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関連 Back numberをラストに追加しました。当時のフランスには身分制度があり3つにカテゴライズされていた。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)当時のフランスの人口はおよそ2700万人。比率で言うと、特権階級の第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)が全体の2%。(52万人)残り98%が第3身分(平民)である。第1身分(聖職者)は0.5%(約12万人)、国王の権威は神から与えられたものと解釈されていたので、カトリック教会と聖職者は上位にある。司教、司祭、助祭と言っても司教座を持つ大聖堂などの高位聖職者は貴族出身者しかなれなかった。第2身分(貴族) 40万人。階級だけでなく、国王から年金の出る宮廷貴族や、荘園経営して地代の入る地方貴族。司法官などの官職に伴い地位を得た法服貴族の3種類の貴族がいた。※ 法服貴族の地位は金銭で購入する事もできた。貴族と言えど収入がなく、貧しい貴族もたくさんいたが、特権により税の免除などがあったので労働をして税を納めるのは第3身分の平民の役目であった。しかし、逆に第3身分(平民)でも、徴税請負人や銀行家、大商人などお金持ちのブルジョア層は、平均的貴族よりも裕福であったかもしれない。※ 都市のブルジョア10%、農村の大規模経営をするブルジョア13%彼らはポンパドゥール夫人のように貴族の子弟の行く学校で高等教育やマナーを学び、サロンではむしろ主催者側にいた。ルイ16世はフランスの抱えた多額の負債を返済する為に増税しか道がなく、とは言え第3身分(平民)からの徴収は限界。特権階級の彼らにも税を納めてもらうべく議会にかけている。※ アメリカの独立戦争に協力した事と前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金があった。特にアメリカへの参戦で用立てた借入金は非常に高利であった。しかし、議会は第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)に有利にできている。175年ぶりにルイ16世は全国3部会を開いて平民と共闘して特権階級から税を徴収する法案を通すつもりでいたのだ。その為に第3身分(平民)の投票人数を倍(600人)にまでした。第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)はそれぞれ定数300人。1789年5月5日、3部会開催。なのに王は身分毎に議決を取ると発表。(  ̄∇ ̄; ) ナヌ? (・_・?) バカなの? 当然だが第3身分(平民)は「身分毎に議決」をしたら勝てないので反対。議会は空転し解散となった。ルイ16世のそれ以降の対処は、もはや目的が何か解らなくなってきていた。王は選択を誤ったのだ。確かに当初市民らは王に新たな憲法を望んでいただけだったのだから・・。3部会開催の2ヶ月後、1789年7月14日革命が勃発する。最もその至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃身分制度マリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンマリーアントワネットの浪費革命後の放浪タンプル塔(Tour du Temple)パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)革命をあおったマスコミマリー・アントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)花の女神フローラの領域と言われるトリアノン域のフランス式庭園の中に小宮殿の建設を勧めたのはポンパドゥール夫人であった。結局夫人の存命中に完成できず、ここを最初に使用したのがポンパドゥール夫人の次にルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人である。そして奇しくもルイ15世はこの宮殿で病状が悪化し本宮殿に戻りそれから2週間後に崩御した。マリー・アントワネットの邸宅となったプチトリアノンと左方面がマリー・アントワネットが造りあげた王妃の村里です。この一帯がマリー・アントワネットの家と庭園と言う事になります。上はウィキメディアのプチトリアノンの空撮写真を位置紹介の為に部分カットさせてもらい。さらに書き込みしました。下の写真は、上から愛の神殿、小トリアノン宮殿、パヴィヨン・フランセが直線上に配置されていた。パヴィヨン・フランセ(Pavillon français)はポンパドウール夫人縁(ゆかり)の建物なので「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」でもふれているが、もともとデュ・バリー夫人の事を良く思っていなかったルイ16世は即位(1774年)後すぐにプチ・トリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたのである。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチ・トリアノンを自分の邸宅として好んで使用する事になる階段の手すりや2階の欄干、バラスター(baluster)はマリー・アントワネットの「M」が金箔でデザインされたおしゃれなアイアン・ワークとなっている。吊り燭台はナポレオン妃でありオーストリア皇女であったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の為に1811年に取り付けられたもの。1793年6月、革命で王政が終焉し主のいなくなった宮殿は競売にかけられ一時は居酒屋になっていた事もあるらしい。プチトリアノン内、マリー・アントワネットの寝室マリー・アントワネットが使用する時に大がかりなリフォームがされているが部屋は当時のものでなく、マリー・アントワネットを意識して再現したもののようです。マリー・アントワネットが使用した当時は鏡が下からせり上がり、窓を塞ぐ仕掛け等なされていたと言う。プチトリアノン内、音楽のサロンマリー・アントワネットの近しい親族、友人が集まった部屋(メイン・サロン)がここ。プチトリアノンではマリー・アントワネットが取り決めたルールがあり、マリー・アントワネットが部屋に入って来た時も皆、手を止める事無くピアノを弾いたり、刺繍の手を止める必要もなかった。現在この部屋に置かれている家具類はマリー・アントワネットの時代の物に似てはいるがナポレオン3世の妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)(1826年~1920年)が置いたものらしい。マリーアントワネットがハープを奏でている絵画が残されている。描いたのは1777年、内容は1775年らしい。場所は宮殿の王妃の寝室のようです。当時の宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) (1740年~1786年)マリー・アントワネットを描く画家自身が右端に見切れている。上の絵はウィキメディアからプチトリアノン内、サロンロココから新古典様式に移行する家具。神殿の柱を思わせるスラッとした脚。俗にルイ16世様式と呼ばれる椅子である。プチトリアノン内、ビリヤード・ルーム親しい友だけを誘って遊んでいたと思われる。先に「マリー・アントワネットの気晴らしと暴走」の所で触れたが、王妃になった途端にマリー・アントワネットの側近いじりがあからさまに始まる。プチ・トリアノン近くに建設されたマリー・アントワネットの劇場内部1780年、リシャール・ミック(Richard Mique) (1728–1794)により完成されたマリーアントワネットが演じる為に建設された劇場。その他の演者は近しい友人達。観客も親族と友人のみだったらしい。演目は喜劇や喜歌劇と日本訳されているが、おそらくオペレッタ(Opérette)だったと思われる。内部はベルサイユ宮殿の劇場に構想を借りているが素材など非常にリーズナブルに建設されているので現在では消防法の問題がありほとんど公開されていないようです。マリー・アントワネットの子供達ベルサイユ宮殿、王のアパルトマン、メルクリウスの間1787年 マリー・アントワネットと子供達の肖像画画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)(1755年〜1842年)結婚から7年を経て子供を授かる。母性愛が目覚めて夜遊びは減ったと言う。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女 左からマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)(1778年~1851年)※ 長女 唯一幽閉生活を生き延びた王女は後に叔父(ルイ16世の弟シャルル10世)の長男(ルイ・アントワーヌ王太子)の妃となる。ルイ・シャルル・ド・フランス(Louis-Charles de France)(1785年~1795年)※ 次男、父王ルイ16世の処刑によりルイ17世となるがタンプル塔に幽閉されたまま2年後に病死。マリー・アントワネットの膝の上の子。ルイ・ジョセフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)(1781年~1789年)※ 王位継承者であったが、病弱に生まれ乳母ポワトリンヌから結核をうつされ夭折。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)(1786年~1787年)※ 第四子で第二王女であったが結核により10か月で夭折。空のバシネット(bassinet)ベビー籠はソフィーのもの。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリード・メディシス(ルイ13世妃)からウジェニー・ド・モンティジョ(ナポレオン3世の妃)まで歴代の君主の妻の為の寝室がある。フランス宮廷では秋になるとベルサイユからフォンテーヌブローに宮殿が移動する。※ 秋の狩猟シーズンにあわせているのか?役者や舞踏家、音楽家もそうであるが王家が移動するのであるから、召し使いや取り巻きの貴族も移動となる。そればかりか役職もないのにただ居候するだけの貴族もやってくるので彼らにも部屋を用意しなければならなかったそうだ。フォンテーヌブロー宮殿の客室は172室。客室が一杯になると街に部屋を用意為なければならなかったと言うのでここでも、王室は無駄な出費を強いられていたのだろう。※ ルイ16世の頃には金銭的にかなり苦しくなっていたので役者の衣装は聖別式の衣装がリメイクされたりと倹約はかなりされていたらしい。頻繁には使用しないが、歴代の王は少しずつ宮殿を改築している。1786年から1787年にかけてマリー・アントワネット自身により彼女の住居棟の一部を新たに装飾させている。新古典様式のグロテスク仕様の壁面を持つ王妃の私室。とは言え、革命の時にベルサイユ同様にフオンテーヌブロー宮殿も家具調度は略奪と競売に駆けられているので現存しているのはナポレオン時代に修復されたものと考えられる。下はマリー・アントワネットの為に1787年に考案され有名な家具師により造られたと言う寝台。天井の装飾はマリー・レグザンスカ(ルイ15世妃)の時代のまま残っている。革命が起きた為にマリー・アントワネットは結局一度も使用できず、最初にこのベッドを使用したのはナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌだと言う。しかし、革命で家具調度が略奪され部屋の調度が持ち去られているのなら、これが革命前の本物のマリー・アントワネットの寝台なのか? ナポレオン時代の修復再現による寝台なのか? 疑問がある。フォンテーヌブロー宮殿のパンフレットにもそれは書かれていない。テキスタイルの壁布はリヨンの会社が20年かけてブロケードとシェニール(モール糸)で織った絹のランパス(浮き模様)が特徴。現在の物はそのオリジナルを忠実に再現したものらしい。※ テキスタイルは経年劣化があるので当時の物でないのは確か。寝台前の椅子は昔は無かったので近年造って置かれたもの。これらは妃の為にドレスやペチコート、下着などを渡す役職を持った貴族夫人らの待機席と思われる。マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン1783年、画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)による物議をかもした肖像画がportrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王の肖像画である。公式の肖像画なのにカジュアルすぎるとされた肖像画。 ウィキメディアから借りてきました。マリー・アントワネットは最先端のファッション「レイヤード・モスリンドレス(layered muslin dress )」を身につけていた。モスリンドレスはシンプルでフェミニンなデザインでこれからの女性のドレスの主流となっていくのだが、まだ普段着の域を出ていなかった?それ以前はパニエ(panier)でスカートをふくらませたりと重く体を締め付けたりと豪華ではあるが不自由なドレスであったのだ。マリー・アントワネットが嫁いだ頃1770年の主流はローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイル(robe à la polonaise style) 下メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)から借りて着ました。ぴったりとしたボディスとスカートの後ろが3つのパフで構成されスカートには横にボーンが入り広げられている。1788王妃マリー・アントワネットの肖像 絵はウィキメディアから借りてきました。ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin)のローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイルと思われる。マリー・アントワネットの時代のファッションと言うと大きなヘア・デザインも象徴的である。大きくふくらませた頭の上にはいろんな物がのっかっている。髪を結うと言うよりは髪と髪飾りがオブジェ化して巨大化して行くのである。マリー・アントワネットは頭の上にイギリス庭園の全景を乗せて登場した事があると言う。つまり頭の上に庭園のジオラマを乗せて来たのである。そこには牧場や丘陵があり、小川も流れていたらしい。こうしたけったいな度肝を抜くヘアデザインの発端はルイ15世の崩御に伴う悲しみの表現を髪飾りでした事から始まったらしい。最初は髪の毛の中に糸杉と豊穣(ほうじょう)の角をかざし、国王の喪と新しい治世への希望を象徴するような表現をした。もちろん目的は自分のアピールでもある。オリーブの枝を刺したりから豊穣の女神が刈り入れするジオラマとなり、頭に軍艦をのせているようなものまで現れる。機械じかけで可動するものまで・・。皆趣向をこらしすぎて大きくなり馬車にのれなくなり大変な事に・・。しかも造作にはお金もかかった。この髪結いの発端を作ったのが王妃が信奉するデザイナー、マリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と言われている。彼女はサントノーレに店(Le Grand Mogol)を構えるモード商。つまり宮廷ドレス専門ブティックのデザイナー。※ 1770年オープン。シャルトル公爵夫人がパトロン?シャルトル公爵夫人を通うじ紹介されるとマリー・アントワネットはすぐに彼女の店を王妃御用達としている。マリー・アントワネットはドレスのみならず髪型のアドヴァイスもローズ・ベルタンからもらっている。何しろ元が髪結いの美容師である。※ マリー・アントワネット専用の美容師は別に存在。とにかくローズ・ベルタンのデザインセンスを気にいり王妃自身が広報活動していたのでおおいに彼女の服は売れた。フランスのみならず諸外国の貴族からもオーダーは入った。マリー・アントワネットの影響でローズ・ベルタンのドレスは長きに渡り宮廷ファッションを牽引して行く事になる。マリーアントワネットが特に好んだのが羽毛の羽根飾りだそうだ。物議をかもした写真の帽子にも、1788年の肖像画などあらゆる帽子に羽根が描かれている。※ 珍しい羽根をプレゼントする者もいたらしい。王妃と同じ物が欲しい。真似したい。と回りの婦人らが思うのは当然、マリー・アントワネットはローズ・ベルタンのおかげでモードの最先端で流行を作って行くのである。が、女性達がエスカレートして行く様に「王妃がフランスの貴婦人を破産させるだろう。」と言われたそうだ。また、これらを母マリア・テレジアは苦々(にがにが)しく思っていたようで羽根の付いた娘の肖像画にケチを付けて送り返している。1775年の肖像画 油彩 画家は宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と思われる。ところで、服一つ着替えるにもベルサイユにはやっかいなルールがあった。下着を渡す者、ペチコートを渡す者、ドレスを渡す者など仕事が細分化されていたので、他人の仕事を奪う行為は許されない。が、目上の貴族が居る場合は権利はその者に渡る。ある冬の日に下着を着ようとしていたマリーアントワネットの所に次々貴族の夫人が来るので下着は彼女らの間を移動するばかりでマリーアントワネットはいつまでも震えて待ってい無ければならない状態。水が飲みたくても、水をマリーアントワネットに渡せるのは女官長と主席侍女のみ。彼女らがいなければ水さえ飲めない不自由。当初は怒りを笑いでごまかして済ませていたようだが・・。それ故、王妃となってからマリーアントワネットはルールの簡素化を始めたのである。よって仕事を失った貴族の恨みが増える事になる。因みにルイ14世が造ったこのルールをルイ15世もルイ16世も守っていたらしい。下は1785年のマリー・アントワネットと二人の子供の肖像。 ウィキメディアからの写真です。ドレスはローブ・ア・ラ・ポロネーズ? バックにはプチトリアノン庭園の中にある愛の神殿(Temple Amour) マリー・アントワネットお気に入りの羽根飾りの付いた帽子王妃の村里 ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」の中で王妃の村里については紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたので、王妃の関心はまずはプチトリアノンの改装に向かう。次に庭園造りに励む。※ 当時はイングランド・ブームが起きていた。庭園はイングリッシュ・ガーデンであったと思われる。庭園のみならず、トリアノンの域に「王妃の村里」ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)と言う村をまるごと造っている。しかし、そこでマリーアントワネットは農作業をしたわけではなく、ただ彼らの労働を眺めて居ただけ。むしろ王妃の村里自体をサロンとして利用していたと思われる。実際の農村と言うよりは、ランドスケープ(landscape)にこだわって、水車小屋を造ったり、見晴らしと塔を造ったりと、絵になる景観の良い村里なのである。この庭園や村は王妃マリー・アントワネットの理想郷(ユートピア・Utopia)として造られた物と思われる。(現在の庭園はそれに匹敵していない。)庭園と村里については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットは本宮殿での儀礼の簡素化をすすめたが、うっとおしい貴族の目から解放されるプチトリアノンでの生活をより好んでいた。問題は王妃のプチトリアノンや村里には限られた貴族しか出入り出来なかった事だ。マリーアントワネットの失敗はお気に入りのわずかの取り巻きのみをプチ・トリアノンや村里に呼んだので貴族の中に差別を造ってしまった事だ。マリーアントワネットの浪費「麗しいからっぽの頭」とはオーストリアの兄ヨーゼフ2世がマリー・アントワネットにつけたあだ名だ。彼女の浪費や経済改革をしていた大臣の罷免をするよう働きかけるなど無謀な振る舞いにあきれての事だ。ローズ・ベルタンの店「Le Grand Mogol」だけでもかなりの支払いがあったと思われるが・・。1775年の末に50万リーブルのダイヤのイヤリングを購入。さらに25万リーブルのブレスレッドを購入。その為に借金までしている。資料には1972年でトータル75万リーブル(1億5000万フラン相当)とされている。※ 1972年のフランス通貨はユーロ導入前のフランが使用されていた。フランは当時変動相場制であったので1972年の平均値は1フラン60.04円。1億5000万フランを換算すると当時の日本円で90億600万円相当になる。最もフラン(Franc)はどんどん暴落していくので1972年の90億600万円の価値は、現在は無いかもしれない。母、マリア、・テレジアは「将来の心配で胸が張り裂けんばかりだ」と手紙を書くと、娘は「こんながらくたの事で・・」と返す。母の言葉も兄の言葉ももはや届かない。遊びも外出が増え、オペラ座の舞踏会に朝までいたかと思えば一度ベルサイユに戻り今度はブローニュの森の競馬に出かける。それも各国大使の謁見をすっぽかしてだ。競馬にはまり馬の頭数はを300頭を越え先代王妃よりも20万リーブル多く40万リーブル以上の出費。夫、ルイ16世が古いフロッグコートを着ているのに対して、マリーアントワネットはゴージャスな毛皮をまとって舞踏会から朝帰り。金銭感覚は無かったのかもしれないが、プライドはあった。だから歴史に残るサギ事件に当事者として巻き込まれる事にもなった。「首飾り事件」の首飾りはもともとルイ15世がデュ・バリー夫人の為に発注していたダイヤの豪華ネックレスであった。ウィキメディアからの写真です。レプリカです。本物は当時、詐欺師にバラされて売り飛ばされている。ルイ15世が崩御したので宝石商はマリー・アントワネットに買い取ってもらいたかったのだが彼女は断る。値段もさる事ながら、それはデュ・バリー夫人の為の品であったからだ。高価なネックレス160万リーブルをどうしても売りたい宝石商とマリーアントワネットに好意を持つ問題ありの聖職者ローアン大司教がサギ師にひっかかったのだ。※ 1784年発覚し1785年裁判。※ 先の計算によれぱ160万リーブルは192億1280万円当時で軍艦2隻が買えたとか・・。それ故、マリーアントワネットには何の落ち度も無かったのだが、評判の落ちていたマリー・アントワネットが首謀者のように語られる事になり、より評判を落として行ったのである。フランス王宮の財政難については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」ですでに紹介しているが、ルイ15世の時代の7年戦争の債務に加え、ルイ16世がアメリカ独立戦争につぎ込んだ13億リーヴルと合わせてトータルで33億1510万リーブルの借金を抱えている。先に紹介した宮殿の改築や季節の移動など諸経費、ベルサイユなど王宮の維持費、衛兵含む雇用人の費用に加え、貴族への報酬など考えれば、マリー・アントワネットに贅沢の余地は無い。そもそも彼女は最高の王家に嫁に来たと思っていたからお金はいくらでもあると思っていたのかも・・。もはやフランス王宮は火の車。破産確定のところまで来ていたのだから彼女が賢ければ、贅沢はなかったかも知れない。夫(ルイ16世)が妻に優しすぎて何も言えなかったのか? いや、そもそも彼には妻に意見する気は何も無かったのかもしれない。ルイ16世は、パリ市の災害の時にも個人的に寄付を行っている。また毎日、朝に散策しては貧しい者に多少のお金を渡したり、裁きから助けたりしている。彼は本当に心優しい王であった。統治者としての王の能力は無かったが・・。革命後の放浪1789年5月、全国3部会が失敗に終わり、7月14日革命が起こる。革命後、国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄が移送される。この時、最後まで誠実に王妃に従ったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけだったと言う。※ さんざん寵愛され、一族まるごと優遇され批判の対称にもなったポリニャック公爵夫人は早々に亡命している。1791年6月20日、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。オーストリアにいる兄レオポルト2世の元に亡命するつもりでフェルセンに力を借りたのだ。が、王妃のワガママにより計画が大幅に遅れ、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し逃亡計画は失敗する。これにより国王一家は親国王派の国民からも見離され、パリ市民の怒りを買った。それまでは比較的自由にすごしていたのに、以降はテュイルリー宮殿の国民衛兵によって厳重な監視下に置かれる事になった。1792年6月20日武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。そして王政の廃止を最初に口にするジロンド派。1792年8月10日、民衆の総勢2万はくだらない大集団がテュイルリー宮殿へ向かった。一方、国王の側は、宮殿にルイ16世が契約していた950名のスイス人の傭兵。宮殿外に議会によって解散させられた元近衛兵や田舎から出てきた王党派支持者の若者(通称「聖ルイ騎士団」)、200〜300名とパリから国民衛兵隊2,000名が国王のために集結。スイス人の傭兵はかなりがんばったのに結局はルイ16世の采配のまずさで降伏となり最終的に生き残ったスイス人兵士等も殺害される。※ 以前「ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」でこの悲劇で亡くなったスイス傭兵の事に触れています。スイス側の資料では786名のスイス人兵士が亡くなったと記録されていた。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃で蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止が宣言される。この後、ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、マリー・テレーズ王女、ルイ・シャルル王太子、王妹エリザベート王女は脱出の難しい古い城塞に幽閉される事になる。タンプル塔(Tour du Temple)ウィキメディアから借りてきました。1792年8月10日市民によるテュイルリー宮殿が襲撃され国王一家は宮殿ではなく、タンプル塔に幽閉される事になる。(とりあえず内装工事はされたらしい。)※ 8月12日に移送場所の審議がされるがいつ移動したかの記録が無い。ただ9月3日にはタンプルに居る事が記録されている。タンプル塔では、従者2名、侍女4名の随行が許された。幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり家族の団らんもあり、使用人も雇えたので豪華ではないにしろ、後に革命裁判で移される旧王宮、コンシェルジュリーよりはましな生活がおくれていたと思われる。マリー・アントワネットの部屋には空色の絨毯が敷き詰められ、エンボス加工の青と白の絹の布が壁に貼られ、肘掛け椅子も置かれていた。折りたたみのハートの椅子も置かれ、ささやかながら優雅な部屋が造られていたらしい。そもそもバスチーユの監獄にしても、家具調度も持ち込みできるし、料理人を雇う事もできたし、娯楽室もあったと言う。好んでそこに住む者がいたと言うくらいフランス王政下での政治犯に対する扱いは悪くはなかった。とは言え、8月19日の晩にどこかに連れ去られたランバル公爵夫人の無残な遺体をわざわざテンプルまで引きずってマリー・アントワネットらに見せに来ると言う嫌がらせをされていた。マリー・アントワネットは見てはいないがその事実に気絶したらしい。ところでタンプル塔はもともとテンプル騎士団のパリの事務所でした。そもそもテンプル騎士団の解散はフランス王、フィリップ4世( Philippe IV)(1268年~1314年)がテンプルに借りていた多額の借金踏み倒しと、資産の没収が目的の蛮行であったと思われる。※ バチカンは正式謝罪はしていないようだが、認めている。1312年テンプル騎士団は解散。1313年総長ジャック・ド・モレーはシテ島の王宮前でフィリップ4世によって火刑にされる。テンプルの資産はヨハネ騎士団が引き継ぐはずであったのに、フランスだけはフィリップ4世が総取りし、タンプル塔(テンプルの事務所)だけがヨハネ騎士団の所有となっている。※ テンプル騎士団については以下に書いています。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)テンプル解散後は修道院になり、バスティーユ監獄が完成するまで牢獄にもなっていた曰くのある場所であった。ここにマリー・アントワネットやルイ16世が幽閉されていた事もあり、ナポレオンがこの塔を忌み嫌い1808年に取り壊されている。1790年のマリー・アントワネットの肖像画1789年にエリザベート=ルイーズヴィジェ=ルブランがフランスを去るとポーランドの肖像画家Alexander Kucharsky (1741年~1819年)がマリーアントワネットの画家となる。彼は幽閉中のタンブル塔で彼女や子供達を描いたと言われている。上の肖像画が1790年頃とすればヴァレンヌ逃亡前なのでタンプル塔ではない。因みに先に紹介したマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンは1793年2月、ロンドンへ渡るがその後もマリー・アントワネットの注文に応じドレスを届けたと言う。一説には、デザイナーとして宮中に出入リしていた彼女はメッセンジャーとして活躍したとも言われている。1793年のマリー・アントワネットの肖像画 上と同じポーランドの画家による衣装を喪服と考えるとルイ16世が処刑され亡くなった1793年1月21日以降からマリーアントワネットがコンシェルジュリーに移動される8月までの間にタンプル塔で描かれた肖像画と思われる。※ 衣装はマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンの作品だろう。パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)旧王宮、現 裁判宮 (Palais du Justice)ファサードまさにこの裁判宮の正面広場でテンプル騎士団が火あぶりの刑に処されている。フィリップ4世は宮殿の窓からそれを見ているのだ。1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。1793年8月2日、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され裁判が結審するまで閉じ込められる事になる。※ コンシェルジュリー(Conciergerie)は旧王宮であり現裁判宮の一部である。セーヌ川からのコンシェルジュリー(Conciergerie)5世紀、メロヴィング朝の時代に宮殿の基礎が築かれたと言う。かつては王が裁判で判じていた。ここは王宮でなくなった後も裁判所として残ったのだ。下、宮殿がこの形になった当初は王宮の食堂であったらしい。セーヌ川が反乱すると水に沈んだ広間。ネズミが行き交うジメジメした衛生の悪い場所。ここは革命裁判の時は一般の牢獄に利用された。リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)上のホールの左手方面、中庭に面した部屋に結審するまでマリー・アントワネットが入れられていた独房が下。若干部屋の位置は異なるが再現されている。部屋の中では、常に兵士2人が監視。マリー・アントワネットの最後のベッドは粗末な代物。実際は布団くらい差し入れできていたかもしれない。何しろ牢屋の環境は金銭でいくらでも改善できたからだ。1793年10月16日、コンコルド広場で夫と同様に元王妃マリー・アントワネットはギロチンにより刑が執行された。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」前日に義妹エリザベートに宛てた手紙であるがロベスピエールが秘匿し、この手紙の存在は1816年まで解らなかった。裁判自体がろくでもない罪状であったから理不尽な処刑であったのは言うまでもない。問題は「どうして市民が王様を殺す」等と言う状況を生んだのか? と言う事だ。諸外国も王政であるだけに、フランス市民の蛮行は許される事ではなかった。サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)歴代フランス国王ら王室関係者の埋葬墓地です。現在は大聖堂に格上げされています。下は1844年から1845年のサンドニの教会です。 写真はウィキメディアから革命以降うち捨てられて荒廃。ナポレオンにより修復が勧められたが、建築家ドブレの修復は重量計算もできなかったのか? 重すぎて1846年に取り壊さざるおえなくなったと言う。上が取り外された後、ノートルダムで問題の修復をしたヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)が1847年今の姿に・・。※ 首を持つ聖人サンドニの事もそこで紹介しています。サン・ドニ教会のルーツです。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題下はルイ16世とマリー・アントワネットの慰霊碑です。 こちらもウィキメディアから借りた写真です。革命で弾劾(だんがい)されギロチンで公開処刑された二人の遺骸は当初パリのマドレーヌ墓地に並べられた。王政復古の時にルイ18世が捜して王家の墓所にやっと葬られる事になったが、遺骸は一部しかなかったと言う。※ 王政復古が無ければ二人の遺物は何一つ見つからなかったであろう。取り外される前のサン・ドニの教会革命をあおったマスコミ冒頭触れたが、革命に至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。フランスの歴史において、16世紀末の宗教戦争時にはすでにマスメディアによる情報が市民を動かしていたらしい。印刷技術の進展は新聞やチラシを出現させた。確かに「全国三部会の開催」に王はマスメディアの力を借りているが、マリー・アントワネットの評判が落ちたのもこれらマスメディアによる所が大きかった。事実ではない噂話しが事実のようにマスメディアで流される。これは現在もある事であるが、今よりも情報が限られていた事。また市民がそれを見極められ無かった事により市民は心情を扇動されて行ったのだ。1789年7月、革命の後も食糧難は続いた。パリに小麦粉が無くなりパンが不足した。市民はそれを反革命派の陰謀とした。が、実際は1770年以来、不作が続いて小麦粉不足となりパンの値段が高騰したものだった。また商人たちの買占めや売り惜しみもあり1775年の時は市民が王に直訴するべくベルサイユに赴き小麦の値段を下げてもらうと言う事件があった。1789年の革命においても、女達がベルサイユ行進したのも王に直訴する事が狙いであったと思われる。※ 行進は違った意味に解釈されている。有名な「パンではなく、ブリオッシュ(菓子パンの一種)を食べればいいのに」と言ったエピソードはルソーの「告白」の中の一説らしい。20年以上前の出版物でマリー・アントワネットが言ったわけではなかったが今に至るまでそれを信じている者は多い。話しは戻って、革命期に新聞の数は増大する。出せば売れるから参入も増えた。また所謂(いわゆる)ビラの発行はとんでもない数に上る。ビラや冊子に通番がついて現在の週間誌の前身のような物も出現する。検閲をくぐり抜けた発行元不明のビラも増えて行く。煽動(せんどう)的な出版物に対する処分もあるにはあったらしいが、論点はだんだんにズレて行く。誤発信もあったであろうが、間違った解釈を訂正する物は無い。当初はそう言う目的では無かったはずがマスコミ同士の出版合戦で市民は王を憎む所まで持って行かれたのだ。後は祭りのような物である。一度燃えた闘志は頂点に達さなければ昇華(しょうか)できない。つまり行く所まで行かなければ納得や満足ができない状態だ。もはや王族を殺さなければ腹の虫が治まらない。と言う市民感情が造られたのだ。1783年、王妃マリー・アントワネットの肖像Marie-Antoinette with the Rose画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)物議をかもした肖像画portrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王を正装にして書き直した作品かも。最も可憐で美しかったオーストリアの姫は至上最高の王族に嫁ぎ、悲劇の王妃となってしまった。確かに彼女の贅沢は目にあまる金額ではある。が、ルイ14世の時代を考えればそれほどのものではない。むしろアメリカの独立戦争での負債の方が遙かに大きい。そのアメリカ独立を助けろと言ったのも市民である。そうか、これもブルジョワジーだね。※ ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、ただの市民ではなく、財力を持つ有産階級である。つまり資本家。当然学識もある。「民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」?フランス革命の本質は啓蒙思想を知るブルジョワジー(Bourgeoisie)から発信された陰謀か・・。「マリー・アントワネットの居城」全4編終わります。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃 マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃その他Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
2021年01月31日
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関連 Back numberをラストに追加しました。マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)以来長らく、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家との間で抗争が続いていた。そもそもはマクシミリアン1世の婚約者であったブルゴーニュ公女の為にブルゴーニュ公領を守った戦いが発端である。※ この戦いは「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」で触れています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)しかし、マリア・テレジアによるオーストリア継承の時に起きたプロイセンのフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)によるオーストリア領シュレーゼン(Schlesische)の強奪。そして勃発したオーストリア継承戦争。オーストリアにとって、女帝マリア・テレジアにとって、もはやフランスよりも許せない目前の敵はプロイセンのフリードリヒ2世となった。マリア・テレジアはフランスとの和解を計る事になる。※ オーストリア継承戦争、プロイセンの進行、フランスとの和睦については、「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中、「エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐」で詳しく書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)が、この和睦の申し入れはどちらの国が先にしたのかは定かになっていない。この仕掛け人がポンパドゥール夫人だったのではないか? と私はみているが・・。1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツ(Kaunitz)(1711年~1794年)はフランスへ向かう。フランスではポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)(1721年~1764年)を通じ国王ルイ15世との交渉が続く。また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉はすんなりまとまった。しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知し、先手を打たれてしまう。プロイセンはイギリスと手を組んだのだ。1756年5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に和睦の為に同盟を結ぶ事となった。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還を全面的に応援する事になる。そこにエリザヴェータ率いるロシアも参戦してプロイセン包囲網ができあがった。これはマリア・テレジア、エリザヴェータ、ポンパドゥール夫人にちなみ3枚のペチコート作戦」等と俗に呼称される。※ それについても「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中で書いてます。マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をした。と言う後日談からも、この和睦はオーストリア側からと言うよりは、やはりポンパドゥール夫人の発案? であったのでは? と思った所以だ。オーストリアからでは提案できる立場では、なかっただろうし・・。とにかく、3人の女性は卑怯者のフリードリヒ2世を嫌っていた。と言うところで確実に一致していた。※ 返す返すも、この包囲網が失敗した事は非常に残念でした。このフランスとオーストリアとの和睦に伴い、両国間の友好の印として、縁戚を結ぶ案が出る。フランスの将来の王太子とオーストリアの姫の結婚である。(後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚)しかし、これはすんなり決まった話しではなかった。何しろ長年の宿敵である。特にフランス側のオーストリアへの嫌悪は簡単に消す事はできなかった。何にもまして、ルイ16世の父ルイ・フェルディナンの反対は大きかったので、長らく話しは保留状態。話が進んだのはルイ・フェルディナンが早世したからだ。※ ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)(1729年~1765年)もし、ルイ15世が先に亡くなり、ルイ・フェルディナン自身がルイ16世として王位継承をしていたなら、この結婚のみならず、和睦自体もどうなっていたか・・。つまり、婚約まではすんなり決まったが、結婚の契約まではには時間を要したのだ。ところでマリア・テレジアは何よりも早い結婚を望んでいたが不安はあった。オーストリアでは、しきたりや作法は特別の時の儀礼でしかない。通常は宮廷内でもノンビリ。市中では庶民が王族の馬車でも平気で抜いて行く事もあったそうだ。だが、それでお咎めはない。そんなアットホームなオーストリアに対してフランスは訳が違う。ルイ14世以来の細かい宮廷儀礼にしばられる事になる。国境を越えたらプライベートは無いにひとしい。マリア・テレジアは勝手が違いすぎるフランスで娘が途方に暮れるのではないかと心配したのも最もな話しなのだ。だが、窮屈(たいくつ)を嫌って、好きほうだい羽目を外しはじめた娘の行動は女帝の危惧以上の問題に発展する事になる。マリーアントワネットの行動は、貴族の中からの「謀反(むほん)」と言うブルボン王家自体の屋台骨をゆるがす結果につながったからだ。フランス革命は市民の反乱だけではない。本来王政側に居るべき貴族の反発。彼らの信頼をも失い王族は裸同然に市民の中に放り出されて弾劾(だんがい)された。マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃フランスとオーストリアの和睦マリーアントワネットの美貌フランス領内の馬車旅王太子との出合いヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)結婚と寝所マリー・アントワネットの気晴らしと暴走デュ・バリー夫人問題1773年6月8日パリ入市の反響ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生後半ラインナップマリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティスマリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションマリーアントワネットの浪費パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)マリーアントワネットの美貌フランス側、ストラスブールでマリーアントワネットは上々の歓待を受けた。それはマリーアントワネットの美貌に寄るところが大きかった。彼女も常に微笑みを保ち、社交に勤めてはいたが、まさに百合(ゆり)と薔薇(ばら)がまざりあったような肌色した彼女を一目見るなり、皆、感嘆したのである。少女のあどけなさの中にも優美な身のこなしと優雅な物言い。彼女が微笑んだだけで一瞬にして全ての人が魅了される。春の花のよう可愛いらしく春の風のようにさわやかな姫の至来。英国の作家にして政治家エドモンド・バーグ(Edmund Burke)(1729年~1797年)は彼女は「春の香」と称しているが、ある意味それも彼女の才能だろう。実際、ルイ15世さえも初めて彼女会った時に魅了されてしまったらしい。フランス語版のウィキメディアから パブリックドメインの写真です。説明によれば前回紹介したフランスの画家ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)がアントワネットの肖像を王太子に届ける為にウィーンに行った1769年。最初に描いた肖像画が元になっているらしい。前回紹介した正式なアントワネットの肖像は老け気味。こちらの方が年相応のかわいらしさが見られる。が、1773年フランソワ=ユベール・ドルーエ(François-Hubert Drouais)(1727年~1775年)の作品となっています。(・_・?)はて? 何にしてもこの肖像画から解るマリーアントワネットの愛らしさと気品。オーストリアとの長年の確執から当初嫌悪していた者達まで、彼女の容貌はさることながら礼儀正しさに驚き。また、彼女の微笑みと立ち居振る舞い、その物腰しの優雅さに魅了されてしまうのである。宮中の者は皆彼女の回りにひしめき合い、お上手を言う。ベルサイユはマリーアントワネットによって征服された。と評されるほど・・。フランス領内の馬車旅前回、ルイ15世から送られた馬車の事に触れたが、長旅の為にマリーアントワネットには巨大な寝台馬車が2台用意されていた。内部は完全なる寝室? 横になって休む事ができる広さ。緋色の繻子の布団、肘掛けイスと衝立、折りたたみイスがセットされたものだったと言う。50名の近衛兵を先頭に盛大な行列が進む。オーストリア側でもそうであったが、フランス側でも中継地毎に馬を交換するので宿駅毎に386頭の馬をかき集め無ければならなかった。変え馬集めは遠い宿駅からも調達せざる終えなかったらしい。馬車の走る道も整備されたが、従僕の数だってハンパな数ではない。それも容姿優先で選抜雇用されたらしい。「顔つきが悪い。小男過ぎる。」など当時の従僕募集における落選者の問題点が記録され今に残っているらしいのだ。自分が就職に失敗した理由が何百年も残っていて、後世の人に知られる・・ってとんでもない話しですね下はフランス領内の馬車がたどったベサイユまでの行程です。1770年5月8日 ストラスブール(Strasbourg)→サヴェルヌ(Saverne)→リュネヴィル(Lunéville)→ナンシー (Nancy)→コメルシ(Commercy)ー→バル・ル・デュック(Bar-le-Duc)→サン・ディジェ(Saint-Dizier)→シャロン・アン・シャンパーニュ(Chalons・en・Champagne)→ランス(Reims)→ソワソン(Soissons)→1770年5月14日コンピエーニュ(Compiegne)ルイ15世と王太子が出迎えに来ていて合流。マリーアントワネットはこの時、始めて夫になる王太子と対面する。ラ・ミュエット(La Muette)→ヴェルサイユ(Versailles)王太子との出合いところで、60歳を迎えるルイ15世がマリーアントワネットを一目で気に入ったのとは対象に、15歳と9ヶ月の少年(王太子)は、彼女に興味を示していない。無関心にさえ見えたようだ。近眼で見えていないにしても思春期の少年である。まして自分の妻になる女の子に全く興味を示さないなんて事があるだろうか?「一風変わった男ですよ。」と評価された彼(王太子ルイ・オーギュスト)は、11歳で父を失い、12歳で母と死別。祖父であるルイ15世は自分の事で忙しく、結局、他人に委ねられたのだが虚栄心が強く優柔不断なド・ラ・ヴォーギユイヨン公爵に恐ろしく適当に育てられたらしい。年齢の割には幼稚な少年? 後に影響する身体的問題もこの時に気づいて解決できていれば、彼はもう少しりっぱな青年になっていたかもしれない。因みに彼が興味を示したのは職人らの仕事。錠前や左官などの技術職にただならぬ興味を示し、それは結婚後もしばらく続き汚れた服で戻ってくるのでマリー・アントワネットをあきれさせている。当然であるが、マリーアントワネットは自分に興味さえ示さない夫(王太子)にかなり失望したに違いない。ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)1668年の再建時のヴェルサイユ宮殿(ピエール・パテルの絵画))ウィキメディアから内側の門この扉の向こうは国王の前庭現在の宮殿見取り図からベルサイユ庭園側上の写真のみウィキメディアから借りています。ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。ルイ13世の狩猟用城館があったとは言えやせて貧弱な土地。そんな場所に広大な宮殿の建設をルイ14世は強行。湯水のようにお金を使って建設している。宮殿建設にはお金と労力と技術が必要。とりわけ水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事だったらしい。※ ベルサイユの宮殿建設には25000人の労力が、庭園の造園には36000人の労力がかかったと言われている。セーヌ川に直径12mの大水車を14個据え、200余りのポンプ群からなる装置で、水を汲み上げ、高さ154mのマルリーの丘まで運び庭園の噴水に水を供給していた。※ 頓挫した水道橋の計画もある。1674年ベルサイユ宮殿庭園ファサード ウィキメディアから「鏡の間」ができる前のテラスがある当初のファサード。しかし、ルイ15世の時代にはすでに財政逼迫が始まっているのでルイ14世当時ほどの数の噴水は無かったと思われる。今現在はもっと少ないだろうし、庭園の様相もかなり異なっていると思われる。ベルサイユ宮殿の黄金期は最初のルイ14世の時代がピークだったのかもしれない。造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)は、フランスの平坦な地勢にも適した新たな、独創的なデザインの造園法を生み出した。ベルサイユ宮殿の広大な庭の造園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)が中心に構想しているが、実は首席建築家マンサールから建築学的要素を取り入れながらベルサイユとトリアノンの造園を指揮したと言う。建築と庭園は一体となってデザインされているのである。また庭園装飾の為の彫像や鉢などのオブジェや噴水は画家のシャルル・ル・ブランがデザインし図案と設計図を書き上げている。つまりベルサイユ宮殿はヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)同様に3人の共作と言える。建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)刺繍花壇今は庭園内を回る乗り物が・・。ツアーの人に時間はないでしょうが・・。結婚と寝所ベルサイユ宮殿内、王室礼拝堂(The royal chapel)チャペル2階チャペル1階 下の写真はウィキメディアから1770年5月16日二人の結婚式はベルサイユ宮殿内にある王室礼拝堂(The royal chapel)で行われた。王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世 (Louis XVI)(1754年8月23日~1793年1月21日)15歳マリー・アントワネット (Marie-Antoinette)( 1755年11月2日~1793年10月16日)14歳。エッチング? こちらの写真はウィキメディアから※ この礼拝堂では、1745年2月23日ルイ15世の息子でルイ16世の父(ルイ・フェルディナン)とスペイン、フェリペ5世の娘のマリーテレーズ・ラファエルとの結婚式も行われている。この日、王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)はいつものようにお腹一杯食して新婚初夜の晩なのに大いびきをかいて寝たらしい。ルイ15世はお腹一杯食べるとまずいのではないか? と忠告したらしいが、沢山食べた方が良く眠れると返されたとか・・。以前、「ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」のところでルイ16世について書いたが、二人が夫婦となるのは1777年末から1778年初頭と推察。それまで二人りは寝室を共にしても何もなかった。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里下はベルサイユ宮殿内の王妃の寝所 夜なので写真が暗いです。二人の初夜は皇妃の寝所。そこは王太子自身が生まれた部屋。ランスの大司教が寝所を聖別。宮廷中の人々が押し合いへし合いで見学にきている中、国王が寝間着のシャツを手渡すと言う儀式が行われ、着替え姿まで見学の中で行われる。カーテンの影で二人が寝所に入ると、寝所のカーテンは突然開かれ二人床に付いた姿が公開される。まさにベルサイユ劇場である。見学の貴族らは彼らに会釈して部屋を出る。※ 一連の儀式はルイ14世の造った宮廷儀礼と思われる。王族にプライバシーなど全く無い。これがベルサイユのようだ。これはマリーアントワネットでなくても、面食らう面妖な儀式。マリーアントワネットが受けたカルチャーショックはかなり大きかったろうと思う。前述したよう王太子は儀礼の時から大あくびしていたので爆睡。翌日の日記には「無し」とだけ記されたそうだ。因みに、出産も公開である。一連の儀式を貴族らが見学する。毎日爆睡する王太子、3日目には自身は早朝から狩りに出かけ、戻ると子犬と遊ぶマリー・アントワネットに「良く眠りましたか?」と声をかけている。この事はウィーンのマリア・テレジアにすぐさま報告が行く。王妃の間、リュエル(ruelle)の域にある隠し扉の向こうが王妃のプライベート・アパルトマンとなっている。7月8日、王太子はマリー・アントワネットに結婚について自分はちゃんと解っていると弁明している。「敢えて規則だった振る舞いを自分は課して来た。心づもりの期日がくれば・・。」しかし、その心づもりと言う日(8月23日、16歳の誕生日)が来ても何も起こらなかった。そのうち宮廷中がその問題を知ってしまう。9月20日には、10月10日には・・と約束しながら自室に引きこもる王太子。マリー・アントワネットは叔母達に相談。励ましは逆効果となり、ついにルイ15世も介入。王太子は王の質問に対して「妻が可愛いらしいとは思うのですよ。私はあの人を愛しています。でも自分の気後れに打ち勝つにはまだしばらく時間が必要なのです。」と返している。ルイ15世は「待つ」と答えたようだが、同盟を強固にする為に孫がほしいマリア・テレジア。マリー・アントワネットほどの顔立ちの少女が王太子をその気にさせられないのだから、どんな薬だってダメなのではないか? と絶望している。医者の見解では解剖学上の異常がみられ、本来、成長を阻害しないよう若い時に外科手術が必要であったのに見過ごされて来た事。加えて、異論の余地無い発育不全?※ 以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」で書いたルイ16世のコンプレックスに関する疑問は解決した。問題は王太子にあるのだから仕方が無い。だが決断できない王太子の為にマリア・テレジアのやきもきは7年も続くのである。マリー・アントワネットの気晴らしと暴走赤い狩猟服を着たマリー・アントワネット 1771年(パステル画) ウィキメディアから何か企みをたたえた利発そうな16歳のマリー・アントワネットが描かれている。画家はオーストリアの画家兼彫刻家であり帝国宮廷画家であるヨセフ・クランツィンガー(Joseph Kreutzinger )(1757年~1829年) 母国のマリア・テレジアの為に描かれ送られた。シェーンブルン宮所蔵。王太子との問題は彼女の自尊心を大きく傷付けていた。それに気付かなかったのは王太子だけだ。マリー・アントワネットは必死に気を紛らす暇つぶしを求めていた。そんな中で現れた彼女の本性? 問題点? 次々と露見してきていた。上の写真は狩猟着姿のマリー・アントワネット。実は乗馬をしたいと申し出たが、危険があるので妥協策としてルイ15世からokが出たのは馬ではなくロバ。が、すぐに約束をやぶり小馬になり、すぐに馬に変わった。せめて並足で乗るようメルシー伯爵は言ったが聞かず疾走させる。メルシー伯爵は困りマリア・テレジアにまた手紙を送る。女帝は当然怒る。乗馬は肌の色を損ねるから止めるよう諭したが聞かなかった。女帝は娘が狩りに行かなければ良いが・・と心配していたが、狩りには出かけるし、フェートンにも乗っていた。マリー・アントワネットの狩りの問題は危険だけではない、それに同好する者や食糧にまで及ぶ。とにかくマリー・アントワネットは自分はもう大人だから・・と人の意見を聞かなくなって暴走しだしていたのだ。パリ駐在のハプスブルグ家の大使であるメルシー伯爵とブルボンの宮廷関係者、さらにはウイーンのマリア・テレジアとの間で、いかにマリー・アントワネットを制御するかで悩む事になった。※ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャント(Florimont-Claude de Mercy-Argenteau)(1727年~1794年)。オーストリア外交官。また、別の問題があった。彼女は回りの者の観察をするのが好き。その中で見つけたその者の個性を面白可笑しく回りの女官らに話し笑いものにする。人の滑稽(こっけい)な所を見つけてはその者を材料にして、より機知にとんだ語彙(ごい)を見つけるのが上手(じょうず)なのだ。メルシー伯爵はさすがにマリア・テレジアに警鐘の手紙を送る。マリア・テレジアはすぐさま叱責(しっせき)の手紙をマリー・アントワネットに送っているし、この事はルイ15世の耳にも入り王も不快を示す。王は公の場ではしないよう警告するが、いずれもマリー・アントワネットはろくに耳を貸すことがなかったと言う。※ こうした人をからかう行為は、マリー・アントワネットが王妃になるともはや歯止め無く酷くなる。デュ・バリー夫人問題こんな性格が表に出て来たのは、宮中にいる内親王の悪影響もあった。夫に相手にされない代わりに訪ねた内親王は、メルシー伯爵によればゴシップと陰謀の温床で、友人にするにはふさわしくない老嬢。マリー・アントワネットに良からぬ事を吹き込んでいた争いの元凶だった。当時ルイ15世の公妾(こうしょう)であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)と宮中の貴婦人らとの抗争にも巻き込まれて行く事になる。デュ・バリー夫人のポートレイト 1770年、プラド美術館蔵そもそもデュ・バリー夫人は国王の公妾になるには出自が悪すぎた。ブルジョア出身であったポンパドゥール夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)とは比べるのも失礼なくらいレベルが低い。教養こそ少しはあったが少女の頃から素行も悪く、男性遍歴を繰り返していた。デュ・バリー子爵に囲われると、子爵は彼女を高級娼婦として友人らをもてなしさせていたらしい。ルイ15世はそんな中で1769年に紹介され知り合っている。宮中の女性等が彼女を嫌悪するのは最もだ。しかも、いじめられたらデュ・バリー夫人はルイ15世に言いつけて必ず反撃の仕返しをする。宰相までクビにさせた。マリー・アントワネットは自分の取り巻きの1人が追放された事がとりわけ許せなかった。メルシー伯爵もマリア・テレジアもマリー・アントワネットが何かしでかすのではないかと心配する。それで出た行動が「デュ・バリー夫人無視」である。マリーアントワネットはベルサイユに来てまだ一度もデュ・バリー夫人と会話していない。王妃に声をかけてもらう事は認めてもらった事に値する。彼女は王妃に認めてもらっていない事になる。※ フランス貴族の独特の風習で、身分の高い者からしか声をかける事が許されない。マリーアントワネットはデュ・バリー夫人の存在そのものを消して無視をし続けた。この事は内親王である叔母や夫である王太子も望んでマリー・アントワネットにそうさせていたらしい。マリー・アントワネットは誇り高く強情な気性。マリア・テレジアでも今回は苦戦したが、オーストリアの国益の為(ポーランド問題でフランスの合意が欲しかった。)彼女を説得。マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人にただ一声掛けるだけで事が収まるからと促し承諾させた。彼女は約束どおり一度だけ声をかけたが・・。「これだけにしておきます。彼女は2度と私の声の音色を効く事はないでしょう。」と言い実行した。因みに、ルイ15世の病状が悪化した1774年5月、デュ・バリー夫人はベルサイユから、プチトリアノン宮からすぐさま追放された。1773年6月8日パリ入市の反響王太子夫妻の結婚の時、1770年5月 パリ市からの結婚祝いに催された祭りがあった。花火が盛大に上がる大きな祝典でマリー・アントワネットもベルサイユから見学に訪れたのだが、あまりに多くの人間がパリに集まり群衆事故が起きた。それは大量の死者を出す悲劇でマリー・アントワネットは恐怖の帰還をしている。以来、マリー・アントワネットはパリ市を訪問していなかったようだ。パリ市の要請もあり、正式な王太子夫妻のバリ入市が1773年6月8日に決まった。パリ市は祝砲も鳴らし、騎馬や馬車もたて盛大な行列行進で出迎えのパレードを催している。マリー・アントワネットらが正餐の為にテュイルリー宮に向かう道々、マリー・アントワネットのみならず、王太子、ルイ・オーギュストにも歓呼の嵐があり、テュイルリー宮に至っては熱狂的な歓声の歓迎を受け、2人は10回もアンコールに答えるように繰り替えし顔を見せると言う人気。ブリサックが「ここには妃殿下の恋人が20万人はおりますな。」と言う盛況ぶり。二人は信じられないほどの市民の歓迎の熱狂ぶりに「一生忘れられない祝祭」と評している。因みに、これに気を良くしたマリー・アントワネットは早くも王太子を伴い16日にバリのオペラ座に観覧に出かけている。この時も熱狂を持って歓迎されているが、気をよくしたのはマリー・アントワネットだけではない。王太子ルイ・オーギュストは1773年以降、無邪気で美しく、市民に人気の妻の側を離れなくなったと言う。ニコニコやってきては会話をし、妻の助言に感激して新たな魅力と慈善心を知る。気後れしていた少年はどこへやら? マリー・アントワネットに誘われて友人のとの集いにも出るようになり王太子の心を溶かしたと言える。当時のマリー・アントワネットも夫(王太子)のやさしさや気づかいに少なからぬ尊敬の念もあり、夜の問題以外は順風であったようだ。また、オーストリアのフランス駐在大使メルシー伯爵はマリア・テレジアに喜びの手紙を送っている。が、マリア・テレジアはさすがマリー・アントワネットの母である。娘の性格を熟知している。彼女が素直になるのは関心が無い事に関してのみ。自分の意志を通す為には何度もトライする性格である事。国王の公妾に対する態度など、思慮に欠ける振る舞い。また危険な行動の上に執念深くもある性格。彼女の軽はずみさから生まれる結果をいつも危惧しているとメルシー伯爵に釘を刺している。いずれにせよ、この時点ではパリ市民は若い二人に期待していたのだ。そんな期待と歓迎を持って迎えられた二人であったのにわずか16年後には期待を裏切った国王への市民の逆襲が始まる。以前(1358年)、シテ島(Île de la Cité)にあったパリの古い王宮、パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)がパリ市民の暴徒に襲われ恐怖でシャルル5世が宮殿を棄てた事件を紹介した事があるが、パリ市民は伝統的に? かなり凶暴なのだ。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月10日)1774年4月27日国王が発熱と頭痛でトリアノンから戻ってきた。その時点では重篤ではなかったが、翌日の夕には2度の瀉血(しゃけつ)が行われていた。※ 瀉血(しゃけつ)は体の毒素を抜く為の血抜きらしい。今では医学的根拠は無いらしいが当時は主流。3度目の瀉血は秘蹟(ひせき)の儀式が必要になる。それもかなり危ない時なのでルイ15世は時を稼いでいたが、顔に赤い発疹。天然痘であった。5月7日、王は最後を覚悟して聖体拝受を受ける。そして1774年5月10日15時15分。国王の寝室の窓辺に点されていたロウソクが消えた。ルイ15世崩御。別室に待機する王太子とマリー・アントワネットの元に地響きが近づいて来る。鏡の間を我先に新国王の下に走り寄る廷臣達。二人は直感で王の崩御を知り、同時におびえ、ひざまずき泣きながら神に祈りを捧げたと言う。「神よ、私どもを守りたまえ。いと若く君臨する身となりました故。」でも神はそのお願いを聞いてはくれなかった。ルイ16世在位:1774年5月10日~1792年8月10日 1789年に起きたフランス革命による裁判で1792年8月10日王権は停止。翌年裁判で有罪となり「ギロチン(guillotine)」と言う手法で首を落とされ処刑される事になる。※ ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette) (1755年11月2日~1793年10月16日)ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像 ウイーンの美術史美術館で撮影マリア・テレジアに送られた二人の肖像画ところで、先王が無くなると心臓を取り出しパリの教会に付託する習わしがある。以前、分割埋葬の事を紹介した事がある。国王やフランス貴族、またハプスブルグ家では、遺骸と心臓を別に保存すると言う不思議な儀式の事だ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓ところがルイ15世の場合、病気が病気だけに腐敗も早く取り出す事が不可能となった。それ故、ルイ15世だけが心臓を付けたままその遺骸は王家の墓所であるサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)へ運ばれたのだ。だから彼の心臓だけは絵の具になるなどと言う悲劇からは免れた。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown毎日少しずつ書いていたら着地点が定まらず、一度に載せるには長くなりすぎました。後半の「マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス」は一両日中に載せます。m(_ _)mBack numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿 マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2021年01月25日
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遅ればせながら新年おめでとうございます m( _ _ )m最もコロナ感染者の増大で、皆さんおいそれと新年を祝う気にはなれなかったと思いますが・・。私の方、年末退院した母が家に来ていてちょっと介護状態です。なかなか書く時間がとれませんでした集中できる時間は母が寝た深夜のみ。でも日中の疲れでパソコン前で知らずに眠っている事が多くキーボードを枕にしていたのには驚きました。「マリー・アントワネットの居城 3」まもなく載せるところですが、その前に大発見をしたので先にそちらを紹介します。実は以前紹介した「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所で残っていた疑問が解決したのです。革命期に暴かれた墓の棺から発見された心臓の容器と溶けてミイラ化した心臓。それらで絵を描いた人がいた事を紹介しています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓その絵と画家、そして驚く事にそれらは絵の具として確かに売られていたようなのです。溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brownマミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)パリの教会に納められていたフランス歴代王ら貴人の心臓。それらは香料が使われていたので腐らずミイラ化して残っていたらしい。「Mummy brown」の「Mummy 」はミイラの意。アルザス生まれの画家、Martin Drolling(1752年~1817年)彼の描いた「台所の場景」はまさにミイラ化した溶けた心臓をなすりつけて描いた絵であった。写真はウィキメディアからInterieur d'une cuisine par Martin Drolling邦題「台所の場景」 1815年ルーブル美術館所蔵グラッシュ効果はあるが乾燥し、ひび割れやすかったらしい。2枚目(写真上)ひび割れが見えるように部分アップしました。彼は革命期に貴人のミイラ化した心臓を買い入れ、それをチューブに詰めて画布に塗りつけたそうだ。絵画の描き方で、透明感ある仕上げにする技法がある。それがグラッシュとかグレーズと言う技法である。ルネッサンス期にファン・アイク、デューラー、クラナッハらが使用したのは油絵具を樹脂性のワニスで溶き、薄い透明な絵具層を何層も塗り重ねると言うもの。現在はワニスと言う専用の樹脂から造られたメディウムが販売されていて、それを直接塗布しても良いし、絵具を少し入れて色づけし重ねて塗ったりして効果を出す。それを画家Martin Drollingはミイラ化して溶けた心臓で描いたらすばらしいグラッシュの効果をもたらしたと言う事らしい。Martin Drollingは、貴人の心臓で同じ効果をあけだが、実は16~17世紀にそれら類似品は存在していたのかもしれない。少なくとも、19世紀にはマミーブラウン(英Mummy brown)とか(仏Brun momie)と言う名の絵の具として実際に販売されていた。ウィキペディアには、マミーブラウンの材料が「エジプト産のヒト、あるいはネコ科動物のミイラを原料として製造されていた。」と記述されているので、エジプト由来のミイラ物は以前から存在していたのかもしれない。でもMartin Drollingは確かに革命期に流出した人の心臓でそれらを描いている。上の絵がそのものだと言われると気分が悪くなる人もいるかもしれない。それにしても「Mummy brown」は確かにミイラの茶色そのものだった。実際販売されていたマミーブラウンはラファエル前派の画家が好んで使用していた絵の具らしい。ラファエル前派はファンであるが全く知らなかった。19世紀になり、マミーブラウンの原材料が知れ渡ると需要は減ったようだ。ラファエル前派の画家エドワード・バーン=ジョーンズ( Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)も使用を取りやめて絵具をチューブごと庭に埋葬したと伝えられている。私の長らくの疑問、その疑問は同じ本の中に書いてあったのだ。今回A・カストロの「マリー・アントワネット」を読み返していてルイ15世の崩御の箇所で見つけてしまった。※ A・カストロの「マリー・アントワネット」は私が小学生の時に買って読んだ本で数十年ぶりにその本を読み返している所です。ルイ15世は天然痘で亡くなり、あまりの腐敗の早さ故に伝統の心臓の抜き取りができなかったそうだ。だからこそ、彼の心臓は絵の具にはならなかったと言う書き方がされていた。もし、小学生の時にこの答えに気づいていたら「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」は書いていなかったかもしれない。ところで、私も19世紀の絵画の模写を何枚かしているのですが、その透明感のグラッシュ効果を出す為に重ね塗りの経験があります。案外重ね塗りは下のが溶けてきたりするので難しいのです。それにどう味を出すか悩んでブラウンを混ぜたりあれこれしていましたが、そうかマミーブラウン使っていたのか・・と納得した次第です。
2021年01月13日
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昨年末から忙しくなりパソコン前寝てしまう状態です予定の「マリー・アントワネットの居城 3」もう少しお待ちください m(_ _)mで、今回も以前紹介した「お勧めブログ・バックナンバー1」をリンク付けして多少改定しました。今回は読み物系の紹介です。お勧めブロメグ・バックナンバー 1 (騎士と十字軍、聖遺物、ナポレオン他)郵便ポストと郵便のルーツ騎士と十字軍と騎士団歴史ネタナポレオン関係聖なる物自分の所には前日に読まれた過去ログのアクセス数が表示されるのですが、それを見ていて「なぜ?」と思う物も結構あります。逆に、こちらが「読んで」と思うものはいがいに読まれていないんだな・・と思うものも・・。今まで知らなかった世界を覗いてもらえれば良いかな・・と言う事でちょっとお勧めを載せてみました。ところで「わたしのこだわりブログ(仮)」の「(仮)」は、もともと仮題だったからです。今更変えても・・と結局変えずに放置しているのでこのようなタイトルになっています。郵便ポストと郵便のルーツ郵便事業のルーツ 欧州の黄色いポストの由来 2015年12月リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来下、観光用に復刻された郵便馬車。古来、神聖ローマ帝国圏内を走っていた郵便馬車は黄色であった。欧州の郵便ポストが黄色いのはこの郵便馬車に由来する。欧州のポスト 赤色編と緑のポスト 2015年12月リンク 欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポストエルサレム 岩のドームエルサレム 神殿の丘エルサレム 苦難の道騎士と十字軍と騎士団十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1 2013年08月リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓) 2013年08月リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会) 2013年08月リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会) 2013年08月リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)騎士修道会 3 (ロードスの騎士) 2013年08月リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1) 2013年07月リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker) 2013年08月リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士) 2013年09月リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)ロンドン テンプル教会テンプル教会 騎士の墓英雄騎士ウィリアム・マーシャルの墓標歴史ネタデルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外・・中世日本の交易 2016年11月リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)アウグスブルク 6 (フッゲライ ・Fuggerei) 2 フッガー家と免罪符 2016年05月リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家2013.9 クイズ 解答編 秘密結社? フリーメイソン 2013年09月リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 フリーメイソン・グランドロッジ・ロンドンブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof) 2014年06月リンク ブルージュ(Brugge) 13 (ベギンホフ・Begijnhof)ブルージュのベギンホフ(Begijnhof)フランス フォンテーヌブロー宮殿 ナポレオンの図書館ナポレオン関係ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠 2017年01月リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式 2017年02月リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau) 2017年02月リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子 2019年02月リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子ベルギー ワーテルロー(Waterloo)ワーテルロー・ライオンナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還 2019年02月リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還オテル・デ・ザンヴァリッド( L'hôtel des Invalides)へ向かうナポレオンの葬列 絵はがきナポレオンのデスマスクパリの軍事博物館所蔵ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green 2019年03リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenナポレオンの肖像(ウィーン王宮宝物館)レジョン・ドヌール勲章(ウィーン王宮宝物館)・・ナポレオンが創設ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車) 2015年09月リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車) ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ) 2015年09月リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)ニンフェンブルグ宮殿 ルードビッヒ2世が結婚式で使用する予定だった馬車ニンフェンブルグ宮殿 ルードビッヒ2世の雪ゾリサンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他) 2014年01月リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン) 2014年03月リンク ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)ブルージュ(Brugge) マルクト広場の鐘楼グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー) 2012年06月リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)グエル公園 ファサード跳ね橋とゴッホ 2009年08月リンク 跳ね橋とゴッホ精神病院 エスパース・ヴァン・ゴッホ 2009年08月リンク 精神病院 エスパース・ヴァン・ゴッホシシィとゲルストナーのスミレ菓子 2014年09月リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子サンテミリオンの特産品 (マカロンとカヌレ) 2009年10月リンク サンテミリオンの特産品 (マカロンとカヌレ)バチカン サンピエトロ寺院バチカン ピエタ(ミケランジェロ)聖なる物と人の話マギ(magi)の正体 2013年12月リンク マギ(magi)の正体クリスマス(Christmas)のルーツ 2018年12月リンク クリスマス(Christmas)のルーツサンドロ・ボッティチェリ(Sandoro Botticelli)の「Madonna of the Book」ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent) 2017年12月リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 1 アドベント(Advent)聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日 2017年12月リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos 2009年07月リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmosファティマの聖母巡礼(Pilgrim Virgin of Fatima) 2014年01月リンク ファティマの聖母巡礼(ファティマ第三の預言)聖母マリアの家とマリア崇拝 2009年07月リンク 聖母マリアの家とマリア崇敬サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼) 2011年12月リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)ウィーン宝物館 皇帝の十字架ウィーン宝物館 オーストリア帝国の三種の神器(帝冠、宝珠、王笏)聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance) 2014年12月リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)ハプスブルグ家の三種の神器 2014年11月リンク ハプスブルグ家の三種の神器ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱) 2016年01月リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱) デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話) 2016年10月リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)レジデンツ博物館 ハンガリーの聖エリーザベトの頭部ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは) 2020年07月リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾) 2014年09月リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)キリスト教がローマ帝国で公認され、最初にできた教会がミラノのサンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio)です。サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃) 2014年10月リンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 2 (聖アンブロージョの聖櫃)Part 2に続くback numberお勧めブログ・バックナンバー 1 (騎士と十字軍、聖遺物、ナポレオン他)リンク お勧めブログ・バックナンバー 2 (芸術家の話と、墓所、他)リンク お勧めブログ・バックナンバー 3 (イエローストーン国立公園)リンク お勧めブログ・バックナンバー4 (グランドティートン国立公園 他)リンク お勧めブログ・・バックナンバー 5 (Navajo Nationとハワイのビーチ)
2021年01月03日
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