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吹屋ふるさと村 ベンガラの里を散策 【5月5日】吹屋ベンガラの街並み_01 posted by (C)きんちゃん「吹屋ふるさと村」町並みの由来(国選定重要伝統的建造物群保存地区)標高550mの山嶺に塗込造りベンガラ格子の堂々たる町家が建ち並んでいるのは、江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸後期からベンガラという特産品の生産がかさなり、鉱工業地として大いに繁昌したからである。幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道の拠点として、銅や中国山地で生産される砂鉄、薪炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き、はたご屋、飲食店の立ち並ぶ山間の市場町として吹屋は繁昌していた。これらの銅や鉄、弁柄は吹屋から更に荷馬に負わされ成羽へ運ばれ、成羽から高瀬舟で玉島港に集められ、そこから上方や西国へ輸送されたのである。江戸時代から成羽や玉島の繁栄は、吹屋の鉱工業に負うところが大きいといわれている。吹屋ベンガラの街並み_02 posted by (C)きんちゃん当時の俗謡に吹屋よいとこ金吹く音が聞こえますそえ窓坂え吹屋よいとこ金掘るところ掘れば掘るほど金がでるこれらの俗謡は当時の状況を唄ったものである。吹屋ベンガラの街並み_03 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_04 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_05 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_06 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_07 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_08 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_09 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_10 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館 posted by (C)きんちゃんその中で、最初に郷土館に入りました。例の共通券で入館OK!この家は、弁柄窯元片山浅治郎家の総支配人片山嘉吉(当時吹屋戸長)が分家され、明治7年頃より企画し本家の材木倉より良材を運び(当時、片山家は職業柄千余町歩の山持なり)、石州の宮大工、島田綱吉の手により、明治12年3月完成されたものです。当時の模様が最もよく保存されているので、当主片山恵資氏に請い、郷土館としています。間口5間、奥行16間、中級の商家の定形で、店より通り庭で母屋の奥に味噌蔵、米蔵を配し、母屋の採光のため中庭をとっています。土台と外側の柱はすべて栗の角材を使い、縁敷居は桜の巨材を使っています。この家の特徴は、木組は巨材を使い、細部は巧緻というほかなく、ことに座敷の書院まわりは、生漆と弁柄で塗り上げそれぞれに飾り金具を用いている。専門家も「これ程の良材と大工の手のそろった家は世に少ない。」と感嘆しています。吹屋 郷土館室内_01 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_02 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_03 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_04 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_05 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_06 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館室内_07 posted by (C)きんちゃん吹屋 郷土館土蔵 posted by (C)きんちゃん郷土館の土蔵。吹屋 旧片山家住宅 posted by (C)きんちゃん続いて、斜め向かいの旧片山家住宅。同じ共通券で入館OK。宝永4年(1707)にはじまったとされる吹屋の弁柄生産は、宝暦11年(1761)頃に緑礬を原料とする製法が確立されて本格化しました。早くから弁柄製造を手がけた片山家(胡屋)は、窯元として弁柄仲間の株を永く保ち、大塚・広兼・長尾家とともに苗字帯刀を許されるまでになりました。安政2年(1855)には緑礬の製造にも乗り出して、最盛期には3つの工場を経営し、その製品は建材や家具の塗料、陶磁器や漆器の顔料として国内に広く流通しました。しかし、昭和26年に緑礬の生産が途絶えると、弁柄製造は次第に衰退します。その後も合成された硫酸鉄を原料として生産が続けられましたが、片山家は昭和46年(1971)に弁柄屋を廃業、その3年後には田村家も弁柄工場を閉鎖して、260年余りにわたり一世を風靡した吹屋弁柄はその幕を閉じました。旧片山家住宅は、平成14年に所有者から成羽町(現高梁市)へ寄贈を受け、重要伝統的建造物群保存地区の中核的な建物として、平成15年から平成21年まで保存修理を行いました。全ての保存修理の完了を機に、平成22年4月から全体を公開しています。片山家は、宝暦9年(1759)の創業以来、200年余りにわたって吹屋弁柄の製造・販売を手がけた老舗です。その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる付属屋が立ち並ぶ「近世弁柄商家の典型」として高く評価され、平成18年12月、国の重要文化財に指定されました。赤い石州瓦で葺かれた二階建(一部三階建)の主屋は江戸時代後期に建てられた後、江戸時代末に仏間、明治時代には座敷が増築され、片山家が弁柄商いによって隆盛していく様を今に伝えています。また、通りに面した外観は、一階に腰高格子を飾る袖壁や繊細な出格子を配し、二階を海鼠壁で仕上げるなど、吹屋の町並の中でもひときわ意匠を凝らしたつくりとなっています。内部は、一階を店舗や接客の場にあて、二階を寝室や物置に使用しています。接客の場である座敷には、銘木かふんだんに用いられるとともに、美しい電灯や見事な欄間、優れた意匠をもつ釘隠や襖の引き手などにも見られます。また通り土間に面した店の間や台所などは、当時の商家のたたずまいをよく伝えています。このように旧片山家住宅は吹屋弁柄が栄えた江戸時代後期~明治時代の屋敷構えをよく残しており、吹屋の歴史的な町並景観を語る上で欠くことのできない存在と言えるでしょう。旧片山家 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_01 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_02 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_03 posted by (C)きんちゃん欄間の意匠も凝っています。吹屋 旧片山家住宅室内_04 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_05 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_06 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅室内_07 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅土蔵_01 posted by (C)きんちゃん片山家の土蔵。吹屋 旧片山家住宅土蔵_02 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅土蔵_03 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅展示_01 posted by (C)きんちゃんそして片山家の展示。ベンガラの商品のラベル。吹屋 旧片山家住宅展示_02 posted by (C)きんちゃん箱帳。吹屋 旧片山家住宅展示_03 posted by (C)きんちゃんベンガラのサンプル。吹屋 旧片山家住宅展示_04 posted by (C)きんちゃんベンガラの生産工程を紹介。吹屋 旧片山家住宅展示_05 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅展示_06 posted by (C)きんちゃん吹屋 旧片山家住宅展示_07 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの街並み_11 posted by (C)きんちゃん昼食は、スープカレーのお店。つくしです。散策に入った時は準備中でしたが、昼食どきは席待ち状態。1人だったので、座ることができました。スープカレーの店 いろり_02 posted by (C)きんちゃん頼んだのは、ビーフのスープカレーとアイスコーヒー。スープカレーの店 いろり_01 posted by (C)きんちゃん【スープカレーの食べ方】スプーンにライスをよそって、スープカレーに漬けてお召し上がりください。西江邸の道 posted by (C)きんちゃんベンガラの里の最後は、ちょっと離れた西江邸です。駐車場に車と停めて坂道を登ります。西江邸_01 posted by (C)きんちゃんここも、広兼邸と同じように豪邸です。西江邸_02 posted by (C)きんちゃん西江家住宅 posted by (C)きんちゃん岡山県高梁市成羽町はかつて赤色顔料のベンガラ生産で知られた地で、江戸期には長く天領がおかれた。西江家はベンガラの製造販売で名を馳せた旧家であり、郡中惣代庄屋として地域を治めた。その邸宅は代官御用所も兼ね、威風堂々たる館構えである。国登録有形文化財。西江家は江戸期の正保4年(1647)にベンガラ製造に着手したといわれる。その100年後には本山鉱山を開抗し、銅採掘の副産物である磁硫化鉄鉱石からベンガラ製造の中間生成物・ローハ(緑礬)の量産化に成功。ベンガラは地域の一大産業に発展した。西江家住宅は、中世の山城を思わせる石垣の上に建ち、敷地は3000坪、江戸期創建の主屋・郷蔵や明治期創建の裏座敷があり、部屋数41間、160畳にのぼる。石州瓦葺き、総二階建ての主屋は出雲の石州宮大工が1705年から約25年余かけて建設したとされる。代官御用所だけに許された5間続きのしつらえ、表側には江戸幕府から巡検使を迎えた式台のある本玄関、銀行の役割を担った銅勘定所の御用部屋、西江家当主が地域の軽犯罪を裁いた簡易白洲があり、欅・檜・松・黒柿・桜・栗・紅葉・秋田杉・北山杉・黒檀・紫檀といった高級材を多用した堅牢かつ重厚な普請で、床の間や長押などベンガラやベンガラ煤塗りで彩られている。ベンガラには防虫・防腐作用もあることから構造材にも塗られ、今日まで建造物の維持に効力を発揮してきた。主屋裏側は家人の居住部分のため、通り玄関の土間にベンガラ格子戸を設置して公私の区別をつけているのも特徴的である。又、主屋に隣接する手習い場で番頭が子供たちに読み書きを教えた。また、飢饉に備えて里人救済用の米や麦、稗や粟を郷蔵に備蓄するなど、郡中惣代庄屋として地域の人々とともに生きる姿勢がうかがえる。西江家住宅は江戸期から昭和に至るベンガラ産業の拠点のひとつであり、地域文化と深く関わった歴史を今に伝える貴重な住宅である。また、代々の当主が受け継ぎ、今なお居住している。西江邸 母屋_01 posted by (C)きんちゃん西江邸の母屋。西江邸 母屋_02 posted by (C)きんちゃん西江邸 庭園_01 posted by (C)きんちゃん西江邸の庭園。西江邸 庭園_02 posted by (C)きんちゃん西江邸 庭園_03 posted by (C)きんちゃん西江邸 母屋裏手_01 posted by (C)きんちゃん母屋の裏手。西江邸 母屋裏手_02 posted by (C)きんちゃん西江邸 土蔵_01 posted by (C)きんちゃん西江邸の土蔵。西江邸 土蔵_02 posted by (C)きんちゃん西江邸 展示_01 posted by (C)きんちゃん土蔵の中の展示です。西江邸 展示_02 posted by (C)きんちゃん西江邸 展示_03 posted by (C)きんちゃん西江邸 母屋入口 posted by (C)きんちゃん最後に母屋に入っていきます。西江邸 母屋室内 posted by (C)きんちゃん吹屋ベンガラの里を存分に楽しみました。
2018年05月11日
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吹屋ふるさと村 まずは周りのベンガラ館から 【5月5日】ベンガラ館 posted by (C)きんちゃんまずはベンガラ館へ。吹屋ふるさと村 共通券 posted by (C)きんちゃん高梁市と同じように、ここでも吹屋ふるさと村周遊券を買いました。弁柄(ベンガラ)は江戸中期(宝永4年、1707年)全国ではじめて吹屋で生産されて以来、江戸末期、明治、大正と大いに繁昌を続け、吹屋町並みの基礎をつくりました。このベンガラ館は、明治の頃の弁柄工場を当時の姿に復元したものです。往時、この谷合いには弁柄工場が4か所ありました。吹屋を繁栄させた弁柄産業も、昭和47年の銅山の閉山に続いて昭和49年にその製造を終えました。■弁柄(ベンガラ)とは別名紅殻とも云う。酸化第2鉄(Fe2O3)を主成分とする赤色の無機顔料である。ベンガラの名は、インドのベンガルに由来しているといわれる。朱とともに最も古くから用いられた赤色顔料である。吹屋の弁柄は吉岡銅山との関係が深く、銅山の捨石である磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)から偶然発見されたといわれる。■緑礬(ローハ)とは緑礬は弁柄の直接の原料である。緑礬の原料は鉱山から掘り出される磁硫鉄鉱であり、緑礬工場で加工製造される緑色の結晶体である。■弁柄の用途漆器用、陶磁器用、建築用、ゴム配合用、ペイント用、製紙用、製瓦用、印刷インキ用、燐寸用、皮革用、研磨用、染織用、その他ベンガラのつくり方 posted by (C)きんちゃん【弁柄のつくり方】1、釜場室緑礬をよく乾燥して焙烙(ホーロウ)に少量ずつ盛り、それを200枚前後土窯の中に積み重ね松の薪で700℃位の火力にて1日~2日焼くと赤褐色の焼キができます。2、水洗碾臼室焼キを水洗碾臼(ひきうす)室に運び、水を加えかきまぜる方法で粗いものと細かいものに分けます。それをより細かくするために水車を動力とした石臼で碾きます。3、脱酸水槽室含まれている酸分をぬくために脱酸水槽室に送り、きれいな水を入れてかきまぜる方法を数10回から100回位繰り返して酸をぬきます。(ベンガラと水は絶対に溶け合わないので時間がたてばベンガラは沈殿し、酸の溶けたうわ水を捨てるという方法です。)4、干棚酸のぬけたものを干板にうすくのばして干棚の上に並べ天日乾燥をします。それが製品の弁柄(ベンガラ)です。昔はそのままのものを板流しと呼んでおりました。又トンコという篩(ふるい)にかけてけし状にしたものもありました。ベンガラ館 展示_01 posted by (C)きんちゃんベンガラ館 展示_02 posted by (C)きんちゃん釜場室。焼キの工程です。ベンガラ館 展示_03 posted by (C)きんちゃんベンガラ館 展示_04 posted by (C)きんちゃんベンガラのそもそも論。ベンガラ館 展示_05 posted by (C)きんちゃんベンガラ館 展示_06 posted by (C)きんちゃん水洗碾臼室。焼キをより細かいものに…ベンガラ館 展示_07 posted by (C)きんちゃんベンガラ館 展示_08 posted by (C)きんちゃん脱酸水槽室。水に酸を溶かして、ベンガラの酸を抜きます。笹畝坑道 入口 posted by (C)きんちゃん次に、吉岡銅山 笹畝坑道に行きました。吉岡銅山 posted by (C)きんちゃん吉岡銅山の断面図。公開されている笹畝坑道はその端の方です。笹畝坑道のあらまし吉岡(吹屋)銅山は、大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載があるが、吹屋の銅山としての記録は、戦国時代尼子氏(あまごし)と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にあったが、大部分の間は、天領(てんりょう)幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいた。長い歴史のなかで繁栄期は、次の三期であった。時代 経営者継続年数元禄年間(1690)泉屋(住友)35年享保~天保年間(1716~1842)福岡屋(大塚)2回で107年明治~昭和年間(1873~1930)三菱(岩崎)57年江戸時代の採掘は手掘りで、鉱区も少範囲であったが、坑内の排水が非常に困難であり水抜坑道を掘りぬいた時期が繁栄していた。明治以後三菱金属(株)の経営となり、附近の小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い清錬等の作業を機械化し日本で、初めて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなった。この鉱山は笹畝(ささうね)と称し、支山(しざん)であったが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡している。ここでは、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出された。特に江戸時代にはこの地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用し大阪の銅役所へ運ばれていた。笹畝坑道 坑道内部_01 posted by (C)きんちゃん坑道の内部に入ります。笹畝坑道 坑道内部_03 posted by (C)きんちゃん笹畝坑道 坑道内部_04 posted by (C)きんちゃん笹畝坑道 坑道内部_06 posted by (C)きんちゃん笹畝坑道 坑道内部_02 posted by (C)きんちゃん江戸時代の坑内作業を再現していました。笹畝坑道 坑道内部_05 posted by (C)きんちゃん笹畝坑道 出口 posted by (C)きんちゃん笹畝坑道の出口です。広兼邸 眺望_01 posted by (C)きんちゃん次に、広兼邸に行きました。広兼邸 眺望_02 posted by (C)きんちゃん広兼邸 posted by (C)きんちゃん広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7年(1810年)の建築で庭園には水琴窟が設けられており、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えで今もそのままに当時の富豪を偲ばせている。邸宅の向かいには明治初期、天広神社が建てられ、広兼個人の神社として祭られていた。社務所もあり、境内には花木が植えられ、池・築山がつくられ、形の変わった石燈籠数基がおかれ、狛犬もあり、全体的には庭園風となっており衆楽園と呼んでいる。離れは大正の建築でお茶室、化粧部屋、客間、風呂等をそなえたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されていない。映画「八つ墓村」のロケが昭和52年と平成8年の二度にわたりおこなわれ、全国に放映された。広兼邸 母屋_01 posted by (C)きんちゃん広兼邸の母屋。広兼邸 母屋_02 posted by (C)きんちゃん広兼邸 室内_01 posted by (C)きんちゃん母屋の室内。部屋は下から眺めるだけで、室内には上がれませんでした。広兼邸 室内_03 posted by (C)きんちゃん広兼邸 室内_04 posted by (C)きんちゃん離れの座敷。広兼邸 室内_02 posted by (C)きんちゃん下女の部屋のあるところ。いちよう畳の部屋でしたが、同じ使用人でも女性はかなり冷遇されていたようです。広兼邸 土蔵_01 posted by (C)きんちゃん広兼邸の土蔵。種類分けでいくつもありました。広兼邸 土蔵_02 posted by (C)きんちゃん広兼邸 土蔵_03 posted by (C)きんちゃん広兼邸 土蔵展示_01 posted by (C)きんちゃんその土蔵の中の展示。なかなかの美術品です。広兼邸 土蔵展示_02 posted by (C)きんちゃん広兼邸 楼門_03 posted by (C)きんちゃん広兼邸の楼門は、まるでお城の楼門のようでした。広兼邸 楼門_02 posted by (C)きんちゃん広兼邸 楼門_01 posted by (C)きんちゃんそしていよいよ本格的に、吹屋ベンガラの里に向かいます。最初は、吹屋小学校。吹屋小学校_01 posted by (C)きんちゃん残念ながら改修工事中で、見ることが出来ませんでした。吹屋小学校_02 posted by (C)きんちゃん吹屋小学校_03 posted by (C)きんちゃん吹屋 屋根瓦_01 posted by (C)きんちゃん吹屋小学校から、吹屋の本通りに戻る途中。吹屋の屋根瓦です。吹屋 屋根瓦_02 posted by (C)きんちゃんそして吹屋のふるさと村を歩きました。
2018年05月10日
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備中高梁 次は山城・備中松山城へ 【5月4日】城見橋駐車場まで渋滞 posted by (C)きんちゃん城見橋公園駐車場まで、長蛇の車の列…備中松山城 シャトルバス posted by (C)きんちゃん鶴見橋からふいご峠の駐車場まではシャトルバス。連休中など混雑する時期は、マイカーは鶴見橋まで。代わりにシャトルバスが運行しています。備中松山城シャトルバス券 posted by (C)きんちゃん往復で400円です。備中松山城 登る_01 posted by (C)きんちゃんふいご峠の駐車場でシャトルバスを降りて、備中松山城の天守までは約700m。山道を歩きます。備中松山城 登る_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 登る_03 posted by (C)きんちゃん降り口は二通りあるみたい…備中松山城 登る_04 posted by (C)きんちゃん備中松山城 登る_05 posted by (C)きんちゃんさらに急な坂道へ…備中松山城 石垣_01 posted by (C)きんちゃんそれでも、石垣が見えてくると天守は近い。歩く足にも力が入ります。備中松山城 石垣_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 石垣_03 posted by (C)きんちゃん備中松山城 石垣_04 posted by (C)きんちゃん備中松山城 石垣_05 posted by (C)きんちゃん備中松山城 白壁_01 posted by (C)きんちゃん天守の手前の白壁です。備中松山城 白壁_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 天守閣_01 posted by (C)きんちゃんそして、いよいよ天守閣。備中松山城市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている「臥牛山(標高約480m)」。北から、「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からなり、西から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれ、備中松山城はその頂を中心に全域に及んでいます。現在、一般に「備中松山城」と呼ばれる程この、内の小松山の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年に重要文化財の指定を受けています。また平成9年には、これら重要文化財を中心に、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとついて復元されました。さらに傷みが進んだ天守も平成15年には保存修理が行われて現在に至っています。備中松山城の歴史この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全域が一大要塞となっていたことが、うかがえます。当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど、備中の要衝としての役割を担っていたようです。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。備中松山城 天守閣_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 天守横から posted by (C)きんちゃん横からの天守。備中松山城 天守閣_03 posted by (C)きんちゃんそして天守閣に登ります。ここでは、4館共通券が必要。備中松山城 天守閣内部_01 posted by (C)きんちゃん天守閣の内部。これは囲炉裏です。備中松山城 天守閣内部_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 天守閣内部_03 posted by (C)きんちゃん備中松山城 天守閣狭間 posted by (C)きんちゃん天守の狭間から迫りくる敵に鉄砲を…備中松山城 天守閣展示 posted by (C)きんちゃん以前の鯱瓦。備中松山城 天守から鬼がわら_01 posted by (C)きんちゃん今の城の瓦。備中松山城 天守から鬼がわら_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 天守から城下を posted by (C)きんちゃん天守から城下を臨む…備中松山城 二重櫓へ posted by (C)きんちゃん二重櫓が特別公開中でした。備中松山城 二重櫓 posted by (C)きんちゃん天守の傍の二重櫓。備中松山城 二重櫓からの眺め_01 posted by (C)きんちゃんその二重櫓からの眺め。天守閣が邪魔になって城下は見えません。備中松山城 二重櫓からの眺め_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 二重櫓からの眺め_03 posted by (C)きんちゃん備中松山城 二重櫓から天守_03 posted by (C)きんちゃん二重櫓から天守閣を見ます…備中松山城 二重櫓から天守_01 posted by (C)きんちゃん備中松山城 二重櫓から天守_02 posted by (C)きんちゃん備中松山城 城下の眺め_01 posted by (C)きんちゃん城に登り降りの途中で撮った城下の眺めです。備中松山城 城下の眺め_02 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 田園風景_03 posted by (C)きんちゃんその日に泊った宿は吉備中央町、鷺の巣温泉・湯本屋旅館。田園地帯が広がるのどかなところ…吉備中央町 田園風景_01 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 田園風景_02 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 田園風景_04 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 田園風景_05 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 川の流れ_01 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 川の流れ_02 posted by (C)きんちゃん吉備中央町 川の流れ_03 posted by (C)きんちゃん湯本屋旅館_01 posted by (C)きんちゃん泊った湯本屋旅館です。湯本屋旅館_02 posted by (C)きんちゃん湯本屋旅館_03 posted by (C)きんちゃん鷺の巣温泉の由来鷺の巣温泉 posted by (C)きんちゃんぬるぬるのアルカリ性泉で、良い温泉でした。湯本屋旅館 池の鯉 posted by (C)きんちゃん旅館には鯉が泳ぐ池も…湯本屋旅館 室内_01 posted by (C)きんちゃん泊った部屋は広かった。早めに予約したからかな…湯本屋旅館 室内_02 posted by (C)きんちゃん湯本屋旅館 夕食 posted by (C)きんちゃん美味しい食事。夕食です。湯本屋旅館 朝食 posted by (C)きんちゃん朝食。湯本屋旅館 調度品_01 posted by (C)きんちゃんその旅館の調度品の数々…湯本屋旅館 調度品_02 posted by (C)きんちゃん湯本屋旅館 調度品_03 posted by (C)きんちゃん湯本屋旅館 調度品_04 posted by (C)きんちゃんお世話になりました!さて、5月5日は、高梁市の吹屋地区・ベンガラの里に向かいます。
2018年05月07日
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連休で旅行 備中高梁へ まずは町並み散策 【5月4日】紺屋川散策_01 posted by (C)きんちゃん高梁市観光駐車場に車を停めて、紺屋川沿いを歩きます。朝10時前だったので、駐車場は余裕で停めれました。紺屋川散策_02 posted by (C)きんちゃん紺屋川散策_03 posted by (C)きんちゃん紺屋川散策_04 posted by (C)きんちゃん紺屋川散策_05 posted by (C)きんちゃん日本の道100選です。紺屋川散策_06 posted by (C)きんちゃん高梁キリスト教会堂 posted by (C)きんちゃんその川沿いに、高梁キリスト教会堂があります。郷土資料館_01 posted by (C)きんちゃんまずは、郷土資料館へ。以前の高等国民学校の校舎を使っています。高梁4館共通券 posted by (C)きんちゃん4館探訪共通券を買いました。通常1300円が900円でOK郷土資料館_02 posted by (C)きんちゃん郷土資料館 展示_01 posted by (C)きんちゃん郷土にかかわる貴重な資料がたくさん展示されています。郷土資料館 展示_02 posted by (C)きんちゃん郷土資料館 展示_03 posted by (C)きんちゃん郷土資料館 展示_04 posted by (C)きんちゃん郷土資料館 展示_05 posted by (C)きんちゃん郷土資料館 展示_06 posted by (C)きんちゃん2階は講堂になっていました。郷土資料館 展示_07 posted by (C)きんちゃん頼久寺_01 posted by (C)きんちゃん次は、JR伯備線を渡って頼久寺へ。頼久寺沿革天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である頼久寺_02 posted by (C)きんちゃん頼久寺_03 posted by (C)きんちゃん頼久寺庭園_01 posted by (C)きんちゃん頼久寺にはツツジの咲く立派な庭園があります。庭園慶長5年(1600年)小堀新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去したので一子作助政一(遠州)が遺領を継いだ。その頃の松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和5年(1619年)までこの地にいた。本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込みは、園内最も優れた美的景観を示している。このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、歴代城主の帰依の念篤きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和49年国の名勝(庭園)に指定された。尚、自筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、別に暦応2年12月西念勧進による石灯籠がある。頼久寺庭園_05 posted by (C)きんちゃん頼久寺庭園_06 posted by (C)きんちゃん頼久寺庭園_07 posted by (C)きんちゃん頼久寺庭園_03 posted by (C)きんちゃんこちらは、裏庭の方です。頼久寺庭園_04 posted by (C)きんちゃん頼久寺 灯ろう posted by (C)きんちゃん暦応2年12月の銘のある石灯ろう頼久寺 書_01 posted by (C)きんちゃんなかなか粋な書もありました。頼久寺 書_02 posted by (C)きんちゃん石火矢町散策_01 posted by (C)きんちゃんすこし歩いて、石火矢町ふるさと村へ。石火矢町散策_02 posted by (C)きんちゃん石火矢町散策_03 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧埴原家_01 posted by (C)きんちゃん共通券で入れる、武家屋敷 旧埴原家へ。武家屋敷 旧埴原家_02 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧埴原家_03 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧埴原家ベンガラの壁_01 posted by (C)きんちゃんいくつかの部屋の壁はベンガラでした。武家屋敷 旧埴原家ベンガラの壁_02 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧埴原家火燈窓 posted by (C)きんちゃん床の間の横の、火燈窓武家屋敷 旧埴原家蟇股 posted by (C)きんちゃん入り口の鴨居の上の蟇(かえる)股武家屋敷 旧折井家_01 posted by (C)きんちゃんそして、すぐ近くの旧折井家武家屋敷 旧折井家_02 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧折井家_03 posted by (C)きんちゃん武家屋敷 旧折井家台所 posted by (C)きんちゃん台所武家屋敷 旧折井家庭園 posted by (C)きんちゃん庭園武家屋敷 旧折井家資料館 posted by (C)きんちゃん土蔵の中は資料館。徳川家康から与えられた領地の記載。お抹茶のおもてなし posted by (C)きんちゃん旧折井家の前の広場で、抹茶の無料おもてなしをやっていました。高梁市 本町通り_01 posted by (C)きんちゃん突き当りを川沿いに左へ下りて、伯備線を渡り、本町通へ。高梁市 本町通り_02 posted by (C)きんちゃん高梁市 本町通り_03 posted by (C)きんちゃん高梁市 本町通り_04 posted by (C)きんちゃん商家資料館 池上家_01 posted by (C)きんちゃん商家資料館 池上家。醤油づくりのお店でした。商家資料館 池上家_02 posted by (C)きんちゃん商家資料館 池上家_03 posted by (C)きんちゃん商家資料館 池上家_04 posted by (C)きんちゃん高梁市 古い町並み posted by (C)きんちゃん駐車場の近くの古い家。高梁市街角の祠_01 posted by (C)きんちゃんそして、町のいたるところに祠がありました。高梁市街角の祠_02 posted by (C)きんちゃん高梁市街角の祠_03 posted by (C)きんちゃん駐車場内のうどん屋さんで「ぼっかけうどん」。駐車券にお店のスタンプを押してもらうと、駐車料金が1時間値引き。2時間半停めて200円余り。安かった。さて、いよいよ備中松山城へ。
2018年05月06日
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