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私が日本で最も尊敬し、そのてその著書を信頼してきた僧は空海である。『教王経開題』に記された文がある。『それ生は我が願いにあらざれども、無明の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業の鬼、我を殺す。生はこれ楽にあらず、衆苦の聚るところなり。死もまた喜びにあらず、諸憂たちまちに逼る。・・・この身の脆きこと泡沫の如く、我が命の仮なること夢幻の如し。無常の風たちまちに扇げば、四大瓦のごとくに解け、閻魔の使たちまちに来るときは、六親誰れをか頼まん』これは仏教徒が見る定説的な衆生観察である。「無明の父」とあるが、仏説ではよく無明を父と為し、貪愛を母と為す。人間は誰しも生まれようと思って生まれたわけではないが、生まれた後は死にたいとも思わない。さりとて生には常に死の因縁が付きまとっているので、生きることも楽ではないし、やがては閻魔の国へ引きずり込まれる身である。要するにここまでは、世間一般に誰もが考えるところであり、それ故憂いが生じているところでもある。『地獄の猛炎は殺生の業より起こり、餓鬼の醜形は慳貪の罪より生ず。ここに死し、かしこに生じ、生死の獄出で難し。・・・善知識善誘の力、大導師大悲の功にあらざるよりは、何ぞよく流転の業輪を破って、常住の仏果に登らん』ここからが僧としての空海が言いたかった事であろう。それらの衆生苦から救い出してくれるのは、仏の境地しかないのだから、仏の慈悲に縋りなさいという意味だ。そして仏の慈悲としての仏果へ導いてくれるのが、我ら僧なのだよという意味にもなる。では我らの空海は、「僧」をどのような概念の下に認識していたのであろうか。それを後続の文章から拾ってみよう。『仏宝はすなわち一切智智を具し、衆生に正路を示す。法宝はすなわち難思の功徳を具して、よく持者をして出世間の楽を与えしむ。仏と法とかくのごとくの功徳ありといえども、もし僧宝なくんば流通することを得じ』文頭の如く、仏は衆生に正路を示すのであれば、そこには法宝も含まれているということであり、同時に僧の働きも含まれていることになるので、改めて法宝や僧宝が外に求められる必要もあるまい。従って「僧宝なくんば流通することを得じ」とは、仏の説法(法宝)と直接的には関わっていない衆生に対し、仏の仕事の代役を買って出るのが僧だという意味になる。では僧なる者は、仏から生じた法宝を掌握していて、それを自在に伝達出来る者に限られているのだろうか。『僧というは、菩薩声聞等の別あり。もしくは菩薩、もしくは声聞、凡聖を論ぜず、持破を簡ばず、経論を講伝し、人に智慧を授くるもの、みなこれ僧宝と名づく』成る程、菩薩の位でなくとも、つまり声聞でも可であり、従って悟りを知らない凡人でも、悟りを半面的には持っている聖者などでも、また戒律を守っている者でも、戒律の意義を知らなかったり、或いは守っていない獄縁の深い者でも可であり、経論を読んで人に伝え、それによって仏の言葉を人々に伝達しているなら、そのような行為を以て僧と呼び得るという意味になる。ということは、特に「僧職」と云うべきものも無いということになる。寺に住んで僧衣を纏っていても、人々に仏法を伝達していない時は、勿論僧では無いし、世間の一般人でも、仏法を持して人々に伝達している時には、明らかに僧と云えることにもなる。「僧はその形姿によって僧なるには非ず、その行為によって僧たるを得る」である。善いかな善いかなである。当然ではあるが、本日は空海が持つ「僧」の概念が此の様なものであると解って、心が和む思いである。もし空海が「僧はその経歴と形姿に基づいて僧たるを得る」というような意味を述べていたら、今頃私の書棚から空海の書物が姿を消していたであろう。
2007年11月25日
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『無戯論本生物語』に、次のような偈がある。佛に帰依せし人々は地獄に趣かず、人身を捨てて天人の姿とならん。法に帰依せし人々、僧に帰依せし人々は、天人の姿とならん。恐怖に襲われたる人は、げに種々のものに帰依をなす、山に、林に、遊園の神樹に。されどそこは安らけき帰依にあらず、最上の帰依にあらず。この帰依によりて総ての苦より脱せず。佛と法と僧とに帰依せし人は、正慧によりて四聖諦を見ん。そは苦、苦因、苦滅、苦滅道に導く八聖道分なり。こは安らけき帰依なり、最上の帰依なり。この帰依によりて総ての苦より脱す。このような帰依の果報表現は、仏典の至る所で見たかの如くに馴染みのあるものだ。ところでこの経典を書いた者が捉えていた「帰依」の意味を確かめてみたいと思う。この文から見えてくるものに、「佛・法・僧」の所謂「三宝」には形象を超えたもの、つまり無形象の存在がある。つまりそれらは「帰依」されるべきものとして示されていることから、「帰依」とは当に、帰依する対象との無限の隔たりが読み取れる。例えば「僧」というものは現存しないので、一般世間で云うところの「僧」もまた「僧への帰依の心」つまり「僧に成りたい」という心を形姿で表現している状態という認識に導くことになる。分かり易く言えば、現実社会に於ける僧と雖も、その心は佛や法を思う心と共に、世俗を思う心等も雑居しているのであって、従って自身の心中にあって「僧でありたい」という「僧に帰依する心」、これが「僧」だという意味になるからである。このように「佛」と称されるべき人物も現実には存在しないので、「佛に帰依する心」を以て、人の到達し得る最上の成仏とする意が、ここに云う「帰依」の意味から生じるのでもある。従って、現実に到達出来る人間最上位の状態は「天人」であると明かされているとも云えるが、但しこの経典を書いた者の心位は、所謂密教が説く即身成仏の心位に比べ、些か隔たりがあるかに見える。
2007年11月24日
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既に種種の法行を見てきたが、マンガラ佛には今一つの昔の行が伝えられている。佛がまだ菩薩だった頃、或る佛の塔を見て「私はこの佛のために生命を棄てなければならない」といって、炬火を巻くような風に全身を巻かせ、宝玉の把手のある値十万両の金の鉢に熟酥を入れ、それに一千の燈心をつけて火を燃やして、それを自分の頭に上せ、全体に火を燃やして、塔の周囲を右廻りして終夜を過ごした。こうして太陽の出るまで辛抱していても、毛の穴ほどの熱をも受けず、恰も蓮の台に上った時のようであった。これは、法というものはよく己を護るものを護るからである。このように伝えられている話は、何を意味するのか。ここに現実界の法を読む者がいるだろうか。とはいえ、やはり現実界を巻き込んだ悟りをここに読み取らなければならない。即ち心に基づいて現実界に何かが起こるのではないということ。或いは現実界に生じる一切の出来事は、仏心に量れば何一つ真実の出来事ではないということ。言い換えれば、現実に人は様々な思想想念に基づいて行為を起こすかに見えるが、思想想念によっても引き起こされる真実の出来事というものは何処にも存在しないという悟りが、ここでもまた示唆されているのである。
2007年11月22日
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既に十種の波羅密を見てきた。 「菩薩が完全に行うべき法、菩提を熟せしめて佛に成る基となるべき法は、唯これだけである。十種の波羅密の他にはない」と、菩薩の心で各々の波羅密を熟慮し、心の中で波羅密の成就を悟るなら、その時、その法力の威力によって、世界の大地は震え動き、人々は立っていることも出来ず、各々気絶して倒れる。 これは十種波羅密を心に成就し、ゴータマという佛が誕生する前触れとして起こった出来事として記されているものだが、これは勿論独りゴータマ佛が誕生する時に限った出来事ではない。悟りを開く全ての心に等しく現れる出来事なのである。 正しく波羅密を悟った時、その者の心に生じる法力に基づいて、世界は必ずこのように大振動を起こし、衆生らはその場に倒れて気絶する。更に付け加えるならば、こうして人々は死に絶え、世界は粉々に砕け散る。世界は終焉を迎え、一切は原初の無垢なる虚空に等しいものとなる。即ち一切は成し遂げられたのである。この境地を指して、彼岸に往ける者と言われる。
2007年11月21日
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更に経典に曰く『それからまた彼は「仏に成る基となるべき法は、これだけである筈がない」と思って探求し、第十の捨波羅密を見出して、次のように考えた。「汝はこれから後、捨波羅密をも全うせよ。楽にも苦にも平等であれ。恰も大地が浄いものや不浄のものを投げられても、共に平等であると同じように、汝も楽と苦とに平等であれば、仏と成るであろう」とて、第十の捨波羅密を堅く持して行い遂げんと決心した』と。この「捨」の説を見れば、先ず無執着の心を思うのが普通であろう。そしてこの無執着は、大半の者が自ら実践してきた道だと思うのではあるまいか。或る者は諸欲を満たすべく努めてはみたが、力及ばず断念した心を慰める法として認識した諸法をそれと思う。つまり無執着の観念は心の慰めである。また或る者は、貧苦等の故に、得るべきに得られず、従って我慢の心を強いられる。この耐える心に合わせて「捨」の心を得たりと思う。これらの心は、恰も身の危険に臨んで死んだ振りをして敵を欺く小動物の如き態度にも似ている。人心もまた大いなる宿命の中では、全ての命あるものがその命を愛おしむ態度と何ら変わるところがない。ところで、このような「捨」は悟りの「捨」ではなく、衆生心に於ける迷いの中で生じた一時の「捨」である。その故に、もし貧苦という名の敵が去り、或いは偶然にも大金が得られる可能性が信じられた時など、希望と共に捨の心は吹き飛んでしまうのが通例だ。故に一般心理に於ける「無執着の心」は、一種の擬態であり、死んだ振りに例えられるだろう。斯かる「死んだ振り」の「捨」は、決して仏への道でないことは今見てきた通りである。では仏に至る捨の心とはどのようなものかなら、一切の物や心の真実の姿を悟って、一切の物や心の平等を知り、取得されるべき体の無い事を観察して、一切の執着の空しさを悟るが故に、その心を捨の心として弁え、生活に於いても常に実践することを指しているのである。ここでは、このような正観に基づく捨の実践を、日常茶飯のものとして実践し、且つ逸脱することが無ければ、その者は必ずや成仏するであろうと説かれているのだ。
2007年11月20日
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また経典に曰く『彼は「仏に成るべき基の法は、これだけである筈がない」と思って更に求め、第九の慈波羅密を見出し、斯う思った。「汝はこれから後、慈波羅密を全うせよ。利益を為す者にも不利益を為す者にも、共に同じ心を持てよ。恰も水が悪人たちにも善人たちにも、等しく冷気を感じさせると同じように、汝もあらゆる生物に対して、慈愛の情を以て同じ心を懐けば、遂には仏と成るであろう」とて、慈波羅密を堅く持して決心した』と。幾らかでも経典に親しんだ者なら、このような意味を伝える言葉を何度も読み、且つ思考したことであろう。然るに仏に成る者が少ないのは何故か。キリスト教が神の愛を説く時も類似している。太陽が善人にも悪人にも等しく光りをそそぐように、汝の徳もそのようであれというが如くである。一般には善人が尊ばれ、悪人は裁かれて刑罰を受けるのが社会の掟になっていることを考慮すれば、斯かる慈波羅密等は極めて非社会的理念のように見える。また一つの例を取れば、天国の門を司る神だ。何故全ての者を平等に天国へ招き入れないのだろうか。勿論この答えは自明だ。従って善悪を判定する理念に於ける二重の次元が混同されてはならないということだ。つまり「善人にも悪人にも等しく」と述べる時の善人の「善」、そして「等しく光りをそそぐ太陽」に於ける「太陽」が善性として認識される時の「善」を混同してはならないということ。ここには元より一つのものを一つのものとして認識しつつも、しかもそこに二つの次元差が含有されているかの如くに分別する、一見不可思議にも見える智が働いているということ。ここに善の一致と悪の不一致が判定されて、天国の門が開かれる者と開かれない者に分けられるというふうに観察することも出来るであろう。斯くして衆生性に於ける善と仏性を善性と認識する場合の善の一致、これが衆生に於ける成仏である。従って慈波羅密に於ける「慈」とは、善人にも悪人にも本来具わっている仏性の面に於いて平等であれという意味になるであろう。従って悪を認めよという意味ではない。分かり易く言えば、この慈波羅密を全うする者は仏に成ると言う。この意味には、慈波羅密を否定して破棄する者もまた仏に成るという法の否定が含まれているが如きが当然の理である。
2007年11月03日
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