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「窃盗団がカバンに入れるのを見ていた」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。1993年中国広州工場へ赴任するまでに合計4回香港へ行った。また工場に赴任してからも毎月2回香港へ商談を交えて出張した。当時広州から香港へ行く方法は広州駅右隣の香港行き直行便を利用した。列車で約3時間の道のりであるが香港へ入るには通関で長い間待たされた。広州飛行場(白雲機場)より香港(啓徳機場)へ飛行機を利用した事もある。30分のフライトだが道中時間が掛かるので費用が安い鉄道を利用していた。私が置き引きに遭ったのは1996年の4月29日午後2時頃の事である。地下鉄尖沙咀(チムサーチ)の1つ手前の佐敦(ジョーダン)で降り、ネイザンロードをチムサーチョイの方へ歩き香港支店へ向かっていた。商社へ向かおうとして電話確認した所担当者はホテルで商談中だった。アメリカよりのお客さんとホテルにて商談中で2時間掛かるとの事。予定を変更して金馬倫道(カメロンロード)の恒生銀行へ行った。米ドルをHKドルに両替して72000HKドル(130万日本円)を手にしていた。財布の12000HKドル(20万日本円)と合わせてカバンの中へ放り込んだ。どうやらこの時に窃盗団がカバンに入れるのを見ていたようだった。
2016.03.31
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「若夫婦は夢膨らませ将来を語った」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。広州のホテルのスイートルームで日本の商社と香港の商社で会談した。2000人規模の工場で商談担当だった26歳の奥さんが工場を起業を要望。奥さんの実兄が香港や深セン、広州で手広く商売をやっていた。実兄の出資で300人規模の工場を建設したい意向を伝えてくれた。この時点で私の中国語会話力はゼロに近く何を聞いても分からない。だが広東語のイントネーションが妙に懐かしく感じられた。話している内容は分からないが日本で広東映画を多く見ていた。語尾を伸ばす辺りがジャッキーチェンにも似て親近感を覚えた。この時点では香港から私の給与が出るという事で承諾はしなかった。 中国人は信用できないと承諾しないので日本から支払う事になった。中国広州行きの帰りに広州香港直行便で香港へ寄り街並みを歩いた。翌1993年プロジェクト案を持って再度中国広州へ行く事となった。広州での出迎えは半年前に夢膨らませ将来を語ってくれた若夫婦だった。
2016.03.30
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「ブルースリーは脳浮腫で32歳に逝った」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。香港へ始めて行ったのは1976年の事であるが旅行で行った。香港で作られたブルースリーの映画を見て衝動で行ってみた。ブルースリーは鎮痛剤が合わずに脳浮腫により32歳で世を去っている。ブルースリーが亡くなったのは1973年7月だが私が結婚した翌年香港へ。映画のロケシーンとは全く違いどちらかと言うと映画慕情を思い浮かべた。4日間の香港マカオの旅で只々疲れるのみであった記憶がよみがえる。仕事で香港を訪れたのは1993年中国人独資で中国広州へ工場を建設。当時工場を経営していた私に商社より打診があったのは1992年の事。半年間の間に三度工場へ訪れて中国へ行って頂けないかとの言葉。悩みに悩んだ末商社の駐在員として広州で中国人と出会う事になった。 会ってみるとその中国人ご夫妻は26歳と29歳と実に若い。私は既に41歳となっており何とか協力したいと話が弾んだ。工場建設の為1年後に中国へ来る事となったが私の工場は妻に任せた。
2016.03.29
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「中国侵略と植民地支配が終わった」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。イギリスとの共同声明の中で中国は香港の社会経済を尊重すると確約。香港は1997年7月1日返還され歴史的な時間を私は香港で味わった。共同声明の中では返還後50年間は資本主義制度を維持することだった。社会経済、政治法律制度など一国二制度を中英共同声明で合意した。中国の全国人民代表者会議で香港の憲法香港特別行政区基本法を採択。150年以上イギリスの長期にわたる中国侵略と植民地支配が終わった。香港は中国に返還され中華人民共和国香港特別行政区となった。現実的には中国より香港の政治方針は変更され不安を招く事になる。中国国内の資本主義経済は以前とは比べ物にならないほど発達し出した。中国は英国に対し共同声明の道義的責任や義務はないと破棄した。民主的選挙を求める香港のデモ隊に対し強制排除したのも記憶に新しい。私が盗難に遭ったのは1996年4月末で香港返還の1年3ヶ月前の事である。
2016.03.28
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「1949年に新疆1950年にチベットを占領」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。共和制国家の中華民国から共産主義国家の中華人民共和国が誕生。1949年蒋介石は中国の財宝を持ち台湾へ毛沢東は天安門で建国宣言。共産主義の中国は1949年に新疆を占領し1950年にチベットを占領。この時点で多くの資本家が共産主義を恐れて香港へ避難した。大躍進政策の失敗で失脚していた毛沢東が1966年より文化大革命を発動。官僚化した共産党打倒の呼びかけに紅衛兵が呼応し資本家の香港避難に拍車。イギリスは1997年新界の租借権が切れるが香港の植民地維持を目論んだ。中国トウ小平の強行姿勢に犠牲が大きいと香港を返還する事に決定した。 1984年9月イギリスと中国の香港返還交渉は中英共同宣言で結実した。1984年11月イギリスは1997年7月1日に香港へ返還する文書に調印した。
2016.03.27
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「国民党を破ったのは日本軍の功労かも」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。1941年香港島では激戦となったが給水を断たれイギリス軍は降伏した。イギリス軍はわずか18日間で日本軍に降伏し香港攻略は完了した。香港島内の戦いで日本軍の戦死者680名余りで戦傷者1400名余り出た。イギリス軍の戦死者は1500名余りで戦傷者2000名余り出した。イギリスの植民地の香港を日本軍が占領統治したが陛下の決断で日本敗戦。1945年8月日本のポツダム宣言受諾によりイギリス軍が香港に再上陸する。香港の日本統治期間はわずか3年8ヶ月間でイギリスへ返還された。香港の製造業のキャパシティは増加し銀行や保険などサービス産業が発展した。1949年には中国本土で共産党が国民党を打倒し中華人民共和国が樹立された。日本と中国との戦争はアメリカが後ろ盾の国民党との戦いだった。国民党は日本に勝利したとは言え大きな打撃を受け疲弊していた。高みの見物の毛沢東共産軍が国民党を破ったのは日本軍の功労かも、、。
2016.03.26
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「インフレと食糧不足で餓死者が出た」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。1842年の南京条約で清国からイギリスに割譲された香港島。1860年の北京条約で割譲された九龍半島以外の領域がイギリスへ。1898年には香港島でのイギリス人らの利益を守る為に租借を提案。1898年に99年間の期限で新界地区が租借されイギリスは租借権を得た。香港は99年後の1997年にイギリス領から中国へ返還された。第二次世界大戦前香港は貿易から製造業へ次第にシフトし始めていた。1920年代の中国内戦と1930年代の日本の侵略で中国の資本家たちが、イギリスの植民地の安全な境界へ逃れてから製造業が加速した。1941年12月香港は日本軍によって占領され弾圧支配と軍票を乱発した。日本敗戦により軍票は紙切れとなりインフレと食糧不足で餓死者が出た。日本の敗戦後日本政府はいまだなんの補償もしていない。朝鮮戦争の間アメリカは中国の物資を禁輸措置にしてしまった。中国貿易の拠点である香港は干上がりそうになった。
2016.03.25
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「日本軍より理不尽な事をやっていた」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。1839年清朝道光帝の命を受けた林則徐はアヘン2万箱以上を没収し廃棄。広東省に赴きイギリス商人の商いするアヘンの輸入を全面禁止した。イギリスは1840年報復として軍艦10数隻を派遣し中国沿岸を攻撃した。アヘン戦争でイギリス軍は広東省の港を封鎖し清朝を脅迫した。イギリスは中国の香港島を永久に譲渡するよう圧力をかけた。清朝はイギリスに停戦を申し入れたが最終的に両者の合意は破れる。1841年にイギリスは厦門(アモイ)浙江省寧波ニンポーを占領した。1842年清朝はイギリスと南京条約を結び香港島の永久割譲を要求される。広東や上海などの開港を迫られ戦争賠償金の支払いなどを強いられた。1859年イギリスとフランスの連合軍が中国を侵略し翌年北京に進撃した。中国に北京条約を結ばせイギリスは九龍半島南部を永久譲渡させた。100年近い前に日本軍より理不尽な事を中国国内でやっていた。
2016.03.24
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「腐敗中国官僚を利用しアヘン貿易」「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。今回からも過去の出来事を書き綴って行きたいとタイプし出した。過去の出来事でも心に残る貴重な思い出であり未来より書き易い。香港で遭遇した盗難であるが時折ブログの端々に語って来たものである。だが断片的に書いたものであり詳細については多くを語ってはいない。妻やホープの現状を語るのが良いとは思うが我慢して読んで頂きたいと思う。香港へは多くの人が訪れており香港の歴史を書いても知っていると思う。ここで再度香港について自分自身でも整理しておきたいと思う。ヨーロッパと中国の貿易は16世紀頃から行われお茶と絹の需要が高まっていた。銀での支払いを求められた中国は完全な輸入超過の貿易不均衡が続いた。次第に耐え難くなって1773年イギリスはアヘン70トンを中国に下ろした。インドのベンガル産の阿片吸引者は中国で瞬く間に増えていった。アヘン中毒者の増加に警戒して清朝皇帝はアヘン貿易を禁止した。だがイギリスは腐敗した中国官僚を利用しアヘン貿易を継続した。
2016.03.23
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「一歩ずつ踏みしめて歩いて行こう」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。中国でのペニシリンの点滴によるアナフィラキシーショックの物語は、2016年2月27日から書き出し3月22日で終止符を打って次の物語へ移ります。途中過去を書くより奥さんとホープの為に生きなさいとか怖い話はもういいと、コメントを頂いた時は的を得ているだけに止めようか迷ったが続けた。過去を振り返る事で大袈裟かも知れないが人には定めと言うものが有ると知る。ペニシリンのアナフィラキシーショックに掛かったら死亡する確率が高くなる。臨死状態を電気ショックで息を吹き返して生き返ってきたのである。今こうしてこの世に生き色んな人と交流し物の価値観も変わってしまった。またいろんな人との出会いに新鮮さを感じるようになっていった。はじめは生きる事に辛ささえ感じたがどうにか望みを持てれるようになった。人生が楽しくて仕方がないと言っていたが人生って不思議なものである。4年半前私が一時帰国した日に妻が脳出血で倒れ瞬時に私の人生も変わった。違う意味で忙しい日々ではあるが着実に一歩ずつ踏みしめて歩いて行こうと思う。
2016.03.22
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「5月/6月に並ぶ商品は注意して買うべき」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。中国の作業員は春節に帰省すると友人達から良い待遇の話を聞き勝手に辞める。工場は納期期限があるので頭数のみ合わせようと適当に採用している。品質など分からない作業員がなだれ込んでくると収拾がつかなくなってしまう。日本で4万ほどで売られる商品を2千円の商品しか縫った事のない者に縫わせる。品質が落ちる事は分かっているが背に腹は代えられないのだろう。中国では健康保険の制度も一部しかなく作業員は少しでも高賃金な方へと移る。工場の1ラインには20名ほどの作業員がいるがライン毎ごっそり代わってしまう。中国国内で販売される商品の工場へ高賃金だからと移っても給料をもらえない。ボロボロになって泣きながら元の工場へ戻って来た作業員も少なくない。工場経営者は納期重視で出荷して日本の市場に流れるので閉口する。MADE IN PRCやMADE IN ROKで5月/6月に並ぶ商品は注意して買うべき。中間検査や最終検査員も平気で高賃金の噂に心動き検査もいい加減で出荷される。出来栄えは目を覆いたくなるほどの製品がどんどん出来上がって来て頭が痛い。
2016.03.21
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「理解させるには好都合だった」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。中国へ入ってからは予定を立てずに抜き打ちで北京や広州の工場へ入った。工場で車を手配して頂くと素早く工場へ着くがそれでは整理整頓されてしまう。私が入院している間に教え込んだ事が守られているかを確認する為にも必要。北京から広州まで1000キロを3時間掛けて飛びバスで向かいタクシーで行った。中国国内の一人旅が役に立ったが工場に着く頃は夕方でありアパートへ。ホテルより経費は安上がりの為北京や上海、広州にアパートを借りていた。治安面で問題と地元の公安警察から高級アパートへ移るよう指導されていた。アパートから工場までは車で20分ほどなので運転手に迎えに来て頂いた。2000人規模の大きな工場に着くと大勢が立って掃除をしているのが見える。工場の経営者が怪訝そうな表情で迎えるが応接間には行かず工場ラインに行く。経営者は長旅でお疲れでしょうと言うが直ぐに会議と管理者を集めた。中国へ着くまで長い入院生活で中国語を忘れていないか心配だった。会議を始めて見ると今までの調子が戻って来たが咳は出ていて吸引した。休まれた方がと言うが咳が出て苦しい方が理解させるには好都合だった。
2016.03.20
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「出来るだけ早めに現地へ飛んだ」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。退院する前日普段言葉少ない医師は人が変わったように私と話しをした。仕事の話や趣味の話等、そしてやはり商社って大変ですねと言ったのち、自分のマンションの住所と電話番号を書いたメモを置いていった。私は退院してから一度も電話をしていないが本当にお世話になった医師だった。喘息持ちではない私に処方が見つからなかったその医師が思いついたのである。思いついたと言えば失礼だが14年前の日本でペニシリンのショックは少なく、アナフィラキシーショックにより身体に異変が起こった例は少ないようだった。病院へは退院当日妻が車で迎えに来たが3時間の道のり言葉数は少なかった。社長が中国までの航空チケットを持って現れオープンチケットにしてあるからと、言ってから取って付けたように出来るだけ早く現地へ飛んでくれると助かると。病院を退院してから休暇を取ったものの自宅では運動不足で余計に身体が弱った。家には3日間居て中国へ行くよと妻に言うとそんな体で大丈夫ですかと言う。ペニシリンのアナフィラキシーショックから実に2ヶ月半後の復帰だった。
2016.03.19
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「細菌に感染してしまうのを防ぐ」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。昼間の咳が治まり掛けても薬の投与は続けられロキソニン60mgが処方された。医師は1錠服用後30分様子をみて足りない場合にまた1錠服用と注意された。効いている時間が6時間なので6時間は間隔を空け飲むようにと釘を刺された。フロモックス100mgも服用していたが抗生剤で扁桃腺などに効果がある。免疫力が低下している時に細菌に感染してしまうのを防ぐのにも使われた。重症の喘息患者に使用する吸入専用のフルタイド200マイクロも処方された。フルタイド200マイクロは肝臓で分解し易く副作用は心配ないと念を押された。私が薬の恐怖に陥っていると感じた医師は気を遣っている事が良く分かった。マイクロについて討論し合ったが大分よくなったのですね~と医師もうれしそう。だが夜中に襲う咳き込みにフルタイドディスクへラーを吸うのであった。大学病院に入院していると30分毎に救急車の甲高い音がし昨日まで元気で、笑っていた人が翌朝にはベットが綺麗に片付けられた光景を目にした。初めは咳が酷いので敬遠していた人が慣れてくると私の病室に出入りした。看護師や医師に見つかり注意されても中国の話が聞きたくてやってきていた。大学病院へ入院してより1ヶ月半過ぎた頃に医師より退院の許可が下りた。
2016.03.18
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「妻よりの懇願の言葉を耳にする度に」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。検査の結果内臓の機能は問題なかったが心臓の不整脈が見つかった。2日間薬なしの状態き3日目から薬が出たが症状は良くはならなかった。抗ヒスタミン薬や抗アレルギー薬も大きな効果は無かった。私が細かく薬の作用を聞くので医師は困った表情をしていた。どの薬も効かないので酷い喘息者が使用する粉末状の薬をされた。咳が酷くなったら粉末状の粉容器を口にくわえて強く息を吸い込んだ。粉末状の細かい粉なので咳き込むかと思ったが症状は良くなってきた。中国での旧正月の休暇も大分前に終わり仕事が始まっていた。病院へ2人の営業が生産が始まっている工場の事で私と打ち合わせに来ていた。妻は150キロの道程を来ていたがバツの悪い事に営業と打合わせの時ばかり。仕事最前線の姿を見たのか妻の心は次第に変化し仕事を辞めて欲しいほしいと。妻は病院へ来ては私と口論になり帰って行ったが暫く来なくなった。妻よりの懇願の言葉を耳にする度に一体どうすれば良いのかとも思った。昼間の咳は止まったが体力は落ち歩く時も自分の身体ではないような感じだった。
2016.03.17
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「私が危ないと数珠を用意していた」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。日本では検査の結果が出ない事には医師は咳を止める薬は出してくれない。看護師は「これを渡すように先生から言われた」とトローチを置いていった。「な~んだ!トローチか」と思い一粒舐めると喉の痛みが和らい感じがした。だが咳は相変わらずで止まらないばかりか酷くなっていった。社長は日課のように病室へ通ってくれ専務は一度見舞いに来てくれただけだ。冗談が好きな専務は「中国であんたが危ないと数珠を用意してた」と言う。「使わずに済んで良かった」と冗談を言い笑うと咳が余計に酷くなった。妻や娘も150キロ離れた病院へ駆けつけ「何やってんのよ~」とにらまれた。長女は「お母さん!車の中で言ってた事と違うこと言ってる!もう!」と。1週間を個人病院で過したが咳が止まらず総合病院に替わることになった。何が何だか分からないまま社長の指示で転院したがまた検査攻めにあった。そして今までの薬はすべて没収され新しく処方されるまで投薬無しだった。
2016.03.16
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「空港でも荷物を持つ体力がなかった」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。専務は私を日本へ連れ戻すまで残ると執拗に語るが返って気を遣った。私の咳はそれから昼夜を問わず続き日本へ帰ってからも1ヶ月半続いた。専務は急用が出来たと急きょ帰国し翌日社長が直々に中国へ来てくれた。わざわざ来る必要もないと思ったがマッサージが目的で来たようだった。私がペニシリンのアレルギーで死ぬ思いをした事は担当する工場へ広まった。北京や広東省の各工場の董事長や総経理から私の携帯電話へ連絡が入った。電話の内容は自分が見聞きしたペニシリンのショックで亡くなった事を語った。咳も出るので最後には電話の応対に疲れ携帯の電源を切ってしまった。上海付近の病院でも咳を止める薬が見つからずに苦しい日々を過していた。中国春節(旧正月)まで何とか我慢して仕事だけは片付けコンテナを出荷した。春節を利用して社長と共に帰国したが空港でも荷物を持つ体力もなかった。ご年配の社長が私の重たい荷物をふら付きながらも運んで下さった。日本へ着いたが我が家にも戻らず社長の友人の個人病院へ入院した。血液採取など丸一日検査が続いたがとにかく咳を止めて欲しいと思った。
2016.03.15
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「昼夜を問わず咳き込む地獄」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。ショックの後遺症で昼夜構わず続いたシャックリは2日後に止まった。横隔膜の痙攣によるシャックリで次第に筋肉の痛みが出だした。シャックリが止まると快い気分の中に胸を叩かれた痛みだけが残った。誘発されたシャックリではあるがショック後1日経ち起こり2日間続いた。眠れない状態が続き辛いという度合いを越えていたが自然に治まっていた。次に私を襲ったのは全身に出来た蕁麻疹で口の中や舌にも蕁麻疹が出来た。蕁麻疹は食道や気管支にまで出来ており内臓にも出来ているとの事だった。蕁麻疹だけならまだ良いが気管支に出来た蕁麻疹の為咳が止まらなくなった。風邪で気管支を患い咳が止まらず喘息症状が続き専門医に診てもらった。薬を2回替えたが症状は良くはならず医師も首を傾げていた。私の咳は風邪から来ているのではなく医師の着目点がズレていた。喉から胸から脇腹全てに蕁麻疹が出て咳は止まらず苦しんでいた。シャックリの時も辛かったが喘息も昼夜を問わず咳き込むと地獄だった。身を案じて日本から専務が駆けつけて来たがどうすることも出来ずにいた。
2016.03.14
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「誰も私を笑う者はいなくなった」「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。生理的現象のシャックリは我慢しても止められず突然にやって来た。私の場合自然に起こるシャックリでなくショックによる横隔膜痙攣で起こった。式典式次第の来賓挨拶の中に専務の代理で私が挨拶をする事になっていた。中国語で話す挨拶にも力が入らずそして突然襲ってくるシャックリである。訳を知らない来賓からは笑いが起こりシャックリを期待する雰囲気に変わった。私の持ち時間5分間のスピーチで地域からの人材支援や品質向上を語った。だがシャックリが起因して笑いの渦になり品質向上の話どころではない。急遽内容を切り替えアナフィラキシーショックに掛った事を話し出した。今までシャックリを聞き大笑いをしていたが誰も私を笑う者はいなくなった。来賓の皆さんの挨拶も終了し宴会に入り多くの人が私の席へ来て下さった。命を落とさずに良かったですねとお見舞いを添えて下さった。ご自分の席に着かれてからも心配そうに私の方を見ておられた。
2016.03.13
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「横隔膜の痙攣によるシャックリ」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。私の場合は点滴を打つ前日に荷を引き取る通関のトラブルで相当疲れていた。中国税関からコンテナの荷に問題あると連絡があり現金を持って交渉する。北京出張の疲れが一気に現れ女医は私の身体を早く良くしようとした。医務室の女医の行為が逆にあだとなってしまった。だが今こうしてタイプできるのも生きてればこそと感じる。女医は責任を感じたのか逮捕を恐れてか失踪してしまった。私は誰をも恨んでいないが風の便りで広東省にいると聞いた事がある。ショックの翌日担当している工場に200人を招いての式典セレモニーが行われた。私は一番前の席に着いたが後遺症によると思われるシャックリが止まらずにいた。静まり返ったセレモニーの会場では軽く咳払いをしても大きく響くほどであった。この時全身に蕁麻疹が出ている事は知らず横隔膜の痙攣によるシャックリだけ。ペニシリンショックの事を知らない来賓の人も多かった。私がシャックリをする度に来賓の視線が私に注がれた。
2016.03.12
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「何かの力で生かされている」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。3月11日午後2時46分に東日本大震災5年を迎え黙とうを捧げ、犠牲となられた方々に衷心より哀悼の意を表します。30年ほど前の中国ではペニシリンによるショック死事故が多発していた。中国の30年前は日本の60年前の生活で日本でも医療事故が起こっていた。日本では抗生剤を打つ前パッチテストしてから打つように徹底された。私の場合初日バッチテストをしたが二日目にはテストを行わなかった。一日目もアレルギー反応が起こっていたが気が付かなかったと専門医は言う。また多量に投与した為限界を超えアレルギーショック症状が現れた。ショック症状血圧脈拍、体温呼吸、意識レベルのバイタルサインを測定する。私の場合激しいショック症状に陥り2人の医者ですら満足に出来なかった。医師の言った「心臓が強い」から助かっただけで終わらせて良いのだろうか。現在の中国でもペニシリンのアレルギーにより助からずに死に至る人もいる。いつかは体は朽ち果てるが何かの力で生かされていると痛切に感じていた。私の場合は運が良かったがそれからの後遺症はしゃっくりから始まった。
2016.03.11
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「人の体は3年で細胞が入れ替わる」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。アナフィラキシーショックの後から来る後遺症を綴って行きます。江蘇省常州市の第一人民医院へ行き状況を順を追って説明した。第一人民医院は私の中国友人の父が院長をしている為便宜を図って頂いた。医師は完全にペニシリン大量投与によるショック状態に陥ったと断言する。症状が重いとペニシリンをブドウ糖液の中に多く投与する事を決定。女医は私に早く治って欲しいとの思いから量を増やしたと思うと医師に伝えた。日本人は貴方のように人を疑わない人が多いのかと聞くので人によると伝えた。日本にいる時は陽性だったが50年も前の事なので体質が変わってしまっていた。今回は第一日目にパッチテストをしてからペニシリン点滴を投与した。人の体は3年で細胞が入れ替わり粗悪な抗生剤は拒否反応をしてしまうとの事。アレルギーのバッチテストは昨日問題無くても翌日も問題無いとは断言できない。テストを行わずに投与した場合患者の疲労状態が悪ければショック死する。
2016.03.10
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「セルフリンパマッサージ講習会」 「ワンダーフォトライフ」では、下書きに保存してあった写真を公開しています。昨日妻のヘアーカットに行きベッドの位置を斜めにし高さ調整をした。妻の頭が出来るだけ私のカットし易いようにし始めハサミでカットを始めた。病院内にハサミを持ち込むのは厳密には駄目だが私は許されている。妻の髪の毛を指で摘んでカットするが髪の毛が切れる音が何とも心地よい響き。髪の毛の伸びが早いような感じもするが髪の毛と爪切りは生きている証である。看護師がマスクを持って入って来てこのマスクを付けてカットして下さいと言う。療養病棟の中で奥さんのヘアーカットしているのは貴方だけですよと言う。私はカット代を節約するためですよと言うとその意味ではなく奥さん幸せと笑う。何度もカットしているので手際よくヘアーカット出来顔も拭くとスッキリした。今日はセルフリンパマッサージ講習会の日で男は私一人なので一番前に行った。殆ど私が日常しているマッサージによく似ていたので理論もよく理解できた。体温35度台の人はガンの発症率が高くなりリンパマッサージで体温を上げる。リンパの流れは家回りならば側溝と同じで流れが悪いと色々な症状が出る。頭部の百会から米神、耳周り襟足首脇の下や鼠径部股関節から膝裏、足の裏まで。体の老廃物を水分補給で外へ排出して健康に留意し旬の野菜を食べる事が大切。
2016.03.09
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「アナフィラキシーショック完」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。スタッフは「日本から連絡を受けて何もかも放り出して飛んで来た」と言う。既に危機を脱した後だったので私を見るなりきょとんとしていた。直ぐに駆けつけて来て何も無かったような私を見てそう思ったのだろう。昼最後の私の電話に異常を感じた日本スタッフが中国スタッフへ電話。中国人スタッフは工場へ仔細を聞くが分からないと日本へ報告していた。強烈な震えも何も無かったかのように平静を保ち風邪も治ったかのようだ。死線を彷徨った割りに世間で言われている三途の川や綺麗な花は見なかった。死に損ねた私と事件で呆気なくこの世を去った青年に生きる意味は何かと思う。ペニシリンによるアレルギーショックをアナフィラキシ-ショックと呼ぶ。抗生剤が合わずアレルギーを起こす典型だが今の日本では起こっていない。明日からはアレルギーの後遺症を綴る予定。
2016.03.08
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「アナフィラキシーショック10」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。皆は最悪の事まで思い特に女医は私は逮捕されると皆に話していたという。2度目の電気ショックの後心電図が大きく音を刻み出した。「生き帰った」という声が聞こえたと同時に胃の内容物を全て吐き出した。駆け付けた工場の女性管理者たちも女医も声を上げて泣きじゃくっている。 あれほど震えていたのが嘘のように身体の震えも止まっていた。身体は何とも無かったかのように平常を保ち快い心地さえ感じた。午後1時半担ぎ込まれてから1時間30分の信じられない出来事だった。人民病院の中国人医師は「貴方は心臓が強い」と言葉を残して行った。その頃日本では何度も事務所へ連絡を入れたり大騒ぎしていた。事務所からは中国人スタッフが3時間掛けてタクシーで走ってきた。
2016.03.07
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「アナフィラキシーショック9」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。二人掛りで心電装置を手首に巻きつけたが震えが激しい為に機械がエラー。私の呼吸と胸の苦しみは極限に達し800M競争を全力で走り抜けたようだった。激しい呼吸が続き苦しく何度も反り返り皆の声が次第に薄れていった。痛みは感じず胸を一生懸命叩いている医師の顔がぼんやり霞んで見えた。周りの大きな叫び声も段々と遠くに聞こえ気を失った後は何も覚えてない。意識を無くしていた間の事は何も覚えてないが証言を基に書き綴ろう。心電装置を手首や足へ電極でつまみ心電計を作動させたが反応がなかった。医師は私の瞼を開けてライトで瞳を照らし瞳孔の変化を確認していた。医師たちは大慌てで私の胸を何度も叩いたり押えたりしていたと話す。治療室の中の電気ショック装置を胸に当てると私の上半身が跳ねたと言う。
2016.03.06
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「アナフィラキシーショック8」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。息が正常に出来なく苦しい状態で事務の男2人で車に乗せ人民医院へ。点滴を打った女医が血相を変え飛んで来て「緊張しないよう」と叫ぶ。「深呼吸をして!」とも叫ぶがショック症状なので何も出来なかった。この時に女医も事の重大さが分かったようで泣き出しそうな表情である。車でも「苦しい!寒い!息が!」の途切れた言葉しか出なかった。身体の制御は奪われたが皆の慌てる姿や女医の表情まで確認できた。病院に着くと連絡をしたのか2人の医師と3人の看護婦が待機していた。治療室に運ばれベットの上に寝ても手だけは大きく左右に振れていた。心電図装置を手首に巻こうとするが手の振れが激しく何度も失敗した。男性医師に代わっても心電装置を巻く事ができず失敗に終わってしまった。
2016.03.05
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「アナフィラキシーショック7」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。受話器は震えのため受け取れないので事務員がオンフックに切り替えた。商社のアシスタントが電話に出ているが私は痙攣の為に言葉にならない。相手の声ははっきり聞こえるものの私は話そうとするが言葉にならない。FAXを書きそれを見て下さいと言おうとするが「FA!FA!FA!」だけだ。電話の向こうでは「どちら様ですか?もしもし?」「FA!FA!、、」「もしもし、どちら様でしょうか?」「もう!もう!もう!、、」「いたずら電話はやめて下さい!」と言うが悪戯ではなかった。「胸!胸!むね!」と日本語になってなく「変な電話はやめて下さい」と。私が話そうとしても電話の音声は虚しくツー、ツー、ツー、ツーと途切れた。アシスタントは電話を切ったあと私の声と気付き変だと上司に報告していた。もうダメか?そんな折私は知らなかったが中国人より日本へ連絡を入れていた。「私が大変な事に」と工場より上海中国人経由で会社へ連絡が行っていた。
2016.03.04
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「アナフィラキシーショック6」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。ペンを震える手で持っても10cm幅の震えの為に左右に線を描き文字が書けない。日本へ電話をと携帯電話を取ろうとするが震えの為携帯電話を落としてしまう。中国人が拾って私に手渡たそうとするが手の震え幅が大きくなり受け取れない。事務員は甲高い笑い声を上げるが事の異常さに気付き慌てて女医に電話をする。A4用紙に今の情況を書こうと思うが手の震えは更に大きく20cmをジグザグに。事務室の固定電話より電話しようと思うが手の震えにより受話器が取れない。中国人に頼むが「冗談ばっかりやってるんだから」と笑っているだけである。事の異様さを感じ取ったのか別の中国人女性が日本へ電話してくれた。日本人が出たと言うが猛烈な胸の苦しみと両手の震えと目が回り立ってられない。中国人は「ただ事ではない」とこの時点で悟った様であり女医も走って来た。
2016.03.03
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「アナフィラキシーショック5」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。安徽省から来た殺害された青年の父親は訛りのある共通語でお礼を言う。私は座るように促したがすぐに失礼するからと立ったままであった。母親は溢れ出る涙が時折床に落ちたが日本人と話したのは初めてとも言う。男は彼一人でこれからどう生きて行けば良いか訴えるが私には何もできない。私と同じ年恰好なので彼等の気持ちを理解できる事が出来たのかも知れない。血の着いた手で殺人現場にいた為警察で事情聴取を受けその夜悪寒がした。酒場で事件に遭遇し血糊の着いた服を脱ぎ捨て風邪で高熱を出してしまった。一日目の点滴でも治らないので皆の勧めどおり再度同じ医務室に出向いた。昨日は5本のペニシリンを入れたが今日8本入れると言うので嫌な予感を感じた。点滴を打ち終わり事務所に行きペンを持とうとするが震えでペンが持てない。
2016.03.02
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「アナフィラキシーショック4」 「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こったペニシリンによるアナフィラキシーショックを公開しています。私が点滴を受けた所は市の病院ではなく2000人規模の工場の医務室だった。今まで体験した事のない小刻みな震えを感じたが一晩様子見る事になった。女医はペニシリン粉を5本を使ったが体の違和感を感じながらも医務室を出た。工場の管理者と会議をする約束があったので大会議室に董事長と向かった。大会議室へ着く頃には22名ほどの管理者が既に揃って待っていてくれた。議題が多くあったが気分が優れず会議は中止した方が良いと気遣ってくれた。会議が終わり再度体温を測ったが8度8分の熱でホテルの部屋まで直行した。中国の友人と共に食事を摂りビールはやめ紹興酒を熱くして頂き飲んだ。友人の携帯が鳴り警察からで昨夜殺された青年の両親が安徽省から来ていた。安徽省の田舎から出てきたのかヨレヨレの分厚いコートを着用していた。
2016.03.01
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