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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次今日はいよいよ「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の「その82」です。「輪光寺」の次に訪ねたのが「山王社(日枝神社)」。〒253-0084 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2228。「山王社(日枝神社(ひえじんじゃ))御祭神 大山昨命(おおやまくいのみこと)(山末之大主神)全国の日吉神社、日枝神社、松尾神社の主祭神で、古来日吉山王権現、江戸山王権現、山王権現、山王社などと称したものを明治元年(1868)に日枝神社と改められた。しかし今でも山王さんと親しまれている。圓蔵神明大神宮奥宮にある古器物に、紀元弐千五百三十二年(明治五壬申年秋九月) 天照皇大神 日枝大神 合社記されており、当地より神明大神宮に遷され祀られていたが町内守護神として昭和十九年七月鐘楼堂の建物と共にこの地に遷宮された。昭和四十七年二月竜巻により鐘楼堂は全壊し立替られ現在に至る。御祭神山王権現は安産子育縁結び等に霊験が深く、又酒を造ることが上手な神であった為、酒造業、酒店、酒飲業者から酒の神と敬われている。特に土木の知識にもすぐれているので、土木建築業者からも厚い信仰を受けている神です。尚、申(猿)を神使とすることで知られている。 元旦祭 一月一日 町内祭礼 三月三日 浜降祭 七月十五日 大 祭 九月十七日」「社殿新造、境内整備事業実行委員会」碑。「道祖神」碑。句碑。「春や春 岐路に立てども 和合神」「摂社 山王社」碑。手水場は使用禁止。「山王鳥居」とその先に「神猿像」そして「社殿」。「山王鳥居」は笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架したもの。日吉(ひえ)山王権現の鳥居から始まったという。「九重石塔」。「摂社 山王社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵字御屋敷2228番地 御祭神 大山昨命(山末之大主神) 境内地 二十三.五坪(神明大神宮飛地境内) 元旦祭 一月一日 例 祭 三月第一日曜日 神幸祭 九月第三日曜日山王さまの祭神大山昨命は、農業生産に欠かすことのできない山の自然と山につきものの水流とを司り給う神、ひいては万物を化育するムスビの霊徳を有せられる神である。山王社の神の使いは猿と云われ夫婦円満、殖産繁栄のご利益がある。特に女猿は安産、子育てに霊験があらたかだといわれている。当社の神猿像は東京都千代田区永田町田官弊大社日枝神社の許可を得て模造する。当社の創建は江戸時代で、本宮は旧官幣大社日吉大社東本宮懐島の御屋敷の辰巳(東南)に鎮座と安政六年(一八五九)の圓蔵村絵図に記されている。明治五年九月政府の一村一社令により圓蔵鎮守神明大神宮に合祀。昭和十九年七月神明大神宮の鐘楼堂を移設、社殿として再鎮座。昭和四十七年二月竜巻により倒壊、同年辻町氏子により再建。平成十八年十一月神明大神宮総氏子により、社殿新造、境内整備事業竣工。奉納 土垣・社号碑・神明燈籠・山王鳥居・神猿像・賽銭箱・手洗い水鉢・ 日吉大社遥拝所碑」山王社(日枝神社)の社殿には、ほかの神社と大きく違う特徴があった。それは、境内に狛犬ではなく「猿」が置かれているところ。 猿は御祭神の大山咋神の使いとされており、神様の使いの猿「神猿(まさる)」と言われ、敬われている。その「まさる」という音から「勝る(まさる)」「魔が去る(まがさる)」とも考えられ、勝運の神や魔除けの神として置かれている。音読みの「えん」という音から、猿が「縁(えん)」を運んできてくれると考え、商売繁盛や縁結びの祈願を受けに来る方も多くいる。右には父親の神猿像。左には子供を抱いた母親の神猿像(まさるぞう)。猿は群れを大切にし、子宝に恵まれ安産であることから、「家内安全」や「子授け」「安産」を願い母猿を、そして「マサル」の語呂から「商売繁昌」「社運隆昌」「厄難消除」を願って父猿を撫でていく方が後を絶たないのだと。私も、「神猿(まさる)」の両方の頭を撫でさせて頂いたのであった。鳥居の先に「石碑」があった。その両脇に「道祖神」(左)と「子育石」(右)。「総本宮 日吉大社」。そして「社殿」。「山王社(日枝神社)」の前の路地の先に、「石祠」があった。歴史を感じさせる石祠が鎮座。「懐嶋郷本圓蔵辨財天」碑。「江戸時代の圓蔵村高札場跡 神幸祭御旅所」と。次に訪ねたのが某精機工場の裏手にある「オチョバンバ」。「現在この土地を所有する工場は土地を購入する際に敷地内に建てられていた「お千代」と言う名の老婆の慰霊碑について聞くと、疫病で亡くなったお千代さんを供養するための慰霊碑であり、遺体などは埋まってないことで土地を購入することにしたのだと。民話資料によると了覚寺の敷地にあったお堂に住み堂守りをしていたお千代さんは周りから「オチヨばんば」と呼ばれていた。お堂を守り続け年齢は100歳になり、この地に葬ってほしいと遺言を残し、亡くなった後に高橋文右エ門が代表者となり供養塔を建てたという。昔、子供がこの慰霊碑に触れマラリア系の病気に感染し亡くなったことで「祟りの慰霊碑」として言い伝えられ、心霊スポットに指定されているとのこと」であったがその姿は無かったのであった。何処に行ってしまったのであろうか。これを探したのであったが・・・、ネットより。 【https://anpanmann.amebaownd.com/posts/3580744/#&gid=1&pid=1】より諦めて帰路に。JR相模線沿いを歩く。右手には「鶴田第一踏切 1K960M」があった。「鶴田第二踏切」まで歩き、踏切を渡る。左手の社の中にあったのが2基の「石仏」。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目15。庚申塔(左・1686年)と観音菩薩(右・1755年)。さらに進むと、左手にあったのが「大山灯籠」と「道祖神」碑。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2丁目11。「大山灯籠」の中には双体道祖神が。「茅ヶ崎中央通り」方向に向かってひたすら戻る。。右手奥にお伽の国の如き建物が現れた。「湘南やまゆり第二幼稚園」。「湘南やまゆり学園湘南やまゆり第ニ幼稚園横浜こども教育センター湘南やまゆり学園本部」と。ズームするとこの塔が幼稚園の入口門であるようだ。さらに歩きその先左手に折れた場所にあったのが「円蔵稲荷神社」。もっと大きな神社をイメージしていたが・・・。神奈川県茅ヶ崎市円蔵。「円蔵稲荷神社」の「社殿」。内陣を格子の隙間から。そして「茅ヶ崎中央通り」に出て左折し「円蔵」交差点のカーブに沿って左に進む。JR茅ヶ崎駅行きのバス停を探したが現れないのでGoogle Mapで確認するとに「茅ヶ崎中央通り」はバス通りになっておらず、先程の「円蔵」交差点を直進する「梅田通り」がバス通りになっていることに気がついたのであった。やむなくJR茅ヶ崎駅まで歩くことにする。「千ノ川」に架かる「新千ノ川橋」を渡り上流を見る。下流側には「イオン」の駐車場へのルートが見えた。右側に「神奈川県 茅ヶ崎警察署」。そして左側には「茅ヶ崎 中央公園(第一カッターきいろ公園)」。その先で道路を渡り「茅ヶ崎市役所前広場」へ。「茅ヶ崎市役所」。「茅ヶ崎市役所」を訪ねた。右手に「分庁舎」、正面に「本庁舎」。本庁舎入口へのコミュニケーションウォールには「茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞された皆様」👈リンクの紹介パネルがあった。野口聡一氏。「日本人5人目の宇宙飛行士として、スペースシャトル「ディスカバリー号」に搭乗し、史上初めてとなる宇宙での機体補修をサポートしたほか、計3回におよぶ宇宙での船外活動を成功させました。茅ヶ崎とのゆかり 浜須賀小学校、浜須賀中学校、茅ヶ崎北陵高等学校を卒業されました。」原寸大人形の姿も。宇宙姿の野口聡一氏の写真がサイン入りで。「開高健」コーナー。「開高健 小説家1930年、大阪府天王寺区東平野町生まれる。1954年、壽屋(現・サントリーHD )に入社。宣伝部でコピーライターとして活躍。1974年、茅ヶ崎市東海岸南に仕事場が完成。それ以降、芥川賞選考委員を務め、『夏の闇』で「フィンランド文部大臣翻訳賞」、他作品で「川端康成文学賞」「菊池寛賞」を受賞。病床で書きつづった「珠玉」が最後の作品となり、1989年12月に死去翌年「開高健賞」が創設される。」1957年、ネズミの大繁殖とい-う巨大工ネルギーの奔出を描いた小説『パニック』を新日本文学に発表。一躍新人作家として注目され、翌年には大人社会と対峙する絵画教師を描いた『裸の王様』で「第38回芥川賞」を受賞。サントリー退職後、1964年、朝日新聞社臨時海外特派員として、ベトナム戦争の取材のため南ベトナムへ出発。この体験をもとにした「輝ける闇」で1968年、「毎日出版文化賞」を受賞」と。そして「本庁舎」館内へ。手前は「ビッグ アロハシャツ サイズは驚きの20XL!」と。「「茅ヶ崎アロバビズ」期間中にアロハシャツを着ることて工アコンの利用を控え、環境にやさしいまちを目指す取り組み。環境省が推進してきた「クールビズ」に先駆け、茅ヶ崎アロハ実行委員会が2003年から実施。茅ヶ崎ならではの過ごし方でまちに彩りと活気を。コロナ禍のなか、笑顔てがんばっている人がたくさんいます。茅ヶ崎に住んている人、働いている人、みんなが様々な色合いのアロハシャツを着ることで、まちの彩リと活気に繋がるきっかけになればと思います。」「鎌倉殿の13人」ポスター。「源頼朝と茅ヶ崎ゆかりの地2 0 2 2年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」放送をきっかけに、鎌倉幕府初代将軍源頼朝などに関連する茅ヶ崎ゆかりの地を紹介します頼朝の生きた時代に思いを馳せてみませんか頼朝と茅ヶ崎鎌倉幕府は1192年※、源頼朝が創設した武家政権。1180年、伊豆に流されていた頼朝は、反平家の旗をあげた。懐嶋(現茅ヶ崎市の円蔵、浜之郷、矢畑付近)の在地の武上・大庭景能は頼朝に味方した。一方、弟・大庭景親は相模(現神奈川県)の武士を率いて、頼朝と戦い、頼朝は石橋山で敗北した。頼朝が安房・武蔵を経て鎌倉に入ると、景能は頼朝の新邸や鶴岡八幅宮の造営など鎌倉幕府の基盤作りに奔走した。景能の懐嶋の館は1190年、頼朝が京に上るときには、宿となった。頼朝の寵愛を受けた丹後局の兄・比企能員は、「鎌倉殿の13人」の一人として活躍した。稲毛重成が相模川に架けた橋の落成供養に参列した頼朝は、帰途で弟・義経らの亡霊に会い、落馬した。それが原因か定かではないが、その後、頼朝は亡くなった。※諸説あり」「ゆかりの人物相関図」。「市役所本庁舎」のロビーで順番を待つ人々。「茅ヶ崎市役所 本庁舎。分庁舎」ガイダンスボード。「茅ヶ崎市市民憲章」と各種の「都市宣言書」。「茅ヶ崎市章は1957(昭和32)年10月1日、市制施行10周年を記念として制定されました。これは「チガサキ」の「チ」を図案化したもので、円形であるのは市の融和と団結をあらわし、また翼状平行線は市勢の飛躍と発展を象徴しています。市章は公募によって500余点のなかから佐賀県の方のデザインが採用されました。」と。「茅ヶ崎市役所本庁舎」を後にして「茅ヶ崎市役所前広場」を歩きJR茅ヶ崎駅に向かう。広場にあった像。裸婦像。平和の象徴の鳩が乗った茅ヶ崎市の市章を掲げ持つ。「茅ヶ崎市庁舎の落成にあたり白砂青松の地に人類の平和と市の発展を記念しこの像を建立する。 昭和四十八年六月」製作 日展審査員 中村青田 と。茅ヶ崎市役所庁舎を振り返る。そして左側には巨大な石灯籠が四基。四基の石燈籠は高さが2m以上はある大きな石灯籠。「旧寛永寺石灯籠 四基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 (大八木信昭・信義氏寄贈)東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。これらの銘文から、二番目の燈籠は「嚴有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。」徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていた。それが茅ヶ崎市内に6基移されている。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものである と。右から「奉獻武州 石燈籠 兩基東叡山 尊前天明六丙午年九月八日從五位下甲斐守大江朝臣毛利氏匡芳」奉獻上 石燈籠 一基東叡山嚴有院殿 尊前延寳九年五月八日從五位下信濃守丹治姓大関氏増榮」「奉獻 石燈籠 兩基東叡山浚明院殿 尊前天明六牛丙年九月八日稲葉能登守越智弘通」「奉獻石燈籠兩基武州東叡山浚明院殿 尊前天明六年丙午 九月八日松平伊賀守源忠済」「茅ヶ崎駅前」交差点の地下道を利用する。そしてJR茅ヶ崎駅北口ペデストリアンデッキを歩きJR茅ヶ崎駅に到着。そして2022年3月6日(日)から5回に渡る「茅ヶ崎市の寺社旧跡を巡る」を、この日5月6日(金)に完了したのであった。そして私の『復習の場』として、ブログを82回に分けてアップして来たのであった。【追記】その後、茅ヶ崎市汐見台地区の漏れていた場所を3回に渡ってアップしたのであった。茅ヶ崎市の主要寺院・神社をリストアップ(順不同)して見ました。🔔神奈川県茅ヶ崎市の寺院一覧真言宗了覚院👈リンク 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170長福寺 神奈川県茅ヶ崎市松林3-11-52廣徳寺 神奈川県茅ヶ崎市小和田1-17-5千手院 神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4成就院 神奈川県茅ヶ崎市甘沼473善福寺 神奈川県茅ヶ崎市柳島1-3-28満福寺 神奈川県茅ヶ崎市萩園1632圓蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市十間坂1-3-39金剛院 神奈川県茅ヶ崎市南湖1-2-11輪光寺 神奈川県茅ヶ崎市円蔵2238寶生寺 神奈川県茅ヶ崎市西久保546長善寺 神奈川県茅ヶ崎市矢畑150宗泉寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085善性寺 神奈川県茅ヶ崎市松尾3-22浄土宗 / 浄土系宗派浄見寺 神奈川県茅ヶ崎市堤4317来迎寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291西光寺 浄土宗神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3222梅雲寺 神奈川県茅ヶ崎市下町屋2-14-15浄林寺 神奈川県茅ヶ崎市中島1052西運寺 神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-34浄土真宗来恩寺 神奈川県茅ヶ崎市今宿1-1曹洞宗正覚院 神奈川県茅ヶ崎市堤3681善谷寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137宝積寺 神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3042永昌寺 神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15-44海前寺 神奈川県茅ヶ崎市本村4-21-34玉林寺 神奈川県茅ヶ崎市甘沼214白峰寺 神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551玄珊寺 神奈川県茅ヶ崎市香川1565龍前院 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷356宝蔵寺 神奈川県茅ヶ崎市行谷318日蓮宗 / 法華系宗派唱導寺 神奈川県茅ヶ崎市浜ノ郷401蓮妙寺 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472妙伝寺 神奈川県茅ヶ崎市堤1032本在寺 神奈川県茅ヶ崎市高田1-7-38妙行寺 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2022.06.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「輪光寺」の散策を続ける。「本堂」 天慶山 地藏院 輪光寺 宗派 高野山 真言宗 開山 天快 創建 康永元年(1342) 本尊 運慶作と伝える地蔵菩薩 札所 相模国準四国八十八ヶ所 第19番 御詠歌 「良き種をまきし実りやうつせみの 身も世も安き円蔵じかな」 札所 相模国高座郡南部地蔵二十四札所 第5番 御詠歌 「むつのりの 光りを杖に 六つの道 迷はで西の 空に行かまし」」 本堂前の「梵音海潮音」と刻まれた鐘。「鐘」をズームして。龍の彫刻。扁額「輪光寺」。龍は玉眼?木鼻(右)。木鼻(左)。賽銭箱の横にはメッセージが。本堂前には「不動明王参観ご自由に」の貼り紙があり本堂内へ。手前に鎮座する小さな仏像。近づいて。右側には「不動明王像」と「弘法大師画像」が。この「不動明王像」は、ここ「輪光寺」の関光典(こうてん)住職(73)が、約5年の歳月をかけて一人で手作りした漆塗りの不動明王座像が昨年5月に完成。5月21日(金)には開眼供養が執り行われ、護摩壇に祀られたのだと。台座から炎の光背を含め約180cmの高さがあると。お顔をズームして。「弘法大師画像」。本堂の立派な祭壇を斜めから。祭壇の左側の控間の入口。「平常心是道(びょうじょうしんこれどう・へいじょうしんぜどう)」と。修行とは決して特別な人が特別なことをすることではなく、誰もが平凡な毎日を過ごす中で、その時その時の一つ一つに心を尽くして丁寧に取り組むこと と。この仏具の飾りは何と呼ぶものだろうか?学友から仏具飾り「華鬘(けまん)」と言うのだと。そして「関光典住職」👈リンクが約5年の歳月をかけて一人で手作りした漆塗りの「不動明王」の「製作工程写真」が展示されていた。「不動明王製作工程写真 写真提供 岩崎孝夫 殿」5年の間、檀家の岩崎孝夫さんが制作過程を写真に収めたのだと。「胎内仏と仏舎利」。「本堂」から境内を見る。茅ヶ崎発祥の昔話として有名な「河童徳利」👈リンク。その河童徳利にゆかりのある寺として知られる、ここ円蔵の輪光寺。「本堂」前の巨大な甕には滑稽な姿の河童像2体があった。住職の関光典氏がデザインし山形県羽黒町の陶芸家江川満氏が製作したものであると。湯浴みを楽しんでいるが如き姿で。また、河童にちなんだ伝説がほかにもあると。「男が川でウナギを捕まえて食べてたところ、そのウナギが河童の友達でした。河童につかまった男が尻子玉を抜かれそうになったのですが、平謝りしお詫びに酒をたんまり渡しました。河童はそれで酒盛りを始めたのですが、河で飲んでいたので酒が河に流れ辺りが酒の香りでいっぱいになりました。それで、この辺りの地名が酒が香る川で「香川」というようになり、河にいた子供の河童が酔っ払って流されていきました。それで、油断すると河童でも河に流されるという「河童の川流れ」ということわざができた。」と言う話。境内にあった句碑。「うたかたを 川の精霊(すだま)に 獺祭(おそまつり) 九一」と、これも学友から。「川の精霊」は河童のことであろう。ちなみに獺祭とは川獺(かわうそ)が魚を岸に並べることから春に使う季語であると。この銘酒の名前にも使われている季語が、見事な一句として読まれているのであった。裏面には「河童徳利の碑二百余年の昔、西久保間門川で同村の五島兵衛さん(三堀)が助けてやった河童からお礼に貰った徳利 底をたたかなければ永久に酒が出るといわれた江戸時代以来全国的に有名な伝説の徳利がその後行方不明となり横浜、千頭(静岡県)と転転していたのを直系円蔵小室由氏妻せきさんが千頭移住の姉ウタさんから譲り受けられ昭和四十二年九月六日六十数年ぶりで再び茅ヶ崎へ戻って来た。記念の為めに建てた此の碑は県下に於いても極めて異色ある存在となるであろう」と。「地蔵菩薩像」。右手に錫杖、左手に宝珠が。御真言「おんかかひ さんま えいそわか」。こちらは「水子地蔵尊」。「有縁無縁一切諸精霊」と台座に。墓地の奥には「山王社」と書かれた案内板があった。「山王社山王権現社當寺三世法印隆善大和尚之墓源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔」「山王塚」「山王塚由来輪光寺出土の蔵骨器(平安時代末期) 當寺本堂裏手に鍵の手に連なる竹藪があり、本堂に近い約五米の個所は、古くから立入 れば崇りを受けると言われていた。墓地の拡張の為、この薮を取払う事となり一端から 伐除して前記の個所に及んだところ、蔵骨器を発見し作業は中止されるに至った。恐ら くかつての墓域を限った記憶だけは、禁忌の場所だけは禁忌の場所として、失われなか ったものであろう。 発見の際は正位に埋納された蔵骨器の周囲を礎石で固めてあったと云う。 本蔵骨器は備前焼系の素焼土器で、須恵質の蓋を伴っている。蔵骨器の底の方に十糎ほ ど土砂まじりの骨粉があったと云う。火葬骨は現位置に埋納する。源頼朝の重臣懐嶋平権守景能入道供養塔 承元四年(1210)四月九日卆五輪塔 空輪・風輪・火輪(鎌倉時代) 水輪・地輪 (平成時代)無縫塔當寺三世 法印隆善大和尚之墓 永正元年(1504)十月山王権現社 祭神 大山昨命 山王総本宮日吉大社東本宮(滋賀県大津市坂本) 千時寛文十二年(1672)敬白王子三月吉祥日朝宥神使一猿像 寛文十二年」「懐嶋平権守景能入道供養塔」、「五輪塔」。そして「輪光寺」を後にして次の目的地に向かうと、民家の庭にはクレマチスの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.27
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次所狭しと境内に石碑・石像が並んでいた「神明大神宮」を訪ねた後は、ポツンと「本堂」と墓石群が並ぶ「了覚院」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170。トタン屋根の上に宝珠(ほうじゅ)を載せた小さな「本堂」。ネットによると「昭和20年以降無住寺となり廃寺になっていて空き地の中に小さな堂と位牌型墓碑が二基。一つには「太田善太夫吉次之墓」吉次は家光に仕え2260石、御先手弓頭などを務め延宝八(1680)年相模国高座郡円蔵村に葬られたとある。江戸時代初期、円蔵村は旗本三家の分給支給地で大田家はその一つ。」と。「本堂」の隣には墓石群が。「高野山真言宗 輪光寺末寺了覚院 御本尊 阿弥陀如来像江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石(総知行高は二千二百六十石)太田善太夫吉次が菩提の為に元和五年(一六一九)に創建。吉次は法名を了覚院と云。延宝八年(一六八〇)没。太田氏一族及歴代僧侶之墓」大きな墓石が二基。右が「太田善太夫吉次之墓」。左が「◯住院殿◯義空了禪居士正定聚位」「正定聚(しょうじょうじゅ)」とは必ず仏となることの決まった聖者。不退転の菩薩たち。真宗では、他力真実の信心を得た者 をいうのだと。「三十三度」碑。正面 : 淺草観世音 相州圓蔵邑 三十三度 大山不動尊 行者了察右 : 寛政七乙卯暦左 : 十一月日造立之大山不動尊に三十三回登拝した記念にたてられた石碑なのであろうか。ここにも「茅ヶ崎市広報板」が。そして「了覚院」の後方に同様の「御堂」が見えたので訪ねてみた。「円蔵祇園社」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2163-2御堂を正面から。「了覚院」の御堂の一つであったのだろうか。小さな社も横に。道祖神であったのだろうか。注連縄が奉納されていた。寺院の御堂のようであったが。御堂の前から「了覚院」を見る。この畑の場所は、「了覚院」の境内であったのだろうか。そして次に訪ねたのが5分ほどの場所にあった「輪光寺」。「高野山真言宗天慶山輪光寺」。掲示板。二宮尊徳の少年時代(金次郎)の像。境内左側には「庚申塔・石碑群」が。近づいて。「輪光寺の庚申塔(こうしんとう)昭和四十四年八月十五日茅ヶ崎市指定重要文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は寛永十七年(一六四〇)の年号が刻まれ市内に所在する九十基余りの庚申塔の中で最も古いものである。舟形光背で、頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされている。このような形は同時期のものに他に類例を見ず塔の移り変わりからはやや異質であるが、年号からは全国的にも古い三猿塔である。」上記案内板の「庚申塔」はこれであろう。舟形光背型庚申塔寛永17年(1640)5月ケン?・バン・バン(梵字)・三猿正面右側「當六具供養勧功徳伴成佛 寛永拾七年 庚」 〃左側「辰 五月吉日 相州宅良郡圓像人殺嶋村天□岩戸久右衛門 」「人殺」は「人殿」????頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされていた。唐破風笠付角柱型庚申塔元文4年(1739)9月月日(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「元文四己未年」・5人の名左側面「九月吉祥日」・5人の名「廿三夜供𫝥塔」。以下、六地蔵を右から。「栖蓮院殿俊譽妙順大姉 霊位 亨保十五戌天(1730)十二月上十日」。右手に錫杖、左手に宝珠(欠損)を持っ。年銘は没年日と思われる。「華香院殿夏屋清月信女 寛文十年戌四月十一日」両手で香炉を持っ。年銘は没年日と思われる。「智教院隋譽清順大姉 元文三午天八月十四日」「一乗院妙喜日理 正徳二壬辰天四月十五日」と。「雲庵心晴信女 寛文十一年亥十二月廿四日」と。「随源院順譽教哲居士 元文五申年十月廿九日」と。「弘法大師修行像」。「弘法大師修行像」碑。「大師堂」。「弘法大師像」。「本堂」前の石庭。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.26
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「神明大神宮」の散策を続ける。拝殿の左側にあった案内板。案内板に従い「拝殿」の横から奥に進む。正面奥に、「慰霊」碑、手前に、「鶴岡八幡宮景能祭」碑があった。「鶴岡八幡宮景能祭」碑。「景能祭」は、2003年(平成15年)から行われている神事であると。「懐嶋郷 景能祭」碑の「景能祭」は鎌倉の鶴岡八幡宮宮司・吉田茂穂氏の揮毫。「慰霊碑」。前面に日清戦争から第二次世界大戦で亡くなられた英霊32名の名前が刻まれている。明治二十八年四月 ~ 昭和二十三年二月裏面には、過去百年をさかのぼるまでもなく、われわれは幾多の戦争を経て来た。今日の繁栄はこれらの戦争と無縁なものではない。深く戦争の辛酸をなめてきたからこそ平和への堅い信念はゆるごうとしないでのである。ここに日清日露戦争日華事変太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く区民の浄財により慰霊の碑を建立し英名を刻して後世に伝え、永く祭祀の誠をいたさんとする。「懐嶋館土塁址 基底幅 二・五 M 高 サ 一・五 M」「山王権現社」の石鳥居。「山王権現社 御祭神大山咋命元禄十四年(1701)十二月大吉日 相州大圓蔵村氏子創建鶴田町の小室勇氏所有地に三〇七年間鎮座 文化財保護の為、当境内を社地と定め遷移」「山王権現社」の社殿は石造り。「懐嶋平権守景能公年譜保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。 保元物治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。 源平盛衰記 八月廿日 頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。 吾妻鏡 八月廿日 弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。 源平盛衰記 八月廿四日 頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。 吾妻鏡 十月九日 景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。 十月十一日 景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える 十月十二日 景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。 十月十五日 頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。 十月十七日 景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。 十月廿三日 景能、頼朝より懐島郷を安堵される。 十月廿三日 景能、囚人の河村義秀を預かる。 十一月廿日 景能、頼朝に有常の免罪を願う。 十二月十二日 頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。治承五年一月一日(1181) 頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。 ・・・・・中略・・・・・建久六年三月十日(1195) 頼朝の上洛に随行する。正治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。建仁元年三月十日(1201) 景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。承元四年四月九日(1210) 景能、死去する。建暦三年五月二日(1213) 景兼、和田の乱に加勢し敗死する。 五月九日 二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。」「享和年間 懐嶋館出土礎石」と。「懐嶋館址」関連の石碑、石像が所狭しと並んでいた。「懐嶋館址」碑。「懐嶋平権守景能公像」。「懐嶋平権守景能公」碑。お顔をズームして。「南無妙法蓮華経 大庭景能入道霊」碑。「懐嶋館とは、八百年前、懐嶋景能が・・・構えた屋敷である。源頼朝の信頼が厚く、終生身近に仕えた。この館は所領である懐島郷の・・・・・」「懐嶋平権守景能公没八百年祭 承元四年四月九日」「源頼朝、奥州征伐につき景能に意見を聞く大庭平太景能は武家の故老たり。兵法の故實を存ずるの間、故にもってこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合はせられて日はく、この事天聴を窮ふのところ、今に勅許なし。なまじひに御家人を召し聚む、これをなすこと如何に計らひ申すべし。てへれば、景能思案に及ばず申しで云はく。軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるる上は、強ちに其の左右を待たしめたまふべからず。随って泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。論旨を下されずといへども、治罰を加へたまはんこと何事か有らんや。就中に群参の軍士、数日を費すの條、かへって人の煩ひなり。早く発向せしめたまふべし。てへれば、申状すこぶる御感あり。あまつさへ御厩の御馬を賜はる。吾妻鏡 文治五年六月三十日」「八一〇余年前のことです。源頼朝は、命令に従わない奥州の藤原泰衡を討つために、多数の軍勢を集めて、後鳥羽天皇からの出陣許可を待っていました。しかし、なかなか許可が下りません。困った頼朝は、兵法にくわしい景能(かげよし)を呼んで意見を尋ねました。「泰衡はあなたの部下です。部下をこらしめるのに天皇の許可はいりません。直ちに進発なされるがよい」と。なるほどと決心のついた頼朝はたいへん喜び、景能に馬一頭をさずけて感謝しました。」「懐島ゆかりの五輪塔」。「懐島ゆかりの五輪塔」碑。「供養碑の由来高橋庄平家、屋敷内に大正十五年十月九日に建立された供養碑は、高橋藤吉氏が眼を病ってから或る夜、大庭景能が夢枕にたち、自分の供養碑の建立を懇願され、眼の完治を約束した。兄、高橋豊蔵氏と共に懐嶋館の西方内堀北側に供養碑を建立すると忽ち、眼は治癒し効果が現れ、平成十六年十一月二十一日境内に移された。尚、五輪の塔はその時、内堀から出土したものである。大庭平太景能公は、源義朝に従い保元の乱に参戦し、鎮西八郎為朝の強弓を受け膝を負傷した。為朝は射外した口惜しさを、自分の矢が外れたのは不思議だ。日本中で「運」のよい武士を探しても大庭景能ほどの者はいないであろう。「保元物語」」さらに石碑が続く。「奉載景能ゆかりの鶴岡八幡宮源平池、鎌倉懐嶋平権守景能邸跡、大庭小次郎景兼ゆかりの和田塚、三ヶ所の土を戴き、鶴岡八幡宮若宮において、お祓いを受けて層塔内に納め、おまつりしています。」五重石塔。「顕彰碑鎌倉権五郎景正の代々の子孫は広く相模の各地に土着して開発を進め、それぞれが有力な武士団となった。わが懐嶋郷は東の赤羽根川から小出川にまたがる広い地域であって、そこは古くから大庭御厨として開発が進められた土地でもあった。やがて景能は、主君の源頼朝から懐嶋郷の領主と認められ、しかも信頼できる部下として、何事にも重用された。頼朝が上京の際には、懐嶋館に宿泊したのも、主従の絆の堅さを語っている。さらに景能は鎌倉の街の整備、ついで鶴岡八幡宮や若宮の造営、および頼朝邸の建築を任されるなどは、極めて厚い信任によるものであった。それらの工事にあたっては多くの村人らを同伴して、手堅い仕事ぶりを披露していた。建久二年、景能は鶴嶺八幡宮の境内、社殿の大造営を行って面目を一新した。鶴岡八幡宮とは神官僧侶をはじめ、人々を頼りに往来し、鎌倉との文化交流はますます深まった。同時に、懐嶋郷の存在は広く曲間に知れ渡っていった。一方、鶴嶺八幡宮前を鎌倉へ通ずる鎌倉街道は、上方と鎌倉を結ぶ軍事上の要路であって、景能には警備の大任がひそかに課せられていた。かくて景能は、終生鎌倉開府の裏方として志誠を尽くしたが、武士の勢力争いの激しい時勢のために、やがて孤独に立たされてしまったのは、余りにも寂しい晩年であった。まして、息子の景兼が和田の乱にまき込まれて敗北し、ついに懐嶋氏は滅亡の悲運に終わった。それゆえに、父子の墓さえ明らかではない。ここに有志一同はそこはかとない郷愁にかられ、八百余年前の景能、景兼ら一族がふるさとに遺した偉業を景仰し層塔を供え、併せて建碑して後世に問うものである。」石灯籠。石灯籠を別の場所から再び見上げて。「懐嶋平権守景能公没七九五年祭今は昔、風の音も遠い鎌倉の御代に懐嶋の郷を治めて、偉大なる功績を残した懐嶋権守平景能を称え、年毎に「景能祭」の祭儀を斎行することと定める。尚、ここに記念の碑を建立して、ゆかりある鶴岡八幡宮宮司𠮷田茂穂氏に「景能祭」の揮毫を受けた。」「第六十二回神宮式年遷宮茅ヶ崎市神社総代会お白石持行事業曳団参加記念」碑。「掲示板」。「天照皇大神宮」。石の社を正面から。側面には、「宝暦十三癸未歳 林鐘吉且」と。「本殿」の横にも石祠(山王権現社)と石灯籠が。「石祠は平成二十年の暮れまでは円蔵二丁目九番の一画にあったが、新たに移転させられたもの。大きさは基礎を含まない屋根までの高さ七四センチ、屋根の幅六〇センチ、石祠の幅四五センチ、屋根の奥行き五八センチである。銘は石祠の右側面に「山王権現社」 、石祠正面の上部に山王二十一社の種子が最初の一文字(バク)を除く前半十文字(バイからバイ)が刻まれている。また、年号銘は石祠の左側面に「元禄拾□□十二月大吉日」とある。 「元禄拾」までははっきりしている。その下の一文字は 「二」か「四」で、 さらにその下の一文字は 「巳」(み) か「己」(つちのと)と読める。屋根の右側面には 「□□四□/□月吉日」とあり、これはかすかに「慶應四年/六月吉日」と読める。」とネットより。「山王権現社 御祭神 大物主命 滋賀県大津市坂本本町山王総本宮 日吉大社西本宮より分霊を勧請 元禄十四年十二月吉日建之の旧祠が破損し、平成二十五年十二月吉日に改修。」「周遊マップ」。「拝殿」横から境内を見る。再び「神輿殿」。道路沿いには石灯籠が並ぶ。そして、石鳥居と向かい合うように建っていた建物は「神明大神宮」の倉庫であろうか。その裏にあったのが「懐嶋権現社」。鳥居の先に社殿。鳥居の扁額は「懐嶋権現」。内陣。社殿の扁額は「懐嶋権現社」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.25
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「円蔵神明大神宮」前に到着。正面に石鳥居、その奥に「拝殿」。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2282。「懐嶋郷圓蔵鎮座 神明大神宮」碑。裏面には「鎮座八百三十年承安年中記念 平成十三年七月吉日建立」と。狛犬(右)。狛犬(左)。「神明大神宮境内案内図」。右手に「手水舎」。「手水舎」の手前右側にあったのが「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「旧鐘樓礎石」。御神木の銀杏。廻り込んで。垂乳根(たらちね)が下がる大銀杏。「いちょう 昭和三年十一月十日 昭和天皇御即位記念樹」と刻まれた石碑。「神明大神宮社誌」右側には「懐嶋郷発祥の地」。「神明大神宮附近の懐嶋郷の地形図の復元」。「懐嶋郷の景観(大山道より)」。「懐嶋郷の景観(昭和30年代)」。「小室又兵衛が記した円蔵村絵図」。左側に「浜降祭今昔」。「浜降祭参加後境内にて 昭和22年7月15日」「南湖通り 浜祭場へ向かう 昭和29年7月15日」「浜祭場にて 平成21年7月海の日」。「神明大神宮浜降祭初めての供奉届来ル7月1 5日、寒川神社修行之節、私村方大神宮神輿同社同道浜降祭渡幸猶 寒川神社迄奉仕候間此段御届申上候也 明治1◯年7月8日 高座郡圓蔵邑明治14年~25年迄 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年 21年 22年 23年 24年 25年南湖浜列順 7番 6番 6番 6番 4番 5番 5番 5番 5番 5番 4番 6番寒川神社 6番 5番 5番 5番 3番 4番 4番 4番 4番 4番 3番 4番 列順 寒川神社浜降祭 出輿回数 明治時代 15回 大正時代 12回 昭和時代 54回 平成21年迄 21回 鶴嶺八幡宮浜降祭(茅ヶ崎の神社だけ) 明治27年~42年 出輿 数回」「圓蔵甚句セェー さあさ皆様 アイヨー 担ごうじゃないか 同じ神輿を担ぐなら 相州相模は圓蔵の 神明神社の大神輿 あばれ神輿と人は言う 祭り囃子の、そのなかで ゑ組の大紋、背につけて 大山下しの風受けりゃ 担ぐ神輿も荒くなり 度胸千両の勇み肌セェー 茅ヶ崎名所は アイヨー 茅ヶ崎名所は、左富士 上り下りの東海道 そこに、い出たる圓蔵の 懐嶋は景能公 神明神社は館跡 武士どものエー 声がする 」「神明大神宮社誌 鎮座地 茅ヶ崎市圓蔵守御屋敷二二八二番地 御祭神 大日孁命(天照大神) 境内地 二百二十五坪相模国高座郡圓蔵村 村誌昔から高座郡に属しています。懐嶋郷は平安時代の百科事典『和名抄』には大島と記されており、鎌倉幕府の公式歴史書『吾妻鑑』には建久元年(1190)十月の頃に相模国懐嶋としてその名がみえる懐嶋郷の圓蔵村こそ私たちの村です。懐嶋郷の西側を沼地(今では水田になっている)が取り囲んでおり、その中央の高所にあるのでそこが懐嶋と呼ばれたのかもしれません。懐嶋権頭平景能の屋敷跡が村の中央の高い所にあるのがその証拠です。圓蔵村の由来は不詳であり、旧大庭の庄の一部であったものが、大庭の名を取り、圓蔵村の名を使っています。村の西南に位置する浜之郷と呼ばれていたところを、明治元年に分けて村にして、浜之郷と呼んでいます。同じ高座郡の茅ヶ崎村にある円蔵寺の記録には、室町時代の永正年間(1504~1520)までは現在の矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村の全てが相模国高座郡大庭庄懐嶋郷圓蔵村と呼ばれて今、浜之郷にある鶴嶺八幡宮を全体の鎮守としてお祭りしていました。お宮に付属する別当寺も幾つかありましたが、矢畑・西久保・浜之郷・円蔵の四ヶ村に分離してゆくなかで、別当寺も各村に属するようになりました。各々の寺の名前を名乗っています。圓蔵村は昔からの村の名を継いだので、円蔵寺というようになったとか言い伝えがあります。神明大神社延喜式という平安時代の法令に記載された特に古い神社ではありませんが、神社としての規模は、東西に十五間三分、南北に十三間五分で面積は二百六坪、村の西に属する字御屋敷に位置します。大日孁命(天照大神)を祭神とし、創建された年月日は不詳です。里の言い伝えには、承安年間(1171~1174)に懐嶋権頭平景能(大庭平太のこと)がこの地に住んでこのお宮を創建したという。広さは社地として東西六十間南北三十間、面積が千八百坪といわれてきたが、享和年間(1801~1803)に村の領主の一人 旗本の大田善太夫がお宮の周囲を開墾したという。天和元年(1681)から天保六年(1835)に至る社殿造営の棟札四枚が伝わる。明治六年村社に列せられる。明治十三年神輿が新造される。大正十二年関東大震災で倒壊した社殿は、昭和三年に再建される。昭和十七年梵鐘は戦時下で金属回収され、昭和十九年鐘楼は辻町山王社々殿として移築される。昭和二十年神楽殿戦災で焼失し、昭和二十四年に再建される。昭和四十五年大鳥居が再建される。昭和五十六年神輿殿新築、手水舎が再建される。平成九年拝殿屋根銅板に葺替えられ、本殿、幣殿が再建される。平成十三年境内整備事業として社号碑、社誌、神明燈籠、狛犬、春日燈籠、常夜燈、玉垣、懐嶋館址ノ碑が奉献される。 元旦祭 一月一日 景能祭 三月 第四日曜日 浜降祭 七月 海の日 神幸祭 九月 第三日曜日 例大祭 九月十七日 」「円蔵祭囃子の由来」碑と「円蔵神明大神宮」碑。「円蔵祭囃子の由来」碑「円蔵祭囃子の由来平安末期頼朝の頃大庭より景義が此の地円蔵に移り姓を懐島と改め懐島平権之守景義と名乗り館を築き住居した今の神明大神宮一帯の地其の一隅に社を建て鬼門除とす。景義は頼朝に味方し又自分の家臣をいたわり時々酒宴を開き楽人が舞を舞い太鼓を叩き其の太鼓が今日の円蔵祭囃子の起源であるこの太鼓が近郷にひろがり叩いて居たが一時途絶えたが近来復活し急に脚光をあび円蔵では後継者を養成しその甲斐あって昭和五十年三月茅ヶ崎市指定無形文化財一号となる。今回保存会の子弟が指導者長老に感謝の意を持って記念碑を造り無形文化財を文化遺産とし後世に伝えんとするものである。」「円蔵神明大神宮本社は鎌倉時代前約八百年の昔、大庭景義が大庭から此の地ふところ島に移って懐島氏を名乗り屋敷の守り神として建てたお宮である。その後二階堂氏代々が導んだが両氏族共亡んでお宮は村の鎮守様となった。私共はここに立つ時毎年九月十七日の祭礼の日、当時遠く東京伊豆方面まで大衆をうならせた神楽の名人鯛さんのお神楽と太鼓連中の祭はやしをなつかしく思い出さずには居られない」その隣に「道祖神」碑。その右側には「神輿九拾年祭」と「神明大神宮大神輿の由来」。「神輿九拾年祭 大正八年新造吉野嘉一翁は、鎌倉の建具屋に建具職として弟子入りし、修行に励み、年季明けを記念に、大正八年(1919)十八才の時に子供神輿を製作し、神明大神宮に奉納する。昭和三年神明大神宮の拝殿の造営に当り、軒先の垂木の配列を指導する。拝殿の大扉及び建具の施工等、神社に貢献し功績を残した。又茅ヶ崎町最後の町会議員として二期(昭和十四年十月~二十二年九月迄)務める。神輿新造九拾年祭を記念し建碑する。」「大神輿百参拾年祭 明治十三年十月吉日新造神明大神宮大神輿の由来懐嶋郷大円蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮の神輿は、文化三年(1806)二十七両で新造と、輪光寺の過去帳に記されている。円蔵・浜之郷・矢畑・西久保・下町屋・松尾・茅ヶ崎の氏子は、代々南湖浜で浜降祭(みそぎ神事)を独自で斎行する。わが円蔵の大神宮も神輿を造ろうと、明治十三年(1880)七月十五日の浜降祭の後、その日の内に梅澤の里(中郡二宮町山西)の西山神輿屋に、数人の神輿新設世話人が、神輿の製作を依頼する。金七十五円也。神輿の屋根に巴の神紋がないのは、当時の八幡宮の神輿の屋根になかったので、円蔵は付けなかったと古老は云う。十月中旬に神輿が完成したので、世話人はじめ大勢の氏子が歩いて梅澤の里へ行き、神輿を担いで東海道を通り円蔵に戻る。九月十七日の秋の例大祭を十月十七日に延ばし、初めて円蔵の各町内を氏子が神輿を担いで渡御する。明治十四年(1881)七月十五日の寒川神社浜降祭に、初めて円蔵の神輿が出輿する。浜降場式典後、寒川神社迄随行し着後に社頭で式典。後に円蔵に戻る。(明治十四年~二十五年迄)円蔵の神輿の担ぎ方は、明治時代から昭和三十年代までは、担いで走る事が伝統。甘沼・下赤羽根の神輿は小出県道が開通する前は、円蔵・矢畑・浜之郷の参道を通り鳥井戸橋へ。円蔵も同道、のち浜祭場へ。明治時代より円蔵の神輿は、七月十五日の浜降祭の後、甘沼・下赤羽根・高田へ渡御する。又昭和三十年代には、甘沼・下赤羽根の神輿が円蔵二丁目迄円蔵の神輿を送ってくれた事もあった。七月十六日は円蔵の各町内を渡御する。現在の浜降祭は、七月海の日に斎行。円蔵・浜之郷・矢畑・西久保の懐島四社で往復担いで渡御する。秋の例大祭には、円蔵の各町内を渡御する。又神輿の大修理は、大正九年と昭和五十三年に行う。神輿の新造に貢献し功績を残した氏子総代・世話人・円蔵村八十七戸の氏子先人の方々の労苦に感謝し、神輿百三拾年祭を記念し建碑する。明治十三年十月十五日 神輿新設世話人・・ 以下十八名の氏名が記載されていたが略す」。「円蔵神明大神宮境内整備工事奉納者名」碑。2階建ての「円蔵自治会館」。そして「拝殿」。唐破風下の鳳凰の彫刻。その下の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「神明大神宮」。拝殿前に石祠、そしてその中にあったのが「癌封じ霊石」。「がん封じ」と。「がん封じ」の霊石は鶴嶺八幡宮から勧請されたもの。鶴嶺八幡宮に祀られている霊石の両方をさすると病を癒す力が増すという。7月の「浜降祭」のときに「がん封じ」の祈祷が行われるとのこと。 「癌封じ霊石の由来当宮の御祭神天照大神と当宮創健者懐嶋景能公の夢のおつげにより、元懐嶋郷大圓蔵村の総鎮守鶴嶺八幡宮より霊石を勧請。氏子、崇敬者の方々が癌にならぬ様に一生の息災を願ってお祀りしています。又この霊石の兄弟石が市内浜之郷四六二に鎮座する鶴嶺八幡宮に祀られており、両方の霊石をさすると御利益があります。」「神輿殿」。「円蔵神明大神宮」の「神輿」をネットから。 【https://ameblo.jp/abiraunken-0618/entry-12391520553.html】より拝殿左側にあった「力石」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.24
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝生寺」の山門を出て道なりに進むと3っつ目のT字路にあったのが、「北向地蔵」。その横には「➡ 国重文 阿弥陀三尊像 高野山真言宗 宝生寺」案内があった。神奈川県茅ヶ崎市西久保573。「北向地蔵」。1862(文久2)年に再建された道標を兼ねた「北向地蔵」。確かに、北に向いて置かれていて、足元には、「北向地蔵」の石柱が。再び北側正面から。台座には、文久二年(1862年)に再建されたことが刻まれていて、先代のお地蔵さんが、同じ場所か別の場所にあったことを示俊しているのだと。そして「北向地蔵尊」と同名の地蔵尊はあちらこちらに有るが「坐像」は珍しいのであった。地蔵の辻を東に10mほど進んだ三差路には、西久保下町辻の「道祖神」と1860(万延元)年の銘がある「庚申塔」があった。庚申塔の左面には「此方南湖道」と刻まれ、通行人が道に迷わないよう案内していたのであった。神奈川県茅ヶ崎市西久保573。左から自然石板「文字道祖神」銘の彫が浅く、年代等は不明。中央は「青面金剛庚申塔」摩耗が激しく、下部は三猿なのであろうか。右側に「双体神祇道祖神」。いずれも摩耗が激しく、歴史を感じさせてくれるのであった。そして「茅ヶ崎中央通り」に向けて茅ヶ崎市円蔵の住宅街を東方面に向かって進む。アヤメの花が道端に。ここ円蔵の歴史を見て来た民家の門。そして「茅ヶ崎中央通り」が現れた。横断歩道を渡りながら「茅ヶ崎中央通り」の北方向を見る。南方向に少し歩くと「円蔵」バス停近くに石碑があった。この石碑は???ネットで調べてみたが一連のモニュメントの説明が書かれていたのであろうか???その先の右手への道の先にあったのがこの日の後に訪ねた「神明大神宮」への「神明大神宮道」碑。引き返して「茅ヶ崎中央通り」を北に向かって歩き、一連の石碑を追う。次に現れたのが「井戸から出土した 古代の長頸瓶(ちょうけいへい)」「井戸から出土した 古代の長頸瓶この場所で発見された井戸から出土した、今から約1,000年前の土器です。模型は実物大の大きさで細い方が上部で膨らんでいる方が底です。ここで生活していた古代の人が水などの液体を入れていたものでしょう。全体の形は良く残っていましたが、口の部分が故意に割られている可能性もあることから、祭りごとに使ったのではないかと考えられます。しかし、なぜ井戸に埋められたのでしょうか?」「古代の織物具 紡錘車(ぼうすいしゃ)」「古代の織物具 紡錘車(ぼうすいしゃ)ちょっと変わった形をしているこの遺物は、石を加工して作られたもので、糸を加工して作られたもので、糸を紡ぐ道具の一部で古代に使われたものです。周辺からは住居の跡が発見されておりこの地に住んだ人が使っていたものでしょう。紡錘車は図のようにして用いられました。また、本資料は刻み線による模様が描かれていることから、本来の使用目的の他に呪術に使われた可能性もあります。模型は、斜め横から見た状態で実物の4倍であらわしてあります。」道路を横断してジグザグに進む。次にあったのが「まとまって出土した古銭(こせん)」。「まとまって出土した古銭本地区で発見された中世の井戸から古銭が10枚重なり合って出土しました。判読できた文字からこれらの古銭の多くは中国の北宋時代以後に作られた渡来銭と考えられます。しかしながら、どういう経緯で井戸に埋まったのかは明らかでありません。呪術的な意味合いで埋められたのか、あるいはうっかり落とされてしまったのかなどが考えられます。皆さんはどのように考えられますか?模型は、実物の4倍の大きさで表現しています。」「古代生活を知ることの出来る須恵器(すえき)」。「古代生活を知ることの出来る須恵器この場所で出土したうつわの一種で、今から約2,000年前の平安時代の須恵器という土器です。うつわは杯(つき)とよばれる普段使いの食器で、現在のお茶碗に似た使い方をされていました。模型は、底を上にして出土した状態を実物大で表現しています。須恵器は窯で焼かれ、陶器の源流となる焼物です。この須恵器は、形や使用されている土などから多摩丘陵で生産されたものと考えられています。出土する土器によって、時代と物の流通なども知ることができます。」「円蔵北交差点」まで戻り、左折して東に向かう。途中で右折して進むと「あおぞら輝き保育園」が右側にあった。そして園内・道路際にあった「稲荷神社」。次に訪ねた「神明大神宮」の入口手前にあった「避難所・避難場所案内」板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「宝生寺」の見事な瓦葺きの「本堂」が正面に。「懐嶋山 宝生寺 御本尊 金剛界 大日如来 宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七) 総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町 宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顒われであり、このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現する ために、生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの 務めであり喜びです。」「本堂」前の「常香炉」。龍の彫刻であろう。扁額「宝生寺」。内陣。内陣には「金照院」と。ズームして。本尊の「大日如来」は江戸時代中期の作であると。「當山本尊 金剛界大日如来(金剛界大日の真言:オンバザラダトバン) 正観自在菩薩(オンアロリキャソワカ) 大聖不動明王(ノウマクサマンダバザラダンカン) 若誦真言各七編或不定」「「真言(しんごん)」とは、サンスクリット語のマントラ(मन्त्र Mantra)の訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意。『大日経』などの密教経典に由来し、日蓮宗、浄土真宗を除く多くの大乗仏教の宗派で用いられる呪術的な語句である。」とウィキペディアより。「高野山開創千百五十年記念 本堂再建之碑」。そして四月二十九日に年一回の「阿弥陀三尊」の御開帳が行われた「阿弥陀堂」。「阿弥陀堂」。「阿弥陀堂」碑。「宝生寺の阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国指定重要文化財 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ善光寺(長野市)の本尊を模したといわれる善光寺式の阿弥陀三尊像です。手のかたちや一つの光背に三尊がはいっているところなどが、一般の阿弥陀三尊像と違います。善光寺式の阿弥陀三尊は、鎌倉時代から造られており、この像も銘はありませんが鎌倉時代の作とされています。しかし、来歴については不明です。なお、台座と光背は近世のものです。」「阿弥陀三尊像」。ここ「阿弥陀堂」に安置されている「阿弥陀三尊像」は、信濃善光寺の本尊の模像で、1195年(建久6年)の造立といわれ、懐島郷を領していた大庭景義の持仏ではないかともいわれている像であると。カラー写真をネットから。四月二十九日の御開帳に参加したつもりで。鎌倉時代に造られたと考えられ、国の重要文化財に指定される。材質は銅。飛鳥時代や奈良時代の仏像は、銅で造られたものが多いが、平安時代以降は木彫像が主流になる。そのため、鎌倉時代に銅で造られた仏像は少数派だ。わざわざ銅を選んだ理由は、由緒のある銅造の仏像を模刻したからと考えられる と。 【https://mainichi.jp/articles/20201111/ddl/k14/040/170000c】より梵字が刻まれた石碑。上に「キリーク」:阿弥陀如来(あみだにょらい)下右に「サ」:聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)下左に「サク」:勢至菩薩(せいしぼさつ)であろうか。「本堂」の横に屋根が設置されていた。法事等の駐車場なのであろうか?「瀧不動尊」。「瀧不動尊」碑。近づいて。お顔をズームして。左眼が・・・。厳しい表情なのであった。「秋光や 不動明王 屹然と(登) 白楊」仮設屋根?を反対側から。「手水舎」。両脇に石灯籠、その先に「大師堂」が。「大師堂」。「弘法大師像」。「宗祖 弘法大師」碑。「本堂」、「庫裡・寺務所」を見る。「観音堂」を見る。「二宮金次郎像」であっただろうか。正面から。「観音堂」碑。内陣の「観音像」。お顔をズームで。「六地蔵」。「本堂」南の墓地。石塔、石仏が所狭しと。中央の石塔。「宝生寺」の「先師墓」。「當山先師墓」碑。宝篋印塔には「當山先師尊霊」と刻まれていた。立派な墓石が並ぶ大きな墓地。「大師堂」横から「本堂」を見る。そして「宝生寺」を後にし、「山門」を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.22
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「妙運寺」を後にして次に訪ねたのが150m程度の場所にあった「日吉神社」。「西久保日吉神社」とも。現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂ける。神奈川県茅ヶ崎市西久保466。礎石が高い「石鳥居」とその先に「拝殿」。大きな神輿の通過の為なのであろうか。「神社境内では次のことを守りましょう」と子供達に向けて。右手に「西久保自治会館」。「拝殿」。創建年代や由緒は不詳。御祭神には、山王様といわれる大山咋命。例祭は9月3日だが、現在は8月末などに神輿渡御が行われているようだ。当宮は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。当社神輿は、参加神輿の中でも最重量級とされる。境内には、本殿や拝殿の他、昭和16年(1941年)建立の阿吽の狛犬や、神輿殿がある。同じ敷地に、上記のごとく西久保自治会館があった。他に境内には、戦没者を弔う慰霊の碑、大山街道の道標、江戸時代後期の寛政6年(1794年)銘のある道祖神と庚申塔の碑や、力石があった。昭和16年(1941年)建立の阿形の「狛犬」。昭和16年(1941年)建立の吽形の「狛犬」。「拝殿」の唐破風下の「鳳凰」の彫刻。水引虹梁の上の中備(なかぞえ)にも見事な龍の彫刻が。木鼻(右)。こちらは牡丹の花を持って。木鼻(左)。こちらは竹毬を持って。神明造の「本殿」を見る。「脇障子」(右)。「脇障子」(左)。「慰霊の碑」。近づいて。裏面には「この碑は過去数次の大戦に於いて祖国の繁栄を念じつヽ一命を捧げられた英霊を慰めるため区民並びに篤志家の浄財によって建設されたものです昭和四十五年 西久保自治会」と。「慰霊の碑」の前右側にあったのが「力石」。「力 石この石は、昔村の若い衆が力競べに使ったものです。その当時、娯楽の一つとして農休みの日や夏の宵の一と刻、村の辻でこの石を相手に汗を流しあって、力自慢をしたのだそうです。石の重さ100キログラム以上(三〇貫位)」と。大きな神輿殿。「神輿」をネットから。「日吉神社」の前のT字路にあった「石碑群」。右から「大山街道の道標」、江戸時代後期の寛政6年(1794)銘のある「文字道祖神」、そして「庚申塔」。「大山街道の道標」。「板碑型庚申塔」延宝8年(1680)日月・「奉造立」・三猿正面右側「維持延宝八庚申暦□□吉日」 〃左側「相州高座郡□□」 〃下側 9人の名近くのサツキの花、新緑が美しかった。ナビに従ったが、少し遠回りをしてしまったが次の目的地の「室生寺」に向かう。左手に見えたのが「湘南東部総合病院」。神奈川県茅ヶ崎市西久保500番地。そして目的地の「宝生寺(ほうしょうじ)」に到着。白壁に設置された「掲示板」。「令和四年四月二十九日 自 午前九時 迄 夕方「阿弥陀三尊御開帳」 御自由に拝観下さい」と右側に。これには茅ヶ崎市に住む旅友が訪ねたとのこと。「宝生寺」の「山門」。奥に「本堂」が見えた。「山門」前の両側の赤い頭巾を被った地蔵様が迎えてくれた(右側)。道しるべ情報が刻まれていて、「右子権現道 左南湖道」と二方向を示している。宝暦七年(1757年)に造られたと。近づいて。「山門」前の両側の、頭巾を被った地蔵様が迎えてくれた(左側)。こちらは文久二年と。「右子権現道 北一之宮道 左南湖」と三方向を示している。子権現(ねごんげん)とは、萩園橋を渡って八王子道に出たところにある常顕寺のこと。宝暦七年から文久二年までの105年間で、寒川方面への往来が増加した証であると。「阿弥陀三尊像 昭和三十四年六月二十七日 国重要文化財指定 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像 三躯 左脇侍 観音菩薩 三二・九センチ 中 尊 阿弥陀如来 五八・三センチ 右脇侍 勢至菩薩 三三・八センチ仏法最初の像と伝える信濃善光寺木尊の模像で、いわゆる善光寺式如来といわれるものである。鎌倉時代に非常に多くつくられたという。木像も鎌倉時代の作とみられている。一説にこのあたりを領していた懐島景義の持仏であったともいわれるが、その来歴については全く不明である。なお、台座および光背は後世のものである。」山門右側の石碑には「重要文化財 六躯体銅造 阿弥陀如来両脇侍立像 三体昭和三十四年六月二十七日指定」と。左側には寺号標石「懐嶋山寶生密寺(かいとうざんほうしょうみつじ)」と。境内右側にあったのが「白蛇辯才天(はくじゃべんざいてん)」。鳥居の扁額「白蛇辯才天」。「白蛇辯才天」碑。石造りの太鼓橋の先に石祠の「白蛇辯才天」。「白蛇辯才天」は、金運上昇・商売繁盛・病気平癒・登校拒否解消・家出人足止めなどにご利益があるとのこと。ズームして。その先にあったのが「水子地蔵尊」。「いつの日も変わる事なくさしてあげたや一輪のコスモス」。「生まれかわってこの胸に思いきりだきしめてあやしてやりたやかざくるま」石仏が二体。そして数え切れないほどの「舟形水子地蔵」のお姿が。「水子地蔵尊」を横から。「庫裡」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.21
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが大山街道の小出川にかかる「大曲橋」の手前にあった「河童徳利ひろば」。供用開始は 令和4年3月28日とのこと。神奈川県高座郡寒川町大曲4丁目4−211−3。ここは「小出川」の東にあったので「茅ヶ崎市内」と思い訪ねたのであったが、今回ブログを書いている時に、この場所は、茅ヶ崎市西久保と寒川町大曲にまたがり、茅ヶ崎市と寒川町の広域連携事業として設置された公園であることに気がついたのであった。入口付近は「寒川町」、河童の像があるところは「茅ヶ崎市」であるようだ。ネットには「維持管理は茅ヶ崎市が行っています」と。Googleマップの航空写真には「河童徳利ひろば」は未だ存在していない。地域に伝わる「河童徳利」の民話をテーマにしており、約2300m2の敷地にはブロンズ製の河童像や井戸水をたたえる池があった。「間門川伝説 河童徳利発祥の地」。「民話「河童徳利」伝承について」案内板。民話「河童徳利」伝承について民話「河童徳利」は、むかし西久保に住んでいた五郎兵衛さんという人物が、この付近にあった間門橋(現在の大曲橋)のたもとで河童と出会ったことから始まります。馬の尻尾にかじりついた河童は、村人たちに捕まりますが、五郎兵衛さんが河童を助けてあげました。そのお礼にと河童からもらった徳利は、底を3回叩くまでいくらでもお酒が出るものでした。五郎兵衛さんは朝から晩までお酒を飲み続け、すっかり怠け者になってしまいましたが、ある日大切にしていた馬がやせ細っていることに気づき、徳利の底を3回叩きお酒が出てこないようにし、もとの働き者に戻りました。西久保には遥か古来よりこの河童にまつわる伝説が民話として伝わっており、現在に至るまで多くの人々に愛されてきています。」五郎兵衛さんと河童。「河童徳利ひろば」の最奥から池と池の中の「河童」を見る。「河童」に近寄って。高さ約1.2mの「河童」の銅像。正面に廻り込んで。「河童」の持っている徳利から酒の代わりに水が流れ落ちていた。流れ出た水で周囲は池になっていた。流れ落ちる水(酒)をズームして。「河童」の後ろ姿を。懐かしい手押し井戸ポンプが安全柵に囲まれて。非常用のポンプなのであろう。そして池の端には石碑が。手前に石碑と堰の一部が残されていた。廻り込んで。「西久保 堰竣工 添田良信(他にも九名の名が刻まれていた。) 起工 昭和二十九年四月 竣工 昭和二十九年七月 工費 三百三十萬圓」 と刻まれた石碑。この朱の小さな社のある場所が、「間門川の河童伝説」👈リンク 発祥の場所『古池のあった所』であるようだ。「小出川」はその昔は「間門川」と呼ばれていたようだ。入口から「河童徳利ひろば」を振り返る。右手には「小出川」、奥には「新湘南バイパス」・「圏央道」の「茅ヶ崎JCT」が見えた。そして来た道を戻り次の目的地の「妙運寺」に寺の裏から向かう。そして「妙運寺」の入口に到着。神奈川県茅ヶ崎市西久保1564。「掲示板」。「三日見ぬ間」と。「世の中は 三日見ぬ間の 桜かなという俳句があります。世の中の動きや変化はとても早い。ちょうど三日見ないうちにつぼみたった桜が咲いたり、満開の花が散ったりするようなものという意味の句です。学生の頃は、一年経つと学年が上がり、また小学校から中学、高校、大学と学校も変わっていきます。時問の変化が実感としてよく分かりました。しかしある年齢になると世の中も自分もいつまでも同じで、昨日も今日も、今年も来年も変わらないと考えてしまうようです。よく考えると、それはとても怖いことです。人問は生まれた瞬間から死に向かって歩き始め、一日一日確実に死に近づいています。人生とは死に向かっての旅です。一秒過ぎれば一秒分、一日過ぎれば一日分、間違いなく死に近づいているのです。縁起がいいとか悪いとかは関係ありません。悲しいけれど、それが世の中の真実です。「時は金なり」といいますが、「時」はお金以上に大事な「いのち」なのです。その大切ないのちの「時」を、私たちは昨日も今日も明日も明後日も同じと思い、ボーッと過ごしたり、お金や地位のために無為に過ごしてはいないでしょうか。子どもたちを見ると、時間の持つ重さがよく分かります。頼りなかった子が、ほんの一~ニ年の間にすっかり大人に成長しています。まさに「三日見ぬ問の桜」です。子どもは「時」を栄養に、間違いなく成長します。そんな子どもに引き比べて、私たち大人はどれだけ人間として成長したでしょうか。考えると背中に脂汗の流れる思いがします。日蓮聖人は、「人変じて仏となる」と私たち人間の生き方を教えられました。「時」は、とても移ろい易いもの。そしてあっという間に過ぎていくもの。それだけに、「三日見ぬ問の仏かな」といわれるように、「今」という瞬問を大切に、仏の自分を目指してしっかりと生きたいものです。」「法性山 妙運寺」。もちろん日蓮宗の寺。右に「本堂」、左に「??」を見る。「本堂」。「本堂」の扁額「妙運寺」。内陣。更にズームしましたが・・・。日蓮聖人が・・・「まだまだ修行が足りない」と。本堂前に建つ、「日蓮聖人像」。お顔をズームして。この時はしかっりとカメラの焦点を確認してシャッターを押したのでした。寺務所。「今月の聖語法華経は明鏡の中の神鏡なり」=神鏡=鏡の前に立ったとします。あなたの顔、映っていますよね。でも不思議に思いませんか? 一番身近にありながら自分の顔は鏡を通さないと見ることができません。同様に私たちの生き様自体も自分では見えているようで実は見えていません。私たちの姿がありのままに見えているのは仏さまのみです。その仏さまの目を「神鏡」というのです。そんな私たちが「神鏡」に映った我が身を見る術は、素直な心で一心に仏さまに手を合わせる。この一点に尽きるのです。日蓮聖人ご遺文『神国王御書』本書は「神国」とあるように、冒頭、天神七代・地神五代の流れを受け継ぐ日本に、仏教が伝来した経緯から説き起こされます。その尊き縁をいただく国でありながら、なぜ内乱が起きるのかを究明され、その原因は仏法の乱れが人心の乱れを引き起こし、下剋上の世を招いたと指摘されています。人びとの心の鏡になるべき教え……。すなわち法華経という「神鏡」に心を照らすべきことを強く訴えられているのです。 文永12年(1275) 聖寿54歳」チョット古い、昨年の「今月の聖語」であったようだが。境内には「井戸」があった。題目塔「南無妙法蓮華経」。 日蓮宗の宗紋である「井桁に橘」。「本堂」、「日蓮聖人像」を斜めから。再びこの建物は?「慈母観音」とその奥に「十三重塔」。「慈母観音」とその奥に八重桜。更に近づいて。「慈母観音」。賽銭箱の上に常香炉。「稲荷社」の朱の鳥居。「稲荷社」。「稲荷社」の横に「十三重塔」。「妙運寺 墓参り十ヶ条」とあったが・・・。「本堂」を振り返って、「妙運寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.20
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「八幡神社」を後にして北に向かう。正面の道路脇に墓地が現れた。地蔵堂。地蔵尊。歴史を感じさせる石碑群が並ぶ。「陸軍歩兵一等卒勲八等石井徳蔵墓」と刻まれた墓石。墓地を望む。右折して進むと見えて来たのが「萩園橋」。「はぎそのはし」。「はぎぞのばし」ではないのだと。「小出川」の下流側を見る。新湘南バイパスも見えた。上流側。「小出川」。「萩園橋」を渡った後は「小出川」に沿って北に進む。富士山の姿が確認できた。ズームして。大山の姿も。道なりに進むと右手にあったのが「神奈川県立茅ケ崎養護学校」。「神奈川県立茅ケ崎養護学校」の正門から校舎を見る。神奈川県茅ヶ崎市西久保29−1。「神奈川県立茅ケ崎養護学校」発達障害もしくは発達が気になるお子さんが利用できる神奈川県(茅ヶ崎市西久保)の特別支援学校。「新湘南バイパス」の下を左折して高架下を歩く。前方にあったのが「懐嶋山の碑」。その先には「茅ヶ崎JCT」の高架橋が見えた。「旧跡 懐嶋山(ふところじまやま)」碑(えな塚)。神奈川県茅ヶ崎市西久保。「旧跡 懐嶋山新編相模風土記日 懐嶋山 松四五株立てる小丘也 赤池川 四方萩園村境を流れる 宝生寺 懐嶋山と号す本尊大日を歩んす因ミニ源頼朝ノ妾比企氏丹後局懐妊ヲ政子ノ方ノ知ル処トナルニ及ビ兄能員ニ命ジテ密カニ当地大庭庄懐島景能ノ邸ニ預ケ次デ桜屋敷ニ移ッテ男子ヲ安産。三郎ト名付ケラレタ。文治元年六月十五日三郎七才ノ折鎌倉八幡宮ニテ頼朝ト親子ノ対面アリ忠久ト名乗リ島津氏ヲ称シタ。三郎ノえなヲ埋メタ塚上ニ松樹ヲ植エソノ古株ハ今モ地中ニ存スル。塚ノ東方一帯ヲ小字観音堂ト呼ビ阿弥陀三尊ヲ安置シタ御守堂ガアッタ。 以上 懐嶋山ノ伝承ヲ記ス」「旧跡 懐島山の碑この地一帯は、中世、懐島郷といわれ、懐島氏を称し、源頼朝の家臣であった大庭景能の支配した所として知られ、鎌倉幕府との関連などが、「吾妻鏡」や「新編相模国風土記稿」の書物にも記録され、地名や伝承が残っています。この碑の立つところは俗に「えな塚」といわれ、次のような話が言い伝えられています。源頼朝の側室、丹後局は源頼朝の子を身ごもりますが、正室の北条政子に知られ、大庭景能の邸に身を隠しました。やがて、西久保の桜屋敷に移った局は、男の子を生みました。その子は三郎と名付けられ、三郎の(胎盤(胞衣(えな))を納めたところがえな塚と言われています。三郎は、成長した後に島津忠久と名乗り、九州の島津氏の祖となりました。この碑は近くの宝生寺が所有しており、この西久保地区が辿ってきた歴史を語る重要なものとなっています。碑の文中にある阿弥陀三尊は国指定重要文化財としてこの宝生寺に安置されています。」そして県道44号線・伊勢原藤沢線の地下道に向かう。地下道の壁画を楽しむ。平成28 年度から茅ヶ崎市とNPO 法人湘南スタイルとの協働事業(平成29 年度までの2 か年事業)「落書き防止、抑制のためのアートペイント事業」を実施し、平成30年2月に第2期の西久保橋東側地下道のアートペイントが完成した のだと。製作者は1986 年生まれ、福島県福島市出身 佐川 友星氏茅ヶ崎に残る河童徳利伝説をテーマに、自分のスタイルである抽象表現を組み合わせて描いたと。トンネル中央の2 体のキャラクターは、『河童』と『おちょこ』をかけ合わせており、その両脇に広がる抽象的なラインは、左手側が『光(おじいさんと馬のあおが過ごした希望ある日常)』、右手側が『闇(酒に溺れ迷うおじいさんの精神世界)』をイメージしているのだと。壁画として周囲の環境を見て感じ、色味や空気感を大事に描いた。また、現場でのペイント中に、道行く地元の方々からのお言葉や会話の中からヒントを頂きながら制作にあたったのだと ネットから。そして県道44号線・伊勢原藤沢線への階段を上る。県道44号線・伊勢原藤沢線に出る。左に進むとあったのが2枚の案内板。「民話 「河童徳利」伝承について民話「河童徳利」は、昔西久保に住んでいた五郎兵衛さんという人物が、この西久保橋の上流にある間門橋(現在の大曲橋)のたもとで河童と出会ったことから始まります。馬の尻尾にかじりついた河童は、村人たちに捕まりますが、五郎兵衛さんが河童を逃がしてあげました。そのお礼にと河童からもらった徳利は、底を3回叩くまでいくらでもお酒が出るものでした。五郎兵衛さんは朝から晩までお酒を飲み続け、すっかり怠け者になってしまいましたが、ある日大切にしていた馬がやせ細っていることに気づき、徳利の底を3回叩きお酒が出てこないようにし、もとの働き者に戻りました。西久保には遥か古来よりこの河童にまつわる伝説が民話として伝わっており、現在に至るまで多くの人々に愛されてきています。」「小出川流路の今昔この西久保橋の下を流れる小出川は、昔は間門川や赤池川と呼ばれてきました。河童徳利の民話など、小出川は古来より地域と共にあり、様々な恩恵を授けてきた一方で、自然災害の猛威を振るってきました。小出川は大正時代初期までこの西久保地域より少し西側を細かく蛇行しながら流れていました。しかし、夏頃になるとしばしば水害が起きていたことから、上流と下流側で河川改良組合が発足し、大正時代後期から昭和時代初期にかけて、ほぼ現在の流路とするための改修が行われました。この結果水害が減り排水路も安定したため、農業の向上にも繋がりました。」このキャラは?「小出川流路の今昔」。昔はかなりの蛇行があったようだが。「小出川」に架かる「西久保橋」、高架橋は圏央道。圏央道の「茅ヶ崎JCT料金所」を見る。圏央道の「茅ヶ崎JCT料金所」を見る。「小出川」を見る。この後に訪ねた「妙運寺」の案内が妙運寺第二墓地前に。新湘南バイパス脇には電波塔があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「萩園通り」に面して隣にあった「満福寺」に向かって進む。「満福寺」の入口に直ぐに到着。神奈川県茅ヶ崎市萩園1632。「高野山真言宗 大皷山満福寺」。入口右側に右側に鉄枠で囲まれた「地蔵尊」。寺号標石「高野山 真言宗 大皷山 満福寺」。正面に「本堂」。参道右手に石仏群。その隣に「大子堂」。「弘法大師像」。石碑には、「鉦の音 六つの巷に 栄えなば みの入相を 思いしるべし」 新編相模風土記稿萩園の条に 地蔵堂満福寺持木造にて腹籠の 像あり相州二十四輩札所第八番なりの記あり「宝篋印塔」。大きな石碑。菊池翁碑銘 前宮内大臣正二位勲一等伯爵土方久元篆額嗚呼菊池翁之逝既三年・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・猗菊池翁 起身名族 和以親人 郷辑黨睦 誠以敬神 崇祀穆粛 治水有功以感州牧 蠶桑興富 以潤民屋 慶◯孫子 永◯介福 分福無窮 有碑之大正五年八月 神奈川縣立小田原中學校長正七位阿部宗孝撰 雨降山大山寺法主前學頭権中僧正高木秧雅書「菊池翁碑」「菊池翁」の文字が。墓地を見る。石碑と石仏。「屋根修理記念」碑。石仏。「本堂」。近づいて。「高野山真言宗 重ね宗紋」。内陣。ズームして。「本堂」前の大きな石灯籠。そして「十王堂」。内陣。死後の世界をつかさどる十人の王を祀ったお堂。 泰広王(不動明王)・初江王(釈迦如来)・宗帝王(文殊菩薩)・五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩) 変成王(弥勒菩薩)・太山王(薬師如来)・平等王(観音菩薩)・都市王(勢至菩薩)・五道転輪王(阿弥陀如来)ズームして。十王とは私たちが亡者になって仏様の世界に入って行く時、 生前の罪業の軽重を裁判し次に生まれて来る世界を決定する冥土の十人の裁判官である。そして、亡者は供養によって、これらの仏様に救われて仏界に送られるという。 「萩園通り」から墓地越しに「満福寺」の「本堂」を見る。同じ場所から「常顕寺」の「本堂」を見る。次に訪ねたのが「稲荷社跡地」。前方の小さな林の前に石鳥居が見えて来た。神奈川県茅ヶ崎市萩園1805−9。石鳥居。扁額「正一位」。社殿。内陣。小さいながら、稲荷社があったが、「稲荷社跡地」とは??畑の角にあった「馬頭観音」碑。「馬頭観音」碑に近づいて。そして次に訪ねたのが「八幡神社」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1819−15。朱の鳥居。扁額も「八幡神社」。「社殿」。内陣には石祠が3基。「社殿」の裏にあった小さな五輪塔群。その先、民家の庭?の角にあった石仏。赤ではなく白の布で覆われていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「産業道路」に向かって「萩園」の住宅街を西に進む。「産業道路」に合流して右折して100mほど進むと、左手にあったのが「第六天社」。石鳥居の扁額は「第六天」。正面に「社殿」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1228。内陣。境内にあった「道祖神」碑。そして次に訪ねたのが「十二天神社」。神奈川県茅ヶ崎市萩園511付近。石鳥居の扁額は「十二天」。唐破風笠付角柱庚申塔。元禄7年(1694)12月月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・四臂)・三猿(三面)正 面 月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・四臂)・一猿(不聞)正面右側「オン・カ・バ・ブ・キシャ・ウーン・□・ウン・ラ・ソワー・ サ」(梵字) 〃左側「爲庚申供養二世安楽也」 〃下側「敬白」右側面 蓮華・一猿(不見) 「□□□者」・5人の名左側面 蓮華・一猿(不言) 「現證佛菩提」・5人の名裏 面「時元禄四甲戌天 十一月吉祥日 萩薗村」「十二天神社」は、少し通りから離れた場所、忘れられたような林の中に境内があった。「道祖神」碑。小さな五輪塔の如き石碑群。正面に「社殿」。「拝殿」御祭神:十二天、(以下推定)・国常立神/国常立尊(くにのとこたち)・豊雲野尊/豊斟渟尊(とよくもの)・泥土煮尊/宇比邇神(ういじに)・沙土煮尊/須比智邇神(すいじに)・角杙神(つのぐひ)・活杙神(いくぐひ)・大戸道命/大戸之道尊/意富斗能地神(おおとのぢ)・大戸辺命/大斗乃弁神(おおとのべ) ※[別称]大苫辺尊(おおとまべ)・淤母陀琉命/面足尊(おもだる)・惶根尊(あやかしこね)・伊弉諾尊/伊邪那岐命(いざなぎ)・伊弉冉尊/伊邪那美命(いざなみ) ※[別名]黄泉津大神(よもつおおかみ)扁額「十二天」。卒塔婆には「有縁無縁一切精霊」の文字が。「拝殿」前から境内を振り返る。銀杏の若芽が美しかった。南下して次に訪ねたのが「常顯寺」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1441。題目碑「南無妙法蓮華経」・常顯寺と。よって日蓮宗の寺。大乗阿闍梨日澄の旧跡。旧本山は鎌倉の比企谷妙本寺、脱師法縁。「日蓮聖人 法孫 九老僧 日澄聖人 旧跡」。法孫(ほうそん):仏教の門流であること九老僧(くろうそう):日蓮の弟子の日朗の高弟9人のこと。日朗は多くの子弟の養育にあたる。 その中で特にすぐれた以下の9人を後世に九老僧と称した。「今月の聖語浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり」「今月の聖語」解説=自らの価値観を顧みよ=「丈夫」とは一般に強い、壊れにくいことをいいます。仏教では「正道をまい進し決して退転しない修行者」のことを指します。さらに仏さまを尊称して「調御丈夫」と表現することがあります。この語は仏さまが一切の丈夫を教え導く師であることを意味しています。師たる仏さまは弟子の丈夫たちにこのように説かれました。「世法の価値観に囚われてはならぬ。不変の真理を規範として歩め」と。日蓮聖人ご遺文『顕仏未来記』本書は日蓮聖人自らが題号をつけられたお手紙で、短編ながら枢要な教えが説かれています。聖人は本書著述の前に最重要御書である『観心本尊抄』を著わされ、ご自身の使命と弘めるべき教えを弟子信徒に顕示されました。この書にはその教えがより端的に説かれています。書中、お題目の流布は既に2千年前に釈尊が予言されていたこと。さらに聖人自身が釈尊から末法の世に法華経、お題目の布教を託された丈夫であるとの自覚とその誇りを述べておられるのです。文永10年(1273) 聖寿52歳」「山門」。扁額「本立山」。ここにも「今月の聖語仏くようの功徳莫大なり」。これは3月の聖語であったが。井戸跡であっただろうか。既に紅葉したような姿のモミジ葉。正面に「本堂」。永代供養墓。「日蓮大菩薩」碑。「本堂」の正面。扁額「常顯寺」。内陣。ズームして。山門前にあったが「常顕寺の木造日蓮坐像大永七年(1527)在銘 平成八年十一月茅ヶ崎市指定重要文化財【写真は何故か外されていた】室町時代の年号銘のある日蓮像です。市内の仏像彫刻の古いものの一つであり、全国に数多い日蓮像のうちでも早い時期に造立されたものとして重要です。本堂にまつられています。像高二九センチ、袖張三七・五センチの大きさです。寄木造りで玉眼嵌入、彩色はほとんど剥落しています。像が敷いている上げ畳台座の天板裏に、向かって右から「敬白 願主/大永七年丁宛(亥)四月十八日/小田原 徳乗房/日盛(花押)」と墨書銘があります。」「重要文化財「常顕寺の木造日蓮坐像(大永7年:1527年)」をネットから。【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006294.html】より「日蓮大聖人」像。お顔をズームで。「子之権現(ねのごんげん)」。扁額「子之権現」。龍の彫刻。「子之権現本立山 常顯寺日蓮宗 鎌倉妙本寺末元応元年(1319年)宗祖日蓮大聖人九老僧行善院日澄聖人によって開かれた。境内に祀る子之権現は日澄聖人の開眼になり諸願成就の神霊として古くより世に知られる。寺宝として日蓮大聖人の直筆を所蔵している」句碑。「御扉や桜の空へあけ(希)放つ 九一題 一九八〇建立 門人 小池まさる」。寺務所。「萩園学校跡」碑が左手に。「萩園学校跡明治五年八月学制布告される。明治七年(1874)常顯寺に詳恭学舎設立後萩園学校と改称萩園新田を通学一区域とす。明治十年六月萩園学校と今宿学校合併、今宿に台小学校設立される」境内の南側にあった「淨行菩薩」。「淨行菩薩像」。「淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま因縁淨行菩薩さまは法華経涌出品第十五に説かれ、上行等四菩薩のお一人で久遠実成のお釈迦さま、成道の最初のお弟子です。毎に垢穢を淨めることを行とされ、諸人この淨行像を淨めれば、その功徳によって病は即ち消滅の霊験たちまちに至り、御経文の「其身甚清淨 如彼淨瑠璃」の御利益を得られることと存じます。何卒遍く参拝されて淨行徐病の慈恵を受けられるよう念じます。」開山以来歴代上人の墓。大きな「五輪塔」。「歴代上人」と。「子ノ権現」、「本堂」を見る。先程休憩した「常顯寺」の「休憩室」を振り返る。駐車場入口にあった「日蓮宗 本立山 常顯寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市平太夫新田にあった「新田八幡宮」を後にして、再び東に向かって歩き「三島大神」に向かう、チョット道を間違えたが。正面の信号の角にあったのが「三島大神」。神奈川県茅ヶ崎市萩園1719番。「神奈川縣指定村社 三島大神」碑。朱の鳥居が正面に。境内には多くのタブノキの大樹が。石灯籠(右)。石灯籠(左)。久しぶりに見る「両脚(四脚)鳥居」。扁額「三島宮」。「山宮藤𠮷翁㞢(之)碑」山宮藤吉は明治から昭和時代初期の政治家で、萩園村に生れる。鶴嶺村長、衆議院議員(3期)を歴任。「橋石」。小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって親しまれたが、大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊したという「橋石」が安置されていた。左側の石碑には江戸時代中期の「元禄十四年(1701年)三月」の記念銘があった。「橋石この巨石は、小出川に架かっていたもので、番場川の橋といって村人に親しまれていた。大正十ニ年九月一日・関東大震災にあい、堤防と共に、ことごとく崩壊した。間もなく河川改修が行われ、現在の荻園橋として装いを新たにした。江戸時代中期に建造されたものと推定されるが、川巾四間・橋巾一間にこの巨石を使用した。当時としては、相当な大工事であって、村人には大きな負担が課せられたであろう。それ故に、此処が如何に重要な街道であったか想起される。小さい方の石は、側面に「元禄十四年三月」の記念銘があり、貴重な橋に使用されたものと推定されるので、村の中央を貫いている八王子街道の石橋の十字路にあったものと思われる。何れも萩園の歴史を物語る重要なもので、後世に残すべくここに保存する。」石碑群。境内の左奥から拝殿、鐘楼を見る。「三島大神」の境内の南西隅には多くの石碑が。「鎮守の杜は心のふるさと」碑。「震災記念碑」「弎(三)島社殿改築㞢(之)碑」石碑には下の如くに。萩園集落の被害として住家140軒の過半が全壊、死者2名、負傷者10余命を出し、地面に亀裂が走り、道路・橋梁・河川堤防など悉く崩壊したと記されていた。また碑文を書いた山宮藤吉は萩園出身で、茅ヶ崎・寒川地域を代表する明治・大正期の政治家であったとのこと。 【http://www.histeq.jp/kaishi_28/HE28_001_017_Takemura.pdf】より「徴兵加藤勝五郎招魂碑」西南戦争に従軍し負傷、凱旋中の10月5日に病死した加藤勝五郎さんの招魂碑。享年25歳。村民らによって明治12年10月に建立された。碑高157㎝、幅103㎝、厚さ17㎝、台石15㎝。漢字のみで。「徴兵加藤勝五郎招魂碑(篆額)明治十年西南之變相模髙座郡萩園村徴兵加藤勝五郎従役死明年十月正副戸長村用村民其其等及小區内其其等憫其勞而不歸又嘉其平素有行将立招魂之碑于本村三島神祠傍先書其従軍之始終與行状請余嘱銘之其従軍曰明治八年四月應徴入東京鎮臺營為一等卒十年三月隷陸軍少将野津公發東京廿日始戰于肥後植木町爾後數戰于日向濛雨焦暑攀嶺伏澗被銃創幸活九月全軍匝撃敵兵悉夷於是官軍凱旋五郎過西京得疾十月五日死齢廿五年八月之葬于大佛山其行状曰父曰平三郎家貧以五郎僮于江島下坊時年十一事僧甚慎餘力習書算亦成及父歿還家與母兄居時年十五家倍貧母恒病臥牀兄日外出傭作五郎毎日數次入輙省母出輙執来耜未曽見其少休也如此者數歳母頼之得安東陽居士曰嗟五郎勤于家勞于國如此而天貧之又従而奪之何耶雖然人皆知五郎恐其泯滅無傳相謀而不朽之蓋人之所為亦天也不可謂之不幸雖富且壽人聞其名則唾而詈若斯者抑亦不幸之甚□耶銘曰克孝克勇公私咸敦奚怙形□令名維存故老追悼胥謀于村有欝其社于招厥魂明治十一年戌寅十月本郡羽鳥耕餘塾師小笠原東陽造并書又篆 鎌倉郡片瀬村秋元平治鐫」「慰霊之碑」。西南戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争における萩園地区出身戦没者の英霊41柱(西南役1柱、日露戦役5柱、支那事変2柱、大東亜戦役33柱)を祀る慰霊碑。 地元自治会によって昭和42年4月に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日及び享年が刻まれていた。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝。神楽殿。「手水舎」。「手水舎」の読み方はさまざま。神社本庁は「てみずや」、大國魂神社は「てみずしゃ」と呼びますし、「ちょうずや」「ちょうずしゃ」と呼ぶところも多々あります。また、手水舎は「水盤舎(すいばんしゃ)」や「御水屋(おみずや)」と呼ばれることも。場所や地域によっては表記の仕方が変わることもあるのです。「水盤」の文字は「顒若(ぎょうじょく、ぎょうじゃく) 」と。おごそかなさま を表すと。そして「三島大神」の「拝殿」祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと) 誉田別命(ほむだわけのみこと) 菅原道真(すがわらみちざね)御利益 海上安全、家内安全、厄災除け、学業・受験合格唐破風下の鳳凰の彫刻。龍の彫刻。これも鳳凰の彫刻。「東川斎桂山筆 源為朝図」👈リンク 解説版。「市指定重要文化財 第四一号 東川斎桂山筆 源為朝図東川斎桂山筆(とうせんさいけいざんひつ) 源為朝図は、三島大神の社殿に保管されている絵馬である。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードを取材したものであこと、画風や款記から、狩野派に師事した町絵師の東川斎桂山による制作であること、また、奉納者や奉納年が天保七年(1836)であることが明らかになっている。本絵馬の奉納理由を直接伝える資料は残されていないが、源為朝が疱瘡などの疫病除けのモチーフとされる例があることから、図柄を広義の魔除けと捉えることができるほか、奉納された天保年間は飢饉や水害をはじめとする不安定な世相に対する意識を反映したものと考えられる。なお、東川斎桂山は、「金指桂山」「藤原美信」とも名乗り、江戸時代末期、没する弘化三年(1846)までの間、相模国各地で活動し、本市をはじめ、海老名市、相模原市、平塚市でその作品が確認されている。以上のことから、本絵馬は、江戸時代末期の茅ヶ崎における庶民の生活文化を伺うことができ、また、当時の相模地域の民間における芸術文化の受容を知るうえで重要な資料であると考えられる。」「東川斎桂山筆 源為朝図」。絵馬の図柄は、源為朝が鬼島に渡り大暴れしたという『保元物語』にあるエピソードをもとに描かれた。海辺で、弓の名手と知られた源為朝の弓を鬼が弾こうと奮闘している姿が盛り込まれている。奉納年は1836(天保7)年。東川斎桂山は、茅ヶ崎市をはじめ、海老名、相模原、平塚でも作品が確認されている。「墨書の内容と位置関係」。「拝殿」、「本殿」を見る。拝殿横の「掲示板」。「萩園 三島大神 縁起御際神 大山紙命(おおやまつみのみこと) 山・海 兼備の守護神として祀られております。鎮座地 神奈川県茅ヶ市萩園1 7 1 9番地由緒 創建の時期は不明ですが、小田原北条氏のころ、荻園を治めていた家臣の篠窪氏と石川氏は 村民ともどもあつく崇敬していたと伝えられています。 江戸時代には真言宗満福寺が別当として管理していましたが、明治初期に明治政府の 神仏分離政策によって神社として独立いたしました。 今は、萩園地区(旧萩園村)の鎮守様として多くの人々に親しく祀られています。催事 初詣は、元旦・2日の2日間、御札などお分かちしています. 例祭は、毎年7月(海の日)に浜降祭に合わせて奉行されます。社伝等1 .本殿及び拝殿:大正14年3月 再建2.神楽殿 :昭和8年3月 再建3.鳥居 :昭和8年3月 再建 鳥居中央の「神額」は天保10年3月とされている4.幟 :大正4年9月 作製(山宮 藤吉書) 平成10年 複製作成5.鐘楼及び鐘 :昭和50年 再々作製6.手水鉢 :明治12年3月 作成7.神輿殿 :昭和56年10月 新築8.神輿 :昭和11年 中神輿新調 :昭和25年4月 大神輿新調」「萩園 三島大神 奉納絵馬茅ヶ崎市指定重要文化財「東川斎桂山 筆 源為朝図」・種別:絵・名称及び数量:「東川斎桂山 筆 源為朝図」1面・所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719番地(三島大神社殿内)・所有者:家教法人 三島大神・文化財(絵画)の構造・品質及び形状 【寸法】 縦119.4cm 横178.4cm 【材質及び形状】板絵著色・重要文化財指定日:令和8年(2021)年2月18日・重要文化財指定理由: 本絵馬は墨書により、制作者、奉納者、奉納年月が明らかであり、当地域における 江戸時代末期の生活文化をうかがい知ることができる資料である。 制作者である東川斎桂山は、江戸時代末期に相模国各地で活動し、当市を含む各地に多数の 作品を残していることから、本絵馬は、当時の相模地域における民間の芸術文化の受容や 絵師の活動を知ることができる貴重な絵画である。※拝殿扉が開く浜降祭・例祭日(海の日)、及び初詣【1月1日・2日】には、拝殿内左奥に 掲示されており、拝観できます。」次に「鐘楼」。「鐘楼」、昭和五十年七月吉日。「〇〇氏子中」と。ここには文字はなし。「神輿殿」。神輿をネットから。 【https://www.youtube.com/watch?v=B6Ye5_ODpis】よりそして「魯文の碑」。『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋』などで有名な明治初期の戯作者、仮名垣魯文の記念碑。「魯文」の直筆が刻まれていた。その下に「印」。「先生が父の故郷相模国高座郡鶴嶺村萩園の人和田氏偶草庵を訪問されしかばななつかしさの余り訪ふ人もあらしの庭の秋去りて 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末 仮名垣魯文」と書かれているのであると、学友から。「魯文の碑本名を野崎文蔵といい、文政十二年(1829)魚屋、佐吉の長男として江戸・京橋に生まれる。父・佐吉は、萩園野崎一族の生まれであったので、魯文は幼少の頃、父の生家、野崎作右ェ門方で育てられ、寺の小僧や農家の手伝いにやられた。性来、本を読むことが好きで、百姓仕事など身が入らず、何処も長続きはしなかった。江戸へ戻ってからも丁稚奉公などに出されたが、相変わらず本ばかり読んでいた。十五歳の時、英魯文という筆名で戯作を始め、次々と新作を発表、明治八年横浜にて、「仮名読新聞」を創刊、大衆新聞の始めで好評を博した。その頃から、仮名垣魯文と改め、その名を知られようになった。ある時、和田久徳氏の祖祖父が、その居を訪ねた折 訪ふ人もあらしの庭の秋去りて 春の日脚の時にあふかな 萩園野崎末仮名垣魯文との一首を贈った。碑文はその直筆である。」この解説文を読む前には、何故この場所に「魯迅」が・・・と思った自分がいたのであった。「萬福寺」の文字が刻まれた石碑。根元にも石碑が。境内の北側・社殿の裏には「萩園自治会館」があった。タブノキの大木。「萩園東土地改良完成記念碑本東地区面積は十四ヘクタールの耕地であり古来より未整理の耕地の為、現在の大型化した農機具の使用に大変不便を感じ再三土地改良の計画がありましたが、実現されず今日に至り今回、相鉄興産㈱、相模興業㈱二社の土地改良を前提とした砂利採取の契約が地権者全員の同意のもと成立し昭和六十三年十月県の認可を受けて以来五年の歳月をかけて無事採取が終了し、平成六年十一月土地改良区を設立し県・市・土地改良連合会等関係機関のご指導を頂き県・市の補助により片側の側溝も整備することが出来ました。地権者の皆様には長い間一致団結され理解あるご協力を頂き約十年の歳月を費やして事業は完成致しました。以上で土地改良事業が完成したことを記して記念するものです。」そして神社前にあった「茅ヶ崎市広報板」。2022年7月6日(水)に今人気の落語家・春風亭一之輔の独演会が開催されるようであった。そして次に「小出川」の川沿いにある「来恩寺」に向かう。「新湘南バイパス」の高架に沿って進む。耐震補強工事が行われていた。そして橋の袂にあったのが「浄土真宗 来恩寺」。「沿革来恩寺は平成3年8月1日築地本願寺の湘南布教所として茅ヶ崎市矢畑に誕生いたしました平成6年6月現在地の今宿に本堂が完成し移転平成10年11月19日(獅子座流星群が地球に舞い降りた次の日)宗派に包括され 湘南教会 来恩寺となり平成12年8月18日神奈川県知事の認証を受け宗教法人「来恩寺」となりました浄土真宗本願寺派 東京教区 鎌倉組に属します」と「来恩寺」のHPより。「小出川」の下流を見る。そして次の目的地に向かって田園地帯を北西に進む。「萩園南土地改良完成記念碑」。道端の角にあった石仏、道祖神であろうか。畑の隅には紫のラベンダーの花が。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「萩園通り」を北上すると左手にあったのが「松尾大神」。神奈川県茅ヶ崎市今宿586。入口右に社号標石「今宿 松尾大神」。入口左に境内社の「祇園天満両社」と。石鳥居。扁額「松尾大神」。手水舎。手水舎の蛇口には可愛らしいカエルの姿が。鐘楼。梵鐘。正面に拝殿。石灯籠(右)。石灯籠(左)。拝殿。ご祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)、総本社は松尾大社(京都市西京区)。現在は鶴嶺八幡宮の兼務社で、当宮の御札は鶴嶺八幡宮で頂けるとのこと。創立年代、由緒などは不詳。松尾神社の一つだろう。例祭は7月中旬とする資料もあるが、9月中旬のようだ。神輿渡御などがある。もともと9月には当社の境内社である祇園社・天満社(祇園天満両社)の例大祭が行われ、今宿祇園天満両社例大祭として執行されていた。現在は、これが、今宿松尾大神 祇園・天満両社例大祭として行われている。また当社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。これらの神輿渡御のために、今宿松尾大神神輿保存会が結成されている。境内には他に、手水舎や鐘楼、石祠道祖神、庚申塔などがある。【ご利益】家内安全、地域安全、事業成功唐破風下の彫刻。蟇股部の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「松尾社」。「慰霊」碑。昭和13年から昭和22年にかけて日中戦争、太平洋戦争及びソ連抑留で亡くなられた今宿地区出身者の英霊23柱を合祀した慰霊碑。自治会によって昭和49年3月に建立された。碑高223㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝碑正面:「慰霊鈴木新吉 昭和一三・九・一 廿九才 北支森甚五郎 仝一六・三・一六 廿七才 中支佐々木昇 仝一七・六・五 廿二才 ミッドウエー今井憲一 仝一八・二・三 廿四才 青島粂旭 仝一八・四・三 廿三才 ビルマ今井理一 仝一八・八・一四 廿七才 中支今井藤助 仝一八・一二・二〇丗六才 南方洋上石井和助 仝一九・二・六 丗四才 マーシャル群島松本健三 仝一九・四・一六 廿五才 比島沖鈴野顕妙 仝一九・七・一八 丗二才 ミンダナオ島今井高治 仝一九・九・三〇 丗二才 マリアナ諸島板倉利保 仝一九・一二・二〇廿一才 レイテ島今井元次郎 昭和二〇・一・十五 廿五才 ハルピン森廣吉 仝二〇・二一五 廿二才 宮古島福田重太郎 仝二〇・二・一六 廿六才 日立飛行隊今井敏司 仝二〇・三一六 廿四才 比島田中榮治 仝二〇・三・一七 丗六才 硫黄島相原貫造 仝二〇・四・一九 丗八才 比島齊藤三郎 仝二〇・六・九 廿一才 朝鮮海峡岩崎國忠 仝二〇・六・一〇 廿四才 南方洋上森次尾 仝二一・三・七 廿才 ソ連太田健次 仝二一・七・一五 廿五才 ラバウル大井出蕃章 仝二二・六・五 廿七才 ソ連 元市長 出口肇 謹書」石碑の裏側。「建碑のことば平和で豊かに生活できる現在の私達は過去苛烈なる戦争に於いて尊い一命をささげられた勇士のあったことを忘れることはできません。ここに日中事変太平洋戦争における殉国諸士の遺勲を仰ぐため自治会員の浄罪を集めて慰霊の碑を建立しその英名を刻して感謝の意を表し後世に伝えて永く祭祀の誠をつくそうとするものであります 昭和四十九年三月 今宿自治会 渡辺三郎謹書 施工者 片瀬三代目 秋元」「本殿」を見る。現在の社殿は関東大震災で崩壊後明治四十五年に再建されたものである。「松尾大神」の「神輿」をネットから。 【https://blog.goo.ne.jp/ohmiyasya/e/423924f9619debda58ed024fb0024909】より境内社が正面に。「天満宮」・「祇園社」。右には「天満宮」碑。左には「祇園社」碑が。庚申塔。「帝釈天王」の銘で帝釈天王庚申塔日月三猿庚申塔日蓮宗では庚申の本尊を帝釈天としている。今宿自治会館。御神木を見る。拝殿前から石鳥居方向を見る。脇門の近くにあった石碑。こちらは裏面のようであった。「氏子人名」として、4段に渡り合計48名の名が刻まれていた。正面の写真は撮り残っていたのでネットから。「震災記念碑」と。石碑の正面は、道路に向いていたのであった。この神社の前の道を通る多くの近隣住民に知って欲しいからなのであろう。 【http://maoym.blog27.fc2.com/blog-category-7.html】より。正面の文字は下記であると。ここ今宿の被害については、家屋が殆ど倒壊したと書かれ、「地表決裂シ至ル所ニ水ヲ噴キ」と書かれていることから、地盤の液状化現象が甚だしかったことが分かるのであった。 【http://www.histeq.jp/kaishi_28/HE28_001_017_Takemura.pdf】より石祠(流破風付)道祖神。年代不明拝殿前の御神木を振り返る。「松尾大神」を後にして再び「萩園通り」を北に進むと右手にあったのが「宮の前第2公園」。茅ヶ崎市今宿の「萩園通り」を進む。「萩園通り」を左手に折れ進むと、前方右手に石碑が立っている場所が現れた。ここが「萩園辻日枝神社」。社殿は取り壊され更地になってしまっていた。社殿の基礎は残してその周り敷地内はコンクリートでフラットにしてあった。柱などがあった位置には礎石がはめ込まれていた。庚申塔はしっかり固定され、道祖神などもそのままに位置にあるようだ。現在の状態になったのはつい最近のようで新規に社殿を造ることは無いのであろう。社殿の基礎は残してその周り敷地内はコンクリートでフラットに。三猿の庚申等の如き板碑が中央奥に立っていた。寛文2年(1662)11月板碑型月日(月日)・「南無妙法蓮華経 山王大明神」・三猿(龍前院型)正面右側「寛文二壬寅十一月吉日」 〃左側「施主辻村 惣旦方中 常顕寺日鏡 敬白」以前からあった石碑なのであろう。道祖神。兜巾型文字道祖神天保十三(1842)年板碑を斜めから。日枝神社を後方から見る。道祖神も。在りし日の「萩園辻日枝神社」の写真をネットから。 【https://ameblo.jp/soubu-nakamiti/entry-11788637438.html】よりそして次に訪ねたのが1kmほど西にひたすら歩いた場所・相模川の東側にあった「須賀夕映え公園」。神奈川県平塚市須賀2646−11・相模川の東にあったので「茅ヶ崎市」内と思い込み訪ねたのであったが、ここは「平塚市」なのであった。相模川の東側にある「神奈川県平塚市須賀」の飛地。相模川の流れの変遷を実感できたのであった。「須賀夕映え公園」は小さな公園。公園の左側には「彦右衛門新田」案内板が立っていた。「彦右衛門新田(ひこうえもんしんでん)現在この地は「須賀」の地名を残していますが、かつては、相模川対岸河口「須賀村」の飛地でした。この地は「彦右衛門新田」と呼ばれ、江戸時代前期に新たに開発された畑地でした。彦右衛門新田は、この地を開発した清田彦右衛門に名からとったものです。彦右衛門新田の記録としては、寛文五年(一六六五)の「相州大住郡須賀村御繩打御水帳(検地帳)写」が残っており、彦右衛門新田がそれ以前に開発された新田であることがわかります。代官坪井治右衛門の検知によって確定した広さは、九町四反八畝二〇歩(九四〇〇〇m2)で、市内でも最も開発面積の大きい新田でした。」西に進み相模川の堤防に上がる。「相模川」の姿と、遠くに「大山」の姿も辛うじて見えた。写真右手に「湘南平」の姿も。残念ながら富士山の姿は・・・。これぞ「夕映え公園」からの光景をネットから。ズームして。中央に「湘南平新展望台」の姿も確認できた。「ひらつかサン・ライフアリーナ」をズームして。神奈川県平塚市の馬入ふれあい公園内に位置する平塚市立の体育館である。平成25年に株式会社サン・ライフは平塚市との間で、ひらつかアリーナのネーミングライツ(愛称命名権)の契約を締結したのであった。地域企業が参加する「湘南ひらつかテクノフェア」がここで開催され、知人が出展しているので、何回か通ったことがある体育館。リバーポートマリーナの「ジェットフィールド湘南」。そして相模川の堤防上から「須賀夕映え公園」を見る。そして300mほど北上して「新田八幡宮 (しんでんはちまんぐう」へ。茅ヶ崎市内には江戸時代の村が23あったが、新田という名を付けていたのは平太夫新田(へいだゆうしんでん)だけと。新田とは、不毛な原野や大きな河川の流域などを耕作できるよう開発した土地のこと。戦国時代には戦国大名が、江戸時代には幕府や藩、村、農民、町人などが開発を進めた。特に江戸時代に多く行われ、全国の耕作地は倍増したといわれている。平太夫新田は松下平太夫という者が開いたといわれているのだと。 神奈川県茅ヶ崎市平太夫新田78。我が家の近くにも、「新田」と呼ばれる地があるのだ。「避難所・避難場所案内」板。現在地をズームして。この地図は「北」が下方に。よってこの場所は「相模川」の東100m程の場所。私には解りにくい地図表示であるが、住民の方々にはこの表示が解りやすいのであろうか。「松下平太夫」と刻まれた石塔。松下平太夫の供養塔は、今も鎮守・八幡神社の境内に祀られており、石塔の正面には「三諦院法源居士 松下平太夫」の文字が刻まれていた。ここ平太夫新田ではこの松下平太夫を偲んで、毎年11月30日に、塔の前で供養を続けていると。「新編相模国風土記稿」によると、「民戸十」とあることから平太夫新田が小さな村だったことが伺える。1855年(安政2年)は村人70人、1886年(明治19年)には家数13、人数61と記録にあるとのこと。裏面には蓮の花とこの石碑の奉納者の名前が刻まれていた。境内の石仏・石碑群。「舟形光背型庚申塔」天和3年(1683)10月21日ウーン・日月・青面金剛像(人/絹索・六臂)・二鶏・三猿正面右側「奉造立青面金剛尊像 施主」 〃左側「干時 天和三癸亥天十月十一日 敬白」 〃下側 9人の名持ち物 右上手(宝輪)・中央手(ショケラ)・下手(矢) 左上手(矛)・中央手(羂索)・下手(弓) 中央手と上手の持ち物が普通と左右逆になっている。地蔵尊。欠損した、倒壊した石碑が並ぶ。拝殿。御祭神 応神天皇 (おうじんてんのう) 佐塚大神 (さづかおおかみ)小さな境内社。稲荷社であろうか。榊は、人の心や神様が宿りやすい神聖な植物とされているが、この日は枯れていた。斜めから拝殿、本殿を見る。奥には「新田自治会館」があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「鶴嶺参道歴史ひろば」の前、松並木側にあったのが「馬頭観音」像。寛政7 (1795)年銘の市内ではかなり古い馬頭観音であると。衆生を恐ろしい顔で叱り導く観音から馬の供養、交通安全の願いを込めた観音様。「馬頭観音馬頭観音は、馬の供養や無病息災の祈願をこめて造立されます。本像は、真ん中に合掌した観音像、向かって右側に「寛政七年三月乙卯三月日」、左側には「施主熊澤左四良」と刻銘されています。「寛政七年」(一七九五年)の銘から、市域において古い馬頭観音であることが分かります。砂岩を浮彫にし、自然石による光背形像です。馬頭観音の形相の多くは「憤怒」を示しているものが多い中、本像は比較的穏やかな形相をしています。現在は欠けてしまっていますが、馬頭観音の特徴である馬の頭部が観音像の頭部に彫られていたと考えられます。 像の大きさ 高さ四十二cm✕ 幅十九cm✕奥行十二 cm」そして次の目的地の「梅雲寺」に向かって西に進む。民家の庭にあった黄色のバラの花の色合いが美しかった。そして「梅雲寺」の山門前に到着。神奈川県茅ヶ崎市下町屋2丁目14−15。「山門」前のこの石碑には「三宝荒神の碑」。碑の高さ一四〇センチ、幅四三センチ、厚さ一一九センチで、表面には「難除三宝大荒神慈覚大師御作」、向かって右には「町屋山」左に「梅雲寺」、その裏面に「明和元年(1764)甲申歳初冬三五第十三世海誉代」と刻まれているのであった。「初冬三五」とは十月、三✕五=十五日 であると。数字の積や和が洒落として用いられているのであった。「掲示板★満天星(どうだん(つつじ))の花はみんなで揺れる花。★見るたびに 大きくなってく 孫たちよ ばあばは心 大きくなるよ。★「和敬清寂」 和ー互いに勧め合う 敬ー身分に関係なく尊敬し合う 清ー清らかな気持ち持つ 寂ー動じない★萬恩に生かさるる身の百恩を知る せめて一恩に報ぜん」「山門」の扁額「美証門」。その奥には「摩訶般若波羅蜜多心経」👈リンクが書かれた木版が。観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経」墓参用の桶と柄杓置き場。本堂前・横の天水桶と石灯籠。「本堂」。町屋山 大廣院 梅雲寺宗派 浄土宗 開山 廣譽(こうよ) 梅雲建立 慶長4年(1599)本尊 阿弥陀如来札所 相模国準四国八十八ヶ所 第42番御詠歌 「春はなお梅のにほひにかくつちの 神も光をます鏡かな」「本堂」には山難除三宝荒神かまつられ、この三宝荒神は、現在、秘宝のため開帳されていない。江戸時代には、江戸で開帳したほどの信仰で、南品川にある海雲寺「千躰三宝荒神」とともに関東では多くの参拝者を集め、有名たったと。三宝荒神というのは、仏(仏陀)、法(仏陀の教え)、僧(教えの修行者)の三宝を守護する神で怒りの相を示し、不浄を嫌い、清浄な火を愛すると言われ、火を燃やすかまどの神とされる神様。かまどのある台所にまつれば、一切の災難を除き、衣食住に不自由しないと言われているのだと。浄土宗 宗紋「月影杏葉 (つきかげぎょよう )」。屋根の飾り瓦。「墓地」。墓地の西側・最奥にあった御堂。五輪塔。「内田徳十郎君之碑」と。日露戦争に出征し、明治37年12月5日旅順要塞203高地の戦闘で戦死された陸軍軍曹内田徳十郎さんの慰霊碑。享年23歳。明治39年12月5日に遺族らによって建立された。同氏は東京体操伝習所(現在の筑波大学体育専門学群の祖)を卒業され、体操や銃剣術に優れていたという。碑高253㎝、幅126㎝、厚さ15㎝、台石40㎝。碑正面:「内田徳十郎君之碑旅順之險稱為東洋無比焉日露之役我軍海陸攻之數月勝敗未決至於爾霊山之戰敵勢始衰而我陸軍歩兵軍曹内田君實陣歿於此□矣夫武人之死孰非可貴而死於両軍勝敗将決之際可謂死得其所也君既死中隊長上田中尉寄書君家中有君克恪勤従事慎重數有功爾霊山之戰□小隊長廷身奮進突入敵壘以鼓舞部下遂陥之而身亦歿之語當時殉難之状可想児矣君諱徳十郎相模高座郡鶴嶺村之人為亦右衛門君第六子以明治十五年一月二十二日生以三十七年十二月五日歿享年二十三此日叙賜功七級金鵄勲章及勲七等青色桐葉章初君将應徴兵之選以為凡為兵者不當不操練體□也因入東京體操傳習所卒其業已入營勇而機敏左善體操銃劔之術常踰儕輩其數有功實非遇然也項君遺族将建碣請予表之予不敢辭以深感其忠勇也 明治三十九年十二月五日 神奈川縣高座郡鶴嶺村長 出口直吉撰 山宮藤吉書 内藤岩吉刻」六地蔵であっただろうか。本堂の裏手にあった御堂。「大師堂」。「弘法大師像」(右)が「不動明王像」(左)とともに鎮座。「南無阿弥陀佛」碑。三面六臂の「馬頭観世音」。この碑は、高さ六四センチ、幅二七・五センチ、厚さ一四センチで光丹形の砂岩?に厚肉彫りされ、反花(かえりばな)角座に角の蓮華座を乗せた台座にまつられていた。中央部に亀裂が入っていたが、下部に厚みがあり保っている。忿怒の馬頭で怒髪が大きく広がり形相がすごい。三面のようだが正面と横の顔の違いが大きくアンバランス。旧東海道沿いで馬も使われていたのでしょう。享和3年の銘。庫裡であっただろうか。五重石塔。そして南に進む国道1号に出て西に進む。左手にあったのが以前に訪ねた和菓子屋「でかまん本舗」。進んでいくと前方に「新湘南バイパス」の高架が見えて来た。左手の桜の樹々の下には、これも以前に訪ねた「史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」」👈リンク があるのだ。沼田頼輔氏の『湘南古橋行』の「漢詩」が刻まれた石碑が見えた。「下町屋橋」を渡る。流れる川は「小出川」。橋の欄干には海鳥の姿が。カモメであろうか。「一級河川 こいで(小出)川」。新湘南バイパスの高架下にあった連絡歩道橋を渡る。折り返しの有る長いスロープの歩道橋。歩道橋の途中から「史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」」を望む。「小出川」の下流方向を見る。連絡歩道橋の欄干にも海鳥の姿が。いつも、仕事で平塚の寺務所に行く際には、新湘南バイパスのここを降り国道1号に右折するのであった。長いジグザグの連絡歩道橋を渡り、更に国道1号を相模川方向に向かう。そして「今宿」交差点を右折して次の目的地の「松尾大神」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.14
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に「長善寺」の隣・北側にあった「本社宮」を訪ねた。石鳥居。石造りの扁額「本社宮」。鳥居脇の右手に石造物が二体。双体道祖神と道祖神。右側道祖神は裏面に「旹天保九戊戌年正月吉日」とあり、1838年の建立。「旹」は「時」の異体字であると先生から。およそ180年前。「矢畑邑 地所永代寄附 熊澤傳兵衛」と刻まれていた。こちらは「双体道祖神」。「本社宮の由緒由来」。「本社宮の由緒由来長元三年(1030) 源頼義は勅命により東征(下総の乱)の途次、当村の南、鎌倉街道に接した佐塚大明神の丘に、源家の守護神石清水八幡宮(誉田別命)を勧請、関東での守護神として懐島八幡宮を創建、戦勝を祈願した。天喜三年(1055) 鎮守府将軍頼義は、長子八幡太郎義家(十三才)と安部一族の乱(前九年の役)に向かう途次、再度懐島八幡宮に戦勝を祈願し、乱を平定したのを機会に神恩に報いて康平六年(1063) 懐島八幡宮を鎌倉に勧請、鶴岡八幡宮を創建した。(乱橋の元八幡)応徳三年(1085) 鎮守府将軍義家は、清原一族の乱(後三年の役)に懐島八幡宮に重ねて戦勝を祈願し、寛治元年(1087)平定した。寛治三年(1089) 義家は度重なる神恩に感謝の意をこめて、広大なる神域を隣村浜之郷に設け、鶴嶺八幡宮を創建し、以来太子免の懐島八幡宮は、本社宮と改称され、当村の鎮守となり、霊験灼(あらた)かなる神として崇敬されて来た。殊に享保二年(1717)よりの祭典は氏子総出で、超大幟を立てるなど盛大に行なわれて来たが、天保年間に現在地の南隣りに遷座して参拝と管理を便にし、昭和二年(1927)現在地に再遷座したものである。」先代の石鳥居の姿であろうか。境内には「矢畑自治会館」があった。「拝殿」。祭神:誉田別命(ほむだわけのみこと(応神天皇))狛犬(右)。狛犬(左)。「慰霊碑」。矢畑地区出身者の大東亜戦争戦没者の慰霊碑。英霊15柱が合祀されている。 地元自治会によって昭和41年9月5日に建立された。碑裏面に英霊名、戦没年月日、戦没地及び享年が刻まれている。碑高230㎝、幅122㎝、厚さ20㎝、台石60㎝、基壇75㎝。近づいて。正面:「慰霊碑 鶴嶺小学校長二宮忠義書」裏面には「建碑の言葉大東亜戦争に際し戦没せられたる諸勇士の霊魂を永遠に慰めんがため自治会員の総意により茲に慰霊碑を建立して其の冥福を祈りその氏名を永く後の世に傳へんとす昭和四十一年九月五日 矢畑自治会昭和一七、七、一二 支那 久保田年春 二四 仝一八、一二、二七 仝 高橋秀夫 三四 仝一九、八、二〇 グアム島 熊沢榮次 一九 仝一九、八、三一 ビルマ 三橋喜作 二六 仝一九、一〇、二六 南方洋上 小川清 二七 仝一九、一一、二三 比島 永野覺次 二六 仝二〇、四、一 仝 石黒春吉 三二 仝二〇、四、一二 沖縄 岩壁金造 三六 仝二〇、四、二四 比島 熊沢藤雄 三四 仝二〇、四、三〇 仝 水野次郎 二四 仝二〇、五、二五 仝 牧野隆 二八 仝二〇、六、二〇 沖縄 櫻井國雄 三二 仝二〇、六、二〇 比島 兵藤二郎 三五 仝二〇、八、一 ビルマ 山口武 二六 仝二〇、八、四 ガダルカナル 小沢日米雄 三八」基壇銘板:「發起人 小澤璋 石黒英雄 熊沢弘道 熊沢美雄 古川幾太郎 熊沢義春 山口勝司 山上里次 山上千代蔵 山口正一 山口政信 小川次幹 永野藤吉 牧野孝作 熊沢幸太郎 久保田久作 熊沢輝夫 久保田久男 宮川スイ子 石黒シゲノ 菱沼鍛代石材店」。「本殿」を見る。境内の石造物群。中央は双体道祖神、その左は合掌像ですが馬頭観音でしょうか。石造物群の並びの覆堂内に二体の石造物が祀ってあった。右側は座像のようであったがお顔が欠けていた。お顔が欠けてしまった石仏。左側はとぐろを巻いたヘビも姿。いわゆる「宇賀神」と呼ばれる福の神であろうか。これもお顔が失われていた?「宇賀神」は古来、人間に福徳をもたらすと考えられている福の神たちの総称。食物神・農業神ともされる。幸福・利益・知恵・財力の神とされている弁財天と同一視されることが多い。その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではないとのこと。覆堂庇下に祀られた笠付きの庚申塔。珍しい石祠形状で三猿の浮彫が。三猿の上には日月も刻まれていた。左側面から。案内板によると「相州矢畑村施主 敬白」と刻まれていた。右側面には「明暦二申年十月吉祥日」。「本社宮の庚申塔 明暦二年(1656)在銘 平成八年十一月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内の年号銘のある庚申塔の中で古い方から四番目にあたり、三猿〔見ざる、聞かざる、言わざる〕が刻まれる型の初期のものです。また庚申塔としては例の少ない石祠の形をしています。碑高五一センチ、塔身の幅三四センチの大きさです。塔身の正面には日月・梵字・三猿の彫刻が、またその右側面には「□明暦二申年十月吉祥日」、左側面には「相州矢畑村施主 敬白」の銘があります。」「神輿殿」。「本社宮」の「神輿」👈リンク をネットから。「本殿」を反対側から。「神輿殿」の前にあったこちらは?祭関係の備品倉庫か?「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「本社宮」を振り返る。茅ヶ崎市矢畑の住宅街の中にあった墓地。梅沢家墓地であるようだ。そして畑には既に収穫したタマネギが天日乾燥されていた。今年はタマネギが不作であり、値上がりしているとニュースで。今の時期に多くのたまねぎを出荷している北海道で、夏の暑さが原因で、不作だったためであると。我が趣味の菜園のタマネギも今年は成長不足なのである。そして次に訪ねたのが「唱導寺妙光殿」。「唱導寺妙光殿」を通りから。神奈川県茅ヶ崎市浜之郷404−1。「延寶山 唱導寺」碑。歴史は古く江戸時代に創建され、現在は檀信徒の要望により「納骨堂」を中心とした寺のようであったが、詳細は判らなかった。そして以前に訪ねた「鶴嶺八幡宮前」交差点が前方に。「鶴嶺八幡宮」👈リンク への入口が右手に。「鶴嶺八幡宮前」交差点を左折し、松並木を南に進む。車、人の数は比較的に少なかった。歩道の中央に松の老木が至るところに、歴史を感じるのであった。そして正面に、以前も訪ねた「鶴嶺参道歴史ひろば」に再び。「鶴嶺参道歴史ひろば」には説明板が設置され、参道の移り変わりや歴史を知ることができるのであった。「鶴嶺参道歴史ひろば鶴嶺八幡宮は、その創建が平安時代末期にさかのぼると云われる古社です。その後は幾度にもわたる戦乱によって荒廃しましたが、江戸時代になって、僧朝恵が領主山岡氏の援助を得て再興を果たし、三代将軍家光から社領七石の御朱印を受けた記念に、南大門馬場の左右に松を植えました。これが現在に残る松並木の参道です。この辺りは、古墳時代後期(1400年前頃)から村の営みが始まり、奈良・平安時代にかけて発展したことが発掘調査でわかっていますが、鎌倉時代になると「懐島」という地名が記録に現れ、鎌倉幕府とのゆかりが強い地域であることが知られています。この鶴嶺八幡宮参道は市の史跡に、松並木は市の天然記念物に指定され、地域の中で保護されてきましたが、参道の整備にあわせてこの歴史ひろばが設けられました。貴重な歴史景観が間近なこの広場で、地域の移り変わりを偲んでみませんか。」「絵図に描かれた参道」。「絵図に描かれた参道この絵図は、江戸時代末期の万延元年(1860)に皇女和宮が降嫁する際に備えて描かれた山岡家所蔵の絵図の一部で、当時の参道と松並木の様子を見ることができます。絵図には、神社本殿よリ東海道まで長くのびている約764mの参道と両脇に松が整然と立ち並んでいる姿を確認することができます。このほか、本堂前の横参道や参道両脇にある池および反り橋の様子も見ることできます。また、東海道と接するところには大鳥居があり、付近に弁慶塚の存在も確認することができます。」そして「茅ヶ崎市指定史跡・天然記念物 鶴嶺八幡宮参道及び松並木(昭和44年8月15日指定)」参道の上空からの写真。何時の時点の写真なのであろうか。昭和44年?「鶴嶺八宮は、平安末期の創建と伝えられており本市でも由緒のある神社の一つです。本殿から南に延びる参道の両脇には松並木が続いています。神社の縁起では天正18年(1590)の小田原城落城の後、社領は武家の所領となって荒れ果ててしまったとされますが、江戸時代になり別当寺常光院の僧、朝恵が再興を志し、領主山岡氏の援助で正保年間(1644~48)に本社の拝殿が再興されたとされます。そして、慶安2年(1649)に幕府から社領を認める朱印を得たことから朝恵はこれを記念して参道420間(約764m)の両脇に松を植樹したとされています。茅ヶ崎市では、参道及び松並木を後世に継承していくために、昭和44年8月15日に市の文化財(史跡と天然記念物)に指定し保存しています。」「発掘調査で確認された古参道」「確認された礫敷きの参道烏居付近で発見された古参道は複数時期の面を確認しましたが、そのうち最も下層にあるものは礫敷きでした。礫は敷かれている部分と無い部分とがみられましたが、丁寧に整備されていたことがわかります。」「出土した木製鳥居国道1号に近い部分から木製鳥居の基部が出土しました。材質はヒノキで太さは約45cmで八角形に加工されており、転倒防止のためと考えられる横木もみられます。資料では文化文政年間に石鳥居が立てられたことがわかっており、発見された木製鳥居はそれより古く参道が整備された時のものと考えられます。」「絵はがき・古写真に見る参道および松並木」「新編相模国風土記稿に見る参道江戸時代に編まれた『新編相模国風土記稿』には参道をばじめとして鶴嶺八幡が描かれています。これをみると、鳥居が東海道沿いに立っており、近くには弁慶塚と思われる高まりも描かれています。また、松も参道両脇に立ち並んでいる様子もわかります。」「東海道と参道鳥居明治時代ごろと思われる絵はがきです。東海道(現国道1号)に接する参道と石製鳥居の様子をみることができます。また、松並木は参道だけでなく東海道にも植樹されていた景観を見ることができます。」「参道と松並木の様子1そして2」。「参道と松並木の様子1この絵はがきは、明治の頃と考えられますが、参道がまだ舗装されておらず、大八車を引いている様子を見ることができます。また、車輪の轍が複数あることから頻繁に使用されていたことがうかがえます。」「参道と松並木の様子2この写真は、上の絵はがきと同様に、当時の参道と松並木の景観をうかがうことができますが、特に参道両脇の松並木部分では、松が大きく成長している様子をみることができます」「鶴嶺参道歴史ひろば」を現在の参道から振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.13
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市「中央公園」碑。「中央公園」は、第一カッター興業株式会社とネーミングライツ契約を締結し、令和3年4月1日から愛称が「第一カッターきいろ公園」となったと。かながわの公園50選に選ばれた茅ヶ崎市民憩いのスポット。40000.63平方メートルの広大な敷地。奥には「夕焼小焼の赤とんぼ~♪」のフレーズでおなじみの童謡「赤とんぼ」のモニュメントが。正面から。「赤とんぼ」👈リンク の楽譜 三木露風作詞・山田耕筰作曲夕焼小焼の、赤とんぼ負われて見たのは、いつの日か山の畑の、桑の実を小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか十五で姐(ねえ)やは、嫁に行きお里のたよりも、絶えはてた夕焼小焼の、赤とんぼとまっているよ、竿(さお)の先公園の入口近くの池。小さな川になって遊歩道沿いを流れていた。広場の一番奥には人工滝と大きなステージがあった。イベントのときにはこのステージが大活躍するのだと。近くまで歩いて。そして「茅ヶ崎中央通り」を挟んで反対側にあった「市民文化会館」を見る。「茅ヶ崎中央通り」沿いの「中央公園」の「宇宙ツツジ」。「宇宙飛行士は宇宙飛行をする際に、いくつかの品を飛行の記念品として宇宙船に持ち込なことが許されています平成6年( 1 9 9 4年)7月9日に日本初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんはアメリカのケネディ宇宙基地から打ち上げられたスペースシャトルコロンビア号に搭乗しました。その際に、出身地である群馬県館林市の市の花てあるツツジの種を公式飛行記念品として持って行きました。地球に帰還後、その種は宇宙ツツジとして館林市で大切に育成されてきました。その宇宙ツツジの一部が、茅ヶ崎市制施行70周年記念事業第9回宇宙飛行士ゆかりのまちサミット開催を記念し、館林市より寄贈されました。ツツジの成長とともに子どもたちの夢、希望を育みます」この2本のツツジの子苗がそれか?枯れてしまったのか?何代目の苗なのであろうか。「茅ヶ崎市インフォメーション」板。そして「市民文化会館」。1980年10月1日に開館。平成30年10月に耐震補強・改修工事によりリニューアルオープン。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目11−1。「茅ヶ崎市役所分庁舎」が道路を隔てた南側に。「市民文化会館」の入口。大ホール:座席数1381席小ホール:座席数 384席「市民文化会館」の北側にあったのが「イオン 茅ヶ崎中央店」。「茅ヶ崎市民文化会館」と「イオン 茅ヶ崎中央店」の間の道路を西に向かって進む。左手にあったのが「J-POWER(電源開発株式会社)茅ヶ崎研究所」。前方に橋が現れた。「飯島橋」。下を流れる川は「千ノ川」。下流側を見る。上流側を見る。「せんのかわ(千ノ川)」。そして到着したのが「本社丘(ほんじゃがおか)」。茅ヶ崎保健所の道路をまたいで斜め前の住宅街の中にあった。地元の人は「蛇塚、ぽんぽこ山」と言っているとのこと。16本のサクラの大木に覆われた小高い丘。「本社丘(ほんじゃがおか)本社丘は矢畑の鎮守 本社宮 発祥の地である。天保年間に行われたと伝えられる本社宮遷座の後も、旧跡として崇敬され大切に保存されている。本社宮はその後、関東大震災による遷座を経て、この地の北方約450m(矢畑142番地)に鎮座している。矢畑の伝承によれば、平安時代中期 平忠常の乱を平定に向う途次、源頼義がこの地に源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈願した。陸奥守となり前九年の役に向かう頼義は、長子義家と再度戦勝を祈願、平定後、当八幡宮を鎌倉由比郷に勧請し、鶴岡八幡宮を創建した。後に、頼朝が現在の雪ノ下に遷座。後三年の役平定後、義家は浜之郷に神域を設けて遷座、鶴嶺八幡宮を創建したと伝える。本社丘に残った社は矢畑の鎮守となり、「本社宮」として今に伝わる。なお、別に江戸時代後期の地誌『新編相模国風土記稿』の浜之郷村鶴嶺八幡宮の項に「社伝に長承二年筑紫宇佐鶏足寺の僧が八幡本地種字の正体を奉じ来て祀る」との創建に関する記載もある。」5月4日(水・祝)に「皐月祭」が「鶴嶺八幡宮」で行われたようであった。「さわやかな緑風を感じながら「巫女舞親子教室」でお稽古に励んできた子供たちが御神前にて「豊栄舞」を奉納いたします。自由にご観覧できます」と。正面に小さな「石祠」があった。ここは、天保年間、本社丘の発祥の地になって源頼義ほかが矢畑を治めた。このあたりは、頼朝系の人が様々なエピソードを残している。その例の一つは、源頼朝の重臣・稲毛三郎重成(妻が北条政子の妹)が亡き妻の供養のため相模川に橋を架けたが、頼朝が、その落成式の帰りに落馬して亡くなってしまった馬入川という名前が残っているのだ。近づいて。神奈川県茅ヶ崎市矢畑603−5。さらに近づいて。「本社宮」碑。茅ヶ崎市矢畑地区の住宅街を北に向かって進む。左手に「茅ヶ崎市消防団第21分団」の建物。神奈川県茅ヶ崎市矢畑580-9。次の目的地の「長善寺」に向かって進む。左折し「鶴嶺通り」を西に進みこの先の路地を右折。そして「長善寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市矢畑150。「掲示板」。門柱には「隣海山長善寺」と。参道の先正面に「本堂」。参道右手に「地蔵尊」。「大師堂」。「南無大師遍照金剛・弘法大師像」。「戦歿各英霊追悼地蔵尊」。ズームして。後ろの塔婆には「大東亜戦争」の文字が。その手前にあった2基の石仏。「馬頭観世音」碑。小さな「五輪塔」が3基。そして「本堂」が正面に。「高野山 真言宗 臨海山 長善寺」。開基:清誉 創建:慶安元(1684)年 、万治2年(1659年)智道が中興。本尊:大日如来(金剛界)札所:相模国準四国八十八ヶ所第61番御詠歌:「梓弓はるの耕しいそぐらん矢はたのみのりまとにかけつヽ」江戸時代は「鶴嶺八幡宮」の別当12院の一つで「勝運坊」、「壮源寺」ともと呼ばれたとのこと。白の藤の花が迎えてくれた。境内の石灯籠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次この日は5月6日(金)、「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の5回目・そして最終回を企図して自宅を早朝に出発する。この日はJR茅ヶ崎駅北口からスタートした。北口のペデストリアンデッキ👈リンクには、茅ヶ崎市ゆかりの方々の手形モニュメントが設置されていた。ペデストリアンデッキを下りて、一里塚通りを国道1号に向かって進むと、右手に、以前訪ねた「茅ヶ崎一里塚」があった。神奈川県茅ヶ崎市6。「茅ヶ崎一里塚」👈リンク昭和三十六年八月十五日 茅ヶ崎市史跡指定徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。慶長9年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約4キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から14番目にあたります。かつては道の両側にありました。」「一里塚」交差点から国道1号の「茅ヶ崎駅前」交差点方向を見る。「一里塚」交差点を渡った先が、反対側の「茅ヶ崎一里塚」があった場所。その場所にあったのが「案内板」。「『平成の一里塚』一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山道、北陸道の沿道に一里(約4km)ごとに設けられました。塚は、沿道の両脇に築き、大きさは5間(約9m)四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向い側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。」ところで、木の数種はいくつかあるのですが、中でも「一里塚」には【榎(えのき)】が多い。その理由は次の様な逸話があるのだと。『東海道が整備された時、一里塚の上に何か木を植えることになりました。東海道整備は徳川家康の肝いりの政策だったので、家臣が何の木を塚の上に植えたら良いか家康に聞きました。家康はそんなことまでいちいち聞くなよ!という思いで、『ええ木にせい(良い木にしておけ)』と答えたとか。すると家臣は、『榎にせい』と聞こえたらしく、このために一里塚には榎が多く植えられることになりました と。まあ、どこまでホントの話か??円形ベンチの中心には江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されていた。「茅ヶ崎一里塚」の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられているのだと。「一里塚北通り」を北東方向に進みJR相模線の踏切を渡る。「小出(こいで)踏切」。茅ヶ崎駅から0K952mと。その先T字路の左側には「地蔵尊」が。神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目5−25近く。多くの造花が手向けられていた。その先の緑地帯の右側を斜めに進んで行った。緑地帯の一角には薄いピンクの花が一面に。「ヒルガオ」の花であろう。その先の「本村四丁目」交差点手前に案内板があった。ここ「本村居村遺跡」は茅ヶ崎市の本村に所在しており、国道1号と県道404号遠藤・茅ヶ崎線の交差点から一つ北の交差点「本村4丁目」付近に位置していた。「本村居村(ほんそんいむら)遺跡出土木簡」解説碑と「本村居村遺跡」解説板。令和2年3月に、実際に木簡が出土した地点の近くである「本村4丁目」の南西約30m地点に設置された、遺跡内容がわかる解説板。「本村居村遺跡出土木簡」解説碑。「茅ヶ崎市指定重要文化財 本村居村遺跡出土木簡 平成27(2015)年6月1日指定出土した木簡は6点で、短冊形のほか桶底や折敷をニ次利用したものもあります。仏教行事に関連する「放生」が記されている文書木簡や、行事に伴い作成された帳簿木簡、文字の練習に使用された習書木簡などがみられ、古代の地域における実態を知ることができ、茅ヶ崎市の歴史を語る上で欠くことのできない資料として市の重要文化財に指定されています。なお、表示は実物大の赤外線写真です。」「本村居村遺跡と古代の木簡」解説板。「皆さんが立っているこの場所は、本村居村遺跡の一部にあたります。遺跡は、東西方向に形成された砂丘とその南側の低湿地に立地しており、奈良・平安時代を中心に縄文時代晩期や中近世など複数の時代に亘っています。道路建設や下水道工事に伴う発掘調査で、砂丘部分(居村A遺跡)からは古代の竪穴建物や井戸、土坑などが発見されました。とくに井戸は木枠を有する立派なもので、多数の土器が出土しています。また低湿地部分(居村B遺跡)からは、古代の水田が発見されたほか、文字が書かれた土器や木製品などが出土しました。木製品は、通常土の中ではなかなか残らない遺物ですが、水気の多い低湿地であったことから、良好な状態で発見されました。その中の一つが木簡です。木簡は、木札などに文字などが書かれている資料のことで、本村居村遺跡ではこれまで神奈川県内で最も多い6点が出土しています。このことは遺跡の性格を示す重要な手掛かりになります。出土した木簡のうち、第2号木簡は公文書が記されていますが、注目されるのは「放生」という文字です。「放生」とは捕らえた生物を放ち逃がすことで、仏教の不殺生の思想に基づく「放生会」という行事が、ここで行われていた可能性を示しています。また第3号木簡は、曲げ物容器の底板に「茜槽」などと記されていました。「茜」は染色に使用される植物であり、当地域における古代の産業を知る手掛かりとなります。さらに第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。こうした木簡が出土する本村居村遺跡は、公的な性格を有する遺跡であった可能性が高く、茅ヶ崎市地域における古代の歴史を知る上で欠かせない遺跡です。」発掘調査時の上空からの写真。出土状況、出土品の解説。第4号木簡は、県下最大の大きさで最多の文字が記されている資料です。その内容から、何らかの行事の際に配給された酒などの物品名を記載した帳簿木簡であることが明らかになりました。発掘調査後は埋め戻しがされていた。解説板前から県道404号線・遠藤茅ヶ崎線方向を見る。舗装されている場所も発掘調査場所。近くにあったのが「本村観音堂」。朱色の屋根の上に宝珠が。「本村観音堂」の前には小さな社があった。神奈川県茅ヶ崎市本村5丁目6-53。内陣には石仏が鎮座。石仏に近づいて。弘法大師像であろう。「相模国準四国八十八ヶ所 第七十番 茅ヶ崎観音堂御詠歌よびあいて結ぶみのりやふだらくのきしさし渡す舟のちがさき」。民家のような前庭であったが。そして茅ヶ崎市本村5丁目の住宅街をスマホの案内に従い進むと路地の角の空き地にあったのが「うしのごぜん」碑。神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎503−4。「うしのごぜん」碑。以下ネットより「茅ヶ崎の「うしのごぜん」は塚になっていたという記述がある。「うしのごぜん」と呼ばれる人のお墓もしくは供養塚だったのか、はたまた「神様」を祀ったものなのか、明らかにする手掛かりがまったくない。近年この塚の辺りが住宅地になり、いっしか塚も姿を変えていくのだがその頃から居住者の間に不幸な出来事が続いた。もしや、と思案した自治会や有志の方々によって「うしのごぜん」と刻んだ石塔を建て供養したという。言伝えによると、塚の辺りには狐が棲んでいて、南湖の魚売りが魚を置かないで通ると化かされるといわれていた。南湖から千ノ川沿いに来て、梅田から高田に抜ける唯一の生活道であるので、魚行商もこの道を行き来していた。道は高田と円蔵の村境を通り赤羽根との接する所で大山道を横切る。千ノ川をどのように渡ったのか。『新編相模国風土起稿』や『皇国地誌』などによると、幅2間( 3.6m )、深さ1尺5寸(45cm)という。川を渡る側に塚が築かれていたのは、川を渡る安全を願ってのことに由来するのかもしれない」また、茅ヶ崎に「うしのごぜん」があるのは、江戸本所「牛御前」の効験が大山に詣でる信徒や旅人達によって伝えられ、祀られる様になったのではないかとも。石碑の裏側。「昭和六十一年十月吉日 本村地元有志」と。そして「茅ヶ崎グリーンハイツ」手前の三叉路を左に進む。「茅ヶ崎グリーンハイツ案内図」。正面に見えたのが「東邦チタニウム(株)茅ヶ崎工場」。正面に「JR相模線」の「北茅ヶ崎駅」。折しも茅ヶ崎駅行きの電車がホームへ。以前も通過した「北茅ヶ崎踏切 1k233m」を再び渡る。右手に「JR相模線」の「北茅ケ崎駅」。JR茅ヶ崎駅方面を見る。そして線路沿いを今回も歩き、途中右折して「茅ヶ崎中央公園」に向かって進む。緑溢れる「茅ヶ崎 中央公園」の園内の遊歩道を歩く。「茅ヶ崎 中央公園」の桜の若木の横にあった案内板。「人と人との繋がりと復興を願い、この桜と同じ桜を南三陸町歌津中学校に植えました。」と。左に「茅ケ崎中央病院」と工事中の現場が見えた。茅ヶ崎中央通りに出て右折すると、右手に「避難所・避難場所案内」があった。右手にあった「茅ヶ崎中央公園」案内板。ズームして。「「茅ヶ崎中央公園(第一カッターきいろ公園)」正面の県道沿いには、フラワーロードの草花が、公園の中央には、芝・草地広場がひろがっています。早春には、北側園路沿いにクロッカス、スイセン・ヒヤシンスなどが咲き春の訪れを感じます。引き続き桜の時期にはソメイヨシノ・ヤマザクラが咲きます。初夏には、中央南側の花壇に香り豊かなテッポウユリ・白ユリやアジサイなど咲き競います。夏には、けやきの木陰で一休みできます。晩秋には、もみじ・けやきが色づき、また、東側広場には、県内相模線沿線の市町の木が植えられています。」とネットから。そして左手奥には「市民文化会館」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.11
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「本在寺」を後にして、再び「田村通り大山道」を西に進むと正面に「高田熊野神社」の姿が現れた。「(高田)熊野神社」。 神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10−44。正面から石鳥居と拝殿を見る。社号標石「熊野神社」。狛犬(右)。狛犬(左)。扁額「㷱㙒(熊野)社」。「拝殿」そして正面の彫刻、大きな注連縄を。祭神 ✦熊野大神 ✦櫛御気野命 ✦天神七座地神五座 ✦大山咋命(日枝神社祭神)祭事 ✦歳旦祭(年賀祭):1月1日 ✦浜降祭:7月14日 ✦例祭:9月第2日曜日「高田総鎮守 熊野神社 👈リンク 高田の鎖守熊野神社は、万治元年(西暦一六五八年)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長八年(西暦一六〇三年)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうらで百六十余石を徳川将軍より賜り、爾後、明治維新に到るまでその子孫の釆地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、もちろん当時の建物ではなく、昭和二年に高田総氏子によって新築されたものです。日枝神社(山王社)当社は、享保五年(西暦一七二〇年)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社です。その社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこには青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下ろす景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和四十七年に新築された建物です。」「本殿」を見る。御祭神 : 熊野大神(くまのおおかみ)、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)、 天神七座地神五座(てんしんななざちしんござ)。 大山咋命(日枝神社祭神) 『古事記』では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としているそうです。 最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代としています。 また、地神とは天神七代と人皇の間に位置する神々の時代のことだそうです。 <天神七座> 国之常立神(くにのとこたちのかみ) 豊雲野神(とよぐもぬのかみ) 宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ) 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ) 淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ) <地神五座> 天照大神(あまてらすおおみかみ) 天忍穂耳尊(あめのおしほみみ) 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 火折尊(ほおりのみこと) 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)例祭は9月第2日曜日。7月海の日には浜降祭がある。市内香川の諏訪神社を兼務しているという。【ご利益】:地域振興・地域安全、家内安全、一族・子孫繁栄。「頭貫」の上の彫刻。「神輿殿」。「高田熊野神社」の「神輿」。 【http://blog.livedoor.jp/ryoujinkai/archives/50730169.html】より木鼻(右)。木鼻(左)。境内社が2社。正面から。扁額「正一位 森家稲荷大神 白笹稲荷大神」。「由緒元和三年森武右エ門が一族狼徒を連高田に土着をし屋敷内に京都伏見稲荷大神系の秦野大泉に鎮座する白笹稲荷神社の分霊を勧進建立をしたのが始です。その後同屋敷内に紀州熊野本宮も分霊し熊野神社を建立をしてその機会に同屋敷を分割して熊野神社境内社として現在に至っている。当然今の社殿は当時の物とはちがいます。森家を始め高田人々の篤い信仰を受けて大切に保存をされています。」掲示板。「日枝神社(山王社)」の社殿。扁額「山王社」。社殿の裏に「庚申塔」が。「地神塔」も。社殿の裏に石碑が別の場所にも。柵があって中に入れないので、文字が読み取れなかった。右の二基には、「奉寄進石灯籠」と。そして「高田熊野神社」の北側にあった「赤羽川」を訪ねた。ここから流れは南下し「千ノ川橋」近くで「千ノ川」に合流するのだ。そして県道404号線・小出県道に出る。北側には「新湘南バイパス」が見えた。そしてこの日の予定を全て制覇し、帰途につく。予定通り神奈中「高田」バス停へと向かったのであった。茅ヶ崎駅行きのバスが到着。そしてこの日の最後に、茅ケ崎駅北口から続くペデストリアンデッキに飾られた、茅ケ崎にゆかりのある著名人の手形モニュメントをカメラで追ったのであった。最初に「加山雄三 海その愛」。本名・池端 直亮(いけはた なおあき)。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾厚作。父は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視である。横浜市に生後8か月まで、次の田園調布には1歳9か月までいた。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、上原謙は息子のために、自然環境の良い茅ヶ崎へ引っ越した。茅ヶ崎の実家には31歳で結婚するまで過ごした。宇宙飛行士「野口聡一 きぼうの未来圏へ」。茅ヶ崎市立浜須賀中学校、神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校出身。「12代目市川團十郎 温故知新」。9代目市川團十郎が茅ヶ崎市に別荘を持っていたことが縁で、ここに手形が置かれたとの事。宇宙飛行士「土井隆雄 宇宙をめざせ」。実家が神奈川県茅ヶ崎市にあり、学生時代の一時期を過ごしたことがあると。中日ドラゴンズ投手「山本昌広 名球会」。茅ヶ崎私立松林小・中学校を経て、日大藤沢高校から1983年にプロ入りし最多勝、最優秀防御率、沢村賞などの成績を収めた。2006年には史上最年長の41歳1カ月で無安打無得点試合を達成。50歳を超えて現役を続け、史上最年長登板記録、最年長勝利をマーク。通算219勝を挙げた。そして茅ヶ崎駅舎へ。藤沢駅近くで腹ごしらえ。そして旅友が藤沢市内の「白旗神社で藤の花」👈リンク を楽しんでいるとのLINE連絡があり、急遽向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.10
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「熊野神社」を訪ねる前にその先にあった「本在寺」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7−38。左側の門柱には「日蓮宗 本在寺(ほんざいじ)」と。右側の門柱の裏にあったのが「大山灯籠」。「本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。」と。一般的に石燈籠と言われるもので、城塁形に切り石を築き、その上にもう一つ段のある基壇を持つ、全高2m78cm、江戸時代特有の鋭く、きつい軒ぞりの、堂々とした石灯籠。正面に「山門」。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板には「今月の聖論けわしき山 あしき道 つえをつきぬれば たおれず」と。「日蓮聖人御遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮宗」「「今月の聖語」解説=1人で抱え込まないで=針に糸を通すのは中々大変です。針を固定して糸の先を穴に通していたら、「糸を固定して針を動かすほうが通しやすいよ」と、助言してくれる人がいました。それ以来この方法で糸通しをしていましたが、細い針金を使った糸通しの道具を見つけました。これは便利です。糸通しひとつにしても、やり方は色々あるものです。人生の様々な場面においても、解決策は一つではないと思います。自分一人では困難なことも、他の力を借りれば乗り越えられる方策が必ず見つかります。一人で抱え込まず、肩の力を抜いて、他に頼ることも時には大切なことではないでしょうか。」「日蓮聖人ご遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮聖人の有能な外護者、北条弥源太入道に与えた書状です。書中、聖人は法華経を諸仏発心の杖とたとえられ、弥源太入道に「日蓮のことも杖や柱と思って頼ってください」と呼びかけられます。入道が聖人に従って法華経を信じるようになったのは不思議の因縁であるとして、いよいよ信心強くしたならば霊山浄土のみ仏のもとに導いていただけることと諭されています。文永11年(1274) 聖寿53歳」正面に「本堂」。「日蓮上人之像」。ズームして。更にお顔を。庫裡であろうか。「本堂」。「本堂」の「蟇股(かえるまた)」の彫刻。「本堂」の唐破風下のこの紋は、日蓮宗の徽章「宗章紋」。日蓮聖人の名に因んで、日輪と白蓮華を図案化されたものである。賽銭箱には「浄財」と中央に日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。扁額は山号の「村澤山」。「本堂」を見る。「本堂」の「天水桶」にも日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。「日蓮大菩薩」碑。「掲示板」内に「宗旨」案内板が。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一ニ五三年)本尊 久遠の本師 釋迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えある法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経)本堂のご本尊さまに先ず合掌」本堂の裏にあった墓地。「南無妙法蓮華経」、「南無日蓮大菩薩」の文字は判るが。この石碑は?ここにも文字が書かれていたのであろうが。「山門」、「日蓮聖人像」を見る。「山門」を境内側正面から。「山門」の鬼瓦とその上に素弁八葉蓮華文の軒丸瓦。これは?「一等水準点」。全国的な水準測量のための基準測点としてその標高が精密に求められている点。国土地理院によって設けられ標識は普通、花コウ岩またはコンクリートでつくって地中に埋設し、その頭部の高さを決定する。東京都千代田区永田町1丁目1番地にある日本水準原点を基準として一等、二等、三等の等級があり、一等水準点は水準原点から出発して全国の国道・都道府県道沿い2kmごとに全国で約2万点埋設されており,その高さがcmの単位まで決めてある と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.09
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「田村通り大山道」を西に向かって進むと、右側には墓地があった。大きな墓石の前には石鳥居が。大きな石碑に書かれた文字は?「志」ではないかと学友から。杉崎家の墓地らしい。杉崎家「墓誌」。「杉㟢家𡳿(之)碑」。杉崎家7名、志村家2名の名が刻まれていた。「金重家」墓石。その手前にあったのが「大山街道句碑」。「大山街道句碑」と。「添田唖蟬坊、杉﨑鳥花句碑」。「春風や いそがぬ人の そでを吹く 鳥花 」「密会の かなしみを泣く 蛍かな 唖蟬坊」 添田唖蟬坊は、明治大正期の演歌師で名は平吉。神奈川県大磯の生まれで一時茅ヶ崎に住んでいたと。号は「歌をうたう唖しの蟬」と自らを称したところから由来すると。そして唖蟬坊は茅ヶ崎で杉崎鍋之進と知り合い、その付き合いから俳句を始めた。この杉崎鍋之進の俳句の号が先の句碑の「鳥花」であるのだと。そして道路に面した場所にあったのが「赤羽根六地蔵堂」。正面から。「赤羽根 六地蔵堂」。六地蔵の右側三体。六地蔵の左側三体。更に西に進む。ここは茅ヶ崎中央商店街。街路灯が洒落ていた。「田村通り大山道」の時代には賑わった場所であったのだろう。そして左折すると左手に小高い山があった。「高田緑地」と。神奈川県茅ヶ崎市高田1-58。石段を上って行くと正面奥に立派な墓地があった。その他は一面、松を中心とした林。立派な墓石は並ぶ墓地であった。「水越家之墓」。先程、「神明大神」の「一之鳥居」の前にあった「長屋門」の家・水越家の墓であるようだ。「水越家は、 江戸時代、このあたりの名主を務め、明治中期から昭和初期にかけて地方自治に貢献した水越良介の生家でもあります。良介は、藤沢の羽鳥にあった小笠原東陽 の「耕余塾」👈リンクに学んだ後、地元の小学校の教師になりました。明治15年(1882)21歳の時、赤羽根村ほか3か村(組合村)の戸長に推され、後に松林村長、 高座郡会議員、神奈川県会議員を務め、大正9年(1920)に茅ヶ崎町長に就任しました。当時、学校改築に端を発し、町政が紛糾していましたが、この解決 に努め町政を安定させました。また、「老桃」の号を持つ俳人としても知られ、同家から近い墓所の碑に「出来稲や 腹かかへゆく 村夫子」という句が刻まれ ています。」と。残念ながら、句碑は撮していなかったが。「水越家先祖代々之精霊位」碑。そして「高田緑地」前の道を南に進み途中で右折し西に向かう。この路地を右折。正面に墓地があり、その後ろに小高い丘があった。丘を上ると頂上に石碑が立っていた。「鶴田栄太郎氏頌徳碑」。1957 年の七堂伽藍跡碑の建碑に尽力したのは、鶴田栄太郎であった。鶴田は 1888(明治21)年に茅ヶ崎市円蔵に生まれ、1968 年に 80 歳でなくなっている。詳しい経 歴は不明だが、戦前期には横浜に出て事業を起こしていたようである。『相武研究』や『郷土神奈川』の編集に携わっており、神奈川県郷土研究連盟では 副会長の要職にあった と。「鶴田栄太郎氏頌徳碑鶴田栄太郎は明治廿一年三月隣邑に生る 資性・・・常に名利を棄て清貧に甘んずるの風あり専ら郷土史研究に身を捧ぐること丗餘年相武の山野君の足跡至らざるなく以って地方文化の向上に寄与するところ大なり君偶と大山街道沿線を踏査するや守谷氏の祖に歌人仁兵衛兼布のあるを見出し之を世に紹介す君のこの譽れは守谷氏の深く感動するところとなりついに守谷氏は君の為に建碑の全をなす蓋君が芳志の現なり而て建碑の地をこの山王山に相したる所以はこの地が嘗て〇〇高田の山王社の鎮座せし所にして君が・・」下部の黒い部分が読めずに残念。「下寺尾の都市資源紹介「人物」 鶴田栄太郎氏( 1888 ~ 1968 下寺尾遺跡群の一画にある「七堂伽藍跡の碑」建立の中心となったのが、鶴田栄太郎氏です。彼は茅ヶ崎生まれの郷土史研究家で、一生を茅ヶ崎の史跡発掘、研究、紹介活動に尽くしました。伝説の七堂伽藍については、本当なのかどうかや時代者証などで多くの議論があり、結論は将来の『研究』にゆだねられました.彼は、この「七堂伽藍」研究を機に、西久保宝生寺の阿弥陀三尊像の発見、東海道ー里塚は、懐島の碑など数々の句碑の建立、大岡祭の開催など茅ヶ崎の文化財保護活動をはじめ、郷土史小冊子「あしかび叢書」を創刊し、郷土史雑誌「武相文化」などにも積極的に投稿し、茅ヶ崎の史跡・文化財を積極的に紹介し読けました。1968年10月20日、講演を終えた後、「これで今日の講座を終わります」と言い終えるや、隣の人に倒れかかり絶命したと言ういきさつは、終生の研究者を象徴しています.近年「古代寺院( 七堂伽藍跡)」の存在が証明され、国の史跡になるにあたり、草むす「碑」のそばに立ら、大いに喜んでおられることでしよう。こんなに素晴らしい宝を探究し伝えてくださった鶴田栄太郎氏に、茅ヶ崎市民として深く感謝いたします。(増田・富水)」「下寺尾の都市資源紹介「民話」 民話 【七堂伽藍】昔、下寺尾に大きな寺がありましたが、火事で焼けて今はありません.この火事は住職の尼さんの比丘尼が、南港の漁師の苦情に耐えかねて寺を焼いたというお話です.今からハ百年ほど昔、現在の茅ヶ崎北陵高校の南の所に、海円院というお寺がありました。大きな規模ですので近在の人々は七堂伽藍とも呼んでいました。比丘尼は、30歳そこそこで、美しく聡明で気立てがよく、近郷の村人にたいへん慕われていました。比丘尼は空腹で倒れていた乞食の助三の看護をして、寺にしばらく住ませていました。お寺の灯明の灯りのせいで魚が取れないという漁師の苦情に思い悩む比丘尼に、助三は心を痛め、本堂を焼いて姿を消しました。海円院の火事の後、南湖の海ではもとどおり豊漁が続くようになりました.身代わりになって役人に捕らえられた比丘尼は、詮議を受け、処刑されたとのことです.「茅ヶ崎の民話劇 第一集」編集 茅ヶ崎民話の会(要約 川合)」 【https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/155/vol12.pdf】より左手前方に「NTT局舎ビル NTT東日本 茅ヶ崎松林局」の鉄塔が見えた。そしてこの日の最後に訪ねた「高田鎮守 熊野神社 大岡家創建」の案内塔が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.08
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次道路が狭いので大型車は進入禁止になっている神奈川県道44号伊勢原藤沢線を西に進む。江の島から田村(平塚市)を経由し、大山へ向かう「田村通り大山道」が元になっている道路である。前方右に「赤羽根神明大神社(あかばねしんめいおおかみしゃ) 」の「一之鳥居」と大ケヤキ(欅)が姿を現した。「神明大神社 」の「一之鳥居」とその先の参道を見る。「一之鳥居」の右側には「指定村社 神明大神」と刻まれた石碑があった。「赤羽根神明大神社」とも呼ばれているとのこと。石碑の裏側には「大正七年十月二十九日指定」と刻まれていた。村社に指定された年月日であろう。「一之鳥居」の左側には大ケヤキ。根元は樹齢数百年以上と思われる歴史を感じさせる姿なのであった。この部分の大山道の道幅は約3.6mあり、1841(天保12)年にまとめられた『新編相模国風土記稿』にある「道幅約2間」に一致していると。かつての大山道をしのぶことができる貴重な場所なのであった。そして「一之鳥居」を潜り長い参道を北の方向に進む。その先に住宅街を東西に走る舗装道路がありこれを横断してさらに進む。左手にあった瓦屋根のこの建物は?隣には「下赤自治会防災資材置場」と書かれたスチール製物置があったが、これも同じ目的で使われているのであろうか?近くにお住まいの方から書き込み頂きました。先代の神輿殿ではないかと。なるほど同じような造りなのであった。そして右手参道横には「鐘楼」があった。梵鐘の下には、安全確保の目的であろうか、ブロック基礎の上に鉄柵が設けられていた。明治に入る前は神仏習合で「満蔵寺」という寺院があったが、今は廃絶され姿を消したのだ と。その名残でこちらの神社にも梵鐘が残っているのであった。梵鐘。古そうな一対の石灯籠(右)。石灯籠(左)。そして石段を上って行った。見えて来たのは「拝殿」ではなく「新湘南バイパス」の高架道路。その先には「ニ之鳥居」と拝殿が漸く姿を現した。ズームして。この歩道橋は「神明歩道橋」と呼ばれているのであった。参道・「神明歩道橋」は新湘南バイパスの側道をオーバーパスし、新湘南バイパスをアンダーパスしているのであった。新湘南バイパスのこの場所の真下は緑地帯になっており、木が植栽されていた。そして側道の先に「ニ之鳥居」が現れた。境内の銀杏の木は側道にはみ出し、守られていたのであった。よってこの場所は4輪自動車の通行は不可能。「ニ之鳥居」から「拝殿」を見る。白い大きなマスク姿の狛犬(右)。足下の子供もマスク姿。狛犬(左)。「相刕(州)赤羽根 鎮座 神明大神」碑。「ニ之鳥居」を潜り「拝殿」に向かって進む。「記念碑湘南地域交通緩和に伴う新湘南国道の建設にあたり、神明大神境内地参道の一部が建設省の計画路線に掛かる。このため神社の財産たる境内地保全と神社の尊厳維持のため深く憂慮し、財産処分の決定については氏子を挙げその英知を結集する。昭和五十四年を起点として建設省との度重なる協議の末、買収価格に神木銀杏の保存を条件に加えて譲渡成立する。昭和五十五年神社本庁への財産処分申請を手始めとして、境内地の模様替え造成工事と神殿、神楽殿、社務所、手水舍等主要建築工事の設計契約を経て、諸工事は年度を追って着々と進み各々その竣工をみるに至る。思うに昭和五十八年、御遷宮までの5か年間建設委員をはじめ氏子は一致団結してその精魂を傾け数多の困難を克服して、ひたすら由緒ある神明大神の保全と御神徳の発揚を念じ、また関係建設業者の熱意ある貢献のもと慈に御遷宮の大業を成就するに至る。昭和五十八年九月十七日 赤羽根 神明大神氏子中」「神楽殿」。「赤羽根神明大神 掲示板祭 事一月 元旦祭七月 浜降祭(海の日)九月 例大祭(第三日曜日)」「手水舎」。「神輿殿」。「赤羽根神明大神社」の「神輿」。 【https://ameblo.jp/syounan0211/entry-10142027320.html】より「社務所」。「拝殿」は神明造(しんめいづくり)。切妻造、平入りで弥生時代の穀倉としての高床建築と類似する。伊勢神宮の本殿の様式である。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468。「拝殿」前の狛犬はマスクなし(右側)。左側。比較的新しい「拝殿」。昭和五十七年新湘南道路計画により、新築されたのであろう。「神明大神由緒祭神 大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)合妃神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真公・福津日神(ふくつびのかみ)大日孁貴命は天照大神の別称、大日霎貴ともいい日神とある。合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の一村一社制度の施行に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)のニ社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。新相摸風土記稿によれば、神明宮は十一世紀後期に陸奥守源義家(八幡太郎義家)の建立と伝う、とある。慶安ニ年(一六四九)には、大猷院三代将軍家光公より社領六石の御朱印を賜う。往古は神仏混淆であったと思われる。その満蔵寺も明治四年の廃仏毀釈で廃絶し姿を消した。千古の歳月を村民の崇拝によって、畿度も再建が繰り返され、元和七年(一六ニ一)や、宝永ニ年(一七〇五)等棟礼が今尚残存する。明治一七年(一八八四)九月に再建された、社檀には間ロ四尺八寸、奥行四尺の僅か六合の神殿が安置された。昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と神輿渡御で賑わい日々常々は地区民が平穏を願う鎮守神である。」扁額「神明大神」。内陣。「拝殿」前から境内その先に「新湘南バイパス」の高架を振り返る。境内の様子。「千木(ちぎ)」と「堅魚木(かつおぎ)」をズームして。「千木」は社殿などで、破風の先端が棟上にのびて交差した木。「堅魚木」は屋根の上に乗っている丸太のような部材。権威の象徴として古墳時代からあったと。そして「赤羽根神明大神社」を後にして再び「新湘南バイパス」の高架下を歩く。そして「神明歩道橋」を渡り、振り返る。「一之鳥居」手前から大ケヤキそしてその先の「長屋門」を見る。「水越家の長屋門」茅ヶ崎町長をした水越良介氏の生家で、江戸時代の名主の家の長屋門がそのまま残っていると。水越良介と孫の悔ニは俳人、孫の茅村は書家であったと。「長屋の一部に門を開いたもので、当時は領主の許可がなければ建てられなかったと言われている。水越家は代々続く大地主の家。(「茅ヶ崎市史」によると、高田村(現在の高田)の有力地主)長屋門とは(小学館:日本大百科全書2001から)門の扉の両側に部屋が連なっている形式の門をいう。江戸時代、城下町の武家屋敷の門として始まる。この道は藤沢市四谷からつながっている旧大山街道で茅ヶ崎歴史街道に『「この大ケヤキの辺りは、江戸時代の大山街道の道幅と大体同じ」と聞いたことがある。史料にも「村の南に大山道 幅2間余(1間は約1.8m)と記されているので、実際に測ると史料通り約4mだった。』と記載あり。以上 ネット情報である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.07
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次バス通りを北に進むと、右手に「道祖神」があった。「道祖神 昭和三十三年正月十四日 室田部落講中」と。そしてその先に「室田八王子神社」があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13−35。ところで八王子神社は茅ヶ崎に4か所 ・堤八王子大神👈リンク・本村八王子神社👈リンク・菱沼八王子神社👈リンクそしてここ・室田八王子神社茅ヶ崎市内の全ての八王子神社を巡ったのであった。室田八王子神社の扁額は「八王子神社」。正面に「拝殿」。八王子神社は、スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。「拝殿」に近づいて。創建年代や由緒は不詳。御祭神は五男三女命(ごなんさんにょのかみ)と、・大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)。五男三女神は、・天忍穂命(あめのおしほのみこと)・天穂日命(あめのほひのみこと)・天津日子根命(あまつひこねのみこと)・活津彦根命(いくつひこねのみこと)・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)・多岐理比売命(たきりひめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・湍津比女命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神。例祭は5月第3日曜日。室田八王子神社神輿保存会があり、神輿渡御などが行われる。同保存会により、初詣の振る舞いなども行われている。現在は小和田熊野神社の兼務社である。唐破風下の「懸魚(げぎよ)」の彫刻。「懸魚」は、神社や寺院の建物の正面に見られる。建物の唐破風の下に取り付けた飾りをいう。破風に取り付けた火除けまじないで、魚をつるした形をしている。この装飾を取り付けると、水のゆかりにちなんで、火災にあわないまじないになるという。懸魚彫刻は、唐破風の下に合うように形にがまとめられている。鳳凰や鳥の形のものが多く見られる。龍植物・動物・飛天などもあり、優れた彫刻を見ることができるのであった。「妻飾り」そして「大虹梁」上の龍の彫刻。見事な組物。「脇障子(右)」。「脇障子(左)」。「室田自治会館」。「神輿殿」毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。「室田八王子神社」の「神輿」。 【https://blog.goo.ne.jp/shin354/e/0d001f384e511b5eee16608ea6eb7e57】より「拝殿」の右横の小高い丘。古墳の如き姿であったが。「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」。「室田八王子神社」を後にして、室田通りに向かって室田1丁目12近くを進むと空き地の隅に小さな神社があった。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目10。稲荷神社であろうか。「室田通り」に向かって白壁の旧家の前を。屋敷内にも神社が祀られていた。寺の山門の如き民家の門。そして次に訪ねたのが「妙行寺(みょうぎょうじ)」。寺号標石「妙法山妙行寺」。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目5−5。横には「南無妙法蓮華経」と。「日蓮大聖人六百五十遠忌記念」碑。「・・昭和六年五月三日大法會修行之・・」と刻まれた石碑。そして「本堂」に向かって参道を進んでいったのであったが・・・・。しかし「本堂」の姿はなく更地になっていたのであった。その後ろには、墓地が残っているので、「本堂」の建替えが行われるのであろうか。山号は妙法山(みょうほうざん)寺号は妙行寺(みょうぎょうじ)。開基は日蓮聖人の直弟子 六老僧の1人 大国阿闍梨日朗聖人(1245年~1320年)。比企谷 妙本寺の末寺である。妙行寺は享保10年頃(1725年)室田の山本仁兵衛による草創と伝えられています。この時期に鎌倉小町より当地に移転されたと思われる と。ネットで調べてみると「妙行寺(松林3の5の5)で5月14日、本堂の建て替え工事を前に地鎮祭が行われた。数年前の大雪の影響で雨漏りが発生し、調査した結果「いつでも倒壊する恐れがある」と診断された。これを受け、建て替えの流れとなった。」と。墓地をズームして。写真の如き赤い屋根の「本堂」があったようだが・・・。 【https://www.myougyouji.net/myogyoji/】より境内の隅には比較的新しい石祠が立っていた。別の石祠をズームして。そして「室田通り」沿いにあったのが「特別養護老人ホーム」。「社会福祉法人松宝苑 特別養護老人ホーム 湘南くすの木」。鯉のぼりが上がっていた。「室田通り」を引き返すとその先「田村通り大山道」との四辻の角にあったのが「松林村役場跡」碑。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根1358。「松林村の由来この前を通る大山街道は、田村の渡し(寒川)で相模川を渡る大山参りの近道で、江戸の商人・職人をはじめ多くの文人・墨客が往来した。赤羽根・甘沼の丘陵の南面をほぼ平坦に並行する、のどかな街道であった。正面に日本一の富士を仰ぎながら夫々大山参りの楽しい旅をしたことでしょう。しかし静かな農村にも幾度か行政の改変があり、各村々が合併を重ねていった。明治二十二年(一八八九年)赤羽根村を始め、室田・菱沼・小和田・高田・甘沼・香川の七カ村が一つになって松林村となり、此の地に松林村役場が建設され、村長には水越良介氏(後に茅ヶ崎町町長・神奈川県議会議員を歴任)が就任した。明治四十一年、松林村、鶴嶺村、茅ヶ崎村が合併して茅ヶ崎町ができるまでの約二十年間、此処松林村役場は地方自治の重要な拠点であった。昭和二十二年市制が施行された当時の茅ヶ崎市の五万余の人口も、市制六十周年を迎えた今日は約二十三万と急激な増加を見るに至り湘南の中核的都市となりました。大山街道に添って湘南バイパスが建設されるなどに至り、かつてのふるさと的農村風景も次第に失われつつあります。」「江戸時代23ヶ村:黒文字明治22年市制町村制施行当時の4ヶ村茅ヶ崎村松林村鶴嶺村小出村」「松林村」には「大山街道」と「東海道」が貫いていたことが理解できたのであった。左手への路地を入ると右側には大きなひょうたんが店頭に置かれている「井上酒店」があった。更に「室田1丁目」と「赤羽根」地区の境界を通る「田村通り大山道」を西に向かって進む。前方に「室田小学校正門」交差点。左手に「室田小学校正門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.06
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「長福寺」を後にして、本堂前を境内墓地に沿って南に進むと三叉路があった。そこの少し小高い場所に庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っていた。右側から「青面金剛庚申塔寛政11年(1799)11月6日山伏角柱日月・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「講中連名」・7人の名左側面「寛政十一己巳十一月六日」・8人の名」これも「青面金剛庚申塔享保13年(1728)12月8日唐破風笠付角柱日月(手持)青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「庚申講中 菱沼村」左側面「享保十三戊申天十二月八日」「馬頭観世音」嘉永七年(1894)。墓石であろうか。「三猿庚申塔延宝7年(1679)舟型「奉□就庚申」・三猿正面右側「延宝五天」」首の部分が補修されたと思われる「地蔵菩薩」。亨保十五年(1720)。一番左にあったのも墓石であろう。反対側にも石碑が。最近は道路整備などで多くの石仏が移設されているが、以前は四つ辻、三つ辻に立てられることが多かったのだ。道の辻は自ずと人が多く行き交う。昔の人はこのような所には霊魂・亡魂も集まると考えて、それらを鎮めるために石仏を建てたと民俗学では解説している。長福寺南のこの一画は、かつての石仏の祭り方を今もわずかに留めている場所。「双体神祇道祖神天明二年(1782)」オースティン・ニコルズ社が製造するバーボン・ウイスキーの「WILD TURKEY」の飲み掛け?の瓶が奉納されていた。そして茅ヶ崎市松林3丁目の路を進むと、大きな敷地の旧家が点在しているのであった。こちらは屋根瓦の付いた長い塀を持つ農家であろうか。そして「室田通り」に合流し、ここを左折。次に右折して「松林通り」を進むと水路の如き川が路地の先に現れた。近くに石碑群があった。「室田橋」と刻まれている石碑。その横に、道祖神が。文字道祖神茅ヶ崎市室田2-19。石仏。「昭和二年十二月落成」と。別の場所から右側に石碑群を見る。ここが「相模川左岸幹線用水路」・「千ノ川暗渠水路」の出口。地図上ではここから千ノ川が始まっているのであった。地図で千ノ川を下流へ辿ると小出川へ合流し最後は馬入川(相模川)へ流れ込んでいるのだ。相模原市南部の相模川から水を取り入れ、河口の茅ケ崎市域まで相模川東側の624ヘクタールもの広大な水田を潤すのが相模川左岸幹線用水路。用水と排水のネットワークで、太平洋戦争前の1940年(昭和15年)に完成し、今年で82年目を迎えた。そして次の目的地の「永昌寺」に向かって北に進むと右側にあったのがエッグダモンTOTO(株)室田寮。左手には楽器店「パプリカミュージック」。そしてスマホに従って進むと正面にあった石碑。「畜霊供養碑」と刻まれていた。廻り込んで「永昌寺」の山門へ。神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目15−44。寺号標石「禅宗 龍澤山 永昌寺」。庚申塔群。「青面金剛像「文化5年(1808)6月板駒型月日・青面金剛像(羂索/人・六臂)・三猿右側面 3人の名左側面「文化五年 辰六月吉日」・4人の名」こちらも四臂青面金剛像か。地蔵尊。山門を潜り境内へ。正面に「本堂」。曹洞宗 龍澤山 永昌寺(りゅうたくさん えいしょうじ)。「本堂」に近づいて。扁額は「永昌禅寺」。歴代上人の墓地。建設中の納骨堂?内陣。反対側から。この幾何学紋は?輪宝紋に似ているが。「本堂」を斜めから。「山門」を境内から。「山門」横の石祠。「本堂」と「寺務所」を振り返る。寺務所を見る。「永昌寺」を後にして「室田通り」を北に向かうと竹林の中にあった神社。鳥居には「正一位」と。石祠。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目3−6付近。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.05
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「菱沼八王子神社」を後にして、西に進むと右手に「茅ヶ崎市立松林小学校」の東門が現れた。ガザニアの花に似ていたが。そしてこちらが「松林小学校」の正門。校内には、パナソニックエコシステムズ(株)のサボニウス型風車・『風かもめ』が。小型の風力/太陽光発電システムでありサボニウス型風車にひねりを持たせた型式のもの。そしてクランク状に進むと左手にあったのが「長福寺」。神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目11−52。寺号標石「高野山真言宗 菱沼山長福寺」。「一願不動」碑と「為太田家先祖菩提 護摩堂建立」碑。「一願不動昭和五十九年弘法大師御入定千百年御遠忌大法会を記念して建立されました。伊豆の願成就院の本尊不動明王(國宝)を勧請しました。護摩堂は太田政光氏の特別志納により建築されました。」四阿の先に「一願不動」。中央に「大聖不動明王像」一願不動に一つだけの願いごとを一心に祈願すれば必ず叶えてくれるといわれている。「大聖不動明王像」。「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」正面左前にあどけなく、清浄無垢な愛らしい矜羯羅童子が。「制旺迦童子(せいたかどうじ)」。眉間にしわを寄せ、ロをへの字にしたきかん気で今にも動き出しそうな「制旺迦童子」。心を和ませる木彫像。句碑であろうか。境内には大山古道吟行の句碑、鴫立庵芳如の句碑、水越梅二の結願歌碑などがあるとのことだが。学友が茅ヶ崎図書館まで出向き、調べて下さいました。「踏みて来し 雲雀か(賀)起臥の 野芳し(か(香)ん(无)ば(者)し) 九一題」「縁起略記一、高野山真言宗菱沼山薬師院長福寺と号す一、創建は鎌倉期末と伝承。本尊薬師如来を安置一、正保年間大道法印中興一、明治ニ年赤羽根満蔵寺を併合一、大正十一年関東大震災に本堂庫裡倒壊一、大正十四年四月本堂再建一、昭和四十七年四月新本堂落成 棟梁 太田文雄」弘法大師御誕生千ニ百年を記念して本堂新築を発願 資を有縁に募り昭和四十五年八月工を起し同四十七年四月ニ日の吉日を期して理趣三昧の法莚を設けてその竣工を祝し、山運の隆昌檀信徒の繁栄を祈る 住職二十八世 隆玄」左「盆栽 山野草塚」碑、中央「南無大師遍照金剛」碑、右「唖蝉坊(あぜんぼう)句碑」。一番右手の「唖蝉坊句碑」。「河豚食ふて北を枕に寝たりけり」。「六地蔵」。正面から。「生かせいのち 同行二人」碑。「修行大師像」。近づいて。境内の池。石の上には「亀」が昼寝?「結願の 寺にわが杖 おさめきて 寂しくあれど 心やすらぐ」。水越梅二之作品 と。私も「四国八十八ヶ所お遍路の旅」👈リンク の結願の寺・大窪寺では同じ心境に。裏面には「四国八十八ヶ所霊場巡拝の同行当山総代水越梅二氏は歌集「遍路」を出版された遍路の心普く一切に及ぶことを念じ八十八首の中より結願の一首を刻す昭和五十八年春彼岸建之 幻住 隆興誌」と。水越梅二氏は茅ヶ崎市の初代収入役で、昭和22年から昭和43年まで21年2カ月もその地位に と。「宝篋印塔」。ズームして。この石碑には??後日、我が学友がこの寺をわざわざ訪ねて下さり現地調査の上、解読して下さいました。石碑は「般若心経」であるとのこと。『羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若多羅 茅村書』碑文の読みは「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそぎゃてい ぼじそわか はんにゃたら」さらに碑文には「往(ゆ)ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ 悟りよ 幸あれ」 と。 石仏群。「お遍路の 誰もが持てる 不仕合(ふしあわせ) 白象」であると国文学専攻の学友から。森白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの と。「わ(王)す(春)れ傘して梅か(可)香の偲ばる(者)ゝ 十八世鴫立庵芳如」。この句碑の裏面に「昭和二十八年に長福寺に九一の雲雀の句碑が建てられた時、傘を忘れて帰った芳如に届けた住職隆玄宛て礼状の末尾の一句」だと記してあります。(抜粋、一部省略)。石灯籠。寺務所。「本堂」正面。扁額「長福寺」。歴代住職の墓石が並ぶ。無縫塔ではなく五輪塔。「墓誌」「子育地蔵尊」。「寄進 大子堂一宇 子育地蔵尊」碑。「子育地蔵尊」と「大師像」。境内の「稲荷社」。「安霊塔」。ズームして。「聖観音像」であろうか。「阿字の子が 阿字のふるさと 立ちいでて またたちかえる 阿字のふるさと」「【阿字】とは大日如来という仏様を表し、【阿字のふるさと】は大日如来のおられる清らかな世界、いわゆる『あの世』のことをいいます。これは、「私たちの誰もが元々は阿字の世界にいて、修行のためにこの世界へ生まれ、そして再び阿字の世界に戻るのだ。」ということを詠んだ歌です。一般的には人が亡くなると「あの世へ行く」と言いますが、この歌では「あの世に帰る」と表現されているのです。つまり、亡くなった人とは再びあの世(=阿字のふるさと)で再会することができるということです。愛する人とのお別れは悲しみの極みです。しかしあの世は愛する人と再会できる場所なのです。また会えるその日まで、私たちは今をしっかりと生きていかなければいけません。」と。「安霊塔建立の由来四国八十八ヶ所札所を巡拝した川辺義治氏夫妻は深く弘法大師に帰依しこの世に生をうけた人はみな有縁であるとの信念から安霊塔の建立を発願された。浅岡光雄氏はこの趣旨に賛同協力されて平成六年八月完成同月十一日施餓鬼会当日開眼法要を修行 長福寺第二十九世隆興」「六地蔵」。こちらは「水子地蔵尊」。小高い芝生の丘の上に石碑。山を上る僧侶の姿?が描かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.04
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝積寺」を後にして「赤羽根通り」に向かって東に進むと右手に農家の無人販売所があった。「ゴールデンオレンジ」が袋に入って売られていた。「皮が、しわしわになってくると甘くなります! と。すっぱさを感じながら食べるも良し甘くなるまで楽しみながら待ってもよし!。「黄金柑の来歴は不明ですが、明治時代には鹿児島県日置郡で「黄蜜柑(きみかん)」として食べられていたようです。のちに「黄金柑(おうごんかん)」という名前が付けられ、この名前で流通。「ゴールデンオレンジ」とも呼ばれます。黄金柑は果皮が黄色く、扁球形で重さは60~80gくらいと小さめ。さわやかな香りで果汁が多く、酸味は控えめです。見た目は酸っぱそうですが、酸味の少ない」とネットから。「赤羽根通り」に出て南に進むと、右手に注連縄付きの建物があった。これが「赤羽根八雲大神」。正面に八坂神社の神紋「木瓜(もっこう)紋」が。「木瓜紋」は、鳥の巣を真上から見た形を図案化したもので、子孫繁栄の意から縁起の良い紋様とされているのだ と。建物の手前右手に石碑があった。「上赤羽根八雲大神神輿由緒沿革」碑「御祭神八雲大神の御祭神は神仏混淆(しんぶつこんこう)時代は『牛頭天王』と呼称され明治政府の神仏分離令施行の際に『スサノオノミコト』となられました。又、天王社という呼称も八坂神社・八雲大神・氷川神社等と改称されました。神輿明治二十九年愛甲郡愛川村半原の木匠 家内右兵衛藤原高光は、江戸城将軍作事方及び小田原城主大久保佐渡守に仕え、宮大工として名主を申し付けられ帯刀御免を許された名工である。市内では鶴嶺八幡宮『文化三年制作』とは、兄弟神輿です。明治三十四年八月、寒川町一之宮八幡大神の氏子西町地区より譲受される。神輿の屋根に取り付けられている神紋は『木瓜』(八幡神社の神紋)子供神輿昭和二十五年七月吉日 茅ヶ崎市菱沼 太田松太郎作」「赤羽根八雲大神」の社を反対側から見る。道路脇には小さな社があり、地蔵様が。近づいて。手前にはシラン(紫蘭)の花が。その隣には小さな石祠があった。そして「赤羽根通り」の直ぐ先には「六地蔵堂」の「六地蔵尊」のお姿も。何か書かれていたようであるが・・・・。正面から。足下にも江戸時代の古い墓石が2基立っていた。『新編相模国風土記稿』赤羽根村の項に「阿弥陀堂 像は恵心作、専求比丘<寛文七年(1667)十二月寂す>の造立する所と云ふ、西光寺持ち」とありますが、今は阿弥陀堂はありません。恵心作といわれるこの庵の本尊は西光寺に運ばれているのかも知れません。その横の右側の墓石は「寛文七天 當庵開基稱誉専求比丘 十ニ月八日」と。墓石は固い石材の板碑型で、当地に庶民の墓石が出現する頃のもので貴重と。左側の墓石は「正徳三癸巳 往詣樂譽専▢大徳 十月十一日」と刻まれていた。「正徳三年」銘で、江戸中期の1713年。そして新湘南バイパス高架下を潜る。新湘南バイパス手前の丘の上には歴史を感じさせる墓地・墓石が。新湘南バイパスを潜り県道44号線・伊勢原藤沢線に向かって住宅街を進む。茅ヶ崎市菱沼1丁目の住宅街を西に進む。民家の庭にはジャスミンの花が。豊かな香りが。バビアナの花であろうか。こちらは赤紫の花。菱沼1丁目をさらに進む。そして「菱沼 八王子神社」に到着。神奈川県茅ヶ崎市菱沼1丁目11−64。社号標石「菱沼鎮守 八王子神社」。石鳥居の扁額「八王子神社」。「手水舎」。境内には数多くの鯉のぼりの鯉が泳ぐ。「八王子神社」境内の菱沼自治会館に飾られた「五月人形」・「武者人形」。舞台上全面に4段飾りで。両脇まで溢れ出て。最上段には「兜飾り」が所狭しと。「ここに飾られている武者人形は地元有志の方々から寄贈されたものを陳列しております。平成ニ十一年から飾っております。それぞれの武者人形に男の子の健康と成長を願う親心の表れです。今はすでに立派な社会人として成功され第一線で活曜中です。端午の節句の由来「端」は初めの意、もと中国で月の初めの午の日、(午)は(五)に通じ、五月初めの五日の意五節句の一つで五月五日の節句。古来邪気を払う為、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)な軒に挿して粽(ちまき)や柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通もあって近世以降は男子の節句とされ、甲冑、武者人形などを飾り庭前に幟旗や鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝す。第ニ次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日の一つ。あやめの節句。菖蒲の節句。重五(ちょうご)。端陽。季夏のせち(端午の節)伝統文化の会」正面に「拝殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「拝殿」に近づく。御祭神:天忍穂命、天穂日命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多岐理比売命、市杵島比売命、湍津比女命、宇迦之御魂命、大山咋命、品陀分命「拝殿」手前には「力石」(左)と「蛇石」(右)。唐破風下の彫刻。頭貫の彫刻。「住吉大明神、八幡皇大神、天照皇太神、春日大明神、玉津島大明神」碑。左に先代の石鳥居の扁額「八王子神社」、中央に「神輿修復 神輿殿鳥居建立記念碑」そして「神輿修復 手洗舎屋根建設記念碑」。「菱沼八王子神社口大鳥居社号額献納者 内田友蔵 殿大正十一年 吉祥日再建立者 内田 智光 殿 佐藤 国男 殿平成十七年十一月ニ十七日社号額由来この額は市内松が丘ニ丁目四のニ十八にご在住する内田智光氏のご祖父友蔵氏が大正十一年一月に寄進献納されましたが翌大正十ニ年十九月一日の関東大震災〔午前十一時五十八分〕により神殿建屋大鳥居共に倒壊したものです。幸いにして一人の怪我人もなくこの鳥居が身代わりになったと言い傳えられております。ここにご献納されました、故友蔵翁のご遺徳を偲び爾来八十三年ぶりに子孫の智光氏により再建立され、永久に地元文化財として残すことになりました。」「神輿殿」。「菱沼 八王子神社」の「神輿」👈リンク境内には鯉のぼりの下で遊ぶ園児の姿が。ズームして。境内には巨大な「タブノキ」が鎮座。「菱沼八王子神社のタブノキ指定理由 市内の代表的な植生であるタブノキが大木となり、地域の鎮守の目印となっている。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第2号 平成22年3月26日 茅ヶ崎市指定」「タブノキ」に近寄って。中には空洞部分も。「八王子神社玉垣竣工記念碑」。風に力強く泳ぐ鯉のぼりを再び。「護國の碑」。菱沼地区の西南戦争から太平洋戦争までの戦病没者の慰霊碑で、39柱(西南戦争1柱、日露戦争1柱、満州事変2柱、太平洋戦争35柱)の英霊が合祀されている。昭和26年5月に有志らによって建立された。合祀者の内、西南戦争戦死者島﨑瀧藏さんの個人慰霊碑が八王子神社に建立されている。 碑高240㎝、幅128㎝、厚さ28㎝、台石75㎝。碑正面:「護國之碑 内閣総理大臣吉田茂書」碑裏面:「戰歿合祀者(篆額)・・・数多くの戰歿者の名前、命日が刻まれていた・・・昭和二十六年五月建之 菱沼 發起者 有志者 一同 石工 鍛代忠義發起人 髙橋義正 太田正太郎 石山辰五郎 大八木米吉 太田文雄 太田大蔵 太田邦光」。「菱沼ふれあい神輿百年祭記念碑」。掲示板。「避難所 避難場所案内」。「住居表示街区案内図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.03
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「西光寺」を後にして山の下を巡る道を進む。「中赤羽根 自然環境保全地域この自然は、県民共通の貴重な財産とし子孫に伝えるかけかえのない宝物てす。草や木や、野生の動物を大切に。ゴミは必す持ち帰りましよう。」山道を上って行った。イノシシが出て来そうな山道を一人で。スマホの案内に従い進む。そして到着したのが「妙覚院 (日興門流 正信会)」。1977年(昭和52年)に、日蓮正宗(宗門)の信徒団体であった創価学会の言動を批判し続けた為、1980年に日蓮正宗(総本山・大石寺)から擯斥処分を受けて分離独立した宗教団体である。2022年(令和4年)現在は、宗教法人「正信会」と任意団体の「日蓮正宗 正信会」と「冨士大石寺正信会」の3つの団体に別れているとのこと。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3081−70。「日蓮正宗 妙覺院」とあったが、建物の外見は民家そのものであった。「妙覺院」を後にして、進むと左手奥にあったのが医療法人社団湘南健友会が運営する「介護老人保健施設 湘南の丘」。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3685。山道を下っていくと、竹林の中に。タケノコは成長し既に1m以上になっていた。山道を出ると正面にあったのが貸し市民農園「富士見ファーム赤羽根」。多くの方が菜園作業をされていた。次に足を延ばし(株)都実業グリーンリサイクル茅ヶ崎営業所を訪ねた。茅ヶ崎市では、ごみの減量を推進するため、庭木などの手入れを行った際に出る剪定枝について、令和3年4月からリサイクルを開始しているのだ。現役時代の仕事の関係上、気になる施設なのであった。「茅ヶ崎バイオマス発電所」案内板。「バイオマス」とは、生物資源(bio)の量(mass)を表す言葉で、再生可能な生物由来の有機性資源(化石燃料は除く)の総称。なかでも木材由来のバイオマスのことを「木質バイオマス」と呼びます。 発電方法は、端材や木質チップを直接燃焼させて発電する「蒸気タービン方式」と、木質バイオマスをガス化して燃焼させる「ガス化-エンジン(ガスタービン)方式」に分かれる。都実業と利久ではこのうち「蒸気タービン方式」を採用し設備化したのであった。木質バイオマスを裁断しチップ化しこれを燃焼させ、ボイラーにて蒸気を発生させ発電して、余剰電力を売電して収入を得る仕組み。この事業所施設の名称は「利久株式会社 茅ヶ崎バイオマス発電所」。「茅ヶ崎バイオマス発電所」。2021年8月1日より稼働開始と。場内に山積みされた木質チップを搬送車に載せ、焼却炉へ移送。木質バイオマスの木質チップをズームして。発電機仕様ボイラー型式:N-500 型、自然循環式水管ボイラー 使用燃料:木質チップ蒸気タービン型式:抽気復水タービン 発電出力:1,990kW / h少し移動してズーム。上空からの写真をネットから。 【http://miyako-jitsugyo.com/info/】よりそしてひたすら歩いて次の目的地の「宝積寺」の入口に到着。奥に「宝積寺」の山門が見えた。大きな駐車場の角には石碑が。左に「馬頭観世音」碑。その隣に「禅宗 宝積寺」碑。その先にも石碑が。「庚申供養塔」。寛政12年(1800)9月山伏角柱日月・「庚申供養塔」・三猿(台石)正面右側「寛政十二庚申」 〃左側「九月吉祥日」左側面「赤羽根上村中」「身代地蔵尊」。そして「宝積寺」の「山門」を正面から。駐車場の奥にあった石仏群。左の「招福布袋」像。笑顔の「布袋様」に近づいて。石仏が三体左:六十六部三千人・・の文字が。中央:高座郡・・・赤羽根村中右:明和ニ乙酉年(1765) 観音供養・・・「双体道祖神」であろうか。肩に手を置いて頬よせて。「山門」。寺号標石「曹洞宗 宝積寺」。「不許葷酒入山門」と。「山門」に近づいて。扁額「稲荷山」。「縁起宝積寺創建 慶長ニ年 西暦一五九七年本尊 観世音菩薩開山 冷室長厳大和尚 慶長五年十月廿日示寂伽藍倒壊 関東大地震 大正十二年九月一日 一九ニ三年本堂再建 昭和四十五年 一九七〇年薬師堂創建 慶安元年 一六四八年 再建 昭和五十三年 一九七八年」「山門再建成就碑」。庫裡であろうか。「宝積寺」の文字が。「薬師堂」。「薬師堂再建記念碑」。扁額「薬師堂」。「寶樹殿庫裡建設記念碑」。扁額「寶樹殿」。境内の見事な松。右から左へ10m以上もあっただろうか。根元を見る。石碑の文字は「雲外松」であろうと学友から。根元方向から。樹齢は100年以上か?廻り込んで。根元をズームして。本堂の扁額「寶積寺」。「妙染一貞法尼顕彰碑」。「かながわの100人」に選ばれたときに建てられた顕彰碑とのこと。「村野もと子」と現代風の名前であるが江戸時代に生きた女性。「長閑なる 雨の名残りの 露なるに おりてかざらん 山桜花」 「空に立つ うき名を何に つつままし おほふ計(ばかり)の 袖しなければ」裏面には野村もと子幼名直(生年不詳~天保八年九月一日 一八三七年没)は上赤羽根村名主小沢家の娘であって 歌の師加藤千蔭の門下に入り春夏秋冬恋歌六十九首の短歌一首の長歌を編した。「もと子家集(編者注 歌集か)」を天保六年(一八三五年)四月刊行当時の女流歌人として豊かな教養知識をもって歌才を認められる。昭和五十五年(一九八〇年)「かながわの一〇〇人」に女流歌人として選せられる昭和五十七年十一月吉日 小沢家十八代 小沢卓一 長男 雄市 建立 宝積寺四十世 大活俊雄 雲外良憲 敬書「寶積寺本堂再建記念碑」。「宝篋印塔」。祠の中に石仏が。近づいて。そして再び「本堂」を振り返り「宝積寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.02
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「西光寺」の山門前に到着した。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3222。「山門」は昭和56年10月建立。寺号標石「浄土宗 西光寺」。掲示板には「いつもにこにこ笑って 苦しいつらい時もあるけど 力いっぱい生きて行こうどうにもならない時もある 努力して無心に生きる こんなにしているのにと思っている時にはまだまだ成長していない ほほえみ忘れないで つらい時こそやさしく出来る人 心強い人小林良正」「「五と五の力」親と子も五と五 夫と妻も五と五 嫁と姑も五と五 友人と自分も五と五 患者と医師も五と五その五とは 自分のやる気 あとの五は 相手の助け 人間どんな間柄も 五と五の関係こそ最良の良されば 五と五が合して十となり その十がやがて百となり 百の力が万の力を生む殿村 進」「南無阿弥陀佛」碑。山門左側に立つ「山門建立之碑」「為 小池家先祖菩提 昭和五十六年十月吉日 施主・・」。「山門」には院号『乗蓮院(じょうれんいん)』の扁額が掲っていた。ズームして。石仏。「庚申塔元文5年(1740)12月唐破風笠付角柱月日(手持)・青面金剛像(剣/羂索・六臂)・三猿右側面「奉納庚申供羪(養)」左側面「元文五庚申天十二月吉日 中赤羽根村 講中」」「涅槃堂」。平成25年5月建立。骨壺ごと納める個々のロッカー式永代供養納骨堂。涅槃像が祀られている為、涅槃堂と言うのだと。涅槃像のお姿が確認できた。そして「本堂」「迎接山(こうしょうざん) 乗蓮院(じょうれんいん) 西光寺(さいこうじ) 第三十七世住職 三浦康志。当山は徳治二年、西暦千三百七年に開創されました。茅ヶ崎市内では小和田にあります浄土真宗上正寺に次いで二番目に古い寺院です。開山は念蓮社専譽唯称大和尚(ねんれんじゃせんよゆいしょうだいかしょう)で、鎌倉岩瀬の大長寺の末寺です。当山第十世光蓮社念譽岌道上人(こうれんじゃねんよぎゅうどうしょうにん)は茅ヶ崎南湖にある西運寺、また寒川小動にある念宗寺それぞれの開山上人になっております。本堂内宮殿に子の年と午の年にのみ開帳する十一面観世音菩薩が安置されています。寄木造玉眼入の立像で、厄難よけ守り観音として江戸期には参詣者も多かったようです。本堂回廊にあります鐘は戦争の時に供出しましたが、終戦後奇跡的に鉄砲の玉にならずに、赤羽根西光寺と書かれていたことから戻ってきましたので、市内最古の喚鐘と言われております。またこの寺は三回本堂が全壊しております。一度目は今から約四百年前、第十一世住職の代に火災、二度目は約百九十年前、第二十五世住職の代に火災、三度目は約九十年前、第三十三世住職の代に関東大震災によってです。現在の本堂は檀信徒の皆様のご協力によって平成二十五年三月に落慶いたしました。」「鐘楼堂」。昭和46年6月建立。除夜の鐘を自由に撞けるのだと。「鐘楼」。鐘の銘は次のとおり。赤羽根/西光寺奉寄進半鐘相州高座郡赤羽根村/迎接山西光寺十三世/浄蓮社欣誉單信上人為菩提江戸同行寄進元禄二己巳年二月日武州江戸住御鑄物師/田中丹波藤原/重行作茅ヶ崎では最も古い「元禄2年」(1689)の年銘を持つところから重要文化財に指定されている。また、銘に「江戸の同行の菩提のために寄進」とあり、作った鋳物師も江戸の人物であるところから、この鐘の造立に、大山道を使っていた江戸の講中が関係していると考えられるとのこと。太平洋戦争中に供出させられたが、西光寺と書いてあったために寺に戻ることができたのだと。墓石の裏にも古い石仏が。ズームして。「鐘楼堂」の前から「本堂」を見る。寺務所・客殿であろうか。「十三重石塔」。「本堂」前の樹の下には石碑が。「除厄招福 十一面観世音 子育水子地蔵尊 法譽」と。その下には小さな石像が。開山の念蓮社専譽唯称大和尚(ねんれんじゃせんよゆいしょうだいかしょう)のお姿であろうか。それとも歴代の住職の方の像か。「本堂」は平成25年3月落慶。木造銅葺平屋建で、堂内には阿弥陀三尊が祀られ、裏堂には位牌壇があった。山号「迎接山」の扁額が掲っていた。内陣。ズームして。更に、しかし・・・。「六地蔵」。墓地内を歩く。「南無阿弥陀佛」碑。宝篋印塔。歴史を感じさせる墓石群。ここにも「庚申塔」が。寛文5年(1665)2月3日板碑型梵字28字・三猿(龍前院型)正面右側「干時寛文五年」 〃左側「乙巳二月五日」 〃中央「施主 敬白」 〃下側 7人の名これも「庚申塔」元禄3年(1690)3月29日駒型光明真言23梵字・三猿正面右側「元禄三庚午天」 〃左側「三月廿九日」 〃下側「施主 法印頼宥」 4人の名 「敬白」これも「庚申塔」宝永7年(1710)11月舟形光背型梵字ウーン・月日・「奉勧請青面金剛尊」・三猿正面右側「宝永七庚寅年」 〃左側「十一月吉日」 〃下側 10人の名これも「南無阿弥陀佛」碑。「永代供養合祀墓」平成29年9月建立。阿弥陀如来座像の下へお骨を布袋に入れ埋葬する永代供養合祀墓。阿弥陀如来座像。お顔をズームして。横から。浄土宗 宗紋 「月影杏葉 (つきかげぎょうよう)」。そして「本堂」の裏の高台には、この後に訪ねた「伊勢宮神社」が確認できた。山の斜面に大きな墓地が拡がっていた。再び「本堂」と「涅槃堂」を見る。「山門」と「涅槃堂」。再び「本堂」を斜めから。そして墓地の脇の坂道を上り「伊勢宮神社」に向かって進む。「西光寺」の「本堂」を見下ろす。右手に、古い五輪塔群。高台に「伊勢宮神社」の石段が現れた。神奈川県茅ケ崎市赤羽根(3297)付近。茅ヶ崎のお伊勢さんと呼ばれていると。千木や鰹木などの構造からは伊勢のお伊勢さんが祀られているようであった。「伊勢宮神社」の下の奥にあったのが「法然上人二十五霊場」。昭和62年7月建立。当寺開創680年を記念して、「西光寺」裏山に円光大師法然上人の二十五霊場が造成された と。「元祖 円光大師 法然上人二十五霊場」碑。「法然上人二十五霊場」👈リンク は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの寺院を巡る霊場巡拝である。札番付き寺院が25箇所のほかに、番外である「縁故本山」と「特別霊場」が1箇所ずつあり、計27箇所となるとのこと。「法然上人像」。近寄って。帰路は山の斜面の墓地内の参拝路を下っていくと「西光寺」の「開山歴代上人墓」があった。そして「西光寺」を後にすると、「西光寺」の東側には、新しい「動物供養塔」が建っていた。令和2年2月建立。ペットのお骨を骨壺ごと納める永代動物供養塔であるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.01
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「甘沼 八幡大神」を後にして、次の目的地の「玉林寺」に向けて県道404号線・小出県道を北東に向かって進む。前方に見えたのが15階建て高層マンション「オクトス湘南 茅ヶ崎ヴィスタヒル」。「玉林寺」の入口手前には小さな地蔵堂があった。地蔵堂の中には一体の長身のお地蔵様と生花が。赤いマントの如き衣服で覆われていた地蔵様。そして寺号標石「吉祥山 玉林寺」。神奈川県茅ヶ崎市甘沼217。左手に石碑群。左から「造立大六天 明和五戊子年 (1768)十一月吉日 玉林寺長◯代」と刻まれた石碑。「三界萬霊等」碑。「三界は仏教語で、欲界、色界、無色界をいい、俗界というのは、食欲、性欲、睡眠欲をいう。色界は食欲よりも性欲の強いことをいい、無色界は性欲のない心の世界をいう。万霊というのは欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさしている。それらを供養することが三界萬霊等(塔)である」と。次の石碑は解読不能。そして山門に向かって進むとブロンズ製の仁王像が迎えてくれた。右手に仁王像・阿形像。お顔をズームして。横から。そして後ろ姿を。仁王像・吽形像。お顔をズームで。横から。そしてこちらも後ろ姿を。「山門」を潜る。蟇股の見事な彫刻。そして「本堂」。曹洞宗 吉祥山 玉林寺(ぎょくりんじ)。扁額「玉林寺」。境内の銀杏の老木は丸裸にされて。石祠には天保九年?(1838)十二月吉日と。墓地の一角には歴代住職の墓地が。中央の石碑には「玉林寺歴住諸大和尚禅師」と。墓地を見る。寺務所。「本堂」前から「山門」を見る。再び「オクトス湘南茅ヶ崎ヴィスタヒル」を見る。黄色と白の混じった花菖蒲の群生地。ヤグルマソウ(矢車草)。茅ヶ崎市赤羽根の住宅地を南に進む。右手の高台の墓地の一角に「道祖神」碑があった。中赤羽根の「道祖神」碑。自然石板文字道祖神昭和四十七(1972)年と。「廻国供養」塔。江戸時代中期には観音巡礼や四国遍路にならって日本国中の社寺を廻ること(日本廻国行者)が流行しており、国中の神社仏閣を参詣し、その記念としてこの供養塔を建立した と。「廿三夜供養」塔。「陸軍歩兵ニ等卒勲八等島村賢治之碑」。墓地、石碑群を振り返る。次の目的地の「西光寺」に向かって進む。アヤメの花が道端に。「時計塔」のある「中赤羽根自治会館」が右手に。前方の山の下に目的地の「西光寺」があるはず。純白のツツジ。1本のツツジの木に2色の花が。「コンボルブルス」であろうか。近づいて。そして道端の民家の生け垣の中に地蔵様が。神奈川県茅ヶ崎市赤羽根3226。「享和三年」(1803)の文字が。民家の庭の見事な藤棚をカメラで。見事な藤の花。オレンジ色のアヤメも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.31
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「成就院」を後にして、ゴルフ場「スリーハンドレッドクラブ」の前の道への坂道を上って行った。道路脇には紫の菖蒲(しょうぶ)の花が。近づいて。ゴルフ場の入口に向かって坂を上って行った。相模川方面の街並みを見下ろす。そして左側にあったのがゴルフ場「スリーハンドレッドクラブ」の入口。神奈川県茅ヶ崎市甘沼441。ここスリーハンドレッドクラブは日本の政財界の超一流人300人だけが会員になることが許されている超が付く名門コース。歴史を紐解けば昭和37年、東急電鉄が造成したメンバークラブで、当時の入会基準は、政治家は首相か外相の経験者のみ。財界人は東証一部上場企業で50歳以上という狭き門であったと聞くが現在でも?アメリカのトランプ大統領が来日した際に安倍首相が埼玉県・川越市にある『霞ヶ関カンツリークラブ』でゴルフ外交をしたのは有名だが、その直前に“コソ練”をしたのが、ここスリーハンドレッドクラブだったのだと。さすがに、多くの高級車が駐車していた。その先、左にあったのが「茅ヶ崎配水池」。「茅ヶ崎配水池災害用指定配水池概要構造 鉄筋コンクリート造大きさ 12m☓12m☓1池 48m☓48m☓1池有効水深 4.0m満水時水位 標高50.0m容量 5184m3この配水池は、寒川浄水場から送られてきた水を貯えて、茅ヶ崎市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されています。」配水池の平・断面図。そして坂道を下って行くと右手に小高い山への上り口があった。そこを上って進むと、次の目的地の「甘沼 八幡大神」の社殿境内への裏道が続いていた。前方に「新湘南バイパス」、その先に「江の島」の姿が。「江の島」をズームして。裏道を下り、「甘沼 八幡大神」の境内に入り、正式な入口まで進む。石段の先に石鳥居そしてその奥に拝殿の姿が見えた。社号標石「甘沼 八幡大神」。石段横の老木の内部には空洞部も。石灯籠と石鳥居。「甘沼八幡大神と甘沼村の由来八幡大神社 格 相模国高座郡甘沼村明治六年十二月披列村社候事祭 神 八幡大神は誉田別命(注応神天皇)軍の神様境内に末社あり殿山稲荷と云う祭神に倉魂神 農業の神様創 立 明暦二年丙甲(西暦1656年)今から参百弐拾六年前である。現建物 奥殿は昭和二十六年十月に再建された。本殿は昭和四十八年九月に村有志により再建 されたものである。甘沼村の由来由 来 昔より高座郡に属す起源詳ならず口碑に今の本村の田地震にて概て一円沼地にして其辺 甘草の生茂せしを漸々開墾したるを以って甘沼村と云い懐島郷(旧大庭の庄)の一つで あったが冠稱を廃して現今は単に村名のみを用う。沿 革 往古詳ならず永禄年間北条氏の臣近藤孫三郎来地たり天正十八年庚寅徳川氏に代り 承応三年甲午旗下堀順三郎の知行所となり明治元年戊辰八月韮山県に属し同年九月に 神奈川の所轄となる。」石鳥居の下を進む。右手にあったのが「鐘楼」。「八幡大神拝殿新築記念」と。「昭和四十八年九月吉日再建」と。「平和の鐘」と。その先に「庚申塔」。青面金剛像をその表に彫りつけた形式の庚申塔の出現期のものである。4臂の像で、2猿を従えている。この形式の庚申塔は今までに7基が知られており、内1基は年号が分からないが、他は承応2年(1653年)から明暦4年(1658年)の間の年号銘をもつ。しかもそのいずれもが、相模川下流域に集中している。この庚申塔は、この7基の内の2番目に古い年号銘をもっている。「八幡神社の庚申塔 平成十八年二月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応三年(1654)の年号が見える。基部には造立者十人の名が刻まれている。四臂(よんび)(うで)で二猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚二、寒川一、藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。」石碑群。左から●舟形光背型「廿三夜塔」・明治三十七年一月吉日、●山状角柱型「道祖神」・「丙安政三年/辰正月吉日」(1856)、●山状角柱型「道祖神」・「安政二乙卯正月吉日」(1855)石段を上り終えると正面に「拝殿」。狛犬「阿形像」。狛犬「吽形像」。太い丸太で蓋をしてあったのは手水場であっただろうか。「拝殿」御祭神 誉田別命( ほむだわけのみこと )祭礼 1月1日 元旦祭(がんたんさい) 7月15日 浜降祭(はまおりさい) 8月4日 例祭(れいさい)屋根の鬼瓦とその下の彫刻。頭貫の彫刻。裏に 木彫師 渡辺豊雲 と。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「八幡大神」。「境内社」。「神輿殿」。扁額「神輿殿」。「甘沼 八幡大神」の神輿。 【https://ameblo.jp/syounan0211/entry-10016796571.html】より「神楽殿」。この境内社の名前は??「甘沼八幡大神」を後にして小出県道に出て南西に進み暫くして左折した場所にあった「小祠」。神奈川県茅ヶ崎市甘沼594。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.30
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「成就院」の入口。神奈川県茅ヶ崎市甘沼473。寺号標石「高野山真言宗 甘沼山成就院」。石仏。思惟手(しゆいしゅ)の姿の弥勒菩薩であろうか。それとも如意輪観音の庚申塔であろうか。石段の手前の両脇には陶器の象の置物そしてその上には葉牡丹を植えた鉢が置かれていた。石段の先に「本堂」が見えた。祈る姿の石仏。鹿の親子の置物。「本堂」。「甘沼山成就院」。成就院の創建は四百有余年前とされ江戸初期の創建であろう。寺のホームページには開山や創建年などの由来や縁起は記載されてはいない。寺のホームページに縁起・由来を記載していないお寺は実に珍しい。「本堂」の彫刻。屋根の「飾り瓦」。大きな「宝篋印塔」。「十三層塔」。奉建者のお名前の横に「十三層塔」と。正面に「修行大師像」。脇には隣に鎮座されていた「南無一言大師」の幟。近づいて。「修行大師像」と。「大師堂」。「一言大師この石仏は文政年間相模国八十八ヶ所霊場第三十五番札所の成就院ご本尊として造立された「弘法大師空海」のお姿です。その霊験あらたかなるが故に信仰され大切な願い事を一心に念ずれば必ずやかなえて下きるご利益により「ひとことだいし」と伝えられます。」「弘法大師像」。宝塔。「本堂」を横から。熊の置物。「不動明王」。中央に海波上に立つ「波切不動明王」の線刻像。不動明王が背負われている真っ赤な火炎「迦楼羅炎(かるらえん)」が激しく動いていた。炎の光背・「迦楼羅炎(かるらえん)」を背にし、手には剣と羂索(けんじゃく)を持っている。「不動明王」の脇侍として八大童子のうちの矜迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の2童子が配されていた。正面左側に海波上に描かれた「矜迦羅(こんがら)童子」。蓮華冠をつけ、 合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵をはさんで持つ。 天衣と袈裟を身に着けている。正面右側にこれも海波上に描かれた「制多迦(せいたか)童子」。金剛棒をもち頬杖を付く独自のポーズをとっている。再び「不動明王」、「矜迦羅童子」、「制多迦童子」の線刻像を振り返る。「本堂」を横から見る。石段の右側、しだれ桜の下には石碑があった。句碑のようであったが・・・。茅ヶ崎在住の学友も成就院を訪ねて「㐂(よろこ)びを重ねて舞ふや宵の春 はん女」と。「はん女」とは「武原はん」氏ではないかと、これも学友から。「樹木のお墓」案内。墓地。五輪塔。ハナズオウ(花蘇芳)。象の置物。そして満開の「なんじゃもんじゃ」の木。明治時代、東京の青山練兵場(今の明治神宮外苑)の道路沿いにこのなんじゃもんじゃの木があり、名前がわからなかったので「何の木じゃ?」とか呼ばれているうちにいつのまにか「なんじゃもんじゃ?」という変わった名前になってしまったのだと。 「何でふ物ぢゃ」→「なんじゅうものじゃ?」 →「なんじゃもんじゃ?」と。本種は小葉を持たない単葉であることから『ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ)』の和名がある。モクセイ科の植物。ズームして。プロペラ型の白い花。すぐ散ってしまうのだと。「本堂」前には接ぎ木ではなく「実生(種)」から育てた多くの苗木が並んでいた。「ハンカチの木」は花が終わっていた。「寺事務所」、「墓苑管理事務所」。「五輪塔」「阿闍梨 光全 不生位」と刻まれていた。光全和尚の供養塔のようだ。三界万霊塔他。樹木葬の墓地。「本堂」を見下ろす。「敬愛の陵」。「聖観世音菩薩像」。お顔をズームして。「樹木葬、樹木のお墓」を見る。そして通常の墓地。富士山の姿は見えなかったが、大山の姿は見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.29
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次香川7丁目2−1にあった「道祖神」を後にして「遊水池」まで戻り、「遊水池」の先を西に折れて進む。次に訪ねたのが「曹洞宗 玄珊寺 ( げんさんじ )」。神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目27−24。道路の角にあった「供養塔」。右側面には「萬霊塔」、左側面に「禁葷酒」と刻まれていた。裏面には「天明三癸卯十一月 施主観音講中」と。「玄珊寺 」の正面に。山号は「香川山」。「六地蔵」。歴史を感じさせる石仏は弘法大師像であろうか。「御詠歌碑相模國 新四國八十八ヶ所 弘法大師第五十五番札所御詠歌伊予の海 三嶋の神の みづかきを にほふ香川の うつしくみけり」「お姫子育て地蔵」。「お姫子育て地蔵元文三年(一七三八年)当時の領主、本間家十代季元忠左衛門が早世した娘の菩提を弔うために造立したもので、当時よりお姫地蔵とも呼ばれていました。いつしか子供を守る子育て地蔵としても親しまれ現在に至っております。」「お姫子育て地蔵」。寺務所。「本堂」。宗派:曹洞宗開基:開山宗賢院四世の長厳創建:天正9年(1581)本尊:釈迦牟尼仏(お釈迦様)曹洞宗 香川山玄珊寺 ( げんさんじ )は、天正九年(1581年)、現在の 茅ヶ崎市 香川の地に創建された。開山は冷室長厳(れいしつちょうごん)大和尚、藤沢市大庭にある宗賢院の第四世住職であった。開創当初は禅修行のための草庵であったと想像される。天正十二年、当地の地頭であった本間李忠(ほんますえただ)候が長久手の戦いで戦死し、その菩提を弔うため、伽藍をたて、寺領を寄進した。李忠候の戒名は「金剛院殿樹心玄珊居士」、現在は本堂裏手の墓地に本間家の墓所がある。ちなみに、玄珊寺本堂は西向きというめずらしい建て方がされているが、これは合戦の地であった長久手を望んでいるためと伝えられている。当時より香川の村は平坦で田畑多く、その村の中心地に建てられた玄珊寺は、村の名前がそのまま山号になるほどに村と寺の結びつきが強かったようである。正面左に安置されているお姫子育て地蔵尊は、元文三年(1738年)、本間家10代季忠元左衛門が早世した娘の菩提を弔うために造立したもので、当時よりお姫地蔵と呼ばれていた。以来子供を守る子育て地蔵としても親しまれ、今でも多くの方に参詣されている。内陣。ご本尊: 釈迦牟尼仏。「晋山結制法要 令和四年五月二十九日厳修」と。「晋山式」とは、新しく任命された住職の正式な就任式であり、また、「結制法要」とは新住職が最高の法階である大和尚の位に就くための儀式である と。先代の「本堂」の鬼瓦であろうか。石庭には、狸の置物が鎮座。親子連れ?「本堂」前から境内を見る。境内は管理された芝生で覆われていた。寺務所であろうか。「玄珊寺」を後にして「香川小学校」の通学路を南東方向に進む。民家の庭のツツジの八重咲きが美しかった。その先にあったのが「日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会」。神奈川県茅ヶ崎市香川1丁目34。「日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。十字架の見える位置から。掲示板主日礼拝:毎日曜日 午前10:15~11:30湘北地区ボランティアセンター。「当センターは湘北地区社協が運営しています。湘北地区にお住いの65歳以上の一人暮らしや高齢者世帯の方、病気がちの方、アクシデントでお困りの方などが、手助けがほしいときに、当センターに登録したボランティアがサポーターとしてお手伝いします。」と。左手に「松風台南公園」。神奈川県茅ヶ崎市松風台3−9。茅ヶ崎市甘沼の住宅街を次の目的地の「成就院」に向かって進む。住宅街には、1本のツツジの木に様々な色合いの花が。ツツジの花の特徴とも言えるのが、いろいろな色の花を一本の木から咲かせること。そして正面に「成就院」が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.28
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次4月28日(木)に「茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る」の3回目、茅ヶ崎市内のJR相模線の東側で松林通りの北側、そして室田1丁目、高田1丁目を歩いて来ました。この日も6:10に自宅を自転車で出発し最寄りの小田急線の駅に向かう。途中にある民家の藤の花が満開であった。毎年、手入れも行き届き、美しい花を楽しませてくれるのです。「万葉集、金槐和歌集、源氏物語だけでなく、藤の花を詠んだ俳句や短歌は、とても多く残されています。また、日本に多い苗字として、藤田・佐藤・加藤・伊藤など、藤が付く名字が多いです。これは、平安時代に栄華を極めた藤原氏の影響と言われています。藤は、名門藤原氏のゆかりの漢字でもあるのです。」とネットから。そして我が現住所と名前に「藤」がそれぞれに。そして6:25発の電車で藤沢駅に向かう。そして藤沢駅、茅ヶ崎駅で乗り換え、JR相模線の香川駅で下車しこの日の散策をスタート。下の写真は1981(昭和56)年の「香川駅」前の広場と商店。「相模鉄道」は1921(大正10)年に茅ヶ崎~寒川間で開業し、茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)内には「香川駅」も置かれた。その後、茅ヶ崎~香川間には、1932(昭和7)年に「円蔵駅」、1940(昭和15)年に「日東駅」、1941(昭和16)年に「香川台駅」と3駅が設けられたが、戦時中の1944(昭和19)年、国策により「相模鉄道」は国有化され国鉄(現・JR)相模線となり、この際に「円蔵駅」と「香川台駅」が廃止、「日東駅」が「北茅ヶ崎駅」に改称となった。 【https://smtrc.jp/town-archives/city/chigasaki/p03.html】より最初に訪ねたのが、香川駅の西側の路地の角にあった「小祠」。朱の鳥居には「正一位」の文字が。神奈川県茅ヶ崎市香川4丁目48−16。「正一位稲荷大明神」。小さい稲荷神社にも最高位「正一位」を名乗ることを、鎌倉時代の天皇・後鳥羽天皇が許可を出してしまった為であると。後鳥羽天皇が稲荷神の本社である伏見稲荷大社を訪れた時に、分霊先でも正一位を名乗ることを許可してしたのだと。ちなみに分霊は日本全国で3万社ほどあるとのこと。そしてJR相模線まで引き返し、踏切を渡る。「香川踏切3 K 2 8 5 M茅ヶ崎市香川字南744-2」踏切からJR相模線の「香川駅」の単線のホームを見る。80mほど進み、左側の「神奈中タクシー(株) 茅ヶ崎営業所」の前にあった「稲荷社」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市香川6丁目4−3。「神奈中タクシー(株)茅ヶ崎営業所」の安全の守り神なのであろうか?直ぐ先の路地の角を左折すると直ぐ右側にあったのが「殿内道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市香川6丁目3。石祠(流れ造)道祖神には「奉納 殿内氏子中 貳(二)百年祭 昭和四拾六年五月」と。後ろが旧世代・1772年 (安永元年)の石祠(流れ造)道祖神。旧世代の後ろにも大量の五輪塔の部位が。位置的にこれが一番古い世代のものなのであろうか。祠の中には「殿内道祖神」と。「殿内道祖神」の銘。茅ヶ崎市香川6丁目の住宅街を東に進む。民家の庭に咲いていた「オオデマリ」の花。「オオデマリ」はヤブデマリの花(ガク咲き)が、すべて装飾花(手まり咲き)になったもので、英名はジャパニーズ・スノーボール(Japanese snowball)と言うと。手入れの行き届いた生け垣の前を進む。右折すると左手にあった石碑。神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目24。「念徳碑」と書かれているのであろうか。「三𫞏大五郎氏ハ安政四年十一月五日三𫞏清兵衛氏二男二生ニ十七歳ノ時横濱ニ志ヲ立出郷明治二十三年四月一日獨立シテ銅鐵商ヲ開業累年盛大〇〇◯常ニ敬神ノ念厚く大正四年天水桶大正十丑年火見櫓大正十年鳥居奉献大正十二年震災に倒潰スルヤ再建維持費奉納セラル昭和三年社殿改築ニ當リ銅板ヲ寄進昭和十三年敷石奉献ト共ニ石段ノ修理ヲ寄進セラレ之レガ為ノ境内ノ荘嚴ヲ加ヘタリト謂ウベシ其ノ篤行常ニ郷党ノ渇仰スル所謙譲ノ徳ヤ世ニ範ク此処ニ建碑シテ永ク徳行ヲ表スモノナリ」そして「香川諏訪神社」の入口の石段が現れた。社号標石、由緒案内板を見る。社号標石「指定村社 諏訪神社」。「由緒一 創建 推定平安朝時代一 社號 相模國大庭庄河村総鎮守 諏訪大明神(後神社)一 祭神 建御名方神(大國主神)一 例祭日 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 七月二十七日 大祭 八月十四日 夏越祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月 二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大祓」鳥居に向かって石段を上る。正面に「拝殿」。社務所。「諏訪稲荷神社」。立派な石の台座の上に境内社「諏訪稲荷神社」が鎮座。三猿像を彫った庚申塔ではごく初期のものであると。近づいて。「庚申塔」碑。「神輿舎」。「神楽殿」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「香川諏訪神社」の「拝殿」。「香川の地名の由来は皇国地誌に「遠い昔、隣の下寺尾村に咲く梅の香が、小出川の流れに乗って漂ってきたことによる」と記載されている。同誌に、信濃国の一之宮で元官幣大社であった諏訪大社の御分社として1589年(天正17年)に勧請したといわれている。1842年(天保12年)相模国の地誌新編相模国風土記稿によると、高座郡大庭庄香川村の項目には、当山修験普賢寺(現在の香川五丁目付近にあった寺院)の別当寺と名を記載されている。明治維新の神仏分離令により寺を分離する。信濃の諏訪大社に上社下社があるように、香川字篠谷(現在のスリーハンドレッドクラブ付近)に上諏訪神社、香川字東(現在の香川二丁目)にも下諏訪神社があったが、1875年(明治8年)7月に上社を下社に合祀されたのが現在の諏訪神社である。合祀前は、上諏訪神社と下諏訪神社が1年交代で例大祭を執り行っていた。祭神は上社が建御名方神、下社が八坂刀売神で古来旧香川村の総鎮守として農耕生産、開運招福、交通安全の守護神として崇敬され、氏子の信仰が篤く住民のより所となっている。ちなみに上諏訪神社跡には1935年(昭和10年)に建てられた旧跡碑がある。今なお「上の諏訪」といって住民に親しまれている。戦前までは、神仏習合の名残で釣鐘があったが、戦時中、鉄が不足したため撤去されたこともあった。」とネットから。「香川諏訪神社御祭神 建御名方之神(タケミナカタノカミ) 八坂刀賣之神(ヤサカトメノカミ)例祭神 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 六月第一日曜日 例大祭 七月 (海の日) 浜降祭 八月十四日 夏越祭 戦没者慰霊祭 九月三日 諏訪稲荷神社例祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月 二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大祓」扁額「諏訪大神」。「拝殿」の彫刻を追う。木鼻(右)。木鼻(左)。御神木。境内社。「神輿舎」の屋根越しに「本殿」の屋根を見る。境内を振り返って、「香川諏訪神社」を後にする。そして次の目的地に向かって香川6丁目と香川2丁目の境の道を北上する。右手にあったのが遊水池。茅ヶ崎市みずき4丁目18。その先にあったのが「道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市香川7丁目2−1。銅葺き屋根の、凝った造りの祠であった。左に五輪塔の残欠多数。フラッシュで。勘重郎堀を開削した香川村名主・三橋氏の名前他が多数書かれていた。内陣には、「双体神祇道祖神」が鎮座していた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.27
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして「大岡越前通り」を先程訪ねた「妙伝寺」の角まで戻る。この先を左に入り南に向かって暫く進むと右手に「堤貝塚」案内板が。写真左のフェンス下が堤貝塚の東斜面。「堤貝塚(十二天A遺跡)この台地(海抜30m~34m)には貝塚を伴う縄文時代の集落跡があります。貝塚は台地の両佩にあって、東側の貝塚(本説明板前)はこの台地縁辺に接した斜面にのこされたもので、過去、昭和十三年、十四年に調査されています。西側のものは台地の平坦部から斜面へかけてのこされており、この貝塚の台地平坦部の一部は昭和三十四年、三十七年に調査され、台地の中央より東に寄った所から竪穴住居跡(後期・堀之内Ⅱ式期、三千五百年~三千年前)一基が見つかっています。また斜面の貝層下から大型の石囲いが、竪穴住居跡が見つかり、さらに五十七年には既存の道路下にも貝層が確認されています。貝塚をつくっているものは、大部分がダンペイキシャゴという巻貝で、ほかにはハマグリ、バイ、ツメタガイなどがふくまれ、そのほか魚骨(マダイ、カツオ等)、獣骨片(イノシシ、ニホンジカ、イヌ、サル等)などが見られました。ここからの出土品は市文化資料館(中海岸ニ丁耳)に展示されています。」「茅ヶ崎市指定史跡 堤貝塚(東斜面貝塚)貝塚の時代 :縄文時代後期( 3500年前頃)立地 :北に伸びる尾根の東側斜面 海抜約30m所在地 :茅ヶ崎市堤字十ニ天1467番1貝の種類 :ダンべイキサゴが主体、他にハマグリ、ツメタガイ ワスレガイ、バイガイなど伴出遺物 :縄文土器(堀之内Ⅰ~Ⅱ日式土器を主体) 骨角器(鯨骨製品、釣り針など) その他、サルボウ製の貝輪など・昭和13年、14年に考古学者の赤星直忠博士によリ発掘調査された 茅ヶ崎市では最初の考古学調査地点でもあリます。 貝塚は斜面に造られた竪穴住居跡に残されていました。 平成27年6月1日に茅ヶ崎市の史跡に指定されました。」航空写真「堤貝塚と十二天古墳群」。◯の位置が堤貝塚、◯▢が「十二天古墳群」。 【http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/khf120210/hiroba01.html】より里山の奥の細道に入ると、「堤十二天古墳群」の円墳と前方後円墳の2基の高塚古墳の案内板・案内柱があった。「堤十二天古墳群 茅ヶ崎市堤字十二天ここに見られる二つの高塚は古墳時代後期(六、七世紀)の古墳です。これらの存在はかなり以前から知られていましたが、その実体は不明でした。昭和五十年三月に行った調査の結果、南の一基は、その外形とすそ部をめぐる周溝の形(長方形)から前方後方墳(全長約30m、巾約15m、墳頂部の高さ標高39.5m)と考えられています。北の一基は円墳(径約20m、墳頂部の高さ標高36.9m)です。二基の墳丘は北に向かって緩やかに傾斜する尾根上の台地に、自然の地形を利用して、約19メートルの間隔で造られています。これらは墳丘の規模からみて、茅ヶ崎市北部を中心とした小領域を支配する中・小首長(豪族)二世代の墓と考えられます。」これが径約20m、墳頂部の高さ標高36.9mの円墳であろう。全長約30m、巾約15m、墳頂部の高さ標高39.5mの前方後方墳。古墳の奥には、長い墳丘が続き、古墳時代の様子が保存されていた。元の道まで戻ってさらに進むと、このテニスコートのある場所が「堤貝塚」👈リンク の一部であると。テニスコートの管理事務所の前に案内板が2枚設置されていた。「神奈川県指定 堤貝塚平成四年二月十四日 指定指定地面積 五百平方メートル本貝塚は茅ヶ崎市堤字南谷及び十二天に所在する縄文時代後期前半の貝塚で、小出川の一支流に北面する標高三十数メートルの舌状台地の基部に立地しています。この台地の平坦部を挟んで東西両斜面に貝塚が残されています。指定地は、西側の貝塚の一部で、貝層は南北三十五メートル×東西十メートル程の広がりをもっているものと思われます。東側の貝塚は昭和十三年と十四年に貝層の試掘調査が行われました。西側の貝塚は、昭和三十四年に貝層の試掘調査が、三十七年には平坦部を含めた発掘調査が行われ、平坦部の東寄りに竪穴住居跡が一軒発見されました。また、昭和五十四年には貝層の範囲確認のため、平坦部の西側と指定地内の一部が発掘調査され、貝層及びその下に竪穴住居跡、石囲い炉が確認されました。さらに昭和五十七年の調査では、指定地東側の道路下で貝層が確認されています。貝層は台地縁辺から斜面にかけて堆積し、ダンベイキサゴを主としてバイ、ツメタガイ、アカニシ、サザエ、ハマグリ、カキなどの貝類や、サメ、マイワシ、ボラ、カツオ、スズキなどの魚類の骨、イノシシやニホンジカなどのホ乳類の骨も出土しました。相模湾沿岸には縄文時代にいくつかの貝塚が形成されましたが、今日まで残っているものは数少なく、本貝塚はそのひとつであり、貝層の規模も大きく、保存状態もおおむね良好で、当時の人々の生活を知るうえで極めて重要かつ貴重な遺跡であります。● お願い この史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。」「堤貝塚ここから出土した主な動物(骨)哺乳類 イノシシ・ニホンジカ・ニホンイヌ・サル・マイルカ魚類 タイ類・カツオ・サメ類・トビエイ・マイワシ・ウツボ・ボラ・ブリ・スズキ・メバル ・・・貝類 (巻貝)ダンベイキサゴ・バイ・ツメタガイ・アカニシ・サザエ (二枚貝)ハマグリ・カキ・シジミ」出土した土器・深鉢。堤貝塚は、縄文時代後期(約3500年前)の遺跡である。規模が大きく、保存状態も良好な貝層が今も地下に残っており、神奈川県でも有数の貝塚として平成4年に県指定史跡となった。この貝塚を残したムラは大規模と考えられ、当時の生活を知る上で、とても貴重な遺物群が多量に含まれていることが分かった。貝塚はダンベイキサゴが主体で、バイやカキの他、鹿角(ろっかく)製のモリや釣針、魚骨、イノシシやイルカなどの獣骨類が出土した。また石斧、木の実などをすりつぶす石皿や磨石(すりいし)、網の重りにする石錘(せきすい)や土錘(どすい)なども多く出土した。この土器は、昭和37年の調査で発見された堀之内1式期の特徴をもつ朝顔形の深鉢で、考古学の概説書などにも同時期の典型として紹介されてきた。茅ヶ崎の縄文時代を語るには欠かせない土器であり、考古遺物としては初めて重要文化財に指定された。土器の文様は、外面の上半部を鎖状の隆帯で区切り、S字状の渦巻き紋が棒状具で丁寧に充填(じゅうてん)されている。文化資料館に常設展示されている。しかし、文化資料館は現在休館中なのである。「十二天社」。神奈川県茅ヶ崎市堤1486。テニスコートの管理事務所の横を通り「小出県道」に向かって坂道を下っていくと、右手に小さな「稲荷社」があった。朱の鳥居が鮮やか。中には狐様が数体。そして「小出県道」を渡り「堤 南久保の道祖神」も訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市堤2515。社の中の地蔵様。「文字道祖神」。そして「双体道祖神」。道祖神であっただろうか?茅ヶ崎市堤3084。そしてこの日の予定を無事に全て完了し帰路に。近くの神奈中のバス停「長谷戸」から小田急線・湘南台駅へ向かうこととする。これも当初の予定どおり。バスの時間は、この日は日曜日であったので湘南台西口行きの16:25。5分ほど遅れて到着。そして小田急線・湘南台駅で乗り換え。17:30に帰宅。折しも南東の空には虹の姿が。久しぶりに虹を見たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.26
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「小出県道404号線」を横断し直進する。右手にあったのが「茅ヶ崎市消防団17分団」。神奈川県茅ヶ崎市堤2381−1。更に東に進むと、左手奥、階段の上にあったのが「羽黒大神」。「羽黒大神」の「社殿」。「社殿」内部の石祠が「羽黒大神」。そして「大岡越前通り」に戻り東に進むと、右手にあったのが「妙伝寺」。「山門」手前の右手に天保9年 (1838) 銘の万霊塔が立っていた。神奈川県茅ケ崎市堤1032。「山門」に向かって石段を進む。左手に「掲示板」。「けわしき山 あしき道 つえをつきぬれば たおれず」と。=一人で抱え込まないで= 針に糸を通すのは中々大変です。針を固定して糸の先を穴に通していたら、「糸を固定して針を動かすほうが通しやすいよ」と、助言してくれる人がいました。それ以来この方法で糸通しをしていましたが、細い針金を使った糸通しの道具を見つけました。これは便利です。糸通しひとつにしても、やり方は色々あるものです。人生の様々な場面においても、解決策は一つではないと思います。自分一人では困難なことも、他の力を借りれば乗り越えられる方策が必ず見つかります。一人で抱え込まず、肩の力を抜いて、他に頼ることも時には大切なことではないでしょうか。日蓮聖人ご遺文 『弥源太殿御返事』 日蓮聖人の有能な外護者、北条弥源太入道に与えた書状です。書中、聖人は法華経を諸仏発心の杖とたとえられ、弥源太入道に「日蓮のことも杖や柱と思って頼ってください」と呼びかけられます。入道が聖人に従って法華経を信じるようになったのは不思議の因縁であるとして、いよいよ信心強くしたならば霊山浄土のみ仏のもとに導いていただけることと諭されています。文永11年(1274) 聖寿53歳「山門」の扁額は「妙傅寺」。「手水舎」。「山門」の左手にあった「鐘楼」。そして正面に「本堂」。日蓮宗 歓照山 妙伝寺。文禄元年(1592年)に、日安を開山として草創されたといいます。山門前には天保9年(1838年)銘の万霊塔があり、境内の墓地入口右手には、昭和31年(1956年)に建立された「長閑さや 群盲の象を評しける」と刻まれた、村井湖月庵の句碑が。茅ヶ崎北部の丘陵地帯のふもとにあり、境内の楷(かい)の木は「学問の木」として有名。小出七福神の毘沙門天(交通安全・財宝富貴)も祀られていた。「日蓮聖人像」。祈るお姿。「本堂」の扁額は「歓照山」。「本堂」内部に入れて下さいました。「日蓮上人」のお姿が。右側に「鬼子母尊神」の祭壇。そして左側に相州小出七福神「毘沙門天」。近づいて。「毘沙門天」。ズームして。左手に宝塔、右手に宝棒を持ち、甲冑に身を包んだ勇ましい姿の神様。もとはインドの財宝福徳を司る神だったと。日蓮宗の寺院の御朱印が掛け軸になっていた。ズームしたがいずれもピンボケ。「南無妙法蓮華経」塔。「句碑」。「長閑さや 群盲の象を 評しける」昭和31年(1956年)に建立された村井湖月庵の句碑であると。『多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う意から』凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ。群盲象を撫 (な) ず。群盲象を模 (も) す。群盲巨象を評す と。つまり・視野の狭い者が多く集まり、銘々の観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が 見失われている状態の喩え。・視野の狭い者は、いくら集まったところで、本質を理解することは難しいと言うこと。 また、小人物はスケールの大きな人を理解することができないと言うこと。「水子地蔵堂」。台座には、「普明照世間」。堂内には多くの塔婆が立つ。「妙法水子地蔵菩薩」碑。「水子地蔵菩薩像」。「慈照殿」と。斜めから。墓地の最奥、四阿の先にあった永代供養墓「のうこつぼ」。墓地から「本堂」を見る。次の目的地の「天満威徳天神」に向かって茅ヶ崎市堤の坂道を北方向に上って行った。そして右手に折れて坂道を下っていくと、左手の高い場所に社殿が見えた。正面に「天満威徳天神」。神奈川県茅ヶ崎市堤890-2付近。社号標石「天満威徳天神」。「平成八年拝殿境内石垣積再建」とあった。「社殿」。菅原道真公をお祀りしているのであろう。「内陣」、「本殿」のお姿は確認出来なかった。そして次に訪ねたのが「稲荷社」。小さな「稲荷社」。神奈川県茅ヶ崎市堤。「社殿」には大きな丸石が置かれていた。そして「八王子神社」に向かって進む。美しいツツジの花が迎えてくれた。そして路地の角に「八王子神社」の石鳥居が左手に見えた。神奈川県茅ヶ崎市堤507付近。石段の横には小さな石祠・道祖神があった。前方に石鳥居。そして小さな「社殿」が現れた。「文字庚申塔」(右)と「奉納 石灯籠」と刻まれた石碑(左)。「社殿」。多くの御祭神と。■八王子命(はちおうじのみこと) アマテラスがスサノオと誓約した時に生まれた五男(天照大神側)三女(須佐之男命側)の 神々のこと。 ・天忍穂耳命(あめのおしほみみ) 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され 出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神 ・天穂日命(あめのほひ) 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り 二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあたる神、 農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神 ・天津彦根命(あまつひこね) 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を 誓った氏族 ・活津彦根命(いくつひこね) 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神 ・熊野樟日命(くまのくすび) 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神 ・宗像三女神(むなかたさんじょじん) 須佐之男命の剣から化成した神、海上守護、航海安全の神、水の女神、財宝の神、学芸/芸能 美の神御利益 商売繁盛、五穀豊穣、海上安全、安産祈願、家内安全 他 [対応業種]繊維業/衣料業内陣。「八王子神社」の前は「市民の森」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.25
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「浄見寺」を後にして東に向かって進む。道端には「山吹(ヤマブキ)」の花。「ツルニチニチソウ(蔓日々草)」。そして「堤神明谷の道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市堤4276−3。「道祖神」碑。「明治三庚午年正月吉祥日◯下」の文字が。右隣に「双体道祖神」。そして次の目的地の「正覚院」に向かって進む。ミツカドネギであっただろうか?白い花弁に淡いグリーンのラインが印象的。西洋ミツバチの姿が。ピンクの椿の花。近づいて。道路脇にあった社。中には地蔵尊が。台座には先祖?供養の文字が。「安永九年 (1780)子十一月日」の文字が。そして「大岡越前通り」に出て東に進む。左手前方に見えてきたのが「正覚院」。「正覚院」の入口に到着。神奈川県茅ヶ崎市堤3681−1。寺号標石「堤源山 正覚院」。「正覚院檀徒駐車場寄進芳名」碑。山門の手前両脇に大きな石仏。「布袋尊」。大きなお腹に幸せな笑顔になれる布袋様の石像。布袋様は不老長寿と無病息災の神様。「延命地蔵尊」。「布袋尊」の後ろにあった「高座郡南部地蔵尊札所」碑。相模国高座郡南部地蔵二十四札所の第2番そして相州小出七福神巡りの布袋尊の札所。朱に塗られた「山門」。扁額「堤源山」。山門を抜けると右側にあったのが「六地蔵」。「為禅徳院悟友宗顕居士菩提」碑。六地蔵を奉納された方の名前の刻まれた石碑。稲荷神社であろうか?社殿。水子地蔵尊であっただろうか。お顔をズームして。「嗚呼九月一日」碑と石仏。「嗚呼九月一日」碑。正面の左下には小さく「名月書」と。大正12年9月1日11時58分。 相模湾沖を震源として、大きな地震があった。ここ茅ヶ崎も、関東大震災で大変大きな被害を受けた。この石碑は、ここ堤の「正覚院」にある十三回忌の供養碑。よって1935年(昭和13年)頃の建立であろう。裏面には「大正十三年大震災 殃死者十三回忌」の文字。以下犠牲者?と見られる五人の名が刻めれていた。最後に「伊藤養山建之」とあった。更にその脇に「◯・・・・一日・・・・言◯政司作」と碑の製作日付と製作者が刻まれているようであったが解読不能。養山は寺の29世上人とのこと。石仏に近づいて。足下にも多くの石仏が囲むように。「十三重石塔」。「本堂」裏の墓地を見る。そして「本堂」。宗派 曹洞宗開山 決翁和尚創建 17世紀本尊 釈迦如来先代本堂は、明治期に修験道場として利用されていたという。扁額「正覺院」。「布袋尊」の大きなお腹、笑顔を振り返りながら「正覚院」を後にする。次に訪ねたのが「大岡越前通り」を左に入った場所にあった「堤 仲谷の道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市堤3412-3。「八幡神社舊跡」碑。この場所に「八幡神社」があったのだろうか。石祠(流造)。その右に三基の石碑が並ぶ。右側の道が「古道」なのであろう。左から「文字庚申塔」。「角柱文字道祖神」明治二(1869)年と。「馬頭観世音」「馬持中」の銘は「馬を所持している人々の集まり」であると、学友から。そして茅ヶ崎市堤地区の住宅街を進むと左手にあった旧家の門。そして小出県道404号線の民家の庭にあった神社。民家の為、中にはいれず道路脇から。稲荷神社のようであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.24
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「本堂」前から「浄見寺」の境内を振り返る。正面に大岡忠相の墓地への石段、そして右手に「六地蔵」が。「本堂」前を左に入り、枯山水の庭に向かって進む。入口の石仏(右)。入口の石仏(左)。後ろにはアセビの花が。右側には白砂の庭が拡がっていた。白砂に描かれた模様のことを「砂紋(さもん)」または「箒目(ほうきめ)」といい、水の流れを表しているのだ。水紋(すいもん)はー滴の水が落ち、そこから広がる波紋を表現しているのだと。「旧三橋家住宅」の方向から。ツツジも輝きを増して。そして芍薬の花も開花。近づいて。モミジも春に赤く変身。墓地への石段を上って行った。石段の途中から「本堂」を振り返る。日本庭園の中にある石段を更に上る。そして大きな墓地が拡がっていた。大岡越前守一族墓所の南側を見る。大岡越前守一族の墓石が並ぶ。再び大岡家の「歴代当主」を。一番左に「十四代 慈徳院殿 忠輔」の墓。三河西大平藩大岡家第十四代当主。「大岡裁き」で名を馳せ、後に時代劇で「大岡越前」として人気を博した大岡家5代当主で、西大平藩初代藩主の大岡忠相とは名前が同音異字の別人物である。1924年〈大正13年〉誕生 - 2018年〈平成30年〉12月14日没は、日本の実業家。三河西大平藩大岡家第14代当主。味の素グループのクノール食品の元社長と。「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」の墓。大岡忠明は安政四年(1857)五月二十六日誕生。19歳で夭逝。大岡忠綱(1894年(明治27年)3月17日- 1948年(昭和23年)5月4日)は、大正から昭和期の銀行家、政治家、華族。貴族院子爵議員。「十二代 賢性院殿 忠明」と「十三代 誠徳院殿 忠綱」。「十一代 謙徳院殿 忠敬」の墓。文政11年(1828)生誕、明治20年(1887)死没。幕末には当初は佐幕派に属したが、鳥羽・伏見の戦い以後は小藩故に多勢に無勢であり、新政府軍に帰順して挙母藩や田原藩とともに輸送の任にあたった。明治2年(1869年)、版籍奉還により西大平藩知藩事に就任する。「十一代 謙徳院殿 忠敬」そして大岡忠相の墓に向かって、来た道を引き返す。六地蔵の前を通り大岡忠相の墓に向かって石段を上って行った。石段の上の両側に石灯籠。左側の石灯籠の後ろに「オハツキイチョウ」。右側の石灯籠。天然記念物「浄見寺のオハツキイチョウ」。葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種。大岡家の家紋がイチョウの葉を使用しているところから浄見寺の建立時に植えられたとされている。葉の上にギンナンが接して結実する非常に珍しいイチョウの変種であるとネットからの写真。 【http://blog.livedoor.jp/nonko0127/archives/55754372.html】より「浄見寺のオハッキイチョウ 昭和三十六年三月十四日 神奈川県天然記念物指定葉にギンナンが結実するイチョウの変種。昭和六十三年に行った年輪幅の調査から樹齢はニ百年前後と推定されていますが、並んでいるナギとともに、浄見寺の創建時に稙えられたとも伝えられています。浄見寺の寺林 昭和四十ニ年七月ニ十一日 神奈川県天然記念物指定相模野の自然樹林が少なくなっている中で、昔の樹林の様子を残す寺林として貴重です。スダジイ、タブノキなどの照葉樹か多く見られます浄見寺の大岡家一旋墓所 昭和三十六年ニ月十四日 茅ヶ畸市史跡指定浄見寺は越前守忠相で有名な大岡家代々の善提寺で、初代忠勝をはじめとする墓などが立ち並んています。天正十九年(一五九一)ニ代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与えられ、その後慶長十六年(一六一一)に浄見寺を建立しました。」墓石の前には多くの句碑、歌碑が並んでいた。以下、学友が現地に出向き、解読して下さいました。「浄見寺 春めぐり来て 蘇へる 史蹟の墓に 大き公孫樹に(尓) あしかび」。句碑。「花守と(登) な(奈)らばや 月も(毛) 夜頃とて(天) 十八世鴫立庵芳如八十九」。 「物が(可)た(多)り かく(久)て幾世の 公孫樹の芽 九一」、飯田九一の句碑。「越前守 大岡公乃紋ところ 銀杏の実こそ 踏むに惜しけり 川田順」。「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」、「四代 真覚院殿 忠真」の墓。その奥に「五代 松運院殿 忠相」の墓」。ズームして。「二代 頂源院殿 忠政」、「三代 源忠院殿 忠世」の墓石。「二代 頂源院殿 忠政」。「三代 源忠院殿 忠世」。「四代 真覚院殿 忠真」の墓石。「四代 真覚院殿 忠真」。「五代 松運院殿 大岡忠相」の墓。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」。墓地の内部には入れないので「五代 松運院殿 忠相」の墓の正面からの写真をネットから。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より3月17日(木)に大岡越前守・大石忠相の墓地に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より「十代 徳元院殿 忠愛」の墓。そして大岡忠相の墓地入口から「浄見寺」境内を振り返る。「大岡家一族墓参の方へ」と。石段を降りて再び「本堂」を見る。そして境内から「山門」を見る。「山門」を潜り直進し見上げると墓地の隅に無縫塔が並ぶ歴代住職の墓が見えたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.23
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが江戸時代の奉行・大岡忠相(おおおかただすけ・大岡越前守)をはじめとする大岡家の菩提寺として知られる「浄見寺(じょうけんじ)」、過去にも何回か訪ねている寺であるが。「大岡越前守菩提所」碑。江戸時代の奉行大岡越前として知られる大岡忠相を輩出した大岡氏は、初代忠勝の三男である2代目当主大岡忠政の代に広忠の子徳川家康に仕え、家康の関東入国に従いここ高座郡堤村(茅ヶ崎市)に知行200石を与えられ本貫地とし、後には同郡の大曲村(寒川町)、高田村(茅ヶ崎市)を加え600余石となる。慶長16年(1611年)、大岡家2代目当主大岡忠政が、亡父の初代当主大岡忠勝を慰霊するために建立したのが、浄見寺の始まり。開山は深誉円察(一説に柴田勝家の子といわれる)。享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括したと。大岡越前守墓提所と書かれた石柱の側面には彼が組織した町火消しの大纏の絵が刻まれていた。裏面には「各區仲好會」と刻まれた火消し関係団体からの奉納者の名前が刻まれていた。山門前の「掲示板」。「元祖 法然上人 御忌(ぎょき)」ポスター。法然上人滅後の大永四年(一五二四)正月十八日、後柏原天皇の詔勅により上人の御命日を特に「御忌」と尊称することとなったとのこと。令和四年度は四月二日(土)~七日(木)に増上寺で行われると。そして「四月大歌舞伎」のポスター 令和4年4月2日(土) 初日 ~ 27日(水) 千穐楽 《休演》11日【月】 19日【火】第一部 午前11時開演 通し狂言 天一坊大岡政談第二部 午後2時40分開演 江戸絵両国八景 一、荒川の佐吉 ニ、義経千本桜第三部 午後6時20分開演 一、ぢいさんばあさん ニ、お祭り 2022年4月2日(土)に歌舞伎座にて初日を迎える歌舞伎座『四月大歌舞伎』。第一部では、通し狂言として『天一坊大岡政談』が上演される。この度、尾上松緑氏が茅ヶ崎市・浄見寺大岡越前守の「墓参り」👈リンク をしたとのこと。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より「本堂」に参拝する歌舞伎俳優の尾上松緑氏。 【https://spice.eplus.jp/articles/300299】より寺号標石「浄土宗窓月山源忠院 淨見寺」。裏には「宗祖法然上人八百年記念」と刻まれていた。寺号標石の後ろに立つ案内板。「浄見寺の弁才天坐像 昭和四十一年十月二十五日 神奈川県重要文化財指定 銅造弁才天坐像 一躯弁才天は音楽、財福などをつかさどる女神で、水とも深い関係をもつとされています。頭上に人頭蛇身の宇賀神をいただいた像高約十センチメートルの像です。鎌倉時代末期から室町時代にかけてのものと考えられますが、来歴は不明です。頭、体部をとおして一鋳とし、腕はそれぞれ別鋳として本体にほぞでとめてあります。それぞれの腕についていたはずの持ち物は宝珠のみを残し、また光背も失われています。弁才天像は二臂、八臂の像が多く、本像のような六臂像は大変珍しいものです。」浄見寺の六臂の「弁才天坐像」をネットから。像高11cmの小さな弁才天だが、銅造で六臂をもつ珍しい優品である。室町時代の作と考えられ、美術的にも優れたものである。 【https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/5337】より「山門」。扁額「窓月山」。「山門」を潜ると右手には鐘楼があった。梵鐘。別の角度から。左手に手水舎。「法然像」。浄土宗では法然を元祖と崇めている。「旅立ちの法然さま」碑。浄土宗を開かれた法然上人は幼名を勢至丸といい、美作国(現在の岡山県)にお生まれになった。九歳の時父親の漆間時国公は夜討ちにあい、「仇を恨んではならない」と遺言した。勢至丸は父の菩提を弔うため母とも別れ、叔父の智鏡房観学が院主を勤める菩提寺に入り仏教を勉強した。「一を聞いて十をさとる」勢至丸の非凡な才能を早くから見抜いた智鏡房は、求道の志が篤いのを知り、さらに勉強を勧めるため、当時学問の(仏教)中心地であった比叡山へ旅立たせのだと。時は久安三年(1147)勢至丸十五歳の春のこと。この「旅立ちの法然さま」は、母と別れ一人比叡山をめざし旅立つ勢至丸の平和を求めるお姿を表すものである と。お顔をさらにズームして。大きな石碑。「贈従四位大岡忠相御廟宇塋域修築記念碑」ひたすら漢字が続いていた。「十三重石塔」が手水舎の先に。十二という数は、十二因縁、十二支を意味。因縁を超えた十三という数、宇宙の摂理である十二支、十二か月を超えた十三という不思議な数に因んだと。また十三は十三仏の最後、虚空蔵菩薩をあらわしているとされ、十三重の塔は虚空蔵菩薩をあらわすと。大岡家と浄見寺大岡家の始祖の地は三河国(現・愛知県)で、家系図には左大臣藤原教実の子孫とあります。鎌足を祖とする藤原氏の一族です。教実は京の九條に屋敷を構えたことから姓を九條と改め、後にその子孫が三河国の大岡に居を移して大岡を名乗りました。現在に続く大岡家の初代忠勝は、徳川家康の祖父にあたる松平清康ならびに父広忠に仕えて武勲を上げ、広忠より「忠」の一字を賜り、それまでの名を改めて忠右衛門忠勝としました。二代忠政は、天正19年(1591)5月3日に家康より相模国高座郡堤村を賜りました。その後、慶長16年(1611)に、三代忠世が父兄の冥福を祈るために窓月山浄見寺を建立しました。寺山号は初代忠勝の法名である「大綱院殿忠誉窓月浄見居士」に由来しています。以来、今日まで大岡家代々の菩提寺となっています。「大岡裁き」で有名な五代忠相は、享保2年(1717)2月3日に町奉行に就任し、官職名を越前守に改めました。町火消しの結成、小石川養生所の設置、物価政策などに尽力する一方で、多くの人材を登用しました。後に、寺社奉行に就任し奏者番を兼ね、加増によって一万石の大名となり、三河国西大平に陣屋を構えました。大岡家との縁により、西大平藩のあった愛知県岡崎市と浄見寺のある茅ヶ崎市は、昭和58年に「ゆかりのまち提携」を結び、現在においても様々な交流を続けています。歴代当主の系統図。「手水舎」、「十三重塔」、「旅立ちの法然さま」を見る。同じ場所から「本堂」を見る。「本堂」前の「慈母・水子水子観世音菩薩像」。「慈母・水子観世音菩薩」。観音菩薩像の左右に水子地蔵(右側)。観音菩薩像の左右に水子地蔵(左側)。「延命地蔵尊」。近づいて。「絵馬奉納場所」。こちらの正面には「大岡七宝紋」が。七宝は連続文様の『輪違い紋』から生まれた文様。輪が四方に広がるという意味から「四方」➡「七宝」になった。また、仏教では宝塔を飾る七つの宝玉が功徳を指すことから「七宝」も吉祥の紋とされる。大岡忠相の法名は「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士」であることをこの位牌から以前に知ったのであったが・・・。今年の干支の寅の絵馬。達磨の絵馬。墓所入り口の階段の前に立つ「六地蔵」。赤い帽子の地蔵様に干支の石像が奉納されていた。そして「本堂」の前に。巾着袋の形をした賽銭箱。この形は宝袋型といい、江島神社の辺津宮にも同様なものがあったのでは。ここにも「大岡七宝紋」が。見事な龍の彫刻。「本堂」の扁額「浄見寺」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.22
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして次に「浄見寺」の山門の前にある茅ヶ崎市重要文化財・「旧和田家住宅」を訪ねた。「旧和田家住宅」案内柱。正面に「下寺尾廃寺(七堂伽藍)👈リンク の礎石」。下寺尾廃寺(七堂伽藍)の礎石ここに置かれている大きな石は、市内下寺尾に所在した古代寺院(七堂伽藍)跡から出土したものの一部で、当時のお寺の建物の柱を支えた礎石と考えられています。石質は凝灰質閃緑岩と鑑定されており、柱を据える部分を加工したものと見られます。このような礎石の多くは、古くから土地所有者の方が掘り出されていたようで、現在では下寺尾周辺で約三十個が庭石等として保存されていることが確認されています。下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)と呼ばれているこの寺院は今から約1300年前に創建されたと考えられており、海老名にある国分寺より古い時期に建てられた、相模国における初期寺院として注目されています。七堂伽藍跡からは古墳時代後期および奈良・平安時代の古代土器などに混じって瓦も出土しており、これらの礎石の存在から、このお寺には礎石建ちで瓦葺きのりっぱな建物があったことがわかります。場所を変えて。「民俗資料館 旧和田家」。「茅ヶ崎市景観重要建造物 第1号 平成29年4月7日指定民俗資料館 旧和田家和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄です。旧和田家は、同家11代和田清右衛門によって建てられたもので、幕末の民家の特徴を備え、良質の材料を使い、また改造も少ないことから建築当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です。移築復元のため、解体作業中に「安政2 (1855)年3月吉日」の年号のある棟礼(むなふだ)が発見され、建てられた年代が明確になりました。また、「居宅普請財木買入帳(きょたくふしんざいもくかいいれちょう)」などの建築に係わる記録も残っており、建築準備が始まったのが嘉永4 (1851)年であることや、建築資材の購入先、普請に関わった人々のことが詳細に分かりました。開館時間 午前9時~午後4時休館日 月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日~翌年1月4日)」 「旧和田家について茅ヶ崎市指定重要文化財 旧和田家住宅この建物は、茅ヶ崎市か萩園の和田家から寄贈を受け、移築復元したものです。和田家は、萩園の旧家で江戸時代には萩園村の村役人をつとめました。この建物は、同家11代和田清右衛門によって建てられました。遺跡復元のための解体作業中に、「安政二年三月吉日」(1855)の年号のある棟札が発見され、建てられた年代が明らかです。解体した昭和57年まで、123年間の歴史を経たものです。また、棟札の他に「居宅普請財(材)本買入帳」などの記録も残っていて、嘉永4年(1881)に材木の購入が始まったこと、これらの購人先、工事にたずさわった職人たちのことなどがわかりました。建物は、桁行約21m、梁行き約11m、面積224平方m、7つの部屋と広い土間のる大型の民家です。この民家は、①幕未大型民家の特徴を備えている、②ケヤキを主とした良質の材料を用いている。③改造が少ない。④残されている記録から建設の経過などがわかるなどの特徴を備えていることから、茅ヶ崎市重要文化財に指定し、ここに移築復元しました。所在地 茅ヶ崎市堤3,882番外敷地面積 3、991平方m旧所在地 茅ヶ崎市萩園2,334番寄贈された年 昭和57年文化財指定の日 昭和57年7月20日 茅ヶ崎市重要文化財 構造・間取り 寄棟 木造 平屋建 藁ぶき屋根 7間取り変形竣工 昭和60年4月会館の日 昭和60年4月18日」旧和田家住宅 間取図。土間に面した「チャノマ(茶の間)」。家族の団らんする場所、囲炉裏がある。ナガト(手前)。そしてその先にナカノマ(中の間)、オクノマ(奥の間)。「市指定重要文化財旧和田家耐震改修工事~何が変わったの? ~茅ヶ崎の宝である「旧和田家住宅」では、令和元年度から2年度にかけて、耐震改修工事が行われました。一般的な住宅の改修工事(リフォーム)とは異なり、文化財の建物の改修工事は、元々使われていた部材をなるべくそのまま使います。朽ちてしまっていた場合は、新しくしますが、同じ材を使います。「以前と一体何が変わったの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ここでは耐震改修工事の内容をご説明します。①耐震補強建物に、耐震補強をしました。震度5で損傷しない・震度6でも倒壊しない強度となりました。②土壁各所の土壁を修復しました。東京の左官屋さんが携わっています。左の写真は、オトコペヤで作業しているところです。」③建物周辺の溝建物を適切に保存するため、今回の工事で設置しました。雨水による建物への影響が減りました。④屋根屋根に挿し茅(さしがや)をしました。茅の生産や職人は年々減少しています。建築当時は市内で茅を調達しましたが、今回、茅は京都から運ばれました。また、宮城県石巻市の茅職人が今回の工事に携わりました。古い茅は廃するのではなく、そのまま残し、新しい茅を挿していきました。また、棟飾りは移築当初の意匠にしました。⑤犬走り犬走は、砕石で底を固め、その上に土を盛って叩いて固めました。土には、もともと旧和田家の犬走りにあった土と、新たに5種類の土(荒木田土・石灰・山砂・ビリ砂利(細かい砂利)豆砂利(普通の砂利) )、そして苦汁水を混ぜています。南側の犬走りは、小出小学校の5年生(令和2年度当時)が、たたきました。⑥不同沈下北側に大きく不同沈下していたため、平行になるよう持ち上げました。よく見ると、持ち上げた分、コンクリートを入れ、高さを調整しています。」土間には農機具の唐箕(とうみ)や樽が置かれていた。「オトコベヤ(男部屋)使用人の男性の部屋。ゴザが敷かれていた。」「民族資料館 旧和田家昭和五十七年七月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内萩園の旧家で、江戸時代には村役人をつとめていた和田家の住宅を、昭和六十年に移築復元したものです。この民家の特徴は、幕末の大型民家であること、良質の材料を用いていること、改造が少ないこと、記録が残されていて建設の経過がわかることてす。「安政ニ乙卯年(一ハ五五)三月吉日/御棟札/富家十一代和田清右衛門盛久」と書かれた棟札もあり、棟上げした時期がわかります。また、建築に関わる記録から、用材などを買い始めたのは嘉永四年(一ハ五一)、地ならしなどを始めたのは嘉永七年(一ハ五四〕であることや、用材の購入先、関わった職人職種や数などもわかります。」ナカノマ(中の間)。仏壇。オクノマ(奥の間)。「オクノマ(奥の間)。客間として使用された。普段は使用せず、親類が来た時に泊めた。」斜め前から。正面から。旧和田家住宅のそばに旧三橋家住宅があったので、浄見寺の境内を横切って向かう。浄見寺はこの後にゆっくりと。階段の横にはシャガの花が。和田家よりも30年ほど早く建築された住宅。三橋家もかつて香川村で名主を務めた旧家ですが、こちらの住宅は和田家と比べると一般的な造りの家で、田の字型の間取りをしている。旧三橋家住宅も、昭和46(1971)年に市の重要文化財に指定されている。その後昭和47年(1972年)に香川から現在の浄見寺境内に移築され、同48(1973)年に民俗資料館として開館した。「民俗資料館(旧三橋家)お願い」「民俗資料館 旧三橋家住宅昭和四十六年三月 茅ヶ崎市指定重要文化財この建物は、旧家て江戸時代には香川村の中の、旗本戸田氏の知行地の名主をつとめていた三橋家の住宅を昭和四十八年に移築復元したものです。建築の経過を記録した「大工木引(挽)萬控帳」(文政十年一ハニ七)や同十一年の年号のある揀札が伝えられています。この民家の特徴は、江戸時代末期の大型民家であること、改善や改造が少ないこと、また先に紹介した記録などがあって建築年代やその経過がわかることてす。建設当時の当主を伊右衛門といい、その後六代の間、三橋家の住宅として使われていました。」「茅ヶ崎市景観要建造物 第2号 平成29年4月7日指定民裕資料館 旧三橋家三橋家は、香川の旧家で江戸時代には、香川村の中の旗本戸田氏の知行地の名主を務めました。旧三橋家は、三橋伊右衛門によって建てられたもので、幕末の農家の作りの特徴を備え、改造が少ないことから建築の当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です.文政11(1828 )年の年号のある棟札や、建築経過を記録した「大工木挽萬控帳」(文政10年)などが付属し、「控帳」によると、文政10 (1827)年7月9日に木挽き職人の仕事が始まり、手斧立、棟揚げ、内装などの作業を経て、翌年の2月未に建物は完成しています.会館時間 午前9時~午後4時体館日 月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日~翌年1月4日)」間取図。ここの土間にも農機具の唐箕(とうみ)等が展示されていた。土間から上がり框を見る。板床のザシキ(座敷)を見る。井戸は立入禁止。その奥に地蔵尊と山神社碑。文化六己巳年(1809)八月吉日と刻まれていた。「山神社」碑。明治二十六年と。再び室内を見る。床の間にあったのは藁細工の祝い舟であろうか。奥の畳の部屋。囲炉裏もあった。階段箪笥。別の場所から囲炉裏と階段箪笥を。奥の床の間を見る。土間。大きな竈門の上には釜と蒸し器セイロが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.21
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「文教大学 湘南キャンパス」を後にして「文教大学入口」交差点を右折して「小出中央通り」を西に進む。前方左手に「建彦神社(たけひこじんじゃ)」の看板が見えた。「建彦神社」と。そして「小出中央通り」を左折して進むと再び別の案内板が姿を現した。「建彦神社⬅入口」と。そして脇入口の石鳥居が正面に。神奈川県茅ヶ崎市堤3580。「建彦神社新築寄付金芳名」碑。「建彦神社 社務所」。社務所はあったが、基本は無人だと思われる。その社務所玄関上にあった神紋は、武田菱が二つ連なっている珍しい紋。建彦神社は、神奈川県茅ヶ崎市堤にある神社。現在は第六天神社の兼務社である。南側は、小出川に注いでいる駒寄川が、東から西へ流れ、谷戸を形成している。岡の尾根筋に当るところを通る県道 47号線(小出中央通り)や、谷戸を東西に延びる道路からは未舗装の細い道路が通じていた。明治43年(1910年)、堤の諏訪神社、行谷の金山神社、下寺尾の諏訪神社が合祀して創立された。例祭は8月最終日曜日と。建彦の由来は、諏訪神社の御祭神である建御名方命(たけみなかたのみこと)の「建」と、金山神社の金山彦命の「彦」をとり、命名されたという。御祭神は、・建御名方命(たけみなかたのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)・下照姫命(したてるひめのみこと)・大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)・総明玉命(ふさあかるたまのみこと)・国常立命(くにのとこたちのみこと)・澳津彦命 (おきつひこのみこと)・天照姫命(あまてらすひめのみこと)・大国主命(おおくにぬしのみこと)・菅原祇命(すがわらつみのみこと)・大山祇命(おおやまつみのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと) と盛り沢山。総明玉命(ふさあかるたまのみこと)は玉作連、玉祖連の遠祖である櫛明玉神・天明玉命などとの関係を連想させるが、不詳。天照姫命(あまてらすひめのみこと)は天照大神を連想させるが、天照大神を天照姫命と表記する例は少ないと思われる。下照姫命との対照かもしれないが、稚日女尊のこととも考えられる。菅原祇命(すがわらつみのみこと)の神名も珍しい。該当するのは菅原道真だけだと思うが、道真をこのような神名にする例は他にないと思われる。昭和30年(1955年)8月浅草翠雲堂謹製の鐘がある。鳥居と階段は、昭和63年(1988年)に社殿落成記念として奉納されたもの。唐破風下の彫刻。龍の彫刻も見事。扁額「建彦神社」。「脇障子」(右)。「脇障子」(左)。「建彦神社」の「拝殿」前から境内を振り返る。銀杏の新緑が美しかった。境内にあった「石祠」。「神楽殿」。「鐘楼」。「梵鐘」。「講和記念」の文字が。浅草翠雲堂謹製の鐘であると。「建彦神社」の文字が。「昭和三十年八月」の文字が。こちらが「一の鳥居」。鳥居と階段は、昭和63年(1988年)に社殿落成記念として奉納されたものとのこと。「建彦神社」を後にして、再び「大岡越前通り」に出て右折し西に進む。左手にあったのが建設中の「茅ヶ崎市歴史文化交流館」。そして前方にあったのが「宗泉寺」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085。RC作りの「真言宗大谷派 宗泉寺」。宗泉寺の建物は中古の住宅をリフォームしたものであると。2004年6月から活動開始と。境内のツツジは美しかったが、境内に石碑や石仏の姿はなかった。そして来た道を戻ると右手にあった「茅ヶ崎市歴史文化交流館」を再び見る。今年の夏頃のオープン予定であると。神奈川県茅ヶ崎市堤3780。周辺の遺跡や重要建造物とも連携して、茅ケ崎の自然や歴史、文化を気軽に学べる博物館として開館を目指すと。交流館は広さ約6600m2の敷地内に建てられ、鉄骨一部2階建て総面積約2000m2。東側半分を収蔵庫とし、西側半分に展示室や市民交流スペースを設ける。敷地内には広場や26台収容の駐車場も整備するとのこと。次に「池端道祖神兼庚申塔」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2140−3。左から文字庚申塔。「庚申講中 九人」の銘その右は不明の石塔願主名のみの面が正面に。この二基は双体道祖神兼庚申塔の建立碑の可能性もある。その右側に双体道祖神が2体。右は天明六(1786)年 庚と刻まれていた。左も天明六(1786)年 申と刻まれていた。「池端道祖神兼庚申塔下寺尾ニ一三四番市内に道祖神は約九十九体、庚申塔は約九十四体あるが、両方に数えられるのは数少ない。彫刻は同時にされたものと思われるが、もとは池の南側と北側に祭られていた。明治初年比処に移され共に池端の守りとして栄えている。勘重郎堀発端の地昔安永年間、香川村名主三橋勘重郎は天水場で川の無い香川村の田地ニ十五町歩に灌漑の水を引く為苦労した。隣村下寺尾は水は豊富だ。併し殿様も違い村も違う下寺尾の水を貰うのは至雉の業だ。漸くにして下寺尾の了解を得て難工事に着手した。下寺尾の村民は快く之を受け入れ共に工事を手伝った。足掛け三年、水路四尺、両側通路六尺宛の堀は出来た。満々たる水は遙か香川村まて流れて行った。今は埋まって通路となっているが、此処が堰をして水を揚げた処である。」そして「旧和田家住宅」に向かって進む。道路脇にはピンクの芝桜が。紫色のムラサキツユクサ(紫露草)。白色のムラサキツユクサ(紫露草)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.20
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タイトル 👈リンク付き 発表日★茅ヶ崎・浜降祭へ(その1~5) 2023.8.11★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その1) 2022.4.07 鶴嶺八幡宮へ(1/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その2) 2022.4.08 鶴嶺八幡宮へ(2/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その3) 2022.4.09 龍前院~弁慶塚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その4) 2022.4.10 辻堂駅~辻堂駅開設記念碑~源 頼朝公落馬地~茅ヶ崎東教会~高山稲荷★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その5) 2022.4.11 浜竹踏切~金森稲荷神社~赤松稲荷神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その6) 2022.4.12 小和田・熊野神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その6-2) 2022.4.13 廣徳寺~千手院~本行寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その7) 2022.4.14 坂下稲荷神社~稲荷社~茶屋町稲荷大明神~須田家之墓~牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡~ 東海道の松並木★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その8) 2022.4.15 本村 八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その9) 2022.4.16 厄一王子社~三嶋社~茅ヶ崎一里塚~正一位左近稲荷大明神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その10) 2022.4.17 厳島神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その11) 2022.4.18 神明宮~第六天神社~茶屋町大神宮~南湖の左富士之碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その12) 2022.4.19 松尾神明神社~善福寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その13) 2022.4.20 柳島八幡宮★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その14) 2022.4.21 民俗資料館 旧藤間家住宅(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その15) 2022.4.22 民俗資料館 旧藤間家住宅(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その16) 2022.4.23 神明神社~でかまん菓子舗 ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その17) 2022.4.24 国指定史跡 旧相模川橋脚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その18) 2022.4.25 上国寺~信降寺~男女双体道祖神~中島川ガード~八坂神社~忠霊塔~浄林寺~日枝神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その19) 2022.4.26 湘南ベルブリッジ~柳島スポーツ公園~青木稲荷社~柳島水再生センター~柳島記念館~ 柳島閘門跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その20) 2022.4.27 柳島海岸の地蔵~湘南道路之碑~善行者之碑~八大龍王神~相州砲術場竝柳島湊跡之碑~ 柳島海岸~柳島嚴島神社~南湖の地蔵~南湖院★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その21) 2022.4.28 南湖八大龍王神~住𠮷神社~正一位 川端稲荷神社~南湖稲荷社~御霊神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その22) 2022.4.29 西運寺~金剛院~金刀比羅神社~稲荷神社~赤とんぼ作曲の地~六道の辻~茅ヶ崎漁港~ 八大龍王神~中海岸・八大龍王神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その23) 2022.4.30 中海岸神社~松籟庵~茅ヶ崎サザン神社~サザン通り~高砂緑地~松籟庵~茅ヶ崎市美術館★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その24) 2022.5.01 辻堂駅~日本基督教団 茅ヶ崎平和教会~桜道~茅ヶ崎聖契キリスト教会~アトンメントの フランシスコ女子修道会~セブンスデー・アドベンチスト教団茅ケ崎キリスト教会~平和学園~ 浜須賀立体歩道橋★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その25) 2022.5.02 浜須賀海岸~八大龍王碑~ヘッドランド(Tバー)~茅ヶ崎市開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの 人物館~恵泉キリスト教会湘南グレースチャペル~佐々木氏追悼記念碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その26) 2022.5.03 鉄砲道~雄三通りモニュメント~氷室椿庭園~上原謙邸跡~茅ヶ崎海岸~八大龍王神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その27) 2022.5.04 茅ヶ崎サザンC~国木田独歩追憶碑~平和の礎~慰霊塔の記憶~茅ヶ崎公園野球場★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その28) 2022.5.05 体験学習センターうみかぜテラス~恵泉幼稚園~茅ヶ崎市文化資料館~西行法師の歌碑~ 茅ヶ崎館~日本キリスト教団 茅ヶ崎教会~鉄砲道★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その29) 2022.5.06 八雲神社(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その30) 2022.5.07 八雲神社(2/2)~茅ヶ崎恵泉教会~サザン神社~JR茅ヶ崎駅~帰路★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その31) 2022.5.08 JR香川駅~浄心寺~茅ヶ崎北陵高校★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その32) 2022.5.09 下寺尾官衙遺跡群(1/2) ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その33) 2022.5.10 下寺尾官衙遺跡群(2/2)~西片貝塚~旧北陵高校旧跡地~湘南公園墓地・茅ヶ崎霊園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その34) 2022.5.11 下寺尾西方の道祖神~下寺尾中山山王社の道祖神~地蔵尊~白峰寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その35) 2022.5.12 白峰寺(2/2)~下寺尾諏訪神社~道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その36) 2022.5.13 金山神社~宝蔵寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その37) 2022.5.14 茅ヶ崎霊園 永久の郷~臼久保遺跡~追出地蔵~光照山普門寺観音堂跡~来迎寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その38) 2022.5.15 蓮妙寺~タコ公園~久保山貝塚★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その39) 2022.5.16 腰掛神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その40) 2022.5.17 芹沢石仏石像群~石祠道祖神~芹沢大谷の庚申塔と道祖神と地蔵~延命子育地蔵堂跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その41) 2022.5.18 善谷寺~芹沢中の谷の道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その42) 2022.5.19 神奈川県立茅ヶ崎里山公園~文教大学湘南キャンパス★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その43) 2022.5.20 建彦神社~宗泉寺~茅ヶ崎市歴史文化交流館~池端道祖神兼庚申塔★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その44) 2022.5.21 旧和田家住宅~旧三橋家住宅★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その45) 2022.5.22 浄見寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その46) 2022.5.23 浄見寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その47) 2022.5.24 堤神明谷の道祖神~地蔵尊~正覚院~堤 仲谷の道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その48) 2022.5.25 羽黒大神~ 妙伝寺~天満威徳天神~稲荷社~八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その49) 2022.5.26 堤貝塚~堤 南久保の道祖神~長谷戸バス停~帰路★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その50) 2022.5.27 自宅~香川駅~正一位稲荷大明神~稲荷社~殿内道祖神~念徳碑~香川諏訪神社~道祖神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その51) 2022.5.28 玄珊寺~茅ヶ崎香川教会~松風台南公園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その52) 2022.5.29 成就院★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その53) 2022.5.30 スリーハンドレッドクラブ~茅ヶ崎配水池~甘沼 八幡大神★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その54) 2022.5.31 玉林寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その55) 2022.6.01 西光寺~伊勢宮神社~法然上人二十五霊場★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その56) 2022.6.02 妙覚院~茅ヶ崎バイオマス発電所~宝積寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その57) 2022.6.03 赤羽根八雲大神~六地蔵堂~菱沼八王子神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その58) 2022.6.04 長福寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その59) 2022.6.05 長福寺庚申塔~室田橋碑・道祖神~永昌寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その60) 2022.6.06 道祖神~八王子神社~妙行寺~村役場跡★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その61) 2022.6.07 赤羽根神明大神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その62) 2022.6.08 大山道句碑~赤羽根六地蔵堂~高田緑地~鶴田栄太郎氏頌徳碑★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その63) 2022.6.09 本在寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その64) 2022.6.10 高田熊野神社~赤羽川~茅ケ崎駅北口ペデストリアンデッキ★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その65) 2022.6.11 茅ヶ崎駅~一里塚~地蔵尊~本村居村遺跡~本村観音堂~うしのごぜん碑~北茅ケ崎駅~ 茅ヶ崎中央公園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その66) 2022.6.12 茅ヶ崎中央公園~市民文化会館~飯島橋~本社丘~長善寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その67) 2022.6.13 本社宮~唱導寺妙光殿~鶴嶺参道歴史ひろば★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その68) 2022.6.14 馬頭観音~梅雲寺~下町屋橋★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その69) 2022.6.15 松尾大神~萩園日枝神社~須賀夕映え公園~新田八幡宮★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その70) 2022.6.16 三島大神~来恩寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その71) 2022.6.17 第六天社~十二天神社~常顕寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その72) 2022.6.18 満福寺~十王堂~稲荷社跡地~八幡神社★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その73) 2022.6.19 萩園橋~神奈川県立茅ケ崎養護学校~懐嶋山の碑~民話「河童徳利」伝承について~ 小出川流路の今昔★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その74) 2022.6.20 河童徳利ひろば~妙運寺★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その75) 2022.6.21 日吉神社~大山街道の道標・庚申塔~宝生寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その76) 2022.6.22 茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その76)・宝生寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その77) 2022.6.23 北向地蔵~茅ヶ崎中央通りモニュメント~あおぞら輝き保育園★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その78) 2022.6.24 神明大神宮(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その79) 2022.6.25 神明大神宮(2/2★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その80) 2022.6.26 了覚院~円蔵祇園社~輪光寺(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その81) 2022.6.27 輪光寺(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その82) 2022.6.28 山王社(日枝神社)~懐嶋郷本圓蔵辨財天~オチョバンバ~円蔵稲荷神社~茅ヶ崎市役所~ 旧寛永寺石灯籠 四基~JR茅ヶ崎駅★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その83) 2022.09.30 松下政経塾~藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー(1/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その84) 2022.10.01 藤沢土木事務所汐見台庁舎 なぎさギャラリー(2/2)★茅ヶ崎市の寺社旧蹟を巡る(その85) 2022.10.02 浜須賀歩道橋~汐見台海岸~えぼし岩遠望~江の島遠望~日本初ロケット火薬実験の地~ 富士山遠望~海浜自然生態園★茅ヶ崎・浜降祭へ(その1) 2023.08.11★茅ヶ崎・浜降祭へ(その2) 2023.08.12★茅ヶ崎・浜降祭へ(その3) 2023.08.13★茅ヶ崎・浜降祭へ(その4) 2023.08.14★茅ヶ崎・浜降祭へ(その5) 2023.08.15
2022.05.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「善谷寺」の後は「神奈川県立 茅ヶ崎里山公園」に向かう。茅ヶ崎市芹沢の住宅街を進む。農家?の前の畑にはピンクの芝桜が美しく咲いていた。石段を上り東側から「神奈川県立 茅ヶ崎里山公園」に入る。「茅ヶ崎里山公園」マップ。目の前に現れたのが「中ノ谷池」。「多目的広場」が前方に拡がっていた。多目的広場の巨大な支柱。鯉のぼりのロープ用の支柱の様であった。普段なら毎年GWには300匹の鯉のぼりが旗めくのであるが・・・・。「風の広場」。ちびっ子たちに人気の遊具「風のとりで」や「雲のトランポリン」があります。く雲のトランポリンの利用時問9 : 30 ~ 16 : 30 とのことだが、この日は改修中の様であった。「風のとりで」。「風の谷」70mの「風のすべり台」と、30mの「谷のすべり台」にのって、風を感じてください と。ローラー滑り台。里山公園の目玉である長~いローラー滑り台は全長70m。「茅ヶ崎里山公園 パークセンター」が前方に。「この場所は、「里山保全エリア」から連なる緑地として、草刈りの回数や草丈を制限した管理を行い、いきものが住みやすい環境づくりを目指しています。」北の方向を見る。「山頂休憩所」で一休み。「谷の家(やとのいえ)」方面への階段を下る。新緑に溢れていた。前方に「谷の村」案内板。「谷の村(里山保全エリア)里山の文化や循環の仕組みを継承し、生物多様性の保全を図っていく場」「県立茅ヶ崎里山公園」マップ。「柳谷池」の水は少なく。前方に「はたけ」エリア。「茅ヶ崎里山公園倶楽部茅ヶ崎里山公園倶楽部は、里山の多様な生態系の保全・啓発事業並びに、県民に親しまれる茅ヶ崎里山公園であり続けるための事業を、指定管理者と取り組んでいます。」「小麦」の栽培。モミジの新緑が美しかった。「谷の家」。「谷の家」の先にあった「芹沢の池」。ここまでとし「風のテラス」まで引き返す。ゆるやかな弧を指く屋根が特徴。小学生2クラスほどが同時に利用できる広さで、休憩やイベントの会場、雨宿りなどに最適です と。八重桜を楽しむ。そしてここが「県立茅ヶ崎里山公園」の正門。再び「県立茅ヶ崎里山公園」のマップ。「茅ヶ崎里山公園 パークセンター」横の道路沿いの藤棚は見事な光景であった。そして「文教大学湘南キャンパス」の正門に向かって裏側を廻り込んで進む。外壁がレンガ造りの「文教大学湘南キャンパス」。「文教の森」の中を桜と新緑を楽しみながら進む。赤レンガのキャンバスに聳え立つシンボル「聳塔(しょうとう)」。ズームして。そしてここが「文教大学湘南キャンパス」の正門。 神奈川県茅ヶ崎市行谷1100。正門から「聳塔」を見る。掲示板には「オープンユニバーシティ講座案内」が。「文教大学」。1985年、情報学部、文教大学女子短期大学部を神奈川県茅ケ崎市へ移転。湘南キャンパスとして開校。茅ケ崎駅、湘南台駅から文教大学行き路線バスにて約20分。・情報学部、健康栄養学部・情報学研究科・湘南総合研究所 が現在開設されている。湘南キャンパスから、国際学部と経営学部の全学年が2021年4月1日付で新設の東京あだちキャンパス(足立区)へ移転した。湘南キャンパスの学生の定員数は3180人から約半減の1540人と半減したとネットから。湘南キャンパス 配置図。そして南に進むと左手には「文教大学」バス停があった。JR茅ヶ崎駅行きと小田急線湘南台駅行きがある。そして正面が「文教大学入口」交差点。「文教大学」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.19
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次そして道路の反対側にあったのが「善谷寺 ( ぜんこくじ )」。曹洞宗 恵日山 善谷寺。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137。寺号標石「曹洞宗 善谷禅寺」。『新編相摸国風土記稿』には「恵日山と号す、曹洞宗獺郷村東陽院末、本尊釈迦」と記載。開山は藤沢市獺郷「東陽院」👈リンク の三世、茅ヶ崎市行谷「宝蔵寺」👈リンクの二世を務めた心翁宗伝和尚。寺伝では天正六年(1578年)の創建と。整えられた境内の隅には相州小出七福神の福禄寿の堂があった。「石段改修 晋山結制記念碑」と。晋山結制とは、新しく任命された住職の正式な就任儀式のこと。掲示板。石段の途中から民家の鯉のぼりを振り返る。「善谷寺」の石段の両脇には「南無観世音菩薩」の幟が並ぶ。「本堂」。中之谷の集落の中心にある寺で、昭和48年に本堂を改築。平成2年の春には本堂前に金銅の「恵日観音」も建立された。「本堂」の扁額も「善谷寺」。「恵日山 善谷寺曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師 伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然 (宇宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する。 本堂のご本尊に先ず合掌 」 「六地蔵」。「本堂」の左側にあったのが「相州小出七福神」の「福禄寿」の御堂。「福禄寿」。長寿・人徳の神様 ご利益は子孫繁栄・立身出世・健康長寿・招徳人望巻物を読む姿で。右側に「延命地蔵尊像」。奉納者の名前の刻まれた石碑。「本堂」前の「恵日観音」。手前に常香炉。平成2年の春に御鎮座。お顔をズームして。客殿であっただろうか。その手前に「善谷寺歴住大和尚供養碑」が。扁額「恵照閣」。境内の「稲荷社」。「正一位 稲荷大明神」。社殿。「本堂」、「恵日観音」を振り返る。石仏が並ぶ。石碑群。そして「善谷寺」を後にして、石段を下る。再び鯉のぼりを。さらに門越しに。そして前の道を北に進むと、角にあったのが芹沢中の谷の「道祖神」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1458。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.18
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「腰掛神社」を後にして東に進むと民家の入口の横にあったのが「権現様」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢1722。さらにスマホの案内に従い「芹沢石仏石像群」に向かって進む。途中、民家の庭にあった八重桜。そして「茅ヶ崎市斎場」の入口前を通過し東に進む。左手の丘の上に見えたのが「慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部」の校舎。そして四辻の手前右手にあったのが「芹沢石仏石像群」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢。歴史を感じさせる多くの石碑が並んでいた。左手には石仏の姿の有る石碑が。それぞれに近づいて。頭が補修の為に繋がれたようだ。何かを持っていたのであろうか。「正徳三癸巳(1713)十二月十一日」と。「宝永七庚寅(1710)」と。削ぎ取られた如くに。こちらも。「正徳(1711~1716)」の文字が。「芹沢石仏石像群」を後にして畑の畦道を進む。路地の角にあった神社。二つ並んだ小祠のうち、左側が「宇賀神(はっとりさま)」と呼ばれていると。こちらは石祠道祖神(流造)であろうか。左の社の中にはユニークな形のものが。内陣には左右に四体の蛇のような像が祀られていた。「宇賀神も突き詰めれば不思議な神様ではありますが、一般的には穀霊・稲霊と考えられていて、稲の豊作をもたらす水神としても受け止められ、このように蛇体で現されることの多い神なのだ。しかし、ここ芹沢の宇賀神がなぜ「はっとりさま」と呼ばれているのかは良くわからないそうです。「はっとり」にどのような字をあてるのかも定かではありませんが、「はっとり」は機織りに由来する「服部」なのでしょうか。宇賀神と稲荷の祭神:宇迦之御魂神は同一視されることも多いのですが、この稲荷神は養蚕・機織りなどに精通していた秦氏が信仰していた神であり機織りの神としても知られています。また、古代において諸国の織部を統率していた服部連は秦氏同族とも言われているので、そういう意味では宇賀神と「はっとり」との間に全く関係が無いとは言えないのですが……ちょっと良くわかりません。水辺で機を織る巫女と水神の関係は民俗学者の折口信夫氏が言及して久しいですが、あるいはそのあたりと何かしらの繋がりがあるのかもしれません。」とネットから。柿園の中を進む。次に訪ねたのが「芹沢大谷の庚申塔と道祖神と地蔵」。石鳥居の奥に石祠と社が。神奈川県茅ヶ崎市芹沢411。内陣。その横には道祖神、石仏が並んでいた。右から「兜巾型文字道祖神」明治二十二(1889)年台座の横にあった五輪塔の水輪(丸石)と頭部(繭玉石)は道祖神には付き物。「青面金剛庚申塔」上部欠損は悲しい。廃仏毀釈の嵐は、地蔵の首狩りと双体道祖神の切断の形がが多く見られるのだが。この地蔵尊も首を刈られていたのか、セメントで補修の痕が。民家の入口にあった庚申塔。茅ヶ崎市芹沢308。文字庚申塔。下部に三猿が削られた痕跡?近くにあった「山王神社」。石鳥居の横から。そして今度は梨園の中を通過。たわわに咲く梨の花。「芹沢スポーツ広場 野球場」の横を進む。そして再び畦道に案内される。そして大きな民家の塀の前にあったのが「延命子育地蔵堂跡」碑。民家の庭には立派な鯉のぼりが。これが寺の山門の如き民家の門。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.17
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次次に訪ねたのが「腰掛神社」。ここを訪ねるのは3回目であろうか。「腰掛神社」の一の鳥居が正面に。『新編相摸国風土記稿』に「腰掛明神社 村の鎮守なり」とあるのはこの神社のことで、江戸時代から変わらず芹沢の鎮守として祀られてきたとのこと。現在も芹沢北部の里山の中に古式然とした姿で鎮座。日本武尊が東征の折に通りかかり暫くのあいだ休息せられた旧跡とも伝えられ、境内にはこのとき日本武尊が腰を掛けたと伝えられる腰掛石も残されていたのです神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169。「六臂青面金剛像」。元文5年(1740)11月板駒型月日(手持)・青面金剛像(剣/数珠・六臂)正面右側「奉納庚申供養」 〃左側「元文五庚申天 十一月吉日」 〃下側 7人の名日輪・月輪を両手の掌に奉げたデザインが素晴らしい。日本武尊を髣髴させる青面金剛像。「芹澤腰掛神社」碑。「掲示板」。一の鳥居の後ろに二の鳥居。境内には巨木も多く、眩いばかりの緑に覆われていた。こうした雰囲気の良い社叢は、都市部ではなかなか目にすることが出来なくなって来たのです。 「二の鳥居」には青く縁取られた扁額「腰掛神社」。「二の鳥居」は「両部鳥居(りょうぶとりい)」であった。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。 名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。 四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。「二の鳥居」を潜り、「拝殿」への参道を進む。「手水舎」。「社務所」は「芹澤公民館」にもなっていた。狛犬(阿形像)、昭和六十三年。狛犬(吽形像)、昭和六十三年。正面に「拝殿」。御神木の銀杏。左手に「神楽殿」。更に「拝殿」に近づいて。御祭神日本武尊 ( やまとたけるのみこと )大日霊貴命 ( おおひるめむちのみこと )金山彦命 ( かなやまひこのみこと )白山彦命 ( しらやまひこのみこと )宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )祭礼1月1日 元旦祭・交通安全祈願祭2月11日 建国祭7月海の日 浜降祭9月吉日 秋季例大祭11月23日 勤労感謝祭12月31日 除夜祭。その先にも狛犬(阿形像)、大正十四乙丑年十月吉日建之 と。こちらは江戸唐獅子とか関東型とか言われるタイプのもの。狛犬(吽形像)。「腰掛神社 由緒沿革」案内板が「腰掛玉石」を覆う屋根付きの建物にあった。「腰掛神社 例祭日 九月十八日鎮座地 茅ヶ崎市芹澤ニ、一六九番地由緒沿革 『相模風土記』に「腰掛名神社村ノ鎮守ナリ大庭ノ神腰ヲ掛シ旧跡ト云伝フ、想フニ旅所ノ跡ナドニヤ 小石一顆ヲ置神躰トス 本地大日、寛永十二年八月十九日勧請 爾来此日ヲ以テ例祭ヲ執行ス」とある。又社伝には 景行天皇の朝 皇子日本武尊御東征の際 此の地を過ぎ給ふ時 石に腰を掛け 暫時此處に御休息せられ 西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ 後 村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ今猶社前には一大石 (凡長さ二尺九寸 幅二尺五寸) あり 腰掛玉石と称する。再建は寛政元年(一七八九)十一月であり、現在の本殿は大正七年に再建で 拝殿は震災後大正十四年に再建したものである。神社の関係古文書類は 天保四年 鍵取職矢野新兵衞氏居宅の火災により全て焼失した。明治六年村社に列せられ、明治四十二年指定村社に列せられる。」立体感が溢れる見事な龍の彫刻。木鼻(右)。躍動感と迫力に溢れた獅子の姿が。木鼻(左)。扁額「腰掛神社」。「腰掛玉石」。日本武尊が東征の際に、この地で石に腰かけて大山を眺めながら休憩したという伝説に由来し、当時の人々がこの石をご神体として社を建設、日本武尊を祀ったことが腰掛神社の始まりとされている。高さ40cm、タテヨコ100cmほどの上が平たい石。 「腰掛玉石」は台座の上に載せられ、それを覆う屋根と木の柵もあったが、こういうケースはむしろ例外で、大部分の「腰掛石」は雨ざらしにされされている場合が多いのだが。以下はネットから「ところで『新編相模国風土記稿』では、腰掛石に腰をおろしたのは「大庭の神」と記載されているので、江戸時代には現在の社伝のように日本武尊ではなく大庭の神の旧跡地と伝えられていたことがわかります。芹澤村の所属する大庭庄は中世に成立した荘園で、その中心地の大庭には式内社の大庭神社が鎮座しています。大庭の神とはこの大庭神社の神のことを言っているのだと思いますが、『新編相模国風土記稿』ではこの伝承をうけて「想うに旅所の跡などにや」と、その関係を推測しています。跡と述べている以上、江戸時代の当時においても腰掛神社と大庭神社の間には直接的な関係はなかったものと思われますが、元々は何らかの繋がりがあったのかもしれません。さて、『相模の古社』では腰掛神社を一之宮・寒川神社の末社であったとしたうえで次のような伝説を紹介しています。腰掛神社の境内に、寒川大神の腰掛けられたという石が存している。差渡し85センチほどの石である。ところでこの地方の伝説として、寒川の大神はいずれの地方からか相模国へ来て、この芹沢の地にしばらく逗留され、それから間もなく、北西3キロほどの宮原という地に移ったと言われている。(中略) この宮原部落には、現在も寒川社という小社がある。寒川大神はやがて宮原の地も去って、最後に現在寒川神社のあるところに移って来て、長く居住したということがむかしから伝えられているのである。 (菱沼 勇・梅田義彦 『相模の古社』 昭和46年 学生社)」と。この伝説の出典は不明とのことですが、これによると腰掛石に腰をおろしたのは「寒川大神」であるとされ、この場合は寒川神社の創祀縁起として語られている訳です。「腰掛玉石」碑。「神輿殿」。神輿をネットから。「拝殿屋根葺替竣工記念」碑。「當拝殿は大正十二年九月の大震災の際崩壊 大正十四年 新築再建五十年の永き間夏の暑さにも冬の寒さにも耐へて今日に到れるが最早屋根の亜鉛板も限界と成りたるが故に氏子崇敬者諸氏と相謀り、銅板にて屋根の修復を致す事に決定し九月に工事の竣工を見ました。此の挙を記念しここに碑を建立致しました。昭和四十八年九月十八日」「拝殿」の奥に「本殿」。拝殿脇には2つ並んで境内社がありましたが、名前が書いてないので詳細は不明。『神奈川県神社誌』には境内社として伊勢大神、金平大神、稲荷社、白山大神の記載があるとのことなので、このうちのいずれかでしょうか。右側の境内社。左側の境内社。境内社前から「腰掛神社」の境内を見る。「拝殿」を振り返って。参道脇には、伐採された巨木が転がっていた。銀杏の樹であろうか、樹皮のみで完全に空洞のみ。「腰掛神社」を後にして、その前にあった「関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり地点名 茅ヶ崎市からの富士」を訪ねた。しかし、この日は・・・・。天気が良ければ。「関東の富士見100景」から「腰掛神社」を見る。そして「腰掛神社」前の坂道を南東に向けて上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.16
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「来迎寺」を後にして、次の目的地の「蓮妙寺」に向かって田園の中を進む。左手の田んぼの中には多くの親子連れが。田植えの準備の除草作業等、耕耘等の準備作業を体験学習しているようであった。道端には花ダイコンの花が。これぞ田園風景。そして「蓮妙寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472。「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」と刻まれた石碑。日蓮聖人の花押を「在御判」 、あるいは「日蓮 在御判」 と表している ようである。因みに日蓮聖人の「花押」をネットから。 【https://aucfree.com/items/j612943569】より「蓮妙寺縁起当山の山号は弁財山、寺号を蓮妙寺と称します。開山は日殿上人にして、上人は、静岡県富士宮市北山、大本山富士山重須本門寺根源第十世歴代上人なり。よって当山は本門寺の末寺にして、本門寺を常に本山と称しております。本山の御開山は、日蓮大聖人第三番目の御弟子、白蓮阿闍梨日興上人の開創せられた寺であります。当山の開山日殿上人は、大永六年(一五ニ六)に誕生せられましたが、その生国と姓氏ともに詳らかではありません。永禄十三年(一五七〇)八月十三日、時の駿河守護職今川氏より寺号をたまわり小田原の城外に蓮成寺を建立されたのでありますが、元亀三年(一五七ニ)三月十五日、その蓮成寺を現在地芹沢久保山に移して弁財山蓮妙寺と改称されたのであります。よって当山の建立年月日を元亀三年三月十五日と定める。御開山日殿上人は、天正十年(一五八ニ)二月五日、御年五十七才でなくなられております。尚、当山には弁財天女尊神、鬼子母尊神の両母尊神様が勧請なされております。平成七年八月八日当山施餓鬼会砌建立為 諦道院法成日亀居士 浄心日妙大姉 両親追菩提 施主 矢野福徳辨財山蓮妙寺第三十八世随祥代」「辨財山」。正面に「本堂」。右側にあったのが周りを池に囲まれた七福神の「弁天堂」。しかし入口には鍵がかけられ近づけなかった。その代わりに閉ざされた扉の横に案内板があった。「弁天堂このお堂には弁財天女尊神様を勧請しております。当山は山号を弁財山と定めておりますように、当山建立以前にこの土地の人々によってすでに信仰がなされていたのてはないかと考えられます。弁財天女尊神信仰の歴史は奈良、平安、室町時代を径て江戸時代に入ると福神信仰として繁栄、長寿財宝などあらゆる功徳を与えて下さる神様として信仰が発展していたようです。当山の弁財天女尊神信仰に於いても、昔から、この弁天様に願い事をするとその願いを、かなえて下さると云って信仰されております。又、音楽や芸事の神様ともいわれています。」「弁天堂」の内陣の写真の右側には「弁財天女尊神様」のお姿が。「明治百年祭記念植樹」碑。「本堂」。弁財山蓮妙寺。日蓮宗の寺院。『新編相摸国風土記稿』には「弁財山と号す、日蓮宗駿州富士北山本門寺末、本尊三宝四菩薩等」と記載されています。開山は静岡県富士宮市にある北山本門寺十世の日殿上人。寺伝によれば、もともと小田原にあった蓮成寺というお寺を元亀三年(1572年)に当地に移して名前を蓮妙寺に改めたものと伝えられています。江戸時代には芹沢を領した旗本戸田氏の庇護を受け、境内には最後の領主、戸田隆之助勝信の墓も残されています。相州小出七福神:弁財天が祭られていた。扁額「辯財山」。この右向きの鶴紋の名は「右向き舞鶴」であると学友からご教示頂きました。「本堂」右側にあったのが「鬼子母神堂」。扁額「鬼子母神」。「妙法 無縁法界萬霊塔」碑。「慰霊碑」全国檀家の戦没者を慰霊する碑である。昭和50年1月に蓮妙寺によって建立された。裏面には当寺院檀家の戦没者9柱の姓名と戦没年月日が刻されているが、うち2柱は当寺院の関係者である。碑高:196㎝、幅80㎝、厚さ16㎝、台石40㎝。碑正面:「萬國檀方中全國 慰靈碑 當山第卅八世随祥代」碑裏面:「當山檀方中戦没者飯島保直 昭和十三年九月十五日 廿五才 塩川重雄 昭和十五年九月四日 廿三才 青木 寛 昭和十九年四月十二日 廿三才 下田信雄 昭和十九年十月二十日 廿七才 川口直喜 昭和二十年三月廿三日 廿六才 塩川迪夫 昭和二十年六月十九日 廿五才 田代音次 昭和二十年八月十日 廿五才 霜島正覚 昭和二十年六月廿九日 三十才 当山第卅七世日成上人 神藤春美 昭和二十年四月廿三日 卅八才 当山第卅八世随祥師父昭和五十年十一月吉日 辨財山蓮妙寺建之」「辨財山 蓮妙寺抑モ当弁財山蓮妙寺ハ富士重須大本山本門寺第十世日殿上人ノ開創シ給ウ所ナリ 日殿上人ハ大永六年・・・」と内容は上記の「蓮妙寺縁起」と同じであった。「鬼子母神堂」を振り返る。墓石と左側は句碑であろうか。寺務所。そして隣にあったのが「タコ公園」。巨大なタコのすべり台があったが、日曜日にもかかわらず子供の姿はなく。これも未だコロナ禍の影響か?次に訪ねたのが「久保山貝塚」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢。「久保山貝塚」は、茅ヶ崎市北部に広がる芹沢の久保山に所在する貝塚。県立茅ヶ崎里山公園の北西端に位置し、北側を流れる小出川に注ぐ小さな谷の西側斜面(標高17mから19m)の地中に残されていた。1996(平成8)年に里山公園の外周道路の整備工事に伴う事前の発掘調査が行われ、工事範囲となる南西から北東に傾斜した斜面で、縄文時代後期(3500年前)に属する多量の土器とともに貝塚(3m×4m)が新たに発見されたもの。調査を開始すると注口土器や深鉢形土器をはじめとした、堀之内1.式から加曽利B式というタイプの土器が足の踏み場もないような散乱状態で出土した。さらにその一画からダンベイキサゴやヤマトシジミなどの貝がらが層をなして発見された。そして複数の土偶、土製耳飾り、石器なども一緒に出土した。このことから、この斜面が当時のムラの人々の廃棄場(ゴミなどの捨て場)であったこと、また土偶の存在や多数の注口土器がほぼ完全な形で捨てられていた事実は、このムラで何らかの祭祀が大がかりで行われたことを物語る。この地域の縄文社会を担った中心的なムラがあったことは間違いありません と。「久保山貝塚久保山貝塚は、平成9年3月に新たに発見された茅ヶ崎市5番目の縄文時代貝塚です。この貝塚は約3、500年前の縄文時代後期にこの尾根上で集落を営んだ人々が一時期にまとめて投棄したものと思われ、3x4mの範囲にほぼ純粋な貝層が形成されていました。貝はダンべイキシャゴを主体とする海水産が大半で、ほかに汽水性のヤマトシジミもまとまって含まれていました。この時期には食料確保のために近くの海と川を積極的に利用したものと思われます。また、尾根上に営まれた集落は、多数の土偶や注ロ土器をはじめとした多量の土器類の出土から、かなり大規模なものと想定されます。貝塚の時期 縄文時代後期(堀之内Ⅱ式)員の種類 ダンべイキシャゴ バイガイ ツメタガイ チョウセンハマグリ ハマグリ トカシオリイレ ワスレガイ コタマガイ ヤマトシジミ他集茗の時期 緩文時代後期(堀之内I式から加曽利BI式)出土遺物 注ロ土器 深鉢 浅鉢 小型土器 土偶 石器類」そして次の目的地の「腰掛神社」に向かって畦道を進む。ここを左に折れて進む。そして「腰掛神社」の前の道に出て坂を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.15
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「宝蔵寺」の石段を上り左手に墓地を見ながら進む。突き当りを右に曲がると、右手にあったのが「茅ヶ崎霊園 永久の郷」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢4183。その先左手にあったのが「茅ヶ崎霊園永久の郷 管理事務所」。更に進むと、右手にあったのが、寺院の如き立派な山門。民家?の庭園への入口のようであったが。両脇には緻密な石の彫刻が。(右側)。左側。そして来た道を引き返すと、民家の横の花壇にはルピナスの花が。以前に北欧を旅行した際には、道路脇のいたるところに群生している様子を見かけたことを思い出したのであった。近づいて。そして次に訪ねたのが「神奈川県企業庁水道局 芹沢配水池 芹沢ポンプ所」内に展示されている「臼久保遺跡(うすくぼいせき)」。神奈川県茅ヶ崎市芹沢4222他 。しかし入口は閉ざされて中には入れなかった。「芹沢配水池」。「芹沢ポンプ所」。「芹沢配水池の工事に伴う調査で、縄文時代、弥生時代、古墳時代、中近世の遺構・遺物が発見されました。「臼久保遺跡」では盛り土して造られた直径18m程度の円墳と考えられるものが3基発見されましたが、塚部分は削られてしまっており周囲に巡らされた溝(周溝)がかろうじて残っていたため、その存在と大きさがわかったものです。また小出川を眼下に臨む西側の急崖に横穴を掘り墓室を造り上げた横穴古墳も4基発見されました。ともに約1400年前の古墳時代後期に造営されたもので、この地を治めた首長またはムラ長の代々の墳墓とみられ、領地を見下ろす絶景を選んだものと考えられます」と。「芹沢配水池」の水槽の壁の下に展示パネルが置かれていたので、門扉の隙間からズームで。弥生時代の住居の想像図のようだ。縄文時代の住居跡の写真であろうか。発掘された弥生時代の壺型土器(右)と土器、石器類。そして次に訪ねたのが「追出地蔵」。茅ヶ崎と寒川の堺の追出橋から延びる道と芹沢の外周をまわる「根通り」の道が交差する三叉路の真ん中に「追出地蔵」と呼ばれる地蔵様が立っていた。茅ヶ崎市芹沢4238−1。この地蔵菩薩も、例えば、「あの世」と「この世」の境界たる賽の河原にあって子供の魂を救済するものと信じられているように、境界性を強くもった神仏の一つとして理解されている。そうした背景もあって、道祖神同様、峠や村境など境に祀られることが多いとされているのだが、実際にこれほどわかりやすい「境界」に祀られている地蔵様というのは案外珍しいかもしれない。何の変哲もない小さな橋だが、その周辺は古い信仰世界が広がるちょっと不思議な空間だったりするのだ。左側には、石碑に彫られた地蔵様。そしてその右側には地蔵様が二体。お顔は復元されたものであろうか?こちらのお顔は失われていた。地蔵様の足下には、恵比寿様とキューピー人形?が。キューピーの眼が不気味であったが。花瓶には、アマドコロの新鮮な花が手向けられていた。次に訪ねたのが「光照山普門寺観音堂跡」神奈川県茅ヶ崎市芹沢3335かつてここに木造聖観音立像を本尊とする普門寺という建物があり、地元では「下馬落観音(げばらくかんのん)」とか「観音堂」と呼ばれていた と。奥には石碑と案内板が置かれていた。石碑「光照山 普門寺 観音堂阯」。裏面には「本尊「下馬落観世音菩薩」様は、芹澤山来迎寺に還歸遷座されました。」と。右手前にあったの「ぎゃーぎ婆さん」・「咳気神(げいきしん)」石仏。地元ではのどを患って亡くなったお婆さんを祀ったものと言われていて、咳に苦しむ人は竹の筒にお茶を入れてお供えし、そのお茶を飲めば病気が治ると信じられていたのだそうです。『茅ヶ崎市史3』では「ぎゃーぎ婆さん――咳気婆さんの意であろう」とその字義を推測していますが、咳気とは咳の出る病気で風邪の事。つまり「ぎゃーぎ婆さん」とは「咳のお婆さん」という意味で、古くは咳の神様として信仰されていたことがわかります。造立年は寛文六年(1666年)といいますから結構古いものです。胸がハダケた「ぎゃーぎ婆さん」。「道祖神」碑。「普門寺(下馬落観音堂)跡地かつてここに木造聖観音立像を本尊とする普門寺という建物があり、地元では「下馬落観音(げばらくかんのん)」とか「観音堂」と呼ばれていました。『新編相摸国風土記稿』の高座郡芹沢村の項には「普門寺 光照山と号す、来迎寺の寮なり 元和三年(一六一七)八月造立す 観音を置」とあります。本尊の観音像が「下馬落観音」と呼ばれた訳は霊験あらたかで馬に乗ったまま前を通ると、その無礼のために落馬すると言われたためです。「観音堂」には、本尊のほかに、その厨子、御前立の木造観世音菩薩立像、木造六観音立像、大数珠、および元和三年(一六一七)から平成十八年(ニ〇〇六)までの紀年銘を持つ棟札二十ニ枚(内1枚は記録はあるが現物は無し)などがありました。その中の最古の棟札に、元和三年に草堂を再建したとあります。諸般の事情から 「観音堂」は平成二十八年に取り払われて観音像その他は本寺の芹沢山来迎寺(浄土宗)に移されました石造女性座像胸をはだけた女性座像は「ぎゃーぎ婆さん」と呼ばれ、風邪やのどの病気を治してくれると伝えられています。市内には同様のものが今宿にもあり、やはり「ぎゃーぎ婆さん」と呼ばれ風邪治癒に霊験ありとされています。芹沢の像には、正面に向かって左側に「(1661~73)」の紀年銘があります。江戸時代になると、いわゆる路傍の石像が数多く作られますが、その初期のものに属する貴重な事例の一つです。なお、「ぎゃーぎ」は「咳気(がいき=咳あるいは咳の出る病気のこと)」に基づくと考えられています。また、胸をはだけた特異な姿は何かを表していると思われますが、それが何なのかは分かっていません道祖神正面に「道祖神」、向かって右側面に「享和ニ年(一八〇ニ)」左側面に「石井氏/作太□」と彫ってあります。なお□内の文字は「郎」のくずし字と思われます。市内に道祖神は数多く祭られていてセーノカミ、サイノカミとも呼ばれています。ここに祭られている道祖神は道の分かれる所にあり祭られている場所の伝統的なあり方を良く伝えていますが、他のところでは道路の拡張工事などで移されたものも少なくありません。道祖神は一年間の厄を背負ってくれる神と伝えられてきました。一月中旬にこの神の近くでセートヤキ(サイトヤキ、団子焼き)を行うのは、引き受けてもらった厄を焼き尽くすためと考えられています。」平成二十八年までこの場所に建っていた「下馬落(げばらく)観音堂」の在りし日の写真。本尊は下馬落観音で、三十三年に一度しか拝むことはできません。高座郡三十三観音霊場第14番札所という説があります。本堂は元和三年(一六一七)に再建されたものである と。田園地帯をひたすら歩く。そして「来迎寺」に到着。神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291。寺号標石「浄土宗 芹澤山 來迎寺」。「芹沢山 高安院 来迎寺」。参道を進むと右側には「六地蔵」が。手前に「南無阿弥陀仏」碑が。「六地蔵」に近づいて。「六地蔵能化縁起供養誌六道の衢、五濁悪世の闇を輝らし衆々の厄難を済い訶伊の種子は醍醐を証らしめん六道に輪廻する衆生を救済する菩薩にして本願圣に曰く諸々の厄難を取り除いて地道を司祭し道をあやまらないよう見守る菩薩であります。 六地蔵尊の名称と持物と役割 一、大定智悲地蔵菩薩 香炉 地獄道教主 一、大徳清浄地蔵菩薩 宝珠 餓鬼道教主 一、大光明地蔵菩薩 合掌 畜生道教主 一、大清浄無垢地蔵菩薩 旌旗 修羅道教主 一、大清浄地蔵菩薩 錫杖 人間道教主 一、大堅固地蔵菩薩 念珠 天上道教主六地蔵尊は今から二百五十五年前、寛延三年一七四六年に建立されました今回柏木明氏の浄財喜捨によって修復再建がなされました。」七重石塔。五輪塔の「普門寺供養塔」。横には「普門寺歴代上人誌」碑があった。ここ来迎寺から数百メートル離れたところに「光照山普門寺」という堂が、平成28年8月まで建っていたのであった。「光照山普門寺」の歴代上人の墓石等がこの場所に移されたのであろう。「芹澤山 来迎寺 本堂新築落慶記念碑」。正面に「本堂」。参道右側に新しい「延命地蔵尊」。大きな石灯籠(右)。大きな石灯籠(左)。「本堂」に近づいて。扁額「芹澤山」。内陣。ズームして。「本堂」の中に七福神の「恵比寿神」が鎮座していた。寺務所。掲示板。「月影杏葉(つきかげぎょうよう)」と呼ばれる紋が浄土宗の宗紋。法然上人がお生まれになった漆間家の紋杏葉に、宗歌「月かげ」の月を配したもの。「本堂」の前の右から境内を見る。無縫塔が並ぶ。無縁塚。石仏の台座には「無縁一切之霊」と。雨が再び降り始め天水桶の水面がざわめく。本堂前から「来迎寺」の参道を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.14
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市行谷の道を進んで行くと、右手に「金山神社」への入口が現れた。入口には可憐なダッチ・アイリスの花が。そして入口右手に「金山神社の庚申塔」が並んでいた。庚申塔(六臂青面金剛庚申塔)。庚申塔(四臂青面金剛庚申塔)承応4年:1655年銘「文字庚申塔」。「金山神社の庚申塔平成十八年ニ月十四日神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応四年(一六五五)の年号が見える。元はここから東の芹沢境にあったと伝える。四臂(うで)でニ猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚ニ、寒川一、藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。」正面に「金山神社」の石鳥居が見えた。扁額「金山神社」。そして参道の石段を上って行くと正面に「金山神社」の素朴そして小さな社殿が現れた。扁額には「金山大権現」と。「金山大権現堂再建成就之碑 宝蔵寺二十六世大○明芳建立」。社殿の左奥に「金山神社紀会碑」と刻まれた石碑。石段を下って下まで降りると、左手にあったのが「身代(みがわり)延命地蔵堂」。扁額「身代延命地蔵堂」。大、小のキイロスズメバチの巣がぶら下がっていたが、どこかから運んだものであろうか?内陣。宝蔵寺 身代延命地蔵相模国 高座郡 南部 地蔵尊 第一番札所。「身代延命地蔵堂」の石段の下の左手にあったのが「宝蔵寺庫裡」。「宝蔵寺庫裡」を正面から。「宝蔵寺庫裡」前から「宝蔵寺」の境内を望む。「宝蔵寺」の山門に廻り込み境内を見る。神奈川県茅ヶ崎市行谷318。寺号標石「宝蔵寺」。「身代延命地蔵尊 高座第一番札所」碑。「相模国 高座郡 南部 地蔵尊 二十四札所」。「相模国高座郡南部地蔵尊二十四札所というのは、江戸時代の中ごろから広く行われるようになった神仏「札所巡り」の一種で、全国各地に設定されています。二十四という数は、二十四日が地蔵尊の縁日とされていることからきているのではないかといわれています。高座郡南部地蔵尊二十四札所は、第一番の宝蔵寺(茅ケ崎市行谷)から始まり、茅ケ崎市の南部を巡って寒川町、藤沢市の北西部へと北上し、海老名の南部へ至るもので、最終の二十四番は海老名市中河内の地蔵堂(吉祥寺持ち)です。(茅ケ崎市内九カ所、寒川町内九カ所、海老名市内四カ所、藤沢市内二カ所。)」石段の上にある「山門」を正面に見る。「金峰山 宝蔵寺」掲示板。「聖観音菩薩像」であっただろうか。お顔をズームで。石板に彫られた「六地蔵尊」。右から、延命地蔵、宝手地蔵、宝処地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、堅固意地蔵 の名前が像の下に書かれていた。十八臂の千手観音、文化十四年五月の銘。「山門」。扁額「金峰山」。そして正面に「本堂」。宗派 曹洞宗開基 開山 傳室宗馨大和尚創建 天正8年本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ札所 相州小出七福神(大黒天)相模国高座郡南部地蔵二十四札所 第1番御詠歌 「有難や 黄金の峰に 鳴る鐘は 実りの絶(たえ)の 響なりけり」本堂は昭和45年再建。1873(明治6)年5月1日、旧・ 行谷(なめがや)村の宝蔵寺に、行谷村外四ヶ村小学舎(現在の茅ヶ崎市立小出小学校)が設立された歴史がある。その後、堤にも学校ができ、統廃合の後、所在地も現在地へ移り、児童数も増え、校舎も拡大されたのだとか。扁額「宝蔵寺」。雨が落ちて来て「天水桶」の水面が揺れる。「金峰山 宝蔵寺曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦如来大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師 伝 統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師に よって広く全土に実践教化され今日に至る。教 義 「人は本来 佛性有り 己に佛心の具え有り」 正法の経典を讃仰読誦し深く黙照して坐し脚下照顧して己の足下を見つめ自然 (宇 宙)と一体なる自己を見極めて活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。経 典 修証義 般若心経 観音経 寿量品等を読誦する。 本堂のご本尊に先ず合掌 」 「宝蔵寺 寺務所」。「震災記念 聨芳塔」。歴代住職の墓は「聯芳塔」(れんぽうとう)と言うようだ。「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」が中央に刻まれていた。以下廿三世までの住職の名が刻まれていた。小祠の「稲荷社」。右側の石碑には「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」と。本堂の左側にあった七福神社。「大黒天」像。「大黒天」を崇めると、五穀豊穣や商売繁盛など、主にお金にまつわるご利益があるとされている。なぜならば、大黒天が左肩に背負う袋は財宝、右手に持つ打ち出の小槌は湧き出る富、足で押さえた米俵は豊作を意味しているからである と。本堂の左側には「十二支地蔵尊」が並んでいた。「十二支地蔵尊」碑の正面から。「南無水子供養地蔵尊」。後ろにある銀杏の大木は大胆に伐採されていたが。「水子地蔵御和讃浮かびて小さき 泡一つ はかなく水に 消えゆきぬ面かげさえも ありなしの 追うに術なき あわれさよ育ちてあれば ほほえみて 母とし呼びて 縋り来んその名を呼べば 顔あげて 聲も明るく 駆け寄らんむねには迫る なげきあり 母にははゝの なみだありこの世の縁は 浅くとも 深くちぎらん つぎの世に南無や能化の 地蔵尊 南無や能化の 地蔵尊」「南無水子供養地蔵尊水子とは、不幸にしてこの世に生命を授かる事の出来なかった胎児の事を言います。悲しき水子の霊魂を供養し、更には子育子安地蔵尊として奉安されました。何卒万人の回向により無辺の功徳を得られん事を祈念致します。尚、特別回向御希望の方は寺の方に御申し出下さい」こちらの石段からも「金山神社」へ行けるのであった。「 萬霊塔」であっただろうか。「あじさい聖地和讃母と子の 両の手合せし 波羅密多に 依る故深く 慈悲にあふるゝ無心にて 願いをこめし 菩提心 法灯にすがる 母の心にあじさいの聖地に眠る 身佛と般若心経 浄土への旅」「宝蔵寺聖地亡き人の 面影偲び 今日もまた 墓参りし得たる 我が身 うれしき」そして境内を縦断する石段を上り「宝蔵寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.13
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「白峰寺」の境内の散策を続ける。ペット共同墓地には「想い出」碑があった。合同で火葬を済ませたペットを埋葬するための墓。また、希望により「納骨堂に安置されていたペットの遺骨を土に返したい場合」もこの墓に埋葬出来るのだと。「●お線香は左後ろのガラス台にあります。 ●お供えの食べ物などはココにあるボックスに入れて下さい。外に置くと すぐにカラスが来て散らかします。 ●お墓の前などで紙などを絶対に燃やさないで下さい。火種が飛び非常に危険です。 ●防犯カメラ作動中です。」「本堂」の左側の一段高い場所にあったのが「地蔵堂」・「地蔵様」をズームして。その隣には「太子堂」。「弘法大師坐像」。相模国準四国八十八ケ所 第81番札所正面に「四国八十八ヶ所之内本地千手観音第八十一番讃州白峰寺写文政三辰年(1820)十二月吉日」の銘があった。御詠歌:かしらには 月日の霜を いたヾきて 數の御寺を めぐるうれしさ。石碑群。左には「馬頭観世音」碑。「萬霊塔」。「本堂」横の参道には両脇に墓石が並んでいた。多くの陸軍戦死者の墓石であった。墓地の左側には無縫塔も並んでいた。歴代住職の墓であろう。そして「本堂」裏の参道を進む。「本堂」と新客殿「隨雲殿」間の回廊が右手下に。右手新客殿「隨雲殿」の横には休憩所が。そして「諏訪神社」。正面から。「諏訪神社」は、「下寺尾諏訪神社」とも。創建年代や由緒は不詳。当社はもともと、曹洞宗白峰寺の東側に鎮座していた。明治時代末期に堤地区の諏訪神社、行谷地区の金山神社、下寺尾の諏訪神社の三社が合祀され、現在の建彦神社となった。合祀以後、旧諏訪神社については白峰寺の一角に神社記念碑が残されるのみとなった。昭和60年(1985年)、神輿が制作、完成したことをきっかけに、白峰寺の一角に神輿殿が造られた。さらに平成6年(2004年)5月、建彦神社より御霊分けをし、社殿がここに設けられ、再建された。御祭神は建御名方命とされる。横にあったのが「神輿殿」。「下寺尾諏訪神社」の「神輿」👈リンク をネットより。鳥小屋もあった。烏骨鶏(うこっけい)に似ていたが。「諏訪神社遺跡紀念碑」。「道祖神碑」。「祈願町内安全 道祖神」。昭和五十三(1978)年。「双体神祇道祖神」碑。安永八(1779)年。「掲示板」。「全て行動だよ 考えていてもどうしようもない」。「白峰山」を後にして、「小出中央通り」を東に進み坂道を上って行った。そして左折し北に向かう。雨がポツポツと落ちて来た。トキワマンサク(常葉万作)の大きな樹が満開。その先にあったのが「茅ヶ崎新北陵病院」。そして茅ヶ崎市行谷のT字路を左折して「宝蔵寺」に向かった。先のT字路を右手に50mほど進むと、左手の山の斜面にあった道祖神。「行谷長久保の道祖神」。茅ヶ崎市行谷245。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.12
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次茅ヶ崎市寺尾の住宅地を進む。大きな家の庭には、手入れの行き届いた大きなカイズカイブキの樹が。「大岡越前通り」からの分岐地点に石碑があった。「下寺尾西方の道祖神」。左側には五輪塔の部位が。兜巾型文字道祖神であり文化二(1805)年と刻まれていた。「道祖神」の銘がはみ出るほど大きいのであった。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1174。そしてこちらは民家の岩塀の隙間に置かれていた「下寺尾中山山王社の道祖神」。茅ヶ崎市下寺尾1139。兜巾型文字道祖神で安政二(1855)年と。「大岡越前通り」の「みずき」交差点を東に進む。「駒寄川」に繋がる水路の近くには「正一位伏見高倉稲荷神社」があるはずであったが現在この場所は造成中であり、その姿はなかった。どこかに遷宮されたのであろうか?この「正一位伏見高倉稲荷神社」は何処へ? 【https://www.sagami-yashiro.net/2013/12/blog-post_7002.html】より県道47号線近くの墓地の角にあった石碑群。白峰寺の手前の小出中央通りに面した場所にあった「地蔵尊」。木立に囲まれ一段高い場所に鎮座した「地蔵尊」。神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1559。既に桜は今年の仕事を終えて。銅葺屋根の社の中には「地蔵尊」と石碑が。「地蔵尊」に近づいて。「・・・観世音」と刻まれた観音碑であったが。歌碑。「里まもる 観音様も 江戸そだち 包む白衣も 子等安かれと」。地蔵堂前に立つ歌碑には、「朝霧に 深き緑の 白峰の 後世守り給いし 地蔵尊 佐藤セン」と。そして脇の小径を進むと正面に石碑が姿を現した。「不許葷酒入山門」碑。「葷酒山門に入るを許さず」と。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。 「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。石碑の後ろには、これから訪ねる「白峰寺」が拡がっていた。脇の入口の石段を見る。「小出中央通り」沿いにあった入口には寺号標石「景徳山 白峰寺(はくほうじ)」が立っていた。神奈川県茅ケ崎市下寺尾1551。「景徳山 白峰寺」の境内案内板のようであったが・・・これぞ「白包地」。元気な頃の姿をネットから。 【https://hotokami.jp/area/kanagawa/Hkyty/Hkytytp/Dmmpt/54789/】より更に詳細図もネットから。これがあるとブログの書き込みが楽なのである。 【http://www.t-samukawa.or.jp/~petreien/facilities.html】より右手に「隨雲殿」。法要会場・会食場であろうか。扁額「隨雲殿」。境内右側には見事な庭が拡がっていた。石灯籠。「本堂」と「隨雲殿」の間の庭には池が拡がっていた。懐かしき「井戸ポンプ」の姿が。「白峰寺池」に近づいて。「本堂」と「隨雲殿」の連絡回廊を見る。銀杏の樹には瑞々しい緑色の若葉の新緑が。その奥には「動物愛護の会受付寺務所」があった。動物愛護の会がペットの葬儀火葬埋葬の面倒を見てくれるようであった。本堂手前左側にあったのが、「寿老人」の社。「相州小出七福神」の寺であった。「寿老人」。今年、2022年1月4日(火)~31日(月)の期間、「相州小出七福神」スタンプラリーが行われ我が旅友も電動アシスト自転車で廻ったとのことであった。【https://www.chigasaki-kankou.org/wp/wp-content/uploads/2018/12/6df237f5d4652bce0b74d9708a0353c7.png】よりそして「本堂」が右側に。曹洞宗 景徳山 白峰寺。開基 松平家開山 峩国(がこく)禅甫和尚創建 天文13(1544)年本尊 阿弥陀如来札所 相州小出七福神(寿老人) 札所 相模国準四国八十八ヶ所第81番御詠歌第81番景德山白峰寺「頭(かしら)には 月日の霜をいただきて 数のみ寺にめぐる嬉しさ」現在の本堂は、大正14年に火災により焼失したものに代わり、昭和2年に檀信徒の力添えにより再建されたもの。内陣にあった「圓通(えんずう)」の額。伊予松山第9代藩主松平定国公によって書かれたもの。天明元年(1781年)5月24日、定国公は白衣観音を礼拝され、同年5月30日に「圓通」の2字を賜りました と。「圓通」とは「周圓融通」の略。仏語。智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたりその作用は自在であること。また、真理を悟る智慧の実践 と。「観音堂」。安永8年(1779年)の頃、白峰寺第11世大嶺梅薫(だいれいばいくん)大和尚が江戸に布教していた折に、その説教に感銘した芝宇田川町の花屋治郎兵衛より唐国伝来の白衣観音像が奉納された。以来、白峰寺の観音信仰は江戸時代から庶民の信仰を集めてきた。しかし、本堂と同様に火災により当時のものは焼失してしまったが、昭和49年に復興した と。「白峰寺 白衣観音観音さまは、世の中の音声を観じて、一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心をもって、苦しみから救ってくださる菩薩さまです。観音さまは救済にあらわれる時、多くの姿をとると言われています。白衣観音はその姿のひとつであり、深く信仰することにより立派な子供が授かるといわれています。当山の白衣観音への信仰は江戸時代から続き、当時盛んだった大山詣りの帰り道には当山を訪れ、安産祈願はもとより、育児祈願、息災延命や家内安全などを願って手を合わせたと伝えられています。皆さまも、生きとし生けるもののために心静かにお参りください。 合掌」ズームして。現在は火葬、納骨されたペット達を供養するための塔であると。「観音堂」入口。ここがペットの「納骨堂」入口なのであった。正面に「観音菩薩像」。その後ろには犬の姿が。壁には見事な絵画が周囲全域に渡って。白衣観音の姿であろうか。授乳する母の姿。裸婦の姿。祈りの姿。見上げて。天井。裸婦そして鶴の姿も。動物の「納骨堂」とは思えない、芸術的な光景が拡がっていたのであった。ペットを飼う人の人気の寺であることが何となく解かったのであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.05.11
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