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平成19年10月21日地域住民の方々及びインターネットで耕作を希望されている方々へ佐久間和夫の心の市民農園開園のお知らせ農園利用者募集名称 手作野市民農園この度、大網白里町南横川字沼方2591-2の土地 手作野 及び2624-1 沼方場 所( 所有者 佐久間 和夫 元公立中学校 校長)約 1000坪にあった杉の倒木および竹林を「さつみ塗装」の飯島義明氏のお力で伐採し、整地、畑に改良し、作物が生産できる場所にいたしました。それらの土地は私の父祖伝来の屋敷跡で俗称「手作野」といわれた場所で私が定年退職後、この場所を訪れた時は廃棄物の捨て場にされており、それを食い止めねば大変なことになるとお聞きし、とりあえずその一部を開墾、サツマイモやジヤガイモをほそぼそと作り一応廃棄物の件はなくなり、現在にいたっております。場所の位置 千葉県山武郡大網白里町南横川 字 手作野及び沼方の地 房総半島のつけ根に当たる外房線の大網駅から約4キロの場所です。九十九里浜まで車で15分の距離です。ウインドサーフインの保管場所にも活用可能な場所です。 地図参照 外房線 永田駅より 車で10分の距離佐久間医院の南側 約4分の場所 みのり 薬局 南側私の住所は東京都小金井市で月2回ほど車で現地に赴き土に親しんでおります。約2時間~3時間の距離です。気候温暖、田園ライフを満喫しております。収穫したサツマイモは保管を工夫し毎年焼き芋をつくり、家内に喜ばれております。 公営の市民農園は12と狭く、抽選で当たり外れがあり、2年ごとの更新、それも必ず当たるとは限らぬ状況で畑の履歴が判らず、栽培の種類が決め難いようです。当「手作野市民農園」は本人が止めたいといわない限り耕作が継続可能です。契約期間は一応5年毎にします。場所の抽選は5年毎にいたします、入り口からの距離、日照の具合を公平にするためとしますのでご理解ください。耕作面積は1区画33平方メートル(10坪)の単位で1人2~3区画まで可能、ただし希望者が殺到した場合は2区画までとさせていただきます。(整地前の写真です)栽培し良好な生産をあげているものサツマイモやジヤガイモ 大根 白菜、かぼちや きゃべつ レタス ねぎ 玉ねぎ 西瓜枝豆 玉蜀黍 サトイモ 八つ頭 栗 柿 梨 りんご 山芋 落花生 小松菜 ほうれん草エシャレット 等 飯島氏のご尽力で新たに651平方メートルおよび、約1000平方メートルの畑が増設され、その場所を民間 市民農園としてお貸ししたいと考えています。施設 休憩室 兼 農具置き場 (コンテナ活用)配電設備、 農業給水のための井戸用ポンプ、 農具を置く物置駐車場: 12台まで可能 有料(月額1000円)となります。耕運機、 噴霧器、その他は 有料でお貸しします。下の写真は開発後の写真 6月時点での写真で苗の植え付け時期をはずれ、また土の改良が未整備であったため利用者は平成20年度からといたしました。利用の価格も現地並みの値段にいたしました。 申し込み方法 所定の手続き 第一段階 はがきによる申し込み 第二段階 契約書類を当方より送付します。その契約書に署名捺印を頂き応募される資格として千葉県民を第一とし、東京都民の方は第二順位とさせていただきます。耕作開始時期 三月初旬) より。 連絡あり次第小生が現地に参ります。賃貸料金 8×4.15 m 33平方メートル (10坪)当たり 5、000円 (年間) 入会金はいただきません。 申し込み方法農園の北隣の佐久間 秋夫氏 電話0475-72-2445 にお電話ください。または042-383-6941へ 留守がちになりますので夜間の7時~8時の間にお電話下さい。または 葉書での申し込み先 下記の要領を記入し郵送してください。郵便番号 184-0004小金井市本町2-17-19 佐久間 和夫行き電話番号 042-383-6941ご本人のご芳名ご住所電話番号 または メールアドレス 希望の区画数 ご意見欄信頼していただくために私のホームページ URL http://plaza.rakuten.co.jp/kasaku/diary/?ctgy=2または グーグルで「佐久間和夫の心の東京革命」をごらんください。農園の無断でのまた貸しはご遠慮ください。上記の内容 十分ご検討され 明記の上、申し込み内容をご記入の上11月 ~3月末日までに御応募ください定員になり次第打ち切らせていただきます。参考日当たりはよい。土の改良を支援します。面積が10坪でかなりの作物が栽培できます。にわか雨に対応できます。駐車場所がある。給水設備がある。(飲料不可)バーベキュウ可能な木陰がある永田駅から南進 D2 の道を南進、信号2つ目を左折 佐久間医院の標識を右折その辺で0475-72-2445 佐久間秋夫 様宅をお尋ねください。
2007.10.21

民間 市民農園 手作野農場の全景平成19年10月21日改定 入園希望者募集中漸く区画整理が出来ました。 手作りの野菜を栽培されてはいかがですか。日当たりは満点、面積も 1区画 4メートル×4メートル 16平方メートル経費は 年5000円 契約金なし施設 駐車場 完備 20台駐車可能休憩施設: 窓つきコンテナ、 トイレ、 耕運機、 農用施水設備噴霧器 農機具場 所千葉県山武郡大網白里町南横川 2624-1~2 総武線大網駅より車で15分九十九里浜まで車で15分 申し込み連絡先 東京都小金井市本町2-17-19電話 042-383-6941 佐久間 和夫宛にご連絡ください。関係書類をお送りします。ヤフーで佐久間和夫の心の東京革命をご覧ください。
2007.05.06
平成19年2月24日地域住民の方々及びインターネットで耕作を希望されている方々へ佐久間和夫の心の市民農園開園のお知らせこの度、大網白里町南横川字沼方2591-2の土地 手作野 及び2624-1 沼方 ( 所有者 佐久間 和夫 元公立中学校 校長)約 1000坪にあった杉の倒木および竹林を「さつみ塗装」の飯島義明氏のお力で伐採し、整地、畑に改良され作物が生産できる場所となりました。それらの土地は私の父祖伝来の屋敷跡で俗称「手作野」といわれた場所で私が定年退職後、この場所を訪れた時は廃棄物の捨て場にされており、それを食い止めねば大変なことになるとお聞きし、とりあえずその一部を開墾、サツマイモやジヤガイモをほそぼそと作り一応廃棄物の件はなくなり、現在にいたっております。場所の位置 千葉県山武郡大網白里町南横川 字 手作野及び沼方の地 房総半島のつけ根に当たる外房線の大網駅から約4キロの場所です。九十九里浜まで車で15分の距離です。ウインドサーフインの保管場所にも活用可能な場所です。佐久間医院の南側 約4分の場所 みのり 薬局 南側私の住所は東京都小金井市で月2回ほど現地に赴き土に親しんでおります。車で約2時間~3時間の距離です。気候温暖、田園ライフを満喫しております。収穫したサツマイモを保管を工夫し2月12日現在、利用して焼き芋をつくり、家内に喜ばれております。 公営の市民農園は12平米と狭く、抽選で当たり外れがあり、2年ごとの更新、それも必ず当たるとは限らぬ状況のようです。当「手作野市民農園」は本人が止めたいといわない限り耕作が継続可能です。契約期間は6年毎にします。場所の抽選は3年毎にあります、入り口からの距離、日照の具合を公平にするためとしますのでご理解ください。耕作面積は1区画16平方メートルの単位で1人2~4区画まで可能、ただし希望者が殺到した場合は2区画までとさせていただきます。(整地前の写真です) 今までに栽培し良好な生産をあげているものサツマイモやジヤガイモ 大根 白菜、かぼちや きゃべつ レタス ねぎ 玉ねぎ 西瓜枝豆 玉蜀黍 サトイモ 八つ頭 栗 柿 梨 りんご 山芋 落花生 小松菜 ほうれん草 等 飯島氏のご尽力で新たに651平方メートルおよび、約1000平方メートルの畑が増設され、その場所を民間 市民農園としてお貸ししたいと考えています。施 設 休憩室 兼 農具置き場 (コンテナ活用)配電設備、 農業給水のための井戸用ポンプ、 農具を置く物置駐車場: 12台まで可能 有料となります。耕運機、 噴霧器、その他は 有料でお貸しします。 申し込み方法 所定の手続き 第一段階 はがきによる申し込み またはメールでの受付第二段階 契約書類を当方より送付します。その契約書に署名捺印を頂き 当方の三菱銀行に 10、000円を(1区画毎 ) 入金して頂いた方から先着順に決めさせていただきます。応募される資格として千葉県民を第一とし、東京都民の方は第二順位とさせていただきます。耕作開始時期 四月二日 (月) より。 小生が現地に参ります。できるだけご参加下さい。賃貸料金 4×4 16平方メートル当たり 4、000円 (年間) 3年毎に更新 (耕作場所は抽選で決めます)新規入園申し込み金 一区画毎に10、000円 入金された金額の返金は致しかねます。 申し込み方法メールアドレスsakuma1000jp@yahoo.co.jp ( 第一段階 ) 受信した方に契約関係文書をお送りします。または 葉書で下記の要領で郵送してください。郵便番号 184-0004小金井市本町2-17-19 佐久間 和夫行き電話番号 042-383-6941ご本人のご芳名ご住所電話番号 または メールアドレス 希望の区画数 ご意見欄信頼していただくために私のホームページ YOHOO!で「佐久間和夫の心の東京革命」をごらんください。無断でのまた貸しは禁止させていただきます。上記の内容 十分ご検討され 明記の上、申し込み内容をご記入の上3月末日までに御応募ください定員になり次第打ち切らせていただきます。
2007.02.25
トラックバックテストです。うまくゆくかな
2005.02.13
いま人間は血管とともに老いるといわれます。我々はいつも若々しい血管があるのではないのです。 血管の中を血がながれているのですが、血管の中が詰まってくる、それで様々な病気が出てくる、ところが「歩く」という運動をすることにより血管の老化を防ぐという非常に大事な役割を演じてくれているのです。歩くことにより新鮮な空気を肺に入り、肺の中にある小さな肺胞という小さな粒がありまして、肺の中に入った空気から酸素だけを吸い取って、酸素が血液の中に入って私たちの各機関に配給されていく、歩くことにより酸素の取り入れが活発になり、それともうひとつ プロスタグランジーンE という物質がでてくるのです。最近の医学で分かってきたのはプロスタグランジーンEは末梢血管の弾力をますことに欠くことができないということが医学でわかりはじめました。私たちにある副腎というのはストレスホルモンを出す、ここにプロスタグランジーンEが働きかけましてストレスホルモンを半分もしくは1/3に抑えるというデータが出てきており、そうすると「いらいら」がなくなる、歩いて軽く汗をかく、これは体に快感を与えるなど、体の中に仕掛けがあったのです。あまり早く走ってもプロスタグランジーンE は分泌されません。 また「足は第二の心臓だといわれています。心臓は1つしかついていないではないかともいいますが、私たちの血管を足し合わせますと9600km もあるのです。心臓1個で体の隅々までおくるのは中々難しいのです。足の中にある筋肉の中の血管が歩くことにより伸びたり縮んだりします、それが心臓の役割をしていることになるのです。抹消の血管の中の血を心臓に送り返す大事な仕事をしてくれているのです。そのためにには三食昼寝ね付でなくうっすら汗をかく歩きというのは健康に良いのです。 古藤先生は毎日10km 歩かれておられるそうです。歩く時間はその方の生活条件で異なって結構です。先生は排気ガスの少ない早朝を選ばれておられます。3日坊主にならぬよう自分にあった時間をつくることが大切でしよう。 もう一つ私たちの筋肉には2つ種類がありまして白い筋肉、赤い筋肉 早く泳ぐ魚の肉は白みの魚、遅く泳ぐ魚は赤みの魚、その代表的なものにマグロがあります。その 赤みの筋肉を遅い筋肉といいます。その赤い筋肉を顕微鏡で見ますと「ミトコンドリア」というのが入っております。これが脂肪を燃やす工場なのです。歩きますと体内の脂肪を燃やしてくれます。余分な脂肪もとれます。 昔の江戸の町を地図の上で検討してみますと江戸城、今の宮城を中心にして半径5kmの円をコンパスで、描いてみますと直径10kmですが、本所、深川、三田、芝浦、東雲(しののめ)とか木場が全部入ります。江戸の広さは人間が歩ける範囲に町を作った。内藤新宿は江戸の外れであったわけです。 あそこも5kmの範囲にはいります。昔の人の賢明さが分かります。圏外に用があった場合には飛脚をお願いしたなどいろいろな知恵を持っていたのだと思いますね。 先生の推奨される方法は自分の住まいから半径2kmでも1kmでもいいですからコンパスで円を描いてみてその中に何か都市探検をするようなところはないかと探され、歩かれれば、歩きが楽しくなるであろうと申されていました。古藤先生の歩く距離半径5kmのところに行き、帰ってくると合計10kmです。広いところでなくても運動量は確保できます。 雨の日も原則として傘をさして歩かれます。お住まいが中野ですので新宿の地下道に入りましてぐるっと廻りますと2.5kmあります。雨でも歩けますし、疲れたと思ったらウィンドウ ショッピイングしながらも歩けます。いろいろな歩き方が自分の周りにあるのだと工夫をされ歩きを自分のコースを持つのもいいかもしれません。先生のお住まいは中野ですので都庁のある場所まで歩きその脇にある公園がで休憩して戻ってこられます。それで10.7kmあるのです。その帰り道神田川沿いの道をゆっくり歩いて帰ってこられます。今度は反対方向に参りますと。中野の哲学堂というのがありまして、思考の道があり、自分の道を早くみつけることでしよう。最初の方は万歩計の活用もよいとのこと。東京駅の地下道を歩くとすごい距離になります。都市の地下探検といいましょうか、空気が悪いと思ったら鍾乳洞の秋吉台に行ったと思えばよいでしょう。 もう一つの歩き方ですが階段を上る場合3.5倍のエネルギーが使われます。今日は運動が不足がちだと思われれば階段を上下することを推奨されました。階段の活用法もあるわけです。グランドがないの声を聞きますが垂直のグランドが階段でしょう。水のグランドもあります。あしくび、膝、腰を痛めた方はアクアウォーク、水中ウオーク、アメリカの病院は25mのプールを常設しており、外科の手術後水中セラピーとして水中ウオークを必ずさせています。水中ウオークの場合水圧があり前に進むには筋肉を働かす、人間には浮力が働きますので膝や腰の負担が軽く運動には最適です。 古藤先生は日本タートル協会の会長をされており、年間何回か大会を開き足を使って健康にと荒川の河川敷でおこないました。 参加者の最高齢の方でお名前は石川さんは94歳、その方も10kmの距離を完全に歩かれました。参加される方の中には目の悪い方、車いすの方も参加されています。元気な方は少し車いすを押してあげましょう。健康のおすそ分けをしましょうといって会では助けあいをやっております。高齢であるかどうかはその方の考え方で石川さんは自分が高齢者だと全然考えておられません。 先生は話を変えられました。日本の総医療費は約28兆円かかっております。暦の上高齢者といわれて方の医療費が 11兆円です。約40%強です。これは21世紀に生きる若い人を悩ます大きな問題になるのではないかと危惧されておられました。そのために一人でもいいから自分の健康を守るために「あし」を使っていただきたい。車いすの方は時にはボランテイアの方のヘルプもありますが手で車いすを動かせる。手が足の代わりをしているわけです。健康であればお医者さんにかからなくてもいいわけです。 今「寝たきり」になりますと、諸々の費用を概算しますと、一人年間約5百万円掛かります。これは大変な金額です、それが介護保険、医療保険の負担となり、政府の財政負担となるのです。これが健康で500万円を使わないでいる人が1万人増えた場合、5000億です。そのお金を私たちの子供、孫に使ってもらえるならば、社会を明るいものにする事になるでしよう。誰も病気になりたくてなる人はいないわけですが、寝たきりになれば、本人も苦しいが、政府、いや税金を出すわれわれ国民も大変な負担を負うことになるのです。 そうならないためにも本人の心の中の意志力これが大事なことです。 先日の新聞に1日1時間歩く人の癌の罹患者数が半分になるというニュウスがでました。古藤先生はそのとおりだと思っておられます。疲れているから止めようという気持ちを、でもやろうとする気持ちは 私たちの間脳に働きかけるゲンパキュウというのがあるのです。これを活性化することが精神神経免疫学という新しい分野で研究が進んでまいりました。意思力と病気と深い関係があるのだなといおうことが分かってきました。疲れた日に止めずに続けるとプロスターグランジーンが出てくるのでしょう、今日もやってよかった、さあがんばろうという気がおこってまいります。古藤先生のご計画は来年が古希の年ですが弘法大師が遣唐使として中国に渡ったコースを先生自ら船で上海に行きそれから徒歩で西安まで約1700kmを徒歩でいかれる計画とのことでした。計画では70日の予定とのことです。1日45kmぐらいのペースを考えておられるとのこと。長江、別名揚子江沿いに登っていく予定、約1千年前の先達の辿った道を行くのも意味があるのではないかと考えておられました。その後 西安についた後三国志のあとを辿ってみたいとの夢をお持ちのようです。先生の姿勢は全て「挑戦」でいこう。古希をむかえられる古藤先生は来年から私の人生が始まるのだという気持ちで「挑戦」を始めたいと考えておられます。 新潟地震の後避難場所に行かず自分の車の中で数日過ごされた方の何人かが足を動かさぬ生活で足の血の巡りが悪くなりそこで血栓ができ、それが心臓につまって心筋梗塞、脳の血管に詰まって脳梗塞をおこされた方がおられたことは 古藤先生の足は第二の心臓であることを立証されているなとおもいました。
2005.01.21

生活習慣病、これが日本経済の足かせになっているとは知りませんでした。先生のお話の中で1年間の医療費が28兆円かかっているそうです。一人一人が歩けば健康になり、そんほ医療費が半分くらい節約できるお話です。最近心に残ったNHKの深夜便 心の時間に放送された日本タートル協会の会長であられる 古藤高良さんの「歩く」というお話を要約し本日のブログの責めを果たしたいと考えます。古藤先生は約7年前四国遍路を62歳の時に34日間でお歩かれてそうです。 約1140km 1日平均47km歩かれたそうです。 持ち物は同行2人の袋を背負って歩かれました。先生は医学博士であり、筑波大名誉教授の方で運動生理学のご専門の方です。先生のこの四国遍路のご体験での反省は筋肉が、ばらばらになる思いの中で自らの心が軽くなられた、これが曼荼羅の心の境地ではないのかと思案されました。日本人が昔からこの修行の目的はただ単に歩くというだけでなく「心」が変わってくるのが目的であったのだと推測されました。何故その年に四国遍路を行ったかというと、かねてから崇敬の念をもっていた日本の仏教を布教された弘法大師、別名空海が62歳の時にお亡くなりなった事を知り先生と同年であったこの機会を除いては無いと思い決断されたそうです。 お遍路をする中で経験は多くの見ず知らずの方から暖かいもてなしをうけたことです。たとえば小学生がお遍路さんに100円の硬貨を袋に入れようとされる、「これはあなたの1日のお使いだからと遠慮すると、泣き出すお子さんに会ったそうです。 土地の人たちの考えはお遍路さんをなさる方は何か悩みがあり、その方々にお手伝いをしてあげようそれが弘法大師さんに対する我々の供養である、というのが子供さんにまで徹底している社会であるのだなと感じ私の心が洗われる思いをされたそうです。古藤先生は科学者で今まで生活をしてきた故に数字とかデータとかに注目し、たとえば路傍に咲く草花には注目なさりませんでした。ご遍路を終えてから見る芙蓉の花をみると、ああ、夏の訪れが芙蓉が我々に訴えているのだな、自然を自然に見る気持ちに変わられたそうです。自然の中に没入できるようになられたそうです。多くの方々からよくそんなに早く歩かれたのですねいわれると古藤先生は札所から札所までの道というのがその人の気持ちを変えてくれるのだから、ゆっくりでもいいのですよ。といわれました。 「かたつむりそろそろ登れ富士の山」このように目標に向かって少しづつでも歩き続けましょうよといわれました。お遍路の道は様々な変化、山あり、谷あり、途中に草花が咲き、それらを眺めることに「没入」の境地があるのだと自覚されたそうです。これはとても大事なことであることだと知りました。例えば物事に集中する力、耐える力、自分の意識を掻きたてていく力、天候を見据えて行動計画をする判断力、自制心、これらが心の力ではないではなかろうかとお遍路を通じて感じられたそうです。どのようにして心を強めようとするのでなくお遍路をするうちに自然と身についてきたように思われます。今から千年前弘法大師がその道を歩かれ、その後何万人のかたがたが経験され心を磨かれたのだということが分かりました。ここで別なことを申し述べてみましょう。「あし」はえりあし、お膳のあし、足場、 昔の人は「あし」というのは物事をしっかり支えてくれるものからこのような言葉を使ってのだと思われます。「雲あし」が早いとか「雨あし」が早い この使い方はあしというのは移動するものだということから私たちの祖先がつくられた言葉だとおもいます。お遍路の途中で子供さんが差し出す10円のことを「おあし」とも言いますね。「おあし」は流通を表す言葉でもあるわけです。これら「あし」にまつわる言葉を調べてみると大変興味深いですねお彼岸が過ぎたころ「日あしが長くなったとか、中国語で挨拶に使うことばの意味はあなたの足は健康ですかの意味の言葉を交わしあうのです。ドイツ語でもラテン語でもあしという言葉の語源をたどっていきますと「生きる」という意味と深くかかわりあっていることがわかります。 現代科学が発達しわれわれは足を使うことをわすれてしまったの感があります。 この結果が現代人の犯されている病気、生活習慣病とかになって出てきているのだなとおもいます。今こそ先祖の方々が大切にした「あし」をもう1回見直して歩くことの大切さを知るべきでしよう。
2005.01.20

『買って!買って!病24の処方箋 子どものお金にまつわる困った症状の対処法』物が豊富で人間が幸せになりうるか。或る方は逆であると主張されています。物に対する感謝の気持ちを持たせることが親の務めだと思いますがいかがでしょうか。◆目次より【初期症状 お金の価値をわかっていない子どものために】症状1 物を乱暴に扱って、大切にしない症状2 欲しい物を前にすると、買うまでとことん要求する症状3 新しいおもちゃが発売されるとすぐに欲しがり、古い物で遊ばなくなる症状4 お小遣いでお菓子やジュースばかりを買ってしまう症状5 お小遣いをもらうと、あっという間に使ってしまう症状6 お小遣い帳をきちんとつけない症状7 子供が選ぶのはキャラクター付きの物ばかり。干渉すべきか悩んでしまう症状8 「一番大切なものは、お金」「お金のあること=幸せ」だと思っている症状9 機会あるごとに寄付をしたがる。寄付自体は悪いことではないが…症状10 何も欲しがらない子どもの心を計りかねる【進行性の症状 正しいお金の使い方の習慣づけができていない子どものために】症状11 豊かな友だちの家をうらやむ症状12 子どもが洋服をたくさん欲しがるようになった症状13 お小遣いが足りないと言ってくる症状14 少額のお金なら、なくしても平気でいる症状15 お使いを頼むと、お釣りを自分のものにしたがる症状16 欲しい物はお小遣いを使わずに、親や祖父母にねだる症状17 「みんな持っているから」と、はやりの物を買わせようとする症状18 お年玉を毎月のお小遣いの補てんに、だらだらと使ってしまう症状19 「お手伝いをするから、お金をちょうだい」と言われる症状20 お小遣いを使わずにひたすら貯金。お金を貯めることに執着を持ちすぎている【進行性症状 急を要する症状 大きな問題になる前に】症状21子どもがお小遣いの使い道でうそをついた症状22 友だちにおごったり、お金の貸し借りをしているようだ症状23 家からこっそりお金を持ち出した症状24 子どもが万引をした/友だちの物を盗んだ【その他】◇【親への処方箋 対処療法で終らないために】 ◇対談 お金とのかかわりを通して、親の願いを子どもに伝えよう 山本登志哉(共愛学園前橋国際大学助教授) ◇対談 今こそ、子どもに「あなたらしさって、何?」と問いかけたい 山谷えり子(衆議院議員・当会相談役) 他
2005.01.16
東京の民話が完結しましたので平成17年度はNHKの早朝番組心の時間で傾聴したものの要約を書き込んでいきたいと考えております。
2005.01.06
養生園 園長 竹熊義孝さんに一年の計は断食にありというお話の要約を書き込んでみたいと思います。 菊池養生園では大晦日から正月の元日にかけて「食わぬ養生会」という断食会を行っております。食を断つことによって命を育む農業の大切さを体で知ろうという会です。発言される方にその会参加され酒井佳代子さん、片山美智子さんに加わっていただきました。この会は29回継続しており毎年暮れになると全国から集まってこられます。参加者は50名から70名くらいです。大晦日の日に全員でそば粥をたべてから、それは食い納めで2日の朝まで食を絶つことになります。48時間たべものを口にしないことになります。酒井佳代子さん は12回の参加経験者 ご主人が参加され竹熊先生に奥さんとお子さんをつれて、来なさいといわれて参加したのが12年前、それ以来先生に会いたいの一心で毎年参加さあれております。片山美智子さんは1年の経験です。現在は飽食時代で動物、特に馬など或る程度食べると一切食べないに比し人間は旨いもの、お酒や砂糖の入ったお菓子となると手をのばしてしまう。梯子酒とか2日酔いとかいって飲み直しをしようとか理由をつけていじきたなく食べてしまい人間そのようにしがちであるが動物は決してやらない。にわとりは夜は絶対に餌をとらないが人間は夜たべて朝食べないで登校する子供がふえている。私も医者でありながら人からお土産をいただくとついそれらを口にしてしまう。飽食でなく暴食ですね。それを続けていて生活習慣病になってしまいました。つまり高脂血症、高尿酸血症、血糖値が上がる、また、よく風邪をひいていました。昔から暖衣飽食風邪の元といわれますが私の先生で私に開眼させていただいたのは小川 忠志という先生が植物を例にだし、「こやしの利きすぎは植物をぶっ倒す」農業の場合肥料をどんどんやると風でもくると、ぱたばたと倒れてしまう。特に稲や麦は顕著です。人間の場合窒素肥料にあたるのが、砂糖やお酒です。私自身が実験材料と考え断食をしたらいっぺんに体の調子がよくなってしまいました。これは約30年前のはなしです。それを教えていただいたのが香田光男という一色健康法の大家でその先生のところに行き教えていただきました。 その先生が私の体を一目見て、「竹熊さん、これは甘中ですね、といわれました。やあ、相当砂糖を食べてきたようですね。ばれてしまいました。とにかく食 を断つことにより色々な病気が治る、また食物を食べることにより命が生かされているということも実感できます。養生会のスケジュウルはつぎのようです。 大晦日の夕方5時に集合、まず健康診断のために問診、血圧、心電図、血液検査は希望者に肝機能検査を行い、断食ができるかを調査をする。最後の食事としてほうれん草のゴマあえをたべてから48時間の断食をはじめます。睡眠をとることも可能ですが。参加者どうしの参加の理由や自己紹介をしていただきます。それを除夜の鐘がなるまで行います。それがとても楽しいのです。栃木からの方は昨年もう絶対に来ないといったかたがまた見えたりしています。片山さんはここであとぴーをなおされた方ですが竹熊せんせいは忘れていたのですが、あるとき、約20年後に私に診察を受けに来て私を忘れましたかといわれそうか昔ここにこられた方かと思い出し、いろいろな話を交わした後この地にいる母の世話をするために帰ってきました。ところでまだ一人身ですのでと自己紹介の中で一人の青年と電波?が通ったのか、ラブコールが始まり、その方と結婚されご主人は竹熊先生のところのドクターになっておられます。食を断って花が咲く。このような方が何組もあります。或る女性の方が私は野良仕事しかしていないので結婚はできないのではないかと自己紹介をされたあとある青年があそこにいる女性と結婚したいですといったので、はじめは少し変な人ではないかと心配しましたが。みんなが拍手をしたので、本人同士が本気になって三日後にはラブコールされ現在お子様もでき、幸せな生活をされております。断食で人生が変わったかたが多くいます。元日には天気がよければ朝日を拝みに出かけます。それから近所に私たちと一緒に断食をされたお坊さんがおられます。そこでお坊さんの説教をきくのです。約1時間半そこで過ごしてから温泉にいきます。そこで様々な出会いがあるのです。既に10何組の方が縁結びが行われています。どうやら共通な考え方で伴侶を見つけられるケースだといえましょう。年齢のことですが竹熊先生のお孫さん5歳の子も立派に断食をされておるとのこと。親御さんがいれば心配はありません。 その経験をした子供は食べ物を食い散らさない、残さない、また好き嫌いをしなくなります。食べ物を命として感じるのではないでしょうか。副作用もあります。断食した当初は体重がへりますが、前と同じ食事をとると吸収がよくなるせいか太ってしまいます。断食後の食事は量を減らすことがたいせつです。一番きついのは2日目の朝です。断食すると睡眠時間が少なくなります。4時間で充分だとの方もおられます。食と睡眠と嗜好とが関係があります。竹熊先生は枕元にノートを置き夢で出てきたことを忘れないうちに書き留めることをされております。あとからみると食のことばかり、なんと餓鬼道に落ちているなと自戒しています。最近断食療法をいわれるかたがいますが、一人でなさることは危険です、だれか数人で経験者と共にすることをお勧めします。断食明けが肝心です、最初はおもゆ、次はおかゆ、砂糖や塩辛いものは避ける、2~3日かけて通常な食事に戻すことが大切です。断食が終わったとき「しょうがの入った甘酒がとくにおいしく感じられます。腸が動きはじめたら野菜スープと梅干いりの玄米のおかゆを出します。それからサトイモの煮しめ、大根のふろふきなどをたべます。その美味さは一流の料亭のご馳走よりおいしい。竹熊先生は空腹は最大なご馳走だといっています。今の若い人はお腹をすかしたことがない、食べ物の有難さも感じていない、竹熊先生は若い人が結婚する前、選挙権をもらう前に断食をしてこい、一寸極論ですがそうすれば農業の価値を見直す、農業が水を作ってくださる、感謝の気持ちが芽生えてくる。地球の温暖化にともない食料危機を知らせる必要があるでしよう。娘のことですがひどいアトピーが断食でなおりました。ケーキがでるとがつがつ食べていたのが断食後は少ししか口にせず、リュウマチ熱、しもやけ、風邪ひきがなおりました。食医学があると思います。今日は飽食だから断食というのが生きてくるのではないでしようか、またよその国の飢えている人の気持ちがよくわかるようになりますね。 平成16年12月31日録音し
2005.01.05

馬の毛を抜くカッパ カッパの姿はユーモラスなものですね。背中に甲羅があり、頭にはお皿らしきものがついている。大切な馬のしっぽの毛をぬいているカッパをみてぶち殺そうとしたがカッパの話に同情し馬の毛を少しわけてやる。カッパはお礼にお金を置いていく。与八の生き方は優しい心の持ち主であれば神仏の加護がありますよという寓話でしよう。いつものように早起きした与八は「さつそく馬小屋に顔を出した.二十数年間、馬子を渡世にしているので、毎朝目をさますとまっ先に、馬の様子を見に行くのが与八のその日のはじまりだった。 この日に限って、馬小屋に人影が見える。与八は驚いた。戸の陰にかくれて、節穴からそっとのぞいて見た。ところが、どうだろう。真っ黒な身の丈四尺余り(一二〇センチ位)の人間ともつかぬ奇妙な動物が、一生懸命に馬のしっぽの毛を抜こうとしているのだ。だが、しつぽをつかまえようとすると、そのつど、馬がしっぽを振るのでなかなかつかまらない。「わしにとっては、命の次に大事な馬だ。見たこともない、変ちくりんなヤロウめ、馬をどうしようてんだろう」ー与八は心の中で、こう叫びながらも、しばらく様子を見守っていた。しかし、与八のがまんにも限度があった。与八はまき割りを持って、馬小屋に戻った。実力で追い払う以外にない、と思ったからだ。与八は抜き足、差し足で馬小屋に入っていった。 「このヤロウ! 何をしているんだ」 大声を張りあげながら与八は、右手に持ったまき割りを振り上げた。与八のものすごい見幕に驚天した相手は、腰を抜かして、へたへたと座り込んでしまた。そして、憐れみを乞うように両手をついて、与八に謝った。そして与八に聞かれるままに、馬のしっぽを抜きにきたわけを話しだした。 わたしは、三年前から隅田川に住んでいるカッパです。川の中に数尾の大きな、意地悪の魚がいて、わたしをいじめるのです。ある日、石の陰でいい気持になって寝てをいると、意地悪の魚が、わたしをみつけて、揺り起こして 「ここはオレたちの休み場所だからどけ」というのです。威張りちらし、いつもむりをいうやつだと思ったが、けんかしても、とても勝てそうもない相手なので、わたしはやむなく立ち退きました。寝場所を追われたわたしは、こんどは深いところに生い茂っている草むらをみつけました。やれやれ、ここなら見つかるまいと思ったのも束の間、またここを追い出されました。土手にあがっても、すぐこうらがかわいて、元気が出なくなるので、そう長く土手にもいられないのです。いろいろ考えた末、馬のしっぽの毛でわなを作って、意地悪の魚どもをこらしめてやろうと思いつきました。そこで、なるべくしっぽの長い馬をさがし歩いてみましたが、なかなか見つかりませんでした。そうこうしているうちに、あなたの馬を見つけたわけです。悪いこととはじうじゅう分っているのですが、背に腹はかえられないので、馬のしっぽの毛を盗みに参りました。どうかお助け下さい。 カッパの話をじっと聞いていた与八は、心のうちで「カッパとは、こんなにも弱いものか。いままで魚にいじめられたカッパの話など聞いたためしがない。どうもおかしい」と、疑ってはみたが、泣きながら話す様子を見ていると、まんざらウソの話でもなさそうに思えて哀れになってきた。 「お前さんの話は、よくわかった。そうかといって、馬のしっぽをやれば、馬が死んでしまう。わしは、この馬のお蔭でめしを食べているのだ」 「しっぽを全部下さいとはいいません。五、六本の毛をいただければ結構です。そのお礼に、あす必ずお金を持って参ります」 与八は、カッパのいうことは、あてにならないと思ったが、しつぽの毛を五、六本抜いても、馬が死ぬようなことはあるまい、と思って、毛を抜いてやった。カッパはたいそう喜んで何度も礼をいって帰っていった。 あくる朝、与八がいつものように馬小屋にいってみると、カッパがすでに来ていた。与八の顔をみるや、カッパは、きのうのお礼の金だといって、袋を置いて帰った。 与八が袋を開いてみると、大判、小判がざくざく入っていた。夢を見ているのではないかと、与八はよく調べてみたが、正真正銘のお金に間違いなかった。与八は大金持になり、一生を安楽に暮らしたという。 大金持になった与八は、これもカッパのお蔭だと思って、粘土でカッパを作って焼き上げ、神棚に祭り、日夜拝んでいた。 およそ百五十年前、隅田川べりの今戸 (台東区) にあった話。 カッパの話は、全国いたるところにあるが、カソパはカメから進化した 「想像動物」で、義理人情に厚い動物ともいい伝えられている。 今戸には、明治の終りごろまでカッパの泥焼を生業とした家が三十軒ほどあったといううが現在では残っていない。 このカッパの泥焼もこの付近に残っている。いろいろのカッパの話にちなんで作られるおうになったといわれている。毎年夏に行われる今戸のカッパ祭りは、土地の子供にとって楽しい祭りの一つになっている。東京の民話四十五はこれでおわります。ウェブ上にのっているお話で気に入っているものだけ各自でダウンロードされれば良いと思いますが、当方で収録したCDをご希望の方がおられればご連絡ください。 042-383-6941 佐久間和夫まで、振替用紙を郵送いたします。価格は2000円です。
2004.11.03

からすが増え石原都知事もその対策にのりだしてくれています。これは江戸時代の話、からすはなかなかの頭のよい鳥で、人間の仕事の隙をみて悪さをする。権兵が種まきゃカラスがほじくる・・この歌の起源のようです。 江戸郊外の駒場(目黒区駒場) は、松の林と深いささやぶの原っぱが続いていて、将軍家の狩り場になっていた。狩り場の周囲をとりまくように、小さな村落 が散在していた。将軍家の狩り場には、武家でもやたらに入ることが許されなか った。また、番人でも、弓や鉄砲で鳥を射つことは厳しく禁じられていた。 だから、この狩り場付近に巣をつくっている鳥たちが田や畑を荒し回っても、狩り場へ避難すれば、まず安全だった。 そのかわりタカ狩りがはじまれば、あの鋭いタカの、よい獲物にされてしまうのだが……。 この村に、権兵衛という百姓がいた。いつも、つぎはぎだらけの野良着姿、醤油で煮しめたような手ぬぐいでほおかむりしていた。あくせく仕事に精をだすたちではない。百姓を天職とでも考え、その暮しに心外まんじていて、そこから抜け出して、少しでも権力を握ろうなんて、まったく考えてみたこともない人物だったようである。麦の刈り入れ時はときどき雨が降る。梅雨のさきがけの雨である。 「早く麦を刈り取らないと穂から芽がふいてしまいますよ。村人がいくら権兵衛をせき立てても、「麦刈りすると、腰が痛むので、少しずつやることにしているんだ」と、権兵衛は木陰で初夏の風にほおをなでられながら、ぷかりぷかりたばこをふかしていて、動こうともしない。「権兵衛さんの悠長さには、はたで見ている方が、はがゆくなるよ」 村の人たちは、みんなこんなことをいっていた。だが、どんな人間にも必ず得手はあるものだ。 この権兵衛という人物は、少年のころから鳥が大好きだった。野鳥のひなを巣からとって来て育てたり、餌をやって野鳥を集めることでは、この近在に権兵衛の右に出る者はいなかった。汗水たらして麦刈りに精をだすより、野鳥でも集めて、その美しい歌声を聴いている方が、どんなに楽しいかわからない。だが権兵衛 にはそれができたのである。 権兵衛のこの野鳥についての知識が買われて「鳥見方」といって、駒場の狩り場に野鳥を集める役を仰せつかったのである。月給は五人扶持だったという。 鳥見方になったからといって、権兵街の性格が変ろうはずがない。狩り場の番小屋にがんばっていて、ときどき野鳥に餌をまいてやり、平常から野鳥を手なづけておけばよいのである。相変らずのつぎはぎだらけの野良着と黒ずんだてぬぐいのほおかむり姿が、彼のトレードマークのようなものである。権兵衛は番小屋の炉辺に寝そべって、餌を食べに来る小鳥たちを観察するのが仕事の日常生活だった。 ところが、権兵衛が餌をまくのを知って、これを横取りしようとするカラスの群が姿を見せるようになった。この鳥はなかなかずうずうしい。権兵衛が餌をまくのを番小屋の尾根や松の木の技にとまって見ている。権兵衛が餌をまき終り「やれやれ、一服」と、きせるをくわえぷかぷかやり出すころ、カラスは、権兵衛を横目でにらみながら、餌を盗みにやってくる。悠長な権兵衛でも、このカラスの度重なる襲来にはほとはと手をやいた。まいた餌を残さずきれいにたいらげてしまうからだ。 権兵衛は 番小屋に寝そべったまま、大声で「ほう! ほう!」とカラスの群を追いたてる。はじめのうちは逃げたカラスの群も、だんだんずうずうしくなって、権兵街が小屋からかけ出して追い払うまで逃げようとしない。 さすがの権兵衛も三度に一度くらいは、小屋を出てカラスを追い払う。が、カラスの方も心得たもので、追われると、ぱっと飛び上がり、屋根や木の杖に難をのがれる。権兵衛の姿が小屋の中に消えると、また、ゆうゆうと舞いおりてくる。カラスに空鉄砲を向けても、権兵街の鉄砲から火を吹いたためしがないことを知ってでもいるように、カラスの群は動じない。 この権兵籍とカラスの取組みのおもしろさが、当時の江戸の評判になった。 「権兵衛が種まきゃ カラスがほじくる 三度に一度は追わずばなるまい ずんべらずんべら」 こんな歌が、そのころの江戸にはやった。この話は、どうやら江戸末期のものらしい。ある人は、歌の文句の 「種まきゃ」 は「餌まきゃ」が変化したものだといっている。また鳥見方の川井権兵衛という人物は、駒場に実在していたそうだ。だが、この話は江戸庶民が役人をからかい半分に笑いとばした一つの作り」話ではないだろうか。
2004.11.02

金への執着がヘビに 今も昔もかわらないものにお金への執着である。 だれでもお金が欲しい。人間に欲があるから経済が活性化する。しかしお金を貯めても天国には持ってはいかない。お金への執着を戒めた寓話でしょう「これを食べて、早くよくなって下さい」女房がこういって、煮つけた大きなタイを亭主の枕元においた。「いつ、わしがタイを買ってこいといった」「買ったのではありません。お見舞にもらったものです」 予期しなかったような高価な魚が、食膳に運ばれ、 そうでなくてさえ出費の象いのに心を痛めている与右衛門が、語気を荒げて女房を叱ったが、「もらった」と問いて、ほっとしたのか厳しかった表情が崩れ、にやっと笑ったように見・プた。女房に助けられて、軽床に座り直した与右衛門は、夢中になってタイの骨ヰでしゃぶった。ところが、食べおわると、また女房にいった。 「おい、金儲けにならぬことであまり動きまわるなよ。腹がすくからな」 「わかっています」 とんだケチン坊を亭主に持ったものだ。そうかといって、いまさら帰るとニスはなし、困ったものだ1と、いつもグチをこぼしながらも女房は、半年近くも、病床についたままの与右衛門の看護を一心に続けているのだった おおよそ二百五十年ほど前の話である。 日本橋に本誓寺という寺があった。この寺の住職の妹を嫁にもらった与右街門は、寺の前に米屋を開いた。 与右衛門は極端にケチン坊だったが、また働き者でもあった。東の空がしらみかけると店を開けた。どんなに店が忙しくても、小僧を一人も使わず米の持ち運びから得意先への配達まで、全部一人で引き受けた。店を閉めるのは、いつも町内が寝静まってからだった。三度の食事には、めんざいといって鶏の餌にする屑米に、荒塩をかけたものを食べていた。本誓寺に来客があれば、手伝いもした。与右衛門がいつもつぎはぎの着物ばかり着ているので、あまりに見苦しいと住職は、与右衛門に着物を作ってやったこともあった。すると与右衛門は、この着物をすぐ売って金にかえた。だが、こんな一面もあった。町内の人が集まって会食することがあっても、自分の分だけ食べると、他人がいくらすすめても決して他人のものには‥箸をつけなかった。 そんなわけで、町内では、与右衛門について 「しまり屋だが、いやしい男ではない」と感心する者、「食べる物も食べずに金を貯める男」 とけなす者、との 二通りの見方があった。こうした町内の人々の見方は、与右街門の耳に入って来ていたが、こんな世間の見方には一向に気にかける様子もなく、与右街門はこつこつと働き続けた。 店を開いて十年たったある日、与右衡門は本誓寺の住職を訪ねてこういった。 「わき目もふらず働いたかいあって、銀二十貫(三百七十両) を貯めました。家は不用心なのでお寺の土蔵に預って下さい」 もちろん住職は心よく引き受けてくれた。それからというものは、毎日暇さえあれば、土蔵の金を見に来た。困ったのは寺男や小僧である。朝は経ているうちに起こされ、夜は寝ついたところをたたき起こされる。 これには寺も困った。住職は与右衛門を呼びつけ「お前は金に対する勒着があまりにも強過ぎる」と、注意したが、一向に改まる様子もみえなかった。そうこぅしているうちに、与右衛門は、病床に伏すことになってしまった。食べ物も食べず、働いてばかりいたら、はじめからこうなることはわかっていたが、与右門は、放馬のし立ち止去ることを知らなかったのである。 「病気でもして苦しめば、少しは反省もし、行き方をかえるだろう」といって、住職は妹を慰めた。 しかし、それから幾日かたったある日、「寝ていても土蔵の金のことばかり気にするし、薬をすすめても、寿命さえあれば、水を飲んでも病は治る、といって他人の言うことに耳を傾けようとしない。お米を食べさせようとすれば怒り出す。こうなってはもう私の手にはおえません」といって、与右衛門の女房は、兄の住職に泣いて訴えた。やむを得ず住職は与右衛門を寺に引き取った。 寺に移されても与右衛門は、やっぱり土蔵の金が気にかかるとみえて、一日中障子を開け放し、土蔵をにらんでいるうちに、息を引き取った。 「わしが死んでも供物はいらん。ただ仏前に金箱を供えてくれ」 ー これが与右衛門の遺言だった。 住職が与右街門の枕元に近寄ってみると、一匹の蛇がはい回っていた。「これほどまでに金に思いをこめて死んだのだ・・・」と、住職は、金箱を仏前に供えたという。その後、住職が、訪ねて来る人ごとに、与右衛門について語ったので、たちまちこの話は江戸中にひろがった。この寺は、日本橋の小伝馬町にあったが、いまはない。蛇は、執念深いものといわれているので、与右街門の金に対する執念を誰かが後日蛇に結びつけたのではないかと伝えられている。
2004.11.01

新宿に柏木町と言う地名があるそうです。昔京都の宮使いをしていた若い男女がお互いに愛しあったが身分の相違で結婚が許されず、島流し同然の処置で江戸に追われてしまう。子供の誕生を知り、我が子の成長を願って桜の木を植え大切に育てた。後罪がゆるされた時は病の床にふし涙をのんで他界された話。子供は立派に成人した。右衛門の住んでいた所が右衛門の名字をとって柏木町となったとのことです。おお、美しく咲いてくれた」 三月の暖かい日差しが庭の桜の花にさんさんと降りそそぐ。この家の主は、表の座敷から、花を開きはじめた桜の若木を感慨深げに見つめている。 「わこも、桜の木のように、美しく大きく成長したことだろう。一日も早く、わこの顔が見たいものじゃ」 家の主は、静かに目を閉じ、まだ見ぬ子供の姿を、まぶたに描こうとしていた。 数年前、どこからともなく、人品いやしからぬ人物が、ここ武蔵国にやってきて、小さないおりを建てて住んでいた。いつとはなく村人の間に「この人は柏木右衛門督といって、奈良の都で宮仕えをしていたが、悲しい恋のため遠くの東の国に流されて来たのだ」という、うわさが広まっていった。 右衛門督は、大勢いる宮仕えのうちで、ひときわ目立った、美しい青年だった。ある日のこと、みかどが高位、高官の人たちを御所に集めて、蹴鞠を催された。右衛門督もこの蹴鞠の会に列席した。その時、三ノ宮という美しい姫を見染めた。やがて二人は、お互の恋心を歌に託して、やりとりした。二人が愛し合っていることが御所内の評判になってしまった。二人の恋は、みちならぬ恋だったのである。それからは、二人には監視までつけられて、言葉をかわすこともできなくなってしまった。右衛門督のなげき、かなしみは日増しに募るばかり。その苦しさをまぎらわすために、右衛門督は、毎日、酒びたりになっていた。ついに、このことがみかどの耳に入った。 「風紀をみだし、不謹慎極まる態度は、宮仕えとして不適任」という厳しい処罰を受け、右衛門督は、都から武蔵国へ追放された。 都からはるばる武蔵国にくだって来てからかれこれ一年たった。都の友人から、三ノ宮が男の子を産んだと知らせてきた。右衛門督は、この知らせを聞いて喜んだ。そして、子供が桜の木のように、立派な男に育つよう念じて、都から一本の桜の苗木を取り寄せ、庭先に植えた。それからというものは、木枯らしが吹き出すころになると、風除けを作ってやったり、まるでわが子のように、この桜の木」をいたわり育てた。 そのかいがあって、桜の木はすくすくと伸びた。やがて花が咲き滝じめた。毎年、春を迎えるたびごとに花の数も増えていった。右衛門督は践の木を見ては「わこもこのように大きくなっているだろう」と、遠くはなれた郡の、わが子をしのんで詩や歌をよみ、わずかに心を慰めていた。 「ほんとに、右街門督様はお気の毒だ」 村人たちで流ざんの右街門督の身上に、同情しない者はなかった。 それから数年はまたたく間に過ぎた。ある秋が深まった日、都から右街門督をわざわざ訪ねて来た人々がいた。彼の刑が免除され、迎えに来た人たちだった。だが、時すでに遅く、右衛門督は病床に伏していたのである。旅ができるような軽い病ではなかった。右衛門督は、とうてい都には帰れない、とあきらめてか、流ざんからの解放にも、あまり喜んだ表情も見せず、ただ、わが子の消息ばかりを知りたがっていた。そして、障子を開けさせ、木頼らしのふく庭に立っている桜の木をじっと見つめながら「来春は、この木も、たくさんの花をつけるだろぅ。わこも、この木に臭けないように大きくなってもらいたいものだ」といって、静かに息をひきとったという。右衛門督が亡くなった後、村人たちは、この桜の木を誰いうともなく″右術門桜″と呼ぶようになった。この話は、人からへと伝わって、奈良の都にも届いた。そして、若かりしころ右衛門督と親しかった人々の涙をさそったという。 右衛門督の子供は、成長するに従って、頭のきれる利発な青年になっていった。都の人々は「右衛門督の思いがこもった桜の花が乗り移ったのだ。そばへ近づくと、桜の花の香りがする」と、ささやき合ったほどで、後に″薫の大将″と”呼ばれるようになったという。 右衛門督が住んでいたところは、いまの新宿区北新宿三丁目にある円照寺付近とされており、このあたりの旧町名「柏木」も、この物語の主人公の姓からとったものだといわれている。この寺の境内にある山桜は、どのくらい代替わりしたかははもちろんわからないが、いまでも″右衛門桜〃 の名で呼ばれている。
2004.10.31

大名行列を止めた橋番 江戸時代を一言で表せば士農工商その他と階級制度が確立しており大名ともなれば庶民は顔も上げられないくらい雲の上の人だと厳しくいわれていた。そのような時代に橋をまもる金六の私利私欲でなく決められた法律を守らせるよう大名にもの申す態度に江戸庶民は金六の橋番としての厳しい態度、発言に一目を置いたはなし。政治家になるにはどうあるべきかを示した寓話でしょう。日本橋の橋台番人に、身の丈六尺(一八○センチ)、力持ちの金六という男がいた。 「早く通れ! 何をぐずぐずしておるか」と、毎日、橋のたもとに立っていて、通行人に大声でわめき散らしていた。金六は往来の人ごみを自分の力でさばくのが楽しくて仕方がないという風情だった。重い荷物を背負った商人などがぐずぐずしていようものなら、金六が駈け寄って、後ろから棒でこずき回すことも珍しくなかった。いつの間にか金六は、〃鬼の金六”の異名で呼ばれ、こわがられるようになった。 江戸幕府の橋の取締りはなかなかきびしかった。 ′橋のたもとや橋の上に商人や乞食おいてはならない。車に荷物を積んだまま通してはならない。子供を遊ばせてはならない。通行人を橋の上で立ち止らせてはならない。ちりがたまると、橋が腐り易いから、いつでもきれいに保て。雨が降ったら日に二、三回は洗え…などと町奉行所から厳しいお達しが出ていた。そのうえ、町奉行所の定橋掛掛という役人が見回りに来て、少しでも怠けているところを見つけようものなら、さっそくその町の名主をはじめ橋台番人は、こっぴどくしかられた。 こんなにも大切にしていたのに、文化三年(一八〇六年)三月四日の大火で、日本橋は焼け落ちた。すぐ板橋は出来たものの、橋の取締りは以前にも増していつそうやかましくなった。たださえ往来の激しい日本橋だから、このため、ますます渋滞した。金六は毎日、割れ鐘のような罵声をはり上げていた。 ある日のこと、いままで静かに通っていた往来が、急にざわつき出した。金六が振り返って見ると、供回りを従えたお籠が、橋を渡って来るのが目についた。 「止まれ! その籠止まれ!」と叫びながら金六は、橋の真中に仁王立ちになった。驚いたのは行列の連中である。血相をかえて供頭ろしい武士が駈け寄って来た。 「貴様は何者だ。無礼千万、ただいま有馬中務大輔様のお通りだぞ。そこをどけ!」 怒鳴りつけられても金六は、顔色一つ変えず、平然として動こうともしない。それでも、相手が大名だとわかると、言葉をていねいに、この橋は仮橋ゆえ馬、籠、車はお通し申さぬことに定められております。然るこ、お籠、引馬にてご通行とは、いかがお考えの上でございますか」といいながら、金六は橋のたもとを指差した。供頭の武士は「御用のほか、車、馬、籠の通行止め」と書いた高札をしばらく見ていたが、言葉につまってしまった。 「お役目ゆえこの方より町役人に訴え申し上げる間、しばらくそのままにてお待ち願いたい」「いやすでに殿は橋の中ほどまで差しかかっております故ぜひお通し願いたい」「それはなりませぬ」 しばらく二人ま「通せ」「通さぬと押し問答をしていたが、だんだん武士の旗色が悪くなってきた。「しからば、貴殿だけお残りいただいて、ご同勢はお通しいたそう」ー 金六は、こう妥協案を出し、供頭に自身番まで同行することを求めた。妥協が成立し、大名行列は静かに、仮橋を渡って行った。厳しい規則に締めつけられるのは、専ら庶民だけで、大名という特権階級ともなると、こんな場合、特別の扱いを受けの事件を遠巻きにしてじっと成行きを見守っていた町人たちは、双方の面子を立派に立てて、しかも筋を通した裁きに、すっかり感心してしまった。一方、金六は供頭の武士を伴って町役人に事の次第を報告した。後日、責任が自分だけにかからぬよう、その次第を書いた一札を供頭の武士からとって、帰ってもらったという。 この事件は、江戸中の評判になった。″橋番が大名行列を止めた″というのでで、江戸庶民はこの話に喝采を送ったという。それまで「鬼の金六」「トラの威をかる狐」などと陰口をたたかれた、きらわれ者の金六の名は、このことがあってから、一躍人気者にのし上がり、わざわざ遠くから、金六の顔をみに来る、物好きな江戸庶民が跡を絶たなかったという。江戸はやっぱり平和だったのだ。るのが、ごく当り前だった。だから、こ
2004.10.30

ゆで卵からヒナがかえるコウノトリのお話。お坊さんがかわいがっていた鳥が巣に卵を産んだ。それを知ってか小僧がゆで卵として食べようとたくらんだ、お坊さんが帰ってきてそれを知り小僧をたしなめた。小僧はそのゆでた卵をもとにかえした。鳥が毎日青い草を運んでくる。その草をお坊さんが食べたところ体の調子がよくなった。コウノトリのご恩かえしと評判になった話。動物愛護の大切さを教えた寓話でしょう。 およそ二百年前、赤板溜池(港区)に長谷寺という寺があった。寺はうっそうと繁った樹木に取り囲まれていた。住職は、朝のお勤めを終え、境内の掃除をすませたあと、そばの林を散歩するのが習わしとなっていた。 ある朝、いつものように散歩していると、どこからともなく、真白い鳥が飛んで来て、松の木の技にとまった。住職がよく見ると、コウノトリが巣を作っていた。木をゆすってみたが、逃げようともせず、せっせと口ばしで巣をつついている。「巣を作ったばかりだな.これから卵を産むのだろう」 住職は独りごとをいいながら、寺に帰ったが、なんとなくこの鳥がかわいくなってきた。そこで翌朝、住職は竿の先にえさをつけてこっそり巣の中に入れてやった。このようにして、毎朝散歩に出ては、えさを入れてやっているうちに、いつしか鳥の方でも、えさを待ちこがれるようになった。間もなくコウノトリは卵を産んだ。住職はひなのかえるのを楽しみにしていた。 何日かたって、住職は壇家の法要に招かれて出かけた。留守番をおおせつかった小僧二人は、雑談に花を咲かせていたが、ふと一人が「おい、コウノトリの卵をゆでて食べようではないか」と、言いだした。 「住職がかわいがっているのだから、わかると怒るぞ」 ー もう一人の小僧が反対した。二人はしばらく迷っていたが「誰が卵をとったかわかるまい」というので、木によじ登って、卵を二つ盗み出した。持ち帰った卵を鉄びんに入れて火鉢にかけた。 「大きい卵だからさぞうまかろう。早くゆだらないかな」 二人は火鉢のそばで話に夢中になっていたので、住職が帰って来たことにも気がつかなかった。 法衣を脱いだ住職が、お茶を飲もうと、鉄びんを持ち上げると、中でことことという音がする。不思議に思ってふたをとって中をのぞいてみたら、卵がころころと転っていた。住職はさっそく小僧を呼びつけた。 「卵を鉄びんに入れたのは誰だ。これはコウノトリの卵だろう。出家の身で殺生するとは何事か。卵をすぐ巣に返しなさい。にえているようだが、鳥のことだからわかるまい」と、厳しくしかりつけた。二人の小僧は、恐れいって卵を巣に返した。
2004.10.29

武士も驚く惣兵衛の大力 「そちは、たいした力持ちと聞いているが、あの石を持ち上げることができるかな」 ぽかぽか暖かい春先のある日、牛込の武家屋敷の内庭で、この家の主が出入りの百姓、惣兵衛をからかうように庭石の一つを指差してこういった。惣兵衛は江戸郊外、新座郡小呉(練馬区大泉学園町)の百姓だった0 惣兵街は、季節の野菜類をこの武家屋敷に運んで来ていた。ある時、この家の主は「野菜を持って来る出入りの百姓、惣兵衛は力持ちだ」と、家の者たちが話 しているのを耳にした。しかし、肩幅こそ広いが、上背もあまりない惣兵衛に、そんなカがあるものかどうか、疑っていた。が、一度機会をみて、惣兵衛の力を試してみたいと思っていた。 惣兵衛は、この家の主に、力持ちといわれ内心よほどうれしかったに違いない。日焼けした顔に白い歯を出してにやりと笑ったが、力試しについては、なかなか惣兵衛が返事をしないので、武家は「この石を持ち上げたら、その方に石とほうびをとらせよう」といった。 「お武家さま、それは本当でごぜいますか」 ー 惣兵衛は念を押した。「武士に二言はないものだ」 家の主は、威厳にみちた表情でそういった。 「それでは、試してみましょう」 惣兵街は五十貫 (約百八十キログラム)もあろうと思われる、丸っこい庭石のところへ歩み寄った。百姓仕事で鍛えに鍛えた、骨太のがんじょうな腕を、ぐっと伸ばすと庭石を力強く抱きかかえ、身を少し後ろにそらし、腰に力を入れる。ぐうっと一呼吸で石を胸のあたりまで持ち上げた。ここでちょっと石を持ち替えるや、「う-ん」と、腹の底から衝いて出る気合と共に、二本の太い腕が、この庭石をぐんぐん高く差し上げてしまった。 「あっばれ、あっぱれじゃ」 主の表情は喜びと驚きの色に輝いた。その日、惣兵街は、なにがしかの銭と、石を約束どおりもらった。石を馬に背負わせ、得意顔で帰り途を急いだ。牛込から練馬のはずれだから、三里余り(十二、三キロメートル) はあろう。それに、この馬は惣兵衛が長年手塩にかけて育ててきた年寄りの馬だった。馬をせきたててやっと家の近くまで来た時、馬はばったり倒れて死んでしまった。さっきまての惣兵衛の浮き浮きした喜びの気持が、潮の引くように心から消えて暗い悲しみが心を覆ってしまった。 「とんでもないことになった。かわいそうなことをした」 惣兵衛の愛馬に対する惜別の情は、表現しょうもないほどで、ただ涙をぬぐうだけだった。惣兵衛は、馬の背中から庭石と荷鞍をとった。馬の亡骸は、畑の隅に手厚く葬られた。 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 惣兵街は口の中で数回繰り返した。そして墓標のかわりにこの石を置いた。 その後惣兵衝は、この石に「馬頭観世音」と彫らせた。いまでも大泉学園町と西大泉町境の農家のわきに残っている。 石の裏には「天保十一年庚子年(一八四〇年)九月、加藤惣平衛建立」と刻んである。したがって、この物語は江戸末期のことだろう。惣兵衛の子孫は、いまでも大泉学園町に住んでいるが、この話はもう知っている人はあまりいない。
2004.10.28

人の幸福を願うのは神仏の考え方 ところが人間には人の幸福をねたむ悪い性癖がある。この話の元はお松婆に名をかりて、このようなことは止めさせたいの願望から作られた話であろう。よく、よそ者といって他地区からの転入生をいじめの対象にするのは現在でもあることです。 ももの花が春の田園風景の中でひときわ美しく咲きはじめたころのことだ。江戸のずっと西北、土支田村、小樽村(いずれも練馬区東大泉、南大泉、西大泉、土支田町付近、一人の醜い老婆がやってきた。どこから来たのか、また、どこのなんという婆さんだか、誰も知らない。つぎからつぎへと、家々の戸口に立って、米麦やみそなどをもらい歩いていた。風体からして、乞食ではなさそうだった。というのは、戸口に立った時、このおう」婆さんは、鈴をちりんちりん鳴らして、何やら口の中でもごもごとお経のようなものを称えていた。村人たちは「巡礼さんだ。麦でも進ぜよう」と、あり合わせの食糧をわけてやっていた。 ところが、この婆さん巡礼は、いつの問にか、小樽村と土支田村の境を流れている白子川のはとりに、掘立小屋を建て、そこに住みついて、相変らず家々を巡っていた。 そのうち婆さんの名は、お松というだけはわかったが、村の人々と打ち解けて世間話に打ち輿ずることもなかった。また村人の方もお松婆さんを、できるだけ避けるようにしていた。ごま塩まじりの頭髪、苦虫をかみつぶしたような、苦悩を浮かべた風ぼうには、村人ならずとも、親しみがわかなかったろう。深い額のしわには、婆さんの半生の秘密が隠されているのかも知れない。らんらんと光る眼は、何か復讐に燃えているような恐ろしさがうかがえた。だが、村には何事も起こらず、平和な日日が続いた。 秋が深まり、武蔵野の難木林が黄色く染まるころになると、村々から豊年を祝う、祭の太鼓の音が響いてきた.このころになると、村の娘たちの花嫁姿が目立ってくる。 ある秋の日の午後、土支田村から小樽村へ行く花嫁を送る行列が、お松婆さんの小屋の前にさしかかった。花嫁がうつ向きかげんの姿で、この小屋の前を通り過ぎようとした時のことである。、 何を思ったか、野獣のように狂ったお松婆さんが、小屋の中から飛び出してきた。と思ったつぎの瞬間、お松婆さんは、飛鳥のように花塚に襲いかかった。花嫁を突き倒すが早いか、美しい花塚衣装をずたずたに引き裂いてしまった。行列にくわわっていた人々は、不意を衝いた婆さんの襲撃に、どぎもを抜かれてしまい、なす術を知らなかった。「どうしたというのだ。婆さんは気でも狂ったのか」「罪もない花嫁に、なんていうことをするんだ」 ー人々は、口々に怒り悲しんだだけだった。それに、婆さんが般若の面のような、ものすごい形相をして、行列の人々をぐっとにらんでいて、手の下しようもなかった。かろうじて恐怖と悲しみに泣きじゃくる花嫁を助けだすのが精いっぱいだった。 花嫁の行列は、実家へ逆戻りした。そして相談したあげく、花嫁にはかわいそぅだが、「縁起が悪いから、破談にしたほうがよい」という意見が多く、結婚は取りやめ、「あの話はなかったことにする」という、花婿花嫁両方の話が成立した。 こんなことが繰り返され、縁談がこわれる例が増えた。このため、土支田村と小樽村を結ぶ道では、この通りが最も近かったが、婆さんの妨害と破談を恐れて、その後は、花嫁の行列は遠回りするようになったという。このお松婆さんの執念は強く、死後も亡霊となって花嫁の行列を妨害したというのである。村の人々は、亡霊のたたりを恐れて、婆さんの小屋の跡に祠を建てて供養した。この話は、江戸中期ごろからあったらしいが、確証はつかめない。今でも南大泉と東大泉の境、西武池袋線に沿ったところ、白子川のほとりで、、小高いところに、小さな石の祠がある。土地の人々は「お松さま」と呼んでいる。しかし、信仰の対象になったことはないようだ、というのが古老たちの話である。 民俗学者の話では、江戸時代には、他村へ若い娘が嫁入りする時、その村の若者組合の若衆たちが納得しない場合、これを強行しようとすると、よく妨害されたことがあったという。このお松婆さんの詰も、こうした妨害がこのような形の話に姿を変えたのではないかというのである。
2004.10.27

コウモリ夫婦の愛情先日ある地域の創立50周年を祝う中学校に行った、そこの在籍生徒数は全校で150名私が在籍したころは1500名いたのがなんと十分の一.これは若い人達が子どもを作らないことが原因でしよう。年金問題の根底に少子化があります。結婚はお互いの支えあいでなりたつもの、人間はこうもりに学ばねばなりませんね。 朝起きてみると、夜明けまて降り続いた雨がからりとはれあがり、強い夏の太陽が照りつけていた。久兵街衛は、その明るい日を背にして、襄にある土蔵を見上げていた。 「困ったことになった」と、ひとりごとをいいながら、朝のしたくをしている女房に声をかけた。 「おい! ちょっと出て来てみろ!」 「なんだね、朝っぱらから大声を出してこうるさそうに返事をしながら、台所から女房が出て来た。 「あれをみろ」久兵衛は、土蔵の片隅を指さした。くぎで打ちつけてあった壁板が数枚はがれて、壁とのすきまに雨水が流れ込み壁が落ちていた。前から修理をしなければ……と思ってはいたが、そんな余裕もなかったので、そのままにしておいたのだが、こうひどくなっては、ほうっておくわけにもいかない。とにかく、大工に話してみょうと、近くに往んでいる次郎兵衛という大工を呼んでき久兵衛のふところ具合をよく知っている次郎兵衛は「なあに、この程度じやあ、たいしたことはない。くぎのニ、三本もぶっつけておきゃあ、雨はまだ凌げる」といって、はがれた板をぽんぽんと打ちつけて帰って行った。 この話は、百三、四十年前の六月のある朝のことである。 話はかわって、さらに十五年ほどさかのぼる。久兵衛夫婦は、一旗あげようと思って、小田原から江戸にやってきた。そして、部屋借りをしながら小間物の行商をはじめた。二人は雨が降ろうが、風が吹こうが、休まずに力をあわせてよく働いた。小金もたまった。その金で浅草阿部川町の古い家を買い、ふとん屋の店を開いた。ところが、これから商売を大きくしようとした矢先、急に世の中が不景気になり、商売は思わしくなくなった。老中水野忠邦が緊縮政策(天保の改革)を打ち出したためである. ここでまた、話の舞台を、前に戻す。久兵術が土蔵の壁板を大工の次郎兵街に修理してもらってから三年がたった。家のあちこちが壊れだした。土蔵の壁板も、くぎを打っただけの応急修理では、もたなくなったのである。そして、ふとん綿を入れてある土蔵に雨が流れ込んで、ふとん綿に損害を出した。これでは商売にならない。久兵衛は、あちこちと心当たりを歩回って金をくめんし、家を修理かたがた一部を改造することになった。 この工事を請け負ったのが、大工の次郎兵衛だった。いよいよ着工の日、次郎兵衛は、二人の若い職人を連れてやってきた。 二日日の朝のことである。土蔵の腐った壁板をはいでいた次郎兵衛が 「ちょっと来てみてくれ、薄気味の悪いものがいるのだ」と、大声でいった。 久兵衛が壁板のすき間をのぞいてみると、黒いものがうごめいている。 「なんだろう」 ー そこで次郎兵衛が板をはぎとってみて驚いた。うごめいていた正体は、くぎで羽根を打ち抜かれた大きなコウモリだったのである。つまり大きなコウモリは三年前、次郎兵衛が壁板にくぎを打った時以来、板の裏側に打ちつけられたまま生きていたのである。 「よくも生きていたものだ」と、二人は感心するやら驚くやら。この経ぎに、久兵衛の女房や若い大工の弟子も集まってきた。するとそこへ、一匹のコウモリが餌をくわえて飛んできた。そして、いましがた次郎兵衛がはいだ壁板の支え木にとまった。みんながじっとコウモリを凝視していた。ややしばらくして、久兵衛がコウモリのそばに近づいて行ったが、コウモリは逃げようとしない。コウモリのまわりをよく見ると、壁に深い輪の跡があって、その部分の壁土だけがはげ落ちていた。 「くぎで打ちつけられたコウモリは逃げ出そうと、ばたばた羽根を動かしたが、くぎが抜けない。片方の羽根を固定されたまま、三年間も同じところをぐるぐる回っているうちに、あの跡が出来たのだ。そして、支え木にとまっている方のコウモリが、その間、せっせと餌を運んでいたのだ」 大工の次郎兵街は、こう推理し、みんなもこの説に納得してうなずきあっていた。そして、くぎに打たれた方が亭主、餌を運んで来た方が女房だろうということになった。 このコウモリ夫婦の愛情物語は、江戸庶民に大いに受け、″亭主コウモリ″が掘ったという土蔵の壁の輪を、はるばる″実地検分″に来る熱心な人まであったほどだったという。
2004.10.26

雷を退治した不動尊 海にでて漁をする方々にとって嵐ほど困るものはない、今と違いレーダーはない、西も東も分からなくなる。陸地らしき方角に光るものがあった。それは真蔵院の松の上にいた竜の目の光であったと、信心すれば助かる。神、仏を大切にする気風を伝えていきたいことから作られた寓話ではないでしようか。応仁の乱はようやくおさまったが、地方の豪族が勢力争いをはじめた戦国時代の初期のころのことである。ここ南葛飾郡葛西村 (江戸川区葛西)は、戦乱をよそに、平和な海辺の一寒村だった。住んでいる人々も純真で素朴だった。ある春の夕暮れ、墨染の衣をまとった一人の雲水が、何やら背負ってとぽとぽと村の道を歩いていた。やがて彼はある粗末な家の前に立った。 「旅の僧だが、一晩泊めていただけないだろうかー ・ ・ 」 「むさくるしい家ですが:こ家人は喜んで雲水の頼みを引き受けた。 翌朝、雲水は「一夜の宿のお礼に……」といって、背負っていた一体の不動明王の木像を残して行った。 不動明王の木像は、村にこれをおさめる御堂もなく、厚いはこりをかぶっていた。 数年後、村に疫病が流行した。Tゝれは不動明王のたたりだろう」と、村の物知りの老人が言いはじぬた。村人たちはさっそく、真蔵院という寺を建立して、木像を安置した。あれほど猛威をふるった疫病もたちのうちにおさまってしまつたっ この時、寺の境内に村人たちがマツを五本植えたっ このマツは、たちまち大きくなり、海上敷里の遠方からもよく見え、船頭たちのよい目標になった。船頭たちは、このマ心の恩恵に感謝し、この不動尊を「波切不動」と呼んで信仰した。その後、ある年の初秋のことである。江戸から行徳(千葉県行徳町) の塩Sに通う舟が、葛西沖にかかったころ、空か急に真暗になったかと思うと、大しけになった。舟は波に流され、ついに陸地を見失ってしまった。船頭たちが必死になって漕いでいるうちに、遥か彼方に白く光るものを認めた。それを頼りに進むと、不動明王の安置されている真誠院近くの海岸にたどリ着いた。船頭たちは助かったことを喜びあった。ところで、舟を導いてくれた白い光は、いったいなんだったのだろうか。白い光を目ざして進んで行くと、そこには波切不動のマツがあった。血気盛んな一人の若い船乗りがマツの木に登ってみると、大きな竜がとぐろを巻いていた。白い光は竜の両眼から発していた光とわかったので、マツに注連縄を張り、村人たちが集まって祈ると、この竜、雲に乗っていずこともなく姿を消してしまった。竜の去った跡に一振りの剣が残ってた。村人たちは「これは宝剣だ。不動尊に納めよう」といって、真誠院の宝物として、剣を祭った。 さらに時が流れ、永禄年間 (一五五八丿一五七〇年) のある夏の日、この付ぃは大雷雨に見舞われた。陸では立木に落雷して、木の幹を裂き、海では大波を巻き起こして舟を破壊した。村人たちは、家のすみにうずくまって震えていた。すると「どすん、どすん」という下っ腹に響くような不思議な物音がしたかと思うと、こんどは「どたん、ぱたん、どすん」と、まるで雷神が暴れ回っているような、すさまじい音がした。それに続いて「うお1うおー」という苦しそうなうめき声が聞こえた。 「なんのうめき声だろう?」 村人たちは、この不気味な声におののいた。そ’れから、ものの小半時もたったか、たたぬうちに、雷雲はうそのようにはれ、何もなかったように元の静かな海辺の村に戻っていた。 「さっきのものすごいうめき声は、いったい何だったんだろう?」 村人の関心は、うめき声に集まっていた。 「さっきのうめき声は、確かに真蔵院の方角から聞こえた」 と、一人がいう村人たちはわれさきにと、真蔵院を目ざしていっせいに走って行った。真蔵院で村人たちが、最初に目撃したものは、庭に流れていた多量の血と血に染まってころがっていた宝剣だった。村人たちは、腰を抜かすほど驚いて、後ずさりしたほどだった。 「これは、さっき暴れた雷神を不動尊が退治したものだ。それに間違いない」一番うしろからゆっくり歩いて来た老人が、この惨状を見て、こういった。 「そうだったのか」と、村人たちはやっと納得がいったというような表情で、老人の言葉を信じたのである。 これ以来、村人たちはこの不動尊を「雷不動」ど呼んで深く信仰するようになった。その後、このあたりでは落雷がないという。 真蔵院の前に「雷」という都営バスの停留所があり、不動尊もある。真蔵院建立の由来については「新篇武蔵風土記」にもあるが、ここでは土地の人々に語り伝えられている話から採取した。真誠院は、いまでも漁業や運搬などの船舶関係に従事している人たちの信仰を集めている。
2004.10.25

お菓子を食べた蛙のガマを懲らしめてやろうとした山崎主税は池の水をぬいて、たしかめようとしたがガマが謝るのを聞き、赦してあげる。帰るはその御礼に主税の家が火事になった時、そのガマが出てきて放水し家の焼失をまのがれたという話。これも相手の立場にたって考えてあげる主税の心の豊かさが良い結果をみたという寓話でしよう。真夏のある夕方、旗本の山崎主税助か来客と池に面した禄側で茶飲み話にふけっていた。すると不思議なことに、菓子器に盛られた菓子がひとりでにふわふわと舞い上がり、池の方へ飛んで行った。二人は驚いて菓子の行方を目で追跡すると、池の向こう側に、とてつもない大きなガマが大きな口を開いて菓子を吸い寄せていた。怒った主税助か床の間にある大刀を鷲づかみにすると池の方へ駈け寄った。その時には、ガマは危険を察知して、池底深くもぐリ込んだあとだった。 「あのガマは、ひょっとすると、この池の主かも知れない」 と、二人は認めたものの、どうにもくやしくてたまらない。そのうち、日はとっぷり暮れた。ガマをこらしめるにしても、暗くては手が出せない。そこで二人は、翌朝、池の水を抜いてガマを探すことにした。 その夜、主税助の夢枕にガマが現われ、話しかけてきた。「さきほどは誠に失礼しました。腹がすいていたので、珍しいお菓子をみてつい手が出てしまいま、した。池の水を抜くのはご勘弁下さい。そのかわり、万が一、火事になったら水を吹いて火を防ぎましょう」「そんなことでは許せない。何か世の中のためになることはできないか」と、主税助はガマに反省を求めた。ガマはしばらく考え込んでいたが、「火傷をして薬を塗た上に’上’という字を書いた紙片を貼って下さい。火傷が直ぐ治ります」と、教えてくれた。 主税助はまじめくさって語るガマの表情を見つめていたが、まんざらウソでもあるまいと思ったのか、池の水を抜かない約束をした。すると、ガマは喜んで池の水の中にもぐってしまった。 次の朝、主税助か不思議な夢について頭をひねつているところへ、きのうの友達が池の水を抜く手伝いにやってきた。 主税助はさっそく、昨夜の夢の話をした。そして二人はガマがいった話について話し合ったが「いずれ日がたてば、ガマのいうことがうそかまことかわかるだ、ろう。それまで待っていよう」ということになって、友達は帰って行った。あくる年の文政四年 (一八二ー年) 四月三日、古川橋(港区)付近から出た火が、みるみるうちに燃え広がって麻布の主税助の家もあぶなくなってきた。主税助は、女、子供たちを避難させた後、下男たちを相手に、水に浸したむしろを家の周囲に打ちつけたり、池の水を壁や柱にかけて火を防いでいた。火はついに隣家に燃え移り、隣家は火炎に包まれてしまった。主税助の家に燃え移るのは必至と思われた。主税助は、もうこれまでと、防火をあきらめ避難しょうとした。 と、その時、池の中から大きなガマが現われ、大きな口から水を吹き出し、主税助の家に注水しはじめた。水がなくなると、池にもぐリ注水すること数十回、一時間余りも火と闘っているうちに、周囲の家はみんな焼け落ち、火はようやく下火にった。そして主税助の家だけが焼け残った。そこで一年前を思い出した主税助か、ガマにお礼をいおうと探したが、もうどこにも姿は見えなかったという この話は、やがて江戸中にひろまった。そして火傷をした人や火災除けにするという人が、お札を分けて下さいと、主税助を訪れ、門前に市をなすありさまだったという。「上」の字を書いた紙片は、いつとはなしに「上の字様」と呼ばれるようになった。それからというものは、火傷の特効薬としてガマの油を売り歩く街頭商人のうちには、この話を折り込んで口上を述べる者もいて、江戸庶民からよくうけたという。 いま港区立運動場横の坂をくだったところ南麻布三丁目にある池がそれだと言い伝えられている。主税助の屋敷内にあったころの池は、うっそうと繁った樹木に取り囲まれていたといわれるが、いまは外国大使館や大邸宅が建ち並んでいる。この池のほとりにガマを祭った弁天堂があったと伝えられているが、現在ではなくなっている。
2004.10.24

今も昔も変わらないものに嫁と姑との関係でしょう。自分が虐めれたから今度は自分がその番だ。そのようには考えないでしようが、若い人と年寄りとは考え方は異なります。そこをお互いに相手の立場に立って発言や指示をしてみてはどうでしょうか。 足立(足立区)一帯の豪族、宮城宰相には子供がなかった。彼にとっては子供のないことが大きな悩みだった。「子供が生まれないものか」ー いつもこのことが、彼の脳裏から消えたことはなかった。そこで、「子供をぜひ授けて下さい」と、彼は紀州の熊野権現に願をかけた。数年後、女の子が生まれた。年ごろになった一人娘は、美しく気立てのやさしい女性に育った。手塩にかけて育てたかいがあったわけである。そして誰いうともなく、この一人娘を足立姫と呼ぶようになった。美しい娘となった足立姫の婿には、いったい誰が選ばれるのか、この近郷近在の若い人たちの関心はこのことに集まったのである。足立姫が十七歳を迎えたとき、豊島左衛門尉との婚約が整った。左衛門尉は、入間川(現在の荒川)をへだてた向う側、つまり現在の北、板橋区あたりを領有していた豪族の長男で、武勇に秀でた美丈夫だった。 「足立姫が豊島の総領息子のところへ嫁入りするそうだ。どうりで、立派な嫁入道具が毎日のように足立の御館が運ばれると思っていたが・・・「似合いの夫婦になるだろう」などと、村人たちはささやきあっていた。 やがて輿入れの日が来た。 ある晴れわたった日、足立姫を乗せた輿は入間川の流れを舟で渡り、左衛門尉の館へ入った。こうして、村人たちの祝福を受けながら嫁入りはとどこおりなく終ったが、足立姫に悲しい運命が待ち受けていようとは、神ならぬ身の誰一人として想像もしなかった。 数か月がまたたく間にたった。 左衛門尉の母親が、このころから嫁をいじめはじめた。 「なんです。花嫁のくせに大またで座敷を歩いたりして・・・」足立姫の一挙一動に姑は、なんくせをつけた。それでも姫は従順だった。そしてよく仕えた。左衛門尉は、足立姫をかわいそうに思ったが、慰めの言葉でもかけようものなら、「嫁を増長させる」といって、母親がますます猛り立つので、黙ってしまうほかなかった。親に従順でなければ″親不孝者″と指弾される世の中であった。左衛門尉は、はらはらしながらも、どうすることもできない。姑の嫁いじめは徹底的だった。足立姫の忍耐にも限度があった。それは、「お前には、いやしいみそかお(秘密の男)がいるというではないか」と、姑がありもしない作り話をぶっつけてきた時である。 足立姫は思った。妻としてこのような侮辱に耐えることはできない。だが、実家に帰ろうかと思った時、「一度お嫁入りしたら、実家はないものと思え」と、嫁ぐ日にこんこんとさとされたことを思い出した。 帰る家がないのも同然の足立姫は、ついに死を覚悟した。その夜そっと家を出た。暗い道をひとりで歩いて、入間川べりにでた。誰も知らないと思ったのに、豊島家の女中五人が跡をつけていた。日ごろから足立姫に同情的だった五人の女中は、一緒に死ぬといってきかない。泣けるだけ泣いた後、六人は流れに身を投げた。 翌朝、入間川の土手に六人の遺体が流れ着いた。村人たちは「あれほど人のうらやむ嫁入りをした足立姫が、どうしたことだろう。お気の毒に……」といって袖を濡したという。 身投げの原因を知った足立姫の父親は、娘の薄幸を悲しんで、以前に願をかけたことのある熊野権現にはるばる出かけてお参りし、娘たちの冥福を祈った。すると、ある夜、一黒い衣をまとった坊さんが夢枕に立って、入間川に浮いた大木で阿弥陀様を彫ってまつれ、と告げた。宮城宰相が帰ってみると、入間川に一本の大木が浮んでいた。そこで、坊さんにいわれた通り、六体の阿弥陀様を彫って、それぞれ死んだ娘たちの出身地の寺にまつり、長く冥福を祈ったという。 この話は、およそ五百年前のものといわれ、それ以来、春秋の彼岸には″六阿弥陀詣で…といって、六つの寺を巡拝する人が跡を絶たず、この巡拝は昭和の初めころまでさかんだったといわれている。 六阿弥陀の寺は、足立区江北二丁目にあった恵明寺、北区西ヶ原一丁目無量寺、同区田端一丁目与楽寺、台東区上野常楽寺、江東区亀戸四丁目常光寺、北区豊島二丁目西福寺の六寺だったが、いまでは無量寺、与楽寺、西福寺、常光寺の四寺が残っているだけである。
2004.10.23

「家貧しくして孝子出ず。」豊かな現代では孝行をする若者はあまりみかけなくなってるのは残念なことです。親の世話を拒否する若者が多いのが一般的のようです。親がなくなると遺産めあてに争いが始まるという。「争族」が見聞されるのは嘆かわしい限りである。自分の身体をさしだしてまで母親においしいものを食べさせてあげたいとするこの孝行息子たちの話を今の若者方に話し読ませてあげてください。 およそ三百数十年前のことである。 麻布の裏長屋に、親孝行な浪人兄弟が住んでいた。兄弟は力をあわせて手内職に精を出すが、暮しは少しも楽にならず、ときには自分たちの食事をさいて、母親だけに食べさせることもあった。 「お金さえあったら、もっとお母さんに楽をさせてあげられるのに・・・」 兄弟はただ金のないことをなげいていた。 ある日、外出先から帰った兄が、突然、こんなことを弟にいった。 「私がキリシタンだと、役所に訴えれば、ほうびの金がもらえる。そうすれば、こうまで母親に不自由をかけずにすむ。お前は、そういって、このわたしを訴えて欲しいのだ」 「信仰のない者を、しかも実の兄を訴えては、天罰が下るに違いありません。その天罰が恐ろしい。それまでおっしやるなら、いっそのこと、この私を訴えて下さいと、弟はこういって、真向から反対した。、一度言い出したら、なかなか自分の主張をひっこめようとしな性格の兄が先の短い親のために、この命を捨てるのは惜しくない」と言い切ると、弟もなす術もなく負けてしまった。 当時、キリシタンは禁制だった。したがって、幕府は信者を摘発するのに密告者を褒賞する制度をとっていた。 弟は、兄の命令通り、数日後奉行所に「恐れながら・・と、兄が禁制を破ってキリシタンとして信仰を続けていることを訴え出たのである。兄は捕えられて獄舎につながれた。「兄が信者なら、弟の方も多少の疑いはあるが、訴人のことなれば、この際、特別のはからいをもって詮議を差し控える」ー 弟はその後、 奉行所に呼び出され、こう言い渡されて、銀百枚を褒美にもらった。 獄舎につながれた兄は、毎日厳しい取り調べを受けた。とがった棒を並べた上や、白州 (小石を敷いたところ)の上に数時間も座らせられて、打つけるのひどいせっかんを受けたあと、逆づりにされたりした。火攻め、水攻めと、ありとあらゆる厳しいせっかんが続いた。そんな時、兄の答はただ「信者に間違いありません」の繰り返しだけで、キリシタン宗門のとなえごとなど何ひとつ知らなかった。親孝行をするために、褒美の金欲しさから仕組んだ事件であり、ニセ信者だから、キリシタンについての知識は全くなかった。一か月余りの取り調べの後、役人たちは 「どうもおかしい」と、この男に疑いを持った。 一方、弟は褒美の金で毎日おいしいご馳走を母に食べさせることができた。そして、兄については「他国へ出稼ぎに行った」と、母に嘘をついていた。しかし、やがて母親が不審を抱きはじめた。 ある夜、褒美の大金が母に見つけられた。あるはずのない大金を母親につきっけられた弟は、嘘を言い続けることができず、一切を打ち明けた。母は兄弟の厚い孝心に深く感動し感謝したが「嘘をついてまで孝行するということは、本当の孝心ではない」と諭した。翌朝、弟は「親孝行するための金欲しさから、兄弟が相談のうえ、兄をニセ信者に仕立てて訴え出たものです」と、中し出た。 兄の供述に疑いを深めていた矢先だったので奉行所は直ちに兄を獄舎から出して、弟と対面させた。弟が一切を母に打ち明けたあととは知らぬ兄は 「弟は気違いです。私は本当に信者です」と言い張っていたが、涙ながらに語る弟の言葉に「母がそんなに心配しているなら……」と、兄もついにニセ信者を認めてしまった。 、 このことは直ぐ上役に報告された。その結果、兄をキリンタン信者とする確証がない。そうかといって、公儀をいつわった罪は重いがこれも親孝行がしたいため、はりつけの刑を覚悟の上、信者だと訴えにおよんだもので、孝道心の厚い兄弟だ、とかえってほめられた。間もなく兄は獄舎を出され、町役の樽屋藤左衛門に預けられた後、無罪が宣告された。 ・ このあと、改めて兄弟は孝心に対して、宗門改め奉行井上筑前守から金十両、町奉行加賀仙民部少輔から金三両、龍奉行石出帯刀から金三面のほうぴをもらったこの話はたちまち江戸中にひろまった。会津若松の城主保科肥後守正之は、兄弟の孝心に感心して召し抱えたという。 獄舎は文京区小日向回丁目にあったキリシタン獄舎だといわれているが、現代では跡かたもない。
2004.10.22

日本の昔話にはキツネやタヌキが登場する。このお話は当時の若者にタヌキの名にかりて、働くこと、「勤労」の大切さ、誰でも、「楽をしたい」働くものはおれたちの敵だ、仲間はずれにしている、江戸時代の風潮を戒めに作られてお話でしよう。小中学校でも「シカト」といって「いじめ」があるのは残念ですね。出る杭は打たれるでない社会にしたいですね。 府中市の写真 「弟子入りしたいという若い男が来ています」 小坊主の取り次ぎで住職の等海師が訪ねて来た若い男に会った。 「ご高名をしたって、はるばる筑紫国 (福岡県) から訪ねて来ました。どうか、私を弟子にして下さい」と、その男はふかぶかと頭をたれた。 「修行は厳しく大変な苦行を積まねばならぬ。そんな大望を抱くより、国元で親に孝行したほうがよい。どうしても僧になりたいなら、生国にも高憎がいるはずだ。そこで弟子入りしたらどうかな」と、住職は一応断わったが、しばらく話しているうちに、なかなかしっかりした若者で、決意のほどもわかったので、まず寺男として使ってみることにした。およそ六百年もむかしのことである。 若い男は、ほかの寺男や小坊主より朝早く起きて、骨身を惜しまずよく働き、読み書きもじょうずだった。これは将来ものになる、と住職は秘かに期待していた。 三年目を迎えた夏の夕方、仕事も一通り終り、一息入れたくなったのか、若者は誰も見ていないのを幸いに本堂で昼寝をしていた。すると「おいおい」 と、ゆすり起こす者がいる。若者は、不覚にも熟睡してしまったことをはじながら、目をこすり、よく見ると、目の前にいるのは住職だった。若者ははね起き、座り直した。 「お前は、わしに百姓のせがれだなどと、うそをいっていたな」 「うそではありません。百姓の生まれです。本堂に寝そべって申し訳ございません」 「そんなことを聞いているのではない。お前のしっぽはなんだ」 若者の表情はー瞬ひきつり、青ざめた。そしてたちまちタヌキの姿にかわった。 「おっしやる通り、私は人間ではありません。実は古ダヌキです」といって身上話をはじめた。 「私はタヌキとしてこの世に生を受け、山の中で大きくなりました。もの心がついて、働きものの人間にくらべ、タヌキはなまけものだとわかりました。そればかりか、人間が汗水流して作った食べ物を盗み食いする。それでは人間に申し訳ないと思って仲間たちが集まったところでタヌキもこれからは一生懸命に働こうではないかと提案が誰一人として賛成してくれません。ついには仲間からつまはじきされました。それからは、人間に化て下男に住み込んだり、百姓の手伝いをしてきました。その後、人間に負けない修行を積もうと思って寺を転々と渡ってきました。 そのうち高僧の名を聞いたので、筑紫の百姓のせがれに化けて住み込みました。とうとう、高僧に見破られてしまいました。「これからは山に帰って、静かに寿命がつきるのを待ちます」といって泣き崩れた。住職はあわれに思って「よく話してくれた。お前の心がけは見上げたものだ。人間にもまさる」とほめた後「タヌキだということは、わしのほか、誰も知らない。わしは黙っているから、いままで通り働いてくれぬか」 といった。しかし、タヌキは 「いままで多少なりとも人間に恩返しができたのは何よりでした。これ以上人間に化けることが罪のように思えます」といって、住職の申し出た好意をどうしても受けなかった。住職は仕方なくタヌキに暇をやることにした。 その夜、タヌキが住職の部屋にいとまごいに来た。「三年間の恩返しに、天竺 (インド) でお釈迦様の説法を聞いたときのメモ帳を差し上げます。それからお世話になった村人のために、お釈迦様が天竺で説法しているところを、わたしがお目にかけます。その時、お釈迦様の姿を見て合掌したり声を出したりしないで下さい」といった。住職は、このタヌキの申し出を心よく受けることにした。その翌日の昼、村人たちが大勢、お寺の近くの浅間山に集まって固唾をのんで待つていた。やがてゴーンゴーンと鳴る鐘の音と共に、急にあたりが暗くなり、草木がおい茂っていた浅間山が、みるみるうちに峨賀たる岩山に変った。その岩の上に白髪の老人が長い杖をついて立っている。あまりの変りように驚いて村人たちは、注意事項のあったことも忘れて、思わず合掌して拝んでしまった。次の瞬間、老人の姿は消え、村人の前には、いつもと変らず浅間山が元通り立っていた。タヌキはそれ以来、再び姿を見せなかったという。 ― タヌキの寺男がいたのは、府中市矢崎町の安養寺だと伝えられている。タヌキが等海師に渡したと伝えられる「メモ帳」なるものは、明治維新の時、神仏分離のため視察に来た役人が持ち去って以来、その行方はわからないという。参考化狸ものがたりこれは安養寺に伝わる伝説で、正体をかくし高僧に仕えていた狸が、ある日居眠りをしているときに尻尾が出てしまい、正体が知られてしまったという話です。知られた狸は全てを打ち明け、「人間に化けて以来三千年・・・、ご恩返しに二千年前お釈迦様に教えを受けたことを実現しますので人見が原にきてください」といとま乞いをしました。翌日、高僧は弟子を連れて赴くと、浅間山のあたりに周囲を七宝瑠璃で飾られたお釈迦様の座った多宝塔が四方に輝きあらわれました。高僧たちは、この仏の世界に歓喜し、「どんなことがあっても合掌しない」という狸との約束を忘れ、思わず合掌し経文を唱えると眼前の仏の世界はたちまち消えてしまったということです。
2004.10.21

孝子長五郎 日本が戦争に敗れGHQの指示で学校の教科書特に『修身』が廃止され孝行の記述は黒く墨で消すように指示がだされ、一億総懺悔で今までの道徳理念が否定されてしまった。あれから半世紀が過ぎた。親孝行は死語に化してしまっている。この話は日本の若者たちに聞かせ、自分はどうあるべきか考えさせる資料として下さい。 いまからおよそ二百年余り前、押立 (稲城市) の貧しい百姓夫婦に、長五郎という独り息子がいた。自分の田畑を持たない夫婦は、日雇いになって、やっとその日を過すありさまだった。長五郎は、親の仕事先に毎日連れて行かれた。そして、仕事をしている近くで、いつも独りで遊んでいた。それでも病気ひとつせず、すくすくと成長した。 長五郎は、七つになったある雨あがりの日、母のいいつけで村はずれまで用足しに行くことになった。ところが母は、道がかわいたから、草履をはいて行きなさいといった。この話をそぱで聞いていた父が、まだ道がぬかっているから下駄をはいて行きなさいという。長五郎は、二人の言うことを考え、どちらに従うべきか迷った。が、下駄と草履を片方ずつはいて家を出た。これを見た村の子どもたちは 「長五郎よ、片足ずつちがったはきものはいてどこへ行く。お前のところには満足な履物もないのか」と、手をたたいてはやしたてた。 「道がよく乾いていないから、水たまりは下駄で歩き、乾いたところは、草履で歩くのだ」 長五郎は、こうやリ返して平気で歩いていった。 両親が働きにでたあと、長五郎は家のまわりを掃いたり、近所の手伝をしたりした。日暮れになって親が帰るころには、お湯をわかして待っていた。こうして、親に何ひとつめんどうをかけなかったので、村人たちは長五郎を働きものだとほめていた。 ある日、八、九人の子供と長五郎が遊んでいた。そのうち、ある子供が 「おいみんな、一から十までの間に ’つ’がいくつあーるか」と、とんち問答を出した。子供たちはみんな指を析って数えていたが、「九つだ」と、大声で答えた。長五郎だけは「五つに ‘つ’ の字が二つあるから十だ」と、正確に答えて、問題を出した子供をおどろかした。その子供は長五郎に負けてなるものかとばかり、また問題を出した。 「星の数はいくつ ?」 子供たちはしぱらく考えたが、この難問に答えられなかった。ただ一人、長五郎は星の所まて連れて行け、そうすりや教えてやると見事に答えた。家貧しくて寺小屋へも通えなかった。このとんち問答の答え方は、長五郎の頭脳のめぐりが良いことを示していた。 十五歳になった時、父親が急病で死んだ。間もなく母親は、眼病か、栄養失調かははっきりしないが、失明してしまった。それからというものは、長五郎は朝は早く起き夜遅くまで馬車馬のように働いた。屋外の仕事ができないような、雨や雪の日にはわら草履を作って売った。長五郎があまり働くので、母親もじっとしていられなかったのだろう、長五郎のとめるのも聞かず、草履作りをはじめた。しかし、失明した母の作った草履は、とても売り物にならなかった。長五郎は、母親の作ったぶかっこうで不揃いの草履は自分ではいた。村の祭りや族芸人がやってきた時などは必ず母を背負って行って、決して一人で楽しむようなことはしなかった。やがて長五郎は、嫁をとってもよい年ごろに達した。村の人々も、長五郎が母親につくす姿といい、仕事振りに感心していたので、嫁を世話しようという話は何度か持ち上がったが 「嫁をもらうと、母への孝行がうすれるら、母が生きているうちは決して結婚しません」と、きっぱり断ったという。 名主の兵右衛門は郡代を訪ねて、長五郎の親孝行について詳しく申し上げた。郡代はさっそく長五郎を呼び出し、白銀二十貫と七反歩の水田をほうびとして与えたという。 稲城市押立には、。いまでも長五郎の石碑が残っていて、春の彼岸の中日には毎年祭りが行われるまた、長五郎がもらった水田は、この石碑のそぱにあって孝子面と呼ばれていたが、いまでははっきりしない。江戸末期の歌人蜀山人は、長五郎の話を聞いて、こう歌っている。 たまはりし、門田に旗を押立て 親につかふる道しるべせよ 親の親、子の子の末と、なりはひもゆたかに保つ年のあら小田
2004.10.20

江戸時代には病気を治すことは大変なことであったろう。老婆が失明し、自殺まで考えたが仏様の使者,閻魔大王にすがれば直るかもしれない、願を掛け、その甲斐あって目が見えるようになったという話。今でも信心する人が絶えぬと言う。 むかし、緑におおわれた小石川の白山台地と本郷向ケ丘台地にはさまれた細長い谷間の中ほどに、源覚寺という寺があった。この寺は伝通院第三世定誉随波上人が建てたものだ。上人は高齢になったので、静かに余生を送ろうと考え、徳川二代将軍秀忠に、そのむねを願い出た。さっそく許されて、伝通院からほど遠からぬこの谷間の一角を拝領した。当時は閑静な、禄の濃い美しい谷だった。そこに寛永元年(一六二四年)寺を建立し、落成した。その後、いつのことかわからないが、近くの半井和州侯の別荘の池から、閻魔大王の像がすくい上げられた。像はこの寺に安置された。閻魔大王にお参りすると、幸運が舞い込むということから「小石川の闘魔さまといって江戸中に知れ渡った。閻魔さまにお参リする人は、一月と七月の十六日つまり薮入の日に多くこの両日がにぎわった。宝暦年間(一七五一― 一七六四年) のある晩春の日のことである。参拝者が閻魔さまを拝もうと顔をみると、あの恐い眼の片方がつぶれている。さらに不思議なことに、閻魔さまにはおよそ縁のない、こんにやくが供えてあった。 「閻魔さまの片目がつぶれている」と、参拝客の間で大騒ぎとなった。ところが、それから何日か過ぎたある日、こんにやくを供え、閻魔様の前で一心に祈っている一人の老婆の姿を住職が見つけた。「閻魔さまにこんにやくをお供えしたのは、お婆さんだったのかね」この私しですが・・・」「この間から、こんにやくをどうしてお供えしているのか、参拝する人からたずねられるが、返事ができないので、そのわけをたづねたいのだが「上人さま、それには深いわけがございまして・・・ 」と、老婆は、閻魔さまにこんにやくを供えるようになったいきさつについて語りだした。老婆はしだいに視力が衰えていくことに気がついた時、「これも年のせいかな」と、こう思った。だが、朝、両眼に目やにがたくさんつく。これは年による視力の衰えではなく、眼の病気に違いない、と考えるようになった。それからというものは、老婆は眼病によくきく薬を求めて江戸中を歩いた。しかし、どの薬も老婆の眼には効き目がなかった。お医者さんにも診察してもらったが、結果は同じで、病は悪化しっいに失明してしまった。 これまでは他人の世話にならずに生きてきたのに、これからはいちいち手を引いてもらわなければならない。老婆は、みじめな気持になってしまった。 「こんなことなら、いっそ・・・と、何度か絶望のあまリ自殺を考えたという。こんな苦悩に沈んでいる時、ふと頭に浮かんだのが、「そうだ、小石川の閻魔さまに願を掛けてみよう」 ということだった。 閻魔さまは仏法を守護し、衆生の幸福をはかるために、仏がこの世につかわした使者だ、と、老婆は誰かに聞いたことを思い出したからである。 さっそく老婆は閻魔堂の前に立った。そして「眼をなおして下さい」と、願をかけた。二十一日間というものは、すべてを忘れて、ひたすら閻魔さまの慈悲にすがった。そして満願の夜、老婆は閻魔さまの像の前にひれ伏した。そのままいつ眠るともなく、老婆は深い眠りに落ちていた。すると夢の中に閻魔さまが姿をあらわし「われ、日月にもひとしい両眼のうち一つをえぐリ取ってなんじに授くべし」と、いかめしい表情でいったかと思うと、忽然と姿を消した。そこで夢からさめた老婆はおどリ上がって喜んだ。両眼がもと通りに見えるようになったのである。老婆は、ぽろぽろ涙を流しながら閻魔さまの像を見ると、なんと片眼がつぶれていた。老婆は、食べ物のうち、最も好きなこんにやくを自分で食べず、閻魔さまに供えることにした。 ″こんにやく閻魔〃 と呼ばれるようになったのは、このことがあって後のことだという。この寺は、文京区小石川二丁目にある源覚寺だといわれ、いまでも独眼の閻魔大王の像がこわい顔をして立っている。そして、むかしほどではないが、目の病人がお参りに来るという。
2004.10.19

女中の身体を借りたキツネ どの時代でも怠けものより、働き者を歓迎する、怠け者に働け、働けといってもかわることは滅多ににない、こんな寓話を広めて働きもの歓迎の風潮を作ったのには感心せざるをえません。 「女中にキツネがついたが、それ以来よく働くので、いつまでもキツネに女中の身体を貸したいよ」一 加賀備後守の江戸屋敷留守居役、泉淵忠左衛門が、ある日こんなことを友人に話した。奇妙な話にその友人がキツネにつままれたようにけげんな表情で忠左衛門に問い返した。 「女中にキツネがついたといわれるか・・?」「いかにも、その通りだ。まあ、はじめからこの奇談をお話しょう」と、忠左衛門は、大まじめで語リはじめた。 文化七年(一八一〇年)十二月のことである。 忠左衛門は、ある夜夢を見た。夢枕に一匹のキツネが立った。しかもこのキツネは人間の言葉で忠左衛門に話しかけてきた。 キツネが言うにはー 私は本郷四丁目麹屋の裏の稲荷のせがれですが、親と意見が合わず、親子げんかをして家を追い出されてしまいました。けんかのいきさつについてはしばらく聞かないで下さい。そんなわけで、とにかく、わたしはいま泊るべき家があリません。まったく困り果ててしまいました。そこで、甚だ勝手なお願いで恐縮ですが、このお願いは聞き届けて下さい。というのはほかでもありません。お宅の女中を一時貸していただけないでしょうか。ぜひお願いします。そのうちに、友人を仲に立てて、親にわびを入れ、自分の家へ帰れるようにします。それまでいる所に困っていますので。決して、あなた様にご迷惑がかかるようなことも、また女中の奉公にさしさわりがあるようなこともいたしません。どうか、わたしの窮状を察して、お聞き届け下さい。 キツネの切なる願いに耳を傾けていた忠左衛門は「それは気の毒だ。それほどまでにいうなち貸してやろう」と、あっさり承諾してしまった。キツネは涙を流して喜んだ。「ありがとうございます。ご恩は決して忘れません」と、キツネは忠左街門に。ペコリと頭を下げた。と、思った瞬間、忠左衛門は夢から覚めた。そして「なんて奇妙な夢を見たのだろう」と、一人で考え込んでしまった。 忠左衛門は、夜が明けるのが待ちどおしいようにして、キツネに身体を貸す約束をしてしまった女中を、注意深く観察したが、少しもかわったところは見当たらないし、また言動にも変化はなかった。忠左衛門は内心ほっとした。 ところが、これまでよく気のつくとはお世辞にもいえなかった女中が、その日の昼ごろから、急にばりばリ積極的に働き出したのである。 これまで、この中に「水を汲みなさい」と命令すれば「ハイ」と、命令されたことだけは忠実に実行するが、積極的に仕事を探し出てやるところまで頭が働くような女ではなかった。少し足りないところがあった。 ところで、女中の眼の輝き、積極的な仕事のやリ方を見て、忠左衛門は「こりゃキツネがついたな」と、直感した。が、彼は、このことを一人の秘密として、一切、口外しなかった。しかしょく注意してみていると、これまであまり上手でなかった針仕事まで、器用に早くやってのける。仕事が早いし、上手であって、一人で五人分の仕事をこなしてしまう。これには忠左衛門の方がすっかりどぎまぎしてしまった。 ある日、忠左衛門が外出しようとすると、例の女中が玄関まで見送りに出て来て、 「きょうひる少し回ったころから、雨になりますから、雨具の用意を……」といって、雨傘を差し出した。忠左衛門が空を見上げたが、青空が広がっており、降りそうにない空模様だったが、女中の言葉に従って雨傘を持って家を出た。ところが不思議なことに、空か曇って来て女中が予告した時刻になると、果たして降リはじめたのである。これは一例だが、女中の予告はいつもよく的中して、忠左衛門を驚かした。 この話は、友人を通じて江戸の町の話題になった。その後、キツネがどうなったか、身体をキツネに借リられた女中についても何んにも言い伝えがない。 こんなキツネなら「うちのかみさんにも、キツネがついてくれたらとそっと望んでいる男性が案外多いかも知れない。
2004.10.18

亡き夫と再会“逢う坂”先進国の共通する問題は少子化だといわれる、若者が結婚に踏み切らない。結婚してもすぐに離婚をしてしまう。この話は結婚した男女の心の持ち方を諭したものであろう。日本の将来のために、結婚をし、次の世代を継承者を是非作っていただきたい。 およそ千二百年前、奈良の都から小野影美佐吾という独身の青年が国造として武蔵国に派遣されてきた。なかなかの美丈夫だった。毎日のように、部下を連れて領内を巡視していた。 するとある日、美しい気立てのやさしそうな娘が畑を耕しているのを見た。巡視を終って屋敷に帰った美佐吾は、さっそく娘の身元を調べるよう部下に命じた。娘の名は「かづら」 とすぐわかった。それからというものは、巡視に出るたびにその娘の姿を追い求めた。そして、二人の心にほのぼのとした思いがかょうょうになっていった。しぱらくして、美佐吾の方から人を介してかづらを嫁に欲しと求婚した。教養のない百姓娘だといって、かづらの親たちはこの求婚を断った。それからも美佐吾の求婚は、いろいろのかたちで続いた。美佐吾のねぱり強い求婚にかづらの両親も折れ、間もなくかづらは美佐吾に嫁いで行った。 この話は、たちまち武蔵国にひろがり、人々は寄るとさわると、この結婚話で持ち切りだった。 一方、かづらを嫁に迎えてからの美佐吾は、土地の事情にもよく通じ、領内の人々に温情をもって接したので、ますます評判がよかった。 「二人の仲がむつまじいのう」 このごろの国造は、われわれ百姓の話によく耳を傾けてくれ、大助かりだ」 村人たちは、こんな会話をかわしていた。 こうして数か月が過ぎ、都から美佐吾に上京するよう命令が届いた。美佐吾はかづらや村人と別れを惜しみながら、元気に旅立った。 奈良の都に着いた美佐吾は、旅の疲れから病に倒れた。若草山のほとりで静養していたが、かづら恋しさから、「武蔵国からかづらを呼び寄せて欲しい」と、毎日のように付添の人を困らせていた。それから美佐吾の容態は日に日に悪くなった。美佐吾は、自分の死が近いことを知ったのか「わたしが死んだら武蔵国に葬ってくれ」と遺言した。彼は、ついにかづらを慕いながら死んでしまったのである。だが、美佐吾の遺言とはいえ、武蔵国はあまりにも遠かった。美佐吾の遺体は若草山のふもとに葬った。そして、美佐吾の遺言に少しでもそうように、葬ったところを″武蔵国’と呼んだという。一方、かづらは、夫が旅立った後、夫の無事を祈っていた。夫が元気な姿て再び武蔵国に戻って来る日を持ちこがれていた。美佐吾が旅立ってから、かれこれ一年半が過ぎたある日、都から、美佐吾の死を伝えて来た。かづらにはあまりにむごい知らせだった。あれほど、元気で旅立って行ったのに……。かづらには、どうしても美佐吾の死が信じられなかった。 「もう一度でよいから、夫にあわせて下さい」と、かづらはひたすら神に祈った。ある夜、一人の白髪の老人が、かづらの夢枕に立った。 「願いをかなえてやるから、近くの坂で待て」というお告げがあった。夢からめたかづらは、もしかしたら、夫が無事に帰って来るかも知れないと、あわい期待を抱きながら、夜が明けるのを待った。まだ明けきらぬ東の空からの光をたよリに、お告げの通り、。坂の途中に立って待った。するとどうだろうにこやかな表情の夫、美佐吾が元気な姿でかづらに近づいて来るではないか.かづらは感動のあまり、涙があふれ、リリしい夫の姿がぼーとっかすんで見え、声を掛けようとするが言葉にならず、やっとの思いで夫の手をとり、その足下に泣き崩れた。しばらくして激しく揺れた心も少し静まり、夫に話しかけようとかづらが顔をあげた。かづらの前に立っていた、リリしい美佐吾の姿はかき消され、かづらは暗い坂にうずくまっている自分を発見した。かづらは必死に夫を呼び続けたが、呼び声はむなしく、林の奥深く消えて行った。そしてかづらは、気を失ってしまった。 どのくらい時間が経過したろうか。かづらは、村人の手厚い介抱でようやくわれに過くぇっ返った。 かづらは、坂の途中でなぜ失神していたかの一部始終を村人に話した。特に、いとしい夫、美佐吾に会ったくだりは村人たちの共感を呼んだ。そして「夫を慕ぅかづらの、純な気持が神様に通じ、一目だけ美佐吾にあわせたものだろう」と村人たちはいって、もらい泣きしたという。それから、この板を「逢坂」と呼ぶょぅになった。かづらは、これ以来、仏の道に入り髪を断ち、死ぬまで夫の冥福を祈ったという。とこの坂は、新宿区市谷船河原町の十四番地と十五番地の間にある、小さい板だいわれ、いまでも逢板と呼んでいる。だが、ここに往んでいる人々でも、この純愛物語を知っている人は殆どなく、都内の一部の故老たちがいい伝えているだけだろう。
2004.10.17

天から降った男 昔ばなしは面白くするために作ったものであろう。人間の欲望は空を飛びたいという願望からこの話が出来たと思われます。 「ひとふろあびて来るよ」 若衆が肩に手ぬぐいをひっかけて、でかけて行った。それから、ものの三、四分とたたぬのに、表戸ががらからっと開いた。若衆がおどり込むようにして、家の中に駈け込んで来た。若衆はよほど急いで走ったらしく、呼吸が乱れ、ほとんど言葉にならないが、何かいっているらしい。 「どうしたというんだ。落ち着いて話してごらんよーこ 父親が息子のあわて方を見て、そういった。 「あ、あ、驚いた。真っ裸の男が」 「真っ裸の男がどうしたというんだ」 「竹門の暗がりに男が立っていたので、近づいたら、ぱったり倒れた。よく見たら、その男は真っ裸だったんで。驚いたのなんのって。」 この怪事件は、文化年間(一八〇四 一 一八一八) の八月下旬、浅草の馬道で起こった話である。なんでも、この若衆がふろ屋へ行くと出かけたのが観音様の暮れ六つの鐘がなってからいっとき (約二時間) は経過していたというから、だいたい、午後八時ごろだったらしい。それに、旧暦だったころのことだから、今の暦でいったら、九月末から十月初旬ということである。したがって、午後八時といえば、もう暗い。街路灯などない時代のことだから、うごめく人影は確認できても、裸かどうかはよほど近づかないとわからない。この若衆は、暗闇の中でうごめく人影に深い関心を示したようである。 この話は、すぐ隣近所に知れわたった。そして、若衆を先頭に、八っつあん、熊さんといった連中が、竹門の近くまでやってきた。ところが、どえらい事件を予想して、なかばヤジ馬根性でやってきた若衆らの一団は、拍子抜けしてしまった。事件現場らしきところには血一滴こぼれていない。ただ裸の男が道ばたに寝ている。る。一人がこわごわ裸の男に手を触れてみた。 「生きている。たしかに呼吸をしている。 裸の男は酒気をおびている様子もないのに、この騒ぎをよそに、こんこんと眠り続けている。さっそく町役人に届け出た。 現場へ駈けつけた町役人にも、この事件が何かさっぱりわからない。しかし、このまま放ってもおけないので、裸の男をとりあえず近くの番屋に運び、医者の診断を受けさせた。診断の結果、医者は 「別段これという悪いところはない。ただし少し疲労しているようだから、しばらく安静にして、このまま寝かせておけばよかろう。たいしたことはあるまい。容態でも急変したらお知らせ願いたい」 さすがに医者は落着いたものである。医者の診断どおり、翌朝、この男は深い眠りから覚めた。 役人は型通り取調べにかかった。「生国は?」「姓名は?」 男には、なぜ調ぺられているのか、さっぱりその間の事情がのみ込めぬ様子だったが、調べにははきはき答えていた。男は京都の油小路二条上ル、安井御門跡の家来、伊藤内膳のせがれ安次郎、二十五歳といった。 「ここはどこでござるか」安次郎は、少々不安になって、逆に役人にたずねた。 「貴殿はここが江戸だっていうことをご存知なかったのか」- 役人たちは、この珍問答にどっと笑った。ところが、安次郎は驚きと不安で涙を流しはじめたのである。 安次郎の供述のあらまし 二日前、近所の嘉右街門と家来の庄兵衛を連れて、京都の愛宕山に登った。山頂上には愛宕神社がおまつりしてあり、そこにお参りした。その時拙者は、桜色の四つ花菱の紋付と黒の絹の羽織を着ていた。もちろん大小二本の刀を差していた。山頂に到着したころ、あまり暑いので木陰で帯を解いて涼んでいた。と、そこへ白髪の老僧かいずこからともなく姿を現した。 「お武家、おもしろいものを見せてつかわそう。拙僧のあとについて参られよ」と、いった。老侶に誘われるまま、ついて行った。そのあとのことは全く記憶にない。安次郎は裸だったが、白足袋をはいていた。役人は安次郎の供述の真疑を確めるため、足袋屋に安次郎の足袋を鑑定させた。 「この足袋は京都の仕立てに間違いございません」と足袋屋は確信ありげにこう答えた。役人たちは、額を集めて相談した。いろいろ意見は出たが、結局「安次郎は老僧のまじないで空を飛んで江戸に降った」という結論を出した。 この話は、「人が空を飛んだ」 と江戸市民の間で大評判になった。 浅草馬道といえば、当時の江戸第一の歓楽街吉原のすぐ目と鼻の先である。 これは道楽息子の安次郎が金をつかい果たした時の姿と想像する向きもあろう。どぅ解釈されるのも自由である。当時のことだ。武士の息子の乱行を内々に納めようとして、こんな話をでっち上げることもありそうなことだ。遠い京都の男だといえば差しさわりがないから。
2004.10.16

現代の日本は少子高齢化で年金問題が問われている。人間長寿を希望するがこの話のように子や孫に先立たれひとり残されていきることもつらいことであろう。寿命も程々がよさそうである。 あの女は娘のように若々しいが、あれで八百年も生きているのだそうな」 どこからともなく舟でやってきて袋村(北区) に住みついた若い女がいた。みたところ、十七、八歳の娘としかみえないが、いつとはなしに、土地の人たちの間はこんなささやきがかわされるようになった。しぱらくして、その女性は八百比丘尼ということもわかった。そして誰いうとはなく、八百比丘尼についてこんな話が村人たちの間にひろまった。 千年もむかしのことである。若狭国(福井県) に、異国人が一人住んでいた。村人たちはこの異人をある祭の日に招いてごちそうした。異国人はたいそう喜んで 「今度は私かきのうのお礼のしるしに、珍しいものを皆様にごちそうします」といって帰った。 それから数日たって村人たちは招かれた。好気心の強い村人たちはみんな打ち揃って異国人の家へ行った。ところが、出されたごちそうは、村人たちがいままで見たことも、聞いたこともない物ぱかりだった。 「どうかごゆっくり召し上って下さい」と異国人はしきりにすすめるのだが、みんなは、ただ顔を見合わせるだけで、だれ一人として箸をつけるものがない。 「そうそう、皆さんは肉を召し上らなかったんですね」 しぱらくして異国人は、思い出したようにいいながら、家人に命じて魚や野菜 の日本料理と取り替えてくれた。みんなは喜んで食べた。 「あの獣の肉はいったいなんだろう」「異国人はいつもあんな肉を食べているのかな」 村人たちは帰り道、こんなことを話し合った。ところが、そのうちの一人が、帰ってから自宅でこの肉をよく調べてみようと、皿に盛ってあった一切れの肉を、誰にも気付かれないようにふところに入れて持ち帰った。しかし、やたらのところにおいて、誰かが知らずに食べて中毒にかかっては大変と、神棚の裏に隠しておいた。 翌朝、長女がこれをみつけてしまった。「これはいったいなんだろう」 ー いろいろ考えたが、まるでわからない。匂いをかいでみると、うまそうである。そこで一ロ食べてみた。なんともいいようのないほどうまい。長女は、てっきり誰かがあとで食べようと思っておき忘れたものだろうと推測したが、もう一ロ、一口と、ついみんな食べてしまった。 長女が食べた肉は人魚の肉だったのだ。その後、婿をもらって何年かが過ぎた。ところが、この肉の不思議な魔力によって、彼女は年をとるということを忘れてしまった。両親が死に、やがて夫も年老いて死んだが、彼女だけは、十七、八歳の娘盛りのまま、年をとらない。百年、二百年が過ぎて、孫もひ孫も、つぎつざに老いて死んでしまった。誰しも、不老長寿を願わない者はないだろう。しかし、自分の近親者につぎつぎ先立たれたら、かえって、人間の間で生きるには孤独感にさいなまれるようになるのではなかろうか。彼女は、ついに、人間の住むところを離れ、山奥に隠れ住む決心をした。数百年後のある日、山をおりてみた。生まれ故郷はまるで変容してしまって誰一人として知っている人はいなかった。浦島太郎やリップバンウインクルと同じである。 ’ 「人魚の肉を食べると、千年生きられるというが、むかしむかし、神棚の裏にあった、あの肉が人魚の肉だったのだ。そうに違いない。それで、こんなに長命だったのだ」!娘は、ようやく自分の長命の秘密に気が付いた。「これからまだ、二百年ばかの寿命が残ってはいるか、これ以上生きるのはごめんだ」と、さっそく、領主を訪ねて人魚の肉を食べた話から、長命の話まで一切合財の身の上を物語った。そして、残りの二百年の寿命を領主に譲り渡して旅に出た。各地を巡り歩いた末、武蔵国にやってきて、袋村に住みついた。ここで彼女は寿命の終るの を静かに待っているのである。 八百仕丘尼が “最後の余生〃 を送ったといわれるところは、北区袋町の堂山と呼ばれる小高い丘とされている。
2004.10.15

少し前の話ですが中学生が公園に仮住まいしている身なりの悪い人たちに暴力を加えて死に至らせたというニュースがありました。人間を服装や身なりで判断すべきではない、と江戸時代の親はこのように子供にさとしたのでしょう。この話を是非学校の道徳事業の教材にして欲しいですね。私のホームページの心の東京革命の赤印のところをクリックし、現在の教育の現状を改善しようとしている方々の存在を知り、応援してあげてください。 「坊や、みすぼらしい服を着ているからといって、その人を見下げてはいけないんだよ。心の正しい人が一番立派なんだから」 足立区内に、むかしから住んでいる家庭では、子供がむやみにものを欲しがったり、増長した振舞いをすると 話は平安時代にさかのぼる。いまでも、この話を聞かせてさとすという。 弘法大師が諸国説法の旅の途中、草深い武蔵国の東のはずれの地を訪れた。早春のことだった。谷中 (台東区) から足立方向に進んで行くうちに、大きな川のほとりにでた。川はまんまんと水をたたえて、ゆうゆうと流れている。 渡しの小屋では大師一人が舟を待っていた。向こう岸から大勢の人を秉せて波し舟が着いた。客が降りてしまうと、渡し守はクイに舟をつないでしまった。大師は、渡し守に「わたしを向こう岸まで渡してくれませんか」と頼んだ。渡し守は、うさんくさそうに大師を頭のてっぺんからつま先までじろじろ見ていたが、そのまま、大師の言葉に答えようともしないで、黙って小屋の中に入ってしまった。 大師は京の都を旅立ってから、かれこれ一年近い旅を続けてきた。その問、野に寝たり、木の下で雨露を凌ぐという、苦難に満ちた旅だったので、法衣は破れれ、疲れ果てた姿だった。このみすぼらしい姿を見て、波し守は旅を続けながら物乞いして歩く、こじき坊主と思ったのだろう。大師は、なおもあきらめずに、渡し守に舟を出すように求めた。だが徒労に終った。小屋の中からは、なんの返事もなかったのである。 あきらめた大師は、水辺に降りて行き、しばらく流れを見つめていた。足元に落ちていた木の葉を三枚拾いあげ、これを水に浮かべると、何やらロの中でぶつぶつと呪文をとなえた。すると木の葉はたちまち舟にかわった。大師はその舟に乗って流れを横切リ、対岸へ渡った。この様子をはじめから最後まで小屋のふし穴からのぞいていた渡し守は、腰を抜かすほど驚いたのである。「あの舟は、わしの舟だったのでは……」と、疑った渡し守が、大急ぎで小屋を飛び出してみたが、舟はちゃんとクイにつないだままになっていた。「不思議なことがあるものだ」と、渡し守はしきりに頭をかしげて考え込んでいた。 そこへ地元の豪族が一人でやってきた。渡し守はまるで人がかわったように、もみ手して、ペコペコ頭を下げた。舟の綱を解き、舟を岸に近づけようとしたが水面にぴたりとはりついたまま、どうしても動かない。竿で舟を押したり、綱で引っぱってみたが、舟はびくともしない。ついに渡し守は、汗まみれになって地べたに座り込んでしまった。 これをみた豪族は腹を立てて渡し場を立ち去ってしまった。 その夜渡し守は、村の物知りの古老をこっそり訪ねて、昼間の出来事を詳しく物語った。黙って渡し守の話に耳を傾けていた物知りの古老は 「それは神さまか、仏さまが人間に姿をかえていたのだ。お前さんには、人の風体を見て小ばかにする悪い癖がある。その罰が当たって舟が動かなくなったのだ」と、渡し守をきつくたしなめた。渡し守は、泣き出しそうにおどろきあわてた。そして「では、どうすればよいのでしょう」 と、古老に助けを求めた。 「お坊さんの去った方に向っておわびしなさい」と、古老が教えてやった。渡し守が、教えられた通りにすると、舟は何事もなかったように水の上をすべるように動いた。 その後、村人たちの間にこの坊さんこそ、弘法大師だという話がひろがった。これは、弘法大師が諸国巡りをしている時の話のうち最も有名なもののーつといわれている。この川は、当時入間川だったが、その後、河川のつけかえがあり、いまは荒川になっている。
2004.10.14

キツネにかまれた魚屋 昔の人たちも動物との共生を考えていたようですね。きつねやたぬき これらをいじめるとバチがあたるといってむやみやたらに殺したりはしなかったようです。まして人を殺すことは絶対にしないように。現在の殺伐とした世相を変えたいものですね。江戸川べりの篠崎村(江戸川区)に権八という魚屋がいた。 真夏のある日、いつものように魚を入れたオケを天びん棒でかついで魚売りに出かけた。江戸川土手を歩いて篠崎村と小松川村の境まで来た。ふとみると松林の木陰で四匹の狐が気持よさそうに昼寝をしていた。かんかん照りつけられるし、魚の売れ行きも思わしくなかったので、気がむしゃくしゃしていた権八は「人間様が汗だくになって働いているのに、キツネのぶんざいで昼寝などするとはけしからん」と、無性に腹が立ってきた。権八は落ちていた棒切れを拾うと、抜き足差し足で狐に近づき、力いっぱいなぐりつけた。狐はきゃんきゃん鳴きながら、一目散に逃げ去った。「ざまあ見ろ!」ー 権八は、りゅういんを下げて、また天びん棒をかついで歩き出した。 ところが、少し歩いたと思ったら、急に空が暗くなり、大粒の雨が降り出した。権八はよく休ませてもらう茶店へ向って走り出した。すると、暮れ六つ(午後六時ごろ)を告げるお寺の鐘の音がゴーン、ゴーンと聞こえてきた。おかしなことがあるものだと権八は思いながら茶店に走りこんだ。 店には、四、五人の顔見知りの村人が集まっていた。わけを聞くと、昨夜おか゛みさんが急に死んだというのである。そして茶店の亭主は権八の顔を見るなり 「権八さん、よいところへ来てくれた。これから皆さんの手を借りて女房を野辺に送るところだ。わしの帰るまで休んでいてくれ」といった。権八は、まだ魚が売れ残っているし、困ったことをいう亭主だ、と思ったが、日ごろ世話になっているので、しぶしぶ承知した。 間もなく、村人たちは茶店から消えた。一人残った権八がぼんやりしていると、冷たい風が吹き出し、権八のほおをなでた。部屋の中が無気味に暗くなった。その時である。死んだはずのこの家のおかみさんが、ひょっこり目の前に現われ立っているではないか。権八はおそろしさに背中がぞくぞくしてきた。そして逃げ腰になった。おかみさんは「わたしはお前さんを思いつめて死んだんだよ」といって、権八の肩に手をかけた。 「とんでもない」 権八は、がたがたふるえながら、何やら叫んだようだが声にならない。必死になって権八が手を払いのけようとするが、からみついてくる。同じようなことを何回も繰り返しているうちに、おかみさんは権八の左手にかみついた。その痛いことといったらなかった。助けを求める声も出なかった。かみつかれた手を振りほどこうと、もがけばもがくほど、痛みが激しくなり、権八は土間を転げ回りながら気を失った。 日中の暑さを避けていた百姓たちが、夕方涼しくなって野良仕事に出て来た。そして血だらけになって倒れている権八を見つけた。村人たちは権八に水をかけるやら、背中をたたくやら大騒ぎになった。やっと正気に戻った権八から話を間いた村人たちが茶店に行ってみると、こんどは亭主が狐につままれたような表情をしていた。 「権八さんはきょう一度も姿を見せないし、女房はこの通りぴんぴんしている」 そこへ元気なおかみさんが顔を出した。その後よく調べてみると、権八が倒れていたまわりの畑が荒らされており、権八がかついでいたオケの中には一足の魚も残っていなかった。 そこで村人たちは、権八が狐にだまされ、畑の中で独りあばれ回ったのだと結論を出した。権八もすっかり参って、翌日、狐の好きそうな魚を籠に入れて、松林の中にこっそり供えたという。寛政(一七八九ー 一八〇一年)ころの話とされている。 狐にだまされた話は全国いたるところにあり、いまでも山村へ行けば狐にばかされたという人がいるかも知れない。東京ではこの篠崎村付近に狐がたくさん住んでいたらしく、この種の話も多く残っている。だが、いまは狐の住む余地は二十三区にはないだろう。
2004.10.13

狩り場を荒らす老人 文化年間(一八〇四一八一八年)のある早春のことである。 向島の百花園の御成門が開いていた。この門は、将軍がタカ狩りにこのあたり、百花園に立ち寄る時しか開かない。 百花園の前には、ひろびろとした田圃が続いていた。田圃の中には、小さい百姓家がぽつんぽつんと立っていた。ここらあたりは湿田で、一年中ぴちゃぴちゃと水がたまっていた。ところどころに、ョシやアシの枯れた茂みが見える。 晩秋から早春にかけて、ツルがよく群をなして渡って来たし、バンも多かったた。三河島、南千佳、鐘ケ淵、向島の寺島一帯は、将軍家の狩り場になっていた。 「将軍のお成り」ということになると、一週間以前から名主は村の百姓を集めて注意事項を申し渡す。 「当日は、朝から火をたいてはならぬぞ。よいかな」 いろいろの注意をならべるが、このことについては特に力を入れていう。将軍がお成りになった時、火事を出しては大変だからである。将軍お成りの前の晩は、百姓の家は大変だ。一日分の飯を作っておかなくてはならなかったからである。口には出さないが、百姓は将軍のタカ狩りには反対だった。こうるさいことをいって困らせるからだ。それだけではない。まだ寒いのに、一日中、冷えた飯を食べなくてはならない。当時の百姓の常食はおそらくヒエのかゆといったところだろう。冷えたヒエのかゆをすするだけで、火で体を温めることもできない。外へ仕事にも出られない。「いっそ、一日中ふとんにくるまって寝ることにしよう』’という百姓もあった。こうして百姓の心にもやもやとしたものが欝積していたが、これらを吹き飛ばすようなことが起こった。 将軍が白髭神社の近くの田圃に夕方鷹を放して狩りをはじめた。ところがどうだろう。アシの枯れ葉の茂みから、一人の白いひげの老人が飛び出した。そして田圃にいるバンなどの鳥を追い立てて逃がしてしまうのである。家来たちは激怒した。 「無礼者め! 何をするか!・」と、家来たちが怒鳴ろうが、この老人には馬の耳に念仏である。いやむしろ家来たちを挑発するようにさえ見えた。 この老人は湿った田圃をまるでウサギのように走り回る。家来たちが追い駈け回すが、あまり早いので捕まらない。老人のなすがまま、だまって見ているわけにもまいらない。将軍などおえら方の目前でこんな老いぼれた一人の人間に、このタカ狩りの行事がかき乱されては、武士の面目が立たぬと、家来どもは顔を真っ赤にして、怒鳴り散らしてはまた追い回す。まるで子供の鬼ごっこと思えばよい。そのうちドロの深い方へと老人は逃げる。家来はこれを追う。ドロ田に足なとられて、歩くのがやっと。口々に「無礼者め!」「待て!」と、家来のわめく声だけが、あたりの静かさを破っていた。そのうちドロ田の中にポツンポツンと、動けなくなった哀れな家来の姿が取り残されただけだった。 この時ならぬ珍事に、名主が呼び出しを受けた。土下座してかしこまっている名主に、偉そうな武士が 「あれなる老人に、見覚えがあるか」といった。名主は白ひげの老人の姿を見たが、全く知らない。 「恐れながら申し上げますが、一度たりとも見たことのない老人でございます』と、正直にいった。家来はやきもきして、名主に念を押して「確かだな」といった。 こんな問答が続いている時、老人が役人の方を向き、にやにやしていた。一人の家来が腹にすえかねて、老人を狙い矢を放った。ところが、老人の姿はあとかたもなく消え去った。百姓たちは、この話を聞いて、心の中で喝采した。そして誰いうともなく、あの老人は、白髭神社の神様だというようになった。 百花園には元禄(一六八八-一七〇四年)のころ、多賀藤十郎という悪代官がいた。百姓を牛馬のようにこき使い、重税をかけた。怒った百姓が、ムシロ旗を先頭に、代官屋敷に押し寄せて代官を家族もろ共放火して焼き殺すという事件があった。この土地の百姓は、これ以来、百姓一揆こそ起こさなかったが、反官色の強い土地柄だったらしい。この話も、こうした背景があって生まれたものだろう。墨田区東向島一丁目の新田仲通り付近にツル土手、白髭神社近くにバン土手と呼ばれるところが残っているが、これは狩り場だったころの名残りだろうか。だが、現在では、この名称すら知っている人は案外少ないし、狩りのじゃまをした老人の話にいたっては、ほとんど知る人がないといっていいだろう。主権在民の世の中では、こんなむちゃなこともあり得ないし、役所に対して気に食わぬことかあっても、神様のお手をわずらわすこともなかろう。この種の話が忘れられて行くのは、時代の変化によるもののように思われる。
2004.10.12

鼻取りをした如来 世の中が乱れてくると先祖様の供養どころか神社、仏閣のことなど考えにくくなるのが人間でしよう。この話は如来さまが少年に姿をかえ、人間のあるべき生き方を教える寓話でしょう。お互いが助け合える社会こそ好ましい環境でしよう。仏様の意図はそこにあったのだと思います。戦国時代のこと、武蔵国八王子村の金持の百姓の家に一人の少年が訪ねて来て 「馬を一日貸してくれませんか」と、いった。この家の主はびっくりした。出しぬけに、しかも見知らぬ少年が、馬を貸してくれ、というにいたっては、まずたいていの人が驚くのもむりがない。まして馬は大切な家畜である。強欲でその名を知られていた金持の百姓は、心の中では「あんな青二才の少年に、大事な馬など貸せるものか」と思っていたが、相手がまだりんごのようにあかいほっぺたをしている少年なので、つい心を許し、からかってみた。 『馬をな……?………それで馬をなんに使うつもりかな」 「田植えをするのです」 「田植えを・・・」 金持の百姓はいよいよ驚いた。そして、顔がまるで口ばかりかと思われるように大きく口をあけて 「あっははは!・あっははは!」と、大声をたてて笑った。だが、少年はしんけんな表情で相変らず百姓の前に立っていた。 「小僧一体全体どこの田植えをするのかな?」 「妙観寺の田圃です」 この言葉を聞くと、百姓はどきっと胸に突き当たるものがあった。 当時の日本は、室町幕府の中心にいた足利将軍の勢力が衰えて、各地の豪族が起ち上がり、相互に勢力争いをしていて、戦争の絶え間がなかった。そして、寺についていた百姓もいつしかいなくなり、寺の田も荒れ果てていた。だが、すっかり人心の荒んだ時代のこと「お寺のことまでかまっていられない」というのが、当時の百姓たちの本音だったろう。仏のご利益もあまり期待が持てなかったのだ。 「妙観寺の田圃を……」と、金持ちの百姓は不思議そうに首をかしげた。妙観寺には、こんな少年がいるはずがなかったからである。だが、つぎの瞬間「新しく寺に来た小僧だな」と、百姓は直感した。話がここまで進んでしまった以上、百姓は馬を貸すのか貸さないのか、はっきりした返事をして、決着をつける必要が生じてしまった。もうゴマカシはきかなくなってしまった。それに、さすがの強欲な百姓でも、如来さまを供養する米を作るためだと聞いては、「いや」とはいえず、しぶしぶ馬を貸すことにした。 その日の夕方、例の少年がドロまみれになって、百姓の家に馬を返しにやってきた。馬を小屋に入れたと思うと少年の姿は消えてしまった。百姓が妙観寺の田圃を見に行くと、広々とした荒れ田が、一日であおあおした水田にかわっているではないか。 百姓は最初、わが目を疑った。一日で、あの荒れ果てた田圃がこんな美田にか・わるはずがないと・・・。しかし、目の前の事実はどうしても疑いようがなかった。金持の百姓は胆をつぶさんばかりに驚いた。百姓はその足で荒れ果てた妙輯寺に高齢の住職を訪ねて、少年に馬を貸したいきさつを話した。肯きながら百姓の話を聞いていた住職は、 「それは、この寺の本尊、阿弥陀如来の化身かも知れない」といった。 金持の百姓は、この言葉を聞いて、いよいよ感動してしまった。荒れ果てた寺の田植えを本尊自らが行ったとは・・・・。 この話は、たちまちのうちに世の中に広がって行った。下剋上の時代だけに、このような話が、もてはやされたのかも知れない。そして、この寺の如来さまは馬の鼻取りをしたというので「鼻取り如来」と呼ばれるようになった。強欲な金持の百姓は、この事件があってから、すっかり心を入れ替え、敬虔な仏の信者になり、心の温かい人間になったという。もちろん、妙観寺の田植えは、もう阿弥陀如来の化身のご出動を願うこともなく、この百姓たちの手で毎年とどこおりなく行われたことだろう。 この如来は、八王子市横山町の極楽寺の本尊になっている。如来像は、丈が三尺余り(約一メートル)で、鎌倉時代の快慶作と伝えられている。左足をわずかに踏み出したポーズのこの立像は、微笑をたたえ、如来像を拝する人に恵みを与えているような感じを抱かせる。微笑しているので、歯がわずかに見えている。このため「歯吹き如来」の名もある。
2004.10.11

民話は誰かが話したことが言い伝えられたに違いない。神仏を信仰することの大切さを教えるために作られた話かもしれない、喜運寺の地蔵様の肩のあたりが本当にかけているのか検証してみたいですね。興味がありますね。 豆腐やの吉兵衛が店をしまってからその日の売り上げを勘定しながら首をひねった。「音次このカシの葉っぱはどうしたのだ。近頃ちょいちょい木の葉っぱが入っているぞと小僧をよびつけた。「そんなはずはありません。私は必ずお客さんからいただいたお金はちやんとその箱の中に入れてますよ」 二人は不思議なこともあるものだといいなから、あしたからはお客からもらう金を厳重にチエックすることにした。 その次の夜の勘定のときはお金だけだった。二日日の夜勘定した時にはまた葉っぱか一枚混じっていた。二人は顔を見合わせて、お互いにきょう店に豆腐を買いに来た客の顔を思い浮かべているふうだった。ややあって吉兵衛がいった。「いっも来るかわいい小坊主が今日は来たな。あの小坊主の姿が見えた日には必ず葉っぱが入っているようだ。どうもあの小坊主があやしい」 そこで二人は小坊主が来たら跡をつけることにした。 次の朝、小坊主か姿を現わし、油揚げを買って行った。吉兵衛は小坊主から受け取った金をためつすがめつ見たが何ら不審な点のない正真正銘の金にちがいない。 ところがそこへ、小坊主の跡をつけた音次がいきせき切って駈け込んで来た。そして「小坊主は喜運寺の前で、姿が消えましたと報告した。 当時、喜運寺のそばの太郎兵衛山や猫松橋あたりには、毎晩狐が出て人間をだますという話が信じられていた。このため吉兵衛は、カシの葉っぱの件は狐の仕業だとひとり決めしていた。こんど来たら化けの皮をはいでやるといって、吉兵衛はくやしがった。 その次の朝、まだ夜が明けきらないうちに小坊主がやってきた。そして、また油揚げを買った。小坊主は油揚げを籠に入れると、ぶらぶらと表へ出て歩き出した。吉兵衛はこの小坊主の跡を追った。そして、吉兵衛は豆腐切りの大きな包丁で、後から小坊主に切りつけた。小坊主は「きゃあー』と、叫び声をあげたと見る間に姿を消してしまった。 吉兵衛が「おーい早く誰か来てくれ」と助けを求めた。音次か駈けつけてみると、古兵衛が一人うろうろしているだけでほかになんの姿も見えない。 「どうしたんです。親方!」「小坊主は狐に違いない。いま、このほうちょうで切りつけたら、姿が消えやがった 二人して近くを探し回ったか、小坊主の姿はどこにも見当たらなかった。なま殺しのままにしておくと、あとの崇りが恐しいというので、二人は提灯で照らしなからもう一度探した。その結果、油湯げの入った籠と血のついた石のかけらかあっただけだった。よくよく見ると道のあちこらに血がしたたっていた.二人は気味わるげに点々とこほれている血の跡をつけていくと喜運寺境内の地蔵堂の前でとまっている。てっきり、狐の奴が逃げ場を失って地蔵堂の中にかくれたのだと、二人はそう信じた。騒ぎを聞きつけて、寺や近所の人か集まってきた。そこへ地蔵堂から、この寺の住職か飛び出して来た。地蔵様の肩から血が流れている」一瞬、みんなは黙ってしまった。ややあって、こわごわ地蔵堂の中をのぞき込んだ。確かに石の地蔵尊の肩のところが欠けている。吉兵衛か拾ってきた血のついた石の破片を肩のところにくっつけてみた,ひったり合うではないか。 「地蔵様が、小坊主に姿をかえて、油揚けを買いに行ったのだ」-近所の人たちはそういって、この油揚げ好きの地蔵さまに、豆腐や油揚けをかわるかわる供えへ、それ以後例の小坊主の姿が豆腐やの店先現れなくなったという。今からおよそ二百七八十年前の」話である。 この話の地蔵尊は、文京区白山二丁目、喜運寺境内に地蔵堂にあったといわれるか、米軍機の空襲で寺もろとも焼亡した。その後、寺は再建されたが、地蔵堂は復活せず、地蔵尊は本堂に同居している,地蔵像の肩は欠けている.猫俣橋は埋められ跡かたもない。太郎兵衛山は、この寺の近くの高台地だといわれているが、今では住宅か密集していて、狐の住むスキもない。この話テレビとリモコンのオモチヤで遊ぶ現代子には受けるだろうか。
2004.10.10

神田紺屋町の音八じいさんは人の好い正直者で通っていた。ある日、じいさんは、花房町(今の万世橋付近)の古道具屋で古ぼけた車長持を五百文で買った。車長時というのは長持ちの下に車がついていて、地震や火事の時、着物や布団を運ぶのに便利なように作られていた。これは明暦の江戸大火後うまれたが、大火の時、われもわれもと車長持をひっぱり出すので往来が大混乱し、かえって長持ぐるみ燃えてしまったり、焼け死ぬ人も出たほど。こんなことから、幕府でも一時車長袴の使用を禁じたことがあった。音七じいさんが買った寛政(一七八九一一八〇一年)のころには、すっかり長持ち人気が落ち、古道具屋の店先でほこりをかぶっていた。 ところか、音七じいさんの家に車長詩を持ち込んでからどえらいことが起こった。買入れた車長持から火の玉が飛び出したからである。 じいさんが車長持を買った日は夕方から雲が低くたれ込め、夜になってから風が出てきた。川岸に植えてある柳の枝が南からの生暖かい風にわずかに揺れていた。 その夜、音七じいさんの家の前を通りがかった者が、じいさんの家から青白い尾をひいた火の玉が飛び出したのを見たといいふらした。この話は、たちまち町中乃大評判になった。曇った晩はこの不思議な火の玉が十も二十も飛び出すというのである。見物人がこわごわ音七じいさんの家を取りかこむ騒ぎになぅた.そして、ついに「幽霊屋敷だ」という者まで現われる顛末である。なかには『あの家は、むかし首つりがあり、その怨霊が火の玉になって現われるのだ』と、知ったかぷりをしていいふらす者も出た。さすがの音七じいさんも、これにはすっかり参.,てしまった。薄気味の悪い思いをするよりいっそ引越そうということになり、音七じいさんは車長持に家財道具を積んで四谷の方へ移った。 「やれやれ、これで災難からのがれたわい」といって、その晩、じいさんはゆっくり寝ようと思っていた。ところがどうしたことだろう。その夜もまた火の玉が屑ぴ出したのである。二つ三つの火の玉が車長持の周りをぐるぐる回っていた。 貪七じいさんが腰を抜かさんばかりに驚いたのもむりがない。その夜ひと晩まんじりともせず、夜が明けるとともに神田花房町の例の古道具屋に車長持をひっぼぷ、行りた。 「とんでもない買物をしてしまった。この関買った車長特には何かの祟りがあるのか、よなよな火の玉が出て困る。引き取ってもらいたい」 と、じいき・んは古道具厭に淡し込んだ。だが、ど・っしたことか、古道具屋は「引き取れぬ」の一点張りで、じいさんの要求に応じようとしない。じいさんもこん負けしてまた重い足どりで四谷まで車長袴をひっぱって帰った。気の好い膏七じいきんらしい。そして車長袴を家の前にほ’たらかしておいた。欲しいという人でもあったらただでくれてやろうと思って……。 眼目汲、見知らぬ男の子が車優待の前に立っていた。音七じいさんの顔をじぅとーつめながら車艮持の底をこつこつたたぎなからにやにやーている。話しかけても話が通じない。この少年は睨だったのである。この少年が車長袴の底をあ求りたたくので、音七しいさんがよく調べてみると、底が二重になっていた。そこに引き出しがついている。あけてみて音七じいさんはびっくりぎょうてんした。やまぶき邑をした慶.艮小判がざくざく出てきたのである。数えてみたらざっと5百両あった。 音七じいさんは町役人を通じて奉行所に届け出た。それ以来、火の玉は全く出なくな,てしまった。火のの玉はこの小判だ、たのかと、音七じいさんは初めて火の玉の原因がわかったのである。 奉行所で御勤役の筒井伊賀守が調べてみたか元の持ち主は全くわからなかっへこのため小判の発見者の音七じいさんに五百両の大全か転げ込んだ。 五百両といえば、現在数千万円はする。正直じいさんかドクをしたよき時世の話である。
2004.10.09
延宝(1673-1681)の頃篠崎村(江戸川区)に喜八としのといういたって仲のよい夫婦がいた。この夫婦は仕事に精を出して働くので、生活も楽でこれという不満はなかったが、ただ一つ子供のないことが悩みの種だった。 冬のある日、喜八は土くれの上に鍬をたてて寄りかかりながら、妻のしのに話しかけた。 「子供のことはあきらめた。お前をせめているわけではないが、そのかわり、五右衛門さんのところのサルを譲り受けようと思うがどうだろう。少しはさびしさをまぎらわすこともできよう」 だまって聞いていたしのはすぐ賛成した。喜八はさっそく五右衛門を訪ね、米サルの親子を交換して、わが家に連れて帰った。喜八夫婦はサルをわが子のようにかわいがったので、よく二人になついた。 それから一年ばかりたった、ある朝、喜八はいつものように畑に出た。しのはせんたくしようと思って、木灰を熱湯にとかした液をオケに入れたまま、汚れた着物などをとりに家の中に入った。その間、オケの縁にあがって遊んでいた子ザルが、熱湯の中に落ちてしまった。子ザルの叫び声を聞きつけ、真っ先に駈けつけ子ザルを引き上げたのは親サルだった。しのの知らせで帰ってきた。大やけどした子ザルは夫婦の温かい看護のかいもなく、間もなく死んだ。夫婦は子ザルの遺体を野原に手厚く葬った。夫婦にと子ザルを可愛がっていただけでけ、悲しい災難だった。しかしできてしまったことで、いまさちどうにも取り返しはつかない。くよくよしても仕方のないことだ。夫婦はこの事故を忘れるように努めていた。ところが、親ザルの寂しさは人間と違って、あきらめようのないものだったようだ。あの子ザルの死亡事故以来、悲しそうに泣き続けて、餌を食べなくなってしまった。喜八は親ザルを膝にのせて、「お前の子供をいとおしく思う気持はこのわたしにもよくわかる。だけれど、子ザルは自分でオケに落ちたのだ。わしら夫婦が悪いわけではない。まして、お前が悪いわけではないのだ仕方ないではないか。もうかなしまんでくれ」と、まるで人間に語りかけるようにして、慰めた。親ザルは、丸いドングリ目を喜八の方に向けて黙って聞いていたが、喜八の独り言が.終ると、膝から飛び降りて台所の方へ歩き出した。「何をするのだろう」ー不審に思った喜八が、親ザルの跡をつけていくとーー 喜八はびっくりした。親ザルが、どこからみつけたのだろうか、子ザルが落ちたオケの蓋を持ち出してきて、喜八の方を見ながら、静かにオケの上にのせたではないか。それはまるで、人間の不注意をなじるようであった。喜八はがくぜんとした。喜八は親ザルのしぐさが終ると、すぐ親ザルの頭をなでながらいった。「オケの蓋さえしてくれたら、子ザルは熱湯に落ち込まなかったというのだな、ものが言えないので行動で示したのだと思うと、喜八には、親ザルがふびんでならなかった。 喜八はしのを呼んで、一部始終を話して聞かせた。しのは「それはかわいそうなことをしました。気がつかなかったとはいえ、わたしの手落ちでした」といって泣き出した。 こんなことがあってからも、親ザルのかなしみは癒されず、だんだんにやせ細っていった’。これには喜八もほとほと困り果ててしまった。そして、ついに業をにやして、喜八は「しのも悪かったとわびているではないか。そのまま泣きやまないのならこの家を出て行け」と、怒鳴りつけた。親ザルは喜八にぴょこりと頭を下げると、足をひきずるようなかっこうで出て行った。怒鳴りつけたものの、喜八は心配のあまり跡をつけた。それとは知らず親ザルは子ザルを埋めた野原へ行き、いっとき声をはり上げてかなしそうに泣いた。それから子ザルを掘り出して両腕でしっかり抱きしめて歩き出した。恐怖と好奇心にかられた喜八はなおも親ザルの跡を追った。しばらくして川べりに出た。あっという間もなく、親ザルは、子ザルの遺体を抱いたまま深い川の流れへ身を投じた。われにかえった喜八が川べりに走り寄って、親ザルを呼んだが、サルの姿は再び水面に浮かんでこなかったという。この話を伝え聞いた村人たちは、サルだって子を思う親の心は人間と変るところがないと言って、袖を儒らしたという。いまではこの話を知っている人は少ない。親ザルが身を投じた川は江戸川ではないかといわれている。また一説に
2004.10.08

恋は湖を渡って 調布深大寺深大寺・虎柏神社は東京のオアシスの一つですね。日本人の持つ素直に神仏を尊崇する気持ちを次の世代にも伝えたいですね。万葉と渡来人の里・狛江郷を巡る道狛江郷の渡来人 「ぴゅーん」 弓矢が軽いうなりを残して飛んでいった・、木立の間から走り出したシカに見 事に的中した。そのつぎの瞬間、シがは高く飛び上がると、一層荒々しく走り去ろうとした。矢は背中に突き刺さったのである。つぎの矢は、頭に食い込むよう命中した。シカは二歩、三歩ほど歩いたろうか。必死になって逃げようとしたがヽ力つきてどっと倒れた。どす黒い血がふき出した。狩衣姿の男が、倒れたシカのところにかけ寄った。 「大きな獲物だ.いつになく大きい……」と、満足そうにひとりごとをいった男は、多摩川べり柏野(調布市)の里親右近長者である。里長といえば、村長みたいなものだろう。千二百余年も前のことである。 右近長者は狩りが何より楽しみだった。毎日、山野をかけめぐって鳥や獣を追っていた。 ところが、この長者の妻、虎女は慈悲の心が深く、いつも夫の狩り好きをにがにがしく思っていた。「罪のない鳥獣を影殺さない……」とヽ.たまりかねた虎女はある時、夫を戒めた。さすがの狩り好きな長者も、虎女の泣いて訴える言葉には耳を傾けなければならなかった。それ以来、長者の狩り姿を見た村人は一人もいなかった。 狩りをやめてから長者の家庭はなごやかな空気につつまれていた。この夫婦の間には一人の娘がいた。年ごろになるにつれ、美しさを増していった。そのころ、いずこからともなく、一人の立派な青年が村に現われた。青年の名は福満といった。村の人たちは「都のある大和から来たものだろう」と、うわさした。長者の娘はすっかり福満に魅せられてしまった。娘は恋のとりこになってしまったのである。 このことを知った右近長者は激怒した。 「とんでもない娘だ。どこのだれともわからぬ、すじょうの知れない男を婿にしたいとは、どうしたことだ」 しかし、どんなに父の長者が激しくしかっても、あかあかと燃えあがった、娘の恋の火の手は消えるどころか、ますます、その勢いを強めていくだけだった。これをみた長者は、二人の仲をさくために、近くにある湖の島に娘を閉じ込めてしまった。これにはさすがに若い二人も、なすすべがなかった。 ある日福満は波静かな湖の‘ほとりに立って、遠くに霞んで見える島をのぞみながち恋人に会いたいー心から神に祈った。「そのむかし、三蔵法師が経を求めて天竺行く途中、、流沙河がどうしても渡れなかったが、水神の深沙大王 に祈りヽ無事大河を渡ることができたと伝えられています.『 渡していただきたい。かなえて下さいましたら、寺を建て、一生の守り本尊にします。どうかこの願いを聞き届けて下さい」福満の祈りが終るか終らぬうちに、彼の前に広がっている鏡のような湖面に、ぽっかりと大ガメが浮かんだ。カメは、ゆうゆうと波打際へやってくる。福満がカメの背に乗ると、静かな湖を、恋人のいる島を目指して進んだ。やがてカメは 島に着く。湖面を渡る福満の姿を眺めていた娘は、いち早く波打ち際に迎え、手をとりあって再会を喜んだ。 この奇跡を知って、驚きかつおののいたのは、ほかでもない長者だった。「神の助けが借りられるあの男はただ者ではない」ー 長者はついに二人の結婚を許した。かくして長者の家庭には再び平和が訪れた若いニ人の間は男の児が生まれた。この児は成長するに従って、神童という評判がたっていたのである。青年期を迎え、この’天才’は、出家して僧になりた。そして、唐に渡り法相宗学を学んだ。学が成り、帰国後、父親が神に誓った通り、この村に一寺を建立した。この寺が、調布市にある、古刹深大寺で、この憎が満功上人だという。寺の近くにある虎狛山祇園寺、虎狛神社は、館跡に長者夫婦を祭ったものと伝えられている。この話は、満功上人の徳をたたえていつとはなしに作られたという。また、一説には、奈良時代、武蔵の住民に仏の道を教えるために作った話だともいわれている。
2004.10.07

敷石につかまった盗人他人の品物を盗む、万引きをした、中学生、や高校生、を問い詰めると、品物を返せばいいんだろう。と言い返す、本人、親が多いと防犯係りの方が嘆いておられました。私のサイトのホームから心の東京革命のところをクリックしてお母さんお父さんのための子育て講座へリンクしてみてください。 真夏のある朝、賢融和尚はいつものように早起きし、小僧たちと一緒に境内を掃除をしていた」そこへ小僧が走ってきた。「大変です。大きな男が不動様の前で、助けてくれと泣き叫んでいます」和尚はほうきを持ったまま駈けつけた。見ると、一人の男が階段下の敷石の上に尻もちをついたままもがき苦しんでいる「すみません。つい悪い心を起こして、こんな目にあいました。お坊さんお助け下さい」男は和尚の姿をみると、汗と苦痛にゆがんだ顔をあげてあわれみをこうた。 お寺の付近の民家へ、このごろしきりに泥棒が入ると聞いていたので、和尚はこの男が盗人だとすぐわかったが、おだやかにこう聞いた.、「お前さん、大きな袋を持ってなにしていなさるのだ」村のはずれの家で鎌と下駄を盗み、その隣の百姓家の納屋からお米を袋に一杯盗んでのの帰り道、お寺の前を通りかかりました.よせばよかったのに、つい欲が出まして、ついでにお寺の仏具もと思ってお堂に入りました。蝋燭立てと仏像を盗んで袋にいれ、急いで階段をかけおり、この敷石を踏んだとたん、足が動かなくなりました。この石から絶対離れません。そのうちとうとう夜が明け小僧さんに見つけられてしまいました。仏像を盗もういう大それたことしをしたので、仏様の罰があたったのです。もうこれからは、決して悪いことはいたしません。どうかお許し下さい」と、大声をあげて泣き出した。 「またどうして盗みなどをして人様を苦しめるのだ。お金がそんなにほしいのか」と尋ねた。問われるままに男が話した身の上話はこの男は夫婦と子供二人の四人暮しで、妻と二人で名主の家の手伝いをしたり、近所の人から頼まれる野良仕事などで稼ぎ、どうやら貧しいながらも楽しく暮らしていた。ところが、二年前ふとしたことから妻が病いの床に伏したため、少々あった蓄えもすぐ薬代にかわってしまった。それでも一向にききめがなく暮らしはは苦しくなるばかり、思いあまって、ふと盗みを働いたのがやみつきとになりそれ以来、いろいろと悪事をかさねてきたという。涙とともにざんげする男の表情から、本当に前非を悔いていることが読みとれた。「よくざんげした.だがよく考えてみよ.この世の中には、苦しくなっても人さまのものに手をかけず、じつと我慢してまじめに働いる人がいっぱいいる。人生には苦難はつきものだ。仏像を盗んで足が敷石にくっついたのは、仏像がお前を改悛させようとして罰したものだ。よくそこのところを理解できたろうな」と和尚はやさしく、この男をさとした。そして、本堂に入って不動様に祈るといままで動かなかった男の足がたちまち敷石から離れたという。 全てをざんげして改俊した盗人は、正しい人間に生まれかわりますと、賢融和尚に固く誓い、その足で盗品を一軒一軒回って返し歩いた。それからというものは、この男は以前にもましてよく働き、再び幸せな一生を送ったという.これは寛永 (一六二四-一六四四年)ころの話である。この話に登場してくる寺は、江戸川区東小岩二丁目にある善養寺で、主役の不動尊は今も健在だ。盗人の足がくっついて離れなくなったと伝えられる敷石は、いまもこの寺にある影向の石だと伝えられている。賢融和尚はこの寺の五代目にあたる住職で、名誉の誉れ高く、その名は江戸中に聞こえていたという。この話も名僧につきものの伝説の一つであろう。
2004.10.06

身代わり地蔵さん働き者のときさんの信心の厚い態度を嫌った長男の嫁さわはときさんをいじめた、焼き火箸で顔を押し付け髪を引っ張り引き倒した。今でいうドメスティックバイオレンスの一種。その報いに「さわ」はまもなく死んだ。地蔵様の罰があたったという話です。思いやりの心をお互い持ちたいものです。 下総 (千葉県)の主家を追われた下女の「とき」は、少しばかりの身の回りの品と、地蔵さまを入れた袋を背負って江戸へやってきた。あちらこちらと奉公先を探した末、本郷(文点区)の漬物屋に住込み女中に入った。「尊い地蔵さまを自分のような卑しい女が、いつまで.も持っていては罰があたる」落ち着いてみると、ときにはこう孝えるようになった.そこで近くの徳性寺を訪ねて地蔵さまを預かっていただきたいと頼み込んだ。下女と地蔵さま-!このとりあわせに、住職は不審の念を抱いた。そして、この不思議な関係を根掘り葉ほり尋ねた。ときは下総の柏下の豪農、佐八のころに雇われていた。佐八は熱心な地蔵さんの信者で、屋敷内に地蔵様さまをまつっていた。そして、毎日地蔵さまに米や団子を供えるるのが働き者のときの勤めだった。こんなことから、ときも、いつとはなしに地蔵さまを深く信仰するようになった。「佐八さんところのおときさんを、ちよつとは見習えー信心も深いし、働き者だ。」 こういっての老人たちはなまけ者を戒めるようになった。数年後、佐八がひよつこり死んだ。すると佐八の長男長兵衛の妻さわは、まるで人が変っように、ときにつらくあたり散らした。ときが野良仕事から帰って夕食の支度に忙しい時でも「お茶を持っておいで、これをすぐせんたくしなさい」と、ときの顔さえみると、つぎからつぎへと用事をいいつけて、こき使った。それでも、ときはひとことの不平もこぼさず一生懸命になって働いた。こんな時でも以前にも増して地蔵さまを深く信仰した。村人たちはまた、こんなこと、を言い出した。「かわいそうなのはおときさんだ。おときさんが座ったところを見たことがない」さわさんはひどすぎる.長兵衛さんはなぜ黙っているのだろう。たまにはおときさんをかばってやればよいのに・・・」「お人よしの、長兵衛さんにそんなことがいえるものか」村人同情は、ときに集まっていった。・ 佐八の一周忌が来た。この日もときは薄暗いうちから起きて働いた。ちよっとの・ 暇をみて団子を地蔵さまに供えているところを、さわに見つかった。さわは額に青筋を立てて怒鳴り散らした。「石の地蔵に団子をあげたとてなんのご利益があるものか。このごくつぶしめが」はきだすようにいった場句、さわは、目をむいて駆け寄ると、ときの頭髪をつかんで引き倒した。その上、やけ火箸でときの頬を打った。ときが泣きながら、手で顔を覆った瞬間、ときは地蔑さまの姿にかわっていた.驚いたことに、ときの顔からは焼け火箸の跡が消えでいた。その代わり、地歳さまの顔から血が流れていたという。・・・恐しくなったさわは「今日限り、この家を出て行け.地蔵像も一緒ににつれて行け」と、毒々しく捨てぜりふを残して奥の間へ逃げ込んだ.こんなむごい目にあわされても、ときは、この家において下さい、と泣いて頼んだが、さわは「出て行け」、の一点張りでときの願いを聞き入れようとしなかつた。ときは、やむなく故郷をあとにして江戸へ出てきたのだった。一部始終を聞き終った住職は「よくわかった。この寺で引き受けてあげよう」といった。そして、地蔵さまが身代わりになったのも、ときの信仰心が厚かったからだ、といって合掌した。この話はたちまち江戸中にひろがった。そのうち誰いうとはなしに傷除けの地蔵さまだといわれるようになり、お参りする人々の姿が跡を絶たなかったという。一方さわは、ときが家を出てから間もなく死んだ。村の人たちは地蔵さまの罰があたったのだと、陰でそういっていた.ときがその後、どうなったかについてなんのいい伝えも残っていない。この話はおよそ二百年前のことだといわれている.話の徳性寺は文京区本駒込一丁目にあったが、昭和二十年四月十三日の大空襲で丸焼になった。その時、ときが預けたと伝えられる石の地蔵像も行方不明になったという。
2004.10.05

大力平三の武勇伝 「どうもしやくにさわってしようがねえ」平三は、さもくやしそうに、そうそう.いって、熱い茶を一口がぶっと飲んだ。宝暦八年(一七五八年)五月二十日― 旧暦だから、いまの六月末から七月初旬だったろう-のひるさがりのことである。この日は目黒不動の縁日で善男善女が街道筋にはひきもきらずというところ。平三も市五郎、又市の二人の親友と誘いあって、不動さま参りに深川からやってきたのだ。途中・街道博打にひっかかったのが平三だ.不動さま参りの人出ねらって開帳したイカサマ博打だったのだろう。平三は、たちまち三百文ばかりまきあげられてしまつた。博打にはいささか自信のある平三のことだから、カッカ.とすづかり熱くなつてしまつた。みかねた二人の同輩が「また帰り途にしたらどうだ」と、平三をなだめて、やっと先を急ぐことになった。ところが・、平三はまだおさまらない様子だった.目黒川に沿って広々とした田んぼがひらけている。しばらく行くと茶店があった。平三の興奮を少しでも鎮めようと、三人でお茶を飲むことにした。が、無念やる方のない平三は、ますます興奮する。不動さま参りなど、そっちのけの態である。この三人は深川木場に働ぐ人夫だった。荒っぽい仲間の中でも平三の力持ちは通って、いる・たいした大男でもないが、バカ力がある。けんかといえば、三度の飯より好き。けんかがあったら買って出る。一度も負けたことがない。また、博打ときたらけんかにおとらず好きで、じょうずだった。この平三が見事にしてやられたのだかから腹の虫が納まらないのもむりがない。「なんとしても合点がいかねえ。もし八百長だったら、ただじゃおかねえ。どうだ、やっつけようじゃねえか」 ―平三は友人二人にはかった。平三の友だち二人も「合点だ」とばかり賛成した。このゲームは単純なもので銭の裏表をあてさせるものだった.竹の筒に一枚の銭をいれてれて、ガラガラ振ってぱっと急造の台の上に筒の口の方を下にむけて『丁』とか「半」とか言ってかける。一文,二文はって客が勝てば倍にして返す。負ければそのまままきあげられる。三人が先刻の博打場まで引き返すと、黒山の人だかり。盛んに筒取りが叫んでいる平三は人をかきわけて筒取りのところに近づいた.「さつき一貫ばかり負けた。少し返してもらおう」と、威勢のよいところを見せた。一貫とは千文である。大体一両の四分の一というところだ.筒取りはからからと笑った。じようだんも休み休みいえ.きさまがいくら負けようが、こっちの知ったことじゃあねえ.ビタ一文返せるもんか・・・・」 この言葉を言い終るか終わらないないうちに平三は、筒取りの胸ぐらをひっつかむと、高々と差し上げた。次の瞬間、筒取りはすぐ前のドロ田の中に放り込まれた。これを見たグルの連中が三、四人、平三に飛びかかったが、平三の相手ではない.ぽんぽん投げ飛ばされ、たたきつけられた。これに市五郎、又市が加勢した。十数人いたヤクザたちはとてもかなわぬと思ったのか、ちりぢりに散って逃げてしまった。乱闘の跡には銭が散乱していた.三人でかき集めたら、四貫ほどもあった。ドロボウの上前をはねるつて、このことだ」と、三人は大笑いして、この場を立ち去ったそこからおよそ五六町〔5,6百メートル〕も来たところ、棒を持った十数人が、平三ら三人を待ち伏せていた物陰からいっせいに飛び出し「やっちまえ!」の掛け声と共に、平三らにとびかかってきた平三ら三人は左右に飛びはねながら相手の手の捧をたたき落とし、逆襲に転じ棒を風車のように振り回し、相手をたたきのめした。けんかが好きだというだけあってどきょうがある。大力プラス度胸。これに相手方はすっかり呑まれ、またしてもばらばちに散ってしまった。 平三らは「久しぶりに胸つかえがおりた」などと、深川目指して引き揚げた.′これは二百年以上前の江戸庶民の生活のひとこまだが、いまもあまり違わないようだ。平三は、五、六十貫 (200キロ)もある右を軽々と持ち上げた大力の持ち主で、深川の富岡入播、鈴ケ森八幡にある庭石を差し上げたことで、江戸中に彼の大力が知れわたったという。だが、平三の差上げた石がどの石か、いまはわかっていない。
2004.10.04

子ザルの恩返しこの世の中に不可解なことが、ありますね。「虫の知らせ」とかいって遠く離れた地に住む友人や両親がなくなるちかなくなった方の夢を見たとかです。猿が助けた和尚さんは袖を引っ張られたために命を救われたという話、善因善果のお話ですね。 元禄 (一六六八)―(一七〇四年)のころ、神楽坂(新宿区)の松源寺という寺に、 徳山という住職がいた。のどかな春のある日、住職は向島の壇家から法要の招きを受けた。そこで小坊主一人をつれて出かけた。二人が隅田川の竹屋の渡し場までくると、大勢の花見客が舟を待っていた。春霞がたなびき、向島のあたりはかすんでいる。住職は土手に腰をおろし隅田川の風物にみとれていた、間もなく舟が着いたので腰を上げると後から法衣の裾を引っ張るものがいる、振り向くとそれは一匹の小ザルだった。「おかしな猿だ、」と、住職はそう思いながら岸の方に歩きはじめた。すると、また追っかけてきて裾を引っ張る。住職は不思議に思って腰をかがめ手を差し出すと小ザルは逃げようともせず、住職の膝にひょいと飛び乗った。 あまりに人なつこい振る舞いに。住職は猿の頭をなでながら「お前はどこの猿かななぜ私の着物を引っ張る気だ。」とひとりごとをいっているところへ、猿に逃げられたといって一人の男が駆けててきた。橋場(台東区)で酒屋をしている武蔵屋という檀家の主人だった。二人が立ち話をしているうちに渡し舟は住職を置いてきぼりにして漕ぎ出してしまった。ところが、舟が川の中ほどに差しかかったころ、舟は突然ひっくりかえり沈んでしまった。すぐ助け舟も出たがたくさんの人がおぼれ死んだ。住職はしばらく横牲者の霊をとむらうため合掌していたが「わしだけがサルのお陰で災難をのがれた・・・」と、つぶやいた。 武蔵屋の主人は「サルの恩返しでしょう。このサルこそ、御坊からいただいたサルですよ」と、膝を乗り出してきた。しばらく小首をかしげていた住職は一年前の出来事を思い出していた。松源寺は周囲を樹木や雑草に包まれていて、昼間も薄暗いところだった。寺の境内にはときどきサルがやってきていたずらをするので住職も因っていた。しかし、人畜に害を与えるほどのいたずらもしていないので、住職はそのまま放置していた。ある日、住職が外出した留守中に、小坊主とその仲間がサルをワナにかけて生捕りにした。帰ってきた住職はこれを見てかわいそうに思い、「別に悪いことをしたというのではないのに、売り飛ばすのはかわいそうだ。わたしがお金をやるから放してやってくれ」と言っているところへ武蔵屋の主人が来合わせた。そして武蔵屋が「わたしに売って下さい。かわいがって育てますから・・・」と引き取っていった。それきり住職は猿のことを忘れていた。その猿が一年後にひょっこり姿を現し渡し場の難から救ってくれたのである。住職はあらためて武蔵屋に「サルに助けられるという尊い体験を初めてした。恩返しの意味でサルを大切に育てます。このサルを私に譲って下さらぬか」と申し入れた。武蔵屋も心よくサルを住職に譲った。それ以来、猿は松源寺で住職の手厚い保護を受けながら暮らした近くの人々はいつしかこの寺を「さる寺」と呼ぶようになった。お参りにに来る人たちからもかわいがられたが、数年後に死んだ。この物語りはその後ながく語りつたえられたという。松源寺はその後明治三十九年神楽坂から現在の中野区上高田一丁目に移った。その時、門前に猿を彫った石碑を建て、その台石に「さる寺」と刻み、つけた。石碑はいまも門前に残っている。しかし、「さる寺」をしっていてもさるの恩返しの話をしっている人は今はほとんどいないだろう。
2004.10.03

正直者は損だ、上手に世間を渡った方が「勝ち」こんな言葉をよく耳にします。確かにそのことも事実でしょう。しかし、ながい一生のことを考えるとそうでないことがバブルの時代を過ぎて実証された、幾多の事例を見聞しています。やはり正直でありたいですね。熊本細川藩の江戸詰めに、上田という信心深い足軽がいた。彼はかねてから仏像を手に入れたいと思っていたが、足軽の収入ではそうやすやすと手が出なかった。ある時、上田は古物買いのじいさんに「手ごろの仏像の出物があったら頼む」と、依頼した。 ある秋の日のこと、古物買いのじいさんが上田を訪ねて来て「だんな、掘り出ししものですぜ」といって、一体の古ぼけた阿弥陀の像を持ち込んできた。仏像は一二尺(約六〇センチ)余りで、古色蒼然としているが、それだけに何か由諸ありげに思われた。上田はすっかり気に入った。そして三百文で買い取った。 上田はさっそく仏像のほこりをはらい、みがきをかけはじめた。ところが、台座にみがきをかけているうちに、台座がパカツと抜けてしまった。そして、紙包みがでてきた。中から小判がざくざく、山吹色に輝いていた。数えてみるとちょぅど三十両あった。彼はびっくりした。それから考えた。「だれかが災難に備えて蓄えた金だろうが、しまい忘れて、仏像を売ったに違いない。これはぜひ、これを売った人へ返さねばいけない。仏像まで売るのだからよほどこまってのことだろう・・・」 数日が過ぎ、古物買いのじいさんが顔を見せた。上田は仏像の台座が抜け、三十両もの大金が出てきたいきさつをじいさんに話した。売り主は、麻布の古川橋付近に住む浪人とわかった。 上田は浪人宅を訪ねて、例の三十両を返そうとしたが、この浪人、大変ないっこく者で「拙者は全く覚えがない。金は受け取るわけにはいかない」と、どうしても受け取ろうとしない。「受け取ってくれ」「いや、受け取るわけにはいかぬ」の押し問答が続いた。これでは、いつまでたってもらちがあかない。結局、家主が仲に入って話をつけた。条件というのは、三十両は浪人が受け取る。そのかわり、浪人は上田の好意に報ゆるため、わずかに残っている、先祖伝来の古茶碗を上田に与える、ということで、両者は納得した。 上田はその茶碗で朝夕お茶を炊んで満足していた。と、ある日、何かの用事があって、同藩の茶坊主が上田の家へやって来た。茶碗を見て驚いた。茶坊主は「これは珍しいものらしい。ちょっと拝借」といって、持ち帰ってしまった。細川侯はこの道の通人だった。この茶碗を一目みて「井戸茶碗といって、古くから茶人に珍重されている名器だ○足軽尉僻の家にあるべきものではない0盗みとったか、何かわけのあるものに違いない。よく調べてみよ」と命じた。上田は呼び出され、茶碗の入手経路などをたずねられた。しかし、上田にはかくさなくてはならない事情がないので、包み隠さず正直に申し上げた。細川侯は上田の正直なのに感心した。そして茶碗を百両で買いとった。当時、二十五両で百俵の米が買えたというから、百両は大金である。そのうえ士分にとりたて五十石を加増したという。 この茶碗の話を老中の酢椚朗糾が小耳にはさんだ0そして「名器、井戸茶碗をぜひ拝見したい」と、細川侯に申し入れた。断りかねて、茶碗は田招家へ届けられた。この茶碗、一年たっても細川家に返されなかった。柏手は、当時飛ぶ鳥も落すほどの羽ぶりの幕間筆頭田招意次だけに、へたな催促もできない、といってあの茶碗には未練がある。なんとか取り返す方法はないものかといろいろ知恵を絞った。ある時、家老が一案を出した。「田招侯に一つ何かの耗題を持ち込めば気がつくかも知れぬ…:・」1この策をいれて田招侯へ 「屋敷が狭いので家中の者ヽノ こ ヽノ 一一・喜一一・こ ¢大々に-屋芳をつくりたいと思う。ついては、場所がないので困ロして、 去 -Yる。神田橋外の空地が好適地と思うが、貴下のご威光で将軍の許可をもらっていただけないものか」と申し入れた0当時神田橋付近宗の空地は江戸城のが酪貯とされていたから、絶対に許可するはずがないと、細川家ではたかをくくっていた0要は、許可はどうでもよいのJである。茶碗さえ戻ってくればよいのだ0ところが「茶銘のお礼をと思っていた矢先だから、取り計らいましょう」と、間もなく「下屋敷の件、お聞届け」と、細川家に伝達され当時大名たちをうらやましがらせた細川家下足敷はこうしてできた。もちろん茶前は返ってこなかった安永の頃の話である。この下屋敷は、通称茶碗屋敷と呼ばれた。正直者めでたしという、江戸っ子好みの話になっている。
2004.10.02

カラス婆さん由来記カラス婆さんの話は、リストラされた武士のひとつの選択肢であったかもしれない。高利貸し、貸すほうが悪いのか、借りるほうが悪いのか、現代人も同じことを繰り返しているようですね。子供達にお金の怖さを教える必要がありますね。 「かねてから覚悟はしていたが、こうなった上は、一日も早くここを引き払わねば。・・・ 息子の郡治郎が「身持不行跡のかどにより、公儀によりいとまをつかわす」と、主君から追放された日、おたきは顔を曇らせながら、ひとりごとのようにこうつぶやいた。郡治郎はただ、かるく肯くだけった。早春の陽光が障子紙の破れ目から、二人の座っている部屋へ忍び込んでいる。庭の梅は、見事に花を開いている。おたきはたち上がると、静かに障子を開け、梅の花に見入っていた。 「この梅も今年が見納めに…・」と、いいかけて、おたきはだまってしまった。そして、わき出る涙を、こらえきれないように袖でそっとぬぐった。おたきは竹内伊右街門の妻だった。伊右衛門は、御徒士三枝谷伝蔵の組下で、下谷和泉橋通りに住む七十俵五人扶持の下級武士だった。おたきはどちらかといえば気性が強い女で、貧乏武士の家庭にあって、家計の不足を着物の仕立ての内職で補ってきた。 宝暦年問(一七五一― 一七六三年) といえば、入代将軍吉宗の緊縮政策が崩れ、再び生活が派手になったころのことである。 生活が派手になり、芝居が大入満員を続け、お茶屋から毎夜三味線と歌声がもれて来ていても、当時の武士には加増されることはなかった。つまり、現在のサラリーマンのように、べーアップはなかったのである。「景気がよくなった」と喜ぶのは、大きい商人とか、一部のお茶屋の経営者などだけだった。下級武士は禄があがらず、百姓は重税にあえぎ、物価高で庶民の生活は楽でなかった。大名さえ、札差しから翌年の米を抵当にして、金を借りたほどだった。 こんな時、伊右衛門は病死した。郡治郎が跡を継いだが、勤務にはあまり熱心でなかった。熱心になれなかったのである。少しばかり小理屈を並べる郡治郎は「精を出して働いたからといって、禄高があがるわけでなし・・・」と、よくグチをこぼした。そして、重くのしかかる階級制度に、ちょっぴり反抗する姿勢を見せるようになった。だが、これもはなはだ消趣的だった。郡治郎は、遊び人の仲間に入り、悪がしこい商人などを脅し回っていた。郡治郎が「身持不行跡」のレッテルを貼られ、お払い箱になったのも、そんな事情だったらしい。 おたきは、郡治郎が追放された時もらった「厄介養育金十五両」で、下谷三崎町に小さい家を買って住むようになった。郡治郎が浪人の身分になると、おたきはこれまでと全く違った生き方を始めた。着物の仕立てなどの内職をやめて、へそくりを資本にして金貸しを始めたのである。資本金が資本金だから庶民を相手の金融業である。「一両でも二両…もょいから、用立てて下さい」と、おたきの家を訪ねる人が、だんだん目立ってきた。こんな時おたきは、「お貸ししましょう。ただし手数料は先にいただきます」こうして、容赦なく二割くらい天引きして渡す。借金にくる人々は小売商人で、貧乏武士を相手の商売では売掛金がなかなか回収できず、、表面では売れて景気がよさそうでいてその日の仕入れにも、事欠くことがしばしばあったようである。おたきは、夕方になると、朝金を借りに来た人の家を訪ね歩きその日の利息、を取り立てる。この日歩も、もちろん高利である。利子が払えないと「約束が違う。それではそこにある商品や道具をかたとしてもっていく」と、手当たり次第もっていってしまう。一刻も猶予も与えない厳しさ。「強欲な婆め!」と、町人の間にはこんな陰口もささやかれたが、借金した弱身で、おたきに正面からぶつかって行くほどの勇気を持ち合わせた者もいなかった。 おたきが毎日持ち歩いている鹿皮の袋も、貸し金のかたにむりやりにとり立てたものだろう。 当時の江戸市民は、おたきの強引さに恐れをなして、「カラス婆」と呼ぶようになった。このころ江戸市中を警戒していた御徒士は黒頭巾、黒い着物といういでたちで、数人が隊を組んでパトロールしていた。江戸市民はこれをみて「カラスが来た。カラスが来た」といっていたそうである。おたきが元徒士の妻だったことから、「カラス婆」というようになったと伝えられている。 おたきの最後がどうなったかはわからない。ところで、西洋ではギリシャ、ロ―マ時代から高利貸しがあったそうだから、江戸時代に高利貸しが横行していても不思議とはいえまい。江戸の庶民が高利にあえいだ姿はいまの東京の「サラ金地獄」とそっくりである。からす婆に似た高利貸しが、現在の東京に存在している限り、東京人は二百年前の江戸市民を笑うことはできまい。
2004.10.01
あとがきが発見されましたので本日は原作者の言葉を載せます。 ここに集めた四十五の話は、昭和三十一年一月から二月にかけて、朝日新聞東京版に連載した「東京民話」と同じものです。 しかし新聞に掲載された時から四十五年もの時間が経過しており、あらためて読みなおしてみたところ、文章に気に入らないところがあったり、説明不足でわかりにくいところなどが目につきましたので、書きたしたり、削ったりしているうちに、全面的に書きなおす結果になりました。この度インターネットでこの内容の一部をのせ、多くの都民の方に読んでいただき民話を通しての人としての生き方を学ぼうの声から復刻されたものです。 つぎに話の舞台にでてくる東京の地名ですが、この四十五余年の問に、ほとんど変ってしまったことに驚きました。懐しい地名、歴史の上からも残しておきたいような地名なども消えてしまいました。旧地名をたよりに、東京の街を歩くことはもうできないでしょう。そこで、新しい地名になおしました。 ところで「民話」とは何でしょうか。私は「民話」というのは、人が長い間住んでおり自然が豊富にあるところにうまれた話だと思っています。つまり自然と人間の生活が融け合ったところからうまれ、民衆によって口から口へと語りつがれた話ということになりましょうか。だから、むかし話や伝説、世間話なども含まれると思っています。 いまの東京には、自然がほとんど残っておりません.コンクリート・ジャングルの中からは、民話もうまれそうにありません。またむかしあった民話を語り継ぐ民衆がいなくなってしまったので、民話が消えてなくなってしまったのかも知れません。 しかし、東京もかつては、武蔵野だった。雑木林とススキの原がひろがっていました。その間に農耕地があり、人の住む集落が散在しており、民衆の生活がありました。そこには、喜びにつけ、悲しみにつけ、いろいろの話がうまれ、語りつがれてきたに違いありません。もしそれらの話が集まるなら、集めてみよう、ということで集めたのが、この四十五の話になったものです。このほかにも、もちろんたくさんの話があると思いますが、新聞に掲載するつごうで、取材をやめたように記憶しています。 当時、取材に当ったのが、同じ東京版担当の万代赫雄氏と私でした。国電信濃町駅近くにあった東京都政資料館がまず第一の取材先でした。よくここへ通い、いろいろの話を聞いたり、資料を見せていただきました。また、図書館に保存されている文献を利用しました。そのほか、郷土史家の集まりである各地の史談会も、重要な取材先で、会員の方々からも、貴重な資料をいただきました。 こうした資料をもって、東京のあちこちに散在している、話の背景になっている地を訪ねて歩きました。話を整理しているうちに、よく似たものがありましたが、こうした場合は、一つだけ選ぶようにしました。 変ぼうの激しい東京でも、寺院や神社の縁起や、それにまつわる伝説は残っていますが、世間話やむかし話は非常に少ないように感じました。また、これらの伝説やむかし話などにしても、その土地に長く住んでいる人々でさえ、聞いたことがない、というふうに、ほとんど忘れられているのが実情です。大都市はほとんどが移住してきた人々で、民話の 〃伝え手″にはなりにくいのでありましょう。ですから、やがて東京からは、民話は姿を消してしまうでしょう。いまでも消えかかっているのですから…。 いずれにしましても、これらの話は、話がうまれた当時の、民衆の、ものの考え方なり、心情なりがかくされているように思えました。しかし、現在でも、ごく限られた人々ではありますが、こうした話を持っている人が東京にいる、といってよいわけで「東京民話」 と題したのです。東京にだって、結構こんな身近なところに、おもしろい話がころがっているのだということを、読者のみなさんに知っていただければ、幸いこれに過ぎるものはありません。 さし絵は、漫画家の松下紀久雄氏の筆になるものです。 また、新聞連載直後、一度角川書店から「東京民話」として発刊したことがありました。絶版になってから四十年もたっています。 最後に、こんどあらたに出版の運びになりましたのも、編集部のの両氏のおすすめによるもので、厚くお礼を申し上げます。 平成十四年四月 小池助男 万代 赫雄 電子化担当 佐久間 和夫
2004.09.30

東京の ”地獄門”この話は私たちが求める経済的豊かさ、「お金」昔も今も変わっていませんね。お金は必要です、しかしそれが全てではありません。大切なことはお金を得る手段、方法、またお金の使い方でしよう。豊かにな心をもって、世のため人のために使えば、お金は尊い存在になり、幸せの糧になることを東京の地獄門は教えてくれていますね。 文明 (一四六九ー一四八七年) のころ、現在の浅草花川戸(台東区)のあたりは、隅田川に面した草ぼうぼうの野原だった。この草むらの中に、一筋の道があった。この道は、下総、常陸から奥州へとのびる街道だった。この街道ばたに池があり、そのほとりに一軒のあばら家が建っていた。そこには老夫婦と娘が住んでいた。旅人たちはこの家で休憩し、湯茶の接待を受けることもあった。ときには一夜の宿を乞う旅人もあった。 ある日のこと、 「「ばあさんや、お茶代や宿賃だけではたいした儲けにならない。ひとつどっさり儲ける方法はないだろうか」と、じいさんがきり出した。老夫婦でいろいろ具体案を出して話し合っているうちに、ばあさんが、ぶっそうな案を出してきた。「娘も年ごろになったし、 娘を囮に使って、旅人を泊め、寝込んだところをばっさりやろう。そうすれば路銀も着物もみんなはぎとれる。大儲けだ」相談はまとまり、すぐ実行することになった。ばあさんはさっそく、娘を呼んでこういった。 「これから旅人を泊めることにした。なるべくお金のありそうな人を泊めるのだよ」 娘には旅人をあやめて路銀をとることだけは知らさなかった。 「もうこれから先へ行ってもなかなか人家はありませんっ 盗賊にあうだけですよ。泊って明朝早くおたちなさい」!娘は、旅人をみつけるとこういってひき止めた。ひる間ですら一人歩きをしていると追剥に襲われるという治安の極度にみだれていた当時のことだから、夕方など、娘から親切に引きとめられると、旅人も心細くなってしまう。この手で誘われて一人の男が泊った。 その夜もふけて旅の疲れで旅人は深い眠りに落ちている。男の寝息をうかがっていた夫婦はころはよしと、男の寝ている部屋に抜き足、差し足で忍び込んだ。男は石の枕をしている。枕元に近づいたばあさんは、満身の力をこめて両腕に抱えていた石を男の頭めがけて打ちおろした。男は頭を打ち砕かれて死んだ。夫婦は男の死体をうらの草むらの中に埋めた。こうして、つぎつぎに悪事は重ねられていった。 ところが、いつまでも娘がこれに気づかぬわけがない。ある晩、とうとう娘は、草むらに男を埋めているところをみつけた。娘は泣いて両親をいさめたが、両親はやめようとしなかった。娘はこのむごい悪事を続けることが心苦しく、悩み抜いた。さりとて、自分の両親を訴えて出ることもできず、また、両親を捨てて自分一人で生きていく術も自信もなかった。 こうして、暗い日々を送っていたある夜、一人の、このあたりでは見たこともない、上品な感じのする青年が泊った。 娘はこの上品な青年を一目見ただけで強く心を動かされた。「なんて美しいひとだろう。「この青年だけは両親の毒牙にかけて死なせてはならない」 と、ひそかに心に決めた。そして、両親がこれまで実行してきた恐ろしい悪事を全てこの青年に打ち明け、こっそり青年を逃がした。 旅人の部屋は、その夜も、いつもの通りどす黒い血でけがされた。鬼のような老夫婦は着物を剥ごうとしてともし火を死体に近づけて腰を抜かさんばかりに驚いた。そこに横たわっているのは、あの青年の客ではなく、なんと晴着姿も痛々しい最愛のわが娘ではないか。悪魔のような老夫婦だったが、愛娘のかわり果てた姿に卒倒しかけた。そして、思い切りなげきかなしんだ後、ばあさんは近くの「姥が池」に身を投げて死んだ。その後のじいさんはどうなったか、この話ではわかっていない。文明十八年(一四八六年)、当時、京の都で高僧として誉れの高かった、道興准石が北陸から関東地方に旅をした際、浅草で、この痛ましい話を聞き、 罪とがのつくる世もなき石枕 さこそは重きおもひなるらめ と、よんだという。 姥が池は、花川戸一丁目の浅草小学校の前にあったというが、いまは埋められてない。そして、現在は「姥が池の旧跡」と書いた石碑だけが残っている。また娘の悲哀を秘めた石の枕はこの近くの妙音院に保管されている石がそれだというが、さだかではない。
2004.09.29

栗山城の戦い今日は特別編です。私のマンションの住民の高橋君の家の昔話です。彼のご先祖の話だそうです。栗山城の戦い~My Roots1 高橋 六郎左衛門~からのコラボレーション企画です。この話の教訓は、アラブとイスラエルのように、立場が違えばものの見方考え方も違ってくるということです。旧主君拝領の長刀を守るため、妻子を殺し、応援にきた甥のの忠誠の証を妻子を殺害をもって判断する残虐な部分があるも、旧主への忠節という観点からみれば筋が通ります。新しい統治者からみれば、領内で治外法権の例外を認めれば続々と叛旗を翻す地侍達がでて、放置すればかえって大きな混乱や一揆を引き起こす危機になりかねなかった。しかし、これを奇貨として、この地の旧勢力の代表である吉田一族の元に抵抗勢力を集結させ一気に決着をつけ、反抗気味の地侍達に一罰百戒の例とすることで、反抗を防ぐという「危機をチャンスとして活用する」強かな統治施策の話としての見方もあります。ものの見方は通り一辺倒ではないということです。閑話休題奇貨おくべし戦国七雄の一つ、韓に呂不韋(りょふい)と言う豪商がいました。かれは趙の首都、邯鄲(かんたん)で秦から人質として趙に来ている子、子楚(しそ)と知り合います。子楚は秦の昭王の皇太子、安国君の子でした。この時、呂不韋はつぶやきました。(紀元前262年)奇貨(きか)おくべし (掘り出し物だ。買うべきだ。) その後秦に行った呂不韋はあらゆる手を打って、子楚を安国君の後継者にすることに成功します。(子楚の兄弟は20数人もいたため、よほどのことがないと後継者にはなれませんでした。)此の栗山邸には大友氏の家臣だった吉田氏が居住していた。即ち平時は家臣と共に農耕に従い農閑期には武を練り馬に騎して戦に備えていた。兵農未分離の頃である。恐らく江無田に居た臼杵氏の指揮下に入って常に臼杵氏の下で肥筑の山野を駈けて敵と戦っていたであろう。 此の栗山城には極めて悲惨な物語が伝えられている。大友興廃記巻二十二「吉田働のこと附月山長刀の事」に次の様にある。「去る天正十四年に、薩州勢打入し両、足軽五六十人、臼杵近所に乱暴のため来り、不敵なる者共にて城下を通りヽ津久見と言う所へ行かんとす。ここに吉田一祐と言う屈強の武士あって海添表へ打出てヽ平原坂に持ちかけて、一祐は長刀を以って、足軽を十八人討取り、方々に追散らす。一祐内の侍、ここ彼所に於て二十三人討留る。宗鱗公、一祐の数年の軍功又は此のたびの手柄を御感斜ならず『月山の長刀』を拝領す。然るに大友家退散の後、臼杵・佐伯は太田飛弾守に宛行はる。一祐前々の知行耕作して持りき。去程に飛弾守の家老高橋六右衛門尉と言う者あり。 一祐が所持の月山の長刀を再三所望すといえども、一祐「命ある限りは身を放すこと叶はず」と返答し、所望を叶えず。それより高橋、吉田一祐を憎み種々非道を言いかけ亡ぼして長刀を取らんとす。年貢を納むるに、彼これに付き随意の働き、飛弾守殿御気色宜しからずと言いかけ、先ず質(人質)をとりおき、後日に如何にも亡さんと思い、足軽十人をつかわす。事悪しくば、一祐共に搦とれと言いつけ、栗山に差越す。先す門前(集落の名)に入りて、百姓を以って質を出すべき由言はければ、申すは某質を出すべきいわれなしと言いて武具を揃えて用心す。足軽力及ばず、高橋にかくと言へば、高橋その儀ならば我自身出ではからうべしと言いて、馬を駆けつけて行って見れば門の扉に矢挟を明けて待ちいたり。 されども高橋不敵なる者なれば 門の扉に付いて「これは何事ぞ、談合の子細ありて来る」といへば一祐きいて「それは兎もあれ角もあれ、永々門外に御座侯はば、百姓の事にて武具は持ち申さず、高田と言うかね(高田鍛治)よき鎌を高橋殿の足に引きかけ侯はば悪しかりなん。又は鎌足(藤原鎌足)の大臣の伝の事つかまつりたると、此の一祐は名をあげ串し侯はん」と狂言になして嘲けりければ、高橋いよいよ怒って即時に討果さんと言う。臼杵へ急を告げければ五騎、三騎づつ託つけ臼杵家中残らず集り、栗山の屋敷を取巻まき、一祐が一類は六十余人取籠もりぬ。ここに豊後国住人種田玄佐鎮定、嫡男善三郎と言う者あり、飛弾守申し付けらるるは「其方は昔よりー祐とは古傍輩なれば、まかり越して無事の扱いせよ」と申されしかば善三郎行って門を開かせんとせしに、あたりの百姓引留めて「一祐は昼時分妻子を悉く果し(=妻子を皆殺しにし)、焼草を積み、昔拝領の長刀を添へおかれるたる由に卒爾に御入候はん事御無用なり」と留めてけり。去程に一祐が一人の甥あり、日頃不足の事故不快なり。されども此度一祐にー味せんと言う。一祐大いに怒って「汝は臼杵より一祐が首打って捧げよ。知行安堵させんとのはかりごとを誠と思い来るか」と言いて追返す。甥時をうつさず妻子諸共に来って、妻も子も害す(=殺す)。一祐見て涙を流し、感じて共に屋敷に引籠もる。もとより一祐屋敷は岩壁廻り、嶮岨にして只一ロなり、岩壁に付て大竹あり、敵をいためん為に或は二尺、或は三尺に切りそぎて檜の如くにして置いたり。さて門外の畠には武士集りあり乍ら、左右なく門を破らずして時を移す。かかりし処に、一祐門を開いて長刀ひっさげ切って出る。寄手一支へもせず逃げ散り、或は長刀にあたり或は岩壁より落ち、竹に貫かれて失せぬ。およそ三百六十人討死す。ここに飛弾守伯父通随と言う人来って、一祐の長刀にて庇をおい、後の岩壁に砕けて失せぬ其後、一祐は門内に引入り、とかくのうちに日も黄昏に及べり。裏門より人を入れ火をかけ焼払う。此の火の竟に逃散りたる武士達は門内に乱入す。又、一祐は切って出で、追払い引取る。向う敵一人もなき折節、高橋六右衛門、横田善三郎進み出で早く一祐を討ちとれと下知す。その時物かげより鉄砲にて高橋が肩の骨を打通す。又、一祐出て見れども向う敵なし、長刀を突立ていたりしを、善三郎二つ玉の鉄砲にて一祐が真中を通しうち伏する。脇に忍び居たる者出で、「是は一祐ぞ」と言い、首をとらんとす。一祐伏し乍ら長刀にて、彼の者膝を払はれて死す。其の後平左衛門尉と言うる。此の度の戦に一祐が手にかけ八十三人討とる。雑兵の討ち捨はその数を知らず、そも此の月山の長刀は大友政親の代に一人の山伏来って出羽国羽黒山よりさる方の進上なり、御披露あれと言う。古庄披露をとげし間山伏は消すが如くに失せにけり。此度の一祐の討死も、主君の御恩賞を忘れず長刀を他に渡さじと思い入りたる故とかや」
2004.09.28

ヤリ持ち勘助の悲劇嫁と姑の関係はご存知の通り、自分がいじめられたから今度は若いものにつらくあたる。特に軍隊ではこれが激しかったようですね。勘助はこの苦しみを次世代にさせたくないという思いであった。これは尊い自己犠牲の精神ですね。お互いに心しましょう。 勘助は地べたに座り込んで、ぐっと歯をくいしばっていた。顔の色は極度の緊張に青ざめてはいるが、どこか思いつめたことをやり遂げたというやすらかささえ、ただよっているように見えた。かたわらには、真二つに折れた松平侯家宝の槍がころがっている。この場の有様は、同僚たちにとっては恐怖に近い驚きようで、しばらくは声を出す者もいなかった程だった。ややあって「勘助! どうした。気でも狂ったか」という同僚の声と共に、あたりは騒然としてきた。徳川四代将軍家綱のころの話である。譜代の松平越後守の留守居役に堀三郎左衛門という武士がいた。たまたま勘助という下郎を雇った。身の丈は六尺(一八○センチ)に近く、鬼をもひしぐほどの大力だが、見かけによらず、心はやさしく、いたって正直者、陰日向なくつとめていた。三郎左衛門はよい家来を持った、と自慢していたが、ほどなく勘助の評判は主君の越後守の耳に入った。 越後守はさっそく、三郎左衛門を呼びつけていった。 「その方は、大力無双の勘助なる下郎を連れているそうだな。それなる者を余に差し出さぬか」三郎左衛門に異存のあろうはずがなく、即刻これを承知した。勘助の出世と思ったからである。 こうして勘助は、松平家に古くから伝わっていた由緒ある槍の槍持ちに取り立てられたのである。 廷宝五年(一六七七年)のことで、勘助が二十七歳の秋だった。そして、その槍というのは、穂先の長さだけでも四尺三寸、柄の長さが九尺、目方は十貫(三七・五キログラム)を越える大身の槍だったという。松平家の誉れの槍でもあり、普通の人には持てぬほどの大槍とあって、槍持ちは下郎と決まっていたのに、この槍持ちだけは士分の扱いを受けた。 それから二十五年間、勘助は越後守の行列に加わって槍持ちを続けた。若いこlろは見えと血気と大力とで槍持ちを誇っていたが、四十の声を聞くころから、さすがの大力無双をうたわれた勘助も、寄る年波には勝てず、槍の重さが骨身にしみるようになった。根が負けずぎらいな勘助だけに、その苦しみを人にも語らず、五十歳を迎えるまで、がんばり通した。そして、五十歳になったのをよい潮時に、お役目御免を願い出た。ところが、この大槍を持つ後継ぎが見付からず、その後二年間、彼は死にものぐるいで務めた。しかし、これ以上の苦しみに耐えられなくなった勘助は、二度目のお役目御免を願い出た。が、今度も殿様は、勘助の願いを聞き届けてくれなかった。 「くたばるまで槍持ちを続けよ」というのかと、勘助は悲しかった。主君の命令には絶対服従であることは勘助にもよくわかっている。だからといって、もうこれ以上どうしても我慢ができない。たとえ自分が死ぬまで槍を持ち続けても、あとの槍持ちも同じような苦しみを繰り返すことになろう。二十五年も一緒に暮らしてきた槍がむしように憎くなった。勘助は、とうとう槍を切って、その禍を断とうと決心した。 この決心を実行に移す機会を狙っていたある夏のこと、勘助は越後守の参勤交代の行列に加わり、死ぬほどの苦しみに耐えてやつと江戸屋敷についた。みんながほっとしてほこりを払ったり、汗をふいたりしている時、勘助はやにわに越後守自慢の大槍を持って庭先へ走り出した。同僚たちがあれよあれよと見る間に、庭木に槍を立てかけ、腰の刀を抜くと、体ごと槍にぶっつけていった。このたぐいの伝説一ては、ここではたと殿様が目覚め、かえって男をあげることが多いのだが、勘助の場合、冷厳な仕置きが待っていた。元禄十四年(一七〇一年)九月三日切腹を申しつけられ、勘助は果てた。勘助の同僚を思うやさしさに心を打たれた下郎たちは、勘助が死んだ翌年、勘助の顔を石に彫らせ、芝の青松寺境内の一角に地蔵さんを建てて冥福を祈ったが、そのあとあとまで、お参りする人があとをたたなかったという。勘助は、生前大酒豪で痔に苦しんでいたところから、誰いうとなく、この地蔵へ願を掛ければ、痔がなおると江戸の評判になった。これも当時、松平家に気がねしてことさらにつけたいわれかもしれない。 港区貰愛宕町二丁目の青松寺の「勘助地蔵」がそれだといい伝えられており、いまもお参りする人がいる。 東 京 通 信 No.21 津山藩の忠義「勘助地蔵」
2004.09.27

恋をとりもつ「鯉塚」東京の民話の中にでてくる神社、仏閣、記念碑などリンクし調べてから訪れるのも一案ではないでしようか。「恋に悩む」方はトライされてみてはいかがですか。 嘉永六年(一八五三年) 三月の、あるうららかな日のことである。 とてつもだく大きいコイが、浅草龍宝寺の裏を流れている新堀川をのどかに泳いでいた。これを見つけたせんべい屋の小僧さんの弥吉がすっとんきような 声をはりあげた。「おーい 大きなコイがいるぞ」その叫びで、通りかかった曲物師職人の常次郎が、走り寄ってきた。「本当にでっかいコイだ」 二人は夢中になって流れに飛び込んだ。あっちへ追い、こっちへ追っているうちに、やっと浅瀬へ追い込んだ。 しめたとばかり、捕えようとするが、なにしろ、べらぼうに大きいので、ばたばたとはね回ってなかなか捕まらない。業をにやした常次郎が持っていた鋸でコイをめった打ちにした。これではたまらない。いままで、のたうち回っていたコイも、ついに力尽きてのびてしまった。二人がコイを追っかけているころからだんだんヤジ馬が群がり、黒山の人だかりになった。「すごいコイだなア」「どうして、こんな小川に迷い込んだんだろう」 などと、ワイワイ、ガヤガヤ、大さわぎ。 岸に引き揚げて見ると、なんと長さが四尺(約一二一センチ)もあり、大きな口をばくばくさせている。ややあって、一人の老人がいった。「まだ生きている。珍しい大きなコイだ。殺生するにはおよぶまい。 お寺の池に放してやれ」といった。これをしおに、ヤジ馬のなかから、おもしろ半分に「そうしてやれよ」とあおりたてる。二人は群衆の声にさからえず、惜しそうに龍宝寺の池へ放してやった。しかし、深傷をうけたコイはつぎの朝死んだ寺のお坊さんがねんごろに境内に葬ってやろうとした矢先コイが死んだことを伝え聞いた二人がやってきて、「まだくさっていないのに、捨てるのは倍しい」と、持ち帰った。そして、二人は、コイの処分について相談した。鯉を捕らえたことは近所のがみているので売るわけにもいかない。そうかといって二人で食べるにはあまりに大きすぎる。話はなかなか決まらなかったが、結局、コイこくにして、近所の人にもごちそうすることになったその夜、常次郎の親方である銀次郎の家に。大勢が集まって、コイこくに舌つずみをうった。ところが、その真夜中から、コイこくを食べた四十七人が熱にうなされたり、腹の痛みを訴えた。そして、まず常次郎が、続いて弥吉が死んだ。二、三日のうちに、さらに五人が苦しんだ揚げ句死んだ。この話はたちまち町の大評判になった。代官所からも役人がきていろいろ調べが行われたが、結局〃変死〃ということでけりがつけられてしまった。死んだ者の遺族たちは、あまりに突然の出来事で落胆したが、神がかりの話を信じていた当時のこと、「これは神仏の乗りうつったコイを食べた報いだ」と、あっさりあきらめて、それ以上死因を追及しょうとはしなかった。そして、あとの崇りを恐れて、コイこく関係者で、間もなく龍宝寺の境内に塚を築いて、その上にコイを彫った石碑を建てたという。 コイを供養するために作った「鯉塚」だが、「鯉」が「恋」にゴロが合うところから、いつしか、この「鯉塚」に願をかけると、恋しい人と結ばれると江戸中に評判になった0こうして、〃恋塚〃は、願がけの人々が足繁く訪れるので賑わったという。 台東区蔵前四丁目三六にある龍宝寺が、この物語の寺といわれ、いまもなお「鯉塚」といわれるものが残っているが、コイを放したといわれる池は埋められて、いまはない。また、新堀川も埋められて道路になっており、その下を地下鉄の銀座線が走っている。 むろ今どき石碑に恋の成就を祈る女性もいないだろうと思うが、どうだろう。鯉塚記念碑 東京都台東区の龍宝寺(鯉寺)で撮影。鯉塚、昇鯉観音。江戸時代に浅草新堀川で捕獲した四尺五寸の大鯉を食べた者たちが祟られ?悶死。そのため、鯉を慰霊する塚を建立した。これに参ると各種ご利益が得られるようになり、評判になった。
2004.09.26

隣村と仲直りのかけ橋名主、関西では庄屋 昔の村長さん、地域の首長であった新八さんの義挙は現在の政治家に読ませたい題材ですね。身を殺して村人を水難から救おうとする生活信条は現在のわれわれも持つべき心がけではないでしょうか。 享保年間(一七一六ー一七三六年) のある初秋のこと、数日降り続いた雨のため、いまの足立区花畑町と、埼玉県八潮市の問を流れている綾瀬川が氾濫し、八潮市側の堤防が切れかけた。当時の大曾根村の名主の新八は、村の婦女子まで狩り集め、それこそ村の総力を挙げて、堤防の決壊を防ぎ止めようとしたが、水かさは刻々と増し、一部では水があふれる始末で、もはや村人の手では決壊を防ぎ止めることは絶望的になった。村の人たちは、「徒川領の堰を切ってくれれば助かるのに..... 」「そうだ、何回も頼んだのに…。なぜ承知してくれないのだろうか」と、怨みの叫びさえあげていた。 新八は、村人の声にじっと耳を傾けていたが、「もう土手の決壊はまぬがれることはできない。みんな、食べ物を持って一刻も早く逃げてくれ。わしは、もうしばらく様子をみて帰る」 「名主さん、それは危ない。一緒に逃げよう」 - 村人たちの必死のすすめにも、新八は動こうともしない。村人たちは、説得をあきらめて、新八のいう通り安全な場所に避難した。 夜陰に乗じて新八は綾瀬川の濁流の中に飛び込んだ。やっとの思いで流れをわたり、対岸の徳川領の堰を切ろうとした時、川の警戒に当たっていた武士や百姓に発見された。もちろん、事情はどうあれ、堰破壊は重大犯であり、それに、大洪水による堤防決壊の危機のさなか、新八の行為は責められてもやむを得なかったろう。そして、殺気立っていた百姓たちは、新八を興奮のあまりたたき殺し、死体を濁流に投げ捨てるという暴挙に出た。 その夜、大曽根村の堤防は切れ、濁流は村をのみ込んでしまった。実りかけた稲も、牛も馬も水没、住み家も水につかってしまった。 数日が過ぎ、雨も止み、やがて水もひいて、村人たちは避難先から水の被害の生々しい村に帰ってきた。そこではじめて、名主、新八の悲運な死を知った。と同時に、代官所から役人が来て「新八のほかに、堰を切ろうとした百姓はいないか」と、厳しい詮議が始まった。 村の被害は大きいし、復興の目鼻も立っていないのに、村人が堰破壊未遂の容疑で引き立てられて行く。村人たちの動揺は最高潮に達した。新八の犠牲もかえって村人たちの怨みを買う結果になった。そのうえ、役人に気がねしてか、一人ぽっちになってしまった新入の母親に話しかけようとする村人もいなくなった。事実上の村八分になったわけである。それから間もなく、村人たちの薄情をのろった新八の母親は、綾瀬川に身を投げて死んだ。名主新八の家は断絶してしまった。数年が過ぎ、ようやく水害を忘れかけようとしていたころのこと、徳川領の村人の間で誰いうとなく「決壊した堤防からへびがたくさんはい出してきて、ここを通る人をにらみつける」という話がひろまった そして「あれは新八母子の恨みがへびになったのだ。何かよくないことが起こるのではないか」と、ささやかれた。この話は大曽根村までつたわった。新八に対する村人の評価が、微妙に変化してきていた時だったので、「新八は村の犠牲者だ、追善の供養をしないと罰が当たるぞ」と、村人たちは話し合った。その結果、新八母子の霊を慰める石碑が、村に建てられた。また大曾根村と徳川領の百姓は代表を出して「これから仲よくしよう。 そうすれば、新八母子の霊もうかばれよう。そのしるしに橋を架ける」と、話が決まった。この橋は蛇橋と名付けられ、それから後はへびが現われなくなったという。蛇橋から綾瀬川を下流に来たところ、東京拘置所があるあたりに、小菅御殿といって、八代将軍徳川吉宗が、この付近にタカ狩りに来た時、休憩所にあてていた建物があったといわれる。綾瀬川が大水に見舞われ、川が氾濫すると、この建物が水びたしになる。このため、これを防ぐために現在の足立区神明一丁日の内匠橋付近で綾頼川の流れを堰とめ、水を大曾根村の支流に落としていた。新八は、この堰を切って、水を綾瀬川に流し、支流の氾濫を防ぎ、大曾根村を救おうとしたと、言い伝えられている。 この橋は、何回か架け替えられたが、蛇橋の名と共に、新八母子の石碑がいまも残っている。
2004.09.25

池の美女になった美女日本の寓話に出てくる蛇の存在は、とかく蛇を敵視する風潮に歯止めをかけようとという、動物愛護の表れのようです。人間との共生の大切さを訴えているようです。」高橋君のミレニアム成和日記!ミレニアム成和のここがいい! 井の頭公園の弁天弁天様についてはここをクリック弁天さまむかしむかし、北沢村(世田谷区)に、″さんねさん″という長者が住んでいた。 なに不自由ない、この長者にも悩みがあった。それは子供に恵まれないということだった。ある日、妻にこう話しかけた。「百姓の作兵衝から聞いたが、井之頭池にある弁天様に祈れば、子供が授かるということだ。これから二人で熱心に願を掛けようではないか」ー 妻もこれに賛成した。 写真は井の頭公園ですそれからというものは、連れだって弁天様にお参りを続けた。すると、間もなく女の子が生まれた。夫婦はこの娘を″弁天様の申し子″だと信じた。 娘は成長するに従って、ますます美しくなつた。村人たちは「美しいはずよ、弁天様の授り子だもの」とうわさし合っていた。 娘自慢の夫婦は、娘を連れて毎日弁天様に、お礼参りをかかさなかった。ちらほらとさくらが散りはじめたある年の四月八日のこと、きょうも娘を連れた、さんねさん夫婦が、弁天様の参拝を終えて井之頭池のほとりに腰を下ろし、うっとりとあたりの風景に見とれていた。その時、娘がいきなりざぶんと水音も高く池へ飛び込んでしまった。あまりに突然の出来事で、夫婦が茫然としていると、娘はみるみるうちに白へびに姿を替えて、水底深く沈んでいった。夫婦はしばらく何事も手につかなかったが、やがて気を取りなおし、娘が池に消えた日を命日と決め、供養の石像を建てた。いつとはなしに、この付近の村人たちが「池に’主’がいる」といいだした。このうわさを誰もが信じた。そして、池に近寄る者がいなくなった。このあたりの村に、与作という貧しい百姓が住んでいた。与作には自分の土地がないのがないので、人の恐れている池のはとりにそっと草刈りに出かけた。あまり暑いので木陰で休んでいると、いつのまにかこっくりこっくりと居眠りをはじめた。ふとと気がつくと、足をなめるものがいる見れば五寸(一五・一センチ)ぐらいのへびだった。木の枝で池の中へ追いやり、また居眠りをはじめた。また小ヘビが足をなめる。同じことを三回ほど繰り返しているうちに、小へびは五尺’(一五一センチ)余りの大へびになった。驚いた与作は、夢中で研ぎ澄ました鎌で大へびを切り殺してしまった。あまりの恐ろしさにどこをどう走ったか、自分でもわからない。家にたどり着くと、高熱を発して寝込んでしまった。その日の夕方から天気が急に荒れはじめ、暴風雨が数日間続いた後、大洪水になった。村人の騒ぎを聞いた与作は、じつとしておれなくなって、池のほとりの一件を人びとに告げた。「この洪水は、てっきり使いへびを殺された″主〃 のたたりだ」と、村人たちは、与作の無思慮な仕業をののしった。 洪水が引いた後、こんこんとわいていた池の水が涸れてしまった。村人たちは「主の怒りだ」と、また願ぎが大きくなった。そこで、村の世話役は、中野宝仙寺の有徳のほまれが高かった.秀雄上人に、事の次第を説明したうえ、「どういたしたらよいでしょう」と、お伺いを立てた。上人は、池畔に立って、三日間、一心に祈った。すると、西空から黒雲がむくむくわきあがるとみる間に、池の水は、再びこんこんとわき出した。 このことのあった日、甲州街道を白馬にまたがり、西の方角へ向う美しい女があった。村人が「そんなにお急ぎで、どちらへ行かれますか」とたずねた。すると、 「わたしは武蔵野のある人に嫁いだが、夫が野人に殺害されたので里に帰っていました。ところが、きょう、図らずも高僧の招きがあったので、再び武蔵野に帰るところです」といって、西の方へ走り去った。 村人たちは「上人の法カで、泉がよみがえった」と大いに喜び、それ以来この池を大切にしたという。 どの池や沼にも、たいがい″主”の話がある。水は飲料水、灌漑用水として大切だったからであろう。井之頭池の水も、寛永六年(一六二九年)徳川家光が江戸まで引き、江戸市民の飲料水としたが、大切な池を汚さないよう、この話が出来たといわれている。長者夫婦が願掛けしたといわれる弁天様は、現在でも井之頭池に残っている。井の頭の由来池の中に湧き水が七ヵ所にあって、旱魃にも涸れなかったところから、「七井の池」と言われていたが、家光が湖畔の「こぶし」の木に「井の頭」と刻み付けてから、池の名前も「井の頭池」というようになった。追記井の頭の池のほとりに、その娘を偲ぶために、「宇賀神」の像が建てられている。頭が人間の娘で胴がへびのこの像は、大盛寺の境内にいまも残っている。
2004.09.24
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