JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.10.05
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カテゴリ: 国内旅行
「野辺山駅」を後にして再び国道141号線・佐久甲州街道を北上し、「龍岡城」を目指して進む。



野辺山高原サラダ街道から男山( 1,851m)が正面に。



小海町(ここは標高1020m)に入る。



左に曲がり進むと「松原湖」方面へ。



前方右手にあったのが「佐久総合病院 小海分院」。



「佐久穂町役場」入口前を通過。



「高野町」交差点を右折し、県道437号線の千曲川に架かる「栄橋」を渡る。
南佐久の千曲川の清流・千曲川に架かるこの橋は、全長86.6mの鉄筋コンクリートローゼ桁橋で、
昭和初期に長野県に赴任した若い技術者によって設計され、竣工は1938年(昭和13年)と
記録されている。美しい曲線を見せる橋の橋台にはレトロな装飾柱が立っていて、当時の人々の、
橋への思いを知ることができるのだ。 2013年(平成25年)に補修工事が行われ、この橋の
記念講演が開かれたといいます。 土木学会選奨の「土木遺産」 となっている。



そして県道2号線・川上佐久線を北上する。
正面に、「浅間山」の姿が現れた。



左手には「稲荷山公園 コスモタワー」が見えた。
このコスモタワーは高さ35メートルの展望台で、109段の階段を上り切ると佐久地方を
一望できると。
また、からくり時計の機能を備えており、決まった時間になるといつもとは違った
コスモタワーを見ることができるのだと。



こちらが「コスモタワー」の全景であるとネットから。


   【https://www.wikiwand.com/ja/%E8%87%BC%E7%94%B0%E7%94%BA】より

そして「龍岡城跡五稜郭」の案内表示が。



「龍岡城跡五稜郭」と「日本で一番海から遠い地点」案内板が。
1996年(平成8年)に茨城県つくば市の「地図と測量の科学館」で催された
「なんでも相談コーナー夏休み相談会」において筑波大学の学生から
「海からもっとも遠い地点はどこですか?」という質問がなされた。
この問題に答えるために国土地理院によって調査が行われ、
その結果長野県佐久市田口字榊山209-1(北緯36度10分35.87秒東経138度34分51.35秒座標:
北緯36度10分35.87秒 東経138度34分51.35秒、標高約1,200メートル)の地点が
海から最も遠い地点として特定されたのだと。



回り込み「五稜郭 であいの館」の入口門の前を通過。



「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」案内柱。



そして駐車場に車を駐め、「五稜郭 であいの館」の中へ入る。



続日本100名城スタンプとパネル展示や資料、発掘品が展示されていた。
入館は無料。ここでパンフレットや地図を頂きました。



「五稜郭 龍岡城」ジオラマ。
手前がこの後に場内入った表門。



「松平乗謨(大給 恒 おぎゅうゆずる 1839~1910)公年譜
大給松平家の第11代目。改名前は松平乗謨(まつだいら のりかた)。
家督相続後、三河(いまの愛知県)にあった居所を信濃(いまの長野県)に移し、
龍岡城(五稜郭)を築いた。
江戸幕府では大番頭、若年寄、陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などを歴任し活躍した。
明治に入って名前を大給恒と改め、新政権で活躍。メダル取調御用掛であった際には
世界の勲章について研究し、後に「文化勲章以外の勲章は大給によって作られた」とまで
言われた。1877年の西南戦争の際に傷病兵を敵味方分け隔てなく救済する必要性を感じ
佐野常民と共に博愛社を設立し、副総裁に就任した。」



大給松平氏の系譜。
以下ウィキペディアより。
大給藩
大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、
代々松平宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた
松平真次は、大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡
大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。
真次の子・松平乗次は、大坂定番となって摂津国・河内国・丹波国などで1万石を加増され、
1万6000石の大名となった。
宝永元年(1704年)、第3代藩主・松平乗真の代に、近畿地方など領地1万2000石に代り、
信濃国佐久郡田野口に同石高の領地が与えられた。また乗真は、大給が山間にあって交通の便も
悪く手狭となったことを理由とし、正徳元年(1711年)4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。
奥殿藩
奥殿移転後も、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが
起こった。天明年間にも天候不順から凶作となり、そのために藩内で暴動が起こった。
このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を
称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館
などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、
他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。
乗利の跡を継いだ松平乗謨(のりかた)のもとで幕末期を迎える。幼少より学問を好んだ乗謨は、
海陸御備向を経て、文久3年(1863年)1月に大番頭に、同年8月には若年寄に抜擢された。
文久3年(1863年)、乗謨は信濃国への陣屋移転・新築許可を江戸幕府から得る。奥殿藩の領地の
大部分があった信濃国佐久郡田野口への移転は念願であり、幕府による参勤交代緩和
(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである。幕末の国内情勢緊迫の中で、
東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される手狭な奥殿から退避する意味も
あったという。なお、三河国の領民の多くはこの移転に反対して、嘆願書を差し出すなど騒動が
生じている。
田野口藩(龍岡藩)
信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる。西洋の築城術に関心を寄せていた
乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)とすることを計画、元治元年(1863年)より
田野口村で築城を開始した。田野口陣屋(龍岡城)は、函館の五稜郭とともに日本に2例のみの
星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが[5]、城郭としては
未完成のまま明治維新を迎えたという。
藩政においてはいちはやくフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った。
乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行、慶応2年(1866年)に老中・陸軍総裁に任じられ、
江戸幕府を支えるために奔走した。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。
新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が蕃松院(佐久市田口)にある。
なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。
明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。
なお、乗謨は明治維新後に大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名、日本赤十字社の前身である
博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した。
明治17年(1884年)に子爵、明治40年(1907年)に伯爵に昇った。」



世界かんがい施設遺産「五郎兵衛用水」ポスター。
2018年に世界かんがい施設遺産になった「五郎兵衛用水」は、江戸初期に完成した
全長約20㎞の灌漑用水。



「龍岡藩主・大給恒の生涯(1839~1910)」のタイトルがあった写真入りの年表。
三河奥殿藩の第7代藩主・松平乗利の長男として江戸藩邸で生まれた。
幼少から聡明な人だったと。
1863年大給松平氏最後の藩主である松平乗謨は、三河国奥殿藩藩の分領である信濃国佐久郡への
藩庁移転と陣屋の新築許可を江戸幕府から得た。
松平乗謨は、江戸幕府の軍備の遅れを憂い、西洋式の火砲、築城技術を熱心に学んだ。
1907年の69歳の時、伯爵に叙され、1910年、旭日桐花大綬章を贈られているのだと。



「五稜郭ゆかりのまち 函館市」と「ゆかりのまち 岡崎市」
「岡崎市との結びつき
三河藩主松平乗謨(のちの大給恒)が、元治元年(1864年)田野口に龍岡城を築城した
縁により、昭和5 8年7月「ゆかりのまち」として臼田町と協定を結び、以後物産でも
交流を深めています。」


和凧「臼田町 五稜郭と松平乗謨」。
「臼田町」とあるのは、現在、龍岡城址がある「佐久市田口」は、市町村合以前は
「臼田町田口」だったからであろう。



「信州 佐久
日本に二つしかない 龍岡城五稜郭」桜のポスター。



「龍岡城五稜郭 表門」と「五稜郭御殿平面図」。



「大手御門弐拾分壱正面之図」。



当時そして現在の「龍岡城 五稜郭 」の写真と図面。



「龍岡城五稜郭俯瞰図」。
龍岡城五稜郭は周辺を治めていた田野口藩の藩主・松平乗謨(のりかた)が
1867年(慶応3年)に築造。西洋技術を用いた星形城郭の「五稜郭」と称されるのは
函館と共通する一方、面積は4分の1程度にとどまり、戦乱の舞台ともならなかったため
知名度もいまひとつ劣るのだが。



明治時代の「歴代賞勲局正副総裁(長官)一覧」
賞勲局(しょうくんきょく)は、内閣府の内部部局のひとつ。
勲章・褒章など栄典に関する事務を所管する。
大給恒は伊藤博文、西園寺公望他の下で副総裁を勤めていたと。



「自ら図案を創る
大給恒は世界各国の勲章制度を研究、その結果「日本の勲章はあくまで日本古来の伝統を
もとにしなけれはならない」とし、外国の勲章にはない独特の図案の考案に自ら筆をとり
苦心を重ねた。」



当時の写真。



和凧「星の町臼田 五稜郭と松平乗謨」



紅葉時のドローン写真。



右手に「龍岡城(五稜郭)竣工図」



続日本百名城の「龍岡城 認定証」。



「田口村村役場鬼瓦」のタイトルがあった古い鬼瓦の展示品。
かつての「田口村村役場」の正面玄関にあった鬼瓦と紹介されていた。



龍岡城五稜郭の瓦
五稜郭の御台所の瓦。大給松平家の蔦の紋が入っている。



続日本百名城「129 龍岡城」のスタンプを頂きました。



「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」の内部見学を終え、外に出て振り返る。



こちらが「五稜郭 龍岡城」表門入口。



右手に「大給恒(おぎゅうゆずる)」の胸像が。



近づいて。



佐野常民と共に日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献した。
佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、大給恒は「日赤の母」と呼ばれていると。



「本城は文久三年旧龍岡藩主松平乗謨(後名伯爵大給恒)其の居城として九月工を起し
慶応二年十二月竣工、我国に於ける欧式築城中五稜型の典型である。 
明治四年廃藩とともに廃城となり建造物は撤去せられ其の一部が小学校舎として使用されている。
塁壕に破壊せられたる所あるを以って修理を加え其の旧規を存す。
注意
一、塁壕を破損せざること。
一、工作物、樹木等を損傷せざること。
一、其の現状を変更せざること。」



「史跡 龍岡城址」石碑と前方に「大手門橋」。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.10.05 05:12:32
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Re:長野:清里、野辺山、佐久方面へ(その6) 続日本百名城・龍岡城(1/2)(10/05)  
オジン0523  さん
当時の写真とは?
認定書の写真、コピペさせていただきました (2020.10.05 08:39:17)

Re[1]:長野:清里、野辺山、佐久方面へ(その6) 続日本百名城・龍岡城(1/2)(10/05)  
jinsan0716  さん
オジン0523さんへ
明治8年(1875年) 尚友学校(現田口小学校・現在のお台所)の写真や
昭和31年(1956年) 校庭における運動会の様子などの写真がありました。 (2020.10.05 09:44:09)

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