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震災以来11日が経過し、テレビ番組も徐々に通常に戻ってきました。でも、制作が追いつかないのか、地上波でさえゴールデンタイムに再放送を行っています。局内は閑散としており、わが社への発注も少ない状態が続いています。それでも出勤を確保し、製作ラインを維持し続けるため各部署では対応に追われています。地震と津波被害の大きさ、原子力発電所の崩壊…によって、被災地はもとより首都圏でも生活に影響が出ています。被災地の人々に比べれば、生活の不便さなど大したことはないのですが、朝にならないとその日の鉄道運行状況がつかめず、停電があるかどうかも分からない状態に、振り回される日々が続いています。また、食料品も乾電池もガソリンも足りません。食料品やトイレットペーパーなどは買占めが横行してスーパーの棚は空っぽ。計画停電除外地域となる基準の曖昧さに加え、実施・不実施の区別がよくわからない無計画な計画停電に振り回されつづけるありさまには、企業も個人も困惑せざるをえません。停電するかしないか時間が来るまで分からず、開始予定時間を過ぎてから停電ということも。つまり、予定時間になれば、PCの電源を落とし、機械を止めなくてはいけないのです。量産工場であれば、停電予定に合わせ生産ラインの稼働も調整できますが、受注生産の工場では、ひたすら3時間耐えるしかありません。わが社は停電除外地域に入っているので工場は止まりませんが、周辺部の工場は悲鳴を上げています。震災を利用する者たち、デマを流す者たち震災被害と原発崩壊により、被災者・避難者の生活は塗炭の苦しみ。なんとか助け合って、一日も早い被災地の復興を図りたいと思う国民は多いと思います。しかし、この非常事態を利用して金儲けに走る者たち、社会を混乱させて楽しむ者、悪事を働く者たちも少なくありません。千載一遇のチャンスとばかり投機マネーを動かして利益を貪る輩。自由経済だからと何をやっても構わないのでしょうか? 貨幣の神格化に取りつかれた者たちの道具と化している為替市場や株式取引が停止しようが乱高下しようが、この国難には何の関係もありません。非常事態と思っているなら、政府はもっと積極的な介入を行うべきではないのでしょうか?もっと許せないのは悪質な詐欺。国民の善意を悪用し義捐金詐欺が増えていると報じられています。「何か出来ることはないか」と思っている善意のお年寄りたちが餌食にされているのです。この者たちを徹底的に取り締まるべきだと思います。さらに、生活に混乱を引き起こすデマ・風評を流して悦に入る「変態」を厳重に取り締まってほしいもの。関東大震災の時は「朝鮮人と社会主義者が暴動を起こす」とのデマに日本中が踊らされ、多くの人々が虐殺されました。甘粕憲兵大尉によって大杉栄が殺された例もありますが、ほとんどが「自警団」に組織された一般の市民が殺人行為にまで走ったのです。いま、さまざまなデマが飛び交っています。 ・福島などの野菜を食べると死ぬ。 ・福島の牛乳は飲むな。 ・被災地で性犯罪や外国人の略奪行為が多発している。 ・うがい薬を飲むと放射能汚染されない。 ・トイレットペーパーや米が手に入らなくなる。 ・精油所爆発で有害物質が降ってくる。 ・2012年地球滅亡の前兆だ。 ・福島は放射能汚染されているから物資輸送に行くとヤバイ。 ・関西電力が節電を呼び掛けている。なかには、善意ではあるけれど無知ゆえに流されているものもあるでしょう。しかし、無知のおかげで振り回される人々も多いのです。風評やデマに踊らされないように、しっかりと見聞きして、自分でも調べ考える必要があると思います。政府やマスコミが垂れ流す情報がすべて正しいわけではありません。たとえば、野菜について、政府は「食べても人体に影響はない」と言いつつ「出荷停止」を求めて、市場を混乱させ、生産農家を苦しめています。また、牛乳も同様で、調べたのは原乳。それを加工して牛乳として販売するわけで、いま現地では加工することもできません。なのに「飲んでも人体に被害はない」と、あたかも放射能汚染牛乳が流通しているかのような発表をしています。今回の震災ではツイッターが威力を発揮しましたが、同時にデマの温床にもなったようです。ガソリン不足で渓流にも行けないありさまですが、今日も元気に働いています。本心は現地に行ってお手伝いをしたい心境ですが、会社を放っておくわけにはいきません。義捐金など東京にいてもできる支援をやっていきます。日本がんばれ! 東北がんばれ! 全ての被災者の皆さん!がんばれ~!! 離れていても心はあなたたちと共にあります!!日本赤十字社の義援金ページにリンクしています。(三階ラボさん制作です)
2011年03月22日
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事務所で打ち合わせ中、大きな揺れ。社員を避難させ、生産ラインなどをチェックしましたが、社内は大きなアクシデントはなし。ビルの5階フロアで水道管破裂し、4階フロアに漏水被害。ビル全体が断水しており、復旧見込み立っていません。壁面には何箇所かクラックが走り、地震の激しさを物語っています。それでも止まらないのがテレビ局。来週放送分の原稿が入ってきています。夜勤メンバーの出勤調整と徹夜組の手配でてんやわんや。電話が通じないためメールで連絡を取り、なんとか人員を確保し、現在作業進行中です。徹夜組の水、食料を確保するため、社員を派遣しましたがコンビニも近くのスーパーも弁当・おにぎりは瞬時に売り切れ。冷凍のスパゲティ、菓子など買いだめています。トイレが使えないので、隣のビルから水をもらい、大きなポリバケツに溜めて、各自流してもらうことに。社員の安否確認。ほぼ全員が連絡取れ、関西旅行などで所在が明確な者を含め全員無事なようです。帰宅者は、徒歩組、車組、社内待機~電車組に分かれ、全員が無事帰宅できたとのこと。現地ではまだ予断を許さない状況が続いています。被害がなんとか最小限に収まることを祈ります。被災された方に心からお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
2011年03月11日
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早く会社に行く予定で、バス停へ急いでいた時の出来ごと。リュックを背負った小さな女の子が、前方の交差点の歩道ぎわに貼ってある、点字タイル上に立っているのが見えました。「危ないやろ、あの子。親はどないしてん?」急ぎ足で交差点に向かいます。その交差点は、さほど広くはないバス道路と細い道路(幹線道路の抜け道)が交わる場所で、車の交通量もかなりあります。(下の写真参照)通行人は全部知らん顔して通過しています。「これはヤバい。お嬢ちゃん、動いたらアカンで~」交差点に着いて、女の子に話しかけました。「誰を待ってるの?」「ママ」「ママはどこにいるの?」はっきりしませんが、「竹ノ塚に行って…待ってなさいって」というようなことを話してくれました。「ママは竹ノ塚へ行っちゃったの?」「そう。4さいなの」「そうか4歳か、かわいいね。どうしてここにいるの?」「まってるの…」「ここは危ないから、こっちで待ってようか」と、交差点に面したスーパーの敷地に移動させました。「さあ、これは困ったことになったぞ…ひとりでここまで来たんやろか…。放って行くわけにはいかんし…もし交番まで連れて行ってる間に家族が来たら大騒ぎやし…。もうしばらく待つか?」赤丸の場所に女の子が立っていた(写真はGoogleストリートビュー)バスが来ました。「ああ、乗れんがなぁ。早よ会社行こうと思ってたのに…」次のバスまでは15分以上あるので、腹をくくって女の子に付き合うことに。年配のご夫婦が近づいてきました。「どうしたの?」私が事情をかいつまんで話すと、「こまったね~。どうしようか…私たちが見ていましょうか」旦那さんも「タバコ吸いながら見てるから…(行っていいですよ)」優しい心遣いです。「ありがとうございます。別に急ぐわけでもないから、待ってます」結局、大人3人と幼女の4人で道端でキョロキョロ。前方から、お爺さんが小走りにやってきました。「すみませ~ん。○○ちゃん、どうして1人で先に行っちゃたの…」事情は、母親が先に竹ノ塚へ行き、じいちゃんと孫が後で行く予定だったのに、孫が待ち切れず先に出かけてしまったとのこと。人騒がせな話。つきあってくれたご夫婦に礼を言い、バス停に向かったのでした。親切とお節介の分かれ目は?話は変わって、会社のそばの交差点。牛込中央通りと呼ばれるこの道路は早稲田通り、大久保通り、外堀通りを結ぶ混雑路線。狭いうえ、交通量がやたら多く、バスも通ります。この道路で唯一信号のない交差点。ほとんどの車は横断歩道手前で減速しないので、渡るのがなかなか難しく、お年寄りは長い時間待つことになります。下の写真右手の歩道を外堀方向に向かっていた我が社の社員が、横断歩道右手で立っている老女に声をかけています。何やら受け答えの後、社員は坂を下って行き老人はそのまま立っています。私は左車道を直進して外堀に向かっていたのですが、横断歩道を渡って老女に声をかけました。こういうときは言葉遣いが違います。「渡るのですか?」「ええ、でも大丈夫です」「ここは車が多くて、しかもなかなか止まってくれませんから、一緒に渡りましょう」「でも、せっかく渡ってこられたんだから…」「どうってことないですよ。さあ行きましょう」私は老女の手を取って、車に止まれの合図。車が止まってくれました。対向の車も停車してくれたので、横断歩道を渡り終えました。「ここからどちらに?」「家はそこなので、もう大丈夫です。わざわざご親切にありがとう」「いいえ。じゃあ、気をつけて」この横断歩道に信号は不必要? 左手は法政大学(写真はGoogleストリートビュー)会社でその社員に聞いてみました。「なんで、行ってしもうたんや」「大丈夫かって声をかけたんですけど、大丈夫と言ったから行っちゃいました」「そうか、それはそれでエエのかもしれんけど、俺とは違うなあ。俺は親切するなら最後まで、と思うてる。最後までやられへんねんやったら声もかけへんで」「でも、大丈夫って言ってるのに、それ以上は手を出せないじゃないですか」「そうやなぁ、小さな親切、大きなお世話とも言うしなぁ。せやけど俺はそうせんとアカンと思うんや」「話は変わるけど、この間、新宿駅でPASMOチャージしてたんや。そうしたらホームレスのオッサンが、10円恵んでくれ言うてきたんや。君やったらどうする?」「10円やって、行ってもらいますよ」「そうか。俺は10円で何するんやと聞いたんや。おっさんはパンを買うって。新宿で10円のパン売ってるとこなんか無いやろって聞いたら、他の人にも声掛けるからという返事や。俺はオッサンに1000円渡して、ここでそんなことやってると警察に通報されるから止めとけと言うたんやけどな…。そんなんではオッサンの問題は全然解決できんとは思う。しかしオッサンは、そのあと100回、10円恵んでくれと言わんで済むと考えたんや。むずかしいなぁ」バッテリー上がりの車を助けるために首都高速を止めてしまったこともあるし、病気した近所の老人のために(以前勤めていた)会社を何日もズル休みしたことも。根がアホなんですね。仕事の時も、できるだけ同じスタンスでお客様に接し、とことんサービスに徹する。社員に対しても、問題を抱えているなら、とことん付き合ってみよう。先代の社長からは「あんまり深く関わりすぎて、相手が悲鳴あげるんではないか」と言われたことがありますが、この性分は治りません。以前、ブログで紹介した私の母親は、自分たちが食べるご飯が無くなっても、困っている人に施しをしていました。彼女のスタンスは信仰に基づくものでしょう。口癖は「情けは人のためならず。仏さんはちゃんと見てはる」。その影響かもしれません。こんなことをブログで書いてしまうと、陰徳を積んだことになりませんが、まあハンドルネームなので勘弁して下さい。読者の皆さんはどう考えます?
2011年03月09日
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2月13日、最終日の当初スケジュールは次のようなものでした。10時:チェックアウト ウトロから斜里まで走り、駅にレンタカーを駐車11時57分:「流氷ノロッコ4号」で網走へ13時29分:普通列車で斜里駅にターン。駅でレンタカーを回収14時30分:斜里駅出発。 国道244号線経由で北浜駅へ(途中食事休憩)16時:女満別空港着18時25分:AIDOで羽田へしかし状況は最悪。低気圧は台風並みに発達し北海道の太平洋岸を北に向かって移動。昨夜からの猛烈な風雪がオホーツク沿岸を襲っています。予報では海沿いの地域では15~20メートルの暴風、ブリザード状態になるので車の運転はできるだけ控えるように、とのこと。また、R244号線は斜里から浜小清水までの区間で通行止です。前夜、斜里から通勤しているというフロントのスタッフから、アドバイスを受けておきました。走り方、網走までの注意地点、よくある事故の例など。早朝から除雪に忙しいホテル駐車場それらを踏まえ、母ちゃんとスケジュールを検討します。●海岸線を走る「流氷ノロッコ号」は風雪に強いと言われているが、釧網線の他の区間で運休したり、ノロッコ自体が途中で運転中止という可能性は無視できない。●そうなると斜里に戻れないし、戻れたとしても道路通行止や最徐行があると空港に戻れなくなる。時間に迫られてスピードを出すと事故の危険がある。●ノロッコは来年以降も運行するだろう。意を決して乗ったとしても、流氷は沖に去っているし、この天候だから窓の外は見えない。●結論=斜里駅で切符の払い戻しを受けて、女満別まで安全運転で行く。早く着けば空港で昼寝する。海岸沿いを走るR344はウトロから峰浜まで迂回路がありません。万が一の通行止を考えて9時過ぎにチェックアウトすることにしました。暴風雪の知床、初ドライブクルマは暴風にあおられますが、重量感ある車体の走行は安定しています。アドバイスどおりのセコ発進・サード走行で、凍結した下り坂も何なくクリア。暴風の中、ホテルも家々も除雪に精を出し、巨大な除雪車が何台も出て道路の除雪作業。ウトロ港周辺は流氷が重なり合っていますが、不思議なことに、それ以外の場所は高波が道路際まで打ち寄せ、まさに怒涛逆巻く状態です。流氷に埋まったウトロ。右は亀岩坂を登り峰浜漁港。ここから下り坂です。ここから峰浜集落の直角左折までは絶対慎重運転。下りでスピードを出し過ぎ、直角左折で真横から叩きつける風にあおられ横転するケースが多いとのアドバイスがありました。先日も地元のバスが横転したそうです。峰浜集落を過ぎたあたりからの道路は、これまで経験したことのないもの。昨年正月に走った山形の峠道では、真っ白な路面と雪壁が吹雪のため境目も分からず難渋しましたが、降った雪が融けもせず積もりもしない道路の怖さを実感しました。強烈な海からの風が、雪原の新雪も道路上の雪も吹き飛ばしてしまうのです。そのため、巻き上げられた雪がスクリーンのように目の前に広がり視界を遮ってしまいます。先行車のテールランプはすぐに見えなくなり、対向車のライトも間近になってやっと見えます。目印はかすかに見えるセンターラインと道路の路肩表示板だけ。そんな道路を、どの車も60キロ以上のスピードで走り抜けるのです。私としてはスピードを抑えたいのだけれど、流れに乗らないと追突される危険があります。ヒェ~!猛烈な浜風が右から叩きつけ、雪を巻き上げる風除けの樹林の切れ目、防風フェンスの切れ目では、暴風が雪を帯に変えて道路を塞ぎ、吹き溜まりを作っています。吹き溜まりに乗り上げて動けなくなったり、横転する事故も多いそうです。自爆だけではありません。風にあおられた瞬間ハンドルを取られ、あるいは吹き溜まりに片側の車輪が載ってスリップし、対向車線に突っ込む危険性も教わっていました。脇見する余裕もなく雪をにらみ続けているせいでしょうか、日差しはないのに目が痛くなってきました。休憩するにも、空いている店はなく、危なくて路駐などできません。とにかく斜里駅まで走り切りました。ここまで1時間くらい。フーッ! 払い戻しと小休止です。ナビの指示ルートが走れない!運転再開。ナビがルートを変更してしまいました。私は2重のミスを犯していたのです。ひとつは「斜里駅経由」を設定しなかったこと。もうひとつは、斜里美咲の交差点からの通行止を知りながら「主要国道なんやから斜里に着くころには除雪完了してるやろ」とタカをくくったこと。ナビは、通行止や斜里駅経由を知りませんから、道道769号線を通ってR244に出るよう指示してきました。私も「最終地点は変わらんのやからエエわ」と、ルート確認もせずナビの指示通りに走りはじめたのです。斜里川をまたぐ橋を渡り釧網線の踏み切りを越えるくらいまでは、今までと変わらない程度の風と路面。間もなく集落が切れ、海側は風を遮るもののない道路になりました。海からの風が吹き荒れ、ブリザード状態。あちこちに吹き溜まりができていて、片輪乗り上げ。そのたびにハンドルを取られます。加えて、除雪も不十分で根雪がアイスバーンに。母ちゃんが身を固くして、足を突っ張っているのが分かります。運転している私も肩に力が入っているのですから。どんどんアイスバーンがひどくなり、吹き溜まりの凹凸も見えません。風は強くなる一方です。先ほど斜里駅手前で見た風力は20メートル。いまはそれ以上あるのでしょうか。雪のスクリーンのためホワイトアウト状態です。すれ違う車もありません。もう何も見えない「ねぇ、戻ろうよ」と母ちゃんのおびえた声。「そうやなあ、これは危険かもしれんなぁ。元の位置に戻るか」しばらく走ってやっとUターンできる場所を発見。道路標示が「南1号」になっています。ここはどこ?ホワイトアウトの道を戻りますが、ナビは右折しろとアナウンスします。速度を落としてみると除雪もしていない細い道。その繰り返しです。ナビを無視して走り続け何となく記憶のあるT字路に出ました。さあ、これからどうする? もうナビは信用できません。対向車線から観光バスが現れました。「とにかく付いていこう。バスが通れるとこやったら大丈夫や」しばらくして、ナビは国道接近を右折と指示しますがバスは直進。「アレッ」と思っていると通行止の看板が立ち、警備員が直進を指示しています。まだR244の通行止は解除されていなかったのです。浜小清水の交差点。斜里方面通行止の標識そのままバスを追尾していくと、やっとナビが内陸部のR334への迂回ルートを指示しはじめました。道路は真っ白に凍っていますが風は強風程度。小清水町町役場付近でバスと分かれ、通行止の切れるR244の浜小清水へ。R244の斜里方面は相変わらず通行止。私たちはR244を網走方面に走ります。白鳥が飛来しているはずの涛沸湖は、舞い上がる雪のため霧がかかったようで、鳥の姿さえ見えません。10キロほど走れば有名な北浜駅です。名所・釧網線北浜駅で北浜駅は映画やテレビドラマの撮影に利用される観光名所。現役の駅なのに待合室は切符や名刺、メッセージが隙間なく張り巡らされています。また、中国映画のロケにも使われ、中国人観光客が多数訪れています。この日も中国人カップルが映画の1シーンさながらに肩を寄せ合っていました。駅舎の奥は「停車場」という名の喫茶店。客車の座席、網棚、カンテラなど鉄道グッズを配したレトロ感あふれる店内は、列車待ちの乗客やカメラマン、安全確認のため出動してきたJR職員などでにぎわっています。まさに停車場。こんな雰囲気いいですね~。11時53分、いかにも嵐の釧路湿原・オホーツク沿岸を走ってきた感じの「快速しれとこ」が入線。みんな「停車場」から飛び出して、撮影や乗車を急ぎます。駅にある喫茶店「停車場」。左は列車待ちで待機するJR保安員私たちが乗るはずだった「ノロッコ4号」は45分後の到着。待っている気になれず、出発することにしました。駅舎の脇には展望台。手すりもステップも凍てついています。こんな暴風下、吹きさらしの展望台に登るモノ好きはいないのかも。荒れ狂うオホーツク海。流氷は全くありません。氷のような雪が顔面に叩きます。痛い! 早々に退散です。展望台から荒れ狂うオホーツク海を望む。右下はホーム12時30分、道の駅「流氷街道網走」に到着。ここは砕氷船おーろら号乗船場です。前日から高波のため運航中止です。道の駅の向かいにある蔵造りの蕎麦屋さんで昼食。田舎風の色の濃い十割そばは、コシがあり、のど越しも滑らか。ゴボウのてんぷら付きを追加してしまいました。雪溜まりに突っ込んだ!?14時30分、女満別空港到着。フライト状況は? カウンターに駆け込んで状況を確認します。多少の遅れはあるものの全便発着の予定とのこと。よかった~!と思いつつも、欠航になって空港に足止めというのも面白いと思った、イケナイ2人でありました(仕事はどうする気やねん!)。早く着き過ぎたため、出発までの4時間、ベンチで昼寝するしかありません。もうちょっとゆっくりしてもよかったか? 聞くともなく13時30分の便に乗り遅れた人の会話を聞いてしまいました。その人は雪溜まりに2回も突っ込んで、ワイヤーで牽引してもらったため遅れたのだそうです。そんな話を聞いてしまうと、これで良かったんだと思うしかありません。ということで、冬の北海道旅行記おしまいです。
2011年03月02日
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2日目、2月12日。どんよりとした雪空。天気予報どおり午後から本格的な雪になりそう。低気圧が北海道に近付きつつあって、今夜から猛吹雪の予想です。朝8時30分。斜里バスがホテル玄関前に到着しました。乗客は私たち2人だけ。「あの~、2人だけなのに羅臼まで行ってくれるんですか?」母ちゃんが運転手さんに、恐る恐る尋ねます。「いえ、ほかのホテルからも乗られるんで8人になります」「少ないですね。でも、よかった~。以前、名古屋駅から伊勢神宮まで直行バスに乗ったことがあるんですけど、私たち2人の貸し切りで終点まで。ドライバーさんに気の毒で…居眠っちゃダメだと言い聞かせて…朝一の新幹線だったのに…フフフッ」「大丈夫ですよ、ハハハッ…。知床は初めてですか?」「何度も来てますが、真冬は初めて。北海道フェッチなんです。特に知床にはすっかり魅せられてしまって…」「うれしいな、知床ファンに出会えて。ありがとうございます」夜明けのウトロ東港。一夜のうちに流氷は沖へ8人を乗せて、バスは海岸線を走ります。昨日と打って変わって空は鈍色、流氷は沖に離れ、大波が打ち寄せています。カモメやカラスの姿もほとんど見られません。峰浜漁港を埋め尽くしていた流氷も姿を消し、強い風がバスを揺さぶります。斜里から根北峠。前回通った時、道路脇でキタキツネの親子に遇いましたが、今回は雪原に残る動物の足跡以外見ることができません。10時45分、標津サーモン科学館到着。予定より30分遅れています。強風とアイスバーンの道路、しかも大部分が追い越し禁止ですから仕方ないでしょう。駐車場にはお迎えの館員。8人そろって入館と相成りました。バス乗客は入館料割引です。広い館内は入館者もまばら。学芸員さんがつきっきりで説明してくれます。他の水族館と違って、サケの一生をビデオで見せてくれ、大水槽前ではトラウト類の種別と特徴などスライド付きで解説してくれます。9、10月には近くを流れる忠類川に戻ってきたサケの遡上がガラス越しに観察でき、11月には白サケの産卵行動が観られます。大水槽の前で丁寧に説明する学芸員幻の魚イトウは幼魚から1メートル余りの巨大魚まで展示され、そのほかニジマス、ヤマメ、イワナなども飼育されています。そのほか、キャビアの採れるチョウザメ、角質を取ってくれるドクターフィッシュなど…。1時間の見学時間では半分くらいしか展示を見ることができませんでした。「ここは前から来たかったんだ。この次は時間を取ってじっくり見学しようね」なぜか母ちゃんは熱心です。毎日、息子の弁当のためにサケを焼いているからでしょうか? って関係ないですね。幻のイトウについて幻滅するような話。イトウの食欲は半端ではなく、かなり大きな魚でも丸呑みにしてしまうそうで、中には食べ過ぎて死んでしまったり、大きすぎる餌の魚をのどに詰まらせて死んでしまったり…とのこと。母ちゃんにはバカ受けです。「これから、お父(おとう)でなくて、イトウと呼ぶからね。イ・ト・ウ! ああ、おかしい」「何がおかしい、アホトドが!」横でやりとりを聞いていた学芸員さんは必死に笑いをこらえていました。「あんたが余計なこと言うさかいに、アホが図に乗るんや」と心の中で学芸員さんに毒づいた私でありました。左:チョウザメに指をくわえさせる。歯ぐきで噛まれたような感触右:餌を投入すると間髪おかず飛びつくイトウ。派手にしぶきが飛んでくる羅臼の道の駅に12時25分到着。12時50分に船のスタッフが迎えに来ます。昼食を摂るのもやっとです。私がタバコを吸っている間に小さな食堂は満席。外で何か探すか? 寿司店もあるしラーメン屋もあるけれど時間的に無理。スーパーでおにぎりでも買って食べよう。おにぎり売ってないよ、菓子パンでいいか! パンを1個ずつ食べて腹の虫を抑えておきました。雪が降ってきました。予報より2時間ほど早い降雪。風も強くなってきました。出船は間違いないでしょうが、甲板上はキツイだろうなあ。一般の乗船者もいて総勢20人くらい。港内はほとんど結氷もなく定刻に出船しました。港には付きモノのカモメとカラスが追ってきます。早くも翼を大きく広げて飛ぶオオワシやオジロワシが見えます。船は10分程度で沖合にある流氷帯に乗り入れ微速前進。ワシたちは船のそばを飛翔しています。13時というのに薄暗い羅臼港片手だけ手袋なしの完全防寒で上甲板へ。雪と寒気で胴震いするほどです。シャッター操作のために剥き出しの右手が痛い。わが愛するコンデジは、厚い雲と雪のためにシャッタースピードが遅くなって、連写モードもイライラするくらいゆっくり。カシャカシャカシャではなく、カシャリ、カシャリといった感じ。10倍以上にズームしているので、鳥は一気にモニターから消えます。連写の意味がない!! 露出補正もあまり効果なし。トホホの連写で撮りまくり、何とか確保したのが以下の写真です。 オジロワシ同士の空中戦 着地確保した餌をついばむオジロワシ滑るように飛ぶオオワシ餌をついばむオオワシ。周りへの警戒は怠らない氷原に羽を休めるオオワシたち寒がりの母ちゃんは?と、見回すと船の先端に陣取って狂喜乱舞状態(寒くて足踏みしていたのかも)。スキーに行っても雪が降ってきた、寒すぎると言ってはレストハウスに引き籠る母ちゃんなのに、頬を紅潮させて頑張っています。2人とも帰港のアナウンスまで甲板にいました。14時45分、バスはウトロに向けて発車。風雪がどんどん激しくなってきます。根北峠を通過する頃には横殴りの雪。路面の雪を風が巻き上げ視界不良です。すべての乗客を各ホテルに送り届け、最後に私たちが下車したのは17時45分でした。プロとはいえ、この吹雪の中ご苦労様でした、と運転手さんには深々と礼。レンタカーで吹雪の中を走らなくてよかった~。夜半の駐車場。強風にあおられる粉雪がスクリーン状態だ当たらなくてもいいときに、大当たりする天気予報。まるっきり暴風雪の様相です。これが明日いっぱい続くのかと思うと憂鬱です。無事、女満別空港まで行けるのか…飛行機は飛べるのか…? まあ、いいか。思い切りご飯食べて、温泉堪能して寝るか~、と呑気な男。露天風呂に行ってみましたが、浴槽までが耐え難い痛さ。それでも勇を振るって吹雪に立ち向かい、素裸のままで仁王立ちの私。じっくりウトロの様子を観察する雄姿(想像すると今夜うなされると思います)。明朝は車は完全に雪に覆われ凍結しているんだろうなぁ。次回、最終日です。
2011年02月25日
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1日目午後。ウトロ港あたりでは密度の高い流氷帯が岸から離れています。堤防より手前を歩き、氷と戯れるのですから、こんな程度でも全然問題ありません。逆に密度が高過ぎると海に入ることができなくなってしまいます。実際に歩いてみると、着床している氷は揺れませんが、浮いている氷に乗ってしまうとグラリと姿勢が崩れます。また、見た目には氷同士密着しているようでも隙間があります。隙間に足を踏み込んでズボッということも。泳ぎに自信がなく、しかも川で流された経験を持つ母ちゃんは、こんな状態を極度に怖がります。そのくせ、いろんなことに挑戦しようとするので、手をつないだまま移動していきます。堤防まで歩くと言われるとキツイかもしれません。母ちゃんにとって、今日は「ラッキー!」な氷の状態です。流氷ウォーキングの遠景。左端に私たち。母ちゃんを海に横たえ中氷のまばらなポイントまで歩いていって海に入ります(といっても腰から太腿くらいの深さ)。シャーベット状になった海水は2℃。しかしドライスーツのおかげで全く冷たさは感じません。どっこいしょと浮かぶ氷の上へ。畳2枚ほどの海氷は4人乗っても沈まない浮力を持っています。立ち上がってバランスを取ったり、流氷の上でアザラシのように寝そべったり。「なんかトドみたいやな、キミは」「じゃあ、とうさんはシロクマかセイウチだ」「こんな華奢なセイウチいてへんがな。俺のことはゴマちゃんと呼んでんか」「このドライスーツは浮くので、水の中で仰向けに寝そべってみましょう」とインストラクター。「こわいよ~。絶対に沈まない?」としつこく聞いてくる母ちゃん。「僕がやるから見ててみぃ」プカプカといい気持ちです。青々とした空。太陽がまぶしい。次は母ちゃん。恐る恐る体を水に浸けます。(支える必要などないのですが、怖がるので)私は首の下と腰に手を回し支えます。介護入浴か? 海水だから重量は感じませんが…。氷の海に浮かぶ。プッカ~ンと体を投げ出して気持ちいい流氷の本籍地はロシアのアムール川。凍結した淡水がオホーツク海を南下して、北海道に接岸します。海の中に漂っているので表面は塩辛いですが、割って舐めてみると確かに淡水。おお、ハラーショ(第2語学ロシア語だったもんでついつい…)! 母なる川アムールの味がする!ってウソ。知床には流氷でロックウィスキーを飲ませてくれる店もあるそうです。どんな味なんでしょう。あっという間に時間は過ぎ、撤収。母ちゃんも私もほかの参加者も「すっごく楽しかった」。参加していたフランス国籍の日本女性は、よほど感激したと見えて終始ハイテンション。ウォーキング中もマシンガントークを炸裂させていましたが、最後は「◎◆&□▼$! 最高だったわ。メルシー ボクー! ボクーって付けると最上級のありがとうなのよ」と和訳付きで絶賛していました。私は声には出さず「アムール川絡みやから“バリショーエ スパシーバ”(ロシア語)の方がエエのになぁ」と。残念ながら、イベント参加中は自分で撮影できません。(手袋の着脱が難しく、濡れているため)カメラはスタッフ預け。数枚の記念撮影だけにとどまりました。オオワシとオジロワシを見るもう15時です。知床の日没はやたら早くこの日は16時40分頃。鳥たちが巣に戻る前に雄姿を拝みたいので、休憩する余裕もなくオオワシたちのいた地点に戻ります。先ほどより数は減っていますが、オオワシもオジロワシも待っててくれました(と、自分勝手に思ってます)。漁港に近いせいかカラスがせわしなく羽ばたいて飛び回っています。オオワシたちの羽ばたきは全く違います。擬音語で比較するとカラスはパタパタ、ワシはバッサバッサと羽をしならせています。あんな風に飛べたら気持ちいいだろうな~。大空高く舞う。左がオジロワシ、右はオオワシ。コンデジではこれが限界?昔の人も同じように想い、ギリシャのイカルスはじめ多くの鳥人伝説を生み、気球や飛行船を作り、ジェット機まで創り出したわけで、やっぱり夢見なければ実現しないのですね。私は、何の努力もしないで、スーパーマンになりたいなぁ、と思う程度ですが…。オジロワシオオワシ昨夜はほとんど寝てないので、いい加減疲れてきました。ウトロ丘の上にあるホテルへ一目散。なにはともあれ温泉です。長い時間海っぺりにいたので体が冷え切っています。エエお湯やったなぁ、芯から温(ぬく)もった。あーっ、夕陽の写真撮るの忘れてた。食事までに羅臼に連絡して、明日のクルージング予約をしなくては。母ちゃんが先方と話しながら目線を飛ばしてきます。なにやら怒りがこもっています。「…はい、分かりました。そうします…」なんのこっちゃ?しっかり者の母ちゃんが残照のウトロを撮影していた「このバカタレ! いったい何聞いてたのよ」「何が?」 「朝5時半、9時、13時というのは、ウトロ発のバスじゃなくて羅臼から船の出る時間! 横断道路は冬期閉鎖だから、羅臼まで行くには斜里に出て根北峠を越えるしかないって…」「え~っ!! そうか、言われてみれば…。13時のバスやったら羅臼に着いても船に乗れんわなぁ。ということは9時までに羅臼に着こうと思うたら、ホテルを6時半には出んとアカンよ。朝ご飯あきらめんと…」「聞け~!! 土日限定で標津・羅臼周遊バスが、8時30分にホテル前から出るの。そのバスを利用すると、たとえ乗船が1人でも船を出す契約になってるんだってさ。ウトロ戻りは17時ごろ。峠越えもあるからバスの方がいいって。13時のショートコースだけどいいよね」「う、うん…ショートでかまへんよ(いかにも大阪人らしく)なんぼ(幾ら)やねん」「ホテルから標津サーモン科学館、羅臼道の駅に寄って乗船場。帰りはホテルまで送ってくれるコースで1人3500円。科学館と船の料金は別。」「高いなぁ」「じゃ、運転するか?」「待ってや…往復したら250キロ。しかも明日は15時くらいから雪降るしなぁ…ガソリン代だけで3500円、3500円オーバーか…」「何ブツブツ言ってんの? 小さい男だな~。細かいこと言ってると出世しないよ。根北峠で立ち往生はイヤだからね」「4駆のスタッドレスやから大丈夫とは思うけど…よっしゃ分かった、リスク回避優先。バスに決定。これで朝飯もゆっくり食える」18時過ぎにフロントに行って申し込み完了。もし、荒天や流氷がなくて出港中止となった場合、バスはキャンセルしても構わないとのことでした。周遊バスの素朴なチラシこの周遊バスは、知床観光圏事業の一環として今年初めて登場。2月の土曜・日曜限定でスタートしたばかりの企画です。知床横断道路は11月から4月まで閉鎖され、ウトロ・羅臼間の移動は根北峠を経由してマイカーかタクシーを使うしかありません。魅力いっぱいの冬の知床なのに移動手段がない。知床の観光圏構想はそのような事情から生まれたのです。告知も十分でなく、チラシも素人がデータ作成してインクジェットプリンターで出力したもの。あんまり人気が出て大混雑も困りますが、来年以降も継続されるよう、たくさんの人に利用してもらいたいものです。現地にはバスで行くことを連絡して、スケジュール変更に伴う手配は一応終わり。腹ペコの2人は夕食を腹十二分目くらい頂いて、2日目のためにパワーアップを図ったのでした。2日目に続きます。
2011年02月22日
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11日。天気予報では、都心部でも5センチくらいの積雪。雪に弱い首都高速は通行止めの可能性があるとのこと。自宅を出る午前5時45分には雲が厚いものの降雪の気配なし(このあと降ったらしい)。予定通り羽田に到着して発着情報を見ると秋田行きなどは着陸時の天候によって仙台に向かう条件付き。女満別空港への便は平常運航になっています。現地の天候は晴れ、気温-12℃。このときの羽田は3℃です。3連休初日のせいか保安検査場は大混雑。定刻より15分程度遅れて離陸しました。女満別空港着陸も15分遅れの10時。太陽が照りつけ-7℃の温度表示にもかかわらず寒さは感じません。風は弱いものの最悪の南風。こりゃあ流氷無理かな?阿寒岳の真上を飛行機が通過。左上は阿寒湖旅行会社が用意してくれたレンタカーは3ナンバーのスバル「インプレッサ・アネシス」の4WD(最近はAWDといいます)。もちろんスタッドレスタイヤ装着です。優れた雪上・氷上走行性能を持つ名車。燃費の問題はありますが、天気予報からすると願ってもない車です。網走港の砕氷船おーろら号乗り場まで20分。急ぐ日程でもなく「女満別 メルヘンの丘」に立ち寄ったりしながらの悠々ドライブ。乗り場のある道の駅到着。駐車場は観光バス、マイカーで混雑しています。さあ、どうだ、流氷はあるのか!?空港から近い「女満別メルヘンの丘」「本日 流氷なし 海上遊覧」の電光掲示。そんなぁ~と母ちゃんの嘆声。11時の船が満員の観光客を乗せて港を出ていきます。せっかく来たのだからと乗った人もいるでしょう。ツアーで予定通り乗った人たちも多いようです。私たちは流氷がなければ乗る必要なし。予約をキャンセルしました。で、どうする?「たしか、羅臼でも流氷クルーズやってるって、ゴジラ岩観光のサイトに書いてあったよ」「そう言われたら、見たような気がするなぁ」「ウトロから羅臼までバスが出るらしいよ」「電話して聞いてみ~」ゴジラ岩観光というのは流氷ウォーキングの予約先です。教えてくれたのは羅臼のクルージング受付の電話番号。羅臼で受け付け?と、ここで気が付くべきだったのですが、ウトロ発羅臼行のバスというのが頭にあってエライ勘違いをしてしまいました。電話をしたのは私です。イメージはこんな感じだが…無情の電光掲示板(船の写真は観光協会HP)「今日はもう無理らしい。明日は朝5時30分、9時、13時に出るんやて。5時半と9時は確定してるけど、13時はまだ2人だけの予約なんで、どうなるか分からへん。夕方、どうするか連絡ほしいと言うてはる」先方は船の時間を知らせているのですが、私はバスの時間と思い込んでいるので話が「腸捻転」を起こしています。「だったら、朝ご飯食べて9時に乗れるんじゃない。でも、知床横断道路は冬季閉鎖でしょ」「そうやな、バスだけ通すのかなあ」「そんなわけないでしょ~。標津の方を回っていくのかしらね。何時に着くんだろ?」「まあ夕方に電話したらええねんから。このあとどないする?」重大な誤解をしたまま、検討会。翌日に予定していた流氷ウォーキングを今日の午後に変更してもらうことにしました。再びゴジラ岩観光に電話。母ちゃんが事情を話し、変更できるかを確認します。13時にウトロまで来られればOKとの回答。手元の旅程表で距離を確かめ、行きますと返事しました。このとき11時15分。網走ウトロ間は75キロ。食事をする余裕はありませんが、コンビニでおにぎりなど買って食べながら走れば、何とか間に合いそうです。ウトロ目指してGO! 国道244号線は雪解け水でそこいらじゅうに水溜りができています。どの車も盛大に泥水を跳ね上げて歩行者に泥水をかけていきます。ゴールド免許の私は歩行者や・バイク・自転車を見ると減速して通過。斜里駅辺りを過ぎてからは路面凍結の箇所が増えてきました。注意、注意。ビッシリ流氷に埋まった峰浜漁港(写真の右上)「わき見運転しないでよ」「分かってます。絶対安全運転や…あっ、知床側は流氷が接岸してる」「だから、脇見はするなって言ってるだろが、バカじじい!……すごい流氷だねぇ」「ちょっと車停めるで」ウトロの手前にある峰浜漁港は流氷で埋め尽くされています。「すごい!」デジカメを取りだして写真撮影。「急がなきゃ間に合わないよ」再発進して間なしに、脇見し放題の母ちゃんが「オオワシじゃない?」「どこや」結局私も脇見です。「通り過ぎた。どうしてすぐに止まらないのよ」「急ブレーキ掛けると危ないから、しゃーないやんか」凍結した坂道をズルズルとバックして、オオワシ発見。急いでいると言うのに、またしても車を止めて、2人でオオワシ観察、写真撮影。冬の日差しを浴びて流氷を見ている(?)オオワシ海岸沿いの国道は除雪されているものの真っ白に路面凍結しています。「観光道路なんやからもうちょっとキッチリ除雪でけへんのかいな」「13時に間に合うの?」気が急いて、ともすれば地元ナンバーの車を追尾するように70キロ近いスピードに。「スピード出し過ぎ」ひっきりなしに母ちゃんの警告。口には出せませんが「こいつは人間アラームか!」オシンコシンの滝まで1キロくらい手前に差し掛かると、バズーカ砲のようなレンズを付けたカメラを構えている人たちがウロウロ。またまた車を止めて空見上げます。オオワシとオジロワシが冬枯れの梢で羽を休め、あるいは大きく羽を広げてゆったり空に舞っています。知床おそるべし。天然記念物がフツーに飛び回っています。写真を撮ろうとすると母ちゃんから叱責が飛んできました。「流氷ウォーク、間に合わないよ!」「そやかて、オオワシやで~。オジロワシもおるで~」「流氷ウォーキングが終わったら戻ってくればいいでしょ」「ああ、その手があるか~。ほな行くで~」13時ピッタリにウトロ到着。スタッフに手伝ってもらってドライスーツを着用します。水温は2℃。素肌では堪えられません。流氷の海へいざ出発です。1日目後半に続きます。
2011年02月18日
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東京にまたも雪。いま少し小降りになってきました。明朝の交通機関は混乱必至。とにかく雪に弱い都会なのです。夜明けに多摩(東京の西部)に向かう納品があるので、安全運転に心がけるよう会社に連絡しました。都心より降雪量が多い多摩丘陵。スタッドレスタイヤを装備していますが、時間に追われて走るので心配です。15日午前2時。自宅ベランダから ☆~~~~~~~~~~~~☆~~~~~~~~~~~☆母ちゃんが4月末までの超繁忙期に突入しました。この間は、すべての土曜日が出勤となり、傷病と不祝儀以外で有給休暇を取得することもできない状態です。保育関係用具を製造・販売する会社なので年度末は例年忙しいのですが、昨今は少子化対策が行政主導で推進されているため、かつてないほどの繁忙状態。私の勤める会社も含め中小企業が業績不振であえぐ中、うらやましいかぎりです。そんな中、この3連休は特別に社休日。それを見逃す母ちゃんではありません。オホーツク海の流氷体験、オオワシ・オジロワシ観察を目的に旅行を企画。お得感のある往復飛行機・ホテル・レンタカー付きフリープランを見つけてくれました。例によって、私は母ちゃんが希望する内容を組み込んで行程表を作成しました。この時期のオホーツクは気象情報チェックが重要。慣れない冬の知床を走るリスクと、風向きによって接岸したり沖に遠ざかる流氷の動きを予測しなくてなりません。行程表作成と同時に気圧配置・流氷情報に注意を払います。2月1日にはオホーツク沿岸に流氷接岸。10日以降は紋別も網走も流氷なし2月に入り、西高東低の冬型気圧配置に変化が現れはじめ、東京などに雪をもたらす前線が太平洋岸に沿って現れるようになりました。北海道あたりも北風から南西や南東の風が吹きます。そうなると1月下旬からオホーツク沿岸に広く接岸していた流氷が徐々に移動しはじめます。宗谷あたりから知床まで流氷が接岸しているときには、西風が吹いても網走方面に移動するだけなのでまだOK。でも、紋別・網走の氷がまばらになってくると、西風のときは全部知床に接岸してしまいます。知床には分厚い氷が溜まるため、知床のウトロから流氷観察ツアーに出る船はありません。また、南寄りの風では流氷は沖に遠ざかってしまうのです。夕方まで港を埋め尽くしていた流氷が夜が明けると全くなくなっていたという話はよく聞きます。数年前に、紋別から砕氷船ガリンコ号に乗ったときは、辛くも流氷に追いつき、氷上のアザラシなど見ることができました。今回はどうなるでしょう。10日からの実況天気図。西高東低が崩れている2月10日から13日の予想天気図は最悪のパターンを示していました。流氷船に乗る11日は西または南西の風で網走の流氷にはよくありません。12日、流氷の上を歩く流氷ウォーキングの日は、太平洋上の低気圧の影響で風が南寄りに変わり、ウトロに接岸している流氷が離れる危険性が…。13日は低気圧が発達しながら北海道の太平洋岸を進むので強い冬型の気圧配置になり大荒れ、東京に帰れない危険もあります。それ以前に出発前夜から東京にも積雪の予報があり、飛行機は飛ぶのか? 飛行場まで行けるのか?いろんな不安を抱えて、とにかく3連休スタートです。
2011年02月15日
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亡くなって早や17年になる私の母親は、大正5年生まれの古色蒼然とした昔風の日本女性。ほとんど和服姿しか見たことがありません。お寺の娘だけあって家庭での躾は厳格そのもの。朝夕の仏壇・神棚の世話に始まり、冠婚葬祭の決まりごと、節気ごとの行事、家のしきたりを、文字通りビシバシと叩き込まれました。そのくせ、妙にハイカラなところがあって、教育方針は男女平等。長男の私に対して「これからの男は台所仕事でもなんでもできんとアカンのや」と、掃除・洗濯から縫物・料理(はては、おせち料理まで)を厳しく仕込まれました。また、余所で観察し聞き取りをした知識で、大工・左官・屋根の瓦葺きまで息子に叩き込んだモンスター。勉強が趣味のような弟はこの種の修業を免除されていました。伊勢湾台風で被害を受けたときはその集大成。腰に縄を付けられて2階の大屋根で瓦を葺き、足場を組んでゴッソリ剥落したモルタル壁を修理し、バラバラになった板塀と物置を建て直している中学生の姿を哀れと言うより喜劇です。そんな姿を、ちょっと好意を持っていた同級の女子に見られ、真っ赤になっている腰縄付きの中学生! その悲哀わかっていただけるでしょうか…。私の少年時代はどうでもよくて、母親のこと。バターやニンニクを使った料理は作りも食べもしないくせに、お湯をかけるだけの「チキンラーメン」、煮込むタイプの「王様ラーメン」など即席めんに飛びつくし、近くの養鶏場からもらった鳥肉(大阪ではカシワといいます)やレバーなど内臓で焼き鳥を作って喜んでいるし、変な人でした。なによりコーヒーが大好きでした。私は母親の一番弟子ですから(弟の方はひたすら勉強の愛想なし)、嗜好もよく似ていて、酒はほとんど飲まないし、無類の甘い物好き。コーヒーも二人で飲むことが多かったです。反抗期真っ盛りの高校時代も、「コーヒー飲もか、饅頭あるよ」と声をかけられるとたいてい抵抗せず付き合っていたほど。「欲しない」と抵抗しても、「邪魔したろ」と私の机まで押しかけてくるのですから、仕方のない母親です。姉と弟の名誉のために一言。姉は私と年が離れていて(オヤジが長い間軍隊に引っ張られていましたから)、この頃は大人で既に大酒飲み。3つ違いの弟はコーヒーと甘い物が苦手で、紅茶党。いまでも、私には晩酌の習慣がありません。朝起きてから寝るまでコーヒーがメインで、ときたま緑茶という生活。喫茶店にもよく行きます。そういえば「こんな私にだ~れがした~」とかいう歌がありましたね。有田の陶芸家・宮崎祐輔さんのマグカップ。ちょっと贅沢な会社用そんな私にとって、有り難いのはちょくちょく顔を出す喫茶店などの対応。会社の近くにある2軒の珈琲館、デニーズ、タリーズコーヒー、それと昼飯を食べに行く喫茶店。いずれの店も私の好み、コーヒーを出すタイミングなどキッチリと覚えていて、何も言わなくても、いい感じでコーヒーを出してくれるのです。「おはようございます」「こんにちは」と「ごちそうさま」しか言ってないことが多いのです。食事が絡むデニーズでもスタッフの方が「○と□とコーヒーは△ですぐですね」と先に言ってくれます。喫茶店のお兄ちゃんには「食事メニューは君が決めてくれ」と言ってあるので、店のカレンダーには私が何日に何を食べたか記録されています。ありがたいことです。特に有り難いのは会社と家。私の勤める会社は「お茶を飲みたければ社長でも自分で用意する」よう決めてあります。女子社員は茶汲みや掃除のため会社に居るわけではありません。男女とも特別の技能を持った人格なのです。会議のときは参加者が自分たちで用意、来客時は応対する人間が社内の自販機で買ってきます。ときたま社長が買いに行って、私たちを慌てさせます。そんな社風にもかかわらず、私が出社すると淹れたてのコーヒーがすっとデスクに置かれます。経理担当の女性たちが自主的に淹れてくれるのです。「私たちも飲みたいから」と言ってくれますが、タイミングをはかって淹れているのは分かります。コーヒーを飲み、パソコンを起動させ「さあ、やるか!」という気持ちにさせてくれる1杯。感謝しています。ちなみに若くて太っている社長は缶コーヒーと黒烏龍茶が好みらしく、コンビニと社内自販機ご愛用です。自宅では上高地帝国ホテルで買い求めたマグカップ帰る時間が分からない私。24時間操業の会社ですから母ちゃんにはずいぶん迷惑な話です。母ちゃん自身フルタイム勤めるビジネス・ウーマンですから疲れています。私は食事には頓着がなく「出された物は何でも美味しく食べる」タイプ。晩御飯がマックでもケンタでも、ピザーラでもHOTMOTでも構いません。母ちゃんが繁忙期で大残業が続くときには「晩飯は作らんでもええ」と宣言しています。にもかかわらず、何時に帰るか分からない私の食事のために起きているのです。さすがに24時ごろになるとメールで「先に寝ていい?」と問い合わせがきます。彼女の矜持は「温かい物は温かいうちに。魚は帰宅時間に合わせて焼く。レンジでチンはさせない」なのです。だから会社を出るときに、帰宅時間を連絡するよう求められます。帰宅してすぐに私がやることは、ジャージに着替えてベランダで一服つけること。部屋に戻ると淹れたてのコーヒーが出されます。これは有り難い。緊張が一気にほぐれていくのです。母ちゃんの話を聞きながら食事をして、午前1時には母ちゃんは就寝。ここから先は私自身の時間です。テレビ、本、ブログ…ときには仕事。2時か3時ごろには私も寝るように努めていますが、4時過ぎることもしばしば。その間、自分でワンドリップのコーヒーを淹れ寛ぐのです。なぜコーヒー豆相場が急騰!?そんな私にはショックなニュース。コーヒーの値上げです。理由はコーヒー豆相場の急騰。新興国でのコーヒー需要の急増が影響していると言います。そのせいでコーヒー豆が品薄になると見込んだ先物取引に、大量の投資マネーが流れ込んだため、相場が急騰したとのこと。いま国内の金融危機を回避するために、アメリカ、EUそして日本も大々的な金融緩和政策を推し進めています。この限りなくゼロに近い金利によって世界的なカネ余りが生じているのです。余剰マネーが商品市場になだれ込み、石油・金・穀物などの相場を急騰させています。私たちの家計に直接打撃を与えている商品として、パッと思いつくのは、上がり続けている石油、スパゲティなどの原料となる小麦…。それに続くコーヒー豆相場の急騰です。もともと嗜好品ですから生活に重大な影響はないかもしれませんが、なけなしの金で喫茶店に行く喫煙族には厳しい話。金融危機は深刻ですが、行きすぎた金融緩和によってインフレ誘導へ突き進むことは国民生活を破壊します。インフレになれば物の値段は上がり続け、いずれ給料も上がるかもしれません。でも給料は物価値上がりをカバーするほど上がるわけではないし、上がるのも最後の最後。インフレ誘導に乗っかって儲けられるのは、ガッポリ資産を持ち、しかもその運用に必要な知識と技を持っている一部の金持ち。それに相場を操れる国際的なファンドなのです。こんな話を聞くと、多少財産を持っている人のなかには、情報も運用力もないのに先物取引に手を出して、儲けにあやかろうと考える人もいるでしょう。そして、すっからかんにされてしまうのです。ある人間・集団が売り買いで儲けるためには、損をする人が必ずいるのです。国際的な投機の話はさておいて、そんな連中のマネーゲームのために、私たちの生活が危機に瀕したり、ささやかな憩いの時間が奪われたりすることは許しがたいことです。フランスのサルコジ大統領は、投機マネーにたいして国際的な規制を加えるよう提案していますが、日本のエライ人たちも党利党略に奔走していないで、しっかり対処してくれないと困るんです。それとも、過度の金融緩和を放置しインフレ誘導に手を貸して、国債という名の巨額借金の価値が低下させ、すこしでも負担を軽くしたいとでも考えているのでしょうか…。もしそうなら、国民を犠牲にする怖い話です。
2011年02月10日
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大相撲がまたも大激震。おかげでフジテレビの「大相撲トーナメント」も国営放送の「福祉大相撲」も中止。私の勤める会社もお手伝いしているのでショック。ああ、売上げが…。納品完了分の代金は回収できますが、局側の被害は少なくありません。昨日くらいから、テレビ・新聞が一斉に「十両と幕下は天国と地獄」とか「幕下陥落の崖っぷちで星を融通」とか報じていますが、はっきり言って、「何をいまさら」です。千秋楽では7勝7敗の力士が勝つパターンが70%くらいもあることは「大相撲の不思議」として昔から巷間では「常識」になっていました。第三者のアメリカ・シカゴ大でさえ、20年も前に7勝7敗問題に気付き、32000もの取組データを分析しています。その調査では平均勝率75%にもなるそうです。日本のマスコミは、そのことに気が付いていなかったのか、それとも気付いてはいたが目をつぶってきたのか。もし気付いていなかったとしたらアンテナ感度や取材能力を疑わなくてはいけないし、目をつぶってきたとすれば共犯ということになります。30年くらいも前、新聞記者だった私はそのことを指摘してコラム風の記事にしましたが、ボツになりました。それ以外では、1紙だけ「千秋楽の怪」として報じていた記憶があります。つまり、「星の融通」は、昨日や今日はじまったことではないのです。なのになぜ今頃になって大騒ぎしているのか。まさしく「日本のマスコミの怪」と言えるでしょう。官公需談合疑惑報道のときもそうでした。世間では「常識」になっているような談合の存在を取材するわけでもなく、摘発されてから「そんなことがあったんだ。許せない」というような調子で大々的に報道する。この種のことは枚挙にいとまがありません。日本のマスコミは「社会の木鐸」としての役割を放棄しているとしか言いようがないのです。「溺れる犬を棒で叩く」とは魯迅の言葉ですが、日本のマスコミの基本的な体質だとしか思えません。先に多くの力士が関与した「野球賭博」が摘発されましたが、その時に相撲の取り組みを賭けの対象にした「相撲賭博」も明らかにされました。「力士はカネでどうにでもなる」というのが暴力団関係者の「常識」と報じられています。記事によると「暴力団関係者が、日頃から手なずけている力士に、客を居酒屋などで引き合わせる。客が力士に『あすは勝ってくれよ』『必ず負けろよ』と頼む。聞き入れてくれたら数十万円出す、と約束する。『簡単に応じる力士は少なくない』と暴力団関係者は話す。」とのこと。賭博と八百長、相撲ファンとしては許せない悪事です。しかし、相撲は江戸時代から「相撲籤」という名で賭けごとの対象になっていました。賭博全般が厳重に禁止されていた時代に、相撲興行を仕切る勧進元や地方の「有力者」は「木戸銭」に加えて「籤」でも大儲けしていた訳です。そうなると、当然のように星を操作し利益を上げようとする輩が出てきます。八百長、当時は「拵え相撲」と呼ばれていました。そこに相撲賭博、八百長の根っこがあると思います。相撲は「古事記」「日本書紀」にも記載されるほど古い起源を持ち、日本古来の神事であり、武道でもありました。神々に敬意と感謝を示す行為として神聖視され、健康と力に恵まれた男性がまわし以外は身につけずに、力を尽くして戦ったのです。そのため、礼儀作法が非常に重視され、その伝統は脈々と受け継がれ……今もそのはずです。皇室との関係も深く、優勝カップは天皇からの「賜杯」であり、天覧相撲もあります。大正時代の1925年には国技として「公益法人」認可を受けました。それでも、黒い関係は生き続けてきました。賭け事の対象にされ、暴力団の資金源に利用され、さらに力士まで加担しているのですから、大相撲の問題は底なし沼のように根深いと言わざるをえません。先に暴力団に砂被り席が譲られて問題になりました。これも黒い交際を断ち切れない体質が温存されてきた証です。芸能界・プロスポーツ界でも暴力団との関係が何度も暴露されていますが、興行を通じて形成された関係はこれからも水面下で継続されていくのではないかと思われます。満員御礼の国技館。これだけのファンの気持ちをどうする!?今回の八百長事件は賭博とは関係していないようです。何とか勝ち越し(8勝7敗)の成績を残し、十両・幕内の地位を維持したい、来場所の番付を上げたい、と思うのは誰しも同じでしょう。そのために星の貸し借り、星の売り渡しが行われるわけで、「武士は相身互い」の感覚が不正の温床になってきたのです。14日目で「7勝7敗」の力士が千秋楽で勝ち星を上げ、勝ち越しに滑り込むケースがどの程度なのか、今年の初場所の千秋楽取組表を見てみます。幕内で7勝7敗の力士は6人。対戦相手はすべて14日目までに勝ち越しか負け越しが決定している力士です。結果はどうなったでしょうか。6人すべてが勝ち越しました。100%の勝率です。ちなみに9月秋場所は2人で100%、7月名古屋場所は5人で80%、3月春場所は3人で66%と高率です。11月九州場所は7人いましたが、相星対決が2組でこれは星のつぶし合い、残り3人は66%。5月夏場所は8人いましたが、相星対決が2組、残り4人は25%。夏場所の頃は相撲界が大揺れに揺れていた時期です。なお、上の成績すべてに「情」が絡んでいたとは言えないし、ガチ対決でも「情」が絡まなかったともいえません。ファンの心理からすると、「勝ち越しがかかっているのだから必死だろう、だから勝つんだ」となりますが、毎日必死で取り組んでいるはず。なんか違和感があります。7勝7敗同士のガチ対決、カド番同士のガチ対決を作り、必死同士の取り組みで千秋楽を盛り上げてもらいたいのですが、これは「情」のない考えなんでしょうか。神聖な土俵を汚すような行為、相撲ファンをがっかりさせるような行為は、悪事なら言うまでもなく、人情であっても、アカンのだと思います。そもそも、法人格を有していながら徒弟制度を維持・運営をしている協会の時代錯誤的体質に問題があります。十両の月給は100万円。身の回りの世話をする「付け人」もつき、大銀杏の髷に紋付き袴も認められます。それに引き換え 幕下以下は無給。本場所手当が2カ月に1度が支給されるだけ。その額は幕下でさえ15万円。大部屋で寝起きし、結婚も許されません。衣食住は部屋から保証されますから、とりあえずは生活できる程度です。そんな異常なシステムを改めない限り、情の絡んだ八百長はなくならないでしょう。ちなみに、蓮○とか杉○とかいう「なんでも廃止・縮減」の事業仕分人たちは「公益法人取り消し」を公言していましたが、一夜明けて慎重論に転向。国技館はじめ500億円ともいわれる協会資産をどうするのか、相撲関係者の処遇をどうするのか、民営化した時に「国技」はどうなるのか、プロレスのような格闘ショーになってもいいのか、そして手続きのハードルをクリアできるのか…少しは頭で考えてから発言してほしいものです。総理はじめ「言葉が頭を通過しないで飛び出す」井戸端会議のおばちゃんみたいな政治家が多いような気がします(これは余談)。
2011年02月04日
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群馬県の水上方面に所用のため出かけました。天気予報では16時ごろから雪。関越自動車道の藤岡方面から北の方を見ると薄く雲がかかり、空全体が薄灰色です。高崎を過ぎても高速道路沿いの景色は、雪がほとんどありません。正面に見える赤城山も拍子抜けする程度の積雪。水上は相当の積雪ということで、スパイク付きの靴を履いてきたのに何だかなぁ。赤城高原SAあたりから周辺の雪が目立ってきました。山々の雪も深くなっていきました。なかでも前方右の武尊山(ほたかやま)、左手の谷川岳は他を圧してそびえ、真っ白な山容を見せています。水上ICを降りると、融雪装置(地下水などを散水し、雪を融かす)の付いた国道以外は一面の銀世界。やっぱり上越国境は凄い雪だなぁ。でも空は雲が切れ、薄日もさすほど。天気予報ははずれたか?雪に覆われた露天風呂の湯屋。左肩の男子露天は客室からまる見え今夜の宿泊は水上温泉。慌ただしくチェックインして、なにはともあれ雪見の露天風呂。温泉と食事以外することはないので、何度も温泉に浸かります。疲れが足の裏からジワジワと温泉に溶けだすような心地良さ。たまりません!夜9時ごろから雪が降りはじめました。風も出てきたようです。風にあおられる粉雪。夜半ごろ、雪は本格的になってきました。駐車場の車も雪に覆われ、ああ、明日の朝が思いやられるなぁとため息まじりに独り言。午前1時ごろ、水上駅を電車がゆっくりと通過していく前に見える上越本線では、線路の凍結防止と除雪のためでしょうか、2両連結の空電車がゆっくりと走っていきます。朝までこれを繰り返すのも大変な作業です。この日の朝、秋田県横手市が除雪費用として計上していた7億円余りを使い切り、3億円以上の補正予算を組むと、テレビが報じていたのを思い出しました。降りしきる雪に霞む水上温泉翌朝、気温はマイナス6℃。雪はやむ気配がありません。母ちゃんにチェックアウトの精算を任せ、私は駐車場で車の雪おろし。チェックインした時には全く雪のなかった駐車場に、20センチ以上も雪が積もっています。ホテルの巨大除雪車が敷地内に積もった雪を排除。私は脛まで雪に埋もれながら作業を進めます。冷たい!! スパイク付きの長靴を用意すればよかった。国道は融雪装置の盛大な散水のおかげで、全く積雪なし。その代わり川の中を走っているような水しぶきが上がります。つかの間の雪国滞在でした。
2011年02月01日
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熊本から戻ってきました。4月に熊本のケアハウスへ入所した義父母。親類が入所しているし、自分たちが選んで決めた施設だから、落ち着いて暮らせるだろうと思っていましたが、悶着が起こりました。母親の方の認知症が高進したにもかかわらず、施設側の対応があまりに事務的で、「凶暴だから精神科に入院させた」と。昨年12月のある日、それまで喜んで行っていたデイケアで、職員が思いやりのない言葉を発したため、母親は「帰る」と施設から出ようとしました。それを阻止しようとした職員が右肩を押さえたため、事態は悪化してしまいました。母親の右肩は骨粗しょう症のため骨が欠けていて常に痛みがあります。痛くてたまらない肩を押さえつけられたため、職員を払いのけようと母親は激しく抵抗しました。それが「凶暴」と判断されてしまったのです。話を聞いた私たちは、施設の過剰対応に憤りを感じました。「精神科に入院させ、薬で抑制し続けていると廃人になるのではないか、早く退院させてくれるよう」依頼しました。病院の方は、本人が落ち着いているので安定剤などの投与は必要ないと判断し、父親が訪問した時には外出もOKという緩やかな措置をとってくれましたが、ケアハウス側は「凶暴」であるとの見解を取り続け、戻ることを承認しませんでした。私たち夫婦は、熊本にいる必要はないので東京に戻った方が良いと判断。父親もそのように決心しました。年末から大慌てで施設を探し、自宅からそう遠くない場所で12月にオープンする施設を見つけました。家から車で10分程度の距離です。東京から熊本、熊本から東京。無駄な支出が発生しますが、近くにいてくれればひと安心。今回、熊本へ行ったのは両親を東京へ連れてくるため。母ちゃんは休めない状態なので、私が1人で迎えに行きました。夕方の便で熊本入り。お城のライトアップを見に行く勢いもなく、ホテルでぼんやり。遅くなってから近くの居酒屋へ。「すみません、酒は飲まないけど、食事いいですか?」「酒を飲ませるとこだからねぇ、まあいいですよ」ブリかまの塩焼き、おでん、野菜などの煮物盛り合わせ、ごはん。味噌汁を作ってくれました。親切な女将さんでよかった~。熊本城のライトアップ。遠くから携帯で翌朝、早目に朝食を済ませ両親に合流。母親は前日に精神科から退院し、父親とホテルに宿泊していました(施設が受け入れを拒否したのです)。8時半から引っ越し作業が始まるので、母親も同行して立ち会います。11時、施設に退去の挨拶。14時30分の飛行機に乗りますが、居場所がないので3人で空港へ。JALカウンターで本人たちの症状を伝えます。頭脳は明晰だが神経痛で歩くのがつらい父親は羽田空港で車椅子のサポートが必要であること。母親は認知症で何度も同じ質問をするかもしれない、トイレに何度も立つかもしれない、右肩に触れてはいけないこと。私がJクラスの席を取れなくて離れていることなど話しました。カウンタースタッフから、Jクラスに1席空きが出たので移動できる、使用機種が変更になったので席を入れ替え3人並べられると、親切なアドバイス。それができれば母親を窓際に座らせられ、私の目も届きます。Jクラス1列目に席が確保できました。早目の昼食を摂って、早々に保安検査を終え、搭乗口のベンチで2時間近く待機。その間、母親は「どこへ行くのか、何時に飛行機に乗るのか」と何回も訪ねてきます。また、「長い時間飛行機に乗るのだから」という本人の強迫観念からか、何度もトイレに立ちます。思わず笑ってしまうようなことも。売店でキャンデーを買うのにウロウロしている父親を見ていた母親が「バカなんだから、あの人は!」。JALスタッフにも、しっかりと挨拶できています。頑張っているのが伝わってきます。「そんなに頑張らなくていいから」と心の中で呟く私でした。飛行機は定刻に離陸。熊本は曇りでしたが窓から地上の様子を見続ける母親。雲の上に出てからはしばらくは目を離していましたが、雲が切れはじめた愛知あたりからはまた眼下の景色を見て喜んでいます。心配したトイレに立つこともなく、CAを質問攻めにすることもありません。あまりのシッカリさんぶりに何となく不安感が…。羽田空港からは定額タクシーで私たちの自宅(元々両親が住んでいたマンション)へ。母親は全く覚えておらず「ここはどこ?」「誰の家?」を繰り返していました。夕食後、施設近くのホテルまで移動します。熊本からの荷物は翌日にしか着かないので、とりあえず1泊。またも見たことのない場所に移動したため、母親の緊張はピーク。それでもフロント・スタッフに「お世話になります」と。翌日午後、熊本からの荷物が到着し、私たちも施設に入りました。ここで、緊張の糸が切れたのでしょうか。トラブル発生です。この施設は1人部屋しかなく、夫婦でも別室になってしまいます。それが納得できなかったようです。熊本では納得していた母親が急変したのは、この数日間の環境変化・連続移動で混乱をきたし、新しい施設に自分だけおいていかれる、と思い込んでしまったからでしょう。熊本で、強制的に夫と引き離されたことが生々しく記憶に残っているようで、それぞれの部屋を見せ、「部屋は違うけれど、2人一緒に暮らせるんだよ」と何度説明しても、「ウソだ」と言って納得してくれません。あげくに「この人は私を捨てて、若い女と一緒に暮らす気なんだ!」「ここに私を泊めるんだったら死んじゃうからね」とまで言い出す始末。施設長さんから「ご主人と一緒に夕食を摂り、就寝まで一緒に居れば、きっと落ち着くでしょう。娘さんたちが居るとご主人を連れていってしまうと思ってしまうから、食事中にそっと帰ってしまってください」とアドバイス。それに従って、私たちは退去しました。新しく入居した施設。小さな中庭がほほえましい夜、父親から「落ち着いた」と連絡が入りました。「明日の朝、6時に部屋に来て手足をマッサージしてくれってさ」。リウマチで痛む手と足を1時間くらいもマッサージするのが父親の日課だったのです。母親は、それをしっかり覚えていて、マッサージ=一緒に住んでいると、認識しているようなのです。まあ、とりあえずは安定した様子なので、ひと安心です。熊本往復の繰り返しと「引率」で、いささか疲れモードの私ではあります。母ちゃんも役所関係の手続きのため昨日は有休を取りました。 許せないのは熊本の施設の態度。認知症老人への思いやりもなく問答無用で精神科に隔離したことだけも腹立たしいかぎりなのに、退所する旨を伝えに行った父親に、施設理事長は「(母親は)どこの施設でも受け入れないだろう。行ってもすぐに退去させられる。病院から出さない方がよい」と発言しました。福祉関係者とは思えない無配慮な発言に抗議した父親に対し、他の職員は「理事長に暴言を吐いた。謝罪してくれ」と迫ったと言います。退去の挨拶に行ったときも職員が父親に「理事長に謝ってください」と。私の常識では、「お世話になりました」と私たちが(東京の土産も手渡して)挨拶しているのだから、ウソでも「いいえ、こちらこそ力不足で…」くらい言ってもいいのではないかと思います。新しい施設の責任者が、2人の健康や生活について熊本の施設に問い合わせたときも「父親は非常識で激しやすく、母親は凶暴なので扱いきれないでしょう」とコメントしたそうです。ちなみに、新しい施設の責任者と私たちが面談しているとき、このことが話題になりました。私たちとしては不安です。施設長は「そうしたことに適切に対応するために私たちが居るのですから任せてください」と心強いお言葉。ありがたかったです。オープン早々で入所者もまだ10人程度。入所者よりスタッフの方が多い状態ですから、ケアも手厚いと思います。…………………………………………………高齢化が急激に進むなか、シルバー産業花盛り。大したノウハウもなく、なんとか基準を満たしているだけの施設、カネ儲け優先の施設が雨後のタケノコ状態で出現しています。高額な入所一時金と毎月の支払い。足はおぼつかないが頭はしっかりしている義父の計算では、入所後夫婦が15年生きるとして、最低でも貯金(退職金含め)3000万円、年金は夫婦合わせて40万円。あるいは貯金5000万円、年金30万円なければ、民間施設でそれなりの生活をし、生命を全うできないそうです。つまり約1億円必要だということです。民間の施設を利用できる高齢者は元公務員か学校の先生、大企業の役職者くらいではないでしょうか? 中小企業に40年勤めても貯金も退職金も年金もたかだか知れています。民間の施設に入れない人は公的な施設に入れるのか? 入所まで3年4年待ちは当たり前のありさま。施設に入れなくてもなんとか安定した老後をおくれるのか? 介護認定基準を引き上げ、75歳以上の高齢者を「後期高齢者」と名付けて差別し、どんどん生き辛くしています。民主党政府は、後期高齢者医療制度を廃止する代わり、さらに過酷な新制度を用意しています。とりあえず1年先送りになりましたが…。こんなありさまで、高齢者はどうやって生きていけばいいのでしょうか? 要するに、カネのない奴は「自宅で介護、自宅で看取れ」、あるいは「自宅で孤独死せよ」ということなのですね。
2011年01月25日
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義父母のことで熊本と東京を行ったり来たり。なんとも落ち着かない日々を送っています。今週の日曜と月曜にも様子伺いや諸々の手続きで行ってきたばかり。東京より火の国・熊本が寒いというのも、雪が降っているというのも、信じがたい気持でしたが、飛行機から見た大分、熊本の山々は冠雪していました。熊本に着いたのが午後4時。気温は早くも3℃にまで下がっていました。翌朝はマイナス2℃。阿蘇颪が厳しいのだそうです。雪に覆われた阿蘇連山用事の隙間を縫って、ちょこっと時間を盗み、熊本城へ。1時間が限界なので広大な城内全域は見学できません。とりあえず天守閣だけ。熊本城は1600年ごろに加藤清正によって築城されました。その後、あの「殿様総理」のご先祖が引き継ぎ、さらに増強した難攻不落の名城です。明治維新後の西南戦争では、西郷軍が最重要攻撃目標にしました。明治10年、総攻撃の2日前に原因不明の出火によって、天守閣はじめ主だった建物を消失します。それでも熊本城に籠城する4000人の政府軍は、西郷軍14000人の猛攻に耐え、ついには撃退します。加藤・細川の2大名によって築かれた石垣の堅固さが証明されたのです。幾重にも重ねられた石垣炎上した天守閣は、昭和35年、築城350年の記念して復元されることになりますが、鉄筋コンクリート製で、内部は博物館として資料が展示され、最上階は展望室になっています。残存天守閣のような急階段はなく、コンクリートの広くて緩い階段が作られています。それでも最上階へはヒーコラ歩くしかありません。「いっそ大阪城みたいに、エレベーターを付ければよかったのに」と母ちゃん。それぐらい近代化してもいいのではないかと思われます。大急ぎで天守閣と一部の石垣を見て、熊本城とはお別れ。義父母の施設へ急いだのでありました。残照に浮かび上がる阿蘇中岳の噴火口。暗くてノイズがひどい今日も午後から飛行機に飛び乗って熊本です。ああ、慌ただしい。
2011年01月20日
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最終日。夕方の「北斗星」までは時間があります。登別とは高速道路でつながっている小樽に寄ってみようと、早目にチェックアウトしました。太平洋側から日本海側へ。雲のほとんどない冬晴れの登別をスタート、苫小牧・千歳・札幌を経由して小樽まで、わずか140キロ。小樽は鈍色の厚い雲に覆われていました。別に大した目的があるわけではなく、まず喫茶店でコーヒーブレイク。一服つけて、北一硝子はじめ軒を連ねる工房めぐり。運河や港をブラブラ歩き、寿司を食べて、北菓楼で開拓おかきを買って…。途中、雪が降りだしていい感じ。北海道の雪は顔に当たると痛いですが…。小樽第一の観光スポット、運河と倉庫群雪が降るといつもこの歌。かぐや姫(作詞:伊勢正三、作曲:南こうせつ)です。「雪が降るよ 止まずに昨日から 昨日から 窓の外は なんにも見えない 見えない 約束を信じてた 約束を信じてた 昨日の夢は 終わるよ ……」小樽でも中国人観光客の群れ。いったい何人くらいが来てるんだろう?喫茶店でもクラフト工房でも運河でも中国語の大きな声が飛び交っています。昔、ノーキョーさんがカメラを首にかけ世界各地に団体で押し掛けていたときも、こんな感じだったんでしょうか? そう言えば、もっと破廉恥な「買春」ツアーに繰り出して、世界中に日本の恥をさらしたバカどもも少なくなかったようで…。静寂の小樽港。車も人も見かけないそれはさておき、圧倒されそうなパワーですが「日中親善のためだ」と勇を奮ってコミュニケーションもとりましたよ。運河で記念写真を撮ろうと苦労している中国人カップルやグループに「撮りまひょか?」と声をかけたり、喫茶店でも「こないしまんねん」と教えてあげたり。すべて手振り付き日本語、それも無敵の大阪弁。意思疎通できるから不思議です。滞在3時間。早く札幌に着いて駅でダルダルしてようか、と高速に。札幌が近づいて電波状態が良くなったのか、ラジオから音楽が聞こえてきました。ニュースの時間でしょうか、女子アナが何か報じています。「…東北地方の大雪……札幌発カシオペア……北斗星が全区間運休…」まさか、それって僕らの電車(所有してるわけではないが)? 「北斗星」の写真はダメだったので、元日ホテルで撮った北斗七星をガソリン満タンもレンタカー返却も後回しにして、札幌駅に急行。あとは1月2日・3日の日記につながっていくのです。
2011年01月15日
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2011年1月1日。朝5時に起床、初風呂で身を清めます。この地域で有名なのは地球岬ですがホテルからは車で1時間近くかかります。初日の出ポイントを教えてもらうためにフロントへ。ホテルから8キロくらい離れた虎杖浜が良いとのこと。ホテルとして初日の出参りを企画しても面白いと思いますが、行く人はいないのかなぁ。 虎杖浜は太平洋に面した長い海浜で、日の出を見るのに適しています。日の出までは時間があるので浜辺を車で回ってみましたが、日の出を待っていそうな人はポツリポツリ。水平線あたりの雲が厚いのでご来光を諦めたのかもしれません。ホテルのスタッフも「見えるかなあ」と言っていましたから。食いしん坊の私は「朝食の時間」が気になるので、あまり遠くまで行かずスタンバイ。2011年の初日の出穏やかな新年ですが、外気温はマイナス3℃。浜辺は風が強いので体感気温はそれよりかなり低く、長い時間待つためには帽子を目深にかぶり耳も覆います。タートルのネック部分を引き延ばして鼻まで被い、手袋もしました。他の人から見れば不審者そのもの。この日は、初日の出を見に来たと思ってくれるから通報はされないでしょう。東の空には上ったばかりの細い月と金星(右肩写真)が輝いています。初日の出は7時5分。もうまもなくご来光の瞬間が…。でも雲に阻まれて太陽は顔を出しません。予定時間を過ぎ、空全体が明るくなってきました。まだ見えない。予定を15分ほど過ぎて雲間から光が海面を照らし始め、私にも届きました。まぶしい、でも暖かい。太陽のパワーを実感します。昨日、水族館で見た午後の太陽は凍てついていました。同じ太陽なのにまったく印象が異なります。氷点下で凍てつく太陽(前日、マリンパークにて)ホテルに戻るとフロントでは、お神酒など元旦イベントの準備が進んでいました。旅先のお正月はこんなところで感じるしかありません。まだ布団にくるまっている母ちゃんを起こし朝食会場へ。料理は和洋中の多彩な料理が並んでいます。私は通常の洋食メニューとは別に、黒豆・田づくり・紅白なます(数の子がなかった)など正月の縁起物もチョイスしました。初詣がてら(罰あたりか?)観光スポット巡りに出かけます。日本屈指の温泉地・登別の名物は「鬼」と「熊」。駅前にも高速出口にも大きな鬼の像が立って出迎えてくれます。これは観光名所・地獄谷にちなんだ企画で、温泉のメインストリート・極楽通りには鬼のモニュメント、地蔵ならぬ鬼蔵がいくつも立てられています。お湯かけ鬼蔵たち地獄なのだから当然閻魔堂も。巨大な閻魔像が鎮座し、見る者を威圧します。が、鎌倉などの閻魔信仰とは違って、目にライトが灯ったり手を動かす仕掛けが施され、宗教的なありがた味は感じない、親しみやすい閻魔様です。恐ろしくない閻魔大王極楽通りのはずれに、初詣をする湯澤神社があります。露店も何もない小さな社。大きな神社の初詣に慣れている私たちには物足りないくらいの素朴さです。しかしながら、先住民であるアイヌを支配するために内地の神社と寺院を建てた幕府や明治政府のやり方に納得できない私には、微妙なわだかまりが…。まあそれはさておくとして参拝をおえました。その先にあるのが地獄谷。荒涼とした丘陵地のあちこちから蒸気が上がり、硫黄臭が漂っています。説明書によると、1万年ほど前に噴火した笠山の爆裂火口で、地面がえぐられたようになっています。立ち入り禁止の柵に沿って遊歩道を進むと、鉄泉池と名付けられた間欠泉があります。10分に1回程度湧水口がボコボコと泡立ち始め、数十センチですが80度の温泉が噴出します。登別温泉の源泉としていくつかのホテルで使用されているとのことでした。鉄泉池の噴出地獄谷からもう一つの観光スポット「クマ牧場」へは、ロープウェイ乗り場まで無料バスが運行しています。温泉街を眼下に見ながら山のてっぺんへ。「クマ牧場」は北海道はじめ全国にいくつかありますが、今回初めて入場してみました。「牧場」と言っても、馬や牛のような牧場ではありません。鉄とコンクリートの檻でかなりの数が飼われています。動物園とも違います。動物園のクマは芸をしたり、食べ物をねだったりしませんから。ツキノワグマのジロー君は、芸を仕込まれていて、ブランコをしたり、丸太を渡ったり。サーカスのクマに似た状態です。高いコンクリート塀に囲まれた広場に放されて、観光客を見ると餌をねだるヒグマたち。片手をあげるもの、両手で人間の注意を引こうとするもの、合掌してせがむもの、さらには寝転がったまま催促するもの。そのポーズがなんともユーモラスで、観光客は1袋100円の餌をいくつも買って投げ与えていきます。餌を狙ってたむろするカラスの猛攻をかわしながら、私たちもクマに餌を与えたのでした。拝むような仕種で餌をねだるヒグマ。面白いが切なくなるクマ牧場については、動物愛護団体から厳しく非難され、クマの待遇改善を求め続けられています。たしかに、野生の動物を囲い込み、見世物にしているのには抵抗があります。以前は死んだクマの肉を缶詰にしたり、胆のうを売買していたそうです。今では、いくらか改善されたようで、クマについて学習できる博物館も併設されていました。ここでクマ牧場の是非を論じても仕方ありませんが、ここにいるヒグマたちは、なにやら悲しげで、私らが総毛立つような野生の荒々しさを感じることはできませんでした。クマ牧場の展望台から見た倶多楽湖14時にはホテルに戻り、またしても温泉。そして夕食まで惰眠を貪りました。ああ、これこそ極楽極楽です。
2011年01月11日
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新(あらた)しき年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け(しけ)吉事(よごと) 去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの 新年には必ず思い出す2つの作品。上の和歌は万葉集最後の一首で、詠み人は大伴家持。系譜上は神を祖とする古代からの有力な軍事氏族である大伴氏は、藤原氏との政争に敗れ衰退していきます。家持自身も左遷され、失意の日々を過ごしていました。左遷の翌年、赴任先の因幡で詠んだ初春の和歌がこの作品です。解釈は「新年のはじめの、新春の今日を降りしきる雪のように、もっともっと重なれ、吉き事よ」。一族の再興を願う家持の叫びが聞こえるようです。「新しき年の始めの初春の」とは、ずいぶんクドイ表現ですが、これさえも、切羽詰まった想念の激しさを感じさせます。苫小牧上空下の俳句は、正岡子規の直弟子・高浜虚子の作。解釈は「昨日を去年と言い今日を今年と言ってもそれは人間の定めた時間の区切り。大自然の悠久の歩みは変わることがない一本の棒のようなもの。人の世の変転など大したことはない」。晩年の虚子が敗戦後の日本人の動揺や変節を見て、心境を詠んだのではないかと思われます。家持の歌の対極にある達観・諦念に満たされた一句ではないでしょうか?新年というのは、自分の夢を神仏に祈り、自分の計画を心に刻む節目として重視されてきました。私のような不信心者でも初詣には行きますし、神仏に願い事もします。なかなか虚子のように達観できないのが凡人の悲しさです。とは言え、一年の節目として厳格にしきたりを守ってきた両親が亡くなってからは、まねごとをするだけに終わっている私の「去年今年」は登別温泉。12月31日夜明け前に家を出て、羽田へ。8時発のJAL便は天候調査の結果、引き返すこともある条件付きで出発すると言います。「え~っ、俺らの飛行機(所有しているわけではない)は?」。母ちゃんがカウンターで確認。「8時35分の便からは正常運航するって」「やった~っ、ついてるなぁ」。定刻、ボーイング773は羽田を離陸できました。安定飛行を続けたJAL便は新千歳空港に無事到着。ここから登別まではレンタカーです。別に急ぐ必要もない温泉三昧旅、でもサッサと手続きを終わらせたい。でも母ちゃんのリクエストで、まずは土産物ショッピング。これまでは入手困難な「じゃがポックル」という北海道限定販売のスナック菓子を買って、土産にしていましたが、今回からメインは同じカルビーの「いも子とこぶ太郎」。低温でカリカリに上げたジャガイモと歯舞産の昆布のスナック。すでに人気に火がつき始めていて生産が追い付かず、お一人様3箱限り。母ちゃんの指令に従って、私も手伝い、2か所の店で計12箱を購入しました。「じゃがポックル」は3箱だけ。ちなみに「いも子とこぶ太郎」の購入数は最終的に(登別でも買ったので)計20箱。これらを宅配便にはしないでレンタカーに積んだまま移動します。帰りは上野まで乗り換えなしの寝台特急「北斗星」個室なので、持ち運びも置き場所も大丈夫という考えです。主婦は細かい。レンタカーは格安のサイト経由でマツダレンタカーに予約してあります。ナビ・ETC・スタッドレスタイヤ装備のマツダデミオ・4WDを3日間借りて、なんと11400円(自動車保険込み)。それにNOC(事故などで車両が使えなかったときの営業補償。MAX5万円くらい)を免除する保険が3日間で3150円。計14550円。同じマツダが、Web会員割引を使っても約20000円、NOC保険を加算すると23000円なのです。「どうなってるんだ、このサイトは」と不安でしたが、マツダから予約確定メールが届き、ひと安心です。では出発。一般道路は圧雪と凍結で真っ白ですが、高速道路は完全に除雪されています。最初に向かうのは水族館。昨年も一昨年も水族館に行っています。なんでだろう?デンマークのお城をイメージした「ニクス」登別マリンパーク「ニクス」。メインは「銀河水槽」と名付けられた、1万匹のイワシとエイ・サメがつくる光のウェーブ。テレビ報道のクリスマス・イルミネーション特集で紹介されていたのです。餌がたっぷり与えられたエイやサメはイワシを襲いませんが、イワシたちは彼らが近づくと回避行動をとります。ライトアップされた水槽内をフツーに泳いでいたイワシたちが群れの形を変えたとき、鱗に当たるライトの反射も変化するので、光のウェーブになるのです。たまたま、ほかの入場者がいなかったので、しばしイワシたちのシンクロウェーブをたっぷり観賞することができました。「銀河水槽」 イワシたちの通常の泳ぎエイが上を泳ぐと下に集まるエイが底を泳ぐと上方へ回避アシカやイルカのショー、ペンギンの散歩なども特別めずらしい内容ではありませんが、寒さにめげず頑張っている飼育員たちには拍手です。流氷の天使は北海道の水族館が似合う閉口したのは中国(大陸か台湾かは不明)からの団体客。マナーも何もあったものではなく、ずいぶん不愉快な思いをさせられました。これはホテルでも他の観光ポイントでも同様です。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の感覚でしょうか。日本人も外国に行くとああなのかなぁ。早く温泉に入りたいので早々にチェックイン。創業70周年を迎えた万世閣に連泊です。じゃらん口コミでは、わが家の及第点基準である4点に届いていないホテル。しかも今回はH旅行社の間違いで正月割増がかからなかった仰天格安プラン。大して期待もしていなかったのですが、そこは天下の名湯・登別温泉にある老舗旅館。十分満足のいくサービスと食事でした。何といっても温泉がいい。母ちゃんは「肌がすべすべになった気がする」「湯温が私にはピッタリ」と。2日間で私は7回も入りました。おかげでお肌はしっとり、色白の美男子に磨きがかかったような…母ちゃんは「それは勘違いだろう」と言いますが…。大晦日といっても旅先のこと。何をするわけでもなく年を越します。餅つきや年越しそば振る舞いもあったのですが、夕食をたらふく食べて、紅白を見ながらうつらうつらしている間にカウントダウンが始まり、夫婦で「本年もよろしく」のごあいさつを済ませました。母ちゃんの方はそのあと「年賀メール」の往復で大忙しでしたが、私は初日の出見たさに就寝です。
2011年01月07日
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札幌駅みどりの窓口で組み立ててもらった乗り継ぎ予定通り動いて、3日10時44分上野駅に到着しました。ご心配をおかけしました。2日20時、札幌駅前のネットカフェを出て夕食へ。「はまなす」は車内販売がなく、満員だったら弁当もおちおち食べられないだろうと考え、夕食は遅めに腹にたまるものにします。母ちゃんが食べたがっていたスープカレーの店は順番待ちのお客さんがいたので、今日の状況下ではパス。すぐに入れたトンカツ屋さんで食事を済ませ、なにはともあれホームへ。指定席は満席なので自由席で確実に座るため早めに並ぶ必要がありました。21時頃ホームに着くと、既に大荷物を持った旅行者が並んでいました。定刻が近づいても自由席車両の列は伸びません。私たちが小樽でブラブラしている頃には運休は報じられていたから、ほとんどの乗客は指定席を取ったり、飛行機の空席を押さえたのでしょうか? あるいは諦めたのでしょうか?それにしても、母ちゃんが最初に相談したJRの人の誠意の無さ。何を聞いても「無理です、満席です、今日は帰れませんね」。プロにこんな対応をされてしまうと、札幌か千歳か函館に宿泊して翌日にかけるしかなくなってしまいます。私が相談した職員は誠実で熱心に可能性を探してくれました。時刻表の乗り継ぎダイヤを忠実になぞって、できるだけ座っていける方法を考え、ダメな場合の代替案までメモを作成してくれた職員のような人ばかりだと助かるのに…。21時40分、急行「はまなす」が入線してきました。乗り継ぎで帰ることに決めた時点で荷物を宅配便に預けた私たちは身軽ですが、大きなスーツケースやバックザックを持った人たちがほとんど。網棚や荷物スペースはいっぱいです。急行ブルートレイン「はまなす」の機関車急行「はまなす」は札幌~青森間479.1キロを結ぶ夜行列車。客車と寝台車を連結した唯一の急行列車です。全国的にブルートレインの廃止が進むなか、貴重な存在と言えます。札幌~函館間は未電化路線があるためディーゼル機関車がけん引し、函館~青森間は電気機関車がけん引して、青函トンネル(全長53.85キロ、海面下240メートル)を通過します。22時00分「はまなす」が札幌を後にしました。発車時に機関車けん引車両特有のゴットンという衝撃があり、驚かされました。昔は当たり前だったのですが…。停車時にも同様の衝撃があります。座席は狭く、いささか長すぎる(ウソですが)足の行き場がありません。しかも母ちゃんと私はガタイがいいときていますから、身動きがとれません。車内は暑すぎるほど暖房が利き汗ばんできます。最近は通勤電車か新幹線くらいしか乗らないので「こんなに窮屈やったかなぁ」とぼやくことしきり。寝苦しさと眠気でウトウト状態が続きます。そんな列車でも、大いびきで眠り続ける人がいます。すごいなぁ、でもうるさいなぁ。札幌から千歳、苫小牧、登別、室蘭を経由して午前2時52分函館着。機関車交換のために30分停車します。何人かが降りて空席となったシートへ母ちゃんが移動、やっと脚を伸ばせます。深夜の函館駅。30分の停車を利用して車外で休息する大いびきは相変わらず。よく眠り続けられるものだと感心させられます。3時22分函館駅を発車し、青函トンネルを経て青森駅までノンストップです。5時40分青森駅着。青函トンネルあたりから爆睡したようで、「まもなく青森駅」とのアナウンスで目を覚ましました。体が痛い。青森駅で特急「つがる」に乗り換え、新青森駅へ。乗車時間5分、特急券は不要のようです。青森駅では何のアナウンスもなく、特急に乗るべきなのか、後の普通列車に乗るべきなのか、あるいはどの列車が新青森を通過するのか、分からない人が多かったようです。私たちは札幌で「特急つるがに乗って…」と、みどりの窓口で聞いていました。開業から1カ月の新青森駅は、何から何までピカピカ。エスカレーターの手すりベルトにも汚れは全くありません。駅員さんは新品ではなく、白髪交じりのベテランさんたちが目立ちました。駅弁や土産物売り場の従業員はまだ不慣れで、いちどきに詰めかけた客をさばききれないようです。開業1カ月の新青森駅。駅舎も売店もピッカピカここから仙台までは「はやて」指定席。念のため「東京までの指定席にキャンセルは出ていませんか」と調べてもらいましたが満席。立っていくならOKとのことですが、「はやて」は全席指定なので、仙台から東京まで2時間近く立っていくのは少々つらい。入線してくる「はやて」6時31分発「はやて」で仙台へ。席はまだ余裕があります。新青森の名物駅弁を乗車と同時に平らげ、なにはともあれ眠らなくては…。寝過ごすわけにはいかないので携帯電話のアラームを8時にセットし襟に挟んで爆睡。あっという間に仙台です。8時13分着。盛岡からの乗車が多かったようで満席になっていました。「東北の帰省はやっぱりスゴイんだねぇ」。「はやて」指定席のない私たちは、8時20分仙台始発の「やまびこ」に乗り換えて自由席で上野に向かいます。もう向かい側ホームに入線しています。もし満員だったら一列車やり過ごして次の仙台始発(8時44分)まで待つつもりです。「あれっ、ガラガラだ」。指定席、グリーン車は満席なのに自由席は10人くらいしか乗っていません。「万が一の混雑を考えて指定席を取るから、自由席が空いてるんだな」などと話していると福島、郡山あたりでほぼ満員。このあたりで再度入眠。母ちゃんから肘をつつかれ目を覚ましたら西日暮里付近を通過中でした。上野駅10時44分到着。まさに「ああ上野駅」です。ガラガラの「やまびこ」自由席「北斗星」だったら9時38分に上野駅到着ですから、約1時間遅れで上野に戻ってきたことになります。思っていたよりスムーズに帰ってこられました。ただし、お尻が痛いのには閉口、「はまなす」の7時間40分が堪えました。「北斗星」なら寝台でゴロゴロ出来ていたのですが…。母ちゃんいわく「これってツイテいたの? ツイテいなかったの?」「まあ、ツイテたんやろな。北斗星の寝台はアカンかったけど、これから先、カシオペアや北斗星には乗る可能性がある。はまなすみたいな夜行列車にはこんなことでもなかったら乗る機会はなかったで。40年くらい前、急行銀河の座席車に乗って東京へ行ってたけど、それ以来やしなぁ。それに開業1カ月の新青森駅は後にも先にも今回だけや。はやてに乗る機会もあんまり無さそうやし」「そうだね、こんな経験めったに出来ないからね。なんかドキドキワクワクの連続だったし」ブログ仲間の皆さん、友人の皆さん、ありがとうございました。
2011年01月03日
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2011年明けましておめでとうございます。本年もご愛読のほど宜しくお願いいたします。虎杖浜の初日の出。雲が厚くこんな感じ新年第1回のブログは北海道から。登別温泉でのんびりゆったり年越しをして、帰京は本日17時12分札幌発の寝台特急「北斗星」で上野まで眠っていく予定でした。が、最後の最後でOUT。札幌に向かう車中で聞いた交通情報が「東北地方の大雪のため北斗星、カシオペアが全区間運休する」と伝えています。「この列車って、僕らが乗るはずの列車やないか?」「そうだよ! どうしよう」車を札幌駅に横付けし、母ちゃんに「みどりの窓口」へ直行してもらいました。「今から振り替え可能な方法はないって。今夜泊まっても明日の北斗星は満席、新青森からの新幹線は全席指定でこれも満席だって。帰れないよ」と母ちゃんが駅から連絡してきました。「どんな方法でもだめなんか?」「在来線の普通列車に乗り継いだら帰れるけど、3日中には東京に着かないって」「わかった。ちょっと俺が行って帰る方法探してもらう」その結果、みどりの窓口で組み立ててくれた振り替えの方法。札幌駅22時発の青森行き急行・自由席に乗り、翌朝5時40分青森着。5時46分の「つがる」で新青森へ。6時31分発「はやて」に乗り仙台まで(仙台までは指定席が取れた)、8時13分着。1~2台スルーして仙台始発「やまびこ」の自由席で上野へ。11~12時に上野到着。飛行機も当たってみましたがアウトでした。この後の長丁場に備えて、札幌駅前のネットカフェで現在くつろぎタイムです。
2011年01月02日
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年末の超繁忙期もなんとか乗り切り、本日仕事納めを迎えました。毎年のことながら、年末年始の特番関連業務で12月は火を噴くようなありさま。私も現場応援に参入し、先週末からは徹夜と夜勤三昧。昨夜は出動要請もなく久しぶりに自宅で過ごしました。今日は自宅のベランダから日の出を望み、本年最後の仕事へ。無事すべての仕事を終えることができ、ささやかな打ち上げをして夕刻全社撤収しました。仕事納めの朝(30日)。都市的な日の出毎年、この時期にはわが社の社員たちの使命感と戦闘性に感動させられます。ある古参幹部の言を借りると「社員一人ひとりが精巧な歯車のように相互に連携し、会社全体が一個の機械のように機能している」状態なのです。30歳前後の若いリーダーたちの指揮のもと、ベテラン社員も古参幹部も協力します。役員も現場応援の際には一作業者として働きます。もちろん状況把握と不測事態時のアドバイスは行いますが、基本の指揮系統を崩すことはありません。罵声が飛び交うわけでもなく、荒々しい動作があるわけでもありません。ひっきりなしに鳴る電話、DTPオペレーターのキーボードを叩く音、動き続ける機械群…それらの音が支配する奇妙に静かな超繁忙期です。徹夜明けの朝(29日)。写真左寄りに金星、右斜め上は月テレビ・映画関連業界の不振はわが社にも重大な打撃を与えています。今年の厳しい業績は社員の待遇に直接影響を与えました。にもかかわらず、全力投球で繁忙期を乗り切ってくれた社員たちには頭が下がります。吹けば飛ぶような中小企業ですが、人材に恵まれた会社だと心底感謝しています。未熟な点を論えば多々ありますが、人財と呼ぶにふさわしい集団です。彼らに報いるためにも2011年こそ業績を回復しなくてはなりません。ブログの方も、できればもう少し更新テンポを上げたいと考えています。大して面白くない冗漫なブログですが、読者の皆さんには引き続きお付き合いしていただけるようお願いします。2010年ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。
2010年12月30日
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朝からスッキリと晴れた3日目。昨日から急激に気温が下がり朝は5℃。最高気温も前日より5℃以上低いという予報です。当初予定していた岩倉実相院は紅葉終わりとの現地情報。予定を組み直して、ゆるゆる日程に変更。ほな母ちゃん行こか。まずは、京都で最も遅い紅葉スポット、下鴨神社とその前面に広がる糺(ただす)の森へ。京都盆地の最北にあって、鴨川と高野川の合流点に位置します。下鴨神社の創建は紀元前90年頃とされていますが、こちらは不詳。森はカエデ・ケヤキ・ニレ・イチョウなど落葉樹のほかクスノキやシイなど常緑樹で構成される原生林。東京ドーム3つ分の広さです。記録によると応仁の乱で7割が消失し今の広さになったとか。地下鉄3分、京阪電車に乗り換えて3分で出町柳駅。閑静な住宅地を抜け5分ほどで糺の森に着きます。森の中央を貫く下鴨神社への参道には、たくさんのカメラマンが思い思いのポイントで三脚を立て、グラデーションの美しい紅葉を撮影しています。京都で「納めの紅葉」と言われるだけあって、カエデは5~7分の色づきでしょうか。ニレやケヤキの落葉は境内を埋めるほどです。明るい糺の森でカメラを構える人たち社殿に向かい参道を辿ると、右手に広がる森には泉川が紅葉を映し(右肩写真)、左手には瀬見の小川が紅葉を浮かべています。若い頃から何度も何度も訪れているのですが、心和らぐような穏やかさに変わることはありません。森の小道を「散歩」、というより「そぞろ歩き」していると、なぜか文学的な気分になり、明治の詩人・薄田泣菫の「望郷の歌(詩集・白羊宮所収)」を口ずさんでいました。京都の四季を歌った長い詩で、糺の森は「春」「夏」に登場します。わが故郷(ふるさと)は日の光 蝉(せみ)の小川にうはぬるみ在木(ありき)の枝(えだ)に色鳥(いろどり)の咏 (なが)め声する日ながさを物詣(ものもうで)する都女(みやこめ)の歩みものうき彼岸会や……(略)……わが故郷(ふるさと)は楠樹の若葉仄かに香(か)ににほひ葉びろ柏は手(た)ゆだげに風に揺ゆる初夏(はつなつ)を葉洩りの日かげ散斑(ばろう)なる糺の杜の下路(したみち)に葵かづらの冠(かむり)して近衛使(このえづかい)の神まつり塗の轅(ながえ)の牛車(うしぐるま)ゆるかにすべる御生(みあれ)の日……(略)……薄田泣菫の「詩集 白羊宮」。明治39年に発行された本の復刻版春の部に歌われた「蝉の小川」は瀬見の小川のこと。また、夏の部の「葵かづらの冠して…」は「賀茂祭(通称・葵祭)」を指しています。瀬見の小川は、少し上流の神社境内あたりでは奈良の小川と呼ばれます。糺の森、瀬見の小川、奈良の小川などは、源氏物語、枕草子はじめ、詩歌、謡曲にもたびたび登場します。下鴨と縁の深い鴨長明は「石川や せみの小河の 清ければ 月もながれを 訪ねてぞすむ」と歌い、従二位家隆の「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」はまた小倉百人一首に選ばれています。瀬見の小川。一時涸れていたが復旧されたどこかから、森の雰囲気をぶち壊す調子っぱずれの「君が代」が聞こえてきました。学生らしい男女のグループが「さざれ石」の前で大声を張り上げています。それから何人かの男子がヨーイドンで森の方に走りはじめました。競技会のつもりでしょうか?警備員慌てて制止しますがストップするはずもなく…。「わけがわからんな、あいつら。どこのアホ学生やろ?」「ちがうョ。きっと頭のいい大学の子らだよ」「なんでや」「バカな子は自分に自信がないから見栄を張ったり、格好ばかり気にするんだよ。だから、人前でバカなことできないよ。ウチにも1人いるでしょ。あの子らは自分に自信があるから、平気でバカなこと出来るんだよ」「君は学者ね~。(大した大学ではないけれど)そういやぁ、奈良公園でブンブンブン蜂が飛ぶ~て踊ったり…俺の場合はいつでもどこでもOKやったなぁ。あ~っ! 大阪駅前の歩道橋で藤間流もやった!」「なにそれ?」「歌いながら、はじめは日本舞踊風、終わりは相撲取り風に踊るねん。踊ろか?」「バッカじゃないの? キミの場合は、単に羞恥心欠如だね!」「なんでやねん! せめて天性の芸人と言うてくれ」「ハイハイ」〆縄をされて鎮座するさざれ石さらにバカな会話が続きます。「ねえ、さざれ石ってなに?」「前にも説明したやろ。さざれ石ちゅうのは漢字で書くと細い石や。飾ってある石は細かい石が固まって巌、つまり大岩になった見本やな」「大きな石が砕けて砂利になるのは分かるけど、そんなことあるの?」根が懇切丁寧な私の説明。「岩の出来方にはいろいろある。マグマが固まって出来た火成岩、墓石なんかに使う花崗岩はこの一種や。積み重なった泥や砂が固まった堆積岩。いろんなとこで見る柱状節理は堆積岩が浸食されたもんや。火成岩や堆積岩に熱と圧力が加わってできる変成岩。大理石なんかは石灰石が変成したもんや…(長いので中略)…さざれ石と言われてるのは、砂利と砂利の間を石灰なんかが埋めて、固まった堆積岩で、学問的には石灰質角礫岩と言われてる。石灰石はセメントの原料やから、自然の作用でコンクリートができたみたいなもんや」「説明長すぎ! で、どれくらいでできるの?」「何万年もかかって作るんやろなぁ。せやから君が代の歌に使われてるねん。天皇の時代は千代に八千代に、つまり1000世代も8000世代も続くでしょう、さざれ石が巌(岩)になって苔むすくらい長い長い期間、という意味や。昔の人にとっては永遠とおんなじ意味やろな」「ふーん、そんなに続くの? 皇室も大変だね~」「どう言う意味や? トンチンカンな方に話そらすな! 石のことやろ。惑星学では、地球の成り立ちは、金属を多く含んだ小惑星がぶつかって…」「もういい。日が暮れちゃうよ」やがて正面に鮮やかな朱色の舞殿。境内に入ると雅楽の妙なる調べが聞こえてきます。社殿では結婚式が執り行われていました。参拝を終えて、違うコースで森を巡り、糺の森を後にしました。次は清水寺。バスで行くのが手っとり早いのですが、残念なことに祇園で降りて歩かなくてはいけません。「歩ける」というので、祇園経由のバスに乗りました祇園。清水まで歩く前に課題があります。富山の友人から母ちゃんにメールが来ていて、祇園・都路里(つじり)の抹茶パフェを食べよという「指令」です。なんのこっちゃと首をひねりながら店に行き、同じ食べるならと巨大な「特選都路里パフェ」を注文しました。甘味が苦手な母ちゃんは場違いなホットコーヒー、私ひとり瞬間芸で平らげました。が、私にとってパフェと言ったら、初恋の思い出・チョコレートパフェ。母ちゃんにひとしきり高校時代の恋の話を聞かせた私でした。母ちゃんは「ハイハイご苦労さん」といった顔つき。清水寺。舞台直下の真っ赤な紅葉一念坂~二寧(二年)坂~産寧(三年)坂~清水坂の扇子店を一軒ずつ覗きながら(母ちゃんが友人のために自分とお揃いの扇子を探していました)清水寺境内へ。「見頃」とされていた清水寺も「落葉盛ん」な状態。それでも人気の寺らしく、観光客だらけ。紅葉よりも「音羽の滝」に長蛇の列ができていました。私たちは清水の舞台には上がらず本堂と舞台を一望する展望所へ。手前の枝が邪魔で写真が撮りづらく、高枝バサミ持ってきて~の気持ちでした。東山のランドタワー・八坂の塔を見ながらバス停に向かいます。途中にある湯葉を造っている店の匂いに釣られ店内に。湯葉会席などで、自分で掬っても職人さんのようにはならない湯葉。いとも簡単に板状に掬い上げていきます。掬いたてを食べさせてもらいました。濃厚! まろやか! 町家が伝統工芸の工房だったり、食品工場だったりする景色。それらが何の違和感もない町、京都。祇園祭に象徴される町衆のパワーが千年の都を支えてきたのだと改めて感じました。これだから古都探訪はやめられません。湯葉を竹棒で掬い上げる熟練の技あっという間の古都・晩秋の紅葉巡り、無事終了です。おまけ:京都駅で新幹線ホームに向かうエスカレータに、マラソンの野口みずきさんが乗っていました。所属チームも自宅も京都だったはずなので間違いありません。母ちゃんに耳打ちしましたが、聞き取れなかったようで、ホームを歩き始めてやっと気付いてくれました。前方をサッサと歩く野口さんを追いかけて、よたよた母ちゃんがいきなり早足。追いつくかなぁ。しばらくしてハアハア言いながら戻ってきました。「人が多いので回り込んだら、みずきさんと鉢合わせ。目と目が合ってびっくりしちゃった~。応援してます、頑張ってくださいって…」帰りの新幹線から、夕映えの富士山「言えたんか?」「言おうと思ってたのに、びっくりして頭下げただけで逃げてきちゃった」「まあそんとこやろなぁ、キミは。その状態で言えるくらいやったら、もっと別の人生送れてたやろねぇ」*あとで分かりましたが、野口さんは埼玉県川口市で翌日開催される市民マラソンにゲスト参加するため、東京に向かったようです。完。
2010年12月24日
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1日目の天気予報はピッタリと当たり、夕食を終えて先斗町を出た21時ごろから雨が本降りになり、明け方までかなり強い風雨が続きました。紅葉も心配ですが川下りも心配です。夜が明けると雨は上がりスッキリとした青空が広がっています。天気予報は東海から東日本の激しい風雨を伝えています。京都の天気は晴れ時々曇り。昼ごろに雨がぱらつくかもしれないとの予報。「どういうことや?」と衛星写真で確認すると、東日本にかかる大きな雨雲の後ろに、細い雲の帯が南北に延びています。「ああ、これか」と納得して、ひたすら「川下りの途中で降るんはヤメテ」と祈る思いで出発。京都駅まで地下鉄で3駅。あっという間です。いつもは大混雑の京都駅前のバス乗り場も平日(金曜日)のせいか落ち着いています。それでもトロッコと保津川下りは人気のコース。定期観光バスが2台になりました。トロッコ列車から見た保津峡。水が濁っている9時15分、京都駅出発。嵐山に向かう道路も渋滞はありません。例年と違って、今回はトロッコ列車~川下りを先にして、午後から昼食・嵐山散策の日程です。このほうが私たちには助かります。嵐山散策を先に持ってくると、昼食はバスの中かトロッコ電車の中で慌ただしく食べ、日が傾いた冷え込みの中で2時間の川下りをすることに。しかも亀岡の乗船場は乗客であふれかえり、乗船が遅れて、毎度日が落ちてから京都駅に戻っていたのです。10時7分、トロッコ列車はトロッコ嵯峨駅発車。旧山陰線の線路を利用して観光用に運行し、年末から2月いっぱいは休業する「変な」鉄道です。車窓から見える紅葉は終わりかけ、愛宕の山々も半分以上は茶色がかって見えます。眼下の保津川は昨夜の雨の激しさを物語るような濁流。水かさも例年より多いようです。船は大丈夫か?増水した急流に突っ込む観光船。水除けシートで防御(トロッコ列車から)トロッコ亀岡には10時30分ごろ到着、連絡バスで乗船場へ。雨に洗われた山々がくっきりと見えます。乗船場に着いて10分ほどで乗船。休日とは大違いです。私たちは、波がかかるのは覚悟の上で今年も船の最前列。船頭さんの話では「増水してるさかい1時間30分くらいで着くやろ」とのこと。増水して濁りの入った川を船は進みます。船頭さんのヨタ話に笑っている間に、急流ポイントが近づきます。「前の人はビニールをしっかり胸までひっぱり上げて、下端は足で踏んどいてや~」「救命具は前の方にワシら3人分用意した~るから心配せんときや」「女のヒトは、キャー言わんとアカンよ~。ワーやないで。派手にキャ~言わんと降りてもらうで~」私はカメラを片手に、片手でビニールシートを引き上げて、端を尻の下に敷き、下端を踏んで、スタンバイ。「落差2メートルや、いくで~」船は大きな段差を落下。水がザブ~ン!!紅葉撮影か水対策か。今まさに急流へキャ~と女性たちの嬌声が上がります。乗客のほとんどが娘さん(昔の)ですから、声も派手です。母ちゃんがギエェ~!と一声。すかさず船頭さんは「キャ~やろ!!」「だって~、靴の中水浸しになった~」大騒ぎの中、いくつかの落ち込みをクリアし、やっと紅葉観賞。といっても、サクラは完全に葉を落とし、カエデも落葉盛ん、シイノキの黄葉が風に巻き上げられサクラ吹雪のように飛んでいきます。「昨日が最高の見頃やったんやけどなぁ~惜しかったなあ」と船頭さん。何回もくぐる山陰本線の鉄橋を見ていた母ちゃんが重大な質問を発しました。「山陰本線って何回川を渡るの? ずいぶんカーブが多いのね」船頭さんは思わず櫓を落としそうになるし、私はカメラを落としそうになりました。私はあわてて説明します。「山陰本線はまっすぐ走ってんねん。川が蛇行して何回も線路をくぐるから、鉄橋がいくつもあるんや」船頭さんも参戦します「この間80過ぎのおばあちゃんが、この辺は何本も電車の線路があるんやな、エライ都会や、と言い出して困ってん。何ぼ説明しても分かってくれへんから、放っといた」川は蛇行して山陰線の鉄橋を6回くぐる私から追加説明「愛宕山が後ろに見えたり、前に見えたり、横に見えたりしてるやん。あれも川が曲がりくねってるから位置が変わって見えるだけや。山がいくつもあるわけやない」母ちゃん「そりゃそうだ」船頭さん「いやいや、愛宕山が動いていくんや。もうじっき、前の方まで走って行きよるから見ときや~」母ちゃん「イヤだ~。そんなわけないでしょ~」私の方がイヤになる話です。紅葉の中を走るトロッコ列車とのすれ違いそんなこんなのうち船は無事嵐山に。すれ違った嵐山観光屋形船ではドラマの撮影をしています。貸しボートもチラホラ。渡月橋はけっこうな人出。川岸を散策する人たちもかなりいます。嵐山の紅葉。桜は前夜の雨ですっかり葉を落とした空は真っ暗、いまにも泣きだしそうです。時間は12時20分、天気予報的中か!? 船から降りて数分間。写真を撮ったりしていると、大粒の雨がポツリ、ポツリ。いきなり頭上でド~ン! バリバリ!! ドッカン~!!と雷。ギエ~ッと母ちゃん。たちまちバケツをひっくり返したような豪雨、そして突風。慌てて差した傘は煽られ、足元はずぶ濡れ。「嵐山吉兆」の門に身を寄せ横殴りの雨風をしのぎました。駆けだす人、風雨に逆らって歩く人、団子になって一つ傘に身を寄せる人たち、濡れねずみになりながらお客の世話をする人力車のお兄さん。ボートや私たちを運んでくれた船も船頭さんも、ボートの客もびっしょり。渡月橋の観光客は右往左往、誰ひとりもいなくなりました。ドラマの撮影スタッフも大わらわで機材を車に積み込んでいます。気の毒だなぁ~。でも、よそ様のことより今は母ちゃんが大事。「一過性やから昼飯食ってるうちに上がる」と言いながら母ちゃんをかばいます。そうしながら、このあとの対策を思案。ちょうど昼時だから昼食兼雨宿りをすることに。と言っても「吉兆」は手が出ないので、近くにある「熊彦」へ。「ここも高そうやなあ」と腹の中で思いながら、緊急避難やねんから気にスンナ、と覚悟を決めて(大げさな!)入店。ちょうど1席空いていました。川を見ながら想定外の豪華な昼食を摂って体を乾かします。「僕らより後の船の人らは、川の上で降られてはるなぁ」「突然の雨のときはどうするんだろう? 幌みたいなもの用意してあるんだろうか」と、しても仕方のない心配をしている2人です。昼食代6000円!!雨上がりの渡月橋。早くも観光客が…予測通り1時間ほどで雨は止み、嵐山散策スタート。といっても「熊彦」での滞留が長かったので、天龍寺から竹林を抜けて、母ちゃんのお店探訪に付き合って、早くも集合時間になってしまいました。雨に洗われた天竜寺の紅葉。ここも最終盤早目に京都駅に戻れたので、母ちゃんの希望を入れて、京の台所・錦市場へ。京都の目抜き通り四条通の1本北にある錦小路。道幅が3~5メートルほどの狭い道筋の烏丸の大丸百貨店(この言い方が古いと母ちゃんから責められます)から河原町に近い錦天満宮までの間390メートルにわたって120件以上の店が軒を連ねています。その成立は平安京造営時にまでさかのぼります。江戸時代初期には特権的魚市場として確立、明治維新を境に急激に廃れますが、明治末期には水産魚介類業者を中心に復興を遂げますが、またも変転の時期を迎えます。昭和初期、中央卸売市場創設に伴い、小売業の商店会として青果業や精肉業などを加え、あらゆる食料品を取り扱う「京の台所」として新たに出発しました。17時を過ぎると店じまいにかかる生鮮関係の店、風格のある京野菜の店、おばんざい(京都の家庭料理)などの総菜店、漬物、乾物、佃煮などなど食品店、観光客が群がる京風ファストフードの店…全国区の有名店から無名の名店まで、何も買わなくても楽しい錦小路「ひやかし」散歩。前から羽織袴姿の男性が歩いてきます。手には五葉松の束。「あれ? あの人、歌舞伎の有名な人…じゃない?」「坂東玉三郎や」「なんで? この辺に舞台か何かある?」「鴨川挟んで南座があるやん。顔見世興行の真っ最中やから玉さまも当然出てる」「そうなんだ!」何回京都に来ても土地勘の鈍い母ちゃんです。声をかけたりしないで目で会釈してすれ違ったのでした。錦市場から新京極(修学旅行生がよく訪れる)を徘徊し、四条通をブラブラと烏丸に戻りました。今夜の夕食は京町屋を改装した料理屋です。私は腹いっぱい食べ、母ちゃんは腹いっぱい飲んで…。最終日に続きます。
2010年12月19日
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1日目の午後は嵯峨野散策。奥嵯峨まで走り車を捨てて歩こうという計画です。かすかに右足裏に違和感があるものの、持ち前の荒っぽさでGO,GO!清滝トンネルの手前、嵯峨鳥居本にある愛宕念仏寺。「千二百羅漢の寺」として知られています。近くにある愛宕山は「あたご」と読みますが、この寺は「おたぎ」と読みます。歴史的な謂れがあるそうですが、よほど教養がないと読めないですね。私はずっと「あたご」と読んでいました。8世紀中ごろ東山あたりに創建されましたが興廃を繰り返します。1922年(大正11年)辛うじて残っていた本堂、仁王門、地蔵堂を現在の地に移築しますが、復興できないまま30年、またしても荒れ果ててしまいます。1955年になってやっと再興事業が本格化したという数奇な運命をたどった寺院です。境内に居並ぶ羅漢像は素人が彫って奉納したもの。1981年から「昭和の羅漢彫り」運動がスタートし、約10年後には1200体に達しました。境内が北ないし東向き斜面に広がっているためでしょうか、苔むした羅漢像が多く、実際よりも古い時代の作ではないかと錯覚を起させます。羅漢さんは、素人が彫ったとは思えない豊かな表情を持ち、訪れる者を迎えてくれます。厳しい顔、笑顔、すまし顔…1200の異なった顔が癒しを与えてくれるようです。さまざまな表情の石仏たち「素人が石に彫れるものなの?」母ちゃんの質問です。面倒くさがらずに答えるのが私です。「道具さえあったら素人でも彫れるがな。鑿とハンマーがメインやけど、大工さんの使う鑿とは刃の硬さとか形が違うねん。僕がやってる篆刻も石に彫ってるやで」「そうか、でもみんなよくやったよね」「風化の仕方とか欠け方みると彫りやすい石使うてるみたいやから、頑張れたんやろなぁ」「みんなデザインにも凝ってるし、やっぱすごいよ」寺から嵯峨野方面に下ると、地元愛宕神社の大鳥居が目に入ります。「鳥居の下にあるから鳥居本と言うのかな」と誰でも思うでしょうが、実はそうではなくて、京都の夏の風物詩「五山送り火(大文字・妙法・舟形・左大文字・鳥居形)」に由来します。当地の曼荼羅山で燃え上がる鳥居形。そのふもとにある集落だから鳥居本と命名されたのです。古くは京都の人々の埋葬地で「化野(あだしの)」と呼ばれ、石仏で有名な化野念仏寺はこの地域の中心でした。愛宕神社の門前町として賑わうようになり、化野念仏寺より上は茅葺の農家、寺より下の地域は瓦葺の町屋風民家が並ぶ今の町並みが出来上がりました。鳥居の下に並ぶ茅葺の民家はいずれも割烹旅館。その茅葺屋根にかかる紅葉はいにしえの風情を醸しています。写真愛好家なら見逃せない撮影スポットです。私たちが訪問した時には、サクラ紅葉は完全に終了しカエデもまばらでした。苔に覆われた北向きの茅葺屋根に落ちたカエデが発芽し、小さいながら葉を赤く染めているのが健気で愛らしく、思わずシャッターを切りました。化野念仏寺への階段を登りはじめたところで、母ちゃんからSTOPがかかります。「どないしたん? 膝か腰か?」「ちがうよ、なんだか怖い」以前この寺を訪れたときから「あそこは怖いからイヤだ」と言っていたのを思い出しました。母ちゃんの霊感が強い訳はなく、単に臆病者なんでしょうが、無理に行く必要のないので今回はパス。保存された町並みにある民芸店などを覗きながら、祇王寺に立ち寄ります。寺と言うより庵と言った方がふさわしい佇まいが、平家物語の悲恋に似つかわしく感じられます。祇王寺柴門を彩る紅葉平清盛の寵愛を失った祇王が娘・祇女と母刀自とともに移り住んだ庵で、のちに寵愛を競った仏御前も世の無常を悟りこの寺で尼になりました。こちらの紅葉は、通常なら12月初旬が見頃なのですが今年はすでに散紅葉。庭一面を覆う紅葉がお堂を染め上げています。平日なので観光客は多くなく、ひっそりと仏に仕える四人の女性に思いを馳せることができました。散紅葉に染まる祇王寺の庵「俳句カルタに出てきた向井去来の庵が落柿舎だ」とか「山椒ちりめんはどこが一番おいしいか」とか「やっぱ京都は平日だね~」とか、はては「京都のタクシーはクラクション鳴らし過ぎだ」とか、たわいもない話をしながら、ブラブラと嵯峨野を歩きます。母ちゃんが一番気に入っている紅葉名所、宝篋院(ほうきょういん)に到着。三脚・一脚を持ち込むことさえ禁止されているほどカメラマンに人気のあるこの寺も今日は意外と空いています。記念撮影の顔まで赤く写るほど見事な紅葉。カエデとドウダンツツジが燃え立つ赤を競っています。散紅葉を敷き詰めたような庭園も圧巻。言葉で表現しようにも私の貧困な語彙では如何ともしがたい色彩です。隣りの清涼寺は、歴史上の有名人と所縁の深い大きい寺院で、国宝や重要文化財が目白押し。光源氏のモデルと言われる源融の別邸跡に立っており、豊臣秀頼首塚や聖徳太子殿(でん、と読んでくださいね。母ちゃんが「しょうとくたいしどの」と読んだので念のため)、徳川五代将軍・綱吉の生母である桂昌院ゆかりの品々など。庭園の紅葉はもうほとんど終わりかけていました。傅大士(ふだいし)像が鎮座する一切経蔵(輪蔵)の楓嵯峨野散策はここまでとして、愛宕念仏寺近くに停めてある車まで戻ります。日没が近づいているうえ、母ちゃんの膝や腰も心配なので、タクシーを利用しました。朝から相当の距離を歩いています。今夜の泊まりは烏丸御池のホテル。夕食は先斗町の料亭です。その前に京都駅前のバスターミナルで翌日の観光バスチケットを受け取り、レンタカーを返却します。急がなくては!2日目は毎年恒例の嵯峨野トロッコ列車と保津川下り。次回乞期待。
2010年12月16日
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三千院をあとにして、若狭街道を八瀬方向に戻り蓮華寺へ。穴場的な紅葉名所で、観光案内にも少し紹介されるだけの小さなお寺。訪れる人も少ないようです。応仁の乱で焼失した堂宇を、江戸時代初期に加賀前田家の家臣・今枝近義が再建したといいます。数台しか停められない駐車場から参道へ。創建当時の山門に、いかにも無粋なブリキ看板がデカデカと立掛けられています。京都仏教会の景観保護運動への協力を訴える看板です。「景観保護の看板が山門の景観をダメにしてるよ」「この寺の住職は●●正直なんやろなぁ」「ちょっと位置を変えればいいのにね」「普通はそう考えるわなぁ。ひょっとして…ここはハズレか?」そんな失礼な会話をしながら山門をくぐります。いきなり一面の散り紅葉が目に飛び込んできました。紅葉の毛氈の奥に佇立する鐘楼、御手洗(みたらい)、鳥居…。神仏混淆の名残です。ほとんどの人がカメラのシャッターを切っています。また、左手には地蔵菩薩を中心に約300体の石仏。緋に染まる御仏たち。河原町の市電敷設工事の際に掘り出された仏たちを集めて供養しているとのこと。中世の鴨川河原は無縁仏や刑死者の死体が打ち捨てられる場で、その霊を弔うため建立された石仏群が川の氾濫によって埋没していたのだそうです。書院からの紅葉。額装された絵画のよう池の紅葉。浄土を表現していると言われる庫裏から書院に入ると、鮮やかな紅葉が畳を染めています。小規模ながら池泉式の庭園は書院から鑑賞するように設計されたのでしょう。数人の観光客がいるだけの静寂。時の流れを忘れそう。次は金福寺(こんぷくじ)。蓮華寺から4キロ南、有名な詩仙堂の近くにある小さな寺です。創建は古く平安時代初期ですが荒廃してしまい、江戸時代の元禄年間に再建されました。この寺には松尾芭蕉が京都旅行の際に滞在した茅葺草庵があり「芭蕉庵」と呼ばれています。ただし、現存の庵は、芭蕉を敬愛してやまなかった与謝蕪村と彼の門弟たちが江戸中期に再建したもの。与謝蕪村の墓もこの寺にあります。紅葉に包まれる茅葺の芭蕉庵また、桜田門外で水戸浪士に襲撃され落命した井伊直弼の愛人で密偵でもあった村山たか女が、出家して庵を結んだ寺でもあります。1963年NHK大河ドラマ「花の生涯」では淡島千景が演じ、74年NTV連続ドラマでは山本陽子が演じ、さらには88年テレビ東京の正月大型時代劇では島田陽子が演じました。わたし的には淡島千景かな? 彼女は直弼が暗殺されたあと、身の危険を感じ京都の街に潜んでいましたが攘夷派に見つかり、三条河原で三日間さらし者にされます。彼女は誅殺を免れ明治9年まで生存しました。村山たかの庵は「弁天堂」として現存しています。この寺の境内から見える京都市街の眺望を目に収め本堂へ。井伊直弼、その参謀・長野主膳、そして村山たか関係の資料、俳諧関係の資料が展示されています。安政の大獄や村山たか、蕪村の作風など、母ちゃんには大して興味なさそうなことまで「講釈を垂れながら」の見学です。「これ、買って」と、唐突に母ちゃん。「なんやねん、絵葉書なんかいらんで」「俳句のカルタだよ」「これは展示品や、売りモンとちゃうやろ」「受付で買えるって、ここに書いてある」「ああなるほど。これは珍しいなぁ、わかった、買うたる」どこまでも甘い私です。読み札には作者とその句が書かれ、絵入りの取り札は上五(最初の5文字)を除いた下句が記されて、さしずめ百人一首の俳句版といったところ。文字も絵も丁寧に書かれ(描かれ)ています。選ばれた俳人は芭蕉、蕪村、一茶、去来。採録数はなぜか49句。48枚だったら2人でも3人でも4人でも札を均等に分けられるのに…。1日目後半に続きます。
2010年12月11日
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「今年の紅葉は猛暑の影響で遅れそう」当初の紅葉情報ではそのように報じられていたような…。日本一早い北海道・大雪山系の紅葉も1週間程度遅れていました。京都でも1週間遅れるとすれば、12月初めがピタリ見頃だろう。こう予測したのですが、雨と急激な冷え込みで一気に紅葉が進んでしまいました。12月初頭に合わせて日程を調整。京都紅葉紀行を計画してきたのですが、実際は例年より早まった感のある京都の紅葉。直前まで現地情報を収集して仮の計画表を作成、京都に着いてから確定することに。「あとは野となれ…」か「人事を尽くして…」か分かりませんが、とにかく出発。晩秋の大原に咲く不断桜出発までなんだか慌ただしく、テルテル坊主様にお願いするのをさぼっていたせいでしょうか、天気予報は「曇りのち雨」「曇り一時雨」最終日だけ「曇りのち晴れ」。悲鳴を上げる母ちゃん。私は「♪濡れていこうよ 二人なら 夢は夜ひらく~」と鼻歌まじり。雨の京都もいいじゃないですか…。東京駅6時20分発・臨時列車「のぞみ303号」。今回の京都フリープランは、プラス500円でグリーン車を利用できる優れもの。ゆったりふんわりした座席で、CAのお嬢さんからおしぼりサービスなども受けられます。駅弁とサービスのお茶を手に新幹線乗車。発車まで弁当はガマン! 腹へらしの私たちは風景を楽しみながら駅弁を食べることができません。東京駅で買って、どんなにゆっくり食べても新横浜が限界。前回は発車前に完食していました。朝日に輝く白銀の富士。ああ、神々しい! やっぱり日本人は富士山だなぁ。二礼二拍手一礼、そしてカシャ、カシャ(カメラのシャッター)。母ちゃんは横でガースカ眠っています。ああ、なんたる不心得者(喝!)…と怒るほどのことではないので「起きろ」とは言いませんでした。このあと私は爆睡。名古屋停車も知らず、大津あたりで目覚めました。母ちゃんは名古屋手前で目を覚まし、ずっと起きていたとのこと。このコンビネーション! 乗り過ごしの心配はありません(乗り過ごしても新大阪止まりだからどうってことはないのですが)。魚山大原寺の子院。山門の屋根を覆う散紅葉京都着8時38分。レンタカーで真っ先に向かうのは大原三千院。ここへは紅葉に関係なく訪れることにしています。わが家の守護観音様のお身拭い、母ちゃんの献木したカエデのご機嫌伺いをするためです。気温9℃、肌寒い境内の紅葉はほぼ終わり。時期はずれの平日ですから、参拝者も多くはありません。中国人観光客の甲高いおしゃべりが、やけに大きく響きます。騒々しさをよそに、私たちは観音様の埃を拭い、今年1年の無事を感謝し、来年も健康に過ごせますようにとお願いしました。母ちゃんのカエデは昨年より少し大きくなったような感じ。新しく伸びた枝には散り残った緑の葉が1枚、風に揺れていました。来年は紅葉した姿を見てやらなくては…。母ちゃんのカエデ。若い枝が伸び緑葉が元気三千院をあとにして、いよいよ古都の紅葉めぐりスタートです。腰痛の母ちゃん、足底筋(腱)炎の私、無事に全行程をクリアできるのでしょうか? 次回につづきます。
2010年12月06日
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千島問題に続けて、中国人船長の逮捕と不明朗釈放、海保の動画流出で騒ぎになっている尖閣諸島問題。ニュースなどで頻繁に取り上げられていましたが、政府もマスコミも態度があいまいで矛先が鈍ぶすぎると感じます。私なりにまとめてみました。中国も認めていた日本領土=尖閣諸島尖閣諸島は、沖縄県石垣市に属する、魚釣島、久場島、大正島など5島3岩礁からなる日本の領土です。面積は全部合わせても中央区の半分程度しかありません。古くから日本にも中国にも知られていましたが、単なる航海の目印でした。中国人が尖閣諸島に居住していたことを示す歴史的な記録はなく、また、中国が領有もしくはそれを主張していた記録もありません。日本側にも領有を証明する歴史的文献は存在していません。明治になるまで尖閣諸島は、どの国の領有にも属さず支配も及んでいない、国際法上の「無主の地」だったのです。江戸時代末期(1859)以降、日本人による調査が繰り返され、無人島であることが報告されていました。明治になった1884年、古賀という日本人が尖閣を探検、この地で事業を始めます。その後は何回も領有宣言を要請されていましたが、明治政府は1895年1月尖閣諸島を日本領と宣言し、領土に編入します。この時期がたまたま日清戦争と重なっていたため、今日、中国側は「戦争で奪い取った」と攻撃していますが、戦争とは何の関係もありません。1919年、島周辺で遭難した中国福建省の漁民を救助、中国の長崎駐在領事から、1920年5月20日に感謝状が届けられます。その中では「日本領土である尖閣諸島」と記述されていました。1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾と属島を中国に返還されますが、このなかには尖閣諸島は含まれていないし、中国から何の抗議もありませんでした。サンフランシスコ条約と日米安全保障条約によって、沖縄はアメリカの軍事支配下におかれ、尖閣諸島は米軍射撃場として使われてきたのです。尖閣諸島の位置と国境線(Google mapをベースに加工)1969年5月、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)は報告書の中で、尖閣諸島のある東シナ海から黄海に「石油天然ガスの海底資源が大量に存在する可能性がある」と指摘しました。すると、それまで「尖閣諸島は日本の領土」と自国発行の地図にも明記していた中国、台湾は、いきなり領有権を主張しはじめました。中国は日本領と記載してきた地図を書き換え、釣魚島と中国名を付けて自国の領土であるかのように世論誘導し、反日行動を展開してきました。真偽のほどは定かではありませんが、中国国内の古い地図はすべて回収・焚書して、神田古本街で販売していた地図も根こそぎ買い取られたと言います。また、台湾もそれまでの国境線を折り曲げて、あたかも台湾領であるかのように主張を繰り返しました。しかし、歴代の日本政府は弱腰外交に終始し、事実上放置してきたのです。領土画定を明確すべき1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相(事実上の最高指導者)が「一時棚上げ」を提唱したのに対し、日本側は領有権が日本にあることを明確に主張せず、国会での質問に対してさえ「説明の必要はない」と曖昧答弁をしています。一方、「棚上げ」したはずの中国は、1992年に「領海および接続水域法」を制定し、尖閣諸島を自国領と明記してしまいます。ここまでコケにされながら、わが国政府は、世界と中国に対し政治的・外交的対応を行わず、外務省が口頭で抗議しただけです。中国が国内外に対して、徹底的に「尖閣は中国領だ」とアピールし、世論誘導しているのに対して、わが国は、国外はもとより国内に対しても「尖閣諸島は日本領土であり、中国の侵犯は不当である」旨の主張を広報せず、尖閣諸島がどこにあるのかさえ知られていないありさまでした。今回の漁船衝突事件でも、中国がレアアース輸出規制と上海万博招待延期をちらつかせるや、政府は「国内法、司法で対処する」というだけで、肝心の外交的主張を怠り、早々と領海侵犯の中国人船長を釈放してしまいました。しかも、中国各地で起こる反日運動に手をこまねいていました。巡視艇に体当たりする中国漁船海保保安官がどのような意図でビデオを流出させたのかは判然としません。しかし、尖閣列島問題に一石投じたことは間違いありません。日本政府は、歴史上も国際法上も疑う余地のない尖閣諸島の領有権を明確に主張すべきであって、国際社会および中国政府に道理に基づいた主張を行うことが強く求められます。また、マスコミ各社は流出の是非を議論するよりも、政府の弱腰外交が引き起こした騒動であることを明確にし、政府に外交努力の強化を迫るべきだと思います。複雑な背景=竹島問題ついでに(といっては語弊がありますが)竹島(韓国側では独島)問題。この島は、島根県隠岐島西北方に位置し、2つの小島と約40の岩礁からできています。周辺海域は、地下資源などは注目されていませんが、豊富な漁業資源を有することで知られています。竹島は、古くから日韓両方の文献に登場していますが、韓国では現在の竹島から北西90キロ離れた鬱陵島のことを竹島と呼んでいたようです(韓国が領有の根拠としている歴史書「三国史記」では鬱陵島付近を指している)。江戸時代初めに、今の竹島(当時、日本では松島と呼んでいた)に日本人が渡航していますが、その後は無人島に戻り、どこの国の領土としても確定されていませんでした。明治に入り1877年の太政官指令では「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とされています。しかし、1905年、明治政府は竹島を島根県に編入。国際的にも日本領として扱われるようになり、現在は島根県隠岐郡五箇村に属するとされています。一方、韓国は、1905年の日本の領有手続きそのものが無効だとして、「独島は厳然たる韓国領土」と主張しています。この時期は、日本の天皇制政府が朝鮮の植民地化をすすめていた時期と重なります。1904年、日本は朝鮮半島を占領し、1905年には韓国を日本の保護領とする条約を締結させ、1910年ついに日韓併合してしまいます。このあたりが尖閣問題と異なる点で、韓国側が異議を唱えることのできない状況下で日本領有が宣言されたのです。竹島の位置(外務省HP)第2次大戦後の1948年、アメリカは朝鮮半島分断を固定化するために、アメリカに亡命していた李承晩を大統領にします。李承晩は1952年に海洋主権宣言を発し、一方的に境界線を設定。一方的に竹島を武装占拠します。1965年6月の日韓基本条約締結までに、日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷され、3,929人が抑留されました。このような複雑な経過と背景をもつ竹島問題。解決のためには相互主権を尊重し、平和と友好の立場を守って話し合うべきだと考えます。98年、両国は新日韓漁業協定を結び、竹島の領有権問題の決着を事実上棚上げし、周辺海域を「暫定水域」とし、日韓の「入り合い操業」をおこなうようになっています。しかし、日本漁船が竹島の12カイリ以内に近づけない状況は変わっていません。また、現在も韓国軍駐留部隊が配備され、埠頭(ふとう)建設するなど、一方的占拠は続いており、日本の施政権は及んでいません。竹島問題の平和的解決のためには、韓国が「実効支配」の既成事実化を中止し、竹島から駐留部隊を撤収させることが必要と思います。竹島問題についても、日本政府の対応はあいまいです。島根県では竹島問題で運動が続けられています。しかし、国民的にはほとんど話題になりません。それに対し韓国では官民挙げての広報がずっと続けられていると、日本で報道されたことがあります。そのときの映像では、「独島はわが領土」という看板や横断幕が街中に掲げられ、幼稚園児から高校生に至るまで竹島領有の正当性を教育されていました。日本の外交姿勢、どうにかならないかと思います。
2010年11月30日
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今年も「日光徒歩行軍」が行われました。主催は日本ES開発協会。正式名称は「勤労感謝テーマイベントon 日光街道 日本の未来の“はたらく”を考える!Good jobプロジェクト! 日光街道 太陽の下のてらこや グリーンカラー10,000プロジェクト!」という恐ろしく長いもの。「徒歩行軍」は年々進化して、さまざまなイベントを行いつつ日光をめざします。ESとは社員満足経営のことです。今年のイベントテーマは「Good job グリーンアップ大作戦」。ここで言われる「グリーン」は環境やエコを意味するだけではありません。人や社会、地域や環境などとの「つながり」、そのために何か行動を起こす人たちへの共感が生み出す「絆」、それらを通じて紡がれていく未来に向けた新しい価値観! それを「グリーン」と表現しているのです。難しい言い回しですね。早い話が、人と社会と自然の「つながり」、人と人の「絆」を大切にする価値観を生み出しましょう。それを色に譬えれば「グリーン」だ、ということ(かな?)。右肩写真はグリーンフェスゆるキャラ・ホーピー君●Good job日光街道徒歩行軍お江戸日本橋をスタートして日光東照宮まで、143キロを歩き抜く「決死隊」。11月3日は草加まで19キロ。11月20日草加から春日部まで17キロ、21日春日部から小山まで43キロ、22日小山から大沢まで47キロ、23日大沢から東照宮まで17キロ。この過酷なチャレンジのテーマは、活かされているという「感謝」、やればできるという「達成感」、一緒に歩いた仲間との「共感」、歩くという原点からの「存在証明」。ESの心を高めるワークを行いながらの全行程踏破を目指します。チャレンジャーは昨年も踏破したKさん、初参加のW君と学生O君。3名でゴールを目指しました。20日からは4日連続、しかも長丁場。普段ウォーキング訓練をしているわけではない3人の疲労と足の異変は日を追うごとにひどくなるはずです。22日、足の故障に加え昼ごろから大雨に見舞われた行軍チーム。晴れていても厳しい4日目の47キロ。雨は容赦なく体を叩き、靴の中も水浸しです。気温は11℃、体温は奪われて疲れ切った筋肉を痛めつけます。遅々として進まない行軍のなか、足を引きずりながら歩くW君は遅れがち。悔しさと仲間の思いやりに彼は男泣きしたそうです。声をかけてくれる地元の人たち、サポーターを務める事務局のメンバー、清掃メンバーに励まされ、支えられながら、3人は23日15時東照宮に到着しました。彼ら3人は、踏破の感想の中で異口同音に4つのテーマを実感できたことを報告していました。3日目、小山に向って行軍(写真は有限会社人事・労務HPより)●Good job日光街道大掃除日光街道をひたすら「行軍」するメンバーを応援しながら、歴史ある街道の清掃(ゴミ拾い)を行う企画。清掃活動は限られたポイントでしかできませんが、ゴミ袋を手にほんの少しでも社会貢献できる快感を味わいます。私は昨年もこの企画に参加しました。ゴミ拾いには法則があります。最初は大ざっぱに拾っていても、段々と目がゴミに吸い寄せられ、普通なら見落とすようなゴミまで気になり始めます。そうなってしまうと、拾っても拾ってもゴミが気になり、ヒートアップしてしまうのです。当然行程はべた遅れ。それでもゴミを拾い続け、当初の予想を超えたゴミを回収してしまいます。「ゴミはゴミを呼ぶ」。ゴミのない日光街道維持にほんの少し貢献する活動です。●Good jobワークショップ行程の途中にある公園や広場で、「社会で働くための新たな気づき」を得るワークショップに参加します。今年のテーマは「固定観念を排除する」「ゼロベースで考える」「チームワークの重要性」。チームワークを問われるゲーム形式で課題にチャレンジします。●Good jobグリーンな「カタリバ」グリーン分野に関して定期的・継続的に行う勉強と対話の場。専門家の講義、ワークショップを取り入れ、アクションを起こすきっかけにしていきます。こんな書き方をすると堅苦しく感じますが、和気あいあい、和やかな雰囲気に包まれて進行していくのが特長。「カタリバ=語り場」は「行軍」日程とは別に、室内で行われるイベントです。今回は8月、10月、12月の3回開催されます。●Good job グリーンフェスこの企画は本年初登場のBIGイベント。限界集落のじいちゃん・ばあちゃんが作った野菜で芋煮会、そば粉クレープづくりやそば打ち体験、日光ゆかりの木材などで工芸品づくり…お祭り感覚のイベントが用意されます。私の勤め先からもグリーンフェスに参加する予定だったのですが、仕事のなだれ込みが発生し、参加不能になってしまいました。聞くところでは、当初は200人くらいも来てもらえれば…と思っていたところ地元の方が1000人近くも来場くださって大成功だったそうです。しかも、このイベントの仕掛け人はK君という青年。その熱意に保険代理業の「あずま商事」さんが会社挙げて全面協力、そのほかにも趣旨に賛同してくれた企業や個人の方が多方面に協力して下さったとのことで、最終日の報告会でK君は涙ぐんでいました。準備の詳しい記事はこちら。 「やればできる」を見事に体現した皆さんに頭が下がります。「わが社も来年はもっと協力したいなぁ」とわが社の社長。ゴール地点、東照宮・神橋前に集結したメンバーたち私は…と言えば、これがだらしなくて、またまた足のアクシデントで長距離歩行は困難に。なんでも「足底筋(腱)炎」だとかで、右足の第2指から第4指の付け根が着地のたびに痛みます(マラソンの有森裕子さんがこれで手術したことがあります)。整形医によると歩き過ぎで使い痛みしているのだそうです。現在はスポーツ整体の先生の鍼と超音波、マッサージ治療を受けています。足をテーピングし、ウォーキングシューズにクッションを入れて通勤していますが、右足をかばった歩き方になっているようです。そんなわけで、最終日の東照宮まで17キロを歩く予定を変更、ほとんど歩かないで、143キロ歩き抜いたツワモノや清掃チームに合流した次第です。東照宮で特別参拝を果たしたあとは報告会。行軍メンバー、清掃メンバー、事務局メンバーの話、主宰の有限会社人事・労務代表矢萩さんらの講評など聞き、青年たちの意気込み、ひたむきな努力、可能性を肌で感じることができました。また、特別講話「上杉鷹山の藩政立て直し」も、わが社の現状にマッチした内容で、学ぶところが多く、自分の行動、姿勢など反省させられました。特別参拝のため、国宝・陽明門への石段を登るいまわが社は、売上げの大部分を占めるテレビ局の業績不振、経費削減のあおりを受け、厳しい事業運営を余儀なくされています。事業構造の変革を推進して、新たな事業展開を成功させようと、大幅な組織変更・人事刷新を実行しました。その中心になっているのが、まさに青年社員たちです。彼ら青年社員の中心は、「クレド(社員による社員のための行動指針)」作成に携わったプロジェクトメンバーです。彼らの合言葉は「30年先の会社をイメージしよう!」です。今回の「徒歩行軍」企画を実行し成功させた青年たちに接して、強く感じたのは「若い人たちは信頼できる」ということ。さまざまな体験談を聞きながら、わが社の青年たちの顔を思い浮かべていました。ES開発協会、人事・労務の皆さん、イベント事務局の皆さん、イベント参加の皆さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。また、来年!
2010年11月24日
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東京も晩秋の気配が濃くなってきましたが、異常気象なのでしょうか、会社の近くで季節を間違っているような花が咲いています。黄色いオシロイバナ。よく枝分かれした大きな株で、夏から花を付けつづけ、いまもたくさんのつぼみを膨らませています。薄紫のアサガオ。出勤時には花を咲かせ、午後にはしぼんでいる律儀な花。アサガオって真夏の花のはずなのに不思議です。その近くでは、ムラサキシキブがきれいに色づいているというのに…。11月中は、釣りも旅行も山歩きも予定がないので、ちょっと硬派な「かずたま」になってみたいと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外交がらみのニュースが気になる昨近。なかでも、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)、尖閣諸島、北方領土の3つは関心の高い問題です。今日のお題は「北方領土問題」。先日、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を訪問。日本が駐露大使を一時帰国させ抗議の意を表明したことに対してメ大統領は「感情的な対応はよくない」と評し、「これはわれわれの領土であり、将来もそうあり続ける」と表明しました。また、ロシア高官は「大統領は択捉、色丹島の訪問も望んでいる」と述べています。 ロシアの全千島、歯舞・色丹占領固定化は全く不当なもので、到底認めることはできません。「北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)は、北海道根室半島の沖合にある島々で現在ロシア連邦が実効支配している、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島に対して、日本が返還を求めている領土問題。これらの島は、北方地域、北方四島と呼ばれている」(Wikipedia)とされますが、いま一度、この地域の領土問題をおさらいしてみます。日本の北方の領土は、自民党政権時代も現在の民主党政権下でも、北方四島だけであるかのように主張されています。しかしながら、歴史的にはきわめて明瞭に規定されており、北方の領土範囲は、千島全島および歯舞・色丹両島なのです。千島列島とは国後・択捉の2島に端を発し、カムチャッカ半島の手前にある占守島・阿頼度島に至る全長1200キロにおよぶ火山列島のことで、オホーツク海と太平洋を隔てる長大な「壁」の役割を果たしています。面積としては全島合わせても岐阜県より狭く、そのほとんどが断崖に囲まれた無人島。しかし、獲得できる排他的経済水域(国連条約で定められたもの。陸地から半径200カイリ=約370キロ)は広大で、漁業資源のきわめて豊富な海域です。歯舞・色丹両島は、地理的にも地質的にも、さらに歴史的にも千島列島に属さない根室半島の延長とみなされ、議論の余地がない日本の領土とされてきました。ただし、日本軍部は便宜上この2島と国後・択捉を指して「南千島」と呼んでいました。幕末の1855年2月7日、江戸幕府と当時の帝政ロシアの間で締結された「日魯通好条約」は、国後島、択捉島までを日本領。得撫島から北のクリル(千島)諸島はロシア領土として確認。樺太(サハリン)島は両国混住の未画定地域とする、いわば中間的条約でした。日魯通好条約の領土画定(Google Mapを加工。見づらくて申し訳ない=以下同)明治になった1875年5月7日、日ロ両国は「樺太・千島交換条約」を締結。樺太をロシア領とし、千島列島全体を日本領と定めます。この条約が、日ロ間で平和的に領土を確定した最終条約であり、千島全島が日本の領土である根拠となるのです。日露戦争後、樺太の南半分をロシアから割譲し、日本領としていました。現在、北方領土の日を2月7日としていますが、これは4島だけを日本領土とする立場からの制定で、本来なら、全千島が日本の領土として確定した5月7日にすべきだと思います。交換条約による領土の最終画定日露戦争の賠償として北緯50度以南の樺太を日本に割譲日本とロシア(ソ連)の領土問題は、第2次世界大戦最終盤の1945年2月、ヤルタ会談で、アメリカとイギリスが、ソ連の対日参戦条件として千島列島のソ連への「引き渡し」を約束したことに始まります。これは、その2年前、米英ソ自身が公約した「領土不拡大」という第2次大戦の戦後処理の大原則(カイロ宣言)に矛盾する行為です。「ポツダム宣言」受諾によって日本は無条件全面降伏しますが、そのなかでは、日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまで日本国領域内諸地点を占領する。カイロ宣言の条項は履行されるべきである。日本国の主権は本州・北海道・九州及び四国ならびに(連合国側の決定する)諸小島に限る…平和的傾向の責任ある政府の樹立が確認されたならば占領は解かれる…と謳われています。しかし、ソ連(ロシア)はいまもなお、歯舞・色丹はじめ千島全島を領有し、返還に応じていません。帝政ロシア時代から続く南下政策の延長であり、スターリンが目論んだ大国主義・覇権主義を継承する行為です。サンフランシスコ条約で全千島を放棄してしまった日本歯舞、色丹はサンフランシスコ条約で放棄した千島には含まれない日本の領土であり、ロシアの占領は明らかに不当なものです。千島列島の返還や日ロ平和条約を待つ必要はなく、不当占領を解き速やかに日本に返還するよう強く求めなくてはなりません。必要なら2島に関する中間的条約を結んでも構わないのです。1956年に合意した日ソ共同宣言・国交回復交渉の中で、ソ連側は歯舞・色丹が北海道の一部であることを認めていました。宣言では、平和条約締結後という条件つきながら、「歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する」と規定されています。にもかかわらず、いまだに平和条約交渉は進まず、歯舞・色丹返還は棚上げ。いま、ロシアは歯舞・色丹の不当占領を固定化しようと動きを強めています。その理不尽さを広く国際世論に訴えなくてはなりません。また、サンフランシスコ条約(アメリカとの単独講和)での千島放棄条項が、歴史的には根拠がないものであることも世界に示すべきだと思います。南樺太は戦争によって得たものですからロシアの領土とするのは当然でしょう。しかし、国後・択捉を含む全千島は、「暴力・貪欲による略取」ではなく、1875年に平和的に取り結んだ日ロ両国の「交換条約」によって日本の領土とされているのです。そのことを根拠に堂々とロシアに返還要求すべきです。領土問題の解決を困難にしている理由は日ロ双方にあると考えます。ロシア側に立ってみれば、千島の領有によって漁業資源が独占できるほか、軍事的にも太平洋に進出できる橋頭保としての戦略的価値があります。オホーツクと太平洋を隔てる海の壁を自国の支配下に置きたいというのはスターリン以来の野望です。米ソ冷戦構造の所産である日米安保条約によって、アメリカ軍が駐留している日本に千島を返還すれば、太平洋進出を阻まれるだけでなく、ロシア本土と極めて近い位置に軍事施設が構築され、オホーツク海にアメリカの艦船が進出する危険があるのですから。交渉をややこしくしてしまった大きな理由は、日本政府の迷走にあります。先に述べたように、日本政府としては全千島返還への粘り強い交渉と歯舞・色丹の即時返還を要求してしかるべきなのですが、日本固有の領土である歯舞・色丹に、サンフランシスコ条約で放棄した国後と択捉を抱き合わせ、「北方4島返還」を繰り返し主張しています。目の前に広がる日本固有の領土・歯舞(05年、納沙布岬から)択捉・国後について、1951年、サンフランシスコ条約の批准を検討する国会で、放棄する千島の範囲には国後・択捉も含まれるとの政府見解を示していました。ところが、日ソ共同宣言をした56年は「択捉・国後は千島に含まれない」と政府見解を覆します。この見解はロシアにも世界にも認められるものではなく、領土問題を泥沼化させただけでした。にもかかわらず、政府は61年にも「千島とは得撫島以北の18島であり、国後・択捉は含まれていない」と歴史的事実に反する公式見解を示し、「ソ連による国後・択捉の不当占拠」と言い放ち、世界の嘲笑を招いたのです。なぜ、政府見解が180度転換したのでしょうか?アメリカがソ連との冷戦構造を固定化する状況がアジアでも発生しました。49年中華人民共和国独立です。危機感を抱いたアメリカは朝鮮南部にかいらい政権をでっち上げ、南北統一を妨害しますが、50年に朝鮮戦争勃発してしまいます。そうした情勢下、日本との単独講和を急ぎ、51年に強行、併せて日米安保条約を締結しました。また、戦争放棄をうたった憲法を無視し、マッカーサーは警察予備隊(のちの自衛隊)設置を指示しています。アメリカにとって、日ソの国交回復~平和条約は「不快」極まりないことで、朝鮮の分断固定化に辣腕をふるったダレス長官は、「歯舞・色丹2島返還でソ連と最終合意すれば、沖縄は永久に返還しない」と、重光外相を脅します。アメリカの世界戦略に組み込まれ、太平洋の「キー・ストーン」として役割を担った日本にとって、アメリカの意向は絶対的なもの。日本はそれまでの返還要求を方向転換し、北方4島一括返還を主張しはじめ、返還運動や国民世論を北方領土(北方4島)に誘導していきました。アメリカが国後・択捉に何故こだわったか? ロシア側と同じ軍事上の理由で、海さえ凍るオホーツク海で、冬季も安全に航行できる国後海峡を手に入れたかったのでしょう。アメリカの世界戦略の道具にされた国後(05年、野付半島から)平和条約締結は日米安保条約の廃棄が前提と考えているロシア。平和条約を結ばせたくないアメリカ。アメリカの意向を呈し筋の通らない主張をする日本。こうして、北の領土問題は、まさに北の海の暗礁に乗り上げているのです。ちなみに、北方領土返還運動のなかで、「300年前から日本人が開拓してきた」「父祖の土地」などと言われていますが、日本人(政府)の支配下にはいったのは、北海道南部でさえ江戸時代。まして、千島列島は明治に入ってからです。北海道で先住民族アイヌを迫害した歴史と同じく、千島列島の先住民族クリル(千島)アイヌを色丹に強制移住させてしまったことを忘れてはなりません。参考までに。小説「終わらない夏」(浅田次郎作・集英社刊)では、千島列島の領有問題の歴史が分かりやすく記されています。この作品は、1945年8月15日のポツダム宣言受諾後、侵攻してきたソ連軍と占守島の日本軍の激闘に想を得た、人間味あふれる内容です。関連:南樺太の真岡郵便局の悲劇もポツダム宣言受諾後のソ連軍侵攻によって起こりました。2008年9月2日のブログをご覧ください。
2010年11月20日
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2005年11月12日、長野県佐久市のH君が自らの生命を絶ちました。今日は彼の命日です。将来教師になることを夢見て県内屈指の有名校NK高校に入学してから、わずか7カ月後の出来事でした。携帯電話に保存された悲惨なメールから、卓球部での陰湿な「シカト」と「言葉の暴力」が明るみに出ました。詳しくは2006年11月7日、8日、12日のブログを見てください。ちなみに、H君は、私のブログにも登場してくれる長野の友人(長野のダンナ)家族の長男です。写真はH君の携帯電話に保存されていた校舎からの風景群馬県桐生市で小学6年生の上村明子さんが「いじめ」を苦に自殺して半月以上がたちました。学校側は当初の「いじめがあったとは認識していない」という見解を覆し「いじめ」があったことを認めました。しかし、「いじめと自殺の因果関係は不明」として責任を回避しています。上村さんとH君の縊死に共通する問題について考えてみました。自殺の数日前に何が…H君の場合、部活動の中で1年生全員から日常的に「いじめ」を受けていました。「へたくそ」「キモい」「ウザい」などと嘲笑され、練習相手にもなってもらえない日々を送っていました。また後片付けも1人でやっていました。2年生が修学旅行に出かけていた期間中(1年生だけの部活)、徹底的に「シカト」され「ハブ」られ、執拗な「辞めろ」攻撃を受けつづけます。11月11日(死の前日)、中学時代の友人たちに「完璧ハブられた」「卓球辞めようか」と訴えています。いつも1人きりで練習し、1人で後片付けをしていた彼の姿を、顧問教師たちは何度も目撃し、事態の異常さに気付いていました。でも何の手も打たなかったのです。12日の朝、中学校の後輩とメール交換して部活に行くと伝えていますが、その数時間後に縊死したのでした。上村さんの場合。08年名古屋から転校。09年、5年生になると一部の同級生に「臭い。あっち行け」と言われたり、外国人である母親のことでもからかわれ、無視されるようになりました。今秋から給食は決められた席でなく、好きな者同士で食べるようになって、彼女は1人だけで食べざるを得なくなり、学校を欠席しがちになったと言います。登校できなくなっていた彼女に、10月21日(死の2日前)は校外学習だから「参加するように」と担任から連絡がきます。彼女が意を決して当日登校すると、同級生から「こんな時だけ学校くるな」と言われ泣き帰ったのです。10月23日の土曜日、父親にジュースを買ってきてもらい、その数時間後、母親のために編んでいたマフラーで縊死しました。2人に共通しているのは、それまでの「いじめ」に耐え続けた心が、数日前の出来事で折れてしまったということ。死の直前まで「頑張ろう」「辛抱しよう」と自分に言い聞かせ、家族には健気にふるまっていたこと。さらに、全身から発せられていたはずの絶体絶命のSOSを学校が見落としていた、もしくは過小評価していたこと。 「イジリ」は「いじめ」につながるH君の場合、加害者Aは「イジリの領域」と主張、「Hは心が異常に弱い人間」とうそぶき、自殺にまで追い込んだ自分たちの行為に罪はないと私に強弁しました。そもそも、「イジリ」とはお笑い芸人が、ステージや番組を盛り上げるために後輩芸人などに心身両面でのイタブリをかけることであって、いじられた方は「出世」の糸口となるとの黙契を前提として「イジリ」に協力するのである。テレビのバラエティ番組で垂れ流されている「イジリ」あるいは「罰ゲーム」などは、一般社会の概念では「いじめ」「虐待」「パワハラ」「セクハラ」にほかなりません。そのような社会的風潮の中、いじめる側にとっては「別にどうってことない」行為が、被害者にとっては耐え難い「暴力」となる可能性があります。上村さんの場合も同様です。「横並び」の「村社会」ある研究者は、「日本は村社会」であり、「村」という共同体を維持してきたものは『第3項排除』の論理であると述べています。集団の中の1人を排除し、その『秘密』を共有することで共同体の結束を強める手法です。他と違った生活パターン、行動や主張はタブーとされ、なにごとも横並び。この「横並び文化」は、会社でも学校でも町内会でも生き続けています。H君の場合も、上村さんの場合も、この『第3項排除』が継続的に行われ、本人としては排除される理由も分からないまま事態はエスカレートし、存在さえ否定されてしまったのです。研究者によると「スケープゴートになりやすい傾向」を持つ人はいるそうです。他とはほんの少し異なった性質、身体能力、身体的特徴・・・を持っている人がターゲットになりやすいと言います。運動能力がわずかに劣っている、髪の毛が人よりも細い、ちじれがきつい、障害がある、母子(父子)家庭である、洋服が流行おくれ、上手く話せない、吹き出物・アトピーが酷い・・・取るに足りない自分たちとの相違点を見つけ出し、さらには事実を歪曲し「いじめ」の対象とするのです。その点では、子どもたちは限りなく残酷で悪魔的ですらあります。当然「いじめ」の対象者は抵抗します。返事をしないで無視する。逆に口答えする。身体に加えられる暴力に対しては時として立ち向かう。その結果、いじめた側は自分の罪を棚に上げて「あいつは暴力的だ」「むかつく態度をとる」など言いふらし、さらに激しい「いじめ」を展開するのです。そして問題が表面化すると曰く「あの子にも問題があった」と。いじめられている者がいじめている者に対して反抗し、時に牙をむくことがあったとしても、それは非難されるべきものではありません。1個の人格として当然の抵抗権、正当防衛権の行使に他ならないのです。被害者の人格を貶めた側にこそ責任があるのは言うまでもありません。自分以外の人間との関わりの中で自己の確立を「横並び文化」「村社会」が、民主主義の後進性、差別と選別の社会制度に依存していることは紛れもありません。これらは同時に自分勝手、強い者勝ちの価値観を生み出しています。わが国では、自我に目覚め確立すべき幼年~少年時代に基本的人権、自由、民主主義の概念を学習し、体得する機会を持ちません。幼少期から勝ち組・負け組の価値観を植え付けられ、他人を蹴落とすことが自分の幸福という格差構造に身をゆだね成長していきます。加えて、全体主義的な教育を吹聴する連中も少なくありません。全体主義と弱肉強食教育は一見異なるように見えますが、実際は軌を一にするものです。そこには人権も民主主義も自由も、他者への思いやりも存在しません。いま、教育が取り戻すべき課題は、地域・家庭・学校が一体になった子育てであり、自分以外の人間(家族も)と深くかかわり、互いに理解し合うことの中で自分という存在を発見し、自己を確立させていく教育の推進ではないでしょうか。「他者の自由を脅かし、権利を踏みにじっても痛痒すら感じない」ようになっている現状を打破し、1人1人の自由と権利が擁護され、個々の人格が何よりも大切にされる社会になるよう、子どもたちを育てなくてはなりません。「死人に口なし」 学校の責任逃れ上村さんとH君のケースも、否どんなケースでも、最初に学校が発する言葉は「いじめがあったとは認識していない」。原因となった「いじめ」自体を否定するのです。上村さんの場合、両親がマスコミに訴え、次々と彼女の手記など公表しました。そのため、学校も黙殺できず徐々に態度を変え、いじめの事実を認めました。もっとも、いまだに「いじめと自殺の因果関係は不明」などと責任を回避していますが…。H君の場合、両親が「これからも地元で住み続けるのだし、弟もいるから…それに、いじめをやっていた生徒たちにも将来があるのだから、マスコミに訴えたりしたくない」と決めていたため、『信濃毎日』ほか新聞各社からの再三に亘る取材要請にも応じませんでした。学校ははじめ「そのような事実はない」としていました。メールなどの資料を突き付けられ「1年生の中で問題があった」ことを認めたものの、両親がマスコミに通報していないことを知るや態度を変え「H君が人気取りのため1人で片づけをしていた」「性格的に問題がある」あげくに「家庭に問題があったのではないか」とまで発言しはじめました。その後、何度も話し合い、教育委員会も動き出して、「謝罪」と「再発防止」の言質を得たのですが、その間、はらわたの煮えくり返るような思いを何度もさせられました。「いじめ自殺」に関わる民事訴訟では、その点がはっきりと現れます。過去の事例をみると因果関係の立証は極めて困難で、棄却されるケースが目立ちます。「いじめ」が原因で自殺をしたのかどうか、自殺した本人は証言できませんから、証明は状況証拠(ノートとか他への相談とか)に依存するしかありません。訴えを起こした側に立証責任がある以上、学校側なり行政側なりは因果関係に「疑義」を差し挟めばいいだけですから、裁判では圧倒的に有利なのです。裁判に至らない場合でも、いじめた側と「いじめ」を見過ごした側は、どのようにでも言い逃れられるのです。まさに「死人に口なし」です。それをいいことに、責任逃れに終始する学校の姿勢こそが、「いじめ根絶」を阻害しているのではないでしょうか?教員評価制度が「いじめ」を隠ぺいさせる学校が「いじめ」の事実を認めず、認めたとしても「自殺の原因」であると認めないのにはわけがあります。教員に対する評価制度です。能力の低い教師をなくするという名目でスタートしたのですが、低く評価されると「待遇」が下がり、「出世」の道が閉ざされるという代物で、教育現場は牙を抜かれたような状態です(少なくない教師たちが、子どもを大切にし、熱心に教育研究を行っていることも忘れてはいけませんが…)。教育委員会の方針は絶対。校長や教頭(副校長)の指示に従わない教師は×(ペケ)教師の烙印を押されるのです。だから、教師たちはトラブルを起こさないように腐心します。結局、学校の教育力は低下し続け、聖職者としての自覚がない「サラリーマン」教師が教育現場にはびこっていくのです。問題が発生すれば評価点は下がるので、隠ぺいするしかありません。教師の問題は校長の問題ですから、学校全体が不祥事御法度の体質に変貌していくのです。特に、「いじめ」問題が表面化すれば大失点になります。だから「いじめ」の事実があったことさえ否定し、自殺者が出てしまうと因果関係は絶対認めたくないわけです。H君の場合、日参して「気付いてあげられなくて申し訳ない」と謝罪しつつ、その舌の根も乾かないうちに「H君の方にも問題があった」と発言し続け、早々とH君の私物を箱詰めにして持参し、退学届の提出を迫まり、一方的に幕を引こうとしました。上村さんの場合も同様の動きがあったようですが、マスコミが鵜の目鷹の目で張り付いているため記者会見を開き、正式に謝罪して見せました。それでも「因果関係は不明」と体をかわし、親を抑え込もうとしています。評価制度が教師の自主性を委縮させていることはさておいて、今大切なことは、「いじめ」の発生をもって教員評価するのではなく、「いじめ」をどのように克服したのか、または克服へ努力しているのか、を評価基準にすべきではないかと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・H君がなくなって早や5年。生きていれば、今頃は念願の信州大学に通っていたかもしれません。加害者たちもほとんどが大学生として青春を謳歌しているでしょう。願わくば、自分たちが犯した過ちを教訓として、人にやさしく思いやりを持って接し、より良い生き方をしてほしいものです。
2010年11月12日
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全室離れの「おた里の湯 彩の庄」。モダン和風の建物と調度。部屋ごとの露天風呂。創作和洋食料理の数々。いい宿です。フロント棟と各部屋の中間にある、独立したラウンジ。コーヒー・紅茶の無料サービスとゆったりしたソファーでクラシック音楽を聴きながら、寛ぎの時間が流れ…。「何もない、何もしない贅沢」という宿のコンセプトどおり、翌朝天気予報を見るまでテレビすら忘れさせてくれました。義父さん、義母さん、スマンです。そのうち必ず連れてきますからね。旅情あふれる「おた里の湯・彩の庄」 撮影失敗したので宿のHPから拝借離れの客室は静けさに満たされて…クラシックが似合うラウンジ。撮影位置の後ろはサンルーム風のソファー席。2階もゆったりソファー席客室露天とは別に、広々とした大浴場と2段になった大露天翌日。早朝の黒川温泉散策。まだ観光客もいない大人気の温泉地を母ちゃんとブラブラ歩き。想像していたよりも手狭な感じです。筑後川源流に沿って建つ旅館は風情があります。早朝の黒川温泉。まだ静けさに満たされている朝食後、ゆっくりめのチェックアウト。今日は、阿蘇火口を駆け足で見て、両親の待つケアハウスへ向かいます。事前に承知のこととはいえ、首を長くしすぎてロクロ首のようになっているかも。大観峰の展望台にちょこっと立ち寄り阿蘇カルデラの風景を目に収め、パノラマラインの爽快なドライブを楽しみます。阿蘇でも人気に高い米塚を遠望。走って登れそうな小山ですが、現在は入山禁止。その名の通り、阿蘇の神様が収穫した米を積んで出来た山という伝説があり、山頂の窪みは貧しい人々に米を分けたためにできたと言われています。大観峰から阿蘇五岳を望む振り向けば、波打つカルデラ台地。遠くに九重連山伝説の米塚。標高差は100メートル足らず草千里。元は真夏であればもっと緑に覆われているのでしょう。イメージの中の草千里は三好達治の「艸千里」「大阿蘇」にうたわれた光景。烏帽子岳の噴火でできた火口跡が平原のようになっているのです。どれほど激しい噴火だったのでしょう? 母ちゃんが「千里もあるの?」と天然ボケ丸出しの質問を発します。広大な草千里浜。ぜひ新緑の頃に来てみたい「あるわけないやろ。実際1000里言うたら4000キロ。日本列島の端から端でも3000キロやで」「ふ~ん。じゃあ実際どれくらい?」「直径1キロくらいやろ」「なんだぁ、だましジャン」「白髪三千丈とか百貫デブとか、大げさな表現はいっぱいあるやんか。大きいとか、長いとか、広いとかの意味や」今の噴煙を上げる中岳火口までは有料道路経由だが…ゲートまで行くと「ガス発生のため全面規制中」との電光掲示。ロープウェイも運休しています。昨日から風向きが悪く有毒ガスが吹き付けるので火口付近は立ち入り禁止なのだそうです。「ガッカリ」「まあ、ちょっと待ってみよ。風は弱そうやからひょっとしたら…ということもあるし…」有料道路入口にある管理事務所で、人の出入りが慌ただしくなってきました。「?」私は急いで車に戻りました。その直後、案に相違なく規制が解除され、ゲートが開きました。同じことを考えている人たちがいたのでしょう。一斉に車が動き出します。「あれ? 母ちゃんは?」。キョロキョロ探しますが、いません。土産物店でウロウロしているのでしょう。「しゃーないなぁ」と携帯電話で呼び出しても応答なし。バッグに入れたままか?売店の方から、バタバタと走って来ました。「ロープウェイ動き出したよ。規制解除されたんだって」「とっくに分かってるがな。せやから車に戻って待ってたんや」「えらいぞ! かずたま」火口付近は避難シェルターがずらり。噴石をかわすものでガスには役立たない荒涼とした中岳火口周辺。盛大に噴煙(蒸気)が上がっています。火口に沿って歩いて行くとその先はバックリと口を開けた噴火口跡、崩落する断崖、さらに足を延ばすと砂千里…。太古の火山活動の壮絶さを物語る大阿蘇の景色に、ただ見とれるばかりの私たちでした。中岳噴火口。風向きによっては何も見えなくなる旧火口の荒々しい断崖。大自然の猛威を実感させる荒涼とした砂千里浜親孝行モードに切り替える時間がやってきました。両親の首が伸び切ってしまわないうちに着かなくては…。かくして「ついでの観光」は終わり、翌日の午後までひたすら親孝行に徹した2人でありました。忘れていました。熊本行きの飛行機で、天才柔道家の山下泰裕さんに会いました。母ちゃんの前の席。搭乗してきたときに気がつきましたが、お一人だったので、写真も声掛けも遠慮しました。気の毒ですからね。穏やかな表情と試合中の激しさ。いかにも大阿蘇育ちの彼です。
2010年11月07日
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みなさん、気候の変わり目、風邪などひかれていませんか? すっかりご無沙汰しておりました。私めは、タチの悪い風邪をひいてしまい、微熱と咳が2週間も続いています。自己管理の甘さを反省しなくてはなりません。薬を飲んでも痰が切れず、ムリヤリ痰を切ろうとするものだから咳が止まらなくなって、頭が割れるほど痛い…でも、期限付きの案件を処理しなくてはならないので、無理に動いて…能率が上がらないからイライラして、禁止されているタバコを吸って、血管が切れるかと思うほど激しく咳きこんで…。横になってもちょっと姿勢が変わると気道が圧迫され、咳が出てしまう。睡眠時間は6時間近いのに、眠りが浅く夜中に何度も目を覚まします。加えて、1日3回の咳止め薬を1日4回も5回も飲んでしまうから、日中も眠気が取れません。声帯から気管を取り換えたいくらいの状態で、ブログは休止状態。冴えませんね~。忙しさに変わりはありませんが、久しぶりにブログを更新します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・熊本市のケアハウスに母ちゃんの両親が転居して早や半年。遅れ遅れになっていた施設への挨拶と2人の様子伺いのため、熊本へ行ってきました。東京から簡単に行けるところではないので、ついつい欲張って、阿蘇と高千穂峡に立ち寄る計画を立て、風邪をひいてしまったのです。飛行機が九州上空に入ると、火砕流台地特有の緩やかな丘陵地が緑に波打っています。9万年前に起きた巨大噴火では、火砕流は九州の半分を覆い、噴出した火山灰は北海道にまで達したそうです。窓に顔をすりつけて眼下の景色を見ていました。阿蘇上空を通過中。噴火口が見える初めての熊本空港。なんか感動します。九州とは縁が薄く、高校の修学旅行では、前年の生徒たちが引き起こした恐喝事件の影響で九州を自粛して広島・山口観光に切り替え。大学の時は、大阪からわざわざ長期遠征したのに、アメリカの原子力潜水艦「エンタープライズ」帰港阻止闘争で、ずっと佐世保にいました。30代で五島列島に行ったのですが、長崎から五島へ渡るのに強風のため大幅に日程をロスして長崎観光のみ。10年ほど前、家族で福岡に行ったものの所用のため観光なしのとんぼ返り。したがって、今回の旅行が事実上の初九州となったのです。ただし、主目的はケアハウス訪問ですから、慌ただしい日程です。高千穂峡まで70キロ。先日北海道のロングランをやったばかりなので、すごく近く感じます。神話の里・高千穂。名所旧跡はどれもこれも古事記・日本書紀に由来する命名。これだけ神話と結び付けられると辟易しますが、高千穂峡自体は素晴らしい景観です。見事な柱状節理。工事中で遊歩道は閉鎖中。残念高千穂峡も阿蘇の火砕流が冷却固結して柱状節理が生じ、五ヶ瀬川の侵食によってV字峡谷となったもの。高さ80m~100mにも達する断崖が7kmにわたり続いています。今回は高千穂峡を代表する「真名井の滝」を訪れました。手漕ぎボートで滝のそばまで行き、滝のしぶきを浴びてきました。紅葉には早い時期でしたが人気は高く、狭い水路にボートがひしめき合っています。2005年の台風被害、2008年の大規模な崖崩れのため、復旧工事が続行され、川に沿った遊歩道はほとんど閉鎖され、滝の下もロープが張られて進入禁止だったのが残念。高千穂峡を代表する景観。真名井の滝持ち時間が少ないので、滝そばの食堂でオススメの観光スポットを教えてもらい、車を走らせます。天孫降臨の地を守ってきた高千穂神社。参道脇に鎮座する鉄製の狛犬は、源頼朝が奉納したと伝えられ、国指定重要文化財に指定されています。重要文化財・鉄製の狛犬が天孫降臨の地を守る次は天岩戸神社。弟・スサノウの傍若無人な振る舞いに手を焼いたアマテラスが身を隠した岩戸が神社のご神体とされ、今も禁足地とされています。天岩戸神社西本宮。この神殿の川向うにご神体・天岩戸岩戸から10分少々のところにある天の安河原(八百万の神が集まってアマテラス対策を練った場所)はパワースポットとして人気を集めています。天の安河原を流れる岩戸川に架かる太鼓橋は、とりわけパワーが強いと、食堂のおばちゃんに教えられていたので、両手をいっぱいに広げパワーを吸収した2人でした。天の安河原にある洞窟・仰慕窟(きょうぼがいわや)。この前で神々が相談した最もパワーが強い?太鼓橋「積んだ石の数だけ幸運が来る」という噂があるらしく、安河原にはケルンのような石積みがいっぱいあります。「これじゃぁ、賽の河原ではないか」と感じた私でした。神道でも石積みをするのでしょうか? また、岩戸川にはヤマメ釣りの掲示板が立っていて、神域で魚釣りしてエエのかな?と母ちゃんと首をひねった次第。たしかに魚影は濃く、たくさんの魚が見られました。この日の宿泊は、黒川温泉の隣にある小田温泉郷。
2010年11月01日
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北海道に旅立つ前の日、9月21日マリアナ諸島近海で発生した台風12号。この地域で発生した台風は関東に近づくケースが多く、秋雨前線の位置によっては上陸ないし太平洋岸に沿って進むパターンです。出発時から台風の進路が気になっていましたが、天気図で見るように23日は前線の雲が日本全体を覆い、24日には前線に台風が合流する状態でした。私たちは、雨雲の隙間を縫って22日から北海道で過ごしていたわけで、ラッキーとしか言いようがありません。私たちの北海道最終日は、そんな状態で始まったのです。早朝、ホテルから見た空は雲が厚く覆っています。でも、海面は波立っている様子がありません。「漁師さんの言ったとおりじゃない?」「でも、台風の影響はないのかな? クルーザーに早う電話しぃ」母ちゃんが電話をしてみると、8時30分に結論を出すとのこと。「うねりが残ってるんやろなぁ」「うねりは波じゃないの?」「波やけど普通の波と違う。後で説明する…」待っていても仕方ないので、乗船準備です。私たちの乗船予定はヒグマウォッチングコース。往復2時間余りの船旅を想定して身支度します。8時45分にFOXクルージングに到着。結論が出ていました。波は一見静かなのですが、うねりが大きく危険があるので、ヒグマウォッチングコースと半島先端コースは運航中止。所要時間往復1時間のカムイワッカの滝コースだけの運航です。やはり台風の影響が出ています。今回の終点、カムイワッカの滝。手前の変色は硫黄分の流入「どうする?」「荒れた海の体験も面白いで」「酔い止め飲んで、行ってみますか」「ジブン(君)は絶対飲まなアカンよ」私は荒れた海でも船酔いしたことがないので薬はパスです。今回も上部甲板、運転席の後ろの席がゲットできました。救命胴衣に貸してくれたキルティングのヤッケと膝掛けでガッチリ防寒して、さあ出港。一見静かに見える海もうねりは大きく、陸地に沿って航行するクルーザーは激しく波しぶきを上げ、ローリングとピッチングが間断なく襲います。特に上部甲板にいる私たちはシャッターが切れないほど激しい揺れに見舞われます。船に弱いひとは酔い止めの薬を飲んでいても、長時間この状態が続くとキツイかもしれません。でも、クルージングは短時間でしかも遠くの景色を見続けるので、意外と酔わないかもしれません。母ちゃんも大丈夫なようです。船はフレペの滝(乙女の涙)、男の涙、象岩、五湖の断崖、こけし岩など順に見て回ります。私たちは動物たちを探して波打ち際や崖の笹原などに目をこらします。持参した双眼鏡は船が大きく揺れるため役には立ちません。ヒグマどころかエゾジカ1匹発見できません。荒れ模様の天候でみんな警戒しているのかも。そういえば、海鳥も少ない気がします。船は目的地・カムイワッカの滝に到着しました。下の甲板にいるスタッフが小手をかざしてヒグマを探しています。私たちも懸命に探しました。ダメです。帰宅後、写真整理をしていて発見。海岸にヒグマの後ろ姿らしきものが写っていました。クマでしょうか、岩でしょうか?船はUターンしてウトロ港に向かいます。帰りは少し沖合を猛スピード。この船は最大速力28ノット(時速50キロ)出せる高速艇です。船底が激しく海面を叩き、迫力満点。「ヒャッホー!」私は上機嫌。「元気だね、ヒグマに会えなかったから、がっかりして風が痛く感じる」「でも、受付のお兄さんが言うてたけど、これまで連日欠航してて明日も確実に欠航やから、今日はまだツイテてんで。しかも僕らはトップシートに座れたんやで!」「それはそうだけど、ヒグマに会いたかった!」「また来る理由ができたんやから、エエやんか」10時30分帰港。1時間ほど余裕ができました。木工品を扱う「雪夢詩工房」に顔を出すことに。ここも、前回紹介した知床通の青年がオススメの店。かわいい木工品が所狭しと並べられています。大きなものは買えないので、小さなフクロウとウサギの「起き上がり小法師」をゲットしました。ついでに「近くにオススメの食事処ありませんか?」と尋ね、いいお店を教えてもらいました。食事処「潮風」。観光客相手の店が目立つウトロですが、この店は住宅地の一角にあるこじんまりしたお店。女将さんの話によると、現役漁師さんの店で、観光客にドヤドヤ来られたくないので宣伝もしていない、お客のほとんどは地元の常連客か紹介された人。メニューに時価が多いのは、その日にならないと魚種もサイズ分からないから。でもリーズナブルです。この日のオススメはワカサギの仲間「チカ」。今朝上がったばかりのチカを唐揚げしてもらいました。美味しい!!ウトロ港に近い知床世界遺産センターを見学中「サケの遡上が見られます。徒歩3分」の掲示。たしかに、港湾工事をしている脇に小さな川がありました。ペレケ川という名前です。「あんなとこにも遡上するのか?」と半信半疑で行ってみました。橋の下には水の色が変わるくらいの魚影。カラフトマスが多いようです。橋の少し上流にコンクリートの段差があります。それを乗り越えるために魚たちがジャンプを繰り返していました。なかなか上の段に登れず、堰堤の下には重なり合うほど魚が溜まっています。「どうしてあんなところに段差を造るんだろう? ひどいよね」と母ちゃん。「満潮になると海水が川の方へ上ってくるから、そのときにドンドン遡上して行きよるねん」ジャンプに失敗した魚たちが、水のないところに落下してもがいています。息絶えるのを待つカモメたち…。「せっかく故郷の川まで戻ってきたのに、かわいそうやな」「満潮になるまでガマンしてればいいのに、なんでジャンプするんだろ」「本能やろなぁ」さらに、ウトロから少し離れた遠音別川には、サケの遡上を見るための石段などが整備され、観光バスやマイカーが続々と詰めかけます。ここでも大量の魚たちが身をよじりながら川を上って行きます。カモメにつつかれたのか、岩に擦れたのか、傷だらけになっても、なお流れに抗して遡上する魚たちに感動を覚えます。 「暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく 光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく」中島みゆきの『ファイト!』を口ずさみながら、川の流れや段差と格闘する魚たち、力尽きカモメについばまれる魚たち…を見続けました。産卵のために遡上し、途中で動物や鳥が食べられる個体、役割を果たして死を迎える個体。死骸は分子レベルに分解され水に土に還り、他の生命の栄養となり、それらもまた他の動物の餌となり…。大きな食物連鎖の一場面が展開されています。壮大な生態系のリングを想像し、私たちもその一部を構成する存在であることに思い至ります。個体としては死んでも種として生き続ける、過酷とも荘厳とも言える光景が目の前で展開されています。他の生命によって生かされている!ことを実感させられました。淡々と繰り返される自然の営み。感動と厳粛な気持ちを胸に、知床を後にしました。女満別空港に向かう途中、能取岬、サンゴ草で有名な能取(のとろ)湖に立ち寄ります。ウトロから100キロ、斜里国道をひた走ります。能取岬はチラッと立ち寄っただけで、写真も撮らずに通過。能取湖畔に沿った美岬ラインを南下します。車にはほとんど遇いません。国道238号線・通称オホーツク国道に合流して、サンゴ草群生地に到着。前回来た時よりも赤の色合いが黒ずんでいるようで、場所によっては完全に茶色に変色しています。これはどうしたことか?記念撮影を請け負う写真屋さんに聞いてみました。「猛暑のせいでしょうね。例年に比べてこの時期になっても色づきが悪いです」「枯れてるみたいですねぇ、商売に影響しませんか?」「まあ…ツアーの団体さんは記念撮影が予定に入ってますからね…」ここでも異常気象の影響が…。ガッカリ!飛行場着の予定は18時。能取から空港直行では早すぎます。「網走番外地でも寄っていくか」となって、博物館「網走監獄」へ。「網走」といえば高倉健を思い浮かべますが、北海道の監獄は北海道開拓史と深く関わっています。樺戸はじめ空知、釧路の集治監の歴史などを見学しながら、母ちゃんに説明して行きました。明治政府に抵抗した思想犯を多数収容し、炭鉱や道路建設など過酷な労働を強いてきたこと。病んでも死んでも構わないという過酷な扱いでたくさんの死者がでたこと。開拓吏の官営事業を民間に払い下げ、それでもなお囚人を送り込み続けたこと…あるいは赤い獄衣と深編み笠、足首に鉄の重りを付けた枷を付け逃亡を防いだことなど、話は尽きません。過去に読んだ北海道開拓史、小説、政治犯の回想録などの記憶がよみがえったようです。母ちゃんは「よく知ってるね~、さては集治監に入ってたんだな」と。「監獄のことやったら任してちょ。何でも聞いてや」と私。集治監とか思想犯とか言ってるわりには、やっぱ健さんの印象が強く、構内を見学している間も、車に戻ってからも、ずっと鼻歌を歌っていました。歌は当然「網走番外地」。放送禁止バージョンです。 「春に 春に追われし 花も散る きすひけ きすひけ きすぐれて どうせ 俺らの行く先は その名も 網走番外地~」駐車場に戻った時には日没を迎えていました。ここから女満別空港までは20キロもないので、18時より前に空港に到着できます。「めまんべつメルヘンの丘」で車を止めて 残照の空と丘に立つ木々のシルエットを目に焼付けたのでした。空港で食事をして、早めに手荷物の保安検査を受けて待合室で待機していると、飛行機の遅れがアナウンスされました。20分が30分になり、30分が45分になり、結局70分遅れで離陸。こんなところで台風が影響するとは思ってもいませんでした。それでも、無事羽田に到着しメデタシメデタシの北海道旅行でした。
2010年10月14日
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3日目。夜明けとともに起き出して、阿寒湖畔のボッケ散策に1人で行くはずでした。ところが深夜の「優雅な時間」のせいか起床したときには、私の頭が「ボッケ」。明らかに睡眠不足です。考えてみれば、あれやこれやで1日目も2日目もあまり眠っていません。外へ出る気もせず、部屋から雄阿寒岳の日の出を撮影。朝風呂でシャッキリしてこようと温泉へ。部屋に戻った時間は6時過ぎ。これから出かけたのでは朝食に間に合いません。「まあエエか、ボッケはこの次も行けるしな」とあっさり諦めました。多少でもホテルでのんびりできます。雄阿寒岳を包む光芒今日は、阿寒湖畔から昨日通った道を逆戻りして雌阿寒岳を望むオンネトー。そこから再び阿寒湖脇を通って、前回パスしてしまった神の子池まで110キロ、さらに90キロ先の知床五湖散策、そしてホテルという予定。後半の2日間は母ちゃんの膝と腰にそれほど負担はかからない行程です。まず北海道三大秘湖のひとつ、オンネトー。アイヌ語で「大きい沼」「年老いた沼」を意味するそうです。さすが有名な観光ポイント、朝9時前なのに観光バスが次々とやってきます。ツアーの人たちは展望所といわれる木製テラスの所で、バスを降りて写真を撮って、はい集合。あっさりしたものです。私たちも似たようなものですが、一応車で行ける所まで行ってみました。でも、母ちゃんに一周4キロの散策路を歩かせるのは酷。前夜のマッサージで少し楽になったようですがまだ脚は痛むようです。車で移動しながらビューポイントでは湖畔に降りました。観光客は私らだけ。静寂のオンネトー深い青緑の湖の向こうに、雌阿寒岳と阿寒富士がそびえ、雄大な風景を作っています。吹き渡る風も爽やか。良い気持ちです。もう少し長い時間滞在すれば「五色沼」の名のとおり変化する水面を見ることができたかもしれません。阿寒湖畔をかすめ、釧網(せんもう)本線摩周駅そばから屈斜路湖と摩周湖の中間を貫く摩周国道に入り、野上峠を越えて小清水国道を釧網本線に沿って北上。札弦(さっつる)駅そばをほとんどUターンするような感じで裏摩周に向かいます。途中の道の駅まで母ちゃんは居眠り。強行軍で疲れがたまっているのでしょうか。目的の神の子池は本線を外れ、2キロ以上も未舗装のデコボコ道を走った奥にあります。池のそばに大きな駐車場が開かれてマイカーがずらり。神の子池とは奇妙な名前ですが、由来は摩周湖にあります。摩周湖のアイヌ名はカムイトー=神の湖といいます。その子供ということで神の子池と呼ばれているそうです。なんで? 摩周湖は不思議な湖で、流れ込む川がなく、膨大な雪解け水が入り込むのに流れ出す川もない。でも年中水位が変わりません。理由は周辺に伏流水を湧きださせているから。その伏流水が1日12000トンも湧き出し、周囲220メートル、深さ5メートルの池を作っているといわれています。神の湖・摩周湖の伏流水によって生まれた池なので「神の子」池と呼ばれているのです。澄み切った湧水は年間通して8℃。そのため倒木が朽ちることなく沈んでいます。まるで化石のようです。鏡面のような水面。周囲の木立がくっきりと映る。底まで見通せる透明感。偏光フィルターほしくなる「不思議な色だね」「そういえば、柿田川湧水(静岡県沼津市と三島市に挟まれた清水町にある)も真っ青やなぁ」「あれも富士山の伏流水だよね、何か関係があるのかしら」「空の青を映してる時とはちがう青や。光の波長と関係あるんやろなぁ」「ふーん、理由はどうでも神秘の色だよね」富士の伏流水が湧きだす柿田川。飲料水に使われている(清水町HPから)池を一周してせせらぎを渡ろうとした時、イワナによく似た魚たちが目に入りました。オショロコマです。イワナの仲間ですが寒冷地に適応した種で、日本では北海道だけに生息する絶滅が危惧される魚。橋の上から見ていると、イワナ類の捕食の様子、定位と大きさの関係がよくわかります。母ちゃんと2人、ジ~ッと捕食の瞬間を観察しました。「大きい奴の方が上流に居てるなぁ」「流れてくるエサとゴミが見分けられるんだね」「エサ取るときの動きはエライ早いがな」「見落としたり、間違ってゴミ食べる時もあるんだ」「そりゃそうやろ、あのスピードで食べに行くねんから間違いもあるで」「エサ来たよ、行け!…あっ見逃した」「中には鈍クサイ奴もいてるで」 :「ああ、釣りたいなぁ」「ミニ竿持ってくればよかったじゃない」「忘れてきた。それよりもここで釣ったらやばいやろ」オショロコマが捕食のため水面に出た瞬間長い時間見つめていましたが、観光客が「何がいるんだろう」という感じで私たちの周りに溜まり始めました。邪魔になるので退散です。次は知床五湖。ここから約90キロです。今回は母ちゃんの脚の回復を優先して五湖全部を歩くコースはパス。時間的には少し余裕があります。途中斜里駅近くの道の駅で昼食をとることにしました。母ちゃんの勤める会社に知床大好き青年がいます。「知床のことなら彼に聞け」というほど通い詰めている彼が勧めてくれたレストランが道の駅にあるのです。手ごろな価格でしかも美味しい。名前は「熊湖」。なかなか雰囲気のある店名です。前回は知らずに飛び込んだのですが、知床通が勧める店と思うと一段と美味しく感じます。ゆっくり食事をして、知床に向かいました。五湖着16時前。具合の悪いことにバスツアーの団体が私たちより一足先に散策路に入りました。1湖と2湖だけのショートコースなので、後ろからタラタラ。彼らは1湖だけでUターンです。2湖の近くでどこかのオヤジが「鈴なんか付けて、クマに会えましたか」と小馬鹿にした口調。ムッとした私「熊がいたら、鈴をつけてないアンタはアウトやろ」。大人げない反応をしてしまいました。駐車場に戻り、1湖まで伸びた木道へ。木道の周りはクマ除けの電線が張られているので、ここでクマに遭遇する心配はありません。鈴をしまって、知床の広さを感じながら散歩気分。木道から見た1湖。右上は雲のかかった羅臼岳「前回の小ジカはもうだいぶ大きなったやろか」「元気に生き延びててほしいよね。クマに襲われたりしてないかしら」「クマだけやないで、キツネも弱ったチビは狙うんやないか」「隠れるところも多そうだから大丈夫だよね」そんな会話をしながら、雲のかかった羅臼岳、なだらかに波打つ笹原、その先のオホーツク海、西に傾いた太陽…知床を味わいました。ホテルに向かう途中で日の入りの時間を迎えました。東京よりも15分くらい早いのでしょうか。夕陽の展望台あたりは人だらけ。オホーツク海を染める夕日は感動ものです。ウトロ港・オロンコ岩に沈んだ夕陽。空が燃える風が強く、海は白波が立っています。最終日はヒグマウォッチングのクルージングです。台風の進路が気になります。ウトロ港に立ち寄り、漁師さん風のお兄さんに母ちゃんが予想を尋ねにいきました。戻ってきた母ちゃんは「あすの朝は波も収まるって!」とうれしそう。次回は最終回。
2010年10月09日
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今回の写真は失敗作で、きちんとした画像をお届けできなくて申し訳ありません。カメラの設定を間違えたまま撮影してしまいました。母ちゃんから「アホンダラの馬鹿ジジイ、学習能力はないのか」などとエライ勢いで叱られています。「来年また行かんとアカンなぁ!」などとのんきなことを言っていますが大いに反省しています。恥を忍んで掲載しますが紅葉の鮮やかさを想像していただければ幸いです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・緑沼からしばらく登りが続きます。高根ケ原の断崖絶壁を見ながらのトレッキング。崖には樹木がほとんどなく、夏場のヒグマ目撃はこの崖に生える叢に集中しています。雪の残る断崖が高根ケ原湯の沼。湯が流れ出しているとのこと。母ちゃんが「熱いかな」と怖々手を浸けてみます「冷たい! だまされた!」。続いて、水面に映る紅葉が見事な鴨沼。小じんまりしたエゾ沼。標高1450メートルくらいに達して式部沼。紅葉は段々と鮮やかさを増しています。最後の休憩ポイント大学沼。荷物を降ろし食事を摂る人たち、複数配置された監視員も笑顔で質問に答えたり、会話したり…和やかなムードが漂っています。10分ほどで、標高の最も高い高原沼に到着。標高2020メートルの緑岳をバックにした景観はコース中でも特に美しいものでした。楽しそうに腕を振って式部沼に向かう母ちゃん大学沼高原沼越しに鮮やかな紅葉をまとう緑岳ここまで、母ちゃんは膝をかばいながら慎重に歩いてきました。段差の大きなところでは私が手を添えて、膝への負担を軽くしてきましたが、進むか戻るかの最終判断をしなくてはなりません。「膝はどうや? 一周できるか?」「規制かかってない貴重な日なんだから行くよ」「無理したら、膝が完全にやられてしまうで。本当に大丈夫なんか?」私の念押しに、母ちゃんは得意の「ダイジョーV」を元気に差し出します。「オッケー、わかった、行くで~」緩やかな下りを進み、水のほとんどない空沼へ。緑岳山腹の紅葉も見事さを増してきました。空沼は雪解けの時期には満々と水をたたえますが、この時期には水がなくなる沼。これもまた不思議な光景です。空沼に向かう道。写真右奥が水のない空沼いよいよヤンベタップ川に沿った急な下り坂に入ります。道はなく岩石の段々を下りていくのです。増水時には確実に川に飲み込まれる下山路。足を滑らせたら一大事です。母ちゃんの膝が悲鳴を上げ始めます。後ろから人が追い付いてくると脇に避け、肩を貸し、手で支えながらゆっくり下りて行きました。眼下を流れるヤンベタップ川。熱湯が噴き出す地獄谷の湯気下山途中のリンドウ群生ようやくヤンベ分岐に辿りつき、山荘に戻ったのは14時でした。通常なら4時間の周回コースを30分遅れで回ったことになります。早く歩けないから遅れるのは当然ですが、大休止を全く取らず、小休止だけで歩き切った母ちゃんのガッツに拍手です。女の一念はすごいなぁ。そういえば、子どもの頃、母親から「女の一念岩をも徹す、男の一念屁たれて終わる、という諺がおます。そやから、男はよっぽど気甲斐性を持たな成功でけしまへん」とよく説教されたものです。とはいえ、岩だらけの急坂が膝にダメージを与えたのは間違いなく、しかもかばって歩くので、脚と腰は見るからに辛そうです。山荘で昼食を摂り、14時30分のバスで大雪湖の駐車場へ。15時過ぎ、本日の宿泊地・阿寒湖に向けて出発しました。ただし、私の計算間違いで、計画では13時のバスに乗り、13時半阿寒湖へ向かうようになっていました。まあ、大勢に影響のない間違いということで…母ちゃんも許してくれました。阿寒湖畔のホテルにチェックインしたのは日没後。泥だらけのトレッキングシューズを、ホテルの駐車場で洗い、温泉より先にバイキング夕食。温泉後、母ちゃんは膝をかばってパンパンになった脚をもみほぐしてもらうためフットマッサージへ。私は部屋から夜の阿寒湖を眺めながら、3日目のスケジュールチェック。母ちゃんが戻ってきたところで、アイヌコタンの民芸店巡りにでかけましたが、冷え込みが半端ではありません。どういうわけか民家の屋根にキタキツネがいました。餌を求めてやってきたのでしょうか。フラッシュは届かないし、高感度設定でもきちんと撮影できないので、適当に切り上げました。ホテルに戻り母ちゃんの腰と脚に湿布。母ちゃんは直後にバタンQで入眠。私は温泉を楽しみ、ロビーで読書という優雅な時間を過ごしました。これが間違いだったのです。この続きは次回に。
2010年10月05日
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2日目。大雪高原(たかはら)温泉の奥にある高原湿原散策です。この場所は、高根ヶ原の地滑りによって広大な陥没地形が発生。そこに大小30個以上もの沼ができたそうです。散策と言ってもスニーカーで行けるような所ではなく、長靴かトレッキングシューズにスパッツを装着しないと歩けません。出発点となる高原温泉山荘は標高1230メートル。そこを起点に標高差250メートルのアップダウンを繰り返し、紅葉に囲まれた沼を巡っていくコースです。前日の問い合わせでは、やはり猛暑の影響で紅葉は50%くらいとのこと。地図Aの中央付近にある銀泉台は、例年なら落葉の時期ですが、今年はまだ見頃。高原か銀泉か悩み続けた結果……銀泉台はツアーのコースに入っており団体客が押し寄せるし、見頃だから一般の観光客も集中するだろう、人が数珠つなぎになって自分たちのペースで歩けないのではないか(そんな写真を見たことがあります)、まして祝日だからなお激しいことになりそうだ…という予想を立て、高原に決定しました。地図A銀泉台にしても高原湿原にしても、この時期はマイカーが規制されています。レンタカーで大雪湖畔の駐車場まで行き(地図Aの水色線)、シャトルバスに乗り換えて、未舗装の道路を30分ほど走れば目的地(地図Aの緑線)、という段取りです。前日、膝を傷めた母ちゃんはバンテリンと湿布で一晩すごし、少しは痛みが薄れたようです。朝食バイキングでお腹をいっぱいにして、いざ出発! 田舎のバスは おんぼろ車(ぐるま) タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない それでもお客さん 我慢をしているよ それは私が 美人だから 田舎のバスは おんぼろ車 デコボコ道を ガタゴト走る昔、中村メイコが歌ったコミカル歌謡「田舎のバス」を思い出しながら、舌を噛まないように口をつぐんで、ガタゴト道を耐えます。激しく振り回される胃袋から、朝食でパンに付けたイチゴジャムの匂いが上がってきました。「あ、イチゴの風味が…1舐めで2度おいしい! なんか儲けた感じや」「グリコか!?(グリコ・アーモンドキャラメルのキャッチコピーは1粒で2度おいしいでした)」「あ、味もちょっと上がってきた」「汚いこと言うんじゃないよ、馬鹿ジジイ。気持ち悪くなるでしょ!」ちなみに、窓は閉まらないのでなく、窓枠全部と後部昇降扉はガッチリとガムテープで固定されています。オンボロだからというわけではなく、土ぼこりの侵入を防止するのが主目的のようです。ヒグマ情報センターやっと高原温泉山荘前に到着。8時55分。ヒグマ情報センターで入山登録をして出発するのですが、思わぬタイムロス。センターの前には「トイレを済ませてから入山登録をしてください」の看板。私たちはトイレに用がない(ホテルで済ませてきた)ので、名簿に記入してセンター内へ。センターを通過しないと入山できないように道が作られているのです。出口扉から出ようとすると、オジサンが扉の前に立ちふさがります。「レクチャー受けてから出発してください。みんな揃うまで待ってて」根が従順な私らは、指示に従って写真など見ながら待機。オジサンは外に出て、トイレの方を見ています。どうやら、目貼りバスで到着した全員を一遍に片付ける気のようです。トイレに行っている人は、他の人たちが足止めされているとは知らないのですから、柔軟体操したり、山荘へ飲み物を買いに行ったり…。待ち切れずオジサンが居ないスキに、扉を開けて出発してしまう人もいます。センター内のヒグマ目撃情報ボード。びっしりと目撃日付が…トイレ組もやっと入室完了して、ようやく始まったレクチャーは(しつこいなぁと感じるほど)長く、懇切丁寧。短く言ってしまうと、「クマが湿原で目撃されるのは7~8月に集中するけれど、昨日も糞や食痕がされているので鈴を持つなど注意してほしい。もし遭遇した時には走りだしたり、クマを刺激しないよう。詳しくはチラシに。また周回コースの最後は急なので自信のない人は高原沼まで行って引き返すように」ということ。この日は時計回りコース指定です。この地域は羆が多く、羆が出没している時には入山禁止やコースを制限されることが多いそうで、完全周回できれば「ついてますね」と言われるほどだとも聞きました。地図B沼巡りコースは、湿原地帯に点在する沼を巡る全長8キロの道のり(地図B)。最後の沼から続く急な下りを進むか戻るかは、母ちゃんの足の具合で決めることにして出発しました。9時20分。雨が降ったわけではなく、坂道なのに泥濘があちこちにあります。長靴かスパッツ装着が奨励されている理由が分かりました。また、8月下旬の上川大雨被害で崩れた山道は、紅葉時期に合わせ復旧工事が進められたようですが、鉄砲水の激しさを物語る崩落個所が何か所も見られます。ヤンベ分岐の手前、ヤンベタップ川を渡る橋は激流に破壊され、急造の丸太組みの橋がかけられています。破壊された橋(右)、急ごしらえの丸太橋を渡る川のそばにリュックがポツンと置いてあります。心配になって、「なんやろ? 誰かコースを外れて写真でも撮りに行ったのかなぁ」「いい写真撮りたい一心で、無茶するからね」「流れ早いさかい川に入って行きよったら危ないで。戻ってこい言うて呼んでみよか?」「ホント、どこ行ったんだろうね……ねぇ、あの人じゃないの?」母ちゃんの指さす方を見ると、双眼鏡を首からかけ、腕章を巻いた男性が、岩の上に立って周囲に注意を払っています。「なんや監視員のオッチャンやんか」このあとも、要所要所に情報センターの監視員が配置され、コースを移動しながら案内とヒグマ監視を行ってくれていました。ご苦労様です。ヤンベ分岐から続く急な登りをクリアすると、眼前には紅葉した木々が…。土俵沼、ばしょう沼、続いて見えるくるのは滝見沼…それぞれの形に鮮やかな紅葉をまとっています。50%くらいと言いますが、山肌を染め、水面に映える紅葉と緑濃い木々のコントラストは、私たちを感動させずにはおきません。土俵沼ばしょう沼滝見沼そしてコース序盤最大の緑沼。最初の休憩ポイントです。ヒグマと山火事対策のため(と思われる)、コース中、食事をしても良い沼は緑沼とコースの真ん中あたりの大学沼だけ。それ以外はコンロで湯を沸かすことさえ禁じられています。緑沼小休止の後、母ちゃんの膝をチェックしてコース中盤へ。続きます。
2010年10月03日
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11時前、層雲峡の黒岳ロープウェイ駅に到着しました。層雲峡の気温は8℃。朝5時5分初冠雪を記録したので、ひどく(現地の言葉で、なまら)冷え込んでいます。天気予報では、11時から15時は雲が広がり風が強まるとのこと。体感気温は一体何度になるのだろうと案じつつ、防寒防風対策をしてロープウェイに乗りました。今回の大雪山系紅葉トレッキングは、母ちゃんの熱烈希望なのですが、当人は1週間ほど前から腰と膝の痛みを訴えていました。大丈夫か? ダイジョーV! ということで、無理は避け、7合目までリフトのある黒岳(1984メートル)に決定したのです。猛暑の影響で紅葉が1週間ほど遅れ、ロープウェイ終点の5合目はまだ緑が多く、リフトが高度を上げるにつれて紅葉が広がっていきます。リフト終点で入山登録して、いよいよ歩き始めました。平日のせいでしょうか、登山客はまばら。ゆっくり登って行けそうです。7合目のリフト駅付近。ここまで紅葉が降りてきた7合目から山頂までは標高差460メートル、距離1.7キロメートル。60分から80分の行程になります。登山道はきちんと整備され角材で階段が続きます。地図の等高線でも明らかなように相当の急坂ですから、階段の大きな段差が膝痛にはきついのです。階段のない(崩れた)箇所は、道を塞ぐ大岩をかわして登りますが、これも母ちゃんの膝にジワジワとダメージを与えます。厳しい登山道。整備された階段の段差が膝にはキツイ低く濃い雲が次々と山頂をかすめ、青空を隠していきます。急坂をよじる私たちの体温は上がっているはずですが、風は寒く気温は下がり続け全然汗をかきません。8合目の鮮やかな紅葉。全体的に色が薄いと感じる8合目、9合目と高度を稼ぐにつれ、紅葉が眼前に広がります。濃い雲の切れ間から差し込む光に映える紅葉、でも色彩に鮮やかさが足りないように思います。奇観・招き岩が近づき、いよいよ頂上は間近です。下山して来た登山客が「もう少しだよ。でも頂上は寒くて我慢できないですよ」と声をかけてくれました。9合目から見た紅葉山頂は1本の草もなく、岩石だらけの荒涼とした風景。猛烈な風が吹き荒れて、ガタイの良い私たちさえ立って居られないほどです。温度計はマイナス1℃。尋常でない寒気が襲いかかり体温を奪っていきます。大急ぎでヤッケを着こみました。改めて周囲を見回すと、強風が初冠雪を吹き飛ばし岩陰に雪が残っている程度。烏帽子岳など周囲の山には紅葉が広がり、ところどころに万年雪が見えます。ひとしきり山頂からの景観を楽しんで早々に撤収することにしました。とても山頂で昼食を摂る状況ではありません。山頂から烏帽子岳方面を望む。万年雪、紅葉、緑の色彩がきれい急坂を下り始めて間もなく、母ちゃんの膝の痛みがひどくなりました。登山用膝サポーターで膝まわりを固定し痛みを和らげます。段差の大きな箇所は、手を添えるか肩に掴まらせ慎重に下りて行きます。今日は層雲峡のホテルで泊まりますから、予定時間がずれても全く支障がありません。ゆっくりゆっくり、ゆっくりゆっくり…。5合目から望む黒岳。ガスが切れて紅葉が見える最初のスケジュールでは15時にロープウェイのふもと駅に戻る予定でしたが、1時間遅れの16時到着になりました。ホテルに入る前にラーメンを食べて、冷え切った体を温めました。この日のホテルは、層雲峡氷瀑祭のときお世話になったマウントビューホテル。温泉三昧で2日目に備えました。母ちゃんの膝の痛みが取れますように!高原沼巡りに続きます。
2010年09月29日
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今日は朝から ひどい雨ふり道は川のようけれど私の胸は 何故かふくらむ楽しい思いどうして1年に一度しか来ない私のうれしい誕生日ロシア民謡にある誕生日の歌。若いお嬢さんが雨のなか傘をクルクル回しながら歌う様子が目に浮かびます。私のようなジジイに似つかわしくない歌ですが、63歳を迎え、ちょっとこんな気分です。母ちゃんとの約束ではあと32年生きるのですから、毎年こんな気分で誕生日を迎えられたらと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今年の誕生日プレゼントは北海道旅行。といっても運転するのはずっと私ですから、決して楽ではありませんが、そこは「母ちゃんがボケ防止のために訓練してくれてるんだ」と無理やり思い込んで頑張りましょう。遅ればせの夏休みを取らせてもらい、22日から25日の3泊4日の行程です。1日目は朝一番の飛行機で羽田から旭川空港へ。レンタカーで日本一早い紅葉を見に大雪山系をめざします。今年は猛暑の影響で1週間ほど色づきが遅れたようですが、黒岳山頂に挑みます。2日目は大雪山系の高原湿原。高低差は200メートルほどしかなく、快適な沼巡りになりそう。3日目は阿寒湖ボッケ、オンネトーと裏摩周の神の子池。ロングランして斜里から知床五湖へ。最終日はヒグマウォッチングのクルージングとサケの遡上、能取湖サンゴ草など見学して女満別空港へ、という計画を立てました。朝6時前の羽田空港第2ターミナル22日朝5時半頃、羽田空港に到着。6時55分のフライトですから早すぎるのですが、これも我が家風。のんびり朝ごはんを食べて早めに保安検査(持ち物検査)を済ませるのです。万が一、交通渋滞があっても、持ち物検査で手間取っても、搭乗できるようにという、経験則からの判断です。定刻の出発。前夜もほとんど眠る時間がなかったし、到着後いきなり運転して、そのあと黒岳山頂に向かうのですから、飛行時間中が勝負。機内サービスのコーヒーを飲むこともなく爆睡しました。目覚めれば北海道。眼下に広がる美瑛の丘旭川空港に着いて、母ちゃんが最初にしたこと。北海道限定のカルビー「じゃがポックル」というポテトフライを買って、友人宅に送ること。人気商品ですぐに完売・品切れになるので、焦っているのです。お金を払って送り状を書くだけなのになかなか戻ってきません。「何してるんや、あいつは!(面と向かっては言えない言葉です)」私はレンタカーの申し込みを済ませイライラ。タバコも吸いたい、トイレも行きたい、レンタカーの営業所送迎バスも待ってるのに…。母ちゃんが、息を切らせながらドタドタ戻ってきました。「ハア、ハア…1人2個までの制限が付いて、何軒も回ったから…ああ苦しい」「アホか! 斜里に行ったら制限なしで買える店があるやろが…それに、1人2個やったら俺を呼んだら倍買えたやないか。あほんだらが!」いきなり強気の私。それくらい差し迫っていたのです、トイレが…。旭川空港。平日のせいか団体客の姿はない送迎の係員をいつまでも待たせるわけにもいかず、差し迫った欲求は抑えつけて、とにかくレンタカーの営業所へ。トイレを借りて、手続きを終えて、タバコも吸って、すっきりとした気分で、層雲峡の黒岳ロープウェイ駅までGO!秋の北海道旅行記、次回に続きます。
2010年09月27日
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仕事のバタバタで、日記も書かず、返信もせず、皆さんのブログにも訪問しない状態が続いています。禁漁間近にした栃木県・男鹿川に連続釣行。久しぶりに漁期最終日まで釣りを楽しませてもらいました。8月末 約40日ぶりに母ちゃんと2人で男鹿川に行きました。今回は日帰りです。会津の舘岩川か只見の黒谷川に行く計画を立てていましたが、帰宅したのが遅くて、毎度おなじみの男鹿川釣行となりました。水量が極端に少なくて、非常に釣りづらい流れです。チャラ瀬の好きな母ちゃんは「こんな渇水状態が私好み」とか言って嬉々としています。チャラ瀬が苦手な私は渋い顔。鮎釣りのポイントでもある三依銀座。流しても流してもハヤとチビ。母ちゃんは上流方向へ、私は下流方向へ。釣り人の姿は有りません。私の方はさっぱり良型は見ず、20センチ未満のリリースサイズばかり(15センチ以上ならキープしてもよいのですが、私は自己基準として20センチ以上と決めています)。どうにかヤマメを1匹だけキープできました。母ちゃんに合流したところ、「今日は調子いいよ。1匹バラシたけど大満足」と喜んでいます。徹底的に浅瀬狙いの釣果です。瀬を流させれば日本一の母ちゃんかもしれません。ここ数回、私の瀬の流し方がおかしいようで、オモリや目印位置を調整しても根がかり連発。自分でも理由がよくわかりません。次回は母ちゃんの瀬の攻め方を学ぼうと思います。最終的には、母ちゃんは3匹キープして満足そう。私は1匹キープでこの日は納竿。古代村で十割そばをいただいて、あっさり撤収しました。9月11日 いつも電車で男鹿川に来ている青年に同行しました。毎日の昼食や打ち合わせで利用させてもらう、会社近くの喫茶店のお兄ちゃん。河川清掃にも参加していますが、電車で来て動ける範囲しか男鹿川を知りません。母ちゃんに話したところ「一度車で同行して、別の所を体験させてあげなさいよ」との提案。彼に話すと大喜びで、今回の釣行となったのです。福島県境に近い横川地区で釣ってみたいとのこと。電車で行くと歩く距離が長すぎるので車でしか行けないポイントを、とのリクエストです。金曜日いったん帰宅して、大急ぎで食事と風呂を済ませ、大急ぎで準備して、会社へターンします。午後1時過ぎに市ヶ谷出発。首都高速から東北道経由で三依へ。約210キロ走ります。3時半、中三依温泉駅に到着。夜明けまで車内で横になりましたが眠れず、4時半過ぎには起きだして、タラタラと着替え。コンビニ・おにぎりで朝食を済ませ、横川地区へ向かいました。5時半入渓。彼はフライ・フィシング。私はいつも通りエサ釣りです。減水している川は釣りづらいですが、彼にとっては初めてのポイント。彼に先行してもらい、私が後から追いかける形にして、間隔を数百メートルあけて、釣り開始です。午前中は「小学校裏」から「男鹿川渓流会」事務所下まで。彼は丁寧にフライを流していきます。すぐに追いつきそうになってしまいます。彼はまだフッキングに慣れていないのかバラシ連続。10時半まで粘りましたが、取り込めたのは20センチくらいのイワナ1匹。3匹もばらしてしまったそうです。私の方は29センチの太ったイワナ1匹、27センチのヤマメ1匹をキープしました。産卵間近い魚は顔つきも色合いも迫力があります。どちらも歯が鋭くなっていました。あとは、20センチ未満のイワナ5匹。いずれもオレンジの腹、ピンとしたヒレ。形のそろい方、釣れた場所から、2年前に放流した稚魚ではないかと思っています。大辛大根そばの店で早めの昼食と済ませ、しばらく休憩。日が出てきてから急激に気温が上がり、2人ともいささかバテ気味です。午後は「横川集落下」から釣り始めましたが、カンカン照りで日影が全くありません。魚たちもどこに隠れたのか、クスリとも反応がありません。日照りに加えてスズメバチの偵察もあって集中力がなくなってしまいました。とにかく第4床固堤行こうと、竿をたたみ河原を歩いて溯上。Mr.モナコはちょっと熱中症のような感じで頭痛を訴え始めました。これは撤収した方が良いと判断して納竿としました。午後は釣果ゼロ。写真を間違って消去したので捌いた後の画像。すごい顔付き9月18日 禁漁前日の男鹿川に母ちゃんと入りました。急速に秋めいたこの日。じねんと倶楽部の皆さんが種まきしたそばの白い花に混じって、実を付け始めた株もあるようです。成長の早さに感心しながら入渓です。毎度おなじみの「三依銀座」。飽きることなく、いつものポイントを攻めていく母ちゃん。私はポツリポツリと拾い釣り。今日は母ちゃんより先に本流と入山沢の合流点から「おきむら」、久しぶりに「古代村下」を攻めます。いつものことながら、母ちゃん同行の釣りは朝のうちに終了します。結局、母ちゃんはハヤ三昧。キャッチ・アンド・イートのわが家は、20センチ未満のイワナ・ヤマメは当然のこと、ハヤ・ニジマス・カジカも全部リリースです。肝心のイワナは大物を2匹もバラしてしまったとのこと。ハリをこまめにチェックしないせいでしょうね。野生化しつつある放流魚と思われる。ほぼ同寸法釣るたびに違う渓流の様子、魚の居場所。だから渓流釣りは楽しい! 母ちゃんの2010年は男鹿川を堪能して無事終了しました。私もハヤをたくさん釣りましたが、22センチくらいのイワナ4匹をキープしました。私は翌日も短時間入渓。1人釣行なので普段行けないポイントへ。入山沢を奥に入りイワナ1匹をキープして撤収。最終段階で追い込んだ2010年の男鹿川釣行を無事終えました。男鹿川に関係する皆さん、来年も宜しくお願い致します。
2010年09月20日
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まずは、茅葺の古民家が保存されている宿場町「大内宿」。友人のご夫婦は初訪問ですが、私と母ちゃんにとっては「なじみの」観光地。何度も何度も訪れるのは、居心地の良さと「味噌」。母ちゃんの気に入りの会津味噌を買いに南会津までやってくるのです。朝のうちは駐車場待ちの渋滞もなく、宿場内も比較的すいています。午前11時を過ぎると、車が一気に増え渋滞が始まるのです。午後になると観光バスも集結してきますから、何キロもの列ができる人気の観光地。「早起きは3文の得」です。ほとんどすべての家が民宿を営む(元々宿場町ですから当たり前と言えば当たり前)かたわら、土産物を販売しています。また、民宿・土産物に加え蕎麦を食べさせる家も数多くあります。飛騨高山の三之町も古い街並み保存地区ですが、ほとんどすべてが土産物を商っていますから、大内宿で何を売ろうと勝手なのですが、茅葺屋根の景観と商魂のたくましさは、どこか違和感を覚えます。とはいえ、「大内宿」の景観は心を和ませます。山の中ですから都会と違って気温も多少は低いですが、それでも昼ごろには30℃を超える気温になります。都会と違うのはアスファルトの舗装道路ではないこと。緑に囲まれているうえ、道路の表面温度が抑えられ、照り返しが少ないため、宿場町内を吹き渡る風は心地いいのです。したがって、各店にはクーラーがありません。クーラーがなくても涼しいので、若鳥のせいろ蒸しを注文東京は全ての道路がアスファルト舗装されていて、夏の日中など地表温度は60℃を超え、さらにエアコンの熱交換器から吐き出される熱風と、街を覆いかぶさる総ガラス張りのようなビル群が「ヒートアイランド」現象を引き起こしています。そんな中を、半そで下着+長袖ワイシャツ+上下スーツを着て歩いている私にすれば、クーラーなしで暮らせる生活は本当にうらやましいものです。到着早々、一本ねぎそばを食べ、そのあとはご夫婦と別行動。とはいっても、狭い宿場内ですから一軒一軒店をのぞいているのが分かります。何度も来ている母ちゃんも一軒一軒見て歩いています。私は、とりたてて見たい物もないのでぶらりぶらり散策するだけ。以下の写真は大内宿点描。日差しを避けて花の中に身を隠すカエル茅葺の軒下に寛ぐツバメのカップル店頭の窯焼きパン見本に惹かれて飛んできたスズメ秋の足音。季節の移ろいを告げる花ばなせせらぎで冷やされる野菜たち大内宿から那須経由で塩原に向かうことに。すでに駐車場待ちの渋滞が長く伸びています。ご苦労様です。奇岩の景勝地「塔のへつり」にも寄りました。奥さんにとってはこちらも初めて。楽しそうに揺れる吊り橋を渡っていました。「塔のへつり」については、以前書いたブログを参照してください。那須到着。私がとにかく苦手なパターゴルフをやるというのですが、その前に史跡・「殺生石」に立ち寄り。800年ほど前、中国からやってきた九尾の狐が「玉藻の前」と名乗って朝廷につかえ、災いをもたらしていました。正体を見破られ那須まで逃げたところで退治されますが、死後も毒気を発する石になって人畜に害を与えていました。偉い坊様が狐の怨念を封じ込め毒気を出せなくしたと伝えられる大石があります。なにやら不気味な風景が広がる史跡でした。夜は塩原夏祭りの花火大会、花火が温泉地裏の山に打ち上げられます。小規模ではありますが、夏祭りを盛り上げていました。
2010年09月05日
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栃木と福島の県境に端を発する男鹿川。三依地区あたりの流れは初心者が渓流釣りデビューするのにピッタリ。ボサや木の枝に大して煩わされることもない明るく開けた釣り場で、大岩などは少ないけれど、瀬や淵やトロ場などキャスティング(振り込み)や流し方、食わせポイントの見極めを練習しやすい渓相が連なっています。しかも、中三依駅はじめトイレも整備されていて女性も安心して入渓できる好ポイントです。これまで男鹿川の支流・入山沢にある管理釣り場にしか行かなかったご夫婦が、本当の渓流釣りをやりたいと言いだしました。内心「1日つぶれるなぁ」と思いつつも、渓流デビューを果たしたいというのは大歓迎。男鹿川・三依地区への釣行を計画しました。ご夫婦とも何も持っていませんから、ウェダーとタモ、エサ箱は自分たちで買ってもらいます。これらは釣り具屋に同行して最安値のモノを購入しました。年に1~2回しか行けないだろうからという配慮。竿、仕掛けほかは私が予備を持っているのでそれを使ってもらうようにしました。デビューの1週間前、2人に渓流釣り入門のビデオを見せて、渓流釣りの注意点を学習してもらい、仕掛けの結び方を練習してもらいました。あとは現地で復習し、竿の操作を練習するしかありません。渋滞が予想されるので早めに塩原へ。この日は、ペルセウス座流星群の極大日。新月なので観測には最適な条件です。幸い、雲もなく天の川が淡く横たわっています。「釣りの前に流星見に行くか?」とご夫婦に尋ねると「見たい!」と二つ返事。1時間半くらい仮眠して起床し、天体ショーツアーに出かけました。塩原から川治温泉まで続く紅葉ライン途中の山道に車を止め、空を見上げると星座がわからないほどの星がきらめいています。ゆっくりと夜空を横切っていく人工衛星も見えます。30分ほどの観察でしたが、たくさんの流星を見ることができました。長く尾を引いて流星痕を残すほどの大きなものもありました。「すばらしいね。あんなにくっきり流れていたんだから願い事出来たでしょ」「全然まにあわないよ」などと話しながら男鹿川に向かいました。装備をして、三依銀座の入渓ポイントへ。右肩の写真は初めてのウェダースーツを着てはしゃぐ奥さん。竿の伸ばし方・仕舞い方、仕掛けの出し方・巻き取り方を説明し、実際仕掛けを結んでもらいました。老眼の出始めているご主人は、細い透明のハリスがなかなか結べず、ヒステリー気味。ようやく結び終えて、振り込み(投餌)~流し方の練習に入ります。予期せぬ事態発生。何度練習しても奥さんは仕掛けを飛ばせません。いろいろとやり方を変えてみますが、手前に落ちたり、飛んだと思ったら仕掛けが絡まったり…。1時間以上も練習して、それなりに飛ぶようになったので、次に流し方の練習です。どこに投げるか? 水深はどうやれば分かるのか?など質問を受けながら何度も何度も練習。私がどのように振り込み、流し・取り込みの動作をやるか見本を示します。オモリが着水したら、竿を少し寝かせて仕掛けを送り込みながら位置調整。竿を立てて一番下の目印が水面から10センチ程度上をキープする。竿を無理に操作してラインを引っ張ったり、流れを横切らせたりしない…などアドバイスをしながら、実際に釣ってもらいます。ポイントの見極めは簡単にはいきませんから、あそこに投げてこちらの岩あたりで食わせるように…など指示しながらですが、思うようには流せません。私たち自身、渓流を始めたころにはそんな感じでしたから、仕方ありません。母ちゃんはガイド役。彼女自身が「怖がり」ですから、初心者にムリさせる心配はありません。安全に移動できるルートで釣り上がって行きました。渓流デビューのご夫婦が実釣した瀬から淵への落ち込み(携帯電話のカメラ)私は、しばし休憩のあと、彼らの初挑戦の邪魔にならないよう、芹沢方向へ釣り下がって、ポツポツと拾い釣りを楽しみました。初めての渓流、長い時間は疲れるだけなので、早々に撤収しましたが、それでも母ちゃんにとっては、いつもより長い時間入渓していたことになります。釣果は、ご主人がチビヤマメ2、チビイワナ1、ハヤ1、カジカ1。奥さんはイワナ1でした。それでも「すごく楽しい! また来たい」とのこと。天体ショーを楽しみ、三依の自然に囲まれて男鹿川のさわやかな風を感じ、心癒されたことでしょう。おふたりとも思い切りヘタですが、また案内しようと思います。ついでながら、2日目は大内宿から那須方面の観光で、朝8時30分に塩原を出発する計画。私は夜明け前に起きて、昨日彼らが苦戦したポイントに独りで出かけました。7時30分には塩原に戻らなくてはいけないので、実質90分間のリベンジ釣行ですが、それでも行くところが「釣りキチ」の因果。結果は、体高のあるヤマメとやせ気味のイワナ。3匹目を狙いましたが90分はあっという間に過ぎてしまい、撤収です。
2010年08月30日
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TBS系列で放送されている「みのもんたの朝ズバッ!」は朝の人気番組。わが家も、朝のテレビはTBSと決めているようです(見ているわけではなく、ただ点いているだけですが…)。今朝も出勤前のバタバタの最中、テレビ画面に大きな馬が映し出され「ばんえい競馬」「リストラ直前」という声が聞こえてきました。13歳のオジサン馬(人間なら50歳代後半)が、馬肉にされる直前「ばんえい競馬」に復帰して活躍しているという話題。まず頭をよぎったのは北海道の「blackberry2」さん。センスの良いブログで楽しませてくれる、馬と酒が大好きな素敵な女性(お会いしたことはありませんので…イメージ)のこと。見てるかな? TBS系列の北海道放送でも放送されているはずですが、気になって途中から録画しました。私自身、中年どころか「ジイジ」もしく「ジジイ」と陰口をたたかれる年齢ですが、人間であれ馬であれ、オヤジたちが頑張っている姿には感動します。出勤の支度も止めてテレビの前にドッカリ。頭の中では、ファンキーモンキーベイビーズの歌うオヤジたちへの応援歌「ヒーロー」まで流れ始めました。「blackberry2 」さんと一方的にコラボして、オジさん馬の「ばんえい競馬」での活躍を紹介します。写真はすべて番組の映像から拾いました。走りにムラがあるためイマイチ冴えなかったゴールデンバージ(1997年生まれ。99年ばんえい競馬デビュー。204戦32勝)は、2008年6月のレースを最後に「ばんえい競馬」から遠ざかり、2009年登録抹消。草競馬でなんとか走っていたものの、「もう限界、馬肉にするしかない」と思われていた、オン年13歳のオジサン馬です。それを救ったのは調教師の山田さん。挽馬として訓練を始めると、眠っていた才能が目覚めたのか、2年間の「休養」が効いたのか、メキメキと力を付け、オジサンとは思えないくらいのパワーを発揮しはじめました。「ばんえい競馬」は直線200メートル、重さ1トンのオモリを載せたソリを挽いて走る競技。途中に設けられた丘状の障害を越えるのに馬も騎手も力を振り絞ります。挽馬に求められる能力は力強さと粘り強さなのです。復帰第1戦。独走するゴールデンバージ号今年7月に競走馬検定に合格して、異例の再登録。7月19日帯広の「ばんえい十勝」第6レースに出場しました。先行の馬が障害で苦しんでいる間にオジサン馬「ゴールデンバージ」は一気に障害を乗り越えて独走。2着に10秒以上の大差をつけて復帰第1戦を飾りました。一説には「馬肉にされるのが怖かったから」とも。馬も「死ぬ気でやれば何でもできる」のでしょうか?7月25日の第2戦は、ちょっと気が緩んだのか、第1戦の疲れが抜けなかったのか、5着と振るいませんでしたが、8月15日の復帰第3戦はまたもパワーの違いを見せつけるレースになりました。復帰第2戦。疲れが出たか? 5着でゴール第4レース。第1コースのオジサンは、勢いよく飛び出し第1の障害を先頭で越えます。そのあとは歩いたり止まったり。第2の障害前では完全に止まって脇見なんかしています。大丈夫か? ほかの馬たちは次々と障害を越えて最後の直線に入っていきます。復帰第3戦。他の馬は障害を越えたぞ、大丈夫か? 第1コースがオジサン馬先頭の2頭は直線で競り合っている。オジサンはまだ追いついてこない相手に優越感を与える老練らしい作戦か、溜めていたパワーを爆発させるように、いきなり障害に挑み軽々と越えました。先行の馬たちは鞭を入れられてもソリの重さでスピードが上がりません。まさにソリと格闘している状態。後方から突進してきたオジサンは、1トンのソリをものともせず脚を高く上げ走っています。ゴール手前で一気に抜き去り、見事1着!! 猛然と突っ込んでくるオジサン馬あっという間に先行2頭を追い越し、そのままゴール山田調教師をして「13歳と思えないパワー。どこにそんな力が残っていたのか不思議だ」と言わしめるオジサンのパワー!! 自分が走ったわけでもないのに「どうだ!」と鼻の穴を膨らませて胸を張る私。ゴールデンバージの頑張りに、会場に来ていた中高年たちは大喜び。競馬場のショッピングモールでは早速「中年の星・ゴールデンバージ」にちなんだ商品開発し、売り出すとのことでした。人気急上昇のオジサンは、21日ばんえい十勝12レースに出場(前のレースと近すぎないか? 年を取ると疲れが抜けないんだよ!)、22日の日曜日は積丹半島の付け根にある共和町「かかし祭り」のばんば競技に招かれたとのこと。また23日には武豊騎手がとかちばんえい競馬場のイベントに出席し、「中年の星」に対面すると伝えられています(この日、オジサンはレースに出ません)。競馬について全く知識はありませんが、オジサン馬からパワーをもらいすっかりテンションの上がった私。「会社の若僧ども待っとれよ!」と、自転車のギアを6段目にセットして駅まで突っ走った私でありました。
2010年08月19日
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またしても遅ればせの日記。7月の3連休、引っ越しでけっこうボロボロになった体を癒しに、母ちゃんと栃木県・塩原温泉にある会社の保養所に行ってきました。私たちの渓流釣りのホームグラウンド男鹿川は、塩原から山を一つ越えた所にあります。塩原まで行くんだったら男鹿川は外せません。そこで、1日目は釣り、2日目は温泉、3日目は渋滞を避けて早々に撤収という日程にしました。三依への入口にあたる五十里湖。手前の鉄橋は野岩鉄道。奥のトンネルは西会津街道翌日に渓流釣り大会を控えた男鹿川。母ちゃんが安心して入れるポイントは釣り大会のメイン会場になるので、いつ大会用の放流をするのか気にしながらの釣行です。確か放流は夕方のはず。私たちは朝のうち釣って短時間でおしまいの釣行パターンですから気にする必要もないのですが「放流後は釣り禁止」ですから何となく気ぜわしい釣りになりました。川は増水気味で流れが速く、餌を沈めるのに苦労する状態です。引っ越しで痛めた膝が気になりますが、何ともあれ入渓。「まるみの湯」を起点に、私は芹沢方向へ釣り下がり、母ちゃんは古代村方向へ釣り上がります。カチンカチンに冷凍されたイワナ・ヤマメたち流れが速すぎるときは、岸際のたるみ、巻き返しを丁寧に探るしかありません。少し大きなたるみはチビヤマメの溜まり場。ちょっと流し方を間違えると猛攻を受け、みるみる餌がなくなります。丁寧に針を抜いてやらないとリリースしても生き残れません。だから、えらく手間がかかるのです。やめてくれ~! 27センチのイワナを筆頭に3匹キープしたところでUターン。芹沢橋まで行くつもりが増水に阻まれて身動きとれなくなったのです。「まあ、ええわ」とあっさり諦めます。釣りに命をかけるわけにはいきません。戻る途中、流れの中で膝を支えきれなくなり、思わず膝をついて腰まで水につかってしまった私。服もずぶ濡れです。と、携帯が鳴りました。母ちゃんが「いまどこ? 前に進めなくて困ってる!」。何が起こったのか、理由も聞かず「すぐに行く! とにかくその場で待ってろ」と強引に川を遡行して母ちゃんのところへ。くだらない理由です。木の枝が大きく垂れて、しかも背の高い草が茫々、怖くて前に進めない、とのこと。おいおい、それだけで俺を呼んだのか!「後ろ付いといで」と、私は草を分けて前進。後ろから母ちゃんが恐る恐る付いてきます。「しゃ~ないなあ。こんな草くらいどうってことないやろ」ようやく落ち着いた母ちゃん。「大きなイワナ、タモにすくい上げる手前でバラした」と悔しそう。母ちゃんのほうもチビヤマメの猛攻を受けているそうです。そのあとは2人そろって支流・入山沢と男鹿川本流の合流点まで釣り上がっていきました。相変わらずチビの猛攻を受けながらも、母ちゃんはきれいなイワナを1匹キープ。私は合流点上流の「オキムラ」まで拾い釣り。3匹を追加して6匹という結果でした。餌がすっかりなくなってしまいましたが、チビたちにさんざん遊んでもらえたので、母ちゃんは大喜び、私も増水の中まずまずの結果で納得でした。「あけび」入口。趣ある門構えに期待が高まる男鹿川は川治温泉付近で鬼怒川に合流し、渓谷美で名高い龍王峡を経て、鬼怒川温泉郷に至ります。付近には東武ワールドスクウェア、日光江戸村など全国的に有名なレジャー施設が点在しています。それらレジャーランドに近い鬼怒川沿いにある日帰り温泉施設「あけび」。全10棟の離れ屋になった個室が人気を呼んでいます。家族連れ、カップルにとってはありがたい施設です。入口は国道沿いですが、和風の趣あるたたずまい。受付・休憩所も凝った造りで、個室への期待が高まります。鍵を渡され部屋に向かいますが、コテージ風の建物(小屋)が並んでいます。受付奥の休憩所。これまた凝ったレイアウト部屋に入ると和風インテリアで統一され、檜の浴槽は木々の緑に囲まれて、いい雰囲気を醸し出しています。部屋には湯沸かしポットと持ち込み用冷蔵庫はありますが、お茶はじめ飲み物は一切ありません。また、部屋にあるのはバスタオルだけで、自分でタオルや湯上りの浴衣あるいはジャージなども用意しなくてはなりません。籐のソファーで少し寛いで、さっそくお風呂へ。浴槽は半露天の檜風呂と露天の陶製浴槽がありました。温泉は温めで長い時間入っていられます。体が温まると、鬼怒川を吹き渡る風でクールダウンして、また浴槽に体を沈め…この繰り返しです。階段を降りた陶製の露天は、屋根が無いので木の葉や虫が浮いていて、ちょっと入る気がしません。私が試しに入ってみました。湯温は問題ありませんが、アリが次々と浴槽の縁を登ってきます。これはちょっと・・・。木の間隠れにライン下りの舟が見えます。この肉体美が船の人から見えているんではないかというくらいの近距離。あわてて浴槽に飛び込みました。自然の風景を生かした露天風呂。眼下に鬼怒川の流れ風呂からあがって、しばらくソファーで休憩。再び浴槽、これを繰り返しているうちに予定の2時間が経ってしまいました。30分刻みで料金設定されており、自分たちのスケジュールに合わせて利用できるのです。1室(何人で利用しても)1時間3600円。2時間なら5800円。高いと思うか安いと思うかは、人それぞれです。部屋にはロフトがあり布団が一組置いてありました。使っていいものかどうか分からなかったし、横になる時間も無かったので使いませんでしたが、これは湯あたりなどで気分が悪くなったとき使ってもらうために置いてあるとのこと。そう説明しておかないと営業許可下りないか?・・・建前はともかく、完全個室でどう使うかは客の勝手(店は一切関知しておりません)と、下品な想像をたくましくする私でありました。健全な私たちは温泉をたっぷり楽しんで、疲れを癒しました。
2010年08月12日
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引っ越し当日朝8時半、「アリさん」のスタッフがトラック2台に分乗して、スタッフたちがやってきました。みんな若いです。ベテランがいなくて大丈夫か?作業前に簡単なミーティング作業前に、作業員がそろった状態で搬出入と荷物の説明。作業責任者の自己紹介の後、図面を渡して家具の配置と荷物の部屋割を説明しました。部屋ごとに定めた記号が箱に大きく書いてあること。廃棄あるいはリサイクル対象家具は、それぞれ「廃棄」「リサイクル」と表示してあるので搬出しないこと。割れモノが入っている箱には大きく「割れモノ有」と表示してあること…などです。それから、スタッフが見ている前で、個別にポチ袋に入れた寸志を責任者に手渡しして、作業開始です。私はマンションに先行して、ガスの開栓立ち会い、搬入準備を始めます。といっても大したことではなく、狭い廊下に突き出ている(家具の搬入時にぶつかる危険がある)ドアノブを外し、設置に邪魔になるような小物(脚立など)を片付けました。え~っ! 1人分足りない!?元の家の方で事件が発生していました。母ちゃんが予め用意してあった(冷蔵庫はリサイクル業者が引き取りに来るまで生きています)冷たいお茶をビニール袋に入れて(全員分ひとまとめにして)責任者に渡しました。息子が母ちゃんに「1本足りないと話してたよ」と通報。見積もり段階ではスタッフ5人ということだったのですが、家具が大きくて荷物が多そうだというので6人来てくれたのです。朝みんな揃っているときに気が付けばよかったのに、私も母ちゃんも気づかず作業が始まってしまったという訳です。1人多いことに気づかない母ちゃんが「ちゃんと5人分用意したのに…」と困惑している間に、息子が(徒歩1分、駆け足30秒のところにある)自販機に走りお茶を買ってきました。事情をようやく理解した母ちゃんは、急きょポチ袋に寸志を入れ、お茶を持ってスタッフのところへ「ゴメンネ~、見積りの時5人と聞いてたので用意してなかったのよ」と素直に詫びました。スタッフに逆に気を遣わせてしまった出来事でした。「心づけ」渡すんだったら作業前筋から言えば、寸志もお茶も用意する必要はありません。でも、きつい仕事をやってもらうのですから、ホンの気持ちばかりです。ちなみに寸志は作業後ではなくて、先に全員に手渡すか、責任者にまとめて渡す場合でも個別に包みスタッフが寸志を認識できるようにしたほうが効果的です。スタッフにしても寸志がないからと手を抜くことはありませんが、作業前に渡されれば「ちゃんとやらなきゃ」という気持ちになると思います。その点「アリさん」は全員がそろって挨拶してくれますし、引っ越し代金は作業前に現金支払ですから寸志も渡しやすかったです。作業開始から3時間!10時30分、マンション5階への搬入開始。まずは大型家具が運び込まれます。配置図と床のマーキングに従ってスタッフがどんどん置いていきます。私は、分割してあった本棚や洋服ダンス、テレビ台などを片っ端からボルトで接続していく係。11時30分、すべての搬入が終わりました。6人の威力はすごい! 2台のトラックに荷物が残っていないことを立ち会い確認して完了です。「さすが、手早いね。助かるよ」「ありがとうございます。荷造りがキッチリ出来ていたので短時間で終わることができました。引っ越し関係の仕事やっておられましたか」「いいや。僕の方はどうすれば段取り良く搬出入できるか考えて準備しただけ。当たり前やないの?」「中には、“自分で梱包・開梱”の契約なのに、ほとんど荷造りも整理もできていないことあるんです」「そんなんやったら、運び出すまでにエライ時間かかるん違うの? 午後の作業がずれ込んで大騒ぎやな」私らも、ここで一旦休憩。午後からの開梱作業に備え、昼食はちょっと豪勢に「大盛りうなぎ丼」です。夕方までに全部開梱午後1時、開梱作業スタート。母ちゃんは“わ”印の荷物。息子は“ゆ”印。私は“L”印をさばきます。本は、ほぼジャンル分けしてありますから整理しながら(並べるというよりも)ビッシリ詰めていきます。息子の部屋は「フィギア(要は人形)」が多くて開梱できない箱がいくつかありますが、いつになく頑張って片付けています。私と母ちゃんは夕方までに全部の段ボールを開梱し、所定の場所に収納できました。後はこまごまと収納を調整し、午後9時1日目の作業終了です。え~っ! 今度は1個多い!?2日目は、「粗大ゴミの直接持ち込み」と元の家の引き渡し清掃。母ちゃんの兄貴に手伝ってもらって大型ゴミ20個をトラックで受付場所まで運びこみます。現地では係の人が、私の本人確認をして、OKならトラックを荷受けに誘導します。私たちが下す順に申し込んだモノかどうか1点ずつチェックしていきます。順調に荷下ろしが進み、最後の1点。「あれ、もう20点下ろしたけど、まだありますねぇ」「おかしいな、積むときにちゃんと数えたんですけどねぇ。間違うてチェックしてはりませんか?」親切な人で、そうかなあ、と全部照合しなおしてくれました。「やっぱり、21個になってしまうなぁ」「そうでっか、どないしたらエエですか? 持ち帰りですか」「いや、近くのコンビニで300円の処理券買ってきてくれればいいですよ」「ああよかった」昨日と言い、今日と言い、数も数えられないほど疲れてるのかなぁ。掃除のことならプロ並みですよあとは掃除。粗大ゴミ搬入中に、母ちゃんと息子が頑張ってくれていましたが、真打登場。私は掃除にかけてはちょっとうるさいのです。若いころの経験が生きています。夕方までにはベランダ洗浄も完了。新居に帰宅して、こまごまとした(これがエラク時間のかかる作業)位置調整や収納変更を行い、第2日を終了。電気・工作のことなら見習い程度かな?3日目。ちょっとゆっくり目のスタート。この日が引っ越し最終日です。母ちゃんは、引き続きこまごま整理整頓。自分の部屋だけやればいい息子は、ベッドの位置など大々的なレイアウト変更をして、搬入時に逆戻り。私は、全体の配置と荷物が落ち着くまで保留してあった新規購入品の組立て・加工・取付けと電気工事・配線、ネットの立ち上げなど。LANケーブル息子の部屋はLANケーブルで接続すると天井裏を通す大がかりな工事が必要。私のデスクトップは有線、母ちゃんのはどちらもOK、息子のは無線LANということになりました。ケーブルテレビに対抗! マルチアンテナ設置テレビ関係。足立ケーブルとマンションが契約しているため、すでに地デジ対応はすんでいましたが、問題はBSデジタル。ケーブルテレビとの個別契約が必要で、しかも、わが家にとっては必要もない多チャンネルと抱き合わせ契約以外設定されていません。5000円もかかります。独自にアンテナを立てることに。アンテナは以前から使っていた(スカパーからもらった?)BS・スカパー・CS110℃対応のマルチアンテナなので、衛星からの電波をうまく調整できればGOOD。エアコンのパイプ穴を利用して屋内に引き込み、テレビ・ブルーレイデッキ・DVDデッキ・スカパーチューナーを接続。受信レベルを調整します。ベランダ照明、24時間風呂、冷凍庫母ちゃんもフルタイム働いていますから、洗濯物は夜干すことがほとんど。暗がりの中で洗濯物を干させるのはかわいそうなので、ベランダに照明器具を取り付けます。風呂場の24時間風呂配線。水(湯)がかかりますから何より注意するのが漏電(素っ裸で感電死はイヤですから)。もともと漏電遮断器の付いた丈夫な電線ですが、それをモール(電線カバー)で覆い、しかも隙間にはシリコンを注入して水分の侵入を防止します。さらに最後はドアの隙間から浴室外に出しますが、当然アルミサッシのドアと干渉するので、それを調節しなくてはなりません。狭くなったため、釣魚や冷凍食品を保存する冷凍庫はベランダに置くしかありません。表面をキャンプで使うクッション断熱材で保護して、電源を室内から取ります。さらに、予め室内に這わせてあった電線を、モールやインシュロック(結束バンド)で固定していきます。転倒! 右膝が…テレビ台からプリンター・PC台までの背面は、特にケーブルと電線が固まっている箇所。それらの整理と結束をしている最中に事件が起こりました。家具の隙間からリビング側に移動しようとケーブルを跨いだとたん大転倒。ズボンのすそに付いているファスナーが電線にひっかかったのです。真正面から倒れた際、右膝が床に激突してしまいました。しばらくは起き上がることもできませんでした。サッカー選手なら、床の上を転がりまくってアピールするのでしょうが、私の場合は、黙って床に転がっているだけ。膝を見てみると、うっすら出血していますが、作業に支障はないようです。ジャージに履き替えて作業再開しましたが、膝が徐々に腫れはじめ、内出血が広がってきました。(痛い!)と心の中で叫びながらとにかく作業を終えました。と思いきや、どこへやら外出していた息子が「手伝って!」と、1階エントランスのインターフォンからSOS。「IKEYA」まで組立式ガラスケースを買いに行っていたのです。最後の最後にガラスケース組立「ワンピース」というテレビアニメのキャラクター人形(フィギア)を飾るため、息子が買ってきた4台のガラスケース組立が最後の仕事になりました。高さ150センチ、間口・奥行35センチほどですが、ガラスというのは意外に重いもので、傷めた膝にはかなりの負担。それでも放置しておくわけにはいかず、作業開始です。締め付けすぎるとガラスは大きく湾曲し割れてしまいます。締めなければ緩んでしまいます。「なんで最終日の夜になってからこんなことやってんねん」と息子にぼやきながらも、高さ調整し転倒防止ベルトを装着して予定作業および想定外作業をすべて終了。それにしても膝が痛い。夜10時。近くの和食ファミレスで、ささやかな慰労会をやって、翌日の出勤に備えました。頑丈な骨。でも痛い翌朝、目覚めてびっくり。右膝周辺から足首まで内出血と水が溜まって、パンパンに腫れあがり、歩くのもつらい状態に。近くの整形外科に行って診てもらったところ、「膝の皿にひびが入っているかもしれない」と言われビックリ。レントゲン撮影の結果、「骨は異常なし。軟骨組織もOK。頑丈な骨でよかったねぇ」と医師が言います。その言い方に、妙にイラッとして「いいえ、去年の春スキーで左膝関節折りましたから」と訳の分からない主張をしてしまいました。診断の結果、衝撃によって内出血と水が出てきたうえ、擦り傷になっていた部分から細菌が入り化膿しはじめているとのこと。治療は、傷周辺の消毒と軟膏塗布、抗生物質服用。化膿が収まるまでシップは貼らず、氷などで冷やし、血と水は自然に排泄されるのを待つようにとのこと。その日は会社を休み、翌日から包帯と冷感ベルトで冷やしながら出勤。夕方くらいになると膝から下がむくみ、靴が脱げないくらい腫れるのが1週間ほど続きました。負傷から2週間で渓流に入り釣りをやりましたが、負傷から1カ月たった今も、右膝を硬い床(フローリングなど)につけると、飛び上がるような痛みがあります。とはいえ、頑丈な体に産んでくれた、今は亡き母親に感謝です。
2010年08月05日
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歌舞伎町を有する新宿区を抑えて、昨年まで「刑事犯罪ワースト1」の座を守り続けた足立区。芸術大学が来てくれるまで大学が1つもなかった足立区。23区の辺境・足立区は文化都市への変身をかけてさまざまに振興策をとっていますが、30年以上も前から行っている大イベントがあります。「足立の花火」は今年で32回目。12000発の打ち上げ花火が荒川河川敷で打ち上げられます。60万人近い観客が土手を埋め、この日は北千住~会場周辺は大渋滞が起こります。母ちゃんが初めて撮影した、愛情いっぱいの花火写真息子は友人たちと会場まで行って見物。母ちゃんはたいてい自宅から。私は仕事。昨年までは自宅近くの道路からチラチラ見ていた母ちゃん。今年はマンションのベランダから見えるので大喜び。花火見物とは縁のない私にも見せてやりたいと、初めてデジカメで花火撮影に挑戦しました。ご存じのように、花火撮影は撮影モードの設定とカメラの固定が肝心です。夜間撮影モードにして(ほんとは花火モードもあるのですが)ベランダの手すりにカメラを押しつけて撮影してくれました。風が強くて、ベランダの強化ガラス手すりが揺れ、なかなか苦労したようです。それでも50枚以上撮影しました。火花がギザギザになっているブレ写真帰宅して見せてもらいましたが、ほとんどはブレブレの写真。シャッターのタイミングが合わず何も写っていないのもあります。ブレの目立たないのはわずかに2枚。でも、その心遣いが嬉しいので緊急ブログアップします。ちなみに、隅田川の花火は音こそ盛大に聞こえますが、花火そのものは微かに見える程度。残念です。
2010年07月31日
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書籍の荷造りは瞬間芸(といっても、夜帰宅してから3日に分けての作業)で済ませましたが、大問題は家具の配置。一戸建からマンションへ引っ越すのですから、部屋数も部屋の広さも違うのは当たり前で、部屋をどう使うのか、明らかに収容しきれない量の家具をどうするのか、確定しないと話は前に進みません。部屋の用途を割振りし、おおよそのレイアウトをイメージして、持って行ける家具と持って行けない家具を区別します。必要だけれど持って行けない家具については、これまでの用途を考慮し、代替家具を購入するしかありません。とはいえ、引っ越し資金に余裕があるわけではなく(旅行ばかりしてるから、イザというとき困るのです)、既存の家具を無理矢理押し込んででも使ってしまいたい訳で…。20分の1図面そうするためには、正確な配置図を作らなくてはいけません。部屋と家具をミリ単位で正確に測り、20分の1で作図。ミリは表示できませんから電卓で計算することに。家具に見立てたボール紙を図上であちこち動かし、配置を決めていきます。このときに問題になるのは天井の高さと梁・柱の出っ張り。木造家屋ではほとんど気にしなくてよいのですが、マンションではそうはいきません。耐震構造のせいか、デザイン上やむえないのか、あるいは少しでも居住面積を広げ高く売りたい建築会社の思惑か、あちこちに凹凸があってレイアウトをややこしくします。例えば、前回報告した本棚。高さが195センチと190センチ。壁際の端から並べたいのですが、カーテンボックスが低く、床から191センチ。つまり190センチの本棚から並べていかないとデッドスペースが発生してしまうのです。何とも複雑な壁面の段差。カーテンボックスと本棚の隙間は1センチまた、計算上は隙間ゼロも可能ですが、実際には隙間が発生します。それを見越して、1~2センチの余裕を持たせて位置決め。微妙すぎるところは再度寸法を測り、フローリングに直接マーキングしていきます。さらに、コードなど配線経路を確定し、搬入までに必要な部材を用意し敷設の段取りします。これで配置図が確定します。家具などの廃棄処分現在使っている家具のうち廃棄しなくてはいけないものが結構あります。寸法が合わなかった(置けない)家具。老夫婦が置いていった?の家具。マンションの寸法を合わせて母ちゃんがセットした目新しい家具と競合するもの。無用の長物になっている健康器具(例えば、ジョーバ)。さらに、大小のプランターで育てていた植物、大きな水槽で飼っていた魚たち。どれもこれも処分しなくてはなりません。まず、使えそうなものは友人たちに声をかけ、長野の友人宅にはジョーバとドウダンツツジ2本(植え替え作業付き)を押し付け、魚たちは母ちゃんの会社の水槽に転居。残る家具のうち、リサイクルの価値がありそうな両面ハッチの食器棚はショップに引き取ってもらうことに。現物確認に来てくれたスタッフは「傷もなくて良いモノなんですけどねぇ…こんなに大きいとリサイクルショップじゃ買い手がつかないんですよ~」と困惑顔。それでも母ちゃんは「タダでもいいのよ、お願い! 捨てるのは忍びないから」と。結局マンションには大きすぎる食器棚、捨てても惜しくない(それどころか、リサイクル法適用家電で処分が面倒な)冷蔵庫、洗濯機まで押し付けてしまいました。こんな時の母ちゃんの交渉力にはいつも感心させられます。寸法が合わずに買い替えた家具は、搬入時に家具屋さんに引き取ってもらいました。部屋ごとの図面、処分家具リスト、日程表、寸法測定残りをどうする?自治体の「粗大ゴミ直接持ち込み処分制度」を利用しました。全国的に似たような制度があるようですが、足立区の場合、1世帯あたり年2回以内・年間20点まで自分で持ち込めば無料で引き取ってくれます。事前に持ち込み品を登録し、足立区民である申込者本人が行って、身分証明書を提示することが条件です。プラケースでもタンスでも、大きさに関係なくあくまで点数。搬入予約は引っ越しの翌日。母ちゃんの会社からトラックを借りて持ち込みます。オーバーした分は翌週、母ちゃんの兄貴の名義で搬入することに。母ちゃんは粗大ゴミリストを作って、リサイクル・業者引き取り・友人宅届け・粗大ゴミに分類。粗大ゴミのうち、あまり大きくない家具(プラケースなど)、大型水槽、特大プランター…最低料金(300円)で回収してもらえるものは清掃局に依頼します。直接持ち込みにするのは大きな家具のほうが経済的です。解体して通常の不燃・可燃ゴミとするものを決めていきます。解体の力技は当然私の仕事。例えば、カラーボックスは木ネジを外しごみ袋の入る大きさに切って可燃ゴミ。パイプハンガーはビスを抜きパイプ全てを40センチくらいに切断して不燃ゴミ。これで、粗大ゴミの特定と処分方法が決まりました。荷物の事前搬入・セッティング次に、新規購入した家具の受領・セッティング、あるいは組み立て。さらに、引っ越し業者さんに任せるには気の毒な変則的な形の(段ボール箱が閉じられない)もの、絶対に壊れてはいけない(破損して保険で賠償されても再入手不可能な)もの、早く持ち込んでも収納できるもの、電気・PC関係で家具をセットする前に配線など完了させたいもの――などの事前搬入とセッティング。これは近くの引っ越しだからできるのですが、私の限界は片道1時間くらいです。筋から言えば、どんなものであろうと運ぶのが引っ越し業者の仕事なのでしょうが、私の考えは違います。不完全な梱包や荷物の未整理などで搬出作業を中断させたり、作業員に余計なストレスを与えない、当日はできるだけ段取り良く積み込んで、短時間で運び込めるようにするのも、引っ越しをうまくやる秘訣だと思っています。私たちが依頼した「アリさん」は評判のいい引っ越し業者で、事前に十分梱包できていないものやテレビなどケーブル処理も嫌な顔ひとつしないでやってくれます(母ちゃんの兄弟もアリさんで経験済み)。家具はすべて拭きあげてから搬出してくれるというのです。しかしながら、私としては、埃や汚れの付いた家具や搬送中に分解してしまいそうな家具を運ばせるのは失礼だと思っています。中身を出し終えた家具は自分で埃を取り、拭きあげて、棚板などは全部はずして結束し、動かないように固定する、気が付いた傷み箇所(あるいはネジの緩んだ箇所)は補修する…を心がけています。また、タンス、本棚、テレビ台のように大型で、上下左右に分割できるものは、引っ越し前夜すべて分割しておき、テレビ・PCなどケーブルも前夜には全部はずし、当日は作業員が家具養生~搬出~搬入に徹せられるようにしておくべきだと考えています。言うまでもありませんが、老人家族、母子家庭などの場合は業者さんにすべてお任せたほうがいいかもしれません。家とマンションの間を何往復したでしょうか? ガタンガタンと音が出るので、マンションのほうは休日の昼間に作業して、平日の夜はひたすら梱包(それもできるだけきれいな荷姿になるように)、家具分割・清掃。梱包のすべてに搬入先の部屋と内容を詳しく書いていきます。直接書けないものは養生テープを貼って記入する、大きい家具は配置図面に書き込み、業者さんにもコピーを渡す。そうすることで、搬入作業がスムーズに終わり、しかも開梱がすごく楽になります。準備はすべて整いました。いよいよ引っ越し本番です。
2010年07月29日
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深夜の荘厳な生命ドラマ。引っ越し騒動記に割り込みます。地元のタクシー運転手でさえ正式名称も知らない、自宅マンション前の小さな公園。午前1時、帰宅した息子からの情報を受け、カメラを抱え出動しました。息子の言うとおり、公園のコンクリートのフェンスに、セミがたくさん張り付いています。公園入り口のコンクリート塀で羽化進行中羽化が終わり翅の乾燥を待つ一般に日本のセミの幼虫は地中で6~7年間過ごし、晴れた夏の夕方から地上に移動して木の幹などで羽化。外敵の少ない時間帯に翅を乾燥させ、夜明けには元気に飛び立ちます。都会の公園で繰り広げられる深夜の生命ドラマ公園内に入って行きました。サクラにまじって植えられているナラの木の周辺に、幼虫が這い出た穴がたくさんあいています。幹を這い上る幼虫、静止して羽化のタイミングを待つもの、背を割って羽化を始めているもの、羽を伸ばしてじっと乾燥を待つもの、抜け殻…。足元に散らばる抜け殻、木の枝から落下して地上で羽化しているものも。何とか地上で羽化はしたもののアリに襲われて足をばたつかせているものもいます。ナラの木の周りでは、多様な生命ドラマが繰り広げられている遺伝子に組み込まれた生命のサイクルを淡々と実行するセミたち。長い年月を経てやっと地上に出られたのに一度も空を舞わないで死にゆくものも、無事羽化できたものたちも、粛々と生と死を受け入れる光景に感動を覚え、母ちゃんと長い時間公園にいました。1.地中から這い上がる幼虫 2.やっと地上に出てナラの木に向かう 3.幹にとりついた。左右の仲間は羽化し始めた 4.羽化中! 5.羽化中に力尽きたのか、木から落ちた成虫。朝無事に飛び立てるのか 6.羽化を終え朝まで休憩。天敵の攻撃がありませんように!
2010年07月24日
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引っ越し無事終わりました。おカネと時間のある人なら「おまかせパック」でいいのかもしれません。だが、カネも時間もなく、本棚からはみ出す量の本をどうするか等々の難問まで抱えた、わが家の引っ越しはそうはいきません。梱包・開梱はすべて自力でやることにして、引っ越しの1カ月以上も前に業者と打ち合わせを済ませました。わが家の引越し騒動を報告します。右の写真は転居翌日の朝、梅雨の晴れ間に見えた建設中の東京スカイツリー。マンションのベランダから遠望。今回の引っ越しは、母ちゃんの親が数年前に購入したマンションへの移動。私たちの心づもりも予定も一切無視して、ある日突然「夫婦で熊本の老人ホームに入るから、君らが住んでくれ」と宣告を受けました。ここ数年、神経痛がひどくて徐々に歩行が困難になっていた義父。糖尿と痴呆症が一進一退の義母。いずれ施設に入るのは分かっていましたが、なんとも急な話です。「はあ…ありがとうございます…ところで熊本へはいつ…?」「すぐに行く。もう住民票の異動なんかも完了してるんだ。墓と家のことは頼む」「そんなに急な話ですか…?」「いや~年寄りは気が短くてね…マンションの登記も変更しなくちゃイカンから…いつ司法書士事務所に行ける?」「いや、いや、そんな急には…」「なんだ! マンション暮らしはイヤなのか」「いや、そういうことではなくて…」脚は弱っても頭はしっかりしている年寄りに追い詰められて日程がどんどん決まっていきます。問題は居住面積。マンションは、もともと義父たち夫婦が住むには十分な広さですが、成人した息子を含む3人で住むには手狭。私の想定では、最短でもあと5年は頑張ってくれるはずでした。そのころには息子も(結婚するかどうかは不明ですが)独立し、母ちゃんと2人でマンション暮らし。それが一気に覆されたのです。想定外の出来事に問題続出。特に問題になったのが私の蔵書。棚1段に2列3列と並べているのですが、それでも本棚からはみ出し、デスクの上や脇に積んであるありさまで、家には置き場所がなく、段ボールに詰めて会社で保管している本も。母ちゃんから、情け容赦のない宣告が…。「本棚2つは認めるから、そこからはみ出す本は処分してね」「え~~っ!! 3分の1以上捨てなアカンやないか…そら、無茶やで~」「どうしても嫌ならデスク処分して、本棚置けばいいでしょ」「そんなこと出来へんがな。(デスクを)小さいのに換えて、本棚を…」「小さくするのはいいけど、本棚はダメ!」「え~~~~っ!! どないしたらええねん!?」「いっそ、本を入れる部屋借りてそこで住めば~」「わかった! あいつ(息子)が独立したらええねん」(息子登場)「イヤだよ、独り暮らしなんかムリムリ。洗濯もご飯もどうすりゃいいのさ」「近くに住んで、洗濯物は持ってくる、メシはここで食べる、月に1回は俺らが大掃除に行く。家賃は補助するし…」「部屋に戻っても独りっきりなんて、想像しただけでイヤだよ」「このさい、彼女と結婚せぇや」「まだダメ」息子にも協力してもらえず、怖い顔して睨む母ちゃんにも抵抗しきれず、泣く泣く本と格闘し始めた私でありました。本棚はW200×H195×D40とW120×H190×D40センチの2台。ガラス扉付なので奥行の内寸は35センチくらいになります。古典文学大系や学術書でも奥と手前に2列収納ができます。新書や文庫本なら3列押し込めますし、普通の単行本は2列並べても手前が空いて小物が置けるくらいです。小説の単行本、文庫本は狙い撃ち。学術書も哲学・宗教・経済学・法学関係は最低限度の取り置き。天文など自然科学・歴史・数学などは一応確保。釣りやスキー関係は軒並み処分…。W120×H180×2列・3列分を処分するのですから大騒ぎ。一部は会社に「疎開」させました。ぎゅう詰めの本棚。下の戸袋には山や釣り、旅行関係の本を収納「Book・Offで売ってみたら?」と友人。「いやぁ時間の無駄だから資源ゴミに出す」と私。1年くらい前に買い取り依頼して苦い思いをしたことがあるのです。段ボール箱3つに比較的新しい文庫本と単行本を詰めて買い取り依頼したところ、引き取ってくれたのは文庫本30冊ほど。単行本など書籍は全滅でした。引き取り価格300円ほどだったと思います。私らのイメージの古本屋さんとは全く違った商売をしているようで、専門書・学術書はノー、背が焼けたものはノー、カバーがない文庫・単行本はノー、紙が折れたり汚れているものはノー…要は最近の発行で折れたり汚れたりしていない一般受けする書籍のみ引き取るのだそうです。私は、本に線を引いたり、頁を折ったり、ほとんどしません。文庫の帯は外しますがカバーを掛けたまま、さらにブックカバーをして読みます。だから本は奇麗な方だと思いますが、惜しむらくは内容がBook・Off好みでありませんし、発行年がかなり古いのです。今回は、資源ゴミの日の早朝に集積所に出し、社会問題化している「資源ごみ持ち去り」オヤジに協力しようと考えました。ヘタすれば回収業者がトラックで持っていくかもしれませんが、うまくいけばホームレスのオッサンの食費の足しになるかもしれません。「ひょっとしたらオッサンが町の古本屋に持っていくかもしれない、だとすると、雨に濡れてはいけない」と、余計な心配までして、ガッチリ箱に詰め、表に資源(書籍)と大書し、雨の降らない(降っていない)資源ごみ回収日を待って集積場へ。処分の量が目標に達したかどうか確認するために、残すことにした本を、引っ越す本棚2台に詰めていきます。どっちみち転居先で整理しながら並べるので、とりあえずは空いた棚に押し込むだけ。何とか、母ちゃんが許諾した範囲で収められました。メデタシ・メデタシ。処分した書籍・文庫本、しめて段ボール19箱分。どうなったかなぁ? 引っ越し屋さん泣かせの書籍用(専用ではない)段ボール。書籍用に少し小さいサイズを用意すればいいのに、引っ越し屋さんが用意するのは大小2種類。小さい方でも学術書などピッタリ詰めると25~30キロくらいになります。運ぶのも大変ですが、詰めていくのも大変な作業です。私は変な性格で、梱包に隙間があるとイヤなのです。理由は段ボールを積んだとき隙間があると、上からの荷重で下の段ボールがめり込み、荷崩れの原因になるから。さらに引っ越し作業のとき、グサグサの段ボールは持ちづらく、手を滑らせる危険があるからです。だから、大まかにはジャンル分けしますが、隙間を作らないためジャンルを無視し判型(大きさ)を考慮して荷造り。自分で詰めて自分で開梱、整理しながら本棚に収容するのですから、引っ越し作業のやりやすさ優先になります。それでもできる隙間は新聞を詰める、段ボール箱の高さをカットするわけで、母ちゃんは「何のこだわりだか…」と感心しています。約35箱、重量にして1000キロ前後の書籍梱包が完成しました。箱の上と横には、梱包した本の種類を細かく書き、搬入する部屋を指定します。これで当日はあんまり迷惑をかけずに運んでもらえそうです。引っ越し報告つづきます。でも写真はほとんどありません。
2010年07月22日
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引っ越しの荷造りもせず、カメラバッテリーも忘れ、最後の最後まで母ちゃんにいたぶられながらの北海道気まま旅。いろんな体験ができて大満足! メインイベントの知床クルージングでは幾つもの幸運に恵まれて、最高潮のまま旅も最終行程に入ります。クルーザーから降りても揺れている体で車へ。船の揺れのせいか興奮したせいか、はたまた大食いの悲しさからか、猛烈に空腹を感じ、「羅臼で昼食」の予定を変更。ウトロの道の駅「うとろ・シリエトク」へ急行しました。気分の高揚は、財布の紐さえ緩めてしまい、「よっしゃ、よっしゃ」と大盤振る舞い。限定10食の正真正銘生うに丼を注文してしまいました。1人前・金弐千六百円也。「積丹までウニ食べに行ったよねぇ」「なんで、こんなに美味しいの? シアワセ」とか、母ちゃんのハイテンションは続いています。支払いを持たされる私は「うまいけど高い」と心の中で呟きます。あまり値段にこだわると「ちいさい男だね~」と蔑んだ目で見られるものですから…。ミョウバンを使っていない生ウニは甘さが口いっぱい広がる午後一の予定は、昨日パスした「フレペの滝」。崖に造られた展望台から滝の落ち口を見ます。その近くにクマがいるのをクルーザーから眺めているので、なんとも不気味。知床道路沿いの自然センターに車を置き、滝まで片道20分の道を歩くのです。訪問者は少なく危機感が高まります。私たちは、クマよけの鈴をつけていますが、出合った人たちは誰も鈴を付けていません。なんで? 怖くないの? 自分は遭遇しないと思ってるの?涼しい海風が草原を渡り、右手の羅臼岳は雪を輝かせています。展望台到着。エゾジカの群れがいます。その落ち着きぶりを見ると、クマは近くにいないようです。岩から染み出る水が幾筋も海に落ち込んでいきます。クルーザーやオーロラ号が白い航跡をきらめかせ、崖下を通過していきます。自然が創り出した絵画的風景。静寂と雄大とが一体化し、私たちを魅了します。知床半島を横断して羅臼に向かいます。知床峠で一旦停車して羅臼岳の堂々とした山容を眺め、ひたすら走ります。疲れが出たのか母ちゃんは心地よさ気にお休みタイム。「腹の皮が突っ張ると目の皮が緩む」のサンプルのようです。羅臼着。人気テレビドラマ「北の国から」の最終話「遺言」の舞台になった町。主人公の黒板純(吉岡秀隆)が内田有紀扮する高村結と出会い結ばれた町。余談ですが、このドラマでの共演をきっかけに吉岡と内田は本当に結婚してしまい、すぐに離婚しました。こういうのを「つり橋の恋愛」って言うんですね。その純が暮らしていた番屋を、忠実に再現した「番屋食堂」が羅臼に建てられています。ドラマと違って、海沿いの道路を挟んだ駐車場にあります。目の前は防波堤とガードレール。予定ではここで昼食でした。ウトロでぜいたくな(まだこだわってる? えーえー私はちいさい男ですから)生ウニ丼を食べているので、ここではコーヒーだけ。内部は純の暮らした雰囲気は全くなく、ただの食堂だったわけで…。妙にしっかり者のオバサンに、この番屋食堂を経営している水産会社が道の駅「知床らうす」にあると勧められ、その気になって行ってみました。カニなどを送ってもらう手配を済ませ、さあ出発。ぐゎっ、16時だ! 出発予定時間を2時間近くもオーバーしています。クルーザーが30分近くずれ、道の駅でゆったり食事と買い物をし、番屋食堂と水産会社で想定外の時間を費やしたからでしょう。マズイ! 裏摩周の神の子池、どーする? スケジュール表には、予定がずれ込んだ場合のエスケープコースを想定していますが、神の子池に寄ればどうなるか、馬鹿ナビを「距離優先」でセット。168キロ6時間30分。この通りだとすると女満別空港近くのレンタカー営業所着が22時30分になってしまう。3分の2に時間短縮できたとしても20時20分になって、搭乗できない。「まあ、神の子は次回ということにしょーか?」母ちゃんも二つ返事で、エスケープコースへ。問題はナビ君。羅臼~知床横断道路を戻りウトロ港~網走~女満別空港125キロ4時間と表示されました。エ~ッ! 20時25分の飛行機に間に合わない!! 時短に挑戦したくても、ウネウネの峠道を越え、ウトロから斜里の観光バスが多い道となると時短不可能の危険性が…。遠回りにはなるけれど混雑しない(と予想される)別のエスケープコースをセットしてみました。羅臼から海沿いの国後国道を野付半島に向かい、標津から野付国道、根北峠を越えて斜里国道。途中の清里から東藻琴への道路に入り、空港に向かう道です。145キロ 4時間50分とのこと。「やっぱり、こいつは馬鹿やな。このコースやったら、半分くらい昨日通った国道やからガラ空きやんか、3時間くらいと思うけどなぁ」「あんまり無茶しないでよ。飛行機乗り遅れは困るけど1時間前までにレンタカー返せればセーフなんだからね」「大丈夫! 俺を誰だと思ってる!」「かずたま~。だから心配なんだよっ!」漫才している場合ではありません。「オシッコしたか? ノンストップやで~、行くで~」この旅の最後の走行。言ってみれば、私たちの「ウィニング・ラン」となります。国後国道もほとんど信号がありません。いい具合に、前を地元ナンバーの乗用車が疾走しています。「捕まるよ~」母ちゃんが注意喚起。そのたびにバックミラーを確認して、地元車との車間を少し開けます。あまり接近していると「一網打尽」もあるので、念のため。野付国道は、ほとんど「独り旅」です。母ちゃんの警告に「常識で考えて、こんなとこで取り締まっても効率悪すぎるやろ。後ろだけ注意しとけばエエやろ」と、お茶も口にしないで走り続けます。左手に斜里岳を望み、根北峠にさしかかりました。道路左手の歩道に動物が…。通り過ぎてハッと気付き、車をバックさせて近づいて行きました。キタキツネの親子が歩道脇で「家族だんらん」を楽しんでいます。親キツネが車を気にして車の周りをうろつきます。「ひょっとしてコイツラも、人間から食い物もらったことがあるのかなぁ」「なんで、エサやっちゃうんだろうね。不用意な行動が動物をダメにするのに…」子どもたちは歩道あたりにたむろしています。のんびりしておれません。キツネにバイバイしてひた走り。スタートから70キロ、ここまで1時間ちょっとです。「こりゃ~早すぎるなぁ。ホンマに捕まってまうなぁ」あと75キロ、注意しながら追い込んでいくようにしよう。昨日通った知床国道を逆走します。ここもほとんどクルマが走っていません。太陽が西に大きく傾きはじめました。一気に空港へ。18時30分、女満別着。145キロ 2時間30分でした。早く着きすぎました。空港周辺に喫茶店はないかと見回しましたがナッシング。「さっさと車返して、空港でご飯たべてコーヒー飲もーや」「ちょっと、居眠ってもいい?」「けっこう寝られるデ~」2時間近くも空港内でダルダルと休憩し、今回の北海道気まま旅は大円団となりました。メデタシ、メデタシ。長い分載にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
2010年07月14日
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引っ越しも無事に終わり、ようやく家の中も片付いて、インターネットも復活しました。ご迷惑をおかけしましたが、気まま旅も再開できます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・気まま旅の最終日。今回のメインイベント「知床クルージング」の朝は快晴で迎えました。まずは品数豊富な朝食バイキングをたらふく頂きます。船酔いしたことのない私はどうでもいいのですが、船酔いの危険のある母ちゃんは早く食事を済ませる必要があります。そのあと、のんびりと朝風呂。いいなぁ~、今日も快調なスタートです。9時、知床クルージング船の「FOX」へ。観光名所オロンコ岩とゴジラ岩にほど近いウトロ港の受付にはすでに乗船者たちが…。スタッフから呼ばれました。1番目の予約だったので、船の上部、運転席の後ろに座れるがどうするかという確認です。「ラッキー! もちろんその席にします!! ありがとうございます」とにかく、予約段階であれやこれや無理を言っていますから、望外の喜びです。いかにもゴツイ! 名所・ゴジラ岩さらに喜びが! 私のコンデジに適合するバッテリーを売っていたのです。もちろんフル充電済み。割高なのは仕方ないです。FOXさんありがとう。「ブログの書き出し、最終日は変えなきゃね」と母ちゃん。トコトン私を追い込みます。母ちゃんには酔い止めの薬を飲んでもらい、いざ乗船。運転手(船長と言うべきか)から乗客に注意事項。海上はすごく冷えるので、オレンジのライフジャケット兼防寒服着用すること、身を乗り出さないこと。私たちにはキルティングの分厚い膝掛けで足首まで覆うよう指示がありました。「そんなに寒いんですか?」「気温が低いうえ、風をモロに受けるからね。東京の真冬並みだよ」用意万端、9時30分定刻に出港。記念写真。船長の後ろに座れてご機嫌の私たちヒグマウォチングと銘打ったウトロ=ルシャ湾を往復する2時間のコースです。フレペの滝(乙女の涙)を海側から見たあと~男の涙~こけし岩~カムイワッカの滝~ルシャ湾と巡り、知床半島の景観を楽しみつつヒグマを探索します。かなりの確率で目撃できるそうですが、もしダメだった時には残念賞の粗品をくれるとのこと。「粗品はいらないから、頑張ってくださいね!」母ちゃんが船長さんにプレッシャーをかけています。ウトロ港からフレペの滝はすぐ。その手前で、船長さんが「普段はいない場所なのにヒグマがいる」と。母ちゃんが双眼鏡で確認し「クマだ!」エッ、どこ、どこ。崖の中ほどを登る黒い点がいます。岩棚に着きました。休憩か? 寝そべっているように見えます。カメラをズームにして写そうとしますが、コンデジの弱点が露呈しました。ファインダーがないので液晶モニターを見ながら撮影するのですが、天気が良いため、モニターには私の不細工な顔と海が写ってしまうのです。断崖にいるヒグマ。左上はボケボケの拡大写真「クマが見えん」拡大しなければどうにもならないし、拡大しすぎると船の揺れで的が絞れない。モニターには相変わらず私の顔がくっきり。しゃーないなぁ、新品バッテリーを手に入れたので強気の私は、あてずっぽうで連写します。「なかなかうまいこと撮れませんねぇ」と私。「一眼レフにバズーカ見たいなレンズ付けないと大きくは写せんですよ。近そうでも距離があるからね」と船長。フレペの滝を過ぎて次は「男の涙」とよばれている滝。断崖を回り込んだところにあるため、「男は隠れて泣くもの」ということで命名されたとか。左が乙女の涙(フレペの滝)、右は男の涙船は知床五湖の断崖に向かいます。ここでカメラに異変が起こりました。撮影モードが接写モードのまま。自動的にモード切り替えをしてくれるはずなのですが…やめてくれ~。ここで撮影できなくなったら、それこそ「男の涙」です。焦ってカメラをいじくっているさなか、崖そばで何やら水鳥たちが騒々しく飛び回っています。双眼鏡で崖の草むらを見ていた母ちゃんが一声。「あれ、クマじゃないかしら」船長さんも停船して目をこらします。「そうだ、クマだ。(マイクを手に)正面の崖にヒグマの親子がいます。上のお客さんが発見しました」ご機嫌斜めのカメラをクマに向け、モニターに映る自分の顔に邪魔されながら撮影しました。接写モードの表示は消えましたが、まったくピントが合いません。これまた恐ろしくピンボケの親子。懸命に崖を登るコグマ知床半島の断崖、奇岩を見ながら、通行止めで行けなかった「カムイワッカの滝」へ。カメラは再起動して、どうにか正常に作動しています。考えを変えて、ズームを使わず最大の9Mで撮影、PCに取り込む段階でトリミングするようにしました。カメラをクマのいる方に向けシャッターを押すだけで済みます(いい作品ができるわけないですね)。船の舳先にスタッフが立ちました。小手をかざしてヒグマを探しているようです。見つかりません。諦めて、ヒグマウォッチングのメッカ・ルシャ湾に向かいます。スタッフのお兄さんが再び舳先に立ち、海岸を探し始めます。名勝・カムイワッカの滝。ここにはクマはいなかった驚いたことにルシャ湾には規模の大きな番屋があり、大型の重機が動いています。漁期には人が常駐しているのです。ヒグマのテレトリーに人間が普通に居て、仕事をしている状態。危険はないのかなあと心配しますが大丈夫とのこと。すごいなー。「いた!」波打ち際でうごめくクマ。番屋のすぐ近くです。彼は番屋のそばを通って山に帰るのでしょうから、至近距離で人間とすれ違うわけで…クマも人もちゃんと棲み分けているということなのでしょうか。失礼なやつで、こちらにお尻を向けたまま、岩の間に顔を突っ込んで何やら懸命に探しています。わざわざ船に乗って会いに来たのに、チラッとでもこちらを向いて挨拶せえよ。しばらく観察していましたが、船長さんからアナウンス「予定より遅れてますので、これから帰港します」。沖合向け走り始めてすぐ、ほかの船から無線が入りました。「親子連れが番屋近くにいる」とのこと。船を旋回させ、僚船のいるあたりへ急行します。母グマと2頭の子グマ発見。じゃれあう子グマたちを少し離れた位置から母親が見守っています。人間の親のように「やめなさい」とは言わないみたいです。そのうち、母グマは笹やぶに姿を消し、子どもたちも後を追いかけて行きました。結局、7頭のヒグマに会うことができました。素晴らしいクルージングです。いよいよウトロに帰る時間です。クルーザーは沖合を疾走。防寒着にキルトの膝掛けでも体が冷え切ってきました。知床観光船「オーロラ号」がさらに沖合を航行しています。寒いけれど大海原と知床の山並みが輝いて美しい。「イルカだ! 今日はツイてるなぁ」船長が発見し船首を沖に向けました。「オーロラ号」の近くをイルカの群れがジャンプしています。追いつくか? 「オーロラ号」を離れたイルカたちに接近していきますが意外と遠く、なかなか捉えきれません。肉眼では、ジャンプするイルカたちの姿がはっきりと見え、水しぶきが派手に上がっています。カメラを連写に切り替えて撮影してみました。充実のクルージング。雪をいただいた知床連山にかかる雲もすっかり切れて、名残惜しげに私たちを見送っています。予定より20分近く遅れてウトロ港に帰着。「まだ体が揺れてるみたいだ」とはしゃぐ母ちゃんの顔も満足げでした。次回いよいよ最終回です。
2010年07月09日
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知床国道はガラガラ。マイルールに従って車を走らせます。そろそろ昼飯を食べないと夕食のバイキングで負ける(勝ち負けか!)と判断して、斜里駅近くの道の駅に立ち寄ることに。ナビの計算より相当短縮しているので、またしても気持に緩み。商店で、北海道限定ジャガポックルやら何やら買って、土産用でないバラ売りのアスパラもしこたま買って、自宅あて送りました。それから隣接の小洒落たレストランで昼食。おいおい、時間は大丈夫なのか。時間計算をして、母ちゃんに変更の提案。フレペの滝は明日に回し、五湖だけにしてホテルにチェックインすることに。私の予測では(時間厳守の予定がないから無責任)、五湖に15時30分着。五湖全部を回ると約90分。ウトロに戻りホテルへは17時30分までにイン。母ちゃんもOKなので出発オシンコ(またもクレヨンしんちゃん)です。予定通りウトロを通過、知床五湖に向かいます。母ちゃんは左右をキョロキョロ。ヒグマを探しているのです。探さなくてもいるのがエゾジカ。そこここで群れになって草を食んでいます。来るたびに増えているのが分かります。前方にキタキツネ発見。野生のくせに車道をこちらに向かって走ってきます。「こいつは人間から食い物もらったな」と思いつつ窓を開けると車のそばまで来て、上目遣いで私を見ます。「アカン、この目に誘われたら化かされる」と目線をそらし、知らん顔。キツネもこの2人からは食い物がもらえないと分かったのか、一転して野生の目で私をにらみつけ、笹やぶの中に消えて行きました。知床八景のひとつカムイワッカの滝まで行きたかったのですが、いまは行くことができません。落石の危険と防止工事のため通年マイカーが規制されていて、しかもシャトルバス運行は7月13日以降の2カ月だけ。歩行も禁止されています(歩行OKでも、ヒグマと落石の危険のなか、母ちゃん連れて11キロ歩くのはキツイかも)。そこで、今回は5湖全部を回ることにしています。五湖の駐車場に到着。数台の観光バスと車がパラパラ停まっているだけ。ツアー客のほとんどは1湖への高架木道に向かっています。クマよけの電気柵を設けた木道はオホーツクと知床の山々を望む人気スポット。木道は次回ということにして五湖周遊コースを歩きはじめます。時間が時間だけに歩行者は数えるほど。クマよけの鈴を腰に、首からはホイッスルをぶら下げて1湖から回り始めます。2湖まではバスツアーの定番コースですが3湖から5湖まで足を延ばす人は、たいていトレッキングスタイルです。でも、クマよけの鈴など誰も着けていません。みんな勇気あるなあ。霧に包まれた幻想的な3湖3湖は霧に包まれ幻想的な景色を見せてくれます。ほとんど人がいないので、私たちの鈴の音と甲高い鳥のさえずりが静寂を破るだけ。ときおり鈴を握って、聞こえてくる鳥の声に耳を傾けます。鳴き声で鳥が識別できないから、音色として楽しむことしかできませんが…。4湖辺りでコースを逆行してくる男性に遭遇。知床レンジャーの青年で、「クマの目撃情報がありましたのでコースは閉鎖されました。出口へ急いでください。鈴をつけているからOKですね」と。持っていない人には貸すのでしょうか? それとも声を出すように言うのでしょうか? 気になりながら前に進みます。鏡のように木立を映す4湖の入江5湖を過ぎて出口まで数百メートルあたりで、薮がガサガサと揺れています。動物の赤ちゃんのミュ―ミューという鳴き声が…。クマの子だったら母グマが近くにいるから危険です。母ちゃんは「鳴き方が変だよ。助けを呼んでいるんじゃないの?」と。私は「母親が出てきたら確実にやられるぞ~」とか言いながら、薮の中を覗き込みました。シカの赤ちゃんが笹に足をからませて動けなくなっていたのです。安心すると同時に、このままだとクマにやられるよなぁと考え、薮に入ってシカの周囲のササをどけてやりました。さあ、母親のところへ帰れと思っていると、後ろからアホが「おいで~」。その声に応えたのか、子ジカが薮の中からヨロヨロと出てきました。自分で立つのがやっとの様子。こりゃー衰弱してるなぁ。子ジカはフラフラと母ちゃんに近づいていきます。「そいつはキミの母ちゃんと違うで~。お母さんよりゴツイやろ」とアドバイスしているのに、母ちゃんにすり寄っています。デレデレとピースなんかやって「写真撮って~」とは言うものの、私より多少は動物に詳しい母ちゃん。「ずいぶん弱ってるなぁ。産まれて数日かな。母ジカはどこへ行ったんだろ」と本気で心配しています。「僕らを警戒して近くから見てるんとちゃうか」。早よお母さんとこ帰れ、と思っている私の方にもすり寄ってきます。私たちを母親と思い込んでいるのかもしれません。これではキリがないと歩きはじめた私たち。子ジカは後ろからヨロケながら付いてきます。何度も「これ以上付いてきたらアカン」と声をかけるのですが、一定の距離を置いて付いてくるのです。出口まで数十メートルの所まで近づきました。母ちゃんに「先に行って、公園管理の人を呼んできて!」と言われ、私はあわてて駐車場に向かいます。ちょうど駐車場のオジサンがやってきました。事情を話すと「そりゃぁ、母ジカがクマに食われ孤児になったんじゃないのかなあ」と言いながら様子を見にきてくれました。ほかの管理者やレンジャーも次々やってきました。「このままおいておいたら、この子もクマにやられるんじゃないか」などという物騒な会話がチラチラ耳に入ってきます。「どうすんのかなぁ」と不安げな母ちゃん。そのうち、レンジャー隊員が子ジカを抱えて連れてきました。隊員たちはそのまま駐車場を横切って木道脇の薮原に入っていきます。戻ってきたときには子ジカはいませんでした。木道辺りはシカの数が多く緩やかな丘陵になっているので、そこに放してやったようです。様子を見ている私たちに「お世話様でした」と声をかけて隊員たちは事務所へ。駐車場には私たちと知床ガイド同行の若い夫婦だけです。静まり返る園地。改めて「クマ出没のため閉鎖中」の札がかけられている周遊路入り口を振り返る私たち。「そういえば、クマのこと完全に忘れてた」「クマの子と違ごうてよかったなあ」「クマ見たかったなあ」「なにをのんきなこと言うてんネン。あれがクマの子やったら母グマが出てきて、いまごろ僕ら救急車の中や」「あの子ジカのこと、ほかの母ジカがちゃんと面倒見てくれるのかしら」「どうやろなぁ、レンジャーの判断信じるしかないなぁ」など、話しながら夕暮れ近い知床五湖を後にしたのです。動物には本当に優しい母ちゃん…。ホテルに向かう道路脇の草むらをトコトコ歩くキタキツネを発見。さっきの上目遣いとは違う個体のようです。写真を撮ろうと車を止めた途端、草むらの中に駆け込んで、姿を消してしまいました。ずいぶん予定が遅れましたが、貴重な経験をしたのでOKです。今夜の宿泊は前日のように豪華ではありませんが、人気の知床第一ホテル。じゃらん口コミでも、夕・朝食のバイキングは絶賛されています。チェックインして、とにかく温泉。源泉かけ流しではありませんが、文字通りの大浴場。プールのような温泉のほか、電気湯・寝湯・打たせ湯・薬湯・ジャグジー・露天風呂・サウナ。一度に入ると湯アタリしそうです。夕食時間が近づいています。でも部屋でやることがあります。オホーツク海に落ちる夕陽を撮らなくては! 明日の好天を予告するような夕陽が、今まさに海に沈んでいこうとしています。非常階段を駆け上がり、あわててシャッターを切ります。OK!でも、バッテリの目盛りが減りました。これはヤバイ! 母ちゃんには言えません。知られれば、しつこく「今回のブログの書き出しは…」と責められます。 ああ~、明日のクルージング、どうする~? したがって、バイキングの様子はホテルのHPから拝借します。大ホールのような広いバイキング会場。係の人に案内されて席を決め、夕食スタート。このホテルのバイキングは、和風・洋風・中華風の料理が用意されていて、夕食は80品、朝食でさえ50品あります。食べても食べても、食べきれないボリューム。ああ、腹いっぱい! ついでながら、私たちの場合、いきなりトレーを持って食べ物を入れながら歩くことはしません。特に、今回のように品数の多いときは、トレーをテーブルに置いたまま、手ぶらで料理全体をみて歩き、配置と料理を頭に入れ、自分の食事のイメージを固めます。それから、必要と思われる数の皿を用意して、ポンポンとチョイスし、皿や小鉢に盛り付けていきます。大食いですから何回か往復しなくてはなりません。どなたも経験されているでしょうが、バイキングの場合、ともすればまるっきり関係のない料理同士がくっついて、グズグズになりがち。予めイメージを固めて順序良く盛り付けていくと、見た目もきれいで、味が混ざることもありません。しかも迷わないから結果として早く食事を始められるのです。感心したのは、従業員の接客マナー。丁寧過ぎるくらいのお辞儀をし、笑顔を絶やしません。ちょっと戸惑っているお客には「何かお手伝いできることございますか」と声をかけていきます。徹底的に教育しているのでしょうね。若いスタッフがビジネスショーのコンパニオンのようにスマートに礼儀正しく動く様子は、気持ちがいいものです。食休みの後、腹ごなしに入浴し早寝。最終日もたくさん走らなくてはなりません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おことわり:引越しのため1週間ほどインターネットができません。メインイベント「知床クルージング」はネット開通後になります。
2010年06月30日
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温根湯温泉を満喫し、朝食バイキングでは(私たちにしては)珍しく和食で腹を満たして2日目スタート。朝方まで降っていた雨も上がり、雲が広がってはいるものの風は穏やかで、寒さは感じません。朝食後、知床クルージングの会社に電話。前日情報では、14時30分発の船はまだ運行定員に足していませんでした。定員に達していない場合、私たちの行動日程が不安定(知床まで頑張って走っても運休の可能性が大きい)になるのでキャンセルしました。「今回のメインイベントであるヒグマ観察を諦めたの?」と心配してくれる方は優しい人です。気品のあるピンクの芝桜ご安心ください。わが家には「旅行プロデューサー」がいます。この日の14時30分が運休になっても大丈夫なように、翌日9時20分発を予約してあるのです。船会社にその希望を伝え、どちらかがキャンセルになることを前提に、ダブル予約を認めてもらているのです。母ちゃん、アンタはエライ!!私の方も、母ちゃんの作戦に従って、A・B・Cの行程パターンを作ってあります。B案で行動することに決定しました。出発は30分ずれて9時。温根湯~ひがしもこと芝桜公園~知床のフレペの滝~知床5湖。ホテルには17時着という計画です。時間厳守のクルージングがなくなったため、妙に気分的にゆったりしてしまい、出発はさらに遅れ、9時30分チェックアウト。肝っ玉女将の見送りを受けてスタートします。北見市の中心部は車も信号も多く、通過に時間がかかりましたが、市街地を抜けると一気にスピードアップ。残土を積載したダンプでさえ70キロ近くのスピードで走っていきます。美幌で北見国道と分かれ知床国道に入り、そして大空町へ。道路の左右は開拓農地が一面に広がります。原野を切り開いた人間の底知れないパワーを感じました。「僕らは、なだらかな丘陵地帯に広がる農地を見て、これが北海道的な景色や、と喜んでいるけど、もとは広大な原生林に覆われてた訳やろ。明治以降ものすごい勢いで入植させて、ここまでにしたんやからなぁ。本とか映画でしか知らんけど、ホンマに命懸けやったと思うヮ。でも考えてみれば、それは凄まじい自然破壊を続けてきた言うことやなるねぇ。まぁ、そのおかげで、僕らは観光したり北海道のうまいもんを口にできてるんやけどね」輝くように清楚な白い芝桜話しているうちに、いろんな思いが頭をよぎり、母ちゃんに話しかけていました。人類以外の動物は環境に自分の欲求を合わせて生きていくが、高度に発達した人類という動物は自分の欲求のために環境をつくり変えてしまう。その特長が、人類を思いあがらせ、自然の一構成員であることを忘れさせ、環境を破壊しつづけてきた。特に産業革命以降の人類は、自らが地球の支配者であるかのようにふるまい、いまや自らの生存自体を危うくするまでに環境破壊してきた…云々。また、北海道(蝦夷)の先住民族であったアイヌが、自然を崇め、自らが自然の構成員であることを理解して共存してきたにもかかわらず、自然の宝庫に目をつけた和人(私たち大和民族)は、豊富な資源を独占するために、官民挙げて北海道に群がった。大々的な農地開拓、鉱物資源採掘を繰り広げ、アイヌから財産はもとより民族としての誇りも言語も信仰もすべてを奪い尽くし、労働できるケモノとしてこき使った。アイヌ支配の先兵として送り込まれた一つが寺社だった…云々。こんな話をしながら走っていると、アクセルを踏む力が自然に緩み、スピードはあまり上がりません。これが救いになりました。前方でパトライトが点滅し、乗用車が「御用」になっています。アップダウンが多く、交通量の少ない東藻琴の道。下り坂で踏み込めば一気に30キロや40キロはオーバーしてしまいます。白髪頭のおじさんが、憮然とした表情でパトカーから降りてきました。お気の毒に。芝桜公園への案内看板が目立ち始めました。突然、左前方が一面のピンクに変わり、満開の芝桜が出迎えてくれます。「ヒャッホー」歓声をあげるのは母ちゃんだけではありません。芝桜が8ヘクタールの丘陵を覆い、見る者を圧倒します。西向き斜面には東藻琴のシンボル・キャラクター「ノンキーくん」が、南向き斜面には東藻琴町の紋章が浮かび上がっています。写真は撮りすぎないように、フラッシュは焚かないように注意しながら、2人で園内を散策。丘の上まで直登する長~い階段があります。また上まで芝桜の中をめぐる遊歩道があります。東藻琴の紋章がくっきり。左端に長い階段が見える「上まで行くで。歩けるか?」「行くけど行かない」「なんのこっちゃ」「歩いては行かない。でも上まで行く遊覧車があるから、それに乗って行く」入園料500円とは別に、300円払えばトラックを改造した遊覧車で往復できるのです。「はじめから、そう言うたらエエやろ」遊覧車乗り場はそれなりに混雑しています。母ちゃんが並んでいる間、私は列を離れて撮影(撮りすぎないように自制しながら…身から出たサビとはいえツライ!!)。10分ほどで乗車の順番が来ました。警察の護送車のような、お世辞にも座り心地がいいとは言えないシートの車はゆっくりと坂道を上り、数分で丘の上に到着。起伏に富んだ丘陵を覆う芝桜の絨毯は、ピンクを中心に紅や白の模様がちりばめられ、東藻琴のイメージキャラクター「ノンキーくん」や村の紋章も色の異なる芝桜で作られています。丘の上からの眺め。マスコット「ノンキー」が微笑みかける下りも遊覧車を利用できますが、ここは歩くほうがいいでしょう。芝桜の色彩と匂いに包まれて、母ちゃんと2人、散策路をゆっくりと下っていきました。頭上を遊覧ヘリがブンブン飛び回ります。こちらは公園上空を2周(5分くらいかな)して4800円。高過ぎないかぁ? でもひっきりなしに飛ぶのだから人気があるんでしょうね。遊歩道を下りきった芝生の中に、ユニークな形の銀玉風建物発見。ずいぶんお洒落なトイレだなぁ、扉に手を掛けようとして、様子の違いに気が付きました。男女の表示もないし…。あとで分かったことですが、バンガローだったのです。良かった!! ファスナー下ろしながら入って行ったら事件になるところでした。たっぷり園内散策を楽しんだあとは、「花より団子」の本性むき出しで売店へ。豚串、アスパラ焼きなど買い求め、「腹の虫」を抑えます。写真上は売店、焼きたて豚串がうまかった。左下はトイレと間違えたバンガロー。右下はトラック改造の遊覧車時間厳守の日程(クルージング)がなくなって、やはり緊張感が緩んでいるのでしょう。芝桜公園を出発したのは当初予定より45分遅れています。斜里経由ウトロは約80キロ、知床五湖までは95キロです。ナビ上では五湖まで3時間。昼食をはさむと4時間くらいかかることになり、五湖着16時45分という計算になります。「そんなにかかるか!このバカナビ! 日没は19時やけど、そんな時間から五湖周遊したらヒグマと遭遇するやないか。まあエエわ、成り行きで行こう」とお気楽な2人旅。知床五湖に続きます。
2010年06月26日
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