JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.12.17
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カテゴリ: 国内旅行
「五稜郭」近くで昼食を楽しんだ後は、車で北上し「四稜郭(しりょうかく)跡」を訪ねた。
「四稜郭」は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の
北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。



史跡四稜郭の保存について
旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結しを後、四稜郭はななり荒廃がすすんでいました。
しかし、昭和九年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはしめ、市民の手厚い保護を受けて、
今日までその原形を保つことができました。
函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和四十四年度から四十七年度にかけて、
国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、
さらに平成十ニ年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの
場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。
この貴重な国民的財産てある史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、
次のことを守ってください。
一、土塁等に登らないこと
一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと
一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと
一、火気を使用しないこと
一、ゴミは捨てないで特ち帰ること



大島圭介 」掲示塔。



大島圭介 1832~1911
1832 (天保3 )年、播磨国赤穂郡赤松村の生まれ。大阪の緒方洪庵の適塾で医学と語学を学び、
江戸の坪井塾で塾頭となり西洋学を習得、江川塾に招かれて兵学教授を勤めた。
1858 (安政5 )年に尼崎藩に出仕、その後1859 (安政6 )年に蕃書調所へ出仕した。
1861 (文久元)年に御鉄砲方附蘭書兵書取調出役、開成所教授を兼務。
1865 (元治2 )年に陸軍所へ出仕、富士見御宝蔵番格を歴任し、1867 (慶応3 )年に伝習隊創設に
参加、歩兵隊長となった。戊辰戦争では、旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡った。
1868 (明治元)年12月3日(旧10月20日)に蝦夷地上陸後、大鳥圭介隊は大野・七重の戦闘に
勝利し、箱館に進攻して12月9日(旧10月26日)に五稜郭を占拠した。蝦夷地平定後に仮政権の
陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。翌年6月20日(旧5月11日)の
新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘を指揮するも敗北し、五稜郭で降伏した。
東京で投獄、1872(明治5 )年に釈放され北海道開拓使に出仕後、工部大学校校長、元老院議官、
学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、枢密顧間官などを歴任した。
1911(明治4 4 )年に78歳で没した。



大鳥圭介訳「築城典刑」
四稜郭は、蝶が羽を広げたような四稜の突角を有する形からその名が付けられたもので、
西洋式築城法に基づく砲台の形状からみて、設計者は蘭学に通じた大鳥圭介とする見方が多い。
しかしながら、大鳥圭介訳本の「築城典刑」の中には、四稜郭に類似した洋式台場の絵図は見られる
ものの、具体的なものは含まれてはいない。大鳥圭介が蘭学書をもとに四稜郭を設計した可能性は
低いと推定される。
ジュール・ブリュネ 1838~1911
1838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に幕府の要請で、フランス軍事爾問団の
副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練を指導した。その後、1868(明治元)年10月に、
カズヌーブ、マルラン、フォルタン、フッフィエなどのフランス人下士官と共に旧幕府軍に
加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では。海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。
1869(明治2)年、旧幕府軍が敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、
フランスに帰還した。帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、
1911年に73歳で没した。」



フランス軍事顧問団と旧幕府脱走軍士官
前列左からニ人目がJ.ブリュネ、同三人目は蝦夷地仮政権副総裁松平太郎。
後列に左からカズメープ、マルラン、一人おいてフィルタンらのフランス軍人が旧幕府説走軍の
士官とともに写る。

フランス・ベルフォールの城塞
ジュール・ブリュネの出身地フランス・ベルフォールは「美しい要塞」の地のとおり、
典型的な洋式要塞が存在する州であり、築城学を学ぶ最適な環境を持ち合わせていた。
また、大島圭介はブリュネに対して「年命は若いが度量学築城学に長ぜり」と高く評価を
していることからみて、ブリュネが七重峠下台場と四稜郭についての設計、築造指導を
行っていた可能性が高いと推定される。」



旧幕府軍、神山東照宮北側に四稜郭を急造
1869 (明治2 )年、新政府軍による攻撃へ対応するため、旧幕府軍は五稜郭の土塁強化を
始めとして重要守備拠点となる各地に台場(砲台)の設置を進めた。主戦場となる函館近郊を
一望でき、同時に五稜郭および鎮守府である東照宮を防御する目的で、神山東照宮の北側
1kmの丘陵上に洋式築城法による砲台が急造された。同年4月下旬から脱走軍兵士200名と
付近の住民約100名を動員し、昼夜兼行の工事により短期間で築造したとされる。
陸軍奉行大鳥圭介の『南柯紀行』に「神山の小堡築造未だ成功せざれども」「神山の砲台」
などと記されている。同年6月初旬(旧5月)、新政府軍の攻撃に備えて、松岡四郎次郎隊が
完成前の四稜郭の守備に配置された。6月20日(旧5月11日)の新政府軍総攻撃に守備隊は

僅か半日ほどで陥落した。」



箱館戦争図幅(四稜郭・東照宮の図)
岡山藩士で箱館戦争に従車した兵士、水原久雄によって描かれた四稜郭・東照宮
(権現台場)の図で、新政府軍箱館総攻撃時に岡山藩士は福山藩士とともに四稜郭での
戦闘に従事していたとされる。」



「四稜郭」の土塁内部を東側から見る。
規模は東西約100m、南北約70m、周りには幅5.4m、高さ3mの土塁が巡らされ、
土塁の周辺には幅2.7mの、深さ0.9mの空濠が掘られていた。



別の角度から「稜突出部」。
人の気配はなく我々のみか。



南西にある入口右にあった「史跡 四稜郭」碑。



南西にあるここが「四稜郭」入口。
前方に堀、土塁が。



「史跡 四稜郭」案内板。



史跡 四稜郭
昭和九年一月ニ十ニ日史跡指定
明治ニ年(一ハ六九)春、五稜郭にたてこもる旧募府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に
防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩斜面台地にも洋式の
台場を急造した。
これが四稜郭である。
四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空濠をめぐらし、
郭内(面積約ニ三○○平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約ニ〇〇名と付近の村民
(赤川・神山・鍛治村)約一〇〇名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させた
といわれている。
明治ニ年五月十一日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開した。
松岡四郎次郎率いる旧幕府脱定軍は四稜郭の防御に勤めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり
さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれる
ことを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
五月十ハ日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。」



そしてこの日の最後に「立待岬」に向かう。



箱館市電「宝来・谷地頭線」。



「ロマンス坂」を下って来た。ここが路面電車の終点「谷地頭駅」。
谷地頭温泉から宝来町に繋がる坂道を「ロマンス坂」と言う。
世界的にも珍しい坂で940mの長い坂道が左や左に曲がりながら続くのだ。
ここには路面電車が通っており、「ロマンス坂」の下り坂は電車の運転手も緊張するのだと。



「立待岬」への下り坂に入る。
前方に津軽海峡が姿を現す。



駐車場に車を駐め散策開始。
残念ながら日没は函館山の断崖に隠れて。時間は16:28。
この日の日没時間は16:48なので函館山の影に夕日が隠れているのであった。



函館山の断崖の黒と夕焼けのオレンジとコラボ。
その先には「松前半島」の姿が。



この日に周遊した「亀田半島」を見る。



津軽海峡の先には下北半島の姿が。



「​ 立待岬 ​」👈リンク 碑。
「森昌子」の名の刻まれた石碑は見当たらなかったが・・・。



「立待岬」案内板。



「立待岬
この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと
立って待つ)に囚むという。
18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。
また、第ニ次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。
現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。
近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。   函館市」



「函館山散策コース案内図」。



「箱館海峡ライオンズクラブ創立30周年記念」&
「箱館海峡LC・藤沢湘南LC姉妹提携記念」石碑
石碑の正面には
「かつて「はまなす」が群生した立待岬は、厳しい気候風土にさらされ、枯れ果てて
しまいました。私達は、1985年から植栽を続けいつしか「はまなす公園」と親しまれるように
なりました。函館海峡ライオンズクラブは、結成30周年を記念して、スポンサークラブや
姉妹友好クラブと共に「はまなすの咲く岬」を完成し再現することができました。
この地を訪れる人々に、憩い楽しんで頂ければ望外の喜びであります。」と。



「ライオンズ「はまなす」公園」碑と東屋。



夕日に染められた「五稜郭タワー」を見る。手前にはNTT函館千歳ビルの通信用鉄塔。



「与謝野 寛・晶子の歌碑」。



「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土  寛」
「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと  晶子」



「此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊した時の
詠草の中から選んだもので、歌の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木石川一、
図書裡岡田健蔵である。
昭和三十二年八月十五日建立
計画 図書裡会
賛助 棒二森屋」



「与謝野寛・晶子の歌碑
昭和31年( 1956年)、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が
行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年( 1957年)
同会は棒ニ森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年( 1931年)に
来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。
晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。
また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。」



ここにも歌碑が。



函館市出身の書家・中村朝山の句碑
「海峡や 波音ちかく 朧月」。



歌碑の裏側。
俳誌「蝦夷野」主宰した中村舟路の歌碑であるようだ。
「芭蕉道統系譜 立机免許師範 海睴庵 中村舟路」の文字が。



もう一つの歌碑は
「烏賊つりの 父の灯見分け 子の立てり 竹堂」と。
「赤壁」「さいかち」「葦牙」「河」の同人、七飯町出身の俳人庭田竹堂の句碑であると。
津軽海峡をはさんで下北・津軽半島を彼方に望む。
夜はイカつりの漁火を間近に眺められるロマンティックな場所でもあるという。



「立待岬」の岩場には釣り人の姿が。



道路を面して反対側に「消防碑」。「殉職者」の文字も。



「函館山」山頂の鉄塔群とロープウェイ駅。



遠く「北海道駒ヶ岳」も見えた。



なにかと啄木の面倒をみた義弟の歌人宮崎郁雨の一族の墓もあった。



宮崎郁雨と影ニの歌碑
宮崎郁雨の歌碑
宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年( 1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、
父親は味噌製造業を営んだ。明治39年( 1906年)に文芸結社苜蓿社ができると、
その同人となった。翌40年( 1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって
あたたかい援助を続け、明治42年( 1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年( 1962年)に亡くなった。
この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、
歌碑は昭和43年( 1968年)に函館図書裡会が健立した。
砂山影ニの歌碑
砂山影ニ(本名、中野寅雄)は、大正7年( 1918年)に函館で創刊された文芸誌「銀の壺」の
同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には
啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影ニは、大正10年( 1921年)、青函連絡船から
身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。
この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年( 1968年)、海峡評論社と
函館図書裡会が建立した。」



「蹣跚(まんさん)と 夜道をたどる 淋しさよ 酒はひとりし 飲むものならず」。
「蹣跚」とは「足もとがよろめくさま」。



砂山影ニの歌碑
「わがいのち 海峡の浪の間に 消ゆる日を 想ふ~~岬に立ちて」



石川啄木一族の墓
道路沿いでは最も高い位置に石川啄木の奥様と家族のお墓が。
東京で亡くなった啄木の遺骨は、奥様の希望で、ここ函館に埋葬され、のちに啄木を
慕う人々により、市街と海を望む場所に、一家のお墓が建てられたのだと。



啄木の死後、妻の実家があったこの地に改葬されたのだと。



石川啄木一族の墓
明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年
5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)
同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいもので
あった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木で
あったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月
啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月後の後を追うかの
ようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に
墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら
永遠の眠りについている。」



「啄木一族墓」



「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
啄木の最初の歌集『一握の砂』の冒頭に収録された一首。 
青森県の大間町大間崎にある石川啄木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、
東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されているのだと。
大間は函館の対岸だが、啄木一族の墓碑がここにあることから、こちらにもあるのだろう。



眼下に住吉町の海岸そして住吉漁港を望む。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.12.17 09:16:35
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