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「無錫旅情49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖の島の中で最も有名な島へ行く為太湖遊覧波止場へ行った。前回来た時は真冬の中で波止場の船着場も足場が悪く凍りつき滑って転ぶ人もあった。また前回は事務所の二人の女性と来た事も思い出されたが、結婚してしまい今回は私一人で手探りの中国人現地ツアーだった。そんな前回訪れたときの事柄を思い出しながら波止場に泊められた船の中に乗り込んだ。私の目的地は太湖仙島であるが太湖の中では人気のスポットであり再度訪れようと思った。「中国の旅」
2012.01.31
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「無錫旅情48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖波止場から太湖仙島へ向け船が出発する20分ほどの時間で撮影した。湖のほとりでは水の流れが緩やかで濁った水にプランクトンが繁殖し入り江付近の水面は緑色に染まっていた。元頭島はスッポンの頭のような地形で中国語の漢字で「元の下に亀」と書かれている。島自体をすべて見ようと思えば1日でも見ることは出来ないが、波止場付近ならそれほどの時間も掛からず探索する事ができた。「中国の旅」
2012.01.30
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「無錫旅情47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。この湖の水は、いつもこんなに濁っているの?とのコメントがあったが、全くその通りで中国の工業地帯や中国の人々の意識の薄さから汚れて緑色になってしまっている。太湖の元頭渚公園には中山大三郎作詞作曲の「無錫旅情」の碑があるが26年前当時はきっと太湖の畔の水も綺麗だっただろう。太湖に突き出した半島一帯が公園であり青々と水をたたえた太湖に浮かぶ島々と向こう広がる山々を楽しむことができる。日本人観光客も多いと聞いたが、私は中国人達と一緒のツアーバスで行ったのでオフでもあり日本人に会う事はなかった。「中国の旅」
2012.01.29
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「無錫旅情46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。元頭渚公園の特色は湖の美しさにある。さらには庭園の細かな造りや岸辺に並ぶ太湖石という名の奇石のほか長春橋また飛雲閣、光福寺などの見所がある。入園料は105元で開放時間は8時~17時まで船で元頭渚まで行くのに40分ほど掛かかり18時20分には閉園になってしまうのでのんびりと探索していると船も無くなってしまう。春には花見大会があり中秋節には花火大会がある。「中国の旅」
2012.01.28
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「無錫旅情45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。 無錫の名前の由来は、その昔運河が回りに巡らされている水の都で、この地方では錫石(赤銅)が大量に採れた。だが、漢の時代に採り尽くされ錫が無くなりこの太湖のほとりを無錫と呼ぶようになった。太湖は無錫の桃原郷として知られていたが1916年頃より庭園として整備され始めた。今は無錫の中でも広大な敷地を有し無錫一の景勝地となっている。無錫を訪れたなら太湖を観光するように太湖を観光するなら元頭渚公園を観光しよう。「中国の旅」
2012.01.27
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「無錫旅情44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。最初に太湖の元頭渚公園に来たのは女性スタッフから一泊で旅行がしたいと打診があり、何処が良いかな~とつぶやくともう行き先もホテルも決めてありチケットも取ったからねとニッコリ笑うだけだった。だが、ホテル名を見ると太湖の五つ星ホテルで結構な宿泊料である。その時点で太湖へは行った事がないので行く事にした。女性スタッフは2人なので女性と私で2部屋確保したが、今回は私一人の旅であった。「中国の旅」
2012.01.26
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「無錫旅情43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。江蘇省無錫市は上海より130キロの所にあり上海から高速に乗って3時間程度で着く。蘇州からならば車で40分ほどで着いてしまう。無錫の南側に太湖という中国で4番目に大きい淡水湖があり琵琶湖の約3倍ほどの面積である。無錫の映画村から太湖の元頭渚公園まで行った。元頭渚公園は二度目の訪問だが、前回は真冬で元頭渚は雪化粧の中で神秘的な様相だった。元頭渚の元は楽天では使えない中国文字で意味はスッポンという事で、島自体がスッポンの頭に似ているところから「元に亀」と書く漢字を使う。「中国の旅」
2012.01.25
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「無錫旅情42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。曹操が220年に病死した後、曹丕は献帝より禅譲を受けて皇帝となり、魏を建国した。劉備は221年に皇帝に即位し蜀の国を建てた。 だが劉備は関羽と荊州を失った怒りは収まらず反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。呉の陸遜の策にはまり、大敗ののち劉備は退却し白帝城で病死しが劉禅と諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を引き受ける事になる。諸葛孔明は魏に対する北伐作戦を最終目標とし南征を行い蜀漢に反逆した高定の反乱を鎮圧した。2年後に諸葛孔明は出師の表を奉り北伐を決行した。戦いは7年・5度に及び、孔明は魏の武将らと戦い討ち取ったものの234年の最後の北伐の最中陣中で諸葛孔明は病に倒れ没した。三国統一は魏・呉・蜀でもなく西晋の司馬炎だった。「中国の旅」
2012.01.24
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「無錫旅情41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。三国志演義の物語は、劉備が母のために貴重なお茶を求めて船を待っている所から始まる。劉備はお茶を手に入れたが黄巾の乱に巻き込まれ張飛が賊から劉備を助け運命の出会いを果たす。黄巾の乱とは農民が頭に黄色の布を巻いて反乱を起こした為に黄巾の乱と名前が付いた。劉備は義勇軍を結成し反乱軍と戦うが桃園で身を隠していた時に劉備と張飛と関羽が運命の出会いを果たし意気投合した三人は国を統一するために義兄弟の契りを交わす。その後、諸葛孔明の知恵が劉備を助けるが関羽が半ば処刑された事を聞いた劉備は激怒し盟を破って呉に攻め入るが大敗する。「中国の旅」
2012.01.23
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「無錫旅情40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。2度目に諸葛孔明を訪ねて行ったが孔明は留守で自分の思いを書い手紙を弟に預けて帰った。孔明より知らせが入り三度孔明を訪ねるが孔明は昼寝中で起きて来るのをひたすら待った。張飛と関羽を連れて孔明の元を訪ねていたが血の気の多い張飛は三度も訪ねて来ているのに何と無礼な孔明と劉備に帰るように促した。だが劉備は起こそうとせずに只待っていた。ようやく孔明が起きて来て劉備と対面した。劉備は天下万民のために立ち上がって下さいと頼んだ所、孔明は天下三分の計を劉備に話す。劉備は孔明に私の力になってほしいと頼むが諸葛亮は1回は断るが劉備の国を思う姿と三顧の礼に協力することを決めた。このとき孔明は二十七歳であった。「中国の旅」
2012.01.22
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「無錫旅情39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。巨大な勢力の魏の曹操を討つのは不可能。また三代に渡り発展してきた呉を奪うこともまた可能ではない。荊州と益州の蜀に力を注ぎ国を三つに分け、その後曹操の野心を砕く。これが諸葛孔明の天下三分の計だった。207年当時、劉備に徐庶は孔明を訪ねろと託す。劉備は 隆中にいる諸葛孔明を訪ねたが孔明は出掛けていて草廬にはいなかった。その後、諸葛孔明より知らせを受けた劉備は吹雪が吹き荒れる日、孔明を訪ねるが孔明は草廬にいず弟の均がいるだけだった。 「中国の旅」
2012.01.21
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「無錫旅情38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。『三国志』が日本へ伝来した時期は正確には分からないようである。 だが760年の天平年間の『藤氏家伝』には淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている。769年称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』や『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜しこれらの史書が日本国内に普及している。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録である『日本国見在書目録』には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』や『後漢書』『三国志』『後漢紀』を挙げる。「中国の旅」
2012.01.20
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「無錫旅情37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。河北を平定した曹操軍は、208年7月に劉表を攻めるため荊州へ南下を始めたが1ヵ月後劉表が死亡し次男は9月曹操に降伏した。 孤立した劉備は長江を南下し1万人余りの軍勢を率いる劉表の長男と合流し夏口へ到達した。曹操は劉表が作りあげた荊州水軍を手に入れそのまま南下して兵を長江沿いに布陣させた。赤壁の戦いは後漢末期の208年のとき長江(揚子江)の赤壁において起こり曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いを言う。曹操軍の兵士20万に対して劉備連合軍は7万人という兵力で比較すると曹操軍が兵力の上では圧倒的に多かった。だが14万の兵を失う損害に遭い退散した。「中国の旅」
2012.01.19
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「年老いて心も枯れ果てて」 今日の「中国写真ライフ」は、懐かしの「甘粛省蘭州」の写真を公開します。「黄河母親像」を見てより、黄河まで降りて行ったが、黄河を遊覧する羊の皮を膨らませた筏を見た後、私はガイドと一緒に河川に造られた歩道を歩いた。歩きながらも歩道両脇の柳の木より綿状の花が、ふわりふわりと飛んで来て歩道の隅や芝生の上に落ちて来ていた。その光景はまるで雪が積もったかのよう。ガイドからも、今年の柳絮(りゅうじょ)は例年より多いですよと口を押さえながら言った。柳絮が一杯に飛び乱れるのも温暖化が進んでいるのかもと・・、私は、呼吸するのも支障を来たすような柳絮を見たのは、初めてであるが、訪れた観光客にとっては情緒溢れる光景で何よりの贈り物だった。6年ほど前は北京へ出張に行く機会があり、5月初め、出張の合間を見ては北京の紅楼夢大観園へ行き、そこで柳絮を見かけた。だが、これほど沢山の柳絮を見たのは初めてだったが、蘭州黄河の歩道でも柳絮が飛び交い風情が感じられた。中国では古来より歓迎や旅立ちに際して柳の枝を輪にして手渡す習慣がある。柳には歓迎や別れのイメージがある。ましてや柳絮(りゅうじょ)のように花が舞うような折には、その歓迎や旅立ちの思いに拍車をかけているようだった。中国の唐代の詩人「白居易」が柳の詩を作っているが漢文なので訳してみよう。私の思いも込めて訳しているので、かなり感傷的になってしまった。「年老いて心も枯れ果てて、昔遊んだ跡を訪ねると、至る所で魂の消えいるような思いに駆られるが、柳の長い枝やその花が、昔馴染みのように棉を降らせ、私の頭を優しく撫でてくれることは有りがたい事だ」
2012.01.18
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「無錫旅情36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。三国志と聞いて知らない人はいないと思う。だが三国志の中で戦った国が何処にあるかと問うてみると、よくは知られていない。三国志は中国の西晋時代に書かれた歴史書で三国時代を扱う歴史書として唯一無二である。中国の二十四史の6番目に数えられている。二十四史は中国の清の皇帝が定めた正史である。正史とは国家によって編集された王朝の歴史書のことであり三国志は65巻から成り三国志の中では魏を正統な王朝としている。「中国の旅」
2012.01.18
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「無錫旅情35」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。今中国では関羽が商売の神様になり広東省では各店で祀られている。三国志の蜀の国では劉備、関羽、張飛と諸葛孔明が世に知られている。魏・呉・蜀の三国で争われたが、それぞれの国の武将がその各々の国では人気がある。軍師諸葛孔明を擁する劉備の蜀と孫権の呉曹操の魏の三国が勝ち残った物語である。 「中国の旅」
2012.01.17
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「無錫旅情34」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本において『通俗三国志』の刊行以後大衆文化にも三国志が普及し出した。歌舞伎においては早くも三国志の武将の「関羽」という台詞が出始めている。歌舞伎作品に「関羽」という題名もある。近年では市川猿之助の歌舞伎『新・三国志』がブームになり日本国内での祭りにも影響を与えた。 洒落本では劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込んだ所へ仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される。このような三国志のパロディが江戸時代の文化に溶け込み読者層にも三国志の物語が広まって行った。「中国の旅」
2012.01.16
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「無錫旅情33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。『三国志』の日本語訳本が討ち入りの9年ほど前の元禄5年に『通俗三国志』が刊行され元禄時代の武士の間で広まった。江戸時代に外国の小説が日本語訳されたのは初めてのことでもあり興味深深で読んだ。日本語訳『三国志演義』は以後、何度も再刊がなされ葛飾北斎の弟子の葛飾戴斗の『絵本通俗三国志』が人気を博した。明治に入ってからは『新訂通俗三国志』など諸種の訳が現れ明治期以降更に人気になった。「中国の旅」
2012.01.15
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「フリーページ」今まで「フリーページ」の整理をしていたが、かなり疲れる。フリーページは3年半以上前から作り出していたのですが、更新してある程度時間の過ぎたページをアップ。あまりにも雑然としていたので、毎日仕事から、帰ってよりの2時間ほど整理していた。如何に整理するかで、かなり時間を掛けてしまう。更新してより、ある程度日数が経った日記ページを、フリーページへ保存して行ったので、内容があまり無く、かなり項目段数のみ長くなってしまっていた。現在「雲南」から「シーサバンナ」までの、140項目あったページを60ページまでにまとめ整理した。ページの設定→フリーページ→以前の日記をコピーペースト300ページ作れるようになっており、日記をまとめた方がよい。整理し終わった1ページへは日記14ページ以上を一纏めにした。
2012.01.14
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「再度画像と文字テスト」 画像のテストは「以前より良好」だったようである。 試行錯誤と書けば、何度も大変な事をしているようだ。しかし、楽天ブログの操作が暫くぶりの私にとって、やはり大変なようであり、睡眠不足が続いている。 代わり映えのしない画像で再度画像と文字に挑戦である。 GREEの更新も止まってしまったし、 カニチィは相当前から更新が止まったままだ。 もう、若い時のように「只がむしゃら」の更新も、体が追い付いて来なくなってしまっている。
2012.01.14
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「無錫旅情32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本で三国志といえば漫画家横山光輝の三国志であろう。また、三国志の原作に忠実に描かれており1992年頃のバブル時代の最終章でテレビ東京では大好評であった。三国演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したところに興味が湧いた。三国志演義は江戸の大衆文化に大きく入り込み武士の間で広く読まれ続けた。 『三国志演義』の伝来時期は定かではないが江戸初期には詩文などの中に演義の影響を受けたものも多く見られるようになった。儒学者の林羅山は徳川家康に抜擢された。のち徳川家光に重用されて幕政に参画し儒学の官学化に貢献したが三国志を読了した。「中国の旅」
2012.01.14
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「無錫旅情31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本での三国志ブームが起こったのは1977年から12年掛けて三国志全集が出てから。『世界古典文学全集24 三国志』『三国志』が初めて日本語完訳され改訂再刊されてからである。その後、幅広い世代の三国志愛好家が正史を読めるようになり多くの人々が『三国志演義』の固定化していたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、三国志の解説書が多数登場し漫画やゲームなどにも作品が現れるようになった。「中国の旅」
2012.01.13
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「春爛漫--散歩日和12」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。台湾は中国の一部か?それとも独立した国家か?このような論争が何十年も続けられて来て今尚解決しない。中国に言わせれば、台湾省と中国の一部であると理解している。台湾は戦前戦中と日本の植民地だったので日本語を話す人も多い。中国は中華人民共和国になる前は中華民国で、台湾は今中華民国と呼ばれているが蒋介石が内戦に敗れた1949年、中国国民党は台湾へ逃げたが、日本の教育を受けた台湾人は、蒋介石や国民党が台湾へ入るのを嫌い抵抗をしたと言う。毛沢東の死去後、中国も劉少奇/李先念や楊尚昆と、主席が交代し34年間が過ぎた1993年に江沢民が主席になった。私は一年後の1994年に中国の居住証を取得したが、2年後の1996年に、軍事演習がエスカレートし台湾海峡へミサイルを発射した。その後、台湾と中国の緊張感は一般国民にも及び江西省のミサイル基地から、台湾へ向けミサイル発射の準備段階に入ったとの噂が流れた。私はその頃中国広州におり、その事で中国人と議論、挙句の果てに日本の中国侵略戦争の話にまで発展する事もあった。日本が中国と戦後国交を開いたのは1972年だったが、その時点で、台湾との国交は台湾側から断交するという事態にまで陥った。現在のようにビザ無しで簡単に台湾へは入れなかった。蒋介石の死去後、台湾の総統は息子の蒋経国が引継ぐ。その蒋経国は4年の任期後再選されたが1988年臓器疾患で死去した。蒋経国死去の後、台湾総統は副総統だった李登輝が総統に就任。だが反攻大陸の思想で台湾国を主張し、1996年の総統選挙の時に、軍事演習中の中国が台湾海峡へミサイルを発射し威嚇した。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和13」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。台湾のみやげ物にも色々あるが、台湾茶が良いと思う。台湾茶と言えば、よく知られている鉄観音茶であろう。烏龍茶などに比べて、苦味やくせが少なく飲み易いと思う。コクのある甘い香りがする台湾茶を、多くの人が買っていた。私は土産物に関しては、何度も騙されて高額を支払って来た。そのトップに上げられるのは薬だろうし巧妙な話術を信じて、中国元のカードで決済するが請求を見て何となく脱力感を感じる。一番悔しいのはチベットの熊の胆の苦い薬であったが、効き目は、8千元(11万日本円)もしたにも関わらず、なかったような?薬などは中々お土産にする事は出来ないが、お茶などは、意外と無難な贈り物ではないのだろうかと勧めている。しかし、注意をしないと万人が好むとは言えないので、パイナップルケーキや蓮の実などの詰め合わせなども喜ばれる。中国雲南地方へ3度旅行し、お土産にお茶を買った。雲南のお茶と言えばプーアル茶が有名であり味もコクがある。だが台湾の茶屋にてプーアル茶の話をした所台湾が本場と言う。本当だろうかなどと疑ったように再質問したが今度はムキになり、台湾から雲南へプーアル茶の苗を持って指導に行き今至ると言う。台湾ではそれほどお茶の製法に長けているのか?まだ台湾が大日本帝国台湾だった頃に、日本人から茶の手解きを、受けその文化が台湾風に変化していったのではないか?などと、思ったが、そのような事を面と向かってはとても言えなかった。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和10」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。中国国内で中国人だけの観光ツアーに混じって、日本人が参加する事は、最近では増えてきたように思われる。だが、私が11年前に中国の旅行社に一人で申し込んだ時には、色々と質問されたし、その質問は全て中国語であった。私は、何故こんな面接をしなくてはならないのか?と中国旅行社の担当官に面と向かって質問したことがある。担当官は、中国人なら問題なくツアーに参加して頂くが、外国人の場合に過去に一度迷子になり多くの人に迷惑を掛け、予定の観光地を時間の都合で回り切れないことがあったと言う。その外国人は日本人かそれとも他の国の人だったかと、聞いてはみたものの、その担当官はそこまでは分からないと、少し不機嫌そうな感じをしていた事を思い出す。何れにしても、中国語が満足に話せない人は敬遠された。今回台北の二日目のツアーは台北の旅行社にお願いした。なぜならば日本の旅行社でフリーツアーを選ぶとかなり割高。日本の30%ほどの金額で同じようなツアーに参加できる。だが旅行社は敬遠気味な応対でホテルフロントからの電話で、申し込みをしていたので、フロントに代わって頂いた。フロントに旅行社に電話中だが台湾人に代わってと、フロントでは笑いながらも受話器を取り担当者と会話していた。顔見知りなのか相当話が弾んでいるようであったが、この人の中国語であるならば問題ない太鼓判を押しますよと、話した後、只奥さんは何も話せれないようで、それはご主人に、フォローして頂くと言う事でと参加出来た。
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和6」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。禁煙の概念は、中国では殆ど無く自由である。自由と言う表現と書くと公共の場などでも何となく規制が、ないように感じるが、大きく禁煙と書かれている。しかし、タバコを吸う側のマナーの問題で自由と表現した。工場などの定例会議の最中でもタバコを、吸うためだけに集まっているように感じて仕方が無い。どちらが管理者か分からないような状態で会議は進行し、最後に疑問点など無いか質問してもタバコを持った手で、無い!無い!と振るのでタバコの灰がテーブルに落ちる。さすがに生産工場のラインの中では吸わない。だが階段には毎日のようにタバコの吸殻が落ちている。幾ら全体会議で注意をしようが張り紙をしたとしても、やはり教育の問題なのか?マナーが徹底されない。台北では2月1日より屋根がある下では、前面禁煙が実施されており観光協会からも政府に、少しやり過ぎであると講義をしているとの事であった。屋根がない路地などでも灰皿が設置していないと、タバコを吸っていれば罰金になると説明を受けた。私はタバコを辞めて7年以上になるが、同行した妻は今でもスッパスッパタバコを吸う。バスの中は勿論タバコが吸えないし観光スポットへ、行くとガイドの集合時間などの注意なども聞かずに、タバコを吸う所をうろうろ探しているから落ち着かない。つづく
2012.01.12
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「春爛漫--散歩日和4」 「上海発!画像の更新!」では、散歩途中に撮影した画像を公開しています。春爛漫--散歩日和2の記事について、ある女性よりメールを頂きました。内容的には公開しても問題ないと思ったので、その一部を公開致したいと思います。私のブログへはコメント禁止になっております。その内容はカタカナ中国語についてです。その人もカタカナで中国語の発音を覚えたと言う事で、そのカタカナ中国語のURLアドレスも、付け加えてあり見に行って来ました。なるほどと思った事柄は10年前とは、カタカナ表記も大きく様変わりしていた事です。昔は中国語の発音は濁っては駄目だと教えられ、カタカナも例えば、張をチャンと書かれていた。ピンインでは張をzhangと書き、ヂャンにしてある。ピンインではzhi,chi,shi,riと、日本人にとって巻舌音の発音が難しい。現在のカタカナ表記は以前疑問に思っていた事柄が、ある意味解消されていて取り組み易いと思った。だが拘るわけではないが折角世界共通の、ピンイン表記方法で始めから学習した方が、良いのではと思った事は確かであった。何れにせよ中国人に話した言葉が通じた時の嬉しさは、次の勉強のステップとなり更に勉強する気にさせる。
2012.01.12
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「無錫旅情30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。朝鮮の中世以降に五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が帝王の補佐をするのに相応しい才能がある人物か否かについて学者たちは肯定する者や否定する者もいた。江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれており特に関羽と諸葛亮が讃えられた。明治以降の正史に基づいた史伝としては『諸葛武侯』や『三国志実録』など出版された。また『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられているが三国志といえば『三国志演義』の物語を指す。「中国の旅」
2012.01.12
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「無錫旅情29」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『三国志』の名を見出す事が出来る。平安末期の藤原通憲『通憲入道蔵書目録』には『魏呉蜀志』二十帖があり、藤原頼長は読了した漢籍として『三国志』を挙げている。『太平記』には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ義貞の戦死を予感するという描写を見つけたという。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど史実や演義などと異同がある上日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。「中国の旅」
2012.01.11
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「無錫旅情28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本へ三国志が伝来した時期については正確には判明していないようである。 760年の天平宝字4年に成立した藤氏家伝の大織冠伝には蘇我入鹿の政を批判する記述がありすでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」や「孫子九地」といった陣法を修得させている。 769年の神護景雲3年には称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』また『三国志』『晋書』を下賜している。 「中国の旅」
2012.01.10
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「無錫旅情27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。中国中央テレビ(CCTV)の連続ドラマである『三国演義』いわゆる三国志のテーマパークに来た。もともとはオープンセットであり「劉備招親」や「火焼赤壁」また「草船借箭」などの名シーンはいずれもここで撮影され1994年に放映された。中国の歴史の中の漢と晋の間に「魏、呉、蜀」の三国が並立していた時代の物語りで漢の末期悪徳な役人によって漢王朝は腐敗していた。そんな時代の中、張角が仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こしたが漢王朝はこの乱を何とか鎮めた。「中国の旅」
2012.01.09
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「無錫旅情26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。戯作家曲亭馬琴は水滸伝を日本を舞台とする物語に取り入れ「新編水滸画伝」を著した。水滸伝を代表作となる「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」を書いておりパロディの「傾城水滸伝」も知られる。江戸時代後期の侠客である国定忠治の武勇伝はのちに「水滸伝」の影響を受けた。脚色され浪曲や講談で知られている「天保水滸伝」は侠客笹川繁蔵と飯岡助五郎の物語に水滸伝の名を冠した。「中国の旅」
2012.01.08
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「無錫旅情25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝が日本入って来たのは江戸時代の中ごろの1728年で一部和訳され普及し19世紀初めには翻訳、翻案が数多く作られた。また浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が読本の挿絵や錦絵に描き広まった。半世紀後の1773年には「本朝水滸伝」が成立したが、本編をの表現や発想などを基にしながら創意を加えて独自の作品とした。さらには日本の歴史をも改変したというが水滸伝は現在の伝奇小説の先駆けとなった。「中国の旅」
2012.01.07
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「無錫旅情24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は清代に入り京劇の題材になった。108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれたようであった。 中国共産党では降伏経験のある幹部から妥協的であるとされる幹部への批判として水滸伝批判が行われた。1975年の毛沢東による水滸伝批判では宋江が前首領を棚上げして実権を握り自ら首領となり朝廷に帰順したことが革命への裏切りであるとして非難された。文化大革命の最中では批判的に読むための連環画形式の水滸伝も出版されたが大革命が党によって全面批判された後の水滸伝は政治的位置付けは無くなり京劇も復活している。「中国の旅」
2012.01.06
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「無錫旅情23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は儒教道徳を兼ね備えまた知識人にも評価される文学作品となった。だが、反乱軍を主人公とする水滸伝は儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されずにおわったようである。ほとんど民衆の読む通俗小説として扱われるようになり、その風潮の中で明末の陽明学者の李卓吾が儒者の偽善を批判し水滸伝の通俗小説を高く評価した。明代末期に水滸伝は農民反乱を扇動する作品であるとして禁止令が出されている。「中国の旅」
2012.01.05
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「無錫旅情22」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の物語を講談した人たちは南宋の12世紀中頃には宋江反乱の史実をもとに物語を講談していった。13世紀頃に書かれた「大宋宣和遺事」に宋江以下36人の名前と物語が掲載されている。 15世紀頃に書かれた水滸伝では36人の豪傑は3倍の108人に増やされ、また荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改めた。梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とした。「中国の旅」
2012.01.04
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「無錫旅情21」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。朝廷から官爵を授ける機会を辞退し故郷へ帰ったものもいた。波瀾の人生を送った宋江や他の者たちしかし、3分の1ほどの者は残りの人生を何事もなかったように生き始めたのである。どんなに波瀾万丈な人生を生きようと結局すべては夢のようなものだと水滸伝は語っているのかも知れない。水滸伝の物語は実話ではない。しかし徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。「中国の旅」
2012.01.03
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「無錫旅情20」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝では軍師だった呉用と花栄は宋江の死を夢で見るとすぐにもその墓を訪れ、その場所で二人一緒に首を吊って死ぬことを選んだ。最も幸福だった者たちは、戦争で生き残りながらも国が与えた官爵を辞退し故郷に帰った者たちかも知れない。「中国の旅」
2012.01.02
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「無錫旅情19」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の最終で梁山泊軍の宋江は自分が死ぬことを悟ったとき腹心の部下だった李逵を呼び寄せた。李逵に毒見役をさせ杯を飲ませた。杯を飲み干し暫くしてより酒に問題はないと宋江に目配せをし宋江も酒を飲み干した。だが朝廷の悪臣たちは酒にジワジワと効く毒薬を入れていたため宋江が酒を飲んだ後毒見役の李逵は宋江に手を挙げながら死んだ。悪臣の悪巧みを悟っていた宋江は暴れん坊の李逵が反乱を起こしてはならないと毒殺する道を選んだ。「中国の旅」
2012.01.01
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