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昨日久しぶりに阿南慈子の自費出版本「花物語」と「花かんむり」を手に取りました。
それは友人に送るためだったのだけれども、まだその方とはお目にかかったこともない、というつい最近インターネットを通してお知り合いになった方です。
けれども互いに感じていること、考えていること、心に留めている方々、信仰・・・不思議と一致するものがたくさんあります。
彼女が阿南慈子さんのことを知りたいとおっしゃるので、カナダに送る荷物とともに、彼女への本も郵送させていただきました。
こうやってぽち、ぽちっと慈子さんと関われるのもいいなぁ、と思います。
べったりしていたら、きっと煮詰まったり舞い上がったりして、なかなか平静な心の中に「はっ」と気付くチャンスがないような気がするのです。
この「花物語」を作ったころ、慈子さんはまだまだ声も出せておしゃべりしすぎなぐらいの毎日でした。
多発性硬化症(MS)という難病に罹り、首から下の神経はすべて麻痺、もちろん動かすこともまったくできず、ただただベッドに横たわっているのです・・・
でもお会いするときはたいてい心は元気、よく二人で笑いました。
そんな彼女が発病して10年を迎えたころに作った本が「花物語」
今日、その中の「今 私が思うこと」が目に留まりました。
信仰の深い深い慈子さんはまるで信者さんの鏡のようにこんな風にいわれるのです。
「もし足が立ったら、祭壇に向かってひざまずきたい
もし右手が動いたら 静かにていねいに十字の印をきりたい
もし左手が動いたら 親指と人さし指でロザリオをくり
お母さまマリアさまに 捧げたい・ ・ ・」
でも慈子さんは動かぬ足の代わりに心で、いつも祭壇の前でひざまずき、ずっとずっと祈りを捧げ続けておられた。
動かぬ右手の代わりに、一心に空を見つめ(本当は何も見えないのだけれど)、キリストが担われた重たい十字架を自分の身体の上に受けておられた。
動かぬ左手の代わりに、自分の不安と痛みと悲しみという想いをロザリオの玉にして、永遠に続くであろうロザリオをいつも繰って、やさしく力強く受け止めてくださるマリアさまに伝えておられた。
どうか私の苦しみが同じ苦しみを持つ人々の勇気になりますように
目の見えない人々の助けになりますように
ハンセン病の方々の魂の救いにつながりますように
慈子さんは信者の鏡だからこんなふうに言えたのではない。
自分が少しでも苦しみから逃れるために、そう思っていたのでもない。
神様からいただいた慈子という命、生きているどの瞬間にあっても、あなたの命として生きることができるように、その想いが祈りの泉となっていたんだなぁ、
と今日の私は思う。
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