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そうそう、水曜の聖書深読会のときに、シスターからカレンダーをお預かりしたのでした。 シスターは書道の先生でもあり、このごろは1年に一回書道展などもされている方でシスターマリアアスンタ福島、とおっしゃいます。(ノートルダム教育修道会会員) カレンダーは東日本震災支援のチャリティーとして作られた物で、み言葉を書で表しました。1冊1000円となっています。(サイズA4)... どうぞお手元において、2014年の心の栄養ドリンクにお使い下さい。ご希望の方はコメントにお願いいたします。
2013.10.24
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今日はシスターと二人で聖書の深読会をしました。 ルカの福音書18章9~14節で、骨子はこんな感じです。 自分は正しい人間だ、とうぬぼれて、他人を見下している人々に対してイエスは次のたとえ話をされた(9)と前書きがあって『神殿に祈りに来た二人』を描写する。 一人はこんなふうに祈ります。 「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。」...もう一人(徴税人)は「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」といのるのです。そして誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる(14)でおわる。 私は最初の人の祈りに触れたとき、こう思いました。 このお祈りを聞いた神様はどんな風に思われるだろうか・・・と。 祈らぬ者よりも感謝しているからまだましだが、それにしてもこの人はどうして人と比較してしか自分のことを良い者だ、と思えないのだろう自分が経験してきた出来事の中で、どうやら自分が皆より上にいる、と自分で思えた時は「安心できる」、と心に留めたんだなぁ おいおい、どんなにルールを守っても、どんなに高いお金を寄付していても、その結果得られる皆の賞賛の声を目的にいていたんじゃぁ もったいないよ。 本当の安心は、どうやったらやってくるのか、僕は見守っているから、いつか気がついてほしいな ひょっとしたら明日気がつくか・・・ あさって気がつくか・・・ とにかく待っているからね そう、神様が私に期待してくださっている、て分ったら、どんなに嬉しいことだろう・・・ それほど大きな安心はどこにもないと思う
2013.10.23
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今日はとっても久しぶりに聖書深読会をシスターとしました。(ルカ15章1~10) 放蕩息子と同じテーマで、百匹の羊の世話をしていて、一匹がいなくなったとき、どうしますか? 神様は99匹の羊を野において、いなくなった一匹を一生懸命探し、見つけたら抱いて帰り、いなくなっていた羊が見つかった、と皆で喜びを分かち合う。というのです。その世界を現代に置き換えてみれば、きっと百匹の羊のうちほとんどがいなくなって、神様はずっとずっといなくなった羊たちに呼びかけておられるのじゃないか。お~~い 私の大事な羊さん いったいどこに行ったのですか~~...どうしてこんなに一生懸命探してくれるのでしょうか神さまにとって大切な大切な羊 放って置いたらきっと大変なことになるのでしょう すべての基準が自分の考えになり もっともっととほしがり いつも誰かと比べっこ どっちがえらくてどっちが駄目で・・・探してくれている神様のことなんて、決して思い浮かばない・・・ そんな羊(私たち)がどうやって神様の呼びかけに気づくことが出来るんだろう~~~シスターいわく「大概、大きな病気したり、思いがけない出来事に見舞われたり、自分の無力に出会ったときに、神様の声が心に届くような気がする」 まずは自分が何者かを知ることからはじめなくっちゃ!!
2013.09.11
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今日は聖書深読 今度のご復活徹夜祭で朗読されるルカ24章1~12節までを読み、書き、思いをめぐらして2時間ほど深読をしました。 強く心に留まったことは1.実体験の中にこそ、神様からのメッセージがこめられている2.思い出は自ら引き出してくるものではないけれども、思い出がよみがえったとき、当時にはわからなかったことが見えてくる。これも神様からのプレゼント3.「信じられない」のではなく、「自分が信じない」のだ、ということ。 シスターとの深読は思いもかけないものをもたらしてくれる。思いもかけてない、予想だにしていないからこそ、心の中に強く留まるのだと思う。 この日常こそが人を育てている、もちろん信仰も・・
2013.03.27
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本日の深読箇所はマルコ12章38~44節まで。本文 律法学者やお金持ちの人々の振る舞いにがっかりするイエスの姿と貧しいやもめの行いに心動かされるイエスが描写されています。 やもめのように自分の持てるすべての財産を献金する、ということはとてもじゃないけれども、私にはできそうにないこと。でも私は思った。 このやもめは今までの貧しい生活の中で、お金を持たずとも神様が私たちを養ってくださる、とはっきり思えるほどの体験を持っておられたのだ。だから何の躊躇もなく自分の持っているお金、すべてを賽銭箱に入れることができた。彼女はきっとニコニコと喜びいっぱいで賽銭箱にお金を入れたと思うのです。 もしこのお金が誰かの必要を満たすのなら、こんなに嬉しいことはない、と・・・。 いつだったかマザーテレサの本を読んでいたとき、同じようなお話が書いてあった。しばらく何も食べていない様子の家族のところに行って、食料を届けたら、そのお母さんはすぐに立って、「お隣の家族は、私たちよりももっとお腹すかしているの。半分届けに行ってきます。」と喜び勇んで食料品を持って出かけられた。 持たないものが持っている最高の喜び
2012.11.07
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聖書深読会の途中から友人がもう一人来てくださって、1カ月ぶりにお話しをしました。ところが、彼女のお話はびっくり過ぎるぐらい、今日のみことばの個所、ヨハネ20章19~31節で深読して考えたことにかぶるのです。苦難ののちに一番最初に伝えたい言葉、孤独と裏切りと恐れの中にあるときに伝えてもらえる言葉それが「あなた方とともに平和がありますように・・・」あなたではなく、「あなた方」とあなたを支えている者がちゃんといることを教えてくれて、そしてそこには心安らぐ温かなぬくもりと信じ合う喜び が必ず生まれてくることを示唆してくれてる。苦難や失敗の中から本当の平和が生まれてくるんですね。友人は目を輝かせながら、その喜びを語ってくれました。「シャローム」(あなた方とともに平和がありますように・・・) イスラエルの方々はこの言葉を「こんにちは、さようなら」に使うのですね。 とてもすてきです。
2012.04.11
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今年初めての深読の個所はマルコ1章14~20節でした イエスがガリラヤ湖で漁師をしている若者に声をかけ弟子を見つけていかれる場面です。14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 これを読んで心に広がったことは二つ一つは15節の「時は満ち、神の国が近づいた。・・・」 「神の国」はこちらが求める前に、すでにあちらから来てくださっている、ということ。 それはありがたい!! じたばたしなくても、本当はきっと手の届くところにあるんだな~~もうひとつはイエスのお弟子さん選び ガリラヤ湖の漁師である兄弟たち。互いを良く知り、そしてきっと仲の良い助けあっている兄弟である、ということを働いている彼らの姿から理解されたのだと思うのです。その人の持てる力は働きの場に良~く現われるものです。 漁師という仕事も大事だったかも。自然の恵みのありがたさと、人の力の小ささを良く知ることのできる仕事の一つです。そういう意味で、忍耐力も実行力もあり、また危険が多い仕事だけに勇気をも持ち合わせた人たちだということができるでしょう。さらに、何よりもイエスの言葉にすぐ応えることができた、その人たちだけがイエスの弟子になっていきました。イエスの語ることに共感できる信じることができる何かを持っておられたのです。その何か、とは「自分を守るものを持たない」ということではないかな、と思います。自力で守るもの(権力、お金、地位…みたいなもの)を持っていたら、イエスの言葉に耳を傾ける必要はないと思うだろうし、また聞いたとしてもその意味を受け取ることは難しかったのではないかな、と思います。 イエスのお弟子さん選び、私たちが何を求めたらいいのか、とても良い参考になりました。
2012.01.18
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19 だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、20 あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」 19 ...あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい・・・20...私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる この言葉に私は惹かれます。「すべての民」が意味すること、それは全世界の人々というより私の中ではどんな人でも、というふうに読めてしまうのです。つまり病気や障害を持っている人でも、悪に心染まった人でも、そしてまだこの世に生まれていない人でも・・・、すべての人がイエスの弟子になる。宣教を仰せつかった弟子たちの弟子になるのではなく、イエスの弟子になるのです。いや、イエスの弟子になる可能性を持っている、とイエスは言って下さっている。等しく与えられているチャンス、それは生きる誰にとっても自分を支えることができるチャンスを示して下さっているのではないかしら・・・。でもそこには全てと言いながら「あなた方に命じておいたことを全て守るように教えなさい」と何か条件があるように聞こえてくる。 「守るべき」とは何だろう。やっぱりマザー・テレサが行った「目の前の誰かのために生きる」、ということではないかしら・・・。確かに教会にもルールというものがあって、それは「守るべきもの」なんだけれども、イエスの言うルールとは、見えるルールたちの根底にあるもので、それを日常に当てはめていくこと。それこそが「目の前の誰かのために生きる」ことであり、目の前の誰かの中にイエスを見つけることであり、自分がイエスの道具なりきることであり、自分自身が祈りになることなのではないかな。愛の具体的な形は家族の中にあると思う。だから全ての人に行きわたることができ、だから永遠に続くことができると思う。「永遠にあなたと共にいる」とおっしゃって下さるのなら、愛こそイエス、と言わざるを得ないのが私なのです。
2011.06.04
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つづき17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄ってきて言われた 「私は天地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授け、20 あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」17…しかし疑う者もいた 一体何を疑ったのだろう、と思った。するとシスターが十字架刑にかけられる前のイエスとその後復活されたイエスとはやはりだいぶ違ったのではない?と言ってくださった。 そうかもしれない。だって道で会ったときも弟子たちは横で歩いている人がイエスだ、と気が付かなかったんだものね。ときとして私もそういうことがあります。まったくお会いするはずも無い場面で友人に出会ったなら、それが友人であるとなかなか気が付かない。また気がついても逆にあの方はどこで会った人だったっけ~~とその方が誰であるか分らなくなったりするものです。でもそんな時は疑う、という言葉を使わないですね。やっぱりそこにいる人が、あの私たちの師匠イエスだ、と思うことができない弟子がいたのです。イエスはもうとっくにあの世に行っているはずなんですから・・・。私一番嫌いなことがあるんです。それは「疑う」という心の在り方。特に家族の中の誰かに疑いを持たなくてはならない、そういうことはものすごく心の負担になります。「疑い」はまるで人間の存在そのものをもぐらつかしてしまうような気がして・・・イエスのことを疑いを持って見なくてはならなかった、その心に向かってイエスは力強くおっしゃったのでしょう。「私は天と地の一切の権能を授かっている」自分の力を見せつけるのではなくて、心配ないよ、何にも疑わなくても今まで君たちが学んだことを確信を持って伝えたらいいんだよ。
2011.06.03
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このところずっと睡眠時間は5時間 この日の深読会においても、書祷(聖書を書き写す)の時に、この短い文であってもふと気がつくとうたた寝していました。それでも深読は面白いです。 マタイ28章16~20節 これはマタイによる福音書の最後の部分です。〔そのとき、〕16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 16、都会であるエルサレムではなくガリラヤの山の上で会おう。そういえば、イエスが弟子たちに出会ったのはガリラヤでした。思い出の場所、少し田舎であることが温かな人々のつながりを連想させてくれます。それに山は自然の力みなぎるところ。そこに分け入ることはネイチャーパワーのシャワーを浴びているようで、きっとずっとずっと深い心の奥底からの、自分が生きていることの喜びに気付くことができたのではないでしょうか私は高い山に行ったことはないけれど、カナダ時代に家族みんなでうっそうとした山の中をハイキングした時の、母に抱かれた時はこんな感じだったのではないかなぁという満たされた思い、忘れることができません。
2011.06.02
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つづき 5月22日のみことば(ヨハネ14章1~12節)4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 5とか8とかで「どうして、どんな、それはどこ?」そういう理屈を知りたがる私たち、それが無いと満足できない私たち、本当に私たちの姿だなぁと思います。逆に理屈でせめてこられたら、「ちょっと変だなぁ~と思っていても、首を縦に振ってしまう私たち。お陰でゆとりのない深みの無い世界に閉じこもっているのではないかなぁと感じました。何しろ神さまの世界はとっても不思議。イエスを知ることはおん父(神様)を知ることだという。イエスの内に父が居て、父の内にイエスが居る。イエスの言葉は父の言葉であり、イエスが行う業は神の業。この一体感てすご過ぎ~~ でもマザー・テレサもそうだった。彼女の目標は神さまの鉛筆になること、道具になること。すなわち彼女の行いはみんな自分の行いではなく神さまの業、神さまの言葉ということになる。私、このみことばを読んだとき心に浮かんだことは、夫婦という元あかの他人同士だった二人のことだった。あかの他人同士だけれど、互いに信じるということはお互いの内にそれぞれ住まっているようなもの。互いに私とあなたの区別はあるけれども、決して混じり合ったり一緒になってしまったりはせず、けれども安心して委ねることができる。あぁ~これは素晴らしい信頼だ~~~!!と思ったのです。このみことばは父と子を描いていたけれども、私はその中に究極夫婦の信頼(愛)というものを見た気がしました。
2011.05.19
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なんだか久しぶりに聖書深読会だったような気がしました。マザーテレサの写真展や入学式などがあったので、1週間ずらしただけなのに・・・今日の個所はマタイによる福音書、27章37~54節まで 実際はもっと長く(11~54節)、この日ばかりは朗読劇のように役柄に分かれて朗読されるのですが、深読では書祷という、ノートにみ言葉を書き写す祈りをするので、シスターに選んでもらって、少し短くしました。場面はちょうどイエスが十字架に架けられたところです。受難の場面はとても難しいです。簡単にはとても想像できません。ただショウーアップされた受刑に、人々が興奮している様子がものすごくリアルに描かれています。あらゆる階級の人々がそれぞれの立場でイエスを見下します。同じ十字架刑に架かっている人間ですらも・・・集団ヒステリ-みたいな人間の姿がすごく表れていると思いました。世界中が自分の敵になった状態、そんな恐ろしいほどの精神的苦痛と死ぬまで続くであろう肉体的苦痛の中で、イエスはどのような意識を持っていたのでしょう。私の想像では計りしれません。でも、よくシリアスな病気になられた方やどん底の苦しみを味わった方々はこの「十字架上のイエス」の姿にものすごく大きな共感と救いとを感じられます。マザー・テレサも『その時のイエスの渇き」を体験した一人でした。
2011.04.13
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39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 39 悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右のほほを打つなら、左のほほをもむけなさい。 本当にこういう状況になったとき、支配するものが左の頬も打ってくださいと言わんばかりの態度を見せるあなたをどのように思うでしょう。最初、打つ側は余計にイライラさせられることでしょう。予想とは違うからです。でも徹底的にあなたが全くの抵抗を見せず、むしろ暴力を振るう側の人を理解しようとしていたなら、きっとバカらしくなり、また自分のやっていることに意味が見出せなくなり、暴力をふるわなくなるでしょう。一体この人はどういう人なんだろう?どうして、抵抗しないのか?どうして…あのように私を見つめるのか・・・きっと暴力をふるっていた人の心に新しい風を送り込むきっかけになることでしょう。このあたりのみ言葉を読むと、キリストの受難の場面やガンジーの姿が思い浮かんできます。マザー・テレサの姿も重なってきます。そこに「悪」と思われるものがたくさんあったとしても、決してそれを審判したり非難したりすることなく、いつも清き「善」に心を向けておられる。
2011.02.17
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聖書深読会でした。本日のみ言葉は今度の日曜のところなのでマタイ5章38~48節です。 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 さてどんな深読になったのでしょうか、この続きは明日にいたします。(Kが替わって、というので・・・)
2011.02.16
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マタイの1章18~24節の中で一番嬉しかった言葉は23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 神さまは『神は人間とともにおられる』そういう名前を持つ男の子を誕生させて、「救いの担い手』とされた。神さまが人々に伝えたいことは「私はいつもあなたと一緒にいますよ」ということ。この個所を心に留めたシスターはこうおっしゃいました。『神様はこんな私であっても、ともにいてくださる、いつも。つまりそれは私の人生を一緒に歩んでくださっているんです。こんなに素晴らしいことはないです。人間はだんだん孤独になっていきます。年を重ねれば重ねるほど、たくさんの方の死に出会います。友人を亡くします。家族を亡くします。ぽつねんと一人だけ自分が生きているような気持ちにさせられます。でもそうじゃないのね。神さまは私の人生を本当に一緒に歩んでくださっているです。私と一緒に人生を作ってくださっているんです。どんなに力落としているときも、どんなに腹を立てているときでも、そばにいて私がどういうふうに決断していくか、ずっと見守って下さっている。それを感じることができる、って本当にありがたいことなのよ。それが救いなのよね」シスターのとても力強い言葉でした。
2010.12.20
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この日のみ言葉(マタイ1章18~24)の中で一番に心に留った言葉は18…「聖霊によって身ごもっている」20…「聖霊によって宿ったのである」です。「聖霊によって」とはとても神秘的な印象を持つ言葉ですが、身近な表現にすれば『神様のお陰で』とか『神様のお力によって」というふうに置きかえられるかなぁと思います。 確かにマリアは婚約中で行いの正しい若い女性だったので、男を知らない私が妊娠するはずがない、と受胎告知の場面で言いきっている。だから、彼女が受胎するのは本当に神のお力以外何物でもないということはとてもはっきりしています。だから「聖霊によって」ということをとても明確に自覚することができると思うのです。とは言うものの、何人もの子どもを妊娠し産んだ経験のある私は、一般の妊娠でもどう考えても神さまのお力をいただかないと成立しないものではないか、と思います。医学の発達した現代でも人の手でセッティングできる範囲はとても限られているように感じます。『子どもは授かりもの』この感覚は非常に減ってきた、と言われているけれど、『授かる方』も『授からない方』も、どちらの立場に立たされても、心が一番平穏でいられる、それが「聖霊の力の働きに委ねる」ということなのではないか・・・という気がしました。ヨゼフもマリアも、そういう方だったのですね。
2010.12.19
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朝は聖書深読会でした。久しぶりに二人の方が来てくださったので、みんなで5人というとても充実した深読会になりました。5人ぐらいが一番いろんな考えや感覚に出会えて、とてもヴァラエティに富みます。マタイ3章1~12節。洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国が近づいた」とみんなをさとし、多くの方に水で洗礼を行う。そして自分よりももっと優れた方が後からやってきて、自分はその方の履物を脱がす価値さえも持っていない、とへりくだり、その方は聖霊と火で洗礼を授ける、と語る場面です。いろんなキーワードが見つかりました。「悔い改め」とは?「洗礼」とは?それに「水の洗礼」と「聖霊と火による洗礼」と何が違うんだろう。何を意味しているんだろう?ヨハネは「すでに斧が用意してあって、良きものを実らせぬ木はばっさりと切り倒され、火で燃やしつくされる」となかなか厳しいことを語るのです。みんなに神さまの方を向くように、というメッセージをはっきりと伝えるために、こういうことを語ったのだろうと思うのです。先生は生徒を甘くしたらあかん、という部分があるのと同じで・・・でも神様のことを考えてみたら、こんなふうに思えました。 この世で生きなさい、と神様に呼ばれた私たちは、完ぺきに良きものにはなりえない人間という弱きものです。また逆に完ぺきに悪しきものにもなれないのではないかな?だから斧でばっさばっさと切り倒して燃やしてしまうことはできないだろう。もしできるとしたら、一人一人が持つ悪しきものが、一体どういうものだったのかを分るようにして下さる。それを知ったら、ものすごい痛みと苦しみを感じるだろうけれども、自分が痛みを感じることで、きっとそれが良き実りをもたらすきっかけになっていくんだろう神さまはきっとそれを望んでおられるんだ、と思ったのでした。 、
2010.12.01
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先週から、新しいメンバーさんが加わりました。遠く2時間もかけて来てくださったのです。しかも先週はとってもお部屋が寒くて、その日から私は体調が変になって、Bessouでの演奏に支障が出るのではないかと、ずいぶん心配したぐらいです。 だから今日はちょっとお見えになれないだろう、と思っていたのだけれど、私より先に来てくださっていました。しかもにこにこして・・・その(*^_^*)の理由は「この前深読をしてそしてごミサに与ったら、朗読の言葉も神父さんのお説教も見違えるように良く心に響いてきたんです。こんな体験初めてでした・・・」ということでした。ええ、私も本当にそうです。お説教を期待して聴くことができるなんてね、とってもごミサがわくわくしたものになります。その深読で今日、私はちょっと不思議な考えに取りつかれました。ルカの23章35節から43節までのところだったのですが、これはイエスの受難の最後の場面を描いたところです。今までと違って、どうも描かれている場面が不自然に思えてならないのです。訳がおかしいのでしょうか?最後の最後まで???マークが飛んでいました。でもその???が不愉快なわけではなくて、人間て本当にその時その時で感覚や考えが変わるんだなぁと素直に思えたのが面白かった。それになんといっても私の心を嬉しくしてくれたのは、43節に、一緒に十字架刑を受けている人に対してイエスが「あなたは今日私とともに楽園にいる」とおっしゃった、こと。 人間がどんな基準で裁判をして判決を下したとしても、神さまはいつでも、その本人に対してふさわしい場所をちゃんと用意して下さっている、ということを読み取ることができたからです。とてもホッとしました。
2010.11.17
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ルカ17章5~10節の中には主人としもべの話が入っています。 もしあなたが主人で、しもべに羊の放牧を頼んだとしたら、放牧を終えて帰ってきた僕に、「よく帰ってきました。ではすぐに食事をとりなさい」というでしょうか?主人は帰ってきた僕に「ではすぐに夕食の準備をしてください。私がそれを食べ終わったら、あなたが食べなさい」そういうものが主人と僕の関係です。とイエスは教えます。昨日のことを思い出せば、弟子たちはどうしたら自分たちの信仰を増すことができるのでしょう、とイエスに問いかけているのに、なぜ主人と僕のお話になるのかなぁ?と私は思いました。でもそういえば、と思い出したのです。火曜日に見た「マザーテレサの遺言」でもマザーは笑いながら、こんなふうにおっしゃっていました。「神はとんでもないことを私に命じられるんです。本当に、到底できそうにないことをです。」できそうもないことを神さまが自分に望んでおられると分っても、マザーはちっとも怒ったり嘆いたりなさらない。それは自分としてはこれまでの経験から、できそうにもないことだ、とんでもないことだ、と思うけれども、それを実現しようと努力することこそが、私がここにこうして生きている意味なのだ、と思っておられるからなんです。自分の存在そのものを全部神さまに預けて信頼されている。あぁ、それが信仰というものなんだ。確かに、信仰というものは私とあなたという対等の立場をとるものではない。常にどんなことにおいても、私を預け切ることができる、絶対的に信じることができる主人をもってこそ、信仰なのですね。う~~ん、やっぱり聖書はすごいです!!
2010.09.30
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シスターFと二人で聖書深読会をしました。 ルカによる福音17章5~10節です。 ちょうど、弟子たちがイエスに「どうしたら私たちの信仰を増すことができるでしょうか」と質問し、イエスは「もしもあなたがたがからし種ほどの信仰をもっていたら、この桑の木に『抜け出して海に根をおろせ』といっても、言うことを聞くでしょう」とおっしゃる所のなんです。私は、驚きました。信仰とはそこまで不可能を可能にしてしまうものなのか~~って。でも、シスターは「私の中にはそれほどの力をもった信仰はない。私はからし種ほど小さい信仰さえも、まだ持っていないのだ、ととてもがっかりした」とおっしゃったんです。本当の信仰を追い求めようとするシスターと、その信仰そのものがまだ分っていない私と、どれだけ大きな距離があることでしょう。唖然とさせられました。そして信仰とはいったい何なのか、2時間ばかりシスターと話しました。それはまた明日!!
2010.09.29
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この前「聖書深読をやってみよう」で紹介したルカの13章22節~30節のみ言葉の深読をしました。ここに書いたときにはちょっと厳しい言葉だと紹介していましたが、今日深読してみると私の受けた印象は全く違っていました。22(そのとき)* イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われるものは少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、とを閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人さま、開けてください』と言っても、『お前たちがどこのものか知らない』というい答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなた方は『一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は『お前たちがどこのものか知らない。不義を行うものども、みんな私から立ち去れ』というだろう。28あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは後の人が先になるものがあり、先の人で後になるものもなる。」 私のマークその1は23-24をつないで24に二重丸。 「主よ、救われるものは少ないのでしょうか?」こう問いかける人の心は、私も救われたいけれども、その確率とはいかほどのものでしょう。救われたいと思う人はみんな救われるのならば、私も安心ですが、ほんの少ししか救われないというのなら、今から私が救われる確率を少しでも高めるためにはどうしたらいいのでしょう?受験における模試の判定、そしてその結果を踏まえた対策を問いかけているようで、2000年というときの流れがあっても少しも変わらぬ人間の姿を感じました。それに対するイエスの答えは『狭い戸口から入るように努めなさい」 でした。「狭い戸口から入る」とは、どのようにしたら入ることができるだろうか、という工夫と練習努力、そしてなぜ狭いのか、を考えることも必要なんだ、と思ったのです。誰でもお助け下さい、救ってください、という願いがあれば、それをお聞きくださる、というのではない、というふうに私には聞こえてきます。なかなか厳しいイエス様です。重要だ、という意味で二重丸にしました。 その2は25~27を結んで二重三角主人が立って戸を閉めてしまったら、私たちが開けてください、と頼んでも、「あなたのことは知らない』と言われてしまう。『一緒に食事もしました。お話を聞いて勉強もさせていただいています。」そういっても『あなたのことは知らない』と言う。あ、神様の呼び掛けにはタイミングがある。その神様の呼び掛けに応えようとしなかったら、「知らない」と言われるのかもしれない。神さまのことを知っているつもりで、一緒に食事をしただのお話を聞いただの言っているけれども、本当はそれは神様ではなくて、私たちがただそうだと思っていただけなのかもしれない。本当に神さまのことを知っているなら、神様からの呼び掛けには必ずこたえるでしょう。シスター須藤も「愛は相互に与えあうもの』『たがいに与え合っていなければそれは愛とは言えない」とおっしゃっていた。だから『お前たちのことは知らない」そう言われることを実に厳しい言い方だ、と私は思ったけれども、呼びかけに応えなかったなら、それはこちらの方こそ『私たちはあなたを知らない」と言ったことになるじゃない。とても大切なことだ、と思いました。私たちは人にやられたことには実に敏感で『あなたのせいでこんなことになってしまった』とすぐに思うけれど、自分がやったことにはまったく気が付いていない。そういうことだなぁとこれからもよくよく心に刻んで考えていかなければならないこと、と思って二重三角にしたんです。 三つ目のマークは29-30で星印です。それは「神の国で宴会の席に着く」という言葉から、神の国での宴会とは一体どういうことを意味するのかと考えました。ここに集まってくる人は神様との絆をしっかりと持った人たちです。つまり呼びかけに応えた人たちです。そしてその人々はそれぞれに神さまとつながっているけれども、それぞれが神様とつながっているということを知っているから、互いも実に最初から信頼を持って出会うことができる人々の集まり。このような集まりこそ、神の国そのものではないかしら。そこでは当然のことながら、私はどこの誰でどんな立場であるとかそんなことは全く関係の無い。互いを尊重し良きことに喜びを持って行うことができる、そんなコミュニティーなんですね。ここまで来た時、私はもう一度最初の部分が気になりました。『救われるものは少ないのでしょうか」自分が救われることに心をとめているとき、その人が救われることは非常に難しい。自分が救われることになどかけらも思わず、とにかく誰かのために生きて、共に生きれることに喜びを感じている人は、すでに救われている。だって、救われたいという思いすら生まれてこないのですから・・・
2010.08.18
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先日来てくださった友人と思いがけず「聖書深読」をやってみることになりました。そしたらとっても喜んでくださって!信者さんじゃない方も今まで聖書になじんでこられなかった方々も、深読の中で、自分にとって必要なものや大切なものを見つけることができるんだなぁ、ということを教えてもらいました。 なので、やってみたいなぁという方のために、今度の日曜に神父さんが朗読される聖書の個所をここに紹介しておきますね。深読の時は、これをみんなで一節ずつ(行の数字ごとに)交代で朗読し、ノートに書き写します。これはゆったりと読見やすいようにノートを一行ずつ開けて、丁寧に写します。そしてゆっくりと文を味わって、自分の心にとまる所を3つほど選びマークをつけます。(難しかったら一つでもいいと思います。多いより少ない方がいい)すてきだなぁ は考えどころは 三角分らないは そのほか、マーク、マーク、マークやマーク・・・自分で様々なマークを作ってもいいのです。こういうことを30分から1時間かけてやってみて、あとからみんなで、どこにどんなマークをつけたか発表し合います。一人深読の時は思ったこと、考えたことをノートに書き留めておくのもいい方法かもしれませんね。 では来週のみ言葉は「ルカによる福音13章22節~30節)です。22(そのとき)* イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われるものは少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、とを閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人さま、開けてください』と言っても、『お前たちがどこのものか知らない』というい答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなた方は『一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、私たちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は『お前たちがどこのものか知らない。不義を行うものども、みんな私から立ち去れ』というだろう。28あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは後の人が先になるものがあり、先の人で後になるものもなる。」*はミサの朗読用に追加された言葉今週のみ言葉はちょっと厳しい雰囲気ですが、それもまた面白いしんどくができるかなぁと思います。
2010.08.16
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つづき ルカ11章4節 昨日の夜はToさんとちょっと聖書談義をしました。ちょうどこのルカの11章の1~4の部分です。英語訳はどうなっているんだろう?と英語の聖書、英英辞書、英語版聖書の解説書など、引っ張ってきて語りました。ギリシア語から直接訳された日本語訳にもいくつかヴァーションがあって、やっぱりその時代という背景、そして訳者の考えが盛り込まれて、少しずつ日本語の表現が違っています。また同じものを読んでいても、読み手の経験、感じ方、その時心の中にあるもので、響いてくるものが違っています。そのことが悪いか、と言えばそんなことはないと思います。そういう見かけ上の違いはあっても、根本的に伝わるべきものはきっとどこかできちんと伝わっていく、それが良き知らせ(福音)というものです。4私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。 昔私たちが若かったころ、この祈りの部分はこんな風になっていました。「我らが人を赦すごとく我らの罪を赦したまえ」シスターはおっしゃいました。 「この昔のスタイルだったら、まるで私たちが誰かを赦してあげなければ、私たちは赦されない、みたいな印象があって、実は私はとてもしんどかった。でも新しい祈りが、『私たちの罪お赦し下さい。私たちも人を赦します。』になったので、ほっとしました。自分が赦される、という経験を持たないと、なかなか自分にひどいことをした人を赦すことはできないと思うのよ・・・」なるほどね~、私はそんなこと考えもしなかったんです・・・。私が誰かのことを赦す。それは被った被害を被害と思わなくなり、そのおかげで実った良きことに気づけるようになったとき。「傷ついた 」と思っていたけれど、実は「傷」なんてどこにもなかったんだ、と分るとき。理屈から心が離れ、そのままを受け入れるとき、その人の幸せを願うことができるとき・・・赦しにはいろんな姿があるのだと思う。でもどれも「神さまにすごく愛されています」、という表れの姿ですね。「4私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」自分が気が付いていない「罪」の方がよほど多いだろうと思うので、心からこう「祈れる」ようでありたいと思います。そして「私たちを誘惑に遭わせないでください。」という祈りも忘れないでいましょう、父の守りは私たちに自信と勇気を与えてくれるはず。
2010.07.24
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つづき3 私たちに必要な糧を毎日与えてください「私たちに」「必要な糧」を「毎日」与えてくださいキリストが生きた時代は本当に貧しい時代でした。今も貧しい人たちは裕福な人たちよりもたくさんおられるのではないかなぁと思います。どんなに頑張っても、どんなに働いても、今日お腹を満たすものを得ることができない。家族の食べ物もない。頑張るだけの体力も知力も精神力もなくなり、体は病気になっている。それでも生きていれば、食べる必要があるのです。できることは心の中で祈ることだけです。「どうか、私たちに必要な糧を与えてください。明日の糧でなくていいのです。ただの今日、私が生きるのに必要なものだけで良いのです。わずかなもので良いです。少しでもあれば、それで十分です。」そう祈ることができる人は、ものすごく純粋な人だと思います。傲慢や欲張りも一切ありません。そして希望を失っていない人です。生まれた限りは生き抜こう、というひたむきな一歩があります。私のようにあまり食べるものに困っていないときに、この「私に必要な糧を毎日与えてください」と唱えることは、自分の傲慢さに出会うチャンスを作り出します。そして「必要な糧」は決して食べ物だけじゃない、と気づかせてもらえるのです。人それぞれに「毎日必要な糧」は違っている。 心を開放すること 身体を休めること 理解されること 自分を知ること ・・・ 父への祈りは必ず実現するという信頼があってのこと。「祈れる」ことは謙虚な姿です。素晴らしいなぁと思います。
2010.07.23
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昨日の続きです。ルカによる福音書11章1~13節1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときは、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3私たちに必要な糧を毎日与えてください。4私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。』」 YMさんから頂いたコメントの中に『神様と父は近い」というのがありました。私も『神様と父」を考えたとき、ある一人の人の父親像を思い出しました。以前ここでも紹介した山浦玄嗣氏のものです。彼は言います。父親は一家の主である。その双肩にはまばゆい光が輝く。家族の長としての責任をしっかりと担い、堂々と力強く一族の行く手を切りひらき、次の世代を育てる。これが父親の栄光であり、誇りである。その足は巨木のごとく大地を踏まえ、その腹は大海のごとくすべてを飲み込み、その胸は火山のように熱き思いを宿し、その肩は大岩のごとく、その頭は山峰のごとくに大空にそそり立ち、太陽をも支える力に満ちた双の腕に妻と幼子を守る。(「父さんの宝物」3P) 彼も実の父とは1年生の時に死に別れています。母は気仙の貧しい村の医師として働きながら一人で、玄嗣少年を頭とする幼い4人の子どもたちを育てました。その時、母を支えたのはカトリックの信仰でした。この玄嗣さんの『父親像」まぎれもなく、聖書の中のイエスが語る「父の姿」ではないでしょうか?そう思ったとたんに、「御名が崇められますように」と祈りたくなる、父の姿がはっきりしてきました。神であるから、讃えたり、素晴らしいと崇めたりしているのではない。「ねえ、ねえ、うちの父さんて、こんなに面白い人なんだよ。こんなに素敵なことをしようとしてくれているんだ。こんなに僕たちのことを大切にしてくれているんだよ」と子どもたちが言いたくなるほど、子どもから尊敬され愛されている父さん。主の祈りは「父さん、万歳!!」という喜びの声と「あなたの言うことなら何事でも従います』という従順を宣誓するところから始まっているのですね。「御国」は父さんの理想の社会(国)です。そこで暮らすことができますように、という実現への願いと自分たちがそれに向かって活動していくぞ、という決意表明があります。これが「子どもの側からの祈り」ということになれば、このような思いを持つことができる私たちでいられますように導いてください、ということになります。とても力強い言葉だと思います。
2010.07.22
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半端ではない暑さですね。皆さんはお元気ですか?私は昨日午前にBessouの小さい子供とお母さんのためのサロン、「まいまいサロン」で子どもプールをしました。1時間ほど炎天下にいただけで、もう今日はグロッキーになってしまいました。もちろん日傘もさして水も触りながらなのにね。 近年、ほんとに街の暑さはひどくなってきているように思います。その理由の一つは土が無くなってきたからだと思うのです。今日も午後2時頃帰ってきたのですが、アスファルトがジンジン熱く、熱風が吹きつけてこれは長袖の方がまだ体を守れる、そんな印象を持ちました。小さな子どもたちはより一層アスファルトに近いところを行き来しています、歩いていてもベビーカーに乗っていても・・・。気をつけてあげないといけないですね。昔は暑さは我慢したらいい、と思っていましたが、そんな時代はもう過去のようです。小学生たちも一番暑い時間帯に帰ってくるので気になります。 さて今日は深読、7月25日のごミサでの聖書の朗読はルカによる福音書11章1~13節です。本文は結構長いので、いくつかに分けることにします。1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときは、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3私たちに必要な糧を毎日与えてください。4私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。』」 この祈りは今「主の祈り」と言って、キリスト教の中では最も大切な祈りになっているものです。私はこの祈りの古い言葉バージョンを小さな時からずっとお経のように唱えていて、言葉は知っているものの、本当の意味を味わったことはほとんどない、という不届き者でした。赤ちゃんの時に洗礼を受けると(幼児洗礼)、ともすればこういうことになるのでご用心下さいませ!!で、この個所にちょっと心をとめてみると、まず弟子たち(私たち)が祈るとき、「父よ、」と祈れるかなぁ~、と思いました。イエスにとったら、神は「父」「お父ちゃん」かもしれないけれど、私たちにとったら、いや少なくとも私にとったらやっぱり『神さま』です。神さま、あなたの御名が崇められますようにと祈るのが自然な感じがするのですが、聖書の中でイエスは「父よ、」と祈りましょう、というのです。『神様』と「父よ』にはどんな違いがあるのでしょうか?「父よ」という呼びかけは、とても親しいいつでも声のかけられる関係を感じます。お父さんなんだから、何でもこっちのことは分っていて・・・うちの家だったら「お父さん~~」て声がかかったら、大抵「これどう思う?」と判断の基準をもらいたかったり、意見を聞きたかったりするものです。そうか「お父さん、このアニメ見たか~ まだやったら一緒に見よ~」とお誘い、または「このこと話したっけ~~、今日な~・・・と起こった出来事の報告です。私の『神さま』を「父」に置き換える、それはかなり大きな感覚の変化が必要です。つまり『イエスとその父』とはどんな親子だったのでしょうか?それを知る必要が出てきたように思いました。
2010.07.21
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キャンプのテーマ曲『キリストのからだ」の中にあった歌詞 *キリストのからだ いま受けよう キリストのおん血 いま飲乾そう*このパンに養われて 希望に生きるこのパンを受けるものは みなとわに生きる* *繰り返し主のもとに集うものは 愛に満たされるいけにえの羊となりたもう主が 共にいる* *繰り返し天より降りたもう いのちのパンよこの地上に平和と赦し与えたまえ* *繰り返し 子どもたちの歌う歌の歌詞に『いけにえ』という言葉があるのには、私はちょっと抵抗があります。『いけにえ』という言葉にはどうしても暗いイメージがあって!!でも本当のところでは、例えばマヤやアステカでは人を神へのいけにえとしていたとして、ものすごく野蛮だとキリスト教社会から攻撃を受けたのですが、実際は最も強い剣士たちが自ら名乗り出て、その栄誉に与っていた、という話も聞いています。いけにえとは神様への捧げもの だから一番尊いものをお捧げしようとしたのですね。そういうところからこの歌詞を考えてみると、人間の姿をしているキリストがいけにえとして捧げられた相手は、私たち人間!?それがご聖体、であり、神と人間とが一致できる唯一の方法であり、だからこそ、共にいて、とわに生きるものとなる、とつながっていくようです。自分のすべてをあげてしまう、それを越える愛情はありません。捧げられた(いただいた)もの恵みを思い起こし、自分たちの手で、平和と赦しを実現していきましょう、というとても素晴らしい歌ですね。このことはTetsuoさんが直感でおっしゃっていたように、自然界の恵みそのものの在り方だと思います。人間の世界のようにそれが愛や赦しによって実現するのではないですが、彼らは生まれながらに持っている能力で生きそして人生を全うすれば、それだけですでに大自然の恵みの中できちんとぶれることなく、自分の役割を果たし自然を豊かにしているのです。だから星野道夫さんの気持ちがよくわかります。私もただの動物だったらよかったのに、と思うことがあります。
2010.07.20
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11時のミサの後、みんなでお弁当を食べ、日曜学校の子どもたちはバスで山の家に向かいました。いつも通っている教会の子どもたちだけじゃなくて、ほかの子どもたちも合流するので、顔を合わすたんびに「お~~ 久しぶり~~」「ちょっと、背い高なってるんとちゃうの?」て座っているWが声かけて立ってみると「Wちゃんの方が背い高なってるやんか~~」「Mちゃんは大人っぽいファッションやから年上に見えるんや~~」などなど・・・、最初からずいぶん盛り上がっていますよ。 さて、出発に先立ってお御堂でこのキャンプのテーマソング『キリストのからだ』をうたって神父さんに祝福してもらうつもりでした。そしたら、神父さん、もっと大きい声で歌えるでしょう?もう一回歌いましょう!!う~~ん、でるわ出るわ、さっきの何倍もの声がお御堂の中で響きました。やっぱり神父さんの一言は大きいですね~~どうしてこの歌に神父さんがこだわっておられるのか、それはこのキャンプ自体のテーマが『ご聖体』だからなのです。ちなみに歌詞はこんな感じです。*キリストのからだ いま受けようキリストのおん血 いま飲乾そう*このパンに養われて 希望に生きるこのパンを受けるものは みなとわに生きる* *繰り返し主のもとに集うものは 愛に満たされるいけにえの羊となりたもう主が 共にいる* *繰り返し天より降りたもう いのちのパンよこの地上に平和と赦し与えたまえ* *繰り返し今日、ごミサの後に有志のメンバーで集まってそれぞれの思いを語り祈りを共にしました。そのときも子どもたちのテーマ『ご聖体』が話題になり、実際私たちはどれぐらい『ご聖体』というものを理解できているのか・・・を考えてみました。その時に思い浮かんだことです。話は飛びますが、今Wの学校の音読の個所は「森へ」星野道夫著です。子どもの朗読に耳を傾けていると、アラスカの熊の棲息している原生林へ、一人で踏み込んでいくときの彼の恐れが感じられます。熊の道を歩いている自分、今にも向かいから大きなクマがやってきそう~~そんな始まりなのに、だんだん彼は落ち着いてき、この森の中に抱かれている安らぎを感じ、そのうちすっかり星野さん自身がクマになったかのように、熊がやってきたらすっと道を譲ればいいのだ、と感じられるようになっていかれます。その彼の実際の人生の最後はどんなものだったか!先日Wに言いました。『ロシアでのテレビ取材のとき、取材班の人が道夫さんのテントで食事をして、そして自分たちは宿舎に帰った。道夫さんは食べ物の匂いの残ったテントで寝ていて、ヒグマに襲われて亡くなったんだよ。この「森へ」は彼が亡くなったすぐ後に出版された本なの。でもこの文が描いている部分はもっともっと前のことじゃないかと私は思うけれども・・・考えてみると、星野さん、本当に熊にならはったんやね。熊の胃袋の中に入って、この生き物の生きる力になって、そしてその熊が死んでもきっと次の世代の熊の命に、星野さんのエネルギーが引き継がれていったのと違う?本当の自然の中に生きる人にならはったと思う」『キリストのからだ 今受けよう キリストのおん血 いま飲乾そう」冬眠前の熊である私たちはガツガツキリストの体を食らい、おん血を飲乾し、自分の命に取りこんでしまう。これ、強烈なイメージだけれど、キリストの究極の愛の姿ですね。そして一体になるための唯一の方法ではないでしょうか・・・
2010.07.18
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ルカによる福音9章 11b~1711b<その時、イエスは群衆に>神の国について語り、治療の必要な人々 をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、12人はそばに来てイエスに言った。 「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、 食べ物を見つけるでしょう。 私たちはこんな人里離れたところにいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。 「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」 彼らは言った。 「私たちにはパン5つと魚2匹しかありません。このすべての人々のため に、私たちがたべものを買いに行かない限り。」14 というのは、男が5000人ほどいたからである。イエスはでしたちに 「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは5つのパンと2匹の魚をとり、天を仰いで、それらのた めに讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 全ての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠 もあった。 5000人の男の人たちを50人ずつに分けても100組のグループが出来上がります。そこにさらに女性や子供たちまで入っていたとしたら、どれほど多くのグループが出来上がったことでしょう。グループを作った時、そこにはこれから何が起こるんだろう?という空気が生まれ、自然に静粛になっていった。夕闇せまる中でイエスさんは・・・みんなは遠目に、イエスさんが何か籠を天に掲げながら、天を仰ぎ見て祈っておられる姿を目にしたことでしょう。するとしばらくすると、お弟子さんたちが、かごに入ったパンを配ってくださった。配っても配ってもちっとも減っていかない不思議なパンの籠、魚の籠・・・「あぁ、イエスさんの言ってはったことはほんまや!貧しい人、辛い人ほど、神様は愛して下さっている。ちゃんと私らに食べ物をくださっている。こんなにたくさん人がいるというのに、どこにもたくさんのパンが用意してあったようには思えへんのに、たくさんの魚なんか全然なかったのに・・・これが、神の国?口だけじゃなくて、本当に神様は私らを助けて下さるんや~~みんなが口々にその実感を語りだしたことでしょう。嬉しい、ありがたい!!もう癒しを受けた人もきっと、どんなふうに声をかけてもらっただとか、なにがどんなふうに良くなっただとか、どうやって直してもらったとか…今日のできごとをきっとお隣の人や周りの人と語り合ったに違いありません。そしてこれから癒してもらおうと思っている人も、自分のこと、家族のこと、それぞれにおしゃべりして分かち合ったのだと思うのです。喜びと平安な雰囲気があたりいっぱいに広がった。その空気に出会って、お弟子さんたちは自分のボスがいう「救い」「神の国」がどういうものなのかを少し学んだのではないかな・・・?
2010.06.20
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午前中、これからの高齢者社会をカトリックの信者たちがどんなふうに受けとめていこうか、というセミナーにToさんと一緒に出席し、その後、フランシスコの家で「神の道化師」というフラシスコ会の修道者たちの姿をとらえた映画を見てきました。それらのことについてはまたぼちぼちご紹介ししていくことにいたしますね。今はまず、昨日の続きからです。田舎弁のイエスさんのお話に耳を傾けていた人たちは、小さく弱く価値のないものと思われていた人たちだったのでは?というところまで書いていました。私、もう一つ引っかかったことがあったんです。この5000人~10000人という数の人たち、聖書で使われている言葉、「群衆」に向かって、イエスさんがお話しされても、聞こえないんじゃない?て!!拡声器があるわけでもなし、マイクやスピーカーがあるでもなし・・・、有り得ないことです。 あのね、イエスさんは今~~て言わはったわ、と伝達ごっこのように、伝え合ったのでしょうか?それとも・・・・??? 11b<その時、イエスは群衆に>神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 とここにもう一度戻ってみて、アッと思いました。 治療の必要な人をいやすためには一人一人に向かい合わなければなりません。群衆に向かってお話をされたというより、治療をしながら、一人一人の方に神の国について語られたのではないかなぁさらにまた疑問が出てきます。イエスさんが語られた「神の国」てどういう話だったんだろう~~ということです。この小さな虐げられた人たちにイエスさんが言ったことは、こんなことだったと思います。苦しい、辛い、しんどい、お腹すいた、出口が見えへん、そんなあんたこそ間違いなく神様の子どもや!辛さを知っているから、助け合うやろ、分け合うやろ?仲間を一人ぼっちにさせへん。そういうあんたのそばに必ず神様はいてはって、一緒に生きよう、て支えてくれはる。これが神様の国やで。 お金があったら、力があったら、才能があったら…世間が求めるものを持つお人はみんな大なり小なり傲慢にならはる。良いことがあったら、自分のお陰、悪いことがあったら、運が悪かっただけ・・・そういうお人は残念やけど、神さんを感じることはできひん。そうやろ?一人一人にそんなふうに声をかけておられたから、ものすごく時間がかかってしまった。だから弟子たちはイエスさんに、わ~~、こんなたくさんの人のごはん、いったいどうすんのやろ、はよ帰ってもらわな~~。「あの、イエスさま、そろそろ、終わりにしんと、日が暮れてしまいます。とにかくお開きにして村まで行ってもらいましょ。そしたら皆さん、なんとか自分でしはるでしょうから・・・」と声をかけました。そんな弟子からの言葉を耳にされたらイエスさんはなんて思われたでしょう。ここにいる人はみんなお金がなくて身体が弱ってて助けて~てやってきた人やのに、いまのまま村に帰しても食べるものが手に入るはずがないって、この弟子たちは気がつかないんか!!ちっとも神の国のことわかってへんな~~「みんなにご飯をあげるのは、あんたらやで(私らやで)!!」「そんな~、そんなことできるはずないです。ここにあるのは5つのパンと2匹の魚だけなんですから。私らが買いに行かん限りは、・・・無理・・・です。・・・(それにそんなお金があるはずないですし・・・)」とこんなイエスさんと弟子たちのやり取りが聞こえてくるような感じがしてきました。
2010.06.19
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6月6日のミサのみ言葉は有名な奇跡のお話でした。「5つのパンと2匹の魚」ご存知の方も多いでしょう。深読をするとき、その個所だと知って私がなんと考えたと思いますか? なぁんだ、知っているところか~~ ・・・ルカによる福音9章 11b~1711b<その時、イエスは群衆に>神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、12人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「私たちにはパン5つと魚2匹しかありません。このすべての人々のために、私たちがたべものを買いに行かない限り。」14 というのは、男が5000人ほどいたからである。イエスはでしたちに「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは5つのパンと2匹の魚をとり、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 全ての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった。たったの7節なのに打って(タイプして)みたら結構あります。私の第一印象、「なんだ、知っているわ~~」 はいきなり(バツ)をもらってめっくらってしまいました。だって、11bですでにイエスが奇跡を行っておられた、て書いてあったからです。そんなこと今まで気が付いたことがありませんでした。5000人から10000人(当時男しか数に入れなかったから、女性や子供も数えたらそれぐらいの人々が集まって来ていただろう、と言われています)の人々が満腹するほど食べたけれど、もとはたった5つのパンと2匹の魚、おまけに食べ終えてもまだ12籠もパンが残っていた、という超有名な奇跡のお話は、すでに奇跡をおこなうイエスの姿から始められていたんです。このころになるとイエスは奇跡をおこなう予言者やエリア(救い主)だ、というイメージが人々に相当浸透してきていたのでしょうね。だからみんな癒しを求めてイエスのところにやってきた。イエスの神の国のお話は、この世で苦しむ人々にとって心の励ましや慰めになっていたことでしょう。 この前紹介した「お父さんの宝物」の著者である山浦玄嗣さんはご自身のふるさとで使われている岩手県気仙地方の方言(彼曰くケセン語)でイエスに語ってもらうのが一番ぴったりだ、とおっしゃいます。 なぜなら、イエスはナザレという片田舎のしかも身分の低い家庭の出身だからです。ナザレ弁で語っていたに違いないのです。 つまり非常に貧しい身なりのイエスが、田舎くさいちょっとみんなにバカにされるようなずうずう弁で神の国のお話を語っていた。そこにすぐ共感できる人々はどんな人だったでしょう?やっぱり身分が低くで、食べるものも食べられず、そしていつも富める者や力のあるものから、圧力をくわえられて虐げられている人、病気になってもただ自分の身体を休める以外に方法を持たない人たち、社会の中で小さく縮んでこっそり生活している人々が村はずれの人気のないところにどんどん集まって来ていたのでしょう。つづく
2010.06.18
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ヨハネ福音書 10章27~30 27 「わたしの羊は私の声を聞き分ける。 わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。 彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしに下さったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。30 私と父とは一つである。」 本当はまだまだ書きたいことはあるのだけれど、ちょっとばかしマニアックな気もして、今回はこの辺でおひらきにしようかな?と思います。でも、このヨハネの10章27~30を読んで自分が描いている神様像というものは、そのまま人間像にも当てはまる、ということに気がつきました。神様に対する信頼はそのまま人間に対する信頼の形でもあるからです。だからわたしのことを知ってくれている、と信じられる人には、すべてをゆだねて、はい、とつき従うことができるでしょう。 毎日、読むたびに心の中に広がることは違っていく。しかし違っているにもかかわらず、広い視野で見てみると、半ば導かれているかのようにある方向に向かって道を辿っている。これが深読の特徴です。歴史的書物としての分析でもなく、聖書学的な分析を試みるのでもない。自分の心の中に響くものを数か所とりだして、それについて述べたり書いたりするだけ・・・。「しんどく」は「深読」と書くけれど、わたしにとってはどちらかというと「親読」に近くて、日常と神さまとの絆を太くしてくれるとてもいい機会。皆さまもちょくちょく、試みて楽しんでくださいませ。 さて、明日、明後日は5月8日のオペラ公演に向けてのオーケストラの合宿。朝から夜遅くまでVn三昧!!ということで少なくとも明日の日記はお休みいたします。皆さまもよい週末をお過ごしくださいませ。
2010.04.23
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引き続き ヨハネ10章27~30 でもあなたに気が付いていない私がいたとしても、そのことをあなたはすでに知っているという(27節)。 そう私がどんな人間でどこまでわかっていて、何がわからないか。どんなことにこだわっていて、どうしてそうなっちゃったのか、そんなことまで全部ご存知なら、私は慌ててリアリティのあるあなたとの出会いにこだわらなくても、私は安心してあなたにすべてを委ねることができるでしょう。 「こっちに行きましょう」「ええ、よろしくお願いいたします」そう言うほかに何も必要ない。 つまり私は、神さまが私のことをすべてご存じだ、と信じることができれば、それだけですでに私は「彼の羊」の仲間に入れてもらっているんだとわかる。だから、今日はとても安心
2010.04.22
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今度のミサの聖書朗読個所はすごく短いです。 ヨハネ福音書 10章27~3027 「わたしの羊は私の声を聞き分ける。 わたしは彼らを知っており、彼らは私に従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。 彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしに下さったものは、全てのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。30 私と父とは一つである。」でも、この前からミニ真名でちょっと神様のことを考えていたことが、もう一度このみ言葉によって、私の頭の引き出しの中からとりだされたような気がしました。27 わたしの声を聞き分けられるわたしの羊たち。毎日の生活の中で様々なやり取り、見聞きすることがあるけれど、その中で「私の声を聞き分けてくれている人、それが私の羊」もちろん、この「私」とはイエスキリストのことです。あ、これはあなたの声ですね、あなたの言葉ですね、と分かるためには相当のやり取りがないとわからないでしょう。あなたとの出会いと心の交わり、それはこちらが自覚していない、知らない間に出会っていることも多々あるのかもしれない、いやその方が多いはず。でもその出来事があなたとの出会いだった、あなたとの会話だった、と気付ける時が来なければ、あなたの声だと聞き分けることはできない。ぼんやりしたものではなく、リアリティのあるもの、自覚できるもの、ハッとさせられるものなのですね。神様との出会い、私はちゃんと覚えているかしら?いつだったか?思い出すことができなければ・・・わたしは「彼の羊」の仲間に入れてもらっているのか、それともそうじゃないのか…わからない・・・・??
2010.04.21
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6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる。」 悪魔とはいったい何を私たちに与えようとしているのでしょう。国々を動かすほどの力と有り余るほどの豊かな物、何でも実現できてしまう財産、病気も無くしどこまでも生きさせ・・・このイメージをふくらました私は唖然!!それって、今の先進国そのままやん、この社会が求めているものや~おまけに悪魔さんはこの話に乗ってくれる人を自分で選ぶというのです。それにとことん関心を持ち喰いついてくる人々を探し求める。そりゃ~~、もっと豊かな方がいい。だれだって思います。苦しい辛いことは要らない、て!そこに『助けてあげるで~~』『楽になるで~』て悪魔はささやきに来るんだ。なんてことでしょう~~そして豊かになったと思える国々はいったい何を得ましたか!!見せかけだけの豊かさじゃないの?人々は見せかけにだけ引っ張られて、ちゃんと人を見なくなった。人とのコミュニケーションも取れなくなったみたい・・・。今日はミニ真名の日でした。一番に駆けつけてくれた友人が、玄関に入って来られた時「外寒かった?」と声をかけました。M「うん、寒いです。ここんとこずっと・・・、懐がね~~」「うちもそうよ・・・!!」と二人で大笑いしました。4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。確かに、パンだけを追い求める人間になったら、本当にさびしいです。「パンがなくても幸せ!と思えるそんな瞬間や気づきの中で生きていきたい。」友人のMさんはミニ真名の中で、そのように語ってくださいました。みんなの心にピタッとはまった言葉でした。
2010.02.19
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5しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが「水上に水を一杯入れなさい。と言われると、召使たちは、かめの縁まで水を満たした。この水がめの大きさを表しているメトレテスという単位、当時のユダヤで使われていた単位だそうですが、1メトレテスは39リットルということなので80~120リットルも入る水がめだったことになります。その水がめ6個分(およそ600リットル)を全部水で満たすのも結構大変だったでしょう。8イエスは「さぁ、これをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召使たちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使たちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、私はこの召使たちが一番心に留まります。マリア様から頼まれたときもイエスさまから水がめいっぱい水を入れるという重労働を頼まれたときも、そのただの水を汲んで世話役のところまでもって行くことも、ちっとも「ハ~~なんで~~」とか「そんなバカな」とかちっとも言わないで、言われた通りのことをすんなりなさっている。その人たちこそがイエスの初めての奇跡を実際に体験されているんです。私もこの召使たちのように、神さまからの頼みごとに「何で~~」、「そんなアホらしい」「無理!」などと思わないで、素直にハイ、と承るようにしたいです。でも、問題はこの日常の中で何が「神さま」からの頼みごとなのか、を見極めることですよね。どうやって区別しましょうか??私が単純に使える物差しとして考えていることは、「自分のために行う行為ではないこと。」「良心に従っていること」神さまからの頼みごとは、大抵自分から進んでやりたいです、と思うようなことではないでしょう。でなければわざわざ頼んだりはなさらない。え~~、それはちょっと困ります。まず無理です、なぜなら~~~~~~~と言いたくなるようなことに違いありません。自分の好き嫌いを無視して、今いただいたものを受け取る。そうやって神さまの頼みごとを実現することができれば、その分だけ自分のことが好きになれるのではないかな、と思います。だって、それはそれは誇らしいことですから・・・それに絶対そこには喜びがあるはずです!
2010.01.15
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昨日の続きです。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」5しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 さっき私が息子とした会話、そのままの会話に、もう一度聖書の中で出会うなんて。聖書って、本当に日常なんだなぁ~~ とまずはびっくり!!そしてすっかり身近かになりましたこの同じ日の出来事とシンクロするということについてはさておき、マリアのイエスに対する敬意、そして信頼をすごく感じる場面です。何とかして下さいとか、こうしてください。とか言わずに事実だけを伝えるマリア。それにマリアは婚礼のこの宴会のスタッフではないでしょう。たぶん親戚か何かで一応招かれている側。それでも決してお客さんにとどまることなく、このパーティがうまくはかどるようにと様子を観察されています。当時宴会の席でワインが無くなってしまう、ということは大問題だったのでしょうね。日本でもお正月などは、多くの方々が来られるようなお家では、誰が来られてもいいように、たくさんおせち料理やお酒、珍しい品々を用意して、皆さんにふるまっておられます。こうした多くの人々に食べ物をふるまうというスタイルは、血のつながり、地域のつながり、仕事上のつながりを大切にするからこそ生まれてきたものだと思うのです。当時皆で食べ物をいただくということは、きっとそんなに食べるものが豊かにあった時代ではないし、ましてやこのガリラヤのカナというところはど田舎ということですから、あれこれ贅沢なものがあったわけではないでしょう。ワインこそが一番の振る舞い物だったのかもしれません。さ~~ どうぞどうぞ、皆で召し上がれ!お飲みください~~と気持ちよく言えるのは、それだけ婚礼に対する喜び、祝いのきもちが大きいという風にも感じます。リオのカーニバルのように一年中働いて貯めたお金をそのお祭りのために全部使ってしまう。そんな乗りではないでしょうか?その大切なワインが底をついてしまいそうです。それはもてなす側としてはえらいことだったに違いありません。その様子を見て、マリア様はイエスさまにこっそりとワインがないことを伝えられたのですね。まだ自分が神の子としてこの世に遣わされていることを世のみんなに伝えるべき時期ではないと頭では思いつつ、でもイエスは母がこの場で気づかっていることは、決してくだらないことではないのだ、と言外の理解がよく感じられます。その理解をさらにマリアは受け取っているからこそ、召使たちに「この人の言うとおりにしてください。」という次のステップを踏んでおられるのですね。なかなかすてきな親子に思いませんか?てことは息子と私もまんざらではありませんね~ラッキー!!つづく
2010.01.14
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朝、長男Aに声をかけました。「もうお米がないです」A「それ、何か僕と関係ある?僕は眠たくて~~」「じゃぁ 深読会に行ってくるから・・・帰りはいつもどおり」「ホイ!深読み大会ね」行きしなに銀行に寄って二男Sの受験料を払っているとメールA「お米のお金は?」「ごめん、私が持っているから、私が帰ってからにして。ありがとう!!」さすが長男、素直じゃないけどやるべきことはやってくれる、とにっこりとして寒風の中を急ぎました。 シスター「今日のみことばはヨハネの2章1~11節です。じゃぁさっちゃんから一節ずつ順に読んでいきましょう」1ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」 ? ? ?どっかで聞いたような・・・5しかし、母は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7イエスが「水がめに水を一杯入れなさい。と言われると、召使たちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは「さぁ、これをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召使たちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召使たちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。だれでも始めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。 さて、私はどんな深読をしたでしょう??つづく
2010.01.13
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また続きです 4 これは預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。 5谷はすべて埋められ 山と丘は皆低くされる。 曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、 6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」4と5で私が思い描いたものは人の心でした。今も昔も変わらぬ人の心。 知らず知らずのうちに丘をつくり山を育て、何と険しく大変な道のりを歩んでいるのか。そのお山は自分で作ったもの。もっと〇〇じゃないとだめ!!てきっとこの道こそが良き道正しい道と一生懸命に歩き続けるけれども、しんどいだけでちっとも目指すような充実には結びつかない。ここが悪いのあそこが悪いの・・・?ここも深すぎる川、あっちは恐ろしい谷底・・・どっちに行っても私はだめだ~~~~と叫んでいる。心の中に自分が生きていること、を少し思いだせば、〇〇でなければならない理由は少しもない。どんな私だって、神さまは良し、と思って下さっているから生きている。そんな神さまとのつながりや信頼を少し思い起こせば、険しい山道の登りも低くなり、渡れない大きな川には橋が架かる。良かった、と安心したら、そこにちゃんと救いがあった、ということの気がつくのです。私はそう思った。シスターは「埋められ、低くされる」に注目してこうおっしゃった。「険しい山々を低くするのは自分じゃない。神さまがして下さるのだと思うよ。」あぁそれさえも、自分ではないんだ。確かに「自分でする」とは書かれていない。こうやって、私は深読会の間中、み言葉に照らされて日常の自分社会の中の自分の姿を見つけ出す。とっても面白い。深読会では心に留まっている言葉に印をつける。どんな留まり方かによってマークを変えている。不思議なことに今回シスターと私は同じ個所に同じマークを付けていた。こんなことは初めて!!にもかかわらず語る中身は少しずつ違う。それこそ、それぞれの大切さが見えてきますね。
2009.12.04
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昨日の続き ということで、「~~皇帝の治世は」と表現されると、具体的にその時代を思い出せるので、出来事の意味がより一層深く理解できるのですね。 2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒野で ザカリアの子ヨハネに降った。 3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の許しを得さえるために、悔い改めの洗礼を述べ伝えた。 「何かが起こる」必要な時は必ず神さまが動いて下さる、と思いました。ほったらかしにせず、何をしたらいいのかちゃんと伝えて下さる。しかもそれが誰かを通してかもしれない、このザカリアの子ヨゼフのように・・・そうであればとても安心。自分でじたばたとこうでもないあぁでもないと一人イライラしたり無力感に襲われたり、何にも出来ない自分だと落ち込むことはない。必要な時、神さまはちゃんとこっちだよ、と示して下さる。直接語って下さることもあるし、誰かにそれを託して下さるかも知れない。ここを読んだとき、この前のマクドナルド神父さまの言葉が思い出された。「いつも目を覚まして祈りなさい」祈りは神さまとのコミュニケーション。愚痴を言ってもいい、何を言ってもいい。でもいつもまっすぐな澱みのない心でお話をして、いつも神さまとつながっているのですよ!という呼びかけに聞こえます。
2009.12.03
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今日は朝クァルテットで「死と乙女」シューベルトをハラハラドキドキ、覚悟を持って練習し、午後夜はオケの練習で「愛の妙薬」ドニゼッティをやりました。 明日は明日で朝教会、午後夜は「メサイア」ヘンデルの練習です。Vnを弾く時間は長いけれど、自分の練習の時間が取れないのは、ちょと残念!!帰って来て今日は一日用事のなかったToさんにどんなふうに過ごしたの?て訊いてみたら、先日長時間本屋さんをうろうろしたときに手に入れた本を読みふけっていたという。「亀裂をこえるもの」粕谷甲一 新世社「これは胸に迫ってくるものがある、素晴らしい」といつになく彼は力が入っている。ひとしきり語り合ったおかげで、あぁもう日付が変わってしまった。小耳にはさんだTVの言葉、農業しか産業のない発展途上国に暮らす家族が、お金がないから服が買えない、と言って嘆いている。私もつい嘆いた!!お金なんて神さまは天地創造の時、つくらなかったのになぁ~どこまで人を支配し、世界を支配するんだろう~~
2009.11.07
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ヘルパーさんをしている友人が言っていた。「お年寄りになって、介護してもらうのどれだけお金掛るか」「は~~~?」一体私たちって何のために生きているんだろうね。お年寄りになって身体が動かなくなったときに受けるサービスのためにあくせく働いているんだろうか?なんかおかしくない?命は順繰りにリレーしていくものだよね。新しい命に降り注がなくちゃならないエネルギーのはずが、どんどん後ろ向きな流れに変えられているような・・・エネルギーはそのままお金の流れお金の流れはその社会を映し出すそして言うまでもなく、社会は一人ひとりの集まりなんだ。 イエスはじっとその流れを見つめていた。
2009.11.06
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最近Bessouのことを紹介した時も、何人かの方は開口一番、「お金持ちやな~~」だった。 私はハ~~とため息をつく。 そういうふうに言われるだろうことも分かっていながら、子どもたちに貸して下さっているオーナーさんの気持ちはなかなかそのまま伝わらない。 シスターはこんなお話をして下さった。ある神父さんが、ホームレスの方がたくさん集まっておられるところでボランティアをなさっている時、気にかかる姿を見る。私たち、すごくいいことしてあげてるでしょう!!という心で活動するボランティアたち。ホームレスの人々もそれぞれが階級を作っている。段ボールの家で寝れる人、新聞紙の上で寝る人何もないところで寝る人うんざりだと感じてそこから離れられたそうな。お金はたくさんあっても、無くても、人の心を簡単に支配してしまうつづく
2009.11.05
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出かける前に、ふと思った。やっぱりお金ってちょっとないぐらいがいいね。無駄なことには使わないし、子どもたちも我がまま言わないし迷うこともない。無い中で生きていけることにも感謝できるし・・・そう思って久しぶりに聖書深読会に行ったら今日のところ(マルコ12章38~44)は「お金」の話だった。不思議やね~~こういう一致簡単に要約すると、「律法学者たちは、目立つ長いものをまとって、みんながら挨拶されることを気にかけ、集まりでは上座に座り、貧しいやもめを食い物にし、見せかけの長いお祈りをする。こういう人たちこそ一段と厳しく裁かれなくてはならない。」とイエスは言う。賽銭箱の前に座って人々の様子を見ていたイエス貧しいやもめがほんの少しのお金を賽銭箱に入れるのを見た。彼は弟子たちにいう「彼女は一番たくさんのお金を入れた。お金持ちはどうでもいい余っているお金を入れるけれど、あの貧しいやもめは全財産を賽銭箱に入れたからだ。」今日の私はどうして?が出てくる1、どうしてお賽銭箱の前でみんなを観察するの?2、やもめの入れたお金が全財産だ、てどうして分かるの?3、やもめはどうして全部のお金を入れることができるのか?4、律法学者たちに欠けているものは何?皆さんも、一緒に考えて頂ければ嬉しいです。つづく、
2009.11.04
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今朝の教会は集会祭儀といって神父さんがいらっしゃらない時に信徒だけで行う式だった。いつも教会のこと大事なことも細かいことも一生懸命取り組んで下さって、その方がいなかったら、今の教会はちょっと回っていかないだろう、と思うぐらいに思えるその良くして下さっている方が、今日の当番だった。いつもはカジュアルな服を着ておられるのに、今日はスーツだし、ちょっと空気違うなぁ、と思っていたんだけれど、お話の調子はいつもと少しも変わらず、ゆっくり言葉を選んでそして関西のイントネーションだから物腰が柔らかい。とても親しみやすい印象だった。今日のみことばは「マルコの10章17~30節」その方は二つのことを心に留めたっとおっしゃった。「良い先生」と声をかけられたイエスは「なぜ私のことを良い、というのか?良いものは神だけだ」といわれたところ。もう一つは「天の国に入るのは難しい。 金持ちが天の国に入るよりもラクダが針の穴を通る方が易しい」とイエスがおっしゃったところだった。当時お金持ちとは神さまから恵みをいただいている人という常識があっらしく、そのお金持ちの人が天の国に入ることが不可能だというのなら「いったい誰がそこに入ることができるんだろう」と弟子たちはとても驚いたそうです。その驚きに応えてイエスは「神さまは何でもお出来になる」とおっしゃった。まずは神さまへの信頼が必要なんだ、ということ。聖書には「お金持ち」という言葉が入っているけれど、お金持ちに限らず、~~ができる、私はこんなにすごい、と傲慢な心を持ったものはお金があろうが無かろうが、「神の国に入ることは無理だ」そのことを忘れずにいたい、と締めくくられた。飾りのない易しい言葉で簡単におっしゃるからすっと心の中にしみこむ。帰りがけに考えた。「~ができない」「誇れるものがない。」こんなとき、人はコンプレックスを感じる。「私はダメだ~~」これも、神さまからいただいている自分をわざわざ下に置いてしまっている。良いとは言えない状態。でも「私こんなこともできるんです。偉いでしょう、すごいでしょう。」となったら周りのみんなのことを下に見ているとても傲慢な心。どっちも良くないよね。自分への慈しみや誇りや自信を失うことなく、それでいて傲慢にならないで生きていく。それがもっとも難しいことに思えた。本当にそれは難しい。
2009.10.11
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朝のミサでは第2朗読をToさんが読みました。 「パウロのコリントの教会への手紙」(第2コリント12章7b~10) パウロはどうやら病気を頂いたらしく、その病気のことを自分が思い上がらないための一つの試練と考えられたようです。でもどうか力になってくださいと神さまに3度願ったら・・・すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9) ということでした。弱さを知ること!!確かに皆からちやほやされている自分こそが自分の姿だって思っているよりも、強がって格好つけているだけなんだ、と本当の自分に気づく方がずっと人の姿に気づけるかもしれませんね。わたしなんて、何のとりえもなく誰からも相手にされず、ダメな人間と思われているに違いないと考えている方が、実は割り切って失敗を恐れず頑張りとおすことができるかもしれない。なんていうか、無欲無心偶然からいただける恵みにも気づける自分への信頼は透き通る心から・・・・さっちゃんの一人深読でした。
2009.07.05
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久しぶりにシスターとゆっくりしゃべりました。「聖書深読会」だったのだけれど、二人だったのでじっくりと・・・。 シスターは子どものころかお習字をなさっていてね~、今でも教えていらっしゃるんです。前回のときにせっかくだから、深読の後にちょっと墨の世界を味わうのも素敵ですね~~と私が言ったのをちゃんと覚えていて下さって、紙だとか筆だとかもってきてくださったんです。言った私は忘れてしまってましたが・・・シスター「今日の深読の箇所(マルコ6章1~6)で心に残った言葉を書きましょう」「う~~ん 何にしようかなぁ・・・?じゃぁ・・・「奇跡をみつける」にしました。 深読の中でイエスがご自分のふるさとに帰られたとき、子どものころのイエスと宣教活動をするようになったイエスの姿、言葉はふるさとの人々にとってはあまりに違っていたのでしょう。奇跡を行なうイエスはむしろ大きな偏見の中で悲しまれることになってしまった。それで多くの奇跡はおできになれなかった(5,6節)というのがあったのです。私たちの社会もいろいろ勉強して賢くなって、様々なことを人の手で成し遂げられるようになった。だけど思い通りにはならず、腹を立てたり失敗がないかと不安になったり、失敗をする人を信用することができなくなったり・・・だからできるだけ理屈を考えないで生きていたいそのままを受け止めようそこに喜びがあるはずで「奇跡をみつける」なのです。
2009.07.02
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聖書深読会がありました。今日はマルコ5章21~43節長い箇所であることと、いろいろ考えさせられることが湧いてくるお話しということもあって、とてもここには書ききれないのですが、シスターがとても興味深いことをおっしゃいました。私は全く気付いていなかったことだったので、ちょっとご紹介しておきます。話のあらすじはイエスのうわさが広まって、どこに行っても群衆に取り囲まれてしまう、そんなときのことです。 ある会堂長がイエスにひれ伏して「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(23)と助けを懇願されます。それを受けて会堂長の家に向かわれます。(24)そしてその家に到着する前にも一つ、救いを求めていた女性がイエスの衣に触れて癒される(25~34)という場面があるのですが、そんなこんなをしているうちに、会堂長の家から人々がやってきて「お嬢さんは亡くなられました。もう、先生のを煩わすには及ばないでしょう」と言われた。(35)でもイエスは彼の家に行って(38)「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言って(39)娘に起きるように言われると、少女はすぐに起きあがって、歩きだしたのです。それを見た人々は、驚きのあまり我を忘れた。(42)という話なのですが・・・シスターは最後の「それを見た人々は、驚きのあまり我を忘れた」ここが特に心に残った、とおっしゃるのです。いつも人は「自分」からスタートする何かあれば「この私がしたのよ」「この私にしたわね」「この私を分かって!」・・・ずっと「私」にとどまっている。とても苦しいことですそういうときは少しも神さまが入ってきて下さらない。でも、「へ~~ すごいですね!」「まぁ なんて美しいんでしょう」「信じられないわ~~」と大きな驚きに出会っているときは神さまからの働きかけに気付けることが多いんです。「自分を捨てる。」「我を忘れる」て大事なことだと思います!!
2009.06.24
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聖書深読会があったとき、ちょっとだけ気になっていたことをぶつけてみました。いままではそんなに?と思うことには出会わなかったんだけれど、この日は???と引っかかる。で今回は気になっていたこの言葉に疑問をぶつけてみたんです。ヨハネ3章15 それは、信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。「あの、この『永遠の命を得るためである』ということ、この意味というのはどういうことなんだろうと思う。聖書の中に在っても非常に大切なことばとして、また信者さんたちの中でもこの言葉を大切になさっておられる方も少なくない、と思うのだけれど・・・。 まったく普通に考えて、必ず個々の人間の命ははっきりといつか途絶える運命にあるよね。聖書ができた当時の人々にとっては「永遠の命」に与れる、というイメージがものすごく必要だったのでしょうか。その言葉が一番、「神の存在」を示せる(表わせる)言葉だったのでしょうか。死の苦しみや無意味な死や別れの悲しみや後悔から解放させられる、最も力のある言葉だったのでしょうか。 今日においても聖書学的な意味合いではなく、人それぞれにこの言葉の受けとめ方(ニュアンス)はちがっていると思う。この言葉を聞くと「信じる人はそのご褒美として永遠の命をいただくことができる」と言っているように聞こえてしまう私です。今の私自身は、自分が生まれていることが既に大きな恵みをいただいているし、やるべきことにもで合わせてもらって、これ以上何も望む必要はない。頂いた中で今日、そして明日、と精一杯生きるだけ!だから『永遠の命』と言われても、まるで次元の違う出来事のように感じてしまう。そんな私もシスターの御歳ぐらいになれたら、もう少し深く分かるようになるかなぁ・・・。」するとシスターは「そうよ、きっとそうなると思うわ。さっちゃんは今の現実の中で恵みに与れていることにとても幸せなのね。 でも長い人生の中で苦しいことや、神さまに何でこんなことを私が受けなければならないのですか~~と、恨みがましいことさえ言わなければならないような時もあるでしょ?そんな私を最後の最後まで見守ってそして、私の心ひとつで神さまの命、それが永遠の命なんだけれど、その命の中に私の命をとりこんで下さる、神さまと一緒になれる私がいる、そういう感じなのよね、私の『永遠の命』のイメージは・・・。」神さまと一緒になる。それは本当に幸せそうだわ~~それに今日もう一度読んでみると「神さまは自分の子どもをこの世に自分の使者として派遣し、彼の人生を通して神さまは『あなたたちは私と生きるチャンスを持っているのですよ、たとえ死んだとしてもその後も私と共に生きるのです』という望み(招き)を持っておられるんだ」と思いました。ほんまに深読みは面白いですね!!
2009.03.19
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この前ちょっと紹介しようと思っていた聖書の箇所(マルコ2章1~12節)が、今日のごミサのみことばでした。 一部ご紹介すると イエスがいよいよ宣教活動を始められてその噂がだんだん広まってきました。ここカファルナウムに再び来られたとのことで、たくさんの人が集まってきて、隙間もないほどになっていました。そんな状態でイエスは戸口のあたりに立って福音を述べておられました。3 四人の男が中風の人を運んできた。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をかけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われた。6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒とくしている。神おひとりのほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか。」8 イエスは彼らが心の中で考えていることを、ご自分の霊の力ですぐにしって言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に、『あなたの罪は許される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、どちらが易しいか。10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで、家に帰りなさい。」12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、みんなの見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。 深読会ではこの文と30分以上、沈黙の中で向き合います。いろんなことが心の中に浮かんでくるのですが、今日のお説教でM神父さまがおっしゃったことは私が思い描いたものとは全然違ったものでした。深読会をして神父さまが述べられたことと、自分の心に留まったことがこんなに違っていたことは初めてで、とても新鮮に思えました。M神父さまがとらえたことばは「権威」「神の権威」とは何ぞや、ということなのです。 わたしたちの世界で「権威」と言えば、ある分野において非常に精通していて、その知識と経験の中からその人に間違いはない、そんな厳かなもの。でも行きすぎると、四角のものも丸だといえば「丸」になってしまうような、絶大な力になっていくものでもあります。ちなみに辞書で調べてみれば「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと」だそうです。強制的ではないにしても、うも言わさず権威のままに飲み込むこととなってしまうほどの力がある。M神父「この神の権威、というものは『罪を赦す』という他の誰にも出来ない特別の力。では『罪を赦す』とは私たちにとってはどういうことなのでしょうか? それは不完全な私たちは毎日の生活の中で常に許されている。そしてなお生きることも赦されている。このことに自分が気付けば、どれほどの勇気と喜びにつつまれるでしょうか!!「神の権威」とは「わたしたちを生かして下さる」ということです。」この言葉はとても印象深く残りました。また別に私自身が考えたことも伝えていきますね。皆さんも深読にチャレンジしてみませんか・・・?
2009.02.22
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