わたしのこだわりブログ(仮)

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2021年03月02日
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カテゴリ: 歴史の旅
星 ラストにBack number追加しました。

「騎士修道会 3 (ロードスの騎士)」の所にウイーンのマルタ教会の写真を追加しました。
マルタ教会は聖ヨハネ騎士団をルーツとする教会です。


パンデミック(pandemic)とは、人にも感染する動物由来の感染症が、地理的に広い範囲で感染拡大(世界的流行)し、結果多くの感染患者を出す状態​ です。​
現在世界で流行しているコロナウイルスの蔓延がまさにパンデミックですが、歴史を紐解くとペストや天然痘によるパンデミックの発生がかなり伝えられています。
今回、ローマ帝国の歴史を振り返り、イスラム海賊の実態にも驚きましたが、古代ローマ帝国の衰退の影にあった2つの大きなパンデミックに触れないわけには行かなくなりました。
ローマ帝国の最強神話がくずれ始めた要因の一つは歴史的なパンデミックが発端であった事 に間違いありません。​

最初は マルクス・アウレリウス・アントニヌス (在位:161年~180年)​​ の治世​。
​次は 東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527年~565年)の治世 。​
​​​​​いずれも大量の死者が出て都市機能もマヒ。人口の減少、食糧難。これらはローマ帝国の軍隊にも当然大きく影響した。

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時は165年から167年にかけてメソポタミアで始まり軍により166年にローマに運ばれた。165年~180年まで続いた と記録されているようです。

東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時は542年~543年頃エジプトで始まりパレスチナ経由で帝都コンスタンチノープルに到達。
流行の最盛期は1日に5000~10000人の死者が出たと言われ、人口の約半数を失い帝国は一時機能不全に陥たと記録されている。しかも 最初の発生から約60年にわたって流行 したらしい。びっくり
※ 昔はワクチンだって無いし治療法も当然無いから自然終息しかなかったのだろう。

何よりユスティニアヌス1世自身がこの感染症に感染しているし、人口の減少は軍人不足となる。
ユスティニアヌスが推し進めていた帝国の再統一を完全に断念せざる終えない結果となって現れている

今の私たちなら、このパンデミックの危機が理解できるだろう。歴史に残るパンデミックなのだ。
一過性の伝染病の扱いですむ訳がない。確実にローマ帝国の歴史にインパクトを与えた事件です。しょんぼり


ところで、これは「欧州の交易路」の話でしたが、次をどこから始めるかが大きな悩みでした。
番外にするか? とも思ったのですが、やはりここはローマ帝国の滅亡に至る歴史をスルーするわけにはいかない。しかし、ローマ史は長い。短くしても長い。ぽっさらにパンデミックと経済を足しているからね。

​​そんなわけで、今回は ローマ帝国を衰退させた大きな要因の一つ、パンデミックの話
次回、 地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話し と2回に分けて三度ローマ帝国の話になります。​​
長くなりすぎて分割しました f^^*) ポリポリ  これで前半です。


アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック

皇帝の遊戯  ヘリオガバルスのバラ
初期の帝国と属州
五賢帝とローマ帝国の販図

​伝染病の季節

帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌス
農業形態の変化と停滞したローマの再建
再びローマ帝国を一つにした​コンスタンティヌス1世

地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)
ド​ルの通貨記号はなぜDではなくSなのか? ​​​
​東ローマ帝国と西ローマ帝国​ ​​​、そして西ローマの解体
「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦
ユスティニアヌスの黒死病

以前、「ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかった」と紹介した事があるが、 ​カラカラ(Caracalla)帝(188年~217年)(在位209年~217年)は212年「アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana )」を発布し全属州民にローマ市民権を与えている。​
これは今まであった差別を取っ払った素晴らしい英断のように思えるが、 ​実際の所は増税が狙いであった。​

今までローマ帝国では市民権を有さない者は相続税や奴隷解放税などが免除されていた。
​決してローマ帝国が金欠だったわけではない、 もっとお金を必要としたのは兵士の俸給を上げる為 であったらしい。​

​前帝の遺恨に「兵士を富ましめよ。」とあったと言う。 カラカラは兵士の俸給を年額500デナリウスから750デナリウスへと1.5倍も昇給させている のである。​

確かにローマ帝国にとって兵士は大事。彼にとっても頼れるのは兵士のみ? (元老院とは敵対)だから兵士からの人気は絶大であったらしい。
最も遠征中に29歳の若さで暗殺されているが・・。
※ カラカラ浴場の建設も有名であるが弟を殺すなど人としては問題のある皇帝であった。
​​​​
​なぜ紹介したかと言えば兵士の待遇である。 給料が良ければ兵士は集まる。
ローマ帝国の躍進は兵士なくしては成り立たなかったのだから兵士に十分な給料が払えるうちは帝国は安泰だったと考えられる。


だが、そうも言っていられない事情で兵士不足が起こっていた

かつての強靱(きょうじん)な軍隊はどこへ?  ローマ帝国は属州を守る為の軍隊さえ出せなくなって縮小されていく。​


皇帝の遊戯   ヘリオガバルスのバラ
ヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus) 1888年
画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)
「Juan Antonio Pérez Simón」コレクション
英国の男爵Sir John Richard Airdの発注で描かれたローマ帝国の23代皇帝ヘリオガバルス(Heliogabalus)(203年~222年)(在位218年~222年)の遊戯を描いた図。

天幕の上の大量の花を来客の上に突然落として驚かすと言うネロ帝もやっていたと言うサプライズである。実際には大量の花で窒息死する者も出ていた と言う。​
※ 本来はスミレの花などが使用されたと言うがアルマタデマはバラの花をフランスから取り寄せて描いている。

ヘリオガバルス帝はカラカラ帝の従姉妹の子供。現在ではヘリオガバルス帝はインターセックス(intersex)であったと理解できるが、娼婦になったりと奇っ怪な行動で有名であった。​​​
​​​​母と祖母の摂政で15歳で皇帝になるが、その行動故に19歳で暗殺されている。

アルマ=タデマは好きな画家の1人である。彼は古代ローマやギリシャをモチーフに多くの美女の絵を残している。実に写実的に美しく描いた人である。
実際の富めるローマ帝国の時代に、皇帝らはこんな事もしていたと言うイメージでまずは美しい絵を載せてみました。スマイル

​​
初期の帝国と属州
​帝国の属州は元老院管轄地と皇帝直轄地に二分される。​​
治安の安定した元老院管轄の属州では元老院が属州総督を選出し派遣したが
治安の安定しないガリア、イスパニア、ダニューブ地方、エジプト、シリアなどの ​帝国辺境地には尚、強力な軍事力で押さえる必要があり、皇帝によって任命された使節レガトゥス(legatus)が置かれた。つまり軍人総督である。​
レガトゥス(legatus)はラテン語で使者、使節、軍隊の副官、司令官、総督代理など高級将校や幕僚。

​エジプトなど豊かな穀倉の属州は皇帝の私領のように扱われ、元老院の影響が及ぶ事は無いよう排除されていた。​
それは次の理由による。

皇帝直轄の属州における正規軍(ローマの市民)の常駐に加え補助軍隊として属州民で編成された軍団で軍事力を強化。また皇帝の身辺を警護する近衛軍の創設。
それら ​経費は国庫だけで賄えないので皇帝直轄の属州からの収入が充てられていたからだ​。

星
初代皇帝の​アウグストゥスは 権限と権威を持って元老院を納め元首政(Principatus)を開始 帝国を支える軍隊と財政をしっかり確保 して帝国を不動のものとし、ローマ市民や属州民の支持も得ていた。​​​

​初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus) ​(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)​​
本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)

写真は上下共にウィキメディアから借り下は部分カットしています。

プリマポルタのアウグストゥス(Augusto di Primaporta)
別名アウグスト・ロリカート(Augusto loricato)。戦闘直前のサインを出す瞬間の姿らしい。
ローマ時代のロリカを付けたアウグストゥス帝の大理石の彫像です。高さ2.04m。
※ 元々は大理石の上に彩色されていたらしい。
※ 足下にいるのはヴィーナス神の子エロス。ユリアス家はヴイーナスの子孫を公言している。

1863年、ローマの北に位置するプリマポルタ(Prima Porta)にあるアウグストゥスの妻リヴィアドルシラの別荘(villa)から発見された 。​(それ故保存状態が良い。)
現在はバチカン美術館に保管されているようです。自分の写真に無かったので撮影できなかったのかも。

ロリカの正面図柄にはローマの軍旗を返すパルティア王フラーテス4世(Phraates IV)。
※ パルティアとはBC20年に和議を結んで戦争を回避している。
※ BC17年には内外にローマの平和を宣言する世紀の祭典を開催。

BC28年~BC27年頃の作とされているが、パルティアの和議を考えるとBC20年~BC17年頃かも。
尚、誇張していたとしてもおそらく、最も本人に近い彫像と考えられている。


五賢帝とローマ帝国の販図

​​ ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた時代がこの五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の時代 である。
星アウグストゥス帝より始まり「五賢帝」の最後マルクス・アウレリウス・アントニヌスの終わりまでを​ローマ帝国の平和の時代としてパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ぶ。​

五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)12~16代皇帝​​
ネルウァ(Nerva ) (35年~ 98年)(在位:96年~98年)​​​
​​​​​ ​トラヤヌス(Trajanus)​ ​​​​​​(​53年~117年)(在位:98年~117年)​​​
​​​ ​ハドリアヌス(Hadrianus)​ ​(76年~138年)(在位:117年~138年)​​
​​​​ アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius )(86年~161年)(在位:138年~161年)​​​​
​​ マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius) (121年~80年)(在位:161年~180年)​​

ところで、たまたま能力のある皇帝が5代続いたわけではない。
帝位の継承を血の世襲とせず、広い範囲から有能な人材を抜擢して養子にしてから帝位を継承していた からである。
星帝国の販図は 第13代ローマ皇帝 トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年 ~17年)の時に最大規模となる。​経済もしかり。

​​​117年トラヤヌス帝からハドリアヌス帝の時 ローマ帝国最大の販図

​​ローマ帝国(Roman Empire)​​
​​競合する地域(Contested Territory)​​
​​一時的な征服(Tenporary Conquest)​​

​​​​​ ​トラヤヌス(Trajanus)​ ​​​​​​(​53年~117年) 13代皇帝(在位:98年~117年)​​​

ウィキメディアから

ローマ帝国の販図は最大​​規模​​​となる。
​トラヤヌス帝は初の属州出身の皇帝であるが軍人として有能であり元老院からも信頼され尊敬されるべき人物であった。

治世19年の間に 現ルーマニアにあたるダキアとシリアの要所ナバテアを併合。かつてのペルシャ帝国領のパルティアまで及んでいた。
とは言え、まだ 当時は近隣諸国が脅威になる程の力を持っていなかった時代らしい。
​​
ハドリアヌス(Hadrianus)​ ​(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)​​

ウィキメディアから

​​​​帝国の拡大路線は止めるが ​治世の半分を属州の視察に費やし国境安定化と街の防壁建造など防備もした。

星私が特筆したいのはハドリアヌス帝がローマ市内の
パンテオン(Pantheon)
を再建し、ここをあらゆる神を祀る万神殿とした事。
​各属州を回ったハドリアヌスは、それぞれの属州の文化を尊厳(そんげん)した​ のである。

ローマ帝国が多神教と言うのもこれで納得できる。ぽっ

下はローマにあるパンテオン(Pantheon) 

 写真は上下共にウィキメディアから借りてきました。

実は この建物はハドリアヌス帝が再建(118年~128年頃)した当初のオリジナル なのですびっくり
​直径43.2m の円堂の上に天窓の開いたドームが載った構造で、 壁面の厚さ6mのローマン・コンクリートでできている 。​
天窓のオクルス(oculus)などネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレア(Domus Aurea)の建築が応用されているらしい。

ローマ帝国がキリスト教を国境にした後、608年頃キリスト教の聖堂となった。ラファエロの墓がここにある。


​​ アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius )(86年~161年) 15代皇帝(在位:138年~161年)​​​​
ハドリアヌス帝の路線を継承
彼の治世は「歴史が無い」と皮肉るほど平和で安泰した時代だったらしい。

​​​ マルクス・アウレリウス ​​​・アントニヌス (Marcus Aurelius  Antoninus ) (121年~180年)
16代皇帝(在位:161年~180年)​​
​​
ウィキメディアから

星先に紹介したとおり マルクス・アウレリウス ・アントニヌス の治世165年~180年は疫病が大流行した 。​ ​彼の治世は 戦争や洪水、飢餓、疫病が相次ぎ気の休まる時が無かったと言う波乱の時代 であった。
ローマの平和、パクス・ロマーナ(Pax Romana)はここに終焉する しょんぼり

アルメニアの覇権をめぐるパルティア王国と戦争に勝利したは良いが、 ローマに凱旋した軍隊が戦利品だけでなく、疫病も運んで帰還した のである。​600万人以上の犠牲者を出した。
​​
アントニヌスのペストと呼ばれているが、実際は天然痘によるパンデミック(pandemic) だったようだ。もっとも天然痘の他にも腺ペスト、麻疹(はしか)、インフルエンザが大流行している。
この天然痘はそのまま定着して残りその後も猛威を振う。​

ローマの歴史家カッシウス・ディオ(Cassius Dio)によれば, 189年に再び発生した疫病では1日2000人の死者を出し、帝国全土に広がり総死者数は500万から1000万人と推定されている
​※ カッシウス・ディオ(Cassius Dio)(155年,163年,164年~229年)は22年間で80巻からなる「ローマ史」を書き残している。

The angel of death striking a door during the plague of Rome
疫病のローマでドアを叩く死の天使


​伝染病の季節
毎年の夏のポピュラーな疾病は腸チフス、マルタ熱、マラリア。次いで肺炎、結核でこれらで当時の死亡率の60%を占めていた のではないか? と推測されている。​
また ​​これらに次いで、赤痢、コレラ、壊疽(えそ),壊血病。さらに少なくなるが恐水病、破傷風、炭疽病、梅毒があった とされる。 ​​
​​​
​​ローマでは 夏の終わりから初秋にかけて成人の死亡率のピークを迎えた。​​それは夏に伝染病が猛威をふるったから らしい。​​​
※ 5歳未満の乳幼児の場合は夏がピーク。
※ 1歳未満の場合は1月から2月。これは出生の時期が晩秋から冬が多かった事による。なぜなら1年以内に新生児の30%が亡くなっていたからだ。
​​
当時の医学のレベルでは伝染病の流行を止めたり根絶など不可能 。パンデミックとまではいかないが、都市の伝染病は度々発生していたらしい。

星​​例えば 77年のウェスパシアヌス(Vespasianus)(9年~79年)の治世末の帝都ローマでは数週間に渡り毎日1万人が死亡 すると言う日が続いたと言うのも記録にある。​​​​​​​


​​​ところで、 ローマの医師達は疫病が発生する場所として、とりわけ沼や池などの沼沢地(しょうたくち)の危険性を知っていた。水流の無いよどんだ場所は病気を媒介する害虫が出る事も解っていた からだ。​​
※ かつて「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で建国当初のローマ市内の沼地の排水工事について触れています。

​だから医師たちは農場を建てる立地条件として人間や家畜、養蜂用のハチの為にも沼沢地を避けるよう助言も出している。​
​それ故、都市開発の提言もしていたらしいが、 ​​ ローマ帝国では早くから上下水道が完備されていたにもかかわらず、都市部のローマでさえ​衛生状況は良くならなかった 。​​​
それは ローマの街では毎年100万立方メートルの糞尿やゴミが直接テヴェレ川 (Tevere) に流されてい たからだ。(​​​汚水処理の問題)
​​​​ ​テヴェレ川の魚は汚染されているので危険。食べるなと言う警告も出される程に。​
星また上水道も一度(ひとたび)上流で汚染されれば最悪であるし、 大規模な公共浴場の建設も問題であったかもしれない。 飲料となる 公共の水道水(泉)が汚染されれば病気はあっと言う間に広がっただろう事も想像できる
※ 公共の泉
の汚染は ​中世都市のペストの蔓延(まんえん)にも言える。

ローマ、ベルニーニ広場にあるトリトーネの泉(Fontana del Tritone)

このトリトン(海神)像、自体は17世紀にジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年) がウルバヌス8世のために造ったもの。中世はこんな泉が街の広場に必ずあって飲料となっていた。

中世に再建されたウィルゴ水道 (Aqua Virgo) の取水の終端施設として、トレヴィの泉( Fontana di Trevi)​が造られている。

​古代ローマ時代の ウィルゴ水道の終端施設はアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)であった​ 。​
​※ 古代ローマ時代のアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)はパンテオンの南に隣接していた。​

ウィルゴ水道はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ( Marcus Vipsanius Agrippa)(BC63年~ BC12年)が手がけた事業で、同じくアグリッパ浴場はローマ帝国最初のテルマエ(公共浴場)であった。​​

​他に彼は最初のパンテオンやポン・デュ・ガール(フランスの水道橋)などアウグストゥス帝の元で多数の建築物を手がけている。​
※ 
ポン・デュ・ガール書いています。
リンク ​ 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築)

サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋とテヴェレ川

円形をしたサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)も実はハドリアヌスが建設を指示したものだ。これは彼の霊廟として建てられている

135年建設開始。完成は139年。

サンタンジェロ橋の上の10体の天使像はバロックの大家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が据(す)えたもの。

サンタンジェロ城​
(Castel Sant'Angelo)は歴史の中で用途を変えた。 サンタンジェロ城と名が付くのは590年に流行したペストの終焉祈願があったらしい。 ​​時の教皇グレゴリウス1世。彼は城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て命名?​
※ 
サンタンジェロ城トップの 大天使ミカエル像をモンサンミッシェルで紹介しています。
リンク ​ モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル

星14世紀以降はローマの城壁の一部に組み込まれ、要塞として、また牢獄や教皇の避難所としても利用された。
それ故サンタンジェロ城からコッリドーリ通りに併走して伸びる城壁上の通路がバチカン宮殿までつながっている。

下の写真のみウィキメディアからかりました。​

3世紀の危機
帝国辺境の緊張が激化 。​
パルティア王国は滅んだが、226年すでに東方からはパルティアに代わるササン朝ペルシャが勃興(ぼっこう)してきていた。彼らはメソボタミアへ進行。ローマの属州シリアが脅かされていた。ペルシャとの戦いは続く。
233年、北方からはゴート人を初めとするゲルマン諸族が西北部国境を越え帝国領に侵入。ドナウ川周辺地域にゴートが侵略し混乱を極める。

またローマ自体が異民族の脅威にさらされた。
ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)(271年~275年)が建設される。

皇帝の名を覚える間もなく次の皇帝に変わる。 ​半世紀で70人の皇帝が現れた。​
そんな激動の時代であった。

星 ​3世紀の危機は帝国の四方からの異民族の侵略と防戦。政治は軍人による「皇帝の椅子取り合戦」に。さらに、またも疫病の発生による戦力の低下と経済政策の失敗による経済危機の発生である。
​※ この時期、皇帝自身が敵に捉えられて殺されると言うも失態も起きている。


​帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌス​​
​​ ローマ帝国では皇帝に軍事と政治の両方が委ねられていた。​
つまり ​皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。​

だが、このシステムでは同時に2つの才能が要求される。
​実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。​​

しかし​領土が拡大して度々対外から多数の侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。
​​​​​​ ​​
​293年テトラルキア時代​

ディオクレティアヌス(Diocletianus)​​(在位284年~305年)東方正帝​​ ​​
ガレリウス (Galerius) (在位305年~311年)東方副帝から正帝​
​​ マクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝
コンスタンティウス
(Constantius) (在位305年~306年)西方正帝​​​

​​星 ​広大な領土の統治と軍の統率は1人では不可能。 ディオクレティアヌス帝は皇帝権を正帝2人と副帝2人とに4分割。293年、テトラルキア(tetrarchia)を考案 した。
テトラルキア(tetrarchia)は広大な領土を有するに至った 帝国を合理的に統治する事を目的として造られている。
最も当初のテトラルキアは職務の分担であって地理的な分割は想定されていなかったらしいが・・。

実質帝国を2分(東帝と西帝の誕生)し自治は4分割した事になる。これは独裁を避ける為でもあったが、 次代の皇帝候補が明確にされた・・と言う利点もあった

また皇帝の早期退職も勧めている。皇帝の仕事は厳しく、若くしては足りず、老いては過酷と言う事らしい。
​​ ​また有能な者に帝職を継承させるシステムを構築。これは世襲による特定の一族の権力の集中を防ぐた為でもあったらしい。

ディオクレティアヌス(Diocletianus) (244年~311年)(在位:284年~305年)​

17世紀の大理石の胸像。ウィキメディアから​​

農業形態の変化と停滞したローマの再建  ​
改革だけ見ると策士と言われるほど計算されている。
インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。

この時期、軍を維持する為の財政が破綻し、治安はどんどん乱れていく。海賊や山賊も闊歩(かっぽ)。​
​実は パクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ばれたローマの平和の時代は繁栄の反面経済を停滞させた。
征服戦争が無くなった事で物流は減る。また奴隷の供給も減るので奴隷の値段は上がった。

共和政末期〜帝政初期に盛んであったラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った低コストな大土地農園の経営は、奴隷が減ったので変化を余儀(よぎ)なくされる。​​

​奴隷の代わりに没落農民をコロヌス(小作人)として使用するコロナトゥス(colonatus)制に移行せざるおえなくなり当然生産性は低下した。
※ ​ラティフンディウム(latifundium)について書いてます。

難しかったのは宗教の取り扱いだったかもしれない。とりわけディオクレティアヌスは後世のキリスト教徒から嫌われている。
彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていたようだ。それ故か? 

星 ​彼は​古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させた。​​​​
​同じ宗教を持って帝国を結束させる。と言う意図があったのではないか? と推察。
​​
だがキリスト教徒はローマ神への礼拝をあからさまに嫌う。 違反者には罰則もあったのでキリスト教徒限定の迫害ではなかったが結果はキリスト教徒迫害の時代になった。 ​​

革新的な政策をやってのけ、20年であっさり引退したディオクレティアヌス帝はローマ史においては、やはり特筆されるべき皇帝であったのは間違いない。

​それにしてもこれだけ大きな帝国ではトップがダメだとすぐにアウトだったのだろう。長く統(す)べた皇帝の特徴から「絶対的能力とカリスマ性」は欠かせない要因であったとつくづく思う。ぽっ


​再びローマ帝国を一つにした​コンスタンティヌス1世​
​​​ 東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた 。​​​​
​それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になったらしい。​
​※ ローマ市はいずれの場合も皇帝の支配権が及ばない特別自治として扱われていた。

ザックリ説明すると、西方正帝となったコンスタンティヌスはマクセンティウスと戦い勝利する。
同盟のリキニウスはマクシミヌスと戦い勝利し、東方正帝となる。
後に西方正帝のコンスタンティヌスと東方正帝リキニウスは戦う事になりコンスタンティヌスが勝利した。​
​​ ​​​つまり 西方正帝であるコンスタンティヌスが総取りし、ここにローマ帝国は1人の皇帝の元で統一を果たす事になった 訳です。​ ぽっ

​​ コンスタンティヌス1世(Constantinus) (270年代前半の2月27日~337年)​​
(在位:306年~312年)西方副帝
(在位:312年~324年)西方正帝
​​ (在位:324年~337年)ローマ皇帝

ローマ カピトリーノ美術館(Musei Capitolini) ウィキメディアから
高さ2.8mの像の頭部
コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)

右に見切れているのがコロッセオ(Colosseo)です。

312年、ローマ近郊ミルヴィオ橋でマクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)の軍隊に勝利した記念に315年に建立されたとされるが・・・。

彫刻に2世紀の部分が含まれているなどリメイクの可能性も指摘されている。

確かにローマ帝国では素材の使い回しはあたりまえにあった。コロッセオの壁面の大理石も剥がされたから穴だらけなのだ。
※ コンスタンティヌスの凱旋門については「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)と​コンスタンティヌス帝の戦略​」で触れています。
リンク ​ クリスマス(Christmas)のルーツ

下は凱旋門の側壁上部


​​ ​コンスタンティヌス1世(Constantinus I)はテトラルキアで分割されていた帝国を再統一。​​​
306年、元老院から大帝マクシムス(Maximus)の称号を与えられた。​

​​​ 星 ローマ帝国再統一以前、​313年、東帝のリキニウスと共に、あらゆる宗教を認めるとした 「ミラノ勅令」の発布。即位後にはキリスト教会、初の全体会議となる第1ニカイア公会議を開催​。
​また​統一 ローマ帝国の帝都をローマからバルカン半島の東端、コンスタンチノープルに遷都(せんと)した事に加えソリドゥス金貨(Solidus)を鋳造発行。 これらは彼の業績の中でも特筆のポイントである。​​
ミラノ勅令については
リンク 
サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)


地中海交易を牽引した​​ソリドゥス金貨(Solidus)​​
​​​ ソリドゥス金貨(Solidus)はローマと地中海全域の経済を長期に支えた金貨 として特筆される。​​​

​ディオクレティアヌス帝の時代には、インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。と、先に紹介しているが、実は3世紀の危機の時、皇帝が兵士の給料の為に銀の含有量の少ない銀貨の改鋳を繰り返していた。結果、通貨の信用力が落ちて物価が上がっていたのである。
もはや多少の通貨改革ではインフレは止まら無かった。
​​
​​ ディオクレティアヌス帝は通貨の価値の安定を図るべく経済政策をしているが、これを継承してコンスタンティヌス1世は貨幣改革をした。​
​純度の安定した信用力のある通貨として新たな金貨を鋳造した のである​。​

ローマ人の重量単位1ポンドから72枚のソリュドゥス(solidus)金貨を造った。
​​ ソリュドゥス(solidus)金貨の含有量は4.48g(純度95.8%)の高品質。 ​​​​
それと共に銀の含有量2.24gの銀貨も発行。
​ソリュドゥス(solidus)金貨1枚は銀貨24枚に相当。​
星 金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたのでこの金貨は国際的にも信頼のおける金貨として700年は維持され地中海世界の交易で利用された のである。​​​
※ 11世紀後半頃から金貨の純度が低下し、信頼も低下。この金貨は1453年にコンスタンティノープルが陥落するまで使用されるが、帝国末、一時は純度が50%を切る時もあったらしい。

下はコンスタンティヌス1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨

ウィキメディアから借りてきました。

ところで​ ド​ルの通貨記号はなぜDではなくSなのか? ​​​
​​ ソリュドゥス(solidus)金貨は国際交易において長期に渡り最も信用の高い金貨として評価 されてきた。​​
同じく、アメリカの持つ経済力と軍事力を持って今日の紙の米ドル紙幣が国際通貨として末永く流通してほしい?
​​​要するに 長期に渡り世界で通用されたソリュドゥス(solidus)金貨にあやかって付けられた記号 だと言う。​​​
諸説ある中の一つであるが、金融関係や貨幣の本ではその説が伝えられている。
※ 700年も価値が維持される貨幣はもう出ないであろう。

​​
​​ ​東ローマ帝国と西ローマ帝国​​​、そして西ローマの解体​
コンスタンティヌス1世(在位:324年~337年)の死後、再び帝国の安定は崩れる。国内ばかりか、外敵との戦いも再び始まった。

ローマから遷都した事で帝国の東西分烈の傾向は決定的となる 。​​
​​​帝国の重心はアレクサンドリアやアンティオキアなど繁栄が継続した都市を有する東方へ移動したので尚更である。

​テオドシウス1世(TheodosiusⅠ) (347年~395年)(在位:379年~395年)​​
​テオドシウス1世1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨 21mm 4.55 g

テオドシウス1世の顔がわかる彫像が見当りません。唯一これです。ウィキメディアから
​キリスト教を公認した皇帝テオドシウス1世。ソリュドス金貨の裏に天使に祝福される帝と時の皇帝が座っている図が刻印。​
379年、​ローマ帝国の内戦や異民族の流入が続く危機的状況の中でテオドシウス1世は即位する。

星 ​​ ​380年、宗教的内紛の解決に重点を置いた結果、多神教を棄てキリスト教をローマ帝国の国教に制定した。​​

ところで、 ​​テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。
4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れる
のである。​​

気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?
いずれもDNAをさかのぼればアナトリア(現トルコ)あたりにいたインド・ヨーロッパ語族に集約する民族である。
フランク人、ヴァンダル人、東ゴート人・西ゴート人、ランゴバルド人など。彼らはローマ領内の各地に入り建国して行く。

西ゴート族はドナウ川を越えて帝国内に居をかまえ始めていたが、食糧が不足して暴徒化。軍と衝突していた。テオドシウス1世は駆逐を諦め、382年に西ゴート族と同盟を締結。
彼らはローマ帝国に対し軍事的な援助の義務を負い、その代わりにドナウ川からバルカン半島に至る地方への定住を認めた。
また彼はサーサーン朝ペルシア帝国とも講和締結している。
※ あっちもこっちも、あまりに数が多すぎてそうせざる終えなかったのかもしれない。

​​そんな テオドシウス1世は異教徒を重要官職に登用するなど、当初はローマの伝統的異教に対してはさしあたり寛容であったらしいが、途中で転換する 。​​
ミラノ司教アンブロシウス​​​(Ambrosius)(340年? ~397年)の影響であったと考えられる。
それ以前はあらゆる宗教を認めていた。

皇帝の礼拝が無くなったので皇帝の大理石彫刻像も消えたのかもしれない。帝国が宗教行事に使用していた予算も見直しされたのだろう。
ローマ帝国、建国以来フォロ・ロマーノで女祭司が絶やさなぬよう「聖なる火」を炊いていたらしいが、それもテオドシウス帝が祭祀の予算を中止したことにより無くなった。
テオドシウス帝により中止された異教の祭祀の中には古代オリンピックも含まれていた。

星 ​​ 宗教はキリスト教を強要したが、ローマ帝国の軍事力の主要部分はゲルマン人などの異民族に委ねられて行く事になる。 ​​​
​​ ​395年、テオドシウス1世が亡くなると帝国は長男と次男がそれぞれ継承し、帝国は2たつに分裂する。​
395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国

長男アルカディウス(Arcadius) (377年~408年)東ローマ皇帝(在位383年~408年)​
​​​​​​ ​次男ホノリウス(Honorius)(384年~423年)西ローマ皇帝(在位:393年~423年)
​​​
「西ローマ帝国最後の偉大な皇帝」と呼ばれたウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I)(321年~375年)(在位:364年 - 375年)の死後、 ほとんどの西ローマ皇帝は実権を失い帝国を支えていたのは バウト、アルボガスト、スティリコ、アエティウス、リキメルといった 異民族出身の将軍たち だったと言う。​​​​

そんな異民族だらけのイタリアでは都市住民も減ったから交易も停滞。
皇帝はローマを棄て異民族の流入の少ないコンスタンティノープルを帝都にしたので交易は倍増。格差は尚更だ。

402年、西ローマ皇帝ホノリウスは​西の帝都をローマからラヴェンナに遷都​
ラヴェンナは辛うじて交易で栄えた 港湾都市。ローマよりもまし? だったのかも。
​​​しかし ホノリウスの代にはすでにイタリア半島を支配するのも精一杯の状態 。以後は異民族に対して常に劣勢。
特に 西ローマ帝国ではローマ教皇の力が強く皇帝も立場がない 。もはやローマ帝国にとって ​軍事力も無い西ローマ皇帝は無用の存在。​​​​
423年、ホノリウスは39歳の誕生日を前に子供を残さずに逝去。

476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマの皇帝制は解体。西ローマ帝国は滅亡した

東ローマの皇帝は、そこを ローマ帝国のイタリア領主と位置づけ し、その後のトップはイタリア王を名乗る。​​

ユスティニアヌス1世(Justinus I)(483年~565年)(在位: 527年~565年)

黄金の聖体皿を持つユスティニアヌス1世
東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府ラヴェンナ(Ravenn)
​​サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale) のモザイク壁画から

546年~547年の間に司教マクシミアヌスによって献堂。
​​ 584年、東ローマ帝国がイタリア半島統治のためにラヴェンナに政府機関として総督府をー置いた 。​​
※ 戦略的目的があったからだ。

上はユスティニアヌス1世の顔である。それ故、このラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画は非常に有名である。何よりモザイク画の出来は良く、以降ラヴェンナはモザイク製作で有名になった。

ヴィザンチン文化の代表格として現れるラヴェンナが総督府になるのはユスティニアヌス1世亡き後 である。ユスティニアヌス1世とラヴェンナはどんな関係か?​

上の図はユスティニアヌス1世を宗教的にたたえた典礼の図であるし、対になってテオドラ王妃のモザイク画もある。

​​が、調べて驚いたのは ユスティニアヌス1世はこのラヴェンナに一度も来てはいない 。上のような典礼も当然行ってはいない。​​
どうもラヴェンナと司教のマクシミヌスが勝手に皇帝を持ち上げて造ったモザイク画であった可能性があるのだ。
じゃあ顔も実物じゃないかもね。と言う事です。しょんぼり

「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦
​下はユスティニアヌス1世(在位527年-565年)時代の帝国領土​  ウィキメディアから
青色部分が東ローマ帝国領 。​
青色と ​緑色合わせてトラヤヌス時代のローマ帝国領 。​
赤線は395年の東西ローマの分割線

下は590年のイタリア半島。実は虫食いだらけの帝国領ですぽっ こちらもウィキメディアから

ローマ帝国の直轄はオレンジの部分のみ
他は異民族の王が納めていた。
帝国の中心はコンスタンチノープルに移動していたのでローマ周辺はもはや捨て置かれていた。だからイスラム教徒が大挙してせめて来た時でもままならなかったのである。​
​​
星とは言え、 ユスティニアヌス1世(在位527年-565年)は再び帝国の版図を押し広げた皇帝なのだ
彼は帝国の再建(renovatio imperii)を目指した。

​532年サーサーン朝 ペルシアとの間に「永久平和条約」を締結 。​​
​​533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣して ゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服 。​​
東方国境の安全を確保するとユスティニアヌスは西方に目を向ける。
​​535年、​ゲルマン人国家 東ゴート王国からベリサリウス将軍によってローマを奪回 。​​​
※ ユスティニアヌス自身は全く戦地に赴いていない。
東ゴート王国側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。
​​​それは 543年から発生したペストが蔓延 したからだ。​
実際、 ​帝国の人的被害は大きく帝国の拡大は断念せざるおえなくなった。​

イタリアにおける最終的な勝利とイベリア半島南端の征服は東ローマ帝国の力を示すものとなったが、征服のほとんどは儚いものとなる。​​


ユスティニアヌスの黒死病​​
中世の黒死病はペストと認識されてきたが、英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン博士(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)博士による研究で(教会の古い記録、遺言、日記など調査)。
​黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか。と言う論文が出されている。​
過去の歴史の資料例では、エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ている症例もあったと言う。
総じて疫病とするが、病種によっては確実にヤバイ系(全滅するまで)のもあったのかもしれない。
ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ
星 542年~543年頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行した疫病は帝国の衰退の大きな要因の一つになった可能性が極めて高い 。​
エジプトからパレスティナへ、そして ​コンスタンチノープルへ疫病が運ばれると人口の約半数を失い帝都は一時機能不全に陥たと言う。確実に大きな​パンデミックである。

542年には疫病は旧西ローマ帝国の領域に
547年にはブリテン島周辺に
567年にガリアへ
​ヨーロッパ、中近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。びっくり

ユスティニアヌス自身も感染。幸い軽症で済み数ヶ月で回復したと言われているが「ユスティニアヌスの斑点」との別称が在る事からやはりペストではなかったのかも。
冒頭触れていますが、コンスタンチノープルでは、流行の最盛期に一日に5000~10000人の死者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った。

星疫病の流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は断念された。​

非常に長くなってしまいました。これで前半のみです。​f^^*) ポリポリ 
​​

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リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
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海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
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​リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 (帝政ローマの交易) ​​

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Last updated  2023年09月24日 06時25分37秒
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