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(昨日のブログのつづき)この本を書いていて、不思議なことも起きました。書いているうちに、謎の答えが自分が当初想定していた答えから変わってしまったり(最初の答えより面白くなりました)、話が先に進まず「もうダメだ!」と思って、ネットニュースの世界に逃避したらたら、歴史系のニュースを偶然目にしてそこからネタを見つけることができたり、とか。とにかく、こうして一冊の本として完成したこと自体が不思議に感じます。本当に、運がいい本です。事前に「現代ビジネス」や「夕刊フジ」で連載ができたことも、大変運が良かったです。読者の方からの生の意見をtwitterなどから知ることができたので、随所に本の中に反映させることができました。この本の制作期間は4ヶ月です。しかし、密度の濃い4ヶ月でした。論文は山のように読みました。多くの人にもいろいろ手伝ってもらいました。―――それにしても、歴史の本は売れるんでしょうかね。面白い本ならどんなジャンルでも売れるのでしょうが、はたして、この本はそもそも「歴史」というジャンルに認定されるのかどうかも不安です。不安と言えば、これまで私が書いた本は、「会計がわかる」「税金がわかる」「監査の仕事がわかる」といったタイプの本だったので、少々面白くなくても「勉強になったからまあいいや」といった免罪符的な逃げ道がありました。しかし、今度の本は「経済のことがそこそこわかる」とはいえ、基本的には歴史の本です。エデュケーションではなく、エンターテインメントの本です。私の本はエンターテインメントの世界でも、通用するのでしょうか?「誰に読んでほしい」とか偉そうなことは言いません。「読むと元気になる」という効果もそんなにありません。ただ、「歴史経済ミステリーというスタイルは、アリかナシか?」ということは知りたいので、できればあなたのジャッジをお伺いしたいところです。これがいまの正直な気持ちです。(とりあえず、おわり)
2011.12.05
(昨日のブログのつづき)いろいろあって、半分騙したような形で平清盛をテーマに本を出してもらうことになりました。この講談社さんの決断は、本当にありがたかったです。ちなみに、そのときの仮タイトルは『その時、平清盛が日本経済をつくった ~歴史でわかる経済入門』というものでした。完全にテレビのパクリです。ワンテーマを6ページぐらいで解説して、30コくらいの見出しがあるイメージの本でした。しかし、この構成はその後大幅に見直します。たしかに30コの見出しのほうが、コラム集みたいな形で簡単に書けるのですが、面白いかどうかというと、30コのネタのほぼすべてが面白くないと「面白い本」という印象にはならない、と思ったからです。だとすれば、最初に編集者さんから言われた通り、『さおだけ屋』のような本の構成にしたほうが面白くなるかな、と考え直したのです。『さおだけ屋』の構成は、一つの謎を提示して、それを解いていく過程でお勉強になる話を入れていく、というもの。今回も清盛にまつわる謎を提示して、それを解いていく過程で経済の勉強になる話を入れていく、という形式に変えることにしました。そして、清盛の謎として選んだのが「貿易は本当に儲かるのか?」「政府は反対したのに、なぜ宋銭は普及したのか?」「財力のある平家がなぜあっさり滅亡したのか?」の3つでした。特に、「平家滅亡の謎」は気になる人も多いかな、と思いました。一般的に言われている「平家が武士の心を忘れて、貴族化したからだ」という滅亡理由は、さすがに論理的ではないからです。(さらに明日につづく)
2011.12.04
『経営者・平清盛の失敗』を読むかもしれないあなたへこんにちは。このたび『経営者・平清盛の失敗』を上梓する山田真哉です。そもそも、この本を書くきっかけは、某国民的ドラマのプロデューサーから「今度、平清盛を主役にしたドラマをつくるので、清盛の経済面について教えて欲しい」という依頼を受けたからです。いまから1年半ぐらい前の話です。たしかに、「平清盛は大好きだ」と前から公言していたので、こうした依頼が来るのはおかしなことではないのですが、私も歴史業界から足を洗ってもはや10数年。かなり頭の中がスカスカになっていたので、慌てて神保町で本を買い漁ったり、図書館の書庫から絶版本を取り出してもらったりと、あたふたしながら無数の本や論文に当たりました。おかげで一定の知識量や史学科的な勘は取り戻すことはできたのですが、この労力をなにかに生かしたい、どこかで公表したいと思っていたところに、ある講談社の編集者さんが私のところに出版の依頼に来ました。依頼の内容は、「『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』みたいなものを書いてほしい」。ぶっちゃけ、私のところに来るのは、99%、こんな依頼ばっかりです。まあ、仕方ないのですが。そんなのネタがあれば、とっくの昔に続編を書いています。ネタがないから、本が出せないのです。(続編を出さないのには、それなりの理由があるのです)で、今回も即座に丁重にお断りしようかと思っていたのですが、その時、私の中に悪の心が芽生えました。「――なんとか話を歴史本の出版にすり替えられないかな」と、ふと思ってしまったのです。それから、私は必死に力説しました。「歴史を使ってなら、『さおだけ屋~』みたいな話が書けます!」「ビジネスや会計のことがよくわかる本です。歴史がちょっとだけ入っている感じで」「今度の大河ドラマは『平清盛』ですから、それにうまく乗っかれば!」これだけ話をしても、編集者さんの反応は芳しいものではありませんでした。それもそのはず、私は「歴史」ではまったく実績がなかったからです。いまでこそ、「現代ビジネス」さんや「夕刊フジ」さんで連載を持たせてもらい、それなりの実績ができましたが、当時はまったくの未経験者。単に大言壮語をしている自信過剰野郎にしか見えなかったでしょう―――。(明日につづく)
2011.12.03
今日は講談社さんの社内で缶詰めになって、『経営者・平清盛の失敗』書籍化の最後の作業をしていました。校了も責了もとっくに終わっていて、責了後の原稿をさらに修正する作業でした。ほぼ反則です。明日はもう下版(印刷直前)です。今回の出版作業は、今日で終了。本当にいろいろと大変でした。また機会があれば、どこかでお話しいたしますね。この本が2年ぶりの出版なのですが、あと2年間は本を出したくないなあ、というのが本音です。普段の会計や税務の仕事のほうがどんだけ楽か、ということが身にしみました。うーん。(書店POPの案)(こうして完成したのがこの本。あと2週間後、12月17日発売です)
2011.12.01
ちょっと前のブログで、「織田信長が平家の子孫を名乗った理由」という話を書きましたが、織田氏がまったく平家と関わりがないわけではありません。織田氏は尾張の守護代の家系ですが、元々の出身地は越前国(福井県)。そして、越前は平家にとっても思い入れのある土地です。平清盛の父・忠盛、清盛の嫡男・重盛、その息子で織田信長が先祖だと主張していた資盛と、平家が代々治めていた土地だったのです。平忠盛は若い頃から白河法皇・鳥羽天皇に仕え、治安維持などで活躍し、25歳で越前の国司になります。いまでは北陸にあまり豊かなイメージはないかもしれませんが、当時の越前国は豊かで栄えた国でした。九頭竜水系がもたらす肥沃な越前平野は多くの米を産出し、米どころとして全国でも1、2を争うほどの国でした。また、塩・鉄・馬も産出するなど、都に近い国の中でも随一の生産国として誇っていました。大和朝廷も507年に王朝がいったん途切れるのですが、越前国から出てきた継体天皇が後を継ぎます。これも越前の経済力があってこそです。そして、他の国と決定的に異なっていたのは、博多に次ぐ国際貿易港を有していたことです。当時、宋船や高麗船は博多港ではなく、敦賀港に着くこともあったのです。朝鮮半島南部からは対馬海流の流れに乗れば、すぐに敦賀まで行くことができたのです。朝廷は、博多よりも京都に近い敦賀に外国船が来ることを嫌がっていましたが、京都は日本の最大消費地でもあったので、商人側としては魅力がある港でした。忠盛が越前守になったのは1120年。長男・清盛が生まれたのは、その2年前、1118年です。もしかすると、清盛も幼い頃ちょうど国際貿易港・敦賀にいたのかもしれません。この越前での経験が、のちに忠盛・清盛親子が日宋貿易に力を入れるきっかけになった、と言われています。清盛が瀬戸内海沿岸の各国を押さえた後も、越前の支配を重視していたのは、重商主義政策を進めるために貿易港はすべて押さえたい、という意図があったものと思われます。さて、この越前が源平合戦の時代には争乱の火種となります。越前の知行国主・平重盛が1179年に亡くなると嫡男の維盛に引き継がれるのですが、それを後白河法皇が没収します。後白河も、豊かな越前が欲しかったのです。これに怒った清盛が軍事クーデターを起こして後白河法皇を幽閉(治承三年のクーデター)、その反動が以仁王の乱から始まる「源平合戦(治承・寿永の内乱)」となるのです。越前は古くから平家側の勢力が強かったのですが、1181年に加賀(石川県)の反乱軍が越前に侵入してきます。平家軍は迎え撃とうとするのですが、平家の家来であった越前の豪族・斎藤氏が裏切り、平家軍は敗走します。1183年、平維盛が率いる10万騎の平家軍が北陸道を進攻し、越前を取り戻し、加賀・越中(富山県)国境まで迫るのですが、倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲軍に大敗北。そのまま越前の反乱軍も従えた義仲軍が京都に攻めのぼり、平家は都落ちすることになります。越前は北陸道の要であり、ここを完全に失うことは都の維持も不可能にしたのです。越前は平家の拠点でありながら、平家を都から追い出した張本人でもあったのです。
2011.11.30
いま『経営者・平清盛の失敗』(12月17日発売)の最終段階です。そう、「索引」です。「索引」の大変なところ1.ページ数が確定しないと数字が正確にならない (今回は再校の校正でもページ数が変更になったので、特にエライことに)2.検索を使っても、ちゃんと検索されないか、関係ない文字まで検索される3.検索対象の箇所が多すぎると、どれを削るかで悩む (今回の場合、「清盛」「宋銭」「日宋貿易」といったワードは、本文中に無数にあります)これまでは、索引ページは1ページか半ページだったのですが、今回は2ページなので、2倍の苦しみです _Φ(・・;)責了日である12月1日まで、編集者総出でがんばります。
2011.11.28
今日の大河ドラマ『江』最終回のあとに、来年の『平清盛』の予告映像が流れていましたが、めっちゃ本格的で凄そうでしたねー。で、その大河関連のイベントに今度出演させていただくことになりました!―――――「平清盛」放送記念シンポジウム 12月18日、神戸朝日ホールで開催 大河ドラマ「平清盛」放送記念シンポジウムを開催します。 とき 12月18日(日)13時半~16時半(開場13時)ところ 神戸朝日ホール(神戸市中央区浪花町59)内容 基調講演「平清盛―その人物像と事業について」高橋昌明氏(神戸大名誉教授)▽アトラクション「福原遷都、ふたたび」神戸・清盛隊▽パネルディスカッション「清盛を生かした地域振興」 パネリスト・磯智明氏(大河ドラマ「平清盛」チーフ・プロデューサー)、 高橋一夫氏(流通科学大サービス産業学部教授)、 南部真知子氏(神戸クルーザー・コンチェルト代表取締役社長)、 山田真哉氏(公認会計士、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」著者)、 コーディネーター・田辺眞人氏(園田学園女子大名誉教授) 参加方法 はがきに参加希望人数、代表者の氏名、郵便番号、住所、年齢、電話番号を書き、〒650―8571(住所不要)神戸新聞社営業局業務推進部「平清盛シンポジウム」係。 ファクス078・361・7802でも受け付け。12月8日(木)必着。 定員500人、参加無料。応募多数の場合は抽選。 問い合わせは同係TEL078・362・7077(平日9時半~17時半) 主催 神戸新聞社、「KOBE de 清盛」推進協議会―――――はがきかFAXで応募できるそうです。「清盛を生かした地域振興」というテーマのパネルディスカッションで一体どんなことを話し合うのかは、まだ全然知りません(^^;)神戸に住む大河ファンは、ぜひいらしてくださいね!平清盛(1) ←大河ドラマ『平清盛』のノベライズ本
2011.11.27
私のサインは、だいたいコメント&イラストなのですが、新刊『経営者・平清盛の失敗』用の手書きPOPを作るのに合わせて、新しいイラストも考えていました。その結果、こんな感じになりました。運が良ければ、POPとして全国の書店にも並びます。
2011.11.26
数か月ぶりに講談社さんに行きました。書籍の詰めの打合せです。またいずれ話すかもしれませんが、今回は担当編集者さんが「3人+α」という異例の大所帯なので(通常は一人)、今日初めてほぼ全員と会うことができました。ずっとメールで散々やり取りしていたのに…。今日の打合せの結果、配本日が12月15日となったので、発売日は12月17日(土)になりました。 奥付の日付も、正直ベースでこの日前後になる予定です(通常は奥付日付を2週間ぐらい遅らせます。出来るだけ新刊のように見せるためにね)さて、本日より、「現代ビジネス」さんでの連載も再スタートしました!【最終章】「平家はなぜ滅亡したのか?」 清盛、痛恨のミスは『季節風』---そしてハイパーインフレが平家を襲う
2011.11.25
2011年11月1日、福井県でのある発見が歴史ファンを驚かせました。それは織田信長の祖先とされる平親真(ちかざね)が、実は平氏の子孫ではなかったということがお墓(五輪塔)の刻印によりわかったのです。平親真は清盛の孫で、1185年の壇ノ浦の戦いで入水した資盛(すけもり)の忘れ形見であるとされてきました。ところが、親真の没年齢が1290年であることが今回わかったため、親真が壇ノ浦の戦い後に生まれたとしても、100歳を超えて生きたことになってしまうのです。織田信長は平氏の子孫だと名乗り、家紋も織田家の「織田木瓜」だけでなく平氏の「揚羽蝶」も使っていました。しかし、この「織田家平氏説」を信じる人はそもそも少数でした。というのも、当時、系図を改ざんして名族の子孫だと名乗るのは日常茶飯事だったからです。織田家も最初は藤原氏を名乗っており、信長も若いころ(16歳)は「藤原信長」と名乗っています(尾張熱田八ケ村宛制札)。ここで大事なのは血筋の問題ではなく、どうして信長が「平氏」を名乗るようになったのか、という点です。足利将軍家を補佐するにせよ、倒すにせよ、武家の棟梁を目指すなら「源氏」を名乗っていたほうが有利のような気もしますし、身分の高さに応じた本性ということなら、もともとの藤原氏を名乗ったままでもよかったはずです。日本史上の武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が革命(易姓革命)的に交代する、という源平交代説が当時信じられていたので、信長が平氏を称するようになったという俗説もありますが、こちらは真偽のほどは不明です。では、いったいなぜ信長は平氏を名乗る必要があったのでしょうか?思うに、「平氏」という血筋には「経済に強い」「改革者である」という意味もあったのではないでしょうか。信長も楽市楽座政策や関所の廃止など経済に力をいれており、商業が活性化させるための大規模な街道整備も行っています。また、質の悪い貨幣と良い貨幣との交換レートを定めた撰銭令を発令するなど通貨政策にも力を注いでいました。これは、平清盛の貿易革命や港湾整備、通貨政策などを手本にした部分があったのではないでしょうか。信長は、「自分こそが経済にも強かった武士・平清盛の後継者である」と天下に示したかったからこそ「平氏」を称するようになった、と私には思えてなりません。
2011.11.22
「現代ビジネス」「夕刊フジ」で連載したものを大幅に加筆修正した『経営者・平清盛の失敗』の表紙が出来ました!発売日も12月14日(木)配本、全国的に12月16日(金)発売に決まりました。おっ、発売日は「日本タイトルだけ大賞2011」の本番と同じ日だ(^^)価格も1300円+税になりました。今週中にはAmazonでの予約も開始される見込みです。これまで書き忘れましたが、出版元は講談社さんです。講談社さんから出すのは初めてです。最大手なので、宣伝してもらえるかどうか…明後日から、最終工程である再校の著者校正作業です。全224ページなので、それほど手間がかかる作業ではないと信じているのですが……
2011.11.16
12月中旬発売予定の平清盛本ですが、タイトル&サブタイトルの決戦投票の結果が出ました。―――――経営者・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学 (44票) 37% 経営者・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書 (49票) 42% 通貨王・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学 (10票) 8% 通貨王・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書 (15票) 13%―――――ご協力くださった118名の皆様、本当にありがとうございました。というわけで、僅差ではございますが一番票を集めた『経営者・平清盛の失敗 ~会計士が書いた歴史と経済の教科書』で進めたいと思います。最終的には、私の判断ではなく、出版社の編集担当さんと販売部さんとの会議で決まるのですが、このタイトルで会議にかけられます。会議でどうなったのかは、またご報告いたしますね。なお、夕刊フジ連載「社長・平清盛」の最新号はこちら【社長 平清盛】“神戸遷都”に隠された経済の視点http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20111109/ecn1111090826001-n1.htm
2011.11.09
『経営者・清盛の失敗』(12月出版予定)ですが、いま初稿の著者校正作業が真っ盛り。これまで書いてきたビジネス書になかった点として、「地図」や「年表」「参考文献」がたくさんあること。実は、これはかなり手間がかかります。たとえば、地名にしても、現在の地名がいいのか、昔の地名がいいのか?「大阪」は、昔は「大坂」でしたが、だとすれば「大阪湾」も「大坂湾」が正解なのか?などなど。結局、「大坂湾」のくだりは、全面カットしました (^^;)……さて、タイトル投票も明日が締切日。明日、すべてが確定いたします。
2011.11.07
12月発売予定の平清盛本ですが、タイトル&サブタイトルの決戦投票を絶賛実行中です。途中経過は次の通りです。―――経営者・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学 (28票) 40% 経営者・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書 (31票) 44% 通貨王・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学 (4票) 6% 通貨王・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書 (7票) 10% ―――タイトルはかなり差が付きました。個人的には「通貨王~」に傾いていたので、意外でした (^^;)サブタイトルは大接戦です。まだの方は、よかったらクリックをお願いいたします。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆次の4つのうち、どのタイトルの本に興味がありますか?興味があるタイトルをクリックしてください。 (注意)クリックは一人1回限りになります! ◆経営者・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A1d546◆経営者・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A2b6be◆通貨王・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A305a9◆通貨王・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A41b1a○結果を見る┗ http://clickenquete.com/a/r.php?Q0035270C86e7○コメントボード┗ http://clickenquete.com/a/cb.php?Q0035270P00Cf814締切:2011年11月09日23時00分協力:クリックアンケート http://clickenquete.com/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2011.11.02
「現代ビジネス」「夕刊フジ」で連載中の『平清盛』シリーズ。これらを大幅に加筆修正した本を12月に出す予定なのですが、先日からタイトル投票を行っていました。皆様、ご協力をありがとうございました。総数115票。その結果ですが……―――――12月に出す平清盛本のタイトルとして、買ってもいいのは?社長・平清盛 (25票) 22%平家滅亡の経済学 (27票) 23%経営者・平清盛の失敗 (21票) 18%平清盛・通貨王の最後のミス (15票) 13%その時、平清盛が日本経済をつくった (5票) 4%会計士が書いた日本史教科書「平清盛」編 (22票) 19%―――――票が割れてしまいました。。。上位4つは誤差の範囲内なので、リアル投票の結果と合わせて、次の4つの「タイトル&サブタイトル」で決選投票をさせてください。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆次の4つのうち、どのタイトルの本に興味がありますか?興味があるタイトルをクリックしてください。 (注意)クリックは一人1回限りになります! ◆経営者・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A1d546◆経営者・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A2b6be◆通貨王・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A305a9◆通貨王・平清盛の失敗~会計士が書いた歴史と経済の教科書┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035270A41b1a○結果を見る┗ http://clickenquete.com/a/r.php?Q0035270C86e7○コメントボード┗ http://clickenquete.com/a/cb.php?Q0035270P00Cf814締切:2011年11月09日23時00分協力:クリックアンケート http://clickenquete.com/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━またぜひ宜しくお願い申し上げます <(__)>
2011.10.31
Webサイト「現代ビジネス」連載中の「経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学」も連載11回目になりました。今回も一時、第1位を獲らせていただきました。皆さま、ありがとうございます。『平家はなぜ滅亡したのか?』宋銭で二分された朝廷。謎の現象「銭の病」に苦しむ人々。しかし、清盛は動かなかった・・・なぜだ?また、12月に出版予定の平清盛本のタイトル投票も明日いっぱいで締め切ります。http://plaza.rakuten.co.jp/kaikeishi/diary/201110210000/タイトルは一体なんになるのか? ご興味ある方は、乞うご期待。
2011.10.28
(前回のブログのつづき)もし平氏政権が1年余りという短期ではなく、長期に続いていたら、日本はどういう国になっていたでしょうか?「国際交流にもっと積極的な国になっていただろうから、日本人ももっと英語が喋られるようになっていた」といったトンデモな想像も楽しいですが、もう少し真面目に考えると、日本がこれほど「土地」中心の社会にはならなかったかもしれません。源氏方の御家人たちは、「一所懸命」という言葉からわかるように、土地を守るために、土地を得るために戦いました。それは、今後のさらなる成長を望むなら、さらに土地を得なければならないことも意味します。平家滅亡、奥州合戦後、内乱・内紛が相次いだのもこうした背景があります。1200年(正治2年) 梶原景時の変1201年(建仁元年) 建仁の乱1203年(建仁3年) 比企能員の変1205年(元久2年) 畠山重忠の乱1213年(建暦3年) 和田合戦1221年(承久3年) 承久の乱1247年(宝治元年) 宝治合戦1272年(文永9年) 二月騒動そして、1274年(文永11年)文永の役、1281年(弘安4年)弘安の役と「元寇」が発生したことにより、鎌倉幕府はついに十分な恩賞を与えることができなくなります。もし元寇に対峙したのが平氏政権だった、銭で恩賞を与えていたでしょうし、そもそも元は通好を求めていたのですから、平和裏に元との間で貿易を行うことができたのかもしれません。さて、こうした土地を中心とした国づくりは江戸幕府・明治政府へと引き継がれ、国税収入の構成で地租(土地課税)が第1位を座を引き渡すのが1900年頃ですから、実に700年間、土地中心の社会が続きました。「土地神話」でバブルが発生したのも、いまでも「持ち家信仰」が根強いのもすべては長い歴史が培ったものだと言えます。もし平氏政権が長期間続いていたら、もし東アジアの貿易国家として樹立していたら、その後の世界史はまったく別の物になっていたのかもしれません。(ここで一旦、完)これまでブログで書いてきた文章を大幅に加筆修正して、「現代ビジネス」および「夕刊フジ」(ZAKZAK)にて連載いたしております。そして、さらに大幅に加筆修正して、12月に本を出版できればいいなあ、と思っております。<これまでの参考文献>『兵庫県史 第一巻』 兵庫県 1974『兵庫県史 第二巻』 兵庫県 1977『流通経済史』(新体系日本史12)山川出版社 2002『兵庫県の歴史』(新版県史 第2版 28)山川出版社 2004『福岡県の歴史』(新版県史 第2版 40)山川出版社 2010『鹿児島県の歴史』(新版県史 第2版 46)山川出版社 2011森 克己『新訂日宋貿易の研究』 (新編森克己著作集1)勉誠出版 2008森 克己『続日宋貿易の研究』 (新編森克己著作集2)勉誠出版 2009森 克己『続々日宋貿易の研究』 (新編森克己著作集3)勉誠出版 2009森 克己『増補日宋文化交流の諸問題』 (新編森克己著作集4) 勉誠出版 2011高橋富雄『人物叢書 奥州藤原氏四代』 吉川弘文館 1987福岡シティ銀行編『博多に強くなろう2』葦書房 1989朝日新聞福岡総局『海が語る古代交流』(はかた学3)葦書房 1990藤井一二『和同開珎』中央公論社 1991東野治之『貨幣の日本史』 朝日新聞社 1997五味文彦『人物叢書 平清盛』 吉川弘文館1999歴史資料ネットワーク編『歴史のなかの神戸と平家』神戸新聞総合出版センター 1999李 碩崙『韓国貨幣金融史―1910年以前』白桃書房 2000元木泰雄『平清盛の闘い―幻の中世国家』角川書店2001笹本正治『異郷を結ぶ商人と職人』(日本の中世3)中央公論新社 2002入間田宣夫、豊見山和行『北の平泉、南の琉球』(日本の中世5)中央公論新社 2002美馬佑造『入門 日本商業史』晃洋書房2003石井寛治『日本流通史』有斐閣2003竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中央公論新社2004石井 進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社2004金子 宏『租税法』 弘文堂 2005保立道久『黄金国家―東アジアと平安日本』(シリーズ 民族を問う3) 青木書店 2004高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社2007五味文彦『王の記憶―王権と都市』新人物往来社2007本郷和人『武士から王へ―お上の物語 』筑摩書房2007稲葉英幸『最新 入門の入門 貿易のしくみ』日本実業出版社 2008下向井龍彦『日本の歴史07 武士の成長と院政』講談社 2009高橋昌明『平家の群像』岩波書店2009山内晋次『日宋貿易と「硫黄の道」』(日本史リブレット75)山川出版社 2009大庭康時『中世日本最大の貿易都市・博多遺跡群』 (シリーズ「遺跡を学ぶ」061) 神泉社 2009荒野泰典、村井章介、石井正敏『通交・通商圏の拡大』 (日本の対外関係3)吉川弘文館2010小島 毅『義経の東アジア』トランスビュー 2010宿輪純一『通貨経済学入門』日本経済新聞出版社 2010岩村 充『貨幣進化論』新潮社 2010シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア『モノが語る日本対外交易史 七―十六世紀』藤原書店 2011 柳原敏昭『中世日本の周縁と東アジア』 吉川弘文館 2011岡本公樹『東北─不屈の歴史をひもとく』 講談社 2011(←発売はこれからですが著者のご厚意により事前に見せていただきました)山田昌久「日本における13~19世紀の気候変化と野生植物利用の関係」(『植生史研究』第3巻第1号 日本植生史学会1995)井原今朝男「宋銭輸入の歴史的意義―沽価法と銭貨出挙の発達」(『銭貨―前近代日本の貨幣と国家』青木書店2001)服部英雄「日宋貿易の実態―「諸国」来着の異客たちと、チャイナタウン「唐房」」(『東アジアと日本』2 九州大学21世紀COEプログラム2005)川合 康「中世武士の移動の諸相─院政期武士社会のネットワークをめぐって」(『歴史のなかの移動とネットワーク』(メトロポリタン史学叢書1) メトロポリタン史学会 2007)川合 康「生田の森・一の谷合戦と地域社会」(『地域社会からみた「源平合戦」』岩田書院、2007)市沢 哲「南北朝内乱からみた西摂津・東播磨の平氏勢力圏」(『地域社会からみた「源平合戦」』岩田書院、2007)飯沼賢司「銭は銅材料となるのか―古代~中世の銅生産・流通・信仰」(『経筒が語る中世の世界』思文閣2008)平尾良光「材料が語る中世―鉛同位体比測定から見た経筒」(『経筒が語る中世の世界』思文閣2008)堀本一繁「中世博多の変遷」(『中世都市・博多を掘る』海鳥社 2008)榎本 渉「日宋・日元貿易」(『中世都市・博多を掘る』海鳥社 2008)伊原 弘「宋代社会における銭の意義」(『宋銭の世界』勉誠出版 2009)井上正夫「国際通貨としての宋銭」(『宋銭の世界』勉誠出版 2009)妹尾達彦「都城の時代の誕生」(『歴博』第167号 国立歴史民族博物館 2011)
2011.10.26
(昨日のブログのつづき)清盛の死後、平家が滅亡するのはそれからわずか4年後のことです。歴史に「if」はありませんが、もし宋銭を適切に供給できていれば、もし大飢饉がなかったら、清盛が死んでいなければ、平家はその経済力により滅亡することはなかったでしょう。たとえ源頼朝のような幕府を開かなくても、経済界を握った財閥としての地位は保たれていたはずです。「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と『平家物語』にあるように、平家は全66カ国のうち半分の30カ国余りを知行国としたことが、人々の怒りをかったと言われています。しかし、これは治承3年のクーデター後の話なので、実際に平家が日本の最高権力を握ったのは、清盛の最晩年わずか1年余りの話でした。そう考えると、「清盛は本当に最高権力を握りたかったのか?」という疑問も出てきます。50歳で政界を引退してからは、神戸で日宋貿易の陣頭指揮を取っていたのに、重商主義と重農主義の対立激化と嫡男・重盛の死去により、62歳を過ぎて仕方なく政界に復帰したのが治承3年のクーデターです。本当は、貿易のパイオニアとして、日本経済界の経営者として活躍したかったのが、清盛の希望だったのではないでしょうか。いまだに「平家は武士なのに貴族化したから、平家は滅亡した」と思っている人もいますが、そもそも平家は軍事貴族の家系なので、その指摘は全くの筋違いです。ただ、軍事貴族の枠にとどまらず、経営者としての道を進み始めたことが、平家滅亡の原因となってしまったのは、それこそ悲運としか言いようがありません――。(次回、本当の最終回に続く)
2011.10.24
(昨日のブログのつづき)銭出挙の拡大 → 多額債務者の増加 → 銭不足 → 銭の供給失敗 → 「銭の病」と社会問題化した「銭の病」ですが、その後はどうなったのでしょう?実は、1187年まで銭出挙を含めた宋銭普及の可否問題は、朝廷でも議題に上らなくなります。もちろんこの間、治承・寿永の乱が起きたためにそれどころではなかった、ということもありますが、「銭の病」自体が急速に終息したものと思われます。多額債務者問題も解消してしまったのです。なぜ、「銭の病」は終息したのでしょうか?■天変地異それは、「銭の病」が流行った1179年の翌年、1180年から発生した天変地異がカギを握ります。4月には塵旋風(辻風とも呼ばれる)が京都で発生し、屋敷や家が壊滅的な被害を受けます。そして夏には旱魃、秋には西日本が大凶作になります。翌年には「春・夏に旱魃、秋には大風・洪水」と鴨長明の『方丈記』にも描かれた「養和の大飢饉」が発生します。大飢饉が起きると、経済はどうなるのでしょうか?■ハイパーインフレ僅かばかりに獲れた米が貴重になるので、米の価値が急上昇します。相対的に銭の価値は下がります。その頃の状況を『方丈記』では次のように記しています。「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。 たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」穀物の価値を高くみて、金銭の価値が限りなく軽くなる状態、まさにハイパーインフレの状況が発生したのです。宋銭が普及したことでデフレ気味だった経済が、大飢饉をきっかけにハイパーインフレに一気に切り替わったのです。『方丈記』では1181年頃から大飢饉が始まっていますが、その前年から西日本では飢饉が起きているので、もしかすると「銭の病」が流行った直後から米の凶作 → 米価値の上昇 → 銭の下落という動きが始まっていたのかもしれません。さて、いつの時代もハイパーインフレによって、一番得をするのは借金をしていた人々です。銭の価値が暴落するので、返済額の銭を集めることが容易になります。たとえば、現代に置き直すと、3千万円の土地を買って、同額のローンを組んだ人がいたとします。ハイパーインフレになってすべての価格が100倍になった場合、土地の価格も30億円になりますから、3千万円を返済したうえで27億7千万円が手元に残ります。銭出挙で借金をしていた人々も、借金がほぼチャラになったのと同じ状況になるのです。■資産の下落一方、銭を資産として大量に保有していた人々は、一気に資産を失います。その代表が平家一門です。銭資産の価値下落だけでなく、これまで銭による賃金で行っていた公共事業も行えなくなります。それまで私財を投じて行ってきた大輪田泊の修築も、1180年には国家事業として行ってほしいと清盛が朝廷に要望を出します。背景には、銭の価値が暴落があったものと思われます。■命運を決めた、富士川の戦いの真相また、平家の命運を決めた源氏との富士川の戦い(1180年陰暦10月)。これは両軍が駿河国の富士川を挟んで対峙したところ、合戦前に水鳥の飛び立つ羽音を源氏の奇襲と勘違いした平家軍が狼狽して一目散に逃げ出した、という逸話で知られる戦いです。これは平家軍の臆病ぶりを強調する『平家物語』の脚色ですが、実際は、そもそも源氏方の4万騎に対し、平家方はわずか2千騎という絶対的な戦力差がありました。戦力差を考えて、いつ撤退を決めてもいい状況だったのです。平家軍はどうしてこんなに少数だったのか?先に申し上げた通り、西日本は飢饉だったので、西日本から兵を集めることはできず、富士川に向かう途中の諸国から兵を現地調達していくしか方法はありませんでした。それも、これまで平家が得意としてきたのは銭を使って人を集めることでしたが、この時期には銭の価値はすでに暴落していたため、その手段も使うことができませんでした。常備兵がほぼ存在しないこの時代、銭価値の暴落は、軍事力の低下に直結していたのです。■平家の反撃ならずその後平家は自分の銭や米に頼らず、畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権である「畿内惣官」の地位を平宗盛が得ることで、強制的に兵や米を集めるようになります。そして、いざ関東に向けて一族挙げての総攻撃に出ようとした矢先に、平清盛がこの世から去ってしまったのです―――。
2011.10.23
これまで長々と書いてきた平清盛の物語ですが、もうそろそろ終わりです。ここまでの話については、「現代ビジネス」の連載で書いておりますので、そちらをご覧ください。さて、ここ最近の話をまとめると、平家滅亡の遠因には、重商主義派VS重農主義派の政策的対立があり、これが激化したきっかけに「銭の病」があった。この「銭の病」は、宋銭普及と銭出挙による信用の拡大で銭の需要が高まり、銭不足が起き、貧富の差を拡大させてしまったことを指していると考えられる――――と、ここまでお話しました。(もしちゃんと話していなかったら、「現代ビジネス」連載のほうでフォローいたします…)さて、銭不足に対して清盛はどう対処したのでしょうか?銭不足に対する対処法は簡単です。銭を増やせばいいのです。銭の需要が高い時は、それを供給すれば済む話です。現代でもデフレのときに「通貨供給量を増やせばいいのではないか」「いやそれは違う」と議論になりましたが、これは通貨供給量が増えても世間の人々の購買意欲が高まるかどうかはわからない、というのが議論のポイントでした。しかし、この平安時代の問題においては、購買意欲がないわけれはなく、単純に銭が求められている状況ですので、通貨を供給すれば問題は解決します。しかし、結果から見ると、清盛は通貨を適切に供給しませんでした。いや、できなかったのです。これこそが、有能な経営者だった清盛にとって、最大の失敗となります。なぜ清盛は通貨を供給できなかったのか?それは、通貨である宋銭が外国貨幣だったからです。外国貨幣を通貨として導入したおかげで、偽造の心配をしなくても済み、直接的に朝廷を刺激することもなかったのですが、デメリットもあります。それは、自分で鋳造するわけではないので、適切な時に適切な量だけ作り出すことができなかったのです。「でも、日宋貿易で宋銭を大量に輸入したのではなかったの?」とお思いの方もいるでしょう。たしかに、日本は宋銭を大量に輸入しています。南宋は宋銭流出があまりにも多いので、1199年、日本と高麗を名指しして宋銭の輸出を禁止する措置に出ます。(高麗商人は宋銭の日本への転売も行っていたため、高麗も規制対象になったのです)清盛も、「いざ宋銭が大量に必要な時になれば、大量に輸入すればいい」と思っていたかもしれません。しかし、そこには盲点があったのです―――。それは当時の貿易船がすべて帆船だったことに起因します。特に、日宋貿易で使用された宋船は、横に広がる帆である「横帆(おうはん)」の帆船です。横帆は追い風を捉える効率が高く、季節風を利用することで長距離を移動できます。逆にいうと、季節風がない時には長距離移動ができないのです。ご存知の通り、日本周辺は夏季には太平洋高気圧から吹き出す南風、冬季にはシベリア高気圧から吹き出す北風が吹きます。宋船はこの風に乗ってくるので、南風で「宋→日本」、北風で「日本→宋」という移動を行っていたのです。具体的には、夏から秋(陰暦6~9月)にかけて宋から日本へと到着しました。逆のルートはというと、極寒期の航海は避けますので、冬の終わりから春(陰暦3~4月)にかけて日本から宋へと渡りました。つまり、清盛が宋銭を供給したいと思っても、タイミングが合わなければなにも手を打つことができないのです。特に、銭の需要が高まる収穫の秋に銭不足が発生した場合、銭を供給しようにも連絡手段の問題もあるので、翌年の秋にならなければ希望の量の宋銭は輸入されません。「銭の病」と記されたのが陰暦6月、というのも辻褄が合います。この夏の終わり頃が、京都ではちょうど銭不足が最高潮で宋銭が届く直前のことだったのではないでしょうか。宋の港・寧波から博多までは、季節風に乗って、早ければ5日間で着いたといいます。通常でも10日間もあれば、着いたのでしょう。意外と近いにもかかわらず、往き来ができるのは年1回だけ。この制約に、清盛もハマってしまったため、「銭の病」を起こしてしまい、世間の不満を高めてしまったのではないでしょうか……。(明日につづく)
2011.10.22
昨日のブログで公開した「タイトル投票」ですが、次のような途中経過となりました。―――12月に出す平清盛本のタイトルとして、買ってもいいのは? 社長・平清盛 (17票) 21% 平家滅亡の経済学 (22票) 28% 経営者・平清盛の失敗 (12票) 15% 平清盛・通貨王の最後のミス (10票) 13% その時、平清盛が日本経済をつくった (5票) 6% 会計士が書いた日本史教科書「平清盛」編 (14票) 18%―――票が割れている……悩みがますます深くなりそうな……来週土曜日まで受け付けておりますので、まだの方はぜひぜひ清き一票を!↓↓↓━━━━━☆12月に出す“平清盛”本のタイトルとして、買ってもいいのは?(1冊だけ)◆社長・平清盛┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A12504◆平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A28198◆経営者・平清盛の失敗┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A3aa74◆平清盛・通貨王の最後のミス┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A4271c◆その時、平清盛が日本経済をつくった┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A5fbd0◆会計士が書いた日本史教科書「平清盛」編┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A618b7○結果を見る┗ http://clickenquete.com/a/r.php?Q0035233Ccd0d○コメントボード┗ http://clickenquete.com/a/cb.php?Q0035233P00C8eb3締切:2011年10月29日23時00分協力:クリックアンケート http://clickenquete.com/━━━━━さて、「現代ビジネス」で連載中の「経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学」のほうですが、ようやく最終章へと辿りつきました…。【最終章スタート】「平家はなぜ滅亡したのか?」犯人は源氏ではない・・・通貨王・平清盛、最後のミスに迫る!
2011.10.21
現在、「現代ビジネス」と「夕刊フジ」のほうで連載している平清盛ですが、どちらも好評につき、12月に出版されるかもしれません。(最後まで、どうなるのかはわかりませんが…)その際には、書籍のタイトルが必要なのですが、大変迷っている状況ですので4年ぶり?のタイトル投票をさせてください。よろしくお願いいたします。↓↓↓━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆12月に出す“平清盛”本のタイトルとして、買ってもいいのは?(1冊だけ)◆社長・平清盛┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A12504◆平家滅亡の経済学┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A28198◆経営者・平清盛の失敗┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A3aa74◆平清盛・通貨王の最後のミス┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A4271c◆その時、平清盛が日本経済をつくった┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A5fbd0◆会計士が書いた日本史教科書「平清盛」編┗ http://clickenquete.com/a/a.php?M0000429Q0035233A618b7○結果を見る┗ http://clickenquete.com/a/r.php?Q0035233Ccd0d○コメントボード┗ http://clickenquete.com/a/cb.php?Q0035233P00C8eb3締切:2011年10月29日23時00分協力:クリックアンケート http://clickenquete.com/━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━このアンケートと、リアルで出版関係者に伺っているアンケートを合わせて、新刊のタイトルとして決定したいと思います。なにとぞよろしくお願いいたします <(__)>
2011.10.20
本日、10月18日(火)より、「夕刊フジ」さんの紙上で、平清盛の連載を始めます。タイトルは、「社長・平清盛」です。「現代ビジネス」さんの連載とは、また別の話題を取り上げております。「夕刊フジ」さんでは一話読み切りの短編になっておりますので、ご興味のある方はぜひご覧くださいませ。追伸ネットからでも読めるようになりました!http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20111019/ecn1110190833000-n1.htm(ZAKZAK)
2011.10.18
Webサイト「現代ビジネス」連載中の「経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学」が連載9回目にして、初のランキング第1位を獲得できました。10月14日(金)の1日間の集計でも第1位でした。皆様、本当にありがとうございます!もうすぐ某夕刊紙での連載も始まる予定です。また出版化に向けても動き出しそうです。「大河ドラマ」商戦を考えると、12月中に出したいのですが、はてさて……。
2011.10.15
(昨日のブログのつづき)「銭の病」が発生するなか、宋銭普及の是非について繰り広げられた貴族を二分する激論とは一体なんだったのか?まず、1179年7月に清盛の娘婿でもある高倉天皇が「最近、估価法(朝廷が決める取引価格)が守られていない。これまでの法律を守らせるのか、新法を作るのか考えてほしい」と公卿(上位の貴族)に指示を出します。なぜ估価法が守られなくなったのか?それは、銭を想定していない估価法の相場と、宋銭を基準とした市場の相場との差が広がってしまったからです。前にもお話したとおり、宋銭が普及するとそれまでの貨幣代わりだった絹や米の価値が下がりますので、そこの乖離が出てきます。また、估価法の相場は朝廷が決めた「固定相場制」ですが、宋銭を中心とした相場は需要と供給のバランスで決まる「変動相場制」なので、そこに差が出来てしまうのは仕方ありません。また、高倉天皇は同時に「宋銭の流通についても認めるかどうか考えてほしい」という指示も出しています。それまで朝廷内は外国貨幣の流通を認めるなど論外だったので、天皇が今回初めて宋銭の流通公認を提案した、という状況です。高倉天皇と平清盛はタッグを組んでいる関係ですから、背後には宋銭の流通を公認させようとした清盛の要請があったはずです。こうした高倉天皇の指示に対して、明法博士(法律専門家)の中原基廣は「宋銭は朝廷がつくったものではないから私鋳銭(ニセ金)と同じ。流通を禁止すべきである」と提言します。この中原基廣は平家方の貴族なので、宋銭容認反対の意見が貴族の間ではよほど根深かったものと思われます。そして、翌月には新しい法律(公家新制三十二条)が発布されるのですが、宋銭については停止されることも規制されることもなかったので、実質的に黙認されることになりました。さて、この平家VS貴族の対立は、平家方が勝利しますが、平家滅亡後すぐの1187年には源範頼(源頼朝の弟)の提案で宋銭停止令が出ます。源氏は貴族方と一緒になって、宋銭停止の政策を推し進めようとしたのです。ここでも、重商主義・平家 VS 重農主義・貴族、源氏という対立構造が見て取れます。なお、平家滅亡後に出された宋銭停止令ですが、平家が黙認している間にも宋銭の普及は急速に進んでいたため、ほとんど効果はありませんでした。結局、1226年には鎌倉幕府が、1230年には朝廷が旧来の政策を改めて公式に宋銭の使用を認めることになります。さて、前にお話した「銭出挙の多額債務者問題」と「宋銭停止をめぐる対立」。これらの銭の問題が、平家に対して全国的な蜂起が起きる遠因となるのです。(つづく)
2011.10.13
(前日のブログのつづき)「1179年」というのは、地味ですが日本史にとってカギとなる大切な年でして、「現代ビジネス」の連載『経営者・平清盛の失敗』2011年9月23日分5ページにも少し書きましたが、1179年6月 摂関家領を保有していた娘・盛子が死去 「銭の病」と記される7月 宋銭への対応で朝廷が割れる 清盛の嫡男・重盛が死去11月 治承三年のクーデターと立て続けに事件が起きます。その中でも『百練抄』治承三年六月の条に「近日、天下上下病に悩む、これ銭病と号す」と記された「銭の病」。この「銭の病」が、なにを指しているのかについては謎とされています。1.流行病説素直に読めば、「病が大流行していて、それを通称で『銭の病』と呼んでいる」でしょう。流行病はなにかを媒介として流行る場合も多いので、海外から流入してきた宋銭を病気の原因としたのでしょう。この10年ほど前に病が流行った時は「羊病」と呼ばれたことがありました(ちょうどその頃、ちょうど羊が輸入されたのです)。さて、この病気は「おたふく風邪(流行性耳下腺炎)」のようなものだと言われています。しかし、おたふく風邪にかかるのは子供が中心なので、この「天下上下」という表現や子供が銭を扱うのか? といった疑問点も出てきますが、いずれにせよ、それだけ宋銭が世間に普及した証拠でもあります。2.インフレ説その一方で、この「銭の病」を物価騰貴だとする説も根強いです。急激な宋銭普及に伴うインフレーションにより世間の人々が困り果て、「銭の病」と称したというのです。宋銭が普及する、つまり「マネーサプライ(通貨供給量)」※が増加したため貨幣的要因のインフレーションが発生する、ということを言っているのだと思います。※郵政民営化に伴い日本銀行は2008年5月から名称を「マネーストック(通貨残高)」に変更この説は、経済理論的には間違ってはいないのですが、よくよく考えるとちょっと矛盾点も見えてきます。さて、貨幣的要因のインフレーションについて、もう少し細かく解説すると、通貨量が増大した結果、通貨を手に入れる人が増え購買力も増加します。購買力が増えるとモノがたくさん売れるため、モノの生産のほうが追いつかなくなり、供給不足になります。その結果、物価が上昇するのが貨幣的要因のインフレーションです。通貨量の増大 → 購買力の増加 → モノの大量購入 → モノの生産追い付かず → → モノ不足 → 物価高騰 しかしこの場合、見た目には銭が多いのが問題というより、モノが不足していることが問題なので、「銭の病」というより「モノの病」や「米の病」などと表現したほうが適切です。単に通貨量が増大して貨幣価値が下がった場合も、相対的に物価は上がりますが、そのときは、また米や絹といったモノでの取引に戻れば、問題はすぐに解決します。特に、『百練抄』に「銭の病」と書いた人物は特定されていませんが、貴族であることには間違いありません。貴族にとって、モノの価値が上がること、すなわち荘園から上納される絹や米の価値が上がることは、好ましいことであっても、悩ましいことにはなりません。前に宋銭が普及したことで、絹・米の価値が下がった「物価安」=「デフレ」という話をしましたが、インフレはその逆なので貴族は喜んだはずです。当時は、銭が急速に普及したといっても、絹や米での取引が完全になくなったわけではないので、インフレであっても絹や米を持っていれば困ることはないのです。そうなると、貴族を含めた世間のみんながインフレで困った、というのは当時の状況を考えると想像しづらいです。3.多額債務者説「銭の病」を素直に「銭」の問題だと捉えると、第3の説が浮上してきます。それは「銭出挙」問題です。以前、平清盛が宋銭の導入した動機の中には、いまでいう消費者金融に近い「銭出挙」を行う意図があったのではないか、というお話をしました。現在の消費者金融が多重債務者問題を引き起こしたように、当時の「銭出挙」も多額債務者問題を引き起こした可能性があるのです。銭出挙については、1187年には(世の実態に合わせるために)利息を上げる宣旨を出す話が出てきており(『玉葉』)、1193年の「宋銭停止令」では、銭出挙の利息制限法が出ています。「銭出挙」は、基本的には借りた銭を1年4ヶ月後には100%の利息を付けて返さなければなりません。返すには、借りた2倍の銭が必要になります。かなりの高利貸しです。(実際にはいまの闇金融のように、それ以上の利息を取っていたところもありました)稲の「出挙」ならば収穫をすれば済む話ですが、2倍の銭を集めるためには仕事をして得るだけでなく、人から借りたり、家財を売る必要も出てきます。まさに四苦八苦の状態です。現在の多重債務者問題が多くの自己破産者の発生させ、社会を不安定にさせているように、当時の銭出挙の多額債務者問題も自分だけでなく家族、親族、そして社会全体の問題として捉えられていた可能性があります。そうなると当然、朝廷でもこのことが問題視されるのですが、「銭の病」が記された翌月1179年7月から宋銭普及の是非について貴族を二分する激論が繰り広げられます。そして、このことが治承三年のクーデター、ひいては治承・寿永の乱を引き起こすきっかけとなるのです。(つづく)
2011.10.12
(10月8日のブログのつづき)さて、宋銭の普及により、なぜ多くの貴族や武士が困窮する事態になったのか?それは、とても簡単な理屈です。絹・米はこれまで貨幣代わりをしてきました。その当時の絹・米は、実際の商品価値にプラスして、貨幣価値があったのです。 平安時代の絹・米=商品価値+貨幣価値ところが、宋銭の普及で貨幣で無くなったのですから、当然、貨幣代わりとしての価値は無くなったのです。 宋銭普及後の絹・米=商品価値のみつまり、絹・米の価値の下落です。荘園から得られる絹・米が主な収入源だった貴族や寺社、そして各地の有力武士(在地領主)は収入が目減りしたのと同じ現象になります。荘園から直接銭を徴収できればいいのでしょうが、銭による納付(代銭納)が始まるのは、鎌倉時代中期以降の話です。農民たちにとっては、米などを銭に変える手段がまだ無かったからです。また、これまでは獲得した絹・米を使って他の物を買うことができたのですが、宋銭普及後は絹・米をいったん商人に売って、宋銭に変えてから他の物を買う、という非常に面倒くさい手間と取引コストが発生します。これには、いち早く銭取引が普及した京都の貴族・寺社は困惑したことでしょう。【収入の動き】 《荘園》→ 絹・米 →《貴族》→ 絹・米 →《商人》→ 宋銭 →《貴族》これにより貴族や寺社、有力武士の間に「宋銭の普及は正しいのか?」という反発が生じたのは想像に難くありません。この「絹・米から宋銭へ」という動きは、いまの感覚で言うと、「日経225銘柄」に選ばれていた企業が銘柄組み換えにより外れると日本株投資においてベンチマークすべき企業ではなくなるので、保有ポートフォリオから外す動きが出て株価が下落する、というのと同じ状況です。別の言い方をすると、「銭高絹安」とでも申しましょうか。「円高」の状況と似ています。通貨の価値が高くなると、相対的にモノの価値が安くなります。モノが持続的に安くなることを「デフレーション」と呼びますが、宋銭が欲しいという人が増える一方、絹や米といったモノがいらないという人は増えるので、まさにデフレになるのです。宋銭高になれば、宋銭を持っている人は有利になり、宋銭を持っていない人は、ますます手に入れづらい状況になります。宋銭を独占的に輸入している平家は有利になり、そうでない貴族や寺社、在地領主たちはますます苦しむのです。これは、デフレにより貯金が多いある人はモノをたくさん買えるので有利だけど、貯金が少ない人は仕事で稼ごうと思っても賃金が安いのでモノが安くても買えないので不利、という状況に似ています。現在は経済も複雑なので、これほど単純ではありませんが、シンプルに言うと、「通貨高」⇔「物価安」=「デフレ」という状況が、清盛の時代にも起こったのです。(現代の説明だと、円高により輸入品が安く購入できるので、それに引きづられて 国内のモノの値段(物価)も下がる、という流れです)ここにきて、「物価安」に反対し絹・米を中心とした経済社会を良しとする重農主義の一派と、「通貨高」を肯定し銭を中心とした経済社会を目指す重商主義の一派による対立が生じてきたものと思われます※。 ※ 重農主義……農業だけが富の唯一の源泉であるという思想 重商主義……貿易によって富を増大させようという思想重農主義派は貴族や寺社、各地の有力武士、重商主義派は貿易を勧める平家や水軍、商人たちです。重農主義派は後白河法皇を中心にまとまります。後白河法皇はもともと清盛とともに日宋貿易を推進していましたが、貿易の推進が単なる唐物や珍品の輸入増加にとどまらず、国のカタチまでも変えてしまうことに危惧し始めたのではないでしょうか。宋銭が急速に普及した1170年代半ばから、清盛との間に距離ができてきます。そして、のちに鎌倉幕府を開くことになる源頼朝も重農主義派です。重農主義の基本である土地の所有権安堵を基本に、御家人衆を束ねていきます。所領を命がけで守るという意の「一所懸命」の言葉は、重農主義だからこそ生まれるフレーズです。(実際の重農主義では、経済統制こそが経済発展を阻害する最大の原因と考えるので、18世紀のフランスでは関税の廃止など流通の自由化が行われます。一方、鎌倉時代は寺社の収入減に対処する形で各地に関所がつくられたので、逆のことを行っています)1180年からの5年間は昔から「源平合戦」と呼ばれてきましたが、現在学会でそう呼ばれることはなく、「治承・寿永の乱」と呼ばれています。それは、先に見てきたとおり、単なる平氏と源氏の戦いではないからです。背景に重農主義派と重商主義派との政策的対立があったからこそ、平氏・源氏を超えた日本最初の全国的な内乱になったのです。そして、平家の運命の分かれ目となる1179年。ついに、経済的な大事件が勃発してしまいます。(つづく)
2011.10.11
(昨日のブログのつづき)「以仁王の乱」の原因が、前年の「治承三年のクーデター」にあったわけですが、なぜ「治承三年のクーデター」を清盛が起こしたのかというと、それにはいくつかの原因が挙げられています。朝廷の最高権力者・後白河法皇との平家VS院近臣の人事における対立、娘・盛子の死去により実質的に平家が預かっていた“摂関家領”の後白河による強奪、後白河との間の調停者になっていた嫡男・重盛の死去、重盛の長年の知行国・越前国の取り上げ、など数々あります。治承三年のクーデターは基本的には、後白河法皇と平清盛との権力闘争なのですが、その翌年の以仁王の乱以後の「治承・寿永の乱」(源平合戦)では、後白河に関係のある武士や寺社、そして頼朝や義仲ら河内源氏以外にも、摂津源氏の多田行綱、近江源氏の山本義経、美濃源氏の土岐光長、熊野別当の堪増、伊予国の河野通清、土佐国の夜須行宗、豊後国の緒方惟栄、肥後国の菊池隆直などが叛旗を翻していることからわかるように、単なる2者の権力争いが原因だったわけではありません。全国的に不平不満が溜まっていた時代だったといえます。では、なぜ不平不満が高まっていたのか?それは2つの社会的変化が与えた影響が大きかったのだと思われます。一つ目は全世界的な寒冷化の到来です。気候変動による寒冷化は、何度も繰り返し起きているのですが、1100年後半から始まった寒冷期はグリーンランドにいたバイキングが寒波により消滅したり、モンゴル草原で草原が育たなくなってきたことでチンギス=ハーンが南へ侵攻するなど、歴史にも大きな影響を与えています。日本では、平安時代は全体的に暖かい気候で農作物もよくとれたのですが、平安時代末期からたびたび飢饉が起きます。芥川龍之介が『羅生門』で描いた世界もまさにこの時代です。飢饉が起きれば当然、社会は不安定になります。争乱が起きやすい社会でもあったのです。そして、もう一つの大きな社会的変化が「宋銭の普及」です。宋銭の普及により、多くの貴族や武士が困窮する事態になったのです。(10月11日のブログつづく)
2011.10.08
ここ数カ月、ここで平清盛のことを書いてきて、アクセス数がどんどん減ってきているわけですが (・・;)今日からは「平清盛・最終章」的な話を書きます。もし、これまで書いてきた内容が本になるなら、まさに最後の章にふさわしい話です。テーマはズバリ、「なぜ平家は滅亡したのか?」です。1185年の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、その後の平家の落人狩りによって一門はほぼ根絶やしになるのですが、そのきっかけはというと、1180年8月の「源頼朝挙兵」に遡ります。源頼朝の挙兵は、その年の4月に起きた以仁王の乱がきっかけです。後白河天皇の皇子である以仁王は「平家打倒」の令旨を出し、それに各地の勢力が呼応し、その一つが頼朝だったのです。各地で平家打倒の機運が高まった結果、平家が反撃に出て以仁王の乱も5月には鎮圧されます。頼朝のほうは、「このままだと平家に目を付けられて殺されてしまう」と恐れ、むざむざと殺されるぐらいならば、と挙兵したという事情もあるようです。それでは、なぜ以仁王が平家打倒を叫んだのかというと、この年の2月に安徳天皇が即位したのが大きな理由の一つです。以仁王にとって甥に当たる幼子が即位したということは、以仁王が天皇になる目が完全になくなったことを意味します。自分が天皇になるには、平家を打倒するしか道がなかったのです。では、なぜ安徳天皇が即位したのかというと、その前年1179年11月にクーデーター(治承三年のクーデター)を起こし、時の権力者・後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉したからです。当時は天皇が直接政治を行う(親政)のではなく、天皇経験者である上皇や法皇が政治を行う体制(院政)が続いていたので、院政を敷いていた後白河法皇を幽閉してしまうと、政治がシステム的に機能不全に陥ります。そこで現天皇である高倉天皇を上皇にし、その皇子である皇太子を安徳天皇として即位させることで、新しい院政を行うことができるのです。もちろん、清盛が早く自分の孫を天皇にしたかったという事情もあります。さて、この治承三年のクーデターの際に、もう一つ小さな事件が起きています。このクーデターでは後白河法皇側の貴族を多数追放し、その荘園を没収しているのですが、その中で以仁王の所領であった常興寺の荘園も没収しています。荘園からの収入はまさに生活に直結する話です。この経済的な恨みも、以仁王の乱の伏線になっています。(つづく)
2011.10.07
(昨日のブログのつづき)「硫黄」と「万之瀬河口」を支配する南九州の阿多氏に対し、「金」を支配する東北の奥州藤原氏。阿多氏は討伐したのに対し、清盛が奥州藤原氏を討伐しなかった理由は、国際貿易港の有無だったのではないかと思われます。奥州藤原氏も本拠地平泉から北上川を下れば、太平洋に面した石巻港に出ることができます。しかし、嵐が多い太平洋を航海するのは大変です。東北の米を船で江戸に直接送る「東廻り航路」が河村瑞賢によって開発されるのは江戸時代になってからの話です。奥州藤原氏は、石巻のあとは白河関、宇都宮へとつながる陸路を取ったと思われます。金という少量で高価なモノを運ぶのですから、より安全な陸路を選ぶのは当然でしょう。平泉の位置も、当時の東北の中心地だった奥六郡の南端に位置しますが、もっと広い視点で見ると、東北の入口である「白河関」と蝦夷への入口である青森の「外が浜」(青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸)を結ぶ「奥大道」(初代・藤原清衡が整備した幹線道路)のちょうど中間に位置します。つまり、陸路の中心地です。一方、平泉から日本海側に出て日本海ルートで博多と並ぶ玄関口だった敦賀に向かい、そこから宋と直接貿易をしていたという説もあります。しかし、それはなかったと思います。たとえば、津軽の十三湊は鎌倉・室町時代には北の玄関口として栄え、そこの統治者である安藤氏は「奥州十三湊日之本将軍」と名乗るぐらいに権勢を誇りました。ただ、十三湊の発掘調査によると、本格的に機能し始めたのが1200年代以降ということなので、奥州藤原氏は十三湊を活用できなかったようです。というのも、奥州藤原氏も当初は東北の陸奥(太平洋側)も出羽(日本海側)も勢力範囲でしたが、初代・藤原清衡の死後、後継者争いが起き、出羽の豪族・清原氏出身の母を持つ兄・家清を陸奥の豪族・信夫佐藤氏出身の母を持つ弟・基衡が倒して2代目を継ぎます。その結果、奥州藤原氏は出羽の豪族たちとは距離ができてしまいました。その証拠に源頼朝による奥州合戦の際、清原一族は藤原氏と一緒に戦ったのではなく、傍観していたと言われています。奥州藤原氏は東北全体を支配していたわけでは、どうやら無かったのです。日本海ルートを築こうにも、日本海側は勢力範囲圏外だったのです。さて、清盛は奥州藤原氏とは敵対しない一方、南九州の阿多氏に対しては万之瀬河口を我が物にしようと兵を送ります。送り込まれた名将・平家貞は阿多忠景軍を圧倒、忠景は鬼界ヶ島へと逃げます。その後、清盛は阿多忠景の女婿である平宣澄にこの地域の支配させ、宣澄は平家側の人間として活躍します。歌人としても有名な、清盛の末弟・忠度が薩摩守になるのも、この流れです。平家が万之瀬河口を支配した時代も、日宋貿易はさかんに行われます。平家滅亡後、平宣澄は所領を没収され、代わりに薩摩・大隅・日向の守護としてやってきたのが惟宗氏です。のちに島津氏と呼ばれるこの一族―――その中で万之瀬河口を本拠地とした相州家島津家出身の島津貴久が戦国時代に薩摩を統一します。そして、息子の“鬼島津”島津義弘から“名君”島津斉彬まで、長期間にわたって中央とは一線を画した南九州独自の勢力を築くことに成功した島津家。この力が、明治維新への原動力となるのです。(おわり)
2011.10.06
清盛が経営者として優れているところに、「敵・味方がハッキリしていた」という点が挙げられます。現代風に置き換えると、ライバルを「連携する相手」とみなすか、「潰す相手」とみなすかを明確に峻別する、といったところでしょうか。清盛にとってのライバルは源氏ではありません。清盛が目指す貿易繁栄路線に対し、源氏にはこうした思想はないので貿易上のライバルにはなり得ないからです。実際、鎌倉幕府成立後も、源氏三代の時代は貿易に乗り出すことはなく、幕府が積極的に貿易に乗り出すのは北条氏の時代、それも元寇後の話になります。貿易上のライバルのなり得るのは、金を産出する東北の「奥州藤原氏」。そして、もうひとつ。同時代に南九州に勢力を誇った薩摩平氏と呼ばれる一族の一つ阿多氏でした。阿多氏が支配する鬼界ヶ島からは、重要な輸出品である硫黄が出たのです。硫黄は火薬の原料となるため、貿易相手国の宋にとって、喉から手が出るほど欲しい鉱物でした。なお、この鬼界ヶ島、現在の硫黄島(南西諸島)だと言われているのですが、硫黄のために島の周辺海域が黄色に変色していることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、「鬼界ヶ島」となったと言われています。鬼界ヶ島は流刑地としても有名で、鹿ケ谷の陰謀の後、俊寛らが流されており、その俊寛が島に取り残される場面は『平家物語』の名シーンとして知られています。さて、硫黄を独占的に支配した阿多氏は「奥州藤原氏」という言い方をマネするなら、「薩州阿多氏」とでも申しましょうか。しかし、一般的にはまったく知られていない存在です。なぜ知られていないのかというと、1150年代に総領の阿多忠景が南九州に覇を唱えたあと、1160年代前半には平清盛の重臣・平家貞によって倒されてしまうからです。これは「阿多忠景(平忠景)の乱」と呼ばれています。奥州藤原氏と同じように、朝廷の支配から離れた独自の勢力として、一地方を支配した阿多氏。清盛は奥州藤原氏とは手を組んむ一方、なぜ阿多氏は倒そうとしたのでしょうか?考えられるのは、奥州藤原氏が貿易上のライバルにはならないと判断したのに対し、阿多氏は貿易上のライバルになると判断したという点です。阿多氏は、「万之瀬河口」という博多に次ぐ貿易港を持っていたのです。万之瀬川(まのせがわ)の河口付近は古くから良好な自然の港として利用されてきたのですが、最近の遺跡調査で中国製の陶磁器が大量に発見され、ちょうど1150年頃から中国との貿易が盛んになったのではないかと見られているのです。「万之瀬河口」は薩摩半島の南寄りで東シナ海に面しているので、宋の港・寧波からは博多より便利な場所に位置しています。1158年に「大宰大弐」になったことで名実ともに博多を押さえた清盛にとって、万之瀬河口は博多の地位を脅かしかねない存在でした。(明日につづく)
2011.10.05
来年の大河ドラマ「平清盛」。舞台の一つになる福岡・博多でもさぞや平清盛ブームで盛り上がっているのだろう、と私は思っていたのですが、そんな盛り上がりはほとんど見られないとか。それどころか、何人かの博多っ子に平清盛について聞いたところ、「平清盛って博多に関係あるの?」という返事が。まっ、博多っ子ってなんて薄情なんでしょ!たしかに、博多っ子が好きなのは、竜造寺・島津・大友による三つ巴の合戦で灰燼に帰した博多を復興させた豊臣秀吉や、関ヶ原の戦いののち、博多を町人の町としてそのまま残した黒田如水・長政親子かもしれません。しかし、平清盛の博多への貢献度も計り知れないものがあります。保元の乱で活躍した後、1158年、大宰府の実質的な支配者である「大宰大弐」に希望して就くと、博多港の拡張に取りかかります。当時、日本随一の国際港だった博多をさらに栄えさせようとしたのです。目的は、日宋貿易のさらなる発展です。清盛がつくった港は、日本初の人工港だったという説もあります。また当時の博多周辺では貿易から生じる富を巡って、大宰府の役人と宗像宮・筥崎宮・安楽寺(大宰府天満宮)などの寺社勢力による騒乱がたびたび起きていましたが、これもすべて平家の配下とすることで収めます。そして、博多の発展と旧来の寺社勢力への牽制のために、新たな神社を自分の領地である肥前国神埼荘(佐賀県)から勧請(神仏の分霊)します。それが、7月の「博多祇園山笠」や10月の「博多おくんち」といったお祭りを行う櫛田神社です。清盛がいなければ、博多祇園山笠や博多おくんちも存在しなかったかもしれないのです。さて、博多の人々は博多の発展に力を入れた平家に恩義を感じ、平清盛の嫡男・重盛が1179年に病死した際には、その霊を慰める儀式を行ったといいます。それが、現在の「博多どんたく」です。毎年ゴールデンウィークに行われる博多どんたくは、動員数200万人を超す、国内最大級のお祭りになっています。勢力拡大のために、外国貿易の玄関口である博多を真っ先に押さえた平清盛。ここで得られた経済力をきっかけに、平家は日本初の武家政権を樹立へと突き進みます。開放的・先進的な考え方は、現代の博多っ子に通じるものがあると思われますが、博多っ子のみなさん、いかがでしょうか?
2011.10.02
「現代ビジネス」で連載中の「経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学」。今週で連載第7回になりました。今回は、アクセスランキング第5位を獲得できました。書籍化できるといいんですけど、いまのところ話が進んでいるわけではありません。まだページ数も足りないので、どんどん書いていかなければならないのですが…。日本史ミステリー・宋銭普及の鍵をにぎる「ドル化」「貨幣の三機能」そして「北朝鮮デノミ政策」さて、山田真哉による平清盛についての執筆ですが、別の媒体でも連載を持つことになりました!今度は、新聞です。10月中旬、開始予定です。乞う、ご期待。
2011.10.01
(平清盛話の番外編として、清盛と各都道府県の関係についてたまに気ままに書いていきます。)【平清盛と三重県】平清盛はそもそも三重県(津市産品)の生まれであり、その出身一族も「伊勢平氏」と呼ばれるだけあって、三重県とは縁が深いです。縁が深いどころか、三重県に地盤がなければ、政権を獲ることなどできなかったかもしれません。というのも、三重県は昔から重要な土地でした。東日本と西日本の接点となる場所であり、大和朝廷も東日本進出の拠点として重要視していました。伊勢神宮の場所も適当に決められたわけではないのです。ヤマトタケル(日本武尊)も、東国を平定する際は、伊勢神宮で草薙剣(三種の神器の一つ)をもらって旅立ち、帰って来て三重県(亀山市)で死んでいます。その際、「足が三重に折れ曲がるほどに疲れた」と残したヤマトタケルの言葉が、「三重」の由来です。また、現在、新幹線が通っていないのでイメージにないかもしれませんが、古代からの幹線道路である東海道、いまの国道1号線も三重県の桑名や四日市・亀山を通っています。清盛ら伊勢平氏が京都に進出しやすかったのも、この東海道があってこそです。さて、三重県は古くから東国の玄関口として海運が盛ん、という面もありました。その中でも安濃津(あのつ)は良港で、日本の主要港である三津七湊の一つであり、中国の歴史書でも博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)とならんで「日本三津」に数えられています。そして、安濃津を押さえていたのが伊勢平氏でした。安濃津は流通・交易の要地なので、当然、そこから得られる経済的利益も大きかったことでしょう。清盛たちは西国や瀬戸内海に進出したことで海や交易に強くなったと思われがちですが、DNA的にはもとから海や交易に強い一族だったのです。しかし、安濃津という港は現在残っていません。1498年に発生した明応の大地震(東海地震)と大津波が原因です。この地震と津波による死者は4万人以上。鎌倉大仏も流され、浜名湖が海とつながるという、大きな爪痕を残しました。そして、天下の良港・安濃津も消えてしまったのです。――この安濃津、その後は「津」と呼ばれるようになり、現在は三重県の県庁所在地として復活を果たしています。
2011.09.26
「現代ビジネス」で連載中の「経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学」。最近、アクセスランキングが落ちてきたので、思い切って、このブログでの告知を止めてみたらどうなるだろう、と思い、昨日の告知を我慢してみました。その結果、一ヶ月ぶりに自己最高の第2位を獲得できました。……なんで?【第二部スタート】日本経済史上、最大のミステリー! 日本を、そして平家の運命を変えた「宋銭」普及の謎・・・それはなぜか源平合戦直前に起きた
2011.09.24
(前日のブログのつづき)約1週間、長々と書いてきましたが、この宋銭の普及の謎を書いてきた「宋銭編」もようやく今回で最終回です。さて、清盛が宋銭を貨幣として輸入することを決めた後、残っていた最後にして、最大の難関とは「貨幣をいかに流通させて“通貨”とするか」という問題です。貨幣を流通させることは大変な作業です。奈良時代の直前につくられた国産の銅銭、和同開珎も簡単に普及したわけではありません。導入の責任者である朝廷は、さまざまな手を尽くします。役人への給料や労働者への賃金を銭で払ったり、当時の税金である「租・庸・調・雑徭」のうち、庸・調・雑徭を税で納めさせることにして、なんとか銭を流通させようとしました。また、地方にも流通させるために旅では銭を使うことを奨励したり、土地の売買には銭を使うことを強制しました。そして、極めつけは、一定の銭を貯めた人々には位階を授けることにしたのです(蓄銭叙位令)。これは貴族だけでなく、農民も対象にしたものだったので、まさに国中を巻き込んでの普及政策でした。それでも、和同開珎をはじめとする国産の貨幣は900年代後半を最後に、つくられなくなってしまいます(このことについては、また後日解説いたします)。平家については敗者のため元々が史料が少なく、清盛がどのような宋銭の普及活動をしたのかは、いまのなってはよくわからないのですが、おそらく自分の勢力が及ぶ領国・荘園内では和同開珎と同じような政策をしていたものと思われます。たとえば、瀬戸内海の各地で行われた大規模工事の賃金として宋銭も払ったり、その宋銭で年貢(荘園における税金)も納めさせたりしたのでしょう。逆にこうした大規模な政策ができるのは、当時、朝廷か清盛しかいません。消去法でも、宋銭を貨幣として普及させたのは清盛しかいない、というのはこうした理由からです。また、可能性として考えられるのは、「銭出挙」と呼ばれる金貸し行為です。春に稲を貸して、秋に利子を付けて稲を返すという「出挙」制度は奈良時代から盛んに行われており、清盛の時代には、国司にとっては貴重な財源、富豪層、有力百姓層にとっては私的な徴税として出挙を行っており、大きな利益を得ていました。その銭版が「銭出挙」です。この時代は不作・飢饉が相次ぎましたから、「銭出挙」に頼る人々も多かったはずです。ただ「出挙」の場合は稲ですから、収穫の秋になればある程度は返済することができますが、「銭出挙」の場合は、仕事で稼がなければ返済することは全くできません。これが後に大きな問題を引き起こすことになるのですが、それはまた別の機会にいたしましょう。さて、宋銭を普及させる一方、宋銭への信認を得るための手段として使ったのが、「仮に通貨として使えなくても仏具になる」という宋銭ならではの使用価値だと思われます。たとえば、宋銭を数百枚集めれば、先述した“経筒”ができる量になるのです。当時は、末法思想の真っただ中。西方極楽浄土への憧れは、貴族・庶民問わず大変なものがありました。宋銭を以前から「浄土に導く仏具のカケラ」として使っていたため、実際の銅の素材価値以上に、信仰物としての信認が宋銭に与えられたはずです。政府非公認にもかかわらず、宋銭が通貨として普及した背景には、清盛の努力だけでなくこのような日本人の宗教心もあったのです。(「宋銭編」おわり)―――――なお、下の「現代ビジネス」のサイト連載では、「日宋貿易編」である第1部が完結いたしましたので、よろしければこちらもご覧ください。このブログで書いたことを再構成して、他の人に直してもらっているので、このブログよりもはるかに読みやすいです (・_・)v第1部完結! この国のカタチを変える清盛式"貿易革命"、夢半ばにして散る・・・平家滅亡が「貿易立国日本」を800年遅らせた?
2011.09.19
(やたらと長くなってしまった前日のブログのつづき)1150年代から、経筒の材料として輸入が始まった銅製の宋銭。1160年代から、本格的に日宋貿易に力を入れ始めた平清盛。なぜ清盛は、宋銭を貨幣として使用しようと思ったのでしょうか?主な理由は4つほどあると思います。1.貨幣の保存機能 為政者でも商人でも、できれば財産は蓄えたいもの。 しかし、絹や米の物品貨幣である限り、腐ったり、虫に食われたりと、 長期の保存はある程度最初から諦めなければなりません。 それが銅製の金属貨幣であれば、長期に貯蔵することが可能になります。 よりお金持ちになる道が開けるのです。2.取引コストの低下 絹や米の物品貨幣の場合、品質は一定以上か、量は確かに合っているか、など 取引を行うたびに様々な手間暇がかかります。 たとえば、当時は絹も上・中・下と3段階に分けて貨幣として使っていたのですが、 そのランクを見極めるだけでも大変です。 それが、1枚=1銭と簡単に数えることができる宋銭になれば、取引は楽になります。 この取引コストの低下は商業の発達にもつながります。3.貨幣発行権 朝廷が宋銭に対して嫌悪感を持っている以上、平家が独占的に宋銭を輸入し 流通させることができれば、本来、その国の国王しか持つことができない貨幣発行権を 実質的に手に入れることができます。 貨幣発行権は、貨幣発行益を独占的に手に入れられるだけでなく、 ロスチャイルド家の初代当主が言ったといわれる 「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、 そんなことはどうでも良い。」 とあるようにその国の経済を一手に動かすことができます。 まあ、逆に言うと、経済は生モノなので制御することは容易ではなく、失敗すれば その憎悪を一身に受けることになります。 この通貨発行権が平家滅亡の一因になろうとは、この頃の清盛には想像すら していなかったはずです。4.偽造対策 仮に平家が宋銭の輸入を独占したとしても、偽造の宋銭が出回れば、 貨幣発行益を盗られるだけでなく、通貨を通した経済運営もままならなくなります。 偽造貨幣は、現在でも偽札の問題がなくならないのと同じように、 古今東西、つねに問題となる事柄です。 偽造貨幣がつくられる条件は、「原料の確保」「道具の準備」「鋳造の技術」の3つです。 特に3つ目の「鋳造の技術」は欠かせない条件で、偽造の犯人としてよくあるのは、 貨幣を鋳造している人物がそのまま偽造にも手を染めることです。 たとえば、和同開珎などがつくられた奈良時代では、 王氏という一族が鋳物師として有名ですが、767年、 その王氏一族40人が私鋳銭を作った罪で出羽に流されています。 しかし、宋銭の場合は中国で、それも100年前につくられたものが大半なので、 少なくとも宋銭を実際に作った技術者は日本にまずいません。 また貨幣の鋳造技術も、200年前に日本では廃れています。 つまり、外国から輸入することで、現在も未来も、偽造されにくい貨幣になっているのです。 これは宋銭だけの特徴です。 清盛が自らの権力で自らの貨幣を作ることも可能だったとは思うのですが、 それをしなかったのは、この偽造対策も念頭にあったと思われます。 ちなみに、宋銭にも当然偽造がでますが、それが大問題になるのは 室町時代になってからの話です。さて、清盛が宋銭を貨幣として輸入することを決めたとしても、まだ最後にして、最大の難関が残っていました。(つづく)
2011.09.18
(9月15日のブログからのつづき)ここまで「宋銭の普及の謎」について読まれてきて、お気づきになられた方もいると思うのですが、「宋銭の普及」には大きく2つの謎があります。ひとつは、「宋銭が導入されたきっかけ」もうひとつは、「宋銭が普及した理由」です。「宋銭が普及した理由」については、これまでに見てきたとおり、・社会の生産力が上がって米や絹の物品貨幣では支障が生じてきたこと(具体的には、量るのが大変といった取引コストの問題)、・博多の宋商人の間では宋銭が使われていた可能性が高いこと、・200年も前ですが金属貨幣の歴史が一応あったこと、そして、・実際に国際貨幣であったかどうかはさておき、「唐物」の影響もあり 宋銭には異国の物ならではの魅力があったことこれらの要因が複合的に相乗し合って、外国貨幣の全面導入という民間主導の貨幣革命が起きたと思われます。では、普及よりも難しい「宋銭が導入されたきっかけ」はそもそも一体なんだったのか?こちらのほうは、それらしい史料もなにも残っていないので、本当にミステリーです。しかし、誰が仕掛けたのかという点についてはある程度絞れます。まず、商人ではないでしょう。宋銭が普及していない時点では、商人が宋銭を輸入しても売り先はないからです。普及させるために輸入をする、という理屈も考えられなくもないですが、そんないつ普及するかどうかわからない先の利益のために、普通の商人が先行投資をするとは思えません。もちろん、朝廷ではありません。基本的に貿易も嫌いですし、九条兼実ら主な貴族は、宋銭が普及した後も「宋銭は日本の銭ではないから私鋳銭(偽造銭)と一緒」という理由で宋銭を禁止しようとします。となると、残るは、当時の貿易の担い手である寺社勢力か武士勢力、つまり平家一門になります。寺社も利益を求めて貿易に手を出しているのであって、利益が出ない宋銭の輸入は考えられない―――と思うかもしれませんが、一つの意外な事実があります。最近の学説なのですが、「1150年代頃から日本は宋銭を銅材として輸入して経筒をつくった」という話があるのです。当時、写経したお経を筒に入れて土中に埋葬した「経塚」をつくることが流行ったのですが、その「お経を入れた筒」のことを「経筒」といいます。そして、出土した銅製の経筒を調査した結果、1150年頃を境に一斉に国産から中国華南産に切り替わったことがわかったのです。この頃の日本は銅が不足していました。奈良の大仏をつくると産出元なった長登銅山(山口県)も、この頃には稼働を中断しており、稼働が再開されるのは精錬技術が発達する1300年代後半になります。ということは、突然1150年代に銅が国産から中国産に変わった理由として考えられるのは、宋銭=銅の原材料として使ったという事情です。どうしても銅が欲しかった寺社は、宋銭を輸入することで銅の代わりにしたのです。ちなみに、宋にとっては銅の輸出は貴重な資源の国外流出になるので、禁輸品目にしています。もちろん、宋銭も一時期を除いて基本的には禁輸品目です。宋銭を輸出されないように、国境の地域(四川)には銅銭を禁止して、鉄でつくった鉄銭を強制したぐらいです。逆に海に面した地方では銅銭が普通に流通しており、庶民も持っていたので、そこから集めて輸出するのは比較的容易でした。寺社は「銅製の経筒がほしい」という高僧や貴族の要請に応じて、銅(宋銭)の輸入を始めたのです。ちなみに、当時の人々の思想を支配していた末法思想によると1052年は末法元年とされたので、人々は大いに恐れ、盛んに経塚造営が行われました。この時期に、石製や陶器製の経筒よりも耐久性がある銅製の経筒が求められたのは、当時の人々の心境を考えると、よくわかる気がします。さて、寺社は宋銭を銅材として輸入を始めたのですが、それに対して「せっかく宋銭を輸入するのなら、貨幣として使った方が有意義ではないか」と思う人物が現れないと、宋銭は貨幣としては流通しません。その人物は一体誰なのか?消去法で考えても、この人物しかいません。平家一門の総帥、平清盛です。【宋銭導入のきっかけ】末法思想 → 銅の需要大 → 宋銭を銅材として輸入 → 銅製の経筒が普及→ 宋銭を貨幣として使えないか?(明日のブログにつづく)
2011.09.17
(前日のブログのつづき)宋銭が普及した理由はいったいなんなのか?「日本の場合、昔から和同開珎などの貨幣があったから」というのを理由に挙げる方もいます。いまでは和同開珎(708年~)よりも、富本銭(683年)のほうが最古の貨幣として有力になっていますが、いずれにせよ日本には大和朝廷が国家として整備されてきた頃から貨幣の歴史が始まっています。しかし、この貨幣の歴史は1000年代初頭には途絶えてしまいます。貨幣の導入以前に使われていた、米・絹・布といった物品貨幣に戻ってしまうのです。厳密に言うと、貨幣が地方には普及しきれないうちに、都会でも廃れてしまう、という終焉でした。【貨幣の歴史】 (飛鳥時代)(奈良時代)(平安時代前期)(平安時代中期)(平安時代後期)米・布 → 富本銭 → 和同開珎など皇朝十二銭 → 米・絹 → 宋銭 ですので、清盛が生きていた時代は、貨幣が廃れて200年近くの歳月が経った後です。銅銭を見ても、ピンとこなかったと思われます。いまで言うなら、江戸時代後期の文物を見るのと変わらないので、宋銭を見て「古い!」と思った平安人もいたかもしれません。ちなみに、和同開珎をはじめとする、朝廷がつくった12種の貨幣「皇朝十二銭」がなぜ廃れたのかというと、シンプルに説明すると次のような流れです。(1)原材料である銅が枯渇し採れなくなった → (2)銅に鉛などを混ぜた素材の劣る新貨幣をつくる → (3)新貨幣への信認が弱いので、取引で受け取ってもらえなくなる → (4)新貨幣が使いづらくなるこれをずっと繰り返した結果、貨幣自体が使われなくなりました。貨幣が使われなくなった理由は他にもたくさんあり、「安い中国の銭を偽造した貨幣(私鋳銭)が増えた」「交換比率が新貨幣1枚に対し旧貨幣10枚だったので、みんな旧貨幣を潰して(破銭)、価値の高い銅材として使った」「新貨幣が突然10倍の価値になったので(デノミネーション)、経済が混乱した」など、経済にとってロクなことが起きませんでした。このデノミネーションによる経済の混乱は、2009年~2010年の北朝鮮でも起きましたね。なお、貨幣は古今東西、常に偽造の問題が付きまといます。金属貨幣の場合、「素材自体の価値」と「貨幣としての価値」に差が生じるとその差額が貨幣発行益になります。たとえば、現在の日本の通貨でも次のような差額が出ます。 硬貨 原価 原材料 500円 約30円 ニッケル黄銅 100円 約25円 白銅 50円 約20円 白銅 10円 約10円 青銅 5円 約7円 黄銅 1円 約3円 アルミニウムだいたい原価のほうが安いです。100円玉の場合は原価が「25円」なので、1枚つくるごとに「75円」の貨幣発行益が発生します。人件費うんぬんという話もありますが、偽造は基本的に儲かります。なぜなら、国も貨幣発行益が出るように、貨幣をつくっているからです。和同開珎のときも、この貨幣発行益を当てにして、藤原京から平城京への遷都の費用を工面するためにつくられています。そして、貨幣発行益が大きい貨幣は、やはり偽造の対象として狙われやすくなります。実は、この「偽造」と「貨幣発行益」の問題が、宋銭の輸入と普及にも大きく関わってくるのです。(つづく)
2011.09.15
(昨日のブログのつづき。連続3回目)単純に「国際通貨だから」という理由で、宋銭が普及したわけではないとすると、いったい他にどういう理由が考えられるのか?「社会全体の生産力が向上した結果、余剰のモノができ、これを交換・流通させるためには、これまでの物品貨幣(米・絹)では不便で、金属貨幣が強く求められていたから」という、いわゆる社会要請論があります。たしかに、これは間違ってはいないと思います。米や絹の貨幣ですと、1.品質によってバラツキがでる2.豊作・不作などで価値が大幅に変わる3.いちいち量るのも手間がかかる4.重たいので運ぶのに不便というふうに、なにかと面倒です。そしてなにより、5.腐ったり、虫がわいたりして長期の保存ができないという、貯蔵できない欠点があります。ここに金属貨幣があると、価値が明確で、それほどブレず、数えることもでき、運ぶのも楽、そして、貯蔵ができるので、がんばり次第で資本を蓄えることができるという、商売のヤル気にもつながります。だから、宋銭という銅の金属貨幣が急速に普及した……と考えられなくもないですが、前にも書いた通り、貨幣という交換を前提としたモノの場合、個人や数人の同意では普及しません。一定規模の共同体全体が“銅の塊”を通貨として信任しない限り、通貨は普及しないのです。この社会要請論は、宋銭が急速に普及した原因の一つではありますが、「そもそも誰が通貨として使い始めたのか?」という点については、謎が残ってしまいます。もっと言うと、この平安末期に宋銭が急速に普及したからこそ、鎌倉時代には全国的に「定期市」ができ「座」が生まれるなど、商業が大いに発達した、という逆転の論理も成立するのです。【宋銭がもたらしたもの】宋銭の輸入 → ? → 宋銭の普及 → 貨幣の貯蔵可 → 商売にヤル気 → 商業の発達あと、博多の宋商人たちが住んでいた「唐房」では宋銭が普及していたからそれが全国に広まった、という説もあります。これも宋銭に通貨として信認を与える要因の一つだったとは思いますが、博多で使えるからと言って、京都の人たちが急に使い始めるか、と言われるとこれも微妙だと思います。京都から博多の遠さは、いまで言うと日本とアメリカぐらいの距離感はあったと思いますが、アメリカで使えるからと言って、日本でも急にドルに変えるかというとそんなことはしないと思います。いま使っている米や絹、または“円”という貨幣で、事足りているからです。それでは、わざわざ宋銭を使うようになった理由は、いったい何なのでしょうか?(またつづく)
2011.09.14
(前日のブログのつづき)「宋銭」の流通は、突如、爆発的に広がりました。清盛が日宋貿易を盛んに行った1170年代から宋銭の流通が広がったとみられ、1179年には「近日天下上下病悩、これ銭病と号す」(『百錬抄』)とあるように『銭の病』が流行ったという日記が残っています。この『銭の病』がなにを指しているのか、については定説がなく、「流行病」を銭の普及に掛けた表現だとか、物価のインフレーションのことだとか言われています。海外のモノが普及すると同時に、海外から新たな病原菌も入って来て新種の病が流行るのは、大航海時代のアフリカや新大陸でも同様の事例があるので、「流行病説」も一理あります。また、この『銭の病』が記された1179年6月頃は、ちょうど朝廷でも宋銭についての問題が議論されているので、「物価のインフレーション説」も説得力があります。この『銭の病』問題については、またいずれ私なりの見解を申し上げますが、いずれにせよ、この頃には宋銭がかなり普及していたことは間違いありません。さて、突然現れた通貨である「宋銭」が日本であっという間に流通した理由は、一体なんだったのでしょうか…?実は、これについても諸説あり、いまのことろ定説はありません。「当時、宋銭は国際的に通用する通貨だったから」という説が一般的には知られています。国際的にも使える通貨だから日本でも使えると信じ、異国のモノだけどすぐに信認した、という論理です。たしかに、宋銭は東アジアのみならず、東南アジアやペルシア、アフリカ方面でも使用されたと言われています。しかし、国際通貨であるにも関わらず、日宋貿易で輸入品を買う時ですら宋銭は使われていません。以前は宋銭の輸入について、『貿易決済のため宋銭を輸入した』という説が有力でしたが、実際の貿易決済では「金」が使われていました。また、お隣の国である「高麗」では、宋銭はほとんど流通していません。当時の高麗は、政府が独自の貨幣(銀瓶貨・海東通宝など)をつくったのですが、その流通に失敗。結局、米や布が物品貨幣として使われていました。宋の北にあった「遼」では宋銭が流通していましたが、それは中国から略奪品として国内に大量に持ち返ったのがキッカケで、意図的に輸入したわけではありません。北宋を滅ぼし南宋と争った「金」やシルクロードに位置する「西夏」、ベトナム「李朝」ではたしかに宋銭が使われていました。これらの国は、日本や朝鮮に比べて、もともと中国文化の影響力が強い地域だったため、中国のマネで宋銭が一般に普及するのも、それほど違和感はなかったのでしょう。さらに、各政府は宋銭に似た貨幣(金の正隆元宝など)も独自につくっています。これは銭に対して国家が信用を与えていることを意味しており、銭全体の流通を後押しする行為です。(一方、日本では宋銭はずっと公認していません。 それどころか、たびたび禁止令すら出ています。 宋銭が公認されたのは、清盛の死後ずっとあと1226年のことです)つまり、宋銭だけが流通する国家が周辺には無かったにもかかわらず、日本だけが「宋銭が国際通貨だから」という理由だけで自然に普及したというのは、どうも不自然です。「国際通貨だから~」という理由は、とてももっともらしい説ですが、なぜ日本だけが? という日本の特殊性を解明しないと、説としてどうしても論拠が弱いままです。だとすると、宋銭が急速に普及した理由は別にあるはずなのですが…(明日のブログにつづく)
2011.09.13
以前にもこのブログで触れましたが、平清盛の話で欠かせないのが、「宋銭の輸入」です。日宋貿易で大量の宋銭を輸入したことで、日本の貨幣経済が始まります……というのが教科書的な説明なのですが、違和感はないでしょうか?違和感がないというのは、思考停止状態にあるのかもしれません。よくお考えください。宋銭の輸入したら、即、貨幣経済が始まるというのは、あまりにも短絡的ではないでしょうか?というのも、それまで米や絹といった商品貨幣で物々交換をしていた平安時代の人々に「今日からこの宋銭が米や絹の代わりだ!」と言ったとして、すぐ素直に受け入れるでしょうか?たとえば、私がどこかの市長になって、「今日から通貨を“円”から“山田”に変える。1円=1山田だ!」と言ったところで、誰も“山田”を使ってくれないと思います。たとえ、お手製の“山田”札をみんなにバラまいたとしても。それは、“山田”に実績がなく、通貨として信認されていないからです。また、私がどこかの商店街の会長になって「うちの商店街では“円”だけでなく“ドル”も取引で使いましょう」と言ったところで、誰も賛同してくれないと思います。外国人客だらけならともかく、地元住民にお釣りをドルで渡しても迷惑がられますし、扱う通貨が2つになれば、管理や集計の手間も倍になります。―――清盛の生きた平安時代末期も同じ状況です。小さな銅の塊が通貨だと言われても実績がないので信認しませんし、すでに米や絹が通貨として存在しているので、外国で人気の通貨だと言われても新たな通貨が増えるのは手間が増えるだけです。つまり、自分一人が賛同しても、周りの人々、共同体の大半が宋銭を通貨として認めなければ、流通されることはないのです。だとすると、宋銭が日本で流通した理由は一体なんだったのでしょうか…?(つづく)
2011.09.12
毎週金曜日更新、講談社「現代ビジネス」でお送りしている『経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学』連載第4回が、おかげさまでUPされました。これまでは、前にこのブログで書いたことを下書きに再構成したものを出していたのですが、今回はブログにも書かなかった話が8割がた占めています。第4回の見出しは、ついに結論!父・忠盛はいかにして巨万の富を得たのか?解決編+2つの追録「金閣寺の秘密」「もう一つの“関ヶ原の戦い”」ということで、巨万の富を手に入れた謎、つまり「平忠盛の成功法則」の話です。あと、今回は初の追録として、同じく貿易で儲けた足利義満とオランダの話も載せています。関係ないといえば、関係ないですが、歴史の授業は脱線が面白かった記憶があるので、この連載でもたびたび脱線を入れようかと思っております。歴史が苦手な人にとっては、そこが混乱してしまう原因でもあるんですけどね (^^;第4回 ついに結論!父・忠盛はいかにして巨万の富を得たのか?解決編+2つの追録「金閣寺の秘密」「もう一つの“関ヶ原の戦い”」
2011.09.09
(昨日のブログのつづき)平清盛が長年かけて瀬戸内海航路を開発した理由、第一義的には、和船よりも底が深い宋船が安全に畿内(※1)にまで乗り入れられるようにするためです。これにより、畿内へのより多くの物資の輸送が可能になりました。しかし、ただそれだけでは、日宋貿易の進展にはつながりません。なぜなら、「博多~神戸間」の国内ルートよりも、「宋・寧波~博多間」の国外ルートを強化しないことには貿易は進展しないからです。では、なぜあえて国内ルートの強化を図ったのか。その真の目的は「本当の日宋貿易の確立」にあったのではないか、と推察しています。当時の日宋貿易は輸出も輸入もすべて博多にいる宋商人たち博多綱首が仕切っていた、という話を以前にいたしました。(「経営者・平清盛の失敗~平家滅亡の経済学」第2回5ページ参照)博多綱首がその立場を独占できた理由の一つは、日本で宋船を受け入れられる港が実質的に、博多しかなかったからです(※2)。宋船が博多に到着すれば、それはどこの船でも博多綱首の影響力からは免れえません。つまり、宋船が博多に着く限りは、「日宋貿易」のようでいて中身は「宋宋貿易」です。また、貿易船への出資者として、日本の寺社が名を連ねることもありましたが、当時のシステムだとやはり実際に船を持ち、動かす者のほうが利益は莫大だったと思われます。さて、それが、博多港と同様の機能を持つ新しい港が、京の近くにできたらどうなるでしょうか?博多港をスルーして、新しい港に宋船を呼び込むこともできます。その新しい港では、その貿易実務を新しい勢力が仕切ることになります。清盛はこれを神戸港で実現しようとしていたのではないか、と思うのです。つまり、貿易の中心地を博多から神戸に移す一大革命を為そうとしていたのです。実際に新しい港・神戸港には1170年以降、宋船が泊まるようになりました。清盛は宋船を購入し、厳島神社の参拝や源平合戦の際にも使っています。本当はこの船で、平家主導、日本主導の貿易をしたかったのではないでしょうか。実際はそれが実現することなく平家は滅亡し、鎌倉時代、神戸港には東大寺・興福寺といった寺社が勢力を伸ばすことになります。また博多綱首による貿易独占の時代も、元寇の時まで続きます。鎌倉幕府は、貿易についてはどちらかというと放任主義だったので、国家戦略的に行われることはなかったのですが、もし、平家政権がもっと長く続いていれば、貿易立国として日本も別のカタチをしていたのかもしれませんね。(※1)京に近い国々、山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の5か国のこと。当時、日本最大の消費地でもあります。(※2)越前国敦賀港も国際貿易港でしたが、敦賀への往路は対馬海流に乗って楽に行けるのですが、復路が逆流になるので陸沿いを進まねばならず大変でした。
2011.09.06
こちらのブログでは前に、清盛の祖父の代から経済力をつけた理由、さらに、清盛の父・忠盛が日宋貿易をきっかけに巨万の富を手に入れた理由を書きました。これだけ読むと、かの有名な平清盛は日宋貿易に力を入れたといってももともとお金持ちであり、しょせん祖父や親の七光りではないかと思う方もいるでしょう。しかし、日宋貿易において、清盛より前と清盛以後では決定的に違う点があるのです。それは清盛がやってきたことを見ればわかります。1.1158年、大宰府の長官・大宰大弐となり、日本で最初の人工港を博多に築く。2.1167年、航路にあたる音戸の瀬戸(広島県にある海峡)を開削する(※1)。3.1173年、摂津・福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港)を拡張、人工島・経ケ島をつくる(※2)。4.こうして寺社勢力を排除し瀬戸内海航路を掌握。航路の整備や入港管理を行う。さて、こうしてみると、「博多~神戸」間の瀬戸内海航路を開発していった様子がうかがえると思います。それでは、清盛は一体なんのために瀬戸内海航路を開発したのでしょうか?他の国内の勢力を排除することで、日宋貿易を独占しようとしていたのでしょうか。いやいや、大消費地・京都の近くまで航路を延ばすことで、より大儲けをしたかったのでしょうか。それとも、まったく別の意図、秘めた目的があったのでしょうか……(つづく)(※1)音戸の瀬戸は、一日で工事を完了させるために清盛が扇で夕日を招き返したという伝説もあります。しかし、地質調査によると元々地続きや浅瀬ではなく、元々船は通れたらしいです。ただ、清盛が航路を安全なものにするために、なにかしたのは確かでしょう。(※2)経が島自体が完成したのは、清盛の死後、1196年のことです。完成させたのは、皮肉なことに、平家が燃やした東大寺を復興させたことで有名な僧・重源です。
2011.09.05
いま地元の神戸に戻ってきています。ちょうど台風12号の影響で、暴風雨です。今日、本当は時間があれば、平清盛関連の史跡を回って連載の参考にしようと思っていたのですが……できれば行きたかったのは「兵庫城」周辺。清盛塚など、清盛関連の史跡もたくさんあります。「兵庫城」……もともと福原京があった場所に立てられた海城。つくったのは池田恒興。(息子は姫路城をつくった池田輝政)ただすぐに使われなくなり、史料もほとんど残っていないので、いまや幻の城になっています。そのためか地元の人間でも知る人が少ない、かわいそうな城址です。。。摂州八部郡福原庄兵庫津絵図/城郭と武家屋敷部分の拡大図
2011.09.03
毎週金曜日更新、講談社「現代ビジネス」での連載『経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学』第3回が、おかげさまでUPされました。前にブログで書いたことを下書きに、また別の視点から書き直しております。薩摩藩やポルトガルなど具体例が増えてますでしょうか。第3回の見出しは、「密貿易」だけで儲かるとは甘すぎる!清盛の父・平忠盛はいかにして巨万の富を得たのか?ということで、密貿易についての見方と平忠盛の登場までの話です。話としては、また途中なんですよねえ… (・・;)第3回 「密貿易」だけで儲かるとは甘すぎる! 清盛の父・平忠盛はいかにして巨万の富を得たのか?
2011.09.02
本日、「週刊現代」さんのWEB版「現代ビジネス」での連載『経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学』第2回が、おかげさまでUPされました。前にブログで書いたことを下書きに、また別の視点から書き直しております。連載第2回目の見出しは、「貿易で巨万の富を得た~」を素直に信じるのは子供だけ。教科書にはない日宋貿易の真相から、この国のカタチを知る。という、なんとも週刊誌的な煽りフレーズです (^^;)今回は、貿易の基礎常識と平安時代の外交のお話です。連載第2回 「貿易で巨万の富を得た~」を素直に信じるのは子供だけ。 教科書にはない日宋貿易の真相から、この国のカタチを知る。
2011.08.26
本日より、「週刊現代」さんのWEB版「現代ビジネス」で連載を始めました。『経営者・平清盛の失敗 ~平家滅亡の経済学』といいます。これまでブログでたまに書いてきたことを、ちゃんと読めるように書き直しております。歴史ファン向けの連載は、これが初めてです。しばらく続けますので、どうぞお楽しみに。大河ドラマ先取り!ビジネスに使える日本史 なぜか『さおだけ屋』著者が読み解く歴史の真相
2011.08.19
(また、昨日のブログの続き)平清盛の父・忠盛は、一体どのようにして巨万の富を築いたのか?それは、当時の日宋貿易のように流通量が少ない場合に可能な手段。ずばり、「希少性」です。個数限定販売や地域限定販売のモノに、惹かれたことはないでしょうか?数が限られたモノを欲しがる消費者心理のことを「希少性の法則」と呼びますが、限定販売がまさにそれです。もちろん、「希少性」の高いモノを売ることで金儲けにはなりますが、本当に数が少ないと儲けにも限度が生じてしまいます。この場合、賢い人は「希少性」の高いモノを売る事なんてしません。売らずに、「贈与」するのです。自分より地位が高い人に対しては「賄賂」、同じ人に対しては「買収」、低い人に対しては「褒美」とも言えますが、ここでは「希少性」が大いに発揮されます。なぜなら、金銭だとライバルの贈与と比べられてしまいますが、「希少性」の高いモノだと比類なき忠誠の証、信頼の証にもなるからです。戦国時代だと、茶道具がこれに当たります。茶道具は褒美の品として、絶大な力を発揮していました。それは「売ったら金になるから」といった『なんでも鑑定団』的な視点ではなく、名誉として、ステータスとして、収集欲を満たすモノとして高い価値があったのです。茶道具は一つとして同じものはなく、それぞれに由来のあるモノなので、金銭や石高とはまた違った欲求を呼び起こしたのです。たとえば、武田攻めで功績があった滝川一益は、その恩賞として主君・織田信長に名物「珠光小茄子」を所望します。しかし、それは認められず、上野国などの領地や関東官領という高い役職を与えられますが、やはり茶器のほうが欲しくて悔しがった、とか。これも茶器の「希少性」がなせる業です。さて、平安時代における「希少性」が高いモノといえば、「唐物」です。いわゆる中国など海外の品物全般を指すのですが、中でも陶磁器や書籍、絵画、工芸品は美術品的な価値もあり、まさに二つとない「希少性」が高いモノでした。これらを貿易で手に入れても、売るのではなく、時の権力者に貢いだのが忠盛の戦略ではなかったのでしょうか。実際、時の最高権力者・鳥羽法皇は宝物の収集癖で有名でしたから、近くにいた忠盛が貢がなかったはずはありません。その効果もあってか、忠盛は越前守・備前守・播磨守など裕福な土地の国守を歴任することになります。そうです。これにより、巨万の富を築いたのです。貿易 → 希少性 → 鳥羽法皇へ贈与 → 豊かな国の領主に → 大富豪権力の源泉というのは、2つしかありません。それは、金と人事権です。忠盛は、直接的に金を得るのではなく、人事権を持つ人物を取り込むことで、最終的により大きな金を得ることに成功したのです。いつの時代も、賢い人の行動には「遠見明察」なところがありますね。さて、息子である清盛も、貿易の当初はこの「希少性」を大いに活用し、賄賂や買収・褒美にも使ったことでしょう。しかし、これで終わらないのが、清盛の凄い所。清盛は、さらに一歩先に進んだ貿易形態を目指すのですが……、これはまた後日にお話いたしましょう。
2011.08.17
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