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春の庭(3) 穏やかな春の陽射しに誘われるように庭に出てパター練習を始める。すると必ずココがやって来て一緒に遊びたそうにする。暫くジッとボールの転がりを観ていて、頃合を観てサッと飛び出してボールを追いかける。そして急いで前脚の爪でボールを引っ掛けようとするのだが、堅いボールは引掛からず、そのまま転がって行くから已む無く蹴ってしまう事になる。それで的にボールが入らなければココは満足して離れる。つまり妨害する事で喜びを見出している風に観える。ルールこそ違うが、自分もボール遊びに加わっているのだ。それに似た事は人間世界にもある。何か勘違いして世の中を斜めに観、妨害して鬱憤を晴らす連中である。金も無く、貧乏たらしく、姑息に公金をちょろまかして満足する人間である。G-011 しかし、ココの場合は純粋に遊びとしてボールを追いかけるだけだ。要するに尾を引かない処が好いのだ。だから可愛い。ペットだけの事はある。人間の場合はつまらぬこだわりがあるから、それが名誉や地位に関われば何処までも執拗にこだわる。今の政府を観ていると実に小物ばかりが揃ったものだと想う。震災による原発事故と津波避難を観ただけでパニックになり、更には原発が爆発して炉心溶融(メルトダウン)まで起こすと放心状態になり痴呆性老人よろしく全く機能しなくなってしまった。是まで「脇が甘い!」と妻には叱責され「逃げてばかりいる」と国民からは非難され、行場を失った首相は朦朧とした頭で会議に出席するだけのお飾りになってしまった。ところが、保身の術だけはしっかりと使った。G-012 にもかわらず、政治資金規制法違反で辞任の一歩手前にまで追い込まれてしまった。そこへ、東北関東大震災が起き、非常時で何とか延命になった。その為に政治責任追及は回避されたかに観える。が、津波と原発事故の対処で無能ぶりが露呈して、前門の虎、後門の狼となり二進も三進も行かなくなってしまった。サッサと辞めていれば楽だったろうに本人は必死に成って権力にしがみ付くから野党からは馬鹿にした目で観られ、世界からも優柔不断な男と見做され、国民には屈辱の宰相となってしまった。つまり、我々の恥の代表になってしまったのだ。原発事故や震災の処理の方向性も打ち出せず何等指示も出来ないのであれば、この際潔く退陣して国民に土下座して詫びろと言いたい。今後一切、表に出ないで欲しい。G-013 そんな鬱陶しい顔を見なくなるだけでも国民は胸をなで下ろせるし、そんな痴呆性老人の顔はテレビ画面に出るだけでも害である。折角の陽気に庭に出ても不愉快な気になってしまう。実に嫌な世の中だ。だからパターは止めて、ゴルフの打ちっぱなしにでも行って気分を変えようと想う。多分、こういう社会情勢だからゴルフ練習所も空いているだろう。そう言えば長い間、ゴルフ練習所に行っていない。ひょっとして今年は未だ一度程度しか行っていないのではないか。前回、多くのボールをプリペイド・カードで買っておいたから好きな時に行く積りで居たのだった。それが意外にも何時でも行ける状態にするとなかなか腰が上がらず、買い物に出かけたり風邪を引いたり体調がすぐれなかったりで今日まで来たのだ。G-014 その他に、毎月必ずゴルフ月例会の案内も山歩き会の連絡も来る。が、冬場は行かない事にしている。風邪を引いては詰らないからだ。風邪を引かない為の体力づくり会なのに弱くなってしまったものだ。と言うよりもマイペースで行けない会なぞ体調を崩すだけなのだ。ゴルフにしても山歩きにしても日本人は何故か頑張り過ぎる。マイペースで行くのが嫌な民族なのだろうか。そういう事ならボクなんか日本民族と言うより欧米人に近い方だ。純粋の大和男児なのに考え方は昔から合理的だった。隣の田吾作の顔を観ながら行動をする農耕民族では無く、むしろ狩猟民族に近いのだろう。ボクには理工系の人間ではある半面、文系の面もある。そうでないと建築家は務まらないのだ。何にでも興味を持つタイプなのだ。G-015 何故か近年では理工系が少なく文系が多いそうだ。製造(物作り)系よりも営業(物売り)系の方が楽だからだろうか。作業服を着て汚れるよりもスーツを着て華やかな世界に居る方が綺麗で居られると想っているとするなら、実に下らない選択である。仕事の意味が分かっていない事になる。物作りを放棄してしまえば何処から物を手に入れるのだ。農耕民族だけが物作りではない。狩猟民族だってツールは作るし獲った物を加工する。総て物作りが基本だ。世の中はそれらが融合して発展して出来あがったものだ。大災害に見舞われようとも人間は再起して物作りが出来るから立ち直れる。そんな事を想いながら自分で作ったパターを磨いてヘッドケースに収めた。打ちっ放しには必要無いからクラブ・バッグには入れなかった。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/31
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春の庭(2) 福島第一原発の放射線遮断の為のコンクリート石棺については国交省が工事費の試算をし別枠で業者に発注するだろうが、この際、何処の省庁が発注しても構わないから早急に工事を開始する事だ。厚み5mのコンクリート壁や陸屋根を設けるだけの事だから簡単と言えば簡単な工事だが、施工が難しいだろう。施工概念を示せば、原子炉建屋の高さが20mあるとして、サイコロ状のような建屋だから最大級の径の異型鉄筋(51mmφ)を餅網状に組んだものを周辺に並べる。それだけでも大変な工事だ。鉄筋の餅網状の大きさも運搬が出来る大きさとなると精々4m角のものになるだろう。鉄筋の一本当たりの重量は63.6kgあり、鉄筋間隔(ピッチ)が300mmの場合、一枚当たりの重量が1.7tにもなる。勿論、シングルでだ。G-010 ジョイント部を入れると2tには成り、当然、人力で運べる重量では無い。それは基礎の分も要るから一枚の壁に30枚要り、屋根が36枚(壁の厚みをプラス)だから計五面で156枚になる。現場で餅網を繋ぐには溶接が一番確かなのだが、放射線被ばくするから作業がし難いだろうし溶接も無理だろう。だから出来る限り現場作業を省く為に工場生産でジョイント部に差し込めるように加工しておき、重機で運んでセット出来るようにする。それを1段4mの高さ毎に一周した段階でコンクリートを打ち込んで行く。一周80mを6段繰り返せば屋根まで行ける。屋根コンクリートも5mの厚さである。壁コーナー分を加えるとコンクリートのボリュームは1機分で約12,000立米となる。原子炉4機分だから4倍要る。G-009 3日で一段分進めば4機で8,000立米の速乾コンクリート工事量だから屋根まで約48,000立米、述べ18日の打設の計算となる。土工事、鉄筋組み立て、型枠(コンクリート版)の組み立て等の工事の日数で早くとも12日は掛かり、コンクリート打設(6段)日数18日を合わせて30日は掛かるだろう。余裕を見て40日もすれば何とか石棺で覆い隠せる事になる。精度は問わない。之は机上論だから実際はゼネコンの能力次第になる。安全性の問題もあり、放射能を気にしながらの大変危険な作業だからゼネコンは難色を示すだろうが、国難の時だけに何とか協力してもらうより他ない。それには政治家と役人、東電とが真摯な気持ちで頼むしかない。金で動く話では無いからだ。威圧的に頼んでも無理だ。G-008 実際には冷却しながらの工事だからポンプや電力のメンテナンス用出入り口を設けなければならない。最低でも10年間冷やし続け、徐々に燃料棒を回収して行く事になる。メルトダウンした燃料も本来なら回収しなければならないのだが、無理だろう。最悪はメルトダウンした核物質はマントルに達し長年月でマグマに達するだろう。マグマに溶ければ地球の一部に帰る事になる。この先、技術が進歩すれば、ロボットで残存核廃棄物を回収する事が出来るかも知れない。しかし、SFでは無いので気軽に期待は出来ない。以上が、墓場と化した原発の封じ込めのシナリオである。それでもコンクリートの劣化を考えれば30年が耐用期限と言われているから、更に外部から同じ様なコンクリートを打ち足して行く。G-007 やがては現代のピラミッドが出来あがるだろう。それこそ死の墓標という事になり、反面教師的な世界遺産になるかも知れない。こういう虚しいシナリオを考えていると、つくづく日本人の軽薄さとか経済優先という薄っぺらな社会構造が観えて来て、人々は深く考えるだろうと想う。その結果、これが日本社会の大きな変革のきっかけになるのではないかとボクには想える。馬鹿な大人達が子供達に大きな負の遺産を残して死んで行くという無責任は許されない。権力慾や権威主義で固まった原発推進派連中が似非学者や似非評論家、タレントを動員して国民をだまし続け、金儲けに奔走し、遂には恥の塊の墓標を築き上げたのを人々は複雑な気持ちで観るだろう。わなわなと震える程、腸が煮えくりかえる想いだ。 G-006 それでも原発推進派連中は懲りもせず、次なるトリウム原発を目指して頑張るのだろうか。蛙の面に小便とはこの事を言うのだろう。穏やかな朝の陽射しを受けて春の庭を観ていると、原発事故が嘘の様に想えて来る。今こそドイツやアメリカで起きた原発反対運動を盛り上げ、国民の安全は将来の子孫への贈り物と考えて賢い日本人でありたいものである。原発推進派の言う事は分かっている。「原発を無くせば、不足する電力をどうするの?これまでの日本の繁栄を享受して来れたのは何のお蔭だと想っているの?」と。しかし、其処には麻薬のように甘い誘いが脳を覚せいさせ、裏ではガタガタになった身体が益々ボロボロに蝕んで行く構図があるのだ。一体、誰の為の電気エネルギーなのか考える時である。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/30
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春の庭(1) ポカポカ陽気で、一瞬でもこの鬱陶しい閉塞感を晴らしたいと庭に出ると、木々が春の陽射しを受けて新芽を出しかけている。鬱陶しい閉塞感というのは大きな事では東北関東大震災で爆破した福島第一原発の事と、それに対する対応力の悪さと事故事実の隠ぺい工作が次第に露見している事である。こと生命ににかかわる事だけに国民は真実と納得のいく適切な処置方法を知りたがっているのだ。それなのに一向に先が観えない。全く機能しない痴ほう症に掛かってしまった様な政府は唯オロオロするばかりである。各方面から救いの手や方策が提示されているのに、それらを敢えて無視し、政権の保持に固執している。それでは国民は尚更心配になってしまい、保身の為に関西でも水の買い占めが起きてしまった。G-001 スーパーやコンビニ、ホームセンターには全くミネラル・ウォーターが無い状態である。当然ながら、政府が適切な情報を流していればこうしたパニックは生じないのだ。関西に飛来する放射性物質は汚染されていても低濃度だから水の買い占めをしなくても大丈夫なのだが、人の心理というものは騙されていると想うと誰も信用しなくなるからその行為を責められない。言う事がコロコロ変わる政府が総て悪いのである。次第に原発の状況が悪化しているから報道も怖がって取材もしない。関西ですら水騒動なのだから関東は尚更大変な事になっている筈なのだ。東北はもう地獄そのもので人々はよく耐えているものだと感心するやら呆れるやら。ボクなんか絶対に原発に近い所には住まないだろう。G-002 其処に住まざるを得ない人々には同情するが、それが宿命と諦めているのだろうか。政府は確実に原発周辺の人々を避難させ護る義務がある。政府は逃げ腰だが、東京電力一企業の問題では無いのだ。原爆被爆地である広島・長崎に引き続き福島が歴史に残る悪い例となってしまった。少なくとも原発から80km圏内の被災地の人々は圏外へ逃げなくては大量に放射性物質を浴び被爆する事になる。放射線は目に見えないだけに不気味で、被爆すれば何年後に発癌するか分からないだけに、トラウマになって精神状態もおかしくなってしまうだろう。おかしくならないと言う人が居ればお目にかかりたいものである。余程、無知か政府関係者や原発関係者の下っ端ぐらいなものだろう。G-003 東大・東工大を始めとする似非学者や似非評論家は東京に居るから平気な顔をして居られるが、内心では怖さを知っているだけに落ち着かないだろう。そろそろ国民が不信の目を向け出しているのを敏感に受け止めているのか最近はテレビ出演も少なくなった。一国の宰相の自覚があるなら菅首相は毎日でも国民に訴えかける努力をし、事実を淡々と述べ、現在こういう事をして放射線防御をしているとメッセージを発するべきである。必死になって現場で作業している人々の詳しい報道もすべきである。何が起き、どの様な影響が出、どのようにするのかさえ発表すればパニックは半分は抑えられるだろう。風説の流布は疑心暗鬼に成なればる程いい加減な情報が流れ、人心を惑わすだけでデメリットしか無い。G-004 要するに、隠さねばならないような大変な数値や状況が其処にはあるのだと言っている様なものである。仮に最悪の状態である原子炉が空焚きになったり、使用済み核燃料の冷却プールの水が減って空気に晒され、燃料棒の核分裂反応が起き、摂氏2,400度にもなれば炉やプールが溶けて穴が開いたり割れが生じ放射性物質が漏れ出す訳だ。それには当然ながらヨウ素を始めとし、セシウム、キセノン、ウラン238、ウラン239、ストロンチウム90、ネプツニウム239、プルトニウム239等が放射される事になる。特にプルトニウム239は猛毒で核爆弾の原料であり半減期が何と24,000年もある。人間の歴史でも精々6,000年程度と言われるからほぼ未来永劫と言って良いぐらい残る訳である。G-005 福島第一原発が今そのような状態であるなら、我々はどうすれば良いのか。原子炉周辺半径80km圏内の人々は緊急に避難し、その周辺の人々も出来るだけ遠くへ避難すべきである。そして国民が一体となって政府に即座に原子炉を鉄筋コンクリートで遮蔽するよう要求する事である。コンクリートの厚みもチェルノブイリと同じく5m以上は必要だろう。ちなみに我々建築家が病院を設計する時、レントゲン室(放射線室)の床・壁・天井を1ミリシーベルト防ぐ為に厚さ1.5mm以上の鉛板を貼り付けるか、鉄筋コンクリートの場合は厚さ15cm以上にする。が、事故原発の場合は規模が違うから厚さが5mでも大丈夫では無い。だから冷却しながらも半径30km圏内は立ち入り禁止にするしか無いのである。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/29
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怖い話 鬱陶しい話の次は怖い話である。世の中には怖い話は幾らでもあるが、戦争の核兵器の怖さだけではなく原発も怖い。その怖さは既に古くなったかの様に観えるが、未だに一つも解決されないまま先延ばしで来ている。そしてとうとう3月11日の午後に起きた東北関東大震災で福島第一原発が爆発して大量の放射性物質が外気に飛散し風に運ばれて北へ南へと拡散している。それなのに政府はひた隠しにし「今の処、大した放射線量で無いし、人体に重大な影響を与える程のものでは無い」と誤魔化して報道している。何が「重大な影響を与える程のものでは無い」と言えるのか素人でもおかしいと想う報道である。1時間当たりの放射線量だけを報道しておいて年間被ばく量を勝手に推量しろと言うのは誤魔化し報道だ。 一日は24時間あって、その365倍が一年間という事は子供でも知っている。つまり報道された数値の8,760倍の放射線量が漏れ出し、250kmもの遠くの東京にも風に乗って放射線で汚染された塵が飛んで来るという事である。それは、ボクがこうして文章で表現するよりも動画で見聞きした方が分かりが早いと想うので一週間ほど前に報道された動画を紹介しておこう。 「福島第一原発・非常事態宣言」の解説リンク先にジャンプ 此処で話をしている広瀬隆さんというのはボクと同年齢で、早稲田大学の理工学部を出ていて、東工大を出て同じ理系であるという菅総理とは大違いの勉強家である。文章が巧みで「ハリウッドでは億万長者が笑う」という本を昔に買って読んだのが彼を知った最初だった。映画解説と間違って買ったのだった。 もう20年以上も前の事だから、殆ど内容は忘れてしまったが、なかなか面白かった印象がある。概略はアメリカの映画産業というものが政府のプロパガンダの手段になっていて、アメリカの財閥の事とかロスチャイルドの事を面白おかしく書かれてあったように想う。その本は、当時中学生だった甥っ子がたまたま遊びに来た時に「面白そう」と言ったので与えてしまったが、読んで啓発されたかどうか分からない。原発の事は書かれていなかったと想うのだが、広瀬さんはその後、反原発運動家として多くの支持をうけて全国を講演をして廻っていた様だ。彼は緻密なデータで話を構築するので説得力がある。彼のロスチャイルド関係の本(「赤い盾」上下二巻)や多く溜まった本は欲しいという人にでやってしまって今は無い。 さて、東大・東工大を始めとする御用学者が言う嘘報道に国民もやっと気付き始めた様で、流石に恥を知ったのか御用学者のテレビ出演も少なくなって来ている。今は如何に原子炉から洩れる放射線と放射性物質を止めるか、何時から鉄筋コンクリートで原子炉を覆い隠す作業に入るかである。普通は火事が起きれば火種を消すのが先決である。それなのに火種はそのままで原子炉に水をかけて冷やしながら機材に電力を送っている段階である。冷却装置のポンプを高速回転させながら冷たい真水を循環する事で核燃料が冷やされる理屈だからだ。ポンプの故障なのか、バックアアップ電源の不調なのか原子炉内の水が循環停止し、高熱で水が蒸発して空炊き状態になって、火種が高温過ぎて焼け石に水の状態なのだ。 焼け石というのを観た事が無い人も居るだろうが、料理で焼け石を用いるのもあるから想像はつくだろう。キャンプ・ファイヤーで焼けた石にバケツで水をぶっかけると、一瞬にして水蒸気となってしまう。石が割れる事もある。原子炉も同じ理屈で、水蒸気は高温のせいと核燃料棒の筒状の金属(ジルコニウム)の溶解でもって水素を発生させ充満する。ガスは上へ行き、やがて高圧で漏れ出し、溜まり過ぎて爆発を起こす。融解した核燃料は下に落ち、原子炉のパイプの破損したジョイントや原子炉にひび割れが入っていれば底から地下室に落ち、放水で床に溜まった水を放射線汚染する。3月26日に電気技師がゴム長を履いていなかった為に足の踝が一寸濡れただけで被爆して緊急入院をしたのがそれを物語っている。 政府は、うだうだと誤魔化し報道ばかりせず「緊急に原子炉を鉄筋コンクリートで遮蔽しろ!」とボクは強く要求する。関東にも東北にもコンクリートのプラントは幾らでもある。原子炉建屋を覆う鉄筋も幾らでも調達できる。外側の型枠代わりに成るコンクリート版も幾らでも調達できる。生コンをポンプ車で送り込めば一日2,000立米打ちこみ能力で6機同時に打ち込める。そうすれば原子炉一機の建屋分で12,000立米要るとしても配筋・型枠(コンクリート版)・コンクリート打ちも30日程で終える。足場が悪い事を考慮しても10日の余分日数を見れば出来ない事はない。急いでそれをやって国民を早く安心させて欲しい。責任問題でビビっているばかりでなく、前向きに処置する事を努力する時だ。それぐらいの事も出来ないようでは、お先真っ暗である。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/28
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鬱陶しい話(2) 正直な処、ボクはトリウム原発について、今は未だよく分からない段階でネット情報や本を取り寄せて勉強している最中だ。精々、ウラン原発よりも少しは安全であるらしいという程度の知識である。その根拠は核爆弾の材料のプルトニウム抽出が困難で、ウラン原発よりも抽出率が20%以下で少ないという事だ。更には、ウラン燃料のような固形のペレット状ではなく液状で、使用済み核燃料の中のプルトニウムを混ぜて核分裂させて燃焼させるから、どちらも燃え尽き、燃えカスがウランの場合よりも10%程度の容積で済むという。それなら六ヶ所村の再処理工場(プルサーマル用)にある使用済み核燃料も再利用で減らせる事が出来るという。が、そんな良い事づくめなのがどうも怪しいのである。 矢張り何処か危険な落とし穴があるのではないかと勘繰ってしまうのだ。原発推進派はウラン原発の代替原発として大いに期待し宣伝をしているようだが、是まで長年高価なウランを輸入し、使って来て、その使用済み核燃料の再処理工場に掛けた投資額も膨大で、之から再処理(プルサーマル)した燃料を輸出しようかという矢先の段階で方向転換が出来るものかどうかという問題がある。ボクを含め原発反対派が急増している現在、代替エネルギーとしてトリウム原発が世の中に認められるかどうかも怪しい。特に日本人は核アレルギーが強いのだ。その上に地震国という安全性が大いに疑問視される国土において危険極まりない放射性物質を撒き散らす発電方式が今後も国民に受け入れられるだろうかというのもある。 それにも関らず今後も強引に原発を推し進めようとするなら余程安全性を確かめ国民に納得して貰う必要があるが、これだけの事故を起こして置きながら平然として居られる電力会社も役人も政治家も居ないだろう。が、蔭では代替発電方式として現在稼働中の原発を徐々にトリウム発電方式に切り替えて行きたいと想っているだろうとは簡単に想像はつく。原発にぶら下がっている東大・東工大を頂点とする御用学者や関係者が余りにも多すぎるのである。マスコミも大スポンサーである電力会社に遠慮して厳しい記事やニュースを控えている。真実を伝えるのが使命のマスコミがスポンサーの顔色を観てヨイショをしてどうする。偉そうな口をききながら何だ。最低ではないか。哀れで見下してしまう下劣な連中だ。 鬱陶しい話ばかりで恐縮だが、ボクならこうしたいという考え方や方法を提案しておかないと文句しか言えない奴と想われてしまうだろう。文句も時として大事だが、それしか言えないのでは万年野党と変わりが無い。だからボクが日頃から提案している自然エネルギー(太陽光発電・風力発電・地熱発電・潮力発電)の他に燃料電池(水を電気分解すると水素と酸素に分解出来る反対の事をやる事で発電する方法)による各戸発電やメタン・ハイドレードによる火力発電などがある。勿論、今まで行われて来た発電方法(水力発電・揚水発電・火力発電)も併用して行く。その他にも発電方法はあるだろうが、巨大な発電所の発想は之からの時代では不要となって行くだろう。ロスと危険が付きまとうからだ。 それよりも無駄を省く発想が定着する事が大事である。官僚の国家予算の無駄遣いや横領に近い自分達の天下り先での高給を得るのと同じく、電力の無駄遣いが多すぎるのだ。まるで電気が只(無料)のように想っているのではないかと想える事がある。金さえ出せば何をしても許されるという成り金根性は言って悪いが、お育ちの悪い連中に多い。精神的貧乏人がそうだ。金持ちや権力者に成る前の貧乏根性が抜けきらない人は、いざ自分がそう成った場合、それまでの反動から無駄遣いをしたがるのである。持ち付けない金をひけらかし使うのは貧乏人だった頃の反動である。権力者になった嬉しさの一種の表現なのだろうが観ていて哀れになって来る。本当の富者は心の余裕をもっているもので無駄な事はしないものだ。 世の中を見渡して観て、実に下らない事にエネルギーを使っているケースが多いのに気が付く。関東は計画停電でワーワー言っているが、発電所が一か所無くなったのだから電力が不足するのは当然の事で、それも権力の在る処には停電が無いというのも皮肉と言うか、弱者は何時の時代にも追いやられる構図が、こういう非常時にも現れていて人間世界の嫌らしさが露呈している。何故もっと人々は怒らないのかと前にも書いたが、概して東北の人々は人が良いと言おうか忍耐強い。関東の人々も体裁を構い過ぎて怒りを忘れてしまっている様だ。関西人は怒りをモロに出す。それが人間というものなのだ。権力者は大人しい子羊達をリードする番犬のようなものだ。今は番犬を上手く使う人間が必要な時である。その人間とは理性ある正義を堂々と主張できる市民である。胡散臭い学者や政治家なぞ無視して堂々と渡り合う姿勢を持ちたいものである。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/27
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鬱陶しい話(1) 何とも嫌な気持ちである。大震災による大津波や原発爆発事故などの報道を毎日観ていると徐々にではあるが回復の兆しが観えるものの、人間社会の複雑さと考え方の違いから様々な嫌な面が観えてしまう。勿論、良い面もあるが、決して喜べない方向に向かうものもあるからだ。それは様々な人間が生きて行く為の個々人の考え方の違いから来るものであろうが、他人の事なぞ考えず自分の慾から狭い見識で勝手な行動をする輩には腹が立つよりも情けなくなってしまう。卑近な例としては火事場ドロボーとか被災地に於ける空き巣なぞがそうだ。借金取りが病人の布団を剥がしてでも持って行く非情な話は昔話かも知れないが、似たような事が起きている。それはウラン原発の代替原発とされるトリウム原発である。 原発とは核燃料を使って蒸気発電をする方法であるが、現在はウラン原発が主流ある。しかし、それは元々、発電の為に開発したものではなく核爆弾を造る為に研究開発したもの(マンハッタン計画)で、核爆弾の原料であるプルトニウムを抽出させるものであった。それを使って発電させる事になったのは後年、民生用に解禁になってからである。ウランで成功するまではトリウムで開発されていた。しかし、トリウムの場合はプルトニウムの抽出が出来なかった。つまり、原爆の材料が抽出されないものなぞアメリカにとっては不要だった。発電に役立っても目的が違った。発電なぞ余りある石油を使えば矢張り蒸気式の火力発電で幾らでも出来るのだ。プルトニウム抽出こそが大目的であったのだ。 目的は達成された。つまり、二種類の核爆弾を人体実験する事が出来たからだった。広島と長崎の街と数十万の人々を一瞬の内に抹消・殺戮する事が出来、データも採れた。核爆弾を投下した当時は単純に喜んだアメリカも、甚大な効果に驚き、やがて恐怖心に駆られるようになった。もし、これがアメリカに投下されれば自分達も同じ悲惨な運命に遭う事になるからだ。戦争終結の為に研究開発されたものの、出来あがった頃には日本は既に戦闘能力が失われていた事実も政府は知っていた。極秘裏に研究開発させられていた関係者達は緘口令が敷かれ外界のニュースは遮断されていた。だから核爆弾投下で戦争が終結したというねつ造ニュースに関係者とアメリカ国民は勿論、世界は湧いた。核爆弾が終戦の主役になった。 二種類の核爆弾投下で戦争が終結したというねつ造ニュースがアメリカ政府の自己弁護の為のものだったのに対して、日本では独善的陸軍と傀儡政権及び天皇の悠長な考えと見通しの為に、戦争降伏(敗戦)宣言の発令が遅れてしまっていた。その為に二種類の核爆弾投下にまで至ったのだった。それを事前に日本側に知られれば貴重なチャンスを逸するとして、アメリカは外交戦術で時間を稼いだという事実も記録として残っている。つまり大規模な人体実験が実施された訳だ。それ以降の歴史は我々が観た通りである。アメリカは罪の意識から日本の復興に力を注ぎつつ、そうする事でアジアの赤化を何とか防ぐ事が出来た。しかし、核爆弾の技術は何故か国連安全保障理事会の五つの常任理事国全部が持つ事となった。 それで核のバランスは保たれたとするのだ。つまり日本の犠牲において、その被爆の現実の恐ろしさが人々の恐怖心を煽り、核使用を鈍らせ、東西の冷戦が戦後50年間保たれたとするのである。何の事は無い、我々はモルモットであった訳だ。戦争に負けるという事は心までも卑屈にしてしまい、牙を抜かれた虎は単なる豚になってしまったのだ。それで世界が平和になるのならまだしも、戦後、戦争の無かった地域は世界の何処にも無かった。世界の警察(戦争屋)として自負してきたアメリカが今やドルの失墜から世界覇権の座から降り、世界覇権が地域覇権に変わりつつあり、BRICKによる多極化ともなりつつある。そんな今、エネルギーを求めて世界は争奪戦を繰り返している。目標は中東と北アフリカの石油である。 リビアのカダフィーが頑張ろうと反勢力派が頑張ろうと単なる内戦に過ぎないのに欧米は石油利権を得ようと空爆を仕掛ける。地中海の北のキリスト教圏と地中海の南の回教圏との対立になりつつある。それで中東の同盟諸国(回教国)との対立が深まると困るアメリカは、半分逃げ腰ながらイギリスに引きづられ地中海の軍艦からカダフィー側と応戦しているのである。しかし石油利権を得ても石油の枯渇限界を知る彼等は次なるエネルギーとされる第二の原発トリウムに向かいつつあるという。日本もウラン原発が駄目になって(当面は稼働を続けるだろうが)次の代替エネルギーにトリウム原発に向かうという。推進派は、ウランの軽水炉がそのまま使え、プルトニウムが出ず廃棄燃料も少ない利点が平和利用であると強調する。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/26
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価値観と大自然 16年前の阪神大震災(1995)で物(動産や不動産)の価値観が大幅に変わってしまったのだったが、今回の東北関東大震災では無情にも人の命のはかなさを強く感じて、矢張り人の命というものが大自然に生かされている事を強く感じたのだった。何故なら、死者や行方不明者の合計が3万人を越え、それも一瞬にして亡くなるという惨事は人為的に起きたものではなく一寸した大自然の変動で起きた結果だからだ。今回ドイツから来てくれた緊急救助隊のドキュメントをテレビで観ていて、女性の隊長が「こんな惨事は初めて観た。普通なら人の生命反応が瓦礫の中から感じられるものなのに此処では全く感じられない」と驚いていたのでも分かる。それは運命とか宿命というものではなく、大自然の摂理そのものなのだ。 今月初めに、運命とか宿命についてブログに書いたが、それは人間の立場から観た観方に過ぎず、大自然の立場から観れば非情なものでしかないという事だ。つまり人の都合なぞ全く考えない、情とは無関係の事で、奇跡的に10日ぶりに老婆と少年の二人が瓦礫の中から救助されたのは、ほんの偶然の事で、それは人為的に起きたものではなく大自然の狭間の一部の動きでしか無いからだ。しかし、そういうのを人は奇跡と言い、大きく報道し祝福する。一瞬にして多くの生命を奪った大自然の非情の中に見出した一つの光明に観えたのだろう。が、大自然はそんな事は考えもしない。物理的に観れば地球の表面を覆っているミカンの皮のような何枚かに分かれたプレートがマントルの対流で移動しただけの事なのだ。 つまり、プレートテクトニクス理論(1960年代後半以降に発展した地球科学の学説)では、プレート同士がぶつかり合う接面で生じた捻じれが、プレートの復元作用でポンと弾けて元に戻っただけの事なのだ。その一寸した反動が大地震となり大津波が起き、沿岸部の陸地に在るものを根こそぎ押し倒したのである。だから地震発生から津波が来るまでの僅か30分間内に逃げ遅れた多くの人々は濁流に呑み込まれ窒息死し瓦礫と共に流された。具体的なプレートとしては日本列島の東にある太平洋を支えているフィリピン海プレートと日本列島が乗っている北米プレートが日本海溝でぶつかり合い、フィリピン海プレートが北米プレートの下に潜り込み、その為に北米プレートの東端が引き込まれ、突然跳ね返った現象だった。 分かり易く言えば、1億年前にハワイ諸島にあったフィリピン海プレートに乗っていた島(今の伊豆半島)が、毎年6cmづつ日本に向かって移動して1億年掛かって6千km離れた日本にぶつかったのだが、海上に山が出ている為に北米プレートに潜り込めず、お互い反発し合いながら長年圧縮され、その為に発生した歪みエネルギーで北米プレートの接点部分が押し上げられ丹沢山地や富士山が出来たという。だから富士山は活火山として長年煙を出していた。江戸時代に煙の出ている富士山の風景画が残っているが、宝永の大噴火(1707年)では富士山の南東の形が崩れた。その頃の地震活動や火山活動のパターンが今回と非常に酷似していると言う。それは江戸時代に記録された日記から判明すると地震学者は言う。 そういう一連のパターンが地震帯(活断層)となり日本や近辺に影響を及ぼしているので日本周辺は地震の活動期に入っていると言われ、大自然の周期運動が起きていて、ちっぽけな人間は幾ら偉そうな事を言った処で大自然に生かされているという事実は誰も否定出来ない。日本と違い地震の少ない大陸でもハリケーンや洪水や山崩れ、雪崩など人間の力の及ばない大災害がある事で人間は大自然の中で生かされている事が分かる。だから、人間はその事実を冷静に受け止め、人が人らしく生きて行ける為にも尊厳を持って自然と共に生きる事を考えるべきなのだ。決して自然を征服しようなぞと考えても無駄なのだ。そういう意味では原子力の脅威については人間はもっと真摯な態度で接しなければならない。 今回の東北関東大震災で、地震や津波が発生した事は止むを得ないとしても、原子力を軽く観た事が返す返すも残念でならない。震度7に耐える建屋を建てておきながら、同じ建屋内の上部に不用意にも使用済み核燃料の冷却プールを設けたとか、隣接部に設けたバックアップ・システムが震度7にも津波にも耐えられないお粗末な技術の産物でしか対応出来なかった事は余りにも原子力を軽視したとしか考えられないのだ。海外からの原子力の技術的批判を謙虚に受け止め、経済優先思想がこんな人為的大災害を発生させてしまった事を反省し、原子力を軽視した人間の驕りを戒めなければならない。それにしても大自然は人間の想像を絶する猛威で虎視眈眈と狙っている。大自然への畏敬の念を我々は忘れてはならないのだ。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/25
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危機管理(7) 危機管理という用語が戦争のクライシス管理から生まれ、後にリスク管理と同様に使われるようになったのだが、前者は起きてしまった事に対してのプラン・ドゥ・シー(対策・実践・評価)であるのに対して、後者は起きる前の対策としてのプラン・ドゥ・シーという点が少し違う。しかし、今では同じように使われ、主にデモ対策やテロ対策のような権力者側から観た対策であるかのような印象が強い。勿論、企業自身が自社の存亡に関わる事にも成り兼ねないリスクに対して事前に考えられる総ての事の対策に及んでいる事は言うまでも無い。簡単にまとめれば、現在発生中の被害を最小限に食い止め、危機のエスカレーションを防止し、危機を正常な状態に戻す事である。列記すれば至極単純なものである。 ところが言うは易く、行うは難しで、東北関東大震災級の自然大災害は防ぎ様が無かったとしても、福島原発の場合は防ぎ様のある人災であったのが非常に残念なのである。だからこそ連日、その事をブログで指摘し糾弾しているのである。糾弾する以上は責任者が居る。それは言うまでも無く原発の推進派連中であり、間違った情報を流し今も涼しい顔をして世間に顔を出している連中である。具体的に言えば、東大・東工大の原子力関係の名誉教授や教授や准教授であり、原子力委員、推進政治家、経済産業省保安院、電力会社である。当然ながら政府は最高責任者である。前政権が造ったものだから今の政府に責任は無いという事は許されない。良いも悪いも総て引き継ぐのが政治の世界だからだ。 嫌なら即刻総辞職して頭を丸めるべきである。その代わり尻ぬぐいも出来ない無能内閣として世界の笑い物になるだけだろう。政治家は国民の為に私利私欲無く一所懸命に考え働くのが役割である事を忘れてはならないのである。権力を手にして有頂天になって居られるのは平和な時だけで、それも裏で必至の危機管理を実施している場合に限られる。単なる運任せで政治をやるなら八卦見(易者)にでも任せるべきだ。ところが、ボクの研究してきた陰陽五行や四柱推命は単なる八卦見ではなく、総てバランスが上手く保たれるように注意しアドバイスする為のものだから事前に手抜かりになっている面があれば補う方策を勧めるものである。当たるも八卦、当たらぬも八卦という50%の確率の当て物ではないのである。 尤も、今は未だ責任論を言う時期ではない。危機が去って安心した状態になってから幾らでも責任は追及出来る。関係者は首を洗って待っていれば良いのである。その間に言い訳を考えるだろうが、事実は残っているから言い逃れは出来ない。言い逃れと言えば、政府はアメリカに頼んで無人偵察機を飛ばして福島原発の詳細な写真を入手しているにもかかわらず公表しない。何故だろう。考えられるのは非常に厳しい現実が其処にはあるからだろう。厳しい現実とは原子炉の破壊若しくはひび割れと考えられる。原子炉の1号機と3号機は建屋が爆発で破壊されて中が観えるから写真に写っている筈である。それなら大変な事だから緊急に避難半径を拡大し指示しなければ被爆者が増えるばかりである。 それでも政府系の学者や評論家は大丈夫だと虚ろな目をして作り笑い迄して言い続けている。之はもう国家犯罪の最たるものである。犯罪協力者がテレビで国民に嘘の報道を流し騙し続けるのである。政府は正直に写真を公表して対策として今は之と是をしなければならないと伝え国民に協力を求めなければならない時である。真実を伝える事でパニックが起きるのを恐れて隠しているのなら尚更ナンセンスである。被爆者を出来るだけ最小限に留めるのが彼等の仕事である。仮に、想ったほど厳しくなければ安心材料として矢張り国民に知らせるべきである。安心させればパニックは起きない。正常な頭で考えればそれが普通のやり方だ。隠すというのが信用ならないのである。 詰る処、危機管理とは目的を間違えると、とんでもない結果を生む事になり、後でそれがバレた時に弁明出来ないという事に成る。尤も、後で分かったところで時効になっていたり情報公開される時期が数十年もの後である場合は逃げおおせたと考えるのであろうか。あの時はああいう方法が一番良かったのだと強弁で誤魔化すのであろうか。それは人間として一番卑怯で姑息な生き方でしか無い。自分に誇りの持てない人間である。自分の一族郎党がその頃に生きていても厚顔無恥の顔をして居られるのであろうか。子孫から批判めいた意見が出ても、それこそ蛙の面に小便で、無能な政治家と呼ばれるのを最も恥とし、ヒトラーのような強権政治家が理想だと言うのであろうか。それこそ無能を証明している様なものである。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/24
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危機管理(6) 原発事故による放射線被害について正しい知識を持たない事には、嘘つきの学者や評論家の言う事を真に受けて聴いていると酷い目に遭わないとも限らないので、ボクが入手した情報を報告しておこう。知らないまま放射線汚染されてしまっては泣くにも泣けないし、何故、政府は、あんな嘘の情報を流したのかと後年になって腹が立っても後の祭りだ。先ず、政府報道では3月16日、福島第一原発から半径20kmの避難指示範囲圏外では、放射線による差し迫った健康への害はないと発表しているにもかかわらず、アメリカの見解とかなりかけ離れている。在東京の米国大使館は、福島原発から半径50マイル(約80km)圏内に住む自国民に対し短期的影響について圏外に避難するか屋内退避するよう勧告している。 つまり、4倍もの避難距離の違いがあり、その根拠としては20日のブログ「危機管理(3)」で説明した通り、欧米の基準の方が現実味があるとボクには想える。ちなみにAFP(ニュース)によれば「福島原発から250km離れた東京においては特に健康に悪影はないと、フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)のジャック・ルプサール(Jacques Repussard)所長が仏議会委員会へ報告しているが、その根拠として福島原発から半径数キロのある地区で放射性プルーム(放射性雲)が存在していると指摘し、この放射性プルームは数日以内に原発から数百キロの地域にまで及ぶが、東京で健康に悪影響が出る程の事もなく、長期的影響としては放出される放射性物質量が未知数の為、様々なシナリオが考えられる。 それは、強い汚染地域は福島原発周辺半径60km範囲に及ぶ可能性があるが、その圏外では測定可能な影響はあるものの劇的な影響はないだろうと言い、IRSNの環境的介入部門の責任者ディディエ・シャンピオン(Didier Champion)氏によると、福島原発の影響は、おそらくチェルノブイリ(Chernobyl)事故よりもさらに局所的影響にとどまるだろうと話している。そのマイナス面は、半径10~20km圏内の汚染濃度はより高くなるとみられ、プラス面は、それより遠い地域の汚染は少なくなるとみられる事である。主な汚染源として放射性廃棄物が長期にわたって健康に影響するのは大きな問題であり、福島原発から放出されると思われる汚染物質はヨウ素131とセシウム137である。 半減期(半減期とは放射性元素が崩壊し、元の数から半減するのに要する時間の事で通常、放射性元素の危険性が残る期間は半減期の10倍とされる)は、ヨウ素131が8日間、セシウム137は30年だ。放射性ヨウ素とセシウムは発がん物質で、大気中や飲料水から直接体内に取り込まれても、食物連鎖を通じて間接的に摂取されても健康に脅威となる。放射性ヨウ素は非常に揮発性が高く、大気に拡散しやすい。水源が汚染されたり、穀物や葉物野菜などに付着してそれが家畜や人間の体内に取り込まれたりすると危険だ。ヨウ素131は数か月のうちに完全に崩壊するが、半減期30年のセシウム137は、キノコ類や野鳥に蓄積しやすく、1950~60年代の核兵器実験によって大気圏に放出されている。 以降、汚染物質は崩壊してきているが、健康に害がない程度の量は誰もが浴びている。チェルノブイリ原発事故でもセシウム汚染が発生した。米環境保護局(US Environmental Protection Agency、EPA)によると、汚染された土壌がちりとなって大気中に浮遊したものを吸い込こんだり、汚染された水を飲んだりすると内臓が被ばくし、生体組織が侵される。植物ではセシウムは最初に葉の部分で、次に根に吸収される。またキノコ類や野鳥の体内に蓄積しやすい。除染としては、放射能に侵された場所の除染は巨額の費用と長い時間がかかる危険な作業だ。汚染された土壌は取り除いて埋め立てるが、汚染された土壌自体がなくなるわけではない。特別な炉で土壌を焼却処理して有害物質を無害にする方法もある。 が、非常に費用がかかる上に技術的にも難しい。汚染された土壌を溶剤と混ぜて洗浄し、汚染物質を含む廃液を処理する方法もある。水の汚染の場合は合成繊維のフィルターでろ過して固体粒子を捕捉するが、この方法が有効なのは汚染レベルが低い場合に限られる。水を沸騰させて固形化した汚染物質を分離する電気透析法による脱塩(放射性イオンの除去)も有効だ。損壊した原子炉は閉鎖された後も長期間にわたり放射線を出しつづけるが、これを封印する方法には何種類かある。チェルノブイリの場合は鉄筋コンクリートの石棺を建設して封印したが、この応急的な構造物には亀裂が入り、建て替えが進められている」と結んでいる。まとめれば、矢張り福島原発から半径80km圏内では放射線を被爆するという事だ。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/23
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危機管理(5) 今回の福島原発事故はスリーマイル島原発事故の上を行く大惨事になってしまい、チェルノブイリ原発事故と肩を並べるまでになってしまった。現段階での海外の危険度評価は最高レベルの一つ手前「レベル6」となっている。アメリカ政府は「福島原発から半径80km圏内のアメリカ人は国外退去を」と勧告している。これは4号炉の使用済み核燃料保管プールの水が全部無くなり空気に爆露され放射線量が異常に高くなっている(400ミリシーベルト以上)との判断からだ。他の各国も同様の判断で、迎えのチャーター機を出している。ロシアの原子力関係者からは「日本の原子力発電設計は経済効率優先」と酷評されている(旧ソ連時代に政府機関の責任者を務め、原発事故の汚染除去を担ったアンドレエフ氏の弁)。 安全よりも経済効率の方を重視する日本のやり方は他にも目を向ければ枚挙に暇が無い。記憶に新しい6年前の兵庫県福知山線(新しくJR東西線と改名)での列車転覆事故と同じ構図である。スピードアップを図り安全性を無視し、急カーブの線路に自動列車停止装置(ATS: Automatic Train Stop)を設けなかったが為に、制限速度の時速70kmの処を時速100km以上のスピードで突入し脱線転覆したものだった。亦、運転手の教育(日勤教育)で罰則規定が厳しくノイローゼになっていたというのも遠因になっていたと言われる。事故の直前まで長年、ボクもその路線を利用していたから急カーブに差し掛かる度に肝を冷やしたのを覚えている。言わばジェット・コースターに乗って居る気分だった。 JRもそうだが、東京電力も分割民営化された会社である。之も経済効率と独占禁止法から戦後、分割民営化されたのである。電力会社は、全国九つに分割され、北海道電力、東北電力、東京電力、北陸電力、中部電力、関西電力、中国電力、四国電力、九州電力に分かれた。9電力会社は電気事業連合会を設立し、一方、1952年9月には、電源開発株式会社が発足した。沖縄電力は沖縄返還(1972)後に設立されたから日本の電力供給は全部民間会社が行っている。しかし、原子力発電のような危険を伴う事業は事故が発生した場合の事を考えると一企業では対応出来ないから国家管理が必要である。補償問題を考えれば明らかだ。ちなみに今回の補償問題を簡単に試算してみた。之を見れば驚く程の額に成る。 半径20km圏内の避難した人々の動産だけでも一人当たり単純に1千万円とすれば、圏内の五つの町の人口だけでも63,875人だから6,387億円となり、土地・家屋・田畑を時価で換算すれば幾ら田舎で安いとしても一戸分当たり3千万円は下らないだろうから平均3人家族とすれば21,291戸となり、6,387億円になって合計1兆2,774億となる。死の町半径20km圏内の私的資産だけでもそれだけに成る訳である。公的資産も入れると倍にはなるだろうから2兆5,548億円もの金を東京電力が負担出来る金額では無い。それは消費税1%に該当するから1年間の時限立法で1%の消費税(福島原発被害者基金)導入が検討される由縁だ。又しても国民にしわ寄せである。 安易な国民からの消費税1%徴収案では無く、この際、原発推進派から一人当たり1千万円の罰金を科すのが妥当という意見もあろう。述べ5万人は居るだろうから(死んだ人間は遺族から)徴収すれば5千億円は集まる。更に国会議員は給与を1年間半分にする。勿論、電力各社からも補償金を徴収する。その他、原発関連企業からも協力金を捻出させる。そうこうすれば4兆円程度は楽に集まるだろう。無責任な国会議員もそうする事で目が覚め真剣に考えるだろう。そういう態度を原発推進派が示せば国民も黙っては居ないだろうし協力もするだろう。国難を乗り切るにはそれぐらい想い切った政策を取らないと駄目だ。事故から1週間、国民はテレビに釘付けになり政府・電力会社の間抜けさと、うろたえぶりを観て来た。 次は国民が挙国一致して国難を乗り切る時だ。国民あっての国家である事を政府に知らしめる時である。危機管理の第一歩は国民自身が政府を監視する事である。キメ細かい目線で観れば危機は直ぐに気が付く。双方向の通信が可能に成っている現代では反応が早い。原発推進派も反対派も冷静になって今後のエネルギー政策を見直すべきだ。未だ実用化されていないメタン・ハイドレードは日本の周辺の海底に無尽蔵に転がっている。無資源国と想われていた常識が変わる時である。つまり、エネルギー輸出国に生まれ変わるのだ。折角の自然の贈り物を生かさない手はない。其処が技術立国日本の腕の見せ所である。今は悲観ばかりせず前向きに考え、甘い政府の危機管理を是正させる事が先決である。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/22
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危機管理(4) 東北関東大震災で多数の犠牲者が出たのは非常に残念な事だった。震災の余波が未だ続いている状態だから簡単に過去形には出来ないが、天災による被害は人間の力では防ぎようが無いとして今は如何に安全で居られるかの方法を講じ、被災地のバックアップを継続するしか無い。その為に危機管理体制が在るのだ。が、満心した人間の油断が危機管理を妨害する。例えば10mの防潮堤があるから安心と信じて高い処へ逃げ遅れた人々が意外にも多かった。後で助かった人にインタビューした処、殆どの人が防潮堤に期待していた事が分かった。防潮堤よりも高い津波が来るとは想わなかったというのが常識になっていたのだ。非常に危険な常識だった訳だ。それよりももっと危険な常識が今回の原発安全神話だった。 つまり、原発推進派による危険度の隠ぺい作戦が展開され、世間に間違った常識を植え付けてしまったのだった。その常識とされた専門知識の発信元が東大と東工大(菅首相の母校)の学者連中だった。今でもその姿勢は変わらず、連日テレビに代わる代わる出て「自分達は原子力の権威だから素人は黙って我々の言う事を聴けば良い」という態度で、お為ごかしの安全神話を臆面もなく平然と語るのだ。政府も都合の良い意見ばかりを採用して、少数派の真実を語る学者や識者の意見を一笑に付して来たのだった。少数派は先ず地震学者の意見だった。原子力安全会議の都度、意見が無視された。政府や政府系の学者は何百年に一度発生するような大地震や大津波なぞ、せせら笑って信じようとしなかった。 事故が起きてしまった今だからこそ国民は真実を知る事が出来るようになった。東大と東工大の学者の安全神話が嘘だった事が白日のもとに晒され、少数派の他の大学の学者が遅まきながらボチボチとテレビで語れるようになった。原発推進派は震度7に耐える建物さえ造っておけば絶対に大丈夫だと短絡的に想い込んでいた。耐震性の建物の中に原子炉があれば地震がきても自動停止して安全だと想っていたのだ。建物の周りにある設備や付属する回路や配管等は全く意識から欠落していた。今回の事故で国民は原子炉の仕組みを知り、万が一事故に遭えば核燃料棒を水で冷やす事で何とか放射線の発散を最小限に抑える事ができるという事を知った。そんな簡単なバックアップ・システムが全く危機管理体制から外されていた。 何故だろう。それは建設コストが掛かり過ぎるからだった。充分に冷却するバックアップ体制を取れば倍以上の建設コストが掛かるのだ。だからこそロシアの学者から指摘されたように「日本の原発設計思想は経済効率優先で安全は第二だ」と今頃になって日本のマスコミが言う。以前から分かっていた事を初めて知ったようにマスコミは言うのだ。東大・東工大の学者は口裏を合わせない事には自分の学会生命が終えてしまうから心では分かっていても嘘を平気で言うのだ。自分の親分と違う説を言うという事は仲間から弾き飛ばされて学界に居られなくなる。政府も金を出さなくなる。経済産業省保安院という訳の分からない組織においては危険をひた隠しにして国民を騙す為に言葉を操る部署のようにさえ観えてしまう。 記者が保安院や東電に鋭い質問をすると緘口令が出ているせいか黙るか違う話ですり替える。が、流石に彼等は政治家ではないから顔に出てしまう。それを国民が観て彼らの嘘を知る。更に政府は彼等よりも嘘を巧みに伝えようとするから国民の不信感を買う。自衛隊や消防隊員を単なる道具のように考え具体策も示さず「兎に角、放水で何とかせよ」と命令だけしてイライラするのである。首相には人徳と言うものが無く、政府も完全に統率力を失っているから隊員達からは信頼されず国民からも見放されてヤケクソになっているのだろう。耳にタコが出来るぐらい「安全だ」とか「健康被害は全く無い」と言うなら、自分達が率先して半径30km圏内に入って陣頭指揮を取るべきなのだ。 そういう基本的な事もせず、それどころかヘリコプターで上空から原発を観ただけで絶句して慌てて戻って来て好き勝手な事を言っている首相では組織が機能する訳がない。冷やかに観れば、原発推進派は冷却装置さえ改良すれば今後とも原発は造り続ける事が出来ると考えているだろう。今更、危険と言われようが蛙の面に小便なのだ。是ほど美味しい事業は無く、是ほど楽な研究は無い、犠牲になった人々は運が悪かったのだと考える。国民は冷静に考えて、電気事業が供給不足になれば国益が損なわれ快適な生活が出来なくなるという脅しに乗らない事だ。原発以外の方法で発電を考えるのが人間の知恵というものなのだ。原発は、気分が良くなるからと言って麻薬に手を出すのと同じ理屈、危険は自明の理である。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/21
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危機管理(3) そもそも危機管理とは誰の為のものか。考える迄もなく国民の為である事は誰も否定できないだろう。しかし、勘違いする人々も多い。例えば、政府関係者は国民の代表と考えているから自分達の考える事が即国民の為と想いこんでしまう。ところが政権をやっとの想いで取ったのだから自分達の想い通りの事をやる事が国民の為だと勘違いしてしまうのだ。勿論総てが間違っているとは言わないが、偏った考えではもう一方の偏っていない方の考えからは遊離してしまう。仮に分かっていても正そうとはしない。何故なら政敵の言う事なぞ聴けば腰砕け内閣と言われてしまうからだ。それがやがて国民の真を得られなくなってしまうかも知れないという心配もある。支持率が落ちても意地になってでも押し通そうとする。 泥船内閣と揶揄されようがコントロール不能内閣と呼ばれようが現実に政権を握っている以上は権力を行使する事が出来る。間違った方法であっても結果オーライともなれば国民は支持してくれるだろうという淡い期待がある。だから今回の避難指示範囲を事故原発から半径20km圏内として置きながら自衛隊、警察、保安院の現地駐屯場を半径50kmの処に置くというのは矛盾する。仮に半径30km圏内から半径20km圏内を差し引いた輪状の処を注意区域として自宅待機させるのであれば、矢張り其処に自衛隊、警察、保安院等も置くのが筋だ。それをわざわざ20kmも後方に置くのは半径50km圏内が危険区域にあるのが分かっているからだ。その中に居る国民なぞどうでも良いのである。 だから外国(アメリカ、韓国)は半径80km圏内に居る自国民は退去せよと言っているのである。遠ければ遠い程、放射線は弱くなるからだ。放射線は電気照明と同じく離れれば離れるほど弱くなる。距離の二乗に反比例するという原理になっているからだ。半径20kmから半径40kmに移れば距離が倍になるから放射線は距離の倍の二乗で四分の一にまで落ちる。半径50kmになれば2.5倍だから六分の一にまで落ちる事になる。仮に半径20kmの処で1マイクロシーベルトとすれば、半径50kmでは0.16マイクロシーベルトとなり健診のCTスキャン程度まで落ちる。その程度なら放射線被曝も程度が知れていると政府は判断したのだろう。政府は一般国民よりも官の方が大事なのだ。 半径80kmではどうだろう。先の数値で比較すれば半径20kmで1マイクロシーベルトとすれば四倍の距離だから十六分の一となり0.06マイクロシーベルトとなり定期健診のレントゲン写真撮影を数回分撮った程度で人体への影響は少ない。その程度なら許されると判断したのだ。日本と外国とでは許容範囲が10倍ほど違う。つまり、日本人は政府から十分の一程度の命の評価しかされていない事になる訳だ。実に腹が立ってくる。ボクなんか定期健診のレントゲン撮影も嫌で、30年以上も毎回拒否している位だ。ところが妻は7年前の乳がんの手術でCTスキャンやペット撮影を何回も受けたから相当量の放射線被爆者になってしまった。免疫力も落ち、身体がだるくなったというのも分かる。 まあ、こんな内閣では避難は国民が自主的に考えるしか無いようだから、せめて気休めでも遠くへ避難した方が良いが、出来る人と出来ない人とに分かれる。半径80km圏内の危険区域に留まる人は覚悟しなければならない。東北地方に生まれ育ったのが宿命と諦めるか、否、絶対に生き抜いてやるという人は相当な覚悟で脱出する事だ。パニックになりかけている東京は福島原発から300kmほど離れ、二百二十五分の一になるから現在のところ0.004マイクロシーベルト程度になる理屈で、多くても0.01マイクロシーベルト程度だそうだから、そう心配したものでも無いようだ。ボクは20年前、東京へ単身赴任をしていたが、その頃はそういう心配はしなかった。単に運が良かっただけの事で、想えば恐ろしい。 それでもボクのような神経質な人間は、一旦知ってしまえば絶対そういう処には住めないだろう。無知な医者は「あんた、そう言うけれど、テレビを観ていても放射能は浴びるるんだヨ」と馬鹿な事を言う。テレビの放射線なぞほんの微量だから問題にもならないのに、そう言って脅かす。インテリと言われる医者でさえその程度なのだから、政府機関の素人なぞ推して知るべしである。国民はもっと疑いの目と常識をもって、流言飛語にも惑わされない為にも危機管理が誰の為にあるのか考えるべきである。政府要人と皇室の為に危機管理があるとするなら、国民は形を変えた奴隷でしか無い。一体、何時から日本はこの様な変な国に成ったのだろうか。矢張り戦争に負け、アメリカナイズされたからだろうか。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/20
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危機管理(2) 早いもので東北関東大震災が起きて一週間が過ぎ、その間の被災地の惨事に大勢の人々が避難移動した。更なる地震と津波の心配は通り過ぎたが、福島原発の惨事は一向に回復せず、何とか放水で冷やして放射線洩れを止めている段階である。アメリカと韓国は福島原発から半径80km圏内からの自国民の避難勧告をした。つまり日本政府の半径30km圏内避難勧告を信用していないという事である。中には自国民の安全救出の為に自国のチャーター飛行機を成田や羽田に出向かせ運び出している国もある。福島原発から東京まで300kmあるから東京は未だ安心していられるのに人々は疑心暗鬼になっている。それは日本政府が嘘報道ばかりし被災者の事を親身に考えていない態度に呆れ心配ているからだ。 正確な現状情報を流さず「大丈夫」とか「健康被害にまでは至っていない」とか「計画停電に協力を」と言うばかりでは東北地方は勿論の事、関東の人々は今をどの様にして乗り切れば良いのか分からず取りあえずは、スパーやコンビニ、ホーム・センターで非常時の物を買いだめようとする。だから直ぐに売り切れてしまう。関西のボクの住む町でさえも昨日、スーパーやホーム・センターへ行くと既に水は売り切れて無くなっていた。自宅に備蓄している水の賞味期限が迫っているので取り替えようと軽い気持ちで行ったのだった。「次は何時入荷するか分からない」と言われ、一週間近くのんびり構えていたのを妻と顔を見合わせ苦笑してしまう始末だ。こんな遠い関西でも人々は神経質になっているのである。 当然ながらボクは非常事態の今、ブログでパニックを煽っている訳ではない。正確な基礎知識でテレビを観、それから得られる情報を不伝達な処へ伝える事で正常な判断をしてもらいたい為に書いているのだ。情報を隠ぺいしたり加工して伝える事の危険性は、これまで幾度も観たり体験しているから人々は直感と嗅覚で「騙されないぞ」と身構えているのだ。尤も、正確な情報は時としてパニックに成る場合がある。それは知識不足であったり無知であるが為に起きる現象だ。しかし、人々は殆どが専門知識には無知なものである。それは当たり前の事で恥じる事では無い。が、常識程度の知識は欲しい。しかし、常識も時として間違っている事がある。だから、冷静に色々な事象を繋ぎ合わせれば真実が観えて来る。 真実が観えなくとも様々な疑問が生じるだろう。その疑問に応えるのが政府なり報道機関である。それなのに「お前たちは素人なのだから我々の言う事を聴いて居れば良いのだ」という驕りと差別意識は独裁政治である。強権国家である。民主国家と謳いながら国民をコントロールしようとしているのである。共産国ならそれが当たり前でも日本では許されない。馬鹿な政府でもそれぐらいの理屈は分かるから更に陰険に巧妙に誤魔化そうとする。所謂、戦前の大本営発表と同じである。その事から今回の計画停電について、いきなり震災翌日の3月12日に、未だ福島原発の被害状況が公表されない内に首相からTV発表があり、それを観て日本は戦前の状態に戻りつつあると想った。事実を握りつぶそうとしているのだ。 政府は電力・交通網・船舶・通信などの担当閣僚と官僚からの報告を受け、原発の連続爆発前に方針を決めてしまっていたのだ。理屈では原発が地震で自動停止すれば安全と想うのが常識だ。しかし、原子炉の外の周辺機器(冷却装置、電気回路、使用済核燃料プール)が地震と津波で壊れて機能しなくなっているとすれば、その先に来るものは馬鹿でも分かる。特に理工系出身の首相には分かる筈だ。国民へのポーズとして現地へ飛び、上空からヘリコプターでチラリと原発外観を観て、放射線測定器の反応音を耳にした途端「こりゃ駄目だ!」と他の被災地視察なぞそっちのけで急きょ東京に戻った。官邸に戻った顔は流石に驚き引きしまり総毛だっていた。そして先述のように短絡的に計画停電を発表してしまったのだ。 東京電力は急に計画停電を指示されてオロオロするばかりだった。先ず手順を踏まないと企業も国民も唐突な政府発表に驚くばかりである。細川内閣が真夜中に突然、消費税(福祉税)の増税発表をしたのと同じやり方である。政府発表は嘘、実情は隠す、それが大本営発表だった。そしてアメリカの悲惨な原爆投下が起きてしまった。結果は世界史に残る悲劇となった。今回の原発事故の処置が後手後手に回るのは事実を隠そうとするからで前向きな対処法が見付からないからだ。現場で働く人々も人間だから放射能は怖い。国家に命まで捧げる気慨のあるのは自衛隊員と現場に残っている関連企業の50人だけかも知れない。「日本は原発事故の解決方法を持っていない」と外国報道に言われても政府は返す言葉がない。急きょ政府の顧問補佐官になった学者も実践の対処方法を知らない。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/19
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危機管理(1) 福島原発の爆発による高レベルの放射線漏れが報道されてから早朝(5時)に目が覚めるようになってしまって今日で3日目である。以前ならゆっくり寝ているのだが、目が冴えて眠れないのだ。放射能に敏感になっているらしい。しかし、此処は福島から遠く離れた関西なので殆ど影響は少ないのに気持ちが先行してしまっているのだ。心配するのは仕方が無い。何故なら日本は唯一の核爆弾の被害国であり、外国の核実験場における日本のマグロ漁船の被ばくも世界で初めてなのだ。そんな核アレルギー国なのにエネルギー確保の為に原子力発電に半分頼っているという異常に驚く。安易に原子力に頼り過ぎて危機管理がおざなりなのだ。それが今回、大規模な地震と津波で露呈してしまった。恐ろしい話である。 何が恐ろしいのかは言うまでも無く放射線被害である。被ばくすれば知らぬ間に命が奪われたり重い病気にかかり苦しめられるからである。政府は口先だけの危機管理でしかなく電力会社も真剣に取り組んで来たのか大いに疑問である。政府は何ともお粗末な危機管理を電力会社に任せっきりにしていたものである。呆れかえると共に怒りがこみ上げて来る。我々一般市民は何を信じて生きて行けば良いのか虚しさを覚える。一体誰の為の国家なのだ。国民あっての国家なのに国民の方に目が向いていないのである。国会議員を始め地方議員も役人も自分達だけには被害が来ないと想っているのだろうか。馬鹿ではないか。何処に住んでいると言うのだ。同じ国土に住みながら馬鹿学者や評論家の言うままを信じているのだ。 学者や評論家は理論ばかりを振りかざし実践には弱い。実用に向かっては技術者が研究し、これなら大丈夫という線を出し、国家が認める事で初めて世に出る仕組みになってる。しかし、100%安全という事は在り得ない。必ず落とし穴が何処かにあるのだ。それを探し工夫するのも学者なり技術者なのだ。確かに原子力の平和利用の知識は格段に進歩し電力以外にも医療面にも及び日常生活に無くてはならない存在にまでなっている。しかし、其処には厳重な危機管理が為されて初めて役立つ原則というものがあるのだ。まあ好いやという甘さが少しでもあるとすれば直ぐに事故に繋がる。何度も失敗して改良しながら進むのも技術であるが、失敗は即、命にかかわる事だけに慎重の上にも慎重でなければならないのだ。 今回の福島原発の事故におけるGE(原子炉製造元)及びアメリカ政府の見解は単純明快である。震度7の地震に耐えた原子炉が事故原因ではなく、津波で周辺機器(冷却装置、非常用発電機、ポンプ)のダメージによるものだから日本側のミスによるものだと言うのである。事故の原因を詳細に調査しないと断言は出来ないが、一理ある。チェルノブイリ原発やスリーマイル島原発の事故は人為的ミスが原因だったとされている。今回は、バックアップ体制が甘かったのが原因の一つとされている。原子炉ばかりに目が行って周辺機器や装置は二番目となり、そのダメージで原子炉が影響を受けたとされるのである。危機管理とは正にそれを言うのだ。弱点に事前に気が付いて、それをカバーするシステムこそが危機管理なのだ。 甘いと言われれば確かにそうだ。直接的な放射線遮蔽ばかりに目が行って、それをバックアップするシステムに欠陥があったのだ。例えば、電気系統にしてもポンプ系統にしても地震の衝撃に耐えるものは作れるし津波にさらわれない場所を確保する事も出来る。もっと内陸部の場所に置いて遠隔操作で稼働させるシステムも出来る。使用済み核燃料の冷却プールなぞ原子炉建屋の中に設けずに別の場所にすべきだった。場所なぞ幾らでもあるのだ。同じ建屋内にコンパクトに収めるという発想は一見合理的に見えるが危険度は増す。もっと安全意識があれば冷却装置が壊れても別の独立した大きなプールなら爆発も起きないだろう。こういう風に総合的に検証して行けば幾らでも安全のシステムは見つける事が出来る。 建設コストの関係でコンパクトにしなくてはならないという発想がそもそもおかしいのである。費用が掛かり過ぎると言うなら安価な発電システムではないという事になる。石油式の火力発電よりもクリーンで安価だという触れ込みが嘘だった事になるのだ。アメリカ政府からロスチャイルド系企業が独占管理する核エネルギーを使えと半ば命令されて使ったにしろ、それを安全に利用するシステムが割高になるなら日本政府も実施に難色を示せる筈だ。アメリカの言いなりではなく、独自に考察して合理的整合性のある反論があれば堂々と交渉出来る。暗黙に政治決着をつけるから政治家が国民から灰色に評価されてしまうのだ。長年与党だった自民党とその一派の官僚連中が今の原子力政策を創り上げた。今やそれを見直す時期である。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/18
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柊南天(ひいらぎなんてん)の花 嘘と誤魔化しばかり言う政府に呆れて、テレビの政府報道を聞かないようにしているのに、民放も同様に群盲、像をなでる式の不勉強な質問や報道をするので、もう信用ならないとテレビから離れ、庭に出ると良い香りがしてくるではないか。梅はそろそろ終え、庭の隅から柊南天の独特の香りがして来るのである。黄色い花で、柑橘系に近い香りだ。馬鹿な政府報道のせいで嫌気がさし東北関東大震災の事を少しでも詳しく知りたい反面、忘れたい気落ちにもなってしまうのは矛盾するが、誰もが同じ気持ちだろう。それでも被災地の人々の苦しみは無視できず、気掛かりなまま毎日鬱陶しく生活をしているありさまだ。あんな政府の嘘を真に受けて居れば危険な方向に向かわされるだけだ。東北の人々は大人し過ぎる。柊南天-001 何故彼等はもっと怒らないのだろう。純朴も良いが、強い意思表示をしなければ愚鈍で無責任な政府は逃げるばかりだ。口では何とでも綺麗事は言える。政府報道は具体性が無く、形容詞ばかりを使う。数値も曖昧にして「危険性は無い」とか「直ちに健康被害は無い」と言う。測定放射線の数値単位もマイクロシーベルトからミリシーベルトに変わっても、単位が一寸変わっただけだという表現をする。千倍も違うのに何が一寸の違いだ。8,000マイクロシーベルトは8ミリシーベルトの事で福島第一原発の点検中の4号機が火災を起こし放射線漏れを起こしているのが100ミリシーベルトあり、3号機付近では400ミリシーベルトもあるのが確認されたというではないか。いよいよ危険度を増して来た訳だ。柊南天-002 福島第一原発には全部で6機の原子炉がある。全部の原子炉が怪しくなって来た。第二原発を入れると10機にもなる。「チェルノブイリ原発事故ほどにはならない」と枝野官房長官が軽口を言った舌の根も乾かない内に、その比ではなくなって来たのだ。ちなみに最近のチェルノブイリ原発周辺での放射線測定値はようやく落ち着いて3.5ミリシーベルトである。福島原発の400ミリシーベルト(114倍)の異常さが分かる。恐ろしい事故だ。それを「安全だ」と言う馬鹿な男が居る。あれで弁護士だと言うから呆れる。彼に弁護を頼めば無罪も有罪になってしまうだろう。それでも東北人は気が良いから従順に従うのだろうか。ボクのような関西人は即座に反論し彼等の国家犯罪を弾劾するだろう。柊南天-003 そういう煩わしさから少しでも逃げて気分転換をしたいと庭に出てパター練習をするのだが、それでも様々な事を考えてしまう。例えば、これからの日本はどうなって行くのだろうかとか、今回の原発事故で世界は学習して少しは安全で良い社会に向かって行くのだろうかとかだ。ココも一緒に来る。その鼻先を柊南天の香りが通り過ぎて行く。もう春なのだ。しかし、今年の花見は止そう。気が勧まないのと東北から放射線汚染粒子が舞い落ちて来るからだ。雨も注意だ。春雨に濡れる気分ではない。子供の頃のビキニ環礁での原水爆実験や死の灰を含んだ雨や放射線汚染されたマグロを想い出す。五十年以上経っても人間は一向に賢くならないようだ。人間の手に負えない核をいとも簡単に躊躇なく取り扱いすぎる。柊南天-004 核燃料の学者達は放射能や放射線に麻痺してしまっているのではないだろうか。自分は現場に行かないから安全だと高をくくっているのだろうか。TVに出演する、おっちょこちょいの学者が現地を見ずして誤魔化しの説明をし、安全だ安全だと政府の回し者の様に言う。僅かな出演料を貰ってそんなに嬉しいのだろうか。後で彼等の言った事が出鱈目だと分かったら国民から糾弾される事を分かって言っているのだろうか。何ともお粗末な心寒い連中である。貧しくとも学者は毅然とした態度でプライドを持つべきなのだ。目先の金に釣らされて何とも哀れな連中である。TVキャスターの中には俄か勉強で慣れて来てシビアな質問を発する者も出だした。殆どが視聴率を意識してばかりいる連中の中にも珍しくまともな者も居るものだ。柊南天-005 さて、東芝が沸騰水型原子炉の冷却装置を福島原発に運ぼうとする動きがある。まさか修理して再度運転再開をすると言うのではないだろうが、政府と東京電力は何を考えているのだろう。取り合えず冷やせば良いと考えているのだろうか。真水が不足して使えないので海水を注入した以上、原子炉はメンテナンスしても正常に使えない筈だ。それよりも放射線汚染された原発の処理は鉄筋コンクリートで密閉して石棺のようにして当面様子を見るしか無い筈なのだ。それも30年が寿命だと言われている。半径20km圏内の死の街、若しくは半径30km圏内の管理はどのようにする積りなのだろう。大いに気掛かりである。避難した数十万の人々の行き場も気に成る。まだまだ寒い東北の春は、まだ先である。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/17
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人生の成功(5) 今回の宮城沖大地震とその直後の大津波の災害状況を連日、テレビで観ていて想ったのは、人生の成功とは関係なしに遭遇する天災とその予防処置についてだった。地震で壊された家は耐震構造になっていなかったからだが、大津波で壊され流された家は殆どが木造と鉄骨造で耐震構造とは無関係だった。大津波に流されずに残った鉄筋コンクリート造の家は、必ずしも耐震構造であったかどうかは不明だが、自重で安定していた。大津波は10m程の高さであったが、陸に上がった段階で岸壁や防風林の障害で半分以下になったものの、何回もの津波で重なりせり上がって三階部分まで浸水し、鉄筋コンクリート造の建物が多少内部を破壊されたものの残ったのを観て人々は鉄筋コンクリート造が頑丈なのを改めて学んだ。 昔は、そういう場所には家は建てず、漁業関係の小屋や休憩所がある程度だった。それが時代と共に漁業が大きな産業の一つになり、漁業市場が出来、漁民が利便性から其処に自宅を建て、他の人々も住み、商店も出来、村が町に発展して行った。津波の恐ろしさは伝聞で知ってはいたが、まさか大津波が来るとは想わなくなって危険度を察知する感性が鈍ってしまっていたのだ。先祖から受け継いだ家の場合は尚更、其処に住むのが当たり前になっていたのだろう。仮に津波が来ても直ぐに高台に逃げられると高をくくっていた人々が津波に呑まれて死んでしまった。ペットに餌をやるからと戻って行った人が帰らぬ人となった。余りにも無知で亡くなった人々が多く出たのが痛ましい。 今後、被災に遭った同じ場所が区画整理事業で広い道が出来、宅地が整備されれば、再び人々は家を建てて住み、商売もするだろう。県や市は個人財産を危険な区域だからと取り上げる事は出来ないだろうから、せめて津波対策の防波堤や水門の整備に力を入れるだけだろう。防災水門は高さが10mあったというが、場所によってはそれを楽に越す大津波もあったようだ。そうなれば10m程度の水門や岸壁を造っても津波は防ぐ事は出来ない。国交省がスーパー堤防なるものを造ったのを見ても、あれは河川に設けた堤防だから高さが10m以下である。だから、岸壁としては用を無さない事になる。まさか15mもの岸壁を海岸線の岬から岬へと造るような大事業は出来ないのではないだろうか。 低い土地には漁業市場と漁業関係者の鉄筋コンクリート造の建物程度しか建てず、残りは田園や畑にしておくしか方法は無いのでは無いだろうか。それが予防策である。数百年に一度の大津波に対抗するにはそれ位の覚悟が必要だろう。だが、岩手県から茨城県までの四県にわたる500kmもの海岸線が、まさか万里の長城でもないが、15mのスーパー岸壁で囲まれるという事は在り得ない。精々、主要港の岸壁だけにそれが設けられれば良しとされるのだろう。そして、次に問題になるのが原発である。今回の災害に対処できなかった福島第一、第二原発と宮城県の女川原発は、津波災害で被害が出たのではなく地震被害だった。軽水炉の炉心の燃料棒を冷やす軽水(真水)が電気系統とポンプの故障で循環出来なくなったのだ。 そこで水が不足して燃料棒の上部が水に浸されず空気に触れる事となり、メルトダウン(炉心溶融)を起こしたのだ。つまり、5m程の燃料棒の上部が冷やされない為に溶けだし、炉の下にこぼれ落ち、そのまま核分裂を続け、高温(2,000度C)となった状態で水と反応して水素を発生させ、それが高圧で炉の外に漏れ出し引火し、炉を覆う建屋を爆発で吹き飛ばしたのだった。当然ながら其れは最悪の状態である。チェルノブイリ原発とスリーマイル島原発に続いて福島第一原発が世界で三番目の大事故を起こし、放射能を周辺にバラ撒いて汚染したのだった。それを政府は必死になって誤魔化そうとして嘘ばかり並べるから国民は疑心暗鬼になっているのが現状である。被爆者が出ているのに除染処理で済まそうとする。 我々は人生の成功を願いながら個人的に幾ら努力しても限界があるのだろうか。所属する国家や機関で個人の幸せが歪められるという事が現実にある以上それは否定できない。せめて他国と比較して自国の良さを喜ぶ程度なのだろうか。それではアメリカ国民やイスラエル国民と何等変わらない。他国を犠牲にして自国民だけが、それも一部の上層階級だけが裕福で贅沢を享受するという構図は間違っている。人類の平和を願いながら上辺の念仏だけに終わっているポーズなぞ直ぐに剥がれてしまう。真の人類愛があるなら他国の犠牲で自国が成り立つなぞナンセンスでしか無い。人は皆平等な筈なのだ。馬鹿な政府でも国民がしっかりすれば立ち直れる可能性はある。人生の成功は詰る処、自他共に納得できる社会を造る事であろう。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/16
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宮城沖地震・津波の為、「人生の成功(5)」は明日にします。放射能被害 3月14日、福島第一原発の1号炉の爆発に続いて心配されていた3号炉も爆発した。あってはならない事故が起きてしまった。冷却給水ポンプが地震でやられ、原子炉内の水位が下がり、燃料棒が露出し空気に触れ、メルトダウン(炉心融解)して水素を大量発生させ、爆発して建物上部を爆破させたのだ。その為、放射性粒子が飛び散り周囲が被ばくしたのだ。半径20km圏内は立ち入り禁止になっているのに、ずさんな管理状態のせいで未だ避難しない人が居るという。民間の放射線調査団が測定した情報をユーチューブ画像で知る事が出来る。爆発した原子炉建屋の付近の学校、役場、病院で放射線を測定したところ、高レベルの為、測定器の針が振り切れたという。「福島第一原発調査隊」のリンク先にジャンプ つまり測定不能状態の高レベルの放射線が出ている事が分かって、チェルノブイリ原発周辺と同じかそれ以上だと言う。恐ろしい状態だ。それなのに政府はやっきになって放射線被害は精々一般の年間被ばく量の数倍程度だから心配ないとごまかしの説明をしている。とてもじゃないが、誰も信じていない状態である。政府は誤魔化し報道ばかりして居ないで、これ以上の被ばく被害者を出さない為にも厳戒態勢で被爆地の警戒をすべきである。福島第一原発の南にある第二原発周辺も厳戒態勢で住民の完全避難を図らねばならないのは言うまでも無い。首都東京の計画停電の呼びかけばかりして原発事故を国民の目から反らさせようとし、正しい情報を流さないのは明らかに国家犯罪である。 ネット上には憶測情報が飛び交っている。不安な国民は正しい情報を得ようとして一所懸命に探しているのである。広島・長崎に核爆弾を投下された核被害のトラウマが福島原発事故で再び蘇って暗い気持ちにさせているのである。アメリカを始めとして中国、ドイツ、フランスが閣議を開いて対策を練っている。放射能の測定もしている。日本政府は最早お手上げ状態のようである。良識ある核開発関連学者は事実を隠さず報道してほしい。お為ごかしの気休め報道は更なる疑念を呼ぶだけだ。「直ぐには健康被害は無い」と言うが、ジワジワと身体をむしばむのが放射線による数々の病気だ。広島・長崎は勿論、チェルノブイリ原発事故での被爆者を想い起せば多くを言わなくても分かる筈だ。 不満を述べたり悲しんでばかりいても仕様が無いから、もう一度状況を整理してみれば、福島第二原発は地震直後に全部の原子炉が緊急停止したそうだから安心出来、福島第一原発の第四号機も定期点検で休止中だったから不幸中の幸いだった。残る一号機と三号機は既に爆発してしまい、二号機も冷却水を循環させるポンプの故障で爆発寸前だ。だから消防車で海水を送り込んで冷やしていると言うが、原子炉の内部圧力が高い為に海水は入り難い筈だ。何故なら原子炉内の水素圧が膨大で水を入れるには内部の圧力を減圧しない事には水が送れないからだ。減圧するには弁を開いてガスを外へ出すしかない。そうすれば放射線で汚れたガスが空気中に撒き散らされる。又しても周辺に被ばくが広がる。、 メルトダウンによる水素ガスの発生率と海水の冷却速度とのイタチゴッコで、残念ながら多分、爆発が先発する事になるだろう。爆発して欲しくないが冷静に考えればその可能性が強い。東京電力には制御するだけの力量が無いのだ。最悪の状況を考えれば、一号機、二号機、三号機の爆発で未曾有の放射線が撒き散らされ、半径20km範囲内の死の街が出来あがる。チャイナ・シンドロームならぬブラジル・シンドロームが発生する。メルトダウンした核燃料が核反応しながら地中を沈んで行くのである。尤も、それは冗談で、実際は地中のマグマに呑みこまれて消えてしまうだろう。その間、地上では大量の放射線が巻き散らされチェルノブイリ現象が起きる。急きょ、鉄筋コンクリートで覆い隠すしかないだろう。 平成の新名所として福島原発が何時の日にか文化遺産として残るか、馬鹿な人間の見本として立ち入り禁止区域として残るかのどちらかに成るだろう。何もできなかった馬鹿な政府と共に安易に原発を受け入れた知事の名も永遠にコンクリートの壁に刻まれるだろう。原発被災者は勿論のこと福島県民はその怒りを何処へぶつけるのだろう。首都東京はエネルギー源を失ってその機能が半減し遷都しなくてはならなくなるだろう。当面は省庁の分散だろう。大東京は大きく成り過ぎた。一極集中の弊害がこういう形で現れるとは正直な処、ボクは想わなかった。驕れる人間が地球にしっぺ返しを受けた結果がこれなのだ。世界はモルモットとしての日本から大いに学ぶものがあるだろう。何でも世界初の国なのだから。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/15
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人生の成功(4) 軽薄かも知れないが人生の成功を世間で言うところの基準で観れば、先ず金持ちになる事だろう。その次は出世して「あの人は偉い」と言って貰う事だ。そして自分の想う処の事を実施する喜びを味わう事だろう。其処には少々のモラル違反はあっても構わないとするふてぶてしさが無ければ出来ない。正義とか悪という基準以前の人間の欲望を満たす事柄総てをやりたければ躊躇していれば出来ないからだ。昔は本妻と妾が一軒の家で同居している事例が幾らでもあった。世間ではそれを男の甲斐性と言って黙認していた。世間が未だ貧しかった頃、喰う為には妾奉公と言って一種の職業婦人をしていた訳だ。男も女も割り切って現実を取っていたのだ。今でもそういう事をしている人も居るが、流石に世間体を考える。 自宅とは別に邸宅を建てたりマンションやアパートを借りて住まわせる。自分の娘のような妾を置いて「パパ」と呼ばれるのを無上の喜びとし仕事や明日へのエネルギーにしている訳である。子供が出来れば中には認知する人も居るだろうが、殆どは金銭的なもので未婚の母の状態にして済ませる場合が多い。政財界にはそういう話は五万とある。葬式の時に本妻が妾やその子供をを葬儀会場に入れさせない場面をニュースは素知らぬ顔をしてさりげなく面白おかしく放映する。世間では有名な既成事実でも本妻は意地になって妨害をする訳である。故人に対して復讐しているのだろう。かつてある財界人で電器メーカーの会長の妾にはランクがあって、上位は大きな屋敷に住まわせ運転手まで居るので流石と観られた。 ところが、下位には裏長屋でみすぼらしい待遇の場合があるのが近所では不思議に観られたが、彼女との出逢いや歴史でそういうランキングが付いていたのだろう。長い人生で彼なりの想い入れがそうさせたとしか考えられないのだ。身分相応という考え方だったのかも知れない。人権運動家や人道主義者からすればけしからんと言うかも知れないが、日頃そういう事を口にする政治家ですら下半身はだらしなく女性問題で党を除名された人も居るのだから何をか言わんである。フランスやイタリ―なぞで、そんな事を言えば笑われてしまうだろう。アフリカや中東での一夫多妻制の国は女性の方が多いからそれが当たり前である。但し、多くの妻全員に平等の扱いをしないと責められるという不文律があるらしい。 男女の人口比率が殆ど五分五分の国々では一夫一婦制が常識でも愛人を何人持とうが男の甲斐性になっている。言わば生活力がある無しで女の数が決まってしまうという事が人生の成功者としての条件になっている。人間は貨幣経済に縛られていて体力よりも経済力がものを言うが、自然界の動物は貨幣の代わりをするのはオスの力量、つまり体力の強さという事になる。だから群れを率いるリーダーはオス同士の決闘で決まる。負けたオスは群れから去らねばならない。メスや子供は強いオスに統率される。かつてのヤクザの世界と変わらない。尤も最近のヤクザは頭脳が必要となり、腕っ節だけでは時代を渡って行けなくなり、スーツ姿になってしまった。そう言えば最近のサラリーマンはヤクザまがいの連中が多くなった。 生存競争に生き残る為の擬装というか見掛けでは分からないボーダーレスの時代に成って、堅気だと想って安心していると実はヤクザだったという怖い話は一杯ある。ヤクザではないがヤクザより酷い堅気も居る。ヤクザも真っ青という犯罪が多いのも現代の風潮である。素人から財を奪ったり蹴落として命まで奪うやり方は昔のヤクザは余りしなかった。犯罪もボーダーレスになったのだ。見境が付かないのが怖いところである。だから金持ち喧嘩せずで、争い事はどちらにしても財を失う羽目になるので関わり合いにならないように大事に至る前の小事で済まそうとする。僅かな金の段階で泣き寝入りをするのである。その点、金の無い人生の敗残者のような人々は余裕が無いから僅かな金の為に騒いで問題を大きくしてしまう。 以上、金に絞って人生の成功を観れば実に呆気ない深みの無い人生である事が分かる。だからと言って金が悪い訳ではない。金を追いかけるから金(お足)の方が速い分、追いつけないだけの事なのだ。追いかけるのではなく金の来る仕組みを作った処に金は集まる。それが誰の金であろうとどの様な種類の金であろうと色が付いている訳ではないから良い悪いを論じても意味が無いのだ。犯罪は別にして何らかの方法で集まった金の上手い遣い方が経済活動だから経済に長けた人が人生の成功者になれる割合は高い。しかし、金は手段であって目的では無い。其処の処を間違わなければ人生の成功は半分手にしたようなものである。今や健康でさえ金で買える時代なのだから。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/14
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宮城沖地震・津波の為、「人生の成功(4)」は明日にします。原発事故 大変恐ろしい事が起きた。3月11日午後2時46分の宮城沖地震とその直後の津波である。被災者の方々には何とも慰めの言葉もない。余りにも自然の猛威に人間が翻弄される様をテレビ中継で観ていて息をのむしか無かった。人が、家が、車が津波に呑まれ流される。それをリアルな画面でジッと観ているしかないもどかしさ。直ぐに東京の友人の事を想い浮かべた。奥さんが被災地出身者だけに身内の被災をテレビで観て心配しているに違いないのだ。お見舞いの電話を掛けようとしてみたが回線が一杯で繋がらない。多分、彼女も同じ状態だろう。気に掛かるが待つしかない。翌日の朝刊の見出しは予想通りの津波被害の写真だ。観るまでも無く頭が痛くなって来る。悪夢を観ているような気分である。福島第1・2原発 津波の恐ろしさを今更のように教えられ身体の震えが止まらなかった。が、冷静に考えてみれば其処に福島原発が在るのだ。震度7でも耐えられる構造になっているそうだが、原発の周りの構造やライフラインが何処まで耐えられるのか疑問だ。緊急停止をしたそうだが、同時に緊急に炉心の核燃料棒が引きぬかれた訳では無い。一瞬にして来た激震に設備装置が対応できず緊急停止しただけで核分裂は続いていている。冷却循環水が廻らないから高熱が溜まって行く。一時的に冷却水が自動注入されたと言うが、途中でストップしてしまったというではないか。ライフ・ラインが寸断され機械(ポンプ)も動かなくなっているのだ。炉心のメルト・ダウンが起き、チャナ・シンドロームの状態になっているのである。福島第1原発 福島原発を管理する東京電力は急きょ51台の発電専用車を輸送したそうだが、渋滞する国道と寸断された道を一体どうやって原発まで輸送するのか気掛かりだ。一台はどうにか到着して冷却装置に電力を送ってみたものの直ぐに機械は止まってしまったそうだ。激震で機械もやられているのだろう。そうこうする内に原発内の炉が熱と水蒸気で高圧になり放置すれば爆発を起こすからガス抜きをする。そうなれば放射線汚染された水蒸気が周辺に撒き散らされる。第1原発の20km圏内が放射線危険区域とされ緊急避難が発令された。つまりチェルノブイリ原発と似た状況にあるという事である。原爆が不発弾で居る状態だと想えば分かり易いだろう。のんびりと構えていられない非常事態状況だ。福島第2原発 だから、あれほど原発は危険だと言ったではないかと言う積りは無い。今は如何にして放射線災害を最小限に抑えるかが問題である。原発の周囲20km圏内は死の街になってしまった。放射線洩れを防ぐには核燃料棒を人力で引き抜いた後、分厚い鉄筋コンクリートで原発全体を覆い隠す方法が現実的である。しかし、誰が核燃料棒を抜くのか。東京電力の職員では腰ぬけだから駄目だろう。原子力委員会のメンバーもペテン師ばかりで何もしない筈だ。政府も省庁も誰も手を出さないとすれば東京電力の下請けの末端社員が大金を貰って(?)防護服を着てやるのだろうか。これまで炉の掃除はそういう風にしてやって来たのだから。何でも弱者が後始末をやらされる。当面は自衛隊員が命懸けでやらされるだろう。福島第1原発半径2km圏(写真の上下で4kmある) チェルノブイリ原発事故の時は志願者が後始末をした。国家に忠誠心のある若者が志願したのだ。日本には忠誠心のある公務員なぞ自衛隊員以外、居ないも同然だ。誰も責任をとろうとしない政府や原子力委員会の言いなりになる訳が無い。この際、原子力発電を推進してきた多くの連中の中から無作為に選んで後始末の工事に従事させるのが妥当なところだろう。せめて後始末の責任を原発推進派がとらなければ全国の原発はストップせざるを得なくなってしまうだろう。そうなれば日本の電力は半分以上、不足するから真剣に別の発電方式(燃料電池やメタン・ハイドレードの火力発電)に切り替えないと亦、同じような事故は発生するだろう。それに膨大な費用が掛かるからと渋れば責任回避と見做さざるを得ない。福島第2原発半径2km圏(写真の上下で4kmある) 死の街を作っておいて何が平和でクリーンなエネルギーだ。原発で喰っている連中は飯の喰いあげになるから反対するだろうが、生命と見掛けのクリーンとどちらが重要か考える迄もない。「そんなに安全だとするなら、皇居のお堀に原発を作ってみれば?」とからかってみた事があるが、反論できなかったではないか。第1原発と第2原発の周囲20km圏内を緊急避難しろと簡単に言ってくれるが、其処で獲れる野菜や魚は汚染されて喰えないのだ。地元民に死ねと言っているのと同じ事だ。昔からの郷里を捨てる事になる一万人近い原発難民を政府は責任をもって面倒を見るというのだろうか。これまでの経緯を見れば、そんな甘言なぞ誰も信じられない。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/13
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人生の成功(3) 結論的に言えば、物質面での満足よりも精神的な満足の方が人を人生の成功感に浸らせてくれるようである。波乱万丈の人生も結果オーライであれば成功と観る事が出来る。物質は何時かは無くなるものであるだけに自分の寿命との競走なぞした処で直ぐに単純計算が出来てしまうから矢張り精神面での充足感が無ければ不安になってしまう。色即是空、空即是色とは上手く言ったものだ。目に見える物だけで満足した処で所詮は空な(何も無い)のだという事を大昔の人は悟っていたのだ。人間とは何百年、何千年と経っても変わらない凡庸な生き物なのだと言いたいのだろう。ならば人間とは何時まで経っても変わらぬものと理解すれば話は簡単である。変な理想なぞ持たず、在るがままに生きて居れば良いのだ。 それを地で行ったのが西行や鴨長明や吉田兼好、松尾芭蕉、一休等の所謂世捨人と言われる人々である。自分では働かず高邁な主張で自分の信奉者の好意に甘えて生きていた人々である。つまり、荘園や寺社領の上がりで食べていたという意味では彼等は生活面では贋(にせ)世捨人だった。つまり、俗物を憎み、反俗、非俗の生き方を求め、自分をどんどんおとしめて行きながらも、どうあっても俗世界から離れては生きていけない矛盾から逃れようの無い人々であった訳だ。我々はそれを知りながらも彼らの理想とする世捨人のイメージに共感し憧れる。だから彼等がどうやって飯を食っていたかというゲス的勘繰りや詮索は不要なのである。そういう詮索を始めれば宗教者や哲学者は皆贋世捨人になってしまうからだ。 駕籠に乗る人、担ぐ人と、世の中には役割が決まっている運命的なものがある。勿論、運命だから自分の努力で変えられるが、余程努力しない事にはなかなか変えられない。諦めた人はそれを宿命として受け入れるだろうし、努力して其処から脱した人は、やれやれと安堵しながらも不安にさいなまれるだろう。何故なら下手をすれば逆戻りをするだろうし、形は変わっても別の同じような役割をしているかも知れないからである。形を変え、仮に社長になったとしても自分より上の立場の相手の為に重荷を担っているかも知れないのだ。駕籠とは違う重荷を背負っているなら元の駕籠を担ぐ立場と何等変わらない訳だ。それが社長で無く大臣であろうとも見方を変えれば同じだ。見掛けの形に騙されてはいけないという事である。 人は自分の為以外にも努力する事がある。それが仮に社会奉仕的ボランティアであっても又はヤクザの子分が親分の為に汗を流す事であっても自分に課せられた荷物(義務)を処理する事で自分が軽くなり安心出来るからである。働くと言う事は傍が楽を享受する事だという人が居る。他人を楽にさせる事で巡り巡って自分に返って来るという理屈である。世の中は一人では成り立たず、人は一人では生きて行けないという当たり前の事を知っていれば文句も言わず黙々と働けるものである。仮にそれが愛する人の為であろうが無かろうが同じ事であり、総て結果論として後で分かって来るのである。宗教は総てそういう理屈で成り立っている。自分と言う檻からの解放を目指して自由人になる事を説くのである。 現代社会は殆ど少なくなったが、冤罪で入獄させられる人が居る。真実は神様しか知らないから凡庸な人間が証拠と称する状況証拠と自白で有罪と判断し監獄に送ったり死刑にする。犯罪動機なぞは勝手に創り上げる事が出来るから本人の知らない処でねつ造される事が多い。死んでから冤罪が証明されても関係者の気持ちが晴れるだけで本人は生き返らない。名誉だけが生き返るだけである。それでも有罪と無罪とでは雲泥の差があるから人は戦う。そいう話が多々あるという事は実に世の中は不公平に出来てるという事であるが、現代社会はこれでも大分良くなった方であるものの今後そういう事が全く無くなるかどうか誰にも言えない。まして裁判員制度が続く限り楽をしている裁判官は不勉強のまま法制度を維持するだろう。 つまり逆の現象が増すという事だ。有罪であるべき者が無罪か微罪で済む可能性が増すという事もあるから益々、世の中は陰険になり厳正な処分が為され難くなるだろう。陰険な社会とは殺人者が「殺すつもりは無かった」と言って偶発的、突発的事件にしてしまおうという考え方で極刑を免れようとする行為が蔓延する事である。有能(?)な弁護士に掛かれば刑は軽くなるだろうし無罪だってあり得る。日本も死刑廃止の方向に向かっているようだから本来は死をもってあがなうべき犯人はノウノウと監獄で暮らしながら将来の出獄を夢見る。被害者にとってやり切れない法治国家になって行くと懸念される。目には目を、歯には歯をと定めたハムラビ法典に憧れる人々が増すかも知れない。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/12
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人生の成功(2) 以上の事は作り話ではなく実際に韓国であった話だ。最近では郵貯を民営化してその資金をアメリカの禿鷹ファンドに差し出した政治家二人が巨額のキック・バックを得たという噂がしきりである。流石に噂が気になるのか政権の座を後輩に明け渡し政界から身を引いたが、代わりに息子を立てた。もう一人は大学教授になってジッとほとぼりの冷めるのを待っている。そんな彼等は誰の為に政治をしたのか政治家の原点に戻り反省し資産を社会に還元しなければ仕舞いに殺されるのではないだろうか。殺す価値もないと嘆くだけなら彼等は勝ち逃げ出来たとほくそ笑むだけだろう。世間ではそういう政治家が力のある政治家という事になっているから国民も半分は分かっているのかも知れない。寄らば大樹の蔭である。 仮にそういう政治家が人生の成功者であると世間が判断しても膨大な犠牲者が彼の踏み台にされた訳で、その怨念は後世にまで残るから歴史的にはどいう評価が下されるか分からない。そういう人物は四柱推命では命式の五行が偏っていたり欠けてバランスがとれないという状態である場合が多く、そういう場合は真の成功者とは呼ばない。かつては当たり前だった非合法な政治手法も情報化社会ともなれば国民の知る処となり犯罪となるから世間でそういう人物が人生の成功者で通ったとしても内実は詐欺師でしか無い訳である。そういう見方をすれば政界中の政治家は皆詐欺師になってしまうのかも知れない。戦争を仕掛ける国の権力者は、戦争に勝てば罪に問われないから犯罪者の定義も難しいものがある。 ナポレオンを英雄と見るか犯罪者と見るかの違いのようなものである。同じ事をしてもヒトラーは英雄ではなく犯罪者にされてしまった。日本の東条英機もそうだ。負ければ賊軍という定義は歴史が語るところであるが、四柱推命では時代の価値観が変わるから、運が良いとか悪いという流れで観るだけである。だから運勢を観るというのは運気の流れを観る事だけに、そこに善悪の基準は無いのである。つまり命式に五行が偏っていたり欠けていたりすればバランスを重要視する四柱推命では貴格とせず破格とするという事である。破格は凡人という事だから素晴らしい才能は無くとも凡人なりの平和な人生が送れれば幸せとし成功者の内に入る。何も文化勲章やノーベル賞を受賞した人だけが人生の成功者という訳ではないのだ。 ところで先日、ある小さな会社の経営者と話をしたが、不景気な話ばかりをするので、この人は今、ノイローゼに掛かっているなと想った。社員の給料を払うのもままならない状態で家賃も滞納している状態なのだという。「何時、会社が倒産してもおかしくない状態だが、潰す訳には行かん!」と語気を強め威張っているような口調で当面の見通しを話していたが、余裕が無い話し方をし目が泳いでいた。何時もなら強気の男なのに風邪気味なのかマスクをしていたのも気になった。彼は、かつてバブル景気の頃、大儲けをして10億円ほど利益が出たのだそうだ。利益が出過ぎたので税理士に相談したところ「1億円分を、直ぐに接待費として遣いなさい」と言われ、急いで呑み廻って遣い切ったそうだ。 勿論、一人では遣い切れないから次から次へと接待攻勢を掛け、大阪・京都の有名な高級お茶屋や料亭・クラブを殆ど廻ったという。ところがバブル経済の破綻と共に会社も左前になり、運悪く税務署の査察も受け、大きな借金が出来てしまった。自社ビルも海外のマンションも手放してしまった今では借家住まいである。それでも数年前には少しは盛り返したのだったが、借金が重荷で、いよいよ倒産かという時期に今遭遇している状態なのだ。天国と地獄を経験した男だから強かな面があるものの流石に弱った顔をしていた。何と声を掛けて良いやらボクも困ったが「健康に気をつけて」と言って別れるしかなかった。そんな大金を手にした事がないボクは実感が湧かなかったが、彼は波乱万丈の人生で成功から失敗になった例だ。 そういう風に金だけを観れば人生の成功とは単純なものである。巨万の富を得て維持している人が成功者で、使い果たした人が失敗者と見るのは簡単である。其処に名誉・知能・愛・芸術の諸々が付いて回るにしても傍目には分からないからご当人の問題になる。であるならば考え方を変えれば良いだけの事となる。見栄を張らず健康的な生活をすれば余計な心労も無いのだ。あとは知能的な愛を描きながら老後の生活に入る事が出来れば人生の成功者に成れるのではないだろうか。かつての波乱万丈は映画でも観た積りで居れば、凡人では経験できなかった事を大いに楽しめたと割り切れ、自分は総てのものを持っているという確信が心を豊かにしてくれると想うのだ。ボクは帰りの電車でそう想うしかなかった。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/11
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人生の成功(1) 誰もが人生の成功を願っている筈である。決して不幸を願う人はいないからである。それなのに結果は概して失敗して失意の内に人生を終えるか諦めて引きこもるかのどちらかが多いのはどうしてだろう。ボクは昔から陰陽五行や四柱推命を研究してきて不思議に想っている。但し言える事は、誰も不幸に成ろうとして努力していないという事である。成功を夢見て努力している筈なのだ。唯そのやり方が間違っていたか運が悪かったかのどちらかなのだろう。もっと辛辣に言えば、成功の目標設定が間違っていたのだろう。人生の成功者とは金や地位や名誉を得、健康で家族愛や人類愛に富み、心豊かに生活し、正義を実施し、温和な心の状態の人の事を指す。が、実際にはそういう人はめったにお目にかかれるものではない。 金も地位も名誉も持っている人は多く居る。だから一応はそういう人の事を世間では人生の成功者と呼ぶのだが、そういう人でも家庭的には不幸であったり誰かを犠牲にしているというケースが沢山ある。家族もそうだが自分自身が病身の人も居る。健康でハンサム(もしくは美人)で人も羨む生活をしている人でも他人には言えない問題や悩みを抱えている人は多々居る。総ての面で幸せな人というのは果たして存在するのか知らと想うのが普通である。しかし、現代社会は残念ながら精神面よりも物質面(経済)で豊かでないと不幸だと想う人々で溢れかえっている。むしろ何でも金で解決すると想う人が多い。そういう物質面での豊かさが幸せだという風潮が強まったのは何時からなのだろう。 人は先の戦争で負けてからだと言う。亦別の人は、産業革命が起きてからの資本主義社会がそうさせたとも言う。確かにそれも一理あるが、古代中国で生まれ数千年経つと言われる陰陽五行や四柱推命を観れば、金・名誉・知能・健康・愛・芸術の総てが揃っているのを人生の成功と呼ぶから産業革命の比では無く、大昔から金が第一で次に名誉・知能・健康・愛・芸術と続くのである。流石に中国人らしい現実的な考え方である。亦それが宗教のようにもなっているのである。中国にインドから仏教が伝わったにもかかわらず衰退し日本で花開くのだが、中国では儒教が宗教のようになってしまった。儒教と言えば孔子を指すぐらい今でも人気のある思想であるが、日本も大いに影響されたものの仏教ほどではない。 よく財界人が孔子の「論語」を比喩に使う事が多いのも金(経済)への戒めのような処がある。つまり、金の集まる処には人の俗悪な面が多出するから敢えて論語の教えるところを説く事で自分達が浄化されると信じているのだろう。出来もしない崇高な理念を掲げる事で少しでもそれに近づければ良しとするのであろうか。左程、金は汚ないものと考えているらしいのだ。その金が社会を動かし人の心までを動かすのだから汚ないものとは言えず崇める人々が現れても不思議はない。世界の金持ちの代表のように言われるロスチャイルド家もモラルなぞ無関係に、あちこちの国に戦費を貸しつけて、のし上がった。つまり、金で戦争をさせ、勝った方にも負けた方にも貸し付けてあるから絶対に損はしないのだ。 博打の胴元の役割をしている訳だからゆっくり取りたてるだけの美味しい商売である。IMFも似たようなものだ。日本政府も其処に大枚を出資しているにもかかわらず胴元の役割をさせてもらえない理不尽を個人的利益に置き換えられて平気で喜んでいるのである。言わば国賊である。そういう輩が官僚と組んで税を徴収する方法ばかりを考えるのである。最近では環境税や消費税がその手法の一つになっている。消費税を1%上げるだけで二兆円稼げるシステムだから上げたくてウズウズしているのだ。例えて言えば寿司屋の握りと同じで、時価というのは看板に過ぎず、売れても売れなくても大勢に影響が無い様なものだ。つまり、安物の巻き(カッパや新香巻き等)や安魚で荒稼ぎをするのである。 安価でも数が出れば儲けはボロい。金を握っているのと同じだと寿司職人は言う。ボクなんか寿司屋で寿司を注文せず、酒と刺身ばかり注文していたから、売り上げの割には儲けが少なく嬉しい客では無かった筈だ。ボクにすれば腹が膨れれば酒が不味くなるから寿司は注文しなかっただけだが、商売の実態はそういうものなのだ。広く浅く取る税の様なものだ。政治家はキック・バックを期待してアメリカに戦費を出したり、ODAを出したがる。ODAに加わるゼネコンや機械メーカーは議員に裏金を支払わなければならないのを承知で仕事をする。だから実際の工事費はウンと安い。例えば地下鉄の車両で言えば一両二億円とすれば半分の一億円がキック・バックになる勘定である。延べ数十両分の車両が出される。(つづく)←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/10
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最近のココ 段々春めいて来るとココも家の中に居るのが退屈で、雨降りと餌とお八つの時間以外は外で過ごす。しかし、外と言っても家の周りか精々、裏の空き家ぐらいなものだから言わば自分の本拠地でしか遊んでいない。遠くへは未だそんな季節が来ていず、夏の日が長くなる頃までジッと我慢しているのだ。猫は家に付くと言われる由縁だが、テリトリーが200m圏内だから自然に家が中心になってしまう。よく漁村に猫が居る風景を観て、干してある商品の魚を取らないのか知らと想ってしまうが、実際はその前に充分美味しい魚を貰っているから敢えて取る必要も無く腹も減っていないのだろう。漁村だから食べきれない程の傷ものの魚がある訳だ。漁民も同じ事が言える。売り物に成らない魚が晩の御飯のおかずになる訳だ。COCOー001 そういう風に観れば何でも充分に満たされている状態ならガツガツしないという事になる。例えて言えば、裕福な家庭に生まれ育ったなら、そして親が理解ある教育をしたなら、さぞ立派な人物が生まれ育つだろうと一般人は想うだろう。しかし、実際はそうではない事が多い。勿論、誰もが裕福な家庭に生まれ育つ訳ではないし、その割合も非常に少ないから、官僚や政治家に厳しい経済環境で育った人物が成れば往々にして犯罪とまでは行かなくても姑息な事をして平然としている連中が多くなるのは止むを得ないのかも知れない。かつての大蔵省の若い官僚がノーパンしゃぶしゃぶに興じたというのも分かるのである。分かるが是とするものではない。仮に身銭を切って行ったとしても高が知れているのだ。COCOー002 が、税金で平然とそういう処に行けるという特権意識が彼らの満足に繋がるのだ。俺達は国を動かしているのだという驕りが出る訳である。その事件は結局、うやむやになって「今度からはもう少し上手く、バレないやり方でやろうぜ」とうそぶいているのだろう。国民は馬鹿を観た訳である。それを許しておけるのかと息巻いても、国民は直接手を出せないシステムになっていて上司からお小言程度で済んでいるのだ。上司にしても彼等を使わないと仕事が進まないから困る訳だ。彼等も「かつて俺達も来た道」という意識があるからキツクは言えないのだ。勿論、真面目な官僚も居る。しかし、そういう連中は仲間から浮き上がるようになっている。国も都道府県も同じ事である。地方自治体の方が酷いかも知れない。COCOー003 小規模だから表に発覚しにくいからだ。「長いものには巻かれよ」式でやらないと自分が割を喰う事になるのだ。誘惑には人は弱いものである。戦後、ヤミ米を喰わないと頑張った正義の裁判官が死んだ話は有名であるが、それをもって立派な人物であったと言う人は少ない。何故なら、彼の妻や子までもが餓死寸前になるまでにする事で人間愛や家族愛を無視した要領の悪い男だったとしか世間は評価しないのだ。矛盾する話だが、それが世間というものである。悪い事は悪いが、許される範囲内の事だという現実策を取るのが世間の常識なのだ。だから四角四面に解釈する人と柔軟性を持って解釈する人とでは結果が大きく違ってくる。そういう軽微な違法行為(犯罪)は枚挙にいとまがない。国会議員とて同じだ。COCOー004 先日、政治資金規正法違反で外務大臣が辞めざるを得ない結果になった。その本人が、自分の所属する党の元代表を告発する側に廻って墓穴を掘った訳だ。一方、告発された元代表には何の違反証拠もなく単なる検察庁の作文で裁判にかけられ名誉と信用を傷付けられ党員資格停止にまで追い込まれている。権力闘争とはいえ此処までやるかと馬鹿馬鹿しくなって来る。一般国民はマスコミの発表を鵜呑みにして一体何がどう悪いのか根本を知らずしてインタビューに応じて知識人ぶった発言を臆面もなくする。聴いていて笑ってしまう。日本人はこうも馬鹿になったのかという想いである。アメリカのイラク攻撃の口実と同じやり方で相手を潰そうという訳である。言っておくが、ボクはどちらの味方でも敵でもない。COCOー005 事実を淡々と述べているだけである。要するに元代表は嫌われた訳である。誰に?それは反対派(党派を問わず)である。彼が居ては、かつての与党だった自民党の裏の事まで知られ、何時、自分の寝首を獲られるか心配なのであり、民主党も彼が目ざわりなのである。官僚も然り。彼の恩師は彼と同じ立場ながら気配りが上手だったから官僚を上手く手なずけて使い、宰相にまで上り詰めた。ところが虎の尾(アメリカ)を踏んでしまって引きずり降ろされてしまった。アメリカに事前相談も無く中国と国交回復をやってしまったからだ。ヤクザが親分の面子を潰せばどうなるかの見本だった。しかし、今回辞任した外務大臣は尖閣列島問題でアメリカの言いなりになったのに二階の梯子を外されてしまった。日本の行く末が心配である。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/09
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最近想う事 パター練習をしていると意識を集中させるからか日常の些細な事から人間関係まで最近、気がついた事柄が走馬灯のように流れては亦、繰り返して巡って来る。今朝もそんな事を感じたので一度整理してみようと想った。先ず身体の事を挙げれば、加齢と共に前立腺肥大症になって来たので医師が一昨年あたりから処方する薬を服用しいるが、最近、血液検査で正常値に近くなって尿の出も良いので飲んだり飲まなかったりする事がある。夕食時にビールを飲んだ夜は夜中に一度か二度ほどトイレに立つが、赤ワインを飲んだ時は不思議と夜中に起きる事が無いのだ。そんな事を最近、数度経験したので気にかかっている。赤ワインにはポリフェノールがあって身体に良いそうだが、その作用が効いているらしいのだ。 良い現象なのでビールを止めて赤ワインばかりにしても良いと想ったりするが、腎臓結石で痛くて困った事があってからはビールも石を排出する効果があるので飲んでいる。若かった頃のような激しい飲み方はしないからビールのプリン体を気にする程でも無いし、尿酸値も正常値に近いので悪影響は出ていないようなのだ。だから当面は赤ワインとビールの並行で行く事になりそうである。本来はビールよりもスコッチ党なのだが、最近は量が減ってしまった。どうしても軽い(アルコール度の低い)酒に移行しつつあるようである。低いと言えば日本酒も低いのだが余りやらない。正月も日本酒でなくシャンパンにしているぐらいだ。外では付き合いで相手に合わせて飲む場合もあるが、本当は日本酒は冷酒が美味いと想っている。 燗をすると小さな緒子でもぐい飲みでもまどろっこしいのだ。と言ってコップ酒では興が無いので余り気が進まない。酒の話はそれぐらいにして、他の事では、先日の入試のカンニングで感じた事は、一言でナンセンスという事だ。カンニングして入学しても自分の心は騙せないから一生姑息に暗い気持ちを抱えながら行かねばならないし人生を大事にしていない事になり馬鹿馬鹿しい。大昔からカンニングはあったそうで、中国の科挙でもカンニングの記録や遺品があって人間の性のようなものだが、カンニングしてでも合格したいという気持ちは誰もが持っている筈である。唯それを実行すかしないかの問題でモラルの領域なのだ。だが、モラルの無い連中なら何とも感じず一生も平気で行けるかも知れない。 所謂、要領だけで世渡りする連中だ。そうう輩は何時の時代にも必ず居るもので目くじらを立てて憤慨した処で死刑にする訳にも行かないから無視するしかない。それよりもカンニング出来るようなシステム(携帯持ち込み)を無くすか、カンニングして回答が得られるような問題を出さない事だ。京大総長が権威主義が馬鹿にされたとして憤慨していたが、馬鹿にされたと想うのは想いあがりである。そういう難問の試験方法は記憶力が中心のものだから本当はそれを応用した論理の構築や応用方法を求める方法を取らない限り亦起きるだろうし、記憶力だけでは本人の能力が分かろうはずも無い。事前の論文式でふるい分けして口頭試問で判断するのも良いだろう。時間は掛かるがカンニングは出来ない。 高校時代に東大・京大を目指し成績を鼻に掛け嫌味にしか観えないのが何人か居た。その中で、たまたまボクと同じ建築の道に進んだ者が一人居て、10年ほどして友人の葬式で出逢った事があった。名刺交換をすると役人になっていた。大きな公共工事の現場所長をしていると言っていたが、会ったのはそれが最後で数年前に病気で亡くなった事を知った。早死にだった。付き合いが無いから葬式も知らなかったが、定年退官後、農業改良指導をしていたそうで畑違いの世界に首を突っ込むには遅すぎた気がした。彼は同じ道に進んだもののライバルには成り得なかった。つまり大学だけでは進路が決まる訳ではない事を改めて感じたのだった。実はボクの息子もそういう大学を出ているくせに直ぐに会社を辞めてしまうのだ。 という事は大学では無く人間性の問題でしかないと想える。当然ながら大学は単なる通過点に過ぎないのだ。ライバルと言うのは自分の心の中に創り上げる虚像に過ぎないということである。ちなみに四柱推命で幾ら素晴らしい星の配列であっても想う程の人物で無い場合がある。これだけ良い星が揃っていれば出世間違いなしに想えても実際は凡庸としていたりする。飽くまでも本人が努力し研鑽するもので、その跡が見られれば何故と想うが、現実はそうでないと矢張り人間は総てに努力した者でないと世に出ないものかなと想ったりするのである。運もあるだろうが、実際は本人の才能や要素が作用して結果が出るのでは無いだろうか。丁度、赤ワインのポリフェノールのように要素が効き目を出すようなものであろうか。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/08
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夜明け 目が覚めると5時半だった。感冒も大分治って、身体の痛みも少し和らいでいる。起きる気配でココもベッドの足元からトンと床に降りる。ボクはトイレに行きたいだけなのにココは朝飯が貰えると想っているのだ。部屋の明りを点け、ガウンを羽織り、そのまま出ようとして念のために明りを廊下側のスイッチで消した。昨日は直ぐに戻る積りで消さずに出て、夜になって妻から「寝室の明かりが点いているので、もう寝たと想ったら、未だ居たのネ」と書斎に入って来て言われたのだ。言われて、朝起きてから寝室に戻らなかったのを知り、明りを消し忘れたのを想い出した。何か用事がない限り戻る事がない寝室なのだ。無駄に部屋の明かりを終日点けっ放しにした事よりも消し忘れが惚けの始まりでは無いかと気に成った。夜明けー001 階下に降りてしまうと、ココの餌をやり終えて直ぐに書斎に行くので、矢張り、その都度部屋の明りを消すのが正解なのだ。これまで消し忘れなぞ無かったから感冒で寝過ぎたせいで注意力が散漫になっていたのだろう。書斎の雨戸を開けると夜明けの陽射しが隣家の蔵に射しているのが目に入った。夕焼けのようなオレンジ色だった。未だ5時45分だから家人は熟睡中だ。雨戸を開ける音を夢の中で聴いている事だろう。早朝の庭の景色は久しぶりなので写真に撮った。夏場だと普通の時刻だ。以前は、これからウォーキングに出かけたものだ。止めて二年になるが、再開する気が起きないのは矢張り突発性難聴の事を気にしているからだろう。ウォーキングが直接原因では無いのだが、当時は頑張り過ぎていたようだった。夜明けー002 寒い中をウォーキングするのは気持ちの良いものだ。奈良の二月堂では、お水取りの儀式が始まっているのに未だ寒い。昨日は風華が舞っていたぐらいだった。暑さ寒さも彼岸までと言うようにもう二週間ほど掛かりそうだ。無理をしてはいけない。自然にその気になるようになってから考えれば良い事だ。「命よりも健康」というのはナンセンスだ。自分の体力もろくに知らずに健康の為と想ってマラソンやウォーキングをやり始める人が多い。だから突然死や心臓発作を起こす人が絶えない。命あってのものだねと言うではないか。何事も慣らし運転で様子を観てからやるべきなのだ。自分の体力は自分でしか分からない。変な自信は禁もつである。脳内物質のモルヒネで騙されてしまうから怖いのだ。夜明けー003 そう言えば多い日で20km歩いた事があった。裏山の明神山の頂上から大阪平野を望めれば遠くの六甲山系が観え明石海峡大橋も観える事がある。反転して奈良盆地を観れば、遠くの生駒山の手前に信貴山が観える。ふと、その信貴山に登ってみようと想った。そのまま麓の王寺の街へ降りて行き、大和川を渡り信貴山をゆっくり登り始めた。信貴山にはこれまで車かケーブル・カーでしか登った事がなかったが、高さはそれほど無いからと高をくくっていた。夏場だったから良かったものの大汗をかいて、頂上に着いた頃には汗で身体が冷えた。よく風邪を引かなかったものだ。まさか遠くまで歩く積りはなかったから気替えを持って来なかった。だから帰りは用心してケーブル・カーで降り、大阪側の麓から電車で帰った。夜明けー004 歩いて奈良から大阪へ山越えをし、電車で奈良へ戻って来た訳だが、歩いた分が20kmはあった。ケーブルと電車で30分ぐらいの距離だから仮に歩いたとしても3時間もあれば帰れただろう。お蔭で何時も食べる朝食が遅い昼食になってしまった。携帯で帰りの電車から家に電話しておいたから妻は安心していたが「今度から、遠くまで行く時は事前に言っておいてネ」と釘を刺された。何時もは平均すれば6km、1万歩が目安のウォーキングだから朝の内に戻れる。それ以来、遠出はしなくなったが、毎回ルートは変えた。そうでないと面白くないからだ。朝市の出るゴルフ練習所前には週二回は通った。今ではゴルフ練習には車で行くから、ものの10分もあれば行ける。歩けば相当ある処なのだ。夜明けー005 想えば、よくも歩いたものだ。脳内モルヒネが作用してウォーキングが苦に成らなくなるのは怖い。毎日少しずつ距離が延び、半年後には倍歩いても大丈夫になる。一年後には他府県にまたがって歩くようになった。兵隊は毎日歩くのが仕事だから50km位は歩く。それも重装備でだ。勿論、戦争という特殊な状況だから嫌々でも歩く。その点、ウォーキングは遊びだ。遊びだから悲壮感は無い。それでも脳内モルヒネのせいで距離が延び過ぎて身体を壊してしまう事にもなる。程々のところで止める冷静さが必要になる。それはゴルフと同じだ。疲れるまで身体を酷使して気持ちだけがハイになるのは冷静さが欠けている証拠だ。そんな事を想いながら次回のゴルフは冷静にならねばと想ったりする。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/07
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友(2) 今年の正月に返信で来た友人からの賀状で懐かしく嬉しかったのが数通あって、出して良かったと想った。それは小学校の同窓生で、実に53年ぶりの便りだった。ボクは51年ぶりに一昨年の春、小学校の同窓会に初めて参加したのだった。半世紀も経って初めてというのは珍しいが、それまで同窓会の連絡が一度も来なかったのだ。中学時代に引っ越しをして以来、小学校の同窓生とは音信不通になっていた事もあって仕方が無い面もあったが、中学・高校と同じ学校に通う小学校時代の同窓生が数名居たからボクの住所が分からない訳が無く「あなた、行方不明になっていたのヨ」と恩師が言った言葉に何故か引っかかった。そして「何時もあなたの事が気になっていたワ」と続いたのだ。 しかし「気に成っていた」と言うのが本当であれば同窓生に中学・高校が一緒だった彼らにボクの事を訊けば状況が分かった筈だから、口先だけの社交辞令だと聞き流した。事実ボクに連絡をくれた幹事役は「高校の卒業生名簿で分かった」と言っていた。高校は京都では一寸は知られた有名校で創立100周年記念事業で電話帳のような同窓生名簿を発刊して希望者に頒布していたのだ。一昨年前の同窓会では全部で三クラスの同窓生名簿と近況が書かれたリーフレットを配ってくれ、ボクは正規の名簿の欄に移っていて懐かしい友人たちの住所も近況も知る事が出来た。ボクにとって実に51年ぶりだっただけに流石に出席者の老人の顔では名前の分からない相手が殆どだった。が、相手はボクの事を覚えてくれていたのだった。 その内、次第にボクも顔と名前が一致するようになって来た。それでも10名程は分からないまま、それから二年が経って、昨年の秋に同窓会旅行があった。バス旅行だったから、ため口を叩きながら賑やかに車内を行ったり来たりして話をする内、今度は殆どの同窓生の顔と名前が一致したのだった。同窓会参加者は前回も今回も総勢40名ほどで、行方不明と物故者がそれぞれ10名ほど居て、遠方で来れないのが残り60名ほどだった。一クラス40名ほどだから三分の一の参加という事だった。前回来れなかった同窓生が今回来たり、その逆だったりで53年ぶりに会う相手も居た。その中で前回も今回も参加していない同窓生数名の事が気にかかって今年は彼らに年賀状を出しておいたのだ。 その返事があって、大層懐かしがっているのが分かって嬉しいやら安心やらで会いたくなった。しかし、おいそれと遠方へ行く事もないから、多分、年賀状だけの付き合いになるか、今回限りの儀礼的なもので終わってしまうかのどちらかになるだろう。出来れば一緒の塾に通った生徒やお互いの家へ行き来して遊んだ仲の良かった相手には是非とも一度は会っておきたいと想うのだが、懐かしい想い出としてそっと心の奥にでもしまっておいた方が良いのかも知れない。何故なら、小学校の同窓生というのは幼児の懐かしさだけが殆どを占めるから、大人の考えや現実社会を見据えた時、単に懐かしさだけでは話題も続かないだろうし個人的に会う程の事情も無いのが現実なのだ。更にはお互いの家庭の事情もあるだろう。 急にこちらの都合で半世紀ぶりに会いに行くなぞ顔も変わっていれば考え方も変わっているだろうし相手も驚くだろう。特別の用事でも無いのに会えば懐かしい夢が破れるだけの事だろう。よく同窓生名簿を使って商売をする連中が居るが、そういう相手には会いたい気持ちは湧かず、利害関係の無い、安心出来る相手でないと誰も会わないものだ。好い大人が懐かしいという理由だけで長年没交渉だったのに会うには何か思惑があると想われても仕方が無い。だからこそ同窓会という場があって、会いたければ遠方からでも来るのだ。人生も黄昏に近づくと社会的地位や仕事の話は無いだろうから健康面や家族の事が話題になり、枯れた好々爺や婆が上品に会ってお茶でも喫するというのが良いのだ。 プルーストの小説「失われし時を求めて」で観るような回想は、老人の懐かしい想い出と人生への懺悔なのだろう。人生を振り返って友の事を想い出す時、歴史はかくも美しく輝いて見える事か。過ぎ去ればどのような苦難も美しい想い出の一ページになってしまう。特に亡くなってしまった友には想い入れが多く集積するものだ。若くして亡くなった友の事を悲しく想い出す事もある。ボクよりも年長の音沙汰の無い友は既に亡くなっている事だろう。そういう友の面影を偲んで懐かしがるのは勝手だが、それで何が生まれるのかとか、どの様な効果があるのかと冷静に考えれば何も無いのだ。仮にその人物の関係者と会って想い出話をする機会があったとしても唯それだけの事なのだ。友は、矢張り流れる雲のように心の中でジッと見つめているだけで良いのだ。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/06
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友 感冒に掛かって頭が痛く、腰も痛くてとうとう寝込んでしまった。先日、一寸温かいからとゴルフ練習に出かけて調子が良かったのに、帰宅して風呂に入って夕方には湯ざめしてしまったようだ。悪寒が走り、腰が痛くなり始め、早速、湿布薬と飲み薬で養生していたものの翌日も尾を引いて、とうとう昨日から寝込んでいる。それでも食欲はあって腹が減って昼の2時過ぎに置きだして簡単な食事を取り、つでにリンゴ一個を剥いて食べてをから気に成るブログを書き始めた。一応毎日書いているから習慣になっているのだ。ココが何時もと様子が違うのでベッド横の椅子に座ってボクを観ていたが、起きだしたので安心したのか餌を貰ってから外へ遊びに出かけた。大事な餌番に寝込まれると飯が喰えなくなり大ごとなのだ。 さて、長く眠っていると様々な事を考えてしまう。健康が一番と言いながら日頃健康維持の為に体操や身体の鍛錬をしているかと言えば、精々庭でパターの練習やゴルフ場練習場にいく程度だ。エアロ・バイクは退屈なので最近は殆ど漕いでいない。もう少し気候が良くなればしようとは想っているのだが、書斎に置きっぱなしでガウンを引っ掛けている。ダンベルはその足元に転がって埃をかぶっている有様だ。ゴルフの月例会と山歩き会の連絡が毎月来るが、冬場は総て休む事にしている。寒い中を修行でもないのにやる情熱がないのだ。陽気が良くなれば勝手に身体の方から動き出すだろう。だからジタバタせずに家に引きこもってネット映画や映画案内を観ている。それよりも人間関係を考えてしまうのだ。 映画も人間関係の話ばかりだが、自分に置き換えれば家族以外は友人や仕事関係が今のところメインになる。しかし、仕事関係は友人では無いだけに利害関係だけの殺伐としたものに過ぎない。ギブ・アンド・テイクの全くの打算関係だから時には金の事でドロドロした面もあるが、日頃はあっさりしたものである。あっさりというよりも薄情なのである。それだけに友情というものを大事にしたいと想うものの親友に小まめに電話したり手紙を書くかと言えばそういう事もせず、年賀状や暑中見舞い程度になってしまう。不精者なのだ。呑み仲間とも最近では付き合いが無いから遠くの友に呑もうという連絡も遠慮気味になってしまう。年賀状には「今年は京都で呑もう」とか「連絡するので一緒にどう?」とか書かれてある。 しかし、改めてこちらから連絡するのも憚れる。そうまでして飲む機会を作らなければならないのが鬱陶しいのだ。たまたまの偶然の機会を期待するのである。さて、親友とか友という関係を改めて考えてみると本当に心からの付き合いが出来、お互いの心の底を知り尽くした関係というものが実に少ない事が分かる。よく親友が多いとか友人に恵まれているとか言う人が居るが、彼らに本当にそういう友が居るのかどうか疑わしい。程度の違いを第三者が云々する事も無いが、自慢するようなものでもないからだ。たった一人でも居れば充分だと想うのである。年に一度程度しか連絡が無かったり会う事も無い相手でも親友というものは居る。毎日顔を合わせて親しい関係でもそうで無い相手も居る。 先日、自分史を見直していて、友人の項目である作家を引きあいに出している部分があった。それは、佐藤春夫が「良き友」というエッセイで、12才の時の疎開先で味わった友達の事を書いているのだ。ある雨の日、体操が休みになって「各自の友人を五、六名挙げよ」という作文を書かされて困ったという。何故なら都会から田舎に転校して来たばかりで自分から友達と呼べる相手が居なかったからだ。困り果てながらも何とか書き終えた時、後の席の生徒から声をかけられ尋ねられ彼を友人として書いた旨を言うと、はしゃいでいた彼は無言になってしまい、暫くしてからようやく口を開いて言った。「こらへとおくれ、なう、わあきゃあ、あんたをわすたあった。わあきゃあ、ぎょうさん連れがあるさか」 彼は、20年経った今日でも、そっくりそのまま田舎訛りのまま思いだすと言う。そして、彼のこの正直な一言に今も無限の友情を思い出すと言う。ひょっとして、これが自分の受けた第一の友情ではないかとさえ思われ、仮に、同じ質問を今受けたとするなら数人の名前を挙げる事が出来るだろうが、その人達が挙げた中に、もし自分が入っていなかったなら、彼等は「許せ友よ、予は君を失念したり。予は多くの友を持つが故に」と言ってくれるかどうか覚束ない気がすると言うのだ。確かにそういうものなのだ。正直に心の内を曝け出せる相手というのは貴重な存在である。様々な知恵や情報や思惑がが絡み合って体面を考え出すと人は変わる。自分にも正直になれなくなるのである。そんな事を昨夜から考えていた。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/05
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運命と宿命 もう40年以上も陰陽五行や四柱推命をやっていると、運命と宿命の違いを自分なりに区別してしまう。しかし、人の一生や歴史について改めて考えると、偶然の出逢いとか必然の出逢いについて不思議というしかない事がある。当然ながら運命は変える事が出来、宿命は変えることが出来ない事を言うのだが、変える事が出来る運命とは自分の意志で運を切り開くからで、変える事が出来ない宿命とは自分ではどうしようもない事を指す。例えば日本人に生まれたり男に生まれるというのは自分の意志ではどうにも出来ない事だから宿命である。ところが親の意志で子供の宿命が決まる事があるから宿命は一寸した事で左右される。一例として、国際結婚をすれば生れ出る子供は片親の国籍を得る事が出来るのがある。 ところが、出生地主義を取る国では親の国籍に関係なく生まれた場所の国の国民になれる。だから血統主義とからめて二重国籍になる事もある。自分で選べる内はだから運命の方に属する事に成る。そういう法的な事でなくとも人は自分の行く末を決めるのに偶然や必然が付いて回るから運命的な出逢いとか前世からの出逢いと言う風に決めたがる。ボクが不思議に想うのは、タイムマシーンで過去へ行く事が出来たとすれば歴史や事件を変える事が出来るという事だ。そうなれば当然、未来の姿が変わるから、未来から来た人間は元に戻れなくなってしまうのではないかという矛盾だ。そういうSFの世界の話は別にしても、一寸した事で人の運命や宿命が変わるから宿命が変わるというのはおかしいではないかと反論があろう。 が、其処に自分の意志が入っていない場合のみという限定が付く。何故なら、戦争で無理やり離れ離れになるのは運命か宿命かと区別が付き難い場合もあろう。戦争当事者にすれば運命的であっても被害者の国民は宿命的なものだからだ。自分ではどうしようもない限界というものが神の領域というものであろうか。男に生まれるのも女に生まれるのも、はたまた後天的に性転換をせざるを得ないのも宿命ではあるが、性転換をするしないは運命である。そういう状況下に生まれたのが宿命という訳である。目の前を犬が通ったというのは宿命であるかも知れないが、その犬が車に轢かれたとすれば運転者の不注意か犬の飛び出しによる運転者の不可抗力かという事で運命的な事になろう。 亦、それを目撃した人にとっては宿命的なものであろう。それを宿命と見るなら事故は必然的に起きた事になるだろう。つまり神の領域である。人間の能力の限界を超えた出来ごとが宿命であり神の領域の問題であるなら、この世の中は殆どが神の領域で成り立っている事になってしまう。ところが実際は、総ての出来ごとには原因者が居て、その影響を受けた結果が大小問わず人に何らかの作用を及ぼす事になるのだから、この世の中の出来事は殆どが人為的な事になってしまいそうである。尤も自然現象以外はと限定したところで、最近の自然災害は人間の起こした行為の影響下で起きている事が余りにも多すぎるのである。だから地球温暖化という間違った観方まで出て来るのだろう。 一方ではフロンガスによるオゾン層の破壊という人為的な自然災害が起きる。山火事は自然災害の場合もあればハイカーの火の不始末である場合もあるから、山火事が起きた原因が追及出来ない場合は自然災害で神の領域にされる。その自然災害も、元は禿山で人による植林で緑が出来たとするなら(六甲山がそうだ)山火事は運命的なものになる。火災原因の火種の前の状態を人為的に変えているからだ。と言って地震は運命ではないだろう。活断層の存在を知っていれば未然に地震災害からは逃れられるだろうが、それは飽くまでも天災という宿命の対処療法に過ぎない。モーゼが海を歩いて渡るのも偶然かも知れないが、事前の引き潮を知って浅瀬を行く対処法とも言え、人為的運命的行為と言える。 歴史に「もし何々ならば」と言うのはナンセンスだから、過去が変えられない以上、変わらない歴史的現実を良くも悪くも真摯に受け止めるしか無い。そして現在を真面目に対処しなければ未来に対して申し訳ないと想う。いい加減な行為をするのも運命かも知れないが、それで未来が変な風になると想うだけでも人間として許せないし、取り返しのつかないない事になる。流行を作る仕掛け人や前衛作家は運命のクリエーター的存在だけに、そういう意識でもって創作に当たらないと何れ己に返ってくるだろう。一言でいえば因果応報である。建築でも地震が来て設計ミスや手抜き工事が判明して大きな犠牲が出れば出るほど禍根は残る。建築家が自分の命で置き換えたとしても犠牲には追い付かないだけに問題は重大である。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/04
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リルケ 秋木の葉が散る、遠くからのように散り落ちる空で遥かな庭園がすがれてでもいくかのように否む身振りで 木の葉が落ちるそして夜には 重い地球の大地が落ちるすべての星から離れて 孤独の中へわたしたち みなが落ちる この手が落ちるそして他の人びとを見よ 万物に落下があるそのとおりだが「一人(ひとり)の方(かた)」がいらしてこの落下を限りなくやさしく 両の手に受けとめる (小塩節訳) 冒頭の詩はリルケの詩である。ボクは、好きな割には、リルケについて詳しい訳でもく無いのに妻とたまにリルケの詩について話す事がある。リルケはマルテという名でパリ風景を「マルテの手記」という形で書いているが、二十世紀初頭に活躍した繊細な神経の芸術家の詩に酔いしれる人々は多い。妻もその一人で、大学時代にリルケを専攻したというからボクよりも余程詳しい訳だが、ボクは詩が好きで、たまたま詩集「悪の華」の入ったボードレール全集を大学を卒業した年に買ったことがあった。会社の出入りの本屋に注文して持って来てもらったのだった。建築関係の書物の配達が多い中で、ケース入りの書籍が混じっていたのを男の社員が目ざとく見つけて「誰が読むの?」と事務所の受付で大きな声で訊いた。 それが、わざとらしく嫌味に聴こえたので気分を害したボクは「ボクが注文した本だ。ガードレールの一種の解説書だヨ」とからかってやったのだった。が、言われた本人はボードレールという名を知らず、キョトンとしていた。技術系の無骨な社員しか居ない会社で詩集なぞ注文する社員なぞ考えられなかったのだろう。笑い話としてボク一人だけがニャっとしただけだった。それ以来、結婚後も持っていて書棚に入っているのを妻が見て「私も同じのを持っているわ」と彼女は自分の部屋から持って来た事があって、お互い顔を見合わせて笑ったことがあった。趣味が同じだから偶然同じ詩集を持っていたとしても不思議は無いのだが、妻ならそれらしく見えてもボクには似つかわしくない風景に見えたかも知れない。 文系の妻と理系のボクだが、趣味が合ったから今日まで夫婦関係が続いているとよく言われる。しかし、ボクに言わせれば文系とか理系と分別するのはナンセンスと考えているから、人間を都合よく型にはめてしか観る事が出来ない人々を哀れに想ってしまう。そういう事なら理系の人間は芸術が分からない人々で、文系なら総てが芸術が分かると考えるのだろうか。下らない見方だ。計算に強いとか弱いというタイプは在るだろうが、芸術が分かる分からないとは無関係の事でしかない。数学者の岡潔なんかは数学は芸術だと看破しているし、理論物理学者の湯川秀樹なんかの文章は柔らかくて文学者のように想える。ボクの好きなレオナルド・ダ・ビンチなぞ天才科学者でありながら芸術家でもあった。 そういう事例は枚挙にいとまが無い。だから人間を単純に分別するやり方が横行しているのは無知のなせる技でしか無く軽薄なものだ。さて、詩に話を戻せば、如何にイマジネーションの才があるかどうかで詩の鑑賞も変わってくるものである。折角、研ぎ澄まされた短い文章を充分に理解もせず、薄っぺらい表層的な見方しか出来ないのでは勿体ないし、作者の心意気が読めないだろう。散文詩ではなく定型詩が長年続いた我が国では記紀に見るような和歌から始まって、江戸期以降の俳句という短い詩まで馴染みが深いのだが、どちらも言葉の持つ意味は深く、その昔、中国から漢字がもたらされ、大和言葉に漢字を当てはめただけの頃の歌にも同様のものを感じる。 それは、広大なアジア大陸とその周辺の島々とを結ぶ民族の移動や交流が太古から続いて来た事を意味しているとボクには想えるのだ。そして、多分に日本人の先祖であるモンゴロイドの末裔がアジア大陸から世界へ散って行った歴史の一つとして郷愁に近いものを感じざるを得ないのだ。それとは別のルートで並行してアフリカから欧州大陸へ移動した白人種が、やがてはモンゴロイドとも交流し融合して行く訳だが、それが人類の歴史であり、世界が其々分化して行き、対立し、文化が生まれて行った結果が今日の世界の姿の原点でもあるのだろう。が、其処に取り残されたアフリカの人々が今日では目覚め蜂起し平和を求めている。冒頭のリルケの詩に見られる大きな手のようなプラタナスの枯葉が、それを受け止めるかどうかが今日の問題である。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/03
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弥生三月 弥生三月である。弥生は草木が繁茂するという意味でいよいよ春である。女の子はお雛様を飾って祝って貰える。最近ではそういう風習も薄れ、ボクなんか息子しか居ないから妹が居た子供時分の事なぞ、すっかり綺麗に忘れてしまっていた。友達を呼んで、チラシ寿司やお菓子を食べた筈なのに、そういう事もあったのだと無理に想い出すしかない。幼稚園では雛祭りが盛大に催され、二年間の幼稚園生活で二度経験しているのだ。クリスマスの次に待ち遠しい催しだった。そういう懐かしい想い出は大切にしまっておきたいものだ。好い大人になったからとか老人になったからと言うだけで何も照れる事でも無いのだ。幼年時代の経験が人生を大きく左右するものでもあるからだ。大人に成る前の基本の土壌を大人は忘れるのだ。 かつて早く大人に成りたくて仕方が無い時代があった。それは中学・高校時代の生意気盛りの頃だ。体力的には充分な大人なのに精神面が子供のままの言わば半人前の大人だった頃だ。中学時代、ボクは柔道の初段だった。道場では大人を投げ飛ばしていたものだった。父が四段でボクは負けてばかりいたから早く追い越してみたくて仕方無かった。父親が未だ怖いと想う年頃だったから余計に早く大人に成りたかったのだろう。しかし、大学を卒業して社会人になった時、大人になるという事への憧れなぞ微塵もなくなっていて、再度学生時代に戻れるものなら戻ってみたいと想った。あの大人に早く成りたいと想ったのが不思議な気がしたのだった。つまり、大人の世界の嫌な面を大学時代に嫌と言う程味わってしまったからだった。 大人の世界とは、つまり金の世界の事だった。経済が何事にも優先する世界を何をするにしても付いて回る現実が嫌になってしまったのだった。自分の家が没落していなければ今頃は海外の大学に留学させてもらっている筈だった。それが出来なくなって誰もがする就職をして嫌な上司に嫌味を言われながら働くのが馬鹿馬鹿しくてやり切れなかった。本来なら逆の立場で居られたという甘い考えが未だ抜けきらなかったのだった。そうう意味では未だまだ大人には成りきっていなかった訳だ。仕事に面白さを感じ始めるのは国家試験に合格して自分で建築の設計が出来るようになってからの事だった。初めて設計したビルの設計料が入って持ち付けない大金を手にして有頂天になったものだった。 車を買ってドライブに興じた。有名テーラーで背広を何着もオーダーし、仮縫いの日が楽しみだった。高級割烹で美味いものを食べに行っては御機嫌だった。夜は夜で祇園を呑み回った。同世代の連中が馬鹿に観えて仕方なく、類は類をもって友を呼ぶように遊び仲間が増えて行った。憧れていた華やかな世界に自分が居られる満足に浸っていた。しかし二十代をそんな生活ばかりしていると飽きるのも早かった。三十の声を聞く直前になって何時までもこんな馬鹿な生活をしていたのでは本当の馬鹿になってしまうと考え、京都を出ようと想った。いや、京都ばかりではなく日本から出ようと想った。余りにも周りが甘い環境に想えたのだ。そして手始めに大阪の大手の設計事務所に入社し、大阪へ引っ越しをしたのだった。 そのまま京都に居れば、ぬるま湯的環境から抜け出せず、潰されてしまうだろうと想ったのだ。先ず大阪へ出て京都を外から眺める立場に立てば、自分の本当の進路が観えて来るだろうという単純な気持ちだった。丁度その頃に結婚の話があった。迷った。結婚せずに独身のまま海外へ放浪のように建築勉強の旅に出るか、それとも結婚して国内で建築の勉強をするか迷ったのだった。今から観れば結婚とか海外での建築勉強だとか浮ついた青年だったのがよく分かる。もっと地に足を据えた現実的な大人になるべく自身をしっかりと見据えなければならない大事な時だった。そういう事を或る人から諭され、翌年の秋には結婚し、浮ついた考え方を改めてからボクの建築家としての立場が少しは見え始めたのだった。 海外への建築修行を止め、弥生三月にする予定だった結婚も秋に延び、遊び仲間とも別れ、地道な生活をするようになって大阪の生活に慣れて来ると、京都の生活が遠い過去の話のように想え、慢心していた自分がちっぽけな人間である事を知った。そういう一市民の立場で改めて建築を観た時、自分の生き方が間違っていたのではないかと想え、建築の原点が雨露しのぐだけのものではなく人が人に成る為の環境づくりであると悟ったのだった。そして程々に経済に左右されながら建築設計・監理をする事で、建築が人の人たる所以を証明できる器であり機械であり環境である事を感じるようになったのだ。想えば、かつてボクを諭してくれた人は既にこの世には無く、弥生三月を過ぎればその人の命日がやって来るのだ。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/02
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催花雨(さいかう) 一雨ごとに春らしくなる雨の事を催花雨(さいかう)と言うと今朝のテレビで天気予報士が言っていた。聴きなれない言葉だが、意味するところはそのものズバリで余り興がないと想った。それでも気になってネットで調べてみると別名菜種梅雨(なたねづゆ)とも言い3月下旬から4月上旬に降る雨の事だという。何だ、まだ一月ほど早い雨ではないかと季語を調べるのが商売の天気予報士の早とちりに失笑してしまった。今朝は微かな霧雨だから庭に出てみたが、パター練習が出来ない状態なので、そのまま庭づたいに玄関先に出、前栽辺りを見回すと向かいの家のしだれ梅が満開になっているのだった。4年ほど前に植えられたもので敷地が狭く外へはみ出しているのが御愛嬌だが綺麗で、我が家の為に植えられたような景色だ。春雨-001 我が家の前栽に目を転じると昨年春に作った大名竹の茅の輪ゲートが霧雨にしっとりして庭の風景に溶け込んでいる。その向こうには山茶花が今を盛りと咲き毎年観慣れた風景が展開している。通路のインターロッキングも経年汚れで色がやや黒ずみ矢張り風景に馴染んでいる。狛犬が足元で風景を引き締め、お向いさん程の華やかさこそ無いが落ち着いた風景だ。そう言えば先日「お父さん、春雨じゃ、濡れてまいろうと言うのは何だっけ?」と妻が聴くので「月形半平太だろ?」と返したが、同世代の彼女が知らないのが気に成って何故と訊き返すと息子が訊いたのだと言う。息子の世代なら月形半平太なぞ知らなくても不思議はないが、今時の若者は何も知らないのだなと改めて自分の若かった頃を思い返してみた。春雨-002 が、ボクも偉そうな事は言えず念の為にネット(ウィキぺディア)で確認してみると「月形半平太」は土佐藩士武市半平太こと武市瑞山(たけち ずいざん)をモデルにした戯曲で、作者は大正、昭和期の劇作家・小説家行友 李風(ゆきとも りふう)とあり、当時旗揚げした新国劇の為に書きあげた「国定忠治」と共に大流行したそうだ。武市瑞山は土佐藩郷士・武市正恒の長男で、母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村氏の娘・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家であったが、黒船来航の影響で攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功したが、八月十八日の政変により政局が一変し、前藩主山内容堂によって投獄・切腹させられた。春雨-003 昨年のNHK大河ドラマで観たから記憶に新しく、それを想い出しながら再び空を見上げてみると霧雨が小雨に変わって来た。春雨だ。歴史は繰り返すと言うが、今時の信念の無い政治を観ていると、その一方で、これでは駄目だとする反対勢力が蠢いているのが想像できる。急変は無いにしてもジワジワと時代は動いている。それが今の世界情勢でもある。アメリカが世界の警察から世界の暴力団に変わりつつある時、それを真似する国々も別の形で勃興して来て、やがては経済力のある国が世界を覇権する事になる。そういう歴史の流れを観ていると人間とは同じ経験をしない事には納得できないものかと暗澹たる気持ちになってしまう。要するに馬鹿は死ななきゃ治らないのである。春雨-004 馬鹿をやり、初めて知る己の醜ささでは遅すぎるのだ。元来人間はもう少し賢い筈なのだ。その為にも歴史学があるのではないだろうか。しかしながら、力は熱であり暴力であり悪である。反対に智は冷であり理性であり善である。人間は理性の塊と想いたいのだが、実の処は、最初に熱があって冷は後から付いて回るものでもある。最初から冷静なものは無いのである。反省は最初からは無いという事だ。世の中から暴力が無くならないのは上手くコントロールが出来ていないからだ。コントロールは智であり冷静さそのものだから熱や暴力の方が先行し、理性は遅れる事となる。そういう理屈が分かっていても人間はやってしまう。悪いと分かっていてもやるのが人間なのだ。つまり堂々巡りをする。春雨-005 それでは進歩は無いのかと言う事になるが、次第に陰険に狡くなるだけなのだ。見掛けの暴力に勝つ為には狡さしか無い事になる。狡賢い奴が勝つ。だからアメリカでは弁護士が流行る。へ理屈ででも勝てば勝ちという事になるからである。正義は神様しか知らないから「ガッデム!(ああ神様から転じて、チクショウという意味になる)神様、一寸横を向いていて頂戴な」と法の番人と称する連中が正義という名の理屈を振りかざす。そして在りもしない大量破壊兵器が在るだろうと因縁をつけて暴力をふるう。そして相手がやられてから、実はあれは間違いでしたとシャアシャアと言う。結果オーライで勝てば官軍と言う訳だ。それを世界が黙っているから世も末という厭世感が広がる。尤も、諦めた方が負けになる事を忘れない事だ。←ブログランキングに参加中です、クリックをどうぞ!
2011/03/01
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