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絵に描いた餅は食べられないから実利確定、なんてよく言いますが、絵空ごとを説きに来る宗教があります。アルジェ持ち出して色々言っておりますが、私達下々の者を勧誘するのでなく、ま、世界平和なんていうのはまず、ニ百だか三百だかにわかれているあなた方が統一してみせることですよ。そして決して顔を拝むことも出来ないような自分達の大ドンを改心させることですよ。それこそ神がお望みのことでありましょう。選挙になったら、棄権も一つの意志だと、白票も一つの意志だという人達がいます。それをすすめる人達もいます。勿論それも一つの意志ではありますが、もうそれが有効な世は過ぎました。大勢が棄権し、白票が多くなればなるほど、立候補者がいる政党がある以上、組織票の多い処がぶっちぎりで勝ちます。支配層の一層の支配に拍車をかけます。政治はいらない、国家はいらないと言ったところで、それは無意味ですから、そうですね~せめては投票率80%以上、そのうちの半数以上の党が選ばれるなどの改革案なりなんなり、何らかの実現可能な具体策を皆に提示せねば意味のない説得です。いくら正しくとも、人が皆、今すぐ文無しで生きていけるわけではありませんから、札は紙切れだとわかっている人でも、そうは簡単にことは運びません。具体策を言うは必要です。今とはそれは全然違う世の中ですが、お釈迦様が偉いと言われる所以は、多分、現実に即したことを言われたからではないかと思われるのです。勿論、お釈迦様は宇宙を即ご存知の方ですが、それはとてもとても一言で言ってしまえるものではなく、平和なんぞ一朝で実現可能なことでもなく、おそらく現実に即したことを説法されたのです。指導者は常に、ただ単に啓蒙的なことだけでなく、貧しい者にも実行できるような具体案を示さねばなりません。瞑目することなどはその一つで、貧富に関係なく実行できる具体案です。ま、そこで、今は、パパラギの里なんかが気に入っております。http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/638.htmlまるで2チャンネルもどきの最近の阿修羅ですが、少し具体的になってきたポスト氏の記事。
2013.01.31
高村薫。仮に答を出しても、またそこで考える。そして更に考える。生きるとは早急に結果を求めることではない。右から左から、前から後ろから、物事を見て、考えられる、子供。息の長い教育。さっき、そういう話があった。私は少しだけ言いなおしたい。生きることは感じること。その感じたことを考えることだ、と。 『国家の計は百年の計』 『人を創る』 ことこそが最高の国家戦略。長男は既成の教育を嫌って、未知の学校へ行ったんだったが、あれからでも二十年近い年月が過ぎ去った。今の政治の話もあった。胸ときめかない。夢がもてない。もう五十年前ではない。二十年前ではない。東西冷戦時代終結以降を見つめられなかった指導者、バブル崩壊以降の展望を持たなかった指導者の愚は、今もまだ継続中。『貧困の哲学』というのがあるが、時代は大きく変わろうとしているのに、政治家の頭脳は一向進化せず、相変わらず五十年前、六十年前の夢の続き。『哲学の貧困』を露呈している。園頭師じゃないけれど、オームでもないけれど、ガコーンと大地が揺れて、地球の回る音が聞こえたと思った頃、やっぱり高村薫に会いにいけば良かった。こんな共同幻想はどうでしょう?と。仲の良かった女子大生が、高村薫を愛読していて、ある日、おばちゃんはイメージとしては高村薫に似てる、と言った。私は高村薫を読んだことがない。これから先も多分読まない。しかし、相当に良い小説だろうとは思っている。背文字からはそう見える。若い頃だったら、二冊か三冊かは読んだかもしれないが、小説はもう滅多には買わないのだ。一度だけテレビで見て、かったるい喋り方だな~っと思った。しかしまーイメージだ。こんな夢はどうでしょうと、話す価値はあっただろう。それは伸助に会いに行くより、心弾むことではあったろう。1995年、震災の年の話だ。
2013.01.28
石を見て、元の場所に返そうかと思う時がある。木津から持って帰ってきた真っ白で光る石も、豪奢な壁になり損ねた白雲母も、大峰の灰鉄柘榴石群も、庭ではさして美しくない。あの大きすぎて、苦労しながら小高い丘から降ろして持って帰ってきた水晶になり損ねたような石英でさえ、採掘場では輝いていたが、ここではそうでもない。バラ輝はそれなりに綺麗だが、雨に弱く色が消える。だから鉱物ファンは、置き場所に困るからという理由だけでなく、そういう理由もあって大きいものは好のまず、透き通った水晶や、レインボーなど、あるいは、ミクロの世界を楽しめるもの、そういうものに限るのだろう。谷を詰めたところにひょいと見える輝き。川のそばの何気ないきらめき。石にも好きな居場所というものがあるらしいと、石を見てるとそう思う。
2013.01.28
今日でもう何日目か・・・駅前の居酒屋のシャッターは閉まったまま。駅前だから、それなりにお客さんは入っていた。が、すごく流行っていたとは言い難い。持ちビルなら安泰。立退き料を貰っていれば安泰。家賃だったら・・・それはしんどい、だろう。田舎といえども、以前不動産屋に行ったら、駅前は三十万くらいだった。ノラだったチビ猫を連れて帰るダンボールと、餌をパックに入れてくれたから、たまに気になって見ている。今日は寒いという予報だったが、なんのことはない陽が照ってずいぶん暖かくなった。ここは陽が差し込んでくれさえすれば、室温はすぐにあがり、暖房は全然いらない。そこですっかり気分がよくなって、久しぶりに我が家に帰り、そっちの駅前で買い物した。家に帰ると手抜きをする。元々手抜きなのだけど、ちょっといい肉屋さんがあって、そこのコロッケが次男の大好物のひとつなので、あげていないものを買って帰るのだ。一個63円。安上がりでもある。そこはいつも行列。しかし・・・そのビルの表通りに面した店は、何がどうなったんだか、入り口から何から板が打ち付けてあって、いたく美観が損なわれていた。高級うな丼屋さん。うなぎが高くなったからじゃない、もうだいぶ以前から、表でお惣菜売るだけになっていたんだけれども、いよいよ意を決してやめてしまったようだ。あそこも家賃はずいぶん高い。文房具屋さんは二軒ともなくなったし(これはどうもダイソーのせいらしい)、大好きで毎日通っていた喫茶店は、旦那さんが市会に落選して田舎に帰ってしまったし、剪定たのんでいた植木屋さんはやめてしまったし、道でばったり会えばべつだが、友人の所に顔を出すのも面倒だし、近所付き合いはなおのこと面倒だし、神社やお寺以外は行く処がなくなってしまった。そういえば以前は商店街を車で抜けようと思ったら至難の技だったが、今は結構スイスイ。みんなどこへ行ったんだろう。やっぱり郊外大型店かな?マックに学生が何十人も並び、道路を人が歩けなかった昔が嘘のようだ。そうそう、万代に行くのには人の流れに身を任せていないと危ないという、そんな時代もあったんだのに、なんもかんも都会は飽和状態通りこしてしまったらしい。共生の時代は田舎に行くべし。奈良あたりでも休耕地だらけだから、もっと田舎は推して知るべし。他国に必要以上の手を出すより、みんな仲良く、のんびりがいい。
2013.01.25
【真実は闇の中 政府は必ず嘘をつく!】かような題名の番組が、15日、愛知テレビであったそうだ。検索して、ぜひご覧下さい。TPPのことが解説されています。TPPのことは是非書いておこうと思ったのに、肝心要のことを忘れてアップしてしまったのでやり直しました。聞きなれない言葉が出てきますが、国民は知っておくべきことのようです。☆ ☆ ☆政府の嘘にも色々あって、非常に努力したんだけれども果として嘘になったというような嘘もあろう。が、911に端を発したビン狩りのインチキさ加減は、大方は知っていることだったけれども、湾岸戦争末期、フセイン像を引き倒して、市民が喝采していた報道は、広告代理店が請け負っていたやらせだというから呆れる。広告代理店が一切を請け負う、アメリカはああいうことが多いんだそうだ。CGその他技術が凄いから、色々組み合わせて、これからは益々やらせ画面が頻繁に登場しそうである。資本主義社会は、断末魔の叫び。それは永遠の経済成長が前提の社会だから、不増不減の摂理は見ないことにする。そこでこれ以上は将来に禍根を残す国家資本ストックを益々増やし続け、一部の者にだけしか回らない金ジャブジャブにして、マネーマーケットを煽り、仮の成長を謳う。今こそマルクスエンゲルスだと言う人もいるが、それはどうだろう?中国がこの先何十年かでうまくいけば、中国式共産主義は評価されるが、それもまたどうだろう。実態は怪しい国ばかりだ。私は『日抱きの国』に思いを馳せる。そんな時代はふたたびこないものか・・・ランボー。『一番高い塔の歌』
2013.01.23
アルジェリアと聞くと、外人部隊とか、ランボーとかを思い出す。ランボーが足を引きずってまで歩いた地がそこなのか、軍人だったという父親と勘違いしているのか、どうもよく思い出せないが、武器商人ランボーを思い出す。露ほどの未練もなく、詩壇を捨て去ったランボーは、武器商人になって灼熱の砂漠を歩いた。誰の書いたランボー論だったか、もう随分昔のことで忘れてしまったが、狂ったように武器を集め、騙されたりしながらも、舞い戻ってはなけなしの金でまた武器を調達。足の裏を火傷しながら、服はボロボロになり、あの華奢な体で武器を積んだリヤカーもどきを引く、見て来たが如くのランボーの描写にもかかわらず、読み手としては、妙にその文章に引き込まれながらも、遂に最後まで、ランボーがそこまでする、その渇きや喜びがわからなかったが、ランボーの右足は腐って、妹に看取られて、天才はその短い生涯を終えた。私は委細知らないが、世界的紛争地域には、いつも大きな利権がからんでいるというのがうがった見方。今度はマリの資源だとか。欲の世界には果てしがない。天風師、ロックフェラー氏に会った時、「あなたくらい財産があればもういらないでしょう」と聞くと、「いやまだまだ欲しい」と仰ったんだそうで、ほんと金持ちほど欲望は尽きないもののっようだ。そういう人も世界統一国家を目指し、五十億総奴隷化を目指すから、ヨーロッパのどこかの領土だった歴史を持つ国々で起きる惨事は根が深い。歴史の糸を辿って辿って手繰り寄せていけば、結局は旧約まで持ち出すことになるようで、今の処、この世界から戦争がなくなるなんてことは、夢物語といったところか。どこいらで目に見える転換はあるのかな?権力といえば、今日キッチンで朝食の用意をしていたら、あれ~と思う声が飛び込んできた。見ると橋下さんだった。間違えそうになるくらい、喋り方が慎太郎氏に似ていた。びっくり。例の桜宮の入試の話。普通科に変えての受験体制で氏はご満悦のご様子だが、まるで茶番劇。我が儘駄々っ子が強迫まがいのことを言ってごねて、市教あたりがご機嫌とって、双方ともに生徒のことなんか眼中にない、馬鹿馬鹿しい学校教育論であった。
2013.01.22
すっかり夢日記から遠ざかっている。去年の二十日過ぎから、もう一ヶ月近く夢らしい夢をみていない。珍しいことだ。初夢も見なかったなんて。夢は、危険を知らせる夢が一番多いから何事もなしの有難い御報せと同じと思うが、こう精神統一怠っていては、いよいよ天に見放されたかとも思う。しかし今年の運勢はいいはずだが、やんちゃ猫のおかげで掃除ばかりする年になりそうだ。昨日の『経済のベース』さんの日記は良かった。日本は米式だからそうはいきそうにもないが、中国のあの政策を倣えたら、日本も一気に立ち直りそうではある。円安はちょっと邪魔するが。
2013.01.21
朝は時計がわりにNHKを見ているが、よくも日に何回も同じニュースばかりで編成しているもんだと、いつも呆れる。安倍首相が東南アジアに歴訪するはいいとして、確か15日~18日は、鳩山元首相が中国に招かれて、要人達と会談する日ではなかったかな?ヨルダンでは、選挙票が、一枚2000円~9000円くらいで売買されていると、清き一票なんぞ糞喰らえ、今日の飯だ、みたいな状態が放置されているらしいが、そういえばリビア駐在アメリカ大使が、カダフィの残党だかに捕まり、市中轢きまわしされ、そのボロボロの無惨な死体の映像がインターネットに流れたってニュースは、どこにも出なかったような。。。カダフィってつくられた悪役でしょ?多分。勿論、権力の座に長くいれば、目にあまることも色々あったことは想像できなくはないが、富の配分、子供教育など、結構いいこともいっぱいしてるのよね。権力者にしては質素だったという話もあるし。民主主義でないといけないとか、資本主義でないといけないとか、それだって他国が強制することではないような。シャーマン首長の国だってあってもいいし。戦争屋は、冷戦終結後以降は、自分でビジネス拡大しなくちゃいけないから、世界大戦ないかわりに、内乱はかつてないほど多い。ところで、体罰事件の桜ノ宮高校。体育科は入試中止?うん?間違ってたと思ったら、自説撤回するはいいけれど、そもそも橋下さんって勝利至上主義者でしょ?あらゆることでそういう言い方だよね。ま、それはそれとして、愛の鞭は一回が相場。往復ビンタとか連発とかいうのは、自殺するかどうかは別として、憎しみを伴っているようで禍根を残す。だけど、だからってどうなんだろう?受験しようと思っていた子供の気持ちは?試験は普通通りにして、勿論指導はちゃんとして、それで受験するかしないかは、受験生本人の意志に任せるっていうのはどうかな~って思ったりする。毎日、桜ノ宮を通っていたこともある私としては、いい高校であって欲しい。あそこは確か、里中満智子の母校ではなかったかな~。私は里中マッチのファンではないけれど、やっぱりいい高校であって欲しい。
2013.01.16
明治天皇すり替わり説や、隠れた明治天皇嫡子の話は、あちらこちらの書物に登場する。鬼塚英昭がその動画で、明治維新の真実を、日本の歴史の真実を、そしてそこから現代を考えるみたいなことを言っているが、一方の言い分だけでは歴史は成り立たず、だからといってあれもこれもとなると、これまた大変で、真の歴史解釈はなかなかに難しい。先生言われた如く、歴史は確認作業半分、霊感半分の世界である。しかしわかることはある。私は誰がこの日本を牛耳ろうと、そんなことにはさして興味はなかったが、今度ばかりはいけない。そう思った。何かそこにも陰謀があったのかどうか、それは私ごときにはわからないが、足の引っ張り合いの馬鹿な民主党だったから、自民が第一党になることはわかりきったことではあったが、なんなくの過半数はいけない。ましてや圧倒的多数など。日本国民、大丈夫か と訝るのである。これでもうこの間からテレビも何も参院選対策で、またぞろ世は自民党応援一色である。日本は和の国だから、安定が良い。一般国民からすれば、そういうことなのかもしれないが、真の繁栄の終わった国は、とうの昔に違う歩き方を学ばねばならなかったはずで、一党独裁とは、危険な時代に入ってきた。政治も経済も二極分化にどんどん向かっているように、季節もまた二極分化し始めているようだ。砂漠化というのか。春秋短く、夏暑く、冬寒い。対極でバランスとるからそうなる。人心もそのようで、好きとか嫌いとか、白とか黒とか、心の細かい襞なんかどこへやら、英語世界になってきた。携帯メールやツイッターがそれを助長する。英語は主語の次に述語が来る。私は勝つ!私は闘う!というふうにである。それに比べて、本来の日本語は、接続語に、修飾語に、まー述語なんかいつ出てくるんだというくらいまどろっこしい。とてもキャッチフレーズ向きではない。私は、これこれこうで、こう思い、ああ思い、ですから、今度はぜったい、負けられない、待たねばならないのです、というような具合だ。人々はボタン一つで簡単に操作できるものを好み、文学作品ですら心の細かい襞を書き綴ったものは今や好まれない。単純明快なものだ好きだ。わび寂びとか言うが、どこかではひそかにそれが好まれても、多くそれが失われていく世界に私達はいる。真理は単純だが、その単純さの中にすべては内包されていて、なんにもない、中味すかすかの単純さではないのだが。
2013.01.13
最近、テレビでは全然といっていいほど、脱原発を言わなくなった。衆院解散当時はいやというほど放送していたが、衆院選挙期間途中からは極端に減り、また1216以降ともなると、日本に原発問題ってあったの?というぐらいである。陰謀だ、という声があちらこちらにあったが、そういうふうに見える。経済の勉強を少しさせてもらっていた頃、毒舌家吉兆先生、よくお使いになっていた言葉に、『大本営発表』、ペンタゴンならぬ『ペテンダウ』というものがあったが、ここに来てよくテレビを見るようになって、放送局の後ろには、本当に『大本営』なるものがあるんだな~と思ってしまう。視聴率なんていうものは、雑誌で言えば購読者のことだから、それは二の次で、ご機嫌を損ねてはいけないのが広告主ということだ。しかし広告主は怖い存在であっても、即『大本営』であるはずはなく、日本の闇も結構深い。『金太郎飴』みたいな番組ばかりって言い出したのは誰だろう?一億総白痴化なんて言っていたのは大宅壮一。日本人から思考力取り去るのはわけはない。スポーツとテレビを与えておれば良い。豚は太らせてから食え、と言っている。という話を一等最初に聞いたのは安岡先生講演カセットテープでだった。さて、しかし、時代は変わり、超氷河期時代も来て、世はネット社会で、まだまだの感はあるものの、そう簡単に騙される人ばかりとは限らない時代が来た。近頃、妙に今までと雲が違うな~~と、カメラを取りに行っている間に、もうすぐに違和感のない空。思い過ごしかな~。
2013.01.11
最近お気に入りの経済金融関係のブログです。本日の記事、投機に役立ちます。http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130103/1357171677これも、目下のお気に入り。世川行介放浪日記宜しかったら小沢一郎私論でも読んでみてください。私の好きな吉本さんしばしばご登場。時折妙に文学的で、泣けます。※世川行介放浪日記にジャンプ出来ないとのこと。興味ある人は検索してみてください。私は特に《水沢編》が気に入っておりますが。
2013.01.10
今年もまた、この季節がやって来た。通り抜けても今では市電もなくなって、あそこらあたりも綺麗すぎるくらいになった。たまにはえべっさん楽しんでから、わが青春の阿倍野まで、バックしてみたいような気もするが、毎夜通った斎場あたりから向うの路地裏も歩いてみたいような気がするが、そこもまた、ただ名残りの風が少し吹いているだけなのだろう。わし?わしが忘れるわけないよ。いつぐらいまでだったか、この日には必ず電話がかかって来た。出会いの春は・・・春ではなかったな~、実際、思い出そうとしても、私はいつその人に気がついたか全然覚えてもいないのだ。覚えているのは、つい可哀想な気になって、挨拶をした日があったくらいのことだ。次男が聞いた。「お母さん、こっちがいいと思ったら、相手もいいと思ってるもん?」「ま~ね。よほどヘンな人でないかぎり、真剣に想ってくれるなら、それはそれだけで感謝すべきことではあるよね」感謝すべきこと。感謝します。って、あの日、言ったのだった。感謝なんかされたかーないね、と、あの人は言ったけれど、あの日、私はすごく何かに救われて、実に素直にそういう言葉が口から出たのだった。出会いは大切だよね。うん。例えば、一番最初に『生まれ出ずる悩み』を読まなかったら、有島武郎は読まなかったかもしれない。例えば、一番最初の文章が、『死のうと思っていた』ではなかったら、『晩年』は読まなかったかもしれない。一番最初に読んだ本の中に『僕が真実を口にすると世界は凍る』という文章を見つけなかったら、吉本を読まなかったかもしれない。一番最初に、『酒を飲みたい夜は酒だけでない』、それを読まなかったら、あんな高いお金を払って『サンチョパンサ』は買わなかったかもしれない。そうだ、ウンジュもね、最初に見たのが『白夜』のあの役でなかったら、清潔そうな女優だな~くらいだったかもしれない。出会いは大切だ。今日はなぜかしら、次男は久々、洒落た服で出かけた。
2013.01.10
何年前だったか、山口に行った帰りには、石城山に寄ろうと思っていた。特に行きたいと思っていたわけではなかったが、天行居『古道』を読んでいた頃だったから、多少は興味もあって、どうせなら復路は山陽道にしようと思ったのだった。柳井まで行ってから調べればいいや、みたいな、いつもの如くのいい加減なもの。それでも一人なら、どうしたって辿り着いたと思うのだが、他人様の、それも友清なんか知りもしない人の運転ではあまり無理も言えず、ほとんど探すこともせず帰って来た。それがつい最近、あの嘘か真実か、『山本五十六は生きていた』という話に、二人の大政治家を出したことで有名な、一見なんの変哲もなさそうな片田舎田布施が出て来たものだから、興味津々読みふけってしまった。私が田布施を知ったのは北村サヨからで、実は、そこにこそは行ってみたいと電話をしてみたことがあった。教祖を訪ねた佐藤栄作が、まだだ、と、首相になれないでいることで、何か言われたことがあったとか、二人は結構天照皇大神宮教に出入りしていたとか、そういうことがどこだったかに書いてあり、二人の出身地がそこだったことはその時に知ったのだった。少しおかしな感覚ではあった。そしてきょうふいに、『古道』では田布施となってはいなかったはずだが、もしやと思って調べると、神道天行居は、やはり田布施だった。こうなってくると、山本五十六のことはよくはわからないが、その村出身?の明治天皇説も、そこで幼少期を過ごした?伊藤博文も、なんとなく不気味な気がしてきた。あの村は、今は町だが、霊界のなんらかのお導きのある、裕道師ならそれこそ魔界に操られた者たちの棲家、ということにもなろうが、摩訶不思議な場所である。安倍氏率いる勢力が、圧倒的多数を獲得する保守県のかの地でだから、パワースポットとして崇められるかもしれない。ま、それはともかく、今度もしあちら方面に向かうことがあったら、中也やみすずや、ばく様やと言っていないで、ちょっとなにやら不気味な気がしないではないが、踊る宗教や石城山に何を感ずるか、やっぱり一度は行ってみたいと思うにであった。行きたい村というなら、井口丑ニ大日本神国教の蛭川村にも行ってみたい。鉱物の宝庫だしね。
2013.01.09
そうなりそうな予感。こういう感じかな~。http://d.hatena.ne.jp/osva13/20130103/1357171677
2013.01.09
ポスト米英時代という人は、いつも面白い文章を書く人だ。以下その一つ。『千人寄れば文殊の知恵と言うが一行コメントが百ぐらい貯まって大体論点が出尽くしたようである。そして不正選挙はなかったとする連中の反論と言えばお前の母さんでべそーの類いで幼稚である。対策も一票の格差を是正しろ小選挙区制度を変えろやり直しをしろと一筋縄ではなく不正が無かったと押し切るだけでは解消しない要求であり三つを沈静化するには不正選挙があったと認める以外になく偽ユダヤが安倍政権を使い回すのは無理である。ここに来て偽ユダヤのドル発行権が切れたという裏社会の話が表に出てきているようだがネサラと偽ネサラの情報が錯綜し妄想道5段の私でも炸裂させるのがためらわれるが要は正常化勢力が優位に立ったという事のようである。偽ユダヤであろうとなかろうと米国がちゃっかりした国である事に違いがないから正常化即日本にメリットとはならない所が悩ましく借金踏み倒しのリスクは残るがお話にならない連中から交渉の余地がある連中に交代する事は歓迎できる。日本人は世界一勤勉だから借金を踏み倒されようがなんだろうがドイツが何度も立ち上がったようにびくともしないのである。それよりも連中がしでかした事を脇に置いて事後対応を迅速に行おうとしてもそれすら妨害されてきたからフラストレーションが限界に達したのであり損害賠償請求と借金取り立てまで踏み込めるかどうかは不透明だが311の事後対応は促進される筈である。ネサラによると暫定大統領は下院議長でオバマは対外的な名ばかり店長のような存在のようである。米国がくしゃみをすればとよく言われてきたが葬儀屋の係長が暫定総理をしているおころまで日米は相似的である。いずれにしても世界は資本主義を卒業しなければにっちもさっちもいかなくなったのは誰が支配者になろうと同じ事であり大混乱はあろうが面白い時代である。日本は長年偽ユダヤのルール変更と八百長に苦しめられてきたがガチンコ勝負であれば世界一でありそれは世界も一致して認めるところである。そして日本流が一番理にかなっているのでありこれからリーダーは元気な国がなるだろうが幻の大横綱である日本がその国の後見人になる事は間違いない。最近代官山を走るがかつての憧れの場所は夜間駐車料金最大400円で近所にはツタヤである。郊外に行けば20万円のベンツがずらっと並びこれが生涯で二番目に高い買い物だったクルマの姿である。新自由主義とかいう新封建主義を狙った偽ユダヤだが偽キムチコンビの小泉と竹中に若者の生涯賃金を削り取らせて安全建前に駐車監視員制度などというドライバーいじめをした結果当初は偽キムチ仲間の経営する時間貸し駐車場は満杯状態だったが高いし不便だしで魅力を失ったクルマは若者からそっぽを向かれ今や駐車場は値下げ戦争真っ盛りである。私なども深夜・早朝の一時間100円の時間帯しかクルマを出さないし快適そのものである。この現象は一番高い買い物の不動産にも必ず反映されて派遣やバイトの若者が買う気になる10分の1まで下がる筈である。人口減少も始まり供給は過剰なのでありもはや偽ユダヤと偽キムチと馬鹿官僚が高値で留め置こうと思っても無駄である。そうなると家賃もタダみたいになり若者も結婚する気にもなるし子供も沢山作る気になるから日本は安泰である。失われたなんとかという電通がでっち上げたフレーズは連中の悪足掻きの時間だったという事である。今や氷河期世代の若者は敗戦後の焼け野原世代や原始人よりたくましく何をしても生きていける超原始人であり値ごろ感が出るまでは何も買わないから連中の謳歌してきた資本主義詐欺は終わりである。お客様は神様ですを忘れてお客様は天敵ですと攻撃ばかり加えてきたのだから自業自得である。今考えるとニートという人種が登場した時に連中は新しい詐欺商法を編み出さなければいけなかったがそれを怠ったツケである。不必要に肥大化した経済が縮小していく過程で不自然に値段が吊り上げられたものは容赦なく適正価格まで引き下げられるのであり価格決定者は人類史上一番手強い客である氷河期世代である。資本主義詐欺のツールに過ぎない為替相場も株式相場も消滅的に縮小し不動産相場も崩れ去るのである。一生かけて家を一戸買うとかずっとギャグだったんだぜー二時間かけて通勤するとかみんなギャグだったんだぜーケンとメリーのスカイラインを買わないと彼女ができないとか嘘だったんだぜーという事である。天才バカボンのパパを笑えない生き方をしてきたという事である。 太字は面白かったので、私が勝手に太字にした。無論、無断転載である。怒られはしないでしょ。下は、上記ポスト米英氏へのコメントだが、常々私が思っていることも少しかかれている。 年よりの若者の仕事を奪う凄まじさは呆れるくらいだ。仕事は生きがいとは言っても、家にいたってやることは沢山ある。家というのは快適に過ごそうと思えば一日中家の内外を動きまわってもきりがないのが家事である。 それもしないで家事を高齢の女房に任せて自分は一日中外で働いている年よりは、やはりニートいじめ、高齢女房虐めと称されても仕方ない。 ところで、霞が関といわずどこの役所にもある程度の権限を行使出来る立場の課長以上の連中がいるが、この辺のすそ野が広く、それなりに天下り先に納まっているのが常である。さっさと退職して一応納得の行く退職金も出ているのだからボランティアなり市民運動なりカルチャーセンターの講師なり、やれることは沢山ある筈だ。 彼ら官僚ばかりではなくある程度権限を行使出来る地位にまで登りつめた役人がいつまでも賃金労働をしているので、それに倣って世間も老人がいつまでも働くようになる。そうするとそれを良いことに年金支給をどんどん伸ばして、その内80歳になっても年金が出ないような法律が作られ、益々若者の仕事を奪う悪循環。 年寄りは縁側でミカン食ってろとは言わないが、賃金労働はしないが良い。
2013.01.09
経済力にせよ、軍事力にせよ、力を持っている国々すべてが、一挙に崩壊するようなことでも起きれば、それはどうかは知らないが、今この時点で、世界連邦政府みたいなことを言う者はどうも怪しげである。仮にそういうことが出来たとしても、だから戦争は起きないという考えも、競争がないという考えもおかしげである。それは絵空ごとである。理想はあるべきだが、それはここ五年十年で実現可能な理想的な絵図ではない。リーマンショックの頃だったか、就職難だったのだろう、仕事のことをよく聞かれた。話をしていて私は、若い子達が、仕事イコールお金と言う考えを、全然意識もせず当然のように受け入れている現実に少し驚いた。よく話をしていた人の中では、私に似た考えの者は、寺山修司にぞっこん惚れていた二十歳の男の子だけだった。勿論、今、この世界に生きているかぎりは、たとえどんな人間でも、全くの無一文では生きていけないのだから、皆が皆、そう思ったとしてもやむを得ない面はある。しかし、実は、仕事イコール金ではないのではないか?そういう疑問も、絶えず心の片隅においておくことは必要ではないかと、人生に真剣に悩んでいたてつさんや、大学卒業後を思い煩っていた滋賀の娘や、安定を追うように躾けられたTなどには言ったことである。もし、給与というものがない社会だったら、自分はなにを仕事にするだろうか?もし今給料が貰えなくなったら、自分は今の仕事をどうするだろうか?金がなくては電気代だって払えないことは確かだが、金がもらえなければ、今の仕事に意義はないのか、生き甲斐はないのか。色々考えてみることは、人生の役に立つだろう。一番。なんでも一番が良いという考え方がある。私もどちらかといえば、若い頃はそういう考え方に賛成だった。どうせやるなら一番が良い。最先端技術開発者もそうだろうが、スポーツも、勉強も、一番を目指す。それに向かって努力する。頂点目指すのが当然のような風潮もある。努力し挑戦する、その姿は概ね美しい。人の胸を打つ。けれど、一番になって、それで幸せか?と問うてみる、それは大事なことだ。人は幸せになることを望む動物だから、一番になることが幸せなら一番になればいい。しかし、それが必ずしも幸せでないと思う者は、では、なにが幸せかを、時に自分自身に問いかけることも必要だ。大いなる覚醒などとは無縁でも、少しずつ、そしてある時どっと、潮流は変わるかもしれない。それが世界連邦への道だとは思わないが、太古へ至る道ではある、と思う。
2013.01.09
なぜ、そんなにも子供が欲しかったのかわからないが、上の姉の所の次女は、若い頃から出来る限りの治療を受け、去年ようやく子供を授かった。これが、不妊治療時だけでない、お腹にいた時の苦労というのも並大抵でなかったらしい。産む前から大きな異常があり、念には念を入れてとの勧めで、設備の整った大病院に入院したのだが、これが本当に良かった。産まれたと同時に母親は母親で苦しみ、赤子は心臓に欠陥が見つかり、命が危ないということで、すぐに違う病棟に移された。ようやく退院許可されても、ミルクはグラムを計り、多すぎても少なすぎてもいけない、時間はきっちり守らなくてはいけない、管理表のとおりにしなければ、いつ何時、障害児になっても責任はもてないとの医者からのきついお達しで、それでは産後すぐの娘は身も心も持つまいと、実家に帰っていた。元々なんの病かわからない病を持つ父親は、ちょうどその時救急車で運ばれて、人工透析を受ける体になったところで、去年の姉の苦労といったらなかった。まだ仕事もやっている。一応、経営者だから寝る暇もなかったようだ。このすったもんだの赤子。正月にあってみれば、全然泣かず笑ってばかりの、なんともいい面構えになっていて、姉の顔を見ると、特別な人を見るように笑うから、周りは皆ほっとしたことである。しかし、おかしいのだ。これが、よりにもよって、赤ちゃん返りの私と同じ誕生日なのである。私が死んでいたら、生まれ変わりと、皆が言ったことだろう。当然ながら顔は似てないが。半分以上人工なのに、そんな日に産むなよ。私は言った。私は、かの聖者が、墓地に埋葬された日に、こちらは飛び出した、それがいたく気に入っているのだから、その日に、余計な者に入り込まれたくないのだ。私の聖なる日なのだ。しかし、誕生日というのは面白いといつも思う。私は27日うまれだが、小学校の時、クラスには28日生まれと29日生まれと、30日生まれの級友がいた。皆、春休み中に誕生日が来るのだ。姉のところの結婚しそうにない甥っ子は、私の一日後である。姉はどうせなら私と同じ日になれと祈ったんだそうである。その姉は兄とは恋人同志のように仲良しで、今は離れてはいるが、兄の息子の結婚式にいった時、たまたま向うの家のお姉さんと親しく話をさせてもらうと、驚いたことにその人は、姉とまったく同じ年、同じ誕生日だった。兄(義姉)に対しても、家族に対しても、わが姉とまったく同じような役割だったようで、縁とはじつに不思議で、それこそ霊界のなんらかのお働きかいな~と思ったことである。こういうことは、あちらこちらであるらしい。最後にこれが極めつけ。私と父は同じ誕生日なのだ。
2013.01.08
ノラ猫というのは、一見なんでもないように見えても、なんらかの病に犯されているものが多いのだろう。我が家の親猫は、拾われた当時、ウイルスにやられまくって、目やにで目は開かず、口からはよだれ、ミルクは飲めずで、疲弊しまくっていたが、この間拾ったのは、目も綺麗だったし、よく食べるし、元気そうで安心していたのに、あまりに耳あたりをよくかくので、丁寧に触ってみるとどうも少しおかしい。ほどなく毛が抜けてきて、発疹しているのがわかった。どうやら疥癬というものらしいが、これはうつるんだとか。うちには猫が三匹いる。えらいこっちゃである。病院は六日からだったので、昨日ようやく行ってきた。我が家の猫用にも レボリューション6% というのか、それを貰ってきた。首から注入すると、一匹は気持ち良さそうに膝の上でのびまくって、もう一匹はうるさくあばれた。あれって痛いのかな?早く治りますように!
2013.01.07
財布を変えてみた。たまに上等の服を着るのに、いくら持ちやすいからとて、普段のものではいかにもお粗末だったからだ。財布をみれば、その人(の経済状態?)がわかるとはよく言われる。私の周りには占い師さんが何人もいて、みんな縁起かつぎみたいなことを言う。あんなものは迷信の類だと思うが、言われたことは否定しない。くるみを入れておくといいと言う人が、くるみが手に入った。入れておけばいいと思う。白蛇の皮がいいというから、せめてはと西都原の白蛇の写真を入れた。べつにいいと思う。私はいっこう、そういうことを信じたことはないが、害にならないことはやればいいと思うのだ。今度取り出した黄色い財布も、実は縁起をかついで買ったものだ。そこに阿波高天原を訪ねた時、掃除をなさっていた方がくださったラッパ銀杏も入れていた。しかし、秋芳洞帰りに買ったその財布は、ほとんど使わないカードを入れておくだけだった、昨日まで。(あ!今、思い出した。実はこの旅行の時、じんましんで死にそうになって、お土産買うのを次の日にしたのだが、その日は籤引き抽選日で、ニ等と三等があたったのよね~)ところで、本当に金の入る財布ってあるのか?偶然か?必然か?私は今日は頭が痛かった。なぜといって、姪孫が勢ぞろいしたら、一体いくらお年玉がいるんだろうか?と。一ヶ月か二ヶ月かの生活費が全部出ていっちゃうな~と。入る財布どころか、出ていく財布じゃーないかと。しかし、子供時代を振り返ってみれば、お年玉はやはり嬉しかった。今の子供達もきっとそうに違いないのだから、ここはやっぱり貧乏暮らしでもいい顔したいじゃないの。見栄といえば見栄でしかないが。なんとかなるさ。神様はまさか食うなとは仰るまい、とかなんとか。ところが・・・からっぽになれば入るのです。こんなことってあるのね~。世の中うまく出来てます。私達夫婦、バブル崩壊後、身内や他人やのつくった借金をせっせと返してきた。(上の姉はまだ他人のせいで背負った一億の借金の返済中。私はその助けを少ししているが)私の場合、なぜ、こんな目にあわなくちゃいけないのか?そういう事をまったく思わなかったといったら嘘になる。が、ほとんど気にしちゃいなかった。苦しくはあったけれども、夜逃げした二家族に恨みつらみはなかった。それどころか、主人は親友だったその人が、幸せでいるかどうか、今も気にかけている。私はそういう時の主人がとても好きである。逃げたから親友ではないという人なら、全然尊敬など出来ないが、置手紙を見て、相手を思って泣いている主人はとても好きである。そういう人だから、多分ずっと一緒にやってこられたのである。妹家族も、あれは、バブル崩壊とはあまり関係なく、昔から借金ばかりこしらえて、家族を苦しめていたけれど、あの夫婦を恨もうとは全然思わないのである。妹は私が一番好きで、私も、馬鹿な奴だけれど、妹がとても好きなのである。私が辛かったら、苦しかったら、何も言わずともすべて間違わずわかってくれるのは妹で、私のかわりに泣いてくれるような人間だからである。今日は兄が、珍しくも私のオンボロ車に乗せてくれと言った。本来なら長男のワシがもっとなんとかせなあかんかったが、おまえもしんどかったやろ。これ、とっとけ。そう言って大層なお年玉をくれた。兄と私は子供の頃からあまり話をすることはない。多分、どこかがひどく似ているからだ。その似ている所が嫌いだったからだ。しかし、姉妹に言わせると、兄は、いつも誰もほめないが、昔から「あんたのことだけはほめるよ。あいつだけは偉い」と、会うと、そう言っているんだそうだ。それから、兄と少し仕事の話をした。お前ならわかるやろ、というふうに、自分の今の仕事やこれからのことを話した。兄貴はやっぱり一番いい遺伝子を受け継いで生まれてきたのだと、あらためて思った。そのことが若い頃は少し不幸でもあった。若い頃は何をそんなにこだわっていたんだろうと、ようやく血統を捨てられた時、兄は本来的な自分を見出したのだ。兄の息子達は、彫りの深い茶色い目で、生まれつきの茶色い毛で、幼稚園の頃から花嫁に名乗りをあげる女の子が何人もいたほどの超イケメンである。うちの息子は日本人形で、兄の息子は西洋人形だと、子供の頃は言われたが、なんのなんの、相変わらず、ほれぼれするくらいの男前だった。その男前が、私達叔母全員にお年玉をくれた。良いことはしておくもんです。えっヘン。いや~、実はすべきことをしただけなんですが、ね。
2013.01.06
昨日の夕方の雲。うろこいっぱい、鰯雲のような。写真にするとよくわからないが、あまりああいう雲を見たことがなかったのでへんな気がして車を止めた。道路からでは暗くてシャッターが全然おりなかった。年があけて早起き遅寝以外はすることなく、そうなると書く気もあまり起こらず、昼間は本を読んで、飽きると他人様のブログばかり見ている。今日は俄然忙しくなるのだが。昔は家には何十人も集まったのだから、今年の二十五人なんかはどうってことないような気もするが・・・親族会議なんていうのはうっとおしいことこのうえない。うっとおしくないこと。そうだ、ウンジュの顔でも見よう!カイスト、虹鱒、アミジオンが観たい。
2013.01.06
今年の新年の挨拶は、暦の関係で六日だから、それまではのんびりだ。向うで、どこだろう、どこかで、随分高く凧を上げている人達がいる。子供の頃の正月が懐かしい。羽子板羽つき、凧揚げ、こま回し、カルタ、双六、なんでもやった。騒がしいのは好きではなかったが、カルタやトランプは得意だったから、大いに楽しんだ。そうそう、新年は書初めからで、早朝から墨をすらされた。あれは父方のしきたりでもあったのか。恐いから従ってはいたが、それもこれも今となっては懐かしい。それでも、子供達がまだ小さかった頃には、中腹のグラウンドまで行って凧揚げにも挑戦してみたし、こま回しも教えたりしたが、いかんせん、うちの子達は外で遊ばない子達で、大きくなればなるほど、今ではほとんど、室内で出来ることばかりに興じている。夫婦にはちと退屈な正月二日目である。昨日はチャンネルを回すと、徹子の部屋で裕次郎だった。あんな席で煙草を吸いながら話をするなんぞ、裕次郎くらいのもんだ。朝っぱらから飯がわりにビールを飲むのも裕次郎くらいである。それでカメラの前でちょうど話せるくらい、シャイだったのだ、多分。聞いてると、話の内容がまともである。しごくまともな神経の持ち主である。慎太郎より裕次郎のほうが人格者なんやで、慎太郎より裕次郎の方が政治家に向いてる、と、昔、兄が言っていたことがあったが、どうもそういう感じである。昔はおっちゃんに見えたが、なぜかひどく綺麗に見えた。健さんも出てきた。こういう人にインタビューするのはしんどそうだが、健さんはいつも健さんで、照れた笑顔もやはり健さんで、染まらず変わらずそこにいた。吉永小百合。この人は昔から綺麗だったが、今となればなおさらで、昔は感じなかった鮮やかな美しささえあった。九ちゃんも、森繁さんも、愉快な嵐寛も、勿論、ひばりも、皆、綺麗に見えた。若い頃は、そのうちの誰にも、全然興味はなかったし、そのうちの会ったことのある人達にも、別段綺麗だと思ったこともなく、むしろ、その反対のようでどうでも良かった。が、どうだろう?寅さんとさくらさんが出て来た時、私は主人に聞いた。「ねぇ、この人達って、こんなに綺麗だったっけ?」「ねぇ、昔からこんなに綺麗やった?」「渥美清は本当は真面目やからな」主人はそう言ったが。ううん、みんな綺麗。なんでそう見えるんやろ?私はしつこく聞いた。さて、チャンネルをかえて今風の番組。「あ!わかった!」近頃は、どの番組を見てもあまりに汚い顔ばかりで、すっかり忘れてしまっていた。テレビの画面といえども、それは内面をも映す。カメラのレンズも、肉眼以上に真実を写す。そういうことは、ある。
2013.01.02
今年は何年ぶりかで赤飯を炊いた。神棚ならぬ義父母も並ぶ聖者棚にそれを差し上げて、それからこちらはおせちを食べて、おとそを・・・それは飲酒運転になるのでやめて、しかし、正月というのは昔と違ってすることがない。そのくせ、皆が揃い、猫まで揃ってるとどうも少し欝っとおしい。映画狂の主人は昨日は『アンフェア』を見、今日は大統領暗殺みたいな洋画を見ている。やっぱり映画は洋画だな~とは思うが、騒がしい映画は好きじゃない。ほっとく。どうでもいいが、昨夜は親猫にからまれて、運悪く丸山明宏見られなかった。主人の言うことニャ、やっぱり三輪より丸山やな。そうに決まってやん。大体最近のあの系は間違ってる。それこそどうでもいいが。暖かい。元日は大抵晴れるもんだ。こんな日はやっぱり初詣ですわ~。ということで、生駒から信貴山まで、空いてそうなところばかり数箇所行って来た。宝山寺や往馬大社は当然避けた。がらがらのところは嬉しい。どこへ行くにも連れて行く親猫はもう知らない所ばかりだから、心臓がどっきん、どっきん。猫って恐がりだ。あの百八つの煩悩に頭をたたかれ、ハッと目が覚めかのようになるあそこにもようよう行ったのに、今日もまたカメラを忘れた。あそこは誰かがきっと写真を撮れないようにしているのだと思った。24号線はまた混むだろうし、巳を祀る社のおかげで、169はいつにもまして大渋滞になりそうだし、奈良の初詣は僻地にかぎる。そろそろと陽がおちてきた。
2013.01.01
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