マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.12.13
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カテゴリ: 歴史全般
 琵琶湖疏水と三井寺 

 三井寺駅で降りると目の前に店。近江牛の牛丼1600円、ビーフカレー1200円の看板あり。一旦は行き過ぎたものの空腹には勝てずに引き返す。店に入るとそこは精肉の部で、食堂の入口は別だった。牛丼は美味いだろうが1600円は高過ぎ。ビーフカレーを注文し、小じゃれた座席でかなり待った。出された野菜サラダもビーフカレーも全て上等。やはり家のものとは一味違う。

 腹を満たして表へ出ると道路の脇に深い濠。ひょっとして琵琶湖疏水かと思い通行人に尋ねると、やはりそうだった。川なら山から湖に向かうのだが、ここでは水が山に向かって逆流している。徐々に濠が深くなるはずと思いながら、疎水に沿って歩く。それにしても立派な構築物だ。とても明治のものとは思えない。疏水は深さを増し、とうとうトンネルの中に消えて行った。三井寺の境内の下を通っているのだろうか。

 後日調べたら、この第一疏水は明治18年(1885年)に着工し、明治23年(1890年)に完成している。琵琶湖と京都の蹴上との距離は12kmあるが、高低差はわずか4mだからかなりの精度が求められる。ところが疏水の設計と工事を担当した田邊朔郎は大学を卒業したばかりだったと言う。疏水は京都の岡崎で観たことがあるが、琵琶湖側で観たのは初めてだった。

 幕末の「禁門の変」で、京都は街の大半が焼失した。また都が東京に移転したため人口が減り、産業が衰えた。疏水はそれを救うために考えたものらしい。水道用水、工業用水、工業用の動力、水力発電、灌漑、水運と幅広く利用されたが、工事は全て人力だった。当時の写真を見たが、苦労の跡が偲ばれた。疏水は先刻訪れた天智天皇陵付近の裏を通っているようだ。

 道は山にぶつかった。左手に行けば観音堂があるようだが、どうも様子がおかしい。通りかかった若夫婦に聞くと、三井寺の正門はここからかなり離れている由。観音堂とは逆方向に歩くと、寺の境内が見えて来た。なるほど相当の広さだが、何故駅付近に案内図がないのか不思議。仁王門の横にある受付で入場料を支払う。500円とはちょっと高い。

 最初に見たのが「弁慶の引摺り鐘」。奈良時代の梵鐘で重要文化財。擦った跡があることから弁慶が引きずったとの伝説になったようだ。国宝の金堂には天智天皇の持仏だった弥勒仏が安置されているが秘仏の由。現在の金堂は秀吉の正室北政所が再興したものとか。堂々たる風格の建物だが、その裏手に小さな堂宇があった。

名称は閼伽井屋(あかいや)。慶長年間の造立で重要文化財だ。龍の彫刻は左甚五郎作の由。ここからは霊泉が湧き出ているようで、耳を澄ませると中からブクブク音が聞こえた。寺の別名「三井」は元々「御井」(みい)で、正式名は長良山園城寺。「荘園城邑」を資金源にして建立したのが寺名の興りとか。寺伝によれば天智、天武、持統の3天皇がこの御井で産湯を浸かったと言うが、それはおかしい。

 何故ならこの寺は天智天皇の孫である大友与多王が天武天皇の許可を得て建立したもの。天智天皇がこの大津に都を定めたのは40歳を過ぎてからのことだし、時代が全く合わない。それに父舒明天皇の都は飛鳥岡本宮。当然天智、天武の兄弟はそこで生まれたと考えられるからだ。寺社の由来や縁起には結構「眉つば」が多いのだ。<続く>





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Last updated  2012.12.13 10:58:50
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