全31件 (31件中 1-31件目)
1
『おまえうまそうだな』作者:宮西達也 ポプラ社 2003年3月刊 正確に書けば『毒書』ではない。というより絵本であり良書。 教育書としては考えさせられるものだと思う。 ただ、私はアニメーションの方から入ったのでそう感じるだけで、絵本単体を見たときに子供にソコまで考えさせることが出来るかは個人的には難しく思う。 その為 読み口は『軽い』 と評価するが、『道徳教育』として問題提起するのならアニメーションを推したい。 アニメーションの方が話が分かりやすい(連続している)ので関連した問題としてみていきやすいと思う。 以下 ネタバレを含みますので知りたくない方は本編を見てからお読みください。 まず、草食恐竜が肉食恐竜を育てる段。 流れてきた卵を自分の卵と同様に育てようとする母親。 卵を狙う攻撃者に対しても自分の本来の卵同様に歯を食いしばって守る! この描写だけでも1) 母親がどのような思いで子を産むのか? という点を考えることが出来る。 同時にこの後の各シーンで2) 父性と母性の違い ココに注目したい。 あとで『ウマソウ』を”息子”とまでいうハート。 原作ではこの辺りの絡みは以外に薄い。 原作版では身を挺して(咬まれて!)ウマソウを守り、相手を尻尾で吹き飛ばしている。 ところが、アニメ番では一度食事(勿論他の恐竜だ)をとるために 『男には独りになりたいときがある。だからここで待っていなさい』と言って、ウマソウを一人にし帰ってきた時にウマソウを食べようとしていた肉食恐竜を蹴り飛ばす。 当然この一連の流れの中には『肉食である自分を知られたくない』という気持ちが現れているが、同時に母親とハートとの対比で『常に寄り添う母性』と『それでも一人になりたい父親』の違いが出ているようで 少々辛い・・・。 私は一年近くを一体として濃密な時間を過ごす母子が最終的には一番強い絆だと思っているし、最後に子供の味方になれるのは母親だろうと思っている。 この『それでも一人になりたい父親』は近年育児放棄等に見られる母親が 父親化してしまっていることを示しているのではないかと危惧している。 本来父親が守るべきは母親であり、家。 それが結果として子供”も”守ることになる。 この優先順位は間違っているのかどうか・・・。 アニメ版では片目のバク(ハートの生き別れの父親)が子供の成長を確かめるシーンがクライマックスになる。 ハートは気絶してしまい後のシーンでもこの場面のことには触れない。 一方で母親に対しては『あなたの子供でよかった』と伝えることが出来る・・・。 母性が正に報われた!という場面なのだが、父親の立場から見ると『では父性は何処で報われるのか?』と感じる。 恐らく子供の成長を感じたことで『報われた!』と思えれば幸せなのだろう。 この距離感・・・父親はかくありたいと思うが・・・・難しい。 3) 集団のルールか? それとも ・・・ 肉食恐竜の子であるハートと暮らすために群れを離れた親子。 しかし、ハートはとある一件で母親の下を去り、その後母親とその息子ライトは群れに戻る。 群れを去る前と群れのリーダーは同じだったようで母親に対してこのような言葉を投げかける。 『身に染みてわかっただろう。』 アニメ版ではもう一つ群れを描いている。 プロントザウルス(?)が円を描いて外敵(ハート)と立ち向かうシーンだ。 結果的には群れは蹴散らされ、内一頭はハートの餌になる。 しかし、この食事のシーンでは残る群れは餌となった仲間を残しその場を離脱していく。 これは集団としての当然の利益確保(多数の生存)を目的とした行動なのだが、ついさっきまでは『皆で助け合おう』という集団が『敵討ち』といった湿っぽさも見せずに粛々と離脱していく。涙ながらに・・・なのかは分からないが、野生動物に見られるこうした行為はどうにも違和感を感じてしまう。 犠牲になったのが自分の肉親だったら・・・。 この仮定で見ると集団の為の犠牲になっても 集団は自分を守ってくれたとは言いにくい。 ・・・・恐竜という極端な状況に人間の関係を投影すると『強弱の関係』がハッキリしているために関係は露骨に出てくる。 その点が道徳教育・・というより『人間の関係性を考える機会』を与えてくれる。 絵本、アニメ共に親子で考えさせられる作品。
Nov 10, 2011
コメント(21)
『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』 文春文庫2006年07月刊 著者:北尾トロ 333P ご本人曰く『冷やかし』である裁判傍聴記。 帯には『必読! 裁判員裁判制度開始』等と有るが、真摯な姿勢で裁判員に挑もうという人には一切お勧めできない(笑) 筆者はかなりの人でなしと見える。 同類なのでなんとなく意図は見えてくる。 もっとも作中で不倫経験を告白したり、演技で裁判を乗り切ったゴミや国選弁護人が裁判を引き伸ばす様子を喜々として書く精神は『欠落者』であることも窺わせる。 作品の直接の感想とはずれるが、『反省』というモノについて考えさせられる作品に仕上がっている点は高く評価したい。 『反省』すれば良いのか? 『反省』の方向性が狂ってはいないか?・・・・。 自分の子供を叱って 『反省したからもうやらない』 と全面放棄されたら親はどう思うべきだろう? 何故叱られたのか? 何処が悪かったのか? 全体の行動自体が否定されるものなのか? 細部に問題があるのか? それともその手段が間違っているのか? 結果の問題なのか? 叱るにしても反省するにしても『問題点は何処にあるのか?』とう事は非常に重要だ。 人心一新 だとか リセット だとか 脱○○ だとか この国では良く耳にする。 本当にこれらが根本的な反省に立って、『同じ過ちを繰り返さない』の意味が理解されているのなら、人を騙さないだとか、人を傷つけないだとかは まだ反省をしていない若年者 しか侵さないことになる。 環境問題に対して私は『人間や利権者にとって都合の良い環境を造りたいだけだ』と言ってきたが、脱原発を語る老人がわんさと出てきたが、「だったらあなた方が年金も医療費も圧迫しないように全て差し出せば資金も捻出されますし、そもそもエネルギーを必要とする人が減りますから低効率の新エネルギー普及に一役買えますよ」と言いたい。 本来人間の時間は限られているものだし、 一からやり直すなどということは自分本位で、しかも不可能なことだ。 だとすればこの言い分も『都合の悪いものは切り捨てて、関係ある人は水に流してちょ~だい(はぁと』という蜥蜴の尻尾きりの理屈だ。 ”反省”だけなら猿でもできる! ・・・・・・・ 【 蛇 足 】 ドラマもやってるし、コミックも出ているんですね・・・。 この作品で一番良いアイディアと思ったのは『自動車免許更新の際に見せるビデオを 事故現場からその後の裁判に変える』 両方流してもいいと思うんですよ。 後は司法側も『再犯者』への認識を改めないとあまり意味はないですけど。
Sep 28, 2011
コメント(0)
『博士の愛した数式』 小川洋子/著 新潮社 2003年8月刊世界は驚きと歓びに満ちていると、博士はたった一つの数式で示した――。著者最高傑作。彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。ルート記号の中に数字をはめ込むとどんな魔法が掛かるか、三人で試した日のことはよく覚えている――。記憶を失った天才数学者と幼い息子を抱えて働く私の出会いと幸福な一年。小説の奇跡とも言える、上質でせつなく知的な、至高のラブ・ストーリー。(新潮社 書評より) なんとなく映画化したなぁ・・・という程度の認識。 純文学をうたっているものの読み口は軽め(253ページ)。 キーワードは『80分の記憶』・・・と言いたいところですが、正直この作品において それは然程重要な要素とは感じなかった私・・・。 読者とすれば一番嫌われる部類ですかね。 『純愛』・・・ もしくは『調和・融和』という方が近いかもしれません。 映像化した人は作者が意図しているかどうかは分かりませんが、作品の持つ感性を侵してしまっていますね。無粋です。 映像化は具体的なイメージを否応無く押し付けるモノであって、この作品が『自分でイメージする』ことを邪魔しかねない。 ♪算数の問題を声に出して読んでみる。 すると文字は抑揚を持ち、どこに着目すべきか? 違和感は? いろいろなものを持ち始める。 音楽家が楽譜を見て音をイメージしますが、それと同じ感覚・・・といえば分かりやすいでしょうか。 完全なる世界。 こんなことが書かれている部分が作品の本質であり、コアであるように読めました。 数字に対して大いなる敬意と愛情をもって接する。 本書ではその無償の愛を永遠の静けさを持って一人の人にも捧げている。 その後博士がどうなったのか? 語り手である家政婦の思いは何処にいったのか? 義姉である未亡人は・・・√は? 色々なことが仄めかされつつも、ソコには『和』 = ハーモニーがあって、リズムがあって。 決して答え探しに走らない辺りに好感。 どちらかというと数学を扱った純文学というよりは 一つの音楽という方が近い作品です。 やっぱり映像化はすべきではないなぁ・・・。 【 蛇 足 】 文庫版巻末書評は某有名数学者。 博士のモデルの一部をなしている模様。 博士のイメージを持って下の都知事との会談を見ると 妙に食い違う違和感を感じるのが 私には奇妙に納得できます。
Aug 25, 2011
コメント(0)
後日本の感想は書きたいと思っていますが、本日の目から鱗。 今読んでいる書籍はこちら 『バカの壁をぶち壊せ!正しい頭の使い方』 日下公人/養老孟司(ビジネス社2003年10月) 専門の全く異なるお二人の対談本。 雑談的な感じが非常に読みやすい一冊です。 ただ、結構言っていることは辛らつでもありますヽ(゚∀゚)ノ 例えば・・・マクロ経済学はアメリカの大不況の前後に生まれた経済学ですから、需要はいくらでもあったが、金がないという時代の貧乏経済学です。供給過剰の時代となったら、マクロ経済学の理論は通用しません。だから、「エコノミスト」と言われる人たちの予測が当らないのは当然です(日下公人 敬称略) この後日下さんは経済学者は引退すべきだ・・・なんていっちゃってます。 確かに、経済理論は色々な指標を使いますが結果から後付で作るものですから、経済環境に与える材料が変ってくれば通用しなくなるのは同意。 その変数となる材料を的確に予測しなければ後の世で『正解』にならないんですからエコノミストを 専門家として 『今後どうすれば・・・』という話しかしない経済番組では役には立たないのは本当でしょう。 経済学者が『出来ること』は『過去の経済環境の分析』と その分析に基づいてこの後の環境変数が変化しない(ココがありえない話しになる)前提で どのように介入すれば予測する経済の将来像にたどり着くかという話し。 魔法使いじゃないですからね。 そんな話しの中で特に『∑( ̄▽ ̄;)!』と思ったのが インフレ・デフレの指標と政府紙幣の信用取引の話し。 要約すると・・・ 「政府やマスコミの発表する経済状況は全て通貨を基準にしている。 通貨は(金との)兌換券ではなく 信用取引の証明に過ぎない。 現在はデフレといわれているが、電子マネーや物々交換等を総合的に加えた状況では実はインフレかもしれない。」 ∑( ̄▽ ̄;)! 本書ではこの後経済誌の記者は一人くらい計算してみればいいのに・・・と養老先生の言葉が続きます。 確かに、当たり前になりすぎて失念していますが信用取引という観点から見れば 電子マネーやポイント制度なんかも 各企業の決算書に載る(引当金が当てられる)もの。 通貨と発行元が異なるだけで同じですワナ。 それに、インフレ・デフレの基準となる物価なんかも『何を基準にしているか?』ということを考えれば基準として適正でない、 従来は適正だった物価対象の物品が値下がりして新しい資産に近い支出が増えているかもしれない。 一応基本的な言葉の整理。中学生くらい? インフレーション(inflation) :経済学においてインフレーション とは、モノやサービスの全体の価格レベル、すなわち物価が、ある期間において持続的に上昇する経済現象典型例) 好況で経済やサービスに対する需要が増、経済全体で見た需要と供給のバランス(均衡)が崩れ、総需要が総供給を上回った場合に、物価の上昇によって調整されることで発生。 物価の上昇は貨幣価値の低下を同時に意味する。その他例) 不況下にも関わらず物価が上昇を続けることがあり、こちらは特にスタグフレーション (stagflation) と呼ばれる。 スタグフレーション(stagflation):stagnation(停滞)、inflation(インフレーション)の合成語で、経済活動の停滞(不況)と物価の持続的な上昇が共存する状態を指す。 デフレーション(deflation) :物価が持続的に下落していく経済現象を指す。物価の下落は同時に貨幣価値の上昇も意味する。なお、株式や債券、不動産など資産価格の下落は通常デフレーションの概念に含まない。 物価( price of commodity):ある家庭が1年間生活していく上で必要な、さまざまな財・サービスの値段を合計したもの 『国が出している数字には根拠が無い!』と言っているわけじゃないですよ。 数字を操作することもできるってだけです。 今反原発の人は政府数字に反発してますけど、一般の人が求めているのは『どの数字に達したら うち等どうなっちゃうの?』って事だけだったりします。 ところが、数字は背景で意味合いが異なる。 そんなことは分かっているよ、と思っていたところにサクッと的確な疑問を提起されちゃったΣ(・ω・ノ)ノ まぁ~だまだ分かっちゃいないよ私は・・・と思った次第です。 これだから他の人の見解を知るのはやめられないんですけどねヽ(゚∀゚)ノ 正直言って自分が小学生になった辺りの30年前、大学生だった15年ほど前と比較して社会的にモノポリー化と外資の介入が進んだという点が一番大きな変化で、お金を持っている層が変れば産業も変るのは当然の帰結だとは思います。が、結果として産業の集約が進んで労働人口が飽和するのもまた当然の帰結・・・。 日下さんの本は読んだことが無いんですが、少子化問題や国益を論じると『非常におもしろいおっさん』である模様。 これを機会に少し探してみましょうか。 バカっぽい。本職と思われると危険大卒・・・
Jul 6, 2011
コメント(1)
『死刑執行人の苦悩』角川文庫1993年7月発行 著者:大塚公子【内容情報】(「BOOK」データベースより)「なぜ殺さなければならないのか」…。執行という名の下に、首にロープをかけ、レバーを引く刑務官と、ゼロ番区と呼ばれる舎房でその日を待つ死刑囚。徹底した取材を基に、あらためて死刑制度を問う衝撃のドキュメント。 有体に言えば『死刑廃止論者の言い分』です。 ただ、ちょっと一般的ではないのは『執行者の人生を狂わせ苦しめることでもある』という視点から廃止を迫っている点。 つまりは『個人が人を殺せば犯罪となるのに、国家が人を殺すのは正義と成る』という矛盾に対する苦悩って事です。 この本の取材自体は私が生まれた年から行われていますから 現状とは異なるかも知れませんが 正直私はこの本を読んだからといって『死刑不要』とは感じませんでした。 むしろ法や社会に対する認識が浅いほど人権論者になるのではないかと危険に感じたくらいです。 例えば、『殺人』に対する認識の問題があります。 『一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる』 チャップリンの言葉だったと思いますが、『国家』という社会的塊を想定いてください。 戦争状態というのはこの『社会的塊』が維持できるかどうかの生存競争と考えれば、外向きの殺人行為です。 チャップリンの言葉というのはもう少し想定してみれば 『社会の内側で一人殺せば殺人者だが、社会の外側に対して殺せば英雄』 という意味です。 養老猛先生の言葉を借りれば『社会は脳内の認識の範囲』ということです。 だからその外に対しては生存競争(実際の生死だけでなく、社会常識の書き換えということもあります)に対して社会の構成員が殺すことは寛容されるのはある意味自然だと私は考えています。 アメリカとビンラディンや 日本でもシーシェパードの蛮行というのはこの『社会の塊』に対する攻撃です。 『正義を掲げる闘争』というのは基本的に『社会の塊』の大小はあってもこの類です。 話を戻します。 私は死刑反対論者に対して『被害者心理への逆撫で』だと批判します。 しかし、それ以上に死刑の意味合いが反対論者からは抜けてしまっていることが問題だと考えています。 よくある廃止論の一つが『先進国で死刑をまだやっている日本は恥ずかしい』 私は『更正させて再犯が起こらないのなら死刑は必要ない』という論理も馬鹿げているとおもいます。 これらは、社会を塊として捉えていない。 その社会の中で起こる『反社会行為』の最たるものとして殺人は許容されていません。コレは死刑の反対賛成によらずどちらも許容していない。 現代社会の『社会的塊』=『認識の範囲』が全社会を覆うという 思いあがりがある以上 殺人者はいわば『社会の内患』です。 社会の塊がもっと大らかな状態・時代であれば『放逐』という意識の埒外へ飛ばすという方法が私は有りうると考えています。 これは本書で書かれる『死を意識した受刑者が急速に人格的成長をするケース』を救う術としてありうる方式です。 『島流し』も類型でしょう。 しかし、一方でマスコミが肥大化しこの社会で一度注目を集めてしまった死刑囚が仮に日本の無人島に流されたところで『意識の埒外』に置かれるでしょうか? 何度か死刑囚に触れて『死刑は救済』『社会的に殺された状態で復帰する方が地獄』ということを書いてきました。 再犯の原因の一つが前科モノとしてまともに働く術がなくなってしまう問題があります。 さらに死刑囚になる前段階で今の社会は『疑わしき』の段階でネットも含めて書き立てます。あることないこと・・・。 出家して・・・というのも現在の宗教が商売に成っている社会では有り得ない選択です。 今の死刑制度というのは 1) 社会のルールを体現する刑2) 被害者の関係者を無理矢理納得させる手段3) 更正手段を実質的に持たない社会において加害者が救われる手段 であると考えます。 もうひとつ・・・。 本書では『絞首刑』が執行者にとって残酷な『殺したという意識』を残す手段として繰り返し糾弾されています。 電気椅子でも同様でしょうが、私はカプセルと薬物で『安楽死』させるのでも良いと考えます。 『内患』を外科手法で切り取らなくても・・・という意識ですが、結果は同じです。 手段が残酷だから、執行者に強く認識が残るから・・・というのならこのあたりは処方があるわけです。 最後に・・・ 死刑の賛否というのは枝葉の議論です。 少なくとも日本人は自給自足で満足しない生活を殆どの人が送っており、結果として社会と繋がらなければそうした『欲求』は満たされない事実があります。 だから社会の側から『ルール』があるわけです。 ・・・欲求と充足が逆転している気がしないでもないですが。 死刑はあくまで最後の『処理方法』です。 抑止力として適切かどうかというのも本当のところでは多寡の問題です。 死刑が怖いから殺すまではしない人も居れば、刑務所が嫌だから罪自体を忌諱する人もいる。 その一方で生活が苦しいからコンビニ強盗をする前に店員に警察を呼んでもらうようなのまでいる・・・。 死刑・刑務所が好かれてよいはずは無く、その点で今の状態はある程度意味がある訳です。 が、だからと言って死刑が問題を解決する処方箋でないというのもここに改めて記しておきます。
May 24, 2011
コメント(1)
『 亡国の徒に問う 』石原慎太郎 著者: 石原慎太郎 出版社: 文藝春秋 発行年月: 1996年12月 基本的に私は『モノを知らないこと』・・・無知とか言われる状態ですが、コレを『馬鹿』とは言いません。 無知って知ろうとすればするほど痛感することですし、個人が受け取ることの出来る情報量が正邪混在して圧倒的に増した現在では、知らないことに対して。゚( ゚^∀^゚)σ゚。ヶヶラヶラヶラ 『そんなことも知らないの?』っていう反応は、散々受けてきましたし、身をもって味わっていますが悪く言えば村意識の表層化でしょう。 知っているくせに自分で動かない。 影響力を正しく行使しない。 だんまりを決め込んでいる。 知らなければ知れば良いし、知りえた情報で『現段階の評価・対応』をしなければならないのは何も政治・経済に限った話でもない。 それだけのことです。 それを批判に留めてしまえば村八分。 先日の鳩山”方便”発言に対する批判なんかもそう感じますが・・・。 そうした意味である種 ”表現に棘しかない” 、耳が痛い指摘が続く。 批判も多いでしょうが、本書は 『相対的評価』 『自虐史観に対する態度』 『選挙政治・マスコミの問題点』(幼稚な国の幼稚な選挙) 『健全野党』(2大政党ではなく3政党鼎立、社会党の存在意義) といったところを”当時から”指摘していることに大きな意味があるといえます。 都知事選が見えてきた中で、石原批判(確たる実績が無いという人が結構見受けられる・・・) 逆に言えば全く進歩が無いともいえるんですがね。さて・・・・、 今が2011年2月ですから15年弱も前の著書。 古本読者の私が空恐ろしくなるのは、こういう当時のお話が現在も改善されずに繰り返されている点が読み取れる時。 1996年といえば細川政権が1994年に倒れて、自社さ体制がほつれて 民主党が出来たのもこの頃・・・。 1999年の都知事選で石原知事は当選していますからその前のお話ということになります。 地方外国人の参政権に当時は賛意を示したりと、現在との違い(※)も見られる本書ですが、コレまでに多くの人が書評を書かれているようですので、個人的に先にあげた部分以外のところから注目した文章を・・・。 石原慎太郎著ではない 書後段の『解説』部分です。 何時の世でも、既成の秩序や価値観に反逆や挑戦を試みるのが若者の姿であるとしても、現在の若者には、反逆や挑戦を試みるに値する秩序や価値観といったものが、正しく示されているであろうか。もし、そうでないとするれば、現在の若者をめぐる環境は、昔日と比べまことに不都合の多いものになっているのではないか。彼らは、何事かを押し付けられないのが良いことだという「自由」をめぐる誤った理解の下、統治の作法、即ち大人になる為の作法を教えられていないのだから。 この文章を書いているのは櫻田淳氏。 このあたりの人のつながりというのも無知たる自分が新しいことを知る楽しみです。立場に違いはあれど年数から逆算すれば櫻田氏の当時の年齢は今の私とほぼ同じ。何でしょうね、この濃度の違い・・・。(※)地方外国人参政権も含めて、その時点での知りえる情報と立場から導き出される答えが10年以上後と異なっても私はなんらおかしいとは思わないんですが、政治や経済学者、及びそのシンパ・アンチでは攻撃対象にされてしまう・・・。奇異也。【 蛇 足 】今回もでるのかな? 特異な視点or当たり前の視点? 東京都知事候補 外山恒一 政権放送 2007/3/25 早朝眼、眼、眼・・・
Feb 20, 2011
コメント(1)
アホの壁 in USA原書名:DOWNSIZE THIS! 【著者】Michael・Moore 【訳】 松田 和也 【出版】柏書房 (2004/03/10 出版) 12月22日の仕事中から妙な悪寒を感じて結局24日を休んだものの貴重な年末の時間を26日まで 薬を飲んで寝る生活に当ててしまった・・・。 もったいない。 そんな私は貧乏性。 悪寒を感じた帰り道にこんな事になろうかと古本屋で2冊ばかり買っておいたもの1冊。 それがこの本。 体調悪い時に読む本じゃないことは直ぐに分かりましたがね。 読んじゃうのも貧乏性・・・。 これ英語原文で読んだら恐らく私の英語能力では滅茶苦茶になりますな。 スラング多すぎ、 比喩 、隠喩多すぎ。 ザックリ言えばアメリカの自称左翼(個人的にはそう思えないんですけどね)の政治経済に対する批判。 幾つかその内容を挙げると(目次より抜粋)・・・パット・ブキャナンはサタンの小切手を受け取るか? 政治家の寄付金擦り寄り批判「投票するな―奴らをつけあがらせるだけだ」 2大政党制(になっていない)批判民主党?共和党?いったいどこが違うんだ? 2大政党制(になっていない)批判メイフラワーの乗客じゃない?だったら出て行け! 保守派移民排斥問題批判ドイツはまだ罪の賠償を終えてない―俺が徴収してやるよ 戦時補償問題批判 他にも『中絶反対に反対!』とか。 正直個々の項目では突っ込みどころ満載ですが、恐ろしいのが2004年の文章でありながら、それから7年近く経った現在はどうなっているの?っていう問題です。 この間アメリカはブッシュJr⇒オバマと政権が変り、著者の望む『マイノリティの指導者』が実現しました。 ところがGMがこけたらやっぱり助けちゃうし、金融商品で大もうけしてコケタ証券業界は 何事も無かったように復活。 最高益まで出している。 その反面 アメリカの市民生活は『ジョンQ』で話題になった社会保障の問題も停滞しているし、ジョンQの背景にある 雇用問題や 家計破綻の状態は悪化。 公共サービスも縮小と 著者の言うように『アメリカは経済援助されるべき』 『アフリカ以上の二重構造』が拡大している。 外交ではアメリカを含む欧米諸国は『日本は経済再建に立ち遅れた』というレッテルを貼っていますが、何のことは無いアメリカの後追いを今もなおしているだけというのが この一冊と発行からの時間経過を考えると立ち上ってきて『風邪っぴきには最悪の一冊』でした(苦笑) なにせこの本で批判されていることは アメリカが『継続事項』ばかりなのに対して 日本だって『足突っ込んで言っている問題』。 地方自治体の企業誘致競争。 自治体で散々税制優遇やら受けた企業が『利益の為』に『雇用』と『税収』を置き去りにして海外移転・・・。 著者は『経済テロ』と呼んでいますが・・・笑えない。 もっと笑えないのが政治や社会の変化のスピードの意外なまでの遅さの実感。 7年ですよ。 うちの長男が嫁のおなかから出て 小学生ですよ。 池上彰の『現代日本・世界史』のDVDを早急に作って小学生あたりから必修にでもしないと駄目なのか? 先鋭的(個人的にはそうは思わないが)な為強硬な反対派もいる・・・
Jan 10, 2011
コメント(2)
『派遣ちゃん』著 者:宮崎誉子 出版社:新潮社 2009年2月 職の不安定さが少子化の要因である。 こんな事が言われているので・・・。 第一部は小説家になることを口実にニート化する兄を持つ派遣の妹の話。 この章での見所は 派遣同士の会話。 『派遣やると交換可能なのを思い知るよね』 第二部では、ニート状態からテレオペの派遣になるために 嫌な研修を受け続ける鳩山君の話。 ヤクマルという引きこもりを『自分より哀れな存在』として、嫌なことがあると会いにいったりする『下には下が・・・』という思想に染まった後ろ向き・厭世的な主人公が特徴。 彼をとりまく『大人』を彼は 『いずれ来る自分の姿』 として捉えることを無意識に拒絶しているのが伺える。 話の最後は引きこもりのヤクマルの「俺、(お笑いの)プロになれると思うか?」の問いに鳩山君が言い放つ言葉(どうも作者は最後に一言に残さない時がすまない模様・・・) 『なれるんじゃねえの? だってよぉ 貧乏人が自由に使えるのって言葉ぐれぇ~じゃん!!』 一部・二部どちらも共通点として『働くことを拒絶していたものが 自分も派遣で働けるか?を主人公に問う』というところが有ります。 後書きを読むと、作者は派遣兼業の作家。 何時売れなくなるか分からない作家は派遣同様の恐れがあると記している。この辺りに不安定な雇用と精神状態がにじみ出ている。 正社員でいられるなら派遣などならない方が良いとも・・・。 私が小学生くらいの時に『トラバーユ』等の言葉と求人雑誌が世に出回り、『職業選択の自由』 『自己実現』 が持て囃され、サラリーマンとして毎日会社に通う人生が半ば『哀れなモノ』 『死者の葬列』 等といわれていました。 その後この世代はバブルの中心を謳歌し、少子化時代の『親世代』だったりします。 一昨日某ドラマで 某女優が 『 私は少子化とは思っていません。 むしろ”少親化”。 つまり親になる覚悟も準備も無い者が増えたということだと思います。』 とのたまっていました。 言いたいことは分かりますし、正しい部分もあるのですが、 『フリーターの時代』 の後に 『派遣の時代』 があることを考えれば この世代が『勝ち組・負け組』等という単純な経済的区分ではなく、 より深刻な『価値観の死』であると私は思います。 本書を読めば『結局自分がいなくなっても会社は・・・』というのは多くの人が感じることでしょうし、だからといって『夢を追いかける人』というのを少し上の世代の女性は好きな傾向が・・・。 『ダメンズウォーカー』が存在できる時点で、この世代に巣くっている『自己実現信仰』の根深さは分かりそうなものです。 『子供は欲しい』 だけど 『自分の時間・生活も大事』 だから考えれば考えるほど親になった後の ”現実的な自分の心の動き” に悩むわけです。 生む前に全て想定して ”心の準備”まで出来る人なんていませんて・・・。 派遣という雇用形態自体が『悪』ではありませんし、企業を『悪』というのも簡単ですが正確ではない。 『自己実現信仰の呪縛』 ココが読みどころです。ダメ男・女判定機といいますが・・・。本人どうなんよ?
Jul 25, 2010
コメント(0)
『刺身でも寿司でも素材を選ぶ。腐った素材じゃぁいい刺身も寿司もできない。 教育だって同じだ。腐った生徒じゃぁいい教育なんて出来ない。』 本書の中で何度か語られる『夜回り先生になったきっかけ』です。 夜間学校で教師をしていた友人が水谷先生に相談した時の台詞。 これに対して 『魚に腐った腐らないが有っても子供たちに腐ったがあるか! あるとしてもそれは”腐らされた”んだ。 お前は教師を辞めろ。俺がそこに行く。』 性善説ですね。 私は少なくとも小学校高学年位からは自分の周囲・将来とのすりあわせが行われるのですから、家庭に相当の問題があるケース以外は自分の世界を広げる『子供としての努力』が足りないような気がしますが・・・。 水谷先生はリストカットなどに向かう子供たちの傾向を『自分病』として自分を責める、自分に帰結させてしまう問題と指摘しています。 そして印象的な記述として(そのままではないですが) 『子供に悩むのはやめようと言いたい。悩んで答えが出せるものならもう答えは出ている。答えが出ないから悩むんだ。悩むよりも自分の出来ることを探した方がよい。自分の周りに優しさを配ろう。』というのが有ります。 一言で言ってしまえば、人との交わりが欠如、もしくは不足していることが問題の根源にあると指摘しているのだと私は解釈しました。 水谷先生はそれを『大人の責任』 『子供は悪くない』 としているので違和感を感じますが・・・。 その水谷先生の発言で容認できないのが 『リストカットは心の叫びなのだから、止めさせると危険』 『先生の前でリストカットしなさい』(心の叫びを感じ取ってもらいなさい) という件。 水谷先生の『正解』はリストカットした子供の心を感じ取って優しく抱きしめ一緒に泣いてあげられること。 これを目の前で行われて『なんて事をするんだ!止めなさい!』 『水谷先生は私の教え子を殺す気ですか!!』と電話してきた教師を文中で批難しています。 リストカットでは血液が凝固して死ねない。 むしろとめるほうが危険。 これが多くの現場を苦しみながら経験した水谷先生の経験則なのでしょう。 そして『鈍感な大人』は形として心の叫びが見えなければ響かないということも・・・。 ですが、私はこのリストカットを人前で見せることを容認できません。 一つには私も既に『鈍感な大人』ですが、目の前で泣いている子供がいて何も感じないほどでもありません。 ただ、優しい子供ではありませんでしたし、優しい大人でもありません。 恐らく私が目の前でリストカットをされてそれをそそのかした人物がいると知ったらこの教師と同じ行動をとったでしょう。 人間が全て一様だと、正解が一つしか無いと勘違いしちゃいませんか? 優しさも一つではない。 悪い大人から体を張って子供を守り、子供の傍らで一緒にいてあげること。 確かに水谷先生の出した答えも人間としての一つの答えだと思いますが、『厳しさ』は大人の側の『心の叫び』ということを『否定』するのは違うと思う。 今は怒鳴ったり、頭ごなしにやることを全面的に否定する風潮が強い。 その為子供の方の『怒鳴られることへの耐性』が殆ど皆無です。 怒鳴られる=否定されると思っている。 水谷先生は生徒を怒鳴ったことが無いのを誇りに思っているが、喜怒哀楽を示さず、『大人の対応』だけしていて良いと私は思わない。 むしろ耐性を下げてしまった挙句、生徒と感情をぶつけ合うことが出来なくなったことのほうに問題を感じる。 腹を割って話せない。 それが親と子にも浸透してしまっている・・・。 自分の考えを相手に伝えるのって本当に難しい。教師という限られた期間に子供を導く『役目』(あえて職業とは書きません)のなら尚更『俺はこう思うけど、お前はどう?』というやり取りは難しいでしょう。 私は最近になって初めて親に怒鳴りましたよ。 厳格な祖父を怒鳴ったのは大学の時。 基本的には優先順位が出来ていたため意見を戦わせるという機会が非常に少なかった。 それでも、其々の考えに触れるたびに自分の考えとのすりあわせを行い、実際に動く際に微調整することで家族の均衡を保ってきました。 相手の言い分を考え、自分の言い分を照らし合わせ、それでも納得いかなければ『さぁ、戦いだ!』ですよ。 もちろん水谷先生がおかれた環境と先生の言う『昼の住人』の私のおかれた環境は大きく異なります。しかし、先生の言葉が『すべての大人に向けた言葉』 『教育の課題』だと感じたので敢えて意見したい。 強くなければ生きていけない。 優しくなければ生きていく資格が無い。 人って歪な存在です。見た目に限ったって一様でもない怖い。顔の人もいれば優しい顔の人も居るし、声の大きな人もいれば小さな人も居る。見た目からだけでも同じ言葉が違って聞こえたりする。 『優しくあれ』というのは人として生きていく資格。 しかし、理想の大きさや形を一つに決めてしまうのは違うだろう、と。 水谷先生が長年かけて実際に動いて、多くを助けて来た人というのを承知の上で、ここはどうしても納得ができなかった。 社会が同じように切迫して、同じように子供を追い詰めているから 『優しさ』が答えになる。 そう言っている様に感じました。 それこそ『自分病』でしょう? 自分しか見えなくなっている。他の人は自分とはこんなにも違う。AさんとBさんも違う。でも仲がよかったりする。AさんとCさんは同じように見えるのに仲が悪い。『何故?』 不思議に思わない。自分だけ見ているから。 私は子供が追い詰まっていることよりもピーターパンばかりになっていることの方が問題だと思う。 大人になりたくないから大人を否定する。 『いい加減な大人』になりたく無いから自分の『汚い部分』『いい加減さ』『悪い部分』を決め付けて負い詰まっていく。 大人の社会で鬱病がこれだけ出ているのは何故? 自分の汚い部分と向き合う人が減った事が大きな要因だと思っています。水谷先生が夜回りを始めた頃高校生だった人達。今 大人です。 子供の頃から綺麗事で過ごしてきた人達が大人なんですよ。 親が泥や油にまみれているのを『カッコいい』と思ったか、『だせぇ・・・』と思ったか。 それを『ありがたい』と思ったか、『頼んでねぇ・・・』と思ったか。 自分病・・・結構じゃないですか。 自分と向き合えばいい。 その上で人間が『生きている限り罪びと』であることを認めればいい。 『強くなければ生きていけない』って『自分を認めることが出来なければ生きていけない』って事です。 私は世界中で誰よりも自分が大っっっっっっっ嫌いで世界中で一番自分のことが好きです。だって自分だもの。 否定したからって”誰か”に成れるわけじゃない。 嫌いなところは日々湧いて出てきます。それでも自分でしょ? 私がどんなことをほざこうが水谷先生が積み重ねた努力を否定する物ではありません。 ただ、水谷先生から何がしかを学んだ者が『それだけを正解』と自分と向き合わずに心酔することは一番の『間違い』だと思います。 助けを求めること。 間違っていません。 優しさを配ること。 間違っていません。 話を聞いてあげる、傍らにいてあげること。 間違っていません。でもね・・・ 本気で、それこそ泣きながら叱り付ける優しさがあっても私はいいと思うし、 感情の発露を否定して『リストカットは心の叫び』というのなら、あまりにも意思表示の方法を学ばずに成長させすぎているのではないかと思います。 感情を出さない大人が増えているから? ・・・・。 違和感を感じる部分も沢山有ります。そしてそれ以上に水谷先生の言葉には反省させられることが沢山あります。 「子供の話を聞くときに、1対1の割合で話せていますか? 親のほうが多く話してはいませんか?」 その通りです。話を促すために余計にしゃべっちゃっています。反省です。 昨日試してみてやっぱり出来ていない自分と、日頃から話せる環境を整えておく難しさを改めて感じました。 虐められていたり虐めていたりしても気付けるかどうか不安です。自信がありません。 反省しています。でも、もう少しの間息子には勝手に自分の気持ちを話そうと思います。 そんなに記憶にとどめてはもらえないかも知れませんが、自分なりの『ものの見方』の叩き台になればそれでいいと思っています。 叱ります。怒鳴ります。 怨まれるかもしれません。 いいじゃないですか。 世間が『正しい』と思い込んでいる価値観が必ずしも正しいとは限らない。 伝わらないかもしれない。 いいじゃないですか、自己満足に成っちゃっても。 本当の正解なんて人の数だけあるんだから。失敗して反省して、修正して、また、失敗して・・・。 人の言葉はヒントであって答えじゃない。 人の道に近道なんて無いんですから。
Apr 13, 2010
コメント(0)
『夜回り先生の卒業証書~冬来たりなば春遠からじ~ 』著者:水谷修 (日本評論社) 以前から水谷先生の書籍は一度は読もうと思っていたのですが、中々機会が無く今回が初見です。 本書で繰り返し訴えられているのは 『夜の街に逃れた子供たちは被害者』 『傍らにいて自分のことを見てくれる存在が必要』 『優しい子ほど裏切られることを恐れ相談できない』 『リストカットなどで抑えきれない不安を”逆に”抑制している』 そして、『夜の街は自分達を見てくれていると感じているが、実際には大人にクイモノにされている』 私は『元』虐められっ子です。 幼稚園から小学校低学年では 『体が小さい』 ことと 『虐められても黙って登校し続けた』、 『目立つところがあった』こと。 高学年で有ったのは他に虐められていた女の子のイジメに加わらず、『くだらない』と口にしたため。 低学年の時には靴を隠されたり、10名ほどに笛などを取り上げられて『取り返すゲーム』に強制参加させられ、何時間も一人で追いかけ続けたり・・・。 それでも学校を休むことはしませんでしたし、だいたい『毎日虐めが続く』ということはありませんでした。たいていボス格が何かの腹いせに突然やられるケースか、全く通常の虐めには参加しない他の目立たない子(靴を隠すなどはこちらだった)によって行われたものです。 普通の学校生活をして帰ろうとした時などに急に分けも分からず行われる虐めには 反発したり怒りを覚えるというよりは ただ、自分が惨めだったのが未だに忘れられません。 靴下で歩くアスファルトは凸凹していて、涙が溢れてきて前を見ることが出来ませんでした。 『取り返すゲーム』はやっと取り返しても後ろから蹴られて又奪われてしまったり、置いておいたランドセルから別の物を盗まれたりしてエンドレス。 それでも正面を張って殴ってくるような子はいませんでしたし、本当に『遊ばれていた』状態でした。 高学年の時の物は、2ヶ月ほどですか。所謂村八分です。体育の授業でも誰も組んでくれない。 それまで虐められていた奴は矛先が変ったのをよいことに虐める側の下っ端に。 先生は見てみぬ振り。 そこに居るのにいないかのように扱われました。 この時は出来たばかりの電話相談に相談してみたり、不登校寸前になりました。 低学年の時大事に至らずに消滅したのは、虐めの時には私もかなり応えたものの 学校に行くことが好きだったから。虐めにあった人というのは『楽しかった思い出』というのがあまり出てこない。 ところが私は最終的には虐めていた側と遊ぶようになっているんですよ・・・。今考えれば本当に不思議なのですが。 虐められたからといって変更するキャラクターを持ち合わせていない私と、虐める側も異物感から理解に移ったのでしょうかね・・・。 ところが高学年で突如起こった虐めは自力で解決することはありませんでした。 クラスの女の子が親に口を滑らせたことから保護者会での問題になっちゃったんです。 私の場合 中学以降では虐めに遭うことはなくなりました(仕事上は置いておきますが・・・)。 というより、『手を出したら何倍にも返されそうな気がする・・・』と当時の同級生から直接言われていました。 別に虐める側に回ったわけでも無いし、結局『不良のカテゴリー』に入ることはありませんでした。 不良モノはビーバップや湘南爆走族等の流行りもありましたし、その手の人間も中学では多数いたので染まる可能性はあったんですよ。 嫌いではなかったし。 水谷先生の記述する『子供たち』は私のような虐めの入り口にはいったものではなく、薬物依存や『優しさを求めて』売春したり、リストカットを繰り返しているような『家庭崩壊』を前提条件にしているモノたち。 そして、『夜の世界の住人』という記述で、別世界のことのように書きながらも、現実には『上司が部下を叱責し、部下が妻に当たり、母親が子供に当たる。 じゃぁ子供はどうしたらいいんだっ!』とどこにでも有る社会問題 = 人事ではないことを繰り返し訴えています。 暴力団に指を潰されながらも夜回りを続ける水谷先生を『強い人だから』と特別視したり、『水谷先生は本当に良いことを言う。心酔できる』といってしまうのは簡単ですが、水谷先生自身が指摘するように『自分で考えない子供が増えている』その当事者になってしまうのは一読者としても恥ずかしいと思うので、違和感を感じる部分を指摘し、自分が出来ることを考えてみたいと思います。(2に続く)
Apr 13, 2010
コメント(0)
『ブッシュ妄言録 ~ブッシュとおかしな仲間たち~』 著 : 村井理子 (二見書房) 日本の首相が『宇宙人』だとか、(近い時期にたった)オバマ大統領に比べて指導力・カリスマがないだとか ”事実とはいえ”酷い言われようなので、アメリカはどうなのよ? と興味本位で手に取ったもの。 英文 + 和訳 + 一言コメント で構成されるシンプルな一冊。 英語を学ぼうとする人には絶対に勧めてはいけない本。 訳せない。 なにせ、かのブッシュ前大統領の迷言を集めただけに、英文の方から理解しようとすると わけが分からない。 意味通らないんですもの・・・。 和訳部分を見て笑ってあげるのが正しい読み方の模様。幾つか例を・・・。(エルサレムの大学で起きた爆弾テロに米国人が巻き込まれたことについて聞かれて)I just,I cannot speak strongly enough about how we must collectively get after those who kill in the name of some kind of false religion.インチキ宗教の名にかけて殺人を犯す者をどう捕らえるべきか、どんなに言葉を強くしても表現しきれない。(8歳の子供に貿易センタービルに一機目の飛行機が突入した映像を最初に見たときの感想を聞かれて)There's one terrible pilot.下手なパイロットがいたもんだ。(パパブッシュがアウシュビッツを視察して)Boy,they werebigon crematoriums,weren't they?なんてこった、彼ら火葬が大好きだったんだな・・・。 はっきりいえるのは超大国とはいえ有権者に『選挙時の客観的で正しい情報』は与えられていないし、『成熟した民主主義』を達成できているとはこの本からは絶対に思えないって事。 こんなのがトップになれて、重要な政治決断をしていたら それは国も傾くでしょう・・・。 ジョークとしては上出来な気もしますけど。 読後に妙な納得と 絶望感が味わえます orz
Apr 10, 2010
コメント(0)
『朗読のススメ』 著 : 永井一郎 (新潮社) 昨日、長男の入学式がありました。 が、そこに行き着くまでは泣いたり怒鳴ったりで大変でした・・・。 幼稚園から小学校になるに当たってやはり不安が大きい。 これまでは送り迎えがあったのに一人で行って帰ってこなければならない。 住んでいる地区が学区の境目にあるため道一本隔てて仲の良い友達たちは別の小学校へ。 考えれば考えるほど不安に駈られるのでしょうね。 前日の夜に学校まで長男と一緒に歩いていったのですが帰りに寄ったコンビニで我慢しきれずに泣き出しちゃいました。 嫁の前では心配をかけたくないのと、泣き出すと嫁がイライラするので我慢してました。 嫁は嫁で(私も同じ条件なのですが)初めての『小学生の親』。 自分の入学期にいきなり一人放り出され苦しい思いをしたことを思い出して、長男と自分を重ねてその後の学校生活を憂いて厳しく接してしまった模様。 影では自己嫌悪に陥っていましたよ。 本書は昨今の社会風潮を憂いた気持ちと、朗読という自己表現を声優として有名な 永井一郎氏が書いたもの。 この本のメインは冒頭の部分にあり、別途注目すべき点として一つの著者の愚痴があります。 私が重要だと感じたのは『朗読に限らず』のことですが、声がでない、小さいということに対して、『観劇で赤子が突然泣き出した泣き声が プロのオペラ歌手等よりも聞こえるのは何故か?』という点。 著者は『言葉には意味がある。』 『伝えたい意思』というモノをこの答えとしています。 今回長男をなだめすかし、怒鳴りしている時に気になっていたのが決して決壊した様な大きな声で泣かなかった事。 『伝えたい気持ち』 が我慢できないほど溢れかえっていたのは傍で見ていて分かったから連れ出したり出来ました。それでもやっぱり大きな声では泣かない。 著者は『声がでない』等の朗読上上手くできない理由の一つに 『これまでの生活習慣による自己抑制』をあげています。 例としてあげているのは集合住宅で大きな音や声を出すことが憚られてきた結果、叫ぼうとしても出来ない役者でした。 長男の場合『母親を怒らせる事に対する恐れと我慢』がこれに当たります。 長女が生まれてこの方、この傾向は一気に表れていました。 著者は『表現する側』から本書を記していますが、裏を返せば『自己表現が出来ていない問題と向き合うことの出来る本』ということです。 そしてその原因が多岐にわたることを記しているのですが、未成熟であればあるほど現状行われている『自己表現』を額面どおり受け取ることが難しいということも理解しやすくなります。 長男や嫁の場合はやたらとしゃべるのですが、『本当に言いたいこと、伝えたいこと』を沢山の言葉の中に隠してしまう似た者親子。 私の親なども良くしゃべるから言いたいことは伝えられていると思っていました。 でも、今回のやり取りでは改めて相手の気持ちを汲み取ることの難しさを感じました。 小学校で多岐に渡る家庭の事情を勘案してイジメ問題をフォローしきれるはずは無いですよね・・・。これでは。 因みに考えさせられる内容の中に『別途注目すべき点として一つの著者の愚痴がある』というのは、『日本は才能を評価しない国。 私よりも余程才能の有る人がどれだけ去っていったか・・・』という旨の文章があるところ。 才能だけではいけないという意味と 才能を評価しなければいけないという両面で矛盾した気持ちを感じますが、学歴社会など多くの面で考えるところがある大事な『愚痴』だと思います。
Apr 7, 2010
コメント(0)
『公立校で伸びる子はここが違う!』 松永暢史 著 青春出版社2009年02月 出版 読了。 毒書動機 : 長男が小学校に入るため、将来を考えるとこの6年間の積み重ね + その後の選択(中学受験?) が一貫教育の氾濫で考えざるを得ない。 小中一貫、中高一貫、高大一貫・・・。 まず、この本の前提としては1) 受験教育のプロの視点から書かれた物2) 教育行政の無策への現実的対応として書かれた物3) 記憶・パターン教育の受験を肯定したものではない4) 教師の能力・公立市立の偏見に言及しているとうところ。 基本的には教育は『どのような国民像を描いているかという国の方針』『教育改革』については安倍政権時に 『ゆとり教育の精査と メリットの抽出』を散々書いてきましたので自説は割愛しますが、「オリンピックが話題になった」「良い目くらましになる」と分かった途端事業仕分けで排除しながらもう掌を返す程度の信念しか文科省は持ち合わせていない模様・・・。「スポーツ立国戦略」検討へ=文科省(3月4日 時事通信より) 文部科学省は4日、スポーツ政策の方向性を示す「スポーツ立国戦略」の策定に向け、具体的な検討を開始すると発表した。10日に第1回ヒアリングを実施し、北京五輪陸上男子400メートルリレー銅メダリストの朝原宣治、ラグビー元日本代表監督の平尾誠二、プロ野球前ヤクルト監督の古田敦也の3氏から話を聞く。 今夏をめどに基本的な考え方をまとめる意向で、それまでにトップレベルの選手や指導者、スポーツ政策に詳しい外国の有識者らからのヒアリング調査を重ねる予定。鈴木寛文部科学副大臣はトップ選手と草の根レベルのスポーツとの間に「いかに好循環を生み出すか」を重要なテーマにしている。 本当にこの国家公務員様たちは何やっているのか良く分からぬ・・・。 一番考えられるのは『耳障りの良いフレーズでよい教育に取り組んでいるように見せたい』ということなのでしょうが・・。 『価値のある教育』と世論が動いて政府が鵜呑みにして予算つけちゃえば文科省の予算増額でいるでしょうから。 『生徒10人をまともに指導できれば天才講師』 それも学力別などである程度振り分けられた上での話ですから、雑多な40人からの生徒を纏める公立小中の教師が元々不可能に近いことをやっている・・・。これは確かにそうした面があると思います。 しかし著者はそのうえで『教師の能力低下が著しい』と嘆いています。 先日清瀬市の中学生が自殺した後に、教育委員会が学校で生徒や教師に聞き取り調査を行ったが、『いじめの事実は認められなかった』とほざいた報道がありました。 中学生とはいえ生徒にも『保身』の考えはあります。 ろくな聞き方をしていないのは想像に難くない。 教師だけでなく、教育委員会も保身優先というのは各所で見られることかと思います。 息子の小学校の教師の質を嫁がリサーチしてきたら『教科書に書いてある事をなぞるだけ』 『文句を言えばモンスターペアレンツ指定決定』・・・・。 まぁ、悪口半分としても、入学説明会に続きどこまで低レベルなんだと疑いたくなる内容。 では、だから私立に通わせればよいかという考えに著者は待ったをかけています。 私立と公立の教師で異なるのは『退学させらられるかどうか』というところであって、能力に大きな差は期待できない、と。 非常に悲しい話なんですが、受験のプロから言わせれば 『教師と生徒』 『教師と親』の信頼関係等存在しないという事実を指摘しています。 教師の質にそれほど差が無いのであれば中学校受験を著者は『待った!』をかけています。 高い授業料や、中学3年のカリキュラムが2年間に圧縮(当然授業進行スピードはものすごく早い)され、ギリギリで入った生徒がオチコボレ易い環境。何とか付いていこうにも、補習塾などが必要になる。家計負担はものすごく大きい。 親が学区地域と関係が薄いことや、通学の時間の浪費・・・。問題山積み。 著者はこの私立中高一貫校に入れるくらいなら、1) 通学時間の無駄を有効活用すること2) 学費の差額を家庭教師などで有効活用(自主的なカリキュラムの早期消化等)3) 地元文化施設の有効活用4) 競争が激しくない公立で劣等感なく学習5) 内申という不当評価を社会に出る前に経験しておく といったメリットを掲げています。 特に無理に子どもに詰め込んでギリギリに中高有名校に入れることは、子どもが成績も上がらず、学習を嫌悪するデメリットがあるという『言われてみれば当たり前』のことが重要かと思います。結論として・・・ 『家庭のバックアップ』を前提にした最高の選択が『公立中高一貫教育校』であると著者はしています。 受験問題の一部が掲載されていましたが、これが従来とはまるで違う。モノ考えない人には無理。 暗記していても関係の無いもの。 素晴らしい。 私自身高校で附属にはいったのですが、オチこぼれた経験有りです。しかも、受験を前提とした学習に辟易しモチベーションを保てなくなってのものでした。 実際、高校の教師から高卒で国会図書館の司書試験の受験(要は大学推薦の断念・就職です)を薦められたりもしました。 本人が最初から意図的に進学を前提にしたキツイ学習を意識していればこのようなことはなかったと思います。しかし、その学校の売り文句は 『高い大学推薦率と余裕のある学習環境』 ・・・・嘘ばっかり。 当事者として随分思い当たる節のある著書です。 そしてあくまで、現状の教育環境を『良し』とはしていない妥協案の著書です。 ただ、その先で教育改革の基準が『現行の教育制度化にも有る』というのがわかるだけでも非常に有意義な一冊です。
Mar 8, 2010
コメント(0)
『そうしたら掌に自由が残った ~200の「生きるキーワード」~ 』 著:さだまさし 幻冬社 今読んでいる文庫本。その1ページをご披露。 「まさしの定理」 想像 + 願い + 期待 = 希望 希望 × 経験値 = 可能性 可能性 × (努力 + 研究 ) = 実現 実現 / 運 + 感謝 = 実力 『実現』に至る過程に、想像、願い、期待を込めた『希望』が有って、そこにコツコツと根拠となる経験を積むことで、実現の『可能性が生まれる』。 可能性があることに努力と研究を繰り返し、繰り返しかけていくことで希望は実現する。 ただ、『実現する』と言うことは実力だけではない。 自分が『努力するのは当たり前』。そこに周囲の人の支えにたいする『感謝』と少々の『運』が必要になる。それに気付いて慢心しない心を持って始めて『実力』となる。 私はこの「まさしの定理」をそう読みました。 私なりに付け足すのであれば 人 × 想い = 世界 ってところでしょうか。人は人口ととってもらっても結構。 裏返すと世界は人や人の持つ想いを超えて存在しない。同時に、人のやることは『世界』において他の多くの人や想いがある以上世界の構成要素の一つに過ぎない。 それを知った上で、ちっぽけな人間は自分や家族の世界の一員として生きる。 オリックスの小瀬外野手が亡くなりました。原因はまだ発表されていないようですが、一説には鬱による突発的な自殺ではないかと言われています。 期待していた選手です。しかし、関係者でもない私が後は何を言ってもしらじらしいのでやめておきます。 私は自殺を否定しません。本人が溜め込んだり背負っている物の大きさは中々他人からは窺い知る事は出来ませんから。 ただ、まだできることがあるのなら、格好悪くても生きるのも一つの選択だと想います。 「まさしの定理」のように周囲の人への感謝を知る『実力者』は、感謝するが故に自分を過度に高い評価をしてしまう。高い評価をクリアーしなければ周囲の期待にこたえられていない、ひいては周囲から必要とされないのではないか?と不安を強く感じているように見受けられます。 人の想いは人の数だけあります。これは自分に自信をなくし部屋に閉じこもっていては感じられないものです。 「そんなに期待されていない」と想うことは、自尊心を傷つけるかもしれません。 要は一度海風にでも吹かれながら、自分の持っている荷物をおろして自分の等身大の大きさを確認してみればって事です。 逝き急ぎ願望のある私ですが、ちょっとここのところ訃報が悲しすぎる・・・。 飛び降りても羽がはえ、自由に飛べるようにはならないのにね・・・
Feb 6, 2010
コメント(0)
人間は考えても無駄である著者:土屋賢二 2009/10/15初版 講談社文庫 タイトルを見て とりあえず読んで見ようと思い立ち・・・・ 前書きを読んで『どんなたわけた輩の対談? でも、まあ読み始めたから・・・』 作者は御茶ノ水女子大の哲学の教授とわかり・・・文体はふざけているが含蓄のあることを書いてあるのだろうと思い・・・。 後書きに『本の価値は読む人の知的レベルによって決まる。』と有ったので、自分にとってどれぐらいの価値が合ったのかもう少し考える(簡単な挑発に乗る自分に嫌気が・・・)。 そんな本。 対談形式なので(くだけた)口語調ですから、読み口あっさり。 中身こってり。 私が気になったのは1) 英文学者の池田教授との対談。 教育論として。2) 心理学者である内藤教授との対談。 池田教授との対談で興味深いのが、「どれだけ難しいことを教えるか」よりも「どれだけ学生の興味を引き内容を伝えるか」を重視している点。そのためのウィットであり、立派な授業をするだけでは「自己満足に過ぎない」と評している。 ただ、ここでも気になったのは学生の予習や、そもそもその授業をとるに当たっての導入部分を授業に依存していること。大学の学習は義務ではないから、自分の興味で知識・技術を深めるものという前提が崩れてしまっていることを『前提条件』にしてしまっている。ここは教育関係者、学生が今一度考えるべきところ。 内藤教授との対談は『道徳性の発達』を心理学からのアプローチしたものについて。 この中に出てくるゲーム(課題)がこんなの。「土屋さんが6時には家に帰って棚を作るといったのに研究のために帰宅が遅れて、家に着いたのは10時過ぎで慌てて作った棚はすぐに壊れてしまった。奥さんが怒って土屋さんを追い出したら、土屋さんが交通事故にあってしまった。その場合、悪いのは誰か?」 見方によっては約束をたがえた土屋さんも悪いし、奥さんも正しいとはいえない。運転手が悪いかもしれない。こうした正解や合意が簡単に得られない問題が道徳。昨今道徳教育が一面的に『理想の人物像』を決めてかかっているあたりには個人的にも疑問を感じているところ。ただ、批判している人たち(日教組とか)に、その対になる多角的な視点を持つ教育があるようにも見えませんが・・・。 まぁ、そんな本です。 難しい問題に対して近年編集が『語り口調』で出した本(『バカの壁』等)がそれまでの著者自身の文言から解き放たれてヒットするケースが出ていますが、この本は著者自身の文ではありますが、難しい問題を内包しつつ、わかりやすい・考える部分があるという面では非常に有意義な一冊といえます。
Dec 31, 2009
コメント(2)
【中古】【古本】めんどうみてあげるね 新宿職安前託老所/鈴木輝一郎なんでこの作品が推理小説作家の類から賞をもらったのかよくわかりません。推理小説ではない。もっとも、そうしたジャンル分けっていい加減で推理小説が本当に推理が必要ってわけでもないですが・・・。特養入所待機者42万人=在宅重度要介護も7万人-厚労省(12月22日 時事通信より) 厚生労働省は22日、特別養護老人ホームへの入所を希望している待機者が、在宅と他の施設入所を合わせて42万1259人に上るとの調査結果を公表した。このうち、優先入所が必要とされる要介護4、5の在宅者でも、6万7339人が待機を余儀なくされており、特養不足の深刻な実態が明らかになった。 調査は2008年4月以降に都道府県が調査した入所申し込み状況について、厚労省が今年12月時点で集計。06年3月の前回調査では約38万5000人だった。 こうした記事のコメント欄に時々「子どもたちの世代に迷惑掛けたくないなぁ。」というのを見かけます。 未だに尊厳死や安楽死の問題は棚上げされたまま。 医療の進歩は『常に尊い物』という『固定観念』がのさばっています。 医療のレベルを少し下げることでどれだけ医療行政を安定させることが出来るだろうか? 対処療法中心の医療から 予防医療中心の医療に切り替えていけば・・・。 自分がなまじ生きていることで残された家族を苦しめていることがどれだけ苦しいことか・・・。 論文を書けば偉く成れる日本の医療界。 看護師と介護士は同じようなことをしてもその報酬額は天と地。 色々な矛盾が頭の中にめぐります・・・。 さて、この『めんどうみてあげる』は紹介ではジャンルは『ミステリー・推理』となっていますが、全然違う。 舞台は新宿のベビーホテルを改装した託児所ならぬ『託老所』 現在は実在する施設名になってしまったということですが、当時は架空の設定で『80代の親を60台の子ども世代が老老介護する日本。家において置くには火の元など不安がある老人を”呆けたら退所”の条件で預かるところ』 ここを舞台に呆けて家族の負担になる前にぽっくり行くことを願う(自殺志願とは異なる!)老人達の物語。 一言で言えば『洒落にならない』 一番読んで欲しいのは厚生労働省の役人。 予算をつければ医療・介護を充実させられると考えている人達。 そこに老人の『生きがいがあるのか?』という点を鋭く貫いた作品だと感じました。 長寿はめでたい。そういわれます。私も自分の祖父、祖母に長生きして欲しいと願いました。 でも、本人達がどう考えていたかは意識していたか? 自己満足ではなかったか? 祖母は脚が悪くなり、医師からは「それでも歩かせないと症状が悪化するから?」といわれ母親や兄は悩みながらも叱咤していました。 本当に、不愉快な(褒め言葉として)作品です。
Dec 24, 2009
コメント(0)
高校の課題図書で新井素子さんの作品にはまり、その後古書で買い集めた中に 『ひでおと素子の愛の交換日記』 といういかにも怪しいのがあったのが著者吾妻ひでお 氏を認識したきっかけ。現在も実家に有るはず。 その後漫画日記である本書を読むまでに『失踪した』『ホームレスをしていたらしい』『鬱病が・・・』と絵に描いたような転落人生をたどって、どういうわけかまた漫画家に戻っている。 本書の内容は最後には漫画家らしい話になるものの、そこに行き着くまでは表紙に書かれているように「食って読書して寝てタバコ吸って食ってウンコして寝て食って寝た。」・・・・・(; Д )・・・・・・・・・・ 時々格闘技ネタが混じるがそれくらい。やたらと凄いペースで読書をしているタイトルと『読了』の文字に、薬の大量使用など、「こんなの描いて、世に出して良いのか?」といいたくなるような内容。 読んでいる本も殆ど購入していない。たまに購入している本があると『エロ漫画雑誌』(タイトルでわかる私も私だが・・・)だったりする。 ご本人も作中で売り物にならないと考えている節があるが、注目したいのは鬱、痛み止め等大量の薬を服用し、断酒会への参加など、脱アル中の動きと一定の間隔で『えもいわれぬ不安』が表れている点。 薬の服用の成果かもしれないが、食事を楽しみ、集中力が長く続かないものの仕事を行い、格闘技の結果に一喜一憂する。 事あるごとに「才能が無い」 「漫画家辞めたい」 と愚痴が出る。 健常者(この言い方もどうかと思うが)と比較して、行動に間が空くと不安が増している印象を受ける。 私の感覚だと、単純反復行動の場合、基本的に惰性で行うため、途中の詳細な記憶が省かれたりする。毎日の電車通勤なんかはほぼ立っているだけの行動なので詳細な記憶は曖昧になりやすい。 ところが、この日記を見ていると外出先はほぼ固定されているのに、「半自動化されたような何も考えない。考える必要のない反復行動」が出来ていないような気がする。 とすると、”意識した上で”繰り返されることに対する先々への疑問や不安が大きくなりやすいストレスなのかもしれないと想像できる。 『花の慶次』の初期の頃に、慶次が川に向かって座り思い悩むシーンがある。 「人は獣が悩まないと思っている。 しかしそれは間違いだ。獣ほど良く悩むのである。 熊の悩みはどれほど狂おしいものか慶次には恐ろしいほどだ・・」 系統だった思考の上に立つ悩みなら問題点を抽出して解決することも出来るが、漠然とした不安は問題点も解決方法も見えずに思考は堂々巡りをする。そして悩みを意識する限りは決してそのループを抜けることが出来ない。 つまり、 鬱を称する人全てに当てはまるかはわからないが、吾妻氏のケースでは 受刑者に穴を掘らせて、穴を埋めさせて、また掘らせる苦行 を日常の中に見出しているのかもしれない。 止めることは出来ない(強制)。終わりが見えない。 ただ、考えてみればもともと然して考えていなかったことに不安を覚えて「考えずに行動すること」が困難に成ってしまったのだから、見ようによっては普段考えずに行動している人間の方が怖い。意識が宙に浮いた状態で物事を完了してしまっているのだから。 自分の行動を意識して悩むのだから、本来の形に戻ったともいえる。 この漠然とした悩みの中でちょっとした光明を見つけることが出来るかどうかが大事なのではないかという気がする。 肉体に傷を負った時に傷口に痛み止めを打ち続けていては、怪我が治ったかどうかは自覚できない。 では、心に傷を負った時に心に痛み止めを打ち続けて、漠然とした不安が自分とどのような状況にあるかは自覚できるのだろうか? 誰かの助けを光明と見ることが出来るのだろうか? 精神を薬で治すこと。この点を改めて考えさせられる一冊。
Dec 18, 2009
コメント(0)
野球のルールブックに従い効率的に勝つ方法を考えるという”勝負”においてビリー・ビーンは勝者だ。 しかし・・・ 別の面から見たらどうだろうか? 例えば、ハンマー投げをとことんまで科学的に追及しても週数試合を魅力的なコンテンツとして売り出すことは出来ない。ルールに沿って極限まで追求して勝者を生み出すことは出来ても、そこには『記録』という一点の見所に集約される。 マイナースポーツ、極限までルールに縛られたスポーツが余り人気を博さずに、偶然性や創造性を刺激するものが人気スポーツとなっているのはなぜか? 『結果』だけを競争するのではコンテンツとして『ドラマチック』でないということなのだろう。 テニスやゴルフもほぼ個人スポーツであるが、審判という人の目で判断し、人間相手であるテニス。自然や自分の内面との闘いが一発勝負ではなく、一打一打のドラマの積み重ねであるところに魅力がある。 ルールに拘って勝負してかつてアメリカのバスケットボールはリングをくぐるボールをはじき出せば失点しないというDFがまかり通りボールテンディングのルールが出来た。 ルールに反しない行為が試合をつまらなくしていたからだ。 ルールを最大限に活用した合理的な運営方法が必ずしも『商品としてのスポーツ』 『目標としてのスポーツ』にとって最善では無いということだ。 昨今の日本では北海道日本ハムが『効果的な球団経営』をしているといわれている。これは数年前の巨人や現在阪神のアンチテーゼとしての評価に過ぎないと私は考えている。というのが、日ハムで特徴的なのは選手の評価方法だが、選手の評価方法を切り替えたところで、ビリー・ビーン自身も選手のモチベーションコントロールの重要性を実践しているし、ビーンの前GMの言葉を見返せば選手が自身を持ってプレーすることの重要性を知ることが出来る。 選手は生来の性質を変えることができない。 これがマネー・ボールの根幹にあるものであるが、だから選手はある程度確立した大卒をとり、高卒はとらない。選手の成長に期待しない。 入れ替える時もビジネスライクになる。数字のみで評価するからだ。 このマネー・ボールの根幹の部分は正解の様でも、正解ではない。 四国ILを創設する前の石毛氏の記事などを見るとこのあたりの野球文化の違いは分かりやすいし、それぞれに長短があることは理解できる。 (最も松井稼×小関の対談等ではだいぶメジャーのコーチングはチーム間隔差が大きいのが読み取れるが・・・。) 選手がつまらないプレーをすること(させること)が自信を持たせることが出来るかどうか? ファンの支持を得られるか? ビーンは「勝てばファンが一番喜ぶ」と喝破するが、日本の野球中継が不人気な理由を考えれば、日本では12球団で1球団程度認められるかどうかだろう?では・・・ 仮にマネー・ボールの長所だけ、 つまり球界全体が評価方法だけを同じように取り入れたらどうなるだろうか? 今までよりも多様な選手が活躍できるだろうか? ビーンのように高校時代に太鼓判を押されながら成功できずに苦しむ選手が少なくなるだろうか? 爆発的に増えた年俸を抑制できるだろうか? どれも見込みは薄いだろう。というのは、より平等に合理的な判断が出来ればはっきりと優劣がわかる様になるだけであり、アスレチックスがPOのような短期決戦を統計的な確率が生きない(試合数が多ければ概ね想定した確率に近づくが、短期決戦では100試合で50勝できる可能性をもってしても10試合で5勝できるようにはならない)試合が有る以上、不確定要素で目立つ選手の価値は逆に『理論を越えて評価』しなければならなくなる。 NBAでいう『The Man』だ。 評価方法で出塁率の要素が強まれば年俸には反映されるだろうが、コアなファンを満足させても一見さんに『ホームランより四球に魅力がある』といってわかるだろうか? わかりやすいだろうか? 打席が回ってくるたびにヒットを打つ選手と、バットを一回も振らずに塁上にいるだけ(盗塁もしない)選手をどちらを魅力的に感じるだろうか? そもそも、補強を繰り返す中、選手がそんなアスレチックスでのプレーに魅力を感じるだろうか? Jリーグ興隆時に野球が『退屈なスポーツ』と断じられたことが私は忘れられない。 少なくとも、マネー・ボールは新しい理論に見えて、新しいものではない。よりダイナミックに、より魅力的なものを! という流れが行き過ぎたときに出るアンチテーゼだ。バブルの抑止勢力とでも言おうか・・・。 「ツマラン!」 といわれれば方針転換する類のもの。 選手の入れ替えこそ無かったが、森西武が勝負だけに拘り続けた時の反応を思い出せばわかること。 そして、交渉で『騙されてくれるお客様』が疑い深くなれば、年俸を維持できないシステムなのだから現在の低迷もあらかじめ予定されていたものといえる。 ビリー・ビーンは一時勝者となり、その後その座を失った。彼は目的を果たしたといえるのだろうか?
Dec 15, 2009
コメント(0)
『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』(マイケル・ルイス著) いつか読もう、いつか読もうと思いながらも、その概要が各所で語られてしまっているため今更読むのも気が引ける一冊。 たまたま図書館でずっと貸し出し中だったのが戻っていたので、とりあえず日曜日に免許更新の待ち時間を利用して読みましたよ。 読前のイメージではもっと補強やドラフトに関して示唆に富んだものを考えていましたが、読後にはどちらかというと、「メジャーリーグに順応できなかったスーパースター候補ビリー・ビーンの復習物語」といった感じ。 期待されて入団 → 精神的安定を欠き定着できず→ 選手の『メジャー適正』に対する評価方法への不信→ GMの導きにより、統計的評価による合理的球団経営へ進む→ 旧来の評価方法の排出・合理的評価方法の導入 アウトカウント27個とられることによって野球は終了してしまうゲームなのだから、アウトカウントを減らさないことを評価する出塁率を基準に評価することは納得。 ただ、色々なところで OPS = 出塁率 + 長打率 を簡単に打者の評価としていることに大いに疑問を感じていたのですが、やっぱり斜め読みの人が多いんですね。 本書内においてもその比率は3:1。合理的な評価方法といいながら、世間では『証明された公式』を安易に取り入れる姿勢がいかにも反省がないのを実感。 ビリー・ビーンを導いた前GMが下部組織からに求めた打撃の主旨は・・・1.全員が一番打者の気概で打席に挑め。2.全員がホームラン打者のパワーを持て。本塁打があると分かれば四球の確率があがる3.プロになるモノは既に肉体的にはプロの素質がある。精神的なものが大きく影響する。 他の特徴として・アウトカウントを増やす犠牲バントや3割程度は失敗する盗塁は『禁止』・守備率は合理的評価ではない(内容は本書で)・被長打率に着目。セーブ数や球速などは『打者を抑える能力』と必ずしも一致しない要素として無視 (逆に売りつける際には利用)・シーズン中のトレードを積極的に行う。・・・等々。 日本と違いドラフト指名後の年俸抑制策が有ったり、保有選手数、シーズン中のトレードの難しさ・相手の少なさといった根本的・制度的な違いがある。 そして、上記の条件下でチーム編成をすると守備位置の問題などでゆがみが生じるが、アスレチックスでは簡単にコンバートを実施する。この辺の苦闘も本文に譲るが決してプロとして褒められたものではない。 当然、こうした方針は選手が野球を楽しめるかどうかを度外視しているから、野球の楽しみを伝えることを目的とはしない。 「いかに少ない投資で効率的にPOまで進出するか」この一点のみを目的としている。 書籍になり大きく注目された結果、ある程度までは選手評価の方法として広まることは予想できることだが、大いに問題視したいのはマネー・ボールに書かれている内容は『合理的・先進的』としながらも、著者自身遠まわしに批判の姿勢をとっている。 これは、やはり退屈で、守備も「金を払ってみるようなもの」ではなく、粘って粘って投手を苦しめて勝つという、半ば消耗戦を見せられる観客の側に立っているものではない。 『野球を一つのコンテンツとして売り物に出来るか?』という点で、一割程度のチームがこの方式をとるのは対立概念として面白いが、では全てのチームがマネー・ゲームを行っていると想定した場合成り立つか?と考えれば まず、無理だと思う。(2に続く)
Dec 14, 2009
コメント(1)
押尾学の事件の経過を見ると、「死人に口無」を利用しているのは押尾なのか、それとも死んだ女性の遺族なのか分からなくなる。 私は以前 押尾、女性ともにどちらも『悪』と判断した。 遺族は女性が死んだから、言いたい放題できている。仮にこれで普通に生きていたら遺族までバッシングの対象であったであろう事は容易に想像できる。死ぬか、再起不能に近い状況だから偉そうに「真実が知りたい」「あんなに良い子が何故こんな目に・・・」と被害者面できるのだ。 そして、この姿勢は『死』が尊厳あるものとしてではなく、『取引の道具』に落ちてしまっていることを示している。 押尾被告の問題で争点になっていたのは、女性の異変が起きた後、救助する(救急車を呼ぶなど)ことなく放置して逃げたこと。 これまで書いてきたことを前提にすれば、女性はまだ死んでいなかった(死亡が確定していなかった)のだから救うのが道理だし、善き事というのが社会の通念なのだろう。 この『社会通念』がこのような事件を通しても『正しい』と判断されてしまうのが、私には納得がいかない。 当然に死のリスクがあることに、安易に手を出しているのだ。仮定の話では・・・ 押尾被告が彼女を拉致し、性的快感を得んがために彼女に無理矢理服用させたという前提でなら彼女は全面的に被害者だ。 しかし、この事件では度々建物内での警備カメラの映像が流れるが、二人が拉致のような異常な状態で部屋に入ったという情報は無い。同意の上、なんの争った様子も拉致した様子も無く部屋にはいったからだろう。 遺族が争えるのは薬を自分の意思で服用したか、無理矢理飲まされたかという点だけだ。 無理矢理飲ませたと言うのなら頬などに擦り傷、内出血などが出来る。何か混ぜて騙して飲ましたと言うのなら警察が発見するだろう。 そう考えたから私は少なくとも薬を飲むこと自体には女性は同意したと判断している。追加服用分は判断能力が無かったにせよだ。一粒なら問題ないなど薬は個人ごとの置かれた状況により効能が変わるのだから経験則でしかない。 言ってしまえば、不法行為であるし、一粒の時点で死のリスクを負っているのだから『自殺』だ。 死ななければ『幸運』であり、快楽が手に入る。そして『幸福』は当たり前のものと思われがちだ。 「死人に口無」とは使い古された言葉だが、実際には死の状況から死因や経過がでてくる。 少なくとも頭髪や内臓などから薬物反応は見られただろうし、今回限りかどうかも判断できたことだろう。 医師が『死を看取る存在』 『死を確定させる存在』ならば、確かに求められているのは『客観的事実』であるし、原因が分かろうが、それを事件性を持って語る必要はない。ここに矛盾がある。 嫁の伯父のケースでは『変死』という事件性を前提にした見方をするからこそ検死をしている。それは医師が看取っている時であれば、心拍の停止などの条件で死亡時間を確定させるだけの作業にもかかわらず、医師が居なかったという事で『やましいことが有る』 → 『事件性』という法的・社会的な見方が透けて見える。馬鹿馬鹿しい話だ。 これまでも述べてきたように、患者が『医師の決して手出しできない状況』こそが『死』であり、『死を前提に自宅に戻った嫁の伯父』に犯罪性を前提にすること自体が馬鹿げている。別に保険金で死因について争っているわけでもないのに・・・。絞殺したかどうか、薬殺の可能性は? そんなのも腑分けしなければならないほどの状況があるならまだしも、「医師のその時点での不在」を理由に行う必要はない。 百歩譲って現状の制度を尊重したとして 医師が訪問し、最低限の検査をその場で行えば済むことだ。何故病院からやっと戻った人間を再び手術台の上に戻すのか・・・。 警察が変死を疑うことを死者への尊厳より優先していることは明らかであり、医者もその判断に従う形になっているのが今の制度だ。医師の判断で自宅に戻ったことを考えれば、医療の『手立て』は終わっているのだ。仮に医師が訪問して違和感があれば初めてそこから遺族に説明・合意の上検死するべきだろう。 現在の制度は人の死を診断書の記入事項の一つくらいにしか考えていない。 優先順位がおかしいのだ。 そして、一方で、『制度が疑わなければ成らない犯罪行為』が度々起きてしまっていることがおかしいのだ。 『完全犯罪』なんて言葉に酔う人も沢山居る。 ”ばれなければいいんだ。” 自分の心まで偽るどす黒い感情が、多くの死者を冒涜している。 本書は『命を救う医師』としてブラック・ジャックを紹介している。しかし、ブラック・ジャックでもこのどす黒い病巣は取り除けない・・・。 まさに死に至る病に人は罹っている。
Nov 10, 2009
コメント(0)
つまりは、『死の確認・認定』というのは本来的な医師の存在意義から言えば「失敗」では無いにせよ『医師の敗北』を認めさせることだ。 命を救う手が、死を認める。 何故医師が患者の体中がチューブで埋め尽くされてまで延命治療に拘るのかを考えれば分かりそうな物だ。 商売的な要素をもあるにはあるだろう。しかし、それだけで説明できる物なら医師は人間ではない。 私は今回のようなケースでは最大限譲歩して、検死に引き取るのではなく、医師を派遣して対応すべきだと思う。 闘病の末、自宅に戻って息を引き取った人間を更に腑分けして何もでてこない、はい確かに死んでいます・・・。 これでは死者への尊厳などどこにも無い。 次に・・・ 何故医師に死亡を診断させる必要があるのか? について考えてみたい。 少し前の記事だが・・・ 献身介護の夫に猶予判決=「再発防ぐ」と保護観察-妻殺害未遂で裁判員裁判・山口(9月9日 時事通信より) 寝たきりの妻(60)を殺害しようとしたとして、殺人未遂罪に問われた無職岩崎政司被告(63)の裁判員裁判で、山口地裁(向野剛裁判長)は9日午後、懲役3年、保護観察付き執行猶予4年の判決を言い渡した。被告と妻の関係を重視し、再犯を確実に防ぐには保護司などの指導が必要とした。検察側は懲役4年を求刑し、弁護側は懲役3年、執行猶予4年が相当と訴えていた。 事件の実質審理期間は半日で、これまでの裁判員裁判では最短。執行猶予と保護観察を付した判決は、同日午前の神戸地裁に続き2件目。 罪の成立に争いはなく、被告は「長年の介護に疲れ、楽になろうと思った」と供述しており、量刑が注目されていた。 判決は「人一人を殺そうとした事実は重い」などと被告を指弾。一方で、「真摯な愛情から13年に渡り妻を介護し、疲労が蓄積していた」などと被告に有利な事情も考慮した。 言い渡し後、向野裁判長は「保護司らの生活指導には完全に従ってください」と被告を繰り返し注意。裁判員らが実刑を避けつつも、現在施設にいる妻の介護に再び携わることを恐れていることがうかがえた。 また、裁判員の意見と断り、「13年間、奥さんに尽くしてきたが、これから生きがいを見つけて」と説諭。「肩の力を抜いて人生を過ごしてください。奥さんとの関係は周りと協力して見守る形で、二度と悲しませることのないように」と続けた。 裁判員裁判であったことも注目された一件だが、正直『司法の立場』でも、どんな形でも支えて、生かし続けることが正しいと言う幻想が見て取れる。他にも夫婦の申し合わせで動けなくなったことで『殺害』した事件や、親の介護に疲れた子の事件など度々ニュースでお目にかかるようになっている。 養老猛先生の言葉を借りれば「死を認めなくなっている」と言える。死は病院の中でだけ発生(確認)されることであり、自宅で死ぬことは『異常』という観念だ。 生かすことが正しいのだから、死を助けるようなことは殺人幇助になるし、認められない。本人が延命を望まなくても目の前に「まだ死んでいない命」があれば助けることが常に美徳だと考えられている。 積極的な自殺か、病院で医師に看取られての死か、医師にかかる金・機会無く腐乱死か、突発死か・・・。 自分で死の形を決めようとしたら自殺しかない。なんと不自由な! 先にあげた記事で老人の心は決して救われない。ただ息をしているだけの老婆と、苦しくて苦しくて心が握りつぶされた老人が取り残されただけだ。 付加的に保険の適用の根拠であったり、法律的な処理の為に『医師の死亡診断』は必要だとしても、根本的には医師が「もう手は出しません(だせません)。」という宣誓をするのが死亡診断であり、出されない限りは医師の手の内にあるというのが現代社会なのだろう・・・。 生かし続けるためには”心”を殺すことは正しい行いっていう笑えない社会だ。
Nov 5, 2009
コメント(0)
嫁の伯父が亡くなったのは長期の入院治療から自宅に戻った”その自宅”でのこと。 家族も気付かないうちに静かに何時の間にか息を引き取っていた。 自分の居場所で、安心して逝ったのだ。ここで、 私には以前から納得のいかないことが発生する。 自宅で何の苦しみも無く静かに逝った彼は 有る一事が欠けている事によって『変死』と判断され警察の検死に出されるのだ・・・。 医師の死亡診断である。 現在社会では1) 自然死に見せかけた家族間での殺人2) 保険契約上の死因特定の必要性3) 医師の特権性・権威 というくだらないことが優先されているように感じる。 表題の書籍は心臓外科医の南淵氏の著。ザックリとネタバレ的に本書を紹介すれば『現在の日本の医学界が構造的に抱える問題を切りつつ、患者が如何に自分の命に関わる手術を執り行う執刀医を選ぶべきかに論を展開。そして腐った日本の医学会にもにも”ブラックジャック"的な医師が存在していることを紹介し、将来への光を示唆している内容』 勉強しない医学生に自分の論文にかまけて教える気の無い講師。 5択マークシート形式で自動車免許の如く合格してしまう医師免許。しかも更新制度も無い・・・。 学会・論文重視の弊害。施術経験の乏しい名ばかりの医師。 研修医に教える余裕の無い大学病院以外の病院の実態・・・。 研修医のアルバイトとしての当直の恐怖。 悪い点を欠けば幾つでも上がってくるような内容。ただ、個人的には自分の認識とさして変わらなかったので”納得”しただけですが・・・。 この本に本当に価値があると感じるのは以下2点。1) ”医学”は人の造りを一様に捉えた乱暴な物だが、実際には一つとして同じ症例は無い。2) 医師も恐怖を抱えながら治療を行っている。 不安を伝えることもインフォームドコンセントの一つである。 当たり前のはずなのに、権威や制度の為に意外に認識されない・認識してはいけないことになっている事柄。 これを踏まえて・・・ 冒頭の嫁の伯父は本当に何の問題も無く逝った。これを『自然死』 『寿命』 と言わずに 『変死』と言ってしまう社会のありようは私には異常としか思えない。医師の仕事や向く方向を勘違いさせているのはこの変死の扱に良く表れている。 医師の仕事とは何か? 本書では繰り返しこのことが語られる。 南淵医師にとっては心臓手術を行うことが”商売”であり”自分に出来ること”という。 このことは医師が権威を持って上から見下ろす存在ではなく、患者にも「受けなければならない手術など無い」前提で手術するメリット・リスクを知り、「当事者」として「責任」を持ってもらいたいという立場の表明でも有る。 少し医師の言葉を拡大解釈するのなら、『自分の技術で出来る中での命の救済』という事になる。
Nov 5, 2009
コメント(1)
『あの世の妻へのラブレター』著:永六輔 2008年8月25日初版発行 手に取ったのは背表紙の文章。「貴方が亡くなってから毎日書き続けている絵葉書はまもなく千通を超えます。切手を貼ってポストに入れて配達されるのを楽しんでいます。これから書く文章は、貴方へのラブレターです。」 数日前に国から妻に婦人科検診の案内があり、今日まで高熱で寝込んでいた嫁を見ると自分か嫁がいずれこんな気持ちになる時がくるのか、と考えながら読んでいます。 安易に結婚を考えている人には重いテーマかもしれませんが・・・。 コレを読んでいると永さんは奥さんを「恋人」兼「家の司令塔」としてみているのですが、『妻』という字があまりしっくりしません。 私も『嫁』と『妻』の使い分けは時々『意識して』しまいます。肩書きが変わったからといって中身が変わるわけではないんですけどね。 『嫁』という字は『嫁ぐ』というイメージが強く、女性にあまりイメージが良くない様です。 ところが分解して考えれば、『女』と『家』。そしてこの『家』=『Home』と考えれば嫁って『帰るところ』って意味なのかなぁと思っています。平安時代なんかは女性が資産を抱えて、男性が女性の下に通っていたんですから、本来の意味はこっちでもよさそうなもの。 男女が結婚をして、帰る相手が『嫁』になる。 この本を読んでいるとそう感じます。 もっとも男を項目ごとに点数をつけてするような無粋な『婚活』ではそうはならないでしょうが・・・。 もう一つ。永さんの長女・次女の対談が収録されているのですが、この中で余命宣告後の医療機関や、治って帰っていく人たちへの気持ちの描写が酷く胸に来ました・・。 私は医者嫌いなんですが、それは祖父の臨終までの医療体制とか、医師の心遣いの部分で非常に嫌悪感を抱くことがあったのが大きな原因としてあります。 実際、医療関係者に罪があるかといえばこちらのひがみ根性と、手の内様の無い状況で医師とすればどうにもならない部分での話し。むしろ患者の家族との精神的なケアの部分の話です。現在の手薄な医療体制でここまで完璧にしろというのは物理的にも無理な話。しかし、だからといって患者家族が納得するかといえば・・・。 そのあたりのささくれのような部分に一定の答えが出せたのは、著者達に感謝したいです。苦しかった・・・。 こいつらには無理だと思う・・・・。
Oct 7, 2009
コメント(1)
・・・(前回からの続き) あくまで『自分の存在を示すため』のツッパリであるから陰湿さは無く、ギャラリーの居ないところで戦うようなことはしない。そういう意味では『今の不良』の有り方にも一石を投じているといえる。 それを踏まえて・・・・8歳男児に集団暴行、海に突き落とす=殺人未遂容疑で少年2人逮捕-福岡県警(9月30日 時事通信より) 小学3年の男児(8)に集団で暴行し、海に突き落としたとして、福岡県警大牟田署などは29日、殺人未遂容疑などで、無職の少年(15)=同県大牟田市=と中学生の少年(15)=同県久留米市=を逮捕した。 2人の逮捕容疑は、いずれも12歳の少年3人と共謀し、8月6日夜に大牟田市西新町の公園でこの男児に殴るけるなどの暴行を加え、同市岬町の岸壁から男児を海に突き落とした疑い。 前回『Goth ~夜の章~』を読んだ後にも感じたことだが、こうした事件には共通して『舞台袖』でギャラリーから見えないように陰湿に行われるようになっている。一つには表立って殴りあうことが周囲から徹底的に批難され、拒絶され、蔑まれているからだろう。 『上手いことやれ・・・』 自分の手を汚すことは、上手いやり方とはいえない。自分がもがいて形にするのはみっともない。 自分より強いやつを相手にしてはいけない。長いものには巻かれろ・・・・。 『舞台』に立たなければ批判されることも無い・・・。傷つきもしない。 生活保護や鬱病に代表される『弱者の権利主張』。自分は弱いんだから『保護されるのが当然の権利』・・・・。 同時に自分より弱いものに対しては、『強者の権利』を行使する。其処に弱者としての自分は認めない。 スネ夫化が進んだといえば分かりやすい。 文章に書けばどうしようもないこの溢れ返ったスネ夫が日常において卑怯者と糾弾されない所に、スネ夫が特別な存在でなくなってしまったことが伺える。 金崎氏は読者の目から見ても『馬鹿』だった。後先考えない奴は更に『賢くない奴』とレッテルを貼られる。今の世間様では、 『賢さ(かしこさ)』と『賢しさ(さかしさ)』が同じ物と勘違いされているのだろう。 自分の足で立つ事を拒絶する人間は何時までもスネ夫だ。しかし、その時に自分の足で立てばジャイアンにもなれる。 一番本書を読まなければいけないのは 行き先を失ったヤンキーよりも 溢れているスネ夫ではないかと感じる。 『舞台』に自分の足で上がった者だけが、舞台を支える本当の脇役・裏方になることが出来る。人を支えることが出来る。
Oct 1, 2009
コメント(0)
『ヤンキー、弁護士になる』 著者 金崎浩之氏が、所謂『不良』から弁護士になる過程を振り返ったもの。 金崎氏は、『不良』というモノを『自分の黒歴史』とは考えていない。鑑別所に送られるのも勲章でこそあれ、マイナスにはならないと言う。 その理由は『勉強が出来るやつは勉強で、スポーツが出来るやつはスポーツで目立つように、自分には喧嘩が目立つ手段だった』と言い切る点に凝縮されている。 文庫化に際しての前文は、私の目からは本分以上に意味があるものに読めた。少年犯罪の弁護などを精力的に行い、更正を促し、弁護活動では更正させる事が殆ど出来ていない苦悩。それが少年院から、この本を読んだ少年が更生したという知らせを受け、更正の一助になることを実感。より精力的な活動を行っているという。 彼の言う『更正』とは、暴力行為や暴走行為を若年期に行わないことではない。 その後の人生に『自分の足で立つこと』だ。 正直に感想を書けば、彼は札付きの不良であり、家庭の不和を抱えてはいたが恵まれている。高校受験のあたりまでの記述では『親が自分を疎んでいる』様子をしつこいほど書き連ねている。 しかし、柔道をやりたいといえば通うことが出来、空手をやりたいといえばやり、喧嘩を繰り返して両親が菓子折りを持って謝罪行脚していても彼は実家に居て、フリーターをやりながらとはいえ三〇まで司法試験に受かっていない期間親は待ってくれているのだ。 そうした意味では彼が『誰でも頑張れば・・・』という存在でないのもハッキリしている。 しかし、本書で重要なのはそうした背景よりも、家庭・学校問わず教育や人生に方向性を見出せなくなってしまった時に自分がどれだけ我武者羅に努力できることが大事か、努力を重ねることで実力はつくという事実を認めることだ。 各所のレビューに見られるように、彼が現在目的を持って社会貢献しているとはいえ当時迷惑した人間にはほぼ還元が無いし、普通に生活する市民の目から見れば問題も多い。 それでも彼は家庭内暴力に走っていない(正確には父親がバットを持って先制攻撃してきたために迎撃する下りはある)。それは本分の中での『幼い頃に父に遊んでもらった暖かい思い出が・・・』というところに、実際に家庭内暴力に苦しむ家庭に足りない物が見えてくる。 そして・・・あくまで『自分の存在を示すため』のツッパリであるから陰湿さは無く、ギャラリーの居ないところで戦うようなことはしない。そういう意味では『今の不良』の有り方にも一石を投じているといえる。 それを踏まえて・・・・(後半に続く)そーいえば、こんな格好した芸人さん、最近見ませんね。
Sep 30, 2009
コメント(0)
別にお薦めはしません。毒書です。『GOTH ~夜の章~』 著者 : 乙一 ジャンプのベルの大賞受賞者。本作はライトノベルの”つもり”のようですが、私はこのジャンル分けをあまり意味があると思っていないのでこのあたりの作者の主張は却下。 猟奇殺人を好む自分のドス黒さをほほえましく感じるココロ。 この本の一番最初に掲載される話は、こんな言葉で総括できる。 漫画や小説の世界でも『真っ直ぐ太陽に立つような馬鹿正直な主人公』というのは大分少なくなりました。どこか陰を感じさせたり、黒い嗜好の主人公が増えています。ある意味で『リアリティ』であり、『ニヒリズム』の結晶ともいえます。 ”黒い嗜好”というのは、内臓引きずり出すだとか、クビを掻っ切るだとか”グロテスク”表現を好んで使うの手法が簡単に使われるようになりました。 しかし・・・この手の表現を好む作者・読者の中で、実際に腑分けの現場に耐えられるものがどれだけいるものか・・・。 一例が・・・「首から上は無い。頭部は裂かれた腹部に入っている。二つの眼球は取り出されて、左右それぞれの手の中に握らされていた。その代わりただの穴となった・・・」 主人公は高校生ですが、『醒めている』感じの表現はありますが、クラスメートとの比較では『明るい・暗い』といった表現。 ですが行間の表現では明らかに『他者を見下し、興味すら涌かない存在』としている。 猟奇殺人犯はこの『興味も引かないクラスメート』との対比で『興味深い魅力的な存在』として主人公に認識されている。 昔からダークヒーローというジャンルはあるんですが、ここのところの作品では『傍観者』が多い。多すぎる。 自分の手を汚さない悪。それをスマートだと思っている節がある。この主人公は正に『傍観者気取り』 仮面ライダーでも戦隊モノでも幹部まで倒されれば、最後には悪の総統が自分で戦います。『(人生の)舞台に立つためのコダワリ』(=ポリシー)を守るために。 だから、埋没しない。 自分の手を汚さずに高みの見物(傍観者)を決め込む主人公。 行動力もあり、別に虐められっ子でもない。しかし、決して自分が舞台に上がるような”へま”はしない。 自分が”関係者として”傷つくのが嫌な若者像を良く捉えています。だから人を傷つけても感じない。自分が相手を殺しても自分の肉体がナイフを突き立てるだけで、自分の心は虚ろに少しはなれたところから傍観している。 自分の肉体の行動 = 事後(自分)の責任が直結しない思考回路。 最後に普通の話なら大きなどんでん返しになる展開があるのですが・・・。この作品ではそれすらも『一つの結果』に落ち着いてしまっているのが非常に後味が悪いです(褒め言葉) 現実社会でもこの作品でも 冒頭の総括表現は”個性”として見做されています。しかし、自分の手を汚さない、汚したことを自覚しない卑怯者は周りからの認識自体が希薄になり『その他大勢』に埋没する。これが『ポリシーを持った悪人』と『卑怯者』の境界線。自分に対しても絶対に譲れない舞台の上のコダワリが無いから自分が一番傍にいる『他人』になってしまっている。作者が意図しているかどうかは分かりませんが、この作品はこの『無自覚な卑怯者』をよく表現した作品だと思います。 警察や少年犯罪の関係者、過保護な親には一度読んでもらいたいですね。 『大人の認識』では『傍観者』を理解することは出来ませんから。 「ゴス」ってコレのこと。黒のイメージ※参考 犯行(?)の心理動向覚書1) ナイフを胸につきたてた2) ナイフの傷が原因で死亡した3) ナイフを胸に突き立てた者の責任ナイフを胸に突き立てた・・・それだけ。 相手が死んだ・・・。 自分の責任?なんで? 殺意? 別に・・・ナイフを刺そうとしただけ・・・ 死んだ? ・・・そう・・・。殺した? ・・・誰が? ナイフを刺したのは誰かって? ・・・私ですが・・・。
Sep 30, 2009
コメント(0)
小説家を見つけたら小室哲哉、著書イベントで久々ファン150人と交流「本は僕の“所信表明”」(9月23日 オリコンより) 音楽プロデューサー小室哲哉が23日、都内で著書『罪と音楽』の発売記念イベントを行った。ファン150人と交流する直前に、集まったおよそ40人の報道陣の取材に応じた小室は「チャンスはどこにでも転がっているものではない。人に頂くものだと、これほど身に染みて感じたことは無かった」。逮捕の際、検事からも執筆を勧められたというが「(詐欺罪の被害者には)出版することは直接言ってません」。さらに「本は僕の“所信表明”。あえて重圧を(自分に)与えました」と今後の活動への固い決意を語った。 ( 以 下 略 ) 何だかんだ言って拘留中から保釈金やらなんやらで 周りから書くようにせっつかれていたんでしょう・・・。 別にそれは本人のプライドの問題だからどうでもいいんですが、現実問題、出版が細っている中でこのような本を出すことにどれだけ意味があるのかと・・・。書くほうは一定の金額が約束されるでしょうが、売る方は厳しいんじゃないですか? 昨日も某ユザ○ヤの地下一階にある書店に寄ったのですが、現・元プロ野球選手の本とか結構出ているんですよ。ラミレスやら清原やら・・・。値段もそれなりに高い。Book-Offでハードカバーでも刷るだけ刷って売れないのは直ぐに100円で買えますし、図書館でまっていても別にそれほど読みたいのでなければ全く苦にならない。 そんな本が平積みで書店の良いポジションをキープしていることに凄く違和感を感じます。 活字離れが深刻化するわけですよ。書籍で読むほどの中身が無い本ほど一見さんにアピールする位置にあるんですから。 文字数が少なくても読むと世界観が広がる本というのは多数あるんですが、 そんな本に対してはカバーを集英社お抱えの漫画家に書かせることがアピールになると思っている。 多分それ買う人、その作家のコレクションしているだけ。中身なんて読みませんよ。 私の高校時代にも『課題図書』とかいって強制的に書籍を購入させられ、テストの為に読むという非生産的な教育がありました。少なくともこの結果書籍を『必要な部分だけ読む癖』が強くなったのは数名は確定で知っています。容量を心得たというか・・・。読書が嫌いになったのもいましたね。テストでの配点が固定だったこともあって最初から購入せずに他の問題を解くことに重点を置いたのも結構いました。 この課題図書の問題点は、図書の文体などの難易度が全く滅茶苦茶な順序で読まされること。簡易な物からでているわけでもないし、前後編あるような作品も100Pに満たないような作品も一緒くた。 読書がすきでも 作品に好き嫌いもあるし、興味を全く覚えず、逆に反感を覚える作品まで最終的には『テストの点』の為に読むというのは苦痛でした。勿論課題図書をきっかけに読むようになった作家が有ったりという面もあるにはあるのですが・・・。 よく「最近の若者の活字離れは・・・」という話は聞きますが、作品の背景に理解が及ばなければ分からない内容というのは非常に多い。だから現在の文学作品は陳腐化が早いし、購買層が細分化しやすい。 結果的に広く流行っている物は歴史物や有名人物など背景が各所で紹介され、背景を理解しやすく、作品に入っていく間口の多いものに偏向している。 つまり読書の販売戦略からいえば1) 初心者に興味を持たせるもの 種類 多 一冊辺り発行部数 小 価格 低2) テーマ・物語を掘り下げるもの 種類 中 一冊辺り発行部数 中 価格 中3) マニアックなもの 種類 小 一冊辺り発行部数 小 価格 高 となるべきものが、初期から3段階目のマニアックで高い本を知名度やらなんやらで売ろうとしているように見えるんですが・・・。 自分の子供を見ていても興味を持ったものに対しての好奇心というのは強いです。何時の間にか覚えてしまう。しかし、同時に取っ掛かりの無いものに対しては殆ど無知。コレは大人といえる自分の見に振り返ってみても言えることです。 そんなに面白い本が絶え間なく出ている訳でもないです。初版の『旬の短い本』よりも、継続的に活字に興味を持つような誘導も必要ではないでしょうか?
Sep 24, 2009
コメント(0)
『転換期のまちづくり戦略 ~民・官タッグの時代』 木村和美著(新風舎) この人は黒川事務所の出身者。都市開発に関してのノウハウはそこで得たものですから、黒川氏の弟子といっても良いかと思います。 要旨を抜粋すると『都市には其処に息づく人間の歴史が反映しており、どのようなコンセプトに沿って人が歴史を積上げたかが表れる。』『都市開発には其処に住む人間の意見や生活を反映することが必要』『日本の都市開発ではコンセプトが現実に度々倒される』 こんなところ。で、私に言わせればこうした人達が中小の都市の再開発に携わったが為に日本の都市は駄目になったんだなと納得。 こんな記事があります。<大阪タワー>解体工事を公開…竹中工務店が新工法(9月8日 毎日新聞より) 竹中工務店は7日、朝日放送の電波塔で知られる「大阪タワー」(大阪市北区)の解体工事を公開した。タワーの根元部分の鉄骨を5メートルずつ区切って切除し、“だるま落とし”のように低くしていく独自の新工法で、ビルが密集する市街地で有効という。高度成長期の高層建造物が相次いで寿命を迎える中で、建設各社は都市部での安全な解体工事技術の開発を競っており、竹中の新工法は業界の注目を集めそうだ。 タワーの解体工事は一般的に先端から順に進めていくが、重機での作業はアームの長さに限界があり、高所作業は危険が伴う。このため、同社が「竹中グリップダウン工法」と名づけた新工法を初めて採用。5メートルずつ鉄骨を取り除き、ジャッキでタワー全体を3時間かけて引き下げる。ジャッキは8基使う。作業は14回繰り返し、先端部分を最後に解体して12月15日に作業を終える。 同様の工法は、鹿島建設が高層ビルの解体工事で開発して08年に旧本社ビルを解体した例がある。竹中の担当者は「作業員の安全性向上と、解体時の火花や破片の飛散や騒音を抑える効果も期待できる」と話している。 日本人は地震国なのになんで高いところに住みたがるんだろう、高いものをつくりたがるんだろうと、最近市内に建つ高層マンションを駅から見ています。 大阪タワーもそうですが 解体にもリスクが大きい建造物を喜んで立てる気が知れない。技術の高さ以前に見得が強く感じられます。 解体が難しいのもそうですが、高層階に住んでいればまず間違いなく助からないのにね。どんなに消防や救急車の通路を確保しようが、そんな高層階を救助するための車両は限られるし、同時にどれだけ救助できるか。精々5階くらいが日本の住宅とすれば適当だと思うんですよ。 著者のNYやイギリスでの経験で言えば高層階は『是』。象徴的な建物大好き。ドイツのクア施設周辺の町そのものがリラックスさせるための空間であり、その上射幸心を煽るカジノまであることを絶賛・・・。それに対して「日本は施設の一歩外に出ると喧騒に包まれ・・・」 階級・階層社会の国と中流指向の日本を同様に考えるあたりに、『コンセプトが現実に倒された』のではなく、コンセプト自体に『人と生活を基準にしたもの』が無かったのが問題だと感じられるんですが。 『町全体がクア施設の様な・・・』の下りも日本では実現していないような書き方をしていますが、古くからの温泉街にいったことは無いのかと思う・・・。道後温泉とかは中心に旧来の温泉場があってその回りに宿屋娯楽が集まる。ただ、著者の比較する土地のようにカジノは無い。それが日本のその土地がはぐくんだ歴史だとはいえないのでしょうか? それぞれの妥協の産物の方が余程日本らしいところに、彼が日本人の生活を見ていないことが見て取れます。シンボル大好きの日本人。だけど謙虚が売りだったはずがその売りを壊されてきた歴史。再開発者はある種破壊者ですよ。 ・・・・・。 『西洋かぶれ』というのは僻みの混じった古い言葉ですが、この筆者は日本の風土や気象条件、特性というモノをこの建築士は日本人が考えずに都市化してきたと読むほどに思わされます。 この書籍の最初の部分はエコマネー事業や地域の風土博物館などを結びつける提案(実地経験)で、非常に参考になるモノなのですが、最終的にこの建築士に任せれば日本的なものにはならないでしょう。私に言わせればそれが『住む人間の歴史を汲み取った物ではない』と思わせるんですよ・・・。 『官と民がタッグを組んだ再開発』。 これ官からは補助金や有利な条例の施工など引き出す『土建屋的な思考』です。 例えば国立の学園通りは東京100景に選ばれていますが、住む人の便には直結しません。見栄えはいいが、結果自動車の通りを制限するわけではないので所々の道路が非常に分かり難い。そしてここのところで結局 伝統ある駅舎は無くなりました。北口は味気ないマンション群ですよ・・・。 私は京都が景観を資源として 開発 > 景観 としたことを高く評価しています。しかし、そんな京都でも駅周辺の開発は結構手をつけています。地下街も歴史を感じさせない存在としてしっかり掘りまくっている。 見た目だけの景観主義・・・。 イタリアやフランスの町並みが素晴らしいのは開発したその時点で完成していないところですよ。生活者が其処に息づくことで、生活に基づく不便も有って、それを許容する空間として存在するから魅力的なんですよ。湯布院に一度行って見て下さい。観光に特化したために生活の感覚が無く、工事で残された自然の部分の方が余程魅力的だった(もう7年ほど前ですが)。 便利になることが再開発。綺麗になることが再開発という感覚では歪が出ます。 再開発で『押し付けのコンセプト』で地元住民の利益なんて殆ど無いですよ。再開発前と後で業者の入れ替わりを見れば大体分かりますよ。大きな駅ビル、大型のショッピングモール、フランチャイズ店の増加、零細個人商店の廃業・撤退・・・・。 都市とは何なのか。 私はこの点では著者の師匠である黒川氏が東京の都市開発に大鉈を振るえる人物にならなかったことに安堵しました。 自分の感覚では失望するだけ。 自分が生活する場が再開発される時、どのような目で見られているのか、再開発された地域に『足りていないモノ』は何なのか? それを確認するには良い書籍だと思います。日本インディーズ候補列伝
Sep 8, 2009
コメント(0)
「知りすぎた、私」元新日本プロレス社長 草間氏の著書。 三沢さんの問題が大分沈静化したので図書館で見つけた時にちょっと読んでみようと手に取ったももの。中身は非常に活字が大きく、字数の少ない読書慣れしていない人に優しいつくり・・・ 要するに内容が薄い。 草間氏の社長就任から解任までを主観的に綴った物。本人は文頭で『暴露本ではない』といっているが、確かに暴露というレベルの物ではなく『回想・愚痴』に近い。 内容といえば『 自分は解任されたのではなく、辞任。』『 私はビジネスにおけるプロ。当時新日本は赤字体質が酷く、私のようなプロが立て直さなければ立ち行かなかった。』 (自分の社長擁立は猪木氏の唯一の正しい判断としている。)『 興行やグッズ収入、そして誰を売り出せばよいかといったマーケティングの導入などで一年で黒字達成』 (この部分が棚橋、中邑の売り出しと永田や金本との契約でのもつれとして延々必要性が続く・・・。)『 新日本のレスラーの給与は中堅で年うん千万。リングで頑張れば給料が上がると勘違いしている。ワンマッチ幾らにしたかった。』『 アントニオ猪木には絶大な発言力がある。しかし、かれは甘言や事実無根の悪口を何の確認も無く受け入れてしまう性質がある。このため実際に黒字化を達成したり、猪木氏も知っている自分の給料額について「貰いすぎている」等ということで介入しようとする。』『 サイモン擁立は猪木氏の傀儡が欲しかっただけ。サイモン本人にとっても不幸だった。』『 猪木氏は「象徴として」君臨すべき』『 自分の辞任後、旧勢力がビジネス力のあるスタッフを退けて旧態に戻してしまった。「会社を潰したいのか」と言いたい。』 面白いなと思ったのが、最終章で『現在の業界の盟主はノア。』と綴っている点。ドーム興行を乱発しない(あれは行ってみると判りますが退屈です。)、実売が断トツ、三沢社長のバーターで指名してくる選手の的確さ等々。 他にも『道場を見通行人に見えるようにしておかないから練習がぬるい』とか、『社長が目立つことにケチをつけるやつがいるが、自己プロデュースもしないで・・・』とか、新日本のレスラー凋落の原因には言及しています。 実際問題草間氏の辞任あたりから新日本の体質と言うのが更に迷走したのは事実ですから、『草間氏の主観』ではありますが、かなり率直な物ではあると感じました。 ノア新社長就任に際して百田さんが「その時一番輝いているレスラーがトップ(社長)になるべきだ」と持論を展開しましたが、それも一つの考えかただし、間違っているとは思いません。社長を象徴的にして経営のプロをスタッフにおけばいいだけのことですから。 このあたりの融通性については言及されなかったのは残念です。 最後に、この本は暴露本 では無いので空けども、世に多い暴露本の一つの性質を踏襲しています。 ネタにはなるけど暴露(指摘)された問題点は決して解消されない。 この手のものって『無かったこと』にされるケースがものすごく多い。当事者たちは指摘や暴露に対してだんまりを決め込んで嵐が過ぎ去るのを待つやり方。・・・この態度が一番問題なのでは? ソフビ蝶野正洋★MiniHAOソフビ<新日>
Aug 19, 2009
コメント(0)
スイッチを押すとき とりあえず読み終わり。 ・・・予想は一部正解といったところ。 ただ、救いの無い話しだなぁといった印象。巻末に舞台化の際に脚本を担当した方の『解説』がありますが、この一部に対する反論だけしておきたい。『解説』 岡本 貴也 あり得ない。山田氏の書く小説は、その設定が現代日本では絶対にあり得ない。この物語においては、自殺する為のスイッチを子供に持たせて監禁実験する。通常の国家がこんなことを行うのはまず不可能だ。 しかし逆にそのような”あり得ない”設定から浮かび上がってくるのは、現代の民主主義下において如何に我々が平和に過ごしているかということだ。(中略) しかしそんな変化の無い平和の陰で毎年三万人以上の夥しい数の国民が自殺し続けている。(中略)フィクションが時代を横断的に斬る役割を持つとするならば、『スイッチを押すとき』はこの時代に生まれるべくして生まれた物語だろう。折しも、この小説が発表された翌年に自殺対策基本法が施行された。(以下略) 民主主義というのが”平等”や”自由”という言葉を含むものというのなら、格差社会はまったく反対のもの。ずいぶん前に社会主義体制は市場の開放などに始まって体制崩壊したとされてはいる。では、社会主義の問題点であった”指導者層の専制”は絶対王政と変わらないし、”平等ではあるが努力が認められる余地も無い社会 = 向上心の無い社会”という問題は日本ではどうだろう。現実的には資本主義社会では格差社会の明確化とともに中流から下流の人口の大多数を占める層に成り上れない状況を作り出している。努力しても親が持つ物を持っていなければダメだ、と。 資本主義と民主主義はセットのように認識されているが、行き着いてみれば大多数の人が目的をもてない状況になる社会主義と同じ現象が起きている。平和でもないし、変化が無いワケでもないのだ。 この小説はそういう意味では救い無く現実社会を良くあらわしている。 ネタバレはしたくないので印象に残った台詞を誰のものとも言わずに最後に。「私が、いったい何をしたっていうんですか・・・・・どうして」「あなたは何も悪くありませんよ。ただ、運が悪かっただけだ」
Apr 18, 2009
コメント(0)
スイッチを押すとき 2007年。若年層の自殺増加に対して国が立ち上げたストレス解析プロジェクト。 その実験場といえる施設が『青少年自殺抑制プロジェクトセンター』 主人公 南はここで監視員として勤務する。 自ら命を絶つ赤いスイッチをもつ子供達。極限状態で軟禁され、孤独に耐えられず次々と命を絶つ。が、主人公が転任した施設では“7年間もスイッチを押さない”という異例の4人の子供たちがいた。そして・・・ タイトルを見て図書館から借りてきた一冊。現在118P。 400Pほどの書籍なので少し実験的に展開予想。 現在のところは4人のうち1人の『死ねない理由』が判明 ⇒ 原因の喪失 ⇒ スイッチを押してしまうのか? というところ。展開的には1人づつ死んでいく展開もありだとは思うが、このプロジェクトを私が構想するとしたら小学生(施設に入れられるのは10歳の子供)を対象にして若年層の『自殺しない理由』=自殺を抑制しているものを判明させたところで、では、どうすれば自殺を実際に抑制できるかといえば このようなストレスの与え方では分からないのでは?という疑問が一点。ついで、こうしたそれを観察する側の人間の行動、つまり自殺衝動を起こしかねない人間の側にいる人間の行動こそが自殺抑制には必要なのだから、そうした人間の精神・行動サンプルの研究が必須ではないか? と考えられる。【予想のまとめ】 ⇒ おそらく主人公もモルモット。 最終的にはプロジェクト自体が作品当初に書かれているように批判対象であるということだから、廃止に追い込まれる。さらに突っ込んで予想すると4人は全員死亡。主人公の行動観察者は同僚で行動をともにしている坂本と見るが・・・。さて、今日中には読み終わるでしょうが、どれだけ嫌な気分に耐えられますことやら・・・。※ この予想は中学校時代に見たOVAのうろ覚えの記憶を元に予想。押井守「天使の卵」(あの天野義孝の絵が動く!)と2本立てで深夜に放送していた。また、やらないかな。GREY 全3巻 たがみよしひさ/作
Apr 18, 2009
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1