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湯川れい子氏、終戦時9歳は「戦争経験に入らない」の声にあきれ…「あなたは何が言いたいのですか?」作詞家で音楽評論家・湯川れい子氏(90)が23日に自身のX(旧ツイッター)を更新し「戦争の経験」を巡り自身の考えをつづった。一部ユーザーが、湯川氏が終戦時に9歳だったことを受けて「戦争経験には入らない」といった内容をポスト。これに湯川氏は「貴女は何が言いたいのですか?と言うより、頑張って何を主張なさりたいのですか?」と投げかけた。「私は8歳の時に、疎開していた山形の米沢市で、昼間、道を歩いていた時に突然、空襲警報が鳴り響いて、見上げたら頭上にアメリカのB29が一機。急に高度を下げて、操縦桿を握る兵士のブルーの眼が見えたように思える距離まで降下。機銃掃射を受けて、塀の蔭に隠れたことがありました。それも戦争体験としては、ずっと悪夢として記憶して来たものですが、これだけでも充分です」また「戦争で私をめちゃくちゃ可愛がってくれていた軍人だった父を見送り、18歳上の長兄がフィリピンで戦死。姉の婚約者が戦地で玉砕。と、まともに戦争を体験しています」と壮絶な半生を振り返っていた。---どう見ても、自身はまったく戦争体験がないであろう人間が、戦争末期、9歳の時に機銃掃射を受けた経験を語る湯川氏に対して「戦争経験には入らない」とか、あんた何様という感想しかありません。更に、これとは別人と思われますが---多田 将@sho_tada湯川れいこさぁ、8歳のときに、B-29の機銃掃射を受けた、操縦桿を握る兵士のブルーの眼が見えた(それぐらい低空飛行して)、て、やぱ子供の戦争体験なんて当てにならんやん笑笑---こんなことを書き散らすトンデモも現れる惨状です。確かに、湯川氏がB29と書いているのは勘違いで、小型の空母艦載機(F6F、F4U、アベンジャー雷撃機、ヘルダイバー急降下爆撃機など)かB29の護衛戦闘機P51などである可能性は高そうです。が、どう見ても兵器に関心など薄そうな当時9歳の女の子が、敵の飛行機の正確な機種を把握できないことに、何の不思議もありません。ちなみに、最初引用文で示しているように、湯川氏は「操縦桿を握る兵士のブルーの眼が見えた」とは書いていません。「~眼が見えたように思える距離まで降下」と書いています。本当に見えたなどとは言っていないのです。ただ、戦時中米軍機の機銃掃射から逃げ回った経験のある人は大勢いて、その中に「敵のパイロットの顔が見えた」「目が合った」等の証言をする人は大勢います。何を隠そう私の亡父もそうなのです。疎開先の近くに化学工場があって、そのために小型機の機銃掃射にあったことがあるそうです。父は敗戦時小学4年でした。聞いたのはかなり前なのでうろ覚えですが、父もその時、敵のパイロットの顔が見えた、と言っていたような記憶があります。もちろん、「本当に見えたのか」なんてことを追求するのは意味のないことです。だから、仮にもし「パイロットの眼が見えた」と書いていたとしても、それは誇大表現でも「盛りすぎ」の表現でも何でもないのです。事実としてそうだったかどうかはともかく、そのように感じた経験のある人は、大勢いたのですから。そして、湯川氏が遭遇した飛行機は、確かに実際はB29ではなく小型の戦闘機等を誤認した可能性が高いのですが、では、本当にB29である可能性が「絶対に」ないかと言えば、そこまでの断定はできないのも事実なのです。可能性は低いけど、絶対ではない。一連の議論を見ていて驚いたのですが、B29は高高度爆撃機だから、低空で機銃掃射なんかしない(だから湯川氏がB29に銃撃されたのは嘘だ)、なんてヨタ話を開陳する「ミリオタ」が少なからずいることです。B29が地上を機銃掃射した話はたくさんあります。確かにB29は、排気タービン(ターボチャージャー)を備え、高度1万メートルでも飛行性能がほとんど落ちない高高度爆撃機として開発されました。当時日本陸海軍の航空用エンジンは、高高度性能が大きく劣り、高高度を飛ぶB29の迎撃に極めて苦労していました。日米の圧倒的な工業力、技術力の差を象徴するエピソードとして知られています。が、実はB29が戦略爆撃機として猛威を振るったのは、高高度爆撃によってではありません。当初は高高度爆撃によって軍需工場を爆撃したのですが(最初は中国の成都から北九州の八幡製鉄所等を、サイパン占領後はサイパンから東京・武蔵野の中島飛行機武蔵野工場を集中的に爆撃した)思ったほどの効果を上げることはできなかったのです。理由は単純。高度1万メートルからの爆撃では、当時の無誘導爆弾ではどう頑張っても正確な着弾など不可能だったからです。しかも東京への空襲は44年後半からの冬場です。偏西風が吹き荒れる冬の日本上空では、なおさらそうだったのです。このため、B29の部隊第20航空軍の司令官ハンセル准将は更迭され、後任として着任したのが、言わずと知れたカーチス・ルメイ少将です。彼は作戦を一変させて、B29を昼間高高度爆撃ではなく夜間低空爆撃に投入します。その最初の作戦が、3月10日の東京大空襲でした。・・・・・という話は非常に有名なエピソードであり、少なくともB29とか日本空襲について関心があって、それについて意見を述べようという人ならみんな知っていることだと思っていたのですが、そうでもなかったのでしょうか。さて、その3月10日の東京大空襲は、高度2000m程度(さらに低い高度の機もあったと思われます)の低空からの無差別爆撃でした。この時のB29は、機体を軽くして少しでも燃料と焼夷弾を多く積むため、防御機銃のほとんどを撤去していました。が、すべてを撤去していたわけではなく、尾部銃座だけは残されていました。この、尾部に残された唯一の機銃座から地上を銃撃していたことは多くの証言があり、そのためWikipediaの「東京大空襲」の項目にも「一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた」と記述されています。(出典は奥住喜重、早乙女勝元『東京を爆撃せよ : 作戦任務報告書は語る 東京大空襲の本当の標的 (ターゲット) は何だったか?』157号、三省堂)これもまた有名なエピソードだと思うのですが、やはりB29や本土空襲について語ろうというのに、それを知らない人が多くてびっくりです。「湯川氏は無知だ」というあんたたちの、本土空襲についての知識は、他人を誹れるほどのものかね、と思ってしまいます。ともかくも、この3月10日の東京大空襲以降、B29は頻繁に低空爆撃を行うようになりました。当初は本革の迎撃を警戒して、低空爆撃は夜間のみでしたが、このころを境に日本の防空戦力は衰微して、低空でもB29の脅威にはならなくなります。このため、B29は、次第に昼間であっても低空爆撃を行うようになってきます。そして、B29から機銃で地上掃射していたことは、米側の記録にも残っています。何しろ、米側調査によると、日本上空に到達したB29が1機あたり接触した迎撃戦闘機は、1945年1月には7.9機もあったのに、3月には03機に減り、7月には0.02機しかありません。つまり、1月には10機のB29が日本上空に到達すると平均79機の日本軍戦闘機が迎撃してきた(それでさえも、B29を撃墜するのは非常に困難でした)のに、3月には迎撃機は3機に減り、7月に至ってはB29が50機に対して迎撃機が1機です。それに伴い、日本上空で損傷したB29の割合は、45年1月には3割を超えていましたが、7月には5%にも満たない割合まで減りました。しかもその大半の原因は対空砲火でも迎撃戦闘機でもない、つまり「事故」によるものです。対空砲火や迎撃戦闘機による損傷(損失ではありません)は、1%程度しかありません(データは草思社「米軍が記録したと日本空襲」P96-97)。米軍はもはや、好きな時間好きな高度でやりたい放題に爆撃できる状態となっていたのです。というわけで、「B29は低空飛行なんかしない、地上を機銃掃射なんかしない。だから湯川氏はうそつきだ」という言い分は間違いなのです。さて、では実際に湯川氏が遭遇した機銃掃射は、いつ、どのようなものだったのでしょうか。上記のような留保はありますが、それを考慮してもやはりB29ではなく小型機による機銃掃射であった可能性が高いと思われます。湯川氏か戦時中に疎開していた米沢が空襲を受けたのは、記録されている限りでは45年8月9日の1回だけのようです。そのときの日米双方の戦闘記録が発掘されています。市立米沢図書館の歴史(8月)9 日、アメリカ軍グラマン戦闘機が飛来し、南原大平付近に爆弾を投下、また広幡京塚地域にも爆撃があり、日誌にも「米沢初空襲」の記載が見られます。---新潟歴史双書2『戦場としての新潟』アメリカ海軍の記録によると、この日の昼にも新潟攻撃が計画されていた。午前九時三十分、牡鹿半島東二五〇キロメートルの海上にあったアメリカ海軍空母「ワスプ」からヘルキャット八機、コルセア四機が発進した。これらの艦載機は、空母「ヨークタウン」・「シャングリラ」から飛び立った艦載機とともに、新潟飛行場や米沢市(山形県)八幡原(はちまんぱら)飛行場を攻撃するために出撃した。この艦載機は米沢市付近を攻撃したが、新潟市へは飛来しなかった。---上記の「アメリカ海軍の記録」はこれのようです。ミッションとして新潟、米沢、米沢東部の一掃とあり、空母ワスプからF6Fヘルキャットが12機(うち2機は(P)と記載がある写真偵察機型)とF4Uコルセアが4機発進したことが分かります。可能性としては、湯川さんが経験したのはこの空襲の際の出来事だった可能性が最も高そうです。ただし、それ以外に可能性がないかとというと、そうでもありません。米沢が空襲の目標になったのはこのときだけですが、米軍機が他の都市への空襲の途中で米沢上空を通過した事例は、おそらく他にいくらでもありそうです。その中で、降下して地上を機銃掃射、なんて事例は数多くったはずですから。攻撃対象は記録が残っていても、飛行経路まで全部記録が残っているわけではないので、もはや検証のしようもありません。「ありそう」と思えるものは、まず同じ山形県の酒田市に対する空襲です。米沢空襲の翌8月10日に、空母レキシントン、ベニントンから47機の艦載機が飛び立ち、酒田市を空襲しています。太平洋上の空母から、東北地方を横断して日本海側の酒田を空襲しているので、その往復で米沢上空を通過して、そのうちの1機が気まぐれに低空に降りて機銃掃射はあり得ないことではあません。続いて7月14日と15日の青森函館間の青函連絡船に対する空襲です。これも艦載機によるものです。青森はこの後7月28日夜にB29の空襲を受けていますが、これは夜間なので湯川氏の経験には当てはまらなそうです。更に仙台や石巻への空襲です。仙台は東北の大都市だし、石巻は港湾があるので何度も空襲を受けています。日中の空襲は艦載機によるものがほとんどで、B29によるものは多くが夜間だったようです。更に、新潟。主に港への機雷投下が多く、夜間が大半ですが、日中のB29の飛来も、5月25日、8月4日、そして敗戦の日8月15日にも各1機ずつ記録されています。もし、湯川氏が経験したのが本当にB29の銃撃だとすれば、このいずれかの復路で出来事である可能性はあります。ただ、確率的にはかなり低いのかな、とは思います。もっとも、大戦末期の日本の空は、米軍機が縦横無尽に飛び回っている状態でした。その中には、とんでもない飛行ルートを取ったものもあります。3.10東京大空襲に参加したB29のうち、所属部隊も異なる3機が、何故か東京から300km近くも北方の蔵王連峰不忘山に墜落しています。原因はまったく分かっていませんが、公式にはそんな場所を通過する攻撃計画があったことは明らかになっていません。そのくらい飛行経路は(編隊を組む往路もかく復路は)バラバラだし、米側にも日本側にもそんなものの記録がすべて残っているわけもありません。従って、もっととんでもない場所を攻撃した機体の復路での出来事だった可能性も否定はできません。結局、特定は不可能なのですが、可能性はやはり8月9日の米沢空襲がもっとも高いでしょうね。
2026.02.28
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高市首相、自民の当選議員全員にカタログギフト「法令上問題ない」 党内から擁護の声も自民党の当選議員全員にカタログギフトを配っていた高市首相を、野党が追及しました。一方で、自民党内からは擁護の声も上がっています。立憲民主党 田名部議員「今回、高市首相は衆議院選後に自民党衆議院議員の全員にカタログギフトを寄付されたと。総額いくらになりますか」高市首相「1人分約3万円で、合計315人分になります」衆院選で“歴史的大勝”をおさめた自民党。高市首相が当選した自民党議員全員に、あわせて945万円分ものカタログギフトを贈っていたことが明らかになったのです。立憲民主党 田名部議員「その原資と目的についてもご説明願います」高市首相「ねぎらいの気持ちも込め、今後の議員としての活動に役立てていただきたいと考え、奈良県第2選挙区支部として品物を寄付したものでございます」“首相から議員への贈り物”といえば、1年ほど前にも。石破首相(当時)「政治活動に関する寄付でもございません。政治資金規正法上の問題はないと」去年3月、石破前首相の商品券問題。新人議員15人にお土産として10万円相当の商品券を配布し、批判の声があがりました。石破首相(当時)「私自身の商品券配布の問題について、改めて深くお詫びを申し上げる」高市首相は、今回のカタログギフトについて「政党支部から議員個人への寄付は法令上も問題はない」などとしています。石破前首相の時には「政治責任が問われる」などと厳しい声が上がっていた自民党内では「心遣いみたいなところまで目くじら立てるのは、ちょっと味気ない」と、高市首相への“擁護”の声も。---石破はポケットマネーで購入した商品券総額150万円ほどを新人議員に配って、自民党内も含めて猛批判を浴び、謝罪に追い込まれるとともに全員が返却しましたが、高市は政治資金で購入した900万円のカタログギフトを配って、批判を浴びるどころか「心遣いみたいなところまで目くじら立てるのは、ちょっと味気ない」だそうです。露骨なまでの対応の差。もはや笑うしかありません。ちなみに、現在の政治資金規正法上、カタログギフトは一応違法ではないことになるようてす。ただし、来年1月1日の政治資金規正法改正によって違法になります。つまり、違法ではないと言っても単に施行前の「違法化猶予期間」だからということに過ぎません。問題があるからこそ違法化されるわけで、法改正の施行前だから違法じゃない、とか一国の首相がそんなことを堂々と言ったら(言っているのは本人ではなく取り巻きですが)世も末です。法律上はともかく、道義的にはアウトでしょう。しかし、それにもかかわらず、石破の時に比べて批判が広がっていないのが現実です。日本人は高市を選び、高市が何をやっも無条件に支持し、地獄の底まで高市についていく覚悟みたいです。そんな覚悟のない私はどうしたらいいか分かりませんけど、彼らと一緒に地獄の底まで付いていくことになるんでしょうね、というあきらめの境地です。
2026.02.26
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国民民主党、4人の公認に非難の声。なぜこの人選だったのか「(山尾志桜里氏、須藤元気氏、足立康史氏、薬師寺道代氏の公認を受け)世論調査でも国民民主が支持率を落としているということです。背景は?」「なんでこの4人なのか、と皆さん、感じるでしょう。衆議院選挙でことのほか当選者が増えたけど1年生議員の活躍がなかなかうまくいっていないからなんです。玉木さんと榛葉さんで支えている党だけど、玉木さんが女性問題で何かあったり休んだりすると、顔がいなくなってしまう。みんなの党や日本維新の会も初期はそうでしたけど、個人商店のような政党はトップが少しグラつくと党勢が一気にしぼんでしまうと」「そう考えると、もう少し幅広に論客がいないと、と。すると即戦力になる元議員の人たちを(呼ぶ)。どこかの党で『もうダメだ』と言われ、『うちが拾いますよ』というようなことをしているんですね。立憲民主党で事務方をしていて、定年で辞めた人も国民民主が『うちは関係ないから、来て』と言って、受け入れて」(以下略)---元々国民民主党をまったく支持しない私ですが、それでもこの4人の取り合わせにはめまいがしました。元々持っている政策が、明らかに正反対と思われる人たちを寄せ集めていることが歴然としているからです。山尾、須藤両氏は元立憲民主であり、須藤氏はその後は「れいわ」寄りの無所属でした。一方山尾氏は前回議員在職中に立憲を離党して旧国民民主に入党しているし、一般的イメージとは裏腹に主張を急激に右旋回させているので、今回も国民民主から出馬というのは不思議ではありません。ただ、昨今の国民民主党支持率急上昇の中核と思われるネトウヨ層との相性は最悪なのと、いかに主張を右旋回させたとはいえ、足立康史との取り合わせは、やはり到底一緒の党にいられるようには思えないわけです。旧民主党が、右と左の寄り合い所帯で基本政策がバラバラだと散々非難されてきました。立憲民主党が旧国民民主党の一部と合併した際も、やはりそのように批判を受けました。ところが、その際に国民民主党に残留した連中も、突然支持率が上がり始めると、誰彼構わず候補者をかき集めて寄り合い所帯化している、というのが現状です。お互いに、政策はどうでもいいのか、と思わざるを得ません。玉木個人も国民民主党も、前回衆院選では「選択的夫婦別姓制に賛成」と明言していたはずですが、ネトウヨ層への迎合か、立憲民主党との対立のせいか、今は選択的夫婦別姓制を潰しにかかっています。そんな国民民主党から出馬するという山尾は、右旋回した今も一応選択的夫婦別姓制には賛成としていますが、その賛成の本気度も、逆に国民民主党側のこの問題に対する真剣度も、どちらも疑念を抱かざるを得ません。さて、さすがにこのような無節操な候補者選び、そして玉木自身や他の議員の不倫騒動が相次いだことなどによって、爆上げした国民民主党の支持率が減少していると報じられています。が、それでも7月の参院選、あるいは6月の都議選でも国民民主党は議席を大幅増するでしょう。何しろ、支持率が減ったと言っても7.2%(NHK調査による5月9日調査)もあります。今後さらに多少支持率は下がるかもしれませんが、前回衆院選の際は同じNHKの調査で昨年10月12日時点で1.6%しかなかったのですから、それに比べれば、多少下がっても充分に支持率爆上がりなのです。でもね、次の参院選で大勝して、そこから瓦解が始まるでしょうね。今維新がその過程にあるように。どんな主張の誰でもいいから勝てればいい、という路線の先には、そういう未来しか待っていないと思います。
2025.05.19
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4月から公務員定年引き上げ 国・地方、人手不足に対応現在60歳となっている国家公務員と地方公務員の定年が、4月1日から61歳に引き上げられる。その後も2年ごとに1歳ずつ引き上げ、2031年度に定年を65歳とする。シニア層の職員が持つ知識や経験を生かすとともに、少子高齢化が進む中、深刻化する人手不足に対応する狙い。民間企業でも同様の動きが広がるか注目される。年金支給開始年齢が65歳に引き上げられる中、60歳で定年退職すると無収入の期間が発生する。現在この期間は再雇用制度で対応しているが、政府は定年延長によりシニア層の職員の働く意欲を維持しつつ、経験を生かし若手のサポートなどに当たってもらう考えだ。厚生労働省によると、65歳以上への定年引き上げを実施している民間企業は22年6月時点で25.5%。21年に成立した改正国家公務員法は、定年を23年度から段階的に引き上げることや、60歳に達した職員は原則として管理職から外す「役職定年制」の導入を盛り込んだ。給与は当面の間、60歳時点の7割水準とする。地方公務員も同様の対応を講じる。定年が2年ごとに1歳ずつ延長されると、定年退職者がいない年が生じるが、従来のような退職者を補充する形の採用では、若い人材を安定的に確保できなくなる恐れがある。このため政府は定年の引き上げ期間中も継続して一定数を採用する特例的な措置を検討。地方公務員についても、総務省が自治体に対し、複数年度で採用者数を平準化するなどの対応を求めている。---あーあ、とうとう定年延長が始まってしまうのですね。超個人的には、公務員の定年延長にはがっかりです。定年まであと何年と指折り数えていたところから、急にあと5年延長と言われたら(私は経過措置にも引っかからず、定年が完全に65歳になる年代です)がっくり来ます。65歳までの雇用に関しては、私の勤務先には65歳までの再任用制度があるんだから、それでいいじゃん、って思ってしまいます。ただ、超個人的にはともかく、社会的には必要な措置であることは、残念ながら認めざるを得ません。年金は65歳まで出なくなりますから。私の勤務先は65歳までの再任用、再雇用制度が導入されていますが、全国の自治体を見回すと、田舎の自治体などでは再任用、再雇用制度が整備されていない役所もあるようです。また、おそらくどこの役所でも同じでしょうが、近年公務員の人気はかなり低下しており、国の若手キャリア官僚でも退職者が相次いでいるという話を聞きます。事情は地方公務員も同じです。若手、中堅の優秀な人が続々と辞めています。数年前までは「公務員は優遇されている」と公務員バッシングが盛んでしたが、あっという間に公務員(とりわけ教員に著しいようですが)はまともな民間企業に比べて(もちろん、世の中にはもっとひどいブラック企業は多々あるにしても)魅力のない仕事になりつつあります。新規採用者の競争倍率も、どんどん下がっています。もちろん、少子高齢化で新たに就職する新人に人数がどんどん減っていることも、倍率低下の一因でしょう。これらのことから考えて、私の個人的な感情は措いて、政府の政策として公務員の定年延長を行うことは、やむを得ないことです。私の勤務先の再任用制度では、給料は現役時の6割(フルタイム勤務の場合)でしたが、定年延長によって給料は60歳時の7割になったので、1割給料はアップするようです。ただ、今までの制度は「定年退職して再任用」だったので、60歳で退職金がもらえましたが、定年自体が延長されるので退職金は65歳までもらえなくなります(退職金の計算は60歳時点の給料で計算されるので、退職金自体が減るわけではありませんが)。なんというか、勤務日数も仕事量もプレッシャーも何も変わらないのに、給料だけ7割、というのも釈然としません。今までの再任用制度でもそれは同じなのですが、「退職」という区切りを経た後で給料が減るのは、個人的にはなんとなく納得がいく話゛す。このあたりの感覚は、私個人のものなので一般的に広く共有はされないかもしれませんが。ただ、幸いなことに、当面のところ60歳以上には短時間勤務という選択肢が用意されます。これは現行の再任用制度でもある制度ですが。私も、65歳までフルタイムで働くなんてもう無理と思ってはいますが、同時に60歳以降無職というわけにもいかないこともまた事実です。年金が出る65歳まで、というか、私が65歳になるとき、年金受給開始年齢がもっと上がっているかもしれませんが※、そこまで無収入ではとても耐えられません。※団塊ジュニア世代のはしりである私の年代から定年が65歳に延長される、ということは、年金もきっと同じだろうと踏んでいます。年金も、我々が受給できる年代に差し掛かるところから、支給年齢が引き上げられるんでしょう、多分。というわけで、できることなら60歳で退職して、別の仕事に転身したいところですが、遺憾ながらそのときに採用してくれる勤務先があるかどうかは定かではありません。なので、60歳になったら退職の上で短時間勤務を選択するでしょうね、間違いなく。フルタイムだけはもう勘弁です。
2023.03.26
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---抗日運動で逮捕されて シンガポール石油会社張宗植の生きざま「戦争の世紀を生きた男たち-『普通の人』の個人史」林健生著 芙蓉書房出版の未掲載原稿より洪水が怖くて泣き出す子県立中等学校の入学申し込みのとき、父が一緒にきてくれた。書類に記入する段になって、宗植は自分がいつ生まれたのか知らないことに気づいた。それまで誕生日のことなど用もなかったからだ。父のほうを見たが、やはり困った顔をしている。戸籍というものがないし、四歳のときに母が亡くなって祖母に育てられていたので正確な誕生日がわからない。生まれ年だけは1914年に間違いない。父は考えて、旧暦の3月晦日ということにして、新暦に直して5月1日を彼の誕生日と決めた。それからは、公式にもずっとこれを使っている。張宗植の生まれた江蘇省宜興県爵?村は、上海の西450キロ、南京からもほぼ同じ距離にある長江流域の米作農村だ。村は川に面していて背後に田んぼが開けていたが、どっちに行っても川にぶつかるという水郷だった。どの家にも舟があって、農作業や近くへ行くときに使った。遠出には運送屋の大きな舟を利用した。子どものころの遊びといえば、自分で舟を漕いだり、家の人といっしょに舟に乗ったりすることだった。ときにはロバの背にゆられて半日かけて山に登り、そこからの格別な眺めを楽しんだ。家は裕福な大百姓で、田んぼを小作にだしていた。当時は収穫の三割が小作料だった。母方の実家も元来は農業だが、耕作をすべて小作させて自分たちは町に住んで材木屋を営んでいた。数え6歳、満で五歳のとき小学校に入る。同年齢の子はクラスに3人だけで、あとはみな歳上、最年長は15歳の男の子だった。宗植はいちばん年下の小柄な、可愛らしくて学校のできもよい利発な子どもだったために、担任の女の先生にとてもかわいがられた。あるとき学校の授業中に洪水が起こった。「さあ、早く家に帰りましょう。あしたはお休みにします。水が引いたらまたね」たちまち村中に水が溢れ、家々が水に漬かってしまったのを見て、急に怖くなって泣き出した宗植をなだめて、15歳の同級生が家までおぶって送ってくれた。日々起伏はあったが、平和でのどかな子どもの生活が繰り広げられていた。入学したときは学校ごと男女に分かれていたのが、宗植が四年生になったとき男女共学制になり、それまで別のところへ行っていた妹が同じ学校へ通いはじめた。小学校5年の10歳で県立中等学校の入学試験を受けて合格し1年間通った。上海や杭州、南京では教育に熱心で、当時も上の学校にいく子が少しはいたが、全国の進学率はきわめて低い時代だった。小学校の費用は半年に2元、県立中学では入学のとき父が30元納めていたのを目にした。かなりの出費だ。北京大学を卒業して南京の国民政府財政部(大蔵省)の局長をしていた母の兄(張は親しみを込めて「大伯父ちゃま」と呼んでいる)が、県立中学の卒業では将来の展望がないからよい学校に入りなおせと、上海の有名な4つの私立中学のひとつ民立中学を紹介してくれた。この伯父の手回しで名目的な試験を受けて合格し、上海での宗植の生活がはじまった。学校は全寮制で4人から6人が同部屋だった。そこは英語中心の、現在の日本流にいえば中学・高校の6年間一貫教育で、中国語(張にとって国語)の時間以外の授業はすべて英語で行われた。中国人の先生も大勢いたが、みな達者な英語で授業をした。田舎の中学では英語が弱かったので、民立中学で張は結局1年からやりなおすことになった。しかし授業の中身はすでに一度勉強しているから、彼にとって学校は楽なものだった。中国語はクラスで一番を通したが、数学だけは不得意だった。週に2回修身とでもいうか道徳の時間があった。そのころ、中国の政治・経済状態はますます悪化していた。独立国とは名ばかりで、実態は半植民地。長江を上海から南京まで行き交う船はイギリス船がいちばん多くて立派で、日本の船も幅をきかせていた。中国の船はといえば、みすぼらしくて、酷く肩身の狭い思いをさせられた。中学6年の1931(昭和6)年に満州事変が勃発した。日本に対してはっきりとした抵抗行動をとろうとしない中華民国政府に「ただちに抗日行動をとるべし」と申し入れをするために、上海の中学生は大挙して南京に押しかけ、政府要人に面会を求めた。蒋介石に代わって直属の部下が大講堂に迎え入れたが「中学生諸君、そんなに急ぐな。国民党政府は実力をつけて必ずや対日抗戦する」というだけで結論は出なかった。南京行きの中学生のなかに同県人のSがいて、のちのち印象深い関わりができる。張が卒業するころ、上海には革命の機運が横溢していた。若い宗植の胸も、国の将来を憂えて胸が高鳴ることが多かった。そんな雰囲気のなかで、ある人に聞かれた。「将来、君は何をやるの」「歴史です」「民立中学で教えているのは洋奴の歴史ですね」いわれてみれば、中学の歴史教科書は英語で書かれた世界史で、中国の歴史は片隅に追いやられ、西洋中心の偏ったものだった。学校が租界から近かったのでよくいった。イギリス租界にはインド人警官がいた。ベトナム人警官がパトロールするフランス租界は規模は小さいが、街並みがもっとも整った贅沢な高級住宅地につくられていた。中国人も租界の中の大きなレストランに入れたが、ボーイがやってきて外国人とは別の席に通された。外国人は中国人にぶつからんばかりに威張って横柄な態度だった。店で中国人と間違われた日本人が「俺は日本人だぞ」と気色ばむと、ボーイは平身低頭して日本人を外国人席に案内する。イギリス租界の中の黄浦公園は「中国人と犬入るべからず」の立て札があって、中国人を犬と同列において辱めたとして日本でもよく知られているが、張の解釈によれば、こうしておかないと犬や中国人が公園を汚してしまうことを恐れたイギリス人のきれい好きからきたのであって、とくにそれ以上の意味はないという。民立中学校を卒業すると、4分の1ほどが北京税務専門学校か、イギリスがバックアップしている上海税関有弁事務専門学校にいった。学費、寮費、食費すべてを国費でまかなってもらえたからである。競争は厳しくて2~300人の募集に対して1500人も志願者がある。民立中学卒業生の半数以上は大学へ進学した。張宗植も大学進学の途をとった。ずっと後になって、アメリカで活躍している実業家と話し合ったとき「あのころ大学にいかれていたなんて、お家はずいぶんお金持ちだったんですね」といわれて、改めて自分が恵まれていたと思った。当時の政財界には、北京の大学を出て北京と強い絆をもつ京派と、上海との関係が深い海派があって、北京大学出の大伯父ちゃまはもちろん京派で、宗植に「上海の大学ではなくて、北京大学か清華大学を受けなさい」といっていた。清華大学に在学中のいとこが勧めるので宗植は清華大学を選んだ。ところが学力試験の1日前の身体検査で、目と肋膜が悪いから大学に受け入れられないといわれて途方に暮れてしまった。とにかく頼りになるのは大伯父ちゃまだけなので、すぐに電報を打った。大伯父は北京大学に鞍替えできるように八方手を尽くしてくれたが、2つの大学の入学試験が同じ日なのでどうしようもなかった。それから大伯父が親しかった文学部長と2人の教授にたのんで、特別な方法で北京大学の聴講生になった。学生寮だけは正規の学生でも入れない人がいるくらいで、聴講生の入寮は無理だという。しばらく下宿に入って様子をみることになった。ところが、聴講生ならば清華大学でも受け入れる、ということをいとこが調べてきて「宗植さん、僕が手続きしますから北京大をやめて清華大にきてください」という。冬に向かって下宿は炭暖房で寒いし、お金がかかるし、第一めんどうだ。清華大の寮ならば暖房完備で安いという魅力もあって、結局清華大学の歴史学部に聴講生の手続きをとった。1932年のことだった。大学の講義は英語と中国語で行われていたが、高校まで英語の授業を受けてきた張にとってはまったく問題がなかった。古典関係には優秀な教授がそろっていたし、何よりも図書館は全国で最高だった。友達がいた上海の交通大学の図書館を見たことがあるが、清華大のほうがはるかに充実していた。学生寮も文句なしだった。一年間は楽しい学園生活を満喫した。抗日運動で官憲に逮捕張は2年生の春から学生運動に関わるようになる。学生運動の主要なメンバーは、のちに12・9運動のリーダーとなっていった。学生寮で同室のいとこが社会科学研究会の会員で共産主義青年団に入っていて、同県出身の学生を紹介してくれるという。会ったとたんに「Sさん、どこかで一度会ったことがありますね」「僕も張さんに会ったこと覚えてますよ」あの南京で会ったSだった。彼は現代読書会に参加していてその後共産党に入党し、党の北京西郊地区責任者として学生新聞「清華週刊」の編集長をしていた。「張さん、ぼくは時間がないので、ぜひあなたに清華週刊の編集をしてもらいたい」と強く頼まれて、もともと文を書くのが好きだった張は編集を引き受けた。編集の相棒は2年上の山西省出身の同姓の学生で、周りの人は2人の張を区別するために宗植を小さん、もう一人のほうを老さんと呼んだ。新聞の編集をはじめて、張の学生生活は一変した。1935年の1月、寒い冬の朝だった。少し前から官憲に追われて学生寮に寄りつかなくなったSの部屋を、張は編集の仕事場として使っていた。前の晩はずいぶん遅くまで作業をしたので、そのままその部屋で寝入ってしまった。突然部屋のドアが激しく叩かれた。「誰ですか」誰とも名乗らずにただ「開けてください」「着替えますからちょっと待ってください」洋服を着ながら扉を開けると、間髪を入れずに2人の国民党軍憲兵が室内に体を捻じ込んだ。「あなた、張宗植でしょう。はやく服を着てついて来なさい」部屋が違うのに、張宗植だということがちゃんとわかっている。「どういう容疑ですか」と聞くのがやっとだった。答えはなかった。オーバーを着て外に出て運動場を通って門のところに来ると、憲兵隊の無蓋トラックが止まっていて、すでに3人の学生が荷台のベンチに座らされていた。しばらくすると、別の憲兵に連れられたいとこが見えた。運動場の端まできたとき彼は突然逃げ出したが、たちまち追いかけられてまた捕まってしまった。運転手をいれて憲兵は6~7人で、なかの隊長と思われる人物が念を押す「まだ他にいないか」「これでお終いです」8人が逮捕された。みな知り合いだったが、あとで互いに迷惑がかかるのを恐れて知らん振りしていた。車が走りはじめた。これからどうなるのかぜんぜん予測できないのに、街中の様子だけが異常に鮮明に目に焼きついた。道には人通りも少なく車もほとんど走っていなかった。白菜を積んだロバがゆるゆると脇を通っていく。木々にまといついた霜には薄明の光が射して、朝のカンバスに見事なまでにキラキラと輝く純白の世界を描きだしている。逮捕者は、北京のあちこちの警察署に分散留置された。刑事犯との雑居房だったが、知識人の張は、同房者から好意と尊敬をもって大事に扱われ、下に敷く藁をもらったりした。政治犯同士は同じ房には収容されなかった。張とSは中心的なリーダーとみられ、2日経って憲兵司令部での尋問がはじまった。ただ「吐け」と迫られるばかりで、何を自白させようとしているのかわからなかった。同時に逮捕されたKによれば、両手の親指を細紐で束ねてつま先立ちの高さまで引き上げ、長時間その姿勢を強制する拷問があったという。張自身は、取調べのことがほとんど記憶に残っていないが、生命の危険を感じたことはなかったと思っている。張の筆名が便所の壁に書いてあるのを見たとき、はじめて仲間が同じところに囚われていることを知った。後年中国政府の文部大臣になったSの話では、面会も食べ物の差し入れも許可されなかったという。張の場合は少し違っていた。ひと月ほどすると南京の大伯父から手紙が届いた。達筆に書かれた国民政府財政部宗という差出人名が、蒋介石の娘婿の財政部長宋と紛らわしかったのかもしれない。親戚がきて、手が絶対に触れ合わない構造になった窓を隔てて面会することができ、20元差し入れてくれた。それ以後、面会も差し入れも自由になった。古典ならば何も問題がないと思って史記を差し入れてもらい、15~6日で読み上げてしまった。それから漢書、後漢書と読みすすんだところで三月経ち、北京から南京の憲兵司令部に移送されることになった。下腕は自由がきくが上腕から背中へかけて何重にも厳重に縄をかけられ、2人の憲兵がついて夜汽車で南京へ向かった。憲兵たちは個人的にはよい人間で、役割りとはいえ嫌な顔もしないで張の重い書物を持ってくれた。そのころ憲兵司令部の組織改変があった。大伯父の親戚が南京の新しい参謀に着任して、何かやり取りがあったのだろう。大伯父が保証人になって刑を決めないで、北京追放を条件に釈放された。もう北京には戻れなくなった。しかし張宗植たちが拘留されている間に、彼らが身を捧げてきた学生運動は1935年12月9日の北京での抗日運動(12・9抗日運動)となって燃え上がり全国へと広がっていった。1933年以来の日本軍の華北侵略とそれをカモフラージュするための分離自治工作に対して、蒋介石の国民政府は妥協を重ね、中国民衆の抗日運動を弾圧した。当時の日本の新聞はほとんど日本側の視点で報道しているが、それでも運動の激しさが伝わってくる。北平で華北自治反対の学生デモ〔東京朝日新聞、1935年12月10日、北平特派員9日発〕北平大学、清華大学、燕京大学及び中等学校男女学生500名は9日午前10時頃、居仁堂前の広場に参集してデモを行い、北支防共自治反対、打倒帝国主義のビラを撒布し、その内の学生数人は激越な口調にてアジ的演説をなし、大挙して学生群は何応欽氏に面会を求めた。何氏は門を閉ざし学生団を居仁堂に入れず、現場に急行した公安当局は指導的学生を片っ端から検束し始めたので、ようやく午後1時に至り解散した。我が出先官憲は排日的色彩濃厚な右学生運動を重大視して、北平市長秦徳純氏に対して厳重抗議を発し、これが十分なる取り締まりを要求した。〔北平特派員九日発〕新華門付近の学生群解散後間もなく午後3時頃、輔仁大学生約500名は北平目抜きの大通り王府井大街に現れ、防共自治反対のビラを撒布、打倒日本帝国主義を叫んで喊声を揚げつつデモを敢行した。公安当局の一隊はついに消防用ホースで冷水を浴びせかけ、小競り合いを演じ検束者を出し、間もなく解散した。女学生が先頭〔北平9日発電通〕北平市中到(ママ)至るところで学生示威運動団と巡警との小競り合いが起こり、消火ホースや銃剣で追い散らされてはまた集合し、半数を占める女学生が先頭に立って「打倒日本」を絶叫している光景は、二十一ヵ条問題当時に彷彿たるものあり、裏面に共産党の煽動あること十分に観取される。学生運動全国に拡大〔1935年12月12日、東京日日(夕刊)〕〔上海11日発連合〕北平諸大学の華北自治反対運動に呼応、9日、南京各大学の教授、学生は自治反対の声明書を発表したが、更に10日、浙江大学学生は全体会議を開催、全国各学校に対し北平大学に呼応せよとの通電を発し、同時に宣伝隊を組織、自治運動の排撃に乗り出すに決定した。武漢大学も国民政府並びに何応欽氏に自治反対の通電を発し、一時屏塞していた学生運動は往年の意気を恢復、漸次全国に波及する形勢である。広東で4000人デモ〔1935年12月13日、中外商業〕〔広東12日発連合〕中山大学生、同附属中学生を中心とする広東市内の各校学生団およそ4000名は12日午後1時、突如華北自治運動反対の一大示威運動を起こした。学生団は5~600名の女子学生を交え、「抗日大示威運動」と記した大肺旆を先頭に手に手に小旗をうち振りながら、蜿蜒長蛇のごとく広東全市を遊行した。学生団は租界沙面に添うた通りに出るや、リーダーの合図で各隊一声に、「華北自治反対」「奸官懲罰」「打倒帝国主義」「武力抗日」等々のスローガンを絶叫し、更に遊行を継続、到る処で交通を遮断しつつ中山公園に達するや、リーダーが相次いで激越な演説と「打倒日本帝国主義」を絶叫、午後六時に至りようやく散会した。河相総領事、厳重抗議〔広東12日発連合〕広東駐箚河相総領事は12日午後5時半、広東省政府を訪問、主席林雲?氏不在のため代理主席区芳浦氏と会見、口頭を以って学生団の華北自治反対運動に対し厳重抗議し、左のごとく述べた。最近支那の自治に関し、学生がしきりに反対の気勢を挙げて居るが、学生が抗日運動を起こす結果、日本に対する一般の空気は悪化し、延いては抗日救国会の再活動を惹起するかも知れない。省政府では這般の事情を考慮、学生運動を厳重取り締まられたい。追って公文書を提出、取り締まりを要求するが、とり敢えず口頭を以って学生運動の禁絶方を要請する。この他にも、上海各大学長も華北自治に反対〔12月15日中外商業〕、上海の学生、救国連合会を組織〔12月16日東京朝日〕、中南地方の学生、南京へ請願に動く〔12月22日大阪毎日〕、上海停車場、一時占拠される〔12月24日大阪毎日〕、学生と警官隊衝突、数十人負傷〔12月25日中外商業〕、上海の学生運動、工場に飛び火〔12月25日東京日日〕、上海、南京、武漢に戒厳令〔12月27日東京朝日(夕刊)〕、商工業者が学生に合流、排日貨運動〔12月28日中外商業(夕刊)〕など多くの日本の新聞が、12・9運動の全国的、全国民的拡大の事実を報道している。日本へ父がすでに亡くなっていたので、宗植にとって大伯父だけが唯一の支えだったが、京派だったために、宗植が上海の大学へ入りなおすことを許さなかった。学業を続ける道として宗植に残されたのは日本留学だけだった。大伯父は、とりあえず膝元である武漢の中華民国財政部の職員の身分を用意してくれた。名目的な身分とはいえ、月給は1935年9月からきっちり支払われて月々80元の貯金ができた。これはほぼ80円に相当し、かなりの高級取りということになる。大伯父の周到なお膳立てで、宗植は次第に中国社会主義革命から遠ざかる環境に身をおくようになった。資金の面でも日本留学の準備が着々と整ってきた。1936年7月、ほぼ1年間に蓄えた500元(525円)を持って上海から日本郵船の船に乗って長崎経由で神戸に上陸し、東京へきた。留学生活には年間に400円くらいは必要で、大伯父ちゃまに援助を請うこともできたが、どうしても自分の金で留学したかった。東京では高田馬場に下宿して神田にあった東和日本語学校へ通った。清華大学で1年以上日本語を勉強し藤村の小説や西田幾太郎の哲学書をある程度読むまでになっていたので、神田での日本語学習は順調だった。日本語の先生は一高に入って東大にいくように勧めたが、それでは卒業すると30歳になってしまうので、翌1937(昭和12)年4月、日大法学部に入学した。夏休みになると、杭州の女子師範を出て上海の学校で教師をしていた妹が日本に遊びにきた。しかし7月7日に日中戦争の発端となった蘆溝橋事件が起こった。日本と戦争になれば帰国しようと思っていたが、蒋介石の態度がはっきりしないので、少し様子をみることにした。しかし戦火は拡大し、上海が攻撃され日本海軍陸戦隊が上陸する。2~3日おきに警察が下宿にきて本や持ち物を調べる状態が続き、張宗植はついにこれ以上日本にいても意味がないと、帰国を決心した。たった1年の日本生活、ことに大学には3か月しか在学しなかったので、中国人留学生との交流はあったけれども、日本人学生の友人ができなかったのが残念だった。日本留学のひとつの目的であった「なぜ日本は軍国主義の横暴な国になってしまったかを自分なりに見究めること」もできなかった。ただ買い物などで東京の庶民と接するかぎり、中国で見る日本人とは異なってつき合いやすく警戒感がなかった。10年して再度日本にきたとき、敗戦という大きな歴史的転換をくぐっても、日本の庶民の雰囲気が変わっていないと感じた。張が中学時代を過ごした上海は商売の町なので「人を見たら泥棒と思え」といわんばかりに防衛本能が先立って、他人をなかなか信用しない気風がある。当時の東京は、これとは違った雰囲気だった。ただし、九段界隈にいくと軍人が多くて、彼らは一般の日本人とは別人のような感じを受けた。古典に親しんできた張宗植からみると、古くからの中国文化、特に唐・宋代の文化の雰囲気は中国よりむしろ伝わった日本のほうが大切にされている。中国は自分でつくった古代文化なので、自分の手で破壊することにあまりこだわりがない。1938年8月15日、張はカナディアンエクスプレスの船便で上海に戻り、すぐ武漢に急いだ。国共合作抗日総司令部へ武漢には、南京を追われた国民党が主導して共産党と民主諸党が参加した国共合作の抗日総司令部がおかれ、日本の占領地域をはじめ中国各地から学生が集まっていた。彼らには、日本軍の占領下では生活したくないという思いが強かった。学生たちは接待所で登録すると少尉として任官し、後方の仕事をする者は戦闘勤務の将校の70パーセントの給与を支給された。政府の学生救済という一面と同時に、知識階級の取り込みでもあった。郭沫若が長を務めていた第三庁に配属され、電報の漢字訳の仕事をした。漢字は数字コード化して電報で送るので、届いた数字を漢字に戻す作業が必要だった。例えば張という字は偏の弓が34、旁(つくり)の長が56なので、全体としては3456が張のコードである。漢字訳も3週間ほどでうまくいくようになった。ある朝突然清華大学の哲学の教授に出会った。「えっ、君どうしてここにいるの」「日本に留学していましたが、戦争がはじまったので学業途中で帰国しました」「私のところに来なさい。月刊誌『戦争文化』を編集しているので手伝ってほしい」そんなわけで、また雑誌の編集に携わることになった。しかし1938年秋、武漢に日本軍が迫り編集の拠点を重慶に移すことになる。大きな書類箱3個といっしょに船に乗って長江を遡ったが、船が大きくて重慶までは行くことができないで途中で降ろされてしまった。そこから先は喫水の浅い船に乗り換えなければならない。書類箱は岸壁に置かれたままで、ただ便船を待った。毎日、民生という船会社の担当営業部長と交渉する。「今日は乗せてもらえますか」「いや、この軍需物資のほうが優先だから」「もう、ずいぶん待ったんですが」「あなたのは必需品でないから」「雨でも降ったらおおごとだ。みんな駄目になってしまいますよ」「油紙が被せてあるから大丈夫です。それに冬が近いから雨なんてありません」いつまで経っても埒があかない。そのうちに船会社の人たちの仕事振りが嫌でも目に入るようになってむずむずしてきた。さまざまな機械部品、なかには飛行機もある。荷造りの上に英語の表記しかないものもあってよく読めないでうろうろしている。みんな仕事が遅い。張の持ち前の合理性と勤勉が鎌首をもたげてきて、とうとう「手伝いましょう」と口を出してしまった。この貨物は何立方メートルだからどこそこに積み込むといった手順を手際よく考えて、てきぱきと指示したので仕事が大いにはかどる。次ぎの日も手伝って営業部長に礼をいわれ、ついに自分の荷物のために2立方メートルのスペースを確保してもらうことに成功した。優先度の高い貨物が大きすぎて、2立方メートルでは不足だからという理由がつけられた。何日も時間を食ってしまったが、ここでの営業部長との出会いが張宗植の生涯を決定することになろうとは、彼自身まったく知るよしもなかった。重慶での雑誌出版は困難をきわめた。ろくな印刷機がなく、まともな植字工もいなくて、活字を自分たちで拾う始末だし、2か月かけてできた印刷は誤植だらけで、教授も「ここでは無理のようだね」と諦め顔だった。国民党政府が置かれた重慶には、共産党も代表部事務所を設置し周恩来がときどき駐在していたし、街は非常に混乱していた。重慶で船舶会社に就職こんな毎日を送っていた1939年の夏のある日、重慶の街中でばったり舟運会社民生のあの営業部長に出くわした。「やあ、奇遇ですね。ここであなたに再会するとは」「私も驚きました。懐かしい感じです」「ちょっと時間とれるんでしょう」「はい、今はそんなに忙しくありませんから」「じゃ、その辺でお茶でも飲みながらすこしお話しましょう」営業部長は何かいいたそうで、2人は近くの喫茶店に入った。「張さん、まだ雑誌の仕事やってるの」「ええ、まあ・・・・、でも重慶では満足な印刷ができなくて」「いくらもらっているの」「35元です」「実はね、秘書が一人欲しいんです。英語のできる人が欲しい。あなたの仕事振りを見ていてこんな人がいたらと思っていました。まさか舟のお客さんで抗日司令部の人にいきなり引き抜きを申し出るわけいもいかないで、みすみす取り逃した思いでしたよ」「あのときは、自分の荷物をどうしたら安全に一刻も早く重慶に運ぶかで頭がいっぱいで無我夢中でしたから」「いや、人間はそんな状態でこそ日頃もっている能力がそのまま出てくるものです」「はあ・・・・」「我が社にきてくれたら食事は3食とも会社負担です。制服も年に夏用2着、冬用2着支給します。給料は37元半出しましょう。どうですか、是非きてください」「上司と相談しなければなりませんが、いつからですか」「いつでもいいですよ。明日からでも」民生での勤務が始まった。社長は若いとき中学校で国語の教師をしていたが、中国の内陸水運が外国船に支配されているのをみて、どうしても中国の船会社をつくりたいという思いで民生を設立した。国民政府と強いつながりをもって、政府の物資輸送について長江の水運とトラック便を一手に引き受けていた。民生には三峡より上流にいける底の浅い舟が60隻あるのが強みだった。政府に業務報告書を提出する仕事で営業部長が各部からの報告をまとめて、それをもとに社長自身が中国語の筋書きにし、張宗植が整理して文書にし、英訳も担当した。全部長が集められたなかで、張は社長じきじきに仕事の首尾を賞賛された。まるで中学生が先生から誉められるようで恥ずかしいといったらこの上なく、首まで真っ赤になった。民生の輸送力が認められて、社長は国民政府の運輸副部長(副大臣)に就任した。そうなると民間会社の社長を兼任することができないで、代理人の副社長をおくことになった。上海の高名な弁護士でハーバード大学で法律を学んだ海上保険が専門の人で、英語が大変うまいI氏が選ばれた。彼は短い期間で社業全体を理解し社内を把握しようと考えて、よく社員のデスクを回っては話をした。張宗植のところにもやってきた。「張さん、仕事はどうですか」「うまくいってます」「忙しいですか」「いいえ、そんなに忙しくはありません」ほかの人にはこんなこと聞いてないから、これは何かあるなと張宗植は思ったが、正直に答えた。勤務時間は午前9時から午後5時までで、朝一番にまずロイターの電報を中国語に翻訳する。これは20分ほどで仕上がってしまうのだが、その日のうちに会社の上層部が読めるようにしておかないと次の日では意味がない。営業部長が出す返信手紙のうち通常の決まりきったものは部長自身が書き、特別なものを張が担当することになっていて1時間ぐらいかかるが、そう毎日ある仕事ではない。あとは営業部の会議録づくりだ。「1日の仕事量は何時間ぐらいですか」「そうですね・・・・日によってちがいますが、忙しいと3時間、暇なときは2時間くらいです」「余った時間はどうしていますか」「本を読みます」「どんな本ですか」「いま読んでいるのは地形学の本です」「自然科学が好きなんですね」「いや、特にそういうことではありません。本当は人文科学を勉強しましたが、河川交通に関連してたまたまこの本を読んでいるだけです」副社長とこんなやりとりがあって1週間も経たないうち営業部長がやってきて、「張さん、頼みたいことがあるんだが・・・・。僕としては、あなたにこの部署にいて欲しいんだけど、社長と副社長が社長室で働いてもらいたいというんで。この話、とにかく断らないでください」「部長にはお世話になりましたし、営業部のいまの仕事は気に入ってます。周りの雰囲気もよいので私もこの仕事を続けたいですが、部長の命令とあれば仕方ありません。社長室へいきます」社長室にはすでに3人の秘書がいた。1人はオクスフォード大学出身の四十歳をこえた英語のための秘書、1人は60歳過ぎのおじいさんで文も字もとてもうまい、もう一人は船のデザイン管理をしている秘書だった。張だけが20代の若さなので、秘書の肩書きの代りに社長室主任という職名を与えられた。1938年10月27日に武漢を占領した日本軍は、1939年5月には海軍の九六式陸上攻撃機をもって重慶の無差別爆撃を開始した。はじめのうち日本軍機を迎え撃って大きな損害を与えていた中国空軍機もやがて姿を消し、重慶は80回以上も空から日本軍に蹂躙されるようになった。とくに、重慶の市民に大きな苦痛を与えたのは2日にまたがる空襲である。日本軍は2機編隊で飛来して爆弾を投下して引き揚げるとまた別の2機がくるという具合に、少ない持ち駒で執拗に長時間にわたって空襲を続け、市民にいいようのない恐怖心と疲弊をもたらした。民生会社の事務所は重慶城内とは嘉陵江を挟んで反対側、南側は長江、西側は嘉陵江に面した二つの川の合流地点に建つ倉庫の中にあり、建物の下の岩盤に防空壕がつくられていて、敵機がくるとそこに避難した。しかし日本軍は城内だけを爆撃目標としたので、会社は空襲を受けずにすんだ。長江の南岸にあった張の住まいも、爆弾の直撃は食わなかった。最大規模の空襲のときには一般市民に多数の死者がでて、トラックが終日引きも切らず死体を埠頭に運び込み、そこから船に積み換えてさらに下流のどこかへ運んでいくのが事務所から見えた。多くの犠牲者は防空壕の中で窒息死したといわれている。張が会社の同僚と城内に見にいくと、町は至るところ瓦礫で、ときたま家の壁の一部分が残っていて、ガラスが吹き飛んだ窓から腕がぶら下がっていたり、長江の流れに首のない死体、足だけ、頭だけが浮かんでいた。マージャン牌を握った手だけが主の無念さを訴える光景もあった。哀れを誘ったのは頭のない子どもの死体、腸が破れた女性などだった。パールハーバー以後、日本が軍事力の重点を中国大陸から太平洋方面に移したので重慶空襲はなくなり、市民は緊張から解放された。一方、国民政府の軍事輸送を仕切っていた張の勤務する船会社民生としては仕事が減った。ヨーロッパへ1942年、I副社長は外国文献を調べて運輸に関する法律の本を書いて中華書店から出版することになった。当時国民政府支配の地域で文化関係の著作を出版しようとすると、すぐに共産党の嫌疑をかけられて困難に直面することが多かった。出版社もなかなか引き受けてくれなかったが、法律の本にはそういう厄介な問題がなかった。副社長とはとても馬が合ってうまくいっていた張は、原稿の校正を頼まれた。Iは英語に堪能だが、中国語と船舶運輸関係の張の知識を見込んだうえでのことだった。1944年には海上保険法の著作が同じように張の協力で出版され、かなりの好評を得て版を重ねた。1942年ごろから民生と広大華行の2大会社が提携して民安という保険会社を設立する話がもち上がった。民生の元社長は国民政府運輸部副部長といってもそれは名目的で、実際は出身の民生の仕事をしているほど民生と国民政府の結びつきは強い。一方の広大華行は周恩来がバックアップしているといわれた。民安保険会社の会長は民生から、社長は広大華行から出すことになり、1943年に設立され、次の年から業務を開始し、張宗植は新しい民安保険会社に出向することになる。ヨーロッパでドイツが降伏して戦火が収まり、アジアでも日本の敗戦によって15年戦争といわれた日中戦争とそれが行き着いた果ての太平洋戦争が終結して数か月後、1945年11月に戦時国際傭船決済事務会議がロンドンで開かれることになった。戦争中は各国で船腹が不足して外国の船を借り入れた。米国に借り上げられた中国船のなかには南米で就航したものもある。しかしチャーター料、修理費、営業費などの決済がまだ済んでなかった。国民政府は会議出席を民生に委嘱した。会社は英語担当の秘書にロンドン行きを相談したが、行きたくないと拒否された。誰も戦争が終わってすぐのヨーロッパなんか嫌だという。社長は会社の接待所に泊まり込んで社内のいろいろな人に当たったが、うまくいかなくてだんだん不機嫌になった。金曜日のことだった。社長に会った張は、好機到来とばかり社長にロンドン行きを売り込んだ。「私なら二つ返事でいきます。海外は日本以外にいったことがないので、ロンドンはいってみたいです」「ふーむ、でも君は若すぎるな」次ぎの週の月曜日、代理社長が張の席にきて「あなた、本気でロンドン行きを社長に申し入れたんですか」「もちろん真剣です」「社長も真に受けていますよ」「そうだったんですか。感謝します」張のロンドン会議出席が決まった。外交官旅券をもって、連合軍輸送部隊のDC3に乗ってカルカッタ、カラチ、カイロ、パリ経由でロンドンまで丸1週間かかった。たった1人で中華民国大使館にいき、打ち合わせをして会議に出ると、もう結論が決まっていてサインしろというばかりだった。会議とは名目だけの形式で、実質は大国が事前に決めていた。さらに、十二月のコペンハーゲンの国際海事会議に出席するためにパリで副社長と落ち合った。今度は、代表として出席するのは副社長で、張は秘書・顧問という肩書きである。空港は冬の深い霧に包まれていていつまでたっても晴れない。その日の昼まで待って、結局宿舎に引き揚げた。次の日もさんざん待たされていると、突然隣の男が英語で大声を出した。「特別機を出せ!」どうもコペンハーゲン行きのアメリカ代表で、上院議員らしい。これを聞いて英語がひじょうに堪能な副社長がこれはしめたと頼み込む。「もし特別機が出るなら、我われ中国代表も乗せてもらえないでしょうか」「かまわんよ。同じ戦勝国じゃないか」たちどころにOKの返事だった。小一時間して司令部から、ドイツまでなら特別機を飛ばせてもよいという許可が出た。ただしフランクフルトまでで、あとはそのときの天候状態で決めるとのことだった。戦争直後の破壊され尽くしたドイツも少しばかり見て、それからコペンハーゲンに向かった。会議が終わってスエーデンとノルウェーを回ってロンドンに戻り、船舶運輸と保険のことを研修するためにしばらく滞在することになった。政府代表としての国費による滞在費が切れたら会社が負担するという条件だ。翌1946年6月にコペンハーゲン会議の続きがシアトルで開かれるので、代表の副社長の随行員として参加するためにニューヨークに渡った。今回は米国政府の招待で東海岸から西海岸のシアトルまで各地を視察した。そのころ設立されたばかりの民生と広大華行のニューヨーク事務所に張が立ち寄ったのは当然である。シアトル会議が終わってイギリスに戻って研修を続け、1947年5月に上海の本社に帰任するはずだったが、彼を待っていたのは広大華行ニューヨーク支店行きだった。広大華行の対米貿易が猛烈な勢いで拡大していて、人材が至急求められていた。張にすれば、当面の助っ人なのでその年の暮れには帰国できると思っていたが、八月に日本の貿易再開が発表されると状況が変わってしまた。日本との貿易東京の連合国総司令部は、日本との貿易に参加できる事業所を各国ごとに108と制限した。中国では共産党と国民政府の内戦が拡大し、共産党のバックアップがある広大華行は蒋介石を支持するアメリカに睨まれていたので、中国の108社の中に入れてもらえなかった。広大華行本社はそれならばと、ニューヨーク支店をアメリカの対日貿易108企業に潜り込ませようと作戦を立てた。張はニューヨーク支店長とは重慶時代からの知り合いだし、戦前日本にいたことがあって日本語もできる。担当者に最適だと本社は判断した。日本派遣は寝耳に水だった。支店長に話を聞いて張は驚いた。「民生でも社内の仕事ばかりで、貿易や商売はしたことがないので勘弁してください」「私としても、張さんがいいと思うけど」「他の人を推薦してくださいよ」「支店長の分際じゃどうしようもない。いま本社に電話入れるから直接社長と話したら」ほどなく電話がつながり広大華行のR社長がでる。「社長ですか、張です。支店長にも話したんですけど、私は適任ではないです。どうか誰か他の人にしてください」「もう民生の社長にも話してあります」「日本へ行っても商売のこと何もわかりませんけど」「商売なんて簡単です。商売の道に入るときは誰でも素人だけれど、3年たって素人はいないんです。張さん、あなたのことは重慶のときからよく知ってます。冗談いわないでくださいね。どんなに商売が上手な人も、あなたには及びませんよ。もう決まったことですから、国には帰って来ないでください。」「社長にそうまでいわれては仕方ないです。承知しました」すぐにワシントンの弁護士を訪ねて手続き代行を依頼すると、「難しいことを頼まれたようで、望みは少ない」と宣告された。八月十五日に受付が始まって月末までにもう5~600社が申請するという盛況で、あとはキャンセル待ちで2年はかかる状況のようだ。超大企業のGMですら同じことらしい。「気長に待ってください」と気休めともつかないことをいわれ、ともかく写真とパスポートを添えて書類だけは提出した。ところが9月20日ごろ弁護士から手続きすれば10月には日本に行けると連絡してきた。事情を聞くと、コカコーラやマクドナルドを含む第一次決定の各社が大挙して日本を視察したところ、ほとんどが失望して帰国した。日本は、もちろんアメリカの物が欲しいが外貨がない。アメリカが日本の物を買ってくれさえすればドルが手に入るから、それで米国の物を輸入できるという理屈だが、肝心の売り物がない。日本にあるのは焼け跡ばかりで、アメリカの会社が買い付けたいようなものはない。そんな判断を下して対日貿易参入のキャンセルを記者発表した。1947年10月、張宗植は広大華行の日本駐在員として赴任した。GHQ(連合軍総司令部)の指定によってパレスホテルが住居、いまの住友信託ビルのある東京ホテルの四階の一室に事務所を構えた。USスチールの紹介でGHQの科学技術担当官を訪ねると、アメリカの会社が日本に進出しないのはアメリカ人の理解不足によるものだ。戦前のような絹などはないけれども、日本は有望な貿易市場だという話を聞いた。張が真っ先に手がけたのは中華料理の食材だった。ニューヨークのチャイナタウンで干貝柱や寒天が大量に使われていて、日本も生産していることをよく知っていたので、これなら必ずアメリカが日本から買うことができて商売になると考えた。住友商事を窓口に東北と北海道で仕入れてアメリカに輸出した。来日して三か月たらずで日本から米国への輸出が18万ドル、米国から日本への輸入が二万ドルの実績をあげて周囲を驚かせた。夜になるとすることがなく、時間を持て余していた。あるとき同じホテルに住んでいたヴィックス社の人とプレールームでトランプをしながら四方山話に花を咲かせていた。ヴィックスの喉飴の材料にするハッカを買い付けに来日したと聞いて、「ハッカはいけるぞ」という張の鋭い商売勘が働いた。戦前までは北海道の北見地方がハッカのメッカで世界中からバイヤーが集まり、ハッカ相場は北見で決まるといわれたほどだった。北見は戦争中に生産量が激減し、もうひとつの生産地である中国の長江北部も日本軍が栽培を禁止したために減少してしまって、世界中のハッカの需要と供給のバランスが崩れていた。GHQの貿易局に対して、ヴィックス社は日本の輸出量のすべてを輸入したいと申請した。喉飴にハッカはどうしても必要で、いくら買い付けても十分ということがないほどだった。張も同じように全量輸入を申告し、ほかに数社が一定量の輸入を希望した。貿易局が決定した割り当ては、ヴィックス社と張の広大華行が日本の輸出量の三分の一ずつ、その他の申請者は合わせて三分の一というものだった。張の勘はまんまとに当たって、売り手市場のハッカを大量に手にすることができた4800ポンドのハッカのアメリカ側引き受け窓口としてニーヨークの貿易商がすぐに見つかった。売りさばけなかったら知らせるように依頼した。張には「ヴィックス社に話を持ち込めば必ずいい値で買い取るはずだ。日本の輸出の全量が欲しかったのだから」という心算があった。アメリカの広大華行の日本代表として、はじめは米国だけを取引き相手にしていたが、1949(昭和24)年から上海の本社とも直接取引きするようになった。中国とはバーター貿易しか認められなかったので帳簿で価格を調査するのも手間がかかったし、中国から日本へ先に品物が届かなければならないという、まるで中国が信用されていない貿易システムも問題を難しくしていた。それでも大豆、大豆かす、菜種かす、桐油、鉄鉱石などを日本に輸入した。1949年に中華人民共和国が成立し、翌年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると中国との貿易は禁止された。アメリカは中国との国交を開かなかったので、その年の暮れには広大華行もニューヨークから撤退したが、米国の広大華行にいた人たちはサミット・インダストリーという会社を設立して貿易業務を続けた。張はその会社の日本駐在員ということになった。1952年4月28日の対日講和条約発効とともに、SCAP(連合軍最高司令官)が発行した身分証明書による張宗植の日本在住資格は消失した。代わって貿易業務の実績がある人に対する日本政府の半永久在住資格に切り換わった。台湾国籍でも中華人民共和国国籍でもない個人としての在住権である。1954年10月、彼は森美貿易株式会社を設立して独立した。とはいっても米国のサミット・インダストリーとの提携は続けた。森美というのも広東語の発音でサミットに通じるし、妻の旧姓杉森の一字と同じということでつけた社名だった。張宗植の日本名森宗一も妻の旧姓と本名から決めた。張は中国で結婚して息子が一人いる。しかし単身で外国に赴任している間に祖国には革命を経て中華人民共和国が成立し、なかなか帰国できないでいた。中国の安定した状態を待つうちに、時が流れ帰国の機会を逸してしまった。当時は、夫が外国にいるというだけで妻はスパイとみなされて離婚を迫られた。日本から送金すればなおのことスパイの嫌疑が深まるばかりだった。華僑総会を通して連絡をとったりいろいろ努力したが問題解決は進展しなかった。家族を呼んだとしても言葉の壁、経済的リスクを考えるとなかなか踏ん切りがつかない、妻に相談したくても入国許可がおりない。どんなに仕事に精をだして励んでも、このことは一時も頭から離れなかった。生きながら心臓に楔を打ち込まれて、その先に重い鉄塊を曳きずっているようだった。しかもそれをつなぐ鎖はあまりにも太く頑丈で絶対に切れることがない。こんな状況が続いて講和条約が締結される少し前1952(昭和27)年に突然、東京華僑総会から連絡を受けて、妻が党の方針に従ってすでに離婚届を提出し受理されたと知った。妻がいちばん夫の助けを求めて苦しんでいたときに何もしてあげられなかった悲しさ、悔しさ、空しさが張を苛んだ。彼は日本永住の道を選んだ。銀座八丁目のいまの全国燃料会館にあった張の事務所に杉森春江が入社したのは1949年だった。経理を担当した彼女は、このころすべてを失ったような張を見て、「私がいなければこの人はどうなってしまうだろう」と思ったという。彼女の胸に密かな愛が芽生えていた。2人はやがて結婚して、2人の娘をもうけた。精油所輸出第一号ベトナム戦争が激化するにつれて、米国はタイ国内の基地強化と、隣接するラオス、カンボジアとバンコクを結ぶ高速道路建設に乗りだした。ところがアスファルトがないというので、ニューヨークのサミット・インダストリーはバンコクに支店をつくってアスファルトの商売を手がけることにした。タイ国内ではアスファルトが生産されてないし、アメリカから輸入するのでは高くつく。張は日本国内を調べてみたが、日本も道路建設ラッシュで生産されるアスファルトはあらかた国内で消費されて、輸出のゆとりがほとんどない。それでもM石油に少し余裕があること、T石油が道路公団に納入しているが中間マージンをとられていることがわかった。森美はT石油から道路公団が買い入れるのと同じ条件で月に1000トンを買い付ける契約を結んだ。M石油の分も買うことにした。決済はニューヨーク経由で行った。それでも毎月の買い付け量に変動があって、もっと安定したアスファルト供給が必要だった。台湾の石油会社のチーフエンジニアに依頼してニューヨークへ行って協議してもらったところ、タイ国内に精油所を建設してアスファルトを生産するのがよいという結論になった。エッソやシェルが中東で石油採掘を開始して精油が間に合わない時代で、新しくタイに精油所を建設しても十分採算がとれる見通しだった。ところが精油所は国防関連施設なので外国資本による建設は許可できないと、タイ政府から拒否された。頭のよい人がいて、それならアスファルト工場として申請して、主生産品の副産物がケロシンという手を考え出した。事実上は精油所なのだが、とにかく許可が下りた。25年間操業したあと、無条件、無償で経営権をタイ政府に引き渡すという約束だった。張は日本のエンジニアリング会社に精油所建設を頼みたかったが、ニューヨークのサミット・インダストリーは日本の技術を信頼しないで、アメリカの廃業精油所を解体してタイへ移築することを主張した。結局、解体と輸送コストがネックとなってこの案は中止になり、アメリカの設計で日本が加工、建設することになった。三菱商事のコーディネイトで八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、千代田化工、日本揮発油がプロジェクトに参加した。当時日本の精油所建設業界はほとんど仕事がなく、人件費も安かったので、コストを抑えることが可能で、日産3万バーレルの新しい精油所が米国の3.5万バーレルの廃精油所の移転より安くできた。日本の精油所輸出第一号だったので、通産省への説明には、張も三菱商事の担当者に同行した。サミット・インダストリーとチェースマンハッタン銀行の関係からアメリカ側の資金調達も円滑にいった。日本でも大蔵省の許可が下りて生産開始から15年の返済を条件に輸出入銀行の融資が受けられた。原油も精製品が売れてから代金を支払うという破格の条件でエッソから入れることになった。精油所は一九六二(昭和三七)年に操業を開始し、1965(昭和40)年には三菱長崎造船所で専用タンカーが完成、1967(昭和42)年には日産17万バーレルに拡張された。1963年にマレーシア連邦から分離独立したシンガポールには、エッソやシェルが経営する外国の精油所しかなくて、自分の国の精油所を求める機運が高まっていた。1969(昭和44)年にシンガポール開発銀行とサミット・インダストリーの半々出資で石油会社を設立し、精油所の建設にとりかかった。シンガポールは多民族国家だが中国人が多数を占めるので、ニューヨークの中国人の会社であるサミット・インダストリーはうまくいった。工事は日本の会社が請け負った。精油所の完成が近づくと会社に十万ドルを準備してもらい、「竣工が1日早まるごとに報奨金を1万ドル出す」といって急かせたので、予定より7日も前にでき上がり引き渡しが終わった。はじめから日本との取引きは森美が独占的に取り扱う契約を結んで、1973年に対日輸出がはじまった。通常、重油の硫黄分は2.5から3.5パーセントだが、日本の発電用重油は1パーセント以下が要求された。シンガポールでは日本向けに当初から硫黄1パーセント以下の重油を精製し、東京電力と関西電力に納めた。ナフサはガソリンにしたほうが高値に売れるけれども、シンガポールではガソリンの需要が多くないので、石油化学製品の原料としてのナフサが不足している日本に輸出した。原油価格はアラビアなどとの長期契約で安定していたために、1974(昭和49)年の石油危機でも値上げ幅は大きくなかった。そのために通常の対日取引きを超える余剰分は1バーレル当たり200円から300円も儲かった。ケロシンは日本では主として暖房用の灯油で、夏場の需要が極端に落ちる。タイでは家庭の炊事用にプロパンガスではなく灯油が使われるためにケロシンは一年中売れるので、夏期には輸出先を日本からタイへ切り換えて、販売量の平準化をねらうなどいろいろ工夫を凝らした。25年経って、バンコクの精油所はタイ政府に移管された。この5~6年石油業界はどこも経営状態がよくなくて赤字に悩んでいるなかで、シンガポールはまだ黒字を続けているとはいえ儲かっていない。中国を思う1977年に上海で画家をしている母の弟に会ったとき、張は中国に残した長男の子ども、つまり自分の孫が孤児になっていることを知って衝撃を受けた。その孫は、いま合肥の中国科学技術大学の教授である。上海で教師をしていた張の3つ下の妹は、1938年にインドネシアで私立の華僑学校を経営していた友人に招かれて校長を務め、当地の華僑と結婚した。しかし華人学校が一時禁止されたこともあって、夫の商売を手伝うようになった。3人の子どもも成長し、息子はディズニーキャラクターの陶器をつくって米国に輸出している。二人の娘も日本経由でアメリカに渡って教育を受けた。張の異母弟は中国に残っている。中国の外資信託投資公司からサミット・インダストリーに中国国内3か所の石油探査の話があった。1980年1月にニューヨークからサミットのバックであるチェースマンハッタン銀行の人が、バンコクからは張が、それぞれ北京へ向かい、10日間滞在して話し合った。中国政府の華僑資本を歓迎する方針に沿って、サミットは石油探査に関心はなかったうえに、強いビジネス意欲をもつ精油所については当面計画がないという話だったにもかかわらず、長期的な視野にたって200万ドル投資して予備調査を専門会社に依頼した。しかし、有望な油田の可能性はなかった。その中国訪問のとき、何人かの昔なじみに会いたいので段取りを依頼した。張が勤めていたときの広大華行の社長、大学の同級生で文部大臣のS、その他に2~3の人をあげた。10時にいとこの奥さんと一緒に文部省に行くつもりでホテルの自室にいると、9時にドアがノックされた。誰だろうと思ってドアを開けると「張宗植さんですね。私、文部大臣のSです」「えっ、いくら昔の同学でも、いまは文部大臣の地位でわざわざホテルに会いに来ていただくとは感激です。どうぞお入りください」「噂で、日本にいるとは聞いていたけどね。会いたくて、役所にいても待ちきれないでホテルに来てしまいました」大学時代の話が、あれやこれや止めどなく湧き出てたちまち時間が過ぎてしまった。張宗植は85歳の今日まで30年間を中国で、2年間を欧米で、そして53年間を日本で生活してきた。彼はいう「中国革命がなかったら中国に帰っていたでしょう。友人のなかには帰国した人が大勢います。また、もし日本で商売ができなかったら、状況は変わっていただろうと思います。とくに、文革がなかったら祖国に戻っていた可能性が高いですね。昔は台湾にたくさん知人がいましたが、いまは北京のほうに知った人が多いです。副総理など共産党の重要人物も友人です。トインビーの世界史に、かつて全世界の3分の1が中国だったと書かれています。それが清の時代にヨーロッパ帝国主義の植民地になって中国の没落がはじまり、1930年代になると中国人はまったく意気消沈してしまいました」「何とかして、世界の人たちと対等に伍していきたかった。学生運動はそんな気持ちからだったのです。でも、現実には日本軍の侵略があり蒋介石は無抵抗でした。そこに毛沢東が出てきました。僕は1947年まで中国にいましたが、それ以後は中国に何も貢献してきませんでした。それが恥ずかしいんです。自分がかつて学生だったときの気持ちを思い起こして、中国の大学のために、学生のために何かをしたいと考えました」そんな心境から、張は清華大学に「12・9奨学金」を、中国科学技術大学に「科学技術奨学金」を設立し、それぞれ40万ドルと20万ドル、合せて60万ドルの私財を拠出している。7時間にわたる話のくくりに張宗植はしっかりとした口調でいった。「侵略戦争はだめです」
2023.08.27
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共産党、職員の「労働者性」を正式に認める 不当解雇めぐる“カジュアル除名”訴訟で方針転換日本共産党から除籍された元福岡県委員会職員で作家・漫画評論家の神谷貴行氏が、不当解雇だとして地位確認などを求めている訴訟で、第5回口頭弁論が開かれた。被告である共産党側が、神谷氏について「労働基準法が適用されることを否定しない」と準備書面に明記し、労働基準法上・労働契約法上・労働組合法上の「労働者」であることを、正面から認めたことを明らかにした。~2024年8月、県委員会は神谷氏の除籍を決定。これに伴い、党職員としての地位も失った。この除籍と解雇について、神谷氏側は「本来なら『除名』の手続きが必要なのに、簡易な除籍の手続きで処分を済ませた『カジュアル除名』であり、実体的にも手続き的にも無効だ」と主張。さらに、除籍の真の理由は「党執行部と異なる意見を述べたこと」にあると指摘している。労働者性を明確に認めるこれまでの裁判で共産党側は、神谷氏ら党職員について「一般私企業のサラリーマンとは違う、職業的専従活動家」などと位置づけ、労働者性を曖昧にしてきた経緯がある。しかし、原告側は第3準備書面等で神谷氏の労働者性を肯定するのか否定するのか、共産党側に対して明確な回答を求めており、今回ようやく「労働法の適用を前提とする」立場を認めさせた形だ。会見で神谷氏は、「党は、利潤追求する一般企業のサラリーマンと党職員の性質は違うと言うが、利潤追求をしないというのは、NPO職員や社会福祉法人の保育士にもそのまま当てはまる。だからといって彼らが労働者ではないとは言えないはずだ」と指摘。~---神谷氏の除籍については以前にも記事を書いたことがあります。神谷氏と共同歩調をとる松竹氏も、除名撤回を求めて裁判を行っています。私も松竹氏の除名にはがっかりした人間の一人ですが、裁判で勝ち目があるかどうかというと、正直厳しいのではないかという気がします。松竹氏は、除名当時は共産党と雇用関係にあったわけではないので、「解雇無効」の争いとは性質が違うからです。しかし、神谷氏の裁判は違います。共産党は当初党職員を「一般私企業のサラリーマンとは違う、職業的専従活動家」だと主張して解雇を正当化していたようです。もちろん政党職員が「一般私企業のサラリーマンとは違う」のはそのとおりです。でも、営利企業のサラリーマンとは違う=労働者ではない、などという図式が成り立つはずもありません。まさしく神谷氏が指摘するとおり、NPO職員や社福法人の職員は、利潤追求の一般企業のサラリーマンではないけれど、労働者であることに変わりはないし、労基法の適用を受けます。公務員もそうです。「一般私企業のサラリーマンとは違う」から労基法の適用は受けない、なんて理屈は滅茶苦茶なもので、そんな理屈が通るわけがありません。ましてや、労働者の権利を守ることを党是とする政党なのですから。なので、遅ればせながら、共産党自身がその誤りを認めて労基法の適用を受けることを認めたことは、喜ばしいことです(あまりに遅かったけど)。ただ、そこまで認めたなら、当然この解雇が労基法に反していたことも認めるべきだし、解雇が誤りであったことも認めるべきではないのか、と私は思います。残念ながらそうはならないような気はします。一方で裁判の帰趨については、共産党側が党職員を労基法の適用を受ける労働者と認めた以上、神谷さんが勝訴できる可能性がある(比較的高い)のではないかと期待しています。
2025.12.24
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あけましておめでとうございます、と言いたいところでしたが、新年早々、とんでもない事態が起こっています。ベネズエラ、首都での爆発めぐり米国による「軍事侵攻」と非難 国防計画を発動ベネズエラ政府は3日未明に首都カラカスをはじめとする各地で爆発が報告されたことを受け、米国による「極めて深刻で重大な軍事侵略」だとして非難した。政府は声明で、米国がカラカス、ミランダ州、アラグア州、ラ・グアイラ州を攻撃したと主張した。声明によると、マドゥロ大統領は非常事態宣言に署名し、すべての国防計画を「適切な時期および適切な状況下で」実施するよう命じた。また、同国の社会・政治勢力に対し動員と国防を求めた。声明には、「ベネズエラ国民と国軍は、人民・軍・警察の完璧な一体性のもと、主権と平和を保証するために展開される」と記されている。ベネズエラは国連安全保障理事会、国連事務総長、その他の国際機関にも苦情を申し立て、米国に対する非難を要求するという。---別報道によると、米軍がマドゥロ大統領の身柄を押さえた、とも言っているようですが、現時点では真偽不明です。マドゥロ政権に多くの問題があることは事実ですが、だからと言って外国軍が侵攻して、ましてや(現時点では事実かどうかは未確定てすが)現職の大統領を拘束する、それは侵略であり、国家主権の侵害です。ロシアがウクライナに対してやっていることと何が違うのか?と言わざるを得ません。このような行動を是とするなら、道義的にロシアのウクライナ侵略を批判できる道義的根拠は失われるし、今後中国が台湾に侵攻するような事態が起こった場合、それを批判できる道義的根拠も失われます。何しろ、ベネズエラはどこからどう見ても米国にとって外国です。そこに侵攻することが是であるなら、ましてや中国にとって「外国」ですらない台湾(台湾自身も諸外国も、台湾を独立国とは見なしていない)に侵攻することは、となります。
2026.01.03
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8か月の未納で失った「一生分の障害年金」 年97万円がゼロに...手足3本失った僕が直面した現実事故で手足を3本失った山田千紘さんは障害等級が最も重度な1級だが、「障害年金」を受給できていない。保険料の納付義務が生じる20歳になった後、定められた期間分を納付していなかったためだ。「もちろん僕に落ち度がある」という山田さん。代償は大きかった。障害基礎年金の受給額は年額約97万円。障害がある中で何かとお金はかかる。手足を失った絶望に加え、金銭面での不安ものしかかった。19歳の時に家庭の事情で大学を中退した後、半年ほどのアルバイト生活を経て、ケーブルテレビの会社に就職しました。20歳になってから8か月後のことです。就職から2か月後、電車事故に遭って右手と両足を失い、障害者になりました。20歳から就職までの8か月間、僕は納めるべき国民年金の保険料を納付していませんでした。当時の僕は目の前の生活をするお金に余裕がなく、年金を軽視していたのかもしれません。国民年金は過去2年までなら後から納付できるということだったので、「正社員として働くようになってからまとめて納めよう」くらいに思っていました。ところが、いざ働き始めて2か月で交通事故に遭って、厳しい現実に直面しました。障害年金を受給するには、障害の原因になったケガの初診日前日から数えて2か月前までの被保険者期間のうち、3分の2以上の期間で保険料納付か免除が必要。僕は20歳で被保険者になってから10か月の時に事故に遭ったので、8か月間のうち6か月分を納める必要がある。でも未納だったから、障害年金は受給できないということでした。僕は障害等級が最も重度な1級で、もし障害基礎年金を受給できた場合、現在の支給額は年に約97万円です。それが一生受給できません。(以下略)---年金保険料を払うべき(払えないなら免除申請をすべき)である、という話は過去に何回か書いています払えない人は免除申請しておけという話非正規雇用の若者も国民年金保険料を支払うべきである障害基礎年金についてもその時に一応触れていますが、その障害基礎年金を、保険料未納のために受給できなかった、という方の話です。何ともかわいそうな話ですが、制度がそうなっているので、どうにもなりません。国民年金の未納率は一時期より改善しているようですが、それでも100万人以上が未納だということです。生活が苦しくて年金が払えないなら、免除申請(所得に応じて全額免除から1/4免除まで)や支払い猶予という手段もあります。免除申請していれば、その期間分の年金額は、全額免除なら半額になります※が、逆に言えば手続きさえすれば、お金を払わなくても半額の年金はもらえるのです。手続きをしなければ1円ももらえません。ならば免除申請する方がよいに決まっているではないですか。※現在は年金保険料と国庫からの拠出が半分ずつなので、免除期間の年金は半額出ますが、2009年3月までは、保険料2/3、国庫1/3だったため、それ以前の免除期間分の年金は1/3しか出ません。それでも、老齢年金に限定すれば、年金は40年間完全に支払い続けた満額で月額約6万5千円(実際の支払いは2か月ごとなので2か月ごとに約13万円)です。1か月の納付は年金月額の約135円分に相当します。だから、1か月の未納くらい、たいした額ではない、とも言えます(なお、厚生年金の金額は、国民年金のように単純に保険料額×納付月数ではありませんので念のため)。でも、老齢年金での1か月の未納は「たいしたことはない」としても、障害年金ではそれが致命傷になることがあり得ます。引用記事にあるように、障害年金の受給にはケガの初診日前日から数えて2か月前までの被保険者期間のうち、3分の2以上の期間で保険料納付か免除が必要だからです※。※2026年3月までは、特例で初診日前日から2か月前までの直近1年間に1か月も未納がなければ障害年金の受給資格が得られます。もっとも、引用記事の例は直近の8か月で未納なので、この特例にも該当しません。とはいえ、ご本人は「もちろん僕に落ち度がある」と書いておられますけれど、なかなか20歳や21歳で将来の年金を心配したり、ましてや自分が障害者になった時の備えをする、というところまでは考えないものです。私だって、若い頃はそんなところまでは考えていませんでした。ただ、亡父が社会保障制度を重視する人で、といっても自営業だったので年金加入歴の大半は国民年金ですが、未納なく全部納付し、加えて国民年金基金も制度が始まった時から加入していました。年金自体もさることながら、家を改築した際、ローンの審査で年金未納歴の有無が調べられたこともあったそうです。未納歴があると審査が通らなかったのかどうかは知りませんが。そんなこともあって、父は「年金未納はよろしくない」と常々言っており、そのため私も、前職から現在の職場に転職した間の、たった1か月の無職期間も、国民年金に加入しています。だから、私の年金未納もゼロです。ただそれが自分事として心底「重要」と思うようになったのは、40を過ぎてからです。というわけで、まだ右も左もわからない若者が、ついつい年金を払わないのは仕方がないことであり、それを同行は言いません。ただ、それで何か起きてしまった場合、経済的不利益はすべて自分自身に降りかかってくる、その時になって「しまった」と思っても手遅れ、ということです。この記事の例のように。ただ、この記事の方は、これだけの障害を負ったにもかかわらず、その後定職についてちゃんと収入を得ておられるようなので、障害年金がもらえないことが、彼、あるいは家族に致命的な影響は及ぼさずに済んでいるようです。元々の能力の高さと幸運に恵まれたのでしょう。それは不幸中の幸いだったと思います。しかし、世の中の多くの人の場合はそうはいきません。年金が受給できるほどの障害を負った人が、仕事を継続する、あるいは新たに職に就くのは、なかなか困難を伴います。だから、1か月の年金未納が悲惨な結果に結びつく、という事態もあり得ます。福祉事務所関係の知人が漏らしていたことがありますが、やはり生活保護に至る人には、この種の社会保障制度について、いい加減な対応に終始してきた人が少なからずいるようです。生活保護の面接相談員は、保護申請を受ける際に基本的に年金加入歴を確認するのだそうですが、その際、年金保険料を払っていない人から、大要「年金には頼らない」という趣旨のことを言われたことがあると聞いたことがあります。あやうく「年金には頼らないのに生活保護には頼るんですか?」という言葉が出そうになって、かろうじて自制した、と言っていました。もっとも、それとは逆に、保険料を1か月の未納もなく全額払って国民年金を満額受給していて、それでも生活保護、という人も大勢いるのだそうです。国民年金満額受給の人は、もらっている年金額が全員同額なので、「収入認定額」を見ただけでそれとわかるそうです。満額もらっても生活保護基準以下、という国民年金の金額には問題はありますが、それてもないよりはある方がはるかにマシです。というわけで、人生どこに落とし穴が潜んでいるか分かりません。わずか8か月の年金の未納によて障害年金がもらえない、という引用記事のような事態も起こり得ることを肝に銘じて、年金はきちんと納付する、できないなら免除申請する(学生であれば学生納付特例制度の申請)べきである、ということを声を大にして申し上げておきます。ちなみに、うちの子にも、この記事を読んですぐ、20歳になったらすぐに学生納付特例制度の手続きをするように言いました。---余談ですが、引用記事に「障害等級が最も重度な1級で」とありますが、これについては補足が必要と思われます。これは「身体障害者手帳」の1級とは違います。障害基礎年金も障害者手帳(身体障害、知的障害、精神障害いずれも同様)も、程度が〇級と表現されるので混同しがちですが、年金と手帳の障害程度は異なった制度であり、申請や審査も別々です。引用記事の事例では、おそらく保険料未納で年金受給資格がない、とはつゆ知らず、病院で障害年金申請を勧められて、医師の診断書を書いてもらって(それが1級相当だったのでしょう)、ご家族が申請に行ったのではないでしょうか。この事例のように両足と片手切断では、手帳も年金も1級になるでしょうが、もっと程度の軽い障害では、手帳と年金で級が異なる、手帳は該当したけれど障害基礎年金は非該当、逆に障害基礎年金は出たけれど手帳は非該当、という事態も結構あります。そして、引用記事の「障害の原因になったケガの初診日前日から数えて」という記述から想像できると思いますが、障害基礎年金の受給に関して、年金加入歴と同様に重要なのは「初診日の特定(証明)」です。初診日がいつかが分からないと(診断書等で証明できないと)障害基礎年金は受給できません。身体障害では比較的まれですが、精神障害では、本人に病識がなく、あるいは手続きを行う事務処理能力がなく、何年も放置状態、ということがよくあります。その間に散発的に精神科に通院しても、それが継続しない。やっと手帳取得や障害基礎年金受給に動き出したときには、いつどの医療機関が初診だったのかもはや分からなくなったり、あるいは初診の医療機関が診療データの保存期間を過ぎている、最悪の場合はもうその医療機関が現存しない、という事態で障害基礎年金受給不可能、という事態が起こります。年金未納ダメ、ゼッタイ、と同様に、手続きの放置もダメ、ゼッタイ、なのです。
2022.08.24
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ロシアのミサイル在庫は危機的な低水準に ウクライナ国防情報総局ウクライナ国防省の情報総局は、ロシアの複数種のミサイルの在庫が危機的な少なさになっているとみている。ウクライナ国防省のブダノフ情報総局長は「ロシアの防衛産業は新しいミサイルを十分に製造できず、2月24日に戦争に突入した際に有していたミサイルはすでに底をつきつつある」と声明で述べた。「多くの品目の在庫はすでに危機的なレベル、つまり30%を下回っている」とブダノフ氏は指摘した。例えば巡航ミサイル「イスカンダル」の在庫は通常の13%に落ち込んでいるという。ロシアのミサイルの在庫は推測だ。ウクライナのゼレンスキー大統領は5月、ロシアは2154発のミサイルを発射し、おそらく精密誘導ミサイルの60%を使い切ったと述べた。しかしこれは希望的観測のようだ。米国防総省は同月、ロシア保有の兵器のうち「巡航ミサイル、特に空中発射のものが最も少なくなっている」としながらも、ロシアには戦前の在庫の50%超が残っているとの見方を示した。ブダノフ氏は「ミサイル不足でロシアは何らかの選択肢を探さざるを得なくなった。そしてイラン製の無人機を使い始めるに至った」と述べた。さらに、ロシアがイランの無人機を「徐々に使い果たしており」、注文し続けていると述べ、イランの製造は「即座に行われるものではない」と語った。(以下略)---前回の記事で、ロシアに何十年も総力戦の経験がなかった、という趣旨のことを書いたところですが、そもそも現代の戦いで総力戦というものが可能なのか、という面で、示唆に富んだ話です。総力戦の定義は百科事典やWikipediaに譲るとして、兵站や生産の面に限定すると、総力戦とは果てしない消耗戦であり、大量生産を行いながらの戦争であることが基本的な定義となるでしょう。戦前からの兵器や物資のストックだけで戦っている間は、総力戦とは言えません。総力戦であった第二次大戦では、各国とも戦前に持っていた兵器よりも、戦時中に生産した兵器の方がはるかに多いのです。例えば、ゼロ戦(零式艦戦)は日本海軍の開戦時の主力戦闘機でしたが、総数1万機以上が生産されましたうち開戦前に完成していたのは500機あまりで、大半は戦時中に完成しています。また、パイロットの養成も同じで、開戦前の日本陸海軍の航空機搭乗員の総数は1万人に達しませんが、戦時中の搭乗員の戦死者は3万4千人にもなります。つまり、戦前の搭乗員の人数の3倍以上が戦死した=それ以上の搭乗員が戦時中に養成された、ということになります。ところが、現在では新兵器の開発にははるかに長い期間と巨額の費用を要するようになっています。ゼロ戦は1937年に開発が開始されて1940年に制式採用されましたが、1943年には旧式機となっていました。戦争後期の最優秀戦闘機であった米国のP51は、わずか9ヶ月で開発されましたが、ジェット戦闘機が実用化されたことによって数年で旧式機となりました。しかし現在では、米国製の最新鋭戦闘機であるF35は、原型機の初飛行は2000年ですから22年も前です。ゼロ戦にしてもP51にしても、初飛行の22年後には超音速ジェット戦闘機の時代になっていました。価格的にも、F35は1機170億円ほどもします。物価の差を考慮しても、第二次大戦当時の軍用機と比べて、きわめて高価なものとなっています。機械としての複雑さ、特に第二次大戦当時は存在しなかったコンピューターが操縦や火気管制をつかさどるようになり、機体よりも制御するコンピュータのソフト開発に膨大な時間を要するようになっています。そして、世界のどの国でも、自国だけで部品のすべてを生産することはできなくなっています。ある国がいくら国家の総力をつぎ込んで新兵器を開発しようとしても、部品を輸出する国が国家の総力を挙げて輸出してくれるわけではありません。パイロットの養成も同様です。第二次大戦当時の単発レシプロ機と現在のジェット機では操縦の難易度が違い、従って養成に要する飛行時間もまったく違います。戦争末期の予科練(海軍飛行予科練習生)は訓練期間半年で実用機過程へ、実用機過程3か月で(つまり合計9か月で)実戦配備されたようです。もちろん、それでは飛行技量は最低限度に過ぎず、夜間飛行もできない、航法もあやふやで先導機についていくことしかできない、「離着陸がやっと」の状態だったわけですが、それでもともかく何とか実用機で単独飛行はできた(させられた)わけです。しかし、現代においてはそのようなパイロットが戦場に出ることなど有り得ません。結局、戦争が始まってからパイロットの養成を始めても、とうてい間に合わないのです。引用記事では、ロシア軍がこの侵略戦争で大量のミサイルを使ってしまい、その補充が容易にはできない状態に触れています。しかし、この状況は他国でも全く同じです。軍用機の開発に第二次大戦頃よりはるかに時間がかかることに触れましたが、それは製造に要する期間でも同じことですし、ミサイルでも同じことです。半導体など電子機器の取引制限があろうがなかろうが、現代のミサイルは高価であり、そう易々と増産は出来ないものです。ミサイルとしてはもっとも軽量小型の部類である、携帯式対空ミサイルのスティンガーミサイル(米国製)ですら、その製造には約1年半から2年かかるとされています。当然、それより大型の巡航ミサイルや弾道弾の製造には、もっと時間がかかります。戦車や戦闘機ならなおさらです。世界的な半導体不足が、その状況に更に拍車をかけているはずです。スティンガーなら戦争には間に合うかも知れませんが(1年半から2年も戦争が続いてほしくはありませんけれど)、それ以上の兵器は、増産を始めてそれが戦場に届く頃には戦争が終わっています。そういう意味で、現代において、別にロシアに限らず、大量の兵器の開発、生産を伴う総力戦というものは、もはや成り立たなくなっていると思われます。ただし、それは生産、戦争経済という側面での話です。その面で総力戦が成り立たなくなっている分だけ、むしろしゃかりきになって国論の統一、社会の統制、そのための少数意見の圧迫という側面に力を入れている傾向が、現状のロシアには見られます。これもまた、ロシアに限ったことではないでしょう。
2022.10.21
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近いうちにプロバイダを変更するのに伴い、ホームページを閉鎖することになりそうです。古い文章ばかりですし、中には現在では考えの変わっているものも皆無ではありませんが、内容に資料的価値のあるものもあるので、すべてではありませんが、順次ブログに転載していこうと思います。---南京大虐殺1937年、第二次上海事変の激戦に、大きな損害を出しながらもかろうじて勝利した日本軍は、当時の中国の首都南京に向けて進撃を開始しました。この進撃の過程と、目的地である南京で捕虜・敗残兵と一般市民を大量に虐殺した事件が、史上有名な南京大虐殺です。この事件については、肯定派否定派の激しい論争が続いていますが、規模の大小を別にすれば、南京で虐殺が存在した、という事実については、まともな歴史学者であれば全員の意見の一致を見ているといって過言ではありません。問題は、犠牲者の数について、小は数千人から大は30万人まで推計の幅が非常に大きいこと、そして、歴史学の場面ではまともな意見として扱われることがない「南京大虐殺などなかった」という主張が、右翼イデオロギーと結びついて、政治的な運動としては未だに一定の勢力を持っていることです。南京事件を巡る論争は1970年代から続いており、そのためかなり細かい場面の事実の是非が論争の対象となることが多いのです。しかし、ここでは思い切って細かい論争については後回しにして、南京で何が起こったのか、その全体像について述べたいと思います。※以下、引用文 (茶色の文字の部分) の中には、原文では送りがながカタカナ書きのものがありますが、読みやすさを優先して現代文と同じひらがなの送りがなに改めました。また、数字も漢数字は算用数字に改めています。虐殺の背景にあったもの上海を巡る激しい攻防で、日本軍は戦死9000人以上、戦傷約3万人という膨大な犠牲を出していたのですが、それにも関わらず、上海派遣軍は松井石根司令官の個人的野心によって、当時の中国の首都南京への侵攻をたくらみます。松井は、陸軍士官学校を2番、陸軍大学は主席の成績で卒業した、陸軍のエリート中のエリートでした。しかし彼の同期からは5人もの陸軍大将が出たにもかかわらず、その5人のなかでは、松井はもっとも大将昇進が遅く、もっとも早く予備役に編入されていたのです。昇進が遅いといっても、陸軍大将という地位は充分すぎる栄達と思われますが、陸大主席卒業の秀才にとっては、5人の大将の中で最後という出世は、プライドを満たすものではなかったようです。そんなわけで、松井はすでに現役を退き予備役に編入されていたのですが、日中戦争が始まり、大将が足りなくなったため、急遽招集されて現役に復帰したのです。自分の処遇に不満を抱いていた松井は、狂喜乱舞したことでしょう。軍功をあげる最後のチャンスが巡ってきたのですから。しかし、そんな彼にとって、上海に限定した作戦目的は不満でした。松井の出陣に際しては、日露戦争以来の陸軍大将の戦場への出陣だというので、壮行会や激励会が開かれているのですが、その席上で松井は、「宣戦布告して南京攻撃までやるべきだ、蒋介石が没落するまでやるべきだ」と言い張っていたのです。陸軍参謀本部は、戦線が際限なく拡大して泥沼化することを恐れて、戦場を上海に限定し、それ以上先に進撃することを禁じていました。しかし、松井は事前にそれを破ることを公然と主張し、事実それを実行しました。それにも関わらず、松井は叱責されることも解任されることも、軍を引き戻す命令を受けることもなく、南京攻略命令が後から出て事後追認される始末でした。日本陸軍の宿痾とも言うべき独断専行が行われたのです。実のところ、陸軍中央部でも「拡大派」と「不拡大派」が綱引きをしており、確固たる統一的な方針を示すことができなかったのです。現場はそれを見越して、拡大派の意を受けて戦線拡大の既成事実化をはかり、軍中央ではその現状をてこにして拡大派が不拡大派の追い出して主導権を握る、そうやって、最初は「独断専行」を装いつつ結局はそれが陸軍の確固たる統一方針にすり替わる、満洲事変で見られた構図がこでも繰り返されたのです。ただし、第二次上海事変の出兵は、名目上はあくまでも上海の占領(居留民の保護)であり、兵力・装備・補給などもそれを前提にしか考えられていませんでした。それにもかかわらず、上海から300km近く離れた南京まで侵攻しようというのですから、特に補給に無理があることは明白です。兵たちは食料もなく、8月に始まった上海での戦闘の装備(つまり夏の軍服)のまま12月の南京で戦うという悲惨な状況に追い込まれました。食糧の補給がなければ現地で略奪するしかない、もちろん捕虜に食べさせる食料などあるはずがない、着るものが貧弱だから、家を焼いて暖をとるしかない、南京大虐殺の背景には、この無謀でいい加減な戦争計画が大きく作用していたと思われます。加えて、兵士たちにはぶつけようのない不満が鬱積していました。上海では4万人近い死傷者が出る激戦で、それが終わったと思いきや、休む間もなく南京への侵攻、それもひたすら徒歩です。総司令官の松井石根が予備役からの招集だったくらいですから、戦線の急拡大で現役部隊は数が足りず、かなりの数の兵士たちが急遽招集されてまともな訓練を受ける間もなく戦場に送り込まれたのです。多くは30歳を過ぎ、妻子持ちだったようです。若かりし頃兵役の経験があるとはいえ、既に年月が経ち、練度も体力も著しく衰えており、おそらくは志気も同様だったと思われます。この鬱積した不満も、南京大虐殺の背景の一つとなりました。上海から南京への進撃路地図 (「図説 日中戦争」 太平洋戦争研究会編 森山康平著 P.74より)南京進撃中に始まった虐殺上海の中国軍が後退し、第2次上海事変に一区切りついたのは1937年11月中旬のことです。しかし前述のような事情で、上海派遣軍はそれで戦闘を止める気はまったくありませんでした。ただし、さすがに3ヶ月の激戦と大きな犠牲のため、上海派遣軍は疲弊しており、すぐに進撃に移れるような状況ではないと考えられていました。そこで、中央の「拡大派」から中支那方面軍(※)参謀副長として送り込まれていた武藤章大佐は計略を用います。彼は、後から上陸して、まだそれほど大きな戦闘に参加していなかった第10軍を進撃させる一方、上海の戦いに最初から参戦して疲弊しきっていた上海派遣軍第16師団の参謀長に、第10軍の戦功を引き合いに出して第16師団をこき下ろす手紙を送りつけて挑発したのです。果たして、第16師団はこの挑発に乗り、疲弊を押して南京への進撃を開始します。こうして、上海付近にあった中支那派遣軍は、上海派遣軍対第10軍の先陣争いというかたちで、いっせいに南京に進撃を開始します。当時中支那方面軍の総兵力は約30万人、そのうち16万人から20万人南京攻略に参加したと考えられています。もっとも、南京に一番乗りと先陣争いに目の色を変えているのは司令部の高級軍人たちだけで、飢えと、300kmに及ぶ徒歩の行軍に疲弊しきった一般の兵士たちにとっては、そんなことは良い迷惑でしかなかったと思われますが。※中支那方面軍は、最初に上海に上陸した上海派遣軍と後から杭州に上陸した第10軍を束ねる上部組織として11月7日に編成されます。松井は、最初は上海派遣軍司令官、中支那方面軍が編成されて、一時両方の軍司令官を兼任した後、12月2日に中支那方面軍単独の司令官となります。従って、松井大将は上海戦の当時は上海派遣軍司令官、南京攻略の時点では中支那方面軍司令官が正式な肩書きとなります。南京攻略に参加した陸軍部隊の編成は以下のとおりです。ごく大雑把に言うと、上海派遣軍は上海から南京までの直線コースに近い北よりのルートを取り、第10軍は南側から迂回して途中から北上するルートを取っています。全部で10個師団、うち直接南京市内に入城したのはそのうちの約半分、4個師団と3個連隊(合計すれば5個師団弱に相当)です。南京戦当時の1個師団の兵力は、定数では約2万2000前後 (実数はもっと多かったらしい) ですから、南京城内を直接攻撃した総兵力は10万人程度と推定されます。中支那方面軍の編成 (司令官 松井石根大将)上海派遣軍 (司令官 朝香宮鳩彦王中将) 第9師団 (師団長 住吉良輔中将) 歩兵第6旅団 歩兵第7・第35連隊 歩兵第18旅団 歩兵第19・第36連隊 騎兵・山砲兵・工兵・輜重兵各1個連隊 第16師団 (師団長 中島今朝吾中将) 歩兵第19旅団 歩兵第9・第20連隊 歩兵第30旅団 (佐々木支隊) 歩兵第33・第38連隊 騎兵・野砲兵・工兵・輜重兵各1個連隊 第13師団 歩兵第103旅団 (山田支隊) 歩兵第65連隊 (第13師団残部は揚子江北岸にあり) 第3師団 先遣隊 歩兵第68連隊 (第3師団残部は後方警備 ) 第11師団 後方警備 第101師団 後方警備 第10軍 (司令官 柳川平助中将) 第6師団 (師団長 谷寿夫中将) 歩兵第11旅団 歩兵第13・第47連隊 歩兵第36旅団 歩兵第23・第45連隊 騎兵・野砲兵・工兵・輜重兵各1個連隊 第114師団 (師団長 末松茂治中将) 歩兵第127旅団 歩兵第66・第102連隊 歩兵第128旅団 歩兵第115・第150連隊 騎兵・野砲兵・工兵・輜重兵各1個連隊 第5師団 歩兵第9旅団 (国東支隊) 歩兵第41連隊 第18師団 蕪湖方面に向かうまた、これと平行して海軍は航空隊上海の飛行場に展開し、南京とその周辺に対して激しい空襲を繰り広げるとともに、河川砲艦の艦隊が南京を目指して揚子江を遡りました。11月19日頃から南京への進撃に移った各部隊は、1日平均15kmから20kmの速度で前進し、12月初旬には南京市に接近します。南京大虐殺とは呼ばれていますが、実際には虐殺は南京市の市街地だけでおこったのではありません。日本軍の進撃路上の各所で起こっています。たとえば、12月4日、南京市街まで60km以上離れた句容県の倪塘村に第16師団歩兵第20連隊が侵攻し、そのまま宿営しました。村民の多くは既に逃亡していたのですが、逃げ遅れた村民と他村からの避難民約40人を一軒の家に押し込めて、火を付け、焼き殺しました。加えて翌朝には、他村からの避難民と中国軍の敗残兵あわせて80人ほどを捕縛し、機関銃で全員を殺害しています。あわせて120人。更に同じ句容県内の本湖村では12月5日朝、日本軍が接近してきたのを遠方から見て国民党軍と誤認した村民が、槍や刀をもって整列して歓迎しようとしたところを捕縛され、約40人が酒醸造小屋に押し込まれて、火を放たれ、一人が逃げ延びた他は全員が殺されています。日本側では、歩兵第20連隊に所属した牧野信夫上等兵の残した陣中日誌に、この間の進撃路上の「掃討」の実態が綴られています。〔11月22日〕道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずらい(ママ)様子でのびていたのも可哀想である。の付近には5,6個の支那兵の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(※)〔11月26日〕午前 (午後の誤り)4時、第2大隊は喚声を上げ勇ましく敵陣地に突進し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているもまったく可哀想だがしかたがない。午後6時、完全に占領する。7時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこなわれた。自分たちが集結している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、1名は残念ながら逃がし、あと3名は捕らえた。兵士たちは早速2名をエンビ (小型シャベル) や十字鍬で叩き殺し、1名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。8時半、宿舎に就く。3小隊はさっそく豚を殺していた。全くすばやくするのにはおそれ入った。〔11月27日〕支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。支那人2名を連れて11時、出発す・・・・・・鉄道路線上を前進す。休憩中に5、6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり、気持ちがせいせいした。〔11月28日)午前11時、大隊長の命令により下野班長以下6名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる5、6名を発見、照準をつけ1名射殺。掃討はすでにこのときから始まったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若いのが先を競って逃げていく。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の12、3家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。老人が2、3人いて可哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。そのうえ5、6人を射殺する。意気揚々とあがる。〔11月29日〕武進 (常州市に属する) は抗日・排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、まったく浮き足だって戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。〔12月1日〕途中の部落を全部掃討し、また船で逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火を付けて部落を焼き払って前進する。呂城の集落に入ったおりすぐに徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしきものを発見。2名はクリークに蹴落とし、射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。( 後略)(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P87-89より)※ 第20連隊は、百人斬り事件の野田・向井二人の少尉が所属した第9連隊と同じ第16師団第19旅団の指揮下にありました。進撃路もだいたい同じです。従って、これは向井少尉か野田少尉 (どちらかというと歩兵大隊副官の野田少尉より、歩兵砲小隊指揮官の向井少尉の方が「砲兵隊の将校」に近い印象です)の百人斬り競争の犠牲者である可能性もあります。山田支隊 (第13師団第103旅団) の歩兵第65連隊に属する堀越文雄氏も、こんな陣中日誌を残しています。〔10月6日〕※ (引用者註 11月6日の誤りと思われる) 帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。〔11月9日〕捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人子供ひとり、これも突かれたり。(中略)〔11月20日〕昨夜まで頑強なりし敵も今は退脚 (退却) し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生 (ママ) を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。(後略)(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P98-99より)これらはあくまでも一例に過ぎません。他にも似たような事例は数多くありました。日本軍は、中国軍の敗残兵も捕虜も、一般民衆もほとんど見境なく、手当たり次第に進撃路上の中国人を殺していったのです。そのもっとも著名な例となったのが、野田・向井の二人の少尉による「百人斬り競争」でしたが、これはたまたま新聞に大々的に取り上げられてしまったことが後の戦犯としての処罰につながってしまっただけで、戦場には無数の野田、向井がいたことは間違いないのです。日中戦争の頃、南京近郊の6県 (南京特別市) には、あわせて150万人もの人口があったと言われています。そして、そのかなりの部分は、日本軍が迫ってきても避難することができませんでした。当時農村ではラジオも新聞もなく、日本軍の接近を正確に知ることができなかったこと、家財道具や家畜などを連れて逃げる交通手段はなかったこと、家畜や家財道具を残して身ひとつで逃げても、何日も避難し続けるだけの食糧を買うお金もないことなどが理由でした。また、避難する場合でも、殺されたり連行される可能性の高い成人男性が真っ先に逃げ、それから女子どもが逃げ、殺される可能性が低い (と、中国の内戦での経験から農民たちが考えていた) 老人は、たいていの場合家財産を守るために村落に残っていたのです。こうした集落に残っていた一般民衆が、どれだけ殺されたのか。その全体像は判然としません。小さな村々のことですから、1が所ではそれぞれ数人から多くても数十人の規模の虐殺ですが、それを各部隊が連日のように繰り返していたのです。全体でどれほどの数になるのか、はっきりしません。ただ、スマイス博士が事件の直後から翌年にかけて実施した「南京地区における戦争被害」によると、農村部206世帯に1世帯の抽出調査を行った結果から、近郊6県の半分で26,870人という犠牲者数を出しています。近郊6県全体ではこれより大きな数字になる可能性がある一方、抽出調査という手法から誤差の範囲も大きいものと思われます。南京攻略戦地図 (「図説 日中戦争」太平洋戦争研究会編 森山康平著 P.85より)南京陥落迎え撃つ中国軍は、上海では日本軍に対して猛烈な抵抗を示し、多大な損害を日本軍に与えたものの、上海で敗北した後は総崩れの状態となって、ほとんど日本軍に抵抗することなく南京まで後退を重ねてきました。各部隊は南京に後退する途中で住民を徴兵して部隊に編入し、人数の上では兵力をある程度回復していたようです。ただし、補充された「兵力」の実態は、まったく軍隊経験のない農民を急遽かり集めて、陣地に配置してから日本軍が来襲するまでのせいぜい数日、銃の扱い方を教えられて射撃訓練を受けただけですから、それを「戦力」と呼びうるかどうかは疑問です。中国軍の南京戦における実兵力は、5万人という説と10万から15万人という説があります。人数はともかく、練度・装備・火力は日本軍に大きく劣りました。(日本軍も当時の欧米からみれば火力・機動力は極めて貧弱だったのですが、中国軍に対しては相対的に優勢を保っていたのです)中国軍の編成は以下のとおりです。首都保衛軍首都衛戍司令官 唐生智将軍第72軍 第88師 第78軍 第36師首都衛戍軍 教導総隊・憲兵2個団増援部隊第2軍団 第41市・第48師 第66軍 第159市・第160師 第71軍 第87師 第74軍 第51市・第58師 第83軍 第154市・第156師 第103師 第112師当時の中国軍の1個師は、日本軍の1個師団より兵力が少なかったのですが、それでも13個師とその他の部隊で、総兵力は10万人以上に達すると思われます。ただし、精鋭部隊と呼べるのは軍官学校の生徒などから編成された蒋介石直属の教導総隊だけでした。88市と87師も精鋭部隊として知られていましたが、上海で激戦を戦って後退してきた部隊で、どこまで戦力が補充できたかは疑問です。前述のとおり、兵士の頭数だけは補充されていますが、もはや精鋭部隊と呼べる状態ではなかったでしょう。その他は、蒋介石の直系ではない地方軍が主体でした。また、103師と112師は、私の読んだ資料の範囲内では、実際に戦闘ではその名が登場せず、戦闘に間に合わなかった可能性があります。南京は、市街地の周りに城壁を巡らせた城塞都市です。ただし、実際にはこの城壁の外側にもかなりの人口があります。12月8日、日本軍の4個師団がこの城壁を取り囲み、翌9日に中国軍に対して降伏勧告を行いました。しかし南京防衛軍司令長官唐生智はこれを拒否、12月10日、ついに日本軍が攻撃を開始しました。城壁にはいくつかの門が設けられていますが、このうち第6師団と第114師団は中華門から、第9師団は効果門から、第16師団は中山門と太平門から突入しようとしました。また、第16師団の佐々木支隊 (2個連隊) は北側から、第6師団の一部 (1個連隊) は南側から、それぞれ城壁を迂回して背後に回り、揚子江の船着き場に通じる下関を占領しようとしました。中国軍が後退しようとしたら、その背後を押さえて包囲・殲滅するためです。これに対して、ほとんど戦意を喪失して南京まで後退してきた国民党軍も、さすがに追いつめられて頑強に抵抗し、激戦はほぼ3日間続きました。10日午後、第9師団第36連隊の1個大隊が光華門の一角に取り付き、日章旗を掲げますが、その後逆に中国軍に包囲されて、身動きのとれない状態に陥り、ほとんど全滅に近い損害を受けます。ところが、日本のマスコミは、光華門に日章旗が揚がっただけで一斉に南京陥落を報じたのでした。その夜には、東京で南京陥落を祝賀する提灯行列が繰り出し、国会議事堂にイルミネーションが点灯されました。実際には、まだ南京は激戦のさなかで、日本兵のただ一人として城内に侵入は果たしていなかったのですが。状況が急変したのは12日の午後になってからでした。蒋介石ら国民党政府の首脳部はすでに11月下旬に政府とともに奥地の重慶に脱出しており、南京防衛の全権を託されていたのは唐生智司令官でした。ところが、彼は口では勇ましく徹底抗戦を言っておきながら、まだ日本軍と激戦を繰り広げている前線部隊を置き去りにして、先に撤退してしまったのです。唐生智は撤退の直前に、各部隊に撤退命令を発してはいたのですが、激戦と混乱状態の中、その命令が伝わらなかった部隊も少なくありませんでした。しかも、司令部の発した撤退計画は、各部隊がいっせいに日本軍の包囲網を正面突破して脱出するという、この時点ではほとんど実現不可能な内容だったのです。撤退命令は、バラバラと各部隊に伝わっていきました。しかし命令のとおりの正面突破など、もはや不可能です。司令部に問い合わせても、すでにもぬけの殻なので返事は返ってきません。撤退命令が伝わらなかった部隊も、隣接する部隊の様子を見て、あるいは司令部が先に逃げてしまったことを知って事態を察したようです。それまで日本軍に頑強に抵抗していた中国軍の戦意は、一挙に喪失しました。第66軍と83軍傘下の4個師だけは、唐生智の命令どおりに日本軍の包囲網を正面突破して脱出をはかりましたが、途中で日本軍の猛攻を浴びて壊滅的な打撃を受け、脱出に成功した兵はごくわずかでした。そのことから見ても、唐生智の撤退計画が現実離れしていたことが分かります。残りの部隊は、南京市の背後を流れる揚子江を渡って対岸に逃げ込もうと我先に前線から逃げ出したのです。撤退しようとする国民党軍の各部隊と、それを見て不安に駆られた一般市民は市街地の西方、揚子江沿岸の下関に通じる江門に殺到していきました。途中、退却中の兵士が主要幹線道路に面した交通部の庁舎に放火し、その炎が弾薬庫に燃え移って激しい爆発が起こると、兵士も一般民衆もパニックに陥り、一帯は大混乱となりました。兵士と市民が入り交じった群衆とトラック、大砲、馬車、オートバイなどが絡み合って、身動きがとれなくなったのです。彼らの後方には日本軍が迫り、そして前方ではなんと味方がパニックに陥った中国軍と民衆の前に立ちはだかったのです。江門には、唐生智から直命を受けた第36師が展開していました。彼らは、前線を突破して脱出する撤退計画しか知らされておらず、撤退計画にない部隊の通過を、武力によってでも阻止するよう命令を受けていたのです。第2軍団の2個師だけは通過を認められて、きわどいところで揚子江を渡河して撤退に成功しましたが、その他の部隊に対しては、彼らは容赦なく銃撃を浴びせかけました。相当数の中国兵や一般市民が、この同士討ちの悲劇で命を落としました。そのため、撤退しようとする部隊と民衆はそれ以上前に進むことができず、立ち往生してしまいました。しかし後方からは、撤退してくる部隊と避難民が、パニック状態で次々と押し寄せてきます。群衆の一部は、城門を避けて、衣類を脱いでつないだにわかづくりのロープを城壁にかけて、よじ登って脱出を計りました。しかし夜9時頃、戦車隊が撤退して来ました。第36師が撤退しようとする部隊を発砲して追い返していると知ると、戦車隊はこれを蹴散らして強行突破したのです。これによって障壁が排除され、敗残兵と避難民が南京城内からどっと脱出しました。しかし、その先に更に大きな悲劇が待ちかまえていました。揚子江を渡る船がなかったのです。唐生智の司令部と第2軍団の2個師が撤退すると、船舶部隊の司令官も船を撤退させてしまっていました。もっとも、日本軍の砲艦がすでに揚子江上に姿を現しており、また一帯は日本軍の砲撃にさらされていたので、船を残しておいても撃沈されるだけだった可能性が高いのですが。進退窮まった群衆と敗残兵は、揚子江に沿って南へ、あるいは北へ逃れようとしました。しかし、前述のように、日本軍の第6師団の1個連隊が南から、第16師団佐々木支隊 (第30旅団) が北から、中国軍の逃げ道をふさごうと城壁沿いに迂回して下関に接近しつつありました。南北どちらへ逃れようとした人々も、この迂回してきた日本軍部隊によって殲滅され、あるいは逃げ戻るしかありませんでした。残された手は3つしかありません。日本軍に投降するか、市街地に引き返して身を潜めるか、あるいは揚子江を泳いで渡るか、です。パニックの中、少なからぬ人々が第3の手段を選択しました。しかし、揚子江は川幅が1.5kmもあります。しかも12月です。城門で足止めされていた日本軍が中国軍の全面的な潰走に気付くには、しばらく時間がかかりました。13日の朝、城内の中国兵がほとんどもぬけの殻になっている事実にやっと気づいた日本軍は、一斉に城内に突入していったのです。1ヶ月前まで中国の首都だった南京は、ついに陥落しました。下関周辺の惨劇下関で川を渡る手段がなく、進退窮まっていた敗残兵と避難民の群衆の中には、冬の揚子江を渡ろうとた者も少なくありませんでした。その多くは水死、または凍死によって命を落としたのですが、実は、彼らの命を奪ったのは、必ずしも冬の冷たい水だけではありませんでした。すでに渡船は姿を消していましたが、下関付近には貯木場があり、その筏を引き出して揚子江に乗り出した人々も多かったのです。筏に乗っていれば、凍死も水死もせずに揚子江を乗り切ることが可能だったはずですが、実際にはそうならなかったのです。奇跡的に生還した中国軍将校の一人陳頤鼎氏は、以下のような体験を語っています。日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと8人が板に乗り、長江にのりだした。夕方の5時ごろだった。(中略)そのころ、日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃討し始めた。さまざまな機材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将兵が日本軍の機関銃の餌食となった。また、日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくり返され、溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。長江の水は血でそまり、凄惨な光景は見るにたえなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。このときの怒りは、生涯忘れることができない。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P159-160より)川岸に留まった人々はどうなったでしょう。12日夜の時点では、城門から南京城内に突入しようとしていた日本軍の主力は、まだ突入を果たしていません。しかし佐々木支隊が北から、第6師団の1個連隊が南から、城壁を迂回して下関に突進しつつありました。彼らは三方を敵に囲まれ、まだ日本軍に占領されていなかった城内に引き返して姿を隠すものも多かったのですが、日本軍に投降した、あるいはなす術もなく日本軍に捕らえられた中国兵も非常に多かったのです。中には一緒に逃げてきた民間人の避難民もかなり混ざっていました。彼らの運命はどうなったでしょうか。それを暗示する、あまりに有名な日誌があります。第16師団長中島今朝吾中将の陣中日誌です。一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片くることヽなしたるも、千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものヽ之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ...<一部省略>一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈[だけ]にて処理せしもの約一万五千、大[太]平門に於ける守備の一中隊が処理せしもの約一三〇〇其他その仙鶴門付近に集結したるもの約七八千人あり尚続々投降し来る一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ[カ]処に導きて処理する予定なり(偕行社「南京戦史資料集資料集Ⅰ」P220 ただし、文面はインターネット上より収集)つまり、第16師団長が自ら、捕虜は作らない方針だから片っ端からこれを片付けると書いているのです。後述のように、総司令官の松井石根自身は、捕虜の殺害を容認しない考えだったと思われますが、そもそもそんな事態を招いたのは、松井が功名心にはやって、補給も無視して独断で南京まで進撃してしまったからなのです。日本軍には食糧が乏しく、捕虜を食べさせることができなかった。だから松井の指示は守られなかったのです。捕虜虐殺の責任者として指弾されている一人に、中支那方面軍参謀兼支那派遣軍参謀の長勇大佐 (のちに中将、沖縄で戦死) がいます。長大佐が松井司令官の意向を無視して、独断で捕虜の殺害を命じた経緯を、事件当時に松井石根大将の専属副官であった角良晴大尉(敗戦時大佐)は以下のように証言しています。「南京は思ったより困難なく攻略できた。下関に十三万人の支那人が対岸の浦口に渡れずに残った。これに対し、第六師団から、『どうするか』との電話があった。第二課長長参謀(中佐)(筆者註 長勇中佐は、中支那方面軍と上海派遣軍の参謀を兼ねていた)は、『ヤッテシマエ』と返事した。私は、すぐ本件を総司令官に報告した。総司令官は長参謀を呼ばれて、『十三万の支那人を殺すことは許さぬ、直ちに解放せよ』と命令された。が、長中佐は、『この中には軍人も混ざっております』と言った。総司令官は、『軍人がいてもかまわぬ、却って軍紀がよくなってよいだろう』と言われた。長中佐は、『ハイ』と言った。が、二度目の電話でも、『ヤッチマエ』と命じた」(「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P46~47より ただし、角良晴氏の回顧録を遺族がまとめた図書『七生賦』からの引用による)これは、前述のように南京から撤退しようとして、下関で揚子江を渡る船がなく立ち往生していた敗残兵と避難民の扱いことを指していると思われます。ただし、「第6師団から」というのは記憶違いの可能性もあります。いずれにせよ、このような指示により、おびただしい数の中国兵捕虜が殺害されたのです。第16師団第30旅団 (佐々木支隊) の旅団長佐々木到一少将は、日誌にこう書いています。この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみで2万以上の敵は解決されている筈である。(中略)その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米もはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P153-154より、ただし原文は「佐々木到一少将私記」)こうして12月13日前後に下関周囲で殺された投降兵は、佐々木支隊だけでも1万数千、第16師団全体では2万人以上にも及びます。もちろん、虐殺はこの日だけではなく、また他の部隊も大量の投降兵の殺害を行っています。前述の角大尉の回想では長参謀が「ヤッチマエ」と命令したのは第6師団となっていますが、これは記憶違いらしく、実際には長の直命を受けて、捕虜の殺戮を行ったのは山田支隊でした。山田支隊は、佐々木支隊の後方から、やや北よりのルートを通って、同じく城門を迂回して南京の後背に回ろうと進撃してきました。彼らは13日夜から14日の早朝にかけて、下関より数キロ手前の幕府山という拠点に進出し、そこで膨大な敗残兵と避難民を発見し、これを捕虜としたのです。その人数は、手記によって差がありますが山田支隊長の日誌によれば1万4777名、あるいは他の将校の陣中日誌では1万7025人などとなっています。第16師団は、「捕虜はせぬ方針」の師団長を筆頭に躊躇なく投降兵の殺戮を行っていますが、山田支隊はその場で殺すことはさすがに躊躇したらしく、いったんは捕虜として受け入れたのですが、結局は長参謀長からの命令で、16日と17日の2回に分けて揚子江の川辺で機関銃と小銃を乱射して皆殺しにしたのです。歩兵第65連隊第2大隊第8中隊の遠藤高明少尉は、16日の陣中日誌にこう書いています。捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出しI (第1大隊) において射殺す。1日2合給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P185より)山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊の黒須忠信上等兵の陣中日誌によると、以下のとおりです。午後1時、我が段列より20名は残兵掃湯 (掃討) の目的にて馬風 (幕府) 山方面に向かう。2、3日前捕慮 (捕虜) せし支那兵の一部5千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばがり (ばかり) と憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お (を) もひひ (し) がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。帰りし時は午後8時となり、腕は相当疲れていた。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P186より)「年寄りもいれば子供もいる」という記述から、この捕虜には、実際には軍人ばかりでなく民間人も混在していたことがわかります。翌17日の捕虜殺害については、第65連隊第1大隊の荒海清衛上等兵の陣中日誌がこう記しています。今日は南京入城なり (一部分) 。俺等は今日も捕虜の始末だ。1万5千名。今日は山で。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P187より)この殺害の後始末は、とてもその日一日で終わるようなものではなかったようで、第65連隊第2大隊第7中隊の小寺隆上等兵の陣中日誌にはこうあります。12月18日 昨夜まで殺した捕リョは約2万、揚子江に2ヶ所に山のように重なっているそうだ。7時だが方付け (片付け) 隊は帰ってこない。12月19日 午前7時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警 (驚) く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後2時までかかり作業を終わる。昼食は3時だ。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P187-188より)支隊長山田少将の日誌には、以下のように記述されています。18日 捕虜の件で精一杯。江岸に視察す19日 捕虜の件で出発は延期、午前総出で始末せしむ。軍から補給あり、日本米を食す20日 下関より浦口に向う。途中死体累々たり。10時浦口に至り国東 (国崎) 支隊長と会見(「南京事件-「虐殺」の構造-」秦郁彦 中公新書795 P145より)おそらくこの時の下関付近の死体累々の惨状を、松井司令官自身が目撃しています。総司令官は明くる日の18日、下関を見に往くと言われたが、道という道はすべて延々2km(米千)地上が見えぬほど折り重なった死体の山である。この状態では絶対に案内できぬ。『治安が悪くて責任が持てない』と偽りを申し上げ、参謀長飯沼少将にお願いしたが、3日目、油をかけて焼き、土をかぶせただけであった。4日目、総司令官は、「おれは一人でも行く、車を用意せよ」と言われた。事ここに至っては如何ともしがたいので、私は出来る限り外が見えぬ位置に座り、出掛けた。自動車は無理して土を盛られた屍体の上を走った。総司令官は、モノを言わずにただ泣いておられた。(「私の見た南京事件」奥宮正武 PHP研究所 P48 ただし、角良晴氏の回顧録からの引用)日本軍の方針も、必ずしも各部隊で統一されていたわけではないようです。南側から城門を迂回して下関を攻略した第6師団第45連隊は、数千人の中国兵を捕虜としましたが、「命だけは助けてやるるから郷里に帰れ」と解放しています。ところが、この解放した捕虜たちが白旗を掲げてそれぞれの故郷に向けて出発すると、たちまちのうちに別の部隊に捕らえられ、皆殺しにされてしまったのです。もっとも、捕虜の取り扱いを司令部に問い合わせた部隊は、例外なく捕虜を殺せという命令を受けています。南京城内の掃討と市民の虐殺南京城の各城門を正面から攻撃した主力部隊も、それぞれに逃げ遅れた中国兵を捕虜にしていました。このうち、中華門を攻撃した第114師団第127旅団第66連隊は、南京陥落以前の段階で、中国軍が城内に撤退して城門を閉ざした際に城外に取り残された中国兵1354人を捕虜とし、更に南京城内に突入したあとの敗残兵狩りで約300人の捕虜を得ています。第1大隊の13日の戦闘詳報は、彼らの運命を以下のように記しています。午後2時零分連隊長より左の命令を受く左記イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし、其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何(中略)午後3時30分各中隊長を集め捕虜の処分に付意見の交換をなしたる結果、各中隊 (第1・第3・第4中隊) に等分に分配し監禁室より50名宛連れ出し、第1中隊は露営地南方谷地、第3中隊は露営地西南方面凹地、第4中隊は露営地東南方凹地付近に於て刺殺せしむることとせり (中略) 、各中隊共に午後5時準備終り刺殺を開始し概ね午後7時30分刺殺を終れり 連隊に報告す。第1中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり、捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首を刺し伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容とし居るものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり、特に隊長巡視の際は各所に其の声起れり(「南京事件-「虐殺」の構造-」秦郁彦 中公新書795 P158-159より)ただしカタカナをひらがなに修正同じく中華門を攻撃した第6師団第13連隊は、南京占領の直後の16日、南方の蕪湖に向かおうとしたところで1000名以上の敗残兵を捕らえ、中華門外で殺害しています。第2大隊機関銃中隊児玉房弘上等兵の証言山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに突然「撃て」の命令。……まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきりと分かりました。(「南京事件-「虐殺」の構造-」秦郁彦 中公新書795 P151-152より)しかし、何よりも南京城内には、数多くの一般民衆が住んでいました。日本軍が迫ってくるとともに、南京からは多くの市民が避難していきましたが、低所得者は、長期に渡って避難生活を送るだけの経済力も、場合によっては遠方に脱出する交通費すらなく、多くが市内に取り残されていましたし、逆に日本軍に占領された村落から南京に逃げ込んでくる避難民もいました。11月下旬、これらの一般市民のために、南京在住の外国人の奔走によって非戦闘員の避難場所として南京城内に安全区が設定されました。この安全区の運営のために、国際安全区委員会が組織されます。その委員長に就任したのが、ドイツ人のジョン・ラーベ (ジーメンス社南京支社支配人) でした。多くの避難民がこの安全区に避難しました。しかし、特に日本軍が南京を占領した時点では、まだ市外にも安全区にも避難していない住民が、市内各所に大量に残っていたのです。また、下関で逃げ道を失った中国兵の中には、市街地に引き返して武器・軍服を捨てて身を隠す者も少なくありませんでした。日本軍に投降しても殺されるのですから、それしか手がなかったとも言えます。上海での戦いでは、平服で日本兵を攻撃する、「便衣兵」と呼ばれる不正規兵が存在したようですが、南京では中国兵はまったく戦意を失い、何とか生き延びようと武器を捨て、軍服も捨てたのです。まったく何の戦闘力も持っていない状態です。ニューヨーク・タイムズの記者F.T.ダーディンは、その模様を1938年1月9日付り紙面で以下のように報じました。日曜日 (12日) 夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめました。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。下関門(江門)近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から2ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨て場のようになっていた。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P139-140より)シカゴ・デイリー・ニュース1938年2月4日号は、追いつめられてパニック状態となった中国軍将兵の様子を以下のように報じています。まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を脱ぎ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩き回る者もいた。小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬・装備などが散乱した。平時であれば、一般住民-まだ10万人が市内にいた-はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服と銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。日本側の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向へ突っ走った。突如、彼は自転車から飛び下りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった。ある兵士は騎馬してあてもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けて放っていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼は兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎとり、横っつらを殴った。兵士は呻き声も出さずにこれを受けた。パニックになった兵士たちは、走行中の私の車に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差し出し、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ人宣教師とドイツ人商人によって設立された安全区国際委員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りになると信じて、入れてくれるよう懇願した。とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃を塀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集められ、日本軍に差し出されるためにしまい込まれるのだった。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P146-147より)これら軍服を捨てて逃亡した兵士たちを日本軍は「便衣兵」と称して容赦なく狩り立てて、殺戮していったのです。多くの場合は青壮年の男性はみんな兵士と見なされ、あるいは、選別をしたにしても、その基準は「靴ずれがある、面タコがある、きわめて姿勢がよい、目つきが鋭い」など、まったくいい加減なものであったため、多くの一般市民も「便衣兵」とされて殺戮されたのです。彼らは、その場で殺されるか、あるいはすでに捕虜の大虐殺が行われていた下関など郊外に連れ出されて殺された場合もあったようです。とりわけ、警察・消防・電力会社の技術者など制服を着る職種は、皆殺しとなりました。そのため、火事が起きても消火する者がおらず、電気の供給も途切れたままという状態が続くことになりました。この状況を目の当たりにして、袋の鼠となった兵士たちの多くが、安全区に逃げ込もうとしました。国際安全区委員会のメンバーたちは武装解除の上で彼らを安全区に受け入れました。彼らは、日本軍が国際法を遵守し、安全区を尊重すると考えたのです。しかし、実際には、日本軍は安全区に対して、ほとんど何の配慮も見せませんでした。第16師団と第9師団が安全区の中に踏み込み、情け容赦なく「便衣兵」狩りを行ったのです。特に「便衣兵」狩りのエスカレートを招いたのが、12月17日に行われた南京入城式でした。松井石根は、一国の首都占領という「壮挙」 (実際には、1ヶ月前に首都は移転していたとはいえ) に酔い、周囲の反対を押し切ってその記念式典を、それもできるだけ早く実施することにこだわりました。入城式では上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将 (皇族) が騎馬で行進したため、その身に何かあってはならないというので、城内の徹底的な掃討が行われ、それによって多くの犠牲者が出たのです。ただし、いったんエスカレートした「掃討」という名の虐殺は、入城式が終わっても収まらなかったようです。入城式から1週間以上も経過した12月25日と27日に、海軍の艦上爆撃機搭乗員の奥宮正武大尉 (敗戦時中佐) は、南京上空で撃墜された海軍機の搭乗員の遺体を捜索していて、この「便衣兵」処刑の現場を目撃しています。少し長くなりますが引用します。そこで、その付近を捜索したのち、玄武門外に出た。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に、数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったのか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた。 (註 13日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった) 。玄武湖から再び城内に入り、近くにあった広い道路を北進しながら、付近を調査することにした。その後、西進したり、南進したり、また西進したりしているうちに、市の中心部と下関を結ぶ中山北路に出た。そこで、その道路を北西進しているうちに江門についた。そして、そこから三たび城外に出て、下関とその付近を探索することにした。下関は、南京と揚子江の対岸にある浦口とともに、交通の要衝であった。浦口は、私が上海着任直後に、最初に、爆撃したところでもあった。下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭 (波止場) があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約30人の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていった。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の哨兵にことわって、構内にはいった。私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう。私の動きを阻止する者はいなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。岸辺に近いところでは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部に死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の海になっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行われていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。「なぜこのようなことをするのか」答えて曰く、「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官10人か11人かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった。その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計10台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を探索しながら飛行場へ帰った。人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。(中略)12月27日、この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行くことにした。下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せたトラックが続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行われていた。そこで、ある種の疑問が生じた。それは、「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうしてここまで連れてくることができるか」ということであった。そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は何のためらいもなく、「城内で、戦場の後片付けをつせている中国人に、“腹のすいた者は手を上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」と説明してくれた。そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質問したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」との答えが返ってきた。このような処刑が、南京占領から2週間近くを経た後の25日と27日に手際よく行われていた。もっとも、26日と25日前と27日後にどのような処刑が行われていたかは分からなかったが (註 第30旅団長佐々木到一少将の手記によれば、12月24日までに約1万5千人以上、12月24日から翌年1月5日頃までに数千人を処刑したとのことである) 、2日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での敵対行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。私は、この2日間に下関で見た合計約20台分の、言いかえれば、少なくとも合計500人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P33~39ここでは「便衣兵」という言葉は使われていませんが、ほぼその延長線上として、無差別に中国人を虐殺していたことが分かります。放火と暴行前述のとおり、南京攻略戦に参加した日本軍は、8月の上海での激戦から12月の南京まで、休む間もなく戦い続けて、誰にぶつけようもない不満が鬱積していたのです。その不満のはけ口になったのが、投降兵や一般民衆の虐殺や家屋への放火 (前述の陣中日誌に、「家に火を付けて炎が天高く燃え上がると気持ちがせいせいした」という記述があります) であったのです。そして、おそらく同様の理由により女性に対する暴行も大量に起こりました。とりわけ、17日の入城式前後から、女性への暴行が激増しました。12月17日の1日だけで1000件もの強 姦の報告があったとされています。兵士たちは、「便衣兵」狩りのために民家や難民収容所に押し入って女性を発見すると次々と強 姦に及んだため、多くの女性が安全な場所を求めて逃げ出したのです。安全区内にあった金陵女子文理学院は、婦女子だけを収容していたのですが、1万人以上の女性であふれかえって足の踏み場もなくなっていました。すると、日本兵はこのキャンパス内に踏み込んで女性を狙おうとしたのです。なぜ17日頃から女性への暴行が激増したのか、その理由は明確ではありませんが、入城式で酒が振る舞われたことと無関係ではないようです。日本軍の侵入を防ごうと金陵女子文理学院の入口に泊まり込んでいた安全区国際委員会のメンバー、ジョージ・フィッチはこう語っています。酒の入っていない日本兵は、特別勇猛な兵士でもなさそうだった。押し入ろうとして委員会のメンバーに見つかり、「カイレ (出て行け) !」「ハヤーク (さっさとしろ)!」と大声を上げられると、みなきまって立ち去って行ったところが、銃剣の刃先を突きつけて暴行に夢中になっている酔っぱらいが相手のときは、ことはそう簡単にいかなかった。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P197より)ラーベは南京での女性への暴行を2万件と推定し、また同じく国際安全区委員会のメンバー、金陵大学教授マイナー・S・ベイツは8000件以上と推定しています。ベイツは米国の知人に対して、以下のように書き送っています。ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも、11歳の少女から53歳になる婦人まで強 姦されています。他の難民グループでは、酷いことにも、72歳と76歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、17名の日本兵が1人の女性を輪 姦しました。実に強 姦事件の3分の1は日中に発生したのです。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P199-200より)放火については、中国軍も清野作戦と称して、攻め寄せる日本軍に遮蔽物を与えまいとして南京城外の建造物を焼き払っています。しかし、城内は中国軍にとって守るべき対象であり、また自らが日本軍に対して身を隠す盾ともなるので、南京陥落前後の混乱状態の際を例外として、城内の建造物を中国軍が焼き払うことはほとんどありませんでした。これを大量に焼き払ったのは日本軍です。鬱積した不満の捌け口ということに加えて、夏の上海からそのまま転戦してきた日本軍の中には夏服のままの将兵も少なからずいて、暖を取ろうとした、という側面もあったようです。虐殺の終息とその後南京攻略の根拠、というより心理的な要因となったのは、漫然と、首都を陥落させれば蒋介石は屈服するだろう、少なくとも力を失うだろうという根拠のない見通しだったのですが、南京が陥落しないうちから蒋介石は首都を移したため、すでに南京は首都ではなく、また陥落後も蒋介石が屈服することもなければ力を失うこともありませんでした。日本軍は、終わりの見えない泥沼のような戦争にどっぷりと浸かってしまったのです。虐殺と暴行は、年が明けても収まる気配がありませんでした。また、この頃になると南京での暴虐事件が海外にも知れ渡るようになります。また、陸軍首脳部も、密かにこのことを問題視し始めました。元教育総監真崎甚三郎大将は、上海派遣軍を視察してきた江藤源九郎予備役少将 (衆議院議員) の報告を聞き、1月28日の日記に以下のように記しています。軍紀風紀頽廃し、これを建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強 姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P212より)これを受けて、畑俊六教育総監は翌1月29日、松井司令官の解任を杉山元陸軍大臣に進言します。支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強 姦類のまことに忌まわしき行為も少なからざる様なれば、この際召集予後備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代わらしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣にいたしおきたる。(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P212より)2月14日、大本営は中支那方面軍以下の戦闘序列を解き、松井大将を司令官から解任、新たに支那派遣軍の戦闘序列を命令しました。新たな支那派遣軍の司令官となったのは、さきに松井大将解任を陸軍大臣に進言した畑俊六大将です。しかし、陸軍は表向きは南京での虐殺の発生について口を閉ざし、従って松井を解任した本当の理由を明らかにすることもありませんでした。また、松井は司令官を解任されただけで、それ以上の処罰を陸軍から受けることはありませんでした。南京での残虐行為は、冬の間中続いたものの、3月頃になるとさすがに下火となり、3月28日、日本軍の傀儡による中華民国維新政府が南京で樹立されたことで終息しました。日本の傀儡政府ではあったものの、それが樹立さて一応の行政と治安が復活したことは虐殺の終結に大きな効果があさったようです。太平洋戦争終了後、松井大将は、A級戦犯として訴追され、絞首刑となります。南京大虐殺関係は、極東軍事裁判の中でほぼ唯一、日本軍の侵略者としての一般民衆への残虐行為が裁かれた事例です。その他の残虐行為として裁かれた事例のほとんどは、連合軍将兵の捕虜に対する残虐行為であり(南京事件にもそれは含まれるが)、それは侵略ということと直接結びつくものとは限りません。訴追されたのは全部で5人で、松井はA級戦犯、他に第10軍第6師団長の谷中将と、百人斬りの向井・野田少尉、それとは別に三百人斬りを報じられた田中軍吉大尉がB級戦犯として中国 (国民党政権) でBC級戦犯として訴追されました。実際には、彼らと同等あるいはそれ以上の責任を負う関係者は大勢いたのですが、たとえば第16師団長中島今朝吾は敗戦直後に病死、同師団第30旅団 (通称佐々木支隊) 旅団長佐々木到一はソ連で抑留中 (後に革命後の中国に引き渡され、撫順の戦犯管理所で病死) 、中支那方面軍参謀長勇は1945年沖縄で戦死 (ここでも、彼は目を疑るようなエピソードを豊富に残している)、上海派遣軍司令官朝香宮は皇族ということで政治判断で訴追されず、第10軍司令官柳川平助も戦後病死、また事件の主役となった部隊の一つ、第16師団は1944年フィリピンのレイテで全軍ほぼ壊滅し、18000人の総兵力のうち、生存者は580名に過ぎません。(ただし、南京戦当時の4単位編成から、太平洋戦争当時は3単位編成に代わたため、南京戦に参加した連隊のうち第38連隊だけは第16師団から離れています) すでに見たように、松井は、中島師団長や長参謀のように直接的・積極的に虐殺を命じたわけではありませんが、南京大虐殺という事態を招いた原因は彼の補給を無視した無謀な進軍と入城式にあったわけで、その意味では彼に重大な責任があることは間違いありません。ただ、角副官の証言にもあるように、折り重なる死体の山を見て動揺し、涙を流し、部下の師団長を叱る程度の人間性は、まだ彼には残っていました。一方、ある意味で「不運」だったのは、百人斬りの野田・向井両少尉です。彼らは南京大虐殺の責任者でもなければ、唯一無二の実行者でもありません。戦場には彼らと同様の行為をおこなった将兵がいくらでもいたのです。ただ、新聞に名前が載ってその名が日本中に知れ渡ってしまったことから訴追されたのです。それは、しかし彼らがやってもいないこと (冤罪) ではなく、確かにやったことなのですから、仕方がないことというべきでしょう。死刑判決の後、松井大将は教誨師の花山信勝氏に以下のような言葉を漏らしています。南京事件はお恥ずかしい限りです。・・・・私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえ言った。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。(「南京事件-「虐殺」の構造-」秦郁彦 中公新書795 P45-46より)「ある師団長の如き」は、おそらく中島第16師団長を指すのであろう、とは多くの関係資料が一致して指摘するところです。「うれしい」とは言っていますが、死刑になることが本当に嬉しいはずはありません。おそらくは、自分の意向に逆らって虐殺をおこなった中島師団長や長参謀に対する怒り、その彼らがすでに死んでいるために、その責任を自分が負わされて死刑になることへの不満がこのような倒錯した表現になったのではないか、と私は思います。もっとも、中島や長がそのとき生存していて、戦犯として死刑判決を受けていれば松井は訴追あるいはせめて死刑は免れたかと言えば、おそらくそうはならなかっただろうと思われます。繰り返しますが、松井の表向きの意向はともかく、彼が大本営の反対を押し切って強行した補給の伴わないままでの南京攻略戦、それに周囲の反対を押し切って強行した南京城への入城式が虐殺の拡大を招いたことは、明らかに松井の責任に属します。そのことへの反省の視点は、最期までもてなかったようです。ともかく、松井大将自身が、南京大虐殺が責任者が死刑となってもやむを得ないような重大な残虐行為だったと認識していたことは明らかです。1948年12月24日、松井は処刑されました。いったい犠牲者はどのくらいか?南京大虐殺について、常に論争のもとになるのは虐殺の規模です。しかし、最初に断っておかなければならないのは、犠牲者数をある程度正確に算出することは、今となっては不可能だということです。まず、死者の数がよく分からない。その上、死者のうちのどこからどこまでを「南京大虐殺」と定義するかについて、意見が一致していない。この2点が理由です。そもそも問題となるのは、「南京」の地理的範囲です。たとえば、「東京」を東京山手線内と見るか、東京23区と見るか、多摩を含めた東京都全体と見るかによって、その人口はかなり変わってきます。南京の場合も同じです。もっとも狭い定義であれば、おそらく南京城内 (南京城区) だけが南京ということになるでしょう。しかし、実際には当時下関・中華門外・江東門など城外にも市街地が広がっていました。行政区分としての「南京市」は、これら城外の市街地や、さらに外側の農村も含まれていましたし、その上には南京周辺の6県を束ねる「南京行政区」という行政区分がありました。それぞれの人口は戦前の時点で城内が約85万人、南京市が100万、南京行政区全体では250万人程度でした。日本軍は各所で虐殺を繰り返しながら南京に進撃していったので、南京の範囲を狭く捉えれば捉えるほど、犠牲者数も少なくカウントできるわけです。しかし、実際には南京攻略戦はひとつづきのものであり、もちろん日本軍は中国側の行政区分に従って戦争をしたり虐殺したわけではありません。南京大虐殺とは日本軍の南京攻略戦で引き起こされた虐殺事件なのですから、そういう意味では中支那派遣軍が南京にむけて進撃を開始したとき以降の一連の南京攻略戦全体、つまり事前に大本営が定めていた進出限界線を踏み越えて以降の全行程を対象と見なすのが最も妥当であると私は考えます。もっとも、南京大虐殺の地理的範囲をどう区分したところで、死者の総数が分からないことに違いはありません。崇善堂と、紅卍会というふたつの団体が、合わせて約15万人の遺体を埋葬した、という記録が残っていますが、それは手がかりのひとつという以上の意味はありません。まず、どういう理由で亡くなった遺体かが分からないし、そしていったん仮に埋葬して、あとから埋葬しなおした遺体が一部にあり、それが二重にカウントされていると見られています。その一方で、ふたつの団体は遺体の一部しか埋葬していません。つまり、下関付近で大量に殺された捕虜・投降兵のある程度の部分は、日本軍自身によって遺体が処理されており (多くは揚子江に流された) 、当然ふたつの団体の埋葬記録には載ってきません。また、活動範囲は南京市街地内とせいぜいその近郊に限られ、市街地から遠方の遺体は地元住民が埋葬したと思われます。これらプラス要因とマイナス要因をどう評価するかによって、死者の推計値も大きく変わってしまうと思われます。次に問題になるのは、どのような死に方を「虐殺」と見るのか、という定義の問題です。つまり、死者は死者でも、交戦中に撃ち合って戦死することを「虐殺」とは言わないであろう、ということです。ただ、これについては、私には疑問があります。確かに、論理的に見れば、通常の戦闘中の戦死者を「虐殺」とは言わないでしょう。しかし、それも日本軍の侵略によって殺された犠牲者に違いはないのです。とはいえ、虐殺は日本軍による不法行為の結果である、と定義するなら、この死者の中から、「虐殺」の犠牲者数を算出しなければならないのは、やむを得ないことではあります。筆者自身の考えでは、「虐殺」の定義に外れる犠牲者には、純然たる戦闘の犠牲者、中国軍内の同士討ちの犠牲者、戦闘に巻き込まれた一般市民の犠牲者 (これは、微妙な場合もあり得ますが) などがあります。虐殺に含まれる犠牲者には、一般市民の虐殺、捕虜・投降兵の虐殺、武器を放擲してまったく交戦の意志のない敗残兵の虐殺などが含まれます。ところが、一部には敗残兵の虐殺を「軍事行動」だとして虐殺に含めない考えが存在します。もっと極端だと、捕虜・投降兵の虐殺も虐殺と認めない考えもあります。一番すさまじいのは、一般市民の虐殺を中国側の責任に転嫁して、日本軍は虐殺していないと称する意見も存在します。このような考え方のおかしさについては、後で触れますが、このように「虐殺の定義」について意見の一致を見ないことが、虐殺の犠牲者数の意見が割れる一因となっています。ここでは、とりあえずこの問題について著名な二人の歴史学者の結論を引用することにします。まず、秦郁彦氏は、「南京事件-「虐殺」の構造-」中公新書795において、捕虜・投降兵の殺害3万人、一般市民の殺害1万人 (8000人から12000人) 、あわせて約4万人という犠牲者数を提示しています。笠原十九司氏は、「南京事件」 岩波新書530において、捕虜・投降兵・敗残兵の犠牲が約8万人、民間人の犠牲者は推測が非常に困難ながら数万人以上とし、あわせて十数万人以上、それも20万人近いかそれ以上 (いささかわかりにくい表現ですが、要するに15~20万人と解せます) としています。別の方向から見ていきましょう。各部隊の戦闘詳報や指揮官・兵士の日誌などから、特に規模の大きい捕虜・敗残兵虐殺の事例をピックアップするだけでも、ある程度虐殺の規模を推定することができるのです。第16師団佐々木支隊は、中島16師団長と佐々木旅団長の日誌から、下関付近で1万数千の敗残兵を虐殺したことが分かります。更に、翌日にも約2万の捕虜を得たことが支那派遣軍飯沼参謀の日誌に記述されています。これが事実だとすれば、この捕虜は後に虐殺された可能性が極めて高い。さらに、南京入城式の後も、「便衣兵」狩りによって更に数千人を虐殺したことが佐々木少将の日誌に記述されています。一方、南京城を正面から攻撃した第16師団本隊 (第19旅団) も、少なくとも数百人を虐殺した記録があります。第13師団山田支隊は、幕府山で得た捕虜を、その後下関付近に移動して殺害、その数は1万数千あるいは2万という記録があります。第9師団は、南京占領後、第7連隊が難民区で6670人の敗残兵を殺害したと戦闘詳報に記載されています。第114師団は、第66連隊が捕虜1500人を殺害した記録があります。第6師団は、5500人の捕虜と11000の遺棄死体を記録していますが、捕虜はその後虐殺、遺棄死体の多くは投降兵の殺害だったと推定されています。第5師団国崎支隊は、2350名の捕虜を「処置」したと記録されています。また、これとは別に5000人の捕虜を得て、その後の状況が不明ですが前後関係から考えて殺害された可能性が高いと思われます。海軍第11戦隊合計1万数千の敗残兵・避難民を殺害しています。これらを足すと、実は秦氏の推定する兵士の不法殺害3万人という数字を軽く越えてしまうのです。ただし、たとえば佐々木支隊の1万数千と翌日の2万人は重複している可能性があるし、その他にも重複あるいは戦闘詳報にありがちな「戦果」の過大見積もりが含まれる可能性があります。また、巻き込まれてあるいは誤認されて兵士ともども殺された民間人も、相当数混入した数字と考えられます。しかし、その一方で、全部隊の戦闘詳報が判明しているわけではないし、これは南京城への総攻撃開始以降の数字に限られ、南京市街への進撃中の虐殺は含まれません。これらを総合して考えると、虐殺の犠牲になった兵士は数万、としか言いようがなく、兵士の不法殺害を3万とする秦氏の説も8万とする笠原氏の説も、どちらもあり得ない数字ではないと思われます。ただ、秦氏の数字はかなりギリギリに低く見積もっているという印象はあります。民間人の殺害については、秦氏は前述のスマイス調査 (農村部で26870人と、市街地では50軒に1軒の抽出調査から犠牲者6600人と推測している) の合計3万3千人という数字を、2万3千人に「修正」して、さらに不法殺害はそのうち1/2から1/3として民間人の犠牲者を推計しています。この「修正」の根拠も、不法殺害を1/2あるいは1/3にする根拠も不明ですが、推計に幅のありそうなところは最小限の数字にした、というところでしょう。これも、あり得ない数字ではないがかなりギリギリに低く見積もっているという印象を抱きます。調査を行ったスマイス自身は、日本軍の報復を恐れて被害を過小に報告する雰囲気があったこと、特に強 姦の被害者は被害を受けたことを言いたがらなかったことなどから、実際の犠牲者は調査結果より大きい可能性が高いと見ていたのですが。これらを総合すると、秦氏の犠牲者4万人説は、推計の幅の一番少ない数字をつないでいったものだということが分かります。つまり、あり得ない数字ではないが、ギリギリ最小限の数字だということです。他方、中国政府は公式には南京市街地で不法殺害された犠牲者が30万人としているようです。これも、いささか考えにくい数字ではあります。南京戦全体で (不法殺害か戦闘の犠牲者かを問わず) 日本軍の侵略によって死んだすべての中国人と考えても、上限で15万人と推定されている中国軍が一人残らず死亡して、かつ一般市民の犠牲者が15万人いなければ30万人にはなりません。スマイス調査やその他の当時の記録を総合しても、また実際に生き残っている将兵がある程度は存在することから見ても、兵士の犠牲15万人も市民の犠牲15万人も、いささか過大ではないかと思われます。まして、市街地周辺で不法殺害された、というふたつの条件が加わると、これはあり得ないと言うしかないように思えます。結局、秦氏の4万人説が最小限の推計、笠原氏の15~20万人が最大限の推計であり、真相はこのふたつの数字のあいだのどこかにあるのではないだろうか、というのが私の推論です。あえて言うなら、犠牲者10万人プラスマイナス5~6万人、というところでしょうか。南京の人口は20万人なのに30万人の虐殺は不可能なのか?これは、南京大虐殺否定論、というより「否定したつもりになっている」論の使い古された常套句です。まず、「大虐殺派」の代表格である笠原十九司氏の推計でも南京大虐殺の犠牲者数は15~20万人とされており、日本側の研究者で南京大虐殺の犠牲者が30万人と考えている人はいません。が、この場合それはあまり重要な問題ではありません。問題は、この論が、「南京の人口は20万人」という仮定に基づいている点です。先に述べたように「南京」は南京城内か南京市か南京行政区 (南京区別市とも) かによって、範囲は大きく変わります。南京大虐殺を、誰も「南京城内大虐殺」とも「南京市街地内大虐殺」とも呼ばない以上、一連の南京攻略戦での虐殺犠牲者全員が南京大虐殺の範疇に含まれると私は思いますが、それにしても、南京の地理的範囲をどう定義しても、人口20万人にはならないのです。前述のとおり、日中戦争直前の時点で、南京城内の人口はおよそ85万人、城外の市街地も含めた南京市全体で100万人、南京行政区全体で250万人でした。そのうち、南京行政区の農村部の住民 (約150万人) の大半は、避難することができなかったことは前述のとおりです。一方、南京市街地からは、日本軍の接近に伴ってかなりの住民が避難しましたが、南京が陥落した時点で何人残っていたかは、はっきりとは分かっていません。市内は混乱状態で、行政が機能していなかったからです。ただ、20万人という数字よりははるかに多かったことは間違いないのです。では、この20万人という数字はどこから出てきたのかというと、これは、国際安全区委員会が設置した安全区 (難民区) に逃げ込んだ避難民の数なのです。それもラーベの日記によると、どうも事前に予測されていた避難民の数が20万人であって、実際にはそれより多い25万人が逃げ込んでいた時期もあったようです。加えて、陥落の時点ではまだかなりの住民が市街地に残っていました。その数は厳密には分かりませんが、前述のシカゴ・デイリー・ニュースの記事は、まだ10万人が市内の各所に残っていたと記述していますし、その他の外国人や、日本軍・従軍記者なども、まだ住民が各所に残っているのを目撃して、それを記録にとどめています。もうひとつ重要なことは、虐殺の犠牲者のうち3万人 (秦郁彦氏の説) から8万人 (笠原十九司氏の説) は捕虜・投降兵の犠牲者だということです。しかし、前述の南京の人口には軍人の数はほとんど含まれていないのです。それから、この「南京の人口20万人」説を根拠として、その後1938年1月の人口推計で25万人という記録があることから「虐殺があったのに人口が増えたのはおかしい」と主張する向きがあります。これは、そもそも最初の20万人という数字が正確さを欠くものである以上、1ヶ月後の25万人という数字が人口増を示すものかどうか定かではありません。しかも、20万人という数字にしろ25万人という数字にしろ、これは安全区の人口なのです。仮に本当に難民区の人口が20万人から25万人に増加したとするなら、それはむしろ難民区外の状況がひどいから多くの避難民が詰めかけてきた、という意味に解する方がよほど自然でしょう。投降兵の殺害は合法か?これも、南京大虐殺否定論の定型です。南京周辺、特に下関付近で投降した中国兵が大量に殺されていることは、あらゆる記録から否定のしようがないから、それは戦闘行為であって虐殺ではないことにしたいのだと思われます。これについては、捕虜の取り扱いをめぐる国際条約の文面から検討したいと思います。「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年ハーグ条約)第1款 交戦者第1章 交戦者の資格第1条[民兵と義勇兵] 戦争の法規、権利、義務は独り之を軍に適用するのみならず、左記の条件を具備する所の民兵及び義勇兵団にも亦之を適用す。 第1 部下の為に責任を負う者其の頭にあること 第2 遠方より看別し得べき固著の徽章を有すること 第3 公然と武器を携帯すること 第4 其の動作に於て戦闘の法規慣例を遵守すること 民兵又は義勇兵団を以て軍の全部又は一部を組織する国に於ては之を軍の名目中に包容す第2条[群民兵] 未だ占領せられざる地方の人民にして敵の接近するに方り第1条に遵て編成するの逞なく自然武器を操りて侵入軍隊に抗敵する者にして戦闘の法規慣例を遵守する者は交戦者と看做すべし。第3条[兵力の構成員] 交戦国の兵力は、戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得。 敵に捕獲せられたる場合には二者均しく俘虜の取扱を受くるの権利を有す。第2章 俘虜第4条[俘虜] 俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし。 俘虜は人道を以て取扱はるべし。 俘虜の一身に属するものは、兵器、馬匹及び軍用書類を除くの外、依然其の所有たるべし。第5条[留置] 俘虜は、一定の地域外に出でざる義務を負はしめて之を都市城塞、陣営其の他の場所に留置することを得、但し、已むを得ざる保安手段として、且該手段を必要とする事情の継続中に限り、之を幽閉することを得。第6条[使役] 国家は、将校を除くの外、俘虜を其の階級及び技能に応じ労務者として使役することを得。其の労務は過度なるべからず。又一切作戦動作に関係を有すべからず。 国家の為にする労務に付ては、同一労働に使役する内国陸軍軍人に適用する現行定律に依り支払いを為すべし。右定律なきときは、其の労務に対する割合を以て支払ふべし。 公務所又は私人の為にする労務に関しては、陸軍官憲と協議の上条件を定むべし。 俘虜の労銀は、其の境遇の艱苦を軽減するの用に供し、剰余は解放の時給養の費用を控除して之を俘虜に交付すべし。第7条[給養] 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。 交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は糧食、寝具及び被服に関し之を捕へたる政府の軍隊と対等の取扱を受くるべし。第8条[処罰] 俘虜は、之を其の権内に属しめたたる国の陸軍現行法律、規則及命令に服従すべきものとす。総て不従順の行為あるときは、俘虜に対し必要なる厳重手段を施すことを得。 逃走したる俘虜にして其の軍に達する前又は之を捕へた軍の占領したる地域を離るるに先て再び捕へられたる者は懲罰に付せらるべし。 俘虜逃走を遂げたる後、再び俘虜と為りたる者は前の逃走に対しては何等の罰を罪を受くることなし。第9条~第21条 略第2款 戦闘第1章第22条[害敵手段の制限] 交戦者は、害敵手段の選択に付、無制限の権利を有するものに非ず。第23条[禁止事項] 特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。 イ 毒又は毒を施したる兵器を使用すること ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること ハ 兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること ニ 助命せざることを宣言すること ホ 不必要の苦難を与うべき兵器、投射物其の他の物質を使用すること へ 軍使旗、国旗其の他の軍用の標章、敵の制服又は「ジェネヴア」条約の特殊徽章を擅に使用すること ト 戦争の必要上万已むを得ざる場合を除くの外敵の財産を破壊し又は押収すること チ 対手当事国国民の権利及訴権の消滅、停止又は裁判の不受理を宣言すること 交戦者は、又対手当事国の国民を強制して其の本国に対する作戦動作に加はらしむることを得ず。戦争開始前其の役務に服したる場合と雖又同じ。第24条~第27条 略第28条[略奪] 都市其の他の地域は、突撃を以て攻取したる場合と雖、之を掠奪に委することを得ず。第28条~第56条 略もう一つ、「捕虜の待遇に関する条約」(1929年ジュネーブ条約)があります。日本は、ジュネーブ条約に調印はしましたが、当時の主要国の中では唯一批准はしませんでした。しかし、太平洋戦争に際しては、ジュネーブ条約を遵守することを声明しています。また、中国は批准していました。大部分の条文はハーグ条約の内容と同じですが、一部異なっているのは第2条 (ハーグ条約における第4条に対応する) です。第2条 俘虜は敵国の権内に属し、これを捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし。 俘虜は常に博愛の心を以て取扱はるべく、暴行、侮辱及公衆の好奇心に対して特に保護せらるべし。 俘虜に対する報復手段は禁止す。さて、「投降兵の殺害は国際法違反ではない」と主張する人たちは、南京防衛軍の唐生智将軍が、降伏の命令を下さないまま先に逃亡してしまったことをもって、残存する中国兵には捕虜になる資格がなかったと主張しているようです。彼らがそう主張する根拠は、おそらくハーグ条約 (ジュネーブ条約も) 交戦者の資格として「部下のために責任を負う者が指揮していること」を挙げているからではないかと推測できます。しかし、この主張は明らかにおかしいのです。まず、同じハーグ条約の第2条は、緊急時には上記の4条件を満たさなくても、、戦闘の法規慣例を遵守すれば交戦者の資格を与えるとしています。また、降伏命令を出す主体が南京防衛軍司令官でなければならない、という根拠が何も示されていません。南京防衛軍の上位には国民政府軍事委員会 (委員長・蒋介石、参謀総長何応欽) がありますし、下には各部隊の師長 (師団長) や連長 (連隊長) がいます。あるいはもっと下のレベルで分隊長に指揮される1個分隊だって、立派に「部下のために責任を負う者が指揮する軍」なのです。また、第23条のハは「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を禁止しており、指揮官の降伏命令のない敵兵は降伏を求めても無視して殺して良いと解釈できる余地など、どこにもありません。参考までに、この主張を、元航空自衛隊空将であった奥宮正武氏は以下のように批判します。問題は、誰が、司令官が逃亡した、と判定したか、ということである。戦況が不利な場合、形勢が著しく悪化したと判断した指揮官が、彼の指揮所を他に移すことは、世界の軍事常識からして、よくあることである。その場合、優勢な側の将兵が、士気を鼓舞するために、それを逃亡したと宣伝することも珍しくない。したがって、劣勢の側の指揮官が彼の指揮所を他に移すことと、彼の部下の将兵が捕虜となることとは、直接の関係はない。「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P60-61いま一つ、南京戦の末期に、南京防衛軍司令官唐生智が逃亡して、降伏の命令を下さなかったので、残存の中国兵は捕虜となる資格がなかったかのように解釈している人々がいることについてである。条約文から見て、そうすることは、明らかに、誤りである。3条約 (引用者註 1899年ハーグ条約・1907年ハーグ条約・1929年ジュネーブ条約の3つ) とも、将兵が、個人でも、部隊としても、敵兵を捕虜とすることがある、との前提でかかれているからである。 (中略)勇敢な将兵が、個人で、敵兵を捕らえた事例は珍しくない。そのようなさいには、総司令官の命令の有無は関係がない。その逆の場合も同様である。戦傷や病気のために動けなくなっている状態で、自らの意志に反して、敵に捕らえられることもありうる。また、空腹に堪えかねて、自ら降伏を申し出る場合すらありうるからでもあった。「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P109-110便衣兵は戦時国際法違反だから殺害は合法か?これもよく聞く否定論の定型です。「便衣兵」つまり軍服を着ていない兵士は交戦者の資格がないから処刑は合法だというわけです。仮にもし処刑が合法だと仮定しても、当時の日本の戦時国際法の解釈でも、それには軍事裁判が必要だとされていました。敵兵が「便衣」だからといって、その場で殺害することは、どちらに転んでも違法だったのです。しかし、そもそも処刑は合法なのでしょうか。彼らの主張によれば、やはりハーグ条約が交戦者の資格として「遠方より看別し得べき固著の徽章を有すること」 (軍服を着るか、一目で軍人と分かる何らかの格好をすること) を求めているから、軍服を脱いだら交戦権がないそうなのです。そりゃそのとおりなのです。確かに軍服を脱いだら交戦権はありません。しかし、では南京における「便衣兵」とはいかなるものなのでしょうか。もう一度、ニューヨークタイムスのダーディン記者の記事を振り返って見ましょう。中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎはじめました。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また、「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。軍服といっしょに武器も捨てられたので、通りは、小銃・手榴弾・剣・背嚢・上着・軍靴・軍帽などで埋まった。彼らは、軍服を脱いだだけではありません。武器も捨ててしまっているのです。武器を持っていないのですから、交戦の意思も能力もあるわけがない。従って、ハーグ条約には何も反していないのです。軍人とは、何も人間の持って生まれた属性ではありません。軍服を脱げば、軍人としての権利 (交戦権) がなくなるだけであって、交戦権という軍人の特権を行使しない限り、軍服を脱いではいけないなどということはないのです。もっともわかりやすい例で言えば、軍人だって休暇をもらって帰郷することがあります。そのときには平服を着ていることもあるはずです。それはハーグ条約違反なのでしょうか。もし休暇中に突然戦争が始まって、奇襲によって帰郷先が占領されてしまったら、彼はハーグ条約違反の「便衣兵」として処刑されて当然なのでしょうか。あるいは、硫黄島の戦いを題材にした「父親たちの星条旗」という映画が2006年に公開されましたが、その中で、米軍の兵士たちが硫黄島の海で泳ぐシーンがありました。まだ戦闘の真っ最中なのですが、彼らは軍服を脱いで素っ裸になって泳いでいました。彼らは、ハーグ条約に反する「便衣兵」 (というか、実際は「無衣兵」だが) なのでしょうか。また、太平洋戦争末期の日本では、15歳以上60歳以下の男子は全員、たとえ現役で兵役に付いていなくとも「第2国民兵役」を課せられていました。「国民服」なんてものは軍服に似てはいましたけれど、軍服そのものではありません。国民服やその他の非軍服を着て日常生活を送っていた彼らは、ハーグ条約に反していたのでしょうか。そんな馬鹿な話はないのです。彼らは、そのままの状態では武器を持ったり戦闘に参加したりしてはいけない、それだけのことです。もちろん、軍服を捨てて逃亡する行為は、国内法的には逃亡罪に問われる可能性があります。しかし、それはあくまでも国内法上の問題です。交戦相手が、敵国の国内法を代行して軍服を脱いだ兵士を「逃亡罪」で処罰するなどということは、あり得ないのです。参考文献「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 1997年「南京事件-「虐殺」の構造-」秦郁彦 中公新書795 1986年「私の見た南京事件」 奥宮正武 PHP研究所 1997年「南京への道」 本多勝一 朝日文庫 1989年「図説 日中戦争」 太平洋戦争研究会編 森山康平著 ふくろうの本 河出書房新社 2000年「日中戦争 帝国陸海軍全作戦」 千葉仁志 フットワーク出版社 1992年「南京大虐殺否定論13のウソ」 南京事件調査研究会 柏書房 1999年
2023.08.10
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「平和だけ考える義務なし」 トランプ氏、平和賞逃しメッセージドナルド・トランプ米大統領は、ノルウェーのストーレ首相に宛てたメッセージの中で、ノーベル平和賞を受賞できなかったことを踏まえ、「もはや純粋に平和だけを考える義務は感じていない」と述べた。トランプ氏はメッセージで、「あなたの国が、私が八つの戦争を止めたにもかかわらず、ノーベル平和賞を授与しないと決めたことを考えれば、私はもはや純粋に平和のみを考える義務は感じていない」と記した。その上で、引き続き平和は「最優先事項」であるとしつつも、「今後は、アメリカ合衆国にとって何が善であり、何が適切かを考えることができる」と述べた。トランプ氏からのメッセージを受けてストーレ首相は、ノーベル平和賞はノルウェー政府が授与しているものではないと強調。「トランプ大統領にも明確に説明したが、ノーベル平和賞は独立したノーベル委員会によって授与されている」と書面でのコメントで述べた。またトランプ氏は、同じメッセージの中で、デンマーク自治領グリーンランドについても言及し、「米国が完全かつ全面的にグリーンランドを支配しない限り、世界は安全ではない」と主張した。「そもそも、彼ら(デンマーク)に『所有権』がある理由は何なのか。文書による根拠はなく、数百年前に船が到着したというだけではないか。われわれも同様に船を到着させていた」と述べた。このメッセージの真正性については、関係筋およびストーレ首相自身がノルウェー紙VGに対し確認している。---信じがたい言い分です。もちろん、ここに書かれたことがトランプの考えのすべてだ、とは私も思いませんが、思ってもいないことを書いているわけではないこともまた確かです。こんな言い分を(腹の中で思っているだけならともかく)外部に公表してしまうこと自体も含めて、まともな為政者のやること、言うことではない、と思います。プレゼントをもらえなかったから拗ねてやる、と公言しているのも同然でしょう、こんなのは。どれだけお子ちゃまなんだ、と驚きます。世界が米国にひざまずき、米国の要求(どんな理不尽なものでも)を受け入れるのが、米国にとって最適だったとしても(実際には、必ずしもそんなことはないと思いますか)、世界にとってはそうではないし、屈する義務もありません。>「そもそも、彼ら(デンマーク)に『所有権』がある理由は何なのか。文書による根拠はなく、数百年前に船が到着したというだけではないか。」そもそも、領土は「所有」するものではなく「領有」するものです(原文ではright of ownershipと書いていますが、領有はsovereigntyまたはdominiumでしょう)。例えば日本の個人あるいは法人が、マンハッタンで土地を購入し、所有することはできますが(バブルの時代にはそういうことがありました)、だからといってその土地が日本の領土になることはありません。そして、デンマークがグリーンランド領有する、文書上の(つまり条約上の)根拠がない、というのは、きちんと調べてはいませんが、おそらく事実なのでしょう。でも、国際法上、領土の定義とは、条約等の書面で規定していること、だけではありません。例えば、三宅島や佐渡島が日本の領土であることを規定した条約はありません。日本の領土で、条約によって規定されているのは、おそらく米国との「沖縄返還協定」によって返還された沖縄だけでしょう。でも、条約の規定がなくても三宅島や佐渡島は、疑いの余地なく日本の領土です。なぜなら、国際法上、「先占」「実効支配」も、領土の定義になるからです。同様に、米国でもカナダやメキシコとの国境は条約等で決まっていますが、マンハッタン島が米国領であるという条約は、ないんじゃないですか?でも、マンハッタン島が米国領であることは、前述の先占と実効支配の原則から明らかなのです。もちろんグリーンランドも、デンマークが実効支配しています。実は歴史的経緯を考えると、最初にグリーンランドを領有したのはノルウェーなのですが、ノルウェーやアイスランドからの入植地は15世紀末頃に滅亡し、ノルウェーの実効支配は一旦途絶えたこと、当時現在のような国際法もまだなかったこと、入植地が滅亡した当時ノルウェー自体がデンマークの支配下に入っていたことなどから、18世紀にデンマークがグリーンランドを再発見し実効支配することに、ノルウェーは特に異を唱えていません。グリーンランドは高度な自治権を持ってはいるものの、デンマークが実効支配をしていること、少なくともこれまでのところそれに異を唱える国は存在しないこと(トランプでさえ、グリーンランド「購入」と言っている以上、現在のグリーンランドをデンマークが「所有」している事実は認めています)は歴然としています。もちろん、当のグリーンランド住民もまた、米国領になることを望んでいません。世論調査では、住民の85%が反対と報じられています。なお、グリーンランドは独立運動が盛んですが、現在の自治政府首相は独立消極派です。あらゆる意味でトランプの言い分に妥当性はないし、ましてやその理由としてノーベル平和賞を受賞できなかったから、などという駄々っ子のような理屈を述べる、あきれ果てた話です。が、そのような人物が経済力、軍事力において世界一の超大国の元首であり、誰もそのやることを阻めない。これは国際秩序という意味で、破滅的な状況と思わざるを得ません。
2026.01.21
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米、普天間返還に留保条件 「長い滑走路」選定必要米軍普天間飛行場の返還を巡り、米国防総省が政府監査院(GAO)からの勧告に回答した文書で、留保する条件を付けていたことが分かった。移設先の名護市辺野古には「長い滑走路」が整備されないとし、日本が代替となる滑走路を選定するまで「普天間の施設は返還されない」と説明した。日米両政府は普天間返還の条件の一つとして、緊急時に長い滑走路が必要になった事態に備えて「民間施設の使用」の環境を改善することで合意している。国防総省は、この条件に基づいて文書で見解を示したとみられる。木原官房長官は16日の記者会見で「辺野古への移設完了後も、普天間飛行場が返還されないという状況は全く想定していない」と説明した。従来の返還計画に変更はないとした。現行の整備計画では、滑走路は普天間の約2700mに対し、辺野古がV字型で約1800m。GAOは2017年の勧告で、滑走路短縮に伴う「能力上の欠陥」を解決するよう促した。---この話って、確か「赤旗」のスクープだったような気がします(どこが最初に報じたか、ちゃんと検証していませんが)。ただし、「辺野古基地が完成しても普天間基地は返還されない」という話は、正直なところ「まさか」ではなく「やっぱり」なのです。予想外ではなく、これまでもその可能性は指摘されてきました。滑走路の長さが短い、なんてことは昨日今日明らかになった話ではなく、計画が固まった時点で散々指摘されていたことですから。「そうなるのではないか」と危惧されていたことが、やっぱり公然化してしまった、という話に過ぎません。辺野古への基地移設に反対する沖縄の世論に対して、「じゃあ普天間基地は返還されさなくていいんだな」という脅し文句がありました。ふたを開ければなんということはない、辺野古に基地が作られても、やっぱり「普天間基地は返還されない」というわけです。辺野古基地は反対の声を押し切って建設が続けられていますか、工事は遅々として進んでいません。軟弱地盤に7万1000本の杭を打ち込む予定ですが、開始から1年で実際に打設されたのは約4700本と報じられています。このペースならすべての杭を打ち終わるのに約15年かかります。そのうえ、完成しても普天間基地は返還されないとなると、いったい何のために辺野古の貴重な自然を潰して基地を作ったのか、米軍基地をわざわざ二つに増やすために新しい基地を作ってやった(日本の負担で)という、どうしようもなく間抜けな話になってしまいます。木原官房長官が「辺野古への移設完了後も、普天間飛行場が返還されないという状況は全く想定していない」などとぼけていますが、考えたくないから想定しない、と言っているようにしか思えません。それにしても、どこぞの政党が合併に際して「辺野古への基地移設賛成」などと決めてしまった直後に「辺野古に基地が完成しても普天間基地は返しません」なんて話が表沙汰になり、これまた実に間の悪いことです。
2026.02.19
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090410-00000085-jij-soci番組でコカの葉かむ=朝日放送に厳重注意-近畿麻取朝日放送(本社大阪市)が番組で出演者がコカインの原料になるコカの葉をかむ場面を放送し、厚生労働省近畿厚生局麻薬取締部が麻薬特例法に違反する可能性があるとして、朝日放送に対して厳重注意していたことが10日、分かった。同部によると、問題の番組は1月2日に全国で放送された「世界の村で発見! こんなところに日本人」。出演の男性タレントが南米ボリビアを訪れ、露店でコカの葉をかむ映像を流した。注意は1月8日付で、同放送東京支社に対して口頭で行った。 -----------------------------------確かにコカの葉は日本では違法ですが、ペルー・ボリビアではまったく合法です。(精製したコカインはあちらでも違法です)高山病に効くので、たいていの外国人旅行者が、マテ・デコカ(コカの葉のお茶)のお世話になる。私は、高山病に対してはかなり耐性があるので、コカ茶は一度しか飲んだことがありませんけど、とにかく一度は飲みました。ま、葉を直接咬むのは、コカ茶より麻薬成分が濃いだろうとは思いますけどね。鉱夫にとっては特にコカは必需品です。だから、ポトシの鉱山を見学に行った際は、事前にガイドから「鉱夫へのチップとして、コカの葉か煙草かどちらかを持っていって下さい」と言われ、市場でコカの葉を買ってもって行きました。Mineritoという歌にもある。Los minero de Bolivia todos trabajancon su coca y su sigarro.........ボリビアの鉱夫たちはみんな働いているコカの葉を咬み煙草を吸いながらってね。YouTubeで検索したら、たくさんヒットしました。http://www.youtube.com/watch?v=OO3qrUACBK8&feature=related&fmt=18(2曲メドレーになっており、後半は別の曲ですが)まさしくコカの葉を咬んでいるシーンが出てきますね。私は、かつてこの歌をずいぶんライブで歌いました。とすると、私も「薬物の乱用を公然とそそのかし、麻薬特例法に抵触する可能性がある」んでしょうか。外国では合法、日本では違法などということは、世の中にたくさんあります。日本で違法だからと言って、現地では合法の行為を放送すると、「違法行為を公然とそそのかした」ことになるんでしょうか。実に馬鹿馬鹿しい限りです。
2009.04.11
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「TAKE-OFF」は事故の元 管制時の使用制限へ日本航空(JAL)機が08年2月、北海道・新千歳空港で管制指示に反して離陸滑走をはじめた重大トラブルで、運輸安全委員会は23日、管制官が待機を指示する文脈の中で発した「TAKE―OFF」(離陸)という単語が、「離陸許可」を連想させるとして、使用を制限するよう国土交通相に求めた。同日公表の調査報告書で指摘した。国交省はこれを受け、「TAKE-OFF」の使用は、実際に離陸を許可する場合と、やめさせる場合に限定するよう業務規定を改める方針を決めた。待機や離陸の準備をさせる指示では「DEPARTURE」(出発)などの言葉で代用する。報告書によると、新千歳では管制は自衛隊が担当。管制官は当時、JAL機に「EXPECT IMMEDIATE TAKE-OFF」(直ちに離陸できるよう備えよ)と言って待機を指示。だが機長は離陸許可の際に使われる「TAKE-OFF」という言葉に影響され、許可が出たと思いこみ、滑走を始めた。2キロ以上先に別の機体があったが、雪で視界が悪く見えなかった。管制官の制止により、大事には至らなかった。「離陸」という用語は、583人と史上最悪の犠牲者を出した77年のスペイン領テネリフェ島のジャンボ機衝突事故でも問題となったことがある。管制官が「OK、離陸を待て」と指示したが、無線の混信できちんと届かず、機長は離陸許可が出たと誤認して滑走を開始し、別のジャンボ機に衝突したのだ。事故後、「離陸」は離陸の許可または取り消し以外には使わないよう、多くの国が取り組んだ。日本も、国交省監修の航空関係者向けのマニュアルには同様の記載がある。しかし、管制官に準拠が義務づけられている業務規定には記述はなく、自衛隊の管制官らは先のマニュアルを必ずしも読んではいないため、徹底されていなかった。-----------------------------実は、この事件の前年2007年6月にも、同じ新千歳空港で離陸滑走中のスカイマークエアライン機の前を全日空機が横切るという事件が起こったことがあります。危険性という意味では、むしろそちらの方が深刻だし、記事中にあるテネリフェ島のジャンボ機衝突事故につながる危険の大きい事例だったように思います。しかしどちらも新千歳空港の出来事というのが気になります。テネリフェ島のジャンボ機衝突事故は、KLMオランダ航空と今はなきパン・アメリカン航空のジャンボジェット同士が、スペイン領カナリア諸島のネテリフェ島の空港で衝突し、2機合わせて死者583人という航空史上最悪の事故です。(ただし、1機だけの事故としては、御巣鷹山の日航ジャンボ墜落事故が世界最悪)この事故は規模が世界最悪であることに加えて、まるで疫病神が事故への道を舗装したかのように、あらゆる不幸な偶然が事故へとつながっていったことで有名です。詳細はウィキペディアに詳しいのでそちらを見ていただくとして、かんたんにまとめると、大西洋のリゾート地、カナリア諸島のラス・パルマス空港がテロで閉鎖されてしまったことが全ての始まりです。そのため、ラス・パルマス空港に向かっていた飛行機が、みんなネテリフェ島のロス・ロデオス空港に着陸したのです。ところが、この空港は小さくて駐機場が満杯になってしまい、やむを得ず誘導路を駐機場のかわりにした。これが事故の大きな原因になります。やがて運行は再開されたものの、誘導路が駐機中の飛行機で塞がっているので、誘導路を通らずに滑走路を通って離陸位置まで行って、機体を反転させて離陸するよう管制官は指示したのです。その間、時刻は夕方で、日も暮れかかり、しかも霧が出てきて視界がきかなくなった。KLM機が先に離陸位置に向かい、パンナム機がその後に続いていたのですが、パンナム機の方は滑走路の途中から誘導路に逸れるように指示されます。しかし連絡路に入り損ねて、指示より少し先の連絡路から誘導路に入ろうとしました。そして、離陸位置に着いたKLM機と管制塔は、こんなやりとりをしたのです。KLM「これから離陸する」管制「OK・・・・・・・・、その場に待機せよ」管制官が一瞬言い淀んだのでしょう、OKとそれに続く言葉に2秒ほどの空白があり、この間が致命的な結果をもたらします。パンナム機の機長が、管制官の「OK」の言葉と、そのあとの一瞬の沈黙を聞いて、慌てて送信したのです。「だめだ、こちらはまだ滑走路上にいる」と。ところが、この発信は、管制官の「その場に待機せよ」と重なってしまったため、両者は混信してまったく聞き取れなくなってしまった。KLM機には「OK」しか聞き取れなかったのです。ただし、その後で管制塔はパンナム機と「滑走路を空けたら報告せよ」「OK、滑走路を空けたら報告する」というやりとりをしているのです。それはKLM機の無線にも入っているのですが、機長と副操縦士は聞き漏らしたのです。「離陸許可が出た」と思いこんでいるから、耳に入らなかったのでしょう。KLM機はそのまま滑走を開始して、パンナム機に衝突したのです。本来の目的地ラス・パルマス空港が一時閉鎖されなければ、誘導路が塞がっていなければ、霧が出ていなければ、パンナム機が指示通りの一で滑走路から誘導路に出ていれば、管制官が一瞬言いよどまず混信が起こらなければ、そして、KLM機のパイロットがいらいらして離陸を急がなければ、そして、空港に地上誘導用のレーダーがあれば、どれか一つの条件でも回避できれば、起こらなかったはずの事故だったのです。しかし、実はKLM機のコクピットの中で、一人だけ「まだ滑走路にパンナム機がいるんじゃないか」と気づいていた人がいるのです。当時の旅客機は機長・副操縦士・航空機関士という3人のクルーがいましたが、この3人目の航空機関士だけは、管制塔とパンナムの「滑走路を空けたら報告せよ」というやりとりを聞いて、「まだパンナム機は滑走路にいるんじゃないか」と思ったようです。ところがその疑問は、機長と副操縦士に「大丈夫だ!」と押し返されてしまう。機長は、大ベテランで、重役待遇の身分だったそうです。そのえらい機長に(副操縦士にも)反論されて、航空機関士はそのまま黙ってしまったのです。言うべきときに違うことを「違う」と言わなかった、あるいは言えなかったことが、致命的な結果をもたらしたのです。ワンマン経営者の絶対的権力の下で社員は一切の異論、反論が許されないというような職場でも、同じようなことが起こるかも知れません。いや、現にたくさん起こっています。企業の不祥事や経営破綻のなかには、誰かが経営者に「それはダメですよ」と忠告できれば、忠告に聞く耳を持てれば、回避できた例も多いでしょう。ひどい場合には、企業どころか国家全体がそういう状態に陥って、破綻に至ることもあります。太平洋戦争に突入していくときの日本などは、まさしくそれです。相手が誰だろうが何だろうが、違うものは違う、間違っているものは間違っている、とはっきり指摘できる環境、指摘する勇気が大事なのです。それが失われたら、ネテリフェ島の2機のジャンボジェットのように破滅への道を押しとどめるものはなくなります。
2009.01.23
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知人からの情報で、大木岩夫さんが9月5日に亡くなられたことを知りました。大木さんは、1970年代、サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」がヒットした時期にケーナを手にして、フォルクローレを始めた方です(一部の関係者は「第一次フォルクローレブーム」などと呼んでいましたが、その言葉を知る人すら、現在ではごく少数でしょう)。私が初めてフォルクローレを始めた頃は、「コジャマユ」というグループでケーナを吹いておられました。その解散後、ライセスというグループを作って活動するとともに、ケーナの製作、販売も手掛けるようになりました。ただ、最近数年は、風のうわさに脳出血系のご病気になられ、郷里の福島に戻られて療養していた、と聞いています。78歳だったそうです。いつの間にそんなお年になっておられたのですね。団塊の世代ど真ん中の方で、ご本人からおうかがいしたかすかな記憶では、中卒で集団就職で東京に出てきて(ただし、勤務先は重工業系の大企業だったと記憶しています)、20代の終わりころにケーナと出会うまでは、音楽とは全く無縁だった、というような話だったと思います。大木岩夫さんと言えば、独特の髪型、アルゼンチンのケーナ奏者ウニャ・ラモス(日本では加藤登紀子が歌ってヒットした「灰色の瞳」の作者)に心酔し、その髪型を真似たそうです。そして、双子のご兄弟がいて(確か双子の弟さんも尺八を演奏される方だったと思います)、顔がまったく同じだったこと。同じグループで演奏したことはないのですが、「アンデスのこだま」というコンサートで、別々のグループで一緒に演奏したことはありますし、仲間うちの忘年会、お花見などの企画で一緒に演奏したことも何回かあります。舞台袖でビール(だったかな?とにかくアルコール)を飲んでからスタスタとステージに出て行って演奏を始めたこと、管楽器奏者としては極めて珍しい喫煙者でしたが、「タバコはケーナに良いんです」という謎の名言(笑)、いろいろなことが思い出されます。でも、間違いなくそのケーナの音色は素晴らしいものでした。YouTubeを検索すると、「ライセス」での演奏動画がいくつか上がっています。コージャ族のクエッカタラフチ「関東フォルクローレ連盟」で開催したお花見での1枚です。いつの写真か記憶がありませんが、私が弾いているギターが現在使っているメキシコ製のギターではなく、その前に使っていたギター(今も押し入れに眠っていますが)なので、おそらく1993~95年のどこか年の春です。そうだとすると、私は20代半ば、大木さんは40代半ばか後半くらいだったのだと思います。そして大木さん制作のケーナです。後年、本格的にケーナの販売をするようになってからは、「大木」という焼きごてで刻印を押すようになりましたが、この時はまだ焼きごてはなく(だから、「大木さん製作のケーナ」という証明は私の記憶の中にしかありません)値段も2000円か3000円だった記憶があります。実は、私の自作のケーナも塗装なしなので、外見は大木さんのケーナと私の自作ケーナはパッと見少し似ていて、家の中の何十本かのケーナの中から、大木さんのケーナを探し出すのにちょっと苦労しました。でも、吹き口の形状が、私のケーナはボリビアのアハユのケーナの模倣なので、そこが違います。そして、何を隠そう、私は売り物にする気ゼロで「音が出りゃ良い」派なので、上部の切断面も、吹き口の切込みの処理も雑で荒っぽいのに対して、大木さんのケーナはとてもきれいな仕上げなのです。ご冥福をお祈りします。
2024.09.19
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「フルスペックの集団的自衛権」は必要だ国会で安倍首相が「第9条2項を変えることになれば、書き込み方でフルスペック(全面的)の集団的自衛権が可能になる」と答弁して、石破茂氏の提案する第2項の削除案を否定した。これに対して石破氏は「集団的自衛権を何でもやりますなんて、党として決めたわけでない」とし、第9条2項の削除が全面的な集団的自衛権の行使容認につながらないという。~常識的に考えて、自衛権に制限をかけて自国が安全になることはありえない。集団的自衛権の限定行使についての「5党合意」では「存立危機事態に該当するが、武力攻撃事態等に該当しない例外的な場合における防衛出動の国会承認については、例外なく事前承認を求めること」となっているが、北朝鮮からミサイルが飛んできたとき、国会で審議していて間に合うのか。---例によって、池田信夫のくだらぬ論考です。9条の改憲には、安倍の案であろうが石破の案であろうがわたしは反対です。ただ、そのことはそのこととして、集団的自衛権で「防衛」と名を冠すればなんでも認める、というのは異常なことであり、そんなことによって自国がより安全になることなどありえないと私は思います。だいたい、どんな侵略戦争も「防衛」と称して始まるものです。戦前の日本は「高度国防国家」と自称していましたが、その実態は中国に対する侵略国家でした。だから、戦後の日本は武器使用の3要件として、「我が国に対する急迫不正の侵害がある」「これを排除するために他の適当な手段がないこと」「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という厳しい条件を付してきたのです。池田は「北朝鮮からミサイルが飛んできたとき、国会で審議していて間に合うのか。」などと使い古されたデマゴギーを叫んでいますが、日本の領土に向かって飛んでくるミサイルを迎撃するのは個別的自衛権の問題であって、集団的自衛権とは関係ないし、「武力攻撃事態」であることは明らかです。しかし、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」分かりやすくいえば米国に対する武力攻撃は、「存立危機事態」には当たるでのしょうが、日本に対する武力攻撃ではありません。それに対して、「それは日本に対する攻撃だ」とみなして反撃すること(集団的自衛権の行使)を認める「平和安全法制」自体に問題があると私は思います。ましてそのようなことを「緊急だから」と国会の事前承認もなく、政権の恣意的に反撃をことが許されてよいとは思えません。そのような安易な武力行使は、国民をより巨大な危険へと陥れる可能性があります。戦前の日本を例に挙げましたが、あからさまな侵略戦争を「防衛」と称することは、何も日本の専売特許だったわけではありません。ベトナム戦争での米国のあからさまな侵略、中米・カリブへの干渉、あるいは旧ソ連のハンガリー、チェコ、アフガニスタンへの介入、これらはいずれも「自由主義陣営の防衛」「社会主義陣営の防衛」と称して行われています。世界のどの国も、「侵略は悪」という認識は共有しており、自国の振る舞いは侵略ではない、という体裁を欲するからです。現在の日本は、戦前とは違い、単独の判断、単独の軍事力で外国を侵略する能力は幸いにしてありません。その代わり、米国の判断、米国の軍事力の補完として、「集団的自衛権の行使」と称する実質的な侵略に加わる可能性が、非常に高くなってしまいました。日本政府は、およそ米国の世界戦略に公然と異を唱えたことはありません。が、それでも、集団的自衛権は違憲とされていた時代は、海外で戦争に日本が参加することだけはありませんでした。集団的自衛権が認められていたら、日本はベトナム戦争に参戦していたかもしれません。そうすれば、米軍や韓国軍のように、非戦闘員や民間人の虐殺に日本も関与する事態が起こっていたかもしれない。もちろん、自衛隊(そのような場合、もはや自衛隊ではなく日本軍という呼称だったかもしれませんが)にも多くの死傷者を出したに違いありません。あるいは、湾岸戦争や、泥沼のイラク戦争に、後方支援ではなく最前線の戦闘部隊を送っていたかもしれません。お互いに多くの戦死者を出した上に、イスラム国の主たる憎悪の対象が日本になっていたとしても、不思議ではありません。安倍の言う、そして池田がそれに追従する「フルスペックの集団的自衛権」なるものは、実際にはフルスペックの対米従属でしかありません。米国の世界戦略に、「後方支援」だけでなく、いわば弾除けとして最前線に立とう、ということです。そのようなことが、日本の「国防」「安全保障」の役に立つとは、私には思えないのです。一部の国家主義者が溜飲を下げるだけで、一般国民の平和と安全を保つことには、百害あって一利なしです。まして、そのようなことを、国会での議論すら経ずに、時の政権の独断で決めてよいはずがありません。
2018.02.06
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ゴールデンウイーク中のことですが、新しい双眼鏡を買ってしまいました。これまで使っていた双眼鏡は、以前に記事を書いたこともありますが、こちらです。コーワのSV25-8という機種です。対物レンズが25mmなので非常にコンパクトで、260gしかなくて軽い。値段も、現在は8000円以上しますが、購入当時(昨年4月)は何故か5000円未満で買えました。見え味もあまり他の双眼鏡との比較はしたことがないですが、少なくとも一眼レフのファインダーよりははるかに見やすいものです。ただ、欠点もあります。コンパクトな分暗い。まあ、それに関しては野鳥観察は日中にするので、早朝や悪天候、樹林内などの暗い環境も含めて、暗くてよく見えないと感じたことはありませんけど。もう一つの欠点は見にくい、ということです。両目をきっちりと接眼レンズの中心に当てて、両目で立体的に見る、というのが案外難しいのです。ちょっとでも接眼レンズの中心から目がずれると、片目しか見えない、もう一方の目は見えない「単眼鏡」状態になってしまいます。特に、双眼鏡を構えて覗くときは、ちゃんと両目で見えるまでに双眼鏡を動かして最適ポイントを探るため、1~2秒を要することがよくあります。ピントリングが軽くて、ちょっと動かすとピントがずれてしまうのも、(好みの問題もあるけれど)欠点と言えば欠点です。というわけで、1年使ってみて、もう少し見やすい双眼鏡も欲しいなと思ってしまいました。見やすいとは、対物レンズがもう少し大きい、ということになります。いや、最初からその方がよいことは分かっていたのですが、大きくて重い双眼鏡を山になんか持っていけないじゃないですか。そのことを考えて小さい双眼鏡で妥協していたわけですが、考えてみれば、あらゆる局面を一つの双眼鏡だけで済ませる必要はないわけで、山登りは小さな双眼鏡、東京近辺で鳥の撮影のときは大きな双眼鏡、と使い分ければよいだけのことです。というわけで、ゴールデンウイーク中のことになりますが、新しい双眼鏡を買ってしまいました。それがこちらです。やはりコーワのYF30-8という機種です。こちらが双眼鏡本体です。先のSV25-8はダハ型と言って接眼レンズと対物レンズが一直線ですが、こちらはポロ型、昔からの形態の双眼鏡です。こちらのほうが同じ性能ならより安価になるそうです。その代わり、若干重くかさばるようになります。と言っても500gに満たないので、決して重くはありません。ちなみに、二つの双眼鏡を並べたらこんな感じです。SV25-8のほうが小さい上に、折り畳みができるので更にコンパクトになります。しかし、覗いてみると、YF30-8の方がやはり圧倒的に見やすいです。もう、両目を正しく接眼レンズの中心に当てることに神経質にならなくても、ちゃんと両目で見ることができます。そして、視界も25mmより30mmのほうが広い。接眼レンズに無理矢理iPad miniを押し当てて撮影してみました。色合いの差はひかりのちょっとした加減であり、肉眼では差を感じません。ピントも、肉眼ではちゃんとあっていますが、iPad miniのレンズ越しだとちょっと合っていない(単なる手ブレかも)そういったところは無視して、単に視界の広さだけを見比べてください。SV25-8YF30-8SV25-8よりYF30-8のほうがはるかに視界が広いことが分かるかと思います。ちなみに、お値段は税込みで9500円弱(更にポイント10%が付く)現在の値段ではSV25-8とたいした差ありません。購入当時の価格同士では、2倍近く高いですけど。双眼鏡もピンキリで、上は10万円以上するような高級品もあります。実はこのYF30-8以外にも候補がありました。ニコンのモナーク7という双眼鏡で、だいぶ高くて3万円くらいしました。どっちにしようかと思ったのですが、私が足を運んだ量販店の店頭見本は、モナーク7は視度調整リングが固着して、いくらピントを合わせてもピントがあわないのです。もちろん新品の商品は問題ないだろうとは思いましたが、どんな見え方か分からないまま買うのは、ちょっとね。それに値段の差もあって、安いYF30-8を選びました。2回ほど使ってみて、レンズキャップがゆるゆるという点を除けば非常に満足しています。とはいえ、前述のとおり、この双眼鏡は重くはないけどかさばるので山には持って行きにくい。山には引き続き、従来のSV25-8を持っていくことになるでしょう。
2018.05.12
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少し前に、フォルクローレに使われる弦楽器とその起源について考察しましたが、今度は管楽器について考えてみたいと思いますか。アメリカ大陸にはもともと弦楽器がなく、管楽器と打楽器しかありませんでした。ただし、現在フォルクローレで使われている管楽器や打楽器が、すべてもともとアメリカ大陸に存在したもの、というわけではありません。タルカと呼ばれる笛の合奏、「タルケアーダ」ピンキージョと呼ばれる笛の合奏、「ピンキジャーダ」タルカにしろピンキージョにしろ、いかにも素朴で原始的な民族楽器に見えます。が、この笛の構造を見ると、リコーダー(小学校の音楽の授業に使う、あのリコーダー)とまったく同じなのです。つまり、どちらの笛もヨーロッパのリコーダーが起源というわけです。一方、いわゆる一般的なフォルクローレ(ネオ・フォルクローレ)に使われる笛、つまりケーナやサンポーニャは、その原型が先スペイン時代の遺跡からも発見されており、アンデスに古来からあった楽器であることが分かっています。ただし、土着の楽器としてのケーナやサンポーニャと、ネオフォルクローレに使われるケーナやサンポーニャでは、楽器の材質、音階、奏法などに、ほとんど別物と言っていいくらいの違いがあります。そもそも、名前からして違います。「ケーナ」という名がいつ付けられたのかは知りませんが、土着のケーナ(状)の楽器は、「ケナケナ」または「チョケラーダ」と呼ばれ、ケーナとは呼ばれません。サンポーニャも、これはスペイン語で、先住民の言葉では「シーク」です。ケナケナケーナ動画のタイトルを見れば分かるように、どちらの曲も同じグループが演奏していますが、相当に違う吹き方ということが分かると思います。先ほどのタルカやピンキージョはリコーダー型の笛ですが、ケーナ(ケナケナ・チョケーラ)は、尺八・篠笛・フルートと同じ構造の笛です。だけど、ケーナとケナケナの音より、ケナケナとピンキージョの音のほうが似ているし思いませんか?おそらく、ケナケナとピンキージョを、笛を見ないで音だけで区別することは非常に難しいと思います。おそらく、笛を吹く方はすでにお気づきと思いますが、タルカにしてもピンキージョにしてもケナケナにしても、先住民の土着系の笛の奏法には、タンギングとビブラートがありません。一方、現代的なケーナの奏法にはタンギングもビブラートもあります。これは、おそらくフルートなど西洋音楽の笛の奏法の影響を受けて、かなり近年になって確立した奏法だと思います。現在では、(日本の)ケーナの教則本だって、ビブラートとタンギングは基礎の基礎として扱っていますけどね。もうひとつ、現代のケーナの奏法では3オクターブを使いますが、これも土着の奏法にはありません。それどころか、プロのケーナ奏者でも、3オクターブを絶対に使わない人が1970年代頃まではいたのです。一方のサンポーニャ。これは、パンフルート(ビール瓶で音を出すのと同じ理屈)の一種です。シーク(土着的) 以前にも紹介した動画ですサンポーニャ(現代的) これもね以前に紹介した動画です現代的なほうも、土着的な演奏スタイルを意識した曲なので、笛の音そのものにはそんなに大きな差はありませんが、やっぱりビブラートの有り無しは違います。サンポーニャ(シーク)というのは、この笛の総称です。ソプラノリコーダーやアルトリコーダーがあるように、サンポーニャも音域ごとに名前が分かれます。一番上から「チュリ」、その1オクターブ下が「マルタ」(もっとも普通に使われるサンポーニャで、アルトリコーダーに近い音域)、その1オクターブ下が「サンカ」、さらに1オクターブ下の最低音サンポーニャが「トヨ」です。トヨの全長は1メートルを超えます。(現代的なケーナの動画の中に、トヨが少し出てきます)ケーナの場合は、高音用の小さなケーナはケニージャ、大きい低音用のケーナはケナーチョと呼びます。ケニージャはあまり使われませんが、ケナーチョはよく使われます。手前味噌ですが、私自身の演奏です。前半(前奏を除く)はケナーチョ、後半はケーナを使っています。通常のケーナは最低音がソ、私の使っているケナーチョは最低音がレです。もう1音低い最低音ドというケナーチョもあります。最初に紹介したピンキージョには、もっと低音用の楽器があります。モセーニョといいます。フルートでもね低音用のものは頭部管が曲げてありますが、同じ理屈です。私は持っていません。他にも様々な笛があります。最初に出てくるのはフルートや篠笛と同じ、いわゆる横笛です。これはエクアドルの笛ですが、ボリビアにもまったく同様の横笛があります。「フラウタ」と呼ばれますが、これはフルートのスペイン語読みで、笛類一般の総称でもあります。だから、この笛だけの独自の名というのはないのかもしれません。動画の後半に出てくるのは、ロンダドールと呼ばれるパンパイプです。サンポーニャと同じ構造ですが、ずっと細い管を使っており、また見て分かるように音の並びが音階順ではありません。ひとつの音の和音のならびになるように並んでいるのですが、ちょっと酔っ払ったような感じの音です。で、ここまでは土着の笛およびそこから発展した笛です。現在では、言うまでもなくヨーロッパからクラシック系の楽器が数多く流入しています。特に金管楽器は笛よりずっと音量があるので、お祭りの音楽などでも近年は吹奏楽(スペイン語では「バンダ」)が盛んのようです。ただ、南米のバンダは、ほとんど金管楽器。木管は、入っていたとしてもサックス、たまにクラリネットがありますが、フルートは動画で見る限りは入っていないようです。もちろん、バンダには使われていないというだけで、ラテンアメリカでフルート(スペイン語ではフラウタ・トラベセラという)がないわけではありません。というか、ベネズエラやアルゼンチンでは結構盛んです。
2012.01.24
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iモード携帯が販売終了へ ドコモ、サービスは継続NTTドコモは2日、従来型携帯電話(ガラケー)でインターネットを使える「iモード」に対応した端末の販売を在庫がなくなり次第終えると発表した。11~12月の見通しという。iモードのサービスは今後も続ける。ドコモは昨年6月から、スマホと同じ「spモード」という方式でネットにつながるガラケーを発売している。iモードはドコモが世界に先駆けて開発し、1999年にサービスを始めたが、iモード用につくられたホームページしか表示できないのが弱点だった。ドコモは自由にネットが楽しめるスマートフォンの登場に合わせ、10年からスマホ向けのネット接続サービス「spモード」を始めていた。---ついに、ガラケーが終わる日が来てしまいました。実際のところは、需要はまだあると思いますけれど。私自身は、2008年秋に初めてFOMA携帯に乗り換え(それまではmovaだった)、去年の年末に機種変更で新しいガラケーに変えたばかりでした。まだ1年も使っていないので、あと5年は使えると思いますけどね。以前から何度も書いているように、私はガラケーとiPad mini(とモバイルルータ)の3台持ちで、ガラケーは通話とメール専用です。メールも、以前はやり取りする相手は何人かいましたが、現在はほとんど相棒とのやり取りにしか使っていません。それ以外の、家の外でのネット通信はすべてiPad miniで行っています。このiPad mini(初代)も、気が付けば購入から3年半、iOSが新しくなるたびにどんどん動作が重くなってきましたし、最新のiOS10はアップデートの対象外です。(とはいえ、iOS9の最新バージョンにアップデートしてから、気持ち動作が軽くなったような)通信料は、ガラケーは一番安い料金プランで、以前の機種は1600円あまりだったのですが、機種変更してから少し安くなって今は1300円、iPAD mini(というかモバイルルータ)のほうはMVNOで月975円なので、合計して通信料は2000円台前半です。もっとも、相棒は通信料4000円くらい(私と同じ組み合わせなのですが、なぜか相棒のガラケーの料金は私より高い)、自宅の固定電話とフレッツひかりが6500円くらいなので、家族全体では月の通信料は1万円を少し超えます。が、それでもドコモで普通にスマホを契約するよりはかなり安いでしょう。というわけで、今使っているガラケーが使えなくなる頃には、どうしたものでしょうね。iモード対応のガラケーは消えるけれど、引用記事が「スマホと同じ「spモード」という方式でネットにつながるガラケー」と紹介している、アンドロイドOSを使ったガラケー形のスマホ(いわゆるガラホ)は今後も続くようです。あれの料金プランはどのようなものなんでしょうか。ガラケー並の料金プランならば、次はガラホに乗り換えます。そのときにガラホがあれば、ですけどね。機種はスマホでもガラホでも何でもよいのです。今のガラケー並の料金でさえあれば。もし料金大幅アップということになれば、そのときは通話もまとめてMVNOに引っ越すまでですね。MVNOは、以前は通話料は大手キャリアより特に安くはなかったのですが、最近はいろいろな割安な通話プランが出てきているせいもあって、通話料も大手キャリアより安くなりつつあるようです。ま、今のガラケーから乗り換えるのは、前述のとおり5年くらい先でしょうけどね。先代の携帯は、ちょうど7年使いました。思い返すと、初代と2代目(いずれもmova携帯)は各4年半、3代目7年、携帯に関しては、私はやたらと物持ちがよいのです。
2016.11.04
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<北海道>酒に酔い維新議員『戦争で島を取り返す』趣旨の発言13日、北方四島の国後島から帰港したビザなし交流の訪問団。この訪問団に参加していた日本維新の会の丸山穂高衆議院議員は11日、現地で島返還の手段として戦争を持ち出し、元島民らから抗議を受けていました。丸山議員音声「戦争でこの島を取り返すことは賛成ですか?反対ですか?」団長「戦争で?」丸山「ロシアが混乱しているときに取り返すのはOKですか?」団長「戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」丸山「でも取り返せないですよね?」団長「いや、戦争はすべきではない」丸山「戦争しないとどうしようもなくないですか?」 団長「いや、戦争は必要ないです」丸山議員とやりとりをした元島民の訪問団長は「私は真っ向から反対いたしました。戦争で取るとか取らないか、そんなこと私は聞いたこともありませんしね」と話しています。丸山議員はこの発言の前に酒を飲んでいたということです。元島民らは抗議しましたが、丸山議員は酒に酔って騒いだことについては謝罪したものの、戦争発言については「賛成か反対かを聞いただけ」だとし、「北方領土を戦争で取られたわけですから、取り返すということに対して賛成か反対か聞いたと。別にそういう話があってもいいわけじゃないですか。それに対して何をダメだとおっしゃっているのかよくわからないです」とコメントしています。---まるで絵に描いたように典型的なネトウヨ思考で議員になって、それをそのまま口に出している、それも、よりによって国後島を訪問中に、酒に酔って、です。最悪としかいいようがありません。何も考えていない、戦争で北方領土を取り戻そうという発想自体もわたしには到底同意不可能ですが、口にするTPOすらわきまえられないとしたら、とてもではないけれど政治家失格です。「別にそういう話があってもいいわけじゃないですか。」だそうですが、良いわけがないです。いや、日本国内で支持者の国士様連中に囲まれておだを上げるのは勝手にすればよいのですが、ビザなし交流団の一員として国後島に滞在中に、訪問団長に対して「そういう話があってもいい」と本当に思っているなら、それは異常な認識としか思えません。それにしても、少しまじめに考えれば、能力的に北方領土を戦争で取り戻すことが可能か不可能か、分かりそうなものです。純軍事的に見ても、そんなことをやれば確実に撃退されます。国際政治上も、米国からの支援は一切受けられず(日本の施政権下にない北方領土は日米安保の対象外だし、米国がそんな面倒に付き合うはずがない)、国際社会から袋叩きにあいます。それだけならまだしも、逆襲されて北海道にでも上陸されたらどうするのでしょうか。普通の状態なら、ロシアに北海道に攻め込むような能力はありませんが、日本が馬鹿げた「北方領土上陸作戦」で戦力をすり潰してしまったあとだったら、どうだかわかりません。こういう口先だけ勇ましい政治家ほど有害なものはないと私は思います。もし本当に戦争で北方領土を取り返す、というなら、丸山議員には是非その第一陣の上陸用舟艇の先頭で突撃していただきたい。それにしても、本当に維新ってのは、こういうどうしようもない議員ばっかりですね。なお、補足ですが、以前より度々書いているように、「北方領土」のうち歯舞・色丹の2島(群島)については日本側の言い分に理があると思いますが、国後・択捉の2島については、日本側の公式見解は無理がありすぎ、これはサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島の一部と見るのが妥当です。したがって、安倍政権が国後・択捉はあきらめて歯舞・色丹のみの返還要求に舵を切ろうとしていると見られていることについては、(それ以外の安倍政権の主張、政策には一切賛同しませんが、この点についてだけは)大いに賛成するものです。
2019.05.13
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プーチン大統領への抗議デモ参加者に軍への召喚状を渡す ロシア報道ロシアの独立系メディア「メドゥーザ」は22日、プーチン大統領が発表した「部分的な動員令」に反対し、警察署に拘束されたデモ参加者に軍への召喚状が手渡されたと報じた。モスクワの複数の警察署では、召喚状が拘束者に直接手渡されたという。別の警察署では、近く召喚状が手渡されることになる、と拘束者に告げられているという。メドゥーザによると、ある拘束者は、召喚状への署名を拒否すれば刑事事件で立件されることになる、と脅されたという。プーチン氏は21日、「我が軍が対峙するのは事実上、西側集団の全戦争マシンだ」などと述べ、軍務経験がある予備役の市民を招集することを明らかにしていた。---記事を読んだ瞬間、タイトルのような印象を持ちました。かつて太平洋戦争中、東条英機は首相兼陸軍大臣は、人事権を使って反対者を弾圧しました。有名なのは、「竹槍事件」です。東京日日新聞(後の毎日新聞)の新名丈夫記者が1944年2月の紙面に、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を書いたのです。これは、航空機用の資材の配分をめぐって陸海軍が争っていたことから、海軍の意を受けて執筆した記事だったようです。東条は精神主義大好きで「銃後」の一般国民にも竹槍訓練を強いていたので、それを揶揄していることは一目瞭然でした。東条は激怒し、当時37歳の新名記者を懲罰招集しました。東条は新名記者を硫黄島に送ろうとしたようですが、新名は召集された部隊でも尊敬を集めていたことから、現地部隊が新名を硫黄島派遣から外してしまい、彼自身は辛くも生還します。ただ、このとき「懲罰招集」をカモフラージュするため、新名と同年齢の老兵250人も召集されており、彼らは硫黄島に送られて一人の生存者もなく全員戦死したと言われます。逓信省工務局長だった松前重義は、日本の生産力が米国にまったく及ばないことを流布したことで東条の逆鱗に触れ、43歳にして召集されてフィリピンに送られました。これも奇跡的に輸送船の沈没も現地での戦病死も免れ(フィリピン戦線の日本軍の死亡率は8割近かった)生還しました。その他、経済学者で外務省に勤務していた都留重人、政府提案の法案に反対した現職衆議院議員3名なども懲罰招集し、あるいは陸軍軍人でも気に入らない者、対立者は懲罰的に最前線に送ったり、逆に予備役編入(つまりクビ)を強いたりしています。軍・政府の方針に異を唱えると懲罰招集されて最前線に送られて玉砕する、そういう手段で東条は異論を弾圧していたわけです。プーチンがやっているのは、それと同じことです。度量の狭い人間が倒錯した愛国心と強権を振り回し始めると、洋の東西を問わず似たようなことをやる、という実例なのでしょう。だけど、「30万人の動員」をプーチンがぶち上げた時点で、それに公然と反対すればこの種の報復が返ってくる可能性があることは、事前にある程度予想できていたはずです。それでも大規模な反対デモが起こったことは、強権をもってしても、もはや国内の不満を圧殺できないほど増大していることを物語っています。東条は、反対者に対する懲罰招集を散々振りかざしましたが、いくらそんなことをしても太平洋戦争の敗色が覆るわけもなく、1944年7月、マリアナ諸島陥落の責任をとって辞任の追い込まれました。さて、プーチンはどうでしょうか。反対デモ参加者に対して懲罰招集を振りかざしても、やはりウクライナに勝てそうにはありません。東条と同じです。プーチンが主観的に(ロシアの)愛国者であることを疑う余地はありませんが、結果としてやっていることは、無益な戦争による無用の損害、ロシアの国際的な地位の失陥、ロシア軍が張り子の虎で実際には弱いという国家機密(笑)の暴露、本人の意志とは裏腹に、ロシアの立場を悪くするようなことしかやっていません。主観的愛国者が国を破滅に導く、日本もそうでしたが、どこの国でも同じということなのでしょう。ロシア人このまま、この主観的愛国者に国のかじ取りを任せ続けるのでしょうか。
2022.09.22
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「おもちゃ」で破られたハイテク神話 復讐心高めた抑止力論パレスチナ自治区ガザ地区を拠点とするイスラム組織ハマスとイスラエルによる戦闘は犠牲者が増え続けている。ハマスはなぜ「奇襲」を仕掛けたのか。イスラエルはなぜ、反撃の手を緩めないのか。紛争の背後に潜むナラティブ(物語、語り)の存在を追った。10月7日早朝、イスラエルが最先端の監視システムを搭載してガザとの境界に設けたフェンスを、ハマスが突破した。イスラエルの「ハイテク神話」が崩れ落ちた瞬間だった。フェンスの上部にはAI自動兵器システムが装備されていた。~だがハマスは爆発物を載せた市販のドローンを直接カメラにぶつけるなど単純な手法で次々と破壊した。2015年春、ガザでハマスの司令官にドローンの利用について聞いた。エジプトに通じる秘密トンネルを使い、イランで売られている小型ドローンやその部品を持ち込んでいるという。「おもちゃレベルのドローンだが、カメラや爆弾を載せれば十分、偵察や攻撃に使える」。司令官はそう語った。イスラエル軍は当時から、ハマスのそんな試みを認識していたが、「おもちゃ同然」と一笑に付していた。~そんなイスラエルも、かつては「おもちゃ」で強者の虚を突いたこちがあった。それはイスラエル軍情報担当幹部が米国出張で土産に買った無線操縦機だ。1967年春、エジプトやヨルダンとの緊張が高まる中~改造してカメラを装着し~イスラエル初のドローン探勝秘話である。~16年春、紛争心理学が専門のテルアビブ大ダニエル・バルタル氏に聞いた。「イスラエルのユダヤ人は敵対的な人々に囲まれている、という被害者意識を持っている。パレスチナはアラブ諸国の大軍の一部で、小さいとも弱いとも思っていない。自分たちこそがアラブの憎悪の海に浮かぶ孤島だと感じている。」この強い危機感ともいえる感覚は、ホロコーストをはじめ脈々と続て生きた差別の中で「血となり肉となってきた」ものだという。~イスラエルはテロ組織は意思と実行能力に基づき行動すると考える。ハマスが打倒イスラエルの意思を失うことはないだろうから、テロ実行能力をそぐことで抑止力につなげるのだという。だが、こうした抑止力論は効果が実証しにくい。イスラエルで英雄と称えられる軍人イスラエル・タル氏は、抑止手段を使いすぎると敵は屈辱感を強め、復讐心を高め、むしろその軍事能力を高める結果になると指摘。抑止力論は対中国をにらんで沖縄の基地存続の根拠などにも使われるが実証は難しく、その意味ではむしろ「抑止力物語」であり、あいまいな言説にすぎない。(要旨)---元記事は、ネット上では有料記事で、登録しないと冒頭部分しか読めませんが、私は紙の新聞で毎日新聞を取っています。かなりの分量の記事なので、一部のみを転記しています。ユダヤ人が、歴史的に激しい差別と迫害を受け続けてきたことは、歴然たる事実です。その結果、現在のイスラエルの地(2000年前の故郷)を安住の地と考えたこと自体は、やむを得ない側面はあったでしょう。イギリスの二枚舌外交に問題はありましたが、「自分たちの国を持ちたい」というユダヤ人の思いを全面否定はできませんし、その土地がイスラエル以外にには考えにくいことも確かです。それ以前からイスラエルには少数のユダヤ人が住んでいたし、アラブ人との間で多少の対立や紛争はあったにしろ、何とか両者は共存してきたわけです。しかし、その危うい共存関係はイスラエルの独立と同時に崩れます。イスラエル独立と同時に勃発した第一次中東戦争においては、イスラエルは明らかに弱い立場にありました。経緯はあるにせよ、アラブ側がイスラエルに対して仕掛けた戦争だし、イスラエルはこの当時は極めて貧弱な武器しか持っていませんでした。しかし、アウシュビッツの虐殺からたいした年月も経っていないこの当時、「負ければ再び民族ごと抹殺が」という恐怖心もあり、イスラエル軍の戦意と戦闘力は凄まじく高く、アラブ側を撃退して多くの土地を占領します。ここまでの段階であれば、イスラエルは明らかに弱い立場であり、パレスチナに対する弾圧者として指弾されることもなかったでしょう。しかし、悲しいかな人間は得てして「潮時」というものを見誤ります。勝って一挙に強国となったイスラエルは、このあと第二次第三次中東戦争で、今度は強力な武装を整えて、イスラエル側から攻め込む形でアラブ側に戦争を仕掛け、一方的勝利を重ねます。が、勝っても勝ってもイスラエルの安全は確保できませんでした。アラブ側が、一方的に負けたままでの幕引きをよしとしなかったからです。敗戦を重ねてもアラブ側は戦意を失わず、第四次中東戦争でイスラエルを攻撃します。そして、4度の戦いの中で初めてアラブ側がイスラエル軍を圧倒しました。最終的にはイスラエルが逆転勝利したものの、一時はイスラエル軍は壊滅寸前の状態に追い込まれました。アラブ側がイスラエルと互角以上に戦った第四次中東戦争以降、エジプトが親米路線に転換してイスラエルと和解したこともあって、イスラエル対アラブ諸国の戦争は以降起こっていません。皮肉なことに、イスラエルが連戦連勝を重ねても戦争は終わらず、アラブ側が一矢を報い、イスラエルが負けそうになったことで初めて戦争が終わったのです。もっとも、エジプトの路線変更を主導したサダト大統領は後にイスラム原理主義の軍人に暗殺されましたが。こうして国家間の戦争としての中東戦争は終わりましたが、パレスチナを占領し続けるイスラエルとパレスチナ人の軋轢は終わりません。それでも、一度は両者の和解の可能性が開かれました。1993年のオスロ合意です。しかし、一方の当事者であるイスラエルのラビン首相は極右派のユダヤ人に暗殺され、パレスチナ側でも和解を主導した、アラファト率いるPLO主流派のファアタハの勢力は次第に減衰し、ガザ地区では強硬派のハマスが実権を握る状況となっています。今回ハマスが行ったテロは言語道断にしても、何もないのにいきなりハマスが言語道断の蛮行を引き起こしたわけではありません。直近では2014年にイスラエル軍はガザに侵攻していますし、それ以前にも何度も侵攻しています。また、ヨルダン川西岸でパレスチナ人を追い払ってのユダヤ人入植地拡大、それに付随してパレスチナ人に対するいわれなき暴力や殺人も続いてきました。一連の紛争をハマスのテロを起点にそれ以前を無視して考えれば、ハマスが一方的全面的に悪く、イスラエルは純然たる被害者でありハマスへの反撃は正当な自衛権の行使ということになります。しかし、それ以前からの経緯を考えれば、それでもハマスのやっとことは正当化できませんが、イスラエルのやってきたことを正当化することも、到底不可能なのです。今回のテロでも、イスラエル側の受けた人的被害は空前の人数と言われますが、報復によってパレスチナ側で失われた人命は、すでにイスラエル側を越えています。目には目を、歯には歯を、というのはハムラビ法典の罰則ですが、イスラエルの場合はもっとすごく、1人殺されたら3人殺す、みたいな3倍返しの法則で報復を行っています。それがイスラエルの考える安全保障策なのでしょうが、現実を見ればパレスチナ側は3倍返しを恐れて矛を収めることはありません。まさしく引用記事が指摘するイスラエル・タル少将(イスラエルの主力戦車メルガバの開発責任者)の言葉どおり、復讐心を高めて脅威を増す状態がずっと続いてきたわけです。そのことに気付いている人は。イスラエルの中にもいる、ということです。それでもなお、そのような「抑止力」を使うのは、もはや根拠の不明確な抑止力「物語」に過ぎないというのは、まさしく言い得て妙と思います。
2023.10.31
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ロシアが戦車3千台失う、侵攻開始時保有と同数 英シンクタンク分析英シンクタンクの国際戦略研究所は13日、世界の軍事情勢を分析した年次報告書「ミリタリーバランス2024」を発表した。ウクライナへの侵攻を続けるロシアについては、22年2月に全面侵攻を始めた際に保有していた戦車と同数にあたる3千台以上が失われたと分析した。一方、報告書は、ロシアがそうした「大規模な損失」の補塡(ほてん)を進めているとも指摘。ロシアの防衛費は「政府の支出の3割以上」になると分析した。また、「ロシアは自国の軍備品に重点を置き、ロシアから武器を輸入していた国の中には他国に目を向けているところも出ている」とした。領土奪還の反転攻勢を進めるウクライナの軍備品については「西側諸国からの支援に大きく依存している」と説明。その上で「西側や自国が開発したシステムを使ってロシアの黒海艦隊を後退させるなど、創意工夫を見せ続けている」と評価し、海洋無人機(UMV)の有用性を示したことも記された。---ロシア軍は、ウクライナへの侵略の前、2000両~3000両程度の戦車を保有していたと推定されています。ということは、3000両もの戦車を失ったら、機甲戦力は消滅したはずです。が、現実にはそうなっていません。それは、冷戦時代に保有していて、近年は現役から外れて保管されていた旧式戦車が7000両以上もあるからです。それらの戦車は、T72(近代化改修されて現役にあった車両もありますが、未改修で引退していた車両も相当多い)や、さらに古く1960年代前半に開発されたT62、50年代に開発されたT55すら現役に復帰させたと言われています。データリンクもなければ弾道計算コンピュータもない、ただの鉄の箱に大砲とエンジンと光学照準器を積んだだけの、60年前70年前の戦車が、現代戦で威力を発揮できることは想像もできませんでした。一方のウクライナ軍でも、欧米諸国から援助された戦車は、レオパルトIIの中でも初期型のレオパルドIIA4(40年以上前の開発)や、さらに古く前述のT62とほぼ同世代のレオパルトI(ある程度近代化改修はされていたと思われますが)も送られています。これら旧式戦車でも、数がそろえばそれなりの力を発揮する、というわけです。戦車は一般的に航空攻撃に対しては脆弱です。ウクライナはあまり隠れる場所のないなだらかな地形で、そこで活動する戦車は、通常であれば簡単に航空機の餌食になるはずです。しかし、ウクライナ空軍ロシア空軍ともに活動が不活発なうえに、対空ミサイル等の威力で、航空機が自由に活動できすず、戦車もあまり空からの攻撃にさらされていないようです。そのこともまた、旧式戦車が活躍できる要因の一つになっているのでしょう。元々、旧ソ連の軍事思想は「質より量」で押す傾向がありました。しかし、質より量の軍事思想は膨大な軍事力を必要とし、その軍事費負担は(それだけが要因ではないにしても)ソ連が崩壊する一因ともなりました。しかも、湾岸戦争でそれら旧ソ連製の戦車群が、西側の最新兵器によってほとんど一方的に撃破されていったことで、兵器としての有用性自体に疑念がもたれるようになります。もっとも、湾岸戦争における一方的な展開は、後々明らかになったところでは、制空権(現在の用語では航空優勢)が圧倒的に多国籍軍側にあり、イラク側は空からの攻撃に対する防御手段をほとんど持たなかったこと、イラク軍が取得していたソ連製戦車は、装甲や徹甲弾の弾芯の性能を落とし、それによって価格を下げた、いわゆる「モンキーモデル」と俗称される輸出専用型であったこと、そもそも「質より量」どころか、「量」においてもイラク側は多国籍軍側に劣っていたことが大きな要因でした。現代の軍事において、「質より量」のコストパフォーマンスは著しく悪いのですが、「コスト」を度外視して「パフォーマンス」のみを見た場合、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」式の質より量の軍事ドクトリンは、未だ小さからぬ威力を持っていると言わざるを得ません。もっとも、そのような軍事ドクトリンは、人の命の価値が著しく低い国でなければとることは不可能です。ロシア以外の国が、そのようなドクトリンを取ることは不可能でしょう。実はロシアだって本当は不可能なのです。今は、退役して保管中の旧式戦車を大量に現役復帰という、言い換えれば冷戦時代に国を倒壊させた過去の「遺産」に頼っている状態です。今から低性能だが大量の戦車を製造して巨大な軍事力を復活させることは、さすがにロシアもできません。とはいえ、一般論ではなく、今回のこのウクライナ侵略に限定して言えば、ロシアの方がウクライナより国力、人口、軍事力いずれも、圧倒的に優勢です。ウクライナは事前の予想からすれば信じがたいほどの抵抗力を発揮し、ロシアの一方的侵攻を実によく防ぎ切りましたし、ここでの消耗はロシアの将来にとって大きな痛手であることは間違いありません。ただ、ウクライナが信じがたい善戦を見せたのは戦争初期です。当初ベラルーシから北部に侵攻して首都を目指したロシア軍をほぼ撃退し、続いて東部からの侵攻によって広大な領土を占領されるも、ロシアの隙をついた逆襲で、このうちハルキウなどの相当広い地域の奪回に成功しました。ここまでの段階では、ひょっとしてロシア軍の完全駆逐も遠くないか、と思わせるものがありましたが、そうは問屋が卸さず、それ以降は一進一退の状況で今にいたっています。皮肉なことですが、ウクライナの反撃が奏功したのは、まだ欧米諸国の軍事支援が本格化する前です。有名になったジャベリン対戦車ミサイルのような簡便で誰でも使える兵器、旧東欧諸国が保有する旧ソ連製戦車や戦闘機など、ウクライナ(兵器体系は旧ソ連製)にとって使い慣れた兵器が応急的に援助されている間、ウクライナは善戦していました。しかし、欧米諸国が本格的に戦車や重砲など「量より質」の用兵思想の重機材を援助し始めた頃には、戦線は膠着状態となり、これら強力な西側兵器はその膠着状態を覆せていません。戦争による傷は、当然のことながらロシアよりは小国であるウクライナの方がより深刻なはずです。ウクライナの疲弊状況も、あまり報じられませんが、当然深刻なはずです。支援してきた欧米諸国も、財政負担に耐えかねはじめ、また戦争初期にはウクライナ支援の一番手だったポーランドとの関係悪化、国内的には軍総司令官との対立と更迭など、ウクライナも内憂外患の状況にあります。ロシアに侵略の果実を与えるべきではない、とは思いますが、戦争継続の限界は確実にウクライナの方が先に訪れるはずで、どれほどの犠牲者が出ようとも国内が破綻するまで戦い続けるのか、どこかで停戦に動くのか、難しい状況と言わざるを得ません。
2024.02.15
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イスラエル軍、パレスチナ自治区で外交団に発砲…日本や英仏の外交官が難民キャンプを訪問中パレスチナ自治区ヨルダン川西岸北部のジェニン難民キャンプで21日、視察のため現地を訪問していた英仏など欧州や日本などから成る外交団に対し、イスラエル軍の兵士が実弾で発砲した。けが人はなかった。現地からの映像では、検問ゲートに近づいた外交団に対し、兵士2人が小銃で数発発砲。外交団は建物の物陰に隠れるなどして逃れた。外交官の保護はウィーン条約に定められている。視察はパレスチナ自治政府が企画し、約25か国の外交官が参加していた。自治政府は「極悪な犯罪だ」と非難する声明を出した。武装勢力を掃討するとして難民キャンプに駐留しているイスラエル軍は21日、「外交団は承認されたルートから外れ、認められていない地域に入った」とする声明を出した。---日本の外交官も含む外交団に対して発砲した、という報道ですが、これに対して日本政府はどう対応するのでしょうか、なあなあで済ませるのでしょうか。イスラエルは、小国にもかかわらず経済力は高く、一人当たりGDPは、落ち目の日本よりかなり上です。とはいえ、人口1000万人に満たない小国であり、いくら一人当たりの平均では豊かでも、トータルの国力はたかが知れています。にも拘わらず、ガザでの暴虐をはじめとして、周辺諸国はおろか、世界中からの反発をものともせずに周辺国や地域に圧迫、侵攻を繰り返しています。普通に考えれば、ウィーン条約で保護される外交団に対してこのような行動に出るのは、異常なことです。国際秩序の破壊行為とも言えますが、それを意に解さない国です。それもこれも、世界一の超大国である米国と特別の関係にあり、それは民主党バイデン政権時代もそうでしたが、とりわけトランプ政権はイスラエルの利益代弁者と化していることから、何をやっても米国の庇護のもとにある、そのような意識が行動の背景にあると考えざるを得ません。歴史を紐解けば、イスラエル建国当初においては、確かにイスラエルという国の存在自体が「1敗すれば国家消滅」という危うい状況にありました。ナチスの迫害を逃れた命からがら逃げ延びてきたユダヤ人と、そのユダヤ人国家を撃ち滅ぼそうとする周辺諸国、という構図がありました。その危機感が第一次中東戦争でのイスラエルの圧勝の背景には確かにありました。しかし、その圧勝、そしてその後第4次にまでわたった中東戦争によって、構図はまったく一変しています。現在では、宗教的な深刻な対立はあっても、周辺のアラブ諸国には、イスラエルを攻め滅ぼす意図も能力も、明らかにありません。もちろん、ガザを牛耳るハマスをはじめとするイスラム原理主義勢力はイスラエルに対する敵意を失ってはいませんが、その能力は極めて限定的です。しかも、イスラム原理主義勢力のイスラエルに対する敵意を養ってきたのは、結果としてイスラエル自身の暴虐であることは間違いありません。様々な問題はあったにしても、オスロ合意で一度は和解したはずのイスラエルとPLOの関係を破綻させ、パレスチナ側の反発を招いたのは、どう考えてもイスラエル側です。このやり方の限り、どこまで行ってもパレスチナ側のイスラエルへの反発がなくなることはなく、当然イスラエルが枕を高くして眠れる日も永久に来ないでしょう。それこそ、パレスチナ人を根絶やしにでもしない限りは。そしてもちろん、パレスチナ人を根絶やしにすることなど不可能です※。つまり、「安全保障策」としは高コストだし、最低最悪の策と言わざるを得ません。※イスラエルの極右派は、本気でガザのパレスチナ人を根絶やしにすることを考えているようですが、そんなことは不可能な上に、パレスチナ人はガザだけに住んでするわけではないのは言うまでもありません。
2025.05.21
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駆除のヒグマは26歳を襲った個体北海道・斜里町の羅臼岳で登山中の男性がクマに襲われ死亡した事故で、現場で駆除されたクマが男性を襲った個体であることがDNA鑑定で明らかになりました。この事故は8月14日、東京都の26歳の会社員の男性が羅臼岳の標高550m付近でクマに襲われ、死亡したものです。死因は「全身多発外傷による失血」でした。現場付近では15日に親子とみられる3頭のクマが駆除されていて、男性を襲った個体かどうかDNA鑑定が行われていました。その結果、3頭のうち母グマの肝臓と、男性の衣服についていた体毛と唾液のDNAが一致したことがわかり、男性を襲い死亡させたクマと断定されました。北海道内ではクマによる人身事故が度々起きています(最近の死亡事故は以下の通り)■2023年5月 幌加内町の朱鞠内湖で、釣り人の54歳男性がクマに襲われ死亡。■2023年10月 福島町の大千軒岳で、1人で登山していた22歳の男子大学生がクマに襲われ死亡(男性を襲ったクマはその後、消防隊員3人を襲うも、ナイフで返り討ちに遭い死ぬ)■2025年7月 福島町で、52歳の新聞配達員の男性がクマに町中で襲われ死亡(DNA鑑定で2021年7月に福島町内で農作業中の77歳女性を襲い死亡させたクマと同一個体と判明)---人を襲ったヒグマが駆除されたことが確認され、とりあえずホッとしています。一度人を襲い、その味を知ってしまったヒグマは、再び人間を襲う可能性か高いと言われます。引用記事でも、2021年7月に77歳女性を襲った個体が、今年7月に52歳男性を襲っていたことがDNA鑑定で判明したとあります。従って、人を襲ったクマは駆除しなければあまりに危険です。そして、人里に出てきて農地などを荒らすクマについても、同様のことが言えます。人間活動への被害は無視できないし、何らかの異変で人を直接攻撃するリスクもありますから。というわけで、何が何でもクマを殺すのはけしからん、という言い分には、私はまったく同調できません。やむを得ない場合には駆除するしかないのです。しかし、みんな駆除してしまえ、絶滅させてしまえ、という言い分に対しては、これもはっきりと反対です。生態系の一員として、ヒグマは(本州のツキノワグマも)必要な存在です。ヒグマの事故が起きた羅臼岳には、私は2回登っています。2007年と2021年ですが、そのうち2008年の時、私もヒグマと鉢合わせをしています。岩尾別温泉から羅臼岳への登山道は、途中にアリの巣の多い一帯を通るのですが、アリは、ヒグマの大好物の一つなのです。そのため、当時はこのような警告板がありました。下山時、丁度この警告板の区間でヒグマに遭遇しました。その時のことは以前に記事を書いたことがあります。。若い、少なくとも体長は私よりだいぶ小柄な(でも体重はどうだったか分かりませんが)個体でした。私を見て必死で逃げていく、そのスピードのすさまじく速かったことはよく覚えています。で、この警告板は650m岩峰と呼ばれる付近にあったようです。ここから、警告板にある「オホーツク展望」までの距離は500mあるかどうか、というところ。もう一つ「560m岩峰」というものもあり(昭文社登山地図には560m岩峰しか記載がありません)、今回の事故があった550m地点というのは、この560m岩峰か、その近辺のことでしょう。ということは、当時の警告板が示していた「ヒグマ遭遇多発区域」内で起きた事故であったことが分かります。つまり、ずっと昔から、そこはヒグマと遭遇する可能性が高い場所と分かっていた、ということです。従って、私がヒグマに遭遇した場所も、今回の事故現場と極めて近かった(おそらく水平距離で300m以内)ということになります。なお、この警告板は2度目に行った2021年には見当たりませんでした。ヒグマ遭遇多発地帯の始めと終わりに同じ看板があったのに往復とも気付かなかったので、見落としではないでしょう。理由は分かりませんが、おそらく撤去されたのだろうと思います。その翌年2008年にも知床でヒグマに遭遇していますが(この時は羅臼岳には登っていません)、この時はバスの車内から窓ガラス越しに見たので(わざわざ運転手がバスを止めて乗客に撮影させていた記憶があります、私は写真は撮りませんでしたが)、意味合いがまったく違います。この時はかなり大きな個体でした。二度目の羅臼岳となった2021年には、幸い私自身はヒグマと遭遇することはありませんでした。ただし・・・・岩尾別温泉木下小屋脇の登山道入口にヒグマ情報が出ていました。入山者の多い週末を中心に、連日ヒグマとの遭遇が報告されているとのことでした。羅臼平にはフードロッカーが設置され、荷物をデポする場合は食料はこの中に入れて、ヒグマに取られないようにします。私はテン泊ではなかったので、荷物をデポせず、従って食料も残置しませんでしたが。なお、この時に聞いた話で、その数日前に、登山道の真ん中に(前述のアリの巣の多い地帯なのだと思います)ヒグマが1頭居座ってしまい、一心不乱にアリを食べ続けていて、登山者が下山できなくなる事態が発生した、ということです。最後は結局、やむなく、アリに無我夢中のヒグマの脇を恐る恐るすり抜けた(ヒグマには完全無視された)そうです。伝聞ですが、そんな事態もあったと聞いています。でも、当時知床ではヒグマによる人身事故は1件も起きていないと聞きました。もちろん、その陰にヒヤリ・ハットはあったのだと思います。ヒグマに対してカメラのフラッシュを焚く観光客、食べ物をやってしまう観光客の話は耳にしており、それが続けばいつかは、という危惧は関係者にはあったものと思います。しかしそれでも、今回の人身事故が初めての事例だったようです。コロナ前の数値ですが、知床国立公園の利用者は年間170万人以上に達するそうです。事故のあった斜里側が120万人以上、羅臼側が50万人以上です。そして、羅臼岳の年間入山者は岩尾別側から年間6000人(羅臼側は不祥だが岩尾別側よりかなり少ないと思われます)です。それに対して人身事故は今回が初めてとすると、その「事故率」は極めて低いものです。さらに言えば、知床以外の場所ではヒグマによる人身事故は続発していましたが、それでも、その被害規模は、過去64年間で死者60名、けが人122人というものでしかありません。なお、各年の詳細な統計を見ると、近年でもっとも人身事故が多かったのは2021年ですが、死者4人、けが人10人という規模であったことが分かります。北海道の主要な山の入山者数は、大雪山系年間8~11万人、樽前山3万人、空沼岳1万5千人、阿寒岳1万2千人、羊蹄山約1万人、斜里岳5~6千人、日高山脈約2000人などとなっており、最低年間15万人以上であることは確実です。更に狭義の登山以外の、釣り、山菜取り、登山未満のハイキング、野鳥や自然観察、キャンプなどアウトドア一般の北海道における人口がどれだけいるかは、統計もないので雲をつかむような話ですが、最低年間数十万人、ひょっとすと100万人を超えるかもしれません。(参考までに、クマによる人身事故の状況で最多は山菜取りとのこと)。それに対して、人身事故は前述のとおりです。事故に遭遇する確率は、どんなに高く見積もっても毎年1万分の1よりかなり低いことは確実です。人間を餌たと思っているヒグマがいることは確かですが、その割合が極めて低いこともまた確かなのです。子連れの母熊とか、餌を横取りされると思われるなど、ヒグマが狂暴化する条件がいくつかありますが、それらを忌避すれば、ヒグマはそこまで危険な存在ではない、ということです。個別具体的に、人を襲った履歴のヒグマがまだうろついている場所に限定すれば、全体平均の発生確率よりも人身事故の発生確率ははるかに上がるので、そういった場合に放置してよい、ということてはありません。ただ、フラットに全体の平均として言えば、そこまで極度に恐れる必要があるわけではないく、多分交通事故に遭う確率の方がはるかに高いのです。従って、冒頭に書いたようにヒグマを絶滅させろ、なんて極論は論外なのです。そもそも、そんなことは実現可能性もありません。そういう極論を言う人に限って、行政はヒグマをまったく駆除していない、と思い込んでいるのですが、そんなことはありません。2023年には、年間1804頭のヒグマが捕獲され、過去最多だったと報じられています。この数字はおそらく駆除と狩猟の合計ですが、大半が駆除です。昨年は700頭前後と捕獲数は大幅に減少していますが、それでも過去の統計の中では捕獲数はかなり多い年になります。なお、捕獲数の増減は、駆除に力を入れたかどうかに左右されているわけではなく、自然界における餌の豊富さに左右されます。自然界がエサ不足だと、人里に出てくるヒグマが増え、駆除数も増えます。過疎化と高齢化、犯罪・テロ防止の観点からの猟銃所持許可の厳格化によるハンターの減少、箱罠による捕獲の成功率の低さなど、あらゆる条件から、捕獲数を現状より大幅に増やすことは困難であることは明らかです。従って、ある程度の駆除は行いつつも、ヒグマとは共存していく、好むと好まざるとにかかわらず、それ以外の選択肢はありません。
2025.08.19
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一連のヒグマ騒動を見ていると、毎日クマが人を殺しまくっているとでも思っていそうな人たちが散見されるわけですが、実際にはクマによる死者数は、ヒグマだけでは2021年の4人、ヒグマとツキノワグマの合計では2023年の6人(ヒグマ2人とツキノワグマ4人)が最多です。残念ながら今年は、過去の最多記録を更新する可能性がありますが、10人を超えることになるかというと、おそらくそういうことにはなりません。実は、熊よりもよほど危険な動物が日本ではほかにいます。※※「危険」はいささか抽象的な表現ですが、こごは「もっとも死者が多い」という意味で捉えます。細菌やウイルス(細菌は動物ではないし、ウイルスは生物ですらないですが)、あるいはそれらを媒介するハエ、カ、ネズミ等という、いささか斜め上の回答もあり得ますが、これらは除いて、その「動物」の直接の力で人間を襲って危害を加えるものに限るとします。誰でも想像するものに、まずサメがいますが、サメによる人的被害は、少なくとも日本ではかなり少ないようです。それに次いで毒蛇、という答えも考えられるでしょう。調べた限り、毒蛇による死者数の正確な統計は見つかりませんでしたが、AIによる概要では年間約10人となっているので、事実であればクマによる死者より多いです。死亡事故のほとんどはマムシによるもので、数年に一度ヤマカガシによる死亡事故も発生することがありますが、意外にも沖縄のハブによる死者は、復帰前は年間7~8人出ていたものの、21世紀以降はずっとゼロです。実は日本でもっとも死者の多い動物はハチです。これも、大半はスズメバチ類です。その被害規模は、毎年20人前後であり、熊による死者よりずっと多いのです。しかも、過去においては、もっとはるかに多かった時代もあり、1984年には年間で73人も亡くなっています。(出典はこちら)しかし、クマが人を殺せば、否、人の多い地域に出没するだけでもニュースで全国に報じられますが、マムシやスズメバチが人を殺しても報じられることはありません。地方紙の片隅くらいには載るかもしれませんが。マムシにしろスズメバチにしろ、人家の近くに出没すれば駆除されますが、「マムシを殺すな」「スズメバチを殺すな」と主張するヘビ愛護団体とかスズメバチ愛護団体というのも聞いたことがありません。逆に「マムシなんか絶滅させろ」「スズメバチなんか絶滅させろ」などと叫ぶ人たちも聞いたことがありません※。マムシなスズメバチで死者が出てもほとんど報じられないし、当然その駆除も報じられないからです。※もっとも、これは部分的はクマについても言えます。人を襲ったクマの駆除が報じられると、その役所に「クマを殺すな」「もっと殺せ」とクレームが殺到するそうですが、実は毎年多くのクマが駆除されていますが(2023年には全国で1万頭近く)、れらについて一つ一つにクレームが殺到しているという話は聞きません。理由はマムシやスズメバチと同じで、クマの駆除だって、人身事故の後以外はいちいち報じられないからです。もう一つ言えるのは、さすがにマムシを絶滅、スズメバチを絶滅、なんて不可能なことは誰にだってわかること、ということもあるでしょう。人家の近くは駆除するけど、山の中でまで駆除なんて非現実的なのは明らかです。ところが、マムシやスズメバチなら容易に理解できることが、それに比べれば死者は少ないにもかかわらず、クマになると理解できず(あるいは理解しようとせず)「絶滅させろ」と叫び出す。どうしてマムシやスズメバチで不可能なことが、クマでは可能だと思えるのか、不思議で仕方がありません。「自衛隊か警察にスズメバチ対策の専門部隊を設置して根絶しろ」などと言われれば、ほとんどの人が「アホかっ」と思うはずですが、クマについては大真面目にそんなことを言っちゃう人がいるわけです。ネット上の一部空間は、この件に限りませんが、過激で勇ましい、しかし非現実的な極論ばかりが大手を振ってまかり通っています。残念ながら、その先に、建設的な結論など出てくるはずもありません。
2025.08.21
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へずまりゅう氏、前川喜平氏からの「人間のクズ」暴言に反論 「黙っていられません」元迷惑系YouTuberで奈良県奈良市議会議員のへずまりゅう氏が2025年10月2日にXを更新し、元文部科学事務次官の前川喜平氏からの「完全に人間のクズ」という投稿に反論した。前川氏は2日、Xに「へずまりゅうなんてヤツは、完全に人間のクズだ」と投稿。へずま氏は7月20日に行われた奈良市議会議員選挙で8320票を得て当選していたが、前川氏は「こんなヤツに投票した奈良市民もクズだ。それを反省もしないのなら、もっとクズだ」と苦言を呈した。さらに前川氏は、「クズには『クズ』と言ってやらねば、いつまでもクズでいるだろう。だから、クズには『クズ』と僕は言う」と持論を展開していた。へずま氏は同日にこのポストを引用し、「前川さんは大勢の方々から応援してもらったことがないですもんね。そりゃ文科省時代に出会い系バーに行って女の子遊びに走る訳だ」と、前川氏が文科省時代に出会い系バーへ通っていた騒動に触れて皮肉をつづり、「自分は毎日が充実していて楽しいです」と反論した。また、次のポストでへずま氏は、「もう二度と絡まれても相手をしないと決めていましたが奈良市民の皆様の悪口を言われて黙っていられません」と反応した理由を説明し、「前川喜平は謝罪し反省をして大人になれ」と怒りをあらわにしていた。この一連のポストにネット上からは、「へずまを選んだってだけで奈良市民まで愚弄される謂れはどこにもない」「へずまさんは人の過去をどうこう言える立場じゃない自覚はあるのかが気になる」という声が集まっていた。---選挙で当選したとはいえ、へずまりゅうの得票率は5%に満たないので、奈良市民がみんな「クズ」というのは言い過ぎであろうと思いますが、とはいえ、このような人物が全体で3位の得票ということには愕然とします。正直言って、かかる人物に票を投じた人たちに、「何を考えているのか」という疑念は禁じえません(極めて表現を抑えて書いてます)。彼がこれまでやて来たことを考えれば、選挙で当選したから過去の行為が免罪されるべきとも、批判の対象にすべきでないとも思いません。奈良市民に対して「クズ」は、少々穏当を欠くと思いますが、へずまりゅう本人に対して「クズ」は、極めて妥当な表現としか、私には思えません。それにしても、迷惑行為の常習によって日銭を稼いできたこのような人物が、どういう風の吹き回しか愛国に目覚めて、外国人排斥を叫び始めた途端に支持者が増えて、定数39人、立候補55人中3位で当選してしまう、という状況には戦慄を覚えざるを得ません。どんなクズでも愛国と外国人排斥を唱えれば支持され、市議選レベルとはいえ当選できる。そりゃあ、人生に行き詰った人たちが猫も杓子も「愛国」を叫び始めるのも分かります。いや、へずまりゅうに限りません。「愛国」という方向性とは若干違いますが、NHK党の立花孝志も、ほぼ同類と言わざるを得ません。へずまりゅうは今のところ市議選ですが、立花は少なくとも一度は参院選で当選してしまいましたから。こんな連中がのさばり、それを支持する人が少なからずいる状況は、世も末と思わざるを得ません。
2025.10.08
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期日前投票に行ってきました。中道は支持できないと思っていますが、小選挙区では他に私には選択肢がなく(自民・維新・参政・日本保守・国民民主の各党に投票する気はないので)、中道の候補に入れました。比例区は、迷いました。社民党にしようと思ったのですが、沖縄2区での混迷を見て、今回はやめようと考え、共産党に入れました。れいわ新選組は、「赤字国債をいくら出しても大丈夫」説があまりに危うく(左右反対ですが、そこたけは高橋洋一などとまるで同じ)、これも投票しようという気になりませんでした。正直言って、3年前松竹氏が除名されて以降も、「共産党の公認候補」には何度か票を入れていますが、比例区の政党名に「日本共産党」の名を書く気が、どうしても起きませんでした。今回も書くことに抵抗がなかったわけではありませんが、消去法的に投票しました。次も入れる保証はいたしませんが(笑)そして、最高裁国民審査。高須順一氏と沖野真已氏。アンケートを見ても二人とも無難な答えしかしていない気はしたのですが、日弁連の日弁連司法制度調査会委員長を務めた経歴と、アンケート中の「弁護士のときに不当な扱いを受けた外国人留学生から依頼を受けた。差別と戦うために、まずは自分自身の内にもある他人と己を区別する感情を克服する大切さを教えてくれた。事件と向き合う姿勢の原点となっている。」という回答から、この人は信任しようと決めました。もう一人の沖野真已氏は学者出身。調査不足で不信任したいと考える材料がなく、どうしようかと思ったのですが、×はつけませんでした。今回信任投票の対象が2人だけだったこともありますが、最高裁の信任投票で一人も✕をつけなかったのはこれまでで初めてかもしれません。皆さん、棄権はやめましょう、投票には是非行ってください。
2026.02.03
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菅内閣の支持率、48%に上昇…読売世論調査読売新聞社が5~7日に実施した全国世論調査で、菅内閣の支持率は48%となり、前回(2/5~7調査)の39%から9ポイント上昇した。不支持は42%(前回44%)だった。支持が不支持を上回るのは、昨年12/26~27の調査以来。前回調査の時点と比べ、新型コロナの新規感染者数が減少し、感染状況が落ち着いていることを反映したとみられる。政党支持率は自民党40%(前回37%)、立憲民主党6%(同5%)などの順で、無党派層は42%(同42%)だった。---48%という支持率は、それほど高いものではありませんが、それでも先月よりも9ポイントも支持率が上がった、支持率が不支持率を上回ったというのは、私にとっては絶句です。現状の政治状況のどこを評価すれば、支持率が不支持率を上回ることができるのか、私には分かりません。首相の息子が務める東北新社による総務省への接待攻勢とか、河井夫妻の選挙不正(河井は菅の子飼いの政治家)などスキャンダルまみれの上に、では、そんなスキャンダルなどかすむくらい経済状態が良いのかと言えば、その正反対です。このガタガタの経済状態の中、何故か好調だった株価についても、この数日に限れば急降下しているし、コロナ対策も右往左往、この政権の、いったいどこに評価するところがあるのか。もちろん、私はハナから自民党は大っ嫌いという先入観があるることは自覚していますが、それにしたって、「菅政権のここが素晴らしい」「ここが評価できる」という話を、ついぞ聞いたことがない。まだしも安倍は(いうまでもなく私は大嫌いですが)私の対極にある主張も持ち主たちによって熱く支持されてきたことは否定できませんが、そういう種類の人たちが菅も引き続き熱く支持しているようには見えません。前述のとおり、私は自民党は大嫌いですが、仮にどうしても自民党の中で人を選ぶとしても、もう少しマシな人物はいるんじゃないの?と思うんですけどね。でも、冷静に考えると、これはある意味必然なのかもしれません。ここでもうちょっとマシな選択ができているようなら、バブル崩壊後の日本は、ここまで沈没して来なかったでしょう。高度経済成長を成し遂げたのも自民党ですが(もっとも、その当時の自民党の少なからぬ部分は、後に自民党を割って出ている)、それ以降下り坂の日本を先導してきたのも自民党。現在のコロナ禍こそ全世界の問題ですが、バブル崩壊後の経済低迷を全体としてみれば、ほぼ日本だけの沈没現象です。この間、1年にも満たない日本新党と3年あまりの民主党政権時代を除き、自民党が、この「成果」を成し遂げてきました。日本人は地獄の底まで自民党について行きたいのかもね。安倍政権もそうだったけど、これほどまでにスキャンダルと政策ミスを繰り返し、経済状態という成果もガタガタの状態で、他の国なら、いや、10年前までの日本だって、ここまでくれば政権は吹っ飛びます。ところが今の日本では、ここまでやっても政権はひっくり返らない。何やっても政権を失うことまではないという安心感(?)があるから、この状態でもなお、自民党内にさほどの反省も、危機意識も、自浄作用も表面化してこない。このまま行けば、日本という国は地獄の底まで、自民党と心中し続けることになるかも知れません。私としてはごめん被りたいけれど、何を言ったって何も変わらない、なるようにしかならない、という絶望感、諦めに近いものもあります。政治に真剣に何かを期待しても、どうせ思うようにならずあとで失望するくらいなら、最初から期待なんか抱かない方が精神衛生によい、という感覚すら生じています。簡単にいえば、醒めてしまっている状態。ひょっとしたら私だけではないかもしれませんね、少なくない人がそう思っているのかもしれません。みんながそう思ってしまっているからこんな状況になっているのだとしたら、そんなことをいっている場合じゃないだろう、とも思うのですが、どうにも奮い立たない。こればっかりはどうしようもありません。
2021.03.09
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Falleció el Maestro del Charango Ernesto Cavour Aramayoチャランゴのマエストロ(師匠)エルネスト・カブール死去8月7日、チャランゴ奏者のエルネスト・カブールが死去した、とのことです。1940年生まれの82歳でした。現代のボリビア・フォルクローレの祖とも言える「ロス・ハイラス」のチャランゴ奏者としてヨーロッパで活躍していましたが、1971年にボリビアへ帰国、事実上の首都ラパスにて、ペーニャ(ライブハウス)「ナイラ」を経営し、自身のグループを率いて演奏活動を行ってきました。日本との関係も深く、ギターの木下尊惇さんもボリビア滞在中は長らくカブールと演奏を行っていましたし、来日公演も度々行っていました。私自身は1992年映画「橋のない川」(東陽一監督版)のBGMを担当した際の来日公演と、2009年だったか、単身で来日し、日本の演奏家と各地でコンサートを行った際、木下尊惇さんとのデュオの公演を見たことがあります。実は、先日記事を書いた「みんなのフォルクローレ祭 45年目の同窓会」にボリビアの何人かの音楽家がメッセージを寄せているのですが、その一人がエルネスト・カブールでした。ビデオメッセージを寄せている音楽家もいた中で、カブールは手紙でした。あまり体調が良くないのかな、なんて漠然と思っていたところではありました。2019年の演奏2013年の演奏。最近はムユムユギター※のフランツ・バルベルデによる伴奏が多かったようです。※ムユムユ:カブールが考案した冗談楽器。片面が普通の6弦クラシックギター、反対側が12弦ギターになっていて、表裏ひっくり返しながら演奏する前述のとおり、カブールはかつて住井すゑ原作の、被差別部落問題を描いた映画「橋のない川」(東陽一監督版)の音楽を担当したことがあります。その際のオープニングテーマ曲がこちらです。曲名はその名もRio sin puente(橋のない川)、ただしこれは映画にあわせてつけられたタイトルであり、原題はPadre viento(父なる風)と言います。もう1曲の「Tema de Nanae(七重のテーマ)」は原題は知りませんが。※※追記:木下尊惇さんに教えていただいたところによりますと、オープニングのPadre vientoとエンディングのRosario de uvas(ぶどうのロサリオ)の2曲は東監督の希望で選ばれ、それ以外の劇中曲は全曲映画のためのオリジナル曲だそうです。ロス・ハイラス元々ボリビアといっても先住民とスペイン系では文化が異なり、従って音楽的にも相容れないものがあったのですが、その両者の音楽的要素を融合させて一つの音楽にした「はしり」と言えます。そのため、前述のとおりボリビア現代フォルクローレの祖と言われます。ご多分の漏れず、そのような革新的な試みが最初からボリビア国内で受け入れられたわけではなく、グループはヨーロッパに渡って、特にフランスで人気を博したことから認知されていったようです。ヨーロッパでの音楽活動には、メンバーにスイス人(おそらくフランス系スイス人)のケーナ奏者ヒルベルト・ファブレがいたことが役に立ったでしょう。それに加えて、カブールもフランス語を話します。ハイラス脱退後ですが、カナダのケベックで自身のグループのコンサートを行い、その司会を流暢なフランス語で行っているYouTube動画があります。※1986年頃ドイツに滞在していた知人の証言によると、カブールのコンサートの後、楽屋を訪れたら、マネージャーがフランス人で、フランス語でやり取りをしていたということです。ハイラスの全盛期のメンバーは、ギター:フリオ・ゴドイ、一時期アルフレド・ドミンゲスチャランゴ:エルネスト・カブールケーナ:ヒルベルト・ファブレボーカル・サンポーニャ:エドガル・ヤヨ・ホフレです。このうち、アルフレド・ドミンゲスは1980年に、ヒルベルト・ファブレは98年に亡くなっていますが、残る3人はずっと存命で活躍していました。が、7月にヤヨ・ホフレが85歳で亡くなったばかりです。それから1ヶ月と経たないうちにカブールの訃報、あっという間に、ご存命なのはギターのフリオ・ゴドイだけになってしまいました。ご冥福をお祈りします。
2022.08.09
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「中道結党は間違っていない」 野田佳彦氏「はい上がる決意」中道改革連合の野田佳彦前共同代表は16日、自身のホームページで「穏健な政治勢力として中道のかたまりを作るという方向性は決して間違っていなかった」と強調した。衆院選の惨敗について「背水の陣どころか水中の陣だ。ドボンと落ちた水の中から浮かび上がり、崖に爪立てはい上がる決意だ」とつづった。同時に「(衆院選の)大敗の責任は、全て共同代表である私にある」とした上で、「高市早苗首相への期待感だけの『推し活』のようなイメージ論に選挙戦全体が支配された」と分析。「何とも言えない独特の時代の空気に、私たちの訴えがのみ込まれた」と振り返った。---立場上、公明党と喧嘩別れするときまでは、「間違っていた」とは言えないでしょうけど、でも私はその選択は間違っていたと思います。前にも書きましたが、連立政権を解消した公明党との連携自体は、「良い」とは思いませんが「やむを得なかった」とは思います。互いの政策の差は措いて、選挙協力を行うことは、必要な選択だったでしょう。しかし、そこで両党が合併し、党固有の政策をあっさり捨てて公明党の政策に合わせる判断は、それまでの立憲民主党支持者の思いを踏みにじるものです。選挙前、公明党と立憲民主党の政策は近い(自民党と公明党の差に比べれば)、という論評がありました。しかし、果たしてそうでしょうか?野田氏と公明党の政策が近いのはおそらく事実でしょうが、その野田氏は立憲民主党の中ではかなり右端に近いところにいます。立憲民主党全体と公明党では、それなりに政策の差は大きかったと思います。政策の差は差として互いに尊重したうえで、一致できる点を大事にして共闘(選挙協力)を行うべきところを、一足飛びに合併して新党(投票日の3週間ちょっと前に)などという挙に出たことが敗因だ私は思います。先に書いたように、自民党と公明党だって、改憲と護憲という大きな基本政策の差がありながらも、四半世紀以上連立を組み、しかし党として合併などしないできたわけです。なんで立憲民主党が公明党と共闘するに際して、合併すべき、などという話になってしまったのかが、理解不能です。さて、野田氏が立場上中道改革連合結党が間違っていなかったと主張するのは好きにすればよいのですが、もしそれが本当に間違っていなかったなら、衆院の両党合併だけでとどまっているのは不思議なことです。衆院では一つの党、参院と地方議会では別々の党、などという政党のあり方なんて、過去に例がありません(議院内の統一会派ならありますが)。中道改革連合結党が正しかったなら、参院でも地方議会でも、一般の党組織、党員も両党は合併すべきでしょう。しかし、現実には参院と地方議員の合併には異論が多く、少なくともすぐに実行されそうにはありません。それはすなわち、中道改革連合の結党は失敗だったと思っている議員が多い、ということの雄弁な証拠です。話は変わりますが、中道改革連合の規約を改めて読んでみましたが、そこには党員についての規定がほぼありません。第4条 本党は、本党綱領及びそれに基づく政策に賛同する党員で構成する。第5条1党員の入党・離党の手続きは、組織規則で別に定める。これたけです。別に定めるという「組織規則」は、おそらくまだ定められていないのではないかと思います。一方公明党、立憲民主党の規約では党員についての規定は以下のとおりです。公明党規約第4条 党の綱領及び規約を守り、その政策及び諸決議を実現するため党活動に参加しようとする十八歳以上の者は、国籍を問わず党員となることができる。第5条1党員となろうとする者は、党員二名以上の紹介により、所定の事項を記載した入党申込書を支部長を通じて都道府県代表に提出し、その承認を受けなければならない第10条 党員は、他の政党に所属することはできない。立憲民主党規約第5条1 党員は、本党綱領及びそれに基づく政策に賛同し、草の根からの声に基づくボトムアップの政治を実践しようとする18歳以上の日本国民で、入党手続きを経た者とする。第7条1 本党綱領及びそれに基づく政策に賛同し、地域において、本党または本党所属の国会議員、地方自治体議員及びこれらの候補者等を支援する18歳以上の日本国民で、定められた協力党員費を納付し、総支部に登録した者を協力党員とする。公明党の規約には、二重党員はできない旨が明示されています。この規定を何らかの形で改正しなければ、公明党と中道改革連合の二重党籍は不可能です。従って、衆院選立候補者以外に中道改革連合の党員はまだいないのではないかと思います。衆議院議員だけが党員で、一般党員がいない政党、なんてものが政党の態を成しているとは思えません。公明党、立憲民主党、中道改革連合が並立して存在し、公明党と立憲民主党には一般党員がいるけれど中道改革連合にはいない、という状態である限り、中道改革連合は完全な政党の態をなしていないし、成功とか失敗と言う以前の段階だ、とも言えるかもしれません。
2026.02.16
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「風立ちぬ」宮崎駿監督の反日妄想を嗤う今年も「護憲村」の夏祭りは大盛況だった。~この時期、護憲村の村民たちの耳は「軍靴の足音が聞こえる」という正体不明の奇病に冒される。これが祭囃子だ。ムラの広報係である朝日、毎日新聞など各メディアは、この時期、こぞって社説、特報という回覧板でアジテーションを続ける。そのご高説は、「我こそ平和の善導者」、さも「煩悶する青年」と言わんばかりの自己陶酔感に満ち満ちたもの。それはもはや報道ではなく・配達してくれるビラ・の領域である。「平和を希求する」ことの尊さも存在する半面、「報道」を逸脱した冗長な演説記事の「痛々しさ」について彼らは全く無自覚だ。祭りには、メディアだけではなくて芸能人、アーティストという属性の人々も櫓に立って音頭取りをすることもある。そして今年の夏祭りのゲストには、アニメ業界の大御所、スタジオジブリのアニメーション作家、宮崎駿氏が音頭に加わり活況を呈した印象だ。先の参院選も終盤の頃、護憲派を自負する社民党、共産党、各諸派の間で「宮崎さんが護憲を訴える記事を出した」とこんな話題が巻き起こった。スタジオジブリが発行している小冊子『熱風』(7月号)の「特集 憲法改正」に宮崎氏自ら「憲法を変えるなどもってのほか」と題する記事を執筆し、それが護憲村の住民達の耳目を引きつけたのだ。余談だが、『熱風』はアニメ制作会社の機関誌としてはしばし「専門外」の分野に口を挟むことがある。同誌11年8月号で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」という特集を組んだ。当時、スタジオジブリの社屋にはタイトルと同じ文言の横断幕が掲げられて、JR中央線からも眺めることができた。どうも横断幕の意図がよく分からない。福島原発事故を受けての原発批判なのだろうが、それ以前、福島原発が稼働していた頃、同社も原発の電力で映画を制作していたはず。では原発の電力にまみれた過去作品はいっそ放棄すべきではないか。原発が稼働した場合、もう映画制作はしないという意味か。(中略)宮崎氏の記事が注目された理由として、2つの背景が考えられる。1つはその頃、参院選の争点として九六条改正など憲法の論議が盛んだったことだ。祭りに参加した“9条真理教徒”たちからすれば「あの宮崎駿さんも護憲派だ」ということで歓喜したことであろう。そしてもう1つ、宮崎氏が監督を務めた『風立ちぬ』が同時期に全国公開された点も見逃せない。本作は、零式艦上戦闘機いわゆる「ゼロ戦」の開発者である航空技術者、堀越二郎の活躍を描いたものだ。宮崎作品の特徴として飛行艇や飛行機などが頻出する。とにかく「飛ぶ」ことが重要なエッセンスだ。だから堀越二郎には強い思い入れがあったに違いない。もし宮崎氏が記事で護憲、平和と踊っているだけならば祭りの一風景で済んだ話だった。しかし同時にゼロ戦の開発者である堀越を描いたことで9条真理教徒の反応は複雑になった。つまり『風立ちぬ』でゼロ戦開発者を描くことが軍国賛美であると批判する声も上がったのだ。また予想通りの反応だが、反日の態度を取り続ける韓国では『風立ちぬ』が「戦争美化」の「右翼映画」だとして、同国内の公開中止を求める声も強まった。こうした言いがかりも含め一連の反応を検証すると「宮崎駿」という個人、そして護憲派や文化人という人々の偽善性と胡散臭さを感じざるを得ないのだ。体験なき者の横暴宮崎氏の記事「憲法を変えるなどもってのほか」は“いかにも”な内容だ。というよりも護憲派なる人々の主張パターンを踏襲したものに過ぎない。それは、こんな書き出しからはじまる。「子どもの頃は『本当に愚かな戦争をした』という実感がありました。実際、日本軍が中国大陸でひどいことをしたというのを自慢げに話す大人がいて、そういう話を間接的にではあっても何度も聞きました。同時に空襲でどれほどのひどいことになったかというのも聞きました。伝聞も含め、いろいろなことを耳にしましたから、馬鹿なことをやった国に生まれてしまったと思って、本当に日本が嫌いになりました」なるほど随分、早熟で意識の高い少年だったらしい。ちなみに宮崎氏は1941年生まれで戦時中生まれながら直接的な記憶を知らない「プレ団塊の世代」に属する人だ。だからこの言通り、戦争の記憶というのも、誇張された伝聞が大きく占める。彼の父親は親族と一緒に栃木県で「宮崎航空機製作所」を経営していた。すなわち軍需産業である。ゆえに戦後、宮崎少年は父親を責めたという。「そんな親父が戦争について何と言ったと思いますか。『スターリンは日本の人民には罪はないと言った』それでおしまいです。僕は『親父にも戦争責任があるはずだ』と言って、喧嘩しましたけど、親父はそんなものを背負う気は全然なかったようです」(『熱風』)なんだろうか? 父親の背広からキャバレーのマッチが出てきて「父さんは不潔だ」と叱責する高度成長期辺りの少年の反抗期。そんな風景が伝わってくる。こんな童心を今に留めているからこそ数々の名作を生み出せるのかもしれないが、どうもこの種の人々の特有の青臭さが鼻につく。それは「体験なき者の横暴」である。---興味深いといっても、言うまでもなく、批判の内容そのものではありません。一読して分かるように、内容自体はまったく低レベル。いかにも産経クオリティーです。私が興味深いと思ったのは、産経が、方や「主張」欄(社説)※では宮崎駿を持ち上げ、方や「月刊正論」では酷評する、その正反対の評価を、同じオピニオンコーナーに共存させてしまう感性です。※9月3日付「主張」は宮崎駿監督の引退 発信力を担う若手よ続けアニメーション映画の宮崎駿(はやお)監督が引退するという。この世界で72歳の引退は早すぎる。世界を喜ばせてきた巨匠の退陣は残念でならないが、日本の強力な発信力の担い手として、宮崎氏の後を継ぐ若手の台頭を期待したい。(以下略)と書いています。「主張」というのは社としての意見であり、、月刊正論の寄稿は、その執筆者の意見ですから、今のところは、産経新聞としての評価は社説のとおりなのでしょうが、数年もしたらこの寄稿のほうが産経新聞の社論に化けてしまうかもしれないな、という気がします。内容に関しては、「いかにもネトウヨ」的な文面で、同レベルのネトウヨの意見がたくさんある。その意味では目新しさは皆無。改めて、産経はやっぱりネトウヨ機関紙なんだなと感じるばかりです。ムラの広報係である朝日、毎日新聞など各メディアは、この時期、こぞって社説、特報という回覧板でアジテーションを続ける。~それはもはや報道ではなく・配達してくれるビラ・の領域である。というのは、どうも朝日、毎日新聞という単語を産経新聞に置き換えたほうが、よほど実態に即しているように思えます。筆致そのものが、朝日、毎日は控えめで、産経のほうがはるかにアジビラ的的です。そのこと自体は(主張の内容の是非は別にして)、必ずしも悪くはないと思いますけど。福島原発事故を受けての原発批判なのだろうが、それ以前、福島原発が稼働していた頃、同社も原発の電力で映画を制作していたはず。では原発の電力にまみれた過去作品はいっそ放棄すべきではないか。原発に反対するなら電気を使うな、という類の、反原発派に対する質の悪い批判の変形バージョンです。電気を使っていると発電方法に対する批判ができない、というなら、中国製の製品を使いながら中国批判をするな、という言い方も可能です。「1941年生まれで戦時中生まれながら直接的な記憶を知らないプレ団塊の世代」ともありますが、明らかにウソです。宮崎駿は直接的に戦争の記憶を持っています。彼は1945年7月、宇都宮で空襲に遭遇したときのことを、何かの雑誌のインタビューで語っています。ネットで検索すると、その話が結構出てきます。叔父のトラックで避難したこと、女性が「乗せてください」と追いすがってきたとき、親族が無視して、それに対して何も言えなかったことが負い目になったこと、など。1945年7月の時点で宮崎は4歳半であり、その年齢なら、大人まで残る記憶は、当然あるでしょう。まして、空襲という異常な体験をすれば、鮮烈な記憶が残るのは当然。私自身も、おおむね3歳頃からの記憶はあります。したがって、「体験なき者の横暴」などという批判は、まったく事実無根と言うしかないでしょう。宮崎駿が、軍需産業の華麗なる経営者だった父親について否定的な書き方をすることも、この筆者はいたく気に入らないようです。宮崎は、父親との相克をいろいろなところで語っていますけど、私自身の読んだ印象では、おそらく宮崎と父親の関係は、最終的にはそんなに悪くなかったんじゃないか、という気がします。もちろん、気がするだけで、実際のところはどうなのかは未確認ですけれど。私の知る範囲でいえば、親子が本当に険悪な関係だと、親のこと、子のことをほとんど口にしない、わざわざ書かない。もし書いたとしても、もっと敵意を感じさせる文章になります。宮崎が語る父親像は、意見の対立はあったんだろうけどあまり敵意の存在を感じさせません。(聞き取った人の編集の結果、ということも考えられますが)多分、対立しつつも親しい関係、あるいは一時は対立しつつも、最終的には修復された関係ではなかったか、と思います。人間同士の関係というのは、そうそう単純ではありません。「親子強大仲良く」というのは人類普遍の願望でしょうが、現実は厳しい。源平の昔から始まって、親子の相克、対立、仲違いなんてものは、いくらでも例がある。というより、相克のない親子関係なんて、存在しないんじゃないでしょうか。かといって、対立するだけではない。反発しつつ親しい、対立したり親しくなったり、人間関係とは、そういった重層的で一筋縄ではいかないものでしょう。父親について否定的な面を書いただけで、「どうもこの種の人々の特有の青臭さが鼻につく。それは「体験なき者の横暴」である。」などと断じるのは、単純な決めつけで、それこそ「青臭さが鼻につき」ます。で、この先は「月刊正論で」というので、ササッと立ち読みしてきましたが、「元軍事マニアという隠したい過去」なんて表現もありました。宮崎が反戦的であり、一方で軍事マニアでもあることは、本人自身あるいはジブリの製作者サイドが頻繁に言っていることであり、隠したいと思っているようには見えません。※余談ですが、「風立ちぬ」に関して宮崎駿(あるいはプロデューサーの鈴木敏夫)は、反戦派でありながら戦闘機好きという自己矛盾について度々言及しています。私は「風立ちぬ」はいい作品だと思っていますが、前述の矛盾に関しては、すっきりと納得できる回答は提示していないようにも感じます。少なくとも、この映画から反戦的なメッセージは、私には読み取れませんでした。だからと言って戦争肯定、戦争賛美の作品でなし、私にとって好きな作品であることに変わりはないですけど。そうそう、宮崎駿が高校生のときに、「世界の艦船」という雑誌に投稿したことがあるそうで、検索したところ、雑誌のコピーがアップされているので、これは間違いのない情報でしょう。これに関してだけは、なかなか面白い情報(トリビア的な)を知ることができたという意味で、この文章に感謝します。評価できる点は、そのことだけかな。
2013.09.05
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「レトルトを温めたお湯でコーヒー」に驚き メーカーは「禁止」「他人の常識は自分にとっての非常識」ということは、人付き合いをしていればよくあることだ。12月19日のはてな匿名ダイアリーでは、「レトルト食品を温めたお湯」という投稿が寄せられた。投稿者は友達の家に行ってレトルトカレーを食べようとした際、レトルトカレーを温めたお湯でコーヒーを淹れた友達に驚かされたという。投稿者が「いま、このお湯でカレー温めてなかった?」と聞くと、友達は「そうだよ」とさも当然のように答えたそうだ。「そんなに普通に応えられちゃうと、俺が間違えてるみたいだから、それ以上は言わなかったよ」と追求は避けたが、違和感は消えなかったようだ。~ハウス食品はサイト上で、「レトルトパウチを温めた残り湯は、他の料理には使用しないでください。パウチの成分が溶け出るようなことはありませんが、残り湯を再利用することは想定していません」と忠告している。ちなみに投稿者はその後、友人の趣味が「キャンプだか登山だか」だったことを思い出し、「だからパックご飯やレトルトカレーがあったんだと思う。それで水を大事にする癖がついているなら、俺が野暮だったかもな」と振り返っていた。他人の行動を見てぎょっとすることは誰しもあるだろうが、一呼吸置いてその背景を考えると、違う常識を持つ人への理解も進みそうだ。--- 引用記事の例も、登山が好きな人のようですけど、わたしも同じです。山では、沸騰したお湯をアルファ米に投入してから、その残り湯(足りなければ多少注ぎ足す場合あり)でレトルトを暖めて、更にそのお湯を最後にインスタント味噌汁かスープを入れます。で、食べ終わったら残りのお湯は保温ポットに戻す。または、そこに保温ポットのお湯を全部注ぎ足して、再沸騰させてからポットに戻すこともあります。そうすると、次に保温ポットのお湯を使うときに、より熱いお湯が使えるからです。限られたガス缶で暖めたお湯は貴重ですから、どうしたら一度沸かしたお湯を最大限に有効活用できるかって考えますよ。レトルトを暖めたお湯だって、熱湯消毒済(笑)だから、問題ないし。捨てる水も最小限にするために、というか、そもそも山では通常、水場はあっても「洗い場」なんてないし、洗剤も使えないから、使用済の食器はティッシュかペーパータオルで拭くだけです。拭いたティッシュペーパーはもちろん持ち帰り。わたしは軟弱登山者なので、連続テン泊は最大で3泊までしか経験がなく(それも1回くらいで、ほとんどは1泊か2泊)、それで問題が生じたことはありません。もちろん、帰宅後はちゃんと洗剤で洗いますよ。食べ残しを捨てるなんてもってのほかなので、インスタントラーメン(テン泊時はサッポロ一番を朝食にすることが多いです)は水を減らして粉末スープも減らすことが多いです。汁を飲み残すことがないようにするためです(鍋が小さい、ということもありますけど)。ただし、時々山でパスタを茹でることがありますが(湯で時間が極力短い麺と、具はレトルトです)、山でもスパゲティを茹でた残り湯は再利用せず捨てます、さすがに(笑)もっとも、山では感じないけど、家では、レトルトを温めたお湯を再利用するとアルミの香りがすることがあります。だから、家ではやりません。ましてや、来客にレトルトの残り湯を使ったコーヒーやお茶を出すのはさすがにちょっと・・・・・・。それにしても、何故山ではレトルトの残り湯を使ってもアルミのにおいを感じないのかなあ。いや、そうとも限らないか。かなり昔ですけど、職場の先輩と一緒にテン泊とき、生ビールを飲んだのですよ。「美味しいね、もう1杯ほしいねえ」「でも高いね」(その山の生ビールは1杯800円くらでした)で、缶ビールを買ってきて、生ビールを飲み干したジョッキに入れて飲んだのでした。すげーアルミ臭かった。普段そんなふうに感じることはないのですが、ジョッキの生ビールの直後に缶ビールを飲むと、こんなにアルミ臭いのか、と思ってしまいました。もっとも、この話を、高校同期のある山仲間(某飲料メーカー勤務)にしたら、「それは管理が悪くて古くなった缶ビールだよ、普通はそんなことにならない」と言われました。そうなのか。「レトルトパウチを温めた残り湯は、他の料理には使用しないでください。」とハウス食品が告知しているとは知りませんでしたが、これまでそんなことは気にしたこともありませんでしたが、これからも多分気にしないでしょう(笑)。
2018.12.23
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日本軍はなぜ半分も餓死したのかきのうアゴラ読書塾で話したことだが、日本軍は戦争に負けたのではなく、補給の失敗で自滅した。その原因はいまだに十分解明されていないが、これは資源配分の問題と考えると理解できる。これには二つの解法がある。一つは市場経済などによってボトムアップで答を見つける方法、もう一つはトップダウンの計算で解く方法である。~これに対して、1940年代にはこうした最適解を計算する手法が開発され、戦時経済における物流や生産の管理に実際に使われた。こうした手法は、オペレーションズ・リサーチ(OR)と呼ばれた。ORは「作戦研究」という名の示すとおり、もとは戦争において補給を効率的に行なうシステムとして開発された。こうした手法は、戦争のように目的関数がはっきり決まっていて変化しないときには有効だ。ある作戦に、武器と石油と食糧という三つの資源が必要だとしよう。いくら武器がたくさんあっても、石油がなかったら動けないし、食糧がなくなったら兵士が飢え死にしてしまう。こういうときの基本的な考え方は、なるべくバランスよく予算を割り当て、ボトルネックをなくすことだ。かりにすべての予算を武器に割り当てたとすると、石油も食糧もないので戦力はゼロだ。そこで石油と食糧に一単位ずつ予算を配分すると、戦力は一単位ぶん増えるが、武器が余ってしまう。そこで余った武器予算をまた他の資源に割り当てると戦力が増える…というようにシミュレーションを繰り返し、戦力が増えなくなったところでやめると、最適な資源配分が求められる。資源の数が増えると、この計算は非常に複雑になるので、コンピュータが必要だ。米軍は、こういう手法で補給を手厚く行なったが、日本軍は補給を考えないで、ほとんどの予算を武器につぎ込んだため、第二次大戦の戦死者230万人のほぼ半数が餓死という悲惨な結果になった。このように市場経済で解く方法とORで解く方法は、最適解が一つしかない場合には同じで、これを双対性と呼ぶ。しかし答が一つではない場合は、結果は大きく違う。与えられた価格をもとにして個人が消費や生産を決める計算は簡単だが、その集計が全体最適になるのは例外だ。他方、経済全体の需要と供給を集計して最適解を計算することは通常は不可能だが、戦争のように計画主体と目的関数がはっきりしている場合は一発で解ける。日本社会では、すべての問題をボトムアップで(分権的に)解こうとする。これは平時には有効だが、戦時には調整に時間がかかって解が求められない。米軍はORを使って補給の問題をトップダウンで(集権的に)解き、戦死者はわずか10万人だった。ORは軍事機密で、これを経済学に応用したKoopmansはノーベル賞を受賞した。このように戦争をボトムアップでやったことが日本軍の本質的な失敗で、この教訓は現代にも通じる。20世紀の製造業では目的関数が与えられていたので、それを現場主義で解いて集計する日本企業の手法が有効だったが、21世紀の情報産業では目的関数の設定で勝負が決まる。バラバラの部分最適の集計が全体最適になることはまずない。要するに、現代の資本主義は戦争に近づいているのだ。そこで必要なのはコンセンサスではなく命令であり、合理的な(一貫した)目的関数を設定して独裁的に実行するスピードだ。これが戦争の好きなアメリカ人がグローバル資本主義で強い理由である。ーーー例によって池田信夫が、本質的なところから目をそらした原因究明をやって見せています。日本軍の戦死者の大半が、実際にはいわゆる戦死ではなく、餓死(事実上の餓死である戦病死も含めて)であることは、明らかです。その点は池田信夫が言うとおり。いや、実際は餓死者は半分よりもっと多いと思われるけど。で、問題はその理由です。資源の配分を誤ったというのは、現象としてはそのとおりですが、ではなぜ資源の配分を誤ったか。ORとか、ボトムアップとか、本質とは外れたところばかり見ていても、どうしようもない。日本軍は補給を軽視したことは事実ですが、無視したわけではなく、一応は補給の計画を持ってはいました。ただ、それは二つの理由で、容易に破綻してしまったのです。第一に、補給線の防御に、あまり注意を払わなかった。これも、まったく注意を払わなかったわけではないけれど、守りが甘かった。第二に、そもそも想定した補給の所要量が全然少なかった。これは、食糧よりも弾薬の話です。食糧は、体格の差で多少の所要量の差はあっても、兵士一人当たりの食料必要量に5倍も6倍も違いがあったわけはありません。しかし、弾薬は違います。日本軍が必要と想定した必要弾薬量と、米軍のそれでは、それこそ何十倍、何百倍の差があることも珍しくはありませんでした。だから、日本軍砲兵が1発撃つと米軍砲兵から100発お返しがくる、というような事態が生じたのです。相手がソ連軍で、しかも補給線を脅かされたことがないノモンハン事件でさえ、同じような状況がありました。では、なぜ日本軍が必要と想定していた弾薬量が少なかったのか。実に単純な話です。それまではそれで済むような戦争しかしてこなかったからです。日中戦争では、火砲1門あたり毎日何百発も発射するような戦いはしたことがなかったから、その延長線上でしか必要量を考えることができなかったのです。そしてもう一つ、食料に関しては、日中戦争では現地調達(つまり、略奪)で賄ってきたから、太平洋で米軍との戦いでも、同じようにすればよいと考えていたということもあります。しかし、中国大陸とは違って、太平洋の戦場は、日本軍の大軍を養えるほどの農業生産力はなかった。略奪するつもりで、「行けばなんとかなる」と進軍してみたら、そこには住民がいなかったのですから、飢えるのも当然です。要するに、日中戦争とは次元の違う戦いだ、ということに思い至らず、今までの延長線上で考えていたから、破綻をきたしてしまったわけです。ただし、もう一つ忘れてはならないことがあります。そもそも、充分に補給できるだけの弾薬や食糧が、いったい日本のどこにあったのか、という問題です。日本本土でさえ、戦争末期には飢餓一歩手前になっていたではないですか。補給線の防御を軽視したと書きましたが、仮に重視しようと考えたとしても、技術水準(電子装備の立ち遅れから、夜間は潜水艦に対して無力だった)や装備の不足(海上輸送路を守りきれるほどの数の護衛艦艇は建造できなかった)から、おそらくは実現不可能だったのです。太平洋戦争時の、口径8ミリ未満の小銃弾の生産量は、1941年から44年まで、年間4億発程度で推移しています。それに対して、この銃弾を使う銃はどれだけ生産されたか。三八式歩兵銃340万丁、九六式軽機関銃4万丁(以上口径6.5mm)、九九式小銃250万丁、九九式軽機関銃、九二式重機関銃各5万丁前後(以上口径7.7mm)。すべてあわせると600万丁くらいになる。年間4億発というとすごい数に見えるけど、1丁あたりにすれば、年間たった70発。当時の日本陸軍歩兵は、120発の小銃弾を携行することになっていました。機関銃は、当然それよりずっと多い。この携行定数をすべての銃について満たすだけでも2年くらいかかるほどに、弾薬の生産量が少なかったのです。食糧にしろ弾薬にしろ、そして兵器そのものの質と量においてすら、日本軍は米軍とまともに張り合えるほどの生産力を持っていなかったのです。ORだろうが何だろうが、生産力の上限を超える生産はできません。そもそもそんな戦争を始めてしまったこと自体が誤りなのです。
2014.07.28
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橋下氏の発言要旨=従軍慰安婦問題日本維新の会の橋下徹共同代表が13日に行った従軍慰安婦問題に関する発言の要旨は次の通り。 ▽13日午前(大阪市役所で記者団に)敗戦の結果として、侵略だということはしっかりと受け止めなければいけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない。慰安婦制度というのは世界各国の軍は持っていた。なぜ日本の従軍慰安婦制度だけが世界的に取り上げられるかと言うと、日本は軍を使って国家としてレイプをやっていたという、ものすごい批判を受けている。その点については、違うところは違うと言っていかなければいけない。あれだけ銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる。今のところは、軍自体が、日本政府自体が暴行、脅迫をして女性を拉致したという事実は証拠に裏付けられていない。そこはしっかり言っていかなければいけない。ただ、意に反して慰安婦になった方に対しては、配慮はしなければいけない。 ▽13日夕(同所で記者団に)慰安婦制度は必要だった。軍の規律を維持するためには、当時は必要だった。歴史をひも解いたら、いろいろな戦争で、勝った側が負けた側の方をレイプするという事実は山ほどある。そういうのを抑えていくためには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったということも厳然たる事実だと思う。(沖縄県宜野湾市の)米軍普天間飛行場に行った時、司令官にもっと風俗業を活用してほしいと言った。司令官は凍り付いたように苦笑いになってしまって。性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にはあるわけだから。---なんというか、呆れてものもいえない発言です。そもそも従軍慰安婦問題とは何なのか、ごく簡単におさらいをしてみましょう。戦争(兵士)と性の問題は切っても切り離せない関係がある、それは橋下のいうとおりです。日本軍の場合、その問題があからさまに噴出してしまったのは、1937年12月、あの南京大虐殺のときです。捕虜や一般市民の虐殺ばかりでなく、このとき女性に対する暴行事件がかなりの規模で発生しています。日本軍の内部でも、このときの虐殺と婦女暴行は(ひそかに)問題となっていました。そのため考えられた「解決策」のひとつが慰安所開設、つまり兵士の性のはけ口を設けることで、占領地での婦女暴行事件の発生を減らそうという策だったわけです。実際に「慰安所」を開設するに当たっては、陸海軍が直接運営するよりも、その主の業者(今で言えば風俗産業の経営者)に営業させる例が多かったようですが、軍が直接に慰安所を設置し経営した例も、インドネシアなど南方戦線では存在します。従軍慰安婦問題は、もっぱら日韓の紛争になっていますが、慰安婦にされた女性たちは、もちろんみんな朝鮮人ばかりだったわけではなく、日本人中国人、さらには占領地の住民などもいます。人数と民族による内訳は諸説ありますが、総数は数万から最大で20万、朝鮮人が一番多かった、少なくとも人口比よりも朝鮮人の割合が高かったのはほぼ間違いないと思われます。で、日本軍が直接的に「女性狩り」をやって慰安婦を引きずってきた、という例は、朝鮮半島では(もちろん日本本土でも)確認されていません。ただし、占領地で軍が直接的に女性をかっさらってきた例は確認されています。たとえば、インドネシアのスマランでは、抑留中のオランダ人女性35人を慰安所に強制連行し、戦後の戦犯裁判で関係者が裁かれています。(白馬事件)朝鮮では軍が直接的に強制連行をしたわけではないとはいえ、目的を偽って女性を集めたり、もちろん身売り(人身売買)で集めたりしたわけです。集めたのが民間業者であるといっても、明らかに国策事業です。国(軍)が発案して、慰安所というシステムを作り、その経営と人集めを民間業者にやらせただけなのです。なおかつ、軍が直接慰安所を運営し、女性を文字どおり今日例連行してきた例も(朝鮮以外の場所で、ですが)一部とはいえ存在した、これは明白なことです。いわば、原発と同じです。日本国が国策として原発を推進し、電力会社に原発を作らせたわけです。確かに原発を運転していたのは電力会社です。それによって電力会社はオイシイ思いもしたでしょう。事故に対して電力会社が重い責任を負っているのは、いうまでもないことです。がしかし、「あれは東電が起こした事故で、政府に責任はありません」などという言い訳が通用するはずがないのです。それと、同じことです。さて、冒頭に「戦争と性は切っても切り離せない関係がある」と私は書きました。第二次大戦に関していえば、ドイツ軍にも日本の従軍慰安婦と同様のことがあったし、旧ソ連軍、米軍なども潔癖だったわけではない。けれども、いつでも、どこの軍隊でも同じかというと、そうではありません。少なくとも、慰安婦(に類似するシステム)は、第二次世界大戦中の日独以外では聞いたことがないので、橋下の言い分(慰安婦制度は世界各国の軍が持っていた云々)は間違いです。兵士によるレイプが多発するというような例は他の国でもあります。沖縄でも、米軍人によってそういう事件が起こることがある。けれども、戦場が自国の国土の場合は、そういう話はあまり聞きません。自国内で自国民を守るために戦っている時は、そういうことは(皆無ではないにしても)あまり起こらない。国外で外国人の中で戦争をする時、有り体に言えば侵略戦争の場合に(もちろん、侵略戦争でなくても、戦場が国外になる場合はありますけど)、こういうことは起こりにくいと言えます。つまり、結局のところ、日本が侵略戦争を行ったというところに、この問題の出発点があるわけです。それにしても、「米軍普天間飛行場に行った時、司令官にもっと風俗業を活用してほしいと言った。司令官は凍り付いたように苦笑いになってしまって。」気は確かか?と言いたい。橋下の一連の発言はすべてひどい内容だけど、中でも最大の暴言はこれです。外国の軍隊に向かって「うちの国の女を買ってくれ」って、とてもまともな発言ではない。まったく信じ難い思いです。それに対して、司令官は凍りついたって、そりゃ、マトモな神経と常識を持った司令官だったら凍り付くに決まっている。1995年に沖縄で米兵による少女暴行事件が起きた際、米太平洋軍司令官が「(事件に使った)レンタカーを借りる金で女を買えた」と放言して、更迭、懲罰降格の上予備役編入されています。こんな発言にうっかり同意なんかしたら、自分も首が飛ぶ危険がある、くらいのことは、その司令官だって頭をかすめたに違いありません。
2013.05.14
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登山文化の危機! 山小屋ヘリコプター問題6月末のある日、T航空の荷上げを翌日に控えていた僕たちは一本の電話を受けた。「ヘリが全て故障したので、当面荷上げはできません」。ここから今回の騒動は始まった。~2019年7月下旬現在、多くの山小屋の現場で重大な異変が起こっている。営業物資、生活物資が突如として届かなくなったのだ。数年前から主要なヘリコプター会社のA社やN社が山小屋の物資輸送から事実上の撤退を示唆し、大幅値上げや契約拒否などに踏み切っていることは問題として顕在化していたが、ここにきて現状北アルプスの8割方の物資輸送を手掛けている、最後の砦というべきT航空が、一昨年来相次いだ事故やそれに誘発された人材流出、直近の機体トラブルなどによってついに機能不全に陥ってしまったのである。先述の故障の連絡から2週間ほどでヘリコプター1機が復帰し、徐々に仕事をこなしつつあるとはいえ~僕の知る限りでも食料が届かずに客食を提供できない小屋、燃料が切れかけている小屋、営業開始半月経っても物資が届かない小屋、冬季解体して夏に再度組み立てるはずの施設が建てられず営業開始が遅れている小屋など、あらゆるレベルで影響が広がっている(全ての情報を網羅できるわけではないが、7月下旬現在、ほとんどの小屋で営業ができない状況は解消されたようだ)。~例え当面の物資輸送の滞りが表面上は解消に向かったとしても~今後この問題は際限なく拡大して行く可能性が高い。~今回の騒動を引き水に、今後ヘリコプターによる物資輸送を受けられなくなる山小屋が続出する可能性があるのだ。~1960年代初頭以降、ヘリコプターは山小屋運営の絶対的な生命線になった。それ以前は人が背負える範囲内の物資で山小屋を建設し、生活物資や食料を確保し、人力だけで開拓活動全般を行っていた。食料は宿泊者がある程度持参するのが慣習であった。それが60年代初頭のヘリコプターによる山岳地への物資輸送が実用化され、全てはそれを前提として発展することになった。~山小屋のヘリコプター事情の風向きが変わり始めたのは雲ノ平山荘を建て替えた2010年頃からだったと思う。2011年の東日本大震災が何らかの形で影響を及ぼしたのかとも思われるが、それまでは前出のT航空が比較的大きなシェアを占めていたとはいえ、4社ほどがそれなりに正常な競争原理を働かせながら共存して北アルプスの山小屋の物資輸送を行っていた。それが2010年頃からA社、N社、S社などが山小屋の物資輸送を急速に撤退方向に舵を切り始めた。当時、雲ノ平山荘で契約していたN社も突如として、山小屋の物資輸送から撤退したい旨を公言するとともに、3年間で段階的に物資輸送単価を倍近くに引き上げることを通告してきた。交渉しようにもにべも無く、一方的な通達である。その際N社の担当者が話していたことが、端的にその後の展開を物語っている。「時代とともに農薬散布や林業などの大口の民間事業がなくなり、ヘリコプターの需要自体が限られる中、今までのように広く浅く収益を上げる方針は変更せざるを得ない。これからは電力会社の事業や公共事業などの単価が高く、大型工事にターゲットを絞る方向になる」おそらくこの方向性はヘリコプター業界にとってはある種必然的とも言える経済判断であって、生き残り戦略でもあるのだろう。ことさら、山小屋の物資輸送は気象条件が厳しく円滑に仕事をこなすことが難しいため、ハイリスクローリターンの典型でもある。その後はN社と前後してA社、S社なども同じ方針を打ち出しはじめ、他社に契約を断られた山小屋が続出し、結果的にT航空に過剰とも言える山小屋の物資輸送のシェアが集中することになった。~雲ノ平山荘も長い話し合い期間の末に2017年からT航空に物資輸送をしてもらえることになった。しかしその矢先、T航空の大型ヘリコプターが墜落事故に見舞われた。T航空の関係者曰く、「もとより10ある仕事量に対して10の人材と機体でかろうじて対応していたところに来て大型機の喪失に加え、様々な経緯によって人材を失う流れとなり、その後は変わらずに10ある仕事に対して5や6の対応力になってしまった」のだ。そもそもヘリコプターがひとたび事故に見舞われると航空局から厳しいペナルティーや制限を課せられ、ただでさえ身動きが取りづらくなってしまう。このことを考えるほどに山小屋の物資輸送を手がけるのがT航空一社になってしまっていること自体がそもそも計り知れないリスクなのである。(以下略)---記事中のT航空というのが東邦航空を指すことは、多少なりとも山の事情に通じていれば一目瞭然です。元々、記事が指摘するように、山のヘリ輸送のパイオニアであり、私でも、「山のヘリ輸送と言えば東邦航空」というイメージがパッと思い浮かぶくらい、山と縁深い会社です。その東邦航空が最後の砦となり、それ以外の各ヘリ会社が山小屋への輸送からほとんど撤退している、という状況にあることは、この記事を読むまでまったく知りませんでした。ゴールデンウィークの涸沢では、件の東邦航空のヘリが30分ごとに飛来して忙しく働いていたし、先月の北岳でも、露出を間違えて真っ黒な写真になってしまったためアップしませんでしたが、大樺沢の仮設トイレをちょうどヘリが運び上げているところでしたから。記事が書くように、ヘリの荷揚げがなければ、山小屋の維持、運営は非常に困難でしょうし、従って小屋泊まりを前提とする登山も困難になります。登山者が減れば登山道が整備されなくなり、歩きにくくなって更に登山者が減る、という縮小再生産の道を歩むことになってしまうでしょう。ボッカ、尾瀬を初めとして、何カ所かで見た記憶はありますが、20世紀の時代ばかりで、2000年代以降は山で遭遇した記憶はありません。山小屋の経営者や従業員が入山時に荷物を持って行く、という副次的なものを別にすれば、もうほとんどポッカをやる人はいないのではないでしょうか。私など、テント山行で荷物が20kgにもなると、重くてヒーヒー言うのに、60kgとか80kgを担いで人間が山を登る、というのはほとんど信じがたいことです。よりによって、雲ノ平というのは、北アルプスの中心とも言える場所に位置しており、どの登山口から入っても、一日では着けない、途中で最低一泊しないと着けない最奥の秘境です。40年前ならいざ知らず、今の時代にそんなところにボッカで荷物を運ぶ仕事をやってくれる人など、いるわけがありません。というわけで、深刻な事態だと思うのですが、解決策はというとなかなか難しいと思わざるを得ません。引用は省略しましたが、元記事での筆者の主張は、山小屋の公的な役割を認め、公費での支援を、というものです。確かに、登山道の整備は、自治体や国から費用はでているものの、実際に委託を受けて作業を行うのは山小屋関係者であることが多いようです。しかも、公費は充分ではなく、足りない分は山小屋の持ち出しで補っている例が多いようです。また、日本の登山人口は1000万人近くにもなり、今や海外からの観光客も少なからず日本の山に登る時代ですから、登山の総合的経済効果はかなり大きなものになります。ただ、山小屋への輸送ヘリに公費というのは、なかなか厳しいだろうなと思わざるを得ません。もちろん、個人的には賛成します。ただ、それですんなり公費助成、という流れになるはずがないな、とも思います。登山人口1000万人はすごい数ですが、逆に言えば残りの1億1千万人にとってはどうでもいい話、になってしまうでしょうから。結局、解決策としては自力で何とかするしがない、ということにならざるを得ないのだろうと思います。入山料、というのがすぐ考えつく手段でしょうが、これは徴収自体にコストがかかるため、現実的にはどうでしょうか。あとは山小屋の宿泊料値上げ、トイレの使用料値上げ、などが考えられます。思うに、ヘリでしか荷揚げができない場所での山小屋建設には、莫大な費用がかかります。おそらく、億の単位は超えるでしょう。そうすると、ヘリ1機の値段と山小屋の建設費は、そう大きくは変わらないのではないかと思われます。寿命は、木造の山小屋だと50-60年でしょうか?下界より厳しい環境ですから、災害で壊れたり、場合によっては火災(消防車は来ないし、尾根筋では水も足りないので消しようがない)などで、老朽化以前に壊れるリスクは多々あります。ヘリは、寿命はその半分くらいでしょうが。つまり、山小屋1軒だけではどうにもならないにしても、ひとつの山域数十軒の山小屋がまとまれば、ヘリを2~3機共同で運用することは可能ではないでしょうか。もちろん、実際の運用を自分たちでやるのは無理でしょうから、整備、飛行に関しては既存のヘリコプター会社に業務委託することになるでしょうけど。そのヘリが、例えば山岳遭難が発生すれば救助にもあたる、ということであれば、公費で補助金という話も、それほど敷居の高いものではなくなるように思います。それにしても、ヘリコプターは事故が多いものですね。上記のヘリ会社いずれもが、ほぼ数年おきに死亡事故を起こしています。そういえば、以前に、知人で元海上自衛隊のヘリパイロットだった人がいました。本人はある事情から視力が悪化し、途中からパイロットができなくなったのですが、その人が言うに、自分の同期のパイロットで民間に引き抜かれて移った仲間のうち、6人が事故で亡くなったというのです。みんな、電力会社の仕事で高圧電線を張るで墜落した、と。山小屋の物資輸送や遭難救助なども、場所が場所だけに一瞬のミスが即墜落につながることは明らかです。そういう意味では、ヘリが危険というよりも飛ぶ場所が問題なのでしょうけど、ともかく事故の危険が付きまとう乗り物であることは間違いなさそうです。ゴールデンウィークに涸沢で幕営した際に撮影した、T航空こと東邦航空のヘリの写真です。
2019.08.02
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ブルーインパルス感謝の“航空ショー”は誰の発案?航空自衛隊の「ブルーインパルス」6機が29日、新型コロナウイルス対応に当たる医療従事者への感謝と敬意を示そうと、東京都心上空に白いスモークでラインを描いた。好意的な受け止めが広がる一方、防衛省は誰の発案で、いつ決まったのか明らかにしていない。約20分にわたった異例の“航空ショー”について、省内からも説明を求める声が上がっている。~記者会見では歯切れの悪かった河野氏だが、ツイッターでは一転、飛行経路の地図を示し「入間基地を離陸しました」「二周目、開始」などと逐一投稿した。終了時には「ブルーインパルス、帰投します。ありがとうございます!」と結んだ。こうした姿勢に、省内では「はしゃぎすぎだ。自分の宣伝に利用したと言われても仕方がない」との指摘も。自衛隊幹部は「ブルーインパルスの飛行が、どうして医療従事者への感謝になるのか」と冷ややかに語った。東京上空は航路が過密状態でブルーインパルスが飛行する余裕はなく、1964年の東京五輪開会式など限られた機会にしか実現していない。~新型コロナの影響で羽田空港の発着便が減少しているとはいえ、政府関係者は「相当な調整が必要だったはずだが、一気に決まった」と打ち明ける。防衛省幹部は「公表直前まで知らされなかった」とこぼした。別の防衛省幹部は「政治利用ではないかとの批判を警戒しているのだろうが、誰がどう決めたのか説明しないと臆測が広がりかねない」と話した。---米国が同じことをやったから日本も!ということなのでしょう。最初の発案が誰かは知りませんけど、安倍が直々に「やりたい」と言ったのでしょうね。私の知り合いの中でも結構はしゃいでいる人もいて、それに水をかけるつもりはありませんし、ブルーインパルスの飛行に興味を持った人、感動した人を否定したり文句を言う気もまったくありません。好きなものは人それぞれですから。ただ、私自身の偽らざる思いを書けば、まず基本的には、まったく関心がないというのが第一です。私は飛行機が好きですが、「医療関係者への感謝」と称して行われた飛行には、何の興味も抱けませんでした。そもそも、事前にはそういう話に気が付いていなかったのです。報道は目にしていたはずですが、興味がないので見落としていた。第二に、それが何で「医療関係者への感謝」になるのか、私には皆目見当がつかない。「感謝」の対象である医療関係者だって、私と同じで、そんなもん、忙しくて見ているヒマもなかっただろうし、病院の上空を飛行機に飛んでもらって、騒音をまき散らしてもらって(長時間ではないけれど)、嬉しいものかねえ?感謝という名目で自衛隊をアピールしているだけじゃね?としか思えません。これに関しては、引用記事によると、防衛省内でさえ省内では「(河野太郎大臣は)はしゃぎすぎだ。自分の宣伝に利用したと言われても仕方がない」との指摘も。自衛隊幹部は「ブルーインパルスの飛行が、どうして医療従事者への感謝になるのか」と冷ややかに語った。だそうで。第三に、今は新型コロナ騒動で民間航空機も欠航が相次いでいるからこんなことができたのでしょうが、それにしても、過密な東京上空でこれをやるのは、相当の無理があったんじゃないか、ということ。これも、引用記事に指摘されています。事故がなくてよかったですけど、万が一の事態を避けるために、当日民間航空機の飛行は相当制限されたんじゃないかな。今は乗客もガラガラだろうから、問題として顕在化することはなかっただろうけど。第四に、今回結果的に事故はなく済みましたが、過去にはブルーインパルスは何回も事故を起こしています。観客の前での「本番」飛行での事故は1回だけですが、訓練中の事故は他に何回か起きており、パイロット8名が亡くなっています。過去60年間の累計とはいえ、6機だけの部隊ということを考えると相当多いです。現に、カナダでは、同じく「医療機関への感謝」という目的で飛行していたカナダ空軍のアクロバット飛行チームが墜落事故を起こしています。そんなことが日本で起こらなくてよかったですが。今回はいわゆるアクロバット飛行は行わず、単に編隊飛行を行っただけとは言うものの、その編隊飛行は大変な密集体型であり(飛行機が密!)、民間航空機なら確実にニアミス扱いです。一瞬の操縦ミスが即接触事故につながるという意味では、あのような密集編隊での飛行自体がアクロバットだと言えなくもありません。それを大都市の上空でやるのはどうなのかな、ということは思います。それらのことを考えると、基本的にはブルーインパルスの飛行に興味はないけれど、少なくとも好意的に見る材料はないなと思います。ただ、「許せない!!」と叫ぶほどのものでも(私にとっては)ありませんが。ただし、繰り返しますが、「見た」「好きだ」「感動した」という人を否定する気はありません。蓼食う虫は好き好き、ではありませんが、好きな人が好きなのに文句を言っても始まりません。と書くのは、立憲民主党のある議員がこの飛行をツイッターで好意的に取り上げているらしいのですが、そのことが、反戦平和主義を標榜するとあるFBグループで非難の対象になっていたからです。どうしてそう狭くなっちゃうかねえ。今回の飛行自体はともかく、それに対する反応に対して非難しても仕方がないじゃないですか。そこの部分は意見が違う、で流すことが、どうしてできないのかなって思ってしまうのです。自分の主張とちょっとでも相いれないものはすべて非難の対象にするような「純化路線」では、物事は何も変わらない。仲間がどんどん減っていくだけだよ、と思う。
2020.05.31
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