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デルフト(Delft)の写真を追加しました。関係上、今回は宗教の話が中心になりました。なぜなら、今回メインになるネーデルランド(オランダ)はプロテスタント(Protestant)の国。これに触れないわけにはいかないのです。プロテスタント(Protestant)はカトリック教会(Ecclesia Catholica)から大きく分派した宗教集団ですが、その特性はカトリック教会からの乖離(かいり)から始まっているので両者の対立はすさまじかった。16世紀初頭から17世紀、その対立は、やがて各国の政策にも影響を及ぼし、どこの国にも大騒乱を引き起こしたのです。歴史的に避けるわけにはいかない重大案件なのに日本の世界史ではあまり触れない欧州史。それはカトリックとプロテスタントと言う欧州を分けた2つの宗教が解っていないと事の重大さがわからないからかもね※ カトリックについては以前からかなり詳しく紹介しています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナこのプロテスタントと言う宗教はたまたま大航海時代に重なるように発生して広がっている。しかも、プロテスタント(Protestant)の先鋒(せんぽう)がネーデルランド(オランダ)。前回、スペイン帝国の話と共にネーデルランド(オランダ)が台頭してくる所で終わったのでこのタイミングでプロテスタントの説明を私流に簡略ですが入れ込みました。プロテスタントについては、そもそも、万人が理解できるような説明している所が無いのです。教会自体も、世間からしたら、カトリックの教会系か? プロテスタント系か? 一見では解らないのがほとんどです。それくらい両者は似ているけど、似て非でもあるのです。写真は、80年戦争で英雄となったオラニエ公からデルフト(Delft)の写真を中心に選択。以前デルフトは公開しているので被る部分はあると思います。また、このデルフトには大航海時代に造られた海に関する国際法に関係する人物もいたので加えました。アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭プロテスタントの台頭とカトリックの戦いプロテスタントの改革諸派贖宥状(しょくゆうじょう)が発行されるに至った経緯ルター派とカルバン派 誕生の経緯カトリックとプロテスタントの違い[1] 聖書のみ[2] 万人祭司[3] 義認の教理[4] 統一組織[5] その他プロテスタントのヴァニタス(vanitas)画「人間の人生の虚しさ」の寓意「虚栄のはかなさ」の寓意独立の父 オラニエ公ウィレム1世オラニエ公の暗殺オラニエ公ウィレムの最後の言葉オラニエ公の霊廟国際法の父 フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)国際法ができた訳フーゴー・グローティウス亡命の件ネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由(前回落ちた分)集団肖像画と自警団デルフトのヴィッテ・ヴェンデルの士官たち夜警(The Night Watch)聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会ネーデルランド(オランダ)の外洋進出は、割と急激に行われた事が解り、17世紀初頭にはあっと言うまに東南アジアを物にしていた。武力行使が凄かったと言うのが理由ではあるが、ポルトガルの追い出し方やイングランドとのアンボイナ虐殺など見ると非常に強引で残虐なやり方なのである。また、海上の船を強制的に拿捕しての略奪なども行っていた。アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)に至っては国による取り決めも無視して一方的に武力行使。(後でまた触れます。)獲った者勝ちの理論がまかり通っていた進出の仕方。倫理的にどうなのか? 宗教的に許されるのか? ネーデルランドはプロテスタント(Protestant)の国。カトリック(Catholic)とは倫理観も違うのか? 前回ちらっと書いたが、ネーデルランド(オランダ)はプロテスタント信仰に変わりローマ教皇圏から完全に外れた。つまり治外法権になったので、教皇の粛清(しゅくせい)も届かない。とは言え、プロテスタントだって教義の中心(使徒信条)はカトリック教会とほぼ同じ。つまりプロテスタントも今まで通り、イエス・キリストを主とした信仰に変化は無いはずだが・・。三位一体(Trinitas)の教義の確立も、イエスの復活信仰も変わらない。また、ナザレのイエスの死を通しての贖罪も認めている。ではカトリックとプロテスタントは何が違うのか?それが、ネーデルランド(オランダ)の進出の仕方に関係あるのではないか? と考えてみた。プロテスタントの台頭とカトリックの戦いマルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)が起こした宗教改革(1517年)から発展して登場した新宗教「プロテスタント(Protestant)」は、最初フランドル北部に広がる。※ 80年戦争以降、フランドル北部の17州は「ネーデルランド17州」として共闘。後のネーデルランド(オランダ)となる。そもそもフランドルはかつてのブルゴーニュ公領の一角。カール5世はブルゴーニュ公女の孫。※ 以前、「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の所でブルゴーニュ公領の事は説明。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)新教のプロテスタントがネーデルランド(オランダ)全域に広がる頃、ネーデルランドの領主がカール5世から息子のフェリペ2世に代わると言う代替わりをした。※ 以前は神聖ローマ皇帝の支配下に属していたが、フェリペ2世からハプスブルグ家はオーストリア系とスペイン系に分裂。ネーデルランドはスペイン系ハプスブルグ家の所領になった。つまり、フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)の即位(1556年)からスペイン・ハプスブルグ家による少し強めのカトリック所領となった事で、新興してきたプロテスタント勢力との宗教摩擦が始まったのである。1566年、プロテスタント民衆の反発(聖像などの破壊活動)が始まるとスペインは軍隊を出動。それはスペインとの80年に及ぶ戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)に発展して行く事になる。(前回詳しく説明済み。)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防プロテスタントの改革諸派新教(プロテスタント)問題は、ルター派以降、改革諸派が現れる。要するに新教(プロテスタント)は、カトリックをベースにしてはいるが、指導者により解釈、あるいは切り捨てる箇所がかなり違ったと言う事だ。つまり、解釈を異にする多数の諸派が生まれるに至ったのだ。※ ルター派の正式名称はルーテル教会(Lutherische Kirchen)プロテスタント諸教派(聖公会、アナバプテストを含む)の系統概略※ ウィキペディアにあったプロテスンタントの教派・潮流の略図をお借りしました。徐々に他国に伝わり、隣国フランスでは40年に渡るユグノー戦争(1562年~1598年)を引き起こし、宗教対立は国内を二分してたくさんの死者を出している。※ ユグノー(Huguenot)はフランスのカルバン主義者。海を越えたイングランドでも清教徒革命(Puritan Revolution)(1642年~1649年)が起きてイングランド・スコットランド・アイルランドは内戦が勃発。それは今に続くアイルランド紛争の要因ともなっている。※ イングランドのピューリタン(Puritan)はプロテスタントの事であるが改革諸派がいるので一つではない。また、それらは清教徒(Puritan)のアメリカへの移民の要因でもある。※ メイフラワー号でアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)。新大陸のプリマスに上陸したのが41/104人がイングランドからの清教徒(Puritan)。彼らは迫害を逃れて新天地に渡った。移民と言うよりは亡命に近い。※ アメリカ中部大西洋とニューイングランドへの移民の多くはカルヴァン主義者だったらしい。結果的にはフランスの君主はカトリックで落ち着き、イングランドでも王政復古(1660年)し、王室を頂点とするイングランド国教会で収まったが、どちらの国もひどくもめたし、影響は残った。プロテスタントの台頭とカトリックの対立は、16世紀から17世紀の欧州各国で大混乱をもたらしていたのである。しかも、それらは、欧州各国の海洋進出の時期に重なっていたのだから驚いた。贖宥状(しょくゆうじょう)が発行されるに至った経緯ルターが激怒したきっかけがカトリック教会による贖宥状(しょくゆうじょう)の乱発である。善行をするわけでもなく、ただお金を支払う事で天国に行けるなどあり得るわけがない。ヒートアップしてくると、聖遺物をたくさん見る(お金を払って)事でより天国は近づいたらしい。神学教授であったルターが、特に憤りを感じた部分だろう。※ ルターのいたヴィッテンベルク(Wittenberg)は聖遺物の収集でもヨーロッパ最大であった。※ 日本では免罪符(めんざいふ)とも呼ばれるが、これは誤訳とされる。以前書いているが、そもそもはマインツの司教が借金を返す為に始めた行為(お札販売?)だった。その集金方法でローマの為にお金を集めたのだ。ルター派とカルバン派 誕生の経緯事の発端は、ローマで老朽化したバチカン(Vatican)のサン・ピエトロ大聖堂(St. Peter's Basilica)の再建費用の為にお金が急務となった事。ローマ教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)は、建築家ブラマンテ (Bramante)(1444年頃~1514年)にバチカン(Vatican)の再建計画を依頼している。1506年、礎石。1515年、集金目的の贖宥状(しょくゆうじょう・indulgentia)は教皇レオ10世(Leo X)(1475年~1521年)の名の元に発行が始まった。実際、サン・ピエトロ大聖堂建設には120年、広場を含めた装飾にはさらに50年と、壮大な時間と費用がかかってバチカン(Vatican)は再建されている。ルター派(ルーテル教会)1517年、神学者マルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)による問題提起(95ヶ条の論題)がカトリック教会に出された。そもそもは贖宥状問題に端を発した疑問の数々である。ルターは大学の神学教授でもあったから、キリスト教を神学的に解釈して煉獄(れんごく)と贖宥状(しょくゆうじょう)の否定か? とも思ったが、それらが全てではない。司教、主任司祭らの説教についても言及しているし、86項目に教皇の方がお金をもっているのだから教皇が自身のお金で教会を建てるべきとも主張している。この際、腹がたった事を全て言葉にして提出してみた。・・と言う内容かも。因みに、これらはヴィッテンベルクの教会の門に貼り出された。とは言うが、ラテン語で書かれていたので一般庶民は読めなかった。1521年、怒ったローマ教皇はルターを異端と断定。破門とした。ルターは、ヴァルトブルク城(Wartburg Castle)でフリードリッヒ3世にかくまわれ聖書の翻訳活動をしていた。1522年、ルターによるドイツ語翻訳の「新約聖書」初刊発行。爆発的に売れて増刷が間に合わないほど。※ ルターの聖書の独占印刷権を獲得したのが友人であり画家でもあるルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)である。以前クラナッハの所で紹介しています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)1545年、トリエント公会議にて、カトリック教会はプロテスタントの宗教改革に対する見解と姿勢を明確化した。1555年、ルター派(ルーテル教会)はアウクスブルグの和議により条件付きでドイツ国内での法的権利が認められた。※ ただし、個人単位ではなく、自治体毎申請。領主がカトリックかプロテスタントを選択する都市単位の宗教選択だった。要するに、カトリックの町かプロテスタンの町かをハッキリ決めさせた。この為に自分の信仰と違った場合、住民には移動の経過措置がとられている。※ 例えば、アントウェルペンの場合、改宗できないプロテスタント住民は都市やハプスブルク領を離れる前に4年間の猶予期間が与えられた。因みに、アウクスブルグの和議では、カルバン派の信仰は認められなかった。1580年、ルター派の教理的な立場を示す「和協信条」が制定。ルター派の三大原理、聖書のみ信仰義認万人祭司の確立カルバン派ジュネーブに亡命していたフランスの神学者ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)(1509年~1564年)から始まる。一部ルターに同調はするものの、改革内容は、むしろスイスの宗教改革者、フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)(1484年~1531年)の流れを汲んでいるらしい。1536年、カルヴァンの著「キリスト教綱要」出版。※ 聖書註解は、教会の信仰告白文書に大きな影響を与え、改革派教会の思想をヨーロッパに広めた。1610年、ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議にて改革派(カルバン主義)の神学が論議され93の教会法を制定し、ベルギー信仰告白とハイデルベルク信仰問答の権威を確認。5つのカルヴァン主義の特質が定義された。全的堕落 (Total depravity)無条件的選び (Unconditional election)制限的贖罪 (Limited atonement)不可抵抗的恩恵 (Irresistible grace)聖徒の堅忍 (Perseverance of the saints)カトリックとプロテスタントの違い前回、「プロテスタント信仰ができた訳」については、簡略に紹介しました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防今回は両者の思想の違いについて簡略にまとめました。最も、プロテスタントは一つではなく、多数の教派に分裂して行ったので当てはまらない教派もあるかも。以下は、ほぼルター派です。[1] 聖書のみ・・ローマ・カトリックが行ってきた祭祀祭礼をプロテスタントは全て否定した。教えは、全て聖書の一言一句から。聖書は神の言葉であり、信仰生活は聖書の啓示をよりどころとする。教派で若干の違いはあるルターの不満は、カトリックの教会自体にあった問題がほぼ全て。キリスト教自体を批判した訳ではなかったが、そもそもカトリックの典礼の多さも問題である。※ ルターの95箇条には聖人についての否定は無い。当然、典礼の元となる「聖人信仰」も聖書になければ、基本否定である。※ ルーテル教会は聖ベネディクトゥスに関しては認めている。聖母マリアに対しても、敬意は示しながらも基本否定。(崇敬している教派もあるらしい。)※ 確かに「無原罪の御宿り」や「聖母の被昇天」の話は聖書の記述には無い。カトリックにおける聖母の扱い問題は、それこそ第1ニカイア公会議(325年)以降で決められた事だった。因みに、聖母信仰の拡大は、十字軍の進軍以降に重なる事から戦士らの母(母への思慕)が重ねられているのではないか? と推察する。13世紀以降、欧州各地に聖母に献堂する教会がたくさん建設されていく。それは流行のように欧州各地に広がっている。それが示すのは欧州人が純粋にキリスト教的に生きていた。と、言う時代を語っているのかも。とは言え、聖書が読め無ければ話にならない。聖書はラテン語からドイツ語に翻訳された事でかなりハードルは下がったものの、識字率は相変わらず低い。だから聖書の読める知識人、つまり学識のそこそこある商人や支配者階級、学者などからプロテスタントに改宗する者が多く出たのかもしれない。※ 以前、欧州の識字率の事書いています。「ノートルダム大聖堂の悲劇 4」冒頭です。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠[2] 万人祭司・・プロテスタントでは 基本、「信仰は神の言葉である「聖書」のみ」とされ、信者の信仰生活は聖書の言葉をよりどころとしている。聖書以上の教えは無いのだから、カリスマ的指導者の説教もない。洗礼を受けた者は「万人祭祀」と言われ、信仰する者、誰もが祭祀と言う考え方らしい。つまり、プロテスタントには司祭がいない。それ故、プロテスタントの信仰には階級が存在しない。教会に装飾も無い。へたをすれば集会所だけがあれば良い。と言う考えらしい。1つ目も2つ目もカトリックの悪例? を排除した。と言う事でそれはまだ理解できる。大きく違うのが、3つ目、イエス・キリストの贖罪(しょくざい)以降の解釈問題だろう。[3] 義認の教理・・ルター派は「信仰義認」を中心に据えた。神の前で義とされるのは行為や祭礼ではなく「信仰のみ」とした。これは原罪(げんざい)後の解釈の問題に大きく影響する。※ 原罪(げんざい)とは、アダム(Adam)とイヴ(Eve)と言う人間が、神の楽園で犯した木の実の窃盗事件。※ キリストはこの原罪で人が負った罪を一人で神に贖罪(しょくざい)した。そして、許された。プロテスタントでは、人は善行ではなく「信仰によってのみ義とされる」と、パウロ書簡(パウロの義認論)を根拠として説いた。それに対して、カトリックでは「善行により神は人を義とする。」として人々に善行するよう進めていた。この場合の「義」は「正しい」とか「良い」とする概念。プロテスタントでもイエス・キリストの贖罪(しょくざい)は認めている。だからそれ故、神への贖罪は終了しているので、自分らがさらに贖罪する必要は無い。と考えてるらしい。カトリックでは、キリストは原罪への償いをしてくれた。だが、人は自身が個々に善行を積む事で自身が救いに預かる。と教えている。カトリックの救いとは、死後の復活の時に天国(神の国)に行けるかどうか? と解釈され皆、善行に励んだのである。※ 天国論は、ヨハネの黙示録由来。中世、ダンテ執筆の「神曲」からの流れからより強まったと思われる。(神曲の天国篇は1316年頃~1321年に書かれ完成した。)ただ、そこに贖宥状(しょくゆうじょう)問題が勃発した。「教会への寄付が善行である。」とする考え方、それは「善行をお金で買ったに同じ。」教会が、人々の善行に付け込み、お金を集めたのがそもそもの事の発端だ。だからルターは神学者として、そこを否定したのだろう。パウロの書簡を根拠に挙げて・・。※ 聖書の解釈、神学論は古(いにしえ)から論争もあり正解は出ていない?そもそも、文章読解力の能力が有るか? 無いか? で解釈は正反対にもなる。ある事象に関して、人の考えがそれぞれなのは、そもそもそ読解力の差(能力)問題も多分にありそう。難解な国語の論文が解ける人と解けない人の違いが答えを複数にする。最近、YouTubeのコメントを読んでいて、そう思ったのです。ちょっと腑に落ちないのが、浄財はともかく、良き人になる活動も必要ない?信仰心があれば良い?その信仰とは、どこまでの何の行いを指すのだろう。(・_ ・。)?プロテスタントでは、神に悔い改めの祈りをささげたなら、許されるの?大罪した後でも、ゴメンナサイと祈れば許されるの? (・_ ・。)?このあたりの解釈は私には分かりません。ネーデルランド(オランダ)の快進撃には、そもそもポルトガルのものを奪う。その為には皆殺しもあり。ゴメンナサイすればそれら悪行も許されるのか? やった者勝ちにしか思得ない。都合の良い解釈。でも判断も自分であるなら、「私は許された。」と言う事になるの?これは諸派で違いそうだが・・。実は、カルバン派はここの解釈が大きく異なる。カルバンが提唱したのは、神の救済にあずかる者と滅びに至る者はあらかじめ決っている。と言う「予定説」である。善行をしようともしなくとも、救われる者は最初から決まっているのだから何もしなくても良い?プロテスタントの中でも少数派と言われるこの解釈の元は「アウグスティヌスの見解」だと主張しているらしいが、その解釈そのものが間違っている。との反論も・・。カトリック教会はトリエント会議(1545年)にてカルバン派の「予定説」を異端として排斥している。「予定説」、仏教の「縁起(えんぎ)」の考えからしたら全否定ですな。そもそも、カトリックにおける「善行を積みなさい」と言う教えは「天国」とか「救い」とか言うよりは、本来は道徳的意味あいが多分に込められた教えであったと思う。つまり、教会による人の生き方の指導である。「天国」や「地獄」のワードも、そもそもは民衆が理解しやすいように造られた例えと考えられる。因みに、それは古代インドの死生観である六道輪廻(ろくどうりんね)の考えに同じだ。そもそも、キリストが代償(だいしょう)してくれたから、自分は何もしなくて良いと言う考えはどうなのか? 何をしようとも、すでに決まっているから何もしなくて良い? と言う「予定説」もねー。人として生きる上で高尚(こうしょう)であれよ。と、私は思うのだが・・[4] 統一組織・・カトリックがローマ教皇を中心とした統一組織を持つのに対して、プロテスタント全部の統一組織は無い。教派も複数存在し、さらに複数の団体が存在する。カトリックはローマ帝国の国教になる時に皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)が教義の統一を図っている。そのおかげで、ローマを総本山とする「ローマ・カトリック」として信条を統一する団体が造られた。ローマ教皇がそのトップにいて、教皇の意向は絶対である。教皇が仲裁すれば、争いも止めざる負えない。因みに、スペインやポルトガルはローマ教皇の為に、未開地に布教し、キリスト教を広めると言う活動も植民地開発と同時にしていた。一方、プロテスタントの方は複数の教派があり、多様性がある反面、カルト的な団体もあるらしい。プロテスタント誕生はそもそも神学者のルターの訴えが最初であったので、一つかと思いきや、ルターに同調する部分はあれど、意見を異にする部分(解釈の違い)もあり、複数の教派が生まれるに至ったらしい。ところで、日本にもたくさんのプロテスタントの教派が存在していた。キリスト教の学校と知ってはいたが、立教大学、明治学院大学、同志社大学、青山学院など全て宗派が違っていた。 しかもプロテスタント系だったとは全く知らなかった。プロテスタントの信仰とは、聖書の言葉を理解し、実践する為に努力する。それは簡単にできるものではないが・・。そもそも聖書の言葉を理解する。と言う行為は神学論に同じ。天国に行く為に善行を行いガンバって生きる。というカトリックの方が単純でシンプルで解り易い。プロテスタントはそもそもここを否定しているからね。いずれにせよ、どちらの宗教も真面目にしっかり生きよう。と言うのがを根底には見える。[5] その他カトリックでは、離婚禁止。避妊禁止。※ イングランドがカトリックから離脱せざるをえなかったのは、王の離婚が原因の破門で始まっている。離婚要因から宗旨変えした者も多かったのでは?死に関しても条件があり、カトリックでは、死後の復活の概念から遺体を火葬して埋葬する事はできない。※ カトリックの知り合いが、海葬を希望。海葬を希望するなら教会での葬儀もできない。と断られている。最終的に海を希望した知り合いは、宗旨替えとなり、魂抜きの為に2か月ほど? 遺骸(遺骨)を保管しなければならなかった。また、自殺した信者の場合、教会の墓地への埋葬も拒否される。※ 以前、ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) のロセッティの描いた「Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)」の絵画を紹介した時に解説。ロセッティは妻の自殺を隠す為に遺書を燃やしている。リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝総じて、カトリックは歴史が長い事もあり、条件も多い。シンプルに信仰したい人にはプロテスタントの方が制約は少ないのかも・・。そもそも欧米では、何かしら信仰をもっていないと「人に非ず」的な所があるからね。日本人のように「特定の信仰を持っていない人が多数」は逆に世界からしたら不思議なのだ。プロテスタントのヴァニタス(vanitas)画前々回、退院報告をした時の回「大航海時代の静物画」で、大航海時代に突入したオランダの静物画を紹介しました。それは交易の見本品の静物画でした。その回でヴァニタス(vanitas)画についても触れていますが、今回は、80年戦争を経て新たに生まれたプロテスタントの死生観を持つ? ヴァニタス(vanitas)画の紹介です。新教(プロテスタント)には聖人の図像などのカトリックで言う宗教画はありません。代わりに、プロテスタントの人々の信仰に寄り添った戒めの静物画が描かれたようです。ローマ時代からヴァニタス(vanitas)画は存在していると以前から紹介していますが、ヴァニタス(vanitas)画がポピュラーになるのは、むしろプロテスタント下で勢力拡大したネーデルランド(オランダ)の黄金時代あっての事なのかもしれない。プロテスタント信仰と言うのは、それらヴァニタス(vanitas)画が示す所に表現されているのではないか? と言う視点で見てみました。ヴァニタス(vanitas)画で有名な絵師の作品を紹介します。「人間の人生の虚しさ」の寓意 (頭蓋骨、本、果物)画家 ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)以前、プリンセンホフの紹介の時に一度紹介しているヴァニタス(vanitas)画です。ヴァニタス(vanitas)画には置かれた物全てに意味があります。髑髏(されこうべ)・・人の死ぬべき運命。いつか必ずこうなるよ。と言う戒めの寓意?蠟燭、砂時計や懐中時計は時の経過を示すアイテム。熟した果物は熟したやがて腐るのだから人生が円熟して終わりに向かう様。鮮魚も同じ意味だろう。すぐに腐る。同じく花の命も短い。総じて人の生は短い事を示唆。メダルは得た名誉。同じように宝石、コイン、アクセサリーなど財宝は富や権力を象徴する寓意。笛など楽器は人生の快楽。ひっくり返った銀製の食器やグラスは食事の中断を意味し、それは突然の死を示す寓意。書物は聖書。プロテスタント下で描かれたヴァニタス(vanitas)画は人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意の静物画、など、戒(いまし)め、あるいは警告? として存在している。ローマ時代とキリスト教時代になってからの死生観の違いに影響されているのか?vanitasはもともとラテン語で「虚栄心」を意味していたらしい。プロテスタント下のネーデルランドの静物画では、vanitasは「空虚」とか「むなしさ」、「はかなさ」と解釈されるようになった。カトリックでは、聖書の話や聖人伝などで教えや戒めは伝えられるからこういう静物の表現のみでのヴァニタス(vanitas)画は見ないかもしれない。最も、ネーデルランドの全ての静物画がヴァニタス(vanitas)画になっているわけではない。何か意味を持たせる事が流行ではあったのかもしれない。あるいは、ブーム(流行)があったのかもしれない。下も同じ画家で同じくプリンセンホフの所蔵です。1652年作?鳥、魚、瓜とフルーツ。すぐに腐ってしまう儚いもの。高価なグラスは豪華な食事。から贅沢な暮らしを連想?ひっくり返った鍋は突然の食事の中断? あるいは調理前に終わってしまう人生?「虚栄のはかなさ」の寓意画家 ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)ハルメン・ステーンウェイク(Harmen Steenwijck)(1612年~1656年頃没)オランダ黄金時代のヴァニタス(vanitas)画で有名な画家です。1628年~1633年にかけてライデンで活躍した画家ですが、絵に日付を付さない人だったらしい。それ故作品の正確な年代特定が難しいらしい。ヴァニタス画は聖ルカ(画家のギルド)の長であった伯父デイヴィッド・バイリー(David Bailly)(1584年~1657年)に学び、兄弟Pieter Steenwijckもヴァニタス画で有名。叔父や彼らの父はフランドからの移民の子だったらしいから宗教の関係での住替えだったかも・・。ヴァニタス専門の一族? やはり需要があったのだと思われる。上の2点はオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)のデルフトの屋敷、プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof)で撮影してきたものです。(オラニエ公の死後の絵師なので彼の所有物ではない)静物画の流行は1640年頃から17世紀末くらいなのかもしれない。「人間の人生の虚しさ」「虚栄のはかなさ」これらを教訓に日々を大事に生きろ? と言う意味かな?プロテスタントでは聖書の中の一説一説について取り上げてはその教訓を示し、それを教えとする。静物画も一つの教訓の示し方ではあった。小説も然りである。学生の頃、読んだアンドレ・ジッド(André Gide)の「狭き門(La Porte étroite)1909年」それは新約聖書のマタイ福音書第7章第13節にある、イエス・キリストの言葉がタイトルとなっていた。同じくアンドレ・ジッドの「一粒の麦もし死なずば(Si le grain ne meurt)1921年」も新約聖書ヨハネによる福音書、第12章24節のキリストの言葉に由来していた。今更、アンドレ・ジッドがプロテスタントであったのだと気づきました※ アンドレ・ジッド(André Gide)(1869年~1951年)フランスの小説家。とは言え、プロテスタントの作家による小説は、解説書と言うよりは、葛藤(かっとう)が描かれている。デルフト(Delft)の町は運河で囲まれた要塞都市だった。見えるのはカトリックの教会(旧教会)の尖塔。目的の建物はこの教会の運河を隔てて前にある。デルフト(Delft) プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof) もともと女子修道院だった建物。80年戦争の時にオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)が屋敷としていた場所。独立の父 オラニエ公ウィレム1世オラニエ公ウィレム(Willem van Oranje)(William of Orange)オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)ホラント州、ゼーラント州他の総督として(在位:1572年~1584年)1544年、11歳でオランジュ(オラニエ)公領を従兄弟から相続。オラニエ公ウィレム(1世)として即位。彼の代からオラニエ=ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)が始まる。現在のネーデルランド(オランダ)王家の家系はここに起源する。※ 現国王 第7代ネーデルランド国王ウィレム=アレクサンダー(Willem-Alexander)(1967年~ )(在位:2013年4月~ )元の家の爵位ナッサウ・ジーゲン伯(Count of Nassau-Siegen)は弟ヨハネ6世(John VI)(1536年~1606年)が継いだ。カール5世の指示だったらしい。※ 弟 ナッサウ・ジーゲン伯ヨハネ6世(Count John VI of Nassau-Siegen)当時の風俗がわかるディスプレイ彼はスペインとの80年戦争で中心になったネーデルランド側のリーダーですが、もともとオラニエ公は代々ブルゴーニュ公に仕える臣下。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)ブルゴーニュ公でもあったカール5世(Karl V)(1500年~1558年)に気に入られ少年時代から仕えていたと言う経歴から元は熱心なカトリック教徒でもあった。※ 1555年のカール5世、ブルゴーニュ公退位の時は傍らで介助もしていた関係であったが・・。※ 1556年、フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)がスペイン王に即位(在位:1556年~1598年)1566年、フランドルで始まったプロテスタントの反乱の時はドイツにいたが、財産の没収となっている。もはやカール5世もいない。80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)では、1568年、反乱軍を率いてスペイン軍と交戦(ヘイリヘルレーの戦い・Slag bij Heiligerlee)し反乱軍初勝利。プロテスタント軍のリーダーとなっていく。彼の亡き後1648年、ネーデルランド(オランダ)連合諸州は彼の活躍で独立を果たす。プリンセンホフに飾られていたレプリカですが。写真ボケていたのでウィキメディアから借りました。William I, Count of Nassau-Siegen(ウィリアム1世 ナッサウ=ジーゲン伯)の所にあります。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)の肖像 1555年(推定22歳)画家 アントニス・モル(Sir Antonis Mor)(1520年~1578年頃)所蔵 カッセル市立美術館(Museumslandschaft Hessen Kassel)※ カール5世退位の頃。まだカトリック教徒であった時代の肖像。オラニエ公の暗殺オラニエ公ウィレム1世は1584年にプリンセンホフ内でバルタザール・ジェラール (Balthasar Gérard)によって暗殺された。ブルゴーニュのカトリック教徒だったバルタザールはフェリペ2世が「ウィリアムは無法者」と宣言し、暗殺に2万5000クラウンの報奨金を付けた? 事でオラニエ公に近づき、計画的に暗殺を狙っていたと言う。フランスの使者を装い屋敷の中にいたので非常に至近距離での銃殺である。※ 屋敷には今も銃痕が残っている。(撮影してませんでした。)スペイン王フェリペ2世の父はカール5世。ウィリアム(Willem I)の事を当然昔から知っていた仲。裏切りと感じたのは当然かと思う。しかもネーデルランドは父の故郷。(カール5世はゲントで幼少期を過ごしている。)スペインにとって、ネーデルランドを失ったことは経済的にも戦略的にも惜しい。本当に暗殺を指示したかは解らないがウィリアムが暗殺された事を聞いて、フェリペ2世は本当に喜んだのだろうか?オラニエ公ウィレムの最後の言葉Mon Dieu, ayez pitié de mon âme; mon Dieu, ayez pitié de ce pauvre peuple. (My God, have pity on my soul; my God, have pity on this poor people).神よ、私の魂を憐れんでください。神よ、この貧しい人を憐れんでください。もともと熱心なカトリック教徒であったのが、成り行きでプロテスタント派のリーダーになったオラニエ公である。新教会(プロテスタントの教会)の尖塔からデルフト眺望よりプリンセンホフと旧教会方面見える教会が旧教会(カトリックの教会)左下の見切れているのがデルフトの中心にあるマルクト広場と市長舎。運河挟んで旧教会(カトリックの教会)の向かいにプリンセンホフ(Prinsenhof)があります。ピンクの矢印下がプリンセンホフ(Prinsenhof)。最初の撮影場所。撮影場所は新教会(プロテスタントの教会)の尖塔の展望台から。旧教会(カトリックの教会)はフェルメールの墓が置かれた教会です。以前紹介しています。リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓カトリック教会も破壊され、現在は調度品もなく新教会のようにシンプルです。※ プロテスタント改革派の中に強硬な因習破壊主義者(iconoclasts)を生んだ。彼らは貴重な文化遺産を全て破壊して回った。オラニエ公の霊廟新教会尖塔が高いのでかなりバックしないと全景が入れにくい。新教会も建設時にはカトリックの教会でした。1584年、新教会(プロテスタントの教会)にオラニエ公ウィレム1世が埋葬された。彼の遺骸と霊廟は聖堂に置かれている。ここは現ネーデルランド(オランダ)王家の霊廟ともなっているのだ。以前紹介しています。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)カトリックなら聖堂内陣の部分。オラニエ公ウィレム1世の聖櫃が置かれている。オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)上の像の後ろに石棺が置かれている。ここ、新教会はヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)が誕生時(1632年)に洗礼を受けた教会でもあります。でも彼は結婚によってカトリックに宗旨替えしたので彼の亡骸はカトリックの旧教会の方に埋葬されました。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)リンク デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓リンク ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン因みに王家の棺は聖堂地下に置かれています。デルフトの新教会の内部、西側入口のオルガン室の下から 1662年画家 ヘンドリク・コルネルスゾーン・ファン・フリート(Hendrick Cornelisz Van Vliet)(1611年頃~1675年)所蔵 Private collectionすでにプロテスタントの教会ではあるけど、1662年の絵画には内陣障壁(rood-screen)が存在している。国際法の父 フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)新教会前に「国際法の父」と呼ばれるフーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)の像。彼もまたデルフト出身者。各国が海洋に進出していく時代となり、海上での小競り合いやトラブルが増えて行く中で、国際的なルール作りが必要であると提唱した人物。彼はネーデルランド国内で起きた神学論争で負け派にいた為に亡命している。故国デルフトに戻るのは死後なのである。※ 理由は後で紹介。新教会内には彼の墓もある。国際法ができた訳80年戦争のさなか、ポルトガルが支配権を握っていた東南アジアに進出したネーデルランド(オランダ)。1604年、オランダ東インド会社の船員がポルトガルの船を拿捕し、積荷を奪おうとした。ポルトガルは船と積み荷の返還を要求。積荷を奪うのが合法か? それら訴訟にグローティウスは従事する事となり、初めて国際法に携わる事になる。当初、グローティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求めようとした。また、彼は自ら執筆した「自由海論(Mare Liberum)」(1609年)で、海は国際的な領域。全ての国家が海を自由に使うことができると主張。これらは、当時のイングランドの法学者と真っ向から対立。モルッカ諸島でのスパイ・スハーブの交易に参戦したネーデルランドは自由貿易を主張。しかし、イングランドは航海条例を制定し、イギリスの港湾にイギリス船籍以外の入港を禁じて対抗措置をとった。当初、イングランドとネーデルランドはモルッカ諸島を支配するスペイン・ポルトガル勢力に対抗して協力関係にあったが、強引なネーデルランドのやり方に亀裂が出始めていた。海事法をめぐる論議がこの頃から進む。トラブルが多発して来たからだと推察する。80年戦争の時代、海における国際的取り決めの必要性が求められるようになり、海事法の整備が進められる事になった。例えば、陸から大砲が届く範囲内の海の支配権(領海)をその国が領有する。これは各国が支持し、領海は3マイル(約4.8km)と決められた。そもそも。ネーデルランドによるポルトガル支配地からの強奪や略奪はひどかった。海事法の必要性が求められ整備がされるのは、ポルトガルが領有していた土地、あるいはポルトガルの交易相手の国を、ほぼネーデルランド奪取してからになる。ところで、イングランドとネーデルランド両者は、当初住み分けして協力体制をとっていたが・・。1623年、モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館の職員が全員虐殺されると言うアンボイナ虐殺事件が勃発。※イングランド人9名、日本人10名、ポルトガル人1名がでっち上げの濡れ衣で残虐な拷問の上に斬首された。フーゴー・グローティウスが「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis)」(1625年)を執筆。国家間、戦争にもルールが必要であると考えた著書。この考えが「国際法のはじまり」らしいが、それこそアンボイナ事件(1623年)からの教訓ではないか?※ グローティウスは1621年にパリに亡命してパリで執筆している。「戦争と平和の法」全3巻からなる。第1巻全5章のタイトルのみ入れました。第1章 - 戦争とは何か、法とは何か第2章 - 戦争の合法性第3章 - 公戦と私戦の区別、主権の説明第4章 - 従属者の優位者に対する戦争第5章 - 合法的戦争の主体フーゴー・グローティウス亡命の件ネーデルランド国内で起きた神学論争で負け派にいた為にフーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)は当初、投獄され、後に亡命している。彼がいたのはアルミニウス派(Arminians) の説を主張するレモンストラント派(Remonstrants)カルビニスム修正主義神学、カルヴァン主義傍流神学とも呼ばれる。改革派であるカルバン主義の予定説に一部意義を唱えたヤーコブス・アルミニウス(Jacobus Arminius)(1560年~1609年)の論。「神は万人に救いを提供し、神の恩寵を受け容れるかどうかは各人の自由意志に任されている」1610年、アルミニウス派は意見の相違点をまとめた5ヶ条の抗議書(Remonstrants)を提出して争議となる。以降、彼らはレモンストラント派(Remonstrants)とも呼ばれるようになる。またこの宗教論争は、神学論のみならず、階級闘争にも及ぶ。1618年、ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議で審議がされ神学論争にレモンストラント派は負けた。カルヴァン派の勝利が確定された。1619年、政治闘争はレモンストラント派の神学者シモン・エピスコピウス(Simon Episcopius)(1583年~1643年)率いる13人の牧師が追放。支持者であったヒューゴー・グロティーウスは投獄され、脱獄して亡命。アルミニウス主義者とその反対者の間の神学論争の寓話Allegory of the theological dispute between the Arminianists and their opponents画家 アブラハム・ファン・デル・エイク(Abraham van der Eyk)所蔵 リヨン美術館(Museum of Fine Arts of Lyon)制作 1721年ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議での審議を寓話にした絵画。カルビニスム修正主義神学であるアルミニウス派(Arminians) orレモンストラント派(Remonstrants)を審議するカルバン派。左側 抗議者(アルミニウス派)右側 反対派の改革派(カルバン主義正統派)右の天秤のが重い。カルヴァン派の主張がアルミニウス派の主張より重いことを示している。また、右の天秤には剣が付され、それが改革派教会がネーデルランド共和国から国家の支援が与えられた事を象徴しているらしい。これを持ってわかるのは、ネーデルランド(オランダ)が国家でカルバン主義を主軸にしたと言う事。因みに、この会議以降、レモンストラント派の牧師の解任や追放が行われた。説教者の不足と言う事態となったレモンストラント派では、支持者らがコレギアント協会(Collegiant Society)を設立。1619年、アントワープにレモンストラントの亡命共同体が設立されている。ネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由(前回落ちた分)前回、中途半端であったネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由ですが、プロテスタント台頭の問題と無縁ではないのです。ヴィッテンベルク(Wittenberg)から始まった宗教改革の嵐は、北部フランドルに広がって行った。つまりネーデルランドに根付き始めたプロテスタントは北部に向かって信者を増やして行った。と言う事実であり、同時に同教の信者を土地に呼んだのである。熟練工や、ブルージュ、ゲント、アントウェルペンなどの港町の金持ちの商人がプロテスタント多かったと言うからそもそもプロテスタント信者には、専門職や知識人が多かったのかもしれない。※ 先にも書いたが、聖書が読める人は、それなりにステータス(status)も高かったと言う事だろう。1585年~1630年の間に、ネーデルランドを出るカトリック教徒も多くいたが、それ以上に多くのプロテスタント信者が北ネーデルラントに流入してきたそうだ。フランスやイングランドで迫害を受けたプロテスタントの難民の流入も多かったとも言う。彼らの多くは北のアムステルダム(Amsterdam)に移住し、小さな港だったアムステルダムは一躍、商業の中心となり、1630年までに世界で最も重要な港町に発展する。つまり、ネーデルランド(オランダ)に黄金時代をもたらした要因は、「オランダ東インド会社」の成功だけではなく、海運、芸術、科学、軍事と、すぐれた人材が終結した事も大きいのだ。ネーデルランドの快進撃は第一次英蘭戦争(The First Angrlo-Dutch War)(1652年~1654年)まで続く。集団肖像画と自警団プリンセンホフで撮影デルフトのヴィッテ・ヴェンデルの士官たち(Portrait of the officers of the Witte Vendel of Delft)発注 witte vendel(白旗)の隊員画家 ジェイコブ・ウィレムシュ・デルフ・ザ・ヤンガー(Jacob Willemsz Delff the Younger) (1619年~1661年)※ オランダ黄金時代の肖像画家所蔵 プリンセンホフ博物館(Museum Het Prinsenhof) 制作年 1648年(この年に80年戦争が終結している。)修復 1654年。デルフトの「ウィッテ・ヴェンデル(Witte Vendel)」(白旗)と呼ばれる市警の将校たちの集合写真。witte vendelの隊員による集団肖像画は他にも複数存在。1648年の制作であるが、1654年のデルフト爆発で損傷。現在の物はオリジナルの製作者の孫によって修復されたバージョン。※ 以前フェルメールのデルフトの眺望(Gezicht op Delft)を解説した時に爆発の事、爆心地の事を細かく書いています。リンク デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)左から右へ:マールテン・エンゲルベルツ中尉。グラスヴィンケル、サミュエル・クラース軍曹。ベルケル、カレル・レーナーツ大尉。デ・ヴォーフト、ウィレム・クラース軍曹。ファン・アッセンデルフト、旗手ピーテル・ハルメンス。ファン・ロイフェン。これら肖像画は1人1人がお金を出して描いて貰っているので、平等に写実されていなければならない。名前が記されているのもそんな理由だ。写真のようなちょっと奇妙な群像にはそんな訳がある。上は市警の将校であるが、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)当時は市中も荒れていたので自警団が複数たちあがっている。組合式? ギルドの体制をとっているがメンバーの生業は別にあった。市民有志による自警団。いわゆる、市民警備隊である。そんな彼らが記念? 集団肖像画を描く事が流行したらしい。今で言う写真のような肖像画(Portrait)の役割であったと思われる。つまり、ネーデルランドの絵画には、肖像画と言う分野の中に群像肖像画と言う分野ができたのである。群像肖像画と言えば、レンブラント(Rembrandt)の夜警(The Night Watch)が有名である。通称 夜警(The Night Watch)正式名 フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊(De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)発注 火縄銃手組合画家 レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn) (1606年~1669年)所蔵 アムステルダム国立美術館(Amsterdam Museum)制作年 1640年受注。完成1642年。火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画の1つ。画面が暗い事から夜の様子を描いたと考えられ「夜警」と呼ばれたが、ニスの劣化による画面の黒ずみであった事が判明。実際は左上から光が差し込んだ昼の情景。明暗のコントラストを出すキアロスクーロ(Chiaroscuro)の技法が使われている。レンプラントは通常の肖像画にしたくなくてドラマを持たせて描いている。だが隊員らは平等に絵の代金を払った事から物議をかもしたと言う。コック隊長自身はこの絵が気に入ったらしいが・・。1715年まで火縄銃手組合のホールに置かれ、その後ダム広場の市役所に移動。しかし、そこで壁に入りきらないとしてキャンパスをカットされたのでこんな違和感のある構図になったらしい。聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会 1616年(The Banquet of the Officers of the St George Militia Company)発注 射手組合画家 フランス・ハルス(Frans Hals)(1581年/1585年~1666年) ※ オランダ絵画の黄金時代を代表する巨匠の1人。80年戦争時代の治安維持で活躍した自警団は、戦争の終結と共に活躍の場は無くなり、団体は社交クラブに変って行ったところが多いしらしい。その後の集会イベントは記念行事のパレードと大宴会だったらしい。とは言え、1621年にハールレム市は宴会の規模を制限する法令を造っていると言うのでイベント代は市持ち?さて、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の終盤からネーデルランド(オランダ)の経済は好調。黄金時代(Gouden Eeuw)と呼ばれる盛況な時代を迎える。それは経済のみならず、貿易、科学、芸術と多種にわたった。先に触れたプロテスタントの国と言うのが大きな要因の一つではあったが、経済あっての話である。その経済を支えたのが、世界初と言われる株式会社 オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の存在と、成功である。ここで、オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の話に入りたいのですが、今回はすでに長すぎ。次回につづく。次回はオランダ含めて各国の東インド会社に触れればと思います。Back number アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年11月24日
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とりあえず載せましたが、後から修正すると思います。前回の序章「大航海時代の静物画」の中で書いた通り、教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令により1537年以降、大航海時代は欧州各国が参戦しての第二章? に突入する。以前「パナマ地峡を陸路行くスペインのラバ隊を襲って金銀を強奪していたのが英国人のフランシス・ドレイク(Sir Francis Drake)(1543年頃~1596年)である。」とパナマ運河の冒頭で紹介した事がある。※ リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)もともと奴隷商人だったドレイクは海賊に転じ、1573年頃からスペインが国に運ぶ為の金品を強奪しては英国に運んでいた。※ 海上で強奪したのではなく、パナマ地峡移動中のラバ隊を襲っていた。1577年12月、ガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする艦隊5隻を率いてドレイクはイングランド(プリマス港)を出航。海賊航海に出る。この、航海にはイングランド女王(エリザベス1世)自体が巨額の出資していた為、1580年ドレイクが帰還(ゴールデン・ハインド号のみ帰還)するとドレイクの運んだ金品の配当により、国の債務も清算できた上にその資金は後のイギリス東インド会社の設立にも貢献したらしい。ドレイクはイングランドに財を運んでくる男。その貢献でドレイクは叙勲した上に海軍提督にまで上りつめている。イングランドが国として海軍を強化するのは海賊ドレイクきっかけなのである。加えると、海賊ドレイクがあまりに有名であるが、ドレイクの従兄弟ジョン・ホーキンス(John Hawkins)(1532年~1595年)も王室に貢献した元海賊で、元奴隷商人で海軍提督になった男。彼には政治手腕もあった。後で詳しく紹介するが、このドレイクの所業、イングランドの違法取引と海賊行為に対して、当然スペインは怒っていた。そこにネーデルランド独立の話と制海権問題が起こり1588年7月スペインは艦隊を派遣し英仏海峡で海戦が勃発する。それがアルマダの海戦(Battle of Armada)である。このアルマダの海戦(Battle of Armada)は スペイン vs イングランド だけでなくスペイン vs ネーデルランド の構図もある。英仏海峡の対岸であるネーデルランド。ここで先に説明しておきたい。ネーデルランド(Nederland)はオランダ語でオランダを指す言葉。日本人が使用するオランダ(Holanda)は「ポルトガル語」呼びなのである。以前、「出島」の話しの時に触れた事があるが、長崎の出島でポルトガルと交易し、後にオランダと交易に至った後も、交易の言語はポルトガル語が使用され続けていた。その名残で、「ネーデルラン」と呼ぶより「オランダ」の方が日本では定着してしまったのだろう。※ ウィキペディアでオランダと引けばネーデルランド(Nederland)で出てきます。それ故、「オランダ」ではなく、本家の「ネーデルランド」の名称を使いたいところですが、「オランダ東インド会社」を「ネーデルランド東インド会社」とするのはちょっと問題もあるので、そこは「オランダ東インド会社」で記すのでご理解お願いします。この頃、ネーデルランド(オランダ)は宗教戦争に加えて、スペインとの80年戦争のさなかにあった。そんな中にありながらも、ネーデルランドはアジアへの航路を開拓してアジアに植民地進出を果たそうとしていた。理由は、おそらくポルトガルと同じで、領土を広げるにも限りがあるので海洋進出しての植民地獲得を考えたのだろう。ネーデルランド(オランダ)の船団4隻が、初めてジャワ島バンテンに来航したのは1596年6月。そしてオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)の設立が1602年(~1799年)。ネーデルランド(オランダ)はジャワに植民地会社「オランダ東インド会社」を開き成功を収めるのだが、ネーデルランドの盛況はジャワだけではない。同時期に新大陸のポルトガル領のブラジルにも進出していた。ネーデルランドは交易のみならず、科学、軍事、芸術の分野もでも一躍トップに踊り出て、黄金時代を築く事になる。(理由は後に)このネーデルランド(オランダ)の成功はイングランドのみならずヨーロッパ中に衝撃を与えたらしい。しかもネーデルランドのやり方は武力による奪取型。※ ネーデルランド連邦共和国がスペインから独立を果たすのは1648年。イングランドはネーデルランド(オランダ)に脅威したからこそ、慌てて1600年にイギリス東インド会社( East India Company)(EIC)を設立したと言われている。もはやそこにはスペインに対する遠慮など一切無くなっていた。今回は「太陽の沈まぬ国」と形容されたスペインの話と、ネーデルランド(オランダ)が台頭(たいとう)するまでの話となります。植民地会社「オランダ東インド会社」の話は次回にまわしました。ネーデルランドの成功はオランダ黄金時代を生み出します。そこには、宗教戦争が大きく関係してくるので、話は複雑に展開していきます。アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防海洋進出一章のおさらいスペイン王によるポルトガルの併合 太陽の沈まぬ国ポルトガル併合太陽の沈まぬ国の真実ポルトガルの衰退アルマダの海戦(Battle of Armada) イングランドとの因縁イングランド女王とスペイン王の結婚アルマダの海戦(Battle of Armada)アルマダの海戦からわかる事スペイン・ハブスブルグ家とオーストリア・ハプスブルグ家マドリード王宮(Palacio Real de Madrid)スペイン(カトリック) vs ネーデルランド(プロテスタント)の戦いプロテスタント側の武装蜂起で始まった80年戦争プロテスタント信仰ができた訳ネーデルランド(オランダ)黄金時代の始まりモルッカ諸島(Moluccas)ポルトガル(国家事業) vs ネーデルランド(株式会社)ネーデルランドの台頭(たいとう)アジア進出海洋進出 一章のおさらいポルトガルが先んじて始まった大航海時代の植民地争奪戦。ポルトガルは航海路だけでなく、外洋の為の船も開発。あちこちで交易を開始。ポルトガルが海洋に進出したのは1419年。アフリカ大陸を南下しながら途中大西洋の諸島に植民地を開き、西アフリカでは金の入手もしていた。さらに彼らはスパイス・ハーブを求めてアフリカ南端を通り、インド洋を越えアジアを目指す。続いたのは隣国スペイン。しかし、その開きは70年。共にイベリア半島の両国であるが、スペインは最後のイスラム王朝を追い出しレコンキス(Reconquista)を終了させたのは1492年。※ イベリア半島の戦いであったが、スペインはポルトガルの介入を許さなかったから、逆に早くからポルトガルは外に目を向けられた。それ故、スペインは自国の中だけで精一杯。お金もなかった。むしろ莫大な戦費の借金だけがあった。スペインの海洋進出はコロンブスによる持ち込み企画から始まる。しかもスペイン王室には一切お金はかからない。むしろその成功報酬と、彼らが見つけた土地はスペイン王室のものになると言う特権付き。※ 公式に海洋に出る為には国と言う後ろ盾が必要だった。1492年~1493年 スペインからコロンブスは第一回航海に出航する。結果、スペインは新大陸の一部に到着し、スペインは図らずも中南米に進出した。しかしそこはコロンブスの目指したアジアではない。彼らは次にポルトガルと被らないようさらに西に進む。新大陸を越えて太平洋を越えて、ついにスペインはアジアに到達する術(すべ)を見つけた。それが、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)による南米南端を通過しての太平洋横断からのアジア到達。さらにインド洋を南下してアフリカ南端を回り欧州に戻る航海。マゼラン隊による世界一周の成功である。※ 1521年3月、マゼラン隊のフィリピン到達。マゼラン自身はフィリピンで死去。ところで、スペインが雇った、これら航海の船長や乗組員は、たいていが元ポルトガルの経験者であった。マゼランも同じ。因みに、この頃、フランスやイングランドは自国の戦争のただ中で海洋進出どころではなかった。フランスとイングランドの間は百年戦争 (Hundred Years' War)(1337年~1453年)があった。次に百年戦争敗戦の責任問題からのイングランド王家の王権争いが始まる。※ 薔薇戦争(Wars of the Roses)(1455年~1485年/1487年)フランス、イングランドとも、王家の海洋進出の関心は、まだ無かったと思われるが、北フランス(ノルマンデイー地方)やイングランド南部の船乗りらは新大陸に関心を持っていた。とは言え、コロンブスの発見以降、他国が新大陸アメリカに近づく事は許されなかったのだ。だから、「カリブ海の海賊」と言う者らが出現したのである。要するに密貿易に加えて密入国者らによる泥棒行為がスペイン領アメリカで横行したのである。海図の本「Eary Sea Charts」からChart of the World (新しい世界地図) 1666年制作 Pieter Goos(ピーテル・グース)(1616年~1675年)アムステルダム(Amsterdam)の地図製作者。1666 年以降、数多くの良質の地図帳を出版。彼はクリスマス島を地図を最初に記した人物。この地図にも記載されているが、最初の名前は「Mony(モニー)」だったらしい。17世紀に、こんな精巧な地図が描けていたのだから凄いスペイン王によるポルトガルの併合 太陽の沈まぬ国東周りでアジアの香料地帯に到達したポルトガル。一時はポルトガルが優位にいたアジア圏での交易。西周りの(アメリカ経由)太平洋横断の航路を開いてアジアの香料地帯に追随したスペイン。両者は話し合いで境界を決めて交易をしていた。東経144度に引かれたサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)線。1529年。※ この時のスペイン王はハプスブルグ家のカール5世(Karl V)(1500年~1558年)(神聖ローマ皇帝在位:1519年~1556年)。スペインではカルロス1世(Carlos I)(在位:1516年~1556年)と呼ばれた。お金が無いが為にせっかく得た権利(香料諸島であるモルッカ諸島)をポルトガルに売ったりもしていたスペイン。代わりにスペインはポルトガル領内であったフィリピンを手に入れて後年、太平洋横断航路「マニラ←→アカプルコ航路」を確立する事になる。※ 1521年マゼラン隊は太平洋越えを果たすが、往路太平洋越えは1565年までできなかった。※ 「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中で「モルッカ諸島の利権を手放した件」について紹介しています。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図ポルトガル併合両者はうまく住み分けしていたが、最終的にはスペインがポルトガルの全てを支配するに至るのだ。それは単純に相続問題で起きた事件であった。フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)の父はスペイン王、カルロス1世(ハプスブルグ家のカール5世)。そして母は元ポルトガル王女イザベル・デ・ポルトゥガル(Isabel de Portugal)(1503年~1539年)であったから、ポルトガル王家が断絶(1580年)するとフェリペ2世は王位継承権の正当性を無理くり主張し、ポルトガル王に承認された。スペイン王がポルトガル王としても即位したのである。Philip II in Armour(甲冑を着たフェリペ2世)1551年 推定24歳。画家 Tiziano(ティツィアーノ)(1490年~1576年) ※Tiziano(ティツィアーノ)は当時宮廷画家であった。所蔵 Museo del Prado(プラド美術館) 以前、「西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑」の所でフェリペ2世のマネキンが彼の特注の甲冑(かっちゅう)を着ている写真を公開しています。リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑フェリペ2世(Felipe II)(在位:1556年~1598年)としてスペイン王に即位。フィリペ1世(Felipe I)(在位:1581年3月~1598年9月)としてポルトガル王に即位。※ 海賊ドレイクが南米のスペインを襲っていたのがフェリペ2世の時代である。これにより、ポルトガルが所有していた領有権もろとも、スペイン王の元に管理される。世界を二分していた国が一つになったのだ。欧州圏(イベリア半島の支配)のみならず、スペインはポルガルが植民地にしていたアフリカの西南諸島や南米ブラジル。またインド、東南アジア(モルッカ)含めてアジア圏の全てを掌握。※ スペイン自体はすでにブラジルを除く中米から南米を支配していた。※ リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)Philip II at the Battle of St. Quentin(サン・カンタンの戦いのフェリペ 2世) 部分1560年 推定33歳画家 Antonis Mor (1519年~1575年)所蔵 サン ロレンソ デ エル エスコリアル王立修道院(Royal Monastery of San Lorenzo de El Escorial)ウイキメディアから借りました。1557年、欧州の覇権(はけん)をフランスと争いフランス北部のサン=カンタン(Saint-Quentin)で衝突し勝利。戦死者の為に1563年にマドリッド近郊にエル・エスコリアル修道院を建設。この絵画はそこの所蔵品。絵画では凛々しい姿であるが、フェリペ2世は各地に福王を置いて代理させて統治。1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移動はしたが、自身はエル・エスコリアル修道院隣接の宮殿に居住し、政務に専念。そこで亡くなっている。棺もそこにある。ここは王家の霊廟であり、彼の父カール5世の棺もここに安置されている。エル・エスコリアル修道院の空撮です。ウイキメディアから借りました。教会を囲み修道院があり、王室の宮殿もそれに付随して建築されているようです。残念ながら行ってませんでした。太陽の沈まぬ国の真実世界に植民地を持ったスペインの繁栄ぶりを形容する言葉が生まれている。太陽の沈まぬ国(the empire on which the sun never sets)。意味は、領有する土地(欧州、アメリカ大陸。アジア圏)のいずれかは必ず太陽が出ている。と言う事。太陽=昼間=経済活動の時間であるから「繁栄」を示す褒め言葉? である。しかし、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」の所「ジェノバ人の報酬」で書いたが、1530年以後、8000万ドゥカード(ducato)(金283.6トン?)の金銀がスペイン船によりアメリカ大陸から欧州に運ばれたが、全てがスペインのもうけになったわけではなく、1530年~1595年までの間、その30% (2400万ドゥカード)がジェノバ人の取り分なっていたとヴェネツィア駐在のスペイン大使が報告(1595年)している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人スペイン最盛期はこのフェリペ2世の時代に収まっている。スペインの盛況ぶりは誰が見てもあきらか。実際相当な収益はあったはずである。が、フェリペ2世は1556年の即位時、同時に莫大な借金も相続していたらしいのだ。スペイン王室はそもそもお金が無かった。長く続いたレコンキスタのツケもあったし、前王からの借金。(カール5世が神聖ローマ皇帝に即位する為にかなりのお金をばらまいたらしい。)※ 神聖ローマ皇帝は、(一応)選帝侯らによる選挙で選出されていたからだ。また自国の海軍構築の為の経費と、維持費が莫大な金額になっていく。所領も広がれば、護衛の為の艦船も増大する。※ スペイン海軍はアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)(1466年~1560年)の元で力を付け、一気に急成長。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年10月)ではローマ教皇に言われてしぶしぶ参戦し、艦船72隻を出して勝利に貢献はしている。※ リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦また、戦闘に出て艦船が損害を受ければ艦船の補修や造船にもお金はかかる。だからアルマダの海戦(1588年)の敗北と帰還途上の嵐による艦船の損害は大きかったろう。スペイン本国に戻れた船は約半分の67隻。つまり67隻相当の船の建造が後に必要になったのだから・・。ポルトガルの衰退スパイス・ハーブの独占と思われていたが、もともとアジア人やイスラム商人が買い上げていた事もあり、マラッカ支配も思うほどに収益が無かった? 商人らのマラッカ離れも起き始め、またネーデルランド(オランダ)の進出で、1600年代に入るとポルトガル領のほとんどが持って行かれる事になる。スペインの艦隊が取り戻した場所もあったらしいが・・。日本でも、江戸幕府に取入りポルトガルから出島を奪っているが、新大陸アメリカに有するブラジルもネーデルランド(オランダ)に狙われ、奪われ始めていた。最終的に、60年間スペイン支配の元にあったが、1640年、ポルトガルは反乱を起こしてスペインから独立を回復。が、かつてのポルトガル領はほとんど無くなっていた。要するに、フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)(在位:1556年~1598年)の時代は、スペイン帝国の最盛期であるが、同時に世界も大きく動いた激動の時代でもあった。あっちもこっちも事件で大変だったのだろうな。神聖ローマ皇帝の宝冠どころではなかったのかも。アルマダの海戦(Battle of Armada) イングランドとの因縁1588年7月~8月に英仏海峡で行われたスペインvsイングランド&ネーデルランド連邦共和国の戦い。冒頭触れた、ネーデルランド独立問題と、イングランドの海賊行為、また制海権問題もからみ、スペインが怒って始まった戦いである。フェリペ2世はカトリックに対する信仰が非常に強い王。国の統一もカトリックを持って統治を図っている。当然、新教のイングランドやプロテスタント化したネーデルランドを許せなかった。と言うのも戦争の要因にはあったであろう。が、それにしてもこの両者の戦いは青天の霹靂(せいてんのへきれき)だ。そもそもイングランドはずっとスペインに気を使ってきた経緯があった。コロンブスの発見以降、他国が新大陸アメリカに近づく事も許されなかったから王室としては手を出せなかった? いや、外洋に出る気持ちも以前は全く無かったと思われる。イングランド女王とスペイン王の結婚そもそも父カール5世までは共にフランスと戦うなど仲は悪くはなかった。イングランドも戦争のつけでお金がなかった事もあるが、少なくともメアリー1世女王の時までは良好であった。1554年7月、フェリペ2世(1527年~1598年)は11歳年上のイングランド女王であるメアリー1世(Mary I of England)(1516年~1558年)(在位:1553年~1558年)と結婚し、一時は共同王としてのイングランド王位が与えられた時期もあったからだ。※ メアリー女王は終生カトリック信者であった。イギリス国教会にしたのは父(ヘンリー8世)の離婚が要因のカトリック破門。彼女自身はカトリックに戻したかった。フェリペ2世は1556年にスペイン王として即位する為にスペインに帰国。1年半後にイングランドに戻るも、3か月の滞在でスペインに帰国。メアリー懐妊か?との期待はまさかの卵巣腫瘍の発症と言う不幸。メアリーは子を残さず、1558年に亡くなった。結婚生活4年。妻メアリー女王の次にイングランドを継いだのが異母姉妹のエリザベス1世(Elizabeth I)(1533年~1603年)(在位:1558年~1603年)である。彼女はカトリックではなかった。そもそも彼女の母と王の結婚でカトリックから破門になっている。フェリペ2世はイングランドに海賊の取り締まりを願い出ていたが、女王自身が加担していた事実も判明。先に触れたが、このイングランド女王(エリザベス1世)自体が海賊ドレイクに大口出資していたのだ。また、エリザベス1世はプロテスタントのネーデルランド(オランダ)の反乱を支援した事もあり、ネーデルランドも加わっての構図になった。スペインとイングランドの関係が崩れたのはエリザベス1世女王からなのである。アルマダの海戦(Battle of Armada)(1588年7月~8月)海戦の話に戻ると、この海戦自体はスペインが負けた。問題となるイングランドとネーデルランドに挟まれた英仏海峡で行われた海戦は、当然スペインが不利である。しかも、軍船の数でもイングランドとネーデルランドの方が勝っていた。イングランド&ネーデルランド連邦共和国 側戦力軍艦34隻・武装商船163隻(200トン以上30隻)・快速船 (en) 30隻 スペインの側戦力軍艦28隻・武装商船102隻The Spanish Armada off the English Coast(イギリス海岸沖のスペイン無敵艦隊) 1588年ウィキメディアから借りました。画家 コルネリス・クラースゾーン・ファン・ウィーリンゲン(Cornelis Claesz van Wieringen)(生年不詳~1633年) ※艦船や海戦の絵を得意とするオランダ黄金時代の画家。所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)スペイン無敵艦隊が負けた戦いと言われるが、近海のイングランドとネーデルランドが有利なのはどう見ても明らか。実際、アルマダの海戦でスペインは負けるが、その後再び制海権を取り戻し、全体的には1604年、スペインに軍配があがりイングランドに勝利している。サシでまともに戦えばスペイン艦隊の力はまだ大きかったと言う事だ。アルマダの海戦からわかる事冒頭に触れた1537年の教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令。※ カール5世(スペイン王在位:1516年~1556年)の在位中。これを契機にイングランドもフランスも、各国がすきをついて新大陸やアジアの市場に参入し、スペインやポルトガルの植民地が脅かされ始めて行く事になる。崩壊はカール5世の代から始まっていた。息子フェリペ2世の代でポルトガルが併合(1581年)され領土は世界最大規模になるが、広範囲に領地を持ったスペイン(ポルトガル)の戦いは領地を広げるよりも防衛に費やされる事になる。実際、スペインが欧州本土の80年戦争やフランス軍とのサン・カンタンの戦いなどで忙殺されている間に、ネーデルランドは密かに新大陸アメリカやアジアを目指し、ポルトガル領のブラジルの乗っ取りを開始していた。ポルトガル人の根拠地にネーデルランドは直接攻撃をかけての強奪である。自国で新地を開拓と言うわけではなかったらしい。それ故、ピルグリム・ファーザーズによる1620年のメイフラワー号(Mayflower)での新天地アメリカへ移民。それは純粋なアメリカへの植民として賛美されているが、それはかなりまれな行動だったようだ。つまり、1537年以降、スペイン・ポルトガルの敵は一つではなく、全ての国が敵になった。特にカトリック以外の国。新教を国教とするプロテスタントやイギリス国教会はローマ教皇の力が届かないからやりたい放題。手段に手加減はなかった。全員虐殺の場合も・・。軍船も兵士も足り無い? 軍費は増大するのも当然。フェリペ2世(Felipe II)(在位:1556年~1598年)以降スペインの力はどんどん弱まって行ったと言うが、それはフェリペ2世でスペイン帝国がピークを迎えたからだ。スペインの艦隊が劣っていたわけではない。ただ、各国の海軍力が増してきたから。各国が奪い合いで植民地争奪に参戦したからと言える。フランドル沖1602年 制作1617年ウィキメディアから借りました画家 ヘンドリック・コルネリス・ヴルーム(Hendrick Cornelisz Vroom)(1562年頃~1640年) ※ オランダ海洋美術または海景画の創始者と言われるオランダ黄金時代の画家。所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)80年戦争中の絵画。公式のタイトルでは、1602年、フランドル沖でオランダ船がスペインのガレー船に衝突となっているが・・。場所は英仏海峡。対岸はネーデルランド(オランダ)。スペイン船の姿は見えない。中心のガレオン船がネーデルランド(オランダ)の国旗となっている。また手前の沈没しかかっている初期型のガレー船はスペインのではない。ガレー船は近海用なのでスペインの船が外洋航海でこんなところまで来れない。手前2隻もネーデルランドの船。つまり見えているのまは全てネーデルランドの船。そもそもこんな海戦に初期型のガレーが出る事自体が無謀。もし本当に居たとするなら、人海戦術の特攻作戦だったのかな?スペイン・ハブスブルグ家とオーストリア・ハプスブルグ家フェリペ2世の代でハプスブルグ家はスペイン王家とオーストリア王家に分割される。父カール5世(スペイン国王 カルロス1世)の後、オーストリア王家の神聖ローマ皇帝を継承したのは父の弟でありフェリペ2世の叔父にあたるフェルディナント1世(Ferdinand I)(1503年~1564年)(神聖ローマ皇帝在位:1556年~1564年)である。※ 北部ネーデルランドはスペイン・ハプスブルグ家の管理。そもそも、フェルディナント1世は繋(つな)ぎ。次の神聖ローマ皇帝にはフェリペ2世に戻すようカール5世は決めてたらしいが、1550年、父カール5世とドイツを訪問したおり、フェルディナント1世は帝位を渡すのを拒んで口論になったと伝えられる。結果的にフェルディナント1世の家系がオーストリア・ハプスブルク家として神聖ローマ皇帝の帝位を継いでいく事になる。フェリペ2世が容認したかは不明。下の絵画は以前一度紹介したものですが、80年戦争中盤頃のスペイン船です。スペインのガレオン船(Galleon)の軍船の絵画(部分) 描かれた年代は1618〜1620年オランダとの海戦中の絵画(部分)で、下がオランダ船タイトル オランダとスペイン軍艦の遭遇(A Naval Encounter between Dutch and Spanish Warships) 1618〜1620年画家 Cornelis Verbeeck (1585or1591年~1637年頃)原画 米国ワシントンD.C.の国立美術館(The National Gallery of Art) 出展(ウィキメディアから)マドリード王宮(Palacio Real de Madrid)フェリペ2世は1561年に宮廷をトレドからマドリードに遷都。しかし、彼自身は先に触れたがマドリード近郊のエル・エスコリアル修道院に居住して政務をとった。真の意味でマドリードが発展したのはフェリペ3世治世から。都市計画がいくつもたてられ少しずつ改革された。※ マヨール広場 (Plaza Mayor)は、フェリペ3世が建築家ファン・ゴメス・デ・モラに命じ、1619年に完成された広場。フェリペ3世(Felipe III)(1578年~1621年)スペイン、ナポリ・シチリア、ポルトガルの国王(在位:1598年~1621年)※ ポルトガル国王としてはフィリペ2世。父はフェリペ2世。母は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アナ。1734年に古い王宮は焼失。現在の王宮はフェリペ5世(Felipe V)(1683年~1746年)による造営。建築はイタリア人建築家フィリッポ・ユヴァッラ(Filippo Juvarra)(1678年~1736年)。18世紀のもっとも偉大な建築家と言われる。1764年、後期バロック様式で完成。カルロス3世(Carlos III)(1716年~1788年)の治世から王宮として稼働。王宮の見取り図マドリード王宮(Palacio Real de Madrid)Aの位置(アルメリア広場)からの王宮写真古い写真なので解像度が悪いのですが、全体の写真として一応のせます。Aの位置からの王宮写真撮影禁止であったので内部写真は無い。アルムデナ大聖堂(Santa María la Real de La Almudena)Bの位置(アルメリア広場)からのアルムデナ大聖堂。アルムデナ大聖堂(Santa María la Real de La Almudena)の建築は割と近年。計画は16世紀にありながら、着工は19世紀。スペイン内戦(1936年~1939年)の間中断し、完成は1993年。ゴシック・リヴァイヴァル建築で設計されている。フェリペ4世騎馬像オリエンテ広場(Plaza de Oriente Square)前のモニュメントがフェリペ4世騎馬像である。バックは王宮の側面。Cの位置からの写真。そもそもこの騎馬像は、当時宮廷画家であったベラスケスが描いた自分騎乗の肖像画がカッコよかったので、立体で造らせた物らしい。因みに、ベラスケスの騎乗作品はみな後ろ足で立っている。馬の後ろ脚だけで立っている銅像は初? このバランスをいかにとるか? ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)(1564年~1642年)に相談したらしい。ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)(1599年~1660年)はスペイン黄金時代のバロックの画家。国王フェリペ4世の肖像画を描いて気に入られ1623年宮廷画家に。件の騎馬の絵画は1635年~1636年頃に制作されたもの。フェリペ4世(Felipe IV)(1605年~1665年)スペイン・ナポリ・シチリアの国王(在位:1621年~1665年)ポルトガル国王としてはフィリペ3世(在位:1621年~1640年)フェリペ4世の治世は、まだ強国としての地位を保っていたらしい。スペイン(カトリック) vs ネーデルランド(プロテスタント)の戦いネーデルランドがスペイン・ハプスブルグ家の所領に入るのはフェリペ2世がスペイン王位を継いだ1556年である。フェリペ2世は強いカトリック信仰を持つ王。しかし、ネーデルランドはカトリックよりもプロテスタントの人口の方がもともと多い地域。スペイン王家の意向と、支配される側との相容れない溝は容易に想像できる。プロテスタント側の武装蜂起で始まった80年戦争1566年、ネーデルランド全土のカトリックの教会がプロテスタントの暴徒に襲われ、聖像など破壊されると言う大事件が勃発。カトリック信仰の強いフェリペ2世は激怒した事だろう。この教会破壊によって、偉大な聖人の遺物や聖人の墓なども消えた。巻き添えで破壊された教会の墓も多数。以前紹介したが、ゲントではドミニコ会修道院がプロテスタントの襲撃にあい、所有する聖書や本など手書きの貴重な蔵書30000冊が川に投げ捨てられたと言う。暴徒となったプロテスタントの破壊行為は今考えれば歴史の大損失をおこしたと言える事件です。1568年、フェリペ2世は暴動の鎮圧に一万の軍を出し、暴動の首謀者? ネーデルランドの貴族20人余りを処刑した。プロテスタント側からすると、処刑されたのは彼らの英雄。この事件が、80年に及ぶスペインからの独立戦争に発展する。つまり、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)はネーデルランドのスペインからの独立戦争となり、そもそもが宗教的摩擦が大きな要因で始まったのである。それは、さかのぼれば、マルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)の宗教改革が、特に北部フランドルに浸透してプロテスタント人口が増えた事があげられる。因みに、ドイツに逃れて無事だったオラニエ公ウィレム(Willem I)(1533年~1584年)(1544年家督相続)が以降中心となってネーデルランドの独立戦争は進んでいく。1579年、ネーデルランド北部7州はユトレヒト同盟を結び協調を強める中、1584年、オラニエ公ウィレム1世(Willem I)はデルフト(Delft)で暗殺された。最終的に80年戦争で負けたスペインは1648年、ネーデルランド連邦共和国の独立を許す事になる。※ オラニエ公ウィレム1世については以下で書いてます。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)そんな場所をカトリックのスペイン・ハプスプルグ家が管轄したのがそもそもの問題だったかも・・。※ 北部フランドルはカール5世の出身地ではあったが・・。プロテスタント信仰ができた訳ヴィッテンベルク大学神学教授であったマルティン・ルターは1517年、95ヶ条の論題を示してカトリックの教会に挑んだ。教会の過ぎる権威と金取主義に疑問と否定を示し、かつ自身は(新約)聖書を庶民でも読めるようドイツ語に翻訳して出版。これは爆発的に売れた。※ それまでの聖書はローマ帝国がキリスト教を公認して以来のラテン語表記。学識ある物しか読めなかった。要するにプロテスタントは新約聖書の福音のみを必要な部分と説き、贖宥状(しょくゆうじょう)を否定。且つ、カトリックの聖人や過剰な装飾を全否定して排除したのである。※ ルターの聖書の話は「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」で書いてます。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)※ ルターが怒った聖異物崇敬や贖宥状(免罪符)などは以下に書いてます。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)※ 贖宥状(免罪符)の真実を以下に書いてます。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家※ オラニエ公の話と日本がプロテスタントの国と交易を始めた理由(出島問題)を書いてます。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)因みに、こうした事件の結果? オランダ、ベルギーなどプロテスタントが多勢の地域の教会は殺風景。本当に何も装飾が無い所がほとんどです。それ故、教会に行った所で箱だけ。感動はほぼ無い。付け加えるなら、ルター否定のカトリックの煌(きら)びやかな装飾は神の世界を表現している。信者に(天国を)体現してもらいたいと言う理由も込められている。また、例え器は質素でも、偉大な聖人のお骨があり、ご加護がもらえる。と言うのもカトリック教会の売りではあった。教会は大も小も自身の教会に信者に来てもらいたかった。お布施が欲しかった。と言うのが本音です。それはヴァチカンも同じ。教会の維持費や建て替え資金などお金はいくらでも欲しかったからだ。もし、贖宥状(免罪符)などと言う詐欺まがいのお札(ふだ)を発行してまでお金を集め無ければ、プロテスタントは生まれなかったかもしれない。ネーデルランド(オランダ)黄金時代の始まりネーデルランドに入る前に、まず、大航海時代が始まるに至る理由のおさらいです。ポルトガルが、スペインがアジアを目指したのは全てスパイス・ハーブほしさからです。結果、これが、彼らの世界を広げる航海につながった。スパイス・ハーブを「香辛料」と言うワードでくくると誤解が生じます。そもそも料理の素材として求められたわけではないのです。確かに、大航海時代を得て大量のスパイス・ハーブが欧州に入ると料理にも使われたりしますが、用途は主に薬用です。飲むだけでなく、化粧品にも昔から使われていた。しかし、歴史をさかのぼれば、薬用と言うよりは神殿で神の為に炊かれる薫香(くんこう)、すなわち「神の香」の材料として始まっているのです。以前、その理由は「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」でかなり詳しく書きました。私自身「香辛料」と題しちゃってますが・・。以下にリンク先をしるしました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史モルッカ諸島(Moluccas)ネーデルランド(オランダ)もブラジルだけでなく、モルッカ諸島(Moluccas)をめざしてアジアに向かいます。現在のインドネシア共和国のセラム海とバンダ海に分布する群島がスパイス・ハーブの産地であるモルッカ諸島です。そこは古代ローマ帝国の時代からアラブ人経由で運ばれていたスパイス・ハーブの産地。スパイス・ハーブの産地を突き止めたポルトガルがアフリカ南方を回り、インドを経て東周りに到達。欧州勢一番に乗り込んで直接買い付けを始めた場所。スペインは西周りでモルッカ諸島に到達するが、両国は話し合いで住み分けをした。当初そこはポルトガル独占かに思えたが・・。実はもともとのアラブ人やアジア人の買い付けも来ていたし、ポルトガルは独占を考えたが実際はできなかった。また、マラッカを支配し、入港する船にベネチア式の税金をかけようとして失敗している。上段が1642年、ポルトガルが制作した地図。下段が1600年前後のアジアとしてしるされている世界地図(吉川弘文館)から一部。上下とも同じ場所、ほぼ同じ年代です。地図を見ていると、1600年代に入るとほとんどネーデルランド(オランダ)に利権をもっていかれているのがわかります。ポルトガルはマラッカを死守して寄港する船に関税をかけたらしいが、そうなるとほとんどの船はマラッカを回避したと言われている。ポルトガルの敗因はどこだったのだろうか?ポルトガル(国家事業) vs ネーデルランド(株式会社)ネーデルランド(オランダ)はそもそもポルトガルとスペイン連合の勢力が及んでいない場所から入り込んでいる?ポルトガルとスペイン連合との利害に反する地域を狙ったらしい。ポルトガルはマラッカを貿易港にしたが、ネーデルランド(オランダ)はその対岸のスマトラやジャワに目を付けた。マラッカを良く思っていない土地や港を狙って交易を持ちかけたらしい。そしてそこに商館を建て、時に内政干渉して勢力を強めて行く事になる。ポルトガルの交易はそもそも国家が主体。従業員はそもそも国家公務員のようなもの。ネーデルランドの方は何と世界初の株式会社として「オランダ東インド会社」(1602年~1799年)を設立して交易に参入して来た。商売のやり方や考方も全く違っていたわけだ。オランダ東インド会社は利益を求めた。時に原住民を皆殺しにする。と言う過激な手法も使っているし、政権争いしている王族らに介入して利権を得たりもしている。1623年、アンボイナ事件が勃発。オランダ東インド会社は利権を得る為にイギリス東インド会社のイギリス商館の職員を全員殺害してイギリスをインドネシアから追い払っている。オランダ東インド会社はかなりあこぎな事して成功を収めているのだった。この一件からイギリスは東南アジアから撤退しインドに専念する。以下はネーデルランド(オランダ)に取られていった場所。1602年、香料諸島南方のバンダ(Banda)1603年、ジャワ島のバンタム(Bantam)1603年、マレー半島のジョホール(Johore)1605年、香料諸島南方のアンボイナ(Amboina)1609年、ジャワ島のバァタビア(Batavia)(ジャガトラ)1612年、香料諸島南方のティモール(Timor)1635年、ボルネオ島のバンジェルマシン(Banjermasin)1641年、マレー半島のマラッカ(MalAcca)1659年、スマトラ島のパレンバン(Palembang)1664年、スマトラ島のパダン(Padang)ポルトガルは原住民と独占商売をしたかっただけ。一方、後から参入したネーデルランド(オランダ)は、原住民を皆殺しにしても全部奪いたかった?生き残った原住民は奴隷のようにプランテーションで働かされている。Model ship William Rex(ウィリアム レックス船の模型) 1698年サイズ 510cm x 464cm x 225cmオランダ海洋博物館(Het Scheepvaart Museum)オランダ(Dutch Republic)の強さは艦隊にあったと言う。強い海軍を誇示する為にこの全長5mに及ぶ船の精密な模型がゼーラント海軍本部の為に展示品として造られたらしい。オランダ海洋博物館(Het Scheepvaart Museum)は、1657年に海軍補給庁として建設された建物を改装してできた博物館。オランダ東インド会社については次回に・・。また、「黄金時代」と呼ばれたのは交易の事だけではありません。冒頭触れた「科学、軍事、芸術の分野もでも一躍トップに・・。」の理由入れ忘れました。次回にいれます。Back number アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年10月14日
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タイトルを変更しました。これは次の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の序章となっています。 ラストに画家カラヴァッジオ (Caravaggio)について説明不足だったので追記もました。さて、そろそろ向き合わないといけない頃合いです。中断していた「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズですが、実質マゼラン隊の活躍までを紹介していましたから、ポルトガルからスペインが台頭してきたあたりで終わっていました。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)一時はポルトガルとスペインにより独占されていた世界への航海事業ですが、1537年以降、大きく事情が変わり、世界への進出は早い者勝ちのサバイバル戦に突入していきます。その後、オランダが参入し、英国も大航海に参入。フランスも艦隊を持ち、欧州各国の東インド会社が林立する欧州勢によるアジアの植民地化が始まるのです。この情勢の変化については、すでに「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中、「サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」で紹介していますが、教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が1537年に公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)が要因でした。教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)は1493年に発令されていた教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」を否定し、無効としたと言う内容です。これによりローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)が決めたポルトガルとスペインの海洋進出の境界線となる「教皇子午線」が無効となったのでした。※ 1493年の教皇勅書は、海洋進出の先端を行っていたポルトガルとスペインの争いを止める為にローマ教皇による裁定として、ポルトガルは東へ、スペインは西へと領土の獲得を認めたもの。その境界の線が「教皇子午線」と呼ばれるものです。※ この教皇子午線を後に両国の話し合いで微妙にラインの位置を調整。それがトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線です。そもそもこの境界線を設けるにいたった1493年の教皇勅書インテル・カエテラ(Inter caetera)は、実はスペイン王(カステーリャの王)からの申し出で、スペイン出身の教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)を使いスペイン有利に動かした勅書だったようです。しかし、各国の海洋進出が始まるとそもそも「ポルトガルとスペインだけが世界の土地を獲得できる。」とする裁定は不公平だ。と言う苦情は当然の話。それが1537年の教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の発令に至ったようです。そんなわけで、1537年以降、大航海時代は欧州各国が参戦しての第二章? に突入したのです。今後、どこまで書けるかは資料しだいです。現段階では白紙なので・・で、今回はまだ病み上がりの身。とは言え退院の報告だけと言うわけにはいかないので「アジアと欧州を結ぶ交易路 」のイントロのつもりで、次の大航海の覇者となるオランダの静物画から紹介しようかと思います。静物画? これは大航海がもたらした交易品の見本でもあるのです。大航海時代の静物画オランダの貿易を示した名画アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金絵画のカキとオレンジ80年戦争終結後のオランダの快進撃ヴァニタス(vanitas)画カラヴァッジオ (Caravaggio)「stillevent」はオランダ語で「静物」。静物画は17世紀のオランダで確立した絵画と言われる。オランダ語で stillevent → 英語で still life「動かない生命 or 物言わぬ生命 or 静かな生命」 の意から 日本語では「静物」と和訳。しかし、フランス語では → Nature Morte「死せる自然」と、「静物」を意味しながらも解釈に違い(悪意)がある。これには、フランスやイタリアなどでは、静物画に対する評価が低かった。と言う背景があったらしい。昔から静物画の絵師はいたし、少ないながらもあるにはあったのですが、ジャンルとして確立したのがこの時代なのかもしれない。理由の一つがオランダはプロテスタント国であると言う事。つまりプロテスタント国なので宗教画が存在しない。それ故、オランダでは風俗画や静物画が生まれる土壌にあったと言う事です。今回紹介する絵は静物画でも、オランダならではの静物画と言える逸品です。また、それは当時のオランダを物語る絵画でもあるのです。オランダの貿易を示した名画今回はウイーン美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で見つけたヤン・ターフィッツゾーン・デ・へーム (Jan Davidszoon de Heem) (1606年頃~1683/1684年)の静物画から。A Richly Laid Table with Parrots(オウムと豪華なテーブル) 1650年代一見、豪華な食卓。明らかにこれは王侯貴族や富裕な商人の食卓?はっきり言えばこれは自慢(じまん)とも言える絵画です。こんな豊かな、種類豊富な品がうちにはあるのですよ。と言う絵なのです。つまり、オランダがすでに海洋進出を果たして、「世界から素晴らしい逸品を集めて来た」と言う自慢の絵であり、同時にこんな品が手にいれられますよ。と言うセールスの意味もあるのです。アメリカ大陸からの珍獣とブドウと黄金大型インコカラフルな鳥は Red-and-green macaw(紅コンゴウインコ)。南米北部と中央部の森林や林地に広く生息するAra属(新熱帯のコンゴウインコ属)の中で最大の種。ペットとしてのみならず、肉用に狩猟もされていたらしい。はるばる大洋を越えて運ばれて来た大型のカラフルな鳥。珍品中の珍品である。しかも生きて運ばれてきた事は凄い事である。またその美しい色に魅了された事だろう。※ 近年は土地利用の変化によりアルゼンチンの生息域全体で絶滅されかけ、絶滅危惧種に指定されている。また、紅コンゴウインコは一般的に生涯にわたってつがいで行動するらしい。黄金絵画に描かれている黄金はもちろん南米からの品と思われる。むしろ南米を示唆する為に敢えてのせたのかも・・。オランダは当初スペインハプスブルグ家の統治下にあったから、オランダが最初に船を進めたのは南米であったと思われる。ブドウブドウであるが、これもまた輸入品であろう。スペインかポルトガルかフランスあたりから?ブドウの栽培には一定の温度が必要。近年は品種改良して北限が上がっているが、かつてはドイツが北限とされていた。オランダでも南のフランドル地方では10世紀頃にはワイン用のブドウ栽培はされていたらしいがかつてのフランドルは広域だったからね。※ ワインの産地ブルゴーニュもフランドルと合併して、かつてはフランドル公領であった。桃と生ハム絵画の桃もまたスペインかもしれない。丸い桃だから。では生ハムは?諸々スペインなのでスペイン産の生ハムやかもしれないが、私的にはイタリアのパルマの生ハムの方が優位。鍵のついた箱は、中に富がつまっている事を象徴としているのかも。こういう静物画は、描かれているモチーフの意味がよく言及されるものだ。特にヴァニタス(vanitas)と呼ばれる静物画はそのモチーフが象徴を持って暗示される事から、絵画事態の意味を言及しがちであるが、今回の「オウムと豪華なテーブル」のような単に持って要る物自慢のような静物画も存在する。ヒラガキの皿の手前の銀の容器は胡椒(こしょう)入れかも。つまりスパイスも輸入できます。アジア方面もお任せください。と言う意味かも。絵画のカキとオレンジ学名:Ostrea edulis 俗にヨーロッパヒラガキと呼ばれるカキで、分布域はノルウェー中部からモロッコ、特にブリテン島および地中海沿岸に生息しているカキ。絵画のヒラガキは現在は養殖され欧州の主流であるが、当時オランダには生息せず、これらは輸入品である。フランスブルターニュのブロン川(Belon River)が本場な事からブロン牡蠣(Belon oyster)とも呼ばれる。1950年代になってオランダは自国での養殖を試みたが失敗している。(その後自生)オレンジも同じく輸入品。オランダでは生産できないのだ。スペインからの輸入品と思われる。先にも触れたが、オランダは独立を果たすまで、長い間スペインの統治下にあったからだ。それにしてもオランダでは現在もオレンジは非常に人気のフルーツ。そのまま食すと言うより、主にジュースとして食す。スーパーにはオレンジと共にオレンジ絞りのマシンが必ず置いてある。80年戦争終結後のオランダの快進撃この絵の制作年は1650年代。この絵は80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)終結後に描かれたと推定される。80年戦争は結果的にオランダがスペイン・ハプスブルグ家支配から独立を果たした戦いであったが、戦争終結後も変わらず物流はあったのだろう。80年戦争については、以下で書いてます。リンク デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)独立の中心人物となるオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)については以下に。リンク デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)この回もよかったら見てね。オラニエ公の屋敷と、オランダと日本の関係のきっかけとなったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)の事にふれています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)オランダが30年戦争(1618年~1648年)でプロテスタント側として勝利し、神聖ローマ帝国からの離脱が認められた事。80年戦争で勝利し、ネーデルラント連邦共和国が国家として認められた事。これらはオランダの海洋進出の快進撃につながって行く。つまり、オランダの快進撃が始まるのはスペインからの独立後であり、ローマ・カトリックからの離脱後なのである。1603年、すでにオランダはジャワに商館を置いてアジア諸国との交易は始まっていた。国の独立とカトリックからの離脱はオランダと言う国が宗教にとらわれず、商魂たくましく、利益追求で商売を成功させる後押しになっている。ヴァニタス(vanitas)画ヴァニタス(vanitas)とは虚しさを現す静物画の一つです。ウィキペディアには、「16世紀から17世紀にかけてフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれた。」と書かれていますが、実は古代ローマの時代にはすでに存在していたのです。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の中、「古代のヴァニタス(vanitas)画」として紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権ただし、内容はカトリックの時代のヴァニタス(vanitas)画と古代ローマ時代のヴァニタス画は全く意味が異なるのです。それは宗教の違いによる死生観が異なるからです。カトリックの時代のヴァニタス画を最初に描いたのはイタリアのカラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)かもしれません。バッカス(Bacchus) 1596年制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 ウフィツィ美術館(フィレンツェ)バッカス(Bacchus)は、ローマ神話のお酒の神様。※ ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。通常のバッカスならば、描かれるのはブドウのみ。彼は酒の神。ワインの神であるからだ。しかし、カゴの中には熟してはじけたザクロと虫食いのリンゴや腐りかけたフルーツなどもりだくさん。しかも、若い少年でバッカスを表現したカラヴァッジオ。しかも妙になまめかしく少年バッカスは誘っている。故に、そこには若さは一瞬のもの。すべては腐敗し、滅びゆくもの。喜びもまたつかのもの儚いもの。と言う暗示がこめられている。この絵は彼の後援者であった枢機卿の為に描いたとされる事から枢機卿に男色があったのか? と言う事も想像される。モデルは枢機卿のお気に入りか? あるいはカラヴァッジオ自身も男色だったので、彼の恋人がモデルの可能性もある。カラヴァッジオはこれ以前にもバッカスを描いているし、また少年がフルーツ籠を持つ絵も描いている。こだわったのは少年か? フルーツか? いずれも儚い生命だ。ところでカラヴァッジオは「花を描くことは人物を描くのと同じ価値がある」と言って静物画も描いている。その言葉通り、彼の静物画はまるで写真のような写実画となっている。さすがカラヴァッジオである。素行は悪かったが、絵の腕は一級品だった。果物籠(Basket of Fruit) 1595年~1596年頃制作。ウィキメディアからかりました。所蔵 アンブロジアーナ図書館以前デルフトのプリンセンホフ博物館で見つけたヴァニタス(vanitas)画を紹介しています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)一般的にヴァニタス(vanitas)画が意図するのは、「人生の儚さ(はかなさ)、現世の虚しさ(むなしさ)を警告する寓意」が主となっています。が、ローマ時代のヴァニタス(vanitas)画と、中世キリスト教下のヴァニタス(vanitas)画と、また新教誕生後のヴァニタス(vanitas)画とは、儚さ虚しさの意図する所が微妙に異なっているのです。つまり、与える教訓が違う。一言で言えば同じヴァニタス(vanitas)画に見えても、解釈には宗教による死生観の違いがある。という事です。カラヴァッジオ (Caravaggio)カラヴァッジオ (Caravaggio)(1571年~1610年)聖書をモチーフにした作品が多いイタリア、バロック期の画家。彼の描く聖人のドラマはどれも傑作で、本当に腕は素晴らしい画家であるし、彼の功績は諸々あるのだが、他の画家らの作品をけなしたり、破いたり、誰に対しても不品行で喧嘩っ早く、すぐに暴力事件を起こす問題児であった。その為、恨みで襲われる事もあったからか? 画家なのに常に武器を携帯し、ついにはそれで人を殺してしまう。パトロンらも彼をかばいきれなくなるとローマから逃走。ナポリに逃げ、次に地中海に浮かぶマルタ島に渡るが、ここでもマルタ騎士団といざこざを起こし投獄される。それを脱獄して今度はシチリア島に渡る。彼の後半生は逃亡の歴史だ。しかし、彼は行く先々で多数の名画を残している。シチリアでも素晴らしい作品をたくさん残している。逃亡中とは言え、彼は一流の画家、多額の謝礼を受け取れる仕事をあちこちでこなしているのだ。素行は悪いのに彼はカトリックの聖人像を多く描いているのだから驚く。教会の仕事が多いのだ。光と影の画家と言うとレンブラントが思い浮かぶ人は多いかもしれないが、そのレンブラントは実はカラヴァッジオをお手本にしている。しかもカラバッジオはリアリズムを追求する画家。「死せるキリスト」を描くのに、テレベ川に浮かんだ水死体をモデルに描いた。と言うとんでもエピソードが私に画家カラバッジオを印象づけた。美術館に行けば必ず確認する画家の1人となったのだ。たいていの大きな美術館には必ず所蔵されています。シチリアに9か月滞在し、またナポリに戻るが、最終的に恩赦を待ちローマに戻る予定であったらしい。が、ここで彼の消息は消える。途中熱病で亡くなったと言う知らせがローマに届いたらしい。本当に病死なのか? 殺されたのでは? 1610年7月18日に亡くなったと言う知らせ以外に情報はなく、遺骸がどこに埋葬されたかも不明なのだ。次回は、「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズ、オランダ編の予定。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防 静物画にみるメッセージリンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年09月02日
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今回も焼物の話です。前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で載せきれなかった大陸の磁器や陶器を扱う予定でしたが、結局、焼物史をさかのぼる所から始めてしまいました。土器の写真もいろいろあったので・・。と、思ったのが失敗?マズイ!! 土器だけでも分量多い。半分以上進んでも着地が決められなくて・・。考えているうちに眠くなるのでした。結果、焼物史を一気に終わらせるべく引っ張りましたが、青磁(せいじ)までで断念しました。分量もいつも以上、写真多め。長すぎてチェックもままならない。とりあえず書いた所まで載せます。何回かに分けて読んでいただければ幸いです。m(_ _)m焼物自体はベースとなる粘土の素材と焼成温度や焼き方等で異なるのですが、実用と品質と言う観点から見ると、古来より素材や焼き方などもさらに研究されより素晴らしい焼物へと変化をたどっているのがわかります。焼物の頂点? 素材も特殊、焼成温度も非常に高温で、簡単に造る事ができない焼物が前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で紹介した磁器です。それは芸術性も加えて磁器は最高峰にある焼物でしょう。それにしても「焼物史」追っていて気付いたのは、これは人類史そのものなのだと・・。人が道具をもって進化した。その最初の道具が石器で、次に土器(焼物)。それらは後に生活の一部から芸術にまで発展する。その焼物は科学と言う技術も加わり大きく発展。特に日本には多種の焼物が存在しているので難しい回となりました。写真は大阪堺市の博物館、ギリシャ考古学博物館、韓国国立博物館、他から持ってきています。なお、資料としての必要性の為に陶磁器の本からも作品をひっぱらせてもらっています。焼物史 土器から青磁まで焼物(土器)の出現土器(どき・earthenware) 素朴な土器、土師器(はじき)須恵器(すえき)系土器須恵器(すえき) 陶質土器朝鮮半島との交流酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明コリントスの黒絵式陶器彩文土器 黒絵式彩文土器 赤絵式陶器(とうき・pottery)唐三彩と奈良三彩遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)ガラス玉職人と釉薬平安の緑釉陶(りょくゆうとう)高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)古瀬戸 伝承古瀬戸 美濃焼武士の茶の湯が求めた自然美の造形須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)高麗青磁青磁の色貫入(かんにゅう)焼物(土器)の出現ざっくり言うと焼物は土器(どき)類、陶器(とうき)、磁器(じき)に分類される。これらは、まずベースとなる粘土の素材が異なる。次に焼き窯が異なる。それは焼成温度の違いで明確に分かれ、かつ焼き方にも違いが出ている。同じ焼物でありながら、全く別次元のものとなっている。では、そもそも最初の焼物(土器)はいつ頃出現したのか?どこの国も原始に人が道具を使いだした頃に出現している。旧石器時代(Pal(a)eolithic Age)・・石器の出現から農耕の開始までの時代。狩猟具としては細石刃(さいせきじん)がメイン? 新石器時代(Neolithic)・・農耕・牧畜の開始。磨製石器の出現と土器の使用。 人口の増加など人間社会の変化が道具を変えた。 新石器革命(Neolithic Revolution)とも呼ばれ、石が加工され、焼物も現れた。旧石器時代と新石器時代の仕分けは、まさに人の生活にかかわる道具の変化などで仕分けられています。つまり、社会性が求められる農耕社会が訪れた頃、土器も出現している。とは言え、世界をみると文明の開始年代に地域差がものすごくあります。※ 文明の開始に数千年の開きがある所も。日本だけ考えるなら問題ないですが、世界でみた時に新石器時代は国により年代がかなり異なっているから特定年は入れられない。よって、文明の開始や焼物の出現、また変遷は地域ごとに考察したう上で、次のステップとして地域の国々との関連を考察するしか無いと言う事です。因みに、中国の長江(ちょうこう)では10000年前、細石刃石器群に伴って土器が出現しているらしいし、最新の情報では、中国江西省で、約20000年前とされる世界最古の陶器片が発見(2012年)されたそうです。(米科学誌サイエンスで論文発表。)放射性炭素年代測定によると、洞窟は約2万9000年前から1万2000年ほど前まで人が暮らしていた事がわかったそうだ。最も文明が早く始まった場所は、やはり中国なのか? ところで、土器の使用が新石器時代なので、日本の縄文時代は新石器時代に分類される。参考に日本における年代の仕分けです。旧石器時代 約30000年前縄文時代 約1万2000年前~2500年前・・土器の使用開始弥生時代 BC5世紀〜3世紀中頃 ・・水田稲作開始古墳時代 3世紀中頃〜7世紀頃 ・・ガラス玉、青銅鏡出土(いづれも大陸からの伝来品)飛鳥時代 592年〜710年奈良時代 710年〜794年平安時代 794年〜1185年鎌倉時代 1180年〜1336年室町時代 1336年〜1568年江戸時代 1600年〜1868年まずは土器から入りますが、気候の温暖化と植生、動物相の変化もまた土器の出現に関係しているらしい。土器は食す植物類の為の加工に欠かせない道具であったらしいのだ。もっとも文明に使用された道具も地域差があるようですが・・。※ 焼物から青銅器やガラスなどに早くから移行した地域など土器の進化だけでは計り知れない場所もある。比べるものではないかもしれないが、やはりエーゲ海史に残る焼物は同じ土器でも次元が違う。生活スタイルが違うと言えば違うけど・・。ギリシャ考古学博物館 たこ足文様の壺?(土器) 紀元前1450年~紀元前1400年頃Minoan Santorini Akrotiri pithoi jarミノア文明 サントリーニ島 アクロティリ遺跡の壺(つぼ)水瓶か? あるいはワイン壺に利用されていたかもしれない。ミノア期にはすでにワインが造られクレタ島に輸出していたから・・。それにしても土器でこれだけの大きさの壺。よく今まで残っていたものです。サントリーニ島は以前紹介していますが、エーゲ先史では、2万年前に旧石器時代が始まっている。サントリーニ島自体はクレタ島に隣接し、クレタ島と同じようにミノア文明下で繁栄していた。※ 初期ミノア文明の開始はBC3650年~BC3000年頃?しかし、サントリーニ島は火山のカルデラ島です。大きな噴火で時の文明は滅んだのである。※ コロナ時に「サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説」書いてます。リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説ギリシャの土器は後でまた触れます。土器(どき・earthenware) ここでは土器一般と日本の土器についてです。土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので吸水性が高い(水が浸透してしまう)焼物だ。土器類も初期物「素朴な土器」から、「土師器(はじき)」、「須恵器(すえき)系土器」と焼物としての進化がみられる。素朴な土器人類史の最初の焼物が土器である。原始の頃、窯は無い。土をこねて形を造り、野焼きで焼成。「野焼」の焼成温度は700℃~800℃。土器は壊れやすく、形状も厚みがある。当初は、そこらへんの田畑の土や粘土を固めて積み上げた日干しレンガのようなものから始まったのかもしれない。自然の太陽光が、土を固める事を教えた?さらに火によってそれはもっと強度のあるものに変える事を知った?火おこしした焚火の中に置いて焼いたものはもっと強度を増した?それは偶然の発見から始まったのかもしれない。縄文土器から土師器までの土器は、日本列島古来の技法らしいが・・。※ 墓に土器類を埋葬する習慣のある所は古いものも出土したりする。日本では9000年以上前の縄文時代の土器が出土もしているが・・。土器の発祥が、日干しレンガのようなものから始まったのなら、それは人々の定住生活の中から必然的に始まったのかもしれない。教科書でお馴染み新石器時代の縄文時代中期の土器 火焔型土器(かえんがたどき)伝 新潟県長岡市 馬高出土。東京国立博物館展示品。写真はウィキメディアから借りました。燃え上がる炎のような形状から火焔型土器(かえんがたどき)と呼ばれている。見て「なるほど」なのであるが、縄文時代にずいぶんとアーティスティックな形状である。しかもこの土器は一つではない。東日本全体でもほぼ同じようなものが200以上の遺跡で出土しているそうだから驚きである。※ 制作年代は5300年前から4800年前の間500年と考えられている。※ 主に信濃川流域の遺跡から出土。また、これと対になるのか? 同じような文様の王冠型土器(おうかんがたどき)と言うのが存在する。表面デザインの意匠はほぼ一緒。片や派手に開いた火焔のデザインに対して、王冠の方はシンプル。でもこの文様は水? 波? を示しているようにも見える。これだけ凝って立派だから何かしらの祭祀に使われていたのではないか? と、想像できる。上に同じく新石器時代の縄文時代中期の土器 王冠型土器(おうかんがたどき)新潟県津南町 堂平遺跡出土。写真はウィキメディアから借りました。土師器(はじき)同質の焼物が海外にあるかもしれないが、「土師器(はじき)」の名称で日本独自の土器とされている。土師器(はじき)は、古墳時代から奈良、平安時代(~12世紀)まで生産され実用されていた赤褐色の素焼の土器。軟質素焼きの弥生式土器に代わり登場した。野焼き、もしくは穴を掘って窯として? 焼成。焼成温度は800℃~900℃。埴輪も土師器に分類。素朴故、位置づけは日常品。写真はあとで・・。須恵器(すえき)系土器古墳時代以降の焼物で、土師器(はじき)よりも高温で焼成された焼物(土器)は須恵器(すえき)系土器に分類。須恵器自体は陶質土器に入るが、須恵器系土器は材質において土師器と同質なので土師器寄りの焼物なのだろう。古墳時代前期(3世中頃~4世紀後半)中期(4世紀後半~5世紀)後期(6世紀~7世紀)以下に土師器と須恵器土器、また須恵器の違いがわかる写真を持ってきました。大阪、堺市の博物館から 土師遺跡(5世紀の中頃~6世紀の前半)上は須恵器系の土器? 土師器と材質がそんなに変わらない気がする。成型と焼きの違いは分かる。 大阪、堺市の博物館から 浅香山遺跡土師器(はじき)と須恵器(すえき)、比べると材質の違いも一目。明らかに須恵器は手が込んだ高級品の仕様に対して、土師器の造りは大雑把(おおざっぱ)。そもそも須恵器は従来の須恵器系土器とも素材の材質が違うから焼き上がりのカラーも違う。平城京出土の奈良時代後半の須恵器3点と土師器4点の含有量を調査したら土師器と須恵器には成分の違いが明確にある事がわかったそうだ。※ 2020年9月の奈良文化財研究所の発表。土師器にはリンが多く含まれていた。 → リンは畑の肥料として使われる。また、須恵器には亜炭(あたん)と呼ばれる炭化した木片が含まれていた。 → 亜炭が含まれる粘土は主に丘陵地帯で採掘される。これらの事からどうやら、土師器は田んぼから採取した粘土が使われた?須恵器は山から採取した粘土が使われた?焼物の粘土の材質にも進化が生じ、より焼物に適した粘土が使用されるようになったと考えられる。須恵器(すえき) 陶質土器須恵器の焼成には従来と全く異なり、地下or半地下式の登り窯が使用されている。焼物としては強く焼締まり、硬度も増した。つまり、焼き方にも一大革命が起きたと言う事だ。この高温焼成の土器生産技術は、そもそも中国江南地域で始まったらしい。朝鮮半島の伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)では、それら技術で陶質土器が造られている。※ 朝鮮半島の物は、伽耶(かや)土器・新羅(しらぎ)土器・百済(くだら)土器と呼ばれる。中国発祥の陶質土器は朝鮮半島経由で日本にももたらされた技術なのである。そしてそれらは日本では須恵器(すえき)と呼ばれる。古墳から出土されている事から古墳時代の須恵器は高級品。主に祭祀で使用され、副葬品として墳墓に収められたようだ。古墳時代の話は大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の所で少し書いています。リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎秦一族のような渡来人の話は以下で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)韓国国立博物館所蔵 中国 北斉時代の彩色土器の馬 6世紀南北朝時代の北斉時代 (550年~577年)※ 北魏が華北を統一(439年)から始まり隋が再び中国を統一(589年)するまでの乱世が南北朝時代。朝鮮半島との交流7世紀にもなると、朝鮮半島に日本の街もあり両者の交流はかなりすすんでいたらしい。それ故、百済王と日本の皇室にはかなりの親交があったのだろう。663年に起きた白村江(はくすきのえ)の戦いの時、たまたま? 百済王の皇子2人が日本滞在中であった。白村江(はくすきのえ)の戦いの突然の勃発。日本は百済王の援軍として、皇子と共に4万人以上の戦士を朝鮮半島に送って参戦している。残念ながら敗退。(百済は滅びた。)日本兵士の百済撤退のおりには、百済王族ら、大量の亡命者を運び日本に向かえ入れている。亡命者の中に技術者もいたかもしれない。それらを鑑(かんが)みると渡来人の技術者が日本で直接、須恵器(すえき)を発展させた説も考えられる。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡堺市博物館は、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の正面にある。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡大阪、堺市の博物館から 南瓦町遺跡比べて気付くのは、須恵器はろくろを利用して形造られているのが明確。だから土師器と比べて、より薄く成型できているのだろうし、また轆轤(ろくろ)を使って器を造形する事自体が高級な行為であったと思われる。※ 轆轤(ろくろ)を使って成型する技や、窯(かま)を造る技術は5世紀頃には日本にもたらされたらしい。それは須恵器よりも少し前だったのかもしれない。大阪、堺市の博物館から 百舌鳥陵南遺跡焼き方も須恵器は進化をしている。須恵器は登り窯方式で高温で焼かれている。焼物として、両者は全くの別物と言える。酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)焼き方の温度以外にも進化があった。焼き窯の酸素のバランスで、同じ焼物でもカラー変化を出す事ができる技術だ。酸化焼成(さんかしょうせい)文字通り、酸素の供給を多くし、焼物や釉薬に含まれる金属を酸化させて色を出す方法である。銅が酸化すると緑青(ろくしょう)が生成されるのと同く、銅を含む釉薬を酸化焼成すると緑色になる。還元焼成(かんげんしょうせい)酸化焼成と逆に、窯内の酸素を量を減らして不完全燃焼を起こさせる方法だ。※ 酸化金属から酸素が奪う事を「還元」反応と言う。先の銅で例えると、酸化した銅から酸素を奪うと銅は純粋の赤銅色に戻る。だから、銅を含む釉薬を還元焼成すると赤系の色になる。ちょっとここで、ギリシャの土器を紹介。彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器素焼きの土器に絵付けや文様を描いているのが彩陶である。※ 酸化鉄で赤色や黒色を発色。メソポタミアやインド、また中国にも見られる。かつてはメソポタミア起源説であったが、現在は中国発祥? 説もあるらしい。ギリシャ及びエーゲ海史における最古の土器は紀元前3000年頃のクレタ島からの出土らしい。クレタ島ではクノッソス宮殿を中心に紀元前3500年前にミノア文明が始まっていた。土器にもかかわらず、それらは非常に芸術性が高い。前出の日本の土器類とは全く次元が違う。最も、発見されていないだけで、当然前段階はあったろうが・・。釉薬(ゆうやく)を使っていないので、これらは土器に分類される。しかし、ギリシャのこれら土器は西洋美術のお手本として、ローマ帝国に継がれ、ルネッサンス時代に再興された。特に容器の形は高級陶磁器の壺や花瓶の原型となっている。エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明初期ミノア文明期・・刻文ないし黒褐色の顔料による彩文土器。また黒褐色の顔料で素地を塗った上に白色や赤色顔料で幾何文様施した土器が出現。鉢、盃、水差、壺、また注口土器も造られた。中期ミノア期・・動・植物文様人物像が現れ、カマレス土器の最盛期を現出し、轆轤(ろくろ)が使用されるようになる。また人物や牛、魚、鳥などの彫像も出現。中期ミノアの第三期には草花悶魚、鳥、小動物などを写実的に表現した彩絵土器が出現。特にこの時代の美術性は評価されて「宮廷様式」と呼ばれ、ギリシャ本土に影響を与えたそうだ。ギリシャ考古学博物館 手付き壺ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 クレタ島出土。ミケーネ土器。タコ文双耳壺 紀元前15世紀頃。ギリシャ考古学博物館 サントリーニ島アクロティリ遺跡新石器時代からミノア文明の時代までの出土品 乳首型突起装飾水差しなどすでにアーティストが存在していたのでしょうね。ギリシャ考古学博物館 来歴は不明おそらくミケーネ文明下の抽象的文様の彩文土器(左)と幾何学文様時代移行期? の彩文土器(右)と思われる。ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明BC19世紀頃~紀元前10世紀 (ミケーネ初期) ・・素文赤色土器。茶褐色の直線文の彩文土器。BC13世紀前後 (ミケーネ最盛期) ・・クレタ土器の影響を受け、抽象的な形象文(魚、馬、戦士など)を施した彩文土器へ。BC12世紀~BC11世紀頃 (サブ・ミケーネ様式の時代) ・・南下してきたドーリア人 (Dorians)により、ミケーネ文化も土器も破壊された。 ドーリア人の元で造られた幾何学様式の土器をサブ・ミケーネ土器とも呼ぶ。※ ドーリア人はBC1世紀頃ギリシャに侵入しペロポネソス半島に定住した民族。代表的な都市はスパルタ(Sparta)、コリントス(Korinthos)。前1100年~前800年 ・・幾何学だけの図文による幾何学様式時代。ギリシャ考古学博物館 アテネ出土。 幾何学文双耳アンフォラ 紀元前8世紀ミケーネ文明 幾何学様式時代(前900年~前725年)古代世界の最高傑作に入るらしい。下は部分拡大同じ壺のボディー上部には絵柄。葬送の情景と思われる。古代ギリシャでは釉(ゆう)が知られていなかった為に、その焼物は本来全て土器に仕分けされる。しかし、慣習上、「コリント陶器」、「ギリシャ陶器」など「陶器」の名称が使われているらしい。BC8世紀頃からギリシャ人は地中海周辺に積極的な植民活動を展開。その結果、ギリシャ本土にはオリエント文明の影響が現れるようになり、幾何学文様と動物文のミックスした土器も出土。オリエントの影響による東方化様式時代(紀元前725年~紀元前600年)として区別する学者もいるらしい。これがその土器に当たるかわからないが、ギリシャ考古学博物館のギリシャ土器の展示品に「これはオリエントではないか?」と思う意匠の土器を見つけたので、紹介しておきます。ギリシャ考古学博物館 人頭有翼牡牛像(lamassu)? の描かれた土器アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊? 守護神像の人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)。大英博物館蔵のラマッス(lamassu)知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。※ 大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪。※ ペルセポリスやルーブル美術館所蔵のラマッスの足は蹄(ひづめ)。コリントスの黒絵式陶器素地の赤褐色の地に図文を黒のシルエットで描き、像の文様や細部は錐(きり)でひっかいて仕上げる。最初に出現したのはコリントスから。商業都市コリントスは交易の中で最初にオリエント・スタイルをギリシャに持ち込んだとされる。※ コリントス地峡に位置するコリントス(Korinthos)は古代ギリシアにおいてアテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)の一つ。当初は動物行列文などを描いていたらしいたが、やがてそれらは神話や伝説の英雄らの姿にとって代わった。BC7世紀にはほぼ人物主体の図文になっていたらしい。コリントスの多彩な線描形式はBC7世紀頃に頂点に達し、盛期コリント様式(紀元前625年~紀元前550年)には他製陶を圧倒して展開。ギリシャ中に広まって行く。彩文土器 黒絵式素地の黒色は、粘土中に酸化鉄分を適量に含んだものと木灰を原料とし、これに酸味の強いワインを加えて練ったものを原料として使うと、焼成した時に独特のツヤのある黒色になると言う。つまり、黒絵式陶器(土器)は、酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色の彩文土器の究極かも。ギリシャ考古学博物館黒絵式陶器の絵は人物主体で、そのテーマは主として神話や英雄伝説の場面が多い。また、当時は作品に陶工や画工の名前を記す慣習も流行したそうだ。黒絵式のピークは紀元前550年~紀元前520年。彩文土器 赤絵式赤絵式陶器は黒絵式とはまったく逆。図像の部分が赤褐色で、バックが黒。酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色素地であるなら、図像の部分は筆で絵を描かないと赤褐色の図像は生まれない。下の陶器では素地が赤褐色でバックを黒で塗りつぶしているように見える。2つのパターンが存在していたのかもしれない。実際、塗りつぶしの方が楽であるし・・。赤絵式のようなタイプは陰影も付けやすいので人物の表情など細部に表現が与えられる。だが、素地が白ベースならもっと自由に表現できる。画家の意向か? BC5世紀には白地彩絵陶器が誕生して取って代わられて行く。黒絵式の最盛期は紀元前550年~紀元前520年頃。紀元前480年頃には赤絵式に圧されは完全に姿を消す。赤絵式は紀元前500年~紀元前480年が最盛期。白地式は紀元前490年~紀元前400年西洋の彩色に使われたのは石灰釉、長石釉などの鉱物で調合された釉です。ギリシャ考古学博物館下 はっきりわかる赤絵式陶器(とうき・pottery) 前出、土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので素焼き。故に吸水性が高い焼物だと紹介した。その後、技術が上がり焼成温度が高くなり、粘土の材質も変化を見る。ガラッと変わるのは焼物に釉薬が施されるようになってからだ。うわぐすり(釉薬ともいう)を付けて焼くと、表面がガラス状にコーティングされた焼物(陶器)になる。一般に低中火度(陶器は800~1250度)で焼成された軟硬質の焼物。素焼きのそれに鉛釉や灰釉の釉薬(ゆうやく)を人工的にかけて再び焼成したものが陶器である。日本にはたくさんの窯があり、いろんな焼物が存在しているので、陶器をさらに細かく3つに分類している。陶器(とうき)、炻器(せっき)、磁器(じき)。陶器と磁器は海外にもあるが、炻器(せっき)は日本独特の焼物かもしれない。ガラス質の釉薬をかけなくても、素材に耐水性のある焼物が存在しているからだ。1. 陶器(とうき・pottery)・・益子焼、萩焼、(古瀬戸)薩摩焼 土物(つちもの)とも呼ばれる施釉(せゆう)された陶器。2. 炻器(せっき・Stoneware)・・備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼 土器と陶器の中間的性質。陶質の土器。釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。※ 粘土の素材にアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英が含まれ、それらが高温焼成で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物。3. 磁器(じき・porcelain)・・有田焼、伊万里焼、九谷焼、波佐見焼 施釉(せゆう)され、特殊な粘土(カオリン・Kaoling)を使用し、高温で焼成されたのが磁器。 それ故、石物(いしもの)とも呼ばれる。※ 粘土の素材にケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)と言う陶石を粉砕したものを使用。ここでは施釉(せゆう)された陶器(とうき・pottery)について深堀します。素焼きだけの焼物よりも釉薬をかける事で陶磁器の表面にガラス層を造り多少の防水化に成功。それら施釉の技術は7世紀中頃朝鮮半島経由でもたらされていたが、実際に日本で造られたのは8世紀前半。唐三彩を模した「奈良三彩」や「二彩」、おくれて青磁を模した「緑釉単彩」などが生産された。それらは高級故、貴族や皇族などの特別な階級向け焼物であった。※ 相変わらず一般庶民は平安時代に至るまで須恵器(すえき)を使用していた。正倉院三彩 二彩瓶(磁瓶)高さ41.7cm 口径 18.5cm 胴径25.7cm 底径17.6cm本(陶磁器の文化)から借用した写真ですが、そもそも宮内庁正倉院事務所提供の写真です。参考にお借りしました。胴部6段に口頸部と高台合わせて8段継ぎ造りの「緑白二彩」の大形の瓶。緑釉で斜格子を描き、余白は白釉。現存する最も大きい奈良三彩瓶らしい。出土の類例から奈良三彩大瓶の定形であったらしい。肩の突帯、底部の二重高台に唐代の三彩水瓶や白磁瓶など、唐代陶磁の影響があるものの唐三彩の瓶には祖型がないと言う。唐三彩と奈良三彩飛鳥時代、遣唐使によって? 中国よりもたらされた唐三彩と技術。唐三彩をモデルに日本で最初に作られた釉のかかった焼物が奈良三彩。奈良三彩は従来の土師器(はじき)や須恵器(すえき)に三彩釉(さんさいゆう)をかけて造られている。 三彩釉(さんさいゆう)以前に日本では釉薬(ゆうやく)をかけた焼き物はなかった。そもそも粘土中の様々な内容物が焼成により溶解して焼物自体の色変化をもたらす事もあるが、敢えて素焼きの土器に金属由来の釉薬(ゆうやく)を乗せて焼く事で文様や色を付ける技術だ。奈良三彩 壺 8世紀 文化庁蔵 国法重要文化財高さ13.7cm 胴径21.cm 高台径13.5cm 奈良時代本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。いわゆる骨壺として利用されていた? 失われているが蓋もあったはず。唐三彩 唐時代の12神像 虎蛇犬韓国国立博物館で撮影中国の12神像を陶器のフィギュアにしたもの。日本の十二支(じゅうにし)の祖型?ここまでのものは中国にも残っていないようです。中国がこれをとりあげてほめていたから・・。唐代の鉛釉(えんゆう)を施した施釉(せゆう)陶器。特徴的3つのカラーを使っている事から唐三彩(とうさんさい)と呼ばれる。※ (クリーム・緑・白)三色と (緑・赤褐色・藍)三色 の組み合わせが一般。唐三彩杯付盤 8世紀中国 出光美術館蔵盤口径28.2cm本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)参考に年代を入れておきました。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に始まり終わる。推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。隋は619年に滅亡。遣唐使(けんとうし)は舒明天皇(在位:629年~641年)の御代に始まり200年以上続いた。舒明2年(630年)~寛平6年(894年)の264年の長きに十数回派遣された。ラストから56年の歳月が開き、使節派遣の再開が計画されたが907年に唐が滅亡しそのまま消滅。※ 以前、遣唐使の事を書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ガラス玉職人と釉薬古代の陶器は、粘土の素材も変化するが、施釉(せゆう)の釉薬(ゆうやく)の種類で分類されている。植物灰を材料とした灰釉(かいゆう)陶器。鉛に、銅化合物を加えて緑色に発色させた緑釉(りょくゆう)陶器。※ 朝鮮半島からの技術の伝来? 7世紀後半代になると緑釉陶器が畿内の各地から発見されている。釉薬の焼成後の発色(カラーバリエーション)から大きく彩釉(さいゆう)陶器と分類される。つまり、日本最古の施釉陶器が奈良三彩である。先にも書いたが、唐三彩は唐代の陶器の釉薬の色から呼ばれ、後に唐代の彩色陶器の総称となる。※ 奈良三彩は唐三彩をまねて日本で焼かれた軟質陶器とされてきたが、唐三彩伝来以前から似た物があった? 説もある。遣唐使の中に玉生(ぎょくしょう)と呼ばれるガラス玉造りの職人もいた。彼らが唐から持ち帰った技術(三彩の釉薬はガラスと同じ)を焼物に応用したのが始まりとする説が有力。地中海域でのガラスの歴史は割と古い。シリア・レバノンなどパレスチナ地方で製造が始まり、古代フェニキア人が交易品にしていた。「最古のガラスの誕生は紀元前3500年に遡る」と以前古代ガラスを扱った時に紹介した事がある。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードウイーン美術史美術館所蔵 ガラスの双耳灰壺 1~2世紀同じ形態のガラスの双耳灰壺はたくさんあるが、造形的にもこれだけ姿の美しいのはなかなか見ない。さすが王室のコレクション。美しいから撮影してました。話を焼物に戻して・・。釉薬をかけるだけでなく、この頃には絵を描いたり、彫刻したりするなどの技法が追加されて行く。特に唐三彩は、アジア圏のみならず、中東方面にも伝播? 各地で真似た? 地方色ある三彩が登場している。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品の中に三彩? 発見。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品平安の緑釉陶(りょくゆうとう)奈良時代から平安時代に代わると、器じたいも一新されるが、日本の鉛釉陶器はカラフルな三彩から単色に代わっていく。それは、またも半島経由で唐より越州窯(えっしゅうよう)系の青磁(せいじ)が輸入されてきたからだ。※ 越州窯(えっしゅうよう)の青磁は東洋最古。日本の単色の緑釉陶の出現と流行は、中国伝来の青磁(せいじ)を模倣した結果だったらしい。青磁は簡単に真似できるものではなかった。緑釉陶器は、9世紀初頭頃、国家的儀式や饗宴で用いられており、殿上人(てんじょうびと)に嗜好された結果? 唐(から)風として緑釉陶は平安京を中心に流行する。下の写真は共に本(陶磁器の文化)から借用。比較できるように対にしました。左 9世紀前半 緑釉陰刻文陶器碗(りょくゆう・いんこくもん・とうきわん) 京都市令然院跡出土 口径17.6cm 京都市考古資料館蔵右 9世紀 青磁劃花輪花碗(せいじ・かっか・りんかわん) 中国、越州窯系 口径12.2cm 国立歴史民俗博物館蔵ところで、緑釉(りょくゆう)自体は日本で開発されたわけではない。古代ローマ帝国では紀元前1世紀に使用され、中国でも1~2世紀の後漢時代に使用されている。鉛釉のベースに微量の銅を入れた釉薬を塗り、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)をすると銅が緑色に発色。(銅の量によって濃淡がでる。)それが緑釉である。高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)焼き物の総称として使われる「せともの」という言葉は、「瀬戸焼」から発しているワード(語)です。※ 現在の愛知県瀬戸市瀬戸は、900年以上の歴史をもつ窯として、越前・信楽・丹波・常滑・備前と並ぶ日本六古窯の一つと数えられている。ただし、この中で施釉の陶磁器は古瀬戸だけ。(施釉としての歴史は800年?)つまり古瀬戸の特徴は灰釉(かいゆう)や、鉄釉(てつゆう)を施した施釉(せゆう)陶器であり、それは先にも触れたが、高麗(こうらい)の青磁(せいじ)の写しとして成立した可能性が高いらしい。古瀬戸 灰釉四耳壺 13世紀前葉 高さ28.4cm 上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 伝承まずは瀬戸に伝えられる史伝(しでん)から紹介。瀬戸焼の開祖として、瀬戸で祀られて居るのが加藤四郎左衛門景正(陶祖 藤四郎)。彼は宋代の中国に渡り陶磁器の技法を学んで帰国し、瀬戸で瀬戸窯を開祖した人物とされる。1223年(貞応2年)、永平寺を創建した曹洞宗の開祖 道元禅師(1200年~1253年)と共に加藤氏は中国(宋)へ渡ったとされている。つまり、禅宗と同じく日宋貿易の中でのいわゆる留学により陶磁器の釉薬や焼成について学んできたと言う事だ。因みに、当時は日宋間に正式な国交はなかった。以前書いているが、中国側からすれば、正式な国交の相手は国のトップの朝廷でなければならず、将軍では相手に不足だったからである。※ 日宋貿易に関しては以下で書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ところで、建仁寺でも修行した道元(1200年~1253年)が1226年に宋より持ち帰ったのが曹洞宗(そうとうしゅう)。創建は1244年。総本山は永平寺。曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武家、豪族や下級武士、一般民衆に広まって行く。 禅に関連して茶や茶の湯、書画、焼物も日宋貿易の中で日本に入ってきている。それらは禅文化に関連していると同時に、全て茶の湯に関係しているし、焼物につながるのである。※ 茶祖の寺として建仁寺を紹介しています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師瀬戸焼き開祖の話に戻ります。戦国時代から江戸時代前期には茶入の祖、茶陶の名工として「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」が位置づけられていたのは確からしい。そして江戸中期以降に「藤四郎陶祖伝記」が語られるようになる。つまり瀬戸焼の名工の話はここから誕生している。が、江戸以前の陶祖に関する記述が無いらしい。また、考古学的に、瀬戸窯の始まりが平安時代まで遡るとされた事で、「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」事態の存在さえ否定されようとしているらしい。私的には、考古学的内容がわからないのでハッキリは言えないが・・。施釉(せゆう)の陶磁器として古瀬戸が現れるのは鎌倉時代以前にはあり得ないのです。瀬戸で平安の頃より焼物があったと言うのは須恵器(すえき)などの陶質土器だった可能性しか考えられません。帰国した藤四郎(加藤四郎左衛門景正)は国内の現窯場から適した土を探す中で瀬戸にたどりついたのではないかと推察できる。何より、無作為に山を探すのはムダ。現役の焼物の土地から探す方が合理的だから・・。焼物用の粘土の素材に関しては、いかに陶芸に向いた素材が産出できるか? が重要。焼物の産地として有名な窯場(かまば)がある所はそうした素材が採掘できる土地なのだと言う事を考えれば藤四郎(加藤四郎左衛門景正)が、もともとあった焼物(土器)の土地(瀬戸)に新たな施釉の陶磁器の窯を開いたと考えるのは自然な話だと思うのだ。また、文献が無いのも当然。今のように識字率が高くない時代に、陶工らが、書き物で文献を残すとは考えられ無い。口伝を誰かが江戸の時代にまとめて物語にしたのだと考える方が腑に落ちる。江戸時代はいろんな書物や伝記が書かれている。江戸時代は寺子屋があったから庶民の識字率も上がった。そうした「伝記物」は焼物に箔をつける意味でも必要だったのではないか? 古瀬戸灰釉菊花文壺 13世紀後半~14世紀前半メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵古瀬戸 鉄釉印花文瓶子 14世紀初 高さ25.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉繍花文瓶子14世紀中葉 高さ25.7cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉魚文瓶子 14世紀前葉 高さ36.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 美濃焼美濃焼は(現、岐阜県東濃地方)平安時代に作られた須恵器から発展した窯。鎌倉時代以降は隣接の焼物地(瀬戸)と同じ古瀬戸系施釉陶器を焼く。16世紀には、織田信長(1534年~1582年)の経済政策によって瀬戸市周辺の陶工らが美濃地方に移り住んで多数の窯が開かれたと言う。信長の経済政策の具体的話が不明であるが、物流のみならず、地域としての特産を奨励させる為に窯元を集結させての瀬戸焼ブランドの確立とバックアップを図った? のかもしれない。武士の茶の湯が求めた自然美の造形信長の時代はちょうど茶道の成立期に重なっている。以前「大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)」でも書いたが、当時(戦国期)、茶の湯は武士のみならず富裕な商人にまで降りてきて人気となっていた。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)織田信長が堺を直轄地にした1575年10月(天正3年)、堺の茶人17人を招き、信長は妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。千宗易は茶湯の術と道を極め完成させた。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)の事。その信長の開いた茶会では白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品が並んだと言う。当時は中国や朝鮮由来の名器が特にもてはやされていたが、武士による茶の湯の高まりが日本の陶芸に大きな変化をもたらせる事になる。元々禅僧であった茶人 武野紹鴎(たけのじょうおう)に支持し、大徳寺117世 古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依していた千利休。茶の湯が流行し、彼ら茶人の下、戦国武将らが門下に加わる。茶の湯は禅の美意識と伴に「自然の美」が求められるようになり自然の灰を原料とした自然釉をかけた焼物、灰釉陶器が人気となる。何しろ、燃焼温度や焼き方で同じ釉でも全く別の焼物が出来上がる。一つして同じものはできない自然の妙。禅の美意識にマッチした古瀬戸や美濃焼がたくさん焼かれるようになったきっかけであったかもしれない。桃山時代にオリジナル? 志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」の産地となり美濃焼が成立。産地の個性と言うよりは、最初は陶工の個性が反映されたのかな? と言う気もするが・・。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 12世紀末 高さ28.3cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 13世紀初 高さ21.5cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。灰釉四耳壺は酒などの貯蔵運搬の瓶(かめ)。ロープをかけて吊るせるようになっている。古瀬戸で量産され、ほぼ独占的に焼かれる器種になったらししいがもともと中国の白磁がモデルとなっている。中国 白磁四耳壺 13世紀初 高さ20.1cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)素朴で自然の風合いを活かした焼き締めで備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼などが入る。つまり、硬質磁器の特性であるカオリンは使用していないが、粘土に含まれるアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが、高温焼成の中で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物が出来上がった。その為に陶器のように釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。2つと同じ物ができない面白さや個性は、鉄分や骨粉、他、様々な素材が混合したオリジナル粘土(地域特性の土)が使用される事。また、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)と言う焼きの個性も影響している。堅牢で耐水性があり、瓶、壷、水差し、茶器、食器、花器、植木鉢など実用品としてだけでなく、焼き上がりの特性から工芸品など多く利用されている。備前 牡丹餅平鉢 17世紀初頭 天然灰釉の陶器メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵Mary Griggs Burke Collectionウィキメディアから借りました。備前焼の歴史は古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯から始まり発展したらしい。鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれ、鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれるようになる。室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まり名品が生まれている。備前 緋襷(ひだすき)徳利(とっくり) 桃山時代16世紀箱根美術館蔵緋襷(ひだすき)は稲の藁(わら)を模様としたもの。当初は作品同士がくっつかないようにするための藁だったらしい。上の写真に関しては、ウィキメディアから借りましたが箱根美術館の方に原元があります。箱根美術館には備前他、丹波、越前など他焼物のコレクションも充実しているようです。箱根美術館サイトで少し公開されているのでそちらでそちらで見比べてください。リンク 箱根美術館磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。軟質磁器(soft-paste porcelain)・・英国で誕生したボーンチャイナ(Bone china)硬質磁器(hard-paste porcelain)・・青磁、白磁磁器の素地はそもそも粘土ではない。硬質磁器の素地ははケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉(白色)。その磁土を高温(1350°C以上)で焼成した硬質の焼物が硬質磁器。※ カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。※ カオリン(Kaoling)と呼ばれるのは中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来。因みに、カオリンが手に入らない為に骨灰粉を利用してウエッジウッド(Wedgwood)が造り出たのがボーンチャイナ(Bone china)です。軟質磁器とは言われていますが、マイセンなどと比べてみれば、ジャスパーウェア以外のシリーズは普通の陶器に近い。 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)の違いは白い石を原料とした磁器土を素焼した器に塗る釉薬の違い。そもそも、青磁の起源は紀元前14世紀頃、殷(いん) (紀元前17世紀頃~紀元前1046年)時代の中国。灰が釉(うわぐすり)として働きガラス質となる事はまさに偶然の発見であった。以降、植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁の釉薬(ゆうやく)として使われるようになったが、当時は焼成温度や技術がまだ未熟。鈍い草色程度にしか焼きあがらなかったらしい。研究され? 時代と共に発色もコントロール?後漢~西普の時代(1世紀~3世紀)に、青く発色する青磁の原型が誕生し、唐代末期(9世紀)の越州窯(えっしゅうよう)でオリーブ色の青磁が誕生した。この越州窯の青磁は海外に盛んに輸出され、日本にも朝鮮半島にも影響を与えている。先に触れたが、日本では平安時代、青磁を模倣して生まれたのが緑釉陶(りょくゆうとう)。しかし、まだ素材は磁器ではない。※ 緑釉陶の器は、桓武帝(737年~ 806年)の時代に始まり、その子、嵯峨帝(786年~842年)の時代には宮中祭祀に使われている。朝鮮の方では、越州窯の青磁に影響され、高麗青磁(こうらいせいじ)の誕生につながった。※ 中国→朝鮮→日本 と、技術がおりてくる。また、中国の青白磁や朝鮮の高麗青磁を模して造られた日本最初の硬質磁器が先に紹介した古瀬戸です。以下に韓国国立博物館で撮影してきた青白磁を紹介します。非常に陶磁器の数も多く、全部撮りきる事は不可能。自分の好みの作品のみ撮影し、且つ、ここではさらに厳選して載せてます。高麗青磁朝鮮半島の後三国を統一(936年)して誕生したのが高麗国(918年~1392年)。※ 日本は平安時代(794年〜1185年)中期から室町時代(1336年〜1568年)初頭。高麗青磁は越州窯(えっしゅうよう)の影響を受けて誕生した。高麗時代の青磁を高麗翡色(こうらいひすい)と呼んでいたらしい。青磁 魚龍形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 人形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 透彫七宝文香炉 高麗時代 12世紀 高さ15.3cm、直径11.5cm韓国国立博物館で撮影蓋に・・七宝柄が透かし彫り。本体・・花びら一枚ずつ表現したハス(蓮華)の形。台座・・香炉を背負うように3羽のウサギ。香炉には、陰刻や陽刻、透かし彫り、象嵌など、様々な工芸技法が使われている。青磁 貼花繍枝蓮文花瓶韓国国立博物館で撮影部分拡大本来、青磁はシンプルな造形だけでも十分美しい。ここに花や葉を立体的に造形しようと考えた発想がまた素晴らしい。凡人の発想ならシンプルが一番、とか言って何もしなかっただろう。造形的にも、これは特別な意味を持つ青磁の花瓶だ。青磁 瓦 高麗王朝韓国国立博物館で撮影屋根に使うのはもったいない高級瓦。今や瓦(かわら)一枚でお宝美術品。もっともこちらの品は、実際には使われなかった予備の瓦かな?あまりに綺麗だったから撮影してました。床の間にでも飾りたいわ青磁 陽刻蓮池童子文盌 高麗12世紀韓国国立博物館で撮影青白磁 鳳首瓶 中国宋~1159年韓国国立博物館で撮影白磁 青畫(せいが) 梅鳥竹文 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 透刻青畫 牡丹唐草文 壺 朝鮮18世紀韓国国立博物館で撮影青磁の色釉薬(ゆうやく)には2タイプある。自然の灰を原料とした釉(灰釉)と長石や珪石、石灰、等の鉱物で調合された釉。先に植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁(せいじ)の釉薬(ゆうやく)として使われるようになった。と書いたが、実は灰釉(かいゆう)は東洋独特の釉なのである。灰釉は中国の唐や宋の時代に発展。しかし。これは器が高温で焼けなければ意味がない。5世紀頃、朝鮮半島経由で焼きの温度を上げる新しい「焼き窯」の技術が伝来する。それが地中に穴を掘る「完全地下式」窖窯(あながま)と、山などの傾斜に屋根を付けた「半地上式」窖窯(あながま)である。※ 窖窯(あながま)はロクロ技術と共に伝来し、日本では須恵器の生産が始まった。窖窯(あながま)が導入された事により窯の温度も1000℃を超えた。1000℃を越えると、燃料の灰の中の石灰やアルカリ成分、また珪酸の化学反応が起き、器の表面にガラス質を形成した。当初は草木灰を水で溶いて器に塗っただけだったらしいが、やがて草木灰の種類も研究される。※ 藁(わら)や糠(ぬか)、籾殻(もみがら)等の灰には、シリカ(珪酸)成分が80%程度含まれている。木の種類として松、杉、樫(かし)、楢(なら)、橡(くぬぎ)からみかんや橙(だいだい)、椿(つばき)やどの果樹や花木、また栗の皮なども灰として研究された。灰自体は似たり寄ったり・・と言えど灰特有の物質(元素)の有無が少なからずあり、微妙な化学反応の違いが作品の味になる? 「 こだわり」もあると言う。また、自然有釉と石灰釉や長石釉などの混合も研究されているらしいが、鉱石の方はまさに化学式なのかもしれない。先に「酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)」で、焼き方を紹介していますが、青磁の釉薬にはわずかに鉄が含まれている。鉄分は「還元炎焼成」式で焼き上げると、酸化第二鉄が酸化第一鉄に変換され青緑色に変色。青磁の色の濃淡は酸化第一鉄の含有量によって決まるそうです。また、鉄以外の成分も青磁の色に影響。ケイ酸(Si(OH)4)を主成分とする釉薬の場合は青が強く出る。※ ケイ酸は多くの鉱物の成分。酸化カルシウム(CaO)(石灰)や水酸化カルシウム(Ca(OH)2)(消石灰)を主成分とする釉薬の場合はオリーブ色(深い緑)になると言う。どんな色を出したいか? どんな焼物を造りたいのか? それが、かつては経験値で導きだしていたのだろうが、今はある程度化学式で求められる。とは言え、同じ品を量産するのは自然釉ではかなり難しいと言える。ただ一つの茶碗を求めた安土桃山時代なら自然の妙こそが正解だったかもしれない。どう焼きが出るか? どんな名品が焼きあがるか? 陶人さんの一番のお愉しみが窯出しなのもうなずけます。青磁 蓮瓣(れんべん)文碗韓国国立博物館で撮影貫入(かんにゅう)上の茶碗に見えるようなひび割れのようなのが貫入(かんにゅう)です。これは土台の粘土の収縮率と表面を覆うガラス質の収縮率の違いにより起こる現象です。これを失敗とするのではなく、これが青磁の一つの魅力でもあるのです。青磁の場合は何回も釉薬を重ねて焼成するため特に貫入(かんにゅう)が出やすいのだそうです。貫入(かんにゅう)の出方もいろいろあるのかもしれませんが、美しい透き通るグリーンの表面に細かく入った貫入(かんにゅう)は一つの景色としてとらえられているのです。途中感が否めませんが、今回はここで強制終了させていただきます。※ いつものように、誤字脱字など後から修正あると思います。実は、入院まで1カ月を切り、いろいろ入院準備が忙しくなってきました。検査の後は疲れ切ってます。だからどうしても今回焼物を終わらせたかった・・。もしかしたら入院前に「景徳鎮(けいとくちん)」の焼物が載せられるかもしれませんが、約束はできません。パソコンとゲーム機の持ち込みは予定していますが、気力が持てるかわかりません。なる早で退院し、リハビリ入院もやめて早く自宅に戻るつもりですが・・。m(。-_-。)m関連リンク先リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
2024年06月16日
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さて、何を載せようか?「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の続きも念頭にそろそろ考え無いといけない。交易品目の一つであった陶磁器から、西洋陶器のルーツを調べようか?そう言えば、そもそも当初は交易全般でなく、西洋磁器誕生のルーツを探るのが目的だったんじゃなかったっけ?初回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の冒頭で書いてました。いつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたら、大いに横道にそれて、結果が壮大な「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズになったのでした。その「アジアと欧州を結ぶ交易路 」シリーズも大航海時代を迎え、ついに東洋との交易が始まりました。各国の「東インド会社」設立についてはまだこれからですが、「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回、「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」のラストで触れました。スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。フィリピンからではなく、中国から・・。東洋の陶磁器が欧州に運ばれるようになるきっかけは、マゼラン隊のフィリピン滞在がきっかけだったかもしれない。※ マゼラン隊は1522年9月、本国スペインに帰国。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図今回は、流れ的に見ても、どうしても「陶磁器」をやっておきたい。ハーブ、スパイスから始まった交易であるが、大航海時代、彼らの輸入のレパートリーは増える。その中でも欧州に起きた陶磁器(とうじき)ブームは凄かった。とは言え、全ての焼物が磁器(じき)ではない。磁器は高価故に当時は選ばれた人しか持てない代物。磁器造りはあまりに難しく、完全な複製は無理。既存の陶器をいかに磁器のように見せるか・・。そんな開発の試みもあった。デルフト焼き(Delfts blauw)はまさにそれ。※ デルフト焼き(Delfts blauw)については以前書いています。リンク デルフト焼き(Delfts blauwx)しかし、難しい磁器の製造をあきらめなかった者達もいた。今回は、東洋の磁器から啓発された西洋磁器の開発の話と、欧州の王侯貴族らがあこがれた東洋の陶磁器とはどんなものか? いつから欧州に渡って来たのか? 「西洋磁器のルーツ」と「交易でもたらされた東洋の磁器」を主軸にしました。番外にするか迷いましたが、東洋磁器の写真が思いの他あったので、「アジアと欧州を結ぶ交易路 21」で陶磁器回を設けました。必然的に焼物史に触れざるおえません。問題は磁器だけでよいのか? 大航海時代以前からすでに交易はあったからです。そもそも、古(いにしえ)からの焼物はやはり東洋がルーツらしいから。須恵器(すえき)や土師器(はじき)のような土器(どき)類も入れたい。とは言え焼物史も長いから、ざっくりでもまとめて入れ込みたい。と、思いつつ、今回は無理だ。・・と言うわけで、番外で考えています。陶磁器の写真はいろいろ美術館で撮り貯めしていたところから引っ張りました。主にミュンヘン(München)のレジデンツ(Residenz)博物館からの写真をのせました。こちらは宮殿内の装飾にも陶器が多様されていて、当時の東洋趣味が伺えます。ただ、解説が無い写真がほとんどです。だから作品の正確な年代がつかめないものもあります。つまり写真だけの場合もありますのでご了承を。また、西洋の名窯で、現代に引き継がれるデザインも参考に幾つか入れました。韓国国立博物館の陶磁器や、大阪堺市博物館からも土器類を予定していましたが、これも次回です。アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)西洋陶磁器の始まりマイセン(Meissen)窯アウガルテン(Augarten)秘宝がもれた理由リチャードジノリ(Richard Ginori)セーブル(Sèvres)磁器 → セーブル磁器(Sable porcelain)ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)東洋陶磁器のコレクション東洋磁器の流行?日本の磁器(Japanese porcelain) 伊万里(Imari) 有田焼きのルーツ柿右衛門と濁手(にごしで)素地セーブル磁器(Sable porcelain)磁器(じき・porcelain) 西洋陶磁器の始まり実は西洋磁器のルーツは、マイセンに始まる西洋での陶磁器の開発成功から始まっている。つまり、それだけ見ると、各国の名陶のルーツは、全てマイセンの技術や職人の引き抜きから始まっているので、ほぼブランド紹介のようになりますが、各ブランドがどのように生まれたのか? その意味は意義があるかと思います。重要なのは、そもそもなぜ西洋で陶磁器の開発が勧められたのか? そのきっかけとなったのは、間違いなく東洋からの交易品として磁器が西欧にもたらされたからである。東洋から運ばれた磁器は西欧には無い白く薄い材質で、美しいフォルムと絵柄を持っていた。それはまさにお宝。「白い金」と呼ばれ王侯貴族がこぞって求めたのである。東洋の高級磁器は王侯貴族の富の象徴となり、それらを所持する事はステータスとなった。図らずも、各国の東インド会社は欧州にシノワズリ(chinoiserie)のブームをもたらし、それらを後押ししたのだ。※ シノワズリ(chinoiserie)のブームは、後に市民文化にまで降りて来る。遠い異国の地から運ばれる陶磁器は船で何カ月もかかる。壊れやすいだけでなく、航行中に船が沈没する事もあるのだからお値段も高くなる。それは王侯貴族から見ても高級品であった。何とか自国で造れないか?成功すれば、欧州各国に売り込む事ができる。どこの諸侯も思ったに違いない。以下には東洋の磁器に魅せられて、自国に磁器の窯を造った国と経緯(けいい)を紹介。それらは、名門の磁器会社として今に引き継がれている。歴史をさかのぼれば、実は中国や日本の模倣から始まっていた西洋の磁器食器。バブル時代は、逆に、日本人がこぞってそれらメーカーのディナーウェアなど買いあさっていた。今や洋食器は立場逆転。マイセン(Meissen)窯美しい東洋の磁器。しかし、その技術も材料も全く分からなかった。長い年月をかけてその開発に最初に成功したのがドイツのザクセン(Sachsen)なのである。 欧州初の磁器の完成は1709年。東洋磁器のコレクターであったザクセン選帝侯アウグスト2世( August II Mocny)(1670年~1733年)の肝いりで磁器の開発が勧められた。1710年、王立の硬質磁器(ポーセリン)工房として造られたマイセン(Meissen)窯から生産が始まった。因みに、当然、マイセンではその技術が他に漏れないよう窯を守る事を徹底。工房自体を城の中に秘匿し、開発技術者のヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)から情報が洩れる事を恐れて幽閉したと伝えられる。※ 開発技術者ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーはもともと錬金術師。幽閉のせいか? 酒におぼれ37歳で急逝。工房は当初、ザクセン選帝侯の居城であったアルブレヒト城(Albrechtsburg)に置かれた。それ自体が、進入も、抜け出す事も容易ではない立地の城塞である。アルブレヒト城(Albrechtsburg) とマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)10世紀以来、マイセン辺境伯の城塞があった丘に1471年~1495年頃、アルブレヒト城(Albrechtsburg) は建設された後期ゴシック様式の城。※ 辺境伯(Margraves)・・とは、防衛の最前線(国境)に位置する守備地の統領。後方の双尖塔がマイセン大聖堂(Meissen Cathedral)だが・・。968 年にオットー 1 世によって設立されマイセン司教区の司教座であったというので歴史の古い重要な教会だったはず。が、宗教改革のあおりで1581年にマイセン教区は解散。プロテスタントの教会となったそうだ。つまり、マイセン磁器が完成した頃には、この地はプロテスタント化していた。だから天使はあるけど聖人の磁器物は無いのね 納得。ザクセンのマイセン(Meissen)の工房マイセンもろくろ方式である。そもそも磁器の特徴だからね。日本のろくろ回しとスタイルが違う。座った高さに置かれているし、足がじゃまにならないから腰に優しい。東洋の磁器と異なるのは、食器以外にフィギュアなど細工物が多い。実用品より装飾品として好まれたからかも。パーツ自体は金型から型取りし、組み上げて行く。今は技術者が減って大変らしい。下の女性はアンダーグレイズ(Under-glaze)の作業中。焼成前の磁器に下絵付け。それを1300度の高温で焼成する。皿の裏にはマイセンのトレードマーク「交差した2本の剣」のマークが入れられる。この形で時代が解るのだ。さらに皿の裏には絵付け師のサインNO? を必ず入れるので誰の仕事かわかるらしい。確かに、カップにはものすごく小さい文字が・・。初期マイセンは中国の五彩磁器や日本の伊万里(いまり)の影響を受けている。1720年頃からは絵付けのデザイナーを呼び寄せ、ヨーロッパ的なロココ調の作品が主流となって行く。優れた陶工や絵付け師、彫塑(ちょうそ)家も欧州中から集められると、さらにシノワズリー専門の絵師、七宝上絵付けなど専門が確立されマイセン磁器の活躍は欧州の陶芸界をリードして行く存在となる。※ 彫塑(ちょうそ)家は金型となる彫像を粘土で造る人。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセンか? アウガルテンか? セーブルか? マイセンであるなら、デザインはヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler) のデザインから造られたフィギュアかもしれない。ヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(Johann Joachim Kändler )(1706年~1775年) マイセンに請われた彫刻家。1731年~1775年まで44年間在籍。フィギュアなどの造形物は金型から起こす。その金型の製造を監督し、鋳造された製品の品質をチェックしていたのが彼。44年間と言う長さ。大方のマイセンのデザイン型は彼の作品かも・・。アウガルテンは、マリア・テレジアが王立にした事で、また。ロココの意匠を取り入れ、時代の流行になったそう。特に上のようなロココのフィギュア制作に力が入れられたと言う。マイセンを代表する柄 ブルーオニオン(Blue Onion) スクエアのコンポート 現代物ブルーオニオン(Blue Onion)は1739年開発のアンダーグレイズ(Under-glaze)の磁器。昔からのデザインが今も販売されている。逆に絵付けを見れば、どこのかすぐにわかるマイセンのブランドデザインの一つ。上記ブルーのアンダーグレイズのブルーオニオン(Blue Onion)は確かに「青玉ねぎ」とうたっていますが、元絵となった中国デザインはザクロ(柘榴)だったそうです。種の多いザクロは「子孫繁栄」の象徴として中国では縁起の良いフルーツ。しかし、西欧にザクロは無いから玉ねぎと勘違いしたらしいのだ。白磁に、染付の青はまさに東洋の模倣。直接絵を描き高温(1300度)で焼成されるアンダーグレイズ(Under-glaze)の技法こそがそうなのだ。高温焼成される為、成分的に高温に耐えうる絵の具のカラーには限りがある。コバルト(Cobalt)クロムグリーン(Chrome green)コッパーレッド(Copper red)ウラニウムブラック(Uranium black)とは言え、東洋(日本や景徳鎮)の絵の具と西洋の絵の具とは主材料が異なっているらしい。和絵の具・・酸化銅が緑色素の主材料。西洋絵具・・酸化クロムが緑色素の主材料。※ 窯業原材料の専門商社、株式会社三田村商店さんの「絵具について」を参考にさせてもらいました。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)景徳鎮かは不明であるが、日本でないのは確か。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)説明が無かったが、花の絵付けがマイセンの「ドイツの花」シリーズと同じなので、おそらくマイセン。こんなのは見た事が無いが、金色での特別オーダー品と考えられる。ヴィッテルスバッハ家の特注で、 後で紹介するコレクションルーム? の飾り棚に飾られていたのはこれなのでは?ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセン大皿 ドイツの花 ブーケアウガルテン(Augarten)欧州初の磁器工房はドイツのマイセン(Meissen)窯(1710年~)。続く欧州の磁器工房はオーストリアのアウガルテン(Augarten)(1718年~1864年)(1924年~)。正式名はウィーン磁器工房アウガルテン(Wiener Porzellanmanufaktur Augarten)。秘宝がもれた理由マイセンは技術を秘匿していたはず。しかし情報は結局漏れた。マイセンで先に紹介した錬金術師で開発者であったヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger)(1682年~1719年)。彼は秘密保持の為に幽閉されていたと紹介したが、製磁製法と釉調合方法を別々にザクセン選帝侯アウグスト2世の廷臣に残していたそうだ。1719年、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーが亡くなると、マイセンから二人の職人がウイーンに引き抜かれた。この二人により、実質の磁器の製法がウィーンに伝えられたと言うのだが・・。高額を約束した給料が支払らわれず、結局二人はすぐにウィーン窯を辞めていて、ウィーン窯も倒産状態。でもマイセンの技術は得ていた。1744年、マリア・テレジアの国策によりウィーン窯は王室が買取ったそうだ。基本的にはドイツもオーストリアも当時は神聖ローマ帝国圏内なので同胞。公式に何らかの技術提供があったのか? と思っていたが違ったようです。2人の廷臣が買収されていたのか? これも解らない。事実は小説よりも奇なり・・ですね。アウガルテン(Augarten)が王室磁器窯となるのは1744年。マリア・テレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)の時代。この時にハプスブルク家の盾型の紋章が商標となったのです。※ 王室解体後の現在もこの紋章は使われている。当時どの程度の磁器が造られていたのかは定かでない。アウガルテンが飛躍するのは1761年、良質のカオリンが発見されてからだ。※ ハンガリーのシュメルニッツでカオリンが発見された。しかし、1864年、ハプスブルグ家の衰退で一度窯は閉じられ、帝国解体後の1924年から再興。※ ハプスブルグ家の衰退の事情は以下に書いています。リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日ところで、ウィーンに最初のカフェが誕生したのは1685年。それはマリア・デレジア以前であるが、カフェ文化を推奨したのがマリア・デレジア(Maria Theresia)(1717年~1780年)。磁器によるコーヒーカップの誕生は、アウガルテンが世界初なのだそうだ。他国では紅茶カップはあってもコーヒーカップは希少。ウインナコーヒーが存在するよう、カフェ文化の中で特にアウガルテン(Augarten)の器は人気を博したのだろう。アウガルテンは皇族、貴族のために磁器を焼き続けたと言う。女性の好むかわいらしい小花の器は、マリア・テレジア(Maria Theresia)の時代から始まっていて、その後19世紀初頭のビーダーマイヤー(Biedermeier)と呼ばれる時代までは健在であったよう。ビーダーマイヤー(Biedermeier) デミタス1791年、エッティンゲン伯爵家(gräfliche Haus Oettingen ein)の注文で制作された磁器。「白磁に軽やかに散りばめられた花々を、水色の帯に金色の星を旗飾りとして縁取りました。」と帝国工場の注文簿に記されていたそう。なぜ? ビーダーマイヤー(Biedermeier)の名が使われたのかは不明。時代がビーダーマイヤーよりかなり前だから。ただ、今も人気のデザインです。因みに、秋篠宮家の婚礼時に、アウガルテン(Augarten)のこのビーダーマイヤー(Biedermeier)が使われたようです。かつてドイツの三越で売れ残った大皿を引き取ってきた事があり聞いた話です。高すぎて? 思ったほど売れなかったとか・・。リチャードジノリ(Richard Ginori)イタリアのリチャード ジノリ(Richard Ginori)(1737年? ~ 1896年~ )イタリアではマヨリカ陶器が全盛だった頃、1735年、マイセンやウィーン窯に対抗すべくイタリア貴族、カルロ・ジノリ(Carlo Ginori)侯爵(1702年~175年)が、高級な陶磁器を造る窯としてドッチャ磁器(porcellana di Doccia)を設立。※ カルロ・ジノリは事業家だったらしい。手掛けたのは陶磁器だけではない。磁器の開発に成功するのは1737年。マイセンの職人の力を借りている。1741 年にトスカーナにおける磁器生産の独占権を取得。リチャードジノリ(Richard Ginori) ベッキオのイタリアンフルーツジノリ最古の代表作と言われる白磁に文様の入った「ベッキオホワイト」。その上にイタリアンフルーツ(Italian Fruit)を重ねたもの。青紫のプラムを中心にフルーツや小花を絶妙なバランスで散らしている。1760年頃トスカーナの貴族の別荘で使うディナーセットとして考案されたイタリアンフルーツ(Italian Fruit)はリチャード ジノリ窯を代表するシリーズとなっている。ジノリも以前からのデザインを長く使用。1738年、1748年、ポンペイが発掘された時にカルロ・ジノリは記念デザインに「ヴェズビオ (Vesuvio)」シリーズを発表。そのデザインも現代も使われている。1896年、ミラノのリチャード製陶社と合併して、名称が現在のリチャードジノリとなっている。なぜでしょう? ジノリは他の窯と比べるとリーズナブルです。セーブル(Sèvres)磁器 → セーブル磁器(Sable porcelain)フランスのセーブル(Sèvres)焼き(1771年?~ 1789年?)(1824年~ )当初はマイセンの模倣で始まっている。本格的に作られるのは、カオリンがリモージュで発見されてから。レジデンツ博物館のコレクションの所で詳しく説明してます。ロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)デンマークのロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)窯(1775年~)1773年初磁器の完成。王室御用達窯になる(ロイヤルが付く)のは1775年。しかし、この時点で株式会社だったらしい。1868年、王室は全ての株を売り払ったが、ロイヤルの意匠を使う許可は残したので、マークだけは健在。開窯した1775年に最初に制作されたのが、アンダーグレイズ(Under-glaze)の技法を使ったブルーフルーテッド(blue fluted) 。デンマーク人にとってアンダーグレイズUnder-glazeの磁器と言えばロイヤルコペンのブルーフルーテッドを指すくらい代表作らしい。19世紀のヨーロッパの上流階級の人々に愛用された逸品らしい。先にマイセンで紹介したブルーオニオン(Blue Onion)と同様にデザインも東洋が意識されている。下はブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の ソーサー。ブルーフルーテッド(blue fluted)シリーズも種類がいろいろある。フルレース(Full Lace)は、シリーズの中でも一番彩色も多く、凝っているもの。要するに手間がかかっているので値段も高価。※ 現在販売されているフルレースはもっとシンプルなようです。ブルーフルーテッド・フルレース(Blue Fluted Full Lace)の コーヒーカップ取っ手に顏がある。これは東洋と言うよりは、西洋のガーゴイルのデザインの気がする。ティーカップにはこれが無いのだ。だからコーヒーカップを紹介。ブルーフルーテッド(blue fluted)のコーヒーポッド&シュガーポッド&ミルクカップ残念ながら、こちらはフルレースではありません。近年は、微妙にデザインを変えて、年々シンプルになって行っているようです。要するに職人の手間を省いているのでしょう。代表作が「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」1789年、ロシアの女帝エカチェリーナ2世(Yekaterina II)(1729年~ 1796年)に献上する為に制作されたディナーセット、ティーセットなど1602点が開発された。デザインはデンマーク王国の植物図鑑「フローラ・ダニカ(Flora Danica)」がモチーフにされている。貴重な植物図鑑である。※ エカチェリーナ2世(Yekaterina II)(1729年~1796年)(在位;1762年~1796年)ロマノフ朝第8代ロシア皇帝。1803年に完成はしたが、デンマーク王が自分のものとし、エカチェリーナ2世に献上するのを中止したと言ういわくの品。(すでに女帝は亡き人だからでしょうね。)フローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップを一周撮影。献上はできなかったが、女帝の為に金細のほどこされた美しい器にはデンマーク植物図鑑の植物画(1800種)が一つ一つ器に描かれている。制作には、一つのパーツで花のモチーフを描く職人と、金細を描く職人で2人必要らしい。上のカップ&ソーサーでは4人必要のようです。今は完全受注生産。柄も決められるのかは不明。フローラ・ダニカ(Flora Danica)のソーサー金細は24金らしい。下はフローラ・ダニカ(Flora Danica)のコーヒーカップの裏の刻印を撮影。裏の刻印も実は大量生産品とは異なる。カップには描かれた花の名前がラテン語で記されている。西洋磁器食器としては、値段も造りも最高峰。ディナーセットからスープ入れまで種類も豊富。フローラ・ダニカ(Flora Danica)の大皿さすが24金。まばゆい 飾り皿ですね。マイセンの所で絵の具の話に触れたが、多色の場合、色を付けては何度も焼成すると言う過程を通る。特に金は熱に弱く、高温で焼くことができない為に低温(500度~700度)で焼成される。しかも金を壊さないために低温で何度も。手間だけではない。当然割れる確率も上がるのだからアンダーグレイズ(Under-glaze)よりも高くはなるわけです。先にも触れたが、今に存在する西洋の高級磁器会社はいずれもマイセンの技術から発している。マイセンが西洋陶磁器の頂点に君臨しているのはそんな事情だ。※ 以前クイズ形式でマイセン工房を紹介。リンク先載せます。リンク クイズここはどこの陶磁器工場? Part 1リンク クイズ陶磁器工場 1-2 解答東洋陶磁器のコレクション欧州の宮殿などには調度品として高級磁器が目立つように飾られたりしている。17世紀後半、欧州で流行した中国趣味の美術様式シノワズリ(chinoiserie)が流行った事もあるらしい。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)宮殿の廊下のコンソール(console)にはそれぞれ壺(つぼ)が飾られている。コンソール(console)はブラケット(棚受け)を意味するフランス語。壁に取り付けて使われる飾り用デスク(棚?)なので単体では立たない。※ デスクと言うほど幅は無い。飾り棚が正解かも。欧州の宮殿やホテルなどでは、たいてい鏡の前に据えられていて、調度品や花が飾られていたりする。それだけに、本来はバロックやロココスタイルの豪華な家具の印象が強いかも。まさに上下の写真にあるのがコンソールそのもの。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)こちらは鏡張りの化粧室? こちらのコンソールには陶磁器の時計が飾られていた。着目は、鏡の上部の装飾。非常にユニークな使い方だったので撮影していました。下は部分。おそらく、陶磁器の花瓶のミニチュア。それをロココの壁面装飾の一部として使っている。東洋磁器の流行?各国の海洋事業の推進により、欧州人は全く文化の異なる東洋を知る。その異国には自分達の国には無い美しい焼物が存在していて、いつかそれを手に入れたいと皆が願ったのだ。中国の景徳鎮(けいとくちん)や日本の伊万里焼の陶磁器が大量に欧州の宮殿に運ばれたのはそんな理由から始まった。前述したように、白い肌の陶磁器は欧州には無い。金に匹敵するくらい貴重なお宝として求められたのである。最も、磁器は素材ゆえに今でも陶器よりお高いですが・・。ウイーンの宮殿やドイツの宮殿ではコレクションの皿が壁一面に張り付けられた主(あるじ)自慢の陶器部屋もあったりする。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)の品もヴィッテルスバッハ(Wittelsbach)家の自慢の一品たちである。ミュンヘン(München) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)高級品をさらにアレンジ? 欧州風に金属の装飾が施されている。この装飾は、輸入された後にしつらえられたのではないか? と思う。なぜなら、取っ手のドラゴンが西洋的だから。つまみもアーティチョークっぽい。日本の磁器(Japanese porcelain) 伊万里(Imari) 欧州の商人は、前から日本の磁器製造に注目はしていたらしい。だから中国で動乱が起きた時に素早く交易先を日本に切り替えられたのだ。ちょうど、17世紀に起きた欧州の陶磁器のブームと中国の動乱期が重なった事が日本にとってはラッキーだった?日本から輸出された伊万里(Imari) 柿右衛門(かきえもん) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)中国大陸では、満州で建国(後金国)していたヌルハチ(nurhaci)(1559年~1626年)がさらに本土とモンゴル高原の漢民族を征圧。動乱後、中国で最後の統一王朝となる清国(しんこく・Qing Dynasty)(1644年~1912年)を建国した。 中国で代替わりの動乱が起きていた17世紀、中国から仕入れができなくなった欧州人は、交易先を日本に切り替え、日本の陶磁器を調達する事にしたのである。陶磁器の積荷は佐賀県の伊万里(いまり)港から出航した。それ故、欧州人らはその陶磁器を伊万里(Imari)と呼んだ。伊万里磁器(いまりじき・Imari pocelain) の名は、輸出元の有田町の港の名からつけられたと言うわけだ。本来は、有田で焼かれた有田焼きであった。柿右衛門(かきえもん) レジデンツ博物館(Residenzmuseum)伊万里焼とコバルトブルー、鉄赤、金を中心とした豪華な絵付け装飾が当時欧州で流行っていたバロック様式にマッチした事もあり1700年頃には伊万里磁器の人気がかなり高まったらしい。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)景徳鎮か? 伊万里か? 不明。ヘッドのつまみが、振袖を着た女性になっているから日本かな?有田焼きのルーツ器の原料である磁石鉱(白磁鉱)を有田泉山に発見し 1616年、日本初の磁器「有田焼」が完成する。※ 泉山陶石、天草陶石などの白磁の原料カオリンが北九州で発見されたのだ。そもそもその技術はどこから来たのか?豊臣秀吉による朝鮮出兵の時に肥前佐賀藩の鍋島直茂(なべしま なおしげ)(1538年~1618年)が朝鮮の陶工であった李参平(り さんぺい)を日本へ連れ帰った事。とされている。その李参平(り さんぺい)により日本で泉山陶石が発見され、有田で陶磁器生産が始まる。20代半ばで来日して63年。李参平(り さんぺい)( ? ~1592年~1655年)は有田焼きの租になった。※ 日本では金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)の名で生きたらしい。※ 逆算して来日が1592年頃となるので、第一次朝鮮侵攻の文禄の役(1592年~1593年)の最初には来日していた事になる。※ 文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦い。文禄の役(1592年~1593年)慶長の役(1597年~1598年)秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結している。柿右衛門と濁手(にごしで)素地「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、1626年、豊臣秀吉御用焼物師の高原五郎七が、作陶を教える為に酒井田家へ逗留。初代 柿右衛門が、酒井田家の喜三右衛門(1573年~1666年)だそうだ。1628年、鍋島藩御用窯が有田に建造。酒井田喜三右衛門(初代 柿右衛門)を有田に呼び寄せ、御用窯を任せたのだと考えられる。また、「酒井田柿右衛門家年譜」によれば、日本の磁器が初めて輸出されたのは1647年(正保4年)。オランダ東インド会社による日本磁器輸出が本格化するのは1659年(万治2年)とされている。※ 公式 柿右衛門窯の「酒井田柿右衛門家年譜」リンク先 リンク 酒井田柿右衛門家年譜濁手(にごしで)素地柔らかく温かみのある乳白色の素地は柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する素地。※ 一般の白磁(青系)よりミルキーホワイト色した白磁素地。1670年代にその製法が完成した濁手(にごしで)素地は、柿右衛門の作品の大きな特徴の一つだったそうだ。しかし、1700年代(江戸中期)になると「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流となってしまった。また、中国の内乱が収まり、景徳鎮磁器の輸出が再び本格化すると、オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出は減少していく。さらに江戸幕府による貿易制限もあり濁手(にごしで)素地の製作は、途切れたそうだ。※「濁手」の原料は泉山、白川、岩谷川内の3種の陶石が6:3:1の割合で調合されているそうだが、原料陶石の焼成時の収縮率の違いによって破損が多く出る事も途絶えた要因らしい。長らく造らなければ、その技術も失われる。柿右衛門家に伝わる「土合帳」等の古文書を基に研究し、12代柿右衛門(1878年~1963年)とその子13代柿右衛門(1906年~1982年)は1953年復刻に成功する。※ その技術は無形文化財となった。レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)蓋付きの花瓶と金魚鉢 レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ博物館(Residenzmuseum) コレクションルーム?いわゆる、食器の飾り棚のようです。覗き込めるほど近づけないけど、ちょっと見、実用のマイセンとアウガルテンかな? 当時は他の品が飾ってあったのでは? と思う。フランスのセーブル(Sèvres)焼き レジデンツ博物館(Residenzmuseum)セーブル磁器(Sable porcelain)セーブル磁器(Sable porcelain)は、フランス王家が力を注いだ陶磁器。ポンパドール夫人やルイ15世が筆頭債権者になるなど力を入れていたが、当初は軟式陶磁器しかできず、マイセンの模倣の域を出なかったそうだ。ポンパドール夫人(1721年~1764年)亡き後の1769年にリモージュ近郊でカオリン鉱床が発見され本格的な磁器の製造実験に入る。マイセン磁器完成(1709年)より61年遅れて、1771年? フランスでも磁器の開発に成功した。フランスでは、成功した本格的な磁器を王室磁器(royale porcelain)としたらしい。が、セーヴル窯はフランス革命の折に市民により破壊されている。1824年、ナポレオン1世によって国立セーヴル陶磁器製作所として再興された。ロイヤルなセーブル磁器の技術はリモージュ磁器(Limoges porcelain)にも継承された。セーブル(Sèvres)焼き ヴェルサイユ( Versailles) プチトリアノン宮(le Petit Trianon)プチトリアノン宮(le Petit Trianon)で展示されていた皿なので、マリーアントワネット縁の品であろう。絵付けに国がら? 個性が出てますね。セーブル焼きは前出、ポンパドール夫人(1721年~1764年)亡き後にカオリンがリムージュで発見され磁器の製造実験に入っている。1771年開発成功? 時代的にセーブルの生産が開始されたのはルイ16世の治世に入ってからと思われる。※ ルイ16世(Louis XVI)(1754年~1793年)(在位:1774年~1792年)プチトリアノン宮(le Petit Trianon)の展示品がマリーアントワネットの愛用品とするなら、それらはセーブル開発の初期の磁器の可能性が考えられる。古い王室磁器のセーブル窯はフランス革命で破壊されて消えているので、希少品かも・・下もプチトリアノン宮(le Petit Trianon)の展示品から。これだけではサイズ感がわからないと思いますが、鍋のように大きい器です。スープを入れてサーブする為の容器だった可能性が考えられる。品よく描かれた花はマリーアントワネットの故郷オーストリアの花かな? これを見ると、柿右衛門が人気だったのもわかりますね。実用にするなら、白磁の魅力を引き出し、かつ飽きのこないシンプルさに品を感じる逸品です。セーブル(Sèvres)焼き レジデンツ博物館(Residenzmuseum)表示は無いが、セーブル(Sèvres)焼きで間違いないかと・・。リモージュ焼きの特徴があるし、人物の横顔のマークも決め手。ドイツのマイセン(Meissen) 時計とキャンドルスタンド レジデンツ博物館(Residenzmuseum)マイセンなのに敢えて中国風に? これこそがシノワズリ(chinoiserie)の一例かもしれない。マイセン(Meissen)のティーセット レジデンツ博物館(Residenzmuseum)こちらの柄も敢えて中国風。シノワズリ(chinoiserie)になっているみたい。磁器(じき・porcelain) 1300°C以上の高温で焼成される白色の硬質の焼物。陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする。磁器は半透光性で、吸水性が殆ど無いから器としては最適。粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。※ ボーンチャイナ(Bone china)は軟質磁器(soft-paste porcelain)素材はケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉と磁土を合わせ、高温で焼成した造られる。カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。俗にカオリン(Kaoling)と呼ばれるのは中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来しているそう。このカオリンの採掘が各国の磁器の開発に大きくかかわってくる事は言うまでもない。しかし、素材となるカオリンはどこでも産出できるものではない。無い所はカオリンを輸入しなければならない。英国では、カオリンの代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて陶器を完成させた。英国のウエッジウッド(Wedgwood)がそれである。ボーンチャイナ(Bone china)と呼ばれるのはまさに骨粉が使われているからだ。今回は景徳鎮の事も触れていないので、次回「焼物史(仮題)」の中で扱いたいと思います。予定とちょっと着地が変わりました。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁まで アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2024年04月26日
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Break Time (重要) 追加悪質なパソコン向け詐欺(参考にしてください)緊急で挟ませてもらいました。最近、勃発しているらしいパソコン向けの新しい詐欺に私も先ほどあいました。※被害に至る前に止めましたが。それは、実際に被害にあっていないのに、被害が出たように装った「パソコンがロックされた」と言う詐欺画面への誘導から始まります。セキュリティーを契約している人でも、この画面に誘導されるのです。最も、この時点でまだ被害は出ていません。落ち着いて、これらを解除すればなんの問題も無いのですが、画面の警鐘に乗っかって、電話をかけてしまうと、そこから詐欺の画面に誘導され、さらにサポート契約を結んだ方が良いと言うアドヴァィスからなぜかプリペイドカードを購入させられお金を取られると言う流れに。さらにはその時にウイルスを仕込まれる。と言う段階を踏んだ詐欺となっています。そもそも、何きっかけだったのか?パソコンでニュースなどネットサーフィンをしていた時に、馬が少女を抱きしめている素敵な写真を見つけました。馬は妊娠していたと言うもので、もっと中身を知りたいな・・とサイトをクリック。この画像が全てではないかと思いますが、画面にはいかずパソコンがいきなりロックされた。とアナウンスが流れ、画面が固定されたのです。下が実際に私の所に出た画面です。しっかり撮影しておきました。マイクロソフト(Microsoft)を語る画面からはトロイの木馬ウイルスが検出された為に至急ロックされたと言うものです。さらに音声ガイダンスが繰り返し流れると言うもので、音声ガイダンスはロックを解除する為にシャットダウン(shutdown)をしてはいけない。と繰り返し警鐘。すみやかに画面の電話番号に電話をかけろと言うものです。冷静に考えればなぜ電話?情報をいただきました。ここに表示されていた電話は、やはり国際電話でした。010 国際電話で0101はアメリカ合衆国次の208はアイダホだそうです。国際電話で、解除方法など長く通話していたら、そもそもどれだけ電話料金がかかるのか?あー。恐ろしい。一瞬、シャットダウン(shutdown)を考えましたが、それをしてはいけない。と、マイクロソフト(Microsoft)を語る画面からは音声ガイダンスがうるさく繰り返し流れて来る事もあり、焦りました。実際、全く固定されて動かない画面は確かに緊急事を感じるものでした。どう対処したら正解?解除の為の対処方法パソコンに詳しい人に電話をしてみました。すでに知り合いの方が、2度もその詐欺に遭遇していた。と言う事で、対処法をすぐに教えてもらいました。そもそも、現時点では何の被害も出ていないので、その被害のアプリを終了すれば良いようです。でもどう終了させる?1 一番簡単なのは、全ての電源をオフにして、パソコンを強制終了させる。しかし、デスクトップの場合はコンセントを抜けば良いのですが、ノート型の場合、内臓電池があります。内臓電池が抜ける方は、抜いて終了させれば良いようですが、簡単に抜けないタイプの場合は方法が異なります。私の場合も、電池が抜けないノート型でした。2 電源オフができない場合の終了方法は、起動しているタスクマネージャー(task manager)を終了させる事。つまり、詐欺につながったアプリの終了です。※ タスクマネージャー(task manager)はコンピュータ上で今動作しているプログラムや状態などを示したにシステムモニタです。例えば音楽ソフトのiTunes(アイチューン)が起動していれば表示されます。タスクマネージャーにはControl-Alt-Deleteボタンの同時押しでアクセスできる。画面操作となるのでキーボードを使用します。キーボードで以下の3つのキーを同時押し。 1. Ctrl (コントロール) キー2. Alt (オルト) キー3. Delete(ディレイト) キーすると以下の画面が出ます。撮影は失敗したので書きました。ロックユーザー切り替えサインアウトパスワードの変更タクスマネージャー ←クリックしてください。タスクマネージャーをクリックすると以下の画面が出ます。以下は私の場合の画面です。パソコンのバージョンによっては、多少表示は異なると思います。ここで重要なのは、アプリ(4)です。重要な部分をアップしました。アプリ(4)は、現在アプリが4つ起動していると言う事です。問題の場所はMicrosoft Edgeなのですが、一応私は4つのアプリ全てを終了させました。クリックするとまた選択画面が出るのでタスクの終了をそれぞれ行いました。さて、画面はどうなるか?何も無かったようにいつものファースト画面が出てきました。これで完了です。でも、問題はもう一つ。強制終了しているので、しばらくしたら「復元しますか?」の表示が出るかと思います。決して復元してはいけません。パソコンに詳しく無い人はかなりあわてる事態かと思います。どこか頭の隅に置いておいて、自分の時、あるいは周りの誰かに出た場合に教えてあげてください。もし電話をしていたら・・。怪しい日本語を話す人が現れてあれこれ操作をする事になるようです。その時点でセキュリティーの契約のある方は問題ないと思いますが、そうでない人はウイルスを仕込むサイトに誘導される場合も。また、セキュリティーを契約するよう勧められ、なぜかプリペイドカードを購入して支払え。と言う流れになるようです。契約は1年、5年と金額も変わってくるようです。プリペイドカードの時点でも絶対あやしいです。また、さらにプリペイドのナンバーを伝えても、これは使用できないからまた買って新しいナンバーを知らせてほしい。と言うバカにしたような追加要求される場合もあるようです。私も初めてだったし、警告の音声がうるさかったので、どうしたものか悩みました。むろん、どこにつながるかわからない電話に電話するような事はしませんが、すぐに聞けるパソコンに詳しい人がいなかったら、まだ警報音が鳴っていたかもしれません。ところで、現在「交易でもたらされた東洋の磁器」(仮題)を執筆中です。それは「アジアと欧州を結ぶ交易路」の番外になる交易を中心にしたものです。西洋磁器はともかく、東洋の磁器の勉強があり、ちょっと遅れます。ついでに報告させていただきます。m(_ _;)m
2024年04月05日
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一カ月すっ飛ばしてしまいました m(_ _;)mストレス溜まる事件が発生。今年の私も忙しい。実は2月初旬に高齢の伯母が転んで骨をつぶしてしまい急遽手術。伯母が搬送された病院までは遠いし。入院手続き、手術同意書、手術立ち合いなどその度に行かなくてはならない。さらに施設に必要な物を取りに行かなくてはならない。手術を控えている私には、ちょっと辛い通いをしている最中です。(退院のメドも立っていない。)高齢の伯母に子供はいない。夫も昨年なくなり身内は結婚前の兄弟姉妹のみなのだ。兄弟も半分は死別し、残る姉妹も高齢になりつつあり「誰かいない?」で一番暇そうな私に声がかかったのだ。(病院関係は親族でなければ代行できないのです。)コロナやインフルの再発から面会はできないが、個室で携帯が使える伯母からはメールや一方的な電話が毎日複数回。毎日何かしら買っては送っている。行かない日でも翻弄されてる毎日なのです。そもそも伯母は女王様タイプの人だったらしい事が判明。昔チヤホヤされていたのかもしれない。わがままで、注文も多い。感謝の言葉よりもまず文句を言う人。自分の置かれた立ち位置も考えず、常に上の目線から人を非難する人。こんな人だとは思わなかった・・。子供の時に見ていた伯母は背の高い素敵な大人の女性だったから・・。今は気落ちしているだろうから、優しく接しなければ・・と思っていたが、病院から「食事も薬も拒否して逆上している。」と電話も・・。「姪御さんから何か言って。」「私には無理です。そもそも耳が遠いから声は届きません。」仕方ないからご機嫌伺いのメールを送っておく。メールの返事は翌日の夕方。一転してしおらしいメールが返送されてきていた。そんな訳で夜がメインの作業時間なのに、精神と体力の消耗による疲労で一瞬にして座ったまま寝ているこの頃なのです気を付けないと、うっかり私の方が先に逝きそうです。さて、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí)の続きです。今回はまだ未紹介であったガウディ作品、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会から・・。エウセビ・グエルの繊維工場の為に造られたコロニー内の教会です。観光ではあまり行かないかもしれませんが、世界文化遺産に登録されています。前回、ガウデイの芸術性を考察・・なんて言ってましたが、突き詰めたら建築家ガウディのすごさが見えてきました。見るのは一瞬。でも、内容は凄いのです。建築家志望の人は「一見の価値あり教会」です。ガウディは芸術家と言う以前に建築家。建築家としての究極を突き詰めた人であったかもしれない。と言うのがテーマです。この教会を建設するにあたり、ガウディが求め導いたのは数学的考察と実践による証明。ガウディは数学の公式から導いた構造の上にガウディしか想像できない世界感を魅せた造形物で飾った。つまり、ガウディは非常に想像力のある芸術家タイプではありますが、ただの創造物を造り出すだけの人ではなく、実際に建築家としての理論的な構造がベースに据えられている事が最大の特徴なのです。要するにガウディ作品は、夢のような根拠の無い理想の産物では無いという事です。彼の作品は、未完にしても、すべて現実に完成できる作品なのです。その上で、ガウディはおよそ普通の人では考えもしなかったような非常に斬新奇抜(ざんしんきばつ)な発想の建物を多数世に出した。建築家が芸術家に転身したのか? それとも建築を芸術に高めた人なのか?と、言う点で迷う人です。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設未完の訳グエル公園住宅の販売不振問題のグエル公園の家コロニア・グエル(Colonia Güell)教会カテナリー曲線の幻の尖塔カテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線の発見者教会内部聖具と調度品デスマスクからコロニア・グエルの末路アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)ガウディの手掛けた教会はサグラダ・ファミリアだけではないのです。残念ながら、こちらも未完ではありますが・・。ガウディのパトロン、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)の依頼で1898年教会建設の依頼が舞い込む。それはエウセビ・グエルの所有する繊維工場とその労働者の為の居留区(コロニー)内の教会建築である。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会 計画案2つ。左が1910年頃の最終案?まるでサグラダ・ファミリアのような教会になるはずであったコロニア・グエル(Colonia Güell)教会。実はこのコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の試作があったからこそのサグラダ・ファミリアの誕生につながるのです。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)エウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)は実業家であり政治家。1890年、バルセロナ南部サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)に自身が所有する繊維工場を丸ごと移転する事にした。※ 土地はすでに所有していたらしい。カタルーニャはグエル家の本拠。移転理由は、エウセビ・グエルがカタルーニャ復興の為に尽力していた事。また、当時バルセロナで勃発し始めた市民による社会闘争からの工場隔離だったらしい。サンタ・クローマ・ダ・サルバリョーにはもともとグエルが所有していたカン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸(1692年築)があり、そこを中心に工業コロニーの建設は開始された。※ カン・ソレル・デ・ラ・トーレ(Can Soler de la Torre)邸はもともとファーム・ハウスです。工場自体も当時最先端の技術を装備したもの。エウセビ・グエルは、そこに工場だけでなく、工員ら家族の住環境も兼ね備えるべく開発を進めた。例えるなら村を丸ごと造るような壮大な事業であった。そこで働くすべての労働者や家族らの住宅の建設。しかも部屋は一般よりも広く住環境の快適さを追求している。また、そこには労働者の為の組合、商店、カフェ、劇場、公園、農作地、図書館、病院などの建設に加え、家族の為の学校(男子のみ)も建設されているし、そこで働く商人や先生らの住居もある。ガウディが依頼されたのは彼らの祈りの為の教会だ。※ 後に(1955年)教区の教会に昇格する。※ 現在は工場地に隣接して鉄道がある。鉄道がいつできたかは不明。エウセビ・グエルの工業コロニー(industrial colony)配置図 1910年スペイン、カタルーニャ州バルセロナ県 ムニシピ(基礎自治体)クマルカ(郡)サンタ・クローマ・ダ・サルバリョー(Santa Coloma de Cervelló)耕作地170ヘクタールの内、工場と住宅地が36ヘクタールを占めた。1910年、工場従業員のほぼ半数の500人がコロニー内の150個の戸建て住宅に居していた。生活にかかわる全てが、その中で完結できる設備を整えた工業コロニー(industrial colony)の建設は、スペイン初。また、エウセビ・グエルは農村の貧困層を受け入れコロニー内の農地で働かせたるなど彼らの生活環境を改善。また有能だった者には家を与えたと言う。(家自体の所有権は会社の物)エウセビ・グエルはコロニー内の建築物にも手を抜かなかったからそれぞれ著名な建築家が起用され、カタルーニャのモダニズム建築として今に残されている。ガウディが頼まれた教会もその一つ。コロニー建設は、エウセビ・グエルが非常に高い社会主義の理想を持っていた事が伺える大事業でもあった。残念ながら、途中、政治情勢、社会情勢からの事業計画の失敗。資金難による計画の縮小となった。莫大な資金を投じていた計画であったので工業コロニー自体は完成したが、お金のかかる所は大きく変更される事になる。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建設1898年、居住者が増え、グエル家の祭室では手狭になったのだ。それ故、居住区(コロニー)内にエウセビ・グエル(Eusebi Güell)(1846年~1918年)の繊維工場労働者の為の教会の新設が決まった。教会は、意識の高いカトリック国であるスペインにおいて、労働者の生活向上に欠かせない重要な施設。その教会建築設計に白羽の矢がたったのも、グエルと仲の良かったガウディであった。すでにガウディはグエルよりいろいろ仕事を任されていた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は確かにガウディ設計し建設した物件の一つなのである。が、これが? の理由は後で説明。現在のコロニア・グエル(Colonia Güell)教会団地が眺望できる小さな丘の松林に教会を建設する事を決めたのはガウディ自身である。松林を一部伐採し、1908年10月4日、教会の第1礎石が置かれた。コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の教会建築に対するガウディの意気込みもすごかったようだ。サグラダ・ファミリアで、すでにガウディのこだわりをたくさん見せられているが、彼はこちらでも究極の教会建築に着手している。何しろ、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の計画案作成だけで10年も要しているのである。計画案10年。しかし、1908年、満を持して建築が開始された教会であるが、実は工事の大方は未完のまま終わっている。6年後の1914年、ガウディはこの教会建築から完全に手を引いてしまったからだ。それが上の写真に見られる現状なのである。とは言え、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会は未完ながら2005年、「アントニ・ガウディの作品群」の一つとして、「ユネスコの世界文化遺産」に登録された。建設された部分は設計のはわずかではあるが、それだけでも他者には無い奇想な物件であると評価されたのだろう。 さすが!!完成していたらこの規模になっていたはずの模型下の手前の部分が上の写真に見られる姿。教会は地下の一部分しか完成できなかった。そもそも地下は講堂になるはずだった場所らしい。要するに肝心な教会堂の聖堂部分は全く建築すら間に合わなかったのである。冒頭の絵図のように、予定では、40m級の尖塔の立つ、5身廊のバシリカになるはずであった。未完の訳ガウディが建築を途中放棄した理由は、一部には、サグラダ・ファミリア聖堂に専念する為、と書かれているものもあるが、本家のパンフレットに書かれているのは、グエル家により、1914年に工事資金の出資中止が勧告されたからだった。※ エウセビ・グエルは1910年に引退しているので、中止勧告はグエル家の会社からかも。ガウディの計画はあまりにも壮大で、時間もかかりすぎた事。お金ももっとかかる事。はっきり言えば、グエル家は教会と言うより、コロニーの為にこれ以上のお金をつぎ込む事は出来なかったのだろう。グエル家が壮大な建築を打ち切りにした理由は、ズバリ資金難だったのである。ちょうど、この時期ガウデイはカサ・ミラ(Casa Milà)にもかかわっていた。(1906年~1910年。)カサ・ミラ中断の理由は前回紹介しているが、やはり社会情勢の一変が関係していた。※ カサ・ミラの理由は、「アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅」の中、「ガウディら建築家の悲劇」で書いています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅グエルの繊維工場はビロードなどの生産で売り上げをあげており、決して悪くはなかった。また、諸々の建設の為にグエルはアメリカより資材を輸入してカタルーニャ初のセメント工場も創設している。問題は、社会情勢の悪化に加えて、事業の一つが多額の負債を抱えた事だった。グエル公園住宅の販売不振資金難の理由は、同時に着工していたグエル公園(Park Guell)住宅の販売不振であった。それこそが社会情勢の一変が影響している。住宅が売れなかったのは鉄道も車もない不便な立地の問題だ・・とするものもあるが、ブルジョアには馬車もある。問題はそんな単純なものじゃない。何より当時は市民のブルジョアに向けられた目が怖かった?貧富の差は、市民の反ブルジョア感情を掻き立て、バルセロナでも暴徒による破壊も起きていたからだろう。だからブルジョアは目立つ行為はせず、息をひそめていた?当時最後の植民地、キューバ(1902年独立)やフィリピン(1899年独立)を失い、国益を失ったスペイン経済は失速。欧州の他の地域が産業革命で向上する中、国が主導できないスペインでの産業革命は遅々として進まない。反対に、こんな状況でも成功するブルジョア層もいた。。仕事さえ見つけられない市民との貧富の差は開いて行く。そんな両者の背景は右派と左派と言う対立で現れてくる。右派と左派の対立は第一次大戦(1914年~1918年)後に激化し、市民同士の殺し合いに発展していく。スペイン内戦(Spanish Civil War)(1936年~1939年)勃発。(左派)政府側 共和国人民戦線 VS (右派)フランコ率いる反乱軍(ファシズム陣営)この内戦でコロニア・グエルの工場は没収されている。ファシズムの政権下で強制的に資本、土地、財産などが国に集められたのだろう。内戦の終結で返還されたらしいが・・。おそらく、他のブルジョアらも同様にスペイン内戦下では会社や資産が取り上げられていたのだろう。スペイン内戦は右派(ファシズム陣営)が勝利するも結局はうまくいかなかった。スペインが近大化を迎え落ち着くのは、ほぼ近代に入ってからだ。話が脱線したので、戻します。問題のグエル公園の家グエルとガウディが計画していたグエル公園を中心にしたパーク内のデザイン住宅60戸が計画されブルジョア向けに販売されたが全く売れなかった。グエル公園の建設期間は1900年~1914年。販売は建設前から始まっていたと想像できる。1904年、公園内に2棟のモデルハウスが建設されている。(ガウディの作品ではない)その一つを1905年にグエルの友人弁護士マルティ・トリアス・ドメネク (Martí Trias i Domènech)(1862年~1914年)が購入してくれた。それが現在のトリアス邸(Casa Trias)である。※ 中央広場から少し離れた少し高台にある。残りの一棟は、なかなか買い手が付かず、グエルの提案で1906年にガウディが購入。父と姪と3人で移り住んだ。※ 二人とも先に亡くなり、ガウディが最後1人残った。公園内中央広場の左にはエウセビ・グエルも移り住んだが、こちらの物件はもともと地主のLarrard家の屋敷を改築したものだったらしい。現在小学校になっている所がグエル邸だった。結局売れたのは2棟のみ。その為1909年にすでに資金難で公園建設も中止になっている。※ 実際、グエル公園(Park Guell)の工期は1900年~1914年までかかっているが・・。因みに、グエル公園は破砕タイル打ち込みのプレキャスト・コンクリート工法(Precast Concrete)が特徴の造りとなっている。破砕タイル打ち込みは資金難後に廃材が利用されてかろうじて仕上げに利用された工法かもしれない。ところで、建設の中断が決まった翌年(1910年)、エウセビ・グエル(Eusebi Güell)は伯爵に叙されたが、同時に現役引退し公園内で隠遁生活に入っている。エウセビ・グエルが1918年に亡くなると、1922年に公園はバルセロナ市に寄贈されグエル公園となったのだ。※ 寄贈したのは遺族、エウセビ・グエルの息子と思われる。息子らはグエル伯爵家とコミーリャス伯爵家の爵位を持ち政治家にもなっている。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)の没年から考えると、ガウディが生きている時にすでに公共の公園になっていたようだ。コロニア グエル(Colonia Güell)教会時系列で見ると、そもそも教会の着工時点(1908年)でグエルに資金難は見えていたはずだ。その時点で教会建設を続行させたのがある意味不思議。 言えなかったのかな?構想段階でガウディの作品は工期も、お金も無限にかかりそうな予感がするのにね。それでも中止勧告まで、グエルは一切の注文をつけなかった事から、制作の全過程を通してガウディが理想とする建築ヴィジョンが貫かれた作品となっているらしい。まさしくガウディの作品として評価されている訳です。おそらく、ガウディはお金の事は一切考えなかったと思われる。制約なしに彼の理想を詰め込んだ傑作であったかもしれない。当初予定の40mの中央塔を備えた上部身廊と下部身廊の2身廊からなる壮大な教会の建築の完成を見る事はできなかったが・・。下部身廊だけでも、比類ない奇抜な教会にはなっている。※ 幻の教会尖塔については後で触れます。玄関ポーチポーチの横には半地下の待合所1898年 教会建設の依頼~構想10年1908年 着工1914年 工事資金の出資中止が勧告。ガウディはこの時点で手を引き弟子にまかせた。1915年 上部身廊は未完。唯一工事の終わっていた身廊下部を礼拝堂に転用。11月にバルセロナ司祭による竣工式が行われた。 それ故、下部の身廊は「地下礼拝堂」と呼ばれるようになった。1915年~1917年 別の建築家によって、セメントの屋根とレンガ造りの上部身廊の壁が加えられる。玄関前の柱(上の写真右)のみ玄武岩が使用され、この支柱でポーチ全体を支えている。玄関前のちょっとじゃまな場所にあるのはその為なのだ。中央玄武岩の柱以外はレンガ造りの柱。それらには破石被覆(はせきひふく)が施され、周りの松の木の幹に似せている。もともここが松林を伐採して造られている事からか? 柱も 教会壁の石積みも周りの松に同化させる為?松林が意識されているのは明らかだ。ガウディ作品は奇抜ではあるが、環境に対する配慮もされてのデザインらしい。モザイクのみで表現されているティンパヌム(tympanum)あたるドア上の装飾。ガウディ作品ではよく使われる語であるトレンカディス(Trencadis)。トレンカディス(Trencadis)とはカタルーニャ語です。要するに破砕タイルによるモザイク画の事です。スペインではイスラム支配の時代の影響から西洋とイスラム文化が融合したチャンポン文化が生まれている。それがある意味スペインらしさですが、スペインではイスラムの完璧なタイル貼りが主流? だったのかもしれない。モザイク画はそもそもローマ時代から存在する。ヴィザンチン時代のモザイク画の芸術性は高い。それはイスラム文化にも継承されたが、イスラムから逆輸入? されたモザイクはスペインでは割と目新しかったのかもしれない。たまたま予算不足のカバー? も含めて、売れない割れタイルを引き取り、さらに砕いてモザイク貼りをしたガウディの作品は、トレンカディス(Trencadis)が、ずいぶんクローズアップされているが、要所要所のカラーリングや使い方はともかく、モザイク自体はそれほどの物じゃない。ガウディのすごいところはそこじゃない!!外壁と鐘楼ステンドグラスで閉じられた窓も全てに工夫が・・。窓の金網にも文様が・・。いちいちオシャレです。どうも織り機のスクラップを編んで利用されているとか。もともとここは繊維工場だったから・・。下部のステンドグラスがまるでプロペラのように角度を変えて・・。中から見たらこんな秘密が・・。ステンドグラスにこんな発想をもたせるなんて・・。主階段、玄関ポーチ立面図鉄鋼スラグや焼成しすぎの黒いレンガが利用されている。未完の上部身廊(聖堂)ができるはずだった所は1916年~1917年に閉鎖する事になりレンガと石綿セメントのフラットな屋根が左官屋によって造られた。1902年にガウデイが考案した鍛鉄製の十字架の1970年製のレプリカ。もともとはバルセロナのミラージェス別荘の塀の上に飾る為に考案されたデザインだったらしい。修復の度に移転しているもよう。下左 ここにできるはずであった聖堂の計画案。下右 現在の地下の聖堂。カテナリー曲線の幻の尖塔先に「完成していたらこの規模になっていたはずの模型」を紹介した。実はこれは「カテナリー曲線(catenary)」にのっとって造作された模型なのである。ガウディは今までの教会建築に造形的な不満を持っていたのだろう。高くそびえるゴシックの尖塔(せんとう)は素晴らしい代わりに、構造的にどうしても保護の支えが必要になる。それはフライングパットレスなどの支え壁である。それを「美しく無い」「余計な物」と感じたのかもしれない。※ ノートルダム大聖堂パリ(Cathédrale Notre-Dame de Paris)はフライングパットレスだらけです。とは言え、ロマネスクのドームでは高さに限界もあるし、尖塔には向かない。そこで目をつけたのが懸垂曲線(けんすいきょくせん)とも呼ばれるカテナリー曲線(catenary)による公式で導いた構造物である。普通の人は考えも及ばない発想ですカテナリー曲線(catenary)カテナリー曲線は、鎖やロープなどを水平に張った時に自重でたわんだ時にできるU字曲線がそうである。我々の身近では送電線を吊った時に起こるたわみがその現象であり、送電線のたわみを一定に維持する方法としてカテナリー吊架(ちょうか)が利用される。※ 「鎖」を意味するラテン語「catena」から由来している。ところで、このカテナリー曲線は重力下で起きる現象である。それ故、重力と両サイドからの圧縮力が力学的にバランスをとっている状態であり、これは逆さにしても同じなのだそう。アーチ構造はまさにそれであるが、ガウディはこれを利用してアーチを最大限、突(とつ)ったのである。下は参考にウィキペディアからお借りしたカテリーナ曲線による放物線の例ですが、ガウディが利用しようとしたのがグリーンのラインのような突出した形のアーチです。下は、カサ・ミラ(Casa Milà)で撮影。ガウディの「逆さづり構造模型」を示す為に造られた簡易モデルの吊るされたクサリ。右は天地を逆にしたものです。ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会の建築の為、実際に天井から吊るしながら逆さにデザインを考案していた事がわかっている。※ ガウディはそれをサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設の為の事務所で実験していた。要するにガウディはこの構造研究の為、コロニア・グエル(Colonia Güell)教会の構想に10年を要したのである。結果、その間に時世はどんどん悪化。建築は地下だけで終わってしまった。幻(まぼろし~) の計画となったのだ。最も、この構造研究は、サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)建設やカサ・ミラ(Casa Milà)で役立たされている。以下はカサ・ミラ(Casa Milà)の屋上部を支える屋根裏。カテナリー曲線の発見者ヨハン・ベルヌーイ(Johann Bernoulli)(1667年~1748年)スイスの数学者。※ カテナリー曲線の方程式を発見(1690)。また指数関数の微積分法を確立(1691年)し、ロピタルの定理を発見(1696年)。ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)(1646年7月1日~1716年)ドイツの数学者、哲学者。※ 微積分法発見。現在使われている微分や積分の記号は彼によるところが多い。今から300年以上前の17世紀にはこんな難しい事を考えて、理論を構築していた人がいた。ガウディはこの理論に着目して、しかも逆さに応用しようとした発想がすごい。芸術家はデザインを考えるが、建築家はデザインをどう構築するかまで考えなければならない。それには物理と数学が必須なのだと改めて思う。ガウディはカテナリー曲線から導かれる数値に着目しながらデザインをさらに深めてコロニア・グエル(Colonia Güell)教会をデザインした。先に紹介した1910年頃の最終案ガウディの事だから、建築中にまた改築して、デザインが変わったかもしれない事は想像できる。もともと金銭的に不可能であったかもしれないが、本当に建築されていたら評価は世界遺産だけではなかったはず。ロマネスクでも、ゴシックでもない教会建築。カテナリー(catenary)・スタイルとか、ガウディ・スタイルとジャンルされたかもしれない。教会内部下部身廊は上の写真に見られる4本の玄武岩の柱でほぼ支えられている。この教会には、今までの教会に必ずあった控え壁やフライングパットレスなどの支え壁が存在しない。先に紹介したカテナリー曲線(catenary)と傾斜柱によって空間をシンプルに保つ事を可能にしている。アーチの曲率は外壁への側面荷重を縮小。柱の傾きも同じように最大鉛直荷重を軽減する。※「鉛直」・・重力が働いている方向の事。要するに、敢えて柱はまっすぐ立たせていないのだ。聖具と調度品ガウディはコロニア・グエル(Colonia Güell)教会から手を引く前に聖堂内の装飾品を制作して設置している。聖水盤(2つ)、ベンチ(20数脚)、聖器室の扉。聖水盤上からの写真しかなくて・・。柱に鉄で取付けられているので下にも支えの鉄が装飾されている。本当にオオシャコ貝を使っているようですね。これはフィリピンのルソン島から運ばれた。これを運ん船はグエルの義理の父(コミーリャス侯爵)が経営していた開運会社のトランス・アトランティカ社。入口近くの柱、左右に取り付けられている。ガウディ考案のベンチ現在のものは複製品。1913年~14年に20脚造られ、13脚が保存されている。上の写真からは見えないが、ベンチの後方には、後部座席の人がヒザをつく懺悔台が付属している。オリジナル・デザインには無かったものらしい。ガウディが手を引いた後に教会は聖具の購入をしているがどれもこの聖堂に合ったものとは言えない不揃い品。エウセビ・グエルの寄贈品 無原罪の御宿 18世紀の木彫モンセラートの黒マリアを模した聖母子像1965年制作。制作者はカタルーニャ人建築家イシドラ・プーチ・ボアダ(Isidre Puig Boada)(1890年~1987年)。彼はガウデイと共にサグラダ・ファミリアの建築に携わっていた建築家。また、黒マリア像の置かれているモンセラート自体がガウディがかつて携わっていた教会。ガウディに対するリスペクトが込められているのかも。※ モンセラートは前回少しふれています。リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅そもそもガウディが望んだ聖堂は建てられず、無念のリタイアとなったが、それでも完成している部分をうまく活用してコロニア・グエル教会は1915年に竣工式を迎え、1915年~1917年に天井屋根が取り付けられて完了となった。完成している部分だけでも、比類無い空間に世界文化遺産に登録されているのだ。カテナリー曲線(catenary)を利用したガウディの考察力。もはや「凄い」とだけしか言えない。デスマスクからアントニ・ガウディのデスマスクから造られた頭部像グエル公園内、ガウディ博物館からこれだけの偉業を残してくれたガウディの最後はちょっと悲しい。父も姪も亡くなり、1人残されたガウディ。グエル公園の家をすて、サグラダ・ファミリア内で寝泊まりをするようになっていた。1926年6月7日、自由の利かなくなった体をむち打ち、サグラダ・ファミリアからいつもの聖フェリプ・ネリ(Sant Felip Neri)教会に祈りに出かける途中、双方から来る路面電車をよけきれずにぶつかり、肋骨骨折、右足に打撲、重度の内出血を負ってしまった。その時の彼はあまりにみすぼらしいカッコだったので、身元はすぐにわからなかったそうだ。病院(L'Antic Hospital de la Santa Creu i Sant Pau)に運ばれたが、3日後の1926年6月10日に亡くなった。享年73歳。今なら早すぎる死である。最後ま信仰心を持って教会(神の家)を建設していたガウディ。これだけの偉業も後世に残してくれた人なのに、神の対応は冷たいよ。因みに、彼の墓はもちろんサグラダ・ファミリアの聖堂地下にある。コロニア・グエルの末路コロニア・グエルの繊維工場は1943年に売却されグエル家から離れた。1973年繊維工業全体の不振から、コロニアの工場も閉鎖され、所有権は住宅、企業、公共団体などに分売されている。もはやコロニア・グエルは無くなったが、ガウデイの教会は未来永劫ここに残る。Back numberリンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線
2024年03月03日
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今回は、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí)の作品を扱ってみようかと・・。実は、12年前にガウディの作品を取り扱ってはいるのです。前回落ちたカサ・バトリョやコロニア・グエル教会の写真をふんだに使い、ガウディの芸術性を考察する方向ですすもうかと・・。本当は全般にまとめてやり直した方が良いのですが、それはちょっと大変だからね・・ところで12年前は3日くらいで更新していたから今と比べれば、中身はかなり薄めです。でも、自分で言うのは何ですが、良く調べてる。すでに自分は忘れてるけど・・。「ガウディ博物館 1~4」ではガウディの家族、ガウディの病気を含めて人生をさらっと紹介しています。作品としては、「グエル公園(Parc Guell) 1~7」、「アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1~5」、他3件。「サグラダ・ファミリア1~10」も紹介していました。ガウディのスポンサーであったエウゼビ・グエル家の詳細については「コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho)」の中で書いています。以下一部です。リンク グエル公園(Parc Guell) 1 (2つのパビリオン)リンク ガウディ博物館 1 (グエル公園)リンク アントニ・ガウディ カサ・ミラ 1 (外観)リンク コミーリャス(Comillas)エル・カプリーチョ(El Capricho)リンク サグラダ・ファミリア 1 (未完の世界遺産)※ 今回見直していて、バグ? 「モンセラート(Montserrat)」のリンク先が何度入れ直しても、「カサ・ミラ 1」に飛ぶのです。「カサ・ミラ 1」と「カサ・ミラ 2」の間に「モンセラート(Montserrat)」が日付続きで入っているからでしょうか?実は「モンセラート(Montserrat)」はガウディの作品を考える時にキーになる場所として紹介していたのですが、今回も入れました。アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅ガウデイ作品に未完が多い理由スペイン帝国のかげりモデルニスモ(Modernismo)の建築物件カサ・バトリョ(Casa Batlló)サン・ジョルディ(Sant Jordi)の話カサ・バトリョ(Casa Batlló)とカサ・ミラ(Casa Milà)ガウディら建築家の悲劇ガウデイ作品の源流ガウデイ作品に未完が多い理由アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)それにしてもガウディ作品は未完が多いように思います。未完と言えばサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)は有名ですが、グラシア通りの高級住宅カサ・ミラ(Casa Milà)もガウディが手をひき、ガウディ作品としては未完なのです。実はスペインの政情が大きく関係しています。そういう意味では、ガウディは運が悪かった芸術家です。もし、彼が20年早く生まれて活動していたら、カサ・ミラ(Casa Milà)やコロニアル・グエル教会は完璧に完成していただろうし、ひょっとしたらサグラダ・ファミリア(Sagrada Familia)だって今頃は?政情不安は建築業界を停滞させ、ガウディの仕事を中断させたのだ。また、ガウディ亡き後におきたスペイン内戦でサグラダ・ファミリア建設に関するガウディ自身の造った建設に伴う設計の青写真や資料も散逸しているらしい。それがよりサグラダ・ファミリア建設の停滞を招いた?サグラダ・ファミリア建設に限って言えば「未だメド立たずの理由は資金不足だけでは無かったと言う事です。ところで、ガウディがサグラダ・ファミリアの建設主任になったのは1883年、まだ31歳の時。※ ガウディは1926年に亡くなるので43年間サグラダ・ファミリアの建設の重荷を負って居たと言う事になる。むろんガウデイは他の仕事も同時進行でこなして行っている。主任をまかされた当時は今のようなサグラダ・ファミリアになる構想も無かったようです。ガウディは絶えずアイディアを足して変化し続けて建設が続けられたサグラダ・ファミリア。43年間彼の頭にはサグラダ・ファミリアがあり続け、意識のどこかで常に彼を支配していたと思われる。なのにガウディは多く語る人ではなかったから、ガウディが目指したサグラダ・ファミリアの本当の完成形は解らなくなってしまった。彼の頭にはどんな壮大な彼の完璧なサグラダ・ファミリアのビジョンがあったのか? ちょっとでものぞき見したかった。最も西洋の大聖堂建築は完成まで数百年はあたりまえ。何人もの建築主任を経ての大聖堂建築であるから、最後の姿(落成)は最後にならないと誰もわからないかもしれない。ガウディが偉大な建築家であったが故に、誰もがガウディの大聖堂を見たいと、その完成を望んでいるが、大聖堂建築のセオリーから言えば、後世の建築主任によってそれらがまた取り壊され、他の形になる場合もあり得る。という事だ。実際、受難のファサードのように担当者によりガウディの構想から独断変更されているケースもあるし・・。リンク サグラダ・ファミリア 8 (受難のファサード)スペイン帝国のかげり かつて、太陽の沈まない国と形容され、大航海時代の覇者だったスペイン帝国も、実は19世紀後半には、ほとんどの植民地を失っていた。各地の植民地の独立運動に加えて、南米での銀の算出の減少。また、1898年に勃発した米西戦争(アメリカ合衆国vsスペイン)でスペインが敗退すると帝国が長らく独占していたカリブ海域の利権や植民地はアメリカに奪われたのだ。スペイン帝国は残った北アフリカの支配拡大を画策するも1908年、スペイン・モロッコ戦争を勃発させ結果失敗。これら事象はスペイン国内に紛争をもたらす事にもなった。翌年(1909年) 軍に抗議した労働者デモが暴徒となり、バルセロナの街を破壊して回った「悲劇の一週間事件」が起きる。※ この暴動ではサグラダファミリアも攻撃され多大な被害を受けているそうだ。軍は暴動を鎮圧したが、軍vs民衆(労働者)の構図は、支配階級vs民衆(労働者)の構図にシフトしていく。要するに、国勢の衰えで、まず最下層の市民の生活が脅かされた。そんな市民の不満は資本家(ブルジョア)らに向けられたのだ。民衆(労働者)は、見境なく、金持ちの物? 建物? 教会(権力者)までも襲った。ちょうどガウディがカサ・ミラ(Casa Milà)建設に携わっていた時だ。資本家(ブルジョア)たちはたじろぎ、目立つ行為は控えるようになった事でブルジョアを顧客にしていたガウディの仕事は激減して行ったそうだ。因みに、それ以前の建築では、奇抜な建設物こそがブルジョアらのステータスだったそうだ。バルセロナを中心にカタルーニャ地方で19世紀末〜20世紀初めに流行したモデルニスモ建築(Modernismo)はそうしたブルジョアらがいたからこそ存在足りえた建設であった。※ モデルニスモ建築・・イスラムの要素の入ったカタルーニャ版アールヌーボー。この後、スペインは国勢の悪化から王政が否定され、共和制が2転。二人の独裁政治の台頭も許して落ちて行く。今スペインを支える観光資源は、まさに経済が豊だった時代の名残りでもあります。モデルニスモ(Modernismo)の建築物件バルセロナ、アシャンプラのグラシア通り43番地。並ぶモデルニスモ(Modernismo)の建築物件。左からカサ・アマトリェール(Casa Amatller)、カサ・バトリョ(Casa Batlló)カサ・アマトリェール(Casa Amatller)は裕福なショコラティエで考古学愛好家のアントニ・アマトリル (Antoni Amatller)の邸宅としてカタルーニャの建築家ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch )(1867年~1956年)によって1898 年~1900 年に再設計された。カサ・アマトリェール(Casa Amatller)改築設計 ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch )(1867年~1956年)こちらもモデルニスモ(Modernismo)の建築として代表される物件の一つ。ガウディ作品と比べると同じジャンルとは思えないけど・・。ガウディの作品がぶっ飛びなだけで、他のモデルニスモで共通しているのは窓周りのスタッコ? の装飾かもしれない。加えて言えば、他のモデルニスモはもっとイスラム建築の要素が強い。こちらはルネッサンスかもしれない。モデルニスモ(Modernismo)はカタルーニャ版のアールヌーボー? と言うが、ガウディ作品は確かにそれにあたるが、他のモデルニスモ建築はアールヌーボと言うよりはかなりあくの強い個性派だ。依頼物件の隣にあるだけに、アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)は先に完成していたカサ・アマトリェールをかなり意識して、カサ・バトリョ(Casa Batlló)を1904年~1906年再設計したと言う。隣接しているのが不自然なくらいに両者は異なる。しかし、ファサードの段状の窓の並びなどはアマトリエールに敢えて合わせるなど、少なくとも、並びを意識して造形しているようだ。カサ・バトリョ(Casa Batlló)改築設計 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)1階は店舗。2階がバトリョ家の居住区。3階以上が賃貸物件。ファサード(建物正面)は海面を見立ていると言う。大繊維業者ジュゼップ・バッリョ・イ・カザノバス(Josep Ballho y Casanovas)の依頼1877年に建設された物件を当初は全壊して新築する予定だった。ガウデイはそれを増改築にとどめて設計。1904年~1906年に建設。海がテーマだと言う。外壁のモザイクと同じ仕様。円盤タイルと地元の会社から譲り受けた廃棄物のガラスや陶器の破砕タイルでモザイクされている。スペインは床にしても壁にしてもタイル装飾が多い。それこそが、イスラム統治時代の影響なのだ。イスラム教徒らに侵略されたイベリア半島をカトリック教徒が取り戻したレコンキスタ(Reconquista)後も、イスラム教徒の職人達はイスラム教からキリスト教に改宗してイベリア半島に残った。キリスト教に改宗するなら誰でも残れたのだ。イスラムとの折衷(せっちゅう)的な独特の建築様式は、そんな歴史から生まれている。それだけにスペインやポルトガルは国全体からキリスト教色が強いのもうなずける。しかし、見た目は欧州のカトリック国とは大きく違いがある。ナポレオンが言っている「ピレネーを越えてアフリカへ」。ピレネー山脈を越えてイベリア半島に入ったら、もはやそこはアフリカなのだと・・。※ レコンキスタ(Reconquista)については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の中「イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルカサ・バトリョ(Casa Batlló)の2階バトリョ家のサロン。建物内部は海底がモチーフらしい。円形のガラスは丸く吹いたガラス球を平たくしたもの。ステンドグラスの観点から言うと、最もお高いガラスである。改築と言えど、5階と地下室を加え玄関を広げ間取りも変えている。1階にはエレベーターホールもある。2階が施主の居住区で3階から6階が賃貸住宅。吹き抜け下方は淡く、上階に行くほどに濃いブルーに貼られたタイル。下は上からの写真。こだわりがすごいですね。表からは解らないが、スペインの建築物は奥に長く、必ず中庭(パテオ)がある。ここは2階にパテオがある。食堂からのパテオへパテオ出入り口とカサ・バトリョ裏側の外壁。カサ・バトリョ(Casa Batlló)の屋上屋上にはガウデイらしい造形の煙突などがキノコのように生えていますが、カサ・ミラとは異なり、土台が普通のビルだったと言うのが明白です。でも、色彩装飾が、ほとんどできなかったカサ・ミラより造形物は華やかです。屋上の出口の形は工夫されている。日常の風景を「非日常」にするガウディの発想に感服です。煙突の造形がオシャレ。ただよう煙(けむり)造形化したデザインらしい。部屋の数だけ暖炉があり、暖炉の数だけ煙突がある。サン・ジョルディ(Sant Jordi)の話山か? 竜(ドラゴン)か?モザイク側からみると、モンセラート(Montserrat)の山か? とも思えるが、裏側(正面ファサード)はまるでウロコのような瓦でデザインされている。ファサードが海面を表しているなら、それは海を泳ぐドラゴンの背中とも思える。でも、ガウディは正解を示してくれなかった。ガウディ作品には「カタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)の竜退治」伝説がよく利用されている。グエル公園もファサードの大階段にドラゴンの頭が置かれて居るし・・。リンク グエル公園(Parc Guell) 2 (ファサードのサラマンダー)だからドラゴン説はあながち間違いではない。まあ、どう捉えてもかまわないよ。好きにして。というのがガウディの本音かもね。ところで、グエル公園のところで解説していますが、カタルーニャの守護聖人サン・ジョルディ(Sant Jordi)はローカル名です。カトリックの聖人はラテン語表記が一般で、ラテン語では聖ゲオルギウス(Saint Georgius)と呼ばれています。聖ゲオルギウスと言われれば、「ああ」となる有名人です。竜退治の話は黄金伝説で語られている話ですから聖ゲオルギウスを守護聖人にしている街や都市は世界にたくさんあるでしょう。因みに、英国の王様の名前にジョージ(George)が多いのですが、英語では、ゲオルギウス(Georgius)はジョージ(George)。つまりこの聖人をリスペクトして名がつけられているのです。そう言えば、英国のシティの紋章もセント・ジョージ(Saint George)でした。※ 英国ではケルト伝承のドラゴンの逸話とからめていると思われる。リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)なぜ多いのか? 聖人を扱う黄金伝説は、殉教者列伝とも言えます。たいていは迫害などで亡くなった功績のある話が伝えられている中、おそらくドラゴンと言う怪物とたたかったの唯一が聖ゲオルギウス(Saint Georgius)でしょう。怪物と戦ったヒーロー的扱いだから人気なのかもしれません。カタルーニャではサン・ジョルディの聖名祝日4月23日が「サン・ジョルディの日(Diada de Sant Jordi)」。親しい人に本を贈る記念日にもなっているそうです。伝説が、地方で独自に発展した例ですね。※ 聖名祝日は、聖人が人として亡くなった日であり、聖人として生まれた日でもあるのです。が、生没年不明な聖人の場合は、別の理由が付されていると思われます。何しろ伝説だけが伝えられている場合もあるので。黄金伝説については、「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」の中、「聖人のハウツー(how-to)本?「黄金伝説」」で解説しています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂カサ・バトリョ(Casa Batlló)とカサ・ミラ(Casa Milà)カサ・ミラ(Casa Milà)はカサ・バトリョ(1904年~1906年)の建設後にガウディが手掛けた物件で、同じグラシア通り面する高級住宅として建設されました。設計 アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí y Cornet)(1852年~1926年)岩肌むき出しの外壁に石切り場(ラ・ペドレラ La Pedrera)と呼称されている。本来はガウディらしい外壁装飾が施されるはずだった?下はカサ・ミラ(Casa Milà)の模型メインの入口(Entrance)がちょうど交差点のある角になる。外装はすでに普通のビルではない。曲線のみの外観。下はメイン・エントランスのある壁面。当初予定では、ここにマリア像がとりつけられるはずであったが、1909年の「悲劇の一週間事件」後、オーナーはそれを拒否。当時はサグラダ・ファミリアまで暴徒に襲われていたからだ。それ故、代わりに小さなバラの花が付けられた。表面は石灰岩切石積み、あるいは同材の石貼り。裏正面はレンガ造モルタル塗り。屋根裏階はレンガ造白大理石貼り。階段塔、煙突はレンガ造モルタル塗り。構造は柱・梁構造(はしらはりこうぞう)。柱は鉄柱、硬質石灰岩円柱、レンガ造の3つ。ガウディによれば、素材の強度を合理的に生かした安普請(やすぶしん)な物件らしい。とは言え、カサ・バトリョの10倍。(あちらは改築だけど・・。)耐震が怖いですねバルセロナは地震ないのかな?カサ・バトリョが改築物件であったのに対し、カサ・ミラはガウディがが初めから手掛けた新築物件です。当初予定通りに建築されていたら、すべてにおいてガウディの創作のままに建設される最高の物件となるはずでしたが・・。カサ・ミラ(Casa Milà)の模型地下1階(駐車場)、地上6階に、7階屋根裏が1954年になってアパートに改造されている。※ 2階がオーナーの居住区。今ならオーナーは最上階に住みたがるのにねやはり地上に近い方が利便が良いと考えられたのでしょうか?34m×56mの長方形の敷地。1階は1.6m上げて造られていて、中1階となっているので外見上は7階に見える。エレベーターもあるし、一見、現在のマンションと思える物件の造り。しかし、時代である。地下駐車場は、正確には馬車用の車庫。馬20頭の厩(うまや)も有し馬具置場、まぐさ置場も設置されている。またマンション用のワイン・セラーも完備。超セレブ物件建物はセントラル・ヒーディングの為、ボイラー室も設置されている。※ 全館暖房か? は不明。全館セントラル・ヒーディングなら建物中に縦横無尽に配管が通される事になるから。厩とオーナーの居室だけかも? 屋上に煙突もあるし・・。ガウディら建築家の悲劇1909年の「悲劇の一週間事件」以後、スペインのブルジョアたちは目立つと攻撃されるようになったので、以降、豪奢なモデルニスモ(Modernismo)建築は消えて行くのです。オーナーの実業家、ペレ・ミラ (Pere Milà)と妻ローザ・セギモン(Roser Segimon)も同じく消極的となり、建設途中であったカサ・ミラ(Casa Milà)も目立たないように設計変更され予算もけずられて行く。1910年、思うような装飾もほどこせなくなり施主ともめたったガウディはカサ・ミラの建設から完全に手を引いてしまう。つまり、ガウディが係ったのは1906年~1910年。館の公式完成は1912年。後は弟子のジュゼップ・マリア・ジュジョール(Josep Maria Jujol)(1879年~1949年)が引き継ぐので、内装や家具類はガウディでは無いのです。当然ながら、ガウディが去った事はカサ・ミラの出来も、評価も大きく下げる結果となっている。テラスのアイアンワークもガウディのデザインでは無い。バルコニーのアイアン・ワーク ジュゼップ・マリア・ジュジョール(Josep Maria Jujol)(1879年~1949年)とは言え、弟子、ジュゼップ・マリア・ジュジョールの色彩感覚はガウディ以上で、ガウディは信頼して任せている。そもそもカサ・バトリョ(Casa Batlló)のファサード、破砕タイルのモザイク(トランカディス)や 仮面? のバルコニーもジュゼップ・マリア・ジュジョールが手掛けていた。カサ・ミラはバルコニーを除き、ファサードや外壁面の装飾は一切無い。本来はテラスも、もっと豪華だったはずだ。 おそらく、カサ・バトリョのように多少なりとも破砕タイルのモザイク(トランカディス)で化粧されるはずであったと思われる外壁。結果は外壁も石肌のまま。とは言え、途中コンクリートに切り替えたサグラダファミリアよりマシ。破砕タイルのモザイク(トランカディス)自体は、廃品回収されたエコ素材であったので原材料にお金は掛からなかったろうが、家主は何より目立たない方向に方針転換したからだと思われる。ここも海の底をイメージしているみたいですね。海の泡に見立てられた? アイアン・ワークのドア。上の中庭はAからの撮影。下は3階からの賃貸住宅の図面かと思います。4家族の仕切りとなっている。ユニークな波打つ外観ではあるが、先に紹介したようにここの構造は柱・梁構造(はしらはりこうぞう)。居室フロアは間仕切りの位置を変えて各部屋を広げたり小さくしたりも可能な造り。普通なら、壁も強度を保つ役割を担うので、それはできないが、カサ・ミラでは構造の強度を柱・梁(はしらはり)でとっているので可能となっている。ワンフロアに幾つ世帯が入るのかわからないが、表道路側がオーナー家族で、後ろ側がメイドらの部屋に割り当てられていたのだろう。ここに居住できる人はセレブ。例え賃貸でもメイドやバトラーが居ただろう。とは言え、どの部屋にも窓がある造り。屋上からのA山歩きのように登ったり下ったりと、カサ・バトリョの時とは異なり、全てガウディの作品だからこそのトリッキー(tricky)さがある。カサ・バトリョではただよう煙(けむり)を造形化したデザインの煙突もここではさらに進化。まさに兜(カブト)・クローズヘルメット(Close helmet)を付けてマントをまとった戦士のように見える。下は階段塔兜(カブト)の煙突にモザイクを施してみたが・・。失敗だった?外観や屋上はやはり山。モンセラート(Montserrat)の岩山をイメージしているのだろうな。と思う。ガウデイ作品の源流カサ・ミラの職人は総勢100人ほど。ガウディは、1909年に彼ら全員を連れて慰安旅行としてモンセラート(Montserrat)詣でをしている。ガウデイが彼ら全員の汽車代とミサ代を支払い。ミラ氏が弁当(ワイン付)代を負担しての大掛かりなもの。いつもグチばかりの職人らがこの日は誰も何も言わず神妙な面持ちだったと言う。ガウディは静かで誰もグチをこぼさなかった事について感謝の言葉を残している。モントセラートは、バルセロナから列車で北西に1 時間ほどの位置にあるカタルーニャの聖山ですモンセラート(Montserrat)とは、「ギザギザな山」の意らしい。職人らも、自然のダイナミックさにきっと驚いたに違いない。この山の形、特殊ですよね。ガウディの作品に少なかながらず影響を与えているのは間違いない。カサ・ミラのイメージはまさにここかもね。4000~3400万年前に砂、砂利、泥が流れ込み堆積。厚さ1300mにも達した頃、圧縮され堆積岩(砂岩、礫岩)となってできたもの。それが2500万年前にアルプス・ヒマラヤ造山運動により地殻が隆起して山となって表れたが、元々堆積岩(砂岩、礫岩)の素材であるから、長年の浸食により現在のような非常に特殊な岩山が出来上がった。奇岩になったのは成分に石灰岩が多く、石灰が決着材となり固まった部分が浸食されず残ったから。ある意味、神のなせる業ともいえる。カタルーニャの聖山とされるのも理解できる。聖山、モンセラート(Montserrat)には昔からベネデイクト会の修道院があった。モンセラート修道院(Montserrat monastery)現在も80人程の修道士が修行している。奇岩にかこまれた山の中腹に修道院の見学ポイントは、大聖堂に置かれて居る「黒マリア像」。教会上の岩は近年も落ちてきているのであちこちにセンサーが取り付けられているらしい。ガウディは助手の時代(1873年~1883年)にモンセラート修道院の増改築で携わっている縁(ゆかり)の場所でもある。教会会頭部増築教会堂主祭壇裏祭室教会堂祭壇 現存せず。空撮写真が無いのでモンセラート(Montserrat)の看板を撮影したものの部分画像も悪いけどモンセラート(Montserrat)の山の特殊性がわかるかと載せました。長さ10km、幅5km、周囲25kmの楕円をしている。つづくBack number アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 1 高級住宅リンク アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 コロニア・グエル教会とカテナリー曲線
2024年01月22日
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またまた遅くなりました。m(_ _;)m12月に突入したら色々忙しくなり、夜はパソコン前で居眠りしてました。コクトーは今回2冊読みなおし、1冊取り寄せ。ちょっと改編を出したかっただけなのに深堀してしまった。専門家がたくさん書いていらっしゃるので、素人の出る幕ではないですが、私なりの感想も入れてみました。フランスの、ど田舎のマントン(Menton)。とは言えそこはカンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと続く南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)に連なる街。地中海性気候で冬でもこそこ温かく陽光の明るい南仏海岸は、高級リゾート地である。以前「マルク・シャガール(Marc Chagall)1~3」の所で、シャガールやピカソがニース(Nice)やヴァンス(Vence・鷲の巣村)で同じ陶芸教室に通っていた事など紹介しましたが、明るい陽光を求めて画家や作家らがこぞって地中海に面した南仏に集まっているのです。シャガールはニースに自分の作品の美術館があったので、その近郊(サン・ポール・ド・ヴァンス)に永住。ジャン・コクトーも1950年以降、ニースのフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の友人のヴィラを気に入り南仏には度々来ていた中、マントン(Menton)市の仕事やマントン市による要塞の提供で自身の美術館建設をする事になり、コクトーとマントン市の間には強い関係が生まれたのだ。マントン(Menton)にはコクトー自身が生前手掛けた古い要塞をアレンジした美術館の他に、近年造られた新美術館も存在。また、市長舎やヴィラなどの物件にコクトーの手掛けた絵画が存在し、名所となっています。コクトーもマントンに永住し、終の住みかになるのか? と思いきや、拠点(家)は俗にパリ地方と呼ばれるイル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあったのです。パリから50km。 コクトー自身の墓はそこにある。今回は、初期に出していたマントンの写真をまとめてジャン・コクトーの章を造り直した感じです。作品は追加していますが、近年できたコクトーの新美術館(2011年11月開館)やお墓の写真は観光局からお借りしました。※ 2011年11月、海沿いにできた新美術館は世界有数のコクトー・コレクターであるゼブラン・ワンダーマンのコレクション寄贈によってできた美術館だそうです。が、災害にあい、現在美術館は復旧工事で閉鎖中らしい。後で詳しく紹介。それにしても、マントンは本当に辺境です。近場の空港はニースですが、列車の場合、一度モナコに入り、再びフランスに入ると言う飛び地。しかもその向こう隣はイタリアの国境です。個人で行くのは便がとても悪いのです。ジャン・コクトー(Jean Cocteau)とマントン(Menton)何者? ジャン・コクトー略歴匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」エッセイ? 「 阿片(Opium)」阿片ブーム到来?ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)フランスでは合法だった同性愛著作権問題ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)フランシス・パルメロ(Francis Palmero)マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間マントン・スタイル(style de Menton)フランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)ジャン・マレー(Jean Marais)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)コクトーとマントン市の係わりの前に、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は何者か? を先に紹介。何者? ジャン・コクトー略歴正式名 ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー(Jean Maurice Eugène Clément Cocteau) (1889年~1963年10月)父は弁護士で、社会的に裕福な家で生まれたコクトーだが、父は彼が9歳の時にピストル自殺。それでもコクトーの家はブルジョアで、彼は母方の父(祖父)の元で育てられたらしい。1900年~1904年まではパリ9区にあるブルジョワジーの子弟が行く古くからの名門校リセ・コンドルセ(Le lycée Condorcet)(1804 年に開校)に通っていた。※ 金持ち校なのに寮は無い自宅通学の学校。※ 白書から推察するに、この頃学友と娼館通いもしていたようだ。15歳(1904年)で家を出た? 1人暮らしを始めた?19 歳(1909年)で最初の詩集「アラディンのランプ(Aladdin's Lamp)」を自費出版して詩人としてデビュー。1910年、詩集「浮かれ王子(Le Prince Frivole)」を発表。金持ちでイケメン? 社交界でも有名で、タイトルと同じく「浮かれ王子」として知られる事になる。 コクトーは、まず詩人としてデビューしたのである。ウィキメディアから借りました。1910年~1912年 ジャン・コクトーの肖像(Portrait de Jean Cocteau)画家 Federico de Madrazo y Ochoa(フェデリコ・デ・マドラソ・イ・オチョア)(1875年~1934年)※スペインの画家。彼はコクトーと共に1912 年、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団、「バレエ・リュス(Ballets Russes)」のバレエ「ル・デュー・ブルー(Le Dieu bleu )青い神(The Blue God)」に携わっている。20歳から22歳くらいの間に描かれた油性のポートレート。「浮かれ王子」の頃ですね。彼のイケメンぶりを示す意味で利用しました。※ この絵は著作権が期限切れであり、また提出者?が匿名であるため、パブリック ドメインとなっているとの事。調べたら1988年にオークションに出され落札されている絵でした。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1929年、40歳? パリで撮影されたポートレート。撮影 ジェルメーヌ・クルル(Germaine Krull)(1897年~1985年)※ 第二次世界大戦前に、ドイツ、オランダ、フランスなどで活動したドイツ出身の女性写真家。写真提供? Germaine Krull Estate, Folkwand Museum下は、現在開催されているコクトー美術館でのイベント・ポスターから借りました。XPOSITION EN COURS - JE RESTE AVEC VOUS現在の展示 -「私はあなたのそばにいます」 2023年11月25日~2024年6月17日ポスターに使用された絵は1961 年 漁師と少女(pêcheur et la jeune fille)ポスターに記される「JE RESTE AVEC VOUS」「Je reste avec vous.(私はあなたのそばにいます)」はコクトーの墓碑に刻まれた彼の言葉らしい。コクトーは、詩人としての作品多数の他、小説や戯曲を書き、また映画の監督、脚本もこなす劇作家。デザイナーとしても活躍。彼の書くシンプルな個性的なイラストは作品の細部を伝えるだけでなく、コクトーらしい魅力ある人物が多い。特にこのマントンで創作されたマントンの恋人たち(les amoureux de Menton)のシリーズと、技法においては、マントンスタイル(style de Menton)を生み出した。※ マントンでコクトーが手掛けた恋人たちシリーズは「インナモラティ(Innamorati)」と呼ばれてもいますが、Innamoratiはイタリア語です。コクトーもマントンの街もフランスなのに・・。※ マントン・スタイルについては後で紹介。わが魂の告白の挿絵からわが魂の告白の挿絵からまた彼の交流、その人脈がすごい。20代前半、コクトーはマルセル・プルースト(Marcel Proust)、アンドレ・ジッド(André Gide)、モーリス・バレス(Maurice Barrès)などの大物作家と交流を持つだけでなく、バレエの関係者(ダンサー含)、印象派の画家らとも幅広く交流。※ 元々金持ち故、若いうちから社交界に出られたので人脈がより早く広がったのかも・・。詩や小説だけでなく、その才はバレエの演出や演劇、また映画などにも多数生かされている。特にバレエの舞台演出は多数の若手アーティストが共演していて、彼らは皆、出世している。先に書いたが、ロシアの興行師セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)のバレエ団「バレエ・リュス(Ballets Russes)」の為のシナリオを書いてほしいとコクトーにお願い。1917年、「パレード(Parade)」が発表された。この作品はディアギレフがプロデュースし、舞台装置はピカソ(Picasso)、台本はアポリネール(Apollinaire)、音楽はエリック・サティ(Erik Satie)が担当する豪華な顔ぶれ。「バレエ・リュス(Ballets Russes)」に関しては、ココ・シャネル(Coco Chanel)やマリー・ローランサン(Marie Laurencin)、モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)、ジョルジュ・ブラック(Georges Braque)など画家以外の分野でもそうそうたるメンバーが名を連ねている。求龍堂版「阿片」の中のイラストから芸術のデパートと称されるくらいにその活動も才能も多岐にわたっているが、コクトー自身は何よりも、詩人として扱ってほしかったらしい。匿名小説 「白書(La Livre Blanc)」他に彼を特徴づけるのは、1928年、彼が匿名で、出版社さえ隠して出版した小説「白書(Le Livre Blanc)」。自身の性癖について告白するような自伝的な小説を38歳のコクトーが書いた。※ その時、彼の傍らには20歳の恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)がいた。限定21部? あくまで架空の小説を装っていて本人とは設定が多少異なるが、匿名でもすぐに身バレしたらしい。「白書」は、再販含めて、序文をコクトー自身が書き、コクトーのイラストが多数 使用されているにもかかわらず、どれにもコクトーの名前はサインされていない。つまり、はっきり自分の作品だとは最後まで認めていないらしい。日本では、1994年に山上昌子 氏訳で求龍堂から出版されている。イラストは法的に? ヤバ過ぎてどれも載せられません。エッセイ? 「 阿片(Opium)」また、彼は阿片(あへん)中毒で2度ほど入院している。1度目の入院療養(1925年3月 パリのテルム・ユルバン療養所 2度目の入院療養(1928年12月~1929年4月) サン・クルー療養院2度目の入院時の手慰みに書いたノートとメモしたイラストが「阿片(Opium)」のタイトルで1930年に発行された。告白と異なり、阿片や闘病の事など彼の感想や言いたい事などが単発的に書かれている詩のような、また手紙のような、ある時は日記のような療養所でのエピソードなど短編が集められている。最初はコクトー流の屁理屈が並ぶので頭に入らなったが、入院中の看護士らのエピソードや、また社交界での事なども綴られている。個人的にはコメディー・フランセーズの事、演劇論なども語られているところが興味。コクトー曰く、1909年頃の芸術家は大方が阿片を吸っていた。ただ人に言わなかっただけ。ただ、魂の指揮者なる神経中枢を阿片が犯す時、阿片は初めて悲劇的になる。さもない時、阿片は解毒剤であり、歓楽であり、大げさな午睡(シェスタ)だ。総じて、阿片はそんなに悪いものじゃない。使い方だと言ってるようだ。実際、2度の辛い中毒後、彼は阿片を表向きはやめたが、実は中毒の苦しみには3度会わないよう? 適当に軽微に注意しながら楽しんでいたらしい。1936年、彼が世界一周の旅で日本に来た時も、ホテルのバスルームで密かに慎ましく吸っていたのが、いじらしい。と堀口大學 氏が綴っている。そもそも彼が阿片中毒にまで陥った原因は、恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の急死が原因であった。1918年、コクトー(29歳)はレーモン・ラディゲ(15歳)と出会う。コクトーは彼の才能を見い出し売る為の努力をおしまずラディゲの才能は開花を始めていた。しかし、ラディゲはあまりにも早い死を迎える事になる。1923年享年20歳。腸チフスで闘病中に急死短い人生の中でレイモン・ラディゲは作品を残している。18歳で小説「肉体の悪魔(Le Diable au corps)」20歳で長編小説「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」※ 三島由紀夫は「少年時代の私の聖書」だったと言ったと言う。日本訳はやはり堀口大學 氏がおこなっているが、「ドルジェル伯の舞踏会(Le Bal du comte d'Orgel)」はそもそも構成中に亡くなっているので、普及版はコクトーらの手が加わった初版に基づいたものが発行されているそうだ。コクトーは恋人レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)(1903年~1923年)の死に耐え切れなくて苦しむので、見かねた友人が南仏の阿片窟に彼を連れて行ったらしい。レーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)のポートレート?わが魂の告白の挿絵からMarcelle Meyer amb el jove poeta Raymond Radiguet (1921)マルセル・メイエと若い詩人レーモン・ラディゲこの写真はMarcelle Meyerのウィキメディアの方からお借りしました。18歳のレーモン・ラディゲ。※ マルセル・メイエ(Marcelle Meyer)(1897年~1958年)フランスのピアニスト。「悪魔のパンが差し出された。平生(へいぜい)なら東洋趣味を退ける僕なのに、この時は阿片と言う名の飛行絨毯(ひこう・じゅうたん)を選んだのだ。」コクトーはコクトーの言葉を借りると「眠りの世界に慰安を求めた」のだ。(ジャック・マリタンへの手紙から)こちらの日本訳は、コクトーと親しかった? 堀口大學 氏が訳を行っている。近々では改訂版を1994年に白書と同じ求龍堂から出版されている。そこには同じくサン・クルー療養院に入院中に書きなぐったデッサンとを集成した本となっている。ところで、二度目の中毒の時はすでに新しい恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)と同棲中である。1926年、コクトーはジャン・デボルト(20歳)を見た時、レーモン・ラディゲの再来を見たと言う。先にも書いたが、「白書」を執筆しながら、デボルトの推敲を手伝っている。つまり、彼は阿片により現実から逃避をしていただけ。本当にコクトーを救ったのは新恋人ジャン・デボルト(Jean Desbordes)の出現であったのだろう。彼は決心して? 自分の性の告白を綴る前出の白書(La Livre Blanc)を書き、匿名にせよ世に出した。が、彼を心配して見守り、かつコクトーを信仰で救おうとしていたジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は神に反する行動に「悪魔の契約」と非難したと言う。タイトルや解説は一切ないのですが、阿片(あへん)を吸う中毒者を描いた挿絵を「阿片(Opium)」の本からお借りしました。コクトーが自身2度の阿片中毒で療養を余儀なくされていた時の作品。阿片を吸う時、コクトーは古びた竹筒のようなものを自ら用意して阿片を吸っていたと言うので、そのパイプを象徴として描いた作品のようです。パイプシリーズは阿片がテーマとなっているという事です。阿片の本からまさにこのように横になって吸引するようです。阿片の本から阿片中毒の親子?阿片の本からアヘン・阿片(opium)言うと私も阿片戦争くらいしか浮かびませんが、ケシの実から抽出するアルカロイド系の麻薬の一種で、医療や娯楽目的で古代から(紀元3000年前)利用されローマ帝国時代は鎮痛剤や睡眠剤としてすでに使用されていた薬用植物らしいです。ガンの鎮痛や麻酔などに使われるモルヒネ(morphine)がまさにケシからの抽出です。阿片の本から普通にハイになっているうちは良いが・・。中毒になると体中の関節に激痛、悪寒、嘔吐、失神を伴い、そんな禁断症状が続くと正常な精神活動を保てなくなり、やがて人格崩壊。 ショック状態から、こん睡状態、呼吸停止に至るらしい。阿片の本から末期のアヘン中毒患者がよく表されていまね。阿片ブーム到来?ローマの滅亡と共に一度すたれた阿片は十字軍時代に再び欧州に上陸。大航海時代にハーブ・スパイスだけでなく、阿片は重要な交易品だったそうです。インドを植民していた英国は阿片を中国(清国)に広めた元凶だ。皆が阿片に溺れ、その危機感から清国政府は英国の阿片を焼却。阿片戦争が勃発した。中国人に広められた阿片は、逆輸入? 三度欧州に戻り広まり始める。中国人らのコミュニティーから阿片窟(あへんくつ)が国内に誕生したらしい。彼は阿片と麻薬を分けていて「阿片は崇高な物」、「阿片は宗教にも似ている。」「阿片はその使用法の機微さえよろしきを得たら多くの霊魂に高翔の素地を準備する。」とまで言っている。ジャック・マリタンへの手紙(Lettre à Jacques Maritain)阿片中毒から退院した後に同性愛の事とか、阿片の事とか、心を入れ替え、キリストに帰依しようと心が揺れたらしい。同郷の友人でありキリスト教哲学者(神学者)ジャック・マリタン(Jacques Maritain)(1882年~1973年)は彼を心配して見守りつつ、信仰への道へ彼を導いていた。※ ジャック・マリタンはトマス・アクナイス哲学を復興させようとする中心人物。1913年、パリ・カトリック大学教授。1945年、バチカン市国大使。1925年、コクトーは心情を語り、ジャック・マリタンはそれに返答した。コクトーは「告解者」だ。マリタンは「聖体のパン」をアスピリンとして使うよう」コクトーに薦める。ジャック・マリタンとのやり取りは、「告解者」と「教夫」の関係だ。さながら手紙は、自らの罪を司祭に告白して神のゆるしを得る「告解(Confession)」の部屋の中のやりとりのようだ。コクトーは屁理屈屋だ。そしてうまい言葉で表現してはジャック・マリタンに自分を擁護する。ジャック・マリタンもそれを心得ているからコクトーの心は揺れたのだろう。ついにジャック・マリタンは奧の手、シャルル教夫をつかわした。・・とっさに僕は、シャルル教夫に備わるあの美しさの秘密を理解し、同時に「神様は永遠だから我慢強くいつまでもお待ちくださる。」との言葉を思い出した。・・・・・・僕があの時見たのは、人間の形をした祈りだった。生命や死後の生命に対する彼の意欲は、バラモンの苦行僧の無我の眠りを眠っていた。・・・・・一人の教夫が、ストラヴィンスキーやピカソと同じショックを僕に与えたのだった。こうして彼は、僕に神の存在を立証して見せた。ピカソとストラヴィンスキーは紙上にいろいろの傑作を誌す(しるす)ことはできるが、聖体のパンのみがシャルル教夫が僕に差し出す唯一の傑作だった。コクトーはキリスト聖心祭の日の朝、ジャック・マリタンの家の礼拝堂で、数人の親しい人々に見守られてシャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けたのだ。その時、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と、言ったらしい。※ シャルル・アンリオン(Charles Henrion)(1887年~1969年) 1924年にチュニジアに向けて出発し、司祭に叙階。36年間砂漠にいて活動したらしい。この書の中ではレーモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)の事も書かれている。僕はあらかじめ十分用心していた。初めから僕にはラディゲは借り物なので。やがては返さなければならないとわかっていた。・・・都会で暮らしたその冬は悲惨だった。なぜ僕は、あんなに彼に嘆願したりしたのだろうか?なぜ僕は、自分の生活を変えたり彼に範を示そうとしたりしたのだろうか?借金、強い酒、不眠症、堆い汚れもの、ホテルからホテルへ犯罪の部屋から犯罪の部屋へのあわただしい生活。それらがみんな一緒になってラディゲの転身の原因になった。悲しい転身は1923年12月12日。ビキニ街の病院で行われた。レーモン・ラディゲは治療の甲斐なく、腸チフスで亡くなった。・・・ラディゲの死は、麻酔をかけずに僕を手術した。「天使がとって置いてくれた」教会の席に戻った・・と手紙に書き、1925年6月にはジャック・マリタンの勧めで前出、シャルル・アンリオン教父によって聖体拝受を受けた。一時は修道院にも入ろうとさえ考えた? 「白書」のラストでは修道院に入る予定で行ったのに、主人公は決別して帰っている。コクトーの教会への接近と離反。ジャック・マリタンを慕い、シャルル・アンリオン教父には確かに崇敬さえ感じたのは確かだろう。前出、シャルル・アンリオン教父はコクトーに「自由になりなさい(Soyez libre)」と言った。多分これは「魂の解放」が真意だったのではないか? と思われるが、コクトーはそうとらなかったのかもしれない。コクトーは欲望と言うよりは、自身の直観を運命として、自由に生きる事にしたのかもしれない。そもそも彼は芸術家だからね。自分を制御して信仰に生きるだけなんて、とうてい彼にはできなかったろう。刺激に満ちた人生こそが彼のインスピレーションの源だったと思えるし・・。神に背いたわけではないが、彼の自由は神の世界と相反する。でも、神はきっと許してくれる。と思ったのかもしれない。二人のやり取りは「ジャック・マクリタンへの手紙」として1926年発行されている。ジャック・マリタン(Jacques Maritain)に宛てた「芸術と信仰」についての手紙。英語版のタイトル「Art and Faith: Letters between Jacques Maritain and Jean Cocteau」日本訳のタイトル「ジャック・マリタンへの手紙」。同時期に出されたデッサン集「療養所」を加え、「ジャック・マリタンへの手紙」の改定版は「わが魂の告白」とタイトルされている。いずれも堀口大學 氏が訳している。フランスでは合法だった同性愛ところで、小説「白書(Le Livre Blanc)」で明らかになったのが、彼が同性愛嗜好であると言う事実。若い頃に娼館通いもしているので女性が全くダメだったわけではないだろうが、彼は自分に素直に生きた。葛藤があったのも確かだが・・。以前、ビアズリーとサロメ(Salomé)の時に紹介したオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)は、同性愛ゆえに転落した。相手の親に訴訟を起こされ敗訴したのだ。英国とフランスは法律が違う。英国では同性愛は法的に犯罪であったが、フランスではラッキーな事に「ナポレオン法典」が同性愛を認めていたのだ。つまり、ナポレオン以降、フランスにおいては、英国のような犯罪として扱われる事はなかった。コクトー自身が、ナポレオン法典が長命な為に「この悪徳によって処刑場送りになる事はない。」と言っている。※ 今のフランスの民法は1804年にできた「ナポレオン法典」がほぼそのまま使われているらしい。「ナポレオン法典」を造った法律家が同性愛者だった事から? フランスでは犯罪にはされなかったようだ。※ 英国が「同性愛禁止を撤廃」するのは1967年。フランスから160年も遅れた。それにしてもカトリックでは、そもそも「子をなさない性交」は認められなかったから、カトリック一色の欧州では同性愛は表だっては難しかったはず。にもかかわらず、フランスでは1804年と言う早い時期に自由恋愛に踏み切っていたというのが凄すぎる。「白書(Le Livre Blanc)」の人物の恋愛模様を見ると、それが実際か? はわからないが、主人公が女性と恋人の取り合い? 複雑な三角関係が多い。実際のコクトーもそうだった? と読者が思っても不思議ではない。出会いも軽いし、かなりハチャメチャな性ライフが行われている。付属のイラスト描写は文章以上である。告白のラストで三角関係の末に恋人が自殺。(姉弟を相手にしての三角関係)主人公は、自身の罪ゆえに修道院に行く決心をしたが、主人公は案内の修道僧に、最初の性の目覚めから行為を寄せた男たちの顏が走馬灯のように映り替わり見えてしまい、気が失せて断念する。実際の登場人物の名前も出ているので、どこまでが創作なのか?著作権問題ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年10月)は現在、没後60年。以前シャガールでも触れましたが、画家の死後70年が経過すると著作権が消滅するので、世界の大方でジャン・コクトーにはまだ著作権の壁が存在します。ただし、日本の場合、2018年12月30日に改正著作権法が施行されるまで、著作権の保護期間は死後50年間だったのです。つまり、ジャン・コクトーの著作権は10年前に一度撤廃されていたので、日本の関連では改定後の死後70年の壁は無いようです。ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)1950年、ジャン・コクトーが「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の撮影を終えたばかりの頃、友人のフランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)に、ニース近郊のフェラ岬(サン ジャン カップ フェラ・Saint-Jean-Cap-Ferrat)の屋敷ヴィラ・サント・ソスピール(Villa Santo Sospir)に誘われたそうだ。※「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」の原作は1929年。映化は1950年。コクトーは南仏も、彼女の別荘も気にいり、数か月間滞在したばかりか、以降、定期的に訪れるようになったと言う。そして別荘に来ては、ヴイラの白い壁に彼はイレズミ(壁画)を施した。「壁を飾るのではなく、彼らの肌にタトゥーを描くのだ。」彼はタトゥーを際立たせるために最小限の線を用いたフレスコ画を残したのである。写真はニース観光局サン ジャン カップ フェラ観光案内所のものをお借りしました。リンク先も添付します。リンク Welcome to Nice Côte d'Azur2007 年より歴史記念碑(Monument Historique )として国家遺産(national heritage site) に登録されたそうです。※ 現在、ヴイラはガイド付きツアーがあり公開されている。住所14 avenue Jean Cocteauジャン・コクトー通り14番地06230 Saint-Jean-Cap-Ferrat06230 サン・ジャン・カップ・フェラFRANCEヴイラを気に入ったコクトーは映像作品でもこのヴイラを使用している。ヴィラ・サント・ソスピール(La Villa Santo-Sospir)(1952年) 監督オルフェの遺言(Le testament d'Orphée) -私に何故と問い給うな(ou ne me demandez pas pourquoi!)(1960年) 監督・脚本・出演ヴイラ自体はニースのはずれ? です。この時にコートダジュールを気に入った? コクトーはマントンの街に「一目惚れ」したと伝えられるが、何きっかけか? はわからない。ただ、当時のマントンの市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)との出会いから全てが始まった気がする。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)今、マントンの観光の目玉となっているマントン市役所の婚礼の間の絵画やコクトーの要塞美術館も、フランシス・パルメロの提案から始まっている。彼の方の経歴から探ると、マントンの市長フランシス・パルメロがコクトーに出会うのは1955年8月、マントン音楽祭である。実はこの市長はただ者ではなかった。フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)1954年2月~1977年3月 マントン市長※ 1977年、マントン市選挙で敗退。1958年~1968年 アルプ・マリティーム県議員(4期)1971年~1985年 アルプ・マリティーム県上院議員マントン市議会 議員(1958年→1985年) 市議会議長(1961年→1964年、1967年→1973年) どうもフランスでは市長と国会議員が兼任できるらしい。フランシス・パルメロは政治家になった。1954年2月~1977年3月 マントン市長となったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)は1958年には県議、1971年には上院議員となり国会議員となって行く政治家。しかも非常にアクティブで南仏にフランス版のシリコンバレー、ソフィア・アンティポリス(Sophia Antipolis)を創設した功労者でもある。南仏にあっては、かなりの影響力のある実力者だったようだ。亡くなる1985年まで県上院議員をしている。マントン市長舎(Maire de Menton) 婚礼の間欧州では市役所や街役場で結婚届を出すので、まさにウエディングドレスを着て役所から出て来るパターンに遭遇する事が多々ある。1955年、マントン市では、使われなくなった裁判所を結婚式場に変えようと言う案が出されていた。当時のマントン市長であったフランシス・パルメロ(Francis Palmero)は音楽祭で知り合ったジャン・コクトーに装飾を依頼することを思いついた。彼はヴィルフランシュ・シュル・メール礼拝堂(la chapelle de Villefranche-sur-Mer)の装飾と並行して取り組み、 1956年4月、 婚礼の間(ウエディング・サロン)の為の最初の絵を描いた。※ 同年のマントン音楽祭(Festival de musique de Mento)のポスターも制作。マントン市長舎マントン市長舎の婚礼の間(ウェディング・サロン)部屋は今よりも薄暗かったので写真はかなり明るくしています。また、カメラの性能もよくなかったので綺麗な写真とは言えませんが・・。部屋はコクトーが全てデザインしたので当時のままのようです。コクトーは装飾の細部にまで注意を払っている。壁画は側面、天井にも及ぶ。スペイン・スタイルの椅子や錬鉄製の照明器具など調度品のデザインはもちろん、バージン・ロードにヒョウ柄のカーペットを指示した。式場なのに、バージン・ロードなのに・・。ヒョウ柄なんて非常に珍しい。どう言う意図だったのか?現在はわかりませんが、これを撮影した当時、写真撮影に制限が無かったのでほぼ全部撮っています。反対入口側マントン市長舎の婚礼の間のコクトーの壁画から LE COUPLE MENTONNAIS マントンのカップル 恋人たちから夫婦へ。マントン・スタイル(style de Menton)1950 年代、コクトーはカラーチョークなどの新しい技法に取り組んでいた時?マントン市の結婚式の間の仕事中、彼は紙に習作を記入し、次に壁の絵にカラフルな曲がりくねった線を描き始めた。迷路のようなイレズミのような特徴的な文様。そう、やはりクレタ(Crete)島のクノッソス(Knossos)の迷宮(ラビリンス・labyrinth)からインスピレーションを経てマントンスタイル(style de Menton)は考案されたらしい。1956 年 4 月 8 日に最初の絵を描き、婚礼の間は 1958 年 3 月 22 日に落成。完成時、コクトーは69歳である。ほぼ丸2年かかっている。天井画 天使たち正面右壁から作業するコクトーの写真。こちらはジャン・コクトーの美術館案内のサイトから借りました。リンク BIOGRAPHIE DE JEAN COCTEAU1957 年~1958 年にかけて描かれたこの作品のテーマは、「マントンの恋人たち(les amoureux de Menton)」正面左壁からエウリュディケ(Eurydice)エウリュディケが黄泉の国に連れていかれる所?オルフェウス(Orphée)オルフェウスやエウリディケのバックには大量のケンタウロス(Centaurus)。ケンタウロスが、なぜ射られているのかは謎。結婚式にはふさわしく無い絵の気もするが・・。コクトーの真意は?コクトーは今までのウエディング・サロンでは華やかさに欠けると考えたらしい。独特の演劇性を持たせることで面白さを加えたのかもしれないが・・。「野蛮な結婚」がタイトル? らしい。・・・なるほどフランス共和国の象徴 マリアンヌ(Marianne)の横顔ところで、部屋の端に置かれた鏡にサンドブラストで刻まれた謎めいた女性の顏が左右対称に 2 つ。フリジア帽を被るマリアンヌ(Marianne)像だと思われる。マリアンヌ(Marianne)像は、フランスを擬人化した女性であり、フランス共和国の象徴なのである。フランスの国旗のトリコロールは自由(青)、平等(白)、博愛(赤)。政府広報では、平等(白)の部分にマリアンヌの横顔が置かれている。フランスの市庁舎には、フランス共和国の象徴としてマリアンヌの胸像がたいてい設置されるものらしい。その時代のフランスの顔となる女性(女優、モデル、歌手など)が選ばれて、彫像のモデルとなるらしい。コクトーはそれを彫像でなく鏡に刻んだのだ。ただ、コクトーが誰をイメージして描いたか? はわからない。ル・バスティオン(Le Bastion)(要塞)要塞美術館(Musee du Bastion)マントンには現在ジャン・コクトーの美術館が2つある。近年、新しい美術館がバスティオン美術館近くに開館したらしい。新しい美術館がジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)で、古くからの美術館がジャン・コクトー・バスティオン美術館 (Musée du Bastion Jean Cocteau)と仕分けされている。ジャン・コクトー・バスティオン美術館は、その名の通り要塞美術館(Musee du Bastion)。それは海に突出した17世紀の砦を改築して造られたものだからである。※ その昔は海賊監視の為のサラセンの塔(トッレサラチェーノ・Torre Saracena)があったのではないか? 最初に話が出たのは1957年、彼がマントン(Menton)市役所の婚礼の間の装飾に取り組んでいた時。当時の市長フランシス・パルメロ(Francis Palmero)(1917年~1985年)から提案があったそうだ。この要塞は当時放置されていたもの。市が場所を提供するので、ここにコクトー自身がデザインして自分の美術館を造ればどうか? コクトー曰く、「私の作品の美術館なんて、邪悪なものでしょう。」 当初、彼は自身の美術館と言うものに否定的だったらしいが、コクトーも68歳。自身のキャリアを象徴する作品を置いて形に残そうと考えたのかもしれない。「コクトーの美術館」ではなく、「要塞、ジャンコトー」? ル・バスティオン・ジャン・コトー(Le Bastion Jean Coteau)」はどうか? と本人が提案。マントン市はル・バスティオン(Le Bastion)で紹介している。それだけでコクトーの美術館だと誰もが認識しているからだ。結婚の間が終わった1958年から作業が始まる。建物の改築も、内装も、作品の配置も、どんな作品を展示するかまで細部に並々ならぬこだわりを持ってコクトー自身が指揮をとり造り始めたそうだ。※ コクトーがかかわるのは1958年~1963年。色とりどりのパステル画、記念碑的なタペストリー、驚くべき絵画、大胆な陶磁器などがこの美術館の展示品として飾られる。しかも作品は定期的に入れ替え。コクトーのこだわりの美術館は、まさしく遺言博物館となった。ジャン・コクトー(Jean Cocteau) (1889年~1963年10月)は完成前の1963年に74歳で亡くなった。ル・バスティオン(Le Bastion)は1966 年に開館。下は全景が撮影できなかった為に部分で撮影したものを順番にくっつけました。壁画はビーチで採集した玉砂利で出来ている。近くで見ると玉砂利が飛び出しているので写真よりは感動があります。残念ながら、館内の撮影は禁止されていたので内部の写真は一切ありません。美術館の中はタペストリーや陶芸作品や絵画が展示されていましたが、そもそも要塞内部を改築しての美術館と言うよりは、コクトーのこだわりが詰まったアトリエのような所です。今は大きなコクトー作品の展示は新コクトー美術館の方にもって行かれた感じ? こちらはテーマを取り入れた展示室の一室として展示されていたようです。そもそもこちらの所蔵は当初コクトー自身の持っていた作品だったと思われる。コクトー美術館のチケットで「こちらも見られます。」扱い。が、新美術館の方で災害によるトラブル? 現在ほぼ機能不全の状態ようです。正面の全景が無かったので、ル・バスティオンの写真はマントン市のコクトーのサイトからお借りしました。リンク MUSÉE JEAN COCTEAU LE BASTION新 ジャン・コクトー美術館(Musee Jean Cocteau)こちらは2011年11月に開館した新たなコクトー美術館なのであるが、ここの所蔵品のほとんどがセヴラン・ワンダーマン(Severin Wunderman)氏による寄贈で成り立っている。それ故、2005年9月、フランス文化通信省は寄贈者の名を加える事を許可。ジャン コクトー美術館 セヴラン ワンダーマン コレクション(Jean Cocteau Museum Severin Wunderman Collection)と呼ばれるのである。スイスの腕時計ブランド、コルム(Corum)社の会長兼オーナーであるセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)(1939年~2008年)。時計製造業界で最も大胆な人物の一人とされただけでなく、人道主義者であり、アートシーンの熱心な後援者でもあった。1910年代から1950年代までのコクトー作品の多数のコレクションがあり、フランス文化省の後押しを得て2005年に990点のコクトー作品と、840点の関連作品の寄贈がされている。新美術館の開館は、そのコレクションを公開する為の建築であった。残念ながら美術館開館前にセヴラン・ワンダーマン氏(Severin Wunderman)氏は2008年、69歳で亡くなった。新美術館は2011年11月に開館にこぎつけだが・・。しかし、現在閉鎖中です。オープンして丸7年。2018年10月29日から30日の夜に発生した大雨? 大嵐? 高潮? により美術館地下は大量の海水が入り込み、ほぼ水没。コレクションの所蔵室も地下にあったようで、ほとんどのコレクションが被害を受けたようです。建物自体の問題だけでなく、作品の修復も大量に発生しているようなのです。一説には保険でも、もめているとか・・。作品が蘇れる事を祈るばかりです。下の写真はウィキメディアから借りました。 海からの美術館。非常に海が近い。1 April 2012 2700 ㎡の敷地に 2 つの展示スペース、特別展示エリア、教育ワークショップ、アート グラフィック、資料資料エリア、カフェ、ブティック、本屋が設置。元のバスティオンがそもそも要塞を利用したアトリエのような美術館であったので、こちらは一般の美術館としての最新の設備も諸々備えている。近年は、外からの訪問者はむしろこちらメインでバスティオンはオマケ的な扱いになっていたのかもしれない。新たな美術館の建設は 2003年12月にマントン市議会で決まり、2007年に市議会によって国際コンペが開催。2008 年 6 月、設計コンペでは、フランスの建築家ルディ・リッチョッティ(Rudy Ricciotti)が優勝。リッチョッティのデザインはコクトーの人生と作品から(詩人の個性、光と闇のゾーン、コントラストによって支えられた謎めいた自己神話など)直接インスピレーションを得たものと言われる。公式の美術館のサイトから写真をお借りしました。公式リンク MUSÉE JEAN COCTEAU COLLECTION SÉVERIN WUNDERMANでも、本当に海岸へりです。ちょっと高潮になれば被害が及ぶ事を考えなかったのだろうか?これはデザイナーの問題ではなく、デザインを現実に建築する施工の問題です。地下に排水施設も無かった? みたいですね。建物が戻っても、今後も同じ事が起きる可能性はあるわけで、建物の構造も変えざる負えない。しかも、肝心の作品のほとんどが大なり小なりの被害を受けているようだから、いつ再開できるのか? 海外の美術館は、その休館などの情報をほとんど表立って出しません。かつて、ハーグの美術館での事、行ったら長期工事で閉まっていたのです。目当ての絵画は海外ドサ周り中。全く意味の無い訪問になりました。何重にも調べて情報を確認しないとムダ足になります。晩年の恋人と終焉の地ミリー・ラ・フォレジャン・デボルト(Jean Desbordes)1926年、コクトー(37歳)はレーモン・ラディゲの再来を見て、ジャン・デボルト(Jean Desbordes)(1906年~1944年)(20歳)と同棲。(1933年)、7年間コクトーと一緒に暮らした後、彼は(27歳)コクトー(44歳)と別れた?母親と妹と一緒に引っ越し1937 年に結婚。1936年にコクトーが世界一周で日本に着た時は、若い友人? マルセル・キルを同伴していたと堀口大學 氏は書いている。ジャン・マレー(Jean Marais)1937年、 シェルブール出身の俳優ジャン・マレー(Jean Marais)(1913年~1998年)(24歳)と出会う。彼は俳優。コクトーの舞台「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1938年)(25歳)で主演に抜擢。※ 「恐るべき親達」の映画は1948年。1942年のジャン・マレー(Jean Marais) 29歳。写真はウィキメディアから借りました。Studio Harcourtによるブロマイドかと思います。29歳でもさすが役者さん。美しいです。第二次世界大戦では出征するも、復員後は舞台と映画で活躍。戦後はほとんどのコクトー作品に出演。映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」(1946年)、映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)、戯曲(1946年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)ジャン・マレー(Jean Marais) はコクトー作品のほとんどに出演したと同時に長くコクトーの愛人であったとされる。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)1947年、コクトーは後に養子となるエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit) (1925年~1995年)(22歳)に出会う。 彼が、コクトーの最後を看取った恋人となる。※ 実はエドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は本名ではない。正式な洗礼名はアントワーヌ・デルミット(Antoine Dermit)なのである。なぜか? 母がエドゥアール(Edouard)と呼んでいたらしい。ロレーヌで鉱夫として働いていた彼はポール・モリヒアン(Paul Morihien)の書店で偶然、ジャン・コクトーに出会う。彼の容姿はコクトーの美の理想に一致したらしい。最初は庭師になり、その後運転手にもなった。優しい性格から「ドゥドゥ(Doudou)」というあだ名がつけられたと言う。コクトーは彼を役者としても採用。双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)(1948年)以降の映画すべてに彼を登場させていたそうだ。映画「双頭の鷲(L'Aigle à deux têtes)」(1948年)※ エドゥアール・デルミット23歳の時。映画「恐るべき親達(Les Parents terribles)」(1948年)映画「オルフェ(Orphée)」(1950年)映画「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」(1950年)※ ポール役映画「サント・ソスピール荘(La Villa Santo-Sospir)」(1952年)映画「オルフェの遺言 ―私に何故と問い給うな―(Le testament d'Orphée, ou ne me demandez pas pourquoi!) 」(1960年) 独学で画家となった彼はパリで数回個展も開いている。その事が突然ジャン・コクトーが死去して、仕事半ばで止まった仕事の後処理を彼が行えたと言える。※ 1965年にフレジュスのノートルダム・ド・エルサレム礼拝堂を完成。※ メスのサン・マクシマン教会のステンドグラスプロジェクト。先に紹介した要塞美術館、ル・バスティオン(Le Bastion)もコクトーは仕事半ば1963年で亡くなっている。コクトーは亡くなる直前まで作品リストや美術館にこだわりを持って改変を続けていたらしい。3年後、それに終了(完成)の許可を出したのは芸術家であり、コクトーの養子となり、相続人となったエドゥアール・デルミットなのだ。フランス・アカデミーのアンドレ・モーロワ(André Maurois)フランシーヌ・ヴァイスヴァイラー(Francine Weisweiller)エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)の立会いのもとル・バスティオン(Le Bastion)美術館は 1966 年開館した。また、彼は1989年、モンペリエ(Montpellier)のポール ヴァレリー(Paul-Valéry)大学でコクトー基金の設立に貢献している。エドゥアール・デルミット(Edouard Dermit)は、1995年5月、パリで亡くなった。コクトーの死(1963年)よりも32年も後になるが、その亡骸はコクトーと同じ場所、ミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)のサン・ブレーズ・デ・シンプル(Saint-Blaise-des-Simples)礼拝堂に埋葬された。コクトーの終の住みかミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)冒頭ふれたが、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)の住まいは、イル・ド・フランスのミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)にあった。パリから南に50km。田舎ではあるが都会の喧騒から逃れるにはうってつけ? 環境も、利便も良かった?ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は1947年から亡くなる1963年までの16年間、そこを住まいとし、実は亡くなった場所もミリー・ラ・フォレ(Milly-la-Forêt)の寝室だった。1947年、最初にここを居に求めたのは、実はコクトーとジャン・マレー(Jean Marais)だったらしい。1946年、映画「美女と野獣(La Belle et la Bête)」の後、二人はここで同棲していたのかもしれない。同年、知り合うエドゥアール・デルミットは、最初コクトーの運転手となるので、途中からここに住み始めたのかもしれない。1958 年3 月 にマントンの婚礼の間が落成した後、彼はバスティオン修復プロジェクトに取り組んでいるが、その翌年(1959年)、住まいのミリ・ラフォレ(Milly-la-Forêt)市の依頼でサン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)の修復を手掛けている。下は、Milly-la-Forêt の観光局の写真をお借りしました。リンク Milly-la-Forêt観光局サン・ブレーズ・デ・シンプル礼拝堂(Chapelle Saint-Blaise-des-Simples)と薬草畑コクトーが内装の修復を頼まれ、かつね自身も眠る事になった古いチャペルです。12 世紀に建てられた古い礼拝堂は、ハンセン病患者達の祈りの場であった。周りの薬草畑は、ハンセン病患者の為の薬として栽培されていたらしい。コクトーは1959年に市から要請を受けて、内部をデザイン装飾する事になったのだ。彼が装飾したこの小さなチャペルに、コクトー自身が眠る事になるとは、彼は想像していただろうか?1963年10月10日、コクトーの友人のシャンソン歌手エディット・ピアフ(Édith Piaf)(1915年~1963年)(47歳)が癌(ガン)の為に亡くなった。コクトーはその知らせをミリー・ラ・フォレで聞いてショックを受けて寝室に向かったらしい。翌日、1963年10月11日ジャン・コクトー(Jean Cocteau)(1889年~1963年)は寝室で亡くなっていた。突然の心臓発作だったらしい。享年74歳。前出イベントポスターの事ですでに触れたが、コクトーの名前が刻まれた大きな石板には「Je reste avec vous(私はあなたのそばにいます)」という彼のシンプルな忠誠の言葉が刻まれていると言う。これは同じ墓に眠るエドゥアール・デルミットの気持ちなのか? と一瞬思ったが、どうもコクトーの神への懺悔(ざんげ)? 今まで散々神に対する罪を重ねて来てはいるが、「私はいつも貴方(キリスト)に忠誠を誓っています。」と言う意味のようです。下は私がプライベートで持っているコクトーのリトグラフ(lithograph)です。反射があるので少し斜め撮りしてますが・・。マントン・スタイルで描かれている作品です。「ヨハネによる福音書」ではイエスが十字架にかけられた時、弟子としてただ一人、十字架の下にいたのがヨハネとされるので、祈っているのはヨハネなのかもしれない。それとも、コクトーは自身の姿を投影させたか?こちらもプライベートで持っているコクトーです。星座シリーズの一枚かもしれません。これらを購入した後にマントンのコクトー美術館に行ったのです。お土産で、コクトー美術館でコクトー・デザインの素敵なブローチを購入したのですが、最終国コペンハーゲンのホテルで消えてしまいました。ガックリです。古いコクトー関係は削除しました。これにて終わります。
2023年12月17日
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ラストに「ハプスブルグ家」関連のBack numberをいれました。けっこうあります。遅れてすみません。甲冑の写真がありすぎて厳選するのに大変で・・。ある程度は系統だてして仕分けしたかったし・・。以前、「西洋の甲冑」を紹介したシリーズがあります。西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)そもそも甲冑(かっちゅう)シリーズを始めたのは、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)、略して(V&A)の甲冑のテキスタイルと手先のグローブを紹介しようと思っただけだったのです。(当時は一週間サイクルだったから中身も薄い。)ところが、アクセスも少なかったので続きを保留にしていたのです。今回は、(V&A)の後に行ったウイーン新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からたくさん紹介します。当初予定のグローブも少し載せます。※ 「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」ではウイーン王宮のトーナメント用の武具のみ紹介してました。ウイーン王宮の品は完全な王室コレクションです。中世の騎士道、華やかなりし頃の名品の甲冑が量、質とも見ごたえバツグン。ハプスブルグ家のコレクションは、実際に誰が着用していたか解っている武具も残っているし、誰が造った鎧かわかっている物もあるのがすごい。また、その展示方法が素晴らしく、武具好きの方には特にお勧めの美術館です。※ 中世には王侯貴族の甲冑を請け負っていた有名な甲冑師一族もいたようです。西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑ウィーン王宮の甲冑コレクション皇帝のパレード双頭の鷲の紋章ローマ帝国以降の欧州と戦争西ローマ帝国解体後から始まるローマ帝国の危機ロリカ・スクマタ(lorica squamata)中世、暗黒時代を経ての復活十字軍の遠征と聖地奪還後に設立された騎士修道会西洋の鎧のルーツと名称ホーバーク(Hauberk)メイル・アーマー(Mail Armour)兜 バルビュート(Barbute)とイタリアン サレット(Sallet)バルビュート(Barbute)コリント式ヘルメット(Corinthian helmet)イタリアン サレット(Sallet)アベンテイル(Aventail)アーメット(Armet)クローズヘルメット(Close helmet)マクシミリアン・タイプ奇妙なヘルメットイタリア ルネッサンス期の甲冑スペイン王フェリペ 2 世(Philip II)の騎馬戦闘用の鎧15世紀後半のヨーロッパの有名鎧鍛冶家イギリス サセックス伯の甲冑グローブ(glove)戦闘用の防具が甲冑(かっちゅう)です。日本にも鎧(よろい)、兜(かぶと)がありますが、使用の目的は同じです。見た目は違いますが、頭と体、また腕や足などを守る造りなのもほぼ一緒です。ただ、西洋の甲冑は時代による変遷もさることながら、用途で構造が全く違うのです。地上戦用殴り合い用?馬上用、トーナメント用騎馬の馬用欧州では甲冑造りの有名工房がイタリアとドイツにあったので、国による好みや造りの違いはあったのかもしれません。そもそも甲冑は高価故に着用できる人間は限られていました。多くは王の臣下達です。鋼鉄で造られているのですから、体にフィットさせる為にフル・オーダーです。それは構造上、日本の甲冑以上に体に忠実にフィットさせなければならなかったからです。ところで、西洋の甲冑(かっちゅう)は、古代ギリシャ、ローマ時代と、それ以降で分けて考えた方が良いようです。西ローマ帝国が解体され、ローマ兵がいなくなった欧州の西側は、過去の優れた文化が引き継げない自体にまで荒廃。東ローマ帝国側も病気の蔓延や地震などで弱体化。以降の欧州はイスラム勢に攻められ、暗黒時代を迎え、文明も一度リセットされているからです。古代の武具は青銅製。中世の欧州で使用されたのは鉄製と素材も変わっている。希少だった鉄が手に入りやすくなったこともある。何より機動力が上がる精巧な造りに加えて、軽量化は見てとれます。ウィーン王宮の甲冑コレクション皇帝のパレードウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から以下の写真は照明が暗かったのと、武具、細部の見やすさの為に色調調整してコントラストを下げつつ明るくしています。馬の甲冑もあるのですね。確かに馬がやられては大変ですが・・。腰に付いているのは神聖ローマ帝国の紋章、双頭の鷲(Doppeladler)のようです。つまり、これは皇帝の乗る馬の鎧らしい。考えたら、馬も自分の甲冑と主の甲冑で総重量が人間2人分くらいになっているはず。重いよね。双頭の鷲の紋章もともとローマ帝国の国章は単頭の鷲の紋章だったらしい。それに対して「双頭」は「西ローマ」と「東ローマ」の帝国の支配権を表しているとも・・。つまり双頭の鷲は二つの帝国の支配を示し、13世紀末から東ローマで使われるようになった紋章らしい。13世紀と言えばヴェネツィアが十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻してコンスタンティノポリスを陥落。ラテン帝国を樹立したのが1204年である。以前書いたが、東ローマ(ビザンツ)帝国は完全にギリシャの帝国と化していた時代だが、実質西の支配に落ちた。だがそのラテン帝国も1261年に陥落。つまり双頭の鷲の紋章が使われ始めた時期は、西側のラテン帝国が滅んだ後の混沌とした時代に、帝国の支配権を主張する者たちが、こぞって付けたがった紋章らしい。神聖ローマ皇帝の紋章であり、ハプスブルグ家の紋章にもなった。騎士の防具、前と後をセットにしてみました。上の甲冑と一見似ているけど、比べてみると、前より後ろで違いが解りやすいですね。鎖帷子と鋼鉄のプレートの混合(Mail and plate armour)です。それにしても防具はパーツ毎に革ベルトで止められている。ベルトが切れたら外れてしまうわけで、戦場で切られたらかなり慌てますね。高級だから捨て置く事もできない。防具を抱えて撤収も在りだったかも・・。そう考えると、防具も毎日のメンテナンスが重要になる。オイルは絶対塗っていただろう・・と思われる。錆(さび)ちゃうし動きを良くする意味でも。やはり戦場には鍛冶屋も同行していたのかもしれない。補修もあるれけど場合によっては変形して脱げなくなる事もあるからね。後で歴史を振り返りますが、要所で言うと、暗黒の中世を経て、復活した欧州人の逆襲が始まる中世後半、騎士が増えたのです。特に十次軍の遠征では、農民も兵士となって聖地エルサレムに向かったから、何万と言う兵士が従軍している。欧州では中世期に十次軍遠征と言う一大イベントがあった。そこでの甲冑の需要は必須。First Crusade (1096年~1099年)Second Crusade (1145年〜1149年)3rd Crusade (1189年~1192年)4th Crusade (1202年~1204年)西欧側(ローマ教皇が中心に)は聖戦の参加者を大量に募集。もともと領主になれない次男以下の貴族の子弟が、こぞって騎士を目指した事もあり、騎士ブームが到来する。最も、その頃は騎士のトップとなる諸侯はフルで武具を着用してましたが、お金の無い騎士見習いなどは装備を整えるのに何年もかかった。それ故、使いまわしも多く、戦場で敵方から奪った甲冑や、古い時代の甲冑もリメイクしたりと割と長く汎用されていたと思われる。造形的にすごくきれいです。鍛冶屋の作と言うよりは、やはり甲冑造りには造形デザイナーがいたのでしょうね。欧州史のおさらいからです。何事も歴史的背景は考慮すべき重要点ですが、武具は特にそうです。ローマ帝国以降の欧州と戦争西ローマ帝国解体後から始まるローマ帝国の危機西ローマの皇帝制が解体され西ローマ帝国が消滅したのは476年。以降、帝都コンスタンティノポリスのあった東ローマ帝国の管理下にはあったが、かつての西ローマ帝国領は縮小の一途をたどって行く。※ 西ローマ帝国解体でローマ兵も居なくなったからだ。一方、東ローマ帝国側も大変な事態に追い込まれて行く。北アフリカやシリア・パレスティナの穀倉地をイスラムに奪われ、その奪還に奔走していたから西側の防衛どころではなかった。※ 穀倉地(属州)が無ければ市民に食料の供給もできないし、兵士に給料も支払えない。※ ローマ帝国の安泰は、高い給料を払う事で得られていた強いローマ軍兵士の存在だった。東ローマの皇帝ユスティニアヌス1世(在位527年~565年)もローマ帝国の再起をかけて奮闘はしたが、疫病のバンデミックと災害に阻まれ、実質のローマ帝国はユスティニアヌス1世の代でほぼ終わっている。ローマ帝国の公用語はラテン後。それは王政期以来、ローマのアイデンティティー(identity)であった。これが消えた時点でローマ帝国は終了したとみて良い。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)には、他国の、また他の時代の武具の展示もありました。ロリカ・スクマタ(lorica squamata)下はローマ帝国時代の武将と馬のモデルです。マネキンが着衣しているものは本物ではないと思われます。彼が着ているのはローマの共和制から帝政時代にローマの武将が身につけていたロリカ・スクマタ(lorica squamata)lを模していると思われます。※ 英語だと「スケールアーマー(Scale armour)」壁画などに見られるだけで、存在は知られているが、完品は現存していないらしい。ロリカ・スクマタ(lorica squamata)は鱗(うろこ)状の鎧(よろい)です。防御の為に、カバーしたい部分を青銅、鉄、鋼、革などの小片のパーツをシャツなどに重ねて、つなぎとめて仕立てられていた。構造がまさに魚のウロコや爬虫類のウロコ。制作には時間や技術がいるものの、皇帝だけでなく、百人隊長などの武将も身につけていた当時の武具です。それは革一枚のロリカより、当然、防御力はあった。いつから取り入れられたかは不明。主に1~2世紀の帝政期初期の主流? 8世紀間に渡って利用されていた武具のようです。下は、ウィキメディアから借りました。小さな金属片をつなげた品の一部です。上は、青銅を薄くして小さくしたプレートを縫い付けてあるようです。マネキンが身に付けて居るのは腰と肩に、おそらく上よりは大きめの厚手の革を縫い付けていたのでは? と想像できます。防御だけでなく、オシャレさもあったのかもしれない。ところが、現存も無い事を考えると、この技術はすたれてしまった。と考えられる。もともと細工が細かいし、時間もかかるし技術もいる。これよりはメイルの方が造りやすかった? 長い暗黒時代に、技術者もいなくなり、もっと楽で丈夫なMail Armour(メイル・アーマー)にとって代わられたのかもしれない。中世、暗黒時代を経ての復活つまり、西も東もイスラム勢を押さえるストッパーがほぼ居なくなり、荒らされ放題だったのが暗黒時代です。5世紀から9世紀頃。特に地中海域はひどかった。海賊による襲撃や拉致が横行。拉致されれば、奴隷として売り飛ばされ生涯が終わった。シチリア島も陥落し、ローマではヴァチカンさえ襲撃された。暗黒時代とは、「キリスト教徒にとっての悪夢の時代」を指しているワードです。フランク族のカール王(742年~814年)がローマ教皇に指名されて大帝(神聖ローマ皇帝在位:800年~814年)となると、彼はキリスト教国である西欧の国を守ると同時にかつての西ローマ領を奪還するべく戦いを開始。すぐに結果が出たわけではなかったが、強いフランク族の存在が、西欧を暗黒の中世から救ったのである。カール大帝以降に、領主に付随する騎士階級が誕生する。システムも装備も、かつてのローマ兵とは全くの別物です。王の兵士と言うよりは、騎士は王の臣下(しんか)と言う位置です。武具はまたそこから進化を始める。そこらへんを書いたリンク先以下です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊また、9世紀、襲われてばかりいた沿岸国の中で海運に特化して海賊との戦闘に力を入れ自主防衛をしながら地中海交易を再開する国がイタリア半島とアドリア海岸から出現する。Marine Republics(海洋共和国)の台頭はローマ帝国以来の地中海交易を活発化させた。ヴェネツィア商人とか、ジェノバの商人はここから生まれている。少なくとも、地中海交易の復活はキリスト教社会の復活の足がかりになったのは間違いない。※ この当時はまだガレー船が主流の時代です。そこらへんを書いたリンク先以下です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦十字軍の遠征と聖地奪還後に設立された騎士修道会先に少し触れた騎士階級の誕生が、結果的に十字軍の遠征に繋がる。ローマ教皇の命で聖地エルサレムをイスラムから奪還するべく、各国の王は臣下(騎士)を連れて隊を組み出動。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。※ First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人が参加と伝えられるが、実際の戦力は1/6程度? さらに実際聖地にたどり付けたのは数%。ところで、十字軍の出動をどうカウントしているか?First Crusade (1096年~1099年)Second Crusade (1145年〜1149年)3rd Crusade (1189年~1192年)4th Crusade (1202年~1204年)※ Crusadeは聖戦の意。十字軍はローマ教皇庁が公式にその出動を認めた時にカウントされている。だから勝手に自分たちで行ったのは十字軍とは言えない。また、ローマ教皇庁が認めていたのは大国の君主がそれなりの騎士を連れて出かけた隊を指すから個人レベルのは当然入らない。1~4回が数えられているが4回目は「暴挙」。そもそも聖地へも本当に行く気があったのか? 正当性を考えるなら、十字軍としてカウントできないと思う。※ 4回目が落としたのは同胞のキリスト教国。かつてのローマ帝国の首都である。それはCrusadeではない。内紛に乗じた、ただの略奪行為だった。話を最初に戻すと、最初の十字軍部隊が聖地エルサレムを奪還した後に主要部隊は帰国してしまった。つまり聖地を管理する者が一気に減ってしまったのだ。聖地はイスラム圏の中の孤島のような場所。いつ取り返されるかもわからない危険地帯。巡礼者が、せっかく近郊の港までたどり付いても、そこから神殿まで危険がいっぱい。これがきっかけで、テンプル騎士団やヨハネ騎士団などの騎士修道会(Knights of Christ)が誕生する事になる。聖地への巡礼者を守る為に自主的にできたボランティアの騎士らが昇格してテンプル騎士団となった。※ テンプルは聖地のソロモン神殿(エル・アクサ・モスク Mosque of El Aksa)内に本拠を置く事を許された事からネーミングされた。※ ヨハネ騎士団は後から軍事化。もとは巡礼者の病院だった。つまり、騎士修道会はどこかの王族に属している騎士では無かった。キリストの騎士を名乗のる慈善団体のような立場。彼らはローマ教皇庁には従った。※ 各国に窓口となる事務局など支部も持っていた。十字軍の騎士が着用していたのがMail (Armour)である。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)。特にテンプル騎士団は、Mail Armour(メイル・アーマー)の上にシトー会の白装束をつけて戦っていた。これら騎士修道会は中世あこがれの存在となる。信心深い者らは十字軍に参加する事を夢見ていた。一方、彼らの事務局のまわりには武具や武器の商人らが集まってきていた。十字軍時代は、武器も兵士も大量に必要であったからだ。要するに、十字軍が聖地を奪還してしばらくは、兵士の補充、バレスチナへの食糧、武器など物資の輸送。また大量に押し寄せる巡礼者の旅費など経済はものすごく回っていたわけです。騎士修道会を書いたリンク先以下です。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク 新 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)一時は聖地エルサレムを奪還し、周り(パレスチナ)に十字軍国家も複数建設していたキリスト教軍であったが、100年後には一変。エルサレムを奪われ、追われ、さらにアッコを奪われキプロス島、最後はロードス島に逃れて縮小されて行くのである。結局、エルサレムを奪ったのは最初だけで終わった。Second Crusadeに至っては、エルサレムにもたどり付けなかった。因みに、十字軍の活躍と共に海洋共和国(Marine Republics)は多大な恩恵を受けていた。先に触れたが、巡礼者や兵士、また武器や食料を運ぶ為の船や荷に特需があったから当時の海洋共和国は11世紀頃にどこも全盛期を迎えている。とは言え、直接エルサレム近郊の港に着岸できる権利を持った海洋共和国は3つくらい。逆に言えば、パレスチナの港に着岸許可を持つヴェネチアやジェノバしか、巡礼者を船でエルサレムまで(地中海を横断して)運べなかったのである。だから聖地行きの船はヴェネチアやジェノバから出航していた。西洋の鎧のルーツと名称話をタイトルの甲冑に戻します。西欧の中世の鎧は、およそ3つのタイプに分類できます。Mail (Armour)・・・・・連状の鎖で造られた俗に「鎖帷子(くさりかたびら)」の衣。Mail and plate armour・・鎖帷子と鋼鉄のプレートの混合。Plate armour・・・鋼鉄の鎧(よろい)ですが、これもまた呼び方が複数。Hauberk(ホーバーク)・・そもそもはMail で造られたシャツがHauberk (ホーバーク)です。 (Part2の時に説明)※ しかし、Mail hauberk(メイル・ホーバーク)、Chain hauberk(チェーン・ホーバーク)と素材を入れて表現する人もいる。この場合、鉄のプレートで造られたPlate armour(プレート・アーマー)の事をsteel hauberk(スチール・ホーバーク)と呼ぶ場合もある。つまり、Mail Armour、Armour Clothing Mail、Hauberkと呼び方もそれぞれ。だからややこしかったのです。ホーバーク(Hauberk)ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からこちらは西洋の甲冑 2」で一度紹介していますが・・。メイル(Mail)でできたシャツがホーバーク(Hauberk)「Mail (armour)の歴史」などはPart2で扱っています。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)ゲント(Gent) フランドル伯居城からメイル(Mail)の編み方に厚みがあります。チェーンのつなげ方も特徴があるようですね。ベルギーのゲント(Gent)にあるフランドル伯の居城は、十字軍時代に建造された古い城です。マクシミリアン1世の代にハプスブルク家に受け継がれたフランドル。※ もともとブルゴーニュ公領だったフランドル。妻はそのブルゴーニュ公の1人娘。ゲントは孫のカール5世(Karl V)の生まれた街でもあります。武具の他に拷問器具の博物館でした。※ 城は写真だけ少し公開してました。リンク ゲント(Gent) 3 (フランドル伯居城)メイル・アーマー(Mail Armour)ホーバーク(Hauberk)の説明を見て解るのは、やはり中世期の西洋の鎧(よろい)は、ギリシャやローマ時代の胸当(ロリカ・Lorica)ではなく、鎖帷子(くさりかたびら) Mail Armour から始まっているようです。その鎖帷子がいつ頃出たのかは定かでない。でも原型は古代青銅時代にあったらしい。当時、鉄はまだ希少品。古代ギリシャには青銅製の品があったらしいが、先に紹介した鱗(うろこ)の鎧(よろい)、ロリカ・スクマタ(lorica squamata)の方が人気があったのかもね。メイル(Mail)の素材は、中世の欧州で鉄(iron) or 鋼鉄(steel)となった。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)左のカブトは7世紀頃から? 十字軍の兵士もこのタイプを被っていたかも・・。※ 9世紀から13世紀にかけて最も一般的に着用されたメイル(Mail)防護服である。もしかしたら、古代の物とは、ルーツが違うかもしれない。なぜなら、中世のものは郵便輸送用の袋がルーツらしいから・・。中世の鎖帷子(くさりかたびら)が「メイル(Mail)」と呼ばれるのは、そうした理由かららしい。余談ですが、一般の郵便システムができるのは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (Maximilian I)(1459年~1519年)の時代、1516年である。マクシミリアン1世の時代には、すでにPlate armour(プレート・アーマー)が出現している。※ マクシミリアン1世は中世最後の騎士と呼ばれている。※ 郵便事業のルーツについては以下に書いています。リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来リンク 欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト※ 神聖ローマ帝国圏の郵便輸送事業は一社独占で行われていた。馬車も制服も目立つ為に黄色であった。冒頭に触れたが、欧州では、古代に素晴らしい文明があり、それをローマ帝国が引き継いではいたが、ローマ帝国が衰退の道をたどった時に西ローマ側(現EU諸国)は一度文明がリセットされている。だから? 中世期の西洋の鎧(よろい)は、メイル アーマー(Mail Armour)から再度始まっている。とする説はあながち間違いではないと思う。そのメイル(Mail)は十字軍時代に活躍し、欧州ではプレートの鎧が出現する14世紀まで長く利用されていた。防護性も使い勝手も良かったのだろう。しかし、武器の変化に伴いメイル(Mail)だけでは使われなくなった。※ イスラムではオスマン帝国時代を通してずっと使用されていたが・・。兜 バルビュート(Barbute)とイタリアン サレット(Sallet)バルビュート(Barbute)ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)から古そうに見えるけど、実は15世紀のイタリアで人気だったヘルメット。左 1460年 T字型 メトロポリタン美術館右 1470年~1480 年 Y 字型 メトロポリタン美術館※ 上の写真はいずれもウィキメディアからかりました。バルビュート(Barbute)は古代ギリシャのコリント式に似ている事から古代礼賛のルネッサンスの中で生まれたヘルメットと考えられている。知識人が多くいたイタリアならではの古代へのリスペクトと考えられる。実際、イタリア以外での人気は無かったらしいから・・。参考に以下に古代ギリシャのコリント式ヘルメット(Corinthian helmet)を紹介。左 BC500年 青銅製のコリント式ヘルメット(Corinthian helmet) ミュンヘン古遺物博物館右 BC430年頃 コリント式ヘルメットを付けたペリクレスの胸像 バチカン美術館Vatican Museumsこれ自体は後年のコピーらしい。※ 着用した時に首筋が守られる造りだった。※ 上の写真はいずれもウィキメディアからかりました。比べると解るイタリアン バルビュート(Barbute)より遙かに芸術性が高いコリント式。防御能力も高そうです。でも、重かったでしょうね。なぜペリクレスを載せたか? そもそもギリシャの重装歩兵は戦闘時以外ではペリクレスのようにヘルメットを上向きに着用していたらしい。ローマ帝国でも1世紀まではイタリア式コリント ヘルメットが使用されていたらしいが、ローマ兵も上向きに着用の慣行からスッポリかぶると言うより帽子のように着用していたらしいのだ。それが粋(いき)な着用の仕方だったのかもね。 ローマ帝国ではギリシャ文化を礼賛していたようだから・・。イタリアン サレット(Sallet)それ故? 無駄な部分ははずされ? 安全性は落ちるけど、最初から被るだけのサレット(Sallet)誕生につながったのかもしれない。ミラノ ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)から頭頂部が尖っているのは、そうする事で強度が得られたから。サレット(Sallet)とバルビュート(Barbute)は、ほぼ同時期にイタリアに現れた関連したヘルメットだったらしい。アベンテイル(Aventail)ヘルメットと Mail が合体したもの。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)突起にメイル(Mail)をカーテンのようにつなげて利用していた? と思われる。1320年頃から着脱式が出てきたらしい。こうした表面がみががれていない鉄色の黒い甲冑も存在する。エドワード黒太子(Edward, the Black Prince)(1330年~1376年)と呼ばれるイングランドの王太子がそう呼ばれたのは、甲冑の色が黒だったから、という説もある。??ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)被るだけのタイプ?アーメット(Armet) 15世紀から17世紀半ばまで使用されたArmetはバイザーが横開き。Close helmetは縦開き。サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から (ベルギー ブリュッセル)写真がなくて、少しぼけてますが、横開きはこれくらいしかなくて・・。これがArmetかな?アーメット(Armet)はイタリア、フランス、イギリス、低地諸国、スペインで広く使用されたらしい。ベルギーは低地だしね。クローズヘルメット(Close helmet)ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から中世後期からルネッサンス時代1390年~1410年バイサーはとがっていたらしいが、1410年頃からバイザーは丸みを帯びてくる。サンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から (ベルギー ブリュッセル)国により? それぞれ。タイプがいろいろあります。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から右のはどこから開くのかもわからない。マクシミリアン・タイプウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)マクシミリアン・タイプ? のドイツ式クローズヘルメット。ベローズバイザー付き。1520年。アーメット(Armet)と似ているが、バイザーが縦に開らく。またクローズ式でもニュールンベルク型とアウグスブルク型があったらしい。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から本家のマクシミリアン・タイプ?神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世 (Maximilian I)(1459年~1519年)はブルゴーニュ公女(一人娘)と結婚した事で金羊毛勲章(Toison d'or)をハプスブルグ家に継承した。マクシミリアンが中世最後の騎士と呼ばれるのは、彼がブルゴーニュ公の領土をフランスから守ったからなのである。フランスvsオーストリアの因縁はそこから始まったらしいが・・。因みに彼の孫がカール5世(Karl V)(1500年~1558年)である。※ 金羊毛勲章(Toison d'or)と公女との結婚の事など書いています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)ゲントのフランドル伯居城にもマクシミリアン・タイプがありました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からトーナメント用の騎士の所に展示されていました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から皇帝もしくはそれらに準じる人たちの甲冑かも金の象嵌細工がほどこされ、帽子も盾も非常におしゃれ。いずれにしてもキズもなさそうなので、実戦使用は無かったと思われる。1500 年頃から、甲冑やヘルメットにもファッション性が現れてくる。クローズヘルメットは多種多様なものが現れてくる。実践やトーナメントはもちろん、パレードやお祭りに特化したような物もあらわれる。状況でパーツの取り換えなどするタイプも出ていたらしい。トーナメント武具は前回紹介していますが、馬上から長い棒で付き合う試合なので防具は特殊な形に進化しています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から戦場で目立つ為なのか? ゴージャスすぎる甲冑後ろの肖像画の方の甲冑ですが、誰か調べている時間も無いので・・。奇妙なヘルメット「グロテスクな」バイザーを備えたヘルメットも数多く残っているらしい。これらは、パレードやお祭りの際に着用される「衣装鎧」の一部として使用されたと考えられています。下のは肖像の人物に似ているかも。イタリア ルネッサンス期の甲冑メイルとプレートの混合写真を探していて、変な物を見つけた。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から右の騎馬のおじさんは細かいメイルとプレートの混合であるが、正面の甲冑は何か変。ヘルメットが螺髪(らほつ)柄だ甲冑もちょっと異色。甲冑の主はウルビーノ公フランチェスコ マリア 1 世(Francesco Maria I) (1490年~1538年)。ローマ風の鎧 。これはイタリアン、 ルネサンスの典型的なスタイルらしい。布地にたくさんのプレートを縫い付けてできているらしい。1532年頃にミラノの有名な甲冑師フィリッポ・ネグローリ(Filippo Negroli)によって制作。ウィーンに説明はなく、ネットで画像検索して見つけました。ところで、前回「ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日」の中、「ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇」でも書きましたが、この時代、15世紀、イタリアでは偶然も含めて多数の過去遺跡の発見や書物の発見(ローマ時代やギリシャ時代の)があったのです。知識人や人文学者、また芸術家らがこぞってそれら過去の遺物を掘り起こし、研究を行い、礼賛し、古代にあった文明を復興させようと活動。それがルネッサンス(Renaissance)です。※ Renaissanceはフランス語で「再生」の意。それにしてもエンボス加工で螺髪(らほつ)の造形って、笑うこれはリクエストなのか? 甲冑師の趣味なのか? 説明ではムーア人の・・となっていましたが、これはまさにヘレニズム期のペルシャの人々の頭です。ヘレニズム期にペルシャ帝国で、ギリシャ彫刻のスタイルを借りて初めて仏像が制作された。それら像は東洋に伝来。ブッダの頭髪はペルセポリスの壁画にいる人々と全く同じ螺髪(らほつ)のヘアスタイルです。下は象嵌細工がほどこされた鎧。黒く磨かれた鎧に金線を埋め込み模様を描く象嵌細工(ぞうがんざいく)の手法と、エンボス加工の技術で造られた鎧だそうです。金の絵付けかと思ってましたが象嵌細工だったのですね。金工象嵌は、元々シリアで生まれ、シルクロード経て飛鳥時代に日本にも伝来した技術です。シリアのダマスカスで生まれたからダマシン(Damascene)と呼ばれる。トレドの工芸品の土産として今も有名。トレドではダマスキナード(Damasquinado)と呼ばれている。6世紀~13世紀、イベリア半島はイスラムに支配されていた。キリスト教と反転するレコンキスタ後は、改宗して残留した元イスラムの職人らが、キリスト教文化と融合したムデハル(mudejar)様式なる建築などを残している。スペインが他の欧州と少し違うのはその為だ。また、シチリア島もイスラムに占領された時代があり、シチリアでもムデハルが見られる。金工象嵌は、イスラムの職人らが欧州人に伝えた技術だったのかもしれない。因みに、イベリア半島は1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)陥落で完全に一掃された。中世後期ヨーロッパで有名な甲冑師一族であるアウクスブルクのヘルムシュミート(Helmschmied)家の作品。スペイン王フェリペ 2 世(Philip II)の騎馬戦闘用の鎧甲冑師デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)(1513年~1579年)制作。1544 年頃。画像が暗すぎてかなり色調を明るくしてます。カラーが少し違うかもしれません。この鎧は神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V)(1500年~1558年)(神聖ローマ帝国皇帝在位:1519年 ~1556年)が息子フェリペ 2 世(Felipe II)(1527年~1598年)の為に発注した鎧。ウイーンにはボディ。スペインにヘルメットがあるらしい。若かりし頃のオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)の肖像上の写真はウィキメディアからかりましたが、デルフトのプリンセンホフ博物館(Municipal Museum Het Prinsenhof)にあった肖像画で、若かりし頃のオラニエ公です。彼が身に着けている甲冑が、先に紹介したフェリペ2世の甲冑と同じ甲冑師、デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)の作品です。ヘルムシュミート家では、神聖ローマ帝国含む複数の王侯貴族を顧客としていた。ヘルムシュミート(Helmschmied)家の代表するメンバーローレンツ・ヘルムシュミート(Lorenz Helmschmied) (floruit 1467年~1515年)コルマン・ヘルムシュミート(Kolman Helmschmied)(1471年~1532年)デジデリウス・コルマン・ヘルムシュミート(Desiderius Kolman Helmschmied)(1513年~1579年)15世紀後半のヨーロッパの有名 鎧鍛冶家アウグスブルク(Augsburg)のヘルムシュミート(Helmschmied)家インスブルック(Innsbruck)(Austria) のゾウゼンホーファー(Seusenhofers)家ミラノ(Milan)のミサリア(Missaglias)家イギリス サセックス伯の甲冑ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)第5代サセックス伯ロバート・ラドクリフ(Robert Radclyffe, 5th Earl of Sussex)(1573年~1629年)の甲冑。先に黒大使の話を書きましたが、時代は違えど、イギリスでは黒が好まれたのかな?あるいは、霧の多い国だから、目立つ為かもしれない。ナポレオンはそこに彼が居るのが判る為に帽子をわざと横向きに被ったと言われている。戦いにおいて、大将がどこにいるか臣下らから判る。と言うのも必要だったのかな?グローブ(glove)グローブの試着見本がありました。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)手の平側はなめし皮革。グローブもそれぞれなのか? 時代による変遷か? 使用目的別なのか? 役割別なのか?手のひら側はなめしの革です。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)から細かいメイル(Mail)で繋がれている。これは蒸れ防止なのか? より細やかに動かせる為なのか? 武器と一体化したグローブもありました。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)からガラスケースの中なので反射と写り混みで見ずらいのが難ですが・・。おまけ股間用の鎧メイル(Mail)だけでなく、こんなカバーもあったようですが、写真はコレのみでした。行方不明になりがちなのかな?武具に詳しいわけではないので、こんな程度の紹介しかできませんが、とにかく写真が大量にあったので写真公開をしておこうと思ったのです。これらは見本でなく、後世のレプリカでもなく、全て実戦用に当時造られた武具だからです。しかも、今まで、いろんな美術館、博物館などで、使い古しの汚いのや、兜だけとかいうのは見てきましたが、大量に、ここまで保存が良い武具を見たのは初めてです。例えば、フランス革命で解体されたフランスには、王家の物は何一つ残っていない。革命期に略奪されたり、革命政府に売り飛ばされ(競売がおこなわれたりしている)たりと紛失しているからです。でも、オーストリ帝国の場合、同じく王政は解体されはしたが、第一次大戦後にゆるやかに解体されたし、解体以前からハプスブルグ家のコレクションは美術史美術館で一般公開されていた。フランスのように散逸する事はなく、王家のものはそのまま残ったのだと思われます。※ 美術史美術館は1891年に開館。武具もその中の一つであろうが、武具は美術史美術館ではなく、新王宮の方の美術館で公開されています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien) 武器と鎧のコレクション)(Collection of Arms and Armour)にて展示。※ 新王宮美術館の方は以前紹介しています。リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)新王宮は、外から外観の写真を撮る人はいるかと思いますが、中に入れると知らない人は多いはず。宮殿は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の為に1869年に計画され、1881年に建設開始、1913年に完成。つまり、ほぼオーストリア帝国解体後に完成したから結局ハプスブルグ家の人々は誰も住まなかったという曰くのある宮殿になっています。なかなか時間が無いと行けないと思うので、これだけでも誰かの参考になれば幸いです。「ハプスブルグ家」関連はいろいろ書いています。関連のBack numberリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント) 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ポンパドール夫人らとタッグを組んだオーストリア継承戦争の事を書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)昔のなのでショートです。リンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)リンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 1 (大聖堂の教会史)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 2 (内陣祭壇とフリードリッヒ3世の墓所)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 3 (北側塔のテラス)リンク シュテファン寺院(Stephansdom) 4 (南塔)他にもあるけどあまり昔のは見てほしくないのでのせません
2023年11月10日
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ラストに「ハプスブルグ家」関連Back number 追加しました。さて、紹介していなかった案件を掘り起こしました。写真はウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)が中心です。内部の見学ツアーにまで乗っていたのに紹介する機会がなくて・・オペラに詳しい訳ではないので、その辺の話はできないですが、行かなくてもいいくらいに写真をたくさん載せました。また、こちらの歌劇場、元はオーストリア帝国時代の宮廷歌劇場として建築されたものです。オープニングには実質最後のオーストリア皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)も妃と共に出席しています。オペラに直接関係ないけど、劇場ができた当時の帝国は近代を迎え複雑な時代。神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国の樹立。民族問題からの第一次世界大戦開戦。そんな事情を踏まえ、書いていたら結果的にハプスブルグ家帝国の終焉となる話になりました。劇場のこけら落としが1869年5月。この頃オーストリア・ハンガリー帝国の中で民族運動が激化。オーストリア帝国領とハンガリー王国領に分割するも汎スラブ主義の先頭にたつセルビア王国との関係がより悪化。フランツ・ヨーゼフ1世の治世後半は民族問題で帝国の危機が訪れる。※ 本人は帝位についた時から大変だったと言ってます。さらに1889年には、皇位継承者の息子ルドルフ(Rudolf)がマイヤーリンクで謎の死を遂げる。1914年、次の皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公も暗殺された(サラエボ事件)。この報復でオーストリアはセルビアに宣戦布告。当初3ヶ月程度で終わるはずの戦いが、ロシアの参戦により自体はややこしくなる。欧州各国が巻き込まれて第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)となった。戦争中の1916年、フランツ・ヨーゼフ1世自身が肺炎で崩御。(86歳)フランツ・ヨーゼフ1世の後を甥の子供がついだが、第一次世界大戦の敗戦により帝位も剥奪され、ここにハプスブルグ家の帝国は終焉する???前半が劇場の写真と説明で後半がハプスブルグ家の落日となる話です。※ 落日(らくじつ)とは、「沈み行く太陽」の意。帝国の終焉(しゅうえん)を当てています。ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日建築にまつわる悲劇Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)宴席とTPOGustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)Marbele hall(マルベル・ホール)Tea Salon(ティー・サロン)Concert hall(コンサートホール)Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)ステージのバックヤード(backyard)暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンス西欧の再興ドイツ語によるオペラの誕生ヨーゼフ2世(Joseph II)ハプスブルグ家の落日神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ハプスブルグ家落日から世界大戦へ敗戦と帝国の解体ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper)の創建は1869年。それはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世。ベランダ上のアーチに、ドイツの彫刻家エルンスト ユリウス ヘーネル(Ernst Julius Hähnel)(1811年~1891年)作の 5 つのブロンズ像。左からheroism(英雄主義)、tragedy(悲劇)、fantasy(ファンタジー)、comedy(喜劇)、 love(愛)が表現されている。上の女性像はfantasy(ファンタジー)らしい。さらにロッジアの正面ファサードの上に設置されたペガサス(天馬)に乗った 2 人の騎手(Erato and Harmony)の像(1876年)もエルンスト ユリウス ヘーネルErnst Julius Hähnel(1811年~1891年)作。自分の写真が無ったので参考にウィキメディアから借り、部分カットで2者を並べました。どちらがどちらの女神か不明。二人は共に天馬であるペガサスに乗っている。「Erato and Harmony」は直訳すると「愛と調和」になるが、「Erato」は抒情詩・恋愛詩をつかさどる学芸の女神Erato(エラト)の事。(ギリシャ神話)Harmony(調和)の女神は聞いた事が無いが、Harmonyを具現化した女神像かもしれない。建築にまつわる悲劇建築はアウグスト・シカード・フォン・シカードブルク(August Sicard von Sicardsburg)(1813年~1868年)。内装はエドゥアルド・ファン・デ・ヌル(Eduard van der Nüll)(1812年~1868年)二人は親友で、共同プロジェクトをすでに幾つも行っている関係。1860年、ウィーン宮廷歌劇場のコンペが行われ、二人のプロジエクトが採用された。それは間違いなく二人の最も大きな重要な仕事。※ 開業時はハプスブルグ家の持つ宮廷歌劇場(The Vienna Court Opera)であった。※ ハプスブルグ家は神聖ローマ皇帝を世襲のように輩出した王家。※ 神聖ローマ皇帝については以下の章、「ローマ教皇とカール大帝」で扱っています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊ところがネオ・ルネッサンス(Neo-Renaissance)様式の建物は豪華さに欠けた? 皇帝や報道陣から多くの批判を受けたらしい。さらに、リング(環状道路)と同時に建築が始まった事で道路は当初予定より1mも高くなった。※ 道路は元々あった城壁を撤去した跡地を埋めて造られた。歌劇場は本来階段を上がって建物に入る造りの予定だったのだと想われるが、フラットになってしまった。それは埋没してるチェスト(たんす)に例えられて皇帝からもガッカリされたらしい。建築家エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはそれを深く気にやみ自殺してしまったそうだ。さらにその10週間後? アウグスト・シカード・フォン・シカードブルクも亡くなった。彼の場合はたまたま? 結核と診断され亡くなったらしいが・・。二人の建築家が創建の前年(同年)に亡くなっているので調べてみたら、そんな事情があったようです。だから二人は落成を見る事はできなかった。無念だったでしょうね。エドゥアルド・ファン・デ・ヌルはウィーン中央墓地の名誉墓に埋葬されたそうです。1898年頃の歌劇場と劇場正面の道路がリング写真はウィキメディアから借りました。何も無いからか? 今よりも道が広い気がします。この頃、1897年5月、36歳のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)がウィーン宮廷歌劇場(the Vienna Court Opera)の第一楽長に任命され10月、37歳で芸術監督に就任。マーラー指揮の下で、ウィーンのオペラは、最高潮に達する。オペラハウスの左右翼側にはJosef Gasser(ヨーゼフ ガッサー)(1816年~1900年)作の 2 つの噴水がある。左側はmusic(音楽)、dance(ダンス)、joy(喜び)、 levity(軽やかさ)、右側はseduction(誘惑)、sorrow(悲しみ)、love(愛)、revenge(復讐)が表現されているそうだ。こちらは、もともとは馬車用のスペースだったらしい。1869年5月、こけら落とし(落成式)には皇帝夫妻(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベト)が出席し、モーツァルトの「ドン ジョヴァンニ(Don Giovanni)」で開幕。フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年)は18歳で皇帝となり、その治世は68年。旧態の帝国が近代に突入する激動の時代に皇帝となった。彼は実質最後のオーストリア皇帝である。※ マリア・テレジアの玄孫(やしゃご)。妻は美貌で有名なヴィッテルスバッハ家のエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)。※ 以下でハプスブルグ家ルーツに触れています。リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降フランツ・ヨーゼフ1世の時代、無用となった城壁を取り壊してその跡にリング(環状道路)(1865年完成)を造ると、リングに沿って次々建物が建造され今のウイーンの街ができあがった。景観を考慮され建築技法はまちまちながらもネオ・クラシック、ネオ・ゴシックなど美しい建物が並ぶ。歌劇場(オペラハウス)もその一つである。前の道路がリングメトロの路線地図を利用したので見づらいですが、リング(環状道路)はイエローで印ました。歌劇場がピンクの円王宮がグリーンの円シュテファン寺院がブルーの円他のカラーは地下鉄のラインです。最寄り地下鉄駅はカールスプラッツ(Karlsplatz)です。歌劇場(オペラハウス)は非常に立地の良い所にあります。王宮にもシュテファン寺院にも歩いて行ける。リング沿線には美術史美術館、国会議事堂など大方の主要機関が並んでいます。リングの完成に合わせて移転するべく建設された所もあります。※ 以前紹介しているウィーン造形美術アカデミーは、建物は道路より奥まっていますが歌劇場(オペラハウス)の斜め向かいです。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)オペラ座エントランスこちらは外からの左入口、左右対称に右もある。実は歌劇場は第二次世界大戦のおり、1945年3月、爆撃を受けている。メインファサード(エントランスとその上階のシュヴィント・ホワイエ、1階のティーサロン)、また大階段は奇跡的に破壊されずに残った。つまり、上のエントランス写真とこれから紹介する立派な大階段が1869年当時からの部分。エントランスからの中央階段エントランス入って階段はすぐにあるから待ちの場所が無い。これはガイドツアーに乗る人達のたまりです。ガイドツアーは予約制。自分の時は当日予約で入れましたが、今はインターネットで早くから時間取りをしないといけないそうです。当然、音楽祭や舞台のある日はありません。ガイドツアーの定員は30名。所要40分くらい。「Feststiege(フェスティバルステージ)」とも呼ばれるメイン階段の壁と天井。階段天井上の写真、左右下方のメダリオンは二人の建築家の肖像。彫刻家ヨーゼフ・セザール(Josef Cesar)(1814年~1876年)の作品。天井画はフランツ・ヨーゼフ・ドビアショフスキー(Franz Josef Dobiaschofsky)(1818年~1867年)タイトルは「Fortuna, ihre Gaben streuend」何と訳せば適切かわからないが、Fortuna(フォーテュナ)は運命の女神。幸運をもたらす女神とキューピッドが贈り物をばらまいている図となっている。1945 年3月、ウィーン国立歌劇場が爆撃される。1945年5月、ウィーン国立歌劇場の再建が発表。1946 年、諮問オペラ建設委員会が設立。1947 年、復興基金が設立された。第二次世界大戦の終戦後、資材も乏しい中でウィーン国立歌劇場の再建が開始。 完成まで10年。1955年11月、ウィーン国立歌劇場は新しい講堂と最新の技術を備えて再開。上の写真は再建中のウィーン国立歌劇場。ウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りし、主要部のみ拡大させてもらしました。ウィーン国立歌劇場の苦悩は爆撃だけではない。第二次大戦下ではナチス政権下に入った1938年~1945年。多くのメンバーが追放され、また追われ、殺され、多くの作品が演奏を許可されなかった暗い時代があったと言う。Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)敢えてSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と名がついサロン。帝国時代にはウィーン王族やそのゲストの為サロン。 ちょうどロビーの真上になる。Schwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)の名はオーストリアの画家Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)(1804年~1871年)にちなんで名付けられている。※ ホワイエ(Foyer)とは、劇場やホテルのロビー、待合室、玄関ホールなどをさす。また入口から観客席までの広い通路の事も指す場合がある。マーラー、シュトラウス、カラヤンなど、偉大な指揮者の胸像が並ぶ部屋。ここは偉大なる音楽家らを讃(たた)えて構成されている。舞台の時は軽食が販売されたりするし、各種レセプション(reception)やバンケット(banquet)などに仕様変更されたりする。下、2枚はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。ちゃんとクロスを架けると違いますね宴席とTPO集まりの違いについて少し・・。Reception(レセプション)は(会社などの)受付、(ホテルの)フロンのイメージがありますが、応接、接見、接待から歓迎の意味もあり、会議や歓迎会、また結婚披露宴のような集まりもさす。banquet(バンケット・祝宴)は、大勢の人が出席する特定の何か宴席の食事や祝宴そのもの。Gala(ガラ・祝祭)が付くとまた違う。gala banquet(ガラ・バンケット)は確実に何か大きな祝賀会や祝宴会の集まり。gala concert(ガラ・コンサート)記念(祝賀)の音楽会。gala dinner(ガラ・ディナー)は祝賀会(ディナー)の事であるが、内容はより具体的。regalでclassyでfancyと普通の集まりとは一線を画して断然格が上がる。※ regal 帝王にふさわしい、王者らしい、堂々とした、荘麗な※ classy 高級な、上等な、いきな、シックな、身分の高い※ fancy 創造的発想つまり、より上品で豪華な催し。服はイヴニングドレスである。さて、これら集まりには、TPO(ティーピーオー)が重要になる。TPOとは、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(目的・場所・機会)の略。つまり、時と場合により服装や身だしなみに注意が必要だと言う事。学生のみなさんは経験が少ないから難しいかもしれないが、何かに出席したりする時は必ず事前に誰かに持ち物や服装を聞いて、恥をかかないよう対策をした方が良いと言う事です。※ あらかじめ招待状にドレスコード(dress code)と言う服装規定が示されている時はそれに従う。確実に言いたいのは、聞く人を間違ってはいけないよ。と言う事ですが・・。経験ある目上の人、複数人に聞くのがおすすめ。今はインターネットでも良いか・・。グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)の胸像。マーラーは1897年5月、ウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され、10月に芸術監督になっている。1898年にはウィーン・フィルハーモニーの指揮者になっている。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督としては、1907年まで在任。全くの余談であるが、以前ヴェニス紹介の冒頭で、トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)に関する思い出の話を書いた事がある。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)小説を原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督で、映画化(1971年公開)で主人公のモデルとして起用したのがトーマスマンの友人であったグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)であった。映画音楽で採用されたのもマーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」である。※ この曲は、実際マーラーが妻にあてた、音楽のラブレターでもあったらしい。マーラーと聞くと「ヴェニスに死す」の主人公、アッシェンバッハが浮かぶのだ。爆撃で破壊されなかったからこそ、当時の豪華さが忍べる部屋である。職人ワザで造られたハイクオリティーな部屋。修復があったとして、同じ物を作り直す事はできないだろう。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)(1908年~1989年)の胸像1956年~1964年 ウィーン国立歌劇場の芸術監督になっている。カラヤンについては、以前扱っています。リンク ザルツブルグ祝祭劇場とカラヤンの生家Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)による16枚の絵画がこのホールに飾られている事からSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)と呼ばれている。Moritz von Schwind(モーリッツ フォン シュヴィント)(1804年~1871年)の専門はロマン主義の絵画である。ゲーテなど叙事詩の挿絵の素晴らしさから「詩人画家」という肩書きを持っている。また、音楽の楽しさを絵画で表現した人との評価もある。オペラ「Der Freischütz (魔弾の射手)」から「Le nozze di Figaro(フィガロの結婚)」など有名作品が描かれている。Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)正面ファサードの上にSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)。その右翼側の通路(階段の右側)がGustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)である。中心の赤く囲った部分。かつては皇帝の席。今はVIP seat(貴賓席)。手前の赤い囲みは本来は皇帝らのサロンだった場所。今はTea Salon(ティー・サロン)として何もない時に限り部屋の貸し出しもしている。Gustav Mahler Hall(グスタフ マーラー ホール)上の写真左が劇場への入口そもそもは、飾られていたモーツァルトの「Magic Flute(魔笛)」をモチーフにしたタペストリーからTapestry Hall(タペストリー ホール)と呼ばれていた場所。1997年5月、「グスタフ マーラーがオペラ ハウスで指揮者デビューして100 周年」その記念で名称変更された。タペストリーは触れられないようアクリル版が付いているので反射で撮影が難しいし、色味が実際と少し違うかと思います。ゴブラン織りらしい。奥にはマーラーの肖像画がかけられている。Marbele hall(マルベル・ホール)その名が示す通り、1950 年代に再建された大理石のホールである。床だけでなく壁にはめ込まれた絵画も大理石の象眼(ぞうがん)なのである。ヨーロッパの統一への願いから欧州各地から大理石が取り寄せられて使われている。※ 床、ドア枠、大きなビュッフェテーブルはオーストリア(ザルツブルグ)産。大理石の象嵌のデザインはハインツ ラインフェルナー(Heinz Leinfellner)(1911年~1974 年) こちらも劇場につながる扉は一カ所。戸口も大理石。こちらの写真では少し色が黄味ががってます。かつては、豪華なネオ・ルネサンス様式のホールで、上流階級のレセプション・サロンとして機能していたらしい。当初のSchwind Foyer(シュヴィント ホワイエ)を見てしまっているから、修復後の今は何とも味気なく感じる。見学する必要ある部屋か? と思っちゃったもんね。どこかの社食みたいで。資金がなかったのだろうな? と思ったが、調べて見ると建築家の独断があったらしい。1949 年、再建の依頼を受け、全体的な芸術的方向性をになったのはエーリッヒ・ボルテンシュテルン(Erich Boltenstern)(1896年~1991年)。以前のモデルに従った講堂の設計の依頼を受けたにも関わらず? そうしなかった?建築家がモダンデザインに走った? 装飾のより強力な抽象化をねらったらしい。デザインが簡素化され、部屋の柱も抜かれ、装飾や彫刻装飾が削減および簡略化され、絵画的なデザインも完全に放棄され、つまらない箱部屋になった?これと対象に、1946 年再開のミラノのスカラ座は、新しい設計(モダン仕様)に反対し、従来の姿に戻す再建がされた。椅子、ベンチ、机、ビュッフェ、コートラック、ランプなどの調度品がすべて再現されている。再建においては、ミラノのスカラ座のような「元に戻す再建計画」の方が指示されるにいたったらしい。早い話が、やっぱり失敗で、悪い先例になったみたいですね。Tea Salon(ティー・サロン)VIP seat(貴賓席)への入口であると同時に、かつては皇帝の休憩ルームだった場所。天井と壁は金箔が使用されている。今はTea Salon(ティー・サロン)として部屋の貸し出しもされている。見学ツアーでは立ち入りできない。遠くから撮影。期待していたのはこう言うハイソな仕様。日本ではお目にかかれないからね。でも、オリジナルらしいが時代的が複雑だったから、いろいろチャンポンな仕様ですね。Concert hall(コンサートホール)ここが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体である。講堂の収容人数は以前の 2881人から 2284 人に削減された。※ 減少は、建築基準法と消防法規制の強化によるもの。席数は1709席。スタンディングスペース567席。車椅子スペース4席。(車椅子同伴席4席)。ステージ方面。ちょうどジャズフェスのセッティング中。VIP seat(貴賓席)かつての皇帝のbox席、それ自体がカーテンで閉まる。中央の大きなシャンデリアは安全のためクリスタルガラス製の内蔵天井照明のリングに置き換えられている。ガラスリングの重さは約3000kg。1100 個の電球が仕様されている。お値段は、中央前席が高いのは言うまでもなく、近くても真横だと安い。下は予約サイトの座席表である。ドイツ語だったのでオーケストラ・ピット(Orchestra Pit)と舞台・ステージ(Stage)をわかりやすく示しました。右のカラーがそのまま値段順のカテゴリーかと思います。つまり1のピンクが特等席で一番お値段が高い座席ですね。下の写真は本来のオーケストラ・ピット(Orchestra Pit)の場所ですが、ジャズ仕様だったのでステージと変わらない位置に底上げされているようです。オーケストラピットの広さは123㎡。約110名の演奏者が収容可能。Wiener Opernball(ヴィーナー・オーパンバル)※The Vienna Opera Ballarena seats(アリーナ・シート)の椅子をとっぱらって、そこは巨大なballroom(ボールルーム・舞踏場)となる。ウイーンのオーパンバルはここで開かれる。下の写真はウィーン国立歌劇場のチケット予約のサイトの写真をお借りしました。毎年2月灰の水曜日の前の木曜日にウィーン国立歌劇場で行われる舞踏会はヨーロッパで最も格式高いデビュタントボール(debutante ball)の一つ。※ キリストが磔刑にされ3日後に生き返った(復活)。それを記念する日が復活祭(Easter)。その復活祭(日曜日)の46日前の水曜日が灰の水曜日(Ash Wednesday)。四旬節の初日。キリスト教徒にとっては重要な祭り。デビュタントボールは、そもそも社交界にデビューする良家の子女らの君主へのお披露目の儀だったらしい。※ お見合い相手探しも要素に・・。初舞台となる舞踏会には純白のドレスに白く長いオペラグローブの着用が決められている。本来は上流階級や貴族の家柄の令嬢である事がまず第一条件。当然、礼儀作法も備えていなければならない。さらに20歳前後の才色兼備で洗練された容姿も端麗な女性と条件は高い。だからここに出られる事は名誉な事。それにしても基本女性のお披露目。パートナーは男性であるが、男性のデビューは言われないみたいです。※ 現在は貴族の子女のみならず、資産家令嬢や世界的に有名な芸術家の子女が参加できるデビュタントもある。ルネッサンスの中で掘り起こされた古代の舞台劇ルネッサンスはすでに失われていた古代ギリシャや古代ローマ時代の文化、文明の礼賛(らいさん)、そしてその再興(さいこう)である。オペラの素が考案されるに至ったのはまさにルネッサンス期のイタリア・フィレンツェである。その頃、偶然も含めて多数の過去遺跡の発見や書物の発見があった事もある。当時の知識人や人文学者、また芸術家らがこぞってそれら過去の遺物を掘り起こし、研究を行い、礼賛し、古代にあった文明を復興させようと活動した。当然、分野外でも、知識人らのサロンで取り上げられ、新たに発信される。「ルネッサンス(Renaissance)」は時代の一大ムーブメントとなって社会をも変えた。※ メディチ家のフィレンツェでの隆盛はまさにその助けとなった。前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」でプラトン・アカデミー(Platonic Academy)について書いているが、まさにその流れ(ルネッサンス)の中でイタリア音楽の再考も行われるに至ったらしい。※ プラトン・アカデミーは学校ではなく、いわゆるサロンである。集い、語らい学ぶ。メディチ家には人文学者を中心に人が集ったのだ。ジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)ではオペラは? どんなサロンから始まった?それは、コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)であった? 軍人のジョヴァンニ・デ・バルディ(Giovanni de' Bardi)(1534年~1612年)のサロンで始まったようだ。※ カメラータ(Camerata)によって造られた。みたいな事がどこも書かれているが、カメラータ(Camerata)は固有名詞ではない。カメラータ(Camerata)の意は仲間・同士である。つまり、それらは趣味を同じくするサロンの集い人である。オペラもまた、サロンの中で生み出されたと言って良いだろう。※ サロンからアカデミーに発展した例もある。※ サロン文化はイタリアから発祥している。当時、イタリアの文化はどこよりも進んでいたらしい。※ 以前、サロン文化をフランスに持ち込んだランブイエ(Rambouillet)公爵夫人やサロンについて書いています。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)ジョヴァンニ・デ・バルディは軍人として活動していない時、フィレンツェで過ごして居たようで、そこで趣味の音楽(彼は作曲もする)で仲間と集っていた。自身が主催者としてサロンを開き、また音楽や芸術家の後援者にもなっていたと思われる。※ コンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)については、前回「レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)」の中、チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の所で触れています。軍人の肩書きですが、そもそも良家の子息達です。リンク レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)※ ジョヴァンニ・デ・バルディは過酷であったマルタ包囲戦(1565年)にも参戦している軍人。マルタ包囲戦に関しては「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中、「聖エルモ城塞(Fort St.Elmo)」で書いています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦これも前回触れたが、イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとされていたから、大卒もあたりまえにいた。彼もまた深い古典教育を受け、ラテン語とギリシャ語に堪能であった人物とされる。また、作曲の技術も学んでいたと言うから、全方位に優れた人だったのだろう。バルディは現状のイタリア音楽をなんとかしようと古代ギリシャ音楽を復元する事を思いついた?※ 1573 年初会合。活動は1577年~1582年頃?そのサロンに集った仲間・同士(Camerata)の中には天文学者ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)(1520年~1591年)もいたと言う。 彼らが見つけた音楽は、歌うような台詞を用いる劇。フィレンツェやヴェネツィアなど裕福な都市で富裕層らの娯楽から発展して行く事になる。これがオペラのルーツとなる。イタリア・オペラが正統派オペラの形式だと言われる所以だ。故にオペラはイタリア語が基本とされた。それは国が変ったとしても作曲者が英語やドイツ語を母国語にしていたとしてもイタリア語の脚本で書れ、歌もイタリア語でうたわれていた。※ イタリア語ではなく本来はラテン語だったのかもしれない。古代ローマ帝国がラテン語を公用語にしていたから学識ある富裕層はラテン語を学ぶ。立派な本もラテン語で書かれている。ドイツ語のオペラが登場するのは割と近世の事。それは、かのハプスブルグ家に因縁があった。現在はイタリア・オペラとドイツ・オペラが存在する。そしてここ、ウィーンではのどちらも演目される。ドイツ・オペラの最大の功労者がヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)。マリア・テレジアの息子である。詳しくはヨーゼフ2世のところで紹介。ステージのバックヤード(backyard)黒い幕が舞台カーテン。防火の為、ステージと客席を隔てるメインカーテンと、サイドステージとバックステージの防火用にさらに2枚の鉄のシャッターが3枚付けられている。消防法の問題であろう、以前の木製の天井も鉄筋コンクリートに変えられている。暗黒の中世で失った文化 & ルネッサンスなぜ古代の文化は失われたのか? 失われた古代の素晴らしい文化文明。それを蘇らせたのがイタリアで発祥したルネッサンスだった。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で「ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。」と、紹介した。再征服を目指していたユスティニアヌス1世であるが、不幸な事に彼の治世に542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が置きる。エジプトで発生し、パレスティナ、そしてコンスタンチノープルへ疫病が運ばれ、人口の約半数を失ったと言う。疫病はさらに欧州、中近東、アジアに拡大。最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。さらに557年にはアナトリア半島一帯で巨大地震が起き、主要都市は壊滅状態。その復興もできない中、イスラム勢にどんどん領地を奪われ国庫は財政破綻。ローマ帝国領は縮小の一途をたどって行く。人材も、お金も無く軍隊を組織できなくなったローマ帝国は滅亡して行ったのである。ローマ帝国無き後の中世は暗黒時代に突入する。警備を担当していたローマ兵が消えたのだ。もはや蛮族の侵入やイスラムの海賊の侵入を阻止できなくなった地中海含めて欧州は荒れに荒らされて壊滅し、古代の英知も失われて行ったと言う訳だリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊西欧の再興 & 神聖ローマ帝国の誕生帝都の置かれた(東ローマ帝国)コンスタンティノポリスはともかく、西ローマ帝国が解体されてからの(元)西ローマ帝国内の惨状は特にひどい。何しろトップが実質、ローマ教皇であるから、軍隊が無い。自主防衛もできない。だからローマ教皇はフランク王国のカール王を神聖ローマ皇帝に任命し、西ローマ領の防衛の丸投げをしたのだ。訂正部分カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)カール王率いるフランク王国の快進撃は続いていた。おかげで西ローマ帝国内の治安もようやく回復に向かう事になる。当初はフランク王国が、そして後にドイツ諸侯らの会議と(選定公による)選挙により神聖ローマ皇帝が選出されるにいたったのはそんな歴史から始まっている。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ教皇とカール大帝」で詳しく書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊因みに、ハプスブルグ家は、そうした諸侯の中で成功? 長きに渡り「神聖ローマ皇帝」を輩出し、もはや世襲化させた一族なのである。※ ハプスブルグ家はマリー・アントワネットの実家です。母(マリア・テレジア)は女であったので「神聖ローマ皇帝」にはなれなかった。だから、ほぼ婿養子(むこようし)の夫フランツが「神聖ローマ皇帝」として即位したのである。ドイツ語によるオペラの誕生ドイツ語によるオペラの創出に貢献したのがマリア・テレジアの息子であるヨーゼフ2世(Joseph Ⅱ)(1741年~1790年)(在位:1765年~1790年)である。これは、彼のドイツ主義な政策からうまれたらしい。ヨーゼフ2世(Joseph II)父王亡き後、神聖ローマ皇帝となり、母と共に共同統治者となるも母とは対立。なぜなら、母(ハプスブルグ家)と敵対して領地まで強奪されたプロイセンのフリードリヒ2世に傾倒していたからだ。※ フリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)は当時、啓蒙専制君主として本を出版し人気を博していた。実際、オーストリア領の強奪などやっている事は違ったが・・。※ マリア・テレジアとフリードリヒ2世の戦争は以下に書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)プロイセンのフリードリヒ2世のような啓蒙専制君主になりたくて、思いつきも含めていろんな改革を断行した皇帝だ。市民の為に良き君主として振る舞ったつもりだったらしいが、改革の多くが挫折に終わっている。実際、死者の埋葬など葬送の簡素化(薄葬令)は非常に評判が悪かった。※ 墓碑の名前も一時期禁止された。モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)のお墓不明事件はそこから派生している。※ ハプスブルグ家の棺も、以降、当主以外はほぼ鉛棺(なまりかん)に変っている。高評価には学校の創設や病院の建設などがあげられているが、それは母がやってきた事と混同され過大評価されている部分があると思う。マリア・テレジアの出産数は多い。自身が経験した出産の不安などドイツ女性の事を考えてすぐれた医師を国内に呼び病院を建設したのは彼女だ。過大評価されているらしい節はあるが、彼のドイツ主義は評価できるのかもしれない。1776年、ヨーゼフ2世はドイツ文化推進政策をかかげた。大学の授業をラテン語からドイツ語にするなどドイツ主義が顕著(けんちょ)に見られる。またドイツ語による歌芝居や大衆演劇の一形であったオペレッタなどのジングシュピール(Singspiel)。ドイツ語使用度の向上も兼ね備えていたのかもしれないが改革はドイツ演劇自体を高め、ドイツ語によるドイツ・オペラの誕生につながる事になる。今までオペラと言えばイタリア語。それは一部貴族階級のものでしかなかった。ドイツ語にする事で大衆に向けたのかもしれない。※ モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756年~1791年)はジングシュピールの名作を遺している。1782年には皇帝の委嘱で「後宮からの誘拐(K.384)」を作曲。最晩年にはジングシュピールの傑作「魔笛(K.620)」を発表。その「魔笛(K.620)」はモーツァルトが生涯の最後に完成させたオペラと言われる。ところで、ヨーゼフ2世は少し? 変わり者だったのかもしれない。それはカプツィーナ・グルフトの彼の棺を見れば解る。ヨーゼフ2世(Joseph II)(1741年~1790年) (在位:1765年~1790年)の棺(手前)自ら墓碑には「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と入れている。自分でも「満足のいく仕事は何もできなかった」と思っていたのだろうか?遺言で自身の棺について「質素に」と言ったらしい。※ 以下でハプスブルグ家の墓を書いてます。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降ハプスブルグ家の落日ハプスブルグ家最後の家系図神聖ローマ帝国の解体からオーストリア帝国へ1806年、神聖ローマ帝国はナポレオンの進軍により解体され844年の歴史を閉じた。つまり最後の神聖ローマ帝国皇帝がフランツ2世(Franz II)(1768年~1835年)なのである。同時にフランツ2世(Franz II)は初代オーストリア帝国皇帝として即位する。(在位:1835年~1848年)フランツ2世(Franz II)(1768年~1835年) 神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I) 初代オーストリア皇帝(在位:1804年~1835年)カプツィーナ・グルフトにあるフランツ2世(Franz II)の棺Kaiser Franz IIと書かれていた。最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世下のポートレートはウィキメディアから借りました。フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位:1848年~1916年) ハプスブルグ家帝国の終焉となる実質最後の皇帝。彼はオーストリア国民には慕われていたらしい。妻の美貌の方が有名であるが・・。下のポートレートはウィキメディアから借りました。結婚の時の写真らしい。エリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich)(1837年~1898年)生涯、美貌とスタイルの維持には務めていらしい。ウィーン王宮の部屋には美容器具が置かれていた。以前扱っています。リンク シシィとゲルストナーのスミレ菓子日本での人気も高いですが、エリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)は結構不幸な女性です。予期せず、見染められて若くして結婚。結婚してからは義理の母にいびられ、生んだ世継ぎの息子は謎の死をとげ早世する。以降彼女は喪服で過ごしたと言う。宮廷にいる事をさけ、旅を続けたが、1898年ジュネーブでイタリア人無政府主義者に心臓を一突きされ暗殺されている。もともと、彼女に一目ぼれで母の反対を押し切り強引に結婚した夫フランツ・ヨーゼフ1世は泣き崩れたと伝えられる。カプツィーナ・グルフトに収められている二人の棺左がエリーザベト(Elisabet)(1837年~1898年)の棺。中央がフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)(1830年~1916年)の棺。ハプスブルグ家落日から世界大戦へ19世紀、街は近代化を迎え美しいウィーンの街が誕生する一方、ナポレオンにより解体されたハプスブルグ帝国はどんどん縮小されていく。もはや神聖ローマ帝国と名乗れ無くなった(1806年解体)ハプスブルグ家はかろうじてハンガリーを併合、1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国を樹立。しかし、帝国内で民族問題が勃発。もともとイスラムとカトリックが入り混じった複雑な土地を領土に組み入れたのが最大の問題であったろう。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合する頃はセルビア民族問題が拡大。ロシアとの関係も悪化して行く。そんな中で1914年、軍事視察に出かけた皇位継承者であったフランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand )(1863年~1914年)大公夫妻がサラエヴォ(Sarajevo)(ボスニアの州都)でセルビア民族主義者により暗殺された。(サラエボ事件)オーストリア・ハンガリー帝国は報復としてセルビア王国に宣戦布告する事になる。これが世界を巻き込んだ第一次世界大戦の始まりなのである。この時点でフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年~1916年)はまだ皇帝であった。バルカン半島に軍事基地を持たない帝国には不利な戦いと解っていたが、立場上開戦しなければならない。フランツ・ヨーゼフは「もし帝国が滅亡しなければならないなら、少なくとも品位をもって滅亡すべきである」と言ったそうだ。実際、この大戦の後にオーストリア帝国は解体され、滅亡した。当初はドイツがロシアに圧力をかけて、簡単に終わると思われた戦いであったのに、ロシアがセルビア側について参戦してきた。そうなると同盟国が参戦しなければならないと言うルールからドイツと三国同盟関係にあるオーストリアもロシアに宣戦しなければならなくなった。また、ロシアと三国協商関係にあったイギリスとフランスも参戦。ややこしい展開となりヨーロッパ全土が巻きこまれて行く。それで一部地域の紛争のはずが、「第一次世界大戦」となったのだ。この戦争では、他民族帝国のオーストリアの軍事力の無さも露呈する。そもそも軍隊の言語も統一されていなかったそうだ。また、戦争が長引けば食糧問題や経済問題でストライキも出てくる。フランツ・ヨーゼフ1世は、国民の飢えを嘆き早くに戦争を終わらせたいと願ってはいたが、衰弱し始め1916年11月、肺炎で亡くなった。享年86歳。心労が死期を早めたのかもしれない。敗戦と帝国の解体次代はフランツ・ヨーゼフ1世の縁戚にあたるカール1世 (Karl I)(1887年~1922年) (在位:1916年11月~1918年11月)が戦下の中、1916年即位するも1918年、敗戦が決まる。敗戦と共にオーストリアは帝国から共和制に移行する。もはや皇帝はいらない。ここにハプスブルグ帝国は消滅した。が、以前「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」を書いた事を思いだした。そこでハプスブルグ方式で行われた分割の埋葬は2011年のオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)(1912年~2011年)が最後と紹介しているのだ。※ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)※ ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓オットー・フォン・ハプスブルグは最後の皇帝となったカール1世 (Karl I)の長男であり、期間2年とは言え皇帝の皇子であった人。身分こそ無くなったが、彼には金羊毛騎士団の主催者としての任が与えられていたらしい。スペイン版とは異なり、オーストリアの金羊毛騎士団はドイツ諸侯らに限られていた。でも、現在も存在しているようだ。騎士団そのものはまだ残っているらしい。そしてそれを守るのはやはりハプスブルグ家の人々なのだろう。※ 金羊毛騎士団と勲章はマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の時に妻の実家(ブルゴーニュ公領)からハプスブルグ家に継承された。そんなわけで、帝位こそなくなったが、ハプスブルグ家の存在事態はまだ消えるわけにはいかないのかもしれない。(おわり)「ハプスブルグ家」関連Back number ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ハプスブルグ家の三種の神器リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2023年10月08日
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毎度の事ですが、後からチェックで修正入れています。また、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)の所、若干追加しています。そこそこ写真もあるのでピサ(Pisa)とダ・ヴィンチでも紹介しようか? 実はちょっと勘違いしていたみたいで、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)がピサの洗礼堂で洗礼を受けたと聞いたと思い込んでいたのです。ところが、どこの資料にもそれが書いていない。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の出身地、トスカーナ州フィレンツェ県のヴィンチ(Vinci)村はピサから東へ約43km。フィレンツェからは西に28km。フィレンツェのが近いし縁もあった。 洗礼堂で洗礼を受けていたのはガリレオの間違いだった? ピサ(Pisa)は没に・・。 でも、ダ・ヴィンチは行っておきたいかも・・。私が尊敬する芸術家の一人として真っ先にあげたいのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)だから・・。万能な彼はもはや神。°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°で、ダ・ヴィンチを探ぐっていたら、ミラノに行き着きました。今回ミラノの写真が多いです。そしてラストにどうしてもサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)を入れたかったのですが、想定外の事がおきていて、ちょっと時間を食いました。尚、絵画の写真はほぼウィキメディアから借りています。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)両親幼少期のエピソードヴェロッキオ(Verrocchio)工房ヴェロッキオ工房でのエピソードミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ミラノとの関わりミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論最後の晩餐(L'Ultima Cena)ミラノ公居城スフォルツェスコ城サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドの兵器フィレンツェ時代小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)真作としての発見1516年~1519年フランス、ローワール時代両親彼の実父はフィレンツェの裕福な公証人であったが、小作人の娘であったレオナルドの母(Caterina)とは身段違いの為に結婚はしなかった。故に彼は未婚の母の元にヴィンチ村で生まれ、そこで育ったと考えられていた。※ 生誕はフィレンツェの父の家と言う可能性も出ている。本人 レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci) (1452年4月15日~1519年5月2日)父 Ser Piero da Vinci d'Antonio di ser Piero di ser Guido(1426年~1504年)母 Caterina di Meo Lippi (1434年~1494年)※ 通称として出身地が付くらしい。ヴィンチ(Vinci)村のレオナルドだからレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)であり、父にも同じくda Vinciが付いている。また、レオナルドには、父の名(セル・ピエーロ)も付されている事から私生児ではなく、ちゃんと公認された親子関係はあったと認識できるし、実際父に喜んで向かい入れられたと伝えられている。レオナルドが生まれた翌年、実父セル・ピエーロも実母カテリーナも別々の人と結婚している。実父セル・ピエーロに関しては、幾度かの結婚をし、最終的にレオナルドの異母兄弟は16人となっている。レオナルドはしばらく母の元で育てられたのかもしれないが、1457年(5歳)には彼は父方の祖父アントニオ・ダ・ヴィンチの家に住んでいた事が納税記録により証明されているそうだ。幼少期の事は不明と言われるが、彼は義母やダ・ヴィンチ家の家族に育てられたのは間違いない。思っている以上に「彼は不遇ではなかった」のだと思われる。それにしても、富裕な家にも関わらず、教育は非公式なものしか受けていないらしい。父(Ser Piero da Vinci)は仕事で忙しく、叔父(Francesco da Vinci)と親しかった事は解っているので叔父からいろいろ広い世界を学んだのかもしれない。なぜなら、画業だけにとどまらずかかわったあらゆる世界。また、後年彼が考案するに至る飛行機械、装甲車両、投石機などの開発につながる素養はある程度小さい頃からの興味に起因するからね。幼少期のエピソード美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)が伝えている事によれば、レオナルドの絵が上手な事を知った農民が丸い盾に絵を描いて欲しいと依頼した所、あまりに絵が怖すぎて父がそれを売り、別の盾を購入して農民に贈ったと言うもの。ここで引っかかるのが「絵が怖すぎて父が売った。」と言う点。絵は高く売れ、最終的にミラノ公の元に渡ったらしい。最初から解説すると、当時、農民は農閑期には戦争などにかり出されるので、樽(たる)の蓋(ふた)等を利用した自身の盾(たて)を自ら制作したのであろう。その盾に農民は気の利いた絵を描いて欲しいと軽い気持ちで頼んだのかもしれない。しかし、レオナルドが描いたのは、一介の農民が持つには過ぎるできだったのだろう。おそらく、盾に描かれた絵はメドゥーサの首(顔)だったと思われる。「ペルセウスとメドゥーサ」の神話で、アテナイの命でメドゥーサを退治したペルセウスは見ると石になると言うメドゥーサの首をアテナイに贈った。アテナイはその首を自分の盾(アイギス)にはめ込み最強の盾(たて)としたのである。最強の盾(たて)と言えば、これに勝るものは無い。何しろメドゥーサの髪一本一本はヘビでできているから、それ自体が怖いし不気味。伝統的にもメドゥーサの首は最強の絵図なのである。完璧すぎたのだろう。父は農民にそれを渡さず、フィレンツェの美術商に100ダカット(ducats)で売却している。父がレオナルドの才能を確信した瞬間かもしれない。※ 余談ですが、メドウーサの首について過去に書いています。メドウーサを知りたい方はどうぞ。リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ヴェロッキオ(Verrocchio)工房レオナルドはヴェロッキオ(Verrocchio)の工房に14歳(1466年)で弟子入り。※ アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)彼には早くから芸術の才能があった事がわかっているのでダ・ヴィンチ家では当初からそちらの才能を伸ばす事に方針を決めたらしい。父はレオナルドを当時フィレンツェで最高の工房に入れた。そもそも、ヴェロッキオは父の友人であったとも言われている。レオナルドの作品を見せられたヴェロッキオは非常に感心し、入門を許可したらしい。7年、レオナルドは20歳(1472年)になるまでに親方ギルドの資格を取得し、聖ルカ(Guild of Saint Luke)の正会員になっている。父はレオナルドがルカの会員になると彼の工房を設立しているが、レオナルド自身はその後もしばらくはヴェロッキオ工房に寝泊まりして仕事を手伝っていたらしい。レオナルドは確かに、最初に画家として名声を得たが、実は発明など彼の功績は幅が広い。製図、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、機械学などの幅広い技術力。木工品や、デッサン、絵画、彫刻などの芸術的スキル。本当にマルチな才能を発揮している人なのだ。だから芸術家として彼を扱って良いのか? 肩書きは迷う所でもある。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像ミラノ、スカラザ前に設置されているレオナルド・ダ・ヴィンチ像。レオナルドの評価は特にミラノが高い。1858 年に彫刻家ピエトロ マーニ(Pietro Magni)(1817年~1877年)によって制作。政情による資金難で遅れ1872 年に除幕に至った。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年4月15日~1519年5月2日)写真左側がミラノ・スカラ座。その対面側がガレリア。トップにレオナルド・ダ・ヴィンチ像台座には弟子の像4体が設置。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)※ Salvator Mundiは長らく彼の作品と思われていた。2.Marco d'Oggiono(1470年~1549年)3.Cesare da Sesto(1477年~1523年)4.Gian Giacomo Caprotti (1480年~1524年) ※ under the name Andrea Salaino サライである。さらに台座にはエピソードのレリーフが4面。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)最後に解説入れますが、世紀の大発見と言われたサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)は2011年まで彼の作品と思われていたらしい。4.Gian Giacomo Caprotti Andrea Salaino(1480年~1524年) ※ 撮影時の像が汚れていて見栄えが悪かったのでサライの写真はウィキメディアから借りています。洗礼者ヨハネのモデルであり、レオナルドの側に最後までいて、モナリザを所有していた人物。ヴェロッキオ工房でのエピソードこちらも美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)が伝えている事であり、あまりに有名な話ではあるが・・。どうも偽りの話だったらしい。ヴェロッキオは弟子レオナルドに自身の作品「キリストの洗礼(Baptism of Christ)」の中の天使(左)を描かせた。1475年頃 キリストの洗礼(The Baptism of Christ)画家 アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)Leonardo da Vinciの部分レオナルドの天使を見て、ヴェロッキオは筆を置いたと言われる。確かに目を引くのは美しい天使。特に色使いが自分よりもすぐれていると思ったらしいのだ。ヴェロッキオの芸術に対する審美眼が高かったのは確からしい。ヴェロッキオはその後「彫刻の方を専門とした」とも聞いた。実際、ヴェロッキオは彫像の方が有名だ。若い弟子時代の話のように語られているが・・。1475年頃と言う制作年代を見るとヴェロッキオ40歳。レオナルド23歳頃で、すでに聖ルカの会員になり、自身の工房を持っていた頃でもある。レオナルドは行かなくてもいいのにヴェロッキオの所に通っていた年代である。もしかしたら任せられる人材がいなくてレオナルドに頼んだのか? 仕事が無いレオナルドに仕事を与えたのか?親方になったって、仕事が無い人は無いからね。フェルメールのように・・。そもそも工房作品であるなら、どこもほぼほぼ弟子が描いている。親方がどの程度手を入れるか? はどこからの依頼か? あるいは金額による違いがあったのではないか? と思う。そう考えると、有能な弟子を持っているか? は重要だ。マンガ家のアシスタントみたいな感じかな?レオナルドはモデルも努めている。同じくヴェロッキオの所で弟子をしていたフランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)(1446年~1498年)はレオナルドより6歳上の兄弟子。1470年 トビアスと3人の大天使(I tre Arcangeli e Tobias)画家 フランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)大天使ミカエル(Michael)のモデルは18歳当時のレオナルドではないか? 似ている。と言われている。日付がはっきりしているレオナルド作品で最も古い絵。1473 年 アルノ渓谷の眺望(Landscape of the Arno Valley)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)フィレンツェ市内を流れるアルノ川は河口の街ピサを通りリグリア海に注いでいる。物流の為にアルノ川を航行できる川にするよう最初に進言したのはレオナルドだそうだ。レオナルドへの正式な依頼はこの頃から1478年、ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)の聖バーナード礼拝堂(Chapel of Saint Bernard)の祭壇画の依頼。1481年3月、彼はスコペト(Scopeto)のサン・ドナート(San Donato)の修道士から「東方三博士の礼拝」の依頼。しかし、急遽? ミラノに立つことになったようで「東方三博士の礼拝」は未完に終わっている。プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ところで、レオナルドは1480年にメディチ家に居たと言う話がある。どうやらプラトン・アカデミー(Platonic Academy)に出入りしていたらしいのだ。メディチ家が主催するプラトン・アカデミー(Platonic Academy)は、後生の人が付けた名前だ。そもそも学校ではなく、高尚(こうしょう)なサロンだったと思われる。先代のコジモが古代ギリシア哲学、プラトンの思想に関心を持っていた事から?メディチ家別邸にマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)(1433年~1499年)を(1462年頃)住まわせ、プラトン全集やヘルメス文書などをラテン語に翻訳させていたらしい。※ ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。1439年のフィレンツェ公会議がきっかけならコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)が最初にプラトンに傾倒したのかもしれない。が、コジモは1464年に亡くなっている。次代を継いだのがまだ若いロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)。彼は20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた人物だ。そして彼も多くの学者や芸術家を援助した事で知られる。いずれにせよ、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)が居るメディチ家には人文主義者らが集ってきた。メディチ家はいわゆるサロンとなり人文学者のみならず芸術家、詩人、哲学者らも集う場所となったのだろう。そこでは皆、有益な情報を得られるから、アカデミーのような毎回勉強会の場であったのだろうと推察できる。また、メディチ家はそんな彼らへの支援を惜しまなかったから、有能な人材が多く輩出された。以前「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)のところで触れているが、1480年頃はメディチ家全盛期で、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)気にいられたサンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)がメディチ家の為にいろいろ描いていた頃だ。1482年、「プリマヴェーラ 春の寓意(La Primavera) 」1485年、「ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)」これらは今、現在 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)を代表する絵画となっている。※ メディチ家とメディチ銀行の事かなり詳しく書いています。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)このサンドロ・ボッティチェッリはアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)の弟子だったと言われている。同じ師匠の弟子であったレオナルドが兄弟子と居ても不思議ではない。あるいはフィレンツェで成功していた公証人の父からのつてかもしれない。 博識なレオナルドはこのサロンで造られたのかもしれない? 少なくとも、より広い世界の扉を開いたのかもしれない。ミラノとの関わり先にレオナルドの評価はミラノが高いと紹介したがミラノ公に気にいられ、彼の元で働いていた期間が長いからだ。1482年から1499年まで、確かにレオナルドはミラノで活動していた。1482年、ロレンツォ・デ・メディチの命でレオナルドはミラノに向かった。先のプラトン・アカデミーの話を裏付けるエピソードだ。当時のミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が就任したばかり。※ ムーア人のような色黒だった事から通称ルドヴィコ・イル・モーロと呼ばれていた。想像の域であるが、ミラノ公となったルドヴィコ・スフォルツァがロレンツォに「誰が人材がいたら回してほしい」と頼んだのではないか? その白羽の矢が立ったのがレオナルドだったのだと考えられる。レオナルドはミラノ公に自分が何ができるかの手紙を書いている。それによれば「工学と兵器設計の分野で自分ができる事、また絵を描くこともできる。」としているので、画家だけでなく何事もこなせる人材をミラノ公は欲していた。実際レオナルドは武器開発含めてスフォルツアの多くのプロジェクトで活躍する事になる。先に触れたが、レオナルドのミラノ滞在は1482年から1499年。ミラノ公がフランス軍の侵攻によりに捉えられる1499年までレオナルドはミラノ公の下で働いていた。ミラノ公は神聖ローマ帝国側についたのでミラノはフランスと敵対し、フランス軍の侵攻を受けた(イタリア戦争)。ミラノが占領されるとレオナルドは助手のサライと友人の数学者ルカ・パチョーリと共にミラノを脱出してヴェネツィアへ避難している。ミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) 無原罪懐胎協会(Confraternity of the Immaculate Conception) からの依頼で「岩窟の聖母(the Virgin of the Rocks)」。ほぼ同じ構図、構成で描かれた高さが約 2 m の2点の作品が存在する。左、1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれた最初の作品がルーヴル・ヴァージョンではないか? と考えられている。この作品はレオナルドが1人で描いたとされぼかし技法スフマートが使われている。1483年~1486年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ルーブル・ヴァージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)何らかの理由でレオナルドは2枚目のナショナル・ギャラリー ヴァージョンを新たに描き、納品したのではないか? と考えられている。では1枚目はどこに?制作年代で類推すると、一番考えられるのは、最初の作品がフランス占領下で略奪されたから後に新しい作品を描いて送った? と言うのが現実的かも。実際、最初の作品はルーブルに収まっているからね。1495年~1508年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ナショナル・ギャラリー バージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ナショナル・ギャラリー (National Gallery)ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)あまりに有名な絵図であるが、これが何を意味しているか知っている人は少ないだろう。この絵図は古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)の著した建築論内で人の比率について述べられていた人体の理論図を具現化したものなのである。第3巻、第1章で、ウィトルウィウスは人間の比率について述べている。へそは本来人間の体の中心。仰向けに寝て、手足を伸ばし、へそを中心にして円を描くと、それは彼の指と足の指に触れることになる。しかし、人体は円だけで囲まれているわけでは無い。今度は人体を正方形の中に配置。足から頭頂部までを測定し、腕を完全に伸ばした状態で測定すると、後者の寸法が前者の寸法と等しいことが解る。1492年 ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man) 円と正方形に内接する人体の図所蔵 アカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)※ 常に公開されている作品ではない。この画像はウィキメディアから借りました。今まで多くの人が描いているが、レオナルドの作品が最も美しい完璧な図。ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)は建築論、十書を著して初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)に捧げた。それは最古の建築論の書である。この著は長らく失われていたが、フィレンツェの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニによってスイスのザンクト・ガレ修道院(the Abbey of St. Galle)の図書館で1414年に発見されたのだ。※ ベネディクト会では古来の良書を写本して残すのも修道士の仕事であった。1450年頃、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti)が「De re aedificatoria(建物について)」で紹介。当然、ローマ時代の建築論はプラトン・アカデミーでの話題になっただろう。ブラマンテ(Bramante)、ミケランジェロ(Michelangelo)、パッラーディオ(Palladio)、ヴィニョーラVignola)など、多くの建築家がウィトルウィウスの作品を研究したことが知られている。彼の建築論によれば、建築は「firmitas(強さ・安定性)」、「utilitas(実用性)」、「venustas(美・魅力)」の3つの要素が必要であるとしている。以降、ローマの建築物には、この原則は適用されている。今に残るローマのパンテオン(Pantheon)もその一つ。ウィトルウィウスによれば、建築は自然の模倣。鳥やミツバチのように、人間も自然素材で巣(家)を作る。ウィトルウィウスは住宅建築に関連した気候や都市の場所の選び方についても書いているらしいが、この建築技術を完成させる際に重要なのは比率としている。ギリシャ人はドリス式、イオニア式、コリント式という建築オーダーを発明。美の完成には比率こそが大事な要因としているのだ。また、彼は「建築家は図面、幾何学、光学(照明)、歴史、哲学、音楽、演劇、医学、法律に精通している必要がある」と述べている。それは建築が他の多くの科学から生じた科学であるからで、それはまた多様な学習によって装飾されるものとしているからだ。さらに、彼は理論的であると同時に実践的である事を推奨している。以前、「ローマでは服飾のデザイナーでも建築を学ぶ。」と言うのを聞いて不思議だったのだが、ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論がローマでもルネッサンス以降、脈々と受け継がれているからなのかと納得した。ローマだけではない、欧州で、画家らが古典古代を学ぶ為に、みなイタリアに留学していたのもそうした理由なのだろう。最後の晩餐(L'Ultima Cena)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の修道院食堂の壁画。1495年~1498年 最後の晩餐(L'Ultima Cena)(The Last Supper)撮影禁止なのでウィキメディアからかりました。詳しい事は「修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復」で書いています。リンク先はまとめてます。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 本体の堂13世紀にすでにこの場に教会はあったらしい。ドミニコ会派の修道会として礎石されたのは1463年9月。度重なるペストなどで信者も減少。その存続さえ難しい時にドミニコ会修道会自体の再建をかけた改革が行われている。その中での建築である。清貧、勤労を重んじるドミニコ会が望んだのは簡素な建物。しかし、後援となったVimercate伯爵は違った。教会ともめたが、結局教会の建築家はクリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) (1460年~1527年)に決まった。ソラーリはすでに評判のトスカーナの建築家。堂はルネッサンス様式を意識しているものの、基本的にはロマネスク様式に近い建築となっているが技術的には高価なできだ。質素どころではない。教会と修道院の建設は長い年月がかかる。ミラノ公、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が引き継ぐと後陣はスフォルツァ家の霊廟としてブラマンテに造りかえさせた。ブラマンテはソラーリが完成したばかりの後陣を取り壊し、現在のような後陣を完成。結局、フランスの侵略があり、霊廟にならなかったが・・。僧院回廊はドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)(1444年頃~1514年)今見てもオシャレです。リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)ミラノ公居城スフォルツェスコ城ミラノ公に呼ばれたレオナルドもこの城の中で暮らしていたと思われる。1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して城塞化。16~17世紀にかけて増改築された居城は欧州でも有数の規模の城塞となっていた。図は城に置かれていた看板に少し着色しました。六芒星(ろくぼうせい)の形に城壁と堀を配置した鉄壁の守りをとった要塞です。今は堀は無く、一部形跡は残っていますが、正面には噴水広場が造られている。現在残っている城は少し形が違う? 1891年~1905年にかけて、建築家ルカ・ベルトラミらによって修復されているからかも。現存しているのは1/4程度。現在、内部は市立博物館(Musei del Castello Sforzesco)となっていて、近年復元作業のすすめられているレオナルドの天井壁画がある。サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)1498年、レオナルドとその助手たちはミラノ公からスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)のサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)(アッセの間)の絵を描くよう依頼されたという。その証拠はレオナルドがミラノ公(ルドヴィコ・スフォルツァ)に「9月までに完成させると約束している」と書かれた1498 年4月21日付け書簡により判明。レオナルドは石膏にテンペラでアッセの間に木から茂る植物(桑の木?)を描いた。まるで屋外のパーゴラの下に居るようなだまし絵である。しかし、この手紙の直後、1499年にミラノはルイ12世率いるフランス軍に進軍されスフォルツェスコ城は陥落。アッセの間の絵は未完となった。未完の絵は後年塗りつぶされていた事が判明。1498年 サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)2013年以降修復作業が続けられた。上の写真は修復前のもの。下はウィキメディアから。ミラノ陥落後、城は何世紀も他国の要塞として軍事利用されてきた。その過程で部屋の絵は白く塗りつぶされ失われていた。1861年、イタリアが統一された時、城は完全にボロボロ。取り壊しか? 修復か?建築史家ルカ・ベルトラミ(Luca Beltrami)(1854年~1933年) がその修復に携わると1893年、部屋を覆う白い表面の下、元の塗装の痕跡がいくつか検出されたと言う。現存数が少ないレオナルドの作品としてサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)は貴重なのである。ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドのミラノでの功績は先に紹介したスカラザ前のレオナルド像にレリーフで刻まれている。実はレリーフの説明がどこにも無くて困っていた。意外な所(Ludovico Maria Sforza)から出てきたのだ。20年間ほぼ公国に専念したミラノ公ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)の評判はすこぶる良い。エレガントでハンサムな容姿(詩人たちは彼のそのかっこよさを賞賛した)、教養があり、現地語とラテン語を操る。優れた作家であり、機知に富み、愉快な雄弁家でもある。楽しい会話や音楽を好み絵画の愛好家でもあると言う寛大な存在感を持っていたと言う。魅力的な完璧なルネッサンス期の紳士だったらしい。※ 実弟が対照的に悪かったらしい。レオナルドとはかなり息が合ったのではないか? と推察できる。もし、ミラノがフランスの侵攻を受けなければ、ルドヴィコ・スフォルツァが捉えられなければ、二人はずっとタッグを組んでたくさんの作品や仕事を残してくれただろうに・・。レオナルドはミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに「前任者フランチェスコ・スフォルツァの巨大なブロンズの騎馬記念碑」の依頼を受けていた。原型の石膏像を見せている所?このブロンズは戦争の為にブロンズが供出されたので完成できなかった。レオナルドはルドヴィコ公爵とベアトリス公爵に運河の水門を見せている。ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァは「最後の晩餐」の進捗を見に来たので説明している。レオナルドはモロ? の要塞の計画を示している図。イーモラ(Imola)防衛の事? ミラノとは関係なくなるが・・。ヴェネツィアでは、レオナルドは軍事建築家および技術者として雇用され、海軍の攻撃から都市を守る方法を考案。レオナルドの兵器1502 年、レオナルドは教皇アレクサンドル 6 世の息子チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)に仕え、主任軍事技師兼建築家として採用されている。レオナルドはチェーザレ・ボルジアと共にイタリアを周り、軍事建築家および技術者として活動している期間が8ヶ月ほどあるのだ。チェーザレはレオナルドに、彼の領土内で進行中および計画されているすべての建設を検査および監督するための無制限の許可を与えている。またロマーニャ(Romagna)滞在中、レオナルドはチェゼーナからチェゼナーティコ港(Porto Cesenatico)までの運河を建設。またレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラ地図を残している。※ 図面などはミラノで見学しているのですが、暗い部屋で撮影も禁止でしたレオナルド・ダ・ヴィンチによる発明品、戦車、巨大投石機(カタパルト)、飛行機など、ロワール地方にあるクロ・リュセ城の庭園で実物大の立体展示がされているらしい。図面を探がしたけど見つからず、フランス観光局のサイトから写真を借りました。リンク Explore Franceクロ・リュセ城に展示されたレオナルド・ダ・ヴィンチの発明品サイトには他の写真もあります。連接グライダー(Flying Machine)空圧ネジ(Aerial Screw crop)戦車(Armored Tank crop)走行距離計(Odometer crop)話をチェーザレ・ボルジアに戻すと。実はチェーザレ・ボルジアはスペイン・アラゴン系のボルジア家の一員。先のイタリア戦争(神聖ローマ帝国vsフランス)ではフランス王ルイ12世のコンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)を務め、先のイタリア戦争ではミラノとナポリを占領している。要するにフランスの傭兵としてミラノを攻めていたのである。以前、スイスの傭兵の事を書いたが、イタリア内でも同じような状況があった。経済基盤を持たない地方都市は、傭兵として出稼ぎに出ていた。ヴェネツィアやジェノバのような金持ちの海洋共和国は別であるが逆にそうした所は妬みをかい、常に野心の対象とされていたそうだ。だから彼らは傭兵を雇う側。ただ、イタリアの傭兵はスイス兵とはかなり異なる。負け戦はなるべくかかわるのを避け、全滅するまで戦うような事はなかったと言う。勝つ見込みがあるまで戦い。負けそうになれば撤退。だから、かつてヴァチカンが襲われた時にイタリアの傭兵は逃げた。最後まで戦ってくれたのはスイス兵だけ。これが現在に至りヴァチカンがスイス兵しか信用せず雇わない理由だ。※ 以前、スイス人の傭兵の事書いています。リンク バチカンのスイスガード(衛兵)違いは他にも・・。イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとした。チェーザレ・ボルジアはローマで暮らし、ピサやペルージャの大学で法律等を学んでいる学識者。しかし狩猟や武芸にも励んだ強者。そんな男が教会の重責もになっていたのだから中世は不思議だ。1492年 バレンシア大司教1493年 バレンシア枢機卿また、君主論の中でマキャヴェリは君主となる者はチェーザレを見習うべき人物としてあげている。彼はチェーザレの印象を「容姿はことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とも書いているそうだ。32歳と若死にしているのが残念ですね。ところでレオナルドは1503年初めにはフィレンツェに戻り、10月に聖ルカ(ギルド)の会員に復帰している。それはつまり、また絵を描くと言う事。フィレンツェ時代1503年頃~1519年 聖母子と聖アンナ(The Virgin and Child with Saint Anne)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)聖母マリアと幼児キリスト、そしてマリアの母聖アンナが油彩で描かれた板絵。ベースはポプラの木。スフマート(Sfumato)技法で描かれている。スフマートとは、いわゆるボカシ技法。レオナルド自身が煙のようなと形容しているが、境界をはっきり出さない描き方。1499 年、フランス王ルイ12世の一人娘クロードの誕生を祝う為に依頼されたと考えられている。が、この絵はルイ12世に届けられず、1517年時点でもまだレオナルドの工房にあったと言う。※ ウィキアートからどうもこの絵には諸説あるらしいが、1499年はフランスがミラノに侵攻し、ミラノ公が捉えられた年。先にふれたが、レオナルドは弟子らと共にヴェネツィアに逃げていたはず。どう依頼を受けたかも疑問。1506年~1508年 La Scapigliata (ほつれ髪の女)所蔵 パルマ国立美術館(Galleria Nazionale di Parma)1503年~1519年 モナ・リザ(Mona Lisa)(La Gioconda)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリの著書「芸出家列伝」によれば「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンダから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」と書いている事から「La Gioconda」とも呼ばれる。※ 「ma donna」はイタリア語で「私の貴婦人」を意味。その短縮形が「mona」。モナ・リザ(Mona Lisa)とは、「貴婦人リザ」と言うことになる。ジョルジョ・ヴァザーリの話は「当てにならない」のが最近の考えだが、1477年に出版されたキケロ全集の余白部分にラテン語の落書きがあり、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンダの肖像画を制作している最中である」事が1503年10月という日付と共にに記されていた事が判明したそうだ。落書きしたのは、アゴスティーノ・ヴェスプッチ (Agostino Vespucci) と言うフィレンツェの役人。2004年、科学的検証(赤外線分析)から、絵の制作開始年が、ジョコンダが次男を出産した1503年頃だと言う事も判明したそうだ。それ故、この作品は、デル・ジョコンダ家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったのでは? と考えられるそうだ。小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像1513年~1516年 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)イエス・キリストに洗礼を行った洗礼者ヨハネを描いた作品。左手に葦の十字架を持ち、右手は天国を指している。モデルは弟子のサライ(Salaì)と考えられている。明暗を駆使した「陰影法(いんえいほう)」。暗闇から浮かび上がるように描かれており、不敵な微笑みを浮かべている。「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」と共にともに最後まで手元に残した作品と言われる。サライ自身がモデルだからか?先にミラノの銅像で弟子の一人として写真をUPしている弟子のサライ。人生のほとんどをレオナルド・ダ・ヴィンチと共に過ごした愛弟子であるが、終生悪ガキだった?※ ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti)(1480年~1524年) 画家として名乗る時 アンドレア・サライノ(Andrea Salaino)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリによれば「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している。が、名前の小悪魔(サライ)が示すよう、サライには手を焼いたのだろう。レオナルドの金銭や貴重品を何度も盗み、また嘘つきで強情で10歳でレオナルドに入門してからどれだけレオナルドを困らせた事か?絵の才能はあったらしいから、彼は見捨てずに育てた? 彼はレオナルドが亡くなる直前までずっと側に居た。「洗礼者聖ヨハネ(St. John the Baptist)」と「バッカス (Bacchus)」はサライがモデルとなったと考えられている。問題はヨハネが美しすぎる事。だと私は思う。荒野の修道士である洗礼者ヨハネはたいてい薄汚れたおじさんで描かれてきた。こんな美しい、色気のある洗礼者ヨハネは他に見た事がない。次に紹介する絵はバッカス (Bacchus)と言う表題とされているが実は洗礼者ヨハネだったかもしれない作品として揺れているのである。制作年代で言えば、バッカス (Bacchus)の方が先に描かれている?1510年~1515年 バッカス (Bacchus)? 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)?画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)ブドウの葉の冠を頭に戴き、ヒョウ皮の腰巻きを付け、左手に杖をつかんでいる。これはほぼバッカス (Bacchus)の象徴である。バッカスであるなら杖はテュルソス(thyrsos)だと思われる。※ バッカス (Bacchus)ローマ神話の酒の神。ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。※ ウイキョウの茎に蔦があしらった杖がテュルソス(thyrsos)。気になるのは右手で右方面を指さしている事。これはレオナルドお気に入りのポーズと思われるが、バッカスならワイングラスを持たせてもよかったのだ。この不思議、どうもレオナルド本人は洗礼者ヨハネを描いたらしいのだ。しかし、1683年から1693年の間にローマ神話のバッカス(ギリシア神話の酒神ディオニューソス)に書き換え変更されているらしい。つまり、誰かが絵の主題の変更をおこなっているのだ。何故に変更されたのかははっきりしていない。考えうるのは、美しく、若々しく、両性具有的な雰囲気を漂わせる色気をかもす洗礼者ヨハネの姿は、セオリーから遠い。なまめかしい洗礼者ヨハネに教会からクレームでも入ったのか?その可能性は高いと思われる。逆に、レオナルドは今までに無い美しくさえある聖人を描いたのだ。そこに彼が意図した事を読み解く方が面白い。この絵はフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)の治世にフランスの王室コレクションに入り、ルーブルに収まったと考えられている。ロワールのアンボワーズにレオナルドが居た時に本人から受け取っているのかも?サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)「世界の救世主」の意を持つサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)とはイエス・キリストの肖像である。1500年 Salvator Mundi(世界の救世主)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル アブダビ(Louvre Abu Dhabi)? ではないようです。写真はウィキメディアから借りました。真作としての発見この絵には不思議な来歴がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作として歴史の表に出たのはほんの近年の事。ミラノを侵略したヴァロワ朝のフランス王ルイ12世(Louis XII)(1462年~1515年)の為に描かれたと言うキリストの絵。チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)経由で依頼されたのかもしれない。が、英国のチャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年)の手に渡って1763年以降行方知れずとなっていた。1900年に英国の収集家フランシス・クックが、ロンドンのリッチモンドにあるダウティ・ハウスのコレクションの為にJ・C・ロビンソンから購入した絵画(Salvator Mundi)は当初、レオナルドの弟子ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオの作品と信じられていた。※ 前出、ミラノの弟子の銅像で紹介。1958 年のオークションで 45ポンドで売却。 2011 年まで彼の作とされ続けていたのだ。それは、過去の修復の問題であった。2005年サルバトール・ムンディが、ニューオーリンズのセント チャールズ ギャラリー オークション ハウス(St. Charles Gallery auction house)でオークションに出品された時点では、絵は模写に似ているほどにかなり塗り重ねられていたと言う。アートディーラーのコンソーシアム(consortium)は 1175ドルで購入したが、そもそもこのひどい状態の絵画が、長らく行方不明だったレオナルドのオリジナルである可能性を信じていたらしい。だからしかるべき所に修復を依頼。※ ニューヨーク大学のダイアン・ドワイヤー・モデスティニ(Dianne Dwyer Modestini)に依頼。そもそもパネルの虫食いはひどく、修復過程で絵画が7つの断片に割れている。修復プロセスの開始時に上絵をアセトンで除去し始めた時、コピーではあり得ない事実を発見(指の位置に修正が加えられていた事)された。コンソーシアム(consortium)は 2005年、1175ドルで入手した作品は修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と報道した。2008年、ロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1。弟子の作か? 工房の2級品か? 結局わからないまま?2011年、ロンドンのナショナル・ギャラリーで展示。期待値は高まり値段は高騰。2013年、サザビーズ (Sotheby's)のオークションでスイス人美術商イヴ・ブーヴィエ(Yves Bouvier)に8000万ドル(約90億円)で落札。後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフ(Dmitry Rybolovlev)が1億2750万ドル(約140億円)で購入。※ 画商と購入者間の手数料問題で訴訟トラブルが起きている。またリボレロフ氏はサザビーズも訴えた。2017年11月15日にクリスティーズ(Christie's)のオークションで4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円。手数料を含む)で落札された。※ 2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き史上最高額。香港やロンドン、そしてニューヨークでのプレビューに訪れた人数だけでもクリスティーズ史上最高の2万7000人。それだけ感心が高かったと言う事。真贋、分かれながらも、本物として値段は高騰して行った。この時点で落札者は不明だった。2017年11月8日、ルーヴル美術館の姉妹館としてフランスのマクロン大統領とアラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム副大統領とムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン皇太子によってアブダビ市街に隣接するサディヤット島の文化地区にルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)開館。600点の所蔵作品に加え、パリのルーヴル美術館をはじめとするフランス国内13の美術館・博物館から貸し出された300点が展示ルーブル・パリとの契約金は30年で5億2500万米ドル。このルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)の目玉として、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事が2017年12月6日に発表された。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン(Prince Mohammed bin Salman)皇太子が個人で、代理人を通じて購入していたらしい。ルーヴル・アブダビでサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事。当時、私もテレビの特番で知った。誰か女優さんがUAEに行って作品を直接見せてもらっている画像もあった。UAEに行けば見られるのかと思っていた。ところが、その後、UAEでのサルバトール・ムンディの公開は中止となっていた。2018年9月、ルーヴル・アブダビで予定されていたこの絵画の展覧会が無期限延期されることが発表。また、2019年10月に予定されていたパリでのヴィンチ展でも公開されるはずであった。これに関しては、どこに飾るか? でサウジ側と意見が合わず中止になった模様。では絵画はどこに?2020年末までムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨット(Serene)の船内に飾られていたらしい。潮風に当たったらまずいのでは?結局、未だ公にはほとんど公開されぬままの状態。2024年に完成予定のサウジアラビアのWadi AlFannに新しい美術館がオープンするので、そこで公開される予定はあるらしい。1516年~1519年フランス、ローワール時代フランソワ1世(François I)(1494年~1547年)は1516年、ロワールのアンボワーズにレオナルドを招聘(しょうへい)した。アンボワーズ城(Château d'Amboise)自身の城は歴代ヴァロワ朝の国王が過ごしたアンボワーズ城(Château d'Amboise)。※ シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世。アンボワーズ城近くに自分が幼少期に暮らしたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)があり、そこにレオナルドを住まわせた。レオナルドは亡くなるまでそこに居た。クロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)模型の置かれたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)は、晩年のレオナルドの住まい。ウィキメディアから借りました。The chamber of Leonardo da Vinciレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋1482年から1499年まで、レオナルドはミラノで活動していた。本当は、そんなに長く居るはずではなかったのかもしれない。おそらく事情が変わったのはメディチ家の没落である。以前、「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中でメディチ家銀行の事、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)の事を書いているが、メディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)芸術家を支援し、フィレンツェを一流の都市に押し上げていたメディチ家の没落が社会に与えた影響は大きい。レオナルドもパトロンを失い、戻るに戻れず、ミラノでお世話になっていたのだろうと想われる。ところが、そのミラノでも頼りにしていたミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)はイタリア戦争のおりに捕らわれ、身代金を払って解放される時に暗殺されてしまった。レオナルドは当時有数の海洋共和国であったヴェネツィアにとりあえず渡ったのもうなずける。でも、ヴェネツィアはヴェネツィア派と呼ばれるジャンルがあるくらい画家も多い。きっと新たなパトロンを見つけられず? フィレンッエに戻っている。仕方なく? チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の元に何でもすると売り込みに? 行ったのかもしれない。実際、レオナルドは1502年~1503年、イタリア諸都市の要塞を見学してまわっている。若いチェーザレ・ボルジアは頼りにしていたかもしれない。しかし、レオナルドは8ヶ月でフィレンッエに戻っている。結局ボルジアも7年後には亡くなっているので居ても二の舞だったが・・。1503年、フィレンツェに戻ったレオナルドはルカの会員に戻り、普通の親方絵師として個人の依頼をこなしている。もはや仕事は選んでいる場合ではなかったのだろう。しかし、持ち前の実験好き。それはトラブルの元になって行く。報酬の返還要請や描き直し、修復の依頼など多発。レオナルドは全て無視したらしい。もはやフィレンツェに居られず?ロレンツォ・デ・メディチの息子がレオ10世として教皇となっていたのでローマにも行ったらしい。だが、期待に反してレオ10世には相手にされなかった。ローマでは、レオナルドはもはや過去の人になっていたらしい。好奇心の強いレオナルドが普通に依頼の絵を描いているだけの事に満足するはずが無い。好きに絵を描いたり、彫刻を造ったり、研究をしたりするにはやはり大物のパトロンが必要。1516年、ミラノと敵対していたルイ12世の後継者であるフランス王フランソワ1世が声をかけてくれた。脳卒中ですでに手にマヒも出ていたレオナルドだが、フランソワ1世はレオナルドを非常に尊敬していたらしい。ロワール渓谷のアンボワーズで、穏やかに隠遁生活を送れるよう、自分が育った居城をレオナルドの為に提供もしてくれた。そこで手稿をしたためたり、好きな事をして、お気に入りの弟子と共に最後の3年を過ごし亡くなった。レオナルドの最後はフランソワ1世に抱きかかえられながら息を引き取ったとも伝えられる。絵画でそんな絵がある。本当かはわからないが、フランソワ1世に大事にされていただろう事は伝わる。享年67歳。(1452年4月15日~1519年5月2日)最後が幸せで良かったと想う。完がんばったげど、8月中に載せられなくて残念
2023年09月01日
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写真はニースのシャガール美術館を後半たくさん入れてます。意外に撮ってたのだな・・と驚いています。一部載せるだけの予定でしたが、資料としてまとまっていると言うのは結構貴重なのでほぼ載せました。マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」My Life(わが生涯)NYのピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)ダグ・ハマーショルドとNY国連事務局ビルのステンドグラス最愛の妻ベラ(Bella)の死消された恋人ヴァージニア・ハガードヴァヴァがしかけた広報戦略象徴としてのアイコン(icon)聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊赤い天使1950年代から増える商業ベースの絵画1950年から南フランスに移動宗教画はライフワーク?ニースのシャガール美術館1956年~1958年 人間の創造1961年 楽園を追われたアダムとイブ1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセ1960年~1966年 岩を打つモーセ1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセ1960年~1966年 アブラハムと3人の天使1960年~1966年 イサクの犠牲1960年~1966年 天使と戦うヤコブ1960年~1966年 ヤコブの夢1961年~1966年 ノアの箱舟1961年~1966年 ノアと虹1960年 雅歌(がか)Ⅰ1957年 雅歌(がか)Ⅱ1960年 雅歌(がか)Ⅲ1958年 雅歌(がか)Ⅳ1965年~1966年 雅歌(がか)ⅤMy Life(わが生涯)シャガールの父がニシン商人だと言う事は知っていたが、実際、重い樽を運んだりの雑用係で「ガレー船の奴隷」のような仕事をしていたらしい。敬虔なユダヤ教徒(ハシディスト)の家庭で、しかも貧乏子たくさん? シャガールは9人兄弟の長男だった。父は朝は集会所で誰かが亡くなれば祈り、雑用して帰ってきていたらしい。貧しいのに真面目なユダヤ教徒の父。その頃の彼は父を軽蔑していた。シャガール35歳、モスクワ時代(1921 年~1922 年)に著した回想録「My Life(わが生涯)」の中でそれは語られており、父のようになりたく無い一身で芸術家を志したそうだ。※ 妻ベラの訳でフランス語版「Ma vie(わが生涯)」1931年、刊行。My Life(わが生涯)の表紙 むろん努力だけで結果が出る世界ではない。非凡な才能は初期の絵画からもうかがえるので、成るべくして成功を手にした画家なのだろう。ところで、話を父に戻すと、画家は後年、一転して父に敬意を示している。何きかけかは解らなかったが、彼の絵画に登場してくる魚は「漁師だった」と言う所から父のアイコンとなった。NYのピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)ヒトラーが嫌った退廃的芸術はアメリカでは近代美術・モダンアート(modern art)として人気急上昇していた。そこには画商ピエール・マティスの努力があったのだ。フランスの画家アンリ・マティス(Henri Matisse)(1869年~1954年)の次男、ピエール・マティス(Pierre Matisse) (1900年~1989年)。彼は1924年にアメリカに移住し、1931年にはニューヨークに自分の画廊ピエール・マティス ギャラリー(Pierre Matisse Gallery)を経営していた。※ 住所 Fuller Building at 41 East 57th Street in New York Cityピエール・マティスは欧州の芸術をアメリカに紹介、普及。それに啓発されたジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)(1912年~1956年)など多くのアメリカ人アーティスト達が誕生している。ピエール・マティス ギャラリーは、1930年~1940年代のニューヨーク美術界に多大な影響を与えたギャラリーだった。欧州では、戦争と言う中断があった事もあるが、モダンアート(modern art)、そして次代の現代アート(Contemporary Art)を牽引して行くのはアメリカとなった。1941年6月~1948年(アメリカ亡命時代にシャガールを後援した画商)そんなピエール・マティス ギャラリーがアメリカに身寄りの無いシャガールをバックアップしてくれていた。彼は1910年から1941年にかけニューヨークやシカゴでのシャガールの個展のマネジメントもしてくれていた。もしかしたらナチスがシャガールの絵を「退廃的アート」として排除しようとしていた。と言う所を逆に使って宣伝したかもしれない。※ 退廃芸術については以下に書いてます。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)だからアメリカ亡命時代に、シャガールの知名度も評価もあがった?モダニスト(modernist)の名称が付き「20世紀芸術の最重要人物の一人」とまで評価されたのかもしれない。※ 1947年にはパリに一時帰国。※ 1948 年にフランスに帰国する前に、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) とシカゴ美術館の両方で回顧展を開催。ダグ・ハマーショルドとNY国連事務局ビルのステンドグラス1964年 Peace Window(平和の窓)United Nations Visitors Services New Yorkのサイトから UN Photoニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)に設置されているシャガール作ステンドグラス「Peace Window(平和の窓)」1964年制作 縦12ft(366cm)、横15ft(458cm)部分シャガールらしさと言える動物がたくさん描かれている。ステンドグラスと言っても、ガラスに絵を描いて焼き付けると言うエナメル絵付けによるものだ。ティファニーがガラスそのものにこだわったステンドグラスとは「一線を画す」。実はこうしたガラスに色を焼き付けるステンドグラスが近代の主流になったのはガラス職人がいなくなった。と言うのも背景にある。※ 昔は鉱物をまぜてガラスそれぞれの色出しをしていたから手間もお金もかかった。どうも絵付けのステンドグラスは私的には「単調でつまらない。」絵の具が一緒だからガラスからの光はどの作品もほぼ一緒。ステンドグラスとして見ると言うより絵そのものを見るだけ。色ガラスなら同じものは造れ無いから全て微妙に違う。初期のステンドグラスは絵柄と言うよりは、そのガラスの偏光により天国のような光の世界を演出していたのだ。ニューヨークの国連事務局ビル(United Nations Secretariat Building)のステンドグラス「Peace Window(平和の窓)」は1961年に飛行機事故で亡くなった第二代国連事務総長のダグ・ハマーショルドと 彼と共に事故にあった15人の人々を偲んで制作されている。1964年に国連の職員とマルク・シャガール本人が寄贈したもの。※ 絵図の内容は国連が求める平和と愛の象徴が描き込まれたもの。ダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjöld)(1905年~1961年)スウェーデンの政治家、外交官。第2代国際連合事務総長(任期:1953年4月~1961年9月)。在任中に事故? で逝去。ハマーショルドは、「国連は人類を天国に連れて行くためではなく、地獄から救うために作られた」と語っている。在任中で特に顕著な功績を挙げたのはスエズ戦争。1956年には第一次国際連合緊急軍(UNEF)を組織し、イスラエルとアラブ諸国の調停に尽力。ダグ・ハマーショルドの死ベルギーから独立を果たしたコンゴ共和国は、激化する内乱(コンゴ動乱)の沈静化のため国際連合に援助を求めた為、ハマーショルドは4度に渡りコンゴを訪問。1961年9月17日夜、そのコンゴ動乱の停戦調停に赴く途上、国連チャーター機ダグラス DC-6B(機体記号SE-BDY)が墜落。現職の事務総長の事故死に撃墜説や暗殺説が浮上していたが、当時は解らなかったらしい。2017年10月に公表された調査報告書では外部からの攻撃や脅威が原因による暗殺の可能性が示唆された。1961年にノーベル平和賞がハマーショルドに授与されている。(生前に決っていた)。シャガールはステンドグラスを贈るにあたり、手書きの献辞を添えている。「国家憲章の諸制度と原則は、国家と社会を守るための重要な役割を果たす。その目的と原則に奉仕し命を捧げたダグ・ハマーショルドと、全ての人たちへ。」※ 超訳です。多くの同胞を第二次世界大戦で失っているだけにシャガールが世界平和に掛けた思いが伝わる。国際連盟(League of Nations)(LON)(1919年~1946年)は第二次世界大戦を防ぐことができなかった。特にナチス・ドイツによる第二次大戦下でのユダヤ人の大量虐殺を止める事もできなかった。その反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国などの連合国(the united nations)が中心となって新たに1945年10月、国際連合(United Nations)(UN)を設立。※ 51ヵ国加盟。活動の目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)であり、また、経済・社会・文化など国際協力の実現。最愛の妻ベラ(Bella)の死1944年、9月。シャガールが28歳で結婚し、28年連れ添った最愛の妻を失った。※ 結婚生活(1915年~1944年)ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)は1944年9月2日、戦時下のアメリカで病気で亡くなった。※ viral infection(ウイルス感染)なのか? bacterial infection(細菌感染)なのか?流行り病と言うが、どちらか確定できなかった。アメリカと言えど戦時下に薬が不足し、満足な治療さえ受けることができなかったらしい。シャガールは深く悲しみ秋から冬の間ずっと喪に服し、絵筆はとらなかった。翌年の春、悲しみから立ち上がるべく最初に取り組んだ仕事は、ベラが残していた手記を出版する事。これらには、ユダヤの習慣、家族の愛、故郷への思い。最初の出会いなどが書かれていたらしい。Brenendike likht (The Burning Lights)1945年発行。Di ershte bagegenish (The First Encounter)1947年発行。いずれも、ベラがイディッシュ語(Yiddish)語)で書いていた草稿にシャガールが絵を付けたもの。また、この時、シャガールは古い描きかけのキャンバスを2たつに切って、左側に「The Wedding Lights(ウェディング ライト)」を描いた。1945年 The Wedding Lights(ウェディング ライト)Private collectionベラの手記をイメージしたもの? 故郷ヴィテブスク(Witebsk)でのベラの回想? ユダヤ人がまだ穏やかに暮らしていた時代の思い出だろう。それを共有していたシャガールが彼なりにイメージして描いた作品と思われる。戦後作品ではあるが、穏やかな故郷の情景が描かれている。象徴のアイコンを散りばめたシャガールらしい絵である。Artpedia(アートペディア)の「ベラ・ローゼンフェルド・シャガール」から写真をお借りしました。左から娘イーダ、シャガール、ベラ娘のイーダは1916年に誕生。イーダの年齢からも1920年以降のモスクワ時代の写真と思われる。ベラは20代半ば?バックには1915年制作の「Birthday(誕生日)」のキャンパスが置かれている。シャガールが描いているのはベラであるがリストにこの絵は見当たらない。そもそもモスクワ時代の作品はほぼ不明。Part1で紹介しているが、一家は故郷ヴィテブスク(Witebsk)から逃れるように脱出して1920年にモスクワへ移動。そして1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。ロシア圏からの脱出に一時的にモスクワ移住し、リトアニア経由で西欧圏に国境越えしたものと思われる。消された恋人ヴァージニア・ハガード1944年9月に最愛の妻ベラを失ったシャガールであるが・・・。ベラを生涯愛していたと思っている人も多々いるかと思うが・・。Part1では、1952年、65歳でシャガールはヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) と再婚したとも紹介してはいるが・・。実はシャガールはいつまでもメソメソはしていなかった? いや、一時は確かにショックで絵も描けなかったらしいが、翌年そんな彼の元にヴァージニアという若い女性が家政婦として派遣された。ヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)ヴァージニア・ハガードは元駐米英国領事の娘と言うのでかなりの品格も備えていたのではないか? と思われるが、彼女はすでに人妻であったらしい。シャガールは58歳、ヴァージニアは30歳。ヴァージニア・ハガードは娘イーダとほぼ同学年。若いヴァージニアの魅力にシャガールはすぐに恋に落ちる。やがて恋愛関係になった彼女とシャガールは7年の生活を共にする事になる。つまり、1945年~1952年。ちょうど二人の妻の間をつなぐようにヴァージニアがいたのである。実はシャガールのキャリアの全盛期と言うのがヴァージニアといた期間に重なっている。作品や展示会、また出版に関しても最も成功を収めている時期で、シャガールにとって浮き浮きが仕事にプラスになっていたのは確かだ。そういう意味では、ヴァージニアは功労者とも言える存在。なのにヴァージニア・ハガードの名が歴史から消えている。(・_・?) ハテ?しかも、二人の間には息子もいた。付き合いだして翌年、1946年には息子ダヴィッドが誕生する。が、息子にシャガールの姓はついていない。ダヴィッド・マクニール(David McNeill)(1946年~「McNeill」はヴァージニア・ハガードの夫の名前らしい。ヴァージニアは後に夫と離婚するが、シャガールとは結婚せず? ダヴィドはほぼ私生児状態? だったようだ。※ ダヴィドは自らもアルバムを出しているが、シャンソン歌手のイヴ・モンタンなどに曲を提供する作詞・作曲家となっている。7年後に2人に破局が訪れる。1952年、ヴァージニアはシャガールの元を離れベルギーの写真家の所に行ってしまったそうだ。育児放棄し、浮気はするし・・彼女は非常に奔放な女性だったと伝えられる。(そもそも若いからね。)※ どこまでが真実かは不明。これは一方的な評価なので。この時、なぜか?ヴァージニアはシャガールの絵18点をもらい。時々売りながら(2点は自分用)生活? 2006年亡くなるまでベルギーで暮らしている。その後のシャガールとの接触は一切無いらしい。ヴァージニアが出て行ったのにシャガールの絵を手切れ金のようにもらっている所が非常に気になります。シャガールは? と言えば、振られたシャガール当人はショックで落ち込む日々。そんな時? 娘イーダからヴァランティーヌ・ブロツキーを紹介され、すぐに再婚(2番目の妻)している。ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) シャガール史から消されたヴァージニア・ハガードは後に自分で回顧録を書いている。ここにもしかして?ヴァージニア・ハガード VS. ヴァランティーヌ・ブロツキーの抗争が見え隠れする。ヴァヴァがしかけた広報戦略再婚した時、シャガールは65歳。ほぼ切れる事なく、シャガールの人生には女性が寄り添っていた事になる。生涯ベラ(最初の妻)を愛していた? 愛の画家? 本当に?実は、「生涯ベラを愛し抜いた愛の画家」のキャッチはヴァランティーヌ・ブロツキーがしかけたシャガールのイメージ戦略だったらしいのだ。※ ヴァランティーヌ・ブロツキー(ヴァヴァ)は元々キャリア・ウーマンだった女性。「生涯最初の妻だけを愛していた。愛の画家が描く愛が広がる絵。」売れるよね。その為には自分も影に徹したのかもしれない。特にシャガールの売り方の戦略にシャガール作品初期の「空飛ぶ恋人」イメージを植え付ける事に奔走したと言われる。その為にはヴァージニア・ハガードの存在はあってはならない。シャガールの履歴から消去する必要があった。そう言う事実を見ると、18点の作品をヴァージニアに渡して、シャガールとの一切の縁を切らせたのはヴァヴァだったのではないか? と言う気もする。息子も父との縁を切られたのかもしれない。イメージ戦略とは言うが、もしかしたらヴァヴァが、ヴァージニア・ハガードに嫉妬していたからでは?と言う気もするよね。象徴としてのアイコン(icon)アイコン(icon)は、最近スマホなどで利用されているアプリの絵柄と思われるかもしれないが、実はもともと(正教会系)聖像図のイコンから発した言葉らしい。それには「象徴(symbol)」の意味もある。例えば、キリスト教では、それだけで聖人を表現するアイテム(アイコン)がある。「十字架」がイエス・キリストを象徴するのは周知の事実であるが・・。聖母マリアの象徴は短剣で突き刺された「ハート(心臓)」。また受胎告知の時に使われた「ユリの花」など複数ある。度々紹介してるのが12使徒のペテロを象徴する「鍵(かぎ)」。天国の番人に選ばれたペテロはキリストからその門の鍵を預ったとされている。それ故、鍵のみでペテロが示される。ペテロ(Petrus)・・鍵(かぎ)また4人の福音書記者(Evangelistae)にもそれぞれ象徴のアイテムがあり紹介している。マルコ(Marcam)・・獅子(しし)マタイ(Mattheum)・・天使(てんし)ルカ(Lucam)・・雄牛(おうし)ヨハネ(Iohannem)・・鷲(わし)※ 表記はラテン語にしてあります。キリスト教の聖人名はラテン語読みが一般。※ 以前「サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)」の中、「福音書記者(Evangelist)とキリスト教の正典」で少し触れています。リンク サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)キリスト教における象徴の解説本も出ています。象徴を幾つも持つ聖人もいれば逆に一つのアイコンが複数の意味を持つ場合もあるのです。ユダヤ教の場合もまた同じ。例えば、旧約聖書、創世記のオリーブの枝は洪水後の最初の植物であり、それは平和の象徴を意味する。その象徴が何を意味するか? どう解釈するのか? 聖書の研究にはそんな解釈問題もあります。後年のシャガールの絵画は彼の周りにあった記憶や登場人物を象徴(symbol)とする物をアイコンに置き換えて配置され構成されている。それがファンタジー的な要素を与えているのだと思う。「魚」は父親。「時計」は流れる時間。「キリスト」はユダヤ人の受難とユダヤ人の大戦下での死。「花嫁」は娘の結婚から登場し、時に自身の妻(ベラの時もヴァランティーヌの時もある)。「シャガール自身」のアイコンはおそらく山羊(やぎ)かと思われる。「バイオリンやバイオリン弾き」のおじさんは祭りなど典礼で欠かせない音楽の担当。故にユダヤのコミョニティーでの典礼がおこなわれている事を示す?お決まりの「故郷の街並」。これは記憶を示しているのでは?「動物達」は故郷の・・と言うよりは聖書に登場する動物が主に使われている気がする。1950年 The Blue Circus(ブルー・サーカス)左側 所蔵 London, Tate Modern右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum※ シャガール美術館の方のThe Blue Circus(ブルー・サーカス)の制作年は不明。1950年 The Dance and the Circus(ダンス&サーカス)左側 所蔵 London, Tate Modern右側 所蔵 National Marc Chagall Bible Verse Museum※ シャガール美術館の方のThe Dance and the Circus(ダンス&サーカス)の制作年は不明。聖書の動物 贖罪(しょくざい)の山羊旧約聖書でしばしば現れる動物は山羊(やぎ)、牛、羊など偶蹄目(ぐうていもく)である。なぜなら「蹄(ひづめ)が分かれており」「反すうする」という二つの条件を満たさない動物は清くないとされ、ユダヤ教では神に捧げたり、人が食べたりする事ができないのだ。蹄(ひずめ)はあっても先が分かれていなければ絶対にダメなのである。なぜか? は不明。だから豚(ぶた)肉は今でも食べないらしい。そもそもユダヤ教徒の食事には、食事の内容や食べ方にも戒律に基づく厳格なルールが存在している。なんでもOKな我々日本人とは違うのである。山羊は特に聖書では重要な役がある。「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意であるスケープゴート(scapegoat)は、まさしく旧約聖書のレビ記「贖罪(しょくざい)の山羊」から由来している。※ 贖罪の日に人々の代わりに山羊に罪を背負ってもらって荒野に放した。1947年 Self-Portrait with a Clock. In front of Crucifixion(時計を持つ自画像。 磔刑の前で)Private Collectionキリストを描きながら、彼は何をに贖罪(しょくざい)しようとしているのか?絵の中のキリストに寄りそう花嫁は聖母か? 聖母マリアはしばしばキリストの花嫁の役割も持つ。赤い天使1923年~1947年 The Falling AngelPrivate collection最初の構想は1923年。それはロシアを脱出してパリに来た年だ。当初はユダヤ人と天使の姿だけの予定だったらしい。もしかしたらパリで契約していた画廊のオーナーであるアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)の依頼から始まったのかもしれない。私の想像では当初は白い天使を予定していたがイメージがわかなかったから保留にした? 長く温められていた作品と言うのは納得が行くまで加筆していく。と言う場合にあるだろう。とは言え、Part1で紹介した1934年~1947年「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」は構想から14年。「The Falling Angel」(堕天使)」に至っては構想から25年。ちょと長い。最も、シャガールの場合は戦争でしかた無く中断をよぎなくされた期間がある。※ パリを離れる時に預けていた作品の戦後の再開。「Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)」は、亡命時代のベラの死(1944年)を受け、花の静物画はベラを偲ぶような作品に変化した。※ Part1で紹介 リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス「The Falling Angel」も戦後の再開。保留にしている間にパリは不穏な状況になり、欧州でのユダヤ人迫害がものすごい勢いで進んで行った。今回の戦争は、特にユダヤ人にとっては悲劇。彼もかろうじて生きながらえたが、シャガールにとってはショック以上に人生の事、ユダヤ民族の事を根本から考えざるを得ない状況だったと思われる。この絵はユダヤ民族の持つ宗教感(旧約聖書と律法の伝承)に加え、制作過程で生じた芸術家の多くの経験(戦争、亡命、多くの仲間の死)が詰め込まれ、象徴のもとに組み合わされてできている。ファンタジーのシャガールで無く、強い意志とメッセージが込められた逸品になっている。ところで、中央の目立つ天使は赤色だ。それはおそらく当初の天使とは異なる。タイトルはThe Falling Angel(堕天使)となっているが、中央の赤い天使は、死の天使(Azrael・アズラエル)と思われる。ヘブライ語では、アズラエルは「神の天使」または「神からの助け」を意味するらしい。その天使はユダヤ教やイスラム教では死後に死者の魂を運ぶ任務も負っているらしい。キリスト教の方では聞いた覚えが無いが、イスラム教では、4代天使の1人で、彼は生者の名を記した書物(名簿台帳)を持ち、人が生まれれば記し、死ねばそこから名前を消去する任を追っているとか・・。ユダヤ教の考えはイスラム教の方が近い。と言うよりはユダヤ教をベースにイスラム教ができたからだ。まあ、キリスト教も、そもそもはユダヤ教ベースなんだけどね。遠くにキリストの磔刑があるから、ついキリスト教を軸に考えてしまうが、前回紹介した通り、シャガールはキリストをメシアとして扱ってはいない。あくまで、ユダヤ人キリストの受難と死を示したアイコンなのである。※ 簡単に言えば、ユダヤ民族の代表としてキリストを前面に出している。1950年代から増える商業ベースの絵画マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)はまだ亡くなって38年程。実はまだ著作権内なのでいにしえの巨匠の名画のように簡単にコピーしたり載せたりはできないのである。美術館公式ならともかく、Private collection(個人蔵)となると、まさに制限がかかる。版権を買って大量にリトグラフなどが出回り、それらなら使用できるかもしれないが、原画の方はなかなか難しい。※ 撮影OKの美術館で自分で撮影してきた写真ならいいか? と思うが・・。下の絵「The Bride(花嫁) 」は、1999 年の映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」で取り上げられた作品。2003年にクリスティーズによって100万ドル強で売却され現在Private collectionとなっている作品。下は英語版のウィキメディアから借りた写真ですが、解像度がものすごく低くおさえられているのは、著作権問題があるからだそうです。実際、映画「Notting Hill(ノッティングヒル)」の撮影では一時的に精巧なフェイクが造られ、撮影後は破棄する契約だったらしい。1950年 The Bride(花嫁) or La MariePrivate collectionウィキメディアの解説ではこの作品はGouache pastel(ガッシュ パステル)となっている。最初からパステルしか無いのか? oil painting(油性)の原画があるのかは不明である。映画が大ヒットでこの作品は広く知られた為に商業用の複製品はたくさん出回っている。※ 複製品にもレベルがあります。ただの紙ポスターに価値は無い。限定数の公約されたリトグラフやシルクスクリーンなら多少ある。(製造枚数による)1950年 Lovers in the Red Sky(赤い空の恋人たち)所蔵 San Francisco Museum of Modern Art(サンフランシスコ近代美術館)年代的に、相手はヴァージニア・ハガード(Virginia Haggard)(1915年~2006年)なのかな? と思った事もあり、載せた。この作品は浮かれたシャガールか? 明らかに相手は若い。※ 下の街はキューポラが見えるからヴィテブスク(Witebsk)では無いだろう。まだ、この作品からはシャガールの愛のメッセージが伝わるが、以降、シャガールのアイコンをファンタジー調に並べただけの商業用と思われる作品が一般市場にあふれてくる。長く生きた事でシャガールの作品数はたくさんあるが、絵画として意味のある作品(彼のメッセージが伝わる作品)は商業ベースの中にはほぼ無いのでは?そもそもシャガールの作品リストに商業用作品の原画も無い気がする。先に、「ヴァヴァがしかけた広報戦略」の中で触れたが、ヴァヴァの仕掛けたイメージ戦略は、シャガールの絵画を商品として売る事が前提になっている。画家として名を残す絵なら、イメージなど関係無い。商業用版画をたくさん売る為の広報戦略だった可能性しか考えられない。そうなると、絵の方もそれらしい絵しか描かされていなかったのではないか? と想像する。バックには必ずヴィテブスクの村が入り、必ず花嫁がいる。花嫁は必ず最初の妻ベラと言うことになっている。一般に、花とか花嫁の絵なら需要はあったはず。もし、そうであるなら、クリエイティブな仕事をする画家にとって、それを続けるのは辛い。実際、よくわからなくなった時、シャガールはアイコンを並べるだけの時もあったと言っている。確かに、どうでもよくて、アイコンを適当に置いただけの、何のメッセージも無い作品もたくさん描いたのかもしれない。1950年から南フランスに移動パリから南仏に移動し、最初にニース(Nice)、それから程近いヴァンス(Vence・鷲の巣村)、最終的には終焉の地となるサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に居している。いずれも風光明媚な南仏沿岸コートダジュール (Côte d'Azur)である。前にも触れたが、ピカソと共に陶芸教室に通ったりしている。また、1951年には彫刻も始めたらしい。この頃はまだヴァージニア・ハガードとは同棲中。1952年、シャガール60歳。同年、ヴァージニア・ハガードはシャガールの元を去って行った。前述したようにシャガールは娘イーダから紹介されたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)とすぐに結婚(1952年~1985年)。再婚の結婚式はパリで挙げた。1952年~ 1954年 Le ciel embrase(夕焼け空)Private collection上の絵と似たような構図の青バージョンが後年「1959年~1960年 Bouquet by the Window(窓辺の花束)」Private collection。で出ている。もはやある程度の構図は使い回し?1953年~1956年 Portrait of Vava(ヴァヴァの肖像)Private collection画像は「Marc Chagall, and his paintings」で紹介されていた作品から借りています。リンク Marc Chagall, and his paintings90歳代後半まで生きたシャガール(1887年~1985年)のよき伴侶として晩年を共にしたヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) 愛称ヴァヴァ。Part1で二人の墓を紹介している。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス彼女もユダヤ人であったらしい。結婚後はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で隠遁するかのようにヴァヴァと暮らし、彫刻、陶器、ステンドグラス、タペストリーなど活動の幅を広げていた。1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈。すでに聖書関連の絵は描き終え、ここで自身の美術館開館を待っていた。宗教画はライフワーク?彼を代表する作品は、やはり一連の宗教画になるのだろう。それは彼の最後の自身の集大成であったろうし・・。1931年、シャガール自身が聖地イスラエルに赴いた。それは最初、旧約聖書の挿絵の依頼が来たからであったが、その時、彼はユダヤ民族の苦難を体現した?初めて己の宗教(ユダヤ教)について真剣に向き合ったのかもしれない。実際、シャガールはアメリカ亡命時代に信仰(ユダヤ教)が生活に密着してなくて、不自然さを多々感じていた事を吐露している。加えて、第二次大戦下でのユダヤ民族の危機。ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺。歴史的にユダヤ民族は存在自体が否定されて来ていた。彼は亡くなった同胞の追悼の為にも、自身の民族的ルーツを明らかにしようと考えたとしても不思議ではない。彼が自身の集大成として、プライベートで一連の宗教画に取り組み始めたと思われる。実際、シャガールは17点もの大作ををフランス国家に寄贈している。もともと、依頼された絵ではなかったと言う事だ。「宗教画なんて売れないからやめて。」なんて、ヴァヴァから言われてたりして・・。とは言え、宗教画としては少しテイストが違う。旧約聖書なのに独自解釈も入れて、しっかりシャガールしているのは流石である。シャガールの絵を他のユダヤ人がどう評価したのか私は知りたい。1952年~1966年 Exodus(出エジプト記)Private collectionExodus(出エジプト記)の制作は1952年~1966年となっているが、この絵は、実はアメリカ亡命の終わりには制作されていたのでは? と思われている。1931年のパレスチ訪問から己の宗教について考え始めたシャガール。確かに、絵の内容から見ると、これは1948年5月14日イスラエル国(State of Israel)の建国に合わせて制作を始めたのでは? と思える。Exodus(出エジプト記)は紀元前(BC)1200年頃、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)を連れてエジプトを脱出。乳と蜜の流れるカナンの地へと民族を率いる旧約聖書の話。※ モーセの後継者として最終的にはヨシュアがイスラエルの民をカナンに定住させた。※ 実際、年代も、これが実話かどうかも不明。※ 興味のある方は以下にリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)モーセは神から契約の書「十戒(じゅっかい・Ten Commandments)」を授かっている。絵の右下で十戒の石版を持っているのがシャガール自身らしい。(本来はモーセ)そしてモーセが率いていたイスラエルの民(ヘブライ人)は、今現在迫害されてきたユダヤ人達で置き換えられている。ユダヤ人らはイスラエルへの帰還を望んでいる。Exodus(出エジプト記)に重ねられた現在のユダヤ民族の話なのである。中央の磔刑のキリスト図像は本来いらない気もする。が、絵のインパクトは大だしカトリック教徒の目にも止まるけどね・・。ニースのシャガール美術館正式名は「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館(National Marc Chagall Bible Verse Museum)」1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成。1966年、シャガールは17点の連作「聖書のメッセージ」をフランス国家に寄贈した。※ それらの絵は以下に紹介しています。フランス国家はそれらを飾る為の美術館を建設してくれる事となった。ニース市が土地を提供するかたちで、1973年のシャガール86歳の誕生日に開館。この建設には、シャガール自身が設計段階から参画している。生きている間に立派な自分の美術館が建てられた事は本当にラッキーだ。エントランスコンサートホール大ホール大ホール旧約聖書を画題とした12枚の油性画が置かれた大ホール。1956年~1958年 人間の創造神は最初の人間(アダム)を塵(ちり)から造ったが、シャガールは天使が人を抱えて地上に降ろしたと言う設定にしているらしい。その背景には、石板を受け取るモーセやヤコブの梯子。そして磔刑のキリストも描かれて居る。それらひっくるめてユダヤ人の歴史の一部と言う意味か?1961年 楽園を追われたアダムとイブイブはヘビにそそのかされて、禁断の木の実を口にした。神に背いたので2人は楽園から追放され、子々孫々の罰を与えられた。シャガールは絵の中でアダムとイブに赤い鳥を添えている。それは希望が2人を見捨てていない事を表したらしい。1960年~1966年 燃える柴の前に立つモーセエジプトで王女の養子として育てられていたモーセはある時、燃える柴に気づく。それは神で、神はモーセに苦しんでいるイスラエルの民をエジプトから連れ出すよう促した。1960年~1966年 岩を打つモーセエジプトを脱出したモーセ一行は水不足に悩む。神の言葉通り、杖で岩を打つと水が湧き出した。1960年~1966年 十戒の石版を授かるモーセエジプトを出て数ヶ月。かつて神の声を聞いた山まで来て、一人山を登る。そこで神が自らの指で書き記した十戒の書かれた石版を受け取った。1960年~1966年 アブラハムと3人の天使老いて子供のいなかったアブラハム夫婦に3人の旅人(天使)は子供が生まれる事を預言した。そして長男イサクが誕生する。1960年~1966年 イサクの犠牲神はアブラハムの忠誠を試した。イサクを犠牲として神に捧げるよう言った。アブラハムは躊躇しながらも神の言う通りに実行。その寸前で神は止めた。この絵は通常それだけなのだが、シャガールは絵の右上にキリストが十字架背負って歩く姿を描き入れている。1960年~1966年 天使と戦うヤコブイサクの子ヤコブは故郷カナンへの帰途、天使と戦った。天使がヤコブを試したのである。勝利したヤコブは祝福され、今後イスラエルを名乗るように言われた。「イスラエル」の名が出たのはここなのである。シャガールは左上には花嫁。右上には出産中の女性や人々を描き込んでいる。1960年~1966年 ヤコブの夢旅の途上、石を枕に寝たヤコブは立てられた梯子から天使が降りてくる夢を見た。天使は、あなたが横たわっているこの地をあなたとあなたの子孫に与えよう。と言った。これが今現在もユダヤ人がイスラエルにこだわる理由です。1961年~1966年 ノアの箱舟アダムとイブの子孫は地上に繁栄したが、堕落していたので神が自ら造った人も地上も洪水を起こして滅ぼす事にした。が、信心深かったノアだけには大きな船を造るように言った。そしてそこに人ではノアの家族(ノアと妻と3人の息子夫婦)と全ての生物の雌雄一対のみを載せるよう言われた。シャガールはノアの家族だけでなく、多くの人々を箱舟に載せるべく人を描いている。1961年~1966年 ノアと虹雨は40日、40夜続き洪水を起こしたので、箱舟に乗っている動物以外は全て死に絶えた。水が引き始め、地が乾き始めた時にあざやかな虹が現れた。ノアは虹に重なるように現れている天使を見ている。シャガールの絵ではたくさん人々が船にのっていたのでその人々が虹を見て歓喜している群像が描かれている。ソロモンの雅歌(がか)シリーズ写真だけ載せます。1960年 雅歌(がか)Ⅰ1957年 雅歌(がか)Ⅱ1960年 雅歌(がか)Ⅲ1958年 雅歌(がか)Ⅳ1965年~1966年 雅歌(がか)Ⅴ1977年 レジオン・ドヌール勲章を受章。ルーブル美術館で展覧会開催。1985年 3月28日逝去。Back numberリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガール マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年07月30日
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※ 訂正 14世紀ペストをコロナと書いていましたユダヤ民族の歴史から深掘りしてシャガールに迫りました。結果的にほぼユダヤ民族の受難の話となりました。これはシャガールを語るのに避けられない部分ですから・・。第二次世界大戦のナチス・ドイツが行ったユダヤ人狩り(強制収容所)、劣悪環境での強制労働、人体実験、ガス室での大量殺りく。「アンネの日記(Het Achterhuis)」を読んでそれら事実を知ってはいたが、ゲットー(Ghetto)と呼ばれるユダヤ人隔離居住区が、実はナチス以前の昔から欧州に存在していた事は知らなかった。ユダヤ民族を迫害してきたのは実はナチス・ドイツだけではなかったと言うことだ。はっきり言ってしまえば、西欧全体の国から、歴史的に彼らは嫌われていたと言う事実があった。確かに、歴史に残る特に酷かったのが第二次世界大戦のナチス・ドイツによるホロコースト(Holocaust)である。これによってユダヤ人は激減した。※ ホロコースト(Holocaust)・・ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った大量虐殺を指す。1944年中頃、ナチス・ドイツの侵攻で支配に落ちた地域のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅(せんめつ)。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。ドイツ無条件降伏(1945年5月)直前、収容所が解放されるに至ると、戦犯追及を恐れ関係者によって総括書類が破棄され犠牲者の正確な数字は不明となった。※ ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所は、戦前に950万人であった欧州のユダヤ人が、1945年には310万人。亡命者60万人を差し引き580万人が犠牲になったと推計しているらしいが、実際はもっと多いと考えられる。シャガールの故郷、ヴィテプスク(Vitebsk)のユダヤ人は、24万人からたった118人になった。シャガール自身はかろうじてアメリカに亡命できて命拾いしたが、ドイツが侵攻した近隣の東欧のユダヤ人は悲惨な運命をたどっている。シャガールの故郷を奪い、友や仲間を奪われ、彼のショックは計り知れ無い。この事が後の彼の作品制作に影響を与えたのは当然である。※ 先に触れたアンネ・フランク(Annelies Marie Frank)(1929年~1945年2月)も父を除いて母も姉妹も、友人もその家族もみな強制収容所で亡くなっている。※ アンネの隠れ住まいはアムステルダムの運河沿いにあり見学に行ったことがある。日記は小学生の時に読んでいたからね。今回はシャガールが第二次世界大戦下でアメリカに亡命するあたりから入ります。その為に、なぜ彼が亡命しなければならなかったのか? の理由を詳細に入れざるを得ませんでした。ユダヤ人、シャガールの特殊な事情は、ユダヤ民族事態に課せられた歴史的な事情にあった事がわかります。また、たいていの解説では「シャガールは第二次大戦下にはアメリカに亡命していた。」だけで終わる部分を詳細に調べました。どのように亡命したのか? が気になっていたからです。実際、当事者の苦労は壮絶で、これも載せる事にしました。そんな訳で、シャガール完結にはいたらず、次回「Part3 戦後編」と続きます。m(_ _)mマルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガール昔から存在していたゲットー(Ghetto)古代からあった住み分けキリスト教徒による迫害とローマ教皇によるゲットー(Ghetto)創設激動の東欧のユダヤ人高い教育水準ダイヤモンド・シンジケートを仕切るユダヤ人1930年~1941年亡命前の不穏なフランス時代ナチス・ドイツによる本格的迫害の開始白い磔刑と黄色い磔刑(white crucifixion and yellow crucifixion)屈辱のイエローバッジ(Yellow Badge)スペインやポルトガルから追い出されたユダヤ人フランス統治下のユダヤ人とゲットーを解体したナポレオンパレスチを旅したシャガールが宗教に向き合うナチス・ドイツによるフランス侵攻フランスからの脱出 アメリカへ亡命シャガール夫妻の欧州脱出娘夫婦の欧州脱出アメリカでは舞台美術に挑むバレエ Aleko(アレコ)昔から存在していたゲットー(Ghetto)現在はゲットー(Ghetto)と言うと貧困層や人種的マイノリティの密集居住地と解釈は広げられているが、かつてのゲットー(Ghetto)は、ユダヤ人を隔離する為に地域地域で造られた居住区を指していたそうだ。古代からあった住み分けユダヤ民族はコミュニティーを造り生活をする。古代のアレクサンドリアやローマにはユダヤ教徒の巨大居住区がすでにあったという。ただ、この頃は単に宗教的な住み分けが主だったらしい。そもそもはキリスト教もユダヤ教から発している。救世主イエス・キリストもまた当初はユダヤ人のメシアとして登場している。だが、ユダヤ教ではキリストをメシアと認めていない。それ故、キリスト教における初期の迫害はユダヤ教徒からのものに限定されている。つまりキリスト教 VS ユダヤ教と言う構図が、キリスト教の誕生当初から存在していたと言うわけだ。ところが、キリスト教がローマ帝国の国教として公認されると立場が逆転。※ 公認されたのは313年、コンスタンティヌス1世(Constantinuss I)(270年代前半~337年)の治世。※ 国教となるのは392年、テオドシウス1世(Theodosius I)(347年~395年)の治世。キリストを死に追いやったユダヤ教徒らはキリスト教徒から敵視され嫌われるようになった。まして、ユダヤ教は選民思想の宗教。内に固められたユダヤ教と異なり、キリスト教は門戸を開き(使徒パウロのおかげ)世界宗教に押し広げられた。もはや全く別物の宗教となり乖離(かいり)していく。何より典礼の違いは大きい。お互い干渉しないよう居住区が存在していたというよりは、やはりキリスト教徒の目に留まるのが嫌だったから。と言うのが理由らしいが・・。キリスト教徒による迫害とローマ教皇によるゲットー(Ghetto)創設当初はお互い不干渉なところもあったらしいが、10世紀から始まるキリスト教徒による十字軍遠征以降、ユダヤ教徒の嫌われ度はアップ。実は、イスラム教はユダヤ教から派生したと言ってよい。宗教関係は兄弟? イスラムの世界の中でもユダヤ教は共存していた。聖地エルサレムをイスラムから奪還した時に、そこにはユダヤ人もいた。それに対してもキリスト教徒は気にいらなかったのかもしれない。※ 最初からイスラムはエルサレム巡礼の制限はしていなかったから、聖地奪還の必要は無かった。14世紀にはペストのパンデミックをユダヤ人のせいだとしてキリスト教徒は避難。徐々にユダヤ教徒の隔離政策は欧州中に広がったと言う。最もこの頃は、キリスト教以外の宗教を全て異端として断罪するというローマ教皇庁の強硬な態度もあった。異端狩りである。1555年、ローマ教皇にパウルス4世(Paulus Ⅳ)(1476年~1559年)(在位:1555年~1559年)が就任するとさらに隔離政策は加速する。1555年7月、パウルス4世は教皇勅書「Cum nimis absurdum(クム・ニムス・アブスルドゥム)」を発布。そしてローマにユダヤ人を隔離する為のゲットーを創設。以降、教皇領中に公式のゲットーが増設されて行ったそうだ。※ 1562年、公式にゲットー(Ghetto)の名称が使用される。パウルス4世は反ユダヤ主義の先鋒。ユダヤ教徒への憎悪は「Cum nimis absurdum」の訳をみるかぎり相当ヒドイ。かつてキリストを断罪したユダヤ人と同じくらいあったようだ。とにかくユダヤ人の悪口雑言(あっこうぞうごん)ばかりが書かれている。教皇勅書とは思えないそもそも、パウルス4世は異端審問所長をしていた経歴がある。厳格と無慈悲で有名で「異端であれば、たとえ自分の父親であっても火炙りにするだろう」と公言する人物。ゲットー(Ghetto)を各地に造ったと言う事は、確実に差別して邪魔者扱いしたと言う事。教皇が率先しているのだから何も知らない市民だって、だんだん刷り込まれユダヤ人を憎悪するようになるさ。ユダヤ教徒からしたらパウルス4世は災いをもたらした最悪な教皇。ローマ教皇庁はユダヤ人に正式に謝罪しているのかな?因みに、システィーナ礼拝堂のミケランジェロ作「最後の審判」の絵図のキリストに腰巻(俗にフンドシ)をつけさせたのも彼。裸体を嫌悪したかららしい。激動の東欧のユダヤ人キリスト教社会から疎外されユダヤ人はまとめてゲットーに隔離された。それは当然職業にも影響した。公職には付け無いから職業が制限されたのだ。お金の無い者󠄂は職工や農業など生産的職業に。お金のある者󠄂は質屋、両替商、銀行などの金融業がユダヤ人の主な職業となった。それにしても、当初のユダヤ人だけの隔離コミュニティーは決して悪いものではなかったらしい。民族のつながりを重視する彼らのコミュニティーは、一つの村なり街なりに成長する。ユダヤ教の会堂「シナゴーグ(synagogue)」を造り、学校も作られ教育水準も高くキープ。部外者がいないから典礼など宗教文化は保たれたからだ。ところで、ユダヤ人が東欧、ポーランドに特に多くいたのは、モンゴル人に荒らされた国土の開発が重視され移民を多く受け入れたから、と言う歴史的事情があったらしい。それ故、当初のポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかったそうだ。※ 反ユダヤ主義でナチスが台頭する頃はポーランドも反ユダヤ主義になっていたが・・。前回触れたが、シャガールの故郷ヴィテプスク(Vitebsk)はイディシュ語(Yiddish)を話すコミュニティー、シュテットル(shtetl)であったから、他の地域のユダヤ人らより自由に生きられていたのかもしれない。とは言えニシン商人に雇われ重労働を強いられていた父親の給料は、20ルーブル(roubles)しかなかった。妻ベラの家のように成功しているユダヤ人と下々のユダヤ人の差は存在していたようだ。当時は父を蔑視していたシャガールが、後に父親への敬意を示した。シャガールの絵画の中に現れだした「魚のモチーフ」がそうらしい。高い教育水準ところで、ユダヤ教では高い教育が求められる。頭脳こそが身を守る最上の手段と考えられ、昔から勉学による教育が最も重視されて来たからだそうだ。コミュニティーには必ず学校があった。※ 貧しいシャガールの家でも母はシャガールに高い教育を施す為に奔走していた。キリスト教徒でさえ、識字率は低かった。でもユダヤ教徒はどこの子も教育が徹底されて来たから東欧では特に商業や中間管理業務などに従事し、貴族など上流階級とも結びつき、彼らの中から裕福な成功者がたくさん出たそうだ。なるほど・・である。家系は重視されるが、誰でも成功のチャンスはあったわけだ。因みにシャガールの妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)の実家は宝石商で、地元の有力者でもあった。ダイヤモンド・シンジケートを仕切るユダヤ人ところで、これも余談であるが、宝石のダイヤモンドには価格暴落を調整する為に採掘から生産、販売までの一環したダイヤモンド・シンジケート(diamond syndicate)が存在している。このシステムを造ったのが後にDe Beers(デビアス)の経営トップになるドイツ系ユダヤ人のアーネスト・オッペンハイマー (Ernest Oppenheimer)(1880年~1957年)である。そもそもDe Beers(デビアス)社はユダヤ系財閥であるロスチャイルド家の資金援助を受けて1881年、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes、1853年~1902年)により創業された会社だ。オッペンハイマーもまたロスチャイルド家の資金でシンジケートを造りDe Beers(デビアス)の立て直しに貢献した。※ ロスチャイルド家はナポレオンのワーテルローの戦いで触れています。リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子このシステムで世界のダイヤモンド原石80~90%がデビアス社に集まる。またデビアス社の主要株主はユダヤ系の財閥が中心である事もあり、取引所メンバーの大多数はユダヤ人であり、使用される言語も特殊らしい。そんな事情でダイヤモンド産業は、昔から金融業と並ぶユダヤ人の伝統的な産業になっている。ユダヤ人は裕福。これもまた嫌われた理由である。(全員が裕福なわけでは無かったのに・・。)ナチス・ドイツは彼らを排除し、彼らの財産を奪う。財産の無い者(国外に逃げる資金の無い者)は殺された。ナチス・ドイツの台頭で東欧のユダヤ人が反転して歴史的に最も悲劇にみまわれる事になったのだ。1930年~1941年亡命前の不穏なフランス時代ナチス・ドイツによる本格的迫害の開始反ユダヤ主義を掲げて第一党となったナチス。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) (1889年~1945年)の首相就任後、嫌がらせは静かに始まった。ユダヤ人を追い出したいドイツと同じく自国から追い出したいポーランドの間で押しつけが始まった。ユダヤ人は国境で右往左往。食料もなく餓死者も出たそうだ。1938年11月7日、それに抗議したポーランド系ユダヤ人青年がドイツ大使館員を暗殺。ユダヤ人青年は国際社会に訴える為のパフォーマンスであったようだが、ヒトラーは怒った。「SA(突撃隊)を解き放つべき時がやって来た」と告げたという。そして1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が開始された。ユダヤ人居住地が突然襲撃され、シナゴーグ(ユダヤ人の教会兼集会所)や店や家々に火をつけた。むろん暴動の主力となったのはSA(突撃隊)のメンバーで一般市民ではない。破壊された店舗のガラスが月明かりで煌(きら)めき水晶のようだった所から、ナチスはそれをKristallnacht(クリスタル・ナハト・水晶の夜)事件と命名したらしい。実際、ヒトラーが指示してSAが動いていたが「国民が怒っている?」政府は関与していない風をよそおったと言う。※ 現在はナチスからの名称でなく、November pogrome 1938(11月ポグロム(破壊)1938年)と呼ばれる。白い磔刑と黄色い磔刑(white crucifixion and yellow crucifixion)下は1938年の悲劇を聞いてシャガールが描いたWhite Crucifixion(白い磔刑)である。1938年 White Crucifixion(白い磔刑)所蔵 Art Institute of Chicago(シカゴ美術館)この絵でまず気になるのが中央のキリストである。なぜなら、ユダヤ教ではキリストをメシアと認めていないからユダヤの絵画にキリストが描かれる事は無い。しかし、この絵では中央にキリストが、しかも磔刑の図で描かれている。「キリスト自身がユダヤ人である」事を象徴として敢えてシャガールは取り上げたらしい。この絵ではイエス・キリストとユダヤ人の受難が共に強調されている。キリストを描く事での衝撃は大きい。迫害されるユダヤ人の窮状(きゅうじょう)は世界に知れ渡る事になる。上 左上からSA(突撃隊)が攻めてくる所。下が放火されたユダヤ人の家々。船で逃げる難民。下 商店が襲撃されショーウインドウが割られて火をつけられた所? あるいはシナゴーグか?旗はリトアニアの国旗らしい。リトアニアの窮状がひどかったのか?リトアニア共和国(Republic of Lithuania)と言えば杉原 千畝(すぎはら ちうね)(1900年~1986年)氏の「命のビザ」発行がある。リトアニアのカウナス(Kaunas)領事館に赴任中、1940年7月~8月にかけて多くのビザを発行してユダヤ難民を国外に逃げがした事で知られる。※ シベリア鉄道でウラジオストクから船で敦賀港に。日本経由でアメリカなどに亡命させた。ここに、年代は異なるが、もう一枚の絵を紹介しておく。「White Crucifixion(白い磔刑)」と対になるような「Yellow Cricifixion(黄色い磔刑)」。自身の「白い磔刑」をオマージュ(hommage)するように描かれた「黄色い磔刑」。「白い磔刑」ではユダヤ人の受難を、「黄色い磔刑」ではユダヤ人の死が表現されている。この絵は大戦中のアメリカで描かれたと思われる。シャガールは1941年にアメリカに亡命している。1942年 The Yellow Crucifixion(黄色い磔刑)所蔵 Musée National d'Art Moderne in Paris(パリの国立近代美術館)?※ リストでは黄色い磔刑はArt Institute of Chicago(シカゴ美術館)所蔵になっているがいずれも確認が取れない。こちらは敢えて「White Crucifixion(白い磔刑)」と同スタイルを使用。ユダヤ人の受難の象徴として、敢えて描かれた「磔刑のユダヤ人キリスト」。おそらく黄色は炎の象徴ではないか? と思う。中段右、ユダヤ人の街やユダヤ人が炎に飲み込まれて行く。つまり多くのユダヤ人の命が失われていると言う現状を示しているのだろう。前作の白い磔刑にもあった船が今度は転覆する絵が描かれている。これは1942年のストルマ号惨事(Struma disaster)の事らしい。ルーマニアから800人近くのユダヤ人難民を委任統治領パレスチナに連れて行こうとしていた船MVストルマ号は英国がユダヤ人たちのパレスチナでの下船を許可しなかった為、航海上をさまよい船はトルコで拿捕。そしてその数か月後に黒海でソ連軍により撃沈された。キリストの足下に描かれている梯子(はしご)は旧約聖書、創世記28章に登場するヤコブの夢から現れる「ヤコブの梯子」らしい。それは地上から天国に通じる階段の役割を持つ。上には巨大な命の書の開いた巻物。巻物の緑は希望を表していると言うが・・。天使がラッパを吹く。人に死の予告を与えるラッパ? あるいは黙示録的、終末の音(ね)、アポカリプティック・サウンド(apocalyptic sounds)なのか?いずれにせよ死者が蘇(よみがえ)る事はない。ここでは、天使のラッパは死者の魂を救済するラッパと解釈するのが正しいかもしれない。屈辱のイエローバッジ(Yellow Badge)1930〜40年代、ナチスはユダヤ人を識別する為にダビデの星型をしたイエローバッジ(Yellow Badge)をユダヤ人が付ける事を強要した。「この印を着けている者は国民の敵である」とナチスは言ったのだ。写真はウィキメディアから。ユダヤ教徒にとって黄色は恥辱のバッチの色となった。スペインやポルトガルから追い出されたユダヤ人ところで、レコンキスタ後のスペインやポルトガルはカトリック押しであるから異教徒には厳しかった。が、しかしイスラム教徒も改宗すれば国内に留まれたので、ユダヤ人の場合もそうであったと思われる。ただ、ユダヤ人は絶対的に改宗しなかったであろうから、皆、国外退去になったのだろうと推察する。オランダに移動したユダヤ人はダイヤモンド関連のビジネスで成功していく。ダイヤモンドを研磨する職人にユダヤ人が多く付いていた事もある。先に紹介したように、De Beers(デビアス)を中心としたダイヤモンドビジネスは現在もユダヤ人の独占である。皮肉な事に、ゲットー(Ghetto)があったからこそ、ユダヤ民族独自の文化が長く継承されたと言える。だが、逆に言えば社会変化に関係なく、かたくなに己の文化を守り続けたからこその弊害が生まれた。それは時代が進むほどに世間一般とは乖離(かいり)して行ったと思われる。ドイツ系ユダヤ人哲学者・啓蒙思想家であるモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)(1729年~1786年)はユダヤ人はユダヤ人自身も社会の変化に柔軟に適応しなければならない。と提言し、民族信仰をやめて、個人の信仰にとどめ、政治や文化は一般世界のスタイルに合わせるべきだと主張していた。※ モーゼスの孫がロマン派の作曲家、フェリクス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)(1809年~1847年)。ドイツ音楽界の重鎮として君臨したのに、再燃する「反ユダヤ主義」のあおりを受けて死後、過小評価されてきたらしい。因みにモーゼスの息子は銀行家。富裕なユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は謂(いわ)れなき迫害を受けることが多く、キリスト教へ改宗したらしい。ユダヤ教における宗教的指導者、ラビ (祭司・rabbi)は血統による世襲制。彼らはシナゴーグ(synagogue)の指導者であると同時にユダヤ・コミョニティーの代表でもあった。いにしえからの律法を最も重んじる彼らがすんなり変わる訳ではない。むしろ変化を好まないで来たのだ。だがしかし、フランスにいたユダヤ人は違っていたらしい。フランス統治下のユダヤ人とゲットーを解体したナポレオンフランス革命後、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)の進軍でフランスの領土は欧州に拡大し巨大な帝国を築いた。1806年8月、神聖ローマ帝国は解体。この進軍で、ナポレオンは各地のユダヤ人ゲットーを解放して行ったと伝えられる。実はフランスでは王がユダヤ人を利用していたのでユダヤ人は王権により保護されている部分があった。つまりお互いメリットがあった関係だったから、他の国々のユダヤコミュニティーとは一線を画し、うまく共存していたらしい。それは人権的な意味での関係ではなかったが、決して悪い関係ではなかった。1789年のフランス革命後、自由主義をうたう革命政府の元でユダヤ教徒はプロテスタントらと共に速やかに法の下の平等が約束されたそうだ。1790年、1791年と一斉にではなかったが、順次、職業と居住地を選ぶ権利がユダヤ人に与えられた。最も地方により共存関係には差が出たらしいが・・。そもそも革命政府が、ユダヤ人の地位を議論したと言うところが革新的だったと言える。ナポレオンが帝位ににつくのは1804年であるから、それ以前にフランスのユダヤ人は解放されていた事になる。だから進軍したナポレオンが占領下のゲットーを次々解体して行ったと言う事実は、ナポレオンが、と言うよりは、フランス占領下に置ける市民のいかなる自由も革命政府が認めている。と言う事に基づいていたと思われる。ナポレオンが失脚すると再びユダヤ人に制限が加えられたと言うが、フランスにおいて、それはなかった? 前回触れたが、ジャガールがパリに出て画学生となるのは1910年。彼が23歳の時。おそらく留学に何の制約もなかったと思われる。ただ、ナチス・ドイツがフランスを侵略した時だけは事情が変わった。1941年、シャガールは逮捕され、その後アメリカに亡命して逃れる事ができたが・・。パレスチを旅したシャガールが宗教に向き合う1931年、シャガールに旧約聖書の挿絵の依頼が来ると、直接聖地を体現するべくイスラエル、テルアビブ(Tel Aviv)に家族で訪問。シオニスト(Zionist)のリーダーで、初代テルアビブの市長でもあったメイア・ディゼンゴフ(Meir Dizengoff)(1861年~1936年)に招待されたのだ。1930年、ディゼンゴフは妻亡き後の自宅をテルアビブに寄贈して美術館にする計画があった。※ テルアビブ美術館(Tel Aviv Museum of Art)として1932年に完成。1931年~1934年にかけて、彼は本格的に「聖書」に向き合う機会を得る。※ 聖書絵画の研究の為に巨匠レンブラント(Rembrandt)(1606年~1669年)やエル・グレコ(El Greco)(1541年~1614年)の絵画を見る為にアムステルダムにも渡航している。旧約聖書は自分の民族の歴史であり、子供の頃から心に刻まれてきた句のはずであるが、実は彼はそんなに真面目なユダヤ教徒ではなかったらしいのだ。前回、シャガールはイディシュ語(Yiddish)文化を持つを東欧系ユダヤ・コミュニティーの出身者であると紹介した。敬虔(けいけん)なるユダヤ教徒であった両親はハシディズム(Hasidism)を信奉するハシディストであったと思われる。※ ハシディズム(Hasidism)は「敬虔主義者」,「信心深さ」を意味する。正統派ユダヤ人の慣習を遵守し、宗教的および社会的には保守主義であり、それ故、社会的隔離が見られる。言語も、身につける衣服さえ一般人とは異なる。超正統派路線のユダヤ教徒だ。しかし、公開されている写真などを見る限り、シャガールがハシディストであったとは思え無いのだ。もみあげも無いし、むしろオシャレな髪型、オシャレな服装。普通の若者である。また、彼の初期絵画に、故郷ヴィテプスク(Vitebsk)の街や人々は多々描かれるが、祈りを捧げている風な人々は見られない。真面目に祈りを捧げる父とは、宗教的にかなり対立してきたらしい事が解ってきた。だから? 本来父のようなハシディストが巡礼に行きたかったイスラエルに彼は来て、見て、感じるものがあったのかもしれない。改めて自身のルーツとなる宗教と真剣に向き合い、他の敬虔なる画家らの絵画にも向き合いなおしたのかもしれない。1933年 Solitude(ソリチュード・孤独)所蔵 Tel Aviv Museum(テルアビブ美術館)上は孤独(ソリチュード・Solitud)とタイトルされる絵であるが、トーラ(律法の巻物)を抱えて物思いにふける男は、イスラエル帰りのシャガール自身なのではないか? と思える。この絵は自身でテルアビブ美術館に寄贈している。今までありそうで無かった正統派ユダヤ教徒の服装。それにしても牛がカワイイ。深刻な悩みかもしれないが、こう言うと所が「ほんわか」させる。どう言う意図(いと)なのかな?1937年、シャガールはフランス国籍を取得。この頃はまだイタリア旅行もできていた。しかし、ドイツでは、シャガール作品がナチスによってすべて撤去され燃やされたりもしている。※ 以前、ナチスが嫌う退廃芸術について書いています。シャガールの絵は嫌われていました。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)ナチス・ドイツによるフランス侵攻1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まった。開戦から半年、1940年5月、ナチス・ドイツはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を開始。1940年6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言していたパリに無血入城し、翌日フランス内閣は総辞職。フランス政府はドイツへの休戦を申し入れ22日、休戦条約が調印(独仏休戦協定)。これによりフランス軍の大半は武装解除されたが、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下に置かれ、またこの時アルザス=ロレーヌ、サヴォワ・ニースはそれぞれドイツ、イタリアに割譲されてしまった。※ シャガールは1939年にはすでに南フランスへ避難していた。ところで前回「1930年代のパリでの生活の中で、画家は花の静物画をたくさん描いていたらしい。」と紹介した。画商アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)の元でプライベートの依頼もこなしていたのかもしれない。こんな時期にもかかわらず、描いていた花嫁シリーズ?誰かの結婚祝いで描いたのかもしれない。もしかしたらシャガールの一人娘イーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)の結婚があった可能性がある。なぜなら、1941年の亡命時には25歳のイーダには夫がいたからだ。※ 娘婿ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)とは後に離婚。※ イーダも2度結婚している。2番目の夫フランツ・ニコラス・メイヤー(Franz Nicholas Meyer)(1919年~2007年)1939年 Newlyweds on the Eiffel Tower(エッフェル塔の新郎新婦) 所蔵 Musée National d'Art Moderne in Paris(パリの国立近代美術館)上がエッフェル塔を背景にしたパリでの結婚式で、下はイーダの生まれ故郷ヴィテプスク(Vitebsk)を背景にしたものかもしれない。いずれにせよ下の花嫁の絵はPrivate collectionになっている。1938年~1940年 the-three-candles(3本の蝋燭)所蔵 Private collection下は花嫁ではなさそうだ。1939年 Midsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)所蔵 Musée de Grenoble(グルノーブル美術館)?タイトルから読める絵画の人は妖精王オベロン(Oberon)の妻タイターニア(Titania)と、いたずら好きの妖精パック(Puck)にロバの頭をかぶせられた織工のニック・ボトム(Nick Bottom)と言う事になる。ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の喜劇「A Midsummer Night's Dream(真夏の夜の夢)」妖精王オベロン(Oberon)と妻タイターニア(Titania)の喧嘩から始まる妖精の森でおきた珍事件。タイターニアとロバ頭は媚薬(びやく)のせいて恋に落ちたのである。画面では花嫁はそっけなさそうだが・・。ベールを付けた花嫁らしき女性は青い扇子を持っている。この頃シャガールが繰り返し使用していたモチーフらしい。娘イーダ(Ida)(1916年~1994年)の結婚式であった可能性は高い。そして花嫁はイーダ(Ida)の可能性が極めて高い。最初の結婚式がいつだったか不明であるが・・。花嫁は、度々現れるシャガールのファンタジーに登場する一つのアイコンになっていく。それにしてもシャガールの絵は素敵だ。シャガール自身が、自分は決して目覚めない夢想家だったと語っているが、かつての友人でありライバルでもあるパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)(1881年~1973年)はロシア人(シャガール)の光に対する感覚とイメージの独創性に驚嘆し、「彼の頭の中には天使がいるに違いない。」と言ったという。確かに非常に個性的で哲学を語る詩的なシャガールの絵はエコール・ド・パリの芸術家たちの中でも異質だったのかもしれない。それは誰もがうらやむ才能だ。フランスからの脱出 アメリカへ亡命ナチス・ドイツに進軍された所はどこもユダヤ人狩りをされた。自由を与えられたフランスでもナチスに支配されると状況は変わった。シャガール夫妻の欧州脱出1941年 ニューヨーク近代美術館の招聘(しょうへい)を受け、アメリカに向かう途中、南仏マルセイユでナチスに逮捕される。が、アメリカ領事らの尽力で釈放されシャガールは難民船でフランスを脱出。アメリカに亡命する事となった。実はシャガールの脱出には当時ニューヨーク近代美術館の館長だったアルフレッド・H・バー(Alfred H. Barr)が策を講じ、できるだけ早くビザが取得できるように、アメリカでのシャガールの個展開催を考案して招待状を送っていた。シャガール自身はユダヤ人であるだけでなく、ナチスによって「堕落した芸術家」という烙印が押されていたから収容所に送られる危険が十分考えられたからだ。※ 退廃芸術については「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で書いてます。リンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)資金はユダヤ系アメリカ人の団体やコレクターが払ったらしい。そして一旦逮捕されたもののシャガールと妻ベラはフランスからの脱出に成功するが、別便で送る予定だったシャガールの作品がスペイン税関に没収されてしまう。何より「芸術家の主な資産は絵画」である。絵画の取り戻しには娘イーダが向かった。娘夫婦の欧州脱出この時、南仏には一人娘イーダ(Ida)(1916年~1994年)と彼女の夫ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)が立ち往生していた。あまりにも事が早くすすみ過ぎて2人のチケットを用意する事ができなかったからだ。父の絵をスペイン税関から取り戻す為にスペインに向かうが夫のミシェルがスペイン国境で逮捕。イーダ(Ida)は二つのミッションを同時に処理し、父親の絵画を取り戻す事ができたが、難民船はすでになく、彼らは逃亡を計るユダヤ人の為の非常に高額な汽船のキップを買わざる終えなかったそうだ。価格は 600 ドル、現在の価格ではそれぞれ約 11,000 ドル相当。それでも親からもらっていたお金でチケットが購入できたのはラッキーだ。このお金が出せなくて、欧州にとどまり、強制収容所に送られて命を落とした者が何万もいる。またお金があっても、絵画を持ち出す事は困難を極めた。何しろイーダ(Ida)とミシェルの乗った船は本来定員15人の貨物船。そこに1180人の乗客と食用の牛が4 頭。絵画はデッキ上に置かれ彼らも40日間の航海をそこで過ごしたらしい。惨状はひどく、多くが航海中に亡くなったそうだ。余談であるが、大戦下、ユダヤ系アメリカ人で、グッゲンハイム一族の一人マルグリット・ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)(1898年~1979年)はドイツ占領前のパリで有力な芸術家の作品を買い集めていた。彼女は欧州から画家のキャンバスの持ち出しに成功している。また、イーダについてはこんな伝説もあるそうだ。アメリカの諜報員に父の絵を託し、その中の一枚を報酬として渡すと言うもの。諜報員コンラッド・ケレン(Konrad Kellen)は1950 年代に報酬の1枚を売却しているらしい。いずれにせよ、イーダの活躍でシャガールの絵はナチス支配下の欧州から持ち出す事ができた。そして当初予定? だった、ニューヨーク近代美術館でのシャガールの個展は開催できたと言う。何にしても親子は生きて再会できたわけで、それは非常にラッキーな事であったと思う。アメリカでは舞台美術に挑むアメリカ時代(1941年~1948年)の作品数17点 (内、個人蔵 8点、美術館 6点、不明3)ニューヨークの街はシャガールを魅了したようだ。マンハッタンでは小さな店のユダヤ人店主や職人たちとイディッシュ語で会話も楽しめた。ただ、ご時勢がら戦争やユダヤ人の逮捕や強制連行など、スタジオに戻るたびに進む戦況、同胞の殉教。戦争の悲劇には心を痛めていたらしい。だから1942年の春、新しい仕事のおかげで彼の気持ちを散らしてくれた。当時、Ballet Theatre of New York (現 the American Ballet Theatre)で、チャイコフスキーの音楽とプーシキンの詩「ジプシー」に因んだバレエ「アレコ」のメキシコシティでの公演の演出に携わっていた有名なロシアの振付師、レオニード・マシーヌ(Leonide Massine)(1896年~1979年)からシャガールに舞台の風景と衣装のデザインの依頼が来たのだ。※ レオニード・マシーヌはロシアのバレエ振付家でありダンサー。 世界初のシンフォニック バレエ「レ プレサージュ(Les Présages)」をはじめ、同様のバレエ作品を数多く創作。 プーシキンの崇拝者でもあるシャガールは、陰鬱な気を晴らしてくれるこのバレエの舞台演出の話を熱望したと言う。また、シャガールはバレエ劇場の一団としてメキシコにも同行。アメリカの舞台画家組合の管轄外で、自分のデザインで舞台の演出を手がける事ができた。彼はまた、アレコの為の衣装70着を装飾。その一部は妻のベラが縫ったとも言われている。バレエ Aleko(アレコ)初演はMexico City(メキシコ・シティー)1 か月後にニューヨークの Metropolitan Opera House(メトロポリタン オペラ ハウス)で開幕。制作 Ballet Theatre of New York (1942 年初演Mexico City)。振付 Léonide Massine(レオニード・マシーヌ)音楽 Pyotr Ilich Tchaikovsky(ピョートル・イリッチ・チャイコフスキー)Act 1 (1幕) Aleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)Act 2 (2幕) The Carnival (カーニヴァル)Act 3 (3幕) A Wheatfield on a Summer's Afternoon (ある夏の午後の麦畑)Act 4 (4幕) St. Petersburg illusion サンクトペテルブルクの幻想)幕のサイズ 9 m×15 m1942年 Act 1 Aleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)1942年 Act 2 The Carnival (カーニヴァル)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)1942年 Act 3 A Wheatfield on a Summer's Afternoon (ある夏の午後の麦畑)所蔵 Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館)Credit Line: 1986年 Leslie and Stanley Westreich(レスリー&スタンレイ・ウェストライヒ)からの寄贈部分 黄金色の麦畑の中からカマと動物 ちょっとした所にかわいさが。シャガールは「色だけで遊んで語りたい」と言ってたらしいが、配置されるアイテムが何かの象徴としてある。カマがある事で収穫時期の麦穂だとわかる。では逆さ白樺の意味は? 白樺(しらかば)は中央ロシアで最も広く分布する樹であり、ロシアの国樹らしい。たぶんメキシコに白樺の木など無いであろう。逆さなのはロシアを非難している。と言う意味かも。1942年 Act 4 St. Petersburg illusion (サンクトペテルブルクの幻想)所蔵 Aomori Museum of Art(青森県立美術館)最終幕フィナーレの幕がサンクト・ペテルブルグの幻想(Petersburg fantasy)真っ赤に染まった? 燃えている? サンクトペテルブルクの街並み。戦争と言う暗黒にアレクの狂気を重ねてる?このバレエはロシアの詩人であり作家であるアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Aleksandr Sergeyevich Pushkin)(1799年~1837年)の詩「ジプシー」とロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)(1840年~1893年)の音楽を基盤にしたもの。ロシアの偉大なる作家と音楽家の作品に競作できた事はシャガール自身がラッキーだったと思っていただろう。そしてこの中にシャガールなりのロシアに対する皮肉も込められているのですね。1943年 The Juggler(ジャグラー) 所蔵 Private collection1945年 Firebird Costume( 火の鳥のコスチューム ) Green Firebird Monster(緑の火の鳥のモンスター)火の鳥のコスチュームの原案でしょうが、The Juggler(ジャグラー)から啓発されている気がしますね。下はAleko and Zemphira by Moonlight (月光のアレコとゼンフィラ)をモチーフにした作品。1944年 Coq rouge dans la nuit(Red rooster in the night)(夜の赤い雄鶏)所蔵 不明やはり、1940年前後に現れる花嫁花婿は、ほぼほぼイーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)とその夫ミシェル・ゴーディ(Michel Gordey)(1913年~2005年)と思われる。そしてミシェルは金髪で、イーダは式の時に青い扇子を持っていたと思われる。確定だね。たぶんさて、ニュヨーク近代美術館での個展も成功し、以前からアメリカでのシャガールの評価は高かったがさらに上がる。でもこの後シャガールに悲劇が起こる。 つづくBack numberリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンス マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年06月30日
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訂正 1917年 Double portrait au verre de vin (ワイングラスを掲げる2人の肖像)の所蔵場所を間違って載せていました。正解はParis, Centre Pompidou(パリ、ポンピドゥーセンター)です。お待たせいたしました。困った時の芸術シリーズ。今回は画家シャガール(Chagall)にしましたが、知識が足りず、補うのにちょっと時間がかかりました。昔、友人の新居祝いにシャガール風の絵を描いてほしいと頼まれた事があって、その時シャガールがどんな絵を描いたていたか研究した事があった。確か、着ぐるみのような大きな羊と友人に見立てた白いドレスを着るスリムな女性をメインお置き、バックをシャガール・ブルー。背景に夜のヴィテブスク(Witebsk)の街並みとその上を浮遊する新婚(花嫁と花婿)。ユダヤ教で使われる燭台(メノーラー・menorah)。さらに羽の生えた魚などを書き加え、サイン代わりに絵を描いている自分の姿も小さく入れ込んだ。※ 今考えると、それらは後期シャガール作品のまねごとです。シャガール風を描く事は難しい事ではない。繰り返し現れてくる定番の彼のモチーフにはそれぞれ意味がある。まさに象徴を散りばめたと言えるそれらモチーフは例え脇役であっても「シャガールをしている」と言える存在感を持っている。当然、人生が長い彼の作品はある程度のカテゴリーに分けられる。多少傾向が変わろうとも、不思議とどの時代もシャガールと解る個性が見えるのだ。希(まれ)にエッと思う作品もあるが・・。またシャガールは色彩にもこだわりを持っていたから、明にしても、暗にしても、シャガール・カラーが存在する。それにしても不思議な絵。初期の作品こそキュビズムの影響が濃く見えるが、その中にもすでにファンタジー的要素が垣間見える。割と早くに自分スタイルを確立した? いや、割と初期の信念を保ちつつスタイルを確立したのかもしれない。最もそう考えると、彼は最初から売れる絵を描いていたと思う。今回ゼロから作品を見直して、無名時代の絵でさえ「買ってもいいな。」と思う素敵な絵を描いていたからだ。彼の育った街はモスクワに近い田舎の辺境地。決して明るいとは言えない環境の中で、彼の色彩感覚はどこから生まれたのだ? と言う疑問を持つほどずば抜けていた。ロシア・アヴァンギャルド (avant-garde)からは離脱し、シュールレアリストと呼ばれる事を嫌う。キュビズムもフォビズムもシュールも全て詰めて消化した? 唯一無二(ゆいいつむに)のスタイルなのだ。もともともっていたファンタジー要素が、さらにアップしてファンタジー調の幻想絵画を作りあげた。それが舞台デザインに生かされたのは当然だが、彼は宗教画の中にさえそれを持ち込んだ。旧約聖書のストーリーをファンタジー調に描いた作品がニースのシャガール美術館にある。ステンドグラスにもその世界観が表現された。明るくて、かわいくて、素敵な絵だから宗教画だと気づかない人もいるかもしれない。でも、彼の宗教画は見せかけの物ではない。たくさんのユダヤの同胞を先の大戦で失った。そのレイクエムも込められたユダヤ人賛歌でもある。マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)今回は何を載せるか迷いに迷い。シャガールに行き着きましたかなり昔にニースのシャガール美術館は行ってますが、絵のほとんどは他からかなり引っ張っています。彼の終焉の地、南フランスのサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)。その墓地の写真はオリジナルです。でも、シャガールは長生きだったから、作品は多すぎるし、何より彼は敬虔(けいけん)なるユダヤ教徒(Hasidic Jews)だったから中身が濃い。一朝一夕には終わらないのよね。やっぱり1回では無理だった。とにかく作品数が多いのです。版画類は別として、その作品数はざっと300を超える。半数は美術館などに収まり、残り半数はPrivate collectionとなっている。※ 版画類を入れたら恐ろしい数では? 商業用リトグラフなど大量に販売されていたからね。商業用絵はがきに関しては、作品のリストに入っていない物もある。作品の年代順のリストをベースに時系列の事象を加えてカテゴリー分けしながら考察してみました。要するに、初期作品から順番に作品を追って行ったのです。シャガールは第一次世界大戦、モスクワ革命、第二次世界大戦ではナチスを逃れてアメリカに亡命。戦争にはかなり翻弄され居場所を変えている。また私生活では2人の妻をめとっている。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)※ シャガール28歳で結婚。結婚生活(1915年~1944年)死別ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年) ※ シャガール60歳で再婚。結婚生活(1952年~1985年)戦後作品に出る花嫁は、ベラ(Bella)ではなく、ヴァヴァ(VaVa)?第二次世界大戦直前にどうも娘が結婚? 戦後作品の花嫁は娘をモデルとした? のも多々みられる。社会の激動期に運命に翻弄され続けたシャガール。置かれた環境からくる心境変化は、当然、作品に影響をもたらした。どうしてその作品が生まれたのか? と言う所から攻めたいと思います。内容は非常に濃いです。と、言うわけで2部作になりそうです。マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスシャガール終焉の地サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)戦後、南仏に移住した訳サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)ユダヤ人(Jews)、マルク・シャガール(Marc Chagall)アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティー画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚1914年~1922年 ロシア時代(Russia)故郷からの脱出1923年~1941年 フランス時代(France)パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる夢からインスピレーションシャガール終焉の地カンヌ、ニース、(モナコ)、マントンと南仏のコート・ダジュール(Cote d'Azur)は、風光明媚な上に地中海性気候でバカンスに最適。南仏の陽光を求めて画家らが集まった場所。そこは中世に造られた城壁に囲まれた小さなコミュニティー。サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)は芸術家がこぞって住み着いた村で有名な所。足の便は悪いがニースからほど近い丘陵地の上、中世来の城塞型の小さな村。当初は単にサン・ポール(Saint-Paul)。聖パウロから由来する名前だった。住み着いた芸術家らがサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)と呼び、それが2011年正式名称となった。おそらく暗黒の中世を経て、海賊対策の為に人々は村を城塞化したのではないか?と察する。「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中で中世の海賊事情を書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)を描いた作品1983年 Soleil dans le ciel de Saint-Paul(サンポールの空に浮かぶ太陽)所蔵 Private collectionoil on canvas(キャンバスに油性)シャガールが抱いて飛んでいる相手はサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)で一緒に暮らしていた2番目の妻ヴァヴァ(VaVa)。※ マルク・シャガール(Marc Chagall)(1887年~1985年)晩年も晩年。作品としてはラストに近い。この2年後にこの地で亡くなっているから95歳時の作品ですね。14世紀のヴァンス(Vence)の門まさに中世を感じる建造物。ちょっと異次元かもしれない。20世紀に入ると俳優、詩人、作家らが寄り集まってきたと言う。それ故か? 画廊が多い。戦後、南仏に移住した訳マルク・シャガール(Marc Chagall)は1944年に、亡命先のアメリカで最初の最愛の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)を失う。戦後、1947年にパリへ戻ったシャガールは、フランス国籍を取得して1950年頃から南仏に移住。当初はやはりニースから近い鷲の巣村ヴァンス(Vence)で当時人気の陶芸を始めたらしい。ピカソらと陶芸教室に通っている。1951年には彫刻も始めている。 1952年、65歳でシャガールは再婚する。やはりユダヤ人であるヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)(1905年~1993年)である。式はパリで挙げ、結婚生活(1952年~1985年)は彼が亡くなるまで続いた。1966年、シャガールは「聖書のメツセージ(the biblical message」と言う連作を描きフランス国家に寄贈。それらを飾るべく当時の文化大臣アンドレ・マルロー(André Malraux)は美術館建設を進めた。※ アンドレ・マルロー(André Malraux)(1901年~1976年)・・シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)政権下で文化大臣をしていた彼は元は作家であり冒険家。非常にアクティブな経歴を持つ。パリ・オペラ座の天井画をシャガールに依頼したのも彼。※ シャガールの作品を展示するための国立美術館の建設。その中でニース市が土地を提供するかたちで、1973年「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館(musée national du message biblique Marc-Chagall)」が開館。シャガール86歳の誕生日OPEN。1966年、居をニースに近いサン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)に移したのは美術館建設の事もあったのかもしれない。美術館の庭園や作品配置をシャガール自身が指示しているから。※ サン・ポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul de Vence)には20年近く居たことになる。※ 美術館は次回。ところで、シャガールが初めて舞台美術に取り組んだのは 1914 年ロシアに居た時であるが、以降、シャガールの芸術活動の幅は広くなって行く。壁画や舞台デザイン、1945 年には、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のセットと衣装のデザインもしている。パリ、オペラ座の天井画、NYでは壁画、イスラエルの国会議事堂の為のタペストリーもデザイン。また、ステンド グラスのデザインは彼が 70 歳近くになってから。1956 年、アッシー(Assy)の教会の窓。1958 年~1960 年、メッツ大聖堂(Metz Cathedral)の窓。1960 年、エルサレム、ヘブライ大学(Hebrew University)シナゴーグ(synagogue・礼拝所)のステンド グラスの窓。1978年、ドイツ、マインツの聖シュテファン教会(St Stephan's church)の窓。大物教会からの依頼でステンドグラス制作も増えて行く。最後の作品は、シカゴ・リハビリテーション研究所から依頼のタペストリー。原画を元にタペストリーの色の打ち合わせを自宅でしていたその夜に亡くなったそうだ。享年97歳。その亡骸はサン・ポール・ド・ヴァンスにある他民族墓地に埋葬された。サン・ポール・ド・ヴァンス地図墓地は城壁の外。地中海側にある。下はニース門。サン ポール ド ヴァンス墓地(Saint Paul de Vence Cemetery)遠くに見えているのが地中海。陽の当たる良い墓地です。ただ、シャガールの墓はこの写真から見切れた右の方にある。マルク・シャガール(Marc Chagall)のお墓逆光なのでどの写真も暗い。かなり明るくしています。最近は墓の上に小石を乗せているらしいが昔は無い。誰かが撮影用にアップしたまま残ったのか?それにしても芸術家なのにシンプルな墓。と、思ったがユダヤ人一般的な墓のよう。この墓地には彼の妻の他、妻の弟も眠っている。3人で入るとは、シャガールも想定外だったかも。墓碑名マルク・シャガール Marc Chagall (1887年~1985年)ヴァヴァ・シャガール VaVa Chagall (1905年~1993年) ※ 2度目の妻、ヴァランティーヌ・ブロツキー(Valentina Brodsky)ミッシェル・ブロツキー Michel Brodsky (1913年~1997年) ※ ヴァヴァの弟。シャガールの出身地は現在のベラルーシ共和国の田舎街、ヴィテプスク(Vitebsk)。そこはユダヤ人コミュニティーの街だった。※ ロシア語、ポーランド語でヴィテプスク(Vitebsk)※ ベラルーシ語でヴィーツェプスク(Ві́цебск)最初の、最愛の妻ベラも同郷である。ベラルーシは現在ロシアともめているウクライナのすぐ上。彼は生涯にわたり、自身のルーツ。故郷ヴイテプスク(Vitebsk)の街や動物、また思い出をモティーフにし続けた。でもそれは単なる郷愁(きょうしゅう)ではない。第二次世界大戦下でのナチスによるユダヤ人迫害。故郷の滅亡。シャガールがユダヤ人であったから、生き残った彼には使命があったのかもしれない。生涯作品を通して見えるのはユダヤ人としての信仰心だ。アシュケナジム(Ashkenazim)とセファルディム(Sephardim)国と言う定住地を持たないユダヤ人であるが、彼らの結束は強く、地域の中で固まって社会(コミュニティー)を形成していた。※定住地を持たないのではなく、過去の歴史の中でカナンの地を追われたからである。アブラハムから約束されたカナン(イスラエル)を追われ、ユダヤ民族は世界に離散した。※ その辺の話は以下に書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)ドイツ語圏や東欧諸国などに流れて定住したユダヤ人がアシュケナジム(Ashkenazim)。スペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに15世紀前後に定住した人がセファルディム(Sephardim)と呼ばれるそうだ。今日のユダヤ社会の二大勢力だという。ユダヤ人はどこに住もうとユダヤ民族として結束している。イディシュ語(Yiddish)を話すユダヤ・コミュニティーマルク・シャガール(Marc Chagall)はユダヤ系リトアニア人として生まれた。その故郷ヴィテプスク(Vitebsk)には人口65000人の半分以上をユダヤ人が占める街だった。つまり、シャガルール自身は東欧系ユダヤ人であるから、前者のアシュケナジム(Ashkenazim)に入る。彼らの村単位? 小規模ユダヤ人のコミュニティーがイディッシュ語の文化を保持したシュテットル(shtetl)を形成していた。※ シュテットル(shtetl)はイディシュ語(Yiddish)を話す人々によって形成された東欧の小規模のユダヤのコミュニティーを指す。イディシュ語(Yiddish)は単語構造はドイツ語に似ているが、ヘブライ語とアラム語の文字を使う、混合スラブ系言語。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語に分類。※ 言語の8割以上が標準ドイツ語に共通。つまり、シャガールはイディシュ語(Yiddish)を話す東欧のユダヤ人コミュニティーの出身者なのである。ユダヤ教徒の人々は特にいろんな制限が課せられている。だからシャガールがユダヤ人であったと言う事実は、彼の作品を理解する上で重要な事なのである。しばしば、「ヴィテブスク特有の風土や文化はシャガールの精神形成に影響している。」と書かれているが、彼の宗教的バックボーンを考えれば当然だ。むしろ「宗教が文化を支配し、風土を作った。」シャガールも「その宗教により形成された。」と、言って過言でない。1908年 Apothecary in Vitebsk(ヴィテプスクの薬局)所蔵 Private collectionシャガールの故郷ヴイテプスク(Vitebsk)。作品は上下ともに1908年。描き出して初期。1908年 A House in Liozna(リオズナの家)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ リストにはprivate collectionとなっていたが、トレチャコフ美術館のリストに現在ある。リオズナ(Liozna)の家は、ベラルーシ(Belarus)のヴイテプスク(Vitebsk)近郊にあるらしい。家が踊っているような、ちょっとポップにさえ見える描き方。初期から味のある絵を描いてる。画家としての成功と同郷のベラ(Bella)との結婚結婚相手も同じイディシュ語(Yiddish)を話す相手(ユダヤ・コミュニティー)をから選んだ。選択の余地なく、最初からユダヤ人以外は考えられない事。最初の妻ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld) (1895年~1944年)との出会いは1909年、サンクトペテルブルクであるが、同郷だったから? 好きになる事に躊躇(ちゅうちょ)はなかったはずだ。ただ、同郷でもベラ(Bella)の家は宝石商で裕福。貧乏なシャガールは娘の結婚相手にはふさわしくなかった。二人が結婚できた(1915年)のはシャガール(1887年~1985年)が頑張って、画家として早くに認められ、収入を得られるようになったからだ。その異例の速さでの出世は彼の努力のたまものだ。1910年、23歳。ジャガールはパリに出て画学生となる。言葉も通じず、お金も無い。人生で最も孤独の時だったらしい。だから? 特にこの時期は恋人ベラ(Bella)や故郷への郷愁が現れたのかもしれない。1911年 The Green Donkey (緑のロバ)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)1911年 To My Betrothed(私の婚約者へ) 紙にガッシュ、水彩所蔵 Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館)色々模索していた時代ですね。1911年~1912年 The Drunkard(酔っぱらい)所蔵 Private collection1911年~1912年 The Holy Coachman(聖なる御者) 所蔵 Private collection当時のパリはアヴァンギャルド(avant-garde)の中心地。シャガールがパリに初めて来た時、美術界ではキュビスム(Cubism)がトレンドであったそうだ。フォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の技術を吸収した後、シャガールは自身の民俗的スタイルを融合させた?下の絵はフォヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)両方が感じられる。1911年、I and the Village(私と村) キャンバスに油彩所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)舞台はシャガールの故郷であるヴイテブスク。ここでは、農民と動物はお互いに助け合って生活をしていた? らしい。動物らも大切にされていたのだろう。全体に愛を感じる絵ですが・・。ところで、シャガールは幼い頃から円、三角形、四角、線といった幾何図像が好きだったらしい。パリでキュビスムを見て、幼少の頃を思い出したと言う。絵の中にはヴイテブスクの街だけでなく、全体に大きく太陽や月がある。中央に描かれた植物は「生命の樹(Tree of Life)」である。つまり、この絵は宇宙をも表しているのである。生命の樹(Tree of Life)」とは、旧約聖書「創世記3章」に記されている永遠の命が得られる木の実が付く樹。カバラ(Kabbalah)ではセフィロトの木(Sephirothic tree)とも呼ばれセフィロトは世界を象徴する概念とされる。因みに、アダムとエバはエデンの園で「知恵の樹の実」を食べた。「生命の樹の実」までも食べないようエデンから追放されたらしい。「知恵の樹の実」泥棒だけでも人類子々孫々の原罪を背負ったが・・。そんな訳で、I and the Village(私と村)は、見て「かわいい絵」だけでなくユダヤ教徒の宇宙観も示されていたようだ。1913年 The Soldier drinks(酒を飲む兵士)所蔵 New York, Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)ソフトなキュビスム(Cubism)ですね。何よりユーモアがある。1913年、Self Portrait with Seven Fingers(7本指の自画像)所蔵 Stedelijk Museum Amsterdam(アムステルダム市立美術館)窓の外にはエッフェル塔が見えるからここはパリの一室。絵を描く画家はシャガールのポートレートそっくり。間違いなく自画像である。また、タイトルにあるよう左手だけ7本。数字の7は、ユダヤ教では創造の意味を持つ神秘的な数。象徴として示したのだろう。フォーヴィスム(Fauvisme)とキュビスム(Cubism)の融合など実験しながら、でもカラーもきれいでファンタジー要素のある彼の絵は確かに詩的と言えば詩的。当初、シャガールの絵は画家らには相手にされなかったが、詩人からの評判は良かったらしい。この発色はフォビスムから? 敢えて、売れる絵を心がけていたのかもしれない。ほとんど眠らずパリの誘惑にも負けず、ひたすら絵を描いていたらしい。彼はとにかく早く認められたかったのだろう。ベラ(Bella)を迎えに行く為に。この辺りが、ベルリン(Berlin)の個展に持ち込んだ絵と思われる。1914年、ベルリンの有名画商から個展を打診されシャガールは40枚ものキャンバスやガッシュ水彩、ドローイングを持ち運んでドイツでの個展に臨む。個展はベルリン(Berlin)のシュトゥルムギャラリー(Galerie Der Sturm)で開催し、大成功。ドイツの批評家らはシャガールを絶賛したと言う。1915年 Birthday(誕生日) 厚紙に油性所蔵 New York, Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館)シャガールの誕生日に花を届けるベラと浮遊するのはシャガール自身。幸せすぎて「浮かれてるなー」と言う絵ですね。1916年 Pink Lovers(ピンクの恋人たち) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1914年~1922年 ロシア時代(Russia)ドイツにはベラ(Bella)も呼び寄せていたが、二人は結婚式の為にヴィテブスク(Witebsk)に戻る。画家の仲間入りも果たしたし、お金も入り生計のメドも付いた。ところが、第一次世界大戦(1914年~1918年)の影響で無期限にロシア国境線が封鎖。パリには戻れなくなった。1917年10月、ロシア革命 (Russian Revolution)勃発。※ 戦争が長引いたことにより革命が勃発。4つの帝国(ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国)が崩壊する。不本意ながら? でも幸せな結婚生活がサンクトペテルブルクでスタートする。シャガール28歳。ベラ(Bella)20歳。ベラとの結婚生活(1915年~1944年)はベラが亡くなるまで続いた。※ 1915年、結婚した同年に母が病死。※ 1916年、1人娘誕生。イーダ・シャガール(Ida Chagall)(1916年~1994年)1916年 Bella and Ida by the Window(窓辺のベラとイダ) キャンバスに油彩所蔵 Private collection1917年~1918年 The Promenade(プロムナード・散歩)所蔵 Saint Petersburg, Russian Museum(サンクトペテルブルク、ロシア美術館)1917年 Double portrait au verre de vin (ワイングラスを掲げる2人の肖像) キャンバスに油彩所蔵 Paris, Centre Pompidou(パリ、ポンピドゥーセンター)喜びに満ち溢れた二人。頭上には天使? いや、シャガールの娘イーダかな?それにしても、この頃はアクロバティックな構図が好み? キュビズムだからか? 好きなサーカスからヒントを得ているのかな?1918年 On the city(街の上で)所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)となっているが、トレチャコフ美術館の方に掲載されていないので、現在は無いのかも。ではどこに?故郷ヴィテブスク(Witebsk)の上を浮遊するシャガールとベラ。実際なのかもしれないが、ヴィテブスク(Witebsk)の閉鎖感が鮮明。この絵はシャガールがベラを連れて街を脱しようとしているようにも見える。故郷からの脱出1918年、故郷ヴィテブスク(Witebsk)に創立予定の美術大学にロシアで最も重要な前衛芸術家たちが招集され、その中にシャガールもいた。しかし、そこではマレーヴィチ(Malevich)(1879年~1935年)のような抽象画が好まれ、シャガールの作品は「ブルジョア個人主義的」と非難される。シャガールは学校を退職して故郷ヴィテブスクを去った。1920年、モスクワへ移住。恐らく国境線の封鎖で出られ無かったのだろう。因みに、ロシア・アヴァンギャルドの一翼を担ったマレーヴィチ(Malevich)であるが、スターリン政権下のソ連で美術の保守化が始まり、前衛芸術運動は否定どころか弾圧。マレーヴィチは自分の志した絵を描けずに政治に翻弄されて一生を終えている。シャガールは早くに脱出して正解だった。1918年 Apparition(出現)所蔵 Private collection学校で講師をしていた頃のシャガール作品。シャガールとしてはずいぶん攻めていると思うが、マレーヴィチ(Malevich)の作品が異次元に行っちゃってるからね。1923年~1941年 フランス時代(France)1922年、リトアニアへ移り、その後ベルリンを経由して1923年にパリへ戻っている。脱出成功? これをパリへの亡命と見るべきか?1921年~1922年の作品がリストに無い。1923年代も本の挿絵のような素描が十数点モスクワ、トレチャコフ美術館に所蔵されている。ベルリンに寄ったのは、かつて預けておいた自分の絵を取り戻しに行ったから。だが、絵は無かった。それ故、シャガールの初期作品の多くは紛失状態となったそうだ。いくつかは記憶をたより描いているようだが・・。ところで、シャガールは度々バイオリニストの絵を描いている。左 1920年 Music所蔵 Moscow. The State Tretyakov Gallery(モスクワ、トレチャコフ美術館)※ ここには黒い顔のも存在する。右 1923年 Green Violinist所蔵 NY. Solomon R. Guggenheim Museum(ニューヨーク. ソロモン・R・グッゲンハイム美術館)絵は、シャガールの故郷ヴィテブスク(Witebsk)の街。左の1920年 Musicのカラーが気になる。絵の具の科学変化で発色が飛んだのかな? 故郷でのユダヤの冠婚葬祭で音楽は必須。でも楽器と言えばバイオリンしかなかった? シャガール自身もバイオリンが弾けたらしいが、なぜバイオリニストの絵を繰り返し描くのか? と言う点で気になる絵です。パリで画商と契約、挿絵の為の銅販画をはじめる1923年、パリに戻ると美術商アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)と契約。小説や聖書のイラストの仕事を請け負う。その為に銅販画の勉強も始め。結果的にそれが彼の版画の才能も開花させた。シャガールが偉かったのは、仕事を選ばなかった事だ。芸術家はこだわりが多くて融通が利かない人が多いからね。ところで、このアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)(1866年~1939年)は、19~20世紀のフランスでもっとも重要だった美術商の一人。彼は法学出身で画商に転向した異色の人。1908年 ルノワールによるAmbroise Vollardの肖像画家 Pierre-Auguste Renoir (1841年~1919年)所蔵 The Courtauld Institute of Art(コートールド美術館)最初にエドゥアール・マネの大きな個展を開催。ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホの展覧会も矢継ぎ早に開催。他にも彼に援助受けたのは、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ルオー、アリスティード・マイヨールらの名があがっている。彼の援助があって世に出られた芸術家は多いと言う事だ。彼に先見の明があった? いや、常にリスクと隣合わせだったらしい。ドガやピカソはヴォラールが無名な画家から安く作品を買い、名を押し上げてから高く売ってもうけている。と嫌っていたらしいが、まあ、画商とは、そもそもそう言うものだけどね。夢からインスピレーション1924年~1925年 The Vision(幻視)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)Etching, aquatint, gouache and pastel on paper1918年の「Apparition(出現) 」と構図は全く一緒ですね。シャガールは 1923 年にパリに移った後、ロシアで制作した多くの作品の新しいバージョンを描きなおしているそうだ。Visionでは、若い画家の所に天使が出現。何かお告げ?天使もまた彼の作品に多く使われるアイテムであるが、天使はシャガールを未知の世界に導いてくれる使いのようだ。どうもシャガールは、しばしば夢からインスピレーションを得て描いていたらしい。ある時、シャガールは気付いた。絵が「私にとって、別の世界に向かって飛んでいける窓のように見えた」それはつまり、自分の創造する絵の中に自ら入り込み、逃避する事ができると・・。1929年 Time – the river without banks(時間 – 堤防のない川) 所蔵 Madrid, Thyssen-Bornemisza Museum(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)川に沿って浮かぶ振り子時計と巨大な翼を持つ魚がバイオリンを弾いているシュールな絵。翼の生えた魚はシャガールで、この絵は彼の人生(時計)を象徴的に描いたものらしい。魚は飛行しながらタイミングを計っているようです。1929年 The Rooster(雄鶏)所蔵 Madrid. Thyssen-Bornemisza(マドリッド、ティッセン・ボルネミッサ美術館)1929年 Fruits and Flowers(果物と花) 所蔵 Private collection果物とか花とかの静物は家に飾るアイテムとして喜ばれるモチーフ。注文があって描いたのか?背景には恋人と動物? シャガールらしさがここにある。実際、1930年代のパリでの生活の中で、画家は花の静物画をたくさん描いていたらしい。1932年 Bride with Blue Face(青い顔の花嫁)所蔵 Private collection1934年~1947年 Bouquet with Flying Lovers(空飛ぶ恋人たちの花束)所蔵 London, Tate Modern(ロンドン、テート・モダン)先に触れたよう、花の静物画を描いていた1930年代に最初の構想が生まれたらしい。この絵は、間隔をあけて制作し、最終段階で事情が変わったらしい。一見、幸福そうなほほえましい絵。豪華に活けられた花瓶の花。生活が垣間見える椅子。後方で男が女性を部屋に招き入れているようにも見える。幸福そうな二人?でも、実は完成直前にシャガールは最愛の妻を失っていたそうだ。だからこの絵は「画家の喪失感と郷愁」を表す作品になったらしい。ベラ・ローゼンフェルト(Bella Rosenfeld)は、1944年亡命先のアメリカで病死している。この絵の完成は1947年パリに戻ってからかもしれない。妻へのレクイエムでもあるんですね。せめて第二次世界大戦まで進みたかったですが、終わりませんでした。シャガールは非常に長生きです。まだ彼の人生は50年以上残っています。ユダヤ人である彼の試練。そして転換点が第二次世界大戦となるのは周知の事実です。次回はアメリカに亡命するあたりからですね。疲れたので、今回はここで終わります。遅れて申し訳ありませんでしたが、これでも相当ガンバリました。 m(。-_-。)m Back number マルク・シャガール(Marc Chagall) 1 サン・ポール・ド・ヴァンスリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールリンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 3 戦後編「聖書の言葉」
2023年05月30日
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今回は、パナマ地峡を開拓して大西洋と太平洋をつないだ航路、パナマ運河の紹介です。パナマ地峡の通過は経済的に非常に活気的な事です。2019年11月にパナマ運河クルーズの船に乗った友人の写真を提供してもらいました。航海写真に加え、各種資料を送付いたたぎ、かつ何度も電話で応対いただき感謝しています。m(_ _)m写真、たくさん載せています。さて、前回、「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」の中で「サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」ですでに書いていますが、1537年、「スブリミス・デウス(Sublimis Deu)」の公布をもって、1493年公布の「インテル・カエテラ(Inter caetera)」で決められた教皇子午線は無効となった。つまり、「東方面がポルトガルの領地」、「西方面がスペインの領地」と言う教皇裁定は1537年に事実上消滅し、以降、スペインとポルトガルの国以外の欧州各国が早い者勝ちにアメリカ大陸やアジアを植民地にする事が可能になったのである。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図欧州からアメリカへ、アジアへ、各国の船が向かった。航海の利便性の向上は重要案件である。造船、航海術に加え、特に寄港地の問題があるので航路は特に個性が出たかもしれない。いかに最短のコースをとれるか? 各国の航海士らの航路の開拓は進んだはずだ。当然潮流の問題があるから直線での航海は不可能。途中に自国の補給や整備の為の船舶寄港地が持てるか?あるいはどこかの港を定期便に利用できるか?英国は北海航路やロシア航路も試して失敗している。やはり前回触れたが、マゼラン隊が太平洋(東→西)を初横断してから(西→東)の太平洋航路が発見されるまでに40年を要した。それは帆船ならではの問題であった。1565年のスペインによる太平洋横断航路「マニラ←→アカプルコ航路」の発見はアジアと新大陸をつなぐ合理的な航海路となり定期便となった。が、アカプルコは太平洋側。その後、いかに大陸を越え大西洋に荷を運んだのか? 南米を回るには距離がありすぎる。スペインはパナマ地峡をラバに荷積みして大西洋岸に運び、そこで再び船に荷積みして本国に輸送していたそうだ。余談だが、パナマ地峡を陸路行くスペインのラバ隊を襲って金銀を強奪していたのがフランシス・ドレイク(Sir Francis Drake)(1543年頃~1596年)である。奴隷商人だったドレイクは港の利権問題から生じた恨みから? スペインを敢えて狙って金品を強奪。何しろカリブ海は最初に発見したスペインが大きく権利を持っていたし、港のほとんどはスペインが建設していた(スペインの領有)と思われる。※ カリブ海域はコロンブスが発見してからドレイクが現れるまで、すでに50年はスペインの統治下にあった。ドレイクはフランスの盗賊と協力して太平洋岸のパナマから大西洋岸のノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios)に金銀を運ぶスペインのラバ隊を襲撃しては大量の財宝を奪い、自分の船に載せて英国に逃げ帰っていたから、海賊ドレイクと呼ばれるようになった。しかし、陸路を襲っていたのに海賊?? 海から現れ襲って来る部外者の盗賊はすべて海賊だったのかも・・。そもそもスペインの商船には艦隊の護衛船が付いていた。しかもスペインの無敵艦隊と恐れられていた最先端の護衛艦を振り切って海上で強奪できたとは思えない。実際、ドレイクは小さな港湾を奇襲して盗賊しているほうが多い。そんなドレイクの成功にあやかり、英国からの海賊が増えたと言うのもこの時代だ。つまりスペインが支配していたカリブ海域での海賊の出没。ほぼ英国からの出稼ぎだったのかもしれない。戦利品は全て本国(英国)に運んで換金していたと思われるからだ。英国にとってドレイクは宿敵スペインを打ちのめすヒーロー。金銀を強奪して来る盗人でも自国の利益になる。「サー(Sir)」の称号までもらっているし・・。実際、敵国の足を引っ張る為には何をしても合法と考えられていた時代らしい。話がそれたが、スペインにとってパナマ地峡の問題は、当然、その発見当初からあった。結局、彼らの夢がかない、16世紀からの悲願だった「パナマ運河」が完成するのは近年の事。10年の歳月をかけて1914年に開通した。でも、建設したのはスペインではないのです。アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)パナマ運河とパナマ地峡問題パナマ地峡はなぜこんな不思議な地形をしているのか?パナマックス(Panamax)と複数の閘門(こうもん)パナマ運河建設の歴史パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)フランスによるパナマ運河建設アメリカによるパナマ運河建設返還されてからの値上げ問題パナマ運河(Panama Canal)ココリ閘門(Cocoli locks)ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)船の牽引(けんいん)するラバ(mule)運河の通行時間と制限世界最大の人造湖、ガトゥン湖(Gatun Lake)ガトゥン閘門(Gatun Locks)アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)今回はセレブリティクルーズ社のミレニアムクラスの船。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)でのカリブ海とパナマ運河のクルーズから写真を持ってきています。COVID-19 のパンデミックが始まる前年(2019年11月)に乗船した友人から提供された写真です。サンディエゴ発 → マイアミ着 15泊16日 コース下はカリフォルニア州サンディェゴ港から出港する直前の写真です。写真上下 カリフォルニア(California)のサンディエゴ湾(San Diego Bay)に停泊中の豪華客船セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)。2000年6月にフランスで造船され進水。就航2001年。このセレブリティ インフィニティでのパナマ・クルーズはサンディェゴ発とマイアミ発があります。サンディェゴ発の時は太平洋からパナマ運河を通行し大西洋に。マイアミ発の時は大西洋からパナマ運河を通行し太平洋岸に出るコースとなっています。全長 294m。全幅 32m。91000トン。乗客定員 2158~2184名。乗務員 1022~1027名。客室数 1079~1092室(ベランダ付き52~58%)写真下 コロンビア(Colombia)のカルタヘナ(Cartagena)に停泊中のセレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)全景。カリフォルニア(California) サンディエゴ港(Port of San Diego)セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)乗船のゲートサンディエゴ港では下が荷積みで使われていたから? ゲートは高い位置。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)のサンライズ・デッキからのリゾート・デッキサンライズ・デッキから船首からのサンディエゴのビル群サンライズ・デッキからの船尾方面サンディェゴ港 夕刻に出航カリフォルニア→ メキシコ→ グアテマラ→ コスタリカ→ パナマ→ コロンビア→ マイアミ太平洋岸からクルージングして南下してパナマ運河を通過し、大西洋側ではカリブ海をクルーズしてフロリダ州マイアミで下船。メキシコ カボ・サンルーカス (Cabo San Lucas)メキシコのバハ・カリフォルニア半島南端の岬にある市。クルーズ船は早朝に港に到着。だからまだ薄暗い。メキシコ(Mexicanos) カポ・サン・ルーカス(Cabo San Lucas)ではテンダーボート(tender)で上陸クルーズ客船のテンダーボートは緊急時の救命ボートとしても使用されるので救命艇兼用である。その場合、気象条件の悪い中での使用もあるからは安定性が高く傾き(heeling)が小さい双胴船設計(catamaran)が好まれるらしい。この船もそうですね。※ 双胴船(catamaran)のルーツを紹介しています。リンク 双胴型ヨット カタマラン(Catamaran)メキシコ(Mexico) プエルト バジャルタ(Puerto Vallarta)港 グアテマラ(Guatemala) プエルト・ケツアル(Puerto Quetzal)港コスタリカ(Costa Rica) プンタ・レナス (Puntarenas)港歓迎のダンスパナマ共和国(Republic of Panama) パナマ港(panama port)アメリカ橋(Bridge of the Americas)をくぐって早朝に湾内に。南北アメリカ大陸を結ぶ唯一の橋。この橋は以前紹介したパンアメリカンハイウェイ(Pan-American Highway)の一部でもある。※ パンアメリカンハイウェイについては「新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)」の中で説明。リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)全長1654m、アーチ部の径間は344m。海面からアーチのトップまでの高さ117m。裄下は干潮時で61.3m。橋の幅は10.4mパナマ運河通行の船舶の高さ制限は、アメリカ橋を通過できるか? である。事前承認を得れば、干潮時に限り、最大高62.5mまでの船舶の通航は可能らしい。湾内はコンテナ船のコンテナを積み卸す為の、ガントリー・クレーン (gantry crane)が並ぶMSC(Mediterranean Shipping Company S.A.)はスイスのジュネーヴに拠点を置く世界有数の海運会社。まもなく運河に入る分岐点前方左にはココリ閘門(Cocoli locks)前方右にミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)パナマ運河とパナマ地峡問題パナマ地峡は南北アメリカ大陸を結ぶ細いS字形をした長さ約650km、最小幅50kmの特殊な地形。下はパナマ共和国(Republic of Panama)の位置。ズーム コスタリカとコロンビアに挟まれたつなぎ目の地上下の赤の点が運河の位置。表記したガトゥン湖(Gatun Lake)はパナマ運河構築の為にチャグレス川(Chagres River)を堰(せ)き止めて1907年~1913年に造られたダム湖である。それは世界最大の人造湖でもあるらしい。パナマ地峡はなぜこんな不思議な地形をしているのか?実は6500万年前(白亜紀末)、南北アメリカ大陸はまだ別々の大陸だった。正確にいつ合体したかまで分からなかったが、4500万年程前にインド亜大陸が北上してユーラシア大陸に衝突。ヒマラヤ山脈を形成した頃には南北アメリカ大陸も合体していたようだ。だから地峡は押しつぶされるように繋がったからS字形になったのかもしれない。※ 地球の大陸移動の話は以前書いています。リンク ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動パナマックス(Panamax)と複数の閘門(こうもん)パナマ運河ができたのは、あくまで、大西洋と太平洋間の船での航路をつなぐ為。物流の合理性の為にできたのです。よく、太平洋の高さと大西洋の高さは異なるといいますが。決して両洋の水位が違うからパナマ運河で水位調整している訳ではありません。潮の干満差は太平洋側で±3.2m以上、大西洋側で60cmの変動があるらしいですし、確かに太平洋側の平均水位はカリブ海側より24cm高いらしいが・・。実はパナマ運河を開削する為に地峡の真ん中に造られたガトゥン湖の海抜は26m。つまり太平洋から大西洋に出るには海抜26mの湖を持つ山を越えるという現実があるからです。それ故、一度上り、降りる工程が存在する。だから全長80kmのパナマ運河には水位の異なる水面の調整をする為の Lock gate (閘門・こうもん)が数か所、存在するのです。下は地峡の運河の断面図左:太平洋 ← パナマ地峡 → 右:カリブ海(大西洋)パナマックス(Panamax)・・パナマ運河を通過できる船舶の最大上限。従来のLock gateでのパナマックス(Panamax)全長:294.1m、全幅:32.3m、喫水:12m、最大高:57.91m以下2016年6月完成した「第三閘門」のネオ・パナマックス(Neo Panamax)※ ココリ閘門(Cocoli locks)とアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)最大全長:366m、全幅:49m、喫水:15.2m従来のLock gateでのコース(上図では左から)↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)↓↑ ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)↓↑ ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑ ガトゥン閘門(Gatun Locks)↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)2016年6月26日の拡張工事完成後の超大型船舶用Lock gate ↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ココリ閘門(Cocoli locks)↓↑ 進入航路↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)↓↑ 進入航路↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)パナマ市は太平洋側。ピンクのラインが運河航行の船のルート。赤い円は閘門(こうもん・ locks)の位置。パナマ運河建設の歴史先に触れたが、スペインは、その発見当初(16世紀)からパナマ地峡の横断を探っていた。なぜなら大西洋から太平洋に出るには南アメリカ南端パタゴニア(Patagonia)の海峡(マゼラン海峡)を回り込む必要があったから。でも、それはあまりに距離があり日数もハンパ無い。パナマ地峡の最狭部は64km。とは言え簡単ではない。冒頭触れたが、スペインはインカ帝国から集めた金をラバに積み、パナマ地峡を越えていたらしい。パナマ地峡を船舶が横断できるようになり、13000kmが短縮できたらしい。※ 前回「マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図」のラスト「南米最南パタゴニア、マゼラン海峡」で地図なども紹介。リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)パナマ地峡の横断は船ではなく、鉄道から始まった。パナマ市とコロン市を結ぶ全長77kmの鉄道。パナマ地峡鉄道(Panama Canal Railway)が1855年に開業している。この鉄道は1849年に始まった北米のゴールドラッシュ(Gold rush)も影響し、太平洋岸に出たい労働者が多いに利用したらしい。それまでカリフォルニアに金の採掘に向かう者はロッキー山脈を駅馬車で越えていたらしいが、割高ではあるが、パナマからの鉄道と船舶(蒸気汽船)の方が安全に加え、時間が短縮できたそうだ。早く行って掘った方がいいからね尚、この鉄道は運河ができた後もすたれる事はなかった。当初の運河には船舶の制限があり通行できない船の荷は鉄道に乗せ換えて運搬もされていたらしい。フランスによるパナマ運河建設1869年11月、スエズ運河(Suez Canal)が開通していた。※ スエズ運河(Suez Canal)はアラビア半島の紅海(Red Sea)と地中海(mediterranean sea)をつないだ運河です。アフリカ大陸を回り込まずにインド洋から欧州(地中海)に出られるスエズ運河も活気的な運河建設でした。このスエズ運河の建設をしたのがフランスの外交官であったフェルディナン・ド・レセップス(Ferdinand de Lesseps)(1805年~1894年)。1880年、フェルディナン・ド・レセップスは今度はパナマ運河会社 (Panama Canal Company) を立ち上げパナマ運河の建築に着手するのである。しかし難工事が続く。黄熱病の発生や財政難にもなり工事は中断された。1888年、宝くじ付き債券を発行し資金を集めたらしいが、結局、翌年1889年に会社は経営破綻。※ 最終的に債権は紙切れとなった。工事の続行を政府が願い、運河会社の清算と新会社設立を進めるも、フランスは続行できず、20世紀に入ってアメリカに売却された。アメリカによるパナマ運河建設フランスの会社の破綻からアメリカに仕事が渡ると建設場所から計画は見直される。当初、2つのルート候補があったらしい。1.パナマルート(panama route)2.ニカラグアルート(nicaragua route)双方湖を利用するものであったが、この頃、カリブ海で大規模な火山爆発が起こった事から火山のあるニカラグアルートは候補からはずされ、1902年、パナマルートに決まった。パナマ運河は10年の歳月をかけ1914年に開通。ところで、パナマ地峡の自治権は当初、コロンビアが持っていたが、アメリカは地政学的重要性から運河の管轄をアメリカに置きたいと考えていた。だが、コロンビア議会がこれを認めなかった事でアメリカは1903年11月、パナマ市を独立させパナマ共和国( Republic of Panama)を樹立させ、パナマ運河地帯の主権を得たのである。※ 1904年、日本はパナマと国交を結んだ。アジアでは最初の国だったらしい。※ 余談だが、アメリカはクーデターを起こしては自国に有利な政権の樹立と言う手法をあちこちの国で行っている。その陰にCIAありと言うのももはや定説?パナマ運河の主権であるが、当初永久的なものであったが、1960年代になるとアメリカ支配からの離脱を求めるパナマ国内でのナショナリズムの高まりが「パナマ運河地帯の主権返却」を掲げて反米運動が始まった。パナマでのクーデターや政治的動乱は続くもアメリカも返還に応じる事になる。1999年末(1999年12月31日)をもってパナマ運河はパナマ共和国に完全返還された。返還されてからの値上げ問題ところで、パナマの物はパナマに? これは良い事なのだろう。が、しかし、問題は返還されてからパナマ政府によりパナマ運河の通航料の値上がりが激しい事。ぶっちゃけ、どうしても通過したい国々の足下を見た値上がり方らしい。2017年10月の改訂ではコンテナ船には往復利用の割引料が設定されたが、好調のLPG船やLNG船の通航料は15~50%の値上げ。さらに2020年1月の国際海事機関(IMO)によるSOx規制に乗った値上げ? らしい。SOx規制は、燃料油硫黄分濃度を、これまでの3.5%以下から0.5%以下に抑制強化するための規制。これにより従来の燃料油より割高の低硫黄燃料油の使用を船会社が検討する事が想定され、パナマの使用率がより高まると見たのだろう。コンテナ船を除き好調な利用を見せるネオパナマックス級の船舶に対する値上げという側面が強いと在パナマ大使館一等書記官 河内 昭徳 氏がWorld Watchingで書かれている。リンク 1910pdf.pdf (phaj.or.jp)しかし、2020年初頭から発生したコロナウイルスによるパンデミックがあったから、パナマ運河の可動も激減したと思われる。パナマ政府の思惑ははずれた?実際、今どうなっているか? パナマ運河クルーズパナマ運河の見学は、一部陸からの見学もできますが、全長約80km。3つの閘門(こうもん・locks)を通過する運河となっているので、当然通過は船でなければできず、クルーズ船に乗る必要があるのです。※ 小型船でのツアーも現地にはあるようです。先に触れましたが、パナマ運河には水位を調整する複数の閘門(こうもん・locks)が存在しています。実は船舶の規模で通過する閘門(こうもん・locks)が分けられているのです。近年はコンテナ船も大型化してパナマ運河を通行できない船も増えていたので2007年に拡大計画が始まり2016年6月26日の拡張工事が完成。それがパナマ市側のカリブ海側のココリ閘門(Cocoli locks)とコロン市側のアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)です。この完成により、今まで通過不可能であった大型コンテナ船の98%が航行可能になったと言う。※ アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)は高台からの展望ができます。後で紹介します。パナマ運河庁が出している地図に加筆しました。今回のクルーズ客船は従来の運河コースを通過しています。コロンで下船してパナマシティーの見学をした帰りに陸路アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)の記念博物館兼展望台に立ち寄りしているそうです。↓↑ 太平洋側ゲート(Pacific side gate)↓↑ ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)↓↑ ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)↓↑ ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)↓↑ 掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)の水路↓↑ ガトゥン湖(Gatun Lake)↓↑ ガトゥン閘門(Gatun Locks)↓↑ 大西洋側ゲート(Atlantic side gate)ココリ閘門(Cocoli locks)2016年6月26日に完成。初開通した大型コンテナ用のココリ閘門(Cocoli locks)を横目に通過。下も同じくココリ閘門(Cocoli locks)を上がって行く船が見えます。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)奥に見えるのはミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)では、船舶は 2 段階で 16.5 m(54ft) 上下降してミラ・フローレス湖と太平洋の湾をつなぐ。水位を調整するのが閘門(こうもん・locks)です。セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)は全長 294m。全幅 32m。全長ではギリ古いミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)ではほぼパナマックス。※ 新しい閘門(こうもん・locks)ではパナマックスももっと大きくなっている。船の牽引(けんいん)するラバ(mule)ところで、水位を調整する閘門(こうもん・locks)に入る時、船はエンジンを切る事になります。エンジンを切った船をタグボードで押してロックに押し込むと船は運河脇のミニ鉄道のような物(mule)にワイヤーをひっかけてそれが船を前方に引っ張り、完全にロックに収まらせるようです。ウィキメディアでそれらしい別の船の写真を引っ張ってきました。船からのワイヤーがmuleつながっています。下の写真もウィキメディアから件(くだん)の牽引車(けんいんしゃ)はミュール(mule)と呼ぶようです。ミュール(mule)の意味はラバとか、運び屋。もともとパナマ地峡をラバで荷運びしていた伝統からラバ(mule)と呼ばれるようになったらしい。大型船では、船首の両側に 2 つずつ、船尾の両側に 2 つずつ、計 8 つのラバ(mule)が付き、船を制御している。しかし、新しい拡張されたココリ閘門(Cocoli locks)やアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)では使用されていない。下は ガトゥン閘門(Gatun Locks)muleを出た後に待機していたタグボート(tugboa)運河ではタグボート(tugboa)が活躍する。運河の通行時間と制限眺めているのは隣のレーン。下はミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)を振り返った西(太平洋)方面船はこの後、ミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)を通過し、さらにペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)で再び水位調整をして掘削した人工渓谷 クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路を通過しガトゥン湖(Gatun Lake)に入ります。実は友人の写真にミラ・フローレス湖(Miraflores Lake)、ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)、クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路の写真が無かったのです。パナマ運河ではさらにこの後、ガトゥン湖(Gatun Lake)とガトゥン閘門(Gatun Locks)を通過。船からパナマ運河通過の証明書が出されていたとの事。以下時間です。ミラ・フローレス閘門(Miraflores locks)の通過07時35分~8時45分 (70分)ペドロ・ミゲル閘門(Pedro Miguel Locks)の通過09時15分~10時05分 (50分)ガトゥン閘門(Gatun Locks)14時15分~16時40分 (145分)友人の乗ったセレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)は早朝にアメリカ橋(Bridge of the Americas)をくぐって待機し、パナマ運河に突入(07時35分)しています。結局最後の ガトゥン閘門(Gatun Locks)を抜けて大西洋側に出たのは夕刻(16時40分)だったそうです。つまりパナマ運河の通行にかかった時間はトータル9時間5分。ほぼ1日かがりです。だから最初から最後まで張り付いて撮影はしていなかったと言う事です。ところで、パナマ運河の運用は、早朝に両洋側から船舶を運河内に進入させガトゥン湖(Gatun Lake)で待機。夕方頃に双方反対側の海に抜けさせるというシステムらしい。が、航路の狭小部クレブラ・カット(Culebra Cut)では大型船の行き交いができない事から太平洋側から進入してきた船舶がクレブラカットを通過し終わるまで大西洋側から進入した大型船舶はガトゥン湖(Gatun Lake)より先に進めない。つまり出口前の閘門までたどりつけない。大西洋側からのが不利のようです。それ故、2016年6月の拡張工事完成後のネオ・パナマックス(Neo Panamax)を持つ第三閘門も通航予約枠は一日8隻と限定的らしい。世界最大の人造湖、ガトゥン湖(Gatun Lake)クレブラ・カット(Culebra Cut)された水路の写真はウィキメディアから借りてきました。もともと、パナマの分水嶺だった中央山脈を切り開いてダム湖につなげた場所のようです。運河の最も狭小部ですが、運河全体の5分の1(12.7km)に相当。その掘削(くっさく)工事で発生した土石や石灰岩を積み上げるとエジプトのピラミッドが63基建設できるくらいの容積らしい。先に、ガトゥン湖(Gatun Lake)は運河建設の為にチャグレス川(Chagres River)を堰(せ)き止めて1907年~1913年に造られたダム湖と紹介。当時から今まで、運河自体も大型船の出現に合わせて拡張が続けられてきたので、最初からこれほど広かったのかわかりませんが1907年~1913年頃に開削しているのだから凄い事です。重機もあまり無かっただろうし・・。ガトゥン湖(Gatun Lake)ガトゥン閘門(Gatun Locks)いよいよ大西洋側に出るラストのガトゥン閘門(Gatun Locks)です。先にも、実際の通過時載せ載せましたが、14時15分~16時40分 (145分)どこよりも長く時間がかっていすます。たぶん行きに2か所に分けた水位調整の閘門(こうもん・locks)がここでは一気に一度で終わらせるからかも?かなたにはPuente Atlántico(大西洋橋)が見えている。上下、ガトゥン閘門(Gatun Locks)を振り返った所。セレブリティ インフィニティはパナマックス、ギリだから1隻しか入れないが、小型の船は複数、閘門(Locks)に入っているのが見える。ガトゥン閘門(Gatun Locks)を出てフォークス川を下る。向こうの水路が2016年6月完成したアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)につながる水路。Puente Atlántico(大西洋橋)リモン湾(Limon Bay)、コロン港(Port of Colon)アグラクララ閘門 (Agua Clara locks)先に紹介した2016年6月完成した「第三閘門」の一つアグラクララ閘門 (Agua Clara locks)。大西洋と海抜26mのガトゥン湖を3連のプールで一気につなぐ。先にネオ・パナマックス(Neo Panamax)は最大全長:366m、全幅:49m、喫水:15.2m。と紹介しているが、こちらのプール自体は一つ、全長:427m、全幅:55m、水深:18.3m。ネオ・パナマックス(Neo Panamax)を持つこちらは超大型コンテナ船やLPG船やLNG船に対応する為に造られた閘門(こうもん・locks)です。アグラクララ・ビジターセンターからの展望写真背景、奥に見えるのがPuente Atlántico(大西洋橋)ここではミュール(mule)は使用せずタグ・ボートが直接牽引しているようですね。この「第三閘門」によりこれまでの約3倍の積載能力を持つコンテナ船や液化石油ガス(LPG)船や液化天然ガス(LNG)船の航行が可能になった。※ 液化石油ガス(LPG : Liquefied Petroleum Gas)※ 液化天然ガス(LNG:Liquefied Natural Gas)これまで通れなかった大型コンテナ船の98%が航行可能になるとパナマ運河庁は言っているらしいが、通行料がどんどん高額になるのは問題。でも航海史を考えると、パナマ運河の存在は、スエズ運河と共に歴史上の偉業である。間違いなく物流の時間を短縮させ、同時にエネルギーを削減したのは確かだから・・。水門ゲートも全く異なります。水門は高さ26m~33mのスライド式。貯水槽を持ち水の再利用をしている。実はパナマ運河は近年水不足だったらしい。私は説明を受けていないので解らないが、下の写真のブロックがゲート? あるいは貯水タンク? なのかな?こちらのビジターセンターはコロンからパナマシティーの1日観光でラストに寄ったらしい。この後セレブリティ インフィニティ(Celebrity Infinity)はカリブ海をクルーズしてマイアミまで向かう。ラスト、コロンの港で終わりにします。新市街ちゃんとビル群もあるのですね。それにしてもクルーズ良いですね。コロナで船も避けられていたけど・・。クルーズ船に乗ってリアルタイムでブログを発信するのが夢です。次回は全く未定です。東インド会社に行かなければならないのですが、アジア方面の写真が無いのです。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器) アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2023年04月24日
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今回は地図の紹介と併せて「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回となっています。地図を見るのは子供の頃から好きで、今でも世界地図は数種持っていますが、世界を俯瞰(ふかん)して見たい私には一般的なメルカトル図法(Mercator projection)やモルワイデ図法(Mollweide-projection)の世界地図には不満があったのです。双方の長所は緯度、経度の線が直角に表されているので地理的な緯度や経度は解り易い。が、地球という球体を展開して表記している以上、赤道から離れ北や南に向かう程に面積や距離は実寸とはかけはなれ、広がって表現されると言う短所がある。つまり国のサイズや形は実際とはかなり異なってくる。と言う問題がどうしても生じてくる。結局のところ、どのような表記をしようとも平面の地図に完璧な図は存在し得ないのだろうが・・。さらに不満は、たいていの地図は南北の極が上下に固定されているので極地帯の距離感は普通以上にわかりにくくなっている点だ。加えて、日本の世界地図では日本が中心に据えられるという点も気に入らない。日本がどこに存在しているか? また、日本からの諸外国への距離間を知るには当然の配慮なのかもしれないが、両サイドに来るアメリカ大陸や大西洋、欧州は余計にゆがんで表現される。世界をグローバルに捉えたい時に中心に見たいのは太平洋なんかではない。だから子供の頃は平面の地図よりも地球儀をコロコロさせていた。地球儀って、必要ないようで、実は必要かもしれない。困ったのは、ブログを始めて平面地図がほしくなった時だ。以前、北極を中心にした地図の紹介をしたことはあるが、欧州を中心に据えた地図や大西洋を中心にした地図を探したいと思ってもなかなか見つからないのである。今回のような大航海時代を紹介する時にポルトガル視点、スペイン視点、大西洋視点、モルッカ諸島視点などで見たいし、考えたいし、紹介がしたい。その度に視点の変えられる地図が欲しかった。最近は、Googleのおかげで視点を好きな場所に変えて確認する事はできるようになったが、もっと広域に視点の変えられる平面世界地図があったらいいなと思っていた。実は、平面で視点の変えられるAuthaGraph projection(オーサグラフ投影)と言う手法で造られた地図を最近見つけたのだ。AuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)は北極を中心に切り取ったり、南極を中心に切り取ったり、南米を中心に切り取ったり、アフリカ大陸を中心に切り取ったりできる地図なのである。現段階では小さな図しかないけれど・・。私の不満がカバーできる地図なのだ。今回は、このオーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)を紹介しつつ、それを使ってマゼラン隊の世界周航を一筆書きで紹介しようと考えたのです。でも地図だけで絵は足りない。残念ながらモルッカ諸島の写真は無い。どうするか?友人がパナマ運河就航の写真を提供してくれたので、それで行く予定でしたが、写真の中身に関して確認が終わっていないので、パナマの写真は別枠で次回にしました。そんなわけで今回は、ほぼ地図のみでマゼラン隊に触れます。 m(_ _)mマゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図オーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)とはモルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図オーサグラフ(AuthaGraph)の利点「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) マゼランポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化コロンブスの計画案を引き継いだスペインスペインによる太平洋の発見マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物マゼラン艦隊の内紛問題インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線 問題東に進んだポルトガルの成功Battle of Mactan の記念碑世界周航と太平洋航路の確立マゼラン亡き後マゼラン隊を率いたエルカーノアントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)マゼランのルート(Magellan Route)モルッカ諸島の利権を手放した件南米最南パタゴニア、マゼラン海峡オーサグラフ世界地図(AuthaGraph World Map)とはauthalic(面積が等しい) & graph(図・グラフ) オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図大陸が複数、描かれているのには訳がある。下方左からグリーン・・南アフリカを中心にした世界地図オレンジ・・ブラジルを中心とした世界地図ブルー・・・南極を中心にした世界地図レッド・・・北極を中心にした世界地図どこを中心に切り取っても、世界の大陸や海の位置関係がわかるようになっている地図なのである。オーサグラフ(AuthaGraph)は、ほぼ等面積の世界地図投影法なのであるが、なんと日本の建築家が考案した地図なのである。※ 1999 年、成川肇氏(Narukawa Hajime)によって発明。※ 2016 年グッドデザイン賞、受賞。※ 上の地図は購入したポスターから撮影。地図帳のようなものはまだ販売されていないようです。オーサグラフ(AuthaGraph)による世界地図AuthaGraph(オーサグラフ)は、球面を96個の三角形に等分し、面積比を保ったまま四面体に移し、四角形に展開して作った多面体を統計して作った地図なのだそうです。故に、すべての海,陸の面積比はほぼ正確に表記され、かつ形の歪みも従来よりかなり低減しているという。それはネーミンが示すよう authalic(面積が等しい) graph(図・グラフ) 。中心だけでなく、どの位置から見ても大陸は変形していない。実に建築家らしい発想による地図ですね。最も、地球と言う球体を平面に展開しての地図であるから、経緯度線が無いと大陸同士の緯度が計りにくいかもしれない。モルワイデ図法(Mollweide-projection)による世界地図モルワイデ図法(正積図法)1805年、ドイツの天文学者・数学者カール・モルワイデ(Karl Brandan Mollweide)(1774年~1825年)が考案した地図投影法。地図の外周は、長径2、短径1の楕円形で表現。※ 比率は2:1緯線は水平。経線は中央経線以外は弧を描く。図の中心は正積なのだろうが、中心から離れるほどに歪む。日本の国を見てもらえば、形が変形しているのがわかるし、南極のサイズが大きくなりすぎ。メルカトル図法(Mercator projection)による世界地図中心(赤道)から離れるほど緯線の間隔は拡大して行くので大陸のサイズも拡大。本来、オーストラリア大陸とほとんど変わらない南極が異常なビッグサイズに表現されてしまう。北極圏のグリーンランドもしかり。メルカトル図法(正角円筒図法)1569年、フランドル出身の地理学者ゲラルドゥス・メルカトルGerardus Mercator)(1512年~1594年)が採用した地図(アトラス)で知られた。が、正角円筒図法自体は16世紀初頭にはすでに存在していたらしい。この地図は大航海の時代に向かい、航海用の地図の図法として有効であった。メルカトル無き後息子が継承して発表された世界地図はイギリスその他のヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ・アメリカの諸図を加えた107図による地図帖形式で販売。その地図帖は、ギリシャ神話の天空を支える巨人の名をとり「アトラス (Atlās)」と命名された。地図帖がアトラス(Atlas)と呼ばれるようになったのはそうした理由だ。オーサグラフ(AuthaGraph)の利点大陸の相互関係を見るならオーサグラフ(AuthaGraph)。位置関係は断然解り易い。グリーンランド(Grønland)を挟んでカナダと北欧やロシア連邦が向かい合っている。ロシア連邦(Russian Federation)とアメリカ合衆国(united states of america)は近接している。同じく、英国 (United Kingdom)も思う以上にロシア連邦に近い。本来地球上の大陸は北半球に密集している。それ故、人口は歴史的に北半球に偏ってきた。地球全体での陸地と海の比率はおよそ3:7北半球全体の陸地の面積比は39.4%。南半球の陸地の面積比18.4%。北半球の陸地と海の比率はおよそ4:6 → 2:3 の割合になる。極からの北半球円周が赤道に相当。赤道より上(北半球)に大陸が集まっているのがわかる図。極からの南半球でも実際の大陸の位置関係は下のオーサグラフ(AuthaGraph)の方が正しい。下の図はどの角度、どの位置からも地球をカテゴライズできる地図となっています。地球は、6つの大陸(北アメリカ大陸、南アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸)と3つの大洋(インド洋、太平洋、大西洋)からなっている。オーサグラフ(AuthaGraph)では、あらゆる大陸や海洋との位置関係がわかる。南極に行く船が南米から出航する。やはり一番近接しているからだ。サイズで言うなら南極はオーストラリア大陸より少し大きい程度?そしてブラジルやメキシコは、今までのイメージよりも大きいかもしれない。いろいろ発見が出てくるね「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) マゼラン先に地図ありき・・でした。それにマゼラン隊の世界周航の航路を載せてみよう。と思ったのが始まりです。そもそも「アジアと欧州を結ぶ交易路 」でマゼランの世界周航を載せるべきか? スルーしても良いか?欧州各国の以後のアジア植民地化を見据えた時に、やはりマゼランは触れておかなければならない問題でした。スペインとポルトガルがアメリカ大陸(中南米)を植民地にしようとも、香料諸島の富は絶大であり、あわよくば植民地に欲しい場所に代わりはなかったからです。結果、彼らの挑戦で世界が広い事を知る。同じ一つの球体の上で、別々の文明が存在していた事を知る。時に友好的に、時に支配的に文明は交流する事になる。今や飛行機でひとっ飛び、世界は近くになりつつあるけど、その昔、命かけて世界をつないだ彼らの航海の意義は大きい。ポルトガルとスペインの競争から始まったアジアの植民地化ポルトガルはエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)の元、ポルトガル国家としての事業で遠洋航海を始めた頃から香料諸島を目指していた。だから、どこの国よりも先に外洋に出て目的を果たした。因みに、ポルトガルはその過程でマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島を発見して植民地開発をしている。また、エンリケ王子は資金源をたくさん持っていたからポルトガルにお金はあった。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1497年7月リスボンを出航したヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)は1498年5月インドに上陸。ポルトガルは東周りでアフリカ大陸南端(喜望峰)を回りインド洋に出る航路を開いたのだ。一方、レコンキスタで出遅れたスペインには航海技術も船も、航海士もいない上にお金もなかった。外洋への進出を願ったのは、国ではなく、国家という保証と名誉を求めた航海士と、ゆくゆく得るであろう利益をあてにした商人が持ち掛けた話だったからだ。だから資金のほとんどは航海士本人の借金とそれをバックアップした商人が用意している。※ コロンブスの時はフィレンツェに拠点を置くメディチ銀行とジェノバの商人がいた。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)当初のスペインは基本、船は航海士の持ち込みで、出来高の一部をスペインに献上するという形で新大陸の冒険航海が行われていた。新大陸で利益を得た以降のスペインは多少事情が変わった?※ マゼランの時はアウグスブルクに拠点を置くフッガー銀行とやはり商人がかかわっていた。マゼランの時に関しては、スペインが国として香料諸島のビジネスに参入したかったから? 商人クリストファー・デ・ハロの全額出資を断って、スペイン国が全て負担したらしい。スペイン王(カルロス1世)でもあるカール5世(Karl V)(1500年~1558年)が神聖ローマ皇帝になる為の選挙資金をフッガー家から借金していた話は有名だ。オーストリア・ハプスブルグ家はともかく、兼任しているスペイン王室自体はそんなに裕福ではなかったはずだ。また、フッガー家とスペイン王室のつながりはそこから始まっている。後々、スペインが香料諸島の利権をすべて、それもかなり格安で売り払ったのも、結局お金が必要だったからだ。ところで、メディチ銀行は1499年倒産していたので、代わるようにフッガー銀行が台頭してきたのかもしれない。フッガー銀行は現在も残っている。フッガー家の事書いてます。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家航海の話に戻ると、結果、スペインは特使のマゼランが西回りで香料諸島をめざして南米を回り太平洋航路を開き、アジアに到達(1521年)した。※ マゼラン自身は香料諸島到達前に途中フィリピン、セブ島で死亡。マゼランを引き継いだマゼラン隊はその後、香料諸島であるフィリピン南方のモルッカ諸島(Malacca Islands)に到達。たくさんのスパイスをゲット。※ 欧州から西周りルートでも香料諸島にたどりつけると言う事を証明した。だが、東から香料諸島に先陣していたポルトガルに見つかり、追われ、マゼラン隊は逃げるようにモルッカ諸島を脱出して帰国する事になる。その時点でマゼラン隊の船は2隻。太平洋航路を戻るルートをとった(逃げた)トリニダード号はポルトガルに拿捕(だほ)され船舶は沈められた。西に進み続け、インド洋航路をとった(逃げた)ヴィクトリア号のみが逃げ切り、スペインに戻る。この時、マゼラン隊は期せずして世界周航を果たした訳で、同時に世界が球体である事を完全に証明してしまった。 地球が球体と言うのは、また別の問題をはらんでいたが、それ以上に欧州人は香料諸島以外にもあるアジアの可能性を見いだしていた。それは以降、各国の航海術の向上を持って多くの国が競ってアジアを目指したからアジアは植民地ラッシュとなるのである。現在中国の特別行政区となっているマカオ(Macau)が1999年までポルトガルの海外領土だったのは当時の名残り。マゼラン隊の偉業が間違いなく、きっかけとなったのである。コロンブスの計画案を引き継いだスペインところで、なぜスペインは香料諸島をめざすに至ったのか?以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」のところですでに書いてますが、コロンブスの計画案は、西回りで大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見だった。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスコロンブスがたどり付いた場所はジパングではなかったし、アジアでもなかったが、コロンブスはすぐそこにアジアがあると信じたまま亡くなった。スペイン政府も当初は彼らがたどり付いた場所(中米)は、アジア東端の半島だろうと信じていたフシがある。だが、中米と南米北西部の植民地化を進める中で、新大陸(アメリカ大陸)は北と南の二つの大きな大陸でつながっていた事がわかる。そこに切れ目はなかった。※ 後にそこに運河を構築して大西洋と太平洋をつなげる事になる。次回パナマ運河やります。スペインによる太平洋の発見バルボアが黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)を探している時にパナマ地峡を横断。そこには広大な海が広がっていた。※ バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)(1475年~1519年)1513年、バルボアが「南の海」と命名した、それこそが太平洋だったのである。期せずしてバルボアは太平洋の発見者となった。だが、この太平洋の発見により、スペインはアメリカ大陸を越えるには、新たに航路を見つけなければアジアにはたどり着けない。と言う問題に当った。その頃、ポルトガルはすでに東周りでアフリカ大陸を越え、インド洋ににたどり着き、香料諸島に到達していたからスペインは西回りで香料諸島に行く遠征隊の航海士を慌てて探していたのだ。マゼランが遠征隊長に抜擢された訳と重要人物そもそもはマゼランの友人が経験のある彼をスペイン王に推挙したのである。重要な推薦人と仲間デュアルテ・バルボーザ(Duarte Barbosa)(1480年~1521年)1500 年~1516 年の間ポルトガル領インドの将校をしていた彼はマゼランの妻の兄? (同じ年に生誕した義兄弟)バルボーザは マゼランを強く推挙し、彼と共に航海に出るが1521 年4月、フィリピン、マクタン島の戦いでマゼランが亡くなった数日後、ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)の晩餐会で彼も暗殺されている。生誕年と没年までマゼランと一緒。クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)ブルゴス出身のカステーリャの金融家で商人。もともとハロはフッガー家の元、リスボンに拠点を置いていた商人。陰謀によりポルトガル王の信用を失い1516年、活動をスペインに移していた。1519年のマゼランの航海では 4分の1を彼が財政支援している。※ たぶんマゼラン個人の分の支援。また、マゼランを推挙し資金提供しただけでなく、後にエルカーノの遠征資金も提供している。結局、マゼランは途中で亡くなり、エルカーノも太平洋上で亡くなったから資金回収はどれだけできたか? 冒険航海に資金を出すのはロマンだけど、リスクが大きすぎですねフランシスコ・セラーン(Francisco Serrão)(生年不明~1521年没)マゼランの従弟。セラーンは1511 年に香料島であるモルッカ諸島に到達。テルナテ島(Ternate)で妻を娶り島に残った。セラーンはテルナテ島からマゼランに手紙で香辛料諸島の情報を送っていた。二人は結局会う事なく、セラーンも、ほぼマゼランと同じ頃に暗殺されたと考えられている。ところで、セラーンが居たテルナテ島(Ternate)はポルトガル配下である。エルカーノ率いるマゼラン艦隊は隣のティドレ島(Tidore)にたどり着く事になる。事もあろうに両島はもともと仲が非常に悪かったそうだ。フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)1550~1625年頃所蔵 The Mariner's Museum Collection, Newport News, VA実はすでにマゼランはポルトガルの元でヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が見つけたインド航路をたどりインドへ行っていた。さらに彼は遠征で香料諸島であるモルッカ諸島まで行っていたのである。この経験を買われスペイン王はマゼランと契約したのである。ただ、マゼランは間違っていた。「西周りの方が航路が短いからポルトガルよりも安いコストで香料が手に入る。」と、プレゼンしたらしい。実際は、東周りルートで香料諸島に行ってはいたが、西周りルートの経験はもちろん無い。直面する太平洋航路がいかに長いか彼は全く知るよしも無かった。アブラハム・オルテリウスによる太平洋の地図(1608年) ウィキメディアから借りました。ブラバントの地図製作者、地理学者、宇宙学者アブラハム・オルテリウス(Abraham Ortelius)(1527年~1598年)図は太平洋の海図である。オルテリウスは近代的な世界地図(アトラス)の製作者として知られる。Nao Victoria ナオ船ヴィクトリア号のレプリカ 写真はウィキメディアからチリ、プンタ アレナス(Punta Arenas, Chile)ナオ・ヴイクトリア博物館(Museo Nao Victoria)展示2011年建造※ キャラック(Carrack)をスペインではナオ(Nao)、ポルトガルではナウ(Nau)と呼ぶ。実際のヴィクトリア号には砲弾もそなわっていたはずだが、艦隊は当初、トリニダードを旗艦とする5隻の船とされ、ほとんどが「nao」(キャラック船 )であったが船の詳細は不明で、どの船のイラストも存在しなかったらしい。だから後世のレプリカは実物とは異なるのかも。図はウィキメディアから※ 大航海時代の帆船については「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」のところで詳しく書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人ポルトガル人のマゼランによるスペイン特使としての香料諸島への航海が始まる。ただし、ポルトガルに察知されないよう、マゼランの直接指揮下にある船長以外には真の目的地を話さずスペインを出航したのである。1519年9月、5隻の艦隊を率いてマゼランはスペイン・セビリアを出発。ヴィクトリア号 (Nao Victoria) Captain Luis Mendoza・・キャラック船。旗艦。マゼラン亡き後、エルカノが船長としてスペインに帰還させた船。トリニダード号 (Nao Trinidad) Captain Ferdinand Magellan・・香料諸島から逃げ帰る時に拿捕。コンセプション号(Conception) Captain Gaspar de Quesada・・損傷が激しかった船はマゼラン亡き後、セブ島で沈めて処分。サン・アントニア号(Nao San Antonia) Captain Juan de Cartagena・・パタゴニア海峡で離反し逃亡。サンティアゴ号(Nao Santiago) Captain João Serrão・・サンタ・クルス川の河口 付近で難破。船団員270名のうち、1522年にスペインまで帰還できたのは18名。ただし、ほかの人員が全員亡くなったわけではない。逃亡やポルトガルに捕まった者も結構多い。※ 捕まった者はポルトガル・ルートで本国に帰還している。マゼラン艦隊の内紛問題ところで、スペイン王がポルトガル人のマゼランを抜擢した事自体が後の波乱の問題となった。マゼランは1519年9月、5隻の船を率いてセビリアを出港したのだが、南米のサン・フリアン湾(San Julian)で乗組員による暴動が起きる。謀反者は40人に上り処罰された。マゼラン以外の船長や航海士はスペイン人である。そこそこやり手の船長らは自分が選ばれなかった事に腹を立てて後にマゼランの暗殺を企てたと言うもの。実はポルトガル陰謀説もある。スペインが西周りで香料諸島に来れないようじゃましてほしかった。と言うもの。それもあり得そうな話である。かくしてサン・フリアン(San Julian)湾での反乱後、今度はマゼラン海峡の発見直前には食料船サン・アントニア号が脱走した。サン・アントニア号はスペインに帰還するのであるが、残されたマゼランらは、彼らが逃げたとは思わなかったらしい。帰国してから知る事になる。だが、サン・アントニア号の脱走のせいでスペインが西回りで香料諸島を目指している事がポルトガルに知れてしまった。やはりスパイがいたか?太平洋を横断して東アジアに到達したエルカーノらが、香料諸島から追われたのはそれ故なのだ。Nao Trinidad ナオ船トリニダード号のレプリカ重さ 150t、長さ 93 ft、26 ftのビーム、3 つのマスト、バウスプリットを備え、 メインマストの高さは82 ft。5 枚の帆と 5 つのデッキを備えている。建材はイロコ(Iroko) と松材。※ イロコ(Iroko) はアフリカ南部の広葉樹。比重の割に硬度もあり安価。チークの代替材として船やボートで使われる素材。トリニダード号 (Nao Trinidad)のレプリカはNao Victoria Foundation(ナオ・ヴィクトリア財団)により海事遺産の共有、歴史的な船の修復、建造など研究目的で建造されたらしい。浮遊博物館として世界を周航して展示。乗船も可能。上の写真はオハイオ州クリーブランド2022年のTall Ships Festivalの宣伝の時のもの。インテル・カエテラ(Inter caetera)とトルデシリャス条約線 問題ポルトガルが東周りで香料諸島に。そしてスペインが西周りで香料諸島に到達しなければならなかった理由のおさらいです。これも「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中「世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」ですでに書いていますが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1493年、ローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander Ⅵ)(1431年~1503年)の教皇勅書「インテル・カエテラ(Inter caetera)」により「教皇子午線」が決められ、スペインとポルトガルの権利域が確定された。翌年(1494年)、両国は協議して「教皇子午線」を少しずらしトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を決めた。西経46度37分の東側がポルトガル。西側がスペインに属する。※ おそらくこの線は両国の利権的に納得の行くラインに子午線がずらされたものと思う。このずれた事によりポルトガルは後々ブラジルの利権を大きく獲得する事ができた。両国はトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を遵守しなければならなかったから、スペインは東には進めない。現段階では東方面はポルトガルの領域で、西方面の領域は全てスペインの領とされたからである。すでに地球が丸い事はうすうす解っていたから、ポルトガルが先に香料諸島に到達してしまった以上、スペインは西周りで香料諸島に到達して利権を行使(こうし)するしか方法が無かったのである。以前紹介した図ですが東に進んだポルトガルの成功アフリカ大陸を南下して喜望峰を回り、東に北上したポルトガルはインド洋に到達。さらに東に進み彼らは香料諸島に到達する事ができた。1499年バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)がインド航路を開いてからポルトガルは安定したインドへの航海ルートを確立していた。先にマゼランもインドや香料諸島に行っていた事(8年駐留? 1513年帰国)に触れたが・・。ポルトガルは1513年までのわずか14年の間に欧州の香料貿易を独占し、天下を取っていた。直接仕入れる香辛料はヴェネツィアがアラブ人から購入していた時よりも安価。イタリアの商人やドイツ商人(フッガー家)がこぞってポルトガルから商権を奪い合う事になる。つまり、16世紀までその地位にいたヴェネツィアから一気に富を奪いポルトガルはトップの大海洋国に成り上がったのである。それ故、スペインは、ポルトガル人の航海士フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)を航海士に抜擢して西のルート開拓を急いだ。この当時、スペインはまだ航海技術が乏しく、航海士には引き抜いたポルトガル人を雇っていたのが現状。スペインの看板を背負ったマゼランが(1519年9月)西回りでアメリカ大陸を超え、太平洋を横断しフィリピンに到達する。(1521年3月)そこがスペインが求めたアジアの東の果てであった。海図の本「Eary Sea Charts」からSea chart of Malacca,the Indonesian Archipelago,and the Philippines.モルッカ、インドネシア諸島、フィリピンの海図Petrus Plancius Amsterdam.C.1595地図にはスパイスも書き込まれている。下はフィリピンと南方の香料諸島 モルッカ諸島(Malacca Islands)を拡大。不完全さは下の地図と比べると一目。上が1595年当時。地図としてはよくできている。下は現在の地図 ピンクで囲った所がいわゆる香料諸島。モルッカ諸島(Malacca Islands)である。パプアニューギニアのすぐ西の海域ですね。Battle of Mactan の記念碑マゼランは太平洋を横断。目的の香料諸島が近い事を知りながら、不幸にもフィリピンで巻き込まれた戦闘の果て、命を落とす。マゼランが命を落とした場所にスペイン統治時代の1866 年にモニュメントが建てられた。フィリピン政府は2021 年の500周年記念でフィリピンのセブ島ラプラプ市にあるマクタン島にある記念公園のマクタン神殿(Mactan Shrine)を整備。以下写真2枚はフィリピンの観光局のものを利用させていただきました。マゼラン記念碑(Mallelan's Marker)高さ差30mの石のオベリスクマゼランのキリスト教の布教活動 (1521年) を讃えたもので、1866 年のスペイン植民地時代に建立。ラプラプ像(Lapu-Lapu Monument)高さ20m 像はブロンズ1521 年のマクタンの戦いでマゼラン率いるスペイン兵を破った英雄王の像。マゼランの義兄弟のバルボーザ(Barbosa)は 1521 年4月、マクタン島の戦いの数日後、マゼランから初めてキリスト教の洗礼を受けたセブ島の族長ラジャ・フマボン(Rajah Humabon)が開催した晩餐会で暗殺された。世界周航と太平洋航路の確立船長マゼランはフィリピンのマクタン島(Mactan Island)においてラプ=ラプ王(Lapu-Lapu)(1491年? ~1542年)との戦いで戦死した。だからこの時、マゼラン自身は香料諸島に到達していないし、まして世界周航はしていない。だが、マゼランが隊長として率いた船(ヴィクトリア号)が、結果敵に世界周航を果たしたので、マゼラン隊が世界周航を果たしたと言うことになった。最も、マゼランは東ルートで過去に香料諸島に来てはいる。理論的には彼は地球を一周しているのと同じ。この段階ではまだサラゴサ条約線は存在していない。香料諸島の領有権をめぐり、ポルトガルとスペインにとっては、トルデシリャス条約線の180度裏にも線引きが必要になったのだ。どうも、今回は教皇抜きに2国間で話し合いが行われた模様。実際、線引きはしたが、フィリピンをスペインが取り、モルッカ諸島の利権はポルトガルと、後々棲み分けをしている。マゼラン隊、マゼランとエルカーノが航海したルート図※ 緑の枠内(フィリピン)、マゼランが亡くなった場所。そもそも、もしポルトガルに追われて慌てて香料諸島を出る事がなかったなら、マゼラン隊は太平洋をもと来たコースをたどって戻っていたかもしれない。そして、もし両船が太平洋航路をとっていたなら、誰もスペインに戻る事はできなかったかもしれない。ポルトガルに追われた彼らは東コースと西コースの二手に分かれて逃げた。実際、トリニダード号 (Nao Trinidad)は太平洋横断の東コースをとったが、向い風と嵐により断念して戻どった所をポルトガルに拿捕(だほ)された。実は太平洋越えのルートは往路も距離があり大変であったが、それ以上に復路が困難を極めた。赤道を南下し、マゼラン海峡に到達する必要があったが、向かい風で東に進め無かったのだ。貿易風が東から西に吹いているからね。当時は帆船だから偏西風を見つけるまで誰も横断できなかった。危険なコースとされ、マゼラン隊以降、挑戦が試みられたが太平洋を西から東に渡るのに成功するまで40年近く要した。この往路太平洋越えの開拓は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまで、なしえなかったのである。参考に太平洋航路を確立した(16世紀頃)のスペインとポルトガルの航路です。ポルトガル航路に長崎が入ってますね。ウィキメディアから借りたマニラ・ガレオンの航路図を合体してポルトガル航路(Portuguese Routes)とスペイン航路(Spanish Routes)に仕分けしました。マニラ・アカプルコ航路は年に1回か2回の定期船となり1565年から19世紀初頭までの250年存在。太平洋横断し、定期便を持つ頃にはスペインはNao(キャラック船)から積荷が多く積めるガレオン船(Galeón)に移行。このスペイン貿易船はマニラ・ガレオンと呼ばれている。積み荷の大半は中国産だったそうだ。因みに、ガレオン船(Galeón)は砲列を増やして戦闘に特化した戦列艦ガレアス(galleass)に発展する。ガレアス船は1571年のレパントの海戦 (Battle of Lepanto)でヴェネツィア軍により登場。勝利に貢献している。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦マゼラン亡き後マゼラン隊を率いたエルカーノマゼラン亡き後、マゼランの隊の旗艦の一つ、ヴィクトリア号を率いたのはバスク出身の航海士ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)(1476年 ~1526年)である。1521年12月、エルカーノ(Elcano)は香料諸島(Malacca Islands)に到達する。しかし、隣の島にポルトガルが来ていた事を知る。彼らに知られれば捕まってしまう。1522年2月? マゼラン隊は詰めるだけの香辛料を積んで逃げるように香料諸島(Malacca Islands)を出発する。先にも触れているが、来たコースを戻るべく太平洋に向かった船と、危険のあるポルトガル領域を通過してアフリカを回る二手に船は分かれた。太平洋コースに向かったトリニダード号は戻ってポルトガルに捕まった。ヴィクトリア号を率いてインド洋を横断したのがエルカーノ(Elcano)である。ピガフェッタの著によればジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留。帰国の船に乗ったのは47名とインディオ13名。※ 上記、60名は、ヴィクトリア号だけ? トリニダード号については語られていない。エルカーノはポルトガルに見つからないようインド洋での寄航は一切せず一気にアフリカ南端を目指した。しかし、喜望峰を越える為に9週間洋上で? 風を待つ事になる。寒さはひどく、船も浸水していたが、近辺はポルトガル領域。どこにも寄航しない道を選び天気が恵まれるまで待った。2ヶ月食料の補給もできなかったから、この間に21人が死亡。喜望峰の座標: 南緯34度21分29秒 東経18度28分19秒船は喜望峰でも停泊せず、北上して北大西洋上のヴェルデ岬諸島(カーボ・ヴェルデ・Cape Verde)まで一気に航海。※ 南半球から赤道を越え北半球に入る為に海流の関係で一気に北上はできない。ベルデ諸島の座標: 北緯14度44分41秒 西経17度31分13秒ここでやっと寄港し、食料調達をするも、ここもポルトガル領。13人が抑留された。前帆柱が折れて修理の必要があったが、慌てて出港。食料が不足しても、船が破損しても補修ができず、船は半壊しながらかろうじてスペインに戻ったのである。(1522年9月)モルッカ諸島を出港した時点で船員は60人いた。船員はほとんどが餓死か病死。ティモール島で逃亡した者、罪を犯し処刑された者、ポルトガルに捕らえられた者も多かったが、食糧が無くて餓死した者。病気になった者はもっと多く、無事に帰国した彼らもほぼ病気になっていた。だからスペインのサンルカル(Sanlúcar)に入港した時点で居たのは18人。2日後に船は華々しくセビリアに入港。航行総距離14460レーガ(約81000km)。地球を西から東に一周した。香料諸島で積んだ積み荷は18人を豊かにした。エルカーノはカルロス王からは生涯年金と紋章を受ける。ローマ教皇にも謁見している。その後のエルカーノは2度目の香料諸島と世界一周航行? を試み、太平洋上で壊血病と栄養失調により亡くなった。彼の失敗は、彼の物語を本にしなかった事だ。彼の成功は、当時皆に知られていたが、時がたち、彼は忘れられた。アントニオ・ピガフェッタの著「最初の世界周航」マゼラン隊の船で日誌をつけていた、ヴェネツィアのアントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)は、帰国後に「最初の世界周航(The first voyage around the world)」について著した本を書いた。教皇の薦めで著した本はマゼラン隊の乗組員による唯一の記録である。※ マゼラン隊の記録としては、彼らの帰国後にスペイン王の秘書トランシルヴァーノがエルカーノら乗組員3名からの聞き取り調査書した「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」が存在する。セブ島セブ市独立広場 アントニオ・ピガフェッタのモニュメントウィキメディアからかりて周りを少しトリーミングしています。アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)(1491年~1534年)ピガフェッタの記録は、日記をつけていただけあって、立ち寄った民族や土地や、言語、食べ物の事など割と細かに書かれている。彼の関心はあくまで、特別な体験や知識にあった?ピガフェッタはセブやモロッカの単語と訳を単語集としてたくさん記録し残している。それが後の言語研究に役立っている。要するに世界周航で見た世界の話と経験した事がまとめられたエッセイなのである。タイトルの「マゼランの世界周航」から期待したのは現地の風俗より、マゼラン隊がいかに海峡を越え、太平洋を越え、モルッカ諸島にたどり付き、喜望峰経由で帰って来たのか? 難航海をいかに制したか? である。航海士目線が欲しかったが彼が航海士ではなかったのでそういう目線が無い。そもそもピガフェッタは直前交渉で船に乗船させてもらった身。とは言え、遠征隊の公式記録者として登録されていたらしい。それにしても疑問なのは、マゼラン隊長に対するリスペクトは感じられるが、彼の本には最後を率いたヴィクトリア号の船長ファン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)の事も全く描かれていない事だ。唯一、マゼランが亡くなった後に船長に選ばれた1人として名が出てくるが、その後置き去りにされ生死不明とされている。(・_・?)はて?また、もう一人のヴィクトリア号船長のドゥアルテ・バルボーザもそこで殺されているし、彼らを見殺しにしたジョアン・カルバッチョは最終的に島に残り帰国はしなかった。その辺の事情も全く無い。では誰がその後の船長なのか? 記述がないのも不思議。何にしてもヴィクトリア号はエルカーノがいたから無事に帰国を果たせたと言って過言でない。本来は辛い航海を制した船長へのリスペクトがあってもよさそうなのに・・。意図的にエルカーノの事を消したのか?どうも忖度(そんたく)があったから、マゼランに対する反乱など敢えて濁したらしい。もっとも、エルカーノは最初にマゼランに反旗をしたメンバーの一人であったから、ピガフェッタが彼を良く思っていなかった事は明白だ。トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書カール 5 世の廷臣で、個人秘書でもあったマクシミリアン・トランシルヴァーノ(Maximilianus Transylvanus)(1485~90年~1538年)が帰国後のヴィクトリア号の生存者に航海の事、香料諸島の話、領海問題など聞き取り調査している。公式記録者なのに? ピガフェッタの日記では全く抜けている部分だ。トランシルヴァーノの調書「モルッカ諸島」初版 1523 年スペイン国として、今後どう扱って行くか。条約線をどちらかが越境していた場合は、解消しなければならない問題もある。彼はこの航海で得た情報と現実を王に報告し、国として早く世間に公表しなければならなかったらしい。彼の報告の手紙として、「モルッカ諸島(De Moluccis Insulis)」初版は 1523 年 1 月に出版された。※ ピガフェッタの著は1525年以降。※ この手紙が「トランシルヴァーノのモルッカ諸島遠征調書」らしい。これは現在ピガフェッタの「マゼラン最初の世界一周航海」(岩波文庫)に一緒に収められている。絶版本かもこの報告でピガフェッタが避けたサン・フリアン湾の反乱の事もはっきりスペインの将校と兵士の間での「恥ずべきで卑劣な陰謀」としている。また、香辛料の栽培なども詳しく紹介されているらしい。まだ完読していません因みに、トランシルヴァーノの妻は実は先に紹介した商人クリストファー・デ・ハロ(Christopher de Haro)(生没年不明)の姪であった。だからマゼランやバルボザとも親しかったのだろう。「トランシルヴァーノの調書」は埋もれた? ピガフェッタの本がマゼラン隊に関する唯一の記録? として長い事世間に知られていた。だからファン・セバスティアン・エルカーノは歴史から忘れさられ、最近になってその偉業がサルベージ(salvage)されたのである。サラゴサ条約線と教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)たった船一隻でもその財は大きかった。香料諸島の利権問題が勃発する。香料諸島はポルドガルのものか? スペインのものか?ポルトガル王とスペイン王の間で話し合いがもたれ、1529年4月、サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)線が東経144度30分に敷かれた。ところでトルデシリャス条約線は西経46度37分。ポルトガルの方が広いようだが、実際には完全な線引きではなく、地域で部分部分の例外が決められていた。しかし、いずれにしてもこれはスペインとポルトガルが決めた事。確かに最初の教皇子午線はローマ教皇による裁定であったが、これから海洋に進出して来る欧州のほかの国が黙っているはずはない。また、植民地となり、奴隷とされた原住民の人権問題も考慮される時代になりローマ教皇庁も変化した?※ スブリミス・デウス(Sublimis Deu)では、アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。1537年の教皇パウルス3世(Paulus III)(1468年~1549年)が公布した教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)によって、1493年の教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効となった。つまり、スブリミス・デウス(Sublimis Deu)の公布をもって、かつての教皇子午線は無効となり、よって東方面がポルトガルの領地で、西方面がスペインの領地と言うかつての裁定も事実上消えたのである。これにより、ポルトガルとスペイン以外の国の海洋進出が始まり、世界各地に欧州の植民地の建設が開始されるのである。マゼラン隊のルート(Magellan Route) (By AuthaGraph)香辛料諸島を目指し、かつ地球を一周したコースをAuthaGraph World Map(オーサグラフ世界地図)上に載せてみてみた。フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)(1480年~1521年)隊が成し遂げた世界周航のルート。1本で示してみた。そこにローマ教皇と取り決めしたポルトガルとスペインの権利分配のラインも書き込みました。西経46度に引かれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)のライン東経144度に引かれたサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)のラインスペインのテリトリー(Territory of Spain)ポルトガルのテリトリー(Portuguese territory)上のルート図を見るに、やはり太平洋の距離があるのがわかる。マゼランは食料船を失い、ただでさえ、食糧不足の中、マゼラン海峡を出た後に食料補給もせずに太平洋に入った。すぐに陸地があると読んだのだが、それは大きな間違い。大西洋航路より、インド洋横断より、はるかに距離があった。アジアまで1万km以上。食糧不足は100日も続く。壊血病など死者も多数。船員がなくなると、マゼランはすみやかに海に流した。人肉を喰らう事を避けたからだ。モルッカ諸島の利権を手放した件ところで、モルッカ諸島では島にジョアン・カルヴァッジョ以下隊員50人が島に残留した。スペインが領有権を主張する為にも残留しなければならなかったのだろう。香料諸島はスペインとポルトガル、どちらの領域か?1529年のサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)はポルトガルとスペインの話し合いで決まった。この時点で、香料諸島は線からはずれている。最終的にスペインは、マゼラン隊が苦労して得たモルッカ諸島を安い値段でポルトガルに売り払らったのだ。しかし、代わりにポルトガル領内ではあるが、スペインはフィリピンを手に入れた。スペインが太平洋航路を見つけると、フィリピンとアメリカ大陸間の交易が始まる。スペインは香料以外の交易品を多数見つけたのである。フィリピンからではなく、中国から・・。南米最南パタゴニア、マゼラン海峡1519年9月、セビリアを出港。マゼラン一行が最初に寄港した南米大陸はリオデジャネイロ?※ 座標 : 西経43度11分47秒南緯22度54分30秒 西経46度まではポルトガルのテリトリー(領域)だったから本来はここはポルトガル領だったはず。当時の座標が正確かはさておき、かつてアメリゴ・ベスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)が南米大陸東岸を南下し南緯50度まで到達している。※ 1501年~1502年、ポルトガル王の依頼で南米大陸を計測している。※ 実はアメリゴの計測結果でポルトガルはトルデシリャス条約をたてにブラジルの領土を主張した。だからアメリゴ・ベスプッチはブラジルの発見者として知られている。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)1494年6月に締結したトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)により西経46度を超えたらスペインのテリトリー。これはローマ教皇の裁定により決まった条約です。※ 後に撤回された。マゼランは密かに太平洋に抜ける航路を探していた。南緯50度まではかつてアメリゴ・ベスプッチが到達している。彼はデータを取っていたのでポルトガルには海図はあったはずだ。いずれにせよ南緯50度から先の海図は存在しなかったから、船員は海図の無い領域に進む船長に対する不信にあふれていただろう。マゼラン船団がスペインを出港したのは1519年9月。おそらく大西洋に吹く貿易風を待って横断したからかもしれない。しかし南米に到着するまでに2か月が経過していた。陸に上がらず、どんどん南下し寒さが増す中、サン・フリアン湾で反乱もおきた。逃亡する船もあらわれた。そんな中やっと抜けられる水道を発見する。それがマゼラン海峡(Strait of Magellan)と名付けられたパタゴニア(Patagonia)の海峡だ。パタゴニア(Patagonia)は現在の南アメリカ、アルゼンチンとチリの両国にまたがる南緯40度以南の地域。要するに南米大陸の最南端に位置する秘境である。上の地図はウィキメディアより借りました。諸島の中を抜けて太平洋につながる航路をマゼラン隊は見つけて欧州人としては初めて航海に成功。それは重大な発見であり、航海図に記される大発見であった。しかし、交易が盛んになってもマゼラン海峡を通過する航路は表に出ていない。マゼラン海峡を通過してアジアに行くのは非常に危険な航海となった事から、スペインは別のルートを模索し、太平洋航路を確立させた。次回、大西洋から太平洋を横断する、新たなルートの紹介です。最初に書きましたが、今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回です。一往Back numberをいれます。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal) マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2023年03月21日
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今回はマゼラン一行の世界周航に触れるつもりでしたが予定を変更。先週日曜(2月19日)に乗った西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」を急遽紹介としました。久しぶりの鉄道ネタです。土日、祭日のみ運行するなかなかキップも取りにくい列車だそうです。今回弟が母の誕生日の為に予約してくれたのですが、たぶん自分が一番乗りたかったからかも因みに、西武鉄道はラッピング電車がよく走っています。最近亡くなられたマンガ家の松本零士氏も西武鉄道のラッピング電車「銀河鉄道999号」(2009年年5月1日)を手掛けていました。以前紹介しています。リンク 西武鉄道の銀河鉄道999リンク ラッピング電車「きゃりーぱみゅぱみゅ」 (SEIBU KPP TRAIN)西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」車両デザイン車両の内装52席の至福 宣伝パンフ52席の至福 乗車ディナー料理と酒スペシャル・サービス52席の至福からのお土産品Laview(ラビュー)西武秩父駅52席の至福 運行区間池袋~西武秩父駅間西武新宿~西武秩父駅間西武新宿~本川越駅間など52席の至福 運行日土休日を中心に年間100日程度の運行を予定する臨時電車と位置づけされている。乗車時と降車時はレッドカーペットを敷いてくれると言うのが、この列車のこだわり。でもドレスコードは無いので気楽にいつもの服でもよい。車両デザイン列車の外装と内装のデザインは建築家の隈 研吾 氏が手掛けている。とは言えもともと西武鉄道の52型(4000系)をリメークした車両が利用されているので、昨今のJRの高級電車とは違う。外装のラッピングを除けば、外見は親しんだ西武線だ。下は西武線のサイトから借りてきました。車両のデザイン画です。「秩父」の四季を自然豊かに表現したそうだ。2号車のデザイン画は海? と思ったが荒川をダイナミックに表現したものだと言う。1号車 春 芝桜、長瀞の桜2号車 夏 秩父の山の緑3号車 秋 秩父連山の紅葉4号車 冬 芦ヶ久保の氷柱タイトルの「52席の至福」とは、このレストラン車が4両1編成からなっているのだが、実際の食事席は2号車と4号車のみ。1号車はユーティリティー・スペースとして諸々イベントなど多目的に使われる車両。3号車が厨房車となっている。それ故、食事の提供してもらえる座席は52名がマックスらしい。車両の内装客車2号車現在、コロナ対策でついたてが座席横に立てかけられます。客車4号車姪が越境して4号車まで行き撮影。天井が違うだけなのですが、雰囲気がかなり違います。下の厨房の写真は西武鉄道から借りました。下は姪が撮影してきた写真。すでに撤収の時です。52席の至福 宣伝パンフ52席の至福 乗車現在、宮崎県とタイアップしているようで、食材も宮崎県産がソラチョクで運ばれ利用されています。観光PRのパンフ付き。ウェルカム スパークリングワインクレマン・ダルザス・ミシェルフォネ(辛口)ウェルカムドリンクとソフトドリンクはサービスです。ペアリングのワインや日本酒ウイスキーは別料金。ディナー料理と酒コース・メニューペアリングのワイン・リスト前菜 宮崎と秩父を結ぶ至福の前菜カップ手前はチョウザメの白身とキャビア魚料理 ハーブ香る鮮魚と宮崎産日向夏のサラダ仕立て日向夏と併せているのはタラ。前菜のチョウザメも淡泊な白身。ここでまた淡泊なタラ。日向夏とチョウザメのサラダにして、前菜の魚をサーモンでもよかったのに・・。と、思ったりして・・。白ワイン プイィ・フュメ(Pouilly-Fume 2020)を合わせました。フルーティーで爽やかなワインでした。メイン 宮崎牛とみやざき地頭鶏(じとっこ)みやざき地頭鶏(じとっこ)は、江戸時代に藩城主の地頭職に献上していた美味しい鳥肉から由来。宮崎県および鹿児島県の霧島山麓において古くから飼育されていた在来種だそうです。宮崎牛もとても柔らかでしたが、メインなのに量が少なすぎ。赤ワイン グラン・マレノン・ルージュ(Grand Marrenon Rouge 2019)を合わせました。こちらもとてもおいしいワインでした。デザート 和紅茶香る宮崎産金柑のコンポート イチローズモルトアイスとワイン、ウイスキー、紅茶など飲料の撮影を忘れました。よこぜのおいしい紅茶、とてもおいしかったです。52席の至福では、希少なイチローズモルトが飲めるのです。ここで味見にストレートをとったのでアイスにもかけて食しました。イチローズモルト・ホワイト・ラベルは秩父の酒屋さんでも購入できましたが52席の至福ではホワイト・ラベルの他にPB2020とPB2022が飲めるのです。食事後に感想を求められました。あくまで個人的感想ですが、褒め言葉はお酒にしか出なかった。とにかくワインの味がよい。料理とのマリアージュが良いのか? は別に本当にワインがおいしかった。プリンス・ホテル&リゾーツのエグゼクティブ シェフソムリエ(市村義章 氏)がセレクトしているそうです。52席の至福。料理は期待薄ですが、お酒を楽しむには最高かもしれません。メニューは3ヶ月ごとに変わるようです。ところで料理は監修されたものです。レストランで食せば? あるいはシェフがその場で調理すれば? また味は変わったのでしょうが・・。やはり電車の中と言うことでハンデもあるでしょうね。※ 調理協力は武蔵野調理師専門学校ちなみにワインは秩父のワインもあります。グラスが電車の為に一般のワイングラスでなくグラスカップを使っています。それ故、ワインの分量はやや多めに入っていた気がします。いつもはあまり飲めない私ですが、列車でスペシャルと言うこともあり、ついスパークリングの他に赤白も手を出しました。非日常だからこそできる贅沢もある。と言う点ではとても楽しい経験をしました。スペシャル・メニューアニバーサリー・プランで事前に姪が頼んでくれたプレート。記念写真も撮ってもらいました。52席の至福 電車の1号車はイベントスペースです。結婚式や誕生日会などもできると思います。そういう意味では事前にオーダーすればいろいろお願いを聞いて答えてくれるのではないでしょうか。スペシャル・サービス途中フルートの生演奏もありました。芦ヶ久保では氷柱を見る為にストップ。2号車の前で停車。次は4号車の前で停車。52席の至福からのお土産品秩父の赤ワインの絞りかすから作られた焼き肉のタレと、グラス・コースターは車内で使用したもの。ちなみにコースターは52席の至福 電車のロゴをあしらったものなので全4種。一枚500円で販売されています。車内販売のグッズ他にバーニャカウダがありました。確か1280円。購入しました。今回の列車は秩父発のデイナーコースで西武新宿到着でした。午前中にラビューで秩父に向かいましたからおまけです。Laview(ラビュー)西武鉄道001系 2019年3月運行開始。車体はアルミニウム合金製車体を採用。老朽化した10000系「ニューレッドアロー」の後継車両として製造。新車両のコンセプトは都市や自然のなかでやわらかく風景に溶け込む特急。みんながくつろげるリビングのような特急。L - 贅沢(Luxury)なリビング(Living)のような空間a - 矢(arrow)のような速達性view - 大きな窓から移りゆく眺望(view)からLaview(ラビュー)と命名されたらしい。52席の至福 電車では西武鉄道の一日フリーキップが付いています。特急券は別。客室窓 縦 1,350 mm×横 1,580 mmの大型窓上下の写真は別日に撮影したものです。西武秩父に停車していたラビューです。乗車が迫っていたので先頭まで撮影に行けませんでした。先頭車両の写真のみウィキメディアから借りました。列車を見せる為に両サイドの景色削除させてもらいました。池袋駅です。ラビューも日曜の昼は満席でした。また、平日の通勤時間帯は30分おきに運行しています。非常に混んでいます。所沢までは20分程度ですが、所沢から西武秩父まで1時間かかっています。西武秩父駅右端のホームに52席の至福 電車が停車している。向こう方面は三峯行き。駅に付随して右にお土産屋、フードコート、温泉施設と並んでいる。駅に温泉施設があるので帰りに寄って帰る人が多い?是非入浴して帰ってください。おわります m(_ _)m
2023年02月25日
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訂正を入れました。※ 最初にビアズリーの才能を見つけて美術学校に行く事を勧めたのはエドワード・バーン=ジョーンズでした。でもモリスに彼の絵を勧めたのは評論家のエイマー・ヴァランス。しかしモリスには断られたので、次ぎにロバート・ロスが紹介される。ロバート・ロスからワイルドに繋がるようです。ビアズリーはいろんな人に助けられてきたようです。そこに、同志の助け合いも垣間見られます。遅ればせながらやっと新春の一号です。正月明け面倒な事件が続き大幅に遅れました。申しわけありませんでした。<(;_ _)母の体調不良で呼び出され、実質、家政婦状態の毎日で疲労困憊大失態もしました。高級ガラスで造ったステンドグラスのランプシェードを出窓から落として割ってしまったのです。回収できるガラスは取っておこうと鉛を溶かしてそこそこ解体するのに7時間もかかりました。ステンドグラスは造るより修繕の方が時間がかかるのです。確定申告の準備もあるし、パソコンのリニューアルもあるのですが、計画した予定が母で全て吹っ飛びました。さて、昨年に引き続き、19世紀の英国画壇で起きたラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood/P.R.B.) 後編です。今回は追随した第2グループとラファエル前派のもたらした影響と言うあたりかな? P.R.B.自体の活動はほんの5年。でも彼らの絵画への姿勢は英国画壇に革新をもたらした。追随した者らも現れた。少なからず影響を受けた者は数知れず。また絵画のみならず、彼らが社会に与えた影響もある。19世紀の英国を紹介するのに、彼らの活動は微妙に外せない部分でもあるのです。今回も盛り沢山です。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス文芸書の発行とイラストレーター(Illustrator)の誕生画家とイラストレーター絵の具の新色の発売ジョン・ウィリアム・ウォーターハウステート・ブリテン(Tate Britain)ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)ソロモン・ジョセフ・ソロモン(Solomon Joseph Solomon RA)アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ラファエル前派兄弟団に追随した第2グループエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)モリス商会のタペストリー(tapestries) 聖杯(Holy Grail) Vr2モリス商会の Stained glass window(ステンドグラスの窓)ウィリアム・モリス(William Morris)モリス商会のテキスタイル (printed textile)アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)モリス・マーシャル・フォークナー商会の役割ラファエル前派からデカダンに向かったシメオン・ソロモンシメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)から※ 今回、目次は作品名でなく画家の名前で入れました。文芸書の発行とイラストレーター(Illustrator)の誕生活版印刷が1445年に確立されると、以降、聖書の印刷、学術書の印刷など社会に果たす役割は増えていく。だが、それでもまだ庶民が手にするにはほど遠いもの。18世紀になると哲学者や詩人も本を出版。でもまだ上層の貴族階級のもの?それが庶民にいつ頃降りたか? は定かでない。識字率の問題もあるからね。以前フランス革命の直前にプリントのビラや小冊子が街に多数現れて、在る事、無い事、スキャンダラスな情報に惑わされた庶民が革命を起こす機動になったと紹介した。それを考えると18世紀末には、印刷物はかなり庶民の身近な物になりつつあったのかと思う。※ 「マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃」の中、「革命をあおったマスコミ」で紹介。リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃以前「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」で紹介したオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)(1872年~1898年)は挿絵画家としてスタートした。画家と言うよりイラストレーターとして作品を発表。 また、やはり以前「ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師」で紹介した英国の詩人であり画家?であるウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年)は1788年、詩と画像を一枚の銅版画に載せると言う「彩色版画(Illuminated Printing)」を考案。これによりブレイクは自身の銅販画の印刷機で自分の本を印刷する事を可能にした。彼は版画家ではあるが、認知は画家と言うよりはイラスイトレーターだ。リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師ラファエル前派を創始したメンバーの3人は国立美術学校、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts, RA)のメンバーで正統な筋の画学生であったが、彼らラファエル前派が求めた画題こそ、まさに小説や詩などの印刷本の挿絵に同じなのである。画家とイラストレーター彼ら以前は、画家と呼ばれる者には厳格な定義があった。中世来確立された手法により伝統的な古典画を描き、かつアカデミーに認められた者である。ここには画家と簡易に絵を描く絵師との厳格な差が存在していた。※ ラファエル前派の活動は、まだ画家となっていない画家の卵が画壇に殴り込みをかけたのに近い。彼らの中でも、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)はアカデミーも認める画家となれたが・・。話しを活版印刷に戻すと、本の出版が増えた事が多きいのだろうが、産業革命が作興(さっこう)する世にあって絵の需要は商業分野にも増えて行った。文学や小説、詩集に挿絵(イラスト)は付きものとなる。また街角に絵付きのデザインポスターが出現するのもこの頃だ。19世紀の英国では中世騎士物語の「アーサー王伝と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)」に始まる文芸物。それらに刺激を受けた詩文。ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)戯曲「ハムレット (Hamlet)」、「ロメオとジュリエット(Romeo and Juliet)」、「夏の世の夢(A Midsummer Night's Dream)」など英国古典文学の書が次々出版される。「ハムレット (Hamlet)のオフィーリア(Ophelia)などのヒロインはラファエル前派らのテーマとなって多数描かれたのもこの影響だろう。需要の増す挿絵、それらの絵、全てを画家が担ったわけではない。むしろここに画家とは呼ばれない商業分野専門の絵師も誕生する。イラストレーター(Illustrator)の定義は今も曖昧な気がするが、商業的には伝える目的が果たせれば良いわけで素人絵師が相当数あらわれたと思われる。前回紹介したダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)は、自ら詩作し、自ら挿絵しているが、彼の場合は元々エリート校の画学生ではあったけどね。つまり19世紀、産業革命と共に社会のステージが上がり識字率も上がった? 文芸書の出版が増え、同時に挿絵による絵の需要も増えて行ったと思われる。※ 以前私の所持品として紹介したオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)の額絵はそうした本の挿絵部分を切り取って販売されたものだ。因みに、私の場合、挿絵画への興味から作品に入った場合もある。素敵な絵は中身への興味をかき立てるのに十分な宣伝効果があるからね。絵の具の新色の発売以前、「ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green」の所、「美しいグリーンの顔料の発明とナポレオン」の中で紹介しているが、18世紀から19世紀はたくさんの発明により顔料が増えた時代なのです。リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green新発見の鉱物や化学合成によって顔料が作られ、絵の具の新色が多数生まれた。※ 年表も少しナポレオンの所で紹介しています。批評家のジョン・ラスキン(John Ruskin)は、ラファエル前派らの絵を「風変りではあるが、素晴らしいデッサンの仕上がり、色彩の輝かしさ、自然の細部に対する注意深さ。」とタイムズ紙に擁護の評論を寄せた。※ ジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)「色彩の輝かしさ」に関しては、まさに新しい絵の具を使った事による効果だろう。ラファエル前派以外の画家らも当然、新しいカラーの絵の具を使ったと思われる。だから色彩に関しては、必ずしもラファエル前派に追随した訳ではないだろう。実際、印象派の画家らがまさに好んで使ったのが明るい新色。むしろそうした絵の具が発売されたからこそ、鮮やかに彩られた印象派が誕生したと言ってもいいだろう。そう言えばゴッホの弟テオが新色の絵の具が出ると喜んで兄の元に届けていたっけ。因みに、くすんでいないライトなグリーン。シェーレグリーンやパリスグリーンは印象派やヴィクトリア朝の画家らもよく使ったカラーであるが実はヒ素から造られていた。「ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green」はそんなお話です。産業革命期の新時代のカラーに対して、以前は自然の鉱物や貝や草木をすりつぶしたりして顔料が作られていたから、どうしてもカラーは暗色になりがち。古典画の色が暗色なのは致し方ないのである。アカデミーはもしかしたら絵の具さえも、昔ながらの絵の具を使用するよう学生に言っていたのかも。つまり、19世紀、化学合成により絵の具の新色が増えたと言う事は、当然描かれる絵も様相を大きく変える事になったし、それは必然であったと言うことです。産業革命に対しては諸々批判もあるが、「社会の色」と言う点で考察すると世の中は明らかに明るくなったのである。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスウォーターハウスは両親ともに画家であり、ローマを拠点にしていた父親の影響を多分に受けて1870年には英国のロイヤル・アカデミーに入学。そこでジョン・エヴァレット・ミレーやサー ローレンス アルマ タデマ に指導されていた? と思われる。つまり、元々正統派の画家なのです。ウォーターハウスの作品は古代ローマやギリシアの神話のテーマが多い。それは師のサー ローレンス アルマ タデマの影響か? は不明ですが、英国文学からの作品も多数描いています。そのあたりはジョン・エヴァレット・ミレーの影響か?ウォーターハウスが後期ラファエル前派に入れられる? のはそうした理由で多分に指導なり影響を受けた事が作品に繁栄されているからなのでしょう。今回、最初に紹介するThe Lady of Shalott (1888年)はテイト、ブリテン(Tate Britain)で直接撮影した作品です。確かにこの作品はミレーが意識されている。モチーフのみならず細部まで描かれた自然も・。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)The Lady of Shalott 1888年所蔵 Tate BritainThe Lady of Shalott(シャロットの貴婦人)※ (Elaine of Astolat)(アストラットの美女)詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)(1809年~1892年)がアーサー王伝を元に書いた悲恋のストーリー。詩の主人公シャロット姫はアストラット出身の貴族。バーナード(Bernard)家からは兄(Lavaine and Tirre)がアーサー王の円卓の騎士に名を連ねている。彼女は馬上槍試合で偶然ランスロット卿に合い恋をする。彼もまた円卓の騎士の1人。ランスロット卿はアーサー王伝の中ではアーサー王の妃であるギネヴィアと不倫関係にあった事から?ランスロット卿は彼女の思いには応えられない?シャロット姫は片思いの恋煩いで死んでしまう。ランスロット卿への想いを綴った手紙を胸にその亡骸は小舟に乗りアーサー王らの居るキャメロット(Camelot)城までたどり付く。アーサー王や円卓の騎士はそれを知り涙すると言うお話だ。まさに詩に絵が付けられた作品である。絵は無言で詩を語っている。絵では生きているシャロット姫であるが実際は亡骸。本来は黄泉の国に向かうべきなのに敢えてキャメロット(Camelot)へ?実はアーサー王の時代(実在ではないが6世紀頃と推定される。)、亡くなると遺骸は船の聖棺に葬られていた。だから船はあながち間違いではない。シャロット姫に焦点を当てたテニスンもだけど物語がより深くなる絵ですね。ラファエロ前派の絵は、興味をそそる絵が多いのです。アーサー王と円卓の騎士の物語は小学生の時に読んでいたけどラファエロ前派の絵に会うまでシャロット姫の事は全然記憶になかった。小学生時代に恋愛に興味は無かったからね。それより円卓のサイズや円卓をどう運んでいたのかの方が気になっていた私・・そもそもアーサー王の話しは、もともとケルト伝承の話し。それ故、これと言った正解の話しはなく、中世以降に吟遊詩人により創作され追加された話しも多分にあると思われる。物語に一貫性が無いと言われるのもそうした理由だろう。11世紀、また15世紀にはトマス・マロリー(Thomas Malory)が順番にまとめて編纂しているが・・。だから逆にテニスンも、ラファエロ前派の画家らも創作しやすいと言う利点はあったのです。ラファエロ前派らは最初に聖書をモチーフにして失敗した。聖書はいじっちゃいけないのです。これに関しては、彼らがどう感じたとかは不要の産物。だから彼らは総攻撃で叩かれたのだ。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)Ophelia(オフィーリア) 1894年所蔵 Private collection画像はウィキメディアから借りました。前回紹介したジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)のOphelia(オフィーリア)は1852年作。ウォーターハウスは当然その作品を見ているはず。※ Ophelia(オフィーリア)はウィリアム シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の悲劇「ハムレット(Hamlet)」の中で悲劇的な死を迎える女性。脇役の彼女をメインに扱った本作はまさに画家の創造の産物。悲哀を現したミレーの水中のオフィーリアに対してウォーターハウスは入水前の無垢なオフィーリアを描いている。実はウォターハウスは複数のオフィーリアを描いている。最初のオフィーリアは1888 年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の卒業を決める為の作品として提出されている。人気のテーマだったのかもね。1894年が一番魅惑的。※ 1888年版と1910年版はともに個人コレクターのAndrew Lloyd Webber 氏のCollectionとなっている。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)Pandora(パンドラ) 1896年所蔵 Private collection画像はウィキメディアから借りました。ゼウスが人間に災いをもたらす為に送り込んだのが1人の女性パンドーラー(Pandōrā)。「全ての贈り物」を意味する名前。彼女は好奇心から箱を開封。箱にはあらゆる災いが詰まっていた。戦争や疫病や悲しみなど人に苦しみを与える物。彼女は慌てて蓋(ふた)をしたけれどほとんどの災いは出てしまい箱にはかろうじて「希望」だけが残ったという。ギリシア神話に由来するお話。つまり人間界のこの世の災いは、彼女が箱を開けた事で放たれた不幸なのである。絵が美しいから簡略な説明でもストーリーが見えてくるでしょ?ウォーターハウスの他作品は「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」で「オデュッセイア(Odysseia)とセイレーン(Siren)」を紹介しています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦テート・ブリテン(Tate Britain)テムズ川畔、ミルバンク地区にある。昔のテート・ギャラリー(Tate Gallery)だ。2000年に近現代美術が分理しテート・モダン(Tate Modern)と、イギリス美術専門のテート・ブリテン(Tate Britain)に分かれ2001年に開館。正面は川側にあるが入口はこちらではない。わざわざ来たのはもちろんラファエル前派の絵を見る為。作品数があるからか? 2段で飾られると上のは見にくい。ルーブルと違って作品は割と小品が多いし・。でもそれは、作品が一般家庭の屋敷に飾られると言う前提で描かれていたからだろう。英国は王室が健在なのでロイヤルコレクションの流出は無いからね。中央 ソロモン・ジョセフ・ソロモン左小品 ローレンス・アルマ=タデマ上の写真の左にある小品ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)A Favourite Custom (お気に入りの習慣) 1909年所蔵 Tate Britain写真がボケ気味だったのでこちらはウィキメディアから借りました。ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)はヴィクトリア朝時代に活躍した画家で貴族の称号ももらっていますが、実はネーデルランド出身。ベルギーのアントウェルペンにあるロイヤル・アカデミー・アーツ出身の正統派の画家です。※ アントウェルペンのロイヤル・アカデミー創設は1663年。ローマ(1588年)、パリ(1648年)に次いで3番目。世界有数のデザイナーや芸術家を輩出している名門校です。1870年にイギリスへ帰化。1876年に英国のロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの準会員に選ばれ1879年に正会員。1899年に騎士の称号(Sir)を得ている。ローレンス・アルマ=タデマの作品は古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵が多い。しかも割と小品が多い。つまり恐ろしく細密に描かれている写実画と言うことで二度びっくり。一度模写を試みた事がある。キャンパスのサイズを同じに特注した時にこんなに小さいの? と思ったと同時に極細筆も取り寄せたが、とても真似できるものじゃない。筆下の腰が弱いから筆が思うように動かない。筆の毛に何を使っていたのかな?アルマ=タデマの作品には必ず大理石が登場。その大理石の表現が素晴らしいのも特徴。アルマ=タデマの他作品は以前「セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)」と「ヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus)」で紹介してます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックラファエル前派は、ローレンス アルマ タデマのようなロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに所属する画家にも影響を与えている。またローレンス アルマ タデマの影響を受けた画家にソロモン・ジョセフ・ソロモンがいる。上の写真中央の絵。ソロモン・ジョセフ・ソロモン(Solomon Joseph Solomon RA)(1860年~1927年)Eve(イブ)所蔵 Tate Britain1908 年にロイヤル アカデミーで初めて展示渦巻く雲の空を背景に大きな翼のある天使によって高く掲げられた等身大のEve(イブ)。無数の解釈のできるダイナミックな作品。こんな作品を生んだ彼のバックボーンはその経歴。ソロモンは1877 年までロンドンのロイヤル アカデミー でジョン エヴェレット ミレー とサー ローレンス アルマ タデマ に師事。その後1878年、パリのエコール・デ・ボザールでアレクサンドル・カバネルに師事。※ エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)(パリ国立高等美術学校)。ミュンヘン美術院(Academy of Fine Arts Munich)でも学んだ後、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダ、モロッコを旅している。あらゆる知識と見聞と当時の流行を見たのだろう。ソロモンはロンドンに戻ると ニュー イングリッシュ アート クラブ(New English Art Club)をメンバーの1人として創設している。※ 国外で美術を学んだ若い芸術家で設立されたにロイヤル・アカデミーに属さない職業画家の協会。だがソロモンはじきにグループを去る。ロイヤル・アカデミーに移籍したからだ。ロイヤル・アカデミーで十分認められる実力のある画家として招かれたのだろう。ちょっとオマケです。彼が最も影響を受けた? と思われるフランスの画家アレクサンドル・カバネルの作品を紹介。アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)(1823年~1889年)The Birth of Venus(ヴィーナスの誕生) 1875年所蔵 Metropolitan Museum of Art画像はウィキメディアから借りました。アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)(1841年~1893年)A Venus(ヴィーナス) 1869年所蔵 Tate Britainこの一見地味な配色の絵画であるが、ムーアはここに色彩美の追究を試みているそうだ。白とグレーを基調に藍色、ピンク、クリーム色くすんだ緑を配して。ここでは色と形に注目してほしいらしい。とは言え、ヴィーナスの腹筋に目が行くが・・ムーアの初期の作品はジョン・ラスキンの影響を受けているらしいが、この作品は19世紀をとおりこして現代的なモダンさを感じる。1860年代には、ウィリアム・モリスの会社、モリス・マーシャル・フォークナー社でタイルと壁紙とステンドグラスをデザイン。またギリシャや英国内で壁画家として活躍しているそうだ。ジャポネズリーを感じるムーア作品があったのでこれもオマケです。アルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)(1841年~1893年)Midsummer(盛夏) 1887年所蔵 Russell-Cotes Art Gallery & Museumウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Golden Stairs(黄金の階段) 1880年所蔵 Tate Britain絵画上部に反射が入ってしまいましたから下はウィキメディアから借りました。黄金の階段は、1876 年に製作が開始しされ1880 年 4 月、グロブナー ギャラリーで発表展示された。実はこの作品はエドワード・バーン=ジョーンズがイタリア旅行(1872 年)の時に残したスケッチから着想されたものらしい。特定の詩歌や文学から由来するものではないのだ。若い女性達が楽器を持って「らせん階段」を降りて来る。古典調のローブは新古典様式のブームに起因した古代ローマ風? と思われる衣装。彼女達を人間ではなく、女神にさえ見せている。柔らかな音楽が聞こえてくるような不思議な絵。それは「らせん階段」と言うモチーフを使い、絶妙に美女を配置したからなのだろう。実際、バーン=ジョーンズは流麗に女性像を配置する事でメロディのような感覚を受けて欲しかったらしい。因みにボデイーはプロのモデルを起用しているが、顔は彼の知人の女性等で構成されている。エドワード・バーン・ジョーンズの娘マーガレットは上から 4 番目。ウィリアム・モリスの娘、メイ・モリスはバイオリンを持って上から9番目。先に紹介したアルバート・ジョゼフ・ムーア(Albert Joseph Moore)のA Venus(ヴィーナス)と同じく、実は色調にこだわった作品でもあるらしい。バーン=ジョーンズの初期作品は絵の師匠であるダンテ・ガブリエル・ロセッティの影響が強い。彼自身のスタイルが確立されるのは1870頃?この作品(黄金の階段)の製作年は1876年~1880年だが、ロセッティのスタイルもバーン・ジョーンらしさもある。ラファエル前派兄弟団に追随した第2グループラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の後継者と言って差し支えないのが、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)とウィリアム・モリス(William Morris)である。二人はラファエル前派兄弟団の一員であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)の絵を慕って集まった信奉者であった。ラファエル前派兄弟団自体は方向性の違いで1853年に解散した。ミレイはアカデミーに認められ古典に進む中でロセッティは画壇から離れて行く。より中世を題材にした詩や文芸に特化し、作品は個人収集家に売っていたらしい。もともとカリスマ性があったと言うロセッティの回りには信奉者が集まった。画家の卵たちも助言を求めてやってくる。そんなロセッティに指導された彼らが、後期ラファエル前派? を形成して行ったらしい。ロセッティを崇敬していたエドワード・バーン=ジョーンズとウィリアム・モリスは、共に画学生ではなかったが、後々ロセッテイは2人の絵の師匠になる。当時のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは面倒見も良かったのだろう。後々面倒を見てもらっていたエドワード・バーン=ジョーンズはビアズリーに助言し、学校を勧めているし、ウィリアム・モリスは画家仲閒に仕事を提供したりしている。同志のネットワークや助け合いがそこに見える。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)エドワード・バーン=ジョーンズは神学を学ぶ為にオックスフォード大学エクスター・カレッジ( Exeter College, Oxford)に入学。※ エクスター・カレッジは聖職者養成校として設立されている。※ 神学を学ぶ前に1848年から1852年までバーミンガム美術学校に通っ経歴があった。オックスフォード入学の年がハッキリしないが、1852年とするなら、ウィリアム・モリスとは同級生となる。ウィリアム・モリスとは詩を通して知り合う? 趣味が同じだったのだろう。2人はジョン・ラスキンの思想に傾倒しアルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson)(1809年~1892年)の詩を読み、教会を訪れ、中世の美学と社会について語りあっていたらしい。古典でも特に中世に傾倒していたウィリアム・モリス。彼が勧めたのか? はわからないが、この頃バーン=ジョーンズは中世のアーサー王文学の集大成とも言えるトマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)著の「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」を知る。ラファエル前派の絵もこの頃知ったのかもしれない。中世への興味が倍増した? 彼の運命はここで方向が変わるのである。実際、彼らが、いつラファエル前派を知りダンテ・ガブリエル・ロセッティを知ったかは不明だが、2人はダンテ・ガブリエル・ロセッティの大ファンとなる。作品に大きな影響を受けただけでなく、ロセッティの宣伝の為にオックスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン(Oxford and Cambridge Magazine)を立ち上げ、そこに寄稿してくれるよう直接ロセッティに交渉したのがモリスだ。それが1856年。2人が個人的にダンテ・ガブリエル・ロセッティと繋がった瞬間かも知れない。ラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)自体は1848年結成。1853年に解散。解散後、ロセッティは自ら詩を書き、中世の物語を題材に独自スタイルを確立して行く。ロセッティの信奉者が増えるのはまさにこの頃なのかも。ロセッティがバーン=ジョーンズに宛てた手紙に「詩心があるなら絵を描くべきた。と言うのは詩情はすべて語られ歌われつくしたのに、絵はまだほとんど描き始められてもいないから。」と、描く事をすすめている。バーン=ジョーンズの描く人物像は両性具有のような姿とよく形容されるが、露骨な描写も無く、むしろリアリティーは皆無。潜在的に詩的世界を喚起させる? 絵が語る絵なのである。それはまさにロセッティが言った通り、詩を絵が構築しているのである。そんなバーン=ジョーンズの絵は大陸の象徴派の関心を呼んでいた。審美主義者の嗜好にも合った。彼の絵に対して詩人さえも評価を出している。当時、バーン=ジョーンズが最もロセッティに近い所にいたのは間違いない。※ 神学に進んでいたが、絵に関しては、元々バーミンガム美術学校に通った経歴があったからド素人ではなかった。結局、バーン=ジョーンズはエクスター・カレッジで学位を得ることなくオックスフォード大学を卒業。後々彼はオックスフォード大学から名誉学位を授与され、1882 年には名誉フェロー(fellow)になっている。それはたぶん画家としての成功故だろう。1894 年、準男爵(baronet)の称号も得た。敬称はサー(Sir)。英国では耽美主義運動が生まれつつある中、神学を放棄したエドワード・バーン=ジョーンズは友人モリスと共に美術工芸の分野でデザイナーとして活動。画家としての才能のみならず、そのデザインはタペストリーやステンドグラスなど装飾工芸品の中で生かされた。モリス商会のタペストリー(tapestries) 聖杯(Holy Grail) Vr2エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)ジョン・ヘンリー・ディアル(John Henry Dearle)(1859年~1932年)The Arming and Departure of the Knights(騎士団の武装と出発)Vr1 Stanmore Hall(スタンモア・ホール)の為に1891年~1894年 モリス商会が最初に製作。画像はウィキメディアから借りました。写真のタペストリーはVr2Vr2 Compton Hall(コンプトンホール)のLawrence Hodson(ローレンス・ホドソン)の為にモリス商会が製作したものらしい。デザインは3人の共作。エドワード・バーン=ジョーンズ・・全体のデザインと人物。ウィリアム・モリス・・全体のデザインと製作。ジョン・ヘンリー・ディアル・・花、装飾のディテール。下は部分拡大。聖杯を求めて出発する円卓の騎士(Knights of the Round Table)に防具や剣を渡す乙女達の図。タペストリーのクオリティーは実際見ていないからわからないけどデザインは素敵。これが中世のフランドルで織られていたら、もっと素敵だったかも。因みに、鎖帷子(くさりかたびら)の説明をしている回があります。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)モリス商会の Stained glass window(ステンドグラスの窓)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)ウィリアム・モリス(William Morris)Allegory of Justice(正義の寓意)所在 St.Andrew and St.Paul Presbiterian church Montreal1902年、モントリオールのセントポール教会に設置された。画像はウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズが全体をデザイン。バックの植物はまさにウィリアム・モリスの意匠。モリス商会が制作。ウィリアム・モリスは1896年没。エドワード・バーン=ジョーンズは1898年没。設置の時にすでに2人はいない。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)Saint Cecilia(聖セシリア)所蔵 Princeton University Art Museum画像はウィキメディアから借りました。個人的にステンドグラスをしていたから良く見ているが、焼き付けのステンドグラスとして非常にクオリティーが高いし、絵も素晴らしく美術的価値が高い。大聖堂で見てきたステンドグラスよりはるかにレベルが高い。これはモリス商会がかかえるステンドグラスの焼き付け絵師の職人も一級であったと言う事を証明している。ただの職人ではなく、絵付けに関しては画学生を使っていたのかもしれない。それにしてもエドワード・バーン=ジョーンズの絵はステンドグラス向きなのだと今頃気がついた。ウィリアム・モリス(William Morris)ウィリアム・モリスもまたオックスフォード大学エクスター カレッジ(1852 年入学)の生徒であった。大学での活動はエドワード・バーン=ジョーンズとほぼ同じだろう。そもそも彼が真剣に聖職者になろうとしていたかは不明だ。家も裕福だし・・。それに彼は作家としても成功している。The Well at the World's End (世界の果ての井戸)・・ハイファンタジー小説。News from Nowhere (ユートピア便り)1891年・・社会主義的理想郷を描いた小説。The Earthly Paradise(地上の楽園)・・1868年から1870年にかけて刊行された序詩と24編の物語詩からなる長編叙事詩。古典でも特に中世文学に影響されたモリスは多数の詩やロマンス小説を発表している。その才は指輪物語の著者J・R・R・トールキン(1892年~1973年)にも影響を与えていると言う。※ トールキンもまたオックスフォード大学出身で後に英文学の教授になっている。因みに1892年モリスは桂冠詩人(けいかんしじん)に推薦されたが辞退している。※ 桂冠詩人(poet laureate)とは、優れた詩人に与えられる称号であり、古代ギリシャ・ローマ時代から存在した。詩作も競技として扱われた古代ギリシャ時代には月桂冠(月桂樹の冠)が授与されていた事に由来する名称。ウィリアム・モリス(William Morris)と言えば美術工芸家として認知されている。また彼は事業家であり、19世紀、英国の室内装飾(インテリア)に革命をもたらした人物でもある。画家としてよりデザイナーとして知られている。またその才は非常にマルチであった。ウィリアム・モリスが室内装飾(インテリア)方面に起業するに至ったきっかけこそが実はジョン・ラスキン(John Ruskin)との出合いや、デザインの師匠となるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)、同じオックスフォード大学で知り合う友人エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)らの存在であった。1855年、エドワード・バーン=ジョーンズと共にフランスを旅し、2人は芸術家を志す決心をする。エドワード・バーン=ジョーンズは画家に。ウィリアム・モリスは建築家を目指す。1856年、ウィリアム・モリスは建築事務所に入所。そこでネオ・ゴシック建築家のフィリップ・スピークマン・ウェッブ( Philip Speakman Webb)(1831年~1915年)と出会う。※ ウェッブとモリスはアーツ・アンド・クラフツ運動の重要な役割を担う事になる。ウィリアム・モリスはエドワード・バーン=ジョーンズの師匠であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの元で絵を習い一時は画家になりたいと願った事もあるらしいが、最終的に装飾美術の方面に道を進めデザイナーとなった。特に草木や葉をモチーフにしたテキスタイルは今現在でも人気。モリス商会のテキスタイル (printed textile)Snakeshead printed textile 1876年designed by William Morris画像は共にウィキメディアから。上下共に柄をはっきりさせるよう色調を調整しています。デザインの特徴はシンメトリー。そして植物は婉曲して描かれている。これらデザインは布や紙にプリントされ、カーテンや家具、壁紙などに使われた。1830年~1870 年、英国の壁紙生産量は30倍に伸び、欧州各地から需要もあった。Strawberry Thief(いちご泥棒) 1883年designed by William Morrisモリスを代表する柄ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum V&A)モリスのコーナがありタペストリとテキスタイルと椅子が展示されている中にもあった。部屋は薄暗く写真がボケてます。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Beguiling of Merlin(マーリンの誘惑) 1872 年~1877 年所蔵 Lady Lever Art Galleryウィキメディアから借りました。1877 年、グロブナー ギャラリーで発表され称賛された作品。実は1860 年代後半、リバプールの船主で美術品収集家であるフレデリック リチャーズ レイランド に依頼された作品らしい。先に彼自身のスタイルが確立されるのは1870年頃としているが、このThe Beguiling of Merlin(マーリンの誘惑)の製作年は1872 年~1877 年。バーン=ジョーンズ スタイルが固まった頃? かもしれない。内容はアーサー王伝から 魔術師マーリン(Merlin)が湖の乙女ニムエ(Nimue)に夢中になった結果彼女に呪文をかけられている。と言う構図。ここでは湖の乙女は魔女なのである。ラファエロ前派の描いた邪悪な女性はすべて魔女なのである。美しい魔女がその美貌で男を虜にするのを責めるべきではないと言っている。逆に言えば、妖艶な美女の力は魔法なのだそうで、エドワード・バーン=ジョーンズは魔女崇拝を流行らせたと言われている。実はアーサー王伝ではドルイドの魔術師マーリンがアイルランドから魔法で石を運び、ストーンヘンジを建てたとされている。マーリン(Merlin)は偉大な魔術師なのである。記憶が定かで無いが、ストーンヘンジに刺さった剣が抜ければ正統なブリテンの王としたマーリン。アーサー王はたやすく剣を引抜き正統を証明。その剣がエクスカリバー(Excalibur)だったような気が・・。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Last Sleep of Arthur in Avalon(アヴァロンのアーサーの最後の眠り)1881年~1898年所蔵 Museum of Art in Ponce Puerto Ricoウィキメディアから借りました。彼の人生に大きな影響を与えることになった、トマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)の「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」はオックスフォード大学在学中に出会った。部分 こちらもウィキメディアから傷を癒すためにアヴァロン(Avalon)島に運ばれる。瀕死の重傷を負い横たわるアーサー王とアヴァロンを守護する9人の姉妹と吟遊詩人タリエシン(Taliesin)が描かれている。エドワード・バーン=ジョーンズの運命に影響を及ぼした「アーサー王の死(Le Morte d'Arthur)」「アヴァロンのアーサーの最後の眠り」として彼は描いた。製作は1881年~1898年。1896年、友人のモリスの死がショックでバーン=ジョーンズ自身の健康も悪化。そのまま回復することなく1898年6月永眠。バーン=ジョーンズもアーサー王と同じくアヴァロンにいる心境でラストに大作を描いたのかもしれない。アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)トマス・マロリー(Thomas Malory)(1399年~1471年)の「アーサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)」はもともとケルト伝承から始まっている。5~6世紀頃の話しとしてブリトンに伝わっていた幾多の伝承があった。当初はケルトの王であったはず。おそらく8世紀頃、アーサー王はキリスト教の戦士になったと思われる。最も、現実的にノルマン・コンクエストによりイングランドがキリスト教化するのは 1066年ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)が王位に即いた時なのだが・・。12世紀には十字軍遠征もあり騎士道文化が興隆していたので聖杯伝説はその頃取り入れられたのかもしれない。15世紀には、そこそこ話しはできあがっていたのかもしれない。トマス・マロリーはそれらをまとめて編纂し、騎士道物語として完成させたのだと思われる。その中には彼のオリジナルもあるのだろうが・・。アーサー王伝のストーリーは、幾つかのパートで構成されている。アーサー王の出生に始まり彼が王になる話し。次いでアーサー王の宮廷(キャメロット)に集った円卓の騎士達と彼らの冒険物語が描かれている。特筆するのは、聖杯伝説はここから生まれたと言う事だ。映画インディジョーンズ最後の聖戦で描かれた「最後の晩餐で使われたという聖杯」はそもそも聖書の話しには無い。ここに端を発している。そもそもはアーサー王と円卓の騎士が探し求めた聖杯伝説だったのである。ロマンスあり、妻(グィネヴィア)の裏切りもある。そして最後は王国の崩壊とアーサー王の死へと続く。アーサー王は致命傷を負い、その傷を癒すためにアヴァロン島に船で運ばれる。アヴァロン(Avalon)はリンゴの成る癒しの島? 傷ついた騎士を癒やす楽園とも・・。「アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り」では瀕死の重傷を負い横たわるアーサー王とアヴァロンを守護する9人の姉妹と吟遊詩人タリエシン(Taliesin)が描かれている。モリス・マーシャル・フォークナー商会の役割室内装飾業の企業のきっかけは自邸の建設だったらしい。1861 年、モリスはモリス・マーシャル・フォークナー商会(Morris, Marshall, Faulkner & Co) と言う装飾芸術会社を設立。メンバーはエドワード・バーン=ジョーンズ、フィリップ・スピークマン・ウェッブだ。モリス商会では壁紙やステンドグラス、ファブリック、家具の制作など室内装飾の多岐にわたる要望に応えた。デザインから製作まで一貫して請け負うと同時にそれらは昔ながらの職人の技術、クラフトマンシップ(craftsmanship)に頼って造作された。彼らの造作する品は良質で、ファッショナブルで人気があり、非常に需要あったと言う。因みに、ウィリアム・モリスは中産階級の裕福な家の出身である。気の利いたおしゃれな家具やファブリック、壁紙にまで至るまで高級品を知っていた。そしてもっと素敵な贅沢な品を皆が求めている事も知っていた。教会にしかなかったステンドグラスを家の窓にもはめた。モリスの造り出した草木や花のモチーフの壁紙は今も劣らず人気がある。そして彼にはそれを造り出す事が可能だったのである。モリス商会が起こしたクラフトマンシップによる美術工芸の復興は、19世紀の英国でアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)を起こす事になる。モリス商会はアーツ・アンド・クラフツ運動の中心でヴィクトリア朝時代を通じて室内装飾に大きな影響を与え続けたのだ。モリス商会の事はまたどこかできっちりやりたい所です。ところでなぜモリスが中世にこだわったのか?モリスの中世主義は、一気に進んだ産業革命期のビクトリア朝社会の問題点に起因する。彼は社会の改善には「中世の強い騎士道的価値観と共同体意識が望ましい。」中世に回帰すべきだと考えたようだ。そう考えると、彼がモリス商会で推し進めたクラフトマン・シップも技術を守るとかではなく、職人技術を大切にした中世社会の再現にあったのかも。ラファエル前派からデカダンに向かったシメオン・ソロモンシメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)The Sleepers and One that Watcheth (眠る者と見る者) 1867年所蔵 Birmingham Museum & Art Gallery画像はウィキメディアから借りました。シメオン・ソロモン(Simeon Solomon)も、後期ラファエロ前派に分類される画家でした。ポピュラーではないので私も知りませんでしたが、ロイヤル・アカデミー(1855年入学)出身の画家です。ソロモンはユダヤ教徒という出自を活かし画題に旧約聖書という新しい画題を持ち込んだ新進の画家としてラファエル前派に迎えられたらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが妻を亡くした(1852年)後、同居していた過去もある。またロセッティはエドワード・バーン=ジョーンズを紹介したので彼の工房に出入りもしていた。上の絵は夢幻(ゆめまぼろし)の中にいるようなアンニュイな作品で、柔らかいメロデイーが流れているよう。まさにロセッティの言った詩の情景である。1860年代のシメオン・ソロモンはアカデミーや、ダドリー・ギャラリーに精力的に作品を出品。モリス商会のデザインにも参加しているし、聖書にイラストも提供している。1867年「バッカス」発表の後に唯美主義との関わりが始まる。享楽的な人達との交友が始まり自身も享楽的な世界に落ちて行くのである。シメオン・ソロモンはラファエロ前派からデカダン的唯美主義に移行する?自らの性癖などアカデミーからも追放される事になり最後はセント・ジャイルズ救貧院で亡くなっている。ラファエロ前派の絵が象徴主義の先駆けであるとか、耽美的であるのはわかるが、どこからデカダン要素が出たのか? と言う謎が、このあたりにあったのか? と言う事でシメオン・ソロモンを紹介しておきました。シメオン・ソロモン(Simeon Solomon)(1840年~1905年)Autumn(秋)Private collection画像はウィキメディアから借りました。それにしても、デカダンと言えば作家オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)(1854年~1900年)であり、挿絵画家オーブリー・ビアズリー Aubrey Vincent Beardsley)(1872年~1898年)が上げられる。退廃的な(デカダンスdécadence)という呼び名はフランス語である。簡単に言えば、キリスト教的、社会道徳を無視して、芸術を至上主義とする人達の思想だ。人で言えば、メチャクチャ、無秩序で、破天荒な人達と言える。作風から、フランスのボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、英国ではワイルドが代表される。ところで、ウィリアム・モリスにビアズリーの絵を挿絵画に使わないか? と最初に紹介したのは美術評論家のエイマー・ヴァランス(Aymer Vallance )(1862年~1943年)。モリスに断られ、エイマーはロバート・ボールドウィン・ロス(Robert Baldwin Ross)(1869年~1918年)をビアズリーに紹介。ロスはビアズリーの絵を非常に気に入る。ワイルドにはロバート・ロスから繋がるらしい。最後にオマケヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum V&A)もとは1851年のロンドン万国博覧会をきっかけに誕生した美術デザイン博物館でした。創立者であるヴィクトリア女王と夫君アルバート公を讃えて1899年名称が変更。彫刻や工芸の他、甲冑や衣装、アクセサリーなど幅広く展示されている。以前カフェテリアを紹介しています。リンク ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリアここにもバーン=ジョーンズがあった。反射するガラスが入っているので正面から撮影できないのです。下の画像はウィキメディアから借りました。エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)The Mill(ミル) 1870 年製作開始。1882 年完成。所蔵 Victoria and Albert Museum 踊る女性、左からマリア・ザンビコ(マリーの従姉妹)、マリー・スパルタリ・スティルマン、アグライア・コロニオ。The Mill(ミル)はルネサンスにインスパイアされた油彩画らしい。ルネッサンスぽい景観と衣装と、女性を配置したもので、タイトルの「The Mill(ミル)」に意味は全く無いらしい。強いて粉ひきの水車が回っているからだろうか?マリー・スパルタリ・スティルマン(Marie Spartali Stillman)(1844年~1927年)の名があるので共作か? と思ったが、モデルをしていただけのよう。当時、彼女はバーン=ジョーンズの愛人だったらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)マリー・スパルタリ・スティルマンのポートレート 1869年Private collection画像はウィキメディアから借りました。ロセッティやバーン=ジョーンズの絵のモデルとして有名であるが、彼女自身も画家。師匠はラファエロ前派に影響された画家のフォード・マドックス・ブラウン(Ford Madox Brown)(1821年~1893年)。(V&A)に関係なくオマケのオマケエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)An Angel Playing a Flageolet(フラジオレットを奏でる天使) 1878年所蔵 Sudley House画像はウィキメディアから借りました。紙に油彩とテンペラ(oil and tempera) で描かれているらしい。敢えてフレスコ画風に書いたのか?ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の名前は知らなくても、たぶん皆さん子供の頃に読んだ物語などの挿絵で見たりしているのではないか?最初の私の印象は挿絵画家だった。彼らが好んでテーマにした「アーサー王と円卓の騎士」や「シェークスピア」作品、ギリシャ神話など。私も好きだったし、何より美しく描かれているので関連の本はずいぶん買った(高校時代から)今はインターネットで簡単に見られるから画集を買う人は少ないのだろうが・・。今回は、そんな本の解説も利用させていただき勉強しました。納得いかないのもあるし、何を言っているかわからない解説もたくさんありましたが・・。ちょうど1年前に「ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)」をやりました。モローはフランス画壇の人なので今回の英国とは異なりますが、時代は一緒。この時代、とにかく面白いのです。無作為に手を付けてましたが、最近繋がってきたのです。どちらかと言えば古典派な私はミレーの後期作品が好きだった。特に赤いコートを着た少女が汽車で居眠りする2作はお気に入りで、模写をしかけて8割で止まっている。そもそもミレーがラファエル前派のミレイと同一だったとは当初全く知らなかったのです。それだけ初期と後期では作風が違う。ロセッティも初期は見るに絶えなさそうな絵ですが、後期は人を魅了する絵を描いている。皆、進化しているのです。ハントが一貫して主義を変え無かった方が不思議。後期ラファエロ前派に入るモリスが起業したモリス商会。古典やアールヌーボーが好きな私には興味はなかったのですが、今回モリスが本物を届けようと奮闘していた事がわかり感動しました。モリス商会はティファニー商会と肩を並べるインテリア会社だったと言うことがわかり、今後、注視して行きたいと思います。遅いかところでジョン・ラスキン(John Ruskin)の妻とミレーの話し入れ忘れました。まあ、ゴシップだから今回はいいや・・と言うわけでおわります。Back numberリンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝 ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス関連 numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)
2023年01月25日
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「創史のメンバーと追随した第2グループの所、「創史のメンバー」に変更させて頂ました。「追随した第2グループ」当初は入れる予定が入らなくなり、次回に回していました。m(_ _)m次回作に関しては近々に載せる予定です。プライベートで事件? なかなか時間がとれなかったので予定を大幅に押しています。 ペコm(_ _ m三m _ _)mペコ今回は年末ラスト、絵画にしました。ラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の絵画を紹介しようかと思います。たぶん今までの紹介本とは全く異なると思います。書いているうちに関連説明も増えすぎて・・。また、彼らは人間関係も複雑。紹介したい画家もたくさんいるし、絵もたくさん紹介したいので2部構成にすることにしました。テイト・ブリテンとヴィクトリア&アルバート美術館でも撮影はしていますが、欲しい写真が無かったので、絵画の写真は大方の所でウィキメディアから借りています。また、スマホ撮影がOKだった三菱一号館美術館(東京)で撮影したロセッティの絵はオリジナル撮影です。問題はどう仕分けして載せるかですでも、その前に時代の社会情勢の説明から入りたいと思います。なぜなら、芸術は社会情勢に大きく起因しているからです。文化は平和な時代にこそ昇華されますが、ラファエル前派が現れた19世紀の英国はまさに安定した国政に市民経済は好調。市民文化が発達した時代でした。19世紀の英国は、フランスとは事なり王政が安定していたから産業革命も早くから進んだ。英国の植民地政策は成功し大金持ちとなった英国で、ヴィクトリア女王 (Victoria)(1819年~ 1901年)(在位:1837年~1901年)の治世は長く続いた。ブルジョワジー(資本家階級)だけでなく、学のあるプロレタリアート(賃金労働者)も出現し、特に中産階級の国民の文化レベルは相当に上がった。印刷技術は黄金期を迎え、本は大量に印刷され出版された。英国の19世紀は中産階級(中世の第三身分の人々)の躍進が経済発展に大きく寄与している。※ 中世の第三身分の人々。以前フランスの身分制度で説明しています。英国も王政なのでカテゴリーは一緒。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃ラファエル前派の絵画はそうした中産階級の人々に受け入れられて行く。また、彼らを支持し装飾美術方面に起業したウィリアム・モリスの顧客もそうした中産階級を顧客としている。※ ウィリアム・モリスは次回予定。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝フランス革命以降の欧州の情勢ヴィクトリア女王(Queen Victoria)ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とナザレ運動(Nazarene Movement)ナザレ運動(Nazarene Movement)ラファエル前派とジョン・ラスキン(John Ruskin)創史のメンバーラファエル前派兄弟団の初期作品The Girlhood of Mary VirginEcce Ancilla Domini!The Light of the World (世界の光)The Return of the Dove to the ArkOphelia(オフィーリア)1853年ラファエル前派兄弟団 解散Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)Venus Verticordia(魔性のヴィーナス)The Bllessed Damozel(祝福されし乙女) Mnemosyne ムネモシューネー(記憶の女神)The Day Dream(デイドリーム)Proserpine(プロセルピナ) フランス革命以降の欧州の情勢18世紀から19世紀の欧州はパワーバランスが崩れた激動の時代と言ってよい。その皮切りは1789年7月に勃発したフランス革命であった。フランス革命では市民による反乱が王政を倒し、国情を変えた。市民の反乱で王政が倒され、国王が処刑されるなどあり得ない事。近隣の動揺と同時にこの機にフランスを得ようと各国の思惑も働く。そうしてフランス革命戦争(1792年~1802年)が勃発し、欧州各国を巻き込んで行く事になる。1792年4月、フランス革命政府は神聖ローマ帝国(オーストリア)へ宣戦布告。イタリア側からの攻撃を指揮したナポレオンの勝利によりイタリア北部とライン川以西が事実上フランスに併合された。神聖ローマ帝国はナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ズタボロ。ナポレオン軍が帝都ウイーンに入るとかってに講和交渉。1805年、ナポレオンがイタリア王国の初代国王に就任する頃。中世以来続いた神聖ローマ帝国は解体される(1806年8月)に至ったのだ。それはナポレオンの功績? 1000年以上続いた神聖ローマ帝国の消滅は欧州のパワーバランスを決定的に崩した。ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)はフランス市民の英雄となり、フランスに多大な利益をもたらしたが、市民の裏切りも早い。一時はフランスが欧州を統一するか? という勢いであったがナポレオンが負け越すと、ナポレオンは速やかに切られた。ナポレオンが退位を表明した宮殿がフォンテーヌブロー宮殿です。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ナポレオンに関しては他にも書いています。リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenではフランスと英国との関係は?フランスと英国はそもそも7年戦争(英国勝利)やアメリカ独立戦争(フランス勝利)で敵であった為、犬猿の関係にあった。またナポレオンがかつて得た北アフリカも英国に奪われていたが、ナポレオンが英国に亡命してから両者はアフリカ大陸における利権問題をうまく回避していた。※ ブルボン朝が復活すると多くのフランス植民地がフランスに返還されたらしい。それ故、ナポレオン問題で争いが起きてはいけない事を理解していた。※ フランスとイギリスの因縁については以下で書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里ところで、19世紀の英国とフランスの違いであるが、フランスでは市民により王政は打倒されたが、英国の方は、むしろ王政が栄えていたと言う点だ。フランス革命はパリ市民の反乱で始まったが、実はパリ市民は昔から過激。1358年。パリの宮殿がパリ市民の暴徒に襲われた時、恐怖を感じた王(シャルル5世)は王宮をパリから離れた所に置いた。以降の王もパリには好んで住まなくなった。マリー・アントワネットらもテュイルリー宮(Palais des Tuileries)の寝室で暴徒に襲われている。容赦ない過激な攻撃を王族にも平気で行うのがパリ市民だ。王と市民の関係であるが、そもそもフランスの場合、王側もパワーによる統治だったのではないか? と思う。王は絶対的な力で統治していたが、市民の怒りの琴線に触れた時、市民もパワーで反発した。最もルイ15世時代までは王も市民の為に「王が市民の病を治す行為」を行なっていた。見える形で市民の為に役に立っていた時代の王はフレンドリーで慕われていたのだろう。何れにせよパリ市民に「王は神に次いで特別な存在である。」と言う「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」は通用していなかったのだろう。※ そのあたりを書いた章です。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)一方、英国の方は、昔から王が市民の為に成す事が多かったから、市民からの敬愛が深かったのではないか? と思う。※ 昔の王は市民のケンカの裁定もしていた。裁判制度が出来るまでは・・。司法制度のほとんどはヘンリー2世(Henry II)(1133年~1189年)の時代に確立されている。それは現在の英国人の英国王室の敬愛ぶりを見ても解る。市民は王族の存在を認めているからだ。19世紀に入って英国の植民地政策が成功し、インド貿易も盛んになると英国は好景気を迎える。ヴィクトリア女王の株はさらに上がって行ったと思われる。最も好景気だと、多少ムチャブリされても気にならないだろうし・・。要するに同じ王政であった両国であるが、市民の王族への敬愛の仕方、また敬愛度が全く異なっていたのだろうな・・。と思ったわけです。ヴィクトリア女王と夫君アルバート公の家族(Queen Victoria and Prince Albert's family) 1846年ウィキメディアから借りました。英王室のRoyal Collectionです。画家フランツ・ヴィンターハルター(Franz Winterhalter)(1805年~1873年)上流貴族御用達のドイ人の肖像画家。ヴィクトリア女王のお気に入りで、ナポレオン3世、フランス国王ルイ・フィリップの肖像画の他、皇妃エリザヴェートの肖像も彼の作品。画家フランツ・ヴィンターハルター(Franz Winterhalter)は本来は古典派の画家であるが肖像画家として成功してしまった。当時は宗教画、歴史画を重んじ風俗画を軽視する時代であったので肖像画家の彼の評価は低い。しかし、ロマン派を感じる彼の作品は従来の肖像画とは異なって神話画の要素が見える。さらにモデルに似せながらも実物以上に美化して描くので非常に評判だったらしい。ヴィクトリア女王の為に120点程描き、Royal Collectionとして多くは英国の宮殿で飾られているそうだ。これから紹介するラファエル前派兄弟団も、古典を否定して新しい時代の芸術を求めた集りであるが、フランツ・ヴィンターハルターの凝った衣装やポージング、そしてその色使いは彼らに通じるものを感じる。決定的に違うのは、そもそも技量があるから絵が上手すぎると言う点だ。逆を返せば、ラファエル前派兄弟団の絵は上手いとは言い難い。何しろまだ学生だし、神学者や詩人が絵を描いていたわけだから・・。ヴィクトリア女王(Queen Victoria)さて、英国の19世紀はヴィクトリア女王あっての世紀。彼女の統治時代をヴィクトリア朝と言う。大英帝国が最も繁栄した時代である。ヴィクトリア女王(Queen Victoria)は英国のハノーヴァー朝第6代女王アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria)(1819年~1901年) (在位:1837年~1901年)初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年~1901年)3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年6月20日に18歳で即位。治世は64年。女王として君臨。1901年に崩御(ほうぎょ)。※ 歴代イギリス国王の中でその治世はエリザベス2世に次いで2番目の長さ。二人の女王は共に老衰で崩御している。外交では1877年にインド皇帝を兼ね、インドをはじめとする広大な海外植民地を支配。現在も世界各地に残る女王の名を冠した地名こそ、英国統治の名残である。ヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、ヴィクトリア(世界各地の都市名)、ヴィクトリア・パーク(世界各地の公園)などもし英国のトップが女王でなかったら? 時代は異なっていたかもしれない。先頃、崩御されたエリザベス2世(Elizabeth the Second)(1926年~2022年9月)女王にも重なる事だが、「帝国の母」「慈愛」のイメージは聖母をイメージさせる。女王の存在は大英帝国の拡大にも維持にも繋がったらしい。ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)とナザレ運動(Nazarene Movement)Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団)はヴィクトリア朝のロンドンで1848年に結成された同じ趣向を持つ英国の芸術家(画家、詩人、美術評論家)らによって結成されたグループです。簡単に言うと、発起人である当初のメンバーはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の生徒で、学校が押す伝統的な絵画技法やテーマが「古すぎる」と意義を唱えたのです。※ Royal Academy of Arts・・王立芸術アカデミーは英国立の美術学校の事。詳しくは後で解説しますが、ラファエロ以降のマニエリスム的完成された古典ではなく、彼らが求めたのは自分達の思うままに好きな手法で、好きな絵を描きたい。と言うのが当初の目的でした。つまり、英国画壇を牽引してきたロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの初代会長、ジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds)(1723年~1792年)の方針を否定したと言う事です。初期のラファエル前派兄弟団に明確なテーマがあったわけではないが、保守、伝統を重んじる学校にはむかった絵(最初の展示会は1849年)は物議をかもしたのは確か。参考にジョシュア・レイノルズ(Sir Joshua Reynolds)の作品を紹介。ウィキメディアから借りました。幼児サミュエル(The Infant Samuel) 1776年ファーブル美術館(Musée Fabre)サミュエル(Samuel)は 旧約聖書「サムエル記」に登場するユダヤの預言者であり指導者。子供の頃から神の言葉の伝言をした?ジョシュア・レイノルズ自身が推奨した理想の絵画は聖書や伝説やギリシャ・ローマの古典を題材とするもの。そう言う絵は王侯貴族が持つにふさわしい格式ある絵と定義できます。実際、19世紀のヴィクトリア朝の急速な社会変化を見れば、反古典に走るのも道理。絵画を欲する層が変わってきている事も大きい。貴族の没落もある。。時代もめまぐるしく変化し、生活は近代化している中で特別な絵画の需要は減ったのだろう。代わりに絵画の需要は本の中にこそ増えて行く。でもアカデミーは新しい物を採り入れるのさえ拒絶する。先に動いてしまったもの勝ち? ラファエル前派兄弟団は改革運動の派であると自らを定義した。解り易い名前を付けた。「Pre-Raphaelite Brotherhood」の頭文字から「P.R.B.」と署名。広報誌として定期刊行物 「The Germ 」を発行。グループの討論は「ラファエル前派ジャーナル」に記録したと言う。同士のサークルである。彼らの考えに同調する者は追随して自身の作品を公開した。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts)の教授らは足元で変な活動を始めた彼らを歓迎はしなかったろう。ところで、こうした新しい考えは、すでにドイツで始まっていた。ナザレ運動(Nazarene Movement)1809年、ウイーンではthe Brotherhood of St. Luke(聖ルカ兄弟団)と言うグループが結成されていた。その彼らが求めた芸術スタイルはナザレ派(Nazarener)と呼ばれる。精神的価値を具体化した芸術に戻ることを望み、中世後期と初期ルネサンスの芸術家にインスピレーションを求める。また彼らも新古典主義とアカデミーのシステムに異を唱えて生まれている。ただ、ナザレ派の行動はラファエル前派よりもはるかにマニアック。彼らはローマに住み着き中世に戻るべく半修道院生活をしながら活動。宗教的なテーマが多い。ナザレ派は職人技術である中世のフレスコ画を復活させる試みもしている。フレスコ画もまたラファエル前派はその活動で国会議事堂の再建で活用を試みているが、彼らは失敗しているらしい。ドイツ ロマン主義の画家の中から出たナザレ派。欧州の中ではいち早く行動はしたが、ナザレ運動(Nazarene Movement)は限りなく中世の復刻に近い? 職人気質で生真面目なドイツ人らしいが誰でもマネできるものではない。ラファエロ前派兄弟団の創設は、ナザレ派しかり、ドイツですでに始まっていた美術改革の影響を受けたからと思われるが、少なくとも彼らはもっと自由だ。あまり深く考えていなかったのかもしれないが・・。彼らの活動が英国画壇に新しい風潮をもたらし、画壇に改革を起こしたのは確か。古典主義からの離脱。ラファエル前派は過渡期を成している。実際ラファエル前派兄弟団自体の活動は5年ほどで終わり、グループはそれぞれのステップに進んで行く。テーマはより文学に寄って行くので象徴主義と言うよりはロマン主義的である。※ 英国のロマン主義は英国古典文学からくるものが多い。※ フランスで起きたロマン主義と英国で起きたロマン主義はかなり別物。ラファエル前派とジョン・ラスキン(John Ruskin)そもそもラファエル前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)の語彙は何を意味しているのか?ラファエルのラファエルは盛期ルネサンスを代表するイタリアの巨匠であるラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(1483年~1520年)に由来している。※ 新プラトン主義の思想はルネサンスの文芸・美術にも大きな影響を与えたと言うが、ラファエロは新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高い評価をされている。一般的にラファエロは、古代ギリシア・ローマの芸術に回帰し「古典主義」を完成した芸術家と位置付けされている。古典の代名詞であるラファエロに対して古典偏重の19世紀のアカデミーにおける美術教育を揶揄する意味で「ラファエロ以前(Pre-Raphaelite)」という言葉を使ったらしい。つまり根底にあるのは「反アカデミズム」と考えられる。実際、ラファエル前派は様々な芸術様式で描かれていて、ナザレ派のように、必ずしも中世後期や初期ルネッサンスの様式に戻ったわけではない。むしろ、英国における象徴主義美術の先駆けともとらえられている。1848年、ラファエル前派結成1849年、3人は「P.R.B」と謎のサインを入れた絵画を発表。※ 「P.R.B」は、Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエル前派兄弟団)の頭文字であった。Brotherhood(兄弟団)と言うネーミングに中世の秘密結社を意識した? 遊び心かな?1850年、「P.R.B」のサインの意味を公表した時に美術界にスキャンダルが起きたという。1851年5月、ジョン・ラスキンはラファエル前派兄弟団を擁護する手紙をタイムズに書いた。世間がラファエロ前派兄弟団の絵をバッシングする中で批評家のジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)だけが彼らの活動を支持したのだ。※ これ以降ラスキンとラファエル前派兄弟団の関係は密接になって行くのだが、その関係故ラスキンは妻を失った。後で触れます。これもスキャンダルです。ジョン・ラスキン(John Ruskin)のポートレート 1863年ウィキメディアから借りました。ジョン・ラスキン(John Ruskin)(1819年~1900年)「自然をありのままに再現すべきだ」「神の創造物である自然に完全さを見い出せる。」宗教色の強い教育を受けてきたラスキンには神性と美を結びつけた独特の美学があったらしい。「美は神からの贈り物」、「すべての偉大な芸術家は美しさを認識」、「想像力を使って創造し、象徴的に表現せよ」と主張。彼の擁護するターナーと同じ系譜であり本質は同じとラファエル前派をラスキンは擁護した。博学な彼は社会思想家であり作家、哲学者、美術評論家と多くの肩書きを持つ。そして彼の社会への影響は大きかった。むしろ以降ラファエル前派はラスキンの主張に寄って行った? のではなはいか? とさえ思う。実際、後からラファエロ前派の改革に加わるエドワード・バーン・ジョーンズ、ウィリアム・モリス、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスらの絵画はラスキンの主張に沿っている。創史のメンバー1848年、ラファエル前派結成創史のメンバー3人は国立美術学校、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(Royal Academy of Arts, RA)の生徒。画家 ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)画家・詩人 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)画家 ウィリアム・ホルマン・ハント (William Holman Hunt)(1827年~1910年)3人によって設立され後に4人加わり活動が始まった。作家、評論家 ウィリアム・マイケル・ロセッティ(William Michael Rossetti)(1829年~1919年)※ ダンテ・ガブリエル・ロセッティの兄弟画家 ジェームズ・コリンソン(James Collinson)(1825年~1881年)※ ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが気に入りラファエル前派の同胞団に推薦。評論家 フレデリック・ジョージ・スティーブンス(Frederick George Stephens)(1827年~1907年)彫刻家 トーマス・ウールナー(Thomas Woolner)(1825年~1892年)ナザレ運動を一部モデルにした7人のメンバーでラファエル前派(Pre-Raphaelite)兄弟団(Brotherhood)を結成した。1853年、ラファエル前派解散ラファエル前派兄弟団の初期作品1849年発表作品 ラファエル前派としての最初の作品?ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)からThe Girlhood of Mary Virgin ウィキメディアからかりました。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはラファエロ前派、創設の初期メンバーの1人。日本語訳のタイトルでは「聖母マリアの少女時代」となっている。後に聖母となるマリアが母アンナに刺繍の手ほどきを受けている図である。聖母となるマリアの懐妊(受胎告知)につながる話? であるが、実際にこのような内容は聖書には無い。内容は全くの創作。でも一般に受胎告知につながる小物(白百合、天使、ハト、シュロ、天使の輪)がこれでもかと散りばめられている。象徴主義の先駆けと言われるところかもしれない。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)から1850年発表作品 上の「少女時代」に続いて出された聖母マリアの「受胎告知」図Ecce Ancilla Domini! ウィキメディアからかりました。聖母となるマリアの懐妊(受胎告知)を大天使ガブリエルが知らせる図であるが、これも今までのセオリーと全く違う。聖書に扱われる絵には定型と言ってさしつかえないほぼ決まった構図がある。受胎告知もそう。形式から何から全てを否定してオリジナルにしたみたいですね本来のアイテムである白百合は、刺繍の中にも描かれている。また、天使は浮いているから人でないのは分かるが、翼も無い。参考に中世来の受胎告知の定番スタイルを紹介。多分最初にこのポーズで描いたのは初期ルネッサンスの画家フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico)(1390年 / 1395年頃~1455年)。ラファエロもダ・ヴィンチもこのスタイルを使用。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年~1519年)Annunciation(受胎告知) 1472年ウィキメディアから借りました。所蔵 Uffizi Gallery 画家 ウィリアム・ホルマン・ハント (William Holman Hunt)(1827年~1910年)からThe Light of the World (世界の光) (Manchester version) 所蔵 Manchester Art Gallery 上の絵はManchester versionと呼ばれる小品。ウィキメディアから借りました。黙示録 3:20 ドアを叩くキリスト。これは閉ざされた心の扉を開きたまえ。と言う神からのメッセージを現した寓話。今までおそらく聖書でこのテーマを絵にした者はいなかったかもしれない。敢えてハントは選んだらしい。最初に描かれたのはラファエル前派兄弟団結成中。1849年~1850年頃に製作が開始され1854年完成。最初の作品はオックスフォード大学(University of Oxford)キーブルカレッジ(Keble Colleg)に併設されたチャペル(Chapel)にあるらしい。※ キーブルカレッジ(Keble Colleg)は創設1870年、カトリックと国教会の調和を試みた英国国教会の主教である。教会で大切にされている絵と言う事だ。この作品は複数描かれている事からもハントの代表作といえる作品。彼の絵は、鮮やかな色と細部へのこだわりによる精巧さを持って象徴性を示す。ジョン・ラスキンからの影響と言われている。ラファエル前派は1853年に解散するが、方向性を違えて別方向にメンバーが進む中で、ハントだけはラファエル前派兄弟団創設の理念を最後まで忠実に守り通している。つまり、初心から最後まで信念がブレなかったのは3人の中で彼だけなのだ。ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)The Return of the Dove to the Ark (鳩の箱舟への帰還) 1851年ウィキメディアから借りました。所蔵 Ashmolean Museum 旧約聖書 創世記 6~9 ノアの方舟(Noah's Ark)から大洪水の中、一対の選ばれた動物だけがノアの造った船にのり難を逃れた。洪水は40日40夜続き水は150日の間引かず、船はアララト山の上で地上に戻れる日を待った。飛ばしたハトがオリーブの枝を加えて戻った瞬間の情景らしい。地上にまもなく降りられるだろうと言う安堵を示した絵らしい。これはノアの方舟(Noah's Ark)の一編の情景を描いたものだが、ノアの方舟を表現する時は船と海のような洪水が定番。※ ハト、オリーブの枝、荒海、木造の船、一対の動物。などはノアの箱船における象徴のアイテムである。これはノアの方舟の話しが解っている人前提の絵。でも聖書の話しとして見るなら時代考証も合っていない。2人の少女を描く為のモチーフにハトとオリーブを使ただけ?逆にハトとオリーブの象徴のみで創世記と言い張る所が凄いタイトルがThe Return of the Dove to the Ark (鳩の箱舟への帰還)と、言い切っているのだから相当な非難を浴びたでしょうね。でもミレイの絵は古典寄りの正統派。技量があるからこの後発表するオフィーリアは絶賛される。ところで彼らが宗教画を描いたのは1833年にオックスフォード大学で始まったオックスフォードムーブメント(Oxford Movement)(カトリックリバイバル)を意識してのものらしい。カトリックリバイバル運動はまた19世紀のロマン主義芸術家や著述家の間にゴシック・リバイバル(建築)のブームをもたらす。これは19世紀英国における一種の宗教改革。複雑なので今回は避けます。よく彼らの作品は「中世後期と初期ルネサンスの芸術家にインスピレーションを求めた。」などと紹介されてているが、以上彼らの初期作品を見るとルネッサンス以前の思想がどうこうと言うより、単にラファエロ以降にテーマの定型画題が決まった。と言う事への反発が大きいのかな? と思った。つまり描くテーマにおけるモチーフは自分の感性で決めたい。中世の巨匠のスタイルを踏襲するのは嫌。画家自身が画題からイメージしたものを描いてこそ画家の想いも主張も表現できる。この考え方は画家から、彼らを芸術家に昇格させたものだったと思う。そしてまたこうした考えが象徴主義(symbolisme)を先駆けたのかもしれない。ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)(1829年~1896年)Ophelia(オフィーリア) 1852年所蔵 Tate Britainモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)ウィリアム シェイクスピア(William Shakespeare)(1564年~1616年)の戯曲悲劇「ハムレット(Hamlet)」1601年頃の作品から溺れる直前の川で歌うオフィーリア(Ophelia)を表現。オフィーリアの死と詳細に表現された自然の情景。そして何より美しさと儚さ?この作品は、1852年、ロイヤル アカデミー展で展示され称賛された。ところで、ラファエル前派の絵は女性が多い。特に脆弱な? 儚い?そんな女性像が彼らの間で人気の主題だったらしい。だから初期のメンバーはモデルを共有している。そしてモデルとの恋愛関係も複雑。妻になったり不倫関係があったり・・。だからラファエル前派の絵はモデルが誰か? にもチェックポイントがある。上のオフィーリアのモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)は長い婚約期間の後にロセッティの妻となった。シダルは最初、ラファエル前派に心酔した画家ウォルター・デヴェレル(Walter Howell Deverell)(1827年~1854年)に見いだされ、モデルを務めた。その後彼が紹介してラファエル前派兄弟団の初期3人(ハント、ミレー、ロセッティ)のモデルも務める事になる。因みに、オフィーリアではリアリティーを出す為に、エリザベス・シダルは浴槽に浸かってモデルを務めた。描かれたのは真冬。ミレーが夢中になり湯がさめたが彼女は何も言わずにモデルを続け肺炎になっている。真面目な人だったのね。父が慰謝料を請求している。この絵を見るためにテート・ブリテン(Tate Britain)まで行きましたが、貸出中? 無かったのです。美術館内の撮影は可能でしたが、割と高い位置にあるので他の絵もさほどきれいには撮影できていません。どこかで他の絵は紹介します。1853年ラファエル前派兄弟団 解散1853 年、ミレーはロイヤル・アカデミー(Royal Academy)の準会員に選出され、すぐにアカデミーの正会員に選出された。この事が1853年、ラファエル前派兄弟団自体の解散に繋がったのは間違いない。もっとも、彼らが始めたラファエル前派の活動を信奉する者は後からも続いたが・・。1848年に結婚した妻エフィー・グレイ(Effie Gray)の件ではヴィクトリア女王を怒らせたが、ミレーはヴィクトリア女王に気に入られていたので1885年、準男爵(baronet)の爵位ももらっている。※ エフィー・グレイ(Effie Gray)(1828年~1897年)はラスキンの元妻だった。ずっと順風満帆だったわけではないが、1896年にレイトン卿が亡くなった後は、ついにロイヤル・アカデミーの会長に選出されている。同年亡くなったが・・。ジョン・エヴァレット・ミレーの絵は古典派の重鎮に気にいられるだけの技術があったと言う事だ。一番の出世頭である。先に触れたが、ウィリアム・ホルマン・ハントは初期の想いを最後まで貫いた。一方、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティも他のラファエル前派の画家たち同様、聖書、伝説、文学などに題材を求めた作品を多く描いたが、当時の画壇に名を連ねるレベルの画家としての技量はなかったと言える。でも彼は詩を書き、自ら挿絵をした。彼の絵は挿絵画家としては成功している。装飾的・耽美的な彼の作品は非常に魅力的な絵だ。彼の代表作に数えられているのがダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス)(祝福されしベアトリーチェ) 1863年頃ウィキメディアからかりました。所蔵 Tate Britainモデル エリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)(1829年~1862年)1852年エリザベス・シダルは自殺した。死産後にウツが酷くなりアヘンチンキ (laudanum)を常用していた。事故か?と思ったが遺書があったそうだ。でも当時、自殺では教会で埋葬されないからロセッティは遺書を燃やしてしまった。翌年(1853年)から、ロセッティはダンテ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)をテーマにした作品に取り組む。ダンテの運命の人ベアトリーチェ・ポルティナーリ (Beatrice Portinari)(1266年?~1290年?)は中世来有名な女性。ロセッティは自分をダンテに重ねた? そしてシダルをベアトリーチェに重ねた? 妻への追悼? の作品として描いた。※ 1294年のダンテの詩「 La Vita Nuova(新しい人生)」から。神曲にもベアトリーチェは登場している。ロセッティは彼女の死をただ伝えるのではなく象徴的に描いた。霊的な変容を幻想的に描いたらしい。彼女の肖像画として、またロセッティの代表作として? Beata Beatrix (ベアタ・ベアトリクス) は最も知られた作品なのである。このテーマだけで1本は書けそうだけど超短縮しました。数年前に確か東京の三菱一号館美術館でラファエル前派関連? の催しがありダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの作品が数点来ていた。太っぱらなこの美術館ではスマホによる撮影が許可されていたのでその写真を公開します。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Venus Verticordia(魔性のヴィーナス) 1863年~1868年頃所蔵 Russell-Cotes Art Gallery & Museum左手に持つのは美の象徴である黄金のリンゴ。つまり彼女はヴィーナス(Venus)右手に持つのはキューピッドの矢。→心変わりをさせる。スイカズラは、ビクトリア朝時代の愛の象徴らしい。象徴で示したそれは、美の女神の誘惑を示しているのだろう。美術館の解説では本作は「魔性のヴィーナス」とタイトルされていたが、別の解説に「心変わりを誘うヴィーナス」とあった。誘惑の捉え方も色々だな・・と思う。もしかしたらロセッティ唯一の裸体? 当時はまだ裸体を描くには難があったが、古典にならって? 神の裸体は描けたのかもしれない。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)The Bllessed Damozel(祝福されし乙女) 1875年~1881年所蔵 National Museums Liverpool若くして世をさり、天国で恋人と再開するのを心待ちにしている乙女。ロセッティ自身が機関誌に発表した詩を描いた作品。下段の男性は地上に残っている恋人らしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Mnemosyne ムネモシューネー(記憶の女神) 1876年~1881年所蔵 Delaware Art Museum確証をとっていませんが、モデルは ジェーン・モリス(Jane Morris)でしょうね。記憶の女神が持つ右手の容器には、飲むと過去を想い出せる水がはいってぃるらしい。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)The Day Dream(デイドリーム) 1880年所蔵 Victoria & Albert Museumモデル ジェーン・モリス(Jane Morris)(1839年~1914年)左手に持つのはスイカズラ。ビクトリア朝時代の愛の象徴ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)(1828年~1882年)Proserpine(プロセルピナ) 1874年モデル ジェーン・モリス(Jane Morris)(1839年~1914年)※ 1859年、ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)と結婚。※ ロセッティとの関係は1865年に始まり、ロセッティの死1882年まで続いた?ザクロを持った冥界の女王プロセルピナ(Proserpine)はローマ神話の神。※ ギリシャ神話ではペルセポネ(Persephonē)。冥府の神プルートー(Plūtō)の妻である。そして母は豊穣の女神デーメーテール(Dēmētēr)実はプロセルピナはプルートに誘拐され無理矢理 冥界で妻にされた。母は彼女をとりもどそうとしたが、冥界のザクロ実を6粒口にしていた事から1年の半分は冥界に住まなければならなくなった。古来ザクロは種子が多い事から豊穣のシンボルであったらしい。キリスト教では再生と不死に対する希望のシンボルらしいが・・。香炉は不死を現す?彼女が居るのは暗い冥界。バックの光の窓は地上? アイヴィーは記憶と時間の経過。絵ではプロセルピナはザクロをにぎり恨めしく思って居るのでは? と言う風に見える。別バージョンでソネット付きがあり、そこでは「一度味わったら、ここで私を悩ませなければならない悲惨な果物」と言っている。さて、細かくやっているとキリが無いので、全部解説入れませんでした。抜けている所あります。皆さん自分で捜してください。実際、本などで紹介されていない絵もあります。今日はこの辺で中止します。まだ3人しか紹介してませんが長くなりました。ラファエロ前派兄弟団は多くのヴィクトリア朝の画家たちに少なからず影響を与えたが、メンーバーはそれぞれ独自に別の道に進んで行く。5年程の活動であったが、英国の芸術に一つのカテゴリーを造った。次回は後続のラファエル前派に類する以下の人達とアーツ&クラフツ運動などもいれるかもしれません。行き当たりばったりで書いているのでこれと言った構想はまだ無いですが・・。ウィリアム・モリス(William Morris)(1834年~1896年)エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)(1849年~1917年)※ 好きな画家ばかりを集めて紹介しています。Back number ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス関連 numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)
2022年12月14日
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Break Time(一休み)32年前の1990年10月3日ドイツが再統一を果たした。それまでのドイツは西と東に分断され、2つのドイツが存在していた。第2次世界大戦の敗戦後、ドイツは東西に分断され、鉄のカーテンが下ろされ、行き来もできない険悪な状況に置かれていた時代があったのだ。そしてそれを最も象徴したのがドイツの首都を分断したベルリンの壁(Berlin Wall)の存在であった。今年(2022年)2月24日に開始されたロシアのウクライナ侵攻は、当時の冷戦時代に逆戻りしたような衝撃のニュースでした。ベルリンの壁の崩壊と共に冷戦にも終わりを告げ、世界は一つになりつつあると信じていたのに・・今回はその壁にまつわる話しにしました。1990年、ドイツが再統一に至れたのは、その前年1989年11月9日に東ドイツ政府が壁の撤去を公式に認めた? からだった。そもそも、壁が築かれドイツの首都だったベルリンの街が分断されたのが1961年。それから28年を経て、1989年11月9日、ようやく東西のベルリン市民は相まみえる事ができた。同じ街の中で家族も引き裂かれ、28年の月日、会うこともできなかったと言う特殊な事情がドイツには存在していたのである。壁越しにも会話もできなかったベルリン市の不幸。それをなくす事は市民の悲願であった。その出来事は世界が見守っていたからテレビで見て居た人は多かったのではないか?ベルリンの壁を破壊するベルリンの人々。世界中の人がそれを見守った。それは間違いなく重大な歴史の一編だった。※ 再びベルリンが統合後のドイツの首都に戻るのは2001年5月。パリの知人はそれを見る為にパリから車でベルリンに向かったと言う。歴史が動いた瞬間を直接見たかったそうだ。今回の写真はその翌年、統合直前の1990年夏のベルリンです。但し、この当時はまだフィルムカメラが主流の時代。そもそも東ベルリンの美術館に行くのがメインであったので、壁の写真は思ったほど撮っていなかった・・ 足りない写真はウィキメディアから借りています。ベルリンの壁(Berlin wall)とゴルバチョフそもそもドイツはなぜ分断された?何故、ベルリンの壁は建設されたのか?ベルリンの壁崩壊とゴルバチョフ書記長イーストサイドギャラリーのキスの絵が示す意味ゴルバチョフ書記長ゴルバチョフとホーネッカーベルリンの壁(Berlin wall)崩壊の真実追記、ゴルバチョフのコメントベルリン詣での戦利品正真正銘のベルリンの壁(Berlin wall)の破片です。こう見えて一つ10cm以上の大きなかけら。実はジプロックの袋2つ分の壁のかけらを購入。考えたら飛行機で持ち帰るのだ。破片と言えどコンクリートはかなり重かった。小さなかけらのほとんどは土産に配ってしまったが、大きいのは残していた。写真は現在所持している分です。下は旧東ドイツ側。資料としてフィルム写真を撮影しましたが元の写真じたいが少しボケてました。壁の近辺では壁の破片やソ連兵の帽子などいろいろ売っていた。ソ連兵の帽子も土産に購入したけど、後から購入した赤ラインの帽子にはどうも男の方が付いていたようなのでコンテナにしまい込みそれ以来出していません。目覚められると困るので出しての撮影もしませんでした。( ^ ^ ;)1990年8月の段階で壁はかなり撤去され、残った壁もこんな状態です。近年の観光スポット? イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)はまだ無かったし、そもそもこんな状況の壁しか現存していなかったと思う。皆、観光客に壁の破片を売る為に破壊されていたし、何より市民にとっては憎むべき壁。ベルリンの壁は残らずたたき壊して捨てたかったのが本音だろう。ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)の近く。これは東ドイツ側のベルリンから撮影。薄い壁は西側前線の物。実は東側には簡単に近づけない防護壁や干渉の鉄条網などおかれていた。ここはかつてのデス ストリップ(death strip)だった部分。下ピンク矢記が西の壁。 ウィキメディアから借りました。東側は簡単に西の壁を越えられないよう車止め、さらに障壁など張り巡らされ、監視棟がおかれていた。このデス ストリップ(death strip)ができる以前は壁を越えて亡命をはたした者が5000人ほどいたらしいが、壁の内は強化され、尚且つ東ドイツ政府は、亡命者を扱う国境警備隊に発砲命令を出していたので壁を越えようとして失敗し逮捕された者は3000人を越え、殺された者は200人を越えたらしい。※ ベルリンに壁が建設された1961年8月から1989年11月までの28年間のベルリンでの数字です。そもそもドイツはなぜ分断された?第二次世界大戦で敗戦したのは日本だけではない。日本は敗戦後にアメリカ軍の占領下に入ったが、同じ敗戦国でも、欧州のドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソビエトの4国に分割管理されたから問題が起きたのだ。東部地区はソビエト社会主義共和国連邦、北西地区は連合王国イギリス、南西地区はアメリカ、西部地区はフランス簡単に言えば東は社会主義国が、西側は資本主義国が占領統治した事からドイツ国内は思想による分断がおき、政治的分断が生まれる事になったのだ。※ 東側ドイツではソ連型の社会主義国として1949年10月ドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik; DDR)が建国された。そもそも、ソビエトにとっては一時的占領ではなく、戦利品として自分の国の一部になったという認識だったのだろう。だから北方領土も返す気が無いのでしょうね。1945年~1990年のドイツ占領下の分割図ウィキメディアから借りた図に国名だけ加えました。本来の首都ベルリンは完全にソビエト占領内。飛び地のベルリンの街がさらに4国で分割されて占領されていた。何故、ベルリンの壁は建設されたのか?首都ベルリンのみは四つの国の司令官によって管理されると言う取り決めがあった。しかし、そもそもベルリンの街自体がソビエト占領下の中に小島のように存在していたのである。つまり、ベルリンの街にはアメリカやイギリスやフランスの領事館が存在していたので、亡命の駆け込みができたのである。それでも1961年夏まではベルリン市内の東西の往来は自由であった。だが、1961年8月13日。突然ベルリンの壁の着工が始まりベルリン市内も東ドイツにより強制的に境界線(壁)がひかれて分断される事になってしまった。写真はウィキメディアから借りてきました。1961年11月20日ベルリン 壁の建設の風景壁建設のイニシアチブはソビエトの共産党中央委員会第一書記ニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)がとっていたらしいが、Goサインを出したのは東側のトップ、ヴァルター・ウルブリヒト(Walter Ulbricht)(1893年~1973年)(ドイツ社会主義統一党 第1書記1950年~1971年)1986年ウィキメディアから借りました。ペイントのあるのが西側です。東側内はおいそれと市民が近づけないハザード(hazard)がある。一つの街中に施設された3mの壁はただの境界ではなく、国境になったのである。それは、最も越えにくい国境となって28年間存在する事になる。東西の違いはそもそも経済の基盤であるが、あまりに社会体制が違いすぎた。しかも同じドイツと言う国の中での強制的分断。突然建設されたこのコクリートの壁はドイツ人の悲劇の象徴でもあり、敗戦国ドイツの戦後はこの壁が取り払われ、統一を果たすまで続く事になる。1989 年時点のベルリンの街(西ベルリン)にめぐらされた壁と国境検問所ウィキメディァから借りて多少色を付けました。西側のドイツではいつか1つのドイツに戻る事を願っていたが、東側のドイツは強硬な社会主義者が指導者となり両国はどんどん乖離(かいり)していく。そんな中で東に組み込まれた国民は自由な西側へ亡命を続けた。その数は壁で閉じ込められるまで一日2000人が出国し、全体で200万人にのぼったと言う。※ 数字はドイツ連邦共和国大使館・総領事館のサイトから。要するに東側ドイツから「国民が逃げて行く」状態であったのだ。そこで東のトップは国民が逃げ出せないよう国民の囲い込みを考えた。それが壁と言う簡単に越せない国境線の敷設である。今も再び西欧と東欧の間に鉄のカーテンが降ろされつつあるが、実際に東西ドイツの唯一の首都であったベルリンの街は西側諸国の部分をぐるっと巨大な壁で囲った。それが西ベルリンができたわけである。突然できた壁は同じベルリン内で暮らす家族も引き裂いた。以降、東から西へはいかなるゲートでも簡単には越せなくなったのだ。1961年8月に突然ベルリンに出現した壁は第二次世界大戦後の東西冷戦の最前線となる。また同時に両国を分断した忌まわしいこの壁は東西の冷戦の象徴として存在する事になる。1959年のブランデンブルク門(brandenburg gate) 壁が建築される前ウィキメディアから 元はポストカードかも。ブランデンブルク門(brandenburg gate)からベルリンの大通りがウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) 。写真には見えないが菩提樹の並木で有名。森鴎外の小説、舞姫に出で来る場所だ。※ 森鴎外はドイツに留学していたからね。1961年夏 ウィキメディアから借りました。ブランデンブルク門は東ドイツに完全に入っていたのですね。壁はもともといらない物。たくさんの家族を引き裂き、多くの人の命を奪った。完全に撤去して消え去るのかと思っていたが・・。最近のイーストサイドの壁画問題を見ると、当時を知らない人達が残したがっているのか? と不思議。1990年8月 壁の高さは3m。ポケ写真ばかりで使えるのがなくて・・。1990年8月のブランデンブルク門(brandenburg gate) 東ドイツ側からドイツが統合される直前に慌てて修復? 修復中だから積極的に撮っていなかったようです。( ^ ^ ;)2005年のブランデンブルク門(brandenburg gate)自前の写真です。高さ26m、横幅65.5m、奥行11m。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライア(Propylaea)の門を模したと言われ、時代的にも新古典様式の門である。建設は1788年から始まり1791年8月完成。門の上部には4頭馬で仕立てられたフェートン(Paeton)に乗った勝利の女神ニケがいる。ニケはギリシア神話に登場する女神。ローマ神話ではヴィクトリア(Victoria) 。この女神像は門の完成直後にナポレオン率いるフランス軍にベルリンが占領された時、持ち去られた過去がある。門は東側ドイツ領内。馬が向いている方が旧東ドイツ側だった。全体図はウィキメディアから借りました。同じく2005年が下。パリ広場と門2011年ライトアップされたブランデンブルク門(brandenburg gate)こちらもウィキメディアからかつてはこのすぐ後方に壁が立てられていた。ブランデンブルク門は今やドイツ統合の象徴。ベルリンの壁崩壊とゴルバチョフ書記長1990年11月9日、東西冷戦の落とし子「ベルリンの壁(Berlin wall)」が崩壊し、ドイツは再統一を果たした。その前年(1989年)、夏くらいから?ベルリンで東ドイツ政府に対するデモが公然と行われ、不穏な状況になっていた事がマスコミでも報道されていたから、興味津々でその行く末を見守った日本人も多かったろう。当然、その近隣諸国にとって、大戦後に分断されていた二つのドイツは問題であり、さらに首都ベルリンを東西に分断する壁の存在は懸案事項。東ドイツは、もはやドイツではなくソビエト連邦の一員となっていたが、もともと国民が望んだわけではない。そもそも社会主義の国が住みよければ問題はさほど無かったのかもしれないが、どんどん貧しくなる経済。締め付けの社会体制への不満もたまってきていた。1989年、徐々にベルリンの市民の怒りは激しさを増してきていたから、西側諸国の関心はそこに集中。実際、日本でさえベルリンでの騒ぎがニュース映像でずっと放映されていた。ベルリンの市民は命を賭けて東ドイツ政府に抵抗をこころみていたから世界が固唾を飲んで見守っていたと言う状態だった。最も、世界の人は祈るしかできなかったが・・。今なら激励のSNSくらいは発信できたろうが・・。それ以前は抵抗を試みればすぐさま銃殺されていた。東ドイツのトップがそう指示していたからだ。それでも命を賭けた彼らの必死の抵抗とアピール(暴動)は日増しに大きくなっていく。1989年夏を過ぎ、近く・・何かが動くかもしれない。世界中がその行く末を見守っていた中、まずゴルバチョフが動いた。そして東ドイツのホーネッカーの解任。混乱する東ドイツ政府。1989年11月9日最終的に壁の崩壊は、スポークスマンの誤発信が引き金で起きる事になる。1989年11月10日のブランデンブルク門(brandenburg gate) ウィキメディアから借りました。最初に壁によじ登って破壊を始めた若者。東の警備も発砲はしなかった。少なくとも政府のスポークスマンは東ドイツ国民の旅行の自由化を認めた。※ 亡命を恐れた政府はおいそれと市民を旅にも行かせなかったからだ。今すぐにでも国境ゲートから東西が出入りできると言われ人々が集まった。東ドイツ政府は壁の撤去に関しては全く触れていなかったが、壁の崩壊が自然と始まってしまったと言う事らしい。1990年8月の時点でのベルリンの壁(Berlin wall)1年を待たずして壁の破壊はかなり進んでいたし、撤去も進んでいた。完璧な壁などすでになかったろう。東ドイツ政府が方針転換したのは、彼らの取りまく世相(東欧の状況)が変わった事が大きい。何よりソビエトの共産党書記長にミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(Mikhail Sergeevich Gorbachev)(1931年~ 2022年8月30日)(書記長:1985年~1991年)が就任したからだ。壁の破片とソ連兵の帽子を購入したオマケにいただいたゴルバチョフ書記長のポートレートA4より少し大きい。たぶん東の方はこれを額に入れて飾っていたのでは? と思われる。彼は壁の取り壊しに貢献してくれた人物。当時、英国の首相であったマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)(1925年~2013年)は「東に話しの解る男が現れた」とアメリカ大統領に彼との会談を勧めたと聞いたが、実際、ゴルバチョフはその後のベルリンの壁崩壊や東西冷戦終結に至る過程で重要な役割を果たした人物なのである。東側の変化はロシアの変化(ゴルバチョフが書記長となった事)に影響されたのである。イーストサイドギャラリーのキスの絵が示す意味後に描かれるイーストサイドギャラリー(East Side Gallery)の有名な壁絵に「ブレジネフとホーネッカーのキス」or「兄弟のキス」なる奇妙な絵がある。それは冷戦時代の東ドイツとソビエトの当時の関係を象徴する絵でもあった。※ レオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev)(1906年~1982年)はソ連共産党中央委員会書記長を1964年から彼が死去する1982年まで務めた人。筋金入りのスターリン主義者。※ エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)(1912年~1994年)ドイツ社会主義統一党書記長(1971年~1989年)東ドイツの旧体制を象徴する人物。1990年、イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)初期の作品。 ウィキメディアから現在のギャラリーの壁画は2009年、ベルリンの壁崩壊20周年を記念して書き換えられている。そもそもそれは1979年ドイツ民主共和国30周年を祝う会で実際に2人がキスした時の写真を元にロシアの画家ドミトリー・ヴルーベリ(Dmitri Vrubel)(1960年~2022年)が描いたもの。これ自体で当時の東ドイツとソビエトの関係が一目で解るもの。実際抱擁の1979年10月、東ドイツとソビエトは10ヶ年の相互支援協定を調印している。ところで、サブタイトルに「My God, Help Me to Survive This Deadly Love(神よ、この恐ろしい愛から生き延びさせてください)」とある。これをどう解釈するのか? ドミトリー・ヴルーベリがこれを描いた意味が解らなくなった。単純に彼がソビエトとズブズブの当時の東ドイツ体制を描いたものか?あるいは体制には意味はなく、ある意味キス魔のブレジネフの熱いキスを揶揄(やゆ)したものか?ソ連の首脳たちは同志たちと熱く抱擁し、キスを交わす事が慣習としてあった事からその行為は「同士(兄弟)のキス」と呼ばれたらしい。右頬、左頬、そして口に・・。特にブレジネフがトリプルキスをする時は特別だったらしい。でも内心おじさん(ブレジネフ)とキスをしたくない政治家は多かったらしいけど・・。最もキスが主体であるなら、この絵はイーストサイドギャラリーの絵としてふさわしくはない。ゴルバチョフの顔を描いた方が良いかもしれない。いずれにせよ、ソビエト占領下の東側ドイツはソビエトのスターリン主義の体制下に組み込まれていた。しかし、スターリン主義は失敗だった。1970年代後半から始まったソビエト経済の停滞。スターリンの大規模な工業化政策では産業経済は国家が管理する物。自営農民もいなくなった。国家が管理し、給与をもらうようになると皆仕事をがんばらなくなるのである。してもしなくても給与は一緒だからである。やる気の無い人たちでは当然生産性は落ちる。ゴルバチョフ書記長ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(Mikhail Sergeevich Gorbachev)(1931年~ 2022年)ゴルバチョフは非スターリン時代に政治家になった。彼自身はマルクス・レーニン主義だったらしいが、1989年から1990年にかけて、東欧諸国がマルクス・レーニン主義の統治を放棄した際、ゴルバチョフは軍事的な介入を断念。自身も1990年代初頭には社会民主主義に移行している。ゴルバチョフが素晴らしい所は、失敗の見直しをし、正すべく道の修正をしている事だ。ゴルバチョフは、社会主義の理想にこだわりながら国の立て直しに尽力した。彼は今までの政治経済の状態ではダメだと反省し、積極的に改革を行っていく。1986年のチェルノブイリ原発事故以降は国の金銭的負担も増大したからかもしれないが、結果的にアフガン紛争(1978年~1989年)から撤退する。アメリカ大統領ロナルド・レーガンとの首脳会談を4回行い核兵器の制限と冷戦の終結に務めた。1985年11月 ジュネーヴ(Genève)1986年10月 レイキャビク(Reykjavík)1987年12月 ワシントンD.C.(Washington, D.C.)1988年6月 モスクワ(Moscow)主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題。今までのソビエトの書記長とは望んでもできなかった話しができた事だけでも快挙。サッチャー女史が言ったようにゴルバチョフは話しの通じる相手であった。レーガン大統領はゴルバチョフと親密な関係を構築。腹を割って会話ができるくらい気心知れる盟友になれたと言った。国内問題でもゴルバチョフは大きな改革を行って行く。ペレストロイカ(perestroika)の重要な一環として展開された情報政策言論・報道の自由を認めるグラスノスチ(glasnost)など国内での大規模改革も急速に断行。一連の改革はソビエトを改革し民主化をもたらす事になる。レーガン大統領はゴルバチョフの命を真剣に心配したと伝えられている。1991年、マルクス・レーニン主義の強硬派によりクーデターも起きているし・・。実際、ゴルバチョフの政策は、最終的にはソビエト連邦の解体を進める事になったからだ。※ 民主化の過程で情報公開,グラスノスチ(glasnost)を積極的に行っていった結果、ソビエトの国民の中に反共産党を産み出してしまった。ゴルバチョフとホーネッカー話しをベルリンに戻して・・。ゴルバチョフが書記長となり、ソビエトが方針を変えても東ドイツのホーネッカーは相変わらず強硬路線のマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩さなかった。ホーネッカーは「社会主義はいつの日にか西側のドアを叩くことになる」とまで発言している。だが、東欧革命が始まったことにより、東欧革命の波は東ドイツにも及ぶ。ハンガリーやチェコスロバキア経由で国民は再び逃げ出し始めていた。するとホーネッカーは東西国境に対人地雷を拡充し、かつ逃亡者の射殺令を強く出して国民の流出を阻止している。この後に及んでも聞く耳持たず、現実を認めない男にあきれたのはゴルバチョフも同じだった。1989年10月7日、建国40周年記念式典の出席でゴルバチョフは東ドイツを訪問。その会談でも楽観的に話すホーネッカーに対し改革か引退か? ゴルバチョフが引導を渡したのである。かつてブレジネフとホーネッカーはキスを交わしたが、ゴルバチョフは彼とのキスを拒否したと言う事だ。ゴルバチョフは幹部らに早く退陣させるよう促しさっさと帰国。10月18日、党の中央委員会でホーネッカーは正式に退任させられた。ゴルバチョフがいなければ東西ドイツは未だ分かれたままだった可能性すらあったわけで、彼は統一ドイツの功労者だったのである。ベルリンの壁(Berlin wall)崩壊の真実先に、1989年11月9日に東ドイツ政府が壁の撤去を公式に認めたから、直後から壁の崩壊が始まったと書いたが・・。本当は東ドイツ政府は「外国への旅行の自由化の政令が決議された事を踏まえ、旅券発行の大幅な規制緩和がなされる事」を10日に国民に通達する予定だったらしい。つまり壁の撤去など全く考えてもいなかった。ところが書記長であり、党のスポークスマンであるギュンター・シャボフスキー(Günter Schabowski)(1929年~2015年)が内容を熟知していなくて勘違いによる誤発信報道を行ってしまった。「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」また、政令の発効期日についても「直ちに発効する」「遅滞なく」と発言してしまった。これが引き金となり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到。また、若者らが一部壁を壊して、また穴を開けて東西のベルリンを繋げた。当然のように以降壁の破壊は進み、ベルリンの壁崩壊となるのである。語彙によりニュアンス(nuance)も変わる。発表後、当の本人も幹部等も、壁が撤去されて行くなど考えてもいなかったろう。だから彼らもきっと、若者らが壁を破壊していく様を唖然(あぜん)と見ていたのかもしれない。もう、誰も止められないし、取り返しがつかない状況だったのは確かだったからね。1945年5月ナチス・ドイツ第二次世界大戦で敗北1945年7月のポツダム会談で米ソ英仏の4カ国による分割統治が決定。1949年10月ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国1961年8月ベルリンの壁建設1989年11月9日 東ドイツ政府の誤発信報道→壁の崩壊1990年10月3日ドイツ再統一悪名高かったベルリンの壁はこうして歴史に名を残したのである。因みに、現在イーストサイドギャラリー(East Side Gallery)として残された壁にアーティストが絵を描いた壁が残っている。壁の崩壊後、1990年以降に一部壁を修繕して敢えて描かれたもので、壁崩壊以前からあった絵ではないはずだ。その壁は2005年の段階では確かに道路につらなっていた。2005年シュプレー川に近接したミューレン通りに残っていた壁。バスの中から撮影しているので窓に映り込みが入っています。観光客が訪れる観光スポットとなっていた。当初はアーティストが描いたと言うより一般の人のラクガキに近かったのでは?広告のようなものも在るし・・。2009年の時点で移動させた?先にも書いたが現在のギャラリーの壁画は2009年、ベルリンの壁崩壊20周年を記念して修復して書き直されたものである。200万ユーロをかけた壁そのものの修復から行われた。穴を埋め、蒸気を当てて塗料を取り除いた後、元絵のアーティストが前と同じ絵を描いたと言う。最も100人以上のうち、8人は過去作品の複製を拒否。現在の壁のギャラリー この写真のみウィキメディアから借りました。2013年には、高級ホテル建設のため、壁の23m分にあたる3つの壁画が開発業者によって取り壊されて問題になったらしい。壊して撤去した事を怒った人達がいるそうだ。負の歴史を残す貴重な観光地の壁絵と言う事だかららしいが・・。そもそも壁はベルリン市民に辛い思いをさせた憎むべき壁だった。ミューレン通りの壁は、とりあえず残されていただけで、いずれは撤去されるはずだったのでは?絵も、そもそもベルリンの壁が崩壊する前から描かれていたものではないはずだ。※ ベルリンの壁崩壊後は壁の表層面は削りとられてお土産になっていたからだ。絵付きの壁の破片は当然人気。時がたつと、表層面は売り切れるから、どこのコンクリートかわからないコンクリのクズまで売られていた。2009年以降に、そもそもあまり関係の無いアーティストが描いたものでは?同じ絵を描いて残す意味も無いし、まして壁はほぼ元のコンクリートの壁ではないはずだ。1990年8月の時点で壁はすでにボロボロ鉄筋むき出しだったのだから・・。そもそも絵が描かれたのも、西側の壁面だけ。壁を上れず撃たれて落ちて死んだ者もたくさんいる。家族を失った当事者からしたらそんな壁は消し去りたい物なのではないか?もともとあってはいけない壁だったのだから、それを負の歴史として残したいと言うのは逆にエゴなのではないか? と思ってしまう・・。残すなら少しで良い。絵もいらない。彼らが受けた悲劇を考えるなら、破片と言う残骸くらいがちょうどいい・・。追記、ゴルバチョフのコメント2019年10月31日(ロイター/Hannibal Hanschke)1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊から30年を迎えるにあたり、ゴルバチョフ元ソ連大統領がコメントを出している。ロシアと西側諸国の間に物理的な壁や目に見えない壁を新たに生み出すべきではない。東西の違いに形を与えるべきではないと強調したと言う。彼は現在の状況がどれだけ危険であったとしても、冷戦の再来ではない。とコメントしていたのだ。が、2022年2月から始まったウクライナの現状はそれを完全否定してしまった。ゴルバチョフ元ソ連大統領は今年(2022年)8月に亡くなった。彼はきっと今の現状を残念に思ったに違いない。そしてこれからロシアが向かう世界を危惧しているに違いない。おわり
2022年11月08日
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Back numberの追加をしました。さて、今回も大航海時代の新大陸からです。内容盛り沢山です。コロンブスが「西インド諸島を発見、到達。黄金を見付けた。」と報を受けると17隻の大艦隊が組織され、1493年9月、大量のスペイン人が西インド諸島に向かった。(コロンブス2回目の航海)エスパニョラ島にはイザベラ女王の名を冠した植民都市が建設される。コロンブスは最初の約束により、それら発見された島々や陸地の福王にして総督に就任する事になる。だが、前回「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」ですでに触れたが、彼は統治に専念せず、アジアの探検に向かう。正確には彼はジパングにたどり付いたと思っていたので中国や東南アジアを探しに探検を続けたのである。彼がエスパニョラ島から離れている間に島では大混乱が始まった。それは最終的には収集のつかない武力闘争に発展し事態を収拾できなかった。それ故、福王のはずのコロンブスはエスパニョラ島から切り離される結果になる。(今後の島への立ち寄りさえも禁止)そもそも17隻の艦隊で西インド諸島にやってきた後続の彼らはコロンブスの黄金の発見を知り、自ら黄金を獲得しようと乗り込んできたトレジャーハンター(Treasure hunter)ばかり。植民地としての街を造りに来た者はそもそもいたか?自分が、自分が、と黄金探しに目の色変えた輩(やから)が原住民と争い殺し合いに発展する。それにしてもコロンブスはこうした事態を全く予測していなかったのか? 最もコロンブスが先頭だって統治に専念したところで、結果は同じだったかもしれないが・・。新大陸に渡ってきた者は皆、欲にまみれていた。人を出し抜いて成功者に成り上がりたい者ばかり。コロンブスを出し抜きたい者は彼の悪口を本国に告げた。コロンブスばかりではない、後に隊を率いる長も部下の先走り(略奪)には苦労していたようだ。コロンブスがエスパニョラ島で黄金を見付けてから20年はまさにゴールドラッシュ(gold rush)の様相。新地に追随する者は皆、一攫千金を狙ってカリブ海での黄金探しに夢中になっていたそうだ。だが、そもそも西インド諸島で採掘出来た金の量はそんなに多く無かった? 枯渇(こかつ)した? 彼らは対岸の大陸に目を向け新たな産地を求める事になる。そして彼らが最初に侵略したのは南北大陸を繋ぐメソアメリカ(Mesoamerica)。ところが、大陸にはすでに原住民族がいた。身なりは西欧にこそ劣るが、マヤ文明は天体観測から導かれる暦の計算においては西欧より正確だった。※ グレゴリオ暦より1000年早く出現。そんな文明を持った彼らを武力で脅し、金鉱を見付けるよりも手っ取り早く金品を奪い黄金を手にする。※ 原住民を脅して奪い盗った金の装飾品は溶かされ、本国スペインに運ばれたのだ。スペイン語でコンキスタドール(Conquistador)とは、征服者とか侵略者の意味がある。無礼で非礼で残忍なスペイン人侵略者らに付けられた呼び名です。今回はアメリカ大陸に存在していた文明と、侵略者との関係を少々触れます。欧州との関わりはなかったがアメリカ大陸には先史文明が存在していた。独自に発達したその文明はかなり高度なものだった事がわかってきている。尚、今回自前のメキシコの写真がカメラ時代の物で使え無かったので、メキシコ編はほぼウィキメディアから借りています。自前の写真はペルーが中心です。※ メキシコは直行便が無くなったので日本からのツアーは近年減りました。飛行機の直行便があるか? ないか? で旅行の行き先人気は変わるのです。アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)目的が異なった2つの国ポルトガル(Portugal)スペイン(Spain)新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)メソアメリカ(Mesoamerica)の文明マヤ文明(Maya)ティカル(Tikal)チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)ウシュマル (Uxmal)テオティワカン文明(Teotihuacan)とマヤの衰退征服者・コンキスタドール(Conquistador)の侵略と功罪黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の噂の発端セビリア大聖堂(Cathedral of Seville)の黄金製品トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の黄金製品バルボア・ピサロ・コルテス生贄(いけにえ)問題失われたマヤ文字インカ帝国とマチュピチュインカの技術12角の石マチュ・ピチュ(Machu Picchu)ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山からのマチュピチュインカ道(Inca Road)目的が異なった2つの国前々回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」から考察したのは、そもそも大航海時代を迎えるに至った最初の要因が、欧州では生育しない香辛料・スパイス ハーブ(spice herbs)を求めた結果だからである。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史ポルトガル(Portugal)最初に大海洋に進出したのはポルトガル(Portugal)。※ ポルトガルの海洋進出については「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」で紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルよくよく考えれば、ポルトガルの海洋進出は金銭的バックにいたジェノバ の商人の指示だったのでは? と推測できる。もともと国土の拡大のできないポルトガルにとって、未知の土地への植民と商売は生き残りを賭けた戦いであったからそれは必然だったと言える。実際、彼らはアフリカの各地で商取引もしたし、インド洋を目指す過程で大西洋上のカナリア諸島(Canarias Island)、マデイラ諸島(Madeira Islands)、アゾレス諸島(Azores Islands)を領有し植民地としてサトウキビなどの生産を初めている。だが、喜望峰を回り、インドに到達しても、ポルトガルは強引な植民政策は行っていない。ポルトガルは国家の為になる商取引を願ってインド洋を目指していたからだ。ポルトガルは海洋航海におけるシステムがすでにできていたから船長他、船員も国家公務員のようなもの? スペインのような欲にまみれた個人はいなかったと思われる。スペイン側と比べるまでもなく、彼らの海洋進出は国家主導の真っ当な国家戦略だった。※ ただ、ポルトガルは植民地開発においては現地で調達した奴隷が早くから使われていた。国内の人口不足が要因でもあったが・・。スペイン(Spain)一方、スペインはレコンキスタ(Reconquista)が完了するまで時間がかかったし、その為にお金もなかった。でも、ポルトガルには負けたく無かったから、イザベラ女王はコロンブスと契約した。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスそこにはポルトガルのように商売と言う観点は最初から無かったのだろう。※ 支援した商人にはあったが、スペイン王室にはほとんど無かった?建て前にはキリスト教の布教もあるにはあったが、コロンブスがあわよくば黄金の国ジパングを見付けて、さらに香辛料貿易に参入できれば万々歳と思ったのでは?コロンブスも、冒険が成功した暁には黄金が手に入るし、あわよくば黄金の国の統治者にでもなれると言う夢? も少なからずあったろう。また、付随して香辛料諸島を見付けられれば支援者へ借金も恩も返せると思った? はずだ。当時、欧州側はイスラム経由で香油やスパイスハーブを高額(彼らの言い値)で購入していたからねView of Habana 1650~70年17世紀 カリブ海、西インド諸島(West Indies)に浮かぶ現キューバ共和国(República de Cuba)の首都ハバナ(Habana)港の眺め海図の本「Eary Sea Charts」からSea chart of The West Indies and Atlntic Ocean1625~30年 1685~90年下は部分(カリブ海)Sea chart of The West Indies and Atlntic Ocean1625~30年 1685~90年海図の本「Eary Sea Charts」からそもそも、前回「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中「コロンブス(Columbus)の野望」でもすでに触れたが、コロンブスの本当の狙いは、実は憧れのジパングを発見して到達する事にのみあったのでは? と思う。※ 「東方見聞録」は当時の船乗り? 冒険者? らの憧れの書物(Bible)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)しかし、女王へのプレゼンはもうけ話をメインにした話しであったろう。ロマンの話しでは女王の気はひけない。ポルトガルを出し抜けるかも・・とも言ったかもしれない。出航前にコロンブスはスペイン国王と利益の分配について契約書をかわしている。実際スペイン王室は航海の許可は出したが、資金は出していない。王室が負うリスクは何も無かった。冒険の資金はコロンブスの支援者が調達したし、コロンブス以降の新参者らも、探検の旅費は自前で調達とされた。にもかかわらず、何れの場合も発見された土地はスペインに帰属する事になっていたからねだからコロンブス以降の入植者は最初からトレジャーハントが目的の野心家集団が集まった。かりにトップが紳士的に振る舞おうとも、トップの言う事も聞かずに暴走するならず者が多いから過激な侵略になって行った? のかもしれない。そもそも、それなりの利益を約束しなければ人(部下)は集められなかったようだ。大航海時代の最初の覇者(はしゃ)、ポルトガル国とスペイン国は一見同じように見えて、実は目的も行動も全く異なっていた。と言うのは理解しておかなければいけない部分だろう。少なくとも、商品と商売相手を見付ける為に地道に船を進めてルートを開拓したポルトガルは正統派だったと言える。新大陸に来たスペイン人の功罪(疫病)コロンブス以降、1495年4月、スペイン王室は西方への探検航海を希望する者は届けで制で、かつ厳重な審査を通った者のみに許可を与えると言う勅令を発表したらしい。※ 但し探検費用は自分持ち。この時点でまだコロンブスは2回目の航海中。本来はコロンブスのみに与えられていた権利? この勅令に権利の侵害だと怒ったらしいが・・。王室は、勝手に黄金探しをしだした現地の輩にある意味釘を刺した勅令だったのではないか? と思う。基本、コロンブスの探検により発見した新地の開発権利はスペイン帝国が有する。帝国に上がり(利益の5分の1)があるのだから、かっては許さない・・と言う意味もある。※ 因みにスペイン帝国の新大陸の航海事業は後にも先にも、カステーリャ王国の独占であった。この勅令以後、王室の指示で5つの調査隊が南米北岸を探索していてこの中の一隻にアメリゴも入っていた事は「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中で紹介している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)この調査隊ではコロンブスが発見した真珠の産地の調査を含む南米北岸の地理調査がメインであったと思うが、その後、多くの船がカリブ海に渡来する。そして真珠の争奪で現地住民の社会を荒廃させる事になる。また、大量のスペイン人の増加は別の問題を引き起こしたと言う。カリブ海の諸島での金の採掘に奴隷として使役していた現地住民が次々疫病で倒れたのだ。それが始まりである。ウイルス性の風邪菌やインフルエンザ、風疹だって耐性の無い彼らには即命取りになる。今まで新大陸にはなかった病気が欧州より持ち込まれ、多くの感染者や患者を発生させるパンデミック(pandemic)が現地で起きたのである。耐性のあるスペイン人に被害はさほど出なかったが、彼らの船に奴隷として乗船していたアフリカの奴隷らがすでに船で感染。※ 当時、天然痘はムーア人によってアフリカから持ち込まれ、スペイン(欧州)で流行していたらしい。最初に入植したエスパニョラ島でも1505年に黒人奴隷が大量投入されている。元の島民が減少、替わる人材の補充だったと思われる。そして以降コルテスやピサロが内陸に進み侵略する中で、病気は内陸部にまで拡大、蔓延する事になる。天然痘の犠牲者を描いた 16 世紀のアステカの絵ウィキメディアから借りてきました。コロンブス以降、およそ150年でメソアメリカ(Mesoamerica)の先住民族は、麻疹、天然痘、インフルエンザを含むウイルスにより人口の80%が減少したと言われる。突然現れたスペイン人の侵略者が武力で彼らの持ち物を奪い。かつ、彼らの持ち込んだ疫病(天然痘)が現地部族の命を大量に奪った。滅亡の直接原因は、疫病のパンデミックだったのである。そもそもコルテスの軍隊がアステカを破りメキシコ征服できたのは天然痘の蔓延のおかげだとさえ言われている。つまりアステカもインカ帝国の滅亡もその要因の一つが天然痘の蔓延だった。病気と言う災いがアメリカ大陸に運ばれた事により、原住民族は戦わずして命を落とし、入れ替わるように欧州人らが住み着いた。新大陸にあった先住の文明はそうして滅びに至ったのである。メソアメリカ(Mesoamerica)の文明コンキスタドールが最初にめざしたのはメソアメリカ(Mesoamerica)薄いパープルで色つけました。現在の国名をブルーで示しました。メソアメリカで定住農村落が形成されるのはBC2000年頃?都市と呼べる社会が形成されるのはBC1250頃? オルメカ文明(Olmeca)はタバスコ川周辺から始まったようだ。※ 「オル」とはゴムの意で、天然ゴムの産地であった事からオルメカ(Olmeca)とはゴムの国の人々と言う意味らしい。オルメカではすでにゼロの概念を持っていたといい、数学や暦のシステムがすでに存在していたらしい。熱帯で雨量は多く川はよく氾濫したが逆に肥沃ではあったからメソアメリカでは全域でトウモロコシ農耕が始まり定住が確立して行く。またオルメカ文明は象形文字を持ち、神殿と言う文化を持ち、生け贄を捧げると言う儀式を持っていた。BC3世紀~AD16世紀、メキシコ南東部や、グアテマラ、北はユカタン半島方面へとメソアメリカに現れたマヤ文明(Maya)はタバスコ川を中心に発展したオルメカ文明(Olmeca)から継承されているらしい。マヤ文明(Maya)遺跡マップ ユカタン半島ウィキメディアから借りてわかりやすさの為に着色しました下はマヤ(Maya)の遺跡の中でも有名な所を3ヶ所、時代の古い順に載せました。マヤの神殿はエジプトのピラミッドとは似て非なる石積みです。時代で造りの違い? 技術の違い? 一目です。安定を求めると四角錐になるのかな?ティカル(Tikal) 形成期~古典期グアテマラのペテン低地3世紀~10世紀頃ごろ繁栄今はティカル国立公園 (Tikal National Park)となっているティカル(Tikal)の遺跡は広域で4000の建築物が数えられると言う。 写真はウィキメディアから借りました高さ51m。9層の神殿上部入口にジャガーの彫刻が発見された事からこの1号神殿には大ジャガーの神殿の名もある。8世紀頃の建築。神殿下部には26代アフ・ササウ王(在位:682~723年)と思われる墓と装飾品が見つかっている。この1号神殿は間違いなく王墓。幾つかあるピラミッド型の神殿? 王の偉業を示すものだった?ティカルの王朝は29代目で終わる。1525年、エルナン・コルテスはティカル(Tikal)をスルーしているらしい。チチェン・イッツァ(Chichén Itzá) 古典期後期~後古典期前半メキシコ南部のユカタン半島の密林中。9世紀~13世紀頃ごろ繁栄 ウィキメディアから借りた写真です。高さ24mスペイン語で城塞の意を持つ通称「カスティーヨ(Castillo)」別名「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」。神殿にはジャガーの玉座や生贄台チャクモール(Chacmool)が置かれている。メキシコ国立人類学博物館所蔵のチチェン・イッツァのチャクモール像 写真はウィキメディアからかりました。生け贄の心臓を太陽へ捧げたと言う。ウシュマル (Uxmal) 古典期後期~後古典期チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)に程近いユカタン半島8世紀~12世紀頃この遺跡の多くの建物は建築された? ウィキメディアから借りた写真です高さ36.5m。73m × 36.5m。 このピラミッドは四角錐ではなく、底辺は楕円形に近い形。118段の階段を持つ。ウィキメディアから借りた写真ですウシュマル (Uxmal) はユカタン西部でもっとも強力な都市。チチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していたと言う。テオティワカン文明(Teotihuacan)とマヤの衰退先に紹介したマヤのピラミッドや神殿都市は、実はテオティワカン文明(Teotihuacan)の影響を受けたものだと言う。現メキシコ東北部。メキシコ中央高原。BC5~8世紀頃アメリカ大陸最大規模の宗教都市遺跡テオティワカンはマヤ世界の中心として栄えていた。テオティワカンの最盛期は5世紀頃で人口は20万人と言う巨大都市。それは古代のペルセポリスのような都市だった? 街は非常に宗教的意味あいを持った造りになっている。テオティワカン写真、全てウィキメディアから借りた写真です。下は月のピラミッド」からの眺望テオティワカンMAP ラテンアメリカ博物館のマップに方位のみ追加しました。南北に40mの死者の大通りを軸に東に太陽のピラミッド(62m)。西に農業の神殿。北に月のピラミッド(42m)。南に城塞や宮殿が配置された計画都市。月のピラミッドから正面に死者の大通りと太陽のピラミッド太陽のピラミッドからの月のピラミッド 月のピラミッド 42m太陽のピラミッド 62m底辺はエジプトのピラミッド・サイズに近い(225m)が、高さ62mはエジプトの半分以下。※ クフ王のピラミッドは高さ138.74m。底辺一辺の長さは230.26m~230.44m。こちらも墳墓である。手前の台形に近い物は積み上げ途中の墳墓と思われる。こちらの場合、上に上にと遺骸を積み上げて行く形で造成されてるようだ。最終的にピラミッド型になるのかな?因みにエジプトではピラミッドは面が東西南北がきっちりしていて、東から西は太陽の道。南北方向はナイル川への道を表しているらしい。このテオティワカンでも太陽は東から西に。死者の道が南北となっている。何となくエジプトのピラミッドを知っていた人間がいたのでは? と言う気がしてしまう。実はテオティワカン(Teotihuacan)の名さえ、真実ではない。ほとんどが謎のこの遺跡は、便宜的に名がつけられている。この巨大な都市は突然衰退して消えた。その理由も定かではない。人口増加からの食糧難。農地開発の為の大規模森林伐採による弊害(水害)か?出土する遺骸から飢餓状態だった事がわかると言う。都市の人口増加→食糧不足 との考察が生まれたのだろう。7世紀に入ると急激に衰退したと言う。そしてここに影響を受けた他のマヤ都市も、ほぼ8世紀頃には衰退している。しかし、人は動物とは異なる。人が増加しても環境収容力を超えると人口増加にはブレーキがかかり個体数は減少へ転じる。ロジスティック方程式(logistic equation)では環境収容力まで減少はするがそこで収束。だから減少に転じた人口も滅びに至るまで減少する事はないはずなのだ。ここでふと思い出した。以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」の冒頭で、ローマ帝国の衰退がパンデミックと地震に加えて、新たに気候の低下があげられたのではないか? と言う推察をした。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)北海及び地中海でも起きていた蛮族の海賊行為。これは人口増加ではなく、地球のかなり広範囲に気象の問題による食糧不足が起きていたのではないか? と言う考察だ。まさにマヤの衰退と同時期。北海及び地中海だけでなく、大西洋を越えたアメリカ大陸でも同じ事態が起きていた。と考えても良いのかもしれない。マヤの人が皆死に絶えたとは思えない。急速な気候低下が起きて今までの作物が育たなくなった可能性がある。つまりこの土地に環境収容力が低下? いや、全く無くなったのかもしれない。だから原住民はここを捨てた?ここでも民族の大移動が起きたのではないか? と考えられるのだ。もう一つ仮説が立てられる。メキシコは日本と同様に環太平洋造山帯の上にスッポリ乗っている。と、同時に環太平洋火山帯とほぼ一致。そして日本のようにすぐ沿岸には海溝(Middle America trench)が沿って存在。テオティワカン(Teotihuacan)をピンクで示しました。つまり地震の多発地帯なのである。テオティワカン文明(Teotihuacan)が栄えていた頃もかなり頻発した地震はあったはず。それらも影響しているのかな?滅亡理由は、どうも複合的要因の結果なのかもしれないね。征服者・コンキスタドール(Conquistador)の侵略と功罪カリブ海での金の争奪は冒頭触れたが20年は続く。そして金が枯渇し始めると、彼らは新たな探検を望むようになり、内地に進んで行く。だが探検資金は自前であるから、誰もが単独で向かったわけではない。またスペイン王室の許可制であるので、誰もが許可をとれたわけではない。探検隊のリーダーとなる者、資金を提供する者、おこぼれをもらう為に同行する乗船者。すでに人を出し抜いての駆け引きも、争いも、裏切りも多数。正直、知れば知るほど、新地への開拓がサバイバル的であった事が解る。己の欲がどんな困難も乗り越え死闘を繰り返した。特にスペイン人侵略者の残酷極まり無かった事が解る。古代アメリカ大陸の文明の時代が解りやすい資料を本から持ってきました。時代の前後は資料で異なるようです。また、多少付け加えていますアステカ文化の下には 1521年滅亡 征服者エルナン・コルテスインカ文化の下には 1533年滅亡 征服者フランシスコ・ピサロ それぞれ征服者の名と滅亡年も入れました。古代アメリカ大陸では、スペイン人が中米の海に到達する15世末まで欧州との接点はなかったので、その文明も独自路線での発展。にも係わらず天体観測から暦に関しては欧州を上回る高度な文明も持っていた。しかし、彼らには鉄器の使用がなく、また彼らは西欧人のような衣服は着てなかった(ほぼ裸?)スペイン人等は彼らを原始的な者としてかなり見下していたのだろうと思われる。※ 前回紹介した1518年~1519年に書かれたSouth Atlantic(南大西洋) Homem and Reinel`s portolano of Brazil の地図内に彼らの絵図がある。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)スペイン人は、探検調査と称し、実は金探しの為に内陸に侵入していく。彼らは武力で先住民に迫る。彼らをおどす為に多数の砲台を備えたガレオン船(Galleon)も利用した。※ スペインが開発したガレオン船(Galleon)は大量の砲台を配備できる海上輸送船。商船兼護送軍船と言う目的ではあるが、見た者を圧倒させ砲台が並ぶ500〜600トンの船。ガレオン船は後に戦闘を目的にした戦列艦に発展する。黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の噂の発端1500年、コロンビアからパナマにかけて沿岸航行したおりに、この地方には冶金(やきん)の技術を持った民族が多数いて黄金製品を造っていた事から、金が採れる? 黄金帝国があるのでは? とスペイン人は勘違いしたらしい。しかし実際は、冶金術はもっと南方のペルーやボリビアから伝播された技術だった。黄金の装飾品を身に着ける文化も実は南方の文化。黄金の装飾品が北に伝播すると北アンデスやパナマ方面の各部族の首長らもまねてそれらを身に付けるようになる。と同時にそれら黄金の加工技術も伝播したのだろう。また、彼ら原住民は自ら装身具を着けるだけでなく、首長や貴族の墓には副葬品(ふくそうひん)として黄金の装飾品を埋めると言う文化も持っていた。スペイン人はそれも聞き知った?そう言う事だから、そもそもコロンビアからパナマで金が産出されていたわけではなく、ペルーのような黄金文化を持つ帝国はそのあたりには無ったのが真実。でもスペイン人は国を挙げて黄金の捜索にやってきたのだ。スペイン人らが黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)を求め、多数の部隊を引きつ連れてスペイン政府公認のもと繰りだしたのはそんな勘違いから始まっている。しかもスペイン人は彼らの墳墓まで荒らして彼らの黄金を奪おうとした。バルボアの探検隊もその中の一つである。※ バルボアの失敗をペルーではらしたのが部下のピサロである。ペルーで黄金郷? 発見。そんな黄金装飾品の写真はないか? と探したが見つからない。そうだそのはずだ、彼らが奪った金の装飾品はすぐさま溶かされて金塊にしてスペインに運ばれたのだから・・これから紹介する黄金製品は、新大陸で奪いとり金塊にしてスペインに送られ製造された装飾品です。スペインに金の豪華な装飾品が多いのは、こうした理由でしょう。セビリア大聖堂(Cathedral of Seville)の黄金製品フェルディナンド3世(Ferdinand III)がレコンキスタを終えた後、イスラムのモスクから転用され1403年に礎石され建築が始まった。一応の完成は18世紀になってからだと言う。セビリア大聖堂は聖母に捧げられた教会堂です。聖具も金製品が多い。いろいろ教会は見てきていてますが、これだけキンキラの聖具は初めてかも。さすがスペインです。黄金と宝石で造られた聖体顕示台(せいたいけんじだい)(Ostensorium)真ん中が抜けているが本来はここにガラスがはめ込まれていて、中にキリストに関する聖遺物が納められていたと思われる。この顕示代の足の部分が人の像になっているが誰かわからない。聖フェルディナンドかな?イベリア半島からイスラムを追い出しレコンキスタを完了させたカスティーリャ王でありレオン王であるフェルディナンド3世(Ferdinand III)(1201年~1252年)は後にカトリックの聖人に列伝。聖フェルディナンド(St. Ferdinand)と尊称された。下はその聖フェルディナンドの像 セビリア大聖堂内ペドロ・ロルダン(Pedro Roldán) (1624年~1699年)作 1671年製作 スペインバロックの彫刻家剣とオーブ(orb)を持つ聖フェルディナンド(St. Ferdinand)(1201年~1252年)※ 製作された時代の衣装と思われる。13世紀にこの甲冑は無い。聖遺物(Holy relic)の入った聖遺物箱黄金の水差しとポッド聖ロザリアの銀色の胸像(Bust-reliquary of Saint Rosalia)1687年スペインが南米から持ちかえったのは黄金ばかりではない。1545年、南米ボリビアのポトシ銀山(Potosí Silver Mine)を発見すると大量の銀も欧州に持ち込んだ。17世紀末以降はメキシコ産の銀を独占して交易の対価として利用する。以前「大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局」の所で、欧州と日本の金と銀の交換レート(金銀比価の比率)が違い過ぎた事を紹介した。日本では 1金対5銀。 外国は 1金対15銀。その理由は、スペインが南米や中米から大量の銀を持ち込んだ事による欧州での銀相場の値崩れが原因? かもしれない。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局トレド大聖堂(Catedral de Toledo)の黄金製品トレド大聖堂(Catedral de Toledo)はカスティーリャ王フェルナンド3世時代、1226年に礎石。完成はグラナダを陥落させたカトリック両王時代の1493年。※カトリック両王とはイザベラ1世(Isabel I de Castilla)(1451年~1504年)と夫フェルディナンド2世(Fernando II de Castilla)(1452年~1516年)の2人の同時カステーリャ王の事。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスイザベラの王冠(Couronne d’Isabelle) バルボア・ピサロ・コルテススペインの侵略者(コンキスタドール)として名を上げられるのがアステカ帝国を征服したエルナン・コルテスとインカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロ。二人共に偉大な文明を滅ぼす形での征服者となっている。また、彼らほど知られていないが、黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)の探検隊長であったバルボア。彼はその過程でパナマ地峡を横断して太平洋の発見者となっている。調査遠征のスタイルは3つ・大規模な遠征はスペイン王室と協約を結んで派遣・中小規模の遠征は現地植民地の王室役人との協約or許可のもと実施。・無許可でかってに遠征した者? らによる小規模なものもあった。正式に許可のあった遠征はともかく、無許可の物はただの略奪が強盗と言え無くもない。しかし、最初はスペイン王室と協約を結んだ正式隊のはずが、途中でトップが入れ替わり無許遠征になったものもあると言う。密航者であったバルボア(Balboa)(1475年~1519年)がまさにそれで、食糧不足や先住民との戦いで、スペイン側のリーダーとして才覚を発揮。後にバルボアは王室に認められ正式に遠征隊長にも任命され活躍する事になる。バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)(1475年~1519年)ウィキメディアから借りました。1791 年にマドリッドで出版された著名なスペイン人の肖像画からの複製。ダリエン南方の黄金郷の探検では太平洋を発見して実績を上げた。新たな植民都市ダリエンの建設を指揮し、総督にまでなっている。因みにダリエン遠征で部下にピサロがいた。バルボアはピサロを目にかけて起用していた。フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)(1470年頃~1541年)ウィキメディアから借りました。1835年 製作 ルイ・フィリップ コレクション ※ オルレアン家出身のフランス王 ルイ・フィリップ1世(Louis-Philippe I)(1773年~1850年)先にも少し触れたが、ピサロが南米ペルーでインカ帝国を滅亡させるに至る最初のきっかけがバルボアの黄金郷(エル・ドラード・El Dorado)探検に起因していたのである。ピサロは第2のコルテスを目指して成功者となるが、身代金を取っておきながら相手を殺すなど、やり方は一番汚いかもしれない。上司であったバルボアを捕らえたのもピサロ。バルボアはその後すぐに絞首刑にされたと言う。他と違うのが学歴のあるエルナン・コルテス(Hernán Cortés)である。コルテスは紳士だった? 勝手に略奪を始める部下らを押さえ、(略奪禁止)、通訳をうまく使い先住民に戦意がない事を告げての穏やかな対話での関係構築を主義としていた。※ コルテスはサマランカ大学の法学出身。エルナン・コルテス(Hernán Cortés)(1485年~1547年)ウィキメディアから借りました。1519 年にメキシコに侵入。1521 年にメキシコを征服したスペイン軍の将軍エルナン コルテスの肖像画。 1525 年製作 メキシコ植民地時代、コルテスが生きている時に作成された作品のコピーらしい。和議を結ぶと先住民はコルテスに金や食料、また女奴隷を20人も贈られた事もあったと言う。コルテスは最初に贈られた奴隷の1人がナワトル語とマヤ語が話せた事から彼女を愛人として通訳として側に置いた。彼はコミュニケーションを大事に先住民を傘下にしていく。愛人であるマリーナ(Marina)(洗礼名)の活躍(通訳の意義)は大きかったと言う。※ 複数愛人が増えて行く中で彼女だけは最後まで側にいたらしい。彼らの事は本がたくさん出ているので詳しい事は飛ばします。因みに主に参考にしたのが「コルテスとピサロ」世界史リブレット人。安村直己 氏著生贄(いけにえ)問題古代ユダヤ教には生贄の習慣があった。もっともそれは人ではなく、子羊であった。ユダヤ教をベースにするキリスト教では現実的な生贄は存在しないかわりに、イエス・キリスト自身が「過越の小羊」の身代わりとして、すべての人の罪を負ったのである。しかし、新大陸の住人が信仰する宗教には人を生贄にする風習があった。例えば、インカでは帝国の発展と繁栄の為に太陽神に子供を生贄に捧げていたと言う。トウモロコシの収穫祭で生贄に選ばれた子供らはコカの葉やアルコールで眠らされている間に現実世界では凍死。神の国に派遣され大使になったのだそうだ。また古代メソアメリカ(マヤ、テオティワカン、アステカ)では生きた人の心臓を太陽神に捧げ祀ると言う風習を持っていた。それは特に重要な儀式において行われていたし、その生贄を得る為に他部族と戦い、捕虜となった者らがあてられていた。だからスペイン人の兵士もかなりその犠牲になっているらしい。この儀式の恐ろしい所は、いきなり石のナイフで胸を開かれて心臓を取り出すのでまだ心臓は動いたまま。当人はかなり抵抗をするだろうと思いきや、薬で幻覚を見て麻痺しているので陶酔しているのだと言う。取り出された心臓は先にチチェン・イッツァの所で紹介したチャクモール像に乗せられた。生贄の心臓と血液は神々の糧として捧げられたらしい。※ 心臓を取り出された後の体は階段から蹴落とされ、皮を剥がれ、解体された。尚、それら幻覚剤にはアルカロイドなどの陶酔性成分メスカリンを含むサボテンの一種、ペヨーテ(peyote)の他、トリプタミン系アルカロイドのシロシビンやシロシンを含んだ現在のマジックマッシュルーム(Magic mushroom)の一種、アステカではテオナナカトル(Teonanacatl)と呼ばれるキノコが利用されていた。こんな儀式を見てしまったスペイン人が動揺しないわけはない。※ これら生け贄問題では、原住民が異国の侵略者に助けを求めたケースもあったらしい。スペイン人の征服者らは、新大陸の人々が神事で生きた人間を生け贄(いけにえ)として捧げる行為にドン引きした。ドン引きしただけではない。そんな彼らを攻撃して争いが勃発したのである。こうした事件から、下々の兵隊でさえキリスト教を布教しようと言う想いにかられたのだろう事は想像できるし、同時に、そこに、彼らが「侵略」と言う自分達の行為を正統化する為の方便が多分に含まれたと推察する。確かに当時の認識では、キリスト教徒らにとってキリスト教徒でない者は敵であり悪。とは言え彼らが生け贄を殺す事は否定するのに、自分等は平気でそんな彼らを殺すのはありなのか? 正当なのか? 疑問符がつく。スペイン人侵略者は、高度な文化を持っていた先住民族の文明をまるごと潰して個人の利益を優先に踏み入って新大陸へ植民を展開して行った。彼らの文化に「人の生贄」と言う文化があったとしても、スペイン人らは、あまりにも傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に振る舞ったのでメソアメリカにあった現住の文明(アステカ・Azteca)も南米にあった文明(インカ・Inca)も滅びに至ったのである。※ 滅びの理由はそれだけではないが・・。彼らの文化を全否定して彼らを滅ぼす権利など、そもそも西欧の侵略者らには無かったはずなのに・・。先住民のインディオからしたらスペイン人こそ自分達の土地に突然現れた悪魔そのものだったろう。失われたマヤ文字ところで、メソアメリカで栄えたマヤ文明では複雑な絵文字が使われていた。マヤ文字は人や動物など図像で示されていて、暦と関係が深い? 文字だったらしい。上は都市を現す紋章文字この図は単なるに都市名でなく、左部に血統、右上部に支配者層の称号。右下部が場所。と言うパーツで構成されている。都市名左から順コパン(Copán)・・ホンジュラス西部、現在のコパン・ルイナスに隣接する古典期マヤの都市。キリグア(Quiriguá)・・グアテマラ東端部、イサバル県のモタグア川中流域にある古典期マヤの都市。ティカル(Tikal)・・グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの最古で最大の都市。マヤの言語は4000年前に成立した? と言われ、16世紀には30の言語に分かれていたらしい。それ故、部族が異なると通訳を必要としたようだ。文字は? BC700年頃、メキシコ南部で発祥。250年頃にはメソアメリカ各地に広まったと言う。しかし、1300年近く使われ絵文字は16世紀、スペインのコンキスタドールが侵略して入植を始めると徐々にすたれていく。マヤ文字によりマヤの人々は、昔の事蹟を記録として、また学問を書に記していたそうだ。本来はこれら資料が、ロゼッタストーンのようにマヤ文字の解読のガキとなるはずであった。だが、キリスト教徒らはその中身が「迷信や悪魔の虚偽」として焼き捨ててしまったと言う。※ 一説には1562 年に行われた異端審問で燃やされたと言う。だから、そもそも難解なマヤ文字はその解読もままならなくなり彼らの文化を知る手立てが無く、近年までほとんど手つかずだったらしい。インカ帝国とマチュピチュ先に紹介したメソアメリカのマヤ文明と異なり、南米アンデス山系に展開したインカ帝国の文化には文字が存在しなかった。それ故、皮肉な話しだが、インカ帝国に関する資料は16世紀、スペイン人侵略者らが記した記録文献が唯一の手がかりとなっている。インカの技術12角の石ペルーのクスコ(Cusco)の観光名所の一つに12角の石と呼ばれる石垣がある。実はクスコは1200年代~1532年までインカ帝国の首都であった街なのである。現在のクスコの街はスペイン人によるペルー侵略後に、元々あったインカの城跡の上に建てられている。12角の石は、インカ時代の技術が垣間見られる一品なのである。インカの石の加工の精巧さと石組み技術の繊細さが見て取れる。金属が無い文化なのに、どうしてここまで精巧に成形できたのか? 不思議。下はクスコの北に位置するサクサイワマン(Saksaq Waman)の遺跡1438年頃建築が始まり50年かけて完成したサクサイワマン(Saksaq Waman)はクスコがスペインに陥落した後の首都奪還作戦の拠点になった所でもある。かなりの巨石がくみ上げられた石垣にはリャマやヘビ、カモ、魚等の動物をイメージして組み上げられた所もある。マチュ・ピチュ(Machu Picchu)ペルー観光で最も人気のマチュピチュ(Machu Picchu)はアンデス山系、ペルーのウルバンバ谷(Urubamba Province)に沿った山の尾根に残るインカ帝国の遺跡の一つだ。見える尖った山はワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)。意味は「若い峰」。標高2720m。山頂には神官の住居。中腹に月の神殿があった? 後で頭頂からの写真紹介。遺跡が展開している所がマチュピチュ(Machu Picchu)。こちらは老いた峰を意味する。左眼下がウルバンバ谷(Urubamba Province)でありウルバンバ川が流れている。石切場からの大広場方面大広場解説書により若干違うようですが・・。次ぎは右側居住区側面です。南緯13度で、10月から翌年4月までの長い雨季と5月から9月までの短い乾季に分かれると言う。いつ使用していたのか? 5月から9月の乾季かな?農耕地皆が生活できるだけの食糧の為の段々畑は3mずつ上がり40段。3,000段の階段でつながっていると言う地図は右がワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山側です。マチュピチュは山の尾根にあるので、左右は崖っぷちです。下はウィキメディァから借りたパノラマ写真です。隠れた尾根上に存在している事から、発見されにくい場所。「空中都市」等とも称されるが、クスコのような街とは異なり、あくまでここはインカの王族や貴族の為の離宮(避暑地)として建設された場所。だから住人も少なく、王族等が居住していない時は尚更、管理の住人ら少数しかいなかったとされている。ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)山からのマチュピチュ写真左のジグザグ道路は駅からのマイクロバスが上ってくる道。本当によくこんな所に造ったな・・と言う場所です。それ故、マチュピチュの発見は1911年。アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガム3世(Hiram Bingham III)(1875年~1956年)が偶然発見。彼は最後のインカの都市、ビルカバンバ(Vilcabamba)を捜していた。が、ここはビルカバンバではなかった。ワイナ・ピチュ(Huayna Picchu)頂上近辺の写真確かに何やら石造りの建物の遺跡が残っている。下は上の段のあたり。危険一杯の登山。落ちる人もいる。でも自己責任です。責任問題があるのでガイドは上らないそうです。下りのが絶対怖いインカ道(Inca Road)インカ帝国の発展には「王の道」と呼ばれる道路網があった。16世紀以降はインカ道(Inca Road)と呼ばれた。インカ以前から使われていた交易路も再利用れていたがインカ道は領土の拡大にともなって東方の熱帯や西方の海岸線にいたるまでチリ、アルゼンチン、エクアドル、コロンビアまで建設。それはまるでローマ帝国のローマ街道のようであるが、インカ帝国が終焉すると道路整備をする者もいなくなりそれは荒廃して行ったそうだ。ローマ街道は軍隊の派遣を目的としていたので、道幅も広く舗装されていたが、インカ道は強いて言えば諜報網? 早急な情報の伝達の為に造られた? と言う側面が多分にあったせいか? 部分ですたれた理由もわかる気がした。下はインカ道の一つを紹介。危険故、現在使用はできない。マチュピチュ、岩場のかけ橋まるで獣道。岩肌に沿って造られた道は普通の人には通れない? 隠密のような人達が使う裏道のような感じ。途中、橋がかけられていて、いざと言う時はそれを落として敵の追撃を阻んだらしい。インカ橋(Inca Bridge)壁には石の突起も見える。よじ登る為なのでしょうね。もう少しコンキスタドールの事、丁寧に載せたい所でしたが、押しているのでこれで終わります。実は先月、私が実質、後見している伯母が施設で転び大けがしまして、病院の付き添いで忙しかったのです。片道2時間の施設に迎えに行き、それから病院の科をあれこれ・・。腰と、腕と顔面をケガしていたから整形外科、皮膚科、眼下、これから形成外科も行かなければならないかも・・。行きか、帰りのどちらかが通勤ラッシュになるのでかなり辛い。実は今日も行くので睡眠3時間とれないかも・・。誤字チェックは後からします。m(_ _)mBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図 アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年10月11日
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Back numberの追加をしました。予告に変更がでました。「新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)」はまたまた延期。その前に入れたかった案件です。実はイントロで書き出した謎から違う方に興味が湧きどんどん横道にそれてこの冒頭部たけで10回くらい書き直してます。コロンブスの事、アメリゴ・ベスプッチの事、メディチ家銀行の事。メディチ家の経営や人々の事など膨らみ、何転も主軸の話しが変わりました。全体には「新世界アメリカ大陸の発見」に関する話しですが、当時の取り巻く環境としてメディチ銀行の話しも詳しく入れました。結果論で見ると「アメリゴ・ベスプッチを探求した章」になりすぎた感じです。尚、アメリゴ・ベスプッチ、長いので途中からアメリゴ呼びしています(;^_^A「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外の扱いに入れられるのかな? 新大陸を発見したのはクリストファー・コロンブス。なのに新大陸はアメリゴ・ベスプッチの名から命名された。なぜ? と思った人は多いだろう。実際、「コロンブスの名誉を横取りした人」と非難されてもきたアメリゴ・ベスプッチ。最初に到着したコロンブスか? そこが新しい大陸と証明したアメリゴか? 今でも賛否両論あるらしい。そこでアメリゴの経歴共に調べて見たら、コロンブスの最初の航海から係わっていたらしい事も解ったし、表には出ていないが、アメリゴの功績は極めて大きかった事も解った。今ではアメリカで良かったのではないか? と言うアメリゴ擁護派に・・。今回はそんなアメリゴが新大陸と特定するにいたった経緯と同時に、コロンブスを支援した資金源にメディチ銀行がかかわっていたのではないか? と言う疑問から始まったのです。また、南米の国々の公用語にも不思議を感じた人は少なからずいるはず。ほぼスペイン語が公用語。それはアメリカ大陸における最初の取り分が影響している。追加で加えました。コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)アメリカ大陸のネーミングアメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)メディチ家とメディチ銀行プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)メディチ銀行(Medici Bank)メディチ家の事業形態複式簿記を用いていたメディチ家ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)ジャンネット・ベラルディとコロンブスアメリゴ公証人から航海士? への転換?ポルトガルによる南米大陸到達ポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴアメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」これはあくまで私の推測ですコロンブス(Columbus)の野望記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)中南米巣の公用語アメリカ大陸のネーミング冒頭触れたように、アメリカの名はアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)に由来している。但し、ヨーロッパとアジアがそうであったようにアメリゴ(Amerigo)をラテン語読みして女性形にした名前である。※ 南ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemüller)(1470年頃~1520年)が1507年、自書の添付地図にアメリカとして大陸名を記したのが初らしい。実はアメリゴ・ヴェスプッチは、新大陸を最初に新世界(New world)と提唱した人なのである。確かに結果論で見るとアメリカ大陸に最初に辿り着いたのはクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)ではあったが、彼は南米大陸の発見者である。※ コロンブスが辿り着いたのは南北大陸の狭間にあるカリブ海の島。※ アメリゴは南緯50度まで南下し、ブラジルの発見者となると同時に、そこが新しい大陸(南米大陸)と特定している。世間の評価はそこにある。コロンブスがたどり着き、すでに植民地となっていたカリブ海のイスパニョラ島他から金や奴隷が欧州に運ばれていたが、そこはアジアのどこか? と思われていた。何より、コロンブスは絶対的にジパングと信じて亡くなっていたし・・。もしそこがジパングであるなら、大きな海峡(日本海の事?)があり、その向こうにアジア大陸があり、香辛料豊富なインド諸島が無ければならない。コロンブスが新地の提督になっても統治に専念する事を放棄し、まだ調査航海に出たのは、それらを見付ける為であり、自分の理論を証明する事でもあったからだ。皆も薄々違うのではないか? と言う疑問もあったかもしれない。でも皆は自分が富めればそこがどこでも良かったのだろう。後にアメリゴ・ベスプッチはカリブ海沿岸に広がる土地を大きな島ではなく、欧州人が知る三つの大陸(アジア・アフリカ・ヨーロッパ)以外の全く別の新たな大陸だったと報告。それを新世界(New world)と伝えている。むろんそれにはきちんとした理由があった。それは彼の書簡を持ってまとめられ、世間に公表されたのである。内容自体が非常にセンセーショナルな報告であり、逆に、彼の航海が本当なのか? 書簡が本物なのか?論議は中世来続いている。 彼の名が新大陸に付けられた事自体にもかなり批判は出ていたようだ。が、当時の有識者は彼の名をつける事を否定する理由は無いとした。彼の証明は確かなものであり、事実であったからだ。そもそも彼は本来、探検家でも地理学者でもなかったし、まして船乗りでも無かった。彼の本業は実はメディチ家傘下のビジネスマン。それもかなり有能な・・。アメリゴベスプッチはフィレンツェのロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に仕えてセビリアに来た。そこでコロンブスの探検に係わる事になったのだ。コロンブスがアジアと信じていた大陸は、実は全く別の未知の大陸だったと証明するに至る理由はそこから派生している。彼が南米の探検航海に出たのはスペイン王やポルトガル王からの依頼に始まっている。43歳で初航海。文系の彼がそこに至るには結構なドラマがあったのです。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 クリスピン・ファン・デ・パッセ(Crispijn van de Passe)(1564年~1637年) オランダ出身、彫刻家であり印刷出版者。製作 1590年~1637年書かれているのは、フィレンツェ出身のアメリゴ・ヴェスプッチはブラジルの土地の発見者であり征服者であると言う内容らしい。オランダが海洋国として台頭してくる中でブラジルの土地の発見者として紹介されている所に意味がある。アメリゴ・ヴェスプッチとメディチ家※ アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)ヴェスプッチ家はもともとフィレンツェでメディチ家に仕える家系。彼の家は両替商で、父は公証人をしていた。兄2人はピサの大学に進み、彼自身はドミニコ会修道士である叔父のジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチから教育を受ける。※ ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)実はこの叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。勉学は文学、哲学、修辞学、ラテン語と幅広く、また、地理と天文学もそこで学んだらしい。とにかく学者としては申し分無い博識の人物で、彼に学んだ事が彼の好奇心をもふるいたたせたのかもしれない。そして、この時に天体の観測から器具を使い地図を書く原理も学んでいたのではないか? と思われる。先に言うと、この学舎の友2人が新世界に関する書簡の受取人である。アメリゴはセビリアでコロンブスの事を知ると、帰りにピサに立ち寄り金130ドゥカートもする航海地図を購入している。いつか自分も航海に出てみたい・・と言う夢をこの時持ったかもしれない。ところで、アメリゴはこの学舎で後に仕えるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出会うのである。※ ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)後にヴェップッチ家遠縁のセミラデ・アッピアーノがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに嫁いだので親戚同様の関係となった。※ セミラデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)美女だったらしいロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)制作 1479年 テンペラタイトルが若い男の肖像になっている。これで推定年齢は16歳。言い方を変えると、この学舎でアメリゴ・ヴェスプッチはその能力を買われてロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチにリクルート(recruit)されたのである。このメディチ家の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチと後にセビリアで知り合う商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)。またジャンネットがらみで知り合う航海士クリストファー・コロンブス Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)との出会いにより彼のその後の人生を大幅に、確実に変えたのである。セビリアに置かれているアメリゴの像車内からの撮影なのでアップがありません。彼らの関係に入る前に先に紹介したいのが、メディチ家との関わりである。実はこの時代、フィレンツェで銀行を起こしたメディチ家は欧州中の富を得たような成功ぶり。彼らは政治の世界にも進出して行く。時代はちょうどルネッサンス期、メディチ家は芸術家のパトロンとして惜しみなくお金を使った事でイタリア・ルネッサンスは花開いたのである。メディチ家とメディチ銀行アメリゴより12歳年下の学友ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ銀行を創設したジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチのひ孫である。※ ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)また本来は分家筋になるのだが、父の早世により彼は現メディチ本家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の養子でもあった。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年) つまり彼はメディチ家本家の当主(メディチ家銀行の頭首)の元で育てられたのである。※ メディチ家は30~40代で若死にしている者が多く、その子はたいてい親族の養子となっている。ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)の肖像ウィキメディアから仮りました画家 ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)製作年 1533 年~1534年の間。テンペラタイトル ヴァザーリによる偉大なるロレンッオ・デ・メディチ(Lorenzo el Magnífico, por Giorgio Vasari)。ヴァザーリ作品なのでつい載せたが、ロレンッオの生没年は1449年~1492年。画家の生まれる前に亡くなっているのでこれは肖像画を参考にしてのリスペクト作品なのだろう。偉大な人(イル・マニフィコ・il Magnifico)と形容されるロレンツォ・デ・メディチは20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた。優れた政治、外交手腕を持った人物で特に芸術家を庇護。美術書によく名前が出る人物だ。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の祖父がフィレンツェにおけるメディチ支配を確立したコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)である。芸術家のパトロンとして? メディチ家は後世に貢献した。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚記念に画家サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年) にプリマベーラとヴィーナスの誕生を発注している。プリマヴェーラ(La Primavera) 春の寓意画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦203 cm×幅314 cmプリマベーラが結婚祝いに依頼された作品であるのは確かだが、養父が頼んだのか? 本人が発注したのかは不明。フローラが妻となるセミラミデ・アッピアーノ・アラゴナ(Semiramide D'Appiano D'Aragona) (1464年~1523年)で、マーキュリーがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコである。※ 先に触れたが、セラミデはアメリゴの母方の従姉妹にあたる。ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1485年 テンペラ縦172.5 cm×幅278.5cm初期ルネッサンスを代表する絵画フィレンツェ ウフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ本人が カステッロ邸(Villa di Castello)に飾る為にプリマヴェーラ(La Primavera)の後に依頼したものとされる。ヴィーナスが妻セミラミデ・アッピアーノ・アラゴナである。プリマベーラとヴィーナスの誕生は幼少期(8歳頃)、父の美術書を見て初めて興味をもった絵。だから初イタリアではフィレレンツェまで行ってウフィッツィで見て来た。素敵な絵。結婚祝いとは知らなかった。この結婚祝いに養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)が贈ったのもボッティチェリである。パラスとケンタウロス(Pallade e il centauro)画家 サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)製作年1482年 テンペラ縦207 cm ×幅148 cmこれも寓意画で、タイトルの意味はパラス・アテナイ(アテナイ神)、ケンタウロスを飼いならす」である。アテナイは妻セラミデであり、ケンタウロスは夫ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ。養父はセラミデに夫を「飼いならすように努めよ」と示唆した作品らしい。さらにロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコには女性に対して「理性の女神への野蛮な本能の降伏」をせよ? との意味が込められているらしい。サンドロ・ボッティチェッリのパトロンとして後世に素晴らしい作品を残した二人であるが、養父ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)との関係は後に崩れてしまう。金欠になった養父ロレンツォ・デ・メディチが息子の遺産を使い込んだ・・と言うのが発端らしい。半分は返しているらしいが・・。後に二人は喧嘩別れするが、趣味は同じだったのかもしれない。因みに、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはダンテの神曲の装飾写本もサンドロ・ボッティチェッリに委託している。地獄絵図を以前紹介しています。また、私のお気に入りボッティチェッリ作品はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で紹介した美しい聖母子です。リンク ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)フィレンツェにメディチあり。ルネサンスの中心がフィレンツェであったのは必然だったと言える。が、メディチ家の内情はすでに財政破綻が始まっていた。メディチ銀行(Medici Bank)薬屋から発したメディチ家はジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici)(1360年~1429年)の時(1397年)にその資本で銀行業に参入。メディチ銀行は瞬く間に成功して富を増し、同時に銀行を欧州中に展開。その発展に比例して政治的権威も拡大して行く。彼らの出身地であるフィレンツェを中心にメディチ家の「我が世の春」が至来したのはそうした銀行ビジネスの発展と成功があったからだ。この頃のメディチ家の人間は、分家筋にしても何らかの政治的地位に就き、メディチ家銀行or個人銀行に付随して商取引を行っていたと思われる。だが、銀行業はそもそも長くは続かないものらしい。メディチ銀行は世界最大バンクとして君臨もしたし他銀行よりは長く存続しているが、その業績はロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の頃から? 陰りをみせる。特に言われるのはお金の使いすぎである。ルネッサンス芸術が花開き始めたフィレンツェで彼らは多くの芸術家のパトロンとなった。(それ故後世に残る素晴らしい芸術作品が生まれているが・・。)当主が政治にのめり込みすぎビジネスをしなかったとか、政治的判断を誤り市民に嫌われたとか、理由はいろいろあげられているが・・。本当の所は、肝心の銀行業務における現地ビジネスパートナーの選定の失敗が多分を占めていたと思われる。つまり本家ではなく、いわゆる現地法人の支店銀行の経営が破綻しその負債を被った事による。メディチ銀行の負債は増大し、最終的にロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)の息子の代に破綻(1499年)する。※ この破綻は財政難のみでなく、1494 年から始まるフランス王シャルル8世のイタリア侵攻も大きく影響している。アメリゴがメディチ家のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)の元で働いていたのはまさにメディチ銀行破綻の時代にかかっているのである。そしてまた、この学友にして雇い主であったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチこそが、アメリゴの新世界発見を報告した書簡の主の1人なのである。コロンブスとアメリゴ・ベスプッチの所でなぜメディチ銀行の説明をするのか? と言えば、アメリゴ・ベスプッチのバックボーン(backbone)を理解してほしいからだ。彼の人生は必然的に、成るように成って行った結果のような気がするからだ。メディチ家の事業形態メディチ銀行の仕組みは直接支店を造る事ではない。まず、現地で業務を委託できる人物を専任して共同出資のカンパニーを立ち上げパートナーシップを結ぶのである。契約や条項は細かくあるものの、実質現地の代表者に丸投げ的に近い委任した形をとっている。要するに経営判断はほぼ現地にまかせた形である。その上でメディチ銀行と、現地の代表者との取り分があらかじめ決められている。つまり、「メディチ家は現地代表を信頼してまかせている」と言うスタンスである為、委託先は初期段階で慎重に調査が行われ、かつ有能そうな人間が選ばれるはずなのだ。アメリゴはメディチ銀行のエージェントとして、セビリアで同郷の商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)を見い出しロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに推薦した。ベラルディは合格。契約は成立し、ジャンネット・ベラルディは共同出資してカンパニーを造るとセビリアでのメディチの事業を全て請け負う代理店となった。※ 推薦した段階でアメリゴはフィレンツェに戻っている。代理店がベラルディに決まると、今度はメディチ銀行からの監査役として1491年に再びセビリアへ赴きベラルディ商会に入っている。それ故、有能な人間であれば現地事業は成功し、もうけも増えるわけだが、銀行業務も付随しているのでで資金回収できなくなるケースがどんどん増えてくるのである。例えばイギリス薔薇戦争の時は、馬鹿なロンドン支店長が敵対する両者に資金を貸している。チューダー家が負ければ良かったが、もともと銀行に負債を負っていて返済の滞っていたヨーク家が負けた。ヨークのエドワード4世はメディチ家に借金が返せなくなり踏み倒したので、結局全てメディチ家の負債となった。ロンドン支店は、すでにパートナーシップの契約にも違反し、負債の全額回収は無理であった。本部から有能な監査役が来て一度整理しロンドンからは撤退。ブルージュ支店が業務を引き継いだ。ところが、そのブルージュ支店でも代表は返済不能な過度な融資を宮廷てにしていて、さらに詐欺まがいの事をやらかしてメディチ家に莫大な負債を与えていた事が判明。メディチ家は信頼できるエージェントを派遣して徹底的監査をしている。結果、違反だらけでパートナーシップを解消。ロンドンに続きブルージュ支店も消えた。利益の落ちてきたベネチア支店の閉鎖も考えたらしい。この頃のメディチ銀行は縮小しても構わないから負債を整理して立て直す事に舵をとったのだろう。※ ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)は負債者に負債返済の為のローンを組むよう進めて非難をあびたらしい・・。王侯貴族は踏み倒しが多い事も解ってきた。だから世俗の支配者には貸すな・・とまで言ったらしい。※ 王侯の場合には商品の輸出入や税の事に制限を付けて脅しもしてくる。つまりメディチ銀行の最盛期には支店網を広げ、欧州中の商人のみならず王侯貴族にまで融資し、名声と共に一時は莫大な富も集中させていた。が? にもかかわらず? 結果論から見れば返金されず巨額の負債をかぶってメディチ銀行は倒産においやられたのである。※ 創業期間は1397年~1499年。これでも同一の銀行としては長く続いた方らしい。当然ながら、銀行の縮小でさえメディチ銀行で働らいていた者、融資を受けていた会社、閉鎖された銀行関係各所が路頭に迷う問題に発展する。銀行の倒産、撤退におけるフィレンツェ市民の怒りは大きかったようだ。だからメディチ家の信用はがた落ちしたのである。複式簿記を用いていたメディチ家もっともメディチ銀行がほめられる所は別にある。先に紹介したよう一つ企業の下に各支店があるのではなく、各拠点はそれぞれ現地代理人とパートナーシップに基づいて造られたいわゆる合弁会社のような形を取っているのでリスクは組織全体ではなく、各拠点毎に精算される。また、複式簿記を用いた財務システムがすでに利用されていたと言う点だ。すでに借方(かりかた)と貸方(かしかた)が明確な貸借対照表(balance sheet)が存在したと言う事は、資産(プラスの財産)と負債(マイナスの財産)のバランスが明確にされていたと言う事だ。だから有能な監査が入れば不正はすぐにバレたのだろうが、ロンドンやブルージュは信用しすぎていた分監査が遅かった事が問題だ。当然だが、メディチ家は人材のリクルートには力を入れていたはずだ。アメリゴのように現地でビジネスを任せられるような人材を捜してくる任務。エキスパートの監査役。メディチ家が直接動かなくても信用して任せられる有能者。彼らはそんな優秀な人材を学友などから捜していたのだろう。ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)先にも紹介したようアメリゴは叔父の学舎で知り合ったロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)(1463年~1503年)に、その能力を買われたのだろう。メディチ家の海外事業のビジネスサポートをする事になる。学友の元でまかされた仕事はセビリアのメディチ銀行の不正に伴い新たなパートナーを捜す事にあった。アメリゴはセビリアで同郷のジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)と知り合い意気投合。ベラルディはすでに雑貨や奴隷貿易の商売をしていたがアメリゴの紹介からセビリアでのメディチ家の事業(貿易や金融)を管理する事になった。商人ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)(1457年~1495年)1491年、アメリゴは契約が交わされるとセビリアに住居している。メディチ家側の人間としてベラルディの商売に不正がないか監査役である。この時点でのアメリゴの雇い主はメディチ銀行になったのだろうと思われる。※ メディチ銀行が繁盛している間はセビリアに居る事になるだろうと思っていただろうが、メディチ銀行は思っているよりも早く撤退する事になる。(1494年に破綻)おそらくメディチ銀行が破綻した時、ベラルディがメディチ家の仕事を止めた後もアメリゴはセビリアに残ったと思われる。それはベラルディの為? あるいはコロンブスの航海支援の為?※ ベラルディはコロンブスの支援を始めた頃にカナリア諸島と大西洋を越えてインドに至るカスティーリャの拡大を促進する為のサークルの中心人物になっていたと思われる。それをアメリゴが引き継いだかは定かでない。また先にも触れたが、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに出した書簡により、メディチ家とのつながりは依然としてあった。と思われる。最も書簡の主も1503年には亡くなっている。ジャンネット・ベラルディとコロンブス実はこのジャンネット・ベラルディ自身もコロンブス遠征の出資者の1人だった。しかもコロンブスを支援する団体の中心人物で、スペイン王との関係を取り持ち、1492年の初遠征の資金も提供しているし、コロンブス個人に相当のお金も貸し付けしていた。Portrait of a Man, Said to be Christopher Columbusクリストファー・コロンブスと言われる男の肖像 ウィキメディアから仮ました航海士クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)画家 Sebastiano del Piombo (1485年~1547年)製作1519年コロンブス第1回航海(First time)。1492年~1493年 3隻で出航。※ コロンブスについては、すでに以下でも紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人上のリンクでは、ジェノバの商人がポルトガルとスペイン両国に資金提供をしたと書いたが、ジャンネット・ベラルディ自身はフィレンツェ出身者だった。また、Wikipediaには「セビリアのフィレンツェ人銀行家ベラルディ」と書かれているが、彼の本業は商人で、メディチ家の銀行とパートナーシップを結んでセビリアでの代理店を務めていたにすぎない。これら関係からコロンブスの遠征費用に、メディチ銀行からの融資が少なからずあったのでは? と推察できる。また、ベラルデイは個人でコロンブスにお金を貸していて、彼の死の時にも未返済で残っていた。コロンブスは第一回航海でアジアを発見? 金の発見を手土産に戻ったので、1493年の2回目の航海の時は武装船を含めて大艦隊で出航。前回は3隻だったので大出費がのしかかる。そもそもスペイン王室に資金は無かったので廻りの商人がお金を出さなければならない。つまり、コロンブスが何か依頼すれば、王室経由でベラルディらの所に出金要請が来る。ベラルディはその度に金策に動いたと思われる。回収できるか? それは不確実な賭けだったのにベラルディは支援を続けた。新世界より戻ったクリストファー・コロンブス Christophe Colomb au retour du Nouveau Monde画家 ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)(1798年~1863年)製作 1839年最初の航海から帰還したコロンブスがイザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica)(1451年~1504年)とフェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)に帰国の報告にきている図。この後、ジャンネット・ベラルディ(Gianotto Berardi)の所にも挨拶にきているらしい。ジャンネットには個人的にもお金を借りているからね。むしろもっと貸してくれ・・と言ってたりして。そんなお金が必要な時にベラルディはメディチ家の仕事を辞めている。なぜか?メディチ銀行側から調べると、ベラルディが辞めたのではなく、メディチ家の没落に起因してパートナーシップが解除されたのだと思われる。時期的にメディチ銀行が採算の合わない支部の閉鎖をしていた事。またメディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。コロンブス第2回の航海は1493年~1496年。17隻で出航。1494 年、コロンブス兄弟はベラルディに大量の奴隷を送っている。メディチ銀行の破綻で経済的打撃を受けていたベラルディが少しでも経済的利益が得られれば・・と言う配慮だったか?しかしこれは合法性に疑念を抱いた国王が売買をやめさせている。※ その時は取引を中止したが、スペイン政府は1505年にはイスパニョラ島に黒人奴隷を大量投入しているけどね1495年、追加で12隻のキャラベル船をイスパニョラ島のコロンブスへ派遣するよう王室から依頼が来たが資金不足でベラルデイは船4隻しか準備できなかった。しかも出航前の1495年、12月にジャンネット・ベラルディは急死した。死因は書かれていないが、彼もまたメディチ家の破綻で自分の会社も整理しなければならないなど金策と心労だったのではないか? と推察する。不運は続き、翌年1496年1月、ベラルディ商会が調達した4隻の船すべてがカディス沖で難破。回収どころかより負債を抱えて破産である。遺言でアメリゴがその債務整理をしている。その後のベラルディ商会については書かれていない。ベラルディはとりまとめ役として奔走? コロンブスの冒険に共に夢を見ていたのかもしれないが最後はコロンブスの為にお金を集めるのさえ、至難だったと言う事だ。それ故、アメリゴは少なくとも多忙なベラルディの代わりにコロンブスの2度目の航海には係わっていただろう。そもそも彼はセビリアに来た後にピサで海図を購入している。非常に興味があったのだろうと推察できる。また、彼は同郷の学友等にコロンブスの冒険を話していただろうし、彼自身がコロンブスの冒険を非常に期待を持って応援していたのではないか? と思う。やはりコロンブスの計画にはロマンがあったと思うからだ。ただ、ベラルディ商会が破産した後、アメリゴがコロンブスの航海にかかわっていたかは不明だ。コロンブスの第3回の航海1498年~1500年。6隻の船で出航。コロンブス自身が逮捕され本国へ送還。コロンブスの第4回の航海1502年~1504年。小型のボロ舟4隻。イスパニョラ島への寄港禁止。4回目の航海ではイスパニョラ島への寄港禁止だったはずだが・・。コロンブス兄弟のイスパニョラ島の状況を知れば、コロンブス自身による返済も不可能に思えた。何よりコロンブスには商才も無かったし、人をまとめて統治するなどと言う能力も皆無だ。結局、コロンブスがベラルディのお金を返済したかも不明。1504年末にイサベル女王が亡くなるとスペイン政府はよりコロンブスに冷淡に。名誉だけは残されたが・・。ただスペイン政府はコロンブスの功績を高く評価せざる終えなかった事は事実。それだけ新大陸からの上がりは大きかった。最も、後世振り返ればベラルディら商人のコロンブスへの投資は別の形で還元されている?新大陸で略奪して得た一時的な金銀宝石よりも、実は新大陸からもたらされた農産物(トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、タバコ)の方がはるかに欧州人に恩恵をもたらしている。何にしても現場が一番キツイ。身銭をいっさい切らなかったスペイン王室が一番楽して得をしたと言う事だ。アメリゴ公証人から航海士? への転換?アメリゴは必然的に? ベラルディ絡みで当初からコロンブスの航海に関与したのだろう。いや、その後の行動を見ればアメリゴは積極的にベラルディの意思を引き継いだのではなかろうか?セビリアに留まりベラルディの死後、アメリゴは新世界への 2 つの航海に参加している。1497年~1498年第1回航海(First time)? カリブ海沿岸を探検。※ この航海に関しては本当に行っているか物議があるらしいが、アメリゴ自身がいつか渡航してみたいと願っていたのは確かだろう。その最初がどこか? が解らないが・・。1499年~1500年第2回航海(second time) カリブ海を南下。ブラジル北岸まで探検。この航海はスペイン王の依頼によるものとされ、5つの探検隊が南米を航海しベネズエラ沿岸とブラジル沿岸を探索している。(これは現在の南米大陸北岸への探検である。)この時点で、ここはアジアでもインドでもまして日本の近くではない。と疑問に思ったスペイン政府による調査だったのでは? と思われる。アメリゴもこの調査隊に参加はしていたが、彼の役割がはっきりしていない。投資家の代表として商人として乗っていた可能性。あるいは実は測量機器を扱えるアメリゴはこの航海で緯度など多少の測量をしていたのではないか? と思われる。これは、コロンブスの3回目の航海(1498年~1500年)期間で、コロンブスが報告したベネズエラの真珠の産地調査も含まれていたが、スペイン政府は、植民地と本国の貿易を統括する後のセビリア通商院の設置(1503年)に向けた現地調査であったのではないか? と思われる。ポルトガルによる南米大陸到達この頃、東廻りで本物のインドに到達していたポルトガルの遠征隊が南緯16度52分の地点で偶然にも(現在の)ブラジルを発見(1500年)してしまう。ポルトガル貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Álvares de Gouveia)(1467年or1468年~1520年)である。ポルトガル王マヌエル1世は、そこが未発見の土地なのか? また島なのか? 大陸なのか? ブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴを呼び寄せた。ただの探検ではない、ポルトガルでは天体観測から導き出した測量による正確な位置の特定(地図の製作)が求められていた。アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)(1454年~1512年)かくしてアメリゴ・ベスプッチは1501年~1502年第3回航海(Third time)、今度はポルトガル王の依頼で南米大陸東岸に沿って南下(南緯50度まで到達)し測量?※ 彼は南米初の天体観測? を行ったヨーロッパ人と言う事になっているらしい。天体観測するアメリゴ・ベスプッチ ウィキメディアから借りました1499 年の航海中にアストロラーベ(astrolabe)で南十字星(Crux)を発見。南天でも天の南極近くにある星座のため、大航海時代以来おもに南十字座が天の南極の方角を知るために使われた。確かに北半球と南半球では見える星座も違うからね。計測するにしても常識が覆るから慌てたでしょうね。因みに、アメリゴはこの航海で立ち寄った大西洋上のベルデ岬諸島? カーボベルデ (Cabo Verde)で問題の書簡をしたためたとされている。その書簡こそが新世界を世に知らしめた2つの書簡の一通である。South Atlantic(南大西洋)Homem and Reinel`s portolano of Brazil 1518年~1519年ポルトガルがたどり着いた南大西洋にあった大陸。南米ブラジルの絵図です。海図の本「Eary Sea Charts」からポルトガル領ブラジルの証明の為に利用されたアメリゴポルトガル王の元でアメリゴは翌年2回の探検調査にも行っている。1503年~1504年第4回航海(4th time) 南米北東部沿岸を探検。※ この遠征に関しても物議があるらしい。この時点で、アメリゴはすでに地理学者? のごとき扱いとなっているが、経歴を見ても彼がどこでどうして計測を習得したかは書かれていない。ただ考えられるのは叔父の学舎時代? である。もともと天文学が好きだったと言うアメリゴはすでに計測はできたのかもしれない。あるいはポルトガル船で南米に向かったこの時、ポルトガルの航海士から測量や地図の製作について学んだ可能性もあるかも。。それにしてもポルトガル王はなぜアメリゴを呼び寄せたのか? 水先案内人として南米の確認をしてもらいたいだけだったのか? 実は、最初からそこにはポルトガル王の思惑があったのだ。と後から解る。後にアメリゴは学術書の執筆の為にこの航海時のデータが欲しいとポルトガルに求めたらしいが、機密情報として応じてくれなかったらしい。それはアメリゴの調査報告により? ポルトガルはトルデシリャス条約を盾に南米のこの領土も主張する事になるからだ。※ ブラジルがポルトガル語圏になったのはこの条約のおかげだ。これら経緯を鑑(かんが)みると、ポルトガルは最初からペドロ・アルヴァレス・カブラルが発見した土地はトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)ラインである西経46度37分内に入っている事は解っていた。だから敢えて、スペインからアメリゴを呼び寄せ、彼がスペイン人として探検した領土がどちらの領域に入っているのかの確認の意味が大きかったのではないか? と推察できる。また、ポルトガルはスペインがまだ到達していない未開の以南を南緯50度まで進んだ。そこにフラグを立てて自領にしたのである。スペインのアメリゴが証人でもある。ポルトガルにしてやられた感じもする。ポルトガルは正統性を主張する為の正確な南米地図を製作しているのである。South AtlanticPortolano of the coast of southern Brazil and Rio de la Plata1538年ブラジル海図の本「Eary Sea Charts」からポルトラノ(portolano)とは、いわゆる海図です。13世紀頃から地中海の船乗りたちの間で用いられた海図で、方位線網が図面を覆っているのが特色。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。それはポルトガルが先導した為? 大航海時代に新大陸のブラジルの地図もすぐさま造られている。※ 以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中、「ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤」で1554年の黒海の海図(Portolano)を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊当時、ポルトガルはすでに詳細な海図の作成ができたが、スペインにそれは出来なかった。当時のスペインは測量も調査もせずにアバウトにお宝のありそうな地域に侵入していただけだった?※ 当時の測量器については以前「ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)」の中、サンカントネール美術館から観測器具の写真を紹介している。リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)アメリゴがスペインの初代の航海士総監となった理由スペインの入植地はインディアではなく、新大陸であった。そしてまもなくポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)が香料諸島に到達しようとしていた。※ ヴァスコ・ダ・ガマ最初の航海1497年~1499年。インド西岸到達は1498年5月。ポルトガルの行動にスペインが慌てたのは言うまでもない。外海への海洋進出においては、ポルトガルよりスペインぱ遙かに遅れていたからだ。だいたいスペインは航海技術も地理情報の管理にしてもポルトガルより遙かに劣っていた。航海士の訓練や免許にしてもしかり。行き当たりばったりで先に船を出したから、おそらくカリブ海の測量なども当初全くしていなかったのだろう。※ スペイン本国では、どこの土地からどんな産物が上がってくるのか? など当然データとして残さなければならなかったはずだ。(後にセビリア通商院が設立され管理。)1505年、アメリゴがポルトガルよりスペイン(セビリア)に帰国。アメリゴはスペイン王フェルナンドに招かれる。そこでアメリゴはスペインがポルトガルよりいかに遅れているかを語ったのだろう。アメリゴの助言から? 航海士免許制度、航海訓練所の創設、王立地図台帳の作成をスペインでも導入する事になった。以降スペインの海洋進出の遅れを取り戻すべくアメリゴは尽力する事になる。そして1508年にアメリゴはスペインで初代の航海士総監(Pilot Major)に就任した。アメリゴが初代となって航海技術を教え、新大陸へ行くスペインの航海士を育てたのだろうと思われる。このアメリゴの経緯を見ると、逆に? もしかしたらアメリゴは敢えてポルトガルに渡り、そして残り、海洋研究や船乗りの学校の事、地図製作の為の計測技術など航海に関するあらゆる事を学んでいた可能性が考えられる。つまり、アメリゴがポルトガルにいた1501年~1505年はスペインの為に海洋学と航海術の勉強の為に留学していた期間と言う解釈ができる。そしてその時、ポルトガルで彼は最新のアジアの地図を入手し、アジアの最南端の緯度を確認したのかもしれない。アメリゴは1501年~1502年(Third time)、新大陸で南緯50度まで到達している。コロンブスがアジアの証明をしようとやっきになっていた最後の航海の時、すでにそこはアジアではないとアメリゴが証明していた事になる。アジア最南端は北緯1度のマレー半島なので、南緯50度以上続くそこはアジアではない。全くの別の緯度に存在する大陸に他ならない。・・と言う理論だ。※ マレー半島の最南端でありユーラシア大陸最南端でもある町はマレーシア(Malaysia)のタンジュン・ピアイ (Tanjung Piai) 北緯01度16分 東経103度31分因みに北米と南米が陸続きである事、また太平洋が確認されるのは1513年の事。アメリゴは1512年に亡くなっている。Amerigo Vespucci, Mundus Novus アメリゴ・ベスプッチ「新世界」アメリゴの業績はどのように世間に知れ渡ったか?それはアメリゴが生前したためた書簡2通が本として出版され紹介された事による。1通は学友でありかつての主であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに宛てた手紙である。「Amerigo Vespucci, Mundus Novus, Letter to Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici」『アメリゴ・ベスプッチ「新世界」』ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチへの手紙。※ 新世界(Mundus Novus)の初版がいつか定かでないが1504年にはすでに発行されていて、出版から 1 年以内に、イタリア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語など多言語で翻訳され12 の版が印刷。1550 年までに 50版は発行された。もう1通はフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニ(Pier Soderini)に宛てた手紙とされている。彼もまた叔父であるジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチの元で学んだ学友らしい。※ 1505 年頃にフィレンツェで出版先に触れたが、アメリゴはポルトガルの下での航海での帰途「我々の祖先も、誰も知らない土地」、「そこは島ではなく大陸」、「新世界」としてメディチ家のかつての主にして学友であるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに手紙を送っている。もともと学友である。コロンブスの航海の事も度々報告していたと思われるし、自分がついに船で航海に出た事。そしてそこは「未発見の土地」と言う「ビッグニュース」を真っ先に知らせたかったのかもしれない。この書簡が送られたのは1502年。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ (1463年~1503年)は1503年に亡くなっているので、もしかしたら見舞いを兼ねた手紙だった可能性もある。また1505年に書かれた? とされるソデリーニの手紙は、ポルトガルの海図に基づいて新大陸を発見したとする報告である。こちらもまたかつての学友への書簡であるが、もと学友として送ったのか? 故郷フィレンツェ共和国の政治家への報告だったのか? ソデリーニの手紙はロレーヌ公国の学者らの目にとまったらしく、彼らは手紙のフランス語訳と、最新の西大西洋の沿岸を表したポルトガルの海図を入手して、アメリゴの功績を称賛したと言う。この2つの書簡により新世界(Mundus Novus)は広く認知される事になる。しかし、新世界を知らしめたこれらアメリゴの書簡自体が、疑問や疑惑や信憑性などが当初から多数取り沙汰され論議されている。これはあくまで私の推測です二つの書簡はそもそもアメリゴの功績を世間に知らしめる目的の手段であったと思う。実際にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチに送った手紙は本当だったと思えるが、彼はまたこの事実を複数の人間に伝えていたはずだ。彼が最も伝えたかったのは彼を教育した叔父ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチ(Giorgio Antonio Vespucci)(1434年~1514年)であったはず。(叔父はまだ存命中)先に紹介している通り、この叔父はフィレンツェで最も有名な人文学者の 1人。アメリゴの新世界の証明を誰よりも支持したであろう人物だ。それ故、この功績をどうにか世に出してあげたいと考えたのではないか?その最も効果的な方法としてメディチ家の名を利用した。次にフィレンツェ共和国の政治家ピア・ソデリーニへ報告の手紙を出した。(こちらも元学友)これは事実か? 事実でないかはさておき、フィレンツェ共和国の代表に出したと言う所に意味がある。本来ならフレレンツェ共和国の代表にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチがなっていたかもしれなかった。(養父と上手くいっていれば)ところが先に紹介したようメディチ家でいろいろあった時代である。メディチ家はフィレンツェから追放されていた期間でもある。※ メディチ家は1512年にフィレンツェに帰還。まず、多くの者に知ってもらう為の手段として、この形をとって公表したのではないか? 彼がそもそも専門の学者であったら、もっと他に公表の仕方はあったのかもしれないが、アメリゴはどこにも所属していないただの一般人。世論からアメリゴの功績として評価させたかったのではないか?それ故、もはやアメリゴが何回航海に出たかは問題ではないと思う。また、世に出す為に関係者が悪意はなく、意図的に手紙の内容を変更した可能性は十分考えられる。そもそも効果的に世に知らしめる事のみが目的だったろうから・・。だから今更、そんな論議で彼を否定するのは違うだろう、と思うのだ。文系だった彼が、計測の技術を身に付け、データを出して新大陸の存在を世界に知らしめた人物である事は間違いないのだ。そしてかつての仲閒が彼の仕事を評価して後押ししてくれた。・・と言う話しなのではなかったのか?コロンブス(Columbus)の野望すでにコロンブスについてはあちこちで紹介しているが・・。ジャンネット・ベラルディとアメリゴ・ヴェスプッチが惚れた? コロンブスの魅力は何だったのだろう。ジャンネットもアメリゴも、コロンブスに共感した? そして同じ夢を見たのだろうか?コロンブスは後に名の出る征服者・侵略者・コンキスタドール(Conquistador)と同質ではない。彼は純粋に冒険者(adventurer)だったのかもしれない。彼の一生はアジア探求の旅だったと言えるからだ。コロンブスはマルコポーロに憧れていた?彼のバイブル「東方見聞録・マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)」で知った黄金の国・ジパング。未知のアジアを旅したマルコポーロが記した東の果てにあるとされる伝説の黄金の国。そこに辿り付きたい。と言うロマンを多分に秘めた夢の冒険家だったのではないか?※ 件(くだん)のジパングは日本ではないと言う説もあるようですが・・。私なりに考察したものを以前紹介しています。ジパングが気になる方は是非一読お願いします。「京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング」・クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング・黄金の国ジパングの出所リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング「西廻り」と言うポルトガルとは反する航路でアジアに向かおうとしたクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)。当時まだ地球が球体だと言う事は証明されていなかったが、どうもコロンブスは球体だと信じて「西に進めば東のジパングに辿り付く」と確信していたようだ。その根拠となるのは、ポルトガル宮廷で最古の地球儀を作ったと言われるマルティン・ベハイム(Martin Behaim)(1459年~1507年)と知り合い意見交換していたと言う説である。ただ彼は地球のサイズをかなり小さく見積もっていたと思われる。実際コロンブスは中米の海をアジアと勘違いした。たまたまエスパニョラ島から金が産出されたが為にそこをジパングと勘違いした。だから彼はそこがアジアだと証明する為に今度は香料諸島を探すべく、統治を弟にまかせて調査航海に奔走する。(それが失敗だった。)実は彼は、アジアに到達できたなら、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1を獲得する事をイザベル女王と契約していたので、発見した土地の統治を優先させるべきであった。野心的な部下らの暴走があった事も事実だが、彼は発見したエスパニョラ島の統治に失敗。度重なる現地反乱などの失態が続き最終的に排除される事になる。※ エスパニョラ島とは完全に引き離され、3回目以降立ち寄る事も出来なくなった。明らかにそれはスペイン政府の契約違反であるが・・。彼はエルナンコルテスやピサロのようなコンキスタドールとは違っていた。本質の所で、彼は夢の冒険者であったから、金や名誉よりも己の探究心の方が勝った結果だろう。エスパニョラ島を取り上げられても、嘆願し、今度は香料諸島の発見を目的に3回目、4回目と調査航海に出る。「西に進んでもアジアに到達できた」論を証明したかったのだろう。むろん香料諸島が発見出来れば、黄金に匹敵する香辛料の市場が開け、それはスポンサーらの収益となる。先にも触れたコロンブスの3回目の航海では大西洋を最も南側ルートで南米大陸北岸に到着。その時ベネズエラで真珠を見付けて報告。コロンブスは出資者の為に還元できる財を常に求めていたのは確かだ。※ アメリゴらはその場所を特定し、後にスペイン人は真珠の市場として現地を荒らすのである。運にも見放されたのかもしれない。アジアではなかったが、4回目の航海では、すぐ彼の目前に黄金文化を持った人々の土地があったし、あと少しの距離で太平洋だったのに・・。。彼は沿岸探索しかしなかったからだと思われる。調べれば調べるほどアジアは遠のいた。結果、香料諸島もアジアの海峡も見付けられず、でも最後までアジアと信じて? 亡くなったらしい。最後の扱いも悪く、無念な死ではあったが、コロンブスがスペインにもたらした恩恵は大きい。ベラグア公爵(Duke of Veragua)の称号をもらい受け、その家系は現在も続いている。ところでコロンブスに追随した輩(やから)はどうしたか?コロンブスがエスパニョラ島で黄金を見付けてから、20年は皆、カリブ海での黄金探しに夢中になっていたらしい。もともと黄金の量は多くはなかったから黄金の産出が減ると今度は対岸の大陸の方に目を向け、また奥地に進む事になる。その話は本線の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」の方で・・。記念碑 コロンブスの塔(Mirador de Colom)バルセロナのベイ・エリアにあるコロンブスを頂いた塔は1888年のバルセロナ万博の時にアメリカとカタルーニャの交易を記念して建てられたもの。高さ60m。コロンブスは大西洋岸のパロス港から出航してセビリアに戻っているのでバルセロナは全く関係無いと思うが・・。左手に航海図を持ち、右手は新大陸(アメリカ)の方角をさしているらしい。バルセロナからでは方角解りにくいですよね。コロンブスは確かにスペインでは称えられています。彼がスペインにもたらした経済的功績は大きい。新大陸に名前は付かなかったけど、本人はジパングであって欲しいと最後まで願っていたのだから。まあしょうが無いね。※ 実際、南米大陸(ブラジル)の発見者? はアメリゴ・ベスプッチで間違いない。しかも測量したのも彼でポルトガルはそれを認めている?西インド諸島(West Indies)とコロンビア(Colombia)でも代わりにコロンブスの名が付いた国が南米にある。コロンビア共和国(República de Colombia)である。それはかつてコロンブスが4回の航海で回遊していたカリブ海域に位置している。下は現在のカリブ海の地図です。※ カリブ海の名はコロンブス以前に南アメリカを現住としていたカリブ族(Caribs)に由来する。コロンブスが1492年12月イスパニョラ島(La Española)(Ispayola)に到達。欧州人による新世界最初の街が建設された島である。現在イスパニョラ島は西側3分の1がハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)、東側3分の2がドミニカ共和国(República Dominicana)の統治となっている。因みにこの南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海域、キューバやイスパニョラ島に連なる諸島群には西インド諸島(West Indies)の名がつけられている。これは、インドに到達したとコロンブスが誤解したことに由来する名前がそのまま残った場所だ。地球儀を見ながら、なぜインドでないのにインド諸島の名が付いているのか子供の頃は疑問であった。理由を知った後もややこしいから止めて欲しい・・なんて思ってた中南米の国々の公用語以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約」について紹介したが、地球をスペインとポルトガルで分割したまさにその支配権の公式が現在にも跡(あと)を残している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス以下に中南米の国と公用語を記しましたが、スペイン語が多勢を占めています。トルデシャリス条約でポルトガルは辛うじてブラジルの権利を得て南米に進出。スペイン、ポルトガルの後に続いてアメリカに植民地を開いたフランス、オランダ、イギリス。が、ナポレオン戦争が勃発するとその戦火はアメリカ大陸にも飛び火。ここで再び利権が移動。現在の国は植民地と言う支配からほぼ独立を果たしているがその公用語に旧支配国が見える。自分用に仕分けした物です。参考にどーぞ一部間違っていた所を修正しました。中米スペイン語(Spanish)を公用語とする国メキシコ(Mexico)エルサルバドル(El Salvador)グアテマラ(Guatemala)コスタリカ(Costa Rica)ニカラグア(Nicaragua)パナマ(Panama)ホンジュラス(Honduras)ドミニカ共和国(República Dominicana)英語(English)を公用語とする国ベリーズ(Belize)フランス語(French)を公用語とする国ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)南米スペイン語(Spanish)を公用語とする国アルゼンチン(Argentina)ウルグアイ(Uruguay)エクアドル(Ecuador)コロンビア(Columbia)チリ(Chile)パラグアイ(Paraguay)ベネズエラ(Venezuela)ペルー(Peru)ボリビア(Bolivia)ポルトガル語(Portuguese)を公用語とする国ブラジル(Brazil)オランダ語(Nederlands)を公用語とする国アルバ(Aruba)スリナム(Suriname)※ ギアナ地方は1499年発見。その後にオランダ、イギリス、フランス、スペインの探検家等が探検するが、入植したのはイギリス人とオランダ人。両国は領有権を巡り争ったが最終的にオランダが領有権を得た。当初、彼らは黒人奴隷を使役してタバコ栽培を行っていたが加えてコーヒー、カカオ、サトウキビ、綿を栽培。奴隷の待遇は劣悪で逃亡奴隷が多く出たらしい。英語(English)を公用語とする国ガイアナ(Guyana)※ スペイン人とポルトガル人の手が及ばなかったが後にオランダ西インド会社の管轄下に入る。が、ナポレオン戦争が勃発すると欧州のみならず戦闘はアメリカ大陸にも及ぶ。中南米のフランス領およびオランダ領はイギリス軍によって陥落し奪われていった。フランス語(French)を公用語とする国フランス領ギアナ(French Guiana)※ フランスがギアナに入るのは17世紀初頭。ルイ16世がトリアノン宮殿の植物園で働いていたルイ・クロード・リシャール(Louis Claude Marie Richard)(1754年~1821年)を1781年ギアナに派遣。植物の調査研究をさせている。ギアナもオランダ、イギリス、ポルトガルと分割されたり支配者が交代。今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 」番外 扱いでお願いします。Back number入れて起きます。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン体調不良で1週間ダメでした。書けないと思っていたのに結構たくさん書きましたね。写真が少ないのが難ですが・・。
2022年08月27日
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関連Back number追加しました。Break Time(一休み)次回の構想で必要になる本を数冊取り寄せ、まだ読み切ってもいません。まだ完成には遠く、そこで内容変更。序章の部分を写真増やして独立させて今回をしのぐ事しました。大変 m(_ _;)m 申しわけありません。この夏はどうも所集中力に欠けて・・。作業をやる気になれなくてすぐにYouTubeに逃避。構想はできたけど日中用事で出かけると夜はグッタリ思考が働らかず・・。視力も落ちてきて、写真の選択をしていると眼精疲労で? 眠くなる。写真を選ぶだけで数日。特に今回の写真は古いのでカメラの解像度も低い。加えて高度が高い為に写りも悪いし見えにくい。余計大変でした。そんな訳で今回はBreak Time でショートネタです。新大陸アメリカのミステリーから・・。新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)パラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)パジェスタ島のアシカイカ県(Departamento de Ica)ナスカの地上絵(Nasca Geoglyphs)パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)西欧の人間が新大陸であるアメリカ大陸を見付けたのは15世紀の事だが、アメリカ大陸にも実際紀元前から脈々と文化が育まれていた。でも、それは未だ全容解明できていない。西欧の文化と交わっていないので、全く独自路線で育まれた文化を検証するのは難しいのかもしれない。特に文字と言う文化が無かった所もある。また、文字はあっても解読ができない。そうなると歴史をたどる事さえできないからだ。何よりコロンブスがたどり付いた新大陸は広大だった。彼が発見したのは南北大陸のつなぎ目、メゾアメリカのほんの一部。氷山の一角にもなにらない新地の発見だった。新大陸への植民はコロンブスの後に続く一攫千金を狙う猛者(もさ)達によって開発・・と言うよりは侵略と言う形で広げられて行く。その過程で、部族間の均衡は崩れる。既存の文明は強制的に破壊され消滅して行った。現地の人から見れば彼らの犠牲は大きく、彼ら西欧人は非情な侵略者以外の何者でもなかったろう。逆にコンキスタドール当事者側から見たら? 彼らも恐怖の中、命をかけて征服を敢行し、野蛮な宗教を排除してキリスト教を布教。称えられるべき活躍をした? と言う解釈になろう。が、これは当事国内でも評価が分かれたようだ。当事国は莫大な経済の恩恵を受けたのだから、否定はしにくいからね・・。哲学者にして経済学者でもあるイギリスのアダム・スミス(Adam Smith)(1723年~1790年)は「国富論」の中で人類の歴史を二分する画期的事象としてコロンブスのアメリカ大陸発見とヴァスコ・ダ・ガマのインド到達を上げた。が、歴史的意義としては否定しているそうだ。果たして彼らの征服と言う蛮行は「世界史上の偉業」なのか? 黒歴史なのか?※ コンキスタドールについて・・。が、書く予定だった所です。それは次回の欧州編に・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)今現在、破壊された文明を取り戻す事はできないが、研究は進んでいる。そんな中で未だ新発見の出る大陸です。今回紹介するのも、実は割と近年に発見されたもの。なぜなら、それは上空から見ないと発見できなかったからだ。飛行機の登場、そして近年はドローンによってもっと細やかに探索できる。これからアンデス山中や、ジャングルの密林の中からも古代遺跡が発見できるかもしれない。やっぱり科学は日々進歩しているのだな・・と思う。パラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)ペルーと言えばナスカ(Nasca)の地上絵を想像する人は多いと思うが、その巨大な地上絵こそ、「謎の文化」の賜だ。実は、そのナスカ文化の前章とも言える地上絵がペルーのイカ地方に存在していた。割と知られていないその絵はパラカスの地上絵(Paracas geoglyphs)と呼ばれている。パラカス半島沿岸の地上絵ペルーのパラカス半島(Paracas Peninsula)北部のペヘレイ岬謎の絵が刻まれている。この絵自体の製作年は実の所定かになっていないようだが、出土する土器から紀元前と推定されている。BC1200年~BC100年頃にこのパラカス半島に存在していたパラカス文化(Paracas culture)はナスカ文化よりもさらに1000年程古い。彼らの陶磁器や 精巧な織物、そして何よりその図像からパラカスで生まれた文化は、実はナスカ文化の源流と考えられている。特にパラカスで生まれた? 織物と刺繍はその芸術性が高く評価されている。下はウィキメディアの写真です。図像がはっきり見えている。上の地上絵、縦190m、幅70mメ。溝の深さ1m。スペイン語で「パラカスのカンデラブロ(El Candelabro de Paracas)」カンデラブロ(Candelabro)とは「枝付き燭台」の意。確かに私も最初に見た時にユダヤ教で使われる燭台(キャンドルホルダー)であるメノーラー(menorah)を想像した。枝付き燭台か? あるいはメソアメリカの世界樹か? ※ ナスカにも世界樹とされる絵がある。全然似ていないが・・。実際の所は何なのか? 謎らしい。謎の絵ではあるが、海からしか見え無い事から寄港の目印だったかもしれない。因みに、2018年のドローン調査で他にもパルパ郡から多くの地上絵が見つかっているらしい。下もウィキメディアから借りたパラカス自然保護区の海側からの写真です。ペルーのクスコ(Cusco)と、ナスカ(Nasca)、パラカス(Paracas)の位置を示した地図ですグーグルマップを利用しました。ナスカ(Nasca)の所のマークは主要な地上絵の位置です。ところで先にも触れたが、パラカス文明はナスカ文明の源流となる文化である。実際ナスカはここから近い。パラカスはペルー南西イカ県にある。(ナスカもイカ県です)その県都イカからはナスカの地上絵を観る為のセスナが出ている。つまりナスカの地上絵を見るなら、イカからなのである。※ クスコから小型機でイカに入り、イカで遊覧セスナに乗り換えて地上絵を見学するのがお勧め。地上から行ってもパンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)沿いにある展望台・ミラドール(Mirador)から、その前にある手と木という2つの図像しか見られません。地上絵は広大な平原に点在してあるし、当然ハイウェイから平原内には入れないからです。展望台・ミラドール(Mirador)は、今や中に侵入する輩の監視目的が主となっているようです。また非常に大きな絵ですから、空から小型のセスナで旋回しながらでないと写真撮影もままなりません。部分では何なんで南米の写真も追加ピンクで囲ったのがペルーです。見えにくいけどもANDESのDの上の紫の★がクスコです。パジェスタ島のアシカところで、パラカス(Paracas)にはこれを見にきたわけではなく、アシカ見学の為、パジェスタ島(Ballestas Islands)に向かう為に船に乗っている。実はこの海域は野生動物が多数生息している事からリトル・ガラパゴス(Little Galapagos)とも呼ばれるらしい。フンボルトペンギン、オタリア(アシカ科)、ペルーペリカン、インカアジサシ、グアナイ鵜、ペルーカツオドリなど生息。現在島には立ち入りはできない。エサが豊富な海域なのでしょう。前に「ペンギン・コロニー(Boulders Beach&Antarctica)」の中、「南極環流と海洋深層水」で紹介しましたが、南極環流(Antarctic Circumpolar Current)から南太平洋亜熱帯循環(South Pacific Subtropical Gyre)へとミネラル豊富な海洋深層水が巡っている。ペルーの海域は南極環流の純度の高いミネラルが真っ先に集まるから栄養価満点の海なのでしょう。プランクトン ← 小魚 ← 大きな魚、ペンギンやアシカが集まる。海洋生物の天国ですね。リンク ペンギン・コロニー(Boulders Beach&Antarctica)意外にも、ペルーで最も観光客が訪れた国立自然保護区ランキングで2018年に全国1位を記録していると言う。実際、ナスカの地上絵より子供受けはするしね・・。下はウィキメディアから仮りました。パジェスタ島(Ballestas Islands)の全景ですイカ県(Departamento de Ica)南米大陸の大西洋の海は栄養豊富なのに・・。南米大陸の西岸部は砂漠地帯。不思議な国アンデス山脈と海岸の間は山地によって湿った空気が遮断される為に乾燥する。南米西岸は世界でも最も乾燥した砂漠地。アタカマ砂漠(Atacama Desert)は現在チリ領になっているが、ペルーの沿岸部もまたアタカマ砂漠に接続する砂漠地帯なのである。イカは砂漠地でありながら1563年、スペインの植民となると農産地に変わる。綿花、ブドウ、アスパラガス、オリーブなどが栽培された。イカの港は欧米への輸出で栄えたそうだ。特にブドウ畑は南米で最古とされるらしい。セスナで空港を飛び立つと眼下には砂丘と共にブドウ畑が連なっている。太陽光が強いからイカで作られるワインは糖度が高くフルーティーになるそうだ。近年ペルーのワインは有名であるが、食用ブドウの生産はイカだけらしい。上空に行く程、カメラの解像度の悪さが出ますが、参考までに・・。砂漠地帯を開拓して土地を拡大しているのが解ります。砂埃のせいか? 街が全体に茶色い。砂丘の中にあるイカ近郊のワカチナ(Huacachina)のオアシス周辺は国立保護区に制定。本当に絵に描いたようなオアシスですが・・。このオアシス自体は池のようなものです。砂漠の中にある事に意義がありますが・・。最も一度枯渇した過去があり、現在は定期的に水の入れ替えが行われているらしい。つまり湧いているわけではないのかな?セスナの順番を待つ間に観光したりする。ナスカの地上絵(Nasca Geoglyphs)地上絵を空から見たい人はセスナに乗る必要があります。イカ(Ica)の空港からセスナに搭乗。セスナは操縦士入れて定員6人程度。飛行機は5~6機がほぼ同時に出発するが、当然、観光客をさばききれない。近年はもう少し人数の乗れるセスナを入れたらしいが、大型化すると地上絵を見るのには大きく揺れて傾くので酔うのである。下はかなり前の写真です。写真の解像度だけでなく、現在この航空会社は無いかもしれませんが、セスナのサイズとしてはこんなものです。タクシーサイズです。奧の飛行機はリマからの飛行機かも。セスナは数人を乗せてのローテーションで運航されている。この搭乗の順番待ちの為にイカの空港近郊での滞在時間が長くなる。団体グループの場合、仲閒が全員乗り終わるまで時間をもてあます状態です。因みに、今年(2022年2月)、地上絵観光のセスナ機墜落のニュースがありました。「乗客の外国人観光客5人と乗員2人の7人全員が死亡」上の機より少し大型のようですが、そんな事もあります。そう言う事も覚悟して行く事です。安全の100%保証は無いのです。下はクスコからイカ(Ica)に向かう機中からの撮影かも多分下はラクラ(Lacra)の街下の線はパンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)ナスカは年間降水量の極めて少ない乾燥地です。白いのはかつて水が走った跡。滑走路のように見える図形も実は謎の一つ。ナスカラインと呼ばれる幾何学模様の一つです。ナスカは地上絵で有名ですが、図像よりもむしろ巨大な数学的幾何学模様や線の方が多いのです。図像の位置を示した地図です。位置的に図で見ると左上中央から入るのかな?No21 フクロウ男 or 宇宙飛行士 長さ32mNo7 コンドル 長さ136mNo1 ハチドリ 長さ96m写真が古いので解像度も悪いカメラですが・・。図像をはっきりさせる為にみなさん少なからず色調調整しているようです。実際の肉眼では線や絵は薄くて見えにくいのです。線を際立たせるには、全体に暗くしないといけないし・・。天気もあるけど・・。パイロットが左右撮影しやすいように機体を傾けてくれますが、いずれにせよ飛行機の窓からです。尚、上空では数機の飛行機が同時に遊覧しています。No11 クモ 長さ46mNo3 サル 長さ110mパラカス文化を継承したナスカ文化もまた彩色土器と織物の染色に特色があると言う。そしてそれらナスカ式土器の文様と地上絵の類似点から地上絵の図像もナスカ時代と推定された。また地上絵の中から発見される土器片の年代からも同一時代の産物である事は解ったらしい。それらから、地上絵が描かれた年代は、パラカス文化の終わるBC200年頃からAD800年頃のナスカ文化の時代に描かれたものだとほぼ確定されている。ただ、動物の意匠はともかく、700本以上の線や幾何学図形が何を示しているのか?当初は天体との関係も考えられたが、今は天体との関係はほぼ無い事が解明された。では宗教儀式によるものなのか?隣国、ボリビアでは雨乞いの為に線上を祈り行列して歩く風習があるらしい。ナスカの地上絵は一筆書きとなっている事から、そうした宗教行事の為に作成された? と言う説が今は有力らしい。No18 オウム 長さ200m不等四辺形Lines and Geoglyphs of Nasca and Palpa(ナスカとパルパの線と地上絵)世界文化遺産に登録されている。(2016年に名称変更)No16 木 長さ97m (下写真右)No17 手 (下写真左)No17 手 長さ45パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)と展望台・ミラドール(Mirador)地上絵のある平原を横断しているのが不思議でしたが、地上絵の発見は1939年。ペルー内の道路はすでにあったのだろうと思われる。何よりパンアメリカン・ハイウェイの脇に置かれた展望台・ミラドール(Mirador)がそれを示しているのかも。ミラドールは今は地上絵にむやみに入り込み荒らす者らの監視として置かれている。車で入り荒らす者が増えているそうだ。地上絵はそもそも地表とその下の土壌の色の違いでできているからドリフトなんかされたら最悪。人の侵入でさえも特別な履き物があるらしいのに・・。本題には関係ありませんが加えました。パンアメリカン・ハイウェイ(Pan-American Highway)各国の主要幹線道路をネットワークとしてアメリカ北米から南米までを一本で(北米は2本? )繋いだ道路です。米国内、分かれた2本。どちらがメインか決められないのかも)北はアラスカ州フェアバンクス(Fairbanks)orプルドーベイ(Prudhoe Bay)を起点に南はアルゼンチンのウシュアイア(Ushuaia)に至る全長約48,000kmコース。道は段階的に造られ、繋がって行ったらしい。アメリカ大陸は一つと言う感じがして何だが壮大な気がしますが、ラテンアメリカ諸国の政情不安や治安悪化によりドライブが危険なヶ所もあるらしい。本線の他に支線も多数あるらしいので迂回ルートもある。アメリカが中心にまとめて出資も多くしているから? 標識などはアメリカ標準になっているらしい。イカに戻るセスナから帰りの方が地形がよく見える。太陽の方角のせいか・・。本来はイントロ部分になる予定でしたが・・。次回は予定どおり「アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)」の予定です。m(_ _)m関連Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world) 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年07月22日
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リンク先追加しました。「神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれた」の項、年代など書き足し、若干詳しく書き換えさせていただきました。ユダヤ教に香を伝えたのはもしかしたらモーセかもしれない? 欧州からアジアへの航路が開けた大航海時代、先にルートを開いたポルトガルに続き、香辛料(Spices)貿易に参入する国が増えた。各国は主なスパイス・ハーブの産地であるアジアへ直接買い付けに向かったのである。その少し前、大航海時代以前、それらは主にアラブ人により、ヴェネツィアやジェノバの交易商経由で欧州にもたらされていた。それらは非常に重要な交易品であったが、欧州人はそれがどこで生産され、どんなルートで運ばれてくるのかは全く知ら無かった。※ アラブ人はそれを秘密にしていたからだ。この頃の用途はむろん古来からの香(こう)の材料であり、教会の典礼でそれらは非常に重要な品であったが、同時に薬事品としての需要もかなり増えていたと思う。※ スパイス・ハーブの薬用としての記述はローマ帝国時代に遡る。煎じたハーブティーの歴史は古代ギリシャ時代に遡る。中世初期でもハーブティーは飲まれていただろうし、また食生活の中でも需要を増してきていただろうが、それはあくまで一部金持ちのもの。スパイス・ハーブが薬用としても、嗜好品としても一般庶民にまで浸透してきたのが大航海以降と思われる。また、その頃コショウ、クローブ、シナモンの需要が増大してきていた。スパイスのシナモンには体を温める作用、発汗・発散作用、健胃作用を持つ生薬があり、クローブには体を温める作用、胃腸の消化機能を促進、(消化不良・嘔吐・下痢・しゃっくりや吐き気)の他に腹部の痛みにも効く。上の素材にオレンジピールorレモンを加えて赤ワインで煮込んだらグリューワイン(Gluhwein)ができる体を温めるそれは風邪をひいた時には最適な飲み物だ。リンク クリスマス市の名物グリューワイン一般庶民も家庭でスパイ・スハーブを煎じて飲む時代になっていたと言う事だ。話しを戻して・・化粧としての利用も古代ローマ時代から確立されていたが、スパイス・ハーブから精製した精油・エッセンシャルオイル(essential oil)で化粧水やクリームも造られていただろう。おそらく女性の基礎化粧品としての販売および普及も中世には始まっていたと思われる。10世紀には香水も登場しているし・・。スパイス・ハーブは、オールマイティーな万能素材(主に薬用)で、中世の欧州人にとっても、もはや絶対になくてはならない必需品となっていたから、当然彼らは欧州中でそれらを捜したであろう。が、どうしても手に入れられない物が多数。そのほとんどは欧州では生育しない事を知った?当時はキリスト教徒 vs イスラム教徒の対立が酷くなった時代である。否が応でもそれらをイスラム教徒のアラブ人から買わなければならない。それらは彼らの言い値で、高価なお宝として、金や宝石と同等に扱われていたと言うわけだ。イベリア半島のレコンキスタが終息し、キリスト教徒が再び北アフリカに侵攻した時、ポルトガルが真っ先に北アフリカ遠征隊を送ったのは、スパイス・ハーブを求めた事が最大の理由だったと思う。だが、北アフリカルートでは見つからなかった。ポルトガルはアフリカ大陸をぐるっと回って船でスパイス・ハーブの産地であるインド洋を目指すに至ったのだ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルさて、今回は単独にするか悩みましたが「アジアと欧州を結ぶ交易路 18」に入れ込みました。ちょっと趣向を変えて香や香辛料のトレードから交易の歴史を考えてみる事にしました。しかし、インパクトのある写真が無くて迷走BC15世紀からエジプトのスパイス・ハーブが増えた事など踏まえて、キーマンであるハトシェプスト女王がらみでルクソールのハトシェプスト葬祭殿デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)となりました。偶然にも葬祭殿には香木の絵もあり、第18王朝ハトシェプスト女王の元でプント国との交易が活発化していた事が判明。※ プント国はエジプト古王朝時代(ハトシェプストの時代より1000年も前)からの取引先。古代から遡ってスパイス・ハーブの歴史をたどったら・・。神の香り → 薬用 → 料理 大航海時代に彼らが欲しがったのは薬としてのスパイス・ハーブ。料理を美味しくする為のスパイスなんてレベルではなかった。最も料理に入れられるスパイスも本来は薬用が加味されていたが・・。アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)、ハトシェプスト葬祭殿第18王朝第5代王 ハトシェプスト(Hatshepsut)ハトシェプスト女王とプント国(Land of Punt)中継ぎ貿易国? アクスム王国(Kingdom of Aksum)エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)エジプトのキフィ(Kyphi)太陽神ラーへの信仰から生まれた?朝昼夜に焚かれた香キフィ(Kyphi)の成分ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液ミルラ(Myrrh 没薬)フランキンセンス(frankincense 乳香)キフィ(Kyphi)に影響を受けた中東や欧州グレコローマン(Greco-Roman)時代ローマ帝国時代神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれたキリストへの贈り物ボタフメイロ(botafumeiro)精油・エッセンシャルオイル(essential oil)お菓子造りでお馴染みシナモン(Cinnamon)はセイロン島原産であるが、BC2700年頃の中国で、すでに香木(こうぼく)の一つとして使用されていたらしい。また、そのシナモンはBC1500年頃にはエジプトまで伝わり香のみならず防腐剤としても利用されていたらしい。特にシナモンは女性が身に付ける必需品の香りにもなったとか・・。シナモンがいつエジプトに入ったのか? の時期は特定できなかったが、冒頭ふれたように、BC1500年頃と言うのがエジプト第18王朝時代で、古代エジプトが最大販図に領土拡大していた時代なのである。特に平和外交を推し進めたハトシェプスト女王の治世に交易販図も拡大。インドや遠く東南アジアや地中海のクレタに至るまで交易範囲を広げている。特にスパイス・ハーブの取引先、プント王国との関係に、ハトシェプスト女王がかなり力を入れていたようだ。多くの使者が貢ぎ物献上してくる姿や交易品の数々がルクソール(Luxor)西岸に女王が建てたデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)の壁画から伺い知れる。デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)、ハトシェプスト葬祭殿第1テラスからエジプト、ルクソール(Luxor)のナイル西岸、王家の谷と山を隔てて位置する窪地(くぼち)にハトシェプスト女王が建立したデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)がある。イエロー上のがハトシェプスト女王の葬祭殿デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)ブルーが王家の谷ピンクが王妃の谷オレンジが貴族の墓地第18王朝の時に伝統的なピラミッドを造るのを止め、王家の谷に岩窟墓を造った。また、それまで死者に対する儀式を行う施設は墓に隣接して造られていたが、18王朝以降、墓と葬祭殿は独立して建てられるようになったのである。ナイル川河岸(ルクソール西岸)は実質の死者の国である。西岸の砂漠の縁に古代テーベの遺跡として王墓の集まる王家の谷、王妃の谷、貴族の墓があり、また、西岸にはおよそ15の葬祭殿が発掘されている。最も北にあるのがセティ1世:(Seti I)( 在位BC1294年~BC1279年)の葬祭殿。最も南西にあるのがラムセス3世(RamessesIII)( 在位BC1198年~BC1166年)の葬祭殿。特に有名なのが、ハトシェプスト女王(Hatshepsut )(在位BC1479年~BC1458年) の葬祭殿として知られるデル・エル・バハリ(Deir el Bahri)である。特殊な構造を持つこの葬祭殿は古代エジプト史上、建築では最高傑作として一目置かれているそうだ。第2テラスから1997年11月、この階段前でイスラム原理主義過激派による無差別テロによる銃撃事件が起きて、たまたま運悪くいた日本の観光グループ10名も標的になった。主に被害は外国人観光客で62名が死亡し85名が負傷。酷い事件だった。この時、エジプトには日本のグループが3つ入っていて、私の家族が前日にここで観光していた。事件の一報を聞いてカイロのホテルに何度も電話したがエジプトの電話回線が制限されてなかなか繋がら無くてやきもきした事を思い出す。亡くなった方の事を思うと、運があったと手放しに喜べ無いが、理不尽な死は、海外に行けば行くほど確率も高くなる。旅行も良い事ばかりではないと言う事だ。第2テラス向かって左にハトホル女神礼拝堂がある第2テラス左、ハトホル(Hathor)女神礼拝堂のハトホル柱第3テラス本来は左右に11柱のオシリス像が並んでいた。第3テラス オシリス神(Osiris)の列柱基本、神殿の中は撮影できないので、撮影している壁画は外の部分です。第2テラス アヌビス神礼拝堂の壁画から供物を受けるアヌビス神(Anubis) ハトシェプスト女王葬祭殿 供物台には香油や飲料、羚羊(かもしか)や水鳥の肉、野菜、果物、ロータス(蓮)の花が並ぶ。供物を受けるアメン神(Amen)下は香油の部分を拡大羚羊(かもしか)水鳥、アヌビス神礼拝堂セケル神(Seker)にぶどう酒を捧げるトトメス3世(Thutmose III)(在位 BC1479年~BC1425年エジプト考古学の第一人者、吉村作治氏の解説によると、ぶどう酒を捧げているのは天空の神ホルス神(Horus)ではなく、冥界の神セケル神(Seker)らしい。※ セケル神とホルス神、そもそも役割が違った2柱であったが、今はミックスされてしまったのかも?因みにこちらはホルス神(Horus)かも。極めて芸術性が高いので載せましたところで、ここには香木の樹液を運ぶ人や女王が和議を結んだプント国(Land of Punt)からの貢ぎ物、またプント国から運ばせた? 香木も描かれている。香木と牛 第2テラス下は部分拡大。よく見ると牛が数頭描かれている。アメン神の庭園にプント国から運ばれた香木が移植された。牛もプント国から連れてこられたのかもしれない。第18王朝第5代王 ハトシェプスト(Hatshepsut)ハトシェプスト女王(Hatshepsut)(在位BC1479年~BC1458年) は第18王朝、新王国時代のファラオである。ハトシェプストは女性でありながら王として君臨。本来男性が継ぐ王位をなぜ彼女が継げたのか?そもそもハトシェプスト女王はトトメス1世の正妻の娘。夫(トトメス2世)はトトメス1世の第2婦人の子。二人は異母兄弟の結婚。正統性は十分あったが、男でなければファラオにはなれなかったから王位はトトメス2世(在位 BC1518年~BC1504年)が第18王朝の第4代ファラオとして即位。自分はその王妃となった。しかしトトメス2世は早世する。二人には世継ぎがいなかった事から次代はトトメス2世と側室? 巫女?の子がトトメス3世(Thutmose III)( 在位BC1479年~BC1425年)として即位するのだが、幼少故? 摂政も必要だ。彼女は王位の正統性を再び持って、トトメス1世の息子として、男装して王(ファラオ)として即位する事になる。付けひげを付けて短い腰巻きをし、そんな姿で現されていたから後世の人がハトシェプストが女王だったと気付くまで時間がかかったらしい。下に紹介するハトシェプストのスフィンクスはそんな意味が込められていたと言うわけだ。また、壁画の中にオベリスク(obelisk)を運ぶ船も描かれている。オベリスクも本来は王でなければ建てられなかったらしい。BC1479年、共同統治者として、ハトシェプストは即位。第18王朝の第5代と第6代ファラオは同時に誕生するに至る。※ 共同統治は22年。※ トトメス2世との間に娘がいたが早世?※ ハトシェプストを第5代とするのが一般的だが、本当はトトメス3世の方が第5代だったかもしれない。彼はハトシェプスト女王亡き後、32年長く生きてエジプトを統治した。ハトシェプスト女王のスフィンクス(BC1473年~BC1458年頃) 6759 kgニューヨークメトロポリタン美術館のアーカイブから借りました。花崗岩でできた6759 kgの像は、採石場に捨てられていたものをメトロポリタン美術館の発掘チームが1920年代に発見し復元したもの。元は共同統治時代に葬祭殿入口の両脇(対)に置かれていたものと考えられているそうだ。なぜ採石場で見つかったのか? ハトシェプスト女王亡き後、トトメス3世の指示で破壊され採石場に捨てられたらしい。ハトシェプスト女王とプント国(Land of Punt)古代エジプト以来ミルラやフランキンセンスなどの香木は神事には欠かせない素材であり歴史を見ればBC4000年頃から神に捧げる香りとして使われていた。それ故、ミルラを得る為に古代エジプトの王らはアラビア遠征を行っていたとも言われている。冒頭に触れたが、第4王朝の頃、BC2500年にはプント国(Land of Punt)との間で没薬・ミルラ(Myrrh)と白金(platinum)の取引があったと記されいるそうだ。ハトシェプスト(Hatshepsut)の夫、第18王朝の第4代王トトメス2世(Thutmose II)(在位 BC1518年~BC1504年)の時代まではエジプトは領土拡張の遠征を推し進めていたらしい。※ それ以前は謎の異民族ヒクソス(Hyksos)との戦いで劣勢だったらしい。BC15世紀頃エジプトは最大販図を示している。上にプント国の位置を示したが、実際の所は特定にまでは至っていないらしい。ハトシェプストが王位に付くと軍事遠征は無くなり内政や交易を重視し、この時代にプント国との平和な交易が再開された。ハトシェプストが建立した葬祭殿、デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)の壁画は、そんなプント国(Land of Punt)との交易の絵画が驚くほど多く描かれている。また、ハトシェプストは地中海の島クレタとの交易も拡大しているし、シナイ半島では鉱物資源の採掘の遠征も出しているそうだ。天然ソーダと共にガラス製品も運ばれていたと思われる。絵画にゴブレットらしき物も見える。ガラスのグラスはあったろうし、ガラスの香油の壺もすでにあったはずだ。また、シナイ半島からはレバノン杉を建材として運んだはず。それらは棺の材料にもされていた。※ クレタ島からはぶどう酒と石灰が入ったかもしれない。壁画では、プント国の長からの貢ぎ物が多数献上され、エジプトの兵士も多数プント国に出向いている。実際、葬祭殿の建築が開始された頃にプント国に大規模な交易船団を出している。これは葬祭殿の為に必要な物資の調達が主な目的と思われるが、そもそも侵略を目的とした圧(あつ)による外交ではなく、あくまで穏やかな外交関係を上位のエジプトから求めたと言える。先に紹介したが、ハトシェプストはプント国から得た香木をアメン神の庭園に移植している。育つか育たないか? の別問題はあるが、本来お宝である香木自体を他国の者に教える事はないはずだ。エジプトに贈ったと言う事自体が驚きであり、よほど信頼関係ができたのではないか? と言う気がする。神の国(Ta netjer)と形容されたプント国からエジプトへは金? (白金?)、ミルラ(没薬)、フランキンセンス(乳香)、アフリカン・ブラックウッド(アフリカ黒檀)、コクタン(黒檀)、象牙、奴隷、野生動物などが運ばれたと言う。※ 金については疑問。エジプトはその支払いを何でしたのか? 金は逆にエジプトからの支払いだったのではないか? 中継ぎ貿易国? アクスム王国(Kingdom of Aksum)アクスム王国については「アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード」の中、「アクスム王国(Kingdom of Aksum)の役割」で書いていますが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードアクスム王国は紅海入り口を入った東アフリカにあった王国で中継ぎ交易国としてBC5世紀頃~AD1世紀が最盛期。950年頃滅ぼされた? らしい。先にハトシェプストの所で紹介した古代エジプト以来の交易相手、プント国(Land of Punt)を紹介した。BC2500年前には存在していたプント国は一時交易は途絶えたものの、エジプト第20王朝(BC1185年頃~BC1070年頃)ラムセス3世の時代までは記録にあるらしい。が、新王国の時代が終わるとプントとの交易は途絶えた? その後のプント国は解らないので神話と伝説の国にされたらしい。そのプント国はほぼアクスム王国と同じ場所に位置していたのである。ただ、BC10世紀~BC5世紀までの間が謎だ。かつてのアクスム王国(Kingdom of Aksum)の位置ピンクは現在の地名右のAl Ghaydah(アルガイダ)は現、イエメン南東部のマフラ県の州都。下が現在の国境線明確に線引き出来なかったので想像でカバーして下さい。もっと周辺拡大図ついでに乳香と没薬の産地を入れました。アクスム王国の位置はまさに乳香(フランキンセンス・frankincense)や没薬(ミルラ・Myrrh)を集積するのにベストな場所。同じ理由でプント国(Land of Punt)が繁栄したのは間違い無い。ただ、プント国の交易相手は古代エジプトや古代シリア、またフェニキア人の交易商もいたと思われる。対してアクスム王国の主な交易相手はエジプトではなくなっていた。BC525年にアケメネス朝ペルシアはエジプトの第26王朝を倒し併合。古代オリエント統一を果たしている。アクスム王国が歴史の表に出るのはその頃だ。そのアケメネス朝ペルシャはBC332年アレクサンドロスの遠征で破れ、エジプトはギリシャ配下のプトレマイオス朝に移行。そのプトレマイオス王朝もクレオパトラを最後にローマ帝国に接収された。だからこのアクスム王国自体の繁栄期はローマ帝国の共和制期末から帝政期の初期と考えられる。ローマ帝国に贅沢品が大量に運ばれたのは、まさにアクスム王国の繁栄期に重なっている。因みにアクスム王国衰退のきっかけはローマ帝国の衰退理由と同じだった可能性がある。ローマ帝国の衰退は、16代皇帝(在位:161年~180年)マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(121年~180年)の治世に発生した疫病が大きな要因となり人を失い経済も落ち込んだ。疫病も世界規模で広がっていた事もあるし、大きな取引先を一気に失った事もアクスム王国の衰退に繋がった? と考えられる。尚、この疫病は天然痘によるパンデミック(pandemic)だったらしい。※ これについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中、「五賢帝とローマ帝国の販図」でも書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)古代エジプトではどんな香が使われていたのか?先にすでに触れたが、古代エジプトではBC4000年頃から神に捧げる香りとして没薬(ミルラ・Myrrh)や乳香(フランキンセンス・frankincense)など香木の樹液が香の材料として使われていた。※ 古代エジプトでの使用法は主に直接火に投じて燃焼させて香りを立たせる方法がとられていたのではないか? と推察する。ところで、古代エジプトにはエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)と言う古代エジプト医学について記されたパピルスが存在する。※ それ自体はBC1550年頃? に記されたものであるが、実はBC3400年頃に遡る文章の写しらしい。それは様々な病気と、それら治療方や薬? などが記された古代エジプトの医学書。たとえば心臓についての論文、癌についての論文など細かにかかれているらしい。内容も幅広く、膿瘍や癌の外科手術から、接骨、火傷、皮膚病。また避妊や妊娠に至る婦人科の分野にまで及んでいるそうだ。また、この中にはその治療法として700程の調合法や治療薬が記されていると言う。最も当時は病気の理由は魔や呪い? なども考えられていたのだろう、魔を退散させる呪文も多いらしい。実はこのエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)の中に「聖なる煙」と呼ばれる古代エジプトの香、キフィ(Kyphi)調合のレシピも記されていたようだ。ルクソール、王家の谷 ゲート先の地図で見てもらうとわかる。デル・エル・バハリ(Deir el Bahri)と王家の谷は隣接している。下、ツタンカーメン王(Tutankhamun)(BC1341年頃~BC1323年頃)の墓。KV62中の撮影はできない。ツタンカーメン王(Tutankhamun)(在位:1332年頃~BC1323年頃)の墓から、シナモン(Cinnamon)、クミン (Cumin)、クローブ(Clove)、ガーリック (Garlic)、オニオン(Onion)、コリアンダー(Coriande)、胡椒(Pepper)が出土しているそうだ。それらもキフィの材料だ。シナモンもまたエジプトでは当初、香として燃焼させて使用していたと思われる。焼くとより香りは立つ。シナモン(Cinnamon)発汗・解熱作用。血流改善から冷え性の改善、毛細血管の修復。冷えからくる肩こり・関節痛・腹痛・下痢・月経痛などの鎮痛。発汗・解熱作用から風邪の予防や初期症状に効果。また食欲不振、胃のもたれ、胃痛改善からい胃腸薬の多くで配合されている。シナモン(cinnamon)はクスノキ目(Laurales)クスノキ科(Lauraceae)ニッケイ属(Cinnamomum)で、主な種がクスノキ、シナニッケイ、ニッケイ、セイロンニッケイ。産地で種類もある。樹皮をはいで乾燥させたものが使われる。※ シナモンはBC500年頃の旧約聖書の詩編にも記述されている。神殿の奉納品リストにあるらしい。クローブ(Clove)消毒、抗菌、鎮痛、歯痛や食辺り、食欲不振にも利用される。カルダモン(Cardamom)抗炎症作用、殺菌、免疫活性。香りは消化器系への働きかけにより食欲増進、消化不良の解消、胃の痙攣を抑える。また高い鎮静効果で交感神経の興奮を鎮静。胡椒(Pepper)抗菌・防腐効果、消化促進、血行促進。筋肉痛の緩和。抗酸化作用からエイジングケア。辛味成分ピペリンにリラックス効果。虫の多くが胡椒の香り成分を嫌う事から肉の長期保存に利用されたり衣類の防虫にも使われた。ブラックペッパー(黒胡椒)・・熟す前の緑色の実を、皮付きのまま乾燥させた物。ホワイトペッパー(白胡椒)・・完熟した胡椒の果実を水に漬けて皮を取り除き、乾燥させた物。グリーンペッパー(青胡椒)・・熟す前の果実を摘んで、短時間で乾燥させた物。※ 写真は白と緑を混ぜています。ピンクペッパー(赤胡椒)・・赤く熟した胡椒の果実を乾燥させた物。ウルシ科のコショウボクの実。西洋ナナカマドの実。3種の別物がピンクペッパーとして流通している。全部ミックスして、スケルトンのミルで使用するとオシャレですよ。下、生胡椒(Pepper)ハワイの朝市で購入。生胡椒をそのままオイルで炒めてオイルに香り付けして食材を炒めるのも良し。エジプトのキフィ(Kyphi)先に触れたエーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)に記されたエジプトの香(こう)であるキフィ(Kyphi)は複合香である。16種類? のスパイス・ハーブのブレンドで造られている香がキフィ(Kyphi)。そしてキフィにはレシピがたくさんあるそうだ。「聖なる煙」を意味するキフィ(Kyphi)は再生と蘇(よみがえ)りを意味する。神に捧げる香りとして、当初は主に熱して炊き上げる薫香(くんこう)として始まったと考えられる。。インセンスバーナーを使用して樹脂香・レジンインセンス(Resin incense)を焚いてみたミルラ、フランキンセンス、ドラゴンブラッドの3つ。着火タイプの炭チャリスを半分でお試し。樹脂(レジン)のそれらはすぐに熱で溶けてしまう。だから溶けると度々樹脂を足して入れた。香りは微少。香りだけなら濃縮されたエッセンシャルオイルの方が効率が良いし安全。でも一つ感動したのはその煙の帯である。燻煙の上がり方が美しく見惚れてしまう。まるで生きている何かのように踊っている。ここに癒しもあるのかもしれない。但し、マンションの火災警報器がなるのではないか? と窓辺で換気を最大にして焚いたから香りはほとんど残らなかった。確かに一種よりはブレンドして好みの香りにした方が面白い。また、大量に焚いて香らせるなら樹脂も大量に必要となる。やはり効率で言うなら少しお高いが、エッセンシャルオイルを使った方が安全だし、よく香るかもしれない。太陽神ラーへの信仰から生まれた?エジプト第4王朝(古王朝)の頃( BC2613年頃~BC2498年頃)は、とりわけ太陽神ラーへの信仰が強かった。この頃の死生観は「太陽は毎日東から昇り、西に沈む、夜には暗黒が支配し、生ける者は仮死状態になるが、朝にはまた復活した太陽が昇る。」と言うもの。つまり、太陽神ラーは、1日で一生を過ごし夕方には死ぬが、朝にはまた復活して再生誕生すると考えられていた。また、ファラオ(王)は太陽神ラーと結びつけられていたから、例え人として死んでも死後ラー神と共に太陽の舟に乗れば翌朝には蘇るとも考えられていたのである。※ それが、ピラミッド建造の原点だとも言われている。リンク エジプト 6 (クフ王の太陽の船)朝昼夜に焚かれた香キフィ(Kyphi)は役割を持って、1日3回、日の出・正午・日没で異なる香が炊かれたらしい。フランキンセンス(frankincense)は太陽神ラーの汗の塊(かたま)りと考えられ、その薫香は魂をラーのいる天へと連れて行ってくれると信じられ、日の出に焚かれた。※ フランキンセンス(frankincense)の和名が 乳香(にゅうこう) ミルラ(Myrrh)は太陽神ラーの涙の塊と考えられ、不死鳥が生まれ変わる時のようにそれを亡骸と共に焚けば蘇る事ができると信じられ? 昼に焚かれた。※ ミルラ(Myrrh) の和名が没薬(もつやく) 日没にはオリジナルブレンドのキフィ(Kyphi)が焚かれた。キフィは先に紹介したよう複合香であるので、そのレシピは絶対であるが、王により好みがあり調合されていたと思われる。これは現在で言うアロマテラピーの意味があったと考えられる。アロマテラピー(aromatherapy)は、植物のもたらす香りによって体と心を癒やす芳香療法です。当時は日没と共に眠りに就いたのだろうから、ファラオの睡眠や高僧の睡眠前の瞑想時間に心身をリラックスさせる効果と共に、魔除けの意味も込められていた? と考えられる。キフィ(Kyphi)の成分キフィの代表的な材料を系統で分類してみた。これらの数種を合わせてオリジナル・ブレンドしていたものと思われる。しかし、エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)から見るエジプトの医学から考えると、お香もただの香ではなかったのかもしれない。キフィ(Kyphi)の材料はそれ自体が薬として存在している。薬として、飲食や美容にも利用されたのは明白だ。レジン(樹液)系 ミルラ(Myrrh 没薬)・・沈静、消炎、収れん、抗菌、美容 フランキンセンス(frankincense 乳香) ・・沈静、呼吸器機能調整、気管支炎、美容 ベンゾイン(benzoin 安息香)・・消炎、緩和、収れん、気管支炎、美容 パインレジン(Pine resin 松脂) アラビアガム (Gum arabic)アカシア属樹皮系 シナモン(Cinnamon 桂皮) シナニッケイ(Chinese cassia チャイニーズ・カシア)・・抗酸化、抗炎症、抗菌性根系 カラマスルート(Calamus Rootd)・・カラマスの和名はショウブ(菖蒲)生殖器系の健康を増強? 媚薬として利用された。 ガランガルルート(Galangal root) ショウガ科・・血流促進作用、胃痛の軽減など消化器症状、中世の媚薬葉系 サイプレス(Cypressイトスギ)・・収れん、デオドラント、むくみ。 レモングラス(シトロネラ)・・消化器系・虫垂神経系機能調整。抗菌防虫。アーユルヴェーダでは伝染病、発熱、鎮静剤、殺虫剤。 ミント(mint)・・消化器系機能調整、中枢神経機能亢進、鎮痛、鎮痙 ヘナ(henna)・・髪・眉・爪・手足などの染色。花系 バラ (Rosa)・・内分泌調整、神経緩和、婦人病、美容実系 ジュニパー(Juniper)・・利尿、抗菌、鎮痛 カルダモン(Cardamom) ショウガ科・・抗炎抑制・殺菌、免疫活性ピスタチオ レーズン オレンジ他 蜂蜜 ワインハトシェプスト女王の所で紹介したよう彼女の治世(在位BC1479年~BC1458年) 、シナイ半島も押さえていたので、フェニキア人からはシナイや北アフリカ、欧州の品が、プント国との交易ではインド、アジア方面のスパイス・ハーブの輸入も種類もより増えたと思われる。また、その使用方法の幅も広がったのでは? と想像する。ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)は、古代より黄金に値するものとして珍重さてきた素材の一つ。「聖なる煙」、キフィ(Kyphi)の素材は、薫香だけでなく、複数の用途を持って利用されていたのである。主に薬用であるが、特にミルラ(Myrrh)はすぐれた殺菌作用を持ちミイラ造りには欠かせない素材でもあった。ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液ところで乳香(frankincense)と没薬(Myrrh)。じつは非常に近しい共通点がある。APG植物分類体系による分類ではそれは共にムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)の樹液から抽出されるレジンインセンス(Resin insense)なのである。※ ゲノム解析から実証した最新の植物分類体系がAPG(Angiosperm Phylogeny Group)です。ムクロジ目は熱帯アフリカの乾燥地帯に多く,また数種が西アジアからインドに分布。芳香性の樹脂を出す。それらは産地で色も香りも違いがある。ムクロジ目(Sapindales)カンラン科(Burseraceae)コンミフォラ属(Commiphora)の樹脂が ミルラ(Myrrh 没薬)ボスウェリア属(Boswellia) の樹脂が フランキンセンス(frankincense 乳香)因みに、インドシナやスマトラで摂れる安息香(benzoin)もツツジ目(Ericales)エゴノキ科(Styracaceae)の樹脂から摂れるレジンインセンスである。ミルラ(Myrrh 没薬)コンミフォラ属(Commiphora)は干ばつ耐性があり、乾生植物の低木、季節的に乾燥した熱帯林の森林地帯全体に共通。ミルラ(Myrrh)の主な産地はアフリカ北東部(スーダン、ソマリア)、南アフリカ、マダガスカルアフリカの乾燥地帯,紅海沿岸の乾燥した高地に自生。先に紹介した地図を見てね。実は購入したミルラは不純物の多い粗悪品。写真は違う物を利用した。フランキンセンスに比べるといずれも色はブラウンが強くなっていて不純物も見られる。香りはそのままでは微少。これ単独ではあまり使わないらしい。フランキンセンス(frankincense 乳香)ボスウェリア属(Boswellia)はアフリカとアジアの熱帯のやや乾燥した地域に自生。フランキンセンス(frankincense)の主な産地はアフリカ北西部(北アフリカ、ケニア)、アフリカ東部(ソマリア、エチオピア)、アラビア半島(オマーン、イエメン)これはかなり小粒。インセンスバーナーが小さいので私には扱いやすかったが・・。溶けるとピンセットで一粒ずつ足してみた。大きくて透明感があり硬度があるものほど良質。特に青みがかった乳白色のフランキンセンスは最高級品。グレードは産地や収穫時期によっても異なるらしいが・・。かつて、シバ王国があったイエメンのフランキンセンスは最高ランクらしい。抗菌作用があり心と体の浄化に役立つ。また呼吸器への作用と、皮膚細胞の再生を促すからクレオパトラはこれを美容パックとして利用していたと言う。おそらく、それは抽出してエッセンシャルオイルとなったフランキンセンスだろう。因みに英国王室の亡きダイアナ妃のアロマオイルのレシピ(ダイアナレシピ)にもフランキンセンスは入っていた。下チュニス、メディナのバザールから上は中東の市場の写真から唯一見付けたフランキンセンスの山(左)。その上の左端がミルラかもしれない。下アスワンのバザールからハイビスカスかな? 後ろ2列はいろいろな種類のナツメヤシの実(Date)。ハイビスカス(Hibiscus)・・代謝促進、強壮、利尿、肉体疲労には良いらしい。ナツメヤシの実、デーツ(Date)・・抗酸化作用、食物繊維や豊富なミネラル(カリウム、マグネシウム)。老化や動脈硬化などの予防になる。クレオパトラがよく食べていたらしい。下カイロのバザールから右の実はジュニパー(Juniper)ではないか? その隣がセージでまたその隣がローリエだと思う。ジュニパー(Juniper)・・蒸留酒のジン(Gin)の香り付けに使われるヒノキ科のベリー。スパイス・ハーブとしては発汗を促し、利尿作用があるので毒素を出す(浄化作用がある)のでデトックス効果がある。殺菌消毒剤としてそのエッセンシャルオイルは近年まで欧州では使われていたらしい。因みにジンの発祥は11世紀のイタリアの修道院に遡るようで解熱・利尿用薬用酒だったらしい。下テヘランのバザールから上段はカレーとかのスパイスかもしれない。ターメリックとか、サフランとか、オールスパイスか?見た事ない木の実? やゴーヤを干したようなものまで・・。アラビア語で読めない。下テヘランのバザールから真ん中がディル(dill)。ディル(dill)・・消化不良を治療する薬草として古代エジブトでは5000年以上も前から使われていたらしい。確か魚料理に使うスパイス・ハーブだったか・・。他ははっきり見え無いが、セージとか、タラゴンとかタイムとかローズマリーかな? 料理の為のスパイス・ハーブらしい。下イスタンブールのバザールからカレー用のスパイスがそろっている。さすがトルコ、英語表記だから解る。それにしても国で売り方それぞれ。でもトルコは少し先進国。売り方が綺麗。下イスタンブールのバザールからスパイスハーブではなくオリーブですが、こんなに種類が・・。オリーブ好きの私は全部食べ比べてみたい。キフィ(Kyphi)に影響を受けた中東や欧州エジプトのキフィ(Kyphi)は近隣の文化にも継がれた。ところで、BC10世紀には原産地インドで胡椒栽培の増産が行われていた事が解っている。これらはインドよりエジプト方面への輸出が増えたからだと思われる。グレコローマン(Greco-Roman)時代エジプトがペルシャの支配下に落ち、BC332年、今度はアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)に占領されると状況は一変? ギリシャ人のアレクサンドロス3世がファラオとなりエジプトは以降ギリシャ人統治の国となるからだ。また、一時的にもアレクサンドロス王がペルシャ帝国の王になった事で、アジアと欧州の間に位置する巨大ペルシャ帝国領を通過する物産は増えただろう。それは、後に帝国が分割されようとも、交易のルートは残ったと考えられる。エジプトはアレクサンドロス3世亡き後、幼なじみのプトレマイオスが後を継承し、プトレマイオス朝を開くとよりギリシャ化が進んだと同時に、ギリシャにもエジプトの文化は伝わったはずだ。しかしプトレマイオス朝もクレオパトラ7世(Cleopatra Ⅶ)(BC69年~BC30年)を最後に滅亡し、エジプトはローマ帝国の支配下に落ちる。ローマ帝国時代ローマ帝国がエジプトを占領した事でアラビア、東アフリカ、インドやマレイ・シナ方面の珍しい物産がローマに大量に入るようになった。平和になったからこそ交易は増大する。そして裕福になったローマ人は贅沢をはじめた。個人で遠い異国の物品の輸入も始めたらしいローマ帝国の属州総督であり、博物誌(Naturalis historia)を著した学者でもあるプリニウス (Plinius)(23年~79年頃)は、当時のローマ市民らがスパイス・ハーブを求めるあまり、大量の金銀貨を国外に流出させる事態を非常に嘆いていたと言うのだ。女性はシルクをまとい、東洋の真珠やセイロンの宝石などで着飾り、アラビアから入る乳香を焚いた。特にインドの胡椒はローマ帝国の貿易量を増やして行く。ローマ市民は贅沢になりすぎた?その支払いにはローマ帝国の金銀貨が驚くほど巨額に使われたらしい。実際、胡椒の産地、北部インドでは輸出で得たローマの金銀貨を改鋳(かいちゅう)して自国通貨として利用していたと言う。よほど大量に入ったのだろう。帝制初期のローマは進軍につぐ進軍で販路拡大。景気が良かったからハドリアヌス帝(Hadrianus)(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)の頃はローマ帝国史上最大の領土に拡大されペルシャ湾北岸まで拡大していた。それ故、インドの南端を越えて東部のベンガルやマレー半島の品まで交易で手に入れる事が可能だったのだろう。※ 出土するローマのコインで証明されている。最もローマ人がそこまで買い付けに行っていたかは疑問だ。アラブ人らは産地を隠していたらしいから。たぶん、欧州人がその産地を知るのはポルトガルがインド航路を開いた大航海時代に入ってからだろう。神の香はユダヤ教とキリスト教の典礼にも継がれたユダヤ教では幕屋時代(Tabernacle)と第一神殿時代(First Temple)と第二神殿時代(Second Temple)の香の祭壇の香の供物で細かく語られている。※ 幕屋時代(Tabernacle)・・幕を張ってできていた簡易式の神殿は移動式であった。※ 第一神殿時代(First Temple)・・第一神殿とはソロモン王の神殿(Solomon's Temple)の事。 およそBC11世紀頃? ~BC597年にバビロニアに破壊されるまでエルサレムの神殿の丘に存在した。※ 第二神殿(Second Temple)・・エルサレムの神殿。同じ神殿の丘に再建したもの。エルサレムのソロモンの神殿にも同様の香の祭壇があり毎朝と夕方、神聖な香が燃やされていたらしい。※ 古代イスラエル王国の第3代ソロモン(Salomon)王(BC1011年頃~BC931年)(在位BC971~BC931年)古代イスラエルの民にとって、香を焚く事は幕屋での祭司の重要な務めとされていた。あくまで私個人の推測であるが、モーセ(Moyses)がイスラエルの民(ヘブライ人)を連れてエジプトを脱出するのがおそらくBC1200年頃と推測される。香はモーセがエジプトから持ち出し、始まった可能性が非常に高いのでは?※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の冒頭で旧約聖書時代の話しに触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナやがて香を焚くと言う行為は宗教行事だけでなく、商売をする時など、あらゆる所で始まる。民族文化として根付いたと思われる。そのレシピは、エジプトのキフィと同じように数種の中からTPOに合わせてブレンドされたのだろう。今日残る香の種類からも推察できる。キリストへの贈り物すでにいろいろ書いているが、ミルラ(Myrrh 没薬)とフランキンセンス(frankincense 乳香)はキリスト教では、東方の三博士(マギ)らがイエス・キリストの誕生に贈った3つの品で知られている。金以外の2つの素材は共に植物の樹脂。ミルラ(Myrrh 没薬)フランキンセンス(frankincense 乳香)その3点は古代イスラエルの時代にシバの女王がソロモン王に贈った贈り物からなぞられている。実の所、何れも史実かどうかは不明であるが、それは近隣国の賢者がイエス・キリストに最高の敬意を現した品を贈って祝ったと解釈できる。そしてそれこそが重要な部分なのである。だからキリスト教や正教会ではミルラ(Myrrh)やフランキンセンス(frankincense)は聖祭の時に香炉に入れて炊き上げて使用されている。これらはやはり「神の香」なのである。ボタフメイロ(botafumeiro)今や香も正教会でくらいしかほとんど焚かないのでは? カトリックでの香と言えば・・。思い当たるのはこれしかない。サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)の巨大振り香炉ボタフメイロ(botafumeiro)でしょう。天に香を炊きあげて神の御前に届かす。つまり神に捧げる香りであるが、それは神に祈りを届ける事と同じ意味を持つそうだ。香炉に火だねを入れている所。中身はフランキンセンス(frankincense 乳香)と思われる。抗菌作用があり心と体の浄化に役立つ香。長い旅路を経てサンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り付いた巡礼者はかなり汚れていたはず。しかも、彼らは堂内に寝泊まりもしていた。病気の者もいただろう。不衛生な状態の巡礼者と堂内の濁った空気を清める意味で11世紀頃から香を炊きはじめたらしい。この巨大香炉、ボタフメイロ(botafumeiro)見たさに巡礼者は増えた事だろう。※ 確か映画「バラの名前」のラストに出てました。通常は儀式の時にしか行わないが、事前予約である程度まとまれば(有料)やってくれるらしい。だからお金を払った者が撮影のできる前の方にいるのです。カトリックでは側廊にそった横ふりが一般的らしい。最もこんなに大きな香炉を振るところは他にない。まれに飛び出しの事故もあったらしいので振るのも慎重です。※ 「サンティアゴ・デ・コンポステーラ最終章最終章で載せています。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)精油・エッセンシャルオイル(essential oil)精油は、植物の花、葉、果皮、果実、心材、根、種子、樹皮、樹脂などから抽出した液。例えば、バラを蒸留してローズオイル(rose oil)を抽出。それらを希釈してバラ水(cologne)やバラの香水(perfume)が造られる。そもそも精油・エッセンシャルオイル(essential oil)は古来インドの伝統的医学であるアーユルヴェーダ(Āyurveda)から発していたと思われる。アーユルヴェーダが体系としてまとめられたのBC5 ~BC6世紀頃? 実際、古代ペルシア、古代ギリシア、チベット医学などに影響を与えたと言われている。エジプトには古代ペルシアか古代ギリシア経由? で伝わったのではないか? と思われる。プトレマイオス朝のクレオパトラはすでにそれらから抽出されたエッセンシャルオイルを使用して美容液やクリームを調合していたようだ。※ クレオパトラのレシピが残っている。古代から存在し使用されてきたスパイス・ハーブの用途は神に捧げる香、健康の為の薬、化粧品と用途が広がる中、ローマ帝国時代はさらに種類も増えて、また嗜好品として料理にも使われるようになった。胡椒の取引はローマ帝国時代に増大している。だが、パクス・ロマーナ(Pax Romana)以降は東ローマ(ビザンチン)帝国はともかく、かつての西ローマ帝国側は動乱時代。失われた文明の時代を経験している。イタリア半島から海洋共和国が台頭してくるまでは輸入は非常に限られたものだったはず。イスラム教国に西側のキリスト教国が反撃をはじめた頃から貿易は再び活発化。特に一時的にもパレスチナに西側の十字軍国家が置かれた事は西側への交易品の品目を増やした事だろう。西側は知ってしまった? 今まで教会で香を焚くとか、煎じるなどで活用されていたハーブは、精油・エッセンシャルオイル(essential oil)にする事でもっと用途が広がった事を・・。当時、西側の交易で1位を競っていたのが、海洋共和国のヴェネツィア(Venezia)とジェノバ(Genoa)である。両者は武力闘争し、ジェノバは負けた。そして1381年のトリノで講和条約で完全に利権を失った。ジェノバはスパイス・ハーブの重用性を知っていたが、ベネツィアに負けて東洋の物産を仕入れる事ができない。そこでスパイス・ハーブを仕入れる為に別のルートを模索をする事になる。結果が、ポルトガルやスペインの後ろ盾となって欧州以外の世界への航海を後押しすると同時に収益と利権を手に入れたのである。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス前にも書いたが、ポルトガルのエンリケ王子をそそのかして大海洋に向けたのは、まさにこうした思惑を持ったジェノバの商人だったと思われる。船に乗れないエンリケ王子が、なぜ大海洋をめざしたのかずっと不思議だったんです。「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」今回はここまでです。中世のスパイス・ハーブも言及したかったのですが、古代の段階で長くなりすぎました。次回は南米に進むので、南米からのスパイス・ハーブ、トウガラシなど触れるかも?とりあえず、つづく今回は、先も考えずに漠然と走り始めたから2転3転どころか10転くらいしたのです。写真をエジプトにしたのでそれもまた内容変わりました。毎回自分でハードルあげているしね・・Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador) アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年06月17日
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Break Time(一休み) ボルダースビーチ(Boulders Beach)紹介がメインのはずが、ペンギン自体に力を入れすぎ南極(Antarctica)もたくさん入れました。久しぶりの生物ネタ。今回はペンギン三昧で、写真大容量入っていますボルダース・ビーチ(Boulders Beach)は、前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」の時に紹介した南アフリカ、ケープ半島の東、フォールス湾(False Bay)に面したサイモンズタウン(Simon's Town)にあります。人口は7000人もいないけどケープタウンと鉄道で繋がり、かつ南アフリカで最大の海軍基地を持つそこそこの街。その街の名物がペンギンのコロニー(Colony)で、間近で見られるコロニーとして観光の目玉になっています。かつて街に住み着いたペンギンが繁殖。彼らを保護するべく保護区が街の中にできてしまった。彼らの子育てを応援するべく彼らのいる海辺の一角を保護区として隔離し、人間が距離をとって共存している。だから界隈では犬の散歩でさえ、必ずリードを付ける事が義務づけられている。また彼らの食事を確保する為に湾内のトロール船も禁止されている。彼らも人間はペンギンの外敵ではないと解っているので割と自由に生活している。人からペンギンには近付け無いが、隣接する人間の海水浴場の方に彼らが現れる事もあるらしい。サイモンズタウンは良い具合に共存が成立している素敵な街なのです。ところで、サイモンズタウンのある南アフリカに生息するペンギンは俗にケープ・ペンギンと呼ばれるアフリカ・ペンギンのみです。実は世界にはペンギンが19種存在しているそうです。ついでにペンギンの種類と生息図などオリジナルで造り、南極(Antarctica)のペンギンコロニーも加えました。※ 南極の写真はカメラ時代のフィルムをデシタルに移行させたものです。南極の写真は見やすさの為に若干明るく修正しています。ペンギン・コロニー(Boulders Beach&Antarctica)南極にクマはいないアデリーペンギン(Adeliae penguin) ジェンツーペンギン(Gentoo penguin)チンストラップペンギン(Chinstrap Penguin) マジェラニックペンギン(Magellanicus penguin)ペンギンの属種エンペラーペンギン属フンボルトペンギン属マカロニ・ペンギン属イエローアイドペンギン属アデリーペンギン属リトルペンギン属ペンギンも渡り鳥?極域のペンギンの種分布南極環流と海洋深層水ペンギンが赤道を越えられない理由南アフリカ ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)の保護区ペンギンの換羽(かんう・Moult)換羽中(Moulting)の絶食南極にクマはいないところで、ペンギンは南半球にしか生息していない。それとは反対にポーラ・ベア(Polar bear)は北極圏にしか生息していない。つまり、北極にホッキョクグマは生息しているが、南極にナンキョクグマはいないのである。大陸である南極の方が、北極よりはるかに寒いからだと言われている。※ ホッキョクグマは和名。英名がポーラ・ベア(Polar bear)。南極に行くには南半球が夏の時にしか行けない。これでも夏なのである。写真は全て南極半島一帯です。※ この半島はドレーク海峡を挟んで南米に近いのです。環境相の資料よれば、北極圏、シベリア、ロシア・サハ共和国のオイミャコンが記録した最低気温は-71度。世界で最も寒い定住地。それは北半球の記録でもっとも寒い気温らしい。一方、南極の最低気温は-89.2度ロシアの南極観測基地ボストーク(Vostok)の気温である。※ 南緯78度28分、東経106度52分。標高3488m。ボストーク(Vostok)基地と日本の基地を示しました。正確さを記す為にベースは日本の基地の図を利用しました。なぜ南極の方が寒いのか?それは南極は大陸であり、氷だけの北極よりはるかに厚い氷の層に覆われているかららしい。北極の氷はせいぜい10m。南極大陸は98%が南極氷床に覆われ、その厚さは平均1.6km。平均標高は2500m。※ 地表が露出している土地は全体の2%しかない。つまり同じ冷凍室でも分厚い氷に覆われた冷凍室の方が冷えると言う事らしい。とは言え、寒過ぎるから北極クマが生息できない。とは言えないらしい。実は北極クマは南極でも北極と同じように生息できることが、ワシントン条約締結前の実験によってわかっているそうだ。それ故、温暖化で北極の氷が減少し、北極の生物に危機が近づいているので北極クマを南極に移送して保護しようなどと言うとんでもない案も出ているのだと言う。現在に至りクマがいないのは、南極大陸が分裂して広い海に囲まれたからクマが南極に到達できなかったからと考えられている。※海を泳ぐには各大陸からの距離がありすぎ。海流もあるし・・。上陸はゾディアックボート(Zodiac Boat)を使用。それにしても保護する為に北極から南極へ移住させるなどあり得ないだろう。明らかに不自然な行為。南極の生態系を壊す事になる。確実に食物連鎖を破壊するだろう。かつて地球に生存していた生物は、その環境故に絶滅した種も多い。しかし、それも自然の摂理と思う。生物は環境の負荷により進化を遂げてきた。進化して別物に生まれ変わってきたのだ。そうして生物界は種の入れ替わりを遂げてきた。人間のこざかしい知恵で現存の生物を保護しようなどと言うのは神をまねる猿に同じではないか? と思う。環境に適応した次の種が必ず生まれてくるのだから、逆にそれを阻止してはいけない。北極クマだって氷が溶ければ南下して生態を変えて陸地に住めるようになるさ・・と思う。それにしても滅びるかもしれないのは人間も一緒。人間が増え過ぎて環境が破壊されるのも地球の歴史の一編。定数オーバーした人間はいずれ滅ぶかもしれない。地球史を考えるとそれもあらがえない事象と思える。それにしても滅びを受け入れるか? 受け入れないか? 理解した上で滅んで行けるのは今の所、人間だけだ。持続可能な社会造りをしてもいつか限界は来る。その時、人は進化できるのか?私は現状維持よりも進化の方に興味がある。ペンギンが南半球にしかいない理由は後に載せます。南極半島のどこかアデリーペンギン(Adeliae penguin) アデリーペンギン属体長70cm。体重3.7~4.0kg。南極ではほぼ全域の沿岸に生息している。スイカ(suica)のキャラに使用されているペンギンです。スイカのキャラ設定では南極から東京にやってきたことになっているらしい。アデリーペンギン(Adeliae penguin) のコロニーは少し粗い石山小石を積み上げて巣を作る。抱卵はオスの仕事? 1ヶ月以上絶食して抱卵するらしい。その間メスはどこで何をしているのだろう?奧の山の壁面、全てペンギン。ジェンツーペンギン(Gentoo penguin)アデリーペンギン属体長75cm。体重5.0~5.5kg。南極では主に南極半島に生息海のジメジメした岩山で子育て?風雨もあるし、寒いだろうし、卵にも雛にも良い環境とは思えないが・・。利点はエサ場に近い事くらい?天敵はアザラシやカモメ。ズーズーしく巣の中に降り立ち、隙あらば卵を盗ろうとするナンキョクオオトウゾクカモメ?ナンキョクオオトウゾクカモメ(South Polar Skua)の「Skua」だけでトウゾクカモメを意味する。 卵やヒナをエサにする為にペンギンの繁殖期に合わせて南極に渡ってくるらしい。だから生態がそのまま名前の由来なのね。これも食物連鎖だけどさ・・。数年前に東京のカモメが上野の不忍池まで進出したと聞いた。しかもカモメとカラスが対立してカラスが負けている・・と言うのでどれだけ獰猛なのか? と思ったものだ。チンストラップペンギン(Chinstrap Penguin) 和名 ヒゲペンギンアデリーペンギン属体長71~76cm。体重3.9~4.4kg。南極では主に南極半島突端から南大西洋上にあるサウスジョージア島とサウスサンドウィッチ諸島に生息。一羽で走っている写真が多かった。彼らの巣は結構危険な大きな岩場。海から結構遠い?一番険しい場所に巣造りするのはなぜだろう? こう言う所、海鳥らしいが・・。彼らの天敵もチドリやカモメにアザラシ。体重は確かに軽い方だけど、結構危険地帯を上っている。アザラシは来ないだろうけどトウゾクカモメは防げない。マジェラニックペンギン(Magellanicus penguin)別名 パタビニアペンギンフンボルトペンギン属体長71cm。体重4.0kg主な生息地は南米であるが、長距離を移動する渡り鳥らしい。※ 3300kmも移動した記録があるらしい。フンボルトペンギン属にガラパゴスペンギンがいる。寒流に乗って赤道近くまで到達した種である。ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)のアフリカペンギンもフンボルトペンギン属。非常によく似ている。コロニーを造る大陸がわかれているが元は同種のペンギンだろう。ペンギン以外の渡り鳥も多い。高台にいるのは鳥だけど下の方はアザラシなど鰭脚類(ききゃくるい)も多い。下は南米のウシュアイア近くかもしれない。ペンギンの属種属ごとにペンギンをまとめてみました。これに関しては、写真は全てウィキメディアの写真を利用させてもらいました。かつてもっと種が多かったらしいが、現在6属18種?があげられている。英名を優先させました。和名は解るもののみ。この和名のせいで名前が解りにくくなっています。本によって違うのです。ペンギン目6属 エンペラーペンギン属 2種 フンボルトペンギン属 4種 マカロニ・ペンギン属 7種 イエローアイドペンギン属 1種 アデリーペンギン属 3種 リトルペンギン属 1種エンペラーペンギン属左 エンペラーペンギン(Emperor penguin) 和名 コウテイペンギン 平均120cm右 キングペンギン(King penguin) 和名 オウサマペンギン 平均89cm共にコロニーは造るが巣は作らない。エンペラーペンギンはオスだけが抱卵(65日)。巣立ちまで150日もかかる。キングペンギンは抱卵66日だけど巣立ちまで1年弱とペンギンの中で最も長い。大きいから威厳もあるけど、元が鳥だったとは思えない姿ですね。フンボルトペンギン属上段左 フンボルトペンギン(Humboldt penguin)別名 ペルーペンギン(Peruvian penguin) 平均67cm上段右 マジェラニックペンギン(Magellanicus penguin)別名 パタゴニアペンギン 平均71cm下段左 ガラパゴスペンギン(Galápagos penguin) 平均55cm下段右 アフリカペンギン(African penguin) 和名 ケープペンギン 平均71cm南半球にしかいないペンギンだけど、唯一ガラパゴスペンギンは赤道を越えているものがいる。フンボルトペンギン属は同じ種が生息地で変化したと思える。1巣2卵だけど、産卵が年2回。1年に最大4羽の子を育てる。抱卵はだいたい40日程度で巣立ちは3ヶ月以内。マカロニ・ペンギン属左 サザンロックホッパーペンギン(Southern Rockhopper Penguin) 和名 ミナミイワトビペンギン右 ノーザンロックホッパーペンギン(Northern Rockhopper Penguin) 和名 キタイワトビペンギン※ イワトビペンギンの平均53cm左 フィヨルドランドペンギン(Fiordland crested penguin) 和名 キマユペンギン 平均58cm右 スネアーズペンギン(Snares penguin) 和名 ハシブトペンギン 平均58cm左 マカロニペンギン(Macaroni Penguin) 平均71cm右 エレクトクレステッドペンギン(Erect-crested Penguin) 別名 シュレーターペンギン(Eudyptes sclateri) 平均64cmロイヤルペンギン(Royal Penguin)平均72cmマカロニ・ペンギン属は、オレンジの飾り羽から一際目を引く派手なペンギン。その見た目から「マカロニ(Macaroni)」と、名が付いた。そもそも「マカロニ(Macaroni)」とは、18世紀のイギリスでイタリアの伊達男に対して呼称された語彙だったらしい。つまりマカロニペンギンはイタリアの派手なかっこつけの男と同類なんですね。写真の並びは、近似のものを敢えて並べました。並べると似ているけど異なるのが解りやすいので。また彼らは1年で1巣2卵しか産卵しないので1年に育てるヒナの数は1羽。だから絶滅危惧度も高い? のかも。イエローアイドペンギン属イエローアイドペンギン(Yellow-eyed penguin) 和名 キンメペンギン平均74cm生息はニュージーランド南島と以南の諸島。キャンベル島、オークランド島など。定住型のペンギン。天敵は人の持ち込んだイタチやネコ、ネズミ。絶滅危険度(高)EN— Endangered(危機)絶滅危惧IB類 絶滅危惧種に分類されている。一年で1巣2卵。絶滅危惧の原因はエサの不足によるつがいの繁殖の失敗らしい。定住型なので生息地の気候変動に敏感なのかも。また、人に慣れず飼育環境に適応できにくい種らしい。因みに絶滅危惧IA類 近絶滅種のリストにペンギンには入っていない。絶滅危険度(極めて高い)CR— Critically Endangered(深刻な危機)絶滅危惧IA類 近絶滅種アデリーペンギン属上段 チンストラップペンギン(Chinstrap Penguin) 和名 ヒゲペンギン平均 74cm左下 アデリーペンギン(Adeliae penguin)平均 71cm右下 ジェンツーペンギン(Gentoo penguin)平均 81cmチンストラップペンギンのエサはほぼ南極にたくさん生息するナンキョクオキアミ (Antarctic krill)※ ホンエビ上目 オキアミ目に属する甲殻類。体長3~6cmでエビに似ているがエビではない。でも写真の中に魚をくわえて走っているのもいた。アデリーペンギンのエサは営巣地で異なるそうだ。ジェンツーペンギンは近くで見付けたものは何でもエサにするらしい。つまり、アデリーペンギン属は割と何でもいけるのかもしれない。リトルペンギン属リトルペンギン(Little Penguin)和名 コガタペンギン平均 41cmペンギンの中では最も小さい種。前傾姿勢で歩く姿など鳥に近い。オーストラリア南岸やニュージーランドに生息。かつてはフェアリーペンギンと呼称された事も。ペンギンの食性は肉食で、魚類・甲殻類・頭足類などを海中で捕食。天敵はシャチ・ヒョウアザラシ・サメと言われるが、海岸近くの民家にも巣作りするリトルペンギンの天敵はイヌ、ネコ、キツネに交通事故らしい。ペンギンも渡り鳥?ペンギン目と姉妹のハイイロミズナギドリはその羽根を使って長距離を移動する事で知られる渡り鳥である。ペンギンとは違う? いや、ペンギンも定住性の強いペンギンはいるが、南極に住むアデレーペンギンは繁殖コロニーから南極大陸のロス海まで平均13000㎞を歩いて移動し、越冬するそうだ。それはもはや渡り鳥と言って良い。南極も広い。冬に太陽光の少ない南部でエサの捕獲は難しいかららしい。極域のペンギンの種分布上図は南極を中心にした地図にペンギンの生息地を載せました。南極環流と海洋深層水南極環流(Antarctic Circumpolar Current)が南極大陸を右廻りに流れている。南極環流は地球で最大の海流ですが、他にも南半球では以下の環流が地球上の海洋水を循環させています。南太平洋亜熱帯循環(South Pacific Subtropical Gyre)南大西洋亜熱帯循環(South Atlantic Subtropical Gyre)インド洋亜熱帯循環(Indian Ocean Subtropical Gyre)南極環流は、太平洋・大西洋・インド洋の3つの大洋循環に繋がり、それらはまたそれぞれの域の環流に乗って地球上を循環する。つまり、南極の栄養化の高い深層水はそれら寒流として運ばれ、結果的に地球を循環して行くのである。海流図にペンギンの生息地を重ねました。ペンギンの生息地は必ず寒流に沿っている事に気が付く。つまりペンギンは栄養価の高い寒流にのって、南極環流から各海洋の環流に乗りかえてエサを追い移動しただろう事が解るのだ。寒流には極地の海から湧き上がった栄耀豊富な海洋深層水が流れているから、それを求めてペンギンのエサとなる頭足類(イカ、タコ)、甲殻類(ナンキョクオキアミなど)、小魚、中型の魚(ニシン、イワシなど)もまた集まるからだ。ところで海洋では海の深層部には表層から沈降してきた有機物が、バクテリアその他の働きにより分解され、リンや窒素などの無機化合物となり沈殿して大量に蓄積されていく。つまり海の表層水より深層水の方がミネラルの比重が高くなる(濃い)。当然生物にとっての栄養化も表層水よりも深層水の方が高いのである。それが南極の深層水となればなおさらだ。※ 一般的な暖流の表層水には植物プランクトンが多い。それは植物プランクトンの成長に必要な無機栄養塩(NO3-硝酸態窒素、PO4-リン酸態リン、Si ケイ素)を消費すると言う事である。だから植物プランクトンが少ない海洋深層水は、ミネラル分が強く残っているので栄養価もある。海洋学上の2大深層水が、南極海で形成される南極底層水(南半球)と、北大西洋のグリーンランド沖で形成される北大西洋深層水(北半球)。寒流だと海水の熱塩循環が起こり深層の栄養水を表層まで運んでくれる。さらにそれらは環流に乗り地球の海洋を広く移動いて行く。何と、極地の栄養豊富な海洋深層水は南極環流で循環しながらおよそ2000年かけて世界中の海洋を移動しているらしい。だからそれは千年単位の地球の気候にも影響を及ぼすとか・・。ペンギンが赤道を越えられない理由ペンギンが南半球にしかいない理由は、エサとなる魚などが捕獲できる海域に限られているからで、寒い、冷い寒流が彼らのエサ場だからである。逆に暖かい海は生物量は格段に落ちる。ペンギンは大量のエサを必要とするので寒流でないと生息できないのだ。ペンギンが赤道を越えられないのはエサが少ないからで、だから赤道に近いガラパゴスに住むガラパゴスペンギンはすごく特殊なペンギンと言う事になる。最も彼らの平均体長は55cm。体重は2~2.5kgと他のフンボルトペンギン属に比べてサイズも小さいし体重も少ない。もしかしたらこれは十分なエサが摂れない為に体が小さく、軽く変化して行ったのかもしれない。ある意味、生態が環境に合わせて進化したとも考えられる。とは言え、個体数は急激に減少していて絶滅危惧IB類(EN)に分類されている。※ IA類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高い生物。南アフリカ ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)の保護区内ビーチ指定された彼らのビーチに入る事はできないので、これは遠くから撮影しています。保護区には大岩がありペンギンが日光浴をしている。下の写真はウィキメディアのサイモンズタウン(Simon's Town)版から借りました。この角度の写真はビーチに降りないと撮影できない? からです。1982年のわずか2羽の繁殖ペアがボルダースビーチに住み着き繁殖。保護政策によりフォールス湾での商業的な遠海トロール網の禁止し、ペンギンの餌の一つであるイワシやカタクチイワシの供給を増やすなど遠隔的な保護活動もしてている。それ故、近年、ペンギンのコロニーは約3000羽にまで成長していると言う。上とは別日、岩にはペンギンと海鳥が混在している。正確にはわからないが、ハイイロミズナギドリ(Sooty shearwater)かもしれない。ミズナギドリ目(Procellariiformes)ミズナギドリ科であるのは間違いない。彼らミズナギドリ目の種は核DNAの分子系統推定で、ペンギン目の姉妹群という解析結果が出ている。つまり最もペンギンに近い仲閒なのである。違和感なく一緒にいるしね・・。それにしても不思議。飛ぶ鳥と海の中を泳ぐ鳥。DNAで見れば紙一重の所にいるなんて・・。どこで、何があって生態が別れたのでしょうね。ボルダース・ビーチ(Boulders Beach)の保護区ここボルダース・ビーチ(Boulders Beach)はテーブルマウンテン国立公園(Table Mountain National Park)の海洋保護区の一部となっている。ケープ半島は 地中海性気候。10月から3月まで続く夏は暑く乾燥し、ほぼ晴れ。半島は「ケープ・ドクター」と呼ばれる東南の強い風(南大西洋高気圧 によるもの)をしばしば受ける。5月から9月まで続く冬は長く、涼しく、湿度が高い。大西洋から 寒冷前線が雨と強い北西風をもたらす。また年間を通じて風が強く吹く場所らしい。 1 年を通して気温は 9°Cから 25°Cに変化。それ以下にも以上にもなる事は滅多に無いと言う。ペンギンの環境としては暖かく、エサさえ捕獲できるなら越冬の為の渡りをする必要は無い。だからアフリカペンギンは定住型のペンギンになったのかも。赤い円のところがボルダース・ビーチ(Boulders Beach)下はビーチ公園の地図上の図の一番左端のビーチからの撮影右方面はペンギン保護区となる。ピクトグラム(pictogram)で禁止事項が表示されている。ゴミ捨て禁止。飲酒禁止。ペット禁止。たき火禁止。テント禁止。意味不明が一つ。日本には無いのがライフル・ピストル・ゴム銃禁止。下はたぶんペンギン側でない方面のビーチ海鳥が休むのに調度良い岩は花崗岩と思われる。ペンギン様ビーチには入る事はできない。基本自然動物であるペンギンに接触する事はできないが、ボルダース・ビーチの保護区の中では人間がペンギンの進路を妨害しないよう配慮されたレーンを歩いて間近で見学する事ができる。下はレーンからの撮影ボルダースビーチのペンギンはフンボルト属のアフリカペンギン(African penguin)です。※ 和名 ケープペンギンアフリカペンギンと呼ばれるのは生息地がアフリカ南端とその海域に限られているからです。野生で平均寿命は10年~12年。最長記録27年。飼育下での平均寿命は25年。最長39年を記録しているそうです。危険もなく、エサが食べられれば長生きできると言う事ですね。先に南極編で紹介したマジェラニックペンギン(Magellanicus penguin)と非常によく似ています。ただマジェラニックペンギンは渡り鳥で4月から8月までコロニーを離れるので越冬する場所が変わる。一方、先に紹介した通りアフリカペンギンは渡り無しの定住型。産卵は一年中行われるようで、ボルダーズ・ビーチはいつでもヒナがいる。産卵ピークは2~5月、11~12月。1巣の卵数は2個。抱卵期間は38~41日間。ヒナの孵化後40日間は警護期で親に守られ、ヒナは孵化70~90日後に巣立つ。彼らの主食はニシン、イワシ類。ペンギンの換羽(かんう・Moult)換羽(かんう)とは、羽根毛が季節によって、また成長に応じて一部または全部が生え替わる事。羽根も使えば傷むからで、交換が必要なのだそうです。鳥羽は繁殖期や季節で行われるが鳥の種類や年齢、性別などによって生え替わり方が決まっていると言う。※ 季節による2型がある場合、冬の羽衣(冬羽)、夏の羽衣(夏羽)。※ 繁殖期の羽衣(生殖羽)、非繁殖期の羽衣(非生殖羽)。ボルダースビーチのペンギンはフンボルト属のアフリカペンギン(African penguin)なので特徴的な模様があるが、若鳥(Young bird)はそれが無い。数度の換羽を経て生え替わり本来の模様が出て始めて成鳥(Adult bird)になるらしい。換羽中(Moulting)の絶食ペンギンは全身の羽毛が一斉に抜け落ちるので、新しい羽が伸びる2、3週間は水に入れない体に・・。だから換羽中のペンギンはエサが食べられない。ペンギンの羽毛には防水性があり、冷たい水から体を守ってくれるが換羽中は防水が無いから海に入れないからだ。それ故、換羽前のペンギンはたくさんエサを食べて脂肪を蓄えて換羽中の絶食に備えるのだそうです。動物園でも換羽中はエサをもらいに来ないらしい。だから自然界では換羽前のペンギンは肥満だが、換羽後はスリムな体に一新される。上のゴマフアザラシの赤ちゃんのようなペンギン。これは成鳥の換羽(かんう)か?下はエサを口移しで与えているところ。カップルで抱卵している所なのかはよくわからないが・・。換羽前のフリッパーに注目。これを見るとペンギンて鳥なんだな・・と改めて思います。おわり※ 過去のボルダースビーチは削除します。今回は「アジアと欧州を結ぶ交易路」を一度リセットするべく他のネタに移りました。同じの書いていると飽きるので・・。でも何を書くか決まるでに時間がかかり、書いている最中は季節的な睡魔に襲われ作業が進みませんでした。「アジアと欧州を結ぶ交易路 18」次回になるか? もう一つ何か挟むかもしれません。※ 前回のブログ「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」では、喜望峰の写真を紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
2022年05月14日
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ラストにback number入れました。すっかり忘れていました。今回は、大航海時代を支えた船の事を入れたいと思います。写真は南アフリカ、ケープ半島の喜望峰です。いわゆる船の始まりはガレー船(galley)である。動力はオールのみのガレー船(galley)と帆とオールによる動力で船を動かすタイプのガレー帆船が存在する。※ 紀元前の戦闘においてすでに利用されていた船。そのオールを動かす行為は人力であるから長時間航行には限界があった。寄港地を多く必要としたので割と陸の近くを航行した船である。ガレー船にも小なり大なりの船があり小型のガレー船でマストが1~2本。オールの数はその用途でも変わった。ただの運搬船の場合は積荷の重量を優先して漕ぎ手は少くない。つまりオールは少ない。※ 小型のガレー船フスタ(fusta)は漕ぐよりも帆走をメインとしていた。マストは1本。が、軍用船の場合、速度が重視されるから漕ぎ手は増える。昔は戦士がそのまま漕ぎ手となっていた。後に大砲など銃器も積むようになると重量も増しオールの漕ぎ手の数も増える。※ 兵士50人~150人程度?当然、船自体が大型化する。食糧や水などの供給の為に長時間航行には限界があり、補給と休息の為の寄港地も増える。※ ガレー船については、以前「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の中「ガレー船(galley)の変遷」のところで紹介しています。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦上に紹介したガレー船は地中海の比較的穏やかな海で誕生したものだ。ジブラルタル海峡を出て外洋に出ると、海にはただならぬ風と海流が存在し、海も荒れた。安全な寄港地だってあるかわからない。外洋航海を目指した彼らは外洋に耐えられる船造りの必要性に迫られる。特に水面(喫水)から上甲板までの距離(乾舷・Freeboard)は重要である。外洋は波も高くなるので船の乾舷を大きく(高く)しないと沈没しやすい。ポルトガルのエンリケ王子は未知への航海に踏み出し海図を少しずつ書き足した。同時に船の開発もしたとされる。彼がエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)と呼ばれるのは、彼の元にそれら研究が推し進められていたからだ。彼らは遠洋航海に適した大型の船の開発と、未知の探検に適した船の開発を成功させた?※ ポルトガル南部のサン・ヴィセンテ岬(Cape San Vicent)に王子のヴィラがありそこに研究施設と学校があったとされる。大航海時代、当初、世界の植民地化においてポルトガルとスペインの独壇場となったのは、外洋に出て行ける船を持っていた両国だけだったからだ。ところで船の写真はほぼウィキメディアから借りました。船の本探しましたが無いのです。あっても近年の帆船の本ばかり。中世の帆船を詳しく順序立てて解説している本が欲しかった。アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人嵐の岬から喜望峰に名称変更大航海時代の船Georg Braunの鳥瞰図キャラベル船(Caravel)キャラック船(Carrack)ガレオン船(Galleon)ケープ・ポイントと希望の岬ジェノバの商人(The Merchant of Genoa)ポルトガルとの関係ジェノバの商人の見返りは何か?スペインとの関係ジェノバ人の報酬帆船の風フォールス湾シール島自然保護区(False Bay Seal Island Reserve)嵐の岬から喜望峰に名称変更ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)少し時化(しけ)た時の喜望峰(Cape of Good Hope)少しの時化でも沿岸は岩場が多いせいか波が立ってますね。ケープ半島(Cape Peninsula)の南端に喜望峰(Cape of Good Hope)はあるが、実際はケープ・ポイント(Cape Point)の方が少し南。もっと言えばアフリカ大陸の最南端は喜望峰ではない。ケープ半島南端は岩礁がすごくて海底が渦巻いているのかも。バルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)は実際、アフリカの最南端であるアガラス岬(Cape Agulhas)まで進み船をターンさせた。実は喜望峰(Cape of Good Hope)を発見するのはその後なのである。彼はアフリカ大陸の南の海で嵐に遭って13日間漂流。気付いたらアガラス岬まで来ていたのである。アガラス岬はアフリカ大陸の最南端と言うだけではない。実はここはインド洋(Indian Ocean)と大西洋(Atlantic ocean)の分かれ目なのである。それは海流(Agulhas Current)により明確に分断されている。だから彼はそこより先に進め無かったのだろう。遭難してさんざんな目にあい彼はやむなくターンしてケープ半島(Cape Peninsula)の南端まで戻る。彼はそこを嵐の岬(Cabo das Tormentas)と報告したそうだ。※ 帰りはベンゲラ海流(Benguela Current)に乗るので早い。希望の岬(Cape of Good Hope)と名を変えさせたのはジョアン2世(João II)(1455年~1495年)。東方への道が開けた「希望」が込められた名前らしい。日本ではなぜか「喜望」が用いられているが・・。大航海時代の船ポルトガルが喜望峰に到達するのは1488年。喜望峰に到達したバルトロメウ・ディアス (Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)はキャラベル船(Caravel)2隻と補給船1隻でリスボンを出港。一方スペインからクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)が大西洋横断するのは1492年の事。コロンブスはキャラック船(Carrack)のサンタ・マリア号(La Santa María)を旗艦としてピンタ号とニーナ号と言う少し小型のキャラベル船(Caravel)の3隻でパロス(Palos)港から出港。コロンブスの船は何れも中古船だったそうだ。それにしても二人はほぼ同級生だったのね。大航海時代を迎えるにあたり、まず造られた船は外洋に出られる船だ。高波にも沈まない安定した船体の船。すでにベースはあったと思われる。遠洋航海が始まると食糧など物資がたくさん詰める船倉も必要になる。交易品を積む上でも必要だ。そのうち到達した未開地の探索の為の船も必要となる。入江や川を遡上しての探検に適した小廻りがきき機動力のある船も必要とされた。植民の為の侵略が始まると、現地との争いも起こる。相手を威嚇する為に砲台の数も増えて行く。植民地との運送船には護衛する船が併走するようになる。護衛船は砲台の数を増やし戦列艦と呼ばれる砲撃戦用の完全なる軍船に進化もみせる。また砲台は減らして速度を重視したフリゲート(Frigate)も生まれている。つまり大航海時代に生まれたガレオン船(Galleon)は、戦える船として輸送と兼務した活躍をみせる。Georg Braunの鳥瞰図1572年のポルトガル、テージョ川(Tagus river)河口のリスボン港ドイツの地形地理学者 ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)(1541年~1622年)が編集長として世界で最も重要な都市? として編纂した本「Civitates Orbis Terrarum」Volume 1、1572 からの出展? ウィキメディアから借りましたが、これの原本はハイデルベルク大学図書館のデジタル・アーカイブらしい。ゲオルク・ブラウン(Georg Braun)は546の都市の展望、鳥瞰図や地図を編纂。1572年から始まり1617年にVolume 6(第6巻)まで刊行している。当時も役に立ち、且つ後世の重要な歴史的資料にもなってます。ポルトガルではキャラベルは2本マストの三角帆が好まれたと言う。新機種 大型のガレオン(Galleon)ここにはかつてのガレー(Galley)と小型ガレーのフスタ(Fusta)もいます。キャラック(Carrack) とキャラベル(Caravel)はなんとなく分けたので間違っているかも・・。大航海時代初期に利用されたキャラック船(Carrack)もキャラベル船(Caravel)も共にポルトガルが開発した? と考えられいる。外洋航海の為に開発された安定性と容積の大きいキャラック船(Carrack)。未知の土地での探検に適した小廻りのきくキャラベル船(Caravel)確かに探検用のキャラベル船(Caravel)の完成型はポルトガルであったとは思うが、外洋航海用のキャラック船(Carrack)はポルトガルではなくジェノバの造船所が開発したものだった? 可能性もある。何しろジェノバは1312年の段階ですでにカナリア諸島まで到達していたし・・。実際、ジェノバは船も売ってたからね。海洋共和国ジェノバの事は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12~14 海洋共和国」編の中で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)※ 海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先,十字軍遠征に対するジェノバの功績、海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)※ キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)の中、十字軍効果の経済リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊※ ヴェネツィアvsジェノヴァの交易キャラベル船(Caravel)1450年頃、ポルトガルの国家管理の下で開発された探検船と言われている。それは確かに、エンリケ王子(1394年~1460年)のチームが、必然により開発した船だったかもしれない。先に紹介したよう1488年、バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)(1450年頃~1500年)が喜望峰に到達した時に利用していた船である。しかもキャラベルは浅い沿岸海域で上流に航行する事が可能。まさに西アフリカの川を遡上しての探検の為に開発されたような船だ。50〜160トン、マストは1〜3本。3.5対1、狭い楕円体フレームを持つ。初期のキャラベル船の平均の長さは12〜18 m 39〜59トン。また、初期のキャラベル船は2つまたは3つのマストを搭載。後に4本のマストも。サイズで用途も変わるからマストの数は船のサイズによるだろうし、当然用途で異なる。また帆の形などで機能性はかなり変化する。帆の操作次第で風上に向かって航行する事も可能。小型ゆえ積載量は限られるが、その操作性と機敏さから非常に高速での移動も可能だったらしい。三角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。パリの国立海軍博物館のコレクションからのポルトガルのキャラベル船のモデル。3本のマストを持つ小型の帆船で、小廻りもきくし高い操舵性を有していた。当時ポルトガルは西アフリカ沿岸から川を遡っての未開地での調査と同時に植民地や鉱物資源を探していた。探検家たちは機動力を求めてラテンセイルを備えたキャラベルや100トン前後の軽キャラックなど小型帆船を求めたのだろう。特にポルトガルでは三角帆のラテンセイル(lateen sail)が好まれたらしい。四角帆のキャラベル船 ウィキメディアから借りました。ヨット (yacht)の語はオランダ語の 「jacht」から由来するらしいが、ヨットのルーツ自体はポルトガルのキャラベル船(Caravel)だったのではないか? と思った。ところでコロンブスの旗艦のサンタマリア号はキャラック船(Carrack)であるが、ピンタ号とニーナ号はキャラベル船とされている。小さいピンタ号やニーナ号の方が動きも迅速なのでコロンブスは旗艦のサンタマリア号よりも好んだと言う。ニーナ号(La Niña)の復元船横帆を帆装に持つキャラベル船 写真はウィキメディアから借りました。ニーナ号のマストの数は現在も論議中。2~4本?排水量およそ60トンで船団の中で一番小型だったと言うが、これを見る限りではほぼ漁船。ピンタ号(La Pinta)の復元船横帆を帆装に持つキャラベル船 写真はウィキメディアから借りました。スペインのパロス(Palos)港のドッグに繫留されているピンタ号(La Pinta)の復元船。約60〜75トンの約15〜20mの小さなキャラベル船ピンタ号とニーナ号はキャラベル船とされているがポルトガルのキャラベル船とはちょっと違う気がする。キャラック船(Carrack)ポルトガルではナウ(Nau)、スペインではナオ(Nao)と呼ばれた。キャラベル船(Caravel)よりも大型のキャラック船(Carrack)も、14~15世紀にポルトガルで開発されたとされている。全長は30mから60m。3本~4本のマスト。丸みを帯びた船体は全長と全幅の比は3:1。特徴的な複層式の船首楼、船尾楼を有する。船の安定性は高く、外洋航路での貿易船として都合が良く、貨物と物資の積載能力も高かった。ポルトガルのキャラック船は、当時は非常に大型の船であり、多くの場合1000トンを超えていたと言う。コロンブスの旗艦であるサンタマリア(Santa Maria)。レプリカのキャラック船(Carrack)の写真をウィキメディアから借りました。キャラック船(Carrack)コロンブスによるアメリカ大陸到達500周年(1992年)記念のイベントとしてサンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の船団三隻が復元。製作は1986年に開始され、復元された船体は1992年にスペインで開催されたセビリア万博で展示。下は船体部分のみカットしたものです。キャラック船(Carrack)のシンプル図。(ウィキメディアの図を借りました。)冒頭も紹介したが、それまで地中海で使用されていたガレー船は沿岸航行が主流。外洋航海ではより強い風と海流に絶えうる転覆しない安定した船の開発は必須。高波にも安定する船体を持つキャラック船(Carrack)に近い船はすでにジェノバやポルトガルでは利用されていたと思われる。先にも触れたが、ジェノバも早くから地中海からジブルラルタル海峡を出て大西洋を北上。北海への航路を持っていたから当然、大西洋の高波にも絶えうると同時に積荷を汚さず、濡らさず運ぶ為の広い船倉を有した船の開発はポルトガルより先だったと思われる。ハンザ同盟で栄えるブルージュの羊毛製品をポルトガルが独占的に取引するのは1430年以降である。ブルージュの羊毛のタペストリーの御得意様はローマ教皇庁であり、その運搬をジェノバが担っていたと考えられるからだ。※ ジェノバとローマ教皇庁の関係は十字軍以前に遡る。前に「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の中、「海洋王国ポルトガルの誕生」ですでに書いているが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃。第6代ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時である。以降、ジェノバの商人をリクルートして船や航海、交易のノウハウをポルトガルは獲得していく。第10代ジョアン1世(João I)(1357年~1433年)(在位:1385年~1433年)の時代にはポルト港に400~500隻の船が出入りするほどの立派な海洋王国に成長を見せていた。そのジョアン1世(João I)の娘イザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)が1430年1月、ブルゴーニュ公フィリップ善良公に嫁いだ。結婚の縁きっかけでポルトガルと北海方面の通商が始まったと思われる。※ イザベルとエンリケ王子は同母兄妹である。※ 仕入れた羊毛タペストリーは北アフリカでイスラムの商人とも取引されていた。取引自体はポルトガルではなくジェノバの商会が行っていたと思われる。造船に関しては、そもそもジェノバの方が歴史は深い。ジェノバの造船造りのノウハウを得てまた人材を引き抜いてポルトガルが開発した可能性もある。何れにしても、この外洋の高波や海流に絶えうる安定の大型輸送船キャラック船(Carrack)は、ガレオン船(Galleon)が登場するまで大西洋航路で主流の大型船であった。※ ガレオン船は16世紀半ば頃登場。下はポルトガルが軍船として開発したキャラック船(Carrack)サンタ・カタリナ・ド・モンテ・シナイ(Santa Catarina do Monte Sina)部分を拡大一見ガレオン船(Galleon)だと思っていたが・・。船底は広く安定してますね。もしかして?ポルトガルは軍船もキャラックから発展しているのでガレオン船は造っていなかったかもしれない。1547年、ポルトガルはキャラック船(Carrack)で種子島に到達。ガレオン船(Galleon)は16世紀半ばにはすでに開発されていたが、日本に来たポルトガルの交易船は最後(1638年)までキャラックのままだった?※ 数々の屏風絵に彼らと船が描き残されている。すべてキャラックだ。下は神戸市立博物館所蔵のコレクションから狩野内膳作「南蛮人渡来図」屏風絵からウィキメディアで借りました。上は部分。下が全景。狩野 内膳(1570年~1616年)安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師因みに1637年の暮れに勃発した島原の乱が決定打? となって日本政府はポルトガルを排除し、交易相手をプロテスタントのオランダ国に乗り換えたのである。詳しくは以下に書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)ガレオン船(Galleon)ガレオン船(Galleon)はキャラックから発展したとされる遠洋航海用の船。16世紀半ば〜18世紀頃主流の帆船。キャラックより小さめの船首楼と大きい1〜2層の船尾楼を持ち、4〜5本のマストを備え、1列~2列の砲台を備えて敵の襲来を防ぐ事も可能。大航海の時代には武器も必須。護衛船として有用な船だった。ガレオン船の全幅の比は1:4。(キャラック船は1:3 )キャラックよりも幅に対しての全長が長くスリムな船。形状だけでキャラックより速度が出ただろう事は解る。積載量も大きいが、喫水も浅く速度は出る反面、船体のスリムさ。重心は上に行くので安定性に欠ける。いざと言う時に転覆しやすい船であったそうだ。ガレオン船(Galleon)のシンプル図。 (ウィキメディアの図を借りました。)海上輸送で利用されると同時に大量の砲台を配備できる船は戦闘に特化した戦列艦へと発展もしている。スペインのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)スペイン船(上図)とオランダ船(下図)では砲台の数が違う。スペインのガレオン船は、3本マストを搭載。船体は500〜600トン砲台の数が多く豪華で派手。見た目重視? 見た者を圧倒させる目的があったのだろう。先にガレオン船は吃水が浅い為に速度も出ると紹介したが、この船に関しては性能は悪くスピードも出なかったらしい。ただ、並んだ砲台により一斉砲撃戦術が確立された戦列艦となっている。植民地間を行く商船兼護送軍船でもあったので特にスペインでは大型化される傾向にあったらしい。スペインでは新大陸の護衛艦として活躍。オランダのガレオン船(Galleon)の軍船 (絵画部分)原画 米国ワシントンD.C.の国立美術館(The National Gallery of Art) 出展(ウィキメディアから)タイトル オランダとスペイン軍艦の遭遇(A Naval Encounter between Dutch and Spanish Warships) 1618〜1620年画家 Cornelis Verbeeck (1585or1591年~1637年頃)オランダ黄金期の海専(うみせん)の画家スペインとの80年に渡る戦い(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)を経てオランダは独立。※ オランダを導いた中心人物がオラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)つまりこの絵はオランダvsスペインの80年戦争の最中の絵なのである。但し、描かれた年代は1618〜1620年とされている。だとすると休戦期間(1609年~1621年)ただ中になってしまうが・・。ケープ・ポイントと希望の岬下図は南アフリカのケープタウン界隈です。喜望峰はケープ半島の最南に位置しています。大西洋側からの喜望峰(Cape of Good Hope)フォールス湾(False Bay)側からの喜望峰喜望峰の手前 ダイス海岸(Diaz Beach)新ケープ・ポイント(Cape Point)からの喜望峰(Cape of Good Hope)ここまで上るのは至難です。途中からフニクラ(Funicular)があります。Flying Dutchman Funicularのレール目指すは新ケープ・ポイントの灯台(New Cape Point Lighthouse)New Cape Point Lighthouseまでラストは階段です。下の灯台はウィキメディアから借りてきました。大西洋側の旧? ケープ・ポイント 喜望峰(Cape of Good Hope)の看板このあたりはケープポイント自然保護区(Cape Point Nature Reserve)なっている。マクレア海岸(Maclear Beach)ジェノバの商人(The Merchant of Genoa)大航海時代の主役は確かにポルトガルとスペインであるが、細かく見て見ると、何れの国も海洋共和国ジェノバ(Genoa)との関わりが深い。深い・・と言うよりは何れの国も全面的に金銭をジェノバ(Genoa)に頼っている・・と言う関係だった。ポルトガルとの関係ポルトガルが海洋国家になる為にジェノバの商人を国家がリクルートしたと言う事はすでに「アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル」の所で触れているが、海運事業を立ち上げ、国際交易に参加する為のノウハウもすべてジェノバ商人の指導を受けている。※ ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃、第6代ポルトガル王ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時商船を持ち運営するのは、ただ船があって船員を雇えば良いと言うだけのものではない。交易をするとなれば、それは技術だけではなく商売をする上で金融のノウハウも必要になる。当然、運営の資金の調達から契約の仕方、経理、法律など事務的な事のノウハウも必要となる。また、ポルトガルは100年後には自国での造船も行っている。それらの全てをジェノバの商人らがお金も貸し付け指導もしていたのである。ではジェノバの商人の見返りは何か?実はこの頃(1312年)にはジェノバの航海士がカナリア諸島にすでに到達していた。ジェノバはアフリカ大陸からもたらされる金にすでに目をつけ、西アフリカ方面に関心を寄せていたらしいのだ。ポルトガル高官の中にはリクルートされたジェノバ人も入っていた。ジェノバの商人はポルトガルに海運のノウハウを教えると共に自分達の通商に有利に計らえるよう契約? 特権? があったのだろう。1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタに侵攻した。この時も当然バックにはジェノバがいた。※ 北アフリカの金の取引の市場は他に移転してしまい予定が外れた。しかもセウタからは何も得られなかったが・・。ポルトガルによる外洋航海にジェノバは当然力を貸している。セウタは失敗したが、もしかしたらエンリケ王子をそそのかして海洋に興味を持たせ、ポルトガルを外洋航海に向かわせたのは彼らだったのかもしれない。1425年にはポルトガルによるマデイラ諸島(Madeira Islands)への植民が始まっていた。ここにはジェノバ人によりサトウキビが持ち込まれ15世紀中には黒人奴隷を使用してのサトウキビ畑の一大プランテーシヨン(plantation)ができあがり欧州へ輸出された。ジェノバのサン・ジョルジョ商会が出資。マデイラ諸島は欧州の砂糖の主要な供給地となっていた。また、マデイラ諸島はブドウの一大産地でもありポートワイン(Port Wine)と同じく酒精強化ワインのマデイラ・ワイン(Madeira wine)の産地である。※ フォーティファイド・ワイン(fortified wine)について書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス1427年にエンリケ王子が派遣した船長によりアゾレス諸島(Azores Islands)が発見される。ここは小麦粉とブドウと藍(あい)色の染料となる大青(たいせい)の産地に育てられた。1440年、セネガル川河口で金の交易が始まる。※ 金はセネガル川上流のサハラ地区? で採掘されそれ以前は北アフリカのイスラム商人の隊商によって北アフリカの港に運ばれていた? らしい。1450年、大西洋中央に位置するカーボベルデ (Cabo Verde)で奴隷を使用してのサトウキビのプランテーションがジェノバ資本で始まった。後にポルトガルが南米ブラジルを植民地化すると、そこにもジェノバ資本のサトウキビのプランテーションができあがる。つまり表看板はポルトガル国であるが、大西洋上、マカロネシア(Macaronesia)でのプランテーションや西アフリカでの交易にはジェノバ商人の資本とサポートが多大に入っていたと言う事実だ。それにしても15世紀以降の欧州の砂糖の市場はジェノバの商人が独占していたのかな?マカロネシア(Macaronesia)アフリカ西の大西洋上の島々、マカロネシア(Macaronesia)に属するマデイラ諸島、アゾレス諸島、カナリア諸島、ベルデ岬諸島の大半にジェノバの資本が入り、15世紀にはすでに欧州への食料庫として大量生産のシステムで開発が進められていた。※ プランテーション (plantation)・・ 大農園による生産システム驚きなのはそれだけではない。ジェノバの商人はすでに新天地にもかかわっていた大西洋上のマカロネシアでのプランテーションが確立される頃、1453年5月、コンスタンチノポリスが陥落している。すでに(1381年)トリノ講和条約にてジェノバは東方交易の利権を全て失っていたが、かつては黒海周辺に植民都市をたくさん持っていたジェノバである。さらなる影響もあった? いや、逆に商機を得た?ジェノバは窮地に落ちたと思っていたが・・。地中海を捨て、大西洋に、南米に。ジェノバの商人根性、先見の明。ヴェネツィアと違った意味で凄いと思った。スペインとの関係スペインが大航海時代の覇者となるきっかけを作ったのがコロンブスによる新大陸の発見。その新大陸発見はコロンブスによる持ち込み企画で、当初はポルトガル王もスペイン王も断った非現実の冒険企画だった。でも、その夢の企画に乗って現実に近づけてくれたのが、コロンブスと同国人のジェノバの商人だった。実はジェノバ人は12世紀にはすでにスペイン国内で商業金融を営んでいたと言う。つまり12世紀にはジェノバの資本がスペイン(カステーリャ、アラゴン、レオン)に入っていたと言うことだ。しかも、彼らはスペインから免税や徴税権などたくさんの特権を受けていた。それもこれも実はスペインの王室も貴族も財政的に苦しく、王や貴族は自分らが持っていた諸々の特権を借金の代わりにジェノバ人に譲渡していたからなのだ。今回大きいのはジェノバの持っていた徴税権である。教会、騎士団、警察組織などの徴税権を持っていたジェノバはそれらの中から融通の利く税収入を一部コロンブスの航海の為に捻出している。コロンブス自身も個人でジェノバの銀行から借金もしている。実際問題として、大航海の為に一番必要なのは資金である。その資金を捻出できたのは、国王ではなく、ジェノバの商人だったと言う事実なのだ。だからコロンブスがジェノバの商人を味方につけた事は間違いなくこのプロジェクトの成功の鍵となった。※ コロンブスはジェノバ出身者。同国人だったと言うのが大きかったかも・・。つまり、コロンブス探検隊による「インディアスの事業」は表向き、カステーリャの王室が行った事業であったが、実際ジェノバ商人らによる経済力で実行し、成功できた。そして成功した暁には、ジェノバの商人は使ったお金以上の回収を望んでいたからコロンブスはそれに応える成果が何より先に欲しかった。コロンブスとスペイン帝国の名誉は後の話だ。それにしても商人らは本気で期待していたのか? 最初からギャンブルと思っていたのか?ちょっと気になる。ジェノバ人の報酬コロンブスが到達したのは、アジアでは無かった。そこは、インドでもなくジパング島でもなかったが、金鉱が見付けられたのはまさにラッキーだった。スペイン帝国は南米から産出された金をジェノバへの返済金? 報酬? にしている。ヴェネツィア駐在のスペイン大使の報告(1595年)1530年以後、8000万ドゥカード(ducato)の金銀がスペイン船によりアメリカ大陸から欧州に運ばれた。※ ドゥカート金貨はヴェネツィア共和国の当時の冶金技術で精製できる最高峰の純度を誇る金3.545gで純度99.47%の金貨。(8000万ドゥカートで金283.6トン?)しかし、全てがスペインのもうけになったわけではない。1530年から1595年までの間にその30% (2400万ドゥカード)がジェノバ人のものになっていたと伝えている。金鉱が見つかった時の取り分30%? それは最初の契約にあったのかも知れない。地中海交易でヴェネツィアと争って負けたジェノバは東洋の物産を諦めはしたがスペインやポルトガルの航海に投資していたので大航海時代に双方の交易に係わり利益を得ていたのだ。実際、スペインが南米に開いた植民地、また鉱山開発に初期投資し、アメリカ大陸との貿易に大きく組入っていたジェノバの商人。ヴェネツィアの商人よりも柔軟でやり手だったかもしれない。帆船の風地球を吹く風は大きく2種に分けられる。一年中ほぼ同じ方向に吹く恒常風(constant wind)と、夏と冬で風向が変動する季節風(モンスーン・monsoon)である。恒常風は大気大循環に伴い緯度帯ごとの循環で3種に分けられる。極東風(Polar easterlies)、偏西風(Westerlies)、貿易風(Trade wind)※ 北半球、南半球共に3つの帯がある。季節風(monsoon)は地域で異なる。日本では、冬季には陸から海へ北西風が、夏季には海から陸へ南東風が吹く。帆船の航海には風が重要なので、昔は船乗りの経験による勘(かん)で風を読んでいたのだろうが、外洋に出た大航海では地球規模の風の影響を受ける。恒常風と季節風を読めなければ外洋の航海は成しえなかった。まさに貿易風(赤道前後30度)はこの風を利用して帆船が海を渡ったことに由来するらしい。そもそもそれら風は地球の自転に起因する。だから北半球と南半球では、極東風、偏西風、貿易風の風向は反転している。下の図はオリジナルです。図を補足するのが下です。北極・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)極高圧帯ーーーーーー極東風(北東風)・・・・高緯度地域や極地で東側から吹く 極高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く東風亜寒帯低圧帯偏西風(南西風)・・・・30度から65度の中緯度地域で西側から吹く 亜熱帯高圧帯から亜寒帯低圧帯に向かって吹く西風亜熱帯高圧帯ーーーーー貿易風(北東風)・・30度以下の低緯度地域で吹く 亜熱帯高圧帯から熱帯収束帯に向けて吹く風熱帯収束帯赤道ーーーーーーーーー熱帯収束帯貿易風(南東風)亜熱帯高圧帯ーーーーー偏西風(北西風)亜寒帯低圧帯極東風(南東風)極高圧帯ーーーーーーー南極・・・・極渦(きょくうず・polar vortex)地球が丸い事も自転している事も知らなかったのに、経験則から風を読み、潮の流れを読み、広い海洋に繰り出し遙かかなたの大陸まで辿り付いて世界を広げた彼ら、凄すぎる。最後におまけフォールス湾シール島自然保護区(False Bay Seal Island Reserve)先に紹介したケープ半島が囲むフォールス湾(False Bay)から写真を数枚。湾に浮かぶ大きな石? 島? はケープオットセイ(Cape fur seals)のコロニーとなっている。面積は5エーカー(2ha)。64,000頭のケープオットセイが生息していてるらしい。フォールス湾の近いビーチからでも5.7 km。船で向かい遠くから撮影。接近して撮影できていないのと、デジカメの解像度が低かった時代の写真なので拡大ができません。前回、「アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス」の中、「エンリケ王子の資金源」で石鹸の製造販売権の独占と言うのを紹介した。彼は王国内での石鹸の製造と販売の独占権を持っていたのだが、その材料がオリーブ油とアザラシ油脂だったと言う。アザラシとオットセイは似ているからね。まさかここから調達? ボウルダーズ・ビーチ(Boulders Beach)は枚数が増えそうで今回入れられなかった。「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだつづくBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史 アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年04月18日
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ロシアによるウクライナ侵攻に心が痛みます。21世紀にもなって稚拙な個人的野望で国を軍隊を動かすプーチン大統領。中国の習近平氏も同じ穴の狢(むじな)。独裁制に陥りやすい共産国の政治体制って、やはり問題です。この二人に世界が握られたらヤバい以外の何ものでもない。さて、海洋越えの大航海時代は、16世紀半ばまではポルトガルとスペインの独壇場であった。16世紀後半から新興国オランダと国内統一を終えたイギリスが後に続く。オランダはスペインから独立を勝ち取るとポルトガルの勢力圏であるアジアに進出して勢力を拡大。実際日本は当初ポルトガルと交易していたが、そのポルトガルを追い出しオランダが後釜に座った。※ オランダは江戸時代が終わるまで日本と独占的商売をした。後進のイギリスがインドで成功し、同じく後進のオランダが極東の日本や南アジアで成功したが、大航海時代を考えた時、やはり称えられるのは最初の道を開いた(大航海時代を牽引した)ポルトガルとスペインのひるまぬ勇気と冒険心であったろうと思う。さて、前回は、ポルトガルによる北アフリカのセウタ(Ceuta)侵攻まで紹介。ポルトガルの海洋進出はここきっかけで始まったと考えられる。なぜなら、当初描いた図式では、ここから北アフリカの侵略を始め、同時にキリスト教を広める予定であり、かつ紅海まで広げられればインドとの独自交易も可能と期待していたからだ。ところが実際は、無防備のセウタはあっさり攻略したものの、強いイスラムの前にそれを広げるどころか、維持するのもやっとの状態であった。この戦いには多大な借金があったし、戦闘に加わった諸侯にはそれなりの報酬を与えなければならない。ポルトガルが海洋に船を出したのは欧州最西端に位置する国の宿命だったのかもしれない。ポルトガルは金食うだけのセウタから手は引きたいと苦悩しただろうが、ローマ教皇に十字軍として認定されている以上、もはや独断で退く事もできなかったはずだ。しかもローマ教皇の期待は大きかった。ローマ教皇は北アフリカに踏み出したレコンキスタ(Reconquista)を全力で応援した。戦士の補充、免罪、資金といろんな形で支援し続けた事が解っている。ところで、小国ポルトガルのだいそれた海洋進出の資金源はどこか?テンプルの遺産が舞い込んだからだと思われいるが、私は違うと思う。信心深く真面目なエンリケ王子はセウタに遺産を使ってもプライベートの海洋研究にテンプルの遺産は使う事は絶対になかったと思う。何よりエンリケ王子はプライベートでいろいろ資金源があった。公私混同はなかったと思う。今回写真はイザベル女王とコロンブスの墓所などグラナダ(Granada)とセビリア(Sevilla)から。アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスユーラシア大陸最西端 ロカ岬エンリケ王子の資金源ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)フォーティファイド・ワイン(fortified wine)奴隷売買をしたポルトガル海洋王国スペインを誕生させたコロンブスの計画スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂のイザベラの棺ポルトガルとスペインの海洋史世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)コロンブスのお墓とセビリア大聖堂コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)グラナダ(Granada)アルハンブラ宮殿(la Alhambra)アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)ユーラシア大陸最西端 ロカ岬ユーラシア大陸の最西端がポルトガル(Portugal)のロカ岬(Cabo da Roca)である。首都リスボン(Lisbon)から西へ30kmに位置する。北緯38度47分 西経9度30分ロカ岬(Cabo da Roca)の灯台前回振れたが、ポルトガルの植民地となるアゾレス諸島(Azores Islands)はこの大西洋のほぼ同緯度の西方に位置している。※ アゾレス諸島 およそ西経25度~31度 北緯37度~39.5度の間に点在ここには前回「発見のモニュメント」の所で触れたポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)の詩が刻まれた石碑が建っている。自ら航海に参加して執筆した栄光の記録「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」第3詩20節の一節。「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」難しい格言のように聞こえるが、よく考えればシンプルに「ここは(ユーラシアの)陸の端っこで、ここから先は海だよ。」と言っているわけで、加えるなら「ここから先は海の冒険物語が始まる・・。」と言う事なのだろう。ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)は最初から文人だったわけではなく、軍人としてセウタやインドのゴアにも参戦している。そして軍務終了後、マカオの士官として勤務している時にウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)の執筆にとりかかったと言う。ポルトガルへの功績(軍務と文学)、特にポルトガル文学史上最大の詩人として評価されている。エンリケ王子の資金源1415年、セウタ侵攻の翌年に(1416年)エンリケ(Henrique)王子(1394年~1460年)はセウタの防衛と補給の最高責任者に任命されている。また1420年に、テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団(Military Order of Christ)のマスターにエンリケ王子が選ばれている。ポルトガル王の推挙はあったが、これは教皇によりセウタ十字軍として正式に認定されたからこその抜擢であったと思う。セウタ防衛には戦士もお金も必要だった。これはキリスト教軍が死守するセウタの為にテンプル騎士団の遺産を使っても良い。と言う教皇裁定であったのではないか?もはやエンリケ王子はポルトガルが侵略したセウタの防衛最高責任者だけではなくなった。お金の心配こそなくなったが、セウタ防衛を使命としたキリスト教騎士団のマスターとしての重責がのしかかる。先にも書いたが、ローマ教皇はセウタ死守の為に人材を出すよう他の騎士団に働きもかけている。もはやポルトガルの一存でセウタから撤退する事など絶対に考えられない状況に追い込まれたと考えられる。ポルト(Porto)の街にあるエンリケ航海王子(Henry the Navigator)を称える像自前の写真ですが、天気が悪いのと、古い写真なので解像度か低いのです。バックはフェレイラ・ボルヘス・マーケット(Mercado Ferreira Borges)左にボルサ宮殿(Palácio da Bolsa)がある。下はウィキメディアから借りた同じ像の角度違い。 周囲を少しカットしましたAutor: Manuel de Sousaエンリケ王子はこのポルトの近くで生まれたらしい。1894年に、彫刻家トマスコスタによって、エンリケ王子の記念碑としてパリで鋳造され1900年に設置。下もウィキメディアから借りて少しバックをカットしましたPhotographer: Bob Smithテンプルの遺産をあてにしなくともエンリケ王子には別に資金源が複数存在した。本国の領地最初に与えられたヴイセウ(Viseu)公爵領のコヴィリャン(Covilhã)の領地の他、内陸に69件の物件。ベルレンガ(Berlengas)群島 (北大西洋のイベリア半島沖合)バレアレス(Balears)諸島 (最大の島がマヨルカ(Majorca)島)ヴィセウ(Viseu)公爵領は、所領では全体の3分の1の収益。ヴィセウ公爵領内でのマーケット開催権。家屋敷は各地に複数植民地区の領地マデイラ(Madeira)諸島に3島(ポルト・サント、マデイラ、デゼルタス)アゾレス(Azores)諸島カボ・ヴェルデ(Cabo Verde)諸島のサンディァゴ島木材伐採権マデイラ島の木材は重要な供給地。またテージョ川流域の王領地における木材伐採権も持つ。木材は船の材料であり、またワインや食物貯蔵の樽(たる)を造る上で重要な素材であった。石鹸の製造販売権の独占石鹸が実用化して安価になり世間に出回るのがこの頃。ポルトガルではオリーブ油と共にアザラシ油脂が使用されていた。エンリケ王子はサンタレン(Santarém)とリスボン(Lisbon)で石鹸の製造を始めるとジョアン1世から王国内での製造と販売の独占権を得た。後に全ての石鹸の輸入も禁止され完全に独占状態となる。※ この権利は死ぬまではなさなかったと言うが、この権利を街限定で家臣に分割譲渡もしている。※ アザラシは西アフリカから入手。漁業権の独占川や海における漁業権。特にマグロの漁業独占権。漁業権には国王税が10分の1。また商品譲渡税が付随する。そのうち国王税が免除された。モンテ・ゴルド海域、ベルレンガ及びバレアル海域での漁業権には免税された分の国王税10分の1を課税できた。珊瑚の採取権ポルトガル海域での珊瑚採取と加工の独占権。※ 独占の代償に国王に5分の1税と商品譲渡税は支払った。その他アルコバッサの羊毛権の取得複数の都市での市場開催権の取得ボジャドール岬の商業特権及び岬以南の航海、貿易、戦争の独占権取得。エンリケには多方面からの収益があったのだ。しかも彼は生涯独身であり、家族の為に使う事も無いから、それらを海洋航海や探検の為の資金に使ったのではないか? と推測する。甥のフェルナンドを養子にしているが財産全てを譲渡されたかは不明。亡くなる2ヶ月前に遺言の書き換えをしているが、総じてエンリケの残した財産はほぼポルトガル国に帰属したと思われる。因みに元テンプル騎士団であるキリスト騎士団の財産は1426年以降、内陸にテージョ川周辺など60カ所の不動産。土地に与えられた特権として現金、小作料の他にヴィセブ地方のワイン販売の特権。キリスト教騎士団の本部トマールのマーケット開催権。タロウカ、ボンバルのマーケット開催権があった。それにしても15世紀と言う時代に、ポルトガルでは利権のオンパレード。何をするにも権利の独占が生じているのだから驚く。エンリケは土地も沢山持っていたが、利権だけで相当に裕福でやっていけたはず。それよりも、エンリケは利権集めのマニアだったのではないか? とさえ思う。ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)ポルト(Porto)のドゥェロ川(O Douro)河口の河畔はポートワイン(Port Wine)のワイナリーが連なる。かつてワイン樽を輸送した船が係留展示されている。この対岸に、先に紹介したエンリケ像やマーケット、ボルサ宮殿がある。ドゥェロ(O Douro)川はスペインに水源を持ち、ポルトガルを横断してポルトの街に注ぐ河川。この河川の沿岸では、小麦やワイン用のブドウの栽培や羊の放牧などが行われていて、そこで採れたワインの醸造がこの河岸で行われ、出荷された事からポルトのワインは有名になった。ポルトのワインの生産は14世紀中頃、レコンキスタ後に始まっている。キリスト教ではワインは聖祭に必要な飲み物であるからだ。ポートワイン(Port Wine)は、ポルトガル語でヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)。ポルトガル特産の特殊な製法で造られる酒精強化ワインの一つである。※ ポルトガルのマデイラワイン、スペインのシェリー酒も同じ酒精強化ワインです。ポートワインの商標と品質は政府機関で厳しく管理されている。このポートワイン(Port Wine)には原産地指定DOCが付されていてこのポルトの街で醸造後、最低3年間樽の中で熟成され出荷される。ここで醸造されたワインのみポート・ワインと呼ぶ事ができるのである。現在はワイン自体はあちこちから集められている? ここで醸造され造られた所にブランドが付加されているのかもしれない。下はポートワインでポピュラーな1790年創業のサンデマン(SANDEMAN)ポートワインは日本の酒税法では甘味果実酒に分類される。それは、ポートワインは通常のワインではなく、敢えて甘く造られているからだ。フォーティファイド・ワイン(fortified wine)まだ糖分が残る発酵途中のワインに、アルコール度数77度のブランデーなど蒸留酒を加えて酵母の働きを強制的に止める事により糖度を残す製法だ。これによりアルコール度数は通常のワイン(10度~15度)よりも5度~10度上がり20度前後と高くなるが保存もきく。封をきってからも劣化が遅い。独特の甘みとコクが出る上に、長く熟成させれば芳香は増し、味わいもよりまろやかになるそうだ。それ故、ポートワインは食前酒や食後酒として利用される。チョコレートや葉巻に合うらしい。ワイン販売の特権は、エンリケ王子の権利一覧には無かったと思うが、エンリケ王子はワイン等の樽を造る木材の伐採権は持っていた。原産地指定DOCの特許もどこよれも早くからおこなっていたポルトガル。権利大好き? エンリケ王子の時にできたのかも・・。ところで、エンリケ王子の所領であるヴィセウ(Viseu)のワイン販売の独占権はキリスト教騎士団が持っていた。ワインは聖祭で使われる品なので、どこも教会の小作農園にブドウ畑はあった。それ故、ワイン自体は特別で、どこも教会の管理下に置かれていたのかもしれない。ポート・ワインの知名度が上がるのは、18世紀にポルト港からイングランドに大量に輸出された事による。イングランドは寒いから当時、ブドウの栽培はできなかったからね。※ ブドウ栽培の北限が近年の温暖化で北にシフト、1970年頃から? イギリスでもワイン用ブドウ栽培が始まった。奴隷売買をしたポルトガル奴隷と言う概念は古代ローマ時代からあったが、暗黒の中世、イスラムの海賊がはびこると、奴隷となったのはむしろキリスト教徒の方であった。エンリケ王子が西アフリカまで航海を進めると、ポルトガルはムーア人をとらえて連れ帰り奴隷としたと言う。当初は? 1348年の疫病の蔓延による人口減をカバーするべく北アフリカから集められた。そして航海技術が進むと西アフリカから金と象牙と奴隷を集めたと言う。彼らはマデイラ島のさとうきび畑などでも働かされたがアルギン島に交易所が開設されると奴隷はそこに集められた。その時、エンリケが奴隷の5分の1を確保し残りが奴隷市場で競売にかけられたと言う。奴隷売買もエンリケ王子の大きな収入源であったのだ。これはついでに集められたと言う人数ではなく、完全に商売としての市場が成立していた。たしかに最初は国内の人材不足を補うのが目的だったのかもしれないが・・。1551年、リスボンの人口は10万人。そのうち奴隷人口は5000人? 1万人? (5%から10%)彼らは家内奴隷として使役されたり家内商売で使役されていたらしい。キリスト教国が奴隷を持つのは許される事なのだろうか? 不思議な気がする。その点イスラムの場合、奴隷はイスラム教徒に改宗すれば自由人になれたはず・・。※ 征服された土地の場合は改宗すれば自由人。改宗しない場合は奴隷にされた。但しケースバイケース。最初から奴隷としてさらわれてきた女子供は奴隷として売られ終生奴隷だったかも。かつて鎖国をしていた日本は交易先をポルトガルからオランダに切り替えた。それにはいろいろい事情が存在したのだが、その一つにポルトガルが奴隷を使役する国だから。と言うのがあったと思う。ポルトガルが来航し、以来、日本人も奴隷として連れて行かれた? 売られた? と言う話しがある。鎖国時代の出島問題は以下に書いています。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)海洋王国スペインを誕生させたコロンブスの計画ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊が戦ったレパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年)時点ではすでにスペインはヴェネツィアも一目置く強い海軍力を持っていた。スペインはいったいいつから海運国になったのだ?1492年、アラゴン・カスティーリャ連合(後のスペイン帝国)はグラナダ王国を陥落させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)を完了した。スペインが本格的に海洋に目を向けるのは1492年以降なのである。前回少し触れたがコロンブスの持って来た計画のスポンサーになる事を了承したのはカスティーリャの女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)である。※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)実はコロンブスが1483年、最初に計画を持って行ったのはポルトガル王であった。ポルトガルで断られ、スペインで断られ、再度ポルトガルで断られ、4度目、グラナダ陥落で気をよくしていたスペインのイサベル1世からやっと支援をとりつけたと言う経緯があった。グラナダ市街の中心部にあるイザベラ・ラ・カトリカ広場(Plaza de Isabel la Catolica)に置かれた像イザベラ女王にひざまずき何やら説明しているコロンブス像コロンブスのプレゼンは完璧だった?コロンブスの大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見の計画案は当初誰も取り合わなかった。彼の計画はアジアに西廻りで到達しようとする無謀な考えだったからだ。何しろ地球が丸い事はまだ証明されていなかったし、何よりコロンブスは無一文で、全ての計画の資金を提供しなければならなかったからだ。計画立案から8年の間にコロンブスは支援者を見付けていた。コロンブスの出身地であるジェノバの商人とフランシスコ会の修道院長である。その頃、ポルトガルはすでに西アフリカを南下しプレステ・ジョンの国に迫ろうとしていたから、スペインの教会としては心穏やかではない。西廻りでアジアに到達して先に布教できるかもしれないと言う競争心にかられたのだろう。実際、イザベラ女王への謁見は教会の押しで決まった。また、スペインの商業金融にかかわっていたジェノバの商人は東洋の黄金を目指す同国人のコロンブスの可能性を見越してコロンブスにもお金を貸したし、金欠のスペイン国(カスティーリャ)にもその資金を融通する措置をとった。こうして援助してくれる者が増えた事で、この「インディアスの事業」は、コロンブスにとって「何が何でも成果を上げなければならない。」と言う絶対的使命に変わった。コロンブスの交渉相手をスペインとしてきたが、正確に言えばその時点ではカスティーリャ王国である。グラナダ陥落以降に世界史ではスペイン帝国と一括りにされる。スペインの方が解り易いから敢えてスペインにしたが、スペイン帝国でも、海洋に進出できたのはコロンブスと契約したカスティーリャ王国だけなのである。つまりスペイン帝国の海洋進出の事業はカスティーリャの独占で行われていたと言う事になる。ところで、イベリア半島でのレコンキスタを完了させた事でローマ教皇は大喜び。これも前回振れたが、カスティーリャ王女イザベラの夫はカスティーリャの王であると同時にアラゴン王太子フェルナンドであった。結婚してフェルデナンドはカスティーリャ王の称号を得た。カスティーリャには同時に二人の王が付いた。※ フェルナンドは王配でなく、カスティーリャの王として扱われた。ここにカスティーリャとアラゴンの連合王国ができてグラナダ陥落の偉業がなされたのだ。イスラム教徒の国を追い出した事でフェルナンド(Fernando)とイザベラ(Isabel I de Castilla)の二人はローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander VI)よりカトリック両王の称号 (the titles of the Catholic Monarchs)を授与された。スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂のイザベラの棺王室礼拝堂(Royal Chapel of Granada )障壁の向こう、祭壇前に2つのサルコファガス(モニュメントとしての石棺)が置かれている。右がイザベラ夫婦の石棺。古い写真だし、拡大のはボケてて使用不可でした。狭いのと暗いので撮影もできない。最も今は聖堂内の撮影自体ができないらしい。それぞれに夫婦のものであるが、実際の棺は地下に安置されている。イザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica)(1451年~1504年)※ カスティーリャ女王・イザベラ1世(在位:1474年~1504年)夫フェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)(Fernando el Católico)(1452年~1516年)※ カスティーリャ王・フェルナンド5世(在位:1474年~1504年) 王配ではない。※ アラゴン王(在位:1479年~1516年)娘フアナ1世(Juana I de Castilla)(1479年~1555年)※ カスティーリャ・レオン王(在位:1504年~1555年)※ アラゴン王(在位:1516年~1555年)※ 娘フアナ結婚後、美形夫の浮気性? から精神異常? 夫の死で奇っ怪な行動。以降女王ではあったが、ほぼ修道院に幽閉状態で40年。夫フェリペ1世(Felipe I)(1478年~1506年)※ 美公 ブルゴーニュ公フィリップ4世(在位:1482年~1506年)※ カスティーリャ女王フアナの王配地下納骨堂(gruft)レコンキスタを終え、カトリックの王の称号をもらった事でイザベル女王がグラナダを終の住みかとするべく、王墓として建立した礼拝堂である。1504年礎石が置かれ、1521年に完成したが、イザベラもフェルナンドも完成を見る事はなかった。ポルトガルとスペインの海洋史1419年 ポルトガル エンリケの部下、ポルト・サント島に到達。1420年 ポルトガル マデイラ(Madeira)諸島の再発見。1427年 ディオゴ・デ・シルヴェス(Diogo de Silves) アゾレス(Azores)諸島サンタマリア島に到達。1434年 ポルトガル ジル・イアネス(Gil Eanes) ボジャドール岬(Cape Bojador)を迂回してカナリア諸島(Canarias Island)のテネリフェ(Tenerife)島に到達。1443年 ポルトガル ヌノ・トリスタン(Nuno Tristan)船長 モーリタニア西岸でアルギン (Arguim)島到達。そして1444年、セネガル川発見。1445年 ポルトガル アルヴェロ・フェルナンデス(Alvero Fernández)ギニアに到達。 アルギン (Arguim)要塞の建築開始。ブランコ岬に最初の占領標識を建てる。1452年 ポルトガル ディオゴ・デ・ティベ、アゾレス(Azores)諸島フローレス島とコルヴォ島発見。1456年 ポルトガル エンリケが派遣したヴェネツィアのアルヴィーゼ・ダ・カダモスト(Alvide da Ca' da Mosto)、ガンビア川を遡上。ギニア探検とマデイラ諸島の航海探検。カーボ・ヴェルデ(Cabo Verde)諸島に到達。前回ラストに載せたエンリケ航海王子の調査隊により発見された航路図を再び参考に1460年 エンリケ王子死去。1482年 ポルトガル ディオゴ・カン(Diogo Cão)コンゴ川河口に到達。1488年 ポルトガル バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)喜望峰に到達。最終的にポルトガルがたどるコース1492年、グラナダ王国を陥落させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)完了。スペイン始動。1492年~1493年 スペイン コロンブスの第一回航海。探検開始から新大陸発見。 8月3日、バロス港 出航。 9月6日、カナリア諸島のゴメス島出航。大西洋横断の航海。 37日間で大西洋を横断している。コロンブスの計算通りだったらしい。 10月13日、サンサルバドル島到達。 12月 6日、エスパニョラ島到達。ここに金山があった事からここがジバンゴ島(日本)だと信じた。 キューバ発見。これは中国と理解した。 ~1493年当時の探検家のバイブルは、マルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の東見聞録(Il Milione)だったらしい 間違ってはいたが、結果的にコロンブスは黄金を見つけ、その富をスペインにもたらした。※ 東方見聞論とマルコポーロについては以下に書いています。リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパングスペインによる新たな大陸の発見をローマ教皇は喜んだ。キリスト教をもっと広められると思ったのだろうと推察する。1493年 ローマ教皇により教皇子午線(Inter caetera)が設定される。※ 次の項で説明するがポルトガルは教皇子午線に異議を申し立てた。1494年 スペインとポルトガル間でトルデシリャス条約が締結。※ 新たな子午線が敷かれた。1493年~1496年 スペイン コロンブス2度目の航海1497年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)リスボン出航。1498年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えモザンビーク海峡を通過 5月インド洋を通過してインドへ。インド洋航路発見1498年~1500年 スペイン コロンブスの3度目の航海1499年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ、アフリカ東岸まで戻り南下。帰路に就く 7月リスボンに帰着コロンブスの航海ルートウィキメディアから借りた図に数字を加えました。1492年~1504年の間にコロンブスは4回アメリカ大陸に行っている。付随してスペインによる南米の征服と植民地化が急速に始まった。コロンブスは意外にもあっさりとアメリカ大陸(南米)に到達したのでスタートは遅れたが、スペインの海外進出は成功。その時点でポルトガルをあっさり追い抜いていた。コロンブスが航行した距離も最短で4ヶ月である。合理的に大西洋を横断しているので距離も短い。一方ポルトガルの方はそもそもアフリカ南端まで向かうのにそれだけでも地球を縦に3分の2くらいの距離がある上、さらにアフリカ大陸を北上してインド洋まで到達為なければならない。気が遠くなりそうな距離だ。距離や航海の難易度から言えばポルトガルの方が大変なのだが、結果は収益であるから、南米に金や銀を見付けて、広大な植民地を得たスペインの方が賢く勝ったかもしれない。それにしても、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰にもすんなり行けていない。大西洋上のセントヘレナ島まで流されるなど、そのままアメリカに行った方が良かったのでは? 航行に無駄が多すぎる。赤道一周分以上の航行をしているらしい。また、ヴァスコ・ダ・ガマは無礼なのか? 非礼なのか? 食糧や水の補給でも常に現地でもめてトラブル続き。そもそも人選ミスだったのではないか? とさえ思う世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約先に触れたが、コロンブスの新大陸到達の知らせを受けて、1493年ローマ教皇は教皇子午線(Inter caetera)をひいて、ポルトガルとスペインの領土エリアをかってに決めた。1493年の教皇子午線は、アゾレス(Azores)諸島、最西部にある★フローレス島 (Flores)とコルヴォ島 (Corvo)がライン上にひっかかっている。これにポルトガルは異議を申し立てた?翌1494年に新たにトルデシリャス条約がスペインとポルトガル間で締結され、ラインは少し西にずれた。トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)ポルトガル語: Tratado de Tordesilhasスペイン語: Tratado de Tordesillas)ポルトガルとスペイン(カスティーリャ連合王国)の間で世界を分割した条約が1494年のトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)である。※ スペインのトルデシリャスで署名され、ポルトガルのセトゥーバルで承認。トルデシリャス条約では西経46度37分(ほぼ子午線に沿った線)を基準として※ 北米側大西洋のほぼ真ん中を経度で分断東側の新領土がポルトガル西側の新領土がスペインアフリカ南端を回って東に進路をとったポルトガル。→インド・アジア方面へ大西洋を越えて西に進路を取ったスペイン。→南米東海岸。やがてはマゼラン海峡(Strait of Magellan)を越えて太平洋に出る。この条約は大航海を成し世界を侵略の範疇とした新たな2大海洋国家スペインとポルトガルの領土の取り合いを基準を持って制限分割したものである。※ 新たな土地とは非キリスト教徒の土地。両国はこれを遵守したが、そもそもこの条約は2国の独断によるもので世界の国が認めたわけではない。サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)また、地球は丸かったので後に世界の裏側問題が起きる。1529年サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)によって裏側にも分断線が引かれた。およそ東経143度のラインである。因みに、日本領土(東経122度~154度)はそのライン上にある。本州以下はポルトガルだが、東経143度の北海道はスペイン領となった。尚、両線は明確に2等分されていない。ポルトガル分の方が180度を上回っている。コロンブスのお墓とセビリア大聖堂コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)1492年~1493年のコロンブスによる新大陸の発見航海。これがセビリア(Sevilla)の街を豊かにした。もともと西ゴート王国(Regnum Visigothorum)(415年~711年)の首都だった街。1503年、イザベラ1世は新大陸アメリカとの交易活動を増進調整する為にセビリアにインディオ通商院(Casa de la Contratacion)を設立。この組織は新大陸との交易、航海を監督し航海士の育成や海図の製作に当たった。この優位な独占的通商は1717年まで続きセビリアに恩恵を与えたが、 グアダルキビール川(Guadalquivir)に砂州がたまり船の航行に不便が生じた事からインディオ通商院(Casa de la Contratacion)は大西洋岸の港湾都市カディス (Cádiz)に移転した。移転はスペイン継承戦で勝利したフェリペ5世(Felipe V)(1683年~1746年)(在位:1700年~1724年)(1724年~1746年)の即位とも関係していると思われる。彼はスペイン本国と新大陸アメリカ間の貿易をより推進した政策をとっている。セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)左が後陣側で右が聖堂側世界で3番目に大きい聖堂である。全景は撮影できない。もともとイスラムのモスクが建っていた場所を王家の礼拝堂として転用していた。カトリック教会の建築が決定されたのは1401年7月です。1403年にアロンソ・デ・エヘア大司教が最初の礎石を積んで工事は開始された。モスクの取り壊しが始まった時、参事会は後世の人が度肝を抜く大聖堂の建立を誓ったらしい。この建築では1506年に一度は完成したらしいが、セビリアは地震が多かったらしくその度に再建されている。ところで、イスラムの建築は壊れずに残り、カトリックの建築で建てられた部分は壊れたと言う。丈夫に作られていたからなのか解らないが、イスラム時代のミナレット(ヒラルダの塔)は鐘楼としてそのまま転用され今に残る。※ ミナレット頭頂部は地震で崩壊して再建されている。またオレンジの中庭(Patio de los Naranjos)パティオもそのまま残されパティオの北側回廊に免罪の門が置かれている。下は聖堂裏側とヒラルダの塔(La Giralda)ヒラルダの塔(La Giralda)はイスラム時代の1184年着工。完成は1198年。キリスト教下では鐘楼として利用された。現在も上れます。そもそもヒラルダはヒラール(Girar)「回転する」から由来。女神像は文字どおり回転する風見鶏となっている。が、これで風向を観ていた訳ではない。キリスト教では魔除けや信仰に向かう強さも示されているらしい。ヒラルダの塔から見た大聖堂の屋根と左向こうがアルカサル。聖堂内部障壁いたる所に垣間見られるプラテレスコ様式(Plateresque)と呼ばれる細かい文様の装飾。スペイン語で「Plateresque」は「銀細工職人のように」の意味を持つ。イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)後から急速に広まったこの様式はキリスト教徒に改宗したイスラムの職人を抱えたイベリア半島ならではの独特な融合文化として生まれた様式だ。つまりキリスト教の建築様式にイスラム職人の技術が融合された特異なスペインの建築スタイルなのである。15世紀後半のゴシック後期からルネサンス初期にかけての2世紀間にスペインで生まれ流行。それは当時スペインの支配下にあった新大陸のメキシコなどにも影響が残る。下はコロンブスの棺。その背景の装飾文様がまさにそう。聖堂が広いから小さくみえるが、通常の人より大きい像が棺をかつぐ姿の造形だ。実はコロンブスの初めての大航海の出陣式をこのセビーリャ大聖堂でおこなっている。でもここから船でグアダルキビール川(Guadalquivir)を下ったわけではなく、その河口の街でもない。実際の船の出航は8月3日、リオ・ティント川河口のパロス(Palos)港なのである。それはコロンブスは1490年から2年間、パロスの港に近いラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)に客人として滞在していた縁があったからだと思われる。ところで、コロンブスを押したラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)はフランチェスコ会に属していた。だからスペインでは多くのフランチェスコ会の宣教師が新大陸の布教の為に海を渡った。※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)スペイン帝国(カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国)を象徴する4人の王が棺をかつぐ姿のモニュメント。1492年4月17日、イザベルは正式にコロンブスと契約した。内容は、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1の獲得。しかし、航海士としての感はあったが統治能力には欠けていた。今なら大犯罪。インディオらに殺戮の限りを尽くし金を供出させるなど統治とは言い難い酷い有様だったらしい。まかせていた弟の統治もロクデモ無く内部反乱が起きていた事もあり1500年には全ての地位が剥奪されている。だから第4回航海の頃はすでに期待もされていなかった? 与えられたのは小さな船4隻。イザベラ女王が亡くなると尚更、誰も相手にしなくなったと言う。コロンブスは以下に書いています。リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所) 1506年5月20日スペインのカスティーリャ・イ・レオン州のバリャドリッド(Valladolid )で逝去。遺骨は当初セビリアの修道院に納められたが1542年にドミニカ共和国のサントドミンゴ(Santo Domingo)の大聖堂に移動。1898年、イスパニョーラ島がフランス領になったのを機にフランスと返還交渉。彼は再び、スペインに戻りセビリアの大聖堂に収まったと言うわけだ。※ 現在イスパニョーラ島(Ispayola)西側3分の1がハイチ、東側3分の2をドミニカ共和国が統治。南米での話しは次回入れる予定。おまけにグラナダを少し入れました。グラナダ(Granada)グラナダに向かうハイウェイオリーブ畑が続く道。オリーブオイルの生産量世界一と言われるスペイン。なかでもグラナダやコルドバと北のハエンの南アンダルシア地方は、スペインのオリーブ生産量の75%を占める一大産地。かなたに連なるシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)山脈。イベリア半島南東部スペインのアンダルシア州グラナダ県とアルメリア県にまたがる山脈。雪の山の意を持つシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)は一年を通して万年雪が残る。最標高3478.6mのムラセン(Mulhacén)山はグラナダに属している。スキー場として有名で、山麓のグラナダはスキー客が宿泊で利用する。みんながアンダルシアの観光に来るわけではない。アルハンブラ宮殿(la Alhambra)グラナダ(Granada)はシェラネバタ(Sierra Nevada)山脈の北西に位置。3つの丘、アルバイシン(Albaicin)、サクロモンテ(Sacromonte)、アルハンブラ(Alhambra)の上に広がっている。とりわけ、歴史を語るアルハンブラ宮殿(la Alhambra)はグラナダ最大の観光名所であるのは言う間でもない。アルハンブラはイベリア半島に最後まであったイスラムのグラナダ王国ナスル朝の造った城塞型の美しい宮殿。ヘネラリフェ(Generalife)からのアルハンブラ宮殿パルタル庭園実はイスラム教徒の国ではあるが、イベリア半島に在りながら、カステーリャ王国の臣下と言う立場をとり外交政策でうまくやっていた。第4代ナスル朝グラナダ王国の君主ナスル(Nasr) (1287年~1322年)(在位:1309年~1314年)はカスティーリャのフェルナンド4世(Fernando IV)(1285年~1312年)と平和条約を締結その為に征服事業にも軍を派遣したと言う。だから小国ではありながら、訪れた平和によりアンダルシア各地から手工業者や知識人が集りグラナダ王国は割と長く繁栄、素晴らしい文化遺産を残したのであるナスルの時代にアルハンブラ宮殿 (la Alhambra)のアブル=ジュユーシュの塔の建設をする。14世紀後半第8代ムハンマド5世(Muhammad V )(1339年~1391年)の治世下で、ナスル朝はその時最盛期を迎えている。ムハンマド5世は、ライオンの中庭とメクサールの宮殿、またはクアルトドラドでアルハンブラ宮殿を完成させている。ライオンのパティオコマレス宮 アラヤネスのパティオメスアール宮のパティオ丘の下からのアルハンブラ宮殿アルハンブラ宮からの眺望アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)アルバイシン(Albaicin)の丘に敷かれた城壁をピンクでラインしました。14世紀、ナスル(Nazarí)朝のスルタンユースフ1世(Sultan Yusuf I)の命令により建築されたアルバイシン(Albayazcin)のナスル朝の壁の北壁壁の頭頂にあるのはサンミゲルアルト(San Miguel Alto)教会アルハンブラからの撮影なので向こう側がキリスト教圏かな?強固な城壁で鉄壁な守備をしていた?陥落したのはナスル朝内部の内紛にキリスト教軍は乗じたからのよう。絵のタイトルは グラナダの降伏(rendición de granada)Francisco Pradilla y Ortiz (1848年~1921年)1492年、イベリア半島に残った最後のイスラムの国、グラナダ王国ナスル朝がカスティーリャ王国に降伏している図のようだ。この絵画の原本は王室礼拝堂(Capilla Real)にあった。描かれたのは近年だけどね。「アジアと欧州を結ぶ交易路 17」につづく3回目のワクチンを打ちぐったりしていました。いつもの事ですが、後から修正あると思います。昔クイズ形式でのせたものにタイトルを付け再度紹介。結構貴重な資料かもしれないので是非見てください。1~4作まであります。リンク パンチボール(Punchbowl) 1Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人 アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年03月24日
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ラストにBack numberを追加しました。やっと大航海時代に突入です。当初、ここが2回目くらいの予定でしたなんだかんだと深く掘りおこし過ぎた感もありますが、歴史は繋がっているので過去から段階的にやってきて良かったかも知れません。私達が習ってきた世界史はポイントだけ。繋ぎの歴史が無いからいきなり展開? いきなりその部分だけをクローズアップしても本当の意味は解らないと言う事がよく解ったからね。さて、大航海の時代に入る前に過去ログを少しおさらいしつつ、大航海時代の道筋を簡略に説明。「アジアと欧州を結ぶ交易路 」リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ローマ帝国が衰退し、パレスチナや北アフリカがイスラムの勢力に塗りつぶされて行くと、もはやローマ帝国時代の地中海を中心とした華やかな交易は消滅していた。しかも穏やかであった地中海もイスラムの海賊の狩り場となり地中海の島々ばかりか、フランスやイタリア南岸のキリスト教徒らの街は襲われ、人はさらわれ奴隷にされた。激しく治安が悪くなった時代が数世紀。「暗黒の中世」と呼ばれる時代が到来する。8世紀頃になると、自国の商船を守りながら護衛をして地中海交易に乗り出す港湾都市がイタリア半島から複数誕生する。それが「海洋共和国(Marine Republics)」である。海洋共和国は11世に始まった十字軍遠征の恩恵を受けてどこも最盛期を迎える。聖地やパレスチナの十字軍国家に物資を運ぶと共に巡礼者を運んだからだ。だが、十字軍特需による恩恵は聖地が再びイスラムの元に包囲されると一気に失われた。彼らは時にイスラム商人とも取引したし、パレスチナや黒海の向こうから来る東洋の物産を仕入れては欧州に運んだ。そんな海洋共和国の中でも長きに渡り生き残ったのがジェノバとヴェネツィアである。特に両者の海運力は抜きん出ていた。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」でも書いているが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国の帝都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落すると西側の交易事情は大きく変わった。ボスフォラス海峡がイスラム支配圏になると以前のように通れなくなり黒海に入れ無いと言う事はシルクロードで運ばれる東洋の物産も手に入らなくなる・・と言う事だからだ。※ シルクロードで運ばれた荷は黒海南岸の街で船に乗った。西側諸国にとってコンスタンティノポリスを経由しない新たなルート開拓が急務となった。もちろんイスラムと取引した海洋共和国はあったが、結果論として、東洋を繋ぐ唯一のルートが閉ざされた事は大航海時代を迎える要因の一つとなったのは間違いない。同時にアドリア海の交易不振は急速に進んだのだろうと思われる。その頃はパレスチナから北アフリカは完全にイスラム支配下にあり、地中海でさえ、イスラムの海賊が闊歩して安心して航海できない現実があったからだ。ただ、海洋共和国ヴェネツィアだけはイスラムと取引。かつジェノバを負かし、東地中海交易を独占する事になる。※ レパントの海戦ではイスラムと戦ったヴェネツィアであるが海戦後(1573年)に再びイスラムと取引して交易を続けた。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ヴェネツィアの船は最後まで東地中海交易に特化。1380年、キオッジャの戦い(Battaglia di Chioggia)に負けたジェノバは1381年のトリノ講和会議で完全に利権を失ったから、結果、東洋貿易においては、最終的に黒海の制海権を全てヴェネツィアが独占する。他方、ジェノバは生き残りをかけて新たな道を模索せざるおえなくなった。そもそもヴェネツィアは交易による関税が主な収益であったから貿易一筋的な所があった。対してジェノバは当初からローマ教皇の為に働き、見返りに利権を受けたり植民都市を得て利益をあげていた。※ イスラムの勢力拡大と共にたくさんあったジェノバの植民都市も次々失われていた。地中海での交易の限界? 負けたジェノバは地中海交易に見切りを付け新たな商機を求め外洋に絶えられる船を造作して北海への航路を開拓。ジェノバはジブラルタル海峡(Strait of Gibraltar)を越えて北にルートを取りハンザ同盟で栄えていたフランドルのブルージュへ定期航路を持つ。売れ筋の高額商品であるフランドルのタペストリーはポルトガル王女の嫁ぎ先の品だ。ポルトガルはそれらを独占して仕入れていたのでポルトガルとジェノバの関係は深くなる。多くのイタリア人がポルトガルの港に移住してきたそうだ。以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中でヴェネツィアに地中海交易を取られた後のジェノバを紹介している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊そこでは西への商路拡大と共に神聖ローマ皇帝カール5世(1500年~1558年)のガレー船を請け負ったり、スペインと同盟を結んだ事など紹介しているが、それ以前の14世紀以来、ジェノバはポルトガルの海洋進出にも力を貸していたのである。つまり、ジェノバは海運国としてのノウハウを輸出。また資金の貸し付け業もしていた。海運国なので当然造船技術はある。ヴェネツィアもたくさん船を造って売っていたが、ジェノバは造船だけでなく、航海士の育成の為の学校もあり、船も人(航海士)も航海技術も、また精度の高い海図なども早くから輸出していた。1317年にはポルトガル王はジェノバの商人をリクルートして商売や海運を学ぶと、その100年後には有数の海運国にのし上げている。ポルトガルが海洋国家になる一歩は間違いなくジェノバのおかげであった。今回写真はポルトガル関連、セウタ(Ceuta)が多めです。かつてポルトガルのエンリケ王子が侵攻して得た北アフリカのセウタは、ある意味大航海時代を迎える要因の一つになったのではないか? セウタ侵攻の意味も含めてエンリケ王子の紹介をします。ところで、セウタは現在スペインの所領になっています。アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル大航海の前章発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos) ベレンの塔(Tower of Belém)ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺インド航路発見のの探検隊イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)海洋王国ポルトガルの誕生長子制度と3つの騎士団ポルトガルの海外進出、セウタ(Ceuta)征服モンテハチョの要塞(The Fortress of Mount Hacho)セウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta)セウタ十字軍? サンフェリペ壕(Moat of San Felipe)大西洋上の船舶寄港地と植民地大航海の前章地中海を出て大海洋へ乗り出した大航海の時代、表の主役は一気に変わる。海図を書き換え地球が丸かった事を証明したのはジェノバでもベネツィアでもなくポルトガルとスペインなのである。新たな海洋国家の出現による海洋交易の主役の変更はイベリア半島で起きていたレコンキスタ(Reconquista)に大きく関係していた。(後で詳しく紹介)ポルトガルは先に紹介したよう1400年初頭にはすでに海運国となっていたが、これもレコンキスタと無縁ではない。アラゴン・カステーリャ連合(後のスペイン帝国)はイベリアに残っていた最後のイスラムの国(グラナダ王国)を陥落した。その1492年以降、本格的に海事に参戦する事になる。コロンブスにGo sign を出したのはカスティーリャの女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)だったのである。コロンブスおかげでスペイン帝国(カステーリャ王国)は新たな海洋国として仲間入りする。※ イサベル1世の夫はアラゴン王でありカスティーリャ王でもある。※ 世界史では、1492年のグラナダ王国陥落以降をスペイン帝国と呼ぶ。スペイン帝国は西に航路をとり大西洋を横断した。コロンブスの功績でスペインは新地を発見し、スペイン帝国は多くの植民地と富を手にする事になる。「太陽の沈まない国」と形容されるほどに・・。但し、スペイン帝国と言えど、海運はカステーリャ王国が独占したし、資金は借りていたので全ての利益を手にしたわけではなかった事も判明。(後で詳しく紹介)ポルトガルは中東の市場の豊かさを知り、アフリカを南下するルートからインド洋を目指した。イスラム商人を介さず、何とか直接仕入れができないか? 北アフリカの探検隊も出している。当然、船も変った。海洋を越える長距離の航行できる船体の開発が必要不可欠だったからだ。とりわけエンリケ航海王子の貢献は大きい。ポルトガル南部のザグレスに航海学校を設立。そこでは船の造作、航路の開拓から海図の作成もしたし、天文台を置いて星の観測も余念なくした。実際に船を出して、少しずつ航海図を書き足して道を開いたボルトガル。エンリケ王子が求めなければできなかった事だ。エンリケ王子がなぜ海洋越えをめざしたのか?そこにも複数の理由が存在するが、大きくはポルトガルと言う国の立地からの領有地の拡大と収益問題につきるだろう。それは1415年、セウタ(Ceuta)攻略の根底にもある。北アフリカを押さえ、インドとの交易につなげる事が最大の目的であった。セウタ侵攻には北アフリカのレコンキスタと言う側面も確かにあった。だが、セウタ侵攻に経費がかかった上にそれ以上広げられなかったし、維持費もかかった。諸侯に与える報酬も無しではすまされない。そして、1434年、ポルトガルがボジャドール岬(Cape Bojador)を越えた時、道は開けた。カナリア諸島ついでにマデーラ諸島とアソーレス諸島を発見しポルトガルは植民地を得た。※ カナリア諸島の利権は当初は個人。後にスペインが参入。(1479年最終決着)ポルトガルは海を越えて領地を求め続けたのである。むろん、そこには未知に対する多大な好奇心もあったであろう。伝説ではボジャドール岬より先に世界は無いはずであったから、船乗りにとって越えられない壁であった。ボジャドール岬越えの衝撃は、大航海時代の本格的スタートとなる。※ ボジャドール岬はカナリア諸島南東240km現在の西サハラ海岸にある。それまで、地球が球体で在ることを皆知らなかった。ボジャドール岬を越えた船はどこまでも進み新地を見付けた。※ ポルトガルは1488年にはアフリカ大陸南端の喜望峰まで到達する。1494年、トルデシリャス条約が締結される。これから獲得するであろう西の領土をスペインが、東の領土をポルトガルが得る事を教皇が認めた裁定だ。地球が丸い事が解ると、裏側にも協定線ができた。(サラゴサ条約)先住民がそこにいようと、世界の未発見の土地は、先に見付けた国が権利を有するとローマ教皇が裁定したから、我先にと大航海の競争が始まったのである。ポルトガル、リスボン、ベレン地区発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos) 東側キャラベル船の船首をモチーフにした大航海時代を記念したモニュメントで1940年にポルトガルで開催された国際博覧会の為に制作された。高さ52m。その後1960年にエンリケ航海王子没後500年の記念の時にコンクリートで造り直しされている。モニュメントの東側先端に立つのがエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)(1394年~1460年)。手には大航海の為に制作されたカラベル船(Caravel)の模型を持っている。※ カラベル船はポルトガルとスペインの探検家らに愛用された船。次がアルフォンソ5世(Afonso V)(1432年~1481年)その次がヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)騎士がいて、その次にブラジル発見者、その次がマゼランらしい。モニュメント西側探検家、芸術家、科学者、地図制作者、宣教師などモニュメントは西側と東側合わせて30人。左から兄ペドロ(Pedro de Portugal)(1392年~1449年)エンリケの母でジョアン1世の妃フィリパ(Philippa of Lancaste)(1359年~1415年)右の巻物を持っているのがルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)。作家で航海に同行して「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」を執筆。それはポルトガルの大航海における栄光の記録を叙事詩で壮大に描いた作品らしい。発見のモニュメントは後ろから見ると十字になっていて、さらに十字架がデザインされている。これは騎士団の意味があるらしい。そう言えばエンリケ王子はキリスト教騎士団(前身はテンプル騎士団)のマスターであった。モニュメントの手前、モザイクで描かれた方位図中心の世界地図に各地の発見年号が記されている。上空からの撮影なのでウィキメディアから借りました。ベレンの塔(Tower of Belém)サン・ヴィセンテ(San Vicente)が正式名称で、リスボンの守護神の名前らしい。もともとエンリケの時代には川の中にあったと言うサン・ヴィセンテ(San Vicente)要塞。テージョ川を航行する船の検問を行っていた。1515年~1521年にかけてヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)のインド航路発見(1498年)を記念してポルトガル王マヌエル1世(Manuel )(1469年~1521年)により再建されたものである。※ ヴァスコ・ダ・ガマは、ここから航海に出た。とは言え、当時リスボンの港には海賊が多発していて、リスボン防衛とテージョ川に出入りする船の監視が目的での再建であったから、全てのコーナーに守備の塔や砲台が備えられている。五層式の建物で、3~5階は王族の居室。東洋からの帰国船の謁見にも使われた。塔の下は塩の満ち引きを利用した水牢(すいろう)になっていたと言う。1983年に「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔」合わせてユネスコの世界文化遺産に登録されている。共にマヌエル様式(Manueline style)と言われる装飾の用いられた特徴的建築故と思われる。ポルトガルでの後期ゴシックに入るようだが、航海事業の拡大による文化の影響か? 非常に多文化の要素が組み込まれた特殊性はマヌエル王の時代の特徴らしい。レコンキスタ後のスペインやポルトガルでは残留イスラム教徒(ムデハル)らの職人によるイスラム的な建築様式が生まれている。それにさらに複数の要素が組み込まれたもの?ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)ポルトガルの大航海時代の最盛期の王マヌエル1世(Manuel I)(1469年~1521年)によって着工(1502年)された。こちらはエンリケ航海王子の偉業を称えての建立らしいが、こちらも建築資金もまたバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が道を開いたインド航路によりもたらされた富が活用されている。発見のモニュメントの所から撮影した写真。全景を入れるのは遠くないと無理。中央から左が修道院の回廊で、現在は国立考古学博物館になっている。塔は教会の尖塔で、そこから右が修道院付属? のサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)である。下の写真はウィキメディァからかりました。手前が教会。ジェロニモス修道院に隣接するサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)こちらもマヌエル様式と呼ばれる特徴的な装飾が見所。大部分は1511年にできていてたものの王の逝去など時世もあり、最終的に完成するまで300年かかったと言う。不思議なゴシック。独特な柱。正確にはジェロニモス修道院に隣接するサンタマリア・デ・ベレン教会(Igreja de Santa Maria de Belém)です。バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の石棺ここにはバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)の石棺が置かれている。石棺は棺を納めるサルコファガス(sarcophagus)。つまり外容器。彼はインドで亡くなり、ポルトガルに戻りヴィディゲイラ(Vidigueira)で一度埋葬され、後にジェロニモス修道院に移動されたと言う。写りの良い方の石棺の写真にオーブ(orb)が現れていたのでこちらにしました。王族や貴族にしか与えられないドン(Dom)の称号と年金を与えられた。つまりポルトガル貴族の仲間入りである。ポルトガル領インドの副王及び、航海士ヴァスコ・ダ・ガマの肖像ウィキメディアより借りてきました。第一回航海の後、シネスの土地(town of Sines)を王より与えられたが、これには問題が起きた。ヴァスコ・ダ・ガマはサンティアゴ騎士団の1人であったが、シネス(Sines)がサンティアゴ騎士団の領地であった事からもめたらしい。その為にキリスト騎士団に移籍? 1519年にはヴィディゲイラとフラデスの町が与えられ、今度はヴィディゲイラ伯爵の称号を与えられた。1497年、リスボン港からヴァスコ・ダ・ガマ、インドへ出発 の絵画 ウィキメディアから借りました。画家 Roque Gameiro(1864年~1935年) 1900年画リスボンのまさにベレンの塔の辺りから乗船し、出発した。すでにジョアン2世は亡くなりりマヌエル王が次代を継いでいた。反対派も多い中、インド航路開拓のGo Signをマヌエル王(1469年~1521年)は決断。これは国が立案しての計画。ヴァスコ・ダ・ガマ(1460年頃~1524年)には4隻の船と170名の乗員が与えられた。ヴァスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル(San Gabriel) 船は178tのキャラック(Carrack)船。全長27 m、幅8.5 m、喫水2.3 m、帆372 m新造されたキャラック船(Carrack)2隻にはヴァスコ・ダ・ガマと彼の兄が乗り、少し小さいキャラベル船(Caravel)と補給船の4隻。(帰還したのは2隻55名)小国ポルトガルには分不相応の大冒険を国家が特に王が推進しての出航であった。ところで、経験豊富な航海士候補が複数いる中で、なぜヴァスコ・ダ・ガマ兄弟に決定したのか? は不明。ヴァスコ・ダ・ガマ第1回航路ウィキメディアより借りてきました。(Indiaは足しました)喜望峰に到達するまでに、ヴァスコ・ダ・ガマは大西洋のセントヘレナ島まで流されている。無駄に航行しているのでその距離は赤道の距離(40,075km)より長かったそうだ。※ 南アフリカのモッセルベイ(Mossel Bay)で補給船? が沈没している。インド航路発見の為の探検隊ところで、中東からもたらされる香油や、アジア方面からもたらされる香辛料の生産地を西側の人間は知らなかった。それはアラブ人が秘密にしていたからだ。いわゆる東洋貿易がヴェネツィアの独占となり、アラブ人から仕入れるにしても値段は非常に高かったから、産地が解れば直接出向いて取引したいと思うのは最もな話し。ポルトガル王ジョアン2世(João II)(1455年~1495年)は中東に探りの探検隊を出していた。地中海からロードス島経由でアレクサンドリアへ、コビリャン(Covilhã)(1450年頃~1525年頃)とアフォンソ・デ・パイパの2つの隊。目的はアラブ人が仕入れているインドの香辛料の市場の特定? そして当時話題になっていた異国のどこかにいるキリスト教徒の王(プレスター・ジョン・ Prester John)を捜す事。また、船でアフリカ大陸を南下して進むコースの探検にはバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais)(1450年頃~1500年)を向かわせた。彼は1488年、ヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達。これもまたインド航路開拓の1つとなった。因みにディアスは遭難して偶然発見した経緯から「嵐の岬」 と報告したらしい。喜望峰と命名されたのは、これから先に可能性が秘められていると言う希望?とか喜びかららしい。1488年、コビリャン(Covilhã)(1450年頃~1525年頃)は船でさらにインドのカナールへ。パイパはエチオピア方面に向かうが、途中で客死。コビリャンはインド南のマラバール海岸(Malabar Coast)でムスリムの動向を1年程観察。彼らは2月にモンスーンを利用してペルシャ湾や紅海に船を出している事を知る。またアフリカからインドへ渡る航路があるかを調査し、報告書を送っている。コビリャンのこうした調査がインド航路の発見、すなわち航行可能な海図が描かれ、バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の実際のインド航路発見に繋がるのである。因みにコビリャンは紅海からカイロに戻った所でパイパの死亡を聞く。パイパの代わりか? 彼もまたエチオピアへ向かう。それはジョアン2世からの指令で今度はプレスター・ジョンを捜す事にあった。コビリャンはムスリムに変装して旅を続け、エチオピアでコプト教会を発見。そこが伝説のキリストの王の国か?コビリャンはそこの王に気に入られ? 帰国を許されず30年そこで過ごし亡くなった。イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)ポルトガルやスぺイン帝国が海洋の先に目を向けたのはイベリア半島内でのレコンキスタが完了し、イスラムとの戦いが終結した事に起因する。レコンキスタ(Reconquista)とは何か? の解説を入れましたイベリア半島を西ゴート王国(Regnum Visigothorum)(415年~711年)が支配していた時代、レカレド1世(RecaredoⅠ)(559年頃?~ 601年)(在位:586年~601年)王の時にキリスト教国となった。(589年)が、711年にイスラムのウマイヤ朝がイベリア半島を侵略し、西ゴート王国は滅亡する。この時、イベリア半島はイスラムの勢力下に置かれた。以降、イベリア半島をキリスト教の地に取り戻すべく戦いが始まる。キリスト教徒による再征服活動(戦い) がレコンキスタ(Reconquista)である。北に逃れた西ゴート王国の貴族Pelayoがイベリア半島北部にアストゥリアス王国(Reinu d'Asturie)(718年~910年)を建国して抵抗をみせた。キリスト教徒による奪還の為の抵抗戦、レコンキスタ(Reconquista)はこの時を開始とするらしい。※ アストゥリアス王国は、後に国名をレオン王国(Reino de León)(910年~1252年)に改名。終わりは? 再征服するまでを指すので、それはグラナダ(Granada)王国陥落。ナスル朝の滅亡1492年までのスパンが該当とされる。イベリア半島をオセロに例えてみよう。キリスト教徒を白、イスラム教徒を黒とする。キリスト教国、西ゴート王国の滅亡した時点で9割は黒になった。そこから再征服活動は開始。グラナダ陥落は最後の黒のピースを白に変えた戦いである。イベリア半島を完全に白(キリスト教)の国に戻してレコンキスタは完了する。但し、このキリスト教国は1国ではない。グラナダ攻略でスペインはポルトガルの介入を許さなかった。だからポルトガルはジブラルタル海峡を押さえる意味もあり北アフリカのセウタを攻略した。※ 北アフリカはまだイスラム教徒の世界。レコンキスタを北アフリカに広げたと解釈もできる。因みに、レコンキスタの過程では、フランク王国のカール大帝も参戦している。フランク軍は地中海側からも侵攻し801年にはバルセロナを攻略。865年、フランクはバルセロナ伯を置いて、カタルーニャを統治。欧州の中からイスラムを追い出す事はキリスト教徒全員の願いであった。以前ブルゴスの所でカスティーリャ 王国の騎士でレコンキスタの英勇エル・シド(El Cid)(1045年?~1099年)を紹介した事があるが、キリスト教徒軍が本格的に巻き返しを始めるのは10世紀頃ではないか? と思う。リンク ブルゴス(Burgos)番外編 エル・シドちょうど十字軍が始まった頃で、欧州全体がイスラムに反撃を開始した頃、イベリア半島内部で再編が起き11世紀には複数の所領? 王国が確認できる。13世紀半ばにはグラナダを残すのみとなっていたが、難攻不落のグラナダは最終的に1492年にやっと陥落。そのグラナダを陥落させたのはカスティーリャ王国(Reino de Castilla)(1035年~1715年)で、女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)(1451年~1504年)(在位:1474年~1504年)の時。戦場に出たのはアラゴン王の夫である。因みに、コロンブスは自身の計画のスポンサーになってくれるようグラナダ陥落で気を良くした女王イサベル1世に願い出る。コロンブスは、インディアスを求め大西洋を越える航海に旅立つ許可をカステーリャ(スペイン帝国)で得たのである。※ コロンブスの話しは次回改めて入れます。海洋王国ポルトガルの誕生「アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」の中、「アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusade」の所でダンテの時代にはヴェネツィアのアルセナーレ造船所はすでにヨーロッパで最も重要な造船所となっていたと紹介したが、同じ頃、海洋共和国ジェノバも自国造船していた。しかもジェノバには航海士育成の学校もあったのだ。そしてそれら技術は早くからポルトガルの海事発展の為に貢献?ポルトガルが海洋王国を目指したのは1317年頃、第6代ポルトガル王ディニス1世(Dinis I)(1261年~1325年)(在位:1279年~1325年)の時である。ディニス1世は経歴をみるとなかなか有能な人物だ。王権強化の為、土地台帳を細かく作り貴族の領主裁判権を制限、逆に相続法を改定して貴族の、また聖職者の権力抑制した上で様々な事業も立ち上げ、大学も創設。ポルトガルと言う国の基礎を造っている。何より海運の発展に力を注いだ事は功績だ。ディニス1世はジェノバの商人を役職に就け、海運事業の発展に貢献させている。当初は有能な船長や航海士を引き抜いて、王室所用の帆船を指揮させ運営した。ジェノバとの関係はかなり密でジェノバからの移住者には金融業者など銀行家もいた。海運事業が発展すれば商機は増えるからイタリア中の商家がポルトガルを目指した。フィレンツェからは地中海貿易の商家バルディ家がポルトガル領内でも営業をした。そうなると信用制度や為替手形などの金融システムなどもポルトガルに持ち込まれる。要するにジェノバを中心としたイタリア人らの力によりポルトガルは急速に発展して行く事になる。そもそもBackにはポルトガル王がいるのだ。王が商人を率いて事業を率先して行っているのだから商売は円滑に成功して行ったに違いない。※ ポルトガルも領内に割と早く自国の造船所を持った。カスティーリャ王ペドロ1世の庶子? 第10代ポルトガル王ジョアン1世(João I)(1357年~1433年)(在位:1385年~1433年)の時代にはポルトガルの港に400~500隻の船が出入りするほどの海洋王国になっていたと言う。地中海交易の中心は西に移動しつつあった。ポルトガルの商船は北はノルウェー、南はジブラルタル海峡を越えて北アフリカの港に及んでいた。オリエントやアフリカから香辛料、貴石、真珠、オリーブ、ワイン、ナツメヤシの実などを輸入し、北ヨーロッパに転売。※ この頃、穀類不足も起きていたと言うのでパンやヘーゼルナッツ、果物も売った。逆にイスラムにはフランドルのタペストリー(毛織物)、欧州産の馬、チーズ、バター、漁獲物、武器、木材、鋼(はがね)などを売ってもうけた。※ マデーラ諸島とアソーレス諸島が植民地となると小麦、ワイン、染料など生産。それは西アフリカにも売った。ところで、ジョアン1世はエンリケ航海王子の父でもある。以前「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の所で紹介しているが、ジョアン1世とイングランドから嫁いできた王妃の元で子供達は男女に関係なく、外国語、数学、科学を学び、政治学まで学んでいる。あらゆる分野の高い教養が与えられたのだ。つまり、このジョアン1世の子息、子女はかなり賢い王子、王女なのである。ポルトガルはジョアン1世の息子エンリケ航海王子の元で大航海時代の先陣を切る。また、娘は当時欧州一の盛況をほこるブルゴーニュのフィリップ善良公(Philippe le Bon)に嫁いだイザベル・ド・ポルテュガル(Isabelle de Portugal)(1397年~1471年)である。彼女は英仏100年戦争の終結にも力を貸している。※ フィリップ善良公(Philippe le Bon)・・フィリップ3世(Philippe III)(1396年~1467年)欧州で人気の商品「フランドルの羊毛タペストリー」は娘のルートから仕入れられたと思われる。※ リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)※ リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)ポルトガル王家の勤勉さがポルトガル海運を育て、神聖ローマ皇帝の一翼であるスペイン帝国に対抗する海洋国家にまでのし上げたのだろう。長子制度と3つの騎士団ジョアン1世から始まるアヴィス王家(Avis royal family, Portugal)から、諸々、イングランド式が採用されている。貴族制度もそうであるが、長子相続制度も息子のドゥアルテ1世の時には法律で制定されている。※ 長子相続では、全ての財産を長子が総取りする。つまり次男以下に、財産はない。アヴィス王家では、子供達の位置と役割が子供の頃から分けられていたのだろう。兄弟は兄を助け、長兄の死にあたり、次男と三男で長子の子供の摂政を務めている。(他王家では兄弟で争うのはザラだ。ここも争いが少なからずあったが収まっている。)しかし、ジョアン1世は長兄以外の子供らにも、それぞれ後に獲得した領地を分配し爵位を与え、そうでない場合は騎士のトップにしている。長男 ドゥアルテ(Duarte I)(1391年~1438年) ポルトガル王。次男 ペドロ(Pedro)(1392年~1449年) コインブラ(Coimbra)公爵位。三男 エンリケ(Henrique)(1394年~1460年) ヴイセウ(Viseu)公爵位とキリスト騎士団長(Military Order of Christ)マスター四男 ジョアン(João)(1400年~1442年) サンティアゴ騎士団(Military Order of Santiago)マスター五男 フェエルナンド(Fernando)(1402年~1443年) アヴィス騎士団(Military Order of Avis)マスター驚くなかれ、アヴィス王家には3つの騎士団のマスターが存在した。通常1国で一つあれば良いところ。それが3つの騎士団を有する王国なのである。騎士団はローマ教皇により認められた正式なもの。つまり騎士団直属の所領もあるし年貢もある。それらは実質マスターの財産に近い。特にエンリケが拝命した「キリスト教騎士団」は、かつての「テンプル騎士団」を継承したもの。以前テンプル騎士団の悲劇の最後について書いているが、ポルトガルでは、解散したはずのテンプルの財産も、騎士も領地もそのまま「キリスト教騎士団」が受け継ぐ許可をローマ教皇から取り付け、ほぼまるごと相続していたのである。テンプルの領地がポルトガル領内にどれだけあったか? は不明だが、相当な財産を有していただろう事は間違いない。また今後の年貢も約束された。※ テンプル騎士修道会に触れたカ所のリンク先です。テンプルの末路は「騎士修道会 2」です。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)こうした財産もあったのでエンリケは当初の海洋航海船の研究費や調査試験航海、また北アフリカ探険など資金が出せたのである。また、エンリケ王子はセウタ最高責任者の任務と同時に海洋航海の調査船も指揮していた事になる。ポルトガルの海外進出、セウタ(Ceuta)征服なぜ? エンリケ(Henrique)(1394年~1460年)王子が外洋に船を進めたのか?結果論から見れば、それは新天地の獲得であった事は間違いない。が、最初の一歩は何だったのだろう?研究施設まで持って、海図を造りながら、さらに船まで造ると言う並々ならない研究をしての外洋進出である。当初は利益よりも支出の方が多かったはずだ。お金と時間的余裕のできたエンリケ王子。彼の自身の知的好奇心が推進力だった? 西アフリカ沿岸の探検航海では得る物もあった。では次は? 世界の果て? と言われたボジャドール岬の先に何があるのか? 好奇心は増幅されて行った? のかもしれない。明確な答えは無いが、ポルトガルによる北アフリカのセウタ(Ceuta)侵攻が少なからずきっかけになったと考えられる。ポルトガルはカステーリャと和平を結んだ。もう国教でのいざこざも無い。また、カステーリャはグラナダ攻略の戦いにポルトガル介入させなかった事もありポルトガルには平和が訪れていた。※ 平和となったがお金は無い。ジョアン1世の3人の王子らの成人のイベントとして、1415年、セウタ(Ceuta)侵攻を思いついたらしい。それは王子らの騎士デビューの大々的なイベントとなったし、また諸侯らへの景気づけもあったのかもしれない。※ 戦が無いと困る人達もいるのだ。北アフリカのイスラムの世界に殴り込みをかけるのである。征服のあかつきには土地が得られる。略奪できる品もあるだろうし、キリスト教の布教と言うプロパガンダ(propaganda)がある。また、セウタの確保は地中海への入り口、ジブラルタル(Gibraltar)海峡の確保でもありモロッコへの足がかりでもある。その意義は大きい。実際の所、地理的にポルトガルが広げられる領土は北アフリカ方面しかなかったので、多大な借金をして下準備をタップリしてからセウタ(Ceuta)攻撃が行われている。スペインからのフェリー船上からのセウタ(Ceuta)あいにく天気が悪くかなり明るくしてもこれです。近づいてやっと見える感じ。現在のセウタはスペイン領になっているのでモロッコ入リの時はセウタに着岸してからバスでモロッコの国教を越える。高いツアーの時はセウタのバラドールに宿泊。下はセウタの突き出た部分モンテハチョ山(Mount Hacho)モンテハチョの要塞(The Fortress of Mount Hacho)標高190mのモンテハチョは市内どこからでも見える。城壁の高さは26m。一周1550mの城壁には5つの堡塁(ほうるい)が置かれている。元はビザンチン時代に造られた要塞であるが、ポルトガルが1415年にセウタを征服した時点では半壊していて使用できなかったと言う。ポルトガルとスペインの支配の間に、万が一セウタがイスラム教徒によって攻撃された場合の最後の防御的な砦として再建している。州立アーカイブ図書館からセウタの王室城壁(The Royal Walls of Ceuta)セウタの見所はモンテハチョ要塞ではなく、市内に残る王室城壁(royal walls)とサンフェリペ壕(Moat of San Felipe)である。海上からの攻撃から都市を守るための防衛設備である。半島を横断するように掘り(サンフェリペ壕)があり城塞が控えている。城壁の上から後方、右が半島の突端であり、左のみぎれている山がモンテハチョ山(Mount Hacho)上が朝で下が夜要塞の向こう側サイドにハーバーがある、見える山はモンテハチョ山(Mount Hacho)。セウタ十字軍? 1411年にポルトガル王はローマ教皇より、セウタ攻略を十字軍として公認してもらっている。つまり、セウタ攻略の部隊は十字軍として扱われる事になった。そして1415年8月、ポルトガルによるセウタ侵攻にはドゥアルテ、ペドロ、エンリケの3人の王子が戦闘に加わった。戦いは一日で勝敗が決まったらしい。彼らはこの戦いでめでたく騎士となり、信仰心が熱くこの計画に乗り気だったと言うエンリケ王子が1416年にセウタの防衛と補給の最高責任者に任命される。彼は1450年までその地位にあった。セウタの総守備は2500人を数え、エンリケ王子はセウタ総督として船団も持った。だが、先の「大航海の前章」ですでに書いた通り、セウタからは思った通りの収益が見込めないばかりか、維持費に逆にお金がかかったのだ。当初見込んでいたスーダンの金の取引も、ポルトガルの侵攻により、市場が移動してしまった。何より、セウタの守備は外に出られないほど囲まれて完全孤立。所領の拡大どころか、食糧も本国からの輸入による調達しかできなかった。セウタの軍は周辺の集落を襲って食糧調達したり、海賊行為もしたらしい。セウタ維持の騎士集めにも苦労する。ポルトガル王らは収入ゼロの上に兵器や人件費にお金のかかるセウタを実際のところお荷物に感じていた。ただ信仰心に熱いエンリケ王子(総督)は「経済は二の次、神への奉仕が絶対」と、セウタの保持にこだわったらしい。ただ、このこだわりの為に後に末弟のフェエルナンド(Fernando)王子(1402年~1443年)を死に追いやる事になる。(1437年、西のタンジール(Tangier)を得る戦いで敗戦し人質に取られ獄中で赤痢で亡くなった。)セウタにこだわったのはローマ教皇も・・。1418年にローマ教皇は、セウタで戦う騎士に7年の免罪を公布した。翌年には10年足して17年の免罪を公布。さらに数ヶ月後には8年を加え25年の免罪にしている。「セウタはアフリカ大陸で唯一のキリスト教徒の地」ローマ教皇も必死にセウタをフォローしたらしい。エンリケ(Henrique)(1394年~1460年)王子は1420年、キリスト騎士団長(Military Order of Christ)のマスターに任命された事から、その人材と財産がセウタの為に使用できるようになった。ローマ教皇もまた1456年にはポルトガルに所在する4つの騎士団に1/3の人材をセウタに派遣するよう指示し、支援している。何しろセウタ死守は正式な十字軍の任務に認定されているからね。ところで、タンジール(Tangier)での敗戦で人質を決める時にエンリケは自分が行く事を最初に申し出たが、総司令官の彼を出すわけにはいかないと、フェエルナンド(1402年~1443年)が人質になり結果、獄死した。エンリケのセウタ執着が弟を死に追いやった? もはやエンリケだけのせいではないが・・。※ 当時のイスラムの人質の扱いは、例え王族であっても特別はなかったようで、衛生状態の悪い牢獄での環境が死期を早めたと言える。父王はセウタを手放す事を進めていたらしいが、エンリケは反対した? ローマ教皇の手前、手放す事はできなかったのかもしれない。エンリケは相当に後悔したのではないか? と思える。ところで、セウタ侵攻からすぐにエンリケは海洋航海の実証実験を始めている。1434年にはボジャドール岬を越えいたし、もっと以前の1427年にはアゾレス諸島(Azores Islands)も発見している。ポルトガルは捕まえた人間を奴隷として市場で売買する事も始めていた。フェエルナンドが獄中にいる1438年にはアゾレス諸島(Azores Islands)の植民地化を本格的に開始している。タンジール(Tangier)の敗戦以降ポルトガルは北アフリカの植民から完全に手をひいているのだ。スペインとポルトガルの併合により1580年、セウタはスペイン領となる。サンフェリペ壕(Moat of San Felipe)メイン広場(Plaza de Armas)ライティングされている所に砲台が置かれた。ローマ時代にはすでに城壁が存在していたらしい。ポルトガル軍はその古代遺跡を利用して1541年から1549年の間に要塞、航行可能な堀、跳ね橋などの王室の城壁を建設することで防御を強化。現在の壁を築き上げたと言うが・・。ポルトガルがセウタに侵攻したのは1415年。エンリケ王子の時代にはここまでの城塞はなかったようだ。そして16世紀に再建。18世紀にはその隣に要塞化した兵舎が増設された。それにしても半島の右岸から左岸への船での移動ができる意義は大きい。半島を分割する運河は1540年代に本当に作ったのか? 古代、フェニキア人が地中海交易していた時代にすでに存在していたのではないか? と言う気がする。大西洋上の船舶寄港地と植民地エンリケ王子が星を観測したり、海洋調査をしながら海図を書き進めている過程で、大西洋上の諸島群を発見している。中でもカナリア諸島(Canarias Island)の発見は早く1312年、ジェノバ航海士がたどりついた時はすでに北アフリカのベルベル人が住んでいたと言う。おそらく、ジェノバの船が北上する時に偶然たどりついたのだろうと思われる。エンリケ王子が調査隊を出す以前、1341年にもポルトガル人とジェノバ人の遠征隊がすでにカナリア諸島に行っているが、カナリア諸島より先に船を向ける者はいなかったかった。それは潮流と風向の問題で、そこから先の海域では、通常コースでの帰路ができなくなるからだ。ボジャドール岬(Cape Bojador)より先は、船が戻れずほぼ遭難する事が確定されていた。この問題の理由と攻略ができた事が大航海を制する事につながったと言える。カナリア諸島(Canarias Island)マデイラ諸島(Madeira Islands)アゾレス諸島(Azores Islands)カナリア諸島(Canarias Island)カナリア諸島はすでに古代に発見され、北アフリカのベルベル人がすでに移民していたらしい。それによりここは奴隷の供給地にもなった。1312年、ジェノバ航海士が再発見。1341年、ポルトガル人とジェノバ人の遠征隊をカナリア諸島に派遣している。1402年、ノルマン人の征服にあうが個人レベルのもので征服者と先住民が共存。コロンブスが新大陸を発見するとカナリア諸島はどうしても必要な場所。カステーリャの介入が始まる。1496年、カナリア諸島の利権はカステーリャの勝利で終了する。カステーリャは大西洋を南下する時の寄港地として、またこれから始まる南米進出の際の船舶寄港地として利用した。ボジャドール岬(Cape Bojador)問題カナリア諸島はアフリカ大陸西海岸まで約115kmのサハラ沖に位置。北緯27度37分~29度24分。西経13度20分~18度10分。7つの島からなる。地理的にカナリア諸島の緯度は偏西風(北)と貿易風(南)が分岐する位置にある。北大西洋環流のコースは沿岸を南下しているのでカナリア諸島を越えると帆船の時代の船は来たコースをそのまま戻る事はできなかった。世界の果てと思われていたボジャドール岬(Cape Bojador)問題はそうした理由により船が戻れず遭難したものと思われる。エンリケ王子の指示で1434年、ジル・エアネス(Gil Eanes)はボジャドール岬を越えた。彼はもう少しアフリカ沿岸を南下し、潮流を逃れて沖にでて偏西風に乗ると言う帰路のコースを発見したのである。この時、現地の人間を連れ帰り、それが後の奴隷売買に発展する。マデイラ諸島(Madeira Islands)1419年、ポルトガル船がポルト・サント島に漂着し植民が始まる。黒人奴隷を使用してのサトウキビ栽培が行われた。現在もポルトガル領である。アゾレス諸島(Azores Islands)1427年、エンリケ王子の配下の船長によって発見。1439までに7島。以降植民地化。本国への食糧の生産が目的だったが小麦粉の栽培には50年かかったらしい。また、染料の藍(あい)色の原材料である大青(たいせい)の栽培をしている。大西洋上の船舶寄港地であり、捕鯨および遠洋漁業の基地として使われた。スペインが横取りしようとポルトガルともめた場所。コロンブスもここに寄港している。現在自治国となっているが公用語はポルトガル語。下にエンリケ航海王子の調査隊により発見された航路図を入れました。今回はこんな所で終わります。次回はスペイン編です。とりあえず載せて、誤字チェックは後からするのでご了承お願いします。今回は、諸事情でかなり遅れてのUPとなりました。本を取り寄せたりと出だしも遅かったのですが、新しい所に入る時は内容も、組みたても、写真も、いろいろ考え無ければならないから特に頭を使います。夜中の作業が中心なので昼閒疲れると睡魔には勝てません。待ってくれていた方ゴメンナサイ。m(_ _;)mBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2022年02月26日
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後年、書いた「ラファエロ前派」のリンク先を追加しました。19世紀と言う時代はいろんな意味で激動の時代であった。むろん産業革命は大きい。フランスにおいては特に政治体制が2転3転している。当然、市民生活も変わり思想も変わらざる終えない。カメラが登場し、肖像画と言う分野を失った画家らは新たな境地を求めざる終えなかった。実際、写実画は衰退し写真に取って変わっている。※「ボタンを押すだけ」と言う一般大衆向けのカメラ(Kodak)が発売されたのは1888年。世に出したのは現「Eastman Kodak Company」の創業者である。もはやリアルでは勝てないとリアルな描写を放棄した印象派が現れたのもこうした時代背景があったからだ。一方、昔に固執する者は当然いただろうし、全てに嫌気をさして虚構の世界を構築して内にこもる者もいた。詩人は感情を文字にして表現。画家は絵で示してみせた。19世紀後半は世紀末思想も含めて特にいろんな思想家が現れた時代でもあったのだ。さらに、ややこしいのは、思想は同一でも、国により呼び方が違ったりする事だ。○○派がとにかく多すぎる。でも非常に面白い時代です。そんなわけで今回は美術ネタです。以前、「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salome)」を紹介した時に、いつかギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメも紹介したいと思っていた。ビアズリーのサロメと同じだけ思い入れもあるしモローのサロメは幻想的でとても美しいのだ。ビアズリーのサロメと同様に最初に見付けたのは高校時代。画家の他の絵も含めてより興味を持ったのは20代になってから。ラファエロ前派の流れから再びたどり付いた時だ。当時、今もそうだが、この画家はあまり日本で知られていない。尚更、画像も限られていた。時々美術書でとりあげられるサロメと数点の神話画? くらい。※ インターネットの無い時代である。自ら美術書で見付けなければ出会えなかった。私が最初に興味引かれたのはサロメをテーマとしていたから。そして魅惑的なサロメと、他にない幻想的世界感の作品に衝撃を受けたものだ。そのうち、画家の美術館がパリにある事を知ると、いつかそこに行き他の作品を見たいと願ったのだ。その願いが叶うのはずっと後の事。今回はその美術館で撮影した写真をベースに紹介予定ですが、2007年の撮影です。デジカメの能力があまりよく無かった事。(たぶん解像度が低かった。)その日パリの天気が曇天だった事。また、美術館は古い屋敷が利用されているので絵画を撮影するには暗すぎた事。つまり写真が暗い事と絵画に関してはボケて直接利用できない事がネックとなって、なかなか紹介に至れなかったのです。それ故、今回、絵画に関しては、ウィキメディアや本などから引用させていただきました。全体にギュスターヴ・モローの解説書のようになってしまった感があります。f^^*)ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)のサロメ(Salome)サロメ(Salome)とは?モローのサロメが象徴派に与えた影響モローのサロメ(Salomé)ヘロデ王の前で踊るサロメ出現(Apparition) 初期サロン作品オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )オルフェウス(Orpheus)ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)ギュスターヴ・モロー美術館(Musée national Gustave-Moreau)シャセリオーの弟子?ヘシオドスとミューズ (Hesiod and the Muse)求婚者(未完成) The Suitors [unfinished] ユピテルとセメレー(Jupiter and Semele) モローの水彩画 耽美(たんび)な象徴派パエトーン(Phaëthōn) 耽美(たんび)な水彩画妖精とグリフォン(gryphon)キマイラ(Chimaira) 死せる詩人を運ぶケンタウロスヴェネツィア(Venezia)象徴主義(symbolisme)スカイア門のヘレネー(Helena)パリスの審判からのトロイア戦争サロメ(Salome)とは?サロメ(Salome)は1世紀頃のパレスチナを支配していたイスラエルの王ヘロデ・アンティパス(Herod Antipas)(BC20年~AD39 年)(在位;BC4年~39年)の義理の娘。実在の人物。時代はキリスト教が現れる頃。ヘロデ・アンティパスの所領の中、死海周辺の荒野で隠遁(いんとん)して修行生活をしていた隠修士のヨハネ(John)がいた。彼はヨルダン川でイエスに洗礼をほどこしたイエスの先輩修道士。(それ故、後世「洗礼者ヨハネ(John the Baptist)」と呼ばれる。)隠修士のヨハネはヘロデ・アンティパスの命令で首を落とされ、殉教する。福音書では、ヨハネがヘロデ王の結婚を非難した事から捉えられ、結果的にヘロデに斬首されるのであるが、ヨハネを殺し、その首を求めたのが義理の美しい娘サロメであると伝えられている。ヘロデは義理の娘の舞の褒美に、彼女が望んだ物を与えると約束した。サロメは母の望みを聞いてヨハネの首を求めたのである。※ 福音書では「ヘロディアの娘」と記され、サロメの名は無いらしい。※ 新約聖書の福音書の他、古代イスラエルの著述家フラウィウス・ヨセフスが著した「ユダヤ古代誌」に伝えられる。洗礼者ヨハネの首を求めた猟奇性? キリスト教徒にとっては悪女である彼女の知名度は古来から高かく、敢えて調べると、多くの画家がサロメと銀の盆に乗ったヨハネの首を描いている。ヨハネの処刑はあくまでヘロデ・アンティパスの政治的決断と解釈する向きもあるが「褒美に欲しい・・。」と言うエピソードは話題性が高い。後世に伝えられるに十分。啓発された者は多かった。このサロメの猟奇性と異常性? に魔性の女を当て、1893年、戯曲「サロメ(Salome)」を書いたのがオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)である。前回「世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)」で紹介している。リンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)ところが、今回初めて知った。モローの描いたサロメが全ての発端だった事を・・。モローのサロメが象徴派に与えた影響1876年、サロンにおいてギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)は2点のサロメを出展する。モローのサロメを観て、まず先に影響を受けたのがフランスのデカダン派の作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans)(1848年~1907年)である。彼が1884年に刊行した「さかしま(À rebours)」。その中で主人公はモローの幻想的な絵画「ヘロデ王の前で踊るサロメ・出現」等を身の回りにおいて自らが好む世界を造り陶酔。主人公の精神はどんどん現実から離れ精神を病んで行く。この「さかしま」に啓発されたのが同じく作家のオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)(1854年~1900年)だ。彼は戯曲「サロメ(Salomé)」を1893年執筆するのであるが、ワイルドのサロメは猟奇性をさらに加えてモローの上を行っていた。ワイルドのサロメでは、彼女は洗礼者ヨハネに恋して? 受け入れられない想いを胸に彼の落とされた生首に接吻するのである。そのワイルドのサロメに挿絵をつけたのがオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)だったわけで、ビアズリーはまた彼の解釈で妖女サロメを描いたのである。ギュスターヴ・モローの作品は彼らに影響を与えた? と言うよりは、むしろ彼らの求めていた退廃的で耽美な作品をモロー作品の中に見て驚喜した? 結果、モローはデカダンス派(décadence)と同一のように扱われる事になる。※ デカダンス(décadence)は「退廃的な」の意。異常で奇っ怪が好きなどのフェチ(特殊な性癖)が求めた退廃的で耽美な美。また在り方。※ フェチ → フェティシズム( fetishism)モローのサロメ(Salome)ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)(1826年~1898年)1870年~1876年にモローは複数のサロメを描いている。なぜサロメに焦点を当てたのかはわからなかったが、モローの描くサロメは魅惑的だった。モローのこの頃の作品は、間違いなく「女性の魔性」を表現する事に注がれている。1876年の官展(サロン)に2つのサロメが出展。1.ヘロデ王の前で踊るサロメ(Salome Dancing before Herod)油性2.出現(Apparition) 水彩モローの中で長く温められていたであろう妖艶で神秘的なサロメ。それは神がかって巫女的な存在にさえ見える。彼女は歴史的悪女である。当然、普通のそこらへんの女性では到底なり得ない存在であるはずだが、一歩引いて見ると何があってもひるまず意志を通す強い女性像も浮かび上がる? モローが描こうとしたのは狂気の中で自我を満足させるべく踊る異常な女? ではなく、本当は彼の当世の女性への認識? 世の女性はみんなこうじゃないか? と、思って描いていたのではないか? とも思える。つまり選ばれた女性ではなく、女性誰もが共通して持つ内面? を表現してみせた作品? 彼は実際、女性に対して消極的だった。もっと言えば消極的だったのは女性ばかりではないが・・。「女性はかくも美しいが怖い」そんな畏怖(いふ)がモローの描くサロメに見え無くもない。本当の所は本人に聞かないと解らないけどさ・・。ヘロデ王の前で踊るサロメヘロデ王の前で踊るサロメ (Salome Dancing before Herod)1876年 油性ロサンゼルスのハマー美術館(Hammer Museum)この作品は、1876年パリのサロンに出品された作品で描くのに7年かかったと言われている。構想が固まる前に試行錯誤があった? 1876年には「出現」、他複数のサロメが描かれている。驚くべき所は、様々な文化的要素が複合された作品でもある事。全体にオリエタルの意匠が観て取れるが、それこそ、モローの勉強の成果なのだろう。彼の両親はモローが芸術方面に向かう事を全面的にバックアップし、その為にギリシャ語やラテン語、古典文学を学ぶ事も進めているし、芸術家としてのキャリアを積む意味でプライベートのイタリア旅行にも長期に出している。※ イタリアには2度大旅行に出ている。実際、モローの家は父が建築家、母が音楽家で裕福であった。彼は終生お金に苦労する事はなく、現在美術館となっている彼のアトリエ兼住居の家も父が購入して残してくれている。彼が意欲的に作品を売らなかったのもお金に困っていなかったからだろう。そう言う意味で世に流れた作品は多くはなく、世界的な知名度は低いのかもしれない。下の作品はモロー美術館で撮影。構想段階の習作と思われる。下の作品も「ヘロデ王の前で踊るサロメ」なのであるが、こちらにはサブタイトル? 別名で仕分けされている。入れ墨のサロメ(Salome Tattooed) 油性 1876年の制作 ギュスターヴ・モロー美術館同じくヘロデの前で踊るサロメなのであるが、サロメの体や兵士などに文様が描かれている。確かにサロメの体のは入れ墨に見え無くもないが、これはあくまでサロメに着せるドレスの下絵の構想段階と思われる。次に紹介する出現の衣装に近い。兵士の方もこれからかぶせられる帽子? 衣装の下絵? つまり入れ墨のサロメは習作の一つと考えられる。ただ、この作品はこれだけで確かに完成している。これはこれで十分美しいのでこのまま残したのか?※ こちらの作品には水彩バージョンも存在。ルーブルにあるらしい。出現(Apparition) Apparitionは「幽霊」とか「幻影」など「 死者が突然現われる現象」の意味がある。サロメでは日本訳が「出現」となっているので、Apparitionには「出現」がタイトルにあてられているが、知らない人から見たら「何のこと?」と思うだろう。出現は、まさに斬首されたヨハネの首がサロメの前に浮かんで現れた所?普通はそう思う所だが・・。「名画への旅 音楽をめざす絵画」では違う解釈がされていた。踊るサロメの前に、まだ斬首されていないのに、血のしたたるヨハネの生首の幻影が現れた。しかも、他の者らにそれは見え無い。それは一瞬の事だったようで、サロメは何事もなく舞を続けるのである。そして、見事な舞の褒美として、「ヨハネの首を銀の盆に乗せて賜れ。」とヘロデに希望を伝え、ヘロデはサロメの望み通り、この後、斬首したヨハネの生首を銀の盆に乗せてサロメに与えるのである。幻影は、予知夢的な啓示? と、とれるかも・・。確かに、こちらの方が理にかなっているかも・・。ヨハネの首と対峙(たいじ)するサロメ。普通のダンスバージョンと違って、出現の方はサロメの顔が険しい。出現(Apparition) 1876年 油性 ギュスターヴ・モロー美術館油性の「出現」は自前の写真しかなかったので、ボケてて拡大ができません。ウィキメディアのは色調調整されているようで、バックに書き込まれたイレズミ部分が出過ぎてたので却下しました。一説には、モローはこの油性の絵を手元に残していたのでイレズミ部分を後年書き足したのだと言う。出現(Apparition) 1876年 水彩 オルセー美術家の美術書にルーブル所蔵の出現(Apparition) の水彩画が載っていたので比べたら、オルセーと全く同じであった。説明では確かに水彩と明記されているが、水彩なら両作品は尚更異なってしかるべき。これはもしかしたらリトグラフ? あるいはエッチングに彩色した作品なのではなかろうか? と疑問が出た。下はルーブル作品の方の拡大図を借りました。「名画への旅 音楽をめざす絵画」からモローは、もともと体が弱く、姉も早世している事から両親は彼を非常に過保護に育てた。過保護ながらも彼の意志を尊重し、でも道しるべは両親が付けている。彼が陰キャになったのはそれ故だ。古典を学んでいたが、テオドール・シャセリオーに出会うと彼を追いかけ古典は止めた。本当にシャセリオーの絵に感銘したからか? シャセリオー自身に恋をしたからか? は謎だ。だが、シャセリオーを失い。彼は傷心のイタリア旅行に出る。1859年に帰国して1861年に「オイディプスとスフィンクス」を描く。(サロン出典は1864年)この頃から独自な作風を展開。この作品は皇帝ナポレオン3世(Napoléon III) (1808年~1873年)(在任:1848年~1852年)が購入。ナポレオン3世には宮殿に招待されたりしている。それ故か? 1870年(44歳)、国防軍として従軍もしている。※ パリ・コミューン(Paris Commune)(1871年)の時はすでに退役しているが、おそらくプロレタリアではなく、ブルジョア側の人だろう。初期サロン作品 (サロメ発表以前)オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )1864年、イタリア留学から帰国してサロンに出品した「オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )」がパリのサロンで大きな注目を集め受賞。熱狂的なファンやコレクターがついたらしい。オイディプスとスフィンクス(Oedipus and the Sphinx )1864年油性 メトロポリタン美術館 所蔵 テーベからデルフォイに戻る旅路、スフィンクスに謎かけをされているオイディプスQuestion: What walks on four feet in the morning, two in the afternoon and three at night?朝は4足、昼は2足。夜に3足で歩くの何だ?スフィンクスの出題にオイディプスは始めて正解を出した。答えは人間の一生である。生まれたばかりの時は4足歩行し、やがて2足で歩行するが、晩年には杖をついて2足+1で3足となる。もし、オイディプスが不正解であれば、オイディプスの命は捕られ食われていたが、彼は正解した。逆にスフィンクスが驚き、海に身を投げて自殺してしまった。それによりテーベの都はスフィクスから解放され自由になる。この話しは非常に有名な寓話であるが、スフィンクスとオイディプスのやり取りが、奇妙に静止した男女の関係で現されている。つまり旅人を食う怪物と旅人との関係を今まで無かった新しい構図で表現。男女の関係まで匂わす見つめ合う二人に、もはや男と女の駆け引きがそこに見えるようだ。しかも、彼女はすぐにも食いつける態勢で男の答えを待っている。だが、慌てる事なく、冷静に答えを引き出す男。モローは終生結婚はしなかった。非常に親しい女友達はいたが・・。批判には臆病で隠士になりがちだが、男女の関係にはもっと慎重だったのかもしれない。オルフェウス(Orpheus)オルフェウスの竪琴と首を抱きかかえる少女の図。オルフェウスの首は自身の竪琴(リラ)の上に乗せられている。オルセー美術館所蔵 1865年 油性 1867年のパリ万国博覧会で展示オルフェウス(Orpheus)は、ギリシア神話に登場する吟遊詩人(ぎんゆうしじん)で竪琴(たてごと)・リラ(Lyr)の名手。冥界に愛妻エウリュディケ(Eurydíkē)を連れ戻しに行く話しは有名であるが、あと少しの所で願いは叶わなかった。妻を失ってからのオルフェウスは自暴自棄になり、その振るまいからディオニソス(Dionysos)の怒りをかう事となり、ディオニソスは自身の女性信奉者マイナスを使って彼を殺させる。オルフェウスはマイナス(狂乱する女の意がある)によって八つ裂きにされて川に投げ込まれ、最終的には彼のバラバラにされた体と竪琴(Lyr)はレスボス島(Lesbos)まで流れ着くのである。因みに、川を流れながらもオルフェウスの首は、歌を歌いながら流れて行ったと言う。レスボスの島民は彼の死を悼(いた)んで墓を築いて詩人を葬ったそうだ。絵画は流れ着いたオルフェウスの頭部と竪琴を拾って悼み偲ぶ(いたみしのぶ)少女の姿である。※ 「オルフェウスの頭をリラに乗せたトラキアの少女」との解説もあるが、神話ではオルフェウスが流れついた地はレスボス島なのである。因みに、アポロンはオルフェウスの死を悲しみ、その竪琴を天に挙げ、それが琴座(ことざ)となった。1866年サロンに出品され、1867年のパリ万国博覧会で展示。因みに、この万博には42か国が参加。日本国も初参加していて将軍徳川慶喜の弟 徳川昭武が幕府を代表してパリに行っている。江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展。この辺りまでは純粋にロマン主義と言える。全体に、こういった神話やアーサー王と騎士物語などのテーマが好まれた時代なのである。1869年には「プロメテウス(Prométhée)」をサロンで発表。メダルを獲得したが、マスコミからの批判が厳しく以降1876年までサロンへの出典はしていない。批判は保守(古典)すぎた事。皆は「オイディプスとスフィンクス」以上を期待していたかららしい。※「プロメテウス」もモローの手元に残り美術館にあります。写真がボケてて出せなくて・・。今と変わらないのだとつくづく思う。色々言われて人間不信となったモローは屋敷に引きこもり隠者のような生活をしていたようだ。でも、高踏派の詩人や、耽美主義の知的ブルジョワなど少数ながら熱烈なファンはいたらしい。時代は第2帝政時代。第1帝政時代のフランス国の借金返済と景気の回復にナポレオン3世も頑張ってはいたが1871年起こるパリ・コミューン(Paris Commune)。まさに古い体制から新しい体制へと移行する過渡期であった。ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)もともとモローはエコール・デ・ボザールを退学した後もテオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)(1819年~1856年)などロマン派の影響を受けている。※ エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)はパリ国立高等美術学校。ところで、イタリア旅行ではエドガー・ドガ(Edgar Degas)(1834年~1917年)と知り合い仲良くなっている。私費でのイタリア旅行で出会い、意気投合したが、ドガは帰国後エドゥアール・マネら印象派の影響を受け、モローとは完全に方向性を違えた。モローの方はより古典古代の神話や聖書などの歴史画に集中し続け1860年に先に紹介したオイディプスとスフィンクスを描いている。かつて澁澤龍彦氏(1928年~1987年)は19世紀絵画の流れに昼と夜がある事を示唆し、ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)と名付け分類している。ヘリオフィル(大陽愛好)・・バルビゾン派、印象派、後期印象派ヘリオフォビー(大陽恐怖)・・象徴派やデカダンス派ドガとモローはまさに正反対の道に進んで行く。太陽光の元、戸外ので絵を描き始めた印象派に対して、モローは部屋にこもり、夜間にガスライトの明かりで絵を描いている。※ 陰キャだからと言うより、夜の方がのめり込みやすかったのだろうと思う。ところで、ヘリオフィル(大陽愛好)とヘリオフォビー(大陽恐怖)のワードは他に無い。井上ひさし氏も「父と暮らせば」の中でググったらしいが「解らなかった」と書いている。私もかなり調べた。結果、そもそもヘリオフィルとヘリオフォビーの読みに問題があったようだ。たぶん下の語から来ていると思われる。好光性の (heliophilous) → (heliophile)日光恐怖症 (heliophobia)構想7年? 1876年、満を持してモローはサロメを世に出す。この出展によりモローは、ロマン派の枠の中でもマニアックなデカダン寄りの象徴派(symbolistes)と位置づけされたと思われる。ギュスターヴ・モロー美術館(Musée national Gustave-Moreau)1853年から画家ギュスターヴ・モローが自宅兼アトリエとして暮らした邸宅がモローの死後、コレクションと共にフランス国に寄贈され、1903年に美術館として開館している。※ 彼には相続させる遺族が誰1人いなかったからだろう。1853年にモローの父が購入し、最上階をモローのアトリエにして、モローと同居していた。住所 14, rue de La Rochefoucauld 75009 Parisシャセリオーの弟子?1848年(22歳)、エコール・デ・ボザールを退学したのはテオドール・シャセリオーの絵に感銘したからだと言う。その後モローはシャセリオーの家の近くにアトリエを借りている。つまり、これはモローが古典からロマン派への移行を示した事件である。 ※ テオドール・シャセリオー(Théodore Chassériau)(1819年~1856年)7歳年上のシャセリオーを師と仰ぎ、非常に仲が良かったようだ。もちろんシャセリオーからの影響は大きい。彼のサロメに見える俗にオリエンタルと呼んでいるが、イスラムチックな意匠はシャセリオーの影響ではないか? と思う。だから1856年、シャセリオーが37歳の若さで亡くなった時のモローの悲しみは深かった。ドラクロワが葬儀の時のモローを日記に記(しる)すくらいに・・。実際、公の仕事さえ全て止めて籠もる? モローの状態を心配した両親はイタリア旅行を提案する。モローが2度目のイタリア旅行に立ったのは心を癒やす為であったのだ。旅行と行っても1857年~1859年と長期である。この間に巨匠の名画を見て、模写し、勉強した成果は後年に役立っているはず。この旅でドガに会うのである。キリストやゴルゴダの丘などモローは宗教画も描いている。ゴルゴダ(Golgotha)モローは生涯に15000点以上の絵画、水彩画、素描を制作。サロンへの出展も個展による作品販売にも関心が無かったので自宅にはたくさんの作品が残されていた。亡くなった時点で1200点の絵画と水彩画、10000点の素描があったと言う。実はモローは亡くなる前からアトリエを自身のコレクションの展示場にする構想を持っていたらしい。だからそれ故、作品をあまり手放さなかった? のかもしれない。美術館は本当に一般の民家。しかも客は自分らしかいない。美術館としては、決して広いとは言えないが屋敷には所狭しと絵画が並べられていた。正直、壁面一杯に掛けられた絵に面食らった。真似して私も寝室に7点ほど飾っている。その一つがモロー美術館で購入したリトグラフなのだが、長らくオルフェウスと勘違いしていた。ヘシオドスとミューズ (Hesiod and the Muse) 1891年左 リトグラフ 私物 右 木版に油性 オルセー美術館所蔵額装しているので反射があり自分のは撮影できず、素材は他から借りてきました。本当は記念にサロメを買いたかったのですが、美術館の女性に「そんなの買うな」と言われてこちらを薦められました。ヘシオドス(Hesiod)(BC740~BC670年頃)ホメロスと並ぶ古代ギリシアの叙事詩人。実在の人物羊飼いだったヘシオドスは突然天啓を受けた。ミューズの霊感を受け詩人となる。今は解らないが、私が行った時点で撮影は自由にさせてもらえたので写真は結構撮ったが、暗いのと、高い位置にある絵画の撮影はボケた写真ばかり。撮影に適した環境では無かった。写真はかなり明るくしています。それでも、観た事の無い作品に心が躍ったのだ。ずっと来たかったあこがれの場所だったし・・。上のアトリエの正面に飾られている絵求婚者(未完成) The Suitors [unfinished] 油性 1852年~1896年 385cm × 343cm以前、トロイア戦争から帰還するオデュッセウス(Odysseus)の長い旅の話しを「海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦」の所でウォーターハウス(Waterhouse )の絵と共に紹介した事があるが、この作品も古代ギリシアの吟遊詩人ホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア(Odysseia)」第22歌のお話である。神のイタズラ? 10年近く放浪の旅をして帰国するとオデュッセウスの美しい妻ペネロペ(Penelope)にはたくさんの求婚者(The Suitors)がいて、事もあろうに男等は家で宴会を開いていた。オデュッセウスは怒り妻の求婚者を全員 弓で射殺すのである。つまりこの絵は大量殺戮の風景なのであるが、画面の中には女神アテナイの不思議な姿が中空に存在する。アテナイは戦いの神。オデュッセウスに何か啓示を与えたのか? 不思議な構成の構図なのである。そもそもこの絵は1852年から制作が始まったものの一時中断して1882年頃から再開され1896年に完成。当初の予定とは着地点が変わったのではないか? なんとなく迷走の果て・・と言う気がする。ユピテルとセメレー(Jupiter and Semele) 1894年~1895年 モロー美術館ギリシャ神話であるならゼウスとセメレー(Zeus and Semele) なのだが・・。モローはイタリア留学しているからローマ神話で描いているのかな?ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)(1826年~1898年)が亡くなる2年前に4ヶ月ほどで書き上げたと言われる大作。ゼウス(Zeus)の浮気相手であるテーバイの王女セメレー(Semele)はゼウスの妻ヘレナの罠にかかって死ぬ事になる。ゼウスは妻にばれぬよう、浮気の時はいつも変身して時に鷲、時に黄金の雨などになり女性に近づいている。「愛の証に私の願いを一つ聞いてほしい」セメレーはゼウス(Zeus)に真の姿を見せるよう迫った。しかしセメレーは人間。天空を支配するゼウスの本体は生身の人間では絶える事ができない。セメレーはゼウス(神)から発せられる閃光(せんこう)に焼かれて絶命する。この絵はゼウスが姿を現しセメレーが驚いている所。ところで、この時セメレーは妊娠6ヶ月。胎児はヘルメス(Hermēs)が取り上げ、ゼウスの大腿の中に縫い込んで妻から隠した。その子がディオニソス(Dionysos)である。モローは胃がんで1年煩い、1898年4月18日に亡くなったが、その死は遺言で公開せず、葬儀はひっそりと行われたそうだ。モローの水彩画 耽美(たんび)な象徴派サロメでは計り知れなかったモローの本当の美学? が展開されていた。製作年不詳がほとんどの水彩画 本から持ってきました。よってカラーはオリジナルとかなり異なるかも。パエトーン(Phaëthōn) 水彩 1878年 99cm × 65cm 水彩としては大きめルーブル美術館 サロメのすぐ後? の作品か?古代ギリシャでは太陽は天空を翔ける太陽神ヘリオス(Hēlios)の乗る4頭立て戦車だと考えられていた。太陽神は朝、東から戦車で出発して夕に西に降りる。※ Hēliosは太陽を意味する語。※ 太陽神ヘリオス(Hēlios)とギリシャ神話の太陽神アポローン(Apollōn)は紀元前にはすでに同一視されている。絵画はアポローン(Apollōn)の息子であるパエトーン(Phaëthōn)の悲劇の死をドラマティックに美しく表現した作品である。パエトーンは自分が太陽神アポローンの息子である事を証明しようと父の太陽の戦車を借りて天に昇るのであるが、御者がアポローンで無い事に気付いた馬車は天を暴走する。太陽が暴走するのである。地上にも多大な被害を与えたのでゼウスは雷(いかづち)でパエトーンを射殺(いころ)して馬車の暴走を止めようとしている光景だ。まるでBGMが聞こえてきそうな絵画なのだ。ドラマティックな内容だけに多くの画家が描いているテーマだが、モローのこの作は今までの神話画とは一線を画す作品だ。これから死ぬ運命のパエトーンが神々しさの中心に据えられている。死ぬ時も神々のドラマはこんなにも美しい。ところで、モローの作品は、どれもただの神話や歴史のドラマを表現するもので終わっていない。ドラマのストーリー自体が装飾されているのだ。他の画家がリアルを追求した古典画とはあきらかに違う。彼の解釈で加えられた怪物? など細部にわたるまで計算された構成やバランスはまるでデザイン画を見るようだ。悲劇であるのに、パエトーンの死を美しく脚色。かつその美しさの中にストーリー性まで盛り込まれた神話画に彼の美学を見た気がする。独創性? これこそが彼が象徴派(しょうちょうは・symbolistes)とされる所以だろう。耽美(たんび)な水彩画以下に紹介する水彩4点は、私が耽美(たんび)だなと思った作品を載せました。そもそも耽美(たんび)とは何だ? と言う話しなのですが・・。美に耽(ふけ)ると書いて耽美(たんび)と読むよう、何よりも美しさに最高の価値を置く考え方だそうです。例えば、道徳的、倫理的にアウトであっても耽美(たんび)は、見る人の価値観で最高の美になり得る。だから、それは多数の人が見て必ずしも美しい物ばかりではないようです。たいていの人が、明らかに恐怖を感じる作品であっても、その中に美を見いだす人もいるわけですから・・。それ故に耽美派と言われると幅は広くなる?ところでモローは象徴主義派のみならず、耽美派にも数えられています。でも彼自身で「私は耽美派です」とは言ってないし、おそらく「象徴派です」とも言っていないのではないかと思います。世間が、今そうカテゴライズ(categorize)するのは、当時の耽美派や象徴派の文芸作家らが、自分の理念に合致した彼の作品をかってに称賛し、彼の活動を支援し、「同好の士」に入れたからではないか? と言う気が多分にします。実際、先に紹介したユイスマンやワイルドがモローを象徴派にカテゴライズした人達です。そもそも、象徴主義も耽美もデカダンスも曖昧な感覚の理念で、文芸でこそ表現しえる世界感です。そう考えると、画家達のカテゴリーは評論家による所が大きいのかな? と思います。最も印象派やキュビズムなどは別ですが・・。ギュスターヴ・モローの場合は、本人は思想など考えもせず、ただ描きたかった絵を描いていただけだったのではないか? と言う気がします。彼が批評されるのを避けて、サロン出展を止めアトリエでただ描き続けた行為が、そう思わせるのです。妖精とグリフォン(gryphon) 水彩 製作年不詳 モロー美術館妖精? 女神? グリフォン(gryphon)は彼女のペットか? 僕(しもべ)か?※ グリフォン(gryphon)は、鳥(猛禽類)の頭と翼を持ち、獅子のような下半身と龍のような御を持つ伝説の生物です。配置のバランスとカラーが絶妙な所で均衡をとっている。文芸の方でオスカー・ワイルドも耽美に入っていますが、彼の場合またちょっと特殊です。退廃的な(décadence)所に美を感じる? 惹かれる? デカダン派 (décadentisme)にも入れられます。※ デカダン派は得に文芸の方に使われる語彙です。生首に口吻(くちづけ)させるようなサロメを執筆しているのですからワイルドは間違いなくデカダン派です。では画家ビアズリーは? サロメにおいてデカダン派に入れられているようですが、本質はデカダンではないはずです。彼はワイルドのサロメに衝撃は受けたけど、ただ挿絵をしただけの人。画家の場合、依頼で描く場合もあるので。キマイラ(Chimaira) 水彩 製作年不詳 モロー美術館本来のキマイラ(Chimaira)は、ライオンの頭部に山羊の胴体、蛇の下肢を持つ怪物。生物学的に異質な生物の組みあわせと解釈出来なくも無い。それだけ種類も多く描かれている。ここでは下肢こそ蛇のようだが、上半身は立派な翼を持った大天使にさえ見える。美女と怪物? 二人は恋人同士なのか? キマイラは女性をやさしく抱え幻想的な夕闇の中をいずこへ?この作品もバランスが良い。何よりドラマティックだ。死せる詩人を運ぶケンタウロス 水彩 製作年不詳 モロー美術館竪琴(たてごと)から、ケンタウロスが抱きかかえているのはオルフェウス(Orpheus)と解釈できない事も無いが・・。先にオルフェウス(Orpheus)を紹介している。彼は八つ裂きにされて川に投げ込まれたのだ。両性具有的な詩人の体を悲しみの中で優しく抱える半人半獣のケンタウロス(Centaurus)。美女と野獣のような両者の関係性。強いはずのケンタウロスから感じられるのは悲哀と絶望。実にしみじみとする。「いとあはれ」な光景だ。ヴェネツィア(Venezia) 水彩 製作年不詳 モロー美術館優雅に守護聖人によりかかる美女はヴェネツィアの街その者である。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」で紹介しているが、ヴェネツィアは福音書記者マルコを守護聖人に持つ街。※ マルコのアトリビュートは獅子。またヴェネツィアは花嫁であり、アドリア海はヴェネツィアの夫でもある。ヴェネツィアに旅行したモローはヴェネツィアをこんな風に感じたのか?だとしたら流石の想像力です。耽美ではあるが、むしろヴェネツィアの美しさを象徴的に描いた作品だ。私の好みは、当然美しい者が美しく描かれて居なければ嫌。多少の悲哀と儚さがあり、幻想的であればなお良い。構図が完璧・・と言うのは絶対条件です。象徴主義(symbolisme)象徴主義(symbolisme)は世紀末の文芸から生まれた。世紀末的退廃ムードが漂っていた時代である。不安や衰退など負が蔓延していた?反古典主義から始まったロマン派は現実派と夢想家に別れた。現実派 → 写実主義夢想家 → 象徴主義(幻想の中にも希望がある?) デカダン(不健康で無気力、悲観的)※ 象徴主義とデカダンは明確には定義できないそうだ。夢想家は自分の自由な発想で想像力を駆使し神秘的な夢や幻想、また神話の世界を描く事で内面を象徴的に表現しようとした。それはルネッサンス以前のゴシック的な精神性だったと言う。※ 実は私にもよく解っていないフランスの象徴主義を代表する3人の作家シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)(1821年~1867年)ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年~1896年)アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)(1854年~1891年)象徴的表現を駆使した幻想的な文学者。過去と夢と幻想に溺れた人達だ。英国ではラファエロ前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家らが象徴派にあたる。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti )(1828年~1882年)ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais)(1829年~1896年)エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones)(1833年~1898年)ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)(1827年~1910年)同じ時代の同じ位置にいるイギリスで、ラファエロ前派が描いたのはテーマそのものが古典ではなくシェークスピアやダンテの小説の中に登場してくるはかない女性。あるいは魔性の女そのものを描いている。ラファエロ前派の方がむしろはっきり解る象徴派(symbolistes)だ。いつかラファエロ前派もやりたいです。※ ラファエロ前派 書きました。リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス最後にモロー作品の中で象徴派と感じる作品を挙げてみた。私的には、ある意味分かりやすい作品だと思うが、抽象(ちゅうしょう)すぎて当時のロマン派主義者は気に入らなかったらしい。それ故、この作品は酷評され、モローは傷つきサロンからの撤退を決めた。もはや自分の為にのみ描きたい物を描くようになったらしい。スカイア門のヘレネー(Helena) 油性 製作年不詳(1880年頃?) モロー美術館パリスの審判からのトロイア戦争天界の三美神(TOP3の美女)ヘラ(Hērā)・アテーナ(Athēnā)・アプロディーテー(Aphrodītē)パリス(Paris)は天界のTOP3の美女(ヘラ、アテナイ、アプロディーテー)から1番を決めなくてはならなくなった。※ パリスはトロイア(イリオス)王の息子。3人はそれぞれパリスを買収する。パリスは「最も美しい女を与える」としたアプロディーテーの買収にのり、彼女に黄金のリンゴを与え1番とした。そしてパリスは地上で最も美しいと言われるヘレネー(Helena)を妻にしようとするのだが、ヘレネーはすでに人妻(スパルタ王メネラオスの妻)だった事からヘレネーを略奪したパリス王子はスパルタの敵となりトロイア戦争にまで発展する。※ トロイア戦争はスパルタ vs トロイア(イリオス)の戦いであり歴史的事実らしい。スカイア門は古に滅んだトロイアの街(イリオス)のメイン・ゲートである。スパルタの妃であるヘレネーがトロイアの街(イリオス)に近づいて来る姿に物見の塔から見て居たトロイアの長老達は嘆く。「恐ろしいほどに美しい。」彼らには死の女神が近づく様に見えたのだろう。トロイの街はヘレネーが来た事で惨劇の血を流したのである。絵は、白い街と白いヘレネーのドレスが惨劇の血で汚れている様なのである。もはやヘレネーに顔さえ描かれてはいないけど、邪魔な物を排除して本質が伝えられた作品だと思う。モローのファンとしては、美しすぎるヘレネーを観たいと言う気持ちはが解りすぎるほど解るが・・。モローは、そもそも古典から正統に学んでいるからか? 美術アカデミーが好む寓話や伝統的な聖書や神話などの古典画をテーマにたくさんの絵を描いている。とは言え、その古典に独自装飾を施し、高尚で神秘的で美しい作品を描いている。そうか、彼の絵は「詩」そのものなのかもしれない。おわり・・お疲れ様です m(_ _)m関連 Back numberリンク 世紀末の画家ビアズリーとサロメ(Salomé)リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 1 ヴィクトリア朝リンク ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood) 2バーン=ジョーンズとモリス
2022年01月16日
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Back numberをラストに入れました。禅庭三昧の予定でしたが、今回もあれこれ発見が込められておりますしかも禅だけに収まっていません。まず、冒頭の挨拶つもりで書いていた元寇(げんこう)の話し。長くなったので五山禅寺に直接関係ないけど本文に入れました。タイトルにも入れましたが・・宋に至るまでの交易を調べていた過程で大発見? アジアにおける「黄金の国ジパング」伝説は元寇(げんこう)の襲来に関係していたのかもしれない。歴史もいろんな分野から掘り進めて行くと、思いもかけないところで重なる事がある。マルコポーロと元寇の襲来が繋がるとは私も思っても見ませんでした。本筋の禅寺では、京都五山の相国寺の塔頭(たっちゅう)として、再び鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)も取り上げました。今回禅寺と言う認識でアプローチした時に、金閣と銀閣の意味が解ったのです。義満が、また義政がこれを造形し、いかに使ったのか・・。それを踏まえて、金閣と銀閣がある点において相克する。その観賞の仕方も実は全く異なるのだと言う事に気が付いたのです。また夢窓疎石がらみの天龍寺ではまたまた交易の話しが登場です。他にも禅庭の石組も追求したし、能楽の成立についても触れています。もはや内容多過ぎで小雑誌です室町時代の文化は、今に繋がる物が多く、興味は尽きないほどいろいろ出て来るので大変です。でも面白かった。京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパングクビライとマルコボーロと黄金の国ジパング黄金の国ジパングの出所日本仏教の再構築(禅の導入)足利家が生み出した北山文化と東山文化足利義満と北山文化世阿弥と義満北山澱北山澱の作庭家は誰?鏡湖池に組まれている石組み義政の東山文化向月台(こうげつだい)と月相克する金閣と銀閣の演出雪舟筆の山水図2幅夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭なぜ禅僧が作庭家になったのか?京都五山 第1位 天龍寺天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)クビライとマルコボーロと黄金の国ジパング宋(そう)(960年~1279年)の国は1279年に南宋が滅ぼされて終焉した。その南宋を滅ぼしたのがモンゴルから南下してきたモンゴル帝国の第5代皇帝クビライ(Khubilai)(1215年~1294年)である。彼はモンゴル帝国の国号を大元と改め1271年、元(げん)(1271年~1368年)の国が誕生する。それは唐の滅亡(907年)以来の中国統一王朝となった。クビライ(Khubilai)は内陸、モンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一したチンギス・カン(Činggis Qan)(1162年~1227年)の孫である。彼もまた攻めの領土拡大政策をとり朝鮮半島の高麗を従属させ、大陸のみならず樺太、日本、東南アジアのジャワ、ベトナムにまで船団を組んで襲撃した。※ 内陸のモンゴル出身と思いきや、元(げん)は何千と言う船を操り東南アジアからペルシャに至る海上ルートも手中に収めた海洋国? でもあったのだ。日本へも最初は服属を求め使者が来たが日本が使者を斬り殺すと2回襲撃に来ている。「元寇(げんこう)or蒙古(もうこ)襲来」と日本史で言われる戦いである。実は3回目の予定もあったらしい。前回記したが、日本では鎌倉時代(1185年 ~1333年)にそれは起きた。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来。second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)・・東路と江南の二手から大船団が襲来。first は28000人の兵に船舶900隻が壱岐、対馬経由で博多に上陸。日本軍は騎兵含み1万人で対応。苦戦したが元軍も損害を受けてfirst は撤退した。second は東路4万人(船舶900隻)と江南からは移民団など計10万人(船舶3500隻)と言う大軍で日本に襲来。日本軍は騎兵含み4万人で対応。※ 因みに2度とも日本軍の指揮は北条実政(ほうじょう さねまさ)(1249年~1302年)が執っている。鎌倉幕府も博多の防備を強固にしていたが、暴風雨(神風)も重なり船団は難破したりと撤退。日本の損害も非常に大きかったが、撃退したのは奇跡と言えた。クビライ(Khubilai)は日本を植民地にしようとしていたのか? 幕府は毅然(きぜん)とした態度で応対。立ち向かった事で危機回避できたと言える。それにしてもこんな状態にありながらも、元との交易自体は途切れる事なく存在していたと言う。それはクビライ(Khubilai)が対外貿易振興策をとり、日本からの貿易船の受け入れも留学僧らの上陸許可も出していたらしいのだ。(・_・?) なぜ?黄金の国ジパングの出所ところで、東方見聞録を著したマルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)が、まさにこの時代に元(げん)来ている。(1271年~1275年頃クビライと謁見?)彼はクビライ(Khubilai)の使者として活躍し、気に入られてクビライの元で長く働いている。おそらく帰るに帰れない状態だったと思われる。1295年、本国ヴェネツィアに帰国できたのは、ある意味奇跡だった。 欧州への帰国後、彼は元(げん)で聞いた「黄金の国ジパングの話し」を東方見聞録で紹介した。※ 東方見聞録はマルコが直接著した本ではなく、1298年頃、牢獄で知り合ったイタリア人小説家がマルコの冒険話しを著したもの。全4冊。実は正式タイトルは不明。他国ではイル・ミリオーネ(Il Milione)(100万)とか、マルコポーロの冒険(The Travels of Marco Polo)とも呼ばれている。「黄金の国ジパングの話し」は、ひょっとしたらクビライ自身がマルコに語った事なのかもしれない。クビライが攻めた高麗の前に新羅の国があった。※ 936年に朝鮮半島の新羅を含む後三国の統一を果たして建国したのが高麗。新羅は黄金文化の国。かつて日本は新羅(しらぎ)(668年~836年)との交易で金を輸出していた。また宋との貿易でも砂金を輸出している。日本が言われる程黄金に満ちている国とは到底思えないが、新羅の黄金文化は日本から輸入される金で支えられていたと伝えられていた? あるいは信じられていたのかもしれない。実際の砂金の産地は不明だが・・。佐渡金山の鉱山発見は1601年頃の山師によるとされているが、それ以前から川で砂金が採れたのではないか? もしその砂金が朝鮮半島に売られ、新羅の黄金文化を少なからず支えていた可能性は十分考えられる。当時、新羅と現 石川県の港に定期航路があったらしい。(韓国中央博物館に地図あり。)韓国中央博物館から新羅時代の黄金物新羅王国-ファンナムの金冠5〜7世紀に韓国の新羅王国で作られた王冠は慶州の墳墓から発掘された。韓国の国宝となっている。冠に付いている翡翠(ヒスイ)の勾玉(まがたま)は日本産? の可能性が高い。新羅の黄金文化は4世紀頃に突然登場して200年程で消えたと言う。下も新羅の耳飾りであるが、独特な線の細工はソグド人の金細工ではないかと思う。新羅はシルクロードで遠いペルシャ方面とも交易をしていた。「草原の遊牧民?との関係性が問われている。」と博物館では解説されていたが、草原の遊牧民ではなく、彼らはソグディアナ(Sogdiana)を源郷とする交易商人ソグド人と思われる。ペルシャから長安(ちょうあん)や長江(ちょうこう)に至るまでシルクロードで荷を運び続けたのは彼らソグド人なのである。※ ソグド人の説明は以下でしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)左は耳飾りにも使われている細かいリーフが束になっている首飾り。墓に黄金の副葬品を入れる文化は仏教の伝来と共に消えたらしい。三国時代 新羅の純金官母。約5世紀頃(書記400年代)と推定朝鮮半島統一王朝の高麗(こうらい)を従属させたクビライが金は海の向こうジパング(日本)からもたらされたと思い込んだ可能性は高い。それ故、クビライは「日本へ行けは砂金がいくらでも採れる」と信じて日本攻めを決行した可能性が高い。first でクビライは高麗の者らを連れて日本に進軍してきている。道案内か? secondでは大量の移民団をすでに連れて来ている。「黄金を採りに日本へ行くぞ!」とトレジャーハンティング(Treasure hunting)的な日本攻めだったのかもしれない。その執着は大きかった。3度目はかなわなかったが・・。クビライはマルコに「私は再び日本に行って金を我が物にする。」なんて自慢したのかもしれない。元寇の襲来は「黄金の国? ジパング伝説」がベースにあったのかもしれない・・と言う仮説でした。さて、ここからが本スジの五山です。日本仏教の再構築(禅の導入)ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)したと紹介した。確かに禅宗は武家に合っていたがそれだけではなかった。実のところ当時の仏教界の現状に起因する。老舗仏教の天台や真言系の寺の堕落(勢力拡大や争い)が酷い有様で、皆の心が離れていたからだ。栄西(1141年~1215年)禅師が1187年、再度南宋行きの船に乗ったのも日本の仏教界の現状を嘆いたからで、禅の心に真の仏教を呼び戻そうと禅の導入に未来を見たのだろう。そして禅師は持ちかえった禅を布教し、武家らに禅が受け入れられた。実際、争いの絶えない彼らを納める為に、例えば平清盛(1118年~1181年)も延暦寺と僧兵の駆除の攻撃をしている。第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)も僧兵の制圧をしている。天台系仏教寺の延暦寺(えんりゃくじ)はすでにこの頃から軍事独裁国家のごとき様相を呈していた。(調べるとかなり悪さをしている。)仏道の者が仏道以外の道に進んでいたので世間は逆にドン引きだったのだろうと思われる。(すでに堕落の極みだった。)※ 以下のリンク先は信長による焼き討ちの事を書いたものですが、平清盛と足利義教の事も触れています。これに終止符を打ったのが織田信長なのです。リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由足利家が生み出した北山文化と東山文化後醍醐天皇の新政(1333年~1336年)に対して武士や朝廷内部からの不満が爆発して起きた南北朝の長い動乱(1336年~1392年)。これは皇統の分烈が招いた戦いでもあった。後醍醐天皇(南朝) VS 足利尊氏 光明天皇(北朝)1336年、光明天皇より足利尊氏(1305年~1358年)は権大納言に任命された。自ら鎌倉殿を継承すると言う意味で「鎌倉大納言」と称す。室町幕府の実質的誕生である。1338年、光明天皇より足利尊氏(在位:1338年~1358年)は征夷大将軍に任命され室町幕府が名実ともに成立する。南北朝の動乱が決着するのは1392年。北朝の勝利で終決。すでに第3代将軍 足利 義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代である。この時に義満は幕府を京都に移転させた。京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、室町時代は、京の街が幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が京でも開花するのである。足利義満と北山文化いわゆる北山文化と東山文化と呼称されるそれらは、室町幕府の権勢下で3代将軍 足利義満が引退後に北山に建てた別邸(後の鹿苑寺)、その北山澱を意識して8代将軍 足利義政が東山に建てた別邸(後の慈照寺)。それらから発信された文化の総称である。室町時代(1336年 ~ 1573年)。この内1336年 ~ 1392年は南北朝動乱の時代である。1392年、皇統分烈の動乱を収めたのが3代将軍の足利義満(1358年~1408年)だ。平和になった義満の時代(在位:1369年~1395年)大陸(明)との交易も再開される。だからこそ文化は花開き始めた。また義満自体が芸術、芸能に造詣(ぞうけい)があり、好きだったのではないか?と推察する。だが足利将軍家によって統治されていた室町時代(1336年~1573年)は15代将軍 足利義昭(1537年~1597年)(在位:1568年~1588年)の時代まで続きはするものの、幕府(足利家)の権勢が安定して続くのは 応仁の乱(1467年 ~ 1477年)までなのだ。つまり実質の足利時代は1392年~1467年と割と短い。残りおよそ100年は将軍家の弱体により動乱時代となり続く。因みに、足利家の権勢が弱体を始めるのが8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時。彼が慈照寺(じしょうじ)を造営したのは応仁の乱後の1482年。引退後である。第3代将軍 足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)の時代に(前期)北山文化が開花する。北山文化を代表する建築が鹿苑寺舎利殿(ろくおんじしゃりでん)通称 金閣寺(きんかくじ)。その北山澱から俗に北山文化などと呼称されるのだが、それは義満が37歳で引退した後の話である。彼は引退した後に明とのプライベート貿易を始めている。北山澱は彼の引退後の宮殿であった。金張りされた金閣寺を見ればわかるよう一見、建築は豪華な貴族文化が見てとれる寝殿造り。が、金閣自体のコンセプトは極楽浄土の表現らしい。思想が盛り込まれて作庭された「禅庭」は今、特別史跡・特別名勝・世界遺産に認定されている。北山澱は皇族や武将らの接待などでも派手に利用されたと思われる。また、彼は芸術を奨励して美しい物を愛でるのは事の他好きだったようだ。ここでは観劇など色々なイベントが夜な夜な催され、また色々な文化が発信されたと思われる。要するにセレブの娯楽場? 的な要素も多分にあった? ところで、3代目義満はおぼっちゃまと言って良い育ち。そもそも足利家は源氏の出自。2代目将軍の父の早世により義満はわずか10歳で家督を継承し、12歳で征夷大将軍になっている。帝王学を学ぶのはそれからだが、回りの人間にめぐまれたのだろうと推察する。それ故、様々な改革など本当に彼の功績によるものなのか? が今ひとつ見えない。旧態の天台や真言系の寺が勢力を持って敵対していた時代である。宋に習って五山を京都にも導入して他勢力を抑えた事など良きブレーンがいてアドヴァイスがあったと思われる。実際、管領細川頼之が幼少の義満を助け、また将軍職を継いだ後も補佐役として活躍したらしい。1383年、左大臣に就任し源氏一の長者となる。人柄は解らないが、人望はあったらしい。義満の出家時には、多くの武家や公家、皇族らまでが追従して出家しているらしいので・・。金閣と銀閣については、後でまた触れます。世阿弥と義満足利家は明との交易で財を成したので経済的余裕もあるし、義満は育ちが良い。半ば公家のような生活をしていたので元々、芸能は好きだったのだろう。観阿弥(かんあみ)(1333年~1384年)、世阿弥(ぜあみ)(1363年~1443年)親子を見い出したのも義満である。世阿弥(ぜあみ)12歳。義満がいかに贔屓(ひいき)にしていたのが観劇の記録にも残っている。南北朝時代まではものまね芸に近い猿楽芸能(現在のコントに踊りがついたようなもの?)あるいは神楽の一種(各種神事で神に献げる舞)であった舞台芸能。当時は大衆の芸能に近かったものを至高の芸能に高め能を完成させたのが世阿弥(ぜあみ)である。能は今や最高級の芸能舞台である。余談であるが、少年藤若(後の世阿弥)は舞のみならず、連歌や蹴鞠(けまり)も堪能でまた賢かったようだ。義満のみならず、当時の関白 二条良基にも気に入られた。藤若にプレゼントすると義満が喜んだので、諸大名もこぞって藤若に贈り物をしたと言われている。因みに二人は5歳違いです。義満は弟のように可愛いがったのかもしれない。才能だけでなく美貌もあった。ある意味それも才能である。世阿弥は貴人らの保護により芸能の道を究める事に精進(しょうじん)できたのである。能楽(のうがく)は禅由来の芸能ではありませんが、空間の中での舞に見る動と静の使い方。独特な時間軸を持つ優美な舞台である。幽玄(ゆうげん)と言う言葉は能にこそ表されていると思う。それは至高の美かもしれない。能楽の完成に関しては、世阿弥はともかく、足利義満がいなければ完成は出来なかった。そういう意味で彼の存在の意義は北山澱造営よりもあったと私的には思う。ところで、能のスローな動きは当時の人の生活のリズムだと言われた事がある。本当か? 参考写真に能を振興する銕仙会(てっせんかい)の写真館からお借りしました。能に興味のある方は勉強できるサイトです。リンク 銕仙会 能楽事典写真は世阿弥の作品である井筒(いづつ)です。「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに」by在原業平伊勢物語の井筒をベースに書かれた続編的な作品で、帰らぬ夫を幽霊になっても待ち続ける女の霊の話しです。能を初めて観る方にも解り易く美しい作品かと思います。たしか私が学生時代に観世能楽堂で初めて見た能も井筒だった。北山澱1397年、足利義満は北山に山荘(北山澱)を建築するのだが、それに先立ち1382年、御所の北に相国寺を建立している。それが京都五山、第2位の寺格を持つ禅の伽藍(がらん)である。※ 現在、北山澱は相国寺の山外塔頭「鹿苑寺(金閣)」と位置づけされているがそれは義満の死後である。生前は寺ではないので。※ 東山の慈照寺(じしょうじ)(銀閣)も相国寺の山外塔頭となっている。京都五山2位 相国寺山外塔頭 鹿苑寺(金閣)1397年、もともと西園寺家の寺のあった場所を譲り受け足利義満はそこに離宮として山荘(北山澱)を建立。1398年舎利殿が完成すると亡くなるまで義満はこの舎利殿に住み着いたらしい。※ この時、舎利澱金閣以外は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。北山澱の作庭家は誰?禅寺となるのは義満の死後で1408年以降。遺言があり夢窓疎石にを開山を依頼。義満の法号「鹿苑院殿」から北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)と命名された。上は相国寺のホームやWikipediaにも書かれているが・・。夢窓疎石(むそう そせき)の方が先に亡くなっています。と、言うか、そもそも義満が生まれる前に夢窓疎石はすでにこの世に居なかった。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)夢窓疎石(1275年~1351年)※ 夢窓疎石(むそう そせき)は臨済宗の禅僧にして日本初の作庭家。義満の死後に禅寺として開山され、その開基は夢窓疎石(むそう そせき)にお願いしていると言う話しがそもそも通用しない。ところでこの鏡湖池(きょうこち)や金閣は義満がここを造営した1398年頃に完成? 石は大名や義満が中国から運ばせた名石が置かれているので西園寺時代の池ではない。さて、この庭であるが、最初に造営した1398年も、すでに夢窓疎石はこの世に居ない。つまり誰の作庭か全く謎になってしまった。因みに、庭自体は江戸期に改庭されているようです。一つ考えられるのは、夢窓疎石(むそう そせき)の名を継承する2世が居たのかもしれない? と言う事。確かに「夢窓派」と呼ばれる門派は存在しているが、その話しは聞かない。まあ、義満に協力したのは夢窓派なんだろーなとは思うが・・。それにしても誰も気づかなかったの? ※ 現在の金閣は、1950年(昭和25年)に放火で消失。1955年(昭和30年)再建されたもの。鏡湖池(きょうこち)の中の金閣(きんかく)鏡湖池(きょうこち)は池泉(ちせん)回遊式庭園であると同時に舟遊式庭園でもある。※ 回遊式庭園とは、庭内を歩き回って様々な角度から観賞できる庭園です。金閣は三層造りになっている。一層・・寝殿造の法水院(ほっすいいん)。※ 法水とは、煩悩を洗い流す水を意。二層・・武家造の潮音洞(ちょうおんどう)。※ 海の音のように遠くから真実がやってくるという意。三層・・(中国風)禅宗仏殿造の究竟頂(くっきょうちょう)。※ 「究極」という意。床は漆塗りで、それ以外の柱や天井には金箔が貼られて仏舎利が安置されていたと言う。湖面に写るよう計算されて建築された金閣であるが、高台から眺める夕陽に映える金閣が特に良いらしい。さらに金閣が夕陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。つまり、今風に言うと「映える(ばえる)」仕様に敢えて造られていたのである。鏡湖池の中の小島は金閣の漱清(そうせい)から眺められる。鏡湖池に張り出す切妻造りの釣殿、漱清(そうせい)は船着場にもなっている。下、手前、出亀島。右奧、入亀島鏡湖池の中の石や小島には名前がそれぞれあり(出亀島、入亀島、淡路島、葦原島など)、日本各地から集められた名石が置かれている。九山八海石は、将軍・足利義満が中国から運ばせた名石。実は日本庭園の石組は、仏教の世界観を表す石組みと、道教の流れを汲む神仙蓬莱思想(しんせんほうらいしそう)を表す石組み、他、道教思想から来る石組み、また自然景観を表す造形の石組みなどから造られているそうだ。つまり、適当なバランスで置いているわけではなく、テーマに沿った配置がある程度決まっていると言う事でもある。しかし、金閣は仏教を示すものであったが、鏡湖池に配置された複数の石や石組は仏教だけにとどまっていない。およそ日本庭園の石組みほとんどのスタイルが込められているように思う。それは思想的にはチャンポンである。鏡湖池に組まれている石組み三尊石組(さんぞんいわぐみ)・・仏教の三尊仏をなぞった石組。神仙蓬莱石組(しんせんほうらいいわぐみ)・・中国の道教を由来とする神話、神仙思想からきている。須弥山石組「九山八海(くせんはっかい)」・・古代インドの仏教思想である須弥山(しゅみせん)の世界観を表す。他にも蓬莱思想に由来する夜泊石(よどまりいし)など石へのこだわりが強い。※ 4つの石で停泊する舟を表す夜泊石。舟は蓬莱島(ほうらいじま)に仙薬を取りに行く? 蓬莱島は神仙の島。そこには不老不死の薬があるらしい。※ 鏡湖池では葦原島(あしはらじま)島が神仙の蓬莱島(ほうらいじま)を表しているらしい。鶴亀石組(鶴石組、亀石組)・・鶴は千年、亀は万年の長寿を願う思想が込められている。鏡湖池には無いが、金閣の裏手に自然の景観を表現する石組がある。龍門瀑(りゅうもんばく)、鯉魚石(りぎょせき)・・滝を表す石組みである。滝を登る鯉(こい)? 水量によって見え方は微妙。この水量だと修行僧が滝に打たれているように見え無くもない。鏡湖池は盛り沢山。金閣の派手さに合ってはいるが・・。葦原島と赤松中心右の少し大きめの3つ石が三尊石組(さんぞんいわぐみ)優美な北山の鹿苑寺(ろくおんじ)庭園。芸術性の高い庭園ではあるが、義満が最初に作った時にもこうだったのか? ちょっと疑問がわいた。後世、石が追加されているのではないか?義政の東山文化8代将軍 足利義政(1436年~1490年)(在位:1449年~1474年)の時代、東山文化が隆盛(りゅうせい)する。足利義政は応仁の乱(1467年~1477年)のさなかでも能を愛でていたと言う楽天家?政治よりも文化芸能の方に興味があったのでしょうね。実際、足利義政は政治を省みなかったが、文化の振興には力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集、鑑賞したと言われている。足利義政は応仁の乱後、京都の東山に祖父義満にならって山荘を建てた。山号が東山(とうざん)。慈照院殿(銀閣)は東山文化を代表する建築と禅庭を持つ。※ 慈照寺(銀閣)も相国寺の山外塔頭に鹿苑寺(金閣)と位置づけされている。特に夢窓疎石(むそう そせき)由来の禅庭はこの時代には完成されていた? 枯山水(かれさんすい)は禅庭の行き着いた最終局面かもしれない。北山澱と東山では、そもそも活用の仕方も違うが、義満時代の仏教をベースにした華麗さを持つ鹿苑寺の禅庭と比べると、東山ではシンプルさの中に哲学を観るような進化を遂げている。義満時代の北山文化が発展し、昇華(しょうか)されたのが東山文化と言われる所以(ゆえん)だ。京都五山2位 相国寺山外塔頭 慈照寺(銀閣)錦鏡池と銀閣月待山(つきまちやま)手前の展望所からの撮影写真上下とも松の木で向月台は隠れている。慈照寺の看板から庭園をいろいろな角度から干渉し楽しめるよう散策コースがもうけられている。これを池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)呼ぶ。向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)向月台(こうげつだい)高さ180cm。最初からこの形ではなく、今の形になったのは近世らしいが、名前通り向月台(こうげつだい)の向こうから月は出るのだろう。向月台バックに月待山が在るし・・。敢えて言わせてもらえば、松の木が大きくなりすぎである。全体に銀閣の前の木の高さを低くしないと月が見えないではないか。※ 今はどうなっているか解りませんが・・。向月台(こうげつだい)も銀沙灘(ぎんしゃだん)も白砂の砂盛りで造作されている。モダンとしか言い様の無い形をしているが、これらは月を愛でる為に作られた造作と考えられる。月光が白砂に反射して銀閣を照らし銀色に輝く事から銀閣と呼ばれる・・との説もある。確かに銀閣の屋根も光を反射しやすい文様がある。輝銀沙灘(ぎんしゃだん)で造られた台地と月を盛る為の高台(こうだい)これら砂にも色々種類があるらしい。室町時代に隆盛する諸文化は禅(Zen)による所が大きいのも納得である。また禅自体も室町時代に権勢を誇るが、足利氏の力が衰えると臨済宗も衰退して行ったと言う。相克する金閣と銀閣の演出銀閣の粗めの白砂が敷き詰められた銀沙灘(ぎんしゃだん)と白砂で形造られた向月台(こうげつだい)。銀閣手前にあり、撮影に邪魔だと思っていたが、これは銀閣から向月台(こうげつだい)そしてその向こうに月を観る為に造られたのは間違いなさそう。銀閣から観ると月は調度、向月台(こうげつだい)の向こうに見えるはず。月を迎える台なのだから・・。また、時に向月台の上に乗っかる場合もあるのではないか? 向月台は高台(こうだい)の役割もしているかも。月が昇ると海面のようにきらめく銀沙灘(ぎんしゃだん)。向月台は月を背にしているので逆光でシルエットだけが浮かぶ。その上に光輝く月が鎮座した時は最高の時。月光の中で輝きを放つ銀閣と言うよりは、月光に照らされた銀沙灘(ぎんしゃだん)の青白い輝きと月の美しさを銀閣から愛でる為に、確かに設計されたのだと想像できる。向月台の影は一服のアクセントでもある。いずれにせよ、月待山に登る月を愛でる為に考案された、奧の深い造詣であるのは間違い無い。※ そう言う意味でやっぱり松の木がじゃまなのだ。一方、金閣は先ほど金閣が陽によりきらめき、より美しく水に写るように? 金箔が貼られたとも言われている。と紹介したが・・。私は違うと思う。「金閣造営」のところでも触れたが金閣もまた夜に「映える(ばえる)」よう造営されたと思うからだ。引退後に明との交易で舶来物も富も手にした義満は北山澱で観劇など色々なイベントを夜な夜な催し余生を過ごしたと思われる。引退した時、義満はまだ37歳だった。それにセレブは夜に活動するものだからね。金閣前の鏡湖池(きょうこち)にはたくさんの松明がかかげられ、金閣はきらびやかに発光し夜の闇の中に浮かび上がるように光輝いていたはずだ。まさに黄金の宮殿だったはず。義満はそれを舟で池から眺めていたかもしれない。まさに北山澱の目玉である金閣は極楽浄土にある宮殿を表現した建物だったのではないか? と推察した。つまり銀閣と金閣の用途は大きく異なる。派手に振る舞った義満に対して、静を感じながら風流を愛でていた? 義政の余生。金襴の極楽浄土を表現した義満。余計な物を排除してシンプルさの中に美しさのみを取り出した義政。義政の銀閣は、禅文化の行き着いた所の造形だったのだろう。それらを踏まえて言えるのは、金閣も銀閣も夜に「映える(ばえる)」よう設定されたイルミリオン(Ilmilion)のようなもの。双方日中に観覧してもその持つ意味を理解は出来ないだろうと言う結論です。是非夜に体現(たいげん)してみたいものです。雪舟筆の山水図2幅 共に国宝左(1470年筆) 秋冬山水図2幅のうちの冬景図右(1495年筆) 破墨山水図(はぼくさんすいず) 雪舟自序月翁周鏡等六僧賛の詩画軸の下部両作には25年の歳月の開きがある。雪舟(せっしゅう)(1420年~1502年 or 1506年) は48歳の時に明に渡っている。左の作品は帰国してすぐ? 「宋では李在(りざい)と長有声(ちょうゆうせい)に画法を学んだ」と右の作品(上部)に書かれている。つまり、左の作品が宋で学んだ技法で描いた山水画。右の作品が雪舟76歳のときの作で本来は詩画軸。破墨山水図(はぼくさんすいず)は雪舟が辿り付いた山水画の境地? 相国寺の塔頭(たっちゅう)慈照院に伝来。6人の禅僧の賛が付されているので「雪舟自序月翁周鏡等六僧賛」とタイトルされている。夢窓疎石(むそう そせき)の禅庭夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)は禅僧であり作庭家。また漢詩人でもある。後醍醐天皇より「夢窓国師」の国師号を下賜。禅僧としても当然立派な方ではあるが、禅庭の作庭家としそての方が知名度がある。代表するのが天龍寺庭園や西芳寺(苔寺)の庭は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。何より禅庭「枯山水(かれさんすい)」の第一人者として世界的な作庭家である。京都の建仁寺で禅宗を学んでいるので臨済系の禅僧であるが、最初から禅宗だったわけではないようだ。天台で満足出来なかった夢窓疎石は禅宗に移り各地で修行を行っている。なぜ禅僧が作庭家になったのか?明確な理由はわからなかったが、禅僧にとって作庭も修行で在るらしい。作庭に修行の成果も現れる?いずれにせよ、夢窓疎石は修行で各地を回っている。修行地の地形、景観、自然をたくさん見聞し、また禅の修行の中で自(おのず)と自然の眺望や景観を体得したのだろうと思われる。渓流、滝、海岸、海などでは水場の風景を。坐禅の修行場では洞窟や坐禅石から石と石組みを得たのかもしれない。また生き物である亀や鳥を観察。伝説の獣である龍なども想像して石に投影させる。山や島においては石の置き方、また松などの配置でいかようにも変化がつけられる。そう考えると、観察力がするどく、また想像力もずば抜けてあった人なのかもしれない。夢窓疎石の作り出す庭園が人工物であるにもかかわらず、滝は本物の滝のようにあり、池も川もおよそ人工物とは思えないリアルさがあるのもうなずける。寺の庭と言う限りある敷地の中で、山野を作り池や小川、時に海を造って表現した。夢窓疎石は本当に天才です。ザックリ言うと、前期の禅庭は景観演出につきるが、それらは石組みに集約されている。自然に見える自然(実は人工)の中に様々な石を置き、その配置で、何かしらの世界を表現する。山、川、滝、島、龍、亀、etc。後期の方は、もはや自然の岩や木々や水さえ使わずに自然の世界感を表現すると言う大胆な発想による進化をみせた。枯山水(かれさんすい)はもはや庭を越えた至高のアートだ。また、苔をふんだんに使った演出では精神の静寂をいともたやすく導いてみせた。禅庭はただの景観演出からより深い精神性を示すものに進化している。確かに、作庭する禅僧の力(りき)次第で善し悪しも変わったのだろう。水を白砂で表現して海や池、川など水面を表現。当然、その中に絶妙なバランスで配置される石の意味は大きい。何より全体のバランスとアートしている白砂の文様。それ自体にも禅の心が投影される?それらはただのアートで終わらせない奥深い意味を持つ。現代アートでは、アートの意味は作家の言ったが勝ち。作家がそう表現したと言えばそれが正論であるが、枯山水の表現は作家がわざわざ言わなくても見た者が感じ取れるものなのだ。京都五山 第1位 天龍寺夢窓疎石により作庭された曹源池(そうげんち)庭園は国の特別名勝・史跡となっている。夢窓疎石からの流れで京都嵐山にある天龍寺も再び紹介しますが、前のとはアプローチが違うので別物です。山号 霊亀山(れいぎざん)臨済宗天龍寺派の大本山。開基 足利尊氏(1305年~1358年)(在位:1338年~1358年)開山 夢窓疎石(むそう そせき)(1275年~1351年)1994年「古都京都の文化財」としてユネスコ世界文化遺産に登録された寺社17の中の一つ。曹源池(そうげんち)庭園前の大方丈創建1339年。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船(造天龍寺宋船)による貿易この天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立したものだ。天皇とは言え、南北朝の動乱(1336年~1392年)では敵対していた相手なのに・・。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(1288年~1339年)第96代天皇・南朝初代天皇 (在位:1318年~1339年)元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め開山する事になったが、天龍寺の創建には莫大な費用がかかる事が予想された。尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しても全く足りず、造営費捻出の為に考え出されたのが、貿易船の一時的再開だったそうだ。元冦(げんこう)以来途絶えていた元との貿易。※ 元寇の襲来(first 1274年、second 1281年)室町幕府公認の下に「寺社造営料唐船」として天龍寺が舟を出し、その利益で造営費用を捻出したそうだ。そうして天龍寺は1339年に創建し、1345年に落慶したと言われる。こうした室町幕府のバックアップもあり、苦労もあり。また、立派な寺でなければならなかった。天龍寺をどうしても五山の第1位に据えたかったのだろう。※ 相国寺は1382年建立。最初から2位?※ 南禅寺は繰り上がり「別格」と言う特別措置になった。それにしてもなぜ足利尊氏は敵対していた後醍醐天皇の為にそこまでしたのか?一説には尊氏が後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたから・・とも言われる。夢窓疎石の勧めも在り、もともと禅宗は後醍醐天皇や大覚寺統が支持していた事もあり縁の地に大きな禅寺の建立が決められたと言う事らしい。やっぱりね・・。と思った。ところで、1342年8月に2隻の天龍寺船(貿易船)が元に向かい、莫大な利益を上げて帰国したと言われるが、一体何回、何を売って商売してきたのかが不明です。庭園は広く、池の全景写真は撮影ができません。下は大方丈からの庭園池泉回遊式庭園で嵐山や亀山を取り込んだ借景式庭園。見所は池の中央奥に見える龍門瀑と手前に見える龍の石組みです。右手前、龍が海面から頭と背中を出しているところらしい。曹源池(そうげんち)庭園 龍門瀑(りゅうもんばく)先ほど金閣の所で滝を表す石組み「龍門瀑(りゅうもんばく)」と鯉魚石(りぎょせき)の事はふれたが、こちらはもっと大きな龍門瀑(りゅうもんばく)である。鯉が滝を登ると龍になるという故事「登竜門」にちなんで鯉を石に見立てる鯉魚石(りぎょせき)は滝造りに欠かせないアイテム。天龍寺の鯉魚石は、鯉が滝を登り龍へと変化する瞬間を表現した珍しい配置らしい。そもそもは、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を鯉の滝登りに当てた? 石組が龍門瀑(りゅうもんばく)。他に遠山石が蓬莱島(ほうらいじま)を表現。水落石が三石で三段の滝を表現?となる。石が多く、他にも石橋が置かれたりと、遠くから観たら一体にはなっているが、実際は間隔があって寄せて組まれた石組らしい。京都五山禅寺終わります。南禅寺のお庭、結局紹介出来なくて・・。「京都五山禅寺 4」はやるつもりないですが、絵になる石組みや枯山水もあるので特別編で紹介するかも・・。先週から毎日今日載せよう・・。と、一週間がすぎ、もう年末です。今年も一年が早かった。結局今年もコロナに振り回された感がありますが、ワクチンや治療薬も来年には国産が登場。少しは明るい年になる事を期待しています。例によって後から修正あるかと思います。訪問ありがとうございました。m(_ _)mback numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月28日
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Back numberをラストに入れました。最近の日本でのコロナ急減少。良い傾向ではありますが、世界の情勢を見ると少し不気味ではあります。なぜ日本だけ? これから遅れて日本もまだ増加するのか?そんな時に新たなコロナの上陸。世界が驚愕して株価は暴落。注意する事に変わりはないが、気にしすぎたら生活が成り立たない。最も、除菌やマスクはもはや生活の一部となっている。マスクなどすでにファッション化して柄物はともかく、マスクピアスなども出ていて、順応の高さに驚く。若い人は特に環境の適応能力が高い。どんな時にも遊び心を捨てていない。良い傾向である。それに、慣れてしまえば元の生活の方が無防備で怖い事を思い知ったからね。さて、今回も日本編の続きです。計らずも、今回は日本の交易の話しが半分。禅文化まで辿り付くのに遠くから入り過ぎました。日本では平安から鎌倉時代の激動期に禅が伝わるのですが、それは中国が宋(そう)の時代です。当時の日宋の関係を見ていたらおもしろい事に気が付いたのです。武家政治に移行した期間にプライベート交易が増え、平家や足利家がその富を得ていたのです。何故だ?興味の深追いをして、交易自体の確認をしていたら飛鳥時代まで遡ってしまいました。遡ったのはシステムの確認でもあります。時代と共に輸出入の品は変わります。相手国の状態で交易自体も変化していきました。朝廷から武士に権勢が変わったから日本に輸入される品物もガラっと変わった? 増えたのです。もたらされる文化も上層から中層へと移った。武士の文化が禅を引き寄せたと言っても過言でないかもしれない。今回Part2は交易と禅の影響を受けた文化? の2本立ての予定でした。交易に時間を掛けすぎたのもありますが、最後に禅文化をチャチャと入れて終わらせるつもりが、チャチャと終わらせられなくなりました。禅を甘く見ていました。禅からもたらされた文化の深さ。あれもこれも載せたい。少し突っ込みたい。いつまでたっても終わりが見え無い。そんな訳で 分割させていただきました。つまりPart3 行きます (^^;)※ Part3 はなる早で仕上げる予定です。すでに半分できているので・・。写真ですが、今回は南禅寺三門と建仁寺の禅庭。他、五山禅寺のあちこちから引っ張っています。次回は相国寺の山外塔頭金閣と銀閣の庭。禅庭に関しては(訂正)天龍寺と南禅寺を考えています。結構写真はあるのです。「アジアと欧州を結ぶ交易路 15」を待っている方申しわけありません。年内は無理です。やる気にならないと書けない部分もあるので・・。京都五山のPart3 を出して、年越か正月に何かショート物が出せれば良いのですが・・。そんなわけで (*_ _)人ゴメンナサイ京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡おまけ 新羅との交易遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)平家による宋(そう)とのプライベート貿易太宰府を排した独占的貿易で平家台頭なぜ公式の太宰府を避けたのか? 代用貨幣から貨幣経済へ日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ足利氏によるプライベートの貿易禅宗から生まれた文化建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園禅の心〇△□とは絶景かな絶景かな by石川五右衛門(南禅寺)南禅寺三門からの眺望 見えるのは京都盆地です。1778年、大坂角の芝居小屋で初演された歌舞伎狂言「楼門五三桐さんもんごさんのきり」「絶景かな、絶景かな。・・」は、芝居の中、南禅寺の山門の上から夕暮れ時の満開の桜を眺め、桜をめでた石川五右衛門(いしかわごえもん)の有名なセリフです。舞台でのセリフですが、実際ここがその脚本の絶景スポットなのです。「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と続く。実際の撮影ですが、前日に降った暴風雨で満開の桜は葉桜に代わってしまって残念でした。三門を反対から見た所です。見えるテラスからの景色です。天気が微妙でかなり明るくしています。南禅寺は京都盆地の東に位置しているので盆地の向こうに見えるのは嵐山方面です。真裏に法堂が見えます。そもそも法堂の山門ですからねそう言えば、回廊が付いて一周回れる三門はここだけ? 前回紹介していますが、高さ22m。三門自体は東福寺と同じ高さですが、こちらの方が見晴らしは良い。海抜も高いのでは? 第90代、亀山天皇(1249年~1305年)(在位:1260年~1274年)が1289年、出家して法皇となり1291年、南禅寺を開山。五山の中で南禅寺が別格なのは亀山天皇の勅願に寄る所らしい。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が広まったと言われるが、その実、出家しても好色ぶりは変わらなかったと言う。亀山上皇時代には元寇の来襲などもあった。野心家で、兄の後深草天皇を差し置いて皇位継承した事から亀山系の南朝と後深草系の北朝(持明院統)と言う皇統の分裂を招いた。南北朝動乱の元凶がここ。何度か消失し、現在の法堂は1909年の再建。水路閣が方丈の裏庭を通っています。南禅寺と言えば、石川五右衛門の句で有名な三門ですが、それ以上に有名なのが水路閣(すいろかく)と呼ばれる水道橋です。京都ものの推理サスペンスでは出ない事が無いと言えるほど出てくる水路閣は、南禅寺の敷地内を通過しています。以前水路閣については書いています。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)方丈の禅庭については後半に・・。宋との交易を調べていてここまで遡(さかのぼ)りました (^o^; 公式の外交使節団(遣隋使と遣唐使)遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)の名前くらいは記憶に残っていると思いますが、これが正式に確認できる日本の最初の公式の外交使節団です。※ 遣(けん)とは訓読みで「つかわす」。遣隋使は「随に送った使者」の意です。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に日本の正式な外交使節団として、隣の大国である随(ずい)(581年~618年)の第2代皇帝の煬帝(ようてい)(在位:604年~618年)に両国間の国交を開く為に派遣された使者です。※ 推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。遣唐使出港の想像図(難波宮) 大阪歴史博物館のパネルから前期難波宮は第36代、孝徳天皇(こうとくてんのう)(596年(推古天皇4年)~654年)が造営したとされる。ここで、百済からの外交使節なども受け入れていた。難波宮は初期の日本の外交窓口でもあった。件の遣隋使や遣唐使船はここ難波宮から瀬戸内海を通り大陸に向かった。奈良の都の者らもここまで見送りに来ていた? 外交使節の為の宿泊所もあったらしい。前期難波宮は686年、大蔵省の失火から全焼。後期難波宮は726年、第45代、聖武天皇(701年~756年)が再建を指示。732年完成。平城京の副都と位置づけされたらしいが・・。都の再建は聖武天皇(701年~756年)の御代、735年~737年に天然痘が流行した事によると思われる。以前「四天王寺庚申堂」の所でも書いているのだが、後期難波宮(大阪の宮)の建設などは、飛鳥に居られなかった切迫した状況があったからだと考えられる。実際どの程度使用されていたのかは解らない。難波宮廃止と長岡京遷都は同時に決められたらしい。桓武天皇(737年~806年)は平城京でなく、難波宮を長岡京(784年~794年)に移築。難波宮は784年に解体され消えた。しかし結局、長岡京も都があったのは10年ほど。794年には平安京に遷都されている。難波宮は、大阪湾に面した上町台地にあった。それは奈良の都に繋がる旧大和川の河口にある。下は大阪歴史博物館のパネルから。埋め立てが進み、現在とはかなり地形が異なってますが、およそ現在の大阪城跡南の所。大阪歴史博物館は難波宮(なんばぐう)の史跡の上に建っている。※ 地下の史跡見学ツアーがあります。下は小学館の「日本歴史館」の挿絵から借りました。東シナ海を渡るのは危険を伴う航海です。新羅(しらぎ)との関係が悪化した時は東シナ海を南路渡ったらしいが、大陸側まで寄港地が無い。長期の航海となり、また食糧なども多く積む為に船の大型化も図られたらしいが、考えたらこれはガレー帆船。長くはこげないので帆に頼る所も多かったと思われるが造船能力も低く季節風など航海技術も乏しい。3割の船は難破したと言う。その為に一気に沈まないよう船の設計も考えられたらしいけど・・。時間かせいでも泳げなければ・・。下も小学館の「日本歴史館」の挿絵から遣唐使船復元図全長25m。最大幅9.7m。120~140人乗り。この設計で復元船の実物が造られている。楠(くすのき)が主で杉、檜(ひのき)、松も使われた。船底を隔壁(かくへき)で区切ってブロック割にし、一気に沈まないよう対策されたらしい。タイタニック船の沈没を思い出した遣隋使や遣唐使に選ばれる事は名誉な事であるけれど、命がけだったわけで、無事に帰国出来た者が成功者になれたのですね。大阪歴史博物館の宮中フィギュア(宮中の侍従達)です。ところで、大陸側(随や唐など)から見ると、皇帝に対して周辺国の君主が認めてもらう為に貢物(みつぎもの)を持ってやって来る朝貢使(ちょうこうし)に捉えられるようだ。が、実際、朝貢を受けた大陸側(随や唐など)は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜(かし)する為に貢物を献上する側の方が(土産が多く)お得となっている。※ 返礼もあるので大陸側も、何者でも朝貢を認めた訳ではなかった。話しは戻って、有名な「日出ずる処の天子・・」の書き出しで始まった失礼な? 文面であったが、煬帝(ようてい)はこれを認めてくれた。間違いなく国のトップからの使者と理解したからだろう。国のトップ同士が話しを付け、この時(第一回は600年)、正式に国交を結んだ? 開かれた? のである。遣隋使と遣唐使がもたらしたのは先進文化日本は仏教の輸入が当初の目的であったが、同時に大陸の先進的な技術や文化、政治に至るあらゆる物を学び持ちかえったのである。これは唐の時代になっても同じく遣唐使船には僧侶だけでなく、文官や政務官など多くの留学生が同行し、あらゆる物を学び、吸収して帰国した。※ 仏教に至っては、派がすでに複数誕生しているので、誰に師事するか? もあったろうし、流行の派(最先端の仏教)は重視されたかもしれない。また、彼らの帰国時には経典のみならず、書や暦、陶磁器などすぐれた文化の名品も持ち帰っている。実際、遣隋使や遣唐使の帰国時には皇帝から天皇へのたくさんの土産が持たされたはずだ。※ それらは奈良の正倉院に現在も宝物として残されている。つまり遣隋使と遣唐使は単に交易を目的としたものではなく、彼らが持ち帰ったのは国交によってもたらされた文化というお宝だったと言う事だ。遣唐使船はただの交易船では無かったと言う事でもある。日本からしたら、実際に正倉院にある「ササン朝の切子グラス(6~7世紀頃)」など遠くペルシャからもたらされた古代ローマン・グラスはあこがれ以上の眩しい文化だったろうと思う。※ 古代ガラスについては「アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード※ 仏教の伝来については、「倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)」の中、「仏教の伝播」・「日本へのルート」・「日本への伝来」 で多少書いています。リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)当時、70の周辺各国が唐に朝貢使(ちょうこうし)を送る関係が合ったとされる中、朝貢関連の国との取引もむしろ唐に派遣した遣唐使(630年~894年)よりも多くあった。遣渤海使(けんぼっかいし) (728年~818年) 輸出 (絹、絁(あしぎぬ)、糸、水銀、椿油、漆など) 輸入(毛皮、昆布、朝鮮人参、日干し、蜜など)遣新羅使(けんしらぎし) (668年~836年) 輸出 (金、絹、絁(あしぎぬ)、錦、真綿、美濃絁) 輸入(佐波利製食器(金属食器)、朝鮮人参、絨毯、香辛料など)遣唐使らの航路図資料は小学館の日本の歴史(上)から借りました。遣唐使は公式な外交船。だから難波宮から出港していた。遣唐使の停止、再開、停止そして唐の滅亡唐(とう) 618年~907年該当する日本の時代は、飛鳥時代から平安の中頃まで飛鳥時代 592年 ~ 710年奈良時代 710年 ~ 794年平安時代 794年 ~ 1185年日本と唐の関係は当初良行であったが、同時に日本は朝鮮半島の百済(くだら)とも300年に及ぶ強固な同盟関係を持っていた。※ 当時朝鮮半島には日本の統治領もあった? 「朝鮮半島の倭人について」は、「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」で触れています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)朝鮮半島で起きた動乱で百済(くだら)は唐や新羅と敵対し戦争(白村江の戦い)になった事から、日本は百済側に付き参戦。それ故日本も唐や新羅と敵対関係になり遣唐使は一時停止された。※ 白村江(はくすきのえ)の戦いについても「倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)」の中、「百済の最後、白村江の戦い」で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)以降に遣唐使は再開される。しかし。894年、菅原道真の建議により再び遣唐使は停止された。国内の災害や唐の衰退などが要因であったようだ。そうした事からその間、日本の朝廷は許可なく異国に渡ることを禁じた渡航制限と、唐や宋などの商船の来航制限をもうける措置をとったらしい。停止から13年、唐は907年に滅亡した。結局、遣唐使は再開されないまま終わった。つまり、ここに公式の外交使節団は終ったのである。次代の宋(そう)の成立には間がある。※ 唐以降の変遷 唐(とう)→宋(そう)→明(みん)おまけ 新羅との交易新羅(しらぎ) BC前57年~935年※ 7世紀中盤(三国時代)・・新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立(ていりつ)※ 668年~900年(統一新羅時代)・・朝鮮半島唯一の国家新羅の時代※ 10世紀(後三国時代)・・新羅が分烈、後高句麗と後百済の再び3国に。新羅の商人もかなり日本に来ている。白村江の戦い(663年)以後、668年以降に日本は遣新羅使を派遣し国交回復?以降の天皇は親新羅政策をとったが8世紀の終わりに新羅の内乱が勃発。多数の難民が日本列島へ亡命し帰化申請する事態が発生。翌780年に公式の遣新羅使は停止されたが、民間レベルの交易はやはり残ったらしい。※ 韓国の国立中央博物館で新羅時代の日本への航路図を見た。朝鮮半島から新潟に航路を取って新羅の商人も頻繁に日本に来ていた事を示していた。彼らは日本(新潟の糸魚川)で産出される翡翠を欲っしていた。華々しい黄金文化で栄えた新羅(韓国)では、勾玉(まがたま)として翡翠は必需。しかし、絶対的に需要はあるが自国で産出できなかったからだ。大陸側にとって、日本の翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)、真珠(しんじゅ)はまさに宝玉であった。遣唐使の停止後の大陸との交易事情 宋(そう)→明(みん) 新羅民間レベルの日宋交易(にっそうこうえき)宋(そう) 960年~1279年※ 960年 ~ 1127年 (北宋)※ 1127年 ~ 1279年 (南宋)該当する日本の時代平安時代 794年 ~ 1185年 (平氏政権 1167年 ~ 1185年)鎌倉時代 1185年 ~1333年※ 栄西(1141年~1215年)、臨済宗(りんざいしゅう)を1191年宋より持ちかえる。※ 道元(1200年~1253年)、曹洞宗(そうとうしゅう)を1226年宋より持ちかえる。唐が滅んだ後、当然次の宋(そう)との間で国交が交わされ、遣宋使(けんそうし)が派遣されると思うところだが、実際、交易は行われていたが、それが遣隋使や遣唐使の時のような皇帝と天皇による国際的な国交か? と言うとそのクラスではなかったと思う。単なる民間の交易を認めただけ・・と言うレベルに思う。1401年の遣明使(けんみんし)にしても、幕府の使者よる派遣で朝廷による使者ではなかった。先に触れたが、朝貢(ちょうこう)受ける側も相手を選ぶ。相手は国のトップである天皇でなければならない。宋と明の交易は単に交易を認めただけのレベルで、朝貢(ちょうこう)にレベルがあったとするなら、極めて低いレベル。明との交易では勘合札まで持たされているのだ。遣隋使や遣唐使の時のような最上級の国交とは決して言え無かったと言える。そう言う意味では遣唐使レベルの国交は以降、無かったと言えるのではないか?遣宋使船の復元模型図であるが、船を見れば一目。一般の船である。こちらも小学館の「日本歴史館」の挿絵から。いらない部分を落として若干修正して出しています。平家による宋(そう)とのプライベート貿易大陸との間に全く交流が無かったわけではない。民間レベルの交易は常に存在していた。むしろ宋代になると唐以上に日本に来航する商人が増え貿易は活発化する。お互いに欲しい物があったと言う事だろう。遣隋使や遣唐使と異なるのは、その交易の窓口が確実に北九州博多に移動した事だ。正式な遣隋使や遣唐使なら宮中まで来なければならない。基本は私貿易なので宮中にあいさつする必要はなかったが、朝廷による検閲は行われた。検閲の間に商人が暮らす商館もできたし、11世紀中頃には宋商人の集まった街まで出来ている。中世の博多は交易窓口として大いに栄える事になる。また、南宋に渡る日本船も年間40~50艘(そう)あったらしい。輸出 (砂金、銀、水銀、硫黄(いおう)、阿久夜玉(アコヤ真珠)、夜久貝、琥珀、水精(水晶)、象眼、緋襟、鷲羽)輸入 (沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)、衣比(えび)、丁子(ちょうじ)、綾、錦、羅(うすもの)、穀(こめ)、呉竹、甘竹、吹玉、銅銭、陶磁器、薬、書物など)※ 沈香(じんこう)、麝香(じゃこう)、甘松(かんしょう)は香(こう)の材料です。香道(こうどう)と言う文化があるが、貴族は着物に香をたきしめるのがオシャレとされたから? 香の原料の輸入が多い?一方、宋の側は日本の金や宝玉などが多いが、特筆するのは硫黄(いおう)である。宋代になると硫黄(いおう)の量が特に増していると言う。どうも火薬の材料になっているらしい。つまり、火薬を使う兵器の発達による需要だろう。そう言えば、鉄炮伝来の時に日本は硝石(しょうせき)を輸入していた。火縄銃の火薬の材料である。10世紀から13世紀、日本と中国の宋朝の間で日宋貿易(にっそうぼうえき)は民間レベルでは盛んに行われていた事が解る。この民間レベルの交易に目を付けて成功したのが平家なのである。平忠盛(1096年~1153年)は舶来物を院に献上して近臣となると、伊勢産の水銀などを輸出して利益を上げた。この宋との交易は平家の富を増し、財政基盤を造る事になる。太宰府を排した独占的貿易で平家台頭平忠盛は太宰府を排除して、日宋貿易の独占を図ろうともしたらしい。日本は古来より、防衛の意味でも交易の正式な窓口を北九州博多の太宰府(だざいふ)に設定していた。それ故、当初は太宰府だけでの取引であったが、それを嫌ったのはむしろ宋の商人の方だった? だから? それ以外の場所での密かな取引が横行していく。実際、太宰府を避けて宋の商人が博多や薩摩、越前まで来航していたと言うが、平家政権下(1167年 ~ 1185年)の日宋貿易では瀬戸内海の港も利用したらしい。これら手法で朝廷を介在させない民間レベルの交易がより増大? 平家による交易の独占が可能になった。なぜ公式の太宰府を避けたのか? その理由は、商船が到着すると官人が臨検(りんけん)を行い、交易に至るまでが時間がかかりやっかいであったからだ。来航理由、船員の氏名、積荷の確認をし官人がリストを造り京都に送った。京ではそれが朝議にかけられ天皇の親裁いかんで商人を追い返すか、滞在を許可して貿易を許可するかが決定された。この間1~2ヶ月を要した。あわよくば貿易が許可されたとしても、最初に朝廷が買い上げる品のリストが造られ、先物買いされた。残りが民間の貿易になるのだから、朝廷が欲しい積荷が優先で許可が出たはずだ。逆に興味の無い品には許可がなかなか出なかったかもしれない。しかも当時の日本は「絹を代用貨幣としていた」。つまり日本にはまだ貨幣経済が存在していなかったので朝廷の支払いは絹反(きぬたん)であったと思れる。物々交換にしても言い値にしても、取引はお互いが満足した物でなければならない。シルクロードで絹を商売にしている国である。宋の者に絹はいらなかったはずだ。何より、京都にお伺い立てる時間が惜しい。帰国も貿易風を待たなければならないとすると、滞在はより長くなる。それ故、朝廷との取引で不満が出たのは当然だろう。だから平家は朝廷を差し置いて、 私的な交易を行い宋の商人の欲しい物を提供し良い条件を提示して素早くビジネスしていた? 輸出入の市場を独占できたのだろうと推察する。代用貨幣から貨幣経済へ貨幣と言えば、708年に日本で鋳造発行された和同開珎(わどうかいちん)がある。また以降250年の間に十二種の貨幣(皇朝十二銭)が鋳造されているのだが、もともとの流通量が少なく、平城京と平安京の一部で多少出回ったものの? 貨幣として流通する事もなく958年を最後に廃止されたらしい。唐を真似て貨幣を鋳造したものの、そもそも原材料の銅は輸入にたよっていたので数も少なく流通しなかった。日本の市場で貨幣は時期尚早(じきしょうそう)。市中ではまだ物々交換の方が良かったのだろう。そんな中で朝廷じたいも絹を放出して現物に替えていた。つまり朝廷が代用貨幣として使用した物品貨幣は絹織物であったと言う事だ。当然、絹の相場に上下もあったので、宋銭が出回れば、必要の無い絹は余剰し、価値は下落した。平家は宋との交易を進展させると、仏具の材料として輸入していた銅製の宋銭(一文銭)を大量に輸入して国内で流通させようと考えたらしい。実際、絹よりも利便性の高い宋銭の流通は、朝廷が禁止しても進んだ。つまり実体経済で必要とされたのは宋銭だったから貨幣としての絹の需要は減り、絹の価値は下落。よって朝廷の収入は減少して行く。下は大阪造幣局博物館で撮影したものです。一方、宋銭を大量輸入した平家は財を増やし資金力で朝廷を圧倒。平家による政権の基盤となり、ここに武士の進出が始まった?※ 平清盛の地位が上がると共に平氏一門の官位も上がった。※ 1179年(治承3年)後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。平清盛(1118年~1181年)と後白河法皇(1127年~1192年)との確執は宋銭の流通問題にもあったのだ。因みに、日宋貿易を半ば独占した平清盛(1118年~1181年)は、その富を政権基盤とし、娘である平 徳子(1155年~ 1214年)を入内(じゅだい)させ将来の天皇となる孫(高倉天皇と徳子の子)も誕生させた。清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言に昇進。栄華を極めるに至る。※ 高倉天皇(1161年~1181年)第80代天皇(在位: 1168年~1180年) 安德天皇(1178年~1185年)第81代天皇(在位: 1180年~1185年)誤算は高倉天皇の早世か? 後白河法皇との関係はより悪化。また清盛自身も突然の熱病で1181年に急死。話しは戻って・・絹を代用貨幣とした経済は源平合戦(1180年~1185年)以後も続いた。鎌倉時代に入ってようやく幕府は1226年に宋銭を認めたが朝廷が公式に認めるのはさらに4年後の1230年。また、源平合戦(1180年~1185年)以後は、公式ではなかったが鎌倉幕府(1185年~1333年)は民間の交易を認め、また唐や宋などの商船の来航制限を解除したらしい。互いに需要があったからだ。またこの時代に貿易船で大陸に留学する僧も増えている。※ 大陸側が政変で国が変わっても私貿易は続いている。因みに、銅の宋銭を輸入して日本での貨幣の流通を図っていた平家であるが、当の宋ではすでに紙幣経済が現れている。重い銅銭では取引に不都合で最初、手形が利用されるが、不当たりも出だした事から紙幣に移行したらしい。1215年、紙幣の価値維持で宋は銅銭の利用を禁止。それらは輸出に回された。※ 紙幣は手形から進化したものだった。日宋貿易と日明貿易が民間レベルの交易であったわけ宋(そう)(960年~1279年)の後に日本が交易をするのは明(みん)であるが、実はこの間に元(げん)の国が存在する。「元寇(げんこう)の襲来」と、習ったはずだ。モンゴルから発した元(げん)は鎌倉時代に2度に渡り艦隊を組んで日本に襲来した異国の敵である。先に触れた亀山上皇時代に襲来している。first 1274年、文永の役(ぶんえいのえき)・・元と高麗の連合軍の艦隊で襲来second 1281年、弘安の役(こうあんのえき)※ 台風と言う神風で撃退したと習った記憶があったが、そうではなかったらしい。しっかり上陸され戦闘が行われている。明(みん) 1368年~1644年該当する日本の時代室町時代 1336年 ~ 1573年 (南北朝時代 1337年 ~ 1392年)(戦国時代 応仁の乱 1467年 ~ 1590年)安土桃山時代 1573年 ~ 1603年江戸時代 1603年 ~ 1868年足利氏によるプライベートの貿易平家だけではない。室町幕府を開いた足利氏も私交易を行っている。足利義満(1358年~1408年)(在位:1369年~1395年)は1401年に明との交易を開こうと試みた。実は在職中の交易ではない。なぜなら、明側は天皇の臣下(幕府)との公式の通商を拒否したので義満は出家して一個人として民間レベルで明と交易をする事になったからだ。なぜ個人が?遣明船は幕府が送ったが、将軍ごときでは相手にされなかったらしい。国を代表する天皇クラスでなければ取引はしない? それが明の意向だった? ただし民間レベルの渡航は認めたのだろう。そう考えると勘合札(かんごうふだ)などと言う証票(しょうひょう)が必要だった理由も解せる。遣明船だったらあり得ないからね。それ故、室町幕府が交易していたのではなく、当初は足利義満個人が明との独占的な交易を行い、結果的に足利家の富を築く事になる。それは宋と平家との貿易に非常に似ている。異なるのは足利家から征夷大将軍が出ているので政情も安定していた事だろう。プライベートなのだからお金は自由に使えた。だから芸術にお金を贅沢に使う事ができたとも言える。将軍の立ち位置では正式に国交が結べない。これはもしかしたら鎌倉幕府も室町幕府と同じ理由で国交が結べず、民間レベルの貿易しかできなかったのではないか? と考察もできる。※ 鎌倉時代は元寇の襲撃があり大陸側も安定していなかったが・・。また、それらを踏まえると、かつて「日出ずる処の天子・・」の書き出しで隋(ずい)に送られた書簡は、やはり「この国のトップが挨拶している」と言う事を相手側に明確に知らしめた一文であった。つまり、隋も、唐も、宋も明の皇帝も、日本のトップとしか国交はしないよ。とい言う態(たい)だったと言う事だ。そう言う意味で日本は希望したが、遣宋使も遣明使も成立しなかったと考えられる。最も公式は無くても、現実に必要な貿易は行われていたから交流があったと言うのは事実。実際、留学を希望する者らにとって渡航の道が開けた事の方が意義があったと思われる。先にも触れた臨済宗(りんざいしゅう)を輸入した栄西禅師(1141年~1215年)は1187年に宋に留学(2度目の宋への渡航)。1191年宋より帰国。これは平清盛の時代に宋に渡っているので平家の貿易船? で渡航していると思われるが勉学して戻ってくる時、平家は没落していた。※ 俗に源平合戦と呼ばれる「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱」は平家政権に対する反乱で、敵対していた後白河法皇を源頼政がバックアップして 平氏 vs 源氏による戦闘が始まった。1180年から6年に渡る戦いは、最終的に1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が負け終焉。次代、鎌倉幕府は源氏による政権となった。栄西禅師が帰国した時は源氏の時代となっていたが、帰国してからは鎌倉幕府の庇護を受ける事ができたと言うわけだ。禅(Zen)が日本に入ってきた時はそんな時代の狭間だったのです。禅宗から生まれた文化京都と言えば今まではきらびやかな貴族文化が花開いていたが、幕府の本拠となると武士が増え、武家の好む文化が開花する。ところで、武家の信仰を一心に集めたのが、鎌倉時代から比護されてきた禅宗である。禅の精神は武家の精神に通じる所があって? 室町幕府の時代に入っても禅宗が興隆(こうりゅう)した。また、禅僧が日本に持ち込んだのは信仰だけではない、帰国した僧らは禅の影響を受けた文化のみならず大陸でのあらゆる文化を持ち込み広めて行く事になる。建築、庭園、漢詩文、山水書画(水墨画、書道)の他、茶道、華道、武道、等「道」と付くものがたいていそうである。なぜなら「道」そのものが中国哲学上の用語となっていて、礼や義などを超越した真理とされている。つまり万物、広げれば宇宙まであらゆる終始に道は存在する。老子や荘子などの道家(どうか)や孔子などの儒家(じゅか)によって説かれ、あらゆる「道」に思想が形成されて行く。今は古武道と一括りされるが、剣術、柔術、槍術、弓術、砲術なども禅の浸透と共に技術が体系化されてまとめられ道が形作られた。前回も触れたが、茶を日本に持ち込み、文化より先に茶会に精神性を与えたのも禅寺院である。茶祖 建仁寺でとり行われる四頭茶会(よつがしらちゃかい)は現在の茶会と異なり、侍香(じこう)、供給(くきゅう)、提給(ていきゅう)、行者(あんじゃ)など多くの役割を僧、非僧により4人の正客を拝する物。※ 現在、茶祖栄西禅師御生誕讃法会で執り行なわれる四頭茶会では表千家、裏千家、(煎茶)花月庵の茶道家元らが顕彰(けんしょう)の奉仕をするそうだ。また、水墨画自体は唐代にはすでにあったが、山水書画と共に水墨画も武士らに好まれた。禅宗では、墨の濃淡で表現する絵に内面を読んだのだ。写実とは事なる、また色彩が無いだけにその濃淡は内面の深さを表現する。つまり目に見える物が全てではない。ある意味抽象だが、物の本質をそこに表現する絵師。また見る者は絵師の精神性をもそこから受け取る。絵の形を見ると言うよりは、それが訴えてくるイメージを受け取る?そうした水墨画は屋敷の屏風(びょうぶ)やふすま絵に描かれるようになり如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)、雪舟(せっしゅう)など相国寺からすぐれた絵師が輩出されている。建仁寺方丈 襖絵(ふすまえ)と庭園重文 海北友松 筆 雲龍図襖※ 海北友松(かいほう ゆうしょう)(1533年~1615年) 安土桃山時代から江戸時代初期の絵師。海北派の始祖。枯山水 大雄苑(だいおうえん)大雄苑(だいおうえん)は1940年に造られた枯山水庭園。方丈の南に位置する。雲龍図襖のある部屋の前庭であり、見えるのは法堂。花頭窓(かとうまど)からの大雄苑(だいおうえん)花頭窓(かとうまど)は蓮の花弁を図案化した上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った禅宗様式の窓1940年に“植熊”加藤熊吉氏氏により作庭。白砂に苔と石を配した枯山水と言う様式である。石塔は織田有楽斎が兄(織田信長)の為に建てた供養塔。白砂に「うねり」と「渦紋」の文様が描かれた枯山水は大海を表しているようです。海北友松 筆 琴棋書画襖重文 山水図襖海北友松 筆潮音庭(ちょうおんてい小書院と大書院の間にある苔の美しい庭。三尊仏に見立てた三尊石が苔の美しい庭に置かれている。仏教の三尊仏になぞって組まれた「三尊石組(さんぞんいわぐみ)」は中央に大きな中尊石、左右に脇侍石(きょうじせき)を据えて構成。日本最古の庭園書「作庭記」にも記される石組みの基本の様式の一つ。仏教思想を反映した石組みは他に「須弥山石組(しゅみせんいしぐみ)」がある。禅の心〇△□とは〇△□乃庭(まるさんかくしかくのにわ)現代の小堀遠州とも称される北山安夫 氏、2006年に作庭。〇△□(まるさんかくしかく)を表現する庭。〇△□ は禅の心を表す図形。〇(円)・・・禅の思想やあらゆる生物、自然、宇宙全体を表現する時に描かれる〇(円)を一円相(いちえんそう)と呼ぶそうだ。また、円は切れていない。途切れず続く(循環する)ので絶対的な真理を表してもいるそうだ。△(三角)・・坐相 足を組んで座禅をしている姿勢を表現した形が△(三角)で、これを座相(ざそう)と呼ぶそうだ。禅には「非思量(ひしりょう)」と言う言葉がある。非思量(ひしりょう)は頭を空っぽにして心を無にすると言う状態を指す言葉らしい。逆に思量(しりょう)はあれこれ考え心が一杯になり視野も心も狭くなってしまった状態を指す。つまり追い詰められた状態が思量(しりょう)である。そんな時は座禅を組んで自我を解放しましょう・・と言う事で座禅する時は「非思量(ひしりょう)」で在らねばならない。□(四角)・・枠で囲まれた□(四角)は捕らわれた心を表しているそうだ。たいていの人は常識と言う枠の中で生きているが、それ故、悩みや苦しみも持っている。そんな枠から一歩踏み出す事で心が捕らわれから解放され、自由になれると言う。〇△□の意味を見て、□△〇のが解り易いのではないか? と思う。結局のところ、捕らわれた心を解放して坐禅を組み無の境地に至り真理を求める。と、言うのが〇△□(まるさんかくしかく)の意図(いと)するところだからだ。他の方の庭の説明に疑問があり、追求しました。庭の解釈も、まさに□四角の枠の中に渦紋の○円がありさらに島? ○円がある。植えられた木は座した人だと思う。白砂は海、あるいは宇宙であり、その中心に真理がある。真理の中心に植えられた木は真理に辿り付いた人? そんな解釈も出来る。Part3 につづく。禅を深掘りするつもりは無かったが、禅のもたらした文化の奧は深いからスルーできない部分もある。枯山水は石組みの意味がわかるともっと面白い。次回は庭園三昧です。ところで、「非思量(ひしりょう)」と言う言葉、私は知らなかった。これ禅用語でしょうね。仏教の方で聞いた事が無い。言葉の方が逆に難しい気がする。Back numberリンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年12月11日
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Back numberをラストに入れました。禅(Zen)は、 サンスクリットのディヤーナ(dhyāna)の音写から派生した仏教用語らしい。※ ディヤーナ(dhyāna)=禅那(ぜんな)or禅定(ぜんじょう)このディヤーナは「心が動揺する事がなくなった一定の状態を意味」するそうだ。つまり無心に近い状態ですね。そして、このディヤーナの状態? この領域に達する為に様々な方法論が考えられた。つまり至る教えを説く為に禅宗(ぜんしゅう)が生まれたのだ。その方法の一つが坐った状態で精神統一を行う坐禅(ざぜん)と言う修行である。禅(Zen)は坐禅(ざぜん)の略か? と思いきや、本来は「禅宗(ぜんしゅう)」そのものの略称だった。坐禅(ざぜん)の手法も宗派で異なるようだが、要するに座してリラックスして瞑想(めいそう)を行い心を無心にする。ただ、瞑想と言ってもヨガなどの心身の健康を目的とするだけではなく、心身の静寂の上にさらに高次の悟りを導く修行にも使われている。何も考え無ければ良いと言うものではなく、心身をリセットしてゼロに持って行く事が重要?「もう一度考えて見たら?」と言う時に「心」だけでなく姿勢と言う「体」、深く瞑想する「技」を以て坐禅(ざぜん)に臨むのは有効な知恵かもしれない。宋で学んだ栄西により、禅宗は日本に伝えられた。禅は瞬く間に広がり、禅の精神から多数の文化が生じた。禅から派生した芸術はセレブによってそれぞれ形にされ、さらにそれらは昇華され、至高の域にまで達したのである。精神性までをその内に表現する至高の芸術。日本の伝統的文化は世界的に評価される芸術ばかり。そのほとんどが室町時代に完成された。総じて、質の高い芸術文化は、経済的背景と同時に安定と言う政情があってこそ誕生するのだと改めて思う。今回は、室町時代に最高峰の寺格として選ばれた禅寺の紹介です。当初、普通に写真を並べる予定でしたが、調べてみて驚いた。仏教自体は公式に国によって輸入されたけれど、禅宗は公式な輸入ではなかった? ようなのだ。予期せず、背景には国交と言う事情が出てきた。禅由来で文化も多数生まれているし・・。でも、そもそも禅宗とは何なのだ?シレっと通番を付けましたが、2回くらいで終わらせます。f^^*)京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師 風神雷神図京都五山(きょうとござん)とは?五山制度(ござんせいど)インド五山の伝え南宋版の五山の伝え鎌倉五山京都五山寺格のランク大乗仏教の一派 禅宗大乗仏教の学派と思想栄西禅師と臨済宗(りんざいしゅう)時の中央の武家政権に支持された臨済宗(りんざいしゅう)茶祖の寺建仁寺(けんにんじ)三門誰もが知っているのではないか? 上 風神(ふうじん)風神と雷神は千手観音(せんじゅかんのん)の眷属(けんぞく)だった。風神(ふうじん)は「風の神」。風を司(つかさど)る神です。風袋(かざぶくろ)から風を吹き出し風雨をもたらす。風雨は時に暴風となり、また川を氾濫させて農作物をダメにすることもある。そうならないよう鎮める為に? 適度な雨風で豊穣を期待して? 風の神が祀られるようになった。雷神(らいじん)は、「雷様(かみなりさま)」。雷を司(つかさど)る神です。雷神は、太鼓打ち鳴らして稲妻と雷鳴を引き起こす。こちらも雷を鎮める為に? 雷の神が祀られるようになったと思われる。ところで、菅原道真(すがわらのみちざね)公を天神としたのは怪異が続いた事から御霊として祀り天神としたのであって雷の神様になったわけではない。道真公の雷は怒りとして捉えられている。だから道真公の方は本来は魂を鎮める御霊信仰(ごりょうしんこう)から発している。下 雷神(らいじん)琳派(りんぱ)の絵師、俵屋宗達(たわらやそうたつ)筆の風神雷神(ふうじんらいじん)屏風画(びょうぶが)国宝。生没年不詳。桃山時代から江戸初期の絵師とされている。1570年代前後に誕生し、1600年~1630年代あたりで活躍。1642年以前には亡くなっていると推定。この風神雷神図は、寛永年間(1624年~1645年)中頃の作品で、1639年に妙光寺に奉納されている。それが後に建仁寺(けんにんじ)に寄贈された。つまり現在は建仁寺の所蔵作品なのである。一番のお宝ですね。縦154.5cm × 横169.8cm国宝なので本物は京都国立博物館に寄託されているので方丈で公開されている作品はレプリカである。それ故、撮影ができたのである。重要文化財や国宝など、特に紙物などは湿気を嫌い保存が難しい。また盗難の問題もあるので寺社などで公開されているものは、今やたいていレプリカとなっている。京都五山(きょうとござん)と山号(さんごう)京都五山(きょうとござん)は、京都にある5つの山ではありません。5つの寺を意味しています。それも選ばれた最高の格付けの5つの寺と言う意味なのです。寺には寺の名前である寺号(じごう)とは別に山号(さんごう)と言うものが付されている。寺のある山の名が付いている場合もあるが、全く山の無い平地の寺に付いていたりもする。※ 宗派で付けない所もある。寺の名前以外になぜ山号が? 山号は元々は寺格を現す称号だったそうです。遡る事、日本では鎌倉時代(1185年~1333年)以降に始まる。五山制度(ござんせいど)日本は中国にならって山号を付したのですが、その中国でも南宋(1127年~1279年)時代、第4代皇帝の寧宗(ねいそう)(1168年~1224年)が古代インドにあった初期仏教の5つの精舎(寺院)を模して中国版の「五山」を造ったと言われている。インド五山の伝えには諸説ありますが・・。インドの5精舎(しょうしゃ)を天竺五山(てんじくござん)or天竺五精舎(てんじくごしょうしゃ)と呼ぶ。鹿苑(鹿野苑)精舎・祇園精舎・大林精舎・竹林精舎・那蘭陀寺南宋版の五山の伝え径山・霊隠・天童・浄慈・育王これら5寺を「五山」として皇帝が庇護したのが由来とされている。日本では、鎌倉時代に幕府が臨済宗のトップとなる5寺を選んで「五山」の寺格を制定したのが最初とされ鎌倉五山が造られ、建武の新政(1333年~1336年)以降に京都五山が造られた。※ 鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇による親政時代が建武の新政。「五山」は「トップ5」と言う意味なのである。当然であるが、トップ5に入るか入らないか? は、寺にとって大きな問題である。幕府の絶対的支援が与えられるのだから・・。それ故、五山は時の権力者の思惑で変動した。鎌倉五山鎌倉にある五つの禅宗の寺院・・建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺京都五山1401年、足利義満の決定した五山(当時は相国寺が1位)以下は1410年に決定された最後? の五山。※ 順位も大切別 格 南禅寺 第1位 天龍寺 第2位 相国寺 ※山外塔頭に鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)第3位 建仁寺第4位 東福寺第5位 万寿寺後醍醐天皇が建武の新政をおこなっていた頃は大徳寺も京都五山に入っていたらしい。寺の規模、三門など見ても大きな寺なのに・・と思ったのだが・・。後醍醐天皇に敵対する室町幕府は大徳寺の寺格を十刹(じっせつ)の下方(9位)に落としたので離脱して在野となり独自路線を進んだらしい。それ故? 大徳寺は室町時代には部将や大商人、文化人などの比護を受けて戦国大名が菩提寺とする塔頭が多く並ぶ戦国大名御用達の寺となっている。※ 以前大徳寺は紹介しているが秀吉と因縁が深く信長の葬儀も行われた寺。大徳寺三門と千利休切腹の話しも書いています。切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)寺格のランクところで、寺格の格付けは五山以下もある。これもインド由来の五精舎十塔所(ごしょうじゃじゅっとうしょ)から由来。南宋版 五山・十刹(じっせつ)・甲刹(かつさつ)日本版 五山・十刹(じっせつ)・諸山(しょざん)・林下(りんか)※ 十刹(じっせつ)以下の成立は鎌倉時代末期が通説。十刹(じっせつ)・・五山に次ぎ、諸山の上に位置する寺。1380年、十刹に加えて準十刹6ヶ寺が定められる。1386年、京都十刹及び鎌倉十刹が定められる。1486年、十刹は46ヶ寺もある。諸山(しょざん)・・五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられた。原則、五山と同様に室町幕府の将軍御教書によって指定。が、制限が無かった為に多くの禅林に与えられた。林下(りんか)・・在野の寺院を指す呼称。五山十刹など幕府の庇護と統制下にあった一派に対し、林下はそれ以外。座禅修行に専心する厳しい禅風が特色。※ 日本では臨済宗の寺格で構成されていたので宗派変えから消える寺や、時の情勢でかなり寺の入れ替えがある。 山号は、寺のある山の名が付いたと書かれているのもあるが、分派が各地に建立され、同名の寺を仕分けする意味で山号が使用された事も確かにあるが、本来の発祥は寺格です。そして禅寺の場合、静かな里山に造られる事が多かったから山号は必須になったのかもしれない。京都五山の禅寺を京都の観光マップに示してみました。今回中心となる建仁寺(けんにんじ)は、京都最古の禅寺です。今や祇園(ぎおん)に程近い場所にありますが、1202年に開山した時は人の寄らない森の中であったと思われる。以前紹介した六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は南北朝時代( 1337年 ~ 1392)以降に建仁寺の塔頭(たっちゅう)となっていますが、六道珍皇寺は平安前期の延暦年間(782年〜805年)の開創でこちらのが古い。ご近所なのです。リンク 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺大乗仏教の一派 禅宗禅(Zen)は、中国で発展を遂げた大乗仏教の一つの宗派で、520年頃、インドから布教僧であるボーディダルマ(菩薩達磨)によって中国に伝えられた。瞑想と言う手法を中心に据えて真理を追究する禅は、従来の経典を研究する仏教とはかなり異なるもの。彼は仏教本来の精神を復興させる目的で来中し、皇帝にも謁見している。皇帝に謁見した後にボーディダルマはそこで9年間の瞑想に入り実践してみせた。真理(悟り)は座禅による瞑想の中で直感的に会得する?そのコツは実践の中で師から弟子へ直伝されるもののようだ。中国では古来からある儒教と道教の影響を受けて禅は発展した。その過程で禅問答が生まれている。インドから伝わり、中国で発展を遂げた禅宗は朝鮮、ベトナム、日本へと輸出されたが、とりわけ日本での影響が大きかったようだ。インド由来の神秘性? と中国で発展した実践的技法。瞑想から悟りへの行為。その精神性。鎌倉幕府、室町幕府と将軍による統治時代に興隆(こうりゅう)している事からも日本の武士道の精神に通じるものがあった? と思われる。その禅から受けた精神性により茶、書、絵、建築、庭園など、日本独自の文化の形成にも貢献している。禅によって生み出されたその文化は、日本のみばかりでなく、今や海外からもその精神性の高さを称賛されている。そんな日本を誇らしく思います。大乗仏教の学派と思想インド大乗仏教の教理はマードヤミカ(Madhyamikan)中観派 とヨガーチャーラ(Yogachara)瑜伽行派の2つの学派に支えられていると言う。※ マードヤミカ(Madhyamikan)中観発祥は2~3世紀?全ての存在は「空」とする中観派。瞑想によって空を認識し、事物の本来の在りようを認識する。中観派の教理は悟りへの速やかな道の提供であり、それが現実世界での救済であると強調。この中観派の教理は中国と日本で支持されたそうだ。※ ヨガーチャーラ(Yogachara)瑜伽行派(瑜伽行唯識学派)3~4世紀頃、瑜伽師(ゆがし)と呼ばれる者らによって創史。多数の経典論や書を経て導き出された観念論? 認識論? 広義の哲学論とも言える?中国へは玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602年~664年)によって招来されたらしい。唯識を元に法相宗が起きると、日本へは奈良時代に伝来した。マードヤミカ(中観 )とヨガーチャーラ(瑜伽行)どちらも難しい。複雑な論証と独創的で魅力的な哲学は知識階級には受ける。しかし大衆のレベルでは論証はいらない。誰もが解りやすく受け入れ易い物でなければならない。思想面では2つのレベルの異なる仏教が生まれた。大衆に向けられたのが「救済者による助け」である。ボーディサットヴァ(bodhisattva)・菩薩(ぼさつ)は大乗仏教の中心に位置する信仰であり、衆生(しゅじょう)を救う者として存在している。菩薩は、自身が悟り(ニルヴァーナ)に至る一歩手前に留まって、悟りに至りたい者らに未来永劫に救いの手を伸ばすのである。それ故、菩薩の自己犠牲的な救済はキリスト教におけるイエスの犠牲にちょっと似ている。因みに、菩薩は彼岸(ひがん)に居る。つまりそこは悟りに至る境地なのである。では悟りに至った人は? 仏陀(ブッダ)ただ1人。到底たどり着けない至高の場所です。弥勒菩薩の像は広隆寺と中宮寺にありますが、写真の撮影ができないので以前紹介した時は本から持ってきています。日本で仏像の撮影は難しく、私もほとんど写真が無い。今回は奇跡的に撮影していた奈良の薬師寺にある薬師三尊から脇の日光菩薩(にっこうぼさつ)と月光菩薩(がっこうぼさつ)を菩薩の見本として紹介します。結構貴重な写真です。(左)月光菩薩、(右)日光菩薩 国宝697年に開眼(by日本書紀)※ 白鳳時代(はくほうじだい)(645年~710年)薬師如来の隣(脇侍)にいる日光菩薩・月光菩薩。薬師如来は病気の治癒もお願いできる珍しい如来で、日月の両菩薩はそのサポートをしてくれる菩薩です。因みに、菩薩(ぼさつ)に性別は無いが、仏陀になる前のシッダールタ太子の姿? を模したと言われている。栄西禅師と臨済宗(りんざいしゅう)中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)があるがその一つ、臨済宗(りんざいしゅう)は、鎌倉時代に宋で学んだ栄西(1141年~1215年)によって日本に持ち帰られた最初の禅宗です。それから少し遅れて、建仁寺でも修行した道元(1200年~1253年)が1226年に宋より持ち帰ったのが曹洞宗(そうとうしゅう)です。坐禅を中心に修行する仏教集団が「禅宗」と呼称されるのは唐代末かららしいが、日本では源平合戦(1180年~1185年)以降、社会が貴族から武家政治に代わると共に禅宗が興隆(こうりゅう)した。質素な庵で、心を研ぎ澄ませて真理を見い出そうとする禅の修行が武士の生き方にマッチしたからのようだ。今回メインとなる寺は五山3番目に数えられた建仁寺ですが、実は栄西(1141年~1215年)禅師が日本に臨済宗を持ち帰り、京都で最初に開山した禅寺です。(京都最古の禅寺)開基は源頼家(みなもとのよりいえ)栄西禅師は幼い頃から素養があり、14歳で比叡山延暦寺にて出家。天台宗の教学と密教を学び取得するも、現実には政争の具とされ堕落する天台宗を嘆いていたと言う。それ故? もっと高見を目指したのか? 得のある経典を求めたのか?1168年、宋に向かった。当時の宋とは正式な国交はなかったが、平家は独占的に宋と交易をしていた事から平家の助けを借りて渡航したのは間違いない。本人たっての希望か? 平家方の勧めかは解らないが、その年の9月には天台の経典60巻を持って帰国している事から、そもそも南宋への渡航は貴重な経典を日本に持ち帰る事が使命だったのかもしれない。その頃、南宋では禅宗ブームが起きていた。先に紹介したよう、禅は520年頃、インドから来たボーディダルマによって伝えられた。中国で儒教と道教の影響を受けて発展した禅を知り栄西は日本仏教の立て直しに禅宗の導入を考えたのだろう。栄西自身が今度は禅を学ぶ為に再度南宋に渡航したのは1187年。因みに、この時インド渡航も願い出るが許可されなかったと言う。天台山万年寺の臨済宗黄龍派の禅伯 虚庵懐敞(こあん えしょう)に師事。師より菩薩戒と臨済宗黄龍派の印可を受け「明菴」の号を授かり1191年帰国。国内での布教を開始する。鎌倉幕府2代将軍・源頼家の庇護を受け、天台、真言、禅の三宗兼学を朝廷宣旨(ちょうていせんじ)により掲げ1202年(建仁2年)に京都に建仁寺を創建。建仁寺の名は元号からきている?いずれにせよ、幕府と朝廷両者の庇護を受け、禅宗の布教と振興に努めた。先に触れた曹洞宗(そうとうしゅう)の道元のほか、一休禅師もここに学んでいる。時の中央の武家政権に支持された臨済宗(りんざいしゅう)臨済宗(りんざいしゅう)は時の中央の武家政権であった鎌倉幕府や室町幕府に特に支持され政治や文化の面でも重んじられて行く。それ故、京都五山、鎌倉五山のどちらも公に幕府によって全て臨済宗の寺で定められたのである。それに対し、後続の曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武家、豪族や下級武士、一般民衆に広まって行く。因みに臨済宗は派が複数出来るが、曹洞宗は一系譜のみ。総本山は永平寺。創建1244年。道元。その理由は、道元自身が、弟子たちに特定の宗派名を称し名乗る事を禁じたからと思われる。茶祖の寺ところで、建仁寺は茶祖としても有名である。栄西は南宋からの帰国に際して茶の種を持ち帰えり栽培して日本に茶の文化を根付かせた人でもある。今日に至る茶会の精神性や形式は、ともに禅宗寺院の茶会が原初とされているそうだ。邸内には茶碑が建てられている。「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)と千利休については「大徳寺と茶人千利休と戦国大名」で書いています。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名建仁寺(けんにんじ)京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山(とうざん)本尊は釈迦如来京都で最も古い禅寺。開祖は栄西(1141年~1215年)禅師。建仁寺 勅使門(ちょくしもん) 重要文化財※ 天皇が派遣した使者が来た時など位階の高い来訪者の通行に使用される正面門。※ 格の高い人が来るような寺にしか存在しない。勅使門(ちょくしもん)から見えるのが三門放生池(ほうじょうち)からの三門建仁寺 三門(さんもん) 重要文化財三門の名は「樓闕望(ぼうげつろう)」。御所を望む楼閣という意味らしいが、そもそも三門(さんもん)は形式的には中央と左右の小さな門の3門を連ねて1門としている事。また仏道では悟りに至る為の空・無相・無作の三解を門に例え、空門・無相門・無作門の三つの解脱門を表していると言う。つまり、煩悩を捨て、無心になってお参りしなさいと言う事らしい。三門の上には釈迦如来(しゃかにょらい)、迦葉(かしょう)尊者、阿難(あなん)尊者、十六羅漢(じゅうろくらかん)が祀られているらしい。法堂(はっとう)前回の「西国の寺社(Back number)」の所で紹介した双龍図が描かれていたのがここです。法堂天井画「双龍図」小泉 淳作 筆2002年に、創建800年を記念して描かれた物。建仁寺境内地図勅使門→三門→法堂→方丈と中直線に位置している。その両サイドには塔頭(たっちゅう)の他に禅寺には僧坊、食堂、浴室などが置かれている。三門寺の構成は、時代によって特性が見てとれる。塀で伽藍を囲った飛鳥・奈良時代の寺院は南が正式な入口だから南大門が玄関として存在していた。※ 浄土教は極楽浄土が西にあるので東が門になるようです。金堂や講堂と塔は、さらに塀で囲まれているので中門が存在していた。食堂や僧坊は伽藍の後方側に並んでいる。先に勅使門と三門の意味を紹介したが、他に仁王門(におうもん)と言うのもある。強い門番は寺を守護するだけでなく、人の悪い心を捨てさせる意味があるそうだ。つまり、寺院において門はただの入口ではなく各々役割を持って建てられていると言う事だ。だから楼閣の上には仏像が祀られている。建仁寺の楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者、十六羅漢が祀られているらしいが楼閣観覧は無かった。因みに南禅寺と東福寺の三門は常時上る事が可能。(有料)比較参考に南禅寺と東福寺の三門載せます。建仁寺より大きい三門です。南禅寺 三門 重要文化財山間にある南禅寺は階段の上にあるので下の写真は裏側からです。かなり大きいので画角ギリです。高さ22m。本尊が宝冠釈迦座像。十六羅漢像が祀られている。石川五右衛門が「絶景かな。絶景かな。」と見得を切った、日本一の高さを誇る三門です。正面の柱の数も違います。上からの景色は南禅寺の目玉の一つです。南禅寺は次回詳しく載せます。東福寺 三門 国宝思遠池からの三門こちらも南禅寺と同じく高さ22m。本尊が宝冠釈迦座像。十六羅漢像が祀られている。楼上天井には画僧・明兆(兆殿司)らにより極彩色の飛龍や天女が描かれ浄土世界をイメージしている。他の楼閣と異なり、こちらは外階段があり登り易い。楼上も広く公開されていた。建仁寺と東福寺は池が手前にある構成ですが、南禅寺に池はない。但し手前に水路閣からの小水路が通っていた。比較すると同じ所や違いが解って面白いですね。Back number 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化リンク 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング
2021年11月16日
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すごーく古い過去ログを掘り起こされると恥ずかしいですが、金閣と銀閣の互換リンクを載せる時に調整中に拾った寺社の Back numberを載せました。写真は建仁寺の竜の天井画のみ載せました。建仁寺は五山禅寺の一つ。実は金閣寺(鹿苑寺)と銀閣寺(慈照寺)も五山禅寺の相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)なのです。京都五山は 相国寺のメインと万寿寺以外は回っていたのでついでに京都五山禅寺をサラッと入れようかと思ったのですが、書き出したら長くなり、写真もあるので今回は当初目的の Back numberだけにしました。近日、京都五山禅寺をアップします。西国の寺社(Back number)西国の寺社(Back number)建仁寺(けんにんじ)と京都五山西国(和歌山、奈良、大阪、京都、兵庫、滋賀、岐阜)京都府リンク 鹿苑寺 舎利殿・金閣リンク 慈照寺(じしょうじ)観音殿・銀閣リンク 2016年京都 1 (五条通りから茶わん坂)リンク 2016年京都 2 (清水寺 1)リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)リンク 2016年京都 4 (産寧坂・さんねいざか)リンク 2016年京都 5 (二年坂)リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)リンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院)リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)リンク 2017年京都 1 (圓徳院と石塀小路)リンク 冥界の入口「六道の辻」と六道珍皇寺リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)リンク 京都 伏見稲荷大社 1 (本殿のある境内)リンク 京都 伏見稲荷大社 2 (千本鳥居)リンク 倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツ 広隆寺リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎 木嶋神社リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)リンク 四天王寺庚申堂リンク 比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)リンク 北野天満宮 梅花祭りリンク 北野天満宮の骨董市(梅花祭り)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓三重県リンク 伊勢神宮 1 (内宮)リンク 伊勢神宮 2 (外宮)奈良県リンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1リンク 西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 2リンク 法隆寺 (柿食えば・・の鐘の件)リンク 2011年夏 クイズここはどこ? シリーズ 1リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 1 法隆寺縁起リンク 聖徳宗の総本山 法隆寺 2 聖徳太子大阪府リンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 大阪 お初天神 美人絵馬番外 東京都リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰建仁寺上はスマホで撮影してます。建仁寺(けんにんじ)と京都五山京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号を東山(とうざん)本尊は釈迦如来京都五山の一つです。臨済宗(りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の一つで鎌倉時代に日本に伝えられ、様々な流派が成立。臨済宗の寺院の寺格である京都五山の寺の選定は、時代の政治体制で多少入れ替えがあったようです。※ 別格. 南禅寺 1. 天龍寺 2. 相国寺 3. 建仁寺 4. 東福寺 5. 万寿寺特に足利氏の政治、政略的な格付けとして、室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認めていた。つまり五山禅寺は幕府への財務支援を行い、また事務などの庶務もこなしていた。東班衆・・院の経理や荘園の管理担当。西班衆・・宗教活動担当。室町幕府との関係が密であった。朝廷と近い比叡山延暦寺や南都興福寺とは対立関係にあったらしい。とは言え、比叡山延暦寺と南都興福寺も争っていたが・・。次回、京都五山禅寺を紹介。
2021年11月02日
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カテゴリーを変更しました。さて、今回は海洋共和国編で度々登場したガレー船(galley)を取り扱ってみました。船に興味があったわけではないのですが、本スジの「アジアと欧州を結ぶ交易路」を考えた時に、その輸送手段は重要事項です。現代では、物流と言えば航空輸送や陸上輸送の車も対象になりますが、太古の物流は主に船でした。できるだけ船で運ぶ。時に運河も構築した。そして必要最小限が人なり馬などの動物を利用した輸送です。5000年前にはすでにガレー船(galley)が登場し、地中海交易での物流を担っていた。大航海時代に太洋を越える物流では帆船(はんせん Sailing ship)が優位に立ったが、小廻りの効くガレー船はエーゲ海や、バルト海、カリブ海などの諸島群の輸送では近年まで主力であったのだ。そしてそれは物流を担う商船と共に軍船として進化を遂げてきた。ガレー船は、その動力に蒸気機関が発明される19世紀初頭まで活躍していたのである。※ 蒸気船の事も最後に載せました。ガレー船(galley)の事に始まり、赤ヒゲ海賊の事、オスマン帝国との海戦でレパントの海戦 (Battle of Lepanto)も成り行きでいれました。写真はサンマルコ寺院の内部を紹介。最初にガレー船時代の美しい海の怪物の話しを入れました。付け足しして書いていたから、またまた長くなりました。海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ガレー船(galley)とセイレーン(Siren)ガレー船(galley)の変遷一段櫂船(single-banked galleys)ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme)アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician)ポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme)ガレー船の漕ぎ手問題ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情官民一体のヴェネツィア船団小型ガレー船フスタ(fusta)元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロス海賊との海戦からオスマン帝国との海戦に聖エルモ城塞(Fort st.Elmo)レパントの海戦 (Battle of Lepanto)ガレー船の衰退蒸気汽船の発明サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真ガレー船(galley)とセイレーン(Siren)まずは、私の好きな19世紀、ヴィクトリア朝の画家の作品から。ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse )(1849年~1917年)写真はウィキメディアから借りました。1891年製作。絵のテーマは、古代ギリシアの吟遊詩人ホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア(Odysseia)」から セイレーンの居る海域を通過するオデュッセウス(Odysseus)の話しである。※ 二大英雄叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の執筆者として信じられているが、実在かはハッキリしていないらしい。オデュッセウス(Odysseus)はギリシャ神話の英勇。トロイア戦争の勇者であるが、彼の船は帰路すんなり帰国できず地中海をさまよう。辛い放浪の中で幾多の怪物にも遭遇。セイレーン(Siren)は、ギリシア神話に登場するかぎ爪を持つ半身が鳥の海の怪物。彼女らの歌声を聞くと海に飛び込んでしまい、あげく、食われてしまうそうだ。ウォーターハウスは、セオリー通りに半鳥の怪物として描いている。逆説的に考えると、航海の危険地帯を諭す意味でセイレーン(Siren)を利用した?座礁を起こしやすい、慎重に船の舵を取るべき海域にセイレーンは存在したのだろう。特にガレー船は岸に近い所を航行するのが常。岸に寄ったら危険・・と言う海域の警告?最も、昔のたいていの人は、船が遭難したり難破するのは全てセイレーンの仕業。彼女らの美しい歌声を聞いて惑わされたから。と信じていたのかもしれないが・・。下はフェニキア人が描いたモザイク画のオデュッセウス(Odysseus)。紀元前の作品です。かつてのカルタゴ(現チュニジア)のバルドー国立博物館(Bardo National Museum)のモザイク画から以前一度紹介していますが。こちらもホメロス(Homeros)の叙事詩「オデュッセイア」を描いたもので中央で立って縛られているのがオデュッセウス(Odysseus)です。このガレー船の絵は有名ですが、この右隣のセイレーンの絵はあまり紹介されていない。こちらのセイレーンもセオリー通りの足がカギ爪のは半人半鳥の怪物となっている。ところで、中世になると怪物は人や人魚に代わったりしている。「船乗りを惑わすのはさぞ美しい魔物に違いない。」と考えたのでしょうか? 下は上と同テーマのホメロス(Homeros)の「オデュッセイア」1867年製作。 怪物に注目。何と怪物セイレーンは絶性の美女群で描かれている。ハーレム状態。こんな誘われ方したらね写真はウィキメディアから借りました。フランスの風景画家レオン・ベリー(Léon Belly)(1827年~1877年) 彼はフランスの中東の調査探検に記録画家として1850年~1851年参加。ギリシャ、シリア、黒海を回り、帰国後、プライベートでエジプト、ナイル川を遡上するなど中東にとりつかれた?パリのサロンでデビューし、レジオンドヌール勲章ももらっている。この絵の女性はルーベンスを思わせる肉感がある。まあ、神話だからね。が、彼の他の絵はもっと現実志向で写実的。現実の今を写真のように切り取った彼の絵は人々に中東への興味を与えただろう。恐らく流行ったのも勲章をもらったのも、当時のフランスの中東政策にはまったからかも。それにしてもイギリスではヴィクトリア朝にこのテーマを扱った画家は多いし、フランスもしかり。ロマン主義的なテーマが好まれた時代ではあるが、裸婦を描く為の方便? 確実に魔物は普通の美女に代わっているからね。※ ヴィクトリア朝(Victorian era)はヴィクトリア(Victoria)女王(1819年~1901年)が大英帝国を統治(在位)していた期間(1837年~1901年)を指す。1877年~1901年までは初代インド皇帝としても君臨している。巨大な植民地を持っていた大英帝国の経済は絶好調。比例して国力が最もあった古き良き時代でした。ガレー船(galley)の変遷ガレー船(galley)の歴史は古くBC3000年に遡るらしい。先にも触れたが、地中海周辺の船乗りの間で貿易船として、軍船として、あるいは海賊船として19世紀初頭まで使用されていた。古代のフェニキア人(Phoenician)が地中海交易で使用している。それはオールを左右に複数備えた手こぎ(人力)の船で、さらに帆も着いたガレー帆船である。※ フェニキア人は、オールが少なく、主に帆に頼る輸送船を使用していたらしい。古代エジプトのハトシェプスト(Hatshepsut)女王の治世(在位:BC1479年頃 ~BC1458年頃)に紅海の向こうから贅沢品を持ち帰るガレーのような船が記録されているそうだ。因みに贅沢品はミルラ(Myrrh)やフランキンセンス(frankincense)であったと思われる。※ 殺菌と鎮静の薬として、またミイラを作る時の防腐剤に利用されたミルラ(Myrrh)。儀式で神にささげられる貴重な香油フランキンセンス(frankincense)。以下で書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード下は古代でなく、中世にエジプトからローマにガレー船で運ばれて来たオベリスクです。ヴァチカン美術館で見付けた絵画を撮影していたものです。オベリスクを運ぶ為に特別仕様に造られたガレー船です。左右の舷(げん)で沢山の人達がオールを漕いでいるのが解ります。後方の帆船からそれは中世である事はわかりますが、ローマにオベリスクは13本あり、どのオベリスクが新たに運ばれた物かまで今回は特定していません。ローマ帝国時代に運ばれたオベリスクを再利用して広場に設置したりしているからです。※ 確証はないけどベルニーニが1667年にミネルバ広場の為にデザインした時の物かな?世界に現存しているオベリスクは30本。古代のローマ帝国の強さと、中世以降のローマ教皇庁の威信がイタリアに16本(ローマに13本と他3本)も集めたのでしょう。因みに、ヴァチカンのサンピエトロ広場にあるオベリスクはネロ帝の競技場跡に建っていたものを1586年に移転させたものです。※ 過去に「オベリスクの切り出し(アスワン)」を載せています。リンク オベリスクの切り出し(アスワン)リンク エジプト 17 (オベリスクとベンベン)下はアッシリアの壁画(大英博物館)から BC700年、アッシリアの軍艦写真はウィキメディアから借りました。オールを見ると2段式櫂船(かいせん)のようです。下はノルウェーの復元されたヴァイキング船の写真です。時代は中世初期ですが、ガレー船としてはシンプルな初期型(一段櫂船)。見本に載せました。こちらは一応ヴァイキング船なので戦闘船です。円形の楯(たて)の収納場所も付いている。一段櫂船(single-banked galleys)古代のガレー船は、漕ぎ手座は1段(single-banked) で、1人が1本の櫂(one row of oars)を担当。また漕ぎ手の列(lines of rowers)に基づいて名前が付けられていた。初期のギリシャの一段櫂船(single-banked galleys)は、オールの数で呼ばれていたようだ。30オール・・トリアコンター(triakontoroi) 左右1列づつの 2×15人50オール・・ペンテコンター(pentēkontoroi) 左右1列づつの 2×25人初期のガレー船は甲板がない漕ぎ手座だけの船。よって積荷はほとんど積めないので水や食事の補給、休息や睡眠の為に度々着岸する必要があった。あくまで近海用である。また人件費と言う意味で帆走よりコストがかかった。海賊に人件費はいらないが・・。※ 帆走(はんそう)は帆(ほ)に風を受けて航行するヨットのような船。当時の帆船には大きな正方形の帆マストが1つしかなかったらしい。ただ風に頼らず、行きたい方向に進める小廻りの効くガレー船は近海警備や戦闘用に向いていたので古代から中世までは軍船として発展して行く。ところで、当初、軍船と商船の明確な区別は無かったらしいがBC8世紀頃からスタイルの違いが出てきているらしい。多人数でオールを漕げぱ早い走行は可能。それ故、ガレー軍船は戦士をどんどん増やし大型化して行くが、逆にフェニキアの商船の場合は積荷スペースを多くする為に漕ぎ手を減らしている。ギリシャでは馬を輸送するガレー船も存在している事から用途によってガレー船のスタイルもいろいろ考案されていたのだろう。ペルシャ戦争の三段櫂船(Trireme)漕ぎ手座は3段(three banks of oars)・・・三段櫂船 トリレム(Trireme)BC6世紀中頃~BC4世紀末は三段櫂船トリレム(Trireme)が地中海における標準的な軍船となる。BC5世紀、アケメネス朝ペルシア帝国VSギリシアの間で行われたペルシャ戦争(BC492年~BC449年)でもギリシャは三段の櫂(かい)船を使用した。三段櫂船(さんだんかいせん)は漕ぎ手60名~170名を上下3段に配置される。基本は船体衝突と白兵戦である。漕ぎ手が戦士でもあった。下はGreeceJapan.comの記事「三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号、ギリシャで試験航海を実施」からリンク 三段櫂船のオリンピアス号、ギリシャで試験航海を実施ギリシャ海軍が復元した古代ギリシャの三段式のガレー帆船の走行実験をしている写真をお借りしました。photo: Hellenic Navy全長36.9m、全幅5.5m、全喫水1.25m、35トン 乗員170人。 このオリンピアス号は漕ぎ手座は2段であるが、重装歩兵や軍馬の輸送を担う船もあり、三段櫂船のレイアウトにはいくつかのバリエーションがあったらしい。船首に付いている金属の尖った口ばしのような衝角は、敵船に体当たりして穴を開けると言うよりは敵のオールを主に破壊し、航行不能にする武器だったらしい。ガレー船は中継点を近場に必要とする船と言う特性からエーゲ海のような諸島郡では非常に適していたのだろう。中世以降もカリブ海やバルト海など小島が点在する海域で残ったのもそうした理由だろう。このペルシャ時代の三段櫂船(Trireme)の技術は4世紀のローマ帝国の動乱期に廃(すた)れてしまったらしい。つまり複数のオールで漕ぐ所は一致しているが、動乱後の6世紀以降に海洋共和国が新たに造船したガレー帆船と古代のガレー船とは設計において全く別物の船らしい。アレクサンドロス王とフェニキア人(Phoenician)ところで、全く余談であるが、ふと思ったので・・。BC324年、ペルシャ帝国を征服し、バビロンに戻ったアレクサンドロス王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年)はフェニキアで建造した船を解体し、ユーフラテス川沿いに建設した港に船を運ぶと、同時に何千と言う水夫やこぎ手を集めてペルシャ湾岸からアラビア海湾岸を沿ってアラビア半島南端(イエメン共和国の港湾都市アデン(Aden)を経由して紅海に入る海のルートを模索している。すでにインダス川まで到達していたアレクサンドロス王は船でインドから地中海への交易路を探っていたのだ。私が着目したのはアレクサンドロス王が使用したのがフェニキアで建造した船だったと言う点。地中海交易にたけたフェニキア人は自力で船を建造していたばかりでなく、輸出もしていたのかもしれない。アレクサンドロス王は、フェニキア人の船の凄さを認めていた?因みに素材はレバノン杉。それもまた彼らフェニキアの本拠テュロス(Tyros)の特産品である。しかし、皮肉にも海の民フェニキア人の本拠地、東地中海のパレスティナ沿岸にあったテュロス(Tyros)は、アレクサンドロス王のペルシャ遠征の時に壊滅され歴史から消えた。(一部がカルタゴへ逃げた。)アレクサンドロス王はいろんな事象において、テュロス(Tyros)を壊滅させた事を後悔したのではないか? 実際、直後の欧州に大きな経済の停滞を起こしたであろう事は間違いない。何しろテュロス(Tyros)は当時の地中海貿易の中心となる都だったからだ。フェニキア人は古からの総合商社であり、運送業者でもあった。必要な品を必要な所に運ぶ。古代から存在したテュロス(Tyros)の街は、その港からあらゆる商品を地中海の港に運んでいた。当然、代替えの効かないオリジナル商品もたくさん扱っていたはずで、テュロスに依存していた国は多かっただろう。※ 現代で言えば、例えば中国が壊滅して中国からの商品の供給が全て止まったらアメリカや日本の経済もヤバイ。と言うのに近かったと思う。また、アレクサンドロス王は帝都ペルセポリス(Persepolis)を燃やして壊滅させた事も後悔していた。ペルセポリスはオリエント1の国際都市であったからだ。こちらはまさか、火事程度で壊滅するとは思っていなかったのだろうが、実際、再建できない程のダメージを受けて消滅した。知性と教養があり、すぐれた指導者であるのは確かだが、怒りの琴線に触(ふ)れると後先考えずにまず、突っ走る性格だったのかもしれない。若かったからかもしれないが、ちょっと思慮に欠けていた? 割と浅はかだったな・・と思う。彼はフェニキア人を滅ぼすべきではなかった。そもそも滅ぼされる理由は彼らには無かったし・・。彼は巨大帝国の王位に就いた時に初めて経済を顧みたのではないか?新たな交易ルートの開拓は素晴らしい事ではあるが、結果論として、現行の経済を破壊しただけで終わってしまったからだ。それ故、アレクサンドロス王を考える時、その2点は大失態だっと思う。もっとも早世(そうせい)していなかったら、彼が新しい交易のスタンダードを造り経済を再生させていたのかも知れないが・・。※ アレクサンドロス王については以下で触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスポエニ戦争の五段櫂船(Quinquereme)漕ぎ手座は5段(five banks of oars)・・五段櫂船 クインクレーメ(Quinquereme)ポエニ戦争ではカルタゴ海軍の主力軍船として五段櫂船(ごだんかいせん)(ペンテーレス pentērēs)が使われた。実際に櫂(かい oars)が五段になっている訳ではなく、3本の櫂を5人(上段2人、中段2人、下段1人)で漕ぐ形になっていたと解説があったが、下のカルタゴ船の図は五段になっている。スタイルは色々とあったのだろう。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権」の所で一度紹介していますが、リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権当時のローマ船とカルタゴ(フェニキア人)の船の図です。アレクサンドロス王にテュロス(Tyros)が滅ぼされた後、逃れた一部フェニキア人は北アフリカのカルタゴ(現チュニス)に本拠を移し、カルタゴ(Carthage)の目先にあり地中海の中心でもあるシチリア島(Sicilia)を寄港地に展開する。※ カルタゴは、もともとはフェニキア人が地中海交易の中継点(船舶寄港地?)として建設していた街。が、今度はローマ軍との3度に渡るポエニ戦争で敗戦。シチリア島もカルタゴも失い、フェニキア人は都市国家ローマに完全に滅ぼされてしまう。BC146年、フェニキア人の都市カルタゴ(Carthage)は植民都市としてローマに併合されフェニキア人の歴史はここで完全に途絶えた。※ 「フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争」について書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権力を付けてきた都市国家ローマは共和制ローマとなりカルタゴ(Carthage)をローマの属州(植民都市)とし、以降地中海域の王者として君臨する事になる。が、そもそもフェニキア人の技術は他が追随できないレベチな域にあった。かつてのカルタゴ(Carthage)の街も実に未来的であったが、カルタゴ(Carthage)が滅んだ事で消えた技術もたくさんあったであろう。実際、五段櫂船(ごだんかいせん)の開発は難しかったはずだ。ローマも実は第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)の後、フェニキアからぶんどった船を研究して自国の船を建造している。ローマ帝国の海への進出はフェニキアの模倣から始まるのだ。古代に、すでに高度な文明を持っていたフェニキア人は何者だったのか?そして彼らのガレー船は、多少形を変えながらも動力が人力から蒸気エンジンになるまでの間、およそ2000年は続くのである。ガレー船の漕ぎ手問題当時軍船は人力でオールを漕ぐ ガレー船(galley)である。風力を利用する帆船と比べると持続力は乏しく長距離の航行には向かないが、小回りは効くし機動性はある。その為には狭い船内で、漕ぎ手の一矢乱れぬ技術が必要だったらしいが・・。とは言え人力なので漕ぎ手が全力を出せるのは30分程度が限界だったらしい。太洋に比べれば内海の為に地中海は風が緩く帆船よりはガレー船は適していたらしい。だからガレー船は地中海では長く使用された。初期の漕ぎ手座は1段(single-banked)で甲板はなかったので漕ぎ手がそのまま戦士となったから奴隷は利用できなかったが、やがて漕ぎ手座が2段になり、次いで漕ぎ手座3段(three banks of oars)の三段櫂船へと発展すると事情は変わる。※ 古代ギリシアの復元船、三段櫂船のオリンピアス(Olympias)号は漕ぎ手座が2段(Two banks of oars)だが漕ぎ手のtotalが3列。アレクサンドロ王以降は漕ぎ手座が2~3段(two or three rows of oars)はほぼ変わらず、ラインの漕ぎ手(lines of rowers)の数が増えた船が出現する。つまりオールの最大バンク(maximum banks of oars)は3段が術的にもほぼマックスで、後は1本のオールを何人で漕ぐかで人数が変わったようだ。なぜ人員が増えたかの理由は明確になっていないらしいが、投石機(カタパルト catapults)のような兵器が船に搭載されるようになった事などで人員が必要になったのが要因? 最も、無駄に増えただけで意味のなさいない船もあったらしいから自然と必要条件のそろう人員に収まったのだろう。オールを上げている時は停泊時 or 帆を上げて風待ちをしている図船によってサイズや人数は異なるだろうが、およそ長さ45m。幅9m。左右に26ずつの腰掛けがあり、一つの腰掛けに5人の漕ぎ手が座る。(横幅9mの船に横一列で10人。)450人ほどが乗船していた船もある。劣悪で、過酷以外の何物でもない。※ 囚人の場合は鎖で繋がれていた。誰が船を漕いだのか? 各国の漕ぎ手だけでもその国の事情が解る。かつてのローマ帝国海軍の場合は無産市民(プロレタリア)が漕ぎ手となっていた。ガレー船の乗り組み員は自分達の事を船員(sailors)ではなく、兵士(soldiers)と呼んでいたそうだ。それ故、労働に見合う給与なり報酬が必要であった。つまり、囚人は使用しなかったらしい。中世の海洋共和国や西側諸国の場合は国で様々。まれに囚人も使われたが、大方で漕ぎ手はやはり人件費を掛けて自由人が集められている。スペイン船では、宗教裁判で異端とされた罪人が使われたと言うが、イタリアにはそんな罪人はほとんといなかったらしい。ヴェネツィアの場合、かつて服属させたアドリア海の東岸の人々を漕ぎ手に雇用すると言うシステムが昔からできあがっていたらしい。しかもヴェネツィアは高額な給与を支払っていたので当初は人気はあったそうだ。アマルフィ、ピサ、ジェノバの海洋共和国では特に人集めが大変だったようだがやはり自由人を給与を払って募集した。イスラムの場合、拉致してきたキリスト教徒が奴隷として漕がされる事がほとんど。それ故、奴隷の反乱が起きると困るので、多人数のキリスト教徒を一度に乗船させる事はできなかった。また造船技術は西方よりは遅れていたので当初は小型のフスタ船が主に使用されていた。イスラムの乗員は50人程度。だからイスラム側は自国の軍船を出すよりは海賊を都合よく利用した。海賊は船も船員も持ち込み。軍功を上げれば正規軍として雇用されオスマン帝国の将軍にすると言われて飛びついたのだ。つまり地位と名誉が報酬で、海賊がキリスト教徒との戦闘に加わったのである。ヴェネツィアとジェノバのガレー船の事情ところで、ヴェネツィアとジェノバのガレー船は商用船でもあったので、40m級の大型が多く、漕ぎ手も一隻で200人は必要。当然1航海における人件費は高くなり一隻の航海における諸費用のほとんどは人件費で消える。だからヴェネツィアはガレー船にはペイできる高額品を積んで航行したそうだ。また、ヴェネツィアの船長の条件は厳しかったが、船数が増えると条件は緩められた。だが、航海術よりも商売に詳しい船長を採用する傾向があったそうだ。ヴェニスの商人。徹底していましたねまた、ヴェネツィアの商船は常に共和国の海軍の護衛の元に航行していたので、財力のあるヴェネツィアは傭兵隊長を別に雇って海軍維持にも努めたそうだ。一方、1381年のトリノ講和条約、以降、東方貿易での利権を失ったジェノバでは高額品の取り扱いができない。だから、地中海交易では人件費のほとんどいらない小型帆船のフスタ船にシフトしたらしい。とは言え、ジェノバはイベリア回りでフランドルに定期航路を持った。フランドルの毛織り物はそれ自体が宝石に匹敵する高額商品として取り扱われ、東方へも輸出されて行く。どこにでも商機はあるものだ 官民一体のヴェネツィア船団共和国の軍船は、当初20隻くらいであったらしいが、15世紀になるとオスマンの海賊対策の為にガレー船の数は増えて行く。前回触れたが、1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍に参戦した時は、その時だけでもヴェネツィア共和国から50隻の艦船が参戦している。それだけオスマン帝国側の海賊船の数が増えて脅威になってきたからだろう。それにしても、ヴェネツィア共和国の官民一体の協力体制はすごかった。ヴェネツィア商船は軍用のガレー船と共に船団を組んで航海に出る。つまり護衛艦に守られての航海なので途中襲われても安心して航海が可能だったのである。経済の維持に国が協力を惜しまなかったからだ。実際、交易品に掛けられる税収がヴェネツィア共和国の財源であったから・・。しかし、逆に国が民に求める事もある。いざ大きな戦闘態勢になって船が必要な時は民間の商用船も軍船に転じたと言う。。積荷は最寄りの港に預けられ商用船も戦闘に参加した。これは義務であった。因みに商船が沈没して荷物の回収ができなくなった時は、ヴェネツィア共和国が責任を持って積荷を回収し荷主に届けられたと言う。その非常に合理的な制度、さすがヴェネツィアである。 それに比べてジェノバの方はトップが4つに割れて争っていたからヴェネツィアのようなまとまりは無かった。強いて言えばジェノバはローマ教皇庁の為によく協力をしていたのでその見返りは大きかったのだと言う。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年で大きく貢献した事は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに紹介しているが、ローマ教皇庁に大きく恩を売った。そして東ローマ(ビザンツ)帝国ともつながり植民地領をたくさん得る。またカール5世以降、神聖ローマ帝国とつながり、オーストリアのハプスブルグ家、スペインのハプスブルグ家とも懇意になっていく。造船や金融など利権の獲得に成功している。小型ガレー船フスタ(fusta)フスタ(fusta)は帆走をメインにした小型のガレー船である。下の絵ではマストが横倒しになっているが・・大三角帆用の1本マストがあり2人用の漕ぎ手用ベンチが並ぶ。戦闘用だと両舷に12人から18人程度の人員が漕ぐのだろうが、小型のフスタは商用だと乗員を制限して帆に頼る航行をメインにしていた。因みに、四角帆だと逆風では行きたい方向に進めないが三角帆だとジグザグに前進する事が可能。下は以前紹介したジェノバ港の絵ですが、フスタ部分をクローズアップしました。大型ガレー船よりはるかに数が多い。むしろ一般的な実用船のようです。元海賊、オスマン帝国の海軍提督バルバロスバルバロッサ(Barbarossa)とは、イタリア語で赤ヒゲを意味する。映画などでよく怖い海賊の代名詞に使われる赤ひげの海賊であるが、実は彼はオスマン帝国の海軍の提督であった。※ ハイレディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa)(1475年~1546年) 上半身のみウィキメディアから借りました。16世紀のバルバロス・ハイレディン・パシャの肖像(Portrait of Barbaros Hayreddin Pasha ) 作者不明Louvre Museumd 所蔵15世紀のオスマン帝国は、海賊を使い地中海を荒らしキリスト教徒からの略奪を繰り返していた。その中でもキリスト教徒相手に成果を上げた海賊をオスマン帝国の正規軍に迎え入れると公言し、実際大きな成果を上げたバルバロッサ(Barbarossa)は提督に抜擢された。元海賊と言う異例の経歴を持つ提督だ。 下もウィキメディアから借りました。Istanbul Naval Museumの模型ですが、原本の解像度が悪い? 船を見やすくする為にバックを修正しました1543年、バルバロッサはこの船で当時オスマン帝国の同盟国であったフランスを支援するために210隻の艦隊でマルセイユに向かった。バルバロッサは国賓としてフランスに招かれたのである。※ これらガレー船を漕いでいたのは拉致され奴隷とされたキリスト教徒であった。彼はギリシャのレスボス島(Lesbos)出身者。つまり元はカトリック教徒でもあった。しかし、当時レスボス島の周囲は完全にオスマン帝国に包囲された環境だ。イスラム側は略奪品の一部を上納すれば海賊業を認めてくれたので、好意的に解釈すれば、生きて行く為に海賊となったと思われる。裏切り者と言われようと、相手がカトリック教徒だろうが関係なかったのだろう。実際、イスラムに征服された土地の住人、また誘拐されて来た者らはイスラム教に改宗しなければ、ほぼ奴隷扱いされたのでカトリックを棄てた者は多かったと言う。※ かつて海賊と言えば、アラブ人、ベルベル人、ムーア人が主であったが、時代は変わりギリシャ人、ユダヤ人、イタリア人、スペイン人など人材も多様化。また、以前はイスラムの土地になっていたイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)されキリスト教徒の土地に戻ると、そこを追われたイスラムの者が海賊となり、イベリア半島を襲うと言うよう、西地中海も海賊の標的になって行く。オスマン帝国は彼ら海賊をバックアップしたので海賊の数は増え、また有能な人材も増えたらしい。※ イベリア半島は、西ゴート王国が滅亡した8世紀初頭から1492年のイスラムのナスル朝(グラナダ王国)が陥落するまでイスラムの土地になっていた。※ 土地にいたイスラム教徒も残りたい者はカトリックに改宗して多くが残留している。バルバロッサ時代のオスマン帝国販図バルバロッサ(Barbarossa)は北アフリカを襲い、チュニジアとアルジェリアをスルタン・スレイマンに献上する事で北アフリカのイスラム化にも協力していた。これはバルバロッサの先行投資であった。実際、これら功績により、バルバロッサは「トルコ帝国海軍の最も武勇にすぐれた海将」として迎えられ、スルタンよりアミール(amīr)の称号を与えられた。同時にたくさんの艦船を与えられている。※ アミール(amīr)とは、ムスリム集団の長の称号であり、アラビア語で「司令官or総督」を意味する。何より特筆するのはこの時期のオスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年~1566年)がスレイマン1世(Kanuni Sultan Süleyman I)(1494年~1566年)だった事。海賊登庸など大胆な彼の政策により? スレイマン1世はオスマン帝国の最盛期を造り上げたスルタンとして評価されている。因みに、聖ヨハネ騎士団からロードス島を奪った(1522年)のもスレイマン1世なのである。※ 聖ヨハネ騎士団は1530年にマルタ島を与えられ移るが、それまでは教皇庁海軍基地などに居候。スレイマン1世は、オスマン帝国の海軍提督となった赤ヒゲ、バルバロッサを地中海制覇に向けて公式に送り出したのである。1538年9月、教皇庁連合軍とのプレヴェザの海戦 (Battle of Preveza)ではバルバロッサがオスマン帝国を率いて勝利。これによりクレタ島、マルタ島を除く地中海域の制海権をオスマン帝国がほぼ掌握する事になる。海賊との海戦からオスマン帝国との海戦にスレイマン1世がスルタンになると軍船の数も半端なく増えている。また、戦いはどちらが先の一手を打つか? その為に事前の情報収集と根回しが必要。戦いは情報戦の時代となりスパイも暗躍しているようだ。闇雲(やみくも)に戦う時代ではなくなったらしい。ヴェネツィア共和国は13世紀頃から各国に大使や領事を派遣し、常駐させてきた唯一の国。ヴェネツィア共和国には諜報機関があったから情報収集もハンパ無かったのだろう。コンスタンティノポリスの軍船の移動もすぐさま伝達された。教皇庁連合結成もヴェネツィアの呼びかけであるし、レパント戦のスペイン参戦もヴェネツィアがローマ教皇ピウス5世に働きかけた結果である。総司令官をヴェネツィアがとるか、スペインがとるかでもめたらしいが・・。※ 初期のイスラムの海賊については「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海」と「サラセン(Saracen)の海賊」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊聖エルモ城塞(Fort st.Elmo)ヴァチカン美術館で撮影した写真に面白い地図を見付けた説明を撮って居なかったのでこれが何か最初は解らなかったが、本の図解でこの形がまさに・・と気付いたのだ。絵は攻防以前の城塞だと思う。1565年、マルタ島の攻防戦のメインとなったマルタ島の聖エルモ城塞を中心にした陣であった。オスマンと海賊の大軍に襲われ、危ぶまれたマルタ島であるが、当時、マルタ島には聖ヨハネ騎士団がいた。以前いたロードスがオスマン帝国に奪われ苦渋をなめていた。今回は負けられない。オスマン側の残虐な手法にも精神力で負けなかった。5月に始まった戦いは夏のシロッコや暑さに助けられた。4ヶ月に及ぶ攻防でオスマン側には疫病も流行った。キリスト軍援軍の知らせでオスマン軍は撤退し、勝利したが、エルモ城塞は壊滅。キリスト軍の7割の兵士が戦死。戦闘の中でも悲惨な戦闘の一つではないか?ヴァチカン美術館が敢えて記録として? 残している事からも、そうなのかもしれない。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)それにしても絵画に描かれている海戦のスタイルを見て驚く。陣形が出来ている。海戦も進化した。まさに戦争だレパントの海戦 (Battle of Lepanto)(1571年10月)ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊前回、「法王庁海軍結成と共和国連合艦隊」については説明済ですが、オスマン帝国との戦いにはローマ教皇(法王)庁先導で共和国が連合が結成された。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊レパント決戦の前にシチリア島のメッシーナに艦隊は集結。ヴェネツィア 110隻(6隻のガレアス船を含む)スペイン 72隻教皇(法王)庁 12隻マルタ騎士団 3隻サヴォイア公国 3隻その他 3隻ガレー船の総計 203隻フスタ 50隻大型帆船 30隻人員 漕ぎ手43500人 総計8万人を越えたらしい。バチカン美術館の地図ホールのフレスコ画らしい。写真は上下共にウキメディアから借りて、上は部分カットしています。艦船の数に驚く。海賊対策の教皇庁連合軍はオスマン帝国との戦争に突入。ガレーを主力とする海戦としては最後らしい。最初、防衛側にいたヴェネツィアが残虐なやり方で皆殺しにされるとそれまで対立していたスペインとヴェネツィアの対立は消え、復讐に燃え結束はかたまったらしい。戦闘は5時間ほど? 結果的にレパントの海戦は教皇(法王)庁連合の圧勝であったが、戦死者7500人。負傷者8000人。敵のイスラム側も戦死者8000人。オスマン宮廷の高官や指揮官はほぼ全滅。この戦死者のうちヴェネッアだけで半数以上の4836人出している。艦長クラスの18人全員がヴェネツィアの名家出身者がしめたと言う。料理人から技師までが、一丸となって戦っている。どこよりもヴェネッアが健闘した証しである。人数が正確に出ているのもヴェネッアだけ。管理や統計にも抜かりがなかったのだろう。教皇庁連合軍はこの海戦に勝利し、地中海の制海権を取り戻す。※ 1538年9月プレヴェザの海戦で敗戦して以来の地中海の制海権の奪還となる。勝った。負けた。は一言で終わるが、中身は知れば知るほど壮絶である。ロンドンのNational Maritime Museum 16世紀後半 下もレパントの海戦です。レパントの海戦 (Battle of Lepanto)の勝利はスペインの参戦にもある。スペインはアンドレア・ドーリア(Andrea Doria)(1466年~1560年)の元で力を付けてきた。最も彼は1560年に亡くなっているのでレパント戦にはいないが・・。ローマ教皇ピウス5世 の呼びかけにやっと応じての参戦だが、艦船が少ない。スペインがどこまで本気だったか? はちょっと疑問だ・・。ヴェネツィアが新たに開発投入したガレアス船(galleass)も勝利に貢献している。レパント戦では、ガレアス船(galleass)が6隻投入された。ガレーと帆船を合体させたガレアス船(galleass)は漕ぎ手の頭上に砲列甲板があり、13~16門の砲台を積んだ。これは今までのガレー船の2~3倍近い砲台らしい。海上で一周しながら敵に砲撃できるので敵の陣営を崩す事ができると言う新兵器だったらしい。因みに、ガレアス船(galleass)は外洋航行に向かずコストも維持費も高かい。ヴェネツィアやオスマン帝国では軍船として17世紀後半以降も使用したと言う。このレパントの海戦でオスマン帝国の海軍は壊滅したに等しい。それでもヴェネツィアは危機を唱えていたが、その勝利に酔った教皇庁の連合軍は1572年に解散。ヴェネツィアは今後のオスマン帝国の復讐戦を恐れたのだろう。1573年3月、ヴェネツィアはキプロス島を手放す条件でオスマン帝国と正式調印し和解した。ヴェネツィアはキリスト教国から裏切り者とされるが、レパントの海戦での犠牲を最も受け、オスマン帝国との戦闘を避ける事を教訓としたのだろう。ガレー船の衰退長距離航海の大航海時代(16世紀~18世紀)にガレー船は当然向いていない。ガレー船から帆船への移行は15世紀には始まっている。キャラック(Carrack)船は遠洋航海を見据えて開発された。※ 1492年、クリストファー・コロンブスが新大陸に到達した際に乗船していたサンタ・マリア号もキャラック船(Carrack)であった。16世紀から18世紀は大航海の時代に突入。ガレオン船(Galleon)の時代になるとさらに荷が多く積載できる。ガレオン船はキャラックに比べて幅と全長の比が長くスマート、また吃水が浅く沈没しやすい反面速度は出たらしい。帆船の話しは次回ですかね。本当はイントロとして使う予定だったのですが・・。蒸気汽船の発明世界初の蒸気エンジンの開発に成功したのは、実はフランス人の造船エンジニアであったクロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ(Claude Francois Dorothee Jouffroy) 侯爵(1751年~1832年)だったそうだ。彼はエンジンが回転ブレードを備えたオールを動かすと言う13mの船(Palmipède)を造り1776年6月と7月にフランス、ブルゴーニュ (Bourgogne)のドゥー(Doubs)川で実験、そして1783年にはリヨン(Lyon)のソーヌ(Saône)川で、今度は外輪船(Pyroscaphe)を造り実証実験に成功している。国立パリ海兵隊博物館のコレクションから Pyroscaphe-MnM 23 MG1の縮尺モデル写真はウィキメディアから借りました。しかし、当時のフランス・アカデミーからは認められず、しかも1789年に勃発したフランス革命の不幸も重なり認められる前にパリの廃兵院アンヴァリッドでコレラにかかり亡くなっている。その後の蒸気船の開発に現れたのがアメリカ人エンジニア、ロバート・フルトン(Robert Fulton)(1765年~1815年)で、1801年に一度完成し実験に成功するも1803年のパリ、セーヌ(Seine)川での実証実験で成功はしたが沈没。フルトンはイギリスに移動しイギリス海軍が使用する武器の製造を依頼され魚雷の開発もしている。魚雷の完成度は微妙だったらしい。因みに、ロバート・フルトンは1800年に世界初の手動式潜水艦ノーティラス(Nautilus)号を設計している。最もその動力は 手動手回しのスクリュープロペラだったが、ナポレオンの要請による開発だったらしい。1805年、対仏、トラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)でイギリスが勝利するとロバート・フルトンの需要は減り彼は母国アメリカに戻っている。そしてそこで、富裕な投資家であり政治家のロバート・リビングストン(Robert Livingston)(1746年~1813年)の協力を得て、すでにパリで実用実験していた外輪の付いた蒸気汽船を完成させ、ハドソン(Hudson)川を遡上(そじょう)する蒸気船としてし1806年に「クラーモント(Clermont)」号の運行に成功している。※ 32時間で150マイル(240 km)走行。商業用実用化に成功したこの蒸気船はノースリバー蒸気船と呼ばれ、ニューヨーク市とニューヨーク州アルバニー(Albany)間のハドソン川を運行した。下もウィキメディアからです。1909年に運行していたクレルモン(Clermont)号。別名ノースリバー蒸気汽船(North River Steamboat)。当初のオリジナルではありません。要するに、蒸気エンジンが発明されるまで、船の動力はもっぱら風力か人力しかなかったのである。蒸気エンジンによる艦船が現れるのはナポレオン戦争(トラファルガーの海戦)以降と言う事になる。そして船体のボディーも木造から鉄製に代わって行く。船が人類史に現れて5000年? やっと造船は次の世代に入ったのである。それ以降の変革はすさまじいが・・。さらに余談ですが、1811年に開始されるナチェズ(Natchez)とニューオーリンズ(New Orleans)間のミシシッピ川(Mississippi)を走行する蒸気汽船もまたフルトンとリビングストンにより建造されている。作家マーク・トウェイン(Mark Twain)(1835年~1910年)がトム・ソーヤーの冒険 (The Adventures of Tom Sawyer )で「あこがれの蒸気船」として執筆したのがこれである。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真聖エルモ城塞やレパント戦まで入れる予定ではなかったのですが、追加が増えて力尽きましたとりあえず写真は載せましたが、サン・マルコ寺院の解説は無しで終わります。(*_ _)人ゴメンナサイ。(_△_;) ツカレタ・・何を書いて良いか迷って2週間。とりあえずガレー船について書き出しても見え無くて・・。この数日で全く別物になりました。とりあえず載せますが、誤字チェックなどはまた後で追々させていただきます。m(_ _*)mBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年10月22日
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Back numberをラストに追加しました。今回は海洋共和国の続編です。でもその前に・・。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」で触れた十字軍(crusade)ですが、3回目の十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については全く触れていません。紹介する必要があるか? と言うと交易には関係ないので飛ばしたのですが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)実は十字軍(crusade)を中世の騎士物語として見た時、最もドラマティックなのがこの3rd Crusadeなのです。それは最強のイスラムの戦士サラディン(Saladin)との戦いで西欧方も大国の大物が参戦して多数のドラマが伝えられているからです。イングランド王リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)フランス王フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(Friedrich I)(1122年~1190年)(皇帝在位:1155年~1190年)特にイングランド王リチャード1世は王と言うよりは騎士そのものだった人。その生き様もドラマティック。聖地奪還こそかなわなかったが、サラディンとリチャード1世は戦いの中でお互いを尊敬し合うほど理解。それが1192年の「リャード・サラディン協定」(休戦協定)を生んでいる。要するにスターになる騎士がいたからです。第3回十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については以前リチャード1世と共に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」で少し紹介。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード1世に仕えた臣下に英雄騎士のウィリアム・マーシャル(William Marshall)がいる。リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は小アジアを陸路聖地を目指したが途中セレウキアで水死。部隊はオーストリア公レオポルト5世と有志のみがフランス王に率いられてアッコの戦いに参戦。フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世は海路進軍してシチリア島で合流。パレスチナに向いイスラムと戦いアッコを取り戻している。しかし、このアッコでの戦果でトラブルがあり、オーストリア公レオポルト5世もフランス王フィリップ2世も帰国。3rd Crusadeにリチャードの十字軍と別名があるのは聖地で実際にサラディンと対峙し激戦したのは、結局イングランド王リチャード1世だけだったからです。騎士になってから予期せず王権を手にしたリチャード1世。しかし彼はほとんど国には居なかった。王と言う職業より騎士として生きる方を好んだからだ。若いが頭は切れ、しかも勇猛果敢。リチャード1世の戦いぶりとその姿勢に敵方も一目おいた。サラディンが騎士として認めた男なのである。※ 正統派の騎士道は日本の武士道に近い流儀や精神性があったようです。それ故、サラディンはリチャードを信用して取引に応じ、約束通りキリスト教徒のエルサレムの巡礼再開を認めたのである。これは快挙でありローマ教皇もイングランドのリチャード王を高く評価した。彼がイングランドの中でも別格の英雄王とされる所以だ。ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)上院側の翼の前騎馬のリチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像リチャード1世にとってイングランドには何の思いも無かったらしい。だから彼の遺物は何一つ本国に無い。あるのは後世に造られたこの像だけ。ヴァッハウ渓谷 のデュルンシュタインにはオーストリア公レオポルト5世の逆恨みで一時期リチャード1世が幽閉されていた城跡が残っていて、リチャード1世に想いを馳せながら山の城跡まで登った時の事。「この城跡に本当に捕らわれていたのか? 伝説では吟遊詩人の歌声に返した唄でリチャード1世の場所を特定したとされる。絶景ではあるがここまで高台に声は届かないゾ。もっと麓の村の中だったのではないか? 」そんな事を考えていたら同じようにリチャード1世を想い城跡に上ってきた日本人に遭遇。異国の辺境地で日本人とリチャード1世で語り合う。これも旅の面白さですね。 アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊第3回十字軍(3rd Crusade)海洋共和国おさらいドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築スタッコ(stucco)ため息橋(Ponte dei Sospiri)アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusade第4回十字軍(4th Crusade)1202年~東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤サン・マルコ広場の天文時計特異なヴェネツィアの建築ヴェネツィアvsジェノヴァの交易フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へ法王庁海軍結成と共和国連合艦隊ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)中庭の入口福音記者 聖マルコ(San Marco Evangelista)を象徴する輪光(こうりん)を持つ有翼の獅子。※ 輪光(こうりん)・・。ラテン語でニンブス(nimbus)ヴェネツィアのシンボルそのもの。これは最も造形が細かい。海洋共和国おさらいさて、今回は海洋共和国の続きですが・・。当初「海洋共和国」編は2部構成の予定でした。結局3部となったので一応振り返っておきます。時は西ローマ帝国が消滅し、東ローマ帝国も数々の危機で衰退を始めた5世紀以降、地中海は治安が崩れイスラムの海賊が闊歩。地中海に面した港湾は、どこも常に海賊の危機にさらされていた。一度海賊に襲われれば、略奪のみならず誘拐され奴隷として売られる。カトリック側住民からしたらまさに暗黒の時代。そんな時代が数世紀?9~10世紀になるとようやくイタリア半島の中に自力で海賊に対する防衛力と海軍力を高めた港湾都市がいくつか誕生。それが「海洋共和国(Marine Republics)」である。彼らはその海軍力で商用船を護衛しながら交易も始め成功する。★「海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ではラグーサ共和国、ジェノバ共和国、アンコーナ共和国の交易ルートなど紹介しながら海洋共和国の説明をしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)★「海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」では、11世紀、欧州で起きたキリスト教軍の逆襲とも言えるエルサレムの奪還をかけた十字軍の遠征を紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)First Crusade(1096年~1099年)ではジェノバ共和国が夫大きく貢献。また聖地奪還後、彼ら海洋共和国は聖地に大量の巡礼者や戦士を送り、物資を運んだ。十字軍の恩恵(軍事特需、巡礼など)により海洋共和国は繁栄のピークを迎えるのである。※ 海洋共和国の特性によりに寿命は各々異なるが・・。そして今回「海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」では、聖地が再びイスラムの手に落ち十字軍がパレスチナを撤退した後の話になる。聖地が奪われただけではない、パレスチナにあった十字軍による王国も無くなり、イスラムの勢力が再び地中海域に拡大するとまたイスラムの海賊が闊歩(かっぽ)。それに対抗するよう共和国側は連合軍で応戦するのであるが、今度はその中核となったのがローマ教皇庁なのである。何と過去の教訓からローマ教皇庁は海軍を持ったのである。そんなに規模の大きな物ではなかったが教皇庁が軍隊? それはこの時期の特例だった。写真は引き続きヴェネツィア(Venezia)でドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)、サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)など紹介します。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)海側からのドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)右上は夕景、下は夜のもの。年は異なります。必ずどこかが修復中であり、広告も派手についていて、なかなか完璧な写真はとれません。下は広場側の面。正面と側面はほぼ一緒のデザインです。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)と裏側のサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)は隣接している・・と言うよりは中庭を介して接続されている。バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築布告門(Porta della Carta)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の正式な宮殿の正門。※ そもそもここは元首(ドージェ)のアパルトマンの為の玄関だった? 隣接のサン・マルコ寺院も当初は元首のプライベート教会だった。彫刻家であり建築家であるバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)(生年不明~1没年1464年以降)により1438年~1442年建造。ヴェネツィアンゴシック建築からヴェネツィアンルネサンス建築の移行期? と紹介されている。下もバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の傑作。ソロモンの審判(Judgement of Solomon)旧約聖書「列王記」2人の母が子供を取り合い。どちらが本当の母親か? ソロモン王の賢い采配により真の母の愛が決め手に。バルトロメオ・ボンは大運河カナル・グランデ沿いに建つ黄金の館カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の建築家でもある。正式名は、(Palazzo Santa Sofia)今は面影も無いが、かつては外壁に金箔など多彩色の装飾が施されていたと言う。建築は1428年~1430年頃。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)は8人のヴェネツィア元首を輩出したコンタリーニ(Contarini)家の為に建てられた貴族の邸宅(Palazzo Santa Sofia)である。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の後にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の布告門(Porta della Carta)が造られている。門はそもそもドージェ(元首)のアバルトマンに繋がる入口である。但し、やはりゴシックは取り入れられているものの非常にかわいらしい造り。今ではこれがヴェネツィアらしさとなっている。布告門(Porta della Carta)にも聖書を持った有翼の獅子がいる。布告門(Porta della Carta)は勅令を告げる場所?ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はスクエアの中庭を持つ宮殿。布告門(Porta della Carta)を抜けると巨人の階段。 軍神マルス(Mars) と海神ネプチューン(Neptune)の像が迎える。軍事力と海の神に加護されたヴェネツィアを表しているらしい。最初の獅子はここのフロントのもの。つまり福音書記者、聖マルコを象徴とする有翼の獅子。14世紀と15世紀のヴェネツィアの彫刻の傑作ですがレプリカに代わっています。布告門(Porta della Carta)の中庭側 Arc Foscariこちらはより一層ゴシックから解離。ルネッサンス色もあるけど色々ミックスしすぎて何とも形容しがたい・・ 下、布告門(Porta della Carta)の側面とその後ろがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)中庭には16世紀に遡る井戸が二基。ヴェネツィア(Venezia)一とも言えるサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)であるが、ここは実際ヴェネツィア・ドージェ(元首)の為の礼拝所であったので司教座聖堂になるのはヴェネツィア共和国が滅亡した1807年の事らしい。前回の地図からヴェネツィアの行政を司るドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)は元首のアパルトマンも兼ねていた。つまり役職が付いていた時は宮殿に住み込みだったと言う事。実家はとても近いのに・・。黄金階段下、天井画の一部 ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)スタッコ(stucco)装飾がふんだんに使われ豪華。修復はされているのだろうが、ほぼ残っている所がすごい。ここは王宮ではなく、あくまで官庁の庁舎であるのに・・。かつてマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)がコンスタンテイノポリスを訪れた時に街の豊かさに驚愕している。250年前はヴェネツィアにとってもコンスタンテイノポリスはあこがれの街。ヴェネツィアが街に求めたのもまたコンスタンテイノポリスのような訪問者か度肝を抜く富の豊かさだったのかもししれない。スタッコ(stucco)スタッコ(stucco)とは、立体化粧漆喰による室内装飾の技法。※ 以前「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」の中、「フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)」で説明入れてます。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)富のあったドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はとにかく豪華です。お金かかってます。当時の一流が集まったそれ自体が美術館のようなもの。ヴェネツィアを代表する画家らの絵画も多く描かれています。残年ながら絵画の写真は撮影できていません。そもそも人も多い広い部屋の中で写真を撮るのはかなり至難です。そんな訳で下の写真はウィキメディアから借りました。なかなかこんな写真は撮れません。大評議会の間(Sala di Maggior Consiglio)議員となれるのは貴族出身者のみ。議員の数は13世紀に1000人強。16世紀に2000人を超えたと言う。その数がこの部屋に収まっていたと言う事です。この部屋にはキャンバスに描かれた世界最大級の油彩画、ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)による天国(Il Paradiso)1588年製作? がある。1577年、ドゥカーレの火災で以前の絵は消失。1582年のコンペでチャンスを得たのがティントレットだった。下もウイキメディアからの写真ですが、見やすさの為に中心部のみ抜粋させてもらいました。本来の作品は22.6 m×9.1 m。部屋の壁一面に広がっています。中央のキリストとマリアを取り囲み聖人や天使が多数描かれたスペクタクル(spectacle)な作品。ダンテの神曲に着想を得た? と言われている。たぶん階層式に聖人らを配置して描いている所ねそもそもテーマは消失前のフレスコ画「聖母戴冠」からきているのだろう。ため息橋(Ponte dei Sospiri)ドゥカーレ宮殿内の異端審問官の尋問室と運河を隔てて対岸の牢獄を結ぶ橋。投獄されたら当分? あるいは一生見る事はできないかもしれないヴェネツィアの景色。だから囚人が投獄される前に少し垣間見える外の景色に「ため息をついた」と言う意らしい。最もその名は後世の人が付けた呼称だが・・。その景色が下。格子越しにサン・ジョルジョ・マッジョーレ 島が見える下は海側の橋から撮影。窓に鉄格子がはめられ(右)牢獄だとわかる建築家アントニオ・コンティ(Antonio Contin)(1566年~1600年)の設計。彼はリアルト橋を造ったアントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の孫? 甥?らしい。リアルト橋、ドゥカーレ宮殿、そして新しい刑務所の建設と1591年からに祖父と協力して一族で携わったプロジエクトらしい。アントニオ・ダ・ポンテは1597年に亡くなっているのでその後をアントニオ・コンティが引き継ぎ、ため息橋の設計も担当し、1600年に新しい刑務所を完成させている。運河の上をしかも建物間をつないでいる。これは当時かなり活気的だったのではないか? 400年以上前の橋が現存している事自体驚きだし・・この一族は橋のエキスパートのようですね。前回、ヴェネツイア(Venezia)の街の成り立ちの所で、「697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として元首(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。」と、紹介しているが、ヴェネツイア(Venezia)の街が完成され歴史の表に現れてくるのは12世紀頃になる。13世紀になると小路(Calle)、広場(Campo)、教会、舘(palazzo)、商館(Fontego)などを持つほぼ現在の街の形になったとされる。※ ヴェネツイアの街の構造は「交通網としての運河や水路」があり、他方「人の生活する小路、広場を中心にした屋敷、河岸の商館」と2つに分けられる。そしてそれらはたくさんの橋により繋がれている。地上の土地のように横に増やすのには限界があったので、老朽化などによる再建や増改築により生活の場は少しづつ可能な限り水路上に広がった。だから逆に水路が路地化した。とは言え、限られた土地ではあったが、14世紀にはヴェネツイアの人口は13万人に上っていたらしい。そしてそれは共和国が終わる19世紀とほぼ代わらなかったと言う。※ 人口の増加の一つ要因は造船所の労働者の増加にあったのではないか?こんな不便な特殊な街ではあるが、ヴェネツイアは海洋共和国として成功し、一時は世界貿易の中心地とも言える繁栄をみせた。裕福な街は美しく着飾り長く欧州人の憧れの街で在り続けた。それはヴェネツイアが終焉した後もだ・・。アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusadeところで、海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)を支えたのは海軍力である。その海軍力のベースとなったのが国営のアルセナーレ(Arsenale)造船所の存在である。現在その土地はヴェネツィア市とイタリア海軍の所有に代わったが、11世紀以降から近年まで大きな造船所がドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)のすぐ近くにあった。下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)とサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)越しのアルセナーレ(Arsenale)造船所の跡地アルセナーレ(Arsenale)造船所は1104年頃設立。大きな積載量を持つ船の造船が始まる。それはまさに第1回十字軍(First Crusade)(1096年~1099年)成功の経済効果により始まった?パレスチナの港へ接岸する利権を得たヴェネツィアは十字軍景気に乗って欧州と聖地に多くの物資や人を運ぶ事になったからだ。※ 他の海洋共和国もこのFirst Crusade直後から軍事特需に湧いて好景気となっている。第4回十字軍(4th Crusade)(1202年~1204年)でヴェネツィアの制海権はさらに拡大する。しかし、これは一言で片付けられない問題である。第4回十字軍(4th Crusade)1202年~4th Crusadeも当初はローマ教皇の呼びかけに始まり、フランスやフランドルの諸侯による遠征計画から始まっていた。(4thと付くのだから当然である。)この計画は海路遠征が予定されていた為に遠征に必要な船を結果的にヴェネツィアが用意する事になったのだが、そもそも最初から船の賃貸料が払えないと言う問題も生じていた。だから遠征計画に大幅な修正が加わり、船賃代わりに十字軍は同胞のカトリックの国を襲撃すると言う暴挙に出るに至ったのである。先に結論を言えば十字軍至上最も最悪な遠征になった理由は、そもそもお金のかかる海路の遠征となった事による資金不足が招いた結果である。船賃問題で当然ヴェネツィアの関与は大きくなる。輸送はヴェネツィア海軍が担う。しかもその船団にヴェネツィア元首自らが乗った。当然船団の指揮は第41代ヴェネツィア元首(在任1192年~1205年)エンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo)(1107年?~1205年)が担ったからこの4th Crusadeは、スタート時点ですでにヴェネツィア共和国主体の軍隊の遠征に代わっていたのである。船団はヴェネツィアからスタートしアドリア海を南下する。先ずヴェネツィアにとって商売のじゃまになるザラ(Zara)の街を攻略させた。次に(1203年)、十字軍はお家騒動でもめていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノポリスに進軍。現東ローマ第3代皇帝アレクシオス3世アンゲロス (Alexios III Angelos)(1156年~1211年)を追放。1203年7月、新たな皇帝を置いた。※ すでに帝位の奪い合いをしていたアンゲロス王朝のアレクシオス4世アンゲロス(Alexios IV Angelos)(1182年~1204年)とその父に帝位を与えると父子は共同皇帝としてアンゲロス王朝の第3代皇帝(在位:1203年~1204年)として即位。実はコンスタンティノポリス襲撃の裏には彼ら父子との金銭的契約があったらしい。一見、十字軍が新たな東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の帝位者をサポートした形であり、十字軍は彼らに壮大な恩を売った? と思われるだろうが、ヴェネツィア自体にはもう一つ理由があった。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えていたから恨みがあったのだ。落ち着いたかに見えた戦いであるが、新たな皇帝は契約金を十字軍に支払えなかった事から1204年、十字軍は再びコンスタンティノポリスを攻撃した。この戦いでは居留民も含めて街が十字軍に敵対した為に、十字軍の暴行は過激さを増し抵抗する者へ容赦無かったし、略奪の限りを尽くした。もはやキリストの軍隊とは思えない卑劣な行動。結果、十字軍はアンゲロス王朝も倒し、新たにこの遠征に参加したフランドル伯ボードゥアンを皇帝に即位させ、帝国領は十字軍の騎士達が分割したのである。※ ロマニア帝国(Imperium Romaniae)(1204年~1261年)を樹立。(俗にラテン帝国と呼ばれる)だが、広大な帝国を凡人が維持するのは難しい。ラテン帝国の衰退は早く1261年、東ローマ帝国の亡命政権によって滅ぼされた。これにより東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が復活したと捉えられているが・・。さて、ヴェネツィアは? 今後の交易に必要な港の確保と制海権が欲しかったので、国内領土よりむしろ黒海やエーゲ海の島々にまで制海権を広げ東方との交易に有利な島の獲得を望んだのだろう。それ以前は黒海の通商特権を持っていたのはジェノヴァとピサだけ。※ クレタ島、レパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。またマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)内のトラブゾン、クリミアなど諸都市の港を押さえた。実際、海洋都市国家としての基礎を着実に固める事に成功している。東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?一般的には、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスが陥落した1453年5月とされている。ラテン帝国滅亡(1261年)からの復活よりも以前、ローマ教皇の十字軍がコンスタンティノポリスで暴れまくって皇帝をすげ替えた1203年を東ローマ帝国自体の終焉とする説もある。私的には、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世」で書いた通り、東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世が620年に「公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えた時」、古代からのローマ帝国は終わったと思っている。※ ヘラクレイオス1世(Heraclius I )(575年頃~641年)(在位:610年~641年)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊いずれにせよ、1202年からのそれは4th Crusadeとは言い難いもの。※ 1204年のラテン帝国を樹立するにいたる暴挙は、さすがにCrusadeには含まれていない模様。実は第1次十字軍(The First Crusade)(1096年~1099年)の時も彼らは同じような事をしてエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国を建国している。実際、十字軍は「聖戦」と言っても一攫千金を狙った武将も多かったと言う事だ。結果論から見ても4th Crusadeに聖地奪還は最初から見え無かった。それにしても、1204年の彼らの暴挙から見えてくるのは、彼らを同胞とは思っていなかったと言う点だ。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と今は呼称されているが、当事者から見ると中身はすでにギリシャ語を公用語とする東方の異国、ギリシャ人の国でしかなかったのだろう。カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)によるアルセナーレ(Arsenale)造船所の入口を描いた絵画。1732年制作。下は現在の同じ場所。造船所入り口。 上下共にウィキメディアから借りた写真ですアルセナーレ(Arsenale)造船所では1270年頃からさらに積載量の多い大型船舶の造船が始まる。1303年から1304年にかけ、また1320年には造船所の面積は4倍に拡張。さらに1325年には大がかりな拡張工事が行われているらしい。船は交易船だけでなく軍船も含まれる。同時に造船の規格の標準化を進め船の大量生産化にも成功。規格化されているので修理も手早くできる。むろんそれらは職人技術によりささえられる物、アルセナーレ(Arsenale)で働く職人の労働条件や待遇も考慮され、かつ海運に関する法律も完備されて行った。ところで、ダンテの時代にはすでにヨーロッパで最も重要な造船所の一つになっていたらしい。※ ダンテ・アリギエーリ(Alighieri)(1265年~1321年)ダンテが神曲の地獄編(21歌第5嚢)の中でアルセナーレ(Arsenale)の事を書いている。おそらくフィレンツェを追放された後の放浪中にヴェネツィアにも滞在していたのだろう。船の防水に使うタール? の煮えたぎる漆黒と悪臭を亡霊の責め苦として地獄の表現の一つに利用している。つまりそれだけ過酷な職場でもあった? 少なくともダンテはそう思ったのだろう。下は16世紀のアルセナーレ(Arsenale)造船所。2000~3000人の職人がいた。古代に出現したガレー船であるが、中世に入ってからも地中海の交易に使われたのでヴェネツィアではガレー商船が多く造船されたらしい。また1570年のレパントの海戦1年前に、2ヶ月で100隻の船が増産されていたと言う。こちらは軍船か?流れ作業で非常に効率的に作られたらしい。産業革命以前からこうしたシステムがあった事が凄い。下はウィキメディアから借りた近年の元造船所最盛期には2万人の労働者が勤務していたらしい。ヴェネツィア共和国が衰退した後も造船所として、また武器工場の機能を持つ複合施設として維持し続けたが第一次世界大戦の頃から減産。そして第二次世界大戦後には造船所としての機能は完全に終わった。1000年以上可動し賑わった造船所の跡である。この凪(な)いだ海面が感慨深さを増幅しますね海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図15世紀、ヴェネツィア共和国は最盛期を迎えた。領土はイタリア半島の北東地域、ダマルツィア沿岸、ギリシャ。さらにキプロス王の未亡人を通じて1454年にキプロス島を領有。下は15世紀~16世紀のヴェネツィア共和国※ 赤が所領。黄色はヴェネツィアの所持した制海圏と思われる。すでに敵対するイスラムの元にあるパレスチナの諸都市。それに近接しているキプロス島。また北アフリカのアレクサンドリアとも前と変わらぬ交易が続いているようだ。トリポリとチュニスは船舶寄港地の要素が強い?クレタ島やレパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。そしてイタリア東岸のダマルツィア沿岸はアドリア海に至る重要なポイント。またエーゲ海、そしてマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)に至るルート。黒海内では東方の交易窓口とも言えるトラブゾン。ドナウ河ルートで銀を運んだ? ドナウデルタの諸都市。クリミアからは塩、石灰岩、鉄鉱石を輸入? それらの港を押さえたのだから最強である。ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤下は1554年のヴェネツィアの黒海の海図(Portolano)制作者 Battista Agnese 資料は海図の本「Eary Sea Charts」から。13世紀頃から大航海時代までポルトラノ(portolano)と呼ばれる海図が用いられたと言う。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。32本の方位線と海岸線,主要な沿岸地名が描かれていて、沿岸の地形や島などもかなり正確に描かれていると思う。※ 「Eary Sea Charts」は数十年前にアムステルダムの海洋博物館で購入した本。世界限定1000~2000冊程度の稀少と言われて買わされたが当時で1万円くらい? 大きくて重い本で持ち帰りも大変で買って後悔した本でした少しでも役に立てば報われます下はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)からMagnetic and Azimuthal sundials 磁石方位日時計磁石羅針盤の発祥は、アマルフィ(Amalfi)共和国だと言う。船員用コンパス(sailor's compass)を発明したのは、イタリアのアマルフィ出身の船乗り(水先案内人?)、フラヴィオ・ジョイア(Flavio Gioia)(1300~ ?)だとされてている。sailor's compassの出現により、精度の高い海図が描かれるようになり、またそれは航海術を大幅に発展させる事になった。後でも触れるが、sailor's compassを使用して描いた海図が海洋共和国ジェノバの特産品となる。上は都市名が入っているので航海用の磁石式羅針版?下は普通に日時計ですね。ボディーは象牙のようです。サン・マルコ広場の天文時計当然であるが、時計は潮の満ち引きを計算できるので海洋共和国にとって必需品です。前回行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔を外観だけ紹介しましたが・・。建物は1496年~1499年にマウロ・コドゥッチ(Mauro Coduss)が建設。1499年2月1日、一般に公開された時計は、海路を航行する旅人に潮の流れや航海に適した月を教えた。十二宮(黄道)を通る太陽と月の動きから航海に出る時期や期間を知る事ができる天文時計である。時計塔は火事にあっているようです。1755年にジョルジョ・マッサーリにより上にテラスが増築。1757年時計が復元。時計塔は海から見える位置に向いている。文字盤はラピスラズリ(lapis lazuli)らしい。外側の文字盤は時刻を示し、内側の円盤は12宮の星座の位置を示している。文字盤の中央には地球があり、当時知られている惑星(土星、木星、火星、金星、水星)の動きが表され、その周りを太陽が回転して月の満ち欠けと黄道帯の太陽の位置も表示された。また時計の上には マドンナの黄金の像に向かって行列を組んでいる東方の三博士の機械人形(オートマタ・Automata)が置かれた。時間が来ると扉が開き周回するシステム。オートマタもまた機械装置が複雑。技術と美しさの傑作だったのは間違いない。時計職人ジャンカルロ・ライニエーリ(Giancarlo Reinieri)とその父ジャンパオロ・ライニエーリ(Gianpaolo Rainieri)によって造られ、ジャンカルロ・ラニエリとその家族全員でフルタイム時計のメンテナンスもしたらしい。二人は自動装置の功績により共和国から相当の褒美はもらったが、伝説では2度とこのような精度の時計が造れ無いように共和国によって目を潰された・・とも伝えられている。目をつぶされたら時計のメンテナンスができないので疑問ですが・・。特異なヴェネツィアの建築それにしても15世紀になって、パレスチナや北アフリカがイスラムの国になってもヴェネツィアの交易先はそんなに変わっていないのではないか? と思う。相手がどこに代わろうと、必要があればどことでも契約し、取引するのがヴェネツィアだった?コンスタンティノポリスがイスラムに落ちる時もヴェネツィアはすかさず敵国に乗り込み契約を交わしている。実はヴェネツィアにとっては、イスラムと交易する方が、東ローマ(ビザンツ)帝国と交易するよりビジネスライクに仕事ができたのではないか? ヴェネツィアの商売の仕方は西方よりむしろ、極めて東方的なタイプだと思う。そして、気付けば、文化もイスラムからの影響がかなり強い? いや、オリエンタルか?当初ヴェネツィアが東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の庇護にあった関係から建築もビザンツ風なのか? と思っていた。実際サンマルコ寺院(Basilica di San Marco)はコンスタンティノポリスにかつて存在した聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模して1090年代に建てられたと伝えられているからだ。※ 聖使徒大聖堂は老朽化もあり、オスマン帝国によって1461年に破壊されたらしい。だが、本当にそうなのか?一般の西欧の教会とはかなり違う独特なヴェネチアンな建築。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)正面ファサード教会とは思えない独特な不思議なフォルム。ちょっと築地本願寺のファサードに形が似ている。築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模したオリエンタルが意識されているらしいが・・。こちらも確かにロマネスクもゴシックもミックスされているのはわかるが・・。聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模したのはギリシャ十字の5つのドームを持つ聖堂の形? だけ? の気がする。建築及び装飾はオリジナルなのでは?ファサードの5つの入口。全てが異なるのだ。上は向かって左端のゲート。イスラム教の寺院に近い。下は向かって右端のゲート。仏教的。下、中央ゲート。ロマネスクとも言い難い。(+_+)??色大理石の柱、なぜそんなに使用? 建材見本みたい。まさにそうだったりして・・正直、何なんだ? と言う不思議ミックスである。ここまで来ると、何か意図があって5つのゲートの形態を変えたのか? と勘ぐる。ヴェネツィアは国際交易都市、取引先の文化を尊厳している・・と表現したかったのか? としか思えない。ここで使用する言葉ではないが、外観の美観的統一性は支離滅裂(しりめつれつ)なのである。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)聖堂内部。今回は内部載せられそうにありません。別の回に紹介できれば・・。(*_ _)人ゴメンナサイ※ サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真 以下に載せました。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ヴェネツィアvsジェノヴァの交易ところで、4th Crusade(1202年~1204年)でヴェネツィアがコンスタンティノポリスを襲撃した理由の一つに東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えた事。と紹介しているが、実際、4th Crusade以降の13世紀から14世紀同じ海洋都市国家であるジェノバ共和国は東方貿易の利権争いでヴェネツィア共和国にとって最大のライバル? 敵? となって抗争は続いていた。1380年、ジェノヴァ軍がアドリア海深く侵入し、キオッジャ(Chioggia)の小さな漁港を占領しヴェネツィアに喧嘩を売った。キオッジャの戦い(Battaglia di Chioggia)。しかし、帰還したヴェネツィア軍船の挟み撃ちにあいヴェネツィア軍が圧勝。1381年にトリノで講和条約が結ばれると事実上の抗争は終結。ジェノバは利権を失った。つまり東方貿易のマウントを取ったのはヴェネツィアだと言う事。欧州と東方との交易品全てがヴェネツィア経由となり、ヴェネツィアは東方貿易を完全に独占する事になる。アフリカの金、中央ヨーロッパの銀。ワイン、オイル、小麦。東方からはキャラバンで香油となる乳香(にゅうこう)や没薬(もつやく)、絹織物や磁器が運ばれる。全ての商品はヴェネツィアを通る。ヴェネツィアでそれら商品は荷揚げされ、一時保管されると関税がかけられた。それこそがヴェネツィア共和国の財源となる。※ 前回「海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)」を紹介しています。※ 1381年から独占体制に入るから100年程は富が入りすぎて笑いがとまらなかったであろう。因みに、ガレー船は漕ぎ手の容積がいるので商品の積載量が少ない。だから高額商品の運搬を担い、積載量の多い帆船が食料、綿や羊毛などの原料、資材などを運んだそうだ。またそうした商用の帆船は国営のアルセナーレ(Arsenale)ではなく、私立造船所で建造されたそうだ。だからヴェネツィアでは商人も官僚も一丸になって協力しあい、結束を固める為にあらゆる所にヴェネツィアのシンボルである有翼の獅子が取り付けられたと言う。この官民一体の協力体制はジェノヴァにはなかったらしい。一方、ジェノヴァは以降、西方のイベリア半島や北アフリカ方面に交易を拡大。もともと地理的にもその方が良かった16世紀には北アフリカやスペイン。そして大西洋を北上してイングランドのサザンプトン港やフランドルのブルージュを目指している。これはガレー船による定期便となった。これから大航海時代が来てスペインやポルトガル、オランダなどが新たな海洋国として台頭。アジアの諸都市と植民地交易が開始されると、船はアフリカを南下して喜望峰を通りアジアを目指すから東洋との交易の主軸は東地中海から西に移動する。ジェノバの新たな商業圏は正解であった。また、航海に猛けたジェノバである。海洋学校からはすぐれた航海士が生まれたし、磁石式羅針版を得てジェノバの航海図は人気の輸出品となる。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに触れているが、コロンブスはジェノバ出身。フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へFirst Crusade(1096年~1099年)以降でジェノバ共和国が得た植民都市を次々に失い1453年のコンスタンティノポリス陥落では黒海の植民都市も失い痛手となるもののジェノバ共和国は当初からローマ教皇に忠実で寄り添ってきた歴史がある。西への商路拡大と共に神聖ローマ皇帝カール5世(1500年~1558年)のガレー船を請け負い、スペインと同盟を結び、フッガー(Fugger)家の後継として? ジェノバは 欧州カトリックのメインバンクとして金融業で成功するのである。ジェノバのサン・ジョルジョ銀行(Bank of Saint George)(1148年~1805年)はジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けると同時に、カール5世にも融資。クリストファー・コロンブス(1451年~1506年)もここから借り付けしていた。※ 因みにカール5世は神聖ローマ皇帝になる時の選挙資金はフッガー家から借りている。フッガー家の銀行は、新大陸などから大量の銀が流入するとヨーロッパ鉱山の経営が悪化。さらにフェリペ2世 (1527年~1598年)の時に軍事費の借り入れが最大となるが結果戦争に負けてスペイン王室からの債権回収に失敗。三十年戦争(1618年~1648年)が終わると銀行は分割? 現在もフッガー銀行は存在しているが・・。※ フッガー家について書いています。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家つまり、ジェノバのサン・ジョルジョ銀行はフッガー家の銀行破綻に乗じてハプスブルグ家に取り入り南米の銀の採掘にも投資。結果、南米の取引はセビーリャからジェノヴァへ移った。17世紀にはオランダ東インド会社やイギリス東インド会社などとも競争するに至るが、スペイン王室の度重なる破産や戦争での敗戦はジェノヴァにも大きな負の影響を与えスペインと共に没落して行く。結果的にはヴェネツィアよりも少し長く生き残ったが・・。法王庁海軍結成と共和国連合艦隊聖地がイスラムの手に落ちてから地中海の海賊は再び活動を始めていた。しかも、15~16世紀のイスラムの海賊はかつてのようなコソドロではなく、ガレー船団数十隻の大船団で襲来するようになっていた。それはもはや海賊の規模ではなく、襲われれば商用船などひとたまりも無い。海上での戦力はガレー船の数で決まるからだ。また、防御の無い港街だったら襲われたら即OUT。ローマ近郊のオスティア(Ostiae)港の防備を固めたのも法王庁自体が襲撃されるかもしれない事を想定したからだろう。イスラム側の海賊の規模が拡大した理由は、その海賊業で功績を挙げた者をイスラムはリクルートして将軍にすると言う暴挙に出たので、海賊らは逆に沸き立ち戦果を競ったからだ。※ オスマン帝国軍は正規軍少数と海賊多勢で連合されていた。ところで、以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で中世初期にサラセン(Saracen)の海賊に悩まされた暗黒時代を紹介した。当時、西ローマ帝国が解体されてから軍隊を持たない教皇庁は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)にも見放され本当に危機を感じていたのだろう。当時教皇の意を汲み助けに来てくれたカール王を神聖ローマ皇帝(800年に戴冠)にはしたが、それでは不十分? と15世紀になると海賊からの防衛と言う理由で、ローマ教皇(法王)直属の特別海軍を造ったのだ。とは言え、オスティア(Ostiae)港の防衛の為に当初法王庁が整備した軍船はガレー船1隻のみ。聖年の1500年にローマ教皇(法王)庁が導入した軍船は以下。戦闘用ガレー船(galea)3隻。戦闘用小型ガレー船(fusta))3隻。輸送用大型帆船(galeone)2隻。小型の帆船(brigantino)3隻。小型の快速船(baleniera)1隻。 計12隻。※ 上の資料は塩野七生 氏の「ローマ亡き後の地中海世界」から。公には聖年に集まる巡礼者の保護が目的であり、維持する財源にローマに入る物産に税を掛けたと言う。※ 聖年については「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」の中、聖なる扉(Porta Santa)で触れています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂当初は聖年を目的としていたが聖年が終わっても海軍は継続された。抑止力があった? と言う事だろう。また、地中海でのイスラムの海賊行為はエスカレート。先に紹介したように、もはやイスラムの海賊はただの小規模なコソドロでは無く、大規模な盗賊集団? 軍隊のようにガレー船団で襲ってきていた。最初はペロポネソス半島やキクラデス諸島あたりの海域を通行する船がオスマン帝国と海賊とに標的にされた。ヴェネツィアは独自の海軍を護衛につけてしのいでいたが、ローマ教皇にキリスト教国による団結を持ちかけたらしい。※ ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間では 1499年からすでに戦闘状態。多勢の海賊相手に、西欧側も団結しかなく、海賊対策は法王庁先導による共和国が連合しての大規模な戦いに展開。それにしても、いくら海賊だからと神に仕える者が軍隊とは? と当然思う。しかし、全ての戦争はローマ教皇(法王)が認めるか否かで正しい戦争かそうでないかが決まるらしい。(・0・。) ほほーっ 1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍の軍船は以下。ヴェネツィア共和国から 50隻※ ヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (任期1500年~1503年)はベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers) 3隻・・当時はロードス島に本拠があった。フランス 4隻ローマ教皇(法王)庁 13隻これらはローマ教皇(法王)庁の司教ヤコボ・ペサロ(Jacopo Pesaro)(1460~?)が教皇の特使として艦隊の指揮をとった。と、されるが・・。50隻の軍船で参戦したヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (1500年~1503年)ベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)は司教ヤコボ・ペサロの弟? 従兄弟らしい。つまり実質この連合は50隻で参戦したヴェネツィア海軍の司令官がとっていた事になる。それ故、本来はローマ教皇(法王)による連合軍艦隊 VS オスマン帝国軍+海賊 (1499年~1503年)の戦闘なのだが、前半にヴェネツィアが単独参戦している事もあり歴史的にはヴェネツィア共和国 VS オスマントルコ軍として捉えられているようだ。ところで、オスマン帝国軍の方は、大部分が海賊だった。正規の兵士には戦争捕虜の特権を与えたが、海賊の方は即、絞首刑にしたらしい。この戦闘の結果、海賊はヴェネツィア共和国軍をさけ、東地中海から西地中海に狩り場を変えたそうだ。また海賊も船を大型化し、大砲などの火器もたくさん積み込むようになったらしい。この頃のローマ教皇(法王)はメディチ家のレオ10世(Leo X)((1475年~1521年)。彼は現実志向の人物だった。彼は「オスマントルコの戦いと海賊に勝つ為には祈りや説教では無理だと確信していた。我々が彼らからの恐怖や不安から逃れ安らかになる為には、こちらも武装して戦わなければならない。」と、すみやかに動いて法王庁海軍を再建したのである。因みにこの頃の戦闘はまだ、接近戦からの敵船に乗り込み・・の白兵戦。だから風で動く帆船よりは微調整のできるガレー船にならざるおえなかったらしい。また、ガレー船の数が増えれば乗り組み員も増えるのでガレー船の数で勝敗が決したそうだ。オスマン帝国の赤ひげ、バルバロッサ(Barbarossa)との戦いではこのクラスのガレー船が使われた?海洋共和国編はここで終わります。ちょっと中途感があるのですが、疲れて続行中止。が、サン・マルコ寺院の写真もあるし、法王庁海軍と共和国連合艦隊が戦った宿敵、海賊バルバロッサの話しもあるので番外編を造る・・か? 次回の冒頭に繋げるか・・。(^ O ^)/~~ see youBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海戦アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年09月25日
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エルメスのApple Watch、ベルトだけでなく、エルメスのロゴ入リ時計も出していました。販売はApple公式とエルメスの一部。ベルトでお値段が異なりますが、公式価格147,180〜181,258円(税込)らしいです。Break Time(一休み)最近ジェネレーションZ(Generation Z)と言うワード(word)を耳にする。近年はデジタル環境の変化を以って世代(ジェネレーション)の区分けがされている。ジェネレーションZは現在の先端世代の総称らしい。終戦後(1945年)の日本の状況は、まだ生き証人がいるけれど、悲惨であったと聞いてきた。戦争賠償金など日本経済はどん底で、当時の日本人は何も考えずに、がむしゃらに働いて戦後復興を成した。しかも戦後わずか9年目にして好景気の時代を迎えている。※ 1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」と宣言したそうだが、1954年~1973年までの19年間に続く経済成長期を「高度経済成長」の時代と呼んでいる。この時代を経てデジタル社会が到来するのである。今はデジタルのコンテンツばかりに目が向くが、一朝一夕にデジタル社会になったわけではない。当然そこには経済的背景も存在するし技術革新は必須。自分の生まれていない時代も含めて「一度整理しておかなければ」と言う事で今回デジタル機器の変遷とデジタル世代について経済もからめてザックリまとめて考察もしてみました。当初こんなに長くなる予定ではなかったのですが・・。まあ、いつもの事ね。それにしても家の古い機器を引っ張りだして撮影しましたが、お金かけたねー。と言う感想ですデジタル機器とデジタル世代(Digital generation)戦後のベビーブーム世代デジタル・ジェネレーションとは?ざっくりデジタル史 Apple とMacintoshとスティーブ・ジョブズ氏記録ツールの変遷(Floppy・MO・Zip・光磁気ディスク・ハードディスク他) データの情報量の単位 フロッピー(Floppy)とフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive) ZIPドライブとMOディスクドライブ ハードディスクドライブ(hard disk drive/HDD) ソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD) MD, DVD, SDカード, USBフラッシュドライブ 光ディスク(第1世代~第3世代)インターネットの普及デジタル・ジェネレーションX世代(Generation X)の時代 カウンター・カルチャー(counterculture)Y世代(Generation Y)ミレニアム世代の時代 ジェネレーションYの学力Z世代(Generation Z)の時代グリニッジ(Greenwich)のコーヒーサイフォン戦後のベビーブーム世代かつては、ジェネレーション・ギャップ(Generation gap)と言うと文化や価値観、思想など、生まれた時代(世代)で異なる事によって起こる認識のズレを単純に指したワード(word)であった。例えば親の育った時代環境と子である自分の現在の環境が違うのは当たり前だから、物の価値観も違ってくるのは当たり前。昨今の親はそれを理解しているが、一昔前の親はそれを受け入れなかった。いつの時代も同じ価値観だと信じて疑わなかった? だから絶えず親と衝突していたのだ。しかも、昔は一つの家に3世代以上が同居していたからね。だから高齢化社会になればなるほどジェネレーション・ギャップの幅は広がるのは必然と言えた。しかも日本は80年前(1939年~1945年)に戦争を経験している。第二次世界大戦(World War II)。しかも負け組だ。これはどこの国もそうであるが、戦争の前後で社会は激変する。まして日本は敗戦国。戦前と戦後に大きなジェネレーション・ギャップが生じたのは当然である。何しろ敗戦国日本の現状は相当に酷かったから、戦争を越えて生き残り、かつ激動の戦後を乗り越えて来た人達の精神力は凄まじかった。強く無いと生き残れ無かったのだから父権も強くなろう・・。戦争は良い物ではないが、その激動を乗り越えて今に繋いだ彼らに敬意は表しても良いと思う。※ 現在は戦後生まれが全国民の8割を越えた。戦前と戦後と言うジェネレーション・ギャップは消えつつある。それにしても逆にまだ国民の2割が戦前生まれと考えると。驚きかも・・。ところで、戦後、世界的なベビーブーム(1946年~1952年)が巻きおこった。これは平和で安定した社会だからこそ新たなジェネレーションが誕生したわけだが、日本では1947年~1949年の3年間に出生数が800万人を超え1949年の出生数は269万6638人で戦後過去最多を記録。極端な人口増加を起こしたのである。※ 2019年の出生数は86万5239人なので今より3.1倍も多かった。※ 2020年の出生数は84万832人とさら減少。※ 1950年から減少に転じる。因みに、アメリカではこの世代をベビーブーマー(baby boomers)と呼ぶが、日本では堺屋太一氏が1976年に著した未来予測小説「団塊(だんかい)の世代」から、「団塊の世代」と呼ばれるようになったらしい。彼らは戦後混乱期、しかも連合国軍による日本占領下で生まれた世代(ジェネレーション)である。最も彼らも必ずしも思想は一塊りとは言えない。戦後孤児、母子家庭など育つ家庭の経済事情の差は今以上に大きく、学歴の開きもまた大きかった。ただ一つ共通であったのは、彼らがもれなく「戦争を知らない子供達」だったと言う事だ。親世代との価値観のギャップは今以上に想像以上に大きかった? だから思春期を迎えると、親への反発、社会への反発が爆発したのだ。彼らは60年代に学生生活を迎え、高校を卒業した者は金の卵と呼ばれ労働の主力とされた。一方大学に進学した者は学生運動に興じる。「自分達が正しい。」は思春期あるあるな思考だが彼らは過激に反発。また抵抗をした。どこの大学も学生紛争が起こり、ある意味華やか? 賑やか? だった時代に青春時代を過ごしている。客観的に見るとやりたい放題な世代だったのでは? この学生運動は後に過激さを増すが、基本大学を卒業すれば引退だし、振り返れば一つの流行のように去って行った感がある。※ 大学の自治会に所属していたが、私の頃は何もなかった。極めて平穏でした。彼らは高度経済成長期に学生時代or青年期を過ごし、役職が付く頃、バブル景気(1986年~1991年)を経験し日本経済に貢献。彼らが現在69歳~75歳。今の高齢化社会の戦後世代の先端にいる人達だ。が、残念ながら、彼らはデジタル世界の住人には入らない。でも、彼らの中からデジタル世界を切り開いた者が現れたのは事実だ。デジタル・ジェネレーションとは?そもそも、Z世代、ジェネレーションZ(Generation Z)と言うワード(word)はアメリカやカナダ中心に始まっている。遡ればジェネレーションZ(Generation Z)はカナダの作家ダグラス・クープランド(Douglas Coupland)(1961年~ )が1991年に著した小説「ジェネレーションX」と言うワード(word)に由来しているそうだ。※ Generation X 加速する文化のための物語 (Tales for an Accelerated Culture)ジェネレーションX(Generation X)は、およそ1960年代中盤~1970年終盤に生まれた世代が該当?とされているが、発案国アメリカではケネディ政権下(1961年~63年)からベトナム戦争終結(1975年)までの時代に生まれた世代を区切りとしている。つまりアメリカがベトナム戦争の泥沼にはまって社会が反戦などで激動しているさなかに幼少期を過ごし、80年代頃? 青年期or成年期に最初にパソコンに触れ始めたのがX世代である。そしてX世代を皮切りにY世代(ミレニアム世代)、Z世代、α(アルファー)世代とデジタルの進化と浸透に伴い次世代にもこの仕分けは続く?あとで細かく紹介。ざっくりデジタル史ここで、私の記憶も交えて、ちょっとデジタルの歴史をざっくり振り返ります。但し、専門家ではないので細かさと正確さは強く求めないでください。テレビが普及し、その後来るデジタル革命。※ 日本ではNHKが1953年2月1日テレビの本放送を開始。1958年、受信契約が100万件。1959年、白黒受像機の普及が200万台。しかし、デジタルと言っても電卓とか、電子時計とかワープロ程度。パーソナル・コンピュータは庶民にはまだ未知の物。パソコンが庶民に浸透するまでは時間を要した。それは金銭的理由が主だった?アメリカでは、1962年11月ニューヨーク・タイムズ紙て将来のパーソナル・コンピュータ(Personal Computer)に関する見通しが語られた記事が掲載されたそうだが、実際Personal ComputerがIBM から発売されるのは1970年代だ。でもそれはまだ相当に庶民から遠かった。まして日本には無縁。1985年、大型の携帯電話が開始された(まだ重くて高価)。3kgもあったから携帯と言うよりは肩にかつぐショルダー型にせざる終えなかったのだろう。※ 月額の基本料金が2万円以上、通話料金が1分100円もしたらしい。重い携帯電話が流通する80年代中盤頃? パソコンも流通。 こちらも非常に高価。Apple とMacintoshとスティーブ・ジョブズ氏Apple Computerが最初のApple Iを発売したのは1976年らしいが、日本で当時それを知る人はどれだけいたか? でもこれは革命的パソコンだった。そして1984年、Apple ComputerはMacintosh(マッキントッシュ)を発売。通称MAC(マック)は最初からウインドウズ。画面のアイコンをクリックするだけのシンプルパソコン。今のとほぼ変わらない。コアなファンが多かった。ある意味サブカルチャー的存在のパソコン登場で一気にマニアに広がった?このApple Computer 創始者がスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)(1955年~2011年)氏である。2011年10月5日スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏が亡くなった時にちょうどハワイにいた。写真はワイキキのAppleのShop前で撮影。多くの人が彼を偲んだ。( TーT)m彼は私たちに色の付いたパソコンを最初に提供した人だ。そしてそれは誰でも簡単に操作できるユーモアと「遊び心」が随所に詰まったパソコンだった。カラーや音響は当初から優れていたからユーザーは音楽関係や映像関係、そしてなぜか医者に多かった。でも、当時パソコンはまだ能力も低い割には値段が高かったから仕事で必要とする人以外はあくまで趣味人に限られていた。前述、Macintosh(マッキントッシュ)の発売は1984年と紹介したが、MAC(マック)以外のパソコンはまだ数字とアルファベットが羅列(られつ)するよくわからない世界であったのだ。MAC(マック)は、ほぼ今のパソコンと同じ、アイコンがならぶ解り易いパソコン。だからマニュアルが無くても何とかなったが日本のパソコンの主流は後に出るマイクロソフト(Microsoft) のウインドウズ(Windows)に持って行かれた。それは官公庁がウインドウズ(Windows)系を使用していた事が原因だ。当初MAC(マック)で始まった会社もどんどんウインドウズ(Windows)に乗り換えて行くのを知っている。私自身もそうだ。今はWindows。ネット株のアプリがMAC(マック)になかったから、仕方無く移行した。でも映像や音楽を司るには今もMAC(マック)だろう。特にカラーは当初から定評があった。マイクロソフト(Microsoft) のWindowsはガンマ線の量が多く、比べると色がくすんでいたしカラーの数が全く違っていた。デジタル写真はMAC(マック)の方が断然綺麗だったのだ。とにかくMAC(マック)は動作環境の中にも遊び心がたくさんつまっていた。当初からMAC(マック)にあったゴミ箱のアプリだってそうだ。いらない書類などゴミ箱に入れるとゴミ箱はふくらんだ。早く棄てるよう促した? シャットダウンの前に必らず削除した。また作業がフリーズすると導火線に火のついた丸いバクダンが登場したし、違うフロッピーを入れたらペッと吐き出したりする。ちょっとワガママさも感じる親近感あるパソコンだった。利用する人達の遊び心も面白かった。iTunesで取り入れた音楽に合わせてユーザーの誰かが開発したアプリは可愛い女の子が踊りながら歌詞を表示するものだ。女の子をクリックしたら洋服がスケルトンになる。使う人達も個性ある変わり者だったのは間違いない。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏がガレージで創造したパソコンは、彼の夢が詰まっただけで終わるものではなかった。私たちに便利で楽しい創造世界を与え、遠い未来を親近間ある明日にしてくれた。自分が当時どんな気持ちでパソコンをしていたか? トラブルがあっても苦じゃなかった。彼はパソコンを相棒のように、最初の起動時に名前を付けさせた。私の初代はトロンちゃん。次代がサリーちゃん。とにかく可愛い友達のようなパソコン達だった。そう言う意味で言うと、今のiPhoneは違うのよね。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)氏が今この世界にいない事が非常に残念です。直接「ありがとう」と言いたかったです。心からご冥福をお祈りいたします( TーT)m ところで、パソコンの普及期、80年代~90初頭初頭まではパソコンは分厚いマニュアルを読んで自分で何とかするしかない時代であった。パソコン教室なんて無いし、カスタマーセンターもなかった。マニュアルで解らなければ、友人のそのまた友人の伝をたどってパソコン・マニアを見つけて教えをこいた事もあった。全部なつかしいわー。当時のパソコン通信と言えばコンピュータ同士をつなぐLAN接続。しかもデジタル情報を記録するツールはまだフロッピー (Floppy disk)。モニターはまだブラウン管の時代。でもMacintosh のLCシリーズはソニーのTrinitronを採用していたのでカラーの発色も綺麗。私のパソコン(PC)初購入は90年代初頭? はっきり覚えていないが、1994年発売のMAC LC575は持っていた。当時の販売価格は358000円もしていたらしい。全く覚えていない。標準メインメモリ 8MB。最大搭載メモリ 36MB。ハードディスク 160MBしかないのに※ 当時はパソコンよりむしろメモリーが高かった。写真下、右のドーム型PCのiMacは私のデスクトップタイプパソコンの3代目か4代目。1998年6月発売の初代ボンダイブルーのiMac G3も発売してすぐに購入。流線型の美しいパソコン。人気で手に入れるのが大変でした。販売価格は178000円だったらしい。LC575のお値段の半値だから、これでも当時は安い方。「下がった」と言うべきか?このiMacG3は後に複数のカラーバリエーションで展開。でもやはりこのカラーが一番良い。一体型で良かったのですが、CDディスクドライブが割とすぐに故障。その修理費が数万かかった。Macはスティーブ・ジョブズが復帰してオシャレに蘇った。そのデザインだけでオブジェ。だからいろいろ装備したくなる。配線はオシャレじゃないし、使いづらいからキーボードもマウスも無線仕様にした。右側 iMac G4 2002年発売。アームに液晶ディスプレイが付いた変わり物。左側 iMac G5 2004年発売。液晶ディスプレイ一体型。新しい物好きなのではありません。当時のパソコンはCPUもハードもメモリーも進化がすさまじく1年毎に買い換えないとついていけない状況だった。(本当は半年くらいです。)この時点で右のiMac G4はすでにクラシック音楽を聴くだけの専用機になっていた。もはやメモリー増やすよりCPUも良い物を・・で買い換えたと思う。因みにiMac G5からiTunesはネットに接続するようになった? だからiMac G4では重くて無理だったのかも・・。右の球体2個と奧にウーハーがある。左の四つ葉のクローバー(別売り)2個も音響用スピーカーです。Appleのおかげで音響機器(オーディオ)はいらなくなった。因みに、2001年10月MAC(マック)専用のデジタルオーディオプレーヤーiPodが発売される。iPodも5機種くらい買いました。一番のお気に入りが右のiPod nano。海外旅行のお供で活躍。左からiPhone 12iPod touch (PRODUCT)REDiPod nano 第6世代 (PRODUCT)RED※ iPod nano 第6世代は右のベルトに取り付けて使用。一応クリップにもなっている。これが後に進化してApple Watchになったのかな? 因みに最近エルメスがApple Watchに参入。文字盤にエルメスのロゴ入リ、素材も違う? ベルトでお値段が異なります。※ (PRODUCT)REDはApple shopでしか購入できないタイプで寄付が付いたもの。※ Appleで直接購入すると文字の刻印サービスがあるのだが、今回のiPhone 12は無かった。※ iPhone 12の赤は一般のお店でも購入できる。※ iPod touchにもバーチャルアシスタントSiriが搭載されている。他メーカーでもデジタルプレヤーは出ていたが、iPodではフォスター電機(Foster Electric Company)のイヤフォンを純正の付属イヤフォンとして採用したので良いヘッドフォンをわざわざ購入しなくても最高の音楽が聴けた。音にもこだわっていたApple。スティーブ・ジョブズは神 °˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖° m(゚-゚*)ところで、私は音楽CDは買う派です。決してレンタルはしなかった。初期のパソコンはiThunesがうまく移行せず、パソコンを変える度に音源の入れなおしの必要があったからです。最も一度パソコンに落としたらCDはいらなくなるのでディスクは綺麗なままで保存されています。今はサブスクでしか音源を聴かない人達が増えているようですが、私は音源のCDを本箱に並べているのでジャケットを見るだけでも過去に自分が付き合った音楽が見えて楽しい。そしてジャケットがあるから永遠に忘れる事なく思い出す。サブスクだともし音源が消えたら過去の自分の音楽履歴も失われる。スマホ無くしたら終わりだし、年齢を重ねて行くと記憶も薄れて行くからね。絶対忘れるよ。情報と言うのは聞くだけでなく、目でも捉えてダブルで脳裏に焼き付けた方が良いのです。サブスク頼りにしていると、いつか困る事になるゾと、アナログな事を言いながら、今「Ado」の「ギラギラ」をリピートしながら書いている。「Ado」は基本ネット配信。仕方ないからiTunesから購入。AdoさんはジェネレーションZ(Z世代)を代表する人です。やはり天才が多い?(YouTubeの)ストリートピアノにもはまっているが、Z世代は革命児が多いのかな?記録ツールの変遷(Floppy・MO・Zip・光磁気ディスク・ハードディスク他)パソコンのデータのバックアップは大切です。かつては大容量の記録ができるツールが無く、フロッピー(Floppy)を何十枚も使用した時代もあった。今考えると狂気の沙汰ですねデータの情報量の単位コンピュータでは主に2進数を扱うので2の10乗=1024 が単位1bit(ビット)=8byte/B(バイト)1KB(キロバイト)=1024B(バイト)1MB(メガバイト)=1024KB(キロバイト)1GB(ギガバイト)=1024MB(メガバイト)1TB(テラバイト)=1024GB(ギガバイト) ※ 1024でなく、1000バイトであらわす時もある。解り易いから?フロッピー(Floppy)とフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive)2DD=約720kB(キロバイト) ワープロ用2HD=約1.44MB(メガバイト) パソコン用上のフロッピーディスクドライブ(Floppy disc drive)はUSBが付いているので近年の物。昔のはもっと大きかったしケーブル接続だった?そもそも昔のパソコンにUSBポートなんて無いからね。ZIPドライブとMOディスクドライブZIPドライブ(Zip Drive)とMOディスクドライブ(MO disc Drive)ZIPドライブ(Zip Drive)登場。Zipでも100MB(メガバイト)。MOディスクドライブ(MO disc Drive)登場。640MB(メガバイト)※ MOは光磁気ディスク(magneto-optical disc)の事。ZIPドライブ(Zip Drive)は1994年後半にアメリカのアイオメガによって開発されたリムーバブル磁気ディスクメディア。100MBから後に250MB、750MBの製品が登場するがその頃は他に乗り換えている。やっと外付けの大容量ハードディスクドライブ(hard disk drive/HDD)登場外部補助記憶装置として利用。上の大きい方のが古い 外付け別電源 3TB(テラバイト)=約3000GB(ギガバイト)下のポータブルハードディスク(HDD) 4TB(テラバイト)=約4000GB(ギガバイト)上下共、撮影写真の保存用のみで使用。どれも容量で値段が違います。今は大容量で、しかもサイズも小さくなってきたが・・。ソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD)すでに大容量の記憶媒体は次世代のSSDに突入。パソコンに内蔵されている標準SSDは240GB(ギガバイト)~ それを容量の大きいSSDにチェンジした残骸が上らしい。写真もらいました専用ケースに入れて外付け用もできる。2~3年前あたりから新型パソコンはすでにハードディスク(HDD)からソリッドステートドライブ(Solid State Drive/SSD)に移行が始まっています。半導体メモリをディスクドライブのようにしたもので、以前のHDDがディスクを回転させて読み込んでいたのと事なりディスクに磁気的に記録するため振動にも強く、消音。消費電力も少なくすむ上に軽量というメリットずくし。データの転送速度はHDDの5倍はあるらしい。技術革新は日々起きていて素晴らしい事だが、デジタル世界に終わりは無いから先端を追っかけるのは大変だー。我々庶民は安価になったら導入。次のが出たら安くなるから一歩遅れてついて行ってる感じかな?※ 今のパソコンはネットだけなら長く使用できますが、パソコンの世代が開き過ぎると、データの移動ができない物もあるので気をつけてください。MD, DVD, SDカード, USBフラッシュドライブ一般の人がお馴染みの小容量の記憶媒体 サイズ比較用ですミニディスク(MiniDisc/MD)光ディスク かつてのカセットテープ代わり? 音楽の録音用に一時期使用。DVD(Digital Versatile Disc)光ディスクSDメモリーカード(SD Memory Card/SD)フラッシュメモリー系 デジタルカメラ、スマホなどで利用USBフラッシュドライブ(USB flash drive)フラッシュメモリー系SDメモリーカードとUSBフラッシュドライブは簡易に持ち運べる大容量フラッシュメモリ。USBフラッシュドライブはそのままUSBに差し込めるので便利。SDメモリーカードはサイズにあったリーダライタが必要。カメラやスマホのSDカードは形が様々。リーダライタは複数形が読み込める物が便利。下は4タイプ付いている。※ パソコン自体にSDメモリーカードの差し込みが付いている場合もある。読み込みの速度はパソコンの能力そしてリーダライタの能力による。それにしても今は何でもUSB接続が一般的になったけど、昔は各社のパソコンに互換性も無かったから接続のジャックとか、コネクターの形は様々。その互換性の無いパソコン同士、またプリンターやファックスなど器具に繋げる為にケーブルも色々購入してきた。今更使用しないだろうケーブル。解る人は解るらしいが、何のコードだったか解らなくなったケーブルの束。お金かけてきただけに棄てるに棄てられないジレンマ。今は逆に貴重?デジタル世界をリードしてきた「ジェネレーシヨンX」以前の人達。彼らに断捨離って無理そう。光ディスク(第1世代~第3世代)10年毎に変革されている。1980年代初頭第1世代のCD(Compact Disc)が登場。1990年に第2世代のCDが登場。従来のCDの約6倍の記録が可能になったDVD(Digital Versatile Disc)は第2世代。※ 1991年ソニーがMD(MiniDisc)を発表するが、これはあまり流行らなかった。いわゆる昔のカセットテープがMDに代わった感じ? 2000年に第3世代CDが登場。青色レーザー(Blue laser)を使用したBlu-rayはここに入る。※ 2005年頃持ち運びできる小さなフラッシュメモリ(Flash Memory)が登場。値段は高価。その主力がUSBフラッシュドライブ(USB flash drive)。写真とか小さなデータの持ち運びに利用しています。値段がシェアを決めるが今は用途で分けられているかも。海外旅行で写真を撮ると一日の枚数も膨大で、しかも最近はカメラの性能も上がりかなり高画質。データは一度デジカメのメモリーからパソコンに落とし、それを携帯している外付けのハードに移動させる。この作業を毎晩行うのが結構大変です。充電の為のコンセントも諸々順番待ちだし・・。 パソコンはもちろん旅行に携帯するデシタル機器もどんどん増えて行く。カメラもニコンなのでそれなりに大きい。電池の予備などもある。キャリーケースがデジタル機器で一杯。そして重い。インターネットの普及インターネットが開発され庶民も利用しだすのが90年代だが、日本では2000年代からやっと本格化。高速通信が可能になった事も大きいが、何より通信費が価格破壊された事が要因だ。90年代でも、日本でのパソコンの普及率はまだ低い。限られた人だけ。ネットが無い段階でのパソコンの用途は限られている。当初はワープロの延長にすぎなかったパソコン。私にとっての初期のパソコンはワープロ代わりと音楽と時々ゲーム。Macintoshではかなりハイレベルな3Dゲームができた。日本ではやっと安価な携帯電話が普及。しかしアナログだ。通信にISDNが開始されるのは90年代末。 アメリカでは93年にはインターネットでピザの宅配が行われていた(カリフォルニアの地域限定)が、その時点で日本の公式ホームページは3件しかなかった。そのうちの一つが首相官邸の写真一枚のせてただけの日本政府。世界の大学がインターネットでつながり始めていたのに日本のネット環境はまだ皆無。「アメリカより8年以上遅れていた」。因みに93年時点、日本のインターネット代は月額30万~80万円くらいしていた。(私、当時調べてました。)ミレニアム(新世紀)になってやっとメモリーが安くなりパソコンも安価になり、通信費も安くなりインターネットは当たり前のツールになってきた。その時にADSL通信が開始。とは言え、古いCPUのパソコン、あるいはハードやメモリの低いパソコンでは使用できなかったから買い直しです。メモリーの数字は一気に上がったし・・。ADSLから光通信の期間は割と早かったような・・。当時は光と言っても遅くて実際の速度はADSLと変わらなかった。パソコン自体の立ち上がりも遅くて、作動するまでに色々用事ができた。ある意味なつかしー。 日本でインターネットが普及したのはソフトバンクが2001年(平成13年)9月「Yahoo! BB」サービスを開始して確か月額2980円? と言う格安通信費を打ち出したから。これがなければ日本の通信費は高いまま、日本庶民のインターネット時代はもっと遅かったはず。孫社長ヾヾ(^-^) ありがとぉ♪ところで、先に「インタネーットだけで日本はアメリカより8~10年スタートが遅れている」と前述しましたが、実は私、93年頃に日本ですでにインターネットを経験しています。日本ではまだ稀少でした。国立ガン研の研究者が独自でインターネットを確立。それが国立ガン研のみならず厚生省からも支持された研究室となっていて、そこで一時期秘書をしていた事があるのです。ネットサーフィンはその時に経験。しかし当時、アメリカのサイトくらいしか見る所もなかった。また当時、アメリカと言えど、サイトは文字多め。企業によっては文字しかなかった。ネットを自宅でしたら幾らになるか? を当時調べたのもそうした理由です。因みに、当時のガン研を利用するインターネットのお値段はA宅→ 国立がん研のサーバーにアクセス → 例えばアメリカの大学のサーバーに接続。A宅の料金は国立がん研のサーバーにアクセスしている時間の電話料金と言う事でした。当時の国立がん研は大学教授や医師などの希望者に無料でアカウントを出していたので私も知り合いの私立医大の教授を紹介。先生曰く、インターネットで通信をしようと世界の医者から言われるけどインターネットて何? と言う世界だったそうで、とても喜んでいました。そして2000年期になって、ようやく私も自宅でISDNを契約しインターネットを始められた。前述したよう2001年にソフトバンクがADSLを使用した格安インターネットサービスを開始。私もすぐに乗り換えた。実はたまたま派遣の仕事でその時にソフトバンクのコールセンターに居たのです。インターネットとはご縁がありありだったのです。さて、2000年期に入り携帯もデジタル化し、スマートフォンも登場。日本は2010年くらいから本格的に普及? この10年で激増したが未だガラ系は高齢者に残っている。私は基本パソコンで処理するのでスマホはラインとゲームと電話のみ。電話はガラの母用です。パソコンを持っていない者はスマホでネット接続。だからスマホ・マスターは若者だったのかもしれない。2020年以前、パソコンよりむしろスマートフォンが主流?スマートフォンでインターネットするのが当たり前のようになった。今はスマホだけで色々できる時代。逆に無いと何もできない不便さ。しかし、スマートフォンが主流だと思っていたが、2020年1月、コロナのパンデミックで時代はまた変革された。会社とお家のリモートによりパソコンがまたバカ売れ。子供の学校や塾もリモートに突入。新しいα(アルファー)世代が誕生するのです。※ X世代、Y世代(ミレニアム世代)、Z世代とアルファベットはZで終わり。次に来るのはギリシャ文字の α(アルファー)となり、α(アルファー)世代になるらしい。デジタル・ジェネレーションX世代(Generation X)の時代先に紹介しているとおり、アメリカではケネディ政権下(1961年~63年)の時代からベトナム戦争終結(1975年)までの時代に生まれた世代を区切りとしている。そして青年期以降にパソコンもしくはインターネットを経験して現在にいたる世代。45歳~60歳以下。世代と経済の互換性を見る図を造ってみた 表1 1940年~1980年初頭しかし、この世代はアメリカに限定される部分がある。日本と同じには語れない。ベトナム戦争(1964年~1973年)の開始から敗北により精神も経済も疲弊していた時代にアメリカで生まれた子供達だからだ。※ 日本は第二次世界大戦(World War II)以降に戦争は無い。しかしアメリカでは再び戦争に突入。その頃アメリカでは親世代の離婚率も上昇している。ベトナム戦争は終わっても時代は代理戦争(冷戦)に突入。アメリカでは徴兵制度があったから、それは他人事ではすまされなかったのだ。カウンター・カルチャー(counterculture)50年代の経済が好調であった古き良き時代を懐かしむ親世代に対して、若者の間では60年代末からヒッピー(hippie)が流行する。一時は一世を風靡(ふうび)するヒッピー(hippie)。位置づけからすればサブカルチャー(subculture)と言えるが当時は反体制的なカウンター・カルチャー(counterculture)として捉えられた。※ counter・・対抗する、立ち向かう、正反対に からcountercultureは既存に対抗する文化。世代が違うから詳しくは解らないが、教会的な倫理に反した自由奔放な生活や生き方をして既存の体制に反逆した若者達だ。アートはサイケ、ファッションが独特で男性でもロン毛でヒゲを生やしアクセサリーをジャラジャラ? ドレープのあるローブのような長い羽織をしたり、今の目線でオシャレではあったが総じてアナーキー(anarchy)な印象がある。実は叔父に1人いた。小汚いカッコと叔母に言われ、お金はかかっているんだ・・と反論していた叔父。流行が過ぎると叔父はハイソサエティー相手のアクセサリーのデザイナーになった。そして今は行方不明です。(。>﹏<。) 自由すぎだ。話しは戻って、叔父もそうだが、日本の場合は一過性の流行の域を出なかった? 本気の人は今も貫いているかもしれないが、たいていの人はすぐに次の流行に乗った。因みに第一次ブランドブームが起きたのも70年代だ。つまり日本では思想よりもスタイルとファッションが真似されただけ? 日本での半体制派は学生運動の方に目立っているかも。だから日本とアメリカは違う。アメリカのヒッピー(hippie)の特徴はベトナム戦争の徴兵をのがれた若者が多かったと言われている。だからここから反戦活動も始まっている。Generation X は幼少期に彼らを見ているわけで、ヒッピー(hippie)である自由主義な親に翻弄された世代でもあるかも・・。私の記憶は70年代以降であるが、こうして振り返ると新しい世の中に新しい思考の人達が集まってワサワサしていたアナログだけどユニークな時代だったのかも・・。自分はGeneration X に入ると思うが、確かに「何でも許容できる振り幅あり」の世代かもしれない。それは先のように当時の社会環境が育てたのかも? 同性愛にしたって、私は普通に肯定派。同じ人間同士、なぜ悪い? 逆に肯定派でも「それを個性として肯定する人」はどうかと思う。「好き」な気持ちに理屈をつける必要は無いからだ。考えはシンプルで良い。・・・と思っている。そもそも論議する必要性も無い。カトリックの教会的にはあるのだろうが・・。最近流行のようにジェンダーレス(genderless)が来ている。ジェンダーレス(genderless)は男女の性差による環境が取り払われた世界と言える。すごく良いと思う。流行にしてほしくはない。これが当たり前の世界観にこれからきっとなるだろう。Generation X 自体がすでに理解ある世代なのかもしれない。言われればホイホイ信じちゃう? 納得しちゃう? ところもあるかも・・。それが良いのか悪いのか? は別として・・。Y世代(Generation Y)の時代1981年頃~1990年台後半頃までに生まれた世代。デジタル社会となった2000年代以降に成人を迎えた世代だからミレニアム世代とも。現在40歳~20代半ば。表2 1980年~2021年現在バブル期にパソコンが一気に進化と同時に売れたのだろう事が想像できる。アメリカより遅れる事、日本にデジタル社会が到来するのは、ほぼミレニアムからと言える。インターネットの通信の環境が整うのがこの時期だからである。それにしてもジェネレーションXは高度成長期に生まれて、バブル経済期に成人しているので最もラッキーな世代かも。一方、ジェネレーションYはバブル期に生まれてはいるが、成人する頃にはバブル崩壊後の不景気でつつましい生活をよぎなくされた世代かもしれない。特にジェネレーションYの後半に生まれた者は親が不景気の時代に幼少期をすごしているから尚更だ。この図を見て思うのは、インターネットに真っ先に食いついたのはジェネレーションXだったのではないか? と言う事。特に彼らはバブルを経験しているので不景気でもひるむ事なく欲しい物を手に入れたと思う。そしてジェネレーションZは、そんなジェネレーションXの子供世代である。何でもそろった環境を与えられた最も良い世代かもしれない。彼らの将来は明るい。新しい未来を造るのは彼らなのだろう事が間違いなく予想される。ジェネレーションY 現在26歳の甥のケース6歳の誕生日に子供用PHS(携帯電話)をプレゼントしたらSNSで20歳の男性からナンパのメールが来て笑った。甥は早めだったが、それでも彼らの時代携帯電話は中学時代(2007年)クラスのかなりに普及していた。ただ画像を送ると高額料金を請求される時代であったから使用に制限がかなりあった。パソコンに関しては、自宅のパソコンに触れる程度。今ほどに学校にパソコンは普及していなかったと思われる。パソコンの値段はまだ高かったから家でもあまり触らせてもらえなかったかもしれない。中学の入学祝いに電子辞書を贈った。辞書は完全に本からデジタルに移行していた世代だ。書物離れが加速するのも解る気がする。彼らはパソコンこそ触れていないが、電子辞書と言うツールで検索はしていた。デジタル機器の取り扱いは思っているより慣れた世代かもしれない。自分の信じた道をきちんと構築して進学、就職と勧めてきた甥は頭の良い子。彼は中身的にはジェネレーションZに近いかも。ジェネレーションYの学力ただ、懸念するのは彼らが完全に「ゆとり教育」世代だと言う事。「ゆとり教育」の弊害は、確実に日本全体の学力レベルを落としたと言う事。甥のように親が気づかい塾に通っていた子とそうでない子の学力差はかなりだ。できる子にとって公立の学校は、満足できなかったろう。日本では横並び教育が推奨されてきた。ダメな子が落ちこぼれないように標準が下げられる。だから頭の良い子は先に進めない。天才が生まれない土壌。むしろ天才を疎む土壌があるように思う。日本を造り牽引するのは標準の子では無いと言う事にいつ気付くの?天才をたくさん育てて日本に貢献してもらわなければならない。その天才がたくさん出てきているのが「ジェネレーションZ」かも。Z世代(Generation Z)の時代1990年後半頃~2012年頃に生まれた世代。とは言えGeneration Yとの端境期(はざかいき)は微妙。※ 1990年以降とする分け方もある。私が分類するなら、バブル経済の終わりに生まれた世代かな?現20代前半以下から小学生くらいまでの若者。彼らが今、時代の先端を行く? 注目のジェネレーションZ(Generation Z)である。※ 小学生(9歳)以下は次の世代にカウント? α(アルファー)世代。ジェネレーションαが決まっている。おそらくリモート世代に分類かな?とにかく生まれた時からデジタル・ネイティブで、スマホ・ネイティブでSNSネイティブ。彼らジェネレーションZの大半がジェネレーションXの子供の世代。先に紹介しているようインターネットに真っ先に食いついたジェネレーションXの子供達と言うのが特徴と言える。「独特の感性を持つとも評される彼ら」当然である。私たちがかつて見ていた未来の中に生まれているのだから当然世界の感じ方も違ってくる。このボーダレスなグローバルな世の中しか知らない彼らだから、最初から日本だけなんて眼中にない。目の前にあるのは地球全土だろう。壮大な世界の中で自由に生きていこうとする彼らがうらやましくて仕方が無い。ある分析によれば、彼らは「恐怖・リスクを避けて、安全・安心を求める」とされているが、これはGeneration Yの分析のように思う。生まれた年代を1990年初頭とするか? 終わりとするか? で違いがでたのではないか? と思う。Generation Xの子供達であるならば、何も怖い物は無いのではないか? 好きな物に飛びつく。そして実行する。目の前には自分の想像した世界が広がっている。その実現が彼らには可能。そんな自信に満ちた世代と感じられる。何より親が子を信じて応援している世代だ。子供の頃から諸々、英才教育を受けてもいたはず。それはGeneration Zの親(Generation X)は先に紹介したよう高度成長期に生まれて、バブル経済期に成人しているからだ。お金が無くても子供の為に自分の時以上に可能性を与えたいと願ったのではないか? と思うからだ。そう言う意味でGeneration Yとの違いは、親自身の経済的背景が端的に表れているのではないか? と推察する。私の造った表を見てね。最後にインターネットにまつわる伝説を一つ紹介グリニッジ(Greenwich)のコーヒーサイフォンインターネット事初めの伝説があります。私は雑誌か何かで読んだのか?初期のインターネットは写真一枚、あるいは文字しか無いと言うのがほとんど。そんな中で唯一UPされていた動画がイギリスのグリニッジ(Greenwich)の研究室に置かれたコーヒーメーカーだったと言う。普通にサイフォンにコーヒーがたまって行く映像がずっとカメラで撮され流されていただけ。でも、そんな映像を見た世界の人から「コーヒーが出来ていますよ。」と言うメールのお知らせがたくさん届いたと言う。私も無い時代にネットサーフィンしているから解る。画像は飛びつきますわ。皆さん敢えてグリニッジのコーヒーを監視していたと言うのも解ります。写真はかろうじて・・だろうけど映像は全く無かった時代ですから。その頃から考えると本当に未来に来たようです。インターネットの機器の変遷。自分も整理しておいて良かったです。おわり
2021年08月24日
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ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂のジオラマの写真追加しました。尚、誤字の他に若干の書き換え修正もしています。今回は「福者」の説明を書き足すだけの予定でしたが、いっそ過程から・・と「迫害」、「殉教」、「異端狩り」、「聖遺物収集」、「聖人」など書いている間にどんどん盛り込まれ、本来、キリスト教史に関する補足的な説明回の予定でしたが、気付けば非常にマニアックなネタの集合となりました。本来5本くらいにバラして載せてもよい内容の物をまとめて掲載しています。それぞれに時間かかってます。いつもよりさらに長いかも・・。写真は「殉教者記念堂(martyrium)」となるヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の写真を軸に構成しています。個人的なサンピエトロ大聖堂の謎も見つけて入れ込んだりしていたので聖堂の方も盛り沢山さんです。また、「聖遺物収集」や「聖人」については他からも写真を引っ張っています。中世の聖遺物収集や聖遺物容器などカトリック教徒の方でも知らない人のがほとんどでしょう。興味を持って追わないと集められないレアな聖遺物写真載せています。それにしても、例によって書いているうちにどんどん違う方向に進み内容も増え、着地もタイトルも二転三転。当初はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)も載せる予定でしたが、サンピエトロ大聖堂の内容が増え過ぎてカットしました。2回目のワクチン前に出せず、辛さ2倍でワクチン後2日完全休息。今回もお待たせしましたm(_ _)m聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂副題 使徒ペテロの殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)キリスト教の発展と殉教と異端 神学的異端? 帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化 二人の皇帝による迫害 皇帝の都合による迫害中止 キリスト教公認後の異端者狩り ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 迫害と殉教聖人のハウツー(how-to)本?「黄金伝説」殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者信仰から聖遺物収集に 聖遺物からの免罪符問題 聖人の仕分け遺物のロッジア(Loggias of the Relics)聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人) 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr) 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor) 列聖の審査 プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)聖なる扉(Porta Santa)キリスト教の発展と殉教と異端以前少し触れたが、キリスト教徒の迫害は当初はユダヤ人の憎悪による抗争から始まった。※ ペンテコステからパウロの布教のあたりについて「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中「異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡」で書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)信徒らの布教によりキリスト教が拡大する中で当然、摩擦は起きるし殉教者も出たであろうが、地域的に単発に起きていた程度で、最初はそれほど多かったわけではないそうだ。何しろ当時のローマ帝国は多神教。帝国は広域だったのであらゆる民族の宗教を認めてきていたから当初ローマ帝国からの迫害は無く、ほぼ単発の民衆迫害がある程度だったらしい。2世紀になると異教から改宗した支持者も出だし教養あるギリシャ人の信者が増え始めていた。徐々に完成されつつあった教会組織は、3世紀初頭、数はまだ少ないもののパレスチナ、シリア、小アジア、イタリア、北アフリカにまで広がり、さらにその世紀にエジプト、ヒスパニア、ガリアで教会や司教の存在が確認されるまで拡大していた。※ この時点ではまだキリスト教徒はローマ帝国から放任されていたから組織は安定? 教会の建築など文化も生まれつつある。迫害による殉教が増えるのは、3世紀後半のローマ帝国による直接的な迫害であったが、他にもキリスト教徒の増加に比例して増えた部分もあった。西はローマ、カルタゴ、東はアレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスにある教会がそれぞれの地域を統括するべく司教座が台頭。それらは独自の考えを持ち、司教座間の教義上の主張点にズレも出てきていたが、少しずつ着実に地中海地域での改宗がすすめられていた。※ 布教がカルタゴまで広がると信仰や典礼に使う言葉はギリシャ語、アラム語に加え、ラテン語が加わる。その中でもパレスチナのアンティオキア(Antiochia)や北アフリカのアレクサンドリア(Alexandria)は初期のキリスト教の拠点となって行った。アンティオキア(Antiochia)は使徒パウロ(Paulos) (BC10年頃〜65年頃)がギリシャやアナトリア方面への伝道の拠点にしていた古くからの国際都市。初期キリスト教の基盤造りから貢献している。アレクサンドリア(Alexandria)はギリシア教父のオリゲネス(Origenes)(185年頃~254年頃)が私塾のキリスト教学校を開設しアレクサンドリア学派の拠点を造った都市。こちらは思想の観点からキリスト教を理解しようとした神学者の拠点となった。オリゲネス(Origenes)は初期のキリスト教神学、弁証学、禁欲主義において最も影響力のある人物(神学者)で神学他複数の分野で約2000の論文を著したと言われる。キリスト教の発展に特筆すべき人物であると思うが、死後に異端の疑惑をかけられ多くの著作が処分されている為か? 評価どころか、知名度も低い? 彼は聖書を「神の霊的真理」とプラトン派の哲学者の立場からアプローチして解釈してみせた。キリスト教は哲学的な宗教であると彼はキリスト教をただの宗教から神学に高めた人物と言える。※ これにより多くの教養あるギリシャ人がキリスト教を高く評価するようになったのは確か。神学的異端?「父・子・聖霊(せいれい)」の三位(さんみ)をどう解釈するのか? それこそキリストを人として捉えるのか? 神として捉えるのか? 最初の一歩で後の理論は大きく変わる。論争は永遠に続くのか? 解釈しだい? 正統派とされない考えは即「異端」とされた。それは時の皇帝の考え方にも影響し「正統」は変化した。だから、紙一重の所に常に異端はある・・とも言える。帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化帝国の四方からのゲルマン民族など異民族の侵略が始まる「3世紀の危機」。帝国側も動乱状態で半世紀で70人の皇帝も現れた。そしてまたも疫病の発生による戦力の低下に加え、無能な皇帝による経済政策の失敗。そして財政難。※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I) (ローマ皇帝在位:324年~337年)の経済及び金融改革まで経済危機は続く。このローマ帝国の低迷の危機に比例して帝国とキリスト教、両者の関係は悪くなって行く。なぜなら逆にキリスト教は信者を増やし、財源も確保。ローマ教会では財産も資金も豊富にあった。また先に紹介してたよう知識人層から浸透していたキリスト教は、この頃農民層にまで及んでいた。※ 農民の人口は帝国の9割。特に北アフリカでは禁欲的な修道院が支持を集めていたそうだ。だが、地方と都市でその信仰の解釈には開きもあったらしい。二人の皇帝による迫害251年~256年にカルタゴで開かれた司教キュプリアヌス(Cyprianus)(200~210年~258年)による教会会議は、この組織がもはやローマ帝国の中で他の追随を許さない教団になっていた事を知らしめた。デキウス帝(Decius) (201年~251年)による迫害はこれに起因する。つまりローマ帝国の中で拡大し始めたキリスト教徒と力を持ち始めていた教皇を牽制(けんせい)する為に全世界規模でのキリスト教抑圧に着手したのだ。実際、257年には教会の財産と統率力を狙いアレクサンドリアの司教ディオニシオス(Dionysius)とカルタゴの司教キュプリアヌス(Cyprianus)が逮捕、追放され逆らったカルタゴ司教キュプリアヌスは258年殉教した。因みに 司教ディオニシオス(Dionysius)(200年~268年)の方は迫害が収まった翌年(259年)、すでに殉教していた前教皇に代わり第25代ローマ教皇に即位(在位:259年~268年)している。303年まで続く信仰寛容令もあり、ローマ教会の再建を背負ったものの秩序と平和が保たれた治世で彼は殉教せずに亡くなった最初のラッキーな教皇となった。同じような事をしながら極端に明暗が・・・ディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害は痛かった。彼はテトラルキア(tetrarchia)を考案し、軍人皇帝時代を収拾し3世紀の危機を乗り切った策士とも言える皇帝だ。以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所「農業形態の変化と停滞したローマの再建」でも触れているが彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていた。だから彼は帝国を結束させると言う理由で古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させている。キリスト教徒限定ではなかったが、やはりキリスト教徒の反発が目立ちキリスト教徒迫害の時代になった。彼の直属の部下から聖セバスティアヌスが誕生している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック※ 聖セバスティアヌスについては次項 「聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」」で書いています。皇帝の都合による迫害中止テトラルキア時代の東方ではガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方正帝が死の直前キリスト教の神に救いを求めたと言う。そして彼は迫害の終結のサインをしたそうだ。一方西方ではマクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝とコンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝で主導権争いが起きていたので迫害は中止された。ライバル、マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利するとコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は帝位に就いた。※ この事は「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で詳しく書いているが、彼はキリスト軍として勝利したことになっている。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ実際、本当に夢のお告げがあったかは定かでないが、神の好意があったとしてコンスタンティヌス帝はローマの教会に莫大な寄進をしている。そして、ローマのペテロ(Petros)ら殉教者の墓地に壮大なバシリカ聖堂の建設が始まった。キリスト教公認後の異端者狩りキリスト教をローマ帝国が公認した時に、時の皇帝コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)は教義の統一を図る為に325年5月第1ニカイア公会議を開催して全ての教会を集めている。同じキリスト教徒であっても、教義の解釈は様々だったからキリストの誕生日、命日など典礼、聖職組織、信者の倫理、入信者の為の問答集など作られ、全認識の教義の統一及び調整に向けられた。つまり、共通のマニュアル造りをしたのである。それはローマ、カルタゴ、アンティオキアなど地方毎の大都市の拠点となる教会で進められ、特に教義の元となる聖書50冊とその解説書はアレクサンドリア教校が担ったらしい。ローマ帝国主導でキリスト教の教義が一本化されたわけだが、「はい解りました。」と皆簡単に決まったとは思えない。どうしても譲れないカ所は、どこの教派も相当数あったのではないか? と思われる。ほとんどが、しぶしぶ新しいテキストを承諾したのだろうと想像する。実際、キリスト教からかなり離れた怪しい派(異教とのミックス)も存在していたと思われるが、そうした所は改変を拒否すれば当然異端として厳しく取り扱われる事になる。異端では無いと信じていたのに異端として扱われたキリスト教派も相当数いたと思われる。※ 以前、秦氏の所で触れた景教(ネストル教)は教義の統一を受け入れ無かった為に異端として排斥されローマ帝国を出ている。 それにしても、この早い段階でのコンスタンティヌス1世による教義の統一があったからこそ基盤と組織がしっかりした宗教となり、キリスト教は世界宗教になれたのだ。それには多少ローマ帝国主導の創作もあるにはあったが、今となっては、コンスタンティヌス1世の先を見据えた政治戦略の成功例だったのでは? と思う。ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)ここは聖ペテロのお墓の上に建立された殉教者記念堂(martyrium)が始まりで大聖堂に発展した。旧聖堂は326年頃建立。典礼を行うための教会堂ではなく、あくまでペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されたものであるが、これをローマ皇帝が協力して造ったのである。まだキリスト教が公認されたとは言え帝国の国教にはなっていないのにだ・・。※ キリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世(Theodosius)(347年~395年)の治世392年。キューポラ(Cupola)手前、聖堂のファサード(facade)を飾る聖人像 右、イエス・キリスト 左、洗礼者ヨハネ たぶんファサード上部には13体の聖人像。ファサード下の手前右にパウロ像、左に聖ペテロ像が置かれていてる。サン・ピエトロ大聖堂の高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737㎡。大聖堂隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などが連なり「バチカン市国」と言う国としてユネスコの世界遺産文化遺産に登録されている。因みに洗礼者ヨハネも聖パウロも12使徒(しと)ではない。が、聖パウロは12使徒の活動以上に、キリストの教えを理解し、まとめ記し、後世残る宗教としてのキリスト教の基板を整え、キリスト教をユダヤ人以外の民族にも広げた重要な人物なのです。彼の存在なくしてローマの国教に抜擢される事もなかったろうし、まして世界展開など考えられなかった。・・と言う意味で聖パウロは重要な使徒なのです。※ 「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中、使徒(apostolos)パウロの伝道で詳しく書いています。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)※ 洗礼者ヨハネについては「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」の中「荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト」で少し触れています。リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)広場中心にオベリスク。それをはさみシンメトリーに噴水が配置されている。下の写真はウィキメディアから借りたサンピエトロ広場ですが、広場メインに紹介したかったのでサイドを少しカットしています。正面通路がテヴェレ川にぶつかった左にサンタンジェロ城があります。ヴァチカンからサンタンジェロ城まで秘密の通路があり教皇の緊急避難用に使われていた。テヴェレ川(Tevere)とヴァチカンの丘にはさまれた平原アゲル・ヴァテイカヌスは元々非衛生な湿地だった所。しばしばテヴェレ川も氾濫しては犠牲も出すので人が住む所ではなく墓地が延々と連なる他はその墓地に沿って皇帝らの競技場があったていど。コンスタンティヌス帝による大聖堂の建築はこの地域の振興に役立ったと言う。民家が寄り、1世紀後には修道院が集まって来た。8世紀にはアルプスの北から聖ペテロと殉教者の墓への巡礼者が押し寄せ宿泊施設もできた。カロリング家の協力で、この地区は新たに廟(びょう)や礼拝堂が建立される。カール(Karl)大帝(742年~814年)は2度目のローマ滞在を記念して宮殿を建て献上したらしい。しかし、ここはもともとアウレリアヌス城壁の外である。846年サラセン人による大聖堂とこの地区の襲撃と略奪を受け、教皇レオ4世(Leo IV)(790年?~855年)はサンタンジエロ城から大聖堂一帯に壁を構築。大聖堂中心に囲まれたこの街は中世を通じて「レオの都市」と呼ばれるのだが、これがヴァチカン市国(Vatican City)の原型である。ヴァチカン公式の本から。下はサンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)とサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)聖堂前のサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)の設計で1656年~1667年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ円形の広場となっている。下はヴァチカン内のジオラマより下は聖堂前からの広場広場は典礼前、準備がすすめられている。今日、世界のキリスト教徒の最大の巡礼地の一つとなっているが、現在の聖堂はルネッサンス時代、バロック時代を通して改築され17世紀に完成したもの。ルネッサンス時代はブラマンテやラファエロ、ついでミケランジェロも建築主任となっている。※ ラファエロはアテネの学童の壁画の中に自身とミケランジェロも描き込んでいる。※ ミケランジェロは聖堂のドームだけでなく、システィナ礼拝堂の天井画含め壁画にも参加しているが、最後の審判の図の中に自身の抜け殻となった皮だけ描き混んでいる。今回はシスティナ礼拝堂まで載せていませんが、何かしら爪痕が残されているのを探すのも面白い。リンク ヴァチカンとシスティナ礼拝堂迫害と殉教ところで、キリスト教がローマ帝国の国教になると迫害は形を変える。迫害される側から迫害する側にポジションが移動したからだ。※ キリスト教が認知されたミラノ勅令以降、他信徒の異教の神殿が攻撃され、キリスト教の教会に変わって行く。問題なのは、キリスト教徒による反キリスト者(異教徒)狩りのみならず、キリスト教徒同士なのに因縁を付けて迫害の対象とした中世の魔女狩りは、もはや他信徒からの迫害よりも酷く残虐になっていく。つまり他信徒からよりむしろ同教徒からの攻撃が増えるのだ。以前「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)」の冒頭で紹介しているが、記号論哲学者で、中世研究者でもあるウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の小説「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」はミステリー小説に位置づけられるのだろうが、明らかにこれは中世の異端狩りの恐ろしさを伝えている。紙一重? 真の聖者であったとしても、誰でも簡単に異端者にされる時代もあったのだ。٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~※ 小説は難しいが、映画にもなっています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)それにしても、迫害の時の信者の態度はその場と後において2度明暗が分かれたらしい。あくまでキリスト教徒として抵抗をした者は獄中にいても、またたとえ殺されたとしても英雄視され殉教者となったが。迫害怖さに信仰(キリスト教)を一時的にも棄てた者は、その後に教会に戻る事を簡単には許されなかったし、終生裏切り者の烙印が押される事になった。因みに、ローマ帝国に対して「単に逆らった」だけなのに英雄視され聖人のように扱われる事象も増えたらしい。誰が尊者か? 教会管理上の大きな問題に発展。そもそも地方発の聖人は正式な記録もなく、伝承のみで実在かも不明? 出自があいまい。地方の小さな教会では教皇庁の許可もなくかってに聖人として祀っていた、御当地聖人も多かったと思われる。殉教者が必ずしも聖人になれるわけではないが、中世はすでによく解らない聖人がたくさんあふれていた? のかもしれない。だから13世紀に発行された「黄金伝説」はその時点での聖人を明確に世に示した書だったのかもしれない。聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」ハウツー(how-to)本と言うほど簡略な本ではないが、キリスト教で崇敬されている諸聖人の伝記がまとめられ、聖人を知るならこれしかないと言う本が「Legenda sanctorum」or「Legenda aurea)」である。日本訳で「黄金伝説」と訳されているが、「伝説の聖人」の方が意味はわかりやすいかも・・。1267年頃、中世イタリアの年代記作者でジェノヴァの第8代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)(1230年? ~1298年)はキリスト教の殉教者や聖者を記た「黄金伝説」を執筆した。ラテン語散文で記され第1章 主の降臨と再臨から始まり第176章の献堂式まで聖人たちの伝説の他キリスト教の祝祭日など織り交ぜて書かれている。日本語訳され一部聖人が抜粋されたヤコブスの「黄金伝説」を私も持っているが、聖人と呼ばれる人物の行動や生活。いかに殉教に至るのか。また殉教後の奇跡の話しなど1人1人かなり詳細に語られている。原本は見ていないが、ざっと数えて聖人だけでも170人くらい載った伝記物となっている。13世紀に執筆された同書は中世以降最も流布した本の一つとされるが、ここに記されている一言一句を全て真実として受け止め、カトリック教徒は祀ってきたのだろう。おそらく、唯一の聖人の解説書であり「黄金伝説」登場の聖人はこの本により確実に定説化されたと思われる。作者の創作はなかったのか? この本の取材のネタ元はどこなのか? と、いつものクセで疑問を持った。が、それは聖セバスティアヌスの件で理解した。おそらく、ミラノと同様に、それら諸聖人の地元の教会から上げられた聖人伝説を集めて編纂(へんさん)したのがジェノバの司教ヤコブス・デ・ウォラギネだったのだろうと思われる。そこには確かに良い意味でヤコブスの創作もあったかもしれない・・と思う。物語性もあるのでこれを愛読書にしたカトリック教徒は星の数ほどいただろう。ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で撮影した聖セバスティアヌス以前ポルディ・ペッツォーリ美術館でも紹介している絵です。写りの関係で再び使用しましたが作者不明です。彼はディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)の迫害の時の被害者の1人。聖セバスティアヌスはディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)帝(在位:308年~313年)の両皇帝に気に入られ、ローマ軍の第1歩兵隊の指揮官をしていたミラノ出身の実在の人物。当時のローマ帝国はキリスト教徒の拡大を恐れ迫害に転じていたので彼は敬虔なるキリスト教徒ではあったが、隠れキリスト教徒であったのかもしれない。また2人の皇帝のお気に入りである。美形だったのかもしれない。だから? 聖セバスティアヌスの図像は必ず若い美形で描かれている。それ故、人気の聖人なのだろう。ディオクレティアヌス帝は彼がキリスト教徒であること知ると矢で射る刑を与えた。沢山の矢を受け、ハリネズミのようになったがそれでも死ななかった。再びディオクレティアヌス帝の前に現れると帝に説教したので今度は棍棒で打たれて殉教したとされる。※ この伝説のベースに関しては、ミラノ司教の聖アンブロシウスが大いに係わっているらしい。ところで、近代文学の作家、芥川竜之介(氏)がこの「黄金伝説」について座右(ざゆう)に備えておくべき本として紹介しているそうだ。そう言ってから氏はすぐに自殺した。殉教と自殺は天と地ほど違うのに・・。ついでに同じく作家の三島幸夫(氏)が恋がれたグイド・レーニ(Guido Reni)の聖セバスティアヌスも紹介。下の絵はウィキメディアからですが・・。グイド・レーニ(Guido Reni)(1575年から1642年)はラファエロ風の古典主義的な画風のボローニャ派の画家。彼の作品はキリストにしても美しい。聖人像のどの作品も色っぽい。兵士であった事から兵士の守護聖人ではあるが、イタリアで黒死病が流行した際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立すると流行が止ったと言う事から黒死病から信者を守る守護聖人にもなった。殉教者信仰が生んだ殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)殉教(Martyrdom)とは、己の信仰を全うするが故に、迫害などで命を落す事をさす。殉教者はその当事者だ。そもそも当初の殉教者は初期キリスト教で布教と言う重要な役割を果たした使徒(しと)に向けられたものだった。※ キリストの12使徒の他、使徒パウロあたりまでをカバー?だが、時代が進み、キリスト教の迫害時代を経てローマ帝国の国教になるまでの間、キリスト教徒として命を落とす者が増え続けた。要するに殉教者としてカテゴライズされる者が増大したのだ。※ 新大陸やアジアへの宣教師による布教が始まると殉教者はまた増加。キリスト教の信徒として、義を貫いて命を落とした者は礼讃(らいさん)され、殉教者として祀られるようになると言う殉教者信仰なるものがあるのだが、それは当初から存在した。キリスト教の最初の殉教者となったステファノ(Stefano)(生年不明~35年または36年頃没)から始まる。エルサレムの北部、郊外にあった彼の墓地には多くの巡礼者が集まったらしい。最も公式にステファノの墓が定められたのはキリスト教がローマ帝国の国教に制定(392年)された後の415年である。殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)2世紀頃のキリスト教会ではすでに尊い活動、あるいは迫害により命を落とした者を殉教者(じゅんきょうしゃ)とし、またその者の遺骸や遺物の上に墓を立て、崇敬すると言う事が行われていた。※ この時点で聖人の定義はまだ定まっていない。殉教者を葬った場所には小さな礼拝所が設けられた。それは後にまわりに堂ができ教会で覆われたりするのだが、当初はシンプルなモニュメントのような廟(びょう)であったようだ。ラテン語でマルティリウム(martyrium)と呼ばれた。(日本語訳では殉教者記念堂)※ 英語にするとマルティリウム(martyrium)はマーティダム(martyrdom)。それはなぜか「殉教」とか「苦難」そのものの訳語となりラテン語の意味とは異なるのである。(・_ ・。)? ※ 現在マルティリウム(martyrium)自体が建築用語となっている。最古の物がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、中央祭壇の下から発見されたと言う。その殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が下のようなもの。現物写真は無い。もともとサン・ピエトロ大聖堂の場所(アゲル・ヴァテイカヌス)は120年~160年頃には墓地が広がっていた場所。殉教した12使徒のペテロが葬られた場所に殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が造られたのが最初? なのかも。コンスタンティヌス1世は敢えてその上に旧サンピエトロ聖堂を築いたのだろう。※ 聖堂中心の地下が聖ペテロの墓とされている。そしてキリスト教がローマ帝国で公認される313年以降、そうした殉教者の墓の拝所は少し大がかりになり堂で覆われた礼拝堂となっていく。これら殉教者を祀る為に造られた記念礼拝堂そのものが、ラテン語でマルティリウム(martyrium)となったようだ。ところで、これを殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)と解釈して良いのか解らないが・・。サンピエトロ大聖堂左翼 中央にあるのが聖ヨセフの祭壇(Altar of St. Joseph)である。マリアの夫、聖ヨセフ(St. Joseph)に捧げられた祭壇とされ、キリストの父とはされていない。実は祭壇に置かれている古代の石棺には、使徒シモン(Simon)とユダ・タダイ(Jude Thaddeus)の遺物が入っていると言う。使徒シモンもユダ・タダイについても、実は伝承のみで詳しい記録は残っていないらしいが、ペルシャで殉教したのではないかと考えられている。さらに伝承では彼らの遺骸はペルシャからローマに運ばれ、現在のサン・ピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたらしく、後年その遺物が納められた? と聞く。そう、公式にヴァチカンが公言しているのだからこの祭壇も殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)に入るのかな? と思ったのです幼児キリストを抱く聖ヨセフ。左に大天使ガブリエル?絵はAchille Funiにより1961年に書かれ1963年にモザイクで製作されている。実はこの記念堂は割と新しい? ヴァチカン内の絵画類は順次モザイク画に置き換えられています。殉教者信仰から聖遺物収集に2世紀半ばのおそらく最古とされる記録であるが「ポリュカルポスの殉教録」では、殉教者を「宝石よりも貴重で黄金よりも価値がある。とし、その遺灰を拾い集め、埋葬し、命日には集会を開いて故人を祈念した。」と、あるらしい。この理念は以降、欧州各地に広がり、教会はこぞって誰かしら聖人の遺物を欲しがり、持つに至るのである。これが聖遺物収集の発端か・・。聖遺物収集については、すでにあちこちで書いています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)聖遺物信仰も少しカルト的です。聖人の遺骸を持った聖堂は勝ち組です。遠方から聖人を拝みに巡礼者が殺到するので教会は潤うからです。10世紀以降、聖人の遺体自体が容器に入り聖堂や廟に移される。また聖人の遺骸は分割され頭部や腕など細かくなった遺物は装飾性の高い聖遺物容器に移される。例え指1本でも聖遺物と言うお宝になったのです。因みに中世「聖遺物コレクション展」なる催しも開催され地方から巡礼者を集めています。需要があるので聖遺物を集めるブローカーも存在しています。全部、怪しいけどねミュンヘン・レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)からヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。普通、こう言うものは撮影できないのですが、レジデンツは太っ腹です。しかもこれらは巨大金庫の中に納められている展示品です。(金庫の中で撮影してます。)私が見た中でもこれだけ大量に有したコレクションは始めてです。※ 以下に他にも紹介しています。リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)当時はまだ高価なガラスと宝石が散りばめられた聖遺物箱(Reliquary)に入れられて飾られたのです。そうなると何が変わるのか? 聖遺物は持ち運びがたやすい動産となり欧州中の各教会に普及するのですが、同時に盗難にも遭いやすくなったそうです。盗んだお宝をしれっと飾る教会もあるわけで、聖なる宝を盗むなど何事か? と思うかもしれませんが、「聖人がうちの教会に来る事を望んだ結果だ。」と言われれば「そうなのかな?」と言う解釈もあるそうで笑える最も当事者の教会にとっては死活問題ですから奪い合いです。聖遺物からの免罪符問題かくして、教会は聖遺物を集め、巡礼者を集めたがった。巡礼者もそんな聖遺物を拝みに出かけた。それは中世後期には異常な高まりをみせるのです。なぜか?聖遺物を拝みに行く事でポイントがたまったのです。何のポイントが?死後、天国に行く為の免罪行為として利用されたからです。※ 実際のスタンプではなく、自分の中にある自分の善行としてのポイントです。聖遺物を拝む事で過去にしでかした自分の罪がチャラになる。そんな風に言われて多くの聖遺物を見れば善行するより楽勝。だからたくさん聖遺物が集まるコレクション展への人々の巡礼はハンパなかったようです。コレクション展は大行列だったらしい。当然、そこには入場料? あるいはお布施が存在していたわけで、免罪ポイントを結局お金で買った事になった訳ですが・・。私も俗人、行ったでしょうね※ 免罪符についてまだ完全なのを書いていませんが、興味のある方は参考として以下見てください。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)煉獄思想が免罪符問題を造り、そこに教会のお金集めが乗っかり、結果宗教改革の革命が起きるのです。キリがないのでこの辺で・・。それにしてもよーく考えて見るとイエス・キリスト以外にその関係者なる複数の聖人を祀って礼拝してしまったらそれは多神教です。殉教者信仰もまたカルト(cult)的な要素を持ち合わせている。だから? 教皇庁は多神教にならないよう、一つの教会に守護聖人は1人のみ・・と言う苦肉の解釈? 制限を加えたようだ。聖人の仕分けこのあふれかえるように増えた聖人を17世紀になって教皇庁は整理している。それが第235代ローマ教皇であるウルバヌス8世(Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)である。※ フィレンツェのバルベリーニ家出身のウルバヌス8世は聖職者というよりは政治家? 親族を多く登庸してバルベリーニ家にさらなる富をもたらしている。※ 以前「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の所で家門にミツバチを入れている見本としてローマ教皇ウルバヌス8世の紋章を紹介している。リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠ウルバヌス8世は教会改革を進め、その中で聖人の仕分けをして怪しいのは削り、また多くの聖人を認定したとも言われている。地方で呼び名が違う為に同一人が複数に数えられていたのも多々あったらしい。また聖人はランク付けし、ランクにより典礼の種別も行っている。以降? 時代で? 聖人は時々見直されるようになった。何と、聖人からはずされる場合もあるのですウルバヌス8世は、新大陸やアジアへの布教活動に熱心で聖職者を要請する教育施設としてウルバヌス学院(Colegium Urbanum)を創設したりと布教に前向きな活動をしています。※ 現在、聖人を決める秘蹟の判定や典礼については、典礼秘跡省(ラテン語: Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum)が行っているらしい。ヴァチカン公式の本からの聖堂の図。確かにギリシャ十字の聖堂が下に足された感じです。No35 教皇の祭壇 聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi) 地下(ペテロの墓)右上から時計回りに59 聖ヘレナ(St Helen)64 聖ロンギヌス(St Longinus)32 聖アンデレ(St Andrew) (洞窟入口)36 聖ヴェロニカ(St Veronica)29 ペテロの司教座 ベルニーニによる玉座の祭壇57 ミケランジェロのピエタ(Pietà)8 聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)内部下は典礼の時の仕様です。身廊先に見えるのがクロッシングのキューポラ下にあるベルニーニの大天蓋(だいてんがい)アートな聖水盤ロココ時代のイタリアの彫刻家であり画家であるアゴスティーノ・コルナッキーニ (Agostino Cornaccini)(1686 年~1754年)によって設計デザインされジュゼッペ・ローニ(Giuseppe Roni )がシエナの黄大理石の水盤と黒大理石のバルディリオドレープの彫刻を担当している。教皇庁のアヴィニョン捕囚時代(1309年~1377年)が過ぎ、教皇庁が再びヴァチカンに戻ると都市の整備と拡張も行われる。特に聖堂の老朽化は甚だしく、崩壊寸前だったそうだ。教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)はブラマンテに大聖堂再建計画を依頼。工事は1506年から1世紀半に及ぶ。当然造営の建築主任は何人も交代した。当初のブラマンテの計画では、元のコンスタンティヌス時代のバシリカにドームを載せるだけのギリシャ十字のシンプルなものだった。それが計画から着工、また完成までギリシャ十字か? 縦長長堂式のラテン十字か? 二転三転した。1546年、ミケランジェロが主任になるとギリシャ十字型に決まり建築が進むが、ミケランジェロが亡くなるとまたプランは変更。彼の図面を利用しながらも収容可能人数を引き上げるよう身廊部が引き延ばされ縦長長堂式のラテン十字となった。身廊の奥行き187m。上の写真で言えば、クロッシングまでのアプローチ(身廊の長さ)がかなり長いのが解る。おかげで正面前からのドームは見え無いほど後退している。とは言え、現在の聖堂は、ほぼミケランジェロのプランなのだと言う所が個人的にちょっと感慨深いミケランジェロのピエタ(Pietà)1489年、フランスのジャン・ピレールド・ラグローラ枢機卿は「最も美しい大理石の作品」と依頼した。他にも候者がいた中、ミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)が渾身の聖母子を彫り上げた。ライバルがいたからこそ、彼が署名を刻んだ唯一の作品となった。ピエタは十字架の降下直後のキリストの死を悼む母マリアの姿であるが、ここではマリアは若々しい乙女の姿で描かれている。それは「マリアはキリストの母にして花嫁」と言うキリスト教の神学的解釈に基づいているらしい。下、「ペテロの座像」は以前「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」で載せているので今回のせません。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)堂内の装飾はバロックを代表する建築家で画家で彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が担っている。「ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛される程のバロック芸術の巨匠である。彼の作品は華やかで気品がある。クロッシンクの中央祭壇の上にベルニーニ製作のバルダッーキノと呼ばれる天蓋(てんがい)のついた聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)が置かれる。実はその地下は聖ペトロの墓だそうだ。もともと墓地だった場所であるが、今は地下グロッタもあり、歴代教皇らの眠りの場所となっている。祭壇建築の時に地下からもろもろ出土したらしいが、ほとんどそのままさわらずに残したらしい。ミケランジェロが設計したキューポラ聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世はブロンズ製の巨大な天蓋バルダッキーノ(Baldacchino)に覆われた中央祭壇を希望した。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)はその依頼を受け、1624年~1633年、4本の支柱を持つ天蓋のついたブロンズ製の巨大な聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を製作する。その天蓋(Baldacchino)にはバルベリーニ家の紋章である蜂が散りばめられている。本来の天蓋(てんがい)は布製である。ここは敢えて全てブロンズで製作しているわけだが、ベルニーニは、割とリアルに布の雰囲気を出して製作している。流石である。 (*゚▽゚ノノ゙☆パチパチねじれた支柱は太い幹に蔦(つた)が巻き付いたイメージらしい。その地下が墓(Tomb)下の箱に聖ペテロの聖遺物が? と思ったが違うらしい。後方内陣、ペテロの司教座にはベルニーニ製作の「玉座の祭壇」が置かれている。実は後陣にペテロの司教座を造るのは当初予定ではなかった。信徒でなければ入れ無い領域なので遠方から撮影です。堂は薄暗いので拡大するとボケます。アレクサンデル7世(Alexander VII)(1599年~1667年)(教皇在位:1655年 - 1667年)の意向で9世紀の木製の「ペテロの司教座」椅子を納める為に製作されたらしい。一種の聖遺物容器となっているそうだ。下、まれに予告なく法王自らミサをとりおこなう事がある。遺物のロッジア(Loggias of the Relics)ところで、ベルニーニは中央の教皇の祭壇がある聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を四方からまるで結界を貼るように四隅に聖人の聖遺物を納めた10m級の彫像を設置している。※ 4つの巨像は、1639年から1640年の間にドームを支える4つ橋梁のニッチに設置された。※ 像は全て制作者が異なる。これは 1624年、ウルバヌス8世の依頼によるものであるが、ドームを支える4つの橋梁のニッチに彫像の上に、関連する聖遺物が備えられたらしい。天蓋左奧 聖ヴェロニカ(St Veronica) 天蓋右奧 聖ヘレナ(St Helen)天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew) 天蓋手前右 聖ロンギヌス(St Longinus)彫像の製作に関しては、ベルニーニはともかく、他の制作者は実物大のスタッコ・モデルを製作して審議にかけられているらしい。問題なのは 確かに最初ウルバヌス8世は、これらのロッジアに4つのニッチに貴重な聖遺物を納めたらしいが、遺物は現在元の場所に無いらしい。現在聖ヴェロニカの像の上の礼拝堂に3つの聖遺物が保管されている?。しかし、聖アンデレの聖遺物は過去の教皇によりギリシャ正教会のパトラス(Patras)の聖アンドリュー教会に寄贈されてしまったらしいのだ。※ 聖アンドリュー教会(聖アンドレアス教会)またはアギオス・アンドレアス教会(Church of Aghios Andreas)と呼ばれるギリシャ最大の教会らしい。※ 時の教皇は、第262代ローマ教皇パウロ6世(Paulus VI)(1897年~1978年)と思われる。他についても最新情報が解らないので詳しくは不明です。本来ならベルニーニの彫刻作品、聖ロンギヌス(St Longinus)だけ紹介して終わる所ですが、聖遺物が祭壇を中心に4隅の柱に配置されていたと言うのが気になりました。たまたまでしょうが、大聖堂の方位から見ると、聖ロンギヌスの位置はまさに鬼門(きもん)上です。※ 裏鬼門に聖ヴェロニカ(St Veronica)何か結界のような意味がウルバヌス8世にあったのか? もはや誰にもわからないでしょうね。聖ヘレナ(St Helen)こちらはウィキメディアからですアンドレア・ボルジ(Andrea Bolgi )(1605年~1656年)製作。コンスタンティヌス1世(Constantinus I) の御母。早くからキリスト教を信仰していた彼女は早くから聖地に聖遺物を探しに旅に出て色々なキリストにかかわる遺物を発見して持ち帰っている。持っている品は磔刑の時の十字架と言う事らしい。発見時はすでに木片。それが納められていた。聖ヘレナ(St Helen)の向いに、聖ロンギヌス(St Longinus)ベルニーニ自身による製作。キリストの脇腹を指したとされるロンギヌスの聖槍(せいそう)を持つロンギヌス。実際は、死の確認の為に突っついた。と言う事らしい。その槍の穂先が収まっていると言う。※ 聖槍はウィーンの宝物館やメルク修道院にもあった。天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew)フランソワ・デュケノア(François Duquesnoy)(1597年~1643年)製作。しかし、教皇が聖アンデレのために選んだモデルは実際にはベルニーニのデザインらしい。ペテロの弟でギリシアで宣教し殉教した。X十字の磔刑に処された事からX十字は彼のアトリビュート(象徴)となっている。聖アンデレの聖遺物は何と彼の「頭蓋骨」だったらしい。先に紹介しているよう1964年、ギリシャ正教会のパトラスの聖アンドリュー教会に寄贈? あるいは返還されたとも・・。実際今は無いのです。聖ヴェロニカ(St Veronica)フランチェスコ・モーキ(Francesco Mochi)(1580年~1654年)製作。聖ヴェロニカの像は、ヴェロニカの聖顔布を称えるために作成ヴェロニカのヴェールは、キリスト教の布の遺物イエスが十字架をゴルゴタに運んでいる時、額の汗をぬぐう為にと渡したベール。キリストの顔が浮かび上がっていたと言う聖顔布が聖遺物らしい。もし聖遺物をペテロの墓地の四隅に結界的な意味を込めて張りめぐらしていたのだとしたら?聖域の浄化に役立っていたのかもしれない?それは1点が欠けた段階で崩壊しているし、今はどれも撤去されている。これはカトリックの思想ではないが、あった方が良かったのに・・と私は思う。聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人)そもそも聖人とはどんな人が選ばれるのか?信仰以前に、まず人としても、生き方においても高潔である事。人徳があり、信仰においては過去の事象において崇敬されるべき行動があり、それは後世においても不変であり模範とされる人?これはどんな宗教でも絶対条件ではないか? と思われるが、さらにカトリックの場合、選定の入口に2つの条件ルートが存在する。それが聖人候補となる者がまずどちらなのか? これにより審査条件は大きく変わるのである。殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)か?証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)か? 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)・・・信仰のために命を捧げた者。殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられた者。 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)・・死ぬことはなくともイエス・キリストに対する絶対的な信仰を持ち、且つその生き方でゆるぎない信仰を示した人。また生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要。さらに絶対条件として奇跡の証明が必要。またそれは時代の科学で証明できない奇跡でなければならない。※ 奇跡の証明でよくあるのは、墓から掘りおこした時、生前の時のままに綺麗である事(痛んでいない)。また誰かしらの病気などの奇跡的治癒に貢献した。等・・。その上で現在の聖人認定には至るステップ(段階)がある。列聖省による長く厳しい審査があり、一気に聖人になる事はない。神の僕(Servi Dei) → 尊者(Venerable) → 福者(Beatus) → 聖人(Sanctus)例えば、近年、死後すぐに列聖の為の審査に入り、わずか数年で聖人となったケース(教皇ヨハネ・パウロ2世やマザー・テレサ)もまれにあるが、ジャンヌ・ダルクのように当初(1431年)異端として火刑に処されながら1456年に復権。1869年列聖の申請から1909年列福。1920年列聖。と、481年と言う長い年月で評価が一変したケースもある。が、通常は早くても列福まで本人の死後数10年から場合により100年はかかるらしい。※ 当人が生前いかに崇敬されているか? の判断故か? 近年は関係者の存命中に判断されるようになったので列福、列聖が急がれているのではないか? と思う。※ 守護聖人や証聖者(Confessor)については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で書いています。ミラノでは実際に列聖準備に入った福者が祀られていたのでその写真もあります。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)列聖の審査1.候補者となり、列聖の為の調査が宣言されると → 神の僕(かみのしもべ)(Servi Dei)とカテゴライズ。2.列聖省が様々な調査を行い、その人物が英雄的、福音的な生き方(生涯)であったことを認定した時 → 尊者(そんしゃ)(Venerable) の敬称が付く。3.尊者の徳ある行為あるいは殉教により天に在住し「その生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると証明された時。 → 福者(ふくしゃ)(Beatus) の敬称が付き列福する。※ 列福には、最初、地域司教の管轄下の司教による調査が行われ、そこで徳と聖性が認められると教皇庁に資料が送られ列聖省にて調査・審議が行われる。※ 1831年の教会法改正以降、その人物の取次ぎによる最低1つの奇跡(超自然的現象)が必要とされる。殉教者はその対象外。教皇が列福の教令に署名。サン・ピエトロ大聖堂での列福式を以て「福者」と宣言され列に加えられる。 → 列福(れっぷく)(Beatification)4.徳と聖性が認められた福者(Beatus)が聖人(Sanctus)の地位にあげられること。 → 聖人(せいじん)(Sanctus)の敬称が付き列聖する。再び福者と同様な調査と手続きが行われ、徳と聖性が認められると教皇により列聖の宣言が出され、聖人の列に加えられる。サン・ピエトロ大聖堂で列聖式が行われる。 → 列聖(れっせい)(Canonizatio)プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)絵 Giovanni Francesco Romanelli(1610年~1662年) 製作(1638年~1642年)モザイク Cristofari 製作(1726年~1728年)絵画は神殿での聖母マリアのプレゼンテーションの祭壇として描かれている。マリアの宮詣での図なのである。現在この祭壇は聖ピオ10世に捧げられている?プレゼンテーションチャペル祭壇の下にある教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓?ポンティフィカルローブ(pontifical robes)で包まれ顔は銀の仮面で覆われクリスタルの棺に納められた聖ピウス(St. Pius X )(1904~1914年)。いつの時点の説明かわからないのですが、どれもここは教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓と紹介されています。今は聖人となった聖ピウス10世(St. Pius X )は今もこの場所におられるのか?※ 1954年5月29日、ピウス12世によって列聖されている。通常は、列聖までの間一般公開される祭壇「最後の埋葬までの間に保管される場所」ではないか? と思うのです。大聖堂では、時々特別典礼として列福者など一時的にこのように公開されています。パウロ2世も確か聖セバスティアヌスの礼拝堂で公開されてから地下に行ったような・・。ただ、聖ピウス10世(St. Pius X )は20世紀の偉大な教皇として評価されているので一つの礼拝堂が墓所としてあてられたのか?聖なる扉(Porta Santa)ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の聖堂に入る戸口の話しです。入口正面に戸口は5つ。そのうちの右端の門だけは開かずの扉となって、通常は完全封鎖されています。西暦1300年に始まったと言われるカトリックの特別年(聖年)。その年だけに開かれる特別の戸口です。この年にローマに巡礼すると特別な赦しを与えられるのだそうです。※ 聖年にはバチカン四大バシリカの聖年の扉がすべて開く。ヨハネによる福音書第10章9節イエスは「私は門です。私を通して入る者はだれでも救われる」と言われているようで、門は聖域に至る象徴となっているのでしょう。聖なる扉(Porta Santa)の外側フィレンツェのフェルディナンドマリネッリ芸術鋳造所によって鋳造されたヴィココンソーティ(Vico Consorti,)による聖なる扉(Holy Door)。実は1950年のクリスマスに聖年を終えた後にブロンズに置き換えられた。それ以前は木製。ラテン語で(Porta Santa)もともと、この門はコンスタンティヌス1世の指示? 最初から定められていたようです。ただ、恩赦が与えられる特別な扉であったので、中世これを悪用して商用化? お金をとっていたのでしょう。その為に時の教皇が扉を封印する事にしたようです。聖なる扉(Porta Santa)の内側聖年にしか開かれない扉なのでレンガとモルタルで固められて絶対に開ける事はできないようになっています。小さな礼拝所の写真? と最初思いましたが実はかなり巨大で十字の下まで2mくらいあるのでは?扉の内部にはサンピエトロ大聖堂聖省(Fabbrica di San Pietro)の刻印が入った煉瓦が詰まっていて、それらの奧に聖年の扉の鍵が入った箱が保管されている。十字の下の四角から表面に覆われたモルタルをを崩すのです。実は私はこの塞がれた扉を見ていないのです。なぜなら、私はラッキーな事にたまたま訪問した時が聖年で門が開いていたのですめったに無い聖年です。かつては100年に一度、それが50年に一度となり現在は特別聖年を除く25年に一度。最近は教皇の考えにより特別聖年が定められると開かれるようです。※ 近年は度々開かれている。それでも今や訪問者が増えて大渋滞だそうです。聖年にこの門をくぐる為に入場券の予約が必要らしい。私の時はほとんど人もいなくて、普通に通り抜けました。今は情報が早いからかも? 昔はそんな情報も無かったので・・。門を見て知ったくらいです。御利益は「恩赦(おんしゃ)?」があるそうです。先に紹介した免罪のポイントのような事です。カトリック信者ならあこがれかも? 結果は死んでからでないとわかりませんが・・。聖ペトロの教会ですから、聖ペトロのモザイク画です。彼は天国の門の番人ですから天国の門の鍵を持っています。それが彼のアトリビュートです。※ 聖ペトロの話しは「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」で触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ疲労困憊。おわります。 (^o⌒*)/ 一度このまま載せますが、チェックを後からします。後で修正が多々出ると思います。(>人<) Back numberリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
2021年08月08日
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海洋共和国続編と番外のリンク先をラストに追加しました。※ 教皇庁の聖人の認定について書いているリンク先を聖ベルナールの所に追加しました。が、不完全であったので書き直ししました。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂コロナ・ウィルスが蔓延を始めた頃、深夜の番組で映画「ヴェニスに死す」が放映された。トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)。それを原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督。小説での主人公は作家である。トーマスマンの友人であった作曲家のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)をモデルに描いたとされるが実際の所はトーマスマン自身が出会ったポーランドの美少年をモデルに描いた作品らしい。ヴィスコンティは映画にするにあたり、主人公を老作曲家にし、映画の音楽にグスタフ・マーラーを敢えて起用している。※ 敢えて? 主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハ (Gustav von Aschenbach)の姿もマーラーに寄せている。「主人公のおじ様(アッシェンバッハ)が美少年(タージオ)に恋をして、その地を離れられず疫病にかかり命を落とす。」簡単に言うとそんなストーリーなのだが、叙情的で感慨深い作品であった。小説も映画も高校生の頃に読んだし観た。※ 高校生の時、試験終りはいつも吉祥寺でマック片手に2本だての安い映画を見てから帰るのが恒例だった。学生服で平気で入ってたからねだからヴェネツィアに行った時、映画のロケ地となったリド島のホテル・ドュヴァンに宿泊できた時はとても嬉しかった。(4泊した)そのリド島はヴェネツィアの島の一つではあるが、昔から欧州貴族のリゾート地であっただけに一般的なヴェネツィア感は全く無い静かで綺麗なハイソな島であった。時は9月、映画祭が行われている時でホテル・エクセシオール(Hotel Excelsior)は賑わっていたが隣接するホテル・ドュヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は静寂に満ちていた。すでに海水浴シーズンも終わり? 映画のラストで主人公アッシェンバッハが息を引き取った海辺のハウスはまだ連なっていたし、美しいタジオが立っていた回廊のテラス。十分映画の世界を堪能(たんのう)させてもらった。それこそが私の旅行の醍醐味だったかも・・。※ ホテル・ドュ ヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は今は無くなってしまったらしい。おそらくエクセシオール(Hotel Excelsior)に吸収されたのだろう。ところでヴェネツィアの街は車が入れ無いのでホテルなど個人旅行では特に利便を考え無ければならない。石畳の上をスーツケースは引きずれない。たいていのホテルは運河が玄関口になっている。※ まれではあるが、スーツケースを運河に落とされる事もあるらしい。※ ツアーの場合日帰りが多い。宿泊すると高いから、ましてヴェネツィア内部に宿泊するツアーは実は少ない。リド島は干潟を埋め立てたヴェネツィアの街よりも歴史は古い。サンマルコ広場から乗合船もあるが、ホテル専用のボートで10分。実際、リド島へはマルコ・ポーロ国際空港からホテル専用ボートで入った(有料)。ホテルは外海側なので島の運河を抜けて専用船はエクセシオールの庭に到着するのだが、空港からリド島までの海の道が圧巻である。広大な海のようではあるがところどころ浅瀬があるらしい。だからヴェネツィアの海は航路の杭が打たれていて船はその杭に沿って走る。つまり通行する船の海路が定められているのだ。地上の道路のように・・。全てが日常と違うので訪問のしがいはあるが、映画でわかるようにヴェネツィアは度々ペストなどに襲われている。ある種閉鎖された街は一度病気が発生すれば感染の広まりは早い。今回のようなパンデミックでは尚更だ。完全終息するまで行けないですね。さて、今回は前回に引き続き「海洋共和国」Part2で、予定通りヴェネツィア(Venezia)編です。ヴェネツィアもイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つ。しかも長く繁栄を続けたエースです。前回ジェノバの紹介はざっとしましたが、ヴェネツィアの商売の仕方はジェノバとはかなり違っていました。ヴェネツィアは国の結束が強くシステムが早くに構築されていた事が大きいかも。敵国とも同盟を結び交易を続ける。恐い物なしのヴェネツィアの挑戦は経済力と海軍力があったからだ。そして15世紀~16世紀に繁栄のピークを見せる。地中海の海賊は以前より増して問題であったが、共に海軍力に秀でていたジェノバとヴェネツィア。他の共和国とは全く違う両者。しかも海運へのアプローチも全く異なるのに両者は長く生き残った。ジェノバとヴェネツィアの違いは何であったのか? 尚、ヴェネツィア、写真がたくさんあり中身もあるので次回も写真はヴェネツィア(Venezia)となります。行った事のない人にもヴェネツィアが解る写真のセレクトになっています。諸々(もろもろ)こだわったので組みたてに迷走しました。結局「海洋共和国」編、3部作となります。「海洋共和国」Part2 「ヴェネツィア(Venezia)」「海洋共和国」Part3 「法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」(仮題)アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)ヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade) そもそも十字軍の公式部隊とは何か? 果てしなく遠い聖地 十字軍効果の経済 第2回目の十字軍(second Crusade)ヴェネツィア(Venezia)の街ヴェネツィア(Venezia)の成り立ち海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)ヴェネツィアのパノラマヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国前回ジェノバが第1回目の十字軍遠征(First Crusade)の時に大きく貢献してローマ教皇やエルサレム王国に恩を売り利権を得た事は紹介。実はヴェネツィアも東ローマ(ビザンツ)帝国との間に同じような事情があったらしい。以前「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。」と紹介した事があるが、彼らノルマン人(Norman)はさらにその勢力を伸ばしコンスタンティノポリスにまで及ぼうとしていたらしい。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人それを脅威に思った東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝の依頼でヴェネツィアが帝都とアドリア海の防衛をまかされ活躍している(First Crusade以前)。※ 1080年~1085年、アドリア海上でルマン人と海戦もしている。これによりヴェネツィアはエーゲ海や地中海の港での税の免除と言う特権が東ローマ(ビザンツ)帝国より与えられ、また帝都コンスタンティノポリスの一等地に居住地をもらい店や倉庫、専用の港も与えられ、アマルフィよりも優位な待遇を受ける事になる。ヴェネツィアはこの時点でエジプトとの貿易も拡大している。(First Crusade以前) ところで、 First Crusade(1096年~1099年)へのヴェネツィアの参戦は1099年の陥落後らしい。いろいろ戦略あっての事? いや、そもそも東ローマ(ビザンツ)帝国側は、ローマ教皇率いる神聖ローマ帝国側がまさかエルサレムを襲撃するとは考えていなかったからだろう。当初、東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝アレクシウス2世が望んだのは、1071年の戦いでセルジューク朝トルコに奪われた土地を取り返す為に軍隊の派遣を要請しただけだったからだ。それ故、「何でこんな事に?」西側の行為に彼らは非常に横転したのである。ヴェネツィアが出遅れた理由はまさにそこだったと思われる。それでも開戦してしまった以上のらなければ損。エルサレ王ボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)に相当の恩を売ったのではないか? と思われる。ジェノバより遅れたが同じウトラメールの諸港への利権を与えられているからだ。まさに「我が世の春」的なヴェネツィアの快進撃がこれより始まる。それもこれも東ローマ(ビザンツ)帝国との蜜月があっての事。だから1202年の第4回十字軍(4th Crusade)? の時のヴェネツィアの蛮行は青天の霹靂(せいてんのへきれき)である。 (*꒪⌓꒪)唖然ヴェネツィアは十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻して1204年、コンスタンティノポリスを陥落。 自らラテン帝国を樹立する。ヴェネツィアの狙いは当初から東方の富を象徴する都の航路と貿易でありマルマラ海(Marmara Sea)の制海権は元よりエーゲ海(Aegean Sea)や黒海(Black Sea)の制海権全てを握る事に成功した。※ スペインのナバール人の訪問者の記録であるが12世紀中葉のコンスタンティノポリスを以下に評している。陸路と海路で世界が繋がった国際都市で、寺院には金と銀の柱が建ち並び壁は純金の装飾がされ貴石で飾られたランプがともされている。ここのギリシャ人は恐ろしく金持ちで黄金と貴石を財産とし、金糸や貴重な物で飾られた絹の衣服をまとっている。因みにマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)はこの都市にしばらく滞在してから東洋を陸路めざした。私が気になったのは、ギリシャ人の件。やはり東ローマ(ビザンツ)帝国は完全にギリシャの帝国に変わっていたのだと言う事。もはや東ローマの冠はいらないが、経緯的に今後も載せておきます。ヴェネツィア(Venezia) 大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) 入り口大運河全長3.8km。川幅30m~70m。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 (Basilica di Santa Maria della Salute) 左岸ヴェネツィア(Venezia)は度々ペストに襲われた。そのたびに教会が新設されてきた。このサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 もその一つ。1629年夏から始まったペスト終息の為に1630年に教会の建設を決定。聖母マリアに献堂されている。ペストは症状が進行すると敗血症で皮膚が出血斑で黒ずむ事から黒死病(Black Death)と呼ばれた。しかし、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中、「ユスティニアヌスの黒死病」の所で、中世の黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか? と言う論文について書いている。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック12~18世紀に建てられた貴族の邸宅。パラッツォ(Palazzo)が並ぶ。200軒くらいあるらしい。ロマネスク、ビザンチン、ゴシック、新古典までそろっている。ライトアップされているのはHotel Bauer Palazzo。ホテルやレストランとなっている場合もあるが、今も個人の所有のパラッツォが結構あるらしい。とは言えヴェネツィア内部に住めるのはかなりの高所得者らしい。下はリアルト橋(Ponte di Rialto)からの撮影この時間になれば観光用のゴンドラは店じまい。水上バスのヴァポレット(Vaporetto)がこの街の足。これでも唯一の公共の交通機関。現在はディーゼルらしいが初期は蒸気船。この町の歴史は古いからね。※ 水上タンシーはあります。空港前にもいるのでタクシーでヴェネツィア入リするのはお勧めです。夜のリアルト橋(Ponte di Rialto)大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) には4つの橋がかかっていて、16世紀半ばに建設された最古の橋がこのリアルト橋(Ponte di Rialto)。長さ48m、幅22m、高さ7.5m。橋の上には商店が並ぶ。前回ラストにレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)の写真を載せたが、パレードのメインはこのリアルト橋。橋の上に人が集まりすぎてかつての橋は何度も崩落。1557年、コンペが開かれ1588年~1591年に現在の石の橋が建造された。アントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の設計で決まったが、このコンペにミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)も参加していたらしい。位置情報の為に地図を載せました。リアルト橋(Ponte di Rialto)は、ほぼヴェネツィアの街の中心にあります。なぜなら、海抜が比較的高く水害が少ないと言う理由でリアルト橋界隈を中心にこの町は発展したからです。この界隈は商業の中心地となり、交易品は陸からも海からも運ばれてこのあたりの倉庫に保管された。銀行や商品取引所の他、近くに陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )も置かれていた。先にも少し触れたが、「東方見聞録」を書いたマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の船もここから出発したと言う。元々、彼の父親はヴェネツイアで中東貿易に従事する商人。息子を連れここからコンスタンティノポリスへの船が出た。キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)ラテン語: cruciata、仏語:croisade、英語: crusade ※ 十字軍に参加していた者はフランス人が多く彼ら十字軍国家が公用語にしていたのがフランス語。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。聖地エルサレム奪還の為の西欧の軍隊の出動。ジェノバは自国の売りであるガレー船で向かったが、First Crusadeの場合、陸路でエルサレムを目指した部隊の方が大多数である。※ コンスタンティノポリスまで内陸の北方ルートでは3.5~4ヶ月。南方の船を含むルートでは7~8ヶ月かかっている。公式部隊は、1096年8月から順次故郷を出発。有力諸侯はパリからルイ王の弟、ロレーヌからはロレーヌ侯、プロバンスからはレイモン伯、ノルマンディーからロベール公など。さらにイタリアのノルマン人らが参加。道中は盗賊もいたし、イスラムの侵略地もあり、彼らは戦いながら前進。コンスタンティノポリスに全ての隊が集結したのは翌年1097年1~5月頃。※ その先はさらにかかっている。そもそも十字軍の公式部隊とは何か?ローマ教皇は西ヨーロッパのキリスト教圏の諸侯全体に聖地奪還の為の部隊を出してほしいとお願いをした。※ 本来の東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝のお願いはそんな話しではなかったのだが・・。教皇が望んだ戦士は、まず大国の王による正式な戦士による部隊である。王が参加できない場合は、代理となる近しい臣下や騎士を伴う諸侯による軍隊を指していた。そう言う者らは教皇に「私が行きます。」と正式な書状が出されているはず。つまり正式にローマ教会からの発令と受理があったか? がポイントだろう。むろん諸侯が地元の者を戦士として募って正式に領主から参加許可が出された者はましな方。First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人とされるが、実際は、貧しさ故にどさくさで土地を離れたい者らが行列の後ろにまじっていた? 戦士になるどころかお荷物の者のが多い部隊もあったので彼らを守る為に隊の進軍は遅れていく。本末転倒。実際の戦力は1/6程度?※ 戦士以外に調理人や聖職者なども隊にはいた。最初から戦力外は当然いたが・・。いらない者が付きすぎて足手まといだったのが真実。実際聖地まで辿りついたのは数%だったと言う。本来は免罪のキップを手にする為の参加ではなかったか? たいていの者は一攫千金をねらって部隊に入った? それは彼ら諸侯らも同じだった。彼ら諸侯がこれから樹立するウトラメール(十字軍国家)の主になるのだから・・。※ 少年十字軍。自発的に十字軍に参加したいと、大人に騙(だま)され人買いに売られてしまったのもいた。果てしなく遠い聖地陸路で中東のエルサレムを目指す。今、地図で見てもそれは容易な距離ではない。国によってはなおさらだ。ほとんどの者はそれがどこにあるかさえ知らなかったであろうし、簡単に行って帰ってこれると参加した者のが多かったろう。当然だが、陸路組はその道が過酷で命を落とす者の方が多かったのだ。そんな中でも初心を忘れずに真に信仰の元に動いたのがロレーヌ出身のゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)らである。彼は聖地を取り戻す為に前進しようと皆を鼓舞したが、有力な騎士である仲閒は自分が獲得した土地を守る為に聖地へ行くのをこばんでいる。だから聖地に近づくにつれて隊の人数は減って行くのである。First Crusadeでは聖地に至るまでのがとても難しかったのだ。だから聖地近くから突然船で参戦したジェノバは、精神的には楽勝であったはず。しかし、先に書いたが海ルートで7~8ヶ月。ガレー船は風まかせと基本手こぎだしね。十字軍効果の経済ジェノバは十字軍の騎士らが建国した4つの植民都市。ウトラメール(Outremer)の主要港に接岸する権利と同時に商取引の権利を得ていく。※ またこれから陥落させて増える十字軍の港もそれにあたる。もともと農作物の採れる場所ではないので、食糧は、ほぼほぼ西欧からの輸入に頼るしかなかったので彼ら商人は4つの王国に食糧他、生活物資も当然運んだが、武器、武具だって大量に運んだ。船の納品だってあったはず。商機はいくらでも転がっていた。今後は聖地詣でをする巡礼者らを大量に運んで行く事にもなる。ところで、First Crusadeで活躍した戦士のほとんどは任務を終え、故郷に帰ってしまった。後続の軍隊や巡礼者のほとんどは、十字軍らが切り開いたパレスチナの港へ船で到着するようになるのだが、パレスチナへ接岸する航路をもっていたのはジェノバやヴェネツィアの他、ピサ、アマルフィ、アンコーナなどの一部 海洋共和国である。だから聖地に向かう戦士や巡礼者はまず、欧州でそれらの国の港をめざしたのである。本国の共和国の街は人が増えてどこも経済は大きく動いたはず。だが、ヴェネツィアはこの時すでにもっと先の商売に目をむけていた? 軍事特需の向こうに東洋を見ていた? ヴェネツィアは商売に対して純粋に貪欲だったのかもしれない。船賃も恐ろしく高額であったろうと思うが、巡礼者の数は以外に多かったのだろうと想像する。今もそうであるが、巡礼者をあなどってはいけない。信仰の為なら命もお金も惜しくはなかった人達だ。11世紀に海洋共和国の経済が好景気を迎えたのも道理である。大量の民族の移動が起きていたのだから・・。それにテンプル騎士団は彼ら巡礼者を守る為のボランティアから誕生している。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)第2回目の十字軍(second Crusade)1144年12月、最初に得た最も大きいエデッサ伯領の陥落を受けたからだ。キリスト教国は激しく同様。当然そこにはローマ教皇の要請が再び出たであろう。が、それよりもインパクトがあったのがクレルヴォーの修道士ベルナール(Bernardus)(1090年~1153年)による「再度聖地へ」と言う十字軍勧誘の演説が各地で行われた事だ。※ シトー会出身のベルナールは後に聖人認定されて聖ベルナールとなる。また彼はテンプル騎士団設立に強く貢献している。テンプル騎士の白装束はシトー会の衣なのである。※ 教皇庁の聖人の認定について書いています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂福者については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で列福者を紹介しています。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)この歴史的にも有名な演説効果は大きく、実際ものすごい数の戦士も集まったが、肝心のsecond Crusade自体はことごとく途中の経路で失敗して終わっている。当然であるが、負け戦が始まり、聖地から十字軍兵士等が追い出されれば、聖地での需要は減る。共和国側の特需も激減して行く事になる。ヴェネツィア(Venezia)の街大運河(キャナル・グランデ)入り口 右岸 サンマルコ広場側ここが共和国時代のヴェネツィアの表玄関である。左 サンマルコの 鐘楼(Campanile di San Marco) 右 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)下 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の後方に連なっているのがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 見えているのは堂の右側面上下共にドゥカーレ宮殿の回廊からヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)Piazza San Marco verso la Basilica 1735年※ 海は尖塔の右方面。尖塔の後方にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)が見切れている。広場前にはエジプト産の花崗岩の円柱が立ち、その上にはヴェネツィアの守護聖人が乗っている広場の名前にもなっているサンマルコ(Piazza San Marco)とはこの街の守護聖人、福音記者マルコ(San Marco Evangelista)であり、円柱の上にのっている有翼の獅子は聖マルコのアトリビュート(attribute)。すなわち象徴である。これを持ってヴェネツィアの街は聖マルコの加護の元にあると言う事を示している。聖マルコはキリスト教の四人の福音記者(聖書を記した人)の1人。828年、ヴェネツィア商人によってアレクサンドリアから聖マルコの聖遺物がヴェネツィアに運ばれ祀られる事になったと伝えられている。重さ3トン。長さ3m。かつては金色にペイントされていた。「有翼の金のライオン」がヴェネツィアをシンボリックに現す意匠となり、前回紹介したイタリア海軍旗などヴェネツィア共和国にかかわる所には絵なり、彫像なりが残されている。足下には福音書(Evangelium)。ヴェネツィアの最初の守護聖人であったアマセアの聖セオドア(Theodore of Amasea)踏みつけているのはドラゴンらしい。当時は海からしかアプローチできなかったので、サンマルコ広場の円柱は海からの玄関となる門柱として造られた。しかし、中世に門柱間に公開処刑の台が置かれた事からヴェネツィアの人々からは縁起の悪い場所となってしまったらしい。海からの写真が無いので広場側からサン・ジョルジョ・マッジョーレ (San Giorgio Maggiore)島島はほぼサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(Basilica di San Giorgio Maggiore)となっている。790年頃に最初の教会の建設が始まり、982年に島全体がベネディクト会に与えられ、修道院となっていたが1223年の地震で倒壊。新しい教会は1610年に完成。下はウィキメディアからかりました。鐘楼の上からの眺望です。奧に見える集落はジュデッカ (Giudecca)島です。修道院建築ですね。他の教会が派手なのと異なり、長らくベネデイクト会であるだけに地味らしい。ヴェネツィアはとにかく教会が多い。そしてたいていの教会には名画がかけられていたりする。ヴェネツィア派と呼ばれる著名な画家が多くこの街から誕生しているからね。こちらにはルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家の1人、ティントレット(Tintoretto)(1518年~1594年)「最後の晩餐」,「マナの天降」があるそうだ。昔見に行ってると思うが記憶にないな。ヴェネツィア(Venezia)の成り立ちヴェネツィア(Venezia)はアドリア海の北に位置するヴェネタ潟(Laguna Veneta)と呼ばれる潟(かた)の中にある。アルプス山脈を分水嶺としてロンバルディア平原を通りアドリア海に注ぐポー川(Po River)が土砂を運びデルタ(Delta)を形成。それは潮流とぶつかり徐々に潟(かた)が形成。最後の氷河期が終わった6000年ほど前から水位が上がり閉じられた要塞のような潟(かた)を形成した。こうしたデルタの潟(かた)はどこの都市にもあった。通常なら潟(かた)自体を埋め立ててしまうものだが、ヴェネツィアでは歴史がそれを許さなかった?水の都と呼ばれるヴェネツィアの街を維持する事に努力がされてきたようだ。それは最盛期のヴェネツィアの繁栄に欠かせない要素であったと同時にその栄光の歴史を留めておきたかったからだろう。※ 現在は観光と言う目的が一番だろうが・・。ヴェネタ潟の衛星画像 ウィキメディアからかりました。潟(かた)の中に点在する島々。118の小さな島々からなっている。本土から4km。海から2kmの潟(かた)の島? 標高わずか2mのヴェネツィア(Venezia)の街がある。それは一応ヴェネト州(Veneto)の州都となっている。下のピンクがヴェネツィア(Venezia)の街と呼ばれる部分。ヴェネツィア(Venezia)の街は100の島、100を越える運河。400を越える橋でつなぎ止められてできている。それも、そもそもはわずかな砂州に丸太の杭を打って底上げしてできた張りぼての土台だ。位置的には西ローマ帝国の領域。ローマ時代には潟(かた)の近くにはローマ人の集落がありローマ貴族のヴィラ(別荘)が華麗に連なっていたと言う。※ 実際ラグーナ(トルチェッロ島近くの水中)から古代ローマ時代のヴィラの遺跡が発見されている。ローマ時代は今よりも水位も低かったらしい。ゲルマン民族の諸部族のローマ侵略が始まると、ここはローマ市民の避難所となって行ったと言う。476年、西ローマ帝国が解体されここは東ローマ(ビザンツ)帝国の属州扱いになっていた?568年頃、ローマ帝国自体の力が衰えはじめるとスカンディナヴィア半島を源郷とするゲルマン人のロンゴバルド(Longobardi)らが南下しヴェネツィア自体の侵略が始まる。※ ロンゴバルド(Longobardi)は、インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)ゲルマン語派(Germanic languages)の民族。いわゆる「蛮族」と呼ばれた人達です。元の住人であるローマ人? らは侵略者からのがれるべく潟(かた)や中の島に逃げた。ラグーナまで侵略される事はなかったので、彼らは先のように丸太で基礎を造り石灰でかためレンガを積み上げてそのままそこに住みついた。それはまるで海鳥の巣のようだったらしい。車内からの写真なので綺麗ではありませんが潟(かた)の一部です。こんな所に丸太で基礎を打ったのでしょう。トルチェッロ島 (Torcello)は潟(かた)の中でも人が定着した島としては最も古く当初は10世帯程。5世紀~6世紀頃から人口増加し、639年、アルティーノ(Altino)の司教がトルチェッロ島 (Torcello)に司教座聖堂を建立する頃は相当人口は増えていたらしい。人々の多くは漁と塩焼きをし、やがて塩の交易で成功を見せる。東ローマ(ビザンツ)帝国からは自治が認められ彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国とのつながりをより強化して安全を計ると共に697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として総督(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。811年頃、フランク族のカール王が進軍してきたが、彼らはそれを押さえた。しかし、それをきっかけに安全で新しい政治の中心となる都の必要性が生じラグーナの中に新たに街を建設。それが現在のヴェネツイア(Venezia)の街である。デフォルメされた地図ですが、解り易いかと・・。ピンクで囲ったのがサンマルコ寺院とドージェ宮のある中心地です。海との結婚で指輪を投げたのが紫で囲った海域と思われる。下はヴァチカン美術館から 中世のヴェネツィアを描いた図です。高台など無いのにこの鳥瞰図(ちょうかんず)ヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)The Entrance to the Grand Canal, Venice 1730年上下共にカナレット(Canaletto)で、ウィキメディアからかりました。最初の一枚。大運河(キャナル・グランデ)入り口と同じ場所です。左が税関ですね。Return of the Bucintoroto the Molo on Ascension Day 1729~32年波止場(molo)に戻る共和国元首(Doge)が乗った御座船(Bucintoroto)とタイトルされているが、これはまさにヴェネツィアと海との結婚の儀式を終えて元首と船がドゥカーレ宮殿に戻ってきた図である。海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 復活祭から40日後の木曜日、それはキリストの昇天日(Ascension Day),ヴェネト語で(Sensa)。共和国時代、毎年行われていた儀式がある。ヴェネツィアの繁栄はまさに海との賜(たまもの)。ヴェネツィアはアドリア海に指輪を投げ込み結婚をとりおこなった。ドゥカーレ宮殿前の波止場(molo)から共和国の元首(Doge)が乗ったブチェンタウロ(Bucintoroto)と呼ばれる特別の御座船が潟(かた)の出口を目指す。アドリア海との合流点がその場所だ。潟(かた)に住むヴェネツィア人にとって、潟(かた)は要塞そのもの。要塞の出口がまさにアドリア海へのゲートだからだ。※ 先に紹介したデフォルメの地図に場所示しました。ヴェネツィア共和国の元首が、海に金の指輪を投げ入れる。それは最初(1117年)教皇からヴェネツィアへの感謝として与えた指輪が発端らしい。ヴェネツィアはその指輪を自分のものとせず、海に与えたのだ。後にそれが海との結婚に変化していったらしい。「海よ、我は汝と結婚せり。真に、永遠に、汝が我がものであるように。」アドリア海が夫、花嫁はヴェネツィアの街自身。だからヴェネツィアはアドリア海の花嫁と呼ばれて来たのだ。アドリア海に敬意を表しつつ アドリア海と永遠に共生したいと願ったのだろう。センサの祭り(Festa della Sensa)と呼ばれるのは近年の事かと思われる。絵画のタイトルにそのような記述は付いていないので。ブチェンタウロ(Bucintoroto)と言う元首の船は金の装飾のついた特別仕様のガレー船である。過去に4隻建造されているらしい。元も豪華だったのが、1729年に処女航海に出たブチェンタウロ(Bucintoroto)で長さ34.80 mの喫水線船体。高さは7.31 m。40人以上の乗員に168人の漕ぎ手を必要としたと言う。※ 上のカナレットの絵画の製作年代から、画中の船がそれと思われる。これもまたヴェネツィア共和国を象徴するものらしく、ナポレオンの侵攻、そしてイタリア王国の樹立にあたって、最後のブチェンタウロ(Bucintoroto)は1798年に燃やされた。ヴェネツィア共和国の完全なる終焉だ。※ 2004年ブチェンタウロ財団が設立され2000万ユーロで1729年のブチェンタウロの再建がはじまったらしいが、資金不足で2016年9月中止されている。サンマルコ広場前の波止場(molo)からサン・ジョルジュ・マジョーレ(San Giorgio Maggiore)島とジュデッカ(Giudecca)島右が大運河(キャナル・グランデ)入り口大運河(Grand Canals)(手前)とドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区奧にジュデッカ運河(Giudecca Canals)とジュデッカ(Giudecca)島下 ジュデッカ(Giudecca)島ジュデッカ(Giudecca)島の奧左 サン・クレメンテ島(San Clemente)右 サッカ・セッソラ・ラグーナ(Sacca Sessola Laguna)海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)大運河(Grand Canals)(手前)とジュデッカ運河(Giudecca Canals)の間、ドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区の端にあるのがプンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)。隣接するのがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂大運河入リ口。サンマルコ広場前のこの場所は税関であり船の検問所があった場所。船舶は、サンマルコ前の海に錨を下ろし、海からの来訪者はここで検閲をまった。つまりここは海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)があった場所。実はこの場所はヴェネツィア初期に塩の倉庫があった場所。ヴェネツィアは塩の生成と販売で、当初成り上がった街。繁栄期のヴェネツィアでは需要の多さから、15世紀に海からの入国と陸からの入国で税関をわけている。陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )はリアルト橋近くのワイン河岸に置かれていた。1677年に行われたコンペにより1678年~1682年の間に新たな税関としてジュゼッペ・ベノーニ(Giuseppe Benoni)(1618年~1684年) のデザインで建築された。ジュゼッペ・ベノーニはバロック時代のイタリアの建築家。2006年に安藤忠雄 氏によりリノベーションがされている。2009年からフランスの実業家 フランソワ・アンリ・ピノー(François-Henri Pinault)(1962年~ ) 氏のプライベート・コレクションの美術館になっているようです。黄金の天球を支えるアトラス(Atlas)とその上に乗るのは運命の女神像。それ自体が風見鶏(Weathercock )となっている。スイス、イタリアの彫刻家バーナード・ファルコーニ(Bernardo Falconi)(1630年~1697年)製作。ヴェネツィアのパノラマ撮影はサンマルコ広場にあるヴェネツィアで一番高い鐘楼から360度パノラマで・・鐘楼に上るのに行列です。夏場は特に・・。下のサンマルコ広場中央にあるのが鐘楼です。美術館見学や土産を買いたい人、ゴンドラに乗りた人には時間無いかも。ヴェネツィアに来たら、確かにこれで街は一望出来るけど、美術館に行かないのは損です。ヴェネツィアはティッィアーノなどヴェネツィア派と言うジャンルがあるくらい絵画が秀逸です。ここでしか見られ無い持ち出しのできない大きな絵画もありアカデミア美術館は絶対必須です。島ではなく、潟(かた)の上の浮島のような街です。これら建物のあいだには無数に小さな運河が路地を形成しています写真下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接(接続)して海より奥側にサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) がある。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 内容については次回に・・。上の写真はサンマルコ広場(Piazza San Marco) からの撮影。下の写真では寺院は右下で見切れている。行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔。この時計塔は海の都ヴェネツィアにとって意味のある時計。これも説明は次回に。下は時計塔の尖塔部写真向こうの陸がイタリア本土です。ヴェネツィアの街と本土(メストレ地区)とを結んでいるのがリベルタ橋(Ponte della Libertà)。鉄道橋と併走しています。下はウィキメディアから借りてきたリベルタ橋(Ponte della Libertà)の写真です。全長3850m。ツアーではバスでこの橋を渡り、渡ったすぐ右の波止場? トロンケット・マーケット(Tronchetto Mercato)で船に乗り換えるそうです。サンマルコ広場(Piazza San Marco)一周です海洋共和国ついでにヴェネツィア観光も含めました。けっこう盛り沢山です。なかなかこのご時世、当分海外旅行など行けそうにありません。いつか行く時の参考にしてください。次回も続きますが・・。ところで、数日前にワクチンを打ちました。1回目なのに腫れて熱持って痛いし・・。翌日も翌々日も薬を飲み、集中力が保てず遅れた事申しわけありません。m(。-_-。)mス・スイマセーン2回目恐いな ブンッ!!(((>_<。≡。>_<)))ブンッ!! Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂 アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年07月17日
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back numberを追加しました。久しぶりに「アジアと欧州を結ぶ交易路」に戻ってきました。いよいよ本格的な交易に突入です。暗黒の中世で停滞した地中海での交易が復活の兆しを見せ始めた。と言うのが今回(前編)です。地中海の海運状況が活性化し出すと共にキリスト教徒の逆襲が始まるのです。そのイントロに気候の話しを入れました。「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「インド・ヨーロッパ語族」の民族移動についてすでに紹介している。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人4世紀以降にローマ帝国の国境は異民族の流入により動乱。また、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所でも「テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れるのである。気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?」とも書いているのだが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック近年、気候科学者と考古学者により、年輪による降雨と気温の測定から過去2500年間のヨーロッパの夏の気候が再構築されている。それによれば「ローマ時代、気候は主に湿度が高く暖かく、比較的安定。」していたそうだ。だが、ヨーロッパが寒くなり始めた頃、西ローマ帝国も衰退を始めていると言う。顕著な気候変動は300年程続いているそうで、どうも欧州の社会情勢の不安に比例しているようだ。リンク Climatic fluctuations in last 2,500 years linked to social upheavals寒さは飢餓誘発もしている? また気候変動が病気を蔓延させた? そもそも気候も現代以上に昔は極端だったらしい。データでは気候変動と歴史的事象に何らかの影響があるらしい事は解るが、原因と結果に関して即断はできないとしている。人が係わっているので歴史は単純ではないからだろう。もう一つ、気候科学者による研究で6600万年に遡る地球における気候変化がまとめられている。リンク High-fidelity record of Earth's climate history puts current changes in contextこちらでは、4つの特徴的な気候状態を示しながら古代北ヨーロッパでは北大西洋循環の減速により気候の激変をもたらしたらしい事もわかったそうだ。※ メキシコ湾から北上する暖流の影響か?もしかしたら? それが民族の大移動に影響を与えたのかも知れない。こちらの記事は個人的に非常に興味がわいた。気候データは深海盆地から高品質の堆積物コアを回収し、その中にいる微細なプランクトンの殻から読み取ったらしいが、そもそも起こる気候変動の原因は何にによるものか? も示されている。地球における気候変動は地球軌道の離心率に起因して起こる変動だったようだ。軌道変動とは・・地球が大陽の衛星として周回する時の描く軌道。地球自体の地軸(回転軸)の歳差運動と傾き。により起こる変動。軌道の離心率(orbital eccentricity)天体の軌道のパラメータ。軌道離心率は、この形がどれだけ円から離れているかを表す値円 e = 0楕円 0 < e < 1放物線 e = 1双曲線 e > 1※ 地球の軌道離心率は惑星間重力の相互作用により、長年の間にほぼ0から約0.05までの間を振れていて現在は約0.0167。国際協力によるデータ解析では、気候は太陽の周りの地球の軌道の変化に対応するリズミカルな変化を示していたそうだ。※ 地軸の傾きは21.5度~24.5度の間を定期的に変化。その周期は4.1万年。現在は23.4度。傾きが大きいほど季節差が大きくなると言う。地球が真円でなく、楕円で軌道をとっている事は知っていたが、そのわずかなブレが地球そのものの気候を大きく揺るがしていたと言う事実に改めて驚く。※ 3400万年(始新世時代)以前、世界の平均気温は現在より摂氏9度から14度も高かったと言うが2300年にはさらに地球が過去5000万年で見たことのない気温のレベルに引き上がるシナリオらしい。それらを鑑(かんが)みると、ローマ帝国の衰退がパンデミックと地震に加えて、新たに気候の低下があげられたのではないか? と言う推察も加わる。北海及び地中海でも起きていた蛮族の海賊行為。これは人口増加ではなく、地球のかなり広範囲に気象の問題による食糧不足が起きていたのではないか? と新たな考えに及ぶ。それ故、地球規模での民族の大移動が起きた? と、考察もできる。ふと、アゲハの幼虫の事を思い出した。以前ベランダのレモンの木にアゲハの幼虫が大量に発生しレモンの葉が枯渇した事がある。その瞬間、幼虫達は同時に木を飛び降りて放射状に散った。そのレモンの木に見切りをつけて次の木を探す為の行動は信じられ無いほど早かったのだ。※ それにしても、どうして彼らは同時に最後の葉が無くなった瞬間を知ったのだろう? と、疑問が・・。因みに、諦めた者はまだ小さいのに変態を始めた。※ 保護した大多数の幼虫は庭に山椒の木がある友人に引き取ってもらいました。話しを戻すと、北欧にいたゲルマン人らの移動は、そんな切羽詰まった危機的状況であったのかもしれない。と、思ったのだ。少しは核心に近づいてきたか? さて、今回は海洋都市による交易の話しである。民族移動による激動の混乱期ではあるが、それでも人は生活している。中世期の地中海も北海も危険な海に代わりはなかったが、危険でも貿易にいそしんだ人々がいた。その先陣を切ったのがイタリア半島の港湾都市。前回、アマルフィで少し触れたがイタリアには隆盛(りゅうせい)を極める海洋都市(共和国)が複数誕生し、イスラムの海賊に負けじと交易を続けたのである。※ 彼らの行動は欧州を越え、もっと遠い海の先にも繋げる事になる。しかし、隆盛を極めたそれら都市国家もナポレオンの侵攻。そしてイタリア王国の樹立により終焉する。今回その中の幾つかの交易図から紹介。純粋に? 通商で栄えた? 共和国と、十字軍遠征と言う欧州の一大イベントの中でボロ儲けし繁栄した共和国を紹介。写真は最も長きに渡り繁栄したアドリア海の共和国、ラグーサ(現クロアチア)とヴェネツィアから。全2回くらいの予定。アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)地球軌道の離心率に起因する気候変動と民族移動交易の復活と海洋共和国(Marine Republics)海洋共和国アンコーナ(Ancona)の交易先古代紫の生産地海洋共和国ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)ドゥブロヴニク(Dubrovnik)海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先十字軍遠征に対するジェノバの功績海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進ヴェネツィアのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)クロアチア、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)旧港交易の復活と海洋共和国(Marine Republics)繁栄期のローマ帝国で行われていたのは広域な経済圏(economic bloc)での物流。それは驚く程現在の物流に近い完成された物であった。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易」で紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易 しかし、ローマの平和の時代、パクス・ロマーナ(Pax Romana)以降の欧州の状況は、蛮族の流入により酷い有様。476年、西ローマ帝国が解体されると西ローマ帝国領は蛮族の移民に浸食される。さらに本家東ローマ帝国の国力低下により地中海も海賊で危険極まりない海となり、おいそれと海上交易もできない混沌の世界になっていた。※ それは陸路も同じ。かつての秩序は完全に失われ荒廃。冒頭紹介した気候変動? による民族の大移動が重なり中世初期から中期は世界的な動乱期にあったのだ。だが、そんな危険な世の中にあっても、9~10世紀頃になると地中海沿岸に沿って商業ルートを開拓。中世初期に中断された欧州、アフリカ中東の諸都市と交易する港湾都市がイタリア半島の中に複数出現する。彼らは自国防衛と地中海域の航海の安全の為に艦隊を保持。ハブとなる港湾のネットワークを造るなど、広範囲な交易の為のサポート体制を構築して海に出た。各港湾都市の取引先は様々。商人はアラブ人に占領されている敵国とも交易を始めていたし、戦いの前線基地への武器食糧の補給も担った。それ故、取り扱う交易品は都市毎に差別化があったのでは? と思われる。例えるなら、これら海洋共和国は現代の総合商社だ。かつてのローマ帝国には及ばない狭域な経済圏ではあるが、途絶えていた? 東洋との交易も再び活発化してきたのは明るい兆しであった。Map and coats of arms of the maritime republics 海洋共和国の地図と紋章ウィキメディアから借りました。当時隆盛を極めた海洋共和国の位置を、その紋章で示したものです。※ アマルフィ(Amalfi)はカンパニア州の旗章になっています。なぜ?前回紹介しているアマルフィ(Amalfi)もその一つでイスラムのイタリア上陸を阻(はば)んだアマルフィ(Amalfi)は海洋共和国(Marine Republics)として成長し11世紀頃に全盛期を迎える。同じくイタリアを代表とする海洋共和国として台頭してきたのがヴェネツィア、ジェノバ、ピサ、ラグーサなどだ。 11世紀頃にどこも全盛期を迎えたのは十字軍の遠征と言う大イベントの特需があったからだ。イタリア海軍旗はかつて隆盛を極めた4つの海洋共和国(Marine Republics)をリスペクト? その紋章が今も使用されている。上もウィキメディアからですが、説明を略す為に中に都市名を明記しました。アマルフィとピサは十字軍に起因した図案と思われる。それら海洋都市の特徴は商取引が主流な事からどこも商人階級が力を持った特殊な統治システムを持っていた。それは必然から生まれた産物だったと思われる。これら都市は共和制をとっていたので海洋共和国(Marine Republics)と言うのが本来の言い方だ。都市単位の小さな共和国だから? 関連本では「海洋都市国家」として紹介されている。悪く無い表現であるが、交易に特化した「通商港湾都市国家」のが正解かも海洋共和国(Marine Republics)盛衰グラフです。(ウキペディアから)主要な海洋共和国の始まりと終わりが確認しやすい図なのでのせました。歴史の古いのがアマルフィ(Amalfi),ガエタ(Gaeta),ヴェニス(Venice)※ 表に合わせました。イタリア表記ではヴェネツィア(Venezia)中期に消えたアンコーナ(Ancona)、ピサ(Pisa)近年まで残ったのが、ヴェニス(Venice),ジェノバ(Genoa),ラグーサ(Ragusa),ノリ(Noli)それぞれの共和国の交易先とルートは本来別々に全部紹介したいくらい興味があるが、ポイントを絞ってピックアップしました。海洋共和国アンコーナ(Ancona)の交易先地図の元はウィキメディアから借りて、さらに解り易いよう都市名など大きく入れて編集しました。 アンコーナ(Ancona)が通商で繁栄するのは11世紀頃から16世紀遡る事、BC390年頃アンコーナ(Ancona)はシラクサの植民都市として古代紫の染料を造っていた。位置的にはヴェネツィア共和国の少し南位にありヴェネツィアとはライバル同士。アドリア海対岸の現クロアチア一帯のダルマチア(Dalmacija)地方のラグーザ共和国とは同盟を持っていた。交易港は他に比べると多くはないが、主要都市は抑えている。メインの交易相手は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)でコンスタンティノポリスへの出入りばかりか黒海内のコスタンザ(Costanza)やトラブゾン(Trabzon)などの交易都市にまで及んでいる。そのトラブゾン(Trabzon)はペルシアやメソポタミアへの通商路の基点として古来から重要な都市であり、これはペルシャのみならずその向こうのインドあるいは東洋からの品の仕入れであった事がうかがえる。※ 後にビザンツ皇帝が亡命した時、トレビゾンド帝国(Empire of Trebizond)を樹立している。また、宗教的にも敵対するイスラムとも外交関係を持ちパレスチナやエジプトのアレクサンドリア(Alexandria)も交易相手とした。これは全ての海洋都市に言えるのだが、切れない需要があったからだろう。シリア・パレスチナ、エジプトとの交易では没薬(もつやく)や乳香(にゅうこう)などの香油の輸入はキリスト教国にとって必要不可欠な品だから・・。先に存在していたアマルフィ共和国(Repubblica di Amalfi)もアンコーナ(Ancona)とほぼ同じ交易先を持っていたが、その違いはアマルフィが半島のティレニア海側にありフランク王国やイベリア半島にまで交易を伸ばしていたのと対象にアドリア海側のアンコーナは東方面に力を入れていた。またアンコーナと同盟していたラグーサ(Ragusa)はバルカン半島を横断する陸路で黒海に至るルートも持っていた。また両者の取引は北海側のフランドルにまで及んでいる。フランドルの毛織物のタペストリーやブラバントのリンネルは13~14世紀から需要を増していた。古代紫の生産地ところで、先に紹介したアンコーナ(Ancona)の古代紫の染料は王者の紫(Royal purple)と呼ばれローマ帝国時代、使用できる者が限られていたカラーである。日本においても、紫は高位の色。わずかしか採取できない染料は非常に高価な品であったと同時に乱獲で減少。その為にRoyal color 自体が紫から青(Blue)に変遷したらしい。軟体動物門腹足綱アクキガイ科の貝の鰓下腺(さいかせん)から分泌される粘液から採取。貝はシリアツブリガイ(Bolinus brandaris)が使用されていたらしい。下は参考にウィキメディアから借りてきました。どのサイトでも使用されている唯一の写真です下もウィキメディアからですが、ウィーン自然史博物館の展示で示された貝別のカラー見本のようです。フェニキア人は貝が生きている時の分泌物から染料を造る技法を持っていたのではないか? と思うのです。死滅させて採取するようになったから激減したのでは?古代紫の染料はBC1600年頃に遡ると言われるフェニキア人の交易品の一つで、彼らの本拠、シリアのテュロス(Tyros)の街から出荷されたのでテュリアン・パープル(Tyrian purple)と呼ばれていた。当然その製法は企業秘密であったから、もともとフェニキア人が古代紫の染料を造っていた? 養殖していた? 彼らの土地をギリシャが奪い取った可能性も考えられる。そのフェニキア人の街テュロス(Tyros)はマケドニア王のアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)によるペルシャ遠征の折(BC332)にひどい滅ぼされ方をしている。以前テュロス(Tyros)の街については、「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の中「フェニキアとアレクサンドロス王との攻防」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン アンコーナ(Ancona)はユリウス・カエサルがルビコン川を横断した(BC49年)頃に古代ローマの属州になり、また西ローマの時代には教皇領に含まれているので古代紫故に教皇庁御用達? になったのかもしれない。※ ルビコン川(Rubicon river)は現在ヴェネツィアとアンコーナの中間リミニ(Rimini)の街10kmほど北でアドリア海に注いでいる。(非常に小さな川なのでかなり拡大しないと地図上に表記されない。)古代紫と言う地場産業を持っていた事がアンコーナ(Ancona)を生き残らせたのは間違いなさそう。通商港になるのは古代紫の染料の出荷元としてテュロス(Tyros)が滅ぼされた時にすでに始まっていた?フェニキアの取引先が直接アンコーナの顧客に変わったのかもしれない。上の図でもかつてテュロス(Tyros)のあったパレスチナを結んでいる。そんなアンコーナは12世紀からイタリアで教皇派と皇帝派の衝突が始まると教皇派についたので皇帝軍やヴェネツィア軍と戦うことなる。アンコーナの海軍は十字軍の遠征でも利用されるくらい強かったからヴェネツィアに負けることはなかったが、1532年、アンコーナは教皇領に併合され終焉している。海洋共和国ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)アンコーナ(Ancona)の写真はありませんが、ラグーザ(Ragusa)の城壁の写真がありました。同じアドリア海の真珠と称されながら、ヴェネチアとは全く趣の違う港です。アドリア海東岸の現クロアチアのドゥブロヴニク(Dubrovnik)はクロアチア語。イタリア語でラグーサ(Ragusa)。つまりここがかつてのラグーサ共和国です。※ 隣接するボスニア・ヘルツェゴビナの政情から現在はクロアチアでも飛地扱いになっているようです。旧市街を囲む城壁下は聖イヴァン(Sveti Ivan)要塞 1346年建設聖イヴァン要塞は現在海洋博物館となっている。1979年「ドブロヴニク旧市街(Old City of Dubrovnik)」として世界文化遺産に登録されている。現在はクルーズ船の寄港地としても人気。中世のラグーサ共和国は紋章にこそ入らなかったが、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアと共に5代海洋共和国の一つに入っていた。エーゲ海(Agean Sea)のキオス(Chios)島は要塞の補給の為の寄港地。クレタ島も同じく十字軍時代は要塞となっていた。先に触れたが、アンコーナ(Ancona)とは同盟関係。どの海洋共和国もコンスタンチノポリス(Constantinopoli)とアレキサンドリア(Alexandria )は寄港地がかぶる。ぱっと見、イタリア半島とバルカンに、ほぼ特化している。ラグーサ(Ragusa)の歴史はギリシャの時代に遡るようだ。当初は船舶寄港地、ハブ港的な始まり? それに適した地理と環境を有していたらしい。ローマ帝国時代、特に東ローマ(ビザンチン)帝国の時代にその保護下で飛躍している。それは十字軍による特需と思われる。しかし、アナトリアは帝都コンスタンティノポリスを除けば船舶寄港地としてしか利用していないし、パレスチナにも全く入っていない。後のジェノバでまた触れるが、パレスチナ湾岸の十字軍の主要港の利権はラグーサには無かったのだろう。地理的にアドリア海から黒海に至るバルカン(Balkans)のアドリア海南位にある為、東ローマ(ビザンチン)帝国領の勢力次第で、めまぐるしく支配者が交替しているのも特徴である。1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国の帝都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落。交易事情は大きく変わる。※ コンスタンティノポリスと取引していた海洋共和国の事情は変わる。ジェノバとヴェネツィアの取引状況などについては次回に載せます。ラグーサは15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎える。オスマン帝国との取引に成功していた? のかもしれない。それでもボスフォラス海峡が以前のように通れなくなり黒海に入れ無いと言う事はシルクロードで運ばれる東洋の物産も手に入らなくなる。西側諸国にとってコンスタンティノポリスを経由しない新たなルート開拓が急務となった。それが結果として大航海時代を迎える大きな要因となったのだ。地中海には未だヨハネ騎士団の要塞も残ってはいたが、すでに十字軍の特需も無くなっていたはず。アドリア海の交易不振は急速に進んだのだろうと思われる。最も、ラグーサの衰退は地震の頻発が原因らしい。1667年に壊滅的な地震が発生。最終的にはナポレオンの侵攻により、イタリア王国に組み込まれ終焉。ドゥブロヴニク(Dubrovnik)そこには中世オスマン軍からの防衛の為に建設された城壁が街を囲って残っています。同じアドリア海のヴェネツィアとはライバル。実はヴェネツィアより少し長く生き残った。プラッツァ通りからの左がSponza Palaceオノフリオの噴水 (Onofrio's Fountain)ナポリ出身のイタリア人建築家Onofrio di Giordano della Cavaにより1435年から1442年にかけて建設した上水道設備です。2km離れた泉(Knežica spring)からの水道で、この上水道は19世紀の終わりまで使用された。16面の水道口にはそれぞれ石の彫り物が・・。地震で壊れる前は全面に装飾があったらしい。上は2面を重ねて表示した写真です。城壁は周囲約1900m。厚さ5m、高さ20m。最初に造られたのは7世紀とされるが現在見られる主要部分は12世紀から17世紀のものらしい。「中世の趣があって良いね」と思って観光する人が多いのだろうが、よくよく考えればここは要塞都市。生きる事に必死であったからこその街なのである。その重みを感じながら巡ってほしいですね。海洋共和国ジェノバ(Genoa)と交易先中世後期には、海洋交易で他より抜きん出たジェノバの成功は地中海と黒海の一等地に植民地を持つ事ができたからである。それは教皇の指示、あるいはエルサレム国王ボードゥアン1世により特別な配慮があり、独占的に良い場所を提供してもらえたからだ。つまりジェノバは第一回目の十字軍遠征の時に大きく貢献して利権を得る事に成功したのである。ちょっと想像以上ですヴェニスとジェノバ、両者、甲乙付けがたい規模の展開です。上の地図は第一回十字軍出発の1096年8月からエルサレム陥落1099年7月までの間に十字軍が陥落させて開いた十字軍国家が含まれている。トリポリは第一回十字軍の遠征で貢献したトゥールズ伯レイモン(Raymond IV de Toulouse)が開いたトリポリ伯領と思われる。そんな十字軍派遣の副産物国家がウトラメール(Outremer)である。エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国の四つをさす。※ ウトラメールについては以下に書いています。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)ところで、十字軍は、聖地を奪還したから終わったわけではない。イスラムの中の飛地であるエルサレムに人や物資を運ぶ為の交易路や港、巡礼路を確保する為の戦いが陥落後に新たに始まったのである。だから後続部隊が進軍しているのだ。海洋共和国の商機(しょうき)はそこに生まれた。ジェノバやヴェネツィアはそれら十字軍関連の物資や人を運ぶ利権を独占的に占有していたと思われる。上の図で見るのはまさに十字軍の恩恵による地中海交易の販図のようだ。エルサレムより離れたトリポリ港はエルサレムを陥落した後に開かれている。敢えて北アフリカの船舶の寄港地として開かれた港街だったのだろう。位置的に・・※ 十字軍の説明を次回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13」の中「キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)」に加えました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リグリア海(Ligurian Sea)に面した港湾都市ジェノバ共和国(Repubblica di Genova)とピサ共和国 (Repubblica di Pisa)リグーリア州の州都ジェノバ(Genova)リグーリア州ポルトヴェーネレ(Portovenere)トスカーナ州ピサ(Pisa)ピサとジェノヴァは1060年に戦争してピサが勝利。当初ライバルなので仲は悪かったが、ジェノバ(Genoa)の発展はピサと組み、1016年サルデーニャをイスラムから防衛した事に始まる。ポルトヴェーネレ(Portovenere)はジェノバがピサとの境に造った要塞都市参考の為下の写真3枚はウィキペディアから借りてきました。南フランスのニースから続くリヴィエラ(Riviera)海岸のイタリア領内がリグーリア(Riviera)海岸と呼ばれる。イタリアン・リヴィエラ( Italian Riviera)らしい。フランスのリヴィエラは高級だが、こちらは庶民的?ウィキペディアからです。Portovenere, Cinque Terre, and the Islands (Palmaria, Tino and Tinetto)1997年世界文化遺産に登録されている。ドリア城(Castello Doria) ウィキペディアからです。現在の城は、1161年に古代の建造物の遺跡の上に建設。時代で銃器の変化など要塞の形もだいぶ変更されているらしいが、ジェノバの要塞建設の典型らしい。十字軍遠征に対するジェノバの功績さらに、1087年には、ジェノヴァとピサに加えてアマルフィ、サレルノ、ガエタの連合軍でローマ教皇の指示の元、北アフリカ(現チュニジア)を占領していたズィール朝の首都マフディーヤ (Mahdia)を攻撃。つまり、地中海を荒らしていたサラセンや、イスラム正規軍の進出をイタリアの小国の連合艦隊が一矢報いた戦いがマフデイーヤ攻撃であった。マフディーヤの戦いでは、完全占有の持続はできなかったが、湾内のアラブの艦船を焼き払って逃げた。このアラブ艦隊の壊滅が西地中海にしばしの安全を与え、1096年から始まる聖地奪還の戦いにおいて海からの十字軍の遠征において役に立ったのである。強い海軍力を保持できるようになった事がそもそもの発展の起源になる。第一次十字軍では、ジェノヴァ人口約10000人のうち、1200人のジェノヴァ人が十字軍に参加し、12隻のガレー船で海から聖地に向かった。と言う。ジェノバには先見の明(せんけんのめい)があったね※ 第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。公式の第一次十字軍によるエルサレム陥落は1099年7月13日夜半。それに先がけ1099年6月7日,エルサレム攻防が始まるのだが、水も食糧もなく兵士らは飢餓に苦しみ人も馬も死に始めていた。※ 城外の井戸水は毒が入れられ使用できなかったようだ。そんな時にジェノバのグリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)(1040年~1102年)が指揮するガレー船が聖地に近いヤッファ(Jaffa)に上陸し、十字軍兵士らの命を救ったのである。※ ヤッファ(Jaffa)は現在イスラエルのテルアビブ(Tel Aviv)さらにエンブリアコ(Embriaco)は8月12日のアスカロンの戦いで200人から300人の兵士と共に海軍部隊を指揮して貢献。エンブリアコは総司教やゴドフロア・ド・ブイヨンの手紙を持って一旦帰郷。12月にジェノバ到着。※ ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)(1060年頃~1100年)は初代エルサレ首長。彼は王の称号を拒んだ。聖地にはもっと兵士が必要であるとエンブリアコ(Embriaco)は進言。翌年1100年8月1日に、新たな教皇特使オスティアの枢機卿を乗せ、ガレー船(26隻? )と貨物船(4隻~6隻)と共に3000人~4000人の兵士を乗せて再び聖地に向かう。※ 1100年7月に初代首長ゴドフロワ・ド・ブイヨンは亡くなり次代の王は弟のボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)が継いでいた。彼は元エデッサ伯。それもまた十字軍遠征の副産物国家ウトラメール(Outremer)の一つだ。聖地では越冬してボードゥアン1世と共にサラセンの海賊と戦いながら近隣の港の陥落に力を貸した模様。その戦利品の1/3を受け取っている。さらに1000人程のアラブ商人を人質にし、ジェノバは彼らから多くの身代金も受け取っている。また、聖地に至る現ヨルダン西岸にヤッファ(Jaffa)、アンティオキア(Antiochia)含めて3カ所の港をヴェネチアより先駆けて獲得。それは後にサラディンにより失われるが、当時の交易港として大きな特権である。帰途、エンブリアコはガリラヤ王子のタンクレードと条約を結ぶ。またコンスタンティノープルに大使を送る手配をして帰国。1102年2月エンブリアコは執政官に選出されたと言うが、その年に亡くなっている。エンブリアコの活躍のおかげで以降もジェノバはエルサレム王国と教皇に力を貸す形で発展し、報酬として独占権や植民地を与えられると言う恩恵を受けて中世発展していくのである。先に紹介したラグーサとは全く異なるのです。ジェノバ(Genoa)は写真が無いので「1481年のジェノアの鳥瞰図」と言う絵画からイタリア版のウィキメディアからかりてきた写真の色調補正をしました。原本はワニスで黄色に変色しすぎていたので・・。ガラタ博物館蔵海洋共和国ジェノバ(Genoa)の快進1255年、クリミア半島のカッファに植民地を建設。1261年、スミルナがジェノヴァ領となる。 ジェノヴァ人はソルディア、ケルコ、ツェンバロに植民地を建設。1275年、東ローマ(ビザンツ)帝国によりにキオス島とサモス島が与えられる。(エーゲ海の寄港地)1316年~1332年、黒海沿岸のラ・ターナ、サムスンに植民地を建設。1355年、レスボス島が与えられる。14世紀後半、黒海沿岸のサマストリに植民地建設。キプロス島が与えられる。また、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリスのガラタ地区と黒海の通商都市トレビゾンド帝国のに居住区が与えられた。ここのポイントはメソポタミア、インド、中国など東西交易路の拠点トレビゾンド帝国(Trapezuntine Empire )(1204年 ~1461年)を押さえた事だ。没落の始まりは15世紀にオスマン帝国の台頭。そして1453年5月、コンスタンチノポリスの陥落。ジェノヴァ共和国領の大半が奪われ、1797年に共和国が消滅。残ったのは現リグーリア地方だけだったそうだ。それでも港湾都市ジェノヴァ(Genova)は現在もイタリア最大の港であり、マルセイユ、バルセロナと並ぶ地中海域ではトップクラスの港である。観光で寄る所ではないが・・。ところで、ジェノバ出身の有名人に探検家のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)がいる。彼はタイミングが悪かった。ジェノバ没落後でなかったら、彼はジェノバから航海に出ていただろう。※ クリストファー・コロンブスについてはお墓を紹介しています。リンク スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)ヴェネツィァのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)ヴェネツィアで、毎年9月第一週の日曜日に開催されていたレガッタ(regata)祭り。正式にはレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)「歴史的なレース」と呼ぶらしい。かつて海洋共和国として交易で地中海域で最も繁栄を見せていたヴェネツィアの栄光の時代を再現する時代祭りである。起源は15世紀末にさかのぼると言うものを近年復興させたもの。 最も今回の写真は数十年前、まだカメラの時代に撮影したものをスキャナーで読み取りしたものなので解像度も画像も今一つ。無いよりましか? と載せました。実際ものすごい混雑で、写真撮影ができる状況ではないのをやっと潜り込んでリアルト橋 (Ponte di Rialto)の所で数枚撮影したもの。本当にF1(エフワン)観戦のように行ってもほとんど見えません。下はヴェツィアの元首を載せたパレード船。時代コスプレが当時を偲ばせます。時代パレードと実際のボートレースが行われます。9月第一週の日曜日がくせもので、毎年リド島で行われているヴェネチア国際映画祭と日が被っていたのです。8月のイタリアはホテルが押さえにくく、やっと取れた9月がたまたま重なった偶然です。しかし、レガッタが頭に無かったので、キャナル沿いのホテルをキャンセルして系列のリド島に変更していたので上からの撮影もできなかった。今思えば惜しい事でした。次回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13」では海洋共和国ヴェネツィアを予定しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia) アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年06月19日
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夜景の写真追加しました。どうしても今回で終わらせたくて写真を50枚ほど入れ込みました(;^_^Aこれで行かなくとも、行った気になれると思います。修道士とは、英語でmonk 、ラテン語でmonachus。語源は「独身」に由来し、「独身で暮らすとか、 生きる。」と言う意味から発したそうだ。つまり当初は、人々から離れて生きる世捨て人的な隠遁者(いんとんしゃ)的イメージだったのだろう。修道制の起源は欧州に先立ち、3世紀のエジプトで共同生活を始めた聖パコミウス(Pachomius)(292年?~346年?)に始まるらしい。彼はルール(規則)を作り当初は主の祈りから、共同体が発展するにつれ、規則は聖書から取られた教訓で作り上げられ、個人の能力に合わせて調整されていたので極端な禁欲主義ではなく、祈りと仕事、共同生活と孤独のバランスをとることを目指した修道制を敷いている。欧州修道制の父、聖ベネディクトゥスの制度に似ている? のではない。聖パコミウスのルールはラテン語に翻訳され、それを後にモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)で開いた修道会(529年)の規則にベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)が組み込んでいるのだ。パコミオスが死ぬまでに、8つの修道院と数百人の僧侶が彼の指導に従いエジプトからパレスチナ、ユダヤ、シリア、北アフリカ、最終的には西ヨーロッパに伝わるのである。つまり、聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)には、お手本があったと言う事だ。ところで、キリスト教の公認された当時でさえ、キリストの福音に従い真剣に神を探求して親兄弟と別れ、結婚もせず世俗を棄て、自己の信仰のみに生きた人達は文化に逆らう極端な個人主義者として、意外にも変人扱いされ嫌われていたらしい。しかし、聖ベネディクトゥスの戒律の元に彼らが集団で規則正しい共同生活を始める頃、世俗を棄て神の元に近づこうとする彼らは隠修士から修道士になった。※ 当初はベネディクト会の戒律にのっとって修道生活をする者(ベネディクト会、クリュニー会、シトー会、カルトゥジオ会)に対して用いられるものであり、司教座聖堂参事会員など司祭らは別であったし、後に現れる托鉢修道会士(ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会)は修道士とは認められていなかったらしい。だが、聖ベネディクトゥスが戒律を造って整備した修道院での修道士の育成により、修道士の社会的地位は上ったと言える。なぜなら、戒律には地域への奉仕も職務として入っているので必然的に地域の人々と接触し、時に師となり助けとなる彼らは隠遁者ではなくなったからだ。実際、彼らの活動で中世の人々はかなり救われたはず。また、そんな彼らを援助する事で徳が得られると考えられ、王族始め諸侯らはこぞって領地を寄進したから富める所は富めた。領地が寄進されれば、領地からの収益が確保できる。教会や修道院にも貧富の差が生まれたのである。ところで、中世においては全ての者が好んで修道士になったわけでもなかった。前に騎士の所で紹介しているが、家督相続の問題により僧になるしかなかった者もたくさんいたからだ。南フランスでは財産は子に均等に相続されたが、北フランス、イングランド、ドイツでは長子のみが総取りの「長子相続」と言う制度がとられていた。だから家督を継げなかった次男坊以下が多くが騎士や聖職の道に進んでいる。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部修道士城塞化聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)難攻不落の修道院石工mason(メイスン)屋根修道院建築(monastic architecture)交差ヴォールト(Groin vault)聖堂、食堂、貴賓室、騎士の間礼拝堂、地下クリプト城塞化前回、ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)の肝入リで966年、ベネディクト会派の修道院をモンサンミッシェルに招聘(しょうへい)した事を紹介。それ故、モンサンミッシェルにはノルマンディー公や他の諸侯から寄進された広大な領地を持っていた。※ この修道院は本土側に広大な領地を持ていて、その富強ぶりは世俗の領主と変わらなかったと言う。修道院は領主所領であり、大修道院長は領主でもあったのだ。モンサンミッシェルは、どちらかと言えば裕福な修道院であったので、修道院の警備の為に防備が強化され、警護の兵隊(騎士)も置かれていた。時代は北欧からのゲルマン人の襲来で乱れていた時代で、海賊となったノルマン人は金品目的で村々の修道院を襲っていたから防衛設備が整えられたのは不思議ではない。しかし、海と絶壁に加え、驚異の干満差を誇るこの小山の修道院は当初から攻めにくかったのは確か。海上の岩島に位置していると言う地の利を生かして修道院を中心に島全体を城壁で囲んでいる。もともと海と絶壁に囲まれ、道は干潮時にだけ現れる砂州だけと言う天然の要塞でもあったが、本格的に城塞化したのは13世紀らしい。13世紀と言う時代は十字軍の時代であり、修道騎士が活躍していた時代である。※ 彼らは修道院付きの職業を騎士とする身分。故に正確には彼らは僧では無い。聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)ここモンサンミッシェルでも1469年、ルイ11世(Louis XI)(1423年~1483年)により聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)が創設されている。王政の権威を打ち出す為に創設されたと言われているが、プランタジネット家エドワード3世が創設したガーター騎士団(Knights of the Garter)(1348年)と以前紹介した事があるブルゴーニュ公国で創設された金羊毛騎士団(Toison d'or)(1430年)が意識され対抗して造られた騎士団だと言われている。※ ガーター騎士団が百年戦争(1339年~1453年)中に設立されているのに対して、聖ミッシェル騎士団は、百年戦争終結後に設立されている。因みに1450年にはデンマークのクリスチャン1世によりエレファント勲章勲騎士団( Knights of the Order of the Elephant)の前身が設立されているのでフランスでの騎士団の設立はかなり遅い。また、現在もガーター騎士団と金羊毛騎士団とエレファント勲章勲騎士団は勲章と共に存在している。聖ミッシェル騎士団は、騎士の王への忠誠を確認する事が目的でもありフランスで最高の騎士団であったが「王朝騎士団」の要素が強かった為にフランス革命後に一度廃止。王政復古で復活したが再び王政が倒れると1830年に公式に政府により廃止された。各国王族に残った中世からの騎士団であるが、王政廃止と共にフランスからは消えたのである。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠最初の防護壁はベネディクト会修道院を置いた時10世紀末にはすでに存在していたらしいが、本格的に城壁が築かれたのは13世紀末。14世紀末のピエール・ル・ロワ大修道院長の時に強化され城塞化を始めた。1417年には当初の城壁の大規模拡張が行われ、王の門(Porte du Roi)が置かれ村の通りは閉ざされた。王の門(Porte du Roi)王の騎士が守ったので王の門と呼ばれる。つり上げ式の架橋で門は閉じられる。百年戦争の時にイギリスが10年に渡って水陸からこの修道院を攻めたが難攻不落。陥落する事は無かったという。※ 百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)は1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張して争いが始まる。英プランタジネット家vs仏ヴァロワ家によるフランス王位争奪の戦いが本筋であったがフランス国内を戦場に、諸侯の領地争いもからみ長い戦いが始まった。この戦争では女戦士ジャンヌ=ダルク(Jehanne Darc)(1412年頃~1431年)も登場してフランス王シャルル7世の戴冠に貢献。百年戦争後にモンサンミッシェルはさらにパワーアップ。砲撃できるよう砲撃の際の死角を無くした稜堡(りょうほ)が組み込まれた建築は、伝統的な要塞建築の原型となる。稜堡(りょうほ)稜堡(りょうほ)は大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもの。位置的に本土と繋ぐ砂州が現れる位置にある。下は入口のコーナーにおかれていた物。石の玉?どうやって飛ばすのでしょうね?モン・サン・ミッシェルの裾のを取り囲む城壁には、中世期の要塞建築の全てが集約されていると言う。難攻不落の修道院何しろ先の百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)の時は、この辺り一帯をイギリス軍が占領していた。イギリス海峡(English Channel)をはさみ目と鼻の先の対岸がイギリスだ。その中で10年に渡りモンサンミッシェルは包囲されたが修道院長であり、ノルマンデイーの知事でもあったルイ・デストゥートヴィル(Louis d’Estouteville)(1400年頃~1464年)が断固として抗戦し死守した。食糧は船で運べたので籠城(ろうじょう)が可能だった?イギリス側も船で海から攻めたが、大天使ミカエルの加護(かご) ?「嵐が起きて多数の船が岩礁にたたきつけられ沈没した」と伝えられている。でも、岩礁はまわりに無い。干満の早さで船を持って行かれ沈没したか?船の精度も良くはなかったのだろうが、いずれにせよ、特殊な引き潮や満ち潮について(干満時間など)知識が無ければ近づいたとしても上陸前に溺れたのかもしれない。また、16世紀の宗教戦争の時もモンサンミッシェルはびくともしなかったと言う。だから「難攻不落」と言う称号はフランスにおいて象徴的な意義を持っていた。上が城壁の内側下が外側からの城壁銃眼(じゅうがん)が無数に備えられている。縦に長いのはボウガン用かも。船を持っていたとの記述は見ないが、ノルマン公国によるイングランド征服戦争の時は軍船6艘(そう)を兵隊付きで修道院が提供している。諸侯以上に裕福だったのかも。モンサンミッシェルの教会自体はこの小さな山の島に集約されているが、寄進された広大な領地は本土に持っていた。その領地では農民から年貢を取り立てていたのであるが、その取り立てはキツく世俗の領主以上に苛酷(かこく)であったと、非常に評判が悪かったそうだ。そもそも領地を持つ大聖堂や修道院はフランス革命の時に民衆の襲撃の対象になっていた。どこも酷かったのだろう。革命のどさくさに襲われ、フランスの修道院はほぼ解体された。だからフランス革命の時、ここモンサンミッシェルも農民が大挙して押し寄せ、事もあろうに、難攻不落を誇った要塞はあっさりと陥落したのである。そしてモンサンミッシェルの修道院はすぐに解体。革命政府の元で監獄として利用された。まず先に牢屋に入れられたのが、ここにいた修道士ら約300人だったと言うのだから、聖職者としては情けない最後である。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェルゴールデンブックシリーズの案内本から(地図は上層階から載せています。)※ 着色加工しています。上の写真と聖堂の向きが一致しています。紫・・僧坊ベージュ・・テラスピンク・・礼拝堂ブルー・・貯水槽上階テラスからの聖堂入り口 聖堂前の西側オープンテラスから1144年にノルマンディー・ロマネスク様式のラテン十字をした聖堂が建立。その後2世紀、ベネディクト会派の宗規により権勢を得、ロマネスクの聖堂は絶頂期を迎えた。その後13世紀に火災があったとされる。それが原因なのか?あるいはクリプト(いわゆる地下室)の強度に問題があったのか? 亀裂が生じたらしい。15世紀に前部(身廊一部)、と内陣を取り壊し1446年~1521年にフランボワイヤン・ゴシック様式で内陣を造営し再建している。それ故、既存のノルマンディー・ロマネスク様式と混在している。主要部だけ聖堂の名称を入れました。参考にしてね。聖堂内部側廊このあたりはロマスク様式。身廊内陣クワイヤ、アプス以降はゴシック様式アプス石工mason(メイスン)下は前回紹介したラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある回廊の柱の彫刻。これこそが石工mason(メイスン)の技術です。石工達は聖堂が完成すれば、次の聖堂建設の為に土地を移動。唯一土地に縛りの無いギルドでした。彼らは土地に関してfree lance(フリーランス)の職業集団だったのです。中世は、ドラクエみたいに一般人が生まれた土地を出て冒険するなんて事は簡単にできなかったのです。国を出るには、王なり、街の上層部の許可が必要であった。それなりの理由が必要。唯一出られたのが巡礼であったり、十字軍などの公式の遠征だったのではないでしょうか?ここ、モンサンミッシェルも聖ミカエルの巡礼コースに入っています。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある食堂屋根中世、早い時期の聖堂の屋根はたいてい木造であったそうです。本来、石の屋根の方が、火災の心配もないので理想。しかし石は高価だし、重いし、工事期間もかかる上に、重さで壁が外側に湾曲するからバットレス(控え壁)の必要も生じる。さらに材料費と専門職人の費用が発生するので経費が非常にかかったらしい。(大修道院教会の聖堂の内陣の壁はバットレス(控え壁)で支えられている。身廊の天井は木造。)中世、落雷による火災も多かったので、屋根に火が付けば大きな惨事となる。素早く屋根に上って消火活動ができるような隠し階段が壁の間に造られる事もあったと言う。木枠で組んだ屋根の骨に雨漏りしないように、鉛をシート状に薄くしたものを溶接して雨水がしみこまないようにしたなど工夫が。しかし、この屋根も高価なので、瓦や天然スレートが代用されたようです。(鉛は案外重いので、屋根の傾斜角度によってはくるくる巻いて落ちて来る事もあったとか。)修道院建築(monastic architecture)通常の教会であれば、聖堂と教父らの執務室や寝所くらいのところ、修道会では共同生活を営む修道士の為に大人数分の寝所、集会室、大食堂、大厨房など必要となる。また、修道院長室やVIPの為の応接室、客室も必要。規模が大きくなれば客室も多数用意されていた事だろう。時に身分の高い客人も来るのだから・・。また、勉強の為の大きな図書室、また写本の為の作業場など複数の施設が必要であったはずだ。そしてそれらは回廊で繋がれた構造になっている。修道院建築(monastic architecture)と言う修道会独特の建築スタイルがあるが、回廊は修道院の代名詞とも言える存在だ。スクエア型の中庭を回りが寝殿造りの回廊が繋ぐ、それら外側はたいてい建物で部屋が付随している。そこは完全なる修道僧だけが立ち入れる俗界とは隔てられた領域。つまり回廊自体が建築的な障壁として存在しているそうだ。そう言えば、最後の晩餐が描かれているミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)も複数のスクエア型した中庭で構成されていた。教会に付随する中庭の回廊は自由に見てまわれたが、最後の晩餐が描かれている食堂は僧院の中庭なのでガラスで仕切られ庭には出られないようになっていた。そこは俗人が立ち入れない領域だからなのか?入れたのは唯一、絵が描かれた元食堂の一室のみ。リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)でも、モンサンミッシェルは土地が無いから縦に積み重ねられた。食堂こそ回廊の脇にあるが、僧坊などは違う階層にある。ここは全てが例外的です。次は騎士の間と客間である。メルヴェイユ東棟、地階、修道士の食堂の下の階にある貴賓室(きひんしつ)天井はゴシックの交差ヴォールト食堂の階下にある客間は高貴な来客者用なので煖炉などの設備が整っている。この部屋は「修道院の友」と呼ばれる。いわゆる巨額な寄進をした王族や諸侯などの寄進者を迎え入れる為の部屋だったそうです。つまり聖王ルイしかり、歴代のフランスの王が滞在した部屋でもあると言う事です。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)下の写真は2つの煖炉。上の写真にも煖炉の跡が見えます。部屋を暖める目的以外に、暖炉で客人が自由に調理できる設備として造られた物らしい。非常にめずらしいもので、この修道院に暖炉があるのは他には次に紹介する騎士の間くらい。一般の修道僧達は寒い中生活していた。ノルマンデイーだし、石組みの堂だから夏は良いけど冬は恐ろしく冷えたであろう。だから彼らの寿命も短かったと聞く。交差ヴォールト(Groin vault)ヴォールトはアーチ状の石造り天井。建築技術が進んで来ると、バレル・ヴォールト(半円筒形のアーチ状の石造り天井)が用いられるようになる。これは、かまぼこ型のトンネルのようなもので、アーチが延長されたロマネスクの様式。このトンネル型のヴォールトに直角に交わってくると、継ぎ目が交差。それが交差ヴォールト。下図の1しかし、ロマネスク式の円頭アーチには問題点があった。柱の間隔で天井の高さが決まる。だから柱を等間隔にすれば高さは揃うが中世の聖堂建築は継ぎ足しの増築となるのでそうは行かない。特にこのモン・サン・ミッシェルは立地が限られているので柱の等間隔は保てない。加えて広く高い建築空間を造るのには限界があった。そこで考案されたのがゴシック式の尖塔アーチと言う技法。尖塔アーチでは柱の位置に関係なく、高さをいかようにも調整できた。1.ロマネスクの交差ヴォールト2.ゴシックの交差ヴォールトゴシックの交差ヴォールトの天井の作り方(上図)木枠を組み、そこに石を骨組みから積み上げて行く。骨以外の場所は軽いレンガや漆喰で埋められ完成したら、木枠は外される。モン・サン・ミッシェルはロマネスクの様式とゴシック様式が入り交じっている。天井に注意して見れば何んとなく解ります。騎士の間ここは、13世紀以降修道士が写本と細密画の制作に従事した部屋でもあった。ギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究も彼ら修道会の仕事だった。後年大学付属の写本工房が増えてくると、修道院では主に外部工房への写本貸し付けや、逆に写本購入したりする管理の立場として事務作業の方が増えたと言う。が、1469年フランス王ルイ11世が聖ミッシェル騎士団を創設してから騎士の大広間と呼ばれるようになった。この部屋にも大きな暖炉が2つ据えられている。修道士が唯一暖をとれた部屋であったろうが、騎士が常駐して騎士の間になってからはどうだったのだろう?聖堂の南の翼廊地下・・聖マルティネス礼拝堂この礼拝堂は、非常に分厚い壁でできています。(くぼんだ窓)その意味が私も今わかりました。壁で上部階の翼廊を支えていたからのようです。太い柱の地下礼拝堂「縁の下の力持ち」と言う言葉がありますが、本当に縁の下の力持ちがこの太柱の礼拝堂です。ここは、本丸の教会聖堂内陣を地下でささえる土台として、15世紀半ばに建設。※ 身廊の部分には元の岩盤があるので必要無いが、内陣部分にあたる所は基板が無く低くなっている。大人が3人で手をつないだくらいの太さと言うので、直径1.5~1.6mくらい? 聖堂内陣の重量をここで支えているので、無数に、場所によっては密集して柱が立ち並ぶ。聖ステパノ礼拝堂(11世紀頃造られ、13世紀には改修)医務室と修道士の納骨堂の脇にもうけられたこの礼拝堂は、かつて修道僧の遺体安置所だったらしい。写真中央の十字架の台座には「A.Ω」刻まれ、生まれてから死ぬまでを示しているそうだ。そしてその壁の向こう、物資輸送用の大滑車部屋です。かつては納骨堂だった所に大きな滑車が据え付けられた。納骨堂はフランス革命の時に山のようにあった亡骸を窓から放り出して捨てられてから牢獄となっている。その後、反革命派の修道士達がそこに閉じ込められ、革命後は政治犯等も収容され、牢獄としてしばらく使われていた。(1793年~1863年まで)滑車は囚人の為の食事を運ぶ荷物昇降機として19世紀に牢獄になってから設置されたもの。直径6mの滑車は、中に人が入って人夫の重量で回して動力にしていたとか6人で2トンの重さを運びあげられたそうです。この人動力(ひとどうりょく)方式は古代ローマ時代からあり、建築現場で使用されていたらしい。すごく危険そうですが・・。荷台?下は外から見た位置と昇降の石のレール小さな礼拝堂の窓のステンドグラス。ホタテ貝が目にとまった。ホタテは聖ヤコブのアトリビュートである。つまりこれはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を示唆するマークなのだろうか?実際、1998年に、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は途上の主要な建築物と共に世界文化遺産に登録された。うちフランスではパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルの4つの都市を起点としたルートである。パリとボルドーを結ぶ巡礼路の枝にモンサンミッシェルも入っているようだが、これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に入っていると言う証明を見つける事ができなかった。むしろ、本来モンサンミッシェルは聖ミッシェルの巡礼路の起点の一つである。イタリアのモンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)を今はめざさないのだろうか?そもそも公式にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に含まれる場所にはホタテの標識があるはず。モンサンミッシェルでは見ていない。解ったら書き加えますね。因みにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は過去に扱っています。1~14まであります。リンク先は一部のみリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)さて、これでモンサンミッシェルの書き換えは終了です。古いのは削除しました。今回のback numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユモンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部次回こそ? 「アジアと欧州を結ぶ交易路12」の予定。
2021年05月21日
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back numberのリンク先追加しました。修道院とか、建築とか、要塞とか載せたいものが出てきて時間かかってしまいました。 f^^*) ポリポリ モンサンミッシェルは見所も多いから写真もたくさん載せたかったので結局分割しました。次回も「モンサンミッシェル」です。ついでにフランス王国の成り立ちも加えました。フランク王国カロリング朝(Carolingiens)の末、神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年)となったカール(Karl)大帝(742年~814年)の孫の代でフランク王国は東西フランク王国と中部フランク王国(後のイタリア王国)に分烈する。843年ヴェルダン条約によりルートヴィヒ1世の遺児が王国を3分割して相続するが、870年メルセン条約で中部フランク王国は割譲。それらは後のドイツ・フランス・イタリアの三国の原型となる。しかし、割譲された王国も東フランク王国は、ルートヴィヒ4世( 893年~911年)。西フランク王国では、ルイ5世(967年~987年)987年を最後にカロリング朝の血統は途絶え断絶した。ところで、話しは西フランク王国に戻る。西フランク王国では5代目あたりから必ずしも王位はカロリング家の世襲ではなくなっている。有力諸侯や聖職者の推薦で決められたらしいのだ。それ故、西フランクでは諸侯の力が時に王より勝る事になったらしい。前回、ノルマン人(ヴァイキング)の話しに触れたが。「885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接パリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。」と紹介。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人当時のフランク王国はノルマン人がセーヌ川やロワール川の川口から侵略する事が増えて困っていた。この時フランク側の防衛で活躍したのがロベール家(Robertiens)のアンジュー伯、ロベール豪胆公(Robert le Fort)(830年頃~866年)だった。そして次いでパリ伯となっていたロベール家、長子のウード(Eudes)(852年以降~898年)(在位: 888年~898年)は885年のノルマン人のパリ襲撃でノルマン人を阻止し大活躍する。そのパリ防衛の功績で、ウード(Eudes)は諸侯に推挙(すいきょ)されロベール家初の西フランク王国の王となった。※ 因みに、ウードの次代王は、カロリンク朝のシャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)に戻っているが、シャルル3世がノルマン公国を公認(911年)した王である。そして、後にカロリンク朝が断絶した時、ロベール家出身のユーグ・カペー(Hugues Capet)(940年頃~996年)が諸侯の推挙で次代のフランク王国の王位に付いた。987年、これよりカペー朝(Capetian)(987年~1328年)の時代が始まるのである。また、これを持って西フランク王国は終わりフランス王国が誕生したと見なされている。ノルマン人(ヴァイキング)を撃退して活躍したロベール家はフランス王国の始祖となったのだ。欧州史は、あちこちで歴史が絡んで来るので大変です。でも、知っているのと知らないのとでは格段に面白さが違いますさて、写真は複数年、季節も混ざっていますので了解お願いします。モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユフランク王国からフランス王国へベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院中世の修道院の役割ラ・メルヴェイユ(La Merveille)バットレス (Buttress)前に紹介していますが、トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたので、断面を見ると岩山の原型がわかります。下は南西正面角度の異なる教会を紹介ベネディクト会修道会の招聘(しょうへい)ベネディクト会修道会(Benedictine Order)(ラテン語: Ordo Sancti Benedicti)アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)によって709年10月に開祖されたモン・トーンブ(墓の山)のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)はノルマンデイーとブルゴーニュのほぼ境界にあった。933年統合されモン・サン・ミッシェルもノルマンディー領に入る。しかし、ヴァイキング(ノルマン人)の襲来が酷くなってきた頃、避難? アブランシュに置かれていた司教座がドル=ド=ブルターニュ (Dol-de-Bretagne)に移転している。それが原因?モン・サン・ミッシェルの管理者(司教座)がブルターニュに移転したと言う事は、モン・サン・ミッシェルの管轄もブルターニュに移動してしまう? 危惧した? ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)は966年、ノルマンディーのサン・ワンドリル修道院とイタリアのモンテカッシーナからベネディクト会派の修道士を招いてモンサンミッシェルに修道院を設立させた。もともとノルマンディー建国当初より、歴代公はベネディクト会を擁護していた事もあったらしい。ノルマン公国時代の首都があったファレーズ(Falaise)にあるリシャール1世(Richard I)像ウィキメディアからですが、下をカットしました。※ 3代目(在位:942年~996年)ノルマンディー公リシャール1世(933年~996年)はノルマンディー公国の統治に集中。内政の安定化とノルマン人同士のつながりを強化し西フランクで最も結束力のある国に成長させた。ベネディクト会を擁護していた方には見えませんね。まだヴァイキング感が抜けていないのですが・・。これは像に問題ありなのか?もしかしたらキリスト教に改宗するにあたり、指導してもらっていたのかもしれませんね。修道士の役割はそもそもそう言うものだから・・。狭い岩山の上に建てると言う制約条件が、他と違う独自性を持った教会となっている。つまり、通常なら横に増築される部屋が縦に積み重なる構造になっている。聖堂の内陣は東に向いて立っている。モンテ・カッシーノのベネディクト会修道院529年、モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)の異教の神殿跡にヌルシア(Nursia)の名門出身のベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)は洗礼者ヨハネに捧げた修道院を建立。530年頃、ベネディクトゥスは修道会則を定め共同で修道生活に入ったとされる。※ 聖人に認定されてから聖ベネディクトゥス(St Benedictus)と呼ばれます。聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)は、全部で73章からなる修道院生活の規律が示されたもので540年頃に書かれた物と推測されている。中身は修道僧の規律となる生活に関する規範とクリストセントリックな生活(Christocentric life)を送る為の精神論だったとされる。多くは修道院と言うコミュニティーの中で謙虚に従順に在る方法や、修道院の管理に関する項目もあったが、食事の質や分量にまで言及されている。ざっと73規約を見たが、道徳に加え、かなり細かい行動内容にまで言及されている。学校の校則に近いものがあるそれは後に西ヨーロッパ中の修道会へ広がり中世ヨーロッパの修道制度の基本とされ導入されている。聖ベネディクトゥスが欧州修道会の父と呼ばれるのはそれ故である。※ 聖ベネディクトゥスは正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会でも聖人とされている。しかし、実際の全容は解っていない。実は、聖ベネデイクトゥスの死後、581年頃、モンテ・カッシーノはロンゴバルト人(Longobardi)により破壊されその原本が失われているのだ。僧院が再建されるのは718年。※ 表に出たのは難を逃れたベネィクト会の修道士から聞いた話しを 後に教皇(Gregorius I)となる聖アンドレアスの修道士グレゴリウス(Gregorius)(540年? ~604年)が著した事から広まったとされる。当時の聖ベネディクトゥスとベネディクト会が実際にどのような活動をしていたのかは定かで無いが、僧侶たちは毎日8時間祈り、8時間眠り、8時間肉体労働、神聖な読書、慈善活動に費やしていたとされる。聖ベネデイクトゥスが修道院を開いた頃は、西ローマ帝国が無くなり、イタリア半島がロンゴバルト人に浸食され始めた頃である。東ローマ帝国の力はまだ多少あったが、 欧州は絶えず異民族の侵略にさらされよりいっそう暗黒の時代を迎える事になる。そんな中で修道士の活躍はより必要とされた。ベネディクト会では指導できる修道士の育成を積極的に行い各地に派遣もした。教師養成所のような所でもあったわけです。※ ベネディクト会(Ordo Sancti Benedicti)の修道院については以前ヴァッハウ渓谷 (Wachau) のメルク修道院でも紹介しています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架) 「聖ベネディクトゥスがめざしたもの」について書いています。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)下の写真、右の塔付きの建物がメルヴェイユ(La Merveille)の一部。塔はコルバンの塔。位置は北東のコーナーモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)地図下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図から。メルヴェイユ(La Merveille)の建物は北側。ブルーは参道のメイン・ルートを示した。(土産物やレストランの中店通り)※ 参道の途中あちこち山頂の教会堂を目指す階段も存在する。中世の修道院の役割初期の修道院はキリストの禁欲思想に由来するものだったらしい。それは己自身を高める精神の修行が目的であった?しかし、中世中葉、ベネデイクトゥス以降の修道院は時勢により目的が違ってきた。彼らは己の精神修行よりもまずやらなければならない仕事ががたくさんあったからだ。荒廃した世の中の立て直しである。特に彼らは辺境地におもむき宣教よりも先に衣食住の復興や文化の復興もしなければならなかったからだ。輝かしいローマ帝国の文化はいつしか蛮族により荒らされていた。ローマ水道も破壊され、修復もままならず使用できなくなっていた。衛生的な水さえも手にいれられなくなり、文化度は所により原始生活にまで落ちていた所もあったらしい。辺境地に向かった修道士は大地を耕し、失われた文明を取り戻すべく活動を始めた。彼らの仕事には失われた書物の写本もあったが、とにかくギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究と共に修道士はそれらを伝えるべく、学校や図書館を作り文化の向上に力を入れた。彼ら修道士は村落の立て直しなどにも貢献し、農作物を育てる事なども指導していたと思われる。農作物も修道院では必要で在るし、聖祭の為のワイン造りは必要不可欠。彼らはその技術も当然持っていたからだ。彼らはそうした人々に寄り添いながら福音を述べ伝え、宣教活動もした。命を落とす事も多々あったであろう。殉教(じゅんきょう)と言うワードはまさにこの頃から再び増えて行ったと思われる。一つ気になるのは、庶民の識字率の低さである。彼らは読み書きは教えなかったのだろうか?もっとも、貴族の婦人でも中世半ばまで文字を読めない人はあたりまえにいたらしい。※ 識字率について以前書いています。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)メルクやザルツブルグの修道院で、彼らが写本していたのはラテン語の書物。大学など高学歴の人材育成に力が入れられていた?しかし ベネディクトゥスは高い学問を学びながら敢えてそれらを放棄させている。「学在る無知の教え」だそうだ。高い学問を一度は体験し、それらを軽んじる事は無いが、神の王国の前にそれらは必要無い。敢えてそれらを棄て、超越した世界に身を置く事を修行とした?それは高い学問を身に付ける事で悪徳の道に迷い、かえって身を滅ぼす者をたくさん見て来たベネディクトゥスの経験から来ているらしい。手前の建物がメルヴェイユ(La Merveille)呼ばれた建築。ネオクラシックのファサード? 一見ロマネスク風建築なのですが・・。聖堂の入口でもある。下は現地で購入したゴールデンブックシリーズの案内本の絵図ですが、をさらに解説を寄せて編集しています。左手前(北面)ゴシック3層構造のゴシック建築の部分であるが、全てひっくるめてラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)意味は必ず「驚異」とされているが、何? と思われるだう。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)は不思議とも訳される。本意は オッドロキー と言うところかな?それはゴシックを越えた? 建築技術に加え、まるで空中庭園のような屋上の回廊のある美しい中庭の存在だ。メルヴェイユ(La Merveille)は北側に位置するのでモンサンミッシェル全景の写真撮影ができない。下は世界遺産の本から持ってきました。トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設された。何しろ、そこは古来より神聖な岩山であったからだ。モンサンミッシェルの勢力の拡大と共に岩山の教会は拡大していく。最初の大きな聖堂の着工は1017年。1144年完成。重々しいノルマンディー・ロマネスク様式だったそうだが、クリプト(crypt)の強度の問題か? 15世紀には ひび割れが生じ危険な状態に。しかた無く聖堂の前部を取り壊しテラスにした。下は3層の一番下段。半分は岩山だ。聖堂の内陣も一部壊し、クリプトをしっかり造ってから造り変えるに至った。1446年から1521年。新しくできた聖堂の内陣はフランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)。フランボワイヤンは「燃えるような」と訳されるが、「火炎のような」華麗にして華美な装飾スタイルである。いろんな時代がミックスされています。聖堂は次回に後陣と聖堂の向こうには、3層構造の建物が絶壁に垂直にそそり立つように建てられた。これがラ・メルヴェイユ(La Merveille)と呼ばれる建物だ。上の図のラ・メルヴェイユの1階には礼拝堂付き司祭の間と貯蔵庫が置かれた。※ 司祭の間は巡礼者への施しも行われていた。2階、客間(貴賓室)と騎士の間。3階、広い食堂と回廊付きの中庭。※ 中庭からの眺めが驚嘆に値する絶景となっている。再び上層階に上がる大階段のある東面から3層構造の建物なのに一見、控えめなバットレス (Buttress)だけで支えられている。下は補強となるバットレス (Buttress)の部分を色を付けて見た。一見垂直に見えて、実は非常に巧みに組み合わされた控え壁の構造となっている。それは北面サイドを見れば尚さら驚ろく。バットレス (Buttress)15世紀と言う時代である。ゴシック様式でこれだけ高い建物で垂直性を物つ壁はなかなか見ない。石積みだけの壁は高くなればなるほど下方に重荷が来るので壁は外に湾曲にたわむのだ。それは天井にヴォールト構造が取り入れられるようになるとなおさら壁への負荷は増した。※ ヴォールトは次回説明します。だから壁が外に破れるように崩壊するのを防ぐ為に柱なり壁なりで押さえ込む構造で補強される。それがいわゆるバットレス (Buttress)と言う建築構造だ。因みにモンサンミッシェルでも聖堂部を支えるバットレスはまた異なる。フライング・バットレス(flying buttress)と言う飛梁(とびばり)構造になっている。フランボワイヤン・ゴシック様式(flamboyant Gothic style)の部分それはノートルダム教会の聖堂だと確認しやすい。あそこは側廊の壁面もフライング・バットレスだらけなので。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓因みにフランス語で「支え棒」の事を「アルク・ブータン(Arc-boutant)」と呼ぶらしくフランスの教会案内ではアルク・ブータンと説明されるかもしれない。それにしてもモンサンミッシェルのバットレス (Buttress)は奧が深い。計算され尽くし、かつ機能美さえも備わっている。最もモンサンミッシェルの場合、平地の建物とは異なり、裏側が岩盤により補強されている。1階の半分が岩盤なので可能だったのか?下は2階から3階の部。随所に見られる補強の構造に興味が湧く。3階のアーチは今はガラス? がはめ込まれている。危険だからでしょうね。227本の石柱で支えられた回廊式の美しい方形の庭園になっている。完成は1228年。聖堂より古い。回廊式中庭からの修道士の食堂 食堂は次回にアーチの向こうに広がる海原(うなばら)。見下ろすと目がまわりそうな高所で、空中庭園を想像?皆が感嘆したからラ・メルヴェイユ(La Merveille)驚異なのか? 不思議なのか?「驚異中の驚異」とも伝えられる。聖堂の翼廊の窓ですね。写真と解説を以前より増やした為に次回もモンサンミッシェル」です。なかなか写真のセレクトにも時間がかかり、また図解資料の着色などつまらない所で時間食っています。1週間程度で出せる予定です。緊急事態宣言5月31日まで延長されるようで、なかなか世の中が落ち着かないですね。とは言え、昨年に比べれば通常生活に近いかも・・。旅行は行けないけど・・。昨年から延期されていた姪の式が近づいています。ドレスを買いにデパートに行きたいが、デパートもドレス類は売れないので昨今はそう言う系は縮小されているそうです。でも来週こそ買い物に出かけなければ・・。ネットで失敗したので・・。飲食系だけでなく、そう言うイベント産業の人達も大変ですね。コロナ騒ぎに終息宣言が出されたとしても、完全にコロナ以前の世の中に戻る事は無い気がします。産業も形態も確実に変わって来る事でしょう。また、ネットが増えた昨今ですが、ネットではダメな分野は存在する。とは言え、今までと同じ事をしている企業はダメかも。コロナ後の新しい世界に生きる為に、誰もが進化しなければ。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人 モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年05月09日
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ノルマン人をパリで撃退した人物を追加しました。次の関係で・・。今回は、単独にするか、かなり迷走しました(;^_^Aこの民族移動問題は「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の伏線にもなっています。彼ら「蛮族」と呼ばれた民族を単純に紹介するのにノルマン人の例はわかりやすいかと、モンサンミッシェルの中に入れ込みました。 だからいろんな情報が混在しています。オムレツまで載せたし・・。言語体系で民族を分類した系図(Family tree)があります。「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」はその祖の一つで、その言語を源流とする民族は、ヨーロッパ大陸からロシアそして中東からインドに及ぶ。※ 大航海時代以降は、南北アメリカ大陸やアフリカ、オセアニアにも広がった。この語族に属する言語を公用語としている国は現在100を超えている。つまり世界の国の半分近くはこの言語民族をルーツとしているかもしれないと言う規模だ。国際連合では現在6つの公用語がおかれているが、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語の4つは「インド・ヨーロッパ語族」である。※ 残り2つの公用語は中国語とアラビア語。つまり「インド・ヨーロッパ語族」の発祥から移動をたどれば必然的に欧州の世界史が見えてくるはず。しかし、今回は「インド・ヨーロッパ語族」そのものでなく、その一部一派のみです。また、「ローマ帝国vs蛮族」の「蛮族(ばんぞく)」とは何か? の説明を兼ねています。モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)どこが発祥(源郷地)か?エデンの園の場所、考えてみました初期の民族移動ローマ帝国内の異民族の協力者スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキング(Viking)の移動ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)インド・ヨーロッパ語族の分布図ウィキメディアの図に書き込みしました。実は、欧州の歴史をいろいろ調べていて個人的にちょっと思った事がある。欧州には、ほぼ2世紀毎に大量の異民族が流入してきているように思う。どこかで人が湧くように人口が爆発的に増えている場所があるのではないか? 彼ら異民族は、元の土地に人があふれ過ぎて食糧が足り無くなり、他の地に移住する為に集団移動してきた人々だろう。また、部族に追われて逃げるように移動して来た集団もいただろう。かつてモーセがイスラエルの民をカナンに導いたように指導者が大量の移民を携えての民族移動であったのだろうと想像できる。歴史を見ると、それはある程度の期間で定期的に起きているように思ったからだ。どこが発祥(源郷地)か?「インド・ヨーロッパ語族」の発祥となる源郷は現在2説あげられている。トルコのアナトリア説・・8000~9500年前のアナトリアを発祥とする説。南ロシアのクルガン文化説・・5000~6000年前の黒海・カスピ海北方(現在のウクライナ)に存在したクルガンを発祥とする説。上の説については、それを導く学説があると思われますが、私はその源郷説以前があったのではないか? と考えたのです。そこが発祥ではなく、そこにたどりつく以前の場所と言う意味です。あくまで個人の仮説であり、何の根拠もない突拍子もない仮説ですが・・。アナトリア半島からカスピ海あたり? の経度はともかく、緯度はもう少し南だったのではないか?※ 先の2説はいずれも緯度が高いので寒いと思われる。なぜなら、環境の思わしくない土地での人口増加は考えられないからだ。暖かい方が断然良い。※ スカンディナビア半島に居たゲルマン人が他に移動したのは食糧の問題だったし・・。もしかしたら最初のスタートはメソポタミア(Mesopotamia)あたりだったのではないか? 温暖で肥沃なティグリス川とユーフラテス川周辺なら人口増加は可能。※ そこにはナツメヤシがたわわに生(な)っていたと思われる。※ BC8000年には文明の片鱗が見えている。そこは世界最古の文明が存在した場所とされている。また、そこはまさにアダムとエヴァ(Adam and Eve)が住んでいたエデンの園があったとされる場所でもあるのだ。旧約聖書は案外史実を語っているのかもしれない。エデンの園の場所、考えてみましたメソポタミア周辺の地図ティグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)中流域? 私の予想位置がピンクの円あたり。ティグリスの源流あたりのアルメニア説もありますが、緯度が高く寒い。実際イラクとパキスタンの国境には巨大なザグロス山脈が走っている事もあり、アルメニア説は厳しいかと思う。ノアの箱船はそのあたりらしいが・・。クウェートより下の説もあるが・・。民族の発祥地としてはなさそうなので消去。裸で暮らしていた事は無いだろうが、気候を考慮すると.北緯35度以下の方が温暖で良さそうだ・・と言う理想論も入っています※ 中東は、今は砂漠化していますが、数千年前は森林もありもっと緑が豊だったようです。※ メソポタミアの中流域にしたのは水害を考慮したからです。初期の移動はザグロス山脈があったから、北上(黒海の向こう)するか西方(アナトリア半島)に活路を見いだすしかなかった? と、考えてみた。絵画によるエデンの園ウイーン造形美術アカデミー、ヒエロニムス・ボスによる三連の祭壇画の一部、楽園から。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)作※ 三連の祭壇画は、左翼に楽園(エデンの園)、中央に最後の審判、右翼に地獄が描かれている。図は、楽園(paradise)と称されるエデンの園(Garden of Eden)であるが、エデンを描く時のお決まりだろうか? 誰もがこれを描く時にストーリー仕立てに描いている。イヴを創生するキリストから始まり、ヘビにそそのかされて約束を破り木の実を食べる二人。そして原罪を背負って楽園を追放される二人。ボスの場合、さらに上に天の天使と堕天使サタンとの戦いも描かれている。以前「造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)」で紹介しています。リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)クラナッハ(Lucas Cranach)の「アダムとエヴァ(Adam and Eve)」、「エデンの園」、「楽園」はクラナッハ(Cranach)特集で紹介しています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)初期の民族移動源郷地を出てから、彼らは一端北上して東へ、西へと進路を分かち入植地を求めた。アナトリア半島から欧州に入植した者、あるいは黒海北部にいったん定住してから再度移動を始めさらに北へ、西へ。北ルートはスカンディナビア半島まで到達。西はバルカン半島から欧州へ、あるいはアナトリア半島から欧州へと考えられる。下の図はオリジナルですが、史実と混ぜて仮説を足したものです。私の案(欧州側のみ)では全て南から北へ移動。スカンディナビアからは後にリターンして来たのでは? と考えている。※ リターンしてくる時にはゲルマン語派(Germanic languages) になっているが・・。古代ギリシャの文明を開いたギリシャ人も、古代ローマの文明を開いたローマ人も彼らの子孫達である。彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族」のメンバーなのだ。※ ギリシヤ文化を造ったギリシャ人はヘレニック語派(Hellenic languages)の祖。※ ローマ帝国をつく造ったローマ人はイタリック語派(italic languages)の祖。そして、後に入植地を求めてローマ帝国を脅かした蛮族(ばんぞく)は後発の入植者であり、彼らもまた出自は「インド・ヨーロッパ語族」だったのである。※ ヨーロッパ中北部に広まり、そこを原郷地としたゲルマン人のゲルマン語派はドイツ語、英語、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語、アイスランド語などの祖語となるのだ。彼らはある程度の集団で移動し、入植地を見つけるが為に欧州各地に散った。時にその地の者を滅ぼし、時に融合してローマ帝国とも戦う事になった。やはりインド・ヨーロッパ語族の系統図「family tree」が欲しい左側が欧州系です。また、今回の所「北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語」をピンクで囲ませていただきました。英語史に関する話題を提供する堀田隆一氏による「History of the English Language Blog」で公開されていた「インドヨーロッパ語族の系統図(日本語版)」から出典させていただきました。リンク hellog~英語史ブログ #455. インドヨーロッパ語族の系統図印欧語系統図として最も解り易い図かと思います。ローマ帝国内の異民族の協力者ローマ帝国の力に陰りが出始める4世紀以降。進軍での戦いなら得る物もあるが、防衛での国境線での戦いは無益(むえき)でしかない。ローマ皇帝は時に彼らと和議を結んだ。ローマ帝国内の居住を許す代わりに彼らにはローマの兵隊として戦ってもらうと言う条件で・・。それがローマ帝国内にできた直轄領以外の異民族の協力者による属州である。※ もちろんキリスト教が導入されてからは、キリスト教に改宗する事も条件である。しかし、ローマ帝国に力が無くなると、彼らの態度は一変した。「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の時に590年のイタリア半島地図を紹介したが、半島では、すでに移民の彼らロンゴバルド人(Longobardi)に浸食されつつあった。西ローマ帝国が消滅してからローマ帝国との契約は反故(ほご)? 彼らは568年頃イタリア半島内にロンゴバルド王国を建国して一時勢力を拡大しローマ教皇を悩ませた。だが、ローマ教皇の依頼を受けたカール大帝により彼らは駆逐される。774年には首都パヴィア陥落。因みに、ロンゴバルド(Longobardi)とは長い顎鬚(あごひげ)を意味。顎鬚を蓄える事が彼ら民族の特有の掟だったらしい。(民族の特性が呼び名に)そして彼らも、彼らを滅亡させたカール大帝率いるフランク王国(Frank kingdom)のフランク人(Franks)もまたインド・ヨーロッパ語族のメンバーである。※ ロンゴバルド(Longobardi)人はゲルマン語派。下の図はオリジナルですが、史実です。カール大帝率いるフランク王国人の祖がどこからの分派か不明ただ、フランク王国(Frank kingdom)の祖は俗ラテン語を起源とするロマンス諸語の中の西ラテン諸語であり、フランス語はそこから成立している。因みにイタリア語は東ラテン諸語です。4世紀以降に起きた? 東のアジア系遊牧民フン族(Hun)の西進によってゲルマン系諸民族は大移動をしたと言われているが、スカンディナビアに関してはそれが理由とは思えない。※ ゴート族についてはまだこれからです。スカンディナビアの民(北方系ゲルマン人)ところで、今回は「モン・サン・ミッシェル 3」です。このノルマンディーに住み着いた民族のルーツから入ります。彼らはどこから来たのか?ノルマンディー地域 (Région Normandie) 首府ルーアン(Rouen)「モンサンミッシェル」のあるノルマンディー地方(Normandie)はインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話すノルマン人の土地です。以前、「ヴァイキング(Viking)」を特集した事がありますが、彼らもまたインド・ヨーロッパ語族であり、古代にスカンディナビア半島や北海沿岸に定住したゲルマン語派北ゲルマン語群に属し古ノルド語を話す人々だったのです。つまり、地域により呼び方は違うが、スカンディナビア半島や北海沿岸に居た彼ら北方系ゲルマン人(主にノルウェー)がいわゆるヴァイキング(Viking)と呼称された人々なのである。北方系ゲルマン人が移住したスカンディナビア半島は環境が厳しい。農業や漁業はあったにせよ、農地は少なく、冬の日照も極めて少ない。生産すると言うよりは海賊行為による略奪を生業(なりわい)?船の操作は長けていたので商人色の強い一派もいたが、イスラムのように、彼らもまた奴隷交易をしていた事がわかっている。最も彼らのメインの交易品は皮革製品。主に毛皮?実際の所、略奪で得た物よりもむしろ交易で得た富の方がはるに大きかったと言う。しかし、彼らは絶えず良い土地への移住を求めていたようだ。だからアイスランドやグリーンランドにまで到達するのである。(行ってから失敗と気付いている。)ヴァイキング(Viking)の源郷ヴァイキングと言う呼称は古ノルド語で「湾」、「入り江」、「フィヨルド」の意らしい。実際彼らはそうしたスカンディナビア半島のフィヨルドの入江を源郷にしていた。陸地の殆どはスカンディナヴィア山脈で平地はほとんど無いノルウェー(Norway)は北緯57度以上という高緯度だが暖流の関係で冬でも不凍港らしい。海岸には巨大な氷河が削れてできたフィヨルドが発達。それは数万年掛けて積もって固まった雪が氷河を形成。それが氷河時代の終わりごろに融解して海水域が変わり土地の隆起と沈降が始まり削られた谷に海水が進入してできたものだ。※ BC6000年頃には現在の地形になったらしい。ソグネ フィヨルド(Sogne fjord) ノルウェー最大のフィヨルド。写真はおそらくフロム近く?上下の2枚は2006年5月。北欧の観光時期は限られている。5月ではまだ早い感じベストは7月から8月。メキシコ湾から北上してきた暖流は欧州西部で東グリーンランド海流とノルウェー海流に分岐する。その暖流の影響で。高緯度にもかかわらずノルウェーの海は凍らない(冬でも不凍港)。しかし、外は寒い。だからクルーズは冬でもあるらしいが、寒くて冬は船外に出られない。最深部の深さで1308m、平均幅5km。世界で最も長く、深いフィヨルド下の写真3枚は2004年8月。これが夏のピーク北欧の名物と言えばエビやカニがある。冬でも捕れるのだろうが、やはりエビのシーズンは初夏 ?ヴァイキング(Viking)らも食べ物には困った事だろう。冬は野菜不足からヴィタミン不足だったかも。なんでこんな寒さの中に暮らしていたのか? 暖かい土地があるなんてきっと知らなかったのだろう。グリーンランドに移民した人々はだまされて渡っているし・・。ヴァイキング(Viking)の移動その彼らは8世紀から11世紀あたりに人口増加? 新たな入植地を求め幾度めかの民族移動を始めた。北フランスのノルマンディーに侵略して入植した人々がノルマン人と呼ばれる人々だ。また、船を操る彼ら一部はアイスランド、グリーンランド、アメリカ大陸にまで到達するのである。※ 北極圏を中心に地図を見るとアイスランドもグリーンランドもノルウェーからは割りと近い。ノルウェー、オスロ(Oslo)のヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)からヴァイキング(Viking)の大型船800年代後半に使用されていたとされるオーセバルク船(Oseberg)※ 1904年に発掘特徴は船首と船尾をつなぐ竜骨が大きい。その構造により喫水線を浅くする事ができ安定性が高い。フォルムは非常に美しいです。独特な装飾も彫刻されている。ヴァイキング(Viking)の小型ボート写真の入れ替えの必要もあるのですが、2010年2月、ヴァイキング博物館(Vikingskipshuset)書いています。リンク ヴァイキング 2 (ロング・シップとクナル)リンク ヴァイキング 3 (竜頭柱とヴァルハラ宮殿)リンク ヴァイキング 4 (副葬品)ノルマン人(Normands)とノルマンディー公国(Duché de Normandie)8世紀末、フランク王国の販図がまさに北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた頃。毎年春になると北フランスはヴァイキング(Viking)に襲撃されるようになっていた。春先は海が穏やかになったかららしいが、彼らは街や修道院を襲って金品や食糧を奪い、ついでに女子供をさらって行く。さらわれた者は奴隷として使役されたり売られて行く。また身分のある者を捉えた場合には身代金と引き換えにしたと言うので、前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」で紹介した地中海でのサラセンの海賊と同じような状況が、同時期に北海側でも起きていたという事になる。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊ところで、フランク王国の人々は、彼らの事をヴァイキングではなく、「北国の人」の意で、ノルマン人(Normands)と呼んで恐れていた。身代金効果は大きく、より人さらいは過激に増したらしい。もちろん東フランクの男たちは武器を手に取り戦い撃退していたらしいが、西フランクは騎士が戦い、一般人は逃げるしかすべがなかったので悲惨だった。だからなのか・・。なぜ北欧に近い場所でなく、少し遠いノルマンディーだったのか? の疑問の理由が分かった気がする。フィヨルドを出て北フランス(西側)に略奪をしに来ていた一派は、地元民を追い出し帰国せず砦を築いて越冬し、徐々に「居座り」定住を始める。そして、885年、ノルマンに定住した彼らはセーヌ川を遡り、直接バリに多勢で侵略に向かった。この時は3万人のノルマン人(ヴァイキング)が700艘の船でパリに襲来。大事件である。しかし、この時はロベール家のウード(Eudes)(852年以降~898年)により撃退されている。※ ロベール家は後のフランク王国カペー家の開祖そして、911年、西フランク国王シャルル3世 (Charles III)(879年~929年)(在位:893年~922年)はその脅威? いや、王として国民を守る決断? により、彼らと契約を交わす。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)の成立蛮族であったノルマン人の侵略者の長ロロ(Rollo)(846年頃~933年)は北フランス(ノルマンディー)への正式な定住を許される。最もそこはすでにロロが陣取りしていた場所。族長ロロ、以下皆キリスト教に改宗。フランク王国の貴族となりロベール1世(Robert I) (在位: 911年~933年)と改名して即位。ノルマンディー公国(Duché de Normandie)を開いたのである。※ 妻にシャルル3世の娘をもらう。契約では、これから北フランスに到来するノルマンの侵略者はノルマンディー公国が撃退すると言うもの。つまりこれでフランク王国は自ら防衛をせずにロロに丸投げした事になる。まさに「夷(い)を以て夷(い)を制す」を実現させた内容であるが、西側諸侯からのシャルル3世の評価は低い。創始者ロロの銅像 ウィキメディアからですが、下をカットしました。ノルマン公国時代の首都があったのがファレーズ(Falaise)。ロロこと、ロベール1世はヴァイキングの親分だっわけです。しかし、ノルマン人は封じたとは言え元ヴァイキング。じっとして敵が来るのを待っているだけの人々ではなかった。下の図はオリジナルですが、史実です。スカンディナビィアにいたインド・ヨーロッパ語族、北ゲルマン語群(ノルド諸語、北欧諸語) の古ノルド語を話す一派は北フランスを侵略してフランク王国内にノルマン公国を得る。→ ノルマンディー公国(Duché de Normandie)さらに彼ら(ノルマン公国)はイングランド攻め異教者を駆逐。ノルマン・コククエストを果たしイングランドを得る。→ イングランド王国(Kingdom of England )ノルマン王朝(Norman dynasty )の開始。ロロ(Rollo)から7代目の子孫ギヨーム2世(Guillaume II)(1027年~1087年)はノルマン・コンクエストによりイングランドを征服しイングランド王に即位してしまう。※ ノルマン朝の初代イングランド王ウィリアム1世(William I)(在位: 1066年~1087年)として即位。つまり一介の海賊にすぎなかったノルマンの征服者は最終的にイングランドまでも手中にしたのである。さらに少数ではあるが、イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。ゲルマン人の根性恐るべし・・である。総じて、古来文明のあったギリシャやローマ帝国と戦ってきた、いわゆる蛮族と呼ばれる彼らもまた「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」を源流とした同族の民族であったと言う事である。「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系は?ところで新たな疑問が・・。では「インド・ヨーロッパ語族」以外の言語体系はあるのか? と言うと、ある程度の地域での語族研究はあるものの、「インド・ヨーロッパ語族」ほどに広域に及んだ研究はされていないようなのだ。例えば台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族のオーストロネシア語族(Austronesian languages)。南北アメリカ大陸の先住民の言語体系であるアメリカ先住民諸語(Native American languages)。など、あるにはあるが他を含めて地域が分散しすぎているのだ。もしかしてこれらの幾つかはどこかで祖がつながっているかもしれない? と考えが及ぶ。実際、つながりそうな地域はある。新たな仮説として、アジア・ヨーロッパ・北方アフリカの全言語と、アメリカ先住民諸語は同祖ではないか? とする少し拡大したボレア大語族(Borean languages)説も出ている。また、もっと広範囲に実はユーラシア一帯? あるいは北半球? が実は同祖? ではないかと言うような仮説もある。※ ユーラシア大語族(Eurasiatic)※ ノストラティック大語族(Nostratic languages)多分個別に学者が研究していて相互間が無いからなのかもしれない。もし、各所で研究している全てをコンピューターに入れ込んで解析したら? 面白い結果が出るだろうなと思う。ただ、言語族は必ずしも民族を示していない。DNAとは結果が違うのだろうなさて、タイトルはモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でした。本土側からのモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)過去ログです。リンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェルはノルマンディー公国でもブルターニュとの境界に近い西の端にある。難攻不落の城塞型の修道院になるのは966年の事。でもその話は次回です。なるべく早めになんとかします。 m(_ _)m今回は参道などちょっとだけ紹介。いざ、モンサンミッシェル内部へ跳ね橋式の王の門が見える。王の衛兵が派遣されていたのでそう呼ばれる。王の門の手前に3ッ星のホテル・レストラン ラ・メール・プーラール(La Mere Poulard)がある。ホテルの創業は1888年。アネット・プラール(Annette Poulard)とヴィクター・プーラール(Victor Poulard)夫妻のホテルでは併設しているレストランのオムレツが有名。プーラールおばさんのオムレツと店の名前にもなっているが、アネットが考案したもの。卵を泡立てたスフレのようなオムレツに塩をふりかけただけのシンプルなもの。焼け具合により中程は、ほぼエスプーマ(Espuma)料理の状態。※ エスプーマ(Espuma)は食品を泡々にするエルブジ発祥のマシンです。リンク エルブジ・ホテル アシエンダ・ベナスサ 4 (料理後編)当時は栄養価の高い卵は贅沢品であり旅の巡礼者にはもってこいのご馳走であったと思われるが・・。世界展開の中で? 有楽町にも店舗がありましたが今年2021年2月14日に閉店したようです。旅の土産話しに食すのは良いが、オムレツ自体はわざわざ東京で食べに行くほどの物ではなかったのは確か・・。味より、その歴史に価値があるのでしょうね。下は王の門の上から撮影。右がホテル・レストラン ラ・メール・プーラール下は王の門の内側メイン参道であるが、回りは店舗が所狭しと並ぶ。グーグルで確認したら現在はテイクアウトの店が増えているようです。そして下は早朝かも。店舗が開いていない時の静かな参道。次回はモンサンミッシェルの内部を載せて完結予定です。なる早で頑張ります。載せるだけなので次は楽かと・・。そしてその次に「アジアと欧州を結ぶ交易路 12」の予定です。そこはちょっとお待たせするかも・・。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年04月26日
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ラストにBack number追加しました。前回、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)が帝国の再統一を目指し戦闘をおこなっていた時に歴史的パンデミックが発生。野望は断念せざる終えなかったと言う所まで紹介。542年~543年頃からエジプトで発生した疫病は地中海世界に蔓延。東ローマ帝国にも到達し帝国の人口の半数近くを失うダメージを受けている。エジプト、パレスチナはローマ帝国の穀倉地でもあったから、農作物の生産さえ滞る事態で、街からパンは消え食糧難による飢餓も発生した。疫病の進行ペースは現代よりは遅いにしても、時間をかけて欧州全土に蔓延していく。60年は続いた? とされている。※ 実はそれだけではなかった事も判明。パンデミック以前に、ユスティニアヌス1世はイタリア半島と北アフリカの異民族統治の属州を奪還、再征服の途中にあった。西ローマ帝国の失われた領土を全て回復するべく腹心の部下ベリサリウス将軍の活躍はすさまじかった。※ フラウィウス・ベリサリウス(Flavius Belisarius)(500年/505年 ~565年)ユスティニアヌス1世の為に何度も頑張ったのに帝の嫉妬で不遇な生涯を送っている。)ユスティニアヌス帝の評価はこの再征服にある。しかし、ベリサリウス将軍がいなければ無理だったかもしれない。勢いに乗った才能ある軍師がいたからこその勝利だったのではないかと思う。実際、帝の後を継いだユスティヌス2世(Justinus II)の代で先帝の拡大した領土はあっと言う間に奪われてしまったからだ。以降、ローマ帝国は縮小の一途をたどる。ユスティヌス2世(Justinus II)(520年~578年)(在位:565年~574年,578年)ユスティニアヌス1世の甥であると同時に妻はテオドラ王妃の姪である為に息子のいなかった伯父ユスティニアヌス1世の後帝位を継いだ。しかし、彼は有能ではなかった? ササン朝との戦争で北アフリカをロンゴバルトとの戦いで再びイタリア半島の大部分を失うとユスティヌス2世はショックのあまり? 精神に異常をきたしたと言う。※ その為にユスティヌス2世の娘婿ティベリウス2世(Tiberius II) (520~582年)は義父ユスティヌス2世の代わりに574年頃から副帝として政務についていた。(在位:574年,578年~582年)ユスティヌス2世は自分を攻めたのかもしれない。フォローするなら、部下にめぐまれなかった事はもとより、疫病の発生や地震による影響があったのだろうと思われる。さて、今回は衰退して行くローマ帝国の続きですが、前回予告したように「地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し」もあります。これは交易において重大な事件なのです。しかし関係する海賊の写真はほぼ無いので、ローマ帝国時代のトルコの遺跡アフロディシアス(Aphrodisias)とイタリアのアマルフィ(Amalfi)から持ってきました。トルコのアフロディシアスは、エフェソスの近くにありますが、あまり紹介されていないので。※アマルフィ(Amalfi)のおまけはイスラムのミックスした建築です。しかし、その前に今回も最初はアルマ・タデマの作品からローマの祭りについて・・。アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)祭りと舞台劇シンクレティズム(syncretism)アフロディシアス(Aphrodisias)ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へ東ローマ帝国と 元 西ローマ帝国領の関係ローマ教皇とカール大帝イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海サラセン(Saracen)の海賊ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂セレアリアの祝祭(festival of Cerealia)春(Spring) 1894年 油彩 179.2cm×80.3cm画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)J. Paul Getty Museum, Los Angeles完成まで4年を費やしたと言うタデマの作品の中でも人気の作品。絵画の中のモデルはタデマの家族や友人達だそうだ。当初、ドイツの銀行家Robert von Mendelssohnが購入。1895年ロイヤルアカデミー、1899年ベルリン、1900年にはパリ万国博で展示され複製画が大量に売れたらしい。作品は人気と相まって? なのか? 不思議にも所有者が転々と変わっている。タイトルは春(Spring)となっていて、実際内容はメーデー(May Day)に子供たちが花を集めるビクトリア朝時代の慣習を表現。それを古代ローマ帝国時代の春に行こなわれていたポピュラーな祭りであるセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)に例えた絵画となっている。が、そもそもCerealia(セレアリア)は穀物の女神セレス(Ceres)の事。彼女はローマ神話に登場する12人の最高神であるディー・コンセンテース(Dii Consentes)のメンバーの1人。※ ディー・コンセンテースとは、ギリシャの神々ではオリンポス12神(Olympus 12 God)の事。穀物神である女神セレス(Ceres)のセレアリアの祝祭(festival of Cerealia)は4月中旬から下旬までの7日間開催されていたらしいが、詳細はわからない。祭りと舞台劇ところで、祭りと言えば演劇がつきものである。セレアリアの祝祭にもBC175年以降、演劇が含まれていたらしいが、神に奉納する演劇のルーツはもちろん古代ギリシャである。古代ギリシャでは演劇は神事に欠かせない捧げ物としてディオニューソス神の祭りから始まったとされる。以前、古代ギリシャと古代ローマの劇場の違いに触れた事があるが、古代ギリシャの劇場にはステージに祭壇が付いていて、ディオニューソス神に敬意を表する儀式から開始され、神に犠牲の動物を奉納するのが伝統であったそうだ。演目は当初は悲劇が中心。後に喜劇やサテュロス劇が加わるが、劇場で神々の物語や後に陥落した街の悲劇も演じられるようになった。※ 演じたのは男性であるが、女性のキャラクターも後に登場してくる。口承で伝わっていた話を、文字に起こし、神々や英雄らを体系的に整理したのが叙事詩人ヘシオドス(ēsíodos)(BC700年頃)が最初と言われているが、個々の神や英雄の詳細は、後世の詩人の創作力による所が大きい? 神事で創造され演じられたギリシャ神話も多かろう。上はアフロディシアス(Aphrodisias)から出土した女神? 「悲しみの仮面」を持っている。劇場に置かれていたものかもしれない。解らないのはなぜ古代ローマ帝国がギリシャの神々をローマに翻訳したのかである。確かにギリシャの文化を継ぐエトルリア文化をもってローマ帝国は建国されているけれど・・。シンクレティズム(syncretism)古代ギリシャのオリンポス12神(Olympus 12 God)をはじめとする神々は対応するように古代ローマ帝国ではローマの最高神ディー・コンセンテース(Dii Consentes)として置き換えられている。因みに、先の穀物のローマの女神セレス(Ceres)は、ギリシャではデーメーテール(Dēmētēr)である。ギリシャ神話とローマ神話の中身が同一だと子供の頃から不思議に思っていたが・・。古代ローマの政治家にして博物学者であるプリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus)(23年~79年8月)はこれら置き換え(translatability)について「nomina alia aliis gentibus(他の国の他の名前)」と表現している。これは単に名前をラテン語に置き換えただけではない。神話や図像さえも自分たちの神と同一化? 同一視? して文化に取り込んでいるのである。「その神様はうちの国ではこう呼ばれているのですよ。」的な事だ。つまり最初からそうであったようシンクロ(同期)させちゃっている?いや? 迎合か?文化が違うのだから、当然相異するべき信仰を、しかも矛盾するようなものまでも混合して結合する。と言う荒技でギリシャの文化に乗っかっちゃっているのである。※ 最も全ての宗教でそれができる訳ではないがたいがいの国は後から来た宗教との折り合いを付ける為にしばじば使用されてきた技かもしれない。おもに宗教、神学、神話において、元来異種なものを「無理くり」地元神と関係性を持たせて、地元に根付かせる。的なやり方である。これがシンクレティズム(syncretism)である。ローマがそれをしたのは意図があっての事か? 今回交易で調べていて「ローマの市民権」の下地に「ギリシャの市民権」を借りてベースにしている事などを見ると、もしかしたら古代ローマ人はギリシャ文化を尊厳していたからなのかもしれない。「寄らば大樹の陰」か? 「先祖は一緒」としたいのか? もしそれが正しいなら逆に潔(いさぎ)良い真似方かも・・。アフロディシアス(Aphrodisias)トルコ南西部エフェソスにほど近いアフロディシアス(Aphrodisias)は、BC3世紀に築かれたアフロディーテ(Aphrodītē)神殿を中心にBC2世紀頃に急速に形成された古代ローマの都市群の遺跡がある所。世界文化遺産に登録されている。アフロディーテ(Aphrodītē)神殿BC1世紀のイオニア式神殿 13×8本の円柱を持つ。神域自体はBC3世紀にはあったとされる。東ローマ(ビザンツ)時代はカリア地方の大主教が置かれアフロディーテ神殿はキリスト教の教会に転用されていた時期もある。※ シチリアのアグリジェント(Agrigento)の神殿も教会に転用されてましたね。カリアの町はローマの帝国の軍人ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(Lucius Cornelius Sulla Felix)( BC138年~BC78年)が、デルポイ(Delphoi)の神託を受けてBC82年「アフロディーテ神殿に斧と金の冠を奉納」した事から、以来アフロディシアスの名で呼ばれるようになる。スッラは共和制期末のローマ帝国内で、民衆派の内乱を粛正。その奉納の年に独裁官に就任する。デルポイの神託の効力は本当にあったと言う事か? スッラの後、まもなくローマは共和制から帝制に移行する。この街は以降ローマと関係が深まり大きく発展。ジュリアス・シーザーの頃に街も建て替えられたのかもしれない。特権が彼と帝制ローマの初代皇帝アウグストゥスに与えられている。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」の中、「リュディア王国とデルポイの神託」でアポロン神殿を載せています。デルポイの神託は本当に人気があったようです。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス下は一応アフロディーテ(Aphrodītē)と言うことになっているが、本来はカリア地方で祀られていた地元神だったようだ。この土地はアッシリア人により始まっている。ヘレニズム期に歴史の表に出て来た時はエフェソスと同じようにギリシャ的な街造りがされている。アフロディーテ(Aphrodītē)はギリシャのオリンポス神の一柱。ローマ帝国ではウェヌス(Venus) 美の女神ヴィーナスである。ここに、先に紹介した神様のシンクロ(同期)が行われているのであるが、そもそもアフロディーテでもなかったようだが・・。 円形劇場(Theater)ヘレニズム期に造られた劇場は山の斜面が利用されている。聴衆席、半円形舞台(オーケストラ)、舞台の3部構成になっていて、ローマ帝国時代になると、都市の名士の為に半円形舞台の中に特別席がもうけられるようになる。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス」でエフェソスの劇場も紹介していますがエフェソスの方が規模は大きい。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス※ 初期の頃「音楽堂と野外劇場と競技場と闘技場」について少し紹介しています。リンク 古代ローマの円形劇場 1 (ギリシャとローマの違い)奧に見えるのはアゴラ(Agora)。 集会場や市場などの商業地区である。オデオン(odeon)音楽堂小規模な劇場である。会議場として造られたのかも。スタジアム(stadium)他の遺跡ではなかなか見られないほぼ完璧なスタジアムが見学できる。地中海域では一番良い状態のものらしい。262m×59m トラックのサイズ 225 m (738 ft) × 30 m (98 ft).30000人収容スタジアム内の石の残骸は、かつて地震で劇場が失われた後、ここを一部改装して劇場を造った跡らしい。テトラパイロン(Tetrapylon) 門かつては、街は城壁で囲まれて4つの門があったのかもしれない。3つの門と書いている人がいるがテトラ(Tetra)と言うのだから4つのはず。この門は街のメインストリートの北に位置するので古い時代の北門か? と思ったが東門らしい。街はさらに拡大している跡が空撮でわかるので、すでに門ではなく、街のモニュメントと化していたのかも。メインストリート度重なる地震で修復はままならず、最後は放棄? ポンペイと違った事情で保存されたのである。この遺跡は割と良く残っている方である。共和制ローマの時代から最終的に14世紀までアフロディシアス(Aphrodisias)は辛うじて存続したが、やはり衰退のきっかけは度重なる地震の影響かと思われる。ウィキペディアには7世紀初めの地震となっているが、トルコの地震の歴史から見ると該当する巨大地震は以下3件。262年のアナトリアの西と南の海岸に起きた震度9の地震。※ エフェソスの街の多くが倒壊している事からご近所のこちらも同じレベルと考えられる。526年のアンティオキアを中心にした震度8の地震。557年のコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震。※ 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都コンスタンティノポリスは完全倒壊していたらしい。※ 550年の地図をベースに書き込みました。557年と言えば先にも紹介した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(在位 : 527年-565年)の治世である。前回紹介したよう、542年~543年頃、歴史的パンデミック(pandemic)が起きたばかりである。立て続けに557年の巨大地震では、再征服など行けるわけがない。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世同様にユスティニアヌス1世の治世後半は気の休まる時が無かったと言う波乱の時代だったかもしれない。ところでアフロディシアス(Aphrodisias)の街の繁栄は近隣での大理石の採掘にあった。同時に彫刻でもローマ帝国内でカリアの彫刻師は評価が高く、石のみならず、彫像も小アジアの属州や帝国の各地に輸出される交易品だったのだ。どこかの壁面に組み込まれていた? と思われる巨大パーツの彫刻。改めて「手彫り」なのだと思うと凄い作品です。アフロディシアスには彫刻家の学校がヘレニズム時代後期から存在し、5世紀の東ローマ帝国時代までは盛況だった? らしい。技術のある職人が育ち、また寄って来ていた事もあったのだろう。完成、未完成の大理石の彫像や石棺がアフロディシアスには埋もれていたのである。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」で紹介した「ロリカを付けたアウグストゥス帝」の大理石の彫像もアフロディシアスの工房作品だった可能性が極めて高い。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世栄耀栄華(えいようえいが)を極めたローマ帝国はいつのまに消えたのだ? と思っていたのは私ばかりではないだろう。ローマ帝国の歴史はユスティニアヌス1世(在位 : 527年~565年)あたりでだいたい終わっている。正式に東ローマ帝国が滅亡するのは1453年。まだ900年弱残っているのにだ・・。1453年の滅亡の時はすでに歴史の主役では無くなっていたからまさにフェードアウトして行った感のある終わり方である。滅亡するまでの間に何があったのか? これを説明するのは確かに容易ではないし長い歴史を細かく説明するのは無意味かと思う。私流のザックリ解説です。ユスティニアヌス1世以降は東ローマ帝国自体が変容してもはや今までのローマ帝国では無くなった。・・と言うのが大きな理由の一つだと思う。ユスティニアヌス朝もユスティニアヌス1世を除いて以降ろくな皇帝は出なかった。強いて言うなら次の朝を築いたユスティニアヌス1世の縁戚、ヘラクレイオス1世(Heraclius)(575年頃~641年)(在位:610年~641年)は特筆しなければならない皇帝だ。※ 彼はクーデタを経て帝位に就いている。ヘラクレイオス1世が帝位に就いた時は前回紹介したようユスティニアヌスの時代に発生した疫病がパンデミックとなり60年にわたって流行していたし、先に紹介している557年にコンスタンティノポリスで起きた震度10の地震の影響で人口が激減していた。※「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中「ユスティニアヌスの黒死病」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック壊滅した帝都コンスタンティノポリスの再建で莫大な費用がかかっていたし、属州だって同じくパンデミックと地震の影響で壊滅状態。穀物の生産もままならなかっただろう。国庫は財政破綻の状態であり、当然軍事力も低下していた。そんな時にサーサーン朝ペルシアに襲撃され大事な穀倉地であったシリア・パレスティナを、次いでエジプト・アナトリアを占領されローマ帝国の権威が失われる事態が起きる。一度は絶望したヘラクレイオス1世であるが627年にニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利、翌628年に自らサーサーン朝の首都クテシフォンへ侵攻し、結果サーサーン朝は滅亡する事になる。が、勝利の向こうで、次の強敵、イスラム教を信仰するアラブ人の勢力がシリアへの侵攻を開始していた。636年、自ら軍を率いるがヤルムークの戦いでアラブ人に敗戦。シリア・パレスティナを今度は別の敵に奪われる事になったのだ。※ シリア・パレスティナを失った事はローマ帝国にとって非常に大きな痛手となった。このイスラム教を信仰するアラブ人の勢力こそが、中世期のキリスト教国を苦しめる最大の敵となるのである。話しはヘラクレイオス1世に戻って、抵抗むなしく帝国領土を減らす事になった皇帝ヘラクレイオス1世であるが、それ以上の功罪が彼にはある。彼の治世に公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えたのだ。「公用語はラテン語」と言うのはローマ帝国のアイデンティティ(identity)であったと言える。もはやローマ市民のローマ帝国ではなくなり、ギリシア人のローマ帝国? になってしまったようなもの。これはもうローマ帝国ではないだろう!! と私もツッコミたくなる。この時点で「ローマ帝国は終わった。」と言うのも確かに、致し方無いのだ。アウグストゥス(Augustus)からバシレウス(Basileus)へアウグストゥス(Augustus)は、ラテン語で「威厳者」または「尊厳者」を意味する歴代のローマ皇帝の称号のひとつ。初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス)以降ローマ帝国の皇帝を示す最高の称号であった。しかし、ヘラクレイオス1世はそれを好まずギリシャ語で「主権者(sovereign)」を意味するバシレウス(Basileus)と称している。それはギリシア語の君主の称号を意味。そしてその称号は以降の東ローマ(ビザンチン)帝国で800年間使用される事になる。ローマ帝国がローマ帝国でなくなった決定打かもしれない。東ローマ(ビザンチン)帝国と 元 西ローマ帝国領の関係前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で以下に紹介している。東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になった。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマ帝国の皇帝制は解体された。この時、西ローマ帝国は実質滅亡した。先の事を踏まえると、もはや東ローマ(ビザンチン)帝国自体も以前のローマ帝国では無くなっていたが、かつての西ローマ帝国領は、まだ東ローマの直轄領としてイタリア半島にも残っていたのだ。※ イタリア半島でもローマやラヴェンナ、地中海域にはシチリア島やサルデイーニャ島など。下は717年、東ローマの直轄領の販図。かつての規模のローマ帝国はもう無い。驚く程縮小されている。地図はウィキメディアのを借りて若干構成を変えました。そもそも西ローマ帝国で皇帝がないがしろにされていたのはローマ教皇の力が強かったからに他ならない。しかし、ローマ教皇は軍隊を持たない。それはこれから起きるイスラム教徒の侵略に対して絶望的な事態を招いたのである。※西ローマの皇帝制が解体された時、付随する軍隊も当然消滅している。危機の時は本家の東ローマ(ビザンチン)帝国がフォローしなればならなかったのだが・・。いざ危機となり、ローマ教皇は再三助けを求める手紙を送っても、ローマがまさに襲われた時でさえ東ローマ(ビザンチン)側は軍隊さえ送ってくれなかった。もっとも東ローマ(ビザンチン)側にもそんな余裕はなかったのだ。だからイタリア半島のみならず、地中海域の警備もがら空きの空白を生んでいた。だからその時になって、ローマ教皇側は慌てて自衛の道を探る事になった。因みにこの時の恨みは後に東ローマ(ビザンチン)が滅亡する時の因縁となる。ローマ教皇とカール大帝教皇に応(こた)えてくれたフランク王国のカール(Karl)王(742年~814年)に大帝の称号を与えたのはまさにローマ教皇の感謝であったが、同時に神聖ローマ帝国と言う新たなローマ帝国の樹立は東ローマ(ビザンチン)帝国との縁切りを示していたと思われる。カール(Karl)大帝=シャルルマーニュ(Charlemagne)大帝 神聖ローマ皇帝(在位:800年~814年写真はウィーン王宮内宝物館で撮影北方蛮族でしかなかったフランク族であるが、カトリックに改宗したのはどこよりも早かったと言う。ローマ教皇レオ3世(Leo III)(750年? ~816年)(教皇在位:795年~816年)はカール(Karl)王率いるフランク族の軍事力に賭けたのだ。フランク王国の覇権は北はドーヴァー海峡、南はピレネー山脈。東はライン川を越えてエルベ川に達していた。イタリアではロンゴバルト族を南伊に排除し勢力を拡大していた。カール王はローマ教皇レオ3世により「神聖ローマ帝国の皇帝」に任ぜられた。つまりかつてのローマ帝国に変わり、カール大帝はキリスト教国である西欧の国を守る大任を教皇からまかされたのであった。もっとも二人の死後、再び戦乱となるが・・。以前、ザルツブルグのザンクト・ペーター修道院の所で「カール大帝の文教政策」について書いています。軍才だけでなく、考え方においても、統治者としても、ただ者ではなかった。リンク ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)イスラム教徒の海賊に荒らされる地中海622年~750年に至るイスラム帝国の販図 ウィキメディアから借りたものに書き込みしました7世紀に入ってイスラム教徒の勢力が拡大。時代的に先に紹介した東ローマの直轄領の販図に重なる時代です。ローマ帝国の力が弱まってくると北から、東からゲルマン民族が流入し戦いが続く。すでにイスラム正規軍?はイベリア半島を手中にしピレネーまで越えようとしていたし、中東やアフリカはイスラム化してその彼らは盗賊や海賊となってまずは地中海から欧州への侵略が始まったのである。同時に各地で起こる侵略者との戦いにローマ帝国の軍隊は足り無かった。もはや東ローマは自身の帝都も危ぶまれる事態であり、かつてのように地中海の警備もままならず、地中海は盗賊の思いのままに荒れ放題と化す。※ ローマ帝国が安泰していた時代は帝国の海軍が地中海交易の安全を確保していた。ローマ帝国による地中海の警備がいつの頃からか? 消えた。地中海域でのかつての大規模農園は中世まで多少残るには残ったらしいが、輸送途中でイスラムの海賊に襲われる事も・・北アフリカのイスラム教徒は誰もが盗賊となって地中海に繰り出した。人を人と思わない誘拐に近い略奪。それは聖戦の名の元に彼らは正当化した。地中海域の島や沿岸(フランス南岸やイタリア半島)では多くのキリスト教徒のローマ市民が連れ去られ、売られイスラムの奴隷として生涯を終えるなどと言う暗黒時代を迎えたのである。中世初期から中世に至る暗黒の時代(Dark Ages)とはまさにイスラム教徒の侵略によるキリスト教徒の苦難を指している。サラセン(Saracen)の海賊中世のローマ帝国側ではイスラム教徒の海賊達をサラセン人(Saracen)と呼んでいた。本当はアラブ民族でも砂漠に住むベドゥインを指したワードだったらしい。北アフリカにいた彼らベルベル人やムーア人はイスラム教徒となり、海賊を生業(なりわい)にしたからだ。古代ローマの時代の北アフリカでは牡蠣の養殖や大規模な生け簀で魚も養殖していたらしい。また大規模農園が広がるローマ帝国の重要な穀倉地帯でもあったのに、彼ら新たなイスラムの住人は農業など見向きもしなかったらしい。(そう言う仕事は得意ではなかったのだろう。)アルジエリアとチュニジアは7世紀末には完全イスラム化。中世を通じて海賊の一大基地に成り上がったと言う。サラセンの海賊が常用するのはガレー船の中でも小型のフスタ(fusta)。帆柱は1本、船の長さと同じくらいに大きな三角帆。漕ぎ手は16人~20人。船頭に漕ぎ手と戦闘要員を合わせても40人程度の乗員。そんな彼らの海賊行為はまさに行き当たりばったり。地中海の島々や、後にフランス南岸やイタリア半島に密(ひそか)に忍びより、村人をさらい、食糧など奪い逃げる。組織化された海賊ではないが部族単位? そんなのが無数にいて、地中海の島々や後にフランス南岸、イタリア沿岸は彼らのターゲットとなるのである。村々では自衛の為に「サラセンの塔(Torre Saracena)」と呼ばれる見張塔を建てる事になる。それで彼らが忍び寄るのを監視したのであるが、フランスやイタリア沿岸の海岸腺に沿って無数に建てられていたのだからいかに酷かったか・・を物語っている。今も地中海沿岸にはそれら塔が残っていたりする。下はイタリアのアマルフィから 見張塔 トッレサラチェーノ(Torre Saracena)の跡である。アマルフィの街は840年頃に作られたと言うが、すでに当時は海賊に侵略されていた防衛の痕跡がある。アマルフィ(Amalfi)の街はそもそも絶壁に建っているが、他の島や沿岸の村々でも、みな高台に居を構えるにいたったのである。当然、襲われにくいし、逃げられやすいように・・。決して風光明媚(ふうこうめいび)などと言う事情ではなかったのだ。イスラム教徒は、オセロのように世界をイスラム教一色に変える為に戦いを拡大して行く。「右手に剣、左手にコーラン」がスローガン。「誤った教えを信仰する異教の信徒に対して、武力を持って(強制時に)改宗させる。」それこそが彼らの言う「ジハード(jihād)」だった。※ イスラム法学上のジハードは、まさにこの異教徒との戦闘を意味するそうだ。また、それを達成する為にはどんな手段であっても問題無しとされた。アマルフィ(Amalfi)の街からアマルフィ大聖堂(Duomo di Amalfi)聖アンデレに献堂されたのでサンアンドレア聖堂(Cattedrale di Sant'Andrea)とも呼ばれる。987年頃、マンソネ(Mansone)公爵によって建てられたと言う。入口の門の写真のみウィキメディアからかりました。Xにクロスした十字架で殉教したのでそれが聖アンデレ(Sant'Andrea)の象徴となっている。景観が人気のアマルフィ海岸であるが、そもそもこんな土地だから耕地は無い。輸出に向けられる特産品も無い。だから彼らは海に出て行くしかなかった。アマルフィはイスラムの攻防の後に海洋都市国家に成長して行く。土地は少ないのにイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つにまでなったのである。イスラムと渡りあえる海上戦力が役にたったのだろう。海賊に侵略されていた過酷な時代があったとは、今の人は思いもよらないだろうが・・。ところで、サラセン人の海賊行為も後にビジネスライク(businesslike)な変化を遂げる。拉致した人々は当初は奴隷として売り飛ばされていたが、新たに身代金を取ると言うビジネスが生まれたのだ。身代金は身分の高い者からだけでなく、都市全体も対称となった。街や村の回りを荒らし回り、彼らを散々脅してから退去をほのめかしお金を受け取る。シチリアの守備の堅かったシラクサまでもが身代金を払って退散の取引をしていると言う。彼らサラセン人も海賊であげた収益の一部を上納していたからだ。つまり、正規のイスラム軍ではなく、彼らサラセン人の場合は、聖戦に関係なく、単純にビジネス海賊だった? と言える。シチリア島もシラクサを除いてイスラムに略奪された。965年に全島が陥落すると都はパレルモに移される。そうなると彼らの次の狙いはイタリア本土。シチリアを拠点に襲って来るのだから皆戦々恐々。アマルフィだって対岸の近くだ。そしてついにイスラム軍はローマにまで達するのである。そんな時代だから地中海で遠くに船を出す事さえ危険でできなくなった。共和制から帝制初期のローマ帝国で行われていた大型輸送船による大規模な物流などすでに夢幻(ゆめまぼろし)? キリスト教徒側からしたら危険な地中海での交易は消えたに等しい、だが、イスラム側からすれば地中海でのキリスト教徒を対象にした誘拐略奪行為自体が地中海交易の目玉であったと言える。これは落ちか? せっかくなのでアマルフィの写真を追加しました。ムデハル(mudejar)様式に似たアマルフィの大聖堂実は大聖堂の建築にイスラム建築の影響が見られるのです。実際、アマルフィはイスラムの支配を受けた事はないはずなのですが・・。それはまるでイベリア半島のムデハル様式のようなミックス? なのです。教会横の鐘楼は、そもそもイスラム教のミナレット(Minaret)のようです。※ イスラム教の礼拝の呼びかけをするアザーンが流される塔。マジョルカのタイルで装飾されているらしい。タイルを使うのはそもそもスペインだものね。イタリアならガラスのモザイクが本当。教会の工事をしていない状態の時の正面写真。逆光だし、カメラの解像度も悪いのであしからず。増築されてチャンポンなのは解るが・・。やはりモスクの跡を改築したように見えてしまう。もっともシチリア島でイスラム文化が育っていたのでブームはあったらしいが・・。天国の回廊(Chiostro del Paradiso)ロマネスクのようでロマネスクでも無い。以前アルカサルの所で紹介していましたが、ムデハル(mudejar)様式 はイベリア半島がレコンキスタ(Reconquista)された後に育った特殊な融合文化です。それはイスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイルです。※ キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動がレコンキスタ(Reconquista)です。そもそもムデハル(mudejar)とは、イスラム教徒を指すワードです。レコンキスタされ、イスラムの国からキリスト教の国に変わった後も、改宗して土地に残った元イスラムの人々をスペインではモリスコ(Morisco)と呼んでいました。その元イスラム教徒の職人達(モリスコ)の技術がいかされて、キリスト教の様式と融合。ムデハル様式(イスラム的要素のある様式)が生まれたようです。それは単純な「文化の融合」ではなく、ムデハル達の職人技術の上に成り立つ様式なのだそうです。それが、シチリアでも育っていたのかもしれません。さすがにイタリア全土には及ばなかったかもしれないが、シチリアに近い地中海の湾岸部ではそうしたモリスコ系のムデハルのデザイナーや職人がたくさんいたのかも知れない。実際、シチリアのバレルモにあるヌォーバ門(Porta Nuova)は確実に影響が出ています。参考にヌォーバ門(Porta Nuova)紹介どう見たってムーア人にしか見えません。1535年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が隣接するノルマンニ宮殿(Palazzo dei Normanni)に入城する記念に建築されたらしい。そもそも、何で門柱にムーア人像を取り付けたのか? 理解できません。魔除け?※ カール5世(Karl V)(1500年~1558年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I) 神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年) スペイン国王(在位:1516年~1556年)エマヌエル通りの終点に位置する。観光の目玉らしいが、これを見て皆は何を思う?さて、今回も長くなりましたが、実質のローマ帝国はここで終わりとします。が、11世紀から始まるキリスト教徒側の反撃? 西ローマ側だった者らによるエルサレム奪還の十字軍の遠征。西側はそのどさくさで東ローマ(ビザンチン)帝国を滅亡に導いている。次回は、海洋都市国家の予定ですが、伏線として「インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)」の説明を「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」に入れてます。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa) アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年04月07日
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カンナビ(神奈備)について書いたリンク先追加しました。2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集しなおしたものです。「大天使ミッシェル(ミカエル)」も合体させました。ほぼ別物です。ところで先ほど「キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール」の写真も総入れ替えしました。リンク キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール以前の陸橋が壊され、パセレル橋(Pont Passerelle)が2014年に完成。全体の見える景色は2014年を境に若干変わっているようです。写真の最新は2010年11月なのでオリジナルの新しい橋の写真はありませんが、モンサンミッシェル内部の写真はかなり増えているので沢山載せられます。むしろ多すぎて選ぶのに時間かかっています。「欧州の交易路」もあるので少しずつ変更していく予定です。橋の完成に伴い、島への一般車輌の乗り入れは禁止されました。それに伴いモンサンミッシェルの街には以前なかった大きな駐車場が何カ所か増設。そこから無料のシャトルバスで島まで向かうようになったのです。※ 鉄道駅は街に無い。でも、島内への宿泊者の場合、団体専用バスでの乗り入れができるそうです。またシャトルバスは夜0時まであり、モンサンミッシェルの夜景を島の外から眺め撮影する事も可能。モンサンミッシェルの観光のポイントは「潮の干満のタイミング」と、「映(ば)える天気」。何より干満の差を楽しむなら日帰りよりは泊りが望ましい。干満時間を考えて日帰りは難しいので・・。※ パリからだと往復時間がかかるので時間的余裕はほぼ無い。モンサンミッシェル城壁内に宿もあります。街はずれにはモンサンミッシェルが望めるホテルもあります。それにしてもいつの季節に訪問するのがベストなのか?そしてこだわるならばやはり一番は潮の時間。大潮の時が本当はベストでしょうねモンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史大天使ミカエル崇敬の聖地岩山の聖堂大天使ミカエル(Archangel Michael)天使のヒエラルキー(Hierarchy)モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史BC5000~BC3000年の新石器の時代、その太古からモン・サン・ミッシェルの岩山は神聖な場所とされていたらしい。※ この時代の巨石記念物の墓碑(ドンメル)が頂上付近にあったとされている。また、4世紀から6世紀にかけて、ブルターニュ地方はグレートブリテン島南西部から移住してきたブリトン人の地となり、次いでこの地に定住したケルト系民族にとっても、ここモン・サン・ミッシェルの岩山は霊場とされていた。※ ケルト人の事は以前「古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)」で少し紹介。リンク 古代ローマ水道 9 (イングランド・バース編 2)※ 次章でケルト民族の移動の事など詳しく書きました。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人トーンブ(墓)という名の岩山が突き出ていて、人々はこの岩山を霊場と仰ぎ始めた。ガリア人(ケルト人)の時代には光の神ベレンの神殿があり、ローマ時代には旅と使者と商業の神であるメルクリウス(ヘルメス)の神殿があったとも伝えられている。キリスト教の時代に入ると昔の異教の霊場の多くはキリスト教の聖地に変わっているが、トーンブの岩山もまた5世紀にはキリスト教の隠者がすでに庵を構えるキリスト教の霊場になっていたらしい。聖オベールの夢(Dream of St. Ober)突然現れた大天使ミカエル(Michael)or大天使ミッシェル(Michel)からお告げを受ける司教オベール教会のゲート上のティンパヌム(tympanum)だったものでしょうか?アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)メロヴィング朝の第10代国王キルデベルト3世(Childebert III )(695年~711年)(在位:695年~711年)の治世の話し。大天使ミカエル崇敬の聖地モンサンミッシェルからほど近い(2時の方角)にあるアヴランシュ(Avranches)の旧市街は海を見渡せる高台で、かつて司教座聖堂が置かれていた。※ 司教座聖堂は近隣の教会を統括する大きな聖堂を持つ教会で司教が常駐していた。司教オベールは毎日霧の中から現れるこのトーンブを見ていたらしい。8世紀の当時頃、トーンブの回りはまだ陸で、シッシーと言う森に覆われていたと言う。島ではなかった? らしいのだ。ある日、司教オベールは夢を見た。モン・トーンブ(墓の山)に「我が名を称える聖堂を建てよ。」と大天使ミカエルからの夢のお告げであったと言う。そこで司教オベールは、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)するべく、2人の役僧をイタリアに使わし大天使の残した衣の一片をもらい受けたと伝えられている。そこは5世紀に3度にわたって大天使ミカエルが姿を見せたという南イタリア、プーリア州山脈、モンテ・カルガーノ洞窟。モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)。大天使ミカエル崇敬のブームが西欧教会に起きるきっかけとなったミカエル信仰の因縁の場所らしい。かくしてトーンブ(墓の山)の上に709年10月16日最初の堂が建立されるのだが、その頃、地盤沈下? モン・トーンブは海の中に在る島となり、聖ミカエルの山、モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)と呼ばれるようになったと伝えられる。因みに、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)の「大天使の洞窟」は幾世紀にもわたって大天使ミカエルの巡礼地となっていて、その出発点がフランスのモン・サン・ミシェルとなっているらしい。※ 大天使(Archangel)は天使九位階の八位に当たる位階(ランク)。ところで、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)のブームから、聖ミカエルを奉る聖堂を建てる事は当時欧州で流行していた事らしいのだ。※ サンタンジエロ(Sant'Angelo)もサン・ミッシェル(Saint Michel)も聖ミカエル(St. Michael)も同意。それ故、夢と言うのは方便で、本当の所は政治的背景があっての事? と推察される。フランク王国の宰相ピピン2世(Pippin II)( 635/40年~714年)への忠誠と、隣のドル司教区で、モン・ドル(ドル山)の岩山を聖ミカエルに献じていたからアヴランシュ(Avranches)は負けじと競い合った? と言う話しがある。岩山の聖堂最初の聖堂は、岩山頂上の西斜面に切り出し花崗岩の石を大雑派に円形に並べた造りで、100人収容できるサイズであった。聖堂に置かれた模型から。上が10世紀。下が11~12世紀の聖堂と推定。モン・サン・ミッシェルは岩山の上に増築されて大きくなっていった。13世紀に火災によりロマネスクの聖堂は焼失。ゴシックで建造される事になる。下が20世紀の教会通常、写真の撮影できない側からのショットです。ウィキメディアからの空撮。橋の建設途中のようなので2014年以前の写真のようです。司教は礼拝を行う為に12人の修道士からなる修道会を設立するが、当初はケルト人の古い修道会と同様のしきたりで厳格な規律の下に生活していた。堂は966年にベネディクト会派修道会に引き継がれる。13世紀にはほぼ現在の形になったらしい。下は、図解ですが、教会の聖堂を除くと下からトーンブ(墓)という名の岩山が現れます。新たに比較的大きな教会堂が頂上に築かれ、(現在は基礎部が発見)900~930年頃に大ききな礼拝堂が建立された。(現在のノートルダム地下聖堂・・上の写真の上部、Dの部分)トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたようです。以前、秦氏の創建した「蚕の社(かいこのやしろ)」の所でカンナビ(神奈備)の事を紹介していますが、そこも同じように古来より「神の座所」だったのではないか? と考えられる。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての神聖な場所。「霊験のある場所」と解釈できる。実際、昔から神秘性を帯びていた景観を持つこの岩山が宗教が変わっても霊場とされてきたのは「神聖な力とされる物があったから」と伝えられている。この山頂では奇妙な電光現象が度重なって起こった。伝説によれば山の下は計り知れず深く、天と地上と地下で結ばれていると考えられ「神々と人間とを結ぶ伝達経路としてこの岩山が存在していた」などとも信じられていたらしいのだ。※ 「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」の中でカンナビ(神奈備)について書いています。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎岩山を切り崩す事なく? の跡が教会の構造上も見られる。不自然な構造突き出たトーンブの岩が見られる。パセレル橋(Pont Passerelle)ができる前のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)教会の尖塔には、モンサンミッシェルの名の縁となるミッシェル(Michael)の像が据えられている。※ ミカエル(Michael)に同じ。下は城門をくぐってからの撮影ミカエルは、神の御使いとして天と地の間を往来するとされ、地上から高くそびえ立っている岩峰や塔の上などに好んで降臨すると信じられ、ここモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でも尖塔のてっぺんに飾られています。(肉眼では尖塔は見えませんが・・)16世紀には、鐘塔の上にすでに金の大天使の像があったとされるが1594年の火災で消失。海抜157mの今日見られる彫像は、1897年に作られた作品。彫刻家エマニュエル・フレミエの原型(1879年制作)で、建築家ヴイクトル・プチグランが拡大レプリカを作り、自由の女神を手がけたアトリエ・モンデュイが制作。高さ4mの大天使像は打ち出し銅版製で鉄の骨組みにボルトで留められていて、総重量450kg。剣と羽根の先端が避雷針になっている為、100年の間に変形したらしい。1897年ヘリコプターにより取り外し、修理金箔の張り直しをし、再びヘリで戻して取り付けると言う技術のいる、大がかりな修理にマスコミを賑わしたそうです。ヘリの無かった時代はどうやったのでしょうね?大天使ミカエル(Archangel Michael)ところで、モン・サンミッシェルなので大天使ミッシェル(Michel)とした方が解り易いかもしれませんが、ラテン語のミカエル (Michael)がカトリックでの一般的呼び名なのでこちらで統一します。以下参考にフランス語のミシェル (Michel) ドイツ語のミヒャエル (Michael) イタリア語のミケーレ (Michele) スペイン語・ポルトガル語のミゲル (Miguel) 英語のマイケル (Michael) キリスト教のみならず、ユダヤ教やイスラム教において偉大な天使の一人として大天使ミカエルは存在。大天使ミカエル(Michael)はキリスト教ではラファエル(Raphael)、ガブリエル(Gabriel)、ウリエル(Uriel)と共に四大天使の一人です。 尖塔の像のひな型が堂内に置かれている。甲冑を身につけ剣を突き上げ、足下では悪竜を踏みつけている。守護者というイメージからも、像は山頂や建物の頂上に置かれ、ルネサンス期に入ると、ミカエルはしばしば竜(悪魔の象徴)と戦うミカエルというイメージから軍神として、甲冑を付け、剣や槍を持って表現されている。それ故? 中世においてミカエルは兵士の守護者、キリスト教軍の守護者となったようです。現代のカトリックでも、警官や救急隊員の守護聖人であり、ドイツやウクライナでは街の守護聖人になっている所も。モンサンミッシェルのように甲冑を身につけ剣を抜き放って、足下に悪魔あるいは悪竜を踏みつけている姿で現される事が多い。サタン軍との戦いから? 中世は疫病もまた悪魔の仕業と考えられていた為、その悪魔を退治する意味で疫病を抑える仕事もミカエルの役割だと信じられていた? からかも。またヨハネの黙示録では「天の軍勢の長」として天使の軍を率いて悪魔と戦うのがミカエルとされ、同じく「最後の審判」では、キリストの足下で亡者の魂を秤にかけ天国に進む者と地獄行くべき者を振り分ける者として絵画や彫刻で表現されたりしている。大天使ミカエルは「神に等しき者」、「天使の王子」の異名を持つ。それは神に次ぐ者、時に神の名代。同時に神に近い実力を持つ者として存在?そんな訳でミカエルを守護聖人として多く祀る所が増えた? のかもしれない。特に疫病や戦争の増えた中世の暗黒期、アヴランシュ(Avranches)の司教オベールのように、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)し、山頂や教会の尖塔に像が置く街が増えたと考えられる。※ 少し前に紹介した「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で「ハドリアヌスの霊廟」が「サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)」と名を改めたのも城の上の大天使ミカエルに由来していたっけ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の尖塔にある大天使ミカエルこちらはローマ時代に創建されているので軍服もローマ時代である。モンサンミッシェルのは甲冑から言えば13~14世紀の衣装です。サンタンジエロではミカエルの剣が納められている所からペストの終息が祈願されている。因みに日本の守護聖人として大天使ミカエルが祀られていた事もあると言う。なんと日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier )( 1506年頃~552年)がそう定めたらしい。天使のヒエラルキー(Hierarchy)ところで、天使にもヒエラルキーがあった。参考に載せました。天使の九位階と呼ばれるもので、神を中心として天球の層として現されている。これはダンテの「神曲」による所の宇宙絵概念図らしいのだが、9つの天球の層が9つの天使位階に対応しているのだとか。※ 神曲の天国編の解釈と思われる。当然、中心にいる神に近い順で地位が高いのだが、ミカエル達大天使は以外と地位が低い。熾天使(してんし・seraphim)(セラフィム/単数形はセラフ) 三対六枚の翼を持つ智天使(ちてんし・cherubim)(ケルビム/単数形はケルブ)座天使(ざてんし・Thrones)(スローンズ/単数形はスローネ)主天使(しゅてんし・Dominions)(ドミニオンズまたはキュリオテテス)力天使(りきてんし・Virtues )(ヴァーチュズまたはデュナメイス)能天使(のうてんし・Exousiai)(エクスシアイ/単数形はエクスシア)権天使(けんてんし・Arkhai)(アルヒャイ/単数形はアルケー)大天使(だいてんし・Archangelus)(アルヒアンゲラス/単数形はアルヒアンゲロス) 天使(てんし・angelus )(アンゲラス/単数形はアンゲロス)砂州だまりが牧草地化していた緑の向こうのモン・サン・ミッシェル。これもまた一興でした。ふと思った。前回、塩味の効いた牧草をはんだ羊のお肉は美味しいと紹介しましたが、ミネラルはともかく塩分は多いのだから羊だって高血圧になるのではないか?高血圧の羊、本当に美味しいのか? 若いうちに頂いてしまうなら問題ないのか?フランス革命の後、1793年最後の修道士が去るとフランス革命後に樹立された総裁政府により修道院全体が牢獄となったそうです。1863年まで国の監獄として使用され内部は改悪され荒廃、1865年に再び修道院として復元。島のサイドから後ろは海に沈む下はかつての陸橋 2010年の撮影写真にある陸橋は撤去され海流が流れるように橋がかけられた。2014年7月22日、新しく橋が開通。対岸から2km、砂州をまたぎパセレル橋(Pont Passerelle)が完成すると一般車両の島への乗り入れは禁止された。陸橋が砂州をため込み、陸と続いたら島ではなくなってしまう。との措置で橋脚の橋は2014年にかけられたが、歴史を振り返れば最初の聖域となるトーンブは陸続きの森の中にあった。その後、地盤沈下? 海に囲まれる島となった。たまに陸続きになると言う不幸から霊場に徒歩で向かう者の命を奪う危険な海域となった。最初から海なら船が使えたがここは船を出すにも中途半端。故に1877年に陸の橋がかけられ、安全が担保され、かつ美しい景色に世界遺産にも認定され繁盛。それにしても、本当に橋脚の橋は必要だったのだろうか?見た目は失敗だったのではないか? と思ってしまう。すでに150年の景色も存在し、定着していたのだから・・。おそらく、優先されたのはいろんな意味で経済的効果なのだろう。つづくまだ写真入れ替え途中ですが、次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 11」です。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月22日
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2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集して載せなおす事にしました。1~5になりました。ただ、モン・サン・ミッシェルは2014年に新たな橋がかけられかつてとはアクセスに関してはかなり以前と違ってきているようです。モン・サン・ミッシェル自体に変化はありませんが、見える景観も微妙に異なっているようです。比較するべく編集しました。尚、新規に更新した時点で古いのは削除します。モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までノルマンディー地方南部、ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られた場所です。モン・サン・ミッシェルの修道院は、サン・マロ湾の南東部に位置する岩でできた孤島にあり、かつては満ち潮の時に海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた場所です。それ故、行き来は潮の引いた時のみ。しかし干満の差は水位のみならず時間にもある。恐ろしく早く潮がたまり溺れる者が多数出る難所としても有名であった。1877年に本土との間に陸橋が架けられ、以降は潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。それは観光客の増大にもつながった。しかし150年の間に陸橋の存在による砂の堆積で砂洲の陸地化が進んだようです。環境保全の観点から? 陸の橋は壊され、新たに橋脚のついた橋の建設が始まり2014年7月パセレル橋(Pont Passerelle)がオープンしている。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェル2014年以降、パセレル橋(Pont Passerelle)ごしのモンサンミッシェル写真はウィキメディアから借りてきました以前は海だった所が島の駐車場になっているようです。むしろ景観が不自然に変わっている気が陸橋の頃の方がナチュラルで風情があった気がします。ところで、1979年「モン・サン・ミシェルとその湾」としてユネスコの世界文化遺産に登録。1994年10月にはラムサール条約の登録地とされている。陸橋の撤去は従来の砂洲とモンサンミッシェルが島でなればならないと言う環境保全のためであるが、ひょっとしたら、それはラムサール条約の問題もあったのかも。それまでは砂洲が消え牧草地化するのは悪い事ではなかった? 開拓の歴史もある。塩分の効いた牧草を食べた羊のお肉は美味しいと、それ自体が名産化していたはずなのだ。だが、自然の作用で干満の度に砂が残り、河川も運河化されて水流も代わり砂の除去機能が失われた事に加え、特殊な草の群生も影響したらしい。歴史的かつ、精神的意味合いのある島と言うモン・サン・ミッシェルの特異性が失われるのは何より困る。事態を危ぐした結果なのだろう。下の写真は引き潮の時のモン・サン・ミッシェルの空撮です。ただし2014年以前の写真のようです。ウィキメディアから借りてきました。引き潮の時は孤島ではなくなりモンサンミッシェルの周囲はかなり広範囲に陸地化します。こんな状態なので船が使えないのです。確かに写真では砂洲の緑地化が見えますがこれは夏の写真では?下は2008年の引き潮の時の写真です。バスの停車している所は海に沈む部分です。干満は一日に一度はありますが、みなさん観光のタイミングでそれを見る事は泊まりでなければ難しいのです。下の写真は2010年3月の満ち潮の時です。モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞モン・サン・ミッシェルの岩山は、3km北にあるトンブーヌ島と、23km西にある(ドル山)と共に、6億年前のヘルシニア造山運動で地層が曲がりくねるように変形する褶曲(しゅうきょく)山地の跡なのだそうです。引き潮の時に干潟に入る人もいるようですが、ガイド付きが望ましいようです。中には深い所もあり、足を取られて抜け出せなくなる場所もあるからです。何より満ち潮が始まるとあっという間に海になるからあまり沖に行くと死にます。周囲の湾は45000haにおよび、世界でも最大級の潮差が観測されている場所。太陽と月の引力が合わさる春分、秋分の大潮では、潮差は15mに達するらしい。この時、海は一度18km沖に引いた後に、今度は1分間に62m(毎秒1m)ものスピードを持って潮が満ち、砂州はまたたくまに海の中に沈む。馬が駆け上がるくらい潮の勢いが早いので地元では、「馬の早駆け(Gallop)」と呼ぶらしい。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになったが、それ以前は船で渡るか、干潮時にだけ現れる砂州を伝って島まで歩いていたので、よそから来た巡礼者はしばしば底なしの砂州に足を取られて動けなくなったり、満ちてくる潮にのまれて溺れ死ぬ者も多かった。確かに干潟には潮流の流れで作られた河も見られる。ラムサール条約は干潟を守る事なのか? 砂洲の牧草地化を防ぐものなのか?ちょっと真意が解かりかねるが、敢えてフランスでは干潟の開拓による土地の拡大をしてきた経緯がある。11世紀より、砂泥の浜の上に肥沃な農地を開拓しようと、堤防が建設され、オランダの技術も導入されて、開拓面積はどんどん増えているようです。リンク キンデルダイクの風車群 3 (ポンプと風車)修道院の城壁内ヘのゲート前2014年以前であるが、潮が引き始めると清掃が始まる。まず駐車場の土砂の除去。そして水洗い?今もやっているかは知りませんが・・。以前は門の中まで波が押し寄せ水浸しでした。これは大潮の時かな? 2010年3月つづくBack number モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月15日
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ラストにBack number追加しました。「騎士修道会 3 (ロードスの騎士)」の所にウイーンのマルタ教会の写真を追加しました。マルタ教会は聖ヨハネ騎士団をルーツとする教会です。リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)パンデミック(pandemic)とは、人にも感染する動物由来の感染症が、地理的に広い範囲で感染拡大(世界的流行)し、結果多くの感染患者を出す状態です。現在世界で流行しているコロナウイルスの蔓延がまさにパンデミックですが、歴史を紐解くとペストや天然痘によるパンデミックの発生がかなり伝えられています。今回、ローマ帝国の歴史を振り返り、イスラム海賊の実態にも驚きましたが、古代ローマ帝国の衰退の影にあった2つの大きなパンデミックに触れないわけには行かなくなりました。ローマ帝国の最強神話がくずれ始めた要因の一つは歴史的なパンデミックが発端であった事に間違いありません。最初はマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)の治世。次は東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527年~565年)の治世。いずれも大量の死者が出て都市機能もマヒ。人口の減少、食糧難。これらはローマ帝国の軍隊にも当然大きく影響した。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時は165年から167年にかけてメソポタミアで始まり軍により166年にローマに運ばれた。165年~180年まで続いたと記録されているようです。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時は542年~543年頃エジプトで始まりパレスチナ経由で帝都コンスタンチノープルに到達。流行の最盛期は1日に5000~10000人の死者が出たと言われ、人口の約半数を失い帝国は一時機能不全に陥たと記録されている。しかも最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。※ 昔はワクチンだって無いし治療法も当然無いから自然終息しかなかったのだろう。何よりユスティニアヌス1世自身がこの感染症に感染しているし、人口の減少は軍人不足となる。ユスティニアヌスが推し進めていた帝国の再統一を完全に断念せざる終えない結果となって現れている。今の私たちなら、このパンデミックの危機が理解できるだろう。歴史に残るパンデミックなのだ。一過性の伝染病の扱いですむ訳がない。確実にローマ帝国の歴史にインパクトを与えた事件です。ところで、これは「欧州の交易路」の話でしたが、次をどこから始めるかが大きな悩みでした。番外にするか? とも思ったのですが、やはりここはローマ帝国の滅亡に至る歴史をスルーするわけにはいかない。しかし、ローマ史は長い。短くしても長い。さらにパンデミックと経済を足しているからね。そんなわけで、今回はローマ帝国を衰退させた大きな要因の一つ、パンデミックの話。次回、地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話しと2回に分けて三度ローマ帝国の話になります。長くなりすぎて分割しました f^^*) ポリポリ これで前半です。アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラ初期の帝国と属州五賢帝とローマ帝国の販図伝染病の季節3世紀の危機帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌス農業形態の変化と停滞したローマの再建再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦ユスティニアヌスの黒死病以前、「ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかった」と紹介した事があるが、カラカラ(Caracalla)帝(188年~217年)(在位209年~217年)は212年「アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana )」を発布し全属州民にローマ市民権を与えている。これは今まであった差別を取っ払った素晴らしい英断のように思えるが、実際の所は増税が狙いであった。今までローマ帝国では市民権を有さない者は相続税や奴隷解放税などが免除されていた。決してローマ帝国が金欠だったわけではない、もっとお金を必要としたのは兵士の俸給を上げる為であったらしい。前帝の遺恨に「兵士を富ましめよ。」とあったと言う。カラカラは兵士の俸給を年額500デナリウスから750デナリウスへと1.5倍も昇給させているのである。確かにローマ帝国にとって兵士は大事。彼にとっても頼れるのは兵士のみ? (元老院とは敵対)だから兵士からの人気は絶大であったらしい。最も遠征中に29歳の若さで暗殺されているが・・。※ カラカラ浴場の建設も有名であるが弟を殺すなど人としては問題のある皇帝であった。なぜ紹介したかと言えば兵士の待遇である。給料が良ければ兵士は集まる。ローマ帝国の躍進は兵士なくしては成り立たなかったのだから兵士に十分な給料が払えるうちは帝国は安泰だったと考えられる。だが、そうも言っていられない事情で兵士不足が起こっていた。かつての強靱(きょうじん)な軍隊はどこへ? ローマ帝国は属州を守る為の軍隊さえ出せなくなって縮小されていく。皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus) 1888年画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)「Juan Antonio Pérez Simón」コレクション英国の男爵Sir John Richard Airdの発注で描かれたローマ帝国の23代皇帝ヘリオガバルス(Heliogabalus)(203年~222年)(在位218年~222年)の遊戯を描いた図。天幕の上の大量の花を来客の上に突然落として驚かすと言うネロ帝もやっていたと言うサプライズである。実際には大量の花で窒息死する者も出ていたと言う。※ 本来はスミレの花などが使用されたと言うがアルマタデマはバラの花をフランスから取り寄せて描いている。ヘリオガバルス帝はカラカラ帝の従姉妹の子供。現在ではヘリオガバルス帝はインターセックス(intersex)であったと理解できるが、娼婦になったりと奇っ怪な行動で有名であった。母と祖母の摂政で15歳で皇帝になるが、その行動故に19歳で暗殺されている。アルマ=タデマは好きな画家の1人である。彼は古代ローマやギリシャをモチーフに多くの美女の絵を残している。実に写実的に美しく描いた人である。実際の富めるローマ帝国の時代に、皇帝らはこんな事もしていたと言うイメージでまずは美しい絵を載せてみました。初期の帝国と属州帝国の属州は元老院管轄地と皇帝直轄地に二分される。治安の安定した元老院管轄の属州では元老院が属州総督を選出し派遣したが治安の安定しないガリア、イスパニア、ダニューブ地方、エジプト、シリアなどの帝国辺境地には尚、強力な軍事力で押さえる必要があり、皇帝によって任命された使節レガトゥス(legatus)が置かれた。つまり軍人総督である。※ レガトゥス(legatus)はラテン語で使者、使節、軍隊の副官、司令官、総督代理など高級将校や幕僚。エジプトなど豊かな穀倉の属州は皇帝の私領のように扱われ、元老院の影響が及ぶ事は無いよう排除されていた。それは次の理由による。皇帝直轄の属州における正規軍(ローマの市民)の常駐に加え補助軍隊として属州民で編成された軍団で軍事力を強化。また皇帝の身辺を警護する近衛軍の創設。それら経費は国庫だけで賄えないので皇帝直轄の属州からの収入が充てられていたからだ。初代皇帝のアウグストゥスは権限と権威を持って元老院を納め元首政(Principatus)を開始。帝国を支える軍隊と財政をしっかり確保して帝国を不動のものとし、ローマ市民や属州民の支持も得ていた。初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)写真は上下共にウィキメディアから借り下は部分カットしています。プリマポルタのアウグストゥス(Augusto di Primaporta)別名アウグスト・ロリカート(Augusto loricato)。戦闘直前のサインを出す瞬間の姿らしい。ローマ時代のロリカを付けたアウグストゥス帝の大理石の彫像です。高さ2.04m。※ 元々は大理石の上に彩色されていたらしい。※ 足下にいるのはヴィーナス神の子エロス。ユリアス家はヴイーナスの子孫を公言している。1863年、ローマの北に位置するプリマポルタ(Prima Porta)にあるアウグストゥスの妻リヴィアドルシラの別荘(villa)から発見された。(それ故保存状態が良い。)現在はバチカン美術館に保管されているようです。自分の写真に無かったので撮影できなかったのかも。ロリカの正面図柄にはローマの軍旗を返すパルティア王フラーテス4世(Phraates IV)。※ パルティアとはBC20年に和議を結んで戦争を回避している。※ BC17年には内外にローマの平和を宣言する世紀の祭典を開催。BC28年~BC27年頃の作とされているが、パルティアの和議を考えるとBC20年~BC17年頃かも。尚、誇張していたとしてもおそらく、最も本人に近い彫像と考えられている。五賢帝とローマ帝国の販図ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた時代がこの五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の時代である。アウグストゥス帝より始まり「五賢帝」の最後マルクス・アウレリウス・アントニヌスの終わりまでをローマ帝国の平和の時代としてパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ぶ。五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)12~16代皇帝ネルウァ(Nerva)(35年~ 98年)(在位:96年~98年)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年~117年)ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年)(在位:117年~138年)アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年)(在位:138年~161年)マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)(121年~80年)(在位:161年~180年)ところで、たまたま能力のある皇帝が5代続いたわけではない。帝位の継承を血の世襲とせず、広い範囲から有能な人材を抜擢して養子にしてから帝位を継承していたからである。帝国の販図は第13代ローマ皇帝トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年 ~17年)の時に最大規模となる。経済もしかり。117年トラヤヌス帝からハドリアヌス帝の時 ローマ帝国最大の販図ローマ帝国(Roman Empire)競合する地域(Contested Territory)一時的な征服(Tenporary Conquest)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年) 13代皇帝(在位:98年~117年)ウィキメディアからローマ帝国の販図は最大規模となる。トラヤヌス帝は初の属州出身の皇帝であるが軍人として有能であり元老院からも信頼され尊敬されるべき人物であった。治世19年の間に現ルーマニアにあたるダキアとシリアの要所ナバテアを併合。かつてのペルシャ帝国領のパルティアまで及んでいた。とは言え、まだ当時は近隣諸国が脅威になる程の力を持っていなかった時代らしい。ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)ウィキメディアから帝国の拡大路線は止めるが治世の半分を属州の視察に費やし国境安定化と街の防壁建造など防備もした。私が特筆したいのはハドリアヌス帝がローマ市内のパンテオン(Pantheon)を再建し、ここをあらゆる神を祀る万神殿とした事。各属州を回ったハドリアヌスは、それぞれの属州の文化を尊厳(そんげん)したのである。ローマ帝国が多神教と言うのもこれで納得できる。下はローマにあるパンテオン(Pantheon) 写真は上下共にウィキメディアから借りてきました。実はこの建物はハドリアヌス帝が再建(118年~128年頃)した当初のオリジナルなのです直径43.2m の円堂の上に天窓の開いたドームが載った構造で、壁面の厚さ6mのローマン・コンクリートでできている。天窓のオクルス(oculus)などネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレア(Domus Aurea)の建築が応用されているらしい。ローマ帝国がキリスト教を国境にした後、608年頃キリスト教の聖堂となった。ラファエロの墓がここにある。アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年) 15代皇帝(在位:138年~161年)ハドリアヌス帝の路線を継承彼の治世は「歴史が無い」と皮肉るほど平和で安泰した時代だったらしい。マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(121年~180年)16代皇帝(在位:161年~180年)ウィキメディアから先に紹介したとおりマルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世165年~180年は疫病が大流行した。彼の治世は戦争や洪水、飢餓、疫病が相次ぎ気の休まる時が無かったと言う波乱の時代であった。ローマの平和、パクス・ロマーナ(Pax Romana)はここに終焉する。アルメニアの覇権をめぐるパルティア王国と戦争に勝利したは良いが、ローマに凱旋した軍隊が戦利品だけでなく、疫病も運んで帰還したのである。600万人以上の犠牲者を出した。アントニヌスのペストと呼ばれているが、実際は天然痘によるパンデミック(pandemic)だったようだ。もっとも天然痘の他にも腺ペスト、麻疹(はしか)、インフルエンザが大流行している。この天然痘はそのまま定着して残りその後も猛威を振う。ローマの歴史家カッシウス・ディオ(Cassius Dio)によれば,189年に再び発生した疫病では1日2000人の死者を出し、帝国全土に広がり総死者数は500万から1000万人と推定されている。※ カッシウス・ディオ(Cassius Dio)(155年,163年,164年~229年)は22年間で80巻からなる「ローマ史」を書き残している。The angel of death striking a door during the plague of Rome疫病のローマでドアを叩く死の天使伝染病の季節毎年の夏のポピュラーな疾病は腸チフス、マルタ熱、マラリア。次いで肺炎、結核でこれらで当時の死亡率の60%を占めていたのではないか? と推測されている。またこれらに次いで、赤痢、コレラ、壊疽(えそ),壊血病。さらに少なくなるが恐水病、破傷風、炭疽病、梅毒があったとされる。ローマでは夏の終わりから初秋にかけて成人の死亡率のピークを迎えた。それは夏に伝染病が猛威をふるったかららしい。※ 5歳未満の乳幼児の場合は夏がピーク。※ 1歳未満の場合は1月から2月。これは出生の時期が晩秋から冬が多かった事による。なぜなら1年以内に新生児の30%が亡くなっていたからだ。当時の医学のレベルでは伝染病の流行を止めたり根絶など不可能。パンデミックとまではいかないが、都市の伝染病は度々発生していたらしい。例えば77年のウェスパシアヌス(Vespasianus)(9年~79年)の治世末の帝都ローマでは数週間に渡り毎日1万人が死亡すると言う日が続いたと言うのも記録にある。ところで、ローマの医師達は疫病が発生する場所として、とりわけ沼や池などの沼沢地(しょうたくち)の危険性を知っていた。水流の無いよどんだ場所は病気を媒介する害虫が出る事も解っていたからだ。※ かつて「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で建国当初のローマ市内の沼地の排水工事について触れています。リンク 古代ローマの下水道と水洗トイレだから医師たちは農場を建てる立地条件として人間や家畜、養蜂用のハチの為にも沼沢地を避けるよう助言も出している。それ故、都市開発の提言もしていたらしいが、ローマ帝国では早くから上下水道が完備されていたにもかかわらず、都市部のローマでさえ衛生状況は良くならなかった。それはローマの街では毎年100万立方メートルの糞尿やゴミが直接テヴェレ川(Tevere)に流されていたからだ。(汚水処理の問題)テヴェレ川の魚は汚染されているので危険。食べるなと言う警告も出される程に。また上水道も一度(ひとたび)上流で汚染されれば最悪であるし、大規模な公共浴場の建設も問題であったかもしれない。飲料となる公共の水道水(泉)が汚染されれば病気はあっと言う間に広がっただろう事も想像できる。※ 公共の泉の汚染は中世都市のペストの蔓延(まんえん)にも言える。ローマ、ベルニーニ広場にあるトリトーネの泉(Fontana del Tritone)このトリトン(海神)像、自体は17世紀にジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年) がウルバヌス8世のために造ったもの。中世はこんな泉が街の広場に必ずあって飲料となっていた。中世に再建されたウィルゴ水道 (Aqua Virgo) の取水の終端施設として、トレヴィの泉( Fontana di Trevi)が造られている。古代ローマ時代のウィルゴ水道の終端施設はアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)であった。※ 古代ローマ時代のアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)はパンテオンの南に隣接していた。ウィルゴ水道はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ( Marcus Vipsanius Agrippa)(BC63年~ BC12年)が手がけた事業で、同じくアグリッパ浴場はローマ帝国最初のテルマエ(公共浴場)であった。他に彼は最初のパンテオンやポン・デュ・ガール(フランスの水道橋)などアウグストゥス帝の元で多数の建築物を手がけている。※ ポン・デュ・ガール書いています。リンク 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築)サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋とテヴェレ川円形をしたサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)も実はハドリアヌスが建設を指示したものだ。これは彼の霊廟として建てられている。135年建設開始。完成は139年。サンタンジェロ橋の上の10体の天使像はバロックの大家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が据(す)えたもの。サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)は歴史の中で用途を変えた。サンタンジェロ城と名が付くのは590年に流行したペストの終焉祈願があったらしい。時の教皇グレゴリウス1世。彼は城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て命名?※ サンタンジェロ城トップの大天使ミカエル像をモンサンミッシェルで紹介しています。リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル14世紀以降はローマの城壁の一部に組み込まれ、要塞として、また牢獄や教皇の避難所としても利用された。それ故サンタンジェロ城からコッリドーリ通りに併走して伸びる城壁上の通路がバチカン宮殿までつながっている。下の写真のみウィキメディアからかりました。3世紀の危機帝国辺境の緊張が激化。パルティア王国は滅んだが、226年すでに東方からはパルティアに代わるササン朝ペルシャが勃興(ぼっこう)してきていた。彼らはメソボタミアへ進行。ローマの属州シリアが脅かされていた。ペルシャとの戦いは続く。233年、北方からはゴート人を初めとするゲルマン諸族が西北部国境を越え帝国領に侵入。ドナウ川周辺地域にゴートが侵略し混乱を極める。またローマ自体が異民族の脅威にさらされた。ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)(271年~275年)が建設される。皇帝の名を覚える間もなく次の皇帝に変わる。半世紀で70人の皇帝が現れた。そんな激動の時代であった。3世紀の危機は帝国の四方からの異民族の侵略と防戦。政治は軍人による「皇帝の椅子取り合戦」に。さらに、またも疫病の発生による戦力の低下と経済政策の失敗による経済危機の発生である。※ この時期、皇帝自身が敵に捉えられて殺されると言うも失態も起きている。帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌスローマ帝国では皇帝に軍事と政治の両方が委ねられていた。つまり皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。だが、このシステムでは同時に2つの才能が要求される。実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。しかし領土が拡大して度々対外から多数の侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。293年テトラルキア時代ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位284年~305年)東方正帝ガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方副帝から正帝マクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝コンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝広大な領土の統治と軍の統率は1人では不可能。ディオクレティアヌス帝は皇帝権を正帝2人と副帝2人とに4分割。293年、テトラルキア(tetrarchia)を考案した。テトラルキア(tetrarchia)は広大な領土を有するに至った帝国を合理的に統治する事を目的として造られている。最も当初のテトラルキアは職務の分担であって地理的な分割は想定されていなかったらしいが・・。実質帝国を2分(東帝と西帝の誕生)し自治は4分割した事になる。これは独裁を避ける為でもあったが、次代の皇帝候補が明確にされた・・と言う利点もあった。また皇帝の早期退職も勧めている。皇帝の仕事は厳しく、若くしては足りず、老いては過酷と言う事らしい。また有能な者に帝職を継承させるシステムを構築。これは世襲による特定の一族の権力の集中を防ぐた為でもあったらしい。ディオクレティアヌス(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)17世紀の大理石の胸像。ウィキメディアから農業形態の変化と停滞したローマの再建 改革だけ見ると策士と言われるほど計算されている。インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。この時期、軍を維持する為の財政が破綻し、治安はどんどん乱れていく。海賊や山賊も闊歩(かっぽ)。実はパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ばれたローマの平和の時代は繁栄の反面経済を停滞させた。征服戦争が無くなった事で物流は減る。また奴隷の供給も減るので奴隷の値段は上がった。共和政末期〜帝政初期に盛んであったラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った低コストな大土地農園の経営は、奴隷が減ったので変化を余儀(よぎ)なくされる。奴隷の代わりに没落農民をコロヌス(小作人)として使用するコロナトゥス(colonatus)制に移行せざるおえなくなり当然生産性は低下した。※ ラティフンディウム(latifundium)について書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)難しかったのは宗教の取り扱いだったかもしれない。とりわけディオクレティアヌスは後世のキリスト教徒から嫌われている。彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていたようだ。それ故か? 彼は古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させた。同じ宗教を持って帝国を結束させる。と言う意図があったのではないか? と推察。だがキリスト教徒はローマ神への礼拝をあからさまに嫌う。違反者には罰則もあったのでキリスト教徒限定の迫害ではなかったが結果はキリスト教徒迫害の時代になった。革新的な政策をやってのけ、20年であっさり引退したディオクレティアヌス帝はローマ史においては、やはり特筆されるべき皇帝であったのは間違いない。それにしてもこれだけ大きな帝国ではトップがダメだとすぐにアウトだったのだろう。長く統(す)べた皇帝の特徴から「絶対的能力とカリスマ性」は欠かせない要因であったとつくづく思う。再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になったらしい。※ ローマ市はいずれの場合も皇帝の支配権が及ばない特別自治として扱われていた。ザックリ説明すると、西方正帝となったコンスタンティヌスはマクセンティウスと戦い勝利する。同盟のリキニウスはマクシミヌスと戦い勝利し、東方正帝となる。後に西方正帝のコンスタンティヌスと東方正帝リキニウスは戦う事になりコンスタンティヌスが勝利した。つまり西方正帝であるコンスタンティヌスが総取りし、ここにローマ帝国は1人の皇帝の元で統一を果たす事になった訳です。コンスタンティヌス1世(Constantinus)(270年代前半の2月27日~337年)(在位:306年~312年)西方副帝(在位:312年~324年)西方正帝(在位:324年~337年)ローマ皇帝ローマ カピトリーノ美術館(Musei Capitolini) ウィキメディアから高さ2.8mの像の頭部コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)右に見切れているのがコロッセオ(Colosseo)です。312年、ローマ近郊ミルヴィオ橋でマクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)の軍隊に勝利した記念に315年に建立されたとされるが・・・。彫刻に2世紀の部分が含まれているなどリメイクの可能性も指摘されている。確かにローマ帝国では素材の使い回しはあたりまえにあった。コロッセオの壁面の大理石も剥がされたから穴だらけなのだ。※ コンスタンティヌスの凱旋門については「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で触れています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ下は凱旋門の側壁上部コンスタンティヌス1世(Constantinus I)はテトラルキアで分割されていた帝国を再統一。306年、元老院から大帝マクシムス(Maximus)の称号を与えられた。ローマ帝国再統一以前、313年、東帝のリキニウスと共に、あらゆる宗教を認めるとした「ミラノ勅令」の発布。即位後にはキリスト教会、初の全体会議となる第1ニカイア公会議を開催。また統一 ローマ帝国の帝都をローマからバルカン半島の東端、コンスタンチノープルに遷都(せんと)した事に加えソリドゥス金貨(Solidus)を鋳造発行。これらは彼の業績の中でも特筆のポイントである。ミラノ勅令についてはリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ソリドゥス金貨(Solidus)はローマと地中海全域の経済を長期に支えた金貨として特筆される。ディオクレティアヌス帝の時代には、インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。と、先に紹介しているが、実は3世紀の危機の時、皇帝が兵士の給料の為に銀の含有量の少ない銀貨の改鋳を繰り返していた。結果、通貨の信用力が落ちて物価が上がっていたのである。もはや多少の通貨改革ではインフレは止まら無かった。ディオクレティアヌス帝は通貨の価値の安定を図るべく経済政策をしているが、これを継承してコンスタンティヌス1世は貨幣改革をした。純度の安定した信用力のある通貨として新たな金貨を鋳造したのである。ローマ人の重量単位1ポンドから72枚のソリュドゥス(solidus)金貨を造った。ソリュドゥス(solidus)金貨の含有量は4.48g(純度95.8%)の高品質。それと共に銀の含有量2.24gの銀貨も発行。ソリュドゥス(solidus)金貨1枚は銀貨24枚に相当。金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたのでこの金貨は国際的にも信頼のおける金貨として700年は維持され地中海世界の交易で利用されたのである。※ 11世紀後半頃から金貨の純度が低下し、信頼も低下。この金貨は1453年にコンスタンティノープルが陥落するまで使用されるが、帝国末、一時は純度が50%を切る時もあったらしい。下はコンスタンティヌス1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨ウィキメディアから借りてきました。ところでドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?ソリュドゥス(solidus)金貨は国際交易において長期に渡り最も信用の高い金貨として評価されてきた。同じく、アメリカの持つ経済力と軍事力を持って今日の紙の米ドル紙幣が国際通貨として末永く流通してほしい?要するに長期に渡り世界で通用されたソリュドゥス(solidus)金貨にあやかって付けられた記号だと言う。諸説ある中の一つであるが、金融関係や貨幣の本ではその説が伝えられている。※ 700年も価値が維持される貨幣はもう出ないであろう。東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体コンスタンティヌス1世(在位:324年~337年)の死後、再び帝国の安定は崩れる。国内ばかりか、外敵との戦いも再び始まった。ローマから遷都した事で帝国の東西分烈の傾向は決定的となる。帝国の重心はアレクサンドリアやアンティオキアなど繁栄が継続した都市を有する東方へ移動したので尚更である。テオドシウス1世(TheodosiusⅠ)(347年~395年)(在位:379年~395年)テオドシウス1世1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨 21mm 4.55 gテオドシウス1世の顔がわかる彫像が見当りません。唯一これです。ウィキメディアからキリスト教を公認した皇帝テオドシウス1世。ソリュドス金貨の裏に天使に祝福される帝と時の皇帝が座っている図が刻印。 379年、ローマ帝国の内戦や異民族の流入が続く危機的状況の中でテオドシウス1世は即位する。380年、宗教的内紛の解決に重点を置いた結果、多神教を棄てキリスト教をローマ帝国の国教に制定した。ところで、テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れるのである。気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?いずれもDNAをさかのぼればアナトリア(現トルコ)あたりにいたインド・ヨーロッパ語族に集約する民族である。フランク人、ヴァンダル人、東ゴート人・西ゴート人、ランゴバルド人など。彼らはローマ領内の各地に入り建国して行く。西ゴート族はドナウ川を越えて帝国内に居をかまえ始めていたが、食糧が不足して暴徒化。軍と衝突していた。テオドシウス1世は駆逐を諦め、382年に西ゴート族と同盟を締結。彼らはローマ帝国に対し軍事的な援助の義務を負い、その代わりにドナウ川からバルカン半島に至る地方への定住を認めた。また彼はサーサーン朝ペルシア帝国とも講和締結している。※ あっちもこっちも、あまりに数が多すぎてそうせざる終えなかったのかもしれない。そんなテオドシウス1世は異教徒を重要官職に登用するなど、当初はローマの伝統的異教に対してはさしあたり寛容であったらしいが、途中で転換する。ミラノ司教アンブロシウス(Ambrosius)(340年? ~397年)の影響であったと考えられる。それ以前はあらゆる宗教を認めていた。皇帝の礼拝が無くなったので皇帝の大理石彫刻像も消えたのかもしれない。帝国が宗教行事に使用していた予算も見直しされたのだろう。ローマ帝国、建国以来フォロ・ロマーノで女祭司が絶やさなぬよう「聖なる火」を炊いていたらしいが、それもテオドシウス帝が祭祀の予算を中止したことにより無くなった。テオドシウス帝により中止された異教の祭祀の中には古代オリンピックも含まれていた。宗教はキリスト教を強要したが、ローマ帝国の軍事力の主要部分はゲルマン人などの異民族に委ねられて行く事になる。395年、テオドシウス1世が亡くなると帝国は長男と次男がそれぞれ継承し、帝国は2たつに分裂する。395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国長男アルカディウス(Arcadius) (377年~408年)東ローマ皇帝(在位383年~408年)次男ホノリウス(Honorius)(384年~423年)西ローマ皇帝(在位:393年~423年)「西ローマ帝国最後の偉大な皇帝」と呼ばれたウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I)(321年~375年)(在位:364年 - 375年)の死後、ほとんどの西ローマ皇帝は実権を失い帝国を支えていたのはバウト、アルボガスト、スティリコ、アエティウス、リキメルといった異民族出身の将軍たちだったと言う。そんな異民族だらけのイタリアでは都市住民も減ったから交易も停滞。皇帝はローマを棄て異民族の流入の少ないコンスタンティノープルを帝都にしたので交易は倍増。格差は尚更だ。402年、西ローマ皇帝ホノリウスは西の帝都をローマからラヴェンナに遷都。ラヴェンナは辛うじて交易で栄えた港湾都市。ローマよりもまし? だったのかも。しかしホノリウスの代にはすでにイタリア半島を支配するのも精一杯の状態。以後は異民族に対して常に劣勢。特に西ローマ帝国ではローマ教皇の力が強く皇帝も立場がない。もはやローマ帝国にとって軍事力も無い西ローマ皇帝は無用の存在。423年、ホノリウスは39歳の誕生日を前に子供を残さずに逝去。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマの皇帝制は解体。西ローマ帝国は滅亡した。東ローマの皇帝は、そこをローマ帝国のイタリア領主と位置づけし、その後のトップはイタリア王を名乗る。ユスティニアヌス1世(Justinus I)(483年~565年)(在位: 527年~565年)黄金の聖体皿を持つユスティニアヌス1世東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府ラヴェンナ(Ravenn)サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale) のモザイク壁画から546年~547年の間に司教マクシミアヌスによって献堂。584年、東ローマ帝国がイタリア半島統治のためにラヴェンナに政府機関として総督府をー置いた。※ 戦略的目的があったからだ。上はユスティニアヌス1世の顔である。それ故、このラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画は非常に有名である。何よりモザイク画の出来は良く、以降ラヴェンナはモザイク製作で有名になった。ヴィザンチン文化の代表格として現れるラヴェンナが総督府になるのはユスティニアヌス1世亡き後である。ユスティニアヌス1世とラヴェンナはどんな関係か?上の図はユスティニアヌス1世を宗教的にたたえた典礼の図であるし、対になってテオドラ王妃のモザイク画もある。が、調べて驚いたのはユスティニアヌス1世はこのラヴェンナに一度も来てはいない。上のような典礼も当然行ってはいない。どうもラヴェンナと司教のマクシミヌスが勝手に皇帝を持ち上げて造ったモザイク画であった可能性があるのだ。じゃあ顔も実物じゃないかもね。と言う事です。「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦下はユスティニアヌス1世(在位527年-565年)時代の帝国領土 ウィキメディアから青色部分が東ローマ帝国領。青色と緑色合わせてトラヤヌス時代のローマ帝国領。赤線は395年の東西ローマの分割線下は590年のイタリア半島。実は虫食いだらけの帝国領です こちらもウィキメディアからローマ帝国の直轄はオレンジの部分のみ。他は異民族の王が納めていた。帝国の中心はコンスタンチノープルに移動していたのでローマ周辺はもはや捨て置かれていた。だからイスラム教徒が大挙してせめて来た時でもままならなかったのである。とは言え、ユスティニアヌス1世(在位527年-565年)は再び帝国の版図を押し広げた皇帝なのだ。彼は帝国の再建(renovatio imperii)を目指した。532年サーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を締結。533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服。東方国境の安全を確保するとユスティニアヌスは西方に目を向ける。535年、ゲルマン人国家東ゴート王国からベリサリウス将軍によってローマを奪回。※ ユスティニアヌス自身は全く戦地に赴いていない。東ゴート王国側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。それは543年から発生したペストが蔓延したからだ。実際、帝国の人的被害は大きく帝国の拡大は断念せざるおえなくなった。イタリアにおける最終的な勝利とイベリア半島南端の征服は東ローマ帝国の力を示すものとなったが、征服のほとんどは儚いものとなる。ユスティニアヌスの黒死病中世の黒死病はペストと認識されてきたが、英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン博士(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)博士による研究で(教会の古い記録、遺言、日記など調査)。黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか。と言う論文が出されている。過去の歴史の資料例では、エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ている症例もあったと言う。総じて疫病とするが、病種によっては確実にヤバイ系(全滅するまで)のもあったのかもしれない。ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ542年~543年頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行した疫病は帝国の衰退の大きな要因の一つになった可能性が極めて高い。エジプトからパレスティナへ、そしてコンスタンチノープルへ疫病が運ばれると人口の約半数を失い帝都は一時機能不全に陥たと言う。確実に大きなパンデミックである。542年には疫病は旧西ローマ帝国の領域に547年にはブリテン島周辺に567年にガリアへヨーロッパ、中近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。ユスティニアヌス自身も感染。幸い軽症で済み数ヶ月で回復したと言われているが「ユスティニアヌスの斑点」との別称が在る事からやはりペストではなかったのかも。冒頭触れていますが、コンスタンチノープルでは、流行の最盛期に一日に5000~10000人の死者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った。疫病の流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は断念された。非常に長くなってしまいました。これで前半のみです。f^^*) ポリポリ Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊 アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年03月02日
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関連 Back numberをラストに追加しました。当時のフランスには身分制度があり3つにカテゴライズされていた。第1身分 聖職者(司教、司祭、助祭) 第2身分 貴族 (公爵、侯爵、子爵、男爵)第3身分 平民 (ブルジョア、都市の市民、農民)当時のフランスの人口はおよそ2700万人。比率で言うと、特権階級の第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)が全体の2%。(52万人)残り98%が第3身分(平民)である。第1身分(聖職者)は0.5%(約12万人)、国王の権威は神から与えられたものと解釈されていたので、カトリック教会と聖職者は上位にある。司教、司祭、助祭と言っても司教座を持つ大聖堂などの高位聖職者は貴族出身者しかなれなかった。第2身分(貴族) 40万人。階級だけでなく、国王から年金の出る宮廷貴族や、荘園経営して地代の入る地方貴族。司法官などの官職に伴い地位を得た法服貴族の3種類の貴族がいた。※ 法服貴族の地位は金銭で購入する事もできた。貴族と言えど収入がなく、貧しい貴族もたくさんいたが、特権により税の免除などがあったので労働をして税を納めるのは第3身分の平民の役目であった。しかし、逆に第3身分(平民)でも、徴税請負人や銀行家、大商人などお金持ちのブルジョア層は、平均的貴族よりも裕福であったかもしれない。※ 都市のブルジョア10%、農村の大規模経営をするブルジョア13%彼らはポンパドゥール夫人のように貴族の子弟の行く学校で高等教育やマナーを学び、サロンではむしろ主催者側にいた。ルイ16世はフランスの抱えた多額の負債を返済する為に増税しか道がなく、とは言え第3身分(平民)からの徴収は限界。特権階級の彼らにも税を納めてもらうべく議会にかけている。※ アメリカの独立戦争に協力した事と前の7年戦争の債務と合わせて33億1510万リーブルの借金があった。特にアメリカへの参戦で用立てた借入金は非常に高利であった。しかし、議会は第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)に有利にできている。175年ぶりにルイ16世は全国3部会を開いて平民と共闘して特権階級から税を徴収する法案を通すつもりでいたのだ。その為に第3身分(平民)の投票人数を倍(600人)にまでした。第1身分(聖職者)と第2身分(貴族)はそれぞれ定数300人。1789年5月5日、3部会開催。なのに王は身分毎に議決を取ると発表。(  ̄∇ ̄; ) ナヌ? (・_・?) バカなの? 当然だが第3身分(平民)は「身分毎に議決」をしたら勝てないので反対。議会は空転し解散となった。ルイ16世のそれ以降の対処は、もはや目的が何か解らなくなってきていた。王は選択を誤ったのだ。確かに当初市民らは王に新たな憲法を望んでいただけだったのだから・・。3部会開催の2ヶ月後、1789年7月14日革命が勃発する。最もその至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃身分制度マリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンマリーアントワネットの浪費革命後の放浪タンプル塔(Tour du Temple)パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)革命をあおったマスコミマリー・アントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)花の女神フローラの領域と言われるトリアノン域のフランス式庭園の中に小宮殿の建設を勧めたのはポンパドゥール夫人であった。結局夫人の存命中に完成できず、ここを最初に使用したのがポンパドゥール夫人の次にルイ15世の公妾となったデュ・バリー夫人である。そして奇しくもルイ15世はこの宮殿で病状が悪化し本宮殿に戻りそれから2週間後に崩御した。マリー・アントワネットの邸宅となったプチトリアノンと左方面がマリー・アントワネットが造りあげた王妃の村里です。この一帯がマリー・アントワネットの家と庭園と言う事になります。上はウィキメディアのプチトリアノンの空撮写真を位置紹介の為に部分カットさせてもらい。さらに書き込みしました。下の写真は、上から愛の神殿、小トリアノン宮殿、パヴィヨン・フランセが直線上に配置されていた。パヴィヨン・フランセ(Pavillon français)はポンパドウール夫人縁(ゆかり)の建物なので「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」でもふれているが、もともとデュ・バリー夫人の事を良く思っていなかったルイ16世は即位(1774年)後すぐにプチ・トリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたのである。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリー・アントワネットは本宮殿での窮屈な儀礼を嫌いプチ・トリアノンを自分の邸宅として好んで使用する事になる階段の手すりや2階の欄干、バラスター(baluster)はマリー・アントワネットの「M」が金箔でデザインされたおしゃれなアイアン・ワークとなっている。吊り燭台はナポレオン妃でありオーストリア皇女であったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の為に1811年に取り付けられたもの。1793年6月、革命で王政が終焉し主のいなくなった宮殿は競売にかけられ一時は居酒屋になっていた事もあるらしい。プチトリアノン内、マリー・アントワネットの寝室マリー・アントワネットが使用する時に大がかりなリフォームがされているが部屋は当時のものでなく、マリー・アントワネットを意識して再現したもののようです。マリー・アントワネットが使用した当時は鏡が下からせり上がり、窓を塞ぐ仕掛け等なされていたと言う。プチトリアノン内、音楽のサロンマリー・アントワネットの近しい親族、友人が集まった部屋(メイン・サロン)がここ。プチトリアノンではマリー・アントワネットが取り決めたルールがあり、マリー・アントワネットが部屋に入って来た時も皆、手を止める事無くピアノを弾いたり、刺繍の手を止める必要もなかった。現在この部屋に置かれている家具類はマリー・アントワネットの時代の物に似てはいるがナポレオン3世の妃ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo)(1826年~1920年)が置いたものらしい。マリーアントワネットがハープを奏でている絵画が残されている。描いたのは1777年、内容は1775年らしい。場所は宮殿の王妃の寝室のようです。当時の宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) (1740年~1786年)マリー・アントワネットを描く画家自身が右端に見切れている。上の絵はウィキメディアからプチトリアノン内、サロンロココから新古典様式に移行する家具。神殿の柱を思わせるスラッとした脚。俗にルイ16世様式と呼ばれる椅子である。プチトリアノン内、ビリヤード・ルーム親しい友だけを誘って遊んでいたと思われる。先に「マリー・アントワネットの気晴らしと暴走」の所で触れたが、王妃になった途端にマリー・アントワネットの側近いじりがあからさまに始まる。プチ・トリアノン近くに建設されたマリー・アントワネットの劇場内部1780年、リシャール・ミック(Richard Mique) (1728–1794)により完成されたマリーアントワネットが演じる為に建設された劇場。その他の演者は近しい友人達。観客も親族と友人のみだったらしい。演目は喜劇や喜歌劇と日本訳されているが、おそらくオペレッタ(Opérette)だったと思われる。内部はベルサイユ宮殿の劇場に構想を借りているが素材など非常にリーズナブルに建設されているので現在では消防法の問題がありほとんど公開されていないようです。マリー・アントワネットの子供達ベルサイユ宮殿、王のアパルトマン、メルクリウスの間1787年 マリー・アントワネットと子供達の肖像画画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)(1755年〜1842年)結婚から7年を経て子供を授かる。母性愛が目覚めて夜遊びは減ったと言う。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女 左からマリー・テレーズ・シャルロット(Marie Thérèse Charlotte)(1778年~1851年)※ 長女 唯一幽閉生活を生き延びた王女は後に叔父(ルイ16世の弟シャルル10世)の長男(ルイ・アントワーヌ王太子)の妃となる。ルイ・シャルル・ド・フランス(Louis-Charles de France)(1785年~1795年)※ 次男、父王ルイ16世の処刑によりルイ17世となるがタンプル塔に幽閉されたまま2年後に病死。マリー・アントワネットの膝の上の子。ルイ・ジョセフ・ド・フランス(Louis-Joseph Xavier François de France)(1781年~1789年)※ 王位継承者であったが、病弱に生まれ乳母ポワトリンヌから結核をうつされ夭折。マリー・ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス・ド・フランス(Marie Sophie Hélène Béatrix de France)(1786年~1787年)※ 第四子で第二王女であったが結核により10か月で夭折。空のバシネット(bassinet)ベビー籠はソフィーのもの。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリード・メディシス(ルイ13世妃)からウジェニー・ド・モンティジョ(ナポレオン3世の妃)まで歴代の君主の妻の為の寝室がある。フランス宮廷では秋になるとベルサイユからフォンテーヌブローに宮殿が移動する。※ 秋の狩猟シーズンにあわせているのか?役者や舞踏家、音楽家もそうであるが王家が移動するのであるから、召し使いや取り巻きの貴族も移動となる。そればかりか役職もないのにただ居候するだけの貴族もやってくるので彼らにも部屋を用意しなければならなかったそうだ。フォンテーヌブロー宮殿の客室は172室。客室が一杯になると街に部屋を用意為なければならなかったと言うのでここでも、王室は無駄な出費を強いられていたのだろう。※ ルイ16世の頃には金銭的にかなり苦しくなっていたので役者の衣装は聖別式の衣装がリメイクされたりと倹約はかなりされていたらしい。頻繁には使用しないが、歴代の王は少しずつ宮殿を改築している。1786年から1787年にかけてマリー・アントワネット自身により彼女の住居棟の一部を新たに装飾させている。新古典様式のグロテスク仕様の壁面を持つ王妃の私室。とは言え、革命の時にベルサイユ同様にフオンテーヌブロー宮殿も家具調度は略奪と競売に駆けられているので現存しているのはナポレオン時代に修復されたものと考えられる。下はマリー・アントワネットの為に1787年に考案され有名な家具師により造られたと言う寝台。天井の装飾はマリー・レグザンスカ(ルイ15世妃)の時代のまま残っている。革命が起きた為にマリー・アントワネットは結局一度も使用できず、最初にこのベッドを使用したのはナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌだと言う。しかし、革命で家具調度が略奪され部屋の調度が持ち去られているのなら、これが革命前の本物のマリー・アントワネットの寝台なのか? ナポレオン時代の修復再現による寝台なのか? 疑問がある。フォンテーヌブロー宮殿のパンフレットにもそれは書かれていない。テキスタイルの壁布はリヨンの会社が20年かけてブロケードとシェニール(モール糸)で織った絹のランパス(浮き模様)が特徴。現在の物はそのオリジナルを忠実に再現したものらしい。※ テキスタイルは経年劣化があるので当時の物でないのは確か。寝台前の椅子は昔は無かったので近年造って置かれたもの。これらは妃の為にドレスやペチコート、下着などを渡す役職を持った貴族夫人らの待機席と思われる。マリー・アントワネットのファッションとマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン1783年、画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)による物議をかもした肖像画がportrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王の肖像画である。公式の肖像画なのにカジュアルすぎるとされた肖像画。 ウィキメディアから借りてきました。マリー・アントワネットは最先端のファッション「レイヤード・モスリンドレス(layered muslin dress )」を身につけていた。モスリンドレスはシンプルでフェミニンなデザインでこれからの女性のドレスの主流となっていくのだが、まだ普段着の域を出ていなかった?それ以前はパニエ(panier)でスカートをふくらませたりと重く体を締め付けたりと豪華ではあるが不自由なドレスであったのだ。マリー・アントワネットが嫁いだ頃1770年の主流はローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイル(robe à la polonaise style) 下メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)から借りて着ました。ぴったりとしたボディスとスカートの後ろが3つのパフで構成されスカートには横にボーンが入り広げられている。1788王妃マリー・アントワネットの肖像 絵はウィキメディアから借りてきました。ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin)のローブ・ア・ラ・ポロネーズ・スタイルと思われる。マリー・アントワネットの時代のファッションと言うと大きなヘア・デザインも象徴的である。大きくふくらませた頭の上にはいろんな物がのっかっている。髪を結うと言うよりは髪と髪飾りがオブジェ化して巨大化して行くのである。マリー・アントワネットは頭の上にイギリス庭園の全景を乗せて登場した事があると言う。つまり頭の上に庭園のジオラマを乗せて来たのである。そこには牧場や丘陵があり、小川も流れていたらしい。こうしたけったいな度肝を抜くヘアデザインの発端はルイ15世の崩御に伴う悲しみの表現を髪飾りでした事から始まったらしい。最初は髪の毛の中に糸杉と豊穣(ほうじょう)の角をかざし、国王の喪と新しい治世への希望を象徴するような表現をした。もちろん目的は自分のアピールでもある。オリーブの枝を刺したりから豊穣の女神が刈り入れするジオラマとなり、頭に軍艦をのせているようなものまで現れる。機械じかけで可動するものまで・・。皆趣向をこらしすぎて大きくなり馬車にのれなくなり大変な事に・・。しかも造作にはお金もかかった。この髪結いの発端を作ったのが王妃が信奉するデザイナー、マリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と言われている。彼女はサントノーレに店(Le Grand Mogol)を構えるモード商。つまり宮廷ドレス専門ブティックのデザイナー。※ 1770年オープン。シャルトル公爵夫人がパトロン?シャルトル公爵夫人を通うじ紹介されるとマリー・アントワネットはすぐに彼女の店を王妃御用達としている。マリー・アントワネットはドレスのみならず髪型のアドヴァイスもローズ・ベルタンからもらっている。何しろ元が髪結いの美容師である。※ マリー・アントワネット専用の美容師は別に存在。とにかくローズ・ベルタンのデザインセンスを気にいり王妃自身が広報活動していたのでおおいに彼女の服は売れた。フランスのみならず諸外国の貴族からもオーダーは入った。マリー・アントワネットの影響でローズ・ベルタンのドレスは長きに渡り宮廷ファッションを牽引して行く事になる。マリーアントワネットが特に好んだのが羽毛の羽根飾りだそうだ。物議をかもした写真の帽子にも、1788年の肖像画などあらゆる帽子に羽根が描かれている。※ 珍しい羽根をプレゼントする者もいたらしい。王妃と同じ物が欲しい。真似したい。と回りの婦人らが思うのは当然、マリー・アントワネットはローズ・ベルタンのおかげでモードの最先端で流行を作って行くのである。が、女性達がエスカレートして行く様に「王妃がフランスの貴婦人を破産させるだろう。」と言われたそうだ。また、これらを母マリア・テレジアは苦々(にがにが)しく思っていたようで羽根の付いた娘の肖像画にケチを付けて送り返している。1775年の肖像画 油彩 画家は宮廷画家、ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーティェ・ダゴディ(Jean-Baptiste André Gautier-Dagoty) ドレスはマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813) と思われる。ところで、服一つ着替えるにもベルサイユにはやっかいなルールがあった。下着を渡す者、ペチコートを渡す者、ドレスを渡す者など仕事が細分化されていたので、他人の仕事を奪う行為は許されない。が、目上の貴族が居る場合は権利はその者に渡る。ある冬の日に下着を着ようとしていたマリーアントワネットの所に次々貴族の夫人が来るので下着は彼女らの間を移動するばかりでマリーアントワネットはいつまでも震えて待ってい無ければならない状態。水が飲みたくても、水をマリーアントワネットに渡せるのは女官長と主席侍女のみ。彼女らがいなければ水さえ飲めない不自由。当初は怒りを笑いでごまかして済ませていたようだが・・。それ故、王妃となってからマリーアントワネットはルールの簡素化を始めたのである。よって仕事を失った貴族の恨みが増える事になる。因みにルイ14世が造ったこのルールをルイ15世もルイ16世も守っていたらしい。下は1785年のマリー・アントワネットと二人の子供の肖像。 ウィキメディアからの写真です。ドレスはローブ・ア・ラ・ポロネーズ? バックにはプチトリアノン庭園の中にある愛の神殿(Temple Amour) マリー・アントワネットお気に入りの羽根飾りの付いた帽子王妃の村里 ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」の中で王妃の村里については紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里1774年、ルイ16世は即位するとプチトリアノン(le Petit Trianon)宮とその周辺を王妃マリー・アントワネットに与えたので、王妃の関心はまずはプチトリアノンの改装に向かう。次に庭園造りに励む。※ 当時はイングランド・ブームが起きていた。庭園はイングリッシュ・ガーデンであったと思われる。庭園のみならず、トリアノンの域に「王妃の村里」ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine)と言う村をまるごと造っている。しかし、そこでマリーアントワネットは農作業をしたわけではなく、ただ彼らの労働を眺めて居ただけ。むしろ王妃の村里自体をサロンとして利用していたと思われる。実際の農村と言うよりは、ランドスケープ(landscape)にこだわって、水車小屋を造ったり、見晴らしと塔を造ったりと、絵になる景観の良い村里なのである。この庭園や村は王妃マリー・アントワネットの理想郷(ユートピア・Utopia)として造られた物と思われる。(現在の庭園はそれに匹敵していない。)庭園と村里については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村」で紹介しています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットは本宮殿での儀礼の簡素化をすすめたが、うっとおしい貴族の目から解放されるプチトリアノンでの生活をより好んでいた。問題は王妃のプチトリアノンや村里には限られた貴族しか出入り出来なかった事だ。マリーアントワネットの失敗はお気に入りのわずかの取り巻きのみをプチ・トリアノンや村里に呼んだので貴族の中に差別を造ってしまった事だ。マリーアントワネットの浪費「麗しいからっぽの頭」とはオーストリアの兄ヨーゼフ2世がマリー・アントワネットにつけたあだ名だ。彼女の浪費や経済改革をしていた大臣の罷免をするよう働きかけるなど無謀な振る舞いにあきれての事だ。ローズ・ベルタンの店「Le Grand Mogol」だけでもかなりの支払いがあったと思われるが・・。1775年の末に50万リーブルのダイヤのイヤリングを購入。さらに25万リーブルのブレスレッドを購入。その為に借金までしている。資料には1972年でトータル75万リーブル(1億5000万フラン相当)とされている。※ 1972年のフランス通貨はユーロ導入前のフランが使用されていた。フランは当時変動相場制であったので1972年の平均値は1フラン60.04円。1億5000万フランを換算すると当時の日本円で90億600万円相当になる。最もフラン(Franc)はどんどん暴落していくので1972年の90億600万円の価値は、現在は無いかもしれない。母、マリア、・テレジアは「将来の心配で胸が張り裂けんばかりだ」と手紙を書くと、娘は「こんながらくたの事で・・」と返す。母の言葉も兄の言葉ももはや届かない。遊びも外出が増え、オペラ座の舞踏会に朝までいたかと思えば一度ベルサイユに戻り今度はブローニュの森の競馬に出かける。それも各国大使の謁見をすっぽかしてだ。競馬にはまり馬の頭数はを300頭を越え先代王妃よりも20万リーブル多く40万リーブル以上の出費。夫、ルイ16世が古いフロッグコートを着ているのに対して、マリーアントワネットはゴージャスな毛皮をまとって舞踏会から朝帰り。金銭感覚は無かったのかもしれないが、プライドはあった。だから歴史に残るサギ事件に当事者として巻き込まれる事にもなった。「首飾り事件」の首飾りはもともとルイ15世がデュ・バリー夫人の為に発注していたダイヤの豪華ネックレスであった。ウィキメディアからの写真です。レプリカです。本物は当時、詐欺師にバラされて売り飛ばされている。ルイ15世が崩御したので宝石商はマリー・アントワネットに買い取ってもらいたかったのだが彼女は断る。値段もさる事ながら、それはデュ・バリー夫人の為の品であったからだ。高価なネックレス160万リーブルをどうしても売りたい宝石商とマリーアントワネットに好意を持つ問題ありの聖職者ローアン大司教がサギ師にひっかかったのだ。※ 1784年発覚し1785年裁判。※ 先の計算によれぱ160万リーブルは192億1280万円当時で軍艦2隻が買えたとか・・。それ故、マリーアントワネットには何の落ち度も無かったのだが、評判の落ちていたマリー・アントワネットが首謀者のように語られる事になり、より評判を落として行ったのである。フランス王宮の財政難については「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」ですでに紹介しているが、ルイ15世の時代の7年戦争の債務に加え、ルイ16世がアメリカ独立戦争につぎ込んだ13億リーヴルと合わせてトータルで33億1510万リーブルの借金を抱えている。先に紹介した宮殿の改築や季節の移動など諸経費、ベルサイユなど王宮の維持費、衛兵含む雇用人の費用に加え、貴族への報酬など考えれば、マリー・アントワネットに贅沢の余地は無い。そもそも彼女は最高の王家に嫁に来たと思っていたからお金はいくらでもあると思っていたのかも・・。もはやフランス王宮は火の車。破産確定のところまで来ていたのだから彼女が賢ければ、贅沢はなかったかも知れない。夫(ルイ16世)が妻に優しすぎて何も言えなかったのか? いや、そもそも彼には妻に意見する気は何も無かったのかもしれない。ルイ16世は、パリ市の災害の時にも個人的に寄付を行っている。また毎日、朝に散策しては貧しい者に多少のお金を渡したり、裁きから助けたりしている。彼は本当に心優しい王であった。統治者としての王の能力は無かったが・・。革命後の放浪1789年5月、全国3部会が失敗に終わり、7月14日革命が起こる。革命後、国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄が移送される。この時、最後まで誠実に王妃に従ったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけだったと言う。※ さんざん寵愛され、一族まるごと優遇され批判の対称にもなったポリニャック公爵夫人は早々に亡命している。1791年6月20日、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。オーストリアにいる兄レオポルト2世の元に亡命するつもりでフェルセンに力を借りたのだ。が、王妃のワガママにより計画が大幅に遅れ、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し逃亡計画は失敗する。これにより国王一家は親国王派の国民からも見離され、パリ市民の怒りを買った。それまでは比較的自由にすごしていたのに、以降はテュイルリー宮殿の国民衛兵によって厳重な監視下に置かれる事になった。1792年6月20日武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできた。そして王政の廃止を最初に口にするジロンド派。1792年8月10日、民衆の総勢2万はくだらない大集団がテュイルリー宮殿へ向かった。一方、国王の側は、宮殿にルイ16世が契約していた950名のスイス人の傭兵。宮殿外に議会によって解散させられた元近衛兵や田舎から出てきた王党派支持者の若者(通称「聖ルイ騎士団」)、200〜300名とパリから国民衛兵隊2,000名が国王のために集結。スイス人の傭兵はかなりがんばったのに結局はルイ16世の采配のまずさで降伏となり最終的に生き残ったスイス人兵士等も殺害される。※ 以前「ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」でこの悲劇で亡くなったスイス傭兵の事に触れています。スイス側の資料では786名のスイス人兵士が亡くなったと記録されていた。リンク ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃で蜂起側の勝利が明らかになると、王権の停止が宣言される。この後、ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、マリー・テレーズ王女、ルイ・シャルル王太子、王妹エリザベート王女は脱出の難しい古い城塞に幽閉される事になる。タンプル塔(Tour du Temple)ウィキメディアから借りてきました。1792年8月10日市民によるテュイルリー宮殿が襲撃され国王一家は宮殿ではなく、タンプル塔に幽閉される事になる。(とりあえず内装工事はされたらしい。)※ 8月12日に移送場所の審議がされるがいつ移動したかの記録が無い。ただ9月3日にはタンプルに居る事が記録されている。タンプル塔では、従者2名、侍女4名の随行が許された。幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり家族の団らんもあり、使用人も雇えたので豪華ではないにしろ、後に革命裁判で移される旧王宮、コンシェルジュリーよりはましな生活がおくれていたと思われる。マリー・アントワネットの部屋には空色の絨毯が敷き詰められ、エンボス加工の青と白の絹の布が壁に貼られ、肘掛け椅子も置かれていた。折りたたみのハートの椅子も置かれ、ささやかながら優雅な部屋が造られていたらしい。そもそもバスチーユの監獄にしても、家具調度も持ち込みできるし、料理人を雇う事もできたし、娯楽室もあったと言う。好んでそこに住む者がいたと言うくらいフランス王政下での政治犯に対する扱いは悪くはなかった。とは言え、8月19日の晩にどこかに連れ去られたランバル公爵夫人の無残な遺体をわざわざテンプルまで引きずってマリー・アントワネットらに見せに来ると言う嫌がらせをされていた。マリー・アントワネットは見てはいないがその事実に気絶したらしい。ところでタンプル塔はもともとテンプル騎士団のパリの事務所でした。そもそもテンプル騎士団の解散はフランス王、フィリップ4世( Philippe IV)(1268年~1314年)がテンプルに借りていた多額の借金踏み倒しと、資産の没収が目的の蛮行であったと思われる。※ バチカンは正式謝罪はしていないようだが、認めている。1312年テンプル騎士団は解散。1313年総長ジャック・ド・モレーはシテ島の王宮前でフィリップ4世によって火刑にされる。テンプルの資産はヨハネ騎士団が引き継ぐはずであったのに、フランスだけはフィリップ4世が総取りし、タンプル塔(テンプルの事務所)だけがヨハネ騎士団の所有となっている。※ テンプル騎士団については以下に書いています。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会)テンプル解散後は修道院になり、バスティーユ監獄が完成するまで牢獄にもなっていた曰くのある場所であった。ここにマリー・アントワネットやルイ16世が幽閉されていた事もあり、ナポレオンがこの塔を忌み嫌い1808年に取り壊されている。1790年のマリー・アントワネットの肖像画1789年にエリザベート=ルイーズヴィジェ=ルブランがフランスを去るとポーランドの肖像画家Alexander Kucharsky (1741年~1819年)がマリーアントワネットの画家となる。彼は幽閉中のタンブル塔で彼女や子供達を描いたと言われている。上の肖像画が1790年頃とすればヴァレンヌ逃亡前なのでタンプル塔ではない。因みに先に紹介したマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンは1793年2月、ロンドンへ渡るがその後もマリー・アントワネットの注文に応じドレスを届けたと言う。一説には、デザイナーとして宮中に出入リしていた彼女はメッセンジャーとして活躍したとも言われている。1793年のマリー・アントワネットの肖像画 上と同じポーランドの画家による衣装を喪服と考えるとルイ16世が処刑され亡くなった1793年1月21日以降からマリーアントワネットがコンシェルジュリーに移動される8月までの間にタンプル塔で描かれた肖像画と思われる。※ 衣装はマリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタンの作品だろう。パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)旧王宮、現 裁判宮 (Palais du Justice)ファサードまさにこの裁判宮の正面広場でテンプル騎士団が火あぶりの刑に処されている。フィリップ4世は宮殿の窓からそれを見ているのだ。1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。1793年8月2日、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され裁判が結審するまで閉じ込められる事になる。※ コンシェルジュリー(Conciergerie)は旧王宮であり現裁判宮の一部である。セーヌ川からのコンシェルジュリー(Conciergerie)5世紀、メロヴィング朝の時代に宮殿の基礎が築かれたと言う。かつては王が裁判で判じていた。ここは王宮でなくなった後も裁判所として残ったのだ。下、宮殿がこの形になった当初は王宮の食堂であったらしい。セーヌ川が反乱すると水に沈んだ広間。ネズミが行き交うジメジメした衛生の悪い場所。ここは革命裁判の時は一般の牢獄に利用された。リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)上のホールの左手方面、中庭に面した部屋に結審するまでマリー・アントワネットが入れられていた独房が下。若干部屋の位置は異なるが再現されている。部屋の中では、常に兵士2人が監視。マリー・アントワネットの最後のベッドは粗末な代物。実際は布団くらい差し入れできていたかもしれない。何しろ牢屋の環境は金銭でいくらでも改善できたからだ。1793年10月16日、コンコルド広場で夫と同様に元王妃マリー・アントワネットはギロチンにより刑が執行された。「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」前日に義妹エリザベートに宛てた手紙であるがロベスピエールが秘匿し、この手紙の存在は1816年まで解らなかった。裁判自体がろくでもない罪状であったから理不尽な処刑であったのは言うまでもない。問題は「どうして市民が王様を殺す」等と言う状況を生んだのか? と言う事だ。諸外国も王政であるだけに、フランス市民の蛮行は許される事ではなかった。サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)歴代フランス国王ら王室関係者の埋葬墓地です。現在は大聖堂に格上げされています。下は1844年から1845年のサンドニの教会です。 写真はウィキメディアから革命以降うち捨てられて荒廃。ナポレオンにより修復が勧められたが、建築家ドブレの修復は重量計算もできなかったのか? 重すぎて1846年に取り壊さざるおえなくなったと言う。上が取り外された後、ノートルダムで問題の修復をしたヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)が1847年今の姿に・・。※ 首を持つ聖人サンドニの事もそこで紹介しています。サン・ドニ教会のルーツです。リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題下はルイ16世とマリー・アントワネットの慰霊碑です。 こちらもウィキメディアから借りた写真です。革命で弾劾(だんがい)されギロチンで公開処刑された二人の遺骸は当初パリのマドレーヌ墓地に並べられた。王政復古の時にルイ18世が捜して王家の墓所にやっと葬られる事になったが、遺骸は一部しかなかったと言う。※ 王政復古が無ければ二人の遺物は何一つ見つからなかったであろう。取り外される前のサン・ドニの教会革命をあおったマスコミ冒頭触れたが、革命に至る経緯、諸悪の根源はマスメディアによる市民扇動であった。フランスの歴史において、16世紀末の宗教戦争時にはすでにマスメディアによる情報が市民を動かしていたらしい。印刷技術の進展は新聞やチラシを出現させた。確かに「全国三部会の開催」に王はマスメディアの力を借りているが、マリー・アントワネットの評判が落ちたのもこれらマスメディアによる所が大きかった。事実ではない噂話しが事実のようにマスメディアで流される。これは現在もある事であるが、今よりも情報が限られていた事。また市民がそれを見極められ無かった事により市民は心情を扇動されて行ったのだ。1789年7月、革命の後も食糧難は続いた。パリに小麦粉が無くなりパンが不足した。市民はそれを反革命派の陰謀とした。が、実際は1770年以来、不作が続いて小麦粉不足となりパンの値段が高騰したものだった。また商人たちの買占めや売り惜しみもあり1775年の時は市民が王に直訴するべくベルサイユに赴き小麦の値段を下げてもらうと言う事件があった。1789年の革命においても、女達がベルサイユ行進したのも王に直訴する事が狙いであったと思われる。※ 行進は違った意味に解釈されている。有名な「パンではなく、ブリオッシュ(菓子パンの一種)を食べればいいのに」と言ったエピソードはルソーの「告白」の中の一説らしい。20年以上前の出版物でマリー・アントワネットが言ったわけではなかったが今に至るまでそれを信じている者は多い。話しは戻って、革命期に新聞の数は増大する。出せば売れるから参入も増えた。また所謂(いわゆる)ビラの発行はとんでもない数に上る。ビラや冊子に通番がついて現在の週間誌の前身のような物も出現する。検閲をくぐり抜けた発行元不明のビラも増えて行く。煽動(せんどう)的な出版物に対する処分もあるにはあったらしいが、論点はだんだんにズレて行く。誤発信もあったであろうが、間違った解釈を訂正する物は無い。当初はそう言う目的では無かったはずがマスコミ同士の出版合戦で市民は王を憎む所まで持って行かれたのだ。後は祭りのような物である。一度燃えた闘志は頂点に達さなければ昇華(しょうか)できない。つまり行く所まで行かなければ納得や満足ができない状態だ。もはや王族を殺さなければ腹の虫が治まらない。と言う市民感情が造られたのだ。1783年、王妃マリー・アントワネットの肖像Marie-Antoinette with the Rose画家 エリザベート・ヴィジェ・ル・ブラン(Élisabeth Vigée Le Brun)物議をかもした肖像画portrait of the Queen in a "Muslin" dress モスリンドレスを着た女王を正装にして書き直した作品かも。最も可憐で美しかったオーストリアの姫は至上最高の王族に嫁ぎ、悲劇の王妃となってしまった。確かに彼女の贅沢は目にあまる金額ではある。が、ルイ14世の時代を考えればそれほどのものではない。むしろアメリカの独立戦争での負債の方が遙かに大きい。そのアメリカ独立を助けろと言ったのも市民である。そうか、これもブルジョワジーだね。※ ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、ただの市民ではなく、財力を持つ有産階級である。つまり資本家。当然学識もある。「民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」?フランス革命の本質は啓蒙思想を知るブルジョワジー(Bourgeoisie)から発信された陰謀か・・。「マリー・アントワネットの居城」全4編終わります。Back numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃 マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃その他Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)リンク フランス王の宮殿 3 (Palais du Justice)(コンシェルジュリー)リンク フランス王の宮殿 4 (Palais du Justice)(フランス革命とアントワネット最後の居室)
2021年01月31日
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関連 Back numberをラストに追加しました。マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)以来長らく、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家との間で抗争が続いていた。そもそもはマクシミリアン1世の婚約者であったブルゴーニュ公女の為にブルゴーニュ公領を守った戦いが発端である。※ この戦いは「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」で触れています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)しかし、マリア・テレジアによるオーストリア継承の時に起きたプロイセンのフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)によるオーストリア領シュレーゼン(Schlesische)の強奪。そして勃発したオーストリア継承戦争。オーストリアにとって、女帝マリア・テレジアにとって、もはやフランスよりも許せない目前の敵はプロイセンのフリードリヒ2世となった。マリア・テレジアはフランスとの和解を計る事になる。※ オーストリア継承戦争、プロイセンの進行、フランスとの和睦については、「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中、「エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐」で詳しく書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)が、この和睦の申し入れはどちらの国が先にしたのかは定かになっていない。この仕掛け人がポンパドゥール夫人だったのではないか? と私はみているが・・。1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツ(Kaunitz)(1711年~1794年)はフランスへ向かう。フランスではポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)(1721年~1764年)を通じ国王ルイ15世との交渉が続く。また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉はすんなりまとまった。しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知し、先手を打たれてしまう。プロイセンはイギリスと手を組んだのだ。1756年5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に和睦の為に同盟を結ぶ事となった。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還を全面的に応援する事になる。そこにエリザヴェータ率いるロシアも参戦してプロイセン包囲網ができあがった。これはマリア・テレジア、エリザヴェータ、ポンパドゥール夫人にちなみ3枚のペチコート作戦」等と俗に呼称される。※ それについても「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中で書いてます。マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をした。と言う後日談からも、この和睦はオーストリア側からと言うよりは、やはりポンパドゥール夫人の発案? であったのでは? と思った所以だ。オーストリアからでは提案できる立場では、なかっただろうし・・。とにかく、3人の女性は卑怯者のフリードリヒ2世を嫌っていた。と言うところで確実に一致していた。※ 返す返すも、この包囲網が失敗した事は非常に残念でした。このフランスとオーストリアとの和睦に伴い、両国間の友好の印として、縁戚を結ぶ案が出る。フランスの将来の王太子とオーストリアの姫の結婚である。(後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚)しかし、これはすんなり決まった話しではなかった。何しろ長年の宿敵である。特にフランス側のオーストリアへの嫌悪は簡単に消す事はできなかった。何にもまして、ルイ16世の父ルイ・フェルディナンの反対は大きかったので、長らく話しは保留状態。話が進んだのはルイ・フェルディナンが早世したからだ。※ ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)(1729年~1765年)もし、ルイ15世が先に亡くなり、ルイ・フェルディナン自身がルイ16世として王位継承をしていたなら、この結婚のみならず、和睦自体もどうなっていたか・・。つまり、婚約まではすんなり決まったが、結婚の契約まではには時間を要したのだ。ところでマリア・テレジアは何よりも早い結婚を望んでいたが不安はあった。オーストリアでは、しきたりや作法は特別の時の儀礼でしかない。通常は宮廷内でもノンビリ。市中では庶民が王族の馬車でも平気で抜いて行く事もあったそうだ。だが、それでお咎めはない。そんなアットホームなオーストリアに対してフランスは訳が違う。ルイ14世以来の細かい宮廷儀礼にしばられる事になる。国境を越えたらプライベートは無いにひとしい。マリア・テレジアは勝手が違いすぎるフランスで娘が途方に暮れるのではないかと心配したのも最もな話しなのだ。だが、窮屈(たいくつ)を嫌って、好きほうだい羽目を外しはじめた娘の行動は女帝の危惧以上の問題に発展する事になる。マリーアントワネットの行動は、貴族の中からの「謀反(むほん)」と言うブルボン王家自体の屋台骨をゆるがす結果につながったからだ。フランス革命は市民の反乱だけではない。本来王政側に居るべき貴族の反発。彼らの信頼をも失い王族は裸同然に市民の中に放り出されて弾劾(だんがい)された。マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃フランスとオーストリアの和睦マリーアントワネットの美貌フランス領内の馬車旅王太子との出合いヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)結婚と寝所マリー・アントワネットの気晴らしと暴走デュ・バリー夫人問題1773年6月8日パリ入市の反響ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生後半ラインナップマリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティスマリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションマリーアントワネットの浪費パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)マリーアントワネットの美貌フランス側、ストラスブールでマリーアントワネットは上々の歓待を受けた。それはマリーアントワネットの美貌に寄るところが大きかった。彼女も常に微笑みを保ち、社交に勤めてはいたが、まさに百合(ゆり)と薔薇(ばら)がまざりあったような肌色した彼女を一目見るなり、皆、感嘆したのである。少女のあどけなさの中にも優美な身のこなしと優雅な物言い。彼女が微笑んだだけで一瞬にして全ての人が魅了される。春の花のよう可愛いらしく春の風のようにさわやかな姫の至来。英国の作家にして政治家エドモンド・バーグ(Edmund Burke)(1729年~1797年)は彼女は「春の香」と称しているが、ある意味それも彼女の才能だろう。実際、ルイ15世さえも初めて彼女会った時に魅了されてしまったらしい。フランス語版のウィキメディアから パブリックドメインの写真です。説明によれば前回紹介したフランスの画家ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)がアントワネットの肖像を王太子に届ける為にウィーンに行った1769年。最初に描いた肖像画が元になっているらしい。前回紹介した正式なアントワネットの肖像は老け気味。こちらの方が年相応のかわいらしさが見られる。が、1773年フランソワ=ユベール・ドルーエ(François-Hubert Drouais)(1727年~1775年)の作品となっています。(・_・?)はて? 何にしてもこの肖像画から解るマリーアントワネットの愛らしさと気品。オーストリアとの長年の確執から当初嫌悪していた者達まで、彼女の容貌はさることながら礼儀正しさに驚き。また、彼女の微笑みと立ち居振る舞い、その物腰しの優雅さに魅了されてしまうのである。宮中の者は皆彼女の回りにひしめき合い、お上手を言う。ベルサイユはマリーアントワネットによって征服された。と評されるほど・・。フランス領内の馬車旅前回、ルイ15世から送られた馬車の事に触れたが、長旅の為にマリーアントワネットには巨大な寝台馬車が2台用意されていた。内部は完全なる寝室? 横になって休む事ができる広さ。緋色の繻子の布団、肘掛けイスと衝立、折りたたみイスがセットされたものだったと言う。50名の近衛兵を先頭に盛大な行列が進む。オーストリア側でもそうであったが、フランス側でも中継地毎に馬を交換するので宿駅毎に386頭の馬をかき集め無ければならなかった。変え馬集めは遠い宿駅からも調達せざる終えなかったらしい。馬車の走る道も整備されたが、従僕の数だってハンパな数ではない。それも容姿優先で選抜雇用されたらしい。「顔つきが悪い。小男過ぎる。」など当時の従僕募集における落選者の問題点が記録され今に残っているらしいのだ。自分が就職に失敗した理由が何百年も残っていて、後世の人に知られる・・ってとんでもない話しですね下はフランス領内の馬車がたどったベサイユまでの行程です。1770年5月8日 ストラスブール(Strasbourg)→サヴェルヌ(Saverne)→リュネヴィル(Lunéville)→ナンシー (Nancy)→コメルシ(Commercy)ー→バル・ル・デュック(Bar-le-Duc)→サン・ディジェ(Saint-Dizier)→シャロン・アン・シャンパーニュ(Chalons・en・Champagne)→ランス(Reims)→ソワソン(Soissons)→1770年5月14日コンピエーニュ(Compiegne)ルイ15世と王太子が出迎えに来ていて合流。マリーアントワネットはこの時、始めて夫になる王太子と対面する。ラ・ミュエット(La Muette)→ヴェルサイユ(Versailles)王太子との出合いところで、60歳を迎えるルイ15世がマリーアントワネットを一目で気に入ったのとは対象に、15歳と9ヶ月の少年(王太子)は、彼女に興味を示していない。無関心にさえ見えたようだ。近眼で見えていないにしても思春期の少年である。まして自分の妻になる女の子に全く興味を示さないなんて事があるだろうか?「一風変わった男ですよ。」と評価された彼(王太子ルイ・オーギュスト)は、11歳で父を失い、12歳で母と死別。祖父であるルイ15世は自分の事で忙しく、結局、他人に委ねられたのだが虚栄心が強く優柔不断なド・ラ・ヴォーギユイヨン公爵に恐ろしく適当に育てられたらしい。年齢の割には幼稚な少年? 後に影響する身体的問題もこの時に気づいて解決できていれば、彼はもう少しりっぱな青年になっていたかもしれない。因みに彼が興味を示したのは職人らの仕事。錠前や左官などの技術職にただならぬ興味を示し、それは結婚後もしばらく続き汚れた服で戻ってくるのでマリー・アントワネットをあきれさせている。当然であるが、マリーアントワネットは自分に興味さえ示さない夫(王太子)にかなり失望したに違いない。ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)1668年の再建時のヴェルサイユ宮殿(ピエール・パテルの絵画))ウィキメディアから内側の門この扉の向こうは国王の前庭現在の宮殿見取り図からベルサイユ庭園側上の写真のみウィキメディアから借りています。ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。ルイ13世の狩猟用城館があったとは言えやせて貧弱な土地。そんな場所に広大な宮殿の建設をルイ14世は強行。湯水のようにお金を使って建設している。宮殿建設にはお金と労力と技術が必要。とりわけ水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事だったらしい。※ ベルサイユの宮殿建設には25000人の労力が、庭園の造園には36000人の労力がかかったと言われている。セーヌ川に直径12mの大水車を14個据え、200余りのポンプ群からなる装置で、水を汲み上げ、高さ154mのマルリーの丘まで運び庭園の噴水に水を供給していた。※ 頓挫した水道橋の計画もある。1674年ベルサイユ宮殿庭園ファサード ウィキメディアから「鏡の間」ができる前のテラスがある当初のファサード。しかし、ルイ15世の時代にはすでに財政逼迫が始まっているのでルイ14世当時ほどの数の噴水は無かったと思われる。今現在はもっと少ないだろうし、庭園の様相もかなり異なっていると思われる。ベルサイユ宮殿の黄金期は最初のルイ14世の時代がピークだったのかもしれない。造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)は、フランスの平坦な地勢にも適した新たな、独創的なデザインの造園法を生み出した。ベルサイユ宮殿の広大な庭の造園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)が中心に構想しているが、実は首席建築家マンサールから建築学的要素を取り入れながらベルサイユとトリアノンの造園を指揮したと言う。建築と庭園は一体となってデザインされているのである。また庭園装飾の為の彫像や鉢などのオブジェや噴水は画家のシャルル・ル・ブランがデザインし図案と設計図を書き上げている。つまりベルサイユ宮殿はヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)同様に3人の共作と言える。建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)刺繍花壇今は庭園内を回る乗り物が・・。ツアーの人に時間はないでしょうが・・。結婚と寝所ベルサイユ宮殿内、王室礼拝堂(The royal chapel)チャペル2階チャペル1階 下の写真はウィキメディアから1770年5月16日二人の結婚式はベルサイユ宮殿内にある王室礼拝堂(The royal chapel)で行われた。王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世 (Louis XVI)(1754年8月23日~1793年1月21日)15歳マリー・アントワネット (Marie-Antoinette)( 1755年11月2日~1793年10月16日)14歳。エッチング? こちらの写真はウィキメディアから※ この礼拝堂では、1745年2月23日ルイ15世の息子でルイ16世の父(ルイ・フェルディナン)とスペイン、フェリペ5世の娘のマリーテレーズ・ラファエルとの結婚式も行われている。この日、王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)はいつものようにお腹一杯食して新婚初夜の晩なのに大いびきをかいて寝たらしい。ルイ15世はお腹一杯食べるとまずいのではないか? と忠告したらしいが、沢山食べた方が良く眠れると返されたとか・・。以前、「ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」のところでルイ16世について書いたが、二人が夫婦となるのは1777年末から1778年初頭と推察。それまで二人りは寝室を共にしても何もなかった。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里下はベルサイユ宮殿内の王妃の寝所 夜なので写真が暗いです。二人の初夜は皇妃の寝所。そこは王太子自身が生まれた部屋。ランスの大司教が寝所を聖別。宮廷中の人々が押し合いへし合いで見学にきている中、国王が寝間着のシャツを手渡すと言う儀式が行われ、着替え姿まで見学の中で行われる。カーテンの影で二人が寝所に入ると、寝所のカーテンは突然開かれ二人床に付いた姿が公開される。まさにベルサイユ劇場である。見学の貴族らは彼らに会釈して部屋を出る。※ 一連の儀式はルイ14世の造った宮廷儀礼と思われる。王族にプライバシーなど全く無い。これがベルサイユのようだ。これはマリーアントワネットでなくても、面食らう面妖な儀式。マリーアントワネットが受けたカルチャーショックはかなり大きかったろうと思う。前述したよう王太子は儀礼の時から大あくびしていたので爆睡。翌日の日記には「無し」とだけ記されたそうだ。因みに、出産も公開である。一連の儀式を貴族らが見学する。毎日爆睡する王太子、3日目には自身は早朝から狩りに出かけ、戻ると子犬と遊ぶマリー・アントワネットに「良く眠りましたか?」と声をかけている。この事はウィーンのマリア・テレジアにすぐさま報告が行く。王妃の間、リュエル(ruelle)の域にある隠し扉の向こうが王妃のプライベート・アパルトマンとなっている。7月8日、王太子はマリー・アントワネットに結婚について自分はちゃんと解っていると弁明している。「敢えて規則だった振る舞いを自分は課して来た。心づもりの期日がくれば・・。」しかし、その心づもりと言う日(8月23日、16歳の誕生日)が来ても何も起こらなかった。そのうち宮廷中がその問題を知ってしまう。9月20日には、10月10日には・・と約束しながら自室に引きこもる王太子。マリー・アントワネットは叔母達に相談。励ましは逆効果となり、ついにルイ15世も介入。王太子は王の質問に対して「妻が可愛いらしいとは思うのですよ。私はあの人を愛しています。でも自分の気後れに打ち勝つにはまだしばらく時間が必要なのです。」と返している。ルイ15世は「待つ」と答えたようだが、同盟を強固にする為に孫がほしいマリア・テレジア。マリー・アントワネットほどの顔立ちの少女が王太子をその気にさせられないのだから、どんな薬だってダメなのではないか? と絶望している。医者の見解では解剖学上の異常がみられ、本来、成長を阻害しないよう若い時に外科手術が必要であったのに見過ごされて来た事。加えて、異論の余地無い発育不全?※ 以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」で書いたルイ16世のコンプレックスに関する疑問は解決した。問題は王太子にあるのだから仕方が無い。だが決断できない王太子の為にマリア・テレジアのやきもきは7年も続くのである。マリー・アントワネットの気晴らしと暴走赤い狩猟服を着たマリー・アントワネット 1771年(パステル画) ウィキメディアから何か企みをたたえた利発そうな16歳のマリー・アントワネットが描かれている。画家はオーストリアの画家兼彫刻家であり帝国宮廷画家であるヨセフ・クランツィンガー(Joseph Kreutzinger )(1757年~1829年) 母国のマリア・テレジアの為に描かれ送られた。シェーンブルン宮所蔵。王太子との問題は彼女の自尊心を大きく傷付けていた。それに気付かなかったのは王太子だけだ。マリー・アントワネットは必死に気を紛らす暇つぶしを求めていた。そんな中で現れた彼女の本性? 問題点? 次々と露見してきていた。上の写真は狩猟着姿のマリー・アントワネット。実は乗馬をしたいと申し出たが、危険があるので妥協策としてルイ15世からokが出たのは馬ではなくロバ。が、すぐに約束をやぶり小馬になり、すぐに馬に変わった。せめて並足で乗るようメルシー伯爵は言ったが聞かず疾走させる。メルシー伯爵は困りマリア・テレジアにまた手紙を送る。女帝は当然怒る。乗馬は肌の色を損ねるから止めるよう諭したが聞かなかった。女帝は娘が狩りに行かなければ良いが・・と心配していたが、狩りには出かけるし、フェートンにも乗っていた。マリー・アントワネットの狩りの問題は危険だけではない、それに同好する者や食糧にまで及ぶ。とにかくマリー・アントワネットは自分はもう大人だから・・と人の意見を聞かなくなって暴走しだしていたのだ。パリ駐在のハプスブルグ家の大使であるメルシー伯爵とブルボンの宮廷関係者、さらにはウイーンのマリア・テレジアとの間で、いかにマリー・アントワネットを制御するかで悩む事になった。※ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャント(Florimont-Claude de Mercy-Argenteau)(1727年~1794年)。オーストリア外交官。また、別の問題があった。彼女は回りの者の観察をするのが好き。その中で見つけたその者の個性を面白可笑しく回りの女官らに話し笑いものにする。人の滑稽(こっけい)な所を見つけてはその者を材料にして、より機知にとんだ語彙(ごい)を見つけるのが上手(じょうず)なのだ。メルシー伯爵はさすがにマリア・テレジアに警鐘の手紙を送る。マリア・テレジアはすぐさま叱責(しっせき)の手紙をマリー・アントワネットに送っているし、この事はルイ15世の耳にも入り王も不快を示す。王は公の場ではしないよう警告するが、いずれもマリー・アントワネットはろくに耳を貸すことがなかったと言う。※ こうした人をからかう行為は、マリー・アントワネットが王妃になるともはや歯止め無く酷くなる。デュ・バリー夫人問題こんな性格が表に出て来たのは、宮中にいる内親王の悪影響もあった。夫に相手にされない代わりに訪ねた内親王は、メルシー伯爵によればゴシップと陰謀の温床で、友人にするにはふさわしくない老嬢。マリー・アントワネットに良からぬ事を吹き込んでいた争いの元凶だった。当時ルイ15世の公妾(こうしょう)であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)と宮中の貴婦人らとの抗争にも巻き込まれて行く事になる。デュ・バリー夫人のポートレイト 1770年、プラド美術館蔵そもそもデュ・バリー夫人は国王の公妾になるには出自が悪すぎた。ブルジョア出身であったポンパドゥール夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)とは比べるのも失礼なくらいレベルが低い。教養こそ少しはあったが少女の頃から素行も悪く、男性遍歴を繰り返していた。デュ・バリー子爵に囲われると、子爵は彼女を高級娼婦として友人らをもてなしさせていたらしい。ルイ15世はそんな中で1769年に紹介され知り合っている。宮中の女性等が彼女を嫌悪するのは最もだ。しかも、いじめられたらデュ・バリー夫人はルイ15世に言いつけて必ず反撃の仕返しをする。宰相までクビにさせた。マリー・アントワネットは自分の取り巻きの1人が追放された事がとりわけ許せなかった。メルシー伯爵もマリア・テレジアもマリー・アントワネットが何かしでかすのではないかと心配する。それで出た行動が「デュ・バリー夫人無視」である。マリーアントワネットはベルサイユに来てまだ一度もデュ・バリー夫人と会話していない。王妃に声をかけてもらう事は認めてもらった事に値する。彼女は王妃に認めてもらっていない事になる。※ フランス貴族の独特の風習で、身分の高い者からしか声をかける事が許されない。マリーアントワネットはデュ・バリー夫人の存在そのものを消して無視をし続けた。この事は内親王である叔母や夫である王太子も望んでマリー・アントワネットにそうさせていたらしい。マリー・アントワネットは誇り高く強情な気性。マリア・テレジアでも今回は苦戦したが、オーストリアの国益の為(ポーランド問題でフランスの合意が欲しかった。)彼女を説得。マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人にただ一声掛けるだけで事が収まるからと促し承諾させた。彼女は約束どおり一度だけ声をかけたが・・。「これだけにしておきます。彼女は2度と私の声の音色を効く事はないでしょう。」と言い実行した。因みに、ルイ15世の病状が悪化した1774年5月、デュ・バリー夫人はベルサイユから、プチトリアノン宮からすぐさま追放された。1773年6月8日パリ入市の反響王太子夫妻の結婚の時、1770年5月 パリ市からの結婚祝いに催された祭りがあった。花火が盛大に上がる大きな祝典でマリー・アントワネットもベルサイユから見学に訪れたのだが、あまりに多くの人間がパリに集まり群衆事故が起きた。それは大量の死者を出す悲劇でマリー・アントワネットは恐怖の帰還をしている。以来、マリー・アントワネットはパリ市を訪問していなかったようだ。パリ市の要請もあり、正式な王太子夫妻のバリ入市が1773年6月8日に決まった。パリ市は祝砲も鳴らし、騎馬や馬車もたて盛大な行列行進で出迎えのパレードを催している。マリー・アントワネットらが正餐の為にテュイルリー宮に向かう道々、マリー・アントワネットのみならず、王太子、ルイ・オーギュストにも歓呼の嵐があり、テュイルリー宮に至っては熱狂的な歓声の歓迎を受け、2人は10回もアンコールに答えるように繰り替えし顔を見せると言う人気。ブリサックが「ここには妃殿下の恋人が20万人はおりますな。」と言う盛況ぶり。二人は信じられないほどの市民の歓迎の熱狂ぶりに「一生忘れられない祝祭」と評している。因みに、これに気を良くしたマリー・アントワネットは早くも王太子を伴い16日にバリのオペラ座に観覧に出かけている。この時も熱狂を持って歓迎されているが、気をよくしたのはマリー・アントワネットだけではない。王太子ルイ・オーギュストは1773年以降、無邪気で美しく、市民に人気の妻の側を離れなくなったと言う。ニコニコやってきては会話をし、妻の助言に感激して新たな魅力と慈善心を知る。気後れしていた少年はどこへやら? マリー・アントワネットに誘われて友人のとの集いにも出るようになり王太子の心を溶かしたと言える。当時のマリー・アントワネットも夫(王太子)のやさしさや気づかいに少なからぬ尊敬の念もあり、夜の問題以外は順風であったようだ。また、オーストリアのフランス駐在大使メルシー伯爵はマリア・テレジアに喜びの手紙を送っている。が、マリア・テレジアはさすがマリー・アントワネットの母である。娘の性格を熟知している。彼女が素直になるのは関心が無い事に関してのみ。自分の意志を通す為には何度もトライする性格である事。国王の公妾に対する態度など、思慮に欠ける振る舞い。また危険な行動の上に執念深くもある性格。彼女の軽はずみさから生まれる結果をいつも危惧しているとメルシー伯爵に釘を刺している。いずれにせよ、この時点ではパリ市民は若い二人に期待していたのだ。そんな期待と歓迎を持って迎えられた二人であったのにわずか16年後には期待を裏切った国王への市民の逆襲が始まる。以前(1358年)、シテ島(Île de la Cité)にあったパリの古い王宮、パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)がパリ市民の暴徒に襲われ恐怖でシャルル5世が宮殿を棄てた事件を紹介した事があるが、パリ市民は伝統的に? かなり凶暴なのだ。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月10日)1774年4月27日国王が発熱と頭痛でトリアノンから戻ってきた。その時点では重篤ではなかったが、翌日の夕には2度の瀉血(しゃけつ)が行われていた。※ 瀉血(しゃけつ)は体の毒素を抜く為の血抜きらしい。今では医学的根拠は無いらしいが当時は主流。3度目の瀉血は秘蹟(ひせき)の儀式が必要になる。それもかなり危ない時なのでルイ15世は時を稼いでいたが、顔に赤い発疹。天然痘であった。5月7日、王は最後を覚悟して聖体拝受を受ける。そして1774年5月10日15時15分。国王の寝室の窓辺に点されていたロウソクが消えた。ルイ15世崩御。別室に待機する王太子とマリー・アントワネットの元に地響きが近づいて来る。鏡の間を我先に新国王の下に走り寄る廷臣達。二人は直感で王の崩御を知り、同時におびえ、ひざまずき泣きながら神に祈りを捧げたと言う。「神よ、私どもを守りたまえ。いと若く君臨する身となりました故。」でも神はそのお願いを聞いてはくれなかった。ルイ16世在位:1774年5月10日~1792年8月10日 1789年に起きたフランス革命による裁判で1792年8月10日王権は停止。翌年裁判で有罪となり「ギロチン(guillotine)」と言う手法で首を落とされ処刑される事になる。※ ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette) (1755年11月2日~1793年10月16日)ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像 ウイーンの美術史美術館で撮影マリア・テレジアに送られた二人の肖像画ところで、先王が無くなると心臓を取り出しパリの教会に付託する習わしがある。以前、分割埋葬の事を紹介した事がある。国王やフランス貴族、またハプスブルグ家では、遺骸と心臓を別に保存すると言う不思議な儀式の事だ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓ところがルイ15世の場合、病気が病気だけに腐敗も早く取り出す事が不可能となった。それ故、ルイ15世だけが心臓を付けたままその遺骸は王家の墓所であるサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)へ運ばれたのだ。だから彼の心臓だけは絵の具になるなどと言う悲劇からは免れた。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown毎日少しずつ書いていたら着地点が定まらず、一度に載せるには長くなりすぎました。後半の「マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス」は一両日中に載せます。m(_ _)mBack numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿 マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2021年01月25日
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遅ればせながら新年おめでとうございます m( _ _ )m最もコロナ感染者の増大で、皆さんおいそれと新年を祝う気にはなれなかったと思いますが・・。私の方、年末退院した母が家に来ていてちょっと介護状態です。なかなか書く時間がとれませんでした集中できる時間は母が寝た深夜のみ。でも日中の疲れでパソコン前で知らずに眠っている事が多くキーボードを枕にしていたのには驚きました。「マリー・アントワネットの居城 3」まもなく載せるところですが、その前に大発見をしたので先にそちらを紹介します。実は以前紹介した「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」の所で残っていた疑問が解決したのです。革命期に暴かれた墓の棺から発見された心臓の容器と溶けてミイラ化した心臓。それらで絵を描いた人がいた事を紹介しています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓その絵と画家、そして驚く事にそれらは絵の具として確かに売られていたようなのです。溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brownマミーブラウン(英Mummy brown)(仏Brun momie)パリの教会に納められていたフランス歴代王ら貴人の心臓。それらは香料が使われていたので腐らずミイラ化して残っていたらしい。「Mummy brown」の「Mummy 」はミイラの意。アルザス生まれの画家、Martin Drolling(1752年~1817年)彼の描いた「台所の場景」はまさにミイラ化した溶けた心臓をなすりつけて描いた絵であった。写真はウィキメディアからInterieur d'une cuisine par Martin Drolling邦題「台所の場景」 1815年ルーブル美術館所蔵グラッシュ効果はあるが乾燥し、ひび割れやすかったらしい。2枚目(写真上)ひび割れが見えるように部分アップしました。彼は革命期に貴人のミイラ化した心臓を買い入れ、それをチューブに詰めて画布に塗りつけたそうだ。絵画の描き方で、透明感ある仕上げにする技法がある。それがグラッシュとかグレーズと言う技法である。ルネッサンス期にファン・アイク、デューラー、クラナッハらが使用したのは油絵具を樹脂性のワニスで溶き、薄い透明な絵具層を何層も塗り重ねると言うもの。現在はワニスと言う専用の樹脂から造られたメディウムが販売されていて、それを直接塗布しても良いし、絵具を少し入れて色づけし重ねて塗ったりして効果を出す。それを画家Martin Drollingはミイラ化して溶けた心臓で描いたらすばらしいグラッシュの効果をもたらしたと言う事らしい。Martin Drollingは、貴人の心臓で同じ効果をあけだが、実は16~17世紀にそれら類似品は存在していたのかもしれない。少なくとも、19世紀にはマミーブラウン(英Mummy brown)とか(仏Brun momie)と言う名の絵の具として実際に販売されていた。ウィキペディアには、マミーブラウンの材料が「エジプト産のヒト、あるいはネコ科動物のミイラを原料として製造されていた。」と記述されているので、エジプト由来のミイラ物は以前から存在していたのかもしれない。でもMartin Drollingは確かに革命期に流出した人の心臓でそれらを描いている。上の絵がそのものだと言われると気分が悪くなる人もいるかもしれない。それにしても「Mummy brown」は確かにミイラの茶色そのものだった。実際販売されていたマミーブラウンはラファエル前派の画家が好んで使用していた絵の具らしい。ラファエル前派はファンであるが全く知らなかった。19世紀になり、マミーブラウンの原材料が知れ渡ると需要は減ったようだ。ラファエル前派の画家エドワード・バーン=ジョーンズ( Edward Burne-Jones)(1833年~1898年)も使用を取りやめて絵具をチューブごと庭に埋葬したと伝えられている。私の長らくの疑問、その疑問は同じ本の中に書いてあったのだ。今回A・カストロの「マリー・アントワネット」を読み返していてルイ15世の崩御の箇所で見つけてしまった。※ A・カストロの「マリー・アントワネット」は私が小学生の時に買って読んだ本で数十年ぶりにその本を読み返している所です。ルイ15世は天然痘で亡くなり、あまりの腐敗の早さ故に伝統の心臓の抜き取りができなかったそうだ。だからこそ、彼の心臓は絵の具にはならなかったと言う書き方がされていた。もし、小学生の時にこの答えに気づいていたら「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」は書いていなかったかもしれない。ところで、私も19世紀の絵画の模写を何枚かしているのですが、その透明感のグラッシュ効果を出す為に重ね塗りの経験があります。案外重ね塗りは下のが溶けてきたりするので難しいのです。それにどう味を出すか悩んでブラウンを混ぜたりあれこれしていましたが、そうかマミーブラウン使っていたのか・・と納得した次第です。
2021年01月13日
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