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489系貫通型:特急「白山」(53・10改正後)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。今回は、ヘッドマークがイラスト化された以降の489系貫通型の写真を探してみましたが、JR化後にJR西日本が継承した数が少なかったこともあり、たった1枚しか見つかりませんでした。昭和58年1月12日 長野駅にて 489系「白山」長野駅で381系特急「しなの」と並ぶ489系「白山」。他に撮影した写真が何故かボンネット型や非貫通型ばかり。何故貫通型が少なかったのか、もしかしたら運用の関係で実際にそのような状況だったのかもしれません。489系非貫通型:特急「白山」(53・10改正後)489系:特急「白山」(53・10改正前)489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)
2024.11.27
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489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)特急「はくたか」は、昭和40年10月ダイヤ改正において、それまで大阪~上野を結んでいた気動車特急「白鳥」を分離する形で誕生しました。運転経路は「白鳥」と同様に信越本線経由となり、使用車両もキハ82系のままとしています。昭和44年10月の改正において、「はくたか」は電車化により経路が上越線と変わり、信越本線経由の列車は489系の登場により「白山」となっています。昭和53年10月改正まで向町運転所の485系が使用されていましたが、同改正より金沢運転所の489系が使用されることになり、信越本線経由の「白山」と共通運用が組まれるようになります。今回は、昭和53年10月改正後の写真をご紹介いたします。昭和56年頃 クハ489-300番台 非貫通型53・10から特急ヘッドマークがイラスト化されたのですが、ボンネット型の多かった「はくたか」はイラストマークを見る機会が少なかったように思います。この昭和56年頃には既にボンネット車にもイラストマークが導入されていましたので、そういう意味では見慣れてきた頃と思います。金沢運転所の489系に運用が変り「白山」と共通運用でもあったために、非貫通型の遭遇率も高かったような気がします。昭和56年10月 クハ489-704 非貫通型上り「はくたか」で、何故か流し撮りしています。ボンネット型じゃなかったので、どうでも良かったのでしょうか・・・。ピントもバリバリ合っているので、伸ばしても細部までキッチリ見ることが出来る、珍しくもクリーンヒットな作品。昭和57年5月 クハ489-500番台こちらは、EF63連結側の500番台ボンネット車。状況的にはカブりなんですけど(笑)。でも、こんな時代もあったんですな・・・。と思わせる1枚となりました。昭和57年11月6日 上野駅にて クハ489-500番台廃止を1週間後に控えて最期の活躍をする「はくたか」。このショッカーの本部に付いていたようなマークともお別れ。この1週間は、上野口の最期となる列車の写真撮影に翻弄されていました。赤スカート車との衝撃的な出逢いから10年。毎日身近で見ていた筈なのに、意外と撮影枚数が少なかったですね。途中でイラストマーク化されたことにも原因があると思いますが、下りの「はくたか」の時間に上りが通勤の普通列車ばかりという、撮影に非効率的な時間帯に走っていたことも不運だったような気がします。金沢運転所のボンネット車はヘッドマークのイラスト化が早かったため、489系の文字マークの写真がありませんでした。特に連結器むき出しの500番台は特徴があったので、この点の記録が出来ていなかったのは残念です。その後、ほくほく線の開業により、まさかの復活を果たした「はくたか」でしたが、北陸新幹線の金沢延伸開業で2度目の廃止となっています。そして、その名は新幹線の名称として引き継がれました。『485系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正前)』『681系・683系:特急「はくたか」』
2024.03.24
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キハ56系 キハ27:函館本線 普通列車北海道の急行と言えばキハ56系。キハ58系に先駆けて、北海道用に導入された2重窓を持つ急行形車両です。ローカルシーンではキハ22も急行列車として使用されていましたが、本線系の基本はキハ56系で結構な長さの編成で走っていました。そんな急行形のキハ56系も、急行列車の運用が縮小するにつれ、本線系の普通列車で運用されるシーンが多く見られました。昭和58年9月7日 大沼公園~赤井川間にて キハ27ほか4連函館運転所の気動車は北海道特有の正面ナンバーが無く、区別が付き難いのがイタイです。急行列車が次々と廃止になると、行き場を無くしたキハ56系は普通列車に使用されるようになります。元々キハ22もデッキ付きの2ドアクロスシート車ですから、グレード的にはあまり気にならなかったですね。車内の静粛さやキレイさは格段に違いますけど。この頃になるとキハ22もキハ40系の導入により廃車が加速し、キハ56系のローカル転用と地方交通線の廃止で急激に世代交代が進んだようでした。キハ27+キハ40:快速「マリンライナー」
2024.05.08
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455系:急行「まつしま」急行「まつしま」は、上野~仙台間を結んでいた昼行急行列車です。ただし、季節列車として夜行が1往復設定されています。全線が電化区間となっておりますので、定期・季節列車ともに455系電車が使用されており、臨時列車については客車も使用されていたことがあります。上野~仙台間は比較的に平坦線区となるため、勾配抑速ブレーキを搭載しない451系や453系が使用され、付属編成となる「ざおう」「ばんだい」に455系・457系が優先された運用が組まれていたということです。昭和54年 蕨~西川口間にて 「まつしま2号」こちらは列車番号が入っており、「まつしま2号」であることが判明しました。最後部2両はモハのファンデリアルーバーがないことから、457系ユニットとみられます。また、判りづらいですが、サロにグリーン帯が入っています。昭和56年頃? 南浦和~蕨間にて列車番号が不明なのですが、確率的に「まつしま」ということで整理しておきます。もしかしたら「あづま」や「なすの」だったりするかもしれません。先頭のクハのタイフォンは開放型で、続くモハユニットは455系になっています。昭和56年 西川口~蕨間にて 急行「まつしま7号」蕨駅南側の歩道橋の上から撮った写真です。貨物列車も最後の悪あがきの頃であり、今のマンションが立っている場所は「住友セメント」の工場でした。2本の留置線と1本の荷役線があり、既に閑散とはしていますが、タキ1900などが出入りし、専用のスイッチャーも2台配置されていました。※どんづまりにタキ1900と思われる車両が1両、雪まみれになっています。現在、写真の足場として使っている場所は元々が水路となっており、現状はこれに沿って一方通行の道路となっています。雪が積もっているだけで、いつもの景色が素朴な風景に映ります。雪が降ったら撮影に行く。そんな物心がついたのもこれが最初かもしれません。昭和56年1月5日 白坂~豊原間にて 急行「まつしま6号・ばんだい4号」母親の実家に行く際に、途中下車して撮影したものです。東北新幹線の開業前年であり、田舎とは言えどテキトーに立っていれば特急・急行がバンバン走ってくる時代でした。時期が時期で、貨物列車の写真が1枚も撮れていないのは今から思うと残念でしたね。後方には巻き上げた雪が僅かながら煙状に写り込みました。東北急行の最後の隆盛でした。昭和57年 南浦和~蕨間にて 「まつしま2号」こちらは東北新幹線開業間際くらいの写真だと思います。こちらも列車番号から「まつしま2号」であることが判明いたしました。昭和57年6月22日 貝田~越河間にて 「まつしま1号」特急「やまびこ」の最期を撮るために東北へ遠征してきたときのもの。珍しく福島以遠で撮ったため、「ばんだい」を外した6両編成の「まつしま」を記録することが出来ました。先頭は開放型タイフォンで、モハのルーバー形状から451系か453系と思われます。急行「まつしま」は東北・上越新幹線の大宮暫定開業後も生き延びましたが、上野開業となる昭和60年3月のダイヤ改正を以って消滅しました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売鉄道コムにやっとKATO455系の発売情報が出てきました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売KATO 475系 急行立山・ゆのくに 販売送料無料◆10-1632 KATO カトー 455系 急行「まつしま」 7両セット Nゲージ 鉄道模型 【7月予約】送料無料◆10-1633 KATO カトー 455系 急行「ばんだい」 6両セット Nゲージ 鉄道模型 【7月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット【予約 新品 2023年7月予定】 Nゲージ KATO 10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット【予約 新品 2023年7月予定】 Nゲージ KATO 10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット
2023.04.14
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EF81青森機牽引:寝台特急「あけぼの」上越線経由となった寝台特急「あけぼの」は、機関車交換を省略するために上野~青森間を青森区のEF81が牽引するようになりました。この形態はしばらく続きましたが、本来山岳用ではないEF81は上越線区間で扱いにくかったようで、平成21年3月ダイヤ改正よりEF64による牽引と置き換えられ、EF81は引き続き長岡~青森間を牽引することとなります。地元での撮影はあまり多くなく、さらに性能の良くないデジカメだったので、あまり良い写りのものはありませんでした。平成19年6月17日 EF81137初めて地元で撮った青森機81牽引「あけぼの」。平成19年10月6日 EF81137平成19年10月7日 EF81138平成20年2月10日 EF81136青森機は交流区間における配給回送電車牽引の任に当たるため、双頭連結器に改造された車両が誕生しました。平成20年5月18日 EF81139浦和駅の高架化工事により、貨物線迂回運転となった上り「あけぼの」。平成20年8月2日 EF81138この頃になると、双頭連結器装備のEF81が209系の配給回送に精進することになり、田端機が応援に入るようになりました。そのため、片道ずつの運転となり、青森区のEF81が捉えづらくなりました。平成20年8月17日 EF81138平成21年2月28日 EF81138間もなく上野駅に到着する「あけぼの」と推進回送。この年の3月改正でEF81は長岡以北の運用となりました。平成24年3月11日 EF81138平成24年3月12日 EF81137平成24年3月13日 EF81138もう青森機を撮影することなどないと思っていたのですが、まさかの「日本海」廃止のアナウンスがあったため、急きょ青森へ行くことになりました。ついでとはいえ、普段では撮影できないシチュエーションで撮ることができ、良い記念になりました。
2024.07.12
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165系(モハ164-500番台):急行「ごてんば」急行「ごてんば」は、東京~御殿場を結ぶ列車として、昭和43年4月に誕生しています。当初は下り4本、上り3本が設定され、その後3往復体制、晩年は2往復となっています。東海道線区間では急行「東海」に併結され、国府津で解結が行われていました。使用車両は165系3連となっていましたが、昭和56年10月改正からは167系が使用されるようになっています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」に使用されたモハ164-500番台妻板部をアップで撮ったものです。この写真を撮った頃はまだ中学生であり、簡易運転台付きの500番台に関する知識は持ち合わせていなかったと思います。偶然品川駅で写真を撮っているときに居合わせた急行「ごてんば」にこの車両を見つけ、非常に違和感があったので写真を撮っていたものと思います。妻板の窓をくり抜くように窓が付いており、雨用にワイパーも設備されています。運転設備は車内の側面にマスコンやブレーキ軸が取り付けられており、使用しないときは壁と同色の金属カバーで覆われ、格納されています。昭和52年 品川駅にて 急行「ごてんば」 モハ164-514モハ164-500番台は全部で14両製作されていますので、写真の514がラストナンバーとなります。標準のモハ164は妻側に便所、内側に客扉が付く構造となっておりますが、この車両だけは便所が客室寄りで客扉が妻板側となっており、クハやグリーン車も含めても例外はこのモハ164-500番台だけとなります。モハ164-500番台誕生の元々の経緯は、山陽スジの急行への増結用として用意されたもの(具体的には「鷲羽」だったと記憶しています。)で、3両の増結に至らないこと(又は有効長の関係か?)から2両増結することとなりましたが、最小単位が3両編成となっていたため、モハ164に簡易運転台を設備して対応したとなっています。当時の山陽急行は平坦区間の関係から殆どの直流急行が153系であるため、最小単位である2両で考えると、165系を使用するしかなかったということだと思います。そんな目的をもって14両も製造されたモハ164-500番台でしたが、新幹線の岡山開業後は山陽急行が大幅に縮小し、増結編成の運転もなくなってしまったことから、クハ165+モハ164-500+クモハ165として組成されて、簡易運転台を持たないモハ164と同じ用途、共通運用で使われるようになってしまいました。せっかく特別な設備を持った異色車種でしたが、ほんのわずかしか目的は達成しておらず、異色ながらも地味な活躍に終ってしまいました。このほかにも167系の「ごてんば」の写真を撮っていますが、ISO1600のフィルムだったため、非常に写りが悪いので割愛しています。偶然ですが、この急行「ごてんば」に関しては、モハ164-500番台の写真だけを撮っていたような状態でした。急行「ごてんば」は、昭和60年3月のダイヤ改正により消滅しています。
2024.05.10
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EF615牽引 荷物列車EF61が牽引する急行「阿蘇」との出会いから数年が経過。東海道方面へは瀬野八や山口線、飯田線と何回も撮影に行きましたが、EF61との再会はありませんでした。そして、久しぶりに出会ったEF61。飯田線の撮影に行った帰り道のことでした。昭和58年4月16日 豊橋駅にて EF615牽引 荷38レEF61は両数が少なく、運用もごく限られていたようで、まして関東ではキャッチすることが出来ませんでした。このとき、偶然にも待避中だったらしく、しばらく停まっていてくれたので何とか撮影することができました。瀬野八や山口線の撮影に行くたびにEF61を見たかったのですが、運が悪いのかEF58ばかりで全く捉えることができず、私にとっては貴重なワンショットとなりました。[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 3093-1 EF61[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 3093-3 EF61(茶)
2022.04.05
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189系M51編成:臨時特急「わかしお82号」※2014/8/16投稿の記事で、当時の表現になっています。新性能化が完了して久しい房総地区に、久し振りに189系を使用した特急列車が臨時列車で設定されました。平成26年8月14・15日の2日間のみの設定で、豊田車の運用。8月14日は仕事が忙しく、さらに業務が多忙になってしまったためにパスしてしまったのですが、シール式のヘッドマークが掲示されたということで、翌15日は午後休暇をもらって出掛けてみました。京葉線を訪れるのも久し振りです。平成26年8月15日 189系M51編成 臨時特急「わかしお82号」 葛西臨海公園駅にてやってきたのはまさかの「特急」表示。2日間連続の運転でありながら、1日目に掲示したヘッドマークを剥がしてしまう必要性が全く理解できません。嫌がらせとしか思えない対応に憤慨しました。なお、車両の回送は往復とも武蔵野線経由、入出庫は幕張センターでした。E257系 わかしお・さざなみ50周年ラッピング車両
2022.07.17
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20系寝台客車:寝台特急「北星」昭和38年10月ダイヤ改正で誕生した夜行急行列車「北星」ですが、その列車スタイルが幸いし、昭和50年3月改正からは20系寝台客車の使用により特急列車化されることになります。急行列車の特急化というのは、白紙ダイヤ改正の都度に行われてきたものですが、山陽新幹線博多開業による山陽・九州特急の動きが非常に大きかったため、特にこのダイヤ改正では顕著に特急化が実施されたように思います。同時に、金沢行きの急行「北陸2号」も同様に20系化のうえ特急列車に格上げされています。なお、20系客車は「はやぶさ」「富士」「出雲」「日本海」の24系24型化により余剰となった車両を活用しています。昭和50年夏頃 EF58牽引 ワサフ8800を連結した「北星」写真は、ポケットカメラ、列車の引き足らず、絹目写真と悪条件の揃った画像で、大変見づらく、公開するような写真ではないのですが、これだけしかないため敢えて投稿させていただきました。小学6年生のときだと思いますので、腕前はご勘弁ください。これくらいが精一杯です。急行「北星」時代から続く新聞輸送の関係があり、P型引き通し管を設備したワサフ8800が運転開始から約1年間連結されていました。当形式は言わば「北星」専用車両とも言えるものでしたが、その活躍は僅かであり、その後は一般の荷物列車に転用されています。昭和52年 上野駅にて早朝の「北星」は、高感度の無い時代、撮影するのも結構大変なものでした。昭和52年頃 大宮駅にて EF5884牽引 上り「北星」かなり薄暗い時期の撮影ですので、おそらく冬休みに撮ったものではないかと思われます。ヘッドマークが付いていないことから、後に20系化された急行「天の川」や「新星」と区別が付かないところが悲しいです。昭和52年 蕨駅にてこれから写真を撮りに行こうというとき、目の前を通過した「北星」。時間的には午前10時を回っていると思いますが、おそらく途中で運転が打ち切りとなり回送されて来たものでしょう。なんといっても驚いたのは、EF58の次位にカニ22が連結されていたことでした。昭和52年 尾久客車区にて カニ22 「北星」上の写真を撮った後、撮影の予定は急遽変更され、尾久客車区まで出向くことになりました。カニ22の「北星」を撮らせてもらおうと頼み込んだのですが、頑なに断られてしまいました。これはふて腐れて帰る途中、建物の陰から撮影したものです。当時、一眼レフではありましたが、レンズは広角しか持っておらずかなり小さくなっていました。スキャニングして「北星」が判るくらいまで拡大することができました。20系客車が特急車両としての活躍も晩年となった頃、進んだ廃車よる影響でしょうか、客車区間での車両のやり取りが行われたようです。そしてイレギュラー的な動きも見られるようになり、ナハネフ23「北陸」や、さらにはカニ22が「北星」「北陸」に使用されるようになったようです。昭和53年3月20日 上野駅にて カニ21こちらは下り最後尾となるカニ21。上野駅では到着後推進回送となるので、このカニ21は夜の下りを撮るしかありませんでした。もっとも、昭和50年3月の特急「北星」運転開始から1年間、最後尾にはワサフ8800が連結されていましたので、このカニ21の姿を撮ることはできませんでした。昭和53年9月頃満を持して誕生した軽量客車でしたが、それが仇となって老朽化が顕著であり、誕生からそれほど経っていないにもかかわらず、早くも淘汰が始まってしまうことになります。「北星」も昭和53年10月改正からは14系化されることになってしまいました。14系寝台客車:寝台特急「北星」
2022.10.24
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165系:急行「アルプス」急行「アルプス」は、誕生の起源を遡っていくと昭和26年4月に誕生した中央東線の準急列車と、かなり古い歴史があります。昭和35年に急行列車に格上げ、客車準急から気動車急行と変化します。昭和40年10月1日の改正から165系が導入され、一部の列車を除き電車化されました。非電化区間を走る急行を併結するため、一部の「アルプス」は昭和50年3月の改正まで気動車で存続していたと記憶しています。昭和55年 新宿駅にて 急行「アルプス」 モハ164-504モハ164-500番台誕生の元々の経緯は、山陽スジの急行への増結用として用意されたもの(具体的には「鷲羽」だったと記憶しています。)で、3両の増結に至らないこと(又は有効長の関係か?)から2両増結することとなりましたが、最小単位が3両編成となっていたため、モハ164に簡易運転台を設備して対応したとなっています。当時の山陽急行は平坦区間の関係から殆どの直流急行が153系であるため、最小単位である2両で考えると、165系を使用するしかなかったということだと思います。そんな目的をもって14両も製造されたモハ164-500番台でしたが、新幹線の岡山開業後は山陽急行が大幅に縮小し、増結編成の運転もなくなってしまったことから、クハ165+モハ164-500+クモハ165として組成されて、簡易運転台を持たないモハ164と同じ用途、共通運用で使われるようになってしまいました。昭和56年9月 武蔵小金井~国分寺間にて サハシ165-4鉄道史上、最後まで連結されていた急行形ビュフェ、サハシ165です。この頃は、全国的にも残っていたのはこの急行「アルプス」だけでした。急行「アルプス」も時代の流れから次々と特急列車に格上げされ、次第にその本数を減らして行きます。165系の老朽化により183系のグレードアップ車なるなど存続しましたが、その夜行需要も冷え込んでしまい、平成14年11月をもって急行「アルプス」は廃止されました。自分自身も飯田線の旧国撮影に通っていた頃は、随分と夜行「アルプス」に乗ったものですが、時間帯が悪い上にヘッドマーク等の取り付けもなく寂しい列車でしたので、列車写真としては全く撮影していませんでした。
2024.07.15
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旧型国電 72系・73系:可部線可部線は、広島駅の1つとなりにある横川(よこがわ)駅から分岐して蛇行しながら山陰の山奥へと向かうローカル線です。三段峡駅まで60.2kmに及ぶ比較的長い距離を結んでいました。同線の特徴は、途中の14km地点にある可部駅までは都市近郊型の直流電化路線、その先は非電化のローカル線と2つの顔を持つ路線で、関東や東北ではあまり見ることの出来ない形態をしていました。※福塩線辺りは類似していると言えるかもしれません。電化区間である可部線には、古くは17mの戦前型国電が走り、それらを淘汰した際に72系・73系の20m車が配置されています。塗装は広島地区独特の塗装で、仙石線同様のウグイス色(山手線と同じ。)が用いられていましたが、仙石線とは違い、面積の広いオレンジ色の警戒色が塗られているという特徴がありました。ある意味、この塗装が可部線の72系・73系を不人気にしていた感も否めません。ちなみに、この塗装は同じ広島地区の呉線の普通列車に端を発するデザインで、車両も共通のようです。可部線にはクモハ73001のトップナンバー車も居ました。普通、旧型国電は000番から番号が始まるのですが、72系は001から付番されたようです。しかもレアな海田市行きのサボ。可部線が主体なのか山陽本線が主体なのか意味不明の表示です。昭和57年10月4日 上八木~中島間にて撮影地も良く分からないので、取り敢えず乗車してロケハンを実施。降りたのがこの区間でした。確か、この編成の先頭がクモハ73001だったような記憶です。昭和57年10月4日 横川駅にてこれらが初めて可部線を訪れた時に撮った写真です。車両は72系で、クモハ73+クハ79の2連のみ。乗客の多い時間帯は2×2の4連で運行され、朝夕の通勤・通学時間帯は広島駅まで乗り入れを行っていました。また、一部の列車は海田市駅までの乗り入れていました。こうした運行形態は、当時やはり73系で運転されていた富山港線と酷似していました。ただ、車両形態のバリエーションで言うと、可部線のほうがやや面白みはあったかもしれません。昭和59年2月10日 可部線 横川駅にてこれは2度目に同線を訪れた時に撮った写真。宮島へ行く途中、広島で寝台列車を降り、早朝なので1駅寄り道をして撮りました。テツじゃない職場の同僚との旅行だったので、深入りせずに記念撮影的に。なぜわざわざ寄ったかというと、昭和57年の撮影のときに便所付きクハ79の写真を撮り損なっていたので、どうしても撮りたかったんです。そしたら、幸運にも1発目に来た4両編成の最後部に便所付きクハ79が連結されていました。この可部線の72系は、最後に撮影した昭和59年に105系に置き換えられてしまい、この時点で極特殊な線区を除き旧型国電は全国的に淘汰されてしまいました。ウグイス色の旧型国電も、この可部線が最後の運行線区となっています。TOMIX 国鉄72・73形 可部線 販売TOMIXから可部線仕様の73系が発売されることになりました。トイレ付きのクハ79も用意されるため、旧国ファンには画期的な内容ですが、如何せん金額が高過ぎます。国鉄 72・73形通勤電車(可部線)セット(4両)[TOMIX]【送料無料】《10月予約》送料無料◆98524 TOMIX トミックス 国鉄 72・73形通勤電車 (可部線) セット(4両) Nゲージ 鉄道模型 【10月予約】【中古】Nゲージ TOMIX(トミックス) 92911 国鉄 72・73形 通勤電車 (可部線色) 2両セット 【A´】 外スリーブ傷み【中古】Nゲージ TOMIX(トミックス) 92911 国鉄 72・73形 通勤電車 (可部線色) 2両セット 【A´】 外スリーブ・外箱傷み
2023.04.22
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24系24形・25形寝台客車:寝台特急「出雲」寝台特急「出雲」誕生については過去ログ『14系寝台客車:寝台特急「出雲」』にてご紹介しましたが、今回は20系寝台客車から24系寝台客車へと変化していった時代の写真を少しだけですがご紹介したいと思います。昭和50年後半頃 東京駅にて カヤ24 「出雲」24系化当初は、ご覧のようにカヤ24を連結している姿を見ることが出来ました。新幹線博多開業によるダイヤ改正で余剰となったカヤ24の一部が「出雲」に使用されるようになりました。※同様の変遷を辿った「富士」「はやぶさ」では、カヤ24を使用しているところは目撃したことがありません。カヤ24は、製造当初マヤ24を名乗り、電源車専用として運用されていましたが、後に荷物輸送の必要から荷物室を設け、重量増によりカヤ24に改められています。昭和51年 東京駅にて オハネフ24 「出雲20系から24系24形化でグレードアップが図られた「出雲」ですが、その活躍はわずか1年半の短い間でした。一見してオハネフ14と区別が付き難い方もいらっしゃるかもしれませんが、屋根上左上の煙突の有無(スハネフ14には発電エンジン用の煙突が付いている。)と、テールランプ付近に付いた賑やかなジャンパ栓受けで容易に区別が付きます。昭和53年9月 東京駅にて カニ24 「出雲」カニ24は、初期型のマイクロスカート付、後期型のスカートなし、貫通型の100番台と3種類が存在します。この時代は写真の後期車が多かったように思います。既に25形化後で53・10直前の姿ですが、ブルトレのイラスト化は少し遅れたためまだ文字マークになっています。昭和54年5月 東京駅にて オハネフ25100番台 「出雲1号」寝台特急「いなば」が「出雲」になったことにより、2往復体制となった「出雲」。1・4号の東京駅出発時間は18時過ぎでしたので、5月~夏場でないと撮影がしにくい列車でした。こちらもまだイラスト化される前の姿です。昭和55年8月 東京駅にて オハネフ25100番台「出雲」山陰にキハ181系「やくも」を撮りに出発する際に東京駅で撮影した写真。既にテールマークはイラスト化されており、ヘッドマークと同じデザインのマークが掲げられています。おそらく2枚とも同じときに撮影したと思われ、10番線(横須賀線ホーム)から12番線を狙ったようです。東京発着のブルトレとしては比較的遅くまで残っていた「出雲」。昭和40年代後半は、週末はおろか平日まで満席の状態で、おそらく日本一指定券(寝台券)を取るのが困難な列車であったと思います。
2023.07.13
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キハ82901:特急「おおぞら」先般アップいたしました『キハ82系:特急「おおぞら」(その1)』で、キロ80形を先頭車化改造したキハ82900番台が連結されている写真をご紹介いたしましたので、やや詳細にご紹介したいと思います。キハ81系「はつかり」として誕生した初期80系のうち、グリーン車(1等車)のキロ81-1と-5をそれぞれキハ82-901と-902としています。ドアの無い側の車体を切り落とし、キハ82と同様の運転室及び発電エンジン用機械室を切り継いで改造されましたが、客室側はグリーン車のままの窓割りで存置したため、他のキハ82とは違い、小窓がズラリと並んでいるのが最大の特徴です。さらに、改造後先頭寄りとなるAU12クーラー2機分を撤去し、このスペースに無理矢理収まる1機を載せたため、半切れ状態のような中途半端な形状のAU12が搭載されています。また、細かい点ですが、行き先サボ受けがトイレ窓上にある初期型タイプのままとなっている点も他のキハ82には無い特徴です。(2次型以降は、客ドアの直ぐ上横にあります。)クーラーの設置方法やサボ受けの位置については、キハ82の初期車に形態が酷似していると言えます。昭和56年3月11日 大麻~厚別間にて 上り函館行き特急「おおぞら」2回目に訪問した北海道。1回目の時は殆ど走行写真を撮ることが出来なかったのですが、それを教訓にして、2度目の渡道では駅間撮影を行うことが出来ました。偶然にも900番台(キハ82901)を撮影できたもので、非常に喜びました。このような改造900番台というのは非常に希少種で、滅多に逢えるもんではありませんでしたから。残念なことといえば、ネガフィルムがあまりシャープになってくれていないので、番号までは判読できないことですね。鉄道ピクトリアルの解説では、『先頭車化、普通車化して「まつかぜ」などに充てる』とされていますが、他の雑誌等で写真をみてみますと、私が小学生だった昭和46年頃、気動車特急時代の「いなほ」に充当されていたようでした。改造が昭和43年と45年ですから、「いなほ」が電車化されるまでは中間車として使用されていたのではないかと思います。キハ80系の中の珍車は、このほかにも中間車の格下車キハ80とキサシ80のキシ化によるそれぞれ900番台が存在していましたが、先頭車であるキハ82900番台は2両とも晩年を札幌運転所で過ごしており、この写真を撮った翌年の7月には廃車となって、その一生を最北の地で終えることになりました。親ブログでご紹介した際、サボ位置の関係から901号ではないか?というご指摘をいただきまして、確認することができました。KATO キハ82900 & 改造キハ82902キハ82系:特急「おおぞら」(その1)キハ82系:特急「おおぞら」(その2)キハ183系:特急「おおぞら」キハ183系900番台:特急「おおぞら」試作車誕生~試用運転【カトー KATO】カトー 1-613 HO キハ82 900キハ82 900【KATO・1-613】「鉄道模型 HOゲージ カトー」【中古】KATO◆ホビーその他/6061-3/キハ82【ホビー】
2023.12.22
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国鉄 直流型電気機関車:EF5895(宮原機関区)EF58シリーズ、今回は宮原機関区の95号機です。過去ログ『EF5895牽引:81系お座敷列車(ミハ座)』の再掲写真になります。昭和55年8月 神足~山崎間にて EF5895牽引 スロ81系ミハ座原形窓の美しいカマでした。パンタグラフが切れてしまったのが残念。この写真を撮った1年後には廃車になってしまったようです。95号機昭和31年 7月16日 川崎車輌+川崎重工製 浜松機関区昭和56年 9月19日 廃車 宮原機関区
2024.11.26
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国鉄 485系:サロ481+サシ481特急列車には当たり前に食堂車が連結されていた時代。特急列車の発展と共に全国に特急列車が走るようになりますが、新幹線の延伸でアクセス特急化されるようになると短距離化・短編成化が行われるように。食堂車を連結しない特急列車が増えてきます。183系電車やキハ183系のように、登場時から食堂車が存在しない形式も誕生するようになりました。昭和57年 上野駅にて 特急「ひばり」東北・上越新幹線開業前は、東北本線を走る昼行特急列車はすべて食堂車が連結され、営業されていました。共通運用のため常磐特急「ひたち」にも連結されましたが、距離が短いため一部列車が非営業。金沢行き「白山」は時代により食堂車を連結しない時期もありました。食堂車は長距離旅客への供食サービスをするほか、編成中の電源エリアを前後で分割するために境界としての役割も果たしていたため、編成の真ん中に連結するのがセオリーでした。ちなみに、ブルトレの食堂車にはこのような役割はなく、気動車特急では空気側と電気側を編成中で交錯させるという電車とは違う役割も持っていました。新幹線の開業・延伸で食堂車の従業員確保が困難となり、食堂車の営業を廃止する列車が増えましたが、別の役割もあったためそのまま連結されるケースも多く存在しました。しかし、その電源エリアの境界をグリーン車サロに持たせることによりサシの連結を必要としなくなったため、すべての電車特急から食堂車が消滅しました。食堂車の連結は私が高校を終わるぐらいだったため、貧乏旅行を強いられた身としては利用する機会もなく、1度も利用したことはありませんでした。10-1129 485系後期形 2両増結セット(再販)[KATO]《発売済・在庫品》10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》
2022.04.08
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583系:特急「はつかり」その1「はつかり」は、昭和33年10月ダイヤ改正で誕生した東日本初となる特急列車で、上野(東京)~青森間を結びました。誕生当初は、東海道線特急列車の電車化により発生したスハ44系及び10系グリーン車・食堂車を使用した客車列車であり、ブルートレインと同様の塗装をした大変オリジナル色の強いものでした。また、しばらくの間は常磐線経由の設定となっています。昭和35年、国鉄初となる気動車特急キハ81系により無煙化、スピードアップが図られますが、初期故障が多く、遅れが多発したことは有名です。昭和43年、東北本線の全線電化開業により、初めて東北地区に583系が誕生します。583系による運転は9月9日となり、さらに10月のダイヤ改正では東北本線経由に改められます。大きな改正ごとに本数が徐々に増発され、昭和48年のダイヤ改正で初めて「はつかり」にも485系が使用されることとなりました。今回は583系「はつかり」の昭和53年10月改正前の写真をご紹介いたします。昭和51年 上野駅にて昭和52年 上野駅にて昭和52年頃 「はつかり5号」中学生になったばかりくらいなんでご勘弁ください。この頃から上野駅でよく撮影するようになりました。昭和53年10月改正以前は文字マークが使用され、特にこの583系の夜行列車の雰囲気をした緑色の文字が大好きでした。昭和51年頃昭和52年頃昭和52年頃東北地区の583系の運用が増大する中で、これに不足した車輌を西日本から転属で賄うことになり、このとき青森所に転属してきた車輌の中に、クハネ583-29及び-30がありました。型式はクハネ583ですので、特に「変わり者」というものでもないのですが、この2両は暖地向けとして製作された車輌であったため、タイフォンが開放型であったわけです。見慣れない顔つきに、初めて見たときはものすごい違和感を覚えました。転属してきた最初の頃は、前後で-29と-30がペアを組んでいたようですが、後にバラされてしまい、後も確認しないとわからないという、神出鬼没的な車輌でした。おかげで、なかなかバッチリとした写真を撮ることは困難を極めました。いつの間にか標準の開閉式に改造されてしまったようで、1年強の期間くらいしか見ることができなかったように記憶しています。昭和53年10月改正以降についてはいずれまたご紹介したいと思います。
2023.08.10
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DE10(DE15)牽引 貨物列車:釧網本線国鉄時代、釧網本線における貨物輸送も普通に行われていたわけですが、駅間距離が長く単線では多くの列車を走らせることができず、輸送量もそれほど多くはなかったため、客車列車との混合列車によるものが一般的でした。昭和59年2月の貨物大合理化において、釧網本線における一般貨物列車が廃止となり、混合列車の運転が消滅してしまいました。しかし、石油輸送などの専用貨物列車は少ないながらも存続したため、平成になってから1度だけこの貨物列車を撮影に行ったことがあります。平成2年3月15日 釧網本線 遠矢~細岡間にて釧網本線を行く石油輸送貨物列車ですが、プリントからのスキャンで画像が良くなく、DE10かDE15か判別できません。両数が多いときは重連運転もあったようです。釧網本線における専用貨物列車が廃止になるというアナウンスがあったため、急遽友人と撮影を強行してきました。結局はこの後、平成9年まで走り続けたらしいですが、私自身も結婚してからは同線を訪れる機会がなくなってしまい、JR貨物の列車としては最初で最後の1枚となってしまいました。初代「オホーツク流氷ノロッコ号」国鉄 釧網本線:混合列車国鉄 釧網本線:普通列車(客車列車)
2024.02.08
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東北本線 上野発:旧客普通列車3兄弟(上り編)東北本線 上野発:旧客普通列車3兄弟(下り編)に続き、上り列車編をまとめました。下り列車は、早朝・昼間・夕方に121レ・123レ・125レと規則的に分かり易い設定になっているのですが、上り列車は非常に厄介でした。まだ小中学生の頃でしたので、当時は時刻表を見ても全く理解できませんでしたね。今回、時刻表や他の方の記事等を見て、やっと骨子が掴めた状態です。ただ、昔の客車運用は、気動車急行の運用と同様に、東北地域内における非常に複雑な運用を伴っているため、全貌を掴むまでには至りませんので、その点はご勘弁ください。※時刻表は、交通公社時刻表 昭和50年7月号から拝借しました。まずは福島6:36発の上野行き122列車です。列車番号が下り列車と対になっているため、分かり易い列車です。この列車には何回か乗ったことがあります。編成は下り列車に準じますが、この列車には機関車次位(上野方荷物車のさらに機関車寄り)に回送車2両が連結されています。私が実際に見たものでは、スハフ32の確率が高かったように思います。この車両には客室に鍵が掛かっている時と掛かっていない時があり、中に入れれば貸切を味わうことができました。この回送車ですが、残念ながらどこから連結されているのかは知りません。おそらく、翌朝の121列車の白河回転車になるのではないかと思われます。※一番右端にある124レを覚えておいて下さい。後程出てきます。昭和52年3月21日 栗橋駅にて 122レ確か、有名な利根川橋梁に初めて写真を撮りに行った帰りに撮ったように記憶しています。日付はもしかしたら誤っているかもしれません。唯一保存されているEF577が牽引しており、機関車の次位が荷物車ではないことが判ります。その状況もこの時に初めて知りました。昼間の良い時間帯ながら、地元では本当に撮ったことのない列車でした。それにしても、宇都宮の停車が48分間も。一体何をしているんでしょうか?黒磯19:18発に2126列車というのがあります。列車番号が4ケタなので分かりづらいですが、126レで区間が黒磯発となっているため2000番台を名乗っているものと思われます。黒磯までこの列車に充当されそうな列車が見当たらず、時刻表からは推測できませんでした。東北本線の最終上り列車は大宮止まりとなっているため、同列車が上野着の最終列車となっています。おそらくはこの列車が翌日の125レになるものと思われますが、こんな時間のため実列車は見たこともありません。ここで、通常の時刻表では上りの客車列車は2本しか見えず、謎を解くことは難しいのですが、夏号にだけこの謎を解くカギがあります。宇都宮14:08発に48列車という荷物列車の番号を名乗る列車が上野行きとして設定されています。これは多客期のみに設定される快速のような客車列車ですが、実は最初の時刻表に載っている124列車からの続きになっています。つまり、普段は仙台発上野行きの列車を宇都宮~上野間の客扱い無しとして運転し、多客期のみ停車駅を設定して客扱いをしていたようなのです。なぜ荷物列車の番号としているのか?実は、青森~隅田川間に48列車という急行荷物列車が設定されているのですが、同列車が仙台から38列車と名前を変えてしまっています。走行時間帯もこの客車列車の48列車はかなりズレていますし、そもそも上野行きと隅田川行きを併結させることも不可能なことから、何故このような設定になっているのかは全く謎です。時刻表では黒ずんで分かりにくくなってしまいましたが、宇都宮で20分の停車中に、後続の黒磯発大宮行き普通列車に抜かれてしまいます。せっかくの快速運転による延長ですが、後続の列車の方が早く目的地に着いてしまいますので、どれほど意味があったのかはちょっと疑問です。昭和52年8月 EF58103牽引 48レ昭和53年10月頃? EF58牽引 48レ客車が短編成で、しかも郵便車が連結されているという滑稽な編成で、何者か良く分かりませんでしたが、本記事編集に当たってやっとその意味が判明しました。上のスハニ64と思われる車両を連結しているのは、検査等の回送を連結しているものと思われます。結局、この列車が一ノ関行き123列車の対になる列車であることが判明し、その目的が郵便輸送のためであることも明確となりました。今回の調査で、昔は知り得なかった概要を概ね掴むことができました。しかし、123列車の仙台回転車がどの列車で戻って来るのかまでは判明しなかったことだけがちょっと残念です。
2024.07.29
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489系:特急「白山」(53・10改正前)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。同時に、181系により輸送力が不足していた特急「あさま」に対しても、一部列車ながら489系による共通運用で輸送力を確保しました。今回は、特急「白山」の昭和53年10月改正以前の写真を並べてみます。カメラが良くないので、画像・構図とも見苦しい点はご了承下さい。昭和51年頃 尾久駅にて クハ489 0番台多分オートハーフで撮った写真ですね。ブレちゃってます。北陸から持ってきたボンネットの鼻先の雪をそのまま北陸へお持ち帰りって感じですね。隣で待機している10系座席車も懐かしいです。昭和52年 大宮駅にて クハ489-500番台こちらの写真は、上野方に連結されるEF63連結側の500番台です。他の流美なボンネット車と違い、連結器を剥き出しにした荒々しい顔が特徴です。ところで、この写真を見て異変を感じませんか?昭和52年 西川口~蕨間にて クハ489-502上の写真と同じ500番台ですが、こちらは写真から-502の判別できます。こちらも上の写真と同じ車両のようです。異変と言うのは・・・屋上ヘッドライトのライトケース(ホイッスルカバー)が付いていないんです。鉄道雑誌の資料を見ると、金沢の489系は何かしらの異変が発生しており、このライトケースの取り外しを始め、スカートのグレー化などのイレギュラーが発生しているんです。やはり、あるべきものが無いと違和感がありますね。その後に聞いた話では、ツララによる破損があったとかないとか。晩年の急行「能登」も同様にライトケースが付いていませんでしたね。昭和51年 上野駅にて クハ489-200番台直江津向きの貫通型は200番台で、機関車の連結が無い側です。クハ481-200にならって同じ番台を使用しています。製造時期が485系と全く重なっているため、モハ488も集中型クーラーに変更されています。隣にクハ183-1001が写っていますね。昭和52年 上野駅にて クハ489-600番台こちらは東京方の横軽でEF63を連結する側です。こちらは貫通型で600番台が付番されています。ジャンパ栓の違いくらいしか分かりません。昭和51年 大宮駅にて クハ489-300番台色調がおかしくてスミマセン。オートハーフで撮った写真っていうのは大概において変な色に退色してしまっています。昭和52年 上野駅にて クハ489-700番台定番の高架ホームで撮った「白山」。6・7番線では「とき」と並ぶシーンが有名ですが、こちらは8番線側ですね。9番線に停車中の高崎線普通列車との並びとなりました。デカ目の115系も今となっては懐かしいですね。多客期には指定席券が入手困難であったといわれる特急「白山」。隆盛を誇ったまま、昭和53年10月の改正を迎えることになります。
2024.10.11
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485系 貫通型:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。今回は、485系200番台を使用した特急「ひばり」を最終日の最終列車までご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて53年10月改正までは文字マークです。個人的にはやはりこちらのスタイルが良いかな?これは青森車です。昭和52年頃 大宮駅にて大宮駅の4番線に到着した「ひばり」。こちらも青森車の貫通型です。3番線には原形ライトの115系も停車中。まだ冷房車が殆ど無かったころです。 昭和53年9月 大宮駅にて53・10ダイヤ改正を間近に控えた頃。順次イラストマークへの切替え工事が始まり、改正を待たずにイラスト化された車両が多数お目見えしました。イラスト化される前に撮っておこうとした思惑が外れ、既に手遅れ状態になっていました。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて東北本線を疾走する特急「ひばり」。田舎に行く途中に下車して撮影したもの。連結器カバーが金属製ではなく、こちらは仙台車であることが判ります。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて東北新幹線大宮暫定開業が目前に迫ってきた頃。前後とも貫通型の200番代を連結した編成。仙台のボンネット車も転出し、東北特急の古き良き時代が終りを告げようとしているとき。昭和57年8月23日 大宮駅にて東北新幹線大宮暫定開業により「やまびこ」は全廃されましたが、大宮乗り換えの不便対応として減便されつつも「はつかり」とあわせて残ることになりました。2枚とも 昭和57年11月14日 上野駅にて 最終「ひばり」最終を飾ったのは、仙台車の貫通型を前後に連結した編成。「山手線が通勤ラッシュ帯に運転が見合わせとなり、階段規制をしなければ危険である」と表現できるぐらいの人出です。特に、最終では車体に装飾がされた関係もあり、順次発車していった「ひばり」よりもファンが集まるのも当然といえるでしょう。私的にも、母親の実家が福島県であるため、「ひばり」は昔から縁のある特急でした。その「ひばり」が無くなる日が来るなんて夢にも思わなかったのですが、新幹線博多開業の時に失った「つばめ」「はと」も然り、やはり歴史は繰り返すものだと、寂しさを隠せませんでした。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 非貫通型:特急「ひばり」485系K-1編成:団体列車リバイバル「ひばり」10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》
2022.08.06
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国鉄 EF55型電気機関車:12系&スエ78 東北本線を走る高崎機関区に配置されていたEF551。その性格から、走行区間は高崎線や上越線、両毛・信越本線など、高崎鉄道管理局(高崎支社)の守備範囲内での走行が殆どでした。そんな中、私の経験上で1度だけ、東北本線で営業運転された時の記録があります。昭和63年10月10日 東大宮~蓮田間にて上野~宇都宮を走ったかと思うのですが、詳細は憶えていません。毎度の12系編成ですが、イベント性を考慮したのか、スエ78が連結されてアクセントとなっています。宇都宮でのイベントなどで、回送では走ったことが何度かあるようですが、EF55が東北本線を走行した例は大変珍しいかと思います。【2023年8月】 KATO|カトー EF55 高崎運転所【発売日以降のお届け】
2023.04.10
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EF651108牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」「サロンエクスプレスそよかぜ」は、逗子~軽井沢を結んでいた臨時特急です。客車にサロンエクスプレス東京を使用した全車グリーンの豪華特急列車で、その昔運転されていた臨時急行「軽井沢グリーン」を髣髴させるものでした。高崎~軽井沢間はEF62が牽引していたと考えられますが、逗子~高崎間はEF62ではない機関車が牽引していました。これは、おそらく横須賀線区間にEF62が入線していなかったため、訓練を省く目的があったのではないかと思われます。※昭和59年5月、蕨駅にて。EF651108牽引 特急「サロンエクスプレスそよかぜ」どうもこの時が同列車の初シーズンだったようです。バブルという言葉はない時代だったと思いますが、好景気上向きで、給料が毎年1万円くらい上がって行った時代。Wikipediaでは昭和59年7月から運転と記述されていますが、昭和59年春号のダイヤ情報(当時は季刊)にも掲載されており、4月29日~5月3日のGWにも設定されています。私も詳細な記録を取っていないのですが、前後の撮影記録からこのGW期間中に撮影したものであることは間違いありません。14系 サロンエクスプレス東京他のシーズンは良く分かりませんが、この最初のシーズンでは「サロンエクスプレスそよかぜ」の専用テールマークが用意されたみたいです。鮮やか過ぎるのでステッカー式でしょうね。既に国鉄に就職し、59・2ダイヤ改正で大宮操車場を追われて間もない頃。この蕨駅も貨物扱いが廃止になったばかりで、まだダブルスリップポイントが残っているのが判ります。昭和57年頃から地元線路沿いに金網柵が設置され、自由に写真を撮ることができなくなったため、やむを得ずこんな窮屈な場所で撮ったものと思われます。バブル景気の到来でこの後も頻繁に運転されたようですが、EF65PF牽引では話題性にも欠き、この後しばらく撮影はしていませんでした。
2023.05.05
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14系寝台客車:寝台特急「出雲」「出雲」は、昭和47年の改正で急行から格上げされて寝台特急として誕生しています。誕生当初は20系を使用していましたが、昭和50年の改正から24系となっています。牽引機は誕生当初からEF65500番台が牽引しており、その後のPF化は「富士」や「はやぶさ」と同じ経緯を辿っています。日本の特急列車では指定が一番取りづらい列車であった「出雲」。ほかの特急・寝台特急もシーズンを除けば空きがあるのが一般的でしたが、「出雲」に関しては平日も含めて空きがあるのは珍しいことでした。そんな好調の「出雲」に大きな変化をもたらしたのが、昭和50年3月のダイヤ改正。急行「銀河1号」の運転区間を米子まで延長のうえ特急列車に格上げし、寝台特急「いなば」が誕生しています。さらに、昭和53年10月のダイヤ改正において出雲市までの区間延長を行い、2本目の「出雲」となりました。同改正において、列車号数が下り奇数・上り偶数となったため、東京~浜田間の24系25型「出雲」が「出雲1・4号」に、東京~出雲市間の「出雲3・2号」になっています。昭和54年頃 品川客車区にて スハネフ14「出雲」テールマークがイラストになっていますので昭和54年後半か、もしかしたら昭和55年になっているかもしれません。撮影の難しい14系「出雲」。走行写真は撮れることなく終わり、精々ここで見ることが出来るくらいでした。EF58が牽引している姿を撮ってみたかったです。昭和55年8月 揖屋~荒島間にて DD511172牽引 特急「出雲3号」特急「やくも」を撮りに行った際、初めて山陰本線内で撮影できた「出雲」。ヘッドマークの復活は昭和59年頃となりますので、ただ単にDD51が牽くブルトレ時代の姿です。やはり特急列車にはヘッドマークは不可欠で、このようなスタイルの列車を見ても味がありませんし、魅力に欠けます。写真の下り3号・上り2号の列車は、東京~名古屋間で紀伊勝浦発着の「紀伊」を併結していました。急行「銀河1号」→特急「いなば」→「出雲3・2号」→「サンライズ出雲」の流れをくむ列車です。平成26年11月15日 尾久車両センターにてオマケ画像です。2014ふれあい鉄道フェスティバルで、DD51895に「出雲」のヘッドマークが掲げられました。いつも搭乗禁止のテープが張られてしまうのですが、全体を仕切って締め出したため、すっきりした状態で撮ることが出来ました。客車「出雲」(24系25形)末期の頃にはDD51重連が運転されたりと撮影意欲をそそる時代もあったのですが、山陰での撮影は3日間の休みを確保する必要もあり、DD51牽引ヘッドマーク付の「出雲」を撮影することは叶いませんでした。2251 JR DD51-1000形ディーゼル機関車(JR北海道色)[TOMIX]《10月予約》送料無料◆セット販売 2251/98835/98836 TOMIX トミックス JR DD51-1000形ディーゼル機関車 (JR北海道色)+JR 24系25形特急寝台客車 (北斗星・JR北海道仕様) 基本セット(6両)+増結セット(6両) Nゲージ 鉄道模型 【10月予約】2248 TOMIX トミックス 国鉄 DD51-1000形 ディーゼル機関車 (九州仕様) Nゲージ 鉄道模型(ZN103682)[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 7008-J DD51 後期 耐寒形 JR貨物A更新色
2023.05.06
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国鉄 EF15牽引 レサ5000:冷蔵貨車主に九州~東京間を結ぶ高速鮮魚輸送用として開発されたレサ10000系。100km/h対応の冷蔵貨車です。これは、九州地方で揚がった新鮮な魚類を東京築地に直行させるというコンセプトから生まれています。片道1000kmを超える距離を移動するわけですから、新鮮な素材を市場に並べるためには当然にして高速性が考慮されています。これに対し、距離の比較的短い東北地方からの鮮魚列車は、100km/h対応までは要求されませんでしたが、一般的な貨物列車の75km/hからこれを上回る輸送を行うため、85km/h対応の冷蔵車が製作されました。それがレサ5000形です。ボディや基本構造はレサ10000と全く同じです。(※一部、一期間、東北方面で10000系が運用されたこともあるようです。)地元ではほとんど見る機会が無かったように記憶していますが、どうも夕方の下り列車に空車回送のスジがあったようで、2枚ほど写真が見つかりました。いずれも高崎第二機関区所属のEF15が牽引しているのですが、上越筋における鮮魚列車は無かったと思いますので、おそらくは黒磯までの牽引を行っていたものと思われます。昭和51年頃 赤羽~川口間にて EF1565牽引ポケットカメラでの撮影ですので、画像が大変悪いですが、ご愛嬌ということで。6両ほどのレサが連結されているように見え、その後ろは一般貨物のようです。昭和55年 川口駅にて EF15121牽引貨物列車(再掲) 上の写真と同じ筋と思われるレサ5000で組成された鮮魚列車。編成の後ろまで入っていると良かったのですが、配給回送にカブられてしまいました。白貨車だけで組成されていたレサ10000高速列車もカッコいいですが、模型ではこうした編成をコンパクトに楽しむのも良いと思います。2023/12/06追記レサ5000は、東北方面太平洋沿岸から7両編成(増結や時代によって+α)を組んで上京していたそうで、写真の列車はいずれも返し回送列車のようです。8023 レサ5000(再販)[KATO]《11月予約》
2023.07.10
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101系900番台:武蔵小金井電車区留置時代クモハ101-902は、現在も鉄道博物館で保存・展示されている幸運な車両ですが、昭和の時代、運用離脱後、長きにわたり武蔵小金井電車区に留置されていました。中央線の窓から眺めた風景に興味がわき、1度だけ撮影に行ったことがあります。※撮影は、昭和56年9月頃? 武蔵小金井電車区にて。クモハ101-902武蔵小金井駅寄りに連結されたクモハ101-902。正面側から撮影できなかったのが非常に残念なところです。クモハ101-902&モハ100-903写真はモノクロなので判らないですが、クモハ101-902がカナリアイエロー、モハ100-903はオレンジバーミリオンです。中央線を通るたびに色違いで連結・留置されているのが大変気になっており、この時のみですが電車を降りて歩いて行ってみました。留置されている位置は非常に悪いのですが、300mmのレンズで何とか車号が判るように撮影することが出来ました。相棒のモハ100-903の消息が掴めないのですが、せっかく保管してあったのに、結局は解体されてしまったようです。
2023.07.18
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12系ばんえつ物語客車:快速「那須野物語」(回送)平成30年6月30日、新潟の12系ばんえつ物語客車を使用した快速「那須野物語」が運転されました。運転区間は大宮~黒磯間の下り片道のみで、帰路は回送となりました。牽引機は、黒磯方にEF8181、上野方にEF641051のプッシュプル運転でした。送り込みは前日のうちに実施され、大宮発の設定ですが尾久センターでの待機となり、運転日早朝にカマの準備がされたようです。大宮駅までの送り込みは尾久からそのままの出庫となり、地元を通ったようなのですが、尾久からの回送設定であることを知らなかったため、撮り逃してしまいました。上り回送の時間をキャッチすることができたため、夕方のみの撮影でした。平成30年6月30日 EF641051牽引 回9630レ 快速「那須野物語」号返却回送この時間ですと正面は潰れ、カマ番の判別すらできません。でも、客車メインなので。後部にはEF8181をぶら下げたままの帰区です。今回、客車には専用のステッカー式の方向幕が貼られたのですが、すっかり撮るのを忘れました。シャッターを切った直後に本線下りにカブられ、後ろ向きはこんな状態に。2枚目のEF8181を切った瞬間に画面に入ってきました。平成30年7月1日 EF641051牽引 回9729レ 12系ばんえつ物語車 返却回送そして、新潟への返却回送です。朝の通勤時間帯は大逆光となるので、後部の客車メインで撮りました。新潟へ行けばいつでも撮れる客車ですが、ここはやはり地元を走っているところに記録の意義があります。DD51牽引なんかも実現してほしいものです。
2024.06.30
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国鉄・JR東日本:EF651017EF65PFシリーズで、今回はなつかしい国鉄時代とJR化直後のEF651017です。1017号機は、昭和44年11月29日落成の1次車に該当します。他の初期車と同様に新鶴見機関区に投入後、宇都宮運転所に配置されますが、3次車が導入された昭和45年頃に一時的に下関運転所へ異動したようです。その後、比較的早い時期にPF形は宇都宮運転所に集中配置となり、一時期は東海道・山陽のブルトレ牽引をしたことのあるPFも関東に戻ってくることになり、東北本線を中心とする運用に使用されるようになりました。なお、1017号機は、2次車や3次車とともに下関時代にナンバープレートがブロック化されたのも外観上の特徴となっています。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF651017牽引 「北海ライナー」1017号機が牽引する下り「北海ライナー」です。牽引されるコンテナ車はもちろんコキ10000系で、東北本線で最も優先された貨物列車です。コキ10000系では、空気バネ台車等の使用により多くのエアを供給する必要があることから、東北本線ではPF形やED751000番台による牽引が固定されていました。昔はこの区間も背の低いコンクリート柵となっており、どの位置からでも写真を撮ることができました。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にてEF651017牽引 団体列車「オリエント・エクスプレス '88」民営化により、1017号機はJR東日本に継承され、当時はまだ多数残っていた客車ジョイフルトレインや12系化以降の急行列車の牽引にも使用されました。外観は国鉄時代のままで、側面にJRマークが貼付された程度の変化となっています。そして、当時の一大イベントとなったオリエント急行の牽引にも充当されました。※「オリエント急行」に関してはリンク先をご覧ください。同機は、宇都宮運転所に戻って以来、関東を離れることなく客車列車の牽引に活躍し、平成8年11月17日に除籍となっています。
2024.10.20
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485系 クロ481:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。481系の東北本線版として誕生した483系は、登場当初よりグリーン車を制御車としたクロ481が設定されました。これは、始発となる上野駅の中央改札が1号車端となっていたことに起因すると思われます。クロ481は、東北本線初の電車特急として誕生した「やまびこ」はもちろん、その後誕生した「ひばり」「やまばと」「あいづ」を含め、常磐特急の「ひたち」にも使用されました。今思えば、東北・常磐特急が地平ホーム、中間にしかグリーン車を組み込めなかった上信越の特急が高架ホームとしていたのも、このメイン改札の位置が考慮されていたのかもしれません。地元を走る「ひばり」編成の中でも、ピカイチかっこ良かったクロ+サロ編成。このクロ+サロ編成を含めて、クロ481使用の「ひばり」の写真をご紹介いたします。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 「ひばり」クロ編成激しい画像で申し訳ない。サクラパックで撮った撮影初期の頃の写真です。ネガがなく、プリントからの拡大スキャン。昭和50年以前は、「ひばり」に583系運用も含む4種類の編成が走っていました。これはそのうちのクロを連結した12両編成で、「やまばと」と共通運用で使用されていたものです。初期の「やまびこ」編成の名残でしょうかね。登場当初はサハ481を含む13両編成だったようですが、その後サハが抜かれて12両編成になっています。昭和52年頃 蕨~西川口間にて先頭車の流し撮りで詳細は不明ですが、おそらくクロ+サロ編成かと思われます。昭和52年頃 大宮駅にて クロ+サロ編成これは編成が良く判る写真です。上野方にクロ481+サロ481を連結し、中間にサハ481も挟んだ13両編成でした。当時、485系による13両編成は、「白鳥」のサロ+サロ編成と「ひばり」のこの編成のみでした。昭和52年3月21日 古河~栗橋間にてシャッター幕が故障し、走行ムラが出来てしまった写真。それでも何とかクロ+サロの編成が判るように写ってくれました。この時代のクロ+サロ13両編成は憧れでした。今ではNゲージでもラインナップされ、古き良き時代が再現できるようになりましたが、本格的にNゲージをやっている頃はクロ481が欲しくてしかたなく、クハ481から改造しようかなんて考えていました。しかし、運転台直後のクーラー有無など、形状の違いからなにもせずにそのままに。クロ481が製品化された頃には財政が脆弱になり、購入すら断念したままとなっていましたが、しばらくNゲージから離れていたため少しは回復し、やっと手に入れることができました。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 貫通型:特急「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」485系:臨時特急「ひばり52号」583系:団体列車 特急「ひばり」リバイバル運転485系K-1編成:団体列車リバイバル「ひばり」E653系勝田車:団体列車「リバイバル特急ひばり」号
2024.11.24
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昭和52年頃の上野駅 485系「はつかり2号」と急行「いいで・ざおう」の一瞬の並び※本記事は、2010/1/4に投稿したもので、当時の表現になっています。485系貫通型「はつかり2号」と気動車急行「いいで」「ざおう」の並び何気ない日常の上野駅地平ホーム。15番線と16番線です。485系貫通型の「はつかり2号」が16番線に入線し、これから新潟・山形に向けて、15番線から気動車急行「いいで」「ざおう」が発車しようとしているところのようです。時期的には、半袖や上着を脱いでいる人も、厚手のコートを着ている人も居ないので、春休みくらいでしょうか。昭和53年は10月に大きな改正を迎えており、その後の時刻表だと全く辻褄が合わない組み合わせなのですが、昭和53年9月号(大改正の前月)が見つかり、実は驚いてしまったんです。15番線の急行「いいで」「ざおう」の発車が9:10です。16番線に9:30発の青森行「はつかり2号」が入線するのも9:10なのです。つまり、正確にダイヤどおり動いていれば、その時間差は50秒以内しか並ぶことはないと言うわけです。確かに状況を良く観察すると、「いいで」「ざおう」の方には後方監視(上野駅の場合、中央改札から走ってくる人が居るので、出発指示合図を出す助役の他、営業係又は運輸係の職員が後方で補助を行っていた)の駅員と車掌が待機中という様子であり、「はつかり」の方は、ヘッドライトとテールランプが点いた状態なので、今まさに定位置に停車したばかり、という状況であることが判ります。この写真はプリントアウトもしていなかったので、撮ったことすら忘れられていたのですが、ネガを見ていて偶然に見つけ、しかも今日アップする際に、非常にタイトな瞬間を切り取ったものと判明いたしました。まだ中学生でホームを駆けずり回って夢中で写真を撮っていた頃、30年以上の時を経て、まるでついこの間のことのように甦ってきました。10-1129 KATO カトー 485系後期形 2両増結セット Nゲージ 鉄道模型(ZN87760)【7/25限定★ポイントUP×抽選で最大100%Pバック】[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-1129 485系後期形 2両増結セットKATO Nゲージ 485系200番台 6両基本セット 鉄道模型 10-1479【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 10-1531 キハ58系 (非冷房車) 急行「いいで」7両セット 【A´】 ※スリーブ若干傷み[10-1531] キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット (4949727674087)
2022.07.24
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14系寝台客車:寝台特急「北星」寝台特急「北星」については、20系時代の写真を過去ログ『20系寝台客車:寝台特急「北星」』でご紹介いたしましたが、今回は、昭和53年10月改正以降の14系化後の写真を、少ないですがご紹介したいと思います。昭和54年5月 蕨~西川口間にて20系客車から14系化された「北星」です。20系じゃなくなったことから興味が失せ、全く撮る気の無かったころなのですが、1枚だけ文字マーク時代の「北星」を撮っていました。35mm判リバーサルフィルムからスキャンしたものです。昭和57年5月 浦和~南浦和間にて EF651010牽引東北新幹線の大宮暫定開業を間近にした頃の「北星」。14系客車になった頃には、牽引機がEF651000番台になっていたのではないかと思います。ヘッドマークの付かない地味な編成だったので、やはり殆ど撮ったことがありませんでした。昭和57年11月6日 上野駅にてイラストマークがやっと板に付いてきましたが、廃止まであと1週間になってしまいました。既に東北新幹線は開業していますので、下車客も少なく静まり返ったホームは、ブルトレの衰退を見事なまでに表現しています。寂しいもんですね。昭和57年11月13日 上野駅にて 横サボ上野行最終日前日の「北星」のサボ。おそらく、噛り付いたガキ鉄を避けるために横サボだけ撮ったものと思われます。いよいよお別れです。昭和57年11月14日 上野駅にて 183系「とき」と並ぶ下り最終「北星」上越新幹線開業前の最終日、沢山の愛称が上野駅から去っていきました。この2つの列車もこの日限りでした。しかしこの人だかり、どうにかならないもんですかね。いつの時代も同じですね。昭和60年7月7日 東大宮操車場にてイベントの際に展示された1両のスハネフ14。幕は「北星」が用意されました。本体列車も旧客をEF8181やEF5889が牽引し、ロイヤルエンジンEF5861が撮影会に参加するなどレアなイベントでしたが、この「北星」も廃止されてから久しかったので、結構な人気が集まっていました。急行時代から「北陸」と同様の運命を辿ってきた「北星」でしたが、新幹線という競争相手の進捗の違いによって、相当な寿命差が生じることとなりました。20系寝台客車:寝台特急「北星」
2023.01.25
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489系:「ホームライナー鴻巣」国鉄車の中でも名車のひとつ、ボンネット型車両。平成22年3月、定期列車として最後まで489系ボンネット型車両を使用して運転されていた急行「能登」が惜しまれつつ廃止となり、定期運用から名車がまたひとつ去っていくことになりました。そしてもうひとつ、定期列車として運命を共にした列車があります。それが平日運転となっていた「ホームライナー鴻巣3号」と「ホームライナー古河3号」です。地味な存在でしたが、深夜・早朝を走る「能登」よりも目にする機会が多かった列車です。今回は思い出の「ホームライナー鴻巣3号」を。平成20年7月22日 上野駅にて クハ489-1 「ホームライナー鴻巣3号」普通なら仕事帰りには間に合わないのですが、外回り先からの帰宅途中で間に合いました。クハ489-501平成20年7月22日 尾久駅にて先回りして尾久駅へ。もっと性能の良いデジカメならもっとキレイに撮れたんですがね。平成21年8月17日 蕨~西川口間にて 「ホームライナー鴻巣3号」8月半ばではもう全然走行写真は無理です。でも、個人的には気に入っているんです。以下、平成22年3月3日、上野駅にて 「ホームライナー鴻巣3号」クハ489-3「能登」の廃止が間近になり、「ホームライナー」の撮影者も増えました。サボを撮ってみましたが、「ホームライナー」の表記はないんですね。モハ489-21グレードアップの際、食堂車の廃止も相まって、ビュッフェサロンのようなスペースを設けたモハ489。これだけの改造をしておきながら、記号も変わらず番代表記も与えられていません。特急車両の中では異質の改造ですね。窓から車内の様子を撮りたかったのですが、到着が遅かったので、サロン室は既に簡易居酒屋と化していました。一杯飲みたいサラリーマンには、人気のスペースのようです。改札風景も撮っておこうと待機していたのですが、人通りを見送っていたら、発車間際になってしまい、改札が終ってしまいました。乗車口には何故か鉄板の渡り板を使用しています。クハ489-503運転台のアップでも撮ろうと思ったのですが、構図を考えているうちに発車してしまいました。仕方なくタテ位置に変えて流し撮りを強行。なんと、車掌さんにばっちりポイントがあってしまいました。急行「能登」と運命を共にした「ホームライナー」。少しの間は臨時列車で上京しましたが、平成23年、とうとうその人生に幕を下ろしました。その後、同運用は新潟の485系が後任に当たることになりましが、これも長くは続きませんでした。
2023.07.31
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115系:身延線 ワインレッド色昭和56年、旧型国電にそろそろ全廃の足音が迫ってきた頃、先行で廃車となったサハ45を含む編成に変わって登場した、身延線専用の115系が走り始めました。この時点ではまだ2編成くらいしか運用に就いていなかったようで、撮影中もあまり見ることはありませんでしたし、元々新型車なんて撮る気も無かったのですが、1枚だけリバーサルのコマがありました。昭和56年7月2日 身延線 鰍沢口~落居間にて甲府を基点とする身延線らしく、車体はワインレッドを身にまとい、白帯は富士山の雪をイメージしたものでしょうか、山梨・静岡それぞれの地域を反映したカラーとなっています。導入当初は クモハ+モハ+クハ+クハ で、クハは背中合わせに連結するという珍しい組成が組まれました。これは、無人駅の多い身延線で車掌が集改札をしやすいように、編成中間に乗務員室を設ける措置だったと聞いています。その後、全国的な短編成化に伴うクハ捻出のため、中間のクハが抜かれて3両編成化されてしまいました。モハ114はパンタつきの車両ですが、トンネル断面の極端に低い同線を走らせるため、折り畳み高の低いパンタグラフを採用するとともに、パンタ部だけ少し低くした2600番代という新しい区分番代が発生しています。外観からは殆ど判らないんですが。同時に身延線専用のクモユニ143のワインレッドカラーが導入され、身延線で活躍するとともに、荷物扱い終了後は首都圏にも顔を見せ人気を博しました。これに比べると、115系のワインレッドカラーは比較的短い期間で標準化され、地味なうちに消滅してしまいました。
2023.09.10
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185系:特急「水上」上野~水上間の優等列車の歴史を見ると、それまで準急であった「奥利根」が昭和41年に急行列車に格上げ、昭和43年に急行「ゆけむり」に名称が変更されています。昭和57年11月、上越新幹線が大宮暫定開業となり、185系を使用した列車が新特急「谷川」として運転を始め、急行「ゆけむり」は上越新幹線上野開業となる昭和60年3月に全て新特急「谷川」に吸収されます。JR化後もしばらくはこのまま推移しますが、平成9年、上越新幹線に「たにがわ」として名称を譲ることになり、新特急「水上」という愛称が誕生することになります。さらに平成14年、新特急の種別廃止により、特急「水上」となりました。平成20年8月22日 水上駅構内にて 特急「水上5号」こうした列車はそれまで殆ど撮ったことがなかったですが、デジカメを購入したことで撮る機会が増えました。平成22年1月16日 特急「水上1号」「水上」は、臨時を除き全て「草津」と併結運転となっており、上野口の特急列車としてはもっとも長い14連での運転となっていました。※以前は単独の編成があった模様。平成22年1月23日 特急「水上25号」・「草津5号」この頃からスカートの形状が変更された車両が登場します。あまり興味を持っていませんでしたが、旧スカート形状としては最後に撮影した「水上」です。この時期の時刻表がないので曖昧ですが、単独の「草津5号」に季節併結の「水上」が設定されていて、号数が変な数字になっていたようです。この1時間前に単独「水上5号」が設定されていたようなのですが、もしかしたらダイヤ改正で「水上5号」・「草津5号」になっていたかもしれません。平成22年9月26日 特急「水上2号」・「草津2号」185系に湘南色の塗装変更車が誕生し、「水上」にも充当されるようになります。この頃になると、旧スカート装備車は姿を消したようです。平成22年10月3日 特急「水上4号」・「草津4号」こちらも湘南色を含んだ編成です。次のダイヤ改正で「水上」の臨時化が発表されたため、結構撮りに行っていたようです。平成22年12月11日 特急「水上1号」・「草津1号」平成22年12月改正において、乗車率が良くないことを理由として、土休のみ運転する臨時列車に格下げされました。しかし、ここ地元では運行形態は全く同じで、土休のみ「水上」が表示され、平日は「草津」を表示して新前橋まで併結される14連は変わりませんでした。平成23年2月6日 特急「水上3号」・「草津3号」OMの185系は、冬場になると連結器にカバーがかけられるのが特徴です。平成24年2月、その利用の悪さから土休運転もなくなり、多客期のみの運転となります。これに合わせて「草津」との併結運転も解消され、14連の姿を見ることも出来なくなってしまいました。651系:臨時特急「水上」185系:新特急「谷川」
2023.12.29
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キハ82系:特急「北斗」特急「北斗」は、函館~札幌を結ぶ、北海道では「おおぞら」「おおとり」に続く第3の特急列車です。登場から永らくキハ82系が使用され、臨時列車を含めると、最後までキハ82系が使用された列車としても有名です。使用車両はグレードアップが進められ、現在も都市間を結ぶ特急列車として重要な地位にあります。今回はキハ82系時代をご紹介いたします。昭和56年3月 札幌駅にて北海道へは前年の3月同時期にも訪れていますが、「北斗」の写真は函館駅で撮ったものくらいしか見当たりませんでした。本数も道内で一番ありましたので、逆にあまり撮っていなかったようです。その反動か、2回目に訪れた時は、結構駅撮りもしていたようで、特に地平時代の札幌駅で撮った写真は多かったようです。昭和56年3月 札幌駅にてこちらも同じく札幌駅にて。時計があって、17時を回ったところですが、かなり明るいですね。低いホームと相まって、直ぐに線路に降りられるくらい高く根雪が積もっています。昭和56年3月20日 森~東森間にて北海道からの帰途、友人とウマが合わずに別れ、一人でさっさと帰ろうとしたものの何だか惜しくなってしまい、早朝に着いた函館から引き返して走行写真を撮りました。そこそこ長い時間いましたが、通ったのは「北斗」「おおぞら」と貨物列車の3本だけだったみたいです。昭和56年3月20日 函館駅構内にて函館駅の外れに掛かっている跨線橋から、青函連絡船乗り継ぎの合間に撮影していました。札幌駅は氷の中と言った情景でしたが、道南はやはり気温が高いのでしょうか、日陰に雪の残骸がある程度しか見当たりません。上の写真はキハ82の初期型で、運転席直後のクーラーを増設したタイプ。そして、下の写真は後期型で、初めからクーラーが増設されているタイプです。上から見ると、2番目のクーラーとの距離の違いが判ると思います。写真からでは見づらいですが、初期型の行先札はトイレ窓直上に設置され、後期型はドアの直ぐ横上にあるので、サイドから見るとより違いが判ります。そのようなアングルの写真も撮っておけば良かったのですが、この頃はそんな違いがあることさえ知りませんでした。昭和58年9月7日 函館本線 赤井川駅構内にて大沼駅~大沼公園~赤井川と徒歩で踏破した際、赤井川駅に着いて普通列車を待つ間に撮影した写真です。本来であれば駅から外れたポイントで撮りたいところですが、何故かこの安全側線と本線の坂道の雰囲気が非常に気に入って、敢えてこのアングルを選んで撮りました。とにかく、このときは東京を出てから家に帰るまで雨が一切止むことは無かったという悲惨な撮影行でした。晴天だったら、もっと違うさわやかな雰囲気で撮ることが出来たのでしょうが、如何にもローカルなひなびたシーンになってしまいました。当時からでも本数が多く設定されていた「北斗」でしたが、室蘭本線などでの駅間撮影をしなかったこともあり、キハ82系の写真は意外と少なかったです。その分、後の撮影では道南から室蘭本線に掛けて立ち寄ったことが多かったため、キハ183系の「北斗」は随分と撮っています。まあ、高校生レベルで行っただけで興奮モノの北海道でしたから、全体の中でこれだけ撮れていれば仕方なかったと思います。キハ183系:特急「北斗」
2024.03.04
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国鉄 直流型電気機関車:EF6643EF66シリーズで、43号機です。下関運転所に配置され、本来の貨物列車に運用後、昭和60年3月ダイヤ改正からは東海道・山陽口のブルートレインを牽引しました。ブルートレインの縮小によりJR貨物へ移籍する車両もありましたが、同機はJR貨物へ移籍することなく、ブルトレ廃止までJR西日本に籍を置きました。昭和57年10月4日 瀬野~八本松間にて EF6643牽引 一般貨物列車まだブルトレにEF66が充当される前、貨物列車の牽引を本業としていた時代の1枚です。当時は当たり前の光景であったワムだらけの普通貨物列車。機関車の直後はレムとかレサが繋がっているように見えます。本来は高速用のEF66ですが、運用の都合上でしょうか、一般貨物を牽くシーンは多く見られました。正確な廃車時期が判らないのですが、情報から整理すると2009年(平成21年)9月頃のようです。東海道最後のブルトレ「富士」「はやぶさ」の廃止が平成22年3月ですから、最後までブルトレを牽いていたことになります。しかし、過去の記録を辿ってみても、何故かブルトレを牽引している写真は見当たらず、「ふじぶさ」最後の頃は結構撮っていたにもかかわらず、国鉄時代のこの1枚しか見つかりませんでした。
2024.04.28
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EF5861牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」「サロンエクスプレスそよかぜ」は、逗子~軽井沢を結んでいた臨時特急です。客車にサロンエクスプレス東京を使用した全車グリーンの豪華特急列車で、その昔運転されていた臨時急行「軽井沢グリーン」を髣髴させるものでした。高崎~中軽井沢間はEF62が牽引していたと考えられますが、逗子~高崎間はEF62ではない機関車が牽引していました。これは、おそらく横須賀線区間にEF62が入線していなかったため、訓練を省く目的があったのではないかと思われます。過去ログ『EF651108牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」』でPF牽引の列車をご紹介しておりますが、結果的に最終運転となった昭和63年度では、折からのEF58最終ブームもあって、お召機EF5861が牽引し、ヘッドマーク付も相俟って注目を集めました。昭和63年5月4日 上尾~宮原間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」お召機である61号機が牽引し、話題沸騰となりました。もちろんヘッドマークを掲出していますので、注目度は凄かったですね。こちらはちゃんと撮影記録が残されており、やはりWikipediaでは昭和62年8月までとなっておりますが、こちらも明らかに記述が間違っております。昭和63年5月5日 北本~桶川間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」テールマークは通常の「サロンエクスプレス東京」が掲出されていたと記憶しており、特に面白みも無かったので後部は撮っていませんでした。下りの特急「あさま」とカブってしまい残念な結果となりましたが、当時はまだこんな時代背景だったという意味では良い記録であることも間違いありません。同列車の記録はここで途切れており、この年度が最後の運転となったようです。
2024.05.04
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12系お座敷客車(高タカ):「くつろぎ」団体・臨時列車用として製造された12系客車。旧型客車の老朽化置き換えで急行列車に使用されるようになりましが、さらに余剰となってきた特急用14系客車が急行列車に使用されるようになると、12系客車は普通列車やお座敷列車へと改造されるようになりました。各所に点在していたスロ81系お座敷列車が12系に置き換えられるとともに、それまでお座敷客車を配属していなかった客車区へも進出することになります。このうち、高崎客車区(高タカ)には、昭和58年に「くつろぎ」が6両編成で新規に配置となりました。昭和59年10月14日 東大宮~土呂間にて EF58151牽引登場当初の「くつろぎ」は、12系をベースとしていながらも、白の太帯1条を配したデザインでした。あまりインパクトはありませんが、奇抜な塗装はまだまだ無かった時代です。同じようなデザインで、九州の「海編成」「山編成」(帯はグリーン)がありました。撮影日調査中 後閑~上牧間にて EF65PF牽引平成5年8月21日 後閑~上牧間にて EF651023牽引高崎地区のバブル需要で兄弟編成である「やすらぎ」が増備されると、見劣りを考慮したか、「やすらぎ」もリニューアルが実施され、塗装もシックな茶色系のデザインに変更されました。EF58の独壇場であった高崎線・上越線の客車列車ですが、EF58が全廃になると、EF641000番台に加え、それまでなかったEF65PFが入線するようになりました。下の写真は、最後部のスロフが検査のためか、スハフ12に代わっています。平成6年5月31日 EF6019牽引 「くつろぎ」 上牧~水上間にて「やすらぎ」のデビュー後、動態保存車であったEF6019が「やすらぎ」に合わせた塗装に変更され、ジョイフルトレインの牽引に優先されるような状態で活躍を始めました。「くつろぎ」は平成11年半ばまで運用されましたが、汎用性のある電車ジョイフルトレインに後進を譲り、引退しました。現在も一部の車両が鉄道文化むらに保存されています。
2024.05.20
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国鉄 直流型電気機関車:EF6636EF66シリーズで、36号機です。JR貨物へ引き継がれ、永く活躍したカマです。平成27年4月25日 4083レ平成27年5月17日 4083レ平成27年7月5日 4083レ短い期間ですが、山手貨物線に設定されていた下り半トヨロンのスジにEF66運用がありました。短期間に3回も撮影できたのはこの36号機のみでした。36号機は、平成29年に廃車になっていたようですが、令和2年2月に解体されてしまったようです。
2024.06.28
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153系・185系:急行「伊豆」急行「伊豆」は、東京~伊東・伊豆急下田・修善寺を結んでいた温泉急行列車で、現在の特急「踊り子」の前身となる列車。特急がまだ高級品であった頃、全車指定の急行列車としてそれでも高級な感じのある急行列車でした。自由席連結の急行「おくいず」とペアを組んでいましたが、後年は「伊豆」にも自由席車が連結されるようになり、「おくいず」を吸収して大所帯となりました。昭和56年5月頃 保土ヶ谷~戸塚間にて 下り153系急行「伊豆」急行「伊豆」は、基本10両+付属5両の最大15両編成で設定され、グリーン車2両を常時組み込んでいたのが特徴といえます。また、付属編成は修善寺まで乗入運転を行っていました。このあたりの設定状況を考えると、今の185系「踊り子」そのままという感じですね。急行「伊豆」と言えば、153系が定番で、多客臨で155系や167系が使用されました。そんな急行「伊豆」に一大転機が訪れたのが昭和56年3月のことでした。153系の老朽化を見込んだ上で新製車を投入。そのコンセプトは特急運用を基本としながらも、153系が間合い運用していた普通列車までカバーしてしまおうというもの。それまでの国鉄では、特急車両を急行や普通列車に使うなど有り得なかったんです。153系の置換えともなると、普通列車もカバーしていることから新製数も多く、一度に全ての車両を置き換えて特急化するのは困難です。そのため、昭和56年3月に第1編成誕生以来、新製毎に徐々に置き換える間、急行運用のままの「伊豆」に使用されるようになったのです。昭和56年5月 東海道本線 東戸塚~戸塚間にて昭和56年9月 東海道本線 品川駅にて昭和56年9月28日 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて昭和56年9月28日 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて185系の車両を使った急行は、他にも高崎・上越スジで「ゆけむり」「草津」「あかぎ」がありましたが、この「伊豆」だけは「急行」とせずに、ちゃんと愛称名が用意されたのです。これらの写真は、殆どがEF58や特急「あまぎ」を撮る時のついででした。でも、今となっては貴重な写真です。特急「踊り子」の誕生は昭和56年10月ですので、この形態の「伊豆」はわずか半年間のみの運行ということでした。その割には良く撮っていたなぁという印象です。
2024.11.09
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381系:特急「しなの」昭和43年、キハ181系により特急運転が始まった「しなの」。そのわずか5年後の昭和48年、中央西線の全線電化時において、日本初となる振子式特急形電車381系が誕生し、曲線の通過速度を向上させ、電車化とともに大幅なスピードアップを図ることになりました。なお、暫くはキハ181系2往復が存置されていました。昭和52年3月30日 名古屋駅にて生涯初めて遭遇した381系「しなの」。53・10改正以前の姿ですので、文字マークとなっています。オートハーフでしたので案の定ブレブレです。昭和56年8月 東海道本線 山崎~神足(現長岡京)間にてキハ181系時代より、1往復は大阪まで顔出していました。381系化後のキハ181系が存置されていた時代においても、何故か大阪「しなの」は気動車のまま残っていました。初めて大阪に行ったとき、運がよければキハ181「しなの」が撮影できたはずですが、その時間に朝食を摂りに旅館に帰ってしまったらしく、結局1度も遭うことはありませんでした。上の写真は先頭をリバーサル、後部をモノクロで撮影しています。リバーサルの方は感度が低かったせいか、ブレてしまっているのが残念です。昭和56年11月22日 名古屋駅?にて昭和58年1月12日 長野駅にて 489系「白山」今ではこんな並び写真も夢のようですね。381系も老朽化及び陳腐化により、JR製383系へと進化し、終焉を迎えました。
2024.11.20
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EF58牽引 荷物列車:東海道・山陽編(その1)かつては日本全国に走っていた荷物列車。道路網の整備によりその需要は自動車にとって代わり、国鉄時代の昭和60年くらいにごく少数の特例を除き廃止されてしまいました。ブログの引っ越しですべてがクリアになってしまいましたので、一からの再編集ということで、今回はEF58が牽引する荷物列車をアーカイブしていこうと思います。撮影枚数がそれなりにあることから、時系列順に3部作になります。まずは昭和50年代前半分から。昭和52年頃 品川駅にて 荷35レ EF5846+EF581牽引品川駅横で出発を待つEF58重連による荷物列車。15両編成で重量換算も最大であったため、重連が組まれていたそうで、当時はかなり有名な列車であったようです。昭和52年3月30日 名古屋駅にて EF5860牽引友人の田舎に招待され、中学時代の鉄友たちと347Mで名古屋へ行きました。食べ盛りですから腹がすき過ぎ、ホームのきしめん店でまっていると、ぬるいけれぞ良ければと開店前から食べさせてもらいました。すると、当時も東京ではなかなか見ることのできなかった茶ガマの60号機が牽引する荷物列車が到着したため、急いで食べて東京寄りから大阪よりまでホームをダッシュし撮影したものです。昭和53年8月5日 根府川にて EF58100牽引これも友人たちと初めて東海道で撮った走行写真デビューの時。当時は中古の一眼レフでしたが広角レンズしかもっておらず、残念な写真が多い。昭和54年5月 品川駅にて 荷37レ? EF58164牽引単機なのでおそらくの列車番号です。影の状態から夕方頃の写真と思われます。昭和54年5月 品川駅にて EF58167牽引編成が明らかに違うので、撮影時間帯も異なると思われます。総武快速線が品川駅まで到達し、貨物線もずれているようで、これは初めて総武快速線(現横須賀線)ホームから撮影したようです。昭和54年12月 浜川崎駅にて EF5836牽引鶴見線・南武線浜川崎支線の写真を撮りに行ったとき、偶然に通り掛かった荷物列車の写真を撮ったもの。当時は既に7枚窓の特徴的な36号機の存在を知っていたと記憶しており、気付いて慌てて撮影した思い出の写真です。こうして年次で並べてみると、昭和53年くらいまでは茶色のマニ36やマニ60を中心に組成しており、そこに少量の郵便車や銀色のマニ40やワキ8000を組み込んでいる感じですが、マニ50の量産と共に、徐々に置き換わっている様子がわかります。(その2につづく)[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1724 郵便・荷物列車「東海道・山陽」 6両セットB[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-899 郵便・荷物列車「東海道・山陽」 6両セットA
2022.03.31
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EF58牽引 荷物列車:東海道・山陽編(その2)かつては日本全国に走っていた荷物列車。その1からの続きで、昭和55年くらいに撮影したものから。あまり記録を取っていない時代なので、撮影時期が曖昧なものがあります。また、牽引機であるEF58の撮影がメインのため、荷物車があまり写っていないものも多くありますのでご了承を。昭和55年頃 田町駅にて EF5856牽引ブルトレ撮影の合間でしょうか。終点汐留を目前にして徐行で通過する上りの荷物列車。残念ながら次位のマニ60と思われる1両分しか写っていません。昭和55年8月 木曽川~岐阜間にて EF58112牽引逆カーブで編成がちょっとしか見えませんが、次位がマニ50で茶色が続きます。昭和55年8月 神足~山崎間にて EF58113牽引次位がちょっと見えませんが、2両目から銀、オユ、茶、茶、スユ、オユ、銀、茶のようです。郵便車の混入率が高い編成ですね。昭和56年5月 東戸塚付近にて EF58160牽引下りの荷物列車。背後から急襲されてどアップになってしまいました。次位には未だ茶色の荷物車が使用されています。昭和57年10月4日 八本松~瀬野間にて EF58146牽引正面からなので編成が判らないですが、まだ茶色が連結されていますね。同区間では、編成重量と機関車の牽引定数により補機連結の有無が決まり、同列車には補機にEF61200番台が連結されています。4回くらい訪問していますが、荷物列車の補機付を撮れたのはこの1枚だけ。昭和57年10月6日 八本松~瀬野間にて EF5846牽引前の写真を撮った帰り道で撮影したもののようです。こちらの列車は一転してマニ50とマニ44のオールブルー。銀色すら見当たりません。まるで時代が違っているようです。昭和58年5月17日 八本松~瀬野間にて EF58101牽引2つ前の写真と全く同じ場所・時間のようで、おそらく同じ列車でしょう。列車長も同じくらいに見えますが、積み荷が少ないのか、補機は連結されていません。こちらも編成状態は分かりませんが、後部は2両ともマニ44になってしまっているようです。昭和57年11月ダイヤ改正辺りで締めようと思ったのですが、瀬野八での写真を比較したかったので、昭和58年まで混ぜてご紹介いたしました。マニ50に加えパレット車の後継であるマニ44が登場したことにより、急速に茶色率が低くなると共に、銀色のワキ8000やスニ40も急速に淘汰されて行ったようです。(その3につづく)[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1724 郵便・荷物列車「東海道・山陽」 6両セットB[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-899 郵便・荷物列車「東海道・山陽」 6両セットA
2022.04.01
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キハ58系:急行「いいで」・「ざおう」「いいで」は、上野~新潟を東北本線・磐越西線経由で結ぶ気動車急行列車です。私の母親の実家が福島県で、最寄(といってもかなり遠い)駅が東北本線の須賀川駅。小学生の頃(昭和40年代)は急行列車を多用していたので、架線下を行くDC急行「いいで」・「ざおう」に1回か2回乗ったことがあります。当時の東北本線急行事情と言えば、「まつしま」「あづま」「いわて」といった本線系急行に、「ばんだい」「ざおう」といった枝線系を併結した455系列の急行が一般的で、臨時を除けば電車化・オール冷房化が当たり前でした。しかし、昼行定期急行の中でも2往復、秋田行急行「おが1号」と「いいで」・「ざおう」がDC急行のまま残っていました。キハ58系はグリーン車を除いて非冷房が基本でしたので、同じ急行料金を払う上では、夏場の格差は否めませんでした。昭和52年頃 東北本線 撮影場所不詳 キハ58800番台 急行「いいで」多分、宇都宮にEF57を撮りに行ったとき、途中駅での急行退避の際に追い越してくるディーゼル急行を115系普通列車の窓からカメラを出して撮影したものと思います。昭和52年頃 古河~栗橋間にて キハ28800番代 急行列車こちらの列車は、コマの前後から判断して下り「いいで」「ざおう」のようです。2両目に800番台が連結されていますが、こちらはキハ28のようですね。当時使っていた中古キャノンFTbはシャッター幕の走行ムラを良く起し、出来上がった写真を見て泣かされたことが何度もありました。昭和56年8月頃 赤羽駅にて 赤羽駅に進入する下り「いいで」・「ざおう」。もちろん高架化工事などの発想は微塵も無い頃です。バックに見える土手は京浜東北線。右側にチラッと見えているのは貨物線です。昭和57年1月4日 東北本線 白坂駅にて白坂駅の客扱い線で「やまびこ3号」を退避する下り「いいで」・「ざおう」。急行のため退避停車はしますが、通過扱いでドアは開きません。編成が長過ぎて、最後部がはみ出してしまっているのもご愛嬌ですね。写真は、今まさに「やまびこ3号」が追い越しに掛かった瞬間を捉えたものです。昭和57年1月4日 東北本線 区間不明この写真は、豊原~白坂間における撮影から、磐西・只見線経由で水上へ移動する際の行程で出会った上りの「いいで」・「ざおう」。偶然にも1日で上下の同列車を捉えました。旧客による普通列車の窓からの撮影で、風景からしておそらく白河~矢吹の間くらいだと思います。昭和52年春頃? 上野駅にて 「はつかり2号」と「いいで」「ざおう」の並びこの写真につきましては、その経緯を「昭和52年頃の上野駅 485系「はつかり2号」と急行「いいで・ざおう」の一瞬の並び」にてご紹介しています。興味がありましたらご覧ください。「いいで」は喜多方までと新津~新潟間、「ざおう」は全線にわたって架線の下を走ります。ある意味新幹線開業まで良くディーゼルのまま残っていたと言う印象ですね。ヘッドマークも無く、非冷房でもあるため普通列車とすら区別が付きづらいところですが、12両という長大な編成と、1両(昭和40年代は2両)連結されたグリーン車が急行列車であることを主張していました。時代に遅れても頑張っていたDC急行「いいで」・「ざおう」ですが、昭和57年11月、上越新幹線の開業とともにその使命に幕を閉じました。【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 10-1531 キハ58系 (非冷房車) 急行「いいで」7両セット 【A´】 ※スリーブ若干傷み[10-1531] キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット (4949727674087)KATO Nゲージ キハ58系(非冷房車) 急行『ざおう』 5両セット 鉄道模型 10-1532[10-1532] キハ58系(非冷房車) 急行「ざおう」 5両セット (4949727674094)キハ58系 (非冷房車) 急行「ざおう」 5両セット【KATO・10-1532】「鉄道模型 Nゲージ カトー」
2022.07.28
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489系 :特急「そよかぜ」特急「そよかぜ」は、上野~中軽井沢を結ぶ季節列車として長らく設定されていた特急列車です。登場当初は181系でしたが、ほんの一時期に157系を使用したことがあります。また、その後は183系0番台(幕張車)や、189系(長野車)、489系(金沢車)、185系(新前橋車)と、実に多彩な車両が使用されました。季節列車でもあり、また運転区間も短距離でもあったため、絵にしづらい列車でしたが、そのさわやかなネーミングが大好きでした。今回は、489系を使用した「そよかぜ」をご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて クハ489-600番台 「そよかぜ」「そよかぜ」は、昭和50年以降、どの年代においても489系が使用されることがあり、写真も少ないですが残っています。ただ、489系時代においても殆どボンネット型が使用された例は稀であり、雑誌で見た中でもグレードアップ改造(白山色)後のものしか見たことがありません。昭和60年11月4日 岡部~深谷間にて クハ489-600番台 「そよかぜ」489系「そよかぜ」の写真は2枚だけしか見つかりませんでした。いずれも489系の貫通型です。489系「そよかぜ」の場合、変運用で間合い対応していたようで、「白山」の折り返しで「そよかぜ」に充てられケースも多々見られたようです。183系幕張車:特急「そよかぜ」
2022.08.25
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国鉄 165系:サハ164国鉄165系で随一の変形車であるサハ164。サハ164は、昭和41年、中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生いたしました。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴です。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから、新潟区のサハシ165と交換のため転出となり「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ移動し、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて 急行「よねやま」に運用されるサハ164-2上野~直江津間を上越線経由で結ぶ急行「よねやま」は、上野~新潟間の急行「佐渡」と共通運用でした。サハ164はサハシ165と共通運用で、当時は13両編成の6号車に連結されていました。画像が荒れて見づらいですが、客窓を挟んで1対になっている扉が客用で、一番左端にある600mmの扉が荷捌き用のものとなります。遠くから見るとパッと見ではサハ165と区別が付き難いのですが、何とも個性的な窓ドア配置となっています。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」に連結されたサハ164-2偶然にも同じ-2でした。記憶は定かではありませんが、大垣区の153系が撤退を始めた頃、165系で不足するサハを補うために連結し、東京へ姿を見せるようになったものと思われます。急行「東海」にも使用されましたが、間合いで運転される静岡行きの普通列車などにもそのまま運用されていたようです。たった2両のためあまり遭うことができず、写真はどうもコレだけしか見つからないようです。売店という画期的なアイディアだったにも拘わらず、その構想が少し早過ぎたために時代の波に乗れず、風潮が着いて来た頃には急行列車は衰退してしまいました。さらには、売店を設置したための定員減も災いし、結局は本来の用途の使用もされないまま地味で流転の一生を送り、昭和58年1月12日付で廃車、その一生を終えています。
2022.11.15
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101系1000番台:武蔵野線武蔵野線は、厳密に言いますと東海道本線の鶴見~府中本町~南浦和~新松戸~総武本線の西船橋までを結ぶ本線と、大宮操車場を結ぶ支線(西浦和及び武蔵浦和を結ぶ路線)、さらに南流山から北小金及び馬橋を結ぶ連絡路線、新小平から国立を結ぶ路線すべてを含んでいます。ただし、ここでは一般的には貨物専用線を含まない、府中本町~西船橋ということで整理しておきます。昭和48年4月1日、府中本町~新松戸間が開業しました。運転当初から接続駅を除き、自動改札が国鉄で初めて登場したことでも知られています。武蔵野線では、騒音防止のために「新秋津~新小平~西国分寺」間に設けられた長大な隧道(トンネル)を走らせるため、列車火災防止のための難燃化対策(A基準)を施した車輌を用意する必要がありました。それが101系1000番台で、全車とも改造により誕生しています。首都圏を走る101系の中では特異たる存在のため、武蔵野線の専用車輌ということができると思います。開業以来、その特殊性から長らく同系が頑張っておりましたが、寄る年並みには勝てず、103系や青梅・五日市線との共通運用の201系に後を譲り、引退しています。当時、あまり通勤型の写真は撮っていなかったので、残っている写真はほんのわずかですが、今日はその中から2枚をアップいたします。昭和56年5月 府中本町駅にて セミ判(6×4.5)の試運転のとき、南武線の撮影の帰り道に撮ったものです。そろそろ101系の存在が貴重になっていた頃なので、駅撮りではありますが取り敢えず撮っておいたのだと思います。セミ判でもあり2L判のプリントでも非常にシャープに写っていますので、返ってくたびれた前面の外板の状態がハッキリと写ってしまい、痛々しく感じます。昭和60年4月14日 南流山駅にて昭和60年につくばで開催された、科学技術博覧会の開催記念運転で運行される快速「奥久慈」号に使用されるC56160の回送を撮りに行ったときに撮影したものです。ある意味暇つぶしで撮ったようなものですが、武蔵野線の写真もほとんど撮ったことがありませんでしたので、貴重な写真になってしまいました。武蔵野線が開業した当初(府中本町~新松戸間)、電車が空いていたので良く往復して遊んでいました。今でこそ8分おき程度に運行されておりますが、開業当初は1時間20分も間隔の開く時間もあり、行った先からなかなか帰ってこれなくなることもありました。今となっては遠い思い出になってしまいました。
2023.04.24
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165系:東海道本線 普通列車東海道の普通列車と言えば、111系や113系といった平坦線区用の近郊型が思い浮かんでしまいますが、静岡~名古屋地区においては80系による普通列車が昭和52年くらいまで大勢を占めていたようで、私自身も乗車した記憶があります。新性能化により都落ちした111系の非冷房車に置き換えられ、さらに冷房化の推進にあたって余剰となった急行型車両によるローカル運用へと移行していきました。大垣区辺りには山陽地区や京阪神で余剰となった153系に加え、修学旅行で使用されなくなった155系といった非冷房タイプの車両が集められ、新快速色を含めた様々な車両が混結で名古屋~米原辺りの普通列車に使用されていたようです。『153系:新快速色の普通列車』国鉄末期からJR化された頃、東海地区では遅くまで急行列車が残っており、これの関係か静岡地区を中心として165系で組成された普通列車が運転されていたようです。平成6年8月20日 金谷~島田間にて 165系4連 普通列車結婚して間もない頃、ある意味この時代くらいから極端に鉄道写真を撮る機会が少なくなった頃です。ただでさえ東海道地区で普通列車の写真を撮る機会はありませんでしたので、たった1枚だけですが良く撮っていたな、という165系普通列車の写真です。モハユニットを含む4連で、おそらくは神領辺りに居た中央西線や飯田線などで急行列車に使用されていたものと思われます。直流急行型の活躍も最晩年となっており、その後次々とJR車両が誕生するに連れ、直流急行型は急速に姿を消していきました。近年、NよりもHOにお得感を感じるのは私だけでしょうか?[鉄道模型]カトー (HO) 3-528 165系800番台 4両セット3-527 (HO)165系800番台 3両セット[KATO]【送料無料】《11月予約》3-529 (HO)165系800番台モハユニット2両セット[KATO]【送料無料】《10月予約》3-528 (HO)165系800番台 4両セット[KATO]【送料無料】《10月予約》
2023.08.19
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旧型国電 70系:両毛線(クハ77)70系電車は、言わずと知れた横須賀線用の電車として登場しました。関東では両毛線が唯一見ることができた路線であり、基本は4連の整った編成で運転されており、これに2両もクモハ41+クハ55を増結した6連運用もあったようです。私が初めて訪問したときには既に115系1000番台による置き換えが始まっており、40系は運用を離脱し、途中駅で留置されているシーンを見ました。そんな両毛線では両端クハ76が一般的でしたが、70系導入に際しては当時余剰となっていたサロ85に中ドアを増設しさらに運転台を設けたクハ77も配属となっていました。今回は、両毛線70系のうちクハ77の写真をご紹介いたします。昭和53年夏 小山駅にて昭和53年夏 撮影地不明途中駅でEF12牽引の貨物列車を発見し、下車した駅です。途中コマに東武佐野線の写真が写っていたので、佐野駅の可能性が高いです。この写真は側面がちゃんと写っているので、構図的には良くありませんが、同車の特徴を良く映し出しています。写真の車両は、側窓の桟が見えないところをみると、クハ77006と思われます。クハ77006は、6両存在したクハ77の中では唯一サロ85最終期形からの改造車で、側窓がやや大きく、1段下降式の構造となっており、大変スッキリしたサイドビューとなっています。また、写真はホームとなっているため見えませんが、クハ77の中で唯一TR48A台車を履いていた車両です。昭和53年夏 高崎駅にてこの写真のみRICOHFLEXで撮影したもので、同じ時に撮影したものかどうか区別が付きません。風景から高崎駅で間違いないと思います。未だ旧型国電に興味を持っていない年齢でしたが、車両の由来や改造の経緯なども判らないまま、初めて見たときから非常に興味を持った車両でした。しかし、行動力が未だ無かった頃でもありますので、撮影できたのはこの2回だけしかなかったのが非常に残念です。「クハ77」うんちくメモクハ77000 ← サロ85006 TR45台車クハ77001 ← サロ85011 TR45台車クハ77002 ← サロ85012 TR45台車クハ77003 ← サロ85020 TR45台車クハ77004 ← サロ85024 TR45台車(005欠番)クハ77006 ← サロ85030 TR48A台車改造は、昭和43年9月前後。
2023.09.07
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583系:特急「みちのく」常磐線の急行列車として設定されていた「みちのく」は、昭和47年3月15日のダイヤ改正により特急列車に格上げ、晴れて特急「みちのく」となりました。実際には「十和田」の格上げという位置づけになっています。使用車両は、当初から青森運転所の583系が使用されており、常磐線経由としては唯一の青森直通特急です。※登場時の「はつかり」は、東北本線経由になるまで「みちのく」と同一の区間を走行していました。昭和52年頃 上野駅にて文字マーク時代の「みちのく」です。583系独特の夜行列車に似合いそうな蛍光色っぽいヘッドマークが大好きでした。昭和51年頃 上野駅にて昭和51年 上野駅にて クハネ583-29?「みちのく」上野駅20番線に停車中の「みちのく」です。じいさんのカメラを借りて撮ったモノクロ写真で、完全マニュアル露出計なしのカメラでした。この一連の撮影の中でも、こんなにキレイに写っているものは他にありませんでした。そんな奇跡の写真です。空が青々している様子が伝わってくるので、秋頃に撮った写真ではないでしょうか?上野駅でも場所によってはこんなに空が見えたんですね。昭和52年 上野駅にて クハネ583-29?「みちのく」こちらはその翌年、中古の一眼レフを買って間もない頃、雪がギッシリ付いているので、昭和52年の2月頃ではないかと思われます。常磐線内ではそんなに雪が降ることはありませんから、陸奥の国から持ち帰ってきたものでしょう。昭和51年頃から52年くらいにかけて、西日本から転属してきた暖地装備のクハネ583-29・30が青森運転所にやってきました。東北スジでは唯一の開放型タイフォンを持ち、異色の存在でした。実際に走っていたのは1年強くらいだったと思いますが、いつの間にかシャッター式に改造され、区別が出来なくなってしまいました。当時の583系の運用にまんべんなく入っていたと思いますが、時間帯が良かったせいか、1往復しかない割にはこの「みちのく」での目撃例が多かったように思います。昭和55年頃 常磐線 日暮里~三河島間にて 下り「みちのく」「みちのく」も53・10ダイヤ改正でイラストマークに変わってしまいました。何か、オリジナルのヘッドマークでないと、583系が引き立たないようで残念でした。雑誌掲載のための協力ということで、無理矢理走行写真を仕立てたのですが、残念ながらボツになった写真。結構カッコ良く撮れたと思うんですが・・・。昭和56年頃 上野駅にて東北新幹線開業を目前に、上野駅が特急列車で一番賑わっていた頃。私が高校3年生のときで、飯田線・身延線・大糸線の旧型国電にハマっていた頃でもありますが、東北新幹線の開業でほとんどの特急がなくなることは勿論想像がついていましたので、学校へはカメラ持参で通学し、帰りは上野駅で写真を撮るといった生活が日々行われていました。昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて昭和57年6月に開業した東北新幹線ですが、開業の遅れた上越新幹線のお陰で大規模な改正は57年11月にズレ込むことになり、約半年間長生きすることができた「みちのく」。急行「ときわ」を吸収する形で大増発が予定される「ひたち」の発展を尻目に、1ヵ月後に迫る廃止を目前にして最後の活躍をみせる「みちのく」でした。昭和57年11月14日 常磐線 日立駅にて 最終日上り「みちのく」常磐線経由で孤軍奮闘・活躍してきた583系「みちのく」でしたが、上越新幹線の開業・ダイヤ改正を明日に控え、最終日を迎えることとなりました。私はこの時点では既に国鉄に就職していたのですが、たまたま休みの日だったので、指定券を取って最終の「みちのく」に乗ることにしました。そして、できるだけ北限まで行けるところということで、この日立駅から乗車することになりました。最終日に乗車した時の特急券記念のために硬券発売駅である西川口駅で購入しました。その後の平成キ〇ガイ鉄が出現する前の時代でもあり、最終日最終便でありながらも、空席が目立つような平穏な車内でした。昭和57年11月14日 上野駅にて 下り最終「みちのく」 最後の旅立ち私の乗車した「みちのく」は、途中遅れることも無く無事にその使命を果たし、上野駅に到着。尾久客車区に引き上げていきました。下り「みちのく」は上り「みちのく」の到着後に上野駅を発車しますが、折返しではなく、別の運用となっていました。そして、本当の最終となる下り「みちのく」を見送るため、ホームで待ちました。最終日でもある関係で、鉄道少年たちで大変な事態になっています。しかしそれは、東北特急としては地味ながらも、583系という人気車両でひたすら働き続けてきた彼への心、想いの表れと言えるでしょう。そして、発車のベルが鳴り終わり、遠く先頭車両の方からタイフォンの音が聞こえると、列車は静かに動き出し、永遠の陸奥(みちのく)路へと旅立っていきました。
2023.10.08
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キハ45系 キハ24:普通列車(函館本線)大都市近郊向けの通勤形と地方線区向けの一般形気動車の特徴を併せ持つ気動車として、キハ20系の後を追って誕生したキハ45系。暖地向けの両開き扉を設備した車両の中で、ほんの少数ですが、デッキを付けて片開きドアを設備した酷寒地向けの車両が存在しました。その酷寒地向けのキハ45系の中で、両運転台の形態としたのがキハ24です。昭和56年3月20日 函館駅にて 函館口で普通列車に使用されるキハ243内地向けキハ23(キハ45系の両運形)の北海道版で、側窓の形態やドアの形状・位置などの特徴があります。もちろん、客窓は二重となっています。昭和42年度に10両のみが生産されましたが、その後は増備されず、新性能化は後に誕生するキハ40系までありませんでした。両数が少ないことからキハ22と共通のような形で使用され、平成7年度を以って全廃、消滅しています。
2024.01.10
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