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正月早々、毎年恒例になっていり、箱根駅伝では往路復路ともに厳しいレースがされて、各選手の流れるような健脚を披露してくれ、堂々の早稲田大学が優勝することができた様子は、お正月の名物行事として、二日間ともテレビにくぎ付けとなっていた。つい先日千秋楽を終えたばかりの大相撲初場所では、一人横綱の白鵬が堂々の優勝をして、連覇を6場所に伸ばして、その実力をみせつけてくれたのだが、なによりも心技体の充実ぶりと、冷静で謙虚な人間性が吐出していた。南アフリカのドーハで行われていたサッカーアジア杯は、劇的なチームニッポンの勝利に湧いているが、チーム指揮者の采配能力がこれほど的確に、選手の能力とマッチしてすばらしいチーム力として、活躍できることを実証してみせてくれた。オーストラリアで行なわれていた全豪オープンテニスでは、女子ではベルギーのクリスターズ選手が男子はセルビアのジョコビッチ選手が物凄い接戦を制して優勝したし、試合の後で行われた表彰式では、選手からの言葉が素晴らしく受け止められた。一方、明日からプロ野球のキャンプインがされるが、今シーズンは早稲田から入団した、日本ハムの斉藤祐樹選手の動向がダントツで報道されているが、同期の仲間の活躍は如何であろうか。キャンプやオープン戦の活躍が大変に楽しみであるし、競争心の発揚につながり、今シーズンは各チームとも潜在能力があっても埋もれていた選手が、思いもよらない活躍をする気配を感じてしまう。一連のスポーツニュースを観ていて感じたことがあるのだが、一流と言われる選手の何とも健気で心洗われる謙虚な態度が共感をよべる。駅伝も相撲もテニスもサッカーも野球も、協議に関係なく国籍に関係なく、男女に関係なく心温かな人間性豊かな選手が、秀でる特異な能力をもっていても、すばらしい驚異の成績を残しても、一向にうぬぼれない爽やかさに魅力を感じてしまう。格闘技の選手のように、気合そのものを身体で表現をすることもなく、時の感情に流されることもなく、実に謙虚に対応される姿からは、沢山の学びごとが伝わってくる。ここの所感じてしまうのは、スマートに心優しいスポーツ選手が増えてきたように思えるし、特に大学とか高校から新しくプロの世界に踏み込んだ選手が、お互いに競争心をあらわにすることなく、実に冷静沈着にインタビューに応じる姿が清々しく伝わってくるのだ。報道されている、草食系の類でもあるまいと思うのだが、子供のころから豊かに育って、ひもじい困窮の生活経験がないために、応用と構えられるのかもしれない。子供のころから野球少年で育ってきた経験でも、まずはボールもミットもグローブも満足になく、今のように少年野球からプロ野球とおなじような道具に恵まれているし、野球場にしても同じことが言える。少年時代から全てに満足を得れる環境からは、感動が生まれないのではと心配するのだが、特段に礼節と人間性が養われて豊かになっていることに安心してしまう。スポーツを通してプレーの楽しみ観戦の楽しみを汲みとって、一層の良き人間性を豊かに備えてもらい、大きな心をもった人間の、素敵な仲間作りができることを願ってしまう。
2011.01.31
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突然と言って良いのか、昨日に送られてきた一冊の本を手にして、一気に読破をしてしまい、心の蟠りが消えてしまった爽快感がうれしい。昨晩は以外にも資料の整理に時間がとられた、風呂も入らなく床に入ることになり、手足が冷たくなってしまっては、なかなか寝入ることができなかった。今冬の心臓疾患者は、電気式毛布の設定温度を最高にセットしても、背中の冷えは温まらずに、足元に寝ている愛犬の体温がありがたいくらいである。宿題になっていたロータリー・クラブ資料の作成が、思いのほか熱中してしまい、思いもよらない効果が発揮されてくれ、思いがけないアイデアも湧いて、全く睡魔が消えてしまったほどだ。そのぶん寝覚めが多少遅くなったが、今日も家の中には陽光が差し込んでくれて、ストーブも必要なく、心の中に暖かさが染み込んでくれることが、最高に幸福感を味わうことができる。資料の整理もひと段落できたのだが、何よりも、依頼した先の方が思った通りに作業を捗らせてくれなく、提出期限ぎりぎりになって送ってくれなかったりしたのだが、要請をした案件が欠けていたり、満足度には程遠いものもありいらいら焦ってしまった。本来なら、叱咤をしても良いのだが、理解できない方であれば補足してあげることで、自分自身が成長できるし、手伝いから学ぶことができる、喜びを味わうことにした。いらいらしても仕方なし、怒っても誰も得をすることがなく、常に克己心を求めて心を豊かにさせる必要がありそうに自覚をもっていたらいいのだが・・・人の嫌がることとか、忙しい時に時間がとられてしまい、仕事に差し障りがあるとなかなか人のお手伝いには否定的になる気配があるのだが、この考えも多様性の中での考え方であり、あくまでも自身の積極的な奉仕が、自分の為になることを信じていきたい。確定的なものでなく、あくまでも自身の向上心と探究心を満足させるための、献身を心掛けることが、間接的にも世の中の人様の為になれることになれば、誠に本望の喜びにつながると思っているのだが。こうした豊かな心と余裕の考えができることも、様々な人や本から感化をえることが多く、そのためにも多様的にいろいろな方と会い、いろいろな書籍から勉強をして、心の意識を養って高潔な意識をもっていきたい。せっかくの人生だから、孤高になってもいいから世の中に役立ち人様が喜んでくれる、そんな存在の人間性をもとめて、自身の身体が本気度を持っていかなければいけない。大河はゆったりと流れる諺を持って、常に大きな視野をもって、自身の心を大きく包容力を志して、陰徳の美を享受できればうれしい。そんな生き様が、人様から評価してくれる一時となれることを念じて、なによりも滅私奉公でなければいけないのだろう。一歩ひいてみての生き様は、人様が気付いてくれる時間が分からないことだから、決して計算高い人間ではあってはいけないと自覚をしてしまう。そんな学びが、致知出版から発行されている書籍から、ネットで公開されているホームページから、配信されるメールマガジンを通して届く環境がありがたく感謝をしている。
2011.01.30
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月に何回か家内の母親の激励に、一時お世話になっている施設に行き、短い時間だが談笑をするように心がけている。いつも愛犬二匹を同乗させて、家内の実家に行く前に施設に寄って、義母とあっているのだが、二年も同じコースで行き来をしていると、愛犬もすっかり道を覚えてしまい、施設のはるか前で賑やかにはしゃぎだす。前回はたまたまのこと、義母が一階のホールにいたために、玄関のガラス戸ごしに愛犬との対面を果たしたのだが、我が家のつもりで土足のまま入室する気配には驚いてしまった。天気予報では一番の寒波がきて体感温度が低いと予報がされていたのだが、とんでもなく温かな陽気になってくれて、遠足気分で夫婦と犬の姉妹はご機嫌に施設に到着できた。いつも二階に生活エリアがあるのだが、最近は行動範囲を広げて、様々な方との交流を励むように、一階での生活時間を長くするように工夫をしてくれているようだ。玄関から一体になっているホールで笑顔で迎えてくれた義母、しばらく忙しくなにやかやの行事が重なってしまい、ご無沙汰の対面であったために、ご機嫌で迎えてくれてほっと一安心の一時である。週末であるために訪問する家族が多くいるだろうと予想していたら、意外にも一家族が訪問していたようで、施設のスタッフもお馴染みになり、愛想良く言葉を掛けてくれたり、義母にもリップサービスのご褒美の声をかけてくれた。最近街中にある施設が増えてきている気配があるし、利用者の皆さんが大勢増えている情報を耳にするのだが、利用する皆さんを拝見していると、性格からくるのか、じっと静かに座っている方と、行動的に施設の生活をエンジョイしている方に分かれてみうけられる。義母はどちらかと言うと、冷静に中庸の生き方を身に着けているようで、自分なりに体験した処世術を発揮して、自分なりのコミニユティーを構築してくれているようだ。2年間の施設利用生活の中でできた、何人かのお友達の名前をだして、いろいろな生活ぶりの一面を伝えてくれた。いまのところ心身ともに元気に生活できている様子に一安心して、岳父と姉妹が住む実家に向かったのだが、同乗している愛犬は行き先もわかるようで、すっかり慣れている気配で静かにしていても、実家の近くになると途端に忙しなくなって、到着と同時に、二匹でじゃれ合いながら駆けっこをしてくれる。いつものパターンで、実家に上がらずに散歩に行くのだが、行き先も二匹が選択して、およそ1時間の行程で、ゆっくりとリハビリを兼ねて歩いている。ほぼ定期的に訪問をしてきた岳父の家ですが、義母もいない寂しさの中で、岳父の激励も子供の役目として、小一時間の談笑を心掛けている。身近な姉妹夫婦は一緒に生活をする身として、岳父の面倒をみてくれているので、離れている家族としてはひたすら感謝をするだけだが、実の親子の生活は、時には我が儘になりがちである。時々生活を別にする姉妹夫婦が訪問してくれることが、結構気分転換になりえることが、訪問の役目となれば、少しは救われる気分である。愛犬もこうした人間の関係を察知できるのか、散歩を終えてから帰路に向かう時間は、特段にご機嫌の仕草になり、帰宅できる喜びを全身で表現をしてくれる。血のつながった姉妹や親子であっても、一緒に一つ屋根の下で生活する、自分の家族の生活が一番安心できるようで、人間族も同じ心境であることが理解できているのだろうか。なんとなく帰路の車の中は、仄々としている空間で、あっという間の移動時間を終えて、近々訪問できる義母と岳父の元気を願ってしまう。
2011.01.29
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話し上手の人は羨ましい程に感じてしまうのだが、特に電話の応対の聴きやすい方には、惚れ惚れするほど感嘆することがある。電話の会話をするたびに、自分の話し方をチェックしながら、今日の完成度に納得をしていることがあるのだが、相手の方の話上手に聴き惚れながら、話しやすく聴きやすい言葉の発声に努力をしてしまう。悪い癖があって、早口とトーンが高くなりがちで、相手の話を途切れさせてまでも、口出しをする気配があって、ついつい反省の連続となる。ましてや、短いフレーズでもって分かりやすい言葉で、端的に理解できる話をしたいものと念じているのだが、最悪の癖として、くどくどと回りくどく言いまわす悪癖は直りづらい。今日も朝から固定電話と携帯電話が重なって着信するなか、間髪入れずに的確な応対ができなく、相も変わらずくどい言い回し方が、悪例のこぶしを効かせてしまった。どうしても早口になってしまい、呂律がうまく回らないのだが、時には興奮をすると声高になってしまい、最悪の話しぶりとなることを、何度経験しても上手く成長できない。最近定期的に電話の応対をする方がいて、静かな話しぶりに尊敬の念を持ちながら、良くお手本としてみるのだが、先ずは真似る行為に努力をしているところで、ゆっくりと間合いをとる真似をしてみた。普段の二倍は優にかかるほどの揺ったりした話しぶりは、自分でも可笑しいくらい間が抜けて聴こえてしまい、応対の相手の方がどのように受け止めているか、まったく興味があるところだ。お手本にしている方は、常に淡々として冷静な話しぶりで、いつも変わらない口調でおられることが、実に不思議に受け止めていますが、感情的にならない冷静沈着な心構えは、結局のところ人間性の豊かさに関係があるようだ。結局のところ、品格とか品性とか資質とかの人間的な要素が多く身に備わった方ほど、話しぶりに品格がでてきてしまうようだ。電話の応対だけではなく、日ごろの会話の中や身のこなしも、まったく同じことが評価されてしまうため、備わった人格を磨き上げる努力が必要になるのだろうか。当然のこと、普段の会話もできるだけ優雅な口調で、品性ある言葉を選んで、礼節をもって対応を心掛けてみたいものである。心を引き締めて、新たな努力ができる日々にしたく、ゆっくりと言葉を選びながら、分かり易い伝達を心掛けて、できれば人様の良き見本となれるように、工夫を重ねてみたいものである。せめて、早口と声高にならないことを念じて、早速明朝からの電話応対で実践をしていき、自己満足でも納得できる善き日とさせたい。
2011.01.28
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いろいろと難事難題を抱えている身であるが、その対処のしかたを日常の体験をもとにして、その窓口に誠心誠意をもって説明をして、打開策を提案して理解をしてもらっている。他言できないほどの躓きと失態がされ、その責任を果たす努力をしてきたり、立派な約束事が理不尽にも歪曲されて受け止められて正当化されてしまったこと、日常はまさかの連続でもある。独りよがりでなくとも、思いがけない事案と出くわしてきた事案を、真正面に捉える真摯な人間性を磨く必要を、学び学ばされている日々である。人間はご機嫌次第で精神的な安定感が大きく左右されて、硬軟の変化をする心情を知っていたつもりでも、身近にその体験をさせられると、ことのほか納得する度合いが深くなるものだ。誰しもが精神的に安定した気分をもって、思いのままに結果が出せる生き方を目指しているのだが、なかなかそんなには甘い世界はなくて、人それぞれに応じて精一杯の生き方をしていても、自分の思う通りにはいかない厳しい現実の重みがある。毎日の生き様は、禍福を糾えている縄のごとく気分が変容する中でも、背負う難事と手荷物のように抱える悩み事に対峙して、それでも精一杯の心がけと一歩前に向けての心がけは大切なことであると自覚をしている。どんな苦難に陥っても先ずは自己責任をもって、誰も頼らずに孤独にもこつこつと解決に向けての努力と誠意をもつことが、難事難解ごとを氷解させる秘訣のようで、時相応の事案を真摯に認めて、ひたすら我慢と忍耐を心掛けることを理解している。今現状でできる精一杯の善意を示し行動することが、やがては難事難解を解決する紐解きになってくれて、背負った荷や抱えている荷が軽くなることに結びつくのだろうと、期待感を豊かにさせてしまう。一つ一つの行動が目に見えて進捗するわけがなく、時にはイライラが募るのだが、常に冷静にあり謙虚であるならば、確実に冷遇から厚遇にギアを切り替えてくれる神仏が、きっと天井に存在していることを信じたい。どんな場合でも自暴自棄になることなく、大人としての冷静な判断と果敢な対処ができるような、自己確立を自分自身で構築させなければならない。いつもいつも自己反省を心掛けて、今までの失敗や躓きをリカバリーさせる意欲をもっているのだが、精神的な弱さは生まれながらの性格であるが、その弱点を良く理解しながら、自分なりの克己の道を、明るく元気をもって歩んでいくことを、何度も何度も自分の心に教えて理解させている。悩み躓きは、自分磨きの良き修練の場であり、自身の成長の種であることを認識して、できるかぎりの積極的な果敢な精神だけは忘れないでいきたいものだ。決して弱虫の愚痴にしないためにも、自分の責任はしっかりと果たす覚悟は、新規に心得る必要があるだろう。
2011.01.27
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何年か前に、盆栽専門店として街道沿いに看板を掲げて、大型の資材店も兼ねて県内の愛好者を満足させていた時期があり、顧客の取り扱いと商品提供のサービスの程度が、如何にすべきかの大切さを体験したことがある。焼き物である本格的な盆栽鉢は、盆栽に合わせて形や大きさと色を選定して、なおかつ生き物である盆栽の生育に最適な粘土を選ぶのだから、愛好家は八選びの作業が大変になる。なおかつ、盆栽の鉢作家の嗜好があるから、お気に入りの作家に制作を依頼すると、できあがりまでの時間が結構掛かるし、受注を受ける側とすれば、愛好者の満足を叶えるための努力は、店としては結構な負担でもあった。お客さんの為になることを優先して、常に気配りとサービスを徹底していたのだけれど、営業的には収益の圧迫があるし、愛好家の独断を許す源泉もあって、なかなか愛好家が満足でき、経営側も納得できる環境はなかなか実現できなかった。近江商人の格言である、売り手よし、買い手よし、世間よしと理解をして、この実現を目指すことは、いつの時代の商いの基本であると、強く実感をしているところである。そんな顧客を相手とする経験を長い間してきた身で、最近気になることがあって、愛犬との散歩の途中に、つい半年前にカット屋さんができて、あんまり来客がないのである。いつもお店の前を通るときに気にしながら歩くのだが、昼間から煌々と蛍光灯を点灯させて、一台ある大型鏡の光が歩道から見て取れる。清潔そうな白衣を身に着けたカット屋さんが、いつもまじめそうに来客を待っている風景が見て取れるのだが、開店半年間ですが知る限りでは、大きな鏡に映るお客さんの姿がなく、余計なことだが人ごとに心配をしていた。外から見る限りでは、とてもセンス良く清潔感が伝わってくるお店であるのだが、お店のオーナーがカットをするようで、椅子も鑑も一客用しかなく、その技量を誇っているようである。そんな第三者の意識をもって、はやく繁盛できるように期待をしていたのだが、時々に通行する際には、オーナーが客待ちを礼儀正しくしている姿だけがあった。お店の真ん中に一脚あるカット用の椅子と、大きな鏡が漸く役目を果たす時が来たようで、今夕の散歩時に見かけた光景が、人ごとでなく本当に心からホッとしている。あかるい店内が一層輝かしくみえて、白衣のオーナーがきびきびとカットをしている姿に接することができ、心ウキウキの心情が伝わってきている。そんなに心配ならば、自分自身がお客になればいいのではと、何回も同じく思ったのだが、いざカットの時期になると行きつけのお店に行ってしまったことを、すごく反省をしながら、自分の意気地なさを情けなく思っていたものである。ようやく常連客として固定する、お客さんが増えてきそうな気配があるのだが、昔経験した客商売の秘訣を思い出して、オーナーのサービス精神と、顧客の意識のコラボレーションを応援したくなってしまう。おそらくは素晴らしいカット技量をもっている職人さんではないだろうか、誇示できる自信がみせる堂々の暇な状況を、怯みもなくお客さんを待ってくれては、いずれ固定のお客さんになってくれる、潜在客の期待感が理解されてくる。オーナーが望むお店の理想的な繁盛を応援していき、ぜひ息の長い地域貢献ができれるように願っている。
2011.01.26
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一連の儀式を見守りながらじっと佇んでいる時間は、異様に身体が緊張するほどで、小一時間も掛からないのに、身体がこう着してしまうほどで、異様な疲労感が襲ってきてしまった。会葬した大勢の人々の注視をうけながら、家族を亡くした悲しい心を抑えて喪主の遺族が、通夜儀式から葬儀告別の儀式一連のなかで、律儀にも感情を抑えながらじっと耐えている様子が、身内だからこそ現実の辛さを分かちあわなければいけないと心情する。身内になる同年輩の方が急逝してからは、なんとなく落ち着かない日々となってしまい、昨日がお通夜、今日には葬儀と告別式が行われたのだが、親類とともにお参りすることができた。大きな会社の事業を成功させているから、様々な方が参列してくれたり、会葬をしてくれて長蛇に並んでくれて、通常の式典よりも倍以上の時間がかかってしまっていた。遺族も改めて故人の存在感の大きさと、社会でされた偉業の価値を認識することができたと思うのだが、故人の意外な一面も垣間見ることができ、改めての素晴らしい人として価値を高めてしまっている。社会への貢献の数々を示す感謝状の数が多く、社業の成長に貢献させる社員の人間性の素晴らしさを肌で接することができ、身内の立場であっても、普段知らない一面をこうした場面で知ることができ、しっかり評価を新たにしている。おそらくは遺族の方々も同じようにして、普段目にできない世界での活躍ぶりと、豊かな交流の様子が、重く心の中に染み込んでくることだろう。生前はそんなに接する機会が多くなかったが、血のつながった濃さは以心伝心の阿吽があったのだが、事業家としての活躍ぶりが先になり、社会貢献や地元での献身的な活躍ぶりはまったく理解できていなかった。亡くなった今になって、あらためて、その大きな人間的な素晴らしさを、身内の誇りとできることが、心の豊かさとなって感銘をし、感化させられる認知ができたことを、自分の糧とさせていきたい。競争心はないのだが、せめても、何かしらの教示をうけて、自分の手足で事業の成功と、社会貢献がしっかりと実現できるように、故人を鑑にしていくことを宣言している。自分の勝手な欲どりでなく、あくまでも自身の成長と成果が社会や家族に繁栄をもたらせる、献身に喜びを見つけ出したい。こうした思いをして実践していくならば、天国からいつでも温かな応援がされて、お加護も頂けるのではと、身内のあまい願いもしてしまう。現世の成功振りと同じように、是非とも安らかに天上での生き様を見せてほしく、合掌して故人の冥福を祈っている。
2011.01.25
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ナショナル製品の生みの親である松下電気産業の創設者松下幸之助翁は、若い社員に対して教示した言葉が、松下電気は人を作る会社ですが電気製品も制作していますと、自己紹介をするように指導をしたそうな。昨日千秋楽を迎えた大相撲で六連覇を飾った横砂白鵬関が、白星を重ねて優勝の回数を重ねるごとに、新聞報道の記事に観るコメントですが、自分の勝利を通して、相撲協会の繁栄や、自分の部屋での果たすべき役割を認識していた。若い衆を育て上げ、相撲界の発展に寄与すべき理念を確りと現状認識していて、つねに人間性を成長させていたように受け止めていた。精神的な成長の指針になっていることは、どんな修練をされているのでしょうか、以前よりとっても興味をもっていたことだ。普段は対して熱心になることはないのだが、元横綱双葉山の作った69連勝記録を目指しているときに、インタビューの応対が場所ごとに人間的な豊かさを発揮して、人間が大きくなったことを感じていた。昔の人情や礼節を大切にした日本人の本当の心を持った人のような、心優しく人思いをする謙虚な精神の持ち主と、常に精進する姿勢が神々しく感じてしまう。大相撲の大横綱として、角界を背負って立つほどに大きく成長されても、控えめな闘志は変わらなく、人の心の大切さを言葉にするほど、ますます大きな人間性を発揮させてくれている。大学を終えて注目のプロ野球界に活躍の場を作った、早大出身の斉藤祐樹選手も同じことが言えるプロ選手だし、プロゴルファーの石川遼選手もまったく同じことが言えてしまう存在だ。プロとして真剣に闘争心を身に着けて、ぎりぎりの厳しさの中での勝負師の精神は、きっと苦しいほどの生き様の日常となっているのだろうし、その圧迫されるストレスは、耐えるだけでも強い努力がいる。想像できないほどのストレスの解消にも、平然とし泰然自若の雄姿があるのは、孤高の誇りがあるのだろうし、常に向上心をもって悠然としていれる平常心を養っているからだと理解している。その世界で立身出世をする人の器の大きさがあるのだが、せめても、世の中の為になれる自分の人間性を構築させるために、謙虚になってあらゆる学びと自助努力をしなければならない。幸之助翁は勿論だが、年齢に関係なく活躍の世界も関係なく、素直で風霜高潔な人間性をもとめて、様々な活躍の方を味方に親炙していこうとおもうのだが、はたしてどこまで孤高に立居ふるまいができるのか、成功者の意識を高めていきたいものである。
2011.01.24
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日曜日の午後、曇り空に億劫な気があったのだが、健康維持と心臓のリハビリにむけて、愛犬の散歩をしてきたのだが、行き先を考えたときに閃いたのが、しばらくご無沙汰している加曾利貝塚公園に決めた。日曜日とあって散歩の方が多くすれ違い、皆さん高齢なご夫婦連れが圧倒的に多く、おそろいのウエアーを身につけて若々しくすれ違い、追い抜かれたりの散歩となった。ご夫妻たちは、仲良く散歩をしながら家庭の相談らしき、睦まじく会話の話し声が聴こえてきて、仄々とみいることができるのだが、寒風をさえぎるためのマフラーや防寒帽が邪魔になってしまい、人相が窺えないことが残念である。加曾利貝塚公園の東側に流れる都川の源流があるのだが、1キロほどの川土手が直線になっていて、すばらしい散歩コースに整備されているために、以前からひっきりなしのジョギングや散歩をする人が沢山利用をしている。貝塚公園一帯は自然が豊かに残っていて、人口の手が入っていないために、木々の間からは数種類の小鳥の鳴き声が賑やかに聴こえてくるし、これからの時節は鶯が鳴き声の競演をしてくれるし、カエルの声が賑やかになる。今の時期は川面に浮かぶ野鴨の一家が人気になっていて、散歩やジョギングを休憩して土手に佇んで見物をしている人が多く、カメラで写真をとったり賑やかに会話の華が咲いた、人気のスポットになっている。愛犬家達はここでも様々な交流をして、愛犬仲間の輪を広げているが、鴨を観る犬たちの表情が犬種によっていろいろ違い、人と犬と鳥のコミュニティーが一層賑やかで、それぞれにコラボレーションができて賑やかでした。愛犬家と犬の関係がなんとなく理解できるコンビの模様が伝わってくるのだが、大型犬を飼う方や珍しい犬種の愛犬家は、自身をアピールできるサムシングをお持ちのようで、笑顔で歓談をする横顔と愛犬を見比べていた。川面に映る人と犬のグループを、5羽の野がもの一家が水面を揺らして元気に泳ぎ回っていて、人の懇談に飽きている犬族がカモの動きを見物しているようだ。我が家の大小二匹の愛犬ニルスとアリスの姉妹も、先を急ぐ振りをして、お愛想のスキン、していて歩ける状態ではなく、仕方なしに川をまたぐ橋を渡って反対側の土手を帰路することになった。久しぶりの光景を満喫して、澄み切った冬空と気持ちよい自然の環境にリフレッシュをしながら冬景色を堪能することができ、5000年前に生活をしていた縄文人のご縁に思いをはせてきた。今は6キロほど先になってしまっている海があり、豊かな川の水を利用して、自然豊かな山々の恵みを手に入れて、この冬はどのような生活をして寒さを耐えていたのだろうか、非常に気になってしまった。ひょっとすると先祖の血縁があるかもしれぬ人が、散歩道に生活をしていたかも知れなく、そんな夢空ごとを納得させるためにも、おそらくは当時から生育していた樹木の子孫である大木に、しっかりと手を触れることで古の人々と交流をしてみた。先祖のルーツはハッキリわからなくても、何代かの先祖を辿っていくことで、いずれかは人類みな兄弟になるはずであることを信じてしまうし、時々のふれ合いを大切にしたいものだ。そんな思いをしていたら、愛犬だって加曾利貝塚に飼われていた先祖がいるかもしれないことに気づき、川を通して小高く目の前に広がる貝塚を愛でながら、懐かしく郷愁をもって眺めていた。
2011.01.23
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3Dマジックという、絵が浮き出るクイズがあって、朝から食卓の上には新聞と同時に配達された別冊のクイズ新聞がのっていて、3Dマジックの浮き出る模様を探しているのだが、時間が経ても一向に浮かび上がってこなく、クイズの解答がだすこといができない。新聞一面に幾何学模様の写真があるのだが、何を象っているのかもわからなく、視点を遠くにあわせて、そのまま写真を眺めなさいと案内がされている。説明文を何度も読んで、工夫をしながら幾何学模様の写真を見つめるのだが、決して隠れた模様が浮かび上がってこないのだ。眼が痛くなるほど注視しても、遠くを眺める視線でそのまま覗き込んでも、まったく要望されている隠れ絵が理解できなく、本当にもってじれったくなってしまう。何年も前になるのだが、夕食後のスポーツにと、家内と卓球教室に毎晩通うことがあって、休憩時間に据え置いてあった、3D専門の写真集を覗き込んでいた記憶が戻ってきて、当時もまったく理解できなかった。一緒にいた人々が全員浮かび上がるものを当てるのに、自分一人が見つけることができなくて、目を点にしたり寄せ合ってみたり、しどろもどろになっていたものであるし、一人だけ見つけることができなくて、焦りさえ感じていたものだ。今日の新聞には、クイズだけのタブロイド判のクイズ新聞が入っていて、3Dクイズの他には熟語クイズや計算式クイズがあり、間違い探しまであって、暇を持て余している人には、とても親切で愉快なサービスになっている。熟語探しは案外にも簡単に解決することができ、ひねくれたマトリックのクイズは、意外にも手こずるほど集中力が高まって、適度な脳のトレーニングができた。この集中力感は久しぶりの体験で、なにやら爽快感もあったりして、思いがけない達成感を味わっているのだが、クイズの程度が分からなくて、意外にも小学生クラスかもしれなく、ぬか喜びを心配してしまう。問題を楽しみながら解く時間が経過するほどに、このような問題をどのような人が制作しているのだろうかと詮索をしてしまい、説く人を悩ますために苦労されている人がいる、そんな人生の綾組に思いをはせていた。問題を解くだけでも大変であるのに、解けない空虚な時間ばかりがすぎさっているほど、複雑な問題はどんな人がどのような知恵をもって、工夫をされ制作しているのだろうか。年齢に関係なく、クイズの中に引きこまれてしまう魔力は何であるのか、少々不思議に思いながら、こうした熱中心をもっとビジネスに発揮させてみたく、解けない3Dの誌面を見つめながら自戒をしてしまう。3Dの隠れ像の発見ができないのは、おそらくは視力とか乱視などが複雑に関係して、コツを覚えれば案外簡単なことかもしれなく、いつかは隠れ像を見つけ出せることを信じてしまう。なにはともあれ、こうした無邪気な時間が過ごせること自体が、なんとも幸せな空間であり、誠にありがたいことであると感謝をしている。将来いつの日にか、悠々自適の健康な隠居の身でもって、日向ぼっこをしながら天眼鏡を片手に、益々冴えた繊細な頭脳を大いに活躍させ、様々なクイズに解答して楽しんでいることを夢見てしまう。
2011.01.22
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昨晩にあったロータリー・クラブの例会では、縁戚関係の6クラブが一同に集まっての特別な合同例会で、各クラブから大勢の会員が集まって、仲間との交流を深めることができた。我がクラブの創立者で初代会長を務められて、クラブや地区において、素晴らしい活躍をされた大塚恵章さんが、急逝する直前に企画提案されて、第1回目が会長年度であったために、事のほか鮮明に記憶している例会で一巡目の最後の例会となった。提唱者の大塚さんはその半年後に急逝されてしまい、遺徳が各クラブで理解されて、年々粛々と継承されている。会食を前にして、プロゴルファーとして大活躍をしている、地元千葉市出身の池田勇太選手を子供のころから育成した、ジュニア育成リーダー千葉晃さんの奮闘記を聴くことができた。千葉さんが言った言葉の中で興味をもったことは、若手プロゴルファーのなかでも、石川遼選手との人間性の比較論が実に面白く受け止めることができた。トーナメントのコースにおいて、池田選手は勇太頑張れと叱咤をうけ、石川選手は遼君頑張ってーと、ファンであるギャラリーから、それぞれ違った声援を受けているそうだ。石川選手はもって生まれたエリートとして、恵まれた環境があり洗練された気品があるが、池田選手は自分自身が泥汗をかいて、自ら苦労をして成長をしている姿を見せつけて、骨太に挑戦をしている努力家選手として評価があるそうだ。千葉さんは子供のころから親身になって、寝食を共にしてきた愛情を受けているとして、池田選手を専属に育成した身として、素直に石川選手と池田選手の二人の違いを比較説明してくれたことが、テレビでしか知らない身として、十分に納得をして受け止めることができた。プロ選手の生命として、ゴルフの技量を磨き上げることが優先されるかと思ったら、それ以上にコースマネージメントの知的な計算と判断が求められ、洗練されたプロとしての技量を見せつける必要もあるそうだ。スイングのスタイルやシャフトが風を切る音を出せるようにして、目の視覚と耳からの聴覚の感性を加味して、如何にギャラリーにアピールする努力を、怠りなくしていることを教えてもらった。コースの持つ特徴を身体に覚えさせて、加えて時々刻々に変化をするコースや天候の条件を計算して、瞬時に判断をしてショットをする分けですが、更に驚いてしまったことは、ギャラリーが納得し驚嘆する自分のスイングを、徹底して魅了させることが大事であるそうだ。トーナメントの中継をテレビで観ることが多いのだが、何気にスコアーだけに気を留めれてしまうのだが、千葉さんが魅せられるプロ選手は、すべてに魅了させるだけの技量とセンスを磨いていることを認識でき、選手の人間性の大きさ深さをしみじみと感じてしまった。その道その道にある奥深さと、卓越した技量にむけて、日夜努力をしている結果が、ゴルフのメンタル以上の技量の深さに感嘆をしてしまった。老いた身であるが、せめて意欲だけは奥深い探究心と努力をすることに、一心不乱で取り組んでみていけば、自分のパフォーマンスを発揮できるステージが、案外身近に用意されているかもしれない。自惚れでなく、自助努力と演技の結果が、人様も自身も少しでもハッピーに結びつくように自覚をして頑張りたいものだ。
2011.01.21
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毎週火曜日と木曜日は、夕刻になると隣接する自治会の有志が、防犯防災の警ら巡回をするのだが、スピーカーから流れる啓蒙のアナウンスがかき消されるほど、家電製品の回収業者の車が声高にさせて、拡声器から連呼のアナウンスが聴こえてくる。テープのエンドレスがスピーカーから流れて、結構耳障りに聞こえるのだが、この商売が流行りだして何年くらいたつのだろうか、年を追うごとき生活の一部になって慣れができてしまい、耳ざわりな度合いが薄まってきているようだ。日ごとに陽光が明るく強くなっている昨今だが、自治会の警らも真っ暗な夕刻から、同じ時間帯でもまだ太陽が明るい時間に活動ができることは、高齢者がする警ら活動に安心感があって、耳に聴こえる心配度が消えてくる。大寒も過ぎて寒さも本格的になっているが、昼間すっかり陽差しが長くなった環境に、庭の梅が花を開き始めている。二階の事務所で仕事をしていると、天空が高く澄み切った青空が嬉しいのだが、限定された関東だけが晴天であって、北陸東北の北国では、とんでもない豪雪や寒気が、人々を困らさせてしまっていることに、心の中までは晴れきれないものだ。時間帯にもよるのだが、朝日や夕日が差しこむ時に観察できることが、光の反射と屈折の具合をもって、思いもよらないところからの陽射しが入ってきて、スポットライトのように明るくさせてくれる。今日は事務所の壁にある絵画にスポットライトが当たり、うまい具合に浮かび上がってくれて、価値のない駄作の絵が高価に見えるから、太陽からの素晴らしいプレゼントを受け取ってしまった。以前あったことだが、書棚に並んでいる三冊のゴールド文字のスピリチアリズム系の書籍が、黄金色に輝いた時もあって、中々に粋な演出をしてくれることがあって、自然界の偶然な悪戯でも憎いほど喜んでしまう。時々どうしてこのような屈折した陽射しになるのかが不思議であったのだが、隣接するお宅の窓ガラスとか、室内の装飾機器を通して太陽光が差し込んでくれる。冬の陽射しは明るさと暖かさを届けてくれて、その恩恵は図りきれないものがありますが、心の中の豊かさに届いてくれる時の効果は、計り知れない喜びを招き入れてくれる。自分の感覚を磨き、ポジティブで剛毅な意思をもつならば、心の中にいつでも明るいスポットライトを当てることができるわけで、自分自身の心のよりどころを構築することができる。毎日の生きる中で苦節することが多いのだが、スポットライトをいつでも自由に点灯させることができれば、素晴らしい派生効果を期待できるし、結果的には多くの皆さんにも喜びを分け与えて、ハッピーな照明を輝かせることができる。自身の照らすスポットライトのスイッチを、適時応用させることで、今後の生きがいと誇りに結び付けてみたい。
2011.01.20
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昨日東京であった会議の疲労だろうか、肉体的な疲労感と頭の回転が悪くて仕方なく、意気地がないことを嘆きながら、気分転換もかねて薬を受け取りに、掛かりつけの医院に行ってきた。時節柄風邪の人が多いのか、普段よりも患者さんが多く来ていて、しばし待ち時間をボケーとして待合室のテレビを観ていたのだが、集中力が散漫の為に番組の中に見入ることができない。平日の昼前の時間であるからか、患者さんのほとんどが中年以上の恒例の方が多く、たまたまなのか小太り以上の豊満な身体をした方が多く、椅子から立ち上がるにも、よいっしょと声を掛けて一歩一歩ゆっくりと歩んでいるのだ。そんな患者さんの後姿を観ながら、決して同じ様態になりたくないものだと念じて、いつまでも若々しい溌剌とした肉体的な運動能力を持ちたいものである。勿論のこと精神的にも、メリハリのある気迫のこもった凛々しさを維持したいし、何よりも滑舌の利いた理路騒然な言語をもって、大いに自己表現をしていきたいものだ。誰しもが加齢による老化が避けられないものだが、意識を高めていくことで、いくらでも抗加齢対策になるし、そのすべてが自身の意識の持ち方によって、できるだけの若さが維持できるし可能であることを知るべきである。所属しているロータリークラブに席をおくロータリアンの皆さんは、自クラブだけでなく、地域や国籍を問わずに、皆さんが一様に年齢よりはお若くいることの事実があると思う。以前から不思議な思いで自己分析をしていたのだが、ロータリアンの若さの秘訣は何であるのだろうか、一言では言い表せないが、それぞれの意識が多様性をもって、思考力の高い人の集まりに毎週出席することが主因になっているのだろう。地域の職業を代表するロータリアンが、個性豊かな会員が連れ添って活動をする中で、常に平等に公平に価値を評価できる素地があるのだろうし、物事を単純にする博愛主義が育成するから、どんな様々なタイプの会員同士が許しあえる。理屈ではなく毎週の例会場では、多業種のオーナーが忙し時間を割いてまでも、友愛溢れる素晴らしい仲間に会うために、語り合うために、人生を学ぶために、自らの修練を意識して集まってくる。時には励まされ、時には励ましてあげれる、そんな思い遣りと尽くしあいができる仲間の存在が、お互いに克己心を磨き、学び合うことをすれば、一年間で50回の人生道場になっていくれるわけだ。知らず知らずに、例会に出席するほどに博愛の精神が身に付き、慈愛と慈悲に満ちた、素晴らしい人間性溢れる人格が身につく、そんな機会を持てるロータリアンは抗加齢ができていると信じたい。その仲間入りができていることに感謝をして、いつまでも素敵な若さを保持していきたいし、多くの方々にお裾分けの友愛を広めてみたいし、新しい仲間のつながりを期待してしまう。抗加齢に大きな効果を発揮させている、ロータリー活動を一層広めて、自身の若さと啓蒙を図る喜びを沢山味わって、益々の健康維持を専念できたら嬉しい。
2011.01.19
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毎週日曜日の夜にNHK教育で放送される、N響アワーは毎回楽しみに観ることにしているし、ストレス発散の時間だし勇気をもらえる時間になって、先日のマーラーの復活は元気をもらうことができ、素晴らしい演奏に嬉しい一時となった。遥か昔は上野の文化会館に通っていたものだし、渋谷のNHKホールができてからは、毎月二回は定期演奏会に通っていた時もあり、今になるとずいぶん懐かしく思い出される。そろそろ、定期演奏会に通ってみたいのだが、時熟さずにいるのが無念であるし、近々にも実現ができることを心底願ってしまう昨今になっている。ここのところ厳しい商談や約束履行義務があって、精一杯の生き方をしているのだが、リフレッシュの時間を作るのができなく、そんな大金も使えることなく、心が癒されることを願うと、若い時から熱中していたクラッシック鑑賞が最高に心の癒しになってくれる。演奏会に直に行けない分、テレビでのクラッシク演奏会を楽しみにしてしまうのだが、普段は韓国ドラマ一辺倒の家内も、この時間だけはお付き合いをしてくれる。家内と二人で一緒に楽しみ感銘するのは、毎年行われるウイーンフィル・ニューイヤーコンサートで、演奏家と聴衆が一体になっての気品ある最高の演奏会は、全員の心を一つにさせてくれる気がする。恒例になっている演奏曲の、ヨハンシュトラウスの美しき青きドナウの気品ある演奏は、どんな辛いことで悩んでいても、苦しんでいても、こころが晴れて爽やかな気持ちにすることができ、演奏と一緒になって新年らしい嬉しい一時を矜持している。今年はアンコールで演奏がされたが、同じくヨハンシュトラウスのラデッキー行進曲は一層のこと嬉しい贈り物であり、聴衆が一体になって手拍子する光景に、平和と感銘を心の中に染み込ませることができるから嬉しくなる。今もYOUTUBEで曲を楽しみながら書き込んでいるのだが、2002年のコンサート模様でコンダクターは小沢征爾さんであるが、しなやかな指揮ぶりが絶頂期の贈り物なっている。夢に見てしまうほど、機会を作って是非ウイーンフィルのニューイヤーコンサートを生で聴きこんでみたいものであるし、一生の思い出になるように、夫婦してその日を待ちわびてしまう。せめてもNHKホールでも、サントリーホールでも良いので、ゆっくりと鑑賞できる一時を作ってみたいものである。すこし余裕があるときには定期演奏会にも通っていたし、特別演奏会のベートーベンの第九演奏会も年末恒例の楽しみであったもので、是非是非演奏会への出席を復帰させなければいけないと念じている。ここのところ滅入ることが続くのだが、それでも関係する方々の応援がありがたく感謝をしているところで、報恩のためにもクラッシク音楽を有益に活用させて、気品ある人性に肖りたいものと思う。ホールでの演奏者と聴衆がコラボレーションする至福の一時は、何物にも代えがたい空間でもあるし、演奏から得れるパワーを最大限に活用させて、今後の人生に大いに生かせることを、改めて天地天命に誓ってしまうほどである。
2011.01.18
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比較的裕福で余裕ある生活をされているのだと、そんな思いをもって観ている親類があるのですが、いくら身内のことと言えども、人様の財産のこととか仕事の経営状態を聴くことはできなく、本人が言うところを理解するだけなのだが、結構な事業内容で収益をあげて、個人も会社も多くの資産があるようにみえてしまう。傍の人も羨むような素晴らしい事業を発展させて、世間から聞くところによれば、あちらこちらの街に土地や建物の資産を購入しているような、そんな大繁盛をしている様子が伝わってきている。同じ年齢なのですが、どうしてこんなにも、すごい経営感覚と手腕をもっているのだろうかと、身内でありながら羨望していたのだが、これこそが人に備わった能力であり、努力の賜物であるのだろう。親類の人寄せ行事があった時には、一人で事業の成長ぶりやしくじりのエピソードの経験を披露してくれ、多くの皆さんが、おそらくは羨ましい思いをしながら、各自の耳にしていたことで思う。時として、自分勝手と思えるほど我が儘な様子が窺えて、やっかみ半分な気持ちをもって、いい加減人様の居る中では場を弁えてもらい、少しは控えめの話をするように願っていた時があり、まったくアドバイスはできないでいた。そんな元気で素晴らしい経営者である身内が、病床に横たわって苦しんでいることが分かり、午後に見舞いに行ってきたところである。健康な時であれば、耳にタコができている仕事の話が聴けるのだが、本人はそれどころではない重い病魔と闘って苦しんでいる姿と再会して、どれほどの経営能力をもちどれほどの資産をもち、どれほどの名誉をもっていても、健康であってこその物種であることが分かる。おそらくは生死の境で苦しんでいるのだろうが、大きな事業と莫大な資産を抱える家族の責任負担は、継承をする身とすれば計り知れない苦難の道が待っていると思う。外目では裕福な生活をしていても、沢山持てば持つほど大きな責任と負担があるのでしょうし、精神的な疲労は図りきれない負担となっているのではないだろうか。金銭的な余裕がなくて生活が苦しく大変であっても、健康体をもって家族の親愛が深ければ、それだけでも生きる至宝として喜べるのではないだろうか。欲を持てば持つほど、自惚れがでればでるほど、みずからの生きざまに負担となってくるもので、我が儘な思いが強くなってくる。自分で気づかないことでも、代を遡ればいろいろな方々の理解や支援や助けを受けていたからこそ、いまの自分がいれることを知るべきです。常に謙虚に仔細に生きるべきことを知っているつもりだが、毎日の生活にキュウキュウしているから、少しは身の程を心得て優しくしていれるにかもしれない。傲慢とは一時の浮ついたつきが有ったり、回り合わせがよかったりする、付加の巡り合わせであることを、心から感謝をしなければいけないと信じてしまうから、ものごとが上手く動いている時こそ、素直な心を養い身に着けることだろう。まずは人間的に尊敬を受けれる生き方が先であり、資産形成は二の次にしたいものであると考えて、改めて家族との健全な生き方と人間愛情を醸し出せる心を大切にしていきたいし、少しでも世の中への貢献を優先したいものでもある。病院で病魔と闘っている身内が元気になることを願い、一日も早い健康回復を祈りながら、利他的な人の生き様の教訓と修練を強く念じているところである。
2011.01.17
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初冠雪というか初雪が舞う朝を迎え、積雪で真っ白になった外の景色が普段と違った景色を見せてくれていました。深々と降る雪でなく、粉雪が舞い散る風景は久しぶりで、外気はまるで冷蔵庫の中のようで、耳が千切れるほどの寒風が吹き荒れてくれた。毎日の挨拶が、寒いですねとマンネリ化してしまいますが、真冬だからこそ寒いのであって、当たり前のことを当たり前に表現すべきことが、一層誇大になってしまうものです。昨夏の異常な猛暑もそうで、毎日暑いですねと繰り返していたように思え、暑いですねと言ったところで、けっして涼しくなるわけでなく、慣習的な惰性は全く意味がなくしている。そんな理屈は理屈であっても、極端な暑い寒いは愚痴ることになって、気候の挨拶では済まない習慣的な無意味な挨拶が理屈になってしまうようだ。一つの悪癖であるごときのように、天候の挨拶が枕詞になってしまいますが、それはそれとして会話の切り口として適応できるのであれば、日常の会話の中で有効に活用をしたいものと願う。午後に行った愛犬の散歩時は、韓国の知人がプレゼントをしてくれた防寒帽を確りとかぶり、首と耳を寒さから防ぐべき付属の覆いをして、マスクをかけての出で立ちでは、人相もわからないほどの様相であった。家内が言った表現言葉は、ほかの方が恐れてしまう様相だそうで、愛犬家との遭遇時にはできるだけ優しく声がけを心掛けたところであった。やはり、すれ違う愛犬家の皆さんも、身を縮めて背を丸くしながら、異常に寒いですねーと愚痴っぽく挨拶をしてくれて、何気に、気候の挨拶が無難な切り口になっていることを納得させられた。皆さんが首に巻いたマフラーを口まで覆っていたり、大きなマスクをしたりして、すっかり防寒の対策をしていても、早めに切り上げて帰宅する様相がみてとれ、目線だけの挨拶とこもった声が異常なまでの寒さを表現していた。北国の方はこれで当り前の厳しい寒さを受け止めているのだから、感心をするし驚嘆もするし、生きる厳しさを乗り切る堪忍力や忍耐力の素晴らしさを伝えてくれている。北国の方が無口であると言われる意味合いが、こんな寒風の世界で生活をするなかで、生きる工夫として発揮されているのではないだろうか。生きる生命力とは、苦難を耐えてこそ価値を高めて資質を上品に成長させてくれると信じているのだが、自然界の厳しさの中で生活がされること自体が、身に備わったご縁があればこそである。極寒の地に生きる方が得れる至福は、春から夏への素晴らしい季節だろうし、こうした感激の機会を得られることが、天命からのご褒美なのだろうから・・・・・天候に恵まれての生活がされていると、こんな感激を得る前に愚痴るから、まだまだ人間的な成長がされていないことになる。春までは、愚痴っぽく寒いですね~の挨拶になるのでしょうが、せめても心を籠めての挨拶にさせてみたいもの。
2011.01.16
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朝の起床時から先日に眼の治療をした左眼が、ごろごろチクチク違和感があって、週末の治療が休日なために、あらためて不安になったので、休日診療でお世話になった学習効果を発揮させ、地元にある行きつけの眼科医を訪ねた。家内も定期的に行っている医院で、土曜日は半日診療だから混雑するとアドバイスをうけて早めに行ったつもりが、すでに待合室は超満員の様相であった。無駄な時間を費やさないために、読みかけの資料や書籍をもって出かけたのが正解で、立読みをしながら呼び出しを待ち、問診や視力検査をしながらたっぷり1時間は過ぎていた。土曜とあって小さなお子さんや高齢者がむっつりと座っていて、小さなお子さんたちが肩身を狭くして、順番を呼ばれることを待っている姿がかわいそうで、本心は動き回りたいことでしょうが、じっと大人の見慣れない顔を観察しているようであった。昨日のこと、昨年ご縁ができた大先輩にあたる、北海道と東京のロータリアンから送って頂いた書籍冊を読むことができ、過ぎ去る時間が有益で、あっという間に診察の順番がきてしまった。2年振りだろうか、すっかり貫禄がついてきた眼科医に、年末の事情を説明して診察をうけたら、休日診療所で取り切れていなかったごみがあったそうな。そのゴミが影響をして、まぶたの内側が傷つけてしまい炎症を起こしている説明をうけて、点眼液で掃除をしてもらったら、すっかり気分快調になることができた。眼の中の違和感がなく、点眼液も気持ちよく染みわたってくれて、安心をして帰路を楽しむことができたのだが、白内障がずいぶん進んでいますから気になったら処置をしましょう、と貫禄がでた眼科医から伝えられた。本人は元気だと思っていても、肉体的には確実に加齢されて、身体の機能が劣ってきていることは事実であるし、自覚をする必要がある。月刊誌致知の記事にあった稲盛和夫さんの言葉だが、齢を重ねていても常にド真剣な生き方をしていること、加えて真剣、誠実、恩を知り恩に報いる信条をもっているそうだ。松下幸之助翁も肉体的な衰えは仕方なしとして、精神的な若さをもって、いつまでも溌剌とする青春とは心の若さそのものであると言って、心の老いを絶対させないことを厳命しているほどである。世の中にある一般常識では決して判断ができないことは、セオリー通りに物事が運ばないことが儘あることが、自身の生きる道でどのように対峙してやり繰りをすることができるかで、自身の人生進路に大きな価値が備わる気がする。幸之助翁も稲盛さんも、人間的にずいぶん苦労をされているように思えるし、苦悩があったからこそ一層人間味が磨かれて、思い遣れる心の豊かさになったのだろう。昨日先輩ロータリアンから贈呈された上梓の書籍も、相手を思い遣っての心優しい人間性があればこそ、ありがたき拝読することができ、こころに感銘や感動を覚えさせてくれる。決して狭義な心でなく豊かで広義な人情を誇れる、人様の為になれる行為を心がけ、多くの方々の思いを書籍から学び、視界良い人生を覗き込んで生きてみたい。
2011.01.15
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所属するロータリー・クラブに在籍して、丸20年が過ぎ21年目に入ることができ、改めて時代の変遷を振り返ることができる。平成3年1991年は遥かふた昔前になってしまったが、すべてに活気があり多少の無茶も許してもらえる、寛容の精神が満喫していた時代背景があったと記憶している。自家用車も大型エンジンを載せた高級車が競って販売されていたし、毎夜の接待も気軽に出かけることができ、繁華街の賑わいも異常なほどであった恩恵は、多少なりとも享受することができていた。当然のことゴルフコンペや飲み会やらどんな集まりごとも、それなりに活気が充満していて、明日に夢や希望をもって元気な交流があり、結構雑駁な日々がながれていた。そんな活況ある時代背景を支えにして、知り合いからロータリー・クラブへの誘いをうけて、ロータリーの活動がどんなことなのかもよく理解しないまま、地元で事業を起こされている大勢の中に仲間入りすることができた。古参の方や若い方が入り混じっての80名ほどのクラブですが、社会情勢に活気があるだけに、其々の方が自己顕示欲を沢山もっていて、自負や誇りをもってそれぞれのポジションで誇示をしていたものだ。ふた昔の時代背景は、全く天変地異の真逆な状況で、会員の仲間も30名ほど少なくなってきたし、無茶な奉仕活動はかげを潜めてしまい、もっぱら基本にものどっての人生哲学の学びをする啓蒙が強くなっている。いまこそ基本に戻ろうと、ロータリーの成り立ちを学び歴史を振り返って、創立の精神を咀嚼する流れが強くなっているが、年度年度の国際ロータリーの会長テーマとか、地区ガバナーの熱意によって、多少のハンドリングが違ってくる。時あたかも、次年度の地区ガバナーは国際協議会に参加する時期だし、それに伴って、地区委員会の構成等が佳境になっているし、あれこれ話題が多くなる時期でもある。専門的に学ぶ理念や思想はたくさんあるし、一つずつ機会を作って自分のものにすべき、勉強が必要に思え、できるだけ研修会やセミナーの類には、大変な興味をもって参加をしていきたいと思っている。入会以来今ほどロータリーの綱領を理解することの重要性や、理念を深く理解をすることが、自分自身の人間性を高めることになり、高潔な職業人としての言行を磨き上げるための、人間修練の場であることを認識して学ぶ機会はなかった。沢山の資料をネットで見つけたりして、ある程度のストックもでき、最新の手続き要覧もてにすることができたので、新しいことを知る感銘や感動を期待して、資料を目にすることが楽しみになっている。こうした波長が伝道して通じたのか、ここのところ、様々な方からもありがたき書籍や資料を届けてもらうことが重なっていて、もっと勉強をしろと叱咤をうけている。知る楽しみを倍増するためにも、自分の人間性に豊かさを身に着けるためにも、できるだけの読書を捗らせていきたいと願っているし、それこそが贈っていただいた方への御礼になると信じている。
2011.01.14
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ここにきて、例年にない足のかかとと手指の先が、皸状態になってしまい、ぱっくりと口が開いた切り傷は、ぶつかり具合が悪いと、とんでもない悲鳴をあげることになる。真冬になると寒いのが苦手なうえに、皸になりやすい体質の為に毎晩のように、風呂上がりの軟膏を皸に擦り込んでいる。角質体質の乾燥肌には、突然にぱっくりと傷口が開いてしまう皸が大敵で、手先が不自由になってしかたなく、カットバンを何か所にも貼り付けていて、自己流の対処をしている。肉質に食い込むようにキリッとした痛さは苦痛であり、歩くときの不都合もあったり、指先での仕事が遣りづらく、体質的に不満がある乾燥時期の冬が苦手であり苦痛である。人それぞれの得手不得手があって、精神的な性格でも肉体的な体質などの理不尽な不安が、どれほど損をすることであるだろうか。自分の弱点を卑屈に欠陥とするのではなく、弱点を克服する克己心を養うのも立派な生き方になるのだが、一病息災のことわざ通りに、身体の弱点とお友達になる開き直りの、精神的な芯を強くさせたいものである。誰でも完璧な健康体で生きてはいけないし、いつかは病とお付き合いをするのが自然の摂理だとすれば、生きる寿命の綾組を当たり前にうけとめてみたいものだ。じくじくと気を病んでしまうのではなく、開き直りの剛毅な生き方も素敵だとおもうし、自分で自分を元気づける自己規制ができることを期待してしまう。人様には分からないことであるが、それぞれが天命を預かっている身であり、天恵のご利益に甘んじているわけですから、いろいろな環境の変化が当然として理解できるなかで、お互いに尽くしあえる立場を構築したいもの。大病もあれば怪我もあり、ささくれや皸もあるし、アレルギーの苦しみを持つ方もいて、人それぞれに健康に対しての不安があり、悩まれていることがお気の毒になるのですが、もっともっと元気な溌剌さを自認してほしいものです。心臓を罹患した身としても、この極端な寒さは閉口するし、日々の時々に起こる胸痛の不安は、大きなストレスとして命の寿命を考えることとなってしまう。いつ発作があるかも知れなく、再発や余病や悩める事態が懸念されるのだが、少しでも精神的に健康を保持することを心掛けることが、時病の苦痛から逃れることに結びつく。余命と寿命の駆け引きからすれば、乾燥肌の皸なんぞはどうでもよいことで、喝を入れ直してカットバンを取り換え、できるだけ普通に生活をすることにしたい。身の周りをみても、大病で何年も入院している人や人工的な器具の装着で生き延びている人や、骨折やけがで顔をしかめている人が当り前のように数多くいて、それぞれが精一杯の克己心を磨き上げているようにみえる。お互いに気を病むことなく、心身ともに健康であることを誇りにできる、心の強さを鍛錬していきたいもの。今も心臓が大きく存在感を誇示して重いのだが、できるだけ労わりながら1日の延命に結び付けていきたいし、そのお蔭を享受して、できるだけの保身の保護を働きかけて、その報恩を実践できることが健康の秘訣になっていることを信じたい。厳しい寒さに耐えてくれている心臓に感謝をして、残されている未知の寿命に、元気でいてくれる大切さと感謝の喜びを伝えてあげたい。
2011.01.13
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なにごとも誠心誠意真摯になって取り組むことが、とっても肝心肝要であることだと、常に日ごろから考えて行動をしているつもりがある。進捗が悪く、自分自身が不甲斐なく思うことが毎日のように沢山あるし、日々新たに頭を抱えてしまうほど、体たらくな失態が繰り返されているのだが、生きる世とは、すべてに思うようにならないことが通念なのかもしれない。ここ数年間ですが、人様への課題や役目を果たすことができないままになっていることがあって、理不尽なことを繰り返してしまい、ある種の迷惑を掛ける状態になっていることが情けないのである。果たせない約束が理不尽で仕方ないし、果たせる範囲の責任を担う努力をしているのだが、所詮は人様の厚意に甘えることになってしまい、頂いている厚情には何としても恩返しをしたいものであると念じてしまう。いとも簡単に思いを書き込んでしまうのですが、人様からの思い遣りを受けれる幸せとは、人間として生きていれる最高の至福を味わっているのかもしれなく、とてつもなくラッキーなことであると認識をしてしまう。禍福は糾える縄のごとくと言う諺があるように、まさしく日々新たに置かれている状況が変遷をしてくれることを信じて、この世の中は禍でも福でもなんでもあってこそ、世の当たり前を認知すべきことだと思う。おそらくは順風満帆な一生とはありえないだろうし、直面する難行苦行に真摯に向き合うことに、素直に言行できる修練こそが人間の生き方となってくれる。接する人が孤高な方でも、引きこまれる魅力ある生き方をされていると、自分の人生もかくありたいものだと念じるし、その魔力に肖れる希望をねがってしまう。どんなことでも一心不乱に取り組み、真摯になって誠心誠意の真心は、禍を福とさせる一番の手法になってくれることを、今回の経験からしっかりと身体に焼き付けることができている。こんなにも不甲斐なき者を温かく力づけてくれる世の中に、いかに借りを返していくか、いかに恩返しをするか、いかに世の為になるか、できるだけ実践をしていくことこそ自分の役目であることを自覚したい。奢ることなく過信することなく、謙虚に礼節をもった生き方をすること、それこそが迷惑や不義理をしている身の施し方だと信念をもっている。いつかは、きっと義理を果たせる人間になって、世からも信頼を得れることが楽しみに待たれる。
2011.01.12
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車のコントロールパネルにある外気温度を示す数字が、マイナス1度を表示している車に乗るのは、最近になくおそらくは初めてのことだと思っている。しばらく走っても暖房が利かなくて、冷風だけが室内に吹き込んで、まるで扇風機が回っているようであり、エンジンが温まるまでに時間がかかってしまった。今朝ほど6時過ぎに家内を送るために車を運転したのだが、厚着をしていても足元から深々と寒さが感じられて、暖房が欲しいままにじっと我慢は身体には良くないことである。なによりも手で持つハンドルが冷たくて、ただでさえ手先が冷えているのに、根性と気合を入れてハンドルを操作していた。毎日日本海側の豪雪模様が報道されて、雪かきが大変な重労働になっていること、過疎の町では若者がいなくて屋根に積もった雪おろしもままならないそうで、非常にお気の毒に思える。100年に一度の猛暑であった昨年の夏であったが、今年の冬は100年に一度の寒さがやってくるのだろうか、身体に響く本格的な寒さは苦手であるし、雪対策がまったくなく積雪の対処ができないことに不安がある。身体も健康体でなく除雪の道具もなく、おそらくは積雪ともなればとんでもなく混乱と障害が沸き起こってくることだろうし、交通機関や生活への不便な日々となることが、心配の現実としてある。テレビの報道で観るだけだが、屋根に背丈ほどの雪が積もって、老体に鞭打って雪下ろしの作業をしている方の姿は、何かの間違いであると思うし、地元の行政や近隣自治が支援をしてこそ、みんなが尽くしあい安心を分かち合えるのだと思ってしまう。野菜作物を生産している農業の方も被害があって、雪害はもとより寒波で大きな被害がでている報道があり、作物の生産減少に伴う価格上昇となっているのだが、生産者も大変だが消費者も生活に負担がでてしまう、不安が大きい冬の弊害となっている。自然界からの厳しい荒天は、自然界の仕組みや力に甘えることなく、普段甘えている人間族への苦行修練や、人への思いやりをきつく伝達してくれているようだ。人間の社会でどれほどの経済力や名声を持っていたとしても、天地宇宙の大自然の力は、予想から逸脱したとてつもない魔力をもっているものである。自然との共生を心がけるところだが、自然界の魔力は突飛もない被害をもたらすことで、深刻な生活に追い打ちをかけることだけは、どうか勘弁をしてもらいたいもの。達観心をもてば、全ての出来事は禍福のサイクルがあると理解をして、良悪どんなことも天治と受け止められる心の余裕をもっていきたい。神仏の前では平穏無事で平安な日々の生き方を願ってしまうが、大きな器量や度量をもてる修練をかさねることは、結構な孤高な学びごとに結びつくのだろう。
2011.01.11
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寒風が吹き荒れるなか、様々な植物が寒さを凌ぎながらも、日増しに陽射しの強さを受け止めて、迎える春に本格的な活動ができるように、樹木の種によって準備万端がされていることだろう。広葉樹も落葉樹も針葉樹も様々な木々が身近にあるが、それぞれが寒風に耐えながら、枝を大きく揺らさせながら、なにやら語りかけてくれているようだし、何かを伝えるべき情報を発信しているように感じられる。樹高のある木々のてっぺんに差し込む強い日差しは神々しく、下から眺めていてもキラキラと陽春に映えているのが窺えて、感情がない無表情な木々も、しっかりと活力を溜め込み、一気呵成に成長をする時期を見据えているようだ。先日お参りした三石山は標高は低いが、結構激しい起伏のある山で、急こう配に聳え立つ木々が密生していて、種類もたくさんあるし、若木から老木までが競うように密林しているのだが、急こう配が為に木が生えている地山はどのようになっているのか興味もある。時間によっては差し込む陽射しが遥か下の地山にまで届いていて、角度により参道を歩く自分の影が眼下の谷底に観ることができる。歩く様子が立体的に投影される自分の影を意識しながら、変化をしていく地山の姿を観ていたことが印象的に記憶にのこっているし、狭い参道の脇に迫るように立ちはだかっている大木の労をねぎらうために、素手になってねぎらい感触を楽しんできた。樹齢が何百年と思われる大きな杉の木が多くあったのだが、隆々とした樹根が参道の脇までむき出していて、途中からまた地下にのめり込んでいる姿は、脈々と生きる生命の力強さと生きる大切さを教えてくれていた。樹木があってこそ自然界の豊かな深みがあるし、風雪に耐えて成長する逞しさと生命の尊さを、われわれに教え学ばさせてくれているようだ。事業の躓きで苦難の業を何年間過ごしているのだろうか、家族に迷惑をかけ不安を感じさせてしまっているのだが、木々の根っこのように土中深く生命力を網羅させている姿を学び、しっかりと根を張り巡らせた力強い幹は、真っ直ぐと天空に聳え立っている逞しさが励ましてくれている。我が家の狭い庭に植えている樹木は、3代前の大祖父が植木が好きで庭に植えたことを聴いているのだが、職人さんの手入れはせずに、全ての手入れは私の我流の選定をしている。当然のことだが、でこぼこの出来具合は納得の我慢だが、それでも小奇麗に刈り上げられた木々はさっぱりして、密度が適度に削ぐことができたおかげで、冬の青空が一層明るく見通しすることができている。出先や公園で出会う老木や大木には、できるだけ敬意を表して、できるだけ素手でもって幹を触らさせてもらっているが、苦節を耐え忍んで生きている大木や老木の忍耐力のお蔭を有益にしていきたい。木々の生命を大切にして、感謝をしながら手入れのできる範囲で刈り込みや移植を励んであげて、少しでも潤いの感性が高まるように意識をしたいものだ。それにしても、長年生きている老木を大切にしていきたいし、存在感がある木々に畏敬の念を深めていきたいと願い、できるだけ素手で触らさせてもらいたいものである。
2011.01.10
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病は気からと言うけれど、ウイルスによる伝染的な病人と接触をすると、なんだかうがいや手洗いを必要以上に励行する気になるし、気を新たにさせて無駄なほど、丁寧で細かななうがいや手洗い作業をしてしまう。身の回りでは風邪が流行っているし、ノロウイルスによる嘔吐と下痢も流行っていそうでで、その体験談を聴くだけでも背中に寒気が感じてしまう。午後に行ったお宅の皆さんが、一昨日の夕食後に急激な悪寒と嘔吐があって、体力を消耗したやつれた顔でもって応対をしてくれたのだが、少々痩せ細った青白い顔が元気なく、会話をしているだけでも、ノロウイルスが感染しそうであった。買い置きの使い捨てマスクを常時携帯しているから、早速着用したのだが、相手の方にも気をつかってしまい、一言断りの言葉を添えてあげた。相手のノロ菌が伝染することも怖いし、人を介して広範囲に蔓延することが恐れることだが、病気をしたばかりの罹患者のまえで、改めてマスクをすることは、感情的に不愉快さを押し得ることと心配をしてしまう。割り切って話をすることで、お互いの理解を得れることだろうが、お邪魔したお宅に罹患者がいたときには、事情を理解してもらうにも、普段の交流の度合いや親愛の濃度によって違うし、いらぬ不愉快な環境を作ってもと、繊細な心理状況になるものだ。義母がリハビリの為に利用している宿泊設備の整った施設でも、風邪とノロウイルスの予防のために、外部者との接触をできるだけ制限をしているために、義母の部屋には入ることができなく、ロビーにて義母を迎えて歓談をすることを厳命されているし、身体の弱った方々を受け入れる施設では、風邪やノロウイルスの対策に躍起になっている。それにしても、ロビーで義母と家内と三人で使い捨ての大型のマスクを使用しながら、会話をすることの難しさがあって、相手の唇をみることができなく、言葉がマスクで籠ってしまい、義母には不便な思いをさせてしまった。老人性の難聴もあってか、時々適当な相槌にある種の予感がしてしまい、しっかりと聴き飲み込んでいないことまでも適当に頷いているから、高齢な身でも結構な気遣いをしていることが伝わってくる。どちらが身を案じて心配して慰問しているのかが不規則になってしまい、しまいには健康に留意をして生活するようにと激励を受ける身となってしまう、結局は親子の会話になってしまう。夜になって倅が体調が悪いと言って、夕食をとらないで就寝をしたのだが、風邪なのか疲労なのかはわからないが、夫婦しての夕食時に家内が言うことには、病は気からだから決して弱気を出さずに、大丈夫だろうかといったネガティブな言葉は言わないことと、真剣な眼で厳命をうけてしまった。言われてみればその通りで、風邪気味と思えば身体のどこかが寒気を感じてしまい、悪寒まで擬似的に意識が高まってくるからおかしなものである。今のところ元気で順調な体調であるから安心だが、病の気を起こさないように忙しくして、極多忙な仕事を夢中にできる日常を心がけようと念じている。朝晩の厳しい寒さと、日中の穏やかな温暖な格差がありすぎる最近だが、しっかりと体調の管理をしながら、家内の老いた両親を安心させる役目を果たしていこうと、健康家族を願う昨今である。
2011.01.09
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今年娘が本厄の年を迎えて、家内が厄落としのお参りを心配していて、新年を迎えて時間ができたらとその機会を待っていたようだ。いつからとなく君津市にある三石山観音寺に行き、年に一度はお参りをする習慣になっていて、娘の仕事の休みの日を合わせるように、朝から穏やかな好天の中、愛犬の二匹も同乗して遠足気分を味わいながら、にぎやかに出かけることができた。一家と愛犬までの大勢の移動は久しぶりであり、車の中は満員状態であったが、案外として空いている高速道路と一般道路を順調に走ることができ、三石山の登坂道路を何回も曲がりくねって到着することができた。山頂について先ずは驚いたことが、新しい駐車場とトイレの整備が立派に出来上がっていて、駐車場が満杯の状況であり、露店が賑わうほどの人出でお正月気分が漂っていた。車から降りて屋台から香ばしく匂う焼きそばに誘われてしまうのだが、先ずは山頂の観音寺にお参りをして、香を身体じゅうに染み込ませて、本堂にお参りすることができた。ここのお寺は標高300メーターほどの山頂に建立されていて、三石山の突起された岩の上には、縁起の良い祠が天空に聳えていて、信者の方がハンカチを結び付けて祈願をすることで有名になっている。大きな三つの岩に寄り添うように建立されているお寺だが、天空の祠に向かうのは、岩と岩の細い間を抜けていくのだが、大木の根がむき出しに絡まっていて、なかなかの登山気分を味わえる。岩と岩の間を大股で渡りながら慎重にして、祠まで行くことができたが、結構な緊張感も味わえて、祠の柵に祈願のハンカチを結び付けてくることができたが、祠まで登ってくる人を観察すると、真剣な目つきがうかがい知れる。心からの願い事があるのだろう、狭い登山道を譲り合う時に言葉を交わし、その際に垣間みれる本気度の願いごとを心にしている様子が、ひしひしと伝わってきた。皆さん神頼みや仏頼みをしたい素朴な心があるもので、その人が生きていく人生の中で、どれほどの頑張りがあっても心細くなることや不安をもっているのが自然だし、とっても人間味があって、人間らしさが強く共感できるものである。こちらの親としてみても同じことで、事業のつまずきを乗り越えて少しでも繁盛をすることや、家族の健康と平安を願うし、歳女の娘と長男の善き人とのご縁が花開き実を結んでほしいし、欲深く願うことはたくさんある身なので、ついつい家族で心願に手を合わせてしまった。三石山の苔が生えた、切り立った崖の登山道を行き来するのだから、お互いにすれ違う時には優しさの心が伝わってくるし、人情味あふれる一時を享受することができ、優しい人柄に感嘆をしてお正月の徳を楽しんでしまった。観音寺は決して観光的な派手なお寺ではなく、どちらかと言えば山岳信仰の一面が色濃くあったのだろうか、いつとはなしに一言願いの縁結びのご縁のご利益が有名になって、参拝する方が大勢参拝するようになったのだろう。もちろんのこと、仏様神様に頼ることだけではなく、精神的な安らぎをもとめて、信仰の力で御助けを頂ければ自分に納得ができ、平穏な精神状態になれることが、信じることを受け入れて、こころの安らぎとして力が漲ってくる。自己コントロールができる神仏への崇拝の尊さを、ますます大切にしたいし、家族全員の精神的な拠り所が安心できるし嬉しく思う。実に素朴で山深く建立されている質素な山頂寺社は、いつの時代も信心を持つ者の聖地として、秘境の名残を残してほしいと勝手な願いをしている。
2011.01.08
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冷蔵庫の中のようだという表現の例えがあるが、外気5度を示す車の中では最高の温度設定をするほどで、乾燥した冷たい空気が体温を奪って、冬本番を迎えて外では身を縮めて歩く一日は、全く冷蔵庫のなかのようであった。アルミサッシのガラス窓やドアーをしっかり閉めていても、どこからかの隙間風が敏感に感じてしまい、屋内でも背を丸くして家の中を動き回ってしまう。本当に寒く身に染みて感じた一日になったのだが、事務所への道すがらや、車から移動する際の身が凍るほどの冷風が吹いていて、心臓までも一気に届くようで、まるで北の雪国に移動したような寒さである。毎日寒い寒さに凍えてもいれなく、晴れて澄み切っている天空のように、こころに蟠りがない一点の曇りもない晴天の冬空に恵まれて、子供心の純真さの心を取り戻したいものだと願う。真冬になった子供のころとは、庭の片隅にあったバケツの水は凍って、家の庇からは氷柱があったり、地面は霜柱がたっていたのが当り前であったが、その寒さの質は変わっているのだろうか。今日のように寒波が吹き荒れていても、子供のころの冬の様子が感じられなく、今では人口密度が高くなり、近隣のお宅でも暖をとる過剰な加温をしているし、生活空間が発するエネルギーが高く、多くの移動する車からの排気熱があったりして、外気が必然的に高めになることが理解できる。そろそろ毎日の寒さが厳しくなることに、身体が慣れてきていいのだが、寒がりな体質もさることながら、我慢の限度が低くなってしまっていることも事実で、ついつい文明的な暖房器具に縋ってしまうことになる。夕食をとりながら、家族との談話で話題になることは、引っ越しをする時は、暑い国がいいのか寒い国が良いのか、勝手な言い分を語り合ったのだけど、みんなが無責任な願望を主張するだけであった。個人的には寒さよりは暑さを望むが、深々と冷え込む外気とはうらはらな、屋内全てが快適に満足する暖房設備を利用できるのであれば、矛盾するけれど北国に引っ越しをしたいものと思う。北国には、人間的にも人情味豊かで思い遣りが深い方々が大勢いる気がするし、澄み切った外気に触れることが何よりも魅力的に感じて、遠方まできれいに魅入れる景色も至宝の一つになる。熱帯国は魅力的で、なによりも嫌いな寒さから逃避できるのだが、引っ越しという目的をもってしまうと、日々の暑さで消費をしてしまう体力は、疲労感が溜まってしまう気怠さがストレスになってくる。結局は今の住環境がベストと言う家族での結論になったが、寒さも暑さも自然界のサイクルと受け止めて、ごくごく当たり前の自然環境と受け止めていくことが肝要だと思うようにしたい。誰しもが勝手に思う通りの住環境になれるわけでなく、大自然のなかでの変化をエンジョイすることに意識を傾注させることができれば、暑さも寒さもお友達感覚になれると勝手に結論づけてしまうのだ。かっこよさも見栄もなくすれば、正直な気持ちとしては、いつも小春日和の穏やかな陽射しに恋焦がれてしまい、ガラス越しに燦々と輝く太陽の陽射しを待ち焦がれてしまう。今夜の天気予報では居座る寒波の強さを伝えていて、しばらくは身を縮めながら急ぎ足で、つよい寒風をよけて歩く必要がありそうだし、厚着や防寒をしっかりしたいものである。
2011.01.07
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午後から一転した寒い御天気だが、きっと北国では強い寒波に覆われていて、寒風と豪雪に悩まされているだろうと、テレビニュースを観ながら、何人かいる仲間の様子を思い描いてしまう。一日中陽の照らないどんよりした雪模様に、屋内に閉じこもっての我慢の日々はどんなものだろうか。豪雪地帯の日々の生活とは、理解できないくらいの難儀さがあるだろうと思ってしまうのだが、意外にも暖房された屋内での楽しみな生き方があるかもしれなく、温暖な地方に生きる人間にはわからない至福がありそうだ。全国的にインフラが整備しているのだから、水道やガスとか電気での最新の器具を使った生活空間は快適であり、インターネットをはじめとするテレビ等の娯楽は勿論のこと、家族だんらんの心温まる楽しみは、一段と密度が濃いのかもしれない。寒さには弱くできれば遠慮をしたい身なのだが、心まで温まる暖房がしっかりと効いた部屋で、好きなネットをやったり読書三昧をして生活できたらと、叶わぬ願いをしてしまう。子供のころには、一家の暖といえば炬燵があるだけの時代があって、一日中炬燵に潜ってのんびりと漫画を読んだり工作をしたり何でも持ち込んで遊び、高学年になると宿題をしながら気持ちよく寝入ってしまったことがある。炬燵で暖をとる快適さは最高の気分で、なんどとなく風呂も入らずに寝床にもいくことなく、炬燵で就寝した思い出はこれまでも数多くある。学生時代を終わって安サラリーマンの生活を送っているときに、友人がアパート住まいを始めるに当たり、引っ越しの手伝いをしたまま、炬燵に足を入れて寝入ったことがあった。頭寒足熱の暖房典型である炬燵は、現在ではどれほどのお宅が使用しているのだろうか、我が家にしても全ての部屋がエアコンとガス温風ヒーターを利用しているし、何年か前に利用していたテーブル型炬燵は廊下の奥で眠っている。先日のテレビを観ていたら、省エネやエコを目指している時代背景があるのか、パーソナル的な足温器とか電気毛布とか懐炉を工夫して、自分自身の個人的な暖房がひそかに流行していることを特集していた。部屋の外気が寒くても、足元からの温もりが温泉に入っている効果が出て、体全体をしっかりと温めてくれることが嬉しい。最近では床暖房を施工されているお宅が多くなってきて、足元からぬくぬくと実感されることが、なんとも生きている有難さを喜んでしまう。足裏からじわっと広がる床暖の温もりは、心を柔らかく広げてくれて、実におっとりとした心豊かな人間にさせてくれる。外は極寒でも、心底から温かみのある素敵な人間になれることを目指して、寒さ対策をしながら、待ち遠しい春をまちたいものである。北国の方々が雪害のないことを念じて、示唆に富み思慮深く人間味あふれる生きざまに、好意と畏敬を深めてしまうのだが、今日も寒風に耐えて雪かきに精をだす多くの仲間に、改めて人情味豊かな素晴らしさに感嘆をしてしまう。一段と冷え込んできた今晩だが、我が家ではガス温風ヒーターのモーター音が、精神的な豊かさと安堵感を届けてくれている。
2011.01.06
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なんとも奥手というか横着と言って良いのか、やることが全てに遅く、気分が乗りきるまでの時間が実に長く掛かる性格をもっている我が身である。この正月のお休みを遣って、たくさん溜まっている資料を整理しておきたいのだが、思うようには捗らなくて、いつもの自慢の愚図っぽさを発揮してしまう。寒がりな上に心臓を壊してからは、なおさら寒さに敏感になってしまい、ついつい手をポッケに入れたり、腕組みをしたり背を丸くしてしまい、ついつい無駄な時間を過ごしてしまうことが情けないし悔しい。こうして自分の弱点を披露していると、愚図な性格も一理あるが、大きな原因は加齢からくる老齢化なのだと自分で合点をしてしまう。親父さんが93歳まで元気に生きてくれたのだが、父親の晩年は異常な寒がり屋さんで、厚着に厚着を重ねて、狭い寝室にガス温風ストーブをつけて電気毛布をかぶっていた日常を思い出し、いずれ自分も同じような生活をするのかと訝ってしまう。昨年の春に急逝した一番世話になった従兄も、異常に寒がりであって、我が父親と同じように室内でも外出と同じような厚い上着を身に着けて、手モミをしていた姿を思い出し、きっと寒がりのDNAが強く流れていることを確信してしまう。そんな寒がり屋さんにも至福なひと時が当て、午後に差し込む陽射しはありがたく、ほぼ4時間ほどの天国を有効に活用することができ、愚図が豹変をするほど快活になれるから、自分でも面白いほど陽春を享受している日々になっている。昨年に行われたロータリー地区委員会の報告書作成があって、地区内各14分区のうち4分区が未着になっているために、気乗りがしなく、一気に報告書の集成を作業する意識が希薄になっていた。各分区から到着している10分区分の報告書も、手直しや習性があったりするのだが、2分区分の報告書が沢山資料が不足していて、CDに音声になっている声を聴きながら筆耕作業もしている状態だ。音声で他人様の意見発表を聴きながら、筆耕書き留める作業は初めてのことであり、結構ストレスを感じながら、何度も何度も同じところを聞き直す作業に追われてしまった。他人の意見を書き留めていても、結構自分の思いが沸き起こってきてしまい、発表している内容から逸脱することを恐れてしまったのだが、人様の意見を咀嚼すると、同じ考えになることを認識することができた。何回も繰り返して聴いていると、その人の口癖が理解でき、同じ言葉が繰り返したり、えー、あーの間合いが多かったりして、人様々な個性が豊かなことがうかがえる。意見発表と無関係な言葉や無駄な言葉を省いていくと、自然にすっきりした文章が筆耕でき、できればこの言葉を付け替えると一層素晴らしくなるとか、自己主張の加筆がしたくなってしまうのだ。お節介な越権の行為を少しだけ許してもらいながら、ある程度作業が進捗することができることに、穏やかな陽射しのお蔭でることを素直に認めたい。お天気模様で気分が変わってしまうほど単純で、意思の弱い愚図な性格の自分でも、天空からの恵みに享受できていれる環境があることに、心の中から手を合わせて感謝をしてしまう。
2011.01.05
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年末から続いている穏やかな天候は、関東地方だけのようで、日本海よりの北陸から東北地方は空前の厳冬となり、大雪が降っていてその災害が報道されている。今年の仕事始めはコートを必要としないほどであったが、ビル風は特異な風と寒さを感じさせて、カシミヤのコートと手袋を、今冬初めて身に着けたことが正解であった。地元の信用金庫で年始の挨拶をしてから、JR駅に向かって歩き歩道で信号待ちをしていたら、大きな交差点に建っているビルからは、燦々と照らす太陽が嘘のような、寒い風が吹きつけていた。心臓の治療をしてからは早走りができなく、体調に合わせてゆっくりと駅に向かっていったのだが、建物の陰は寒くてコートのありがたさが身に染みてわかった。橋上にある駅の階段を昇ろうとした時に、上りの快速が到着してしまい、健康の時のように階段を一気に駆け上がることができなく、あきらめて次の電車に乗ることを考えて改札を通過した。ごくのんびりとホームに行くための階段を下りていたら、さっき到着した快速がまだ停車していて、まるで私を乗せるために待っているように、ドアーを開放したままになっているのであった。お蔭様で思いがけなく、ありがたく乗車することができたのだが、定時発車なのか遅延なのかのアナンスがなくて、結局訳が分からないままに快速に乗ることができ、年明け早々に幸運なご縁に恵まれあったようだ。何か良き施しをしたかしらと訝ったら、先に行った地元の信用金庫横にあるごみステーションには、山ほどのごみが溜まっていて、その一つの袋がカラスに悪戯されていて、ごみが道路に散乱していた。過ぎ去ったのだが、引き返して手袋のままごみ袋と大きな散乱ごみを片づけて、できるだけ綺麗に掃除をしてあげたのだが、その一善の効果があったのだろうか。これも朝一番に善い行いをしたお蔭なのだろうかと、電車のなかで一人思案をしながら、結論が出ないまま、ただ運が良かったことに結論づけて、幸先良い仕事始めのスタートに喜んでしまった。千葉に着き、普段からなにかと世話になっている銀行に行って、恒例になっている年始の挨拶をしたのだが、支店長室において、御神酒を支店長や副支店長と課長担当者の皆さんと一緒に、めでたく祝杯を挙げることができた。遥か昔、この銀行の前身時代では、広い支店長室に日本酒の瓶が沢山揃って飾りつけてあり、取引先の好みの酒を選ぶことができた時代もあったのだが、さすがに、今の時代はあっさりと一本の一升瓶があるだけであった。形ばかりの年始の挨拶風景が、何年間続いているのかも忘れてしまっているが、挨拶にでかけることができ、快く迎えてくれて応対をして貰えるありがたさに、こころからの感謝をしなければいけないと思う。寒さより厳しい我が家の事業収入であり財政状況であり、経営不安がとても大きいのだが、今としては誠心誠意を心がけることしかなく、どんなに大変な艱難辛苦でも、与えられた難儀は自分自身の修練の場であると受け止めている。家長としても事業の責任としても、何とか啓運を享受できるように、全てを味方にして飛躍に繋げていきたいと願っている。そのためにも、誰のためでもなく自分自身の為になる、誠意の一善を積み重ねていく心がけを大切にしたいものである。
2011.01.04
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元旦に配達された御年賀状の束があるのだが、一読目を通してみたものの、住所の確認と未投函の整理ができていなく、気になっていたのだが、漸く正月三日目になって一枚づつ確認をすることができた。ほぼ一日の時間を費やして、一枚一枚の賀状を確認して住所の正誤をすることができた。一息入れるためにも、時々配送されたばかりの月刊誌致知2月号をめくってみると、立志照隅を特集した記事を神妙にして読みふけってしまった。特に感じ入ったのは、巻頭の言葉を書かれた、アサヒビール名誉顧問の中條高徳氏の随筆で、83歳の昨秋に急性心筋梗塞になったことが書かれていて、2009年に同病を経験した身としても同病の親しみが感じてしまった。お医者さんから絶対安静の厳命をされたなか、次の日に約束した国際ロータリー第2610地区である富山県と石川県の地区大会に講演者として出かける喫急性があって、車いすを利用してまでも約束を果たされたことが、同じロータリアンの一人として感嘆をしてしまった。施術前の苦しい胸痛をかかえて、飛行機に乗って講演に行き大役を果たされた中條氏の責任感の大きさには、ただただ感服をしてしまうのだが、ロータリーの地区大会の重い価値づけと理解がされたことが感動として受け止めてしまう。付き添いをされたご子息との信頼関係の強さと、家族の絆の認識を記述されているのだが、心筋梗塞の怖ろしさに恐怖を感じながら、約束をした講演を果たすための苦悩の模様が伝わってきて、心筋梗塞体験者としてロータリアンとして、実に感銘的に受け止めてしまった。同じ病気をしても、中には即死をされる人もいる事実があって、延命のありがたい身体にしてくれた仲間の一人としても、自分のもつ寿命の不思議さを強く理解したところである。中條さんは、感性が理性を超克する瞬間として、文章をしたためているのだが、絶対安静の急患の身であるのに、空路遠方まで講演の役を認知させた医師の方々との交渉が、感性が理性を超克したと表現をしている。何かを一心不乱に押し通すときに、その人が心から願い実行される感情籠った信念は世間のきまりきった理性までを動かすことができることを、感動を持って受け止めさせてもらった。2年前に同じ病気で施術を受けた経験からも、文章の行間にある中條氏の人間性の素晴らしさと、心の純真さと、かたくなに強い意志が大切であることを学ばさせてもらった。明日からは仕事はじめ、与えられてもらっている我が寿命を大切に受け止めて、超克する大きな心をもって、悠々と生きていきたいもの。毎月の致知誌からは、沢山のすばらしい言葉を享受でき、未熟な自分の切磋琢磨の時間と学びの一時を、もともっと有益に生かすための自助努力を惜しみなく励む必要があるようだ。人間一生勉強することが必然であることを自覚でき、明日からの日常が、厳しくも非常に有益で楽しい共生のばであることを念じて、世の中と世の人の為になれる生き方を心がけていきたい。感性が理性を超克する素晴らしい人間に、いつになったらなれるのだろうか、非常に楽しみなことでもある。
2011.01.03
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お正月の年中行事になっている一つに、家内の実家へ年始参りをすることがあって、今年も家内と倅と三人で行ってきた。正月二日目も大変な上天気で、風もなく穏やかな日和のためなのか、高速道路が渋滞するほどで、どの車も一家の顔が見て取れて満員状況の様子であった。他県ナンバーの車も多く走っていて、実家に帰ってきたのか観光なのか判別できないが、渋滞のたびに車内風景を見物することができ、いらいらの気晴らしと時間つぶしにもなった。家内の実家へ行く途中で、義母がリハビリの為に入っている施設に立ち寄って年始の挨拶をしたのだが、義母は変わらぬ元気さで出迎えてくれて、今年初めての四方山話のサービスをすることができた。昼前に着いた実家にはすでに義妹夫婦が到着していて、久しぶりの挨拶が新年の顔合わせになってしまったのだが、家族が揃ったところで、今年88歳の米寿の祝いを迎える岳父の音頭で、新年を祝う乾杯をしてもらった。二人の義兄弟はお酒が大変に好きで、お互いに結婚したてからお酒を楽しむ仲間になって気が合うのが早く、下戸の我が身は話題に乗り切れない時間差を感じてしまい、愛飲と共にご機嫌になる二人とは裏腹に、下戸はなかなか協調することが難しい時間を寂しく味わってしまった。義兄弟の縁があってからすっかり時間も経過して、お互いが気を許しあえる初老人になってしまい、我は我のマイペースを発揮させているのだが、公務員二人の老後は公的な年金制度が充実しているために、老後の心配も少ないことが羨ましく感じてしまう。公務員として社会の為に果たした結果として、社会からご苦労様のお礼を含めて年金制度が手厚く施されているのだが、自営の身である我が夫婦の少額の年金は、いやになるほど寂しくなる差額がある現実は厳しい。還暦が過ぎた年齢や現状の社会情勢があって、どうしても老後の話題になりやすく、お酒でご機嫌な二人の義兄弟を相手にしていると、厳しい現況に立ち向かっている我が身の一層の踏ん張りを認識することが強くなるばかりであった。大型のテレビに映る大学駅伝の中継模様が、正月二日目の恒例の番組であるのだが、こうして家内の実家で観るようになってから、間もなく40年間がやってくる。お互いが親類としての交流はますます深まるのだが、それぞれの家庭を覗き込むことは別物で、特にお金に関しての話題は一線の際どさを感じて、流れ属的に駅伝のテレビを覗き込んでいた。大きな病気もなく実家の訪問ができていることに感謝をして、春に予定される岳父の米寿のお祝いを楽しみに待ちたいものですし、そのためにも我が家の実情をしっかりと力を付けられるように、大いに自助努力を発揮させたいものだ。それにしても、どこに行っても感じることは、お正月の晴れ着を着た人がめっきり少なく、神社仏閣へのお参りだけが賑わう世の中でも、世相が大きく変化しているようで、普段着の気楽さが時代背景として定着しているようだ。お正月に着る晴れ着や、下したての衣類に緊張感をもったことが懐かしくて、子供心に大人になった味わいは遠い思い出のひとつになってしまったが、お年玉の魔力だけは不変のようだ。我が家の長男長女の愛する人はいつ出会えるのか、孫にお年玉をあげることができるのか、そんな初老の年齢とは、お正月を一年一年重ねてきたことであり、我が家の一年をもっと大事にしなければいけないのかもしれない。
2011.01.02
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各地では荒天になっている報道があるなか、千葉は年末年始が好天気に恵まれてくれ、暖かな春の陽射しにコートも必要ないくらいで、とっても平穏な元旦を過ごすことができている。朝から差し込む陽射しに、心から手を合わせて一年の安泰を念じてしまえる、すがすがしい新年が迎えてくれたわけで、今年こその希望を叶える期待感が、自然に沸き起こってくる。今年の初日の出を身体に受け入れることができたのは、我が家の二階の東側にある掃出しのテラス。この部屋は数年前までは家内との寝室になっていた部屋で、当時の日常仕来りのまま洗濯物を入れた籠を置いているために、毎朝運動方々に二階に上り下りをしている。元旦の今朝も日常の仕草は変わらなく、遅めの時間でしたが着替えの下着を取りにいった時に、真正面に元旦の陽射しが差し込んだところで、目に眩しく太陽の輝きを浴びることができた。近所のお宅の屋根から顔を出した陽春は、観る見る間に輝きが増してきて、天空に昇るのが、まるで生き物のような躍動感をもってあっという間に輝きを増してきて、春の太陽の力強さが燦々と発散してくれた。自然に陽春に手が合わさったのだが、天気予報とかけ離れた穏やかな暖かさは嬉しくて、洗顔の後に神仏に燈明と水をあげて、今年初めての読経をあげることができた。年末には急激な眼痛があって読経はお休みしてしまい、二日ぶりに仏壇の前に座ることができ、自己流の仏前のお参り仕草をすることができた。我が家の先祖から六代目までの代々の霊にたいして感謝を伝えて、様々にお世話になっている方々にお礼を伝えて、毎朝菩提寺の読経を真似事している。年末にきれいに掃除できた仏壇と神棚にお参りをしてから、ダイニングキッチンにある荒神様に参って、庭の一角にあるお稲荷さんに家業の繁栄を願ってから、事務所にある神仏の棚に清水をささげてお参りの行事が終わる。ホッとしてからお雑煮を美味しくいただき、急いでJRで成田山にお参りして、本堂で行われた正午の大護摩焚き上げに参拝してから、生まれ育った稲毛浅間神社にお参りをして、新年を迎えた役目を果たすことができた。成田山も浅間神社も物凄い参拝客が押し寄せていて、境内が歩けないほどの賑わいをしていて、幸せそうな家族連れに平和を感じて、移動するJR車内でも仄々させる家族連れの姿に癒されてきた。天候に恵まれた今年の元旦も幸先良いスタートができ、今年も神仏や様々な方々に支えられた、運の良い恵まれた時間の積み重ねとしたいものだ。
2011.01.01
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