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【知られざるイエス】これまで私たちがイエスの思想を知る手段としては、新約聖書に記録されているイエスの言葉に拠るしかなかった。しかし近年、それを覆すような資料が発見され、公開もされている。そこには知られざるイエスの姿を垣間見ることもできるので、秘められた深い悟りの境地に関心があれば読んでみるとよいでしょう。それは正統派と称する立場から異端と判断され、世から葬り去られていた書物の中でも、最大の異端グノーシス派に属するものだが、この資料から読み取れるイエスの思想は、私が新約聖書から読み取っていたイエスの姿と比べれば、天と地ほどに違ったものだった。つまり比較にならないほど充実した円熟の境地が読み取れたということだ。このように勝れた書物が、異端として処分された経緯も理解できなくはないが、その一部が残存していて、近年発見されたということは、不幸中の幸いだったと云うべきだろう。私自身はやっと二冊目に目を通し始めたばかりで、グノーシス派の聖典が何冊公開されているかも知らない段階だけど、時間的に余裕があれば、好みの書を探して読んでみるのもよいでしょう。そこで発見される思想は、新約聖書の思想を土台にして、更に深く充実させたものなので、仏教に喩えれば小乗仏教の悟りを基体にして大乗から密教の悟りに至る流れと同質のものだと思えばよいでしょう。
2020年01月31日
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【天上界や仏界の幸せとは】此の世の有り様を有るが儘に正見すれば、人は此の世に泣きながら生まれ、まだ死にたくないよと泣きながら死ぬ。このように生きとし生けるものの生涯は、苦に包まれたものに見えてくる。この故に釈尊は「此の世は無常であり、無常ならば苦であり、苦ならば我に非ず、我がものに非ず」と説いて、人々を苦の濁流から救い上げるための法を示してくれる。従ってこの説法を正しく理解すれば、「此の世に本当の幸せはない」と正見して、此の世に対する執着を断ち、無常を捨て、苦を捨て、無我を捨てて、本当の幸せに達する正道を歩むことになるでしょう。正道を歩めば天上界や仏界に至ることが明らかだと信じられるからですね。而るに正道は見えても、正道の歩み方に迷うのが人の常です。そこで先達の同行が助けになりますが、その助けを行える能力(智慧)を指して菩薩と云うこともできるのですね。従って菩薩のことを「生きとし生けるものに幸せを配る者」と呼ぶこともできます。同行者が得られた人も、また得られず遠回りした人も、やがて時が来れば「天上界」への縁が生じて、天上界へ入場する人も現れることになります。大乗仏教で説かれている阿弥陀仏の報土「極楽浄土」もまた、天界中に建立された浄土ですが、この浄土の幸せを「楽のみ有って苦の無い所」と説いていることからも分かるように、天界に生まれたときの喜びは、まさに万感の感涙ものなのです。その後、天上界でも更に仏法の修行が有って、やがて成仏行に励むことになり、大地への報恩行にもなる中道の境地に入り、自身に同行二人を成就して、悟りの修行の集大成を行うことになるでしょう。なので、ここで手に入れる喜びに勝る喜びもないだろうとさえ思われるのです。
2020年01月30日
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【キリスト教と仏教】ニーチェの「神は死んだ」に関わる話題になると、自ずからキリスト教が引き合いに出されることになりますが、それは仏教だと少し事情が違うからですね。マタイによる福音書に曰く「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。ところが仏教は中道の教えだから、神と富の両方を左右の手に分けて掴み取るような宗教なのですね。尤も宗派によって、左右の手に掴み取る分量に差異がありますが、両手を満杯にするような宗派となると、やはり真言密教の右に出るものはないでしょう。
2020年01月28日
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【神は我が櫓】ニーチェが云う「神は死んだ」に関わる神が、クリスチャンたちにとっては、どのような存在だったのかを、讃美歌の詞から読み取ることもできます。『讃美歌267』はマルチンルターの作詞で、神への信仰が力強く歌い上げられているので、神の存在が生きる力を強力に支えていた様子がうかがえます。歌詞は「神は我がやぐら、わが強き盾。苦しめるときの近き助けぞ」で始まり、信仰によって、耐え難い苦しみさえも克服できる境地に達していることだ伝わってきます。更に2番の歌詞は「いかに強くとも、いかでか頼まん、やがては朽つべき人の力を」で始まって、その境地が此の世を超えた聖なるものとの一体性から来ることを暗示させます。このように見てくると、ニーチェが「神は死んだ」と云ってみても、それはニーチェにとっての神が「死んでいる」のであって、ルターにとっての神は「永遠に死ぬことがない」ことになっているのだと分かりますね。そういうことであれば、人の苦しみを取り除いてくれる神の存在を、あながち否定することもないでしょう。神は自然界の真実の問題ではなく、生きた人間の心の存在に於ける真実の問題なのだから。
2020年01月27日
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【苦しみがあるから】ニーチェの書からヒントを得た言葉「苦しみがあるからまだ良いではないか、何もないよりは」の意義を考えてみた。勿論ニーチェの「神は死んだ」という宣言に沿った考察です。例えば空き地に咲く一本の草花があり、その草花に心があったとしよう。草花の一生には、芽生えた場所から移動する自由はない。どんな天候でも受け入れなくてはならないし、地上を走り回る小動物に踏み倒される危険も抱えている。この草花が、このような自身の生存状況を知ったとき、何と思うだろうかと。そこで気象条件が悪化して、開花したばかりの花弁が強風で吹き飛ばされた場合なども考慮してみると、草花の率直な反応が「いったい私の一生って何なの?」という問いになって現れるのではなかろうか。またこのとき、草花に信仰心が有ったなら、「天に在します我らが神よ、この惨めな草花を憐れみ給え、アーメン」とでも祈っただろうか。そして草花の心は神に帰依して、自身の命運を天に委ねた安らぎを得ることでしょう。而るにこの草花が「神は死んだ」という認識を持っていたとすれば、どうなるでしょうか。当然神のことは念頭に無くなって、ひたすら「大地の意義」を問うことになるでしょう。「悪天候も大地の必然として生じているのだから、その為に私が死ぬのも、大地の必然を受け入れることなのだ」と観念して、苦しみに耐えつつ口から出るのが、「苦しみがあるからまだ良いではないか、何もないよりは」という言葉ではないだろうかと。
2020年01月26日
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【ニーチェの言葉】ニーチェの言葉は多様多彩で、どれが本音なのか分からないところもある。例えばニーチェ自身も「ツァラトゥストラ」について「肖像画を描こうとしても描けないだろう」とまで云うように、ニーチェ自身の姿も多様に見えたりする。ニーチェの言葉の一つに「苦しみがあるから、まだ良いではないか」というのがあったと思うが、今それを思い出している。この記憶には曖昧なところもあって、ニーチェが或る女性が述べた言葉に共感して、自作品に取り入れた言葉だったかもしれない。この言葉を補うと「苦しみがあるから、まだ良いではないか、何もないよりは」というものだと思うが、この言葉が妙にツァラトゥストラの世界に重なってくるのは、私の偏見だろうか。ニーチェはツァラトゥストラに「神は死んだ」と語らせている。神が死んだということが、神の国でもあり天国とも呼ばれる楽園も消えたということに繋がるとすれば、いや「すれば」というような曖昧なものではなく、ツァラトゥストラの口を通して「大地の意義」となる生き方を示唆させているのだから、天国のことは想定外だったのだろう。従って神無き世に残された人間の生きる拠り所は此の世だけであり、大地の意義を求める他は無いということになれば、此の世の苦しみから逃れる道をどこに求めることができるだろうか、という問題もある。そこで天国という心の楽園が消えた世のことを思えば、「無常な此の世で得られる幸せは次々と儚く消えて、残るは苦しみばかり」という状態も想定されるので、その状況と重なるように「苦しみがあるから、まだ良いではないか、何もないよりは」という言葉が、記憶の片隅から出てきたのだと思われる。然しこのような随想が自然に湧き出たということは、ニーチェの「神は死んだ」という理念に対して生じている、一つの疑念の表れかもしれないのだ。何故なら実存思想を説くのに、神の存在を否定する必要もなかっただろうし、その一例として「神と共に在る実存思想」をキルケゴールが説いているように、むしろ神と人間を調和させた方が、より豊かな思想構造にすることができたのではなかろうかとも思われるからだ。
2020年01月25日
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【ニーチェの偉大さ】前回は「永遠の命」の観点から、ニーチェの「神は死んだ」という発言が世にもたらす影響を考慮した批判を語ったが、ニーチェ自身の心の世界を考慮する場合には、また当然異なった判断をしなくてはならない。そうすれば、ニーチェの「大地の意義」は、イエスが此の世で実践した救済活動、即ち「神の愛」と同じ意義を持つものと認識して良いと思われる。そうするとニーチェの「神は死んだ」の意味は、「神は大地を愛するが故に、大地の意義の為に己を死んだ」というものになり、著書『ツァラトゥストラはこう言った』に説かれている精神は、その実質的な面から捉えると、イエスが実践した「神の愛」と同質のものになる。このようにニーチェの思想を、その実質的な面から捉えると、ニーチェ自身が自己評価して「私は二千年に一度世に現れる天才である」(少しオーバーだとは思うが)と語った言葉も、あながち否定することも出来ないとも云える。そうであれば、ニーチェは単に言葉遣いを誤っただけだろうかという疑問も生じるが、この問題については前回にも述べたように、「上に求めても無、下に求めても無」という真理の捉え方の問題なのだ。何故ならここでもう一歩前進して一転の開示が出来れば、イエスと同格になり、仏教が説く如来身に達することが出来たからである。従って、このような言語表現上の矛盾となって現れている箇所を補いつつ読み取れば、ニーチェの著書を「神の愛としての世界」として読み取ることもできる良書としても読めるし、或いはまた読者各自が現世を生きる道の参考にも成り得る副読本としての価値も生まれるものと思われるのです。
2020年01月24日
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【永遠の命】永遠の命と云えばキリスト教を思いうかべる人も多いのではなかろうか。古来クリスチャン達もまた永遠の命を求めて精進したことだろう。しかしそれを見出すことは容易ではない。十九世紀後半に活動したニーチェは、その著書『ツァラトゥストラはこう言った』の中で「神は死んでいる」という表現を使い、世間の敬虔な信者たちに動揺を与えたと思われるが、ニーチェの発言もまた批判の対象にはなった。ニーチェの発言の意味は、分からないでもない。ニーチェの哲学者は心の真実を深く追求して、「上に求めても無、下に求めても無」という虚無の確認の上に立って、なお現世に生きる意義を求めた人間哲学が、著書『ツァラトゥストラはこう言った』だと思うので、惹かれる人も多いのではあるまいか。しかし宗教を巻き込むような発言は、自身の著作を自ら汚した形になってしまったからだ。確かに「上に求めても無、下に求めても無」という探求結果は正当な見解とも思われる。しかしもう一歩の熟考が足りなかったのだ。イエスは言う、「神の国は此の世には無い」と。つまり此の世から眺めても、神の国は見えないようになっているのである。だから神の国は哲学しても見付かる所には無いということに、早く気付くべきだったのだ。またニーチェは云う、「私はインドでは仏陀だった」と。しかしこの発言は頂けない。ニーチェはまた「仏教もまた虚無思想だ」と。これは大間違いだからである。ニーチェは自らを「私は二千年に一度現れる大天才だ」とも。この自惚れが、自らの人生の墓穴を掘ったとも云えよう。聖なる「永遠の命」は、誰がどのように邪推して否定しようとも、清らかな心の持ち主には、常に幸ある人生を護ってくれる命の光として存在しているのである。勿論「永遠の命」の福楽は、仏道に依っても成就される。
2020年01月23日
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【金剛身に成る法】私たちの身体は、世に生まれ来て、やがては世を去る定めですから、何とも無常でやるせないものです。しかし、それを何時までもくよくよ嘆いているだけでは、あまありにも空しいでしょう。人は発憤して法を求めれば、例え死んでも死なない金剛の身に成れるのです。死んでも死なない金剛の身になる法とは、何を隠そう「仏法」のことです。こう言うと不審に思う人もいるでしょう。「えっ! だったら仏法を学んでいる坊さんたちは、みんな金剛の身に成っているの?」と。いえいえ、殆どの人は、自身が金剛の身に成れる道を見出すことが出来ないままに止まっているのです。それは何故かといえば、打ち壊し難い壁に塞がれているからです。では、その場合、何が必要かという話になりますが、当然その法とは「打ち壊し難い壁を打ち壊す法」ということになります。その法もまた仏教の経典に説かれているのですが、習得するのが難しい理由は、仏道の入り口から金剛身に至るまでの修道が繋がっていなくてはならないのに、重要な一点が壁になり、その先の仏法を学んでも、金剛身の血肉に成らないからですね。それを愁いて昨年末に『悟りの杖』と題する書を出版しましたが、何分にも発行部数が少なく、みなさんのお役に立てないことが残念でもありますから、このブログにも時間の許す限り、その法について、様々な角度から書き込んでみたいと思っています。この「金剛身になる法」は、私たち個人個人にとっては「悟りの完成」とも云える境地ですから、本来言葉では説けない境地なのですが、「言葉で説けないから説かない」では、余りにも情けないので、拙いながらも智慧を絞って書き続けてみる所存です。
2020年01月19日
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真言密教では大日如来を極秘の法身仏として崇めます。では大日如来とはどういう仏かと云うと、全世界を遍く照らす威光を指して遍照と云い、如来の身体が不変不死なることを指して金剛と云われるように、その真理の智身の永遠不滅な仏なのです。こう聞くと、私たち人間の世界を遙かに超えた仏のように思われるかもしれません。勿論その通りではあるのですが、ところがそんな偉大な威光を放つ大日如来を私たちすべての人間が生まれながらにして体内に宿しているのですから、嬉しいですね。では、どうしたら自分の体内の大日如来を見出せるのかと云うと、自分の迷いの塵を一掃して清らかな心に戻るだけで、その大日如来の本体と一体に成れるのです。その時自分の身体が遍照金剛の身に成っていることに気付くのですが、それだけではまだ遍照金剛の威光が此の世に現れていません。大日如来の遍照金剛を世に現すということは、世の人々の苦しみや悲しみの元になっている迷いの根本を智慧の光で照らして取り除き、生死の迷いから脱した苦しみの無い平和な安らぎと、自由に活き活き生きる命の輝きを取り戻すことに活用できて初めて、遍照金剛が世に輝くということです。しかし、この大日如来の威光は、大日如来単独の悟りを得るだけでは発揮できません。そこで遍照金剛の威光を世の人々に施す助手が必要になります。例えば釈迦如来とか阿弥陀如来など仏の慈悲心に満ちた助手です。では、その助手をどこから呼んでくるのでしょうか。釈迦如来は過去の人だし、阿弥陀如来だって現実の人とも思えないのだから。でも心配ご無用なのです。それは皆さんが自分の体内に宿された大日如来を開示する努力の中で、十分にその能力を手に入れているからです。もしその能力が不十分だったとすれば、当然のことですが、大日如来は悟れてもいないので、大日如来に成ってもいないと云うことですから。ということで今回は、「誰でも大日如来に成れるけど、大日如来に成るためには仏法の習得が必要だ」という話でした。
2020年01月17日
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今回は「天上界」について語ってみますが、そもそも天上界って何なのかと云うところから始めなくてはなりませんね。人は生まれた時は、自分がどこに生まれたかも、自分が何者なのかも知らなければ、それを考えるための言葉も知りません。これが人生の出発点です。その後さまざまな体験を経て、知識が豊かになると、様々なことを考えるようになりますが、自分の存在についても色々と考え込むようになります。「自分っていったい何者なのだろうか」とか「何のために生きているのだろうか」とか「死んだらどうなるのだろうか」とか「此の世に真理は有るのだろうか」などなど。そして「有意義な生き方をするためには、此の世に真理に沿った生き方が最善だ」と思った時、「その真理を見付けたい」という心が生じるでしょう。そのような探求の情熱が閃き(霊感)を呼ぶのですが、それが真理の覚醒に至る道として度々起こり、終には大きな霊感が表れて心を巻き込み、心は霊感に巻き込まれるようにして天上界に達するのです。このように天上界は霊感によって導かれる世界ですから、「霊界」と呼ばれることもありますが、勿論霊界と云っても幽霊が出る世界というような意味ではなく、自分の心が霊感に導かれて入った世界という意味です。では、その天上界ってどんな世界かと云うと、此の世の真理を探究していて入った世界ですから、「真の世界」とか「神の世界」などと呼べるのですが、仏教では「神々の世界」と呼ばれ、キリスト教では「天国」と呼ばれていて、入るのが難しいという意味から、天国に入る道のことを「狭き門」とも云っていますが、天上界とはそのような「心の楽園」のことです。
2020年01月16日
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仏教が説く悟りには三つの段階があります。 仏教では覚った境地を「成仏した」などと云いますが、その「成仏」という言葉の中には、三種類の成仏が含まれています。つまり悟りの境地にも高低差があり、「即身成仏」とか「即心是仏」とか「念仏成仏」などという名称で区別されています。 三種の成仏の内容を簡単に説明すれば、最も易しい悟りの門は「念仏成仏」で、それより難しい二番目の成仏門は「即心是仏」ということになります。そして最後に最も遠い道のりを経て完成されるのが「即身成仏」です。 人は誰でも生まれた時点では、最も難度の高い「即身成仏」を悟る能力を秘めています。しかし悟りを求める心を起こさなければ、どの悟りも開くことができないのも当然です。 しかし、そうは云っても「悟りを求めるって、難解なお経を読み解かなくちゃいけないし」と、尻込みしたくなる場合もあるでしょう。でもそれは古来日本には漢文で書かれた難読の経文を読む習わしがあったからです。 経典に書かれている内容というものは、私たち自身の心に現れる悲しみや苦しみを取り除いて、平和で安らぎと慈愛と喜びに満ちた人生に導くものですから、自分に理解できる範囲の言葉だけで十分に読み解けます。 私自信は非才ながらも努力して、先年には「即身成仏」を開くことができたので、近在の人々にも悟りの喜びを分かち合えることを願い、悟りに関心を持つ人たちのために、易しい言葉と文章で綴った「悟りの杖」という小冊子を、コピー用紙にプリントして綴じただけの粗末なものでしたが、無償で配りました。 それが思いのほか好評で、「出版しなさいよ」などと薦められたこともあり、「それでは」ということで昨年11月下旬にはなりましたが、同名の『悟りの杖』というタイトルで書物を出版することができました。 その『悟りの杖』という書物には、三種の悟り(成仏)のうち、どの悟りが書かれているのかと言えば、三種すべての悟りが可能なところまでが、易しい語り口で書かれています。最も易しい道は「極楽浄土」が説かれている経典ですが、この経典には他力門と自力修行が込みで説かれていますが、自力修行を断っても覚れる境地が、最も易しい「念仏成仏」ですから、その経典から三種の成仏に役立つ箇所を抜き出して解説してあります。 後半では、仏教の開祖お釈迦様が実際に説いた言葉に最も近いとされる原始経典から、悟りに最も役立つと思われる箇所を選んで解説しました。ここで説かれている悟りの境地は、中難度の「即心是仏」ですが、それが悟れると、続く最難関の「即身成仏」もあと一歩という近さです。 「成仏」とは「悟り」のこと、「悟り」とは「ほんとうの自分」を見付けることですから、「ほんとうの自分(仏性とか真我などとも云う)」に関心のある方は、かつて無かったほど、ほんとうに易しく説かれた『悟りの杖』をお読みください。価格は税込みで880円。発行部数は少ないですがネット販売もしていますからどうぞ。
2020年01月11日
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