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豊かな「人格の薫り」放つ人に悦ばしいかな、汝、蘭室の友に交わって麻畝の性と成る。〈立正安国論〉新43・全31 〈通解〉なんと悦ばしいことだろうか。あなたは、薫り高い蘭室の友に交わって感化され、麻畑に生える蓬のようにまっすぐな性質になった。 花に芳しき香りがあり、人にも人格の薫がある。慈悲の祈りから発する誠実の振る舞いや真心の言葉は、馥郁と相手の命に染み渡り、その心も香しく変える。家庭も職場も地域も、「蘭室の友」を広げる舞台だ。妙法の当体蓮華の生命をありのままに薫らせ、信頼の共鳴をすがすがしく! ここに立正安国の実像がある。 【御書と未来へ池田先生が贈る指針】聖教新聞2023.2.25
May 18, 2024
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一念を定めて祈ることが大切一念に億劫の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり(御義口伝、御書790㌻) 〈通解〉一念に億劫の辛労を尽くして自行化他にわたる実践に励んでいくなら、本来身に具わっている無作三身という仏の生命が、瞬間瞬間に現れてくる。 真剣に唱題すれば、必ず、全てが良い方向に向かっていきます。仏法の祈りは「誓い」です。「必ず実現してみせる」と決める祈りです。そう決意を固めるから、本気で努力できる。努力するから、祈りを実現できる自分になるのです。(中略)祈って、努力していけば、心の奥底にある願いは必ず叶っていきます。題目の人は、最後は自分の思い描いた以上の大勝利の青春、そして人生を歩めるのです。(『未来対話』)◇◆◇信心が強くなれば、自然のうちに一念が定まってきます。また、祈っていて浮かび上がってくる雑念とか思いとかは、その時の自分が気になっている課題なのだから、雑念などと言わないで、なんでも、きっちりと祈りに変えた方がいいでしょう。大きなことだけを祈るのではなくて、小さなことも、一つ一つ、きっちりと祈りを込めて勝ち取り、固めていくことです。もちろん神経質になる必要はない。ともかく、ありのままの姿で、題目を真剣に唱えていくことだ。(「法華経の智慧」、『池田大作全集』第31巻所収) 【御書カフェ―華陽姉妹の語らい―】聖教新聞2020.9.12
August 25, 2021
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力をつけなさい。力を持たなければ、笑(わら)われる。侮辱(ぶじょく)される。卑怯(ひきょう)な策謀(さくぼう)に負けてしまう。 しかし、力があれば、そして、誠実があれば、忍耐があれば、希望があれば、絶対に負けない。どんなことがあっても勝っていける。 2002年9月30日:創立者・創価大学で青春の哲学を語る 本当の仏とは、民衆の中で生き抜いて、ともに嘆き、ともに苦しみ、ともに希望を目指し、ともに笑うものです。 それが“本仏”の御姿でした まして、御本仏は、「宿命論」を安易に振りかざしたりはされません。 苦しんでいる人に、したり顔で「それがあなたの宿命だ」と突き放した言い方をしても、苦しみに追い打ちをかけるだけでしょう。 宿命にあった人は、いわば、心に暴風雨が吹き荒れているようなものです。 ならば、ともに風雨に打たれましょう。ともに、ずぶ濡れになって、ともに道をさがしましょう――それしか人間にはできないのではないでしょうか。完全にはできなくとも、その努力が人間と人間に橋を架けるのではないでしょうか。 それは単なる同情でもなければ感傷でもない。根底に「祈り」という、命と命を結ぶ同苦の労作業があるからこそ、命が命を揺さぶるのです。 (『永遠の経典[御書]に学ぶ 3』 上野殿御書 講義本文より)
March 21, 2019
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仏教の特徴は、どこまでも「人間」を主体とした宗教であるという点です。あくまでも、ブッダとは、目覚めた「人間」のことです。仏も人間であり、衆生も人間です。最初に「法」に目覚めた人間(仏)が「法」を教え、全ての人間(衆生)の境涯を高める。ですから、仏と衆生の関係は、神と人間というような関係ではなく、本来、師弟の関係にあるのです。 ところが、この仏教の最大の命脈を、後世の人は見失ったのです。一つは、仏に成れる人や時を特定の状況に限定してしまったこと。もう一つは、仏を人間から隔絶し、偶像化してしまったことです。まさしく「師弟」がなくなったのです。 この歪みを正したのが法華経です。 法華経は、「万人に尊極の生命が内在する」という仏法究極の心理と、「万人を自分と等しい境地に導く」という仏の本源的な行動が説かれている経典です。「如我等無異」との一語は、まさしく人間主義の仏法を蘇らせた真髄の経文です。 【世界を照らす「太陽の仏法」】大白蓮華2018年8月号
December 14, 2018
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戸田先生は、和歌を贈ってくださいました。「勝ち負けは 人の生命の 常なれど 最後の勝ちをば 仏にぞ祈らむ」仏法は勝負である。なればこそ、仏法の師弟は最後まで戦い続けねばならない。途中の勝ち負けはどうであれ、必ず最後に勝てるのが法華経の兵法なのです。◇「負けないという人生は、永久に勝ちです。勝つことよりも負けないことのほうが、実は偉大な勝利なのです」負けないとは、挑戦する勇気です。仮に何度倒れようと、何度でも立ち上がり、一歩でも、いや、半歩でも前に進んでいくのです。大聖人は、「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆らう道理なるが故に流罪させられ命にも及びしなり、然れどもいまだこりず候」(1056頁)と仰せです。いかなる大難が競い起ころうとも、「いまだこりず候」です。この不屈の精神、即「負けじ魂」こそ、日蓮仏法の骨髄なのです。【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2018年2月号
May 6, 2018
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大聖人の仏法は、“自分の中に偉大なる仏の生命がある”と、自覚するところから出発します。ゆえに、私たちの祈りとは、何かに助けてもらうというような、“おすがり信仰”ではありません。どこまでも自分自身の可能性を信じ抜く戦いです。自らの生命に具わる仏界の生命を涌現していくのです。その「月月・日日」(1190頁)の勝負なのです。大聖人は、「己心の外」に法を求めるならば、どんなに題目を唱えていても成仏は叶わず、むしろ無量の苦行になってしまうとまで仰せです。「己心の外」に法を求めるとは、自分の外に、幸・不幸の原因と結果を求めることです。“あの人が悪い”“条件が悪かった”といった、責任転嫁もそうでしょう。“まさか”という試練に遭った時、信心への確信が揺らぎ、億したり、境遇を嘆いたり、人を恨んだりする不信もそうです。たとえ、人生の途上で、自分の思い願った通りにならなくても、「負けじ魂」の人に決して悲観はありません。戸田先生は、女子部の友に語られました。「もったいなくも、御本仏と同じ生命を持っている自分自身に誇りを持ちなさい。気高い心で、人生を勝ちぬくことです。自分自身を卑しめていくことは、絶対にあってはならない」“自分なんてだめだ”“自分には無理だ”など、さまざまな人生の落胆や感傷に流されず、悠々と乗り越えてゆけるのが日蓮仏法です。本来、尊極な自身の生命を矮小化させようとする「元品の無明」を決然と打ち破るのが、妙法の功力なのです。いわば、唱題とは自分自身が仏であることを覆い隠す無明との闘争です。ゆえに真剣勝負です。唱題で不信をねじ伏せ、小さな自分の殻を打ち破ることです。題目こそ、悲哀さえも創造の源泉に変えゆく根源の力なのです。【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2018年2月号
May 5, 2018
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恩師・戸田城聖先生のもと、青年部が学んだ名作の一つに、ホール・ケインの『永遠の都』がありました。この中で、主人公のロッシィが、同志に語りかける場面があります。「苦しみを甘んじて受け、耐え忍んで強くなってきた人間こそ、この世でいちばん強い人間なのだ」思うにまかせぬときに目をそらしたり、逃げたりせずに、“今に見よ”と「負けじ魂」で立ち上がった人間こそ、最強の王者なのです。◇「負けじ魂」を貫く上での第一の要諦は「自分自身を信じ抜く」ことです。自身の本有の仏性を、何があっても疑わず信じ抜くこと。これが「負けじ魂」を持つ信仰者の根本条件です。【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮解2018年2月号
May 4, 2018
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一念が変われば、一切が、その方向に動き始める。「よし!」と決めた瞬間、全神経が、ばーっと、その方向に向く。「だめだ」と思えば、その瞬間に、全神経が萎縮し、本当に「だめ」な方向に向かっていく。この「微妙なる一念の劇」を知っていただきたい。心の置き方ひとつ、心の向きひとつで、自分も環境も大きく変わる。その実相を完璧に説ききっているのが、仏法の「一念三千」の法理である。強き一念の力によって、自分自身を、周囲を、そして国土をも回転させられる。命己に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり(持妙法華問答抄、466頁)【「社会で光る」(池田大作全集)第87巻】大白蓮華2018年1月号
April 11, 2018
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「進まざるは退転」です。戸田先生は、信心の惰性を常に戒められました。「いちばんの問題は、良く変わっていくか、悪く変わっていくかである。このことに気づかないでいる時、人生は惰性に流されていく」「信仰が惰性におちいった時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして良く変わっていくための実践活動である」等々と語られていました。日蓮仏法は「現当二世」の信心です。「現在」と「未来」のために、“今ここで”一念を定めて信心を励んでいくのです。大切なことは、何があっても「負けないこと」です。「負けないこと」は「不退」です。断固たる「不退」の一念から、「勝利」への反転攻勢が始まるのです。【世界を照らす太陽仏法】大白蓮華2016年5月号
April 10, 2018
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「勇将の下に弱卒なし」です。大聖人は、何度も弟子に教えられています。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(1282頁)「ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」(1193頁)臆病に勝ち、深き信心の志に立つことが勇気です。偉大な人生の勇者の道です。さらに御聖訓には仰せです。「各々師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほ(吼)うるなり日蓮が一門は師子の吼るなり(中略)月月・日日につ(強)より給へ・すこしもたゆ(弛)む心あらば魔たよりをうべし」(1190頁)「をづる事なかれ」、すなわち「わが弟子たちは、恐れてはならない」「怖気づいてはならない」と励まされています。地涌の菩薩は「其の心に畏るる所無く」(法華経472頁)◇勇気は、遠くにあるのではない。十界互具のわが生命の中に、厳然とある。老若男女を問わず、誰でも勇気は出せるのです。題目の師子吼で自身の弱い心を打ち破るのです。諦めの壁を乗り越えて戦っていくのです。そして自他共の幸福を願って勇気の対話を実践していくことが慈悲に通じていくのです。戸田先生は教えてくださいました。「凡夫には慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいことは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です」と。「勇気ある信心」、それ自体が、仏界に通じます。我ら創価の師弟は、永遠に、この「勇気の力」をもって戦い、勝っていくのです。【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2018年1月号
April 9, 2018
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勇ましく振る舞うだけが、勇気ではありません。仏法の勇気には、真実を「如実知見」し、勝ち越えていく智慧があります。病気や事故、死魔、経済苦、人間関係等、人生には思いもよらない苦難が次々と襲いかかる。絶望の底に突き落とされるような宿業の嵐に見舞われることもあります。しかし、如実知見————信心の眼を開くなら、誰もが本来、金剛不壊の仏の生命を具えており、妙法を唱えていけば、仏の生命力を顕現してすべてを乗り越え、真実の幸福境涯を確立していける————。それゆえに、創価学会には、ありとあらゆる熾烈な人生の現実に、真っ正面から挑戦する人間革命のドラマがあります。障魔や苦難の試練にも、嘆かず、恐れず、臆さず、勇敢に堂々と挑み、祈り、戦い勝ってきた「庶民の英雄」が無数に光っています。【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2018年1月号
April 8, 2018
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「億劫の辛労」とは、“長遠なる時間にわたる辛く苦しい努力”です。いつ終わるとも知れない無限の労苦とも、受け止められるかもしれない。しかし、大聖人は、この「億劫の辛労」は、妙法を唱え戦う、瞬間瞬間のわが一念に尽くせるのだと大転換して教えてくださっています。言い換えれば、いかに「今この瞬間」を勝ち切るかを離れて、「億劫の辛労」を尽くす道はないのです。御書に「師子王の剛弱を嫌わずして大力を出す」(992頁)と仰せのように、師子王は、いかなる相手、いかなる時であっても全力を奮い起こすといいます。相手を侮って力を出し惜しみすることなどしません。だからこそ、目の前の瞬間瞬間を逃さず、全力を尽くす。題目を唱えて、懸命に戦い抜く————この精進行こそ、仏法の「勇猛精進」、すなわち勇気の真髄があると拝したい。「勇猛精進」によって、「無作三身」という本来、わが生命に具わる、仏の慈悲と智慧、そして真実の力が泉の如く湧き上がってくるのです。◇いかなることがあろうとも、自行化他の題目を唱え抜く根本の一念において、「常に精進する」心は揺るぎなく定まっている。時々刻々と変化する、どの瞬間に臨んでも題目を忘れなければ、道を求める心は燃え上がる。これが「もとより」です。それは、みずみずしい本因妙の生命であり、常に新しく、常に強く、常に真剣です。まさに「南無妙法蓮華経は精進行」なのです。【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2018年1月号
April 7, 2018
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学生部教学室長 小林 隆明 明治の文豪・夏目漱石は、100年以上も前に、学生に向けての講演の中で、このような他人に合わせる日本人の特徴を「他人本位」だと警鐘を鳴らしている。「ここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んで貰って、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。一口にこういってしまえば、馬鹿らしく聞こえるから、誰もそんな人真似をするわけがないと不審がられるかも知れませんが、事実は決してそうではないのです」「つまり鵜呑といってもよし、また機械的の知識といってもよし、到底わが所有とも血とも肉ともいわれない、よそよそしいものを我物顔に喋舌って歩くのです」(『私の個人主義』夏目漱石著、講談社学術文庫)はるか昔の講演にもかかわらず、現代の日本人の問題にも通じており、漱石の慧眼に驚きを隠せない。 他者との差異が個性として輝く「御義口伝」には、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」(御書784頁)との一節がある。桜・梅・桃・李は、形や色合い、香りは異なるが、それぞれが魅力的な花を結ぶ。一方、法華経の薬草喩品第5には、三草二木の譬えが説かれる。世界中に生い茂る草木には、さまざまな種類があり、異なる性質や名前を持つが、その全てに雨は平等に降り注ぐ。そして草木は、それぞれの性質に合った花を付け実を結ぶ。ここでいう雨とは仏の説法のことで、仏の慈悲は、いかなる衆生にも平等に注がれることが例えられている。画一的に生きることが楽であり、それでいいと半ば諦めていた私は、他者との差異が個性として輝くとの思想に触れ、生きる希望を見いだした。人間は十人十色であり、外見も性格も誰一人として同じではない。当たり前のことであるが、自分らしさをなくそうとする生き方の中では、なかなか気付けないことである。今は、この“差異を認識すること”が自分らしく生きるために重要なのだと感じる。 自身の「花」を咲かせるために仏法には「自体顕照」との法理もある。それは本来、自らに具わっている仏の生命が妙法によって照らし出され、一つの個性として輝くことを示す。「はたらかさず・つくろはず・もとの儘」(同759頁)とあるように、ありのままの姿で仏の生命を顕現できることを教えている。ここで注意したいのが、ありのままといっても、現実逃避や独善性を促すものとは一線を画する点である。ともすれば、現在の自分が尊貴であるから、現状から前進しなくていいとの努力不要論や、自己の要求を押し通そうとする放縦と同意であると受け止められかねないが、日蓮大聖人の死身弘法の闘争に思いをはせれば、そのような見方は“誤解”であることが分かる。池田先生は「個性は、必死の努力によってしか咲かない」(『青春対話』)と語られている。桜梅桃李の花も、冬の厳しい寒さに打ち勝ってこそ美しい花を咲かせるように、人間として自らの課題への挑戦を続ける中で、それぞれの、ありのままの姿が輝きを増していくのだろう。 【教学論苑】創価新報2017.11.1
January 25, 2018
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<英語版への池田先生の序文> 思えば、1962年8月、私は大学生のメンバーを対象に「御義口伝」の講義を開始した。未来への人材育成のためにと、日蓮大聖人の深遠な哲学を現代に展開して、不信と憎悪が渦巻く核兵器の時代を信頼と調和の人間主義の時代へと転換させたいと深く念じたからである。 内なる改革から外の世界の変革へ仏教といえば、戒律や瞑想を中心とする「内なる世界」の探求のイメージが強く、「内なる世界」から「外なる世界」への働きかけという面が等閑視されてきたことも事実である。したがって、仏教を平和実現への哲学と捉える人も少なかった。しかし、日蓮大聖人は、有名な「立正安国論」に明らかなごとく、人間の内面の変革から始まって、外的世界を実現するための根本の法理を提示されたのである。大聖人は、法華経を根本経典とし、人間革命、社会変革の源泉を仏や神という外的存在に求めるのではなく、人間の内面に底通し宇宙生命に偏在する「法」に見いだし、その「法」を開示・弘通された。しかし、それは当時の通念をはるかに超えていたために、法華経に説かれるとおり数々の大難に遭遇せざるを得なかった。実は、この忍難弘通の戦いが、法華経の教えが正しいことを証明し、同時に、大聖人が法華経を「身読」された、真実の「法華経の行者」であることを証明することになったのである。後に、身延入山を機に、大聖人は御自身の悟りの立場から、弟子の育成を図られながら、法華経を講義された。法華経の経文は、すでに実感を伴って胸中にあったが、その奥義は、法華経の権威である天台大師も説ききっていなかった。大聖人は、仏教の先達の教えを踏まえながら、その奥義の法華経講義を展開されたのである。その講義を直弟子の日興上人が筆録され、師である大聖人の御允可(ごいんか)を賜ったのが「御義口伝」であると伝えられている。完成の日付は弘安元年(1278年)正月一日と記されている。法華経には巧みな譬喩や物語はあるが、哲学がないという批判がある。たしかに法華経だけの文面だけを見れば、そのとおりかもしれない。しかし、仏教には「文・義・意」という原理がある。中国の天台大師や妙楽大師は、法華経の「文」から、「十界互具」「一念三千」「久遠実成」「開近顕遠」「開三顕一」などの精緻な「義」(法理)を引き出した。しかし、いまだ法華経の「意」を開顕することはなかった。日蓮大聖人は、法華経の「意」つまり「肝心」を南無妙法蓮華経として顕され、その立場から法華経を講義されたのである。これがいわゆる観心釈であり、そこには深遠な哲学がある。日蓮大聖人が法華経に新しい生命を吹き込まれたのである。 「凡夫成仏」の原理「御義口伝」の構成は、「南無妙法蓮華経」から説き起こされて、法華経二十八品の各品の重要な経文を取り上げられ、天台大師や妙楽大師の解説を紹介された後に、あるいは経文の後に直接、大聖人の観心釈を示されるという形態をとっている。さらに、開結二経(無量義経・普賢経)の要文を解説され、合計231カ条に及ぶ。その上に別伝が加えられている。「御義口伝」の根本思想は何であろうか。さまざまな解釈が可能であるが、私は人間の尊厳、生命の尊厳をその究極において説き明かした点にあると思う。具体的には、「凡夫成仏」「凡夫即仏」の思想である。通途の宗教観は、人間を“聖なるもの”の下位におくものであった。しかし、人間を最高の精神的存在へと高めゆく宗教本来の精神からいえば、その人間を“神の子”“仏の子”へと転換するところに宗教の存在意義がある。この観点を最も明確に示した「御義口伝」の一節を挙げたい。法華経寿量品には、釈尊の久遠成道を説いて、「我は実に成仏して己来、無量無辺百千万憶那由他劫なり」(法華経478頁)とある。この「我」とは当然、教主釈尊のことであるが、日蓮大聖人はこの「我」を「法界の衆生」「十界己己」(御書753頁)を指すと教示されている。つまり十界の衆生がすべて本来、仏であると明かされているのである。もちろんそれだけであれば、「理」にすぎない。しかし、大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(同頁)と仰せられて、題目を唱えることによって、誰人であれ、「本来、仏なり」と覚知することができると、具体的な方途を示されているのである。実に簡潔な表現のなかに、端的に「凡夫即仏」の原理を示されている。こうした人間観が「御義口伝」の顕著な特徴の一つである。また、人生は多難である。その意味で、人生は戦いであり、鍛錬であるといっても過言ではない。トルストイが「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸なおもむきが異なっているものである」(木村浩訳「アンナ・カレーニナ」)と書いたように、人生には、肉親との死別、不治の病の宣告、倒産、失業、家庭不和など、さまざまな嵐が吹き荒れる。それが人生の実相であろう。だからこそ、人々は法華経の「現世安穏」の哲理に救いを求めるのである。しかし、苦難の故に人間は不幸であると決め付けるならば、幸福な人間など幻のごとき存在でしかない。日蓮大聖人もまた、迫害の連続の人生であられた。2度の流罪、死刑、武士や暴徒による襲撃、悪口罵詈等々、命に関わる大難の連続であった。それは法華経の説く「現世安穏」とは遠くかけ離れた実相であった。そのために、人々は大聖人が法華経を経文のままに実践する「法華経の行者」であることを疑ったのである。「人の振舞」こそ大聖人は、法華経を講義されるなかで、御自身の来し方を省み、人生の実相を厳しく凝視されながら、「何基たるを以て安楽と意得可きなり」(御書750頁)と、法華経とは一見、反対とも見える結論を導き出されたのである。いな、法華経と反対の結論というより、人々が表面的に捉えていた経文の真意を浮かび上がらせたというべきであろう。これこそ、苦難のないことが幸福ではなく、苦難に負けないことが幸せであるとの真実の幸福感を提示されたものといえよう。さらに大聖人は、「涅槃経に云く『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦』と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(同758頁)と、一切衆生の同苦と、その苦を除く大慈悲の実践を宣言されている。このように、自分一人でなく、すべての人々の幸福を祈り願うところに、仏法者の生き方があることを、御自身の身をもって、指南されたのである。さらに、大聖人は、法華経に説かれる不軽菩薩に注目された。彼の菩薩の忍難弘通の方軌、信ずる者も謗ずる者も友に救いきる「法」の力、万人に内在する仏性を敬う「但行礼拝」の実践――――そこには「万人成仏」の思想が如実に示されている。その修行のあり方を大聖人は御自身の修行に重ね合わせて、民衆救済の大慈悲の戦いを広宣流布として壮大に展開されたのである。大聖人は、法華経が釈尊一代聖教の肝心であり、法華経の修行の肝心は不軽品であるとされた。そして「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174頁)と仰せられた。この御文は、仏法の真実を、経文だけでなく、人間の行動を通して示すことに仏の目的があるという、仏法の人間主義を高らかに謳いあげている。一切衆生の内在する仏性を自覚させるために、あらゆる人々を礼拝した不軽菩薩の実践は、揺るぎない信念と無限の勇気から発している。「御義口伝」では、この不軽菩薩の「但行礼拝」について14の角度から論じられている。その一つに、「鏡に向かって礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769頁)とある。現代社会に欠けている非常に重要な道徳的原理である。つまり、自分が他者を尊敬するならば、他者も自分を尊敬するという、相互の信頼、相互尊敬の精神が説かれているのである。現代社会における人間疎外の最大の原因は、利己主義にある。これは、私が歴史学者のトインビー博士と語り合った結論でもある。いかにして利己主義を超克するのか。仏法から見れば、人間を自己中心に追いやるのは、その生命に潜む「元品の無明」である。これは、自身の生命が妙法の妙法の当体であり、本来の自身が仏という尊極の存在であることを知らない「無知」のことである。その無知を滅するのは、人間の仏性、人間内面の尊厳を信じて疑わない、確固たる「信」にある。この「信」の確立こそ、今、人類が最も必要としているものではないだろうか。この日蓮大聖人の生命と平和の哲学を世界に広め、その信仰と理念を共有する人々の連帯は、現在190カ国・地域(編集部注=現在は192カ国・地域)に拡大している。生命の真の尊厳に目覚めた人類の連帯が、戦争やテロの暴力を排除し、貧困や環境破壊など、人類が抱える地球的な問題を解決する日が来ることを確信するとともに、またその日が一日も早いことを強く願うのである。 聖教新聞2017.8.31
October 31, 2017
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民衆仏法の焦点は、全ての人間の内なる尊厳性を示すとともに、現実に、眼前の一人の人間を尊極ならしめる、万人に開かれた実践の方途を示すことにあります。 先に結論を申し上げれば、日蓮大聖人の御本尊こそ、受持即観心の法理に裏付けされた、一切衆生の成仏を実現する民衆仏法の真髄です。「観心本尊抄」には、その意義が鮮明に説かれています。「観心とは己心を観じて十方界を見る」と仰せです。 仏法は、人間の内奥を凝視し、どこまでも深く己心(自己の心・生命)を探求しています。「内なる道」であるゆえんです。 自身の心を見つめていく、自分というひとりの生命を徹して掘り下げていく。そこに現れてくる「人間」の本質をつかむことが、仏法の基本的なアプローチです。 人は他人の外見は見えても、自分の外見は見えにくいものです。しかし「鏡」を見れば、そこに自分の姿がありありと映る。けれども自分の内面は映らない。そこで、間違いなく「己心を観ずる」には、仏の智慧で、ありのままに映し出す生命の「明鏡」が必要なのです。それが法華経であり、天台の『魔訶止観』などだと仰せです。 この「明鏡」に照らして見えてくるのは、生老病死の苦悩に渦巻くこの娑婆世界でもがきながらも懸命に幸福を願望して生きている一人一人の生命にほかなりません。皆、平等に、「十界互具」の生命なのです。 【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2017年9月号
October 30, 2017
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日蓮仏法は、「民衆仏法」であります。この「民衆」とは、一切衆生のことです。何か特定の階級などではありません。現実にいる「目の前の一人」のことです。その人が誰であれ———男性も女性も、いかなる国も民族も、いかなる出自や階層も、年齢や職業も、一切、排除や差別なく、抱える苦しみの如何にかかわらず、一人も残らず民衆です。一切衆生にわたるのです。 「誰も置き去りにしない」————今、国連が国際社会を挙げて成し遂げようと呼びかけているビジョンとも、仏法の根本思想は深く響き合います。 【池田大作先生の講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2017年9月号
October 29, 2017
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信心は、社会と人生の荒波を乗り越えるための羅針盤です。 濁世を生きるのであればなおさらのこと、悪縁に紛動されるのではなく、信心を自身の生命と生活の中心軸に据えていくことが肝要となります。 大聖人は、「いよいよ強盛に御志あるべし」と仰せです。信心があれば、いかなる逆風もはね返すことができる。だからこそ、一層、強盛な信心に立つことが勝利への究極の源泉となるのです。 ◇ 「いよいよ強盛」の信心があれば、「色まさり利生もある」とあるように、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れてくるのです。 いよいよ強盛の信心を重ねることによって、私たちの生命に、金剛不壊の仏界の生命が顕現するからです。 信心の志を重ねることによって、無常のわが生命が何ものにも崩れざる常楽我浄の永遠の宝によって荘厳されるのです。その大境涯を確立するために、志を重ねることが重要となるのです。「志をかさぬれば」とは、信心の持続です。すなわち、何があってもたゆむことなく、むしろことあるごとに、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、わが生命を錬磨していくことです。 同じ法華経への信心、同じ御本尊への信心でも、いよいよ強盛の信心を奮い起こすことによって、功徳はいやまして大きくなり、境涯がいやまして広く、豊かになる。 このことは、現実に皆さんが実感し、実証しているとおりです。 ゆえに御書では「いやましての信心」を強く奨励されている。 例えば、四条金吾に対して「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(御書1143頁)、「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(同1192頁)と仰せです。また、窪尼御前にも、「いよいよ御信用のまさらせ給う事」(同1478頁)、上野尼御前にも「いよいよ信心をいたさせ給へ」(同1505頁)と励まされています。 このように信心強盛な模範の門下にも、大聖人は「いよいよ」と仰せです。言い換えれば、「いよいよ」の姿勢こそ、信心の極意であり、根幹の要諦となるということです。 【勝利の経典「御書」に学ぶ】第3巻
October 26, 2017
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「妙法蓮華経は己心にあり」と信じることは“私は必ず幸せになれる”“私は必ず一生成仏できる”と確信することです。そして“自分の友も幸せになれる。だから友に語っていこう”と、広宣流布の戦いに打って出るのです。 「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生き切るのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。 私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、“いかなる苦難も乗り越えていける”“断じて幸福を勝ち取っていくことができる”との大確信で、全てに向かって勇敢に挑戦していくことです。 「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現わしていけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があるのです。 【『一生成仏抄講義』】
October 14, 2017
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自分が行動しても、それが本当に世界をよりよく変えられるのだろうか? 自分の力だけでは、何もすることができないのではないだろうか? こうした無力感や諦めを打ち破って、“世界を変える主役は、汝自身なり!”と、真実に目覚めるように教えたのが仏法です。 「総勘文抄」には、「心の一法より国土世間も出来するなり」と仰せです。一念の変革によって、この現実世界を変えていけると明かされています。変えることができないように思える国も、世界も、所詮、人間の集まりであり、人間の心が作ってきたものです。 だからこそ、社会や国土の変革の起点は、人間自身の心の変革にあるのです。 「我が身一人の日記文書」ゆえに、全ては一人の人間革命から始まるのです。 【世界を照らす「太陽の仏法」】大白蓮華2017年8月号
October 9, 2017
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南無妙法蓮華経の題目による真剣な祈りは、大宇宙に遍満する妙法と共鳴し、自身の生命を包み込んで、今度は自身の無明を打ち破る力を涌現させます。いわば、唱題行は、大宇宙と自身との大交流のドラマともいえます。 「口に妙法を呼び奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」……「必ず」と御断言です。題目を唱えれば、「必ず」妙法の無限の功力を我が身に開き現していくことができます。強盛な信心によって、その広大無辺な功力を、もっともっと味わっていけいけるのです。 一切の仏、菩薩、諸天の仏性が躍動する宇宙大の功徳力を、思う存分、わが身に満喫していくための私たちの日々の信心なのです。 【「勝利の経典『御書』に学ぶ」第8巻】
September 28, 2017
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「一度妙法蓮華経と唱うれば……一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(御書557頁)と仰せです。唱題に徹すれば、無量の功徳に包まれます。たとえ今、苦境にあっても、何も恐れる必要はない。唱題こそ、幸福への大直道なのです。 大聖人は、籠の中の鳥と空の鳥が呼び合い、感応し合う譬えを通し、御本尊を信じて妙法を唱える時、その身のままで仏界の生命が現れると仰せです。唱題は、仏の生命が我が身に開き輝かせ、十界の一切衆生の心中の仏性を呼び現す荘厳な儀式です。 「よびよばれて」の呼ぶとは、御本尊への唱題です。南妙法蓮華経は自身の仏性の名です。したがって呼ばれるのは、己心の仏性です。つまり、唱題によって自らの己心の仏性を呼び現すのです。さらに、皆の仏性も呼び現わしていけるのです。 他人が自分を幸福にしてくれるのではありません。幸福は自分で築くものです。不幸を他人のせいにしても、何も生まれません。あくまでも自分の人生は、自分自身で切り開くのです。その自分自身を最大に輝き光らせていく音律が、題目なのです。 【世界を照らす太陽の仏法】大白蓮華2017年5月号
September 27, 2017
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信心は、社会と人生の荒波を乗り越えるための羅針盤です。 濁世を生きるのであればなおさらのこと、悪縁に紛動されるのではなく、信心を自身の生命と生活の中心軸に据えていくことが肝要となります。 大聖人は、「いよいよ強盛に御志あるべし」と仰せです。信心があれば、いかなる逆風もはね返すことができる。だからこそ、一層、強盛な信心に立つことが勝利への究極の源泉となるのです。 ◇ 「いよいよ強盛」の信心があれば、「色まさり利生もある」とあるように、心身にますます力と輝きが増し、功徳もますます明瞭に現れてくるのです。 いよいよ強盛の信心を重ねることによって、私たちの生命に、金剛不壊の仏界の生命が顕現するからです。 信心の志を重ねることによって、無常のわが生命が何ものにも崩れざる常楽我浄の永遠の宝によって荘厳されるのです。その大境涯を確立するために、志を重ねることが重要となるのです。「志をかさぬれば」とは、信心の持続です。すなわち、何があってもたゆむことなく、むしろことあるごとに、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、わが生命を錬磨していくことです。 同じ法華経への信心、同じ御本尊への信心でも、いよいよ強盛の信心を奮い起こすことによって、功徳はいやまして大きくなり、境涯がいやまして広く、豊かになる。 このことは、現実に皆さんが実感し、実証しているとおりです。 ゆえに御書では「いやましての信心」を強く奨励されている。 例えば、四条金吾に対して「いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(御書1143頁)、「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(同1192頁)と仰せです。また、窪尼御前にも、「いよいよ護信用のまさらせ給う事」(同1478頁)、上野尼御前にも「いよいよ信心をいたさせ給へ」(同1505頁)と励まされています。 このように信心強盛な模範の門下にも、大聖人は「いよいよ」と仰せです。言い換えれば、「いよいよ」の姿勢こそ、信心の極意であり、根幹の要諦となるということです。 【勝利の経典「御書」に学ぶ】第3巻
August 30, 2017
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高野 秀行 男子部教学部長 「どうすれば教学の力がつきますか?」「広布拡大の原動力として、御書をどのように学ぶべきでしょうか?」————御書講義を担当した折、参加者から、こうした質問をよく受ける。先月、「SGI春季研修会」で来日したアフリカ各国のSGIメンバーと森中教学部長による質問会に同席した際も、御書の内容を通した質問が相次ぎ、その求道心に感動した。本年は御書刊行から65周年。御書根本こそ学会の正道である。本稿では、私たち創価の青年が継承すべき「御書根本」の生き方について考察したい。 心肝に染めた御金言「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりおこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361頁)第2代会長・戸田城聖先生は御書の「発刊の辞」で、この「諸法実相抄」の一節を引き、「剣豪の修業」を思わせる「行学の二道」の厳格なる鍛錬が、学会の伝統と名誉ある特徴であると述べている。学会は創価三代の会長のもと、常に「御書根本」「御本尊根本」で世界広布を進めてきた。また、多くの同志は「行学の二道」に徹し抜く中で、御書の一節を心肝に染め、襲い掛かる宿命や苦難の嵐を乗り越え、信心の確信を深めてきたのである。私が19歳の時に、学生部の先輩から教わった御聖訓がある。それが「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りはかなはぬ事はあるべからず」(同1351頁)との「祈祷抄」の一節である。当時、折伏に挑戦しても実らずに悩んでいた私に、先輩はこの御文を通して「大事なのは『法華経の行者』の祈りだよ。祈りとしてかなわざるなしの信心だ。必ず折伏できるよ!」と励ましてくれた。この一節を何度も拝して挑戦を続け、初めて弘教が実った時の感動は今も忘れられない。その後も、悩みや壁にぶつかるたびに、先輩は御書の一節や池田先生の指導を通して激励してくれた。当時の御書の書き込みは、20年以上過ぎた今も鮮明に残っている。 一度もしりぞく心なし御書には、日蓮大聖人の正義の叫びや迫害にも屈しない御境涯が綴られる一方、苦境にある門下への真心こもる同苦や、慈愛の励ましがあふれている。大聖人の御生涯は、民衆の胸中に潜む「無明」を打ち破り、妙法を流布していく大闘争の日々であった。大聖人は御自身の生涯を振り返り、「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう・日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(502頁)、「然れどもいまだこりず候」(1056頁)とも述べられている。妙法流布に立ち上がられてから、一度も退くことなく障魔と戦い続けられた大聖人。その舞台は常に現実社会であり、眼前の課題と向き合いながら、「不退の心」で広布に生き抜かれたのである。大聖人は門下に対しても、“私と同じ心を起こしていきなさい”と呼びかけられている。「月月・日日につより給え・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(同1190頁)との御聖訓は、「熱原の法難」の渦中の弟子に送られたお手紙である。当時の門下も、迫害や試練に直面するたびに大聖人の励ましを受け、信心根本に難と立ち向かい、勝利を開いていったに違いない。いかなる状況においても、「勇気」や「執念」の心で、信心根本に戦い続ける————。これこそ私たち学会員が実践する「人生勝利の要諦」である。学会員の偉大さとは、苦難に直面しても逃げずに向き合い挑んでいけることではないだろうか。 八風に負けない賢人大聖人は弟子の四条金吾に、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(同1151頁)と仰せである。「八風」とは、仏道修行を妨げる八つの働きのこと。それは皆が望み求める「四順」と、皆が嫌がり避ける「四違」とに分かれる。「四順」とは、利益を得て潤う「利い」、世間から誉められる「誉れ」、人々からたたえられる「称え」、心身が楽しい「楽しみ」のこと。また「四違」とは、さまざまに損をする「衰え」、世間から軽蔑される「毀れ」、人々から悪口を言われる「譏り」、心身にわたって苦しむ「苦しみ」のことである。大聖人は、この八風に侵されない人こそ、「賢人」であると述べられている。生きていれば、楽しみや苦しみがあるのは当然である。いわば、八風のない生活はあり得ない。大事なことは、順風であっても、逆風であっても、それを自分自身の成長と勝利のための「追い風」「原動力」へと変えていけるかどうかである。その方途が「南妙法蓮華経」の唱題行であることも、大聖人は明確に教えられている。いかなる苦難にも負けずに戦い、不動の自分自身を作り上げる————。これが私たちの信仰の目的である。また、大聖人が示された「戦う心」「不動の信心」を継承していくことこそ、青年部の使命であろう。 戦いの中で研さん私は本誌の記者として、これまで数多くの同志を取材する機会に恵まれた。その中で、自身の病と闘いながら、同志を励まし続けた大阪・豊中の男子部員が忘れられない。彼は38歳で末期がんの宣告を受け、抗がん剤治療を開始。「5年生存率は13・2%」という厳しい現実と対峙しながら唱題に励み、学会活動に走った。病気になって、彼は池田先生の『生死一大事血脈抄』を熟読し、真剣に御書を研さんするようになったという。そして、学会や同志と共に生きるありがたさを実感。自身の生きる意味や使命について考えた。取材で彼は語っていた。「昔は『いい車に乗りたい』『金がほしい』ということばかり考えていた。でも病気になって、それらがまったく意味のないものに思えてきた。むしろ、限りある『生』を病や困難で苦しむ人々のため、広布のために使えることが本当にうれしい。病気になって池田先生の指導や御書の一節が、自身の心にびんびん響いてきます」と。取材後も彼とは連絡のやり取りが続き、東京のも来てくれた。死への恐怖や限られた生への執着といった率直な思いも聞いた。昨年1月、彼は多くの同志に惜しまれながら安らかに霊山へと旅立った。最後まで病魔と闘い、不退の青春を歩んだ彼の姿は、間違いなく勝利の人生だったと確信する。仏法には「生老病死」という人間の根源的な苦悩を乗り越えていく方途も全て示されている。だが、それは知っていれば良いというものではない。「大聖人の仰せのままに実践しよう」「広宣流布のために戦おう」との決意で、自他共の幸福に尽くす信心の実践で、体得すべきものだ。池田先生は語っている。「御書を学べば、勇気が出る。智慧がわく。大聖人の大精神が、わが生命に脈打つからだ。そこにこそ『難を乗り越える信心』の炎が燃えあがる」と。さまざまな苦難に直面しながら、一歩も引かず戦っている男子部の友も多い。私たちは、今こそ御書をひもときながら眼前の戦いに挑み、青年の月・7月を勝利で荘厳していきたい。 【教学随想「日蓮仏法の視座」】聖教新聞2017.5.9
June 14, 2017
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どれほど優れた能力を持ち、努力を重ねたとしても、「運」に見放されてしまえば、人生の勝負に勝ち抜くことはできないものです。「運」が尽きれば、いかなる兵法も役に立たなくなり、「果報」が尽きれば、周りからのなくなってしまう。(略)「運」や「果報」といっても、本人の日々の行動の中で積んだ福徳がもたらすものにほかなりません。大聖人は、金吾の運と果報の源泉が日頃から培ってきた「法華経の信心」にあることを教えるために、諸天善神について述べられています。諸天善神とは国土や人間を守り、利益を与える働きを、さまざまな“神”に譬えたものです。例えば、太陽や月は、熱や光などをもたらし、生命にさまざまな力を与えています。こうしたことから、太陽や月の力を象徴する日天子や月天子は、人々を守る諸天善神を代表するものとして広く仰がれたのです。法華経の肝要である南妙法蓮華経は、一切の生命を守り、利益を与える“根源の法”です。私たとが南妙法蓮華経を唱え、人々に弘めれば、自身に具わる仏界の生命が現れてきます。その智慧と慈悲の働きに応じて、周囲の仏性も呼び起され、あらゆる守護の働きが現れるのです。この守護の働きこそ、ここで言われている“諸天善神が法華経の行者を守護する”ということなのです。(略)自身の生命の中には、絶体絶命のピンチもチャンスに変え、どんな敵をも味方に変えゆく力が具わっていると確信することです。その確信を胸に、真剣に祈り、最善の努力を尽くす。それこそが「法華経の兵法」なのです。 【「研修教材」から】大白蓮華2017年5月号
June 12, 2017
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戸田先生は、教学の必要性を感じていない会員に、次のように語られたことがあります。「御利益を受ければ教学はどうでもよい」といっているものもあると聞くが、とんでもない。教学により信心が強くなり、高まるから功徳はでるのです。四力というが、「信力・行力」の強さによって「法力・仏力」が強くなる。この法力・仏力を現すには、その人の自身の信力・行力による。この二つが冥じて、仏力・法力となって、われわれの頭でわからない奇跡のような功徳となって現れるのだと。汲めども尽きぬ御本尊の偉大なる功力を、自由自在に引き出していくのは、信心の力です。その信心の力を強固にするのが教学です。教学を深めることで、疑問が、納得に変わり、「そういうことだったのか」と分かれば、さらに強盛な祈りとなります。「本当にすごい仏法だ」と感じれば、祈りに感謝が生まれます。「叶わないわけがない」と腹が決まれば、祈りは歓喜に包まれます。「学」によって「信」が強くなれば、歓喜と感謝が生まれ、御本尊の功徳力を存分に強く引き出していくことができるのです。 【世界を照らす「太陽の仏法」】大白蓮華2016年11号
December 26, 2016
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日蓮大聖人は万人が成仏を成し遂げるために御本尊をあらわされ、「南妙法蓮華経の唱題行」を確立されました。全民衆が等しく実践できる仏道修行の道を開いてくださったのです。まさに、偉大な宗教革命です。 日蓮仏法においては、「我が一念の変革」こそが重要であると明かされているのです。 一般的に「衆生」と「仏」とは、かけ離れた存在と考えられがちです。しかし大聖人は、両者に隔たりはなく、「迷い」と「覚り」の違いに過ぎないと仰せです。この「迷い」の生命を、そのまま「覚り」の生命に変革する方途が唱題行なのです。 大聖人は、無明という根本の迷いに覆われた苦悩する生命を「磨かざる鏡」に、真実の覚りの生命を「明鏡」に譬えられています。曇って物を映さない鏡も、磨いていけば、森羅万象をよく映し出せる明鏡となります。 同様に、題目を唱え切っていく時、私たちの生命が練磨され、無明を打ち払うことができる。そして、広大な仏の生命と智慧を開きあらわしていくことができるのです。 一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発(おこ)して日夜朝暮に又懈(またおこた)らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南妙法蓮華経と唱へたてまつるを是を磨くとは云うなり(一生成仏抄、384頁) 【SGI会長講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2016年10月号
November 30, 2016
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「道理の力」とは、いかなる権力であっても、認め従わざるを得ない普遍的な力です。それを無視して、横車を押すことをすれば、自分を損ない、滅びの道を歩んでしまいます。道理にかなっているということは最大の力なのです。しかし、正義を明確に力強く示す勇気がなければ、正義の力は現れません。だからこそ、大聖人は、金吾に、いかなる不当な仕打ちにも決して負けてはならない、と激励されているのです。 大白蓮華2016年7月号
September 3, 2016
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人間革命の大道を切り開いた師弟 生きて出獄された戸田先生は、変毒為薬の譬喩を、闘病や宿命転換のみならず、「転重軽受」にも(『戸田城聖全集』第2巻56頁)、「御本尊流布」の意義づけなどにも展開された(同550頁)。池田先生は『若き日の日記』で、ある失敗を犯した支部長を叱り、変毒為薬を願っておられる(『池田大作全集』第37巻207頁)。また第三代会長就任の2カ月少し前には、当時の悪政と災害を憂い、「われ思う。日本の前途に、不幸の災禍なからんことを。変毒為薬―—妙法―—」(同551頁)と綴られた。「戸田は、一国の変毒為薬を心深く期していたのである」(『人間革命』第1巻、聖教ワイド文庫版186頁)―—独房で牧口先生が遺された、大いなる理想の炎は消えなかった。その息吹は『人間革命』の主題である「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」との一文に強く脈打っている。だれもが歩みうる人間革命の大道を世界に開いたのは、牢獄でも絶望されなかった牧口先生、75万世帯の折伏と無尽蔵の運動論を繰り広げられた戸田先生、そして先師の理想を全て実現し、さらに、世界広宣流布の道を現実のものにされた池田先生であられた。創価学会は、人生や社会の数えきれない「毒」を受け止め、見極め、強盛な信心によって「薬」にしてきた変毒為薬の共同体である。だからこそ学会員にとって変毒為薬の一言は、自他ともの「人生の価値」や「生命の不思議」を指し示す羅針盤になった。創価三代の師弟が、仏の智慧を現代によみがえらさせたのである。「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動」(『新・人間革命』第14巻、聖教ワイド文庫版298頁)である以上、変毒為薬の闘いは、どの地においても永遠に止むことはない。(おわり) 【論RON―日蓮仏法の視点から 第12回 変毒為薬の系譜―諫暁、迫害、人間革命の原点】創価新報2016.6.15
August 18, 2016
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社会が苦しめばわが身も苦しむ人 殉教を変毒為薬に結びつけられた大聖人と、「わが投獄が国家を変毒為薬に導く」と確信された牧口先生との共通点は、「政治権力による迫害」という生命を削る体験だった。牧口先生は、自らが生きた時代をそう捉えていたのか。「尋問調書抜萃」に「国家悪時代」という明快な一言が残されている(『牧口常三郎全集』第10巻209頁)。この「国家悪時代」に骨がらみの奇妙な宗教があった。その宗教は当時「皇道」や「国体神道」などと呼ばれ、後に「国家神道」と呼ばれることになる。神道は『古事記』や『日本書記』を尊ぶ。池田先生は小説『人間革命』第1巻で「これらの神話には、もともとは、古代国家のはつらつたる息吹が込められていたかもしれない。しかし、それが、そのまま近代国家で天皇を絶対とする、国家統治の根拠として使われた時に、既に挫折への第一歩は始まったといってよい」と指摘されている(聖教ワイド文庫版249頁)。「神社は“国家の宗示+巳(しゅうし)”であって・・・・・・これを宗教の圏外に置き、その経営は国家じしんが行う」(西田長男『日本神道史研究』第1巻275頁、講談社)―—この国策のもと、神職は内務省が管理し、官僚化は「事勿れ、無精神、脱イデオロギーが国家神道の実相なのである」(葦津珍彦『新版 国家神道とは何だったのか』114頁、神社新報社)という状況をもたらした。日本人の大部分は「神社の崇敬は宗教ではない」「国家の道徳なのだから従え」という奇妙な論理に従った。しかし「国家の行政上の取り扱いがどうであったにせよ、本質的には宗教以外のなにものでもないであろう」(西田長男『日本神道史研究』第7巻428頁)と指摘される通り、神社神道は矛盾の塊と化した。牧口先生は、この「国家悪」の象徴として使われた伊勢の皇大神宮の大麻(神札)を焼き払ったのである。池田先生は、「宗教の暗黒」を打ち破った「近代の歴史を省みて「しかし近代は、別の『暗黒』をもたらした。それは絶対の『信』をもてない、うつろな心という『魂の闇』です。そして、もう一つ、近代戦争という“国家総ぐるみの戦争”の惨禍です」と論じておられる(聖教新聞1993年6月3日付、「ゴヤをめぐる語らい」2)。牧口先生の歩みは、近代世界が孕んだ宿業―—二つの暗黒―—に立ち向かう民衆運動の萌芽だった。刻まれた奇跡の節々に、変毒為薬の智慧が詰まっている。自らの発心の経緯を「変毒為薬の大法則」(牧口全集第8巻15頁)に照らし、信心によって「功徳を他に分ち、人を救ふこと」(同66頁)や、マルクス主義者に対する折伏(同28頁)も、変毒為薬によって論じられた。その運動論は「潔く大悪に反対して戦死するものよりは快く大善を讃嘆して、その徳を伝承することが一層至難ではあるまいか」(同10巻33-34頁)という一言に示されている。日露戦争前後の10年ほど、牧口先生は社会主義者たちと深く交流し、“外”からの改革が必要か否か議論を重ねられた。「可なり危険圏に迄踏み込んで居た」「桃色位には染まつて居たとして、当時のブラックリストに余の名が載って居たかも知れぬ」(同6巻22-24)。そして「いかに必要であつても・・・・・・非合法的手段に訴へてまでの事は警めねばならぬ」(同8巻85頁)との信条で“内”から社会を変える諫暁に臨まれた。また牧口先生は、「高官高位」にのさばり大悪に迎合する指導者たちの革命を訴えられた(同10巻34頁)。同時に「経文論釈や学説真理などを商品の如く受け売りしてその地位を守り、衣食の糧とする大学教授や、職業宗教家」を攻め抜かれた(同頁)。なぜなら、彼らは自ら生きているこの社会の問題を「どこまでも対岸の火事視して、その身もろとも社会の全体と共同の利害を有することを感ぜぬ偏見に安んずる」からである(同頁)。彼らの姿勢は、あくまでも仏法を「生活法」として実践された牧口先生にとって許せないものであった。牧口先生は「社会が苦しめば、わが身もろとも苦しむ」人であった。この生命の力をバネに、最高権力者を「わづかの小島のぬしら(主等)」(御書911頁)と喝破した大聖人の心を受け継ぎ、戸田先生と共に「国家を大善に導かねばならない。敵前上陸も同じである」(牧口全集第10巻147頁)という諫暁―—国家悪を冥伏させうる道を選ばれたのである。それは「速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり」(御書32頁)と訴えられた「立正安国論」のように、難局に際して、彼岸への亡命も、現状の正当化も拒否し、仏国土の理想像を高く掲げて現実変革へ挑む、険しい第三の道だったともいえよう(佐藤弘夫『日蓮「立正安国論」』48頁、161頁、講談社学術文庫)。(つづく)【論RON―日蓮仏法の視点から 第12回 変毒為薬の系譜―諫暁、迫害、人間革命の原点】創価新報2016.6.15
August 17, 2016
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東京男子部教学部長 山口 徹「絶望とは愚か者の結論なり」。『牧口常三郎全集』第10巻(第三文明社)をひもとくたびに、この一節を思い起こす。同書に収められた獄中書簡31通の中で最も多く用いられた仏法用語は、変毒為薬―—毒を変じて薬と為す―—である。 (1)〈必ず「毒が変じて薬となる」御法門を信じて安心してくらして居ます〉(昭和18年9月30日) (2)(一個人から見れば、災難でありますが、国家から見れば、必ず「毒薬変じて薬となる」といふ経文通りと信じて、信仰一心にして居ます)(同年10月11日) (3)(経文や御書にある通り、必ず「毒変じて薬となる」ことは今までの経験からも後で解ります)(同年10月23日) (4)(信仰さへして居れば必ず「変毒為薬」は経文通り、今までの通りと、信して居ればこそ、此冬を元気で、くらせたのです)(昭和19年9月8日) (5)(何処でも、信仰が第一です。必ず朝夕ハ怠ることなかれです。私も無事です。何の不安もない。必ず「変毒為薬」となると存じます)(同年9月12日) 「変毒為薬」という言葉を普段どのように使っているか―—先日、最愛の夫を亡くされた婦人部の方に伺う機会があり、「人生に何か障害が起った時、題目をあげきって、結果を良くすることです」と健気に語られていた。三畳一間の独房という過酷な状況下、牧口先生もまさに、この一婦人部員の述懐と同じ意味で変毒医薬を用いられた。どの書簡にも、創価学会の土台となった揺るぎない「信」が刻まれている。とりわけ書簡(2)に記された国家主義裁判は、時を経るにつれて重みを増しているといえよう。 二乗から衆生へ巧みな譬喩の展開 変毒医薬は「仏教の百科全書」といわれる『大智度論』(大論)で説かれた。妙法蓮華経の「妙」の一字がどれほど偉大であるか、本来、言葉では表現できない。変毒為薬は、その「妙」の力を示そうとする譬喩であり〈法華経の妙の徳を釈する文なり(法華経題目抄、御書944頁)〉、具体的には「二乗成仏」を表す。日蓮大聖人は「守護国家論」で、この二乗成仏の文脈で変毒為薬に言及しておられる(同57頁)。一方、佐渡以降に記された「始聞仏乗義」では、「我等が煩脳・業・苦の三道」(984頁)を三徳(法身・般若・解脱)に変える原理として変毒為薬が登場する。大聖人は二乗作仏のみならず、「一切衆生の成仏」の譬喩として変毒為薬用いられた。それは、「太田殿女房御返事」の「此の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ」(同1007頁)、「新池殿御消息」の「毒変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す」(同1437頁)などの御文にも明らかである。そもそも『大智度論』を著わしたとされる龍樹は、八つの否定(八不)を通し、あらゆる「観念の実体化」や「関係の固定化」と戦い続けた(『中論』)。龍樹が練り上げ、大乗仏教の基本となった「縁起」や「空」の思想について、池田先生は「実践活動が裏付けになっていることを見失ってはならないと思う」「人間苦に沈む大衆を救済する自身の実践の中から生まれたものであることを、忘れてはならない」「論争の中に形成されていったことを知るべきです」と繰り返し述べておられる(「私の仏教観、『池田大作全集』第12巻376頁」)。時代が変われば、その社会の「こだわり」や「癖」が変わり、生じる苦しみ――「毒」の諸相も変わる。変毒為薬をもとに、大聖人は「毒と申すは苦集の二諦・生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし」(御書1006頁)と示された。世界は全てが苦しみであり(苦諦)、苦しみには原因がある(集諦(じったい))。一人の人間が産声を上げる時。そして息絶える時。その間に相依って起こる人の世の万象は、通途の仏教ではことごとく「毒」なのである。そして大聖人は続く一節で、「此の毒を生死即涅槃・煩悩即菩提たなし候を妙の極とは申しけるなり」(同頁)と「妙」のはかりがたい力を論じておられる。「仏の大難に及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」(聖人御難事、同1189頁)、「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり」(四菩薩造立抄、同988頁)と宣言されるほどの実践を貫き、「妙」の力用を体現された大聖人にとって、変毒為薬という巧みなる譬喩の射程範囲は二乗のみにとどまるものではなかったと拝される。変毒為薬を通し、病の人には釈尊をも揺り動かす信心を教え(太田入道殿御返事、同年1009頁、1012頁)、ある人には「災来るとも変じて幸と為らん」と諭し(道場神守護事、同979頁)、難信難解を説かれた(諸経と法華経と難易の事、同991頁)。そして「熱原の法難」の悲報を受け取った直後に綴られた「聖人御難事」(別名「変毒為薬御書」)には、次の一節が刻まれている。「大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞罰有らんか」(同1455頁)。弘安2年(1279年)10月15日午後6時ごろ(酉時)、鎌倉の日興上人が使者に託した一報は、17日午後6時ごろに身延の大聖人のもとへ届き、大聖人はわずか2時間後の午後8時ごろ(戌時)、同書を書き終えられている。この緊迫した一篇で大聖人は、御自身の出世の本懐へと繋がる「民衆の殉教」を、変毒為薬ととらえ、三烈士の即身成仏とともに、迫害者には罰が現れることを説かれた。池田先生は、迫害者である平左衛門尉頼綱の末路についてこう語られている。「仏法は厳しい。・・・・・・大聖人の仰せの通り、その十四年後、平頼綱は、長男の告発によって、三烈士を処刑した自邸で、誅殺(罪のある者を殺すこと)された。しかも、矢を放っていじめた次男も、一緒に処刑されたのです。その敗北と滅亡の姿は、歴史に厳然と刻まれている」(「大白蓮華」1994年12月号)。変毒為薬という親しみやすい譬喩は、天台の『法華玄義』を経て、大聖人によって「一切衆生の成仏」を説く際や、弾圧に対する仏法者の思想を表す上で用いられた。また大聖人は「三毒がうじやうなる一国いかでか安穏なるべき」(曾谷殿御返事、御書1064頁)として、人々の三毒が飢渇や疫病、合戦を引き起こすとも仰せである。700年の時を超えて、牧口先生は亡国の毒を薬に変じようとされた。(つづく)【論RON―日蓮仏法の視点から 第12回 変毒為薬の系譜―諫暁、迫害、人間革命の原点】創価新報2016.6.15
August 15, 2016
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苦難は、人間を強くします。大難は、信心を鍛えます。難に挑戦して信心を鍛え抜けば、わが己心に「仏界」を現わしていくことができる。大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない「強靭な信」であることこそが成仏を決定づける。この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節はあまりにも有名です。「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234頁)いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはならない。諸天の加護がなく、現世が安穏でなくとも、「嘆きの心」にとらわれてはならない。不退の心で信仰を貫く人が、真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指南であり、永遠の指針です。◇「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たちの心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています。強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚かなことだ。“今が「成仏の時」ではないか! この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靭な魂を持った人は、何も恐れるものがない。(『開目抄講義』)【SGI会長の指針から】聖教新聞2016.5.3
July 11, 2016
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人間は、思わぬことに直面した時、どう対応するかが大事となる。まさに挑戦と応戦です。信心の実践から言えば、難や試練に遭った時に、心力、行力を奮い起こして、仏力、法力を引き出す。その応戦で積んだ「心の財」は大きい。崩れない。そして、多くの人を幸せにする力となります。 ◇難に遭遇した時こそ、その人が築き上げてきた生き方の真価が最も鮮明に現れます。不運とあきらめるのか、ときが解決するのをじっと耐え忍ぶのか、自分の人生を嘆くのか、はたまた、他人のせいにして恨むのか。 ◇戸田先生は、「試練の山を一つ切り抜けるたびに、成仏という、崩すことのできない境涯となっていくのである」と、一つ一つ、乗り越えていくことの大切さを教えられました。「一つ一つ」です。信心が深まるのを待って、それから難に向かうのではありません。難に向かっていく中で生命は磨かれ、金剛の信心が鍛え上げられるのです。「剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり」(1169頁)と仰せの通りです。ゆえに、どんな悩みも、御本尊に祈っていけばいい。悩みを祈りに変えて、題目を唱えれば、わが生命に、勇気がみなぎり、希望が輝き始めるではありませんが。「難を乗り越える信心」とは「難を乗り越える唱題」の異名です。 ◇戸田先生は、「大聖人の仏法は、逆境にある人が、幸せになる宗教なのだ。苦難にあった人ほど、それを乗り越えた時、すごい力が出るのだ。その人こそが、本当に不幸な人々の味方になれるのだよ」と語られました。【池田SGI会長講義「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2016年3月号
May 7, 2016
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人間は、思わぬ事に直面した時、どう対応するかが大事となる。まさに挑戦と応戦です。信心の実践から言えば、難や試練にあった時に、信力・行力を奮い起こして、仏力、法力を引き出す。その応戦で積んだ「心の財」は大きい。崩れない。そして、多くの人を愛あわせにする力となります。◇難に遭遇した時こそ、その人が築き上げてきた生き方の真価が最も鮮明に現れます。不運とあきらめるのか、時が解決するのをじっと耐え忍ぶのか、自分の人生を嘆くのか、はたまた、他人や環境のせいにして恨むのか。◇「難を乗り越える」―—これが洋の東西を問わず、先哲の道です。喜び勇んで挑んでいくのが、創価の賢人の人生です。「嵐は誉れ」です。その勝利の鍵となるのが、難と真正面から向き合う、師子王の如き信心なのです。◇戸田先生は、「試練の山を一つ切り抜けるたびに、成仏という、崩すことのできない境涯となっていくのである」と、一つ一つ、乗り越えていくことの大切さを教えられました。「一つ一つ」です。信心が深まるのを待って、難に向かうのではありません。難に向かっていく中で生命が磨かれ、金剛の信心が鍛え上げられるのです。「剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり」(1169頁)と仰せの通りです。ゆえに、どんな悩みも、そのままM御本尊に祈っていけばいい。悩みを祈りに変えて、題目を唱えれば、わが生命に、勇気がみなぎり、希望が輝き始めるではありませんか。「難を乗り越える信心」とは、「難を乗り越える祈り」であり、「難を乗り越える唱題」の異名です。【SGI会長講義「世界を照らす太陽の仏法」】大百蓮華2016年3月号
April 8, 2016
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平和を叫びながら戦争を準備し、否、平和のための戦争などという愚かな理論が通用する現代の世界は、まさに闇であり、無明である。その根本原因は、人間生命の尊厳に対する無認識であり、少数の、だが重要な位置にある指導者たちの愚痴迷妄にあるといわざるをえない。――御義口伝講義
September 23, 2015
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今いる使命の場所で何としても勝ってもらいたい――大聖人は金吾に対して、「八風」に侵されない人こそが「賢人」であることを教えられています。「八風」とは仏道修行を妨げる働きであり、「利(うるおい)、誉(ほまれ)、称(たたえ)、楽(たのしみ)」の四順と、「衰(おとろえ)、毀(やぶれ)、譏(そしり)、苦(くるしみ)」の四違があります。(中略)一般に人々が望み求めることが四順であり、いやがり避けることが四違です。しかし、仮に四順を得たとしても、それは一時的、相対的な幸福に過ぎません。永遠に順風満帆の人生などありえないものです。凪のような日もあれば、怒濤の日もある。それが人生の実相です。にもかかわらず、人間は世間体や格好、形式ばかりを気にして、内実をおろそかにしたり、世間の毀誉褒貶や目先の利害損得に風向きのままに流されてしまう。それでは、人生に襲いかかる苦難の烈風や、時代社会の激動の嵐も前には、ひとたまりもなくなってしまいます。要は、八風に動じない「自分自身」であることです。 ◇八風に侵されない不動の人、すなわち、何ものにも揺るがぬ心で、絶対的な幸福を追求する人こそが「賢人」です。真の信仰者の究極の姿も、ここにあるのです。では、誰よりもまっすぐに死を求め、広宣流布の戦いに挑んできた四条金吾に対して、大聖人は、なぜここまで事細かに「賢人の道」を教えられたのでしょうか。それは金吾自身の人間革命、人間としての成長によって、問題を根本的に解決していくべきであることを教えられていると拝されます。「賢人」とは一般的にも、正邪を峻別する力ある人を指します。本質を把握する力を持つ人ともいえましょう。八風に動じない確固とした自信を築くためには、正邪を峻別し、幸不幸の因果を説く「法」と「師匠」の存在が不可欠です。正しい法に説かれるままに、そして正しい師匠の指導道理に実践に励む。その「賢人の道」を貫き、妙法を根本とした生き方に徹するからこそ、諸天善神も守ると大聖人は仰せなのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第17巻)【四条金吾殿御返事(八風抄)―名誉会長の指針から】聖教新聞2015.8.4
August 14, 2015
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大聖人は、「王地に生れたれば身をば随えたてまつるやうなりとも心をば随えたてまつるべからず」(御書287頁)と悠然と仰せになっている。ユネスコ(国連教育科学文化機関)が編さんした『語録 人間の権利』にも収録されている。世界的に有名な一節である。“たとえ、身体の自由が奪われたとしても、心は、精神は断じて屈しない”――権力の魔性と戦い抜かれた大聖人の魂が凝結した大宣言である。そして、これからも、妙法流布の信念に生き抜くことを、自身を迫害した平左衛門尉の前で堂々と述べられるのだ。死罪に等しいと言われた佐渡への流罪をもってしても、権力は大聖人を屈服させることはできなかった。この大聖人の不屈の精神を現代によみがえらせたのが、創価の父・牧口初代会長である。戦争へと突き進む軍部政府によって、不敬罪および治安維持法違反の容疑で逮捕・投獄。しかし、獄中にあっても毅然と信念を貫き、看守や検事にも仏法の正義を堂々と語り抜いた。そして、崇高なる殉教の精神を遂げたのだ。この先師の不惜身命の闘争によって、現代に正しく受け継がれた大聖人の語精神は、その後、戸田会長、そして名誉会長へと継承。創価三代の師弟闘争があったればこそ、世界広布への新たな時代が開かれたのである。【撰時抄に学ぶ】創価新報2015.7.15
July 15, 2015
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現実の人生には、あれやこれやと、苦しく辛いことが多いかもしれない。しかし、妙法への信心を貫く人は、その苦悩の泥沼に足を取られて沈むような必要は断じてないのです。じめじめなんかしないで、からりと心を軽くして、前を向くのです。喜び勇んで、朗々と、題目を唱えていくのです。題目を唱えゆく生命自体が、煩悩即菩提であり、すでに勝利なのです。苦悩を見下ろし、勝っているのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第15巻) ◇大聖人は、人生の本当の「幸福」、本当の「目的」を教えてくださっている。華やかな虚栄や名声など、皆、幻である。「仏」という大境涯を胸中に開くことこそが、すべての悩みを、仏の大境涯を開くための材料に変えられるのである。(『池田大作全集』第86巻)【5月度 座談会拝読御書「富木殿尼御前御返事(弓箭御書)」】聖教新聞2015.5.4
June 8, 2015
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目的を明確にし、目的に対する執念を燃やすなかで、一念は洗練され、深まっていきます。そして、深まった一念は、その人の立ち居振る舞いに現れます。勢いに現れます。それが周囲の人に影響を与え、波動を起こします。人生は苦難との闘争です。その戦いに負けないためにも“必ず勝つ”との、岩をも貫くような一念を定めることです。そして、一歩でも二歩でも、日々の歩みを止めないことです。どんなに戦ってきても、最後の「あと一歩」を踏み出さなければ、勝利は輝きません。あと一歩、もう一歩と自らを励まし、悔いのない一日一日を過ごしていきましょう。【教学―石虎将軍御書】聖教新聞2013.7.16
June 3, 2015
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現実の人生には、あれやこれやと、苦しく辛いことが多いかもしれない。しかし、妙法への信心を貫く人は、その苦悩の泥沼に足を取られて沈むような必要は断じてないのです。じめじめなんかしないで、からりと心を軽くして、前を向くのです。喜び勇んで、朗々と、題目を唱えていくのです。題目を唱えゆく生命自体が、煩悩即菩提であり、すでに勝利なのです。苦悩を見下ろし、勝っているのです。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第15巻) ◇大聖人は、人生の本当の「幸福」、本当の「目的」を教えてくださっている。華やかな虚栄や名声など、皆、幻である。「仏」という大境涯を胸中に開くことこそが、すべての悩みを、仏の大境涯を開くための材料に変えられるのである。【『池田大作全集』第86巻】【5月度 座談会拝読御書「富木殿尼御前御返事(弓箭御書)」】聖教新聞2015.5.4
May 24, 2015
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「幸福感は伝わる」――昨年、米ハーバード大学医学部などの研究者たちが英国の医学誌に発表した貴重な洞察です。この知見によれば、誰かの幸福感に変化が起きると、それは周囲にも伝わり、幸福な人々の社会学的・地理的な集団の形成に寄与する。つまり、幸福感や充足感というものは、個人がそれぞれに感じるだけではない。人から人へと伝わり、大勢に共有される傾向があるというのです。とくに、この幸福感は隣人や友人によって伝わりやすいという結果も示されています。この幸福感の伝播があれば、「健康を広めることも可能となり、政策や医療方針を設計する上で大きな影響を及ぼす」とも指摘されています。人間は、決して一人だけで生きているのではない。大きな生命のネットワークの中で、互いに支え合い、影響し合いながら生きています。信心に励んで功徳を得た歓喜と確信を、友から友へ語りに語る。そして、友また友の成長を祈りに祈る。この一念随喜の万波こそが、私たち広宣流布のエネルギーです。今日、世界百九十二カ国・地域に広がる唱題の歓喜の大旋風は、最先端の学問研究の成果とも見事に一致するのです。戸田先生はわかりやすく言われておりました。「功徳の喜びを百回語っていけば、さらに百倍の功徳となって返ってくる。それが信心のすごさだよ」私たちは今、「十界の衆生」の大海原の真っ只中で、朗々と妙法を唱え、人間革命の金波、銀波を巻き起こしている。わが同志の皆様こそ、娑婆世界を、光り輝く仏国土「三変土田」しゆく変革劇の主役なのです。【御書と師弟】聖教新聞09・6・4
March 11, 2015
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『大智度論』には、「『わが内なる魔軍』を破る者はいない。よく破ることができるのは、『仏の智慧の矢』のみである」と記されています。私たちにとって、唯一、間を破ることができる。「仏の智慧の矢」とは、なんでしょうか。仏の智慧を言葉に結晶させた究極の教えが、法華経です。法華経には、私たち凡夫の心に「仏知見」、すなわち仏の智慧の境涯(仏界)がもともと具わっていて、それを開くことができると教えられています。そして、妙法への強固な「信」が「以信代慧」で、魔軍を打ち破る武器となるのです。大聖人は、「元品の無明を退治する利剣は信の一字なり」(御書751頁)と仰せです。私たちの生命の本性として具わる根源的な悪の働きが「元品の無明」です。「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997頁)とあるように、その「元品の無明」が、悪縁に触れて「第六天の魔王」の働きを現します。仏道修行を妨げるために、わが心を破壊するのです。一人一人の心に潜む「元品の無明」こそが、あらゆる不幸の根源です。それに打ち勝つのが、「信心の利剣」です。【勝利の経典「御書」に学ぶ―辨殿御前御書―不退の人に無量の福徳】大白蓮華2015年3月号
March 10, 2015
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魔王は「十軍のいくさ」、つまり10種類の軍勢を従えて、全の勢力を攻撃すると仰せです。『大智度論』には、次の10種が挙げられています。1 欲2 憂愁(うしゅう)(憂えること)3 飢渇(けかち)(飢えと渇き)4 渇(かつ)愛(あい)(五官を通して起こる欲望に愛着すること)5 睡眠6 怖畏(恐れること)7 疑悔(ぎけ)(疑いや後悔)8 瞋恚(怒り)9 利養虚称(利を貪り、虚妄の名聞に執着すること)10 自高蔑人(自らおごり高ぶり、人を卑しむこと)――すべて自身の心に起こる魔の働きです。「魔」とは「奪命者」であり「奪功徳者」です。つまり、善く生きようとする生命のエネルギーを奪い、それまで積み上げてきた福徳を奪うものです。この十の魔軍にしても、魔王にしても、固有の存在があるわけではありません。人々の己心に具わった生命の働きです。その意味で、成仏というのは、本質的には外敵との戦いではなく、自身の内なる魔性との戦いです。わが生命に潜む魔性を克服していくことこそが、成仏への直道です。したがって、たとえ財産が奪われても、病気やけがをしても、信心の心さえ壊されなければ、再び立ち上がり、挑戦し、勝利し、幸福を築くことができます。「心こそ大切」であり、そのもっとも大切な心を破壊しようとするのが魔の本性なのです。【勝利の経典「御書」に学ぶ―辨殿尼御前御書―不退の人に無量の福徳】大白蓮華2015年3月号
March 9, 2015
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御書には「題目を唱え奉る音(こえ)は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一代三千界にいたらざる所なし」(P808)とも説かれています。題目の声は、「十方世界」すなわち大宇宙に届くとの御金言です。唱題に励むとき、大宇宙の根本の法則である妙法と、わが生命が融合する。小宇宙である自身の生命の扉が大宇宙に向かって全開し、全宇宙の頂点から一切を広々と見渡すことができる。宇宙に包まれていた小宇宙が、大宇宙を包みかえしていく――これが我らの祈りです。悠々と大宇宙を旅しながら、生命を浄化できる。そして十界のあらゆる衆生の境涯を深く知って、幸福に導く「慈悲」と「智慧」が、こんこんと湧きあがってくるのです。【御書と師弟】聖教新聞09・6・4
February 15, 2015
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そもそも、仏の「慈悲」とは何か。「大智度論」では、一切衆生に楽を与えること(=与楽)が「慈」であり、一切衆生の苦を抜くこと(=抜苦)が「悲」であるとされています。万人の「与楽」の道を開くことこそが仏の慈悲なのです。“同苦”とは、“同情”ではありません。苦しみを乗り越えるには、その人自身が生命の底力を湧き起こして、自ら強く立ち上がる以外ない。戸田先生は語っておられました。「かわいそうだ、だけでは、人は救えませんぞ。信心の指導、励ましのできるリーダーになりなさい。言うべきことはきちっと指導し、御本尊に共に祈っていくことです」仏法で説く真の慈悲は、感傷や安同情とは無縁です。それは結局、人生の勝利に価値を生まない。根本の「同一苦」を破れず、抜苦与楽になりません。先生は「慈悲があるということは、即智慧につながっていく。その人のためにどうしてあげたらいいか。その慈悲から、一つ一つ具体的な智慧が生まれる」とも教えてくださった。仏法は勝負です。人生も社会も勝負である。大聖人は、門下が仏の力を奮い起こして、断じて幸福を勝ち取るよう、厳愛をもって励まされたのです。仏の慈悲とは、人々の魂を揺さぶり、“絶対勝利の生命”を涌現させずにはおかない、燃え上がる大感情と言ってよい。【「御書と師弟」】聖教新聞09・4・2
February 8, 2015
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法華経は、一切の衆生の成仏を説き明かした最高の経典です。あらゆる境涯の衆生に、仏と同じ大生命が厳然と具わっていることを教え、その仏性を開く道を説いています。法華経の会座には、それまで成仏できないといわれていた女性たちも一堂に会しました。さらに、さまざまな境涯の人たち、すなわち十界の衆生が喜々として連なりました。この会座に集い来たった人々が、“こんなことは、未だかつてなかった!”と歓喜(かんき)踊躍(じゃくやく)するなかで、万人成仏の道が燦然(さんぜん)と開かれていくのです。いわば、法華経の会座自体が、それまでの常識を力強く打ち破る逆転のドラマとなっている。あらゆる人々が、仏の偉大な人格にふて、仏の深遠な教えを聞いて、生命の奥底から無限の力と可能性を湧きあがらせていく。いわば、万波と広がる「人間革命」の大叙事詩――これが法華経なのです。この法華経の兵法を「将軍学」とすることは、現実社会のまっただ中で、すべての人々の心を揺さぶり、自身の命からも、相手の命からも「仏性」、すなわち幸福・勝利をつかむ絶対無限のエネルギーを引き出していくことにほかなりません。苦悩の淵に沈む人。差別されてきた人。虐げられてきた人。誠実に生き抜く人。こうした人々をこそ、全身全霊で励まし、生きる力を送り、最強の仏の境涯を開かせゆくのが法華経です。日蓮仏法であります。【御書と師弟「第10回 法華経の兵法」】聖教新聞09・3・20
February 7, 2015
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人生は、一切が戦いです。個人も、社会も、全部、戦いです。お母さんが子どもを育てることも、大変な戦いである。自分自身の健康・長寿も、絶え間なき病気との戦いによって、」勝ちとっていくものです。太陽が輝く。雲が湧き起こり、風が吹き渡る。清流が迸(ほとばし)る。こうした現象も、すべて大宇宙と連動した自然界の戦いであると言ってよいでしょう。要するに、森羅万象は戦いによって成り立っているのです。ゆえに、大聖人は「仏法は勝負」と厳命されました。勝たなければ、幸福はない。【御書と師弟「第9回 法華経の兵法」】聖教新聞09・3・19
February 6, 2015
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この「法華経の兵法」の偉大な力用を体験し、証明してきたのが、わが創価の同志であります。重い病気や事故、災害との闘い。経済苦や仕事での格闘。人間関係の苦労・・・・・・。厳しい現実に直面し、「よし、今こそ祈って切り開くのだ!」と決意して、一歩一歩、努力を重ね、人生の風雪を勝ち越えていく。それがどれほど偉大な、仏法証明の勝利劇であることか。戸田先生は微笑しながら言われました。「我々の姿は、貧乏菩薩や病気菩薩に見えるが、それは人生の劇を演じているんだよ。正真正銘の地涌の菩薩なんだ。人生の劇ならば、思い切って楽しく演じ、妙法の偉大さを証明していこうではないか」牧口先生、戸田先生が命をかけてつくられた創価学会です。この学会とともに生きるならば、生老病死の苦悩にあっても妙法の力用を発揮して、宿命を使命に転じながら、荘厳な常楽我浄の生命の旅となるのです。「広宣流布の闘士は、人間の王者である。この気概と誇りを持ち続けるのだ」これが、戸田先生の師子吼でありました。役職や立場ではありません。妙法のために戦った人が偉い。私も二十代で、学会の全責任を担い、戦い、周囲を圧倒する勝利の結果をもって師匠にお応えしました。【御書と師弟「第9回 法華経の兵法」】聖教新聞09・3・19
January 31, 2015
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今、世界中が不況です。どこの国も大変であり、日本も同様です。その中で、学会の同志は真剣に奮闘されています。厳寒の天地でも、離島や山間部でも、妙法流布に懸命に進んでくださっている。災害に見舞われた地で、友を励ましながら、歯を食いしばって社会に貢献してきた方々も大勢おられます。我が同志の皆様方は、仏の「如我等無異」の慈悲を万人に伝えゆく大闘争を繰り広げておられる。それは、いわば「皆を勝利者に」という社会を築いておられるのです。断じて負けてはいけない。必ず「変毒為薬」していける信心です。「仏法は勝負」です。断固として勝ち超えていただきたいのです。 ◇仏の称号の一つが、まさにこの「勝者」であります。ヒマラヤの如き最高峰の大勝利者の境涯に、万人を導くことこそ、釈尊、日蓮大聖人が貫かれた「如我等無異」という仏法の大理想です。そして、これこそが創価の師弟の精神なのです。今や、この仏法の師弟の道に、境の知性が確かな光明を見いだされる時代に入りました。 南米の名門コルンビア・デル・パラグアイ大学のエリーアス総長は語っておられます。「仏法は、人生の精神を蘇生させ、一人の人間がもっている『極善の力』を引き出します。また、仏法の弟子は、師匠から『高い精神性と智慧』を学び、それらを他の多くの人々に伝える力を与えられるのです」深いご理解です。万人の生命にある「極善の力」――最強の正義の力を、我が胸中から湧き上がらせる源泉が、師弟です。また、私が「名誉郡民証」を拝受した韓国・清道(チョンド)郡の金相淳(キム・サムスン)郡守は、創価の師弟を賞賛してくださり、こう語られました。「人間を最も人間らしくするのは、『恩を知るゆえ』です。そして、その恩に報いるために、『今、自身の人生を、どのような方向に生きているのか』、さらに『恩を受けた師匠を、どのように宣揚していくのか』という悩みに生きていくのではないかと思います」と。【御書と師弟】聖教新聞09・3・7
January 30, 2015
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十四世紀スペインの作家ドン・ファン・マヌエルは「命をかけるに値することであれば、身命を賭して誰よりも早く敢然とやりとげる人が、自らを大事にする有徳の士である」との箴言を残しております。まして、仏法は三世永遠の宇宙の根本法則です。不惜身命で実践すれば、広大無辺の栄光と功徳に包まれゆくことは絶対に間違いありません。「石変じて玉と成る」(御書P1423)という力ある妙法です。妙法に生き抜く人生は、信念なき名門名利の人生とは雲泥の差がある。 ◇皆様方は、この不況のなか、法のため、人のために懸命に戦ってくださっている。悩んでいる友がいれば、自分のことはさしおいても飛んで行って励ます。夜更けまで、心から題目を送り続ける。勇気を出して「立正安国」という社会の正道を堂々と語る。民衆を愚弄する悪人に対しては、猛然と破邪顕正の論陣を張る――。この尊き皆様以外、一体、どこに「身命をおしまず修行」する闘士がいるでありましょうか。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 27, 2015
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私は長年、大勢の人間を見てきました。人間というものは、本当に立派な人物は少ないものです。大聖人は「いとをしと申す人は千人に一人もありがたし」(御書P1418)と仰せになられています。御本仏の時代でさえ、五老僧をはじめ、心の底では師匠を見下し、[我偉し]と思う増上慢の輩が多かった。師匠を尊敬するどころか、提婆達多の如く師匠に嫉妬するものさえいた。 ◇仏道修行は、真面目に、誠実にやり抜いた人が勝つ。学会という最高の「善智識」の組織とともに歩み抜いた人が勝つのです。 ◇不惜身命とは、人に強いることではありません。自分が真剣かどうか、一人立つかどうかです。【御書と師弟】聖教新聞09・2・19
January 26, 2015
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