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兵士は戦場で何を見たのか ディヴィット・フィンケル 2016年The Good Soldiers 2009年 ニック・タースの「動くものはすべて殺せ」によると、ベトナム戦争では、米兵5万8千人の戦死、負傷者30万人をだしたそうだ。米国は、米兵の被害に厭戦するまで手出しをやめず、自国の痛みに耐えきれなくなってから撤退したことになると思う。 ベトナム側軍人は、ベトナム政府発表で、100万人死亡、かたや民間人は、200万人死亡。病院の記録を見ていくと三分の一は女性で、四分の一は13歳未満となっていたそうだ。 空爆量は、広島原爆640発相当、着弾の跡は21百万個、まかれた枯葉剤7千万リットル、浴びた人480万人だそうだ。 筆舌に尽くし難い残虐行為が繰り広げられ、遂には、逃げる者を殺人した数が軍事行動のノルマとなり、その達成は軍功として昇進や休暇の指標としてまかり通る自己欺瞞した軍のモラルに堕していたそうだ。 自らの痛みに耐えかねるまで手出しし合うのが、戦争の行き着くところとなってしまう果し合いだ。 この本は、2007年から2008年のイラク戦争への戦場同行取材記録で、延々と米兵の傷ついて行く様子が記録されている。イラク側の話は、誤射による市民・子供・ジャーナリスト13名の殺害や、戦闘行為周囲で怯え見つめる市民の表情、米軍協力するイラク人の不安定な心情にふれられてはいるが、ひたすら戦場での米兵の戦闘・偵察行動とその惨状の記述が続く。戦地の現実を米国人に知らしめる本なのか。論評の少ない記録記述により厭戦を呼び起こそうとしているのか。 争いには、手だし無用で、仕返しもならぬ事で、戦争は、よけるか、払うかに留めよとこの記録は語っているのだろうか。よくわからないが、手出しや仕返しは、為政者が義を語っても、義のある戦い方などにはならず、不義の応酬の果てに抜き差しならなくなり、最後には復讐を誓う者が生き残って果し合いが続くと言うのが、イラクの現状のようだ。 原題は皮肉を込めているような感じがするが、邦題の回答は何か。前向きなものは何も見れなかったのではないだろうか。
May 22, 2016
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武揚伝 佐々木讓 決定版2015年 初出2001年 榎本武揚の昌平塾での研鑽、江川英龍塾での蘭学自己研鑽、蝦夷・樺太視察随行、海軍伝習所入所、オランダ留学、造船・機関・砲術・物理・科学の技術習得、英仏視察、新造開陽丸での帰国航海、開陽丸艦長、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争、"蝦夷共和国"、海戦と陸戦、五稜郭での降伏、"共和国"兵・アイヌ・仏人義勇兵等のラ・マルセイエーズと続く波瀾物語で、英雄伝だ。 技術と知識と技能と武勇を身に着けた近代海洋武人・海軍人の誕生が見事で、戊辰戦争の義が滲み出た物語。降伏したが、立派な仕事をした尊敬すべき人物の物語、偉人伝だ。著者によれば、史実を基礎としてその隙間を想像力で埋めた作品だそうだ。 勝麟太郎が対比されるかの如く登場し、航海技能の体たらくと、秀でた政治的人格が描かれていてとても面白い。 半藤一利は、勝海舟ファンだそうで「もうひとつの幕末史」では、福沢諭吉が行った勝非難について、勝を擁護していて、咸臨丸の艦長としての渡米も力を発揮したかのように書いていた。 佐々木讓は、勝は操船も人事も体たらくで無能で、咸臨丸の渡米は、軍艦奉行が心配して同乗させていたアメリカ人海尉とアメリカ人水夫達が操船の中心と。榎本武揚等の実力のあるメンバーを退け、勝の息のかかった配下のメンバーを人選した勝の権勢欲の表れと。帰国後、海軍が勝を放逐した理由は明白らしい。 勝は海軍では人望も実力もなかったらしい。半藤説は、所謂判官びいきのようだ。 土方歳三は、転戦して榎本武揚と一緒に奮戦し、最終的には勇猛果敢に果ててしまう。吉村昭の「暁の旅人」で、函館に転戦していく土方が、松本良順に対して、有意の人材ゆえ死んではならず、東京に戻れと意見し、松本はそれを容れる場面があった。榎本武揚と土方の関係でも似たような土方を見る思いがする。土方歳三の生き方に惹かれる人が多いはずだ。 明治に入ってからの榎本武揚の業績には目を見張る。技術分野の逓信、農商務大臣や、文部、外務大臣、ロシア、清国との全権大使など歴任し、千島樺太交換条約、ロシア皇太子暗殺未遂事件処理もしたそうだ。足尾銅山操業停止命令も武揚らしい。農業、気象、移民、化学、紡績、製鉄、電話と貢献した分野は幅広いそうだ。 著者は、「明治政府が手に負えぬ事業が出てきた時、その都度、武揚が現場と実務の責任者を引き受けた」と評していた。 ますます、榎本武揚の明治での生き様を知りたい、死んでいった人々を知る人物が外交、技術、教育、福祉で活躍した姿を思い浮かべてみたくなる。 福沢諭吉は、「痩せ我慢の説」で勝と榎本、旧幕臣に論戦を仕掛けたらしい。顕職に就き富貴を得るべきでなく、隠棲すべきと。 勝については、「和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶々もって一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、」「三河武士の末流たる徳川一類の身として考えれば折角の功名手柄も世間のみるところにて光を失わざるを得ず。」と。 武揚については、「天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比するれば年を同じうして語るべからず。」「氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。」 「二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。」と。 咸臨丸で勝と渡米した諭吉は、勝にも武揚にも徳川旧幕臣としての人格を問うているようだが、同時代に生きた諭吉の説は、死んでいった人々、消えてしまった徳川の時代精神への鎮魂の思いが重きをなすものであったのかもしれない。 明治の後に続く惨劇を知る佐々木讓の説は、二人の功名の大きさが、明治が現在であり、その後に造り出してしまう時代を確信していない諭吉とは、深く重く違ったものになる。 平成からみた武揚は、とても大きい。まさに礎だ。
May 21, 2016
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流れる星は生きている 藤原てい 新版2015年 初出1949年 新田次郎の妻の新京から日本への乳飲み子、三歳、六歳の子供を脱出させる壮絶な記録だった。ネット上の話では新版は学生向きに初出の内容から削られているところがあるらしい。そうであっても生死の境を行き来するすざましい証言録だ。 1945年8月から1946年9月までの13ケ月間かけて女手一つで子の命を救いぬき、故郷にたどり着いた時の最後の言葉は強烈だ。 「これでいいんだ。もう死んでもいいんだ。」 釜山への満杯の貨車の中で同胞からのこころない非難の様は、全てのやり場がない。 「個人主義と人への嫌悪感、目でにくみ、心で猜疑し、人間の根性の底までさらしたまま、うじ虫のようにうごめいていた。」 秩序が崩壊した時に、子を死なせず、生き抜くためには、人の尊厳、規範、協働の世界の外におかれ、わが身我が子の身も心も、かばうものをはぎとられ、生身でさらされる。知恵と身体能力とあらんかぎりの生き抜く決意を審判され、命を拾うことが試される。 日本には壮絶な難民の歴史があること。これを知ることは、今も繰り広げられている難民問題の本質を少しでも理解することにもなるかもしれない。
May 3, 2016
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