1
北泉邸、国指定登録有形文化財 北泉優子氏が館長脚本家で作家の北泉優子(まさこ)氏は、上野高校の出身NHKに入局されたのちドラマの脚本や小説を発表され「忍ぶ糸」や「魔の刻(とき)」が映画化されました。アマゾンで検索すると12冊の小説があがります。下見板張りの壁面に、明治の洋風建築の特色でもある「上げ下げ窓」設計、施工とも当時の上野市(現伊賀市)在住の寺社大工の安場直諒(なおあき)さんによるものだそうです。安場さんは堺や神戸に何度も行き洋館などを写し描きし、これを元に設計したと伝えられています。玄関ポーチもう一人の女性作家、岸宏子氏は昨年お亡くなりになったが、この人もNHKなどの脚本を書き1977年、銀河テレビ小説『巣箱』の脚本に対して、第14回ギャラクシー賞・選奨を受賞1990年には紫綬褒章、1995年には勲四等宝冠章を受章しました。父は作家横光利一氏といとこになりますが、宏子さんは一回しかお会いしなかったそうです。また「ある開花」は「夫、売ります」として映画化され「喜劇 売らいでか」としても舞台化され昨年まで浜木綿子主演で500回を超えて上演されています。この「ある開花」と北泉優子さんの「忍ぶ糸」は主人公が伝統工芸の組みひもに携わっていてその組みひもに対する関わり方、心性が改革を試みる方と受け入れる方で対照的ではありますが伊賀の女性を描くときやはり組みひもが大きな要素になるのでしょう。 新伊賀上野城主 伊賀文化産業協会の新専務理事の福田和幸さんの講座から
2015年10月19日
閲覧総数 1468
2
現在の冨治林家之墓に刻まれている家紋源氏車に並び矢、西念寺『伊水温故(いすいうんご)』には、本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、佐那具の西方寺へ移されたといわれています。この西方寺が当寺の発祥といわれ、長伝という僧侶が現在地に移し、その後西念寺に改められた、とされます。当町の北に位置する徳居町の通称「墓の谷」は、廣禅寺の墓地であるように思われていますが、元来は西方寺の墓所であった、と『伊水温故』は伝えているます。もっとも、これには、異説もあり、いずれが真偽であるか定かではありません。。境内には、伊賀流忍術・藤林(ふじばやし)三武次保武(やすたけ)の墓が現存し、墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。保武は忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」の著述者とされ、百地三太夫、服部半蔵とともに、伊賀流忍術の三傑に数えられています。現在の冨治林家之墓藤林長門守は高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。冨治林一族の墓 右より正直、氏昌、4番目が保武三代藩主藤堂高久の時、元禄14年(1701年)に保武、伊賀者に任命され城下町(忍町)に移り住みました。中が保武の子、冨治林氏昌の墓右が保武の孫、冨治林正直の墓 第4世冨士林正直は藤堂元甫の補佐をして宝暦14年(1763年)「三国地誌」をの伊賀編を担当した。これが冨治林保武の墓、藤林(冨治林)佐武次保武 藤林長門守の孫、延宝4年(1676年)萬川集海を著わしました。墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘があります。冨治林東峽碑 東峽とは藤林長門守の現在の伊賀市東湯舟の地をさしているのでしょうか。
2019年08月06日
閲覧総数 955
3
県指定文化財、入交家 先日高知からのツアーの人達を案内したとき藤堂藩と長宗我部家との関わりを調べて多くの ことが分かりました。 まず最初は1585年の秀吉の四国平定の総大将豊臣秀次の使いとして降伏勧告を高知城 に入って行っています。 その関係からか関ヶ原の戦いでは直接、戦ってはいませんが改易後、長宗我部家臣を召し 抱えました。 1615年の大阪の陣では、直接戦い、旧長宗我部家臣同士が、幼なじみが壮絶に戦い 藤堂藩も藩主のいとこで侍大将二人を失うなど多大の損失を受けました。 その関ヶ原の戦い後、藤堂藩に召し抱えられ入交家からは兄弟四人がた召し抱えられそのうちの 一人の子孫がこの地に屋敷を構えました。 この屋敷は寛政年間(1789〜1800)の頃、屋敷変えによって 入交勘平(いりまじり かんぺい)が拝領したもの。 高知に残った一方の入交家は、郷士として上士の山内家臣に虐げられ半農、半商を余儀なく なりました。。 しかし入交家は石灰に目を向け新興商人として台頭し後、豪商になり大いに繁栄しました。 明治以後も発展し続け現在は30以上の株式会社を傘下に持つ入交グループに成っています。 ソニーの副社長からセガの社長になられた入交昭一郎氏もその中の一人のようです。
2016年07月10日
閲覧総数 860
4
公益財団法人「前田教育会」(伊賀市)で1999年以来の、大きさ縦横9メートル、重さは4キロの謝罪状が公開された。納軸が左側に表装されています、ギネス世界記録に申請したこともあるが、該当するジャンルがなく登録には至らなかったという。今回、教育会が映画や音楽などのイベントに使ってきた小ホール「蕉門ホール」が設備老朽化で6月末に閉鎖することになり、25年ぶりに最後の展示をすることにした。 送り主は伊賀地方の近代化の礎を築いた実業家で、旧上野町(現伊賀市)の町長も務めた田中善助(1858~1946)。 田中善助は伊賀地方に鉄道を通したり水力発電所や下水道を整備したりし、景観保護活動にも取り組んだ。手紙は新田開発用のため池を整備する際、他人の山林に道を造ってしまったことを謝罪する内容で、1899(明治32)年、山林所有者の寺の住職に送ったもの。 模造紙をつなぎ合わせ、漢字と片仮名交じりで「御寛大思召(おぼしめし)」でお許し頂ければ「感喜ノ至ニ御座候」などと約130字でしたためている。わらぼうきに墨を含ませて書いたらしい。冒頭の「謝罪状」の3文字はそれぞれ縦横1メートル以上ある。 「田中善助伝記」によると、檀家(だんか)が寺領を荒らされたことに怒り、謝罪状を書かせたが、その大きさに「住職はじめ檀家総代一同啞然(あぜん)たらざるを得」ず、平和的に解決したという。桐納箱が壁側に置かれています。上の消火器で大きさがはかれるでしょうか。前田会館は平成元年3月に三重県教育委員会より認可された公益法人です。平成4年11月に教育会館が竣工。前田会館ホームページ 「蕉門ホールは稼働から30年が経過し、ホール設備(空調・音響・照明)の各機器類は耐用年数を超えて使用しているものが多く、利用者へのサービス低下を招く恐れがあり、安定的なホール機能の提供を保障することができないため、2024年6月30日をもって、蕉門ホールを閉鎖(ホール機能の廃止)することとなりました。 長年、地域の皆さまをはじめ、多くの皆さまにご利用いただきましたこと感謝申し上げます。 尚、蕉門ホール以外の施設『講座室』『和室』につきましては、引き続き、ご利用いただけます。」とのことです。句碑 日本庭園前と裏門に4基の句碑があります。前田事務局長さんに案内して頂きました。 松尾芭蕉 宗房 『千宜要記』 「春や来し 年や行けん 小晦日」(はるやこし としやいきけん こつもごり)この句は収載された芭蕉の最も若い時の発句で俳号は宗房です。寛文二年(1662)芭蕉十九歳の年末の作小晦日12月29日に立春になり、春なのか年の瀬の年や行けんか、とした遊びに近い疑問を二つ重ねて興した勻。 これは『古今集』や『伊勢物語』の古歌に材を とったパロディーで、宗房は主の蝉吟とともに こうした貞門俳諧の滑稽に興じていたのでしょう。高浜虚子 「掛稲の伊賀の盆地を一目の居」一目の居 高浜虚子句碑高浜虚子が上野丸之内の菊山九園邸を訪 れたのは、昭和十八年十一月二十三日でした。 その前夜、友忠旅館(中町)に一泊した虚子は、「ここに来てまみえし思ひ翁の忌」と詠み、翌二十三日、日本文学報国会俳句部会長として、 愛染院故郷塚での芭蕉翁二百五十回忌大法要に出席されました。 そのあと、白鳳公園の増田公会堂での全国俳句大会に参加する 途次、九園邸に立寄り休憩、ここで「掛稲の伊賀の盆地を一目の居」(かけいねの いがのぼんちを ひとめのきょ)と詠みました。城山につづく高台にあった九園邸から、刈取りが済み 稲架(はさ)掛けされた田園風景が一望できたのです。こののち、九園邸は「一目の居」と呼ばれるようになりました。昭和 三十六年五月一日、虚子の二女・星野立子氏によって現地で除幕された この句碑は、その後、九園邸の処分によってこの前田会館に移設されました。 菊山九園 「梅さむし 岩より屋根へ 石たゝき」 菊山享女 「この月に 祈れる母は 吾のみか」上野丸之内の「一目の居」に住んだ菊山九園・享女はおしどり俳人 として 知られました。九園(本名・辰男)は明治二十五年上野町に生まれ。また享女 (本名・逸子)は明治二十八年、名張町生まれ、 この夫婦句碑は金婚記念として昭和四十年六月十三日に自邸に 建てられたものです。菊山有星 「掌に這はせ天道蟲の星七つ」菊山夫婦の三男裕生(俳号・有星)は三高京大ホトトギス会で活躍し ましたが、東京帝國大学在学中に学徒出陣、昭和二十年四月二十九日 にルソン島で戦死しました。この二基の句碑は、九園邸の処分によってこの前田会館に移設されました。
2024年05月20日
閲覧総数 159
5
大村神社 伊賀市阿保 国指定文化財の本殿 伊賀国造の一族ともされる伊賀国を治めた豪族阿保氏が 祖人の息速別命を祀ったものと推定されます。 祭神:息速別命(いこはやわけのみこと) 日本書紀、古事記によると祭神の息速別命は垂仁天皇と薊瓊入媛(あざみにいり)の皇子です。 薊瓊入媛(あざみにいり)は丹波道主(たんばのみちぬし)の五人娘の4番目の娘で、 五姉妹とも垂仁天皇に嫁ぎましたが末子の竹野媛だけが器量が悪いとして里へ帰され、自害したといわれます。 伊賀天正の乱の折に以前の本殿が焼失、天正15年(1587年)に本殿として 建てられました。現在の本殿が明治23年 に建てられる以前までは本殿でした。 一間社(正面の柱間(はしらま)が一間のもの。)入母屋造、妻入、檜皮葺の建物で桃山形式の様々な彫刻と極彩色が施されています。 こちらは新しい明治23年(1890年)建立の本殿、 桃山時代の本殿の東側に並んでいます。 虫喰い鐘 神社に釣鐘があるというのは珍しいが、明治の初め頃までの、神仏習合で、この鐘は 大村神社の宮寺、今の駐車場のところにあった禅定寺(ぜんじょうじ)のもので、明治 3年(1870)神仏分離による廃寺の際に、大村神社のものとして残されたものだそうです。 鐘乳(こぶ)が落ちていて虫喰い鐘といわれる。 この要石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。 「巳の神木」とされる大杉 ふるくから白く見えると幸福が来るとあります。
2021年08月02日
閲覧総数 325
6
国宝 三日月宗近(みかづきむねちか) 東京国立博物館2022年展示国宝 三日月宗近は、平安時代に作られたとされる日本刀(太刀)で天下五剣の一つ。日本の国宝に指定されており、東京国立博物館に所蔵されている。伊賀上野文化産業城展示脇差 銘 伊賀国宗近 年代 永正元年(1504)六月日わきざし めい いがのくにむねちか えいしょうがんねんろくがつひ所有者 財団法人 伊賀文化産業協会三重県指定種別 有形文化財(工芸品) 刃長33.0cm、反り0.8cm。茎部の表に「伊賀国宗近(いがのくにむねちか)」、裏に「永正元年六月日」の刻銘を持つ。 この脇差に見える「宗近」は、伊賀の刀工集団に受け継がれた名前で、現在の伊賀市音羽付近がその根拠地と考えられている。初代の「宗近」は室町時代の初め頃に活躍するが、本刀はその2~3代後に制作されたと考えられる。 本刀で特に注目されるのは、刻銘の存在である。現存例が少ない「宗近」の作品において、制作地の「伊賀国」、刀工名の「宗近」、制作年の「永正元年六月日」と具体的な活動を示す情報が多数盛り込まれている。また本刀は、保存状態も良好で技術的にも優れており、「宗近」の作風について雄弁に物語っている。 これらのことから、本刀は美術工芸品としての価値はもちろんのこと、中世伊賀国における刀の時代基準として極めて重要な資料といえる。三条宗近を有名にした能の演目「小鍛治」 ある時、霊夢をみた一条天皇(980~1011年)は勅使の橘道成(みちしげ)を刀匠として名高い、三条宗近のもとへ派遣し一条天皇の命で、刀をつくることを依頼したが、相槌は自分と同じ技量をもつ者でないと造れないと断ったが、道成もおれないので困った宗近は稲荷明神にお詣りした。すると不思議な少年が現れ剣に関する中国の故事やヤマトタケルの神話を話し相槌は自分が務めるので待っているようにと言い遺し稲荷山へときえていった家に帰ると稲荷明神の狐の精霊が現れる相槌を打つことになった。そのおかげで剣は完成し勅使に引き渡すことがこ出来た。その剣には「小鍛治宗近」と「子狐」の銘が彫られ名剣「子狐丸」として語り継がれることになった。三条宗近については伝説的な要素が多く史実とするのは難しいが、伊賀にも三条宗近の話がある。弘法大師が掘りあてたともいわれる井戸江戸時代の菊岡如幻の「茅栗草子」に一条天皇の時代小鍛治宗近というものが、京都白河橋の北に住んでいて、優れた刀を造るけとで知られていたが、ある時流浪の旅にでて伊賀国音羽にやってきて偽名を使いそこに住み音羽某氏に仕えた、刀鍛冶の技術で包丁を作り音羽氏に献上したてころその包丁で野菜と一緒に火箸も切ってしまったことに気付かず音羽氏に出してしまった音羽氏が気付きどういうことかと調べ宗近が凄腕の刀鍛冶であったことが判明した。その後宗近は上野の西清水、現在の福居町に井戸を掘り立派な刀剣を作り暮らしたとされます。同じ内容の話は旧阿山町が昭和55年に刊行した「故さとの歩み」にもあり建武年間の刀匠宗近は島ヶ原の生まれで音羽にやってきて野鍛冶となったとる。音羽の南には砂鉄のとれる層があり刀作りに適した土地とされる。阿山町「故さとの歩み」昭和55年刊行 包丁岩伝説 建武年間(1333)「故さとの歩み」の中に里住人が宗近の腕を試そうとあの大岩を切れるかと罵ったところ宗近は持っていた包丁で一刀両断にしたという。以来その岩を包丁岩と言う。昭和58年に阿山中学校の教師、山崎万里子氏が編纂した「阿山町の民話、伝説をたずねて」では一条天皇の時代の話として岩は菜切岩と呼び、昭和まで道路脇にあったとされるが道路拡張の際撤去されたという。阿山町「故さとの歩み」の話のみ南北朝時代(14世紀)とされるがの「茅栗草子」「阿山町の民話、伝説をたずねて」は一条天皇(1000年前後)の時代とされる。三条宗近と伊賀の宗近建武年間には音羽は伊賀の代表的な刀鍛冶の里とされその中で「宗近」の名前が見られる、伊賀の宗近の作、伊賀上野文化産業城展示の脇差は、平安時代の三条宗近とは時代が百五十年程後の作で別人とされる。伊賀の音羽では一条天皇の時代から500年ほど宗近の名前が遺っているどうやら伊賀では代々、宗近を襲名していたようだ。 菊岡如幻の「茅栗草子」で移り住んだとされる伊賀市上野福居町、清水谷(しょうずだに)に伊賀の刀工、宗近が掘り使ったとされる井戸。
2023年12月14日
閲覧総数 315
7
草蒿寺跡には「兼好法師終焉の地」の石碑が建ち、森の奥には「南朝忠臣兼好法師」と刻まれた顕彰碑と、木々に囲まれた塚があります。遺跡地は東西20m、南北30mの平坦な雑木林で、高さ1.2mの遺跡碑が中央に建てられ、碑の前に土石がすこし高く積み上げられていて、これが兼好の塚と言われてます。遺跡碑の奥に兼好塚があります種生の国見山は、『徒然草』の作者として有名な兼好法師が晩年を過ごした地として広く知られています。幼少より和歌や文芸に秀でていた兼好は出家し、兼好法師と名乗って諸国を巡り歩きました。晩年はかねて相愛であった小弁の局の父、橘成忠の招きでこの地に庵を開き、余生を送る傍ら、徒然草を執筆したといいます。また、公園内には松尾芭蕉の高弟・服部土芳が1698年にこの地を訪れた時に詠んだ《月添いて かなしさこほる 萩すすき》の句碑が建っています。その奥には梅林がありますが、近年鹿の食害がひどいので柵が設置されています。元禄期に京都の公卿篠田厚敬がこの地を訪れ、篠田厚敬稿「種生伝」、土佐光成筆「兼好画像」、頓阿・弘融・兼好の和歌色紙などを寄付しましたが、現在は常楽寺に残されています。絹本著色兼好法師画像は三重県の文化財に、兼好塚と草嵩寺跡は市の史跡に指定されています。また塚の近くにある「種生のオオツクバネガシ」は伊賀市指定天然記念物で樹周囲3.5m、樹高20mで枝張りは東西方向に23m、南北方向に21mになり樹齢は不明ですが樹がゴツゴツした質感で樹勢は旺盛です。県下でもまれな樹木でその大きさからも大変貴重な樹木です。もしかしたら、兼好法師もこの樹を眺めていたのかもしれませんね。没年は正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされ、また異説として観応元年2月15日に兼好が伊賀国名張郡国見山にて死去したとする記事を載せていることからこの日とする説もあったが、これらの日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。兼好法師「ありとだに ひとにしられで身の程や みそかにちかき 有明の月」の歌碑です。しかし「あけぼの々月」と刻まれています。
2024年03月12日
閲覧総数 96