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トウモロコシを喰らうギンタ&レッコ
ギンタ↑の・・・、父が「インシ」、「インシ」の母が夫に先立たれた「コッチ」、こっちの父母、つまり「ギンタ」の曾祖父母が↓ヨッチ&ボクジュだ。トウモロコシ好きは遺伝なのか、血統関係なしなのか?
そう言えば、最近自分の苗字の先祖、父系の先祖の所業に興味を持っている。
苗字は赤根といって少々レアなものだが、先祖は三重県一志郡の出身と聞いており、ある時ネットで検索したら、 「文久元年(1861)三重県津市白山町古市の赤根定七郎が、毘沙門天を祀るために地ならしをしたところ骨壺が出土した。これは往古、名のある貴人或いは武者など由緒ある人物のものと認め、首塚大明神としてお祀りした」
などと言う話を見つけた。さらに、現在確認できないが、毘沙門天を祀るようになった理由について、山から出る清水で酒を作ったら結構売れて儲かったので、お礼のために信貴山に詣でた際に発願したといった記事もあり、酔っぱらって気が大きくなり、裏山に神社など建ててしまったのだろう、と、想定していた。
ところが最近になって、この、たぶん酔っ払いだったはずの先祖が、その名もおどろおどろしい首塚明神社を建てた年が、桜田門外の変の翌年であることに、ふと気づいた。そして、桜田門外の変→殺されたのは大老井伊直弼→直弼は安政の大獄で多くの思想家を刑死させ「赤鬼」と呼ばれてた人物、といった基本的な話が浮かび、そう言えば、首塚大明神って・・・。となった。
そう、首塚大明神とは、本来、大江山の鬼とされた酒呑童子(しゅてんどうじ)が(おそらく平安京を荒らした強盗団のリーダー)、『鬼滅の刃』の如く討ち取られ、その首を祀って神格化されたものだ。鬼?酒?そして首塚大明神と言う名前からして、「貴人或いは武者など由緒ある人物」ではなく、鬼を祀ったのは明らかではないか?
ではなぜ、酒で儲けたから酒呑みの神様を祀るのさ、と言わず、出土した壺を骨壺などとわけのわからない理屈をつける必要があったのか(おそらく中世の経壺で中身が残っていればお経である)。首塚大明神としながら、毘沙門天を勧請したのも変な話だ。つまり、この酔っ払いだったであろう我が先祖は、「赤鬼」井伊大老を酒呑童子になぞらえて神社を造ったが、幕府をはばかって(同地は御三家紀州家の領内)公には出来ず、むしろさまざまに偽装したのではなかったか。
さらに、多少裕福な農民に過ぎない先祖が、「井伊の赤鬼ざまぁみろ!」などと、たぶん思ったのは、安政の大獄で知人に類が及んでいたか、本人が尊皇論者だったか、さらには桜田門外の変の実行犯(水戸藩浪人)が逃亡を続けていた折で、津から大和へ向かう雲出川流域の農民も、その逃亡に一枚かんでいた可能性まであり得る。
つまり、ただの酔っぱらいではなく、何か思想的な主張をもった酔っ払いだったのかもしれない。草莽の志士かもしれぬ、我が先祖もなかなかに酔狂である。
※資料補足
江戸幕府の責任者で強権をふるい、「赤鬼」と恐れられた井伊直弼の横死は、江戸の庶民に平たく言えば「ざまぁ見ろ!」と喜ばれ、それを茶化す川柳が貼られたり(「遺言は尻でなさるや御大病」、直弼の斬首は秘され存命で病床にあり遺言をしたとされたので、さすがご大老(大病)様ともなりゃ首がなくても尻でしゃべれるらしいぜ、とからかったわけである)、門付芸のあほだら経で唄われたりして(「上巳の大雪めったにない。桜田騒動途方もない。そこでどうやらお首がない」)茶化されることになっている。
大江山の酒呑童子の伝説は、1845に「大江山千丈ケ嶽 酒顛童子由来」が書かれ、それを基にした版本が近くの茶屋で売られるなど盛んに喧伝されている。