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東電福島第1原発の炉心溶融爆発事故は、ギュンター・アンダースが語る原水爆の『核の脅威』となんら変わらない恐怖を私たちにもたらした。原発と原水爆は、私たちの地球の未来、人類の未来に決定的に関与する脅威、人類のカタストロフィーを予言する。
明日は ガスマスクつけて 町に出よう 見えないのを いいこと
に あたしの生殖機能を おかしくする 妖怪放射能が 充満して
いるこの島と あの半島の 原子力発電所は 再稼働を命じられて
いる 戦闘服に綻びがあったら 命取りだ
冨岡悦子『反暴力考』(響文社、2020年)p.22
2021年4月に第54回小熊秀雄賞を受賞した冨岡悦子が上のように断じた世界は、原発がもたらした放射能の街が、原水爆投下後の町とまったく同じような恐怖を与えていることを意味している。現代は、東電福島第1原発事故以前、ヒロシマ、長崎への原爆投下やビキニ水爆実験を受けて次のように詠まれた世界と何ら変わらない。
肴町公園から一番町へ。(2021/6/11 18:14~18:33)
最近、金デモの集会場所はほとんど元鍛冶丁公園となっていて、たまに肴町公園になることがある。そのため、間違えて元鍛冶丁公園に行ってしまうことが数回あった。今日は、「さかなまちこうえん、さかなまちこうえん」とわが老体に言い聞かせながら家を出た。
少し遅刻したが、スピーチの話題は東北電力の株主総会の話題が続いた。女川原発は東北電力にとって経営上のメリットがまったくなく、廃炉こそが健全な経営に必要だという話題や、東北電力の大株主である仙台市に株主として女川原発の廃炉を提案すべきという申入れを行ったことなどが話された。
仙台市は、原発は国策イッシュウだとして逃げ腰なのだという。地方自治を担いながら、そこに住む住民の安全、安心について意見が言えないというのである。来たるべき市長選挙ではよくよく考えなければならない、という締めくくりだった。
「列は2列で! 2メートルの間隔で!」とくり返しの注意を受けて、25人のデモは日銀仙台支店の裏の道を一番町に向かった。
一番町。(2021/6/11 18:36~18:38)
「「完了」発表済み工事、76カ所が未完了 柏崎刈羽原発」 ( 6月10日付け朝日新聞DEGITAL
)という目を引く記事があった。短い記事なので引用しておく。
東京電力は10日、柏崎刈羽原発7号機(新潟県)の再稼働に向けて今年1月に完了したと公表した安全対策工事で、76カ所の防火工事が終わっていなかったと発表した。同原発では1月以降、テロ対策の不備が相次いで発覚し、原子力規制委員会から核燃料の移動を禁じる是正措置命令を受けた。再稼働日程が白紙となったのに加えて、工事のずさんさも明らかになった。
(中略)
東電は昨年11月、7号機について、「今年6月の営業運転再開」を可能とする工程表を規制委に提出。今年1月13日には「工事が12日に完了した」と発表していた。しかし、1月下旬に中央制御室がある建屋の空調設備の設置工事が終わっていなかったことが判明。その後、火災感知器の未設置や配管貫通部の止水工事の未施工なども発覚。点検を続けていた
このようなニュースが流れるたびに「東京電力には原発を運転する資格はない」という批判が溢れる。東京電力は自らの原発運転無資格の条件を次々開示していると言ってもいいくらいである。
このニュースをチラッと見たとき、東京電力は安全対策工事の手抜きを〈隠蔽〉したうえに、安全対策工事は完了したと原子力規制委員会に〈虚偽〉の報告をしていたのだと思ってしまった。〈隠蔽〉、〈虚言〉は原子力村住人の習い性なのでどうしてもそう思ってしまうのだが、読んでみるとそうではないらしい。
安全対策工事を行っていた東電は、その工事がすべて完了したと思い込んでそれを公表したのだが、その後になって76ヶ所の工事が未完了であることが分かって、あらためてその〈事実〉を発表したということである。
少なくともこの記事からは〈隠蔽〉や〈虚言〉があったとは読み取れないのだが、それはそれできわめて深刻ではないかと私は思うのである。〈隠蔽〉や〈虚言〉は、それが暴露されたときに正すことができる。
しかし、安全対策工事が不完全であることに気づかないままでいたというのは、関係する東電社員集団が揃いも揃って安全に対する認識や注意深さ、慎重さに欠けていたということではないか。それは、安全性に対する組織的な無能力の証ではないか。
そのような人間集団が柏崎刈羽原発を再稼働するということは、「安全に対する認識や注意深さ、慎重さに欠け」たまま運転するということになる。なんとも恐ろしいことである。
やはり、どう考えても東京電力には原発を運転する資格も能力もないと言わざるを得ない。
青葉通り。(2021/6/11 18:42~18:48)
前のブログで岸原さやの「僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむるへんにあかるい共同墓地で」という歌を引用して、「明るい共同墓地」で「ねむる」というイメージに驚いたことを書いた。墓で笑ったり、食べたりすることは祭祀としてはありうるが、私の中には墓地で「ねむる」というイメージはまったくなかったからである。
この話題には続きがあったのだが、文章が長くなりそうな気配がして端折ってしまった。岸原さや歌集の次に読んだ別の歌集に、同じように墓地を読んだ歌を見つけてさらに驚いたのである。
真夜中の墓地あたたかし どのつちの下にも生の時間が眠り
笹井宏之『八月のフルート奏者』(書肆侃侃房、2013年)p.63
「死は永遠の眠り」というのは使い古された凡庸な概念だが、ここで詠われている墓の下の「眠り」は明らかにそれとは異なっている。「生の時間」が眠っているだけであり、死者が眠っているというなどという単なる死の比喩的な表現としての「眠り」を超えているイメージがすごい。「生」は生のまま、ただ時間が止まっているだけなのだ。
墓地には墓石の数に見合った「生」がとどまっているのである。その無数の「生の時間」によって、誤解を恐れずに言えば、その生が集まっている墓地は「生」の息吹によって「あたたか」いのだ。私(たち)の古めかしい死の概念を一瞬にして乗り超える若い歌人のイメージにただただ驚いているのである(とても残念なことだが、作者の笹井宏之は12年前に26歳の若さで闘病生活を終えてしまった)。
老いて読書力が衰えた心にも新鮮な驚きを沸き立たせる作品に出合えることはまだあるのだ。読書はやめられない、たぶん死ぬまで………。
「3月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 学術… 2023.03.18 コメント(5)
「2月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 規制… 2023.02.17 コメント(6)
「1月20日 脱原発みやぎ金曜デモ」 法理… 2023.01.20 コメント(6)