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なぜゆえに。なぜゆえに、人は生る事に苦行を強いられる。後生、愉しい事多かりし人生でありたいと願うは欲張りか。心の安らぎを求め、家族の幸せを求めて。心願う言葉を聞き入れてもらえないのか、あなたは。試されし我が精神の強度をか。それほどに我が心を憎むか、神は。あなたに跪く姿を見たいゆえか。ひれ伏す事無く生きてきた事への報いか。崇め尊ぶ事への戒めか。依存への乖離人は何を求めて生きる。探し求めて、何を得る。何を糧に生きる。心が満たされる喜びに、感動することは幾度あるだろうか。日々の空虚さが蔓延する。揺れる心が希望を見失う。足跡を見つめる心の優しさが無くなっていたの?急ぎ足で、今を生きている。なぜ?坂道を上れば、素敵な未来が拓けるの?心は、なぜ、今の瞬間を駆け抜けようとするのだろう。急いている心は、なぜ。後振り返らず、ただ、闇雲に走り続けるオレ。想い出も、消し飛んで。なんの夢も描けず、未来の構図は、ただの絵空事。描く未来は、遠い星の数も見えず。笑い声が木霊する心の安らぎは、片隅に追いやられてゴミ籠の屑となる。それで今を生きている。生きる事って、そんなもの!駆け抜ける日々の糧を求めて、日銭を賄う。何を想う、想わぬこそ今が在る。誰の許しも無い。己が生きている。幸せなんて、絵空事。夢を描くのは今を大切に生きている人のみが勝ち得る玉手箱。だから、一生、夢は描けない。信仰とは。時間の概念が消え荒ぶれた気持ちが癒やされ鎮静していく。歳とともに気難しさも薄れ穏やかな感性が気持ちを支配する。柔軟な駆け引きにも対応する姿勢が現れ自己の時間を精査する。改善されるべき日々の事案を思惟すれば必要は不必要を排除して必要とされ、不必要は必要の内部で不要の限りではない。自己の満足感が肥満化し満たされない必要の領域を模索しては除外される時間を必要とするも、その時間も更新され繰り返される日々の出来事なれば。慌てず騒がずに粛々と物事が進み運用され使い慣れた使用感がべったりと蓄積され何不自由なく戸惑うこともなく使用していたシステムが必要性を強化するゆえに滞る都合をいともあっさりと切り捨てて切り替える素早さを疎(うと)ましく感じるこの罪悪感は何なのか。利便性の必要を求めすぎる世の中で、あやふやに生きている私は不必要な生き物ゆえに寄り道を繰り返しては前に進む知恵がふやけている。 誰でも悩み迷い生きる為に答えを求めて模索する。その過程において気持ちの浮き沈みが心に歪を起こす。不自由でもなく不便でもない滞る日々の気持ちの歪が、何かを求め今を生きている理由を自分に問いかける。「どうすればいいのか!」模索する思考に物事は時に不合理を道理に導くことがある。自然の摂理は時として不可思議な事を導き出す。その稀なことを人は奇跡と呼ぶ。人は弱き者。その奇跡を神と重ね合う。神は人の心の内部に存在し時として心の扉を開ける。偶然は偶然には起こらない。この世は現実のみだけが映し出される。真実か否か、自己の概念を捨てて起る出来事を経験してみれば自ずと解ってくる筈なのだが。あり得ない出来事は、起りはしないのである。現実は今の瞬間を描き未来と繋がり、その未来も過去の出来事を経過して描かれ不合理な出来事は起こらない。けれど、人は弱き者。人は死を恐れ心を病み精神を狂わせて神に祈りその慈悲に縋る。人は弱き者。弱い精神は自分の弱さを棚に上げ力を失い、残されし心は己の力量の無さを痛感させられる。そして、卑屈になった精神にもう一方の自分が罵倒する。「そんなはずではなかった」哀れみと戸惑いが交差する。人は弱き者。愛を無くしそのすべてを失い涙が枯れるまで苦しみ足掻き傷つけてこの世の無情を知る。慈悲深き尊さが消える。神に手を合わせ祈る姿の愚かさに気づく。己を戒めては亡くなった者への愛情を重ね合わせ、祈る姿と乖離する自己の摂理が共存するのは精神の脆さ故か。 人は余す事、理に適わぬ事を願う生き物らしい。存在せぬものを恰もこの世に存在するがごときに願い願望すること余りにも甚だしい。私利私欲の累計は限度を知らぬ。その趣旨は多岐にあり。人それぞれ有り、人の思考もそれぞれの思惑がある。心が病み一人では背負いきれぬ苦痛が広がり何かに縋る気持ちが生れ、縋る先に神を見る。その神に己に出来ぬ望みを託す。人が創りし神も多岐にあり。その神同士が諍いを起こし人間の卑屈な行いに似た祖業が起こる。それは神の意図する真意なのか!憂いなのか!人は神という詞に平伏す生き物なればその響きが時にあやまちを犯す。 ” 神を信じ敬う事は卑怯なり ”他人本願で生きることは哀れなり。自己の行動を信じえなくして、なにが生きることか。偶像を求め崇拝し己の行動を抑止するのは愚かである。存在しないものを恰も存在するかのように想うのは哀れである。他の生き物を見れば解ることである。人以外の生き物は神という偶像など感じることなく生きる。偶然とか奇跡などというものは人が創りしものなれば、人以外の生き物は自分の力を信じて糧を得る。己を信じて行動する。時は後戻りなどしない。昨日の出来事が今日起こる事もない。明日起こる出来事を今日知る事もない。人以外の生き物は常に今日を見つめる。今、この瞬間を感じて生きる。生き物が一度は経験する死の足掻(あが)きは、二度目はない。生きる事も二度目は無い。すべては一度限りの時が流れる。その時間を逃げることは容易いが行動を起こし現実を直視し今を生きることは未来につながる。しかし、人はその瞬間その時を軽視して過ぎ去りし時を惜しむ。後悔すれど時は戻らず。それ故、信仰が生まれる。その信仰が神を産み出す。憂いかな。人は弱きもの。.
2024.06.05
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生きる事へ執着心が薄れ始めている時に、いつも見慣れている尻尾が微笑みかけている事に気づきます。その何気ない仕草が心に響きます。その仕草は何を語ろうとしているのか?その仕草に、とても安らぎを覚えます。不思議な暖かさが伝わって無垢な偽りの無い気持が伝わってきます。なにも求めず、なにをも執着せず。我が家の生き物は、その瞬間を感じて生きている。そして、揺れ動く尻尾の表情がとても面白くユーモラスであるのに気づきます。 共振、共有するその波動は受け止める側にやすらぎを与えます。幸せで元気な時は気づかなくて感じることのなかった心の感情が。今はあなたの尻尾が心に響きます。 時の悪戯はかけがえのない愛情をサラリと見せて微笑みを誘います。その仕草に勇気が湧いて来る。恐れず悔やまず自然に気心を研ぎ澄ませば、おのずと精神が穏やかになり心にゆとりが出来て、その人の生きる希望が湧いてくる。我が家の生き物を見て思います。生き物達は死を恐れず今を生きている事に。そのことに気づき心が穏やかになる。 若い時に耳にした言葉が軽んじられ、歳を重ねて同じ言葉を聴き心に響くのは言葉の真意が視得てなかったからなのか自己の錯覚か。それとも時の悪戯か。思いやりの言葉は心に響くが偽りの愛は心に残らない。話す言葉の真実は消え、言葉の真意は虚空に帰す。 共振することの難しさよ。共感できぬ苦渋よ。その交信の限界を感じ物質の概念を知ることによりなお解決出来ぬものがある。言葉は時として凶器に変貌する。感情を抑制出来ぬ物質(ひと)はコントロールを失い、失速し自分を見失う。憂いかな。毎日の会話で吐き出される言葉の響きの内部(なか)に幾つの真実があるのか。聴く手にその解読する力が備わっていなければ只の音が素通りしてゆき、通り過ぎる言葉が時として立ち止まり、話し掛けて汲みする瞬間に言葉の真意が判りあえる時がある。 それは祖の悪戯か気紛れでもあり、理解する加減が真意に比例して時を刻む。祖は時を生み出し、時は命あるものを育み進化させ無から有の存在を生み出し、肯定否定を繰り返しながら時を超えその容姿を整える。生きるものが擁する容姿は個々の進化に基づき、形付けられしものなれば、その容姿を借りて心をも伝えし逢える事に今を知る。祖が創りし尻尾は生き物の心を表し、その種属は言葉を失うことによりその真意が試されることになる。 人は言葉を巧みに操り、心の内部を尻尾に表現させることを拒んだ。それゆえに今尚、殺掠など殺生が絶えず。言葉とは相手に此方の気持が伝わらないと意味を成さない不便な交信手段。 我が愛すべき生き物には心を映し出す尻尾がある。その生き物の真の会話が出来る尻尾が存在する。心で交信出来る尻尾がある。心に響く尻尾が揺れ動き脅威を排除して、名も無い者達にもご加護が施され透き通る情熱が共振されて情愛が生まれます。人間にはその尻尾がなく、故に憎しみや争いが絶えない。進化は時として過ちを犯す。 .
2024.06.05
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庭の華やいだ花々がそれなりに散って質素な風景を映し出しています。その中で紫陽花の花が彩りを見せて、その隅にドクダミの白い花が可憐に咲き誇っています。その庭から土手を下りて河原には菖蒲の葉が生い茂り。先月までは大根の白い花が密集していたのに季節は滞ることなく移り変わります。我が家の猫さん近頃、朝早くから外出されて楽しい季節を満喫していらっしゃいます。もう、朝飯を食べ終わったら、そそくさとお出掛けになりました。我が家よりお外の方がいいみたいです。俺ときたら寝床の内部に埋もれて起きだす切っ掛けがなく。微睡むド頭の具合に比例して気持ちも「もうすこし眠い」と貧血気味(ド頭と懐具合)の時間が流れます。怠け者の気分が心の内部に宿り。思考が複雑に絡み合って煎り胡麻の風味が手頃な雰囲気を醸し出してぼんやり天井を眺めたら、現実離れした切り札が思い浮かぶものの、それと連動してお腹の虫さんが悲鳴に近いうなり声をあげます。.
2024.06.04
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昨日の夜に建設屋から電話が掛かってきた。「明日、手を貸してくれ」人に頼みごとをする口調じゃなく手を貸すのが当たり前のような口ぶりに「何の用だ」の返事が「10トンダンプの運転手が休むので代わり運転してくれないか」との事だった。建設屋もオレが毎晩、深酒するのを知っているから早めに電話を掛けてきたのだろう。別に用事もなかった。そして、午前中でダンプの運転済ませ建設屋の奥さんが用意していた昼飯を平らげ、自分のポンコツ自家用のオイル交換などをした。オイルは建設屋の倉庫から失敬して、リフトで車を持ち上げオイル交換をする。ついでにバッテリーの調子が悪いので建設屋の整備の奴に調べてもらったら、ダイナモ(オルタネーター)が悪いとの事。新品を買う金は無い。如何したものか!思い当たる処がない訳じゃない。昼飯もたらふく食べたので気持ちは俄然前向きな思考が働いて自動車解体屋の顔が浮かぶ。「あそこに、あるだろう」その思惑を頼りにポンコツ車で向かう。ヤツのことだ!解体屋の性格上、品物をタダでくれる訳はない。オレも伊達に歳をとっている訳じゃない。( ̄― ̄)ニヤリッ 解体屋に車を乗り入れ勝手知ったる処なので、解体屋の顔を見ずに部品が置いてある倉庫に行き、オレの車に合うダイナモを探していると案の定、解体屋が現れる。「よお、元気か」「あ、」「今日は何しに来た」「別に」「どうでもいいけど、品物を持って行くなよな~」「ん、聞き捨てならないお言葉ですが、いつ、おれが泥棒した!」「まあ、そう怒るな」「怒っちゃいないが、ところで物は相談だがダイナモあるよな!」「あるよ、大型から軽まで選り取り見取り品数は豊富だもんね」「おれの車のなんだけど!」「あ~、おまえんちのポンコツのダイナモもあるぞ」偉そうに踏ん反り返り過ぎてオレの腹よりデップリの腹が天を見上げそうな態度にも我慢する。「そのダイナモを見せてくれないか」車から外されたダイナモの部品をオレの目の前に解体屋が持って来た。「これなんか、お前の車に形式が合うと思うが」解体屋も商売を始めて長い。それなりに車に関しては知識がある。解体されたエンジンなど部品は外国に輸出している。オレが思っている以上に儲かっていた。けど、今のご時世コロナとウクライナ侵攻でロシア系の出荷が減ってしょげ返っている。商売がコロナ以前のような儲けになっていないらしいと思っていたけど、そうでもないらしい。抜け道はいろいろあるらしい。話は横道にそれたけど。「そのダイナモをくれないか」単刀直入に言う。「一万五千円なら売ってもいいぞ」オレの足元を見て相手もサルもの欲深きデブの野郎、吹っ掛けやがる。タダ同然で仕入れた車を解体しての、この強欲な態度に頭に血が上りそうでもジッと我慢のオレ。「五百円」「阿保!」「五百円しか持っていない」「五百円で売れる訳ないだろう」「何処を叩いても五百円しか出ない。だから、五百円」「帰れ、帰れ!」品物がオレの目の前にあるのをいいことに強欲な野郎が邪険にしやがる。「こんにちは」そこに野郎の息子が現れた。この子は親父に似ず強欲じゃない。根が素直でいい子だ。親父に似なくて良かったと思う。つくづく思う。「おじさん、元気にしていた」「ああ、元気じゃ」「今日は何?」「このダイナモを親父が売ってくれないんだよ」「なにを、この野郎、売らないとは言っていないぞ」オレと息子との会話に強欲の親父が割り込んでくる。「おまえが、安く買い叩くから...」強欲な解体屋の語尾が尻切れトンボみたいに口ごもりながらオレを睨みつける。「あ、この品物が欲しいの!」息子がダイナモを手に取りオレに見せる。「ああ、それ、それ」「だったら、持って行っていいよ」「えっ、いいのか」「うん、タダでいいよ」なんと、この素直な出来た息子だ。いい子に育ったもんだ。オレの息子にすればよかったと思う。この子が産まれる時に、オレと強欲な親父はスナックで飲んでいた。出産の予定は一週間後になっていた。だから、気兼ねなくもう一人の仲間、三人で飲んでいたところ、産気が早まって産まれそうとの電話が入るも産婦人科に駆け込んでみたが間に合わず、その事でオレの奥様に産婦人科の内部で、こっぴどく叱られ、どやされて産まれた赤子を見せられずに半泣きの顔がいまだに思い浮かぶ。その後、強欲なおやじの息子はすくすく育ち、子供の頃はうちのチビと仲良しでよく遊びに来たものだ。奥様がご健在だった頃は、それはそれは可愛がられたものです。だからオレにも一端の責任と日頃の、まあ何と言ったらいいのか「まあ、立派な大人になって」の気心知れた男の子になっています。強欲なおやじに似なくて良かった。強欲なおやじはぶつぶつ言いながらも、オレと息子との話には口出しせずに不貞腐れ気味に品物を渡してくれた。でも、オレの気持ちがタダでは申し訳なく思い。強欲なおやじに「ほい、三百円」硬貨三枚を渡して品物を頂く。別れ際に強欲のおやじの奥さんが顔を見せて家にあがれとシツコクオレをひっぱるので、しかたなく事務所兼御殿に上がり込み贅沢な果物をせしめて持ち帰る。途中、電気屋に寄り道して道具を借り、電気屋の小屋でダイナモを取り換える。此処の小屋にはオレに懐いている柴犬がいる。この犬が可愛いいのを通り越して尻尾を振り振り、腰をふりふりして、いつもじゃれ合う仲なので時間がいくらあっても足らない。この犬とオレは相思相愛じゃないかと思う。鳴き声からして親密さがうかがえるというものです。ハイ。それから家に帰り我が家の猫さん、頻りにオレの身体を嗅ぎまわる。柴犬の匂いがするのだろう。我が家の猫を見ながら「あんさんが時々、犬に変身すればいいのにね」なんて、シャキッとしない考えが浮かび「まあ、仕方ないよな」のアキラメ顔で柴犬のなつき方に思いを寄せての一日が終わります。今日は三百円で贅沢なご馳走をたらふく食べられた事に感謝して、酒をあおるのを控えて短めのシャワーを浴び寝床にもぐる。寝床の横で猫さん香箱座りしてオレを見ています。何か物足りなさそうな顔つきです。オレは大満足していい夢を見られそう。( ̄― ̄)ニヤリッ 追記解体屋の倉庫にオレのポンコツ車に乗せられるエンジンが有ったような気がしてならない「うむ、エンジンも交換すれば今よりマシに動くかも?」と、思い巡らすもあの強欲おやじが留守の時じゃないと交換出来ないな~~ .
2024.06.03
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近頃、寒いのか暑いのか気温が定かでない。朝は特にさぶい。着ていく服装に迷いがでる。長袖がいいのか、半袖の作業着がいいのか朝の忙しい時に気持ちと焦りが煮詰まって、「エエままヨ、素っ裸で出勤じゃー」なんて出来っこないのにズボラな性格が素直に出るから厄介です。そんな性格の身勝手さが際立って一貫性に乏しく、いい加減な気持ちが先走ります。綻びる理性の整合性などお構いなしにぶっちゃける自分に嫌気がさす。ブレる!信念が災いを撒き散らす。こちらがいいな~と思えばソチラになびく愚かで柔軟性に優れているとカン違いのツワモノゆえに、見境なしの建前を立て板に水の如く並びたてて相手を唆す。それで事が済めば良いのだが。世間様はそうは問屋が卸さない。理性に伴う意識の違いというなかれ、信念のない先人がよくご存知だから有りのままを言ったり口ごもったりするオレの薄っぺらな素性が丸裸になって嫌われ者となり果て、見境なくお世辞、おべっかを使って人脈を選り好みしては排除されても、しつこく食い下がり当て擦りみたいな言い訳でむちうち症の限度を遥かに超えた会釈は総理大臣賞ものなのに、その成果が得られない。労働者諸君、日雇い労働者諸君、信念を持って!頑張ろう。仕事がなんだ。雇い主がなんぼのもんじゃ!嫌なものは「イヤ」とハッキリ申しましょう、ね。でも、勇気がいりますけど。_(´▽`*)lo/ 追記「あ~休みたい」仕事の御駄賃が雇い主からまだ振込まれていない。この後2週間を2千円で、どう食つなぐか思案しなければいけない。食欲はおおいにあるのに、仕事の意欲は乏しく呑み代に事欠く。「缶ビールが1個、10円だったらいいのにな~~」(=゚ω゚)ノ .
2024.06.02
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病んでも痛みを感じなければ苦痛を味わうことはない。関心がなければ興味も湧かない。そして、無関心であるのが道理とは限らない時代だってある。目を瞑って耳を塞ぎ、押し黙って疫病が通り過ぎるのを殻に籠もってじっと待つ。時代は変化しているのに無関心を装う。真実は虚偽され偽装が飛び交いそれに関連する出来事が巷で溢れ出す。その情報に関わる人の気持ち人々の視線が戦場の場へ注がれる。ある人物の野望のために多くの犠牲を生み出している。誰も彼の行動を止めることは出来ない。神さえも。人間は神の真意とは無縁ではないはず。祈り人の願いは空虚に化して真実を顕にする。傲慢で贅沢極める者ありて尚、死に行く者への慰めの気持ちなど蔑(ないがし)ろにするその国民をも神は裁こうともしない。指導者が闇を覆いかぶし真実をフェイクして闇の信者が道理を奏でる時代が来るのか。真実と偽装を天秤にかければ神の思惟が分かるのか。真意を模索する思考にあがらう場面をどれだけ、どれほど見せつけられればいいのか!胸が痛む。指導者を選びその野望を止めることが出来るのは自国民しかいない筈なのに。搾取され殺害される情報に無関心なのか!それとも指導者と同じ思惟を共有して、その野心を満足させる国民性ゆえにか。そのやり口(行動)に怒りを覚える。.
2024.05.30
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サングラスと唇に絆創膏を目張りしたダチが夕食を差し入れに来た。まだ、痴話喧嘩のキズが痛々しい。ダチの彼氏と一悶着あったらしい。ダチは女性らしからぬ性格で喧嘩早く、オレより腕力がある。体格はオレと同じくらいで喧嘩慣れしているのも事実。彼女は中学1年生までオレの用心棒だった(俺はいつもいじめられていた)だから親密過ぎるのも誤解を招く、そんな訳でダチと彼氏の問題に深く立ち入らないことにした。夕食をダチと一緒に食する。(グラタン風のチーズ入りお好み焼き)” まあ、まあの出来でしょう "まずいと言えばラリアートを見舞われるので苦み走った笑顔で「美味しい (≧◇≦))yo~」ダチ、満足そう。話を聴けばダチの娘の異星人が作った自信作との事。オレ、(なるほど、まずいわけだ!)ダチ、「まだ、残っているから持ってこようか」オレ、「いや、もういい」そんな押し問答を短めに収めてダチと一緒に酒を呑む。こやつは女性の割には酒に強い。酒癖は娘が大きく育つにつれて悪酔いしなくなった。若い時は酒癖がひどかった。俺より底なしのご婦人。( `ー´)ノ .
2024.05.29
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愚痴(ぐち)についてウェブサイトでの検索結果以下の文章は、各ウェブサイトで拾い上げた説明内容です。 「愚痴」とはもともと仏教用語仏教用語では真理に暗く無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう根本煩悩である貪欲(とんよく)(むさぼり)と瞋恚(しんに)(怒り)に愚痴を加えた三つを三毒(さんどく)といって、人々の心を悩ます根源と考えた。また、心愚かにも言ってもしかたのないことを言い立てることを、俗に「愚痴をこぼす」などと用いるようになった。[石上善應]不平や小言(こごと)をもらす。「愚痴をこぼすこと」ではなく「仏の知恵を知らないこと」を意味します。 愚痴とは、ストレスの転嫁です。自分のストレスを相手に押し付けてスッキリする方法です。「ストレスをぶつける」なんて言い方もありますが、ぶつけられた方にとってみれば、いい迷惑なのです。「愚痴」という言葉に使われる「愚」と「痴」は、ともに「おろか」という意味を持つ漢字です。まさに、自ら自分の信用を貶おとしめる愚かな行為なのです。「愚痴」という言葉を紐解いてみると、元は仏教用語でした。仏教には「仏の三毒」という言葉があり貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)、この3つをよくないものとしています。 一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。 武田信玄仕事の愚痴、家族の愚痴、友達の愚痴、恋人の愚痴、日常的に愚痴をこぼす人はたくさんいますね。こぼしている本人は、日ごろの鬱憤うっぷんやストレスを吐き出せて「あ~スッキリした!」と考えているのかもしれません。愚痴を言わない人の特徴は、周囲が困った時やイライラした時に話をしたくなるところ。誰かに愚痴こぼすのは、よく考えると自分勝手な行動のひとつです。愚痴を聞かされるのは決して楽しいことではなく、無理やり相手に同調しないといけないストレスもありますよね。愚痴が多い人は基本的にネガティブ思考。よくない方向に考えやすく、そのせいで性格も暗くなってしまいます。愚痴を言わない人の特徴は、とてもポジティブで周囲から好感をもたれている点。たとえば仕事でミスをして、上司から叱られてしまった人。延々と上司の愚痴こぼしをする時、一緒になって愚痴や悪口を言ってしまう人は多いでしょう。 愚痴以外のストレス発散方法嫌なことがあったらストレス発散しないと、次第に蓄積されて精神的に疲れてしまいます。あらゆる場面で愚痴をこぼしたくなる今の時代。自分らしいストレス解消方法をもっていない人も、意外と多いでしょう。愚痴を言わない人は「愚痴」以外に、自分のストレス発散方法を知っているのです。 周囲の人を不快な気持ちにさせず、自分の中でネガティブな気持ちを解消しています。たとえばエクササイズをする習慣や、趣味の時間を楽しむなど。プライベートが充実しているからこそ、常にポジティブで人の悪い面が気にならないのかもしれません。ストレス発散は、毎日の生活に欠かせないことです。ぐっすり睡眠をとるだけでも脳の休息になるので、いつもイライラしている人は生活習慣を見直すとよいかもしれません。 愚痴を言わない人は、とても理想的な存在。心を広くもつためには自信をもち、常に笑顔で生活することも大切でしょう。ポジティブ思考を意識する習慣を始め、愚痴を言わない理想的な人を目指したいですね。 そして、「愚痴」は「相談」に変換しよう大事なのはアウトプットの手段、愚痴ではなく相談にして外に出すこと。それがストレスを自分の成長へつなげる手段になります。「愚痴」と「相談」の違いは?相談というのは「自分はどうしたらいいのか」という問題解決のための悩みなんですよね。それは善悪の問題ではなく現状を打破したいというメッセージで同意は求めていないんです、自分が変化するためのアドバイスを求めているんです。 「我慢強い」は致命的な欠点不平不満をただ我慢して飲み込んでしまうのはストレスの定期預金、いずれ満期になったときに暴発暴走してしまう原因になってしまいます。 「我慢強い」というのは利点ではなく致命的な欠点です。 ストレスを溜める受け皿が大きければ大きいほどいずれ暴発暴走したときに取り返しのつかないことをやってしまいますからね。不平不満は我慢するのではなく上手に外に出してあげることが必要なんですよ。 「愚痴」は「相談」に変換しよう大事なのはアウトプットの手段、愚痴ではなく相談にして外に出すこと。それがストレスを自分の成長へつなげる手段になります。愚痴を言う相手に敬意はいりませんが、相談をする相手には敬意が必要。尊敬できる人がいたことに感謝するように。愚痴を相談に変えてくれる人なんてなかなかいませんからね。 愚痴をこぼすことは、悪いこと…?そんな風に思っている人も多いのではないでしょうか?でも、果たして、そうでしょうか?「愚痴」と「悪口」は同じと感じてしまうから、罪悪感を抱いてしまうのかもしれませんね。では「愚痴」と「悪口」の違いは、何なのでしょうか?「悪口」は避けるべきですが、「愚痴」は、こぼしてもいいんですよ。もちろん、時と場合と相手を、しっかりと見定める必要はありますけどね。 .
2024.05.29
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言葉の羅列で更生されるべきは自分の事なのに他人のように言い返すオレ。それも別人の顔で。孤独な囁きが心を傷つけ痛みを生んでいても、すべては自分の事なのに。振り返る事もせずに、むやみやたらに前に進みたがる。 後悔と言い訳だけが付け足されて澱んだ気持ちを持ち続けて嘆いている今のオレ。「もう、そんな眼で見るなよ」もう一人の自分に媚びながら痛まない絆を分け与えています。待っている良い子は忘れ去られたオレを構わずにプイしちゃっているのに。「そんな顔しないでくれる!」心乱れる不愉快の一歩手前で事なきを得ようと酒を流し込む。 言葉の意味を無駄にしないように努力と辛抱が手助けしても神の恵みは舞い降りて来ない筈なのに。「嫌味な言葉なんて屁の河童だよ」なんてつよがるオレ。「嫌いじゃないよ」だって好きなのに。こんな自分を持て余して言い訳のつもりでつい言った言葉に傷ついても。頑固と穏やかな気持ちが縺れ合って絡みあって心の傷をなめあっています。惹かれ合う気持ちが蔑(ないがし)ろされて、心の拠(よりどころ)を求めています。「さびしいんじゃないんだから」幸せを欲しがっているオレ。魂の内部で折り合い共鳴する多重人格的要素がオレを悩ませる。そして現実を覆い隠し偽りの出来事が繰り返される。 心の歪が逃げ惑い臆病で卑屈な自分に嫌気がさす。不条理な苦しみが一緒になってダメなオレを落ち込ませる。所詮、ずる賢い知恵が前向きな気持ちを持ち合わせていても臆病なオレが逃げを打つ。 .
2024.05.29
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雨降る真夜中、びしょ濡れになったダチが裏庭に立ちすくんでいた。寝床に入っていた俺は庭先に黒い人影を寝ぼけ気味で見つけ一瞬ドキリとする。その恰好がまるで幽霊のような雰囲気。灯りをともして見れば濡れたダチの顔は片目が殴られて晴れ上がり唇は片方が切れて血が滲んでいた。見た目は怪談に出てくるお岩さんみたいな面妖になっている。ここに来るまでジッと我慢していたのだろう。俺を見て堰を切ったように泣き出した。それも大声で。驚いている俺に構わずびしょ濡れのまま寝床に飛び込んで、時に時間は免罪符を必要として気持ちが凪る。.
2024.05.28
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「こら、起きろ!」「開けろー」 「こら、起きているんでしょう」玄関から急き立てる声が聴こえてくる。ダチが玄関のドアを壊れんばかりに叩いている。我が家の玄関は古びているから、あの叩きようでは壊れかねないと案じつつも如何したものかと? 自然の理は明け方に股間のイチモツを鼓舞させ、それは気持ちとは裏腹に男の子の嗜(たしな)みを疎(うとまし)く感じさせて寝起きは狂、今日も朝立ちの雨が降っている。台風の影響なのか朝から大粒の雨。ため息と苛立ちが増しても自制が効かない股間のモノはそそり立ち、気持ちの兼ね合いを無視しても深層の奥ゆかしさにもめげず仁王立ちする姿に我、思案顔。 .
2024.05.27
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なけなしのお金で買った品物が、手に取ったその瞬間はとても気に入っていたのに、いざ買ってみたらその気が失せる事がある。それは選ぶ思考が勘違いを起こした訳ではない。選り好みする自己の欲が齎(もたら)す結果がそうなっただけの事。勘違いと一緒に思い違いがある。前者は洞察力の無さで、後者は記憶の欠落に対する思惑違いを示している。人は気紛れな記憶に顕在化された洞察が起こる。そして自己の欲望が身勝手な物差しで目踏みする。お隣の芝が綺麗に見える様に。そして過去の戒めが、ふと想い出されて二の足を踏む。とどの詰まり、締め切り時間が間近に迫る競馬場で、馬券を選ぶ思考が決断を鈍らせる。毎度の事だが。さて、如何したものか!
2024.05.26
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理解しているようでいても、本当にその言葉の意味を分かっていたのか。結びつかない気持ちが堪りかねて焦り罵倒(ばとう)してキズつき、ありのままじゃ嫌われる。お互いがお互いの気持を尊重して、ありのままの真実を伝えてもその気遣いが無駄になる事だってある。思いやりと気づかい、人の気持ちほど複雑で理解しがたいものはない。でも双方に思いやる心があればいつかは滞(とどこ)った心も溶けてゆく。相手に自分の事を理解(わか)ってほしいと願いながら。嫌われることより好きになる努力ほど気持ちが豊かになるのはどうしてだろう。.
2024.05.26
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事実を有りの侭に言い換えればスキという品詞は言葉の言い回しにしか過ぎないのか、それとも真実の証(あかし)なのか。あなたを好きと言っても、言った本人がその人を本当に好きとは限らない。目の前にある美しいものに、つい手が伸びていったついでに口からポロリと一言、零れ落ちたに過ぎないのかも。嫌いな人に面と向かって「だっ嫌い」なんて、言いたいのに言えないむずがゆい気持ちを堪えては気候の温暖化でもないけれど身体が異常を起こしかねない。お付き合いしている女性の振る舞いに即発されたわけでもないが、ものの弾みでつい抱きついて「ブチュー」キスをする。まあ、本来、根が助平だから行動を抑制する建前をいとも簡単にかなぐり捨てる自分に呆れてしまう。情けない(≧◇≦).
2024.05.26
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朝起きて洗面所で顔を洗い、それなりに顔面総崩れの部分を整える準備を入念に施し化け物と間違われそうな寝起きのお顔を整えて、自己不安を取り除く作業をする。それが終わるとランニングシャツとパンツ姿で縁側に立ち、垂れ下がったお腹を持ち上げ気合を入れお日様にご挨拶。「おはようございます」_(´▽`*)/我が家は村はずれの少し小高い場所にポツンと建っています。お隣さんとはカナリの距離があり、今にも崩れ落ちそうなボロ家の周りは田んぼばかり。だから、我が家の前の道路は農道になっていて車の往来が極めて少ない。ただし、田植えや稲刈りの時期は、そりゃうるさいったらありゃしない。農道は砂埃になって雨が降れば泥だらけになります。家の脇には筑後川の支流が流れて夏は川風が心地良いけど梅雨の大雨の時には注意が必要になりますが普段は至って静かな処。そのボロ家の縁側から見える風景は霞みがかかって遠くのお山(脊振山)がかすんでいます。今日も朝から空高くヒバリの鳴き声が響き渡っています。一羽だけならいいのですが、あっちでもこっちでも鳴き声が聴こえてきます。それに比べて暑さに弱く寒さにモロイ、オレの下半身の動きが近頃少し不安定気味。ムスコの位置が左側に片寄っているからなのか?その重心がそれなりに左寄りの筋肉痛になったりしています。それと関係しているのかいないのか?近頃ムスコも元気がないのが心配のタネ。いざ本陣となっても普段のリズムがつかめない。こればかりは相手の相性との兼ね合いが大事なのに「不届き者めが!」な~ンて自己満足が得られない。多分若くないからでしょう。だから「頑張るぞー」と、朝から変なところで気合が入る心意気。( `―´)ノそれと、短いお脚とダブついているお腹が妙にアンバランスな風格と同じくして、オレのド頭も気まぐれな代物。そのド頭に時々異変が起こる。必要な時に何処に置いたか想いだせない苛立ちと辛さを幾度経験すれば、それに費やす後始末の時間をどれだけ減らすことが出来るのか!記憶の途切れる曖昧さが近頃、頻繁に起こります。朝早くから縁側でいそいそと酒を呑む段取りをやっていると何か足らない気がする。思い出そうとしても思い出せない苛立ちがつのります。気持ちのアクセルじゃなく、あくせくする度合いを目減りさせれば幾らか気持ちにゆとりが芽生えて朝の時間を有意義に過ごせる事が出来るのですが。でも何かが足らない気がする。喉に何かが引っ掛かった様な記憶の欠落が楽しいはずの朝の雰囲気を目減りさせています。 追記我が家の猫さんは朝早くからお出かけです。昨日は遅くに帰宅されての忙しい日々をお暮らしのご様子。羨ましい限りです。我が家よりお気に入りの場所が見つかったようです。 .
2024.05.26
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5月27日(月) NHK BS 午後1時 - 午後3時20分1930年前後に起こった大恐慌は、ほとんどの国が不安定な情勢になり最も深く最も広範な不況に陥って、その悪影響は第二次世界大戦が終結するまで続いたのです。現在もコロナ禍はある程度治まったもののウクライナ問題やイスラエルとパレスチナの紛争でラファ侵攻が問題になって世界全体が不安な情勢になっています。更に、危惧すべきは温暖化による天災(異常気象による山火事、洪水等)が多発して人々の営みを脅かしています。人々の英知は教訓をいかせずに滅びる事を選ぶのか。変化し続ける自然の駆け引きに殻に閉じ籠る思想(自国第一主義の偏見やエゴ)で対処出来うるのか。今の時代、それに全力で挑むことが出来るのか。疫病神が過ぎ去るまで我慢の二文字で殻に閉じ籠り繰り返される試練と共存して異常現象と寄り添っていけるのか!この映画の背景には大恐慌があり、今迄の概念や生活環境が様変わりする時代に古い足枷から抜け出し、常に前に向かってゆく人達を描いた物語です。「自分を信じる」この言葉が前に進む力になったのは確かだと思います。生き物には寿命というものがあり、すべての生き物が限られた命を全うします。その与えられた命を如何に燃やすか。 .
2024.05.25
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道理はいつの世も世間知らずを当たり前の事だと誤魔化されて、一時の気休めもその場に居合わせてはため息の鉢合わせになり兼ねない。積もる話は手短にして、亡くなられた奥様と幼子の供養をして思います。 「お骨はお布施の代替えし」と、気づいても世間の都合が幅を利かして。「如何程に、いたしましょうか」と、お布施の重みですべてを収めて事なきを得ます。知らなくて知らずにいた方が良かったのか!お寺と檀家のお付き合い。 けれど知って深みに嵌り込む虚しさをあなたなしでは考えられずに手を合わせて合掌します。埋葬の世情に疎く訳ありの成仏できない仏もあって、奥様のように素直に慎ましく成仏出来た仏様もあり、いろいろなご事情が諸々あっては極楽、地獄の分け隔てはご本尊様(住職)のご都合主義的な色合いが甘味され囃されての差別化に至ります。 その気休めは檀家のしがらみをかなぐり捨てれば済むことじゃなくて、骨休めは気晴らしに過ぎないの! ありのままじゃ情けなくなる実情をそんなものですと諦めきれずに虚しさを気休めに置き換えても、なんの足しにもなりません。「あちら(天国)の様子なんて、こちら(現実)では判断の付け様がないじゃない」とぼやいても、地獄の沙汰も金次第なんて言われてお布施を奮発すれば極楽浄土へのキップが貰えるかどうかも定かでない。 弱り目祟り目の避難場所?として誰でも人は何かに縋りつくのです。お坊様じゃなく仏様にすればいいものを。たとえ、それが気休めとわかっていても。皆様方は(檀家として)抜け殻(亡骸なきがら)をどう処理(永代供養)されていらっしゃるのか、その問題をご住職様にお伺いをしてはみたものの、建前をごり押しされて仏の顔も三度までじゃとてもじゃないが懐具合と相談しての結末に哀れな財布のかるさを嘆きます。 「えー 持ってけ泥棒!」と叫びたいのを堪えてはお寺のお布施を気にします。因みに私(奥様と子供が亡くなっています)には継承者(墓守)がおりません。故に遺言のたしなみ(わたしの供養の仕方)は故人とそのご親戚一同の口約束も反古される場合が多々あるのです。 そうです。成仏の供養は得てして、抜け殻(故人)はその持ち主(ご家族及び親戚)の考えとは異なる供養が行なわれる場合が多いのです。亡骸の主(故人)が考え想い描く供養は回避されて暗黙の了解(親戚一同のゴリ押し)を得ることになるのが一般的です。亡骸の主はこの世にはもういないわけです。亡骸の想い描く始末は子孫(ご家族及び親戚一同)の考えによって処理されるのです。その為か否かは定かじゃないが事前供養。この言葉が気になります。 人間は亡骸を慈しみ、愛する人の面影をその亡骸に重ね慕い悲しむ生き物なのです。それが思考の源なり屍を葬る時に、どのような手段、手続きが最良なのか、その裁量が如何に自然なのか《生き物にとって》考える事が大事な由縁でもあるのです。 追記お骨の値段などと非常識この上ないお言葉吐き出す者は極楽浄土へは決して導かれる事はないと肝に銘じてはいませんけれど。でも、ご先祖様と奥様のお骨と幼子の亡骸は私にとって大事なお骨です、そこはもう抜かりなくご住職の袖の下に、ね。 .
2024.05.25
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お調子者ゆえに、ヨイショされると気分が高揚してホイホイ気分で何でもやりだす。でも、事を済ませて後振り返れば期待通りの物事にはなっていない場合が多々あるのです。でも、そんな時にもセンチメンタな気分など蹴飛ばし現実を直視して気持を奮い立たせます。「失敗がなんだ」そうです。行き当たりばったりの計画性に乏しい脳細胞は本人が良くご存知だから、希望は捨てずに些細なことなど蹴散らして出来上がった環境を受け入れるしかないのに。「お願いできるのは、あなただけ」この言葉に舞い上がったのが憂いの原因だったりして... 遊んでばかりじゃ生活も干上がってしまいます。だから、その場その場の請負を賄って生きています。お銭(あし)を得るために生きる為に遅く迄、仕事する。寝る時間も惜しんで。貧乏人に課せられた課題は金を稼ぐこと。でも、失敗は深く掘り下げないのが私のモットー。それが取り柄になっているから整合性などは捨てちゃって。「ありのままじゃダメかい!」そんなこと言ったら依頼主も怒るのは無理もございませんが。今回の仕事はイマイチでした。「まあ、いいか」妥協は不揃いの言い訳を駆使して相手にお返しするのがいい。返礼が少なくなっても、ご飯と酒が呑めたらいい。ただ、落ち込む期間が長引くのが私の欠点。その欠点を解消する為に酒に愚痴を溶かし込んでがぶ飲みる。 そんな時に、気の合う友達などが居れば落ち込んだ気持がすこしは晴れるのですが。今の私には殆どいない。2年前までは気持ちの通じ合う仲間が数人いた。今ではほとんどが亡くなっている。いい奴は早く死ぬ。悪い奴ほど長生きする。私だけが取り残された。後悔は災いを紛らわす不純な気持が纏わりつきます。でも酒があれば素直にご機嫌になるのはどうしてでしょうか。酒が生き甲斐の人生なら、その瞬間にその時を自由に生きて来た者だけが感じ得た喜びだったりして。だから人生、生きていると色んな出来事や時に物事を進める上で滞る事が起こります。その言い訳として人には向き不向きという言葉が使われる。 その場面に、その場合で躊躇する意志が逃避して決断が鈍り過ちを犯す。失敗という嫌な言葉を捨てて、曖昧な責任逃れの様な言い訳をして事を済ませるのです。「責任は、私じゃない」とでも言いたげに。「人には向き不向きがあるから、気にすることはない」でも、この言葉は時に本人をいたく傷つける場合がある。才能がないとハッキリ言わないのが優しさなのかもしれないが。「無理だったんだ、あんたには」この言葉の意味を理解すれば、あなたは無能な人、無能とは才能が無い。才能が殆ど無い、何事にも。(ごもっともです、本人も自覚しておりますので)でも、反省はいっときの上塗りだったりして。事を起こしてポシャってその理由付けに「私にはこの仕事不向きだった」で、事を済ませる薄情者です。 考える意志が不適合だった。その時合に時代に時は不都合を都合良く魅せかけて人の心を惑わせます。だから優しい気持ちが仇となる。不具合を二の次にして優しさは憂いのはじまり。その憂いの片割れが心の癒しをもたらします。気持ちを和らげてくれます。 同居している猫がいる。(ただ、気が向いた時に(双方とも)傍に寄り添う間柄)一緒に住んでいると、飼い主に似てくるものですね。私は彼ほど気性も激しくはないが、お調子者の性格が似ています。わが家の猫は♂。私も雄。凛(我家の猫の名前)は気紛れな猫。仕事の段取りの悪さを後悔しながら呑む。仕事のやり直しには、それなりの勇気と心構えが必要になります。決断を下せない自分を情けなくなる。でも気持が落ち込んでいる時に相棒が側にいればいい。 無口な相棒だけど、時に自己主張して鋭い爪が凶器と化すのがたまにキズ。私の顔に無数の傷跡があるのもコヤツの仕業。その猫も気まぐれで私の相手をする。私も気兼ねなくコヤツに話せる。私の気持を理解している素振りを時折お見せになるから離れなくなる。それと私の様に泣き言を言わないのがいい。だけど私と違って気が向いた時にしか相手をしてくれない。その猫様は近頃、お留守が多い。暖かくなると家を空ける日が続きます。一日中、家を開ける日もある。そしてお腹が空いたらわが家に戻って来る。我家が本当の住まいなのか近頃、疑問に思います。人生、行き当たりばったりの生き方がいいのか近頃、疑問に思う。明日は仕事の手直しをしなければいけない。あ~気分が冴えない。生きるってセツナイね。. . .
2024.05.24
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起こるべきして起こる出来事がどんな成り行きで起こるのか!人の出会いの縁(えん)ほど不可思議なものはない。偶然のタイミングと時の悪戯が重なれば運命の女神が微笑む?有りの侭(まま)の気持ちが人の共感を呼ぶ。楽しく生きられればそれに越した事は無い。道理の摂理は共感を得る。けれど、すべてが道理なら心情も色気を失くし面白みもない。でも、毎日楽しく生きる、これが普通の人には結構難しい。私もそうだが。昨日は嬉しい事があったけど今日は落ち込んでいる。そう毎日が楽しい事ばかりではない、嫌な事も起こる。人生、逃げてばかりではその存在価値も疑われる。そして希望も生まれない。だから出来事の喜怒が運命を左右する。そこで、運命の女神様が切っ掛けのお膳立てをなされる。すると、ただならぬ出来事が勃発し道理の道筋が書き換えられるのです。そこに愛が生まれ、切っ掛けが出来事を運命という代物に変わるのです。だから人生は面白い。そして、愛のメニューに勇気という奮起する香辛料が振り掛けられて、より一層燃えあがる。(利き過ぎは良くないが)もう「あなた無しでは生きられない」なんて事になる。そして、思い描く理想が出会いを、素晴らしい方向へと物語を創りあげてゆく。出会いの感触が素晴らしいものほど、舞い上がる気持ちが大きくなり期待が膨らむのです。人を慕う気持ちが湧き上がります。運命が出会いを設定し人の縁(えにし)が誕生して、起こるべきして起こる出来事が運命という未来の偶然をお膳立てする。縁(えにし)は起こるべきして起きる運命だから、偶然の出来事なしでは語れない。好きな人が目の前にいたら、あなたはどうするだろうか!ある時期に、青春期に間違いが起こらない前に? 素敵な人が微笑んでいたなら!その微笑みの意図するものが何であるか考えあぐねるか、将又、好きな人なら即、抱きしめるか?思考が先か、行動が先か?未来は不透明なもの。今の瞬間に未来が決まるなら、その微笑みは何を意味するものだろうか!縁(えにし)。結(むす)ばれる。結婚も然り。人以外の生き物は子孫の為に結ばれる。人は心が仕切っている。面倒な精神という感情が人を動かすのです。だから迷いが出る。不思議ではない当たり前の事だ。他人同士が結ばれる!それは、まあ末永く幸せになるか、ならないかは神ぞ知る。若い時には考えるより身体が先に動くものです。本能という代物が先走り後悔が残る。結末が見えていたら人生なんて面白くもないが、先見の明のようなヒラメキが時に起こる場合がある。予知する能力なんて有りもしないのに、ふと閃(ひらめ)く!感受性が豊かでもないのに、その時だけは溢れる気持ちを抑える事が出来ずに燃え上がり熱く燃え上がる情熱が心を支配する。そして、眼の前にはあなただけしか映らない。慕い過ぎる想いと情愛が一時たりとも、あなたを忘れなくさせるのです。世界のすべてが、あなただけになる。その時は周りの人が何を言っても聞こえはしない。本人にとっては、あなただけがすべて。愛って、なんて神秘で紛らわしい代物なのでしょう! 微笑む笑顔が煌びやかに心を擽り、その微笑みに心が溶ける!あ~、あなたは如何して素敵なの!でも、後悔は後の祭りで済まされません。悲劇の幕開けにならない様に願いを込めて。 「好き」その言葉が未来を変える? それとも? .
2024.05.23
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ダチは勝手気ままに我が家に入って来る。だから、風呂上がり不躾にダチと鉢合わせ。ダチ曰く、「まあ、可愛らしいおチンチン」出合い頭の一言にオレの一物が更に縮こまる。オレはこの言葉が気に食わね~。「なにが、可愛らしい~だ!立派なオチンチンと言ってもらいたくても、この見栄えじゃ…」と納得いかない気分だ。ダチが酒の肴(さかな)を持ってやって来た。その肴を我が家の(=^・・^=)さんが目ざとく見つけてダチに絡みつく。我が家の猫はダチとその娘の異星人に愛想がいい、オレよりも。そのオレは本来、助平なのに体裁を施してそれなりにふくよかな顔立ちで夕食に迎え入れても、ダチにはその偽りの見栄えを見透かされる。飲み食いしている最中に立ち上がり、なにげなくダチの胸元を見下ろす格好で目線を注げば下着を付けていない胸元がまる見えになる。「あんた欲求不満じゃないの!」ダチの声にドキリ。「膨らんでるわよ」言われてみれば確かに股間の逸物が勢いづいている。それでも、ダチは何事もないように酒を呑んでいる。「下着ぐらい付けろよな」俺の言葉に「いいのよこれで」こやつは昔からこんな感じで俺を悩ませる! .
2024.05.19
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春は素敵な素材が芽吹きます。素材が素晴らしものであればあるほど、それを賄う料理人はシンプルで手間をかけないほうがいい。刺し身も美味しいのです。その旬の素材は、剥いても剥いても身が出てこない!やっと剥けたと思ったら、食べられる量といえば。「たったこれだけ!」あとに残った皮の残骸が多すぎます。そして後始末が大変ですが、旬の食べごたえは格別です。 しかし、その春の恵みが災いを招き後悔が食べ過ぎの二日酔いで吐き気を招きます。後悔は春に目覚めるのです。物事には順序と継続が季節という代物を運んで来ます。時に、それは神の悪戯が二日酔いの嘔吐となって我が身にふりかかり最悪の事態に陥ることだってあるのです。そして時間は不快を癒やしてはくれないのです。嘆(なげ)いても、神の恵みは降りてこない。慈悲なる譫言(うわごと)が呑みすぎてゲロを吐く気分です。食べ過ぎた結果の後始末が、このザマです。情けない。Σ>―(灬⁺д⁺灬)♡―――> ズキューンこの不快を払拭してくれるなら。「神様、どうかお救い下さいませ!」縋る気持ちの先に二日酔いと食べ過ぎになった原因を手繰り寄せる。優しさが欲しい!幼き頃、病気になって母親が介護してくれた記憶が二日酔いの気分と重なり合います。慈悲とは母親の笑顔。これは男の依怙かもしれない。男は建前を謳うピエロ。子供は両親の血を受け継ぎ、愛を育むのです。私の母親はいい人だった。けれど父親はひどかった私の場合。話を戻そう。そう、問題は昨日の夕食だ!あれがいけなかった。男の料理。無精(ぶしょう)が正気を無くして料理をする。だって、春だから!見方を変えれば結果が現れる。見方を整えれば憂いが増す?思いやりの気持ちが大切です。大人になって世の中で揉まれて苦労しました。今現在もです。 慈悲とはなんぞや! 天才は凡人にあらず、のたとえじゃないが、差別、能力の格差を駆け引きに使うべきじゃない。理解(わか)っていますか、世の女性の方々。お上手、とっても素晴らしいと人は褒め称える。これには幾分お世辞が含まれてはいます。あなた方はお気付きにならない。女性の人は持って生まれた才量で料理をされます。これが凄い。モガいても、藻掻いても手の届かない能力の差。凡人、天才、それぞれに当てはまる条件つきの真実。お上手は下手に慈悲などかけない。けれど、物事(料理など)は食べてナンボの炊き込みご飯。そう、この炊き込みご飯が憂鬱(ゆうつ)の原因なのです。いや、酒の飲み過ぎもあるのです。真実が人々を惑わせる。その舌心を豊かなものにして真実を見つめて。両親は揃ってこそ、子供は素直に育つ。片親だけじゃ、ダメとは申しませんが。偏見はカタコトのお呪(まじな)いで未来を占うが、目先の捉え方では未来を見失いかねません。若者が愛を語る時が一番素晴らしいのは何者にも屈折せず、その事を信じているからこそ出来る仕業なのかもしれない。それは他に何も見えないのが欠点だが。比較論ではないのでご了承願いたい。料理の良し悪しで見栄えが良ければ誤魔化していることなどお構いなしに料理がテーブルに並びます。結果、舌で吟味して事なきを得ればしめたもの。でも、そうは問屋が卸さないのが世の常です。そして、天国に召された奥様の過敏なる反応と褒め称える慈悲深いエゴと差別的な偏見に満ちた微笑みを思い出し。あなたのお顔を思い浮かべて。「料理の腕があなたより素晴らしい訳がないじゃない」と、心の中では叫んではみたものの決して口に出さず微笑みを返す優しさが憂鬱になるのです。それを酒で誤魔化そうたって神様はお許しにならないのです。ゆえに下手な料理と二日酔いとが腐れ縁になるのです。神の慈悲は薄れて墓穴を掘る結果になる。あるがままを、欲しがるままに飲食した私が愚かだったのです。天国(亡くなった奥様)からの啓示?「慎み深く、何事にも、慎み深くおこなえば、後悔などしないものです」ごもっとも。私が愚かだったのです。幼き頃に校庭に出て生徒全員で整列する時に。先生の号令が飛びます。「右へならえ」みんなが一斉に右を見て整列する。その時に自分だけ左を向いて落ち込む気分ほど惨めで悲惨なものはない。左側の生徒の顔が今でも目に浮かびます。話が横道にそれましたが、そう本題に戻れば。春はすべての植物が芽吹きます。だけど、その土から出てくるモノが気に食わね~。伸びてくるのが好ましくない。その伸びるスピードが早すぎる。雨が降れば更にスピードが増す!奥様がよく言われていた言葉を思い出します。「すべての料理は新鮮な旬の素材を使って料理すべきです」ごもっとも。我が家の畑では、常に新鮮な野菜類が育っています。でも、我が家の畑で取れない旬の物がある。筍(たけのこ)。これが間違いの元。すべてはこの素材の選択の誤りにあったのです。俺にも、この旬の勢いがあれば夜の巷(ちまた)に出歩いて立派なオツトメが成果をあげるものをと、後悔?と不満が不規則に心を惑わせるのです。そして、このイヤラシさは二日酔いの足掻きだったりして。んっで、優しさを謙虚な気持ちで羽織っても、結果は仕事を休む羽目になる!呑助(のみすけ)は頭(こうべ)を垂れず、意地でも不手際を認めずに錯覚を産んで気晴らし程度でも気持を奮い立たせる起爆剤になる。 私は気付く。「シェフになる!」誤ちは過去の遺物で事なきを得ても未来は無精者を強くなどしない。夢を持ちすぎると厄介な事になる。亡くなった奥様の料理に敵うわけがない。でも、神様は依怙贔屓などなされない筈! 期待は想像力を高め無茶を通り越して過激な思想を生み出します。期待は矛盾を描き出して、誓う! 私はシェフになる! 横文字が嫌いだが。糠(ぬか)を入れずして、旬の味は味わえない。酔っぱらいに、酒の吟味を教える馬鹿で愚かな者はいない。よって、神の掲示が施される!「哀れなり、汝の苦しみは果てることなく続くであろう」な~んちゃて。この際です、開き直って食べ過ぎと二日酔いはいいものです、たまには。後悔と疑念が渦巻く記憶がぶっ止まり、あらぬ方向を見返して何を書こうとしていたのか考えがまとまらない。そうだ! 「筍(たけのこ)」 災いはこれにあった!.
2024.05.19
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拝啓運(こう(好運)うん)を司(つかさど)る神様へ 泣き虫はお嫌いですか!才能などというシロモノを受け継がれる事なく、努力というミズモノを追い求めは果てしなく必死になって、水虫が出来るほど癒着の賜物(たまもの)的な結果を得てもこの様(ざま)です。思うに、あなた様のおちから(力)が無かったゆえにと鑑み、あなた様のお力を承(うけたまわ)りたく必願する所存です。なにとぞ、何卒(なにとぞ)、お聴きほどお願い申し上げます。 敬具 賭け事、恋愛、呑むの三拍子揃い踏みして深みにはまる。そして厄日(やくび)は密(ひそ)かに寄り添って相槌(あいづち)を奏でます。日頃の無節操な行いが災いの元になって我が首を絞める結果になる。二日酔いが慢性的な人ゆえに、その自覚が欠落しては呑み放題を決め込んでいる。梅雨のぶり返しが終わったと思った途端にカンカン照りになり、ビールが美味いから毎日ひっきりなしに吞み続けて、わが身がビヤ樽みたいな恰好に成り果てている。哀れなり。そして、一句。 「賭け事に、暇持て余し、のめり込む」 つづけて、「賭け事に、命預けて、身を滅ぼす憂いかな」字余りチョン ( `―´)ノ 望み豊かに私利私欲の願望は果てしなく、あまねく己が力量を見定めずして事を起こし失敗を繰り返す。そのはけ口として不満を露(あらわ)にする。 自分の未熟さと不甲斐なさに腹が立ち、それでも諦めきれず神に縋りつき、意に添わなければ罵り罵倒する哀れな御仁。自分本位の物差しで物事をはかる身勝手な人。 限ない望みは己が過信の果てに高望みした結果に過ぎないのに、それを神の仕業に擦り付けての祖業は節度を知らぬ。それでも、それでも一途の望みを捨てきれず最後のレースに残りのお金をすべてつぎ込む。 「神様、万馬券が当たりますように」(注釈 万馬券とはめったに当たる事がない馬券)(銀行レースは当たっても配当金が抜群に少ない) ゆえに、希望は泡のごとく大きく膨らんではポシャる。夢は儚くも砕け散り欲望のかけ過ぎに懐具合がサビシイものとなるのです。 「あそこで、あれを買っておけば…」 その言葉が霞みを帯びて後悔だけが上澄みされて現実を醸し出す。哀れなり。そして、これからの食い扶ちの心配をしなければいけないのに。それでも懲りずに次の週末の段取りを考える。 「今度こそは」 三途の川も渡っちまえばこの世の未練など小間切れでポイしちゃってさ。思い残すものなど無いと強気の弱音を吐いたり。後腐れなくあの世に行きさえすれば、この世の些細な出来事など綺麗に消えて収まる所に収まっての閻魔様が素敵に見えたりするんじゃないかと勘繰りたくなるのです。 所詮は、一か八かで賭けたレースに見事に裏切られてこの世に未練などあるものかと、木に括り付けたロープがやけに愛おしく思える始末です。どうぞ、わたしのハートを串刺しにしてちょうだいと、懐具合が冷え切って見切り発車では矢張り無理があったのです。 急ぎの用事で下駄の鼻緒が切れて、それが拍子につんのめる。そんな当てこすりみたいな野暮用で!足掛けの椅子の按配を顧みずにやり急いだものだから、お首を絞めるつもりが利き手をロープの輪っかに括られて地面との隙間を埋めようと死に物狂いの哀れな恰好であたふたとタコ踊り。 でも、でも、それで事が済めばよかったのに、そうは問屋がおろさないのが世の常。お付き合い頂いている女性から有難くもない肘鉄をもらい失恋が重なって、この世の終わりみたいな展開に。 フラれました~ ♪♪ ♬ どうして!如何して毎度、あちきはフラれるの。それも親しく親密に愛を深める頃合いにダメになる。あちきの性格が不揃いな為に相手を困らせるからなのでしょうか。いいえ、あちきがイケメンだからでしゅか… Bu-!それとも、デブリン腹ゆえにでしょうか、yes-! まあ、結果はさて置き。訂正されない決まり事などぶっちゃて、フラれる度に落ち込みます。“ 抱き寄せる ”この行為(身体の動き)が素直な気持ちと連動するからなのでしょうか。あちきの思考は純粋なのに、身体はバカ正直に勝手に動くものだから。あ~ おとこの身勝手さが災いして相手を困らせてしまいます。なにをやるにしても裏目に出てしまう私です。 あ~ また、フラれました。♪♪ ♬ ダメな私です。 *_ _)ペコすべてがポシャて。( 一一)生きる勇気が欲しい~ あ~ 身も心もズタズタです。 あ~ シャイな気持ちが。もう立ち直れない。(≧▽≦)当たって砕けろの精神が身を滅ぼします。(⌒-⌒; )あ~ ダメじゃわい、こんな私は!(︶︹︺)ふぎゃ、ふぎゃ、フニャ、フェニャ落ちこんでஇo。.( ̵˃﹏˂̵ ) 何事かあれば素面(しらふ)の時ほど軽やかではないにしても愚痴はこぼさず施しに勤しむべきなのに。でも、素面(しらふ)の場合は気休め程度の乗りでお上品に、うわべだけの体裁を見繕って事なきを得ます。どちらにしても、私は自分を好きになれない。 だから、そんな性格が災いしてもフラれる度にカラ元気的な過度の勢いが出るのが私の悪い癖です。だから、立ち直りもスッパやいのです。それもウルトラ級ほどに。フラれるたびに失恋の抗体が出来、免疫らしからぬ脳の活性?が俺を奮い立たせます。だから立ち直りもスッパやいのです。(繰り返しのお言葉で申し訳ござらん)それは思考の乏しい人ほど、立ち直りが早いのです。 だから、落ち込んだのは束の間だけ。束の間だけ。(再度の繰り返しのお言葉で申し訳ございません)気持ちの切り替わりの素早さには定評がある、わたしざんす。ウィ~ 私は、そんな軟なお人じゃː̗̀(☉.☉)ː̖́ ( ⊙⊙)!! ( ̄ー ̄)ニヤリッ ありまへ~ん。お付き合いはほどほどに、二股はいい頃合いで、三股は三途の川も渡りかねませんが、四人が相手では身体が幾つあってもたりまへん。失恋がなんじゃい、なんぼのもんじゃい、もんじゃ焼きじゃい(*´▽`*)男の子です。ガッチャマンです。スーッパマンです。∠(^◇^)ラジャ落ち込んだ気持ちもなんのその。過激な動きも手伝って。ここが見せ所と踏ん張りもなんのその。 そんなこんなで、やり放題のゴマをすり。御世辞おべっかは使い放題。お調子いいのは誰にも負けない、まけまへん。「あなたなしでは生きていけない~」(^_-)-☆「美しすぎる。奇麗すぎる。その姿はまるで観音様。マリア様。 \(‘∇’*) 愛してます~」なんて、有り余るありったけの言葉で包囲して相手の動きを搔き乱します。そしてジゴロ風の滑らかな口調で矢継ぎ早に愛の告白をあびせ、相手を唆(そそのか)し誘惑する事にかけてはお手のもの。大風呂敷に謳い上げ、持ち上げる。 そんな手慣れた調子で首尾よく事を運べば言うことありません。だから、こんなあちきは今が発情期。発射、じゃない! 発情しまくっているあたいは悪 わいろ ワイルドな野獣じゃわい。ウ~~ゥ ワオッ ワン ワン。犬じゃないワン、あちきは。 追記賭け事とお笑いじゃなく恋愛は、暇とお金があれば身を滅ぼしかねないのです。そして、行きつく先は地獄まっしぐらかな!(俺っちの場合) 「どうぞ、わたしのハートを串刺しにしてちょうだい」 「……串刺しで呑むのは泡盛にジンとウオッカを掛け合わせたカクテルが最高にグー」一発で商店、昇天すること間違いなし。でも、「…焼き鳥の串刺しもいいけど、やっぱり焼き明太子でグビィとやるのが肴(さかな)としては一番美味しい」ね。 追記の追記「いつか本気になって見せるぜよ」( `―´)ノ .
2024.05.18
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幸せが届きますように。人は曖昧さの日々を送り妥協と後悔に心を奪われ。糧の手段が自分の領域を狭めます。心の意味を解く。日々の暮らしに意味を溶かします。人間が一度は経験する死の足掻(あが)きは、二度目はない。生き物は二度死ぬこともない。すべては一度限りの時が流れます。生きる、と云う意味を理解すれば、その時合いをもっと有意義に過ごせる筈。けれど時間を無意味な事に費やす場合が多いのは何故だろうか。憂いかな。人は弱きもの。その瞬間その時を逃げることは容易いでもあり、行動を起こし現実を直視し今を生きることは未来につながります。しかし、人はその瞬間その時を軽視して過ぎ去りし時を惜しむ。後悔すれど時は戻らず。死して屍を横たえるのみ。生きものすべて老いてゆく、そこから逃げる事は出来ない。太陽が西から昇ることは決してない。時間との駆け引きは無意味と判るはず。けれど、それを繰り返し試みるのも生きるものの定めかも。時間は、止まりはしない。遅くもなく、早くもならない。そして、いつもの時間が過ぎてゆく。愛がそこにある。可憐に咲いた花がいつまでも咲き続けてほしいと願って、その姿を記憶に残します。 旅の途中下車より愛を込めて。 願いを託し言葉の便りをしたためます。時は緩やかに。始まりは、いつも静かに事が進み。結果が生まれ、また新しいはじまりが花開く。時間はいつも同じ時を刻みつつ過ぎて行く。いつもと変わらぬ時間の流れでも思考の内部(なか)では、今という過ぎた時の流れとは別の思考が生み出され、その派生は過ぎ去った時の流れとは異なる空間を誕生させる。その派生の時差は自然の思考へと導かれ。過去、現在、未来の、そのすべての時間の融合する偽りの無い思考へと。有限なる添加物は一切必要ない。祖から新たなる思考の芽が誕生し、穏やかな流れとなって時代の変化を創り出す糧になれば、種の誕生は無意味ではなくなる。たとえ限りなく小さな思考の芽でも、生きた証し栄えず途絶えようとも、その空間に存在した証は残され旅人の心に宿り記憶が受け継がれるものなり。過去と未来を生きることは、即ち、今を生きること。 素敵な人へ。 今を生きてください。その瞬間が生きている証なのですから。心、穏やかに。身体を素直にいたわって、今を生きてください。好きな、素敵な鼻歌を口ずさみながら今日を生きてください。どんな辛い時でも、今の時間が現実の瞬間だから逃げないで強く生きてください。どんな時でも、あなたは素敵です。そう自分自身に語り、気持ちの移り変わりを心の花として、心の季節として折々の変化を楽しんでいけたらいい。すべての物語は、あなたの生きる道筋(過程)なのだから、出逢う出来事の瞬間を大事にしてください。時を育て、自分を愛して生きてください。 そして、素敵な日々を過ごされることを祈ります。 愛をこめて。 .
2024.05.18
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自然の戸惑いは時として弛緩した気持ちに失望と希望を与えます。些細な、ありふれた幸せに微笑(ほほえみ)がこぼれて。すこしの優しさがあれば、色褪(いろあ)せる人生にしがみついて行けるのです。季節は春から初夏の装いに移り変わろうとしています。春の嵐も過ぎ去り穏やかな日々が眩しい日差しが差し込んでいます。昼間は陽射しがあり幾分、暑さが戻ります。それでも、朝夕は寒の戻りみたいな肌寒い日々があっては、お昼頃には重ね着した服を脱ぐ陽気になったりします。生き物はその様な季節に順応して適正な頃合いを見定めます。そして、季節は滞ることはない。自然の摂理は道理を導くも四季の変化は時に異常現象を引き起こす事がある。3年前には、わが町よりすこし離れた場所で、とんでもな災害がおこった。その現象を自然は道理と見なすも、人は異常と受け止める。心が寛容であれば未来は変わります。光と影。悲しみと微笑み。過ちは消し去る事は出来ないが気持の持ちようで人は変わります。人の思考とは不思議なものです。そして、道理を運に託す。 運は巡り合って生き物を育む。その生き物は時に裏切って求め合って拒否と妥協を繰り返し、優位な物事を建前として生きる術(すべ)を学びます。はじめは、初心者。数を重ねると、運も上昇する。経験を重ねてプロと呼ばれる者になる。すべての分野でプロになるには、神の称号が必要になる筈なのに。一個の数個のプロになって、おごり昂ぶり人を見下す傲慢さが生まれる。エゴが綺羅びやかに舞い踊ります。そして、妥協は有耶無耶にして後悔と涙を押し流し前向きな思考を頼りにするようになる。「ありがとう」初めの言葉は素直さがあり。「ありがとう」その言葉の響きに感謝の気持ちが現れる。「ありがとう」それは、合理性に基づく必要性に伴って出た言葉。スペルは同じでも時と共に幾ばくかの響きが違ってくる。妥協は時に同じ意味をもたらす。進化論の生物のように私たちは環境に適応して馴染んでみると日常は驚くほど豊かになる。けれど、相対して人の心は妥協を拒む性質上、悩み苦しむ事になるのです。時が導き積み重なっていく瞬間が溶け込んで素直な自分を見出す。そして、臆病な性格を問いただす。「それでいいのか」と。人は二度死ぬことはない。人生も二度は起こらない。あやまちや失敗など間違いを犯しても物事は滞る事なく過ぎてゆく。人生の駆け引きなど、時間(過去)を振り返ってみれば気付く筈。後悔とため息を未来まで引きずりたくないのなら自分を好きになる事だ。嫌だ、嫌いだと蔑んでいた自分を脱ぎ捨捨てて。自分を大切にして誇りにして勇気を出す。それだけでいい。自然の摂理は生き物を育てます。欠点を自分の長所に変えればおのずと運は開ける。物事の運、不運とはそういうものだ。自分が持ち合わせている性格を、少許、色彩をかえてみれば違った世界が見えてくる。駄目だ、無理だ!と否定するより前に踏み出す勇気があるなら。未来は現在と違ったものになる。些細な一歩でも未来は変わる。 .
2024.05.18
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季節は春から初夏に移行しつつも朝は冷え込んでいます。でもお昼頃になると気温も上昇して脱ぎ捨てるお洋服を一枚そしてまた一枚と、はぎ取って最後はスッポンポンになっちゃった。( ̄― ̄)ニヤリッそんな恰好で自分を見返してみたものの、みすぼらしい姿格好でもエエじゃない、ね。見栄え良く着飾った言葉より暖かな微笑みがいい。人は視覚的な要素を重視する生き物だから出逢った印象は、ありの侭より整えられた人の方が受けはいい。なるほど~。自堕落な不精者より小奇麗で清純な人が素敵なのも頷けます。「でも、それがなんだ。」俺だって!自身をみれば、見栄えが悪すぎる!「そんなことない。」と言い返す言葉がかすれ気味です。スラリとした人は好感を持たれます。「細身が羨ましい~」そうです。このデブ腹も好きだ~と言いてくれる人がいるのです。現実も捨てたものじゃないのです。( ̄― ̄)ニヤリッ細身よりデブリン腹が好きな人だっているのです。細身が、なんだ!世間一般的立場より、希少価値のあるプルンプルン腹の方がキラメク事だってあるのです。でも、屁理屈を山ほど積み上げて論じても、それは只の戯言にしか聞こえないのは何故でしょうね。人の思考ほどあやふやなものはないのです。だから、矛盾は不純を目覚めさせます。この感覚が微笑んで強気が狂気でも、凶となって生きていかなければいけない人生になっても泣くことはないのです。微笑みが空腹を満腹感に変えることだってあるのだから。これは強がりだけのやせ我慢。でも、本音は諦めを通り越して惨めさが充満しているのに、この踏ん張りは何処から来るのでしょう。階段から踏み外して転がり落ちれば運は開けると信じてやまない御仁だっているのです。そう思える人ほど心がやさしいのです。この助言を天の邪鬼(あまのじゃく)と女性は言い張る。 高価な品物を贈り物にしても相手が頷かなければ意味がない。欲に凝り固まっている人ほど理想が高いゆえに高価な品物が素晴らしい効果をもたらします。それって不思議なことではないけれど、現に私がそう。私は欲深い人間だ。認めるほどにお付き合いしている女性の気持ちが遠ざかるのは何故でしょうね。その人の大好きな言葉がある。「ありの侭が素敵よ」私は、この言葉が嫌いだ。だから、不純は矛盾を呼び覚ます。不可解な出来事でも元を辿れば愛だけだったと言う事だってあるのだから。でも、それだっていいじゃない。「愛しています」なんて言われたら、もう、天国を飛び越えて極楽浄土まで行きかねないぞーなんちゃってさ。“有りの侭がいいなんて”誰かの捨て台詞でもあるまいし。それに反論して立ち向かっても廻し蹴りが炸裂すること間違いないのに。だから、矛盾は不純を駆り立てます。愛される立場の感情がどんなものなのか。愛することって勇気がいることですね。「微笑みが素敵ね」と言われても。あなたの素直ですべてを包み込む抱擁が私の心にあればと願うも頑固さゆえに今尚、叫ぶだけ。「酒をくれ ~ 」矛盾が素直な気持ちを目覚めさせます。愛はお酒に勝つ。けれど、あなたの飛び蹴りに勝るものはないのです。「あ~、冷より、熱燗がいい」人肌の燗がいい。そして、もろ肌がまぶしい。(^_-)-☆その素肌は、なお凄い!悶える鼓動が唸り声をあげて下半身の血行がうなぎのぼりに上昇して爆発します。矛盾が不純を駆り立てます。「あ~ 許してください、この淫らな考えを」やっと巡り合えた睦会う幸せに。その興奮に我が身の一部が奮い立つのをあらぬ座興で身を滅ぼしかねない事態に最低の振る舞いに似た嘆きをお伝えしたくて。成り行き任せでその都度、雰囲気が変わって癖になった素っ裸のプルンが決めてになればと。奮い立つ。( `―´)ノ ( `―´)ノ フレ フレ俺の欲望が掻き立てられて。酒を呑むと何でも「来い」になる。依って、ハグして睦み合って気持ちが大胆になり日頃から鬱積していた。“もやもや”が素直な行動起します。普段は、いたって気の弱い人なのに。欲望が人格を変えてゆく。スッピンもいい。そうです、素直な気持ちが沸き上がります。だから、ソコにあるものがあれば何でもいい。とりあえず!そう、取り敢えず。本音は別に隠さなくてもいいんじゃない!の気分だけど、そういかないから不満が残るのです。布っ切れがパンツに代わって陣をなす。稀代の大物が愛の篝火。偶にはスッピンもいいんじゃない!わが大砲も捨てたものじゃない。な~んちゃって!良しも悪くも、見た目では判らずに素晴らしき旗竿と感心するも。まあ、こんなものかと妥協する気分は嫌らしさを伴っています。でも、それとは別な気持ちが自制を促します。素晴らしき哉、布っ切れの裾で愛が生まれる。パンツの代わりに切れっぱしの布で身を隠す。隠す代用品が小さい割には隠されるモノが見えないのは、どうして!「知るか、そんな事( `―´)ノ」細身の銃身が威力を発揮するのは愛の互換性ゆえの確認でもあり、それ以外の場合は、それなりの合図が出ます。お相手の女性は気が強いのです。(わたしは従順なしもべです(^_-)-☆)時には、愛を確かめ合って必殺技のラリーアートがさく裂します。ギャフン、キャヒン ヽ(^。^)ノそれを拒否しようものなら飛び蹴りが、俺っちのデブリン腹に決まります。そこは弾力性が極めて高いデブリン腹ゆえに痛みなどは無いものの、その衝撃が過敏な神経に鋭く反応して、俺っちの下半身は欲望の塊と化し( `―´)o○>>従順なしもべは、その行為を愛の証として受け入れ狂気の愛を確かめ合うのです。その揺れる気持ちが微睡んで、微笑む笑顔が異常なのか。高ぶる気持ちの維持が難しい愛情表現を嫌っては身を滅ぼしかねません。(=^・^=)そして、男は繊細なのだ!だから、若い時ほどじゃないにしてもこんな熟年の男は見た目が大事?細身の銃身だけじゃ、心許なくて!すっ裸ぁ~に些細な布っ切れで奇をてらってみたものの。出っ張りの下半身が可笑しいのか可愛らしいのか相手の反応がイマイチ。「どうしました?」(*^-^*)そうです。分かっています。この出っ張りさえなけりゃ素敵な下半身なのに!(=^・^=)本人は、至って真面目に振り向かせたい気持ちを表現しただけなのに。「・・・・」ヾ(*´∀`*)ノ わぁーぃ「笑わなくっても」「どうせ、俺って馬鹿な男」欲望が爆発しそうなのに、また笑う!どうせ、俺はダメな男です。気持ちが昂ぶります。愛を求めて!ワイルドな女性が本領発揮します。蹴飛ばされても、大好きなあなたなら許してあげる。微笑み返す愛情がすべてを包み込むのです。「ダメ、ダメ、もう~~」か弱い男性の悲痛な叫び声が響きます。(それは快楽の最高の極みだったりして) 飛び蹴りがさく裂します。でも、その飛び蹴りはハンパじゃない!でも、相手も嫌いじゃない、筈? (^◇^)でも、女性の飛び蹴りはいいものです。( `ー´)ノその飛び蹴りの優雅さもさることながら蹴りつけられる俺っちは快楽の極みに達します。「あ~~ ヤメテ! やめないで~」 その叫び声に奮起されてか、また炸裂します。飛び蹴りが!そして、強烈なラリーアートが喉元に愛の証として決まります。「あ~ ダメヽ(^。^)ノ 」女性の飛び蹴りは、それは、それは色気があります。(^◇^)そして、飛んで来る足を払い除けてスカートを捲(めく)り、パンツの色でその日の運試しを試みるのです。黒の下着?それとも。どんな色?相手の女性はいつもピンクの下着です。でも、時に私と同じ黒の下着を着ることがあります。黒色で統一した下着は、それは、それは身震いするほど素敵な装いです。愛が下着の色になって表れます。(^_-)-☆黒の下着を穿いている時には愛がより一層、激しく燃え上がります。狂おしくなるほどに。悶えるほどに。どちらか違った毛並であれば、それだけで激しく燃え上がるのです。愛は見境なく求め合って殴り合い、蹴飛ばしあって骨の芯が軋むほどハグして失神するほど愛を確かめ合うのです。それって。変!それとも、態?
2024.05.18
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俺の大好きなワンオク何気ない毎日のなかでアナタがいる。 そばに寄り添って、アナタの笑顔がわたしの喜びです。 その穏やかな日々がわたしの愉しみ。 ただそれだけで幸せになれるのです。 それにしても残念なことをしたものです。 アナタのマシュマロみたいな股間の逸物も大好きだったのに! そのタマタマが消滅してから、はや十数年。 ぶら下がったタマがない。(最初から、下品な言葉で申し訳ありません) たまご仕立てのプリンより、そりゃ~柔らかくて弾力がありキュンキュンな触り心地で可愛らしかったタマタマ。 あのタマタマはどこへ行ったのでしゅかね。(=^・・^=)ニャ~ン 大事な、ぶら下がりモノがなくなって、(=^・^=)ニャ~ンも不自由していると思いきや結構、自由に動き回っていらっしゃいます。 8年間は家猫でした。 でも、奥様がお亡くなりになった時から自由を勝ち取り放浪の身。 サザエさんのタマじゃないけど、我家の猫も自由気ままに生きています。 私もそうなりたいと常々思っているのですが、世間の柵に惑わされています。 子猫の時は、そりゃ、もう、可愛くて、可愛くて。 奥様に頬すりするよりも子猫にする方が多かったものです。 子猫の時は何をするにしても、その動きが可愛いものでしたね。 でも、いまは凄いにゃん相になっていらっしゃいます。 そのことを言おうものなら、鋭い爪で威嚇されます。(我が家の猫様は人語を話されませんが、聞き耳は飼い主より敏感です) それと、私に似ず狂暴さにかけてはピカ一。 外猫兼用になって世間にもまれて、その技を習得されたもようです。 家猫の時は猫を?被っていたのでしょうね、そりゃオトナシク品があったのです。 奥様のご指導が良かったものと思われます。 でも、いまは私に似て不精でお腹出っぷりのご恰好で笑っちゃいます。(=^・^=) 歩く度に出っ張ったお腹が右左にタプン、タプンと揺れ動きます。 笑っている私自身もお腹が出っ張っているから猫の事は言えないのですが。(*^。^*) 今日は朝から陽射しが増して、春の陽気も本格的になっています。 .
2024.05.15
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織りあがる気持ちの浮き沈みを朝の頃合いで見定めるも不揃いのシグナルが共鳴しては心が騒めいて、朝の気持ちを目玉焼き風の装いで慌ただしいものにしています。仕事の段取りを試みてその行為の駆け引きに時間のロスを見積もっては、手抜きの頻度も考慮し、それに比例して綾取りみたいに錯綜しては妥協して精査するが。かかる難題は金銭的な事を裏漉ししても、その手間賃に見合うだけの力量で納品出来るか、その事が気掛かりになって前に進まない。行動力か思考の駆け引きか、その裁量を如何にすべきか朝の冷え込みと重なって難儀する。近頃、朝と昼の寒暖の差が大きいのは困ったものです。朝出かける時には肌寒いので厚着して出かけると、お昼ごろには半袖でいいくらいになります。厚手の上着が邪魔でしょうがない。その頃お腹の具合も目減りしてエネルギーの補給を求めても受け持つ現場が不便な場所が多く食事処を探すのも大変なのです。あ~休みたい。.
2024.05.14
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ゴロンと横になり大きく反り返るほど背伸びしたら向きを変えて横になる。 暫くすると後ろ足が痙攣しだした。ピクピクと波打っている。その痙攣に無頓着なのが不思議です。足が痛くないのかな~と思うのですが。でも、その痙攣も治まり、薄目を開けて大きなあくびをする。そのあくびの表情が凄い。顎(あご)が外れてでもいるかのように耳元まで裂けた大きな口に鋭い歯がむき出しになる。 「こわい!」と思う反面、可愛いと感じる飼い主ほど阿保らしい生き物はございません。(我が家の猫の話です).
2024.05.13
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ダチが来た。酒の肴を持って。美味しくない時は不味(まず)いとハッキリと言っても気にする風でもない、奴とは幼稚園児からの腐れ縁。女性ながら男勝りな性格でダチの娘にもその気性が引き継がれているようだ。オレは中学一年頃までいつもイジメにあっていた。そのイジメっ子達をダチがいつもヤッつけてくれた。中学一年頃迄いつも一緒だったが、あることがキッカケで次第に疎遠になった。けれど年月が過ぎて、ダチの子供とオレの子供が友達になり母親同士が親しくなって、またダチとの縁が復活した。今では我が家の猫はダチの家に入り浸りになっているらしい。そして、ダチの娘は我が家を自分の家のように遠慮なく使っている。そしてダチも娘と同じく遠慮というものを持ち合わせていない。いつもいきなりやって来て料理などをこしらえて冷蔵庫に入っているビールを勝手に呑んでは“もっと美味しいビールを置いておけ”と愚痴を言う。ダチが酒の肴をササッと無造作にテーブルに置き酒を呑む。手慣れたもんだ。俺には真似できないと感心しながら呑む。まあ、今日は愚痴を聴いてやるのも、いいか。.
2024.05.12
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いかせん、この顔だから見栄え良く整えようとしても元がとっつきにくい顔立ちだから髭剃りの後に香りをぶっかけてはみたが、鏡に映る顔はいつものさえないお顔。「うぅ~」。それでも頻りに顎を触っては「まあ、まあ、かな」なんて自分なりの評価は下げられず、うざった気持ちでお上品ぶっちゃって。冴えない顔に見栄え良くしようとひげなど生やしてさ、その表情も情けなったらありゃしない。でもこのひげもまんざらじゃないし。 うひぃ~ひ、ひ、ひ ( ̄― ̄)ニヤリッ.
2024.05.11
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仕事が終わり家に着くなり疲れた身体を長椅子に沈め、安堵に似た疲れが広がります。今日の出来事を思い浮かべては反省頻り。凡人がどう足掻(あが)いても所詮、脱皮出来ずに愚痴をこぼしながら今を生きている。汚れた淀んだ殻を脱ぎ捨てて真新しい殻を着て出直せればどれだけスッキリするだろう。詮なき事なれど、また零す。卑屈な精神が猫を相手に一仕事!聞き役の猫は素直じゃないところが私と似ている。人の心なんてツマラナイことで躓く。心を誤魔化すのは偽善者?話す際に出る言葉が微妙に異物化して建て前がすらりと抵抗もなく口から出てくる。自分じゃない自分が喋っている感じで違和感が湧く。受け答えを安易に受け止めて妥協している自分がそこにある。 そして、喋る言葉の大切さを考え様ともしない。いつもの様に笑顔で受け答えをしている自分に腹が立つ。そして、相手を傷つけるのに何の躊躇(ためらい)いもなく嘘をつく。この現実を悲しんでもいない。気持ちがそれに応えようともしない。幼き頃の純粋で素直な心はどこに行ったのか。綺麗事で誤魔化しても詮無き事なれば、思考の捉え方によって心の誤魔化しはやめようと決心して反省して考え直すのも良いが、場合によっては素直(すなお)で率直(そっちょく)な判断は相手を傷つける事もある。そして、与太話が純粋で素直な魂を甘い香りで包み込むのが良い結果を生む事さえある。だから、「偽善者も捨てたモノじゃないでしょう」って言葉の意味をすり替えて誤魔化すところが偽善者だから!そんな自分が嫌になる。 人生の成り行きなど解りはしない。過去の道筋を辿って未来を描いても詮無き事。 運がよけりゃ明日が来る。運が無くても明日は来る!そして、糧を得る日々は滞る事なく過ぎて行く。必ず来る明日があるなら要領を掴めば生きやすいはず。だから、先人の知恵を借りて学べば過ちを冒すことはなく明日を迎えられる筈。それで事は足りる。 段取りが良ければ物事はスムーズに進む。気持ちの持ち様で、嫌いな出来事は避けて通ればいい。面白くないモノには背を向けて物事を進めればいい。出来ない事は後回しにして好きな素敵な時間を持てばいい。他人の目など気にしないで自分を大事に育めば未来は明るいものになる。出来ると自分を信じこませ、想い込む発想が重要で利己的な感受性が大事だ。 だから、感じる心を持ち合わせていれば翼を得て自由を満喫する事が出来るだろう。他人の助けなど必要ない。有りの侭の、備わった知恵で事を運べばいい。失敗しても、借金しても他人の事の様に素知らぬ顔して踏み倒せば良いことだ。 明日が素晴らしい日であるか否かはその手だてにある。今以上に豊かになるには他人を踏み台にして、自分を優位に仕立てれば明日が拓ける。貧乏臭い助け合いなどの言葉など蹴飛ばして生きて行けば人生が豊かになる。それで「さようなら」などと言われても、言われた本人に罵声を浴びせれば自分は傷つく事はない。 必ず来る明日があるなら今日を無駄に生きない事だ。 無駄なほど愚かなことはない。後悔が金に変わって美味い肉が食えるならいいが、思いやりなどと言った戯言など蹴飛ばせば未来は開ける。だから生きて行く衝撃で、愛なんて意味がない。 愛ほど無駄なものはない。「好きです」などと悲願する真面目な人ほど優越感に浸れるのは、自己満足ゆえに自分を慰めているだけにしか過ぎない。 精神が物質を上回っても身体の具合が悪ければ思考なんて、ただの手段でしかない。 .
2024.05.08
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草木を見て思います。 花は美しく咲き誇った時に可憐に散るのが良い。私個人の考え方だが。草木は花が散っても、また来年咲き誇る。人は一度散ったら、もう戻る事は無い。尺度の匙加減が生物の価値観を見定めるのか!考える事が出来るのは人間だけとは限らない。受粉させるために昆虫を誘う花弁だってそうした思考ゆえだと思う。美しく咲き誇る花は見ていて心が和む。これも草木のなせる技かも知れない。人を魅了する事が大事な役割だと、そう思って見れば花を見る見方が違ってくる。この世の中だって見方を、とらえ方を工夫したら幾らか楽に生きてゆけるのかもしれない。ありふれた時間の加減で意味のない身勝手な言い訳を模索している。.
2024.05.03
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生意気な気持ちが躓いて作り笑いをうかべてさ。当たり前の事が出来ない自分を軽蔑して蔑んで生きている意味を疑いながら本音の部分を削って隠して闇の奥に仕舞い込んで「何しているんだろう」って毎日毎日考えながら自分を罵っては世間の常識に惑わされながら生きていることが煩わしくなって終いには黙り込んで聞き耳持たない自分を好きになれないのに、その態度が何故かシックリくる自分を今日も演じて、どうでもいいような気まぐれな風がふいている。.
2024.05.03
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今日の予想(佐賀競馬、久留米競輪)に伴う駆け引きで神からの啓示による気紛れな運( `―´)ノに操られることなく自分の信念を貫き通すほどうぬぼれてはいないけれど!泣き言を放ち愚痴をたれ流して慣れ親しんだ言葉の濁りを慎む気持ちが芽生えても染みついたエゴの塊みたいな人間がそう簡単に衣替え出来るほどド頭の神経は繊細ではなく、世間の荒波に気丈に立ち向かうほど才能や努力というシロモノを持ち合わせてなく生きる為と言い訳を見繕って、とどのつまりはあなた様の足元にひれ伏して「どうか、如何か、オレを見捨てないで」なんて、神に感謝などしたことがない横着者は誠意と偽って他人に施す善意を受けるのが当たり前のような気持ちで悲願してはチャラになって神に見放され地獄へ落ちるか現ナマを懐に入れるかは勝負をやってみなければ…「どうか、神様。御慈悲を」 (⌒-⌒)..
2024.05.03
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春の催し(ゴールデンウイーク)で浮足立つ周辺とはかけ離れた思考が寝床の内部で夢うつつの、夢の続きを追い求めて、追いかけて追いかけては見放され途方に暮れる厄介者がこまめ煮過ぎて夢は幻にしか過ぎないのに。諦めきれずに現実と虚構(夢)が入り乱れ掛け合わされて心の内部(なか)に溶けてゆく。 一週間の疲れがどっと覆いかぶさり週末は寝床が安住の場所になる。部屋のガラス戸を開け庭先から見える河原に白いサギが餌を求めて葦のように微動だにせず、ジーと水面を見つめている。 思考の欠片は想像力が乏しいゆえに現実離れの夢に誘われるなら朝から酒が必需品になる。.
2024.05.03
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この歳で驚く事に馴れ過ぎている自分に嫌気がさす。俺の寝起きの顔ほど凄まじいモノはない。(断言は慎むべきです)が、その顔を洗面所のカガミでシカと(別に毎日見飽きていますのでいいのですけどね)確認すれば崩れた無惨なお顔がニッコリ微笑んでいます。この笑顔が滑稽(こっけい)で好きになれない。本当は笑顔じゃなくしかめっ面なのに。でも、オレは好きでこの顔になった訳じゃなく、生まれ持った素質(両親)のプログラムに沿った過程の成り行き上、やむにやまれずこのズンダレタ笑顔になったのじゃ。そして、近頃、何を血迷ったか我が家の柱に夢中になって恋い焦がれ、挙句の果てに抱きついて「もう、離さない」な~ンチャってさ。これって、微睡む春の陽気の影響でしょうか!それとも自我の目覚めなのか。どうしたものか思案中。((+_+)) .
2024.04.12
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朝の気温15度、肌寒い感じで昼間は24度になるらしい。オレの身体は気温に鈍感ゆえに着るものに手間取って気温の上昇に追いついて行けません。情けないたりゃありゃしない。昨日は降ったりやんだりの雨模様。今日もどんよりとした雲が広がって今にも雨が降りそうな空模様です。近頃、寒いのか暑いのか、お天気があやふやで何を着ればいいのか考えるよりスッポンポンがマシと思っても(オレの考える事といったら手間を掛けずにを心掛けてはいますが)、手頃な下着が見当たらず、ええままよとパンツを穿かずにズボンを着てチャックを閉めたとたんにおチンチンを嫌というほど挟んでしまう。「うぅ…」「あれ~~~っ」この痛みのはけ口は何処に持っていきようもなく、アホとしか映らないドジなオレ。そんなこんなで痛みに堪えている時にダチ(一応、女性)が来て、オレにいきなり抱きついてキスをする。まあ、悪い気はしないのでされるがままに。なにか良い事でもあったらしい。だから、オレもその反動と申しますか、その勢いみたいな感じでダチのオッパイをむんずと鷲掴みしたら。いきなり股間に蹴りを入れられあまりの痛さに悲鳴をあげてしゃがみ込む。(≧◇≦)「あ~、そんな!」女性の気持ちはわからん。 .
2024.03.31
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愉しみは明日に持ち越さず、ありったけの殻をぶっちゃけて生きています。自分勝手な能書きを垂れ流しては明日に残骸を残さない毎日をすごしてはいるけれど。この軽すぎるド頭が災いしてか身勝手な言動に後悔と溜め息だけが怠惰な身体に染み付いてゆく。「所詮、気紛れな努力と辛抱なしではこの世の中は….」と、泣き言を放ち愚痴をたれ流して慣れ親しんだ言葉の濁りを慎む気持ちが芽生えても染みついたエゴの塊みたいな人間がそう簡単に衣替え出来るほどド頭の神経は繊細ではなく世間の荒波に気丈に立ち向かうほど才能や努力というシロモノを持ち合わせてなく生きる為と言い訳を見繕って、とどのつまりはあなた様の足元にひれ伏して「どうか、如何か、わたしを見捨てないで」なんて、神に感謝などしたことがない横着者は善意を受けるのが当たり前のような気持ちで悲願しては無精者の横着なエゴ丸出しで神に縋っても見放さて地獄へ落ちる今日このごろです。(=^・^=)ニャ~ン拝啓、神様。週末の競馬予想が当たりますようにお願いします。忘れずにね。.
2024.03.28
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無駄を承知でするか、諦めるか。思考の戸惑いが災いを招くのか、思いもよらない幸運が舞い降りるかは神様のみがご存知だから今がある。自分一人の考えでは心許無いから救われる(神様の慈悲深い)事に期待をこめて、今日を生きています。保証と微笑みはお銭(あし)の量で過料され、その徴収する額で人の価値(身分)が評価される。ありきたりの日々はもろ足りなく頑固なイデオロギー的癒着はさて置き、お腹が空いた感性が酒を求めます。素直な気持が素直な概念を生む。 そうです、素直な気持ちが大事なのです。 でも、その反動でがぶ呑みはご法度だけれども。けれど、ありきたりの量じゃ物足りない。けれど、他人がどう言おうとも自分自身に素直であればいい。そうです。前に進むか。停滞しては我慢すべき忍耐を養って今を生きるか。言い訳は常に携帯して前向きな思考を持ち続けてはいるものの、当たって砕けては自分を慰めている毎日。計画性に乏しく無謀としか言いようのない行動を無理して正当化する私はバカとしか映らないまでも、打ちひしがれる欲求を糧として諦める気持ちが慰めにしかならないけれど。昨日も仕事で身体を扱き使い柔軟性を無くしかけていた。言い争う勇気は吐き捨てて、頭を下げる難度をクリアーすれば気持ちも前向きになり、自分の言い訳を正当化しょうと媚びる私は努力賞ものです。神経は当の昔に壊れているから心配はないものの。お金の為に身体を削り好きでもない御世辞を並べては自分を励ましている私は、クズの一歩手前で身を粉にしている。神経が枯渇してゆく毎日に、神の慈悲を乞う。素直さより、欲深く傲慢な神経のほうがいい。繊細より図太い感性を必要として、怠け者にとって努力する事は果てしなく辛抱したゆえの結果でしかない。まあ、派手なトロピカルなカクテルを装っても見た目ほど卑屈な精神を持ち合わせてはいず、潤いが削がれればスッピンの素直さを蹴飛ばしかねない。けれど幾ら御託を並べ陳列しても。所詮はアルコール依存症の戯言にしか過ぎない。 禁酒!そんな言葉を何回繰り返せば気がすむのか。 追記今日の午後、背振山の方角にきれいな虹がかかっていた。そして仕事の合間に虹はいつしか消えていた。虹とは関係ないのですが、ポックスタイプの公衆電話がいつの間にか町からなくなっていた。気が付いたというより必要とする時に限って無くなっている。それも緊急を要する時に限って。でも、ポックスタイプのあれ、あると便利というか、とくに雨の時など雨宿りにもなるしね。(=^・^=)ニャ~ン.
2024.03.28
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誰でも、一人ぽっちは淋しすぎる。想う、気持ちがあれば今を生きられます。一途な想いが心を支えます。あきらめないで!あなただけが不幸だなんて、思っていませんか。素直な心の扉を開ければ夢と勇気が溢れます。普通の出来事でも、奇跡だと想い込めば幸せがやってくる。人の気持ちは淡く、せつないもの。揺れ動く狭間の中に一つの希望があれば人は勇気が湧き生きる道筋が見えて来る。それが、たとえ小さな出来事でも、その人にとって大事な出来事ならば。それは紛れもなく希望は奇跡を呼び起こす。踏み出す勇気があれば夢は必ず叶うもの。あきらめないで。辛い時、悲しみが溢れる時、共に心の痛みを分かちあう人がいることを思い出して下さい。あなたの傍に、いつも暖かい眼差しで微笑んでいる人がいる事を思い出して下さい。あなたは、決して一人ぽっちじゃない。ほら、涙を流さないで。誰でも遠回りするものです。自分を駄目にしないで自分を好きになってください。ほら、微笑む笑顔が素敵でしょう。あなたは、わたしにとって大切な人。だから、生きてください。あなたを大好きな人がいることを忘れないで下さい。 あなたは私にとって素晴らしい人。 誰でも遠回りするものです。そして、近道しても得られるのはいつもの時間だけだったりして。その為に心を粗末にして惨めになり、そしてその惨めさを取り戻すために。また近道をする。 寂しさなんか嫌いです。悲しみなんて涙で流してポイ。悲しい想い出なんてクソ食らえ。過ぎた出来事なんて忘れて捨てちゃえ。泣きたい時は堪えずに、我慢しないで大泣きすればいいさ。そして、悲しい時は大声で笑ってね。なんて、やせ我慢するのも時にはいいものです。でも涙が出るのは、如何して!悲しみの想い出はさらりと水に流して微笑む気持ちの内部に溶け込ませて心を奏でます。なんてことはないさ、人生なんて。言葉の流れに紛れ込んで素知らぬふりして。「あら、お元気」心の内部は視えはしない。だって、あなたは私の心を見つめた事があるの。私はいつもあなた見ているのに。悲しいほどに。あなたは、それを気づかないだけ。人生なんて、そんなもの。愛する事は切ないものです。愛されることは、たとえようのないほど嬉しい事なのに。「愛しています」その言葉が心の内部に埋もれています。陽気な言葉の響きの裏側に沈み込んでいる私がいます。こんな健気な私を、あなたは気付きもしない。あなたが、見つめてくれるだけで私は幸せなのに。 .
2024.03.26
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幸せが届きますように。人は曖昧さの日々を送り妥協と後悔に心を奪われ。糧の手段が自分の領域を狭めます。心の意味を解く。日々の暮らしに意味を溶かします。人間が一度は経験する死の足掻(あが)きは、二度目はない。生き物は二度死ぬこともない。すべては一度限りの時が流れます。生きる、と云う意味を理解すれば、その時合いをもっと有意義に過ごせる筈。けれど時間を無意味な事に費やす場合が多いのは何故だろうか。憂いかな。人は弱きもの。その瞬間その時を逃げることは容易いでもあり、行動を起こし現実を直視し今を生きることは未来につながります。しかし、人はその瞬間その時を軽視して過ぎ去りし時を惜しむ。後悔すれど時は戻らず。死して屍を横たえるのみ。生きものすべて老いてゆく、そこから逃げる事は出来ない。太陽が西から昇ることは決してない。時間との駆け引きは無意味と判るはず。けれど、それを繰り返し試みるのも生きるものの定めかも。時間は、止まりはしない。遅くもなく、早くもならない。そして、いつもの時間が過ぎてゆく。愛がそこにある。可憐に咲いた花がいつまでも咲き続けてほしいと願って、その姿を記憶に残します。 旅の途中下車より愛を込めて。 願いを託し言葉の便りをしたためます。時は緩やかに。始まりは、いつも静かに事が進み。結果が生まれ、また新しいはじまりが花開く。時間はいつも同じ時を刻みつつ過ぎて行く。いつもと変わらぬ時間の流れでも思考の内部(なか)では、今という過ぎた時の流れとは別の思考が生み出され、その派生は過ぎ去った時の流れとは異なる空間を誕生させる。その派生の時差は自然の思考へと導かれ。過去、現在、未来の、そのすべての時間の融合する偽りの無い思考へと。有限なる添加物は一切必要ない。祖から新たなる思考の芽が誕生し、穏やかな流れとなって時代の変化を創り出す糧になれば、種の誕生は無意味ではなくなる。たとえ限りなく小さな思考の芽でも、生きた証し栄えず途絶えようとも、その空間に存在した証は残され旅人の心に宿り記憶が受け継がれるものなり。過去と未来を生きることは、即ち、今を生きること。 素敵な人へ。 今を生きてください。その瞬間が生きている証なのですから。心、穏やかに。身体を素直にいたわって、今を生きてください。好きな、素敵な鼻歌を口ずさみながら今日を生きてください。どんな辛い時でも、今の時間が現実の瞬間だから逃げないで強く生きてください。どんな時でも、あなたは素敵です。そう自分自身に語り、気持ちの移り変わりを心の花として、心の季節として折々の変化を楽しんでいけたらいい。すべての物語は、あなたの生きる道筋(過程)なのだから、出逢う出来事の瞬間を大事にしてください。時を育て、自分を愛して生きてください。 そして、素敵な日々を過ごされることを祈ります。 愛をこめて。.
2024.03.24
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寝床の中で引き出しに仕舞い込んでいた記憶の欠片を断片的に蘇らせては過去の出来事をまとめようとするけど、ぼやけてとっつきにくい気持ちが顕になる。仕舞い込んでいた想い出などはいつかは思い出せなくなるものなのかもしれない。暖かな寝床が気持ちよく這い出せないもどかしさで想い出を弄んで納得できないでいる自分をなぜか納得させようとしている。 春が近い暖かさの気だるさは気持ちも億劫にさせる、.
2024.03.17
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気まぐれで投げやりな脳みそをフル稼働してみたところで、拒んで逃げ出したくなる繊細さに素直じゃない自分を篩(ふるい)にかけて目の前にあることに集中しないわけじゃないけど。「青い空」って、見るからに「ひろ~い海の内部」って感じで深堀りされないおおらかさを持った自然の神秘を眺めているようで時間が足りなくなってしまう。 ある意味、親の無垢な慈悲と同じようなお手前を感じてはいても、手取り足取りじゃ反抗したくなる幼子と似たような感情が逃げをうって吐き捨てた言葉に後ろめたさを感じつつ意味のない捨て台詞に涙が出る。.
2024.02.29
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何事においても人を見た目で判断してはいけません。この手のお顔でもそれなりに悩み事が多すぎて自己負担すべき出来事が毎回のように起こっても、この面相と狂暴すぎる繊細さ?ゆえに敬遠され、誰一人として寄り付かないのが悩みの種です。それでもめげずに酒を友として一匹の必需品(ねこ)と一緒に生活を楽しんでいます。.
2024.02.03
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誰でも幸せを求めて翻弄する。 人はつまずき倒れて、その度に不満が後悔を呼び覚ます。人生は早い者勝ちじゃない。誰でも遠回りするものです。近道しても得られるのはいつもの時間だけだったりして。その為に心を粗末にして惨めになって、そしてその惨めさを取り戻すためにまた近道をする。その繰り返しが、いつしか身体に染み付いていく。 足掻きながらも、ありのままの時を司れば気持に余裕が生まれる筈なのに。人生って思い通りにならないものです。でも、有益な収穫が見込めるなら近道も捨てたものじゃない。糧を得るか、時を選ぶかはその人の自由。けれど選択する自由が欲を導く。 何事にも決めつけるのは良くないが、観念を狭くしては見えるものも見えなくなる。人生に仕切り直しはあまり起こさないほうがいい。だからといって何事にも妥協し過ぎるのも如何なものか。歳を重ねると妥協がいつしか当たり前になっている。そして世間では早い者勝ちが当たり前になっている。わたし自身、近頃ゆとりがなくなっているようです。.
2024.01.20
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