全10件 (10件中 1-10件目)
1
経典に曰く『それから彼は「仏に成る基となるべき法は、これだけである筈がない」と思って更に求め、第八の決定波羅密を見出し、斯う思った。「汝はこれから後、決定波羅密をも全うせよ。決定した上には決して動くなかれ。恰も山があらゆる方向から来る風に打たれても震わず動かず、ただ自己の場所に立っているのと同じように、汝も自ら決定した場所に居て動かなかったら、仏と成るであろう」とて、決定波羅密を堅く持して守った』と。決定とは、一には菩提心の生じる基となった真如相に相応することを言う。従って世間一般に「一心不乱」という言葉に基づいて想起する心の有様とは一線を画す。つまり世間的解釈による「一心不乱」なる観念は、例えば遊び呆ける子ども、或いは一球一魂などとも言われる球技などに熱中した状態や、それに類する競技への集中状態、或いは創作事に集中する精神状態などをも含んだものだ。これらの集中状態は、生滅する因縁相への執着状態とも言い換える事ができるように、一種の妄執であり、その外因と共に生起及び消滅を伴う動性のものである。これに対して「決定波羅密」に於ける「決定」は、菩提心が生じた因でもあるところの菩提の相の覚醒に基づく真如相への帰依であるから、如何なる外相も持たないが故に、破壊されることがなく、また動くこともない。依ってこのように決定波羅密を見出し、それを堅持することによって、必ずや仏に成るであろうということは、疑うべくもない自明の事柄なのである。
2007年10月31日
コメント(0)
続いて第七の真実波羅密に入る。『真実波羅密を見出して、彼は斯う考えた。「汝はこれから後、真実波羅密を全うせよ。雷が頭上に落ちるとも、また財宝やその他のもののため、利欲心などのために、知りつつも虚言を吐くことを止めよ。恰も暁の明星が、あらゆる時期を通じて、自分の行くべき路を捨てて他の路を行くことなく、必ず自己の路を取るのと同じように、汝も真実を捨てて虚言を吐かなかったなら、仏と成るであろう」とて、彼は真実波羅密を堅く持して決心した』と。これは天上への道を説く場合にも、そのまま適用出来る説法である。私も二十数年来、機会がある度に同じようなことを言ってきた。従ってこのような発言に対し、殆どの人々がどのような反応を示すか、私は嫌と言うほど見せつけられてきたのだ。もし我が国に、このような言葉が示唆する意味を素直に読み取り、そして実践する人物が少しでも居れば、我が国の天上者の数、そして必然的に関与する悟りの者の数は、現今の数倍乃至は数十倍に増えていても不思議はないのである。既に得た者は思い起こしてみるがよい。天上への道はまことの心の道であった。天国の門が開くのも、まことの心に応じてであった。偽る心は道を閉ざすのみである。現に今「道が見えない」と思うなら、その心は普段の偽りによって曇っているとも思われる。もし知らないことを知っていると思っただけでも、それは自ら道を閉ざす行為だ。従って正しく天上への道を説く書を見て、もし「こんな書はくだらん戯れ言だ」とでも公言したとすれば、それは多数の人々の未来を曇らせる大罪にもなるのである。特に僧のように、その形姿だけで人々が信じようとすることが多い立場の者なら、尚更その罪は大きい。ところでこの「真実波羅密」に於ける「真実」の根幹は何か。これは仏教に於いては真如実相と言われるものであり、キリスト教に相似を求めれば、神の国の姿であり、人間に具わるまことの心の有様と一体のものである。従って天国とは神の国の意であるが、進んでは神と人の心が本来の姿として一体になる境地でもあるのだ。これは仏教に於ける即心成仏の覚の有様と区別すべきものではない。即ち天国を体現する者と即心成仏を体現する者の心の様に差異は無いということである。故に神は真理なりと言われ、真如覚は仏覚と言われる。因みに真言密教で説かれるところの即身成仏は、斯かる即心成仏の一転の覚として認識する道に於いて、徐々に十全してくるものである。従ってキリスト教に於いても、同境地は説かれ得るものであり、その悟りを妨げるが如き何ものも認められるものではない。斯くして真実波羅密を全うすることは、進んで即身成仏に至る為の根本的な必須の覚でもあり、その条件覚でもあるのだ。
2007年10月30日
コメント(0)
更に仏に成る基となるべき法はこれだけではあるまいと思って探求する賢者について、経典では以下のように示されている。『斯くして第六の堪忍波羅密を見出して斯う考えた。「汝はこれから後、堪忍波羅密を全うせよ。褒められても見下げられても、唯それを恕せよ。恰も大地に、人が清浄なものを投げても不浄なものを投げても、それがために大地は親しみもせず怨みもせず、それを恕し堪え忍ぶのみであるのとのと同じように、汝も褒められ見下げられるを唯寛恕していれば、遂に仏となるであろう」とて、彼は堪忍波羅密を堅く持して決心した』と。これらの言葉は、恰も仏性の情解の如くであるが、心情に於いて仏性を円満にしようと努めるなら、ここに示唆されているが如きは当然の行為でなくてはならない。天上界に生の基盤を持つ者なら、斯かる堪忍波羅密は日常茶飯に実践されていることであるが、それは真理の世界を見た者には最上の情解にもなっているからだ。普段に於いては、つまり世間的会話に於いてはという限定ではあるが、褒めるも見下げるも真如に関わらない偽装である場合が多い。つまり殆どは真ならざる言動である。言い換えれば発言の中に自身への化粧行為が持ち込まれているのが普通でもあるからだ。また世には誰かが法を探求したり述べ伝えようとしている場に首を突っ込んで、「それは間違いだ」とか「くだらん話だ」などと不遜な発言をしたがる迷妄も後を絶たない。このような行動もまた、真如覚が開かれていない迷妄の為せる業なのだ。つまり真如実相を持ち出すなら、一切の言語表現は、最良の場合でも方便の域を超えられないことが悟られていなくてはならないということだ。従って彼らの行動の意味もまた、一つの虚構であり、自分を自他に向けて飾って見せたいが為の虚栄欲が働いている結果なのである。私の記憶を辿っても、事実そのような不遜な態度を取る人物に限って、極めて低俗な理念しか持ってはいない。このような認識と判断に基づいて堪忍波羅密に入るのが情解の視点である。世人の大多数は真理を述べる者を見ることに喜びを持たない。それは世人が他者の幸福を喜ばない心に似ている。では不真理を述べる者、或いは不幸に苦しむ者、これらを見て汝の心は弾むであろうか。もしそのような心の残存が見えたなら、それらを滅却する道がこの堪忍波羅密なのである。また真如観の視点からこの堪忍波羅密を十全する場合もある。これは悟りの境地から下って波羅密を満足させる行為であり、前者が衆生心から出離する方向での修行になるのに対し、菩提心に基づいて衆生心を鎮めるという菩薩業として理解される。この理が説明されるまでもなく自心に明瞭になること、これがこの堪忍波羅密の果位である。ここではこのような境地に入ることを指して、仏に成ると言われている。
2007年10月29日
コメント(0)
仏に成る法として既に「布施波羅密」「護戒波羅密」「出離波羅密」「智慧波羅密」と四つの法を確認してきたが、「仏に成る基となるべき法はこれだけである筈がない」と思って更に探り、「精進波羅密」を見出して、賢者はこう考えた。『汝はこれから後、精進波羅密を全うせよ。恰も獣の王なる獅子が、総ての動作に於いて強く精進するのと同じように、汝もあらゆる生存の中に、総ての動作に於いて強く且つ高く精進すれば、仏となるであろう』と。この経典にはこれだけの説明があるだけなので、一般的にはここで示唆されるべき精進の意味が不明だと云えるだろう。例えば世間に伝わる精進料理と言う場合の精進は、食に於いて戒を守る形式的表現という程度の意味が伝わるだろうが、精進波羅密は勿論護戒波羅密を破るものではないにしても、護戒波羅密の一部を述べるものではないので、意味を十全出来ない。また八正道の中に正精進が置かれているが、正しいという言葉の内容が知り難いであろう。例えば俗縁を絶って出離を目指し、行住坐臥に戒を護るという具合に、複数の波羅密をここに読み取る者もいるであろう。しかし他所の文献から理を模索するなら、それもまた迷いの一つの姿である。悟りとは仏性の浸透である。故に精進とは行為に於ける仏性の浸透でなければならない。衆生の性が迷いであるが故に、一切の行為に於いて仏性の浸透を追求し、一切行に於いて仏性を明確にすること指して精進としなくてはならない。仏性とは即ち破壊されざるものである。また一切の生有る者は、仏性を超えて高く進む事が出来ない。それ故一切の行為に於いて仏性の浸透を明確にすること、これを指して「総ての動作に於いて強く且つ高く精進する」と言われる。
2007年10月28日
コメント(0)
前回見た「出離波羅密」を見極めた菩薩は、更に「仏に成る基の法は、こだけである筈がない」と思って、更に探して、第四の智慧波羅密を見出し、斯う考えた。『汝はこれから後、智慧波羅密を完うせよ。卑しきも貴きも中間なるものも、何れもそれを見下げることなく、あらゆる賢者たちに接近して問い訊ねるなら、仏と成るであろう』と。「卑しきも貴きも中間なるものも、何れもそれを見下げることなく」とあるが、しかし問い訊ねるべき相手は「あらゆる賢者たち」であって、愚者と賢者は差別されるということだ。何故か。この「何故か?」の問いに於いて、智慧波羅密の正体が浮かび上がってくる。この「卑しきも貴きも中間なるものも、何れもそれを見下げることなく」とは平等性智の果行である。しかし平等性智は愚者の悟り得ないところである。故に賢者に接近して学び取れという意味になる。平等性智とは仏智の一つである。例えばもし一切所に仏性を見る者があれば、仏観として「卑しきも貴きも中間なるものも、その何れもが等しい存在」として観察される。斯くして一切の真如相を悟り得て、平等性智を完成するが如き智を指すという視点に於いて、ここで目指されている「智慧波羅密」への導きが明瞭に理解されるであろう。このようにして真如観を得た者が、この真如観を通して一切所にその本性を観察し、且つ彼らを迷いから導き出せる言語道、つまり一切方便の道などを切り開く根元の智慧を獲得すること、これを指して「智慧波羅密を完成する」と言うのである。
2007年10月27日
コメント(0)
既に「布施波羅密」と「護戒波羅密」によって、仏に成る道を見てきた。今回はその三「出離波羅密」を見てみよう。曰く『仏になる道はこれだけである筈がない、と思って更に探し、出離波羅密を見出して斯く考えた。「汝はこれから後、出離波羅密を全うせよ。恰も久しく牢獄に在る者が、それに愛着心を持たず、それを厭うて、其処に住みたいと思わないのと同じように、汝もあらゆる生存を牢獄と同じものと見、あらゆる生有を厭い、それを脱れんことを望んで、唯出離の方へ向かうべきである。斯くて汝は仏に成るであろう」とて、出離波羅密を堅く持した』と。出離とは、何処から何処への移動であるかなら、即ちこの世の生存を超えた所への移動である。我が国には「出家」という言葉がある。世間の意味を簡単に述べれば僧になることだ。ところでこの「出家」と、今見る「出離波羅密」とは関係が有るのかなら、実状としては全く関係していない。僧が住まう寺もまた、現実的な生存の形体に組み込まれているので、一つの職業であり、世俗の一形態に過ぎないからである。従ってこの意味からして、僧と悟りには必然的な関係は現実的に認められないことになる。つまり少なくとも現日本では、出家の本来の意味を求める限り、僧もまた在家なのだ。では「出離波羅密」の成就とはどのような状態を指すのであるかなら、これは精神に於ける問題であり、現実の生存の形象とは直接関係していない。即ち精神に於ける現世からの超脱を指すのであって、その第一の成就は「天上への出生」である。従って天上への出生を果たした者こそ、本来の出家であり、出離波羅密を成就した者と言われる。そしてこの天上の性を瞑想反復し、言語化を通して意識下に再確認し、一切界の真実として悟り得た者が、即ち仏と呼ばれるのである。
2007年10月26日
コメント(2)
「神は愛である」という言葉は、今やクリスチャンのみならず、一般的に誰もが聞き知っている言葉であろう。しかしここに言う「愛」は、一般的に人間が思う「愛」とは随分と様子が異なる。神の愛に対する人の愛は、概して情愛と呼ばれるべき性質のものである。仏教には「犀の角のように独り歩め」という言葉がある。「悪しき者と交わってはならない」という意味も含んでいるが、示唆の奥底には情愛の否定も含まれていると解すべきである。仏陀が妻子を捨てて仏の道に入ったということは誰もが知っていることだが、天上に入った多くの聖者もまた、その精神に於いて類似した生き方をしている。ニーチェは「イエスもまた同情という名の地獄を持っている」と指摘しているが、これもまた仏陀の視点と相似である。情愛には憎しみが混在している。ここには多くの場合地獄への道が有る。天国は独り静かに赴く所であるが、地獄へ堕ちる者は憎しみを伴って誰彼かまわず道連れにしようとするものである。サロメの悲劇を知っているであろう。象牙のように白く冷たく、月光のように清らかな聖者ヨカナーンに情愛を求めたサロメが、全く応じないヨカナーンに怒りと憎しみを覚え、ヘロデ王に強要してヨカナーンの首を手にするという話である。このように情愛に脆い者は概して憎しみの感情に動かされて罪の道に墜ちる。故に「人の愛」は「神の愛」の正反対のものをも含むということが分かるであろう。古今多くの聖者が情愛を嫌い、情愛を持って近付く者を遠ざけた理由の多くはこの故であろう。仏教では「愛別離苦」とか「怨憎会」、「求不得苦」、「五取蘊苦」という言葉がある。お分かりだろうか。人の情愛は、これら厭い離れるべき迷いの心の全てに繋がった煩悩の根なのである。天国の門がこれらの執着を滅した所にあることは当然である。
2007年10月25日
コメント(0)
前回の「護戒波羅密」は、本来の心の在り方を言葉で示そうとしたものと言うことが出来る。心は本来無相である。言葉で示された状態は有相の面である。無相を有相に変えるのは真実ではない。このような観点から説法は方便であると言われる。真理は直接言葉に出来ないという意味である。そこで戒律の内容を見てみると、どれも有相の否定であることが分かる。つまり無為を示唆しているのだ。これが解ると、一切の戒律の意味が全く別の角度から読めるようになるであろう。つまり一切所に我は存在しないという視点である。この視点に入れる者は、一切の罪から解放されて、無垢性の自己を確認することになる。ここが悟りの入り口なのであり、人々に戒律が示されている宗教的意義の最も重要な一つでもある。しかし天上者でもない一般者には、普通この戒律を見て即座に悟りの境地の入り口を見分ける力は無い。それ故示されたすべての戒律に対する心の葛藤が生じる。勿論天上者であっても、或いは悟りの者であっても、現実が問題にされる場合には、心と現実の葛藤は外面性として現れる。つまり心と現実には永遠の矛盾があるので説明がつかないということだ。例えば一般には「殺してはならない」を守りきることは出来ない。食肉の問題もあれば、害虫駆除などの問題もある。人畜に危険な野生の動物とか殺人鬼の問題なども、戒律との関係を思えば尽きざる葛藤が現れる。従ってもし「殺してはならない」の戒律を、宗教的修行者の域を超えて一般社会にも及ぼしたいのであれば、どのような事態に於いては何を殺してはならないのかというような細かい指定が必要になるだろう。何故と言って、一般社会人は悟りを求める特定の人物のように、己の生命を投げ捨てる覚悟で生きているのではなく、己の生命を守ることを前提に生きているからである。また次に事実上頻繁に生じる「嘘を言ってはならない」との葛藤を想起してみよう。或る絶望的な病の者を看護する者が、病名を偽るなどで病者の心を安楽にしようと計る時などにも、やはり宗教的な心との葛藤が生じるであろう。このような時、看護者によく生じる葛藤は、「例えこの嘘によって、自分の魂が罰を受けて地獄に堕とされるとしても、この不幸な病人の心を一時でも安らかに保てるのであれば、決して自分は後悔などしないのだ」というような心である。宗教者に現れる心の葛藤とは、常にこのようなものだと考えられるが、このような葛藤を何度も乗り越える過程の中で、人は徐々に悟りの境地に近付くのである。またこのような葛藤の過程を与える事が、一般者に対する戒律の意義でもある。
2007年10月24日
コメント(0)
菩薩の位から進んで仏になる法として、前回は「布施波羅密」を見たが、今回は「護戒波羅密」が語られている部分を紹介しよう。「汝はこれから後、護戒波羅密を全うせよ。これからは生命をも顧みずして、唯戒を大切にして護れば、仏と成るであろう」とある。「生命をも顧みず」とあるが如きは、天上への道を歩んだ者なら、一瞬にしてその意味が分かるであろう。なおこの経典には、「戒を護れ」とはあるが、どのような戒かは述べられていない。しかし一般社会人としての常識的判断で、ものの善し悪しは大凡分かる筈である。とは言え昨今は非常識で他者に迷惑をかけておきながら、それを注意されると、非を認めるどころか、かえって「ひどいことを言われた」と逆恨みする非社会的人間も多くなっていることには憂慮する。「戒を護る」とは、悪を為さないことを言う。旧約聖書の十戒には「私の面前で君に他の神々があってはならない」「偶像を作ってはならない」などの宗教的戒律の他に、「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」「隣人の家を貪ってはならない」などの一般道徳的な戒律が示されている。仏教では「五戒」や「十善法語」が知られていて、「殺してはならない」「盗んではならない」「淫らな行いをしてはならない」「嘘を言ってはならない」「自分を良く見せようとして飾り立てた言葉を使ってはならない」「人の悪口を言ってはならない」「二人に別々のことを言って両者の仲を裂くようなことをしてはならない」「欲で貪ってはならない」「怒ってはならない」など、これも凡そ大人の常識があれば護れることである。これら「十戒」や「五戒」や「十善法語」に書かれているような事柄を護ることが出来れば、その者は仏に成れるであろうと書かれている訳である。何故なら、これらの戒を護ることが、己の自我を超えることにも繋がるということが見通されているからである。従って自分を良く見せたいが為に、これらの戒を護るというのであれば、これは本末転倒であり、それは決して仏への道に入っている事にはならないのである。
2007年10月24日
コメント(0)
悪徳宗教の教主らが、自らの悪行成就のために恰好の道具として頻繁に利用するのが、この布施波羅密の理念である。しかし教主らに強要されたり脅されて行う布施は布施とは云えない。それらは概して強奪されたり、或いは脅し取られたとか騙し取られたという部類の損害に相当する。従ってそれらは布施行にもならないので、彼ら被害者がそれによって悟りに近付けるという訳でもない。では正しい布施波羅密はどのように行じられるものであるかなら、精神界から見た布施波羅密と、身体つまり現実界から見た布施波羅密に分けて説くことができる。本来布施波羅密は精神界から出て精神界に還元されるべき問題であるから、現実界から見た布施波羅密というのは影絵のようなものである。従ってここでは精神界からみた布施波羅密という視点から、その一つの法を述べてみたいと思う。例えば中国に伝わる「杜子春」の話を知っているだろうか。この話をもとに改作した芥川龍之介の「杜子春」は思想変換もあるので、ここでは必ず中国に伝わる「杜子春」の思想が正統なものと考えてもらわなくては、今言わんとするところの「布施波羅密」の意味まで違ってしまうが、ここでの杜子春は必ず最後まで声を発してはならないのである。声を発したことは決して是認されるべきことではない。何故ならここで声を発することは、幻影つまり不存在の世界に呼応したことになるからである。この沈黙と布施波羅密と何の関係が有るのかと不審に思う向きも多かろうが、勘の良い者には、今言わんとすることがもう分かったであろう。これで九割方「布施波羅密」が行じられたことになる。残りの一割はどうすればよいのか。これもここで私が示すべきことではない。何故なら真実の門を開くか開かないかは、各自の自由精神に基づいて初めて意義がある行為になるからである。こうして精神的見地からの「布施波羅密」が完成した瞬間、その者は天国に入ることになる。また既に天国の者が禅観に入ってこの「布施波羅密」を再確認した時には、悟りの世界が開かれるという順序である。故に仏典に曰く「仏になる基の法はどこにあるであろう」と求め、「昔の諸菩薩が第一に行われた布施波羅密」を見出し、「財産・名誉・妻子・肢体をば惜しげもなく、そこに来た乞食等の望みに任せて、残り無く悉く施して、菩提樹下に座せば、仏となるであろう」とて、過去世の仏が布施波羅密を堅持して決心したことが述べられている。
2007年10月23日
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1

![]()
![]()