『神戸新聞の100日』 を読みました。
阪神淡路大震災発生前から発生後のドキュメント。
苦悩と苦労の連続。
それでも「新聞を出す」ことを明確な合言葉にし、
震災当日の夕刊から、翌日の朝刊まで
京都新聞の協力を得ながら、発行し続けた姿勢にうたれます。
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『神戸新聞の100日』
(一部分、特に印象に残ったところを引用します。)
・信号待ちしていたはずのあのトラックが跳ね飛んでいる。
ダーン、ダーン。
4トンの車体は宙に浮いて、着地するたびに、すさまじい音を立てる。
(p26より)
・芦屋、西宮など阪神間、神戸対岸の淡路島でも、破壊された街々に火魔が迫り、次々に炎上していた。しかし、火災規模は消防能力を超えていた。消防車両が足りない。人員が足りない。消防職員の多くも被災していたからだ。車両があっても道路陥没や倒壊家屋で前進を阻まれ、火点に到着できない。水道管が破裂し、水が出ない。
(p75より)
非常に鬼気迫るものを感じる文体です。
当時の緊迫感が、伝わってきて、戦慄をおぼえました。
・「5年後、あるいは10年後に、この街が完全に復興した時、ただ単に元に戻っているのではなく、犠牲者の無念の思いをくみ取った街でなければならないと思う。そのために、この震災でどんなことが起き、だれがどんな思いをしたのかを検証し、記録しておきたい。それが地元新聞の責任だと考えている」
(p179:橋田記者の言葉より)
今年で震災20年。ここに来るまでに、防災・減災の視点に立った街づくりが進められてきました。
区画整理により広い道路や公園が多く作られました。
街並みは、場所によっては、すっかり変わっています。
僕は、前に住んでいた神戸市灘区の自宅から、須磨まで歩いて街並みを見て回ったことがありますが、僕が以前記憶していた街並みからかなり変わっているところが多くあり、驚いたものです。地震に強い街は確実にできているような気がします。しかし、「 犠牲者の無念の思い
」を、今この20年後に生きている僕たちがどれだけくみ取れているだろうか、と考えます。やはり、20年を節目とし、もう一度震災の記憶を思い出し、「 どんなことが起き、だれがどんな思いをしたのか
」を振り返らねばならない、と思います。
・「あれだけ多くの現場で、多くの死に出会っていながら、まだ他人事だったような気がする。親しい人間の死に立ち会って、お前は甘いと思いっきり殴られた気がした」
(p194:ある若いカメラマンの言葉より)
知っている人間が死ぬということ。これは想像を絶します。しかし、想像しなければならない。それが、遺族の言葉をお聞きしたり、亡くなった方々のことを知ったり、追悼番組で再現ドラマを見たりすることの意味だと思います。僕自身も、他人事になっていないか、ということを、ずっと考えています。また、子どもたちに震災のことを伝えるときに、他人事にならないように、ということも・・・。
実際には、難しいことです。当事者と、時と場所を隔てた者との間には、大きな温度差や、壁があります。それはしかたがないのです。しかし、想像力だけが、その壁を乗り越える力をもっています。
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明日は、勤務校で全校生に向けて、震災の話、前任校でなくなった子どもたちの話をする予定です。
20年の時を超えて、20年前の子どもたちと、今の子どもたちが、心のきずなでつながれるように。
震災について考える土日が終わりました。
また明日からは、「普通の」日常がやってきます。
普通であることの意味を、考えながら・・・。
いつも見に来てくださってありがとうございます。励みになります。
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