歌が記されています。尖った頭頂と後頭部、日に焼けた面長な顔で、こけた頬と長い眉が目を引きます。細身の身体には黒色の衣をまとい、柿渋色の上着を重ね、黒い腰の紐には白い布をくくりつけ、膝丈の裾からは薄い黄色の肌着がのぞきます。合掌する左手には赤色と黒色の数珠(じゅず)を懸け、両手で賦算の紙束を挟んでいます。開いた口元から歯をのぞかせ右脚を踏み出すようすは、「阿弥陀如来」の名をとなえ、賦算しながら念仏を勧める旅に生涯を費やした一遍の在りし日の姿です。「市指定 絹本著色 真教上人像 南北時代」「絹本著色 阿弥陀如来迎図 室町時代」。 「絹本著色 熊野垂迹西国三十三観音像 室町時代」。 「空也上人立像(室町~鎌倉時代)」 。この空也上人立像は、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表しており、右手に撞木(しゅもく)、左手に鹿角杖(ろつかくじよう)、胸に金鼓(きんこ)をさげている。すねを露わにした足には草鞋(わらじ)をはき、一歩踏み出した姿は躍動的であり、念仏を唱えながら遊行する様子を丁寧に表現している。総体に六波羅蜜寺蔵のそれと似通ってはいるが、六波羅蜜寺のものは若く凛々しい顔姿であり、対して本像は晩年の老いや苦行相が入るが、眼光は鋭く、信念をもち、歩み続ける表情をよくとらえている。また、衣の裾に阿弥衣(あみえ)風の模様を彫り込んでおり、これは『一遍聖絵』の中に描かれる阿弥衣の模様と酷似しているところから、時宗様式がはいったものと考えられる。 ズームして。「重美 色紙金地阿弥陀経(蝶鳥経) 平安時代」 ・経典内容 『阿弥陀経』(正式には『仏説阿弥陀経』) → 西方極楽浄土の荘厳と阿弥陀如来の功徳を説く浄土教の根本経典・材質・技法: 紙本 金地(全面を金泥・金箔で装飾) 墨書 料紙を色紙形に区切る「色紙形装飾」・「蝶鳥経」と呼ばれる理由: 料紙の中に蝶や鳥が優美に描かれている 経文の間を舞うように配され、浄土の世界を象徴・装飾的特徴: 金地に墨文字が浮かび上がる華麗な対比 草花・蝶・鳥の繊細な下絵 経文と装飾が一体化した「装飾経」の代表例・美術史的意義: 平安貴族文化の極致を示す装飾経 信仰と美術が融合した作品 「平等院鳳凰堂」建立期と同時代の浄土信仰隆盛を背景・信仰的意味: 金色=極楽浄土の光明世界を象徴 蝶・鳥=浄土に遊ぶ生命の象徴 読誦だけでなく「見る功徳」も重視・遊行寺との関係: 遊行寺(清浄光寺)は時宗総本山 阿弥陀信仰は時宗の基盤 一遍上人の念仏思想と通底 と。「紙本墨書 一期不断念仏結番 一遍上人筆 弘安元年(1278)」。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.03.18
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「本堂」に向かって進む。前方にあったのは巨大な常香炉。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉。 常香炉にも寺紋・「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が入っていた。さらに「本堂」に向かって進む。 扁額の「登霊臺(とうれいだい)」の文字は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。この額は一遍上人の偈文(教え)に由来し、「霊山(阿弥陀の浄土)に登る」=「念仏によって極楽浄土へ至る」という意味が込められており、寺院が浄土へ向かうための神聖な場所であることを示しているのだ と。そして「本堂 内陣」に案内された。 「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しいのであった。『寺』の文字の下部『寸』が傾いている理由は?、時宗の教えである「踊り念仏(おどりねんぶつ)」の躍動感や、一遍上人の遊行(旅して念仏を広めること)のエネルギーを表現するため、あえて斜めに書かれた(意図的なデザインである)と言われています。 一般的に言われている理由は以下の通りです。・踊り念仏の表現: 時宗は一遍上人が開いた宗派で、念仏を唱えながら踊る「踊り念仏」が 特徴です。寺の文字が静止しておらず、踊っているような動き(躍動感)を表していると 解釈されています。・「遊行」の精神: 宗祖・一遍上人は諸国を旅して(遊行)念仏を広めました。 固定化された場所に留まらない、自由で流動的な精神を傾いた「寸」で表現したとも 言われます。・書体・デザインの意図: 正式な文字(楷書など)にこだわらず、あえて文字に動きや遊び心を 持たせた、書道的な観点での意匠です。 すなわち歓喜の表現: 踊り念仏は、念仏を唱える喜びのあまり「自然に体が踊りだした」ことが起源とされて います。この「抑えきれない喜び(歓喜)」や「躍動する生命力」が、書家・佐々木文山の 筆致によって、静止した文字ではなく「動くような姿」として表現されたと見る説があります。飛龍の勢い: 公式には「龍が天に昇る勢い」を模したとされますが、この「昇天するような勢い」自体が、 踊り念仏を通じて無我の境地に至り、極楽往生を願う時宗の教義的な熱量と合致しています。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があった と。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像。平安時代後期作と伝える。参拝客の数も普段に比べ少なく、参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。20分ほど、本堂内で正座して、遊行寺の歴史等について遊行寺宝物館長からの説明を聴いたのであった。遊行寺(正式名称:藤澤山無量光院清浄光寺)の開山(開祖)は、時宗の祖・一遍上人から数えて4代目の呑海上人(どんかいしょうにん)。・正中2年(1325年)、俣野五郎景平の寄進を受け、現在の神奈川県藤沢市に創建された。・特徴: 時宗の総本山。 一遍上人(宗祖)が諸国を行脚したのに対し、遊行寺は遊行(修行)を終えた上人が 住まう寺となった。・なお、時宗そのものの宗祖は、鎌倉時代に踊り念仏を広めた一遍上人(いっぺんしょうにん)・藤沢(ふじさわ)の地名は、古くは「淵沢(ふちさわ)」と呼ばれ、境川などの周囲に 淵や沢が多く存在した地形に由来するという説が最も有力。 また、かつてこの地に山藤が多く咲いていたことから「藤のある沢」が転じた説や、 鎌倉時代の武士・藤沢次郎清親の居住地であったことに因む説など諸説あると。淵沢(ふちさわ)説【最有力】:境川が蛇行し、淵(水が深く淀んだところ)や沢(湿地)が多かったため、それが「ふじさわ」に転化したとされる。正しく、この遊行寺のある場所が境川に面した「淵沢(ふちさわ)」であった と。 遊行寺宝物館館長による境内の案内の中で、正中2年(1325)、遊行上人四世呑海が、俣野氏領地の高台に清浄光院を建て独住して藤沢上人一世と称し、山号を藤沢山(とうたくさん)とした。藤沢の地名となったという淵沢は、館長によれば、遊行寺境内、宇賀神神社のすぐ後の崖から水が流れ落ち開運弁財天がある。そこがその淵沢、水のある淵だということだった と。そしてこの日は、本堂内陣の左側に、「釈迦涅槃図」が下げられていた。「釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)は、お釈迦様がお亡くなりになった日に修行される法要で、遺徳追慕と報恩のための法要。縦6m45cm、横3m64cmの大きな「釈迦涅槃図」を掲げ、その前で法要を行います。「釈迦涅槃図」とは、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下でお釈迦様が入滅される情景を描いた図。この日、2月14日夕刻に御逮夜法要(おたいやほうよう)、翌日15日の朝勤行後に涅槃会を厳修されたのであった」 ① 画面構成の特徴●上部満月が描かれています。これは釈迦が入滅したとされる旧暦二月十五日の夜を象徴します。その周囲には・菩薩・天部・羅漢が群集し、天界までもが悲嘆していることを示しています。② 中央 ― 横たわる釈迦釈迦は・右脇を下にして横たわる・右手を枕にする「頭北面西」の姿勢これは「涅槃(完全なる安らぎ)」の姿です。表情は苦悶ではなく、静かな微笑をたたえた安らぎの顔。死ではなく“悟りの完成”であることを示します。③ 周囲の人々近くには・弟子(阿難など)・嘆き悲しむ羅漢・合掌する信者感情表現が非常に豊かです。中には・顔を覆う者・取り乱す者・冷静に見守る者仏教が人間の感情そのものを肯定していることが見て取れます。④ 動物たちの存在涅槃図の大きな特徴は、・牛・鹿・猿・鳥など動物も集まること。これは仏の慈悲が人間だけでなくあらゆる生命に及ぶことの象徴です。遊行寺の図でも動物が丁寧に描かれています。「2月15日は、仏教の世界においてお釈迦様がお亡くなりになった日とされ、「涅槃会(ねはんえ)」として大切にされています。本校ではこの日にあわせ、2月13日(金)の学林の時間に、遊行寺本堂にて法要を行いました。法要では、これまで生徒たちが心を込めて取り組んできた写経を奉納し、全員で般若心経を読誦しました。一文字一文字に思いを込めて書き上げた写経をあらためて振り返りながら、厳かな本堂の空間の中で静かに手を合わせ、自らの心と向き合うひとときとなりました。また、この時期に本堂で特別に掲げられ、特別公開されている涅槃図を拝観しました。お釈迦様の最期の様子を描いた涅槃図には、多くの弟子や動物たちが悲しむ姿が描かれています。生徒たちはその一つ一つの表情や情景に目を向けながら、命の尊さや教えの意味について考え、真剣な表情で見入っていました。今回の学林を通して、生徒たちは伝統ある寺院の空間で仏教行事の意義に触れ、感謝の心や他者を思いやる気持ちをあらためて深めることができました。」 と下の写真と共に「藤嶺学園藤沢中学校・高等学校」👈️リンク のHPから転記させていただきました。 この「釈迦涅槃図」については・明治26年(1893)に完成・縦6m45cm × 横3m64cm・掛けると下部が畳に約1mほど垂れる と。倒壊した遊行寺(関東大震災)「屋根を残して倒壊した建物の右側に木材や瓦によるがれきがひろがっている様子がわかります。専門家は遊行寺境内の倒壊した建物を撮影した写真だとしています。遊行寺(藤澤山無量光院清浄光寺)は境内に複数の建物がありますが、写真はどの建物なのかを特定するには至りませんでした。写真からは屋根を残して倒壊した建物の右側に木材や瓦によるがれきが広がっている様子がわかります。神奈川県が昭和2年に出版した「神奈川県震災誌」には「藤澤町所在名利藤澤山無量光院清淨光寺(一名遊行寺)の被害は慘澹(さんたん)たるものなりき。拾六間四面の大伽藍(がらん)は勿論、堂宇(どうう)、書院、寶物庫(ほうもつこ)等は盡く(ことごとく)倒潰(倒壊)し」(藤沢町にある有名な藤澤山無量光院清淨光寺(別名:遊行寺)の被害は見るも無残な様子であった。間口と奥行きが約29メートルの本堂や他のお堂、書院、宝物庫などはことごとく倒壊し)とあり、境内の多くの建物が大きな被害を受けたことがわかります。」と。写真はネットから。よって、関東大震災後の再建建設時に天井高さを低くしたのであろうか!?真相はいかに!?下部が畳に約1mほど垂れているのをズームして。本堂の「木鼻」・獅子と象をズームして。 本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な海老虹梁の本堂。そして外に出て、遊行寺宝物館長から、この後に訪ねた「宇賀神神社」の歴史について再び詳細な説明を受ける。「登録有形文化財清浄光寺堂宇十棟本堂 御番方 小書院 百間廊下 回向堂 宇賀神社 鐘楼 手水舎 惣門 石垣及び築地塀 平成二十八年二月二十五日 登録」 「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「本堂」の巨大な鬼瓦を見上げて。 博識な遊行寺宝物館長・遠山元浩(とおやま もとひろ)氏。「放生池」、「御番方」を見る。 「百間廊下」を潜る。本堂と御番方を繋ぐ長い廊下で、境内の起伏により勾配や段差をもち、屈曲してのびる。梁間一間の切妻造桟瓦葺で、漆喰塗外壁に長押を廻らし、火灯窓を並べる。要所に御廟所や宇賀神社の礼拝所を備え、宗教施設としての性格も備えており、境内景観に寄与する と。 そして「宇賀神社」。 宇賀神社に祀られる宇賀弁財天は、徳川氏の祖とされる有親の守り本尊と伝わります。有親は遊行十二代尊観上人の弟子となり名を徳阿弥と、長男の親氏は長阿弥と名を改めました。そして、次男泰親が独阿弥となり、三河国大浜称名寺に移るとき、遊行寺に宇賀神社を奉納しました。長阿弥はのちに三河国松平の酒井家の養子となり、独阿弥は松平家の養子となり、その子竹若丸は松平を、次男竹松は徳川信光と称しました。これが徳川家の祖先といわれる由縁です。(諸説あります)寛政6年(1764)11月に当山の大部分が焼失した際に、宇賀神殿も類焼しました。このとき、幕府より白銀30枚を再興費用としてもらい受けています。天保年間の宇賀神社再興にあたっても同様の援助がありました。現在の建物は明治13年に類焼し、のちに再建されたものです。「宇賀神社」の見事な彫刻。池には黄金の鯉が泳ぐ。ズームして。左側に「宇賀神」の姿があった。竹の樋も新設されて。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されました。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されています。銭洗い用のザルと水汲み用の取っ手と一体の竹柄杓が並んでいた。石組みで囲われた小池が横に。赤い毛氈(もうせん)が敷かれた休憩用ベンチが。「宇賀神社」を再び正面から。石鳥居越しに。「信徒会館」方向を振り返る。 「白梅」の香り豊かに。 近づいて。そして「廻向堂」手前から「歴代上人の墓」入口をズームして。 さらに「小栗堂」をズームして。 「歴代上人の墓」入口を正面から。遊行寺の本堂の巨大鬼瓦を再びズームして。再び「小栗堂」をズームして。遊行寺「本堂」の鬼瓦を正面から。鬼瓦(おにがわら)は、屋根の棟端に据える装飾瓦。・魔除け・火除けの象徴・建物の格式を示す意匠もともとは文字通り「鬼の顔」でしたが、江戸期以降は文様化・抽象化される例も多くなったと。ズームして。鬼瓦のすぐ下、棟の三角部分にある装飾は「懸魚(げぎょ)」と呼ばれ、 屋根の妻側(三角部分)中央に下がる板状の装飾。中央上部に見える花形装飾は「蕪懸魚(かぶらげぎょ)型の意匠」 花のようにも見えますが、これは火除けの象徴。魚は水の象徴であり、魚は水中で眠らない→ 火災を見張る守護の意味という伝統があるのだ と。そしてこちらは「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないであろうか と。」 「六地蔵」。 「稲葉家墓碑」 稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚く。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としました。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげられる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出しています。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。碑面には戒名が陰刻されていたが、どなたの墓碑なのであろうか?そして「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。 平成二十年(二〇〇八)二月 藤沢市教育委員会」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.03.17
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